You are on page 1of 2

かんがいの足跡

1.取水(堰)の歴史
河川からの農業用水の取水は、水田稲作
に欠かすことができません。
古い時代の堰は、付近の木や石を川底に置
いて川を堰き止めるだけといった壊れやすい
つくりでしたので、水量の少ない渓流などに
しか設けることができませんでした。
しかし、水田が増えて取り入れなければな 木組の堰
らない水量が増えてくると、流域が広く水量
の多い川に堰を設けることが必要になってき
ました。当然、このような大きな川は水の勢
いも強く、大変な苦労をしてせっかく築いた
堰も、洪水のたびに流失や埋没に見舞われ、
再び堰を築く、長年にわたってその繰り返し
と試行錯誤を続ける中から、各地で大きな河
川を堰き止める大規模で堅固な堰が出現して
きました。
全面石張り構造の堅固な「斜め堰」

2.ため池の歴史
日本の各地に点在するため池は、大小あ
わせて 16 万個にも及ぶといわれています。
古くは古墳時代に築造されたものも少なくな
いといわれ、現在でも多くの地域で稲作に欠
かせない貴重な用水源として、その役割を担
い続けています。 古い時代から、新たに水
田が拓かれ、必要となる農業用水が増えると、
棒や杵を使って堤防を突き固める 人々はまず川からより多くの水を引き入れる
ために井堰を改良しようとしました。
しかし、日本の川は流域が小さくて流れが
早いために、年や季節によって水量の変化が
激しく、不安定な川からの水だけでは干ばつ
に見舞われることもたびたびで、用水の不安
が水田を拡張する上での大きな制約になって
いました。ため池は、このような状況を解決
するための有効な水源として、堤を築造する
ための土木技術の発達とともに全国各地で
世界かんがい施設遺産:満濃池 次々に造られていったのです。
かんがいの足跡
3.水路の歴史
アジアモンスーン地帯に位置し、国土の約
7割が急峻な山という平地の少ない日本では、
今から2千数百年前から稲作を中心とする国
づくりが始まりました。
日本の稲作は、水田で行われるため大量の
水を必要とします。人々は川から水を引き、
水を分け合いながら村を形成してきました。 用水を運ぶ土水路
田に水を引く水路は次第に長くなり、山を穿
ち、谷を越えて、各地に網の目のように張り
巡らされ、日本の国土を潤してきました。
右の図は、長野県穂高町一帯の農業用水路
です。これだけの地域を潤すための水は最上
流の 1 本の川だけです。この一本の川は放射
状に枝分かれしていて、末端に行くほど水量
はわずかなものになります。この地域の水不
足を解消するために、考えられたのが別の地
域から引いてきた水路により放射状の水路を
横につないで下流の水量を増やすという奇抜
なアイデアでした。 扇状地を潤す放射状の水路網

4.分水の歴史
河川を取水源として水路によってかんが
いされる仕組みは、地域社会を共同体として
結びつける一方で、新田開発が進み水が希少
な資源となるにつれ、枝分かれした水路へ
渇水時に下流集落が上流の堰を取り壊す様子
次々と水が配分される過程で、上流と下流の
利害の対立を引き起こしました。
河川から取水できる水量が限られる中で、
日照りが続いて次第に田が干上がってくると、
いのちの糧である収穫を得るために、ときに
は血が流れたり、死者までも出る深刻な水争
いが生じました。
円筒分水工は、支線への分水量の比率が いつの時代でも農業用水の公平な配分は、
円筒に設けられた隔壁の間隔と一致し、 農民の切実な問題であり、そのための施設
幹線流量に関係なく常に一定に保たれる (分水工)には古くから、さまざまな工夫が
こと、支線が何本あっても、一つの分水 凝らされてきました。
工による同じルールで分水が可能

You might also like