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流動性の罠から抜け出すための一方策

~スヴェンソンの Foolproof Way~1

Paul Krugman and Maurice Obstfeld 著

1930 年代の長きにわたる大不況(Great Depression)期において、アメリカでは名目利子


率はゼロ%に達し、アメリカ経済は経済学者が言うところの「流動性の罠」に陥ることに
なった。貨幣は資産のうちで最も流動的な資産である-貨幣は、財と容易に交換できる性
質を備えたユニークな資産である-。流動性の罠が罠と呼ばれる理由は、一度名目利子率
がゼロ%に達してしまうと、中央銀行がマネーサプライを増加させても(つまりは、経済
の流動性を増加させても)名目利子率はもはやそれ以上(ゼロ%以下の水準に向けて)下
落し得ないからである。どうしてだろうか? その理由は、名目利子率がマイナスの水準
になると、人々は債券を保有するよりは貨幣の保有を強く望むようになり、その結果とし
て債券市場が超過供給状態に陥ることになるだろうからである2。ゼロ%の名目利子率はお
金を借りる人にとってみれば喜ばしいことであろう。というのも、金利負担なしでお金を
借りることができるからである。しかしながら一方で、ゼロ%の名目利子率はマクロ経済
政策を実施する政策当局にとっては悩みの種となる。というのも、名目利子率がゼロ%に
達するや、政策当局はもはや伝統的な金融政策によってはマクロ経済をコントロールし得
なくなるかもしれない状況に嵌り込んでしまうからである。しかしながら、本付録で示す
ように、名目為替レートを現在マーケットで成立している水準と比べて十分に減価した割
安な水準に固定することによって、経済を流動性の罠から脱出させることが可能となるの
である。

経済学者は、流動性の罠はもはや過去のものであると考えていた-1990 年代後半に日本経
済が明らかに流動性の罠にはまることになるまでは。日本銀行-日本の中央銀行-による
名目利子率の段階的な引き下げにもかかわらず、日本経済は十年以上にわたる停滞を経験
することになった。1999 年には、日本の短期名目利子率は実質的にゼロ%に達することに

1 Paul Krugman and Maurice Obstfeld, “Fixing the Exchange Rate to Escape from a
Liquidity Trap”, in 『International Economics: Theory and Policy(8th)』, Ch.17, Online
Appendix A;http://wps.aw.com/wps/media/objects/5394/5523795/ch17appa.pdf
2訳注;債券市場が超過供給状態になれば、債券価格に下落圧力が働くことになる。債券価格の
下落=債券利回り(=利子率)の上昇を意味しており、名目利子率はゼロ%以下の(マイナスの)
水準から正の水準に向けて上昇することになるだろう 。

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なった。例えば、日本銀行が伝えるところでは、2004 年 9 月にオーバーナイト金利はわず
か 0.001%の水準であった。

経済が流動性の罠に陥って停滞している状況下において中央銀行が直面することになるジ
レンマは、国内の名目利子率(R とおく)がゼロ%である場合(R = 0)の金利平価条件
を検討することにより明らかとなる3。

R = 0 = R* + (Ee - E)/ E

ここしばらくの間、将来の期待名目為替レート(Ee)は不変である(所与)と想定するこ
とにしよう。ここで、中央銀行が、一時的に為替レートを減価させることを意図して国内
のマネーサプライを増加させたとしよう(つまり、現時点において E は上昇するが、その
後しばらくして Ee の水準にまで下落する)
。金利平価条件によれば、一度 R = 0 となれ
ば E はこれ以上上昇し得ない(為替はこれ以上減価し得ない)ことがわかる。 E の上昇
を実現するためには国内の名目利子率 R がマイナスにならなければならないからである。
R=0 が成り立っている状況では、マネーサプライの増加にもかかわらず、名目為替レート
は以下の水準

E = Ee /(1 - R*)

に止まり続けることになるだろう。名目為替レート E はこの水準を超えて上昇し得ない
(減価し得ない)わけである。

どういった次第でこのような結論になるのだろうか? マネーサプライを一時的に増加さ
せれば名目利子率が下落する(ならびに名目為替レートも減価する)という通常の議論は、
人々は(投資対象として)債券が貨幣と比べて魅力的でなくなる場合に限って自身のポー
トフォリオ上における貨幣の保有を増やすようになる、との前提に基づいている。しかし
ながら、利子率がゼロ%(R=0)であるような状況では、人々は貨幣を保有するか債券を
保有するかに関して無差別となるかもしれない-貨幣の保有からも債券の保有からも同じ
水準の利回り、つまりはゼロ%の利回りが得られることになる。このような状況で、中央
銀行が買いオペレーションを通じて貨幣と引き換えに債券を購入しても市場が撹乱される
ことはないだろう。債券を手放して新たに貨幣を手にした人々は、増えた貨幣をそのまま
ポートフォリオ上に保有することで満足し、そのために利子率は変化せず、それゆえ為替

3訳注;R* は外国の名目利子率、E は自国通貨建ての名目為替レート(対ドル為替レートを考


えれば、例えば「1 ドル=80 円」との表示方法が採用されることになる。よって、E の値が上
昇すれば円安(減価)を、E の値が下落すれば円高(増価)を、意味することになる) 、をそれ
ぞれ表している。

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レートも変化することはないだろうからである。先の章で検討したケースとは反対に、(国
内の名目利子率がゼロ%である状況においては)マネーサプライの増加は経済に対して何
らの影響をも及ぼさないだろうことが予想されるわけである。市中に債券を売却(売りオ
ペレーション)してマネーサプライを段階的に減少させれば最終的に名目利子率が上昇す
ることになるだろうが-経済は幾ばくかの貨幣なしには機能しえないのである-、この可
能性(=マネーサプライを縮小させ続ける結果として名目利子率が上昇する可能性)は、
経済が停滞している状況においてはもちろん助けとなるものではない。

Figure 1 は、経済が流動性の罠に陥る可能性を考慮した場合に AA-DD 図4がどのように


修正されることになるかを示したものである。DD 曲線は先の章と同様の形状をとるが、
AA 曲線は AA1 曲線のように低水準の生産量の範囲において水平な形状をとることになる。
AA 曲線の水平部分は、生産量が極めて低水準であることを反映して(それに伴い生産量=
所得の増加関数である貨幣需要も小さくなる;訳者注)
、貨幣市場の均衡をもたらす利子率
がゼロ%(R=0)となる事実を表している。また、AA 曲線の水平部分は、名目為替レート
が Ee /(1 - R*)以上の水準に上昇し得ない(減価し得ない)ことも示している。 図に
あるように、均衡点 1 においては、生産量は完全雇用を実現する生産量(Yf)以下の水準 Y1
にとどまることになる。

次に、この物珍しいゼロ金利の世界において買いオペを通じたマネーサプライの増加がど
のような効果を持つことになるかを見てみることにしよう。Figure 1 ではマネーサプライ
増加の効果について詳しく跡付けることはしていないが、マネーサプライを増加させれば
AA 曲線が右方にシフトすることになるだろう。マネーサプライの増加によって AA 曲線が
右方にシフトするのは、任意に与えられた名目為替レートの下で(名目為替レートが一定
の水準にある場合は名目利子率 R も一定の水準にとどまることになる)、再び貨幣市場にお
いて均衡がもたらされるためには(マネーサプライの増加による貨幣の超過供給を埋め合
わせるに十分なだけ)生産量(所得)Y が増加して貨幣需要が増加する必要があるからであ
る。マネーサプライが増加する結果として、AA 曲線の水平部分は右方に向けて長く伸びる
ことになるだろう。AA 曲線の水平部分が右方に長く伸びるということは、名目利子率がプ

4訳注;必要な範囲で AA-DD 図について簡単に説明しておくと、AA-DD 図は短期における


財(生産物)市場と資産市場との同時均衡を描写したものであり、DD 曲線は財市場に均衡がも
たらされるような名目為替レートと生産量との組み合わせを、AA 曲線は外国為替市場を含んだ
資産市場に均衡がもたらされるような名目為替レートと生産量との組み合わせを、それぞれプロ
ットしたものである。DD 曲線が右上がりである理由は、名目為替レートが減価することで総需
要を構成する純輸出が増加し、それ(総需要の増加)に合わせて生産量が増加するからである(E
↑→Y↑)。また、
(通常の)AA 曲線が右下がりである理由は、生産量(所得)Y の増加(Y↑)
→貨幣需要の増加→(貨幣に対する超過需要の発生によって)名目利子率の上昇(→貨幣市場に
おける均衡の回復)→(Ee、R*が所与の下での金利平価条件より)名目為替レートの増価(E
↓)、となるからである(Y↑→E↓) 。

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ラスの水準に復するまでに(そして AA 曲線の右下がり部分に沿って名目為替レートが増価
するまでに)生産量ならびに(生産量の増加関数である)貨幣需要が増加する余地がこれ
まで以上に広がることを意味する。マネーサプライの増加がもたらす驚くべき結果は、経
済は点 1 にとどまったまま動かないということである。金融緩和は生産量に対しても為替
レートに対しても何の影響も及ぼさないわけであり、こういう意味で経済は罠に嵌ってし
まった、ということになるわけである。

流動性の罠に関するここまでの議論においてキーとなる要素は、将来の期待名目為替レー
ト(Ee)は不変であるという先に置いた仮定である。ここで、中央銀行がマネーサプライ
を永続的に(permanently)増加させることを信頼のおけるかたちで約束できるとしよう。
この約束が信頼されれば、現時点におけるマネーサプライの増加とともに Ee が上昇する
ことになる。 Ee の上昇を実現する信認のある永続的なマネーサプライの増加は AA 曲線
を右上方向へシフトさせることになり、その結果として生産量が増加するとともに名目為
替レートが減価することになるだろう。しかしながら、これまで日本経済を観察してきた
人々は、日本銀行の審議委員らは-1930 年代初頭のセントラルバンカーの多くと同じよう
に-為替の減価とインフレーションとを非常に恐れており、そのため日本銀行が永続的に
為替を減価させると約束してもマーケットがその約束を信用することはないだろう、と主
張してきた。そうだとすれば、マーケットは日銀が後になって為替を増価させようとする
意図を持っているのではないかと疑うことになり、そのためいかなる金融緩和も一時的な

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ものとみなされることになるであろう5。

ラルス・スヴェンソン(Lars E. O. Svensson)プリンストン大学教授は、日本経済のジャ
ンプスタートを可能とするもっと確実な方法を提案している。彼は、マーケットの(将来
の名目為替レートに関する)期待に対してもっと直接的なかたちで働きかけるための方法
として、名目為替レートを現在マーケットで成立している水準よりも割安な(減価した)
水準で固定させたらどうか、と提案している。このスヴェンソン提案の簡略化バージョン
を図にしたものが Figure 2 である6。図に示されているように、名目為替レートを減価さ
せた上で永続的に E0 の水準に固定すれば AA 曲線が AA1 から AA2 にシフトすること
になり、その結果経済は即座に新たな均衡である点 2―完全雇用を実現する生産水準―に向
けて移動することになる。図によれば、均衡点 2 は新たな AA 曲線の右下がり部分に位置
しているが、このことは点 1 から点 2 への移動に伴って名目利子率 R が上昇することを意
味している。しかしながら、為替の減価によって世界の需要が日本製品に振り向けられる
ことで結果として生産量は拡大することになる。新たな均衡において名目利子率が上昇す
るにもかかわらず、この政策は(為替の減価による純輸出の増加を通じて;訳者注)景気
拡張的な効果を持つことになるわけである7。

5 原注;このような見解は以下の論文で述べられている。Paul R. Krugman, “It’s Baaack:


Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap”, Brookings Papers on Economic
Activity 2: 1998, pp. 137-205. また、以下の論文も参照せよ。Ronald McKinnon and Kenichi
Ohno, “The Foreign Exchange Origins of Japan’s Economic Slump and Low Interest
Liquidity Trap”, World Economy 24 (March 2001), pp. 279-315.
6 原注;もっと詳しい説明については、スヴェンソンの以下の論文を参照せよ。Lars E. O.

Svensson, “Escaping from a Liquidity Trap and Deflation: The Foolproof Way and Others”,
Journal of Economic Perspectives 17 (Fall 2003), pp. 145-166.
7 原注;一般的には、通貨切り下げはマネーサプライの変化を伴うことになるだろう。為替レー

トが特定の水準に固定されるようになれば、マネーサプライの水準は(固定の為替レートが維持
されるように)内生的に決定されることになるだろう。Figure 2 では政策の結果として名目利
子率と生産量とが同時に上昇することになるので、新たな均衡点 2 においてマネーサプライが
増加することになるのか減少することになるのかは一概には判断できない。マネーサプライが増
加する場合には、AA 曲線の水平部分の範囲が拡張することになり、マネーサプライが減少する
場合には AA 曲線の水平部分の範囲が狭まることになる。

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果たして日本においてこの政策提案が実際に採用される見込みはあるだろうか? この政
策が採用されない場合に待っている事態は、
(スヴェンソン提案他によって実現する名目為
替レートの減価と同等の程度の)実質為替レートの減価をもたらすことになる長期にわた
るデフレーションということになるであろう。日本が抱える問題は経済的な問題であると
同時に政治的な問題でもあるように見受けられる。そういうわけで、日本経済が、どのよ
うなかたちで、そしていつの時点で、現下の流動性の罠から抜け出すことになるかを予測
することは困難である。

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