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日出ずる国のイタリア語

Alda Nannini

日本人は、イタリア語を愛し、オペラの本を読んだり、イタリアへ訪問するためにイタリア
語を学ぶ。しかし、時として彼らはイタリア語を再構築する。

1.新たな焦点
 日本人が長い間イタリア語に従事しているために、彼らの書き方、話し方に注目してみる
ことは有効である。そこで、私は、ここで日本人の生徒から示されたイタリア語の記述や口
頭のテキストに導かれる実験結果について述べよう。この方法である数の彼らの中間言語
における特徴を把握し、彼らに理解させ、母語の影響や、生徒が習得のプロセスにおいて現
れるだろう文化的なデータも考慮に入れながら、イタリア語を習得していくという解釈の
仮説の重要性を推測することが可能である。
 詳しく述べる前に、近年日本人がイタリアに興味を示すようになった要素を手短に説明
するのがよいだろう。生徒の我々の言語への接近を説明する動機付けに基づいて、これらの
要素が見られる。特に初めは、イタリア語を学ぶ日本人は一般的な動機から導かれる。順序
に関係なく並べると、オペラの本を翻訳なしで読めるようになりたいといったオペラ、F1
レース、最近では、日本のプロリーグの成長とイタリアでの日本人選手の重要性が背景とな
ったサッカーなどが挙げられる。他には、イタリア料理や、イタリアのファッションやデザ
インに興味がある場合もある。
「メイド・イン・イタリー」は、近年ブームとなっていて、 フ
ァッション業界でもその名は知れわたっている。イタリア料理の評価から、日本語にイタリ
ア語の言葉が浸透するようにもなった。(カプチーノ、エスプレッソ、ピザ、ミネステローネ、
ボンゴレ・スパゲッティ、厳しく同意されていないが「ビアンコ」と「ロッソ」など。今では多
くのメニューに登場する。)この関心から多くの語学学校も創設されている。
 そして忘れてはいけないのが、イタリア映画ファンの存在だろう。ネオ・リアリズム
(「鉄道員」や「自転車泥棒」と言った映画はよく知られている)から、現在の監督の映画ま
で、普通映画室の中で提案されてきた。たとえアメリカの映画と比べてとても小さいスケー
ルでも指示されている。Fellini や、Mastroianni、De Sica、最近では、Moretti や Tornatore
そして、オスカー賞に関連して Benigni といった映画人たちは日本においてもかなりの知
名度がある。最近では、イタリアの文学作品(Antonio Tabucci や Susann aTamaro がそ
の例である)の訳の数も増えてきた。これらに、人々に大きな魅力を感じている。芸術や建
築の歴史の大学でのレベルも特に評価できるものである。こうした一般的からマニアック
なものまで、関心の要素すべてが言語構造の能力を超える期間でのイタリア語を覚えたい
人の必要が広がっていることの要因となっている。
しかし、イタリアに対するよくありがちな(そして、型にはまった)イメージは、次の部
分ではっきりと示されている。これは、テストで行ったインタビューの一部である。

I(インタビュアー):(…)あなたはイタリアの何に興味があったの?
S(生徒):ええっと、発音?
I イタリア語?
S 言葉を発音する・・・日本人は、イタリア語を発音するのは難しくないです。アルフ ァ
ベットだから。私たちはアルファベットを読めます。
I アルファベットの文字、アルファベット。
S:アルファベット・・・イタリア人の個性は、活発で、(笑い)私はたくさん言いたい の
ですが、でも説明する言葉が見当たらない。
I:ともかく、あなたは、明るい的な性格が好きですね。
S:えっと、イタリア人は、食べたり、愛したりすることが好きですね。ええっと、食べたり、
愛したり・・・食べたり、愛したり、踊ったりですよね?えっと、この3つがとても好き な
のですね。
I:ああ、これで、そういったものがあなたは好きなのですね。イタリアに行ったことはあ
りますか?
S:ええっと、いいえ

 ともかく、あたらしいものはない。しかし、イタリアでは日本のイメージに社会の圧倒的
な支配をぬぐいきれない。お辞儀の連続、会社への忠誠、自由な時間の犠牲、仕事のため休暇
を断念、信じられないほど満員の電車、こんな感じでしょう?

2.日本語の介入
 記述や口頭のテキストを見てみると、いくつかの注目すべき点が集中することといえる
ようだ。というのも実験のテキストは、習得での様々なレベルの生徒からのデータとなって
いるからである。
 まず、テキストに示されているかなり興味深い形態統語的な特徴を見てみよう。初めは、
名詞や前置詞の句を見ながら、省略や冠詞のバラバラの使用や過剰拡大の傾向に注目して
みよう。

(1) Centro è sogiorno e la sala da pranzo, e il cucino e il bagno, e stanza di


lavoro per padre
(2) Non solo (0) particelle proniminali ma anche (0) pronimi clitici sono difficile
da capire per I giapponesi
(3) (0) giornalista della Formila 1 Una tutto possono parlare inglese, francese,
tedesco (…)
このタイプの難しさを理解するために、日本人が冠詞について比較できる決定的な指標
を知らないことを話すべきだろう。日本人は、助詞、つまり後におかれる形態の要素を使っ
て主題と評言(文の中で新情報を伝える部分)として情報の断片を示すのである。同じこ
とが、イタリア語の冠詞のついた前置詞にも言え、冠詞のない前置詞よりもよく省略される。
この省略は、たいてい日本語での表現の情報組織を考慮に入れて説明することができる。こ
の言語は、統語的な機能より情報に重要性がある(日本語では、小詞「は」が、名詞の跡に置
かれ、主題として示される。これは、特定の場合に場所や時制を示すかもしれない助詞を無
効にする)。例えば、(1)の Centro である。これは、‘al centro (della casa)’となるだろう。
また、次の例からも見ることができる。

(4) Primo piano è la negozio di Sushi, (non mia negozio). Secondo piano e terza
piano sono la mia casa
(5) Primavera, mi sono appena riuscita a superare l’esame di ammissione
(6) grammatica di inglese io uso la /il libro di/ da scuola
(‘per la grammatical dell’ inglese uso il libro – fornito o indicato – dalla
scuola’)

 違うタイプの解釈ができるとしても、ともかく母語の解釈として考えられる傾向が見ら
れる。逆に興味深いのはその部分が主題として示されていない場合にも前置詞は省略され
ないところである。実際に次の記述を見てみよう。

(7) Destra c’è la cucina e sinistra c’è la doccia e il bagno, [ma, poco più sotto]…
giro di sinistra.

しかも、日本語は(3人称単数・複数の代名詞でのみ区別する)性も数も示さない。動詞
については、1つの形がすべての人称に使われる(つまり主語と動詞の一致がない)。ここ
で、次の例で説明しよう。

(8) Sopratutto, Parigi ha la popolarità. Uomo e donna, gionvane o vecchio, tutti


ci vanno
(9) L’italiano ho le molte parti difficile

動詞の統語と関係して、日本語は従属関係の文において比較的少ない数の接続詞を使う
(原因の「から」
「ので」、接続の「が」
「のに」、反意の「しかし」
「けれども」、時制の「ながら」
「 と
き」、このように分けることができるかわからないが)。この接続詞は、動詞の形態を修正 し
ない(動詞の主題だけを意味する「ながら」を除く)。文脈によってはっきりとこれがある
場合は、同時に解釈されるにちがいない「て」で等位や従属の形が使われる。一方、時制の指
標は主文の動詞からもたらされる。これらすべてが、動詞の時制や法が普通示される時期か
ら、
「時制や法の連続」の習得を困難にさせる(ジェルンディオや、いくつかの分詞の使用 を
除く場合は)。加えてアスペクトの区別も難しくする。これは、日本語で現れる場合でも、イ
タリア語から異なったように組織される。次の陳述で例を見てみよう。

(10) [来年]non sarà peggio di quest’anno che è stato programmato dale ore e in
cui se un programma non è completo [fosse stato completato] come è
prestabilito [era preatabilito], tutti gli altri programmi diventeranno in disordine
[ne sarebbero stati danneggiati]

 関係詞の文について、覚えておくことは、日本語は、統語構造から見て、イタリア語と異な
り、限定詞(関係詞も含むカテゴリー)を置く。このため、関係詞の文は、関係代名詞(日本
語には存在しない)の介入なしに結びつける名詞に先行する。次の例を見てみよう。

(11) si vede mia casa che collore è verde


(12) Ma chi non possono prendere le ferie lunghe o chi hanno I bambini piccoli.
In inverno vanno in montagna o alle terme

 場合によっては、特に口頭のテキストでよくあることだが、関係詞が正しい位置に置かれ
る。

(13) [成人式] è diventono / la persone ah (0) diventato venti anni


(14) girato vicino al mare, ma non ho tanto cose (0) non potevo fare

 しかし、これが日本人の中間言語がもっぱら干渉の部分を示すと意味するわけではない。
ある場合の過剰拡大、つまり基本事項の拡大されすぎた応用、これは母語を通じて説明でき
るものではないのだが、これから学習者が第2言語の「規則」を解釈し、応用しようとしてい
ることがわかる。

(15) Esco a Universita. Vado a stazione Tamagawa-giosui a piedi. E prendo a


Seibu-linea. Scendo a Stazione di Ogawa […] E poi prendo a Musashino-linea[…]
Vado a sempre diritto e giro a destra strada
(16) nel’99 la massima tema è ‘la tesi di laurea’… mentere devrò facere il calcio
accanitamente
(17) nel poneriggio […] andaca in campagna e facevo sporto/sporti

 ここで、テキストの語彙的な特徴を見てみよう。特にある程度のレベルの学習者は、他の
学習者に比べ、あまり簡単でなく、より洗練された中間言語を示す。しかし、これは学習者が
普段接している言葉のタイプや辞書の不十分な使用の影響であるとされている。これは、あ
る表現が言及されている意味の領域や分野を示していない。ある学習者は次のように示し
ている。
 「1つ問題なのが、ある言葉が日常的なものかどうかわからないところです。私が詩をパ
ラグラフに分けるとき、日常的な言葉と古い意味の言葉や文学的な言葉を分けなければい
けない。もし、日常の言葉が普段接する言葉だとしたら、わたしにとって「augello」は、日常
的な言葉で「uccello」は、古い言葉のように私から遠い位置の言葉となる。というのも私は
会話の経験が乏しいので、こういった言葉を聞かないのです。 」
 具体的な言語行動について、次の例を見てみよう。

(18) Sì, la crociera di (0) giro intorno al mondo è un oggett delle brame per una
parte della gente
(19) gli articoli di queste botteghe [le boutique delle grandi firme] sono venduti
a trio;icati prezzi
(20) Questo è demostrato dalla crescenza della pubblicazione delle riviste sul
viaggio nell’Italia

 結局、実用的なデータは、口頭のテキストに現れる。否定の使用を見てみよう。この使用が
ここで干渉の特徴のように見られる。

(21) 21 I (…) È la prima volta che vai in Italia?


22 T: Sì, sì
23 I: non hai mai hatto un viaggio in Italia, anche un viaggio breve o…
24 T: ahm non +++ non ho +++ viaggiato in Italia, ma ahm++ ho
viaggiato ad Oustrelia?
25 e (Canadese)?
26 I: e non sei mai stata in Europa?
27 T: sì, sì

 日本語では、否定の質問で、対話者が尋ねたことをはっきりさせるために肯定的に答える
(つまり、否定を主張するが、節の内容はそうでない)。しかし、イタリア語では、質問の形
がどうであれ、同じ質問の内容を肯定または否定して、答える。これは、質問と答えの形の関
係は考慮されない。そのため、学習者は「いいえ、いいえ、私はヨーロッパに行ったことはあ
りません。」というだろう。
「あなたは~に行ったことがありますか。」と言う形には、母語 の
実用的な部分を使う。

3.文化
 Berretta(1977)によると、言語レベルにおいて、深い違いは、第2言語またはLSの習得
で示される面での違いとなる。我々は、この意見を言語能力以上にコミュニケーション能力
を理解するまで、拡大させたいと思っている。コミュニケーションや言語の法則(挨拶や、
感謝、謝罪といった行為、どの言語でも見られるだろう)が存在する一方、文化の違いから
の大きなギャップもある。言語能力は、卓越であるだろう(到達言語と同時に起こる場合で
さえ)。しかし、文化の適切な能力が伴わない場合、あいまいで、間違ったメッセージを伝え
るだろう。言い換えると、正確に話すことと正確にコミュニケーションすることを区別する
必要があるのだ。
 一般的に、日本語は婉曲的な表現を好み、日本人の話し手はめったに相手を困惑させない
と言われている。ある文化のパラメーターは、他の言語での教育で、日本語では問題なくて
も、イタリアでは社会的に批判される内容を示すことを予想する必要がある場合に分かれ
る(反対の場合も同様)。私は、日本の大学や語学学校のカリキュラムで形態の面が注目さ
れすぎて、文化的な面(料理や音楽、スポーツを中心に他が少数)が重視されなかったり、
無視されたりしていると考えているので、日本人の対話者(学生とそれ以外)との経験か
らの例をいくつか紹介したいと思う。
 外国人には、日本人は初めにイタリア語と同じくらい日本語で尋ねる。これは、結婚して
いるかどうか、また日本人と結婚している場合でさえ、起こる。イタリア人からすると、この
質問は、不適当で、迷惑であると認識されることには変わりない。イタリア人では、こうした
こうしたタイプの個人的な質問は、ある親近感を持つ人間だけ、もしくはある程度あってい
る場合に、形式的な状況でなく、使われる。日本ではしかし、少なくとも外国人にこうしたこ
とが起こっている。つまり、日本では自然なことが、イタリアでは、同じようにはいかない、
または普通ではないのである。
 他にも、生徒が「おなかが痛いから」

「下痢だから」
「おなかをこわした(日本語からは こ
う聞こえる)」と言う理由で謝っている例がある。こうしたことはイタリアでは、医者や薬
屋で言うものである。しかし、こうしたタイプのはっきりと言及された迷惑なことを示す海
外旅行からの帰国者が、医務室で示される知らせを聞くために東京の空港に到着するだけ
で十分である。生徒は、イタリア語では「お腹」がここまでしょっちゅう話されていないこと
を知らないでいる。
 「お腹」と言う言葉がニュアンスのないということは、
「お腹がいっぱい」と言う日本語 の
表現のケースに見られる。これは、食後に使われ、むしろ作った人間に対するお世辞のよう
に聞こえる。一方、Sono pieno, ho mangiato tanto(両方とも日本人のイタリア語で使
われる)は、はっきりしすぎて、イタリア語としては好まれない。実際、日本語にも「もうけ
っこうです。」といったイタリア語に近い表現もある。しかし、これはイタリア人には驚く べ
きことですが、はっきりしすぎた拒絶と言う風に聞こえてしまうのである。もちろん、十分
だと言う意味があるかもしれないが、食事がいまいちだったのに、他をはっきりと食べない
とした場合、この表現が日本語ではっきりと使われることもほのめかす。
 他に挙げられる例は、酔いについて話す際に障害がないことである。これは、イタリアの
ように非難されることはないが、むしろ心地よい夜の「効果」として受け入れられている。
「二日酔い」は、どこにでもある薬でとどまる一方、イタリア語では、この表現が否定的にと
らえられる。同じようなものが「寝坊する」である。これは、非常に頻繁に正しい位置におか
れるが、イタリア人の教師にはうまくなじめない。イタリア人では、寝坊したことは認めず、
むしろ目覚まし時計が鳴らなかったせいや、出る直前に電話が鳴ったせい、バスが遅れたせ
い、渋滞などのせいにするだろう。
 もう一つが、イタリア語でタブーとされている病気、特に癌についてである。癌について
あまりデリケートに話されない、また何の考慮もない場合もある。日本では、保険のコマー
シャルで癌という言葉が何の問題もなく使われていることが日常である。似たような状況
が、死について話す時である。これは、
「もし君の長男が他の町で生きていたら、誰が君の 家
族の墓を気遣うの?」といった質問の際にイタリア語で言えるかもしれない。子供の義務は
別として、こうした場合に私たちイタリア人は、事故や病気、死といった言葉を聞きたくな
い、なぜなら不快な思いをするから、と考えるだろう。イタリアでのコマーシャルの言葉に
おいて、客のポテンシャルを害するような製品の表現や表示は避けようとされている。こう
したことを日本人と話す場合、イタリア人は「証拠を認識したくない」と言うのを聞くこと
は難しくない。もし、学習者に病気について「イタリア語」ふうにどう言うのか教える場合、
リアクションは、「イタリア人はそんなにデリケートなの?」である 。
 忘れていけないのが、表現の正確さを超えて、精神や、考え方、言語表現に含まれる文化的
な嗜好の正確さがある。
 また、例を見てみよう。様々ではあるが意味深いものである。ある程度のレベルのクラス
で Vasco Rossi の無謀な人生のテキストをテストする機会があった。この歌の裏は他のこ
とを言っている。

 Voglio una vita che non è mai tardi, di quelle che non dormi mai
 Vogio una vita, vedreai che vita, vedrai

 生徒へのテストは関係代名詞についてで、解答は、「不正解」だった。ともかく 、Vasco
Rossi、彼は、イタリア人で、イタリア人の若い世代の代弁者として知られているが、その言
葉を知らなかったことをいう必要がある。生徒は混乱していた。このことから私は、Vasco
Rossi が、故意にその裏の背景で生まれる何が生まれるのかというこのような裏を書き、コ
ミュニケーションの要求に従う何かを見ようとした動機を熟考してもらおうとした。明確
なのは、ある文脈においてほとんど気にされない記録は、本から信頼を受けている統語の規
則に関係したものより適切であるということである。
 もっぱら形からの教育は、教師にも生徒にも安心感を与える。これは、安定したコントロ
ールできる面で動かされる。しかし、このあまり重要でないことだけでなく、到達点を考慮
される形の下の文化的な分岐点として、よりあいまいな面をそのままにして終わっている。
 もし、生徒がイタリア人と「自然な」関係を築くことを望むなら、教師がこの意味で指示の
方向を助けることができるのではないか。そのためこれは、言語形態からだけでは推測でき
ない。このコミュニケーションが文化的にも適切で、理にかなったものであったので、我々
が言うなら、
「文化的な誤り」の類型を発展させることが必要だろう。いくつか例を見るこ と
ができる。
 これらのデータは、ほとんど記述されなかったが、出発点だけを示している。これは、中間
言語の段階にだけでなく、より有効な言語教育のストラテジーの研究にも、発展や、再形成、
解釈をより正確にする。

学習時間40~80時間の学習者のクラスにおけるテキストの例
あなたの家について簡単に記述しなさい。
1.
Prima piano è la negozio di Sushi, (non mia negozio). Secondo piano e teraza
piano sono la mia casa. C’è la porta in secondo piano. In lasecondo piano, c’è la
Jiaponese stanza, lezione di piano, la stanza di studio e wc. la stanza di studio è
per due bambini.
in la terza piano, fino in fondo, c’è la japonese stanza. Centro è sogiorno e la
sala da pranzo, e il cucino e il bagno, e stanza di lavoro per padre.
2.
Il centro è la sscala e questa sinistra è la mia camera, e poi sopra, c’è la camera
della mia sorella. Destra della scala, c’è il bagno e la cucina per mia nonna.
Sopra della cucina è cucina per mia mamma. Altro ci sono dhe camere per
dormire.

どのようにして大学から言えに帰るか説明しなさい
1.
Uscito la scuola e per la strada in diritto il Tamagawajosui St. È poi, prendo il
treno fino a Nakai St, e cambio il metro line Toei numero12 li prendo per a
Toshimaen St.
Per la strada indiritto e poi giro a sinistra e giro a destra. Sulla destra c’è il parco
divertimenti, e secondo la strada a sinistra si vede mia casa che collore è verde.
2.
Esco a Universita. Vado a stazione di Tamagawo-giosui a piedi. E prendo a
Seibu-linea, Scendo a stazione di Ogawa. Vado a stazine diShinkodaira a piedi. E
poi prendo a Musahsino-linea. Scendo a Minamikoshigawa St. E poi ritorno a
casa con mia bicicletta. Vado a sempre diritto e giro a destra strada. E poi giro a
sinistra terzo strada. E poi vado a sempre diritto. C’è mia casa.
1.新たな興味
日本人は、様々な分野からイタリアに興味を持ち、同時に多くの日本人がイタリア語を勉強
している。

2.日本語の介入
1 前置詞が省略される。これは、日本語の助詞の影響
2 名詞には性も数も示さず、動詞には語尾変化は起こらない。
3 従属関係の文において接続詞はあまり使わない。時制の指標は主文の動詞からもたらさ
れる。
4 関係詞は、限定詞を置く。
5 語彙はどのような状況で使われるか、認識されていない。
6 日本語では、否定の質問で、対話者が尋ねたことをはっきりさせるために肯定的に答え

3.文化
日本語とイタリア語は、語学的なギャップの他に、文化的のギャップがあるが、この文化的
なギャップは日本ではあまり認識されていない。
もし、生徒がイタリア人と「自然な」関係を築くことを望むなら、教師がこの意味で指示の方
向を助けることができるのではないか。そのためこれは、言語形態からだけでは推測できな
い。このコミュニケーションが文化的にも適切で、理にかなったものであったので、我々が
言うなら、「文化的な誤り」の類型を発展させることが必要だろう 。

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