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文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業

日本仏教の通時的・共時的研究
―多文化共生社会における課題と展望―

2015 年度~2019 年度

龍谷大学アジア仏教文化研究センター
Research Center for Buddhist Cultures in Asia

2015 年度 研究報告書
序文 <プロジェクトの総括と展望>

龍谷大学アジア仏教文化研究センターは,龍谷大学世界仏教文化研究センターの傘下に

ある研究組織として,2015 年度から 2019 年度にかけての計 5 ケ年にわたって,研究プロジ

ェクト「日本仏教の通時的・共時的研究―多文化共生社会における課題と展望―」を遂行

することになった。

本研究プロジェクトは,龍谷大学が寛永 16 年(1639)に建学されて以来,376 年かけて

培ってきた日本仏教研究の成果を基盤に据え,さらにこれを通時的かつ共時的面より推進

し,国際的な研究視野に立った日本仏教の総合的研究を多角的かつ複合的に進展せしめよ

うとするところに特色を有している。

このため本研究プロジェクトでは,全体を通時的研究グループと共時的研究グループに

大きく二分し,さらにそれぞれに 2 ユニットを配した。すなわち,通時的研究グループ 1

にはユニット A「日本仏教の形成と展開」ならびにユニット B「近代日本仏教と国際社会」

の 2 ユニットを立て,また共時的研究グループ 2 にはユニット A「現代日本仏教の社会性・

公益性」ならびにユニット B「多文化共生社会における日本仏教の課題と展望」の 2 ユニッ

トを設置した。そして,これら 4 ユニットのもとに計 9 にのぼるサブユニットを立て,伝

統を踏まえた個々の基礎研究が相互に影響しあいながら複合的に進展することによって,

最終的には多文化共生下における現代社会が抱える諸課題の解決と今後の日本仏教の進む

べき道を探求しようとして,初年度(2015 年度)の諸研究を進めてきた。

2015 年度の諸研究については,各ユニット各サブユニット別に進捗状況や研究成果を整

理したものを添付しているが,今年度の特色は一言で言って,各サブユニットで行なわれ

た調査を含む基礎研究を,シンポジウム・講演会・ワークショップ・セミナー等を通して

公開かつ進展させた点にある。主な点を記すと以下のようになる。

グループ 1 ユニット A サブユニット 1 では,龍谷大学所蔵の文明二年本『教行信証』の

調査研究を核に据えつつ,さらに浄興寺本・中山寺本・大谷大学本等の調査ならびに複写

収集を合わせて行い,これらの写本データ等の研究報告を行なう研究会を複数回,行なっ

た。将来的に本サブユニットでは,各種写本の系統・流伝ならびに思想的意義を明らかに

i
しようとしているが,その過程で日本の各種の浄土教との比較や交渉をとおした検討も加

味された親鸞浄土教の解明が進められるものと期待されている。また,グループ 2 のユニ

ット A・B の研究進展においても,本サブユニットの研究進展は大きな影響を持つものと期

待される。

グループ 1 ユニット A サブユニット 2 では,天台・法相・華厳に関する論義研究のセミ

ナーが開かれて基礎研究部分の充実がなされたと同時に,響都ホールを会場にした文化講

演会「聖地に受け継がれし伝灯の行」(全 3 回)および深草学舎和顔館を会場にした学術講

演会「華厳経と毘盧遮那仏」(3 講演)が開催され,社会還元型の研究進展も示された。ま

た,比叡山の植生に関する生態学的な予備調査も行なわれ,広く南都学北嶺学を研究する

流れが作られている。将来的に本研究班では,教学研究を核とする狭義の南都学北嶺学の

みならず,儀礼・芸能や植生にまでもおよぶ広義の南都学北嶺学研究の進展が計画されて

おり,日本仏教の原点といってよい南都・北嶺の仏教の解明が,現代日本仏教の諸課題を

解決する一助になるのではないかと期待されている。

グループ 1 ユニット A サブユニット 3 では,本学古典籍デジタルアーカイブの協力のも

と,『混一疆理歴代国都之図』や仏教系世界図のデジタル復元・公開に向けての複合型研究

が着々と進められている。特に 2015 年度は,台湾の中央研究院ならびに故宮博物院での調

査研究が行なわれ,中近世の「仏教的世界観の変遷」が次第に明確になりつつある。これ

らの研究の進展によって,中近世の日本仏教に与えた影響も明確になるものと思われ,将

来的には大谷光瑞の思想と事業の再検証を行なうグループ 1 ユニット B サブユニット 3 を

初めとする各サブユニットとの複合型研究の進展も期待されている。

グループ 1 ユニット B サブユニット 1 では,明治仏教の国際化について研究が行なわれ

ているが,なかでも『亜細亜之宝珠』の研究が,その中核をなす。本誌は,本学の前身で

ある普通教校の学生・教職員が設立した「海外宣教会」発刊の書籍であり,そこに当時の

国際化の波の中にある日本の仏教者の心情・見解が認められる。この研究は,グループ 1

ユニット A サブユニット 1 やグループ 2 ユニット A・B 等とも相互に影響しあうものであ

り,今後の複合型研究の進展が期待される。

グループ 1 ユニット B サブユニット 2 では,十五年戦争期における日本の仏教者の活動

についての研究が進められているが,2015 年度は特に龍谷大学アジア仏教文化研究叢書の

創刊号となる,『資料集・戦時下「日本仏教」の国際交流<編集復刻班>』
(不二出版)を

ii
刊行した。叢書刊行を企画したのは,本研究プロジェクトの成果を文字にして広く世に残

すためである。今後,このような取り組みが複数サブユニットにおいてなされることが期

待されている。なお,本サブユニット 2 ではこのような叢書の刊行を今後も複数企画して

いるが,同時に他のサブユニットとの複合型研究も計画されており,明治・大正・昭和に

およぶ日本仏教研究の進展が大いに期待されている。

グループ 1 ユニット B サブユニット 3 では,


『大谷光瑞全集』や雑誌『大乗』などの記述

を中心に,大谷光瑞の思想と具体的事業の研究が進められている。大谷光瑞は大谷探検隊

を初めとする諸事業を行なったことで世に広く知られている人物であるが,
『大谷光瑞興亜

計画』には「熱帯農業」に関する事業も記載されている。そこで,本サブユニットでは 2015

年度,
「大谷光瑞における仏教と農業の関係」を明らかにすると共に,同書掲載の農法が現

代においても意味あるものか否かについて,現代の農業研究者による実験結果に基づく検

証報告を行なった。龍谷大学は 2015 年度より農学部を開部したが,本サブユニットの取り

組みは,他の学問分野をも取り込むあり方をすでに示しており,今後の研究進展が期待さ

れると共に,他サブユニットとの複合型研究による新たな研究進展が期待されている。

グループ 2 ユニット A サブユニット 1 では,日本仏教の持つ社会性・公益性についての

研究が進められているが,特に 2015 年度は各宗派の研究機関の研究者が現代的諸問題(震

災・自死など)にどのように対応しているかについての実態調査を進めた。将来的に本サ

ブユニットでは,日本伝来以来 1400 有余年の歴史を有する日本の仏教が,現代的諸問題に

対していかなる社会性・公益性を有するか,いかなる行動を起こせるか否かを明らかにし

ようとしており,グループ 1 での研究実績を有意義に応用しつつ,他サブユニットとの複

合型研究によって新たな研究成果を得ることが期待されている。

グループ 2 ユニット A サブユニット 2 では,国際的視野から見た日本仏教の研究が長期

的視野のもと,進められている。特に 2015 年度は,タイ仏教界が青少年の道徳改善に対し

て行なった取り組みが報告され,それに基づくタイ仏教者の日本での諸活動や将来展望に

ついてのディスカッションがなされた。また,韓国仏教界の比丘尼組織の活動調査報告や,

米国バークレーIBS におけるエンゲイジド・ブディズムに関するワークショップも行われた。

これら現代における諸課題を国際的な広い視野から検討することは,将来的には「日本仏

教の活性化」をうながすことにもつながり,他のサブユニットとの複合型研究による新た

な知見の獲得が,大いに期待されている。

iii
グループ 2 ユニット B では,多文化共生が求められる現代社会において日本仏教が直面

する課題を明らかにするための諸研究が進められており,特に 2015 年度は宗教間対話をテ

ーマとしたシンポジウム等が開催された。現代の日本仏教は,伝来以来 1400 有余年の歴史

の上にあるが,その日本仏教が国際化していく中で現在,さまざまな課題に直面している。

将来的に本サブユニットでは,仏教のもつ普遍性を「宗教的真理の多義性」と「信仰の多

様性」といった視点から再検討し,多文化共生社会における宗教間の相互理解の可能性を

明らかにしつつ,宗教間教育,さらには現代日本仏教とジェンダーに関する研究を進めて

いく。その過程で,他サブユニットとの複合型研究による進展が期待されている。

以上のように,2015 年度に行なわれた各サブユニットの取り組みは,すべて本研究プロ

ジェクト「日本仏教の通時的・共時的研究―多文化共生社会における課題と展望―」のテ

ーマに基づくものであり,その研究の目的は鮮明である。また,将来的な複合型の研究の

進展を促す要素がすでに種々散見され,個々の研究だけではおよびもつかない新たな研究

領域が見え始めている。総勢 46 名にもおよぶ多種多様な研究領域を有する研究者の基礎研

究が各サブユニット研究を通して複合的に進展し,ついには新たな日本仏教のすがた,そ

して今後の日本仏教の方向性が明瞭になれば幸いである。

龍谷大学アジア仏教文化研究センター

センター長 楠 淳證

iv
目次

序文 <総括と展望>
楠 淳證 ....................................................................................................................................... i

第1部 研究進捗状況

1-1 プロジェクト全体
楠 淳證 ...................................................................................................................................... 3
1-2 グループ 1 ユニット A(日本仏教の形成と展開)
杉岡孝紀 ...................................................................................................................................... 5
1-3 グループ 1 ユニット B(近代日本仏教と国際社会)
三谷真澄 .................................................................................................................................... 13
1-4 グループ 2 ユニット A(現代日本仏教の社会性・公益性)
若原雄昭 .................................................................................................................................... 17
1-5 グループ 2 ユニット B(多文化共生社会における日本仏教の課題と展望)
那須英勝 .................................................................................................................................... 24

第2部 ワーキングペーパー

2-1 研究論文
大正期台湾布教の動向と南瀛仏教会
中西直樹 .............................................................................................................................. 29

2-2 調査報告
『教行信証』に関する調査報告(2015 年度)
杉岡孝紀,川添泰信,玉木興慈,高田文英..................................................................... 51
世界最古の世界地図『混一疆理歴代国都之図』と日本
村岡 倫 ................................................................................................................................ 59

2-3 講演概要
天台論義の基礎と文献
藤平寛田 .............................................................................................................................. 220
イスラーム思想と仏教思想の対話の可能性―四聖諦を手がかりにして―
アボルガセム・ジャーファーリー ................................................................................ 69
Religious Diversity behind Barbed Wire: Japanese American Buddhism and Christianity in the WWII
Incarceration Camps in the U.S.
ダンカン・ウィリアムズ .................................................................................................... 85

2-4 2015 年度公募研究成果論文


栄西の大師号要請について
吉岡 諒 .............................................................................................................................. 172
最澄・玄叡の因明理解とその背景
―平安時代初期における報仏常無常の論争を通して―
吉田慈順 .............................................................................................................................. 154
青少年の倫理問題に答えるタイ仏教―「V-Star」プロジェクトを一例として―
K.プラポンサック .............................................................................................................. 103

刊行物案内(2015 年度) ..................................................................................................................... 221


凡 例

以下の進捗状況の記入に際しては,下記のガイドラインに沿って作成した。

(1)
・ 「プロジェクト全体の研究内容」には,文部科学省「私立大学戦略的研究基盤形成支
援事業」構想調書様式Ⅲ-1「①研究分野」「③期待される成果又はその公表計画」
とⅢ-2 の冒頭のプロジェクトの部分を記入する。
・「プロジェクトにおけるユニットの研究内容」には,調書様式Ⅲ-1「②研究内容」
とⅢ-2「全年度に亘る」の当該ユニットの部分を記入する。


(2)「平成 27 年度のプロジェクト全体の具体的な研究内容」には,調書様式Ⅲ-2「年度
別の具体的な研究内容( 【平成 27 年度】部分)
」を記入する。
・「平成 27 年度のユニットの具体的な研究内容」には,調書様式Ⅲ-2「年度別の具体
的な研究内容( 【平成 27 年度】の当該ユニット部分)」を記入する。

(3)
・「平成 27 年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等」においては,上記(2)の各内
容に対応させ,どの程度,進捗・達成したのか箇条書きで記述する。
・プロジェクト全体の<研究総会その他の活動一覧>においては,ホームページ掲載
の基本情報(開催日時・場所・参加者)のみを挙げる。
・各ユニットの<上記(2) 「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>においては,
上記(2)の各内容に対応させ,どの程度,進捗・達成したのか箇条書きで記述す
る。
・<ユニット研究会一覧>には,ホームページ掲載文の基本情報(報告題目・開催日
時・場所・報告者・参加者・コメンテーター等)のみ記入する。
・<ユニット関係ワーキングペーパー一覧>においては,ホームページ掲載文の基本
情報(年度 No.・執筆者・タイトル報告題目等)のみ記入する。
・<ユニット研究において協力を得た学外機関・研究者一覧>においては,研究会招
聘・調査先(調査一覧の当該 No.も明記)等の別を記入する。
・<研究費(個人分担金含む)による調査一覧>においては,調査期間・内容・研究
員名のみ記入する。
平成 27 年度 プロジェクト全体 研究進捗状況

楠 淳證(センター長,龍谷大学文学部教授)

(1)プロジェクト全体の研究内容
(調書様式Ⅲ-1「①研究分野」 「③期待される成果又はその公表計画」とⅢ-2の冒頭のプ
ロジェクトの部分)
調書様式Ⅲ-1「①研究分野」
本プロジェクトは,日本仏教をアジアを中心とした世界的視野の中で包括的に解明することを目
的としており,また仏教自体の本来的なあり様がそうした総合的なアプローチを不可避なものとし
ているため,参加研究者も多彩であり,その分野も多岐に亘る。日本仏教そのものを主として史資
料によって研究する真宗学・仏教学・仏教史学を初めとして,アジア諸地域に関わる歴史学,仏教
美術・建築などの造形的側面からアプローチする仏教図像学,現地調査に基づき宗教の現状を明ら
かにする社会学・文化人類学,更には寺院をとりまく自然環境を史資料との関係において解明する
植物生態学にまで及んでいる。人文科学・社会科学・自然科学の異なる分野に属する研究者が交流
を深め,文理融合的な新たな視点を獲得し得る場を提供することにより,実りある独自の研究の遂
行を可能とするところに,本プロジェクトの特色が存在する。

調書様式Ⅲ-1「③期待される成果又はその公表計画」
仏教が我が国の歴史と文化において担ってきた重要な役割を検証し,その社会性・公益性を明ら
かにすることは,現代日本社会の切実な諸課題への対応を考える際に,一定の有効な示唆を与えう
る。また海外の日本仏教研究者・研究機関との連携において行われる本プロジェクトは,日本仏教
研究の国際化の推進と,日本仏教さらには日本そのものの国際発信にも大きく寄与するものと信じ
る。
研究の成果は,国際・国内シンポジウム(各年度それぞれ1回開催) ,ワークショップやセミナー
(各年度に複数回開催) ,ワーキングペーパー(ウェブサイトに各年度 10 本程度掲載) ,研究報告書
(年 1 回刊行)
,ニューズレターBuddhist World(年 2 回刊行)
,ウェブサイト(随時更新)などの形
で公表する。更に,龍谷ミュージアムと連携し,常設展・特別展にかかわる企画立案に参画する。
なお,プロジェクトの達成度などを検証するために,本学に設置されている「研究評価委員会」に
おいて学内外有識者により中間及び事後の外部評価を受けることが定められている。

調書様式Ⅲ-2(平成27年度欄の初め)部分
本研究プロジェクトの主体となる研究組織「アジア仏教文化研究センター」 (BARC)が,平成 27
年度発足の新たな全学的仏教研究拠点たる龍谷大学「世界仏教文化研究センター」の傘下に置かれ
ることに伴い,新たな組織と研究体制に即した研究スペースを確保し合理的に配置するため,大宮
学舎白亜館の 3 階・4 階を改修し,効果的に共同研究を進めるための研究室を整備する。
また,次世代の研究者を育成するために,各グループに博士研究員を 1 名ずつ計 2 名,研究遂行
を支援するスタッフとして各グループにリサーチ・アシスタント 1 名ずつ計 2 名を採用する。

(2)平成27年度のプロジェクト全体の具体的な研究内容
(調書様式Ⅲ-2「年度別の具体的な研究内容【平成27年度】部分)」 )
【プロジェクト全体の計画】
1) 海外研究機関との共同研究体制を整備する。
2) 研究総会と個別研究会を開催する。
3) 海外及び国内でのフィールドワークを実施する。
4)「多文化共生社会における宗教間対話(Inter-faith Dialogue)」をテーマにした国際シンポジウムを
開催する。
5)バークレーIBS においてエンゲイジド・ブディズムをテーマとしたワークショップを開催する。
6) 公募研究事業を開始し,国内外から研究者を募る。

3
7) ウェブサイト運営とワーキングペーパーを掲載し,ニューズレターBuddhist World 及び研究報告
書を刊行する。
8)龍谷ミュージアム春季特別展「聖護院門跡の名宝」および同企画展「玄奘三蔵 三蔵法師がやっ
てきた」 (仮)の企画運営に協力する。

(3)平成27年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等(ユニット固有の活動は除く)
<上記(2) 「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>
1) ハーバード大学ライシャワー研究所との長期的な研究協力関係を結び,特に平成 30 年度内には
同研究所にて日本仏教をテーマとしたシンポジウムを共同で開催することとなった。
2) 研究総会を 2 回開催し(活動一覧①,②) ,個別研究会を開催した(※各ユニットの進捗状況を
参照)。
3) 海外及び国内でのフィールドワークを実施した(※各ユニットの進捗状況を参照) 。
4)「多文化共生社会における宗教間対話(Inter-faith Dialogue)」をテーマにした国際シンポジウムを
開催した(※グループ 2 ユニット B の進捗状況を参照) 。
5)バークレーIBS においてエンゲイジド・ブディズムをテーマとしたワークショップを開催した(※
グループ 2 ユニット A の進捗状況を参照)。
6) 公募研究事業を開始し,本年度は 3 名の公募研究員を採用した(吉岡諒,吉田慈順,K.プラポン
サック)。
7) ウェブサイトを新たに構築・公開し(http://barc.ryukoku.ac.jp/),同サイトにワーキングペーパー
等を掲載した。また,ニューズレターBuddhist World および平成 27 年度の研究報告書を刊行した。
8)龍谷ミュージアム春季特別展「聖護院門跡の名宝」および同企画展「三蔵法師 玄奘 迷いつづけ
た人生の旅路」の企画運営に,プロジェクト研究員が協力した。

<上記(2)以外でプロジェクト全体として新規に実施した研究内容の進捗状況及び達成度>
 大宮学舎白亜館の 3 階・4 階を改修し,本プロジェクトの共同研究を効果的に進めるための研究
室を整備した。
 次世代の研究者を育成するために,本プロジェクトの各グループに博士研究員を 1 名ずつ計 2
名,研究遂行を支援するスタッフとして各グループにリサーチ・アシスタント 1 名ずつ計 2 名
を採用した。

<問題点(実施できなかった研究を含む)>
 特になし。研究計画どおりの事業が実施された。

平成27年度プロジェクト全体に関する研究活動の根拠データ

<研究総会その他の活動一覧>
①2015 年度 第 1 回 研究総会
■開催日時:2015 年 9 月 24 日(木)18:15~20:10
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■参加者 :22 人

②2015 年度 第 2 回 研究総会
■開催日時:2016 年 3 月 16 日(水)14:00~16:20
■場所 :龍谷大学大宮学舎南黌 202 教室
■参加者 :26 人

4
平成 27 年度 グループ 1 ユニット A 研究進捗状況

杉岡孝紀(ユニットリーダー,龍谷大学農学部教授)

(1)プロジェクトにおけるユニットの研究内容
(調書様式Ⅲ-1「②研究内容」とⅢ-2「全年度に亘る」の当該ユニットの部分)
調書様式Ⅲ-1「②研究内容」
グループ 1 ユニット A は,古代から近世に至る日本仏教の特殊性・普遍性について思想・儀礼・
世界認識などの観点から包括的に分析することで,東アジア仏教圏のなかに日本仏教を位置づける
ことを目的とする。特に本センターおよびプロジェクトの基幹的理念である建学の精神「浄土真宗
の精神」を基軸としつつ,日本仏教の思想基盤というべき南都・北嶺に展開した仏教を多面的・総
合的にとらえる「南都学」・「北嶺学」の構築を目指すとともに,前近代日本における仏教的世界
観を解明する。

調書様式Ⅲ-2「全年度に亘る」 (平成27年度欄の初め)部分
グループ1ユニット A「日本仏教の形成と展開」
本ユニットは,古代から近世に至る日本仏教の特殊性・普遍性について思想・儀礼・図像・歴史・
地理・環境などの多様な観点から包括的に分析することで,東アジア仏教圏のなかに日本仏教を位
置づけることを目的とする。特に本センターおよびプロジェクトの基幹的理念である建学の精神「浄
土真宗の精神」を基軸としつつ,日本仏教の思想基盤というべき南都・北嶺に展開した仏教を多面
的・総合的にとらえる「南都学」 ・「北嶺学」の構築を目指すとともに,前近代日本における仏教的
世界観を解明する。本ユニットは以下の 3 つのサブユニットから成る。

サブユニット 1 では,建学の精神である浄土真宗を開顕した親鸞浄土教に関し,その思想が最も
体系的にあらわされた『教行信証』の研究を行う。これは川添・杉岡・玉木・高田(文)による浄
土真宗ならびに親鸞に関する一連の研究成果を活用して推進されるものである。
我が国における仏教研究は,今日,仏教諸宗派の伝統的な宗学と明治以降の近代的な仏教学との
緊密な連携により,新たな地平を開こうとしている。親鸞浄土教の研究もまた,近代以降,一宗派
内の研鑽という枠組みを超えて,歴史学・哲学・文学など幅広く諸の学問領域から関心が寄せられ
て研究が進められ,多くの成果が提出されてきた。一方で,実証的な親鸞研究によって,実に多様
な親鸞像が語られるようにもなった。
そうした中で,本学の真宗学は伝統的な宗学における訓詁註釈的研究の膨大な業績を批判的に継
承しつつ,文献学的方法を援用することによって親鸞浄土教の研究を進め,主体的かつ客観的に親
鸞が体験し開顕した仏教,浄土真宗の真理性を探究してきた。本サブユニットは,こうした研究方
法とその成果を十分に踏まえ,親鸞の主著『教行信証』を研究するものである。
『教行信証』研究において,近年,注目されるのが,東・西本願寺と高田専修寺を中心に,本書
の書誌学的研究に関する最新の研究書の出版が相次いだことで,親鸞浄土教の解明に大きく寄与す
るものとなっている。しかしながら,未だ明らかでない問題も多く,本書古写本の伝承に関する研
究は十分でない。また本書の文献解釈学的な研究も,なお発展途上の段階である。そこで本サブユ
ニットでは,本書の貴重な古写本である本学図書館所蔵の文明二年本を中心に据えて,同本の系統・
流伝等を明らかにするとともに, 『教行信証』の思想的意義の更なる解明に向けた総合的な視野から
の研究を行い,その成果を公刊する。

サブユニット 2 では,
「写字台文庫」
(西本願寺第 23 世門主大谷光照師からの基金によって収集さ
れた資料からなる貴重書の宝庫)など古代・中世から近世にいたる貴重な古典籍群を有する龍谷大
学図書館所蔵文献などの古写本資料を中心に,南都と北嶺における仏教教理・儀礼・図像・歴史・
地理・自然環境等の総合的検討を通して,現代に続く日本仏教の「学問知」の形成と展開を明らか
にする。楠・藤丸による南都諸寺所蔵写本類の研究,道元による叡山浄土教研究,土屋による叡山
植生の研究,長谷川の中国唯識研究,蓑輪による教理と儀礼両面からの日本仏教研究,宮治・入澤
による図像学研究,の成果を活かして遂行される。

5
長きにわたる本学の仏教学研究は,倶舎学・唯識学・華厳学・天台学という枠組みのなかで,豊
富な収蔵資料をもとに展開されてきた。この伝統の上に立ち,「南都学」「北嶺学」の名のもと,新
たな視点に立って研究を再構築・新展開させるべき時期にきている。
具体的には,朝廷や貴族によって主催された儀礼空間である「論義法会」に着目し,そこで展開
された「法相」
「華厳」「天台」
「律」の各宗における教理問答の実態について,従来十分に解明され
てこなかった古写本資料の翻刻・解読研究を中心とする。なかでも諸宗の教学交渉・論争などによ
って構築された共時的な教理思想の形成や,南都・比叡山という地勢学的な位置づけについても留
意し,多面的・総合的な考察を行う。とくに比叡山については,貴重な原生林が残り歴史的にも山
林の保全が行われてきたが,それらの植物生態学的な解明は比叡山に伝存する植栽関連文書との関
係のなかで明らかにすることが可能である。そうした文理融合的な視点を加味した研究を推進する。

サブユニット 3 では,仏教系世界図と『混一疆理歴代国都之図』(以下,
『混一図』と略する)に
基づき,仏教的世界観から現実の世界像認識への道程について検証する。村岡・渡邊による一連の
『混一図』研究の成果が活用されることとなる。
本学図書館に所蔵される,15 世紀に李氏朝鮮で作製された『混一図』は,現存する最古の世界地
図の一つであるが,東アジアではそれより古くから仏教的世界観を表す世界図が作られていた。そ
のような仏教系世界図は,現実の世界像が知られてくるようになると,図の中に部分的であるが,
それが反映されるようになり,ついには現実の世界をほぼ正確に表す地図が登場してくる。『混一図』
は,仏教系世界図が現実世界の地図に移行する最初期の地図という側面もあり,両者のかかわりは,
それらが伝わった近世以降の日本においても大きな課題であった。こうした課題をふまえ,本サブ
ユニットでは,両者の比較検討を行い,地図に表された仏教的世界観から現実の世界像認識への道
程を検討する。なお,デジタルアーカイブの協力の下に『混一図』をはじめとする古地図の高解像
度のデジタル画像を作成し,研究を進めるとともに,成果の公開を図る。

(2)平成27年度のユニットの具体的な研究内容
(調書様式Ⅲ-2「年度別の具体的な研究内容(27年度の当該ユニット部分)」)
【グループ1ユニットAの計画】
本学図書館所蔵の『教行信証』(文明二年本)の調査と,諸写本(真宗寺本・中山寺本・寿福院本
等)の収集を行う(サブユニット 1)
。「法相」「華厳」「天台」
「律」の各宗教義に関する論義資料に
ついて,特に本学所蔵文献の調査・翻刻解読研究を実施するとともに,論義法会の儀礼・空間に関
する研究会を開催する。比叡山の植生に関する生態学的な予備調査を行い,叡山文庫所蔵の植栽関
連文書の調査を開始する(サブユニット 2)。本学古典籍デジタルアーカイブ研究センターの協力の
もとに,『混一図』や仏教系世界図のさらなる鮮明化に努め,デジタル復元を行う(サブユニット 3)

(3)平成27年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等(プロジェクト全体に関わる活動は除く)
<上記(2)「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 1)
 本学図書館所蔵の『教行信証』(文明二年本)の調査を行った。この「文明二年本」は本学貴重
資料データベースでも公開されていない資料であるため,先行研究は極めて少ない。そこで,
今回の調査・研究のため,マイクロフィルムから紙焼して製本を行った。
 諸写本(真宗寺本,中山寺本,寿福院本等)の収集を行った。新潟県浄興寺蔵室町初期書写本,
大谷大学蔵室町中期本,延文五年本,文安六年本,室町末期本,中山寺蔵本(性海の奥書あり),
(性海の奥書なし)の二本,岸部氏所蔵本をそれぞれ現地調査し,資料収集を行うことができた。
(サブユニット 2)
 「法相」「華厳」「天台」「律」の各宗教義に関する論義資料について,特に本学所蔵文献の
調査・翻刻解読研究を実施することについては,各研究員による資料の調査・収集が開始され,
研究に向けた諸準備が着々と整いつつある。また,北嶺学の中で重要な位置づけを閉める恵心
教学をより正確に詳しく研究するために,本学所蔵の『阿弥陀経略記』のテキスト校訂本を作

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成する諸準備を進めており,平成 29 年度末には刊行を予定している。
 論義法会の儀礼・空間に関する研究会を開催した。1 回目は「天台」を中心に,2 回目は「法相」
「華厳」をテーマとした(研究会一覧③,④)。各論議に関する文献の特徴と扱い方,研究課
題が確認されるとともに,教学史・思想史的な観点からの新たな解釈について検討された。そ
こで問われた重要な論点については,次年度に開催予定の研究会および国内シンポジウムにお
いて,さらに詳細な検討が行われる見込みである。なお,「天台」の研究会については,その
成果をワーキングペーパーとしてまとめた(ワーキングペーパー一覧③)。
 比叡山の植生に関する生態学的な予備調査として,比叡山の横川から東塔にかけて現地調査が
行われた。比叡山の特色であるブナやナラの原生林が数箇所に残っていることが,今回の調査
により新たに確認された。これにより,比叡山が深遠な仏教思想と雄大な森林の両者を同時に
保ってきた,歴史と仏教文化の根付く土地であることが再確認された。
 叡山文庫所蔵の植栽関連文書の調査に着手した。『叡山文庫文書絵図目録』には約 32,000 点の
文献が挙がり,その中に植栽関係の文書が少なからず見つかってきた。これらの文書の解読を
今後行うことで,比叡山の植物生態学的な解明につながり,また「北嶺学」の儀礼空間として
の歴史・地理・自然環境の総合的検討が可能となってくる。
(サブユニット 3)
 本学古典籍デジタルアーカイブ研究センターの協力のもとに,『混一図』や仏教系世界図のさ
らなる鮮明化に努め,デジタル復元することについては,高解度のデジタル画像の作成・研究・
公開に向けた諸準備が整いつつある。

<上記(2)以外でユニットとして新規に実施した研究内容の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 1)
 調査報告を目的とした 2 回の研究会を行い(研究会一覧①,②),その成果をワーキングペーパ
ーにまとめた(ワーキングペーパー一覧①)。『教行信証』の書誌学研究は,坂東本・西本願
寺本・専修寺本の鎌倉三本を中心に進められてきたが,それ以降の写本の流伝研究は十分にな
されてきていない。しかし今回の調査と研究会により,これまで解明されてこなかった「文明
本」の位置づけを推定することがある程度可能となり,さらに親鸞の門弟に『教行信証』がど
のように伝承されたのかという問題についても,新たな知見を共有することができた。
 「文明本」の流伝と資料的位置づけをさらに研究するにあたり,鎌倉三本のうち親鸞自筆本で
ある「坂東本」の調査・研究を行ってきた 2 名の研究者を招聘して,学術講演会を開催した(研
究会一覧⑦)。これまで不明であった「坂東本」に見られる刀子を使用した角筆による角点の
意義などについて,多くの知見を得ることができた。また,「坂東本」が親鸞とその門弟にと
ってどのような位置づけを持つものであったのかに関して,新たな視点が提示された。
(サブユニット 2)
 南都の東大寺・興福寺・薬師寺に所蔵される中世古写本の研究論文・研究書の刊行に向け,資
料収集などの諸準備を開始した。これは南都学・北嶺学の教理と儀礼の基礎研究として期待さ
れるものである。
 南都・北嶺の地勢学的な位置づけに留意した多面的・総合的研究を進めるなか,全 3 回の文化
講演会を開催した(研究会一覧⑤,⑥,⑨)。北嶺の仏教は,南都と同様,教学と行の融合あ
るいは一致を説いている。その歴史と現状を把握するために,実際に山で行を修めた経験者お
よび山の教学を新展開させた研究者を招き,講演会を開催した。これにより,北嶺学の持つ共
時的・通時的意義を「学問知」の観点より明確化することができ,さらに研究成果の社会還元

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も行うことができた。
 南都・北嶺の仏教に関する図像学的研究の一環として,日本の「華厳」美術のルーツをなす,
東アジアの仏像や仏教文化,および華厳経の成立経緯に詳しい研究者らを招聘し,学術講演会
を開催した(研究会一覧⑧)。それにより,南都・北嶺の仏教美術の性格が,アジアにおける
仏教の展開と密接に関連していることが,関連の経典や仏像についての詳細な分析を通して明
確になった。こうした知見を踏まえ,次年度においては,日本の「華厳」美術をテーマにした
研究を行い,また公開の講演会を開催していく。
( サ ブ ユ ニ ッ ト 3)
 仏教世界地図の中に反映された現実の世界地図の影響の解明を課題とし,諸研究を参考にして
情報収集を行い,『混一図』との関連を考察するための準備を行った。また,今後の研究のた
めの基礎的調査として,台湾の研究機関(中央研究院,故宮博物院)で調査を行い(調査一覧①),
その成果をワーキングペーパーにまとめた(ワーキングペーパー一覧②)。次年度以降も引き
続き,国内外の寺院や各研究機関に所蔵される古地図の調査を行っていく。

<問題点(実施できなかった研究を含む)>
(サブユニット 1)
 文献調査に関して,大谷大学所蔵本はマイクロフィルムでの閲覧しか許可がおりず,原本調査
が行えなかったため,閲覧交渉を行う必要がある。また,さらに高田派専修寺所蔵本,石川県
専光寺,福井県浄得寺等の調査が必要であることも明らかとなった。

平成27年度ユニット研究活動の根拠データ

<ユニット研究会一覧>
①2015 年度 第 1 回 研究会
■報告題目:浄興寺・大谷大学蔵『教行信証』に関する調査報告
■開催日時:2015 年 10 月 15 日(木)17:00~19:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301・302
■報告者 :川添泰信(龍谷大学文学部教授)
■参加者 :20 人
■共催 :龍谷大学世界仏教文化研究センター,龍谷大学仏教文化研究所

②2015 年度 第 2 回 研究会
■報告題目:大谷大学蔵『教行信証』に関する調査報告
■開催日時:2016 年 2 月 18 日(木)13:00~14:30
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301
■報告者 :三栗章夫(龍谷大学 REC コミュニティカレッジ講師,元浄土真宗本願寺派総合研究所
上級研究員)
■参加者 :25 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所

③2015 年度 第 3 回 研究会
■テーマ :南都の教学と論義
■開催日時:2016 年 2 月 18 日(木)15:00~17:30

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■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■総合司会:道元徹心(龍谷大学理工学部教授)
■報告者・報告題目:
中西俊英(東大寺華厳教学研究所研究員)
「華厳教学における問題意識―論義資料解説の一視点として―」
蜷川祥美(岐阜聖徳学園大学短期大学部教授)
「法相論義の展開」
■コメンテーター:
楠 淳證(龍谷大学アジア仏教文化研究センター長,文学部教授)
藤丸 要(龍谷大学文学部教授)
■参加者 :18 人

④2015 年度 第 1 回 セミナー
■テーマ :北嶺の論義
■開催日時:2016 年 1 月 14 日(木)13:15~16:30
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■総合司会:藤丸 要(龍谷大学文学部教授)
■基調講演:
藤平寛田(天台宗典編纂所編輯員,叡山学院講師)
「天台論義の基礎と文献」
■研究発表:
吉岡 諒(2015 年度 BARC 公募研究員)
「栄西の大師号要請について」
吉田慈順(2015 年度 BARC 公募研究員)
「報仏常無常を巡る論争」
■参加者 :27 人

⑤2015 年度 第 1 回 文化講演会
■テーマ :聖地に受け継がれし伝灯の行―修験,回峰行,そして親鸞聖人へ―
■講題 :修験の修行に学ぶ
■開催日時:2015 年 11 月 30 日(月)13:30~15:00
■場所 :龍谷大学響都ホール校友会館
■講師 :宮城泰年(聖護院門跡,元龍谷大学客員教授)
■参加者 :95 人

⑥2015 年度 第 2 回 文化講演会
■テーマ :聖地に受け継がれし伝灯の行―修験,回峰行,そして親鸞聖人へ―
■講題 :回峰行のこころ
■開催日時:2015 年 12 月 7 日(月)13:30~15:00
■場所 :龍谷大学響都ホール校友会館
■講師 :光永覚道(北嶺大行満大阿闍梨,延暦寺南山坊住職)
■参加者 :169 人

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⑦2015 年度 第 1 回 学術講演会
■テーマ :『教行信証』の書誌学
■開催日時:2016 年 2 月 22 日(月)9:00~12:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館地下 1 階 B102
■講師・講題:
赤尾栄慶(国立文化財機構京都国立博物館名誉館員,元同博物館上席研究員)
「坂東本の成立過程を考える」
宇都宮啓吾(大阪大谷大学文学部教授)
「訓点から見た坂東本」
■参加者 :40 人

⑧2015 年度 第 2 回 学術講演会
■テーマ :華厳経と毘盧遮那仏
■開催日時:2016 年 2 月 28 日(日)13:15~18:00
■場所 :龍谷大学深草学舎和顔館地下 1 階 B101
■総合司会:宮治 昭(龍谷大学文学部教授)
■講師・講題:
大竹 晋(仏典翻訳家)
「『華厳経』-ブッダとその世界―」
朴 亨國(武蔵野美術大学教授)
「中国・韓国の廬舎那仏・毘盧遮那仏」
肥田路美(早稲田大学教授)
「龍門奉先寺洞廬舎那大仏をめぐって」
■参加者 :77 名

⑨2015 年度 第 3 回 文化講演会
■テーマ :聖地に受け継がれし伝灯の行―修験,回峰行,そして親鸞聖人へ―
■講題 :若き日の親鸞聖人―天台修験=回峰行の修行をとおして―
■開催日時:2016 年 3 月 5 日(土)13:30~15:00
■場所 :龍谷大学響都ホール校友会館
■講師 :淺田正博(龍谷大学名誉教授,浄土真宗本願寺派勧学)
■参加者 :168 名

<ユニット関係ワーキングペーパー一覧>
①(15-02)杉岡孝紀,川添泰信,玉木興慈,高田文英「『教行信証』に関する調査報告(2015 年度)

②(15-03)村岡倫「世界最古の世界地図『混一疆理歴代国都之図』と日本」
③(15-04)藤平寛田「天台論義の基礎と文献」
④(15-07)吉岡諒「栄西の大師号要請について」
⑤(15-08)吉田慈順「最澄・玄叡の因明理解とその背景―平安時代初期における報仏常無常の論争
を通して―」

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<ユニット研究において協力を得た学外機関・研究者一覧>
①三栗章夫(龍谷大学 REC コミュニティカレッジ講師,元浄土真宗本願寺派総合研究所上級研究員)
【第 2 回研究会】
②中西俊英(東大寺華厳教学研究所研究員) 【第 3 回研究会】
③蜷川祥美(岐阜聖徳学園大学短期大学部教授) 【第 3 回研究会】
④藤平寛田(天台宗典編纂所編輯員,叡山学院講師)【第 1 回セミナー】
⑤宮城泰年(聖護院門跡,元龍谷大学客員教授) 【第 1 回文化講演会】
⑥光永覚道(北嶺大行満阿闍梨,延暦寺南山坊住職) 【第 2 回文化講演会】
⑦赤尾栄慶(国立文化財機構京都国立博物館名誉館員,元同博物館上席研究員) 【第 1 回学術講演会】
⑧宇都宮啓吾(大阪大谷大学文学部教授) 【第 1 回学術講演会】
⑨大竹晋(仏典翻訳家) 【第 2 回学術講演会】
⑩朴亨國(武蔵野美術大学教授) 【第 2 回学術講演会】
⑪肥田路美(早稲田大学教授) 【第 2 回学術講演会】

【調査先①(村岡倫)】
[調査先]
・故宮博物院
・中央研究員
・赤崁楼
・近代文化館
・国家図書館
[調査協力者]
・洪金富(中央研究院博物館研究員)

【調査先②(西谷功)】
[調査先]
・九州国立博物館
・観世音寺
[調査協力者]
・森實久美子(九州国立博物館学芸員)

【調査先③(杉岡孝紀)】
[調査先]
・大谷大学
・浄興寺(新潟県)
・中山寺(三重県)

【調査先④(道元徹心・土屋和三)】
[調査先]
・比叡山

【調査先⑤(村岡倫・渡邊久)】
[調査先]
・神戸市立博物館

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<ユニット研究費(個人分担金含む)による調査一覧>
①2015 年 12 月 24 日-12 月 29 日/台湾/台北でのモンゴル帝国時代の研究者との意見交換および
国家図書館等での文献調査,資料収集/村岡倫
②2016 年 2 月 9 日/福岡/九州国立博物館での意見交換と情報収集および観世音寺での実地調査/
西谷功

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平成 27 年度 グループ 1 ユニット B 研究進捗状況

三谷真澄(ユニットリーダー,龍谷大学国際学部教授)

(1)プロジェクトにおけるユニットの研究内容
(調書様式Ⅲ-1「②研究内容」とⅢ-2「全年度に亘る」の当該ユニットの部分)
調書様式Ⅲ-1「②研究内容」
グループ 1 ユニット B は,明治期から十五年戦争期までの日本の仏教者が,帝国主義と植民地主
義を思想的背景とする国家間の覇権争いが次第に激化していく当時の国際社会のなかで,他国の仏
教者(宗教者)や研究者らといかなる相互交流を行い,国家間の対立を超えた連帯や思想を築きえ
たのか,その実態を明らかにする。

調書様式Ⅲ-2「全年度に亘る」 (平成27年度欄の初め)部分
グループ 1 ユニット B「近代日本仏教と国際社会」
本ユニットは,明治期から十五年戦争期までの日本の仏教者が,帝国主義と植民地主義を思想的
背景とする国家間の覇権争いが次第に激化していく当時の国際社会のなかで,他国の仏教者(宗教
者)や研究者らといかなる相互交流を行い,国家間の対立を超えた連帯や思想を築きえたのか,そ
の実態を明らかにする。本ユニットは以下の 3 つのサブユニットから構成される。赤松・龍渓・中
西・吉永・ジャフィ・林・岩田による一連の研究成果にもとづいて進められる。

サブユニット 1 では,明治仏教の国際化の展開を解明する。具体的には,本学の前身である普通
教校(明治 18 年(1885)創立)の教職員を中心として 1888 年に設立された海外宣教会が,年1回
発行し国外の 200 ヶ所以上の研究機関や図書館に無料で送付していた英文仏教雑誌『亜細亜之宝珠
(Bijou of Asia)
』の内容分析を行う。また,西洋諸国の宗教思想や文化と接触した明治の仏教者が,
他者としてのキリスト教との相互交渉をとおして,いかなる自己認識の変化を被ったのかを,世界
の諸宗教を包摂する「宗教(religion) 」概念の構築過程とも相関させながら検討する。

サブユニット 2 では,十五年戦争期における日本の仏教者の活動について考察する。日本が国際
連盟を脱退(1933 年 2 月)し国際的に孤立するなか,日本仏教の関係者たちは,欧米の仏教者・研
究者との連絡の緊密化を図り,またアジア諸国の仏教勢力との多面的な協力提携を目指した。それ
は国策に寄り添いながらも国家の意向には必ずしも回収されない,非常に多様な事業として推進さ
れた。これらの事業に関わる資料は,散逸も著しく,保存状況も万全とは言えない状況にある。本
サブユニットでは,一連の事業に関係した資料の復刊を期するとともに,戦時下日本の仏教者によ
る国際交流活動の実態を解明する。また同時に,そうした国際的な事業が,既に研究蓄積の厚い「戦
時教学」のような同時代の仏教者による国家奉献的な運動とどのような関係にあったのかを検討す
ることで,戦時下における日本仏教の実態を総合的に解明する。

サブユニット 3 では,大谷光瑞の思想と事業の再検証を行う。能仁・三谷・市川のこれまでの研
究実績を活かして遂行されるものである。大谷光瑞(1876-1948)は,大正から昭和の激動の時代,
特に戦中戦後を経験した貴重な歴史的証人である。彼は浄土真宗本願寺派の第 22 世宗主であるとと
もに,日本史上唯一の組織的な中央アジア探検である,大谷探検隊を派遣した人物として知られる。
だが,彼の多面性はそれだけにとどまらない。光瑞は,収集資料の研究調査を行う光寿会を主宰し
たという点では「研究者」でもあり,武庫仏教中学の創設や大谷学生の選抜という点では「教育者」
でもあり,さらには,ジャワ,トルコ等での産業開発という点では「実業家」でもあった。本サブ
ユニットでは,彼のそうした様々な側面を再検証しつつ,特にこれまで比較的なされてこなかった
光瑞自身の思想との関連で,国際的規模で遂行された彼の事業活動の歴史的背景や意義を再考する。
それによって,光瑞が開拓した独自的な国際交流活動の特徴を明らかにする。

(2)平成27年度のユニットの具体的な研究内容
(調書様式Ⅲ-2「年度別の具体的な研究内容(27年度の当該ユニット部分)」)

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【グループ1ユニットBの計画】
『亜細亜之宝珠(Bijou of Asia)
』およびその関連資料を網羅的に収集し,若手を中心にした研究
会を継続的に開催して同誌の読解を開始する(サブユニット 1)。ハワイ仏教青年会および大日本仏
教青年会連盟に関する研究を行うとともに,1930 年にハワイで開催された汎太平洋仏教青年大会お
よびその関係資料の復刊を行う(サブユニット 2)。 『大谷光瑞全集』などの大谷光瑞自身の記述をも
とに,彼の思想と具体的事業の検証を開始する。雑誌『大乗』 (光寿会編)の記事に基づき,光瑞の
思想と事業の関係を探る。特にトルコ・南洋については,『大谷光瑞興亜計画』等の記述に基づき,
各地で産業開発にあたった意図や活動の意義を国際状況との関係において検討し,アジア全域を視
野に入れた光瑞の広範な活動の意義を再検討する(サブユニット 3) 。

(3)平成27年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等(プロジェクト全体に関わる活動は除く)
<上記(2) 「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 1)
 『亜細亜之宝珠(Bijou of Asia)』およびその関連資料を網羅的に収集した。特に,
『亜細亜之
宝珠』に投稿している外国人の仏教理解を知る手がかりとなる,英語文献を中心に集めた。ま
た,収集した資料の解読・分析に着手した。これにより,日本国内だけではなく国際的な脈絡
の中で,明治初期の日本の仏教者の活動を理解するための,基礎資料の蓄積と整備が進められ
る。
 『亜細亜之宝珠』に関する若手を中心とした継続的な研究会として,輪読会を大学院生ととも
に開催した。ただし,本年度は同書の収集に時間を要したため,1 回のみの開催となった。来年
度以降も引き続き,研究会を継続する。こうした研究会によって,近代日本仏教と欧米との関
係が明らかになるとともに,関連のテーマに関心を持つ若手研究者の養成が期待される。
(サブユニット 2)
 ハワイ仏教青年会および大日本仏教青年会連盟に関する研究として,汎太平洋仏教青年会大会
関係資料の蒐集および『海外仏教事情』の蒐集・総目次の作成を行った。
 汎太平洋仏教青年大会およびその関係資料の復刊として,アジア仏教文化研究センター研究叢
書の第 1 巻となる,中西直樹ほか編『資料集・戦時下「日本仏教」の交際交流【編集復刻版】 』
(不二出版)を 2 月に刊行した。汎太平洋仏教青年会大会は,昭和初期にハワイと東京で開催
された,戦前の国際大会として大規模な集会であった。その実態の解明は,民間レベルの国際
交流のあり方を問い,日本仏教の国際化を考える上でも重要である。今回復刻した資料集は,
いずれも入手困難な貴重なものであり,今後の研究に大いに貢献すると思われる。
(サブユニット 3)
 『大谷光瑞全集』や雑誌『大乗』などの記述を中心に,大谷光瑞の思想と具体的事業の検証を
行った。具体的には,農業に関する初出の『大乗』巻号などのリストを作成した。その成果は,
本年度に開催したワークショップ(研究会一覧③)における配付資料の一部として公開した。
 『大谷光瑞興亜計画』などに基づき,アジア全域を視野に入れた大谷光瑞の活動と意義の再検
討を行った。特に『大谷光瑞興亜計画』に含まれる『熱帯農業』など,主として農業を中心と
した研究を進め,光瑞における仏教と農業の関係を明らかにするとともに,同書に記載された
農法が現代においても意味があるのかどうかについて,現代の農業研究者による実験結果に基
づく報告を行った(研究会一覧③) 。

<上記(2)以外でユニットとして新規に実施した研究内容の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 2)
 戦時下の日本仏教の国際交流に関する公開の研究会を,2 回開催した(研究会一覧①,②)。1
回目では,日露戦争勃発の契機の一つとなった,厦門事件における真宗大谷派の関与について
検討しつつ,日本仏教による台湾・南清布教の展開について考察した。2 回目では,大正期にお
ける日本仏教の台湾布教の展開について,臨済宗・曹洞宗・本願寺派を中心に検証し,また,
戦時下の南方地域(東南アジア)における日本仏教の文化工作活動の全体像について,報告者
が今年度に刊行した単著に基づく概括的な報告を行った。こうした研究会を次年度以降も継続
的に開催し,戦時下日本仏教の展開についての総合的な知見に至ることを目指していく。なお,

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大正期における日本仏教の台湾布教の展開については,研究論文を作成した(ワーキングペー
パー一覧①) 。
(サブユニット 3)
 大谷光瑞が国際的規模で遂行した事業活動の歴史的背景や意義を再考し,入澤・三谷・市川・
松居によるこれまでの研究成果をさらに進展させるため,主としてトルコと台湾の殖産事業に
ついて,研究者や現地で事業に携わった関係者を招聘して知見を深めた(研究会一覧③)

 大谷光瑞とチベットとの関わりに関する研究の一環として,能仁によるこれまでの研究の蓄積
を踏まえ,光瑞の命によりチベットに派遣された多田等観が将来した「釈尊絵図」に関するワ
ークショップを開催した(研究会一覧④)。

<問題点(実施できなかった研究を含む)>
 特になし。研究計画どおりの事業が実施された。

平成27年度ユニット研究活動の根拠データ

<ユニット研究会一覧>
①2015 年度 第 1 回 研究会
■報告題目:1900 年厦門事件追考―真宗大谷派の事件関与と世論対応を中心に―
■開催日時:2015 年 9 月 11 日(金)16:30~18:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者 :中西直樹(龍谷大学文学部教授)
■参加者 :15 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所

②2015 年度 第 2 回 研究会
■開催日時:2016 年 2 月 5 日(金)13:00~16:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者・題目:
中西直樹(龍谷大学文学部教授)
「仏教雑誌にみる大正期の台湾布教」
大澤広嗣(文化庁文化部宗務課専門職)
「課題としての戦時下の日本仏教と南方地域」
■参加者 :20 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所,龍谷学会

③2015 年度 第 1 回 国内ワークショップ
■テーマ : 「仏教」と「農業」のあいだ―大谷光瑞師のトルコでの動向を中心として―
■開催日時:2015 年 12 月 10 日(木)15:00~17:30
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者・報告題目:
ヤマンラール水野美奈子(龍谷大学国際社会文化研究所研究員)
「大谷光瑞師のトルコにおける二つの殖産事業」
玉井鉄宗(龍谷大学農学部助教)
「農学者・大谷光瑞師の「熱帯農業の奧義」 」
三谷真澄(龍谷大学国際学部教授)
「仏教者・大谷光瑞師と農業」
■趣旨説明:三谷真澄(龍谷大学国際学部教授)
■閉会の辞:能仁正顕(龍谷大学文学部教授)
■参加者 :40 人
■共催 :龍谷大学国際社会文化研究所
■協力 :龍谷大学仏教文化研究所

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④2015 年度 第 2 回 国内ワークショップ
■テーマ :大谷光瑞とチベット―多田等観将来「釈尊絵伝」をめぐって―
■開催日時:2016 年 2 月 25 日(木)13:15~16:30
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者・報告題目:
宮治 昭(龍谷大学文学部教授)
「インドの『舎衛城の神変』図について」
岡本健資(龍谷大学政策学部准教授)
「舎衛城神変と多田等観将来釈尊絵伝」
岩田朋子(龍谷大学龍谷ミュージアム講師)
「釈尊絵伝にみられる仏弟子たちの物語」
能仁正顕(龍谷大学世界仏教文化研究センター長,文学部教授)
「阿闍世教化の伝承と釈尊絵伝」
■総合司会:三谷真澄(龍谷大学国際学部教授)
■参加者 :34 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所

<ユニット関係ワーキングペーパー一覧>
①(15-01)中西直樹「大正期台湾布教の動向と南瀛仏教会」

<ユニット研究において協力を得た学外機関・研究者一覧>
 本年度は該当なし。

<ユニット研究費(個人分担金含む)による調査一覧>
 本年度は該当なし。

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平成 27 年度 グループ 2 ユニット A 研究進捗状況

若原雄昭(ユニットリーダー,龍谷大学文学部教授)

(1)プロジェクトにおけるユニットの研究内容
(調書様式Ⅲ-1「②研究内容」とⅢ-2「全年度に亘る」の当該ユニットの部分)
調書様式Ⅲ-1「②研究内容」
グループ 2 ユニット A は,現代における日本仏教の社会性と公益性について,日本における仏教
者・教団による社会貢献活動の実態とその意義や,各宗派による現代的な諸問題への取り組み,地
域社会における寺院の役割といった観点から考察する。またこうした日本仏教の現状に関する理解
を深めるためにも,現代アジア諸地域における仏教の社会性・公益性に関する調査・研究を推進し,
日本仏教の事例との比較考察を行う。

調書様式Ⅲ-2「全年度に亘る」(平成27年度欄の初め)部分
グループ 2 ユニット A「現代日本仏教の社会性・公益性」
本ユニットでは,現代における日本仏教の社会性と公益性について,日本における仏教(者・教
団)による社会貢献活動の実態とその意義や,各宗派による現代的な諸問題への取り組み,地域社
会における寺院の役割といった観点から考察する。またこうした日本仏教の現状に関する理解を深
めるためにも,現代アジア諸地域における仏教の社会性・公益性に関する調査・研究を推進し,日
本仏教の事例との比較考察を行う。嵩・藤・若原・岡本・長上・野呂・ロウの研究業績を踏まえて
推進される。
サブユニット 1 では,日本仏教の社会性と公益性を問い直す。日本の仏教研究は,教義や歴史の
分野では,国際的にも評価の高い実証的な研究成果をあげてきた一方,同時代の眼前に存在する日
本仏教の有する社会性・公益性については,十分な議論がなされてこなかった。しかし近年,特に
東日本大震災以降,海外の日本仏教の研究者の間では「宗教の社会性・公益性」という観点から,
あらためて現代日本仏教の公的な役割が再検討されつつある。本サブユニットでは,国外の研究者
の日本仏教に対する評価にも耳を傾けながら,「日本仏教の社会性・公益性」について考察する。
具体的には,現在全国各地で展開されている仏教系 NGO・NPO の活動実態を調査するとともに,
各組織の代表者を集めたセミナー等を開催し,それぞれの活動の現況や共通の課題を確認した上で,
課題解決のための方途を模索する。また,葬儀の意義やあり方などの現代的諸問題に対する宗派の
対応や,寺院・僧侶による宗教活動の公益性等に関する調査・研究をこれまで積み重ねてきた各宗
派の研究機関と連携し,共同的な研究を推進する。なお,これらの仏教系 NGO・NPO や宗派の研究
機関は,異なる宗派間の壁のために,これまで宗派を超えた持続的な協力関係を十分に築けずにき
たが,本プロジェクトでは本サブユニットを中心にして,そのような宗派間の壁を超えた日本仏教
研究のプラットフォームの形成を目指す。さらに,こうした宗派的な立場ではなく,地域社会にお
ける寺院という観点から日本仏教の現状を調査している国内外の研究者からも,現代日本仏教の課
題と可能性についての知見を得ていく。

サブユニット 2 では,現代のアジア諸地域における仏教者のさまざまの活動や社会的役割につい
て調査・研究し,それらとの比較考察によって現代日本仏教の社会性・公益性の特質を浮き彫りに
する。
例えば現代インドでは,アンベードカルに端を発する改宗仏教徒が次第に大きな勢力となってお

17
り,下層民を主体としたその運動がインド社会の差別構造を乗り越えるための実践を続けている。
バングラデシュでは,同国におけるマイノリティである仏教徒が圧倒的多数派のイスラム教徒と相
互交渉しつつ平和的に共存するという興味深い一面がみられる。タイでは,タイ仏教独特の一時出
家制度が僧院と社会との密接な関係性の維持・構築に貢献している。近隣の東アジア地域において
も,例えば現在の韓国では,仏教が社会救済・慈善・文化事業などを通した伝道・布教を熱心に展
開している。台湾でも,僧侶による積極的な社会奉仕活動や教育事業がみられるが,そこでは特に
尼僧たちによる活躍が著しい。
こうしたアジア諸地域の仏教者による諸活動の動向を現地調査によって把握し,欧米の仏教研究
の分野において近年活況を呈している「エンゲイジド・ブディズム(社会参加型仏教)
」という視点
からこれらの動向を理論的に分析し,得られた知見に基づき日本仏教の現状理解を深める。すなわ
ち,仏教の社会性・公益性に関して,日本の現状分析,アジア諸地域の事例,および欧米のエンゲ
イジド・ブディズム論という三点観測的なアプローチから検討する。こうした従来にない新しい研
究手法によって,最終的に現代日本仏教の特徴を明確にしていく。
(2)平成27年度のユニットの具体的な研究内容
(調書様式Ⅲ-2「年度別の具体的な研究内容(27年度の当該ユニット部分)」)
【グループ2ユニットAの計画】
NPO 法人 JIPPO と連携して,国内の仏教系 NGO・NPO の活動実態の調査を行う。各宗派の研究
機関の研究者が現代的諸問題にどのように対応しているかについて,実態を調査するとともに資料
を収集する。現代日本の寺院・僧侶についてフィールドワークに基づく調査を行っている国外の仏
教研究者を複数招き,研究会を開催する(サブユニット 1)。バングラデシュにおける諸宗教の共存
状況と仏教者の役割についての調査を開始する。タイにおける仏教の社会的機能を明らかにするた
めに,現地調査を開始する。韓国仏教の比丘尼の組織,活動状況を明らかにするために,現地調査
を開始する。欧米におけるエンゲイジド・ブディズム論に関する先行研究を整理し,批判的に検討
する。バークレーIBS においてエンゲイジド・ブディズムをテーマとしたワークショップを開催す
る(サブユニット 2)。

(3)平成27年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等(プロジェクト全体に関わる活動は除く)
<上記(2) 「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 1)
 NPO 法人 JIPPO と連携して,国内の仏教系 NGO・NPO の活動実態の調査を行うにあたり,同
法人との協力関係を結び,同法人・中村尚司専務理事(本学名誉教授・研究フェロー)その他
の関係者との協議を行った。次年度より本格的な調査を開始する。
 各宗派の研究機関の研究者が現代的諸問題にどのように対応しているかについて,実態を調査
した(調査一覧⑤) 。また,自死遺族の支援活動を行っている僧侶兼研究者を,浄土宗,曹洞宗,
浄土真宗からそれぞれ招き,意見交換と討論のためのワークショップを開催した(研究会一覧
⑥)。これらにより,現代日本の対人支援の現場において,仏教者や各宗派の研究者がどのよう
な貢献をなしているのかについて,多くの情報を得ることができ,また今後に検討すべき問題
も浮き彫りになった。こうした調査や研究会は次年度以降も継続していき,より多くの事例に
基づく多角的な考察を進めていく。
(サブユニット 2)
 タイにおける仏教の社会的機能を明らかにするために,現地調査を行い(調査一覧②) ,調査報
告を目的とした研究会を開催し(研究会一覧④),さらに調査と研究会を踏まえたワーキングペ
ーパーを作成した(ワーキングペーパー一覧①) 。これらを通して,タイの仏教界が青少年の道
徳改善のために様々な対策を講じている現状が明らかになり,また現代タイにおける仏教の社

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会的位置の変化についても理解が進んだ。
 韓国仏教の比丘尼の組織,活動状況を明らかにするために,ソウルでの現地調査を行った(調
査一覧④)。
 欧米におけるエンゲイジド・ブディズム論に関する先行研究を整理し,批判的に検討した。エ
ンゲイジド・ブディズムの理論的な研究においては,アジアに比べ欧米諸国の方が進んでいる。
しかしその内容については,日本ではほとんど紹介されていない。そこで,先行研究を可能な
限り網羅的に収集・分析し,その理論のアジア・日本仏教研究への応用の可能性を検討した。
 バークレーIBS においてエンゲイジド・ブディズムをテーマとしたワークショップを開催した
(研究会一覧⑦) 。アメリカにおけるエンゲイジド・ブディズムの活動の諸相とその理論的な根
拠について,複数のアメリカ人研究者を招き議論をした。それにより,アメリカにおけるエン
ゲイジド・ブディズムの可能性と課題を明らかにすることができた。

<上記(2)以外でユニットとして新規に実施した研究内容の進捗状況及び達成度>
(サブユニット 1)
 日本仏教の社会性・公益性の研究の一環として,現代の仏教教団における信仰継承の実態と課
題について検討するための研究会を開催した(研究会一覧①)。近年,伝統仏教教団において大
きな問題になっているのが,僧侶や門信徒ら信仰継承の主体となる人々の,高齢化,地域の過
疎化などにともなう減少である。本研究会では,新宗教教団と伝統仏教教団の事例を比較しな
がら,そうした信仰継承をめぐる問題について議論した。それにより,次年度以降,研究を本
格化させる上での基礎的な問題意識・課題を共有することができた。
 仏教社会福祉事業の専門家などと「日本仏教の公益性」をテーマとした研究会を 2 回にわたっ
て開催した(研究会一覧②,⑤) 。1 回目の研究会では,新しく示されたソーシャルワークのグ
ローバル定義と仏教思想との関連を取り上げ,必ずしもグローバル定義と仏教思想が一致する
ものでもなく,また,仏教思想と共通するものでもないことが明らかになった。今後,仏教社
会福祉援助の思想的基盤をどう構築するかについて,極めて有用な議論を展開することができ
た。2 回目の研究会では,東日本大震災における仏教者の支援活動について,アンケート調査に
基づく実態解明の報告がなされた。また,そこから見えてきた課題に対応するための「仏教プ
ラットフォーム」の構築について,具体的な提言がなされた。今後,行政や NGO などの公的な
組織・制度との連携のもと,仏教に固有の社会的・公益的な活動を推進する上で何が必要なの
かについて,議論していくべき問題が明確になった。
(サブユニット 2)
 台湾仏教による社会事業の実態把握,および台湾と韓国の比丘尼が置かれている状況の違いを
把握するため,台北での現地調査を行った(調査一覧⑥)。
 インドの改宗仏教徒に関する調査・研究の一環として,改宗仏教徒の指導者の一人を招き,研
究会を開催した(研究会一覧③) 。
 アジアと欧米のエンゲイジド・ブディズムについての資料を収集した(調査一覧①,③) 。収集
した資料を基に,それぞれのエンゲイジド・ブディズムがどのような理論のもとで活動をして
いるのかについて,比較考察の観点を重視しながら,分析・整理した。エンゲイジド・ブディ
ズムの世界的な展開については,現状では,その全体像を俯瞰した上での考察が十分になされ
ていない。本ユニットではその不足を埋めるための調査と分析を,次年度以降も継続していく。

<問題点(実施できなかった研究を含む)>
(サブユニット 1)
 国外の仏教研究者を招いた現代日本の寺院・僧侶に関する研究会については,次年度に持ち越
すこととなった。
(サブユニット 2)
 バングラデシュでの調査については,次年度に持ち越すこととなった。ただし,アジア仏教文
化研究センターから平成 26 年度に刊行された“Directory of Buddhist Temples in Bangladesh (A
Provisional Edition) ”(『バングラデシュ仏教寺院総覧(暫定版)』
)の完成版の,次年度における

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刊行に向けて,ダッカ大学の研究者やスタッフとの協力のもとに編集作業を進めた。

平成27年度ユニット研究活動の根拠データ

<ユニット研究会一覧>
①2015 年度 第 1 回 研究会
■報告題目:宗教教団における信仰継承について
■開催日時:2015 年 10 月 14(水)9:45~12:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301・302
■報告者 :猪瀬優里(龍谷大学社会学部講師)
■司会 :野呂 靖(龍谷大学文学部講師)
■参加者 :25 人
■共催 :真言宗智山派智山教化センター

②2015 年度 第 2 回 研究会
■報告題目:ソーシャルワークのグローバル定義と仏教思想
■開催日時:2015 年 10 月 26 日(月)14:00~16:30
■場所 :龍谷大学響都ホール校友会館会議室
■報告者 :長崎陽子(龍谷大学非常勤講師)
■参加者 :16 人
■共催 :日本仏教社会福祉学会

③2015 年度 第 3 回 研究会
■報告題目:テランガーナ州における仏教運動の展開
■開催日時:2015 年 11 月 9 日(月)15:00~17:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者 :ボーディ・ダンマ(僧侶,全インド仏教青年連盟会長)
■コメンテーター:佐藤智水(龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター研究フェロー)
■参加者 :39 人
■共催 :龍谷大学現代インド研究センター(RINDAS)

④2015 年度 第 4 回 研究会
■報告題目:青少年の倫理問題に答えるタイ仏教
■開催日時:2016 年 1 月 15 日(金)13:15~14:45
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者 :K.プラポンサック(2015 年度 BARC 公募研究員)
■ファシリテーター:若原雄昭(龍谷大学文学部教授)
■コメンテーター :藤 能成(龍谷大学文学部教授)
■参加者 :20 人

⑤2015 年度 第 5 回 研究会
■報告題目:東日本大震災における仏教の果たした役割と課題

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■開催日時:2016 年 3 月 4 日(金)9:30~12:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301・302
■報告者 :藤森雄介(淑徳大学人間環境学科教授)
■司会 :長上深雪(龍谷大学社会学部地域福祉学科教授)
■参加者 :10 人

⑥2015 年度 第 1 回 国内ワークショップ
■報告題目:自死問題に向き合う仏教者の活動とその理念
■開催日時:2016 年 2 月 22 日(月)14:00~17:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301・302
■報告者 :
小川有閑(浄土宗総合研究所)
宇野全智(曹洞宗総合研究センター)
竹本了悟(浄土真宗本願寺派総合研究所)
■司会 :野呂 靖(龍谷大学文学部講師)
■参加者 :30 人
■共催 :教団附置研究所懇話会「自死問題研究部会」
,浄土真宗本願寺派総合研究所

⑦2015 年度 第 1 回 国際ワークショップ
■テーマ :Engaged Buddhism, The US and Japan: Past, Present and Future
■開催日時:2016 年 3 月 11 日(金)13:30~16:00
■場所 :Jodo Shinshu Center, Conference Room (2nd floor), Berkeley, California
■報告者 :
Scott Mitchell(Institute of Buddhist Studies)
Funie Hsu(San Jose State University and Board Member of the Buddhist Peace Fellowship)
Aya Honda(Hyogo University)
Mitsuya Dake(Ryukoku University)
■参加者 :21 人
■協力 :Institute of Buddhist Studies

<ユニット関係ワーキングペーパー一覧>
①(15-09)K.プラポンサック「青少年の倫理問題に答えるタイ仏教―「V-Star」プロジェクトを一
例として―」

<ユニット研究において協力を得た学外機関・研究者一覧>
①長崎陽子(龍谷大学非常勤講師)【第 2 回研究会】
②ボーディ・ダンマ(僧侶,全インド仏教青年連盟会長)【第 3 回研究会】
③藤森雄介(淑徳大学人間環境学科教授教授)【第 5 回研究会】
④小川有閑(浄土宗総合研究所) 【第 1 回国内ワークショップ】
⑤宇野全智(曹洞宗総合研究センター) 【第 1 回国内ワークショップ】
⑥Scott Mitchell(Institute of Buddhist Studies)【第 1 回国際ワークショップ】
⑦Funie Hsu(San Jose State University and Board Member of the Buddhist Peace Fellowship)
【第 1 回国際

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ワークショップ】

【調査先①(嵩満也)】
[調査先]
・コロンビア大学
・ハーバード大学
・New York Zen Center
[調査協力者]
・Gauri Viswanathan(コロンビア大学教授)

【調査先②(K.プラポンサック)】
[調査先]
・Wat Phra Dhammakaya
・IBS Club
・Sangharaja School
・Sriyanusorn School
・Chantapura Dhutanka

【調査先③(嵩満也)】
[調査先]
・USC Shinso Ito Center for Japanese Religions and Culture (CJRC)
・UCLA Center for Buddhist Studies
・UCSB Department of Religious Studies

【調査先④(藤能成)】
[調査先]
・法起寺
・全国比丘尼会・青少年会館
・弥陀寺・老人福祉センター
・鍾路老人綜合福祉館
・東国大学
・西願寺

【調査先⑤(野呂靖)

[調査先]
・専立寺
[調査協力者]
・自死に向き合う九州僧侶の会(代表:藤泰澄)

【調査先⑥(藤能成)】
[調査先]
・法鼓文理学院

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・中央研究院
・浄土真宗・光照寺

<ユニット研究費(個人分担金含む)による調査一覧>
①2015 年 10 月 27 日-11 月 2 日/アメリカ/コロンビア大学・ハーバード大学のエンゲイジド・ブ
ッディズム研究者との,今後の研究協力についての打ち合わせ,エンゲイジド・ブッディズム活
動グループの現地調査,関係英文資料収集/嵩満也

②2015 年 11 月 30 日-12 月 22 日/タイ/コンカーラッタナラックにて,青少年の倫理問題に答え


るタイ仏教に関する現地調査/K.プラポンサック(※公募研究費)

③2016 年 1 月 8 日-1 月 13 日/アメリカ/USC の USCRC,UCLA Center for Buddhist Studies,UCSB


Department of Religious Studies を訪問し,研究者との今後の研究協力についての打合せおよび関係
資料収集/嵩満也

④2016 年 2 月 22 日-2 月 29 日/韓国/ソウルにて全国比丘尼会等での聞き取り調査/藤能成

⑤2016 年 2 月 26 日/福岡/専立寺にて「自死に向き合う九州僧侶の会」の代表らに聞き取り調査/
野呂靖

⑥2016 年 3 月 7 日-3 月 11 日/台湾/台北にて法鼓文理学院等での聞き取り調査/藤能成

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平成 27 年度 グループ 2 ユニット B 研究進捗状況

那須英勝(ユニットリーダー,龍谷大学文学部教授)

(1)プロジェクトにおけるユニットの研究内容
(調書様式Ⅲ-1「②研究内容」とⅢ-2「全年度に亘る」の当該ユニットの部分)
調書様式Ⅲ-1「②研究内容」
グループ 2 ユニット B は,
「多文化共生」が求められる現代社会において日本仏教が直面する課題
を明らかにするために,宗教間対話,宗教間教育,現代日本仏教とジェンダーに関する研究を行う。

調書様式Ⅲ-2「全年度に亘る」 (平成27年度欄の初め)部分
グループ 2 ユニット B「多文化共生社会における日本仏教の課題と展望」
本ユニットは, 「多文化共生」が求められる現代社会において日本仏教が直面する課題を明らかに
するために,宗教間対話,宗教間教育,現代日本仏教とジェンダーに関する研究を行う。高田・那
須・小原・ウィリアムズ・本多による研究成果を活用して遂行される。
グローバルなレベルで宗教多元化が進み, 「多文化共生社会」と呼ばれる現代社会においては,
「宗
教間対話」 (Inter-faith Dialogue)もかつてのように特殊な機会にのみ必要なものではなくなりつつあ
る。また宗教思想の持つ普遍的特質は,信仰や文化を異にする者との対話を通して,多元的な価値
観を持つ新たな主体や表現様式を育成していく。本ユニットでは,日本仏教における宗教間対話の
先蹤ともいうべき「宗論」の歴史と伝統をふまえつつ,仏教思想の持つ普遍性を, 「宗教的真理の多
義性」と「信仰の多様性」といった視点から再検討し,多文化共生社会における宗教間対話と相互
理解の可能性を探る。
宗教間対話の必要性への認識が高まりつつあるなかで,宗教間対話の基盤としての「宗教間教育」
(Inter-faith Education)の実践は,現在,欧米を中心に世界の諸地域において,当該地域の文化・社
会状況の特徴をふまえながら,様々な取り組みがなされている。これに対して,日本における宗教
間教育の実践は,まだまだ発展途上の段階にあるのが現状である。本ユニットでは,国際的なコン
テキストで実践される宗教間教育の場において,日本仏教がどのような評価をうけているのか検討
し,また宗教間教育の実践に日本仏教がどのように貢献できるのか,その可能性を探る。
また,諸宗教間のグローバルな交流が進むなか,日本の女性仏教徒も,伝統的な宗派の垣根を越
え,国境を越えた活動を展開しつつある。日本の伝統教団においても女性仏教徒は僧侶,寺族,各
種教化団体構成員など多面的に存在するが,国際的な場面において女性が主体的に活動範囲を拡大
していく動きがある一方で,伝統教団の内部では周辺化されがちであるという不均衡な状況が見ら
れる。このような現状をふまえつつ,本研究ユニットでは,従来の男性僧侶の活動に偏った仏教研
究に対する反省から,近年の宗教研究において重要視されているジェンダーの視点を取り入れた上
で,女性の仏教徒の活動に焦点を当て「越境する日本の女性仏教徒」の実像に迫って行く。

(2)平成27年度のユニットの具体的な研究内容
(調書様式Ⅲ-2「年度別の具体的な研究内容(27年度の当該ユニット部分)」)
【グループ2ユニットBの計画】
「多文化共生社会における宗教間対話(Inter-faith Dialogue)
」をテーマにした国際シンポジウムを
開催する。特に,宗教多元論(religious pluralism)の理論の再検討を行いつつ,多文化共生社会にお
ける宗教間対話の場における日本仏教の持つ可能性と課題を提示する。

(3)平成27年度の進捗状況・研究成果・根拠データ等(プロジェクト全体に関わる活動は除く)
<上記(2)「具体的な研究内容」の進捗状況及び達成度>
 「多文化共生社会における宗教間対話(Inter-faith Dialogue)」をテーマにした国際シンポジ
ウムを開催した(研究会一覧③)。午前の部では,宗教多元論の理論を研究すると同時に,対話
の実践の場にも積極的に参加している登壇者らが,宗教間対話の現状と今後の可能性について
国際的な視野から討論した。午後の部では,ウィリアムズが第二次世界大戦中のアメリカにお

24
ける日系人と仏教の歴史に関して報告し,これに基づき議論が行われた(ワーキングペーパー
一覧②) 。本シンポジウムを通して,仏教,キリスト教,新宗教それぞれの特徴を踏まえながら
宗教多元論の理論や歴史的背景が再考され,その現代的な可能性が示された一方,宗教多元論
の前提となる多文化共生の理念が,世界的には破綻の傾向にあるという事実も確認され,宗教
観対話の研究を推進していく上での今後の課題が浮き彫りになった。
 宗教多元論(religious pluralism)の理論の再検討を目的として,デンマーク国立オーフス大学
から 3 名のアジア宗教研究者を迎え,国際ワークショップを開催した(研究会一覧②) 。2012
年より Danish Council for Independent Research の財政的支援のもと,Critical Analysis of Religious
Diversity Network が運営されている。上記の研究者らは,同ネットワークの主催者や関係者であ
る。本ワークショップは,彼らとプロジェクト研究員により英語で行われた。諸報告と議論を
通して,宗教の多様性について研究する際の理論や方法について,キリスト教の影響が今なお
色濃い欧米圏の宗教研究者の視点と,諸宗教が混淆する日本の研究者の視点の差異などが問わ
れた。また,これまでの研究の事例が欧米圏に傾斜していたため,今後は,日本を含めたアジ
ア地域を対象とした研究をより進展させていく必要性があることが確認された。
 宗教間対話の場における日本仏教の持つ可能性と課題を提示するため,イラン・コム宗教大学
のジャーファーリー氏を講師に招き,研究会を開催した(研究会一覧①) 。氏は,イスラームと
仏教の共通基盤は何であるのかについて,ブッダによる四聖諦の教えや日本の浄土教の思想と,
クルアーンの言葉やシーア派の神秘主義思想との共通点や差異を検討することから明らかにし
た。氏の報告に基づき,両宗教の思想の本来的な性格と,その思想が現代世界における宗教の
過激主義的な活動の是正に貢献しうる可能性が議論された(ワーキングペーパー一覧①) 。

<上記(2)以外でユニットとして新規に実施した研究内容の進捗状況及び達成度>
 特になし。研究計画どおりの事業が実施された。

<問題点(実施できなかった研究を含む)>
 特になし。研究計画どおりの事業が実施された。

平成27年度ユニット研究活動の根拠データ

<ユニット研究会一覧>
①2015 年度 第 1 回 研究会
■報告題目:日本におけるイスラーム思想と仏教思想の対話の可能性
■開催日時:2015 年 10 月 13 日(火)10:45~12:15
■場所 :龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301・302
■報告者 :アボルガセム・ジャーファーリー(コム宗教大学講師)
■司会・通訳 :那須英勝(龍谷大学文学部教授)
■コメンテーター:佐野東生(龍谷大学国際学部教授)
■参加者 :25 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所

②2015 年度 第 1 回 ワークショップ
■テーマ :アジア宗教の多様性と日本の仏教
■開催日時:2015 年 10 月 22 日(木)13:15~16:30
■場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■報告者 :
ジョン・ボーラップ(デンマーク国立オーフス大学准教授)
レネ・キューレ(デンマーク国立オーフス大学准教授)
マリアン・クウォルトルップ・フィビガー(デンマーク国立オーフス大学准教授)
吉永進一(舞鶴工業高等専門学校教授)
■司会・通訳:那須英勝(龍谷大学文学部教授)

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■レスポンデント:
高田信良(龍谷大学文学部教授)
唐澤太輔(龍谷大学世界仏教文化研究センター博士研究員)
■参加者 :22 人
■共催 :龍谷大学仏教文化研究所

③2015 年度 第 1 回 国際シンポジウム
「多文化共生社会における宗教間対話(Inter-faith Dialogue)」
■開催日時:2015 年 12 月 14 日(月)10:45~15:00
■場所 :龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
■総合司会:那須英勝(龍谷大学文学部教授)
《午前の部・討論会》
■テーマ :宗教多元論(religious pluralism)の理論の実践論的再検討
■報告者 :
大來尚順(公益財団法人仏教伝道協会)
アレック・ラメイ(上智大学言語教育研究センター講師)
東馬場郁生(天理大学国際学部教授)
■レスポンデント:
小原克博(同志社大学神学部教授)
高田信良(龍谷大学文学部教授)
《午後の部・基調講演》
■講演題目:Religious Diversity behaind Barbed Wire: Japanese American Buddhism and Christianity in the
WWII Incarcertion Camps in the U. S.
■報告者 :ダンカン・ウィリアムズ(南カリフォルニア大学教授)
■コメンテーター:
高田信良(龍谷大学文学部教授)
守屋友江(阪南大学国際コミュニケーション学部教授)
■通訳 :
桑原昭信(BARC 博士研究員)
宮地 崇(龍谷大学大学院文学研究科博士課程)
■参加者 :106 人

<ユニット関係ワーキングペーパー一覧>
①(15-05)アボルガセム・ジャーファーリー「イスラーム思想と仏教思想の対話の可能性―四聖諦
を手がかりにして―」
②(15-06)ダンカン・ウィリアムズ「Religious Diversity behind Barbed Wire: Japanese American Buddhism
and Christianity in the WWII Incarceration Camps in the U.S.」

<ユニット研究において協力を得た学外機関・研究者一覧>
①アボルガセム・ジャーファーリー(コム宗教大学講師)【第 1 回研究会】
②ジョン・ボーラップ(デンマーク国立オーフス大学准教授)【第 1 回ワークショップ】
③レネ・キューレ(デンマーク国立オーフス大学准教授)【第 1 回ワークショップ】
④マリアン・クウォルトルップ・フィビガー(デンマーク国立オーフス大学准教授【第 1 回ワーク
ショップ】)
⑤大來尚順(公益財団法人仏教伝道協会)【第 1 回国際シンポジウム】
⑥アレック・ラメイ(上智大学言語教育研究センター講師)【第 1 回国際シンポジウム】
⑦東馬場郁生(天理大学国際学部教授)【第 1 回国際シンポジウム】
⑧守屋友江(阪南大学国際コミュニケーション学部教授)【第 1 回国際シンポジウム】

<ユニット研究費(個人分担金含む)による調査一覧>
 本年度は該当なし。

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ワーキングペーパーについて

・プロジェクトの研究成果を公開するため,年度ごとに複数本のワーキングペーパーを作
成し,ホームページおよび研究報告書に掲載する。
・ワーキングペーパーの種別は,(1) 研究論文,(2) 調査報告,(3) 講演概要,(4) 公募研究
成果論文からなる。
・(1) 研究論文は,センターの研究員らが作成した,各ユニットでの研究に基づく論文であ
る。
・(2) 調査報告は,センターの研究員らが作成した,各ユニットでの調査に基づく報告書で
ある。
・(3) 講演概要は,センター主催の研究会等で行われた講演の概要を記録したものである。
・(4) 公募研究成果論文は,センターの本年度の公募研究員が作成した,公募研究に基づく
論文である。
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-01(2016 年 3 月 31 日)

研究論文

大正期台湾布教の動向と南瀛仏教会

中西直樹
(龍谷大学文学部教授)

目次
はじめに
1.台湾総督府の宗教施策の転換
2.曹洞宗と台湾仏教中学林
3.臨済宗と鎮南学林
4.諸宗教の布教動向
5.南瀛仏教会の設立
おわりに
はじめに
台湾総督府は,領有当初こそ日本仏教が現地寺廟を支配下に置くことを容認したものの,一八九八(明
治三一)年五月には,その禁止を指示して日本仏教による台湾旧慣宗教への介入を規制した。各宗派の
激しい末寺獲得競争が植民地支配の安定に寄与しないと判断したためと考えられる(1)。
もっとも,その後も台湾総督府は,日本仏教各宗派の統治への利用策を放棄したわけではなかった。
一九〇一年以降,日本から渡台する僧侶に対し,その船賃の全額または一部を無償とする措置がとられ
(2),一九〇六年には台湾駐在布教使の島内での汽車乗車賃の割引も開始された(3)。台湾総督府が日本
人僧侶に経済的便宜を与えて台湾への渡航を促したのは,その布教活動が在留邦人の定住化に資する側
面があり,そのことが台湾植民地化の促進にも寄与すると考えたためであろう。
こうして一九〇二年に台湾精糖株式会社が操業して日本資本の進出が本格化すると,現地で成功した
内地人の経済的支援を受けて次々に日本的寺院が建立された。さらに台湾総督府は,一九一〇年に先住
民族の同化政策(理蕃政策)の一環として日本仏教僧侶の登用を決め,本願寺派・妙心寺派の僧侶らを
布教師に委嘱し原住民に帰順を促す教化活動を展開させた(4)。
一方,この間に現地「本島人」対象布教は衰退の一途をたどったが,こうした状況に変化をもたらす
契機になったのが、一九一五(大正四)年に起こった西来庵事件であった。この事件を最後に大規模な
抗日武装闘争は終息していったが,第一次世界大戦後に民族自決の意識が高まるなかで,日本への抵抗
は合法的な政治運動へと発展し,一九二一年からは台湾議会設置請願運動もはじまった。これに対し、
台湾総督府は民族主義者の分断と懐柔に向けた諸施策に着手し,同時に現地仏教勢力を懐柔・日本化す
るため,本島人布教の奨励策に転じたのである。
本論文では,西来庵事件以降の台湾総督府の宗教施策の変化を整理しつつ,これへの日本仏教の対応
を検討する。

1.台湾総督府の宗教施策の転換

西来庵事件の衝撃 一九一五(大正四)年の西来庵事件は,逮捕検挙された者が一九五七名、死刑判
決を受けた者が八六六名に及ぶ大規模なものであった。しかも,この反乱計画が西来庵という宗教施設
を舞台に起こったことは,総督府の宗教政策に大きな影響を及ぼした。台湾総督府法務部が編纂した『台
湾匪乱小史』は,この事件を次のように総括している。

本陰謀の内容は本島に在る日本人を撃退し以て日本政府の覊絆を脱せんとするにありて其手段と
して本島人の迷信を利用し殊に最も頑冥の称ある食采人を先づ煽動し彼等の牢乎として抜くべか
らざる迷信を基礎として漸次多数の党員を募り一挙反旗を飜さんとせる者にして彼等を勧誘する
に巧みに台南市府東巷街なる淫祠西来庵を利用したり(5)。

さらに斎教については,「其内面に於ては僧侶と同じく仏の教へに従つて生活する臨済宗より出し一
派に外ならず迷信最も頑固にして一度彼等の信ずる人物の指導する事あらば火水をも辞せざるの危険
団体なり」(6)と評している。胎中千鶴は,西来庵事件は道教的色彩の濃い民間信仰が核となっており
斎教との宗教的関係は薄く,事件関係者にも斎教徒が少なかったことを指摘している(7)。また池田敏
雄は,叛乱の主要な動機が林野の収奪にあったことは当時からすでに明らかであったとした上で,失政
の表面化を怖れた総督府が島民の迷信的暴動に事件の原因を求めたと推測している(8)。
事件の背景にはさまざまな要因があったと考えられるが,蔡錦堂が指摘するように,神将がわが身を

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護ってくれると信じて簡易な武器で武装警察や軍隊と熾烈な戦闘に参加した原住民の宗教性に対して
総督府が脅威を感じ,宗教施策の見直しに着手した点は否定できないであろう(9)。

下村宏民政長官の宗教施策方針 事件後の一九一五(大正四)年一〇月,下村宏が台湾総督府民政長
官(のちに総務長官)に就任した。下村は,就任直後の一一月二三日に著した「台湾統治ニ関スル所見」
において,欧米諸国で植民地での叛乱予防にキリスト教の諸活動が大きな役割を果していることを次の
ように指摘している。

第三 宗教 匪徒カ其ノ暴動ニ於テ迷信ヲ利用スルハ常套ニ属セリ,是等ニ対シテハ,一面教育ト
相俟チテ宗教ノ力ヲ要スルコト甚大ナリ泰西ノ先進国ハ海外ニ対スル勢力ノ扶植ニツキ宗教ニ重
キヲ置クハ既ニ周知セラルゝ処ナリ,現ニ台北ニ於テモ欧米ノ基督教徒ハ進ンテ資産ヲ投シ土語ニ
習熟シ学校ヲ興シ病院ヲ建テ,其布教ニ熱心ナル進ンテ本島人ト結婚セシ者アリ,終生ヲ奉ケテ教
化ニ努ムルコト四十五年ノ歳月ヲ重ヌル者アリ,(10)

ところが,日本仏教の場合は専ら在留邦人を布教対象とし,現地人に何ら精神的感化を与えていない
状況にふれ,そのことを遺憾とし次のようにいう。

然ルニ我仏教布教者ハ殆ント土語ヲ語ル者無ク,只内地人ノ仏教信者ヲ対象トシテ生計ヲ立ツルカ
如ク,又進ンテ本島人ノ教化ニ力ヲ用ユルモノナシ,監獄ノ教誨師ニシテ通弁ヲ以テ法語ヲナセル
カ如キハ,寧ロ滑稽事ト称スヘシ,而カモ頻年匪徒ノ乱アルモ基督教ヲ奉スル本島人ニシテ一人ト
シテ之ニ加ハル者アラサルヲ見ルハ,宗教ノ感化偉大ナルヲ証スヘシ(11)

その上で,宗教家の活動の活発化を促す施策の必要性を強調し,特に現地仏教との親近性の強い禅宗
への期待を以下のように表明している。

此際何レノ宗教タルヲ問ハス敢テ内地宗教界人士ノ活動ヲ求ムルコト急ニシテ,殊ニ本島人ハ福建
人種ニシテ臨済宗ニ帰依スルモノ多ク,僧侶ハ対岸ト常ニ相離ルヘカラサルモノアリヲ見ユ,我仏
教殊ニ禅宗教徒ノ奮励ヲ切望スルモノナリ,又道教其他諸種ノ迷信ニ属スヘキ種類ノモノ又一トシ
テ対岸ト因縁ヲ結ハサルモノナキモ強テ之カ絶滅ヲ計ルコト労多クシテ却テ弊生セサルナキヲ保
セス,之ヲ我邦仏教伝来ノ過去ニ照スモ有識ノ士ハ宜シク台地ニ於テ現ニ行ハルゝモノヲ利用善導
スルノ途ヲ講究シ幸ニ其実行ヲ見ルヲ得ンカ,其感化ノ速カニ,大ニ,且ツ強キ真ニ測ルヘカラサ
ルモノアルヘシ,教育及宗教ハ共ノ其歩ミ遅々タルモ,其一歩ハ堅実再ヒ抜クヘカラサルモノアリ,
宗教ノ従来比較的閑却セラルゝカ如キ傾向アルハ,頗ル遺憾トスル所ニシテ,将来ノ政策トシテハ
宗教ノ上ニ特ニ力ヲ致スコトヲ必要トス(12)

下村は,着任早々から全島を視察し,日本仏教各宗派に対しても布教実態に関する詳細な報告を求め
たようである。浄土宗の基隆布教使であった入江泰禅は,一九一六年二月『浄土教報』に寄せた文章の
なかで,この下村の方針にふれた上で,「内地仏教者が領むる当時の意思に反し内地人の巾着を絞るに
汲々たる而已にして本島人に遠かり何等教化の実質を認むる者なきは実に遺憾至極と云ふべし」(13)と
記している。また同年一月に『中外日報』は,当時帝国議会会期中の用務で東京滞在中であった下村の
談話を次のように報じた。

下村台湾民政長官は台湾の宗教事情に就て左の如く語りて日本人宗教家の不振を嘆けるが如し曰
く,台湾には内地から相当に宗教家は行つて居るが,夫は台湾在住の内地人教化を目的とするもの

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で,本島民教化を企てた者は殆ど無いやうである,之に反して耶蘇教徒の熱心努力は真に敬服に堪
へぬのである(14)。

このように一九一六年に入ると,下村の仏教側の奮起を期待する意向が公にされ,国内の仏教系世論
でも取り沙汰されるようになった。このことは,仏教各宗派の台湾布教に取り組む姿勢にも少なからず
影響を及ぼしたものと考えられる。
一方現地では,西来庵事件の直前の一九一五年春より,現地の各宗布教代表者で組織する台北各宗教
協和会と台湾総督府・地元有力者との間で,島民教化の推進に向けた非公式な会合が開かれるようにな
った(15)。こうした動きを踏まえて下村宏は,一九一六年一〇月に在台北の神道,仏教,キリスト教の
宗教者,官民の宗教関係者四六名を総督官邸に招いて午餐会を開催した。『中外日報』は,こうした会
を開いた下村の意図を以下のように報じた。

長官の本会を催されたる趣旨は何れの場所,何れの時代に於いても宗教の必要なることは云ふまで
も無きことにして殊に本島の如き新領土に於いては物質上の施設に伴ひ精神界の開発を必要とす
ること最も急切にして宗教家の努力に待つもの極めて多きは論を待たざる所,茲に諸君と一堂に会
して意見を交換することを得るは喜ぶ所なり云々と(16)

総督府の宗教施策と丸井圭治郎 総督府は,宗教諸団体に対し台湾人教化について協力を要請するの
と並行して,事件直後から丸井圭治郎に命じて現地の宗教実態の調査に着手した(17)。その調査報告は
一九一九(大正八)年三月に『台湾宗教調査報告書』第一巻として刊行され,さらに同年六月には内務
局に社寺課が新設され,丸井圭治郎が初代課長に就任した。
丸井圭治郎は,三重県に生まれ,一八九八年に東京の帝国大学文科大学漢学科を卒業した後,真言宗
新義派中学林などで教鞭をとったが,その後台湾総督府に赴任して,理蕃課・学務課などに勤務した(18)。
『台湾総督府文官職員録』(19)を見る限り,丸井の総督府任官は一九一四年版に記された警察本署保安
課勤務が最初のようであるが,『中外日報』の報道によれば,一九一二年一〇月に丸山は蕃人教化主任
として,帰順した「生蕃人」四三名を引率して西本願寺を参拝している(20)。正式な任官以前から台湾
先住民の同化政策の推進に関わり,総督府嘱託布教師であった日本人僧侶とともに活動していたと考え
られる。
丸井は,台湾在来の宗教をどのように見ていたのであろうか。少し後のことになるが,一九二五年発
表の論説のなかで,台湾の仏教徒について「仏教徒と云つても純正の仏教徒ではなく,六分の仏教に,
二三分の道教,一二分の儒教を含んでゐる」(21)と評している。さらに丸井は,台湾人の信仰は諸宗教
が混然一体化しているが,中枢をなすものは現世利益であり,その基底には道教が大きな勢力を有して
いるとの見解を示している。そして,道教に対しては次のようにいう。

然し何れにしても一体に道教其のものが迷信的で,立派な人格を持つた祖師と見るべきものもなく,
例へば其の宗とする所の老子にしても,又,呂洞賓にしても,其の行履がすべて神仙的,超人的で,
人間的,道徳的の行ひは少しも説かれてゐない。だから教徒の信仰は退嬰的,宿命的で,根拠のあ
る力を欠いてゐる。斯の如き信仰生活を殆んど全部の台湾人が送つてゐると云ふ事は,最も注意す
べき事実で,之を其の儘に委して置いたのでは,過去何千年の伝統を持つてゐる彼等の迷信はいよ
へ根強さを加へ,遂には如何なる力を以てしても抜去る事が出来なくなると思ふ。殊に又道教は解
釈の仕方によつては非常に危険な思想を含んでゐるもので,列子の如きは,天下の為にならば毛一
本抜く事もしないと公言してゐるが,之を若し,天下国家社会の為になる事は決してやらないと云

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ふ意味だとすれば,斯の如き思想を土台にしてゐるものが,やがて極端な社会主義に奔るのは当然
である(22)。

道教を迷信的で,反社会的な思想とも結びつきかねない危険な信仰とし,そうした危険性を未然に防
ぐためには,これを日本仏教により善導して行く方策が有効であるとして,次のように主張している。

故に支那の伝統を受けてゐる台湾人を同化するに当つては,幸に今日の道教は仏教を幾分取入れて
ゐるのであるから,日本仏教の力を以て導くやうにしたならば,必ず効果があるであらうと思ふ。
又斯くして其の効果を挙ぐるでなければ,徹底的に日本国家の為めに,同時に台湾の為めに其の福
利を増進する事は出来ないと思ふ(23)。

こうした考えから丸井は,台湾宗教の日本仏教との提携策を推進していったのであるが,そのために
は日本仏教をどのように利用するかが問題となったはずである。これに関して,一九一七年一月の『中
外日報』は,渡台した浄土宗教学部長竹石耕善の次のような談話を報道している。

浄土宗教学部長竹石耕善氏は去月渡台帰東された其所談に「私は総督安藤貞美氏及び丸井氏にも面
会し胸襟を開きて宗教に対する方針も聞き,又当方の希望も述べて来ましたが,総督としては仏教
の力を要する事を思ひ付いた様子で今回の宗教視察に余程の便宜を与へられた,又丸井氏は制度制
定に就て朝鮮の如く窮屈では困ると種々意見を交換したるに,左様な窮屈な制度は設けざる方針で
あるとの答であつたが孰れ近く具体的に現はるゝ事であらう,尚民政長官下村宏氏も目下東上中で
あるから面会の上希望を述べて置く考へである」云々(24)

安藤台湾総督にも丸井にも日本仏教側に大幅な便宜を与えて利用する意向があったようであり,キリ
スト教対策に重点を置き日本仏教に対して冷淡であった朝鮮総督府との施政方針との相違にも言及し
ていることが注目される(25)。

2.曹洞宗と台湾仏教中学林

曹洞宗布教の復興 総督府の宗教利用策・現地民布教奨励策に呼応して,特に積極的に現地仏教の日
本化と現地民布教ための諸施策を積極的に展開したのが曹洞宗と妙心寺派を中心とする臨済宗であっ
た(26)。まず,曹洞宗の動向から見ていこう。
曹洞宗は,一八九八(明治三一)年の寺廟末寺化禁止措置により打撃を受け一時教勢は大きく衰退し
た。一九〇三年一一月に長田観禅の尽力によって台中寺の庫裏が完成し,曹洞宗議会も五〇〇円の補助
金を二年間に分けて交付することを決めたが,その支出をめぐって議会は紛糾している(27)。曹洞宗が
教勢の本格的な挽回策に乗り出すのは,一九〇八年になってからのことであった。この年,曹洞宗議会
は台湾での新寺建築費の補助を次のように決定した。

議案第四号 台北台南台中新竹新寺建築費補助支給ノ件
第一条 宗務院ハ台北台南台中新竹ニ於ケル布教ノ基礎ヲ確立スルノ旨趣ニ依リ同各地ニ一寺創立
ノ挙ヲ完成セシムル為メ建築費補助トシテ左ノ金額ヲ支給ス
一 金壹万円 台北新寺建築費補助
一 金参千円 台南新寺建築費補助
一 金貳千円 台中新寺建築費補助

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一 金千円 新竹新寺建築費補助
第二条 前条ノ補助金額ノ支給ハ左ノ方法ニ依ル但シ事業遂行ノ程度ニ依リ明治四十二年以後ノ支
給期限ヲ変更スルコトアルヘシ
台北 明治四十一年ヨリ二箇年間ニ支給シ一箇年間支給額金五千円トス
台南 明治四十一年ヨリ三箇年間ニ支給シ一箇年間支給額金千円トス
台中 明治四十一年ヨリ二箇年間ニ支給シ一箇年間支給額金千円トス
新竹 明治四十一年度ニ於テ其ノ全額ヲ支給ス(以下略)(28)

台湾寺廟を自宗布教施設に転用する方向性を漸く転換し,宗派資金を投じて一挙に台北・台南・台中・
新竹に四か寺を新築することとしたのである。このほか一九〇七年基隆の僧俗から,同地霊泉寺の曹洞
宗帰属が申請され総督府の認可を受けている。同時に住職の江善慧も曹洞宗僧籍へと編入した(29)。
上記の新寺の内,台北の新寺は台北別院として,約五万円の経費を投じ一九一〇年三月に竣工し五月
に盛大開院式を挙行したが,七月の大暴風雨のため倒壊した(30)。新築の台北別院の倒壊という不運に
見舞われたものの,曹洞宗議会は一九一二年度から別院庫裏再建費,翌一三年度から本堂再建費の計上
を決めて再建事業に着手した(31)。明治末年には,朝鮮仏教を一元的に自宗の従属下に置く計画が現地
仏教の反対運動により頓挫していた(32)。こうした事情から大正期に入ると,曹洞宗務当局は台湾布教
に重点を置き,積極的な現地民布教の推進策を展開したようである。すでに西来庵事件の起こった頃に,
曹洞宗台湾布教の教勢はかなりの広がりを見せており,一九一五年八月『中外日報』は,同宗の布教状
況を次のように報じている。

△台湾人の布教 台湾土着の人民に対する布教は領台以来二十年一定の方針の下に行へる所にし
て各宗に先鞭を付けて相当の成績を挙げつゝあり,台湾別院には通訳として陳金福,台湾人僧侶と
して釋心源,沈本圓,荘信修の三名伝道に従事し別院境内に建てられし観音堂に於て毎月五の日に
台湾人のみに対して布教しつゝあるが,台湾に従来行はれし仏教及び民間宗教の食菜人と曹洞禅と
接近し居る関係より曹洞宗の開教に対して親善の感情を有し台湾土着の僧侶及び寺院の曹洞宗に
帰属する者を生ずるにつれて曹洞宗の寺院教会所に出入する台湾人漸次増加し前記観音堂の建築
は台湾人の布教を主眼として計画せられ設計構造凡べて台湾在来の仏堂の形式を模したるが一万
二千円の工事費に対して一千円の本山下付金を除き残り一万一千円は台湾人の寄附に係るものに
して島民の洞宗開教に対する歓迎の程度を推知し得べしと云ふ,台湾在来の寺院,廟宇の外に全島
各部落に在る堂の重なるものに曹洞宗説教所の標札を掲げ洞宗布教師の出張布教あるが如き,又た
△台湾寺院の帰属して洞宗の寺籍んみ入れるものあるが如きは洞宗開教と台湾土着僧俗との接近
融和を事実の上に語れるものして台北の龍山寺,創(剣カ)潭寺,凌雲寺,台南の開元寺,基隆の
霊泉寺の如きは何れも名刹にして本山禅師の証明を得て洞宗の寺籍に編入せられしが此他の大小
の寺院中には右各寺の末寺弟子法類等の関係少からざるが故に未だ洞宗の寺籍に入らざる台湾寺
院と云へども曹洞宗の感化を受けつゝあるもの少なからず,基隆霊泉住職釋善恵氏は相当の学問を
有し氏の弟子徳融演法氏は久しく内地に来りて曹洞宗第一中学林等に学び帰島後師僧善恵氏に随
行して南洋,緬甸,支那各地を視察したることあり,徳融氏は現に嘉義付近の荒廃せる大寺を再興
せんとして斡旋しつゝあり(33)

台湾仏教中学林の設立 一九一六(大正五)年に入り台湾総督府の支援姿勢が鮮明になると,曹洞宗
の活動は一層の活発化したようである。同年二月に台北官民と現地有志と謀り,「台湾仏教青年会」を
組織した。その趣旨は,曹洞宗義にもとづき「本島人の風俗習慣の改善,精神修養の目的を達せんとす
る」ことにあった。さっそく総督府が領台二〇年を記念して開いた台湾勧業共進会で伝道活動を行うこ

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ととし,その従事者約二〇人を曹洞宗別院指導監督のもとで養成したが,そのほとんどが台湾人僧侶で
あった。またその資金千円はすべて台湾人信者の寄附によるものであり,活動は賭博などの悪弊改善な
どで一定の成果をあげたようである(34)。
こうした成果を踏まえ台湾人僧侶の教育機関「台湾仏教中学林」が,同年一一月に総督府より認可を
受け翌年開校した。当時,曹洞宗本山は現地の一九か寺,斎堂二一か所と提携関係にあり,学林設置に
は,台湾別院主任の大石堅董ほか,黄玉階・江善慧・沈本圓ら台湾人僧侶も参画し,開校後に霊泉寺の
江善慧が学監に就任した。学科目は修身・宗乗・余乗・国語・漢文・地理・歴史・伝道講習などで,卒
業年限を三か年,さらに一か年の研究科も設け,教員には曹洞宗大学卒業者らが就任した(35)
。設置
に際して,台湾総督府も支援したようであり,開林式に臨席するために渡台した忽滑谷快天は次のよう
に述べている。

次に台湾総督府は本島人の教化に力を注いで公学校を建て小学児童を教育し,又中学校を設けて本
島人の同化に全力を注いでゐるが,肝要なる僧侶の養成にまで及ぶ遑がない。本島人の僧侶を内地
化させることは,今日非常に必要である。されば総督府としても施政の方針上,本島僧侶を教育す
る中学林の設立には大賛成で,下村民政長官も開林式に臨んで其ことを公言したことである。又本
島人に種々の迷信があつて,その迷信が悪漢を利用する処となつて,日本政府反対の企てをするこ
とがあるから此方面に一大改革を行はねばならぬ。それには一般人民の教育と共に,僧侶の教育を
充分にせねばならぬ。之が台湾仏教中学林の重大なる任務である(36)

一九一六年一〇月開催の曹洞宗議会は,台湾仏教中学林の創設費用として一九一七年度から三年間,
毎年一千円ずつの補助金の交付を決めた。議場で宗務委員久保田実宗は,学林設立に向けて総督府との
相談があり,総督府側に内々に補助を交付する用意があることを説明し,「総督府ニ於テハ曹洞宗ガ早
ク此ノ設備ヲスルコトヲ待ツテ居ラレル位ノ訳デアリマス」(37)と述べている。さらに台湾総督と面談
した際のことを次のように話している。

此ノ程モ台湾総督ガ此方ニ来テ居ラレル時ニ,管長代理トシテ部長サンガ挨拶ニ御出デニナリマシ
タ時ニ,私モ伴随シテ行キマシタ,サウシテ親シク台湾ノ総督ニ会ヒマシタガ,其ノ時ノ御話シニ,
各宗ノ坊サンガ行ツテ内地人ノ共食ヲシテ居ルノハ何ニモナラヌ,台湾土着ノ人間ヲ教化シテ貰ハ
ナケレバ折角骨ヲ折ツテモ何等ノ効果モナイカラ,アナタ方ノ御宗派ニ於テモ其ノ方針デヤツテ貰
ヒタイト云ハレタ様ナ訳デアリマス(38),

このように台湾仏教中学林は,総督府の強い要請のもとに開校した。その後の経費の大半は地元の寄
付でまかなう計画であったが,中学林は無月謝で食事も支給していたため資金面で大幅不足が生じた。
開設二年後には,一年級に二五名,二年級一五名の在学生があったが,完成年度の一九一九年度には七
五名を収容定員となるため,一九一八年一二月開催の曹洞宗議会は,一九一九年度以降も曹洞宗当局か
らの毎年補助金の交付を決議した(39)。趣旨説明を行った栗木智堂教学部長は,次のように述べて学林
が台湾布教の教勢拡大に資する事業であることを強調している。

ソコデ台湾布教ノ根本ノ目的ガ何処ニ在ルカト云ヘバ,台湾人ヲ布教スルト云フコトガナクテハ,
唯内地カラ移住シタ人ダケニ布教スルト云フノデハ,台湾布教ノ目的デハナイノデアリマス,ソコ
デ色々攻究ノ結果,仏教中学抔ト云フモノヲ拵ヘテ,台湾人ノ僧侶ノ子弟並ニ台湾ノ仏教信者タル
食菜人ト申シマス,其ノ子弟ヲ収容シテ根本的ニ宗門ノ宗乗,必要ナ余乗其ノ他普通学ヲ加味致シ
マシテ養成ヲスル,其ノ者ガ又将来布教ニ従事スルト云フヤウナ事カラシテ,此ノ台湾ノ本島人ノ

35
布教ト云フコトニ,着実ノ実効ヲ奉ズルト云フ目的デ,此ノ中学林ヲ設立シヤウト云フコトニナリ
マシタ(40)

その後,台湾仏教中学林は一九二二年に曹洞宗台湾中学林と改称され,さら一九三四年に私立台北中
学となって五年制が採用された。一九三七年には台北州当局より年額千円の補助金交付を受けることに
なり,その当時生徒数は二六〇名を超過している(41)。日本敗戦後は,私立泰北中学に改組され現在
に至っている(42)。

3.臨済宗と鎮南学林

臨済宗布教と長谷慈圓 臨済宗の台湾布教着手は他宗派よりも遅れた。教団からの経済的支援はほと
んどなく,布教使も宗派から正式に派遣されたものではなかった。しかし,このためかえって露骨に教
団利害のために動くようなことがなっため,現地の官民からは強い支援を受けた。その布教の拠点であ
る鎮南山臨済禅寺は,他宗派に先駆けて建立された本格的な日本寺院であり,その創建には台湾総督児
玉源太郎の強い支援があった。
その後も総督府と臨済宗僧侶との密接な関係は続いていたようである。一九一〇(明治四三)年には
じまった先住民族の同化政策でも,「治蕃布教師」として採用されたのは,主に本願寺派と臨済宗の僧
侶であった。蕃務総長大津麟平は,鎌倉円覚寺の釈宗演のもとで参禅していた臨済宗の信者でもあり,
治蕃布教師の登用を次のように考えていたとされる。

布教師を選抜する際の氏の方針は仏教に各宗各派各々門戸を異にし居れども禅と真宗の二宗にて
充分なり,他の宗旨は此の二宗の中間に在るを以て禅と真宗との二宗あれば凡ての人を網羅するこ
とを得べしとの意見にて,真宗より二十名,臨済宗より十五名の布教師派遣を交渉したる次第なり
と云ふ(43)

治蕃布教師のほとんどは,一九一三年に総督府の嘱託を解かれた際に帰国したが,臨済宗僧侶の数名
は巡査となって個人的に事業の継続に尽くしたようである(44)。他宗派の布教使が教団当局の命により
派遣され数年で帰国したのに対し,臨済宗僧侶は自らの意思により長く台湾に留まる傾向にあり,この
点からも臨済宗僧侶は,総督府や在留官民,現地民からも他宗派より信用されていたようである。
臨済禅寺でも住職の梅山玄秀が,約一五年にわたって臨済宗の台湾布教の中心的役割を担ってきたが,
師僧の引退により堺市南宗寺を後董するため帰国することになった。そして一九一四年六月,梅山の後
任として赴任したのが,京都建仁寺の竹田黙雷に教えを受けた長谷慈圓であり,この長谷のもとで臨済
宗の台湾布教は新たな展開を迎えることになった(45)。

鎮南学寮開設と台湾僧訪日 一九一六(大正五)年一〇月,長谷慈圓は臨済禅寺に「鎮南学寮」を付
設して台湾人僧侶の教育事業に着手した。設置に先立ち,長谷が妙心寺派議会に提出した「鎮南学寮設
立陳情書」では,以下の六点を挙げて学寮開設を企図するに至った趣旨を説明している。

(1) キリスト教に比べて日本仏教の台湾人布教が不振であること
(2) 第一次大戦で欧米キリスト教の伝道費が削減され絶好のチャンスが到来していること
(3) 迷信の多い台湾人を教化して反社会的勢力の蔓延を沈め現地の安寧に貢献すべきこと
(4) 台湾仏教の福建省皷山との関係を断ち臨済宗の管轄下に置くべきこと
(5) 台湾仏教を支配しつつある曹洞宗に対抗すべきこと

36
(6) 本山の補助を受けて国家に貢献し仏恩に報謝すべきこと(46)

上記から長谷の趣旨が総督府の意向に沿いつつ,教団の勢力拡大を図ることにあったことが知れ,長
谷のこうした方針により臨済宗の布教姿勢は大きく変化していったのである。開寮式には,下村民政長
官をはじめ秋沢海軍参謀長,隈本学務部長,楠地方部長,加福台北庁長ら,内地人本島人百数十名が臨
席し,盛大に挙行された。席上,寮主長谷慈圓は挨拶に続いて次のように述べ,台湾仏教を指導すべき
日本仏教の使命を強調した。

本寮設立に就いて感じたる三箇条として第一法には界限の無きこと即ち時と処と人とを問はず無
限大に広きものなること,第二仏教の歴史が印度より起つて総ゆる東洋の各国及び南洋各地にも普
及し三千年の経過を閲し而して日本に於いて最も発達したること,日本は今後布教普及の中心とな
るべき任務を有すること,第三には台湾の僧侶は仏教に対し二様の責任天職を有すること(47)

一九一七年に学寮は「鎮南学林」と改称したようであり,同年五月に長谷慈圓は,台湾屈指の名刹で
ある観音山凌雲寺の住職沈本圓と開元寺の副住職鄭成圓を伴い中国南部を視察した後,来日して妙心寺
を訪れた。台湾仏教界の長老である開元寺の陳傳芳も合流したが,傳芳は急きょ寺務のため帰台してい
る(48)。その後,長谷と本圓・成圓らは上京し,在東中の下村民政長官・柴田宗教局長・田所文部次官・
岡田良平文部大臣らを訪問し,貴衆議院や新聞社の観覧,帝国大学での上田・姉崎・高楠博士らとの会
見,乃木・児玉総督の墓参などを済ませ七月に帰台した(49)。
長谷には,本圓・成圓を日本へ帯同して協力関係を強固なものにしたいという意図があったと考えら
れるが,文部省側もこれを支援する意図があったようである。『中外日報』の報ずるところによれば,
岡田文部大臣との会談で長谷は鎮南学林の現況等を詳しく報告し,これに対して岡田からに以下のよう
な要旨の訓示的談話があったとされる。

凡そ植民地の統治に最も必要なるものは何なりやと問はゞ其地の人民と在住の内地人民との間に
思想感情の融合一致して互に相理解し互に相信頼するにあるべきは謂ふ迄もなし,而して台湾島人
と内地人とは同じく是れ帝国の臣民にして其間同種同文の関係あり,其誼は即ち兄弟たるのみなら
ず台湾に行はるゝ宗教も亦内地と同じく仏教にして殊に禅宗を最多とする由なれば宗教上に於て
も亦等しく是れ釈迦牟尼仏の弟子にして即ち宗教上の兄弟たり,されば台湾島人と内地人とは其思
想感情の融合一致を見ること最も易く互に相理解し互に相信頼する事を得るに至ることも亦従つ
て容易なるべしと思ふ,諸君は相共に和合協力して仏教の教義に依り台湾島人を教導し益々台湾教
化の為めに尽瘁せられ以て直接間接に台湾の平安進歩を期せられたきものなり,此の如くならば台
湾の為めには勿論,帝国の為めに最も幸福とする所にして余の切に諸君に望む所も亦正に茲に在り
(50)

鎮南学林のその後 一九一八(大正七)年には,明石総督・中川小十郎台湾銀行副頭取・小倉新高銀
行頭取らの協力を得て,学林経営の基本財産積立のため「台湾道友会」を設立された(51)。また鎮南学
林入学に際して連絡提携するため各地の寺廟と「連絡寺廟」の関係を結び,その数は一九一九年四月段
階で三〇か寺に達していた(52)。
一九一八年八月に鎮南学林を訪れた大谷派の阪埜良全の報告によれば,学林は予科一年制,本科三年
制,研究科二年制であった。当時はまだ本科二年までしか在学しておらず,生徒数は三三名,その内の
二〇名が先天派の斎友であった(53)。同年一二月に長谷慈圓は急逝したが,学長後任を丸山社寺課長が
引き継ぐなど,総督府の支援を受けた(54)。当時発行の妙心寺派の機関誌『正法輪』によれば,鎮南学

37
林の状況は以下のとおりであった。

△鎮南学林 経費は道友会より出金して維持し,学長も総督の内意にて総督府の社寺課長丸井圭次
郎氏就任せられ,全く普通中学に仏教を加味せる特別の学校となり,基礎を確立せり,今学科及び
職員を列記すれば左の如し
学科,宗乗,余乗,国語,数学,英語,漢文,地理,歴史,修身,法制,経済,博物,唱歌,体操
学長 修身,台湾宗教 文学士 丸井圭次郎
教授 宗乗 臨済寺主 山崎 大耕
同 国語,英語 臨大出 亀田 萬耕
同 仏教史,歴史,地理 臨大出 岩田 直純
同 国語,余乗,唱歌 臨大出 田村 象山
同 国語 中学出 瀬口 剛岳
同 数学,英語 高師出 坂本 喜章
同 漢文,漢詩 連 雅 堂
同 漢文 黄 金 印
同 博物 殖産局技手 林 学 周
会計 新高銀行頭取 小倉 又吉
会計 桐村 宗鐡
尚ほ他に二三嘱託講師あり,而して目下亀田教授は自坊に帰省中
学生は目下三学級に収容し予科を廃し,公学校(内地小学)卒業生のみ入学を許すこととなせり(55)

4.諸宗教の布教動向

明治・大正期の布教概況 この時期までの日本仏教の全体的動向についても概観しておこう。諸宗派
の台湾布教への積極さの程度を知る上で,現地に派遣している布教師(使)の数はその指標の一つとなる
であろう。図表(8)は,
『台湾総督府統計書』のデータをもとに作成したものである。『台湾総督府統計
書』のデータは,特に初期のものに誤記と思われる箇所が多々見受けられる(56)。図表(8)でも一八九
九(明治三二)年末の浄土宗の人数が突出しており,逆に曹洞宗の人数が極端に少なく,両方の数字が
入れ替わっている可能性も考えられる。しかし,それ以降は極端な変動が少ないことから,ほぼ実数に
近い数値を示しているものと推測される。
総計の推移をみるに,一九〇〇年末の激減は,一八九八年の寺廟末寺化の禁止通達の影響に加え,南
清に布教使が移動したことが原因と考えられる。一九〇一年に一時回復するのは,本章冒頭で述べた総
督府による渡航費用の減免措置による効果と南清布教の頓挫との影響と推察される。その後も数年間は
低迷が続いたが,一九一一年末から三年間は一挙に人数が増加し,一九一四年末には再び落ち込んでい
る。これは,蕃界布教師の採用と解任によるものであり,特に本願寺派の変動が大きいのはそのためと
考えられる。一九一五年末から三年間ほども増加傾向がみられるが,これは西来庵事件後の総督府によ
る日本仏教利用策への対応によるもので,特に曹洞宗と臨済宗の増加が著しい。しかし,後に減少に転
じており,特に臨済宗の落ち込みは著しい。その原因については後述する。

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(図表 8)仏教各宗派派遣の台湾布教使(師)人数の推移(1898 年末~1925 年末)

真宗 真宗 臨済宗 本門 顕本
日蓮宗 浄土宗 曹洞宗 真言宗 天台宗 総計
本派 大谷派 妙心寺派 法華宗 法華宗
1898 年末 23 11 1 1 34 2 72
1899 年末 17 11 3 27 2 2 62
1900 年末 11 9 3 4 9 2 1 39
1901 年末 26 3 8 18 1 2 58
1902 年末 22 5 8 16 1 2 54
1903 年末 8 5 4 11 19 3 2 52
1904 年末 12 4 2 9 15 3 2 47
1905 年末 7 6 3 12 16 3 2 49
1906 年末 13 4 3 9 11 4 2 46
1907 年末 12 5 3 9 13 8 2 52
1908 年末 15 5 3 9 13 8 4 57
1909 年末 18 5 3 10 15 6 4 61
1910 年末 21 5 3 9 15 4 3 60
1911 年末 22 5 5 8 17 6 6 69
1912 年末 32 5 5 9 19 9 7 1 87
1913 年末 32 5 5 9 20 11 8 1 91
1914 年末 23 3 5 14 18 8 7 1 79
1915 年末 25 5 7 14 23 9 6 1 90
1916 年末 25 4 6 16 27 11 7 2 98
1917 年末 14 4 5 17 16 12 7 3 78
1918 年末 14 3 4 14 10 4 4 4 57
1919 年末 12 4 3 14 10 6 4 3 56
1920 年末 10 4 3 17 12 6 6 3 1 62
1921 年末 12 2 3 16 12 6 6 3 3 1 64
1922 年末 11 1 3 16 10 6 6 3 4 1 61
1923 年末 35 7 6 17 21 14 9 4 4 1 118
1924 年末 36 8 6 18 19 14 8 4 3 1 117
1925 年末 34 7 7 20 26 18 10 4 4 1 131

① 『台湾総督府統計書』第 16~第 29(1914 年~1927 年)により作成した。本資料は前掲『仏教植民地布


教史資料集成〈台湾編〉
』第一巻に収録。
② 「臨済宗妙心寺派」は,1916 年末から「臨済宗」とのみ記載されている。
③ 『台湾総督府統計書』第 27 掲載の 1923 年末以降の統計は,人数が「説教所所属」と「寺院所属」に分
けて掲載されるようになった。図表では,その合計を記載したが,人数が急増していることから,一
部で重複して算入されている可能性も考えられる。

諸宗派の大正期の布教動向 曹洞宗と臨済宗以外で,この時期に布教使派遣を大幅に増員したのが浄
土宗である。浄土宗では,一九一〇(明治四三)年八月に赴任した台湾開教区開教使長花車圓瑞師のも
とで,総本山知恩院への宗祖御忌大会参拝団派遣,布教所の新規開設,忠魂堂の新築などの諸事業を展
開して次第に教勢が隆盛に向かいつつあったようである(57)。その後も,嘉義幼稚園・明照幼稚園(台
南市)・法隆寺社会教育部(嘉義市)・台南仏教婦人会・樺山日曜教園(台北)・北港報真日曜教園(台
南州)などの教育・教化事業を活発に展開したが(58),なかでも,現地人対象の事業として注目すべき
は「台南学堂」であろう。

39
台南学堂は,公学校卒業した本島人子弟を対象とする二年制の教育機関として一九一八年七月に設置
され,仏教教育も行われたようである。すでに一九一六年一〇月の時点で現地布教使から「土僧養成学
校設立の建議書」が提出され,台湾人僧侶の教育事業の必要性が提唱されていたが,曹洞宗・臨済宗に
遅れをとり,これらとの競合を避けるため台南に設置場所を決めたようである。同宗本島人布教の伸張
への期待は大きく,台湾布教費用の三分の一を充当して経営されていた。一九二二年末時点で,教職員
が七名,在校生は八二名であった(59)。ところが一九二四年には,「台湾商業学校」に改組されて三年
制となり,直接的な仏教教育はなされなくなったようである(60)。
本願寺派では,一九一四年に長く台湾布教に関わってきた紫雲玄範が台北別院輪番を辞職し,後任者
が短期間で変更になったため,しばらく教勢が不振に陥ったようである(61)。しかし,一九一九年頃か
ら再び活況を呈し,感化院・免囚保護施設・釈放保護施設・授産施設・女子教育・幼稚園・保育園・日
曜学校など多様な教育・社会事業を展開した。一九二一年九月には,本願寺派台北別院輪番片山賢乗が,
布教者養成の方策を日本人僧侶の台湾留学制度から本島人の日本留学制度へ転換して,本島人の国内中
央仏教学院への留学に着手した(62)。さらにこうした諸事業の財源を確保するため,一九二六年四月
に財団法人「真宗本願寺派台湾教区教学財団」が設立された(63)
。一九二三年の皇太子訪台の後には,
本島人布教や先住民教化の強化も図られたが,同派布教の中心はあくまで内地人であり,現地民布教で
大きな成果をあげるには至らなかったようである(64)。
それ以外では,真言宗にやや教勢の伸張が認められる。小山祐正が初期布教から一貫して現地に留ま
り,同宗の台湾布教を主導してきたことで次第に成果を収めていったようである。その一方で,大谷派
と日蓮宗の布教は振わず,後発の天台宗なども大きく勢力を拡大することはできなかったようである。

5.南瀛仏教会の設立
曹洞宗・臨済宗布教の実情 一九一五(大正四)年の西来庵事件後の総督府の宗教施策の転換に呼応
して,曹洞宗と臨済宗とが相次いで台湾人僧侶の教育事業に着手した。しかし,教育機関の設置に際し
て両宗は,自宗の勢力拡大に向けて対抗意識を露骨に示す結果となった。臨済宗の長谷慈圓が前掲「鎮
南学寮設立陳情書」で示した六項目の設立趣旨の五項目目には次のように記されている。

台湾の仏寺は,大抵禅宗に属し,其の僧侶は臨済曹洞両派に分たるるも,我が臨済の系統に属する
もの十の六七に居る,然るに曹洞宗の台湾仏教に手を下せること,日較々久しく,既に其の臨済系
に属するものにして,彼の掌中に収められんとしつゝあるもの少なからず,宗祖は決して小衲等の
惰眠を貪ることを許さゞるべし,是れ小衲が鎮南学寮建設を企画する所以の第五也(65)。

一方,鎮南学寮開設の半年後には台湾仏中学林開校式が挙行されたが,式に日本から臨席した忽滑谷
快天は,「近頃は臨済宗布教師が運動して本島寺院を臨済宗の末寺にする計画をして,遂に成功した所
もある。この情態で抛棄して置くならば,本島寺院は他宗のものとなるであらう」(66)と述べている。
台湾僧侶の側も,日本の領有が二〇年に及ぶなかで,対岸の福建省に渡って修学するよりも,日本仏教
との提携の強化を望むものが増えつつあったようである。こうしたなかで両宗の活動は,台湾仏教支配
の主導権をめぐる競争へと発展する傾向を示しつつあったようである。一九一七年五月に『中外日報』
は,この様子を次のように報じている。

台湾に於ける仏寺は大抵禅宗に属し従来は支那福建省皷山を本山とせしも今や内地本山に依るを
得策と自覚し内地よりは曹洞宗及び臨済宗の開教師等宗旨発展の為めに奮闘し約五百の寺院中臨
済系統たる三百ヶ寺は台北開元寺を中心として妙心寺派に所属し残余は曹洞宗に附属するものの

40
如く不日公式に所属本山の決定を見るに至るべしと(67)。

このように台湾仏教の取り込みをめぐって,両宗間の競争激化が再燃する兆しも見せていた。しかも,
これらの教育事業は一部の台湾僧の取り込みには成功したものの,一般の台湾民衆の教化に成果を挙げ
るまでには至らなかった。
『台湾総督府統計書』に統計資料によれば,日本仏教の本島人信者数の推移は図表 9 のとおりであっ
た。一九一五年末から一九二二年末までの日本仏教の本島人信者数は,総督府が宗教方針を転換して日
本仏教の側も本島人布教に向けた新たな施策を展開しはじめたにもかかわらず,ほとんど増加していな
い。むしろ減少する傾向さえ見受けられ,曹洞宗・臨済宗の信徒数も低迷している。これは,曹洞宗と
臨済宗の台湾仏教の取り込み競争を一般台湾民衆が冷ややかに見ていた結果と言えるかもしれない。ま
た台湾総督府にとっても,こうした事態は決して好ましいことではなく,何らかの対策に着手する必要
性に迫られたと考えられる。

(図表 9)日本仏教各宗派の本島人信者数の推移(1912 年末~1925 年末)

真宗 真宗 臨済宗 本門 顕本
本派 大谷派 日蓮宗 浄土宗 曹洞宗 妙心寺派 真言宗 天台宗 法華宗 法華宗 総計

1912 年末 2241 596 132 1675 8049 357 11 13061


1913 年末 2143 623 10 1870 8041 376 36 13099
1914 年末 2072 613 59 2214 8592 375 15 13940
1915 年末 4001 603 8 2296 11937 370 40 19255
1916 年末 1615 50 409 21169 305 1 23549
1917 年末 884 200 11 1693 5636 1020 36 9480
1918 年末 749 200 17 3101 4436 1020 9523
1919 年末 1497 200 27 4663 4875 1085 56 12403
1920 年末 1683 359 20 2560 7504 140 12266
1921 年末 1631 85 336 2679 7287 163 18 17 12216
1922 年末 2922 57 30 2626 12830 297 30 20 3 13 18828
1923 年末 4292 362 105 2652 27232 6092 43 20 4 13 40815
1924 年末 6032 417 115 2358 20956 8068 32 25 7 15 38025
1925 年末 5424 367 171 2402 24219 12170 28 35 4 23 44843

① 『台湾総督府統計書』第 16~第 29(1914 年~1927 年)により作成した。本資料は前掲『仏教植民地布


教史資料集成〈台湾編〉
』第1巻に収録。
② 「臨済宗妙心寺派」は,1916 年末から「臨済宗」とのみ記載されている。
③ 『台湾総督府統計書』第 27 掲載の 1923 年末以降の統計は,人数が「説教所所属」と「寺院所属」に分
けて掲載されるようになった。図表では,その合計を記載したが,人数が急増していることから,一
部で重複して算入されている可能性も考えられる。

台湾仏教の動向と臨済宗布教の衰退 第一次大戦後には,
「民族自決」主義の国際的高まりを背景に,
台湾でも民族主義的政治運動が活発化しつつあった。これに対して総督府の統治方針にも,民族運動を
抑圧・懐柔しつつ,日本との結合を強化していく「漸進的内地延長主義」が採用さるようになった。す
でに一九一八(大正七)年就任の明石元次郎総督により教育政策を通じた同化主義による統治方針が表
明されていたが,翌一九年に初の文官総督として就任した田健治郎のもとで,現地住民へ一定の権利を
付与し,地方制度や教育制度などで植民地行政を本国化していく措置が採られた。しかし,これらの措
置は,決して「民族自決」を容認するものではなく,「本島民衆をして,純然たる帝国臣民として我朝
廷に忠誠ならしめ国家に対する義務観念を涵養すべく教化善導」(68)することが目指されていた。こう

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したなか,一九二一年に台湾議会設置請願運動がはじまり「台湾文化協会」が発足するなかで,総督府
はその分断・懐柔に腐心しつつあった。
一九二〇年三月,斎教の関係者一二〇名が斗六郡南庄龍虎堂に集まり「台湾仏教龍華会」の創立総会
を開いた。台湾在来の斎教による初の連合組織であり,本部を嘉義に支部を全島二八か所に置き,一九
二二年には総督府から法人組織としての認可も得た(69)。結成の背景には日本仏教の布教活動に刺激を
受けたことに加えて,「民族自決」への意識の高揚もあったと考えられる。仏教龍華会の開催は,台湾
仏教界にも新しい動きが胎動しつつあったことを告げるとともに,日本仏教宗派の個別事業による台湾
仏教懐柔策が限界を迎えていることを端的に示すものであったといえるであろう。
臨済宗妙心寺派の青木守一は,一九二三年に同派機関誌『正法輪』に寄稿した文のなかで,次のよう
に述べている。

長谷慈圓師は一方十乗底の智識と同時に世才に長じ,内台人の信仰を良く集め良く利して連絡寺廟
の締結と鎮南学林の創設とに一大奇跡を留め,移住仏教の覇権を握るに至れり。然るに師の短命な
りし為めか或は当局の後援の不足からか斎教は純然たる臨済系統を帯びながら臨済宗を離れ独立
本山を建設するなど,然も仏教龍華会の顧問役たる本派開教使東海宜誠師の駐在せるに何たる不始
末なる事やと遺憾歎息の禁ずる能はざるなり。斯くする内世の経済界は動揺を生じ来り社会百般の
階級は一大打繋を蒙り因果の定律を繰り返して或は破産し或は合併し哀れなる英雄の末路をさら
するあり。此の機に際し我が鎮南学林は財政上比較的堅実なるべき基礎の上に立ちながら基本金徴
集不能の名目に依りて悲惨なる廃校の宣言を告げて大正十一年度本派開教史上に一大汚点を印し
たり(70)

臨済宗では,台湾布教を強力に推進した長谷慈圓師が一九一八年一二月に急逝し,後任の山崎大耕も
一九二〇年に辞任して指導的人物を欠く状況にあった(71)
。加えて同年三月に起こった戦後恐慌が,外
護者からの寄付金に依存する鎮南学林の経営を直撃し,学林は閉鎖に追い込まれたようである。一九二
二年一〇月『中外日報』は,「妙心寺派唯一の蕃界教育機関として他派に誇つてゐた鎮南学校は今回財
政不況により日常の経費不足の為臨済宗信徒総代会議に於て廃校することゝなつた」(72)と報じている。
台湾総督府の側も,台湾民衆の懐柔にあまり効果が見込めない宗派個別事業に,それまでのような支援
をしなくなっていたと考えられる。特にこの頃の臨済宗は,朝鮮でも現地の三十本山を一元的に同派支
配下に置く計画を進めていたが,現地僧侶の反対運動と朝鮮総督府の指導により失敗に終わっている
(73)。臨済宗の動向に,台湾総督府も警戒を抱くようになったと推測される。
こうした状況のなかで,青木守一は上記のように斎教を自派の支配下に置くことができなかった無念
さを吐露した上で,さらに次のように続けている。

然して各派通じて本島人に接して開教に手を染むるは本派と曹洞宗のみに他は或る一部分に過ぎ
ず,曹洞宗と雖も先に連絡寺廟に失敗してより教鋒の鈍るを見る,斯る時にあたつて其の第一機関
とも云ふべき鎮南学林を閉鎖し是に代るに鎮南専門道場を設立して開教上革命せんとするも将し
て人種も性質も内地人と異れる本島人を教化訓育するに適する哉否大なる疑問なり,是れが為め本
島人教化上一頓挫を招来し連絡寺廟との関係を薄らぐるに至らざらん哉唯一辺の杞憂に過ん事を
切望して止まざるなり(74)。

ここで青木は台湾布教の難しさを述べて,台湾布教の将来に悲観的な心情を吐露しており,同時に曹

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洞宗の布教も同様に厳しい状況にあることも指摘している。

南瀛仏教会の結成 一九二一(大正一〇)年一月台湾議会設置請願運動がはじまり,翌二二年には仏
教龍華会が正式に総督府から認可され,臨済宗の鎮南学林が廃校となった。台湾の民族主義運動が仏教
界にも波及し,日本仏教の各宗派個別事業による台湾仏教懐柔策の限界が見えてきた段階で,台湾人僧
侶・斎友を会員とする全島的仏教連合組織として結成されたのが「南瀛仏教会」であり,その結成を提
唱・主導したのが,初代社寺課長の丸井圭治郎であった。
一九二一年二月初旬,丸井は基隆月眉山霊泉寺住職江善慧,観音山凌雲禅寺住職沈本圓を招致して設
立計画をスタートさせた。江善慧は一九〇七年に曹洞宗に帰属し曹洞宗仏教学林の学監でもあった。一
方の沈本圓は曹洞宗仏教学林の創立に関わったが,のちに臨済宗に転じ長谷川慈圓と来日したこともあ
り,住職を務める凌雲禅寺は一九二〇年に総督府の認可を得て正式に臨済宗妙心寺派の末寺となってい
た(75)。曹洞宗・臨済宗の双方に関係深い二人に働きかけることで,超宗派的結束を目指したものと考
えられる。
次いで二月二三日,丸山は再び両氏を社寺課に招致して協議会を開催し,二六日には台北周辺の僧
侶・斎友を艋舺倶楽部に召集して創立に関する協議会を開いた。席上丸井は,僧侶・斎友を激励して仏
教振興のための団体結成を提議し,満場一致でその主旨に賛同することが決議され,江善慧,沈本圓,
陳火,黄監の四名が創立委員に選出された。さらに全島各地に会員を募集する計画を立て,三月初旬に
新竹,台中,台南等の各地で僧侶・斎友の会合がもたれ,同年四月に南瀛仏教会発会式が挙行された。
式には下記のように有力な僧侶・斎友が参集した。

基隆月眉山霊泉寺 江 善 慧 観音山凌雲禅寺 沈 本 圓
大稲埕日新街至善堂 黄 監 東門外曹洞宗別院内 孫 心 源
大稲埕國興街龍雲寺 陳 火 新荘郡三重埔字六張 黄 金 印
基隆源斎堂 張 添 福 大稲埕建昌街 陳 普 悦
圓山剣潭寺 荘 信 修 汐止街白匏湖性善堂 蔡 普 揚
艋舺江瀕街慈雲堂 張 加 来 文山郡直潭庄龍潭 朱 四 季(76)

発会に際して発表された「南瀛仏教会趣意書」では次のように,日本仏教との提携(日本仏教化)が,
台湾仏教の陋習刷新と社会的地位向上を促し,延いてはそれが台湾の思想善導(日本への同化)へと帰
結するのだという展望が示されている。

惟ふに母国と本島とは共に釈尊の教法を一にす此の共通点に立脚して内地仏教と連絡を図り之が宣
布者の智徳を涵養し以て布教伝道の方法を会得せしめなば啻に本島在来の宗教を改善振興せしむる
のみならず社会的地位をも向上し且又思想善導上の原動力たらしむることを得べく従つて島民同化
の機運を促進せしむこと期して俟つべきなり我等同志茲に鑑みる所ありて南瀛仏教会を設立して如
上の目的を遂行し以て島民の福利を増進せしめむとす(77)

南瀛仏教会の諸事業 丸井は,台湾仏教界に興りつつあった自発的な革新運動を巧み取り込み,日本
化・内地化へと誘導させるため,南瀛仏教会の結成を企図したと考えられる。初代会長には丸井が就任
し,一九二四(大正一三)年一二月に内務局組織変更により社寺課が廃止となってからは内務局長木下
信が二代目会長となった。その後,一九二六年に文教局が新設され宗教行政が該局に移管されて以降は,

43
歴代文教局長が就任した(78)。
会則によれば(79),本部は当分総督府内務局社寺課内に置くとされていたが,総督府内の組織変更の
後も文教局社会課に置かれた。このように南瀛仏教会は,総督府の強い管轄下に置かれていたが,会則
二条に「本会ハ本島在住ノ本島人僧侶,斎友ノ有志者及地位名望アル外護者並寺廟,斎堂及神明会其ノ
他の宗教団体ヲ以テ組織ス」と規定されているように,あくまで台湾の仏教者を主体とする組織であり,
日本仏教の関係者は直接的に関与していなかった。ただし,会則三条には「本会ハ会員ノ智徳ヲ涵養シ
内地仏教トノ連絡ヲ通シテ仏教ノ振興ヲ図リ島民ノ心地開発ヲ助クルヲ以テ目的トス」と規定され,日
本仏教との連絡を目的に掲げていた。会の取り組むべき事業としては,会則四条に「一,講習会,研究
会及講演会等ヲ開催スルコト」と「二,宗教ニ関スル重要事項ヲ調査シ及機関雑誌ヲ発刊スルコト」を
掲げていた。
発足式の三か月後の一九二一年七月,三週間にわたる第一回南瀛仏教会講習会が開催された。曹洞宗
中学林を会場とし,内容は次の通りであり,二三名(外聴講生六名)が講習を受けた。

金剛経大意 許 林師 普 門 品 江 善 慧師
阿弥陀経大意 沈 本 圓師 原 人 論 伊藤 俊道師
十 牛 図 天田 策堂師 浄 土 義 吉原 元明師
法華経大意 西田 教道師 布 教 法 片山 賢乗師
台湾仏教 丸井社寺課長(80)

講師には,台湾人僧侶として,江善慧・沈本圓に加えて台湾仏教龍華会の設立に関わった許林が名を
列ね,日本人側からは丸山をはじめ,曹洞宗仏教中学林校長の伊藤・臨済宗の天田・浄土宗の吉原・天
台宗の西田・本願寺派の片山が出講している。宗派に偏らず,講義内容にも台湾仏教の傾向に即した工
夫が見受けられる。講習会は,その後も毎年開催された。
一九二三年七月には,機関誌『南瀛仏教会会報』が創刊された。当初は中文で隔月刊行であった(81)。
朝鮮で現地仏教の懐柔のため設立された朝鮮仏教団も,翌二四年五月に機関誌『朝鮮仏教』を創刊して
いる(82)。しかし『朝鮮仏教』が和文であったの比べると,この点でも台湾人僧侶への配慮が感じられ
る。南瀛仏教会の事務所は総督府内務局社寺課に置かれ,雑誌も同課で編輯されたが,編集者は現地人
がつとめたようである。一九二六年七月発行の四巻四号より中文と和文が併用されるようになり,一九
二七年一月発行の五巻一号から『南瀛仏教』と改題され,一九三〇年の八巻より月刊となった。その後,
一九四一年二月発行の一九巻二号「から『台湾仏教』に雑誌名が改められ,一九四三年一二月刊行の二
一巻一二号まで刊行された。ところが,一九四三年一二月をもって,総督府文教局が関与する『台湾仏
教』『敬慎』『皇国の道』『青年之友』『厚生事業の父』『台湾教育』『学校衛生』『科学の台湾』の八誌の
廃刊方針が示され,翌年一月から『文教』一誌に統合された(83)。

おわりに
台湾総督府は,南瀛仏教会の活動を通じて台湾仏教の日本仏教化を期待したが,宗派間の競争激化の
再燃を防ぐため南瀛仏教会に対して直接的に個別宗派が介入することを認めなかった。同時に総督府は,
日本仏教各宗派の協調関係の構築に向けた働きかけも行っている。一九二四(大正一三)年に台北の日
本人青年僧侶で結成された台湾仏教同志会には,発起人に丸山圭治郎社寺課長が名を連ね,結成後には
丸山が会長に就任した。同志会は,台湾での仏教興隆を図り将来的に中国南部・南洋にも及ぼすことを

44
目的に掲げていた(84)。また一方で総督府は,各宗派による現地仏教との提携も一部容認する姿勢も示
した。一九二五年七月,総督府は次のような通達を出している。

内地人僧侶ヲシテ本島旧慣ニ依ル寺廟,斎堂ノ住職又ハ堂主タラシムル件
輓近内地人僧侶ニシテ本島旧慣ニ依ル寺廟,斎堂トノ連絡ヲ図リ仏教ノ振興ヲ企画シ島民ノ精神的
教化事業ニ尽瘁スル者アリ中ニハ台湾語ニ精通シ其ノ成績良好ナルモノアリテ自然信徒ノ瞻仰スル
所トナリ尚進ンテハ之カ住職推薦運動ヲナス者アルニ至レリ而シテ斯カル優良ナル内地人僧侶ヲシ
テ従来不文律ノ内ニ閉サレタル門戸ヲ開キテ寺廟,斎堂ノ住職又ハ堂主タラシムルコトハ啻ニ在来
宗教ノ向上ヲ促進セシムルンノミナラス延テハ宗教的連鎖ニヨリ内台人融和ノ源泉ヲ醸成シ行政上
裨益スル所尠カラサルモノアリト思料セラルゝモ万一人物其ノ宜シキヲ得サルトキハ紛擾ノ原因ト
ナリ民心ニ極メテ悪影響ヲ及ホスノ惧レアルニ依リ右適任者推薦方ニ関シ相談ヲ受ケタル場合ハ充
分慎重ニ取扱ヒ万遺漏ナキヲ期スル様七月二十二日附総内第二〇八号ヲ以テ各州知事庁長ヘ依命通
達ヲナセリ(85)
ここでは,日本人僧侶が寺廟の住職となることに関して,民心への悪影響を懸念しつつも,行政上で
の有意義な効果が期待できるとの見解が示されている。
こうした総督府の動きに呼応して,現地仏教との提携事業を再び活動化させたのが臨済宗であった。
臨済宗の連絡寺廟は,一九一九年四月段階で三〇か寺であったが,二七年に一一一か寺となり,二九年
には一二〇か寺に達している(86)。また一九二七年五月には台湾南部の連絡寺廟と有志により「台湾仏
教慈済団」
(のちの「財団法人仏教慈愛院」)を組織して救療事業などの社会事業にも着手した(87)。過
去の経験から,台湾仏教と提携するだけでなく,広く台湾民衆を取り込むための施策の必要性を痛感し
たためと考えられる。
臨済宗に限らずこの時期には,前述のように浄土宗・本願寺派なども教育・社会事業を台湾で展開し
た。そうした事業は布教成果にも資するところがあったと推察される。しかし,基本的には台湾総督府
の漸進的内地延長主義に連動するものであり,総督府が性急な皇民化政策に転ずると,日本仏教は再び
台湾仏教を支配しようとする動きを露骨化させていったのである。

〔註〕
(1)この点に関しては,すでに「日本仏教の初期台湾布教(3)―台湾布教の衰頽と植民地布教への転換―」
(佛
教史研究』第五三号,二〇一五年三月)で論じた。
(2)台湾総督府は,日本・台湾間に航路をもつ大阪商船会社・日本郵船会社に命じて,各宗管長は無賃,他
の布教者には二割引とする措置を採った(「台湾布教者の無賃便乗」〔一九〇一年一〇月一八日付『明教新
誌』〕,「布教者の割引券」〔一九〇一年一一月五日付『明教新誌』〕)。なお,この措置は神道。キリスト
教の布教者にも適用されていたようである(「宗教布教者に対する特待」(一九〇三年六月一四日付『読売
新聞』朝刊)。また曹洞宗の宗報には,この措置を宗派側に関して通知した文書が掲載されている(
「台湾
布教便乗に関する件」
〔『宗報』一五八号,一九〇三年七月一五日,曹洞宗務局文書課〕)。
(3)『台湾総督府民政事務成績提要』第一一編(明治三八年度分)に,「内地ヨリ本島ニ渡台ニ島内ヲ旅行ス
ル宗教家ニハ特ニ汽車無賃便乗ノ規定アルモ本島ニ駐在シテ布教ノ為島内ヲ旅行スル宗教家ニハ未タ何等
ノ特典ナキヲ以テ是等ニ対シ相当便宜ヲ得セシメンカ為目下其計画中ニ属ス」とあり,『台湾総督府民政
事務成績提要』第一二編(明治三九年度分)にも次のように記されている。
客年中ヨリ計画ニ係ル本島ニ駐在シテ布教ノ為定期ニ本島内ヲ旅行スル宗教家ニ汽車割引便乗ヲ許ス
コトハ其計画弥熟シタルニ依リ右宗教家ニシテ当府ノ証明ヲ有スルモノハ普通賃銭ノ三割引ヲ以テ汽
車便乗ヲ許スコトトセリ而シテ其証明書ヲ受ケントスル者ハ台北庁管内ノ者ニ在リテハ直接当府ニ請

45
求シ其他ノ各庁管内ニ在ル者ハ其所轄庁ニ請求ヲ為サシメ庁ニ於テハ別ニ当府ヨリ送付セル証明書用
紙ニ必要事項ヲ記入ノ上本人ニ下付シ一面当府ニ報告セシメ一月以来之ヲ実行セリ
なお,『台湾総督府民政事務成績提要』は,『中國方志叢書』臺灣地區(成文出版社,一九八五年)に収
録・復刻されている。
(4)「理蕃政策」による総督府嘱託として採用された仏教布教使は,総督府の方針転換により一九一三年六月
に全員が罷免され,その後も総督府は先住民布教を積極的に勧奨することはなかった。この間の経緯と事
情に関しては,中西直樹『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第一巻(三人社,二〇一五年)所収の「解
題」のなかで解説した。
(5)(6)台湾総督府法務部編『台湾匪乱小史』一〇三四頁(一九二〇年)。
(7)胎中千鶴著「日本統治期台湾の仏教勢力―一九二一年南瀛仏教会成立まで―」
(『史苑』五八巻二号,一九
九八年三月)。
(8)池田敏雄著「柳田国男と台湾―西来庵事件をめぐって―」(国分直一博士古稀記念論集編纂委員会編『日
本民族文化とその周辺』歴史・民族篇,新日本教育図書,一九八〇年)。
(9)蔡錦堂著『日本帝国主義下台湾の宗教政策』五三~五四頁(同成社,一九九四年)。。
(10)(11)(12)「台湾統治ニ関スル所見」台湾総督府民政長官下村宏(一九一五年一一月二三日稿)。
(13)入江泰禅「台湾開教の一大欠点と之を救助する要途」
(一九一六年二月四日付『浄土教報』
)。
(14)「台湾宗教事情 外人耶蘇教徒の努力」
(一九一六年一月一三日付『中外日報』
)。
(15)「台北各宗協和会△土民教化研究と共同財源」
(一九一五年八月一四日付『中外日報』
)。
(16)「台北民政長官主催 宗教家招待会」
(一九一六年一一月一二日付『中外日報』
)。この招待会のことを,
臨済宗の長谷慈圚は「是れ督府が宗教家に対する希望を述べ,宗教家の活動を促さんとするものにして,
かゝる会合は領台湾以来始めての催しとて,一般の注意を惹き申候」と記している(「長谷慈圓師より」
〔『正
法輪』三七三号,一九一六年一二月〕,この記事は,前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻
に収録した。)。
(17)台湾宗教調査の開始時期について,丸井圭治郎編纂の『台湾宗教調査報告書』第一巻(台湾総督府,一
九一九年三月)は一九一五年一〇月と記しており,『事務成績提要』
(大正八年版)によれば同年九月とし
ている。しかし,前掲『日本帝国主義下台湾の宗教政策』で,蔡錦堂著は台南庁が同年八月三日に調査に
着手していたことを明らかにし,各庁も台南庁と同時かやや遅れて着手したとの見方を示している。
(18)中村英彦編『度会人物誌』二六五頁(度会郷友会,一九三四年),「台湾総督府の宗教研究」(一九二
〇年七月一日付『中外日報』)。なお『度会人物誌』は,丸山が教鞭をとった学校を「武山中学」としてい
るが,真言宗新義派中学林(のちの豊山中学)の誤記と考えられる。
(19)『台湾総督府文官職員録』は,中央研究所台湾史研究所のホームページで全冊を閲覧でき,検索をする
ことも可能である。
(20)「生蕃の本願寺参拝」(一九一二年一〇月九日付『中外日報』)。『真宗本派本願寺台湾開教史』一〇九
頁(宗本派本願寺台湾別院,一九三五年)にも「大正二年三月,蕃務本署丸山撫育掛より」云々と記され
ており,この「丸山」は丸井圭治郎のことであると推察される。なお,『真宗本派本願寺台湾開教史』は
前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第四・五巻に収録した。
(21)(22)(23)「宗教的方面より見たる台湾の民族性に就て」前会長前台湾総督府社寺課長文学士 丸井圭治
郎(『南瀛仏教会会報』四巻五・六号,一九一五年九・一一月)。また丸井は,現地の宗教を「仏教の衣をき
た道教」とも評している(「台湾の土人宗教に就て仏教家の猛省を促す」〔一九二〇年一〇月八日付『中外
日報』〕
)。
(24)「台湾宗教制度調査△総督府の方針」
(一九一七年一月二八日付『中外日報』)。
(25)この記事が,三・一運動以前のものであることを考慮しても,キリスト教対策を重要視する朝鮮総督府
と,台湾寺廟への対策を重要視し日本仏教の協力を期待する台湾総督府とでは,その宗教施政方針に相違
があったと考えられる。朝鮮総督府の宗教方針に関しては,中西直樹著『植民地朝鮮と日本仏教』
(三人社,
二〇一三年)を参照。

46
(26)曹洞宗と臨済宗妙心寺派の動向に関する先行研究に,胎中千鶴著「日本統治期台湾における臨済宗妙心
寺派の活動―一九二〇年~三〇年代を中心に―」(『台湾史研究』一六号 ,一九九八年一〇月),松金公
正著「曹洞宗布教師による台湾仏教調査と「台湾島布教規程」の制定―佐々木珍龍『従軍実歴夢遊談』を
中心に―」(『比較文化史研究』二号,二〇〇〇年),松金公正著「日本統治期における妙心寺派台湾布教
の変遷―臨済護国禅寺建立の占める位置―」(『宇都宮大学国際学部研究論集』一二号,二〇〇一年)など
がある。
(27)「台中寺の上棟式」(『宗報』一六五号,曹洞宗務局文書課,一九〇三年一一月一日),「第七次曹洞宗議
会議事速記録」
(『宗報』一七一号,曹洞宗務局文書課,一九〇四年三月一日)
(28)「第十一次曹洞宗議会議事速記録」(
『宗報』二六七号,曹洞宗務局文書課,一九〇八年二月一日)。
(29)『台湾総督府民政事務成績提要』第一三編(明治四〇年度分)。『台湾社寺宗教要覧(台北州ノ部)』
(台
湾社寺宗教刊行会,一九三三年)巻末収録の「霊泉寺(曹洞宗月眉山霊泉寺)
」,この資料は『仏教植民地
布教史資料集成〈台湾編〉
』第二巻に収録した。
(30)「曹洞宗の台北別院」(『教海一瀾』四七一号,一九一〇年六月一日),曹洞宗海外開教伝道史編纂委員
会編『曹洞宗海外開教伝道史』七一頁(曹洞宗宗務庁,一九八〇年)。
(31)「第十五次曹洞宗議会議事速記録」
(『宗報』三六〇号,曹洞宗務局文書課,一九一一年一二月一五日),
「第十六次曹洞宗議会議事速記録」
(『宗報』三八四号,曹洞宗務局文書課,一九一二年一二月一五日)。
(32)前掲『植民地朝鮮と日本仏教』一三八~一四二頁。
(33)「土人布教二十年」
(一九一五年八月一二日付『中外日報』
)。
(34)「台湾仏教青年会」
(一九一六年五月二日付『中外日報』),「洞宗と台湾人」
(一九一七年二月八日付『中
外日報』
)。
(35)「台湾の曹洞宗 仏教中学林と観音禅堂」
(一九一六年一一月一二日付『中外日報』
),「洞宗と台湾人」
(一九一七年二月八日付『中外日報』),前掲『台湾社寺宗教要覧(台北州ノ部)
』巻末収録の「霊泉寺(曹
洞宗月眉山霊泉寺)」。
(36)「台湾仏教中学林に就て」螺蛤生(『達磨禅』一〇号,一九一七年一〇月一日)。この記事は,前掲『仏
教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(37)(38)「第二十次曹洞宗議会議事速記録」(『宗報』四八〇号,曹洞宗務局文書課,一九一六年一二月一五
日)。
(39)「台湾仏教中学補助費問題」(一九一八年一一月七日付『中外日報』),「宗令第五号・曹洞宗台湾仏教
中学林経費補助金支出ノ件」(『宗報』五二八号,曹洞宗務局文書課,一九一八年一二月一五日)。
(40)「第二十二次曹洞宗議会議事速記録」
(『宗報』五五〇号,曹洞宗務局文書課,一九一九年一一月一五日)
(41)「台湾の仏教系唯一の中学 台北中学の発展」
(一九三七年二月一七日付『中外日報』
)。
(42)陳木子居士編『曹洞宗東和禪寺』
(財團法人台北市東和禪寺・釋源靈,二〇〇四年(中華民國九三年)。
(43)「治蕃布教師引揚事情」
(一九一三年一二月二一日付『中外日報』
)。一九一〇年に総督府の「蕃界布教」
がはじめられた際は,本願寺派が一〇名,臨済宗が五名だったようである(前掲『真宗本派本願寺台湾開
教史』一〇〇~一〇四頁)。その後,曹洞宗や真言宗の僧侶も一時登用されたようであり,一九一二年五
月二〇日付『中外日報』の「台湾総督府の蕃界布教」には「目下台湾総督府保護の下に真宗十五名,曹洞
宗真言宗臨済各々五六名宛の蕃界布教師を置きて活動せしめつゝある」とある。
(44)前掲「治蕃布教師引揚事情」。前掲『真宗本派本願寺台湾開教史』
(一一一~一一二頁)によれば,本願
寺派でも三名の布教使が警察官吏となって事業を継続したようである。
(45)「台湾の禅風」(一九一四年五月二九日付『中外日報』)。村田何休「創業の人,守成の人―梅山老師と
長谷慈圓師―」
(『正法輪』三二四号,一九一四年七月一二日),この記事は,前掲『仏教植民地布教史資
料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(46)長谷慈圓師「台湾の宗教」(『正法輪』三七八号,一九一七年二月一五日),この記事は,前掲『仏教植
民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(47)「台湾本島人僧侶養成 鎮南学寮開寮式」(一九一六年一一月一二日付『中外日報』)。同様の報道が,

47
註(16)掲出の「長谷慈圓師より」にも掲載されている。
(48)「台湾僧動静」(一九一七年六月八日付『中外日報』)
,註(44)掲出「台湾の宗教」。
(49)「台湾僧動静」
(一九一七年六月三〇日付『中外日報』),「台湾僧帰台」
(一九一七年七月六日付『中外
日報』)。「台湾僧の動静」(『正法輪』三八八号,一九一七年七月),この記事は,前掲『仏教植民地布
教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(50)文部大臣岡田良平「台湾僧に与ふ」(一九一七年七月三日付『中外日報』
)。
(51)「台湾便り」(『正法輪』四三三号,一九一九年六月一日),「台湾の宗教思想及び本派の教勢」岩田宜
純(『正法輪』四五八号,一九二〇年六月一五日)。これらの記事は,前掲『仏教植民地布教史資料集成
〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(52)「台湾寺院と内地布教師」
(一九一九年四月八日付『中外日報』
),「台湾と妙心寺」
(一九一九年四月八
日付『中外日報』
)。
(53)台湾各宗事情」阪埜良全(一九一八年一〇月一二・一三・一六日付『中外日報』)。阪埜良全は,台中の
第九中隊に所属していたが,大谷派寺院の出身だったようであり,現地からの報告を『中外日報』にたび
たび寄稿している(「台中所見」
〔一九一八年三月一三日付『中外日報』
〕,「台湾土人の信仰対象」
〔一九
一八年一一月五日付『中外日報』〕,「台湾見聞」
〔一九一八年九月一二~一五日付『中外日報』〕など)。
(54)「鎮南学林長」(一九一九年四月八日付『中外日報』)

(55)註(51)掲出「台湾便り」。
(56)この点については,前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第一巻収録の「解題」のなかでも指摘
した。
(57)「台湾の浄土宗」
(一九一二年八月七日付『中外日報』),「台湾の浄土宗」
(一九一四年一月一六日付『中
外日報』
),「台湾浄宗開教」
(一九一五年六月二二日付『中外日報』
)など。
(58)『浄土宗社会事業年報』第一輯(浄土宗務所社会課,一九三四年)など参照。浄土宗の社会事業に関す
る要覧等資料は,中西直樹・髙石史人・菊池正治編『戦前期仏教社会事業資料集成』第九巻(不二出版,
二〇一二年)に収録されている。
(59)「台湾開教区の現状吐露」(上)台南学堂 鈴木正恩(一九一九年一〇月三日付『中外日報』
),「台湾教
化問題」
(一九一九年一〇月一〇日付『中外日報』
),「台湾開教に就て」見山望洋(一九一九年一一月七
日付『中外日報』)。『浄土宗社会事業要覧』
(浄土宗務所社会課,一九二三年。前掲『戦前期仏教社会事
業資料集成』第九巻に収録)。
(60) 柴田玄鳳著『浄土宗開教要覧』
(一九二九年,当該箇所は前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉』
第六巻に収録),『浄土宗社会事業要覧』(浄土宗務所社会部,一九一六年。前掲『戦前期仏教社会事業
資料集成』第九巻に収録)。
(61)前掲『真宗本派本願寺台湾開教史』一一五~一一六頁。
(62)前掲『真宗本派本願寺台湾開教史』一三四~一三五頁。本願寺派の台湾人布教者養成事業のその後につ
いては,第七章で論じた。
(63)前掲『真宗本派本願寺台湾開教史』二二〇~二二五頁。本願寺派の社会事業に関しては,『本願寺派社
会事業便覧』(本願寺派社会事業協会発行,一九三六年。前掲『戦前期仏教社会事業資料集成』第六巻に
収録)を参照。日曜学校に関しては,『日曜学校便覧』(本派本願寺教務局社会部日曜学校課発行,一九
三三年)を参照。
(64)皇太子訪台以降の本願寺派の本島人布教・先住民教化に関しては,前掲『真宗本派本願寺台湾開教史』
二一一~二一九頁を参照。
(65)註(46)掲出「台湾の宗教」。
(66)註(36)掲出「台湾仏教中学林に就て」。
(67)「台湾寺院の去就」
(一九一七年五月二五日付『中外日報』
)。
(68)矢内原忠雄箸『帝国主義下の台湾』二三六~二三七頁(岩波書店,一九二九年)。

48
(69)増田福太郎著「台湾の寺廟を巡歴して―嘉義郡―」(『南瀛仏教』一一巻一号,一九三三年一月)。
(70)「台湾開教の将来」青木守一(『正法輪』五二二・五二四号,一九二三年二月一五日・三月一五日)。こ
の記事は,前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉』第三巻に収録した。
(71)「台湾臨済寺の変動」
(『正法輪』四六六号,一九二〇年一〇月一五日)。
(72)「鎮南学林廃校」
(一九二二年一〇月四日付『中外日報』
)。
(73)前掲『植民地朝鮮と日本仏教』一七九頁。
(74)註(70)掲出「台湾開教の将来」。
(75)江善慧と沈本圓の経歴は,前掲『台湾社寺宗教要覧(台北州ノ部)
』巻末収録の「霊泉寺(曹洞宗月眉山
霊泉寺)
」及び「観音山凌雲禅寺」を参照。
(76)(77)「会報・南瀛仏教会之沿革」(『南瀛仏教会会報』一巻一号,一九二三年七月),「南瀛仏教会之沿
革(一)
」(『南瀛仏教』一一巻三号,一九三三年三月)。
(78)「南瀛仏教誌創刊十週年を顧て」鶴山江木生(『南瀛仏教』一一巻七号,一九三三年七月)。
(79)南瀛仏教会会則は機関誌である『南瀛仏教会会報』『南瀛仏教』等に断続的に掲載されている。
(80)前掲「会報・南瀛仏教会之沿革」,「南瀛仏教講習会の開催」
(『台湾時報』二六号,一九二一年九月)。
(81)この雑誌は,黄夏年編『民国仏教期刊文献集成』一〇七巻~一二二巻,補編二三巻~二六巻(中国書籍,
二〇〇六年・二〇〇八年)に収録・復刻されている。ただし,三巻一号や八巻九号など数号の欠号があ
る。
(82)雑誌『朝鮮仏教』は、『韓國近現代佛教資料全集』第二五〜三六巻(民族社,一九九六年)に収録・復
刻されている。
(83)前掲「南瀛仏教誌創刊十週年を顧て」,「“台湾仏教”二十年」江木生(『台湾仏教』二一巻一二号,一
九四三年一二月)。
(84)「台北に於ける青年教家活動」
(一九二四年九月一八日付『中外日報』
)。
(85)『台湾総督府民政事務成績提要』第三一編(大正一四年度分)。
(86)「台湾教勢視察記(一)~(四)」教学部長後藤棲道(『正法輪』六二四~六二七号,一九二七年五月一五日
~七月一日),「台湾開教だより―仏教慈済団の組織―」東海宜誠(
『正法輪』六八三号,一九二九年一一
月一日)。これら記事は前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。
(87)前掲「台湾開教だより―仏教慈済団の組織―」,「台湾に於ける財団法人仏教慈愛院に就いて」仏教慈
愛院理事長 東海宜誠(『正法輪』七七九~七八一号,一九三三年一一月一日~一二月一日)。これら記
事は前掲『仏教植民地布教史資料集成〈台湾編〉
』第三巻に収録した。

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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-02(2016 年 3 月 31 日)

調査報告

『教行信証』に関する調査報告
(2015 年度)

杉岡孝紀(龍谷大学農学部教授)

川添泰信(龍谷大学文学部教授)

玉木興慈(龍谷大学短期大学部教授)

高田文英(龍谷大学文学准教授)

目次
1.『教行信証』の書誌的・文献学的研究
2.〔文明本〕の書誌情報
3.〔浄興寺本〕の調査報告
4. 報告のまとめと今後の課題
1.『教行信証』の書誌的・文献学的研究

サブユニット 1 は,親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』と略称)六巻
を中心に据えながら,親鸞浄土教を総合的に研究することを主題としている。親鸞の浄土
教の研究については,伝統的な宗学研究はいうまでもなく,近代以降は歴史学・哲学・文
学などさまざま領域から研究がなされ多様で豊富な業績が蓄積されてきた。私たちはそう
した研究を踏まえながら,大きく二つの角度から五年間の研究を進めている。一つは,書
誌的・文献学的研究であり,二つは思想的・教義的研究である。当然のことながら,両者
は不可分の研究であるため,二つの研究を同時平行的に進めていくことになるが,あらゆ
る人文学研究において,その基礎として文献学的研究が重要であることは言うまでもなく,
私たちも『教行信証』の書誌についてまずは目を向けることにした。
私たちが特に書誌的・文献学的研究の対象としたのは,龍谷大学大宮図書館写字台文庫
所蔵(明厳寺旧蔵本)の『教行信証』〔文明本〕六巻八冊本である。この〔文明本〕を底
本として,その流伝と資料的位置づけを探究するために今年度は資料の調査を開始するこ
とにした。ただし本資料は,本学の貴重資料データベースにも公開されておらず,先行研
究も極めて少ない。

2.〔文明本〕の書誌情報

〔文明本〕の書誌情報は以下の通りである。

(1)基本情報
冊数 八冊本
紙質 雁皮と楮の混合紙(斐交楮紙)
書写年代 室町期文明二年(1470)頃書写
字数 6 行×17 字

(2)奥書
教巻
本云寛元五年二月五日以善信聖人御真筆秘
本加書写校合訖文義字訓等重委註了 隠倫尊蓮六十六歳今年聖人七十五歳也
化巻末
→「今此教行証者」で始まる高田慶長本等に書かれる奥書を省略して記載

なお,先行研究では日野環氏が「『教行信証』(親鸞撰述)の「文明古冩本」について」
(『印度学仏教学研究』第 14 巻第 2 号,1966 年)の中で,〔文明本〕の特徴を挙げて,
「総序」と「別序」に「愚禿釋親鸞述」なる撰号があったこと」,「標挙と標列とが二分
して置かれたことは宗祖の「真筆本」に於てはその如何なる段階においてもかつてなかっ
た」点を指摘している。さらに,〔文明本〕奥書には「正應四年」(1291 年)に開版され

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たという記載があることから,その奥書は正應四年開版本等複数のものを使って作成され
たと推測される。また重見一行氏の研究に従うと,本書は文明二年(1470 年)に書写され
た尊蓮書写本(親鸞 75 歳時)の系統の本であると考えられる。その理由は,六巻八冊本と
いう体裁にあり,六冊本が「信巻」と「化巻」を分冊した存覚本系統から八冊へと改整さ
れたとものと推定されるからである(重見一行『教行信証の研究―その文献学的考察―』
法藏館,1981 年,85-86 頁)。しかし残念ながら,〔存覚本〕には「化巻」が欠落してお
り,奥書を窺うことが難しく,したがって写本の流伝をみていくことは困難である。
こうした点を踏まえて,私たちは比較的,〔存覚本〕に近い〔西本願寺本〕の他に,〔尊
蓮本〕や〔浄興寺本〕などを基にして,〔文明本〕の位置づけを探ることにした。これに
よって,〔文明本〕の独自性が確認され,さらに『教行信証』が数多く書写された,その
時代における〔文明本〕の特殊性が鮮明になるものと考えることができる。
上記の方向性のなかで,初年度に調査並びに収集した資料は,新潟県浄興寺蔵室町初期
書写本,大谷大学蔵延文五年本・暦応本系統・文安六年本・室町末期本,中山寺蔵の二本
(性海の名があるものとないもの),さらに岸部氏(奈良県)所有の延文五年本(「証巻」
のみ)である。この中,〔存蓮本〕の祖型と考えられる〔浄興寺本〕(新潟市上越高田)の
調査結果(2016 年 8 月 25 日)を報告することにする。

3. 〔浄興寺本〕の調査報告

(1)書誌の基本情報

冊数 八冊本
紙質 斐交楮紙,楮紙
書写年代 浄興寺住職藝範が応永年間,巧如時代に,京都にて書写と伝わる
→応永年間(1394-1427)なので室町初期,文明本よりも早い。

「総序」・「教巻」
枚数 7枚
字数 8 行×17 字

「行巻」
枚数 49 枚+白紙 1 枚
字数 9 行×17 字
奥書 「歓喜踊躍山 / 第廿一代釋乗善
安政四年乙未年十一月 修復之」 → この奥書は各巻末に書かれる

「信巻」本
枚数 31 枚
字数 8 行×17 字(最初の 1 ページ)

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10 行×17 字(2 ページ目)
9 行×17 字(上記以外)
み の ち
奥書 「信濃國 水内郡太田庄下長沼 / 浄興寺之常住也忝親鸞上人

御作雖然藝範為學文應永 / 中本願寺居住巧如上人被受傳
是當寺秘書他人不可見物也」

「信巻」末
枚数 41 枚
字数 9 行×17 字
み の ち
奥書 「信濃國 水内郡太田庄下長沼 / 浄興寺之常住也此本應永

年中藝範在京之時本願寺 / 住持自巧如上人給處之本也

「証巻」
枚数 22 枚+白紙 1 枚
字数 9 行×17 字
奥書 信巻末と同じ

「真仏土巻」
枚数 28 枚+白紙 2 枚
字数 9 行×17 字

「化巻」本
枚数 41 枚
字数 9 行×17 字

「化巻」末
枚数 39 枚
字数 9 行×17 字
奥書 「今此教行證者祖師親鸞上人之選述也立 / 章於六篇調巻於六軸皆引經論真文
各備往生潤色誠是真宗紹隆之鴻基實教 / 流布之淵源末世相応之目足即往安
楽之指南也」

この奥書の元は高田慶長本等に書かれるものであり,全文は以下の通りである。

今此教行証者,祖師親鸞法師選述也。立章於六扁,調巻於六軸。皆引経論真文,各備
往生潤色,誠是真宗紹隆之鴻基,実教流布之淵源。末世相応之目足,即往安楽之指南
也。而去弘安六暦歳次癸 未春,癸未春二月二日,彼親鸞自筆本一部六巻,従先師性
信法師所命相伝畢。為報佛恩,欲企開板於当時,伝弘通於遐代之刻,有度々夢想之告

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矣。于時正応第三天歳次庚寅冬臘月十八日夜寅尅,夢云,當副将軍相州太守平朝臣乳
父平左金吾禅門法名果円,屈請七口禅侶。被書写大般若経,彼人数内被加於性海,而
奉書写真文畢。爰白馬一疋金銭一裏令布施之覚,而夢惺畢。同四年正月八日夜,夢云,
当相州息男年齢十二三許童子来,而令正坐於性海膝上覚而惺畢。同廿四日夜夢云先師
性信法師化現,而云,教行証開板之時者,奉触子細於平左金吾禅門,可彫刻也。言已
乃去覚,而夢惺畢。同二月十二日夜,夢云,有二人僧,而持五葉貞松一本松子一箇来,
与於性海覚,而夢惺畢。依上来夢想,倩案事起,偏浄教感応之先兆,冥衆証誠之嘉瑞
也。若爾者,機縁時至弘通成就者歟仍,奉触子細於金吾禅門,即既蒙聴許而所令開板
也。庶幾,後生勿令加減於字点矣。
本云,于時正応四年五月始之,同八月上旬終功畢。

また,〔文明本〕にも「化巻」末に同じ内容の奥書を書いているが,違う省略の仕方を
している。

今此教行証者,祖師親鸞法師選述也。立章於六扁,調巻於六軸。皆引経論真文,各備
往生潤色,誠是真宗紹隆之鴻基,実教流布之淵源。末世相応之目足,即往安楽之指南
也。而去弘安六暦歳次癸 未春。
于時正応四年五月始之,同八月上旬終功畢。
(以下文明本オリジナル)
文明二年庚 寅九月上旬,於河州書写畢。雖悪筆,為仏法興隆結縁値遇,如形馳筆後
見嘲千悔々々雖有文字不審如本写畢

「化巻」末の奥書は〔文明本〕にも書かれており,正応四年の性海の奥書の一部である
と考えられる。ただし,〔文明本〕とは省略の仕方が異なり,若干情報量が少なくなって
いる。

(2)題目・撰号・標挙の位置関係

〔文明本〕
「総序・教巻」
・題目→撰号→総序本文→標列
教巻の題目→撰号→標挙・細註→教巻本文

顯淨土真實教行證文類序
愚禿釋親鸞述
総序本文
標列(顯真實教一,…顯化身土六)
顯浄土真實教文類一
愚禿釋親鸞集
大無量壽經 真實之經浄土真宗

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教巻本文
顯浄土真實教文類一

「行巻」・「信巻」
・題目→標挙→撰号

顯淨土真實行文類二 諸佛稱名之願 淨土真實之行撰択本願之行


愚禿釋親鸞集
「他巻」
・題目→撰号→標挙

顯淨土真實證文類四
愚禿釋親鸞集
必至滅度之願 難思議往生

〔浄興寺本〕(※は〔文明本〕と異なる部分を示す)
「総序」・「教巻」
・題目の次行,「総序」本文の前に『大阿弥陀経』と『平等覚経』が書かれている
・「教巻」の標挙。標列が教巻の前と末尾の二ヶ所にある。

顕浄土真實教行證文類序
大阿弥陀經 支謙三蔵譯 ※
平等覺經 帛延三蔵譯 ※
総序本文
大無量壽經 真實之經浄土真宗 ※
標列
顕浄土真實教文類一 愚禿釋親鸞集
教巻本文
顕浄土真實教文類一
大無量壽經 真實之經浄土真宗 ※
標列 ※

「他巻」
・題目→撰号→標挙・細註の順

顕淨土真實行文類二
愚禿釋親鸞集
諸佛稱名之願 淨土真實之行選擇本願之行

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4. 報告のまとめと今後の課題

以上の調査結果から,〔浄興寺本〕の特徴として次の点が注意される。すなわち,〔浄
興寺本〕は〔存蓮本〕と同じく「総序」・「教巻」の題目・撰号・標挙が変則的であるが,
他巻は整っている。また〔文明本〕は「総序」・「教巻」部分も題目→撰号→標挙となっ
ており整っているが,「行巻」と「信巻」は題目→標挙→撰号となるなど,巻によって異
なっている。「総序」・「教巻」については〔文明本〕の方が,他巻については〔浄興寺
本〕の方が整った形をとっていると言える。
次年度以降は,〔浄興寺本〕以外に収集した写本と〔浄興寺本〕との対校を行うことに
よって,〔文明本〕の独自性をより明確にしていきたいと考えている。
なお,本報告は世界仏教文化研究センターとの共催で行った第 1 回研究会(2015 年 10
月 15 日(木)17 時~19 時 於清風館 3 階)での調査報告を基に作成したもののである。

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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-03(2016 年 3 月 31 日)

調査報告

世界最古の世界地図
『混一疆理歴代国都之図』と日本

村岡 倫
(龍谷大学文学部教授)

目次
1.龍谷大学所蔵『混一疆理歴代国都之図』概略
2.「邪馬台国論争」との関連
3.『混一図』の基になった二つの地図から
4.龍谷図の日本と行基図
5.今後の研究に向けて
1.龍谷大学所蔵『混一疆理歴代国都之図』概略

龍谷大学図書館所蔵の『混一疆理歴代国都之図』(以下,『混一図』と略。特に龍谷大学

所蔵のものは「龍谷図」と称する)は,中国王朝である明の年号で言えば建文 4 年(1402),

李氏朝鮮で作製されたものであり,現存最古の世界地図の一つである。1402 年に初版が作

製されて以降,その都度新たな地理情報を取り入れ,修正が加えられたらしく,現在,い

くつかの同種の図が知られている(同名のもの,あるいは『大明国図』の名のものがある)。

龍谷図は,朝鮮半島の地名から,1481~1485 年の改訂版であることが指摘されている[趙

2014:20-23]。絹地に描かれ,大きさは縦 151cm,横 163cm である。

龍谷図は,西本願寺の旧蔵にかかり,後に龍谷大学に寄贈されたものであるが,16 世紀

末,豊臣秀吉が朝鮮半島に派兵した,いわゆる「文禄の役」の後,秀吉によって西本願寺

に賜与されたとも,明治に入ってから,

大谷探検隊で有名な大谷光瑞師が朝鮮

で購入したとも言われている。光瑞師

と親交のあった京都帝国大学地理学研

究室の小川琢治教授(東洋史学者の貝

塚茂樹・物理学者の湯川秀樹・中国語学

者の小川環樹ら兄弟の父)が,1910 年

に龍谷図から彩色模写図を作らせてい

るので(この図は現在も京都大学文学

部地理学教室に所蔵されている),この

時点ではすでに西本願寺にあったこと
図1 龍谷大学所蔵『混一疆理歴代国都之図』
は間違いない。いずれにしても,龍谷図

が西本願寺に所蔵されるようになった経緯については,今後の重要な課題である。

本サブユニットでは,この『混一図』と仏教系世界図の比較検討を研究の中心として

いる。人類史上,「世界」という認識は仏教から生まれ,僧侶たちによって様々な仏教的

世界観を表す世界図が生み出された。そこから現実の世界像認識への道が開かれたと言

ってよい。そのような認識から,主に龍谷大学が所蔵する仏教系世界図と『混一図』を

中心に,他の研究機関や寺院が所蔵する古地図なども調査し,それらを研究することに

よって,仏教系世界図から現実の世界像を表す地図への道程を検証することを目的とし

ている。本年度は,今後の研究の中心となる『混一図』の基礎情報の確認として,特に

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中国の古地図との関連を調査した。本稿はその調査報告である。

2.「邪馬台国論争」との関連

実は,もともと少数の研究者しか知らなかった『混一図』が,それなりに一般にも有名

になったきっかけは「邪馬台国論争」であった。龍谷図では,一見して分かるように,そ

の中に描かれている日本列島の姿(図 1 の右下)が,九州を北に,全体が南に垂れ下がっ

ているという奇妙な形をしており,かつて中国では,倭=日本はこのような形状をしてい

ると認識されていたのだと,邪馬台国研究者の一部が考え,邪馬台国の位置を特定する上

で,重要な根拠とされたのである。

邪馬台国はどこにあるのか?一般においても最も関心の高い日本古代史の謎であろう。

主な説として,
「北九州説」と「畿内説」があるのはよく知られているが,畿内説で最もネ

ックになったのは,邪馬台国への旅程が,朝鮮半島から九州上陸後,南へ南へと移動し,

「陸行一月」であるという魏志倭人伝(正確には『三国志』魏書,東夷伝,倭人の条)の

一節であった。畿内説が成り立つためには,九州上陸後は,東へ向かわなければならず,

そのため,「南」は「東」の誤りだとする畿内説論者もいたが,いかにも無理があった。

しかし,龍谷図の日本の姿が知られるように

なって,畿内説を唱える人々は色めき立った。

つまり,彼らはこの図を根拠に,古代の中国人

は日本列島の姿をこのように認識していたので,

南へ南へと移動すれば畿内に到達すると考えて

おり,やはり魏志倭人伝の「南」というのは正し

くは「東」であって,邪馬台国は畿内にあったの

だと主張したのである。現在に至るまで,畿内

説を語るときには盛んに引用されてきた。龍谷

図が一般の人々の間でも有名になったのは,こ

のような理由があった。

図2 龍谷図の日本(応地 1996:101)

61
ところが,1987 年,日本列島を本来の姿で描いている同名の図が発見されたのである。

それは,長崎県島原市の本光寺

に蔵されており,龍谷図よりも

ふた回りほど大きく,紙に描か

れたものであった。この点,杉

山正明氏は,
『混一図』について

「本光寺図があらたに出現す

ることによって,「邪馬台国論

争」における,
“証人”としての

意味合いは,いまや,はなはだ

薄らいだ」,あるいは「龍谷図に

おける日本列島の姿は,二系統
図3 本光寺図の日本(応地 1996:102) あるこの「世界図」のうち,龍谷

図のみに見られる特徴」とし,

「龍谷図だけの「ひとつの写本」から,龍谷図と本光寺図の「ふたつの写本」に,状況が

変化した結果,「邪馬台国論争」とのかかわりは,ひとまず棚上げになったといっていい」

と述べている[杉山 2000:13-14]。考えてみれば,本光寺図だけでなく,これまで知られ

ているそのほかの同種の図,例えば熊本の本妙寺蔵の『大明国地図』,天理大学図書館蔵の

『大明国図』なども,全て日本列島は本来の姿で描かれているのである。日本の描き方の

違いは,『混一図』の成立を考える上で重要な課題である。
ごんきん

『混一図』の下段には,李氏朝鮮初期の朱子学者・権近による題跋があり,図の由来が
り た く みん

記されているが,それによれば,元朝(1260~1368)末期の李沢民の『声教広被図』と元
せいしゅん

末明初の僧・清濬(1328~1392)の『混一疆理図』(1360 年作製)とを合わせて,簡略だ
った朝鮮と日本を詳しく書き直したものであるという。今回の報告では,今後の研究の基

礎とするべく,
『混一図』が基にしたと言われる二つの地図とそれ以前の地図の調査を踏ま

え,龍谷図の日本に対する地理認識の諸相を考えてみることにしたい。

3.『混一図』の基になった二つの地図から

清濬と李沢民,そして彼らの手による二つの地図に関しては宮紀子氏の研究に詳しい

[宮 2004,2006,2007]。それによって,彼らと二つの地図について簡単に紹介しておき

62
たい。清濬は,台洲路黄岩県の人で,俗姓は李氏。13 歳で仏門に入り,杭州の古鼎祖銘禅

師や高僧恕中無愠のもとで学び,仏典に通暁するだけでなく,詩文も巧みで幅広い知識を

身につけ,明の洪武元年(1368),四明の万寿寺の住持となった。朝廷にもその名は知れ

渡り,洪武年間の江南の禅僧として当時最も高い評価を受けていたという。
『混一疆理図』
アショカ
は,1360 年,清濬が慶元路の阿育王寺の仏照祖庵にこもっていた時に作製された。その後,
それをもとに『広輪疆理図』という地図が作製され,明代になって,景泰 3 年(1452)に

厳節という人物が『広輪疆理図』の改訂版を作製し,それが今に残っている。

一方,李沢民は,呉門(平江路,現在の蘇州)の出身で,彼が『声教広被図』を作製し

たのは,『混一図』の中の地名から,従来,1319 年から 1323 年頃成立,1329 年から 1338

年頃の改訂を言われてきたが,宮氏は,実は『声教広被図』は清濬の図より遅く,1360 年

以降の製作であることを明らかにし,清濬,李沢民の図はともに,1320 年代から 30 年代

に製作された地図を踏襲したものであると述べている[宮 2004:155,2007:75]。明の嘉

靖 34 年(1555),羅洪先という人物が,李沢民の『声教広被図』や同じく元代の朱思本の

『輿地図』,および明代の様々な地図を集めて編集して整理し直し,『広輿図』という書物

「東南海夷図」と「西南海夷図」という見開き 2 頁にわたる図が収録
を著した。その中に,

されており,これが『声教広被図』の南半分に当たり,これも現存し,日本は「東南海夷

図」の方に描かれている。

これら『混一図』が基にしたという二つの地図の姿を残す『広輪疆理図』と「東南海夷

図」に,日本はどのように描かれ

ているであろうか。宮氏の研究に

より明らかとなったように,二つ

の地図のうち,先行する清濬『混

一疆理図』の姿を今に伝える『広

輪疆理図』を見てみよう。そこに

は,日本列島が細長い三つの島と

して描かれている。左の島に「太

宰」という文字が見え,その左に

「牌前」と見えるは正しくは「肥

前」であろう。上の「門関」は現
図4 『広輪疆理図』が描く日本の概念図 在でも「関門海峡」の名で知られ

63
るように,
「門」は「門司」を指すのかもしれないし,一番下に見える「阿」の文字は「阿

蘇」に繋がるように思える。いずれにしても九州地方の地名である。

中央の島には「長門」などが見える。一番下にまた「関」の文字もあるので,これも「下

関」と関連があるとすれば,現在の山口県,左の島から右へ,つまり東へ,中央の島は中

「徐福祠」という文字も見えるが,言うまでもなく,中
国地方に当たることが想定できる。

国秦の時代に,始皇帝の命を受け,不老不死の霊薬を求めて東方の蓬萊山へ船出したとい

う徐福伝説を踏まえてのものであろう。徐福が到達した地は日本各地にも伝説が残ってい

るので,ここに記されているのが具体的にどこかは特定できない。

右の島には「南京」という文字が見える。
「平安京」か「平城京」か。奈良が「南都」と

呼ばれるのと関連するのかもしれないが,いずれにしても畿内である。
『混一図』の題跋で

言うように,確かに日本をあまりにも簡略に描いているが,これから知られることは,
『混

一疆理図』は,明らかに,日本はいくつかの島からなる西から東へ延びる列島であること

を認識していたである。清濬が地図を作製した時には,慶元路にいたというが,慶元路は
ニンポー
かつての明州であり,後に寧波という名で知られ,日本との交流も深い地である。1300 年
代には,多くの商人がこの地を根拠地に,日中間を行き来していた。そのような者達から

地理的な情報を得たことは想像に難くない。

李沢民の『声教広被図』はどうか。『声教広被図』の姿を今に伝える「東南海夷図」を

見てみよう。
『広輪疆理図』と同じく三つの細長い島を描いているが,地名はさらに詳しく

なっている。その左側には「平渡」
「鳴子浦」と書かれた小型の島が一つ書き加えられてい

る。その中に見える「平渡」は長

崎県の「平戸」と思われるし,

「鳴子浦」は熊本県天草市にあ

る湾の名である。そして,三つ

の島のうち,左の島には『広輪

疆理図』と同じく「太宰」
「門関」

「肥前」のほか,
「豊前」
「豊後」

「肥後」も記され,九州地方が

さらに詳しくなっている。一番

上には「宗家」という文字も見

図5 「東南海夷図」が描く日本の概念図 え,対馬藩の宗氏を示している

64
ものと思われる。中央の島にも,『広輪疆理図』と同じく「徐福」「長門」のほか,「周長」

は「長」が「長門」と重なるが,
「周」は「周防」であろうか。一番下に見える「讃」は「讃

岐」か。上の「迎江」がもし「近江」だとすれば,中央の島は,中国四国地方,近畿まで

及んでいることになる。右側の島にはこれまた『広輪疆理図』と同じく「南京」のほか,

「美」は「美濃」,
さらに「遠江」が見え, 「尾没」は「尾張」,一番下に見える「信」は「信

濃」に当たるのだろうか。だとすれば,畿内からさらに東の中部地方,東海地方までが描

かれていることになる。

三つの島に書かれた地名,および日本を取り巻く島の数は,ともに『混一疆理図』より

多いのは,やはり,宮氏が指摘するように,『声教広被図』の方が『混一疆理図』より後

発で,
『混一疆理図』に基づきながらも,新たな情報を付け加えたからであろう。この図も,

九州地方から四国中国地方,近畿,東海地方に至るまで,西から東に並ぶ島々からなる列

島として日本を描いているのである。

このように,
『混一疆理図』と『声教広被図』は,簡略ながらも,日本を西から東へ延び

る列島と正しく認識していたと言える。『混一図』が基にした二つの地図から考えるなら,

古代の中国人が,九州を北に,畿内を南にという姿で日本列島を認識していたとは決して

言えないのである。したがって,龍谷図を根拠に,邪馬台国は畿内にあったという主張は

成り立たない。杉山氏の指摘は正しかったことになる。

4.龍谷図の日本と行基図

実は,古代の中国人は日本列島の姿を龍谷図に描かれたように認識しており,それを根

拠に邪馬台国は畿内にあったのだとする考えには,もともと大きな事実誤認があった。こ

の地図はあくまで李氏朝鮮で作られたのであって,中国で作られたわけではない。朝鮮半

島で作製された地図を根拠に,古代の中国人の地理認識を議論するのには無理があると言

わざるを得ない。それでは,逆に朝鮮半島の人々が日本列島の姿をこのように認識してい

たと言えるのだろうか。
き ん し こ う り ぼう

題跋によれば,
『混一図』の作製に当たっては,権近のほかの政府高官の金士衡・李茂お
り わ い

よび地図官吏の李薈が参画し,実際に絵筆をとって図を描いたのは,図画院の画員(画家)
であった。前述の通り,作製に当たって基にした二つの地図,
『混一疆理図』と『声教広被

図』に描かれている日本は,簡略すぎるので描き直されている。では,描き直しのために

与えられた画員に与えられた日本全図とはどのようなものであったのだろうか。

65
李氏朝鮮が受容していた日本全図とは,古くから日本で描き伝えられてきた,いわゆる

「行基図」と呼ばれる絵地図であった可能性が高く,それは,李氏朝鮮の成宗 2 年(1471)

に申叔舟が撰進した『海東諸国記』所載の「海東諸国総図」の日本の姿が,日本の行基式

の地図と類似していることなどから指摘されている[応地 1996:84-111]

行基(667~749)は,奈良時代の高僧であるが,彼と日本全図とが結び付けられてきた

事情については,応地利明氏が概略を述べているので引用しておきたい。
「行基の活動を示

す伝承は,西日本を中心にいまも各地に残っ

ている。その多くは,溜め池や橋梁の建設者

としての彼の業績を伝えるものである。つま

り高僧にして土木工事の指導者でもあった行

基の事績が,伝承として語りつがれているの

である。そこから測量ともむすびつく地図の

作成が,行基と関連づけて語られるに至った

のであろう,というのが大方の解釈である」

[応地 1996:14-15]。

つまり,実際に行基が作ったかどうかはと

もかく,そのような伝承のある日本全図が,

その後長く流布するようになったというであ

る。現存する行基図としては,江戸時代初期

の慶長版(1596~1615)
『拾芥抄』所収の日本

図が知られているが,これは,西を上にして

すべての地名が記入され,しかも方位の明示
図6 『拾芥抄』大日本図
のないものであった。図を見てみると,龍
(前田育徳会尊経閣文庫編 1998 より)
谷図の日本と極めて類似していることは明ら

かである。
『混一図』に新たな日本像を描くために画員に与えられたのは,このような行基

図であったのだろう。応地氏も,
「海東諸国総図」が龍谷図系統の絵地図を基本としたこと

を指摘している[応地 1996:103](行基図については海野 1999 にも詳しい)。

しかし,1402 年に描かれたという初版が参考にしたのは,李氏朝鮮に伝えられて間もな

い頃の日本全図で,西を上にしたものであり,画員はその時点ではあまり深く吟味せず,

そのまま図の中にはめ込んだのであろう。初版が作製されて以降,その都度新たな地理情

66
報を取り入れ,修正が加えられたらしいことはすでに述べたが,日本の姿も,改訂作業の

段階で本来の形に描き直された。その証拠に,日本が逆立ちしたような姿になっているの

は,初版の形を残していると思われる最も古い龍谷図だけで,その後の改訂版と考えられ

る本光寺図,本妙寺図,天理大学図では日本がほぼ実情通りに,西から東に横たわる列島

として描かれているのである。

5.今後の研究に向けて

これまでにも指摘されてきたように,
『混一図』に記されている地名の多くは,13・14 世

紀のモンゴル帝国時代のであり,ユーラシアにこれまでにない広域の国家をつくり上げた

モンゴル帝国の実情を知る上で重要であることは言うまでもない。しかし,それだけにと

どまらず,
『混一図』には,時間や空間を超える多様で膨大な情報が盛り込まれており,ま

さにユーラシア世界の歴史を知るための巨大な「歴史文献」と言える。

今回は特に,龍谷図の成立等に関連する基本情報の整理として,一般の人々に最も関心

の高い「邪馬台国論争」,そして当時の中国や朝鮮半島の日本に対する地理認識を中心に述

べた。その中で,今後の研究に向けて,注目すべきところを指摘するなら,それは,
『混一

図』という世界図と僧侶や仏教寺院との関係であろう。地図を表す行為が行基や清濬とい

う僧侶と結び付けられていること,世界最古の世界地図と言われる『混一図』系統の図が,

西本願寺,本光寺,本妙寺という寺院に所蔵されてきたということは重要である。
し ばん
杉山氏は,『混一図』との関連の点から,南宋の仏僧である志磐が 1269 年に著した『仏
祖統記』に注目している[杉山 2000:61-63]。これには 12 幅の地図が載せられており,

その中には,中華とその周辺世界,中央アジア以西の世界,インド世界など,世界認識に

関わる地図が含まれているというのである。その一つ,「東震旦地理図」は南宋と交流の

深かった日本も描かれている。ただし,『混一疆理図』と『声教広被図』よりも古い時代

の作であるだけに,さらに簡略である。しかし,ここでもやはり仏僧が著したものだとい

うことが注目されよう(『仏祖統記』と「東震旦地理図」については,海野 1999:8-9 に

も述べられており,参考になる)。

人類史上,自らが暮らす「世界」というもの認識しようとする試みが,仏教から生まれ,

僧侶たちによって様々な仏教的世界観を表す世界図が生み出され,それが,
『混一図』のよ

うな現実の世界像認識への道が開かれるきっかけとなったのである。本サブユニットは,

そのような視点から『混一図』と仏教系世界図の比較検討を進めていくことにしたい。

67
参考文献

海野一隆 1999:『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』大修館書店。

応地利明 1996:『絵地図の世界像』岩波新書。

杉山正明 2000:『世界史を変貌させたモンゴル 時代史のデッサン』角川書店。

前 田 育 徳 会 尊 経 閣 文 庫 編 1998 :『 拾 芥 抄 』[ 洞 院 公 賢 撰 ]( 尊 経 閣 善 本 影 印 集 成

<JavaScript:void(0);> ;17),八木書店。

宮紀子 2004:「『混一疆理歴代国都之図』への道」

『NHK スペシャル 文明の道 5 モンゴル帝国』NHK 出版,144-165。

宮紀子 2006:「『混一疆理歴代国都之図』への道 ―14 世紀四明地方の「知」の行方―」

『モンゴル時代の出版文化』名古屋大学出版会,487-651。

宮紀子 2007:『モンゴル帝国が生んだ世界図』日本経済新聞出版社。

趙志衡 2014:「『混一疆理歴代国都之図』におけるアフリカ:比較史的検討」平成 23 年度

~25 年度研究費補助金(挑戦的萌芽研究)
「『混一疆理歴代国都之図』の歴史的分析

─中国・北東アジア地域を中心として─」(研究代表者:龍谷大学准教授・渡邊久)

研究成果報告書,18-33。

68
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-05(2016 年 3 月 31 日)

講演概要

イスラーム思想と仏教思想の対話の可能性

―四聖諦を手がかりにして―

アボルガセム・ジャーファーリー
(コム宗教大学専任講師)

目次
Preface(はじめに)
Four Noble Truths(四聖諦について)
Meditation in Islam(イスラームの瞑想)
※本ワーキングペーパーは,平成 27 年(2015)10 月 13 日に龍谷大学大宮学舎にて開催された,龍谷
大学アジア仏教文化研究センター(BARC)2015 年度グループ 2 ユニット B(多文化共生社会におけ
る日本仏教の課題と展望)第1回研究会「日本におけるイスラーム思想と仏教思想の対話の可能性」
における講演の概要である。英語版と日本語版をそれぞれ掲載する。

Preface

Comparative studies of Buddhism and Islam are of great importance and should often be refreshed and
updated for two reasons: the first is the lack of scientific sources and poverty in mutual recognition.
Part of this is due to the geographical distance and language differences and partly because of limitation
in accessing to reliable sources. The second is that this kind of studies makes level the road to peace
and coexistence and mutual understanding.
Until the twentieth century majority of Buddhist texts were completely unknown to non-Buddhists
and they had not any clear imagination about Buddhism. Only after translating these texts and writing
scientific books Muslim scholars could read and understand true idea of Buddhism but still not in all of
its various schools and sects.
It seems that by unveiling common points and emphasizing on shared values the adherents of these
two great religions can develop mutual understanding and find new grounds for deepening their
superficial communication.
What is the opinion of Islam about Buddha?
Some people think that because a spiritual leader like Gautama Buddha is not regarded as a divine
prophet, so has not any positive position in Islamic point of view. But we can analyze this issue by a
very significant presupposition that assumes divine teachings in any civilizations.

One) The Holy Quran, as the main source of Islamic thought, states:
"There has not been a nation (in the world), unless a warner (one who warns people not to do unsuitable
and despicable deeds) had been sent to them."(35:24)
ٌ ‫ﻖ َﺑﺸﻴﺮﺍ ً َﻭ ﻧَﺬﻳﺮﺍ ً َﻭ ﺇِ ْﻥ ﻣِ ْﻦ ﺃ ُ ﱠﻣ ٍﺔ ِﺇﻻﱠ ﺧَﻼ ﻓﻴﻬﺎ ﻧ‬
‫َﺬﻳﺮ‬ ِ ّ ‫ﺳ ْﻠﻨﺎﻙَ ِﺑ ْﺎﻟ َﺤ‬
َ ‫ﻧﱠﺎ ﺃ َ ْﺭ‬

So, according to this verse, even among Buddhist countries, including Japan, especially with an
ancient history, it may be found right teachings with divine roots. "Warner" in this verse means
"prophet", so:

1. The prophet Mohammad himself was a warner, (a preacher who warns people not to commit
any sin and crime.)

70
2. All nations and throughout the world have had their own warner who originally is authorized
by God.

Two) Imam Ali (a.s.) the first Imam of Shiite in one of his sermons says:

"Certainly, God, the glorified, has made His remembrance the means of burnishing the hearts, which
makes them, hear after deafness, see after blindness, and makes them submissive after unruliness."
‫ ﻳﺬﮐﺮﻭﻥ‬،‫ﻓﯽ ﺍﺯﻣﺎﻥ ﺍﻟﻔﺘﺮﺍﺕ ﻋﺒﺎﺩ ﻧﺎﺟﺎﻫﻢ ﻓﯽ ﻓﮑﺮﻫﻢ ﻭ ﮐﻠﻤﻬﻢ ﻓﯽ ﺫﺍﺕ ﻋﻘﻮﻟﻬﻢ ﻓﺎﺳﺘﺼﺒﺤﻮﺍ ﺑﻨﻮﺭ ﻳﻘﻈﻪ ﻓﯽ ﺍﻻﺑﺼﺎﺭ ﻭ ﺍﻻﺳﻤﺎﻉ ﻭ ﺍﻻﻓﻨﺪﻩ‬
‫ﺑﺎﻳﺎﻡ ﷲ ﻭ ﻳﺨﻮﻓﻮﻥ ﻣﻘﺎﻣﻪ ﺑﻤﻨﺰﻟﻪ ﺍﻻﺩﻟﻪ ﻓﯽ ﺍﻟﻔﻠﻮﺍﺕ ﻣﻦ ﺍﺧﺬ ﺍﻟﻘﺼﺪ ﺣﻤﺪﻭ ﺍﻟﻴﻪ ﻁﺮﻳﻘﻪ ﻭ ﺑﺸﺮﻭﻩ ﺑﺎﻟﻨﺠﺎﻩ ﻭ ﻣﻦ ﺍﺧﺬ ﻳﻤﻴﻨﺎ ﻭ ﺷﻤﺎﻻ ﺫﻣﻮﺍ ﺍﻟﻴﻪ‬
.‫ﺍﻟﻄﺮﻳﻖ ﻭ ﺣﺬﺭﻭﻩ ﻣﻦ ﺍﻟﻬﻠﮑﻪ ﻭ ﮐﺎﻧﻮﺍ ﮐﺬﻟﮏ ﻣﺼﺎﺑﻴﺢ ﺗﻠﮏ ﺍﻟﻈﻠﻤﺎﺕ ﻭ ﺍﺩﻟﻪ ﺗﻠﮏ ﺍﻟﺸﺒﻬﺎﺕ‬

In all the periods and times when there were no prophets, there have been individuals with whom God
spoke with them in their mind and had conversation with them in the depth of their reason, so they gain
the light of awakening in their eyes and ears and hearts; they keep reminding others of the remembrance
of the days of God, and making others feel fear for Him like guide-point in wilderness.
Whoever adopts the middle way, they praise his ways and give him the tidings of deliverance. But
whoever goes right and left, they verify his ways, and frighten him with ruin. In this way, they served
as lamps in these darkness ways, and guides through these doubts.
And there are some people devoted to the remembrance (of God) who have adopted it in place of
worldly matters so that commerce or trade does not turn them away of it… Therefore, they removed
the curtain from these things for the people of the world, till it was as though they were seeing what
people did not see and were hearing what people did not hear." (Nahjul Balaghah: No. 222)
There are some useful points in this phrase:

1. In Islam the wisdom is not exclusive to prophets.


2. As the repetition of the name of Amidabutsu, and hearing his name in Pure Land Buddhism
(Shin Buddhism) is a very powerful means to achieve inner peace and Nirvana, the remembrance of
God by repetition His name and hearing it, is a very powerful tool to gain inner awakening and
enlightenment.
3. Another interesting point is its referring to the terms belongs to the Buddhism such as:
awakening, light of awakening, middle way and guiding people from darkness and ignorance to the
light and knowledge.

Four Noble Truths

71
Many Buddhist scholars believe that the Four Noble Truths are the essence of Buddhist teachings, or at
least it provides a beneficial framework for making sense Buddhism. It is the first Gautama's discourse
that distinguished him as an awakening Buddha. This discourse is, therefore, the description of his
personal experience.

The first truth:

Buddhism: There can be no existence without suffering:

"Monks, thisis the Noble Truth of Suffering: Birth is Suffering, old age is suffering, illness is suffering,
death is suffering; grief, lamentation, pain, affliction and despair are suffering; to be united with what
is unloved, to be separated from what is loved is suffering; not to obtain what is longed for is suffering;
in short, the Five Groups of Grasping are suffering. (Diganikaya)

Islam: "Surely we have created man in suffering". Holy Quran (90:4)


"‫"ﻟﻘﺪ ﺧﻠﻘﻨﺎ ﺍﻻﻧﺴﺎﻥ ﻓﯽ ﮐﺒﺪ‬

The word that here means suffering is "kabad". As Tabarsi in his famous book, Majma' al-Bayan, says
that this word is used for any trouble and misery. Allamah Tabatabaei, the fames commentator of the
Quran in interpreting this verse states: "Kabad" means suffering and hardship. According to this verse
our life is surrounded by suffering in all of its aspects. And another commentator say: Yes, from the
early moments of his life, even as a fetus in the womb, Man passes through different, difficult stages
with pain and toil until the time he is born, and even from then on.

The reality of this world and worldly life

The reality of existence was unveiled to the young Buddha in his first experience as an impermanent
and changing. This reality is mentioned in many verses of the Holy Quran. For example it says:

.‫ﻭ ﻣﺎ ﻫﺬﻩ ﺍﻟﺤﻴﺎﻩ ﺍﻟﺪﻧﻴﺎ ﺍﻻ ﻟﻬﻮ ﻭ ﻟﻌﺐ ﻭ ﺍﻥ ﺍﻟﺪﺍﺭ ﺍﻵﺧﺮﻩ ﻟﻬﯽ ﺍﻟﺤﻴﻮﺍﻥ ﻟﻮ ﮐﺎﻧﻮﺍ ﻳﻌﻠﻤﻮﻥ‬
"The life of this world is nothing but diversion and play, but the abode of the Hereafter World is real
life, had they know." (29: 64)

In another verse it refers to life as impermanent green face of spring:

72
"The life of this world is like the water we send down from the sky. Then the earth's vegetation mingles
with it. Then it becomes chaff, scattered by wind." (18: 45)

In addition to the Quran, there are numerous descriptions of the reality of this worldly life in Shiia
Hadiths. For example Imam Ali in Nahjul Balagha describes the world as this:

"This world has not been made a place of permanent stay for you. But it has been created as a pathway
in order that you may take from it the provisions of your (good) actions for the permanent house (in
Paradise)."
(Sermon: 132)

"This world is a place that is ordained for destruction and departure of its inhabitants is destined. It is
sweet and green. It hastens towards its seekers and attaches to the heart of the viewer." (Sermon: 45)

"I warn you of the world for it is the abode of the unsteady, it is not a house of foraging. It has decorated
itself with deception and deceives with its decoration. It is a house which is low before God. So He has
mixed its lawful with its unlawful, its good with its evil, its life with its death, and its sweetness with
its bitterness… "

The second truth:

Buddhism: The cause of suffering is egoistic desires (greed, ignorance,…)

The Buddha said: "Now, monks, this is the noble truth of the origin of suffering: it is this craving which
leads to re-becoming, accompanied by delight and lust, seeking delight here and there; that is, craving
for sensual pleasures, craving for becoming, craving for disbecoming. ".

The main factor that ties us to suffering is craving (Pali: tanha). In other explanation ignorance,
attachment to pleasurable experiences and aversion are the three causes of suffering. Ignorance among
them is the main cause.

Quran states: "one who can control his greed will achieve final success (paradise)." (64:16)

In another verse states: "… Man is unfair and ignorant (in his nature)."Holy Quran (33:72)

73
There is a long Hadith from Imam Sadiq, the sixth Imam of Shiia Muslims, in which he compares the
mind of man to a battlefield that there are two groups of soldiers. The leader of first army is reason or
intelligence and the leader of the opposite army is ignorance.
All of the human virtues are considered as the soldiers of intelligence, including knowledge and
love, and all of the affaires that Buddha considered as the causes of suffering are members of the army
of Ignorance. The number of this pair of armies is more than 70 but here I mention some of them that
are important for Buddhism too:

The Army of Intelligence (Reason) The Army of Ignorance

Goodness is the minister of Intelligence Evil is the minister of Ignorance

Hope Despair

Knowledge Unknowing

Mercy Anger

Sympathy Detachment

Love Hatred

Tranquility Suffering

Wisdom Desires

After classification of these armies, Imam Sadiq said that: No one other than a prophet or his successor
or a true believer can have the whole army of intelligence with all such characteristics. (Usul al-Kafi,
book of al-Aghl wa al-Jahl)

The third Truth:

Buddhism: The elimination of Desires brings the cessation of suffering.

The Buddha said: "And this, monks, is the noble truth of the cessation of dukka (suffering): the
remainderless fading and cessation, renunciation, relinquishment, release, and letting go of that very
craving."

74
According to the Buddha all of us can completely eradicate the causes of suffering and gain Nirvana:

"When one abides uninflamed by lust, unfettered, uninfatuated, and contemplating danger [...] one's
craving [...] is abandoned. One's bodily and mental troubles are abandoned, one's bodily and mental
torments are abandoned, one's bodily and mental fevers are abandoned, and one experiences bodily and
mental pleasure." Majjhima Nikaya 149:9

Islam: In Islam, The Holy Quran and Islamic mysticism state about some spiritual levels that in which
the sensual desires of man develops to a state of inner peace. Through training Nafs Ammarah (carnal
soul) developes to the degree of Nafs Mutmaennah (assured soul):

"And surely, Paradise will be for one who fears his God and forbids his/her self from desires." (79: 40,
41)

Imam Khomeini, the leader of Islamic revolution of Iran in 1979, was one of the famous thinkers in
Islamic Ethics. His several books about Islamic mysticism are very well-known. In one of the spiritual
manual to control sensual desires he suggests:

"Man must keep a watch over himself, like a kind physician or nurse,
and not let the rebellious self get out of control; for a moment of neglect may give it the opportunity to
break its reins and lead man into ignominy and perdition. Hence, in all conditions he must take refuge
in God Almighty from the evil of Satan and the carnal self:

Surely the self of man incites to evil - except in as much as my Lord had mercy. (12:53)
. ‫ﺍﻥ ﺍﻟﻨﻔﺲ ﻻ ّﻣﺎﺭﺓ ﺑﺎﻟﺴﻮء ﺍﻻ ﻣﺎ ﺭﺣﻢ ﺭﺑﯽ‬

The Fourth Truth:

Buddhism: The only way to the elimination of Desires, is the Noble Eightfold Path, namely: right view,
right resolve, right speech, right action, right livelihood, right effort, right mindfulness, and right
concentration.

Islam: All of the cases in Eightfold Path have its counterpart in Islamic teachings. For instance, right
speech and right action are considered as great virtues, and Islam teaches some techniques of meditation,
concentration and mindfulness in order to deepening religious practices:

75
First example: Allamah Tabababaei, the great scholar of Shia in his treatise about mysticism describes
Islamic meditation:

Meditation in Islam

In connection with the spiritual journey another important and essential thing is meditation or
contemplation (muraqabah). It is necessary for the spiritual traveler not to ignore meditation at any stage
from the beginning to the end. It must be understood that meditation has many grades and is of many
types. In the initial stages the spiritual traveler has to do one type of meditation and at later stages of
another type.
As the spiritual traveler goes forward, his meditation becomes so strong that if ever it was
undertaken by a beginner, he would either give it up for good or would be mad. But after successfully
completing the preliminary stages, the gnostic becomes able to undertake the higher stages of
meditation. At that time many things which were lawful to him in the beginning get forbidden to him.
As a result of careful and diligent meditation a flame of love begins to kindle in the heart of the
spiritual traveler, for it is an inborn instinct of man to love the Absolute Beauty and Perfection. But the
love of material things overshadows this inherent love and does not allow it to grow and become visible.
Meditation weakens this veil till ultimately it is totally lifted. Then that innate love appears in its
full splendour and leads man’s conscience towards God. The mystic poets often figuratively call this
divine love "wine".
When the gnostic continues to undertake meditation, for quite a long time, divine lights begin to
be visible to him. In the beginning these lights flash like lightning for a moment and then disappear.
Gradually the divine lights grow strong and appear like little stars. When they grow further, they appear
first like the moon and then like the sun. Sometimes they appear like a burning lamp also. In the gnostic
terminology these lights are known as the gnostic sleep and they belong to the world of barzakh.
When the spiritual traveler has passed this stage and his meditation grows stronger, he sees as if
the heaven and the earth were all illuminated from the East to the West. This light is called the light of
self and is seen after the gnostic has passed the world of barzakh. When after coming out of the world
of barzakh primary manifestations of self begin to occur, the spiritual traveler views himself in a
material form. He often feels that he is standing beside himself. This stage is the beginning of the stage
of self stripping.

Note: It is possible to compare the self light and illuminated world with the Pure Land and Amitaba
Buddha. In particular by this verse from the Quran that say: "'Allah is the Light of the heavens and the
earth' (xxiv:35)"

76
はじめに

仏教とイスラームの比較研究は非常に重要であり,そして,次の2つの理由によって,そ
れは頻繁に活性化され,かつ更新されていかなくてはなりません:第一番目の理由は,科学
的資料の欠落と相互理解の不足です。これは,一部には,地理的な隔たりや言語的な相違に
よるものもありますが,さらには信頼できる資料へのアクセスに制限があるからでもありま
す。第二番目の理由は,このような研究を通して,平和,共存,そして相互理解への道筋が
開かれていくからです。
20世紀になるまで,仏教徒の用いるテキストの大部分は非仏教徒には全く知られていま
せんでした。そして,仏教に関して,明確なイメージを描くことはまったくできない状況で
した。これらのテキストが翻訳され,そして科学的検証を受けた書物が書かれるようになっ
てから,ムスリムの研究者たちは,ようやく仏教についての正しい考え方をそうしたテキス
トや書物を読むことで理解できるようなりつつありますが,様々な学派や宗派すべてについ
ての理解はまだまだの状況です。
この二つの偉大な宗教を信仰する人々が,お互いに共通する点を解明して,共有する価値
観の重要性を認め合うことによって,お互いの理解を発展させ,そして相互のコミュニケー
ションを,表面的なものから,より深いものにするための新しい境地を発見することができ
るでしょう。
では,イスラームは,ブッダをどのように見ているのでしょうか。
ゴータマ・ブッダのような精神的指導者は神の預言者とは見なされないから,イスラーム
の視点からは,特に肯定的な位置付けをもたないと考える人もいます。しかし,この問題に
ついては,神の教えは,すべての文明に存在しているという非常に重要な前提となる命題に
よって分析することができるでしょう。

1)イスラーム思想の原典である,聖クルアーンは,このように述べています:
「(世界には),警告者(不適当で卑劣な行為を人々に行わないように警告する)が下され
ていない国はない。」(35:24)
ٌ ‫ﻖ ﺑَﺸﻴﺮﺍ ً َﻭ ﻧَﺬﻳﺮﺍ ً َﻭ ﺇِ ْﻥ ﻣِ ْﻦ ﺃ ُ ﱠﻣ ٍﺔ ِﺇﻻﱠ ﺧَﻼ ﻓﻴﻬﺎ ﻧ‬
‫َﺬﻳﺮ‬ ِ ّ ‫ﺳ ْﻠﻨﺎﻙَ ِﺑ ْﺎﻟ َﺤ‬
َ ‫ﻧﱠﺎ ﺃ َ ْﺭ‬

従って,この節によれば,日本を含む,仏教徒の国の中でも,とりわけ古代からの歴史のあ
るところには,聖なるルーツをもつ正しい教えを見いだすことができる可能性があると考え
られます。この節の「警告者」は「預言者」という意味です。従って:

77
1. 預言者ムハンマド御自らは警告者である(罪や犯罪を犯さないように人々に警告を与え
る教授者)。
2. 世界のすべての国家のそれぞれには,原初的に神の委任を受けた警告者を持っている。

2)イマーム・アリー(a.s.),シーア派の最初のイマームでありますが,その説教でこの
ように説かれています。
‫ ﻳﺬﮐﺮﻭﻥ‬،‫ﻓﯽ ﺍﺯﻣﺎﻥ ﺍﻟﻔﺘﺮﺍﺕ ﻋﺒﺎﺩ ﻧﺎﺟﺎﻫﻢ ﻓﯽ ﻓﮑﺮﻫﻢ ﻭ ﮐﻠﻤﻬﻢ ﻓﯽ ﺫﺍﺕ ﻋﻘﻮﻟﻬﻢ ﻓﺎﺳﺘﺼﺒﺤﻮﺍ ﺑﻨﻮﺭ ﻳﻘﻈﻪ ﻓﯽ ﺍﻻﺑﺼﺎﺭ ﻭ ﺍﻻﺳﻤﺎﻉ ﻭ ﺍﻻﻓﻨﺪﻩ‬
‫ﺑﺎﻳﺎﻡ ﷲ ﻭ ﻳﺨﻮﻓﻮﻥ ﻣﻘﺎﻣﻪ ﺑﻤﻨﺰﻟﻪ ﺍﻻﺩﻟﻪ ﻓﯽ ﺍﻟﻔﻠﻮﺍﺕ ﻣﻦ ﺍﺧﺬ ﺍﻟﻘﺼﺪ ﺣﻤﺪﻭ ﺍﻟﻴﻪ ﻁﺮﻳﻘﻪ ﻭ ﺑﺸﺮﻭﻩ ﺑﺎﻟﻨﺠﺎﻩ ﻭ ﻣﻦ ﺍﺧﺬ ﻳﻤﻴﻨﺎ ﻭ ﺷﻤﺎﻻ ﺫﻣﻮﺍ ﺍﻟﻴﻪ‬
.‫ﺍﻟﻄﺮﻳﻖ ﻭ ﺣﺬﺭﻭﻩ ﻣﻦ ﺍﻟﻬﻠﮑﻪ ﻭ ﮐﺎﻧﻮﺍ ﮐﺬﻟﮏ ﻣﺼﺎﺑﻴﺢ ﺗﻠﮏ ﺍﻟﻈﻠﻤﺎﺕ ﻭ ﺍﺩﻟﻪ ﺗﻠﮏ ﺍﻟﺸﺒﻬﺎﺕ‬
「確かに,栄光ある神は,神の<想起>を,心を磨くためのものとし,そうすることで,聴
覚を失ったあとも聞け,視覚を失った後でも見え,手に負えない状況になった後でも従順に
なるためのものとされたのだ。」

<預言者がおられない>,すべての期間と時においては,神がその者たちの心の中に語りか
けられ,その者たちの<理性>の深みにおいて会話を持たれる人々がおり,ゆえに彼らは彼
らの目や耳や心の中に<目覚めの光>を得ることができたのだ。そしてその者たちは,他の
者たちに神の時代を想起させ,荒野の中の道しるべのように,彼らに対して神に対する恐れ
の感情を起こさせ続けたのである。
<中道>を身に付ける者には誰でも,彼らは,その行く道を讃え,救いの知らせを授ける。
しかし,右や左に行く者に対しては,その道を検証し,そして破滅を以ってその者を恐れさ
せる。このようにして,その者たちは,その暗黒の道行きの灯火として仕え,そして人を疑
いから切り抜けさせるのだ。

そして,世俗的な行いの場において(神の)<想起>に献身することを身につけている者
もおり,それゆえ彼らは商売や交易によって気をそらされることはない…だから,その者た
ちは,世の人々のために障害となるカーテンを取り除き,あたかも人々に見えないものを見
させ,聞こえないものを聞かせたのだ。(Nahjul Balaghah: No. 222)
これらの言葉の中には,有用なポイントがいくつか示されています:

1. イスラームの智慧は預言者だけが独占しているものではない。
2. 浄土仏教(真宗)において,阿弥陀仏の<名を繰り返しとなえ>,その名を<聞く>
ことが,内なる平安と涅槃を完成するための力強い手立てであるように,[イスラーム

78
においても]神の<名を繰り返しとなえ>,その名を<聞く>ことによる,神の想起は,
内なる目覚めと覚醒を得るための非常に強力な手段である。
3. さらに興味深い点は,この説教では,例えば:目覚め,目覚めの光,中道,そして暗
黒と愚かさから,人々を,智慧のひかりに導くということ等,仏教でも用いられるコ
ンセプトに言及されているところである。

四聖諦について

多くの仏教研究者たちは,四聖諦は仏教の教えのエッセンスである,または少なくとも四聖
諦は仏教の教えが意味を持つために有益な思考の枠組みを提供していると信じているようで
す。それは,ゴータマの最初の説法の中で,彼が目覚めたものブッダであることを明確にさ
せたものであります。この説法は,従って,彼自身の体験したことの記述でもあるといわれ
ます。

第一の真実 [苦諦]:

仏教:苦なくして存在することはできない [すべての存在は苦である]。

「僧たちよ,これが苦という聖なる真実である:生まれることは苦であり,加齢は苦であり,
病は苦であり,死は苦である;悲しみ,嘆き,痛み,悩み,絶望は苦である;愛していない
ものと結ばれること,愛しているものと別離することは苦である;望むものが手に入らない
ことは苦である;端的に言えば,五蘊の活動は苦である」(Diganikaya 長部)

イスラーム:「確かに,われらは,人を苦の中に創造したのだ」聖クルアーン(90:4)
"‫"ﻟﻘﺪ ﺧﻠﻘﻨﺎ ﺍﻻﻧﺴﺎﻥ ﻓﯽ ﮐﺒﺪ‬

ここで苦を意味する言語は「kabad」といいます。タバルシ(Tabarsi)が彼の有名な著作で
ある Majma' al-Bayan(マジマ・アルバヤン)の中で説いているように,この言葉はどのよう
な困りごとや苦境においてでも用いられる言葉です。クルアーンの解説者として高名な,ア
ッラーメ・タバータバーイー師(Allamah Tabatabaei)は,この一節を解説して次のように述
べています:「Kabad」は苦しみや困難さを意味する言葉である。この一節によれば,我々
の生活は,その全ての面において苦に取り巻かれている。また別の解説者は次のように述べ

79
ています:まさに,人間というものは,人生の初の時から,母体にいる胎児としても,生ま
れる時にいたるまでも苦痛と労苦の,様々に困難な段階を通り抜けてきているのだ,そして,
苦はそこからも続くのである。

現世と世俗的生活の現実

存在の現実は,若きブッダに対して,最初の経験の中で,無常と変化として開示されました。
この現実は,聖クルアーンの章句の多くの中に説かれています。例えば,このように説かれ
ます:

「現世の生活は回り道であり遊びごとにすぎない。しかし後世の住処は本当の生活である。
もしそれを知っているならば。」(29: 64)
.‫ﻭ ﻣﺎ ﻫﺬﻩ ﺍﻟﺤﻴﺎﻩ ﺍﻟﺪﻧﻴﺎ ﺍﻻ ﻟﻬﻮ ﻭ ﻟﻌﺐ ﻭ ﺍﻥ ﺍﻟﺪﺍﺭ ﺍﻵﺧﺮﻩ ﻟﻬﯽ ﺍﻟﺤﻴﻮﺍﻥ ﻟﻮ ﮐﺎﻧﻮﺍ ﻳﻌﻠﻤﻮﻥ‬

別の一節では,生活は無常の春の緑の顔として説かれています。

「現世の生活は空から下される水のようである。その時,地上の植物はそれと混ざりあう。
そして,枯れ草となり,風に吹き散らされていく。」(18:45)

クルアーンの言葉に加えて,シーア派のハディース(ムハンマドの言行録)には現世の生活
の現実についてのたくさんの記述があります。例えば,ナフジュル・バラーガ(Nahjul
Balagha)では,イマーム・アリーは世界をこのように説明しています:

「現世はあなたが永遠に住まう場所として作られているのではありません。しかし,そこは
あなたの(善き)行いを提供することにより,(楽園における)永遠の家を得るための道と
して創造されているのです。」(Sermon: 132)

「現世は,その住人の破壊と別離のためと定められた場所と運命付けられています。そこは
甘く緑です。それを求めるものをそこに追い立て,そしてそれを見るものの心に取り付きま
す。」(Sermon: 45)

「私は,この世は定まらぬ住処であり,探し求めるような家ではないことを,あなたに警告
しておく。それは,それ自身をごまかしで飾り立て,その装飾で人を騙すのだ。それは神の

80
御前では下等な家である。だから,神は混ぜ合わされたのだ,正しいものと正しくないもの,
善きものと悪しきもの,生きるものと死すものを,甘きものと苦きものを….。

第二の真実 [集諦]:

仏教:苦の原因は利己的な欲望(貪欲,愚痴….)である。

ブッダはこのように言われました:「さて,僧たちよ,これは苦の原因という聖なる真実で
ある:それは,歓喜と情欲に伴われ,あちらこちらで歓喜を追求し,再生へと導くこの渇望
である;それは肉体的快楽を渇望し,生成することを渇望し,生成しないことを渇望する。」

我々を苦に縛り付ける主たる要因は渇愛(パーリ語:tanha)です。別の説明の仕方をすれ
ば,愚痴,快楽的経験への執着,そして嫌悪感は,苦の3つの原因です。そしてそれらの中
で,愚痴が主たる原因となります。

クルアーンではこのように説かれます:「貪欲さを制御することのできるものは,最期の成
功(楽園)を完成することができる。」(64:16)

また別の章句ではこのように説かれます:「…人間は(その性質として)不公平で無知であ
る。」聖クルアーン(33:72)

シーア派ムスリムの第 6 代イマームである,イマーム・サーデク(Imam Sadiq)の長文のハ


ディースで,師は人間の心を,戦場における2グループの軍隊の兵士たちと比較しています。
最初の軍隊のリーダーは,理性,または知性であり,相対する軍隊のリーダーは無知です。
ここでは知恵や愛などを含む,人間的美徳のすべては,知恵の兵士とされます。そしてブ
ッダが苦の原因と考えた,人間的状況は,無知の軍隊のメンバーです。この兵士のペアは7
0以上挙げられていますが,ここでは仏教にとっても重要なものの幾つかを挙げておきまし
た。

知恵(理性)の軍隊 無知の軍隊
善は知恵の大臣 悪は無知の大臣
希望 絶望

81
知識 無見識
慈悲 怒り
共感 無関心
愛 憎悪
静寂 苦痛
智慧 欲望

この軍隊の分類の後,イマーム・サーデクはこのように述べています:預言者,またはその
後継者,または真実の信仰者でなければ,すべての性質を伴った完全な智慧の軍隊を持つこ
とはできない(Usul al-Kafi,al-Aghl wa al-Jahl の書)。

第三の真実 [滅諦]:

仏教:欲望の消滅が苦の滅をもたらす。

ブッダはこういいました:「そして,これは,僧たちよ,苦の滅という聖なる真理である:
残余のない減衰と停止,放棄,解放,そして渇望そのものから解き放たれることなのだ。」

ブッダによれば,我々のすべては苦の原因を完全に除去し,涅槃を得ることができるといわ
れます。

「情欲の火が燃え上がることなく,拘束されることなく,色香に溺れることなく,危機を観
察することに住するとき,自らの渇望が放棄される。自らの体と心の問題は捨て去られ,自
らの体と心を苛むものも捨て去られ,自らの体と心の発熱も捨て去られ,そして自ら,体と
心の喜びを体験する。」(Majjhima Nikaya 中部 149:9)

イスラーム:イスラームでは,聖クルアーンとイスラーム神秘主義において,ある精神的な
レベルにおいて,人間の肉体的欲望が内的平安へと展開することが説かれています。現世の
魂(Nafs Ammarah)のトレーニングによって確信を与えられた魂(Nafs Mutmaennah)のレ
ベルへと展開するのです。

82
「そして,確かに,楽園は,自ら神を恐れ,自ら欲望を禁ずるもののためにある」(79: 40,
41)

1979 年のイラン・イスラーム革命のリーダーであった,イマーム・ホメイニーは,イスラ
ーム倫理学の高名な思想家の一人でした。彼のイスラーム神秘主義についての数冊の著作は
非常に有名です。その中の一冊である,肉体的欲望をコントロールするための精神的手引書
で,師は次のように勧めています:

「人は,医師や看護師であるかのように,自らを常に見つめ,そして反抗的な自我を制御不
能にさせないようにしなければならない;一瞬の怠りが,その制御を破り,人を侮蔑と破滅
の道へと導くこともある。従って,いかなる状況においても,人は,サタンと肉欲を抱えた
自己の悪ではなく,全能なる神に帰依しなければならない。

確かに人の自我は悪に走らせる—我が主たる神のお慈悲がかけられている場合を除いて。
(12:53)
. ‫ﺍﻥ ﺍﻟﻨﻔﺲ ﻻ ّﻣﺎﺭﺓ ﺑﺎﻟﺴﻮء ﺍﻻ ﻣﺎ ﺭﺣﻢ ﺭﺑﯽ‬

第四の真実 [滅諦]:

仏教:欲望を消滅させるただ一つの道は八聖道であり,それはすなわち:正見・正思惟・正
語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

イスラーム:八聖道のすべてのケースはイスラームの教えにも対応するものがあります。例
えば,正語と正業は,すばらしい徳目であり,またイスラームでは,宗教的修行を深めるた
めに,瞑想,精神集中,そしてマインドフルネスの方法が教えられています。

第一の例:シーア派の偉大な学者である,アッラーメ・タバータバーイー師は,神秘主義似
ついての論考の中で,イスラームの瞑想について次のように述べています。

イスラームの瞑想

83
精 神 の 旅 路 と 関 連 し て, も う 一 つ の 重 要 か つ基 本 的 な こ と は 瞑 想 ,ま た は 精 神 統 一
(muraqabah)である。精神の旅人にとって,その始めから終わりまでのどの階梯において
も瞑想を無視しないことが必要である。瞑想には多くの段階があり,多くの種類があること
が理解される必要がある。最初の階梯においては,精神の旅人は一つの形の瞑想を,後の階
梯においては別の形の瞑想を行わないといけない。
精神の旅人が前進するに従って,その者の瞑想は,若しそれが初心者によって行われた場
合には,その者がきっぱりあきらめてしまうか,または発狂してしまうほどに強力なものと
なる。しかし,準備段階を首尾よく完成した後は,智解者(gnostic)はさらに高い階梯の瞑
想に取りかかることができるようになる。そのときには,始めはその者に認められていた多
くのことが,禁じられるようになる。
注意深く勤勉な瞑想の結果として,愛の炎は精神の旅人の心に燃え上がり始める。なぜな
ら,絶対的美と完全さを愛することは,人の生来の本能であるからだ。しかし,物質的なも
のへの愛は,この生得の愛に暗い影を投げかけ,そしてそれが輝き,目に見えるようになる
ことを許さない。
瞑想はこのヴェールの力を弱め,究極的には,それを完全に取り除かせる。そうした時に,
その生来の愛は,欠けることなき輝きをあらわし,人の誠の心を神へと導くのだ。神秘主義
者の詩人たちは,しばしばこの神聖な愛を比喩的に「果実酒」と呼んでいる。
智解者が,止まることなく,相当な長い時間の間,瞑想に取りかかる時には,神聖なる<
光>が,その者に<見え>はじめるようになる。はじめにはこの光は雷のような一瞬の閃き
であり,そして消え去る。次第に神聖なる光は強く輝くようになり,小さな星のように見え
てくる。それらがさらに輝きを増すとき,光ははじめには月のように,そして次第に太陽の
光のようになる。時には,燃え上がる灯火のように見えることもある。智解者の使う言葉で
は,これらの光は智解の眠りとして知られ,それらは障碍(barzakh)の世界に属するもの
とされる。
精神の旅人がこの階梯を超え,その者の瞑想の輝きが強くなるに従って,その者はまるで
天界と地上が,東から西まで,すべて照らされているように見える。この光は,<自己の光
>と呼ばれ,智解者が障碍の世界を超えた後に見られる。障碍の世界を離れた後,自己の原
初の顕現が起こり始める時,精神の旅人はその者自身を物質的形態として観察するようにな
る。その者はしばしば自己自身のそばに立っているように感じる。この階梯は自己除去の階
梯のはじまりである。

注:自己の光と浄土と阿弥陀仏の輝ける世界を比較することは可能である。特に,クルアー
ンの次のように言われる章句とである:「アッラーは天界と地上の光である」(xxiv:35)

84
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-06(2016 年 3 月 31 日)

講演概要

Religious Diversity behind Barbed Wire


Japanese American Buddhism and Christianity in
the WWII Incarceration Camps in the U.S.

ダンカン・ウィリアムズ
(南カリフォルニア大学教授)
※本ワーキングペーパーは,平成 27 年(2015)12 月 14 日に龍谷大学大宮学舎にて開催され
た,龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)2015 年度グループ 2 ユニット B(多文
化共生社会における日本仏教の課題と展望)第 1 回国際シンポジウム「多文化共生社会にお
ける宗教間対話(Inter-faith Dialogue)」における講演の記録である。講演の概要に加え,当日
示されたスライドを掲載する。

【講演の概要】
ダンカン・ウィリアムズ氏は,第二次世界大戦の戦時下における信仰の役割について,
アメリカにおける日系人,とりわけ仏教徒を事例として論じた。
1941 年 12 月の真珠湾攻撃,これを契機とした日米開戦を受け,アメリカ国内の日系人
は政府による警戒や迫害の対象となった。FBI(連邦捜査局)では,日系人の危険度を三
段階で評価する「ABC リスト」を作成したが,僧侶や神職者は最も危険なレベル A と位
置づけられ,その大多数が逮捕された。一方,キリスト教の牧師などの場合は,ほとんど
逮捕されることはなかった。キリスト教を精神的な基盤とするアメリカにおいて,仏教と
神道は,単に非アメリカ的であるだけでなく,反アメリカ的ですらあると理解されたので
ある。
ウィリアムズ氏がかつて仏教を学んだ元ハーバード大学教授,永富正俊氏の妻によれ
ば,彼女が 12 歳のとき,父親が FBI による尋問の対象になったという。彼女の両親は和
歌山からカリフォルニア州のマデラに移民したが,父親は当時,同地の仏教界の理事長を
務めており,そのため僧侶に準じるかたちで,レベル B の危険度と認定されたのである。
彼は結局のところ,逮捕されることはなかったが,しかし帰宅後,FBI が問題視しそうな
日本語の文章などを,すべて焼却した。彼が燃やさなかったのは,真宗聖典と,マデラの
寺院での活動記録だけであった。その記録も家の庭に埋められたが,その後,発見されて
いない。日系アメリカ人の仏教史の一端が,今もカリフォルニアの土地に埋まっていると
いうわけである。
一方,1942 年になると,宗教者のみならず,また老若男女を問わず,多くの日系人が強
制収容所に入れられていった。その総数は 12 万人以上に及んだ。彼らの宗教は多様であ
ったが,その大半が仏教徒であった。彼らの信仰については,日記資料や当時の写真など
から,その実態を明らかにすることができる。彼らは収容所の鉄条網の裏側で,仏教式の
人生儀礼を営み,御詠歌を歌い,盆踊りを踊った。果実の種を用いて念珠を作り,廃材な
どを使って仏壇を製作した。収容所の異常な状況下で,彼らは日常性を保つことを試みた
が,そこでは仏教に対する信仰が大きな役割を果たしていたのである。なかには,監視に
よるサーチライトの光を,月の光に見立てながら,瞑想を行う僧侶もいた。
また,日系二世のリチャード・サカキダの話も,示唆的である。彼は,1930 年代に京都
に来日し,日本語を学び,僧侶になるために仏教を学んだ。日米開戦後,アメリカ軍の情

86
報官としてフィリピンに派遣されたが,そこで日本軍に捕まり,拷問を受けた。彼は,し
かし,情報をまったく漏らさなかった。その理由として彼は,西本願寺の語学学校の教師
たちが,彼に誇りや強さを教えてくれたこと,そしてアメリカ人としての精神が,拷問に
耐えることを可能にしてくれたと述べている。彼において,仏教者であることと,アメリ
カ人であることとが,矛盾なく受け入れられていたのである。戦後,彼は自分を拷問した
憲兵たちと再会することになるが,仏教の慈悲の心によりながら彼らを許し,以後もその
うちの一人と交流を続けることとなった。
以上のように,キリスト教国であるアメリカの,戦時下にあって,日本の仏教の伝統
が,日系人たちの生き方の指針を示すことがあったのである。

【文責】アジア仏教文化研究センター

87
Duncan Ryūken Williams
Director, USC Shinso Ito Center for Japanese Religions
and Culture
University of Southern California

88
That an Obon service is being held here in the middle of [this
American] desert with twenty-nine Buddhist priests and several
hundred Japanese Buddhist laymen is surely a historical first. The
saying Bukkyō tōzen (the eastward transmission of Buddhism) has
never seemed as apt as it does today. (diary entry, July 12, 1942)
Tana Daishō – Santa Fe Lordsburg senji tekikokujin yokuryūjo nikki
(Jōdo Shinshū Buddhist priest, Lompoc Buddhist Temple)

“Hongwanji was the first Japanese [Buddhist denomination] to start an American


mission, which in itself exemplifies the history of an eastward transmission of the
Buddhist teachings (Bukkyō Tōzen). This means that American Buddhists have
considerable responsibility as pioneers for spreading the teachings around the
world.” Uchida Koyu, Bishop of the Buddhist Mission of North America (1905-1923)

89
In 1885, Josiah Strong writing for the American Home Missionary Society claimed that
Anglo-Saxon control of America was a part of God Providence. One of his bestselling
books popularized the phrase “Christianize and Americanize.”

Early 1900s - Rev. A.W. McLeod in Nanaimo, Canada would proclaim to his Baptist
congregation, “God intended the Anglo-Saxons to have possession of Canada and the
United States.

In 1920, William Canbu (Grand President of the Native Sons of the Golden West) -
“California was given by God to a white people, and with God’s strength we want to
keep it as He gave it to us.”

“We live in America, we must have political allegiance to it


and observe its laws. However, a polemist argues that
Americanization means spiritual servility and that true
Americanization is to forsake Japanese religion and thoughts
and adopt those of America. This contradicts the Founding
Spirits of America. America esteems freedom, equality,
and independence, spiritual independence to the utmost.
It never asks for spiritual servility”
(Bishop of Hawaii Hongwanji Imamura Emyo, 1918)

90
In 1918, Office of Naval Intelligence (ONI) report: “Buddhist priests in Hawaii, while
ostensibly loyal to the United States, are in reality doing everything in their power to
undermine any American allegiance entertained by the Japanese in Hawaii.”

In 1921, Sen. James Phelan “There are 76 Buddhist temples in California, and I am told they
are regularly attended by ‘emperor worshippers,’ who believe that their emperor is the
overlord of all.” (Committee on Immigration and Naturalization; Hearing, San Francisco)

91
The Japanese Language School Cases (U.S. Supreme Court 1927 - Hawaii Territorial Act 30) -
Bilingualism or Monolingualism?
The Sugar Plantation Strike of 1919 - Non-Racial Equal Pay (from 77 cents to $1.25) or
Acceptance of Anglo Supremacy?
Rev. Otis Gibson, under whom one of the first Christian congregations were founded by the
Japanese- 1877, “The English language is eminently the language of intellectual power and
activity—the language of Christian evangelization. The heathen who, living in England or
America, learns to understand and to speak the English language can never be the same
heathen that he was before. . . . will be aroused to intellectual activity, to a higher and better
culture, and to a new spiritual life.” (1877)
Takie Okumura (Christian leader in Hawaii and sponsor of the “Americanization” campaign
and against “repaganization” of the islands - “the strike and the suit against the government
would only make anti-Japanese sentiment all the more violent”
Honolulu Star-Bulletin (Feb. 1920) “What the alien Japanese priests, editors and educators are
aiming at, in our opinion, is general recognition of their claim that they can absolutely control
the 25,000 Japanese plantation laborers in this territory. . . Is control of the industrialism of
Hawaii to remain in the hands of Anglo-Saxons or is it to pass into those of alien Japanese
agitators? . . . Given the choice, in the last extremity between destruction of the sugar industry
or the Japanizing of this territory, we would prefer destruction.”
Sōtō Zen Mission led 3,000 strikers with a large portrait of Abraham Lincoln

Vaughan McCaughey (Superintendent of Public


Instruction, Hawai’i) “Buddhist schools [are] narrow,
superstitious shrines for Mikado worship; as long as 95
percent of the Japanese in Hawaii remained Buddhist,
so long would Americanization be retarded.”

1919 – Judds, Andrews, Clark Bills in Hawai’i Territorial


Legislature that led to Foreign Language Schools Control
Law on July 1, 1921

Albert Judd, a grandson of an early Christian missionary to the


islands, proposed restrictions on Japanese language school,
housed primarily at Buddhist temples, to safeguard “for the
nation a Christian-American citizenship in the Territory.”

Lawsuit led by Bishops Hosen Isobe (Soto Zen), Yemyo Imamura


(Nishi Hongwanji), and Shinkyo Tachikawa (Jodo) and majority of
the language schools – Farrington v. Tokushige case against the
Hawai’I Territorial Governor Farrington upheld constitutionality
of Hawaii Territory bans on Japanese language schools on
February 21, 1927.

92
Experiencing the Attack [2403 Dead]
Chiye Itagaki - 11-year old attending Sôtô Zen
Buddhist Sunday school, Nana Gakuen on
Nuuana Avenue (“Ame Ame Fure Fure”)
Jun Miyamoto - “Friendly Fire” on Honolulu
Buddhist Shinshu Kyokai and his drugstore
Sunday Morning in Japanese America
(Hawaii and continental U.S. 1941)
Buddhists - 75% (Issei 80%, Nisei 67.8%)
Christian (Protestant/Catholic) - 19% (Issei
20%, Nisei 30.8%)
Other – 1%
Japanese American Buddhism in 1941
Temples - 326 total
Sect - Nishi Honganji 159, Shingon 68, Jodo 19,
Sôtô Zen 16, Higashi Honganji 11, Nichiren
11
Region - Hawaii 183, California 135, Canada 20,
Oregon 9, Washington 8, Brazil 8, Colorado 4,
Utah 3, New York 2, Arizona 2

93
Arrests Began Even While Attack Was in Progress - in Hawaii 345 Japanese Picked
Up in 24 Hours
**Included Bishops Kuchiba (Nishi Honganji, Bishop Kubokawa (Jodo), Bishop Komagata (Sôtô Zen) and over
100 other Buddhist Priests in the first hours along with Japanese Consulate officials
**In the weeks that followed, the majority of Buddhist and Shinto priests in the U.S. and Canada were picked up
while most Christian ministers were not arrested

FBI’s “ABC” List - Coordination by Intelligence Agencies (Office of Naval


Intelligence (ONI), FBI, and U.S. Army G-2
**Categories of “Persons” Thought to be Potentially Subversive - Buddhist and Shinto Priests, Consular
Officials, Martial Arts Instructors, Japanese Language School Teachers, Fishermen
**ABC List - levels of potential danger to nation

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[We] have been living in tents on a small island [Sand Island]. It was as if I was having an
experience just like Hônen Shônin’s when he was exiled. On January 15th, we held a Memorial
Service for our sect founder, Hônen Shônin, despite not having a scroll with the sacred words
[Namu Amida Butsu]. Being locked up in a remote place where we couldn’t prepare any incense,
flowers, or candles, we gathered all [Jôdo sect] members together and gave gratitude to the
teaching simply by placing our palms together and reciting Buddhist scriptures. The Jôdo
Mission of Hawaii Betsuin in Honolulu was occupied by the US Army. [. . .] There are a total of
“XX” Jôdo Mission priests from the various islands of Hawaii who have already been captured
and sent to the US mainland. The priests have been dispersed to various internment camps, but I
do not know who and where they have all been taken - May 13, 1942

95
ABC List - Interrogation and Home Searches of “B” List Persons - Japanese and
Buddhist Association Lay Leaders - The Akagi Family (Sheldon, Texas - mixed race
family and the home butsudan) and The Kimura Family (Madeira, California - burying
Buddhist sutras and temple history)
May 6, 1918 U.S. Army, Military Intelligence Branch (MID) report “The Increase of
Japanese Population in the Hawaiian Islands and What It Means” by Major H. C.
Merriam - identified three sources of anti-Americanism: the Japanese government,
Japanese language schools, and Buddhists
Aug. 14, 1918 Office of Naval Intelligence (ONI) report – states “Buddhist priests in
Hawaii, while ostensibly loyal to the United States, are in reality doing everything in
their power to undermine any American allegiance entertained by the Japanese in
Hawaii.”
1922 FBI Report by Agent A.A. Hopkins “Japanese Espionage: Hawaii” (157
individuals investigated, majority Buddhists priests, merchants, and Japanese language
school principals).
1933 Hawaiian Department Army G-2 report “Estimate of the Situation: Japanese
Population in Hawaii” and the 1933 FBI report “Survey of the Japanese Situation in
Hawaii” - identifies the “problem” of Buddhist temples, Shinto shrines, and the
Japanese-language schools in “retarding” Americanization and elements in assessing
the “military liability” of the Japanese in Hawaii in case of a war with Japan.
Nov. 15, 1940 FBI Director Hoover memo to military intelligence - states the vast
majority of even the Issei would be loyal to America in case of war, but a small minority
was dangerous – this group included “Buddhist and Shintoist priests, the Japanese
language school teachers, consular agents, and a small percentage of prominent alien
Japanese businessmen.” Memo recommended the interning of the “inner circle” of
the community that comprised of the groups above.

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I return to the quiet and supreme life of walking alongside Kōbō Daishi. As
if trying to practice meditation under the moonlit pine, I have been viewing
the guard’s searchlights as the Buddha’s sacred light and have been
practicing Kōmyō meditation together with [Kōbō Daishi].

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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-09(2016 年 3 月 31 日)

2015 年度公募研究成果論文

青少年の倫理問題に答えるタイ仏教
―「V-Star」プロジェクトを一例として―

K.プラポンサック
(2015 年度 BARC 公募研究員,龍谷大学非常勤講師)

目次
1.調査の概要
2.青少年の倫理問題
3.現地調査とその結果
4.まとめ
図 1:タイ地図(Thailand Administrative Divisions 2013 : University of Texas Libraries より)

104
目次
1. 調査の概要

2. 青少年の倫理問題

2.1 インターネット夢中・依存症

2.2 家庭問題

2.3 夜遊び・危険ドラッグ

3. 現地調査とその結果

3.1 プロジェクトの背景

3.2「事例調査」による現地調査

4. まとめ

1. 調査の概要

■ 調査期間:2015 年 11 月 30 日(月)~ 12 月 22 日(火)

■ 調査地域:青少年の倫理問題に答えるタイ仏教について,当初 Wat Phra Dhammakaya

(Pathumthani 県)で関係関連資料を収集した。そして,仏教を基盤とする道徳観念を青少

年たちに学んでもらう「V-Star(ヴィースター:Virtuous Star(ヴァーチュアス・スター)

善 行 の 星 )」 と い う プ ロ ジ ェ ク ト を 作 っ た International Buddhist Society ( IBS ) Club

(Pathumthani 県)の関係者にプロジェクトについてインタビューを行い,また年に一度

Wat Phra Dhammakaya で開催する集会活動を実態調査した。その後,Wat Sangkaracha 学校

(Bangkok 都),Siyanuson 学校(Chanthaburi 県)及び Chantapura Dhutanka 修行道場で V-

Star プロジェクトと倫理問題の解決について教育者,学生及び僧侶などにインタビューし,

実態調査を行った。

■ 調査目的:仏教の教えに基づいて青少年の倫理問題に答える V-Star プロジェクトを一

例として挙げ,現代アジアにおける仏教の社会性・公益性に関する調査を推進して日本仏

教の事例との比較考察を行った。

■ 調査方法:① タイの青少年の倫理問題の背景と現状を調査する。② 次に,プロジェク

ト主催である IBS Club の担当者にプロジェクトの出発・背景及びアプローチなどを直接に

インタビューする。③ そして,タイ教育省(Ministry of Education)の基礎教育委員会事務

局(Office of the Basic Education Commission)と IBS Club との合同研究によるアンケートの

105
(Quantitation Research)と「定性調査」
「定量調査」 (Qualitative Research)及び,参加する

学校の一例を選んで実地調査を行った。

■ 調査日程:

11 月 30 日:移動日(東京・成田国際空港 >> バンコク・スワンナプーム国際空港)

12 月 1~7 日:Wat Phra Dhammakaya(Pathumthani 県)で青少年の倫理問題に関する資料を

収集し,タイ情報技術通信省(Ministry of Information and Communication Technology)の国

家統計局(National Statistical Office)による統計データを分析し,そして現地調査に必要な

ものを準備した。

12 月 8~10 日:IBS Club(Pathumthani 県)で V-Star プロジェクトの設立,目的,及び活動

などについて関係者のインタビューを行った。今回 IBS Club の調査協力者は,① Phra Virote

Vijittamrongsak 師(Head of Learning Innovation Development Center)② Santi Rungsukphalakorn

氏(President)③ Anchalee Phakhongsub 氏(Head of School Administration Center)の 3 名で

ある。

12 月 11〜13 日:Wat Phra Dhammakaya で年に一度開催される大規模の特別な集会の実態

調査を行った。この集会では,3D 映画の上映会も含めた多様な展示が行われている。3D

映画では,ブッダの成道や地獄の描写などが現代の映像技術を駆使して表現されており,

迫力満点である。その後,学校の実態調査を行うのに,IBS Club の関係者と打ち合わせた。

12 月 14〜21 日:V-Star プロジェクトと倫理問題の解決について,Wat Sangkaracha 学校

(Bangkok 都)で取材した情報や撮影した VTR などを確認して学校及び学生の様子を観察

した。その後,都内から 300 キロほど離れた Siyanuson 学校(Chanthaburi 県)で教育者や

学生などにインタビューして,学校及び学生の様子を観察しながら,意見などを聴取した。

また,Chantapura Dhutanka 修行道場(Chanthaburi 県)で寺院関係者にインタビューした。

今 回 の 調 査 協 力 者 は , ① Prachong Wattanachai 氏 ( Siyanuson 学 校 校 長 ) ② Ardoon

Changkaewmanee 氏(Siyanuson 学校教師)③ Wichuda Changkaewmanee 氏(Siyanuson 学校

教 師 ) ④ Narubet Kumseesuk 氏 ( Siyanuson 学 校 学 生 団 体 副 代 表 ) ⑤ Phra Sorapong

Pattanavanitnan 師(Chantapura Dhutanka 修行道場僧侶)の 5 名である。

12 月 21 日〜22 日:移動日(バンコク・スワンナプーム国際空港 >> 大阪・関西国際空港)

106
2. 青少年の倫理問題

社会の将来と希望である青少年たちが,道徳から離れてしまえば,彼らはギャンブルや

危険ドラックなどに巻き込まれ,問題しか生まない社会になってしまう。現在,タイでは

青少年の道徳の劣化が問題となっている。その背景は大別して 3 つあり,それは,① イン

ターネット夢中・依存症,② 家庭問題,③ 夜遊びと危険ドラッグである。情報技術通信

省(Ministry of Information and Communication Technology)の国家統計局(National Statistical

Office)によれば,以下の統計データが現れている。

2.1 インターネット夢中・依存症

2008〜2010 年,15〜24 歳の青少年のインターネットの使用が増えた。その中,オンライ

ンゲームは 14.5 から 65.4%に 4 倍増え,SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)

は 1.6 から 32.1%に 20 倍増えた。

図 2:青少年のインターネット使用目的(15~24 歳:2008~2011 年)

また 2011 年,青少年のスマートフォンの有無について 84%所持しており,16%が所持し

ていないことが判明した。スマートフォンのインターネット使用目的は,第 1 位 SNS(72.4%),

107
第 2 位 E メールの送受信(52%),そして第 3 位オンラインゲーム(42.2%)である。この

スマートフォンのインターネット使用目的も SNS とオンラインゲームが占めた。

図 3:青少年のスマートフォン使用目的(15~24 歳:2011 年)

以上,SNS とオンラインゲームの占める比率がかなり増えつつあり,それが原因の不登

校やインターネット犯罪なども増加している。

2.2 家庭問題

2009 年の調査データによれば,一日の生活時間のうち,自分の世話を 12.1 時間(50%),

仕事・勉強を 6.3 時間(26%)占めて,個人で過ごす時間の割合が増えた。一方,家族の世

話が 2 時間(8%)と家族と過ごす時間が減ってきている。また,社会貢献はわずか 0.1 時

間(1%)のみであった。

以上,一日の生活時間のうち,個人で過ごす時間が 18 時間以上になっている一方,家族

と過ごす時間はたった 2 時間と,比率がかなり少ない。それが家庭問題の原因になると見

られる。

108
図 4:一日の時間割(2009 年)

2.3 夜遊び・危険ドラッグ

青少年の夜遊びについて,2008 年に 13〜24 歳の青少年の夜遊びが 32.7%占めた。また,

2004〜2011 年の青少年の飲酒は,平均 20%余りとなった。

図 5:青少年の夜遊び(13~24 歳:2008 年)

109
図 6:青少年の喫煙・飲酒(13~24 歳:2004~2011 年)

図 7:地域の危険ドラッグ(2009~2012 年)

以上のように,近年若年層のインターネット使用において,オンラインゲームと SNS の

占める比率がかなり増え,それが原因の不登校やインターネット犯罪なども増加している。

110
また,青少年の生活時間のうち,個人で過ごす時間の割合が増えており,家族と過ごす時

間が減ってきているため,家庭問題の原因になると見られる。さらに,クラブなどでの夜

遊びや,危険ドラッグの使用のほか,未成年の喫煙と飲酒も目立ってきている。これらは,

現在タイの青少年の倫理問題である。

2. 現地調査とその結果

2.1 プロジェクトの背景

現在タイの青少年の倫理問題を解決するために,IBS Club により仏教を基盤とする道徳

観念を青少年たちに学んでもらう「道徳復興プロジェクト」が作られた。その中に V-Star

プロジェクトがある。
V-Star プロジェクトの目的は,タイ国中の様々な
教育機関で青少年に対して,道徳のお手本となるリ
ーダーを育成するところから始まり,教育委員会の
下「家庭・学校・寺院」に協力してもらい,仏教に
基づく道徳を青少年に啓発していくというもので
写真 1:V-Star プロジェクトのマーク
ある。
参加者全員は「規律(vinaya)
・尊敬(gārava)
・忍耐(khanti)」を主な基本とした生活訓
練を行うと共に,起床から就寝まで社会奉仕活動,家庭,学校,寺院の手伝いを行う。そ
して,V-Star のクラブ活動で仏教の教えを現代的なメディアを通じて楽しみながら学ぶ。
このような活動を 3 ヶ月続ければ,はっきりとした良い違いが生まれてくる。参加した生
徒,その家族そして地域社会に変化が生まれ,これまでの成果結果にどの地域からも高い
評価と満足をもらっているそうである。
また,このように続けられるのであれば,社会の主な機関である「家庭・学校・寺院」
と協力して青少年の可能性を発展させるために,社会貢献活動や学習も共に行っていく地
域社会一体型となり,そして青少年たちの心に道徳と美徳を発達させることを促していき,
結果,継続的な手本となることができるようになった青少年たちは,道徳や美徳,人生を
営む正しい方向について同じ世代の若者から周囲をはじめ,社会へと伝えることができる
青少年を育成することができると期待されている。

111
写真 2:International Buddhist Society(IBS)Club 写真 3:関係者のインタビューの様子

IBS Club の統計データによれば,2006〜2015 年 V-Star プロジェクトに参加する学校の数


は以下のようになる。

図 8:V-Star プロジェクトに参加学校(2006~2015 年)

2014 年 5 月のタイでの軍事クーデター以降,集会活動などへの規制が進められたことも
あり,参加校はやや減少傾向にあるが,それでも依然として活発である。

112
図 9:V-Star の具体的な実践の理念

V-Star の具体的な実践としては,「日常」「活動」「学習」の 3 つが中心となっている。

①「日常」とは,生活改善のプログラムであり,起床してから学校に通い就寝するまで,

生活上の一つ一つの作業を丁寧にこなすことを目指す。善行のための十の指針が示されて

おり,その指針に従った実践を行い,また個々の実践の内容を細かくメモし続けていくこ

とで,個人の性格が改善されるという。

『六方礼経』1の習慣を利用して,東南西北と下上の各方角に,親子・師
②「活動」とは,

弟・夫婦・友人・上司部下・出家者在家者を順に配置して,周りの人々とのつきあいに基

づいて,青少年を中心に(Child Center)家庭・寺院・学校や様々な社会貢献など,幅広い

活動を行っていくことである。その一例の活動は,⑴ 布薩日に寺院で僧侶に布施する,⑵

学校や地域で危険ドラッグ・飲酒・夜遊びの危険性とそれを止めるキャンペーンを起こす,

⑶ 学校で教師の恩恵を尊重し師弟の間の活動である「恩師の感謝日」を開催することであ

る。

1『六方礼経』は,ブッダが父親の遺言を守って,六つの方角を礼拝しているシンガーラという

資産者の息子に対して「六方を礼拝する」という従来の宗教的な習慣ではなく,本来の正しい
仕方を教えるものとして伝えられている。現存の『六方礼経』は,① パーリ本の DN.31
Siṅgālovāda-suttanta(DN.III.180-193)のほか,これに対応する漢訳本が,② 後漢の仏陀耶舎・
竺仏念共訳『長阿含経』巻 11 第 16「善生経」
(大正.1.70a-72c),③ 東晋の僧伽提婆訳『中阿含
経』巻 33 第 135「善生経」(大正.1.638c-642a),④ 後漢の安世高訳『仏説尸迦羅越六方礼経』
(大正.1.250c-252b),⑤ 西晋の支法度訳『仏説善生子経』(大正.1.252b-255a),全 5 本ある。

113
善行のための十の指針
第……….週
実際に行った項目に ◯ をつけなさい。

1 点 / 項目 / 日

……….年……….月……….日〜……….日

…………………………………………………………………………………………………………

⑴ 朝早く起きて寝具を片付けること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑵ 服装を丁寧に着ること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑶ 五戒を守ること2 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑷ 寄付・布施をすること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑸ 家事などをすること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑹ 読書をすること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑺ 周りの人々の善さをメモすること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑻ 瞑想をすること(15 分) 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑼ 寝る前にお経を上げること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

⑽ 寝る前に親を三拝すること 月・火・水・木・金・土・日 小計……..点

今週の合計….………………………点

図 10:「善行のための十の指針」のメモ帳

2「五戒」は,①
他者の命を大切にする「不殺生」② 他者の財産を大切にする「不偸盗」③ 他
者の家族を大切にする「不邪婬」④ 信頼を大切にする「不妄語」⑤ 自分を酔わせない「不飲
酒」の 5 つの規律である。

114
自分と周りの人々の善さ

月曜日 自分の善さ

……………………………………………………………………………………………………

火曜日 母 / 祖母の善さ

……………………………………………………………………………………………………

水曜日 父 / 祖父の善さ

……………………………………………………………………………………………………

木曜日 先生の善さ

……………………………………………………………………………………………………

金曜日 友達の善さ

……………………………………………………………………………………………………

土曜日 近所の人の善さ

……………………………………………………………………………………………………

日曜日 善い思い出

……………………………………………………………………………………………………

図 11:「自分と周りの人々の善さ」のメモ帳

③「学習」とは,仏教の知恵について繰り返し学ぶことであるが,なかでも,年に 1 度

開催される大規模の特別な集会は,注目に値する取り組みである。今回で第 10 回目を迎え

たこの集会は,2015 年 12 月 12 日(土)に Wat Phra Dhammakaya で開催した。この集会は,

たとえて言うなら「仏教の万博」のような

イベントであり,3D 映画の上映会も含め

た多様な展示が行われている。3D 映画で

は,ブッダの成道や地獄の描写などが現代

の映像技術を駆使して表現されており,迫

力満点である。映画の上映後にその場で瞑 写真 4:第 10 回 V-Star 大集会のマーク

115
想を行ったり,感想文を書かせたりするなど,あくまで仏教の学習からそれないような工

夫がなされている。

集会の総合テーマは,「一切の悪行をなさず,善行を具足し,自らの心を清浄すること」

(Dhammapada)第 183 偈3及び「六道輪廻・涅槃」の思想に基づいて展示


という『法句経』

を作った。

3
sabbapāpassa akaran ̣aṃ kusalassa upasampadā sacittapariyodapanaṃ etaṃ Buddhāna sāsanaṃ.
(Dhp.183)

116
図 12:V-Star 大集会の展示会の総合テーマ

写真 5・6・7・8:V-Star 大集会の開催当日の様子

写真 9:3D 映画を見ている様子 写真 10:展示会や 3D 映画を見た感想文

写真 11・12:展示会に関して小テストを受けている様子

117
写真 13・14・15・16:Dhammakaya Cetiya で V-Star 大集会に参加する全員がお経を上げた

り,瞑想したりする様子

2.2「事例調査」による現地調査

「事例調査」によって現地調査を試みた。今回の「事例調査」は,2012 年タイ教育省(Ministry

of Education)の基礎教育委員会事務局(Office of the Basic Education Commission)と IBS Club

との合同研究による ① アンケートによって V-Star プロジェクトに参加する学校の教員を

(Quantitative Research)及び ② 少ない人数の学校の校長や教員を


対象にする「定量調査」

(Qualitative Research)を利用した。
対象にする「定性調査」 「定量調査」は数百人からのサ

ンプルを利用するため,誤差が少なく多数の人々の意見を知ることができる。一方,
「定性

調査」は少ない人数を対象にするため,親しみやすく話ができるのが最大の利点であり,

当初,予想していなかった発言が出現するなど新たな展開を進むことが可能である。ゆえ

に,今回の現地調査はこの両調査方法を利用した。また,参加する学校の一例を選んで実

地調査も行った。

118
■「定量調査」による調査

この調査は,V-Star プロジェクトに 4 回以上参加した学校の教員 401 名を対象として質

問票・アンケート調査を行った。調査協力者の基本情報は,以下のようになる。

「定量調査」協力者の基本情報

人数 %

1. 性別

・男性 134 33.42

・女性 267 66.58

合計 401 100.00

2. 年齢

・46 歳以下 167 41.62

・46~55 歳 234 58.38

合計 401 100.00

3. 最高学位

・学士 288 71.86

・修士 109 27.14

・博士 3 0.75

・その他 1 0.25

合計 401 100.00

4. V-Star プロジェクトに参加回数

・4 回 81 20.20

・5 回 128 31.92

・6 回 192 47.88

合計 401 100.00

5. 学生の参加人数

・45 人以下 127 31.67

・45~90 人 102 25.44

・90 人以上 172 42.89

合計 401 100.00

119
図 13:「定量調査」協力者の基本情報

まず「善行のための十の指針」を中心に V-Star プロジェクトに参加する前(X1)4と参加

した後(X2)の学生の行動について,以下のようになる。

1 = 寝る前にお経を上げること 6 = 寄付・布施をすること

2 = 瞑想をすること(15 分) 7 = 家事などをすること

3 = 朝早く起きて寝具を片付けること 8 = 読書をすること

4 = 服装を丁寧に着ること 9 = 周りの人々の善さをメモすること

5 = 五戒を守ること 10 = 寝る前に親を三拝すること

図 14:V-Star プロジェクトに参加する前と参加した後の「善行のための十の指針」⑴

プロジェクトに参加する前に X1 の平均は 2.98 点(5 点満点)となったが,プロジェクト

に参加した後で X2 の平均は 4.25 点となった。

そして「V-Star プロジェクト参加者の倫理・道徳」を中心に参加する前(X1)と参加し

た後(X2)の学生の倫理・道徳について,以下のようになる。

4「2」
(瞑想をすること(15 (朝早く起きて寝具を片付けること)の X1 の情報がな
分))と「3」
い。

120
1 = 勤勉 4 = 規律 7 = 調和

2 = 節約 5 = 丁寧 8 = 寛大

3 = 正直 6 = 清潔 9 = 孝行

図 15:V-Star プロジェクト参加者の倫理・道徳 ⑴

プロジェクトに参加する前に X1 の平均は 3.15 点となったが,プロジェクトに参加した

後で X2 の平均は 4.34 点となった。

図 16(左):V-Star プロジェクトに参加する前と参加した後の「善行のための十の指針」⑵

図 17(右):V-Star プロジェクト参加者の倫理・道徳 ⑵

121
■「定性調査」による調査

少ない人数の学校の校長や教員 28 名を対象にする「定性調査」を利用した。調査協力者

の基本情報は,以下のようになる。

「定性調査」協力者の基本情報

人数 %

1. 性別

・男性 11 39.29

・女性 17 60.71

2. 年齢

・46 歳以下 5 17.86

・46~55 歳 11 39.29

・56 歳以上 12 42.86

3. 最高学位

・学士 13 46.43

・修士 15 53.57

・博士 0 0.00

4. 職位

・校長 10 35.71

・副校長 1 3.57

・教員 17 60.71

合計 28 100.00

図 18:「定性調査」協力者の基本情報

まず「V-Star プロジェクトの質」について「日常:善行のための十の指針」「活動:社会貢

献」
「活動:布薩日に寺院での積功徳」を中心に「内容・方法」
「学習メディア」
「価値」を調

査した結果が以下のようになる。

122
V-Star プロジェクトの質

評価

1. 日常:善行のための十の指針

1.1 内容・方法 4.32

1.2 学習メディア 4.39

1.3 価値 4.36

2. 活動:社会貢献

2.1 内容・方法 4.18

2.2 学習メディア 4.14

2.3 価値 4.32

3. 活動:布薩日に寺院での積功徳

3.1 内容・方法 4.18

3.2 学習メディア 4.04

3.3 価値 4.25

総合評価 4.24

図 19:V-Star プロジェクトの質

そして「V-Star プロジェクト参加者の評価」について「授業態度」
「成績結果」
「責任感」

「倫理・道徳」のレベルの評価を調査した結果が以下のようになる。

V-Star プロジェクト参加者の評価

評価

1. 授業態度のレベル 4.04

2. 成績結果のレベル 3.89

3. 責任感のレベル 4.18

4. 倫理・道徳のレベル 4.29

総合評価 4.10

図 20:V-Star プロジェクト参加者の評価

123
以上,V-Star プロジェクトに参加する学生の行動(善行のための十の指針)及び倫理・道

徳について,参加する前と参加した後では,かなりの差があった。また,
「定性調査」による

プロジェクトの質と参加者の総合評価は 4.24 点と 4.10 点となったので,高い評価を与えら

れる。そして,その中の「4. 倫理・道徳のレベル」の評価は 4.29 点となり,前述の「定量調

査」によるプロジェクトに参加した後の「倫理・道徳」の平均点数(4.34 点)と比較してほ

ぼ同じ結果が出た。また,プロジェクト参加の期間が終了しても,まだやり続けている学生

がいるそうなので,プロジェクト参加の効果と価値があると言えるであろう。

■「実地調査」による調査

この「実地調査」は,前述の「定量調査」と「定性調査」に加えて,参加する学校の一

例を選んで調査を行った。その一例とは,Wat Sangkaracha 学校(Bangkok 都)及び Siyanuson

学校(Chanthaburi 県)である。まず,Wat Sangkaracha 学校で取材した情報や撮影した VTR

などを確認して学校及び学生の様子を観察した。そして Siyanuson 学校で教育者や学生な

どにインタビューして,学校及び学生の様子を観察しながら,意見などを聴取した。また,

Chantapura Dhutanka 修行道場(Chanthaburi 県)で寺院関係者にインタビューした。

Wat Sangkaracha 学校は,幼稚園から中学までの学校であり,2015 年度 776 人の学生がい

る。この学校は学生全員が V-Star プロジェクトに参加している。学生団体があり,先生と

共にプロジェクトの活動を運営している。最初はかなり困難を極めたが,後に先生,保護

者,学生に理解してもらうことができ,現在のかたちになった。プロジェクトに参加した

上,倫理・道徳のレベルだけではなく,勉強や責任感のレベルも高くなった。校内の管理

もやりやすくなり,問題が少なくなったと教員は話す。

写真 17・18:朝早く先輩が先生と一緒に後輩の世話をする様子

124
写真 19(左): 校門に入って仏像を参拝している学生の様子

写真 20(右): 国歌を歌った後で先生と学生が一緒に瞑想している様子

Siyanuson 学校は,中学から高校までの学校であり,3000 人程度の学生がいる。この学

校も Wat Sangkaracha 学校と同様に学生全員が V-Star プロジェクトに参加している。学生

団体があり,プロジェクトコーディネーターの先生と共にプロジェクトの活動を運営して

いる。この学校の規模が大きいため,運営と管理はかなり困難である。ただし,学生の倫

理・道徳や勉強,社会貢献などのレベルは,保護者などから高く評価され,また校内のい

じめ問題や危険ドラッグなども減っているため,このプロジェクトは今学校の一部の教育

方針になっている。

写真 21・22・23・24:校内での先生・保護者・学生の布施献上

125
写真 25(左): 校長先生とプロジェクトについて意見交換した後の記念写真

写真 26(右): プロジェクトコーディネーター先生と学生団体副代表のインタビュー

最後に,Siyanuson 学校と一緒にプロジェクトの活動を最初から行ってきた Chantapura

Dhutanka 修行道場の僧侶のインタビューを行った。当初は大変困難だったが,前校長先生

はプロジェクトに参加した十数人の性格改善に気づいてくれたので,プロジェクトを詳細

に調べ始めた。そして,プロジェクトの参加を許可してくれた。また,倫理・道徳を向上

させるために,校内で僧侶による仏教の教育も導入した。その結果,学生の倫理・道徳の

レベルも高くなり,寺院の年中行事及び社会貢献の活動も参加しているそうである。

写真 27(左):プロジェクトコーディネーター僧侶のインタビュー

写真 28(右):インタビューした後の記念写真(Chantapura Dhutanka 修行道場の入り口)

4. まとめ

現在,タイでは青少年の道徳の劣化が問題となっている。その背景は,① インターネッ

ト夢中・依存症,② 家庭問題,③ 夜遊びと危険ドラッグである。これらの問題を解決す

るために,IBS Club により仏教を基盤とする V-Star プロジェクトがある。

126
V-Star プロジェクトの目的は,タイ国中の様々な教育機関で青少年に対して,道徳のお

手本となるリーダーを育成するところから始まり,教育委員会の下「家庭・学校・寺院」

に協力してもらい,仏教に基づく道徳を青少年に啓発していくというものである。

今回の現地調査は「定量調査」と「定性調査」を利用した。また,参加する学校の一例

を選んで「実地調査」も行った。プロジェクトに参加する学生の「善行のための十の指針」

及び倫理・道徳について,参加する前と参加した後では,かなりの差があった。そして,

「定性調査」によるプロジェクトの質と参加者の総合評価は高い評価を与えられる。また,

一例を選んで行った「実地調査」により,学生の倫理・道徳や勉強,社会貢献などのレベ

ルは,保護者などから高く評価され,また校内のいじめ問題や危険ドラッグなども減って

いるため,このプロジェクトは今学校の一部の教育方針になっている。さらに,プロジェ

クト参加の期間が終了しても,まだやり続けている学生がいるそうなので,プロジェクト

参加の効果と価値があると言えるであろう。

以上,仏教の教えに基づいてタイの青少年の倫理問題に答える V-Star プロジェクト を

一例として挙げたが,この 3 つの問題は,タイだけではなく日本にも存在するのではない

であろうか。もちろん,日本はタイの習慣,文化,考え方と異なるため,すべてを導入し

て利用するのは不可能だと思うが,可能な限り一部を導入して利用すれば,日本の社会に

も役立てるのではないかと思う。そこで,日本にあるタイ国タンマガーイ寺院は,一部の

プロジェクトを利用して,毎年安居の期間の 3 ヶ月間(7〜10 月)
「善行のための十の指針」

を実践してもらっている。

写真 29(左):「善行のための十の指針」について話している子供

写真 30(右):「善行のための十の指針」メモ帳の使い方を説明している僧侶

127
写真 31・32:V-Star キャンプに参加している子供の読経・瞑想

写真 33・34:V-Star キャンプに参加している子供の課外活動

また,年に一度夏休み(8 月)の間「V-Star キャンプ」も開催している。子供や保護者か

ら高く評価されている。年により期間は異なるが,約 1 週間程度,寺院に寝泊まりし,仏

教や道徳を学ぶコースである。主に,僧侶とお経を唱え,瞑想をして心を落ち着かせ,法

話を聞く生活を過ごす。一日のスケジュールは,以下のようになる。

05:30 起床 11:30 昼食・片付け

06:00 朝のお経・瞑想 13:30 課外活動等

07:00 体操 16:00 入浴・夕食・宿題

07.30 朝食・片付け・休憩 19:00 夜のお経・瞑想

09:00 法話・瞑想 20:30 就寝準備

11:00 休憩・食事準備の手伝い 21:00 就寝

コース終了後にも週間付くように,早寝早起き,整理整頓など,規則正しい日々を送る。

初めは抵抗があるようであったが,目に見える良い点があり,コースが終わってからも規

128
則正しい生活をしたり,家の手伝い,毎週末に寺院へ足を運びボランティア活動をする子

も出ている。保護者からは,このコースに参加したことで,子供が自ら進んで家事の手伝

いや勉強をするようになったという声も上がっている。このように,V-Star プロジェクト

は,一つの方法として,青少年の倫理問題の解決に繋がることを望んでいる。

《参考 URL》

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「青少年のインターネット使用目的

(2008〜2010 年)」〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_youth.jsp〉

(アクセス日:2015/12/5)

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「青少年のインターネット使用目的

(2011 年)」〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_internet_teen.jsp〉

(アクセス日:2015/12/5)

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「青少年のスマートフォン使用目的

(15~24 歳:2011 年)」


〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_internet_

teen.jsp〉(アクセス日:2015/12/5)

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「一日の時間割(2009 年)」

〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_family_ma.jsp〉(アクセス日:

2015/12/5)

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「青少年の夜遊び(13〜24 歳・2008

年)」〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_youth.jsp〉
(アクセス日:

2015/12/5)

タイ国家統計局(National Statistical Office)ホームページ「地域の危険ドラッグ(2009〜2012

年)」〈http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_drug.jsp〉
(アクセス日:

2015/12/5)

タ イ 国 家 統 計 局 ( National Statistical Office ) ホ ー ム ペ ー ジ 「 青 少 年 の 喫 煙 ・ 飲 酒 」

〈 http://service.nso.go.th/nso/nsopublish/citizen/news/news_drug.jsp 〉( ア ク セ ス 日 :

2015/12/5)

129
1 2伝 全 二 ・ 五 七 三 。
1 3大 正 一 六 ・ 七 四 九 下 。
1 4「 密 厳 中 之 人 、 一 切 同 於 仏 、 超 過 刹 那 壊 、 恒 遊 三 昧 中 。」( 大 正 一 六 ・ 七 二 五 中 )。
1 5大 正 蔵 所 収 の 『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 で は 、「 倶 」 字 が 「 但 」 字 と な っ て い る が 、 こ こ で 指 摘 さ れ
て い る 因 明 の 過 失 は 両 倶 不 成 過 で あ る た め 、 対 校 に 従 っ て 「 但 」 字 を 「 倶 」 字 に 改 め た 。
1 6大 正 七 〇 ・ 一 五 四 中 ~ 下 。
1 7大 正 七 一 ・ 四 七 上 。
1 8大 正 七 〇 ・ 一 五 七 中 。
1 9恵 全 二 ・ 一 〇 三 ~ 一 〇 四 。

130
す な わ ち 、因 明 に よ っ て 仏 身 の 常 ・ 無 常 を 明 ら か に す る こ と は で き な い 、と い う 見 解 で あ る が 、
言い換えれば、因明によって証明される境地を、かなり低く位置付けるという姿勢である。こ
れは、最澄・玄叡が、因明そのものの功用について法相宗とは大きく異なった認識を有してい
たことを示すものであり、所謂一乗家における因明理解という問題について考究する上で、極
めて貴重な言説であると思われる。
さらに、今回、日本の所謂一乗家の諸師に多大な影響を与えた法宝や法蔵といった人師もま
た、因明による否定・立論を低次のものと位置付けていたと思われることが明らかとなった。
したがって、最澄・玄叡の因明理解の背景には、これら中国における諸師の思想が少なからず
影響を与えていたものと考えられるのである。
1新 導 成 唯 識 論 ・ 四 六 二 。
2大 正 三 一 ・ 六 一 中 。

131
3大 正 四 三 ・ 六 〇 三 上 。
4寺 井 良 宣 「 一 乗 ・ 三 乗 論 争 に お け る 三 論 宗 の 位 置 ― 玄 叡 の 『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 と 法 宝 の 『 一 乗
仏 性 究 竟 論 』 と の 関 係 を 中 心 に ― 」(『 日 本 仏 教 と 文 化 』、 一 九 九 〇 年 )。 同 「 唯 識 説 に お け る 仏 身
観 の 特 色 ― 『 成 唯 識 論 』 を 中 心 と し て ― 」(『 仏 教 学 研 究 』 第 六 四 号 、 一 九 九 〇 年 )。
5伝 全 二 ・ 五 六 八 。

6 田 正 博 「 法 宝 撰 『 一 乗 仏 性 究 竟 論 』 巻 第 四 ・ 巻 第 五 の 両 巻 に つ い て 」(『 龍 谷 大 学 仏 教 文 化 研 究
所 紀 要 』 二 五 ・ 一 二 三 上 )。
7大 正 四 五 ・ 四 二 三 下 ~ 四 二 五 上 。
8伝 全 二 ・ 五 六 八 。
9伝 全 二 ・ 五 六 七 ~ 五 六 八 。
1 0伝 全 二 ・ 五 七 二 ~ 五 七 三 。
1 1こ の よ う な 最 澄 の 因 明 理 解 の 背 景 に は 、 法 宝 を 始 め と す る 中 国 に お け る 一 乗 家 諸 師 の 見 解 が あ
っ た も の と 考 え ら れ る 。 拙 稿 「 最 澄 の 因 明 批 判 ― 思 想 的 背 景 の 検 討 ― 」(『 天 台 学 報 』 第 五 六 号 、
二 〇 一 四 年 ) を 参 照 さ れ た い 。
ここで法蔵は、真実の「法」は言語表現を離れたものであるが、対機を利益せんがために仏
は 義 を 立 て ら れ る 、 と し た 上 で 、 そ の 立 論 を ( a ) 応 機 立 ・( b ) 斥 破 立 ・( c ) 随 時 立 ・( d )
翻 邪 立 ・( e ) 定 量 立 の 五 種 に 分 類 し 、 因 明 の 論 法 を 用 い た 立 論 を 、( e ) 定 量 立 と 位 置 付 け て
いる。その上で、否定・立論といったものはあくまでも対機を信伏させるための方便であり、
「 仏 法 の 深 旨 」 を 具 え る も の で は な い 、 と い う 。 さ ら に 、「 真 如 」 に つ い て 立 論 す る こ と が 不 可
能であることを例に挙げ、立論や否定といった言語表現を離れたものを真実にかなった究竟の
義としているのである。
以 上 の よ う に 、法 蔵 は 、因 明 を 劣 機 の 衆 生 の た め に 用 い ら れ る も の と 位 置 付 け て お り 、ま た 、
仮に劣機のために用いられたとしても、最終的には正法によって破されるべきものであるとい
う。つまり、因明による否定・立論によって証明される境地をかなり低次に位置付けるのであ
り、これは前に確認した法宝・最澄・玄叡といった諸師の見解と共通するものであるといえよ
う。

132
おわりに
日本における報身仏の常・無常を巡る論争は、唐の法宝・慧沼の論争に基づきながら、やが
て独自の展開を見せることとなる。その最たるものが、本稿で確認した因明の三支作法によっ
て『成唯識論』の三因説を再説するという態度であろう。
こ れ は 徳 一 に 始 ま る も の で あ る が 、徳 一 が 立 て た 三 支 作 法 は 、後 の『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』や『 大
乗 法 相 研 神 章 』に お い て 、よ り 詳 細 な も の と な っ て 論 じ ら れ て い る 。こ の こ と か ら 、
『成 唯 識 論 』
の三因説を三支作法によって再説するという姿勢は、徳一以降、段階的に整理・構成されてい
ったものであったと推測される。
このような流れに対して、最澄・玄叡は、天台・三論それぞれの立場から反論していくわけ
で あ る が 、興 味 深 い こ と に 、こ の 両 師 の 因 明 理 解 に は 、共 通 点 を 見 出 す こ と が で き る の で あ る 。
り 」 と 。 仏 、 則 ち 告 げ て 言 は く 、「 我 れ は 空 と 言 は ず 。 一 切 衆 生 に 仏 性 有 る が 故 に 、 常 ・ 楽 ・
我・浄等有り」と。聞き已りて法に入り、後に道迹を悟る。而も実の文の中には「仏性を
第 一 義 空 と 名 づ く 」 と 。 是 の 如 き 等 は 、『 楞 伽 』 の 中 に 、 空 を 恐 怖 す る 者 の 為 に 、「 如 来 蔵
に 三 十 二 相 有 り 」 等 の 文 を 説 く も 、 意 亦 た 同 じ な り 。 具 に は 経 説 の 如 し 。( b ) 二 に は 斥 破
立なり。謂はく、此れ龍樹の三論等の中に於いて、彼の執を破するに随ひて、尽滅の処に
心 寄 す る こ と 無 き が 故 に 、真 空 便 ち 顕 さ ば 、則 ち 是 れ を「 立 」と 為 す 。謂 は く 、無 立 の「 立 」
な り 。( c ) 三 に は 随 時 立 な り 。 謂 は く 、 聖 天 菩 薩 の 、 一 時 の 中 に 於 い て 、 外 道 有 り て 論 議
するが如し。便ち二蘊を立てて、担人に対して証義と為すを以ての故なり。人の両肩に荷
担有るが如きの故なり。義已に極成す。後に大衆の中に於いて、便ち五蘊を立つ。其れ本
の 外 道 、 則 ち 問 ふ 、「 若 し 爾 ら ば 、 何 が 故 に 先 に 二 を 立 つ る や 」 と 。 答 ふ 、「 前 は 担 人 に 対
するが為にして、更に智者無し。今は智衆に対して、方に具足して説くなり」と。是の如
き 等 な り 。( d ) 四 に は 翻 邪 立 な り 。 謂 は く 、 聖 天 菩 薩 の 八 方 の 外 道 に 対 し て 、 三 宝 の 義 を

133
立つるが如し。若し屈することを見ること有らば、当に首を斬りて謝すべし。衆敵攻むと
雖も、義理の堕すること無し。遂に外道をして帰信して法に入らしむ。此等の所立、未だ
必ずしも三支・五分の比量の道理有らず。但だ勝弁を以て時に随ひて顕説して、義をして
堅 固 な ら し め 、 其 れ を し て 信 伏 せ し む 。 亦 た 言 に 所 在 無 き が 故 な り 。( e ) 五 に は 定 量 立 な
り。謂はく、要ず彼の世間の因明に依る。宗・因・喩に於いて諸の過類無くば、義理極成
し て 真 能 立 と 名 づ く 。 若 し 宗 等 に 於 い て 過 に 堕 す る こ と 有 ら ば 、 似 能 立 と 名 づ け 、「 立 」 を
成 ぜ ざ る な り 。又 た 八 種 の 比 量 の 道 理 、大 乗 経 を も て 真 の 是 れ 仏 語 な り 等 と 証 す る が 如 し 。
是の故に、当に知るべし、如上に説く所の立・破等の義は、並べて悉く方便にして、務め
て前機をして帰伏し信を生ぜしむるも、未だ必ずしも仏法の深旨を具ふることを得ず。且
つ真如の如きは同法喩無し。故に立を得ざる者なるも、豈に真如を非法と為すべきや。是
の故に、要ず当に此の立破の諍論等を離れるを、方に順実究竟の義と為すべきなり。
ある。
さらに、これに続いて法蔵は、立論について次のように述べている。
第二「立」義者、法本離言。機縁罕悟、聖悲巧引、務令被益。致使随縁立義、勢変多端。
大 略 而 言 、 亦 有 其 五 。( a ) 一 応 機 立 。 如 『 涅 槃 』 中 。 外 道 、 見 仏 金 色 身 等 而 言 、「 瞿 曇 雖
是 好 人 、 枉 理 説 空 而 是 断 見 」。 仏 、 則 告 言 、「 我 不 言 空 。 一 切 衆 生 有 仏 性 故 、 有 常 ・ 楽 ・ 我 ・
浄 等 」。 聞 已 入 法 、 後 悟 道 迹 。 而 実 文 中 「 仏 性 名 第 一 義 空 」。 如 是 等 、『 楞 伽 』 中 、 為 恐 怖 空
者 、 説 「 如 来 蔵 有 三 十 二 相 」 等 文 、 意 亦 同 。 具 如 経 説 。( b ) 二 斥 破 立 。 謂 、 此 龍 樹 於 三 論
等 中 、 随 破 彼 執 、 尽 滅 之 処 心 無 寄 故 、 真 空 便 顕 、 則 為 是 「 立 」。 謂 、 無 立 「 立 」 也 。( c )
三随時立。謂、如聖天菩薩、於一時中、有外道論議。便立二蘊、以対担人為証義故。如人
両 肩 有 荷 担 故 。 義 已 極 成 。 後 於 大 衆 之 中 、 便 立 五 蘊 。 其 本 外 道 、 則 問 、「 若 爾 、 何 故 先 立 二
耶 」。 答 、「 前 為 対 担 人 、 更 無 智 者 。 今 対 智 衆 、 方 具 足 説 」。 如 是 等 。( d ) 四 翻 邪 立 。 謂 、

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如聖天菩薩対八方外道、立三宝義。若有見屈、当斬首謝。衆敵雖攻、而義理無堕。遂令外
道帰信入法。此等所立、未必有三支・五分比量道理。但以勝弁随時顕説、令義堅固、使其
信 伏 。 亦 言 無 所 在 故 也 。( e ) 五 定 量 立 。 謂 、 要 依 彼 世 間 因 明 。 於 宗 ・ 因 ・ 喩 無 諸 過 類 、 義
理極成名真能立。若於宗等有過堕者、名似能立、不成「立」也。又如以八種比量道理、証
大乗経真是仏語等。是故、当知、如上所説立・破等義、並悉方便、務令前機帰伏生信、未
必得具仏法深旨。且如真如無同法喩。故不得立者、豈可真如為非法也。是故要当離此立破
之 諍 論 等 、 方 為 順 実 究 竟 義 也 。」
第二に「立」の義とは、法は本と言を離る。機縁の悟ること罕なれば、聖は悲もて巧みに
引きて、務めて益を被らしむ。縁に随ひて義を立て、勢変多端ならしむことを致す。大略
し て 言 は ば 、 亦 た 其 れ に 五 有 り 。( a ) 一 に は 応 機 立 な り 。『 涅 槃 』 の 中 の 如 し 。 外 道 、 仏
の金色身等を見て言はく、
「 瞿 曇 は 是 れ 好 人 な り と 雖 も 、理 を 枉 げ て 空 と 説 く は 是 れ 断 見 な
量して計を破すも、要ず正法を顕して、亦た此の比量の法を存せず。是の故に、論の中、
後に自ら之れを破すなり。❹此れ為する所の根、稍前より劣るが故に、功を用ふること多
しなり。⑤五には定量破なり。謂はく、陳那所造の因明等の論、清弁所造の『般若灯論』
と及び『掌珍論』等の如し。並べて宗・因・喩等を決択し、定量の道理に依りて、他の宗
の過を出す。違失無くば、方に是れを真能破と為すことを得べし。若し宗等に於いて善く
過を出さざれば、似能破と名づけ、破を成ぜざるなり。❺此れ、所対の根の最下劣なるが
故に、執見深重にして受入し難きが故に、広く世間の五明の中の因明の理例を以て是非を
校量し、方に始めて信伏す。若し此の位に至りて猶ほ信伏せざれば、彼の愚の甚だしきこ
と言ふべらかざるが故に、更に第六門には至らざるなり。
法蔵は、先ず、経論における立論(立)と否定(破)には二種があるといい、第一を「上品
の純機」に対するもの、第二を「中・下の雑機」に対するものに分類する。また、第一は「直

135
ち に 教 義 を 示 す 」も の で あ る た め 、こ こ に 立 論 や 否 定 と い っ た も の は 存 在 し な い が 、第 二 は「 方
便 し て 顕 示 す 」る も の で あ る た め 、立 論 や 否 定 が 必 要 と な る と い う 。そ の 上 で 、否 定 に つ い て 、
これを内容から、①譏徴破・②随宜破・③随執破・④標量破・⑤定量破の五種に分類し、その
対機を、それぞれ➊已熟の根・❷上根前より少生・❸根、猶ほ勝れて、受入し易き・❹根いよ
いよ前より劣る・❺根最下劣の五種とするのである。ここで興味深いのは、法蔵が因明を用い
る「破」を④標量破・⑤定量破と位置付け、その対機を❹根いよいよ前より劣る・❺根最下劣
と し て い る 点 で あ る 。 ④ 標 量 破 と は 、 龍 樹 菩 薩 の 『 方 便 心 論 』・『 迴 諍 論 』、 世 親 菩 薩 の 『 如 実 論 』
等に見られる否定の方法のことで、対機の遍計を破すために因明による比量が用いられるが、
遍計を破した後には必ず正法に基づいてその比量が破されるという。さらに、⑤定量破とは、
陳 那 菩 薩 の 論 、 清 弁 菩 薩 の 『 般 若 灯 論 』・『 掌 珍 論 』 等 に 見 ら れ る 否 定 の 方 法 の こ と で 、 三 支 に
よって他説の過失を明らかにするものを指す。これは対機が最下劣であり、世間の因明の理例
によって是非を判定しなければ信伏させることができないために用いられるとされているので
彼愚之甚不可言故、更不至第六門也。
初めに汎く経論の立・破の儀軌を明かすとは、仏法の大綱、其れに二種有り。一には、上
品の純機の為に、直ちに教義を示す。立不く、破不し。二には、中・下の雑機の為に、方
便して顕示す。立有り、破有り。仏在世の時は、多く初めの義を明かし、兼ねて後の義を
明かす。諸経の中に弁ずる所の如し。仏の滅度の後は、多く後の義を明かし、兼ねて初め
の義を明かす。諸論の中に弁ずる所の如し。此れ立・破有る中に就きて、略して三句を以
て其の分斉を顕す。一には破を明かす、二には立を明かす、三には双じて無礙を弁ずるな
り。初めに、聖は大悲を以て、諸の言論を仮りて見執を破除し、務めて其の病を栃ふ。言
に定準無し。今、相に約して五有り。①一には譏徴破なり。謂はく、仏、長爪梵志を破し
て「汝若、一切を受けざるも、亦た此の受けざることを受くるや、不や」と云ふが如し。
➊此等の如きは、是れ已熟の根なるが故に、愧を生じて果を得るなり。②二には随宜破な

136
り。謂はく、仏、彼の衆生の根の宜しきを見るが如し。此の勢を以て法に入ることを得る
ものの若きは、則ち当に彼を以て其の計を破し、其れをして道を悟らしむべし。未だ必要
ず し も 諸 の 量 の 理 例 を 具 へ ず 。❷ 此 れ 上 根 少 し く 前 よ り 生 ず る が 為 に 、仏 の 多 言 を 待 ち て 、
方に為に信伏す。先尼外道等を破するが如し。此の上の二種は外道を破することに約す。
若 し 二 乗 を 破 す る こ と に 約 さ ば 、『 法 華 』 等 の 中 に 、「 汝 等 の 得 る 所 の 涅 槃 は 、 真 の 滅 度 に
非ず」等といふが如きを則ち破と為すなり。三を破して一に帰す等の如きも亦た是れ之に
準ずべし。③三には随執破なり。謂はく、龍樹・聖天等の所造の三論の如し。彼の外道と
及び小乗等に対して、其の執する所に随ひて、種種の理例を以て其の計を徴破す。務めて
執 心 に 寄 す る こ と 無 く 、 真 の 空 に 順 入 せ し め れ ば 、則 ち 為 に 益 を 成 ず 。未 だ 必 要 し も 三 支 ・
五分の比量の道理を具へず。❸根、猶ほ勝れて、受入し易きを以ての故に、勢を仮らざる
な り 。 ④ 四 に は 標 量 破 な り 。 謂 は く 、 龍 樹 所 造 の 『 方 便 心 論 』 と 及 び 『 迴 諍 論 』、 世 親 所 造
の『如実論』等の如し。並べて各略して世間の因明の三支・五分の比量の道理を標し、校
い た と い う 。 そ の 上 で 、『 大 智 度 論 』 を 引 用 し 、 仏 に よ っ て の み 了 知 さ れ る 境 地 は 、 論 義 者 の 知
を 超 え た も の で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の よ う な 、「 理 に 契 ふ と は 為 さ ず 」「 論 義 者 の 知 る と
ころには非ず」といった因明によって明かせる境地を低次に置くという考え方は、前の最澄・
玄叡のそれと極めて近いものであるといえよう。
さ て 、 こ の よ う な 法 宝 の 見 解 に 近 い 認 識 は 、 同 時 代 の 賢 首 大 師 法 蔵 ( 六 四 三 ~ 七 一 二 )『 十 二
門論宗致義記』巻一においても確認される。長文であるが、一々を確認しておきたい。
初 汎 明 経 論 立 ・ 破 儀 軌 者 、仏 法 大 綱 、有 其 二 種 。一 、為 上 品 純 機 、直 示 教 義 。不 立 、不 破 。
二、為中・下雑機、方便顕示。有立、有破。仏在世時、多明初義、兼明後義。如諸経中所
弁 。仏 滅 度 後 、多 明 後 義 、兼 明 初 義 。如 諸 論 中 所 弁 。就 此 有 立 ・ 破 中 、略 以 三 句 顕 其 分 斉 。
一 明 破 、二 明 立 、三 双 弁 無 礙 。初 者 、聖 以 大 悲 、仮 諸 言 論 破 除 見 執 、務 祛 其 病 。言 無 定 準 。
今 、 約 相 有 五 。 ① 一 譏 徴 破 。 謂 、 如 仏 、 破 長 爪 梵 志 云 、「 汝 若 、 一 切 不 受 、 亦 受 此 不 受 不 」。

137
➊如此等、是已熟之根故、生愧得果也。②二随宜破。謂、如仏、見彼衆生根宜。若以此勢
而得入法、則当以彼而破其計、令其悟道。未必要具諸量理例。❷此為上根少生於前、待仏
多 言 、 方 為 信 伏 。 如 破 先 尼 外 道 等 。 此 上 二 種 約 破 外 道 。 若 約 破 二 乗 、 如 『 法 華 』 等 中 、「 汝
等所得涅槃、非真滅度」等則為破也。如破三帰一等亦是準之。③三随執破。謂、如龍樹・
聖天等所造三論。対彼外道及小乗等、随其所執、以種種理例徴破其計。務令執心無寄、順
入真空、則為成益。未必要具三支・五分比量道理。❸以根猶勝、易受入故、不仮勢也。④
四 標 量 破 。 謂 、 如 龍 樹 所 造 『 方 便 心 論 』 及 『 迴 諍 論 』、 世 親 所 造 『 如 実 論 』 等 。 並 各 略 標 世
間因明三支・五分比量道理、校量破計、要顕正法、而亦不存此比量法。是故、論中、後自
破之。❹此所為根、稍劣於前故、用功多也。⑤五定量破。謂、如陳那所造因明等論、清弁
所造『般若灯論』及『掌珍論』等。並依決択宗・因・喩等、定量道理、出他宗過。無違失
者、方可得為是真能破。若於宗等不善出過、名似能破、不成破也。❺此所対根最下劣故、
執見深重難受入故、広以世間五明之中因明理例校量是非、方始信伏。若至此位猶不信伏、
四、最澄・玄叡の因明理解の背景
これまでに確認したとおり、最澄・玄叡は、因明によって仏身の常・無常を論じることに否
定的な見解を示している。また、両師ともに、因明によって明かせる境地をかなり低く位置付
けており、この共通性は、両師が同一の影響を受けたことによるものだったのではないかと思
われる。そこで、以下この点について考究することとするが、先ず注目したいのは、最澄・玄
叡がともに重視する法宝の因明理解についてである。
恵心僧都源信(九四二~一〇一七)の『一乗要決』巻中には、
七 立 量 云 、「 二 乗 之 果 応 有 定 性 。 乗 所 被 故 。 如 大 乗 者 」。〈 已 上 〉 此 義 云 何 。
答 、 宝 公 云 、「 因 明 但 是 立 論 証 成 之 法 、 設 無 過 未 為 契 理 。 故 『 智 論 』 九 十 三 云 、『 阿 羅 漢 成

138
仏 、 非 論 義 者 知 。 唯 仏 能 了 』」。〈 已 上 〉 19
七 に 量 を 立 て て 云 は く 、「 二 乗 の 果 に は 応 に 定 性 有 る べ し 。 乗 の 所 被 な る が 故 に 。 大 乗 の 者
の 如 し 」 と 。〈 已 上 〉 此 の 義 云 何 ん 。
答 ふ 、 宝 公 の 云 は く 、「 因 明 は 但 だ 是 れ 証 成 の 法 を 立 論 す る の み な れ ば 、 設 ひ 過 無 く も 未 だ
理 に 契 ふ と は 為 さ ず 。 故 に 『 智 論 』 の 九 十 三 に 云 は く 、『 阿 羅 漢 の 成 仏 は 、 論 義 者 の 知 る と
こ ろ に は 非 ず 。 唯 だ 仏 の み 能 く 了 す る な り 』 と 」 と 。〈 已 上 〉
と い う 一 段 が 見 ら れ る 。こ れ は 、基 の『 成 唯 識 論 掌 中 枢 要 』巻 一 で 論 じ ら れ て い る「 二 乗 之 果 」
比量に対する反論であるが、ここに「宝公の云はく」として、法宝の因明に対する言及が示さ
れ て い る の で あ る 。 こ れ に よ る と 、 法 宝 は 、「 因 明 は た だ 証 成 の 法 に よ っ て 立 論 さ れ る も の で あ
り、たとえその比量に過失がなかったとしても真理に適うものではない」という見解を有して
又 た 世 間 の 量 を 立 て て 、 出 世 の 大 聖 を 貶 量 す べ か ら ず 。 故 に 『 華 厳 経 』 に 云 は く 、「 解 脱 明
の行者は無数無等の倫にして、世間の諸の因量もて過を述ぶること得べからず」と。又た
『 密 厳 経 』 に 云 は く 、「 密 厳 仏 土 は 是 れ 如 来 の 処 に し て 、 無 功 用 智 の 生 ず る 所 の 処 な り 。 因
明者の所量の境界には非ず」と。述して曰はく、前の経には人を明し、後の経には土を説
く。若し爾らば、能栖の仏と栖土と、並べて因明者の所量の境界には非ず。何ぞ三因を以
て大聖を貶量して無常と謗るや。
ここでは、先ず「世間の量を立てて、出世の大聖を貶量すべからず」と述べた上で、実叉難
陀 訳 の 『 華 厳 経 』・ 地 婆 訶 羅 訳 の 『 大 乗 密 厳 経 』 を 引 用 し 、 仏 身 ・ 仏 土 は 「 因 明 者 の 所 量 の 境 界
に非ず」と結論づけている。このような、因明によって仏身・仏土を明らかにすることはでき
ないという見解は、前の最澄の「三支の量、何ぞ法性を顕さんや」という主張と共通するもの

139
で あ り 、 こ こ に 両 師 の 興 味 深 い 類 似 が 確 認 さ れ る 。 ま た 、『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 が 因 明 の 三 支 作 法
に基づいて他宗批判を行っていることはよく知られるところであるが、ここに挙げた玄叡の因
明に関する言説を見る限り、玄叡自身は因明によって論証できることをかなり低く位置づけて
いたことが知られるのである。
以 上 、『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 に 見 ら れ る 「 慈 恩 の 門 人 」 が 立 て た と い う 三 支 は 、 徳 一 が 立 て た 三
支に比してより詳細なものとなっている。このような傾向は、同時代の護命の『大乗法相研神
章 』 に も 確 認 さ れ る も の で あ る た め 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 を 三 支 に よ っ て 再 説 す る と い う 姿 勢
は、徳一以降、法相宗内において積極的に推し進められてきたものであったと考えられるので
あ る 。 ま た 、『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 に 「 世 間 の 量 を 立 て て 、 出 世 の 大 聖 を 貶 量 す べ か ら ず 」 と 述 べ
られているように、玄叡は因明によって仏身を論じることに否定的な立場を取っており、これ
は最澄の認識と共通するものである。では、この両師の共通する因明理解は、何を背景とする
ものなのであろうか、次にこの点について考えてみたい。
四 智 心 品 は 応 に 是 れ 常 に 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉
因 従 り 生 ず る が 故 に 。〈 因 〉
余 の 有 為 の 如 し 。〈 喩 〉
四 智 心 品 は 応 に 是 れ 常 に 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉
生 ず る 者 の 必 ず 滅 す る は 一 向 記 な る が 故 に 。〈 因 〉
余 の 心 等 の 如 し 。〈 喩 〉
四 智 心 品 は 応 に 是 れ 常 に 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉
色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 に 。〈 因 〉
余 の 心 等 の 如 し 。〈 喩 〉
護 命 は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 そ れ ぞ れ に 宗 と 喩 を 付 し 、 三 通 り の 三 支 を 提 示 し て い る 。 い ず れ
も、宗は「四智心品は自性常には非ざるべし」であり、これは玄叡が挙げる「慈恩の門人」の

140
比量と同内容の主張であるが、喩は「慈恩の門人」のそれとは異なるものとなっている。これ
を 見 る と 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 を 三 支 で 再 説 す る と い う 姿 勢 は 、 徳 一 以 降 、 法 相 宗 内 で 段 階 的 に
整理・構成されてきたものであり、この当時、いくつかの類型が存在していたのではないかと
推測されるのである。
さ て 、 玄 叡 は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 に 基 づ く 三 支 に 対 し て 、 宗 に 相 符 極 成 と 自 教 相 違 、 因 に
両倶不成と随一不成の過失があるといい、これが正当な論式でないことを指摘しているのであ
るが、いま注目したいのは、これに続く玄叡の以下の主張である。
又 立 世 間 量 、 不 応 貶 量 出 世 大 聖 。 故 『 華 厳 経 』 云 、「 解 脱 明 行 者 、 無 数 無 等 倫 、 世 間 諸 因 量
述 過 不 可 得 」。 又 『 密 厳 経 』 云 、「 密 厳 仏 土 是 如 来 処 、 無 功 用 智 之 所 生 処 。 非 因 明 者 所 量 境
界 」。 述 曰 、 前 経 明 人 、 後 経 説 土 。 若 爾 、 能 栖 仏 与 栖 土 、 並 非 因 明 者 所 量 境 界 。 何 以 三 因 貶
量大聖而謗無常。 18
前 に 見 た 通 り 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 を 因 明 の 三 支 に よ っ て 再 説 す る と い う 姿 勢 は 徳 一 に お い
て確認されるものであったが、ここではより詳細な三支が法相宗の主張として示されている。
や や 論 が 横 道 に そ れ る が 、 こ の よ う な 傾 向 つ い て は 、『 大 乗 三 論 大 義 鈔 』 と 同 時 期 に 撰 述 さ れ た
元興寺護命(七五〇~八三四)の『大乗法相研神章』巻五の中にも同様のものが確認されるた
め、しばらく確認しておきたい。
問、清浄法界説常実爾也。四智心品何説如常耶。答、無断 尽 故、亦説為常、非自性常也。
問、何故、非是自性常法耶。答、従因生故、生者帰滅一向記故、不見色心非無常故。有以
三 因 故 非 常 住 。 作 比 量 云 、 四 智 心 品 応 非 是 常 。〈 宗 〉 従 因 生 故 。〈 因 〉 如 余 有 為 。〈 喩 〉 四 智
心 品 応 非 是 常 。〈 宗 〉 生 者 必 滅 一 向 記 故 。〈 因 〉 如 余 心 等 。〈 喩 〉 四 智 心 品 応 非 是 常 。〈 宗 〉
不 見 色 心 非 無 常 故 。〈 因 〉 如 余 心 等 。〈 喩 〉 17

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問ふ、清浄法界を常と説くこと実に爾なり。四智心品は何ぞ常の如しと説くや。答ふ、断
尽 無きが故に、亦た説きて常と為すも、自性常には非ざるなり。
問ふ、何が故に、是れ自性常の法には非ざるや。答ふ、因従り生ずるが故に、生ずる者の
滅に帰するは一向記なるが故に、色心の無常に非ざることを見ざるが故に。三因有るを以
て の 故 に 常 住 に 非 ず 。 比 量 を 作 し て 云 は く 、 四 智 心 品 は 応 に 是 れ 常 に は 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉
因従り生ずるが故に。
〈 因 〉余 の 有 為 の 如 し 。〈 喩 〉四 智 心 品 は 応 に 是 れ 常 に は 非 ざ る べ し 。
〈 宗 〉 生 ず る 者 の 必 ず 滅 す る は 一 向 記 な る が 故 に 。〈 因 〉 余 の 心 等 の 如 し 。〈 喩 〉 四 智 心 品
は 応 に 是 れ 常 に は 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉 色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 に 。〈 因 〉 余 の
心 等 の 如 し 。〈 喩 〉
ここで護命が挙げている三支を整理すれば、以下のようになる。
常 に 関 す る 論 述 が 詳 細 に な さ れ て い る 。 中 で も 、 本 章 の 「 他 の 執 を 破 す 」 で は 、『 成 唯 識 論 』 の
三因説に対する批判が詳述されており、以下これについて検討を進めていきたい。
次 破 他 執 。 慈 恩 門 人 、 依 傍 唯 識 而 立 量 曰 、「 四 智 心 品 。 非 自 性 常 。〈 宗 〉 従 因 生 故 。 生 者 帰
滅 一 向 記 故 。 不 見 色 心 非 無 常 故 。〈 因 〉 如 余 有 情 。 又 如 瓶 等 。〈 喩 〉
三論師、破云、此量三支、皆有過失其愆甚多。粗而述之、宗有相符又違教失。初・中・後
因、皆是両倶 随一所逐。偽立妄陳、邪宗謬顕、興言自陥。何称真立。
15 16
次 に 他 の 執 を 破 す 。 慈 恩 の 門 人 は 、 唯 識 に 依 傍 し て 量 を 立 て て 曰 は く 、「 四 智 心 品 は 自 性 常
に は 非 ざ る べ し 。〈 宗 〉 因 従 り 生 ず る が 故 に 。 生 ず る 者 の 滅 に 帰 す る は 一 向 記 な る が 故 に 。
色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 に 。〈 因 〉 余 の 有 情 の 如 し 。 又 た 瓶 等 の 如 し 。〈 喩 〉
三論の師、破して云はく、此の量の三支は、皆過失有りて其の愆甚だ多し。粗之れを述ぶ

142
るに、宗に相符と又た教に違する失と有り。初・中・後の因は、皆是れ両倶と随一の所逐
なり。偽りて妄陳を立て、邪宗の謬り顕れ、興言に自ら陥る。何ぞ真立と称せんや。
こ こ で 玄 叡 は 、「 慈 恩 の 門 人 」 が 立 て た 比 量 と し て 、 以 下 の 三 支 を 示 し て い る 。
四 智 心 品 は 自 性 常 に は 非 ざ る べ し 。( 宗 )
因 従 り 生 ず る が 故 に 。( 第 一 因 )
生 ず る 者 の 滅 に 帰 す る は 一 向 記 な る が 故 に 。( 第 二 因 )
色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 に 。( 第 三 因 )
余 の 有 情 の 如 し 。( 第 一 喩 )
瓶 等 の 如 し 。( 第 二 喩 )
最澄は、徳一が『大乗密厳経』の説は性と相という観点から理解するべきであるというのに
対して、これは不空三蔵(七〇五~七七四)による新訳の『大乗密厳経』を見ていないために
起 こ る 妄 会 だ と 批 判 し て い る 。 す な わ ち 、 不 空 訳 の 『 大 乗 密 厳 経 』 に は 、「 密 厳 の 中 の 人 は 、 一
切仏の相に同じくして、刹那壊を超越して、常に三摩地に遊ぶ 」と説かれており、わざわざ
13
性・相といった区別を持ち出す必要がない、というのである。
こ れ に つ い て 補 足 し て お く と 、 先 に 見 た 通 り 、 法 宝 の 『 大 乗 密 厳 経 』 の 引 用 は 、「 密 厳 土 の 中
の人は、一切皆仏に同じくして刹那壊有ること無し」というものであるが、これは地婆訶羅三
蔵(日照、六一二~六八七)訳『大乗密厳経』の「密厳の中の人は、一切仏に同じくして、刹
那 壊 を 超 過 し て 、恒 に 三 昧 中 に 遊 ぶ 」
1 4 を 引 用 し た も の で あ る 。こ こ に は 不 空 の 新 訳 に 見 ら れ る
「仏の相」という語がないため、徳一は性・相といった観点から会通を試みたわけであるが、
これは、空海によって将来された不空の新訳を、当時東国に住していた徳一が見ていなかった

143
ことに由来するものであろう。
以上、最澄は、徳一が主張した三支に対して、これが正当な論式でないことを指摘するので
あるが、そもそも最澄は、因明によって報身仏の常・無常を明かすことはできない、という立
場を取っている。その上で、徳一の主張する三支は『大乗密厳経』に相違するとして「自教相
違」の過失を指摘し、徳一の『大乗密厳経』の会通が不空訳を見ていないことによる誤りであ
る と い う の で あ る 。 こ れ は 、 徳 一 の 主 張 を 批 判 す る こ と で 、『 大 乗 密 厳 経 』 の 説 を 再 度 報 身 仏 が
常住であることの教証に位置付けようとしたものであるが、この『大乗密厳経』は次に確認す
る玄叡の因明理解においても、重要な役割を持つ経典となっている。
三、玄叡による『成唯識論』の三因説への批判
三論宗玄叡の『大乗三論大義鈔』巻三「常無常諍論」には、その章題の通り、仏身の常・無
ここに「三支の量、何ぞ法性を顕さんや」と述べられているとおり、最澄は因明の三支作法
によって法性の理を明かすことはできないとした上で、仏身の常・無常を因明によって論ずる
べ き で は な い 、と い う 立 場 を 取 っ て い る の で あ る 11 つ ま り 、最 澄 か ら す る と 、そ も そ も 因 明 に

よって仏身の常・無常を論じようとする姿勢自体が誤りなのであり、先の文章はこの点に留意
した上で理解する必要があるのである。
さ て 、 前 に 示 し た と お り 、 最 澄 は 徳 一 の 「 理 に 違 す る 失 」 に 対 し て 、「 自 教 相 違 」・「 有 法 差 別
相 違 」・「 所 立 不 成 」 の 三 過 を 指 摘 し て い る 。 た だ し 、 こ の 中 の 「 有 法 差 別 相 違 」・「 所 立 不 成 」
については、これ以降に言及が見られないため、この過失がどのような理由から指摘されてい
る の か が 明 ら か で な い 。 一 方 、「 自 教 相 違 」 に つ い て は 詳 細 に 論 述 さ れ て お り 、 最 澄 の 意 図 を 読
み取ることが可能である。この「自教相違」というのは、似宗九過(間違った主張が犯す九つ
の過失)の一つで、自らが信奉する教学と相違することを主張する過失のことをいう。ここで

144
は 、「『 密 厳 』 に 違 す る が 故 な り 」 と い う よ う に 、 徳 一 の 主 張 が 『 大 乗 密 厳 経 』 の 説 と 相 違 す る
ことをもって「自教相違」が指摘されているのである。
麁 食 者 、 会 『 密 厳 経 』 文 云 、「 密 厳 土 人 有 二 。 一 性 、 二 相 」。 此 会 釈 者 専 違 経 旨 。 麁 食 者 、
未 見 新 経 、 有 此 妄 会 。 新 経 文 云 、「 密 厳 土 之 人 、 一 切 、 同 仏 相 、 超 越 刹 那 壊 」。 既 云 「 仏 相 」。
豈作性・相会哉。此経正文、如日照闇。更不可疑。 12
麁 食 者 、『 密 厳 経 』 の 文 を 会 し て 云 は く 、「 密 厳 土 の 人 に 二 有 り 。 一 に は 性 、 二 に は 相 な り 」
と。此の会釈は専ら経旨に違す。麁食者、未だ新経を見ざれば、此の妄会有るなり。新経
の 文 に 云 は く 、「 密 厳 土 の 人 は 、 一 切 、 仏 の 相 に 同 じ く 、 刹 那 壊 を 超 越 す 」 と 。 既 に 「 仏 の
相」と云へり。豈性・相の会を作さんや。此の経の正文、日の闇を照らすが如し。更に疑
ふべからず。
又 麁 食 者 違 理 失 、 都 不 応 理 。 偽 計 度 故 。 立 量 云 、「 報 仏 色 心 是 無 常 。 従 因 生 故 。 如 余 色 心 」。
破云、此量多有過失。且示一両等。宗有自教相違。違『密厳』故。因有法差別、喩所立不
成。 9
又た麁食者の理に違する失は、都て理に応ぜず。偽りて計度するが故なり。量を立てて云
は く 、「 報 仏 の 色 心 は 是 れ 無 常 な る べ し 。 因 従 り 生 ず る が 故 に 。 余 の 色 心 の 如 し 」 と 。 破 し
て 云 は く 、 此 の 量 に 多 く 過 失 有 り 。 且 く 一 両 等 を 示 さ ん 。 宗 に 自 教 相 違 有 り 。『 密 厳 』 に 違
するが故なり。因に有法差別、喩に所立不成あり。
最 澄 は 、 徳 一 が 立 て た 三 支 を 挙 げ て 、 ① 宗 に 「 自 教 相 違 」、 ② 因 に 「 有 法 差 別 相 違 」、 ③ 喩 に
「所立不成」の過失があると指摘している。これらの用語はいずれも、因明における論式上の

145
過失を指すものとなっている。つまり最澄は、徳一の三支が正当な論式として成立していない
こ と を 指 摘 し て い る の で あ る が 、こ の 点 は 注 意 を 要 す る と こ ろ で あ る 。と い う の も 、最 澄 は「 弾
麁食者謬破報仏智常章」の冒頭で次のように述べているからである。
権教三身、未免無常。実教三身、倶体倶用。四記之答幻智所用、三支之量、何顕法性。今
為仏機、開方便教廃偏真理、除如幻智破三乗執。即伝真実教、顕中真理、用寂照智、示一
乗観、云爾。 10
権教の三身は、未だ無常を免れず。実教の三身は、倶体倶用なり。四記の答は幻智の用ふ
る 所 、三 支 の 量 、何 ぞ 法 性 を 顕 さ ん や 。今 仏 機 の 為 に 、方 便 の 教 を 開 き て 偏 真 の 理 を 廃 し 、
如幻の智を除きて三乗の執を破す。即ち真実の教を伝へて、中真の理を顕し、寂照の智を
用ひて、一乗の観を示す、云爾。
云 超 過 刹 那 壊 。此 復 云 何 。由 所 依 如 性 、超 過 刹 那 壊 故 、能 依 仏 人 、随 所 依 如 云 超 過 刹 那 壊 。
『 密 厳 経 』 に 云 は く 、「 密 厳 土 の 中 の 人 は 、 刹 那 壊 を 超 過 す る が 故 な り 」 と 。 此 れ も 亦 た 然
らず。密厳土の人に二有り。一には性、二には相なり。密厳土の人の性の若きは、是れ凝
然常なるが故に刹那壊を超過するも、密厳土の相の若きは、是れ刹那壊を具するが故に、
是れ無常なり。然れども相を摂して性に帰すれば、刹那壊を超過すと云ふなり。此れ復た
云何ん。所依の如の性、刹那壊を超過するに由るが故に、能依の仏と人と、所依の如に随
ひて刹那壊を超過すと云ふなり。
徳 一 は 、『 大 乗 密 厳 経 』 に 「 密 厳 土 の 人 は 〔 仏 と 同 じ く 〕 刹 那 懐 を 超 過 す る 」 と 説 か れ る の は 、
性と相という観点から理解すべきであるという。つまり、性としては凝然常であるため刹那懐
を 超 過 す る が 、相 と し て は 刹 那 懐 を 具 す る た め 無 常 で あ る 、と い う の で あ る 。こ れ は 、基 の『 成

146
唯 識 論 述 記 』 が 「 四 智 心 品 の 所 依 の 真 如 は 常 な る が 故 に 常 な り 」 と し て 、「 所 依 の 真 如 」 と い う
点から常・無常を分類していたことに準ずるものであろうが、これもまた慧沼には見られない
主張となっている。
以上、徳一の主張には、慧沼には見られなかった新たな視点が導入されていることが確認さ
れ る 。 取 り 分 け 特 徴 的 な も の は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 を 因 明 の 三 支 に よ っ て 再 説 す る と い う 姿
勢であるが、これは、のちに確認する通り、最澄・玄叡による反論について考える上で極めて
重要な意味を持つものである。
二、徳一に対する最澄の批判
先 の 徳 一 の 反 論 に 対 し て 、 最 澄 は 『 守 護 国 界 章 』「 弾 麁 食 者 謬 破 報 仏 智 常 章 」 の 中 で 次 の よ う
に反駁している。
ていることがわかる。そこで、この徳一の(b)理に違する失を見ると、ここに慧沼とは大き
く異なる特徴が確認されるのである。
二違理失者、違比量道理故。量云、報仏色心是無常。従因生故。如余色心。 8
二に理に違する失とは、比量の道理に違するが故なり。量に云はく、報仏の色心は是れ無
常なるべし。因従り生ずるが故に。余の色心の如し。
つまり徳一は、
報 仏 の 色 心 は 是 れ 無 常 な る べ し 。( 宗 )
因 従 り 生 ず る が 故 に 。( 因 )

147
余 の 色 心 の 如 し 。( 喩 )
という因明の三支作法による比量を示し、法宝の見解がこの道理と相違することをもって「理
に違する失」といっているのである。いうまでもなく、この三支の因(理由)は『成唯識論』
の三因の第一因と同じものであるが、徳一はこれに「報仏の色心は是れ無常なるべし」という
宗(主張)と「余の色心の如し」という喩(喩例)を付して因明の論式に整え、その正当性を
再説しているのである。このような姿勢は慧沼には見られなかったものであるが、さらに徳一
は、法宝が報身仏を常住とする根拠としていた『大乗密厳経』の説についても次のように述べ
ている。
『 密 厳 経 』 云 、「 密 厳 土 中 人 、 超 過 刹 那 壊 故 」。 此 亦 不 然 。 密 厳 土 人 有 二 。 一 性 、 二 相 。 若
密厳土人性、是凝然常故超過刹那壊、若密厳土相、是具刹那壊故、是無常。然摂相帰性、
する失、
( c )四 記 を 悟 ら ざ る 失 と い う「 三 失 」を 指 摘 し て い る の で あ る が 、こ こ に は 慧 沼 の( 3 )
妄りに聖教を引く失が挙げられていない。一見すると、この相違は、徳一が慧沼の(3)妄り
に聖教を引く失を省略したことによるものと思われるが、実は、次の対照表に示す通り、徳一
が省略しているのは慧沼の(2)理に違する失に相当する部分なのである。
■徳一 ■慧沼
二 違 理 失 者 、違 比 量 道 理 故 。量 云 、報 仏 色 心 是 無 常 。 二 違 理 失 。『 仏 性 論 』 第 二 、 … … 又 第
従 因 生 故 。 如 余 色 心 。『 密 厳 経 』 云 、 密 厳 土 中 人 、 超 三 云 、… … 又『 梁 摂 論 』十 五 、… … 然
過 刹 那 壊 故 。此 亦 不 然 。密 厳 土 人 有 二 。一 性 、二 相 。 『 大 荘 厳 論 』第 三 云 、… … 又 天 親『 般
若 密 厳土人性、是凝然常故、超過刹那壊。若密厳土 若 論 』云 、… … 又『 摂 大 乗 論 』云 、…
相 、 是具刹那壊故、是無常。然摂相帰性、云超過刹 …『 涅 槃 経 』云 … … 又『 法 華 経 論 』釈
那 壊 。此復云何。由所依如性、超過刹那壊故、能依 三身中唯法身文内云。……

148
仏 人 、随所依如云超過刹那壊。又『涅槃』十九云、
又 善 男子、以法性故、生住異滅。皆悉是常。然念念 三 妄 引 聖 教 失 云 、… … 又『 涅 槃 』第 十
滅 。 不可説常。此説四相為常。又『摂論』云、由応 九 云 、 又 善男子、以性故、生住異滅。
身 化 身 恒 依 止 法 身 。故 名 為 常 、非 自 性 常 。諸 如 此 文 。 皆 悉 是 常 。然 念 念 滅 。不 可 説 常 。此 説
約 所 依如性、故名為常。問報仏智、為本有為始有。 四 相 為 常 。… …『 摂 論 』云 。由 応 身 化
若 本 有者、有違名失。既云本有。何名報仏。酬因有 身 恒 依 止 法 身 。故 名 之 為 常 、非 自 性 常 。
報 故 。若 始 有 者 、有 立 已 成 失 。我 亦 極 成 故 。報 仏 智 、 『 密 厳 』 等文、准此応知。……
皆 必 従因生故、無常決定。何更成立
構造がやや煩瑣であるが、対照の通り、徳一の(b)理に違する失には、慧沼の(3)妄り
に聖教を引く失と共通する教証が含められており、慧沼の(2)理に違する失は全て省略され
こ こ で 法 宝 は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 に は 「 自 教 に 違 す る 失 」 が あ る と い う 。 つ ま り 、『 大 乗 密
厳 経 』 に は 、「 密 厳 浄 土 の 人 は 仏 と 同 様 に 刹 那 懐 が な い 」、『 大 般 涅 槃 経 』 に は 、「 常 住 で は な い
と い っ て も 刹 那 刹 那 に 生 滅 し て い る わ け で は な い 」 と 説 か れ て お り 、『 成 唯 識 論 』 の 見 解 は こ れ
らの経説と相違するというのである。
こ れ に 対 し て 慧 沼 は 、『 能 顕 中 辺 慧 日 論 』 巻 二 の 中 で 次 の よ う に 反 論 し て い る 。
故「『 唯 識 論 』三 因 証 仏 是 無 常 者 、限 己 見 聞 為 妄 説 也 」者 、此 亦 不 然 。若 云「 報 仏 是 相 続 常 」、
立 已 成 失 。 若 「 凝 然 常 」、 即 有 四 失 。( 1 ) 一 違 教 失 、 … … ( 2 ) 二 違 理 失 、 … … ( 3 ) 三
妄引聖教失、云、……(4)四不悟四記失、…… 7
故 に 「『 唯 識 論 』 に 三 因 も て 仏 は 是 れ 無 常 な り と 証 す る は 、 己 が 見 聞 に 限 り て 妄 説 を 為 す な

149
り 」と は 、此 れ も 亦 た 然 ら ず 。若 し「 報 仏 は 是 れ 相 続 常 な り 」と 云 は ば 、立 已 成 の 失 な り 。
若 し 「 凝 然 常 な り 」 と い は ば 、 即 ち 四 失 有 り 。( 1 ) 一 に 教 に 違 す る 失 と は 、 … … ( 2 ) 二
に理に違する失とは、……(3)三に妄りに聖教を引く失とは、云はく、……(4)四に
四記を悟らざる失とは、……
慧沼は、報身仏を「相続常」というのであれば、これは法相唯識においても認めるところで
あるため、立已成(既に成立していることを主張する)の過失に当たるという。その上で、報
身 仏 を 真 如 と 同 じ く 「 凝 然 常 」 で あ る と い う の で あ れ ば 、 こ れ に は 「 四 失 」 が あ る と い い 、( 1 )
教 に 違 す る 失 、( 2 ) 理 に 違 す る 失 、( 3 ) 妄 り に 聖 教 を 引 く 失 、( 4 ) 四 記 を 悟 ら ざ る 失 の 四 を
指摘している。この点、先の徳一の主張とほぼ完全に字句が一致しており、徳一の見解が慧沼
の説に基づくものであったことは間違いのないところである。ただし、慧沼と徳一の論述には
相 違 点 も 見 受 け ら れ る 。 す な わ ち 、 前 に 示 し た 通 り 、 徳 一 は ( a ) 教 に 違 す る 失 、( b ) 理 に 違
常 な り と 云 は ば 、 即 ち 三 失 有 り 。( a ) 一 に は 教 に 違 す る 失 、( b ) 二 に は 理 に 違 す る 失 、
(c)三には四記を悟らざる失なり。
こ こ で 注 意 を 要 す る の は 、こ の 徳 一 の 主 張 が 、唐 の 法 宝( 六 二 七 頃 ? ~ 七 〇 三 ~ 七 〇 五 頃 ? )
に対する淄州大師慧沼(六四八~七一四)の反論を土台としたものであるという点である。法
宝は、玄奘の新訳経論に対して批判を行った人師として知られるが、仏身の常・無常について
も法相唯識学派とは見解を異にしており、報身仏の常住を正義とする立場から『成唯識論』の
三因説を批判している。一方の慧沼は、玄奘・基の解釈に準じて、報身仏を無常とする立場か
ら法宝に反駁を行っている。つまり、日本における仏身の常・無常を巡る論争は、中国におけ
る法宝と慧沼の論争に始まるものであり、徳一の主張を検討する前に、しばらくこの両師の見
解について確認しておく必要があるものと思われる。
法 宝 の 『 一 乗 仏 性 究 竟 論 』 巻 四 「 破 法 爾 五 性 章 」 に は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 に 対 し て 次 の よ

150
うな見解が述べられている。
『 成 唯 識 論 』、 限 已 見 聞 貶 量 大 聖 、 妄 以 三 因 証 仏 無 常 。「 一 向 記 故 、 従 因 生 故 、 不 見 色 心 非
無 常 故 」。
対 曰 、 此 之 三 因 証 仏 有 刹 那 壊 、 違 自 教 失 。『 密 厳 経 』 云 、「 密 厳 土 中 人 、 一 切 皆 同 仏 無 有 刹
那 壊 」。 又 『 涅 槃 経 』 云 、「 雖 不 常 住 、 非 念 念 滅 」。 6
『成唯識論』は、已が見聞に限りて大聖を貶量し、妄りに三因を以て仏の無常を証する。
「 一 向 記 な る が 故 に 、因 従 り 生 ず る が 故 に 、色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 に 」と 。
対 へ て 曰 は く 、 此 の 三 因 も て 仏 に 刹 那 壊 有 る こ と を 証 す る は 、 自 教 に 違 す る 失 あ り 。『 密 厳
経 』 に 云 は く 、「 密 厳 土 の 中 の 人 は 、 一 切 皆 仏 に 同 じ く し て 刹 那 壊 有 る こ と 無 し 」 と 。 又 た
『 涅 槃 経 』 に 云 は く 、「 常 住 に 不 ず と 雖 も 、 念 念 に 滅 す る に は 非 ず 」 と 。
つ い て は 、 既 に 寺 井 良 宣 博 士 が 詳 細 な 検 討 を 行 っ て お ら れ る が 、4 本 稿 で は 視 点 を 変 え て 、 諸 師
の 因 明 理 解 と い う 観 点 か ら 考 察 を 加 え て み た い 。と い う の も 、こ の 論 争 に お け る 日 本 の 諸 師 は 、
『成唯識論』の三因説を因明の論式に当てて論じており、ここに中国には見られない展開を窺
うことが出来るのである。そこで本稿では、この論争における因明の論法を用いた主張に着目
し 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 が 因 明 の 論 式 を 巡 る 論 争 へ と 展 開 し て い く 過 程 、 ま た 、 こ れ に 対 す る
最澄・玄叡の見解と、両師に共通する因明理解について確認し、その思想背景について検討す
ることとしたい。
一、三支作法による『成唯識論』三因説の再説
最 澄 の 『 守 護 国 界 章 』 巻 八 「 弾 麁 食 者 謬 破 報 仏 智 常 章 」 に は 、『 成 唯 識 論 』 の 三 因 説 に つ い て 、
徳一の主張と、それに対する最澄の反論が詳述されている。先ず徳一の主張について確認する

151
と次のようである。
麁 食 者 曰 、有 執「『 成 唯 識 論 』限 己 見 聞 貶 量 大 聖 、妄 以 従 因 証 仏 無 常 。一 向 記 故 、従 因 生 故 、
不 見 色 心 非 無 常 故 。 対 曰 、 此 之 三 因 有 仏 刹 那 壊 違 自 教 失 」。
今 謂 、 不 爾 。 若 云 報 仏 是 相 続 常 者 、 是 立 已 成 失 。 若 云 凝 然 常 者 、 即 有 三 失 。( a ) 一 違 教 失 、
( b ) 二 違 理 失 、( c ) 三 不 悟 四 記 失 。 5
麁 食 者 曰 は く 、 有 る が 執 す 、「『 成 唯 識 論 』 は 己 が 見 聞 に 限 り て 大 聖 を 貶 量 し 、 妄 り に 従 因
を以て仏の無常を証す。一向記なるが故に、因従り生ずるが故に、色心の無常に非ざるこ
と を 見 ざ る が 故に。対 へ て 曰 は く 、此 の 三 因 も て 仏に刹 那 壊 有 り と いふは 自 教 に 違 す る失
あり」と。
今謂はく、爾らず。若し報仏は是れ相続常なりと云はば、是れ立已成の失なり。若し凝然
を 解 釈 し た も の で あ り 、(a )「因 従 り 生 ず る が 故 に 」、(b )「生 ず る 者 の 滅 に 帰 す る は
一 向 記 な る が 故 に 」、( c )「 色 心 の 無 常 に 非 ら ざ る こ と を 見 ざ る が 故 な り 」と い う 三 因 を
も っ て 、 四 智 と 相 応 す る 心 品 に つ い て 分 析 が な さ れ て い る 。
この『成唯識論』の三因説について、慈恩大師基(六三二~六八二)は『成唯識論述記』巻
十の中で次のような解釈を示している。
述曰、次三解常。此又是常。五法俱無尽期故。又真如無生滅故常。無変易故常。皆自性常
故。四智心品所依真如常故常。其四智品体、無断及無尽故説常。無断常者、是不断常義報
身也。無尽常者、是化身相続常義。 3
述して曰はく、次に三に常を解す。此れは又た是れ常なり。五法は俱に尽期無きが故に。
又た真如に生滅無きが故に常なり。変易無きが故に常なり。皆自性常なるが故に。四智心

152
品の所依の真如は常なるが故に常なり。其の四智品の体は、無断と及び無尽なるが故に常
と説くなり。無断の常とは、是れ不断の常の義にして報身なり。無尽の常とは、是れ化身
にして相続の常の義なり。
この基の解釈によれば、報身仏や化身仏が常住であると説かれるのは、所依の真如が「自性
常」であることに由来するものであり、報身仏・化身仏そのものは無常であることになる。
さて、仏身をどのように捉えるかは教主観にも直結する問題であり、その宗派・学派の教義
を構成する上で極めて重要な意味を持つものである。そのため、この『成唯識論』の三因説を
巡っては、中国において法相唯識学派の諸師と、これに異を唱える諸師との間で議論が重ねら
れ て お り 、日 本 で は 、基 の 解 釈 に 準 じ て 報 身 仏 の 無 常 を 主 張 す る 法 相 宗 の 徳 一( ? ~ 八 四 二 ? )
と 、 報 身 仏 の 常 住 を 主 張 す る 天 台 宗 の 伝 教 大 師 最 澄 ( 七 六 七 ~ 八 二 二 )、 三 論 宗 の 玄 叡 ( ? ~ 八
四〇)らといった諸師によって大きく論じられることとなる。この論争における諸師の見解に
はじめに
玄奘三蔵(六〇二~六六四)訳『成唯識論』巻十には、「三因」と称される次の説が見られ
る。
此 又 是 常 。無 尽 期 故 。清 浄 法 界 無 生 無 滅 、性 無 変 易 故 、説 為 常 。四 智 心 品 所 依 常 故 、無 断
尽 故 、亦 説 為 常 、非 自 性 常 。(a )従 因 生 故 、(b )生 者 帰 滅 一 向 記 故 、(c )不 見 色
心 非 無 常 故 。 然 四 智 品 由 本 願 力 、 所 化 有 情 無 尽 期 故 、 窮 未 来 際 無 断 無 尽 。 1
此れは又た是れ常なり。尽期無きが故なり。清浄法界は生無く滅無く、性に変易無きが故
に 、説 き て 常 と 為す な り 。四 智 心 品 は 所 依 常 な る が 故 に 、断 尽 無 き が 故 に 、亦 た 説 き て
常 と 為 す も 、 自 性 常 に は 非 ず 。( a ) 因 従 り 生 ず る が 故 に 、( b )生 ず る 者 の 滅 に 帰 す

153
る は 一 向 記 な る が 故 に 、( c ) 色 心 の 無 常 に 非 ざ る こ と を 見 ざ る が 故 な り 。 然 れ ど も 四
智 品 は 本 願 力 に 由 り て 、 所 化 の 有 情 の 尽 期 無 き が 故 に 、 未 来 際 を 窮 め て 断 ず る こ と 無
く 尽 く る こ と も 無 し 。
こ れ は 、 世 親 菩 薩 造 ・ 玄 奘 訳 『 唯 識 三 十 頌 』 に 説 か れ る 、
此 即 無 漏 界 。 不 思 議 ・ 善 ・ 常 。
安 楽 ・ 解 脱 身 。 大 牟 尼 名 法 。 2
此 れ は 即 ち 無 漏 界 な り 。 不 思 議 ・ 善 ・ 常 な り 。
安 楽 ・ 解 脱 身 な り 。 大 牟 尼 な る を 法 と 名 づ く 。
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-08(2016 年 3 月 31 日)

2015 年度公募研究成果論文

最澄・玄叡の因明理解とその背景
―平安時代初期における報仏常無常の論争を通して―

吉田慈順
(2015 年度 BARC 公募研究員,龍谷大学非常勤講師)

目次
はじめに
一、三支作法による『成唯識論』三因説の再説
二、徳一に対する最澄の批判
三、玄叡による『成唯識論』の三因説への批判
四、最澄・玄叡の因明理解の背景
おわりに
一三)六月二日大師号要請記事(これ以後の記事から僧正号が付される)。建保二年(一二一四)七月二十七日政子・実朝の参加する大慈供養の
導師を務める。また、 建永元年(一二〇六)九月十八日には、重源の死によって東大寺勧進職を引き継いでいる。

56鎌倉僧の僧官僧位については、海老名尚「鎌倉の寺院社会における僧官僧位」(福田豊彦編『中世の社会と武力』吉川弘文館、一九九四年)参照。

57大日本史料』一編之二二(二三三頁)。慈円のこうしたアンビバレントな態度については、今後の検討課題としたい。
58とえば『菩提心論口決』(三一頁
た ) 。栄西の密教思想は、末木文美士「栄西―入宋の先師―」(『国文学 解釈と鑑賞』第六四巻一二号、至文堂、
c

一九九九年)、同「『無名集』『隠語集』解題」(阿部泰郎・山崎誠責任編集『真福寺善本叢刊』第三巻、国文学研究資料館編、臨川書店、二〇
〇六年)、水上文義「日本密教の冥合思想―台密 と栄西を中心に―」(東アジア仏教研究会編『東アジア仏教研究』第七号、同会、二〇〇九年)、同
「栄西の密教思想」(『東洋の思想と宗教』第二七号、早稲田大学東洋哲学会、二〇一〇年)、菊池大樹「慈円―法壇の猛将―」(平雅行編『公
武権力の変容と仏教界』中世の人物、京・鎌倉の時代編第 巻、清文堂出版、二〇一四年)参照。特に水上論文からは多くの示唆を得た。
3

59菩提心論口決』(文治二年/一一八六)のなかでは、「唯真言宗諸教祖宗故一切法皆摂 二
此中 一。与云三種俱同 二顕乗 一。奪云不 二可 レ同例 一。」と、真
言が諸教の根源にあるとしている(『大正新脩大蔵経』第七〇冊、 、三一頁a)。
No.2293

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49西の入宋後の動向については、米田真理子「栄西の入宋―栄西伝における密と禅―」(吉原浩人・王勇編『海を渡る天台文化』勉誠出版、二〇〇八
年)、佐藤秀孝「明庵栄西の在宋中の動静について(中)―第二次入宋から天台山万年寺の虚庵懐敞との邂逅―」(『駒沢大学佛教学部論集』第四四
号、駒澤大学仏教学部研究室、二〇一三年)、同「明庵栄西の在宋中の動静について(下)―虚庵懐敞の天童山入寺と栄西の随侍および帰国―」(同右
誌、 第 四 五号 、 二 〇一 四 年 )参 照 。

50山制度成立以前の天童寺は地方第一の大寺院であった(石井修道「中国五山十刹制度の基礎的研究(一)」『駒澤大学仏教学部論集』第一三
号、 駒澤大学仏教学部研究室、一九八二年)。

51大日本史料』四編一三冊(七三二頁)。また、これと併せて同記事には、神泉苑祈雨によって後鳥羽院から「葉上」の号を、そして平頼盛から「紫
衣」を賜与されたとする記述が文治元年(一一八五)条に見える。実際に「日本仏法中興願文」には、「和漢斗藪の沙門、賜紫の阿闍梨、伝灯大法師位
栄西」(五八一頁)とある。本史料は江戸期の建仁寺の学僧、高峰東晙(一七三六~一八〇一)作 のためその真偽は確かではなく、『元亨釈書』など
にもこれらの記事はない。しかし、多賀宗隼も「頼盛との結びつきは、充分に考えられる。」(多賀『栄西』四七頁)としているように、葉上号と紫衣
の賜与がなされた可能性も完全には否定できない。なお後鳥羽と神泉苑については、中澤克昭「王権と狩猟―後鳥羽院・神泉苑・鹿狩―」『中世の武

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力と城郭』(第一部一章、吉川弘文館、一九九九年)参照。

52下史料に付した返り点は、曹洞宗全書刊行会編『曹洞宗全書』(秀英社、一九三一年)によるが、文意の通りにくい箇所は適宜改めた。本文中には
巻数 と 本 書頁 数 の み記 す 。

53田「栄西―その禅と戒の関係―」二〇頁。

54雅行「鎌倉における顕密仏教の展開」(伊藤唯真編『日本仏教の形成と展開』法蔵館、二〇〇二年)。平は寺院造営によって権僧正に補任するのは
前代未聞であるとし、官位昇進権の未整備こそが栄西の順当な昇進を阻んだ要因であると指摘している。この説明は、持戒に努めた「清僧」か、栄達を
求め朝廷幕府に接近した「政僧」か、といった精神論を軸とした二項対立論を制度的視座によって相対化した重要な提言であるといえる。

55西の幕府とのつながりは正治元年(一一九九)九月二十六日に不動尊供養の導師を務めたのに始まる(『吾妻鏡』同日条。以下同書)。正治二年
(一二〇〇)一月十三日には頼朝の一周忌の導師を務める。同年閏二月十三日には亀谷の地を寄付される。同年七月十五日、長老であった寿福寺におい
て十六羅漢絵像開眼供養を行う。建仁二年(一二〇二)二月二十九日には義朝の旧宅を亀谷寺に寄付される。同年三月十四日には永福寺多宝塔供
養を行い、北条政子・頼家結縁。同年八月十五日には頼朝の子舞女を出家させる。建暦元年(一二一一)一〇月十九日永福寺曼荼羅供養、同月二
十二日永福寺内寺院建立供養を行う。同年十二月二十五日永福寺持仏において文殊供養、同月二十八日に実朝の歳厄祈禱を行う。建暦三年(一二

37参天臺五臺山記』熙寧六年(一〇七三)四月四日条(『大日本仏教全書』遊方伝叢書、第一一五冊、一五四頁)。『参天臺五臺山記』につい
ては、藤善眞澄『参天臺五臺山記』下(訳注シリーズ十二―二、関西大学東西学術研究所、二〇一一年)が大変参考になった。

38参天臺五臺山記』巻八、熙寧六年四月五日条(同右)。ちなみに通事の明州は、その際に梵才三蔵より受戒を受けている。

39参天臺五臺山記』巻六、 熙寧六年正月二 十七日条(一一八~九頁)。この成尋の紫衣賜与については、森 『成尋と参天台五臺山記の研究』に詳
しい 。

40上の記述からわかるのは、成尋が皇帝からの師号賜与に喜悦する様子と、異国僧であるにもかかわらず師号を授かった僧は尊崇の対象となっ
ている点である。前者については、たとえば弟子が 紫衣を賜与 された後にその待遇が奝然一行の先例に倣ったものであることが判明した際、成尋
がそれに落胆したことからも裏付けられる(『参天臺五臺山記』同右条)。森公章はこの記述を、「やや気落ちした叙述になっているように思わ
れる」と説明している(森「入宋僧成尋とその国際認識」『成尋と参天台五臺山記の研究』第二章、五六頁)。なお太宗自身は、誰に大師号を賜
与したのか忘れていたようである。また『成尋阿闍梨母集』には、成尋の母が律師と阿闍梨の息を持つことを理由に、それを「めでたい」とする
記述があるが、これは同時代に、息の源信に名利名聞を斥けるように勧めた源信母とは対照的な態度である(伊井春樹編『成尋阿闍梨母集全釈』

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私家集全釈叢書 、風間書房、一九九六年、一五三頁)。成尋は藤原頼道の後継者である左大臣藤原師実の護持僧も務めた高官の僧であり、一方
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の母も一条朝の四納言のひとり源俊賢の娘である。大師号賜与に対する緊張や葛藤が見られないのは、名家出身であった点が影響しているかもし
れない。

41水左記』承暦四年(一〇八〇)十月二十二日条( 『増補史料大成』第八巻、臨川書店、一九六五年、一三一頁)。

42中右記』長承三年(一一三四)二月二十八日条( 『増補史料大成』第一五巻、臨川書店、一九六五年、八五頁)。

43「『参天台五臺山記』とその周辺」 『成尋と参天台五臺山記の研究』二四六頁。

44霊松一枝』巻下( 『栄西禅師集』八四五頁)。

45平安遺文』古文書編第九巻、四五六七号、三四八二頁。

46往生伝 法華験記』日本思想大系 、岩波書店、一九七四年、二四二頁。

7

47扶桑略記』天元五年(九八三)八月 十六日条(『新訂増補 国史大系』巻一二、二五一頁)。

48奝然上人入唐時為 レ
母修 レ願文」天元五年七月十三日(『新訂増補 国史大系』二十九下、三三四頁)。

20一、出家人不 レ
応 レ礼 二在家人 一也。」 『興正菩薩御教誡聴聞集』(『鎌倉旧仏教』日本思想大系 、岩波書店、一九七一年、 二一五頁)。

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21出家大綱」『栄西禅師集』五七一~二頁。

22斎については、蓑輪顕量「日本における長斎の受容」(『印度學佛教學研究』第四七巻第二号、日本印度学仏教学研究会、一九九九年)参照。

23斎戒勧進文」『栄西禅師集』五七六頁。

24興禅護国論』七三頁。

25真禅融心義』上(『栄西禅師集』六一九頁)。

26右、三四三頁。

27右、六三一頁。

28柳さつき「伝栄西著『真禅融心義』の真偽問題とその思想」『禅文化研究所紀要』第二七号、禅文化研究所、二〇〇四年。

29出家大綱」『栄西禅師集』五七四頁。

30興禅護国論』三七頁。

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31興禅護国論』三四頁。

32川涼一『中世の律宗寺院と民衆』(吉川弘文館、一九八七年)、平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二年)等。

33明月記研究』第九号、七頁。

34建一行については、藤善眞澄「入宋路をめぐり第二節 宋代福建・浙東の仏教と日本」(同『参天台五臺山記の研究』関西大学東西学術研究所叢刊
二十 六 、 関西 大 学 東西 学 術 研究 、 二 〇〇 六 年 ) 参 照 。

35れらの入宋僧については以下を参照。伊井春樹『成尋の入宋とその生涯』(吉川弘文館、一九九六年)、王麗萍『宋代の中日交流史研究』(勉誠出
版、二〇〇二年)、藤善『参天台五臺山記の研究』、手島崇裕「北宋仏教界と日本僧成尋―その人的交流と異国僧としての役割について―」(『比較文
学・文化論集』第二五号、東京大学比較文学・文化研究会、二〇〇八年)、上川逹夫「寂照入宋と摂関期仏教の転換」(同『日本中世仏教と東アジア世
界』塙書房、二〇一二年。初出二〇一〇年)、森公章『成尋と参天台五臺山記の研究』(吉川弘文館、二〇一三年)、曹星「成尋の在宋活動についての
一考察―宮廷における祈雨を中心に―」(朝日大学一般教育研究協議会編『朝日大学一般教育紀要』第三九号、同会、二〇一三年)。

36衣師号については、塚本善隆「紫衣牒・師号等の売出」(同『中国近世仏教史の諸問題』塚本善隆著作集第五巻、大東出版、一九七五年、二三~七
頁)、竺沙雅章『中国仏教社会史研究』第一・二章(朋友書店、二〇〇二年。初出一九八二年) 参照。
『8沙石集』六〇二~三頁。
た9とえば多賀宗隼は、栄西には弾圧を受けたことに対する「屈辱感」があったとし、社会的地位や声望を求めたのは次なる弾圧を回避するためであった
と論じた(多賀『栄西』一六七頁。以下同じ)。また古田紹欽は、無住の説明の妥当性を認めたうえで、「僧位は『沙石集』にもいっているように出
仕にあっては、望む望まないにかかわらず得ていなくてはならなかったのであり、僧都以上は三位に准ずとか、律師は五位に准ずとかといったき
まりがあったのであり、栄西が朝廷の帰依にあずかるに及んで、それ相応の僧位を得て不思議ではな 」い、と述べている(古田『日本禅宗史の諸問
題』三〇~ 一頁。以下同じ)。栄西が僧正という立場を手段化したと見ている点で、両者と無住の解釈は共通する。これに加えて多賀は、栄西に対する
非難は定家と慈円に限ったもので、むしろ実際に朝議が行われたのは推挙者の方が多く存した証左であるとも説明している。そして古田紹欽はこの説明
をより詳細に考察し、『正法眼蔵随聞記』のなかで栄西が慈悲深い存在として描かれる点や、栄西の後ろ盾である天台座主明雲と慈円のあいだに対立が
あったことから、「栄西が名誉欲に強い俗物であったかのごときイメージ」は、「叡山に対して抵抗的であったことから作意的に作られた」と指摘し
た。

10興禅護国論』(『中世禅家の思想』二五頁)。以下、同書から引用。

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11日本仏法中興願文」(藤田琢司『栄西禅師集―建仁開山千光祖師八百大遠諱記念―』禅文化研究所、二〇一四年、五八二頁)。返り点筆者。

12興禅護国論』一二頁。

13興禅護国論』三八頁。

14日本仏法中興願文」五八二頁。

15興禅護国論』一三頁。

161の他に、石田瑞麿「栄西―その禅と戒の関係―」(『中世禅家の思想』所収。初出一九六二年)、柳田聖山「栄西と『興禅護国論』の課題」(同
右書「解説」)、中尾良信「栄西の戒律観について」(『宗学研究』第二二号、曹洞宗宗学研究所、一九八〇年)、菅基久子「宋禅将来の意義―明庵栄
西と円爾弁円―」(日本思想史懇話会編『季刊日本思想史』第六八号、ぺりかん社、二〇〇六年)等。

17尊:北条時頼による寺領寄進の申し出拒否 ―「厭 二
有縁 一好 二無縁 一。即是僧法久住之方便也」(『関 東往還記』弘長元年七月二十六日条)、無
住:北条時頼は自分のように自由に動けない―「遁世ノ身ハ真実ノ楽也」(『雑談集』)。

18興禅護国論』一二頁。

19設有 二
随 レ分解者 一、皆 二随名利 一、永不 レ為 二大事因縁 一。或自称 二智人 一、而於 二道心 一有若 レ亡。」(「日本仏法中興願文」五八一頁)。
ーを用いて理智冥合 を
58説いている。 栄西が大師号を要請した要因は先の四点に加え、 入宋以前から培ってきたこうした密教思想の影響があると推察
でき よ う 。
59
ところで、道元はなぜ栄西を肯定視したのだろうか。法脈的に道元の師が栄西の弟子明全であった影響が大きいとしても、道元は鎌倉前中期にかけ
て、名利名聞への執着や為政的位置への接近を最も戒めた人物のひとりである。栄西と道元をめぐるこれらの問題については、今後の課題としたい。
【キ ー ワ ード 】
栄西 遁世 大師号 入 宋 禅 苑 清規
和1島芳男「栄西禅の性格について」(『史学雑誌』第五四編四号、史学会、一九四三年)。この理解は、以下の主要な栄西研究においても基本的に踏襲
されてきた。辻善之助『日本佛教史』第三巻、中世篇之二(岩波書店、一九四九年)、多賀宗隼『栄西』(人物叢書一二六、吉川弘文館、一九五六
年) 、 同 「栄 西 と 慈円 」 ( 「月 報 」 、『中世禅家の思想』日本思想大系 、岩波書店、一九七二年)、水野博隆「栄西禅師における俗の問題」(『宗
27

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学研究』第一七号、曹洞宗宗学研究所、一九七五年)、今枝愛真「栄西の新仏教運動―禅と天台の関係―」(歴史教育研究会編『歴史教育』第一四巻第
九号、日本書院、一九六六年)、古田紹欽「栄西研究(二)」(『禅文化研究所紀要』第八号、禅文化研究所、一九七六年。後、同『日本禅宗史の諸問
題』学術叢書・禅仏教、大東出版社、一九八八年に詳述)、船岡誠「栄西における兼修禅の性格」(高木豊・小松邦彰編『鎌倉仏教の様相』吉川弘文
館、一九九九年)、久野修義「栄西とその時代」岡山県郷土文化財団編『岡山の自然と文化―郷土文化講座から―』(二四、岡山県郷土文化財団、二〇
〇五年)、同『重源と栄西―優れた実践的社会実業家・宗教者―』(日本史リブレット 、山川出版社、二〇一一年)等。
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『2仁和寺日次記』『皇帝紀抄』同日条、『吾妻鏡』(六月四日条)にも同様の記述がある。
藤3原定家『明月記』建暦三年(一二一三)五月四日条(早川純三郎編『明月記』第二巻、国書刊行会、一九一一年、二六九頁)。
『4明月記』(二六七頁)。内容については、明月記研究会編『明月記研究』第九号(続群書類従完成会、二〇〇四年)が大変参考になった。

5 円『愚管抄』(岡見正雄、赤松俊秀校注『日本古典文学大系』第八六巻、岩波書店、一九六七年、二九七頁)。

6 住『沙石集』(小島孝之編、新編日本古典文学全集五二、小学館、二〇〇一年、六〇二頁)。
『7沙石集』五六六頁。
そして③には、A:同僚に才能のある者がいた場合にはきちんと褒める、B:要職には頭のいい人を配置するとある。ここからは、能力ある者がそれ
に応じた評価を受ける能力主義の思想が見て取れる。『禅苑清規』では、能力ある者はその能力に応じて評価され、周りもそれを嫉まずに讃える関係を
理想としている。宋僧が、渡海僧である成尋への紫衣師号の賜与を讃えたのはその一例といえよう。栄西は、こうした思想に基づいて生活する万年寺や
天童寺の僧侶を見て、それを日本で模倣しようと考えたのではないだろうか。すなわち、栄西の大師号要請は、一義的には〈事業・祈祷の成功→大師号
賜与〉といったように、僧侶の能力と成果が真っ当に評価される道筋を自身の手によって実現しようとした証左であったといえよう。栄西の主眼は、そ
うした制度の体現・移入にこそあり、皇帝―大師の関係を日本において天皇―大師として実現しようとしたと考えられる。
しかし、当該期の幕府は、幕府僧の官位昇進について明確な規定を定めておらず 、
54祈禱や法会の導師、さらに東大寺大勧進識を務めても栄西の僧官
は「 権 律 師」 か ら 昇進 し な かっ た 。
55また、将軍家推挙による僧官位の昇進は、摂家将軍期以降(一二二六年~)であったため 、
56栄西はその恩恵を受け
ることができなかった。自身の理想とする能力・成果主義的な恩賞制度が一向に整わないなかで、官位昇進権を有する朝廷の事業である法勝寺九重塔再
建が達成され、栄西はそれを機に大師号要請に踏み切ったと考えられる。
むすびにかえて

162
栄西が大師号を要請した要因は、次のようにまとめることができる。第一に、正戒護持者は為政者を積極的に補佐する責務があると栄西は考えてい
た。その主たる論拠となったのは『梵網経』であった。第二に、長斎を徹底し得る持戒者であるという自覚が、為政的位置との接近であってもそれを容
認する機能を発揮していた。第三に、栄西は『禅苑清規』が説いた能力・成果主義の実現を望んでいた。模倣としたのは、万年寺と天童寺の僧生活であ
った。以上の三点が、為政的位置との緊張を解消し、そこへのストレートな接近を可能にした要因であると考えられる。そして、これらの思想にもとづ
いた幕府僧としての活動が昇官に結びつかなかったため、大師号要請は官位昇進権を有する朝廷の事業である法勝寺九重塔再建達成を機に実行された。
この よ う にな ろ う 。
また、栄西の密教の師である伯耆大山の 基好は、慈円が密教を学んだ人物でもあった。慈円はその基好の密教思想から、理智冥合や迷悟不二の論理を
抽出した。たとえば、大師号を要請した年に作成した「慈恵大師講式」においては、栄華を厭わない僧として弟子に非難された良源を高く評価している

57周知の通り、栄西を「アルマジキ」として批判したこの慈円も、一方で天台座主を四度務めた経歴がある。そして栄西は、二度目の入宋後の建久九
年(一一九九)に同じ内容を基好から口伝されており、実際に『 秘宗隠語集』『改偏教主決』 『菩提心論口決』といった密教書のなかで性的メタファ
また③は、名誉・国王・形勢者(権力者)・公家への接近と関与を斥ける一方で、王法は謹み畏敬するように促している。また④の史料は、 持
戒の重要性を説きつつも慈悲のためには破っても良いことを意味する「持犯開遮」を述べている。 栄西は、『興禅護国論』の冒頭でこの「持犯開
遮」を 引用しており、『禅苑清規』の こうした柔軟な態度を吸収したと考えられる。このように『禅苑清規』は、持戒/慈悲のための破戒、国王不
接近/王法遵守といった一見アンビバレントとも捉えられる論理を具備しており、 ここだけ見れば、栄西はそのどちらを受容してもおかしくはなか
った と い えよ う 。
しかし、以下の清規には、為政者および重職者に対して取るべき態度が次のように記されている。
①A「諸方弁事及名徳人、別選 二上寮 一安排。退院長老須 下依 二住持帖及開堂疏内資次 一、於 二堂内三板頭 一安 排斎粥座位 一。如 二諸方名徳 一、亦 ―

依 二同類戒臘 一於 二三板頭次位 一安排 上。」 (三巻、八八三頁)
B「官員・檀越・尊宿・僧官・及諸方名徳之人、入 レ院相看、先令 三行者告 二報堂頭 一、然後知客引上、并照 二管人客安下去処 一。如 二尋常 一人
― ―
客、只就 二客位 一茶湯。」 (四巻、八八七頁)
C「施主入 レ院、安 二排客位 一。如法迎待。如作 二大斎会 一、預前与 二諸知事・頭首商量 一、免 レ致 二臨 レ時闕

一レ 事。」( 三巻、八八三頁)
② 「粥街坊・米麦街坊・菜街坊・醤街坊・水頭・炭頭・灯頭・華厳頭・般若頭・経頭・弥陀頭、並是外勧 二檀越 一増 二長福田 一、内助 二禅林

163


資 持道果 一。若非 二契 レ聖運

二 一レ心、何以普酬 二衆望 一。」 (三巻、八八八頁)
③A「如同事之人、有 レ才有 レ徳、応 二推揚讃歎 一。如有 二職事不 レ前、及 二梵行可 疑、当 下屛処密喩、使 二激昻自新 一、令 中法久住 上。」( 三
一レ
巻、八八三頁)
B「択 二霊利行者 一準 二備堂頭・知事・頭首等処 一供過。常覚 二察諸寮行者 一、慮 レ有 二頑鈍供過不
― ―
一レ前。」( 三巻、八八四頁)
①は主として、高僧や官人を丁重に歓待するように説く(A:高僧や経験者には別に部屋を用意する、B:要人が寺院 に来た場合には手厚くもてな
す、C:施主を敬う)。②は、それぞれの役職に就く者に対して、檀越と福田の増長を勧めている。①②では、寺院繁栄のためには檀越を積極的に勧
め、施主への厚遇も行うように促す。ただしそれは、「看 謁施主 一預先点 検門状・関牒・書信 一。恐 二有 レ差誤 一。及備 二茶湯人事之物 一、低心耐 レ煩、善
― ―
二 二
言化導。如問 二山門事体 一、並須如実祗対。不 レ得 三妄有 二誇託 一。」(五巻、八九二頁)と、官員の権威に頼ってはならないともあるように、単純に俗人
や高位者を仰ぐような立場とは明確に一線を画している。役人・施主・僧侶がいた場合には、まず僧侶に挨拶するように説いたように(九巻、九二〇
頁) 、 俗 人に 対 す る僧 侶 ( 仏法 ) の 優位 性 が 前 提 と な っ て い た 。
ないと学んでいた王朝は、僧侶の自然減少を望んでいたのである。しかしその後、貴重な財源であった売牒の復活を望む声は高まり、仏教界からも失業
者が生活の糧を得る道が閉ざされるとして売牒発給停止政策を解禁する動きがあった。そして、対金政策の緊張の高まりが決定打となり、売牒は紹興三
十一年(一一六一)に再開される。だが再販されるようになった度牒は価格が高騰し、一般民衆にそれを購入することは困難となった。
当該期の宋はこうした状況下にあり、栄西は奝然や成尋が受けたような厚遇を受けなかった。金との緊張関係が続いていたために、五臺山に行くこと
もできなかった。なお『千光祖師年譜』には、二度目の入宋中の文治四年(一一八八/四八歳)に疫病退散祈祷と雨祈祷により孝宗から「千光」の号を
51同時期に栄西を顕彰するために著述された明全の『日本国千光法師祠堂記』や『天童山千仏閣記』 、そして『興禅護
賜与 さ れ たと す る 記事 が あ るが 、
国論』にもそのような記述は見られないため、それが事実かどうかは疑わしい。自身の著作に僧官の位を具に記した栄西の性格をしてみると、皇帝から
の賜 与 に 関す る 記 述を 漏 ら すと は 考 えに く い 。
(3)『禅苑清規』の権力観と能力・成果主義
そして高宗は、財政難に対処するために清廉な禅僧を奨励した。またこの頃から、唐代後期に制定された『禅苑清規』(一一〇三年成立)が全仏教教
団において用いられるようになっており、僧侶たちは清浄な規則に基づいた修行生活を行っていた。禅僧たちも禅刹内で清浄な規則を課すことによっ

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て、増加する私度僧との違いを明確化する意図があった。栄西が訪れた頃には、天台山も天台宗から禅宗の寺院となっており、清規に基づいた生活に栄
西も身を投じている。実際に 『興禅護国論』の「第五宗派血脈門」「第九大国説話門」には、「遊 二天台 一、見 二山川国土勝妙、道場清浄特殊 一」(第
五)、「七、僧威儀不 レ乱。八、寺中寂静」(第九)など、訪れた禅刹の威儀作法が乱れていない点に栄西が感嘆する様子が記されている。
その『禅苑清規』には、これまでに考察してきた権力観や戒律思想と関連するいくつかの記事がある。 52
①「意軽 二王法 一、不 レ顧 二叢林 一、非 レ所 以報 二監院 一也。」( 八巻、九一一頁)


②「若欲 下道風不 レ墜、仏日常明、壮 二祖域之光輝 一、補 中皇朝之聖化 上、願以 二斯文 一為 二亀鏡 一焉。」 (八巻、九一二頁)
③「不 レ希 求名誉 一否。不 レ近 二王臣 一否。不 レ恃 作形勢 一否。不 レ干 預公家 一否。謹 畏王法 一否。」 (八巻、九一四頁)
― ― ― ―
二 二 二 二
④「並須 二読誦通利 一、善知 二持犯開遮 一。但依 二金口聖言 一、莫 三擅随 二於庸輩 一」(第一巻、八六九頁)
①は、王法を軽んじて寺院を顧みないのであれば、 監+院(寺院総監者)の役目を果たさないと記す。②には、仏法の地域への弘通が「皇朝之
聖化」を補佐するとある。 この清規に触れなければ、「厳格な持戒主義による「興禅護国」の思想は生まれなかった」と石田瑞麿が指摘したように 、
53
『禅苑清規』は僧侶の清浄生活が王法の護持・繁栄と密接不可分である点を強調する。
れた第九地に至ったとみなされ、宋僧の尊崇対象とされたのである。 また、宋僧の老宿でさえも黄衣を着衣していたなかで、成尋一行には弟子に
までも紫衣が賜与された 。
39これを「希有」な待遇であるとした伝法院内の宋僧たちは、ここでも感歎したという 。
40
(2)栄西の入宋経験
それでは、栄西はこうした先達の渡海僧が受けた厚遇を知っていたのだろうか。そして知っていたならば、大師号の要請はその前例に倣おうと
したものであったのか。『水左記』承暦四年(一〇八〇)十月二十二日条 、
41『中右記』長承三年(一一三四)二月二十八日条 に
42は、貴族らが大
雲寺で成尋阿闍梨像を拝みその徳を讃える記述があるため、成尋の事績は当該期に広く知られていたことがわかる 。
43実際に、栄西は「栄西入唐
縁起」のなかで、「成尋阿闍梨三河入道以後、入唐之僧所 レ絶也」 と
44成尋に触れているため、成尋の存在を知っていたのは確実である。しかし、
紫衣師号に関する記述は見られない。
また奝然には、紫衣師号の賜与に関する記述の見られる史料「奝然入瑞像五臓記(清凉寺釈迦堂本尊胎内文書)」(寛和元年/九八五) が
45あ
る。しかし、これは本尊納入文書であるため、当該期に内容が流布していたとは考えにくい。むしろ同時代の他史料が両者を強調したのは、公請
によって「名誉を日々新たに」した成尋が「菩提に帰して」渡海した点や(『続本朝往生伝』) 、
46奝然の志は「斗藪」にあった点などである

165
(『扶桑略記』) 。
47そして慶滋保胤に至っては、「然猶不 レ
顧 二身命 一、不 レ著 二名利 一、渡 レ海、登 レ山」と、奝然を名利に執着しなかった人物と
して理解している(『本朝文粋』第十三) 。
48したがって、栄西の大師号要請が先達の渡海僧に倣ったものとする従来の研究にそのまま首肯する
のは難しく、 栄西の大師号要請を考察するためには実際の入宋経験の影響を見るほかない。
栄西の一度目の入宋は、仁安三年(一一六八/二八歳)四月から同年九月、二度目の入宋は文治三年(一一八七/四七歳)四月から建久二年(一一九
一/ 五 一 歳) 七 月 まで の あ いだ に 行 われ た 。
49ここで重要なのは、栄西は二度の入宋中、長い時間を天台山万年寺で過ごした点である。この万年寺は、
宋朝から宝物を賜る機会が多かったため、紹興九年(一一三九)には万年報恩広孝寺(後に万年報恩光孝禅寺)と寺名を改めている。そして 周知
のように、栄西が万年寺で師事したのは臨済宗黄龍派第八世の虚庵懐敞であった。懐敞は、淳熙一六年(一一八九)に勅命によって後の南宋禅宗五山
の第三位となる明州の天童寺に遷住し 、
50栄西はその二年後に天童寺において 懐敞から印可証明と伝法衣を受けている。懐敞に随侍した栄西は、国
家主導でなされるこうした僧侶の遷住を目の当たりにしたのである。
また、栄西入宋時の皇帝は高宗の息孝宗(在位一一六二~八九)であったが、実権は父高宗にあった。その高宗は、仏教勢力の拡大に批判的で、私度
僧の増加による国家収入の減少に対処すべくそれまで盛んだった売牒を紹興十二年(一一四二)に停止した。それまで行われていた過度な廃仏に効果が
そのためその救済構造が、持斎を徹底し得ない漁猟者などにとっては、ジレンマとして機能する場合もあっただろう。同じ戒律復興者として知られる
叡尊が、宇治川で殺生禁断を行う代わりに網代の職を結果的に失わせたことや、彼の教団が下級僧や農民で構成された斎戒衆を道場に入れなかったとい
32一切衆生を救いから漏らさないために構築したはずの多様な思想・方法は、意図せずして中世社会の序列関係を固
う事 例 は しば し ば 指摘 さ れ てき た 。
定する可能性を抱えてもいたのである。
三 入宋の影響
(1)先達入宋僧の影響
栄西の大師号要請の背景には、従来から先達の入宋僧の影響があると指摘されてきた 。
33栄西以前に渡海した僧侶には、延長五年(九二七)の遣唐使
廃止後、初の入唐僧となった興福寺寛建一行(寛輔―弘順大師・澄覚・超会―照遠大師など) 、
34永観元年(九八三)に入宋した東大寺奝然(九三八~
一〇一六/法済大師)、長保五年(一〇〇三)に入宋した天台僧寂照(?~一〇三四年/円通大師)、そして延久四年(一〇七二)年に入宋した天台僧
35最澄・円珍以降に渡海した彼らの目的は、主に新訳経や仏像の請来、天台山・五臺山への
成尋 ( 一 〇一 一 ~ 一〇 八 一 /善 恵 大 師) な ど が 挙 げ ら れ る 。

166
巡礼であったが、 いずれもが皇帝との謁見を許され、それぞれ紫衣師号を賜与 されている。
紫衣師号は唐代まで軽々しく授受されるものではなかったが、北宋統一後の宋朝廷は、それまでの仏教に対する過剰な投資を制限するなかで紫衣師号
を売買の対象とし、国家財政の一助としていた。ちょうど成尋が入宋した熙寧四年(一〇七一)の『続資治通鑑長編』には、度牒に併せて紫衣師号を売
36また中国皇帝側には、異国僧を厚遇することによって公的国交が途絶えた後の日本の情報や贈物を得られるメリット
買の 対 象 とす る 記 事が あ る 。
があった。皇帝から厚遇を受ける異国僧を通して、自らの権益確保を図る宋僧・通事も数多くいた。
そして渡海僧たちも、 寂照であれば飛鉢の法力が宋朝廷に認められ、成尋であれば 北宋第六代皇帝の神宗(在位一〇六七~八五年)の命による祈雨
を成功させたことによって それらを賜与される正当性を獲得した。成尋が善慧大師号を賜与 されたのは、熙寧六年(一〇七三)四月四日である が、
同日条の『参天臺五臺山記』には、中書から師号の賜与を記す文書が来た際、成尋らが滞在していた伝法院に住む梵才三蔵(慧詢)らの勧めによ
って皇帝の福寿祈禱を行った様子が記されている。そして文の最後には、「令 レ巡 二礼五臺 一之次白知安 二下花洛譯館 一。不慮之外賜 二師号 一。且怖
― ―
且悦。」 と
37、大師号賜与を恐れ多いとしながら悦ぶ記述がある。さらに その翌日には、成尋の通事が設けた大斎に他の院からも多くの人が集ま
り、そこで成尋の傍に座った梵恵大師師遠と広智大師恵琢が彼に向って「九地菩薩」と唱え合掌したとある 。
38つまり、成尋は衆生教化の認めら
また、栄西に仮託された『真禅融心義』(弘長三年/一二六三)にも、「衆生迷 二自心本仏 一。是不 二衆生之自迷 一、即諸仏秘 二自覚本性 一也。但有器
者、入 レ道得 レ証。」 と
25、衆生は多くの場合、自ら本性を自覚できずに有器者のみが道を得証しているとある。であるがゆえにその直後の文では、「於 二
常恒三世之真教 一、勿 レ論 二教行証之三時 一。於不立文字禅法、勿 レ諍 二信行相之文章 一。」と、禅は文字を立てないがゆえに教行証の三世衰退を論ずる必要
はないとして、学修中心の顕教に対する禅の優位性を説いている。また非器者である理由についても、それは各人の能力のせいではなく、諸仏がそれぞ
れに備わっているはずの「自覚本性」を隠しているからであると説明している 。
26このように栄西周辺の僧には、非器者・鈍根小智にも得証の可能性を
保証することで一切衆生の持斎を果たそうとする傾向があった。そして、もしも持斎さえもできない者がいた場合には、「若有 二非器者 一、見而作 二誹謗 一
者、以 二謗法結縁 一故、当来必令 レ入 二三密行門 一。」 と
27、必ず今生のあいだに三密の行門に入れるとしている。
高柳さつきは、 『真禅融心義』の内容が東密的であることや著作時期が合わない点などを理由に本著の栄西真撰説を斥けてはいるが、一方で禅
宗に関する理解については『興禅護国論』とほぼ同主張であり、真撰は栄西門流(高野山金剛三昧院在住僧)の蓋然性が高いとしている 。
28こう
した点から判断しても、『真禅融心義』の機根観と救済観は栄西本人の考えともそれほどかけ離れてはいないと考えられる。 たとえば「出家大
綱」では、『菩薩地持経』第八巻を引用し、「為 二諸衆生 一、受 二無量苦 一」「煩悩熾盛難化衆生方便調伏」 と
29、自身が衆生の代わりに煩悩を方便してそ
れを調伏するとしている。そして破戒をした場合には、「破戒の人、悔心を生ぜば、後に還た禅を得んや」、「大涅槃経に云く、懺悔を名づけて第二の

167
清浄 と す 」 と
30懺悔による再起の道を保証していた。このように栄西は、あらゆる方法を用いて衆生救済を成し遂げようとしていたのである。
以上のように、栄西の仏教実践とその構想は、広範な持斎を成立させることによって国家を鎮護するというものであった。同時代の法然・親鸞らが、
『末法燈明記』を論拠に持斎を不可とする立場から衆生救済を目指したのに対して、栄西は末法であるからこそ持戒弘法の徹底化を目指した 。
31そのた
め『興禅護国論』では、『金剛般若経』『大般涅槃経』『法華経』『魔訶止観』などを論拠に、持斎の必要性を懇切に説いている。そして、これまでの
考察を踏まえると、持斎可能な人とそれをなし得ない人とのあいだには、仏教者(長斎)→聖(持斎)≒有器者(持斎)→非器者(持斎 代理調伏)と

or
いう序列関係とそれに応じた救済方法を措定していたことがわかる。栄西は持戒という目的の前では、実力主義の立場を採用していたといえよう。ま
た、持戒が名利のためではないという論証も、それを行わない近代の僧侶を自身と対比することで説明しようとしていた。つまり、持戒が名利でないこ
とを判断する基準は、表面的・一時的にではなく、いかに恒常的に持戒(長斎)をなし得ているかによっていたといえよう。とするなら、持斎を徹底し
ている自身は必然的に名利のための持斎者ではなくなり、それと連動して、為政者との接近も名利の為ではないそれとして思想的に整合化できていたと
考え ら れ るの で あ る。
某ハ上臈マジロイガ無 レ益候也。名聞ヲ好ム人ハ定可 シ
レ 有 二非難 一。某不 ル 好 二名聞


一 故ニ、惣ジテ諸方ヨリ召候ヘドモ不 レ参(中略)唯イナ
カズミガ能候也。入マジキ所ヲ申タルニ、王家・旃陀羅家・婬女家・屠児家ト申タルガ、一ニ王ニテアレドモ、皆請ズルニハユリタリ。能々
存テ可 レ遠也。 20
と、為政者との接触によって付与される名聞を避ける論拠としてこれを受容している。つまり栄西の場合は、正戒護持者としての責務が、叡尊の重視し
たような不求名聞の立場をも突き抜ける位置をその思想上において獲得していたのである。不求名聞の徹底による内的清浄性の確保か、正戒護持の責務
に支えられた為政者との接触か、『梵網経』の「国王不礼」をめぐる思想的分岐点をここに見ることができる。
したがって、定家や慈円がしたような栄達を求める僧という印象論的な批判は、栄西にはほとんど響かなかったものと考えられる。またその意味で、
栄西を弁護した無住も、それに依拠してきた従来の研究も、栄西本人の意図に反した説明を施してきたといえるかもしれない。そうした批判は、無住や
叡尊のような名利名聞の忌避に積極的であった僧には有効であっただろうが、栄西には効果がなかったものと思われる。
二 戒律観と機根観

168
それでは、栄西は正戒護持の判断基準をどこに置いたのか。名利のための持戒と正戒護持の違いは、一体何によって判別されたのか。栄西の戒律観が
詳細に記される「出家大綱」(一一八九年起草/一二〇〇年再治)を見てみよう。
持斎現受 二諸天恭敬 一、後得 二菩提 一。出家人、若不 二長斎 一者、損 二仏法 一人也。在家人、若不 レ勤 二六斎年三長斎 一者、非 二四部衆之数 一也。世間有 二俗人
出家 一者、名 二之入道 一。雖 レ名 二入道 一、不 レ入 二此仏法 一故、可 レ名 二不入道 一。世間有 二僧人遁世 一者、号 二之聖人 一。而不 レ習 二此聖法 一故、可 レ名 二非聖
人 一也。/凡仏法者是長斎也。凡聖法者是持戒也。聖教所 レ制繁多、而只出 二少分 一也。又此斎法者有 二現証 一。腹病脚病必除 レ之。如来妙術何空哉。可
二仰信 一也。 21
「仏法は、是れ長斎なり。凡そ聖法は、是れ持斎なり」。このように栄西は、仏教者には長斎、聖には持斎を促す 。
22「日本仏法中興願文」と同年に
著された「斎戒勧進文」にも、「仏言、不 レ念 二斎戒 一、非 二我弟子 一」 と
23ある。そして引用文の最後では、除病効果のある持斎を出家者だけでなく在家
者にも勧めている。栄西は出家在家の区別なく、持斎の重要性を唱えていた。またそれは、「鈍根小智といへども、持戒清浄ならば、業雲消除し、心月
朗然 た ら ん。 」 と
24しているように、「鈍根小智」をも包摂し得る栄西なりの易行の提示であったといえる。持斎は、栄西にとって一切衆生を救済する
ため の 方 法で あ っ た。

12「輔相智臣」に対しても願文を心に留めるよう促すのはそのためである。また同著では、『超明日三昧経』の「仏法はかならず応に国王の施行に依
つて流通せしむべし。この故に、仏は慇懃に国王に付嘱したまふ。」 と
13いう一文も引用している。栄西が理想とする王法と仏法の関係は、このように
仏法が王法を補佐するという論理構成をとっており、そこでの主催は王法であった。
そして、引用史料の中略以後の文では、仏法は持戒の奮励で再興され、それによって王法は永く固持されるとある。この文の後には、「近世以来、比
丘不 レ順 二仏法 一、唯口能語 レ之。学者不 レ習 二仏儀 一、只形状似 レ之。」、「(近代人)咲 二持戒 一、蔑 二梵行 一。為 レ之如何」 と
14、持戒を誹謗する僧侶に対す
る批判を記している。また、『興禅護国論』「鎮護国家門」には、「仁王経に云く、仏、般若をもつて現在・未来世の小国王等に付嘱して、もつて護国
の秘宝とすと。その般若とは禅宗なり。謂く、境内にもし持戒の人有れば、すなはち諸天その国を守護す」 と
15ある。禅宗は護国の秘宝であり、境内に
持戒者がいれば自ずから国は守護される。栄西の説く興禅の内実が戒律復興にある点はこれまで殊に指摘されてきた通りである 。
16換言すれば、持戒に
よる仏法再興とそれによる王法守護、これが栄西の仏教実践の基本構想であった。
当然、こうした構想は当該期には広く見られるものであり、たとえば先に挙げた無住や、栄西と同様に戒律復興に力点を置いた叡尊(一二〇一~一二
九〇)にも看取しうる。しかし、両者は栄西とは異なり、それを実現する手段として為政者に頼るという選択肢を斥けている 。
17不求名聞を理由に為政
者との交流を徹底して斥けようとした両者と栄西とでは、その点で明確な違いがある。栄西の鎮護国家思想は、直接的すぎるきらいがあるのである。な

169
ぜ栄西には、他の僧侶が保持したような為政的位置との緊張が見られないのだろうか。この点が重要な問題となろう。
この問題を考えるうえで参考になる一文が、『興禅護国論』「令法久住門」にある。すなわち、「正戒を犯するものは、一切壇越の供養を受くること
を得ず、また国王の地上に行くことを得ず、国王の水を飲むことを得ず」 と
18いう『梵網経』の引用である。正戒を犯した者は国王と接触してはならな
いとするこの文は、逆をいえば正戒さえ護持していればそれが許されることを保証する。名利のために弘法をする近年の僧とは違い 、
19正戒を護持し得
るという自信が栄西にはあったのだろう。栄西は名誉欲が強いために大師号を望んだのではなく、正戒護持の自負があったために当然のこととしてそれ
を望んだと考えられる。つまり、名誉欲として表象されてきた栄西の態度を支えていたものは、彼の主観としては、正戒を護持し得る自信からくる王法
修復のための責務であったのである。名利名聞を付与されることに対する葛藤が栄西に見られない要因のひとつには、こうした戒律観があったといえよ
う。
ひとつ例を挙げるならば、叡尊も『梵網経』の「出家人不 レ応 レ礼 二在家人 一也」という 記事を引用しているが、そこでは、
弁護を記している。「名利を捨つるこそ、隠遁の姿、出家の形なれ。」 と7いう無住の立場からすれば、栄西の権僧正補任は本来批判されてもおかしくは
ない行為であったが、ここでは遁世という僧侶形態を消さないための選択であったという解釈が施されている。無住は栄西の実践を自身と同じ遁世門
(僧)のそれとして認識していたため、名利付与に繋がる行為は説明しておく必要があると考えたのであろう。また、初めの引用文の続きには、次のよ
うに 記 さ れて い る 。
末代の人の心、乞食法師とて、云ひかひなく思はん事を悲しみて、僧正になり、出仕ありければ、世以て軽くせず。菩薩の行、時に随ふべし。此も
格に よ ら ず振 舞 ひ けり 8
末代の人は乞食法師の言葉には耳を貸さないが、僧正になって出仕するようになったところ軽く扱われなくなった。菩薩行も状況に応じてなすべき
で、それこそが格にこだわらない栄西を表す。事件直後には否定的に捉えられた栄西の大師号要請は、このように鎌倉後期になると仏法興隆という目的
を達成するための有効な手段として積極視されるようになったのである。こうした補足が鎌倉後期になされること自体が、当該期における事件の衝撃の
大きさを示しているともいえるが、いずれにしても、先行研究の多くはこの無住の説明で栄西の行動を説明してきた 。9
しかし、こうした説明に反し、栄西自身は『興禅護国論』のなかで、「天聴を驚かすに何の失か有らんや。凡そ窮民の愁も、忝く叡聞に達す。況や度
縁を 賜 ふ の僧 を や 。何 に 況 や栄 西 、 法位 に 登 る を や 。 」 と
10仏教実践を行う際には社会的な位置(法位)は問題にならないと述べている。従来の研究

170
は、大師号要請と一見矛盾する栄西のこうした態度を大きな問題とはしてこなかった。したがって、先の無住の説明は説得的ではあるものの、まずは栄
西自身の思想をより内在的に考察することこそが、それまでの常識からすればあり得ない大師号要請をした要因を明らかにする作業となるといえよう。
本稿ではこの問題点の考察を通して、鎌倉前期遁世僧の権力観とその様態の一面について考えてみたい。
一 王法と仏法の関係
元久元年(一二〇四/六四歳)四月二十二日に栄西が著した「日本仏法中興願文」には、栄西の仏教実践の構想を凝縮した一文がある。
庶幾輔相智臣、留 二心於此願文 一、具令 レ経 二奏聞 一迴 二中興之叡慮 一、修 二復仏法王法 一者、最所 レ望也。小比丘大願、只是中興之情也。(中略)謂王法
仏法主也。仏法王法宝也(中略)望請、慈恩往 二自利利他賢慮 一、誘 二進沙門 一勧 二励比丘 一、令 下修 二梵行 一持 中戒律 上者、仏法再興、王法永固乎。小比
丘願旨若 レ斯。 11
前半部では、仏法による王法の修復こそが自身の大願であると記している。王法は仏法の主であり仏法は王法の宝であるという。『興禅護国論』(一
一九八/五八歳)では、『仁王般若経』を論拠として、「法末の世」においては「国王・大臣」が僧とともに「多くの非法の行をなす」と説いている
問題の所在
僧侶に権門寺院からの遁世を決断させた要因のひとつに不求名聞の体現がある。寺院の権門化に伴い、公的法会への出仕や学問の研鑽が栄耀・昇進へ
と繋がるようになると、一部の僧侶たちはそれを本来の僧にはそぐわない態度であるとして斥けるようになった。法華・念仏三昧といった浄土業に専念
するときのみ閑居地へと身体を移動させるのではなく、権門寺院体系そのものからの「離脱」を志向したのは、名利名聞を斥けること自体に清浄性の確
保という重要な価値を見出したからであった。こうした遁世は一〇世紀中期に登場し、院政後期になると形式化していく。
そうした状況において、栄西(一一四一~一二一五)は、建暦三年(一二一三)四月二十六日に西園寺公経に代わって下命された法勝寺九重塔の再建
を終えると、その勧賞として大師号を朝廷に要請した。生前の大師号宣下は日本において前例がなく、しかも僧侶側からの要請は前代未聞であった。そ
の意味でこの出来事は、不求名聞を是とし、為政的位置との緊張やそこに就くことに対する葛藤を保持してきたそれまでの仏教界のひとつの画期といえ
る。
戦前からこのいわゆる大師号宣下事件は、藤原定家『明月記』と慈円『愚管抄』によって事件の経過と批判内容を確認し、無住『沙石集』でその動機
を解釈するという手順で説明されてきた 。1すなわち、『明月記』建暦三年五月三日条は、栄西の大師号要請を実現するための「議定」があった様子をま

171
ず伝え、「存生の大師号我朝に先蹤無し」と批判を加える。翌五月四日条では、大師号宣下のための「諸司」もすでに整えられていることから、今日に
も沙汰が下されるのではないかという疑惧が記される。最終的に大師号の宣下はなかったが、栄西はこの五月四日に権僧正に補任された 。2一〇名の定員
に欠員が無いなかで、栄西のために増員がなされるという異例の形式でそれは行われた。
そして定家はこの栄西を、「内講 二賄賂 一、外成 二懇望 一、是非 二上人之法 一」、「思 二国家 一人、尤可 レ有 二斟酌 一歟」 と3、宗教界の要人に賄賂を贈った斟
酌の無い人物として痛烈に非難している。同年四月二十九日条には、栄西が法勝寺九重塔の落慶に際して宗教界の要人に賄賂を贈ったうえで大師号を望
み、塔再建の勧進職を栄達の手段にしているという非難を記してもいた 。4また『愚管抄』は、「大師号ナンド云サマアシキ事サタアリケルハ、慈円僧正
申トドメテケリ。」 と5、大師号申請の取り消しが慈円の反対によってなされたと記す。さらにその前文では、「院ハ御後悔アリテ、アルマジキ事シタリ
トヲホセラレケリ。」と、後鳥羽上皇が権僧正宣下をも後悔したと述べている。栄西の大師号要求は、このように受け入れ難い行動として当該期におい
ては 認 知 され た の であ る 。
しかし、鎌倉後期になると事件と栄西への評価は一変する。無住は『沙石集』のなかで、「遁世の身ながら、僧正になられけるに、遁世の人をば、非
人とて云ひかひなき事に、名僧思ひ合ひたる事を、仏法の為、利益無く思ひ給ひて、名聞にはあらず。遁世門の光を消たじとなり。」 と6、栄西に対する
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-07(2016 年 3 月 31 日)

2015 年度公募研究成果論文

栄西の大師号要請について

吉岡 諒
(2015 年度 BARC 公募研究員)

目次
問題の所在
一 王法と仏法の関係
二 戒律観と機根観
三 入宋の影響
むすびにかえて
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
・ 尾 崎 光尋 『 日本 天 台論義 史 の 研究 』 (昭 和 四十六 年 、 法華 大 会事 務 局発行 、 芝 金聲 堂 )
・ 尾 上 寛仲 『 日本 天 台史の 研 究 』( 平 成二 十 六年、 山 喜 房佛 書 林)
・ 天 台 宗典 編 纂所 編 『正續 天 台 宗全 書 目録 解 題』( 二 〇 〇〇 年 、春 秋 社)
・ 清 原 惠光 「 天台 論 義の形 成 過 程」 ( 智山 勧 学会編 『 論 義の 研 究』 青 史出版 、 二 〇〇 四 年、 六 五―一 〇 九 頁)
・ 清 原 惠光 「 天台 の 論義と 看 経 行」 ( 道元 徹 心編『 天 台 ―比 叡 に響 く 仏の声 ― 』 二〇 一 二年 、 自照社 出 版 )
・ 野 本 覚成 「 天台 の 論義― 草 木 成仏 ― 」( 智 山勧学 会 編 『論 義 の研 究 』青史 出 版 、二 〇 〇四 年 、一一 〇 ― 一五 五 頁)
・ 武 覚 超「 法 華大 会 広学竪 義 」 (武 覚 超『 比 叡山仏 教 の 研究 』 法藏 館 、二〇 〇 八 年、 一 二二 ― 一六七 頁 )
・ 「 竪 義( 法 華大 会 )」( 天 台 宗実 践 叢書 編 纂委員 会 編 『天 台 宗実 践 叢書』 第 二 巻、 平 成五 年 、大蔵 舎 、 二九 〇 ―三 一 七頁)

183
2 . 論義 故 実類 書 には、 様 々 な情 報 が含 ま れてお り 、 法会 記 録類 書 として 整 理 分類 す る。
以 上 、大 枠 を提 起 してみ ま し た。 な お上 記 枠組み を も って し ても 文 献によ っ て は何 れ とも 判 断が難 し い 典籍 も ある や も知れ ま せ ん。
天 台 論義 書 の研 究 は、そ の 関 連す る 文献 が 膨大に あ る こと か ら基 礎 的研究 調 査 が必 要 です 。 さらに 天 台 論義 関 連文 献 を研究 す る 場合 に
お い て も、 文 献資 料 の調査 整 理 に際 し ても 、 直接文 献 資 料に 向 かい 合 わない と 十 分な 研 究成 果 を期待 で き ない と 思い ま す。
【 参 考 文献 】
・ 渋 谷 亮泰 編 『昭 和 現存 天 台 書籍 綜 合目 録 』(平 成 五 年、 法 藏館 )
・ 延 暦 寺法 儀 音律 研 究所・ 延 暦 寺徒 弟 学問 所 編輯『 法 華 八講 山王 講 表白 五 伽 陀音 用 』( 内 扉題『 山 王 礼拜 講 』) ( 昭和三 十 三 年、 芝
金聲堂)

184
・ 比 叡 山延 暦 寺発 行 『法華 十 講 』( 昭 和六 十 二年第 二 版 、芝 金 聲堂 )
・ 延 暦 寺学 問 所『 法 華論義 典 範 合 本 』( 昭 和三十 六 年 、芝 金 聲堂 )
・ 藤 谷 惠燈 編 『冠 導 台宗二 百 題 』( 明 治二 十 八年、 法 藏 館)
・ 貞 舜 撰『 宗 要柏 原 案立』 ( 硲 慈弘 訳 『国 訳 一切経 』 和 漢撰 述 部 諸 宗部 第 巻 、 昭 和 三十 六 年、大 東 出 版社 )

19
・ 古 宇 田亮 宣 編『 和 訳 天 台 宗 論義 二 百題 』 (昭和 四 十 一年 、 隆文 館 )
・ 古 宇 田亮 宣 編『 和 訳 天 台 宗 論義 百 題自 在 房 改 訂 版 』( 昭 和五 十 二年、 隆 文 館)
・ 尾 上 寛仲 『 法華 大 会広学 竪 義 』( 昭 和四 十 六年、 比 叡 山延 暦 寺法 華 大会事 務 局 )
* (平 成 二十 三 年改訂 復 刻 版収 録 『日 本 天台史 の 研 究』 平 成二 十 六年、 山 喜 房佛 書 林)
の 「 要 文集 」 も含 め る。論 題 と 要文 が 整理 さ れてい る 文 献を 含 める 。
3 . 論義 集 類書
『 台宗 二 百題 』 は、宗 要 ・ 義科 ・ 問要 の 内容を 持 っ た編 集 論義 書 である か ら 、単 一 集成 叢 書と位 置 づ ける 。
ま た論 題 のみ を 集録し た 「 論題 集 」類 。 あるい は 義 科の 本 算・ 末 算の算 題 の みを 収 録し た もの。 論 題 とそ の 典拠 を 記述し た も の。 論
義 故 実 書類 や 宗要 ・ 義科と は 別 の論 義 口伝 書 類も含 め る こと に する 。
さ らに 諸 流派 ご との異 義 を 集録 し た「 異 義集」 は 論 義集 類 書と し て一括 す る 。
* 論義 口 伝書 は 、内容 か ら 論義 に 直接 関 係する も の と、 事 書類 の ものと を 分 別す る 必要 が ある。 ま た 得略 の みを 扱 うもの や 証 義者 の
御 精 の みを 収 録し た ものな ど 義 科書 類 との 区 別は要 注 意 であ る 。
* とも か く宗 要 や義科 の 論 題( 本 算・ 末 算)や 所 依 のみ を 記し た 目録類 で も 論義 書 と見 な してこ こ に 含め る 。

185
B 密教論義書
1 . 台密 で の所 依 の経疏 『 大 日経 義 釈』 を 主とし 、 諸 論題 を 設け た 論義書 。
2 . 諸経 論 疏か ら 問題点 を 取 り上 げ た台 密 教相論 に 関 する 論 義書 類 。
C 円戒論義書
1 . 『天 台 菩薩 戒 義記』 に 基 づく 「 戒論 義 書」類 全 般 を収 め る。
2 . 特に 実 導仁 空 の著作 ・ 講 述書 類 とそ の 周辺の 人 師 の文 献 は要 注 意。
D 法 会 記 録 類書
1 . 法会 次 第・ 法 則・表 白 類 の法 儀 に関 す る文献 や 歴 史記 録 類は 法 会記録 類 書 に一 括 。
て い な い単 独 の文 献 もある 。
恵心 檀 那両 流 との関 係 な ど考 慮 する 必 要があ る 。 宗要 口 伝類 と して一 括 す る。
( ロ )義 科 書に は 、「義 科 集 」と し て十 六 算、あ る い は二 十 二算 の 算題が 揃 っ てい る 文献 。 また各 々 単 独の 文 献も あ る。こ れ 等 に著 述
書 ・ 編 集書 ・ 講義 記 録・論 義 口 伝書 が ある 。 義科口 伝 類 も考 慮 する 。
* 義科 の 次第 分 類を『 渋 谷 目録 』 や「 所 依目次 」 を 参照 に 提示 す る。
[ 玄義 分 ] A 教相義 ・ B 十如 是 義・ C 十二因 縁 義 ・D 二 諦義 ・ E眷属 妙 義 ・F 五 味義 ・ G十妙 義
[ 文句 分 ] H 三周義 ・ I 即身 成 仏義 ・ J嘱累 義 ・ K三 身 義・ L 一乗義
[ 止観 分 ] M 六即義 ・ N 四種 三 昧義 ・ O三観 義 ・ P被 接 義・ Q 名別義 通 義
[ 維摩 疏 ] R 仏土義

186
[ 涅槃 疏 ] S 仏性義
[ 四教 義 ] T 菩薩義 ・ U 七聖 義
[ 観経 疏 ] V 九品往 生 義
( ハ )問 要 書に は 一定の 形 式 はな い 。「 天 台三大 部 」 を中 心 にそ の 微細な 問 題 を問 答 した も の。宗 要 ・ 義科 で 扱わ な い問題 を 収 録し た
り 、 あ るい は 『法 華 経』に 基 づ きな が ら細 部 の議論 を 集 めた も のを 収 める。
要す る に天 台 教学内 で の 微細 な 疑義 を 収録し 、 問 答し た もの な どは一 括 し て含 め る。
『三 大 部廬 談 』や『 三 大 部伊 賀 抄』 は 、三大 部 章 疏に お ける 問 題点を 見 出 し事 書 とし て 、問答 体 を 基本 に 議論 し ている 問 要 書と も
見 ら れ る。 随 文註 釈 書では な い もの 。 『七 百 箇條鈔 』 や 『尊 談 』な ど 三大部 に お ける 問 題点 を 事書し た も の。 ま た論 義 用意と し て
論 義 書 と見 な して お くのか 、 お およ そ 定義 す る必要 が あ るだ ろ う。
こ の よう な 問題 は 、例え ば 『 法華 経 』二 十 八品中 の 各 品に 種 々あ る 口決を 纏 め た文 献 であ る 、中将 内 供 奉尊 賀 述『 山 家相承 経 旨 深義 脈
譜 』 ( 書写 本 )が あ ります 。 こ の書 を 『渋 谷 目録』 で み ると 問 要に 分 類され て い ます 。 内容 か ら見れ ば 、 所謂 る 論義 の 問要書 と も 異な り
ま す 。 強い て 分類 す るなら ば 「 問要 口 伝」 と でも言 え そ うな 文 献で あ ります 。
こ こ で、 天 台論 義 書の整 理 分 別に つ いて 試 論を述 べ て みま す 。
天 台 論義 書 を分 類 整理す る 場 合、 A 顕教 論 義書・ B 密 教論 義 書・ C 円戒論 義 書 ・D 法 会記 録 類書の 四 部 に大 別 する こ とにし ま す 。そ し
て 更 に 細分 類 を設 け ること と し ます 。
A 顕教論義書
1 . 経典 論 義書

187
『 法 華経 』 を中 心 とした 法 華 十講 ・ 法華 八 講、あ る い は法 華 三十 講 などと の 関 係か ら 、経 典 論義書 を 第 一と す る。
* ここ に は、 法 華経品 釈 類 や法 華 経談 義 書類も 含 む こと に する 。 なお論 義 法 会の 次 第中 に 用いら れ る 「品 釈 」「 巻 釈」等 が 独 立し た
文 献 と して あ る場 合 もここ に 含 める こ とに す る。
* 当然 『 法華 経 』開結 『 無 量義 経 』『 観 普賢菩 薩 行 法経 』 や『 仁 王経』 『 金 光明 経 』の 論 義書も 含 ま れる 。
* 『法 華 経』 を 談義し た 文 献や 、 その 他 の諸経 典 を 談義 し た抄 書 もここ に 収 める 。
2 . 宗要 ・ 義科 ・ 問要の 分 類 形式 に 基づ く 論義書 類
( イ )宗 要 書に は 仏・菩 薩 ・ 二乗 ・ 五時 ・ 教相・ 雑 の 六部 立 て典 籍 があり 、 そ の順 序 や内 容 ・論題 も 各 々相 違 する 場 合があ る 。 また 、
六 部 立 てに は なっ て いない 順 序 次第 の 文献 も ある。 こ れ 等に 著 述書 ・ 編集書 ・ 講 義録 ・ 論義 口 伝書な ど が ある 。 さら に 六部が 揃 っ
G八 講 記 付 、 經 供養 記 〔參 照 〕忌記 部 表白
3 口傳 部
A口 傳 法門 惠心流
一 、 宗要口 傳 二 、 七箇口 傳 付、 即 位法 門
B口 傳 法門 檀 那 流〈 玄 旨歸 命 等〉 付 、 青紙 口 傳
4 中古 雜 部 付 、 兩 流并 異 義 5存 海 部 〈雜 著 ノミ コ コニ列 ス 〉
以 上 の よう に 整理 さ れてい ま す 。
こ こ では 、 一法 華 経、二 諸 経 注釈 、 三諸 論 註釈、 四 支 那天 台 、五 教 義部、 六 中 古天 台 部と 大 別し、 要 す るに 経 論・ 註 釈・人 師 ・ 教義 等
と 、 特 に中 古 天台 部 をもっ て 細 かく 分 類さ れ ていま す 。

188
こ こ で論 義 書上 か らの問 題 と なる の が、 先 ほど見 ま し た『 法 華経 』 を中心 と し ての 法 華十 講 ・法華 八 講 、あ る いは 法 華三十 講 な どと の
関 係 が 問 題 と な り ま す 。 先 に 見 ま し た 『 三 百 帖 』 『 法 華 十 軸 鈔 』 ( 『 続 天 台 宗 全 書 』 顕 教 7 や) 『 法 華 三 十 講 四 條 論 義 』 等 が あ り 、 さ ら
に こ れ 等に 対 する 註 釈書が あ り ます 。 ここ に 問題点 の み を列 挙 しま す 。
* 「 法華 経 品釈 」 類や「 法 華 経談 義 書」 類 も含む こ と にす る のか ど うか。 論 義 法会 に おい て の次第 中 に 用い ら れる 「 品釈」 「 巻 釈」 等
が 独 立 した 文 献と し てある 場 合 もあ り 、ど の ように 位 置 づけ て おく の か定義 し て おく 必 要が あ る。
* 『 法華 経 』『 無 量義経 』 『 観普 賢 菩薩 行 法経』 や 『 仁王 経 』『 金 光明経 』 の 論義 書 も含 ま れるこ と に なる だ ろう 。
* 『 法華 経 』を 談 義した 文 献 や、 そ の他 の 諸経を 談 義 した 抄 書も 諸 経論の 論 義 書と 位 置づ け て良い か ど うか 問 題で あ る。例 え ば 『法 華
経 直 談 鈔』 『 梵網 経 直談抄 』 な ど、 問 答体 で は無い も の を含 む のか 除 くのか 。 こ れら は 諸経 論 註釈書 の 位 置付 け とす る のか、 広 義 に
三 、 諸論 註 釋 〔 參 照 〕密 、 諸論
1 法華 論 2 大 智度 論 3起信 論 4 唯識 論 〔含〕 唯 識 法相學
5 倶舍 論 〔含〕 倶 舍 學 6 因 明論 7諸 論 註
四 、 支那 天 台 宗義部
1 大乘 止 觀 南岳 2 小 止觀 = 修習止 觀 天台 (中 略 )
四教儀 諦觀録 教觀綱宗 智旭
14

15

五 、 教義 部 〈教義 雜 著 ヲ屬 收 ス〉
1 高祖 大 師部 2陳 隋 唐部 3 趙 宋 元明 部 4山家 山 外 部
5 唐決 6 宗 祖 大師 部

189
7 慈覺 大 師部 8智 證 大師 部 9 惠 心僧 都 部
日 本 天 台 上古部 近 世 天台 部
10

11
六 、 中古 天 台部
1 名目 類
2 論義 部
A宗 要 山門 三 井流 B 義科 C問 要
D論 義 一般〈 義 科 集 算 番論義 長講會 法 華 卷釋 四論義 〉
E論 義 故實 F大 會 記録
て い ま す。 ( 目次 抜 抄)
1 顯教部
一 、 法華 經
1 法華 經 〈法華 經 ノ 註 法 華經 義 法華 大 意 〉
2 三大 部
A三 大 部〈本 書 関 係ノ 序 モ全 部 收ム〔 參 照 〕音 義 問要〉
B法 華 玄義 付 、 同科 文
C法 華 文句 付 、 同科 文
D摩 訶 止觀 付 、 同科 文 〈 支 那日本 上 世 中古 近 世〉

190
〔參 照 〕 大乘 止 觀 小 止觀 止 觀 大意 止觀 義 例 圓頓章
3 觀音 經 觀音 玄 義 同文句 〔 參照〕 禮 懺 儀 講式 密 觀音 法
4 法華 十 軸抄
二 、 諸經 注 釋 〔 參 照 〕密 教 部經 註 及各經 法
1 無量 義 經 〔 參 照 〕法 華 經釋 義 十軸 抄
2 觀普 賢 菩薩行 法 經 〔 參 照〕 十 軸抄
3 仁王 經 〔參 照 〕 密、 仁 王法 講式
4 金光 明 經 〔 參 照 〕禮 懺 儀 講式 ( 以 下略 )
五 眞海 十册 ( 書寫 本 ・木 版 本) 〈三 百 二 十四 題 〉
六 證義集 十册 ( 木版 本 ) 〈百 三 十 七題 〉
七 書合 十 二册 ( 『天 台 宗全 書 』二三 ) 〈百 八 十 八題 〉
八 大諮請 廿册 ( 木版 本 ) 〈百 四 十 六題 〉
九 定賢 十册 ( 書寫 本 ・木 版 本) 〈三 百 二 十題 〉
十 異義集 二册 ( 書寫 本 ・木 版 本・天 台 宗 稀籍 刊 行会 ) 〈百 三 題 〉
以 上 のよ う に、 こ れには 十 書 目が 挙 げら れ 、各書 目 の 論題 が 一覧 出 来るよ う に なっ て いま す 。ただ こ こ に列 挙 され て いる文 献 は どれ も
皆 な 木 版本 と して 現 存する も の であ り 、そ の 他の膨 大 に 現存 す る書 写 本は省 略 さ れて い ます 。 これら に つ いて も 内容 吟 味の上 で す が、 広
く 公 刊 され る べき 典 籍も多 数 あ りま す 。因 み に『台 宗 二 百題 』 では 、 宗要〈 九 十 四題 〉 義科 〈 四十三 題 〉 問要 〈 七十 題 〉の計 二 百 七題 と

191
な っ て いま す 。
天 台 宗典 編 纂所 で は『続 天 台 宗全 書 』第 三 期刊行 を 準 備し て おり ま して、 例 え ば「 問 要書 」 である 『 肝 要口 決 抄』 が 刊行予 定 書 目と な
っ て い ます 。
** 資 料⑨ **
4. 天 台論 義書の 研 究課 題 (諸 本の分 類 整理 と 翻刻 など)
天 台 論義 の 研究 に 欠かせ な い 文献 に つい て 考えて 見 ま しょ う 。
先 ず 渋谷 亮 泰編 『 昭和現 存 天 台書 籍 綜合 目 録』( 『 渋 谷目 録 』) を 参照し て 、 その 目 次の 順 序に従 う と 、顕 教 部が 第 一番目 に 設 けら れ
7 大 悲 菩薩 受 苦事 ( 菩 薩部 下 № )
25

8 葉 上 千釋 迦 事 (佛 部 上 №8) ** 以 下 省 略 **
** 資 料⑧ **
先 ほ どの 『 宗要 柏 原案立 』 と 、こ の 『宗 要 集私聞 書 光聚 坊 』と の 論題を 見 る と大 き な相 違 は無い よ う です 。 宗要 は 一宗の 大 綱 とし て
纏 め ら れて い ます か ら、幾 つ か の出 入 りが あ るもの の 大 差は 無 いと 言 うこと に な りま す 。但 し 、異義 伝 承 には 注 意が 必 要です 。
次 に 「問 要 書」 類 文献に つ い て見 て みま し ょう。
◆ 問 要 書に は 一定 の 形式は な い とさ れ ます 。 「天台 三 大 部」 を 中心 に その中 の 問 題点 を 問答 し たもの 。 あ るい は 宗要 ・ 義科で 扱 わ ない 問
題 を 収 録し た り、 宗 要・義 科 を 書き 合 わせ た ものが あ り ます 。 また は 『法華 経 』 に基 づ きな が ら細部 の 議 論を 集 めた も のや天 台 教 学内 で

192
おおわき
の 微 細 な疑 義 を収 録 し、問 答 し たも の など も ありま す 。 『百 題 自在 房 』(木 版 本 )や 『 例講 問 答書合 』 ( 『天 台 宗全 書 』二三 ) 、 『 大 諮
ざし
請 』 ( 木 版本 ) など 多 数が現 存 し てい ま す。
因 み に『 論 題集 』 (寛文 四 年 (一 六 六四 ) 木版本 、 叡 山文 庫 蔵) 目 次「問 要 目 録」 を 参考 に 問要書 を 列 挙し て みま す 。
『 論題 集 』「 問 要目録 」 〈 凡題 數 二千 二 題〉
一 自在房 十册 ( 木版 本 ) 〈百 題 〉
二 直雜 卅册 ( 『天 台 宗全 書 』三・ 一 七 ・二 五 ) 〈二 百 六 十四 題 〉
三 聞名集 三册 ( 書寫 本 ・木 版 本) 〈三 百 八 題〉
四 眞祐 十册 ( 書寫 本 ・木 版 本) 〈百 十 二 題〉
令 聞書 畢 。蓋是 檀 那 嫡嫡 惠 光院 流 大綱也 。 堅 不
可 外見 者 也 台 嶺 舜増在 判 。
= == = == = ==( 以 上 底本 ) == = === = = =
對 校 イ( 本) ( 六 部 類 な し 十 七 卷 。 比 叡 山 南 溪 藏 、 承 應 二 年 ( )
1653
中 野刊 十 七册木 版 本 。論 目 順序 は 底本と 全 異 。卷 册 數も
底 本と 異 なるが 、 内 容は ほ ぼ全 同 )
* 本 文 對 校 に は 、 こ の イ( 十) 七 卷 木 版 本 の み を 使 用 し た が 、
こ の 卷號 ・ 奧書集 で は 、書 寫 本三 本 の卷號 ・ 奧 書を 並 記し た 。
a( =
) 叡 山文庫 眞 如 藏十 七 册寫 本

193
b( =
) 叡 山文庫 別 當 代藏 十 七册 寫 本
c( =
) 西 教寺正 教 藏 十七 册 寫本
對校卷一
1 三 惑 同時 斷 ( 教 相部 中 № )

50
2 四 果 支佛 廻 心前 後 事 ( 二 乘部 下 № )

42
3 二 種 相即 事 (雜 部 中 № )

80
4 超 中 二果 事 ( 二 乘部 上 № )

34
5 二 乘 相應 心 心所 事 ( 二 乘部 上 № )

30
6 羅 漢 果退 不 退事 ( 二 乘部 上 № )

35
■ 『 続 天台 宗 全書 』 論草5 下 宗 要 集私 聞 書 光聚坊
⑧ ( 表 題) 宗 要教 相 部 中卷
⑨ ( 表 題) 宗 要教 相 部 下帖
( 奧 書) 建 武三 年 六月十 三 日 ( ) 於 本院東 谷 佛 頂尾 光 聚房
1336
令 書寫 畢 。蓋是 檀 那 嫡嫡 惠 光院 流 大綱。 堅 不 可
外 見者 也 台 嶺 舜増在 判 。
元 龜二 年 之夏中 ( ) 於山 門 神藏寺 圓 鏡 院書 寫 之。
1571
竪 者舜 雄 書之。
天 正三 年 拾月十 五 日 ( ) 於 下野山 田 清 水寺 書 寫之 。
1575

194
式 部卿 祐 海書之 。
願 以書 寫 力 師 匠 及 父母 我 等 與 衆生 皆 具 成 佛道 。
⑩ ( 表 題) 宗 要五 時 部 ( 内 題 )宗 要 五時 部
⑪ ( 表 題) 宗 要五 時 部
⑫ ( 表 題) 宗 要雜 部 ( 内 題 )宗 要 集私 聞 書
⑬ ( 表 題) 宗 要雜 部
⑭ ( 表 題) 宗 要雜 部
( 奧 書) 建 武四 年 七月十 七 日 ( ) 於 本院東 谷 佛 頂尾 光 聚房
1337
十 五。 塵 沙證 據 十 六 。 四信 五 品 十七。 人 天 感佛 十 八。無 性 有 情
十 九。 草 木成 佛 二 十 。 決定 業 轉 二十一 。 三 惑同 體 二 十二。 四 依 對判
次 に 、同 一 文献 で ありな が ら 、書 写 本と 木 版本の 構 成 が異 な る場 合 につい て 見 てみ ま す。
【 同 一 文献 、 書写 本 ・木版 本 : 相違 例 】
『 宗 要集 私 聞書 光聚坊 』 ( 『続 天 台宗 全 書』論 草 4 ・5 )
底本 ( 宗要 六 部、十 四 卷 。日 光 天海 藏 、天正 三 年 ( ) 祐 海書寫 奧 書
1575
十四 册 ①~⑭ 寫 本 。論 目 順序 は 底本の 配 列 順)
■ 『続 天 台宗 全 書』論 草 4 上 宗要 集 私聞書 光 聚坊
① ( 表 題) 宗 要佛 部 上卷

195
② ( 表 題) 宗 要佛 部 下卷 ( 内題 ) 宗要 佛 部 下卷
(№ 自 受 用 有爲 無 爲 奧 書 識 語)
10

元 徳三 年 七月十 七 日 聞書 畢 ( )。
1331
③ ( 表 題) 宗 要菩 薩 部 上卷
④ ( 表 題) 宗 要菩 薩 部 下卷 (内 題 )宗 要 集私聞 書
⑤ ( 表 題) 宗 要二 乘 部 上卷 (内 題 )宗 要 二乘部
⑥ ( 表 題) 宗 要二 乘 部 下卷
⑦ ( 表 題) 宗 要教 相 部 上卷 (内 題 )宗 要 教相部
六 。果 頭 無人 七 。 四 教八 相 八。三 惑 同 斷 九 。 十二品 斷 十 。通 圓 相即
十 一。 四 教證 據 十 二 。 三教 地 位 十三。 一 生 妙覺 十 四 。地上 空 假
十 五。 名 別義 通 十 六 。 三種 四 教 十七。 十 地 虎狼
宗 要 柏原 案 立 第 四(菩 薩 部 )
一 。四 依 供佛 二 。 別 教生 身 三。補 處 住 天 四 。 三藏不 退 五 。通 教 不退
六 。別 教 不退 七 。 通 教劫 數 八。三 藏 劫 數 九 。 二土弘 經 十 。有 教 無人
十 一。 通 教出 假 十 二 。 三根 被 攝 十三。 三 藏 墮惡 十 四 。大悲 受 苦 十 五。 大 悲闡提
十 六。 元 品能 治
宗 要 柏原 案 立 第 五(二 乗 部 )

196
一 。住 果 縁覺 二 。 二 乘通 力 三。二 乘 心 心 四 。 帶權二 乘 五 。法 華 小益
六 。定 性 二乘 七 。 超 前三 果 八。超 中 二 果 九 。 羅漢果 退 十 。住 果 聲聞
十 一。 三 周證 人 十 二 。 五果 迴 心 十三。 別 教 二乘 十 四 。二乘 智 斷
十 五。 三 周定 性
宗 要 柏原 案 立 第 六(雑 部 )
一 。二 種 相即 二 。 法 華授 記 三。十 界 眞 實 四 。十界 互 具 五。 不 定毒發
六 。六 根 外境 七 。 四 土即 離 八。三 土 三 道 九 。二界 増 減 十。 三 因佛性
十 一。 九 識證 據 十 二 。 人天 小 善 十三。 初 分 二十 空 十 四。補 處 智 力
⑱ 近 代 尊 法院 竪 義に お いて、 義 科 に四 箇 の大 事 、宗要 に 三 箇の 大 事と い うこと を
探 題が 尋 ねら れ た。 … … … … … …… … ……… … … …… … …… … ……… … … …… … …F
以 上 「宗 要 集」 お よび「 宗 要 」に 関 連す る 概要を 纏 め てみ ま した 。 兎にも 角 に も右 の よう に 、「宗 要 集 」に は 多種 の 異義伝 承 が あっ た
よ う で す。
次 に は、 宗 要六 部 立書と 同 一 書目 で 巻立 ・ 論題順 序 不 同の 文 献例 を 挙げま し た 。
【 宗 要 六部 立 :例 】 貞舜撰 『 宗 要柏 原 案立 』 (大正 蔵 七 四) で は、 ( 一)仏 部 ・ (二 ) 五時 部 ・(三 ) 教 相部 ・ (四 ) 菩薩部 ・ ( 五) 二
乗 部 ・ (六 ) 雑部 と いう順 序 に なっ て いて 、 全部で 九 十 四論 題 です 。
宗 要 柏原 案 立 第 一(仏 部 )
一 。二 佛 並出 二 。 前 後自 受 三。應 身 八 相 四 。 自受用 智 五 。三 身 法界

197
六 。通 教 教主 七 。 二 聖發 心 八。三 佛 出 世 九 。 自受所 居 十 。葉 上 釋迦
十 一。 新 成顯 本
宗 要 柏原 案 立 第 二(五 時 部 )
一 。兼 但 對帶 二 。 爾 前分 身 三。爾 前 身 土 四 。 後番五 味 五 。 爾前 久 遠
六 。説 五 時教 七 。 分 身儀 式 八。淨 穢 涅 槃 九 。 二經勝 劣 十 。 提謂 經 攝
十 一。 倶 知常 住 十 二 。 惡人 授 記 十三。 五 時 證據
宗 要 柏原 案 立 第 三(教 相 部 )
一 。四 門 實理 二 。 住 上壽 命 三。住 上 超 次 四 。 三教初 焔 五 。入 住 時節
⑦ 惠 心 流 には 八 十四 算 、檀那 流 に は九 十 五算 。 ……… … … …… … …… … ……… … … DE
⑧ 惠 心 流 八十 四 算の 沙 汰は、 文 殊 樓の 文 殊と 惠 心僧都 の 一 夜夢 中 の問 答 による 。 … DE
⑨ 宗 要 の 算を 立 てる の に八十 九 十 の不 同 があ る 。…… … … …… … …… … ……… … … …E
⑩ 宗 要 六 部の 次 第に 惠 心・檀 那 の 不同 が ある 。 ……… … … …… … …… … ……… … … EF
檀 那は 、 佛・ 菩 薩・二 乘 ・ 教相 ・ 五時 ・ 雜と列 す る 。
惠 心は 、 佛・ 五 時・教 相 ・ 二乘 ・ 菩薩 ・ 雜と列 す る 。
⑪ 普 通 の 次第 は 、佛 ・ 菩薩・ 二 乘 ・五 時 ・教 相 ・雜と 列 す る。 … …… … ……… … … …E
こ れは 華 臺房 明 慶が列 し た 。
⑫ 初 め 慈 惠大 師 が横 川 定心房 に て 講談 。 (以 下 ①)… … … …… … …… … ……… … … …F

198
⑬ 慈 惠 大 師社 頭 にお い て二百 箇 條 を下 す 。
惠 心は 八 十二 、 檀那は 八 十 四條 の 篇目 。 後、寛 印 十 條を 加 える 。 …… … … …… … …F
⑭ 惠 心 の 六部 の 次第 は 多寶塔 中 相 承と い う。 … ……… … … …… … …… … ……… … … …F
⑮ 九 十 枝 の草 案 を草 續 の本と も 算 續の 本 とも い い、横 川 の 經藏 に 收め る 。…… … … …F
(= ⑤ ―1 ・ 2)
⑯ 宗 要 に 三箇 度 の相 傳 がある 。 … …… … …… … ……… … … …… … …… … ……… … … …F
⑰ 〔 慈 惠 〕大 師 在世 に は、六 部 の 類聚 は なく 、 東陽以 來 に 部類 を 分け た 。
皇 覺も 同 じで あ り、俊 範 も 分け た 。 … ……… … … …… … …… … ……… … … …… … …F
集 口 傳 鈔』 ( 叡山 文 庫蔵、 写 本 )、 E 『宗 要 抄上三 川 』 (『 天 台宗 全 書』六 ) 、 F『 捃 拾集 』 (叡山 文 庫 蔵、 木 版本 ) の六書 を 用 いて み
ました。
① 基 本 と なる 「 宗要 集 」には 四 本 があ る 。… … ……… … … …… … …… … ……… … A BF
1 宗眼 集 (未 再 治本、 毘 沙 門堂 流 秘蔵 )
2 宗圓 抄 (再 治 本、恵 心 流 相承 )
3 宗滿 抄 (再 治 本、檀 那 流 相承 )
4 宗要 集 (流 布 本)
② 宗 要 は 宗葉 で 、宗 要 の究極 を 紅 葉と 名 く。 … ……… … … …… … …… … ……… A B EF
③ 宗 要 集 を入 れ た箱 を 紅葉の 箱 と いう 。 …… … ……… … … …… … …… … ……… … A BF

199
④ 檀 那 に は『 宗 滿集 』 、惠心 に は 『宗 圓 集』 … …… … … …… … …… … ……… … … B F
⑤ 宗 要 集 の算 題 に四 つ の不同 が あ る。 … … … ……… … … …… … …… … ……… … … C F
1 禪門 供 奉の 次 第。第 一 に は四 教 四門 、 第二に は 兼 但帶 對 の算 と する次 第 。
横川 の 一院 に 皆用い る 。 ( E)
2 無性 有 性の 算 を第一 と す る次 第 。近 來 不用。 ( E)
3 北谷 の 次第 。 三惑同 斷 を 初め と する 。 惠光院 、 竹 林坊 に 用い る 。
4 佛・ 菩 薩・ 二 乘・五 味 ・ 雜・ 教 の六 篇 に類聚 さ れ たも の 。
⑥ 慈 惠 大 師一 夏 九旬 に 九十の 算 題 を下 す 。… … ……… … … …… … …… … ……… … … DE
簡 也 。 四算 ニハ 一 科 ノ中 ノ難 事 相 違 算 也 。 謂 ク進 釋慥
ミテ 算 ヲ下
ナル 不
シテ 爲 レ尋
シテ
レ 但 題 ニ進
ヲハ 釋 ヲ出 テ令
ミテ 答 ヘ押 テ難
レハ
レ 也 。五 算
スル 返 テ一 算 ヲ下
ニハ
。如 二
ス 四算 一
ク 押 テ難
ノ 也 。不 レ爲 レ尋
スル 也 。治 部 卿 ノ阿 闍 梨 慶 賀 御 堂 ノ竪 義 ニ五 算 ニ爲
ヲハ 尋 ヲ不 覺 ノヲ ホ ヘ 取
シテ
レ 。五 算 ニ返 テ大 事 ヲ下 ス事 ハ。若 シ一
リヌ
算 ニ竪 ヲ不 詰至 二
ンハ
レ 第 五 ノ算 一
テ 以 二大 事 一
ニ 竪 者 ヲ爲 レ詰
ヲ 也
ンカ
こ こ で実 際 の文 献 からの 義 科 算題 お よび 論 題につ い て 見て み ます 。 「義科 集 」 は例 え ば『 続 天台宗 全 書 』で 刊 行中 の 義科『 廬 談 』が あ
り ま す し、 ま た『 阿 抄』と い う 比較 的 古い 義 科集も あ り ます 。 今回 は 以前に 少 し だけ 整 理を 試 みた『 枕 月 集』 を 取り 上 げまし た 。
** 資 料⑦ **
こ の 目録 か ら判 る ことは 、 全 二十 二 義科 の 内、C 十 二 因縁 義 ・F 五 味義・ L 一 乘義 ・ T菩 薩 義・U 七 聖 義・ V 九品 往 生義の 六 義 科が あ
とく りやく ふ
り ま せ んが 、 十六 義 科が揃 っ て いる こ とと 、 幾つか の 論 題に は 精義 「得 略 譜 」 が残 存 し てい る 典籍 が ありま す 。 この 『 枕月 集 』も未 だ
翻 刻 さ れて い ませ ん し、全 体 を 通し て の研 究 も十分 に さ れて い ませ ん 。

200
次 に 「宗 要 書」 類 につい て 見 てみ ま しょ う 。
◆ 宗 要 書に は 仏・ 菩 薩・二 乗 ・ 五時 ・ 教相 ・ 雑の六 部 立 て典 籍 があ り 、その 順 序 や内 容 ・論 題 も各々 相 違 する 場 合が あ ります 。 ま た、 六
部 立 て には な って い ない順 序 次 第の 文 献も あ ります 。 そ して こ れ等 に 著述書 ・ 編 集書 ・ 講義 録 ・論義 口 伝 書な ど があ り ます。 中 に は六 部
が 揃 っ てい な い単 独 の文献 も あ りま す 。
さ ら に恵 心 檀那 両 流との 関 係 など を 考慮 す る必要 が あ りま す 。例 え ば『宗 圓 集 』『 宗 滿集 』 の両集 は 、 宗要 口 伝類 と なりま す 。
こ こ で「 宗 要集 書 」の伝 承 に つい て 、ま ず 抜書整 理 し 、次 下 の十 八 項目と し ま した 。 この 典 據には 、 A 『宗 要 集私 見 聞』( 叡 山 文庫
蔵 、 写 本) 、 B『 宗 圓集』 ( 『 中世 に おけ る 天台論 義 書 関係 資 料』 Ⅱ 資料編 ) 、 C『 宗 要集 智 晃抄』 ( 叡 山文 庫 蔵、 木 版本) 、 D 『宗 要
└ 七 聖 義( 四 教義 第 六) ┤ 身 證不 還 亘住 果 勝進耶
一算三 └ 成 論意 第 十六 心 見道歟
二三之 算 合 有五 題
(觀 經 疏始自 第 十 四。 ┌安 養 世界阿 彌 陀 如來 勝 應劣 應 中何耶
・ 九 品 往生 義 上 品 觀終至 于 卷 訖) ─ ┴五 逆 謗法者 生 極 樂歟
二三之 算 合 有五 題
七 科 分 合一 算 二十 九 箇條。 末 算 三十 四 箇條
▼ 『 十 六義 科 目録 』 (『天 台 宗 全書 』 二三 、 二五上 )
十 六義 科 目録 千 觀 内供撰
┌ 教 相義 玄一但山昔立 レ
因縁義 一
捨 二
之當世取 二
教相義 一
十二
物語有 レ

玄 文 ニ七 ─ ┤ 十 如 是 義 二 十二因縁 二副 二諦義 三業

201
└ 眷 屬妙義 六副 十妙義 七業 五味義 十副
┌ 三 周義 四業 即身成佛義 八業 三身義 九業
文 句 ニ四 ─ ┤
└ 囑 累義 十業
┌ 六 即義 一業 四種三昧義 二業 三觀義 三業
止 觀 ニ五 ─ ┤
└ 被 接義 三業 名別義通義 六副
名 疏 ニ一 ─ ─ 佛 土 義 一業
次 ニ傳 テ云 ク。竪 義 ノ算 題 ヲ下 ス樣 五 品 ナ有 リ。一 算 宗 ノ大 事 。其 義 科 ノ大 綱
ニハ 也 。二 算
ナリ 證 據 。 謂 ク經 論 ノ證 據 ヲ爲 二本 體 一
ニハ 也。三算
ト 本 文 ノ料
ニハ
│ ┌ 本 實成 時 四教成 道 共 唱之 耶
│ │ 通 教意 明 授職灌 頂 成 道耶
│ │ 通 教佛 出 穢土耶
│ │ 迦 葉佛 法 華外別 説 三 悉檀 涅 槃經 耶
│ 一 算 十 │ 本 實成 土 淨穢二 土 中 何耶
├ 十 妙 義( 玄 義七 卷 。本十 妙 段 )┤ 盡 行諸 佛 所有道 法 者 引方 便 文耶
│ │ 釋 尊燃 燈 佛時得 無 生 者通 教 八人 見 地無生 歟
│ │ 千 界涌 出 菩薩悉 應 生 眷屬 歟
│ │ 本 迹二 明 初住理 有 淺 深耶
│ └ 先 授寶 海 記事
│ 末之 算 不 見。 此 内用 之 乎
│ ┌ 長 時華 嚴 方等般 若 等 座外 有 別説 座
│ │ 一 家天 台 意華嚴 成 道 初七 日 説之 耶

202
│ 一 算 六 │ 方 等有 別 説時耶
└ 五 味 義( 玄 義十 卷 。判教 相 章 )┤ 法 華教 主 事
│ 凡 夫見 報 身耶
└ 本 地眞 因 時鑑今 日 機 縁歟
末之 算 不 見。 右 内用 之 乎
一算二 ┌ 四 依供 佛 者並前 位 供 佛歟
・ 一 乘 義( 文 句第 四 。三周 義 後 )┤
└ 住 果聲 聞 過法華 耶 。 三周 義 在
┌ 三 藏教 意 四諦 共 生滅耶
┌ 菩 薩 義( 四 教義 ) ┤ 補 所住 天 事( 宗 要)
│ 一算三 └ 釋 迦彌 勒 同時 發 心歟( 宗 要 )
│ 二三之 算 合 有六 題
│ ┌ 超 越證 人 經七 方 便位耶
│ 一算 八 │前 佛 後佛 自 受用其 體 同 耶( 宗 要)
└ 三 身 義( 文 句九 卷 。壽量 品 ) ┤應 佛 出世 不 轉大小 法 輪 有耶
│圓 教 意三 身 成道同 時 耶
│法 華 已前 諸 經明三 身 相 即旨 耶 (宗 要 )
│自 受 用色 相 事
└應 化 身遍 法 界事( 宗 要 )
二三 四 之 算合 有 十一 題
・ 囑 累 義( 疏 記第 十 。一算 一 ) ── 囑 累經 中 經末事
二三 之 算 合有 五 題
一算二 ┌自 受 用所 居 事(宗 要 )
・ 佛 土 義( 淨 名疏 一 。佛國 品 ) ┤
└分 段 捨不 捨 事(宗 要 )
二三 四 之 算合 有 十七 題

203
大 經 二十 。 一算三 ┌ 涅槃 經 時四 教 機倶知 佛 性 圓常 耶 (宗 要 )
┌ 佛 性 義( 師 子吼 品 疏十一 ) ┤ 無性 有 情成 佛 耶(宗 要 )
│ └ 莊嚴 論 所明 時 邊畢竟 二 種 闡提 成 佛耶
│ 二三 之 算 合有 十 題
└ 十 二 因縁 義 ─ ─ ──┬ 涅 槃 疏。 私 云無 算 題推玄 義
└ 第 二 十二 因 縁義 乎 。但此 外 未 見
依 一 途古 目 録記 之 尚異途 廣 略 可有 之 乎
十 五 科分 合 一算 五 十四箇 條 末 算百 八 十七 條
十 六 算 之餘
一算三 ┌ 二乘智 斷 望 大乘 何 物耶 ( 宗要)
┌ 十 二 因縁 義 (玄 義 第二。 十 二 因縁 境 下) ┤ 圓教意 十 二 因縁 不 生不 滅 歟
│ └ 無明無 始 本 有法 歟 。二 諦 義在
│ 二之 算 有 八題
│ 一算三 ┌ 超 登十 地 事
├ 二 諦 義( 玄 義三 卷 。二諦 境 下 )┤ 俗 諦常 住 事
│ └ 無 明法 性 同異事
│ 二三 之 算 合有 十 四題
│ ┌ 三藏 教 意發心 見 諦 者生 上 界後
│ │ 欲界 受 生耶
│ 一算四 ┤ 衆生 開 悟得脱 從 初 結縁 佛 菩薩 事
└ 眷 屬 妙義 ( 玄義 六 卷。十 妙 第 九) │ 定性 二 乘於界 内 迴 心事
└ 理性 眷 屬有四 教 三 乘不 同 事
二三 之 算 合有 十 二題
┌決 定 性聲 聞 在法華 座 耶 (宗 要 )
│定 性 二乘 成 佛耶( 宗 要 )
一算 九 │三 周 聲聞 未 來成道 分 極 中何 耶

204
┌ 三 周 義( 文 句第 四 。方便 品 ) ┤法 華 已前 明 二乘成 佛 耶 (宗 要 )
│ │三 周 得記 聲 聞皆於 法 華 會座 入 初住 歟 (宗要 )
│ │住 上 利鈍 事 (宗要 )
│ │法 身 八相 記 亘分證 究 竟 耶
│ │住 果 聲聞 過 法華耶 ( 宗 要)
│ └住 果 縁覺 來 佛所耶 ( 宗 要)
│ 二三 之 算 合有 十 六題
│ 一 算 二 ┌ 龍女 成 道分極 事
├ 即 身 成佛 義 (文 句 八卷。 提 婆 品) ┤
│ └ 海中 權 實事
│ 二三 四 之 算合 有 十七 題
│ ┌自 受 用有 爲 無爲事 ( 宗 要)
│ │爾 前 明久 遠 成道事 耶 ( 宗要 )
│ ┌ 彌陀 佛 者三身 中 何 耶
├ 四 種 三昧 義 (止 觀 二卷。 一 算 二) ┤
│ └ 生界 佛 界不増 不 減 事
│ 二之 算 有 十一 題
│ ┌ 別 教十 行 位知圓 教 法 門事
│ 一算四 │ 次 第觀 中 道亘別 圓 耶
├ 三 觀 義( 止 觀三 卷 。顯體 章 ) ─┤ 三 惑同 時 斷異時 斷 事 (宗 要 )
│ └ 別 教地 上 三觀現 前 耶 (宗 要 )
│ 二三 之 算 合有 十 三題
│ 一算二 ┌ 中上 二 根接 者 盡本教 惑 耶 (宗 要 )
├ 被 接 義( 顯 體章 。 境界下 ) ┤
│ └ 別接 通 人一 生 破無明 耶
│ 二三 之 算 合有 十 一題

205
│ 一 算三 ┌引 大 品經何 文 證 名別 義 通耶 ( 宗要)
└ 名 別 義通 義 (止 觀 六卷。 破 法 遍下 ) ┤當 通 教乾慧 地 實 有斷 惑 義耶
└別 教 意同體 見 至 等覺 耶
二三 之 算 合有 十 一題
一算 三 ┌法 華 八教 接 歟
┌ 教 相 義( 玄 義第 一 。標教 章 ) ┤法 華 涅槃 勝 劣事( 宗 要 )
│ └衆 生 最初 下 種亘權 果 歟
│ 二三 四 之 算合 有 十四 題
│ 一算四 ┌ 三諦 勝 劣事
├ 十 如 是義 ( 玄義 二 卷。十 如 境 段) ┤ 十界 互 具事( 宗 要 )
│ │ 佛果 空 不空事
│ └ 分證 佛 界報如 是 事
│ 二三 四 之 算合 有 十二 題
[ 維 摩疏] R 佛 土 義
[ 涅 槃疏] S 佛 性 義 ( * 十 二 因 縁 義 )
[ 四 教義] T 菩 薩 義 ・ U 七 聖 義
[ 觀 經疏] V 九 品 往 生 義 〈 以 上二十 二 義 科〉
【 義 科分 類 :例 】 『義科 十 六 算題 略 鑒』 ( 『天台 宗 全 書』 二 三、 二 一上~ 二 四 下)
こ の 本で は 、止 観 ・玄義 ・ 文 句の 順 序に 示 されて 、 各 義科 の 一算 ( 本算) が 明 示さ れ てい る 特徴が あ り ます 。 これ と 他の算 題 目 録と を
合 わ せ 見る こ とに よ り、二 算 三 算四 算 (末 算 )が整 理 さ れて 「 義科 論 題目録 」 が 整う こ とに な ります 。 こ れに は 種々 あ る算題 目 録 を収 集
し 対 校 して 翻 刻公 刊 される こ と が望 ま れる と ころで す 。
義 科 の中 で 主要 な 題目を 見 て みま し ょう 。 各義科 に は 、所 依 の文 献 と出典 箇 所 、お よ び一 算 (本算 ) が 図示 さ れて い ます。 そ の 中で も

206
「 ( 宗 要) 」 とあ る ものは 、 宗 要に お いて も 取り上 げ ら れる 論 題と い うこと に な りま す 。但 し 、注意 点 が あり ま す。 そ れは十 六 義 科や 二
十 二 義 科に つ いて 、 これ等 が 確 定さ れ たも の ではな く 不 確定 だ とい う ことで す 。 その 時 々に 特 殊な義 科 が 立て ら れる 場 合もあ り ま す。
【 例 : 通三 徳 義・ 正 観義な ど 】
▼ 『 義 科十 六 算題 略 鑒』( 『 天 台宗 全 書』 二 三、二 一 上 ~二 四 下)
義 科十六 算題略鑒
┌ 一 念心 即 如來藏 理 者 元初 一 念歟
│ 斷 元品 無 明智慧 用 妙 覺智 歟 (宗 要 )
┌ 六 即 義( 止 觀第 一 。一算 四 ) ─┤ 草 木成 佛 事
│ └ 分 眞即 外 功用事
│ 二三 之 算 合有 十 六條
ハ . 第二 度 目に は 、宗要 の 相 承が あ った 。
ニ . 第三 度 目に は 、義科 の 相 承が あ った 。
ホ . 第四 度 目に は 、七箇 大 事 の傳 授 があ っ た。
つ ま り尊 海 の学 問 ・修学 の 順 序は 、 先ず 三 大部が あ り 、次 に 宗要 、 次に義 科 、 そし て 七箇 大 事とい う 口 伝相 承 の順 序 となっ て い るこ と
が 判 り ます 。
◎ 義 科・ 宗 要・ 問要に つ いて
始 め に、 「 義科 書 」類に つ い て、 天 台三 大 部など と の 関係 を 見て み ましょ う 。
◆ 義 科 書に は 、「 義 科集」 と し て十 六 算あ る いは二 十 二 算の 算 題が 揃 ってい る 文 献。 ま た各 々 単独の 典 籍 もあ り 、さ ら に著述 書 ・ 編集

207
書 ・ 講 義記 録 ・論 義 口伝書 が あ りま す 。
* 義 科 の次 第 ・分 類 を『渋 谷 目 録』 や 「所 依 目次」 な ど を参 照 して 提 示して み ま す。
[ 玄 義分] (* A ~V は 私 に付 し た。 順 不同)
A 教相 義 ・B 十 如是義 ・ C 十二 因 縁義 ・ D二諦 義 ・ E眷 屬 妙義 ・ F五味 義 ・ G十 妙 義
[ 文 句分]
H 三周 義 ・I 即 身成佛 義 ・ J囑 累 義・ K 三身義 ・ L 一乘 義
[ 止 觀分]
M 六即 義 ・N 四 種三昧 義 ・ O三 觀 義・ P 被接義 ・ Q 名別 義 通義
** 資 料⑥ 下 **
口決 集 第一 建武 元 年 甲戌 ( 一三 三 四)三 月 十 八日
「 師 示 云 。 山 上 京 都 學 問 ノ樣 不 同 也 。 」 こ れ も 解 読 練 習 用 と し て 、 翻 刻 文 は 載 せ て い ま せ ん 。 こ の よ う な 文 献 を 読 み こ な さ な い と 論 義
文 献 研 究は 進 まな い ことに な り ます 。
因 み に、 口 伝法 門 文献に も 京 都在 学 中の 修 学・学 問 の 様子 を 伝え て いる記 事 も あり ま す。
例 え ば、 関 東天 台 の中心 人 物 であ る 仙波 円 頓法印 尊 海 (一 二 五三 ~ 一三三 二 ) の事 跡 を伝 え ている 記 事 が見 ら れる 『 恵心流 教 重 相承 私
鈔 』 ( 叡山 文 庫真 如 蔵、日 光 天 海蔵 、 三千 院 円融蔵 写 本 、『 日 本天 台 史』続 、 八 一四 頁 )を 見 てみま し ょ う。
一 。 圓 頓 法 印 御 住 山 ノ事
仰 云 。 圓 頓 法 印 ハ總 シテ六 ケ 度 ノ御 住 山 也 。 初 住 山 ノ時 ハ千 餘 貫 御住山
ニテ 。 仍 テ御 兒 四 人 騎 馬 十 六 騎 被 二供 奉 。
アリ
一法 印 御 輿
ハ 御 上 洛 有 リ。
ニテ

208
都 正 親 町 ノ心 賀 法 印 ノ御 坊 ヘ參 著 有
ニテハ 御 相 承 有 リ。此 時
リテ ニハ三 大 部 ノ御 學 問 有 リ。 玄 ノ一 。 文 句 ノ一 。 止 觀 ノ第 六 ノ卷 迄 。 御 學 問 有 リ。 此 時
十 三 帖 ノ見 聞 ヲ下 シタマヘリ
サ テ第 二 度目 ニハ 宗 要 ノ御 相 承 。第 三 度 目
アリ 義 科 ノ御 相 承 有 リ。第 四 度 目
ニハ ニハ 心 賀 法 印 ノ御 坊 ヲ三 百 餘 貫 造立
ニテ 參 セ タ マ ヘ リ 。此 時 。心
シテ
賀 思 食 ス樣 ハ此 人 ハ志 シ深 。吉 キ法 燈 也 卜思 食
シテ シテ 此 ノ家 ノ嫡 家 ニ。唯 授 一 人 ノ相 承 有 リ。凡 ソ奉 二授 與 一ヘ シ ト テ 。七 箇 大 事 ヲ御 傳 授 有 リ。
こ の 記事 に つい て 、要約 し て みま し ょう 。
イ . 圓頓 法 印は 、 総じて 六 箇 度の 御 住山 が ある。
お おぎ まち
ロ . 都に お いて は 、正 親 町 心賀 法 印 の御 坊 にて 相 承があ り 、 この 時 には 三 大部の 御 学 問が あ った 。 そして 、 十 三帖 の 「見 聞 」を関 東 へ
下した。
眼 者源 也 。以 二
宗 ノ源 ト云 意 一
テ ヲ 事 也 。 仍 毛 詩云 。 眼者 源 也
被 レ題 二宗 眼 一
ト 矣
宗要 事
要 ノ字 ハ心 ト讀 事 也 。 意 ハ謂 ク宗 ノ心 ト云 事 也 。 又 要 ノ字 元 ト讀 也 。 仍 左 傳 云 。 要 者 元 也
ヲハ 文
又 義 云 。 要 ト者 。 葉 字 ヲ可 レ書 也 。 意 謂 。 義 科 ノ枝 ニ宗 要 ノ葉 ヲサ カ ス ヘ シ ト 云 事 也 。 仍 宗 要 ノ至 極 名 二紅 葉 一
ヲハ 。 一 切 草 木 ノ葉 カ至 極 成


モ ミ チ
紅葉 一
故 也 。 隱 二文 字 一
ト 書也〈

p:2〉

師 物語 云 。澄 豪 山 門 ニ大 律 師 ト云 事 ハ爲 レ異 二
ヲハ 餘 律 師 一也 。此 人 常 ニ愛 二紅 葉 一
カ 論
ヲ 故 ニ入
タマフ 宗要集 一
タル
二 箱 ノ上 ニ紅 葉 ヲ書 ク故 ニ云 二紅 葉 箱 一
ヲ 也
ト 云

此 尋 常 義也
。 如 二車 ノ二 輪 一相 構 吾 山 ニ同 宗 ノ法 門 ヲ可 二弘 通 一被
又 物 語 云 。御 廟 仰 云 。惠 心 檀 那 兩 門 ノ義 如 二鳥 ノ二 翅 一
ノ ケル
レ 遣 二算 題 一。 檀 那 ヘハ題 二宗 滿 抄
等 一
表。裏
ト 進
ニハ 檀 那 一書 キ。 惠 心
ムト
二 宗 圓 抄 ト書 テ惠 心 ニ遣
ヘハ ト云依 二
云 進 遣 ノ兩 字 異
テ 。 兩 流 ノ門 弟 等 有 二諍 論
ナルニ


一 云 圓 滿 ノ二 字 ヲ題 目 トス ル

209
事 。因 圓 果 滿 成 正 覺 住 壽 凝 然 無 去 來 意 。因 圓 ハ迹 門 。果 滿 ハ本 門 。仍 兩 人 ニ本 迹 二 門 ヲ傳 受 シ タ マ イ 〈
ニテ
p:2〉
ウ 畢 。 當 時 惠 心流 人 人
ヌ ノ ハ
隱 二己證 一
シテ 本 門 ヲ云 ヒ。 檀 那 流 ノ人 人 ハ隱
ヲ 我 己 證 ノ本 門 一
シテ
二 迹 門 ノ法 門 ヲス ト
ヲ 云

ま た ▼『 口 傳明 燈 鈔』( 西 教 寺正 教 蔵、 写 本)の 巻 頭 部分 を 見て み ましょ う 。
** 資 料⑥ 上 **
こ の 資料 は 「く ず し字」 解 読 の練 習 にも な るので 、 翻 刻文 は 載せ ま せんで し た 。始 め の部 分 を少し 読 ん でみ ま しょ う 。
以 上 のよ う に、 義 科・宗 要 に つい て は、 故 実類書 や 口 伝文 献 中に も 解釈・ 解 説 が見 ら れる 場 合もあ り 、 注意 す る必 要 があり ま す 。
ま た 「問 要 書」 に も山上 と 京 都に お ける 学 問の様 子 が 示さ れ てい ま す。
▼ 『 毘 門決 』 [山 洛 学問次 第 事 部 分 ]( 妙 法院蔵 、 写 本)
教 相義
第一 義 科 習事
師 云 。義 科 ト者 。一 家 ノ法 門 他 宗 ニ替 ル處 ヨリ 起 ル也 。教 相 義 ニ四 教 八 教 ノ立 樣 他 宗 ノ三 時 教 等 ニ替 ル故 ニ爲 二義 科 一
也。十如是義
ト ニハ 光 宅 等 ノ十 如 ヲ
權 實 ニ分 ツニ替 テ一 家 ハ共 ニ權 實 也 ト立 故也。二諦義
タマフ 俗 諦 常 住 。 眷 屬 妙義
ニハ 理 性 眷 屬 ノ沙 汰
ニハ 起 ル也 。 此 等 ハ皆 諸 師 ニ秀 テ一 家 獨 リ立
ヨリ ルカ

之 故 ニ。 爲 レ顯 此 ノ宗 ノ義 一
ンカ
二 慈 惠 大 師 ノ御 時 始 テ興 二
ヲ 廣 學 ノ立 義 一
シ 。 二 會 ノ間 ニ學 者 先 途 テ始 ム。 從 レ
ヲ 此 義 科 ノ沙 汰 ハ起 ル也 。 取 レ夫 ニ大 旨 一 ノ算
リ ト
五 算 ハ宗 要 ノ算 也 。 宗 要 ノ沙 汰 ト義 科 ノ沙 汰 トノ 不 同 ハ。 義 科 ハ本 文 ヲ 詮 ト習 ヒ。 宗 要 ハ總 ノ文 義 ヲ沙 汰 ル也 。 サ テ 五 問 ノ次 第 ハ一 ノ算 ハ宗 ノ大 事 。二
ノ算 ハ義 科 ノ大 事 。三 四 ノ算 ハ經 論 ニ才 覺 ヲ取 テ意 據 也 。 サ レ ハ 意 據 ノ算 ト名 ク。 五 ノ算 又 宗 ノ大 事 ニ還 ル也 。一 ノ算 ヲ疑
トスル 始
ニハ 題者
タル 難 ヲ五 重
ニハ
ニ構 フ。二 算 三 算 ハ問 題 共 ニ三 重 也 。四 算 ハ二 重 也 。 五 算 ハ問 題 也 。 業 義 副 義 ノ不 同 ハ大 事 ノ義 科 ヲ業 義 。 安 キ義 科 ヲ副 義
トシテ 。佛 土 義 。六 即
トス
義 。三 身 義 等 ハ業 義 也 。二 諦 義 。教 相 義 ハ副 義 也 。是 モ又 隨 レ時 ニ可 レ替 。 五 問 ノ算 ノ作 樣 ハ。 隨 二
題 者 ノ意 據 一
テ 上下
ニ スル事 有 レ之

210
ま た 「論 義 口伝 書 」のよ う な 文献 に も説 明 が見ら れ ま す。
▼ 『 宗 圓集 』 (『 中 世にお け る 天台 論 義書 関 係資料 』 Ⅱ 資料 編 、一 三 二下~ 三 下 )
宗 要 集得 名 事
凡 宗 要 集 ニ有 二四 本 一。 最 初 本 ヲハ名 二宗 眼 一
。 是 未 再 治 本 。 毘 沙 門 堂 ニ相 承
ト シテ被 二祕 藏 一


次 再 治 定 本 ニ有 二兩 本 一。 檀 那 相 承 算 題 題 二
ニハ 宗 滿 抄 一。 惠 心 相 承 ノ算 題 ニ題 二
ス 宗圓抄 一
ス 。 此 兩 本 ハ不 レ及 二他 見 一
ト 名也
ニ 次 用 二世 流 布 一題 二宗
要集 。
一 是尋常 本也。還 付 二
ノ テ 此本 一
可 レ有 二習 事 一歟 。 題 二宗 滿 宗 圓 一意 ハ因 圓 果 滿 ノ意 ニ兩 字 與 二兩 門 弟 一
ニ 〈

p:1〉

本 迹 二 門 檀 那 惠 心 ニ被 二相 承 一事
宗眼 事
科 ヲ義 也 。 義 ハ ル ト ハ 當 宗 ノ宗 義 ノ定 也 。 ( 中 略 )
ハル
一 。義 科 縁起 事
仰 云 。在 世 迦 旃 延 子 一 類 一 類 ノ事 ヲ奉 レ問 レ佛 故 ニ起 レ
ニハ 自 二
ル 在 世 一。 俗 家 ハ延 喜 式 ヲ爲 レ本 ト。 佛 家
リ 興 福 寺 ノ義 科 根 本 也 。 山 門
ニハ 村 上 ノ御
ニハ
宇 ニ 給 也 。 法相 宗
慈 惠 大 師 取 二義 科 一
ヲ 唯 識 論 ヲ爲 レ本 ト。 三 論 宗
ニハ 肇 論 ヲ爲 二本 文 一
ニハ 。華嚴
ト ニハ 五 教 章 ヲ爲 二本 文 一也
▼ 『 叡 川義 方 』( 『 天台宗 全 書 』二 〇 、二 八 一上~ 下 )
第 一 論義 古 實
宗要 義 科之 事
一 。宗 要 トハ 一 宗大綱 ヲ 集 ルナ リ 。義 科 トハ自 他 宗 相對 是 非 ヲ 顯 ス ナ リ 。 科ト ハ 科段 ト 云テ。 自 他 ノ篇 目 ヲ立 テ テ義ノ 是 非 ヲ分
シテ
別 ス ル ヲ義 科 ト云 也 。仍テ 宗 要 ハ自 宗 ノ大 綱 ナリ。 義 科 ハ自 他 相對 シ テ其義 ヲ 立 ルナ リ

211
(惠カ)
一 。 宗 要 ノ 得 名 ハ 。 慈 覺 大 師 ノ 御 時 ヨ リ 此 ノ 宗 要 ノ 宗 義 ハ 有 レ之 也
一 。豎 義 ノ時 ハ 業義副 義 ト 云。 常 ノ論 義 ニハ業 論 義 副論 義 ト云 也
一 。業 副 前後 ノ 事。初 メ ニ 引ク ハ 業義 。 後ニ引 ク ハ 副義 ト 限リ タ ルヤウ ニ 當 今ノ 人 ハ云 へ トモ。 初 ニ 引ク ハ 副ナ リ 。後ニ 引 ク ハ業 ナ
リ ト 仙 承法 印 記シ 置 レタレ ハ 異 義ナ リ 。一 遍 ニ執ス ベ カ ラス
こ の よう な 故実 文 献も、 未 だ 翻刻 さ れて い ない典 籍 が あり ま す。 こ れは論 義 故 実文 献 と儀 礼 や法式 次 第 など を 含め て 、天台 論 義 史の 目
線 か ら 天台 宗 史を 史 学的な 観 点 から 検 討す る ことも 大 事 な課 題 であ り ます。 特 に 近世 資 料は 表 白・法 則 な ど膨 大 に現 存 してい ま す 。
次 に 実際 の 「義 科 書」に 見 ら れる 故 実を 見 てみま し ょ う。
▼ 『 義 科相 傳 抄』 ( 『天台 宗 全 書』 二 三、 二 九上~ 下 )
仰 云 。他 流 ニハ一 ノ算 ヲハ 業 義 副 義 倶 ニ一 ノ算 二 ノ算 ツ ツ ケ テ 讀 ミ。乃 至 五 ノ算 ヲ モ 亦 ツ ツ ケ テ 讀 也 。 又 業 義 ヲ一 雙 ニ讀 終 テ。 次 ニ讀 二副 義 一


有 リ。 但 當 流 ノ義 ハ。 本 文 次 第 ニ讀 也 。 仍 テ一 ノ算 ナ レ ト モ 後 ニ讀 レ之 。 五 ノ算 ナ レ ト モ 始 ニ讀 事 モ可 レ有 也

尋 云 。 題 者 ノ牒 ヲ取 ル樣 如 何
仰 云 。他 流 ハ自 二業 義 一取 レ牒 ヲ。ヤ ガ テ 自 二業 義 一精 ル也 。當 流 ニハ 如 二常 ノ論 義 一
自 二副 義 一取 レ牒 ヲ自 二業 義 一精 ル也

十 六 義科 口 傳
一 二 三
一 。本 果 本有 依 正義 即身 三身 佛土
四 五 六 七 八 九 十 十一 十二
一 。本 因 本有 常 住義 二諦 眷屬 三周 囑累 四 種 三昧 三觀 被接 名別 菩薩
十三 十四 十五 十六
一 。因 果 一念 己 心義 教相 十如 十妙 六即
豎 義 ノ時 算 ノ次 第 所 レ明 法 身 皆 實 相 ニ結 ヒ入 也

212
一 ノ算 ハ宗 ノ大 事 二 ノ算 ハ經 論 證 據 三 ノ算 ハ本 文 料 簡
(文カ)
四 ノ算 ハ當 之 料 簡 。 尋 ヲ モ セ ズ シ テ 押 疑 レ之 ヲ心 也
ヘテ
五 ノ算 ハ還 二
宗大事
ル ニ〔一算也イ〕
一 也
▼ 『 探 題故 實 私記 』 (『天 台 宗 全書 』 二〇 、 三四三 上 ~ 下)
義 科聞 書
一 。 義 科 ト云 事
仰 云 。先 取 ニハ
二 義科 一
其 釋 ヲ一 段
ヲ 一 類 ノ事 ヲ 盡 シタ ル 處 ヲ一 科 ト云 也 。諸 皆 如 レ此 。何 レ ノ 科
トシテ 背 レ
ニテモ 理 ニ背 二
キ 宗義
ク 事 ヲ一 科 ト取 テ。 此 事
ニモ


コトハ トカ
定 レ ハ 叶 レ經 ニモ 叶 レ釋 ニモ 樣 ニ沙 汰 ス ル ヲ 義 科 ト 云 也 。 義 科 ノ字 ヲハ 義 ル
レ 科 ヲ讀 也 。 於 二一 科 ノ内 一
定 二
ニ 五 ノ條 目 一
ル 是 ヲ云 二算 題 一
ヲ 。 一 科 ノ内
ト ニモ
要 で あ るこ と が理 解 出来る と 思 いま す 。
3. 天 台論 義の文 献 (義 科 ・宗 要・問 要 集書 と 論題 ・算題 )
こ こ では 、 天台 論 義の故 実 を 確認 し 、次 に 論題や 算 題 と天 台 三大 部 等の祖 師 文 献の 関 係に つ いて見 て み ます 。 論義 の 体系に は 大 きく 三
部 門 が あり ま す。 義 科・宗 要 ・ 問要 の 三つ か ら構成 さ れ て、 多 数の 文 献が現 存 し てお り ます 。
先 ず ここ で は「 論 義故実 」 の 記事 を 幾つ か 紹介し ま す 。
▼ 『 探 題故 實 記』 ( 『天台 宗 全 書』 二 〇、 三 二七下 ~ 八 上)
義 科 宗要 事
義 科 元 起 ノ事 。本 朝 ノ大 師 先 徳 以 二一 家 ノ大 綱 章 段 ノ難 義 一
先 レ之 ヲ。 元 起 ハ在 二大 師 ノ御 釋 一
ヲ 。 所 謂 四 悉 檀 義 。三 觀 義。 四 教義也

213
仰 云 。義 科 者 。
自他 宗 相 對 顯 二宗 義 ノ是 非 一
シテ 也 。 科 者 科 段 ト云 テ立 二
ヲ 自 他 宗 ノ節 目 一
テ 。
ヲ 分 二別 義 ノ是 非 一
スルヲ 義 科 ト云 也
ヲ 次 ニ宗 要 者 。 集 二


宗 大 綱 肝要 一
也 。 仍 テ宗 要 ハ自 宗 ノ大 綱 。 義 科 ハ自 他 宗 相 對
ヲ 立 二其 ノ義 一
シテ 也

尋 云 。 宗 要 ノ得 名 ハ慈 惠 大 師 ノ時 有 レ
ヨリ 之 將 タ云 何
カ ン
仰 云 。 慈 惠 大 師 ノ御 時 。 一 夏 ノ中 一 題 宛 對 門弟 一
シテ
二 宗○

尋 云 。 業 義 副 義 者 始 終 ト云 事 歟 如 何
仰 云 。 業 義 者 顯 二一 宗 ノ大 事 一
。 即 大 綱 ノ義 也 。 遂 業 ノ立 者 ハ極 二一 宗 ノ宗 義 一
ヲ 也
ヲ 副 義 者 副 二此 ノ大 綱 義 一也 。 サ レ ハ 副 義 倶舍婆娑因明
ヲハ
等 副 義 ニ下
マテモ 也
シケル
尋 云 。 豎 義 ノ時 於 二佛 前 一
算 ノ題 ヲ讀 次 第 如 何

対 照 し てみ ま した 。 これは 論 義 文献 を 読誦 す るには 、 こ の古 本 のよ う な「く ず し 字」 も 読み こ なす必 要 が ある こ とに な ります 。
** 資 料③ **
こ の 資料 か らは 、 多少の 文 字 の出 入 りが 認 められ ま す が、 大 方は 相 似した 内 容 であ る こと が 判りま す 。
次 に 、『 三 百帖 』 『法華 十 軸 鈔』 に つい て は、『 続 天 台宗 全 書』 の 解題を 参 考 にし ま す。
しょ じゅう
こ の 『三 百 帖』 と 『法華 十 軸 鈔』 の 関係 は 、解題 で も 言わ れ てい る ように 、 『 十軸 鈔 』の初 重 ・ 二 重の 問 答 部分 が 『三 百 帖』で あ
じゅう なん じゅう とう
り 、 重 難 ・ 重 答 の 第 三 重問 答 や付随 す る 問答 が 加え ら れたも の が 『法 華 十軸 鈔 』とい う こ とで す 。
** 資 料④ * * 『 三 百 帖 』 『 法 華 十 軸 鈔 』 ( 『 続 天 台 宗 全 書 』 顕 教 7 )の 問[ 一] 覧
問 答 数は 、 『無 量 義経』 が 三 〇問 、 『法 華 経』巻 一 ( 序品 ・ 方便 品 )三一 問 、 巻二 ( 譬喩 品 ・信解 品 ) 三〇 問 、巻 三 (薬草 喩 品 ・授 記
品 ・ 化 城喩 品 )三 〇 問、巻 四 ( 五百 弟 子品 ・ 人記品 ・ 法 師品 ・ 見宝 塔 品)三 〇 問 、巻 五 (提 婆 品・勧 持 品 ・安 楽 行品 ・ 涌出品 ) 三 〇問 、

214
巻 六 ( 寿量 品 ・分 別 功徳品 ・ 随 喜功 徳 品・ 法 師功徳 品 ) 三〇 問 、巻 七 (不軽 品 ・ 神力 品 ・嘱 累 品・薬 王 品 ・妙 音 品) 三 〇問、 巻 八 (普 門
品 ・ 陀 羅尼 品 ・厳 王 品・勧 発 品 )三 二 問、 『 普賢観 経 』 三三 問 が示 さ れてい て 、 わず か に出 入 りがあ る よ うで す が三 〇 六問答 が 記 録さ れ
て い ま す。 大 体の 基 本は、 一 巻 三〇 問 で、 「 法華三 部 経 」十 巻 で三 〇 〇問答 と い うこ と にな り ます。 し か もこ の 『三 百 帖』『 法 華 十軸
鈔 』 と 先の 『 法華 三 十講四 條 論 義』 と で重 複 しない 問 答 も多 数 ある こ とも考 慮 す べき こ とで あ ります 。
こ こ では 『 法華 三 十講四 條 論 義』 と 『法 華 十軸鈔 』 と で共 通 する 問 答を比 較 し て見 て みる こ とにし ま す 。
** 資 料⑤ **
今 回 は、 資 料③ に 取り上 げ ま した 「 寿量 品 」の内 、 「 我本 行 菩薩 道 所成壽 命 今 猶未 盡 」の 文 につい て の 問答 部 分を 比 較対照 し て 見ま し
た 。 こ れを 見 ると 一 目瞭然 で す が、 重 難・ 重 答の第 三 重 問答 や 付随 す る問答 が 加 えら れ た詳 細 な検討 部 分 こそ が 、教 義 の解釈 や 研 究に 重
ほっ け だいえ
す 。 こ れは 現 在も 続 けられ て お り、 四 年に 一 度、「 法 華 大 会 」 の 時に 行 われ て います 。
ほ っ きょうさ ん ね えん しゅう じ ほっ しょう じ
そ の 後に は 、北 京 三 会 が あ ります 。 延 久四 年 (一 〇 七二) に は円 宗 寺 「 法 華 会」 、 承暦二 年 ( 一〇 七 八) に は法 勝 寺 「大 乗 会 」、
永 保 二 年( 一 〇八 二 )には 円 宗 寺「 最 勝会 」 が始ま り ま した 。 その 他 の論義 法 会 や私 竪 義な ど は省略 し ま す。
2. 天 台論 義の基 礎 (『 法 華経 』論義 の 論題 )
こ こ では 、 天台 論 義を理 解 す る上 で 、重 要 な論題 に つ いて 見 てみ ま す。
先 ず 初め に 「法 華 十講」 や 「 法華 八 講」 に おける 『 法 華経 』 を中 心 とした 論 題 につ い て見 て みたい と 思 いま す 。
『 法 華経 』 を講 義 ・講演 し た 後に 行 われ る 論義に は 、 当然 の こと な がら経 文 中 より 問 題が 取 り上げ ら れ ます 。
論 題 の例 と して 、 ここで は 『 法華 三 十講 四 條論義 』 ( 木版 本 )と 『 三百帖 』 『 法華 十 軸鈔 』 (『続 天 台 宗全 書 』顕 教 7)と を 見 てみ ま

215
す。
ま ず 『法 華 三十 講 四條論 義 』 につ い ては 、 その三 十 講 とは 「 法華 三 部経」 を 三 十日 間 に行 う ことで す 。 『無 量 義経 』 を初日 に 、 『法 華
経 』 二 十八 品 を一 日 一品、 そ し て結 経 であ る 『普賢 観 経 』を 三 十日 目 に行い ま す 。そ し て四 條 とは、 そ の 一日 の 問答 が 四つあ る こ とを 示
し て い ます 。
** 資 料② **
以 上 のよ う に一 日 四問三 十 日 の一 二 〇問 答 がその 内 容 であ り ます 。 この資 料 中 の○ や △記 号 が付し て あ るも の が、 こ の後に 見 る 『三 百
帖 』 『 法華 十 軸鈔 』 と[問 ] が 同じ か 、相 似 してい る も のに な りま す 。
因 み に、 こ の『 法 華三十 講 四 條論 義 』の 古 本と言 わ れ る文 献 が叡 山 文庫に 所 蔵 され て いま す 。参考 ま で に両 者 の内 、 寿量品 の 四 問答 を
上卿 關 白 太政大 臣 從 一位 藤 原良 房
左 大 臣正二 位 藤 原氏 宗
右 大 臣正二 位 藤 原基 經
奉行 參 議 右大辨 從 三 位藤 原 以經 ( 『校訂 増 補 天 台 座主 記 』二一 ~ 二 頁)
こ の 『天 台 座主 記 』には そ の 内容 を 欠い て います が 、 幸い な こと に 叡山文 庫 に は『 宗 論御 八 講記』 の 写 本が 残 って い ます。 た だ し先 学
の 研 究 によ れ ば、 文 中の人 師 の 年齢 な どに 幾 つかの 疑 義 があ る よう で す。し か し なが ら その 内 容は、 当 時 に議 論 され て いるこ と に 問題 無
い も の であ り ます 。 ここで は 、 尾崎 光 尋著 『 日本天 台 論 義史 の 研究 』 に翻刻 さ れ てい る もの を 提示し ま し ょう 。 少々 誤 植や誤 読 も あり ま
す の で 再解 読 の必 要 があり ま す 。な お 叡山 文 庫止観 院 蔵 およ び 無動 寺 蔵本も 現 存 して い ます 。
** 資 料① **

216
こ の 『宗 論 御八 講 記』に お け る「 問 」二 〇 問から 見 え る内 容 は、 お およそ 三 論 ・天 台 の教 判 問題、 三 車 四車 義 ・定 性 二乗義 や 菩 薩義 と
即 身 成 仏義 、 仏身 義 ・仏性 義 、 法華 華 厳・ 天 台華厳 の 教 判、 提 婆品 疑 義、声 聞 戒 と菩 薩 戒の 小 戒大戒 義 、 草木 成 仏義 ・ 五性各 別 義 、五 時
教 判 上 の二 経 前後 や 経中経 末 義 、そ し て一 乗 義など が 論 義さ れ た問 題 と見ら れ ま す。
次 に 、天 暦 八年 ( 九五四 ) 十 二月 五 日よ り 四日間 に 行 われ た 延暦 寺 での「 法 華 八講 」 があ り ます。 こ れ は慈 恵 大師 良 源が翌 年 の 天暦 九
こ き でん しんぴつ み はっこう
年 ( 九 五五 ) 正月 四 日、弘 徽 殿 に お い て行 わ れた宸 筆 御 八 講 に 備 えた も の と言 わ れま す 。この 宸 筆 御八 講 は宮 中 での御 八 講 の最 初 であ
り 、 盛 大に 行 われ ま した。
次 に 、応 和 三年 ( 九六三 ) 八 月二 十 一日 よ り五日 間 に 亘っ て 行わ れ た「法 華 十 講」 で 、所 謂 る「応 和 の 宗論 」 があ り ました 。
次 に 、慈 恵 大師 良 源によ っ て 始め ら れた 「 広学竪 義 」 があ り ます 。 康保五 年 ( 九六 八 )に 学 僧の選 抜 試 験の よ うな 竪 義試業 が 始 まり ま
しもつき え ほっ け じっこう
伝 教 大師 最 澄に よ る延暦 十 七 年( 七 九八 ) の霜 月 会 がそ の 初 めと な りま す 。これ は 高 祖天 台 大師 智 顗への 報 恩 会と し て「法 華 十 講 」 が
始 め ら れま し た。
みなづき え
次 に 、伝 教 大師 入 滅の翌 年 の 弘仁 十 四年 ( 八二三 ) に 初代 天 台座 主 義真に よ っ て、 伝 教大 師 報恩会 の 六 月 会 の 「 法 華 十講 」 が行わ れ ま
した。
さん じょう に え
こ の 二会 (山 上 二 会 ) は と もに『 法 華 経』 八 巻と 『 無量義 経 』 (開 経 )お よ び『観 普 賢 菩薩 行 法経 』 (結経 ) の 「法 華 三部 経 」合わ
せ て 十 巻と し て講 経 論義が 行 わ れま し た。 な お延暦 二 十 年( 八 〇一 ) からは 南 都 の学 匠 を招 い て開か れ る よう に もな り ました 。
次 に 、天 長 九年 ( 八三二 ) に は義 真 が維 摩 会の講 師 と なっ て いま す 。その 後 、 延暦 寺 から の 講師は 三 十 四年 間 の空 白 期間が あ り 、貞 観
九 年 ( 八六 七 )に 法 勢が維 摩 会 の講 師 とな っ ていま す 。 その 後 には 、 延暦寺 と 園 城寺 か ら十 名 の講師 遂 講 が『 三 会定 一 記』( 『 大 日本 仏
教 全 書 』一 二 三) に よって 確 か めら れ ます 。

217
次 に 、貞 観 十年 ( 八六八 ) 二 月三 日 の『 天 台座主 記 』 の記 事 には 、 天皇が 大 極 殿に お いて 宗 論御講 を 行 わせ ら れた と あり、 時 の 天 台
あん ね しょうせい こう じ もんじゃ しょうけ い
座 主安 恵 を 証 誠 と し た とあ り 、 講 師 と 問 者 各 十 人の 名 前や 上 卿 ( 執 行責 任 者 の公 卿 )・ 奉 行(幹 事 役 )等 が 記録 さ れてい ま す 。
證 誠 二 人 天 台 座 主 阿 闍 梨 安惠 年 五 十 九 、
[ 貞観 十 年] 同 年二月 三 日 天皇於 二
大極殿 一
テ ニ 宗論御講 一
被 レ行 二
ハ 座 主 爲 二證 誠
ヲ ト
一 大 僧 都 法 眼 和 尚 位明 詮 元 興 寺 兼學 年 八 十
座 主 雖 レ非 二
ト 。 貞 觀 元 年 最 勝 講 蒙 二宣 旨 一
僧綱 一
ニ 云 自 レ今 以 後 ハ者 必 ス可 レ
ヲ 居 二
ト 諸僧右 一
ル 依 テ今 年 大 僧 都 律 師 等 雖 レ有 レ
ニ 之以 二
ト 貞 觀 ノ之 例 一
テ 著
ヲ キ

一和尚 一
訖 ヌ佛 法 ノ之 繁 昌 山 門 ノ之 光 花 唯 在 二
ニ 此事
リ ニ 云
一 云
講 師 十 人、 安 然内 供 道詮律師
山 法隆寺
三論也
安海 大安寺
三論也
法勢 長朗
山 藥師寺
華嚴
惟首 義叡
山 藥師寺
法相也
延最 山春興 大安寺
華嚴
豐安 興福寺
法相也
問 者 十 人、 道 昌律 師 圓珍
元 相應
山 山 長源 猷憲
元 山 隆海 元長意 平智
山 康濟
藥 増命
山 山
註記
五箇 日 御修 法 大阿闍 梨 僧 正眞 雅 年六十五
東寺
しゃ
者 が 解 説 を含 め て一 つ の答案 を 導 き出 す よう な ことに な り ます 。 ただ 上 級生と 下 級 生が 入 れ替 わ って行 う こ とも あ りま す し、時 に は 上級
生 が 先 生と な る場 合 もあり ま す 。
りゅう ぎ
次 に 竪 義 に つ い ては 、 「義理 を た てる 」 こと で 、時に は 「 立義 」 とも 表 記され ま す 。こ れ は、 試 験官よ り 出 題さ れ た問 題 につい て 、
修 学 ・ 研究 の 内容 と それに 基 づ く答 案 を発 表 し、成 果 を 認め て もら う ことを 目 的 とし た 論義 で 、つま り 試 験と い うこ と になり ま す 。
たんだい りっしゃ
こ の 竪義 に つい て は、先 ず 、 先生 で ある探 題 か ら 出題 が あ り、 今 度は 上 級生で あ る 問者 の 数名 が 質問者 と な り、 下 級生 で ある 竪 者 が 答
案 を 発 表す る とい う 形にな り ま す。 そ して そ の答案 に つ いて 、 精義 者 として の 探 題よ り 合否 が 言い渡 さ れ るこ と にな り ます。
りつしゃ い こう
竪 義 は、 学 僧の 試 験であ る た めに 学 僧を竪 者 と 呼 び、 質 問 者と な る問 者 はみな 已 講 を 首 座と す る碩 学 (五人 ) が 勤め 質 問す る 形式と な
しょう ぎ し ゃ
っ て い ます 。 そし て 問題の 出 題 者で も ある 探 題(精 義 ・ 証 義 者 と 同 一 人) が その問 答 内 容を 判 定し て 合否を 下 す こと に なり ま す。
け ん が く りゅう ぎ せ き が く りゅう ぎ か ん が く りゅう ぎ
さ て この 竪 義に は 、南都 興 福 寺の研 学 竪 義 や 三 井 園 城寺の 碩 学 竪 義 、 ま た京 都 法成 寺 の勧 学 竪 義 (御 堂 竪 義) な どが あ り 、 比 叡 山

218
で は 広 学竪 義 があ り ます。 な お 比 叡 山 大 講堂 で の竪 義 は 大堂 竪 義と も 言われ ま す 。そ の 他に も 私竪義 な ど もあ り 、単 な る論義 法 会 と竪
義 と は 、方 法 や形 式 などは ほ ぼ 同様 で すが 、 その目 的 が 異な る こと に なりま す 。
そ れ では 初 めに 、 日本天 台 に おけ る 歴史 的 な流れ の 概 略を 見 てみ ま す。
日 本 仏教 に おけ る 論義記 録 と して は 、孝 徳 天皇の 勅 命 によ り 白雉 三 年(六 五 二 )四 月 、沙 門 恵隠が 内 裏 で『 無 量寿 経 』を講 じ た 際に 行
な っ た のが そ の始 ま りとさ れ ま す。 こ れは 『 日本書 紀 』 の記 事 です が 、恵隠 が 講 師と な り、 恵 資が論 義 者 とな っ たと い う記事 が あ りま
なん きょう さん ね
す 。 こ う し た 記 事も あ りま す が 、 そ の 後 に南 都 の三 会 「南 京 三 会 」 の 維 摩会 ・ 御斎会 ・ 最 勝会 が 行わ れ るよう に な りま す 。こ れ らの経
緯 に つ いて は 、こ こ では省 略 し ます 。
○ 天台論 義史上の 流れを見 てみま す。
※ 本 ワ ーキ ン グペ ー パーは 、 平 成二 八 年( 二 〇一六 ) 一 月一 四 日に 龍 谷大学 大 宮 学舎 に て開 催 された 、 龍 谷大 学 アジ ア 仏教文
化 研 究 セン タ ー( B ARC ) 二 〇一 五 年度 グ ループ 1 ユ ニッ ト A( 日 本仏教 の 形 成と 展 開) 第 1回セ ミ ナ ー「 北 嶺の 論 義」
に お け る講 演 の概 要 である 。 末 尾に 、 当日 の 配付資 料 を 掲載 す る。
こ う が く りゅう ぎ
天 台 の論 義 と言 え ば 、 現 在 で は比 叡 山で 四 年に一 度 、 法 華 大 会 に行 わ れる 広 学 竪 義 が 最 も知 ら れて い る行事 で し ょう 。 ここ で は、広
学 竪 義 の本 義 であ る 天台論 義 に つい て 、先 学 の論考 や 講 義録 な どを 参 考にし て 、 天台 論 義の 基 礎的な 諸 問 題を 考 えて 見 たいと 思 い ます 。
な お 、 論義 の 形式 ・ 儀礼や 法 式 など は 既に 先 学が詳 細 に 解説 さ れて い ますの で 、 ここ で は実 際 の文献 を 紹 介し つ つ、 天 台論義 を 見 てみ る

219
こ と に した い と思 い ます。
今 回 は、 特 に『 法 華経』 論 義 と諸 論 義書 の 論題を 中 心 に、 多 くの 文 献を参 照 し なが ら 、天 台 論義を 研 究 する こ との 基 礎的な 問 題 を提 示
す る こ とを 目 的と し たいと 思 い ます 。
1. 天 台論 義の概 要 (歴 史 的な 流れ)
論 義 は、 諸 経論 の 主要問 題 に つい て 問答 議 論する こ と によ り 、そ の 経典・ 論 書 の教 理 や内 容 につい て 明 らか に する こ とです 。 そ れは 問
題 に つ いて の 筋道 立 った道 理 と 、そ れ を裏 付 ける経 典 ・ 論書 か らの 引 証・文 証 に より 明 瞭に 答 案を設 け る こと に なり ま す。
こう じ もんじゃ せい ぎ
こ の 論義 の 場合 は 、 先 ず 上 級 生の講 師 が 経 論 の 講義を 行 い 、そ れ に基 づ いて下 級 生 の問 者 が 質 問し て いく形 に な り、 先 生で あ る精 義
龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー

No.15-04(2016 年 3 月 31 日)

講演概要

天台論義の基礎と文献

藤平寛田
(天台宗典編纂所編輯員,叡山学院講師)

目次
1.天台論義の概要(歴史的な流れ)
2.天台論義の基礎(『法華経』論義の論題)
3.天台論義の文献(義科・宗要・問要集書と論題・算題)
4.天台論義書の研究課題(諸本の分類整理と翻刻など)
刊行物案内(2015 年度)

① 龍谷大学アジア仏教文化研究センター「戦時下「日本仏教」の国際交流」研
究班(中西直樹(代表)・林行夫・吉永進一・大澤広嗣)編『資料集・戦時
下「日本仏教」の国際交流 第Ⅰ期 【編集復刻版】』(龍谷大学アジア仏教
文化研究叢書1),不二出版,2016 年 2 月。※チラシ掲載
2015 年度 研究報告書

発 行 2016 年 3 月 31 日

発行者 龍谷大学アジア仏教文化研究センター

編 集 龍谷大学アジア仏教文化研究センター

住 所 〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町 125 番地の 1 龍谷大学大宮学舎白亜館 3 階

電 話 075-343-3811

E-mail barc@ad.ryukoku.ac.jp(代表) URL http://barc.ryukoku.ac.jp/

印 刷 株式会社 冨士印刷

本書は,文部科学省私立大学戦略的研究基盤形
成支援事業「日本仏教の通時的・共時的研究―
多文化共生社会における課題と展望―」(2015
~2019 年度)による研究成果の一部である。

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