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中島一斉先生​――その信仰と生涯――

 表紙の写真はありません 中島一斉先生
 ​――その信仰と生涯――
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昭和36年 8月20日発行
昭和36年 8月30日発行

B5?版 246P 200円

著 者  麻生 鋭

発行人  森山実太郎

印刷所 一巽印刷株式会社

発行所 熱海市田原町112
     熱海商事株式会社
扉に写真と書が収録されています。
中島一斉先生​  ――その信仰と生涯――
                  麻生 鋭

  伝記こそわが恋人
      財団法人 新宗連専務理事  大石秀典

 先人の捨身精進の跡をさぐり、そこから、自分の信仰の至らざるを厳しくむちうち、求道の
心を燃えあがらせてもらえるような糧を汲みとりたいと、いつも願っているせいか、宗教家の
語録や伝記を特に好んで読むのが、私のくせである。
 そのほうが、深遠な高尚な、しかし冷たい聖典や教義書を読むよりは、はるかに素晴らしい
感動にゆすぶられ、じぶんの今だしを深刻に反省させられることが 多い。おそらく、法を求め
道をたずねる人たちのうちには、私と同じような傾向をもっている人が多いのではあるまい
か。
 そんなわけで、心をくだき身を削って道をわけ登った宗教家の伝記が出されるということ
は、その道の人から云ってもその道の人でないものから云っても、まことにうれしいものであ
る。
 ところがその伝記であるが、昔は文明が高度でなかったから、宗祖とか教祖とかいわれる人
や偉大な宗教家の伝記は、幾世代にもわたる弟子たちの手を経てつ くられ、さらに、それが筆
写によって求道者から求道者へと伝わったのであるから、おそらく、広く読まれるようには何
十年も、ときには何百年もの歳月を要し たことであろう。
 然るに、今は、紙もあり余るほどあり、鉛筆もあればペンもあり、そのうえまた、テープレ
コーダーや印刷術が非常に発達しているのであるから、沢山な伝記 が短日月の間に出版されて
もよい筈である。にもかかわらず、一般の出版物にくらべて伝記の方は、極めて少ないように
思われる。これは、伝記を書くというこ とがたいへんに困難なためなのではないであろうか。
 伝記を書くことについての困難性は、いろいろある。私などは、記憶力が人並みはずれて弱
いせいか、じぶんのことのくせに、過去の大事なことでも殆ど忘れ てしまっている。たんねん
に日記でもつけていない限り、よほど印象のつよかったもののほかは、ボンヤリしてしまって
いるのが、世の人のさがではあるまい か。してみると、なくなってしまった人の生前のあれも
これもを正確にたずねるということは、難中の難事といってもよかろう。
 特に宗教家の場合には、その人の歴年譜よりも、その心がどのように変化し、あるいは、そ
の信仰がどのように深まり高まりあっていったかという、どちらか といえば、ほかの人には見
えない心の中のことが重大であるだけに、その心のうちにまでふみこんで正鵠を得るというこ
とは、常人には手のとどかないことかも 知れない。かといって、自分勝手に立ち入りすぎて想
像をたくましうすれば、伝記小説になってしまう。しかも宗教家の伝記では、歴年譜よりも、
この困難極ま ることのほうが重要なのであるから、宗教家の伝記を書くことほど始末におえな
いことはないと言ってもよかろう。
 信仰は、理論ではなく、体験の領分のことだから、その人が高くいっていればいるほど、深
くいっていればいるほど、書こうとする人にとっては、とりつくしまもなく、絶望にうちひし
がれることもあろう。
 この中島一斉先生の伝記の筆者である麻生さんは、その絶望的困難をおして、しかも、一年
に足らない短日月の間に、調査し研究し、資料を整理して、これだけのものを書きあげたので
あるから、その勇気と努力には、心から敬意を表せざるを得ない。
 また、おそらく、企画の方から分量の制限をうけていたのであろうが、中島先生を直接には
殆ど知らない麻生さんが、これだけの文章のうちに、余すところなくとでも言いたいほど中島
先生の真骨頂を伝え誌しえた、その力量にもただ頭をさげるばかりである。
 こうして書いている文章自身が暴露しているように、私の文章は、一文の句切りが長くて、
書き出しと結末をつなぐのに、読者は苦労されるであろう。いわば ズルズルベッタリの文章で
ある。だから、読む人に興味も感動も与えない。読み終えて、さてなにが書いてあったのだろ
うと思うのが、オチである。
 それにひきかえ、麻生さんの文章は、一文の句切りが極めて短い。いわゆるハギレの良い文
章で、読む人に強い印象を与える迫力をもっている。いわば、これが、今と、そしてこれから
の文章のあり方なのである。
 私が、いつも自分の構文の欠点に悩んでいるせいか、特に、この書物の麻生さんの、簡潔
で、しかも淡淡として、妙に力んでいない文章に、強く心をひかれるのである。
 ただ欲を言わせてもらえば、これは正規の伝記であるから、文中に出てくる人には、みん
な、本名をいれてもらいたかった。もっとも、それらの人たちが、いまだ生存しておられて、
さしさわりがあったのなら、仕方のないことでもあったろうが。
 さて、救世教からは、本格的な教祖伝は、まだ刊行されていない。
 これは、救世教のみでなく、一般に、教祖を霊界に見送ってしまった教団で、その教祖伝に
関連して思うことは、教祖から救われ、親しく教えを受けた直弟子 がたが、まだ霊界に旅立た
れない間に、その一代記を、特に教祖を中心に意識した信仰記を、やがてそれが教祖伝の重要
な資料になるという意味で、今から作っ ておいたらどうであろうかということであろうかとい
うことである。今は、録音機という便利手軽なものがあるのであるから、昔の人たちの骨身を
削る思いの労 苦にくらべれば、なんでもないとも言えるくらいのことであろう。
 中島先生は、すでにこの世になく、その伝記の筆者の麻生さんが直接先生にあって調べたわ
けではないから、この書物にそうした教祖観を求めるのは無理な話 である。しかし、ともか
く、先生の十年祭を記念するものとして、この伝記を刊行された中島先生門下のかたがたに
も、これは先生に対するご恩報謝であるとと もに、教団に対しても一つの大きい功績であると
敬意を表したい。
 さて救世教で私の始めて会ったかたは、渋井総斉先生である。昭和二十三年の暮れもおし
迫った頃、ある方に随行して玉川上野毛の宝山荘であったか、あそこ で、いわば非公式に会っ
たのである。それから、公式にも非公式にも、度々、おあいする機会があった。それは渋井先
生のほうが中島先生より長命であられたか らである。
 それにくらべると、中島先生には、昭和二十四年の秋頃から、二度くらいしか、おあいする
機会はなかった。
 この伝記にも、それらしい場面が出ているのであるが、最後に、箱根の旅館で私が中島先生
の訪問をうけて、二人の間で宗教論が出ようとしたところで、急な 要用のために先生が帰って
しまわれた事を今でもハッキリ覚えている。まことに口おしい分れで、大変残念に思ってい
る。
 この時に、先生には、この若ぞうを……と言っても、私は先生より四つしか年下でないのだ
が、信仰という面から、先生は、きっと、私をそう見られただろう と思っているのであるが
……説服せずにおくものかという気迫が見えた。私は、無心というか、構えのない構えで対し
ていたと思っているが、しかし、あの夜、 先生に暇があって、心ゆくまで説き来り説き去っ
て、ということになっていたら、どんなことになっていたろうと、その時のことを思い出すた
びに、今でも、総 身がひきしまる思いがするのである。
 とにかく、それだけのことであったが、宗教家としては、めづらしく厳しい、しかも行事綿
密というか、そんな印象が今でも強く残っている。
 何かのことで、中島先生のことを思い出すと、その宗教をくらべるわけではないが、中島先
生は、宗教家としては、道元禅師のような風格というのか、そんな型のかたであったろうと思
えてならない。おなくなりになった年令もほぼ同じである。
 中島・渋井という岡田教祖の二大弟子を考えないでは、救世教は考えられないほどのかたで
あったわけ〔で〕あるが、ちょうど、お釈迦さまより先に、その二 大弟子であった舎利弗尊者
と目連尊者とがこの世を去ってしまったのに似て、お一人は教祖さんより先に、霊界に行って
しまわれた。言わば、教祖さんの露払い の役をなされた。そしてもうお一人は教祖さんの昇天
の直後に、これは太刀持とでも言う姿で他界された。まことにおしみても余りあることであっ
た。もしも、 お二人が現存しておられたとしたら、救世教の地図はどう変わっていただろうと
思うことがある。これも凡夫の愚痴であろうか。
 しかし、いまでも、教祖さんが救世教に生きておられると同様に、中島先生も、救世教の多
くの信者さんのうちに生きていられるのである。
 そして、さらにまた、この伝記によって、先生は、これからも、いつまでも、ひろく強く生
き続けていかれるであろう。

  昭和三十六年七月二十三日

  はじめに

 「中島先生の生涯の指導原理は?」と訊かれれば、「それは良心であった」と答えたい。
 良心――それが先生の至上命令であった。
 これは信仰に入らない前も、そうであったし、信仰に入ってからも、そうであった。
 先生は、常に、良心という鏡の前で、強く反省し、鞭うち続けた。この点、自分というもの
に対して、あまりに峻厳であり過ぎた。
 同様に、相手に対しても、あまりに峻厳であり過ぎた。容赦なく、強く反省を求め、鞭うっ
た。弱い弟子は落伍した。
 ただ、信仰に入らない前は、あくまでも自力で、自分というものの完成が出来ると考えてい
たが、信仰に入ってからは、その自力ですらも、すべて神の支援によってのみ可能であるとい
うことを知った。
 言い換えるならば、土俵に上ったからには、全力を出して相撲をとらなければならないが、
相手は誰か、そして勝星はどちらのものかは、すべて神の計画の中のものであることを悟った
のであった。
 もともと、先生は、性格的にも激情の人であった。中途半端のままでいることの出来ない人
であった。すべてか、然らずんば、無の人であった。
 例えば、一生を過すにも、燈心をひたした皿に油を満たし、それに火をつけて、自他共に安
穏に照らして生きるということを、いさぎよしとしなかった。そう いうやり方では、満足する
ことが出来なかった。むしろ己の「身をえぐり、肉を出して、深さ大銭の如からしめ。蘇油
(そゆ)以て中にそそぎ、千燈柱をつくっ て」(仏祖統記)燃えようとした。自分自身を、ぼ
うぼうと燃やし尽くそうとした。肉は焼け、骨もあらわになる。
 先生は、これこそ、男の本懐と考えた。
 しかし、信仰が、先生を変えた。
 良心を人生指針とすることに変りはなかったが、そのために極度に自分をいじめることを、
先生はやめた。「自己拷問」から脱け出した。
 信仰は、まず、先生に、生きていることの喜びと感謝を湧かせた。自分という人間を生かせ
てくれる者への深い感謝が、先生を明るくした。人生に微笑が訪れた。
 その先生が、晩年、こう書いている。
 「笑いは天国です。大いに笑い、大いに笑わせましょう。最初は、嘘でもいいのです。おか
しくなくても笑いなさい。面白くなくても笑いなさい。それでは偽 りだという譏(そし)りが
あるかもしれないが、それでもいいのです。最初から、なんでも本物はないのです。嘘も本物
になるのです。みんな心から笑えるよう になれば、それが天国です。明らかに、上品に、大い
に笑い、笑わせましょう」
 しかし、良心は、生涯、先生の生命の根本であった。良心の命ずる行為の中にこそ神は住み
給うと、弟子たちに教えた。
 「信仰の極致――それは、腹の中に汚い塵や垢を洗い落し、澄みきった心となって、ひたす
ら大愛の神に誠を捧げること。言いかえるならば、“行”の中で行きぬくこと」
 先生は、いつもそう言った。
 まことに、先生こそ、良心の人、行の人である。真の意味のおいて、身を削って生きた大修
行者であった。

   一

 一斉・中島武彦は、明治三十二年二月二十六日、山口県萩の川島という静かな農村に生れ
た。
 中島家は、遠く藤原鎌足を祖先とする旧家で、吉田松陰の家系ともつながりがあり、父の善
三郎氏は、村の小学教員をしていたが、漢学の造詣が深く、特に詩作を好み、乞われるままに
史記、十八史略などを村民に教えた。
 晩年、同じ萩の川上小学校長となったが、中風のため五十五歳で歿した。
 母のあきさんは、同郷田中氏の息女で、長男武彦に続いて、貞子、寿子、謙二、慶介の四児
を挙げた。現在八十六歳、箱根強羅の山荘で、平和な余生を送っている。
 先生は、まるまると肥った、可愛い赤児であった。
 萩の郊外に、一般に「塩湯」と呼んでいた温泉場があった。
 ある時、母親は、生れたばかりの赤児を、それへ連れて行った。
 湯につかっていると、湯治に来ている女の客は、
 「なんて可愛い赤ちゃんでしょう。抱かせてくださいな」
 そう言って、赤児を抱きたがった。
 どの女の客も、みんなそうしたがった。
 誰でも頬ずりしたくなるような、そんな可愛い赤児であった。
 赤児は、丈夫で、胎毒もなく、すくすくと育って行った。
 「本当に、手のかからない子ですよ」
 母親は、そう自慢した。
 そう自慢するだけあって、風邪一つ引かない丈夫な子であった。
 数え年七つで父が勤めていた川島小学校に入学したが、頭がよく、学課の成績はよかった。
 家でも、よく言うことをきく、世話のかからない少年であった。
 ただ、負けることが嫌いで、その時分、剣道を習い初め、土地の警察署の道場へ出かけて、
竹刀を振り回していたが、負けるととても口惜しがった。
 だから、上達は早かった。試合に出て、褒美をもらったこともあった。
 習字も好きで、よく手習いをしていたが、これも負けじ魂のあらわれで、六年生の時、教育
勅語を立派に書いて出して、学校から賞を貰って帰って来た。
 とにかく、人に負けるということが大嫌いであった。それは、どうにも我慢のならないこと
であった。
 しかし、素直であった。
 曲がったことには、何処までもぶつかって行くが、そうでないことには、至って素直で、む
しろ同情心が強過ぎるくらいであった。
 人に物をやるのが好きで、手もとにあるものは、片っぱしからやってしまう。
 アコーデオンもやってしまえば、空気銃もやってしまった。気前のいい少年であった。
 両親にも愛され、学校の先生にも愛されて、幸福な毎日であった。六年を卒業するまで、三
番とは下らなかった。

   二

 少年は、萩中学へ進んだ。
 中学でも、出来る生徒であった。
 二年の時、軍人を志望して、幼年学校の試験を受けた。
 試験の成績はよかったが、体格審査ではねられた。
 「君は、成績がいいが、惜しいことに視力が弱い。主計なら、合格させてやるが、どうだ」
 試験官は、そう言った。
 少年は、黙って、引き下がってきた。
 (主計じゃいやだ。主計なんか、軍人じゃない)
 少年は、意気消沈して、試験場の山口から家まで、十三里の道を、歩きづめに歩いて帰って
きた。
 帰ってくると、玄関に立ったまま、しくしく泣き出した。
 母親は、びっくりした。
 (くやしい、くやしい)
 少年は、言葉には出さず、いかにも口惜しそうに、いつまでも泣いていた。
 少年は軍人になるのをあきらめて、又学校へ戻った。こつこつと勉強しつづけた。
 中学を卒業する時、受持の教師は、
「君は、学課の成績がいいし、将来大いに伸びると思う。どうだ、同文書院へ入って見ない
か」と言った。
 事実、少年には、大陸に雄飛したいという夢があった。入れるものなら、それへの最短距離
として、中国の同文書院へ入りたいと考えた。そして、そのことを両親に相談した。
 父親は、反対した。
 「お前は長男だ。そんな遠くへ行かなくてもよろしい」と言うのであった。
 「あきらめます」
 少年は、素直に、そう返事した。しかしやっぱり悲しかった。
 仕方なく、母校の萩中学校の代用教員になった。自分と余り年の差のない生徒を教えてい
た。
 しかし、青雲の志は、やっぱりなくなってはいなかった。なくなるどころか、火山の地底の
ように、ふつふつと燃えたぎっていた。
 (こんな小さな農村で、一生朽ち果てろというのだろうか。おれは、いやだ。いやだ)
 そこで、その代用教員生活も、一年程でやめて、上京した。
 先生、この時、十九才。
 父の善三郎と、当時ブラジル大使であった田付七太氏とが、同郷同窓の関係にあったので、
父の紹介で、その田付家の書生になって勉強する心組みであった。
 そして、その心組みの中には、大使の力にすがって南米方面に出て働きたいという希望も、
そっと隠されていた。
 上京して、書生になると、先生は明治大学の商科を選んで、そこに通った。ブラジル、メキ
シコ、アルゼンチン……。先生は、その夢に胸をふくらませて、勉強を続けた。
 しかし、夢は、僅か二年で、もろくも崩れてしまった。厳父の死に遭ったばかりでなく、思
いもかけない脚気を患ってしまったのである。しかも、相当の重症である。
 やむなく、先生は、療養のため、郷里に引き上げた。
 退屈で、若い命を包むには余りに刺激のない農村ではあったが、しかし、空気は清らかで、
吹く風にも、流れる小川にも、静かな田園の平和があった。
 そして、やがて、脚気も全快した。
 しかし、一度崩れた夢は、もう再びはふくれ上がって来ない。先生は、あきらめた。
 (おれは一生、サラリーマンで終るのだろうか。いやなことだ。だが、仕方がない)
 先生は下関の図書館に口を見つけて、その雇人となった。
 本が読めるのは嬉しかった。本の中で暮らしているのだから、読もうと思えば、どんな本で
も手近にあった。
 けれども、心は慰まなかった。この生活を愉しいとは思えなかった。
 (本の虫。紙虫。おれは、月給の虫か)
 先生は、自ら嘲って、早くこんな毎日から足を洗いたいものだと考えた。
 図書館づとめは、二年でやめた。

   三

 先生のいとこが、久原鉱業の重役の夫人になっていた。
 その縁で図書館をやめた先生は、久原鉱業へ入ったが、同県の先輩で、当時羽振りのよかっ
た山田某に見込まれて、まもなく、大同電力へ移った。そして、名古屋へ出た。二十二才の時
であった。
 仕事に夢はなかったが、せっせと働いた。
 それから三年たって、二十五才の時、先生は、この土地の大きな綿布問屋の娘である暉世子
さんと結婚した。
 「結婚式の始まる三十分前に婚姻届を出すようにするから、そのつもりで実印を用意して来
なさい」
 初めからそういう先生であった。
 当時の名古屋では、子供が出来て初めて籍を入れるというのが普通のやり方であった。だ
が、何事でも几帳面でなければ承知できない先生であった。
 さて、式はとどこおりなく済み、東照宮社務所で披露の宴が開かれた。
 席上、先生は、花婿らしくもなく飲んだ。
 花嫁は、ただはらはらしていた。
 その時、花嫁の兄さんが、
 「妹を頼みますよ。私のかわいい妹ですからね。本当にいい妹ですよ」と、血を分けた妹の
将来を頼んだ。
 それを聞くと、先生は、大きな目を更に大きくして、義兄となったその人をにらみつけた。
 「いい妹、いい妹と、そんなに嫁にやるのが惜〔し〕いなら、さっさと連れて帰れ」
 先生の声が大きかったので、まわりの者はなにごとかといぶかった。
 ちょっと座が白けた。
 先生は、そんなことには頓着なく、飲んでいた。
 披露の宴の席上、先生はどうしてそんなに酔いたいのだろうか。それには理由があった。
 息子の嫁を迎えるのに、暉世子さんではと、母親が反対の態度をとっていた。式にも出て来
てくれなかった。
 先生には、それが面白くなかった。面白くないというよりは、寂しくて、やりきれない思い
であった。
 そこへ酒が入った。先生は、花婿らしくもなく飲んだ。これでいいのだと思い、これからの
女房教育が大変だとも思っていた。
 その晩、家へ帰った先生は、厳かな顔で新妻に言い渡した。
 「あしたからは絶対に名古屋弁をつかってはならぬ。紅白粉をつけてはならぬ。留守は責任
をもって守ってもらわなければならぬ」
 この三つの命令のうち、あとの二つはともかくとして、最初の一カ条――「名古屋弁を使う
ことも、まかりならぬ」は暉世子夫人にとって到底自信の持てないものであった。不意に口に
出る名古屋弁をも許さないというのであろうか。
 名古屋に生まれ、名古屋で育った女にとって、明日から絶対に名古屋弁を使ってはならない
と言われることは、無理を要求されているようなものである。悪く考えれば、できないことを
やれといういじのわるい脅迫ではないかとさえ思った。
 しかし先生の要求は至上命令である。
 「はい。かならずそういたします」
 式服を脱いだばかりの新妻は、覚悟をきめて、そう答えた。答えなければならない厳しい空
気がそこにあった。
 翌日から、夫人はそれを実行した。
 名古屋弁が出そうになると、咽喉のところまででその禁制の言葉を呑み込み、改めて標準語
に直して、それからやっと物が言えるのであった。
 それだけではない。
 先生は、さっそく家計簿をつけるように命じた。命じたばかりではない。毎晩、その日の家
計簿を点検して、これでよしという判を捺さなければ寝なかった。 夫人も悪びれはしなかっ
た。それならばそれで完璧な家計簿を見てもらおうと決意し、商業学校で習得した腕にものを
言わせて、丹念に記帳し続けた。
 一カ月たった。
 「うん。これでよし」と先生は、満足そうに言った。
 そしてそれからは、点検はもちろん、家計に関することは一切、妻にまかせてしまった。
 当時、先生の俸給は八十五円で、家賃は二十五円であった。
   四

 大同電力でサラリーマン生活を続けていた先生は、再び、山田某に勧められて、東京神田神
保町にあったフォード自動車会社の代理店のセールスマンになった。そして来る日も来る日
も、自動車の売り込みに駆けずりまわった。
 しかし、セールスマンは、もともと先生の性格には合わない。勤めたからには一生懸命やろ
うと思い、またその通り一生懸命やるのであったが、しかし性分に合わないものはどうにも仕
方なく、胸の奥にはいつも穴のようなものがぽっかりと口をあけていた。
 「ぼくはとうとう雲助になり下がってしまった」と先生は笑って自分にも言い、友人にも
言った。その笑いは、青梅のようにすっぱい笑いであった。
 セールスマン。
 普通の人なら、それほど自嘲しなくてもいい仕事であるが、いい意味にも悪い意味にも潔癖
すぎる先生にとっては、口八丁、手八丁で品物を売り込むというそ の仕事が恥ずかしくてなら
ないのであった。自分がまるで箱根山中で酒代をねだる雲助のような境涯に堕ちてしまったよ
うに思われ、いつもいらいらしていた。
 そういう先生を見、はじめフォード自動車会社代理店に入れた山田某も、溜息をついて言っ
た。
 「中島君、君は結局、坊主か牧師になるほうがいいかも知れないね」
 事実、先生の心の底には、何か宗教的なものが芽生えつつあった。しかし、それは一つの星
が出来上がる前のもやもやした雲のようなもので、自分でもその本体が掴めず、ただひとりで
いら立っていた。
 しかし、とにかく働かねばならない。
 働かねば食べていけない。
 そして、疲れて、妻の待つ麹町土手三番町の家に帰って来るのであった。
 結婚四年目、ここで長女の三保子さんが生まれた。
 仕事は面白くなかったが、初めての赤児だけに先生の喜びも大きく、気分的にも明るくなっ
たとみえて、こんな冗談を言った。
 「暉世子も辰年だし、三保子も辰年だ。ぼやぼやしていると、おれは竜にやられてしまう
ぞ」
 先生も、もう三十才である。
 本当の心の平和がほしい。落ちつきたい。
 しかし、外面はとにかく、先生の胸の中にはまだもやもやしたものがあった。いつまでも十
を三で割っているような、そんないらだたしさもあった。明るくは なったというものの、それ
は雲の多い日の空に似ていた。先生は、可愛い赤児を膝に乗せながらも、被害妄想者のよう
に、自分で自分をいじめた。
 (これでいいのか、これで)
 (この生活で満足しろというのか)
 先生は、唇を噛むようにして、じっと考え込んでしまうのであった。
 やがて、先生は、フォード自動車から、ブリジストンタイヤに転じて、一家の住いは大阪に
移った。
 その大阪支店で先生を待っていたものは、課長の椅子であった。
 しかし、その椅子も、先生には坐り心地のいいものではなかった。
 なるほど、セールスマンという肩書きはなくなり、埃をかぶって歩きまわる日々のかわり
に、椅子に腰かけて判を捺す生活が主となったかも知れない。だが、そのどちらも先生には同
じようにつまらなかった。
 (自動車を売り込むことも、そのタイヤだけを売り込むことも、やはり雲助根性を必要とす
るのだ。これが俺の仕事だろうか。これを仕事としなければならないのだろうか)
 先生は、社員たちが出て行った昼休みの事務室で、ほろ苦い思いを噛みしめた。
 しかし、仕事はつまらないが、先生は自分というものを信じていた。いまに見ていろ。そう
いう気持ちがあった。
 だから、家へ帰ると、先生は夫人に威張って言った。
 「おれは日本一の婿殿だぞ」
 新婚の翌年の正月であった。
 先生夫妻は、婦人の実家へ年賀に行った。
 綿布問屋であるから、そこには大勢の店員がいる。
 夫人は、誘われるままに店員たちの仲間に入って歌留多をとった。
 それを見て、先生は怒った。
 「おれの女房なら、女房らしく、もっと威厳をもつんだ。雇人といっしょになって歌留多を
とるなんて、なんという仕儀だ」
 怒った先生は、そのままぷいと帰ってしまった。
 その翌日、夫人は、こんなむずかしい良人と、今後どうやって行ったらいいだろうと真剣に
悩んだ挙句、台所へ行って、飲めない酒をコップに一杯飲んだ。そうでもしなければやりきれ
なかった。
 そして、ふらふらと外へ出た。
 「まだおまえはお嬢さんのつもりでいるのか。何もおれが好き好んで貰ったのじゃないん
だ。いやなら、いつでも出て行け」
 さっき、そう怒鳴った先生も、婦人の姿が見えなくなると、さすがにあわてた。
 すぐ、あとから追いかけて行った。
 「おれは日本一の婿殿だぞ」という自慢は、決していいかげんのものではない。先生は真実
そう自負していた。だから、家では威張っていた。
 この大阪の家で、長男の誠八郎さんが生まれた。

   五

 しかし、誤解を受けないように、セールスマン時代の先生について、これだけは付け加えて
おきたい。先生は、負けることが嫌いであった。なにをしても一番にならなければ承知できな
いというタチであった。セールスマン時代といえども、この意地と気魄とで貫き通した。
 後年、先生は、弟子たちに話した。
 「よく切れる男というので、営業不振に陥っている支社を立て直すために転任させられたこ
とがある。そこで私は、どうして品物が売れないのか、それを研究 するために六カ月なにもし
ないで遊んでいた。少なくとも、第三者にはそう見えただろう。そのため、私は社内で大変な
非難を受けた。しかし、その六カ月のあ いだに、一つの発見をした。それは、どのセールスマ
ンも、運転手との取引にかかりきりになっているので、うまく成績が上がらないということ
だ。それがわ かった。そこで私は、運転手ではなく、自動車の持ち主と直接取引きすることに
した。そのため、今まではゼロ、ゼロが続いていた売上げも、年末には同僚を追 い越してし
まった。このことが刺激となって、支社の営業成績は大変よくなった」
 先生は、決して、自嘲の中にだけ生きていたのではなかったのである。
 それどころか、やるだけは十分にやった上で、更に遠い一つの星――それがどういうもので
あるかは先生自身にもよくわからなかったが、とにかく遠くの空に光っている一つの星にあこ
がれ、それへの道を目指していたのであった。

    六

 いよいよ先生の脱皮の時が到来する。
 「おれには、やらなければならない仕事がある。それがなんであるかは、まだわからない。
だが、すくなくとも商売ではないはずだ」
 自分自身に、そう言いきかせるようにしてして、先生はブリジストンタイヤを辞めた。
 そして、未知の洞窟を探る探検家の勇気と、しかしやっぱりもやもやとしたものとをもっ
て、大阪から再び東京へ出た。
 親子四人のねぐらとして、中野の鷺の宮に小さな家を買った。四百五十円であった。
 ある日、気がついてみると、やっと誕生日を迎えたばかりの男の子の右手の親指に、なにか
ぽつんとできている。
 しかし、たいしたことはあるまいと思い、そのままにしておいたところ、それが脹れ出して
来た。脹れは、日ましに大きくなる。用事は、痛たそうに泣き続ける。
 近所の医者に連れて行った。
 親指のさきを診察した医者は、首をかしげて、これは自分の手ではどうにもできないと言
う。
 そこで、水道橋にある一流の医者のところへ行った。
 一目見るなり、その医者は、
 「これはひどい。すぐ切断しなければ、手首まで拡がってしまう」と言った。
 先生は、青くなった。この小さな可愛い指の一本を、切り落とさなければならないとは! 
先生の頭は混乱した。しかし、どうにもしようがなかった。
 「お願いします」
 先生は、目をつぶって、慄える声で、それだけをやっと言った。
 医者は、用意が済むと、赤児の右手の親指を、そのまんなかの節のところから切断してし
まった。
 (ああ、とうとうこの児は片輪になってしまった)
 先生と夫人とは、なんにも知らずに眠っている幼児のそばで、幾度か嘆息した。深い沼の底
に引きずり込まれるような気持ちであった。
 ところが、その手術の晩、こんどは三つになる三保子ちゃんが急に熱を出した。
 それもただの熱ではない。四十度の高熱である。
 あわてて医者を呼ぶと、疫痢だと言う。
 打ち続く打撃に、先生夫妻は、ただオロオロするばかりだった。
 「この子が死ぬようなことがあったら、おれも死ぬ」
 先生は、そんなことも口走った。
 その時、先生の友人の一人が訪ねて来た。
 子供の病気のことを話すと、
 「麹町にふしぎなことをする先生がいる。正木という名の先生だ。どんな病気でも治すこと
ができるそうだ」
 「誰からそんなことを聞いた」
 「いや、実は昨夜、その麹町で講話会があった。ぼくはそれを聞きに行ったのだ。話の内容
を一口で言えば、まあ心霊的治療法とでも言うもので、薬も何も使わずに、どんな病気でも治
せるというのだ。ためしに、正木という人に頼んでみたらどうか」
 「それだけでは、どうも信用できないな」
 先生は、ニベもなく言った。
 しかしそうは言ったものの、今は藁をも掴みたい必死の気持ちである。
 うそか、ほんとうか。
 とにかく、その治療法を受けてみよう。
 そう決心すると、先生は、
 「では、頼みに行って来よう」と友人の手を堅く握って言った。
 宙を飛ぶ思いで麹町の家へ駆けつけ、正木という人に会って、子供の病状を話すと、
 「では、すぐ行きましょう」と言う。
 あまり簡単に引き受けてくれたので、先生は却って不安になった。
 (この先生が、ほんとうに美保子の病気を治してくれるのだろうか)
 その人と連れ立って帰る道で、先生の心はまだ半信半疑であった。
 家へ着くと、正木氏は妙なことを始めた。
 病児の胸に扇子をかざして、じっと何かを念じているようであった。あとで、先生は、扇子
をつかう方法は大本教の方式によるものだということを知った。しかし、その時は、ふしぎな
ことをするものだと思った。
 長いあいだ、正木氏は、そうしている。
 (いったい、これはどういうことなのか)
 先生は、そのふしぎな所作に、目を見張っていた。
 そのうちに、ぐったりとしている病児の頬に赤味がさして来た。どんよりとしていた目にも
光が現われて来た。
 「お水……お水、ちょうだい」
 幼児は、枕もとの両親に、はっきりとそう言う。
 水を飲ませると、
 「おいちい、おいちい」と言う。
 先生は、びっくりした。夫人も驚いている。
 (これは治るぞ)
 なにがなんだかわからないが、ともかく病児が元気を取り戻したことを、今はっきりとこの
目で見て、先生は、泣きたいような嬉しさで、ただ驚いていた。
 それから一週間、病魔は完全に退散した。

   七

 正木氏の治療によって、愛児の病気が治った。この霊験あらたかな事実を、自分の目で見
た。その厳粛な事実を前にして、先生は魂の底からゆすぶられるような感動を覚えた。
 (これは、ただごとではない。とにかく、ただごとではない)
 先生は、正木氏が師と仰ぐ大先生に会ってみたいと思った。いや、会わなければならないと
思った。
 その大先生は、岡田茂吉といって、大本教の幹部であり、信仰的治療法を世にひろめるため
日夜苦闘しているということ、その治療法は単なる病気なおしではなくて、言わば救世済民の
理想を濃縮させたものであることを、先生は正木氏から聞いていた。
 (どんな風貌の人だろうか)
 そう思っても、胸が痛んだ。
 とうとう、その日が来た。
 すっかり健康になった美保子ちゃんを連れて、先生は大森の大先生と呼ばれている人を訪ね
た。
 もちろん、御礼を言いたかったからであるが、そのことばかりではなかった。世にも不思議
な治療法の秘密が知りたかった。
 だから、出かける前に、先生は婦人に言った。
 「一流といわれる医者が匙を投げた子供の病気が、薬一つ使わず、ただ扇子をかざしただけ
で治ったのだ。おれは、その秘密を徹底的に究明してくる」
 こうして、はじめて、先生は岡田茂吉という大先生に会った。
 痩せて、小柄な、別にどうということもない中年の男であった。ただ、耳がいやに大きく、
目がこわいほど鋭い。相手の心の奥を見通すような目である。
 しかし、いろいろ話を聞いているうちに、先生の心はだんだんと軽くなって行くのであっ
た。目に見えない綱で、今まで自分で自分をきりきりと縛っていた、その息苦しさから解放さ
れて行く喜びが、酔いのように湧いて来た。
 一時間ほどのあいだに、先生は完全にその人物に魅了されてしまった。
 (これは、確かにただごとではない。いままで、自分がぼんやりと考えていたことを、この
大先生ははっきりさせてくれるにちがいない。しかも、ことは急を要するのだ、ぐずぐずして
はいられない)
 「私を弟子にしてください」
 先生は思い切って、そう言った。その顔には必死なものが現われている。
 この初対面の男の胸の中に、今何が起りつつあるかを見抜いたのであろう、大先生は、
 「よし、してやる」
 即座に、そう答えた。
 こうして、後年の世界救世教教祖と、その忠実な弟子との結びつきは、一人の子供の病気と
いう機縁によって、ここに実現したのであった。
 思えば、東京大鋸(おおのこ)町に住む岡田茂吉という少年が、生来多病の身に二年前の肋
膜炎が再発し、美術家への夢も空しく、十七才の春をひたすら斗病生活に明け暮していたその
時に、先生は本州の西のはずれで生れている。
 そして、それから幾十年の後、先生がその教祖のよき片腕となって、今日の教団の礎を築い
たということは、まことに深い因縁と言わねばならない。
 けれども、あらゆる人間関係において、そしてその共同の仕事において、神は常にこうした
出会いを計画しているのである。
 人が偶然と思うようなことの中にも、神の意志は、ちゃんと厳密に計量されている。神は、
ただ、その人の決断を待っているのである。
 しかも、その決断は、今すぐでなければならない。明日ではいけないのである。
 「弟子にしてください」
 「よし、弟子にしてやる」
 この言葉に感激した先生は、胸をわくわくさせて家へ戻ると、早速準備を整え、翌日から大
先生の家に泊まり込んだ。
 後日、大本教のお筆先を暗記するため、それを書いた紙を天井一面に貼り、寝ながら覚える
という方法を試みた先生。
 よく覚えられないと、自分の頭を拳固で殴って、「この馬鹿野郎!」と怒鳴ったりするの
で、夫人から気が狂ったのではないかと思われたという先生。
 一度やろうと決心したら、なんでも徹底的にやらなければ気の済まない先生。
 そういう先生であるから、朝から晩まで、時には晩から明け方まで、なにもかも忘れて、こ
の新しい治療法の奥儀と取組んだ。
 そして、泊り込んで七日目。大先生がいつも説かれる霊主体従の法則を、それこそ頭脳でな
く、全人格で確信することが出来た。
 もともと先生は、個性が強く、強情であった。
 見ずして信ずることが出来れば幸いだが、先生は、そういう部類の人ではない。疑うことに
おいても、人並み以上に敏感であるから、言葉や理屈だけで、おいそれと信ずる人ではない。
こういう人は、見ることが必要である。見なければ、信じようとはしない。
 ところが、自分で治療しているあいだに、奇蹟は次から次へと起った。
 いやでも、先生は、それを見た。
 病気は霊の曇り――
 霊主体従の法則を信ずるよりほかはない。
 その法則を否定するためには、毎日のように起る奇蹟を否定しなければならない。
 その奇蹟は、絶対に否定できない。何故なら、自分はこの二つの目で、昨日も今日も、それ
を見ているのだから。
 このときから先生は、これまでの人生観を脱皮した。百八十度の転換が行われた。
 自分の心の中の革命に、驚きと喜びとをもって、先生はつぶやくのであった。
 (私はもうない。大先生の弟子としての自分があるだけだ。大先生がなければ、この私もな
くなる)
 しかし、奇蹟は、更にもう一つの奇蹟を現した。
 それは、右手の親指のまんなかの節から切断した赤児のその指が、その後、だんだんと伸び
て来て、しかもちゃんと爪まで生えたことである。今では誰が見ても、これが昔、無残にも切
り落とされた指だとは気がつかない。
 ――指も生える。

   八

 大先生は大本教を信じている。大先生の信ずるものは、自分もまた信じなければならない。
 「綾部へ行って来る」
 そう夫人に言って、丹波へ出かけて行った先生は、大本教の本部で、一週間、その教理を学
んだ。学ぶといっても、先生のやり方は脳細胞で吸収するのではない。いつの場合も、全身の
毛穴からたっぷり吸い込むというやり方である。知識ではなく、知恵である。
 家へ戻ってきた先生は、首から「おやしろ」(御守)をかけていた。
 そして、玄関へ帰るなり、いきなり出迎えた夫人に、
 「おまえも綾部へ行くんだ」と言う。
 それは、相談ではない。命令である。
 「行けとおっしゃっても、小さい子供が二人もあっては……」
 夫人が即答しかねていると、雷が落ちた。
 「行けと言ったら行って来い。子供をかかえてでも、その気になれば行けるんだ。行って来
い」
 仕方なく、夫人は、
 「はい。参ります」と答えた。しかし、そうは言っても、幼い二人の子供をもつ身で、すぐ
に出かけることは出来ない。
 いろいろ準備して、夫人が丹波へ出かけたのは、それから半カ月たってからであった。
 そして、信者となって帰って来た。先生は満足そうに、自分で自分に言った。
 (これでよし)
 大体、先生という人は、冷静な面もあったが、それ以上に激情的な人であった。それだけ
に、信仰の面でも、「総てか、無か」でなければ承知できない。それは人生観でもあったが、
又先生の性格でもあった。
 先生は、大本教のお筆先を半紙に書いて天井に貼って置いたということは前に書いたが、あ
る時、そのうちの一番肝腎な文句と思うところをちぎって、それを 呑み込んでしまった。頭へ
入れるだけでは我慢できなくなったのである。腹の中へ入れてしまわなければ、安心が出来な
かったのであった。
 先生は、そういう人であった。だから、文字通り不眠不休の勉強で、そばで見ている夫人の
方がやり切れなくなる。
 (これが、信仰地獄というものだろうか)
 夫人は本当にそう思わずにはいられない時もあった。
 婦人の実家では、
 「中島は気違いになった。あんな亭主と一緒にいたら、暉世子は今にどうかなってしまう」
と騒いだ。
 信仰に入るにも、二つの道がある。一段一段階段を上って行くようにして頂上に至る人と、
エレベーターのように一直線に上って、ついにその最高峰に達する人と……。
 先生は、その後者であった。
 舞台は、一瞬にして変った。
 その人を見つけるまでは、先生は、「さまよえる模索者」であった。
 その人とは、言うまでもなく、大先生である。
 「大先生は、私が発見した」と、先生は自分に言い、弟子にも言った。
 なるほど、そうかも知れない。しかし、先生を発見したのも、大先生であった。それは、二
つの遊星の上の天文学者が、それぞれの望遠鏡をもって、おたがいを同時に発見したというの
が本当であろう。
 それまでの先生は、暗中模索者として、いつも何かを追っていた。その何かは自分にもよく
はわからなかったが。ただ漫然と、「自分もつくられ、人もつくる道」――そういうものが、
自分を持っている。早くその道へ出たいものだと思っていた。
 けれども、その道の入り口もわからなかった。何処から入っていいのかわからなかった。
 先生は、悩み、考え、いらいらしていた。そして、それは、結婚してからも続いた。虹の橋
を遠くに認めていながら、さて何処から登って行ったらいいのかわからないで泣きそうな目を
している子供のように、先生は、途方に暮れ、頭の毛を掻きむしっていた。
 その先生が、大先生を発見した。
 先生の前に、ぱっと光がさして来た。
 先生の人間が変り、人生が変った。先生は、この時新しく生れた赤児となった。この赤児
は、母の如く大先生を慕い、信じた。そして、この献身は、生涯変ることがなかった。
 この献身は、焼身といってもいいのであろう。自分のからだを火に焼いて、仏等を供養し、
衆生にも恵み与える列行――これを焼身供養と言うが、先生は、焼身して大先生につかえた。
そこにはもう、いささかの迷いも、疑いもなかった。
 それは迷いに迷い、疑いに疑いを重ねていた親鸞が、ある日、法然に会い、わが師が地獄に
堕ちるなら、自分も喜んで地獄に堕ちようと思った。あの絶対的信従に似ている。
 晩年、先生は、こう書いた。
 「神を説明する言葉は、実に多い。神は光なり。神は愛なり。あるいは、幽現界の根本、無
始無終が神だとも説明している。しかし、神を本当にわかっている 者は、極めてすくない。わ
からないでも、わかったつもりでいる。そういう者が多い。ではどういう人が、神を本当にわ
かった人と言えるだろうか。それは、神 は、どんな優れた人間の知恵でも分析したり、解釈し
たり出来るものではないということを、そのことを知っている人である。神は、体験を通して
でなければ、 わかって来ない。いくら頭をひねってみても、理屈ではわからない。理屈以上の
奇蹟を体験することによって、次第に、神がわかって来る」
 同じく晩年、先生は、こうも書いた。
 「そもそも、人間意欲の中で、一番魅力を感ずることは、神秘を探り当てようという願いで
ある。例えば、信仰に熱を増すのは、神秘を探求したいという意欲 のあらわれで、一つの神秘
を探り当てると、更に次の神秘を探求したくなる。知れば知るほど、いよいよその奥を探り当
てたくなる。ここに、信仰の魅力があ り、妙味がある。そして、奇蹟とは神秘の表現化したも
のであるから、神秘を探求すればするほど、奇蹟を体験することになる。信仰に熱を増すの
も、言うなら ば、この奇蹟を多く戴きたいからである。だから、神秘を探り当てたいという願
いの強い人ほど多くの奇蹟を戴くことになり、そこで益々信仰に熱を増すという ことになる」
 「宗教と恋愛と、相通ずるものがある。宗教の神秘にあこがれる点と、恋人にあこがれる点
とは、よく似ている。ただ、ちがうところは、恋愛の終局点が結婚 であり、結婚すると、大抵
はその新鮮な魅力を失って来るのに対して、神への恋愛――即ち、宗教は永久的のものであっ
て、神秘を探求すればするほど、魅力は ますます強くなり、妙味も増して来るものである。新
鮮な魅力を失うどころか、探れば探るほど、いよいよ魅力は大きくなる」
 その神――宇宙の中心である真神が、衆生済度の悲願をもって神の座を降り、仏となって下
生されたその観世音菩薩こそ、先生の神であった。そして、その信仰は、死に至るまで、いさ
さかの動揺も来たさなかった。

   九

 先生にとって、大先生はただ一人の人であった。大先生があってこそのわが身であり、わが
身のためのわが身などというものはなくなった。
 だから、あらゆる物も、大先生の物であった。
 何か買いものをすると、
 「大先生は、これをもう召し上がったかしら」と思い、菓子一つにも心をくばった。
 大先生の着ないようなものは、先生も着なかった。
 太平洋戦争がはじまって、甘い菓子もなかなか手に入らなくなると、先生は苦労してその券
を手に入れ、新宿の中村屋の前に行列して、それを買うのである。そして、子供のように喜ん
で、大先生の家へ届に行った。
 郷里の家を売って二千五百円という金が入ったことがある。その時、先生は、それをそっく
り大先生の前に差し出し、
 「神様の御用のために使ってください」と嬉しそうに言った。
 余裕が出来てからのことではない。殆どどん底の貧乏生活の中にあって、そうしなければい
られないのである。
 そして、家には一銭の金のない日も、
 「寝るほどらくはないね」などと笑って、先生は昼寝をしていた。
 昭和八年十二月二十三日。
 先生は、大森へ行って、大先生の誕生日をお祝いした。
 その日、先生は、魚屋に鯛を頼んでおいたのだったが、皇太子殿下がお生まれになったその
佳き日とあって、おいそれと鯛が手に入らなかった。
 それでもようやく大きな鯛が見つかって、それを持って行くことができた。
 師弟水入らずのこの祝いの宴を、大先生はどんなに喜んだことでだろう。
 このことが例となって、それからは毎年、弟子たちが集って大先生の誕生日を祝うことに
なった。
 「忠誠」
 先生が、大先生に仕える純愛の心は、他の言葉で言うならば、この二字が一番ぴったりして
いる。
 それは、まことに、忠誠であった。最も純粋な意味においての忠誠であった。
 この忠誠が、先生の火のような信念となった。おのが人生の自信となった。
 先生は、他のことはともかく、大先生から与えられた信仰については、誰にも指一本ささせ
なかった。さすものは、斬って捨てるの意気があった。
 だから、弟子たちとの議論においても、先生は、みじんの容赦もしなかった。相手に手も足
も出させない激しさがあった。一歩も譲らなかった。
 「あの時分、私は、先生はなんて苛酷な人だろうと、恨めしくさえ思いました」
 後年、こう述懐している弟子もある。
 これも、先生の忠誠のあらわれであった。君の馬前で打死することを本望とする家来のよう
な忠誠心を、大先生に対して、一生変らず持ち続けたればこそ、大先生の教えられる道につい
てくどくどと批判がましいことは言わせなかった。
 「素直でなければいけない。ハイという返事と、立ち上がるのとが、同時でなければいけな
い」
 先生は、よくこう言ったが、大先生に対しては、先生はすぐ立ち上った。どんなことを言わ
れても、ハイと返事をした。返事と同時に、もう身を起していた。

   十

 中野の鷺の宮から、阿佐ヶ谷へ引っ越した。
 生活は苦しかった。先生の収入は皆無といってよかった。
 夫人は、大本教の機関紙「東方の光」を売り歩いた。妊娠しても、家にじっと坐っているこ
とは許されなかった。生活がそれを許してくれなかったというよりも、先生が許さなかった。
 当時、「東方の光」は一部二銭で、売り上げの半分は大先生に届ける。だから、どんなこと
があっても一日八十部は売らなければ暮して行けない。
 一日八十部で、手取りが八十銭、一ヵ月に二十四円。
 どんなに物価が安く、金の値打ちのあった当時でも、親子四人が二十四円で生活して行くの
は、並大抵の苦労ではなかった。
 おかずを買う金がなくて、野原の土筆を摘んで来て食べなければならない日もあった。
 そういう苦しい暮らしの中でも、先生の夫人に対する教育はきびしかった。「一日為さざれ
ば一日食らわず」という厳しい人生観を叩き込もうとして懸命であった。
 夫人の返事が、ちょっとでも気に入らないと、
 「なんだ、その返事のしようは」と叱りつけられる。
 腰の上げ方がおそいと、
 「なにをぐずぐずしているのか」
 夫人は、まるで独楽のようにきりきり舞いをし、つむじ風のように今日はこっち、明日は
あっちと飛び廻った。その過労から目を悪くした。それでも、先生は、なおもつぶやいた。
 (おれは、暉世子を仕込んでいるのだ)
 そのくらいであるから、子供のしつけにも厳格であった。
 後年、長女の三保子さんは、こう言っている。
 「ずいぶん厳しい父でした。けれど、筋の通った叱り方をされるので、あと味は悪くありま
せんでした。とは言っても、叱られている最中は、そんなに言わな くてもいいのにと、恨めし
く思いました。でも、今日になってみると、父のしつけの厳しさは、あれはあれでよかったの
だと、つくづく有難く思います。それ は、父の厳格さの底にある涙もろさ、それがわかったか
らです。本当は、父は涙もろい人情家だったのです」
 これは、良人としての先生についても、そのまま通用する。
 「なんて気のきかないやつなのだ」
 そう言って、二階から下りて来て、やにわに夫人に拳をふり上げるような、ぴりぴりした神
経をもっていた。しかし、先生はそのあとですぐ後悔した。後悔して涙ぐんでいることもあっ
た。
 それなのに、昂ぶって来ると、自分で自分がどうしようもなくなり、又怒鳴りちらすのであ
る。そして、又後悔するのであった。
 会社を辞める時に貰った退職金も、とっくになくなってしまっていた。
 相変らず生活は苦しかった。
 家主は、おためごかしに、こんなことを言う。
 「金が欲しかったら、電気治療をやりなさい。あれなら、患者は来るよ」
 先生は、黙っていた。余計なことを言うなという顔をしていた。
 (おれはただの治療屋ではないのだ。そんなものにはなりたくない。又、なろうと思って
も、なれるおれの性格ではない)
 家主は、そういう先生を見つめて、
 (なんて融通のきかない男だろう)とあきらめている。
 ある時、この家主の勧めた電気治療のことを、大先生に話した。
 大先生は、気軽に、
 「両方やれ。両方やったらいい」と言った。
 しかし、そういう器用なことの出来る性格ではない。この話は、それでおしまいになったの
であるが、先生の火のような理想主義は、ついに大本教の某氏の信仰観と正面衝突し、とどの
つまり先生は、敢然として教団そのものと袂を分ってしまった。
 それは昭和八年のことであった。
 その翌年、大先生も、大本教の幹部の地位を退き、麹町半蔵門に信仰的指圧療法の治療所を
開いた。時に大先生は満五十二才。先生は三十五才であった。
 こういう貧乏時代がそれからも長く続いたが、どんなに困った時でも、先生は泣きごとを
嫌った。だから、夫人は愚痴をこぼすことが出来なかった。愚痴ばかりではない、金のことは
なんにも口に出せなかった。夫人は歯を食いしばって、黙っていなければならなかった。
 「空飛ぶ鳥を見ろ。なんの貯えもなく生きている。まして万物の霊長たる人間が食べられな
いということはない」
 先生は、よくそれを夫人に言った。そして、金など通用しない国にでも暮らしているような
顔をしていた。
 先生は、借金も大嫌いであった。
 だから、夫人は、急場をしのぐための僅かの金も借りることが出来なかった。見つかれば怒
られるにきまっているから。
 けれども、どうにも仕方なくなって、生活の金を借りたこともないではない。それを知っ
て、先生はうるさく夫人に言う。
 「すぐ返せ。すぐ返すんだぞ」
 夫人は、嫁入りする時に持ってきたものを片っぱしから売って来た。もう売るものもない。
 「もう、すっかりなくしてしまいました」と夫人は、ある時、却ってさっぱりしたとでもい
うような顔をして言った。
 「おれだって、単衣を袷(あわせ)に直したものを着ているんだ。それでも結構しあわせな
んだ」
 そう言って、先生は笑った。

   十一

 この家で、先生夫妻は、まる半年、ひどいカイセンを患った。
 子供はいるし、手はかかるし、夫婦で床に就いていたのでは、毎日の炊事も思うにまかせな
い。派出婦を雇えば、洗濯物が臭いといって、すぐ帰ってしまう。しまいには、誰も手伝いに
来てくれなくなった。
 からだじゅうぐるぐるに包帯を巻いた先生は、生き地獄のような苦しみの中でも、なんにも
言わずに寝ていた。
 弟子たちが来ると、そういう体を見せないように、顎のところまで蒲団をかぶっていた。
 月並祭の日になると、先生は、二階の六畳に寝たまま、物干台に座蒲団を並べさせ、そこに
三十人位の信者坐らせて、蒲団の中から講話した。一時間も話した。
 夫人は「一時的で結構ですから、私のカイセンを先きに治してください」と祈った。二人が
寝ていては、子供が生きて行けない。
 その祈りがかなって、夫人は先生より一足さきに治った。
 しかし、数年たって、夫人は二度目のカイセンに罹った。
 「これでいい。一時的でいいから治してくださいと祈ったのだから、これが当たり前なの
だ」
 夫人は、指の中程まで包帯を巻いたその不自由な手で大先生から頼まれた毛布の腹巻を編ん
だ。せめてものご恩返しと思って、せっせと編み続けた。
 その姿を見て、先生は涙ぐむ。
 先生にとって、大先生はこの世にかけがえのない、たった一人の人である。その人のため
に、妻が全身の痒みをこらえて、腹巻をつくっている。
 先生は、心の中で、
 (ありがとう)と言った。

   十二

 昭和十年一月一日。
 大日本観音教会の発会式が、麹町半蔵門の治療所で挙げられた。
 大先生の家も、大森から玉川上野毛(かみのげ)に移って、教会本部となった。
 その頃には、先生の家も、阿佐ヶ谷から再び中野へ――しかし、今度は本町通り三丁目に
移っていた。
 翌十一年夏、五十五才の大先生は、埼玉の大宮警察署から呼び出され、ついで玉川署に留置
されるという事件が起った。療術行為はまかりならぬというのである。
 そして、十二年秋、治療はしてもいいが、宗教とからませて行うことはならぬというお達し
があって、大先生は表面上、宗教を離れて治療行為だけで立つことになった。
 先生も、表面だけ宗教と関係のない単なる治療ということにして、それにふさわしい看板を
かけた。
 しかし、患者は、思うように来てくれなかった。一人も来ない日もあった。
 そういう誰も来ない日は、先生は、果報は寝て待てとばかり、座敷に寝ころがっていた。そ
の顔に、暗い影など微塵もなかった。自信満々という顔付であった。
 さて、その翌年の昭和十三年、先生一家は同じ中野の一丁目へ引越した。
 引越して一週間ほどたった日、先生は散髪に出かけた。
 途中、ある寺の門前にさしかかると、八十ぐらいの老婆が、精も根も尽き果てたという格好
で、じっとうずくまっている。
 声をかけたが、返事も出来ない。ただ、拝むようにして、先生を見上げた。その目は、どろ
んとして、何かの病気を背負っている目である。
 先生は、これはこのまま捨ててはおけないと思い、家へ連れて行こうと考えた。
 考えるということと、おこなうということは、先生の場合、常に一つである。
 先生は、その老婆をかかえるようにして、家へ戻った。
 診察すると、喉頭結核だということがわかった。
 それから、毎日、先生の治療が続けられた。
 老婆のからだは、めきめきとよくなった。
 すっかり全快した老婆は、
 「なんとお礼を申してよいかわかりません。でも、私にはなんにも差し上げるものがありま
せん」と涙を流して言った。
 「お礼なんかいらないよ」
 先生は、血色もよくなった老婆の顔を見て、嬉しそうに言った。
 老婆は、幾度も頭を下げて、帰って行った。
 そして、しばらくたったある日、一人の男が先生を訪ねて来た。
 「あなたのことを、ある人から聞きました、私も信仰ということについては、いろいろと考
えている者です。是非一度あなたにお会いしたくて来ました」と、その人は言った。
 この人こそ誰あろう、後の日本五六七教会の渋井総三郎先生であった。
 神は讃むべきかな。この時から、先生とその人の密接な、そして因縁の深い関係が結ばれた
のである。
 大先生はよくこう言った。
 「中島は火、渋井は水。そして、中島は縦、渋井は横だ。この二人は、車の両輪なのだ。
どっちも重要だ。どっち一つが欠けても、車は動かない。自分は、こういう立派な二人の人間
を持つことができた。だから、安心して車の上に乗っていられる」

   十三

 昭和十四年九月六日。
 次男の三六ちゃんが、数え六つの可愛い盛りで昇天した。
 ひどい下痢だった。寿命というのだろうか。とうとうだめであった。
 その時、夫人は三女の博子ちゃんを身ごもっていた。
 長女三保子、長男誠八郎、そして、次男の三六ちゃん(三月六日に生れたので、大先生が三
六と命名した)は天国へ。その下には、幼い春代ちゃんがいる。
 子を失った悲しみの中で、身重の夫人は、
 「あの子の身代りが、私のおなかの入っている。だから、男の子にちがいない」と僅かに自
分を慰めていた。
 しかし、生れたのは女の子であった。博子と名づけた。
 三六ちゃんの身代りだと思ったおなかの子が、生れてみたら女の子であったという落胆で、
夫人はノイローゼになった。
 そのゆがんだ執着のためであろう。三女の博子ちゃんは、僅か一年足らずで他界してしまっ
た。
 一つの家で、相次いで、先生夫妻は二つの柩(ひつぎ)を出してしまった。暗い朝夕であっ
た。
 しかし、それからしばらくして、四女の光子ちゃんが生れ、光は再び訪れて来た。
 そして、更にその後、昭和十九年七月、先生一家が熱海伊豆山へ疎開する時、夫人は七度目
の赤児を身ごもっていた。
 この赤児は、人々が空襲のサイレンにおびえて暮さなければならない戦時中にもかかわら
ず、十一月七日に無事に生れた。和子と名づけられた。
 大先生は、
 「二人亡くしたから、ちゃんとあとから二人頂けたじゃないか」と嬉しそうに言った。
 しかし、これはあとの話であって、二人の子を亡くした先生の悲しみは大きかった。
 その悲しみを慰めてくれるものは、ただ信仰だけであった。その先生が、自分に言う。
 (生き変り、死に変り、人間の生命は、永遠に続く。死とは、衣替えをすることだ。大先生
が、それを教えて呉れた。自分は、それを疑わない。どうして疑わ ないでいられるのだろう。
もともとおれは、猜疑心の強い人間だ。人の言うことも、素直に聞けない頑くななところがあ
る。そのおれが、大先生の言うことは、 なんの疑いもなく信じられる。これは、自分にとっ
て、大きなふしぎだ。これまで、そういう人にぶつかったことはなかった。一体これは、どう
いうことだろ う。大先生に会ってから、おれの心というものはなくなったのだ。大先生の心が
そのまま自分の心となってしまったのだ。既に、自分はない。大先生があるだけ だ。こうなっ
たおれが、大先生の一言一句をも疑うことの出来ないのは、当然過ぎるほど当然である。自分
は、ただ、大先生を信ずる。死とは、衣替えだと聞か されたから、そう信ずる。高いところか
ら、水が低いところに流れる。自分は、大先生の言う通りに、自然に、何処へでも流れていこ
う)

   十四

 Nさんは、復員して来て、ある人から、
 「東京の中野に、えらい先生がいる。病気は、なんでも治して呉れる。大変な先生だ」とい
う話を聞いた。
 Nさんは、すこし胸を悪くしていた。
 「君の病気なんか、二三回の治療で全快してしまう」とも言った。
 (本当だろうか。嘘じゃないだろうか。しかし、この人はデタラメを言う人ではない)
 Nさんは、迷った。その話を信用して、すぐ訪ねて行くという気にはなれなかった。
 しかし、自分の胸のことを考えると、じっとしてはいられなかった。
 しまいには、矢も盾もたまらなくなって、Nさんは、昭和十七年十二月、神戸を立った。
 列車の中で、いろいろと想像してみた。どんな先生だろうか、どんな家だろうかと思ってみ
た。
 戦争は、まだ続いている。
 自分は病気のため復員して来たが、いつまで不安な日が続くかわからない。
 混み合う列車の隅でNさんは、「中野の先生」だけを望みとして、じっと目をつぶってい
た。
 東京駅に着いて、それから中央線に乗って、ようやく目指す家を見つけた。
 どんなに立派な構えかと思っていたら、小さな貸家建の家で、中島治療院と書いた白ペンキ
の看板が出ている。
 玄関をあけてみたが、脱いだ下駄一つない。
 (いくら朝の八時だと言って、これは少し静か過ぎる)
 いぶかりながら、Nさんは、案内を乞う。
 家の人が出てきて、
 「どうぞ」と言う。
 上がってみると、やはり座敷には、誰もいない。手もち無沙汰で、じっと座っていた。
 やがて、治療を受ける人が、だんだんとやってきた。
 話に聞いた中島先生という人は、痩せて、背が高く、長い顔の目がいやに鋭い人だなと思っ
た。
 自分が一番早かったのだから、一番先に治療――それはなんでも掌をかざすだけだと聞いた
が、その治療をして呉れると思ったのに、先生は、Nさんには目も呉れず、あとから来た患者
の治療をはじめた。
 この次だなと思っていると、又、あとから来た人を治療する。
 患者は、あとから、あとからやって来る。先生は、Nさんの姿が目に入らないかのように、
その人たちを治療し続けている。
 いいかげん厭になった。
 しかし、この先生が自分の胸を治して呉れるのだと思えば、帰ることも出来ない。じっと
待っていた。
 とうとう、午後の四時頃まで待たされた。
 そして、ようやく自分の番になった。
 「私は、朝の八時から来ているんですが……」とNさんは、先生の前に坐って、恨みに似た
気持ちでいった。
 「君は教育を受ける人だろう。そのために来たのだろう。だから、一番あとにしたのだ」と
先生は、にこりともしないで言った。
 Nさんから、結核の病状を聞くと、先生は、
 「深呼吸をしてみなさい」と言う。
 Nさんは、息を吸って、出した。
 「それだけ呼吸が出来るじゃないか。百パーセントの出し入れが出来なくなっても、八十
パーセントの出し入れが出来れば、心配することはない。肺はたいして悪くない」
 先生は、そう言ってNさんのあちこちを中指で押してみている。
 「心臓、腎臓、肝臓、胃――みんな悪い」
 「いえ、それはたいしたことはないんです」
 Nさんは、抗議するように言い切った。
 「いや。大変悪い。肺よりも悪い。肺の方は、自覚症状があるだけ、まだいい」
 先生の言い方には、権威があった。
 Nさんは、ただ、
 「はあ」とだけ言った。
 二日目。
 「ここに坐っていなさい」と先生がいった。
 見ると、見台が置いてあって、その上に、五六百頁はあると思われる原稿が載せてある。
 「これを読みなさい」と、又先生は命令するように言った。
 一頁、一頁、読んで行った。
 下手な字だなと思った。
 いろいろなことが書いてあった。わかるところもあるが、わからないところも多い。
 とにかく読めと言うから、読んだ。
 全部読み終わるのに、満一日かかった。
 「読みました」と言ったら、
 「読んでもわからないところがあったろう、今、話してやってもいいが、やっぱりよくわか
らないだろう。だから、皆が来て、私にいろいろ質問するから、それを聞きなさい。気をつけ
て聞いていなければならないよ」と、先生はあっさりと行ってしまった。
 Nさんは、ポカンと狐につままれたような顔をしていた。

   十五

 三日目。
 「おまえは、黙っているが、質問することはないのか」と先生は催促するように言う。
 そこで、Nさんは、善と悪との問題について、わからないところを訊いた。
 「悪いことをすれば、霊が雲って、体も病気になる。善いことをしていれば、霊は浄められ
て、病気もない」
 「では、絶対の善というものはあるものですか」
 「ない」
 「それでは、ただ苦しむだけではありませんか」
 「絶対の善には到達できないが、それに近づくことは出来る」
 「その理屈は、わかります」
 「理屈ではだめだ。理屈でわかるものじゃない」
 「では、どうすればいいのですか」
 「一人でも人を救うことだ」
 Nさんは、わかったような、わからないような気持ちになっていた。
 毎日、一人で考えた。
 それから幾日かたって、雨が降った。
 雨の日は暇である。その日も、患者はまだ誰も来ていなかった。
 「今日は暇だから、力を見せてやる。裸になれ」と先生は言った。
 裸になって坐ると、十五分ぐらい浄霊をした。
 「どうだ」
 手を置いて、先生は言う。
 「気持ちがいいです」
 「肩がつまっているのだ。苦しいだろう」
 そう言って、三十分ぐらいたってから、また浄霊をした。こんどは、五分ぐらいであった。
 「どうだ」
 先生は、また同じことを言った。
 Nさんは、立ってみた。立った時の軽やかな感じに驚いた。
 「恐れ入りました」とNさんは、心から丁寧に頭を下げた。
 「力とは、こういうものだ」
 先生はどうだ、わかったろうというような顔をした。
 「なぜ、こう軽くなるのでしょうか」
 「もうしばらくすれば、又重くなる」
 先生は、宣告するように言った」
 (軽くも、重くも、自由に出来るのか)
 Nさんは、この時はじめて、霊能者というものは、こういう人のことなのだなと思った。
 言うまでもなく、このNさんは、その後、信者になった。助手になり、分会長になった。先
生の片腕として、多くの人を救った。大先生が、あれは若いけれど、どうしてたいした者だと
賞めていた。。
 先生は、よく人を見た。見つめて、見つめた。そして、信ずるに足る相手だとわかると、な
にもかも隠さなかった。信じた以上、とことんまで自分というものを見せるのが本当で、何も
隠すものはないはずだ。そう思っていた。
 ある地方の布教をまかせられた若い弟子が、
 「私はその柄ではありませんから」と言うと、先生は、断乎として言った。
 「まかせられる確信があるから、おまえにまかせるのだ。その柄があるか、ないかは、おま
えより、おれが」知っている
 こういう先生であったから、Nさんの全部を見抜いて、その揺るぎない信念を知ると、恥ず
かしいことも何も、あけすけに話した。
 「おれだって、何も最初から弟子つくりに百パーセントの成功を収めたわけじゃない。そう
だね、数えてみると、十一回も失敗している。おかげで、人を疑うことを覚えたよ。それだけ
自分は、卑近な人間さ」

   十六

 「昭和十八年のはじめ頃、これまでの信者がどんどん脱落していったことがあった。そし
て、新しい信者は、すこしも出来ない。
 「先生のやり方がきびしすぎるからだ」とひそひそ話をする弟子もいた。
 治療だけを受けに来る人も、多くてせいぜい一日に十人程度になってしまった。
 厳しいのは、信者に対してだけではなかった。
 夫人も、助手として働いていたのであるが、ことごとに叱られた。へまをすると、いやとい
う程怒鳴りつけられた。
 治療に来る人が、
 「あの二人は、夫婦じゃないね」
 「そうさね、夫婦じゃないらしいね」
 そういう話をするくらい、先生はぴりぴりしていた。
 それでも、やめるわけには行かなかった。夫人は上から白衣を着て、患者の家を廻った。
 患者がすくないのだから、当然、生活は苦しくなった。
 しかし、先生は、自信たっぷりであった。
 「男としてやり甲斐のある仕事を、おれは。見つけたのだ。これを逃したら、もう外には何
もないのだ。おれは心から生き甲斐を感じているのだ。みていろ、今に」
 先生は、胸を張って言った。
 「世間の人が、わかって呉れなくてもいい。どんなに笑ってもいい。真理のために一生を捧
げるのだ。それだけが、おれの生き甲斐だ。踏まれても、蹴られても、おれは本望だ」
 先生は、こうも言っていた。
 こういう時の先生の頬は、情熱で紅潮し目には涙がにじんでいるのであった。
 そして、その年の暮れから、十九年にかけて、信者はぐんぐんふえて来た。一度脱落した者
も、再び帰って来た。治療を受けに来る人も、一年目の倍以上、毎日二十人を越えた。当然、
先生の身辺は忙がしくなった。
 昭和十九年の九月であった。
 東北のある農村へ、先生は教修に出かけることとなった。
 その村の信者で、教修のお膳立てをする人は、せっかく先生が来られるのだから、どうして
も受講者を三十人は集めなければならないと考えて、あっちこっち走りまわった。
 そして、前の日までに、二十九人を集めることができた。
 (あともう一人、それでないと、先生に叱られるかもしれない)
 そう思って、その人は、更に近所近辺を馳けまわった。
 そして、やっと三十人にした。
 教修が済んだその晩、泊まった世話人の家で、先生は、「野風呂に入ってみたい」と言う。
 家人がわざわざ風呂桶を野天に運び出して、沸かした。
 首までとっぷりつかりながら、先生は機嫌よかった。
 (ああ、いい気持ちだなあ)
 遠くで泣いているカッコウの声を聞きながら、先生は満足気であった。
 (これがもし三十人集らずに、二十人や二十五人だったら、あの機嫌のいい顔は見られな
かっただろう)
 その人は、やれやれという思いであった。

   十七

 Hさんは、その数日前からできていた左目の「物もらい」が脹れて来て、困っていた。
 それはますます大きくなるし、痛みもひどく、医者に行って切開してもらうより仕方ないと
思った。
 しかし、Hさんは、ある女子大学の教師をしている。もともと右の目が弱視でめがねも殆ど
用をなさないほどである。だから、左の目だけで暮らしているようなものであった。
 今、医者へ行って切開してもらえば、必ず眼帯をかけられる。それも、こんなに凄い物もら
いなのだから、一週間はおろか、二週間も眼帯をはずすことができないかも知れない。それで
は、そのあいだは盲も同然になってしまう。
 しかも、母親の病気のため、最近一ヵ月も休講してしまった。三学期に教えてしまわなけれ
ばならない部分が、たくさん残っている。だからこれ以上、学校を休むわけには行かない。
 その時、一ヵ月程前に、これもある大学の教授の夫人から、浄化療法という耳新しい治療法
の話を聞いたことを思い出した。
 その時、教授夫人は、
 「オデキなどは、見ているうちに膿が出てしまうのよ」と言っていた。
 全く半身〔信〕半疑の気持であった。迷っていた。
 しかし、前の晩早く膿を出してしまおうと考えて、温湿布をして寝たのが祟って、朝起きて
みると、顔の半分が脹れ上がり、われながら二目と見られない形相。しかも、痛みはいよいよ
大きい。
 Hさんは瞞されたと思って行ってみようと決心して、その先生を紹介してもらうために、教
授夫人を訪ねた。
 昭和十九年の一月のことである。
 ところが、それが一の日で、当時、先生をはじめ天国会の幹部たちは、毎月その日に大先生
のところに集ることになっていた。だから、中野の治療所は休みだとのことであった。
 困った顔をしていると、教授夫人は、
 「あなたが、そんなに困っていらっしゃるなら、私でもできるのよ。このあいだ、卒業した
ばかりの新米だけど、私でよかったらして上げます。そして、先生のところへは、あしたい
らっしゃるといいわ」と言うのである。
 信用は出来ないと思ったが、藁をも掴む気持で、Hさんは、その夫人の前に坐った。

   十八

 Hさんの前で、夫人は、かざした掌を、ひらひらと振っている。おかしなことをすると思っ
て。四十分余り、神妙に坐っていた。
 そして、首がだるくなった頃、
 「今日は、これだけにしましょう」と夫人が言ったので、Hさんは、やれやれと思った。
 帰って、その晩は、言われた通り温湿布も冷湿布もやめて、寝た。
 とかく不眠症に悩まされ勝であった上に、その物もらいのために、なお更眠れなかったHさ
んが、その夜は久しぶりでぐっすりと眠った。朝目が覚めた時は、いつにない気持のよさで
あった。
 そればかりではない。目も頬も、脹れが殆ど引いていて、痛みもない。眼帯をそっと除いて
みると、黄色い膿が大分出ている。
 (きのうのアレがきいたのか、それとも時期が来て自然に膿が出たのだろうか)
 Hさんは、まだ半信半疑だった。しかし、とにかくふしぎであった。
 その翌日紹介状を持って、中野の治療所へ出かけた。
 もう少し立派な家かと思っていたら、あまりぱっとしない、小さな家であった。玄関には、
幾足かの靴や下駄が、ごちゃごちゃと並んでいた。
 Hさんは、おそるおそる暗い階段を上がって行った。
 二階は、六畳二間つづきで、奥の部屋の正面に、先生らしい人が誰かを治療している。建物
の割には、何となく気品のある人だと思いながら、座敷へ入って行くと、その先生らしい人
が、顔を上げて、
 「いらっしゃい」と言った。
 大きな目の奥に光っているその目の鋭さに、Hさんは、ちょっと驚いた。
 この人が中島という先生にちがいないと思った。これは他の誰でもないと、直感した。
 先生は、掌をかざしながら、Hさんに、
 「こんな大きな物もらいをこしらえて、あんたは欲ばりですよ。なにが欲しいのですか」と
笑って言った。大きな笑い声であった。
 面白い先生だと思い、Hさんは、気がらくになった。
 それから、先生は、Hさんの首のつけ根を押さえてみて、
 「あんたは、大分我が強いね」と言うのであった。
 Hさんは、どきりとした。
 というのは、Hさんは、小さい時から強情な子で、兄や姉から「針金」という綽名をつけら
れたほどであった。自分の我の強いことは、よく知っている。しかし、こんなところで、初対
面の先生から、こうもずばりと、それを指摘されようとは思わなかった。
 さっきは、面白そうな先生だと思ったが、こんどは、すこし恐くなった。魂の奥底まで見抜
かれているような気がした。
 「どうして、それがわかりますか」と小さくなって訊いてみた。
 「どうだ、当ったろう。あはははは」
 先生は、いかにも愉快そうに、高らかに笑った。

   十九

 Hさんの目は、すっかり治った。
 「全くふしぎでたまりません」と言ったら、
 「この浄化療法は、誰でもできる。馬鹿でも、チョンでも、できる」と先生は笑っていた。
 「どうしてでしょうか」と理由をきいても、
 「あとになれば、わかる」とだけしか答えなかった。
 「あとのなれば……」
 それは、どういうことだろうか。Hさんは、先生が自分を専門の治療師に仕立てようと考え
ているな、ということを、その場の雰囲気で感じた。
 と同時に、
 (これは用心しなければならない)
 そういう気持ちも湧いた。
 Hさんは、その浄化療法というもので、一人でも病人が助けられるものなら、そのやり方を
習得して、人助けをしたいと考える。しかし、これを専門にする人になるのは、厭であった。
 だから、それからも幾度か先生に会っているが、うやむやな態度でいた。
 ある日、先生は、
 「あんたは、英語の女教師だが、英語なんかは誰にだって教えられるよ。英語を教えてい
たって、人類は救えない。イギリスへ行けば、ロンドンの橋の下の乞食だって、英語をしゃ
べってるよ」と言った。
 Hさんは、心の中で反発するものを感じながら、口には出ない言葉を投げつけていた。
 (それはロンドンの橋の下の乞食だって、英語をしゃべる。しかし、そういう人たちにシェ
イクスピアは読めやしない。それなのに、先生は、あんなことをぬけぬけと言う)
 Hさんは、英語の教授法には、特別の工夫をこらし、一っぱしの自信をもっていた。それだ
けに、「英語なんかは誰にだって教えられる」という言葉には、す くなからず自尊心を傷つけ
られた。しかし、そのものずばりで言ってのける調子に、なんとなく魅力があった。だから、
反発するものを感じながらも、腹は立た なかった。
 いや、英語そのものを教えることよりも、その教育を通して人の心の改造をするということ
を考えていたHさんは、何年かの教師生活ののち、今ようやくその 無力さを感じはじめて来て
いた。それだけに、先生の言葉は、たしかに痛かった。自信が、足もとから崩れるような不安
を感じた。

   二十

 昭和十九年の夏、日本の戦勢は急速に衰えて行った。
 心ある人々は、無気味な空襲の下で、祖国の命運も既に時間の問題となっていることを感じ
ていた。
 この年の七月末、先生一家は、熱海市伊豆山西足川に家を見つけて、そこへ疎開した。
 五月に箱根の強羅に移られた大先生も、ついで九月、熱海東山へ移転された。
 しかし、先生が熱海へ疎開したといっても、家の中に落ちついていることなど到底許されな
かった。妻子を一応安全地帯へ移したというだけで、先生は東奔西走、自分の家を顧みるゆと
りもなかった。
 東北地方から帰って来ても、熱海の家へは寄らないで、そのまま関西地方へ――というよう
なことも珍らしくなかった。
 そして、その関西地方からの帰りも、やはり家へは寄らずに、そのまま東京へ。こういう目
まぐるしい生活であった。
 こんなこともあった。何処かの旅からの帰り、先生は、東山荘の大先生を訪ねると、大先生
はにこにこして、
 「おまえの子供が生れたよ」と言う。
 そこで先生は、初めて赤児が生まれたということを知った。しかも、その時は、ひどい難産
であった。
 まだ家へも寄っていない先生は、ちょっとテレたような表情をして、
 「なにしろ、長い旅だったものですから」と言った。
 この家は、今はある会社の寮になっているが、先生が借りた時は、小さな家だった。
 先生は、八畳と六畳の事務所を建て増しした。それから更に、二階家を建てた。これを神光
閣と名づけた。
 これは、戦争も終ってからのことであるが、その神光閣の一室――二十畳の部屋には絨壇
〔緞〕(じゅうたん)が敷いてある。それを目の不自由な助手の一人が、毎朝掃除をすること
になっていたが、小さいゴミなどは見えない。
 だから、他の人々も、同情して手伝ってくれる。同情してくれるのは嬉しいが、やっぱりそ
の助手にとっては、つらい。
 先生は、そういう場面を見て、
 「もういいよ。もうおやめ」と助手に言う。
 そして、その助手に、あとでこう言った。
 「おまえが第一動作をやるから、みんながやり初めるんだよ。何事も、第一動作をやること
が尊い」
 先生の声はやさしかった。
 助手の不自由な目に、キラリと光るものがあった。

   二十一

 十九年の秋であった。先生は東北地方へ出かけた。国民服に、ゲートルを巻いて……。
 空襲の警報で、列車は幾度か停まり、乗客は鎧戸を下した窓の下で、生きた心地もしない時
間を過すのであった。
 しかし、先生は、心配しなかった。
 (おれは、神様の兵隊をこしらえているのだから、大丈夫、ご守護はある)
 教習中、何度も防空壕へ飛び込まなければならないこともあった。
 そういう時、ある人が、
 「ご守護があるのだから、防空壕へ入らなくてもいいでしょう」と言った。
 先生は、怒った。
 「ご守護の上に、あぐらをかいていてはいけないのだ。人事を尽くして天命を待ってばかり
いるのは間違っている。我を出して、人力だけで押し切ろうとするのもいけないが、何もしな
いで、ただ貰い物を待っているのはいけない」

   二十二

 昭和二十年の三月、空襲はいよいよ激しくなってきた。毎晩、広大な地域が焼け失せた。
 女子大学の講師から教授に推選するという先輩のすすめを辞退して、Hさんは、熱海の天国
会本部の奉仕生活に入った。
 それより二ヵ月程前に、Hさんは、その決心を先生に披瀝した。ところが、先生は、「よく
決心がついたね。それでよろしい」とは言わなかった。
 さぞ賞めてくれるだろうと思い、先生の悦ぶ顔を想像して訪ねて行ったのであったが、案に
相違して、先生は冷淡であった。
 (あれほど私に勧めた先生が、これはどうしたということか)
 Hさんは、黙ってこっちの顔を見つめている先生の顔を、戸惑いした気持で見つめていた。
 しばらくして、先生は言った。
 「無理をして助手にならなくてもいいのですよ。あんたの心の奥に、大学教授という肩書に
対する執着が少しでもあったら、今のうちにその方へ行きなさい。なにも私に義理立てをし
て、無理をする必要はない」
 突っ放されたような気がして、張りつめていた心も急にゆるんでしまった。
 しかし、がっかりしながらも、先生の本当の心持を読み取ろうと、胸の騒ぎを出来るだけ落
ちつかせて、次の言葉を待った。
 先生は、そのHさんを憐れむように見つめて、
 「神様はね、どうしてもと縋って来る者には、許しを与えて、お使いになる。恩に着せて、
してあげますという人には用はないのだよ。もう一度、よく考え直すことだね」と言うので
あった。
 泣き出したい気持で、下をうつむいていると、先生は、最後のとどめをさすように、
 「やめるなら、今のうちだよ」と言った。
 Hさんは、家へ帰って、じっくりと考えてみた。
 (私の心の隅には、まだ多分に虚栄心が残っている。名誉ある地位を捨てて、人類救済のた
めに自分を犠牲にするのだというような昂ぶった心が残っている。 なんという勿体ぶった、い
やらしい心であろう。そうした自分を、立派だと思い込んで眺めている第二の自分があるの
だ。なんという自己満足、なんというセン チメンタリズム!)
 その翌日、Hさんは、また熱海へ行った。
 そして、頭を下げて、ただこれだけを言った。
 「どうかこの私に、ご用をお許し下さい。お願いします」
 その顔には、ひたむきな、この道一すじの希魄と、昨日までのくだらない執着を恥じる純情
さが現われていた。
 こうして、肉親の反対を越えて、Hさんは先生の助手となった。
 先生という人は、助手一人を選ぶにも、このくらい用意周到であった。

   二十三

 Hさんは、先生の助手になった。
 ある朝、先生は、正面の床の前に坐り、下手の方に、Hさんが坐っていた。
 治療を受ける人は、まだ一人も来ていなかった。
 女中が、三種類の新聞を持って来て、座敷の入り口のところに置いて行った。
 「その新聞、どれでもいいから、一つ持って来なさい」と先生が言った。
 一つと言うが、どの新聞が一番読みたいのかわからなかったので、Hさんは、三種類の新聞
を全部持って行って、先生の前に置いた。そして、気をきかせたつもりで、引き下がって来
た。
 二三分黙っていた先生は、
 「あんたは、素直ということを知っているかね」と改まった口調で言う。
 どう答えていいかわからず、Hさんは先生の顔を見つめた。
 すると、先生は、
 「私は今、なんと言ったか覚えているかね。新聞を一つと言ったでしょう。あんたは気をき
かせたつもりで、三つ全部持って来たが、それはあんたが素直でな い証拠ですよ。本当の素直
というのは、何もむずかしいことではない。それは、言われた通りにするということなんだ
よ。私は、あんたより深く物事を考えてい る。その私が一つと言ったのは、もうすぐ治療を受
ける人達がここへ入って来るが、その人たちも待っている間は新聞を読みたいだろう。そう考
えたから、一つ と言ったのだ。その人達のために、二部は残して置こうと思うからなんです
よ。わかったかね」
 Hさんは、びっくりした。
 自分は学校教育に十九年も携わって来た。そのあいだに偉い精神的指導者を求めて、いろい
ろな有名人にも会いに行った。しかし、こんな教育をする人には、これまで会ったことがな
い。Hさんは、思わず頭を下げた。
 やはり、その頃のことであった。
 玄関に、来訪を告げる声がしたので、Hさんは、階下に降りて行った。
 来意を聞くと、用事で先生にお目にかかりたい、と言う。
 Hさんが、それを先生に伝えると、先生は立って玄関に出て行った。
 しばらくして、二階に上って来た先生は、
 「あんたは、さっき下に降りた時、玄関の靴や下駄がどんなふうになっていたか、それに気
がついたかね」とHさんに言った。
 Hさんは、取次ぎのことだけ考えていて、それには気がつかなかったので、黙っていた。
 すると、先生は、こう言った。
 「履物が一杯で、しかも乱雑になっていたから、今の客は立つところもないくらいだった。
あんたは、偉い理想や、高遠な思想の話はするけれど、こういう小 さい誠の実践になると、ま
るでゼロだね。人間は、心くばり、気くばりのできる人にならなければだめだ。そうでなけれ
ば、昼の世界の建設には役に立たない よ」
 Hさんは、穴に入りたいような恥しさで、赤い顔をしていた。

   二十四

 先生は、半分冗談に、婦人に言う。
 「おれは、毎日病人ばかりを相手にしている。せめてうまいものぐらい食べる楽しみがなく
てはな」
 事実、先生は、よく食べた。
 昭和十六年の春、先生は弟子達を集めて、「天狗会」というのをつくった。
 「天狗会」の会費は、毎月五円で、それを積み立てておいては、みんなでうまいものを食べ
る。そういう時の先生は、いかにも嬉しそうであった。
 しかし、その年の十二月八日には、太平洋戦争がはじまり、食糧もだんだん乏しくなって
行った。
 それでも、先生は、あきらめなかった。
 家の子郎党を引き連れて、あっちこっちと、うまいもの屋を探しては、食べに出かけた。
 特に、ソバが好きで、モリを五つぐらい食べる事は平気だった。東北へ行った時、椀子ソバ
というのを、五十杯も食べた。いくら一口で食べられるソバでも、五十杯は驚いたねと、その
席にいた弟子たちは、目を見張った。
 けれども、先生は、他の者がどうであろうと、自分だけうまいものを食べるという人ではな
かった。性格的にそういうことの出来る人ではなかった。
 食糧難の時代、先生は旅先で、当時ではもうめったに口に入れられないご馳走を出された。
一緒に行った弟子は、咽喉を鳴らして、遠慮なくそれを食べてしまった。
 あとで、先生は、その男をたしなめた。
 「あの家の人のことを考えなさい。いい気になって、みんな食べてしまうやつがあるもの
か。家の人のために、残しておいてやるものだ」
 そういう優しいところのある人であった。
 やはり、その頃、浄霊のお礼に信者から白米を一升五合貰ったことがあった。
 先生は、それを見て、
 「この白い米は、春代にやってくれよ」と夫人に言った。
 先生は、目の中へ入れても痛くないというように春代ちゃんを可愛がっていた。上の三六
ちゃんと、下の博子ちゃんが亡くなったため、春代ちゃんが一人ポツンと小さく、あどけない
存在であったからである。
 このことがあってから、兄や姉から、「白米の春代ちゃん」とからかわれた。先生が幼い妹
を可愛がるのが、やはり嫉ましかったのであろう。
 食べることが大好きな先生ではあったが、家の台所は、決して贅沢ではなかった。
 昭和十八年頃、ある弟子の一人は、ときどき台所の戸棚を覗いてみるが、なんにも、はいっ
ていないことが多かったと言っている。
 終戦の前年あたりは、いよいよひどかった。
 雑炊は、水分が九十パーセントで、しかも大根、人参などが殆どといってよいくらいで、肝
腎の米は、ホンの一握りという食事であった。それが、毎日だった。
 しかし、先生は、それで満足していた。
 先生は、ある時、弟子たちに言った。
 「私は、食事はどんなものでも頂ける。決して、とやかく不満を感ずることはない。ただ、
同じ材料を使うならば、うまく食べられるように、料理の仕方について注意することはある。

   二十五

 先生は、どういうものか、軍人には特に峻烈であった。
 終戦の直後、だからもう日本の軍人はなくなっていたのであるが、ある日、元海軍のKさん
が、先生を訪ねて行った。
 Kさんは、潜水艦に乗っていたが、胸を悪くして、熱海の旅館(まだ海軍関係の病棟になっ
ていた)で療養していた。
 たまたま、旅館の近くの豆腐屋で、先生のことを聞き、会ってみたいと思った。
 そこで電話すると、
 電話口に出た人は、大きな声で、
 「軍人か。軍人なら、度性骨がなくちゃならんぞ」と言った。
 Kさんは、びっくりした。
 訪ねて行くと、先生が出てきた。
 浴衣がけで、兵士帯をグルグル巻きにして、目をむいて立っている。
 そして、Kさんが、来意を告げると、たった一言、
 「あんたかい、軍人というのは」

 やはりその頃、復員した元軍人のYさんが、リュックをかついで、先生の玄関に立った。教
えを乞おうというのである。
 出て来た先生は、つっけんどんに、
 「君は誰だ」と怒ったように言った。
 夫人がそばから、
 「Yさんですよ。このあいだもいらしたじゃありませんか」と取りなすように言った。
 すると、先生は、ニベもなく、吐き捨てるように言った。
 「おれは知らん」

 戦場で目をやられて、全く視力が効かなくなったSさんは、叔母に手を引かれて、先生の家
にやって来た。元陸軍の大尉である。
 「どうしたのだ」
 「砲弾の破片でやられました」
 「見えないのか」
 「全然見えません」
 「しかし、君は、履物の脱ぎ方が悪い。目が見えないからといって、自分の履物ぐらい、も
うすこしきちんと揃えて脱げるはずだ」

 これは戦時中であるが、在郷軍人会の分会長をしている人が、先生を訪ねた。
 先生は、
 「君の目はきつ過ぎる。もっと目をやわらかくしなさい」と言った。
 いつも先生は、軍人の目には角があると言っていた。軍人だったものは、匂いを嗅いだだけ
でわかるらしかった。
 学校の教師にも手きびしかった。
 ある時、小学校の校長だったが、今は退職しているNさんが、先生を訪ねた。
 「あんたは、教員を何年ぐらいやっていたかね」と先生が訊く。
 「はい、二十五年やりました」とNさんは答えた。
 すると、先生は、目玉をむいて、
 「その罪は、戦犯以上だぞ」と言った。

   二十六

 先生は、「言いわけ」を嫌った。
 その女性は、末っ子だったので、特別に可愛がられて育った。いくらでも甘えることが出来
たし、大抵のわがままが通った。賞められても叱られた記憶がないので、知らぬ間に、自分は
いい子だと思い込む癖がついてしまった。
 従って、おとなになってからも、人から注意されたり、批評されたりすることは、我慢のな
らないことであった。
 本部に奉仕に上ってからも、へまをして、先生から注意を受けると、そのたびに必ず言いわ
けが出る。
 「あんたは、すべきことをしなかったのだよ」と言われると、
 「ああ、それは今しようと思っていたのです」と言いわけが口を出てしまう。
 「実は、それをしようとおもってはいたのですが、これこれの理由で出来なかったのです」
という言いわけも出て来る。
 そういう時、先生は、いつも強く言った。
 「思うだけでは、何もならない。やらなければ、思わないのも同じだ。何故、黙って、済み
ませんと言えないのだ。ただ済みませんでしたではすまされないのか」
 この女性が、ある人から先生に告げ口されたことがあった。そんなことはしなかったのであ
るが、したように告げ口されて、そのことで先生から注意を受けた。
 彼女はむきになって、言いわけした。
 「それは、そうではありません」とも言い、
 「私は、そんなことをした覚えはありません」とも言った。
 すると、先生は、静かな声で、
 「あんた、神様を信じるかね」と訊いた。
 「はい、信じます」
 「本当に信じているのなら、たとえ告げ口されたことが本当でなくても、言いわけをしない
でいられるはずではないかね。神様が、ご存知なのだからいいでは ないか。言いわけをしない
で、黙って時を待つことの出来る人間になれてこそ、本当に神様がわかっている人と言えるん
だよ」

   二十七

 戦時中のことである。
 税務署から、先生へ、二百万円の課税をするという通知が来た。
 さすがに、先生はあわてた。
 先生は、金が入れば使ってしまうから、手持ちの金と言ってもたいしたことはない。払えと
言ったって、到底払えるものではない。
 「ない袖は振れやしないよ」
 先生は、ほとほと困った。
 しかし、抗議しようにも、肝腎の帳簿がない。もともと、そんなものは用意してなかったの
である。
 税務署から査察に来た。
 先生は慄え上っってしまった。
 (どうしたものかな)
 先生は、算盤が苦が手である。その頭もない。
 そこで、弟子たちが手分けして、いそいで帳簿をつくろうということになった。
 と言っても、弟子たちに、その知識はない。税に明るい人を呼んで来て、徹夜でやってしま
おうということに、衆議一決した。
 その時、Aさんという弟子のうちでも目をかけられている人が、
 「こうなったら、先生に奉仕しよう」とみんなに言った。
 「よし。裸になろう。着るものは全部出してしまおう」と誰かが賛成する。
 「しかし、いくら裸一貫といっても、冬だけは何か着なくてはいられないから、冬服一着だ
けは残すことにしよう。あとは全部差し出すのだ」とAさんが言う。
 「そうしよう」
 「そうしよう」
 あとで、先生は、この話を聞いて、感激した。涙ぐんで、
 「その気持ちが尊いのだよ」と言った。
 こう言うと、先生はいかにも、入った金は右から左へ見境いなく使ってしまう人のようであ
るが、、俗にいう「公私の別」は、実に厳格に守った人であった。
 台所にある味噌、醤油の類まで、心ない使い方はさせなかった。
 いろいろの人から来た手紙――その便箋を綴じておいて、メモに使った。夜、寝る時も、そ
れを枕もとにおいといて、思いついたこと、あるいは書こうと思う手紙の返事の要領などを、
その裏に書きつけておくのであった。時には、原稿も便箋の裏に書いた。
 ある年の元日、参拝のあとで、一人の弟子が新調して貰った和服を着換えずに、そのままの
姿で、部屋の掃除をしていた。
 そこへ、先生が通りかかった。
 そして、それを見て、きつく弟子をたしなめた。
 「掃除をする時には、ちゃんとそのような着物に着替えてしなさい。物を大事にしないと、
神様からもう何も与えられなくなる。物を大事にしなさい。その感謝を忘れないでいなさい」
 幹部のある人が、二等車、今の一等車に乗って、先生から怒られた。
 「大先生でも三等だ。君は、四等か五等の車に乗りたまえ」
 しかし、使わなければならない時は、先生は惜し気なく金を使う。なければ祈ってつくる。
 ある時はあるが、ない時はない。
 ふところ手をして歩いていても、先生の財布に金はない。あっても、金銭の出し入れは面倒
臭い。
 だから、何処へ行っても、支払いはみな夫人がする。本人は、大名気分であった。
 大名気分ではあったが、勘どころは、ちゃんと見ていた。
 ある時、助手の一人が、新しい紙に、事務上の報告を書いて、先生に差し出した。
 先生は、それを見て言った。
 「私のところへ持ってくるメモのようなものは、使いふるしの紙でよろしい。物というもの
は、すべて神様から頂いたものである。一枚の紙といえども、大切に使わなければならない。
物に対する感謝の心がなければ、必ず不自由をして困るようになる」

   二十八

 何事でも、先生は、想念ということに重点を置いて、その事を見た。
 昭和二十年の春頃であった。
 K子さんは、熱海に奉仕に上っていたが、先生の許しを得て、東京の姉の家へ一晩泊りで帰
らせてもらうことになった。
 午前中、東山の出張所の用事をして、そこからすぐ駅へ行けば、正午頃の列車に間に合うと
いう見積りを立てて、その朝、先生の家を出た。
 そして、出張所のこまごまとした用事を片づけていた。
 浄霊の手伝いをしている最中に、K子さんは、忘れ物をしてきた事に気がついた。
 と言って、もう取りに帰る暇はない。
 いつも、忘れ物はないかよく注意しなさいと先生から言われているK子さんは先生に知られ
てはまずいと思って、何気ないふりをして階下に降りて行った。
 そして、こっそり先生の家へ電話して、奉仕の人に出張所まで持って来て貰うように頼ん
だ。
 その時、相手の人は、
 「ちょうど使いに出るついでがあるから、持って行って上げるよ。なに、ちょっと寄り道す
ればいいのだから」と言ってくれた。
 K子さんは,ほっとした。これでいいと思った。
 それからまた、そっと屋敷へ戻って、何食わぬ顔をしていた。
 しばらくして、玄関のあく音がした。
 K子さんは、また素知らぬ顔で降りて行って、忘れた品物を受取り、黙って二階へ上がって
行った。
 そのK子さんを見ていて、臭いと睨んだのか、
 「今、誰が来たのか、何しに来たのか」と先生は訊問するように言った。
 誤魔化してもだめだと思って、K子さんは、、事の顛末を話した。
 そして、弁解するような気持ちで、
 「電話をかけましたら、ちょうどお使いに出るついでがあるBさんが電話口に出ましたの
で、Bさんに持って来て貰いました」と、ちょうど使いに出るついでというところに力を入れ
て言った。
 一二分黙っていた先生は、
 「忘れものをするのは、仕方がない。持って来て貰うのもいい。だが、なぜ、使いに出るつ
いでがあったからをつけ加えなければならなかったか、それが、あんたにわかっているかね」
と言う。
 なるほど、寄り道と言えば簡単に思われるが、先生の家から出張所までは、本通りから大分
入り込んでいる上に、坂道を上がらなければならず、本当は、ちょっと面倒なことであった。
 (それを、ついでと言ったのがいけなかったのだな)
 そう思って、K子さんは、小さくなっていた。
 先生は重ねて言う。
 「そういうことは、本当に済まなかったという謙虚な心でなしに、少しでも自分をよく思わ
れようとする想念から出る。それをつけ加えなかったら、ずっと謙 虚で美しい。事は小さいよ
うだが、あんたのその想念は、感心出来ない。自己を価値づけようとする想念、そのいやな想
念を、私はあんたから徹底的に取り除い て上げたいのだ。わかったかね」
 「はい。よくわかりました。私はまだまだだめでした」とK子さんは、頭を下げた。
 そのK子さんに、先生は、やさしい声になって言った。
 「水晶の身魂になるまで、磨き磨きして、そうして浄まって行くのだよ。絶えず磨かなけれ
ばね」

  二十九

 「人は信じられない」
 先生が信頼する弟子の一人に、こう言ったことがある。
 弟子は意外だという表情をした。
 それを見て、先生は言った。
 「驚くことはない。一年ぐらいつきあってもだめだ。三年ぐらいつきあわなければわからな
い。それも、つきあった範囲においてだけだ」
 「つきあった範囲においてだけとは、どういうことですか」
 「例えば、女房だ。ある男が、女房と二十年暮らして来たとする。その男が女房を理解する
限度は、その二十年の女房としての人物だけだ。それ以外はわからない」
 事実、先生は、たやすくは人を信じなかった。
 ある時、ある分会長が、平素よく働く助手を連れて、先生のところへ行った。
 「あれは、実によく働きます。物になると考えています」と、その分会長は、助手が引き下
がったあとで、先生に言った。
 すると、先生は、きっぱりと、
 「あれは、だめだ」と言った。
 分会長は、そんなはずはないと思って、先生の言葉を信用する気になれなかった。
 ところが、それからしばらくして、その助手は信仰を捨ててしまった。
 「全く、先生の目の鋭いのには驚いた」と分会長は、述懐している。
 先生は、人を見抜く時間は早かった。それが、「三年ぐらいはつきあわなければ……」と言
うのである。慎重な先生であった。
 この慎重さがわからないで、「なんでも人の言うことはすぐきいてしまう」という批評をす
る人もあった。
 「たしかに、すぐ人を信じてしまうというところはあった。しかし、何しろあの大きな目
だ。あの目で一睨みすれば、大抵の人の腹の中は見えてしまうだろう。だから、信じ易いとい
うよりも、早く十分に見て、そして早く十分に信じたと言い直した方がいい」

   三十

 戦後二十一年から二十二年にかけて、教勢は一度に伸びて行った。天国会だけでも、毎月千
人から二千人の入信者があった。入信競争時代と言っていいだろう。
 地方分会は、あちらにみ、こちらにも、続いて出来た。先生ひとりではどうにもならないの
で、幹部が代理教修に飛びまわった。
 分会の信者も、どんどんふえて、分会長が新しい信者をつれて本部へ来ることも多くなる。
 分会長からその信者を紹介されると、先生は、分会長のいない時に、そっと信者に、
 「あんたの先生を立てて下さいね。頼みますよ」と言うのであった。
 布教上の失策で、ある分会長は、先生のところへ謝罪に行った。
 その失策は、その人の責任ではなかったが、しかし、失策は失策である。
 その分会長は、腹を切る覚悟をしていた。
 その詳しい報告を聞くと、先生は、
 「ウーン」と唸った。
 五分ぐらい、物も言わなかった。
 分会長は、どういうことになるのだろうと、亀の子のように首を縮めて、裁断を待ってい
た。
 先生は、やがて静かに、
 「よし。その罪は、おまえの罪じゃない」
 大先生の面会の日には、分会長たちが集って、いろいろと信仰上の質問をする。
 だから、その前日には、分会長たちはみんなそれぞれの質問事項をもって、互いに相談す
る。そして、その結果を、先生に報告する。
 そういう時、先生はいつも、分会長たちの質問事項の中に、必ず一つか二つ、自分の質問を
加えておくのであった。
 それは、先生自身では十分知っている事柄であるが、それを大先生の口から分会長たちに説
き聞かせてもらうことによって、一層強く確かに彼らを教育することが出来るという考えから
であった。
 先生は、なくなる八カ月前に、分会長たちを戒めて言った。
 「私どもは、二十年に近い歴史をもっているとしても、弾圧のために、治療面に重点をおい
て来たため、宗教家的な活動を始めてから、まだ満二年に達しな い。従って、宗教家として
は、赤ん坊同様のものだ。けれども、観音力をお取次ぎすることによって、この素晴らしい発
展を来たした。私どもは、沢山の信者か ら尊敬されている。しかし、それを自分の力だと思っ
たら大変なことだ。ただ、一般信者の人々より一足先きに、この道に入り、それだけ道順をく
わしく知って いるというだけに過ぎない。言わば、案内人なのだ。ただ道順を知っているとい
うだけでは、別に偉くはない。目下修行中の身だということを決して忘れてはい けない」

   三十一

 ケチケチ、パッパの経済学――
 先生は、よくこう言った。
 神様のためには、パッパと使え。
 そのかわり、自分のためにはケチになれ。
 先生は、この中島経済学を、生涯守った。
 信者からの献金は、すべてみな神様のものだ。だから、神様の仕事のためにだけ使わなくて
はならない。
 こういう信念から、先生は、いつも、
 「私事のために、いたずらに使ってはいけない。親が呉れと言っても、そういう金はやる必
要はない」と言っていた。
 いばるな。
 おこるな。
 はやまるな――
 先生は、又、よくこう言った。
 「いばってはいけない。いばればいばるほど、人は逃げて行ってしまう。おこればおこるほ
ど、神は離れ去ってしまう。そして、はやまればはやまるほど、自分の中の自分がわからなく
なってしまう」
 弟子たちは、これを、先生の「るな三訓」と言っていた。
 神様に休みはない――
 先生は、又、よくこう言った。
 先生があまりつめて仕事をするので、弟子の一人が、
 「すこしお休みになったらどうですか」と言った。
 すると、先生は、
 「神様に休みというものはない」と答えて、又仕事を続けた。
 人間は死ぬまで修業――
 先生は、又、よくこう言った。
 「人間というものは、生き変り、死に変り、永遠の生命をもっているものだと、私は大先生
から教えられた。このことが本当にわかったら、大変なことだ。今 日修業したことが、皆身に
ついて、霊界に行けばそれだけ自分が伸びている。更に、次の世界までその徳を持って行っ
て、その上に修業をつむ。そうして更に次 の世界に行けば、いよいよ自分というものは伸びて
いる。私はね、ときどき、一万年後の自分を考えてみることがあるのだが、楽しみなものだ
よ」
 おれに生命を呉れるか――
 先生は、入信したいという相手に、よくこう言った。
 命を惜しむ者を、先生は、自分の弟子にしようとはしなかった。神よりもおのれを愛するよ
うな者に、どうして人間の救済が出来ようか。
 「霊か肉か」――先生は、それを相手にも厳しく追求させた。そして、肉と答えるような者
を信者にしようとはしなかった。
 「おまえの五六十年の命をよこせ。そうすれば、私はおまえに永遠の生命をやる」と先生は
言っていた。
 「誰の紙幣だ。神様のだ。きちんと耳を揃えておけ」――先生は、そう言う。
 後年、先生の家の台所をまかせられていたある娘が、どうしても五十銭の収支が合わないの
で、自分の財布から五十銭銅貨を出して穴埋めしておいたことがあった。
 あとで、このことがわかって、
 「私が立て替えて置きました」と娘が言うと、先生は怒った。
 「きみは、自分の金、自分の金というが、自分の金だって神様のものだ。不注意で収支計算
が合わず、金が足りなくなったからといって、自分の財布から出して置けば同じだという心が
よくない。収支を合わせれば、それで事が済むと考えている。その心がいけないのだ」
 たしかに、先生は几帳面だった。
 しかし、金の勘定は、決して上手ではなかった。いや、むしろ下手だったと言ったほうがい
い。自分は下手だったけれど、だからと言って、相手のルーズさを容赦するような人ではな
かった。
 だから、このあと、やはり先生の台所で働いていた別の娘が、あてがわれる金だけでは賄い
切れなくて、どうにも泣きたいようなことが幾度かあったが、彼女はその時のことをこう述懐
している。
 「足りないからといって、自分の財布からは出せず、といって足りませんなどと先生に言え
ば、神様の金をなんと思って使っているのかと叱られるし、いっそ古新聞紙で袋貼りでもし
て、幾らかでも貯金しておこうかと、真面目に考えたこともありました」
 ルーズは絶対に許さない。
 ちゃんときまりをつけなければならない。
 これが先生の金に対する態度であった。
 だから、自分は衣食のことには無頓着で、いくら金が入ったのか出たのか知ろうともしない
くせに、相手が金について無神経なのは見ていられなかった。
 殊に、宗教家となってからは、金は神様のものという考えから、一銭でもおろそかに扱わせ
なかった。
 先生は、ある時の幹部会で言った。
 「教えを説く者は、常に心が清浄でなければならない。ところが、金銭の収支や日常のやり
くりに頭を使っていると、いつのまにか心が濁ってくる。かと言っ て、そういうことも疎かに
はできないから、私は信頼できる家内と、誠実で有能な会計事務奉仕者を育てて、一切をまか
せきっている」
 先生は、この信念をもって終始した。
 ――炭のつぎ方一つにも。
 総ての物は、神から賜ったものである。それを、自分のもの、自分の力で得たものと思うと
ころに、間違いがある。物の本当の値打ちを知り、むだ使いをしないこと。寒い日も、暖かい
日も、同じように炭をつぐのは愚である。
 こういう小さなことにも、十分に気を配ること。それができれば、本当の信仰心ができたと
言える。
 ――順序ということについて。
 ある時、先生は、弟子たちに厳しく言った。
 「夜寝る時に、着ていたものを枕もとにおく人があるが、ズボンとか靴下は、下に着けるも
のだ。それを枕もとにおくような者は、立派な人間になれない」
 又、ある時、旅行先で、先生が顔を洗おうと思ったら、洗面器が便所の手洗い(と言って
も、洋式になっているから実に清潔なのであるが)の側においてある。
 先生は、わざわざ奉仕者を呼んで、大層きびしく注意した。
 「一体、私を誰だと思っているのか。信仰に入ってから数十年というもの、魂のくもりを少
しでもすくなくしようと、努力に努力を重ねて来ている。その私に、この洗面器で顔を洗えと
いうのか。魂が曇るから、すぐ取り換えなさい」

   三十二

 まだ宗教になっていなかった頃であったが、先生は、善言讃詞を印刷して、弟子たちに一枚
ずつ与えて置いた。
 戦争が終って、まだ幾年もたっていない。人々の胸には、大きな不安があった。絶望の哲学
が、わがもの顔に、人々の心に食い入って来た。死を求める人人がふえた。
 景勝地熱海の錦ガ浦は、いつのまにか自殺の名所と呼ばれるようになっていた。多くの若
者、壮年、いや老人までが、毎日のように断崖から身を躍らせて、死の国へと旅立って行っ
た。男も死に、女も死んだ。
 先生は、このことをどんなに嘆いたか知れない。新聞の下の段の方に、「錦ガ浦で投身自
殺」と小さく出ている記事を読んで、じっと考え込んでしまう時もあった。涙ぐんでいる時も
あった。
 もともと先生は涙もろい人であった。映画を見て涙をにじませるなどということは、毎度の
ことであった。その先生にとって、人間が自分で自分の命を断つということ、断たなければな
らなかったということは、とてもたまらないことであった。
 しかも、それらの人間の霊が、行き着くところまで行けずに、あの世とこの世との境をさま
よっている。そして、先生の住む伊豆山西足川から錦ガ浦は、指呼の間にある。その暗い水の
上を、死者の霊が、啜り泣いている。
 先生は、どうしても自分の手で供養してやらなければならないと考えた。
 ある日、先生は、数人の弟子を連れ、一隻の小船に乗り込んだ。その断崖の下では、白い波
が岩を噛んでいるような時でも、沖へ出ると、熱海の海は静かである。初島が、その静かな海
の上に、眠ったように浮んでいる。
 先生と弟子たちとの供養が始り、善言讃詞を奉唱することになった。
 合掌して、先生は、朗々と唱え始める。
 しかし、弟子は、ただ口をもぐもぐさせるばかりである。その弟子たちのうち、一人だけは
暗誦していたが、他の者は、まだ善言讃詞を覚えていないのであった。仕方なく、口をぱくぱ
くさせていた。
 あとで、先生は大喝一声、弟子たちを叱りつけた。
 「おれは、伊達や酔狂で、おまえたちに善言讃詞を渡してあるのじゃないぞ。おれが、せっ
かく印刷して渡してやったのに、おまえたちは、それを覚えて来ない。一体、善言讃詞をどう
思っているのだ」
 弟子たちは、一度に頭を下げて、舟底に平つくばってしまった。
 亡くなる二十日程前に、先生に会いにいったある信者が、こう言っている。
 「お訪ねすると、二階から下りて来られた先生は、玄関に立って、こう言われました。君
は、私が本当に叱るところまで行かんなあ。そこで私が、どうしてで すかと訊くと、先生は、
にこりともしないで、言われました。君は、叱られると逃げてしまうからなあ。私が入信して
四年目のことでした」
 「叱りは、光なりだ」
 先生は、よくこれを言った。
 役に立つと思うから叱るのだ。叱ってもだめだと思えば叱りはしない。
 これが、先生の本心であった。
 実に多くの弟子、信者が、先生に叱られている。叱り飛ばされて、頭の上に雷が落ちたよう
に慄え上がった者もいる。やんわりと柔らかく叱られて、却って恐くなった者もいる。
 しかし、叱られた人は、あとで、こう言っている。
 「やっぱり違っていた。叱り方に重味があった」
 ある人が、失敗をした。
 先生は、非常に怒って、
 「そんなことで、教師(宗教上の)がつとまるか。資格を返せ」と言った。
 しかし、すぐそのあと、笑って、
 「まあ、一回だけはこらえる」と言った。
 叱られる。
 言いわけをする。
 また、叱られる。
 また、言いわけをする。
 またまた、叱られる。
 そこで、黙ってしまう。
 すると、先生は、静かに言う。
 「わかったかね」
 教師になったばかりの青年があった。
 布教に歩いて、成果の挙がらなかった時などは、先生から叱られると思ってびくびくしてい
た。先輩たちが、その誠意と努力の足りないことを指摘されているのを見て、自分もきっと叱
られるにちがいないと、小さくなっていた。
 ところが、先生は、その青年を叱らなかった。
 (おまえは、教師になりたてのほやほやだからな)
 そう考えているにちがいない先生の腹の中が、その青年にもわかった。
 青年は、却って恥かしくなった。
 「自分も先生から、一対一で叱られるような人間に早くなりたいと思いました」とあとで述
懐している。
 先生は、叱る値打ちのある人間でなければ、叱りはしなかった。
 「蹴飛ばされても、小便をひっかけられても逃げ出さないような人間」――先生は、ふだ
ん、よくこれを言っていたが、そういう人間でなければ叱りはしなかった。言葉を換えて言え
ば、信用できる人間だと思っているから叱るのであった。
 「他人が叱られているのだからと思って、よそごとのような顔をしていると、それはおまえ
のことだぞと、よく叱られたものです」とある弟子は言った。
 叱られたあと、なんだか誇りにも似たものを感じたと言う弟子もある。
 「先生に叱られたあと、そのことを同僚に話すと、同僚はみんな明るい雰囲気でそれを聞い
ている。叱られたことは叱られたことなのだが、おれは先生に叱ら れたんだぞ、先生は叱り甲
斐のない者は叱りはしないんだぞ――こういう誇りに似たものが、私の胸の中にあるので、話
がすこしも湿っぽくならないのだ。とに かく、先生は、全くふしぎな人だった」とその人は
言っている。

   三十三

 初めて奉仕に上がった娘が、すぐにも浄霊の手伝いをさせて貰えると思っていたのに、案に
相違して、薄暗い台所に連れて行かれ、「あんたの修業場所はここだよ」と言われた。
 娘は、先生のぎょろりとした目にすくんでしまった。そして思わずつぶやいた。
 (ああ、ここで修業するのかなあ)
 しかし、三カ月たって、
 「あんたも、大分慣れたね」と優しく言われた時、その娘は、嬉しいというよりも、先生の
大きな目がうるんでいるのを見てびっくりした。
 台所の薄暗さも、薄暗いとは感じなかった。
 この娘ばかりではない。自分のふところに飛び込んで来たすべての奉仕者に対して、徹底的
に下座の業をさせた。
 掃除、洗濯、使い走り……
 慣れない仕事をさせられて、へまばかりやり、娘たちは毎日のように注意された。
 「嬢や坊やでは、神様のご用は出来んよ」と、大本教のお筆先にある言葉を、よく引用して
訓した。
 しつけは厳格であった。容赦はなかった。
 しかし、何カ月かやらせて、これでまずまずよしというところまで来ると、先生は常にやさ
しくねぎらった。
 「あんたも、よく辛抱したね。どこまで続くかしらと思ったよ。人間は、どんな運命に逢う
かわからないから、どういう事態になっても、何でもやれる人間に なっておかなければいけな
いのだよ。あんたも可哀そうだと思ったけれど、今まで下のご用をさせておいた。下のご用を
やっておけば、自分が人を使うように なった時、その人の苦労が察せられるからね。やれば自
分でもやれるが、やる必要のない身分になって、人のして呉れるのを有難く受けとるのと、そ
の反対に、 やろうとして出来ないから、人にやらせるのでは、大変な相違がある。それを知ら
なければいけないよ。でも、本当にあんたは、よくやった。有難うよ」
 又、こうも言った。
 「人間は、いつでも最悪の場合に処する心構えをもっていれば、何が来ても、どんな境遇に
置かれても、びくともしないで済む。いつも順境にあるとは限らな いからね、こういう心構え
が大事だよ。どうせ人間は、裸で生まれて来たのではないか。ない生命を救って頂いたことを
思えば、ご用のためには何をしても足り ないのだ。これだけやればもういいということはない
のだよ」
 先生は、世辞というものが言えなかった。言えるけれど言わない、のではない。言えないの
である。性格的に駄目なのであった。
 だから、若い娘などは、はじめはどうしても、先生をこわがる。びくびくしている。
 中には、触らぬ神にたたりなしとばかり、遠くの方から、そっと見ている娘もあった。
 ある人が言った。
 「先生はおっかなくて大嫌いだった」
 ぎょろりとした目。
 こっちがあやふやな気持ちでいる時は、とてもまともには見られない強く光る目。
 しかし、先生は、本当は優しいのであった。
 時として、先生が、台所にすうっと入って来ることがある。そして、黙って立っている。
 そこで働いている人たちは、それに気がつかない。
 先生は、その人たちのすることをじっと見ている。
 ある時、若い娘が、餅米の入った大きな笊(ざる)を持ち上げかねて、頬を紅潮させてりき
んでいた。
 先生は、その背後で、それを見ていたが、その若い娘の気合をはかって、
 「ヨイショ?」と掛け声をかけた。
 笊は持ち上がった。
 若い娘は、うしろに立っている先生を見て、泣きたいような嬉しさを感じた。
 「こういうところに、先生の優しさがあるのです」とその人は、あとで言った。

  三十四

 布教のこととなると、先生は夢中であった。
 常に、座右に、日本地図を備えて置いて、布教をひろげて行く地域については、あくまでも
研究をおこたらなかった。
 そして、若い人々を適材適所に使った。学問のあるなし、前歴のよしあし、頭のよしあし、
そんなことはどうでもよかった。ただ、これは真面目な人間だと見ると、先生は、どしどし抜
適〔擢〕して使った。
 ある分会長が、自分の名利のために、若い信者たちをおだてて、とかくの問題を起こしたこ
とがあった。
 助手が、見かねて、分会長に忠言した。
 すると、分会長は、逆にその助手の悪口を若い信者たちに言う。
 とうとう、その助手は、本部に行って、そのことを先生に訴えた。
 先生は、言った。
 「いいじゃないか、やらせておけ。しかし、そういう空気の中では、君もやりにくいだろう
から、おれのところへ来い」
 先生が、弟子と弟子とのあいだに溝をつくるような言動をしたことがあった。
 しかし、それは、遠大な心組みからであった。十分に粘着していない二人を、本当にぴった
りと粘着した二人にするために、一度思い切って、その二人を離す必要がある。先生は、そう
考えたのであった。
 やがて、まもなく、その弟子たちは堅く結ばれた。そして、教勢も伸びた。
 「先生が妙な言動をするものだと思って、その当時、私は私なりに、いろいろと探ってみた
のでしたが、先生のその言動の底に、露ほどの憎悪の心は見えませんでした」と、あとになっ
て、その人は言った。
 結ぶために、一度、それを切り離す。ちぎっては拡げ、ちぎっては拡げて行く――そういう
やり方も、先生はした。
 五六七会の参拝日に、先生は、大勢の信者の一番うしろに坐って、彼等の質問などを、じっ
と聞いていることもあった。五六七会の方は、渋井先生が総宰して いて、先生は出る幕ではな
かったのであるが、他山の石として話も聞きたいし、空気も見て取って置きたかった。そうい
う熱心さをもっていた。
 「背の高い、和服の人が、そっと来て、信者のうしろの方に坐る。そして、みんなの質問事
項を聞いている。そのうちに、いつかその人はいなくなっている。それが、先生でした」と、
当時、五六七会の信者であった人が話した。
 布教の相談では、しばしば徹夜もした。もやめて呉れるだろうと思っても、先生は、い
〔つ〕までも話し続ける。弟子の方が参ってしまうのであった。
 「布教には、常に現在があるだけだ。只今即刻だけだ。遅れてはだめだ。布教には、明日は
ないのだ」
 先生は、そう考えていた。
 ある時、何かの祝いがあって、二十人程の人が、座敷に坐っていた。膳部もすっかり並べら
れていた。
 その時、一人の若い弟子が、そそくさと入って来た。
 「どうも、おそくなりまして……」と若い弟子は、頭をかいた。
 すると、先生は、やんわりと言った。
 「汽車が出てしまったら、誰も乗せては呉れないよ」
 先生は、遅れるということを嫌った。「遅れるということは、嘘をつくということと同じ
だ」とよく言った。
 そして、布教という一大事には、今を措いて明日という日はないと言った。遅れるなと常に
言っていた。

   三十五

 先生は、散歩が好きであった。
 いいところを見ておいて、あとで弟子たちを連れて行ってやろうという下心もあって、よく
散歩をした。気に入った道は、何度でも歩き、気に入った場所へは、何度でも行った。
 箱根参拝のあと、乗りものには乗らず、木賀の渓谷を歩いて帰ることもあった。そういう時
は、一人でなく、助手などを連れていた。
 先生は、いつも神経をぴーんと張っていた。あまり強く押すと切れてしまう楽器の糸のよう
に、見ていていたいたしいような時もあった。
 「おれが、本当にのんびり出来るのは、汽車の中だけだ」とよく言っていた。
 しかし、それは、汽車の中ばかりではなかった。自然のふところの中でも、先生は神経の緊
張をゆるめることが出来るのが嬉しく、如何にも悠々と見えた。
 特に、花が好きであった。道で見る花は、木の花でも、草の花でもよく見た。何となく通り
過ぎてしまうということはなかった。平凡だと思われる花も、詩人の目でしっかりと見てい
た。
 「熱海の桜の美しさ――それを私は、先生から説明されて、見直すことが出来ましたよ。そ
れまでは、桜は何処も同じものだと思っていましたがね」とある弟子は語っている。
 「花は、天国の象徴の一つです。家庭の各部屋、さては便所の手洗い場にまで花が飾って
あったら、どんなに美しく、和やかでしょう。どの家庭も最初から天 国というわけには行かな
いが、そういう心掛けによって、だんだん家庭天国に近づいて行くことが出来るのです。美の
普遍化として、簡単に、費用と時間を要し ない花の大衆化が必要です。日本の気候風土および
日本人の特質を利用しての高級花の輸出という国策の面もありますが、私どもはまず、食糧増
産に支障をきた さない限り、寸土も花壇として、手近に、廉価に各家庭を花で飾ろうではあり
ませんか」
 戦後、まだ三年、人心も落ちつかない時に、先生はこういう話を、しばしば信者にした。
 昭和二十年の秋、大先生の供をして、先生はじめ総勢二十七人で、十国峠まで出かけたこと
があった。
 大先生は、モンペに尻っぱしょりという姿。その他のめんめんも、それぞれ相当の格好をし
て、それでも往路はバスで行った。
 帰途は、みんな熱海まで歩いて下ったが、その時、大先生は、
 「うん、ここはいい」と、今の瑞雲郷を買う決心をされた。
 この時ばかりではなく、先生は天気さえよければ、大先生の随行者として、よくあちこちへ
土地探しに歩いた。
 そういう目的がなくとも、歩くことが好きであるから、暇をみては歩いた。

   三十六

 先生は、とっつきのいい人ではなかった。
 初対面の人などに、一体おまえさんは誰なのかね、というような顔をしている時もあった。
 それに、人を扱う要領も下手であった。まだよく知らない相手にむかっても、のっけから議
論を吹っかける。相手は、いい気持ちがしない。
 ある時、初めて先生にあった人が、先生と議論した。こういう場合、一般に先生といわれる
人は、適当にあしらって、「じゃ、又来なさい」と柔らかくその人 を帰らせる方法を取るもの
であるが、先生には、そういう芸当は出来ない。Mさんという初対面の相手と真正面からぶつ
かった。
 Mさんも、後へ引き下がるような男ではない。議論は、だんだん激しくなって、とうとう先
生の口調は喧嘩越し〔腰〕になって来た。Mさんも負けてはいず、言いたいだけ言った。議論
だか、喧嘩だか、わからなくなった。
 (四十男を赤んぼ扱いしやがる)
 Mさんは、もう二度と会うものかと思って、ぷんぷんして帰っていった。
 しかし、翌日になると、どういうものか又会いたくなり、懐かしくさえなって、先生を訪ね
た。
 「君は何も知らないじゃないか」
 先生は、そう言って、たっぷり二時間、Mさんに、神について講釈した。その顔は、熱情に
満ち満ちていた。昨日のことなんか、もう胸の何処にもないような虚心淡〔坦〕懐な態度で
あった。
 Mさんは、それですっかり先生が気に入り、やがてそれは尊敬となり、推服となって、信者
となった。のちには分会長となった。
 先生は、正直であった。正直過ぎると言った方がいい。
 ある人が、先生に連れられて、大先生の前に出た。その人は、浄霊を始めたばかりだった。
 その前に、その人は、先生から、
 「今日は、何でも大先生にお願いしなさい」と言われていた。
 そこで、その人は浄霊しても治らなかった事例だけを言って、
 「何か私にまちがったところがあるのでしょうか」と伺いを立てた。
 大先生は、それについて、いろいろと説いた。先生は、その側で、(なんていうことだ、失
敗話ばかり並べ立てて)と渋い顔をしていた。
 あとで、先生は、その男に言った。
 「何故あんなことばかり報告したのだ」
 「でも先生は、なんでも遠慮なくお願いしていいと言われたから、その通りにしたのです」
 「なんでも正直に言えば、それでいいと考えているのか。今日は帰ってはいかん。家へ来な
さい。話して聞かせることがある」
 そう言って、先生は、その人を自宅へ連れて行き、夜通し説教した。
 「治ったことを有難いと思えば、それでいいのだ。神様は、見通しだ。くどくどと文句を言
うことはないのだ。治ったところだけを感謝すればいいのだ」
 先生には、こういう正直なところがあった。その正直さは、むしろ可愛いと言った方がいい
だろう。幼いと言った方がいいかもしれない。「いつも正直にいえ ばいいと思うか」などと人
には言いながら、いつも正直に言っていて、得もしたけれど損もしていたのが先生であった。
 初対面の人に、ぶっきらぼうな言動をしたということも、意識して、そういう姿勢をとり、
威張って見せるというのではない。興味がないから、自然そうなるというだけであった。
 ある若い助手が、先生から叱られて、
 「先生に叱られて嬉しかった」とその気持ちを同僚に言った。
 それを聞いて、先生は、正直に言った。
 「牛は叩かれると、気持ちがいいものだ。しかし、それは嬉しいのとは違う。叱られて嬉し
いというのはへんだ。それは本物じゃない。叱られて、あとがせいせいしたというのならわか
るが、嬉しいというのはどうかな」
 先生ぐらい、殆ど傍若無人に、人を叱った人もすくなくないであろうが、それでいながら、
叱られる人の心理も、ちゃんと知っていたのであった。
 知っていて、容赦なく叱った。時には、相手の目玉が飛び出る程に叱った。
 ただ、亡くなる一年ぐらい前から、あまり叱らなくなった。
 「講話の最中に居眠りをしている者があっても叱らなくなったのは、昇天一年ぐらい前から
です」と一弟子は述懐している。
 とにかく、正直な先生であった。
 人にも、自分にも、嘘のつけない人であった。

   三十七

 先生は、よく人を叱ったが、その先生もまた、大先生から、よく叱られた。
 ある時、先生はじめ幹部の人たちが、東山荘に集っていた。そして、大先生を中心に、重要
な問題を相談していた。
 その時、先生の家のそばが火事だという。
 「中島。すぐ帰りなさい」と大先生は言った。
 地震、雷、火事、なんとかという言葉があるが、先生は、そういう天災、人災に、普通以上
の恐怖心を持っている人であった。避雷針を立てろと、よく言った。
 だから、近所が火事だと聞いて、先生は、飛んで帰った。
 しかし、幸いにも、まもなく火は消えて、家にはなんの被害もなくすんだ。
 安堵の胸を撫で下ろした先生は、近くから火が出たのに、何故すぐ知らせてよこさなかった
のかと、留守居の人を叱りつけた。
 「おれは、火事のことを、ほかの人から聞いて帰って来たんだ。留守を預っていながら、お
まえは何故電話をかけて来なかったんだ。そんなことでどうするか」
 先生の語気は、強かった。
 ところが、先生も、自分の家の無事だったことを、すぐ大先生に知らせることを忘れてし
まった。上手の手から水が漏れた。
 そのため、今度は、先生が、大先生から叱られた。
 「わしは随分心配していたのだ。焼けずにすんだのは幸いだが、それをなぜすぐ知らせて呉
れないのだ」
 そのとばっちりで、当分、弟子たちは、先生から、こう言われた。
 「おまえたちが、のろまなんだ。大体、のろまなのは、おまえたちだぞ」
 しかし、先生は、素直にあやまることの出来た人であった。
 大先生に、あることで叱られて、素直に詫びて戻って来た先生は、弟子たちに、もう一度詫
びた。
 「私が悪かったのだよ」
 ある青年が、先生の家に寝泊りして、教えを受けていた。
 その青年が、明日は帰るという前の日、先生は、その人を呼んで言った。
 「君は、何か面白くないことがあるらしいが、それを何故直接、私に言わないのだ」
 「それは、これこれ、こういうわけです。だから黙っていました」
 「そうか。それは私が悪かった」と、先生は素直にあやまった。

   三十八

 先生は、折り目の正しい人であった。
 何かのことでいら立って、畳針で自分の頭を突き刺したこともあるくらい激情的な性格では
あったが、折り目は正しくしていた。からだごとどしんとぶつかっ て行く人であったが、そう
かと言って、八方破れの構えなど出来る人ではなかった。また、しようとはしなかった。いつ
も、ある程度の威儀を正すことを忘れな かった。
 例えば、浄霊をして、病人を治すと、そのあと先生は、必ず大先生にお礼に行った。
 東山荘の参拝の日であった。
 先生は、大先生に、
 「Yをお救い下さいまして、有難うございます」と言うなり、涙をぽろぽろ落とした。
 大先生は、うしろに坐っている男を見て、
 「M。おまえも治ったか」と訊いた。
 その時も、先生は、そのMと一緒に頭を下げて、心からお礼を言った。まだ、頬に、涙が
光っていた。
 大先生が絹の時は、先生は木綿を着た。
 「大先生が木綿なら、自分は紙を着る」と先生は言った。
 これも、先生の「折り目」である。
 神は順序なりということも、先生にとっては、厳粛な折り目であった。
 だから、布教上の報告ということについては、先生は、非常にやかましかった。
 ある分会長が、結婚の媒酌人を頼まれたことがあった。
 その日、結婚式場へ行かなければならなかったので、布教上の報告を助手に頼んで、出かけ
た。
 命令された通り、助手はその報告を、先生に差し出したのであるが、先生にはそれが気に入
らなかった。
 翌日、その分会長が、先生のところへ行くと、先生は大立腹であった。
 「それからというものは、私は、絶対に媒酌はやらないことに決めたのです。そういうこと
で報告がおろそかになると、又々先生から怒鳴りつけられますから ね。とにかく、先生は、折
り目、折り目をきちんとしないと怒りましたね。それくらいだから、先生自身は、いつも折り
目正しくしていましたよ。少なくとも、 カミシモを着る時は、ちゃんと着ていましたね」
 その分会長は、こりたという顔をして、こう言っていた。
 折り目が正しいということは、言い換えれば、あいまいさが嫌いということである。
 自分の心があいまいな時は、誰も先生の顔をまともには見られなかった。その大きな目が恐
ろしかった。
 先生には、誰も嘘をつく気にはなれなかったが、それよりも、誰も嘘をつくことが出来な
かった。自然、正直になった。
 先生も、嘘はつかなかった。いや、つこうと思っても、つけない人なのであった。まるで子
供のように、底抜けに正直であった。
 「相手の身になって考えろ」
 先生は、よくこう言った。
 箱根の参拝日。その日は、雨だった。
 若い助手のBさんは、熱海の本部を出る時、誰かの傘を借りて出かけた。
 さて、用事が終って、帰り道で気がつくと、自分の持っている傘に、「中島」と書いてあ
る。
 (あっ。先生の傘だ。まちがわないように、ちゃんと傘立に傘を置いといたのに、これは又
どうしたまちがいだろうか。弱ったな。だが、これは、自分のほうでまちがえたのではない。
誰かがまちがえたのだ)
 Bさんは、そう自分の心に言いきかせた。
 そして、そのまま熱海へ帰って来た。
 あとから戻って来た先生は、傘立に自分の傘がないので、他の人の傘を借りて来たと言っ
た。
 Bさんは、首をすくめて、
 「傘をまちがえたのは、私です。どうもすみませんでした」とあやまった。
 すると、先生は、「おまえには、誠がない」と言って、奥へ入って行った。
 (誠がない?それは、どういう意味だろうか)
 Bさんは、いろいろ考えてみた。しかし、どうもよくその意味がつかめなかった。
 一カ月ぐらい考えた。そして、やっとわかった。
 「私が傘をまちがえて持ってきてしまったため、先生がその傘を探す時間だけ、それだけ先
生の時間を無駄にさせてしまったのですね。先生の時間は、大事な 時間で、言うならば神様の
時間です。それを知っていながら、まちがえた傘をさして、そのまま箱根から熱海まで帰って
来てしまったのです。まちがったと知っ たら、何故箱根で、先生にその傘を渡さなかったのだ
ろうと思って、自分の至らないのが恥かしくなりました。先生に、大事な神様の時間を無駄に
させてしまっ て……ああ、誠がないとはこのことだなと、やっと気がついたわけでした」
 Bさんは、こう言ってから、
 「先生は、その場で説明してしまわないで、あとで本人によく考えさせるという手を使う人
でした」とつけた。
 先生が、大勢の信者を前にして、話をする。
 すると、信者の一人一人が、これは特に私だけに下さる教えだと思う。
 これも、先生が、「相手の身になって考える」人であったからであろう。

   三十九

 「おれは、人をつくるのだ」
 これが、先生の信念であった。
 先生は、どんな人にも、どんな時にも、全力を出して道を説いた。
 このことは、捕らえられて獄にあった吉田松陰が、獄の格子の向こうにいる獄卒に、じゅん
じゅんと道を説いたという――その話を思い出させる。
 そして、先生は、人を教える時には、時間もなにも忘れた。
 「本当の話はこれからだ」と先生が言うので、時計を見たら、真夜中の十二時。そういうこ
とが、しばしばあった。
 だから、終るのが明け方の三時、四時になることも珍しくなかった。教えるなら、トコトン
まで教える。そのため、あまり一生懸命になって、却って誤解されるということもあった。
 弟子たちを集めて、三日も徹夜で説きつづけたこともあった。
 昼間は忙しく飛び歩き、用事が片づくと、それから話を始める。そして、夜を徹して話し続
け、雨戸のすきから朝日がさし込んで来るまでやめない。
 弟子たちは、一人残らずグロッキーになってしまう。先生は、平気な顔をしていた。
 ある人に嫁を世話したいという話があった。貰おうか、どうしようかと迷っていた。
 すると、仲人が、
 「その娘は、一年間、中島先生のところで働いていました」と言った。
 その人は、その一言で、娘を貰うことに決めた。
 「一年間も、先生のところで働いていれば、無条件で貰えますよ」とその人は、あとで同じ
信者に言った。
 「先生のところにいると、みんな人間が変ってしまう。先生は、人間改造の名人でしたね」
と言った人もある。
 まことに、先生には、ぼんやり話すということはなかった。ぼんやり読むということもな
かった。
 何事にも真剣、全力であった。
 その気魂と情熱で、人をつくって行った。
 しかし、先生は、決して雄弁ではなかった。むしろ、咄〔拙〕弁のほうであった。けれど
も、そのとつとつとして話す、その話しの魅力は、たいしたものであった。いつのまにか、み
んな引きずり込まれてしまうのであった。
 人をつくるために、先生は、あらゆる手を用いた。炭のつぎ方、醤油の使い方まで、その材
料となった。
 「神様のご用をするということは、それは大変なことなのだ、茶碗一つ片づけることだっ
て、仇おろそかには出来ないのだ」
 台所仕事などはつまらないと考えていたある女に、先生は、こう言った。
 昭和二十二年のある日。復員してきたDさんは、本部の光明の間の入口のところに坐って、
先生の顔をまたたきもしないで見守っていた。軍隊にいた時と同じように、相手から目をそら
すと叱られると考えて、じっと穴のあくほど見つめていた。
 その時、一人の娘が、茶を持って入って来た。しかし、先生の顔を見守っているDさんは、
それに気がつかない。
 入口で、娘はもじもじしている。
 それを見た先生は、Dさんを指して言った。
 「入口に坐っている人間は、出世しない。出入りの邪魔になることが気がつかない人間だか
らだ。人は始終あたりに気を配っていなくてはならない」
 勿論、Dさんは、顔を赤くして縮まってしまった。
 「信仰の目的は、完全な人間になるために、一歩一歩修養を積んで行くいことだ。それに
は、常に謙虚であり、親切であり、社会の幸福を願う下座の業を積んで行かなければならな
い」
 こう先生は、言っていた。
 口で教えるばかりではなく、先生は、せっせと原稿を書いた。すこしの暇でもあると、書い
ていた。真夏でも、汗を垂らし垂らし書いた。信者から沢山の手紙が来るが、書けるだけは、
その返事を書くように努めた。
 しかし、いちいち全部の返事は、到底書いていられない。と言って、受け取ったということ
ぐらいは知らせたい。
 そこで、先生は葉書に、毛筆で「真」の一字を書き、その下に「一斎」と書いたものを幾枚
も書き溜めて置いて、それを、「手紙見た」という返事として出すのであった。
 忙しくて、新聞を読む時間もないことが多い。そういう時、先生は見出しの上にシルシをつ
けて置いて、夜おそくなってから、助手に読んで貰った。
 寝るのは、早くて十二時。遅い時は、二時、三時ということも珍らしくなかった。

   四十

 昭和十六年六月三十日。
 先生は、大先生のお供をして、伊勢神宮に参拝した。
 出発の前、大先生は、
 「中島、おまえは和服ばかり着ているが、今度は洋服を着て行けよ。和服ならわしは一緒に
行かんぞ」と笑いながら言った。
 このため、先生は、どうしても洋服を着て行かなければならない羽目になった。
 ところが、その洋服がない。
 買おうと思っても、先生は背が高いから既製服では体に合うのがない。新しく仕立てさせる
時間はない。
 仕方なく、そのままを白状したら、大先生はやっぱり笑った。
 「では、おまえは和服で行け。わしは飽くまで洋服だぞ」
 さて、長い汽車の旅の中で、初めて大先生の碁の相手をした。
 この時、どっちがどれだけ勝ったかは、誰も知らない。しかし、負けることの大嫌いな二人
――六十才の大先生と、四十三才の先生とが喧嘩にもならず、めで たく参拝を済ませ、帰途長
良川の鵜飼を楽しんだことを思えば、おそらく車中の戦いは、同点引き分けになったのだろ
う。
 というのは、この時の手合わせが最初で、それからは毎年正月に、大先生と先生との勝負が
行われたのであるが、いつも手合わせは二番だけにきまっていた。
 その理由は、先生のほうが少しばかり強く、かといって二勝しては、大先生の機嫌が悪くな
るだろうし、負けるのはいやだし、結局、一勝一敗ということにして、初春の大手合せはめで
たく終るという寸法であった。
 先生が、大先生に対して闘志を燃やすのは、たった一つ、碁の時だけであった。

   四十一

 先生の頭は、鼠花火のように、クルクルまわる頭であった。
 考えが、先へ先へと行く。しかもそれが早い。まるで電流のようであった。
 話していると、
 「その次は、どうするんだ」と畳みかけて来る。
 もぐもぐしていると、
 「こうするつもりなんだろう」とすぐ二の矢が飛んで来る。
 せっかちでもあった。
 だから、話がよく飛躍する。
 よほどしっかりしていないと、ついて行けない。迷子にされてしまう。
 先生が、折にふれ、時に応じて語った言葉の中から、流星のような言葉――言い換えれば、
素晴しい光を放っているのだが、よく気をつけて見ていないと見失ってしまうような飛躍した
言葉を拾ってみる。

 ある時。
 「ドブに落ちている沢庵をとって来い。はっ。取って来ます。――これが兵隊だよ」
 ある時。
 「主師親ということを知っているか。主は応身弥勒で、大先生。師は法身弥勒で、出口王仁
三郎。親は報身弥勒で、出口直先生だ」
 ある時。
 「ミロクの世は、いつ出来ますか」とある人が訊いた。
 「昭和百年」と先生は言下に答えた。
 ある時。
 「天国会は、神性人間を造り出すところだ。動物人間は、住めない」
 ある時。
 はじめて会った人に、
 「人間は誰がつくったか、知っているか」
 「はあ。造物主です」
 「薬は毒だが、知っているか」
 「体験で知っています」
 「おまえは、なかなかえらい」
 ある時。
 「先生だって、お守りをはずせば同じじゃないかと、あいつが言ったよ。あはははは」
 ある時。
 「マッチになれ」
 物を燃やそうと思って、ただマッチを持って行ってもだめである。箱の中の軸木を燃やさな
ければならない。燃えた軸木は、どんなものをも燃やすことが出来る。人を燃やし、人を感激
させるのも同じことで、まず自分が燃えて初めて可能となる。
 ある時。
 「風呂から上って身仕舞いをする時の気持」
 先生は、女性の身嗜みについて、こう言った。この時の気持を持ち続けることが大切で、身
嗜みの心構えは、この一言に尽きると言っている。
 ある時。
 「信仰に入っても一番になれ、そうかと言って、信仰は事業ではないのだから、魂の曇りを
なくする以外に、その道はない」
 ある時。
 先生は、弟子たちに、宗教家としての素質があるかどうかを見分ける方法を知っているかと
質問しておいて、こう言った。
 「一番簡単で狂わない方法は、その人間に理想があるかないかを見ることだ。そして、次
に、矛盾した世の中を見て、善悪がわかる人間であるかどうかを確かめてみることだ。その
上、同情心があれば、まず大丈夫だ」
 ある時。
 「教師にとって一番の身魂磨きは、金と男女問題だから、それに打ち勝っていかなければな
らない」
 終りに、一言つけ加えておく、
 先生は、「教えの人」であったが、その前に「行の人」であった。きびしい修業の人であっ
た。
 このことをはっきり知っておかないと、教えの人としての先生が、ただ単に神経質な先生と
いう印象を受け易い。

   四十二

 先生は、美男子であった。
 瀟洒な和服が、よく似合った。
 誰でもすぐ、役者を連想した。
 「まさに団十郎だね」と一人の弟子が言う。
 「君は団十郎を見たのか」と他の弟子が訊く。
 「勿論、見ているはずはないじゃないか。しかし、とにかく団十郎だよ」
 「何処が団十郎なんだ」
 「君も錦絵の初代団十郎は見たことがあるだろう。あれとそっくりだ」
 「そうかなあ」
 「そうだとも。第一、あの目を見ろ。団十郎が目玉をむいたのと寸分違わないよ」
 「先生は、いつも目をむいているわけではない」
 「むいていなくても、団十郎が目玉をむいたのと同じなんだ。凄いじゃないか」
 先生は、こういう内緒話を、直接耳にしたことはないかも知れない。しかし美男子であると
いうことは、多少とも自認していたのではなかったろうか。何故なら、先生は、すべてにおい
て、自信の人であったから。
 その先生は、フェミニストであった。
 我が強くて、横暴と見える亭主の先生も、結局はフェミニストであった。夫人には、一目も
二目も置いていた。甘えん坊のようなところもあった。
 何かに腹を立てて、ぷりぷりしていても、
 「そんなに怒らないでもいいでしょ」と夫人になだめられると、先生の顔に、甘ったれ小僧
のような表情が出て来る。
 それで、夕立のあとのように、立腹も一巻の終りということがしばしばであった。
 「先生は、奥さんに甘ったれている」と言った弟子もいた。
 いや、怒って見せることも、実は、先生の甘ったれの表情であったかもしれない。
 晩年、ようやく落ち着いた生活の中で、少量の晩酌を楽しむゆとりも出来てきた。
 いかにもおいしそうに飲んだ。
 しかし、時には、飲みたくないこともある。
 「今夜は、いらないよ」と先生は、前もって夫人に言う。
 それを夫人は、台所の手伝いに伝えるのを忘れる。
 だから、晩の膳の上には、ちゃんと徳利が載せてある。
 すると、先生は怒る。
 「酒はいらぬと言ったじゃないか」
 「そうでしたね、お台所の人に言うのを忘れました」
 「おまえが悪いんだ。この酒、おまえがみんな飲んでしまえ」
 こういう怒り方をするのは、一種の甘ったれ心理である。このことをよく知っていた当時の
分会長が、笑いながら言った。
 「内側はどうか知らないが、外側は模範的な夫婦だったという人があるが、私はその逆だ
よ。外側はどうか知らないが、内側は実に模範的な夫婦だったと思っ ている。しかし、これ
は、夫も妻も模範的な人間だからそうだったといっているのではない。お互いに弱点は持って
いながら、その弱点と弱点とがぎしぎし軋し り合わずに、具合よく歯車のように噛み合って廻
る――そういったよい夫婦だったと思う」
 フェミニストであったから、女の信者、弟子達には、当然人気があった。それに、美男子な
のであるから、人気がなかったら、それこそ不思議というものであろう。
 ある時、手伝いの娘が、先生のお供をして関西へ行くことになった。
 ちょうどその時、娘の友達が、やはり関西へ行くことになった。
 「先生と一緒じゃ、窮屈だわ。あなたと二人、ロマンス・シートで行きたい」と娘は、その
友人に言った。
 このひそひそ話を、先生は聞いたかも知れないし、聞かなかったかも知れない。
 先生は、その娘の友達の女に言った。
 「あんただけ、先に行きなさい」
 ただ、それだけ言っただけで、手伝いの娘には、なんとも言わなかった。
 それが男の弟子だったら、「一緒に行きたくなければ、行くな」ぐらいの雷は落ちたにちが
いない。
 玉川署に留置されて、一週間目に家へ帰った先生は、出迎えた夫人に、
 「どうやって食っていた?」と訊いた。
 「なんとか食べていました」と言うと、
 「そうか」
 それっきりであった。
 その先生が、便所の前で、抜けかかったパンツの紐を通して貰っている。そういう子供みた
いな、愛すべき夫でもあった。
 先生は、こう言った。
 「人を許しましょう。相応の理ということがあって、皆、自分にふさわしい妻であり、子で
ある。妻子を叱り飛ばす前に、一応反省しましょう。自分にも、非はあり過ぎる程あるのだ。
反省と寛容、そして共に身魂を磨いてゆく――家庭の天国化は、ここに始まる」
 機嫌のいい時、先生が、夫人に、
 「浮気でもしてみるかな」と冗談を言う。
 すると、夫人は、
 「私よりいい人がいたら、いつでも遊びに行ってらっしゃい」と答える。
 そして、あとは大笑いになる。
 いい夫婦であった。

   四十三

 先生は、手紙や原稿など、すべて毛筆で書いた。
 書は好きだったらしい。しかし、先生の書を、うまいという人と、むしろ下手だったという
人と、半分ぐらいずつある。
 ある人が、
 「要するに、面白い書だよ」と言ったが、この批評が一番ぴったりしている。
 短歌を、よく作った。
 昭和二十四年の九月から十二月までに三冊、天国会の会報として、「天国之友」という雑誌
を発行したが、それには毎号、短歌が載せてある。

  今はしも滅びんとする世をあはれみて、出でましにけり救いの君はも。
  師の君の御救ひなくば崩れ行く、此の日の本は如何になるらん。
  夜の終りはや近めるを知らぬげに、赤のみたまの騒がしきかも。
  次々に忌はしき事のみ重なるは、夜の終りの徴なりけり。
  厳かな神の審判は今正に、現はれ初めけり心せよかし。
  師の君の隠せる力を知りてより、凡てを捨てて我は起ちたり。
  師の君の振はせ給ふ御力は、神の救ひの力と覚れり。
  師の君を我若し未だ知らざれば、迷ひに迷ひ悩みつづけむ。
  師の君の御力戴き吾も亦、力限りに世人医さむ。
  師の君の御身のまはりの出来事は、みな大神の仕組と知れかし。
  霊界の転換いよよ吾等住む、此の地の上に移り初めけり。
  五と六に七の力の加はりて、絶対力は現れなんとすも。
  十全の御力戴き思ふまま、世人救ふ時は近めり。
  奴羽玉の闇に染まりし此の身魂、洗い浄めて神業に仕へん。
  風水火三大災厄何んのその、身魂磨きて神に縋れば。
  大神は正しき人に造らんと、曲とう砥石を吾に賜へり。

 ある日、先生が、自作の短歌を大先生に差し出すと、大先生は笑って、
 「きみのは、歌じゃないよ。漢文だよ」と笑って言った。もちろん、半分冗談であろう。
 けれども、この言葉は、先生の短歌に対する批評というだけでなく、もっと大きな意味を
もっている。
 というのは、先生の性格には、漢文のようなところがあった。
 これについて、ある人は、
 「先生の故郷の土地柄だね。松陰と似ているんだ」と言った。
 又、ある人は、
 「遺伝かもしれない。父君は漢詩人だったし、日本外史が愛読書だったからね」と言った。

   四十四

 「自分にもきびしく、人にもきびしい。私は、先生を道元のような人と思った」
 昭和二十四年秋、先生に初めて会ったある宗教学者が言っている。
 先生は、確かに、そういう秋霜烈日のような人であった。古武士の面影があった。
 しかし、一方、ユーモラスなところもあった。
 ある時、ある分教会で、先生を招いて講話を聞いた。二百人ぐらい信者が集っていた。
 講話が終って、先生は、演壇をはなれ、部屋から出て行こうとした。
 すると、遅れて来て、一番うしろの席に坐っていた一人の娘が、
 「先生。もっとよくお顔を見せて下さい」と大きな声で言った。
 先生は、それを聞くと、再び演壇近くまで戻って来て、ちょっとシナをつくってみせた。
 そして、こう言った。
 「あたし、はずかしいわ」
 こういう先生でもあったから、面白いことは遠慮なく笑った。いかにも愉快そうに、大きな
口をあけて笑った。取り済〔澄〕ました顔ばかりしていなかった。
 旅の列車の中で、ある人が、落語を一席やった。
 先生は、腹をかかえて笑いこけた。
 あとで、自分が大きな声で笑い続けたことが、ちょっとテレ臭くなったのだろう。にやりと
して言った。
 「しようのないやつだ」
 毎月、本部に集った時に、分会の会長たちは、御讃歌の朗唱を練習する。
 ある日、分会長の代理で、Wさんという助手が、それに出た。
 出たけれども、自分は分会長ではなし、朗唱はしなくてもいいのだろうと思って、のんびり
坐っていた。
 ところが、先生は、
 「君もやれ」と言う。
 Wさんは、あわてた。どういう節でやっていいのかわからない。
 思い切って、自分流で、朗唱し出した。
 その節があまりにおもしろいので、先生は大きな声で笑った。他の連中も、どっと笑った。
 それだけではない。Wさんの滑稽な節に感染して、あとからあとから、妙な節の朗唱が出
た。
 先生は、面白がって、あっはっはと笑っていた。
 ある時、助手が、紙幣を重ねて、それに帯をして、何万何千円と書いた。
 ところが、まちがって、千の位のところに点を打たず、百の位のところに点を打ってしまっ
た。
 それを見て、先生は、おどけて言った。
 「随分沢山あるね。これは凄い!」
 「お茶の作法だけはだめでした」と夫人が言っているが、先生は、なんでもやった。その先
生のお得意なものに百人一首があった。
 恒例として、毎年正月には、かるた会が開かれ、大先生を中心に、先生やその助手、あるい
はその他の信者などが集って、賑やかなことであった。
 しかし、その手並みでは、先生がズバ抜けてうまい。だから、先生の前に坐った者は、例外
なく散々に負かされる。入れ替り、立ち替り、総なめにされることも多かった。
 大先生も笑って、
 「上の句は読まんこったな。でないと、中島にみんなとられてしまう」と言った。
 他の連中は、大抵、読み手が下の句まで読んで来ないと、手も出ないのであった。
 笑い冠句も盛んに作った。
 大先生が宗匠格で、その笑い冠句の会は、昭和四年頃から八年頃まで続いた。
 昼の弁当には、いつも、竹の皮に包んだ赤飯が出た。
 先生の号が千成、夫人の号が万女子。
 時には、子供たちとゲームをすることがあった。負けると、本気でくやしがった。
 ピンポンをやる時でも、肌ぬぎになって、すぐムキになる。勝つまでやめない。勝てば、ご
機嫌であった。
 先生は、夕食のあとなど、ピアノを弾いて楽しむこともあった。「米山さんから、雲が出て
……」というのが好きで、こればかりをよく弾いた。「金襴どんすの帯しめながら……」とい
う童謡も好きだった。時には、長唄の「越後獅子」を弾く事もあった。
 「どうだ。うまいものだろう」
 ある人に、そう自慢してみせたら、その口の悪い男は、
 「しかし、先生のはやっぱりお茶漬けピアノですね」と言った。
 先生は、音楽を知らない者が何を言うかというような顔をした。
 そのピアノは、戦時中、東京から買って来た。熱海まで自動車で運ぶのであるが、そのガソ
リンは自分で心配して調達して来た。
 ピアノは、まあ及第点であったが、歌うことはカラキシだめであった。音痴の部類であっ
た。
 御讃歌の奉誦も、先生はよく側の夫人に、
 「おまえ、やれよ」と言った。
 そういう先生であるから、自分から歌うなどということは殆どなかった。ただ、宴会の余興
などの時に、「愛染かつら」だけはよく歌った。
 しかも、歌う時には、わざと中風患者の格好をして、そしていかにもロレツがまわらないと
いう口振りで、それを歌うのであった
 「先生は、歌が下手なことを百も承知しているから、それで、ああやってカムフラージュし
て歌うんだね」と弟子の一人が、隣の席の男に言った。
 「そこが、先生の悧巧なところだ」とその男が答えた。
 けれども、聞くことは好きだった。
 夫人が琴を弾くのを、先生はいつも静かに、じっと聞いていた。特に「千鳥の曲」が好きで
あった。
 先生と夫人の笑い冠句と沓句を載せて置こう。
  チェッ、何が華族だ祖先は盗賊じゃねえか。(千成)
  助けてくれえ、とは貧乏人じゃねえ三井、三菱様だよ。
  ああたまらねえ、税金がたまらねえ。
  ああたまらねえ、と助けを求める金持の後家さんはいないものかな。
  ああたまらねえ、ほど溜るのは罪と、そうして便所だよ。
  アン畜生、人を責める時はいい気持そう、自分が責められる時は居睡り。
  奇妙奇天烈、神様にかかって助かるよりは、医者にかかって死ぬ方がマシだとよ。
  妾恥しいわ、何ていう柄かい、まるで鬼子母神のような面をしやがって。
  妾恥しいわ、随分目立って来たのよ、腹膜炎かしら。
  フヌケ、フヌケって馬鹿にするが、これでも女房を家に囲ってあるんだぞ、ヘン。
  ソーラ大変、隣の夫婦が夜中に大喧嘩だ、アアいい気持だとホクソ笑んでる独り者。

  寒中胸も足も丸出しの洋装美人、続け様に、ハックショイ。(万女子)
  トンチキ野郎、酒と酢とを間違えて、ヤー大変。
  顔形は、ヘナチョコ野郎の亭主でも、心はナカナカもって、ホホホホ。
  奥様、女中にあんまりお小言がうるさいので、女中思わず、このスベタめ。

   四十五

 「気の利く人間になれ」
 先生は、よくこう言った。
 昭和二十三年。戦争が終って三年になっていたが、まだ国内の治安も十分でなく、人々は信
ずるより疑う方が得だという気持で、荒れた毎日を過していた。
 気の利く人間とは、要するにずるい人間のことだと思い、あまりこの言葉の値打もないよう
な時世だった。
 しかし、集る信者たちに、先生はいつもこの言葉を繰り返した。
 ある時、遠い地方からの信者が集る日なのに、夜来の雨がその朝になってもやまず、びしょ
びしょと降り続いている。――そういう日であった。
 やがて、時刻が来て、熱海駅から大勢の信者が濡れ鼠になって入って来た。
 遠い地方から来た人たちなので、誰も雨具の用意はしていなかった。ずぶ濡れの信者たちを
見ても、受付の人は、気の毒にとは思いつつも、駅に傘を持って迎えに行かなかったことを別
に不親切だったとも考えなかった。
 あとで、助手たちに、先生は言った。
 「皆、遠いところから、夜通し汽車に揺られて来るのは、なんのためか。お光をいただい
て、少しでも向上し、世界人類を可能な限り救おうとされる神の意志 に添って、地上天国の建
設のための一役をしたいという念願に燃えているからではないか。又、君たちは、その人々の
誠のしるしとして持って来たものを、それ ぞれ頂いているではないか。それなのに、君たち
は、濡れて来た信者を見て気の毒だと思うだけで、誰も駅まで傘を持って行かなかった。い
や、傘を持って行く べきだと考えた者もいなかったのだろう。よくよく反省しなければいけな
い。私がいつもいう気の利く人間とは、親切な人間ということだ。不親切だが気が利く 人間な
んていうものには、私は用はない」
 先生の審判は、きびしいものであった。
 と言って先生は、あまり気の利き過ぎる人間は嫌いであった。
 「気の利かないやつと、気の利き過ぎるやつ。おれは、どっちも嫌いだ」と言っていた。
 この言葉は、信者の中でも、よくその意味がわからない者が多かったようである。
 しかし、先生の言わんとするところは、気が利き過ぎるということは、親切ということの反
対の場合が多いということであったろう。
 先生は、こう言った。
 「気が利くということと、感謝の気持とは、一つなのだ。感謝の気持がなく、ただ気を利か
そうと思って気を利かせる――これは本物ではない」
 先生は、下座の行ということを、いつもくどい程言っていた、
 「人間失敗の原因の一つは、威張るということだ。本当の成功者は、決して昔を忘れない。
昔を忘れて、矯〔驕〕りたかぶることは、失敗の第一歩である。神 の前に、人間の地位、身分
の高下がなんになろう。常に、謙譲でなければならない。下座のこころをわすれてはならな
い」
 「信仰者にとって、一番大切なことは常に下座の行を忘れないことである。私どもが大きな
観音力をいただいて、自分にすら思いがけない奇蹟が次々にあらわ れ、人々から生神様のよう
に尊敬されると、ともすれば、自分を実質以上に価値づけて、思い上がってしまうことがなき
にしもあらずである。そして、思い上 がって自己反省を忘れて来ると、それからは何もかも神
様の道からはずれてしまい、しかもそれに気づかないという二重の間違いを起す。そして、最
後には、み じめにも奈落に転落してしまう。よくよく気をつけなければならない」
 「信仰の道は、完全な人間となるために、一歩一歩修養を積んで行くこと以外にない。それ
には、常に謙譲でなければならない」
 「こころは常に新しく」
 先生は、常にそう言っていた。
 亡くなる三カ月程前、先生は、信者たちに説いて聞かせた。
 「私たちは、今、だんだんと白米を食べられるようになった。戦争中は、馬も食わぬような
豆粕なども食べて、白米の有難さを、しみじみと感じていた。農家 でもないのに、今年の収穫
はどうだろうか、二百十日は大丈夫だろうか、害虫の被害はありはしないかと、雨につけ、風
につけ、心配して、農家の労苦に感謝し ていた。それが、この頃になって、白米も次第に豊富
に出廻って来ると、つい昨日までの感謝を忘れて、ぞんざいにする。
 健康についても、そうである。医者にかかり、薬を浴びる程のんでも、その他、百方手を尽
くしても治らなかった。前途暗澹たるものがあった。それが、ふと したことからこの道によっ
て救われ、見違えるような丈夫な体になる。涙が出る程、嬉しく、いつかこの御恩報じをしな
ければならないと考える。それが、日が たつにつれて、いつか昔を忘れ、感謝の気持も消え失
せて、傲慢不遜になる。
 信仰についても、そうである。信仰の道に入った当座は、有難さ、尊さ、勿体なさを感じ
て、心は火のように燃えていた。それが、時のたつに従って、いつのまにか怠慢になり、形式
主義になり、初めの感謝を忘れてしまう。
 これらはすべて、心を新しくすることをしないからだ。
 人は、信仰を口にする。しかし、その信仰に対して、自分を反省して行く人は、果して幾人
あるだろうか。常に、入信当時の心を忘れず、その心が古くならな いよう、今日よりは明日、
明日よりは明後日と、自分の心に鞭を打って行かねばならない。流れない水は、腐る。自ら鞭
うたない心は、やがて弾力を失う。心を 常に新しく――これを忘れないで貰いたい」

   四十六
 昭和二十四年の秋、法務府のO氏は、箱根に出張し、旅館の一室で、先生を待っていた。
 その頃、法務府は、いわゆる新興宗教の調査に当っていた。O氏は、その係りであった。
 やがて、先生が入って来た。
 そして、O氏にむかって、真正面から、宗教論を吹っかけた。
 とうとうと説き出し、説き来り、「うちの宗教こそ最高である」と、その意気当るべからざ
るものがあった。
 O氏は、印度哲学を専攻した学者であり、言いたいことは山ほどあったが、調査という仕事
で来ている身であり、静かに傾聴していた。うなづける点もあり、うなづけない点もあった。
 「では、浄霊の実際を見て貰いましょう」
 最後に、先生は、そう言った。
 そして、人を呼んで、次の部屋に坐らせた。そして、そのあいだの襖を締め切った。だか
ら、その人からは、先生もO氏も見えない。
 そうして置いて、先生は、こちらの部屋から浄霊を始めた。珍らしいものを見るように、O
氏は、先生の手つきを見つめていた。
 ところが、不思議なことに気がついた。
 先生が掌をかざすと、見えない隣の部屋の人が、咳をはじめる。
 先生が掌を下すと、その人の咳もやむ。
 こういうことが二三度続いた。
 (どうだ。わかったか)
 先生は、そういう顔をする。
 O氏は、ちょっと呑まれた形で、つぶやく。
 (これは、いける!)
 先生には、自信があった。殆ど誰にも批判は許さぬといわんばかりの烈々たる自信を持って
いた。教義で来いという自信満々の気魄をみなぎらせていた。そし て、事実、私生活などで
も、大先生以外の者が、私生活についてとやかく言うと、非常に機嫌が悪かった。時には、ま
ともに怒り出した。
 (どうだ。わかったか)
 この顔が生涯を通じての先生の顔であったとは言わない。しかし、大先生にめぐり合ってか
らの先生の顔は、常に、不退転の勇猛心を現わすこの顔であった。
 あとになって、O氏は、こう言っている。
 「とにかく、先生は、霊力の鋭い人と思います。霊感の強い人と言ってもいいでしょう。宗
教人としては、申し分のない人です。しかし、宗教行政の面では、 全く駄目な人でした。言い
換えれば、教祖的資質の人であって、教団組織者ではないのです。純粋、一本槍、厳格――し
かし、その厳格さは、他人に対すると同 様に自己に対してもそうであった。そう思いますね。
私が先生に会ったのは、僅か二度しかありませんが」

   四十七

 昭和二十四年九月、天国会の会報「天国之友」が創刊された。
 従来、各分会で謄写版あるいは活版の分会報が出ていたが、「これでは、天国会全体の動き
を知ることは出来ないから」という先生の意見で、約五十頁の活版 誌が出ることになったので
あるが、その創刊号に載せられた「発刊に際して」という一文は、いろいろの示唆を含んでい
る。

 「会長先生の御意向としては、各分会長は、天国会の地域的世話人代表として、天国建設の
御用をすべきであって、分会と分会との間に垣根が出来ては、会の 目的と相反することになり
ます。善言讃詞の中にもありますように、国と国との境なく、人草達の憎しみや争いごとも夢
と消えて行かなくてはなりません。
 天国会は、どこまでも一つであり、幾ら分会がふえても一つの会であり、ただ、会の運営
上、大体地域的に分会をふやすのであって、各分会長は、総本部の直属の教師であり、各地に
出張の形をとっていることをお忘れなきよう御願いいたします。
 要するに、分会がふえることは、天国会が大きくなることで、一本の木に例えれば、如何に
枝葉が沢山になっても、みな幹から分岐しているのと同様の理であります。幹が枯れれば、枝
や葉も枯れてしまうのであります」

 この「天国之友」は、次いで十月号を出したが、十一月は休み、十二月に増頁の第三号を出
して、それで廃刊となった。
 その理由の一つとして、大先生が、「日本観音教団として、昭和二十三年の十二月から地上
天国という月刊誌を発行しているのだから、屋上屋を重ねるようなことはしない方がいい」と
いう注意を与えたと言われる。
 しかし、先生が、意識的に、屋上屋を重ねるために「天国之友」を発刊したのではないこと
は確かである。
 これは、単に会報だけの問題ではない。先生は、あくまでも自分は大先生の下僕であるとい
う慎みを忘れなかった。当時の日本観音教団教義にもある通り、 「岡田自観先生は、観世音菩
薩が人類救済のための代行者として選ばれたる力徳者たることを信じ」て、自分の生涯を、そ
の前に投げ出していた。その大先生の 言うことには、なんの口答えもすることはなかった。理
屈がどうであろうと、「承知いたしました」とすぐ答えた。
 この「発刊に際して」の終りにも、このことを強調することを忘れなかった。
 「木の一番元は、目に見えない根であることを忘れては忘れてはなりません。大先生が、
ちょうど根になられるのでありまして、幹が会長先生(創刊の辞であ るから、無記名である)
で、枝が各分会長で、葉が信者であります。その気が成長し、繁栄して、始めて地上天国がが
出来るのであります。その木を育くむ栄養 素の一部として、ここに会報が創刊されたのであり
ます」
 これは、先生だけの信念ではない。各分会長も、みなこれと同じ信念をもっていた。
 その頃、分会長のMさんは、自分が編集発行している分会ニュースの中で、次のように書い
ている。
 「私どもは、大先生の御許に参じ、中島先生の御導きによって、観音力を戴くことが出来ま
した。そして、本当の宗教がもつ本当の力を知らせていただき、本 当の宗教を味あわせていた
だきました。炎暑の中で滾々と湧き出る神力の泉に、身も魂も澄み浄められ、涼味常に身中を
流るる思いに、日々を幸福に過させてい ただいております。なんたる幸福者でありましょう。
それは、ちょうど、人々よりも一足先に苦の沙漠を過ぎて、オアシスへと中島先生に導かれ、
大先生からの 醍醐味を頂戴したとも言えましょう」
 先生は要するに、自己に対しても相手に対しても厳格な教育者であった。
 その点、一般の信者と同様に、分会を主宰する分会長といえども、手ごころは加えなかっ
た。容赦なく、びしびしとやった。
 「天国之友」を発刊する数カ月前、先生は、あるところで、こう言った。
 「……また、信者の方々にお願いする。信仰は、何処までも、人を見ないで、神を中心とし
て貰いたい。大先生の直接の教えである信仰雑話、御讃歌などに照 らして分会長その他の先生
を見る時、欠点だらけで、到底、宗教家として尊敬に値しないかも知れません。宗教家として
は、(宗教家的活動を始めて、まだ満二 年に達していないのだから)今のところは独り歩きも
出来ない赤ん坊かも知れません。どうか、暫くの時日を藉していただきたい。そして彼等が立
派な先生とな るよう、御好意ある忠言をいただきたい。また、分会長その他の先生の言動につ
いて、不審の点がありましたら、遠慮なく私にも相談して下さい。私心を去っ て、お互いに手
を握り、道の発展のために協力して行きましょう」
 「天国之友」は、惜しくも三号で終ったが、言うならば、先生がこれを出そうと決意した心
は、分会長のあいだの「和」を以て道の発展の先決条件と考えた心に外ならない。

   四十八

 その胸の中に、矛盾を孕んでいない人はない。矛盾こそ人間だと言っていいかも知れない。
とするならば、大きな人物ほど、その胸の中の矛盾も大きいであろう。
 先生も、幾多の矛盾をもっていた。直情怪行、言いたいことを言い、堅物の常として、おか
しくなければ義理にも笑ってやらぬぞというようなところのあった先生だから、そとず〔づ〕
らがいいとは言えない。
 しかし、内面は、もっと手剛く直情的であった。次男の三六ちゃんを亡くしてからは、大分
気持も弱くなったが、それでも家庭では、文字通り「厳父」であった。殊に、夫人にはきびし
かった。
 信者を集めての講話には、「産後の注意すべきこと。一つ、一週間は柔かい食事をとるこ
と。二つ、三週間は寝たり起きたりの程度で、過激な運動は避けるこ と。三つ、七十五日間は
新聞を読んだり、縫いもの等を控えること」などを親切に教えた先生も、夫人には、一週間も
寝させては置かなかった。
 これは、反面、夫人も勝気で、のうのうと寝てはいられない性分であり、寝ていては生活し
て行けなかった経済的な理由もあったかも知れないが、とにかく、先生は家ではきびしかっ
た。
 強い人間であったが、又弱い人であった。気が小さいところもあった。
 殊に、暴力団には、弱かった。晩年、教団が大きくなり、それにつれて暴力団が、事務所に
現われることも多かった。
 そういう時、先生は、Kさんによろしく頼んで、自分は隠れていた。ある時などは、そのK
さんが、階下で暴力団と応待していると、先生は二階から、階下へ向かって、しきりに浄霊を
していた。
 落ちついているように見えて、あわてん坊のところもあった。お茶の作法は、覚えたいとも
思わなかったらしいが、それにしてもカラキシ駄目であった。人には、落ちつけと言っていた
が、先生の心の中には、どうも落ちつけないものが何かあった。
 先生は、神経質な人間が嫌いであった。けれども、先生自身も、多分に神経質なところが
あった。
 「気を利かせよ。気を利かせよ。気をくばれよ」と先生は、いつも言っていた。しかし、先
生でも、気が利かせられないことをした。例えば、戦後、法務府の人が、教団のことを調べる
ために、熱海へ来た。
 その人は、まず、天国会本部へ飛び込んだ。
 夕方になって、食事が出た。
 その人は、役目の性質上、何も食べないでただ林檎をつまみ、紅茶を飲んだだけでやめた。
 その後、その人は、やはり同じ仕事の続きとして、教団の書類を検閲していた。
 ところが、自分の名前が出て来て、「饗応費何円」と記してある。
 一般に、こういう場合ははっきりと書かないものである。それなのに、ここにちゃんと金額
まで明記してある。その人は、ちょっと首をひねった。
 そのずっとあとになって、その人は、こう言っている。
 「たしか、責任者は、先生だった。饗応費いくらと書いて置くなんて、あれは、先生が鷹揚
だったからなのか、それとも信念なのか、性格から来ていることなのか、未だに私にはわから
ない」
 先生は、人の欠点を見つけると、容赦なく、そこを目がけて鞭を振り下した。しかし、先生
自身、欠点の多い人であった。
 ただ、先生のえらかったことは、自分で自分の欠点を十分に知っていたということ、常に反
省したということである。常人にはできない。
 昭和十八年の終わり頃、教勢が下火になって来たことがあった。
 その時も、先生は、
 「私に、何か間違っているところがあるのだろう」と若い助手たちに言った。その反省は、
側で見ていても、痛々しいくらいであった。
 そういう先生であったから、物事の限界ということを知っていた。柄にないことはするな
と、自分にも言い、人にも言っていた。
 ある人が、先生に、
 「私の友人が、二号の問題で、奥さんとごたごたを起していますが、どういうふうに解決し
たらいいでしょうか」と訊いた。
 先生は、真面目な顔をして、
 「君。君は、二号をもったことがあるか」
 「いや。ありません」とその人は答えた。
 すると、先生は、きっぱりと言った。
 「経験のないことは、わからないのだから、余計なことはしないほうがいい」
 だから、先生は、政治的なことは、自分はよくわからないと誰にも言い。そういう話は、全
部適当な人に委せていた。そういう話となると、すぐ、その人のところに駆けつけた。
 先生は、大きな人間であった。だから、大きな矛盾も持っていた。先生は、その矛盾をよく
心得ていた。そこが、えらかった。
 だから、先生が、亡くなったと聞き、弟子たちは、みんな泣いた。棺の前で泣き崩れた一弟
子は、
 「生れて初めてです。あんなに大きな声で泣いたのは。いいえ、声を出さないようにしたい
と思っても、どうにもとまらなっかったのです」と言っていた。
 「えらいこっちゃ。先生が亡くなられた」
 そう言って、涙をポロポロこぼしながら、部屋の隅で、ひとりごとを言っている弟子もあっ
た。
 矛盾はあっても、その矛盾を包んで、先生は、大きく、強く、立派であった。

   四十九

 昭和二十五年、二月四日、これまでの日本観音教団と日本五六七教会を解消して、宗教法人
世界救世教の一体化が実現した。
 そして、教祖の称号の「大先生」は、この時から「明主」と改められた。
 しかし、これより数日早く、一月三十一日の、多分午前一時頃に、先生は急逝された。
 その前日、一月三十日。
 先生は、鎌倉の女弟子の家へ出かけた。長男の誠八郎さんは、この分教会から、東京の大学
に通っていた。
 どういうつもりか、その日の朝、先生は、子供たちに、
 「鎌倉のKさんのところへ行って、みんなで晩のご飯を食べよう」と言った。
 早速、仕度をして、夫人ともども家を出た。列車の中でも、春代ちゃん、光子ちゃん、和子
ちゃんたちは、はしゃいでいた。
 賑やかな一日が暮れた。
 晩のご馳走は、スキ焼きであった。
 しかし、先生はあまり食べなかった。
 食後、気分が悪いと言って、先生は寝ころんで、ラジオを聞いていた。
 その時、先生は、誠八郎さんに、何気ないような顔で、
 「おれは、おまえに出世してくれとは言わない。人から慕われる者になって欲しいと思う
よ」と言った。
 先生は、これを、遺言のつもりで言ったのではないかも知れない。しかし、事実、それは誠
八郎さんばかりでなく、多くの子女への遺言となった。
 「私も、それを遺言と思っています」と誠八郎さんは、その日を偲んで、しみじみと言う。
 まもなく、先生の気分の悪いのも治った。すくなくとも治ってしまったように見えた。
 一行は、その家に下宿している長男だけを置いて、熱海へ帰って来た。家へ入った時は、も
う十時になっていた。
 時刻もおそかったし、寒さが沁みるような夜であったが、先生は、幹部のAさんなどを呼ん
で、いろいろの話をした。好きな蜜柑も随分食べた。
 そして、十二時頃、
 「おれは、もう寝る」と言って、床に入った。
 しばらくたって、夫人は何か胸騒ぎがするので、枕もとのスタンドをつけた。
 先生は、寝ながら、自分の手で自分の頬をなでている。
 (どうもおかしい)
 夫人は、
 「あなた」と呼びかけた。
 しかし、返事はなかった。
 見ると、顔色が普通ではない。
 揺すっても、なんの反応もない。
 夫人は、いそいでベルを押した。
 Aさんが、飛んで来た。しかし、もう目はあかなかった。口もきかなかった。
 大先生も、駆けつけた。
 けれども、その時は既に、心臓も停まってしまっていた。
 あまりに急なことで、誰も時計を見なかった。気がついて、時計を見た時は、長針と短針は
もう二時近くを示していた。

   五十

 父急逝の知らせを聞いて、誠八郎さんは、蒲団の上にぱっと起き上り、
 「馬鹿!」と、大きな声で怒鳴った。
 その声は、まだ明けやらぬ部屋の壁に、不気味にぶつかった。
 昨夜、機嫌よく帰って行った父が、それから僅か数時間後には、もうこの世の人ではなく
なっている。そんなことがあっていいだろうか。
 文字通り、寝耳に水であった。
 「馬鹿!」
 それは、もちろん、父に対して言ったものではなかった。と同時に、自分に対して言ったも
のでもなかった。その他の誰に対して言ったものでもない。
 ただ、何かに向かって、そう怒鳴らずにはいられなかった。
 悲しいというような感じではなかった。くやしいという感じでもなかった。言うならば、憤
懣であった。
 しかし、それを何にぶつけていいのかわからなかった。
 熱海の駅に降りると、熱海の町には、細かい雨がふっていた。
 わが家へ入った。
 しかし、なんという変化であろう。誰も、信じられないと言った表情をしていた。次から次
へと駆けつけて来た人々も、みんな、突然のおどろきのためによう口もきけないという有様で
あった。
 先生の遺体の前で、夫人は、目を赤くしていた。
 昨夜――と言っても、もう十二時過ぎ、寝床に入って煙草に火をつけると、先生は、夫人に
言った。
 「おまえにも随分苦労をかけたが、もうこれからはよくなるぞ」
 夫人は、その言葉を思い出し、幾度も胸の中で噛みしめていた。
 と、急に涙があふれて来た。夫人は、それを押さえるようにして、弔問客に頭を下げた。
 (あの人は、多分今夜、自分が死ぬだろうということを知っていたのだ)
 涙の目で、立ち昇る線香の煙も、霞んで見えた。
 隣の部屋に、声を出して泣き崩れている弟子の一人の姿が見えた。
 葬儀は、四日の立春祭をすませたあと、二月五日に、熱海で執り行われた。
 冷たい霙(みぞれ)が降っていた。
 そして、東京中野の松源寺に葬った。
 この寺は、その門前に石の猿が据えてあるので、俗に猿寺と呼ばれている。
 こうして、東京の各新聞が、「日本観音教団岡田茂吉の高弟没す」と報道したその先生は、
五十一才で地上を離れ、それから五年後、昭和三十年二月十日、七十三才で昇天された教祖
――大先生の露払いとして、天国に赴いたのであった。

   おわりに
 昭和二十四年十一月、湯川秀樹博士は、ノーベル物理学賞を受けた。
 中島先生は、直ちに筆を採って、書いた。
 「湯川博士の湯川粒子発見は、日本はもちろん、全世界の賞賛の的となっている。しかしな
がら、われらはこの発見に対し、反対に恐怖心を増すものである。 なんとなれば、今思い出し
てもぞっとするあの広島や長崎を一瞬にして潰滅させた原子爆弾の大悲劇は、われらの未だ記
憶に新たなるところである。又、最近の ワシントン特電によれば、米国科学専門家達の原爆に
対する研究は、いよいよ進歩し、広島長崎の原爆の数千倍の破壊力を持っているとのことで、
これを聞くに つれ、いよいよ恐怖は募る一方である。又、地球の一角において、これを高度か
ら爆発させたとすると、地球上の生物は全部潰滅せしめ得るそうである。われら は、ここに新
しく中性〔間〕子の発見を聞いて、喜ぶべきか、悲しむべきか、静かに考えなくてはならな
い。ただ、われらが喜ぶべき点は、現代科学が、目に見 えざる世界へ、即ち霊的方面に一歩一
歩前進しつつある事実を証明して呉れていることである」
 その頃の先生の関心は、「世界」にあった。第二次大戦は終ったが、それに続く二大強国間
の「冷たい戦争」は、日とともに激しくなって行く。
 そして、もし、それが何処かで発火し、第三次大戦にまで延焼したら、原爆が使用されたら
――そう考えると、先生は、居ても立っても居られない気持になるのであった。
 「誰しも苦悩のない人はいない。人が信仰するのは、この苦悩から逃れ――換言すれば、不
幸から幸福な者になりたいためである」
 先生は、そう言った。
 しかし、それだけでは済まされない。
 湯川博士の受賞が発表される二カ月前に、先生は、こう言った。
 「いくら自分の家庭、郷土、日本が救われても、原子爆弾による世界戦争が起ったとした
ら、個人の幸福も、日本の幸福もあったものではない。今後は、世界 人類を目標として、もの
を考え、処理して行くべきである。信仰も又、世界人の幸福を祈り、自分の幸福を祈るもので
なくてはならない。個人を離れて世界もな く、世界を離れて個人もあり得ないからである」
 思えば、先生は、日清戦争と日露戦争のあいだの「谷間の平和」とも言うべき明治三十二年
に生れた。
 その翌年、朝鮮に義和団の乱があり、日本は出兵した。
 十五才の時、明治は大正と改元されたが、僅か二年後には、第一次大戦が勃発した。遂に
は、日本もこれに参加、東洋で戦った。
 続いて、昭和六年満州事変が起り、七年に五・一五事件、十一年に二・二六事件と、国内は
騒然たるものがあったが、翌十二年には遂に日華事変が勃発した。
 そして、十四年には第二次大戦の幕が切って落され、十六年十二月八日、日本は列強を向う
に廻して、太平洋戦争の火蓋を切ったが、苦闘四年の後、二十年八月十五日、無条件降伏をし
た。――惨憺たる戦後。
 そうして、先生は、「冷たい戦争」の結果として起った朝鮮動乱の数カ月前、昭和二十五年
一月の終りに没した。
 先生の五十年の生涯は、はっきりと三つの時代に分けることが出来る。
 一つは、海外雄飛の夢を抱いていたが、ついに実現しないで終った青少年時代。
 一つは、生活のためにサラリーマンとなったが、われら如何に生くべきかの問題に悩んだ暗
中模索時代。
 一つは、岡田茂吉なる人物に会い、神を発見して、ひたすらに宗教家としての活動を続けた
時代。
 そして、その最後において、先生は、宗教も、学問も、芸術も、すべて世界人類の福祉に貢
献するものでなければならないこと、世界人類が全部、その手と手 を結び、地球をめぐって
「恒久平和」の輪舞をする日が、必ず到来することを信じて目を閉じた――と言っては当らな
いであろうか。
 昭和二十六年十月三日の栄光に載せられた大先生(この時は、明主と改称されていた)の
「世界人たれ」を、ここに謹んで転載させていただく。日本観音教時代既に世界宗教を期して
いた中島一斉先生を偲びながら――

 「これからの人間は、世界人にならなければ駄目だ。これについて面白い話がある。
 終戦直後、ある軍人上りの人が私のところへ来て、憤懣(ふんまん)に堪えない面持(おも
もち)で“今度の降伏はどう考えても分らない”と言って、憤慨し ながら話かけるのだが、私の
方はサッパリ気が乗らないので、彼は呆れたらしく“先生は日本人ですか”ときくから、即座に
私は“日本人じゃない”と答える と、彼はギョッとして、震えながら“ではどこの国の人間です
か”ときき返すので、私は言ってやった。“つまり世界人なんですよ”その言葉に、彼はポカンと
気の抜けたような顔をして、その意味の納得のゆくまで説明してくれろと言うので、私も色々
話してやったが、今それを土台にしてかいてみよう。
 元来日本人とか、支那人とか言って、差別をつけるのが第一間違っている。あの頃の日本人
がそれで、日清、日露の二回の戦役に勝ち、急に一等国の仲間入り をしたのでのぼせ上り、日
本は神国なりなどと、何か特別の国のように思ったり、思わせたりして、ついにあのような戦
争まで引き起したのである。
 そんな訳だから、他国民を犬猫のように侮蔑し、その国の人間を殺すなど何とも思わず、思
いのままに他国を荒し廻ったので、ついに今日のような敗戦の憂き 目を見る事になったのであ
る。そのように自分の国さえよけりゃ、人の国などどうなってもいいというような思想がある
限り、到底世界の平和は望めないのであ る。
 これを日本の国だけとしてたとえてみても分る。ちょうど県と県との争いのようなものとし
たら、日本内の事であるから、言わば兄弟同士の食(は)み合いで、簡単に型〔片〕がつくに
決っている。この道理を世界的に押し拡げればいいのである。
 かの明治大帝の御製にある有名な“四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世に、など
波風の立ち騒ぐらむ”すなわちこれである。みんなこの考えにな れば、明日からでも世界平和
は成立つのである。全人類が右のような広い気持になったとしたら、世界中どの国も内輪同士
という訳で、戦争など起りよう訳がな いではないか。
 この理によって今日でも何々主義、何々思想などといって、その仲間のグループを作り、他
を仇(かたき)のように思ったり、ヤレ国是だとか、何国魂とか、 何々国家主義だとか、神国
などと言って、一人よがりの思想が、その国を過(あやま)らせるのみか、世界平和の妨害と
もなるのである。
 だからこの際少なくとも日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、今までの
小乗的考えを揚棄(ようき)し、大乗的考えになる事である。これが今後の世界における、最
も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである」

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 中島一斉先生とそれぞれの因縁を結ばれておられる多くのかたがたに御会いし、一カ年に
亘って口述筆記したものを土台として、この本が出来上がったわけですが、聞きちがいや表現
のつたなさから、先生の真の姿を誤り伝えているところがあるかもしれません。
 もしそういうところがあるならば、その責任はすべて筆者である私にあります。口述してく
ださったかたがた、この本の中に登場するかたがたに深く御詫びします。
                  麻生 鋭
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中島一斉先生
――その信仰と生涯――

昭和36年 8月20日 印刷
昭和36年 8月30日 発行

著 者  麻生 鋭

印刷人 森山実太郎

発行所 熱海商事株式会社刊
  ¥200

rattail(注)
 本書に引用の御論文「世界人たれ」は少し手が加えられています。ほとんど問題とするに当らないと
ころですが、最後の一文が省略されていますので、ここに掲載します。

 「話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥
など作るのは、最早時代遅れである。ところが自慢じゃないが本教 である。本教が他の宗教に
対して、触るるな〔な〕どというケチな考えはいささかもない。反って触るるのを喜ぶくらい
である。というのは本教は全人類を融和 させ、世界を一家のごとくする平和主義であるから
で、この意味において、本教ではいかなる宗教でも、仲間同志と心得、お互いに手を携え、仲
良く進もうとす るのである。」

 また中島先生の訃報に触れられた際の明主様のお言葉が残っています。
  〔​中島氏帰幽に関するお言葉​ 、S25. 2.**、岡田茂吉全集 講話篇 3-345〕

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