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人間口復への道工
白揚社
目
6
発刊のご挨拶 求道実行会密教ヨガ修道場会長 漆畑 芳 悠 紀
性:
u
命 か
と 力
Jす
生 生
:
:/u
戸Z
1
/
感
:
A
:
精神統一と禅定について - ニ五
・
・
ヨガのゴ l ルとその道程 :ji--::ji--
-:ji--・
::ji--::::二五
行法の成果・ .
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..・
二八
特殊能力者達の悩み --ji---ji-
-・::ji--・
::::ji-
-::::一三一
ダラlナ(統一法)とは何か
宝玉
ダ ラ l ナ 行 法 の い ろ い ろ ::-ji---ji--:・
ji---
ji--::::::一
重
ど こ に 意 識 を 集 中 す る の か ::::ji--ji--::-ji--:・
ji--:白
一
再びダラl ナ に つ い て :j i--:・
::ji--::ji---:ji--・
;:四
七
心身の和合統一 :ji---:--ji---:ji--・
::ji---ji--::・
四
七
絶対生命の大道・ ...
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... ・
・
四九
・
・ ・
精神統一と禅定との関係・ :::::ji--::::-ji---::ji-- ::
一五
いかに集中統一するか:::・ ji---ji- -ji--・ :::ji--::::五五
統
一境の
法悦・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・五
七
ダラlナとディヤl ナについて J J・-::::::::::::::亮
統
一と冥
想への
道・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
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・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
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・・・
・五九
土牢の中で:::・::・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・
・・
・・
・・
・ ・ ・
・
・・
・・
・・・
・
・
・・5
・・ ・・・・
・・
・ ・
アル・ホセイニ l師のことば::・ :::ji---ji--:-ji---ji--宅
...............
..............
托鉢団に救われる・・・・・・・・;:・ .
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.......
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..・
・
・・
・
・・・
・七
一
...•.••.•
次
•......
入団試験とその苦行・ ・
・・・
・・・
・七六
..
.••
目
つ
い
-t;
に
て
冥
行
法
想
ブU
7
8
悟りの世界ということ : ji--;-ji--;ji--:::::::;:・
:八
九
宗教の役割││現実肯定の手段 :::-JJ・ 圭一
-::::ji--::
人間の姿勢の特徴 その :九七
正しい姿勢とは::::::・ ::::::::::::::ji--:::・:::::宅
姿勢でわかる心理状態::::・
::ji--:::;::::-ji--:::・
九
八
姿勢でわかる健康状態 :ji---ji---:ji--:::::::::::・一0 0
正しい姿勢のとり方::・ :-
ji--:-ji--・
::ji--・:::::::: 一C一
人間の重心について:・:::::・・::::::::・・・:::::::・ 一Oニ
ji--:::: 三
丹田とはどこか ::::::::::ji--:: ji--:::・
口
一
姿勢の観察・ ::::::::::ji--:ji--ji--::・ 室
ji--:::: 一
正しい歩き方:::::・ j i-
-:::・ -ji--::::-ji--::: 一O八
ji--
完
立・坐 ・臥の姿勢に ついて:・ :ji--:::-ji--:::::ji--: 一
人間の姿勢の特徴 その
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一
人間の姿勢ができるまで ::::::::ji--:::::::ji-
--:
:一三
人間の足ができるまで :::::ji--:ji---ji---ji--::;: 一
五
一
足心とはどこか::::::・ ::::::::ji--:::::ji--:::: 一
八
一
人間の脊柱は S字型である ::::::ji--::::・ j i--ji--
・:一
三
人間としての正姿勢について ::::ji--ji--::::-ji---: 一二一一一
人聞の姿勢の特徴その三 一
一
一
七
坐禅の目的と効果と方法:・ :ji--:::::::::ji---ji--・:一二七
正しい坐法とは --ji---::::::ji---ji--::ji--:::::・二三
坐姿勢における腰腹部と頭部 :ji--:;:::ji--ji---ji-- 一四
ニ
一
人間の姿勢の特徴 その四 四一
一
坐り方のいろいろ :::::::ji--ji--::-ji--::ji--:・
:一四一
坐法の種類 ・・
・・・
・・
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・・ ・
・ ・
・
・
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・
・・ ・・
・
・・
・・
・
・ 一
宮
次
・・ ・
・
坐法の要点 :::::ji--:ji--::ji--:・ ji--・:::::::
・ 一
宮
正
坐法・
・・・
・・・
・・・
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・・・
・・・
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・ ・ ・
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・・・
・
・・
・・
・
・・ 一
四六
目
・・・
・
結馴扶坐および半醐鉄坐 :::::ji--:ji--ji---ji--::: 一 四六
9
0
法:
基:
本:
の:
ll9
1
坐法
しガ
い坐
~
正ヨ
O
五
一
人間の姿勢の特徴 その五
三E五
三E
足の役目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・・・
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・
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・・ 一
五五
身 体 の 型 と 心 理-ji--::・
ji---ji--:・
:::::ji--:・
ji-- 一
五六
足 部 と 身 体 各 部 の 関 係 : ・::::ji--:::::ji-
-::ji--
:・: 一
五八
足
裏の重
要性・
・・・
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・ 一
五八
足
と脊柱
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・・・ 一
六O
小指と悪姿勢・・・・・・・ ・
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・ (O
一
一
足と心臓・:::・ji--:::- -ji--:::ji--:::::::::::: 二(一
要姿勢の弊害・・・・・・・ ・・
・・・
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・・・・
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・・・ 一一
・
会
一
心理
状態と
姿勢・
・・・
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・・・・・
・・・・・
・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・
・・・・・
・・・・・・
・・・・・・・
・ 一
六回
正 し い 立 ち 姿 勢:;-ji--ji--:ji---::::::::::ji--:・ 一
六五
ヨガは﹁中﹂を教える:::::::ji---ji--ji---ji--::: 一
六六
日
常生活
と行法
・・・
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・・・
・・・ 一
六七
ヨガの教えは無道無円である :
-ji--・
::ji--::ji--
:一六
九
芸 道 と ス ポ ー ツ の 奥 義 に 達 す る 道 と ヨ ガ ・ ::ji--:-ji-- 一
主
一
文章で書けない奥義 :::::-ji--ji--:ji--:・
:::ji--: 一
主
一
日々の努力がたいせつ :ji--:;:-ji--:::::::::::::: 一
主
正しい方法を身につけよ ・
::・ ::ji---ji--::ji--:::・:: 一
六
七
音の世界の真実にふれるには・ ::::jji--:::::::ji--: 一 七
八
演奏
のコツ
・・・
・・・
・・・
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・・ ・・
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・・ ・・
・
・・
・・ ・
・・
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・・
・ ・・・・ ・
・・・
一八一
ニ
・
・ ・
・ ・・・
・ ・・
技でなく自然心で表現する・ ::::::ji--:::::::ji-- ・:一八五
色彩の世界の真実にふれるには ::::ji--::::::-ji--:: 一
八
八
絵画の上達も正しい生活から :::-ji--:::ji---ji--::: 一
き
行 な ;
の ら j 字、-
揮:
L
実 査 て
調模私生 ヨ
和索の命ガ
感な験力司
とし体のに
謝が:のに
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:/て互王 互 玉
L :
へ : 発
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次
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目
ノ、-t:;
t t
L :
1
:
1
ヨガで修練した結果 ::::jji--::::::::ji---ji-
-::・一
九九
2
1
適 者 生 存 が 地 上 の 法 則 ::--ji--:::ji--::::::::::::: g
ニ
自 分 の 救 い 手 は 自 分 で あ る :::-ji--:::::: :ji--::: 二 口一
・
・
生命の働きをじゃましているもの:::::・ ji--:::::::::: 二O一
一
生 命 現 象 │ │ 異 な る ふ た つ の 力 の あ ら わ れ :ji--::::;::・ ニO三
:ji--:::::::::・
バ ラ ン ス と コ ン ト ロ ー ル の 法 :・ ;::::: ニO四
ヨガは生活の科学である :::::::::::::::::ji--:::: ニ実
ノイローゼはヨガ行法で全治する :::::: ji-
-:ji--: ニ完
ノイローゼとは何か :::::::::-ji--:::::::::ji--・
: ニ完
ノイローゼ症状が身体に与える影響::::::::::::;::::: 二
一
一
ノイローゼ症状の種々相・ :::--ji--
-ji--
:・::ji--
:::: 一
二三
の
ロ
因
原
イ
圭王
ノ
ゼ
ノイローゼのなおし方・ ::::::::ji---ji---:::::::: ニ
ニ
ニ
ji--:::ji--:::-ji--
ヨガ的ノイローゼのなおし方::・ : ニニ四
.
愛児教育の盲点
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の
そ
悪人などはいない :ji--:::ji----ji--:::::ji--:::: 二
一
三
一一
問題の子供は問題の親から:・ ::::::ji--::::ji--ji-- ニ一二五
子供からおとなへの訴え :ji--:::ji--:::::::ji--:・:ニ一毛
愛児教育の盲点 その
宝王
--Ji---:: 孟 一
: j i-
なぜ生まれてきたのだろうか :ji--ji--:・
よりよい生きかたとはなにか :::::::::::-ji--:・
ji--:・
二五ニ
自己に会い、自己をあらわして死のう ::::ji--ji--:::: 二
五
一
一一
自他に会い、自他を育てるには::::・ ::ji--::・
ji--:・::二五回
自分の型について ::ji--:::-ji--・
::ji--::ji--:::: ニ
五四
援
の重要
性・・
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・・・
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・・・
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・・・・
・・
・
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・・ニ
五五
大脳について:・ :ji--:・
ji--:::::ji---:::ji--ji-- ニ
五六
正しい乳幼児期の育てかた ::::ji---ji--:・
::ji--:::: 二
五七
次
子
供の蝶
かた・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・ ・・・・ ・
・
・・
・・
・・
・・・
・
・
・・・
・・三
六一
:ji--:-ji--:・二六 一
身体のねじれから起こるホルモン分泌異常:・
目
おとなの判断と子供の判断::::::::ji-
-::・
:::ji--:・一 三
3
1
六
一
赤ん坊に与える環境の影響::::::ji---ji---ji--::::ニ
歪
4
1
無意識のさせるくせ :::::jji--::ji--::::::ji--:ニ宅
性のよろこび-----
--
--
--
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--
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--
--
------
--
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-
---
--
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--
一一
七一
生きているということ::・ ji--::ji--ji--・::::::::::二七一
ノ丸寸=→=寸=寸=寸=
通 の 性
点 関 欲
交男性結相性
わ女要婚手愛
点結:の人
と婚:性間
りの求後のを
たるる い相和欲場な
共と:欲の
ll9 二二
つの調性いも
に性ののなと
め道道 て違と:合う
係:
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フ ノ可、
一
一 2
:王
/'-
婦性性
合たた
のどど
夫女男
和のの
二二
二
ノ丸
二二
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ノ
長寿法問答・・・・・・・・・・・・・・・ ・
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・ 一五
・
・ ・・
ヨガで長寿になれるか::::::・ ::ji--::・
ji--:::-ji-- 二
八
七
7L
と
の
そ
の
ノヘ
理
論
訣
長
寿
秘
疾 病 問 答 そ の 一 ・ ・・
・・
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・・
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・・
・ ・ ・
・
・・
・・ ・ ・ ・
・
・・
・ ・ ・
・・
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・・
・・
・・ 九七
・ ・
・ ・・
・ ・・ 一
一
なぜ人間だけが病気にかかりゃすいのか?・::ji-- :::::・: ニ九七
疾 病 問 答 そ の 二 : ::ji--
:ji--
::ji--
::::ji--・:=一 O七
病気の正しい観方、受け取り方:ji--:・:::::ji-
--:::: 宅
一
=
ほんとうのことうそのこと その -
=二九
奇蹟や神秘があるのだろうか・:::::::::::::-ji--:::: 九
一
三
私はセンサク好きである:::::-ji--::::::ji---
-ji--: 三ニ O
精 神 感 応 に つ い て :::-ji--::-ji--:::ji--・::ji--:・: 一
ニ三(
宗教的修行のいろいろな体験・::ji--:-ji--:・:ji--:::: 三二 七
次
ほんとうのことうそのこと そ の 二 : ::::::::::::::喜
一
一
何がほんものか:::-ji--::::::::::ji-
-:::::ji--: =
一
一
三一
目
魔術か奇術か霊術か・::ji--:::・:ji--・::::ji--::・:: 喜
一五
5
1
ど う してでき る のか、学 ぶ点 は何 か?
ほ ん と う の こと う そ の こと そ の三
要 吾 ≡ 更 更
ほ んとう の神 秘 と は当 り前 の こと
霊 覚 者 と手品 師
古 来 から の心 霊 術
修行 で得 る真 の能力
質 疑 応答
ヨガによる人間回復 の道
~
海外で修正法の指導
1
8
生かす力
生命力と感受性
生きているということは、外の環境および内の環境からくるふたつの刺激に対して反応する適応性
を要求することである 。
生きて いること自体がこの要求のあらわれであ って、思考作用 も、食欲もみなこの要求のあらわれ
である。そしてこの要求は個々の感受能力(反応力)の相違によって、おのおの違った現象としてあ
らわれるが、真の力は同一の平衡維持の働き(自然治癒能力)であり、この違いのあらわし方を体質
とか、気質とか、天分とか、業とか、癖とかいうのである 。そ してその要求を読みとり、その要求に
適した生活(刺激)をすることが生命の戸を聞き、生命の願いに従うことである 。
われわれの適応性は訓練によって、思い通りになるものである。たとえば胃が弱いからといって消
化しやすいものばかりを口にしていれば、 胃の適応性は低下して胃の働きは衰える一方であるし、消
化薬を常用している人の 胃の働きは、消化薬なしでは消化できないように胃の働きを低下させてしま
9
1
うのである 。
0
2
真の栄養は食物によるのではなくて、 それを受け取る自分の身体の能力にかかっているのである 。
われわれを生かしている内在する力が、 われわれの 生命に必要な生かす働きをもつものを必要とする
のである 。
空気も、水も、食物も、生体にとってのみ生かす働きを発現し得るのであって、死体に対しては何
らの働きもなし得ないのである。この生かしている内在の力は使わなければ低下してしまうのである 。
小食、粗食でも、消化、吸収、中和、排世の自己能力が完全に行なわれれば、人間は誰でも健全に生
きられるのである。この事実に立脚すれば、自分の内にこそ栄養の基礎があることに気づかれるであ
ろう。 生きるに必要なものとして、生きるものすべてにこの力は与えられているのであるが、誤 った
考えから、われわれは与えられたこの絶対力の働きにブレーキをかけている。ヨガ行法は生命の働き
にブレーキをかけているものは何であるかを探求し、排除することが 基本 である 。
また生きているということは、バランスがとれている状態のことで、生命現象はバランスをとろう
という働きのあらわれである 。バ ランスがとれていない状態を病気という。バランスをとる働きを呼
び起こす内なる力を強くすることがヨガである 。
生きていることはまた、エネルギーを集中・分散することであるが、そのエネルギーは正しく使わ
れなければならない 。 無意識にただエネルギーを使 っていたのでは、われわれの肉体は、エネルギー
を変化させる媒体にすぎない 。
人間の身体の真の医学とは、教えなくても知っている本能の医学である。人間と動物との相違は、
人間は大脳と喉と腰と手足とが特別に発達していることで、そのために、人聞は 言葉を話し、思考作
用が発達していて、いろいろなものを工作することができるけれども、このように進化した反面にま
た退化した点もある 。
肉体の異常、すなわち病気は生命のさけびであり、療法そのものであるから、これを敵視するのは
まちがいである。
病気はなおるべきものであって、なおらないことのほうがおかしい 。 バランスさえとればすぐなお
るべきものである。また、病気にはなるべきであって、病気にならないような身体は健康体とはいえ
ない 。合理的な生活、バランスのとれた生活をすれば病気はなおり、疲れることもない。生そのもの
に喜びを感ずるのが健康である。ベシ、ベカラズ医 学が発達して、それが守られないから不安が起こ
り、﹁人生は 苦 なり ﹂ の人となるのである 。 健康であるか否かは自分の手中に握られているのである 。
力は平静なときにのみ発揮される 。なおそうとか、力を出そうと思って気張ってもなおるものでは
ないし力も出ない 。バランスのとれた平静なときにのみ力は出るのである。だから力を出そうとする
ならば平静で寂の状態を保たなければならない 。
生かすカ
宗教や医学はいずれも愛から出たものであるが、現在では利益を主眼とするものが多くなって治療
や信仰の効果が薄らいだように思われる。
生命は探求しようとすべきでなく、味わうべきものである。そして身体自身がほんもののチエをも
1
2
っていることを深く認識すべきである。たよりになるのは自分自身の内にある力であって、医師や宗
2
2
教を頼るべきではない 。
生命の報告にもとづいて善処すれば自ら病気は全治するものである。生命の報告は、皮膚に、脊髄
に、顔に、手足に、その他あらゆる部分にあらわれる 。 内側に症状が起こってくるとうっ血して神経
が興奮してくる 。緊張すれば感じが鈍るからわからない 。
死体を解制しても生命のことはわからない 。 ヨガは死人の顔を 美 しくする 。死 を心配するなとい っ
てもそれはむりなことであろうが、しかしそれは、ムダなことであり、パカなことである 。 心配して
もどうにもならない 。 生きている聞は、喜べる生活を送れるようしていれば安心して、顔もきれいに
死ねる 。
いかなる現象も歴史の 一過程にすぎない 。﹁晴れてよし 曇 りてよし 富士 の山﹂の境地そのもの、すべ
て善のみである。
生命は働きの中に感じとるべきものであって、生きていることは自然であり、自然をはなれて自分
はあり得ない 。 いかにすれば自然であり得るかが、ヨガの探求するところである 。
繰り返しいうが生きているということは適応しようとする運動である 。感受性が鈍いとだめで、感
受性の働きが緊張している状態を過敏といい、弛緩している状態を失調というのである 。感受性は、
回を重ねることによって弱くなる。感受性を正常に効果的に働かすことはむずかしい 。 心理的にも生
理的にも解剖的にも合理的でなくてはならない 。感度を高めるためには注意集中が必要である 。意識
が分裂していると感受性は弱くなる 。
神経の働きを正常ならしめる生気(プラナ)が体内に貯蔵されているか、いないかによ って神経の
働きが異なる 。プラナをためているところが神経叢であり、深い呼吸をして息をとめてから神経を使
うと効果があるのである 。
昭和お 年 叩月頃の著作)
(
生かす力
3
2
2
4
精神統一と禅定について
ヨガのゴールとその道程
ヨガのゴ lルは神人合 一、神我一体の聖境にまで達することである 。この境地というのは心身の働
きが最高の安定状態になっていることである。生命の働きにいささかの邪魔物もなくなって、生命
(宇宙・神)の完全なる働き(光)があらわれている状態である。生命の働きが適応性の働きである
ということは、訓練しだいで最高の状態にまで達し得るということである 。心の最高状態とは平和心
(ニルパ lナ)である。平和心に到る道は心身の浄化であり、コントロールである 。浄化法としてヨ
ガはその初段階において次の実行を教える。
(禁戒)
マ
ヤ
アヒンサl アヒンサ lは不殺生と訳されている 。 しかし真意は徹底した愛の実行のことである。
愛とはすべてを生かす心である。キリストは﹁汝の敵を愛せよ ﹂ と教えている。愛の心のもとに敵
5
2
は な い 。 す な わ ち 何 物 を も 否 定 し な い 無 対 立 心 で あ る 。 い っ さ い を 自 己 と 見 る 心 で あ る 。 すべての
6
2
物を自己として愛し、生かさずにはいられない心境である 。 す な わ ち 愛 の 実 践 と す べ て を 生 か す 努
力がヨガへの第 一門となっている 。
サッ卜ヤ サットヤとは 真実だけを語ることであり、 真 実だけを行なうことである 。
アステヤ アステヤとは無限の努力を重ねつつ、与えられたものを神からの賜り物と感謝し、満
足し、 最 大限に活用することである 。
四 ブ ラ フ マ チ ャ リ ヤ ブ ラ フ マ チ ャ リ ヤ と は 本 能 的 欲 望 を 昇華 活 用 す る こ と で あ る 。 吸 収 ( 食 ) と
排世(性)の 二大生命本能を心身浄化のためだけに使うこと、すなわち欲望を浄化し、 善 用するこ
とである 。
ア パ リ ゲ ラ ハ ア パ リ グ ラ ハ と は 欲 求 の と り こ に な る な と い う こ と で あ る 。 打算 をぬきにして、
五
奉仕の心で生きよということである。
ニヤマ (勧戒)
六 ク リ ヤ ( シ ャ ウ チ ャ ) ク リ ヤ と は 心 身 浄 化 法 の 具体的実行のことである 。 心的クリヤとは感謝
し 、 奉仕 協 力 す る 生 き か た を す る こ と で あ る 。体 的 ク リ ヤ と は ハ タ ・ ヨ ガ ( 行 法 ) を 行 な う
、 喜び
ことである 。 ハタ・ヨガとはバランスのとれた 生理的な発達をうながす訓練法である 。生 活的クリ
ヤとは利己 主義、自己本位から脱却するために行なう無要求の 奉 仕、陰徳的生活である 。
サン卜シャ サントシャとは欲望に心を動かさないこと、すなわち無執着になることである 。
¥七
タパス タパスとは正しい生命反射をする自分をつくるために、生活を秩序づけることである 。
九 j
精神統ーと 禅定につ いて
段 階 を 行 な う こ と に よ っ て 自 然 に 到 達 で き る も の で あ り 、 求 め て 達 し う る も の で は な い 。 サマージの
境地は達し得た者のみ、その味わい知るところであって、 筆 や 口 で 表 現 で き る も の で は な い 。
サマージに到る七段階というと、ひとつずつ区別して行なっていくものであるかのように理解して
いる人が多いがこれはまちがいで、この七段階は日常の生活においていっしょに行なうべきものなの
である 。 た だ 説 明 の 便 宜 上 、 七 ス テ ッ プ に わ け て い る の で あ る と 理 解 さ れ た い 。 七 段 階 の お の お の に
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2
軽重 があるのではない 。 七段階のすべては必 要 な行法なのである 。
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2
解説の順序としては、 ダラ l ナとディヤ l ナはアサンス、プラナヤマ、 。フラティヤハラの後にすべ
きものであるが、 ヨガにおいてはいかなる 心構え、身構えで事をなすかに正否があるのであるし 、 ま
たこのふたつが行法の中心となるものである。
註 H沖聖師は昭和五十四年発行の﹃ヨガの喜び﹄以後は、七段階にパクティ l、ブッディ l、プラ
サドを加えて十段階としてヨガを説いておられました 。 真 の悟り、信心、救われを得るためには、
シャカやキリストが行じられた 真 の宗 教としてのヨガの 実 践をしなければなりません 。
(鴻巣記)
行法の成果
ヨ ガ は 訓 練 に よ っ て 、 自 己 の 能 力 を 最 上 に 発 揮 す る 方 法 を 教 え て い る 。話 だ け で は 信 じ ら れ な い か
もしれないが、私は自分が直接目で見てきた数例を皆様に紹介しておく 。
自己冬眠による土埋め行法 私は 三人の行者の実施をみた 。 みな五日から 二週間ぐらい 土埋 めになる
のである 。 この行法を体得するためには、ハタ ・ヨガの中のケチャリムドラを体得していなくてはな
らないのであ って、このケチャリムドラとは蛙のまねをするのである 。 このムドラは舌と呼吸の特別
訓練をするのであって、 これは成長期前からしなくてはならない特殊行法である 。 これにはふたつの
クリヤがあり ひとつはチェダン (週一回、舌下のひもを切る) であり、もうひとつはドハン (舌を
たえずのばして、鼻の先までいたらす)である。このケチャリムドラによってプラ l ナをコントロー
ルし、ダラ l ナによって自己催眠を容易にし、ディヤ l ナによって大脳と間脳をコントロールするこ
とによって冬眠状態にはいるのである。
水 上 浮 揚 と 空 中 浮 揚 こ れ は デ ィ ヤ l ナの訓練によるものである。水上浮揚は心身をくつろがせれば
よいのであるから、物理的に誰でも首肯できるものである。しかし、空中浮揚については疑問をいだ
かざるを得ないことではあるが、私はそれを数回目撃した。この訓練もやはりケチャリムドラを中心
としたもので、 これをラムピカ・ヨガというのである。(これについては ﹁ほんとうのことうそのこ
と﹂ の項で詳しく触れておられます │││鴻巣記)
百 日 の 断 食 、 十 日 の 断 水 こ の 二 つはともに生理学的常識ではうなずけないものである 。 しかし、彼
らの中にはできるものが存在するのである 。
テレパシー(以心伝心)これのできるヨギは非常に多い 。動物の生活は 六感と以心伝心で保ってい
精神統ーと持定について
るのであって、われわれの祖先もまたそうであった 。文字や 言葉の発達による文明は、六感をつかわ
ないようになり、これらの能力を低下させてしまったのである 。 ヨガの行者 はこの潜在能力をブラフ
マチャリヤ(欲望コントロール)とダラ lナ(精神集中)とディヤ lナ(禅定、放 下)の 実行によっ
て開発促進しているのである 。 私はこちらの心境を鏡の如く明白にうけとる(無言 のうちに) ヨギ数
人に会 った。
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2
強い念力の保持者思考は力であり、物を変化させ得るものであることを知っている人は少なくない。
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3
いま自分がどう考えているかということが、自分にはもちろん、他人に絶大なる影響を与えるのであ
る。 ヨガの人々はこの 事実に 気づき、平くから思考をコントロールすることと、思考力を強める行法
を行なっている 。
﹁暗 示 は力なり ﹂ ﹁
二一界は唯心の所現なり ﹂ の真 理を発見したのはヨギであった。古
来の聖者の多くは、この力を 善 い方に活用したものであった。暗示を応用した催眠法を組織づけたの
もヨギであ った。
私は念力および暗示力の数多くの 実験を見学した。ロープの空中のぼり、身体の 空中浮揚、物質の
自由な生滅などである 。 これらのことは写真機に事実として 写 しとれるものではない 。 しかし、行者
の強力な念力によって、事実 のようにみせつけられてしまうのである 。事実 ではない、しかし事実の
ように集まる 者 に思わさせてしまう強い行者の思念力は否定できない 。私は数カ所の 聖者 の塾に数多
くの難病者があつまり、それらの人々が聖者の思念または言葉の暗 示 によ ってなおされていく 事実を
目撃した 。 人はこれを 奇 蹟といい、あるいは超科学と名づける 。暗示 の力について知らない人は、そ
れを偶然として 否定する 。非科学的ともいう 。 ヨガのリシ(聖者)たちは何によ ってこの力を開発し
たのであろうか 。それは精神集中法(ダラ l ナ)とプラナヤマの 実習と、ブラフマチャリヤの実行と
によってであ った。
クレヤヴアイアンやクレヤオ│デイエンスヨガではこの力を、ダウラダリシティという 。俗にいう千
里眼、千 里耳である 。動物の五 官 はすばらしく発達していることは誰でもが承知していることである 。
その理由はなんであろうか 。それは五官を完全に使用するからである 。 人聞は文明の利器にたよりす
ぎるために、その力を低下させてしまったのである 。 もとより人聞にもこの力は内にひそんでいるの
であって、使用しないために眠らせているにすぎない 。 ヨギはこれを使用し、訓練することによって
この内在力を開発させたのである 。 この力を開発するために行なわなければならないのは、サムヤマ
とパイラグヤである 。 サムヤマとは精神集中と冥想、かひとつになっている行法であり、パイラグヤと
は無執着、放心の行法である 。私は数多くのすばらしい力の持ち主であるところのヨギに会った 。彼
らはこちらの心中、袋や箱の中のかくれている物、他人の体内等をレントゲンのように明白に読みと
るのであ った。
感の発達動
﹁物感の ﹂ はすばらしく発達している 。 そもそも﹁感﹂ というのは自己防衛のための本
能力のあらわれでもある 。生 命の働きは適応の働きであるが故に、常に刺激に対してそれに対処する
働きを行じているのであり、しかも無意識に行なわれているのである 。 だからこの感の働きを鋭敏に
するために必要なことは、無意識層の働きの邪魔をしないということである 。 この邪魔をするものは
精神統一と禅定について
何であろうか、それは意識である 。意識の 働きをコントロールすることによ つけて無意識の 働きが高
まってくるのである 。 この効果をあらわさしめる行法がディヤ l ナである 。
動物は 六感だけで 自分 を守っ ている 。 人間も本来与えられている内在力をも っているのだから、そ
れを使用し、磨けばその働きは高まってくるのである 。 だからヨギはできるだけ簡素な生活をして、
できるだけ自分を使うようにと心がけている 。禅定法と自己使用によって、ヨギの感は発達したので
1
3
ある。私は数人の予言 のできるヨギを知っている。彼らはその ﹁
感﹂ によって、将来起こるであろう
32
ことが 事前に感受できるのである 。
私はいろいろな特殊能力の例をあげた 。 しかし誤解をしないようにしてほしいことは、 ヨガの目的
がそこにあるのではない ということである 。 ヨガの目的はあくまでも神人合 一の悟りであり、地上に
天国を実現する努力である 。 この目的完遂のためには、自己の心身および 生活を最高度に高めるくふ
うと努力をしなければならない 。 これがヨガの行法である 。 ヨギはこの行法を行な っているうちに、
いつの間にかすばらしい能力を体得するにいたったのであり 、 ﹁悟れる者﹂ の 副 産 物 と し て 特 殊 能 力
を獲得したわけである 。悟りがヨガの 主 目的である 。悟りとは無条件の心である 。﹁なになにのために
する ﹂というのでは悟りではない 。 それはヨガ的にいえば邪道である 。特殊能力だけを得ることが目
的ならば、なにもヨガをやらなくてもよい 。 なぜならば 、特殊能力は訓練の産物であるからである 。
心身の能力は訓練によってどこまでも高まって いくのであるから、ひとつのことの訓練を繰り返して
いれば、ついには異常能力を得るにいたるのである 。 しかしこれは悟りとは無関係である 。特殊能力
を有する人には次のふたつのタイプがあることを知るべきである 。悟りにいたる訓練によ って自然に
体得した人と、悟りとは無関係に訓練によって体得した人とである 。
前者をヨギといい、後者を奇術者とよぶのである 。ヨガのゴ l ルは法悦であり、心身および生活の
平和であり、その輝きである 。 このためにヨガを学んだ人は多いが、ヨガに達した人はまことに少な
いことを銘記すべきである 。
特殊能力者達の悩み
私の在印中、各種の特殊能力者の大会があった 。私はこれに招待され、いろいろな実験を見学した 。
ほんとにすばらしく、驚いてしまった 。人間訓練の極限であろうとさえ思った 。 日本につれできたら、
一人一人が生神様として、無知な人々からたてまつられるであろうと思った。新興宗教の教祖の大半
は、このごくたあいない能力の持ち主たちである 。 しかし、それのできない普通人にはすばらしく偉
くみえるのである。そうして一派をたてて、拝んだり拝まれたりのナンセンスを繰り返しているので
ある 。このことは何も日本だけのことではない 。文明国と称している欧米ではさらにひどい、と欧米
の友だちは私に語 っていた 。
私は生来こういうことの好きな性質である 。私はこの能力者たちの 一人 一人にその秘法をしつこく
精神統ー と禅定につい て
聞いた。このようなことを質問することは愚の骨頂であることは知っている。なぜならば、この能力
はその人が体得したものであ って、説明できるものでもなく、また説明してもら ってわかるものでも
ないからである 。 このために古来から﹁尋ねること、語ること﹂はタブーとされているのである。幸
いなるかな異邦人の私にはそのひとつひとつを説明してくれた 。 しかし、これは修行によ って自得し
ていくものであって、説明によってわかるものではない 。 いな実行のないものへの伝授は危険である 。
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3
私もこれはと認めた努力者以外には伝授しない決心である 。
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さて、これらの能力者が私にその秘法を伝授して最後になにをいったと思われるか? この 言葉 は
私の胸をつねに強く打つものであり、ヨガを 学ぶ者への指針である 。その 言 葉は、
﹁友よ、ごらんのとおりに私にはこのような特殊能力がある 。人々は私を偉いと思うらしい 。拝む
人さえもいる 。 しかし、私には心の平和がない、心の光がない、心の法悦がない 。それがこの能力を
得て、人から拝まれるようになってからの私の実感である 。 人 々 は 思 う ら し い の だ 、 私 の 外 見 的 特 殊
能力を見て、心も悟 っているらしいとね 。 心の 平和、 心の 喜 び、これが私の求めているものである 。
道を求める友よ、生き方をあやまるなかれ
﹂
。
これはなにを教えているのか 。それは特殊能力を 主目的としてはいけないということである 。 ヨガ
行の第一方法は心身の浄化であり、そのゴ l ルは神人合一の法悦である 。 しかし、これはむずかしい
ことだ 。 焦ってもだめである。幾度か生まれかわってもいつの日にかゴ l ルに達する決心で、たえま
なき努力を繰り返していくのが、ヨガを学ぶものの心構えでなければならない 。
このことからもヨガを説くには心の浄化法の哲学を 主として説かなくてはならなくなる 。 しかし、
行法もまた説かなくてはならない 。行法の主なるものはダラ l ナ(精神集中、心身統 一
) とディヤ l
ナ(禅定) である 。 ほかの諸行法はこの 二行 法 を な す た め の 準 備 的 な も の で あ る 。 例 と し て 記 し た
人々の行法の 主たるものも、ダラ iナとディヤ lナである 。
(
昭和お年四月頃の著作)
ダ ラ l ナ (統一法) とは何か
ダラーナ行法のいろいろ
デ l シャパン、ダシュ ・チタ スヤ ・ダラ l ナ σ白
l
(牛巾印印ロ
門出戸
曲目。-22可白色E m
﹃E白・
﹃ ヨlガスlトラ﹄自
在品第 一頒)、これを邦訳すると﹁精神集中とは外的なまたは内的な一点に自己の心を強く結びつけ
る行法である﹂という意味になる 。 ラジ ャ・ヨガではダラlナ行法は第 六段 目 に な っている 。 しかし
心を 一点 に集中しているからといって、それがそのままダラlナ行法であるというのではない 。 すな
わち、何に集中するかが問題なのである 。 ヨガでは 真 理に自己を集中する場合のみをダラ l ナ行法と
精神統ーと糊定について
いうのである 。 真 理 把 握 ( サ テ ィ ヤ グ ラ こ の た め の ダ ラ I ナ行法にはつぎの心理的、生理的条件が
必要で ある 。
①心のコン ト ロー ル (ヤマ ニヤマによるシャンティ)
②正しい姿勢(アサンス)
③呼吸のコ ント ロール (プラナヤマ)
5
3
④五官が環境から邪魔されないこと (プラティヤハラ)
6
3
⑤生活欲すなわち本能欲のコントロール (ブラフマチャリヤ)
等である 。
ひたすら心を 真理に結びつけるために、古来の聖賢はいろいろな修行法を教えたり実行したりして
いるのである 。森林に独居したり、荒行をしたり、念神 三味になったりしたのもこのためである 。 こ
れらは、以 上の条件をかなえるのに適したものなのである 。読者も経験があることと思うが、心を一
物に集中統一するということはまことにむずかしいことである 。それは心が五官や本能の動揺に応じ
て、動揺変化しやすいからである 。
ヨガ行法の中でもっともむずかしいのは、五官すなわち感覚コントロ ー ル行法(プラティヤで乙
であるとされている 。 われわれの生命力がもっともその力をあらわすのは、その働きが統 一されたと
きである 。そしてこれが自己の力を最大に発揮する 基 礎力ともな っているのであり、古来の成功者 は
みな、この自己能力発現法を身につけていたのである 。 しかしここで問題になるのは、前にも述べた
とおり、何に向か って自己を統一するかということ、いかなる方法によ ってそれをなすかということ
である 。 そしてこれが自己力を方向づける基礎ともなっているのである 。
古来の成功者は、積極的にある 一方向に精神を統 一する方法を身につけていたのである 。 しかし心
は統 一しようと思 っても簡単に統 一で き る も の で は な い の で あ っ て 、 や は り こ れ は 練 習 の 産 物 で あ
る。 ヨガではそのいちばん適切な各種の練習方法を教えている 。それを容易にする行法としてつぎの
ようなものがある。
プラナヤマ法(呼吸のコントロール)によって
意識集中法によって││これはいろいろな方法がある 。 たとえば、
①ジャパ(神に意識を集中)によって
②マントラ(聖語に意識を集中)によって
③ リキタ(神名や聖語を 書く) によって
④ア l サナ(体的刺激に意識集中)によって
その他があるが、要点は同一事への意識集中を繰り返すことである 。神道における鎮魂帰神法、
仏教における唱名念仏やお題目の繰り返し、坐禅の数息観、その他修行の名のもとにおいてなされ
る各種行法はみなこの目的のものである 。
精神統一の練習の秘訣は、正しい心身の状態で一事を繰り返すことである。繰り返すと、どういう
ダラーナ(統一法)とは何か
ことになるのか 。われわれの生命の働きは、刺激に対する応答であるから、正しい状態で 一事 を繰り
返すことによって正しい応答が得られるわけである 。われわれは内的外的刺激の中に存在するのであ
り、これが生きているものの姿である 。統 一するためには、異状な刺激に邪魔されないことが必要で
ある 。しかし、生命の働きは無意識の働きであるから、邪魔されようとして邪魔されるのではない 。
また、意識的に乱れるものでもなければ、意識的に統 一できるものでもないのである 。 心理的にでも
生理的にでも異常があれば、それが刺激となって無意識に乱れてしまうものである。だから、統一の
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3
ためには心理的にも生理的にも正常(健康)であることが必要である 。 この生理的健康を目標とした
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3
訓練法がアサンスとプラナヤマであり、心理的健康を目標としたものがブラフマチャリヤとサダナで
ある 。 よく、生理的不健康でありながら意識だけは病的に統 一できる人がいる 。これはヒステリー症
の人に多い例である 。 新興宗教の教祖等にもこの例は多い 。私は、生理的に異常があって心理的にだ
け正常であり得る道理はないと、確信している。
刺激に乱されないためには、 五官と本能欲のコントロールが必要である 。 この行法がサダナの中の
プラティヤハラ行法である。プラティヤハラ行法とは、感覚を自由にコントロールする行法である。
しかし、感覚の去来を 自 由にコ ントロールす る行法はむずかしい行法である 。心はまとめることも、
自 由 に コ ン ト ロ ー ル す る こ と も む ず か し い も の で あ る 。 プラティヤハラは心頭を滅却すること、心を
それにひっかけないことである 。 しかしこの行法は、いうはやすいが行なうのはもっともむずかしい
ものである 。われわれの日常生活を顧みても、利害損得好嫌で、常時心はなにかにひっかかりつづけ
ているのが普通である 。 この執着から脱却するには、無条件、無要求、無対立、無執着の修養が必要
である 。
このように生理的、 心理的な統一がとれるようになってから、いよいよ神(真理) への自己統 一行
法(ダラ lナ)にはいるわけである 。 これが正しい段階であ って 、そうでない場合には異常心理およ
び 異 常生理 状態になるのである 。 これを神がかりとかひょう依などと俗にい って いるのである 。
発明家は 意識を関心事に集中している 。 この意識の集中によ って頭脳は開発され、自己力は伸長し
ていくわけである 。﹁強く思えばその通りになる ﹂ということばがあるが、これは、この間の消息を示
すものである 。 ﹁
三界は唯心の所現﹂とか﹁現象は心の影﹂という語意もまたこれである 。
われわれは﹁自分は何に心を意識的または無意識的に集中しているか﹂を反省してみなければなら
ない 。多くの人は病気や不幸に自分の意識を集中している。そしてその結果、そのようになっている
ことに気づかなければならない 。無自覚的に求めたものが、自分に与えられることが多いのである。
これはまた自分だけに影響するのではない。強い意識は暗示力として相手にも影響を与えるのであ
る。古来、事業に成功した人はみな 、この意識統 一の力を自他に応用しているのである 。意識統一が
はやくできる人は、非常に能率をあげることができる。それは意識統 一によって合理的に事をなしう
るからである。他の者が五時間かかるところを、彼は一時間でなしうるわけである 。
意識統 一の練習とは、意識を一事にティクス(固着)することである。最初の練習法としては、時
計の音やロ l ソクの光に意識を集中してもよい。何に意識を集中して練習するかは自分でえらぶべき
ダラーナ(統一法)とは何か
である 。 なぜならば、いやなものや嫌いなことには集中しにくいからである。自分で自分の一番好き
なこと、関心のもてることに意識を集中する練習をすることが一番容易である。
意識を統一すると感情がしずまり、浄くなってくる。意識(神経の働き)もまた明瞭になってくる。
このために明智も生じ能率もあがってくるわけである 。仕事のうえにこのダラ l ナをあらわし得ると
き、その人は群をぬき得るのである。しかし心身が安定(平和)していないと意識の統一はできない 。
意識を統一するためには、感情と生理の動揺をセ lブ、コントロールすることが必要である 。 これが
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アサンスとプラナヤマとプラティヤハラの行法である 。 心身の働きは平静なほどその働きをますので
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ある 。 ヨガの訓練法は心身の平和(調和)を保つための修行法であるといい得る 。刺激に対してすぐ
に調和を保つことができれば、容易に平静を保ち得るわけである。よく﹁あの人は甘さも辛さもかみ
わけた人である ﹂ と祉のできた人を評するが、その意味は多くの体験によって調和力が身につき、感
情が動揺しなくなっていることである 。真理の体得によりその状態になっているのを不動心(ニル
ヴイカルパサマージ)といい、その最高の状態をニルバ Iナ(静寂)というのである 。 ダラ lナ行法
というのは心の統 一を容易にし、内在の 霊性を開発するための練習法の総称である 。
人はいつでも何かのことに意識をむけているものである 。 しかもその目標をかえて、軽々と心を動
かしている場合が多い 。 これでは心の統 一はむずかしい 。 心を神に統一している人を信仰人、 真理探
究に統 一している人を哲学人、学究に統 一している人を学者、事業に統 一している人を事業人等と呼
んでいる。そして、修行人とは心身の浄化、強化訓練に意識をむけている人のことである 。
ヨガでは修行人に必要な生活法は独身生活、捨心生活、欲望のセ lブ、プラナヤマ行法、念神行法、
感覚を興奮させるような対象からの離脱(出家)、独居、沈黙、冥想、不良環境に混入しない注意、遊
戯から遠ざかる心がけ等であるとしている 。な、ぜならば、五官の乱れから脱却しなければ、 霊性開発
に自己を統一して投入することはむずかしいからである 。
ο
ダラ lナ行法のうちでマントラ(聖語、聖音)のジャパ(繰り返し)とプラナ 行法は意識統一
の習熟のためにたいへん効果がある 。 意識統 一には、いかなる対象からも心が邪魔されないことが必
要である 。 われわれの身体は訓練したとおりに働くのであるから、統一力も規則的かつ継続的な訓練
によっていくらでも高まるものである。
ここで、修練はなぜ規則的でなければならないかを検討してみたい 。
生体の働きは習慣(条件反射化) づけられるものであり、秩序性のあるのが 人間の特性である 。 こ
のために人間には秩序性を身につけるための訓練が幼時期からなされることが必要である 。 この点に
気づいて いない人々は、幼時期の摂取、排世、睡眠がでたらめであり、このでたらめ性が身について
しま った子供は、成長後も自己コントロール 、
がむずかしいのである 。自 己コントロールを容易にする
この
ためには、秩序性と調和性を身につけていなければなら なた
いめ。
に、ヨガでは修行法は規則的
でなければならないとしているのである 。
統一法〕とは何か
どこに意識を集中するのか
ヨガのダラ l ナ行法における意識集中の練習例を﹁何に、 およびどこに﹂ について述べてみる。
ダラ ーナ (
大きなフォーム
壁にかけた黒点(半紙に墨で黒い丸を書いたもの)を競視する。星、ロ lソクの炎、月、 O Mや聖語
の掛け軸等を、できるだけまばたきをしないようにしてジ l ッと見つ、つける 。 滝の音、時計の音など
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4
を聞きつづける 。 これをしばらくつづけていると意識が統 一される 。統 一度が高くなるほど意識が明
2
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瞭になり、感受度が高くなることが自覚できる。
細かいフォーム
自分の信仰する神仏の前にすわって目をとじる 。 その絵像を両眼の聞か心臓部に描きだす。 しばら
くしてム lラiダ l ラ、アナ l ハ夕、ァ lジュニヤ等のチャクラ部 に集中点を順次移していく 。
コ
コ
イ
J
いて心神(愛、祝福)等の抽象語に意識を集中する 。
ヨガのダラ lナ行法における意識集中点はつぎのようなところである 。
①心臓部(アナ l ハタチャクラ部)
②両眉の間(ブルーマダラヤダウリシティといい、ア 1ジュニヤチャクラまたはタリクタ部)
③鼻の先(ナシカグラダウリシティ)
④頭頂(サハスララチャクラ部)
⑤下腹部
⑥紅門
⑦土踏まず等々。
ヨギの 一番多く用いるのは、ア lジュニヤチャクラ、 ナシカグラダウリシティ、 サハスララチャク
ラである 。方法としては、 その点に強く強く意識を集中するのである。 いったん集中点を定めたら
その点をかえないことがたいせつである 。 どの点を集中点にしたほうがよいかは各人によって異なる
から 、どこにすべきかはグル(師匠)に選んでもらうのがよいのである 。
ブルーマダラヤダウリシティについて
これは両眉の聞に意識を集中する方法で、 この部をア lジュニヤチャクラという 。静かな部屋で坐
法(パドマアサンかシッダアサン)をとり 、 静 か に意識を眉聞に集中する。最初は 三分ぐらいからは
じめて、しだいに 三十分ぐらいまでのばして いくのである 。
この行法でもっとも注意しなければならないのは、心中で闘って心を荒らしたりしないことであ
る。すなわち、できないとか、心が動くとか 、 これを動かさないようにしたいとか争わないことであ
る。無対立にならなければ心の統一はできない 。 坐禅において﹁雑念と闘うな、雑念と遊べ、雑念を
はなせ ﹂ と教えるのはこの意味である 。 な ぜ 闘 う の か ? そ れ は 目 的 を 求 め て 焦 り す ぎ る か ら で あ
ダラーナ(統一法〕とは何か
る。すべては自然でなければならない 。練習によってしだいに可能度を高めていけばよいのである。
求道者は効果を求めるのに急であってはなら ない 。それよりもたいせつな基本条件は、うまずたゆま
ず繰り返す熱意と努力である 。求道者は無要求、無条件、無対立の努力者にならなくてはならない。
この集中法は 主としてラジャヨギが用いているものである 。
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ナシカゲラダウリシティについて
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4
これは鼻の先に意識を集中する方法である。この方法はいかなる姿勢でも、 また歩行時にでも実行
できるものである 。 常時練習していると、集中力を強化するのに卓効がある 。
バクダウリシティについて
これは主としてパクティヨギが行なう。意識を心臓部に集中する方法で、この方法は感情をしずめ
るのに 卓効があり、つづけているとアナンダ(至福)を得る力を獲得できるとされている 。
クンダリニ lダウリシティについて
これはハタヨギの行なうもので、意識をスシュムナナ lディに集中し、ついで 意識をチャクラから
チャクラへ移していく方法であって、この方法はクンダリ l ニを呼び起こし、アパ l ナとプラ lナを
統 一する効果がある 。 すなわち内在する神を喚起するダラ lナである 。
ブッダダウリシティについて
仏徒、すなわち釈迦の行なった意識集中法である。方法は意識集中をつぎの七点にしだいに移して
いくのである 。
①鼻先、②眉問、③中頭部、④延髄部、⑤首部、⑥丹田部、⑦騎中部
この方法は小乗仏教徒が主として行なっており、 心の平静を得るのに効果があるという。
(昭和初年3月頃の著作)
ダラーナ(統一法)とは何か
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禅定行法の講演
サチダナンダ師を迎えて
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再 び ダ ラ l ナについて
心身の和合統
意識集中の練習法は、精神統一の訓練を目的とする者にとって最も重要な行法である。心をひとつ
にまとめて物事 にあたるということは、事をなすすべての場合に必要な心構えの基礎でもある。意識
は統 一するほどその力が強くなり、注意は集中するほどその感ずる力が高くなる 。身体全体の働きが
統 一されているときが健康なのである 。心が分裂して働いている状態を迷い、身体が分裂して働いて
いる状態を病というのである 。 すなわち心身の働きの弱い状態である 。 この地上の法則は適者生存の
法則(強者のみ生きることを許されるという法則)であると知るとき、強者となるためには、その働
きが和合統 一していなければならないと自覚できるであろう 。
ダ ラ l ナとは心がひとつのことにむかつて統一されていて、他の想念や対立感情等の邪魔がないと
いうことである 。
思考作用を統一するためには、 その邪魔物となるようなすべての雑念が除かれていなくてはならな
7
4
い。感情の乱れや欲求の束縛からも解放されていなくてはならない。心身の働きを自由にしておくこ
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4
とが、統 一するための基礎条件となるのである。思考が言行となり、 行が生活を形作っていくので
言
一
ある。われわれは、その思想内容が何であるかということが、その人の人となりと運命を形成してい
く基礎となることを、自覚しなくてはならない。自己の思考および言行をコントロールするものは自
己以外にはないのである。善のみに自己コントロールできる自己をつくりあげていくのがヨギの目的
である。聖者たろうと志す者は、聖事のみに心を統一させるように心がけなくてはならない。
禅定(ディヤ l ナ)はダラ lナにつづき、法悦(サマ lディ)はディヤ l ナにつづくのである。解
脱(ジバンムクティ)は不動心(ニルヴイカルピタサマ lディ)によって生み出されるものである。
不動心とは、いかなる刺激からの乱れにも即座に調和統一牲を回復し得る、高度の安定性である。最
高の安定状態のときにあらわれる最高の自己内在力を霊力というのである。
ダラ lナ行法は高度の統一能力を身につける訓練法であって、霊性の開発顕現を目的とするものに
とってはその行法の中心となっているのである。健康とは心身が和合統 一して働いている状態である。
和合統 一していることが、すべてのことの成功と繁栄の成就の基礎となっているのである。和合統一
して、何物も無対立になっている 一如の状態をサマ lディといい、その無の境地をディヤ l ナという
のである。注意を集中し、意識を統一して事に当るということは、どういう些細なことを行なう場合
でもたいせつなことである。注意の散漫がケガのもとであり、意識の不統 一が失敗のもととなるので
ある。
ダ ラ l ナ行法とはただ単に型にはまった物だけに意識集中の練習をすることではない。生活上の一
事一事に、自己の全能力を投入するよう心がけることがこの行法の目的であり、この生き方が最上の
自己開発法である。意識を統一するためには、心が平静でなくてはならない。身体がくつろいでいな
くてはならない 。 心身を分裂させたままで使うから、疲れるし、おもしろくもないし、強いては心身
をこわしてしまうし、また能率もあがらないのである。狂人とは、心が分裂したままでまとまらない
人のことをいう 。迷い心がこの前提である。宗教心とは現在に生きる心である 。悟 りとは現在のこと
に自己の全部を投入して生きることである。修行者は、現在のそのことに完全に生きることが絶対生
命の大道であることを自覚しなくてはならない。
絶対生命の大道
﹁生命とは何か ﹂ などと考えてみても、 わかるものではない 。宇宙 そのものが生命なのである。現象
再びダラーナについて
のすべてがこの生命のあらわれである。生命は、 この人生を通して以外には味わうことのできないも
のである。
いかなる生き方をすればこの生命を味わうことができるものであるかを考えてみよう。それ
さ
て
は、その場、その時、そのことに完全に生きるのである。たとえば、雑念なしで食事をする、雑念を
すてて勉強する、雑念なしで仕事をするのである。すなわちこのように、今たずさわっているものの
9
4
生命とひとつになって生きることが、宇宙生命の 一部分であるところの対象を通して宇宙生命そのも
0
5
のとひとつになることである。宇宙すなわち大道なるがゆえに、大道とひとつの生活がここにあらわ
れるわけである 。宇宙の呼吸、宇宙の脈とひとつになって生きるとき、すなわち自分が宇宙とひとつ
の呼吸で生きているときに、 真実の生の 喜 び(幸福、健康、繁栄)が与えられるのである 。
それでは、宇宙生命と 一体になるにはどうしたらよいであろうか。それには今を心から生きること
、 真実の人生の喜びが生まれるのである 。
である。そうすれば、真実の生活、 真実 の仕事、真実 の芸術
これが、生きていることだけでうれしい人生の姿である 。 この起伏をいかに受け取り、いかに処理す
るかに 幸 不幸 への岐路ができるのである。今にとびこみ、その現実 に真剣に取り組む以外に、その問
題の解決法がないことを肝に銘じよう 。
今の正しさのみが、今の努力のみが、 今 の知恵のみが、今の力の強弱のみが、運命決定の鍵をもっ
ているのである。人生とは今である 。生 命とは 今 である 。今に心身を統一して自己の全力を出しきっ
て生きる以外に最上の生き方はない 。過去はなく、未来もまたないものであり、損得成否は不明のも
のである 。 このないもの、不明のものに、とらわれ、ひっかかることがすなわち妄想雑念である。ダ
ラlナとはいっさいの妄想雑念を放下して、今のことに生ききっている姿である 。
生命は創造されたものではない 。自然顕現であり、自生自滅である。すなわち、必要に応じて 生 じ
、
必要に応じて滅するのである 。現象の生滅起伏がみなこの生命の働きの顕現である 。 かく自覚すると
き、すべてのものの今あるそのままの姿がそのまま必 要 であり、絶対善 であることを知り得るのであ
る。生命の本性が、喜び、全肯定、全包容、発展、光明等であることにも気づくのである。﹁悪あり ﹂
と思うのが妄想である 。悪は生命の本道から離れたときに生ずるものである。普(喜び)とは生命を
完全にあらわして生きることである 。天地万物、それぞれの今の立場とその位置が絶対的なものであ
る。そのおかれた位置を正しく生き、その与えられた縁と一如に生き、最上の価値(生命の光)を生
活にあらわすことが大生命(宇宙、神我)と一体になって生きるということである 。
ダラ l ナは心を統 一してことにあたる最上の心の働かせ方の技術である 。 心の働かせ方を知った者
は、心の 休 め方もまた知らなくてはならない 。 よく休めてこそ、よく働くのである。休むことのでき
るときにはすべてを捨念放下してしまうのである 。自分は死んだものと思 って、いっさいを捨てきっ
て休むのが最上の休み方である 。聖なる休み方、それは﹁神にいだかれている ﹂とまかせきって休む
ことをいうのである 。
ナについて
精神統一と禅定との関係
次にダラ!ナとディヤ l ナとの関係を考えてみよう。ダラ l ナの終りがいつで、ディヤ lナの始ま
りがいつであるかという、その区別をすることはむずかしい 。 しかし、ディヤ lナはダラ l ナの後に
再びダラ
つづいて生ずるのは事実である 。
ダラ l ナは、心の浄化 平静法でもある 。 心を浄化し、平静にすればするほど、その働きを統一する
1
5
力が強くな ってくるのである 。ブラフマチャリヤの生活者(い っさいの欲求生活からはなれた捨の生
2
5
活行者)が、 高 い統 一能力をも っているのはこのためである 。祈りに心を捧げたり、静かに坐禅する
こと等も、精神統 一のためのよい準備訓練法である 。 心を統 一することのできる者は、物事をなす働
きも、それを把握する力もまた強いのである 。しかし、ダラ lナやディヤ l ナは、行なおうと思って
ただちにできる行法ではない 。 この行法の 基礎となるものが、ヤマ、ニヤマ、アサ ンス、プラナヤマ、
プラティヤ l ハlラの諸行法である。この諸段階を経ることによって 、 ダラ l ナ、ディヤ l ナ、サ
マlJアィの課程に達しうるに容易であるところの浄め、整え、高められた身構え、心構えが準備され
るのである 。生 理的に最も整えられている状態をパヒランガ ・サlダナ、心理的に 最も整えられてい
る状態をアンタランガ ・サ lダナというのである 。
ダラ l ナは、 アシタンガ ・ヨガや、ラジヤ ・ヨガにおいては行法の第六段目とな っている 。 心でも
身体でもその力をひとつに統一できる時間の 長 いほど、その力が強く大きいことを 意味するのである 。
この統 一力が強く大きいほど、大なる仕事をなし得るわけである。
心は統 一させておかないと動きまわるものである 。何事かを行なおうとしたとき、心がそれにまと
まらなか ったためについにそれをなし得なか ったり、また何かの調子に無我の境地となり、い っさい
を忘れてしまって自然にそのことに心が統 一して、自分で驚くほどのことをなし得た、というような
経験は多い 。
ダラ l ナは統 一力を自己化するための訓練法である 。 心も身体も、訓練した通りによく働くように
なるものである 。 心を統 一するためにも、やはりその練習がたいせつである 。 その例として、両眼の
聞に意識を統一する(タリクタ l)、鼻先に意識を統一する(ナシカグラ・ダリシティ)、体内音に意
識を統 一する(アナ 1 ハタ・ダウアニィ)、この聖音は右の耳からのみ聞こえるものとされている 。舌
の先や頭頂に意識を統一する方法もある。初期の練習法としては、外物を利用する方が容易なようで
ある 。 たとえば、時計の音、ロ l ソクの火、描いた一点、ガラス 玉、何かの尖点等である 。 心をひと
つのものに長くむすびつけておくことはすごくむずかしい。それは心がすぐ他に移ってしまいやすい
からである。練習者は、繰り返し繰り返し、逃げた心を意識的に元にかえさなくてはならない 。 そう
して、心をひとつにむすびつけるくせを身につけるのである 。
ハタ ・ヨギは、 プラナヤマ (呼吸のコントロ ール)によ っ
て、 シヤタ・ア、ダ l ル (クンダリ l ニの
通るという六つのチャクラ)に意識を統一する練習をする。ハタ・ヨガの練習所では、 二十分以上ク
ムパク(止息)ができないと完全なるダラ l ナはできないものとしている 。ク ム パ ク を い ろ い ろ な
ポ lズで練習するのが呼吸法である。ハタ ・ヨギの中で 最 も 長 く 完 全 な ダ ラ l ナのできる人は、ケ
再 びダラーナについて
チャリムドラ i (舌裏の筋を切り離して舌を長くし、これで気道をふさぐことができるようにする)
のできる人である 。こ のムドラ lのできるものだけが人口冬眠をなし得るのである 。
もし皆さんが意識の集中統 一力を強化しようと思うのならば、次の 事項 を必ず守らなければならな
い。 それは、
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5
一息の仕方を秩序、‘つける練習をすること。 心の動きの通りに呼吸もまたその深浅に変化を 生ずる
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5
からである 。呼吸を整えれば心もまた整う。
ことごとに意識を集中する練習をすること。そのくせを身につけるためである 。
心を浄めるように心がける。それはいろいろな聖なる書物(書、語、人、その他)に接するこ
とによってである 。
一 毎 日 、最低 二時間、黙想沈思の時聞をもっ。それは心をしずめるためである。 心がしずまって
いるほど、統一する速度が 早く、その力は高いのである 。
意識を集中してことをなすということが、最も科学的で能率的なことである 。散漫な心でなした場
合に五時間もかかったことが、精神を統一して行なうと 三十 分ぐらいでできることがあるではないか 。
この 事実がその 真理 を示すものである 。 意識を集中すると、感情がしずまり浄まってくる 。思考力も
高まってくる。思想もまた明確になってくる。感ずる 働きも、 受けとる働きも、ことをなす力もまた
高まってくるのである 。 かくして、立派な勉強や仕事ができるのである 。
以上のようなことからでも、精神統 一が自分の力を発揮するための最上の方法であることに気づか
れたことであろう 。規則的にこの集中統一の方法を練習されるがよい 。偉大な仕事 をなした人々は皆、
この精神統 一の力が強く高い人々であった 。 この精神統 一が容易にできるために、良き健康と、浄く
整った感情と、明確なる意識とが必要なのである 。精神を統一して今のことに当る生き方を、生命が
けで生きるというのである 。 こういう生き方をするときにだけ、われわれは物事の真髄を把握するこ
とができるのである 。本を読む場合でも、精神を統一しての読書においてのみ、その奥にひそむ 真意
をくみとることができるのである 。 心が散漫では、物事の表面のことでさえもつかむことはむずかし
い。私はなまけて百歳まで生きるよりも、生命がけの五十年を生きたいと願 っている 。
いかに集中統一するか
意識を集中統一したいと思うときに、最もその邪魔をするものは感情の乱れである。感情は生理現
象と心理現象がひとつになって意識の奥で働くものである。この奥の働きを意識でコントロールする
ことはできない 。 この生理現象をコントロールする最上の方法が呼吸法である 。呼吸をしずめていく
と、感情もまたしずまってくるからである。
感情は意識的に対立するとますますその力を増大するものである。感情の起伏は自然現象(生理現
再びダラーナについて
象)である 。だから、自然にしておけばいつの間にかしずまってしまうのである 。自然にしておくと
いうことは、それにこだわったり、ひっかかったり、それをつかまえたりせずに、そのままにほった
らかしておくことである 。 このことを﹁心を流す﹂という。感情は去来のままにほったらかしておけ
ばよいのである 。 ただそのままにしておけば、いつの間にか消え去って、自然にしずまってくるもの
である 。 いつも感情の乱れのふき消された、静かなる境地(ニルパ l ナ)で生きている人を聖者とい
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5
ぃ、感情にひっかかって騒いでいるのを、俗人というのである 。感情を流す練習を修養というのであ
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る。そのまま受ける心、神仏にまかす心、捨て身の態度、はからいなき心、無(対立のない)の心、
唯の心等の形容が﹁流れている心﹂のことである 。
しかし心を流すことはむずかしい 。 ついひっかかってしまう 。 心をながせない初期の修行人はどう
したらよいのか、それは感情と闘わないことである 。静かに愛撫してやるのだ 。 たとえば﹁愛する我
が心よ、何を怒っているのだ。面白いかね、怒って得かね、まあしずまれ、許してやるのだな 。 お前
は大きな心の持ち主ではないか、そうそう許してやるのだ 。 さあ、しずまってきたな 。忘れろ、忘れ
ろ、有害無用のものは放してしまうのだ。私の心は清く尊いものだけが住むことを許されているのだ。
さあ、笑おう 。私の心はすべてを感謝として受け取る聖なる心である 。私はすべてを神意として合掌
礼拝する 。ありがとう、ありがとう:::﹂とこのように、自分が自分にいいきかせるのである 。 そう
すると感情はいつの間にしずま ってくるとともに、消え去っていくのである 。
感情は生理現象である。生理技態をかえると感情もまた変ってくる 。 これを応用するのもよいこと
だ。息をできるだけ静かにし、で きるだけ身体の力をぬくのである 。そうすると感情もまたしずまっ
てくる 。静 かな 音 を聞いたり、静かな情景をえがいたりしていたら、感情もまた鎮ま ってくるのであ
る
ダ ラ lナ行法は、自己の力を最上に発揮する方法を身につける練習法であると同時に、他のものを
自己 化する方法でもある 。 他のものとひとつになることが他を 自己 化することである 。 これが自己の
拡大法である。 日々自己を拡大して新しい自己を作りあげていくことを、生きた生活というのである。
この日々新生活者にのみ生きる喜びが与えられる。自己を宇宙大にまで拡大して、一如の境地にまで
達している者を聖者というのである。これがすなわち、宗教の目的である。いっさいを自己として映
じ、ただ喜びのみに充ち満ちて生きている聖者の境地を法悦境(サマlディ)というのである。
他のものを自己化する初歩の練習法を示そう。たとえば、精神を統一して、本の一ページを心静か
に、しかも強く注意を集中して(このとき目は大きく見聞き、呼吸は強くゆっくりとして丹田に力が
こもり、口は強くむすばれている)読む。一ページ終ったら、あわてて次をめくらないで、静かに眼
をとじる。そうして身体の力をぬいて、何が書いであったかを想い起こすのである。静かに、ゆっく
りと、そのことだけを繰り返し思うのである。このようにすれば、一ページ一ページが自己化してい
くのである。
再びダラーナについて
統一境の法悦
精神統一境では、形容のできない内から湧き出る喜びを味わうことができる。無対立の喜びという
か、仕事 三昧の法悦というべきか、対象そのものになりきった、利害、成否等のいっさいを忘れ去っ
た、自己の中からわき出る喜びである。そのことだけで満足しきっている境地である。精神統一は生
命力を高め、内から喜びを引き出す行法である。この喜びのときに生命の本質であるところの、愛、
7
5
明朗、元気、寛容、感謝等が、 自然に生活の上にあらわれてくるのであると思う 。
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精神統一行法の訓練は、 自 分が自分の心を支配する練習法である 。 心の 王 者 (ラジャ・ヨガ)
こ
な
U
るための道程である 。
昭 和初年5月頃の著作)
(
ダ ラ l ナとディヤ l ナ に つ い て
統一と冥想への道
あらゆる宗教の行法において、統一と冥想がその行法の根幹となっている 。 それはこの行法を通じ
てのみ、無心、無我、放下、無対立 の純一無雑の 至純の心境に 達 し得るからである 。釈迦もキリスト
もマホメットも老子も、その他あらゆる宗祖が、天啓を得たり解脱したりして、その信仰の極致や悟
道に達したのは、統 一行法(祈りや唱諦神名や苦行は、この統 一のためである)と 冥想行法(坐禅、
放下の行法はこの 冥想のためである)とによ ってであ った。
統 一行法や冥想行法は理屈でわかるものではなく、実践を通してのみ体得できるものである 。 だか
ら﹁唯ひたすらに思え ﹂﹁唯祈れ ﹂ ﹁唯坐れ ﹂ と教えているのである 。
坐禅は考えるために坐るのではない 。非思量することであると教えている 。 非思 量 (考えない)と
はどういうことであるかと求めたら、もう坐禅にならない 。 とにかく放 下することだ、心身をいっさ
い の 束 縛 (業) から脱却させることが、坐禅行法である 。
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﹁祈り ﹂ は、無心に心を神に結びつけることである。祈ったら何か功徳があるのか、念仏したら救わ
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れるのか、いったい何の意味があるのか、などと考えたのでは﹁祈り﹂ではない 。統 一行法は、ひた
すらに心を 一物に結びつけるためである 。何のためかではない 。統 一された方向にわれわれの心身は
働いていくからである。統一行法の目的は、自分の心身の働きを正常な方向にむけるためである。
私は求めた 。体験を通して求めたのである。私は私の体験を通してつかま与えたものを少々披漉して
みたい 。 これは教えるためではない 。 みなさんの実行になんらかの参考になればと思 ってである 。
土牢の中で
私の足は 二メートルばかりの鉄鎖で繋がれていた 。身動きするたびにジャリ、ジャリと音がする 。
鎖の先には丸い鉄のおもりがついている 。 ここは、イラン(ペルシャ﹀の東北、中央アジアに近いメ
シエッド郊外の地下の士牢である。
もうこれで 一週間目だ 。とうとう捕われてしまった 。 アラビアから、イスラエル、イラクを経て、
ここイランから中央アジアに潜入して、そこから新彊省に行くつもりであった 。新彊省および中央ア
ジアにかけて回教徒の独立運動を調査し、それに協力すること、という秘密命令を参謀本部から受け
た私は、不覚にも逮捕されてしまったのである。
最初の目的はチベットへの潜入であった 。蒙古のラマ寺で訓練をうけた同志とともに寧夏省を経て
蘭州、青海まで潜入したが、ある夜、共産軍の襲撃を受けて、同志はちりぢりになってしまった 。私
は回教寺院へ逃げこんだが、それが回教との縁のはじまりである。私は 書物で回教徒のことを学んで
はいたが、彼等に 実際に接したのは中国に来てからのことである 。中国西北諸州の住民の大半は回教
徒で反共的であるとともに、彼等は独立を願望していた。ラマ教から回教の方に関心の移った私は、
チベットではなく、新彊省へ行く、べきだと思い、その案を 具申して、同志五名とともにアラビア地区
に派遣されたのである 。 中央アジア地区に潜入しようとしたのは、益 子、望 月、と私の 三名であった
が、私は 国境で捕われ、 二人は行方不明になってしまった 。殺されたのかもしれない 。昭和十四年の
ことである 。
私はペルシャ入国のときから、ちょっとへマをしてしまった 。 それはペルシャの回教事情をよく知
らなかったからである 。 ペルシャの国教はイスラム(回教)の 一派のシヤ l派であるが、当時のペル
ダ ラーナ とディ ヤ ー ナ に つ い て
シャは 宗 教を近代化を間むものとして、近代化したトルコに倣って、弾圧政策をとっていた 。 イスラ
ム世界も汎イスラム 主義から民族主義へと変 っていたのである 。皇 帝レザ l シャ・パハラビイ lはト
ルコに倣って政教を分離して、 宗教を個人的なものとして、早急に国家を近代化しようと企画してい
こ
T
なぜイスラムが近代化への障害となるのか 。 イスラムは他の宗教とちがって、信仰の面だけを説く
のでなく、 その信仰にいたる近道として、全 生活にわたって﹁ベし、べからず ﹂ の生活則を定めてい
る。 しかも、 これは千 三百年前のマホメットが、その時代に即して作ったものである 。だから、狂 信
1
6
的になればなるほど古きにとどまらなくてはならないわけである 。
2
6
当時の イランは、このために国名をペルシャからイランにかえ、 アラビア語を排除して Jaス一フム
の特色としている金曜日の集団礼拝や外国人が宗教学者や僧職者と 交 際することを禁じていた 。私は
迂潤にも、禁を犯していたのである 。 いつも尾行につきまとわれていることに 気づ いた私は中央アジ
ア(ロシア領)に潜入しようとしたのだが、私に先廻って逮捕状が出ていたので、密告で捕われてし
ま ったのである 。 殺されるのだろうか、それともこのまま 土牢 にい つまでも入 れておくのだろうか 。
われわれ特務員 はたいていこういう運命に陥る 。殺されてもわかるわけではない 。私は観念していた 。
二十日ほどたったころだ った 、品の よい、見るからに高潔そうな老人が入牢してきた。不思議なこ
とに、私の足には鉄の鎖がつけられているのに、この老人には鎖がない 。 よほど地位のある人なのだ
ろうか 。 私は 早速 たずねた 。
﹁おじさん 。あなたにはどうして鎖がつけられないのですか ﹂
刑が確定したからだ。私は死 刑だそ うだよ 。君 と 一緒に何日ぐらい居れるかな 。 ところで君はどう
﹁
し て 入 牢 し て い る の か 、 密 輸 で も し た の か ね ? と き ど き 中 国人が密輸かコミュニストの疑いで っか
まっている ﹂
私は自分のことには答えずに、反対に訊ねた 。
﹁ なぜ死刑になるのですか、殺人でもしたのですか ﹂
﹁ちがう、ちがう。私は皇帝の宗教断圧に反対して、叛乱を起こそうとしたのが、バレたのだよ﹂
老人は暇さえあれば、神の名を唱請したり、念請したりして、 冥 想 三味を行な っている 。 いつも顔
には笑みをたたえてである 。 私は不思議な感にうたれた 。
ある日、私はたずねた 。
﹁おじさん、死刑になるというのに いつも朗かにしておれるのはどういうわけですか 。 僕は死刑に
はならないだろうけど、ここに入れられて、こうして捕われの 生 活 を し て い る だ け で 不 愉 快 で 、 苦 痛
で、たまらない 。あなたはあきらめたのですか、あきらめたら、そんなに朗かになれますか ﹂
﹁あきらめないね、私は 。私は私のすべてを神に任せきっている 。だからいっさいの縁を神のお与え
であると思 って感謝して受けと っている 。 すべての現象を 素 直 に感謝して受けと っている 。 だから朗
かなのだろうよ ﹂
信仰の真意などを理解していなかった私にとって、 この回答は奇異に感じられた 。心からそうだな
と思えたのは、ごく最近である 。
ダ ラー ナとディ ヤ ー ナに つ い て
﹁僕にはよくわかりませんよ 。 おじさんのお っし ゃることが 。 そういう心境を 信仰というのですか 。
どうもわかりません 。神とはいったいどんなものなのですか ﹂
﹁神とは説明できないものだよ 。神は、感じとった者にのみわかるもので、考えてわかるものではな
い。神は絶対的受け身の態度の者にのみ感じとれるものだ 。 この絶対的受け身の態度のことを、帰命
とか、無心とか、 信仰とか、純 一無雑の心境とかいうのだ 。君 は無の心、 空 の心にな ったことはある
かね ﹂
﹁ますます僕にはわかりません。無の心とか空の心とはいったいどういうことですか 。僕も宗教が好
3
6
きで、これまでにたびたび接した 言葉ですが、どうしてもわかりません﹂
4
6
﹁そうだろう 。君は考えているからわからないのだよ 。 考えるのではなく、気づくのだよ 。気づくと
は、求める前にすでにすべてのものが与えられていることに気づくことであって、これは心が素直で
ないとできないね。すでに与えられていることに気づいたなら、神に求める何物もないことを知るだ
ろう 。 この心になったとき神に感謝する心、神に順応する心、祈念せずにはおれない心が自然に内か
らわき出してくる。これが信仰の状態だよ﹂
﹁話はわかりますが、わかりません 。 神を今少しわかりやすく説明して下さい 。すでに与えられてい
ることに気づくといわれましたが、何を与えられているのですか 。与えられるのはこれからではない
のですか ﹂
﹁神は説明ではわからぬといっただろう 。 これは 一生を通じて感じとるものだよ、強いて説明すれば
宇宙の法則ということだ。君は他の多くの人のように、神を勝手につくったり、神をたのむ対象とし
て考えているからわからないのだ。すべてに感謝する心の起きることが、神を知りうる門への第一歩
だ。 君の心の中には好嫌損得の対立観念がうごめいているだろう。この差別対立心のなくなることが
感謝することのできる第 一歩だ 。君はどうしたらこの対立心や差別心がなくなるのかを聞きたいこと
だろう。話では教えられるが、やはりわからないだろうよ 。とにかく実行がたいせつ、だ 。 理屈ぬきに
して、一如に見る心、平等に見る心、すべてのことに感謝する練習をしなさい 。 す べ て は 宇 宙 の 働 き
(これを無限生命の働きというのだ)と知ることを悟りという 。 この働きに生かされていることに気
づ
会﹄、 それにまかせ従う心になって感謝する心がわいたときこれを信仰といい、この働き(神の心)
と自分の働き(心)をひとつにしようとする努力を宗教というのだ 。 この絶対心になったとき君の心
はいつも平静になるだろう 。絶対心というのは、ひとつの心、すなわち無対立、無差別、無分別の心
だ﹂
話はわかるが、私にはますますわからなくなった。
﹁この 平静心になったとき内から喜びが自然 にわいてきて生きていることがうれしくてうれしくて仕
様がないようになり、またいっさいの縁が神からのお与えとして感謝できるように自然になるのだ 。
この生き方のことをイスラムというのだ 。 この心境のことをイスラムではファ lナ(消滅の意)仏教
ではニルパ l ナ(浬繋)、キリスト教ではア l メンと形容している 。君 は宗教を勉強したことがあるか
ね。 そうい っても、今の世界の宗教はどれもこれも純 一無垢の姿を失 っているけどね 。パ ウロがいっ
ダラーナとディヤーナについて
ているね、 我
H
生きるにあらず、キリスト(神の意)我にありて我生きるなり uこの神に生かされ与え
られていることに気づくことだよ 。 日本にも親驚という偉い人がいたではないか、 Hいっさいはアミ
ダ(宇宙の意)のはからいだ。ここに自分のはからいを加えるな、ただ信じ任せて生きる以外にはな
いではないか u といっているのを君は知らないのか ﹂
﹁神というのは特別のものではない 。 ただ、わからせるために、ゴッドとか、アッラ!とか、ブッダ
と か 、 ア ミ ダ な ど と 形 容 し て い る だ け で 、 こ の 形 容 が わ る か っ た 。 この形容の方便を信心の対象とす
るために各教各派の対立ができてしまったのだ 。惜しいことだ 。どの教えの信者でも、その無心の心
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境において体験するものは平等観だ。いっさいの縁を修業(自己浄化高揚)のためのお与えと感ずる
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ことだ 。 いっさいに感謝合掌する心こそ宗教の境地であり、天地の生命に通じて天地とひとつになっ
ている姿だ 。君 は神を遠くに求めるからわからないのだよ 。 ひたすら自分の心の内にそれを求めよ、
宇宙の働き、すなわち 生 命の働きだ。生命の働きとは何であるかと考えてみてもわかるものではない。
ひたすらに 生きる努力をするのだ 。 ひたすらに生きるために、まず 君 の心の中のけがれ(対立差別感、
損得感)をとり去れ 。 心を浄化することが修行だ。私はいつ 君 と 別 れ る か も し れ な い が 、 君 に 私 の
悟ったことを教えてあげる 。 君は若い、生命をたいせつにして、世界人がほんとうに幸福になる働き
に生涯を捧げなさい ﹂
この師の名は、アル・ホセイニーである 。 師は私にイスラムの話はもちろん、ゾロアスター教(拝
火教)、ユダヤ教、キリスト教、インドのヴェーダ、仏教、道徳等を毎日話して下さった 。とくに行法
を身につけるには、ヨガをやれといわれた 。
私もこれまでに少しは宗教の話を聞いてはいたが、ホセイニ 1師の淡々たる話ほど私の胸を打った
ものはなかった 。宗教への目、 真理探求への心を聞かれたのはほんとうに師のおかげである 。 師は世
界の各宗教のもとはヴェーダ(インドの 古代 哲学)であるとして、その観点から各宗教々派の関連性
と帰 一性を教えて下さった 。 師はインドで十年、ヨーロッパで五年、宗教を学んだといわれた 。
﹁宗教は説明や思索や理屈ではない 。真実 のみを求め、真実のみを愛し、真実のみを行なうことであ
る。 しかし、行なうということは 一番むずかしい 。行ない得る自分をつくることがヨガである 。自分
が真実を少しでも身につけ、それを行なうことができるようになったのは、ヨガのおかげである ﹂
その頃までの私は、ヨガを苦行のための行法だと誤解していた 。 私 は そ の と き ま で 一 度 も 真 の 求 道
心から宗教を求めたことはなかった。仏教の各派やキリスト教の各派に接したのも、この信と行のた
めの純粋な立場からではなく、常にその根底には、何々のためにという心をも っていたのであった 。
無心、浄心になるためのものではなくて、その反対の欲心をみたすためのものであった 。 だ か ら 真 実
がわらなかったのだと私はようやく気づいた。ラマ寺へ入ったのもこうして回教徒のふりをしている
のも、これこそ求道のためではなく、政策のためではないか・
今、ホセイニ i師はどう し ていらっしゃることであろうか 。 私は事あるたびに、その教えを思い出
すのである 。
獄中における師の教えは 二 ヵ月つづいた 。 教えられたことは多かった 。明日をも知らぬ立場の 二人
ダ ラ ー ナ と デ ィ ヤ ー ナ に ついて
ゆえ特に感銘することが多かったのであると思う 。
アル ・ホセイ二│師のことば
﹁坊や、ほんとうのことを知りたかったら、神とは何かなどと考えずに、無心に、静かに一人で祈り
なさい 。私は毎日暇さえあれば、祈るか冥想するかしているだろう 。 しかし、私は何を求めているの
でもない 。親なる神は求めなくてもすべてを知っていらっしゃる、私はただ感謝し、禍多き自分を詫
7
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びているのだ、 冥想は考えることではない 。神を求めることでもない、力を得ょうとすることでもな
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い、このいっさいをなげつくすことだ、冥想の行者釈迦がその秘訣を教えているではないか 。 悟
H
ろう
とか、救われようなどと思 って坐るなよ、放下するために坐るのである H
と。祈りと 冥想は同 一のも
のだ 。 イエスもマホメ ットも釈迦も自分のかぎりをつくしてどうにもならないときには、 一人で山に
のがれ、神に知恵を与え給えと祈 ったり、無心の 冥想行を行な っている 。 これがヨガだ 。 この 無
H
心
に H がむずかしいのだ 。 神に求めているから、求めているように見えるだろう、しかし違うのだ、イ
エスやマホメットはいつも わ
H
が心を行なうためではない、神の御心をわが上になさせ給与え μ と祈つ
ているではないか ﹂
私も今までいろいろな 事 をや ってきたが、これすべて私の力であ ったのではなくて、私のようなも
﹁
のの上にさえ神は知恵と力を常に与えてくださ って、そうして、やらせていただいているのだと、こ
とごとくが限りなく喜べるようになったのは、 五十歳を過ぎてからだったからな 。君もやってごらん、
思案にあま ったときには、次のようにね 。J﹂んなとき、神はどう考えどうなさるであろうか μと祈り
もとめるか、無心に冥想するのだ 。 そうすると、その純粋性の程度のいかんに応じて知恵や能力がわ
きでてくるよ 。私はこの年齢になるまで 一度も地位や職についたことがない 。 いろいろの地位を与え
られたが私は断 った。 私は神の御用をなす人問、すなわち 真実だけを求め、悟り、行なう人聞になろ
うと決心したからだ 。 私は、神が私を必要とし給う限り、き っと私を導き 、助けて下さると信じてい
る。事実、今日までがそうであった。この有難さを身にしみて感じるにつけ、誤りの多い自分をお詫
びせずにはおれない。私は正しいと信じることをいい、行なったために入牢している。私はもっと
もっと正しくならねばと決心しているよ﹂
﹁君は宗教を実行するといっても、何をどうしてよいのかよくわからないだろう。 それはまず愛を実
行することだ 。多くの人はこの愛を誤解している 。世間でいう愛は功利的なものだ 。 ほんとうの愛と
は、無私の立場から 自他がほんとうによくなること、ほんとうに生きることを願う心とその努力だ 。
キリストは 汝
H
の敵を愛せよ H
と教えている 。釈迦は 憎
H
しみに対するに愛もてせよ H
と教えている 。
マホメットは端的に H
一切は友なり味方なり H と教えている。人生の一番の苦しみは、相互の対立で
ある 。憎しみあうことだ 。とくにこの苦しみは身近な間柄や、同志ほどひどいものだ 。君 にもこの問
ダラーナとディヤ ーナについて
題があるだろう 。 いや、すべての人がこの問題で苦しんでいるのだ 。 君 は、これをどのようにして解
決するか、相手があやまってくるのを待っかね 。 それを期待していたら、死ぬまで和解はないだろう。
君の方からあやまっていくかね、これができたら相当高い心境だ。動物には憎しみの感情はあるが、
あやまるということはない、あやまれたら人間心に近づいたことだ 。 相手の救われと祝福を祈れるま
でにな ったら、最高の心の状態であり、これを神の心という。 われわれは、よく 神
H の心を求める
H
というけれど、何も特別心を求めるのではなくて、人間としてもちうる最高心を求めているのだ 。 こ
の心は無私無心の心境からのみわき出るものである 。無私無心の心には考えてなれるものではない、
9
6
知識を身につければいよというものでもない、その心境に達しうる唯 一の道が、祈り(信仰)と冥想
0
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(坐禅)である。このふたつは説明できない、これは知行を合一することによって次第に体得できて
いくものだ 。 ただ、ゃるのだ 。理屈をこねているかぎり、できはしないだろう(そうだと思いつつ、
私はこの教えを受けてから十年間も本格的には実行する気にならなかったのである)。
﹁この、祈り感謝できる心に、はじめて平和な心の光がかがやくのだ。お互いに言い分は山ほどある、
だから言 い合いで解決することはできないだろう、まず祈りあうことだ、坐りあうことだ 。無私無心
になって救われるのはまず自分だよ。釈迦もキリストもマホメットも、そむかれたり反対されたり、
いじめぬかれて、ずいぶん苦しめられたものだ。しかし、いっさい不平はいわなかった 。 ただ祈り、
拝み、感謝しておられた。この強く清く高い心こそ、真の幸、真の喜びにいたる唯一の道なのだよ。
君にほんとうの祈り、ほんとうの冥想を行なえる近道を教えてあげよう 。 まず 敵とか悪とかがあ
H
る μと思う心から脱却することだ。その心を捨てるのだ 。敵と見えるもの、苦しみに感じられるもの
こそ、われわれを鍛え、高め、気づかせてくれる恩人ではないか、だからいっさいの事を 神
H
わざ H
というのだ 。釈迦の行なった冥想は、い っさいを神わざと自覚しての、法悦の冥想であった・::﹂
私は師の教えの真実をその後の体験によって次第に納得したのであったが、求道の正方向を暗示づ
けて下さ ったのはホセイニ l師であった 。私は質問することができなくなってただ黙って師の語られ
るままを聞いていた 。 しかし、心の奥底から形容しがたい喜びがあふれで牢獄が牢獄でなくなって、
出してもらうことを願う心も忘れ去ってしまった。静かな、たのしい心境であった 。
そんな私に精神統一と冥想のコツを味わう偶然のチャンスが次に与えられたのであった。
托鉢 団 に救われる
一ヵ月たったある夜半のことだった 。騒音とともに銃声が聞こえてきた。私は夢うつつでこの音を
一
一
聞いていたが、師が私を起こして﹁同志が迎えに来たが、君も一緒に行くかね﹂とたずねた 。私は考
える余地もなく﹁ハイ﹂と答えた 。 迎えの同志は約 三十人ばかりの騎馬団であった 。 私には看守の馬
が与えられ、そこを脱出して、中部イランの古都イスパハ l ンに到着すると、師と私は近くのある托
ダラ ーナ と デ ィ ヤ ーナ に つ いて
鉢行者団にあずけられたのである 。
この托鉢団はペルシャ語でダルウイ l シュ(乞食行者の意味)と呼ばれており、遊行性をおびた自
由思想家の修道僧と思えばよいだろう。どう し てこういうグループができたかというと、あらゆる宗
教がその初期は純粋に求道的なものであったのが、いったん力を得た後は次第にその純粋性を失って
富と権力によってゆがめられていくものであるが、その求道の純粋性を願うものにとってこれは許さ
れないことである 。 イスラムにおいてもマホメットは神への帰 一と平等性、同胞観、自由性、愛と奉
仕、形式の排除等を説いて開宗したのであったが、年月を経るに従って信者はその教えと逆の方向に
1
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いってしまっているのは、キリスト教徒、仏教徒の現状と同様である 。 この教えへの逆行状態に反抗
2
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して真の神を求め神聖国家の建設を目的とする自由思想家たちがいっさいの派閥を離れて集ったのが、
このグループである 。彼等はその純粋性を保つために、社会生活および求財の生活から離れて出家托
鉢の生活に入り、神への無私従順の奉仕生活、自己欲のコントロールのための苦行、日々自己心浄化
のための餓悔と唱神と冥想行をその生活の信条としている 。 彼等は﹁清貧こそ最も楽し ﹂ と教えたマ
ホメットの 言葉を信条として求財心を拒み、世間的享楽のいっさいの排除をなして、托鉢乞食の生活
を旨としているのである 。 托鉢乞食というのは、与えられたもののみを神の思し召しとして受けとっ
て生きるのが目的で、自欲と自己意志のいっさいを投げ捨てて、すべてを神より与えられたものとし
て有難く受けとり神の心にそのまま絶対に服従しようとするものである 。 入団の心構えを次のごとく
に明示している 。
﹁与えられなかったら死ね﹂
﹁与えられないからと怒るな ﹂
﹁与えられたからと謡うな﹂
﹁与えられたもののみを受けよ﹂
﹁いっさい不平をいうな、ただ感謝して受けよ ﹂
彼等は乞食(托鉢)をして歩く、これは原始仏教徒に似ている 。 乞 食 を し て 歩 い て い る か ら フ ア
キl ル(乞食)あるいはダルウイ l シュと呼んだのである 。彼等は 自分の努力によって神の声を直接
自分が聞こうとするものである 。 そのためにマホメットの行なった通りの真似をしようとするのであ
る。 マホメットはヒラの洞窟での断食と冥想行法と神名の唱請の繰り返しによって啓示をうけたので
あった 。 この行法を行なっている彼等にはその性格において、 三 つの特徴、がある。
神以外を認めないので汎神主義者になりやすく、権力者、聖職者、民族主義者等 に反対する 。
この性格のために権力者からしばしば断圧されたので、秘密結社的な性格をもつにいたった 。
禁欲、精神統 て 冥 想 を 修 行 法 の 主 た る も の としているので、その潜在能力が開発されて 、こ
のグループの中には俗人から見て超自然的あるいは超生理的に見えるようなことを行ないうる者
が多いので、 一般人は彼等を神秘視し畏敬して、スフイ(神秘家)とも呼んだ 。
師に対しては絶対服従で、グループ意識が強く、師の命令のままに団体行動をしたので、畏れ
ダラーナとディヤーナについて
られていた。
彼等は自己自身の中に神を見ることによって解脱しようとするもので、グループの著名なものは約
三十あり、私の逃げ込んだのはジャラ l リ lヤ派と呼ばれ、中央アジアのボハラに発生したものであ
る
。
私は絶好のチャンスとばかり、 グループの長(シェーク H先達の意味)に入団を申し込んだ 。 この
グループに加われば托鉢修行者の姿で中央アジアでも新彊省でも巡礼の名のもとに自由に潜入できる
3
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からである 。 しかし 入団許可には 三年間の試験があり、 それにパスしなくては入団の許可はしない
4
7
という 。 その試験というのは ││
一年間、他への奉仕行(他人をすべて主人とみなせという)と下座行(我の心、功利の心をの
ぞくために)だけを行なう。人を重んじ尊ぶことと、人にへりくだる心をも っていることは人間
同志のつきあいにおいて基本的にたいせつなことであるが、教えにおいては人を尊べてこそ、は
じめて神をも尊べるものとしているのである 。なぜならば神がすべてのすべてである 。すなわち
いっさいの現象はそのまま神の働きのあらわれとみなすからである 。 人や物を尊び重んじ、無私
の奉仕ができるようにな ったとき、次の段階の 二年目に入る 。 ただしこの間 一日でも一回でもこ
の心に反したことがあったら、その日から再び一年行なうのである 。
次の 一年は、ただ神への奉仕である。神への奉仕といっても偶像を拝んだりするのではない。
いっさいの事を神のお与え、神の働きとしてそのまま受け、そのまま感謝するのである 。 この行
は、自分の利を考えたためのいっさいのはからい心を捨て去るためである 。 こ の 間 、 少 し で も
H 々のために“の求め心や打算や好憎があってはならないとしている 。 むずかしいことだが、
何
少しでも不平や不安を抱いてはならないのである 。 いささかでも悪視感や消極心が生ずることを
許さないのである。なぜならば、この心が心を乱す因となるからである。いっさいを善とみ、善
と受けとり、はからい心なく(即ち無私で)素直にいっさいを神意なりと全受し、そのまま全托
できる不惑不動の心境になったとき、次の段階に進む。この一年間は心を浄化するのが目的であ
る
三年目は統一行法と冥想行法によって、ひたすらに心力の開発とコントロールをなすのである 。
この 一年間において無の心(空)を体得するのである 。心の統一法には唱諦(神名を発声で請す
る)または念諦(心中で黙請する)を用いる。冥想法には調息や揺動体法を用いる 。 この一年間
は沈黙を厳守しなくてはならないのである。
彼等は自分で神(自己の内外の神、即ち 真実) を自得することを目的としている 。 このために
は空の身体、空の心になるまではだめであり、神とのむすばれを邪魔するものが欲望と執着であ
るから、これをコントロールするための自分との闘い(行)が必要であるとしている。彼等には、
苦しみはそれ自体としては存在しないものである。悪があるから生ずるのだ、だから苦しみを自
ダラ ー ナ と デ ィ ヤ ー ナ に つ い て
己浄化剤として活用せよと教えている。彼等は、沈黙行、無私奉仕行、徹底祈念、冥想行法を繰
り返している。自我を殺して、神に生きるためである 。
彼等の教理はいちいちその通りだと思うが、その墳の私は信仰のために入団を希望したのでもない
し、否、神とか信仰とかがわからないだけでなく、否定的であったという方がほんとうである 。 だか
ら、心からやってみる気は起こらなかったが、このグループに入るのが一番容易な中央アジア潜入法
なので、次の申出をした 。
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7
﹁私は 一日でも早く入団したい。 一ヶ月で試験してくれ 、 もし一ヶ月でだめなら 年やってもむだだ
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一
=
と思う﹂
すると シェーク (先達)が笑いながら、
﹁よし、 お前は見込みがある 。 日本人の入団ははじめてのことだから、 日 本 人 を 代 表 し て や っ て み
ろ﹂といってくれた 。
入団試験とその苦行
まず十日間、睡眠は 三時間にして、唱請をつづけるように命じられた 。バカバカしいと思 ったが仕
方がない 。
﹁アッラホ アクパル
﹁ライラハ イッラッラ
を繰り返すのである 。 これには唱え方がある 。 心の統 一のために呼吸をあわせるのである 。
﹁アッラホ アクパル﹂のとき初めは右膝に力をいれ、つぎには左膝に力をいれる 。﹁ライラハ ﹂で息
を吐き﹁イッラッラ ﹂ で息を吸うのである 。 できるだけ静かにゆっくり 。
あるいは ﹁ライラハ ﹂ はへそから声をだすつもりで、 ﹁イラハ ﹂ は頭から 声 を だ す つ も り
の
ーー「
フ
L一
で、﹁イ ッラッラ ﹂は両足から 声 をだす気持ちになるのである 。同時に身体を前後または 左右にリズ ミ
カルにふるのである 。 しかも 一点を凝視しながら 。 これを精神統一法(テウヒ Iド)といっている 。
私 は ほ ん と う に 無 我 夢 中 で や っ た 。 バ カ バ カ し い が 、 や ら ざ る を 得 な い の だ 。 しかし、やっている
うちにほんとうに無我境(ハ l レットという)に入ってしまった 。 あるいは忘我境かもわからない 。
つぎの五日聞はシェークの監視下に冥想行法(坐禅)である 。
そのつぎの 五 日間は、 シ ェークが目隠しをしては取り去り、自分の顔を襲視させて、また目隠しを
な し 、 ま た そ れ を 取 り 去 る こ と を 繰 り 返 し 、 シ ェ ー ク の 顔 が 心 眼 に は っきりうつるまでやるのである。
彼 等 の 中 に は い ろ い ろ な 苦 行 的 唱 え 方 を し て い る 人 が い た 。頭 髪 を 天 井 か ら 垂 ら し た 綱 に く く っ た
り身体をまげて膝と首をくくったりして眠気をふせいだりしている 。 たいてい十 二日間は断食し、な
かには四十日間もしている人がいた 。 私はとにかく夢中で、 一ヶ月の断食をした 。
いよいよ最後の十日間は試験である 。 ほ ん と う に 無 我 境 に 入 っ て い る か 否 か を 、 焼 ゴ テ を 身 体 に あ
ダラーナとディヤーナについて
てたり、刀で身体をっきざしたりして調べるのである 。 困 っ た こ と に な っ た と 思 っ た が 、 い ま さ ら 仕
方がない。ままよ他の者にできて俺にできないこともあるまい、死ぬつもりでやってみようと決心し
てみたが、無我になれるのか、ほんとうに無我になったら痛くも熱くもないのかが不安で不安でなら
なか った。 しかし受けないわけにはいかない 。 と に か く 、 や る 決 心 を し た の で あ っ た 。
昭和お年9月頃の 著作 ﹀
(
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指先に意識集中をされる
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冥想行法について
心理学的、生理学的、解剖学的な立場から冥想行法の説明をしてみます 。
私たちがこのように生きていることは、生命の働きが働いているためであることは改めて説明する
必要のないことです。その生命の働きが安定しているときに、心理的にも生理的にも私たちのよい状
態というのが出てきます 。異常というのは生命の働きが安定していないとき、安定を得ょうとして、
心理的あるいは生理的な運動を展開して、そのような異常現象が起こってくるわけです。
ヨガの行法は、心理的な、生理的な、あるいは解剖学的な、総合的な立場から生命の働きのバラン
ス、調和、安定を得させるためにはどうすればよいかを学び、実習するものです。 安 定 がとれている
ためには調和のとれていることが必要になってきます。エネルギーが多すぎてもいけないし、少なく
てもいけない。少なければ少ないで不安定であり、要求活動を起こします。多すぎれば多すぎたで、
今度は排世運動を起こしてきます。
人間の場合は他の動物とちがって、エネルギーがいつもあまっています。他の動物は、エネルギー
があま っているということはないのです。な、ぜかというと、彼らは自分の身体は自分で護らなければ
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ならないからです。自分を養うためには相当なエネルギーの消耗活動をしないと、新たなエネルギー
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の確保ができないわけです。 ところが人間は相互扶助の立場にありますので、エネルギーを自分のも
のとするのに他の動物ほどの努力がいらないわけです 。 ひとりひとりが豚や牛と格闘する必要もあり
ませんし、水の中にとびこむ必要もないし、いちいち木の上に登らなければならないということもな
いわけです 。とにかく食べるという立場から見まして、人間は非常にらくなのです。
しかも人間は得た食物を加 工することによって、またときには味を変えて、食べにくいようなもの
まで食べるというふうに、進歩したわけです 。 ですから私たちの中で過剰にな ったエネルギーが欲望
に変り、その欲望が過剰要求となって知恵が発達し、人聞が他の動物とちがって進化することができ
たわけです。ところがその進化をもたらしたところの過剰エネルギーの長所は、また他面では不要な
ことを考えたり悩みをつくり出す原因にもなっているし、あるいは 生理的な異常のほうにも使って、
他の動物には見られない病気というものをつくり出しているわけで、短所ともなっているわけです。
多くの人はほとんど、食べすぎているために心理的、あるいは生理的な異常をつくり出しています 。
断食をすると身体がかるい、疲れを感じない、眠くない、頭がさえる等々のことを感じます。 それは、
エネルギーが安定しているからです 。愉快になろうとかなるまいと思わなくても、身体の中が愉快な
のだから、自分が思うことを思うようにやれるようになります。自分の中のエネルギーを完全 に消耗
できるようにはりき った生 活をしていると、だんだんと満足感というものを味わうことができるよう
になるわけです。 ですから、心や身体の安定した状態│ !これを健康といいますが 1 11
これを確保す
るためには、食べすぎてはいけないということ、ちょうどよい具合に食べて、そしてこれを完全に消
耗するところの生活をすることです。その次に何が必要であるかというと、神経とホルモンのバラン
スをとることです。
私たちはどういうふうにして生きているかといいますと、物理的、化学的、あるいは細菌的ないろ
いろな環境の刺激に対して、心や身体が反応して生きているわけです。それらの環境の刺激に受け応
えして、それに適応するところの態勢をとって、そうして生きています。物理的な刺激に対しては神
経が、化学的な刺激に対してはホルモンが、細菌的な刺激に対してはリンパ液が、精神的な刺激に対
しては大脳が、感情的な刺激に対しては大脳皮質の中の周辺系統が一緒になって、それぞれ受け応え
をしています。 しかしこれらの各器官は調和のとれた受け応えをする必要があるわけです。 そのとき
にどうするかというと、何かの刺激があるとそれに対してすぐに心理あるいは生理、つまり心身が適
切な処置というものを講ずるわけです。そしてその受け応えの方法は興奮という形をとります。
人聞が他の動物とちが って、非常に知恵が発達し、進化したということは、この受け応えをすると
ころの神経が非常に発達していたからです 。 この神経のことを生活神経、あるいは興奮神経といいま
冥想行法について
す。興奮神経の中にはふたつあって、心の面を司るものと生理的な面を司るものがあります。前者は
大脳にあり、後者の身体の面を司るものは自律神経のうちの交感神経にあります。
大脳の中に興奮部位というものがあり、また自律神経の中枢は間脳にあります。それで外部から何
らかの刺激があると、大脳の興奮部位がその刺激を受け取って間脳と両方で相談してその刺激に対処
1
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するわけです。体内からの刺激は間脳がそれを受け取り、大脳と相談してその刺激に対処するわけで
2
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す。 私たちはあらゆる外界からの刺激やその他について、いちいち考えて生きているわけでもないし、
くふうして生きているわけでもないし、研究して生きているわけでもありません 。 こういうふうに勝
手に処理してくれるところの働きというものが中にあるから、私たちはこうやって生きていけるわけ
です 。 この働きのことを私たちは生命の働きといっているわけです。
人間はこの興奮神経、すなわち生活神経が非常に発達しているのです 。 だから小さいことに対して
も刺激を感じ、反応傾向が非常に高いのです 。だから何に対しても疑問を起こす、何に対しても要求
を起こす:::という結果になるわけです。 このことが、人聞を非常に進化させたということになりま
すが、そう喜んでばかりもおれません。というのは、このことによって人間は弊害も受けているから
です。 生命の働きは自然の働きであり、自然の働きはバランスがとれるようにできています。 だから
この興奮神経に対抗するだけの抑制神経、鎮静神経というものが与えられています。他の動物では興
奮と鎮静の 二つが適度に行なわれて、非常に健康なわけです 。ところが人聞はどうしても興奮のほう
に傾きがちです。
それで私たちの先輩、が、こういう難しい理屈はわからないけれども、人聞が人間としての立場にお
け る 弊害 というもの、この興奮神経の働きの弊害を、どういうふうにしたら除くことができるか、と
いうのでいろいろの体験を経て、そして確立してきたものがあるのです 。 それは何かというと、放下
行です。何を放下するかといえば、緊張、興奮から心体を放下解放するわけです。ところが私たちは
緊張しているときに緊張すまい、興奮しているときに興奮すまいと思 っても、それができるわけでは
ありません 。 それを抑制してくれるものがないとできないのです 。
それで、大脳の面での放下行は何かというと信仰であり、自律神経、生理的な面での興奮に対する
放下行は坐禅冥想行法です 。 信 仰 と い う こ と も 坐 禅 冥 想 行 法 と い う こ と も 、 目 標 と し て い る の は
無﹂ です。 ﹁
﹁ 無﹂というのは 一方にかたよ っていない状態、調和のとれた状態のことです 。私たちが
何かの存在を感ずるときはかたよ っているときです 。存在を感じないのはかたよ っていないことです 。
何か 異常がなければ私たちはその 存在を感じない 。腹の 具合が悪いと私たちは 胃腸の存在 を感ずるが、
健康で異常がないと胃腸の存在を感じない 。 これを﹁無﹂ といいます。 心の状態も同じことです 。 ひ
っかか っていない、こだわ っていない、と らわれていない、束縛されていない、執着 していなければ、
これを﹁鮭むというのです 。
そして大脳のほうの放下行を 信仰といい、これは無心になることですが、その行法を祈りあるいは
拝みといいます。 この 信仰に関することは別の機会 にゆずりまして、ここでは坐禅冥想行法 に ついて
だけ述べておきます。
冥想行法について
坐禅冥想行法はなぜ解放行法になるのか 。すなわち、なぜこれが鎮静神経の働きを高める方法にな
るのかといいますと、宜︿想するために私たちは坐禅というものを行ないます。その坐禅とはいったい
どういうことか 。 これは ﹁
坐定﹂ ということと ﹁
禅定﹂ ということをひとつにしたものです 。坐定と
いうのは何かというと 生理的な安定であり、禅定というのは心理的な 安定です。生 理的な安定は、正
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しい姿勢、正しい呼吸、正しい血液であり、 これを坐定といいます。生 理的な安定は正しい心の状態
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であり、これが禅定です 。
正しい姿勢というのは何かというと、私たちの身体は全身がひとつとして働いており、これを統 一
しているものがあるわけです。だから正しい姿勢ということは、全身の働きが統 一されるべき場所に
統一されて、そして動いたり坐 ったりしている状態です。統 一する場所はどこかというとまん中、中
心です。 その中心は、私たちの身体の前面では騎であり、後面では腰椎の 三番で、慣と腰椎 三番を結
んだ線の中央が身体の中心です。ところが人聞の場合は、そこが中心とはいえません 。それは私たち
が単に肉の塊りでなく、私たちをこのように保たせているところの骨があるからであり、その骨に
よ って支えられているからです。 しかもその根幹をなす背骨は中央より後方にあります。 そのために
重心がかわってきて、前面では騎から三センチぐらい下、後面では仙骨のところにあたります。この
場所のことを丹田と昔からい っているわけです 。バ ランスをとる中心点は丹田です。
その丹田はどこから起こってきたかといえば、その起源はヨガであり、ヨガでは丹田のことをウッ
ディヤナといっております。 この 言葉が中央アジアを経て中国にはいり、老子がこれに丹田と名前を
つけました。 ウッディヤナということはどういうことかというと、中心点という意味です。 まん中と
いうことです 。
私たちが姿勢をもっとも安定した状態、すなわちもっとも正しい姿勢を保つためには、丹田に力が
集約されていなければなりません 。全身が丹田に統率されていなければなりません。そして心の訓練
のときにおいても、身体の訓練のときにおいても、丹田を鍛練しなければいけません 。 世でやれ、祉
をつくれ:::というのはそういうことなのです。正しい姿勢というのは駐で立ったり坐ったりしてい
ることであり、丹田だけに力が集約されて、他のところはすべて力がぬけてしまっている状態です 。
坐っていてすぐ足がシピレるのは、丹田で坐っていない証拠です。 重心が狂っていると神経を圧迫す
るから、すぐ足がシビレてしまいます。
その次に正しい呼吸です。正しい呼吸とは、私たちの肺に完全に空気をいれ、いれた空気を完全に
出すことです。私たちの肺には 三 つの層i 下肺、中肺、上肺がありますが、呼吸はそれらに完全に
いれ、そこから完全に出すことです。これを正しい息というのです。 しかし、空気を完全にいれよう
と思っても、すぐにはいるわけではありません。なぜかというと、そのためには肺が完全にひろがり、
完全に収縮しなければなりませ ん。ところが、肺だけではひろがりもちぢみもしないのです。私たち
の表側の筋肉、胸の筋肉や背中の筋肉が充分に伸びなければ、外側から抑えつけてしまって、空気が
肺の中にはいらないのです。また横隔膜がズ l ッと下にさがってくれなければ、つまり横隔膜が肺を
上に押しつけたま までは空気は肺の中にはいらないのです。息をはき出す ときにはその反対に、胸の
冥想行法について
筋肉と背中の筋肉が充分にちぢみ、横隔膜ができるだけ上にあがらなければ、完全にはき出すことは
できないのです。
次に必要なことは完全な血液です。血液がどちらかに傾いていたのではだめで、つねに中性でなけ
ればなりません。私たちの食べ物には膨脹性(陰性)のものと収縮性(陽性)のものとがあります 。
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液体になる食べ物と、固体としてしか残らない、つまり鉱物性の食べ物のふた通り、焼いたらガス体
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になって逃げる成分と、灰分となって残る成分のふた通りの性格が食べ物にはあります。そのふた通
りの物のバランスがとれている刷液を中性というのです。 焼いたらガス体となるものが血液の中に多
くなると、これを酸性過剰といい、反対に鉱物性のものが多くなると、これをアルカリ性過剰という
わけです。
だから坐禅をするときでも、ただ坐禅をしただけでは 真 の坐禅とはいえません 。正しい姿勢をとる
練習をすると同時に、正しい呼吸ができるような練習をし、さらに食物に気をつけなければならない
わけです。 でたらめな物の食べ方をして血をにどらせた上に、いくら坐禅しようと思 っても、血の中
に興奮させるような成分があるかぎりは、それができないわけです 。
いくら抑制神経、鎮静神経のほうを刺激してやろうと思 っても、血の中の成分が酸性過剰であるか
ぎり、どうしても神経を興奮させてしまい、落ち 着 こうと思 っても落ち 着けない 。 さらにエネルギー
が多すぎると、落ち着くどころか雑念妄想が起こってくるだけです。そういうことを知らずにただ坐
禅をしていると、 異常を促進することにな って、かえって変なことになります。神様が見えたり、 霊
感が起こってきたり、俺は神様だとか、いわゆる新興宗教がかった気狂いみたいなことになります 。
坐禅というのは、血をにごらせたままやるとそういう危険性があるのです 。
調身、調息、調血をしたら、その後は調心です 。 心 を 調 え る と い う の は ど う い う こ と で あ る の か ?
それは、禅定すなわち正しい心の状態です。 正しい心というのはどういうことであるか? 心の調 つ
ている状態です。 心の調 って いる状態とは要するに平静な状態であり、穏やかな状態であり、ゆとり
のある状態です ・::。な ぜ そ の 反 対 の 状 態 に な る の か ? そ れ は 、 こ だ わ る か ら で す 、 と ら わ れ る か
らです、縛られるからです:::。 一
ところが私たちはこだわろうと思 ってこだわるのじゃない、とらわれようと思 ってとら われるの
じゃない、縛られようと思 って縛られるのじゃない J・ そうさせるものが大脳の中にあるのです 。
。
:
それを忘れさせなくてはいけない 。 ところが私たちは考えようと思って考えているのではなく、つい
そう考えてしまう、ついそう思 ってしまう::
:。 心配でしょうがないのです、気にかか って しょうが
ないのです、腹がたつてしょうがないのです:::。 それを捨てようと思 った って捨てられはしない 。
しかし、人間の心というものはうまい具合にできていて、同時にふたつのことを考えることはでき
ないのです。 だから心にひっかかりがあるようなときには、ひっかからなくてもよいようなことを考
える 。 て 二 、 三、四、五、六、七、入、九、十、 て 二、 三:::と数を繰り返し繰り返しかぞ与える 。
黙って時計の音を聞いている 。ジ 1 ッとひとつのものを見つめていてもよい 。何でもよいから、全然
無関係なことに心を向けていると、忘れたのではないけれども忘れたような状態になります。考えて
冥想行法について
考えないような状態になります。 それを精神統一行法といいます 。 禅定をやる場合には精神統 一をや
ります。精神統一というのは何かといえば、自分で自分の注意を集中したい、心を集中したいと思う
ことに、自分の心を集中することです。
ところがこれはむずかしいことです。なかなか簡単にはできません 。時計の音を 一時間ジ l ッと聞
7
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いていてやろうと思っても、 三分間ぐらい経勺と﹁ちょっと煙草を:::﹂、十五分ぐらいするとそろそ
8
8
ろ﹁あれを・::﹂、ということになり、﹁焼きイモ!﹂と い う 声 が 聞 こ え る と ﹁ あ 、 焼 き イ モ 屋 が き
た:::﹂と思ってしまいます。電話のベルが鳴ると﹁誰か俺に用かな・::﹂ と思ってしまいます。時
計の音をただ聞いている、ということもなかなかむずかしいことです。全 然関係のないひとつのこと
を考えればよいのだ、といってもそれは話しであって、ひとつのことを考えつ、づけるということは非
常にむずかしいことなのです。むずかしいことではあるけれども練習すればできるようになります。
調身し、調息し、調血し、調心してやっていくことをおすすめします 。 これを坐禅冥想行法といい
ます。
(昭和釘年 5月頃の著作)
悟りの世界ということ
悟っている状態とは心も身体もひっかかっていない状態であるといえばよいと思います。宇宙 の働
きそのものが自分自身の働きとなっている状態です。自然のリズムがそのまま自分のリズムとなって
いる状態です。そういう状態は何だといわれでも、その状態になった人でないとわからないものです。
その状態を説明しろといわれでも説明できません。ただいえることは、悟り(絶体)の境地にはいる
ためにはひっかかりをもたないことです。
しかし、ただひっかかりをもつなといわれでも、そうかんたんにできるものではありません 。 です
から、昔の人たちはその境地へはいるための方便として神というものをたてたのです。 ヨガのほうで
は神をイシパラといいます。
それから行です。あることに専念して雑念をとることがいちばんよいのです。雑念をとるにはどう
したらよいかというと、キリスト教でやっているように自己を無と思えばよいのです。自己を無と思
わなければ神を利用してもだめです。われおろかなり、われ罪人なり::。自己を否定しなければ神
は肯定できません。生きる価値なきわれということになるわけです。﹁われ﹂は生かされているわけで
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す。許されながら生きている 。神が私を生かして下さ って いるのです。
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しかし、私たちには、無意識の中の自分という考えにとらわれています。 私も以前は神の恩寵など
と い う と 反 発 し た も の で す 。 しかし、わかってきてなるほどと思ったのです 。
私の妻は神を信仰しています。普通の人からみると、神様などを信仰してと妙に思うかもしれませ
ん。その通り、神様などという特別なものはどこにも存在しないのです。 存在するのは、すべてをあ
らしめる生命の根元力のみです。問題は、すべてに神様をみる訓練をすればよいのです。 これが神で、
これが神でないという区別をたてて、問題をこじらせているから 素直 にはいることができないのです。
まず、なんでもかんでも神様だとみるのです。すべて神様だ、神様だとみる練習をするのです。金を
盗んだ人も神様だ、というようになれば金のおかげで神様の中に入ることができます 。
ところが多くの人は都合の良いことばかり考えて、対立の世界にいるから神我 一如の世界に入れな
いのです 。とにかく私が皆様にいいたいことは宗教は人聞が作 ったものです。医学も人聞が作ったも
のです。 ほんとうであれば、医学も宗教もいらない人間に私はなるべきだと思うのです 。 何かがなく
ては、何か条件がなければというのでは困ると思うのです 。 そのこと自体が価値であり、 喜 びである
ような状態になりたいと思うのです 。
行法も特別なものではなく、生活そのものを行法とするのです。行法と生活を 二分することはあり
得ないのです。
坐っていること、そのことが行法でなければならないのです 。ご飯を食べることそのものが行法で
なければならないのです。 こう歩いたらよいのか、 ﹂う坐ったらよいのか常に考えて、身体にむりを
させない、進歩するようにするのが行法なんです 。
食事を一日何回したらよいですかなどいわないようにしてください 。
一日何回行法をやったらよいのですか、食事の前がよいのです か後のほうがよいのですかなどとい
う質問がありますが、生活そのものが行法なんです。歩いていることそのものが健康への道でなけれ
ばならないし、歩いているものそのものが悟りへの道でなければならないのです。坐っていることそ
のものが健康法であり、悟りへの道であることに意義があるのです 。
道元禅師は悟りという特別なものはないのだ、坐った後の生活などというものはない、悟りなどと
いうことは忘れてただ坐われと教えているのです。合理的な生き方、他と調和のとれた生活をするに
はどうしたらよいかということについても、ただ自己を正しくするのだ、ただ行ずるのだ、悟りを求
めてはいけないと説いています。
ヨガでは いのちのバランスということを強調しています。内に目を集中することによって悟りの
悟りの世界ということ
境地をひらくのです。
絶対境に入つての悟りをプルシャの働きといいます。プラクリティの境地から(こちらにはまだ自
我の対立があります)、自我の対立をなくしたプルシャの境地へ達するのです 。 神と 自己 が 対 立 し て
いる世界から、神も宇宙も何もかもなくなってしまう世界に変わるわけです 。生 命の働きそのままの
状態、そのような絶対の境地それがプルシャです。 これは説明してもむだでしょう 。 この味わいはい
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つ で き る か わ か り ま せ ん 。 行 法 を 徹 底 的 に 行 じ て い か な い と で き な い の で す 。 ヨガは現実を肯定し、
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それぞれの絶対境を肯定しています。 だ か ら プ ラ ク リ テ ィ の 境 地 で い っ て い る と こ ろ の 神 と 、 プ ル
シャの境地でい って い る と こ ろ の 神 は 別 も の で す。 プラクリティでい っているところの神は何かとい
う と 、 動 き 回 る 神 で あ り 、 プ ル シ ャ で は 動 か な い 神 を さ し て い ま す。 絶 対 に 動 か な い の で す。 一方は
生命が充実して動き回っているが、プルシャはそうではありません 。
自他の対立がなくなった世界、 つ ま り プ ル シ ャ の 悟 り を 法 悦 境 と い う の で す。 これは地獄も極楽も
ない世界です。
昭和お年9月頃の著作)
(
宗教の役割│現実肯定の手段
南無阿蒲陀仏あるいは南無妙法蓮華経などの意義を穿さくしている聞は心身統一はできません 。 た
せん
だ念仏をとなえる。心身を統一させるために何を強調するかというと﹁ただ ﹂ となえ、ただ行ずるこ
とです。 般若心経にもただ行なえと 書 いてあります。念仏に意味があるのか、念仏に救いがあるのか、
報いがあるのかとこだわ っている聞は分裂してしまうのです。 ただとなえる、ただ念じる、ひたすら
それをや ってみるわけです。
親驚上人の境地を考えてもよくわかることです 。私は、目的は何もない 。私は自己のためとか親の
ためにやるのではなくただやっているとおっしゃっています 。
ただやっているという境地に達するのは非常にむずかしいことです。何のためにやっているかとい
う質問を出す人には﹁ただやるのです﹂という解答の意味は理解できにくいものと思います。何のた
めにやっているか││私はただやっているのだ。実際何もわからずただやっているのです。やってい
ると何かがあるというのなら話がわかるのですが、私にもわからないというのです。
日蓮上人が何のために太鼓をたたいて南無妙法蓮華経をとなえているかというと、これも特別な意
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味はないのです 。 自 分のも っとも喜びを感じたときに﹁南無妙法蓮華経﹂ ということばがでてきたの
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で、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とやっただけです 。 どんな 意味があって﹁南無妙法蓮華経﹂と
となえたのかと聞いた人に、日 蓮上 人は 自 分でもわからないと答えています 。感激の極に出てきたこ
とばなのでしょう 。 この感激のことばを繰り返しているのです 。それにいろいろの理由をつけて、真
の意味をわからずに大鼓をたたいても、ますますわけがわか らなくなるだけです 。
その境地になるために日蓮上人は、すべて相対観念を捨てることだ、すべては 自己の魂を磨くため
の、心身を鍛練するための縁なんだ、現実をそのまま肯定せよといわれているのです。 逃げてはいけ
ない、逃げるとただ行じられないのです 。 現実をそのままに認めて、そのまま受けとれといっている
のです 。
親鷺上人は起こ ってくる現実は如来のなしたもう方便なんだと説いています。方便を名づけて本願
というのです 。すべてのものを本願として受けとめなければいけないといっています 。すべてを回向
として受けとめろと説いています。
キリストは何といっているかというとすべて神の恩寵だと説くのです 。
回向とか恩寵とかいってもわかりにくいから 菩薩とか天使などをたてるのです。起こってくるすべ
ての現象は菩薩のあらわれ、 聖霊 のあらわれなんだと説いているのです 。 こういうことまでいわなけ
れば、ありがたいと思えないのは私にはあわれだと思えます 。
そういうように教えられることによって逃げよう逃げよう、否定しよう否定しようと思っていた現
実をフッと肯定する気持ちになればこれが転換点となって肯定する気持ちになるわけです。そして現
実を悟らせるわけです。これを名づけて宗教といっています。
私は既存の宗教は必要でないと思います 。 宗 教 が 今 の 形 の も の な ら ば 、 何 も 宗 教 を 信 ず る 必 要 は な
いのです。 しかし子どもにとっては必要です。 なんとかかんとかいわないとそういった感覚をもちま
せんから。しかし人聞には、本来こういうものはいらないと私は思います 。
禅定を何のためにやるかといいますと、何のためにではなく、ただ坐ってみなさい、と答えざるを
えません 。何のためと理由を考えている人には、ただ坐ることはできません 。 私 は 以 前 、 永 平 寺 に
入って坐りました、朝 三時間、夜 三時間、連続して坐りました 。何のために坐るのか意味がわからな
いままただ坐ったのです 。 私が禅定の真意を知ったのはヨガの冥想にはいってからです。 禅寺ではた
だ坐れ坐れといっているだけです。 ただ坐ろうと思っても身体に故障があると坐れないのです 。一 日
六時間坐ってごらんなさい。足がしびれると同時に頭が痛くなり 、心をしずめよ うと思えば思うほど
いろいろの考えが起こ ってきます。なんのために坐 っているかわからなくなります。人に聞いてみる
と精神を平静にするためだといいますが、やってみると反対に心が乱れるだけです 。
坐ってみてはじめてわかることは、坐れる身体を作ることがまずたいせつだということです。 正し
宗教の役割
い生活規律を作って正しい心、正しい身体をつくらなければならないということを感ずるのです 。 正
しい生活をしなければならないということを感ずるのです 。
ヨガを通じて、身体を乱すような食べ物は食べず、からだがストレスを起こすような動き方をしな
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いように 生活を行じていくことがたいせつです。 つまりいのちの働きに忠実 に生きていく必要を感じ
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と る こ と で す。
昭和お年9月頃の著作)
(
人間の姿勢の特徴 その
正しい姿勢とは
自分の姿を鏡にうつしてみられよ、または他人の姿勢を観察されよ、左右が平均していて、正しい
姿勢をしている人は少ないものである 。
首がどちらかに曲がっていたり、肩のどちらかが上がっていたり、肩や腰が捻れていたり、そって
いたり、猫背であったり、片方の足だけたるんでいたり、膝が内側にむいていたり、外側にむいてい
たりしてま ったく種々さまざまである 。
この姿勢は意識したときの姿勢と、無意識のときの姿勢とがある 。また、動いているときの姿勢と、
休んでいるときの姿勢とがある 。
身体のゆがみにもこの 二種類がある 。
意識したときの姿勢は大脳が、無意識のときの姿勢は間脳がそれぞれ主導権をにぎっている。
競を見たり、他人に注意されたりして自分の姿勢のゆがみに気づき、それを鏡の前では自分でなお
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せるが、他人から注意されたのでは、なかなかなおしかたがわからない 。 他人の 手をかりで、これが
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正しい姿勢だといわれると、かえって曲ったような気さえする。ここで注意して自分のゆがみをなお
したとする 。 しかし、なおっているのは、気をつけている間だけで、無意識になるとまた元のかたよ
りやゆがみの悪姿勢にかえってしまうのである。
これでおわかりとおもうが、正しい姿勢は、とろうとおもってもつづけてとれるものではない 。
姿勢でわかる心理状態
姿勢は内の働き、すなわち心の状態および生理状態のいかんをあらわすもので身体の型、姿勢、態
度と心理、生理とは相関関係にあるのである。
みなさんは﹁外は内をあらわす﹂という諺をど存じであろう。 たとえば太った人は、好人物である
とか、身体の細い人は神経質であるとか、指の細い人は胃腸が弱いとかの例である 。
私たちもその人の姿勢をみると、その人の心の状態や、身体の状態がわかる 。 心配なときはうつむ
いている 。怒 っているときには身体を硬直させて、 肩をあげている 。
肩 の上が ったとき、すなわち恐怖のために興奮しているときは、 肩 と首に力がはい って足の力がぬ
けている 。手 足は貧血のために 震えていることさえある 。
自 信 に 満 ち て い る と き に は 、 膝 を 伸 ば し て 顎 を ひ い て い る 。 闘争するときには足を聞き胸をはって
いる 。背を曲げているのは、卑屈な心のときである 。 不平不満のときには顎をだしている 。嬉しいと
きには腰と腹に力を入れ、肩の力をぬいて後にそ っている 。何かほしいときには前かがみで、拒否し
たいときには後にそっている 。
安心しているときには、ゆ ったりと身構えている 。 このように心の状態は 一定の身体の型、すなわ
ち姿勢にあらわれているのである 。
考える人﹄の像か、絵をごらんにな ったことがあるとおもう 。あの姿
みなさんは、ロダ ンの名作 ﹃
勢を見て、何を連想されるだろうか 。
あの像は、足の親指と、手の小指と、腰に、力がはいっているから深く考えている姿勢である。悲
観しているのならば、身体はもう少し前かがみにな っているであろう 。 そうして手の親指、足の小指
に力が入り、首の力がぬけ、背はもりあが っているはずである 。空想しているのならば、頭を上げて
いるはずである 。
その l
犬がほえている場合でも、そうである 。 かみつくつもりなら前足を内に向け、背を曲げている 。前
人間の姿勢の特徴
足を聞いてほえている場合には、 ほえているだけなのである 。
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姿勢でわかる健康状態
生理状態、すなわち体内の働きの状態は、姿勢の型としてあ らわれている 。腹部に異常のあるとき、
または胸部や手足に故障のあるときなどには、 一見それとわかるような姿勢をと っている 。 なぜその
ような姿勢をとっているのであろうか 。
人間の身体は、もともと正しい調和のとれた立派な姿勢をも っているはずであるのに、そうでない
人が多いのは、も って生まれた 素質のほかに、職業、疾病 、生活環境、その他数多くの後天的原因に
よって、ゆがめられたり、かたよったりしているからである 。正しい姿勢は見た目に美しい、ばかりで
なく、肉体的にも、精神的にも、健全な発達をとげるために、必須な条件であり、正しい動き方を求
めるうえにもかくことのできない 要素 である 。実際に他人の姿勢や体型を見れば、誰でもその人の健
康状態がわかるのである。
最高度の健康を得るためには、身体の内側と 外側 の 二点からみなければならない 。すなわち、身体
の内というのは神経系統と、ホルモン系統の働きが完全 であるということを 意味し、身体の外という
のは姿勢が正しいということである。それはその異常部を保護し治癒力を促進するために、無意識に
自衛のためにそのような型をとるのである 。
この説明で承知されたこととおもうが、 正しい姿勢をとるためには、 心理状態と 生 理 状 態 が と と
の っていなければならない 。 いかなる場合にも正しい姿勢を保持できるための訓練法を、古来から修
行法と名づけているのである 。
身体の内部の異常が姿勢の異常をつくりだすという事 実 は、姿勢を正すことは、内部の働きをとと
のえるという働きになることを意味する 。
姿勢を正すということは 、ただ 単に外形だけの問題ではない 。 それゆえ禅宗あたりでは﹁威儀即仏
法﹂といって、姿勢を正すことを修行の第 一義としている 。みなさんも御承知のように 、修業法には、
形から心にはいる方法と心から形にはいる方法、との 二種類がある 。 ヨガはこの 二者を統 一した行法
である 。
正しい姿勢のとり方
その l
人体は約 六百 の筋肉群によって組織だてられており、これは、骨を中心にして屈伸の桔抗をしあ っ
ており、神経と分泌液の支配を受けて、動いたり、静止したりしている 。われわれは静かに立ってい
人間の姿勢の特徴
るだけでも、約 二十の筋肉群の協力を必要とし、一足歩くのでも 三百以上 の筋肉群を動員 しなければ
ならない 。 だから、全身の筋肉群が均等に発達していないと、正しい姿勢はとれないのである 。
人類が今日のごとき姿勢をとるにいたるまでには、 百万年以上の歴史を経ている 。 人類にも四足歩
行時代があ った。それから直立生活に適応した形をとるようになったのである 。 人聞を立たしめた力
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は、まず第 一に足であり 。 ついでその姿勢を保つために発達した腰骨と腹筋である。だから姿勢の異
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常の責任はこの部位にみなければならない 。
生きているということは緊張と(収縮)弛緩(拡張)の交互運動の統一がとれていることであり、
この両運動を統一している中心点を古来丹田と名づけている。
この丹田は心理的、 生理的 、姿勢的な統 一の中心点で、この点に力の統 一されているときに全身の
機能は最上の働き(安定)をあらわすのである 。 この 三者 の統 一されている状態を 三密といい、この
ことを道を行ずると称するのである。
人間の重心について
だいたい人間の重心はどこにあるかというと、仙骨岬角の前面というから、
ちょうど下腹部の中心(丹田)になるわけで、この中心の位置は、ここをささ
えると身体がどの方向にも倒れない点であり、正しい立ち姿勢をしているとき
この重心点からの下垂線が両足の甲の中心仲および伺の中点付におちることに
なるわけである 。
丹田とはどこか
立 った場合に人間の 重 心がどこを通るかを考えてみよう。 それは身体のまん中である 。すなわち、
首の中心を通って、土踏まずに垂れる線である。これを中心で統 一している点を、丹田というのであ
る。
この丹田をわかりやすく説明してみよう 。 人間の前面の中心は瞬間であり、背部の中心は腰椎 三番目
の骨である 。 この点が上からの力と下からの力のバランスをと っているのである 。今ここで腰椎 三番
と騎と虹門の 三点を結んだ 三角形をつくり、その中心を求めてみよう 。 この点が丹田であり、ちょう
ど騎下 一寸く ら いのところに相当する 。 この丹田は生理 学的な名称ではない 。 この丹田は生きている
者 にだけあるもので、死者にはない 。古来から丹田に力が充実 しているかどうかで、その人の健否お
その l
よび迷悟を判断したのもこのことからである 。
われわれがいろいろな動作や姿勢をするときに、その形を保つのに必要な筋肉が緊張したり弛緩し
人間の姿勢の特徴
たりして、そのポ 1ズを保 っている 。 しかし丹田だけは、いかなる型をと った場合 でも弛緩しないの
である 。
この丹田が 生体の働きのバランス維持の中心点であ って、この位置 が狂ったときに、生体の働きは
心理的にも 生 理的にも 異常を 呈するのである。その狂い方が極端な場合に倒れてしまうわけである 。
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坐禅をご存知であろう 。これは呼吸をととのえて無心に中心(下腹)に力を集約する修行法である 。
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こうすれば悟れるという 。なぜであろうか 。 それは心身の働きの統 一がとれたためにその働きが平静
になり、何者 にも束縛されないん熱心無体の境地にはいるからである 。悟りとは、いかなる場合 にも調
和のとれる心身の働きのことである 。 平静(調和)を求めているのが 宇宙の働きであり、生命の本質
であるから、坐禅によ って中心が安定して心身の統 一がとれた場合には 宇宙(神) と 一体の境地とな
り、神我 一体の妙境にまで 達しうるというのである 。
丹田に力を 集約する方法は、なにも坐禅だけではない 。あらゆる修行法の結論がそうである 。
不 動 心 (事 に当 っていささかも心の動揺を起こさない明鏡止水の境地)、無念無想(いかなる場合に
も従容として、迫らざる境地に立 って、相手の想をそのままにう つしとり、自他転心の活路を見出す
心)、無心 ( 、自在 心 (
有 にもとどめず、加熱にもとどめず、どこにもひ っかか らない心 ) 来るにまかせ、
去るにまかかせた 天 地満 つる心)、 信仰心(神にまかせき って自分のはからいのなくな った心 )など、
みな正姿勢で行動している心身解脱の状態の形容である 。
その他、武道も、舞踊も、茶道も、あらゆる道の修行はみな無心の聞にこの中心 点 に力を統 一する
ことを要点としているのである 。
姿勢の観察
姿勢には臥姿勢、坐姿勢、立ち姿勢の静的姿勢と、動作中の動的姿勢とがある 。
まず正しい 立 ち姿勢から説明しよう。重 心点からの垂 直線が下に向か っては足の甲の 真 ん中をとお
、 上 に向か っては、 肩および耳の中心をとお って いる姿である 。 このとき、頭はまっすぐになって
り
屑はいくぶん後にそりぎみとなり、胸は高く張られていて、腹部は 平ら にな っており、呼吸の
おり、 一
たびごとに リズム的に起伏している姿勢である 。
脊椎は、上背部がわずかに後に出ており、腰部は少し前に出ており、膝は伸びている(ただし、少
し曲 っている)。このとき重心は 、足の親指と腫でささえられており、ちょうど 土踏まずの 真 ん中にお
ちているのである 。
その l
正しい姿勢のときには身体のどの部分にもむりがかかっていない 。 体重が全身に均等に配されてお
り、血液循環は順調で、神経の反射は正調であり、全身機能がもっとも効率的に働いているのである。
人間の姿勢の特徴
正姿勢かどうかは気分でわかる 。 正 姿 勢 の と き に 非 常 に 爽 快 な 気 分 が し て い る 。 気 分 の 中 枢 は 間 脳
(内臓を働かす自律神経および分泌腺の中枢)である 。気分のよいことは、内部機能が完全なる働き
をなしていることを 意味する 。 このときにはたいへん落ち 着 いた気分を味わ っており、呼吸は静かに
深くゆ ったりとしている 。
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これに反して、姿勢がわるい場合には、全身保持のバランスを保つために、特定部位の筋肉が過重
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に働かなければならない 。 それでその部分が疲労するわけであり、わるい姿勢をしていると、ただち
に疲れてくるのはこのためである 。 この疲労がつづくとその部位の筋肉は萎縮し、ついには慢性的な
硬化症となりそのために脊椎を異常に笥曲させてしまい、これが身体の慢性的なゆがみをつくる原因
になってしまうのである。脊椎の中からは内蔵への自律神経がかよっているから、脊椎の位置がゆが
むと、その自律神経が狂ったり失調したりして内部に異常をつくりだす(病因)のである。
多くの人は 、わるい 姿勢が病因や心の乱れの原因になることに気づいていない 。悪姿勢が癖になる
と、この癖が無意識に異常をつくりだす働きとなってしまい、このために慢性的な異常の持ち主に
なってしまうのである。
動的な正しい姿勢は、正しい静的姿勢のバランスを崩さずに保ちつつ行動することで、そのために
、 頭 と腰と足の位置がたいせつである 。重 心の位置 を正しく保 って動作するためには﹁腰で動作す
は
る﹂ ことが基本である 。 このことを古来﹁世で仕事をする ﹂ とい っているのである。
いかなる動作をするときにも中心点(丹田)を安定させておくことが要訣で、これがまた修行法の
コツである。
宮本武蔵が姿勢について次のように述べている。
﹁人は いつも背骨をのばし、首をのばし、しかも、これをかたく せず力をぬいてかるくし、顎をひ
き、しかしながらかたくせず、肩は自然におとし、力をいれず、眼は柔和に保ちつつ眼光は紙背
に徹するが如くに・・・・・﹂
これは現代の生理学者の科学的研究の結論と同一である。
人体もひとつの物体であるから、その重心点が中心部よりそれていると身体はどちらかに倒れなけ
ればならない 。 しかし倒れるわけにはいかないから、バランスをとるためにいろいろな筋肉をゆるめ
たり、ちぢめたりして、悪姿勢をとるわけである 。 この悪姿勢をつづけるとそれが癖となり、筋肉群
の発達も不完全なものとなるために、慢性的にゆがんだおかしな体型になってしまうのである 。
こうした場合、筋肉には弛緩と萎縮の 二部分ができる 。弛緩部には筋肉の防禦力が弱ったために、
その代償として脂肪がその埋め合わせとしてたまることが多い。
多くの日本人のように、腫で立つ習慣、すなわち重心が後にかたよると、主な弛緩筋肉群は、腹筋、
ふくらはぎ、背筋、智筋で、萎縮は主として胸筋にあらわれる 。
このような人は、胸が小さく、腹から下腹にかけてが太く、害筋は低くさが って、膝から下が太く
その l
な っている 。
動きの中心は腰の骨である 。どういう動作をする場合でも、まず腰の骨から動きだしそれが上にっ
人間の姿勢の特徴
たわり、最後に指にまでいくわけである 。 このことのよくわかるのが舞踊である 。 踊 っている人をみ
ても、形だけをまねしている下手な人なのか、名人かが一目でわかるのである 。名人の踊りは腰に力
がこも っていて手の力も足の力もぬけきってしまっているのである 。
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正しい歩き方
動の姿勢の中で 一番多いのは﹁歩く姿勢﹂であるから、正しい歩き方について説明することにする。
まず正しい静の姿勢をとる 。 つ、ぎに下腹の 真 ん中、すなわち丹田に前後につらぬいた水平な孔があ
ると仮定し、そこに棒がとお っていると仮定し、歩きだすときに、孔のどこもが、その棒をこすらず
に、滑っていく感じで歩くのである 。 足は床との聞に一枚の紙があって、その全面を平等にかるくこ
すって歩く心地で足を運ぶのである。俗にいう﹁腰で動く﹂とはこの形容である 。
外人のように 重心が前にお ちやすい人は頭に物をのせて、それを落とさない練習をすることは、重一
心の位置を後に戻すために必要であるが、重心が後におちている人には不向きである 。
人聞が過去の四足歩行時代においては、動物と同様にその脊柱は梁の役割をなし、内臓は腹壁につ
るされており、手足はもっぱら歩行用に使われていたのである 。その後、樹上生活をへてから、地上
におりての直立生活をはじめた 。立 つ こ と に よ っ て 脊 柱 は 梁 か ら 柱 の 役 と か わ り 、 内 臓 は か さ な り
合って腹膜によって吊されることになったのである 。 さらに体重を均等に配分するためと、歩行によ
る脳への衝撃を緩和するために脊柱が笥曲したのである 。 また、その使用目的のちがいから足と手の
発達が異なってくるとともに、運動を自由にするために関節部がひじように発達したのである 。
人聞が 立 ったのは足の親指の特別な発達によるものであり、このために正しい姿勢ができるために
は、足の親指、関節部、腰の充分なる発達と可動性が必要なのである 。古来、修行法として、 一本足の
下駄を用いたのは、親指に力をいれる練習のためである。関節は姿勢をたもつ支点であるから、柔軟
でなければならない 。 この関節運動としてヨガには印法(ムド一フ)がある 。腰を強くするのはあらゆ
る訓練法の基本であり、強腰すなわち健体を意味する。
人間は 立 つことにより、手の使用が自由になり、手の指(特に親指)の発達が頭脳の発達に影響し
て今日の文明を築き上げる大役をはたしたのである。
立・坐・臥の姿勢について
つ、
ぎに 立 ち姿勢、坐姿勢と臥姿勢について説明してみる 。
人間の姿勢の特徴その l
正しい立ち姿勢
立ち姿勢は・無意識に筋肉が緊張しているので、交感神経が興奮し、血液が酸性化する 。だから長く
立 っていると疲れるのである 。臥姿勢では反対に、無意識に筋肉がゆるみ、迷走神経が働いて血液が
アカリ化する 。 このために臥姿勢は休養の姿勢である 。坐姿勢はこれらの中間で、血液も筋肉も神経
も中をたも って心身の統 一をとりやすいために、頭脳的な仕事 にも肉体的な仕事 にも最適の安定した
姿勢といい得るのである 。
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正しい坐姿勢
坐姿勢には、正坐、胡坐、椅子坐の種類がある。このうちで、どの坐法が一番よいかというと正坐
である。
正坐では力が腰椎の 三番を中心にして、二番、四番にかかっており、バランス維持には最適の姿勢
である。胡坐の場合には力が下腰部にかかるので、不安定の姿であり、上腰部も曲りやすく、腹の力
もぬけやすいのである。このために禅宗あたりの坐り方では、その弊害をなくすために、尻の下に物
をおいて坐っている、ヨガ式坐法では物をおく必要がない。
正しい正坐の心得としては、顎はかるく首の方にひかれて、胸はかるく上方、首の方に向かってひ
かれている感じである 。
首と胸の力はぬけて、肩はさがっている(やや後方にそりぎみ)、腰は伸び、尻は後におしぎみであ
り(腹筋は伸びて締っている)力がこもっていて、下腹部で上体をかかえている心地である。このと
き、均等の腹力と腰力が中心で統一されている。このとき、耳と肩、鼻と騎の線はそろっており、足
の力もぬけていて虹門は締まっている。丹田だけに力が集中しており、胸部およびみぞおちは常時虚
の状態をたもち、下腹筋は緊張(吐く息のときひっこむ)と弛緩(吸う息のときふくれる)の虚実を
リズミカルに行なっている。このときの呼吸は腹圧による自然呼吸法であって、心もまたおちついて
いる。
椅子坐は、この正坐法を応用すればよいのであって、後に寄りかかったりしないように、心がける
ことが必要である 。 ここで一番問題になるのは、正坐した場合の膝の聞き方で、これはその人の骨盤
の大きさに関係があり、どの程度開いた方が安定するかは人によってちがうのである。自分がどの程
度に開けばよいかを知るには、まず正坐する 。 つぎに捻れのポ lズを左右にや ってみるか、または足
の甲でささえて膝をあげてしばらく耐えてから、パッとおろす、このときの聞き具合が最適なのであ
る。 このとき足の両親指はかるく重なり、くるぶしは床にぴったりとくっついている。
正しい臥姿勢
つぎに臥の姿勢について説明すると、足は腰の幅だけ開く、手のひらを上に向けている 。 顎は少し
上向きにして、目は十五度ぐらい前方を見ている 。 こうすると胸は聞き、腰の骨は伸びて床にくっつ
いている。床と腰骨の聞が聞きす、
ぎていたり、手のひらが床についていたり、枕をしたりしているの
その l
は悪姿勢である 。
人間の姿勢の特徴
(昭和お年2月頃の著作)
I
II
正しい姿勢で冥想をされる
冥想行法の 指導
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人間の姿勢の特徴 その
人間の姿勢ができるまで
人聞にも長期間の四足歩行の時代があったことは前にも述べたが、人聞が直立生活を始めてからの
歴史は新しいのである 。 われわれ人聞の姿勢は、その生活方式の変化に応じて、重力の影響に適応す
るように次第に変化してきたのである 。人間の手足も、その歩行時代にはもっぱら歩行用としてのみ
用いられていたのであ った。 脊柱は梁の役割をなしていて、その型は弓型であ ったのである 。
人間は麓同様な樹上生活を経てから、地上生活を始めたのであった 。 人聞がもしも最初からの地上
直立生活者であっ たならば、人間の手もカ ンガル ーの手のように不使用性の退歩をしていたかもしれ
ない 。樹上生活者には、手の強力なる把握力が必要である 。 また、運動方向の自由のためには、肩肝
骨 の自由な回転と、鎖骨の発達が必要である 。 この姿勢の好例が猿である。
人間は 立ち姿勢の環境に順応 してい ったのである。そして手と足の使用目的がわかれたのである。
足は体重をささえることと歩行の役目をもつようになり、手の自由によって、道具を使って、積極的
1
13
に自然を変化させる能力をもつようにな ったのである 。 人間の知恵のはじまりは手による労働の結果
1
14
である 。猿の頭蓋骨 は人間の 三分の 一であるが、なぜ小さいかというと、頭を使 って働くことを知ら
ないからである 。
猿と人間の手足と脊柱を比較してみよう 。猿の親指は発達していない、それは労働しないからであ
る。足は小さくその指は長い 。足の親指は第 二指とはなれている 。 しかも 土踏まずがない 。 それは重
心が小指の方にかか っているからである 。 猿の脊柱は人聞のような正常轡曲をしていない 。前の筋肉
が後の筋肉より 重 いのである 。 このために立 ったときの平衡がとりにくいのである 。彼等が歩くとき
に手を上下にふりながら歩くのは、重心を中央に移してその平衡をとるためなのである 。
現代人 姿勢の点から、ゴリラ、原始人、現代人
に到るまでのその重心点の変化を、上の図
によって観察してみていただきたい 。
重心点の変化
その 2
ら手足の問題をぬきにしては、人間の姿勢は語れないのである 。
人聞が立つことができた理由は何であろうか 。 それは足の親指が特別に発達したためである。人間
人間の姿勢の特徴
は足の親指と睡で立っており、これによ って上体の 重 みを保持しているのである 。
このようにわれわれは上体の姿勢の正否の責任を、この足の正否にみなければならない 。すなわち
足の正しさが、そのまま上部姿勢の正常さを意味するのである 。 この真理を、体験を通じて把握した
古人は足の訓練法を重視したのであった 。 たとえば、
5
一本足の下駄や足半わらじの使用、片足立ちゃ
1
1
①
②
骨格の変化
④ ③
足の比較
人間
1
衰 ゴリラ 類人猿
1
16
足先または腫だけで立つ練習、つなわたりゃ砂上のかけ足、急坂登り等の訓練がそれである 。
人間の足を知るために、足の進化をみてみよう。生 物は生きるためには動かなければならなか った。
動くとは重力に抵抗していくことである 。腿虫類が晴乳類になり、さらに人間となるにおよんで、そ
の聞に見られる著しい変化は姿勢の変化である。重力に対する姿勢体位の変化とともに、頭蓋骨は足
と並行して変化してきた 。
前頁の下の図で示した猿の足と人間の足を比較して見ょう 。人間の足は体重支持と歩行のために完
壁にできている。猿の足は歩行目的のためには非能率的にできているのである。
健康人の足は、全体重を 一定 の比率をも って、足裏に分布しているのである 。今 かりに 六十 キロの
体重の人であるとするならば、腫の点に 三十 キロ、親指に十キロ、他の四指に 五キロずつの、合計 二
十キロである。この比率を見ると、腫と四指と親指とは、 3対2対1 の割合で、この関係を中和統一
している点がすなわち土踏まず(足心点)である。しかしこの比率は正常人の場合であって、多少で
その 2
も不正足になるとこの比の関係がやぶれ、その悪影響を全身にまでおよぼすことになるのである 。 こ
のために 三者の全体関係を破るような歩き方や、不正な履物は健康上最も重大な悪影響をおよぼすも
人間の姿勢の特徴
のである 。ハ イヒ ー ルはその最悪のものであろう 。
1
17
1
18
足心とはどこか
足は心臓から遠い、しかも静脈は重力に抵抗して心臓に血液を還流しなければならない。血液の脚
部循環を完全に行なわさせるためには、足裏における完全な体重配分が行なわれていなければならな
いのである。なぜならばこの状態においてのみ、足の筋肉および血管の正常な収縮拡張運動が行なわ
れるからである。不正な履物と不正な足の使い方が不健康を導き、その血液循環の不良が万病の病源
ともなるのである。
現代人のほとんどは、足の完全な機能を失調しつつある。この弊害を防ぐにはどうしたらよいであ
ろうか。それは親指と第 二指の問、 土踏まずおよび腫を正しく訓練する方法を講ずるのである 。
その方法とは何か│
│
アキレス腔を力一杯伸ばす。
親指に力をこめて上方にそらす。
などの運動であるが、これを科学的になさしめてくれるものが、 一本足の下駄(俗に天狗の下駄と
いう)や足半ぞうりである 。
これ等を用いるとどういう効果が足にあらわれるのであろうか。それは親指と第 一一指のつけ根(足
裏のちょうどまんなかに相当する)のところに力が入ってくるのである。上体からの重心の垂直線が
この点に下垂するのである。人間の姿勢の特徴は丹心(腰臆の中心)と足心(足の中心)が同 一線上
にあることである 。
禅人が﹁真人の息は鍾息にあり﹂といい、釈迦は﹁心を足心におさめよ ﹂と教えているが、これ等
はいずれも丹田と土踏まずの統 一された心身 一如の境をのべているのである 。古来 の経験語には 真 実
を含んだものが多いことを知らなければならない 。 たとえば、足のじようぶな者は身体もじようぶで
ある 。土 踏まずのない人は持久力がない 。 アキレス腔の強靭な人は強壮であるなどはその好例である 。
試みに自分の足を眺めてみられよ 。親指と第 二指がはなれているのは小指(第五指)に力のかかっ
ている証拠であり、これは猿の足である 。小指に上体の重みがかかると膝が曲り、アキレス躍が縮み、
恥骨が前に出て腰の力がぬけ、胸がせばまって前屈みの顎の出た姿勢になるのである 。
足の親指の裏をさわってみられよ 。左右 の硬さがちがうならば、重心の偏っている証拠である 。 や
わらかすぎるのは、未発達を意味する。
その 2
足の親指と第 二指で物をつまんでみられよ 。 この力の強いほどその発達度の高いことを意味してい
る。弱い者はこの練習をすればよい 。
人間の姿勢の特徴
足指を前後にそらしてみられよ 。 足首を前後左右に動かしたり回転してみられよ 。 両足が自由に動
くほど、またその角度が大きいほど、健全性を示すのである。
手と足はその使用法の相違から、その発達を異にしてきたのである 。 すなわち足は物をつかむ力を
失って親指が大きくなり、腫が拡大したのである 。 また直立のために膝の伸長が重要となり、肩肝骨
1
19
の位置がさがってきたのである。
2
10
足の骨は大きく、関節は硬く、神経は太く、筋肉もまた組雑である 。 これに反しての手の骨は小さ
く、神経も細く多く、関節部の可動性も大きいのである 。手 においては榛骨と尺骨が同等の働きをな
しているが、足においては腔骨が主となって緋骨が従となっているのである 。 また手足の心臓への距
離の相違が血行に特異性をつくり、血液型のあるのは人間だけともいわれている 。 また足の正否が血
行およびその性状に重大な関係をもっている根拠もここにあるのである。
運動の支点として、人間の関節は特別に発達している 。 ヨガではこの関節の可動性を重視している 。
生理状態の調不調はこの関節お よび骨と骨との接合部に明確にあらわれてくるので、姿勢の正否にも
かかわってくる 。
関節部は神経節の集合場所でもある。このために、古人はその体験にもとづいてこの部位に急所の
名をつけたのであろう。ヨガで いう反応誘導の刺激点ナディ l ス(幽線および幽点)や、中国の古代
医学の経絡の重要点はこの部位に多いのである。
事実体力が低下するほど、この部の可動性がにぶくなったり、しまりを失ったりしている。この点
に気づいたためであろう、ヨガの運動法の中にはこの部を刺激する運動法が多い 。 その中で関節部位
だけの運動法を﹁ム lドラ﹂と名づけている 。 日本の古来からの修行法の中に﹁印法﹂というのがあ
るが、これがム lドラの一種である 。 みなさんも常時各関節を刺激する運動法を試みられるとよいと
思う。 これが健康と正姿勢を保つ秘訣のひとつともなるのである 。
人間の脊柱はS字型である
人聞が立った姿勢において、体重を全身に平等に配分するためと、歩行による脳への衝撃を緩和す
るためと、重心を胸心、丹心、足心の統一点に通すために、脊柱が S字型に暫曲したのである 。 動物
の脊柱は弓型であるが、人間の脊柱はこの目的のためにパネ型になったのである。姿勢は重力に対応
する体型の変化として形づくられてくると同時に、その使用目的に最適の姿勢ができあがってくるの
である。
人聞が人間として、最上の生き方をするためには、人間としての正しい姿勢を確保していなければ
ならないのである。そのために、丹田と足心と胸心を正常化する修行をしなければならないのであ
る
。
その 2
姿勢がどのように変化していくかは、幼児期か らの姿勢の変化をみても うなずけるのである。赤ん
坊時代の背骨は、ゴリラのようにやや弓形にちかい 。そして、歩きはじめの頃の体重の支点は、主と
人間の姿勢の特徴
して暫筋と内臓である 。しかし直立歩行して倒れまいとして背筋に力を入れ始め、直立歩行の努力を
つづけている聞に、その重みによって薦骨は響曲し、脊柱もS字型とな ってくるのである 。人間とし
ての正常響曲は、このようにしだいにできあがってくるのであって、腰部の前響曲は思春期発動期に
おいてはじめて永久化されるのである 。
2
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成長したわれわれは楽に 立 ち、自由に歩
2
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:行しているが、幼児の 歩きはじめに見るよ
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一
﹁頚椎 胸 星 川 で あ っ た こ と と 思 う 。 このように努力を繰
り返している聞に、 全身の筋肉が統 一して
働くように訓練づけられて、目的とする姿
勢を保持できるようになるのである 。 このことは何も姿勢だけのことではない。何事をなす場合も最
初はむずかしいのである 。 なぜならば筋肉がばらばらに働くからである 。 しかしその同 一の事を繰り
返す努力を 重ねていると、いつの間にか全身が統 一されてその 一事を行なうようにな って くるのであ
る。このことを称して、全身で物事を行なうとか生命で行なうとかいうのである 。 心身を統 一して行
なうことが最大のエネルギー発揮法である 。
ここで気づくことは﹁物事をなす場合は正しい姿勢で練習をしなければならないということである 。
なぜならばゆがんだ姿勢を長くつづけていると、そのゆがんだ姿勢のくせが身につくからである 。だ
から古来から、正しい姿勢で物事をなすことを修行法とし道を行ずるといったのであり、これが万芸
の奥義に達するコツなのである 。
また姿勢は成長するにしたが って、だんだんできあが っていくものであるということを知るとき、
次の点に気をつけなければならないことにも気づくのである。
第一は、幼児期の扱い方である。よく見かけることであるが、むりに幼児期に歩かせたりしてはい
けない 。 これが姿勢のゆがみをつくってしまうのである 。 このことは、幼児の自発性と自然性にまか
せるべきである 。人間はあらゆることにおいて、その不自然なむりから、ゆがみや偏り等の不健康の
もとをつくりゃすいのである。
第 二は、姿勢もまた適応性によってつくられていくものであるがゆえに、幼児期の扱い方および独
り立ち後の姿勢のとり方によって、その正否が形作られていくものであるから、本人の心がけはもち
ろんのこと、先輩は常時注意を与えてやることが必要である。
その参考として、人間としての正しい姿勢について、再び詳述してみたいと思う 。
その 2
人間としての正姿勢について
正しい姿勢というのは、全体のどこにも特別にむりをかけた場所がなく 、中心点に働きが統一され
人間の姿勢の特徴
て、全体がひとつとして働いていることである。この場合には、生体の正しい機能的効用が確保され
ておりすぐ他の運動に変わり得る自由な姿勢である 。正しい姿勢のときほど 、心 理的にも、生理的に
も、その働きは安定しており、適応性もまた高いのである 。 そのために古来正姿勢で事を行なうこと
を修行法の基本としたのである。この反面、悪姿勢の場合ほど適応性が低いのである 。 なぜならば悪
2
13
姿勢の場合には、心理的にも、生理的にも乱れを生じているからである 。 悪姿勢の場合には器官が疲
2
14
労し機能を失調し、内臓が位置異常を起こして いる 。 また筋肉や神経が過度の緊張部や麻薄部をもっ
ている 。 血行においても、うっ血部と貧血部がある。このことから同 一刺激であっても、それを正姿
勢で受けるか否かによって、それが健否迷悟への岐路となるのである 。
人間の姿勢においては頭脳、丹田、足心は中心線に統一されていなければならない 。直立 したとき、
頭と首の中央から下方に向かってまっすぐにひいた線が、腰腹の中心(丹心)を通 って足の中心(足
心│土 踏まず)におちるのである 。
われわれの足は、自分の体重をささえるばかりでなく、宇宙空聞からの相当量の重力 を受けている
ということである 。 もしわれわれが物体ならば、少しでもこの線がくるった場合には倒れなくてはな
らないはずである。ということは、悪姿勢の場合には、倒れまいとする無意識なバランス維持の努力
のために、相当のエネルギーを消耗していることになるのである 。悪姿勢が不健康の原因となる理由
もここにあるのである。
物体には求心力と遠心力とが働いている 。人間の姿勢において、この 二力の中和点が丹田なのであ
る。 この丹田に最上の中和力をもたせるために必要なことは、丹田から足心に下る線は実であり、丹
田から首に上る線は虚であるべきことである 。
このことをわかりやすくのべてみると、胸は高めに前方に出ており、肩はさが って 、首、肩、胸、
みぞおちの力はぬけている 。脊柱は正常に暫曲している (S字型の中央に線を下してみたとき、その
左右への距離が同一なこと)。すなわち腹はまっすぐになっており、腰骨は伸びており、腹筋力と腰筋
力が同等の力で桔抗しあっているのである。
重力を足の親指と睡でささえており、体重は主として内側に伝えられている。この場合アキレス腔
は伸び、親指裏に力が入 っているのである 。 柱の所に背をあてて直立し、右の姿勢に合致するか否か
の観察を試みられることをおすすめする 。
歩行および動的立ち姿勢において、その正しさを保つ要訣は、頭と首と腰と親指の位置のくふうが
たいせつである 。何事をなすにも、その事をなすに適した最上の姿勢があるのである 。物を運ぶには
運ぶための、球を打つには打つための姿勢があり、これをその﹁コツ﹂というのである。
しかしこの﹁コツ ﹂ は語れない。自分で体得自悟していくよりほかはないのである 。 やさしそうに
見えることでも、初期はむずかしく感じ、非能率的な上にすぐ疲労してしまうのである。しかし習熟
して上手になると疲れないし、ょくできるようになるのである 。物事 を習うのに、正しい型を身につ
その 2
けることをきびしくいうゆえんはここにあるのである 。
ヨガは諸芸のコツを説くといわれている 。物事をなす姿勢のコツとは何であろうか 。 それは胸心は
人間の姿勢の特徴
いつも虚実 の繰り返し、丹心、足心は常時実の姿勢である 。
この感じをわかりやすく説明してみると、首と肩と手はやわらかく頭部はしまっている。腰と下腹
部には同等の力が入っていて、呼吸にあわせてリズミカルな緊弛の虚実を繰り返しており、親指に力
が入っていて、アキレス臆が伸びており、足全部が床に吸いついている心地である 。 このとき鼻は高
2
15
口はつよく結ぼれて目は 生々 とかがやき、出入する息はおだやかで、静かで、深い 。
6
く
2
1
正しい姿勢で行ずればそれは健康悟道への道となり、不正な姿勢で行ずればそれは不健康迷苦への
道となるのである 。 しかし、この道は人に教えてもらうことができない 。一 挙手 一投足を修行の場と
日々の努力によって自得していくよりほかはないのである 。
し
て
人間の姿勢の特徴 その三
坐禅の目的と効果と方 法
坐禅をするのは、心身の働きを統一して、その安定を保つためである 。二 本足の立ち姿勢は不安定
であり、この不安定な姿で安定を保持するために、 生体は無意識的な緊張をしつづけなければならな
い。 ということは立ち姿勢は交感神経を刺激し、血液を酸化させ、筋肉を硬直させ、脊柱を疲労させ
ることを意味している 。だから、われわれはただ立っているだけでも疲労してしまうのである 。立 ち
姿勢のときに疲労を少なくするには、中心点(丹田)だけに力を集約して、ほかの全部の力がぬけて
いる状態をくふうしなければならない。武道、スポーツ 、踊りなどの修業のコツはみな、正姿勢の把
握にあることはこのことからでもわかるであろう。
臥姿勢の影響はちょうど、立ち姿勢とは反対になる 。 すなわち筋肉が弛緩し、息が深くなり、副交
感神経の働きと内臓の働きが高まり、血液はアルカリ化するのである 。 これによ って疲労は回復し、
異常が調整されるのである 。 心身の働きに異常が生じたときに、生理的に臥姿勢を要求するのはこの
2
17
ためである 。
2
18
﹁達人とは、寝ている状態で起きている 。心身の力を脱落して生き
古語 に つぎのような形容がある 。
ているのである
。
﹂
私は長い間、このことばの意味が理解できなかった 。坐姿勢はちょうど、立臥両姿勢の中間的なも
のである 。中間的なものであるということは、いかなる意味を含むのだろうか 。坐姿勢においては交
感神経(興奮)と、副交感神経(鎮静)の統一がとれやすいのである 。すなわち正しい坐姿勢におい
ては、生理的にも、心理的にもその統 一がとれているのである 。 生命の働きは統 一のとれているとき
に最も安定しており、その能力を最高度に発揮することができるのである。このために古来から、真
実探究の修業の体験にもとづいて、坐姿勢を心身統 一安定のための修行法の基本型としたのである 。
しかし、ただ 坐 りさえすれば心身の働きが統 一安定するわけではない 。 この目的のためには、正しい
坐り方のできることが必要なのである 。
坐姿勢をその修行法としている禅宗においては、その坐り方を事細かに規制している 。 それは、不
正な坐法をすれば、悟れるどころか、心身をそこねるだけだからである 。正しい 生 理状態と正しい心
理状態とは、相関々係にあることを知らなければならない 。 私も過去において、十数年の坐禅の体験
をもっている 。 しかし私は、自分の坐法がまちがっていることに気づかないでいた 。 型 は 教 え て も
らったが、正しい姿勢を保つ秘訣は教えてもらえなかったからである 。私は﹁坐禅とは、ただ坐るこ
誤解していたのである 。 ﹁只坐る ﹂ということは、﹁唯坐る﹂ことで
とだ、 ただひたすら坐るのだ ﹂ の-
あると思っていたのだ 。唯坐りさえすればよいのかと思っていたのだ 。一 途な私は、ともかく、ひた
すら心に鞭打っては坐りつ、づけてみたのである。しかしこのまちがった姿勢の強制の持続が、私に重
病を与えてしまった 。それは脊椎カリエスと全身的神経炎である 。 私はこの原因が不正坐法にあるこ
とに気づかなか ったので、この生理的異常を克服するためにも、もっともっと修行に努めなければな
らないと決心して、発病後は前に倍して坐禅をすることに努力した 。
このようにして私の異常はさらに悪化していった 。 しかしヨガに接して、初めて正しい坐法でなけ
ればならないと気づき、そのくふうを始めたのである 。 こうして私は救われたのである 。巷ではまち
がいをまちがいと気づかず、いたずらに苦しみに耐え、苦しみと闘うことを修行のように心得ている
人がいかに多いことだろうか 。非科学的な修行 はいたずらに心身をそこねるのみである 。真実の修行
法は安楽の門でなければならない 。楽しくなければならないはずである 。気持ちがよくなければなら
ないはずである 。 人生修行においても同一の努力の中に、プラスになる苦労とマイナスになる苦労の
その 3
二種類があることに気づかなければならない 。 これが健否、迷悟への岐路を作るのである 。まちが っ
た努力は進化(喜び)への道ではない 。 ひとつひとつつの生き方をプラスにするくふう、すなわち正
人間の姿勢の特徴
しさを身につける努力をヨガというのである 。
正しい坐法とは何かを知るために、坐禅の聖者、道元禅師の教えを参考にしてみよう。
﹁坐禅儀﹂ の教え(正法眼蔵第十一)
2
19
参禅は坐禅なり 。 坐禅は静処よろし。坐首席あつく敷くべし 。風畑を入らしむることなかれ、雨
ぎに︿
3
10
露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すベし 。 かつて金剛の上に坐し、盤石の上に坐する
縦跡あり、かれらみな草を厚く敷きて坐せしなり 。坐処明らかなるべし、昼夜暗からざれ 。冬暖
しようせき
夏涼をその術とせり 。 諸縁を放捨し万事を休息すベし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意
識に在らず、念想観に在らず。作仏を図することなかれ、坐臥を脱落すベし 。飲食を節量すベし、
光陰を護惜すベし 。 頭然をはらうがごとく坐禅を好むべし 。黄梅山の五祖、異なる営みなし、唯
務坐禅のみなり 。 坐禅のとき、袈裟をかくべし 。布団を敷くべし 。布団は全酬にしくにはあらず、
醐肢の半ばよりはうしろに敷くなり 。 しかれば、累足の下は坐薄に 当 れり、脊骨の下は布団にで
あるなり 。 これ仏仏祖祖の坐禅のとき坐する法なり。(中略)
正身端坐すベし 。 ひだりへそばたち、みぎへかたぶき、前にくぐまり、後へあをのくことなか
れ。 かならず耳と肩と対し、鼻と瞬間と対すベし 。舌は、上の顎に掛くべし 。息は鼻より通ずベし 。
唇よ歯合い着くべし 。 目は開すベし 。 不張不徴なるべし 。 かくのごとく身心を調えて、欠気 一息
あるべし 。克冗と坐定して、思量箇不思 量底なり 。 不思 量底如何思 量
。 これ非思量なり 。 これす
なわち坐禅の法術なり。坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり 。
私は科学的説明の発達していなかった古い時代において、多くの先輩の哲学者たちが、体験だけに
よって真理を把握された苦労を偲ぶとき、静かに感謝の合掌を俸げずにはおられない。偉いなあ、有
難いなあ、と思う。同時に近代に生を受けたわれわれとしては、これを科学的に解明して、 一人でも
多くの人にその福音を伝えあう使命のあることを痛感している 。私がその不肖をも顧みずに、行法哲
学に取り組んだ理由もここにあるのである。
道元禅師の教えは、現代科学の立場から見てもほんとうの 真実である 。坐禅の最終目的は 一日 二十
四時間が坐禅である 。一 日 二十四時間が坐禅であるということは、どういうことかというと、それは
起居動作のすべてが正しく行なわれていることである 。 ヨガから出発している禅宗 の坐法には、ふた
つの種類があるが、ヨガには十種の坐法がある。私はここではヨガの坐法を基本として、正しい坐姿
勢の説明をしてみようと思う。釈迦牟尼は坐禅冥想の行者であった 。 牟 尼 の 語 意 が そ れ を 示 し て い
る。
それでは正しい坐法とは何であろうか 。
その 3
正しい坐法とは
人間の姿勢の特徴
正しい坐姿勢を保持する基本部は、腰腹部である。腰腹部が、上体、腕、頭、 全体の 重さを支えて
いるのである 。 人体の脊柱は S字型にな っているが、この脊柱は四 百 の筋肉とたくさんの靭帯の協力
によ って正しく保持されている 。そしてこの脊柱正保持の 主役をなしているのが、腰部筋肉と仙骨と
啓部筋肉とである 。腹筋と腰筋が等量 の力で措抗しているときに、脊柱は 正姿勢を保持することがで
3
11
きるのである 。腹筋の力が弱いと、腰筋は脊柱の安定保持のために過労しなければならない 。曹筋の
3
12
力がぬけると、上体の全重量をささえている仙骨に傷がついてしまう。 仙骨は靭帯によって強力に腸
骨に結びついているが、ちょっとしたむりによってもこの靭帯はたるみやすく、この靭帯、がゆるむと
仙骨の 重量支持力が低下するために 、脊椎上部に過分の力をいれなければならない悪姿勢になるので
ある 。
腹筋強化の方法は、横隔膜を下げて腹圧を 高 める呼吸法をすること、内臓の働きを強化すること、
親指と腫に力を入れて、内股筋を通じて腹筋力を高める刺激を与えることである 。 足 の 外 側 に 力 が
入 っていると、腹筋の力は低下してしまう。胸圧が高く、肩に力が入り、横隔膜があが っていると腹
筋の力は弱まる 。親指と腫に力が入っていて、その力が足の中心点(足心、 土踏まずのところ)に集
約されており、その力が内股筋を引きしめており、その刺激が腹筋の緊縮を誘導している呼吸状態を
形容して﹁真人は睡で息をする ﹂とい ったのである 。 啓筋肉を強化して仙骨に強く固定させる方法は、
匹門を強く閉めて足の裏筋肉およびアキレス躍を十分に伸ばすことである 。 このとき脚の酔骨と腔骨
の間隔は狭くな っており、この状態のときに脚部静脈は収縮して、その還流が最も完全に行なわれる
のである 。修行の訓練において、アキレス腫を伸ばすことと、匹門を閉めることを重要視している理
由もここにある 。 この 意味において、腫の 高 い靴をはくことはいけないことであり、近頃ハイヒール
が不健康、とくに腸、生殖器、腎臓および心臓病の原因になることが警告されていることはど承知の
ことと思う 。私はみなさんの健康維持のために、ときどき腫の方が前より低い履物を用いられること
を提唱している 。立ち姿勢のときにはときどき親指を上方にそらすとよい 。坐姿勢のときにも親指に
力を入れ、アキレス躍を伸ばすように心がけるとよい 。
紅門が強く閉まっていることが、健康と不健康、迷いと悟りの岐路を作る秘訣のひとつであるとさ
れている 。
たとえば水におぼれた場合にも、旺門が閉まっている人は生き返るものである 。 死者を調べる場合
でも匹門と瞳孔のふたつを観察して、聞いていれば助かる見込みがない 。筋肉には早く動く筋肉と遅
く動く筋肉とがあり、細かく短い筋肉運動を司るのは大脳皮質の運動分野であり、長くつづける筋肉
運動を司るのは脊髄であるが、このうち一番長いのは紅門括約筋である。他の筋肉は弛緩することが
あるが、紅門括約筋は、用便時以外は常時緊縮しているのがふつうである 。すなわち虹門括約筋の収
縮力の強いことが、脊髄骨の強さと働きの高さを 一
示すことになるのである。虹門を意識的に閉めるこ
とが、脊髄の働き、すなわち内臓神経の働きを高めることになる。ヨガにはこの匹門を閉めるために
その 3
いろいろな訓練法がある 。
人間の姿勢の特徴
由辛丸を意識的に下げる。昔から、人物のできた人の皐丸はだらりと下がっているといわれてい
る(下がっているとはたるんでいる意味ではない)。浅野物産の初代社長は、社員の採用試験のと
きにいちいち皐丸を握って調べたという逸話もあるぐらいである 。事実われわれが驚いたときや
激しい精神が乱れているときには、由辛丸は上昇する 。極端な場合には腹部に入りこんでしまうこ
3
13
とさえある 。皐丸が下がっていることは、副交感神経の働きが交感神経の働きよりもまさってい
3
14
ること、すなわち腹圧が高く、内臓の働きが促進していることを意味している 。
意識を 紅門に集中し、つぎに閉目して虹門で上体をかかえ上げるつもりになる。このときには
下腹部に力が入り、胸部は拡がって一屑は 下が り、顎は首にくっつレて、日は強く結ぼれている 。
正しい坐法の秘訣は、下 半身 で上体をかかえ上げる心地になり、上半身の力がぬけき っているこ
とである 。
冥想体型で、最初に意識を尾底骨に集中し、その部の力をだんだんと上部に移すつもりになり、
それを頭頂までも っていき 、 ふたたび下におろし、上部まで運ぶことを繰り返すのである。ヨガ
ではこの坐法を神秘力覚醒の坐法と名づけている。ヨガでは尾底骨部を神秘力の首座と称してい
る。みなさんもこの坐法を試してみられることをおすすめする。しばらくたつ聞に、形容のでき
ない落ち着きと、内部の充実を感ずることができることであろう 。
坐姿勢における腰腹部と頚部
腰は 立っ た姿勢での活動の中心である 。生理 的には、泌尿器、 生殖器 、腸および足への神経の出て
いるところである 。 腰部が不正であ ったり、弱かったりすると、排世機能が不完全となり、これが不
健康のもとを作るのである 。腰椎 三番(騎の 真裏)で上体の力をささえ腰椎 二番が下半身の作用を調
節している(このためににこのふたつが脊髄骨中で最強最大である)。
われわれの生活は、緊張弛緩の交替的リズム活動であり、腰椎 三番が緊張時の中心点となっている
(このために腰椎 三番が姿勢異常観察の場となっているのである)。 身体を前後に倒す動作の場合に
は、腰椎 三番を中心にして、一番、 二番が協力しており、身体を左右に倒す動作の場合の中心は 二番
、
四番の腰椎であり、身体をねじるときの中心は腰椎 三番である。腹筋がたるんでくると腰椎三番が突
出してくる 。 このために身体がゆるんで姿勢がくずれてくるのである 。 たとえば、食事後や、腰を曲
げた姿勢で坐 って いると眠くなるのは、腹筋がゆるんで腰椎 三番が突出するためである 。正 姿勢を保
つためには、腹直筋が緊張して いなければならない 。腹直筋の緊張を保持するためには、 つぎのこと
が必要である 。
一 恥 骨 が 前 に 出 て は な ら な い 。 こ の ために尻が充分後に引かれていることが必 要である。横から
その 3
眺めたとき腹が少しひ っこみ気味になっておればよ い。
人間の姿勢の特徴
二 下腹で上体をかかえ上げる心地になる。この姿勢を保つために膝で床を圧するような気持ちで、
内股筋に力をこめ、胸を軽く張 って顎を静かに首に向かってひき、顔筋を伸ばして頭頂で天を突
くつもりになって、肩を下げ、手の力をぬいてしまうのである。
恥骨がとび出して、顎が前に出て、 首が 曲が っている姿勢は、疲労体型 、 不健康型、老化体型であ
3
15
る。恥骨をとび出させないためには 、腸骨を下げないように、骨盤を聞かせないように、また前転さ
3
16
せないように、腸骨周辺を硬直させないように、内股筋を萎縮させないように心がけるべきである 。
疲労したり、腹筋がゆるんだり、内臓が弱かったり、 一
屑に力が入っていたり、側鹿部が柔軟性を
失ったりしていると、腸骨は上 が ってくる 。無気力になると骨盤が聞いてくる 。親指の力がぬけると
内股筋が萎縮してくる 。 この体型になると身体の働きは弱ってくる 。 これは早老に導く体型でもある 。
織ができたり顔にシ ミができるのは、恥骨がとび出したり、腸骨が 上が ったりしているからで、この
悪癖をなおすと 、 これらの弊害 をとりのぞくことができるのである 。頭の禿げるのも白髪ができるの
も、腰椎が固着して可動性を欠 いていることに大きな原因があるのである。腰を伸ばす運動、足の裏
筋肉を伸ばす運動が老化防止になるのである 。 た と え ば 、 老 人 に な る と 小 便 が 近 く な る の は 内 股 筋 が
萎縮硬化するからである 。
顎が前に出たり、首が曲がったりしているのは、不健康の証拠である 。夫折(若死)の夫の字は、
首が前に曲がっている姿を意味する 首と足首とは括抗しあっていて、その 二力 を 中 和 統 一してい
。
。
る点が丹田である 。 足首が不正であったり、丹田の力がぬけていたりすると、首が前屈したり曲がっ
たりしてくるのである 。足首を正常に保つためには、親指に力が入り、アキレス躍が伸び、腔骨と酢
骨の間隔がせばまっていることが必要であるが、疲労してくるとこの 二骨の間隔が拡がってくるため
に、顎が前出してくるのである 。猿の姿勢を観察すると、顎が前に出ているのがわかるが、それは足
の小指に力が入 っているからであり、 首 が前屈しているのは、頚筋と胸筋が萎縮しているからであり、
また頭蓋骨(頭部には八つの骨がある)の各縫合部がゆるんで
(肺底左心室
口・胃・肝
後頭骨が下垂していることから起こるのである。なぜこうなる
尖
大動脈
肺
胃上部
頭部における内臓の反応部位
のかというと、頭部にうっ血を生じているからで、すなわちこ
(
れは頭脳の疲労を意味しているのである 。 このとき頭皮はたる
旺門
んでいるが、それは頭頂部の皮膚が、虹門括約筋の反応部位に
なっているからである 。脱匹、腸下垂の人の頭頂部の皮膚はた
るんでおり、この部を刺激すると、これら異常部の回復を促
す。側頭部の皮膚は腸の反応部位で、この部の刺激は、腸の働
きを促進するのである 。後頭部の皮膚は、腰部および生殖器官
1Llua
暢市などの反応部位で、この部のたるみをなおすと、腰部筋肉の萎
・幽縮硬化がとれ、便通がよく、性能力も 高まってくるのである。
人間の姿勢の特徴その 3
肝の
胃われわれが 元気を出そうとするとき鉢巻をするが、それは頭皮
がしまると全身がしまってくる体験の産物である。反対に頭を軽くなでると、全身がゆるんでくる。
首は脳と内臓との連絡部であるが、この部が硬化していては、両者間の安全なる連絡はとれにくく
なる 。首を通って、脳の第十神経であるところの迷走神経が内臓に達している 。 また頚椎の最上部、
すなわち後頭骨部の真下には延髄がある 。迷走神経は交感神経と対立して内臓の働きを抑制、または
促進させている自律神経であり、たとえば、心臓血行、副腎髄質(アドレナリン等を分秘)、胆汁分
3
17
一般新陳代謝、甲状腺ホルモン分泌などは抑制し、胃、腸、醇液分泌(インシュリン)、副腎皮質
38
泌
1
分泌(コルチ ン等)、唾液、生殖器、直腸などの働きの方は促進する 。頚 部 筋 肉 が 萎 縮 硬 化 し て い る
と、この迷走神経の働きを妨害することになるために、自律神経系統の安全なる働きが営めなくなる
のである 。内臓の働きの異常は自律神経系の異常であり、内臓の働きの故障に、頭部筋肉の正否が関
係していることを知らなくてはならない 。
また頭部からは、甲状腺および副甲状腺のホルモンが分泌しているが、このホルモンは新陳代謝、
交感神経の働きなどを促進させ、また他のホルモ ン系統にも影響を与えて、食欲や憤怒にも関係があ
る。頚部筋肉の正否が、これらの働きの正 否を作り出す原因となるのである 。
延髄は、呼吸作用や心臓の自動運動の関係部であり、この部の停止は即死を意味している 。
さてそれならば、頭部筋肉の 柔軟性と頚椎骨の正常を保持するのには、どういう方法をと ったらよ
いのだろうか 。
腰腹部に力の入 っていること 。
胸部が拡がり、肩がさがり、その力がぬけていること 。 このためには、肩および手の力がぬけ
き っていなければならない 。手の裏筋肉が萎縮していてはならない 。
三 常時、おだやかで、楽しい感情を保持していなければならない 。 それには:::
ω 合掌する 。 これは、常時合掌しているときと同 一の姿勢を保つための訓練である 。 古来合掌
がどの修行法にも加わ っている理由はここにある 。
ω 吐く息の方が長い深い呼吸法を繰り返す。 この呼吸法は笑 っているときの呼吸法である 。古
来﹁笑いは百薬の長﹂とか、﹁笑う門には福来る ﹂とか、﹁いかなるときにも笑えるものは達人
なり ﹂とかの形容があるが、これは 真実である 。
笑いこそは神が人類のみに与えたもうた福音である 。笑いは自律神経の働きを整える作用をも って
おり、内臓の働きを高めるものである 。また感情の乱れを整えるものでもある 。大脳および交感神経
の発達 したことによ って、人間はこのように進化してきたのであるが、このために、また迷 ったり病
んだりして 苦しまなければならなくな ったのである 。文明が進むほどますますこの弊害 は多くなるこ
とであろう。 この弊害を解消するも っとも容易な行法は笑いであり、 合掌 であり、複式呼吸法であり、
感謝の心である 。 これら人間本来の力を回復して、これを身につけようではないか 。
その 3
(昭和お年5月頃の著作)
人間の姿勢の特徴
3
19
正しい姿勢の指導
逆立ちのポーズの指導
1
40
人間の姿勢の特徴 その四
坐り方のいろ いろ
正しい坐り方をしていることは、心身の働きが健康であることを意味する。このゆえに、正しい坐
り方の努力をすることは、身体の働きの健康を誘導することになるのである 。 その人の坐り方を見れ
ば、その人の心の状態、身体の状態もわかる 。
たとえば、心が落ち 着 いているときには、泰然とした坐り方をしており、心が動揺しているときに
は、身体を動かしている 。 不安なときには手足をふるわせている 。意気消沈しているときにはうつ向
き加減の坐り方をしている。興奮しているときには肩を上げている 。緊張しているときには身体を硬
くして坐 っている 。立 腹したときには、身体をねじらせている 。安心したときには、身体をゆるめて
いる 。疲れたときや眠いときには、腰を曲て腹の力をぬいている 。 何か要求をもっているときには、
拳をにぎっている。立っているときでも、坐っているときでも、その人の目、鼻、口、その他の全身
は、その人の心理状態、生理状態を表現しているのである 。何かを欲しいときには、身体は前屈する
4
11
が、拒否する心のときには、体を後にそらせるのである。不愉快なときには、力が外から内に向かっ
4
12
て働くが、愉快なときには、内から外に力が働くのである。両眼が中央によってきたときには、何か
をしようとする決心がついているときである 。目玉 が動かず、まばたきをしないのは、注意を集中し
ていることを意味し、目玉が動いているのは、心の動揺を意味する。目玉が上に向いているときは、
思考しているのであり、下に向いているときは、軽蔑の念である 。小鼻がふくれているときは、得意
のときであり、柔らかくなっているときは愉快なときで、硬くなっているのは不愉快を意味する。誰
でも、口をしめているか聞いているかで、その人の緊弛の状態がわかるであろう 。
つぎに、生理状態の如何が、どのような坐型としてあらわれてくるかをみてみよう。
右肩を上げていれば、大食家である。なぜそうなるかというと、この姿勢をしていると幽門から十
二指腸にかけての角度がゆるやかになるためと、消化酵素やホルモンの分泌が旺盛になるからである 。
こういう人はつねに過食になりがちで、脳溢血やそこひになりやすいし、またのどをいためやすいの
である。左肩を上げている人は少食家で、右肩を上げている人とは反対であり、栄養不良や腺病質に
なりやすいのである 。肩 が前屈している人がいる 。 この型では、胸郭を圧迫していて、充分な吸酸除
炭の作用ができないので、風邪をひいたり、肺の故障を起こしゃすいのである。肩を後にはりす、ぎて
いるのは、消化系統の障害者である。左肩だけ前に出している人がいるが、この人は心臓の悪い証拠
で、この型では左肺、心臓左部の血液不足を招きやすいので、血管硬化症や冷え症になりやすいので
ある 。
反対に右肩を前に出している人がいるが、この人は、右肺および心臓右部の血液循環不良のためで
あり、こういう人は肝臓の働きがにぶっており、皮膚病などにかかりゃすい 。自分の 肩 はどちらが出
ているかを知りたければ、眠ったときにどちらを下にしているかを考えてみるとよい 。 下にしている
方を前に出しやすいのである 。
呼吸器に障害 のある人は、 肩 を動かして呼吸している。子宮に故障のある人は、 話 をするときに腰
を動かしている 。腎臓に故障のある人は、腰をねじり、腰部を後におとしている 。胃病の人は前かが
みでみぞおちをおとしている 。 子宮後屈の人は足を左右どちらかに出して坐る 。 これは腸骨に 高低が
あるからである 。暫筋にも左右高低、硬軟の差をみることができる 。 これらの身体のゆがみが、内臓
の位置異常をつくっているのであるから、いくら手術をしてもだめなのである 。 イビキをかく人は、
どちらかの膝を余計に出して坐る坐り方をしている 。便秘しやすい人、 下痢しやすい人は、腰か尻の
筋肉のどちらかが硬化萎縮しているのである 。腰を曲げていると眠くなり、腰を伸ばしていると意識
その 4
が明瞭にな ってくる 。 このように不正な姿勢は、生理、心理の異常を意味するので、また異常をつく
り出す誘因ともなるのである 。 ということは、正しい姿勢を保持する努力をすることが、正しい心身
人間の姿勢の特徴
をつくり出す誘因ともなることを啓示しているのである 。 このために、 昔 の人たちはその体験にもと
づいて姿勢を正すことを強調し、それを諸道の修行法の基本とし、また姿勢によ って人を観察したの
であった 。私はこれら 古 人の体験に、科学的、哲学的な解明をすることを志しているのである 。
4
13
4
14
坐法の種類
坐法にはいろいろな型がある 。正坐、結醐 駄坐、半醐鉄坐、ヨガ式坐法、アグラ坐、合眠坐、安定
坐、片膝立 坐、両膝 立坐 、椅 子坐などである 。 このそれぞれには、それぞれの 長短 がある 。修行法と
しての 坐 法は、 正坐 、結蹴鉄坐、半醐扶坐、ヨガ式坐法の四 つである 。
坐法の要点
修行法としての 坐法の 要点 は、腰の力と腹の力がぬけていないことであり、 の力と 首 の力がぬけ
屑
一
ていることである 。
腰の力、腹の力をぬかない要訣は、腰骨が正しく伸びて、啓部がしま って、後に轡部が引かれてい
ること 。側腹筋が 柔軟で、内側に向か ってしま っていること 。骨盤が聞いたり、下 垂したり、恥骨が
前出しすぎたり、ひ っこみすぎたりしていないこと、 直腹筋に力のあること 、真直ぐに伸びているこ
となどである 。肩 の力と 首 の力をぬく要訣は、首の骨がまっすぐに伸びて、顎が軽くひかれているこ
と。肩 が下が っていること 。手 の力がぬけていること 。胸がはられていること 。左右 の肩肝骨の聞が
せまくな っていること、胸と背中の力がぬけていることなどである 。
この虚(上部)、 実 (下部)の要訣保持の方法が、生理的安定(健康)、心理的安定(悟り)の方法
とな っているのである 。腰部と腹部との実と、首と肩との虚を、正常に保持させる方法は、脚部と頭
部の正常と、深く静かな力のこも った、整 った呼吸法である 。
正しい脚とは何か 。それは脚部筋肉のしまっていること、腔骨と排骨の間隔がせまくなっているこ
と、関節部が柔軟なこと、脚部動脈が柔軟なこと、脚部静脈の還流が正常なこと、アキレス膿および
裏筋肉が伸びていることなどである 。脚の力がぬけると、頭がぼんやりしてくる 。古 人が﹁足を踏み
しめて生きよ﹂とい ったのは、このためである。
深く静かな、力のこもった整った呼吸とは、横隔膜の完全な上下運動と、腹筋の凸凹運動が繰り返
されていることである 。すなわち腹圧の高い呼吸法である 。
以上のことは、どの姿勢にも、どの動作にも通ずる 基本であ って、このためにヨガが諸道万 芸 のコ
ツを説くといわれているのである。自己の生活において、態度、姿勢、動作をこの原則に合致するよ
その 4
う努力すれば、生活がそのまま、道、諸業、諸道の修行法となるのであり、この原則を知り、これに
近づく努力をするときに、その奥義(真理)に達することができるのである 。 いかなる坐法を行なっ
人間の姿勢の特徴
てもよいから、右の原則を忘れないことが肝要である 。
4
15
4
16
正坐法
正坐法は、腰を伸ばし、腰椎 三番に力を集中させるのに最適の姿勢である。このときに必要なこと
は、膝の開き方と瞥部の位置が正常なことである 。膝の聞き方は骨盤の型によって決定すべきで、各
自によってその聞き方と角度は異なるのである。女子の暫部の角度(立位 三O度、坐位 三九度)は男
性よりも大きい 。 このため女性の正坐法においては膝をしめ、男性のそれにおいては膝を聞いている
のである。この坐法は最上の坐法であるが、脚を圧迫するために、長時間の坐法には適していない。
この欠点をのぞこうとしたのが結醐扶坐、半醐扶坐およびヨガ坐法の 三 つである 。
結蜘駄坐および半蜘扶坐
この坐法では脚を解放するために、正坐法の短所を補う長所があるが、脚を拡げることによって重
心が下に移 って腰が曲がりゃすくなる 。 すなわち腹部がひっこみ、啓部と腰部の力のぬけやすい欠点
がある 。 しかし脚部を拡げるほど胸の拡がる長所はある 。 ふつう一般の人がやっているあぐら坐は、
その短所ばかりを集めたものである 。 この坐法は足と胸を解放するが、腰の曲がりゃすい欠点がある 。
この欠点を補うものが、尻の下にだけしく座布団である 。 ただしヨガ坐法は、これを用いないのが原
則で、 その理由を結蹄鉄坐および半醐扶坐のちがいの中から観察してみよう。
腰腹部の実、肩首部の虚を保持する理想的姿勢は、結蜘歓坐であり、この坐法の略式が半馴鉄坐で
ある 。どうしてこの姿勢が理想的かというと、この坐法では正坐法による足の圧迫を解放するが、足
と匹門に力が入っている 。 足と匹門に力が入っていることは、腰と脊柱に力が入っていることであ
る
。
正姿勢の秘訣というのは、脊柱に力がこもって、筋肉の力がぬけていることである 。骨は無機質の
代表であり、筋肉は有機質の代表であり、それを中和するのが内臓である 。 この両者の性状と働きが
完全なとき、内臓はその完全な働きを全うできるのである。このゆえに心身統一修行の初歩的段階と
しては、結蜘扶坐を最上とする。
その 4
ヨガ坐法
ヨガ坐法は、足の力のぬけやすい欠点をもっ不安定な姿勢である 。 しかしこの不安定な姿勢の中に、
人間の姿勢の特徴
長所がひそんでいることに着目しなければならない。どうして不安定が長所になるというのであろう
か。 この解明に妙味がある 。
その妙味とは、安定はすなわち安定ではないということである 。宇宙の働きは調和維持の働きであ
る。しかし完全に調和がとれることはなく、たえまなく調和維持の要求の働きを繰り返している姿が
4
17
現実であり、 その働きが生命現象である 。生命現象とは相異なる 二力の桔抗である 。 この 二力は同等
4
18
ではない。つねにどちらかが優位になっていて、その一方の優位が相手の優位を生む力となり、相手
の優位が自分の優位を生む力となっている 。 これが生かしあう働きであり、生きる力である 。 それゆ
えに、相反する働き、すなわち敵は敵でないのである 。
自分が強いとき、すなわち相手の力を活用して自己の力を高めうるとき、すべてのものは自己の味
方とかわるのであり、これを適応性の高揚というのである 。 ヨガ行法の眼目はここにあるのである。
ヨガ行法哲学は心身および生活の解脱(ムク シャ 、 自 由 ) を 目 標 と し て お り 、 解 脱 と は 適 応 性 が 高
まって、いかなる力にも調和できる状態なのである 。 刺激の変化に即座に調和適応できるとき、その
働きは安定している。安定とは静止ではない 。動揺を繰り返しながらの安定なのである。この状態を
ネハン(浬繋、ニルバ l ナ)という、心身環境にニルバ lナをつくるのがヨガ行法の目的である 。 な
ぜならば、生命の働きは心身が安定しているとき、最も完全なる働きを行じうるからである 。
人間の自然は、不自然を積極的につくりあげていく自然でなければならない。これが人間の特徴で
あり、人聞の人間たるゆえんであり価値である 。われわれヨガの同志は、ヨガを通じてこの人間性の
尊さの回復を提唱する。
ヨガ坐法は不安定である。不安定は苦しい 。 この不安定を安定化するために苦労しなければならな
い。 それは、この苦労が人間進化の原動力となったからである 。安易に走ってはならない、安易は退
歩への道である 。 それではこの不安定を安定化する方法は何か 。 そ れ は 呼 吸 法 に よ る 腰 腹 力 の 高 揚
、 冥想法による大脳、間脳の安定である 。 不安定の中でこのくふうをこらすとき、われわれの生体
と
はいかなる不安定に対しても、安定を回復しうる力を確保していくのである 。 ヨガ坐法は不安定の中
に安定を求めていく積極的修行法の妙味のひとつであろう。立ち姿勢は四足姿勢に比べて不安定であ
る。 この不安定の中で安定を求めようとする 生体の努力が、人間進化の 一因となったのであると確信
している 。生命の働きは安定要求の働きである 。生命の働きは安定しているとき最も完全なる相をあ
らわすのである 。 しかしこの 安定は静的安定ではない 。動的安定である 。起伏の 二者を統 一している
動的安定である 。自然はたえず変動しており、人生 は起伏の繰り返しである。この動揺の中で静を保
ちうる安定力こそ、人間として積極的に身につけなければならない生活の基本力ではなかろうか 。 こ
の力が人間の資格を向上進化させる働きである 。生命の働きは安定しているとき、その完全相をあら
わす。
生命の府は問脳である 。 いかなる刺激に対しても、即座に安定力を回復しうる間脳の働きを、肉体
人間の姿勢の特徴その 4
的には健康、精神的には解脱というのである 。 心理的 異常も生理的 異常も、結論的には間脳の働きの
失調にほかならないのである 。 この間脳の働きを安定させるには、ふたつの方法がある 。 ひとつは消
極的方法、他は積極的方法である 。消極的方法というのは、無刺激の環境に入るか、刺激を感じない
状態になるかである 。後者の好例は、人工冬眠であろう 。 この方法には、自律的な方法と他律的方法
とがある 。自律的方法というのは、ヨガ行法の第五段階プラティヤlハラ制感法で、神経コ ントロー
ル法である 。禅 語 にある﹁心頭を滅却すれば火も又涼し ﹂とは、この形容である 。他律的方法という
4
19
O度以下にまで下げる方法であり 、この方法は、現代医学にお いて起死回生
のは、人工的に体温を二 一
5
10
の妙法として応用されている 。積極的方法というのは、禅でいう異類中庸のことで、これは敵中にお
いて平静なる心身の働きを保ちうる修養法のことである 。 ヨ ガ の 修 行 法 は こ の 方 法 で 第 六 段 階 の ダ
ラl ナ法(執持 H心身統て注意集中)、第七段階のディヤ l ナ法(静慮 H禅定法、冥想行法)におい
てこれを修行する、これを積極的間脳コントロール法というのであって、この最高の状態をニルピカ
ルパサマージというのであり、不動の 三味境とか寂静の法悦境という意味である 。 この状態のときに、
生命は最高の輝きをあらわすのであって、ヨガの行法の目的はここにあるのである。この方法が、あ
らゆるストレスを征服する最高の方法でもある 。
正しい坐法の基本
生命の活動は、緊張と弛緩の交互的リズム運動である。正常体というのは、この交替が正しく行な
われていることであろう。異常体になると、そのどちらかの一方にかたむく、すなわち異常緊張症か
異常弛 緩症である。病気と いうのはこのどち らかであり、その異常の程度の差に病名がつけら れてい
るのである 。修行というのは正しい交替率を身につけることであり、この修行法において、坐法が最
も適した方法なのである 。
生体の緊張保持の中 心部はどこか、それは腰である 。 その中心点は腰椎 三番で、この腰椎 三番を急
に押されると、いかなる大力者といえども倒れてしまう。相撲、レスリング、柔道などにおいてこの
部の訓練に主眼をおくのは、このためである。腰椎 三番に力を集めるためには、足の親指と膝に力が
入っていなければならない。この部に力を正しく保たしめるのが丹田である。体力が低下してくると
この部の力がぬけてくる。力が出ない、力が出せない、力が入らないというのは、足の親指と膝に力
が入らないからであり、丹田に力が集中しないからである。行動の敏捷な者と否とがあるが、これを
決定する点が腰なのである 。 この腰の力を養う方法が、腹圧を高める呼吸法と、足と腰腹筋を強める
運動法とである 。古来の強健法というのは、みなこの点をねらっているのである 。 われわれがこれら
を目的として、日常行なったらよい強健法を列記してみよう。
仰臥姿勢で││足を上げ、足を上下左右に振ったりして、 できるだけ耐える 。 このとき足におも
りをつけて行なえば、さらに効果は大である。
その 4
足を九十度に上げ、天井からつるした重いものをけり上げる練習をする 。
膝を立て、自転車のチューブなどでしめて、それを聞く練習をする 。
人間の姿勢の特徴
足首をおさえてもらって、それを上げたり、聞いたり、閉じたりして、力をつける練習をする。
備臥した場合も、いろいろくふうして行なえばよい。
坐した場合には、膝をおさえてもらってそれを上げたり、しめてもらって聞いたり、聞いている
のを閉じたりするのもよい方法である 。
5
11
立ち姿勢の場合には、重い下駄(鉄下駄)をはいて歩く訓練法もある。長時間片足で立つ練習を
5
12
するのもよいことである 。
さてつぎに、弛緩の中心部がどこにあるかを考えてみよう。 それは肩である。肩に力が入っている
かぎり、身体の力はぬけないのである。肩の力をぬくにはどうしたらよいか、それはみぞおちと手と
首の力をぬけて いることが必 要である。この部の力をぬくにはどうしたらよいか、それは心がおだや
かでなければならない 。 そのときの呼吸は静かで深い 。
ここに精神修養の必要があり、その最高の状態が信伸である 。 信仰とは何か、それはいっさいを神
にまかせきった境地である 。まかせるとはどういうことか、いっさいを神意と信じ、善とうけとって、
無条件、無要求、無対立の状態になっている合掌、拝受の心境である 。 すなわちいっさいから超脱し
た、無束縛の、ただありがたいの法悦状態になっているのである 。
この人の心境には、無も有もないのである。求める心からもはなれている、捨てる心からもはなれ
ている 。打算も忘れている、結果も忘れている。成否も忘れている、ただそのままに生きているので
ある 。 いかなる立場におかれても、無動揺のおだやかな、浄らかな、楽しい生き方をしているのであ
る。 この境地は、表現すべくして表現しえない境地である 。
人聞は大脳が発達している 。 この長所が意識過剰、はからい過剰を生み出して、 肩 の力がぬけなく
な って しま っている 。 その結果が病気であり、悩みである 。肩 に力が入ると、腰の力はぬける 。腰に
力が入ると肩の力はぬける 。 この両者は相関関係にある 。肩の力をぬくことから入ろうとするのが信
伸である 。 たとえばキリスト教、浄土宗である 。 腰に力を入れることから入ろうとするのが禅宗やそ
の他の修行法である 。
ヨガはこの両者の総合でいこうとするもので、冥想法がそれである 。
(昭和お年6月頃の著作)
その 4
人間の姿勢の特徴
5
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合掌行法の指導
夏期講習会
1
54
人間の姿勢の特徴 その五
足の役目
今までに述べてきたように、足は五体のなかでもひじように重要な部分であり、内臓の露出部分で
あるといわれているぐらいに、直接、内臓や身体の重要器官と桔抗しあっている。したがって、その
人の姿勢や歩き方は、おのずからその人の健康を左右することになる 。 人聞は足で立つことができて
手を解放し、それによって手が発達して、叡智をえたのである。人聞が動物の域から脱却するにした
がって、肉体的には腰筋、首筋、足の親指が発達してきた 。直 立したことにより重心は高くなり、脊
椎は﹁梁﹂ から﹁柱﹂ の役にかわり、足は生体保持の大きな役割をするようになった 。 しかし、ひ
じようにひずみを生じやすくなっている 。 こうして人聞が合理的な身体構造で自由自在に活動できる
のは、足のおかげであるといえよう 。
われわれの平常つかっている日本語のなかにも﹁満足 ﹂とか﹁不足﹂とか、﹁足 ﹂という語のはいっ
ている 言葉がじつに多いが、これは、足がわれわれにとって重要な意味をもっていることをあらわす
5
15
のであり、たんに五体の 一部であるというだけでないことがわかる 。
5
16
だから、歩くことによって足を使うことはひじようにたいせつなことであるが、ただ歩きまわれば
よいというのではない 。 足の親指に力をいれて歩けばたしかに健康法になるのであるが、小指に力を
いれてまちがった歩き方をしていると不健康法になる 。 そうしたあやまった身体のつかい方をしてい
ると、姿勢を悪くし、筋肉群の発達を慢性的に不調和な状態にするから、それがいろいろな身体のひ
ずみをつくり、強いてはいろいろな精神上の悪癖をもつくりだすことになる。そうした状態は、異常
な状態である 。 こうして身体のひずみがわれわれの 生命の働きをさまたげていることはいうまでもな
い。身体に癖があると病気になりやすいし、なかなかなおらない 。
身体の型と心理
好き嫌いをいう人がいるが、そういう人はかならず片方の肩があがっている。なにごとにも一応反
対する人がいるが、そういう人は腰がまが っている 。 いったんいいだしたらやめない頑固な人がいる 。
意志が強固のようにみえるがじつはそうでなくて、腰の骨の開聞がうまく行なわれず、ちぢま ったら
そのままにな ってしま っている人である 。 その反対に何事 も肯定する人がいる 。 そんな人は腰の骨が
聞き っぱ なしにな っている人である 。腰椎の 五番に 異常が 生 じると、 誇大妄想狂のような人ができる 。
それは恥骨に影響してくるからである 。 このように身体の形というものがその人の心理的な形を誘導
してくる 。腹がたつてしかたがないときは、身体がかたくなって筋肉が硬直し、交感神経が緊張して
血液は酸性過剰にな っている 。 そこで身体をやわらかくすると、血液はアルカリ性になり、気持ちは
安らかになり、腹がたたなくなる 。 だ か ら 、 こ う し た 心 理 状 態 は 生 理 的 な 現 象 で あ り 、 生 理 的 に そ う
であればべつに腹をたてようと思わなくても腹がた つてくる 。 逆にこのような心理状態にあると、こ
のような生理状態をつくりだすのである 。なにもしないのにそわそわして仕事がはかどらない、仕事
を十分としないうちに飽きてしまう。そういう人は 肩があがっている 。
こうした身体のゆがみが 生 命の働きに ブ レーキをかけてしまう。 たとえ体力があ ってもだめなので
ある 。物が欲しいときには身体が前かがみになり、嫌いだと思うときには身体がうしろへいく。だか
ら人のか つこうをみて簡単に心理状態がわかる 。相手に欲しいという要求をもたせるためには、身体
を前かがみにさせればよいのである 。
胃が痛いときには、 胃をおさえて前かがみになる 。背中が痛いときにはそるか つこうをする 。 反対
その 5
に痛くないのにそういうか つこうをすると、病気をつく ってしまう。 慢 性胃腸病だとか、内臓下垂 な
人間の姿勢の特徴
どは、そうなるような姿勢を連続してつづけているからであり、慢性病というのはすべて身体のゆが
みの悪癖からきているのである 。 それをなおすには、それまでと ってきた姿勢、態度によ って、身体
にあたえていた刺激とま ったく反対の刺激をあたえるとなお ってくる 。 つまり、まったく反対の姿勢、
か つこうをつ づけることである 。 ヨガのアサンスなどはこれを目的にしているのである 。 そこで、こ
こではそうした 立 ち姿勢の問題を脚を中心にのべてみることにする 。
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5
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足部と身体各部の関係
まず脚の外側は腎臓、心臓などに関係がある。そこの筋肉が萎縮していると腎臓、心臓などに故障
が生じてくる 。 せきがでて困るときなどは、萎縮しているところを伸ばせばなおる 。脚の内側の筋肉
は生殖器、掛尿器と桔抗しあ っている 。 だから寝小便をする 子供は内股の筋肉を伸ばす運動をすれば、
ほとんどなお ってしまう 。扇桃腺がはれたときには膝蓋骨(膝小僧)のところに辛 子をはるか、足 首
を柔軟にすればよい。
足裏の重要性
水におぼれたときには足の裏を踏めばよい 。正しくは、足の裏の土踏まずにある足心に刺激をあた
えるのである 。そこは足の中心部であり、 急所で、経穴では湧泉とい っているところである 。 こうす
るとすぐ水をはきだす。 これは 一番簡単な方法である 。 この方法で私はずいぶん人をたすけている 。
しかし、あまり足の裏を押していると肺から出血するから、あまり押してはいけない 。 ことに結核の
人は急激な曙血をするから、踏んではいけない 。だから踏む前に結核かどうかをたずねてからする 。
そうもできない場合もあるので、結核の見分け方を簡単にのべると、膝蓋骨にさわ ってみて、そこが
われていれば結核の可能性が多い。自分でさわってみれば痛いからすぐわかる。なおそのうえに、頚
椎の 二、 番の骨の上にある皮膚が、赤くなっていればまず結核とみてよい。ふつうの人が足の裏を
一
=
踏んでもらうと、疲れがとれる。それはアキレス腔が伸びるからである 。 アキレス腔が伸びはじめる
と、頭にある八つの骨がしまりはじめる 。 この頭の骨がはなれると疲れる。われわれは緊張するとか
疲れまいとするときにはハチマキをするが、あれは頭の骨をしめるためなのである 。後頭部の骨がと
くにはなれやすいから、生殖器、肝臓、腸、腎臓に故障が生じやすくなる 。 また姿勢もくるってくる。
したがって、アキレス腔が伸びてくれば、脳が頭の骨におさまってくる。すると血管が収縮して、脳
にたまった古い血がどんどんさがってくるから、血液の還流がよくなり頭がすっきりするという効果
があらわれてくる 。死ぬというのは、そこがひらきぱなしになってしまうことである。だから、生き
るか死ぬかは頭の骨のひらき具合でわかる 。 つまり、さわってみてひらきぱなしかどうか、ちぢむか
ち、ちまないかでわかるのである 。
その 5
鼻が悪いときも、耳が悪いときも足に故障がある。蓄膿症の人は、それをなおすためには足首の運
動をすればよくなる。あたためたり、しめつけたりすると鼻はとおってくる。どこか悪いというとき
人間の姿勢の特徴
も、足の運動をして強化すれば異常は解消してしまうことが多い。
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6
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足と脊柱
たとえば、足を刺激して脊柱の故障をもどしてしまう。多くの人は脊椎を操作するが、脊椎は操作
するものではない 。 な、ぜかといえば、脊椎から、直接神経がでているから、そういうところは直接さ
わらないほうがよい。脊柱だけが曲がっているのではなくて、脊柱を曲がらせるような姿勢をしたり、
そうなるべき異常をもっているから曲がってくるのである。根本的な原因をとりさることが必要であ
る。 だから、異常部位をもとへもどすような状態に誘導していくとなおってしまう。それには、手や
足のような他の部分をつかって刺激をあたえる 。 し か し 、 こ れ は 非 常 に む ず か し い 技 術 で 、 平 常 の 生
活で脊柱の異常をなおすには、身体の左右を均等につかうことが必要である。平常っかわないような
筋肉をつかうようにすれば、脊柱の異常はなおるのである。物を手に持って歩くときでも、片手ばか
りで持たないで、交代して両手をまんべくなくつかうように心がける 。
小指と悪姿勢
灸を﹁ 三里﹂ にすえると足がかるくなるが、かならずしもそこに灸をしなくてもよい 。三 里の灸は
腎臓と肝臓を刺激するものなのである。灸をすえると、ひらいていた腔骨と排骨の間隔がせばまって
くる 。だからきやはんをまいて足をしめれば 三里に灸をしたとおなじことである 。灸がいやなら、膝
の下約十センチのところの骨の外側の筋の間にある 三里の査をおさえて刺激すればよい 。 それで痛い
と感じたら効果があったことになる 。
小指に力がはいっていると痔になる。小指がほかの指とはなれていたり、小指につよい力がはいる
と、紅門がひらいてくる 。 虹門が聞くと直腸がでてくる。そして、智部の筋肉の力がなくなり、そこ
がうっ血する 。さらに、乾燥して大便がたまり、貧取する 。貧血するとそこの皮膚がきれる 。下垂性
の体質であると、そのときに血管が下垂してくる 。 そこへ皮膚の下垂したのが付着するといぼ痔にな
る。 そのとききばると直腸がでてきて、それを脱虹という。 それは皐丸の方からでることもあるし、
騎の方からでることもある 。だから異常を起こしているところが異常なのでなくて、原因はほかのと
ころにあるということである 。
その 5
足と心臓
人間の姿勢の特徴
つぎに足と心臓の関係であるが、心臓には足がもっとも関係する 。金がなくて歩いている人には心
臓病の人は少ない。金があって車にばかり乗って、足をつかわずにいると心臓病になる 。 心臓病をな
おすのにいちばんよい方法は、どんどん歩くことである 。多くの人は心臓が悪いと寝ることにきめて
いるようであるが、安静にすればするほど悪くなってくる 。 つまり、心臓への血液の流通が悪くなる
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からである 。 また、 左右の足の違いによって身体におよぼす影響は異な ってくる 。左足は全身への血
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液の還流に影響があり、右足の場合は肺への血液の還流に影響がある 。 また、左足は動脈に、右足は
静脈に関係する 。左 足がよわ っている場合は心臓に影響して、腸は下痢しやすい傾向になり、右足の
よわっている場合は肺に影響して、肝臓がよわり、腸は便秘しやすくなる 。 また、足の運動が不足す
ると 胃腸の働きがにぶり、消化吸収が完全に行なわれなくなる 。
さらに、足を動かさないで起こる弊害は、静脈が完全に血液を押しあげないため、血行が悪くなり、
その結果、古 い血がそこにたま ってう つ血の状態になる 。 このよごれた血が凝固して、そこの組織が
硬化する 。また、血がたまって濃くなると 、水分が皮膚外ににじみでるため、冬は足が冷えてたまら
ない、 夏 は足がほてって仕方がないということになる 。 こういうときは、腎臓や腸に故障がある 。 こ
のよごれた血が腹部をとおるので、内臓も、また心臓もよわってしまう 。 またにごった静脈の血が影
響 して、足の静脈に炎症を起こしゃすいのである 。 そうしてそれがもとで神経痛やリュウマチ、関節
炎のもとになる 。 また、この静脈炎で 一
屑桃腺がはれたり、 鼻 が悪くなったりする 。
朝とくら べて夕方に、足が十パーセント大きくなっている人は健康な人である 。二 十パ ー セントも
大きくなっている人は病気である。それが 三十パーセント以上も大きくなる人は、糖尿病かあるいは
脳溢血の前兆であるから注意しなければならない 。 こうして、足はわれわれの身体の状態を教えてく
れている 。
それでは足はどのような状態にあるときもっともよいかというと、 われわれの身体の重みは主とし
て腫にかかっているが、それを補助するのが小指であり、方向をきめるのが親指である 。体重は、腫
と四指と親指に 三対 二対一の割合で足の裏に分布しているのが正しい状態である。
悪姿勢の弊害
たとえば体重が、足のまえかうしろにかたむいている屈の状態、左右どちらかに偏っている、ある
いは左右にねじれているというように、両足に、しかも正しい割合で体重がかかっていないと腰椎に
異常を生じ、それはさらに腰筋と腰骨に異常を生じ、骨盤がずれて上体に異常が生じてくる 。 つまり
重心の位置が生体のバランス維持の中心点である丹田をはずれて、身体全体のバランスをとるために、
筋肉群にむりな負担をかける 。 その特定の酷使部分は疲労の結果萎縮化して、そのために脊柱が異常
な笥曲のしかたをしてしまう 。脊柱には自律神経がとおっており、それが内臓にでているから、脊柱
その 5
に異常が起きると、当然、内臓に故障が生ずる 。 それがおたがいに括抗しあ っているから、ほとんど
全身へ影響するのである。こういう悪姿勢の身体をたおれないよう に保持するために、むだな、より
人間の姿勢の特徴
多くのエネルギ ーを 消耗する 。 またそうした疲労の累積が、慢性的な体癖をつくる原因になるのであ
る。身体が長いあいだそうした不調和な状態にあると、完全に弛緩しないで、後日までどこかに疲れ
がのこり、それが強いては病気のもとになる 。
このように、足はひじように重要な意味をもっている 。 しかし、異常や病気をなおすことが、ここ
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では重要なのではない。まず、正常な状態を保つことから訓練し、おぼえなければならない 。 異 常 を
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なおすことはそのつぎでよい 。だから、前ばかり向いて歩いていることによる弊害は、それと全然逆
なことをすればよく、うしろむきに歩けばよい 。立ち姿勢で おこる臓器下垂などの弊害 は、逆立ちを
することにより解消する 。あるいはうしろへそったり、平常使わない筋肉を使うことが必要である。
だが、心理的なことが姿勢におよぼす影響も大きい 。
心理状態と姿勢
たとえば、姿勢をよくしろといわなくても、その人にいちばんよい着物でもきせてやると、脊柱が
まっすぐになる 。 いちばんよい着物をきたという雰囲気が無意識に影響をあたえ、自然とよい姿勢に
なるのである 。寝小便をする子にいちばんよい着物をきせて、いちばんよい蒲団にねかせると、寝小
便をしなくなる 。昨日まで平社員だった人を課長の椅子にすえて課長さん呼ばわりすると、その人は
課長であると思いこんでしまう 。だから、昔、軍隊のあったころ軍服を着ていると、その軍服の雰囲
気が気持ちをしっかりもたせ、それが姿勢にも影響して軍人らしくみ与えた。軍服をぬがすと、なんで
もない人がたくさんいた 。だから、健康な人でも、病院にはいれば病気になってしまう 。反対に病人
でも健康人の中にはいれば健康体になってしまう 。 こういうことはすべて無意識のなせる業である。
だから、一挙手 一投足が重要になってくるのである 。
われわれの身体の各部分はおたがいに相関関係にあり、絶対にきりはなして考えられないものであ
る。足首と首は措抗しあっているが、このバランスをとっているのが丹田である。また、手首と喉は
括抗しあっている 。 このバランスをとっているのが﹁気海﹂ である 。 そして、丹田と気海を 正しい状
態にあらしめるためには、両方をコントロールすること、両方に正しい活動をさせることである 。 頭
の動かし方によ って、足に対する影響はかわってくる 。足に故障があ って足心に 重 心がおちないと、
脳液を 不純にする 。
手 や 足 な ど の 随 意 筋 を 正 し く う ご か す こ と は 、 不 随意 筋 で あ る 胃 や 心 臓 や 肺 な ど の 器 官 に 正 し い 活
動をさせることである 。だから、 今 の 一挙手
、 一投足ということがいかに重要であるか、その 一挙手、
一投足というものが悟りへの道であるのだということを認識すべきである 。 血 圧 で も 、 前 か が み に
な っていると 高 くなるし、そると低くなる 。 血圧が高いとか低いとかを論ずるまえに、正しい姿勢を
と っているかどうかということを問題にすべきである 。
その 5
人間の姿勢の特徴
正しい立ち姿勢
こうした弊害 をなくし、 直立 して身体が 正しい姿勢をとったときには、 頭と首 の中央から垂直にお
ろした線が、丹田をとおって、足心におちていなくてはならない 。 そのためには、まず 肩が﹁虚﹂ で
なくてはならない 。虚ということは力がぬけていることをいう。 肩 が虚になるためには、首と手が虚
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でなければならない 。 そのためには、腰が﹁実﹂ でなければならない 。 つまり、力がはいっていなけ
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ればならない 。そのためには、足が実でなければならない 。 こうして立ち姿勢の問題は、 ‘じつに足に
かか ってくる 。 このようにしてできた正しい立ち姿勢は、頭、胸、足がまっすぐであること 。 顎はひ
かれ、胸は高めに前方に出て、肩はすこしうしろへひかれぎみで、腹はたいらに、腰は前にでている
こと、脊柱は正しい暫曲をして、足は親指に力がはいっている、という状態である 。 こうした正しい
姿勢は身体のどこの部分にもむりをかけることなく、体重は均等に分布しており 、血 行はよく、身体
全体がとどこおりなく働いているのである 。
ヨガは ﹁
中﹂ を教える
われわれがいちばん健康なときはどんなときかというと、つねに﹁真中﹂の状態、﹁中﹂の状態、す
なわちバランスを維持しようとする生命の働き、すなわちそれは五と五の割合で桔抗しあっていると
ころに調和(生存)が保たれるのであるが、このバランスをとる働きがスムーズに働いている姿であ
る。 ヨガはこの﹁中﹂ の状態をとることを目的としている 。 この状態においても っとも生命の働きが
完全になる 。 ﹁中﹂を教えるために生活行法を教えるのであり、これを﹁行法﹂という。
要するに 、立ち姿勢を正しくとるうえでいちばん大事なことは、くわしく前述したように、両足の
腫と親指に力がはいって いなければな らないということである 。 その姿勢で歩くときは静姿勢のとき
の調和をくずさないように歩くことがたいせつである 。 そのためには、足の親指に力をいれる 。 この
とき親指をあげるようにするとそこに力がはいり、アキレス臆が伸びる 。 そして、地面を軽くこすっ
ている程度に足をはこぶ 。 眼はやや前方をみて、顎はひかれて、腰で歩いていなければならない 。
日常生活と行法
前項の姿勢の状態をとることに 、 つねにわれわれは留意し、訓練し、意識しなくとも、その状態に
なっているようでなければならない 。 自 然 に で る よ う に な ら な け れ ば い け な い の だ か ら 、 む ず か し い 。
分業社会にあって、われわれはつねにかたょった身体のつかい方をしている。精神的にも、それはき
わめて大きな意味をも っている 。 前述したように、こうした肉体的な不調和は、全然反対の刺激をあ
たえてやることが必要である 。 ヨガ行法の第 三段階にある﹁ア l サナ ﹂ は、こうした不調和を解消す
その 5
るために、多くの人が何千年もかけて生きた身体をもとにして研究し、もっとも合理的な方法として
完成したものである。しかし、このアlサナにしても、それがわれわれの生活と遊離したものであっ
人間の姿勢の特徴
てはならず、日常生活にとけこんでいくべきものである 。 そこではじめて 一挙手 、一投足が悟りへの
道 で あ る 、 と い う 言 葉 がいきてくる 。
(昭和お年8月頃の著作)
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才能教育で著名な鈴木鎮ー先生との対談
日本ヨガ協会総裁の関院純仁氏と共に
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68
ヨガの教えは無道無円である
ヨガの教えは無道であり、無円である。無門ということは門がないということではない。すべての
縁を道と化し、方向づけるということである 。
ヨガはすべてを生かす融通無碩の教えである。ここからでなければいけない、などというような、
ことさらの道はないのである 。 これでなければという特別な方法もないのである 。 ヨガはどこから、
また何から入ってもよいのである 。
宗教の本旨は無対立、調和性であるはずである 。 しかし現状はどうだろうか、その各々がことさら
の道をたて、これによ ってのみと強調するがため、無対立を教えるのがその目的であるはずの宗教々
団が、現状のごとき対立闘争の様相を呈するにいたっているのである 。
この対 立 を解消しうるのがヨガであると確信する。教え方は多くとも結論はひとつのはずである 。
ヨガは宗教そのものではない。あらゆる抽象的教えの目的とする調和法の、具体的実践法を教える哲
学 であり、科学である 。 いわば、宗教に 至 る道といえる 。 その具体的実践法を通じて万教の帰する唯
一の結論に至らしめるのである。その結論とは何か、それは解脱であり、調和である 。解脱とは何か
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│ │解脱とは真実の自由な生き方である 。すなわちヨガは万象を通じて解脱に至る道であり、調和性
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を身につける作法である 。 現象のすべてを教えとして修業(調和性の拡大)しているヨギにおいては、
すべての縁が解脱への門となるわけである 。
ヨガにおいては日常生活の 一挙手一投足の調和化の努力がそのままゴ!ル(解脱)への道であると
しているのである 。 このためにいかに食するか、いかに動くか、いかに受けとるか、いかに寝るか、
いかに人や物に対するかの中に、ヨガへの門と非ヨガへの岐路があるのである 。 ヨギにとっては、自
己とその生活のあらわれのすべてが、修行への課題なのである 。
無門とは、すべてのものが門への教えであるの意味である 。 ヨギは事をなしつつ常に考えている 。
﹁この方法でいいのであろうか﹂と。常に最高のもの(真実)を求めてやまない生き方がヨギの生き
方である 。つ まり、最高の心の 喜び、最高の身体の働き、最高の 生活、最高 の事業 経営、最善 の社会
建設、等々最高最善とその調和性が高いことを求めての努力生活がヨギの生き方である 。
ヨガの道はなぜ無道であるのか、ヨガにはなぜにことさらの道がないのか、それはすべてのものを
道への教えとしているからである 。自分の道は自分で発見しなければならない 。達するゴ l ルはひと
つでも到る道は各人各様のはずである。なぜならば、個性が違い、天賦が異なるがためにである。自
己開発の道の選択は自由である 。自由であるがためにヨギは自分でその発見の努力をしなければなら
ないのである 。 ﹁自分の努力で自分の道を﹂、これがヨガの道の発見法である 。 心して生きるとき、自
己に 与えられたいっさいの縁から教え(道)を受け取り得るのである 。 その教えを天啓と合掌拝受し、
その教えを通して神を見、自己を高めていくのがヨギの生き方である 。
無とは、ないということではない 。 あるのである 。 しかし無いのである 。 この意味は何であるか、
それは全肯定の境地である 。 ヨ ギ は 現 象 の す べ て を 肯 定 し 、 そ れ を 門 と し 、 道 と し て 、 よ り 良 き 生 き
方をするものである 。 無 と は 無 対 立 の 境 地 で あ る 。 ヨ ガ と は い っ さ い と 調 和 す る こ と を 目 的 と す る 教
えである 。 ヨガは無門無道なるがために目に見えるもの、目に見えざるもののすべてが教えなのであ
る。ヨギは目に見えるものの教えを受け取るために行法を行ない、目に見えざるものの教えを受け取
るために哲学し冥想するのである。
(昭和初年6月頃の著作)
ヨガの教えは無道無門である
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くつろぎのひととき
書斎にて 講演会にて
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芸道とスポーツの奥義に達する道とヨガ
文章で書けない奥義
物事の奥義は、その道の達人にしてはじめてわかることである 。 しかもこの奥義というのは理外の
理であるからことばで表現できないものである 。 その事を何年もかけて精進しているとき、フッと身
体全体を通じて感じとるものであ って、そのとき、どの程度まで 達 しているかによ って﹁これではな
いだろ うか﹂﹁これらしいな﹂というように感ずる深さがちがうのである 。この体験をふんでだんだん
とコツに近づくわけである 。 つまり、そのときに達している程度しか感じとれないわけである 。さら
にその次の努力くふうをつづけていくと、また﹁これではないだろうか ﹂と感ずるわけで、ちょうど
階段を 上 るように一段 一段と 上達 していくものである 。 いくら努力してもい っぺんに 上 にはいけない 。
何事 にも 年期が必要なのである 。
それならばただ年期をいれればよいかというとそうではない 。努力くふうにはプラスになる努力く
ふうと マイナスになる努力くふうとがある 。 プラスになる努力くふうとは、それが正しい方法で行
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なわれているということであり、 マイナスになる努力くふうとは、それが正しからざる方法で行なわ
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れているということである 。 コツとは最上の方法、すなわち最も合理的な方法でなされ、そのやり方
が身についているということである 。私たちは身についていることしかできないから、見るだけなら
やさしいけれど、やってみるとひとつとしてやさしいものはない 。 石ひとつけるのでもそうである 。
しかも自分の行な っているもの、行なおうとしているものを最上になそうとすると、どこまでい って
も満足できないものである 。だから、その道の達人 (コツをつかまえている人)に会 ってみてわかる
ことは、 実 に頭の低いことである 。
先々月大阪で合気道の植芝先生と一緒になった 。私は植芝先生は武道の古今を通じての達人の一人
であると思う。国宝 的 人 物 否世界的な 宝 の 一人であると思 っている 。その先生が私に ﹁
君 からヨガの
話を聞いて、ほんとうによい参考 にな った。 これからもいろいろと教えてください﹂といわれた 。私
にとってはただおそれいるのみの感じであ った。 そのとき私は先生に﹁私は体験した理屈を少々知 っ
ているだけで何ひとつほんものをつかまえていません 。 ほんものの先生方にお目にかかるたびに、自
分のしゃ べっ ていることを恥かしいと思います。私は今迄に何度、 書 いたりしゃべ ったりすることを
やめようと思ったかわかりません。私はまだまだ未熟者です。ただほんものをつかもうとして努力だ
けはしているのです 。私の価値といえばそれだけでしょう﹂と答えたのであった 。
奥義すなわちコツは、その道その道の達人の 一人 一人について身をもって学ぶべきである 。 何の道
においてもコツは聞いてわかるものではないのではなかろうか 。 その人の努力によるカンによ って自
然につかまえたもの、戸なき声をつかまえたものであるから表現できないものであると思う。このこ
とは、ほんとうにむずかしい問題であるが、こうではないだろうか、こうあるべきではなかろうかの
京を得たいと思う 。奥義すなわちコツ、
仮説として書いて見るから、私はこの文を読まれた方に、御教 一
すなわち秘訣を 書 くなどということは、大それたことのような感じである 。 これはその道の人が血と
汗と涙の苦闘によって把握されたものであるから、かるがるしく批判していいものだろうか、その道
の達人たちに、すまないとお詫びする気持ちで書くことにする。
日々の努力がたいせつ
芸道とスポーツの奥義に達する道とヨガ
プラスになる努力は、正しい方法で行なうことで、マイナスになる努力はまちがった方法で行なう
ことだと述べたが、コツというのは前述したように最も合理的な方法の把握のことであるから、まち
が った方法でやると、っかまえられないだけでなく、まちが った 方 向 に い ってしまう 。 たとえまち
がった方法でも、やらないより上手になるけれども、限度があり、その限界にくると、いくら努力し
ても 一歩も進まないだけでなく、努力するだけ心身に異常が生じてくるのである。
またたとえ正しい方法で行なっていても、上達は段階的であるから、 一段階わかるとそこでしばら
く停止状態がつづく 。異常で行なっている人も正常で行なっている人も 、この 停止状態のとき 、もう
わか ったような気がしてしまうらしいのである 。 そうすると努力をやめ、慢心して自己流を出したり、
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なまけたりして退歩してしまうのである 。 パッと聞いてすぐ散る人がよくいるが、私は 一生 を通して
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努力すべきであると思 っている 。 このことで釈迦がよい教えを残している 。 ﹁悟ることが尊いことで
はない、悟ろうと努力していることが尊いこ と であり、私の教えはこれである ﹂と。 これがヨギの心
境である 。
留まることなく 、 なまけることなく、 おこることなく、 ひたすら無関心に努力することがヨガの心
であるから、何々のために、 の功利心をもってやってはだめである 。私も何回か 学位を 請求したらど
うかのおすすめを受けたので、そのつもりにな ったこともあ ったが、しかし、よくよく 自分の性を反
省してみると、私はおこりやすく慢心しやすく、なまけやすい人間である 。 何 々 の た め に と 思 って
や っていて、その目的を 達 してしまうとやめてしまうのが常である 。受験勉強がそうであ った。他人
のことをい ったらいけないが、 学位をもらうまでは大いに努力しているが 、 い ったんもらうとやめて
しまう人が多い 。 パッタリ研究をやめて、その学位で飯を食う人が多い 。
正しい方法を身につけよ
まちが った方法の努力というのは 、 まちが った癖の練習 をすることである 。 物事 を練習する場合に
は、この 自 己流(これを 自我というのであるが)を出してはいけない 。自 己流を出すということは、
身についた条件反射がそれをさせるのであるから、どういう傾向が条件反射として身についているか
が問題である 。 まちがったものが身についているとまちがったことしかできないのである 。
よく技能的なことは、子供のときから始めた方がよいといわれている 。 それは、子供の感覚は白紙
であるから、学んだことがそのまま無抵抗に身につくからである。途中からやると、それまで身につ
いているいろいろなものが抵抗し、じゃまをして、よほど努力をつづけないとそれが身につかないの
である 。昔の人の芸や作品が人の心を打つものがあるのは、世襲として幼時期から身につけるからだ
と思う 。
この身につけ方であるが、まちがったものを身につけてはならない 。正 しい方法を教示する先生に
指導してもらわないといけないのである。子供に習い事をさせるとき、よくえらばずに近所だからな
芸道とスポーツの奥豊島に達する道とヨガ
どといって師匠につける人がいるが、これはまちがいを身につけさせるだけでなく、せっかくの天分
の進路まではばんでしまうことになる。
たとえば、相撲取りであるが、本物になる人は、田舎相撲などで強くて期待されて弟子入りした人
より、はじめはずぶの素人であった人の方がなりやすいようである 。 それは、前者はそれまでに自己
流の癖がついているからであって、自己流を一回全部捨てきらないとだめなのである。この自己流を
捨てることを無我になるとか、空になるとか、自己を捨てるとかいうのであるが、なかなかこの自己
が捨てられないのである 。だから、白紙ではじめるのが習い事の基本である 。 ヨガでは、この自己を
捨てることをパクテイ(信仰という意味)といい、あらゆる習い事、求道の第 一条件としている。
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自己流のクセのまま練習すると、それがその人の弱点となる。この弱点をカバーするためには余分
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な努力をしなくてはならないことになる 。 この弱点をスキというのである 、
が、勝負事 の場合、相手の
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弱点をつかまえたら勝てるのである 。私は 、 テレビなどで相撲を見物していて、ひとりひとりその弱
点がわかるから、 立ち上が ってすぐ、つまり勝負がきまる前にだいたい勝負がわかるのである 。一 昨
年のことだが、柔道家の集まりで講演したとき、ひとりひとりにあなたの弱点はこれですねと指摘し
たことがあるが、どうして見ただけでわかるのかとおどろいていた 。無心にな って、見る目で見れば
わかるのである 。真剣勝負などでは、これを見抜いた方が勝ったのであろう 。 しかし、瞬間的動きの
なかでっかみと らなくてはならないのでなかなかむずかしいことである 。
ヨガ塾でも昔流の所に弟子入りすると、何も教えてくれない。師匠の世話や道場の掃除などの 小間
使をするだけである 。 人聞をつくる方を優先して、適当と思 ったときに少しずつ教えてくれるのであ
る。
私の小間使生活は 五年であ った。頭の高い私には下男的仕事 は嫌で嫌で仕方がなかったが、しかし、
今考えてみると、あの五年間があるからこそ、現在の自分があることに 気づくのである 。 今 の仕事が
一段落すんだらまた下男生活に入ろうと念願している 。
音の世界の真実にふれるには
私達はいろいろな刺激の中で生きているが、 その刺激を身体のどの部分でキャッチするかによって、
音、色、匂い、味等とわけているのである 。音を正しくキャッチする感覚をもたなければ音に関する
道(音楽関係のすべて)に上達できない。色に関する場合は絵画である。音といっても、色といって
も、匂いといっても、これは皆波なのである。 音楽 の指揮者のなかには﹁もっと黒い音を﹂などと示
している人さえいる 。
私は 二十年 ほど前に福田蘭童さんに会ったことがあるが、そのとき﹁君は地球の 音 がきこえるかね、
あそこに咲いている花の音がきこえるかね ﹂ と質問されて、びっくりしたことがある。妙なことをい
うものだなと思ったが、後になってこのいっさいの物から音を聞く努力こそ音楽の道だということを
知ったのである 。 この解説は後でくわしくするつもりであるが、たとえば、生け花のとき、一本 一本
芸道とス ポーツの奥義に達する道とヨガ
の花の心、花の 言葉、花の要求を聞きとれないと、生きた花の生け方はできない 。私は自分で花を生
けてみて、それを痛感した 。 だから同じ生け花でも、花の心が生かされてない花は、早く枯れてしま
うのである。私はなぜこれが 早く枯れるのだろう、なぜこの色は精気を感じさせないのだろうという
ことから研究した 。 これを﹁読みとる世界﹂ というのであるが、音楽や絵画においても、この読みと
る世界が基本である。どうしたら、読みとれるかと、 尋ねたいだろうが、それは﹁無心﹂﹁無念無想﹂
﹁相手そのものになる ﹂ ことである 。 これを教えているのがヨガである 。どうしたら無心無体になれ
るのか、これが奥義に達する道である 。
しかし、何事 でも練習したからとい って、究極まで上達するものではない 。それは天分の 差と、各
人によって感受能力のちがいがあって、全部がそろっている人はいないからである。私達は気づかず
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にいるが、 よくしらべたら、色盲、音盲、味盲といって、その能力が生まれながらにしてにぶい人と、
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反対に天才的な人とがいるわけで、まず自分の天分を発見することがたいせつである 。 この自分の天
分を発見することを﹁自己に会う ﹂ というのであり、自己に会うことが修行および修養の目的である 。
しかしこの自己に会うということがむずかしい。徹底的に努力して自己開発しないと、自己には会え
ないのである 。天 分といっても、すぐにはわからないものである 。 よく自分の子供などの場合、何か
ちょ っと上手 にできると、それが天分かと考えちがいして、愛するつもりで、いろいろとむりをさせ
ている親がいる 。これはまちがいであ って、﹁好きこそ物の上手なれ﹂の諺があるが、好きだというこ
とが、その方面に天分があることだと思う 。
私達がよい 音楽を聞いた後で、形容のできない感銘を身体のうちから感ずる 。それはなぜであろう
か。私は 音楽 というものが私達の中に本能として存在するものであるからだと思う 。絵画も匂いも味
も、よい心地を与えるものは、私達の本質であるところの生命が感応するからだと思うのである 。 よ
い音楽には動物も聞きほれるといわれている 。 ひとつひとつの生命の働きを音としてつかまえたのが
音楽 であると思う 。 この生命(自然)をつかまえて、それを曲につくりかえるのが作曲家であり、そ
れを楽器や 声 で表現するのが演奏家である 。そして、その生命をくみとるのが鑑賞家だと思う 。だか
らほんものの音楽家(コツをつかまえた人)の演奏に接した場合には、自然に私達の心身(生命)を
ゆさぶるものを感ずる。いっさい の物の中から 美 (生命)を感じとるのが芸術家としてのコツだと思
うのである 。
私達が 戸 を出すときは必ず息を吐いている 。 この吐く息が、 声帯を振動させ、それがさらに鼻腔、
音)になるのである 。 だ か ら 、 こ れ 等 のでき方に
咽腔、胸腔、歯の 裏 などに共鳴して、それが 声 (
よって、その音声はちがうわけである。たとえば口が横にひろい場合は、浅くて明るい声が出るし、
奥にふかい場合には、暗く こも った声がでるわけである 。だから 音 楽家 になろうと思 ったら、まず自
分の声色を知って、それをリファイン(洗練)していかなくてはならないのである 。声帯は筋肉だか
ら、いくらでも訓練でかえることができるのである 。歯はその振動を 鼻 の穴に つたえる役目をしてい
る。 だから、歯並びゃ歯の 裏 の筋肉は 声 の質の 上 でたいせ つな役目をしている 。歯がかけていたりし
てはよい戸は出せないし入れ歯でもだめである 。
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れてひとつひとつをは っきりと発声す べきである 。 このために必要なことは、丹田と足の親指に力が
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、 肩 や手 の力がぬけていることが必 要 である 。 歌
こも っていて、虹門がしま っており、 肩がさが って
手が歌うときをみてごらんなさい、 手 の力をぬいている 。 この手の力がぬけていて、祉に力が入 って
いるということが、あらゆる正姿勢の基本になっているのである 。姿勢のことはスポーツのコツのと
きくわしく述 べるつもり であるが、動作の軸になる 基本部が腰である 。祉に力が入 っていることは腰
に力が入 って落 ち着 いていることであり、力が発揮されていることである 。私達 は緊張しているとき、
興奮しているとき、意識過剰になっているとき、手に力がはいる 。
手に力がはいると、 肩 や首 に力がはいる 。 首に力がはいると 声帯の振動が起こりに く いから戸が出
にくくな ってしまう 。だから、び っくりしたときは 声が出ないしあが っている (
興奮 している )とき
にも 上手 にうたえないのである 。
声 は、喉の管と、口の管とが直角にな ったとき 一番美 しく出るのである 。 この姿勢になるには、顎
をひいて、胸を張り、腰を伸ばした姿勢になればよいのである 。 この姿勢は正姿勢であらゆる姿勢の
基本である 。正 しい姿勢すなわち健康体 で な い と 、 よ い 歌 は う た え な い と い う こ と が わ か る で あ ろ
ソ。
よ
演奏のコツ
基本的姿勢は、どの道においても共通である 。 すなわち丹田で行なうことである 。
ラッパは口でふかずに、身体で吹くのである。わかりやすくいうと、腹筋の力で吹くのである 。最
初の内は口に力を入れて吹くから、耳の故障を起こしたりする 。 旺 門 を し め て 、 腹 筋 を ひ き し め て
ひっこめながら息を吐き出して吹くと軽く吹ける 。 口にあてている所でなく、ラッパの先をめがけて
吹きこむのである 。
芸道とスポーツ の奥義に達する道とヨガ
鼓の場合は、裏側まで力を通すつもり、
で打つのである 。 しかし初心の内は、表側で力をとめてしま
う。それは鼓に心をうばわれるからである。宗教では、その物に心をひっかけることを分別心という。
分別心を起こすと力が分裂して弱くなってしまうのである 。
打っときに、鼓の表側でなく、裏側をめがけて打つことはさきほどもいったが、力を表でとどめず
に裏までフッと流す要領である 。力をとめたら音は死に、流したときに生きるのである 。心をとめる
と力も止まり、心を流すと力は生きる 。 心を流すことを無執着の心または不動 心 といい、無心ともい
う。諸道諸芸はこの心になる修業のために行なっているのである。
音 が生きているのは、手が生きているからである 。手が生きているのは身体がほんとうに生きてい
るからである 。身体が生きているのは、心が生きているからである 。 ほんとうに生きている人でない
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と生きた音は出せないのである 。
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ほんとうに生きているという意味は、心身が極限の最 上 の 働 き を し て い る 状 態 で あ り 、 心 身 が 統 一
されている状態である 。 力がひとつにまとまっている状態である 。手 の力で打たずに、身体全体の力
を手にまとめて打つのである 。 心身統 一ということは、目的とするところに、心身の力をまとめてし
まうことである 。 ひとつにまとめると、とても大きな力になる 。 この心身の力をまとめて物事 をする
ことがヨガである 。 これが勉強するときや仕事をするときの秘訣(コツ ) だと思うのである 。
私は小指 一本で十八貫(約七0 キログラム)ある物を、ヒモでつるして持ち 上げたことがある 。 こ
のコツは、力を小指に集めてしまうのである 。
鼓ひとつ打つことでも修養である 。何事 も、ほんとうにやるときは修養である 。
さっき、力を流せとい ったが、ヨガの講習会の 実験のときに、よく、コヨリでわりばしを切 ったり、
新聞紙一枚で竹を割 ったり、 手 でカワラ数枚をい っぺんに割 ったりすることがある 。あれが力を流す
実験である 。心をその対象物にとどめずに、それをないものとして、上から下まで力を通してしまえ
ばできるわけである 。
鼓を 意識している聞は、 心がとまるから、鼓を忘れて鼓をう つのである 。自 分が 鼓 そのものになり
き ったらよいわけである 。 その状態になるために練習するわけである 。
根本はすべて同 一であって、ピアノでも、指先でケンを打たずに身体全体で打つことである 。身体
全体で打 つということは、身体を 全部ケンの上にのせかけることではな く て、打 つ指の 一本 一本が 全
身を代表していることである。
すべてのことを科学的に哲学するのがヨガである 。だから、 ひとつひとつを科学し哲学しなくては
工‘つ工、 。
ナ'pv-手J
多くの人はピアノやオルガンを指でひくものだと思っているが、指でひくのではなくて腰でひくの
だ。琴やギターでも同じである。いっさいの身体の動きは腰を中心にしてやっているのである 。 であ
るから正しい腰(すなわち正しい姿勢)をしていないと指はよく動かない 。頭の働きを指に正しく伝
えるためには、肩首手の力がぬけていなくてはならない 。上手な人ほど手の力はぬいているものであ
る。絵でも書 でも踊りでもそうである 。
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ではなくて心である、 心のすべて、感じのすべてを音に託して訴えるのが音楽である 。自己の全部を
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表現するのである。
こうわかるとき いっさいのことは自己自身のあらわれであり、人格のあらわれであることに気づ
かれるであろう。だから私達は人間性をみがきあげて高めていく以外にはないのであって、修養が第
一であることを痛感せざるを得ない 。 この心構えになって、そのなすことによって自分も生き、対象
物もまた生きてくるのだということがわかるのである 。 いっさいが共に生きる世界が宗教世界である
から、この生かすくふうのことを信仰というのだと思う。
音楽の発生について考えてみよう 。
私達の祖先は、音楽のために音楽をしたのではない 。 歌のために歌をうたったのではない 。 喜び、
悲しみを、そのまま歌や音楽やその他の芸術としてあらわしたのである 。
何も技巧を用いず、自分の自然をそのままに出したのである 。そこには、てらいも、上手も、下手
もない 。 ただうたったのである 。 ただ奏でたのである。だから、その人のそのままがすなわちその人
の自然がそのままあらわれていたのである 。自然であってこそ生きているのである 。
人聞が利害損得や上手下手の 差別を考えはじめてから、すべての物をだめにしてしまったのである。
天然自然の心を失ってしまったのである 。 この天然自然の心(天心)にかえることを無心の修行とい
い、これがヨガ行法の目的である 。
コツをつかまえる問題はさておき、歌を自由にうたえるということ、笑えるということは人間の一
大特権である 。 この特権を大いに活用することが必要である 。感情を下手におさえようとするからス
トレスになってしまうのである 。 人に聞かせるため、という心や、上手下手の雑念にひっかかること
をやめて大いに高らかにうたうのである 。 そしてこのうたうとき、奏でるときに、正しい身構え心構
えをくふうし、努力しながら実行したならば、ヨガの目標としている、いっさいのことをして道たら
しむることになり、やがてこれが、コツを自然につかま与える道になるのである 。 コツは徐々に自然的
にしかっかまえることはできないのである 。 コツをつかまえることより、正しい心構え、身構えを知
ることの方が先である 。
とにかく歌(音楽)はよいものである 。感情を浄化するだけでなく、ストレスを解消してくれるし、
芸道とスポ ー ツの奥義に達する道とヨガ
生理的には健康法である。歌をうたうためには、息を長くして、吐く息に力をいれなくてはならない
から、これは、そのまま健康的な呼吸法である。
歌、詩吟、長唄、謡曲、みな健康法である 。
また、楽譜によってやる場合は、自分がその楽譜そのものになりきらなければだめである 。 その内
容をよく理解し、自分がそのものとして、そのものにかわって、感情や心のいっさいを表現するので
ある。この努力をする人が少ないのである 。 う た い な が ら 声 だ け 出 し て い る 人 が い る が 、 そ れ で は だ
めである 。
能などでも 一番かなめの意味深いところは、 しゃべらずに しかし魂のこもった動作で表現しなけ
ればならないことになっている 。
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これがほんとうである 。 これを音にしたものが音楽でなくてはならない 。
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色彩の世界の真実にふれるには
絵画や彫刻等を中心としたものの世界は、精神的なものが主となる。自分が表現しようとするもの
と 一体になり、さらにはそのものをこえて、宇宙の心と 一体になるまですすまなくてはならない 。 こ
れは感じとる世界である 。自分 の作為があっては感じない 。 自 己 を な く し て 、 相 手 と ひ と つ に な り
(すなわち無心になり)そのとき内から発動するままに自分を任せるよりほかはないのである 。 目で
形や色をつかまえようとしては、自分のはからいが働いてしまうから、生命そのものにつかまえさせ
ることが必要である。このつかまえる感をみがくためには、無心の修養と相手に親しむ(理解する)
訓練が必要である。
ほんとう
真実に絵を描くとは自分が描くのではなくて、自分がつくるのでもなくて、相手に描かせ、相手に
つくらせるものである。
ちょっとむずかしい形容であるが、わかりやすくいうと、たとえば繰り返し繰り返しひとつのもの
に接して、そのものに注意を集中(精神統 一のこと)する努力をしていると、いつの間にか、自分が
自分を忘れてしまった状態になる。そのときには対象物が非常にはっきりしてくる 。 そしてさらにそ
の状態をつづけると、対象物と自分の差別がなくなり、自分が相手になってしまったような気になる
(このときには自分のいっさいを忘れようとは思わないのに忘れ去っているのである)。このとき、自
分以外の何物かが、自分に、この色をとか、このようにつくれとか、と啓示してくれるような感じが
するものである 。 この状態になることを 三味境というのであるが、このように、自分への内面的集中
統 一の努力を継続したことが、時熟して自ら外面的な色や形や文として表現させられるのがほんもの
である 。だからちょっと 書 いてみょうかでは書けるものではない 。 私は駆け出しのピ lピーであるが、
ひとつのものを 書 こうと思うとき、その気が中から起こるのに、 一月も半年もかかることがある 。 そ
の聞はもがいているわけである 。 これは他人にはわからない 。 それを日時にせまられたりしてむりに
書 いたりするから、偽りのものばかりができてしまうわけである 。
芸道とスポーツの奥義に達する道とヨガ
何かにとらわれてなした芸術は死物である 。だから金銭や日時にとらわれていなかった昔の作品を
見てみると、今でも生きている 。 とらわれなき心境になることが芸術および諸道入門へのコツであろ
う。芸 術道の訓練は、ひとえに内面的修養の結果にまたなければならないことに気づくであろう 。内
面の結果が外面にあらわれてくるのである 。 ﹁私がそれをする ﹂ のでなく、﹁それ(私のうちのそれ)
がそれをする ﹂ のである 。 ここに霊感という表現がはじめて用いられる 。色なき色、形なき形、技な
き技のあらわれとしか、表現できないのである 。 この表現できないもの(絶対とか 真 実などという)
をつかまえるのがヨガである 。 これは体験すべきものであるから、ヨガは語 ったり、文字 であらわし
たりできるものではないということがわかるであろう 。
ヨガ塾に行ってみると師匠は何も教えない 。 なぜかというと教えられるものではないからである 。
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ヨガの教えは、それを学ぶ者が努力の結果しだいで師匠の境地にまで達し、師の心を自分の心とする
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以外はわかるものではないからである 。
絵画の上達も正しい生活から
よく画家は、絵を描くことだけを練習したらよいように思っているようであるが、これがまちがい
である 。 いっさいの表現は、その人自身のあらわれであるから、い っさいの生活が正しい道にかな っ
ていなくてはならない。これがすなわちヨガの目的である。ヨガの目的は生活をして修養の道たらし
めることである、ひとつのものだけえら、ぶのはヨガではない 。
すなわち、いっさいの所作は、精神集中と無執着と平静でなされなくてはならないわけである 。
これが、一日 二十四時間を坐禅の境地で生きよということである 。
これをわかりやすく説明すると、正しい姿勢で、ととのった深い息をして、心静かに注意をまとめ
て(統一して)むだな考え(雑念)や物事を入れることなしにことを行なうことである 。
むだな考えやむだな 事 とい ってもよくわからないために、これが諸道諸芸のガンにな っているので
ある 。
ヨガでは自己流の考え方や、やり方(癖のこと)を入れないことである、 とい っている 。多くの人
は物事をなす場合、大いにやろうとかどのようにしてとか、 いろいろ意識(分別)する 。そうして、
この考えにもとなついていろいろとくふう努力をするが、このために迷ってしまうのである。自分の考
えでやろうとするよりも、自分の考えを捨て去ってただ学ぶということがたいせつである。先刻から
しばしば述べたように、私達は事をなすのは自己の中身がさせるのであるから、ただひたすら、この
中身(内面世界)を開発することがたいせつである。その方法は何であるかというと左記の 二つであ
ると思う。
第一は、手本となることをひたすらまねる。すなわち正しい型に入って、正しい身構え心構えを条
件反射化(身につける)する。
第二は、無心に相手から学びとる、感じとるくふうをするのである。内面を開発したら感じとれる
芸道とスポーツの奥義に達する道とヨガ
ようになるのである。生活の全部をこの内面開発に傾注する。これが一道の達人になる唯一のコツで
ある。野球だけやっても、野球の奥義に達することはできない。教えて教えられないもの、教わって
もわからないもの、これが奥義であり、真実であり、コツであるから、正しい体験をすることによっ
て、把握していくよりほかに道はないのである。だから表現できないものとか、理外の理などという
のであろう。考えてもわからないもの、見ても見えないものにつきすすんでいくのがヨガの修行であ
る
美は調和(ヨガ)のあるところにのみあるものである。そして、自分の調和の状態に応じてしか相
手を見ることができないものである。日常生活において身体と心に調和性を身につけるくふうをしな
くてはならないわけである。
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これがヨガ行法である。
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とにかく真実をつかまえるとか、調和をとるくふうとかは、どこまでいっても、これでよいという
ことはないから、修行の道には終りがないのである。ここにまた楽しみがあるわけである。
終りなしが真理であろう。しかし、ときどき自分でわかったとか、つかまえたとか、学び終ったな
どと思いやすいのである。そうして多くの人はそこで止まってしまうのである 。だから宗教では、自
己の無能未熟とかあやまちがあまりにも多いことを常に自覚させるのである。いつも子供のような気
持ちではじめなくてはならないわけである。
私達は 草木や動物から学ばなくてはならないと思う 。 草木は風や嵐にあったとき力をぬいてそれに
逆らわず、相手のなすがままにまかせておき、しかも自分を失わずまた自分をそこなわない。そうし
て平素は、いかなる環境にも負けないように、ひたすら根をはる(実力を充実させる)。これは達人の
境地ではないだろうか。この宇宙の哲学のひとつひとつを絵によって表現するのが画家であると思
﹀フ
私達は何を学ぶにもまず自己流の考えを無にして正しい型に入り、その型の中で正しい方法を体得
するのが自己の開発法であり、物を正しくなすコツにいたる道であると思う 。 これを心眼を聞く(開
眼)というのである 。
身体の働きを正しくし、心をしずめて、永遠の安らかさ(ニルパ I ナ)の中で、自然に出て来た感
じを音にするのが音楽家であり、色にするのが画家であり、文章 にするのが文筆家であり、事業にす
るのが事業家ではないだろうか 。心の成熟には時聞がかかるから、何事も年期を入れなくてはならな
いと思う。焦ら ずに、しかもおこたらずにである 。表現は心身の練磨と、心身と環境の調和によ って
なされるものであるから、自分がどういう状態であるかということが決定点である。
たとえば、花を描くのではない、花を 生 かしている宇宙の心を描くのがほんとうの絵ではあるまい
か。 このことを宇宙の心(神の心)に通ずる、というのであると思う 。 こうなってこそ、ほんとうに
この宇宙に生きているといいうるのではあるまいか 。
物事のコツ(奥義、 真実) に達する道は、上手下手にかかわりなく、それまでそれに対する精神集
中の修練と体験によって把握したものを表現して、その表現を通して反省し(新しい教えを受けて次
芸道とスポーツの奥義に達する道 とヨガ
の段階にすすむ方法を繰り返すことであると思う。だから自他の作品に対する態度は、神に対するが
ごとき心構えであり、坐禅のときのような身構えでなくてはならないと思う。
とにかく、いっさいの煩悩から離脱して、身構え正しく、心しずかに、一物に心をこめて、無心に
事をなすのが 真 実 (コツ)にいたる道ではあるまいか 。 その 意味で、日本の生け花や茶道や武道の発
生およびその発達によって教えられることの多いのを感ずる。これら心をしづめ、心を清める芸道は
生死のまっただなかにたたされている武士達によってつくられたものである。
我にまさる敵軍にかこまれ、もう勝つみこみも、突破できる成算も、相手を防ぐすべもなく、死が
決定的なものとなっても、この終極の動乱の中で、彼等はしずかに、花を生け、茶をたて、あるいは
絵や詩をものにし、または謡を吟じたのである。しかも、これはことさらにこのことを多くの人に見
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せるためにとなしたのではない 。 心身修練の結果、解放されている生命が自然にそれをなさしめたも
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のである 。私はこのことを知 ったとき、コツは最高の緊張の極における、最高の放下の状態において
っかまえ得るものであることを知 った。
スポーツや武道もそうではあるまいか 。 いっさいを放下しており、しかも極度の緊張をしていると
き、その最上法が表現できるのであると思う。放下が無心であり、極度の緊張が統一である 。
ひとつひとつの景色は、それぞれ独特の心の感じを与えるものだが、本物と同 一の感じを与える絵
のみがほんとうの絵であろうと思う 。 だから、自分が 書 くのではなく、相手(景色)に 書 かせなくて
はならないわけである 。 このためには、自己を無にして相手にさずけることが必要である 。 この形容
はちょっと抽象的であるが、ひとつひとつのものを畏敬し、たいせつにし、それを愛することである 。
そうすれば相手が教えてくれ、自分にかわ って描いてくれるのである 。
(昭和初年日月頃の著作)
ヨガについて
生命の力の完全な発揮
ヨガは書くべきものではないし、書けるものでもない。ヨガはインドで約五千年の歴史をもってい
て、体験にもとづいて、こうすればこうなるという事実だけを集め、これを体系化したものである。
それを学開化したのは四千年くらい昔である。これは、書物とはいいがたいが、解説書のようなもの
ができたのが、 二千 二1 三百年くらい昔パタンジャリという人が書いたヨガ ・スlトラというのがそ
れで、五千年の歴史の中に本らしいものはそれ一冊があるだけである。
ヨガは何を問題にしているかというと、どのような生き方が、生命の力を最も完全に発揮できるか
について、研究しているのであり、どのような心構え、身構えが生命の働きを最も完全なものになら
しめるか、その知恵を体験にもとづいて集めたものである。
ヨガの行者達は、人聞はどうして生きているのか、どうすればよりよく生きていけるのか、なぜよ
りよく生きていけないのか、どうして苦しむのか、どうして病気が起こるのか、どうすればそれから
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脱却できるのか、 それを頭でなく、身体を通して考えたのである 。 これがヨガの特色である 。
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私の体験
私は 二十 二年間病気 で苦しみ、それから脱却するためにあらゆる治療法、健康法を求めて歩いたの
だが、 圏内では飽きたらず、ア ジ ア、アフリカ、ヨーロ ッ
パ と世界各国 をまわる縁を 与えられ、どこ
かに私の問題を解決してくれるものがないかというので、うろつきまわってみた 。 そして最後にヨガ
に到達した 。
だいぶ前から私はヨガを知 っていたが、私も現代人であるから、その悪弊として、頭で 考 えていて
身体で考えることはしなかった 。 おおよそ 真 理は頭で考えたら解るものだ、聞けば解るものだ、読書
すれば解ると考えていた 。 私はヨガを知っていたのであるが、 実行しなか ったのである 。 したが って
、
ヨガを知 っていても、私の心身の中には効果はあらわれず、 二十 二年間というものは病み通しであ っ
た
私は何が自分を救済するものであるかを知らなかったものだから、私は病気をなおすために、物理
療法がよいといわれればそれを、化学療法がよいといわれればそれをやり、精神療法も、 信仰も解ら
ないなりにやってみた 。 あれも効かない、これも効かないと自分勝手な理由をつけていたわけである 。
どんな治療法も決め手をも っていなか った。 それがヨガに縁があって、身体を通して考えることを、
はじめて実行してみた 。 二十五年間苦しんだ病は八カ月で解消したが、心はそうは簡単に方向転換し
なかった。しかし、 いつの間にか、自然に転換して、今では百八十度転換したのではないかと思って
いる 。
私は小さい噴は非常に甘やかされて育ったので、わがままだった 。 形容のできないくらい非常に興
奮していた 。 自分の短所というものが、道を求めさせてくれるものであるが、私の場合もその例にも
れず、こうした自分の短所から脱却する方法はないかというので、いろいろの宗教の門をたたいたの
である 。これが縁で信仰と称するものに、あれこれとご縁がいただけたのである 。
模索しながら
信伸の面では、 最初に入ったのはマホメット教であった 。 仏教やキリ スト教は日本でよく見ていた
ものだから、それは気にいらず、マホメ γト教には何か特別なものがあるのではないか、私を方向転
換させてくれるものがあるのではないかと思っていた。そして、アラビヤへ行ったとき、マホメット
教徒になり、マホメット教の教えを受けて勉強した 。
ヨガに つ いて
人間の物の考え方、受けとり方はその人間の成長程度により、勝手な判断を下すのであるから、い
いとか、悪いとかいえないが、やはりマホメット教もだめだと思った 。 それから日本へ帰って、禅宗
の修業をした。しかし、どうもピンとこなかったので、つぎには浄土宗の修行をしたが、これにも飽
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き足らず、日蓮宗 の門をたたいて日本山妙法寺に入り、わけは解らなか ったがとにかくやってみた 。
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また改宗 してカソリックの方に入り修道院に強引に入れてもら ったりして求道生活を繰り返したが、
とどのつまり、私は自分の求め方がまちが っているということを知 ったのである 。
調和と感謝の実行へ
私は 宗 教というものが、お寺にあったり、教会にあると思っていたが、実際に入 ってみてわか った
ことは、宗教とは愛を実行すること、正しいことを 実 行するということであった 。 つまり、調和、感
謝を 実行することだと 気 がつき、本を読むことをやめて、も っている本を全部焼いたり、人にや った
り、かた づけてしまって、托鉢生活をや って縁に触れるところで、何でも手当 たり次第に奉仕生活を
やってみた 。その延長として、インドへ行き(これはユネスコの招待であったが)、私は実行、実行ま
た実 行の 生活をつづけてみて、やっとヨガというものが何であるかを知 った。次第に身につき、いつ
のまにか心 の方向も、身体の方向も転換して、そして 今 日では 日がたてばたつほどだんだん元気にな
、 若 返 っていく 。 先 月豊島公会堂で講演会をしたときに、私は大 学 時 代 の 友 人 に 二十 五 年 ぶ り に
り
会ったが、友人は﹁私はもうじいさんだが、君は 二十歳代の青年のようだ ﹂と驚いていた 。 私も同じ
人間である 。それが今い ったようにとにかく、だんだんそうなってくるのである 。 このように、この
事 実 のなかにヨガというものの良さがあるのだと思う。
ヨガで修練した結果
先日、国際文化画報の人達と会ったが、彼等は私のスタミナにびっくりしていた 。私の食事は玄米
食であるが、一日五勺(一合の半分)も食べない。一合炊いたら母親と食べて 二日ある 。今日も母親
が米がなくならなくて困るとい っていた 。 まず食費は母親と 二人で、一月千五百円か 二千円あればよ
い。それでいて、私は体重十八貫(約六十七キログラム)を下らない 。昨年K Rテレビに出演したと
きに、十八貫のものを小指で上げた 。相撲とりほどの力はないが自分でびっくりするくらいとにかく
力がある 。 私はそれでいて、 三時間、長くても五時間くらいしか眠らない 。昨年十月に 二十 三日間の
断食をしながら、全国を飛び歩いた 。普通の人は断食をすれば寝るものだと思っている 。 私は断食を
したら、どれだけ自分の身体がもつのか、身体はどれだけ痩せるのか、断食しているのと、していな
いのと、身体にどのような差がでるのかということを身をもって体験してみたかったのである。それ
で歩きまわったのだが、このとおり現在でも元気である 。 これが当り前なのである。
ただ、生命の働きは適応性の働きであるから、最初からそんなふうではなかった 。 いつの間にかそ
ヨガについて
うなってしまったのである 。 人はみなよく私をスーパーマンだという。 それはとにかくとして、私は
疲れるという 言葉を知らない 。私は 二時前に眠ったことがない、遅ければ 三時である。朝は五時か六
時に起きて 二里(八キロメートル)走る 。 だから、玄米は五勺でも、おかずをたくさんたべるのでは
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ないかと思われるかもしれないが、けっしてそうではないし、ましてや肉と魚は食べない 。私は毎日
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その辺りに生えている野草を食べている 。私が住んでいる大塚で、区画整理をはじめたので草がなく
なってしまい毎日のおかずに困っている 。
適者生存が地上の法則
生命の働きは適応性の働きである 。 地球上に生物があらわれて約七千万年くらい、人間の祖先らし
いものがあらわれたのは五百万年くらい前であり、人間の祖先と猿が別れて 百万年くら い、それから
だんだん人聞が動物の世界を脱却して、まだ 二万年くらいしかたっていない 。生物がどうして生まれ
たか、生命がどうして生じたかは解らない 。しかし、地球上に生物があらわれてから今日まで、地球
環境に適したもの だ けが生きることを許されているのである 。 その種類は 二百万ともいわれ、人聞は
そのなかのひとつである 。適者生存の法則がこの地上の法則である 。 適応性のあるものだけが、生存
を許されるのである 。
生命の働きは適応性の働きであって、どのように訓練し、どのような生活をするかによって、それ
に応じた傾向ができてしまう。 それがこの身体の中に自己 自身 の生命の働きとして、働きを行じてい
る。 そしてそれが正しい方向に働いていれば、常時健康体を保 っていられるし、まちがった方向に走
る場合は不健康となってあらわれてくる 。多くの人が健康体と不健康体は対立しているように思って
いるがそれはまちがっている 。
自分の救い手は自分である
自分自身というもののひとつの生命を健康な方向に導けば健康に、不健康な方向に導けば不健康に、
幸福の方向に導けば幸福を作りだし、不幸の方向に導けば不幸を作りだす。これらはひとつのもので
あり、別のものではない 。 ひとつの生命力が生かす働きをすると同時に、死なす働きもするのである。
生きている働き、生かす働きがどういう状態であるかが問題になる。
私は私の救い手がどこかにあると思った、この難病をなおしてくれるものがどこかにあると思 った
、
だから求め歩いた 。 これを迷信という、自己以外に自己の問題を解決するものがあると思っている聞
はこれを迷信という 。 しかし、私はこれを正信と思った 。 どの薬を塗ればいいんだ、どういう手当て
をすればいいんだ、どの信仰が、どの神が、どの教えが私を救ってくれるのかと思って求めて歩いた。
ところが私がヨガで知らされたことは、生きている働き、生かしている働きがすべてのすべてなんだ、
私は自分の力でこうして生きている 。 この私の中で生かしている働きがすべての問題の解決の鍵なん
ヨガについて
だ。 それを私は知らなかったので、その方法がどこか他にあると思って求めて歩いた 。 いくら求めて
もだめであ った。結局すべてのことは生活の反映であるということを知 った。
生きていることは刺激に対して自己を防衛しようとして反応している姿、物理的刺激、化学的刺激、
0
21
細菌的刺激という内外の刺激に対して反応して、それに適応性を保とうという活動をたえまなく繰り
0
22
返している姿である 。 これが生きている姿なのだ 。だから、この働きが完全ならば健康、この働きが
不完全ならば不健康というものがあらわれてくるのである 。なぜ、自己自身の働きが不完全であり、
何がそうさせているのか、どうすれば本来の姿に帰ることができるのか。もともと人間本来の姿は完
全 である 。適者生存の法則にかなったもの、適応性のすべてをもったものが生きていることを許され
ているのである 。健康なのがあたりまえであり、不健康なのがおかしい 。 あり得べからざる姿なので
ある 。 そういう理屈が哲学的にわかっていても 、 このように生理的に、解剖学的に異常が起こってい
るのはどういうわけであるのか、このように心理的に悩むのはどういうわけであるのか。何がそうさ
せているのかということが問題である 。 ヨガはそれと取り組んでいる 。
生命の働きをじゃましているもの
生命の働きのじゃまをしているのは何であるか、生命の働きにブレーキをかけているのは何である
かをヨガの先輩達は問題として研究してきた 。 そして知ったことは﹁業﹂ということである 。業のこ
とをカルマという。この業がまちがった方向に進もうとしたとき、つまりそのような業を自分自身の
中で作り出している場合、この業のさわりが作り出すものを消すことが必要なのである 。 これをアカ
ルマという。生命が何物にもじゃまされず、自由に働きを行じていることを解脱、悟り、 サマージと
名づけている。私達は自業自得である 。自 己自身の中からでて来た問題はすべて自己自身の責任であ
る。 しかし、それだけでは解決できない。いったい業とは何か、どうして業というものができるのか。
業を消すにはどうしたらよいのか、業を作らない生活はどうしたらできるのかを知らなければならな
い。私達の身体の働きの中には条件反射というものがある 。それはどういう条件を加えるかによって
左右される。そうして、意識しなくてもその通りに反応するようになる。習慣というのは条件反射で
ある 。ところが私達の生活を 左右するのは習慣だけではない。
業の中には先天的な業と後天的な業がある。先天的な業のことを遺伝といい、後天的な業のことを
習慣という。私達は遺伝プラス習慣によって方向づけられた気質、体質というものをもった個性であ
る。いっさいの肉体上、心理上に起こってくる問題の根元は気質体質の中に存在する。ほんとうに解
決する、ほんとうに救われるというのは気質、体質の中にあるじゃま物を除いてしまうことである 。
それがほんとうになおることであり、救われることなのである。ヨガはこれを教えている 。
生命現象││異なるふたつの力のあらわれ
ヨガについて
それではどうしてそうした邪魔をする物が自分の中にできてくるのか 。まず第一 番に私達が知らな
ければならないことはこの宇宙の中には異なったふたつの力、これを求心力と遠心力、収縮力と膨張
力、陰と陽、平衡力と平衡破壊の力といってもよいだろう。とにかくこの異なったふたつの力が括抗
0
23
しあって、 そうしてふたつの力が中和したところに現象というものが起こってくる 。 これが自然現象
0
24
である 。
これと同 一の力が私達の身体の中にも生命の力として働いている 。二 力の括抗調和が私達の生命現
象である 。生命の働きを最上にあらわす た めに は
、 何が必要かというと 、生命の働きはバランスをと
る働きであるがゆえに私達の生活そのもののバランスがとれていることが必要である 。生活がアンバ
ランスであると私達の生命の働きは適応性の働きであるがゆえに、アンバランスの働きを行ずること
にな ってしまうのである 。
いつのまにかまちがいをまちがいと知らないで行ずる聞に、身についた働きによ って自分自身をそ
こねてしまう 。 しかもこれは無意識である 。考えてわかるものは方向転換できるが、身についたもの
すなわち無意識化したものは頭で解ってもだめである 。身についたものは 、身体にわからせて方向転
換するよりほかに方法はないのである 。
バランスとコントロールの法
だからヨガは行法という身体にわからせる方法に 主眼をおいているのである 。 ヨガは本を読んだだ
けではわからない 。 ヨガではどういうふうな 生活をすることがバランスのとれた仕方であるか、さら
にどういう方法をとることが無意識についたものを除去する方法であるかを体系、、つけている 。 それを
解剖学的、生理学的、心理学的に説いているのである。ヨガでは八つの段階を設けている 。 心理学的
なコントロールの方法をヤマ、ニヤマという。解剖学的なコントロールの方法をアサンスという。そ
うしてこの中に体操法と体位法がある。つぎに生理学的に説いているのをプラナヤマという。そして
ここで食事の問題と呼吸法の問題を説いている 。 こ れ ま で を ハ タ ヨ ガ ま た は ク リ ヤ ヨ ガ と い う 。
心理学的、生理学的、解剖学的なコントロールができるようになれば、つぎはどこを目標にするか
と い う と 、 間 脳 と 大 脳 で あ る 。 間 脳 の コ ン ト ロ ー ル 法 を プ ラ テ ィ ヤ ハ ラ と い う 。 大脳のコントロール
法 に は ふ た つ あ る 。 ひ と つ は ダ ラ l ナ で あ り 、 他 は デ ィ ヤ l ナ で あ る 。 ダ ラ l ナ は 統 一法 で あ る 。
ディヤ l ナとは放下法である 。全 放下である 。大脳を最も完全に働かすには最高度の興奮と反対の抑
制の力を最も完全に働かせて統一することである 。 そして私達の生きている働きをコントロールする
中枢はどこかというとこれは間脳である。間脳の働きに注目しだしたのはごく最近であるが、それを
ヨガの先輩は五千年前に気づいていたのである 。 こ の 間 脳 の こ と を ア ラ ヤ と い う 。 大 脳 か ら の も の を
意識、マビジュナ l ナと いう 。間脳からのものをアラヤビジュナ l ナという 。 こ れ は 仏 教 の 方 で は
﹁あらやしき(阿頼耶識)﹂または略して﹁あらや ﹂といっている 。 この間脳をコントロールし、大脳
ヨガについて
をコントロールした後に完全なる生命の働きを行ずることができ、すべてのものと完全に調和できる。
そして、自他の差別がなくなって、宇宙とそのまま 一緒になって生きている姿、これをサマージの境
地、法悦の境地といっている。
それならばヨガは何を目的にして、それをどのように行じているのだろうか 。 と に か く 宇 宙 は 、 私
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達は相互扶助の法則によって生きている。とにかく私達は奉仕しあわなければならない、助けあわな
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ければならない、これが生きている姿である。私達は生きている働きを完全になして他に奉仕しなけ
ればならない。これがカルマヨガである。ヨガの目的はカルマヨガである。他に奉仕できる、他に協
力できる、自他共に喜びの世界にはいることを目的にしている。だから、この道を求めるものは、自
己自身だけの健康だとか救済法とかを問題にしている人たちはヨガには縁が遠いのである。
ヨガは生活の科学である
今まで述べたようにヨガはあらゆる生物、特に人間の共通の問題と取り組んでいるのである。呼吸
しない人はいない、食事しない人もいない、考えない人もいない、動かない人もいない。生活しない
人もいない。これらは皆がもっていながら気づかずにいるものである。それと取り組んでこういうふ
うな呼吸の仕方をする、このような食事の仕方をする、このような考え方、このような生活の仕方を
することが一番よいことだ、ということを体験にもとづいて集めたものである。ヨガということばの
語源はユジである。ユジとは調和する、結ぶ、握手する、統一する、仲良くするという意味である。
ヨガは宗教ではない。生活の科学である。空理空論ではない。こうすればこうなる。こうするからそ
うなったんだ。こうすればよいのだ、こうしてはいけないのだという事実を集めたものである。私は
はじめから食事が少なくてすんだのではない、訓練によって私の身体を慣れさせているうちにいつの
聞にかそうなってしまった。
生命の働きは適応性の働きであるから厚着をしていると厚着をしなければならないようになるし、
薄着をすれば脂肪がついてそれでよいようになる 。大飯を食うと大飯を食べなくては間に合わないよ
うな身体になってしまう。栄養だ、栄養だといっていると、それでなくては間に合わないような内臓
になってくる。少し食べていると少しでも完全に栄養を吸収しようとする内臓ができてくる 。人間の
身体は正しく使えば健康になる 。 まちがって使えば不健康になる 。 使わずにいれば体腔性萎縮で弱く
なる 。 これが生命の働きの 事実である 。自分自身を、自分自身の心の働きを、身体の働きをどういう
方向に使っているかということに、自分の運命を作り上げていくところのものがあることを説いてい
るのであり、これがヨガの行法である。
(昭和お年5月頃の著作)
ヨガに ついて
0
27
マホメ
自然の中での修行
Y
ト教修行当時
沖聖師は常に神とは何かをたいせつにされた
2
08
ノイローゼはヨガ行法で全治する
ノイローゼとは何か
現代はノイローゼの世の中とさえいわれているが、このノイローゼというのはどういう状態なので
あろうか。
生きているというのは、環境に適応できる能力をもっているということで、苦しみというのは環境
に適応できにくいときに感ずる異常感である 。 こ の 地 上 に 生 存 を 許 さ れ る 者 は 適 者 生 存 の 法 則 に か
なったものだけが生き残っているというのが事実である 。 しかし我々のまわりには各種各様の異なっ
た環境が存在しているから、生きるためには様々に異な った環境に接していかなければならない 。同
、 異なっ た環境にはすぐに適応できにくいのである 。この異 な った環
一環境で身につけた適応能力 は
境に身を投じたとき、その新環境に今までの能力では適応できないために、適応できるための新しい
生命運動が展開してくるわけであり、このときに感ずるのが苦しみ(異常感)である。そうして、そ
の苦しみをのりこえることによって、新しい環境に対する適応能力が身につくと同時に、その苦しい
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感じから脱却できるわけで、我々の日々の生活はこの連続である。
1
20
このために我々はよく人生そのものを苦といい、﹁生きることは苦しみだ ﹂と口にする 。これが人生
を生きぬく我々の真実の姿である 。 しかしこの苦しみは悪いものではない 。 この苦しみによって次々
と新しい適応性を身につけていけるのであり、これが進化なのである。人聞は積極的に新環境への適
応性を身につけたがために進化したのである 。苦しみを悪いものと思うがために 人生を嘆かなければ
ならないのである 。 迷いとは適応できずにもがいている姿であり、悟りとは広く適応性を身につけて
いる姿である 。
ところが個性(気質、体質、遺伝、族、習慣)の違いによって新しい適応性を身につけることがで
きないで、いつまでも苦しみをつづけている人がいる 。 これをノイローゼ症状というのである 。
苦 しみというのは、心と身体の混乱状態で、心の混乱というのは、大脳の興奮中枢と 抑制中枢の混
乱している状態である 。 この大脳の混乱が間脳を誘導して、生理的異常をつくり出し、ここに心身の
異常混乱があらわれるわけで、この混乱が慢性化したり、 条件反射化している状態を ノイロ ーゼとい
うのである。この観点から見るとき、程度に軽重の差はあるけれども、現代人の多くはノイローゼ的
であるといいうるのではなかろうか 。 ノイローゼ的になってしまうと自分で自分がどうにもならなく
なる 。 自分でやめようとか、おさえようとか、気にかけまいとか、そんな気を起こすまいとかなどと
思っても、それができなくなってしまうのである 。 たとえば、落ち 着こうと思っても落ち着けない。
気にかけまいと思っても気にかかる 。 そんなはずはないと思っても、心臓がドキドキしたり、頭がぼ
んやりしたり、眠れなくなったりする 。 それどころか、そうしたい、そうしたくないと思えば思うほ
ど、その状態がひどくなるのがノイローゼ症状である 。 不安な感情になりたくないという要求がさら
に不安を生み、求めるべきでないと思う抑制心が、さらにその要求心を強め 、 なになにしたいという
心が、かえってそれをじゃまするものとかわり、ふたつの矛盾した 要求心の間で、どうにもならない
混乱状態になってしま って、精神的にも肉体的にも異常がつづくわけである 。 この異常というのは過
度の緊張である 。 この過度の緊張がつづき、それが身について習慣化したとき、 ノイローゼとしての
各種症状を引きおこしてくるわけである 。
ノイローゼ症状が身体に与える影響
ノイロ ーゼはヨガ行法で全治 す る
ノイローゼというのは、環境の変化のショックに適応できない心の混乱が原因とな って身体の働き
に異常が起こり、それがつづいている状態である 。 正常者がほとんどいないのが人聞社会の事実であ
ることを知るとき、我々のほとんどがノイロ ーゼ だ と い え る か も し れ な い 。 器 官 そ の も の に は 異 常
(器質的障害 )がないのに、また病原菌のせいでもないのに、その働きの 異常(機能的障害)を起こ
している人がまことに数多くいる 。 これは心理的な緊張がつづくことによって、自律神経系や分泌腺
系に興奮と抑制の混乱がつづけて起こったために元にもどらなくな ったもので、さらにそれがつづく
と、ついには器質的変化をも起こすにいたるのである 。
1
21
いろいろな心労や精神的緊張がつづくと呼吸が苦しくなったり、胃液の酸度が強くなり、血圧が上
1
22
がり、血管の緊張が起こり、内臓粘膜の充血が起こったりする 。普通の場合には、こういう変化は、
緊張がとけるとともに元にもどるものであり、我々の毎日の生活はこういう生理的反応の繰り返しで
ある 。 しかし、あまり緊張が長くつづくと、元にもどる力を失うだけでなく、逆にそれが習慣化(身
につく)さえするのである 。
つぎに心理的な異常(悩み、苦しみ)から併発しやすい身体の病気を参考のために列記してみる。
消 化 器 系 潰 虜 、 下 垂 、 消 化 不良、便秘、下痢、大腸炎、胆嚢病、痔疾
循環器系高血圧、無力症、狭心症、
呼 吸 器 系 瑞 息 、 気管支炎、偏桃腺炎
泌 尿 器 系 夜 尿 症 、 躍 ケ イ レ ン 、 月 経 不 順 、 コ シ ケ 、 子宮筋腫、血尿、前立腺肥大
運動器系脊椎湾曲、関節炎、座骨神経痛
内分泌系統 バセド ー病、甲状腹機能充進、糖尿病、肥満症、粘液水腫
神経関係偏頭病、てんかん、ふるえ
皮膚関係 庫疹、湿疹、ジンマ疹
ノイローゼ症状の種々相
現代人のほとんどの病気が、心の異常が身体の病にばけたものといっても過言ではないだろう。信
仰その他の心理転換でなおり得る病気の全部がこれに属しているといえる 。 しかし、ほとんどの人は、
この心身のカラクリを知らないのである 。
心の混乱と身体の混乱がひとつになってつづいているものは、みなノイローゼ症状といえるかもし
れないが、それではわかりにくいから狭義の、いわゆるノイローゼを考えてみよう 。
ノイローゼは大別して ヒステリー症状、神経衰弱症状、そううつ症状、不安症状、妄想症状など
のように分類できると思う。
ノイローゼはヨガ行法で全治する
我々の毎日の生活を静かに顧みるとき、いつもなにかの要求と不満とを感じている 。深く考えるほ
ど不安は多い 。 この不安が予防的な役割をなして、自分を守 っているのだ 。 しかし我々はぜんぜんそ
の心の流れには気づかないで生きている。しかしなにかのチャンスに、それに﹁とらわれ﹂たときに、
そしてその不安が強く心の底にのこっているときには、その不安は消えそうにも消えさらない場合が
多い 。ましてや環境をかえることがむずかしい場合や、長年の慢性病などの場合には、その不安やこ
だわりが、条件反射的に身についてしまう。そして、心身両面に異常が生じて、身動きができなくな
る。 これがノイローゼである 。 ノイローゼをさらに理解するために、主な症状について説明してみよ
1
23
4
う
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2
不安症状 この不安症状の人は、現実にそぐわず、理屈にあわないような不安をもちつづけている
のであって、この不安の対象がなんであるかによってその人の症状のあらわれ方は異なるのである。
たとえば、死の不安、発狂の不安、乗り物への不安、他人との付きあいの不安、性欲に対する不安な
どで 、 現代病の中で一番多いのがこの不安症である。
神経衰弱症状 この症状の主なものは疲労感克進や、不眠症や、疾病恐怖症などである 。これらの
症状は日常においてだれにでもときどき起こりうるものであるが、この症状の人は、普通の人より特
にこれらが気になり、それに対する不安や恐怖の繰り返しからほんものになってしまうのである 。
ヒステリー症状 この症状の人は心の要求や身体の要求(たとえば性欲﹀を身体の上におきかえる
のであって、病気をその逃げ場としているのである 。彼らは心の欲求のかたちをかえて、それを身体
や器官の上で表現しているのである 。病気になるのが利益であるとの無意識的要求の表現であると思
えばよい。しかし偽病とはちがうのである 。
恐怖症 この症状の人は、その考え方や感じ方がまちがっているということを自覚しているのに、
それがうまく抑制できないために、そのための不安がつよくなり、この不安を克服しようとして正反
対の行動をとったりするのである。恐怖の対象となるものは数多い。たとえば、高所、尖端、各種動
物、人問、パイ菌、食物、電気、赤面、異性、結婚、疾病など。
この症状の人は、不安に思うまいと思ってますます不安になり、 ついにはそれができないための恐
怖心を抱くにいたるのである 。
憂 う つ 症 こ の 症状の人はなにごとも悲観的に考えてしまい、そのための劣等感や、失望感や、罪
悪感から人に会ったり、発言したりすることをきらい、不安不愉快のための落ち着かない生き方をし
ているのである。
ゼはヨガ行法で全治する
妄 想 症 こ の 症 状 の 人 は 、 自己に対する関心が強く、自己の欲求を強く固執する。そしてその欲求
がかなえられないときには他を曲解した 言動をとるのである 。
ノイローゼの原因
ノイロ
ノイローゼの原因は心の混乱からというたったひとつのものである。 し か し そ の あ ら わ れ 方 ( 症
状)にいろいろな型があるのはなぜであろうか。
215
それはそれを作り出すものがその人の人となり(気質、体質、張、習慣、体験のひとつになったも
1
26
の)のちがいによるものだからである。すなわちその人はそうなりゃすい傾向(たち)をもっている
のである。
その﹁たち ﹂はどうしてできあがるものであろうか。﹁たち﹂は生まれつき(遺伝)と幼児からのし
つけと、その人の習慣と生活環境の違いによって、いつのまにか身についた適応の技術で、これを人
格とか個性というのである。
苦しみを克服するためには、その環境や問題に耐えていく心構えが必要である。しかし甘やかされ
て育ったもの、わがままに育ったものにはそれができにくいのである。彼らはちょっとした変化にも
圧迫苦を感ずるのである。これがノイローゼの 一素因となっているわけだ。ノイローゼになりやすい
共通的な性格、性質には、内向性で自己意識が強い、完全欲が強い、意志が弱い、依頼心が強い、気
にしやすい、感情が過敏である、感情の起伏が激しい、執着心が強い、孤高的で非社交的である、自
信欠乏、熱狂しやすい、負けず嫌い、爆発的である、暗示にかかりゃすいなどがある。
それでは、このような性格になりやすい人の﹁人がら﹂を見てみよう
なりやすい人がら
われわれの毎日の生活は、いろいろな欲求を満足させられないための不満の繰り返しで、がまんし
なければならないことの連続である。しかし普通の人はこの不満に対して一時的に立腹したり、イラ
イラしたり眠れなかったり、食事が食べられなかったり、寝たり、忘れたり、このもつれをどうにか
こうにか処理しているのである。しかしこの処理の仕方や、苦しみの感じ方が人によってそれぞれ違
うのである。
ノイローゼ的というのは、適応のための技術が身についていないために、ちょっとした欲求不満に
も耐えられない人がらなのである 。
この人がらは体型、体質および気質としてあらわれてきている 。 こう考えてみると、そうなるのは
避けられないことではないかとも考えられるが、しかし気質、体質は方向転換できるものである 。 こ
の方向転換の努力を修行という。すなわち性格を変えるということがなおることであり、救われる福
音である。
これを理解しやすくするために﹁生きていることと欲求発生のカラクリ﹂を考えてみよう 。 生きて
ノイローゼはヨガ行法で全治する
いるということは、エネルギーの吸収排継の変換運動を繰り返していることである 。 このエネルギー
の吸収排世がバランスよく繰り返されているのなら問題ないが、吸収されたエネルギー、つまり生存
エネルギーが排世されずに余分のエネルギーとして内在するとき、このエネルギーが欲求力と変わり
これが意欲の原動力ともなるのである 。
人間は他の動物にくらべて、過剰にこの余剰エネルギーを潜在させている(食物を多く摂取するわ
りにエネルギー消費量 の少ないのが原因)、この余剰の潜在エネルギーが意欲とか、知恵となって、人
7
類はこのように進化し文明を築いてきたのであるが、 一方この余剰エネルギーが動物にはない悩みや
1
2
病気を作り出すもととなったのである 。
1
28
天分の違いというのはこのエネルギーの使用法の素質的なちがいである 。 人柄 (気質、体質﹀のち
がいによ って、そのエネルギーの使用方向はちがう。 このエネル 、
ギーを 自由に使用できているときに
我々は喜びを感じ、満足を感ずるのであるが、なにかの抑圧で自由にエネルギーを使用できないとき
に、不満を感ずるとともにそれが心理的および 生理的な 異常を引き起こす原因にもな っているのであ
る。
思うということはエネルギーが発生していることであり、これが行動への力とな っている 。 しかし
この﹁思い ﹂を抑 圧 によ って表現させることができないときには、その発生 エネルギーは体内に残さ
れるわけである 。 この残されたエネルギーは、なんらかの方法で使用発散しなくてはならないわけで、
それを無意識に出しやすい方向に使用しているのが、われわれの日常生活である 。その出しやすい方
向のちがいがその人、その人の性格、性質のちがいとしてあらわれる 。
エネルギーはおさえつければつけるほど、強くなるものである 。そしてその人の 素質により出しや
すい方向に出すわけである 。 たとえば会社での不満を家で八つ 当りとして出す人がいる 。 また、感情
主 として立腹)として出す人がいる 。 食欲の方に出す人がいる 。 やたらに食べているのをみたら、
(
なにかの不満か 焦りがかくれていると思わなければならない 。 また、エネルギーを仕事 の方に出す人
が大事業をなすのである 。 思考や文筆の方に出す人もいる 。
我々は無風状態のときにはかえ ってなにごともできず、なにか心にわだかまりのあるときの方がか
えってできることがあるのはこのためである。このおさえつけられたエネルギーを上手によい方向に
使うのが修養である。しかし多くの人はこの抑圧エネルギーを無意識に誤った方向に使いやすい。そ
のあらわれが精神錯乱であり、疾病である。しかもこの抑圧エネルギーはその抑圧度が高まるほど、
その爆発力が強くなる。そのあらわれが突飛な行動である。また感情も異常に過敏になり、なんでも
ないことに立腹したり、心配したり、気にかけたりするのである。我々はそうしようと思って、そう
しているのではない。 ついそうしてしまうのである。そうさせてしまうのが、なんであるかを知らな
くてはならない。この表現の仕方は人によってちがう。 しかし多くの人の中には共通の型があるので、
その観点から考えてみよう。
神経質型
ノイローゼはヨガ行法で全治する
この型の人はちょっとした刺激にあってもすぐに緊張してしまう。なにごとでも人 一倍気にして、
誰にでもまたいつでもおこるような何んでもないこと(たとえば頭痛や不眠や疲労)を否定しようと
して焦ったりする。この型の人が神経衰弱になりやすい。この型の者は人一倍欲求する心が強いもの
である。
不安型
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この型の人はちょっとしたことでも好き嫌いが激しく、 些細なことにもこだわりやすい。これは両
1
2
親の過度の保護によったためのものが多い。この種の人は、自分でもなにを不安に感じているかさえ
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わからないものに不安を感じており、またなぜかわからない不安にいつも追いかけられているように
思っている 。その例が一般人には考えられないような﹁死の不安﹂などである。この発作に際して、
普通の恐怖のときに起こるのと同じような生理症状があらわれてくるのである。
たとえば、動停、目まい、吐き気、息苦しき、冷汗、頻尿など。不安とともにこういう身体の症状
が繰り返されると、それが身について、今度は身体の方の異常から死をおそれはじめるわけである。
ヒステリー型
この型の人は自分を過大評価しており、自分をえらいと思いやすく、その自分に、他人の関心が向
くことおよび他人が自分を価値、、つけてくれることを強く求める 。またこの型の人は、人前をたいへん
に気にし、負けず嫌いで、派手好みで、勝気で、自己中心的で、空想にふけりゃすく、暗示にかかり
ゃすく、芝居じみた 言 行をとったりする。
この性格の人は見栄や競争意識が強いために負けたり、要求が通らなかったりすると不満や不安に
おちいるのである。
恐怖型
この型の人は自信が欠けている。なにをするにもためらいがちであり、 なにをしても不完全な感じ
がつきまとうために ついには劣等感におちいってしまうのである 。 この型の人は、度のすぎた潔癖
さや計画性をもっており、ちょっとちがっても、たちまち不安になってしまうのである。この型の人
は、安全感や確実性を求める心が人一倍強いのである 。 そ う し て ち ょ っ と し た こ と に も 強 い シ ョ ッ ク
を受け、このとき内心の緊張が発散できないのである 。 し か も 自 分 を 責 め る 傾 向 が 非 常 に 強 い た め に
劣等感や失望感で苦しみゃすい。
妄想型
この型の人は人 一倍自信が強く、 いつまでも自分の考えを国執して いくら訂正されても その誤
りを改めようとしない 。
非常に 主観的で、つねに相手を責めては、緊張をつ守つけているのである。この型の人には、狂信者
ノイロ ーゼ は ヨ ガ 行 法 で全 治する
や、頑固者、独善的正義漢、殉教者、何々 主義者が多い 。
憂うつ型
この型の人はなにごとも悲観的に考え、 いつも過去を後悔し、将来を恐れ、すぐ自分を責めて、自
分をだめだと思ってしまう 。
この他、悲哀型、 不満型、執着型、縁起型、神罰型というようにいろいろの型があるが、普通には
2
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各型の混合型が多いのである 。とにかくノイロ ーゼ型といわれるものは、日常生活における行動が 一
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方的にかたよっていて、柔軟性のない、未成熟な傾向をもっており、ちょっとした心の重荷にも耐え
る力が弱いため、心を乱してしまい、そのために起こる異常緊張で苦しむのである 。
ここにおいて知り得たことは、ノイローゼの原因はその人の﹁そうなりゃすい人がら ﹂ にあるとい
う事 実 である 。我々はこの﹁人がら ﹂ がどうしてどのようにできあがるのであるか、ということと、
その ﹁人がら ﹂を変えるにはどうしたらよいかを考えなければならない 。
ノイローゼのなおし方
ノイローゼとは心の混乱と身体の異常とが、 ひとつになったものである 。 そのなおし方には心理的
方法と生理的方法の二種類がある 。
心理的なおし方
一 説得によって相手の不安や不満を解消してやる方法 。
催眠術によって、心中にわだかまる意識的無意識的なものを表現させてしまう方法。
精神分析などによ って、その奥にひそんでいる原因を自覚させることによって解放感をあたえ
る方法。
ひょう霊をとると称して、本人の理解できない儀式的方法などを用いて、解放感を与える方法。
現実を肯定させる心を起こさせることによって積極的に環境に適応する努力をさせる方法。
などといろいろあるが、とにかく、自分勝手な束縛感から解放してやればよいのである 。
肉体的なおし方
電気ショック法、持続睡眠法、冬眠法などがあるが、 その目的は大脳皮質の混乱をとりさるた
めである 。
作業方法、集中法(たとえば題目の繰り返し)などがあるが、気持ちの方向をかえることと、
抑圧エネルギーを発散させるのが目的で、宗教団体な ど で多くこの方法を用いている 。
薬物療法としては、トランキライザー(神経抑制剤)がある 。 長期の下剤常用法もある 。
ノイ ローゼは ヨガ 行法 で 全治する
絶食法もあるが、これは大脳偏縁系を刺激することにある 。 大脳偏縁系は情緒中枢であるとと
もに食本能の調節個所である 。絶食はこの情緒中枢の異変からくるノイローゼの治療法になる
のである。
気分転換法、これは比較的簡単 にできる方法である 。どんな方法でもよいから、その抑圧エネ
ルギーを発散させる方法をとればよいのである 。 たとえば、ダ ンス 、唄、踊り、趣味事などで
ある 。
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2
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ヨガ的ノイローゼのなおし方
前述のように、 ノイローゼは、環境に適応できないための心の葛藤とからだの異常がひとつになっ
てあらわれているものである 。私はヨガによるノイローゼからの解放法を述べてみたい 。前段におい
、 異常をつくりだす根本原因は、その人の人がら(気質、体質)にあるとい ったがこれはその通り
て
である 。
接 方 と 習慣 性
その﹁人がら ﹂ は、遺伝と接と習慣と環境の影響とによってつくりあげられたものである 。 それが
その人の気質体質として働いているのである 。その人の上に起こるいろいろな問題の原因がすべて気
質体質にあるということを知らなければならない 。すなわち、人がらはその人の生活ぶりによってで
きあがるもので、その生活ぶりを変えると人がらもまた方向転換するのである 。 気質体質を正しい方
向にむける訓練を修行という。
我々の身体は、自分が自分を脹た通りに、また他人から脹られた通りになるのであるという事実を
自覚しなければならない 。
さて、考えてみよう。 幼児時代の援に細心の注意を払 っている親たちが何人いるであろうか 。
人間の行動の是非をきめる規範性や、秩序への随従性は、子供のときから次第につくられていくも
のである 。 日本の子供ははじめは甘やかされ、成人するに従ってきびしく脹られるが、これはまちが
いである 。甘やかされることが身につくと、ちょっとしたことにも、圧迫を感じ、不満をもち、曲解
しやすい性格になってしまうのである 。 また日本の幼児の育て方は動物的でもある 。 不規則に放任し
て、時聞におかまいなしに寝させたり、食べさせたり、排便させたりしている 。 このだらしなさが身
につくと、秩序生活にいれられたときに、ものすごい不自由性を感ずるのである。
とにかく、援方および教育によって人間性の基礎がつくられていくものであることを銘記していた
だきたい。
つぎはその習慣性である 。 習慣性とは、適応性が条件反射的に固定していることである 。 同一環境
の同一習慣性の中で生きていた人が、他の異なった環境にはいった場合に、適応できにくいための苦
ノイローゼはヨガ行法で全治する
しみを味わうのである。我々は、できるだけ多くの異な った環境に接するとともに、いろいろな体験
を積極的に重ねる努力をすることによって、適応性を拡大するとともに、習慣性の脱皮をすることを
考えなければならない。これが新生である。悟りとは、適応性が高まっている状態である。それは
坐って考えて得られるものではない 。 ﹁いろいろな自にあってみよ﹂とか﹁可愛い子には旅をさせよ﹂
とか﹁他国の飯を食べてこい ﹂ とかいうのはこの意味である。
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心的体的習慣性の方向転換
2
2
艇の 重 要性はわか った。 しかし、誤った援を身につけたまま成人してしま った。そうしてそのため
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に今 ノイローゼで苦しんでいるとする 。 この今の苦しみをどうしたらよいのであろうか 。
その解決には、思いきって心的肉体的習慣性を方向転換する努力をする以外にはない 。 すなわち、
物の考え方、受けとり方、感じ方など(心理状態)と食べ方、働き方、呼吸の仕方など(生理状態)
を変えるのである 。
ノイローゼになる人は、共通した、物の見方、考え方、受けとり方をする 。彼らは非常に 主観的で
我見を固守する 。そればかりを考えている 。 そのことだけを気にする 。 要求心や期待心が強い 。 まか
せる心がない。自分に関心をもたれることを強く望む 。 依頼心が強い 。 利害損得にこだわりやすい 。
勝つことだけを喜ぶ 。 自制心がない 。 空想しやすい。実行力にかけている 。悲観的に物を考える。競
争心、対立心、虚栄心が強い 。自分を偉く見せたがる 。 執着心が強い 。 無知であったりあるいは理解
の仕方が誤 っているなどである 。 これらの心は誰にでもあるが、ノイローゼの人は特に強いのである 。
彼らには、これらの 一方的考え方が身についてしま っているのである 。 この心的習慣性から脱却する
には、その反対の受けとり方、考え方を身につけなければならない。
すなわち、つとめて心をとどめないで忘れるようにするのである。要求や期待にひっかからないの
である 。自己的はからいにこだわることをやめて、まかせきる心になるのである 。他にたよる心をす
てて自立心をもつのである 。逃げずに積極的にぶつかる心になるのである 。 心をとめずに流すのであ
る。抵抗せずにそのまま受ける心になるのである 。妄想せずに正しく理解する努力をするのである 。
むりや不可能を求めないのである。固執をやめて柔軟性をもつのである 。すなわち、自然心、平常心、
無心になる努力をするのである 。
しかし、これらの心をもつことはむずかしい。このことのむずかしさに多くの者が悩み苦しみつづ
けているのである。それならば、この心になる一番容易な道はなんであろうか。それは悟る努力をす
ることである 。倍るということはどういうことであろうか 。 それは、真実的物の見方、受けとり方を
身につけることによって、主観的妄想の束縛から解脱することである。
解脱の方法
﹁自分を束縛していたものは、自分の妄想であり、錯覚であり、曲解であった﹂。これが釈迦の悟り
の第一戸であった。この束縛から解脱しなければならないのである。しかしそのためには、まず第一
ノイローゼはヨガ行法で全治する
に、なにが真実で、なにがまちがいであるかに気づかなければならない 。我々の多くはまちがいをま
ちがいとも思わずに、まちがった生活を繰り返しているのである(これを無明または惑という)。これ
が身についているために、むりなことや不自然なことを無意識に求めたり、考えたりしてしまうので
ある 。
我々の心の中はいつもいろいろな観念が浮かんだり消えたりをしているが、この変化のままに心を
流しておけばよいのだ。この流れる心を自然心とか道とかいうのである。一日をふり返ってみても、
悲喜や不満や不安は絶え間なく生滅している 。 この生滅のままにまかせておけばよいのである。この
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27
流れのままに生きるとき(すなわち思慮分別の世界をこ与えたとき) にのみ自由無碍の世界が展開する
2
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のである。
これをむりに克服しようとしたり、忘れようとしたり、注意を集中したりしてとどめておくために、
その思いがますますはっきりして、心が一方的に傾くとともに、それに追いかけられたり、しばられ
たりすることになってしまうのである 。 たとえば、不安は気にかけずにおけば、自然に消え去るもの
であるのに、それをむりに追いかけたために、最後には忘れることのできないものになってしまうの
である 。 また、不安でありたくないという意識集中が、ますますその不安を強める結果になり、思う
ようにならないという焦りが恐怖症をつくりだしてしまったのである 。 心 は 同 時 に ふ た つ の こ と を 考
えることができない。心の方向をかえるには観点をかえることが必要である。我々は練習したことが
上手になる。気にかけることを繰り返すとその考え方が上手になるとともに、いつの間にかそれが身
について(条件反射化して)ついには意識することなしにその状態が起こるようになってしまうので
ある 。
ノイローゼの成り立ちは、苦しさから逃がれようとしたり、それを忘れようとしたり、それに打ち
かとうとしたり、自分の好むように対象を変えたりしたいと焦るために、ますます深みに入りこんで
しま って、ついには身動きできない状態になってしまうのである 。 ここに必要なことは、この﹁はか
らい心 ﹂ を捨て去ることである 。
はからい心を捨てるということはどうすることであろうか 。それは、そのはからい心を捨てようと
努力することではない 。捨てようと思って捨てられるものではない 。否、捨てようと思えば思うほど
強くなるのが、このはからい心である 。捨 て る と い う こ と は 、 と り の ぞ こ う の 心 も な い こ と で あ る
(これが唯の心)。そのまま受けて、あっても気にならない状態になっでしまうことである。この状態
をそのままの心とか、なりきった状態とかいうのである 。 しかし、捨てきることはまことにむずかし
い。知的理解でできるものではない 。捨てきる以外にはない 。体験をもつのが 一番よい 。 それには、
もがきのどん底に落ちてみることだ 。もがきの極には、教えられなくとも、自分のはからいではどう
にもならないことに気づき、い っさいをまかせ、今のこのままで生きる以外に方法はないという無の
心になるであろう。 このとき、救いが期せずして与えられるのである 。不安 は、はからいの産物であ
る。はからいの消え去ったところに不安はない。不安のないところに、それによって誘導された症状
はないのである 。
ノイロ ーゼはヨガ行法で全治する
不安をそのままうけとって、そのまま、まかせきったときには、不安は不安でなくなる。不安を常
住として生きていく以外にないと覚悟するとき、不安即安心の世界が自然に展開してくるであろう。
だから、我見(はからい)をやめれば、そこに真実の世界があらわれるというのである。我見をやめ
るためには、自分のやりくりがいっさい間に合わないと気づくまで、身を投げ出してもがいてみるこ
とが必要である 。
ノイローゼの人は、 不合理を求め、不合理に注意をむけている 。生 きている人に雑念が起こるのは
当たり前だ 。ときどき生理的異常が生ずるのは当たり前である。しかし彼らは、これがないようにな
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どとむりなことを求める 。 小さいものでも注意を集中すると、その対象は大きくみえてくるのである 。
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彼らはむりに注意をその方にむけて、勉強ができないとか、身体がおかしいなどとさわいでいるので
ある 。それから解脱するにはどうしたらよいか 。それには、その方向に注意 をむけている暇のないほ
ど、他の仕事に熱中するのである 。悟りとは、今に生きる以外にはないと知ることである 。今の生活
体験をはなれて、生命はない 。今の不安や 苦 しみに、そのまま没入し、不安があるなら不安のまま、
ただ前進の努力を繰り返すことが、今を完全に生きることである 。今のこの苦しみがいつまでつづい
てもかまわないの心になるのである 。 このように、そのまますべてを受けるという心に生きるとき、
不安や 苦 しみをも ったままで、それに邪魔されずに生きれるようになるのである(これが日々好日)。
苦悩を仏心神恵と喜べるようになったら、宗教心の極致である 。 し か し ノ イ ロ ー ゼ の 人 は 、 自 分 だ け
が特別に 重荷を背負 っているように思いやすい 。悩める人たちの生きる道は、その悩みをそのまま受
けとって生きる以外に方法はないことを自覚すべきである 。 こ の こ と は 私 に 必 要 な こ と ( 教 え と し
て)である、と覚悟するのである 。 あるがままにな って苦悩とひとつに生きるとき、苦悩などはどう
でもよくなるのである 。教えとして受けとれたときには 喜 べるのである(宗教的境地)。不安や苦しみ
からのがれようとしない 。 それと闘おうとしない。それを自分の心の中から追い出そうとするような
おろかなことをしない心が必要である 。 ここに迷苦は消え去るであろう。 これが煩悩を断、ぜずしてネ
ハンを得る道である 。
不安はとろうとしてとれるものではない 。悩みのない人間になろうなどというゴウ慢心が ﹁はから
い﹂ を生み出すのである 。 不安をとろうとする心がとらわれの心に、 はからいの心がこだわりの心に
なるのである 。 そうして、それが自分をしばるのである 。
自然心(平常心)とは、なんらの対立抵抗のない心である。そのようになろうとすれば、かえって、
なれないのが我々である 。期待にこだわ っていては、﹁唯行なう、無心に行なう﹂ことができない 。期
待にひっかかるために、不安になるのである 。 不満が生ずるのである 。気になるのである 。 よくても
わるくてもどうでもよい 。私はただひたすらに前進するのだと、与えられるままに﹁これでよいの
だ﹂という心で 生きているものに悩みはないはずだ 。そして、﹁このままでよい﹂という心もなくな っ
たら、合掌(徹底)の境地である 。 い っさいを神の摂理(教え)と受けとれたら、信の境地である 。
まかせたり、求めたりする対象の神仏もなくなったら、無(空)の境地である 。無の境地とは、神仏
と我とが 一体となっている状態であ って、この完全なる解脱に達したときには、あるがまま、あ って
ノイローゼはヨガ行法で全治する
ない(すなわち、 雲がありながら光にみちている)状態になるのである 。
身体の内外からなおす方法
ノイローゼは、心が原因となるものである 。 しかし、心身は相関的なものであるから、身体の方に
原因があ って、そういう心の状態を誘導したのかもわからない 。 また、心理的異常が長期につづくと
きには、それが生理的異常をつくり出し、今度は、それが心理的異常をつくり出すという悪循環を繰
り返すことになる 。 心だけかえようと思っても、それをかえさせない身体のあることを知らなければ
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ならない 。 ヨガでは、 心をかえさせるとともに、身体をかえる方法を講ずる 。
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ノイロ ーゼになるには、そうなりゃすい身体つきや身体の偏りをも っているのである 。 心の状態は
身体にあらわれる。身体の状態は心に影響する。まず、身体の外側から見ていこう 。
消極心の持ち主の姿勢は前かがみである。興奮している人は重心があがっている(腰腹部の力がぬ
けて、胸首部に力が入っている)。闘争的な人の身体はねじれている 。無気力の人は腰の力が弱い 。
つぎに呼吸の仕方を見てみよう。
不平不満の持ち主の呼吸は浅い。興奮している人の呼吸は乱れている。不安におののいている人の
横隔膜は上が っている(すなわち、胸に力の入 った呼吸の仕方をしている)。
だからノイロ ーゼをなおすためには、前かがみであってはいけない 。重 心が上にあってはいけない、
身体がねじれていてはいけない 。 腰 に 力 が 入 っ て い な け れ ば な ら な い 。 つねに深い呼吸をしていなけ
ればならない 。呼吸が 乱 れていてはいけない。胸圧が高くてはいけない 、 などの条件があるが 、 これ
を是正するには、これに適したヨガの行法をすることである 。
ヨガは行法で、身体の働きのととのえ方を教えるのである 。 身体は常に緊張の度をすぎないように、
いつもゆったりと弛緩した状態におく必要があるが、身体を変える問題については、別に詳述したい
と思う。
昭和初 年2月頃の 著作﹀
(
愛児教育の盲点 その
悪人などはいない
、 K君と十七歳の 二少年が相ついで異常行動に出たために、おとなはこの年頃を
Y君 危
H
険な年
頃 μとして騒ぎだした 。そうしてそれぞれの有識者たちが、いろいろな意見を出して、その原因を追
求している 。 なにが原因なのであろうか。ごく最近には 理
H
由なき反抗 。理
μ という 言葉、が流行した
由のないものなどがあろう道理がない。原因のわからない人たちが無責任に、またはその解決法がわ
からなくてそういうのであろう。 (Y君K君とは、おそらく浅沼事件、嶋中事件に関係した少年を指す
ものと思われる││鴻巣記)
いっぺんにおとなになった人はいない 。 みんな問題の年齢を通って成長してきたのだ 。 しずかにそ
の年頃をふりかえってみよう。 そうして自分はどうであったかを考えてみよう。相手の立場や心境を
理解することが、唯一の問題解決法なのである。私自身が異常児としてとりあっかわれた。テロ行為
を志して、どやっかいになったこともある。﹁のど一克すぎれば熱さを忘れる ﹂という諺があるが、忘れ
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る特徴をもった人間の心は、過去を正しく思い出させることさえしてくれない。私は心身の成長過程
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の分析をたどりながら、また﹁人がらは環境と刺激(教育や訓練)によって形成されていくものであ
る﹂というヨガの教えからこの問題の原因をさぐってみたいと思う 。まちがった 言行をする人聞をつ
くるのは、おとなだろうか、本人自身だろうか、社会であろうかを考えてみたい。
問題解決の方法は、まず心を平静にすることだ(困るということに心を奪われずに)。次に問題の原
因をさぐるのである。真実の理解(正見)なくして、正しい方法が生まれるはずがない 。 まず、人間
自身否その根元であるところの生命自身の真実をさぐってみよう。生命は本来善である。いっさいの
生物は光にむくように、快(差口)を喜ぶようにできているではないか 。だから、人聞は本来、真 ・善
・美のものであって、悪人(みにく いもの)などがあろうはずがないというのである 。本来健康なの
が当り前で、不健康なのがおかしい。それならばなぜ、ないはずの異常徴候(不健康や異常心理﹀が
あらわれるのであろうか。それは、それをつくり出す条件があるからである。その条件が問題なので
ある 。 その悪条件をとりのぞけば、いっさいの生物は本来相(健康、真善美)に自然にかえるのであ
る。重ねて いおう。本来悪人や病人はいないと 。これは﹁つくり出されたもの﹂である。本来ない悪
人をありと観、ありと罪人扱いするから、悪人相が出てくるのである。さて、悪人をつくり出すもの
がなんであるか 。それは、環境と本人自身である 。 しかし、 子供の問題の場合は本人自身よりも、親
や先輩の育て方のほうに責任があるといいたい。
本人自身の責任とはなんであろうか。それは心身の異常状態である。おとなでも心身の異常状態が
言行の異常現象をつくり出しているではないか。たとえば、花見(遊び)に行って喧嘩をしている人
もいる。あらゆる犯罪の原因が、心身の異常にあることをご承知であろう。戦争そのものが、そうで
はないか 。 私たちはそうしようと思って、そうしているのではないのであって、中身の異常が、つい
異常 をつくり出してしまっているのだ 。その異常条件をつくり出すものが、環境であり、生活であり、
育て方である。
問題の子供は問題の親から
おとなは、自分の手に負えない子供を問題児として扱っている。
たとえば、反抗する子、嘘をいう子、盗む子、我偉な子、奇行をする子、ケンカをする子、自分の
カラにとじこもる 子、いうことをきかない子、仕事や勉強をしない子、能力の低い 子、意欲のない子、
その l
そのほか自分たちが悪と思うことをする子供を問題にしている 。 この問題解決のために、ちょっと考
えてみよう。はたしてはじめから問題児が存在したのであろうかということを││解答は否である。
愛児教育の盲点
問題児をつくり出したものは、その育て方である。育てる親や先輩、家や社会に問題があるのだ 。
おとな自身、社会自身に問題があるのだ 。だからおとなに問題の子供を 責 める資格はない 。 まずおと
な自身が自分およびその生活を整えることが問題解決の鍵である。
それでは、異常行為はなにから生ずるのであろうか 。それは、欲求不満からである 。要求の処理法、
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コントロール法が身についていないからである。いっさいの悪は煩悶(迷)の産物である。不良児は、
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不幸な生活が生み出すのである。つまらないとき、淋しいとき、悪に走ってしまうのである。内界の
闘い、内界の混乱のときに異常行為をしてしまうのだ。これを責めてなんになるのであろうか。悪を
責めてもそれは善への導きとはならない。悪への芽をとりさり善への門を聞いてやるのが、真の愛で
はなかろうか。世に子を愛する親やおとなは多い 。 しかし、子を理解している親、子の善を育てる親
は少ない。
いっさいのものは喜びのときに善にすすむのである。罪は不幸と苦しみの産物である。良き人たら
しめるには、まず幸福を与えよ。子供にどうしたら幸福を与えられるかを知らない親の方が問題であ
る。問題のおとなである。幸福を与えれば、自然に善たらざるを得ないのである。相手の良くなるこ
とを願うならばまず相手を理解しなくてはならない。双方の理解の上にのみ方法(道)はわかってく
るのである。まず子供についておとなが理解しよう 。 次には、親やおとなについて、子供に理解して
もらおう。子供を幸福にするには、子供の世界をたいせつにしてやることが必要である 。 子供の世界
を理解するためには、まず子供の立場に立って考えなくてはならない 。 子供の心を救うものは、子供
の心身を理解したいせつにする信頼しうるおとな(親)である。子供は未発達である。ただその要求
を聞くだけでなく、その正否の判断の仕方、自分の手による実現法、コントロールしなくてはいけな
い場合にはその方法を教えてほしいのである。しかもその要求は、年齢により、環境によって相異す
る。その心身および環境に応じた導き方こそ、正しい育て方である。親たちが、おとなたちが、正し
さを育てるための真実の苦労をしなければならない 。
子供からおとなへの訴え
いろいろのことをも っとわかりやすく説明 するために、私が 子供の立場になって、 子供の世界をお
となに訴えてみよう 。
おとなたちは、子供たちには子供たちの世界があっておとなたちの世界とは違うということに気づ
かないらしいですね。私たちをおとなのただ小さいものであるかのように、または自分に似たものか、
附属物ででもあるかのように考えている人さえいます。 そうしてこの無理解が、せっかく善に生まれ
ている私たちをだめにしていることに気づかないのですね 。 小さくてもひとりひとりが、それぞれ異
その l
なった人格をもっています。自分の要求もあれば、主張もあり、立場もあり、子供なりの感じ方も批
判力ももっています。おとなの中には、この違いを理解し、その世界をたいせつにしてくれずに、無
愛児教育の盲点
視さえする人があまりにも多いのです。そうして、おとな本位の考え方を押しつけます。世界がちが
えば、興味も理解も相違することを知らないのですね 。 そのために、おとなの立場から叱ったり、ほ
めたりしています。子供は子供であるということに気づかないのですね。子供は子供であることが真
実であることを、 まずおとなが自覚しなければ問題の解決はないのではないでしょうか 。
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もちろん、私たちは未熟です。だから要求をそのままに聞いてくれというのではありません 。要求
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を聞きつつ、正しい要求の養い方と出し方と、その正否の判断の仕方を教えてほしいのです。 お父さ
んやお母さんの目からみたら﹁いたずらごと ﹂ に見えるかもしれません。だけど子供にとっては、こ
れが経験(学問)なのです。楽しみなのです。生活なのです。認識範囲を拡大することが生命の成長
ではないでしょうか 。 私たちはよく動きまわるし、また、あることへの熱中の時間は短くすぐあきて
しまいます。しかし、この動くことによって私たちは成長するし、つぎつぎと関心事を変えることに
よ って、つまりあきることによ って知識を吸収しているのです。それをおとなの都合や、おとなの世
界の 善悪で、してはいけないと禁じたり、せよとおしつけたりします。 それでよいのでしょうか 。禁
ずるよりも押しつけるよりも、正しい要求のみたさせ方を教えてほしいのです 。
﹁泥あそびするな ﹂ でなく、それにかわるものを与えて下さい 。﹁また服をよごすな ﹂でなく、よご
れてもよいような服を与えて下さい 。 私たちが私たちにとって興味のあることをしたり、そういうも
のを集めたりしたら、おとなたちは、﹁つまらない﹂とけなしたり、﹁がらくたを集めて﹂とかいって
叱ったりします。 しかし、それはおとなの価値観です 。 私たちにとっては、すべてが驚きであり、善
であることを、物事に中毒したおとなたちにはわからないのです 。 だ か ら 人 生 の あ り が た み も わ か ら
ないのです。生きることが面白くないのです。私たちにも 立場があります。 ただ叱らないで下さい 。
静かに説明してもらえばわかります。納得させずにただ叱ることはやめて下さい 。 私たちにも心が
あります。話してわからないことは身体で感じとります。 おとなにとっては別段珍しいことではない
かもしれません 。だけどおとな同志でもお世辞をいいあっているでしょう 。 それはなんのためですか 。
お互いに喜び合うためですね。子供はもっともっとそれを要求しています。子供は自己が世界です。
自己本位です 。だからおとなよりもプライドが高いのです。 ほめられでもくさされても動じないよう
な心境は、おとなでも悟 った人だけが達しているものではないでしょうか 。
またおとなたちは子供たちに真実を示してくれません 。 理くつはわからなくても、身体で感じとる
ということをご存知ないのですか 。わかればむりはいいません 。理解させずにただ押しつけるから、
聞く心、従う心になれないのです。子供たちの不良行為や反抗(ともに結果)だけを見て、非難した
り、とまど ったり、困 ったと心を乱したりしているおとなたちがたくさんいます。 しかし、その原因
を理解しようとするおとなたちが少ないのはなぜでしょうか 。親たちはいっています 。 ﹁親の心もし
らないで﹂と 。 しかし、同 一の言葉が子供のほうからもいえます。 ﹁
子供たちの心も知らないで ﹂と。
その l
心の通じあわないための苦しみゃ争いは、なにも親 子 の間だけではありません 。 上役と部下の問、
夫婦の問、同僚の問、固と固との聞にみんなあります。今の人類の苦しみはここにあり、この解決が
愛児教育の盲点
人聞の使命でしょう。 また人心の通じ合う法則はみな同 一です。 ヨガはお互いの心の通じ合 った和合
の世界をつくるのが目的で、その方法を教えるものです。
その方法とはなんでしょうか。それはお互いが違う存在であるという真理に気づき、その相違を理
解し合うことです。それを理解せずに自己本位の立場から、すなわち子供からいえば、おとな本位の
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立場や標準からの要求では理解できないし、ついていけないことが多いのです 。 お と な の 中 に は ﹁ 愛
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するから ﹂とか、﹁教育 のため﹂とかいって、子供への影響も考えずに、ただ 責め たり批判したりする
人がいます。良くしたいからといって欠点をひろいすぎる人もいます 。 お か し い と か 、 へ ん だ と か
いって、おとなの考え方をおしつける人もいます。自分の不安解消のために、自分のいうようになれ
と強要する人もいます 。善 いことでも押しつけたり、命令されたりすると、その束縛感に反発したく
なるものです。善 を押し つけても悪にかわるのです。 親のノイローゼのために、こちらも興奮してし
まいます 。とくに叱ったりされると、ああそうですかと反省するより敵対したくなります 。注意され
て真実に素直にうなずけたら、おとなでも哲人でしょうね 。 おとなの訓戒の多くは﹁教育のため ﹂ と
いう美名をかぶせ﹁ 子 のためを思えばこそ ﹂ のあたたかいうその衣をきせて、自己の感情を満足させ
ています。それほど思いやりがあるのな らば、なぜ 子供たちの心の奥にひそむ 苦 しさ、淋しさ、不安
をといてやるための協力をしてやらないのでしょうか 。
善いことでも命令されたり、強制されたりすると反抗したくなるといいました。な、ぜでしょうか 。
それは強制が心を落ち 着 かせないのです。 これはおとなも同様でしょう。 よほどできた人物でないと
たとえ 真実 であっても、自分の欠点を指摘されると反感がおきます。 なんだかこちらの人格を無視さ
れたような気がするからです。親としては﹁善いことであるから ﹂ と思われるでしょう 。 しかし、要
求が強すぎると、緊張してしまって、その束縛感から反発したくなるのです。反抗したくて反抗して
いるのではありません 。
おとなは暗示の重要性を知らないようです 。 日常生活で不安が正反対の結果を生みだしていること
に気づかれませんか。自転車に乗っていてぶつかるまいとするとかえってぶつかってしまいます。ど
うしてでしょう。緊張するからそうなるのです。意識をそれに集中するからです。親は平 気 で心配話
を繰り返しています。 それが潜在意識の中に入り込んでしま って、かえ って、そうな ってしまうこと
をご存知ないのですか 。自分の不安(妄想)を押しつけることは、そうなれということなのです。そ
の不安が身に ついてしま って、物事におじけづけさせたり、依頼心を起こさせたり、実行する心をね
むらせてしま ったり 、くじけさせてしまうのです。
│ │このようなことを、世のお父さんお母さんが理解して下されば、私たち子供たちは素直で健康
な子供に 育つ ことはまちがいありません 。
その l
なぜ反抗するのか
おとなたちは私たち子供の反抗がきらいなようです。 それでは、どんなときに反抗するのかを説明
愛児教育の盲点
してみましょう。
まず第 一は前にもいいましたように、親やおとなの要求が強すぎるときです。次はこちらの 立場や、
心や、その要求を無視したり、理解してもらえないで、内部に不満がたま ったり、 自 分の要求の処理
法がわからないときです 。 これを理解しその解決に協力してくれるおとなには反抗しません 。 ここで
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ちょっとおとなの方々に申し上げたいことがあります。 それは、私たち子供は心身ともに未発達で、
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その知識も浅く、体験も少なく、自分で自分がわからないし、またその表現もできにくいということ
です。
叱るおとなは愚の愚ですが、たとえ 立派な態度で﹁話 してごらん ﹂といって下さっても、私 たちに
は自由にその要求の表現ができないのです。 この自己表現は、体験の多いおとなたちにもむずかしい
ことではないのですか 。 だから﹁いいなさい ﹂ でなくて、私たちの心や立場を読みとってほしいので
す。 みぬいてほしいのです。そのためには、平静心と理解する努力と知恵が必要です。 その理解のた
めに、子供の成 長 に伴 った心身の変化を説明してみましょう 。
赤ちゃんから青年まで
親たちにとって、一番子供がかわいいのは 三 ・四歳頃まででしょう 。 それは絶対従順だからです 。
それは 当 り前でしょう 。 小さくて、善悪もわからず、自立することもできず、ただ従うよりほかない
からです。この時代は自分も他人もありません(自他未分化)。おとなの方々にちょ っとこの時代の 重
要性を申し上げます。 この時代は絶対従順が特徴です。 この 自己のない時期には 、なんでも、無批判
にそのまま受けと って自己化してしまい、それが大脳皮質にきざみこまれて、一 生 の性格形成を支配
するうえに大きな力となっているのです 。 この重大性に無自覚なおとなたちは、子供はわからないと
思っていろいろな悪刺激を与えていることに気づかないようです。
三 ・四歳の末頃からちょ っとにくらしい 子供に変わるでしょう 。 今まで素直だ った子が、反抗した
りしはじめます(おとなはこれを第一反抗期と名づけています)。どうな ったのでしょうか 。それは 自
分というものが少しずつわかってきたからです。 ほかとの区別もできるようになったからです(自己
発見期、生理的離乳期)。おとなの 言葉も少し批判できるようになったからです 。損得もわかりかけた
からです。素直に命令に従えないのはそのためです 。自分にも主張があります 。自分を守りたくもな
ります。自分を試してもみたいのです。 おとなに与える自分の反応もみたいのです 。 おとなは﹁悪い
子﹂などの 言葉を軽々しく使いますが、悪い子ではないのです。自我発見の 喜びなのです。自己 主張
のはじまりなのです 。 おとなは 素直なのがよいと思うでしょうが、自己 主張のないのと 素直 であるの
とはちがいます。
この頃から、その前の育て方の芽が出てきます。 少した って幼稚園、小学校と進みます。
そうして家と違った別世界のこともわかってくると同時に他人との共同社会もわかってきます。 こ
その l
の違 った世界に入るたびに、幼児時代の援が基礎となっていろいろな適応性格ができてきます。 しか
し、十 二 ・三歳頃になるまでは新しいことばかりに無我夢中です 。自分にもよくわからないことが多
愛児教育の盲点
いのですから、よく先輩のいうことを聞きます。しかし、十 二 ・三歳頃になると、知識もふえると同
時に身体も大きくなります。 異性との区別もは っきり感じはじめます 。 この頃からおとなのいう第 二
の反抗期に入るのです。 しかし、このときの反抗は第 一期とはちがいます。それは力もついてきてお
り、批判力もできているからです。 しかし、おとなまではい っていません 。 ちょうどおとなと児童 の
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中間の不安定時代なのです。 この不安定からいろいろな現象があらわれてきます。 この年頃になると、
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自分の理解できないこと、自分が価値を感じないことには従えなくなるわけです。目が外にむいてい
てなんに対しても批判したくなります 。親や先輩は、この大きくな っている私たちの現実を見忘れし
不し、依然として幼児扱いをしようとします 。 ﹁平等の人間として扱ってほし
て、理解のない態度を 一
い、 早くおとなになりたい、早く力の持ち主になりたい ﹂ という願いが胸の中でもえていることに気
づかないのでしょうか。親とか先輩とかの立場を傘にきて、権威を利用した強制や圧迫にはことさら
に強い反発を感じます 。
物事に対しても批判力ができています。 おとなの一方的態度には承服できません 。私たちに関する
ことでしたら、 一応相談して下さい 。信 じて 責任を与えて下さい 。協力も求めて下さい 。 たとえ私へ
の品物であ っても、相談なしで買われてはうれしくありません 。 おとなのなになにせよの命令や、な
になにするなの束縛の言葉には、私たち自身でもそうであるのが正しいと気づいていることが多いの
です。気づいていても、やる気がおきなかったり、どう実現したらよいかがわからなくて悩んでいる
のです。 この悩みのために、安らぎと方法(救い)を求めて苦しんでいる私たちの胸の奥がわかりま
せんか 。 それを、ただ勉強せよの 一言 しかないのでしょうか 。 なにもせずにいれば(考えているとき
もあるのに)遊んでいると思うのでしょうか。ただ机に向かい読書しているだけが勉強だと思ってい
るのでしょうか 。
みんな天分がちがいます。 だから成績のあらわれ方もちがいます。 ただ点数が多いのだけがよいこ
となのでしょうか。私たちは努力することが尊いのだと思います 。 私たちには自分でやりたい心も、
自分で考える力もできています。 みんなよくなりたいと思 っています。 それをやたらに束縛されては
反抗もしたくなります。
ふえた知識でいろいろな希望も描いています。しかし心身の 実 力が伴なわなくて、その劣等感の苦
しみにもがいているのです。開けてきた目でおとなや社会をも批判しています(この批判を反抗のよ
うに思われるようですが)。私たちは力の信者です 。尊敬でき、信頼感と安心感を与えてくれるおとな
には無条件で従います。そういうおとながい ったい何人いるでしょうか 。 おとなの特権をふりまわさ
ず、しずかに反省してみてくれませんかといいたいです。 この頃からだんだんとおとなや家から離れ
たくなります(精神的離乳期)。それは自己を理解してくれる友だちがほしいからです。自分の安定で
きるところ、自分のくつろげ喜べる雰囲気がほしいからです 。
少しずつ高まりつつある理想や希望像から見たとき、現実の社会や親や家庭が障害 に思えます 。 圧
その l
迫にも感じられます。 そして親には話せぬことも多いのです。時代と感覚がちがうからです。だから、
親からもにげたい、先輩にも反逆してみたいのです。 しかし、希望像が高すぎるため(経験が少ない
愛児教育の盲点
から仕方ありません)と、それを実現する現実力の 差 が大きいために、私たちの胸中には希望(喜こ
び)と失望(悲しみ、劣等感)が常に交文していて少しも感情がととのいません 。 うれしくなったり、
不安になったり、自暴自棄になったり、なにもかもいやになったり、心が入り乱れて動いています。
この乱れが外に向かったときにはなんにでもぶつか ってみたい衝動になり、内に向かったときには自
4
25
分で自分の処理のしようのないような心の乱れ方になります 。 そ れ は 、 こ の 救 い を も と め て の 異 常 行
4
26
動 な の で す 。 私たちの頃は他に対する関心や要求も強いけど、それを自分に求める心もまた強いわけ
です 。得られないと不安定なのです 。だから奇行もしてみたいのです。英雄気取りもしてみたいので
す。とにかく心身ともに不安定なのです 。 反抗期は興奮期でもあるのです。 だからなんにでも反発し
たくなりますが、反発した後では後悔もしています。 これを理解してくれていますか 。生 理的にも異
常期(性別の確立)です。 おとなでも生理異常のときには内的興奮のためにイライラしています。幼
児でも遊びつかれてねむくなると反抗するでしょう 。
おとなたちにお願いします、大きな心で、しずかに様子をみていて下さいませんか 。そうして心の
戸(原因)をさぐりとって下さい 。私たちは助けてほしいのです 。 おとなの 言葉でいうと迷っている
のです 。 だから誰かに 話 したいのです。 理解してほしいのです。 しかし話せるおとなが少ないのです。
それでウップンがたまって、それが反抗行為や異常言行に変形してしまっているのです。
おとなは、これを理解して、要求の正しい実現の仕方を教え、欲望の正しい処理の仕方に協力して
下さい 。 子供に正しいことをさせたければ﹁正しい要求とそれを実行する心身﹂を 育 てることに心を
向けて下さい 。 ﹁正しい欲望のコントロール法﹂を身につけさせて下さい 。 人 聞 に 必 要 な の は 、 自 主
性、自発性、自制力、即ち社会性ではないでしょうか 。愛しているといいながら、この能力をだめに
している親やおとながいかに多いことでしょうか 。だから、問題の子供は、問題の親から、問題の社
会から生まれるというのです。
本 来 悪 人 な ど は い な い の で す 。 それをおとなたちはあるとして叱ったりしていますがおかしな話で
す。すべてには原因があります。人間は不 幸 な 生活をしているときや、心身が混乱しているときに無
意識に異常行為をしてしまうのです。悪人を育てるのは誰でしょうか 。非行少年には他から理解され
ていないもの、欲求不満のもの、 自己コントロール法を知らないものがひじように多いのです。 おと
なでもつまらないとき、淋しいとき、ついあやまちを犯してしまいます。非 行 少年 とは見はなされた
不幸な少年たちといってよいでしょう 。彼らはい つも、ほんとうに話しあえる人、自分を理解してく
れる人、 自 分の 正しくなることに協力してくれる信頼できる人を求めているのです。
第三反抗期
この第 三反抗期が私たちにと っても 一番 手 におえない時期なのです。第 二反抗期は知性開発期でし
たが、このときには 目が主として外に向いていました 。第 三反抗期には 目が主として内部に向いてい
その l
ます 。だから自己反省期といってもよいでしょう。身体の成長も安定しかかっています。 しかもエネ
ルギーが最も充実しているときです。 しかし、社会体験、 実 力は少ないのです 。 だが実行の意欲や独
愛児教育 の盲点
立心は燃えています。 ふえた知性による理想も輝いています。 しかし、自他に対する 未知のための不
安がみなぎっています 。そのために、 自分を示したい心、 自 分を認めさせたい心、他を知りたい心、
求める心もまた旺盛です 。 このいろいろと錯綜した精神内容のために、その内面生 活は支離滅裂の状
態です 。発達した性衝動にも耐えがたきものがあり、このために他を求める心も激しいのです 。身 体
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27
中に横溢したエネルギーが混乱したまま、そのはけ口・をどこかに求めています。安定を求めるのは生
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28
命 の 自 然 的 要 求 な の で す 。 だから反抗したくて反抗しているのでも、乱暴したくて乱暴しているので
もないことを知って下さい 。自分を認めさせたい心から乱暴非行をしていることさえあるのです。 こ
のことは現実的打算的なおとなの頭では理解できないでしょう 。また余ったエネルギーが際限のない
空想をさえ抱かせます 。 私たちは求めているのです 。 おとなたちには理解できないような訪僅への衝
動も起きます。官険心もかりたてます 。 他と同時に自分をも知りたくてたまらないのです。 この意欲
が私たちを努力にもかりたててくれているのです。 しかも体験の少ない私たちの考え方は 主 観的でも
あり、直感的でもあり、理想主義的でもあります。 しかもその理想は現実 に立脚したものでないため
に非現実的であ った り 無責任でさえあ ったりします。 だからその批判は 辛仕掛でしょう。 現実否定的で
しょう、時によると社会に敵意さえ抱いています 。現実をよくしらないものにと ってはこの不合理的
な矛盾だらけに見える現実が肯定できないのです 。 そ れ に 安 易 に 妥 協 し て い る か の よ う に 見 え る お と
なの社会が許せない気がするのです。 この否定的なものを破壊してしまいたい衝動(それを正義感に
さえ思うのです)にかられるのは当然でしょう。 まだ朱にそま っていない 青年の心は純潔です。その
心から出発したものですから、 直感的で 真 理に近いものも多いのです 。 古 来 の 社 会 改 造 の 原 動 力 と
な ったものには 青年の力によるものが多い 事実をみて下さい 。朱にそま っていないからこそ正否の批
判力も 高 いのです。 正義を愛する心も強いのです。妥協したくもないのです。なぜこの心を 正しく 生
かしては下さらないのですか 。 この心を悪用するおとなたちがわるいのです。無理解におさえつけた
り、﹁若造だから ﹂と否定したりするおとながいけないのです。
誰 一人として非行を欲する人がいるものですか 。それよりも、正しさ清さを求める心はおとなの数
倍でしょう。 現実 にもまれていない理想にも与える胸中は、妥協することさえ知らないからです。だか
ら闘争的にも見えるのでしょう。 またなにかをやりたい、やらなければ、という希望 と力にも満ち満
ちています。 ただ経験が少ないだけなのです 。だから突飛にも、唐突にも見えるのでしょう 。 しかし、
これらの欠点に見えるものこそ 青年の特徴であり、またその特権でもあります。 この力の正しい生か
し方、用い方および現実 の正しい理解の仕方にさえ協力して下されば、 青年のすべてが 善行青年 にな
りうるのです。無理解なおとなのあやま った観方、扱い方が私たちをあやま った方向に追いや ってい
るのであることに気づいて下さい 。
昭和初 年5月頃 の著作)
(
その l
愛児教育の盲点
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インドの村の小学生と共に
子供達にかこまれて
2
50
愛児教育の盲点
の
そ
なぜ生まれてきたのだろうか
よく人々は次のような質問をする │ │
﹁人聞はなんのために 生 まれてきたのだろうか 。 なんのために生きているのであろうか ﹂
この聞に対しては、その観点のちがいによって、いろいろな答えかたがあるであろう。 ヨガではこ
の間に対して、次のように答えている。
﹁すべてのあらわれは自然の働きである 。すなわち生まれるべくして生まれ、生きるべくして生き
ているのである﹂
生に﹁なぜ ﹂ はないのである 。宇宙に起こる現象のすべてが必要必然なことなのである 。生まれる
ことが必要であり、 生きることが必要であるから、生まれてき、また 生きているのである 。 この生が
絶対目的であり、絶対価値であり、絶対使命である 。すなわち、われわれは生きるために生まれてき
たのである 。 この生きることに絶対使命と目的をみなければならない 。生きるのだ、よりよく生きる
5
21
くふうと努力をするのだ 。 これが生の目的である 。 ここにおいてわれわれは、 よりよい生きかたをす
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るにはどうしたらよいかを考えなくてはならないのである 。
よりよい生きかたとはなにか
いっさいの現象は自然の無為のはからいである 。 この無為に説明はない 。 この説明なき無為のはか
らいの中から、宇宙の心(神のみ心といってもよいであろう)を読みとらなくてはならないのである。
これが人聞に与えられた特権である 。
この地上にはいろいろな種類の生物が存在する 。 その理由はなんであろうか 。 それは、その全部が
共存共栄のために必要だからである 。種類のちがいがあるのはそのちがいをもって協力しあうためで
あるとヨガでは教えている 。
人間そのものにも各個性別がある 。すなわちそのちがいをもってお互い同志が助け合い共栄するた
めである 。私たちひとりひとりは、ここに自己の生の使命を感じなくてはならないのである 。
個性がちがうということはひとりひとりが独特の特性(天分
、 長所、特殊才能)を与えられている
ということである 。 ということは、われわれのひとりひとりがみな何かの 天才で あることを意味する 。
この天分(内在の 宝) を開発伸長することによ って、自己の 生き甲斐(生きる 喜 び)を感ずるととも
に、それを通して他に貢献しなくてはならないのであり、この 生きかたがよりよい生きかたなのであ
る
自己に会い、 自己をあらわして死のう
宗教では﹁自己に会え﹂と教える。自己に会うとはどういうことであろうか、それは自己の才能を
発見(自覚)することである。
自己に会い、自己の才能を開発し、この才能に花を咲かせて自他ともに喜べる生きかたをしなくて
はならない。これが生の目的であり、そのためのくふうと努力をするのが、生の使命である 。 ヨガは
価値ある生命(自己)とその人生の開発育成がその目的である。
ひとりひとりが天才なのだ。ひとりひとりが唯一の存在としての無上の価値があるものである。私
も彼もひとりひとりが尊い存在なのである。このことを自覚しようではないか 。 ここに拝みあえる尊
その 2
い世界が展開するのである。この尊い世界を顕現するために、自己をたいせつにしなくてはならない
のである 。他を愛さなくてはならないのである 。愛するとは、良きところ(天分)をみつけ出すこと
愛児教育の盲点
である。そうしてそれを育てあうことである 。 お互いの長所をほめ合うことである 。 その美点を喜び
合うことである 。その持ち分を認め合うことである。個性別の尊さを拝み合うことである 。個性別、
才能別、長所別の花が美しく咲き合う喜びの世界を天国というのであると思う。
5
23
5
24
自他に会い 、 自他を育てるには
われわれひとりひとりが異なった個性すなわち 、 異なった型をもっているのである 。自己に会い、
他に会うには、この型のちがいを自覚し理解しあわなくてはならない 。
この型のちがいが気質、体質のちがいであり、この気質、体質のちがいがその人その人の持ち味を
生み出すのである。
われわれは、ひとりひとりがみなちがうのである 。 まずこれを自覚しよう。このちがいを 伸ばしな
がら、しかも、このちがいを 他と調和できるように育てあげていかなくてはならないのである 。
自分の型について
自分には自分独特の型がある 。自己を知るために、まずこの型を理解しよう。
この型はふたつのもので形成されている 。 ひとつは先天的型(生まれつき身についている特性)他
は後 天的型である。われわれは生まれつき独特の特質(感受性、衝動性 の傾向)をもって いるのであ
り、 これが天分である 。 この天分を伸ばすか、邪魔する働きとなるかの岐路となる働きをなすものが
後天的型で、 自我、超自我、習慣性、体験、教育 、訓練、環境の影響などによって形成されていくの
である。すなわち、後天的に身についた傾向である。
われわれはこの自己の身についているものによって支配されており、その傾向のように感じたり、
考えたり、動いたりするのである。ここに育てられかた、訓練性、巌かた、習慣性の重要性があるの
である。
接の重要性
生物は影響の産物である。人間は、脹られた通りに育っていき、身についている習慣性の通りに思
考し行動するのであるという事実をご承知のことと思う。
この理由で胎教に気を使っている親は多いようであるが、生後の影響については案外無神経である
のはどうしたことであろうか。
その 2
動物は気の向くままの生きかたをしている。すなわち、食べたいときに食べ、動きたいままに動き、
排世したいときに自由に出している。人聞はこういう育てかたは許されないのである。
愛児教育の盲点
なぜならば人間生活は共同生活であり、秩序生活であるからである。この社会生活に適応できるた
めに必要な心構え、身構えを身につけるために、欲求のコントロール(昇華)の訓練が必要なのであ
る
。
5
25
5
26
大脳について
人聞がものを考えたり、しゃべったり、身体を動かしたりできるもとになるところを大脳皮質とよ
んでいる 。 この大脳皮質は早くから発達した部分と、その後で新しく発達した部分とのふたつからで
きている 。
この 古
H
い皮質 μ のほうは、だいたい生後 一年から三年くらいまでの乳幼児期の頃できたもので、
この部分が、本能的な心や身体の動き(食欲、性欲、快不快の気分)をつかさどっているのであり、
新
H しい皮質
μ
はその後にできあがるのであって、この部分が、知、情、意、で代表される高い精神
活動を受け持つようになるのである 。私 た ち に 必 要 な こ と は 新 し い 皮 質 が 古 い 皮 質 を 上 手 に コ ン ト
ロールできることである。
ところが、ここで自覚しなくてはならないことは、古い皮質はどんな刺激でも無条件に大脳の中に
記憶としてしまいこんでしまう。これがすなわち一生の性格形成に重大な影響を与えるのであるとい
うことである。このことを自覚しないおとなは、幼児にはわかるまいと思って、平気で異常な 言行を
無自覚にすることがあるが、このことが乳幼児の大脳皮質の形成にそのまま影響を与えていることに
気づかなくてはならない。
われわれ自己自身を支配しているものが、自分の生後、身についたもの (習慣化、条件反射化)
で
あることを深く自覚しようではないか 。前述のように、乳幼児期に、動物のように気ままで、無秩序
な族かたが身についてしまったら、いったいどういうことになるのであろうか 。 この気ままさ、だら
しなさが 一生の性格に影響することになる 。 そうして共同生活の基本をなしているところの秩序性に
適応しにくくなり、秩序性を苦しむようになるのである 。
この理由で、人聞は幼児から、社会性をおびた教育をしなければならないとされているのである 。
社会性というのは客観世界に正しく適応するために自己の欲求と要求を正しくコントロールできるこ
とである 。
かさねていおう﹁自分の身についたものが自己を支配するのである﹂と 。
正し い乳幼児期の育てかた
その 2
人聞は人間として育てていくことがたいせつなのである 。人間の姿をして生まれたから、そのまま
人聞になりうるのではない 。人間は人間的教育を受けてのみ、人間となり得るということを知らなく
愛児教育の盲点
てはならない 。 ごく数年前の話であるが、インドで狼児が発見されたことがある 。 この 子は赤ん坊の
ときに狼にさらわれて、狼に育てられたのであった。彼は十歳ぐらいのときにラクノ市の駅でっかま
えられたのであるが、その行動のい っさいが狼的であったということである 。
この地上の生物の中で、人間だけが、生理的早産をしていることをご存知であろうか 。人聞は生後
5
27
約一年か一年半たって、やっとほかの晴乳類の生時と同一の状態になるのである 。 人間は体内でなく
5
28
て体外で発達するようにできているのである 。 これが人間の特性である 。 この特性は次のような意味
をも っていると思う 。 すなわち、人間は教育されなければ人聞にはなれない社会的動物であり、努力
してのみ人間になり得るようにできているということである 。 この発育のおそさの特性のために、他
の動物に比して遺伝を環境によって変えうる高次の適応性をもちうるにいたったのである 。 人 間 は 長
い教育期間をもち、教育の余地(すなわち変化しうる能力)の大きな動物なのであ って、この教育に
よって人間の大脳が大きく発達することになるのだ 。
家庭および社会は人間づくりの 工場ともいえる 。人間相互は、お互いに教育しあわなくてはならな
い責任をも っていることを自覚しようではないか 。
いまの自分は過去と現在の環境に対する無数の反応の結果である 。 人 間 は 社 会 に 順 応 す る こ と に
よ って成 長するのである 。 すなわち他人の生活や知恵を自分に加えることによ って、成長するのであ
る。
乳幼児期が、この人間形成の基礎守つくりのときである 。 私はこの基礎期の族かたについて次のごと
くに提案したい 。
われわれの 生理的働きは 習慣性に順応するのである 。 この意味において、動物的な寝食活動ではい
けないと痛感する。生後から、このことに関して、秩序づけと、コ ントロールのある接かたをしなく
てはいけないと思う 。 このためにまず自覚しなくてはならないのは、親自身である 。ときどき、うる
さいからとか、かわいそうだからとか自分の感情を中心にした育てかたをしたり、忙しいとか、かわ
いいとかいって自分の都合にもとづいた撲かたをしている人を見受けるが、この誤りが、その子供自
身をそこねてしまうのである。その子供が成長したとき、身についているわがまま性と無秩序性に負
けてしまうのである 。 この性格が、その子供がおとなになったときに異常言行のほうに導いてしまう
のである。この性格は、自己の節制や、我慢や、コントロールを苦しみと感ずるのである 。 そうして、
この苦しみからにげようとして、衝突したり、楽を求めて異常行動を行なったり、苦しさに負けて自
信を失ったり、ノイローゼになったりするのである 。
古い皮質が﹁感情の蹄﹂なのである。人間生活で最も困るのが、感情の錯乱であり、意志や理性は
この感情には勝てないのである 。 この感情をととのえ得る古い皮質と、ととのえ高め得る新しい皮質
│ │理性ーーとを身につけるのが人間教育の目的である。
自我が確立するまでは、本能を正しくコントロールできる条件反射を身につけるために、秩序づけ
その 2
を厳しくするべきであり、自我発達後はその自主性、自由性、独立性を中心にした育てかたをするべ
きである。あくまで本人を中心とした族かた、育てかたをしなくてはならないのである。しかし巷で
愛児教育の盲点
は、この反対の育てかたがなされているのではなかろうか。
人間訓練は胎児時代から始められなくてはならないのであり、自我発達以前が特にその基礎 つ
e
くり
のために重要であることに気づこうではないか。
9
(昭和初年6月頃の著作)
5
2
子供 ヨガ合宿の元気な面々
子供の指導
2
60
子供 の厳 かた
身体のねじれから起こるホルモン分泌異常
先日、講演会の終りに、あるお母さんから﹁子供に盗癖があって困ります 。 ど う し た ら な お る で
しょうか ﹂ という質問を受けましたが、私は即座に ││
﹁あなたのお子さんは身体がねじれていて姿勢が悪く、足の小指が内側に曲っていませんか ﹂とたず
ねたところ、そのお母さんは、﹁その通りですが、それが盗癖とどんな関係があるのですか ﹂と、けげ
んそうな顔をしていました。
そこで私は﹁身体がねじれていたり、小指が内側に曲っていることと盗癖とは何の関係もないよう
に思うでしょうが、これには深い関係があるのです。つまり、身体がねじれているとホルモン分泌に
異常をきたし、脳にそのような影響を与えるのです﹂と教えたのですが、そのときは時聞がなくそれ
以上の説明ができなかったので、ここであらためて﹁子供の援かた ﹂ という面も含めてとりあげてみ
たいと思います。
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まず盗癖と足の小指との関係をいいますと、小指が内側に曲っているということは、小指の方に力
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をいれた、すなわち足の外側に力の入 った姿勢をしていて、前かがみの姿勢になっています。私達は
要求心を起こすと前屈みになり、拒否する心を起こしたときには後にそるものです。 またそういう体
型をするとそういう心の状態になるものです。感情は生理現象です。感情と生理状態は影響しあうの
です。 馬子にも衣裳の諺がありますが、晴着を着るとしゃんと背中をのばした姿勢をするので、誰で
も立派に見えるのです。 また前かがみの姿勢をしていると、が っかりしてくるものです。
要求するときには前かがみになるといいましたが、この前かがみの姿勢が癖とな って固定してしま
い ま す と 、 無 意 識 に 要 求 過 剰 と な っ て 、 つ い と り た く な っ て し ま う の で す 。 月経異常の女性の月経中
の万引も、この前かがみの姿勢の癖が原因になっていることが多いはずです 。
それとまた、精神的にも考えてみなければならないことがたくさんあります。 まず盗もうと思 って
盗むのではなく、何となく欲しいから盗んでいるのです 。何となく欲しくなる境地はどうして生ずる
のか、そこを考えてやらなければ問題は解決しません 。 それをどうして盗んだ、お前みたいなのは生
んだ覚えがない、などとい って叱 ってもむりです。 ただそれだけではその場かぎりのたわごとにすぎ
ません 。﹁盗むことはいけませんよ、欲しか ったらお父さんやお母さんにいいなさいよ 。お金を貰 って
買いなさいよ 。君はいい子じゃないか﹂といったって、子供は﹁そんなことはわかっています ﹂とい
うにちがいありません 。
見た瞬間に盗りたくなる 。見た瞬間に何が盗りたくさせるのか 。 それには、 そうさせる何かが働い
ているからです。まず考えられるのは第一にホルモンに異常があるからです。だからまずホルモンの
分泌の正常化 をはからなければなりません 。 人を殺すのもホルモンに異常があるからです。どのホル
モンに異常があると、何に異常があるのか、全部きま っているのです。
まず両手を握って、いきおいよく開く運動を繰り返し訓練させてみて下さい 。特に小指に力を入れ
てパッと開くと、それがホルモン分泌に影響を与えてきます 。立ったときと坐ったときとでは精神状
態がちがってくることと同じ理由です。
ちょっと身体の状態を変えると心理状態が変わってきます。
相手がなぐってやろうと思 ってきたときに、こちらがニコニコすれば、相手 の態度はがらりと変わ
ります。今日は優しく親切にして愛してやろうと思っていても、相手が変な顔をしていれば﹁何をこ
ん畜生 ﹂ ということになるのと同じことです。見た瞬間に相手の刺激がこちらを変えてしまう 。だか
ら今日は親に親切にしてやろう、兄弟に優しくしてやろうと思って帰っても顔をみた瞬間に変わって
しまう 。 それは 心 の働きです。 心を意識的にふっと転換すれば、ふっと変わります。 これがヨガの技
術になってきます。
子供の族かた
おとなの判断と子供の判断
私達の動きは、すべて無意識です。子供が手をなめている 。あれはなめたくてなめているのじゃな
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いのです 。だか ら、それを叱ってもだめです 。子供は、手をなめるときに、ゴ ミがついているとか、
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衛生的かどうかなどと考えてなめているのではありません 。子供がマッチをすっている 。 それをあぶ
ないよといってもだめです。子供が陰部をいじっている 。 そんなところをいじ ってはいけないといっ
ても、それを悪いと考えるのはおとなの考えであって、子供はいいとも悪いとも思 っていません 。
子供の 善悪の判断とおとなの善悪の判断とのいきちがいはずいぶんあります 。 おとなが損得と考え
ることを子供は損得とは考えません 。 おとなが面白いと思うことを子供がそれを面白いとは考えませ
ん。ところが多くのおとなは、おとなが損得と考えることは子供も損得と考えると思っています。 お
となが正しいと思っても子供が理解できないことは、たくさんあります。 これは高い、大事なものだ
といって聞かせても、金を出したこともなく、ただ眺めている子供には理解できるわけがないでしょ
う。思っているときだけは承知していてもすぐ忘れてしまいます。 それはそのものの体験を通して記
憶していないからです。 それをむりに押しつけるおとながたくさんおります。 ただ結論だけをおしつ
けます 。それならば大金をもたして、 買 わせてみればよいのです 。そうすると、 ﹁
これは 高 いものです
ね、大事 にしなければいけませんね、お父さん ﹂という 。相手の方からいわせてこそ 真実です 。 こち
らが相手 にいいたいことを相手にいわせるのが教育の技術です。 そのように導いてやることが真実の
教えです。だから怒ってやめさせては絶対にだめです。 理解さぜてやめさせた場合は、再び繰り返し
ません 。納得することなしにやめたことは、過ちを再び繰り返します 。怒るとかくれてやり始める 。
だからヨガでは理解させろ、納得させろ、 理解させる努力をしろというのです。
赤ん坊に与える環境の影響
私は赤ちゃんでもおとなと同じ 言葉で教育することをすすめます。 おとなになれば理性が発達して
きて、このことは聞いた方がよい、このことは聞かない方がよいとわかってくるわけですが、子供の
ときはそのまま全部受け取ってしまいます。 これは赤ん坊だから、何もまだ知らないからそばで夫婦
げんかしてもよいだろうと思うかもしれませんがそれがいけません 。 赤ん坊にそれが全部影響して、
下痢をしたり、夜泣きしたり、というようにいろいろの形であらわれます。だから胎内にいるときで
も生まれてからでも、その環境が子供に与える影響は実に重大なのです 。
それなのにおとなたちは、相手がオギャ lオギャ!というだけで何もいわないから、また何も知ら
ないからよいだろうと思っていい加減なことをしてしまいがちです。
それが潜在意識にな ったとき、たとえば人の悪口ばかり聞いて育 った子供は、人の悪口をいうよう
になります。これは母親がそうしてしまうのです。だからお母さんはお乳をやりながら、よいことば
かりを子供の潜在意識の中に入れてやらなければなりません 。子供は何でもわか っています。親のい
子供の袋かた
うことや考えていることが全部潜在意識として赤ん坊が受け取るものであることをよく認識して育で
なければなりません 。
子供は生まれて一年もたつと、立つようになり、それからしばらくすると歩くようになります。 そ
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25
うすると親たちはおもしろくてしょうがないが、いろいろ心配になってきます。 母親が針仕事 をして
6
26
いるとそばで針をもってけがをしないかと心配し、安全カミソリの刃でけがをしないかと心配します
が、その心配の必要はありません 。
子供の前に針をならべておいて、これは針というものですよ、縫うときに使うものですよ、といっ
て手を出させて、ちょっとさしてみて痛いことを教えてあげる。そうすると決して針をいじろうとは
しなくなるものです 。
安全カミソリの刃をあぶないからよけておくというのもいけません。これは安全カミソリの忍です
よ。 いたずらをすると手をきってしまいますよと教えてあげる。あぶないとい って 顔しかめて見せる 。
一年一 カ月の子供に安全カミソリの刃だ、顔をそるものだといってもわかるはずがない、と考えがち
ですが、そうではありません 。一度そうして教えておきますと決して 二度といじろうとはしなくなる
ものです。
子供が縁側に行くとあぶないといって連れもどしてしまいますが、決してその必要はありません。
縁側に連れていって半分ぐらい下ろして、ここまでくると落ちてしまうことを教えてやります。 そう
すれば縁側に行っても、ここから先に行けば落ちることを潜在意識で知 っているので、そこから先に
は行かないようになります。
おしめをとりかえるときでもそうです 。 ど う い う 泣 き 方 を し た と き は 尿 意 を 催 し て い る の だ 、 ど う
いう泣き方をしたときは腹が減っているのだと、その泣き方によって相手の気持ちをくみとってやら
なければなりません 。 そ う す る と 、 お む つ を よ ご さ な い う ち に と り か え て や る こ と が で き る も の で
す。
絶対におしめをぬらしてはいけない 。泣きさえすればお乳を飲ましてやる 。も う 三時間た ったから
お乳を飲ましてやるなど、まるで機械のように子供を扱 っているお母さんが多いことには驚いてしま
います 。
機 械 な ら そ れ で よ い で し ょ う 。 モーターに油をさしてやればよいし、ガソリンを補給してやればよ
いわけですが、人間は機械ではないですから、その 子供ひとりひとりが気質、体質 をも っています。
その 上、その気質体質がひとりひとり 異な っていますから泣き方もそれぞれ 異な ってきます。 その 異
な っている 点 をよく理解してやらなければなりません 。
無意識のさせるくせ
ヨガを学ぶということは理解をするということです 。理解をすれば不安はありません 。 理解してな
いから、こうだろうか、ああだろうかといろいろ不安が起こ ってきます。 これはこうな って、あれは
子供の撲かた
ああな って、とわか っていれば少しも不安はありません 。
たとえば 手 を切 ったら油でも塗っ ておこう。 そうすればじきなおる、と理解していれば少しも不 安
はありません 。
6
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ひとつのショックをどう理解するかによ って
、 それは苦しみの種子ともなれば楽しみの種 子ともな
6
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ります 。
人間の筋肉は使えば使うほど健康になると思えば楽しみながら働けますが、こんな仕事をさせられ
て馬鹿馬鹿しいといや気を出せば苦しみの種子になります。 だから子供のときから苦しいことは楽し
みながらするものだということを教えこめば、どれだけ人生を楽しく生きていくことができるように
なるでしょうか 。
子供が手をなめている、なめてはいけないとい ってもやめないようなとき、自分が手をなめてそれ
がわるいか つこうであると気づかせてやれば自然にやめてしまうものです。何でも自発的に意識させ
ることが必要なのです。
泣いてはいけないといっても泣きやむものではありません 。 泣 く 原 因 を 取 り 除 い て や れ ば 自 然 に 泣
きやむものです。
腹の減ったときに腹が減ったと思うなといっても、事実腹が減っているのはどうにもなりません 。
食事をすることによって減った腹は満たされるのです 。
泣く子供は、いくら泣くなといっても泣きやむものではありません 。 とめればとめるほどい っそう
大声を出して泣き出すものです。泣く子供の前で泣くまねをして見せますとすぐ泣きやむものです。
きわめて簡単なことですが、世の多くの親たちはこのかんたんなことを知らないようです 。
決 し て 子 供 は 親 た ち の 思 う ほ ど か よ わ い も の で は あ り ま せ ん 。 それを親たちは生まれるとすぐ、風
にもあてないようにくるんでしまいます。全身に空気の流通することができないように、手首、足首
まですっかり包んでしまいます。
子供は本来健康であり、自然を好むもので、外の風にも当たりたい、太陽にも当たりたい、水もあ
びたいものなのですが、それらのすべてをたいへん害のあるもののように考えていて、電車や汽車の
中でも、窓を聞けないで、子供は汗を出して泣き出しているようなことをよく見かけます。 子供が外
気に当るとき、おむつを取りかえるとき、たとえしばらくでも前をはだけて空気に当てるとき、あの
気持ちよさそうに、手をのばし足を動かして喜ぶ姿を親たち何と見るのでしょうか 。 子供は寒さなど
感じないで 喜 んでいるのに、親達は、おお寒い、風邪をひかせてはたいへんだと心配ばかりして、
せっかくじようぶに育つ子供を、むりに弱く育てあげてしまっているように思えてなりません 。
子供を 子供と思わず、親のおもちゃにせず、立派な人格を備えた 一人前の人間と尊び、小さいとき
からヨガ精神を教えこんで、自分の力で育つように注意すべきが 真 の子育てではないでしょうか 。
ヨチヨチ歩いて転んだ子供をいたわって起こしてやらずに、 自 分の力で起き上がってくるのを待つ
のです。親のほんとうの愛情は子供を自分のおもちゃのように可愛がることでなく、その愛情を抑制
して 自力を引き出させるように育てあげるところにあるのです。
子供 の撲かた
(昭和お年5月頃の 著作)
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29
楽しい運動会
戸外での強化法指導
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性 の よ ろ こび
生きているということ
ヨガは、真実を正しく理解し認識(正見正思)することによって、正しい行動(正行)を行ない、
これによって正しい生活(正定)を樹立し、その正しい生き方によって、 真実の生きる喜びを味わお
うとするものである 。
われわれの生きているという現象は、エネルギ ーの吸収と発散運動の繰り返しである 。われわれは、
食と呼吸によってエネルギ ーを吸収し、動と性と考えとによって、そのエネルギ ーを発散しているの
であり、生命現象とは、このエネルギーの吸収 発散のための維持活動 である。
性の営みをしない生物はない 。性は生きて いくために、必要な生命活動六部門(食、息、動、性、
考、寝)のひとつである 。 正しい性活動が正しく生きる上にいかに重要な課題であるかはこのことか
らも理解されることであろう。
しかし、性についての正しい理解においてこれほど知られているようで、知られていなものはない
7
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のである 。 いかに無知であり、また誤解していることが多いかは各自が自覚していることと思う 。性
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22
を正しく理解するためには、人間そのものの、心の構造、身体の構造についての、深く 正 しい理解が
なくてはならない 。 しかも男女別々についてである 。さらに人聞には個性別がある 。 いずれ性につい
ての大聞を 書くつもりであるが、 今 回は、性についてのごく概略の知識と、ヨガの性に対する見解の
一部だけをのべてみたい 。
性愛をともなう人間の性欲
性欲は、他の欲求と同様に、肉体内部の必要性にもとづいて、自然的に発生してくるものである 。
ヨガでは、 自然性のみを 正常と認めているのである 。 ヨガでは 自然発生的なものを必要あるものとし
て全肯定するのである 。
内から起こる欲求を禁じようとしたり、おさえたりしようとすることは、死をまねくことを意味す
る。 目を見開いて、いま 一度生命現象を静思してみよう 。 生きるために必要な条件として、いろいろ
な形の欲求が内から自発的に生じてくるのである 。 この要求を正しい方向に出すように訓練するのが
正しい生きかたであり、それが修養と修行の目的である。その方法を具体的かつ哲学的に説くのがヨ
ガである 。人間そのものがなににおいても自然的生きかた(バランスのとれた 生きかた)ができるの
ならば、﹁ベし、べからず ﹂の必要性はないのである 。しかし人間として進化してきた特性の中に、過
不足ある不自然的なものを作り出す条件となりやすいものが多いのである。この条件が、欲求を誤っ
た方向に発散して、あやまちを犯させたり、人間社会生活の秩序を乱したりするものとなりやすいの
であり、ここに﹁ベし、べからず﹂の必要性が、人間生活の中にだけ生じてきたのである 。
性についても、いろいろな﹁ベし、べからず﹂がとかれている 。 特 に 、 修 養 を 目 的 と す る も の に
とっては、これを断つことが必要であるとさえ思われてきている 。 なぜであろうか 。修養修行の目的
は、心身の平静安定の維持である。いかなるときに安定し、いかなるときに安定しないのであろうか、
安定するのは、欲求が充足できて満足したときである 。すなわちその反対のときには動乱をつ ける
つ
な
わけである 。
動物の性欲は生殖(生理的、肉体的)の目的だけのものであり、そのために発散するエネルギーは
限定されている 。 しかし、人間の場合はエネルギーの余剰が他の動物に比して多いのと同時にその性
愛(心理的性欲と生理的性欲)が主目的で、生殖はそのおまけにすぎなくな っている 。 心理的欲求は
際限なく広がるものであり、容易に満足しないものである 。 しかも、性欲充足には必ず相手が必要で
あり、この過剰要求を満足させるためにあやまちをおかしやすいので、ここに﹁べからず﹂を良しと
性のよろこび
する思想や、その訓練が生まれてきたのである。
ヨガは、エネルギーの善用(昇華)を教えるものである 。だからヨガにおいては﹁べからず﹂がな
い。訓練と理性によって、欲求エネルギーを善用すればよいのである 。どういう立場になっても困ら
ない、 喜んで生きていける広い適応性(悟り)をもった自己を作りあげていくのが、ヨガの訓練法で
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23
ある 。
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性欲についてもひとりの場合と、ふたり(夫婦)の場合とにわけで説いて いる。 ヨガでは欲求の正
しい生かしかたと 、その コントロール法のふたつを教えるのである 。
相手のない場合の性欲
性欲は他の本能欲と同様に、 生まれたときから 与えられているものである 。 ただし 、性欲と思考力
は次第に成 長していくものである 。
幼児期の性欲は、も っぱら心理的のものとしてあらわれている 。 この性欲が愛の心になるのであろ
う。事 実、脳の性欲中枢のところに愛情中枢も存在するそうである 。 この性欲(愛情)中枢が異性を
求める 心 を生じさせるのである 。
思春期を境として 、 生理的性欲が発達してくる 。 この生理的性欲の満足には、対象としての異性の
肉体が必要である 。 しかし、人聞においては、どの異性にでも自由にということは許されない秩序に
な っている 。そのために人間的秩序維持のために結婚という形式が人間だけにあるのである 。
しかし、 生理的性欲が起こ ってきたから、すぐに結婚という 具合にいかないのが人間社会である 。
ではこの要求をどのように処理すればよいのであろうか 。
性欲はエネルギ ーの発散欲である 。 エネルギ ーは、どの方向に発散してもよいのである 。 たとえば、
運動、勉強、仕事などの方向に発散させる 。 これをエネルギーの転化というのである 。発散要求は、
とにかくどの方向に対してでもよいから、発散させることができたら、安定するのである 。事実、性
エネルギーを昇華して、精神活動や、仕事 の面に使っている人は多いものである 。 独身時代は、この
エネルギーの転化と昇華のくふうと努力をなすべきである 。
生理的性欲エネルギーを転化、または昇華せずに一人で発散させる方法もある 。 俗にこれを自慰行
為といっている 。 これもよいかもしれないが、エネルギーは善用する方がよいと思う 。人間の性欲は
性交を通じてしか発散できないというものではない 。 ことのことはよく自覚しておこう 。自慰や性交
過剰の 害 をとく人がいるが、これは迷信 である 。 性エネルギーは、元来、プラスのものであるから、
発散したとい って、 マイナスになるものではない 。自然的欲求のままに発散して 害 があろうはずがな
い。 ただ、自分の心理状態、 生 理状態や相手 のことを考えずになしたら、罪悪感の暗示が障害 をつく
るのである 。
結婚後の性欲
性 の よろこび
前述のように、性欲には、 生 理的なものと心理的なものと 生 殖的なものがあり、 これがひとつに
な って要求としてあらわれるのである 。生 理的性欲の最も旺盛な時期は、 男子 は十八1十九歳で女子
では 二十八1 九歳からということにな っている 。 だからこの時代ではちょ っした刺激でも性的興奮が
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起こ ってくるのである 。 この性欲が結婚によ って性交へのル lトを得て自然的なはけ口を見い出すた
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めに、性欲に対する落ち 着きができてくるのであり、このあらわれは、男性よりも女性のほうに顕著
で 木婚時代には、ちょ っとしたことにもはずかしが ったり 、さわいだりしていたものが (
、 土 蓋恥は性
的興奮と同質のものである)、結婚後、落ち着いてくるのはこのためである 。
性要求の調和と結婚との関係
なぜ、人間だけが性欲を問題としなくてはならないのであろ う か。 そ れ は 人 聞 は ほ か の 動 物 と ち
が って、特に大脳が発達しており、大脳の前頭葉下面部にある性欲中枢が条件づけられて(習慣づけ
られて )、い くら で も 発達 するからである 。人間の性欲は、 生理的、心理的、 習慣的の 三因 子 によ って
左右 されるものである 。 動物の性欲は純然たる生理的要求だけ である 。
人間の性欲は結婚によ って、新しい条件反射が性欲中枢につくられるわけである 。 この条件反射の
ちがいが 各人べつ の性欲、性感、満足、不満足のちがいを つく るのである 。
結婚は、性交を通じて、男と女がひとつに結合(これを愛という)する神聖なる儀式である 。結婚
生活における健全 な 性生 活は男女ともに、エネルギーの解放による心の 安定と肉体の健康保持のため
の重要な因 子となるのである 。結婚生活における精神的愛情と肉体的愛情(性愛)とは、同じ愛情の
表裏の 二面であ って
、 心愛の欠乏した肉体的愛に真の 喜 びが得られるはずはなく、肉体愛の不満はか
ならず、精神愛をこわしてしまうのである。性的不調和が、結婚生活の不幸困、夫婦愛の破綻の原因
になっている事実は、結婚している人々がひとしく自覚しているところである。
夫婦は愛しあわなくてはならない。喜びあえなくてはならない。そのためには、どのようにするこ
とが、人間的性欲を正しく育て正しく満足させる方法であるかを理解しなくてはならない 。結婚にお
けるセックスの喜びを高める第一歩は、お互いが、男女のセックスの特色(相違点と共通点)と個性
別の特色を理解しあうことである。しかし、このことは表面には出ていないことであるから、知識に
よって照らし出す以外に知る方法はないのである 。人間の性欲は心理的、生理的、環境的刺激や条件
のちがいによって、高められたり、低められたり、阻害されたりするのである 。
この意味において性の喜びを広げ、高めることは夫婦の共同事業でなくてはならないというのであ
る。すなわち、夫は妻の性の喜びを解放し、妻は夫の性の喜びに協力するのである 。 このために必要
なことが、お互いの学習である。ヨガにおいては、一方的で自己本位的な喜びを否定している 。 これ
は何事についてもいえることである。またヨガは知ら 、
さること(無明)が苦しみをつくる原因である
と教えている。しかし、いかに多くの男女が、性に対して、無知なことであろうか 。
性のよろこび
われわれは正しい生きかたと正しく生きる喜びを得るためにも、男女の性に対する正しい理解をも
たなくてはならないのである。
性ホルモンは、ほかのいろいろなホルモンとともに肉体の健康を維持する働きをなすとともに、心
7
における情緒活動の原動力ともなっているものである。このために、たとえ周囲からの性的刺激がな
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くても、性欲は自然的に発生するものであり、性生活が心の安定剤として 、また健康保持として大き
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な役割をも っていることに 気づ かれたことであろう 。 性生活は男性にと っては 不可欠 のものであるが、
女性にと っては、必ずしも、不可欠のものではないと 信 じている人がよくいるが、これはまちがいで
ある 。 その証拠に性要求の興奮過程と、その満足による解放過程における生理変化は男性よりも女性
のほうが強いのである 。
しかし、ただ、性交 すればよいのではない 。男女ともにこのことを通して、楽しく和合できるもの
でなくてはな らないのである 。性生活の 喜びの調和のなさが離婚原因の大きなものとなっている 事実
をご承知であろう。
性生活 の喜びを男女ともに味わうにはどうしたらよいのであろうか 。 その解答は自分が自分を知る
とともに、相 手をよく知らなくてはならないのである 。すなわち 自 他の理解が調和への唯 一の鍵であ
る
男女の性の相違点と共通点
性興奮の場合よく男性は頭脳的、女性は肉体的といわれて いる。 男性は精神的刺激だけでも興奮で
きるが、女性は肉体的刺激をぬきにしては興奮できないのであり、この違いが要求の仕方と興奮の仕
方のちがいを 生 みだしているのである 。男性は見ても聞いても、考えても、い つどこでも 異性の誰に
対してもすぐに興奮できるのであるが、女性はそうはいかない。
女性には種(相手)をえらぶ本能があり、また女体は触覚刺激によってのみ興奮できるのであるか
ら嫌いだと思う人に興奮することはできないし、また好きだと思う人には、抱かれること、愛撫され
ること、自分の保護者として自分一人のものになってくれることを求めるのである 。しかも女性には
身体全体に性感帯が広がっており、このために身体のどこからでも性感をよび起こさせうるのである 。
性感帯というのは、触刺激に敏感で、性的反応を誘導する場所であって、この部には知覚神経が多く
集っているのである。たとえば、毛の生えたところや、はえ際(陰毛、脇の下および頭髪の生え際)、
皮膚が粘膜にうつるところ(唇、虹門、鼻孔、陰唇、乳房)皮下脂肪の少ない皮膚面(手のひら、足
のうら、指先)および性器に近いところで、この性感帯は性の喜びをひき出す源泉として、自然に与
えられているものである(男性の場合、性器を中心としてその近くの部位がそうである)。しかし、性
感部位の感度の強弱は各自によってちがうのであるから、お互いにその位置を知りあってくふうすべ
きであり、その部位を活用することは、情動の開発育成に役立つのである 。
われわれの感覚の中には、いろいろなものがあるが、性感というのはこれらの総合感覚なのである。
性のよろこび
したがって、上手に総合的刺激を加えないと、この性感は快感をひき起こさないわけである。
しかもこの性感帯は習熟によってどこまでも発達するものであるから、夫婦の協力(特に男は女を
誘導して)によって、体内に眠っている性感帯をよび起こさなくてはいけないのである。この性感帯
をよび起こすものが、愛撫であり、愛語であり、表情であり、ム ードである。
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しかも興奮の仕方には個人差がある 。 男女ともに、どうすることがお 互 いを 喜ばす方法であるかを
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知るべきである 。 これが思いやりである 。 人聞は動物とちがって、きわめて高度の精神活動をも って
いるから、肉体的刺激だけでなく、精神的刺激をも加えないと、充分な性欲 (
興奮)もその 喜びも喚
起できないのである 。特に女性は触覚刺激だけに依存して興奮を維持しているために、絶え間なき愛
撫を求め、安心の雰囲気をも求めるために、愛語 のささやかれるのを切望するのである 。
しかし、承知していただきたいことは、男性もまた愛撫、愛語を求めているのであり、夫は 妻 のし
めす反応が刺激となって興奮することを忘れてはならないのである 。 だから、女性は、素直に、 上手
にその反応を夫に 示 す努力をしていただきたい 。 よき妻とは反応の鋭敏なパートナーであることであ
る。相手を喜ばしていると感ずるとき、自分もまたうれしくなるものなのである 。 したがってヨガで
は相手 を喜ばす生 きかたをするものにのみ喜びが与えられると教えているのである 。
ヨガは 喜び、楽しめる尊い価値ある生きかたをするにはどうしたらよいのかを、くふうし努力する
生活の哲科学なのである 。
セックスも生活の 一部円であるから、セックスの満足、不満足が全生活に影響するとともに、他の
生活の部門がセックスに影響するのであることを自覚しなくてはならない 。 セックスの 喜 びだけを切
りはなして求めてもだめなのである 。 またセックスに 喜 びが感じられないということは、ほかの生活
そのものもまちがっていることをしらなくてはならない 。 ヨガではセ ックスもまた修養の重要部門で
あることを強調していることを自覚していただきたい 。 そ の 証 拠 に 、 心 身 の 健 全 を 保 持 す る 要素 が
、
寿命をのばす要素にも 、性的能力を高める要素にも、 また性生活の寿命をのばす要素にもなっている
ではないか 。
その要素とはなにか。整った豊かな感情であり、バランスのとれた食物(娼薬と称しているものは
ほとんどが燐剤、窒素剤であり、促進食と称しているのは、刺激剤である 。 これだけを摂取しても、
なんにもならない)であり、正しい運動であり、完全なる睡眠である 。特に晩年の性的能力を復活さ
せる 霊薬は、ホルモン剤ではなくて、情動であることを自覚していただきたい 。
性生活は 一生 のものである 。私たちの生活を支配しているものは、条件づけ(習慣)、体験、記憶で
あり、性生活においても、これらが重要な役割をなしており、これがまた晩年に影響するのである 。
その証拠に、健康な性生活をつづけた人は、性腺の機能が停止した後でもその能力を失わないもので
ある 。
交わりについて
性のよろこび
精神的および肉体的刺激の結果、 その緊張と要求がたかまり、 その緩解を求めて、 直接的な性器結
合をするのが、交わりである。
結合前、ある程度まで高まっていた性的興奮が、その結合後の刺激によって、次第にその興奮度を
増加し、その緊張の極に達したときに大脳において、精神的快感の極致を味わい(これをオルガスム
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スという)、 そのとき、肉体的には 、 男性は射精し、女性は分泌するのである 。
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男性のたどる道
興奮からその解放までにおいて男性と女性は、そのたどる道がちがうのである 。
男体は、勃起、粘液(アルカリ液)分泌、大脳興奮、射精の順序である 。勃起すなわち性交要求で
はない 。粘液分泌からである 。 この粘液分泌に女性が協力しなくてはならない 。 この分泌後に結合が
はじまるのである 。 男性の興奮は、射精とともに瞬時に緩解されてしまうのである 。
女性のたどる道
女性は射精しない 。 分掛だけである 。 この分泌に興奮の五段階があり、この段階を次第に高めてい
かないかぎり、極致(オルガスムス)には達しないのである 。
第 三段階 (これを陰核性感という)までは愛撫、抱擁、自慰で達 しうる 。 この段階の次が結合要求
で男性は女性をここまで誘導してやらなくてはならないのである 。
興奮の第四段階が 、腔部性感であり第五段階が、子宮部性感である 。 この第五段階にオルガスムス
が起こるのである。オルガスムスは興奮の極による反射的な全身ケイレンで、その特徴が骨盤筋肉群
の収縮である。女性はこのオルガスムスに達しないと満足できないのである。しかも妻のオルガスム
スはいつも予定されるものではない。遅かったり、早かったりするのである 。 夫はいつでも達し得る
のであるから、妻の進行に対して注意を払うと同時に、その興奮促進に協力してやらなくてはならな
いのである。女性がオルガスムスに達することができないとき、その欲求不満(興奮を緩解できない
ための持続的緊張と充血)が感情を異常過敏にしたり、反抗的にしたり、その不満エネルギーが内向
刺激となって、不眠症になったり、だるくなったり、憂うつになったり、各種の病気になったりする
のである 。 また、みたされたことのない女性はそれが条件反射化して性的無関心者、つまり俗にいう
不感症になってしまうのである 。
男性もまた欲求不満のときには、その不満エネルギーが、心理的、生理的な異常原因となるのであ
る。だから正しい性の満足が、感情の安定と発達につながり、肉体の健康の 一因となるのである 。統
計によると妻帯者のほうが、独身者より長生きしているといわれているが、その理由はこんなところ
にあるのではないだろうか 。
そうならば、独身はいけないのか 。 いけないことはない 。性欲は発散エネルギーであるからほかの
方向に上手に発散すればよいわけである 。 事実、性欲は発散エネルギーであるから、ほかの方面、た
性のよろこび
とえば、仕事、勉強、運動のほうに発散していれば、性欲は減少してくるものである 。こ のことから
も男女ともに、性欲と性能力についての正しい理解をもたなくてはならない 。
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夫婦和合のために
欲求は蓄積エネルギーであるから、エネルギーがたまればたまるほど、その欲求は高まるのである。
だから仕事にエネルギ ーを集中しているときには、一見、無要求のごとくになるのである 。
しかし、このことがすなわち無能力になったことではない 。
また人間の性欲は心理的なものと生理的なものの結合であるから、心と身体のどちらかに異常があ
る場合には、この欲求もまた減少するのである 。 たとえば、心的緊張や不満の持続、身体の異常や疲
労などである 。また精神状態がこの欲求を高めたり、ひくめたりするから、夫婦聞の心のむすびつき
がさびれているときには、この欲求もまた低下するのである 。
性欲は、余剰エネルギーの発散要求であるから、ヨガの見解からいえば、要求の生ずるかぎり、性
交に過度はないのである。古来、性交によって、なにかを失ったり、なにかを補ったりしなければな
らないように考えている人がいるけれども、これはまちがいである 。 身体は使うほど丈夫になるでは
ないか 。性器もまたそのとおりである 。弱ったり、こわれたりするかのように見えるのは、使いかた、
休ませかたがわるいからである 。 ヨガではこれらの正しい生活法を教えている 。
余剰エネルギーがなくなったときには、要求は起こらなくなるのである 。欲望を感じたときに自由
に発散するのが自然(正しい)ではないか。
ただし、性交には相手が必要である 。 しかし、両方が同時に欲求したり、その能力があったりする
とはかぎらない。だから、この場合はお互いに調節しあわなくてはならないのである。社会秩序維持
のためには、そのコントロールもまた必要なのである 。
夫が仕事などに集中して、その性欲が減少している場合には、妻はほかの仕事の方面に発散するこ
とをくふうすればよいのであり、この相互の思いやりが愛情である。
しかも男女ともに、欲求の高低には周期的なものがあり、これがまた人によってちがうのである 。
(たとえば、女性は月経の前または後、または中期に高まりゃすいという)、年齢的にみても、男性は
だいたい 三十歳から下り坂になり、反対に女性は上り坂になるのである 。 いかに、このちがいを調和
させるかが、夫婦のくふうと努力であろう。男性は性交したら必ず射精しなくてはならないものと考
えることをよすべきである。女性は長い愛撫や愛語やム lド、性器の結合や抱擁だけでも、喜べるの
である 。
さらに性欲の過少と実際能力(体力)は一致しないのである 。 これをしらないために、性欲の減退
を体力の減退のごとくに考えている人が多い。事実、精神的性欲過多者には、性能力が衰えており、
性のよろこび
心的に異常のある人が多いものである。
私たちは正しい要求を育てあげることに努力しなくてはならない 。 これがヨガである 。
ヨガでは、平静かつ安定した心身から発生した要求を正しいと見るのである 。
女性には不感症が多いといわれるが、私にいわせれば、性器そのものに故障のないかぎり真性の不
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感症人はいないと思う 。 これはなおりうるものであると確信する。
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なぜならば、不感症とは、燃えてもオルガスムスに達しないだけであるから、性的知識を高めて、
第五段階の興奮にまで誘導する方法を講ずればよいのである 。
その理解のために、刺激のくふう、体位のくふう、性感帯の活用のしかた、ムードの利用、男性側
の持続時間の延長法、性感をたかめたり、コントロールしたりするための各種行法である。
性欲は発散要求である 。相手が上手に発散させてくれないとき、ほかの身体をかりたくなるのは内
なる自然の要求である 。 いたずらに、不義とか、不貞とか、浮気とか責め合わずに、夫婦は両方の喜
びの達成のくふうをなすべきである 。 人聞は、同一刺激になれたときには、感受性が病癖してしまう
こともしらなくてはならない 。だから変化のない単調さが不満のもととなり、その不満解消のために、
新しい 喜びを求めるのである 。だから人聞は 一生を通じて学習しなくてはならないのである 。夫婦以
外のほかに新しさを求める必要はないのである。夫婦自身お互いに、変化のくふうをして常に新しさ
をましていけばよいのであることを自覚しようではないか。
昭和初年6月頃の著作)
(
長寿法問答
この世に生まれてきたからには、健康で長生きしたいと願うのは人間だれでも同じである。しかし、
そう願いながら、たいていの人達は不健康への道、短命への道に迷いこんでいる 。 それは、正しい人
間の生き方を知らないからだと思う 。そこで、ここでは長寿について考えてみたい 。
ヨガで長寿になれるか
︹
問︺ 長寿法について説明して下さい 。 ヨガ行者の中には長寿者が多いそうですが、 なにか秘訣で
もあるのでしょうか。
︹
答︺ ヨガを健康法や長寿法のように考えている人がよくおりますが、これはまちがいです 。 たし
かにヨガの行者達はみな長生きをしています。私の師匠の 一人は百 二十六歳だといっていました 。 し
かも体力、気力、脳力ともに七十歳前後にしか見えませんでした 。な、ぜヨガ行者には長寿者が多いの
287
かという理由と、 ヨガの性格を説明してみます。
8
28
ヨガは、どのような生き方をすることが完全なる生命の働きをあらわす方法であるかということ、
およびなにが生命の働きの邪魔ものであるかということを研究する生命の哲学であり、その実践法を
研究する 生活の科学です。人間の正しい生き方 の実践方法を、体験にもと づいて集計し、それを体系
づけているわけです。生命についてどういう真理を発見したかというと 、次のふた つです。ひとつは
生命現象というのは調和維持の働きであるということ、もうひとつは生命の働きは適応性の働きであ
るということです。行法はその生き方を教え、哲学はその理論を教えます。 これを実践する結果とし
て天寿を全うできるわけです。
天寿 というのは、も っている能力を 全部使 いはたして自然のままに老衰死(自然減)するわけです 。
人間のほとんどは、自殺または他殺による不自然死をしています 。自殺というのは内因性の病気で 、
他殺というのは外因性の疾患です。人聞には天寿を全うした人が少ないために、幾歳で死ぬのが自然
死であるかがよくわからないのです 。 これに対し、いろいろな説があります。常識的になっているの
は、動物の自然死と比較して成長期の五倍ぐらいらしいということにな って います 。 そうすると人間
の場合 百 二十五歳から百五十歳ぐらいまでということになります。 この年齢まで生きた人がいる事実
をみると、そうであるらしいとうなずけます。医学の最終の目的は天寿を全うすることにあるという
のが正しいあり方ではないでしょうか 。 また、たった 一度 のこの地上への招待ですからわれわれ自身
も天寿 を全うで きるよう努力す きではないでしょうか 。生 命は無上の 宝 です。
べ
、
長生きへの願いは本能的なものです。 三千年の昔、秦の始皇 帝が不老長寿の秘薬を捜させたといい
ます。 また、スターリンも、長寿への願いから巨費を投じてふたつも大きな長寿研究所をつくらせま
したが、七十五歳で死んでしまいました 。古今、洋の東西をとわず長寿への願いは同一のようです。
また、いろいろな方法が研究されています。 ヨガは、長寿法研究の学ではありませんが、正しい生命
の働きの具現法を研究修行することから、その方面の要求にも応じうるわけです。 とにかく正死は自
然死であり、正死は、正しく生きた人にのみ与えられるものですから、正しい生き方を研究している
ヨガはこの願いの解答にもなるわけです。
長寿の理論とその秘訣
︹問︺ ヨガの立場からみた 長寿の理論とその秘訣を教えて下さい。
︹崎合︺ ヨガ的長寿法と 他の 長寿法のちがいは 、他の長寿法は部分的に傾きすぎているきらいの多い
ことです。 食物だけを強調したり精神だけ説明したり、呼吸や運動だけを説いたり、部分的にだけ 主
長寿法問答
眼をおきすぎています。 たしかに部分的観点にたってみれば、そうであるかもしれませんが、人間の
身体は生活および心理、生理、解剖、環境の総合ですから、全体的バランスを説くヨガの教えがほん
とうだと思います。研究部門のちがいによって、血液アシド l シス症がいけないとか、ストレスがい
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けないとか いろいろ説いています 、
が これらを含む天寿をはばむすべてがいけないことだと思いま
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す。
最近ロシアでは老衰の原因は細胞を形づくる蛋白質の硬化であるから、これを防ぐにはソーダ温浴
がよいなどと発表していますが、これも大発見ではありますが、これがすべてではないと思います。
生命の働きはわれわれの生体の上に、心理、 生理、解剖の形であらわれていますから、これらの上に
老化現象がどのような形であらわれているかを観察して、そのあらわれを少しでも長く防ぐには、ど
うしたらよいかを考える研究が長寿法であると思います。
老化傾向は筋力、繁殖力、精神力の低下です。 これは萎縮硬化、機能失調の形であらわれます。 ま
ず、肝臓がちぢみます 。 ついで血管や皮膚筋肉および骨までちぢんで硬化します。脳や心臓は比較的
に遅いのです。これを防ぐにはどうしたらよいかを考えてみましょう。 このあらわれとして死亡率の
最高を占めているのが、癌、糖尿病、動脈硬化、高血圧、潰蕩、肝硬変、老人ボケです。 これらは病
名がちがうから、いかにもちがった病気のように思えますが、これは同 一の老化状態に、環境、体質、
運動、食生活、精神状態の 差が、病名別をつくっているだけです。 このことはあらゆる病気に通ずる
ことです。これを防止するには、どうしたらよいか 。 それは、くつろぎやわらいだ解脱心をもつこと、
すなわち心の安定です。 血の成分にかたよりをつくらない食生活の実行と呼吸をととのえることです。
姿勢にゆがみをつくらない体操をすることです。
キリスト時代の平均寿命は 二十歳だったそうです 。 それがだんだんのびて、ここ 二十年くらい前ま
でに人生五十年となり、今は七十年までに引き上げられました 。 これは、神経とホルモンの研究がす
すんだためです 。これから先は、生命の働きそのものについて研究していけばよいわけです 。 心が乱
れたり血がにご ったり、姿勢がゆがんだりすると、神経とホルモンの働きが狂 ってきます。ヨガ行者
は四、五千年前からこの事実に気づいて、それを防ぐ方法および神経(クンダリ l ニ)とホルモン
(チャクラ)の働きを促進する方法を行法として組織だてているのだから偉大なものです。
な、ぜ、心を乱したらいけないのでしょうか 。 それは興奮神経と興奮ホルモンだけが過剰に働きすぎ
て、そのために細胞の緊張がつづき、その極には萎縮硬化し、神経もまた麻簿してしまうからです。
感情が対立すると身体の働きのバランスをとっている生存中枢であるところの間脳の働きが乱れてし
まい、このために身体ぜんたいの働きに異常が起こってくるわけです。 これを防ぐ方法が眠りであり、
くつろぎです。動物の健康法は、眠りとくつろぎだけです。 しかし、人聞はこれが上手にできないの
です。この理由はいずれ申し上げますが、ヨガは専門的にこれを教えています。
ヨガの行法および哲学は、心身の放下(解脱)を教えるものですから、ぜひ学んでほしいのです。
心労は人聞にだけあるもので、生命の最大の敵のひとつです。古来、宗教家や信伸人に長寿者が多い
のは、心の安定のためです。医学会でヨガ行者の脳渡が一番安定していると報告されています。 ヨガ
長寿法問答
は心身安定の法を教えるのです。安定の要求は生命の本質です。安定しているときに生命はその完全
な働きをあらわすわけです。心身の安定した生活状態をネハン(ニルパ l ナ)、静寂(ウヤンティ)と
いいます。また、この境地を解脱(悟道)の境地というのです。安定するためには調和のとれている
9
21
ことが必要です。 調和のとれた生き方を教えるのがヨガです。調和のとれているためには無対立、無
9
22
要求、無条件、無束縛の生活をしなければならないわけです。この心をつくる一番よい方法は真理の
自 覚、呼吸法、 五官コントロール法、冥想法などです。
つぎに、食物と呼吸が身体におよぼす影響と、それを防ぐ方法を説明しましょう。 まず食生活で一
番気をつけなければならないことは、栄養の成分にかたよりがあってはいけないということです 。栄
養がかたよると、血液の性状がか たよります。 この状態のことをアシド l シス(血液酸毒症)または
病的アルカロイジスといいます。 これがあらゆる身体異常の重大因のひとつとなっています。 この状
態になるとまず第 一に生命の火であるところの酵素 が働かなくなり、細胞は萎縮します。ま た神経は
麻癖し、各内臓の働きは低下します。 このアシド l シスをつくる原因としては、ふたつのものがあり
ます。 ひとつは呼吸性アシド lシスです 。 このために、古来健康長寿法として体験的に呼吸法が重要
視されています。 すなわち常に深く、 長 く、しずかな呼吸をすることが必要なわけです。 昔 から 長息
は長生 きにたとえられております 。東洋の修行法はすべて呼吸法を中心にして組み立てられています
が、ヨガは特に呼吸法に 重点をおいています。血の中のヘモグロビンが酸素と結合しているときは鮮
紅 色 ( 健 康 色 ) で あ り 、 炭 酸 ガ ス と 結 合 しているときには暗紅色の病人色でこれは誰にもわかること
です 。
もうひとつの原因は代謝性すなわち食物性アシド l シスです。健康体でなければ長寿はできません 。
健康体の血は中性に近い弱アルカリ性です。 ここで参考までに、アシド!シスとアルカロイジスとの
比較をしてみましょう。 アルカロイジスのときには塩基根(カルシウム、 ナトリウム、 カリウム、
マ
ー
グネシウム)が多いのです 。 こ の 中 で 、 カ ル シ ウ ム と 燐 が そ の お の お の の 旗 頭 と な っ て バ ラ ン ス を
とっています。すなわち健康体というのは、カルシウムおよびカルシウムイオンが高値であるという
ことです。癌や高血圧や糖尿病患者のカルシウムイオンが低くなっていることでもこのことがわかり
ます。 カルシウムイオンが低くなることが慢性病の末路のようです。死期が近づくとむくみますが、
それはカルシウムイオンが低いために、細胞内のものが細胞外に出されるからです 。
古来から、このカルシウムイオンを高値にするものを強壮長寿薬としています。 たとえば、スッポ
ンの血、まむし、松葉、朝鮮人参、にんにく、海草、骨の丸喰い、野菜食等々です。これらの中には
ビタミンおよび鉱物質が多いのです。それで、これらの食物を多く食べている人には長寿者が多く、
その反対の人には短命者が多いといわれています 。
天 寿 を 願 う も の は こ の よ う な 食 物 を 多 く 摂 取 す る こ と で す 。 今の医学でひとつひとつの病気の 真 因
はわかっておりません 。 しかし体液のアンバランスが共通の原因となっていることはわかっています
から、生活全般を通じて弱アルカリ性を保つように心がけることがたいせつです。 これが生命(宝)
をたいせつにする生き方です 。 生命をたいせつにするものだけが、生命から守られるというのが 真 理
長寿法問答
でしょう。
副腎の働きのじようぶな人は長生きするといいます。女性が男性より長生きする 一因は、 ここにあ
るらしいのですが、この副腎の強弱とカルシウムの多少は正比例しています 。
9
23
放射能の害についても、カルシウム含有量の多い食物ほど、放射能含有量が少ないと発表されてい
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ます。 またいろいろなショックに対してもカルシウムイオンが低いほど弱いのです。
血液がアシドlシス化すると、内臓の働きは低下し、ホルモンおよび神経の働きは失調し骨もまた
弱くなり、代謝作用も再生力も減退しますから、野菜や海草や骨をたベて常時アルカロイジスを保つ
ことを心がけることもたいせつです。
健康法というのは、この体液を弱アルカリ性の状態に導くことを目的にしています。 運動、深呼吸、
冥想、水浴等は、この刺激によって副腎皮質ホルモンの働きを たかめ、カルシウムイオ ンを増加し、
血液をアルカロイジスにする効果があります 。 成 人 病 の う ち で 最 も お そ ろ し い の は 、 動 脈 硬 化 と 細 胞
硬化です 。 これらをつくる原因の主なものは心労、過労、食の誤りです。食の面でこれを防ぐ手近な
も の と い え ば 、 松 葉 、 葛 葉 、 ゴ マ 、 大 豆 、 玉 ネ ギ 、 蜂 蜜 、 緑 野 菜 、 海 草 等 々 で す。
こ れ ら の 成 分 に つ い て は 食 物 の 問 題 の と き に 説 明 し た い と 思 い ま す 。 ただ、白本人があまり食して
いないことで、ぜひ老化防止のために実行してもらいたいと思うことは、コンドロイチンを多く含ん
だ物をときどき食してほしいことです 。 こ れ は 結 合 組 織 細 胞 に 対 し 特 別 な 栄 養 的 な 意 味 が あ る の で す 。
こ の コ ン ド ロ イ チ ン は 、 軟 骨 腔 皮 膜 等 に か わ 質 の 多 く ふ く ま れ て い る も の に 多 い の で す 。 魚のひれや
骨や牛の尾などを買ってきて、煮汁を食べるとよいでしょう。ヨガでは定期的にこれを食べています 。
つ、ぎは身体の使い方について説明してみましょう。生命の働きは適応作用ですから、鍛えればじよ
うぶになり、使わなければ弱くなります。上手に使って上手にやすめることが健康長寿の秘訣です 。
人聞は使い方も休め方も下手です。そのために身体にゆがみができてしまい、それが生命の働きの慢
性的な邪魔をしてしまいます。だからヨガでは、この体癖の修正および除去のためにいろいろな運動
法や体位法を教えるのです。
正しい姿勢で、正しく動くということは健康、長寿法の秘訣のひとつですから、常時、それを心が
け、また、その訓練をしなくてはなりません 。参考までに老化体型を示してみます。老化現象を起こ
している人は、首の筋肉が萎縮硬化していて、顎は前に出ており、肩に力が入って、腹の力がぬけて
腰が曲って硬化し、尻の力がぬけて骨盤が下垂して下で聞き、膝と足の小指に力の入った前かがみの
姿勢をしています 。 これは疲労時の体型によく似ています。この体型をつづけていると青年でも老化
します。特定の体癖が慢性的な特定病の誘因となるように、老人性体型が早老の誘因ともなるわけで
す
。
いついつまでも若さと強さを保ち、自己の欲する道を歩みつづけ、自他に実績をのこす、生き甲斐
のある暮し方をするために、つぎの原則を守ることを心がければ、自然に長寿に結びつくでしょう。
常に適度の訓練をして、身体の適応性を高める。
長寿法問答
全身の均等発達を心がけて、身体にゆがみや体癖をつくらないように努力する 。
調和的積極的な思考内容を自己化するよう心がける。そのためには常に若々しく、強く、楽し
く、ゆったりした気分で生活する。
9
25
体液の内容に気をつけて、血の 毒 化による 全身機能の失調を導かないように注意する 。 そのた
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めには食事のバランスをとることが必要である 。 過食はいけない 。 成分の不足やかたよりはい
けない 。
常に深く静かな呼吸を心がける。
自 然は健康である 。 健康は自然の中にしかない 。 自然死を願うものは、 できるだけ自然に親し
むことである 。 生命の自然の要求に従うのである 。
心の安定が必要である 。 心の安定のためには、 真 理を自覚し、それを身につけて解脱するため
の修行が必要である 。
天寿 を 願 う も の は 、 そ れ を 全 う で き る た め の 日 常 の 心 構 え 、 身 構 え と 、 そ の く ふ う が 必 要 で す 。老
化傾向は年齢の如何を問わずにあらわれてきます。早老傾向は体力不足ではありません 。 栄養不良で
もありません 。生活の中に 早老を 導 くものがあるからです 。 これを除くことを心がけましょう 。
昭和お 年2月頃の 著作)
(
疾病問答 その
なぜ人間だけが病気にかかりゃすいのか?
ーー なぜ、人間だけが弱いのだろうか 。どうして病気になりやすく、治りにくいのであろうか 。どう
すれば治るのであろうか││
このような質問があとをたたないので、問答形式でわかりやすく説明してみる ことにします。
︹
問︺人間も動物の 一種ですのに、なぜ他の動物はじようぶで病みにくく、人間だけが弱くて病みや
すく、また治りにくいのでしょうか 。
︹
答︺学者の発表によりますと、生物がこの地上にその形をあらわしてから約七千万年ぐらいたって
いるそうで、人間らしい形ができてからでさえ、五百万年はたっているそうです 。 この間、この地上
の環境はいろいろ変化しました 。 この地上に生存を許されたものは、適者生存の法則に従って生きて
9
27
いくことを許されたものばかりです 。 この法則のもとに、 生物はたえず変化して多種多様の形に分化
9
28
し、今日においては、その数が実に 二百万種の多きに達しており、この内で一番多いのが昆虫類で百
万種以 上、植物が 五、 六十万種、残りが脊椎動物のようです。
これらの地上生存者は、みな生き得る能力(適応性﹀をもっているものですから、その生活が自然
の法則にかな っているかぎりは、健康であるはずでありますし、疾病などがある道理はないのであり、
人間もまた同一の法則によって、生存を許されているのです。
しかし現実 はどうでしょうか 。人間だけがま ったく弱いのです。私はこの 事実 をヒマラヤ山中で動
物とともに生活して痛感しました 。病気をしている動物を見たことがありません 。外傷なども、すぐ
に自然に治 って しまうのです。それなのに人間だけが﹁病の器 ﹂ の如くに、常に疾病に犯され つづけ
ています。知恵は進み、文明は進歩したというのに、病名はふえる 一方で、品目は 病 種 を 四 百 四病と
い っていたけれども、現代医 学上の病名では十八万以上の多きに達しています。 しかもこれらの病気
に対して、その原因の知られているものはまことに少ないのです。どうもこれが原因らしいとの見当
でや っているわけです。 しかもこれが原因らしいという新説は次々と発表されており、それに応じて
治療法もまた、次々と変わ ってきています。治療法が正しければよいですが、知らずにまちが ってい
る場合には、その病気が治らないだけではなくて、他の病気を生みだしたり、その病気をさらに悪化
させてしま ったりする結果になります。薬を考えてごらんなさい 。一 時は救世 主 の出現かのように思
われていたものが、いつの間にかその真否を疑われだしついには消えていくものが多いのが薬の歴史
です 。
人智は相当に発達しています。科学の進歩は目ざましいものです 。 なのにどうして病気だけは、こ
のような逆行の姿をあらわしているのでしょうか。みなさんはこの疑問をもちませんか 。
︹問︺御説はよくわかります。多くの人もまたその疑問をもっております。私もそうです。 ただ、何
がほんとうなのかがよくわからないのです 。 ヨガでは病気をどのように解釈しているのでしょうか 。
︹
慾︺ ヨガでは病気という特別の固定した存在を認めないのです。生命の働きというのは、バランス
ロ
維持の働きです。 この調和維持力でわれわれはこのように生きているわけです。 ですからこの調和維
持の働きが、この生体内でスムーズに展開されている場合には、われわれは健康(本来の姿)でおれ
るのです 。
しかし何かが原因となって、この調和維持の働きの邪魔をしたとします。そうすると生命は、その
その l
邪魔物を除去して、その本来の姿であるところの調和性(健康)を回復しようとする運動を自然的
(本能的)に開始し始めるわけです。このときわれわれが感ずるのがいろいろな異常感や症状です。
疾病問答
異常があらわれると不快です。苦 しいために病気というものの解釈の仕方を誤ったわけです。すなわ
ち、悪いもの、害するもの、死に導くものと誤解してしまったわけです 。 しかし、よく見てみると、
この解釈の仕方はまちがいであることに気づきます 。
9
29
病気は健康と対立したものではないのです。病気そのものが、健康(正常)への回復運動なのです。
0
30
ヨガは数千年昔にこの真実に気づきました 。そうして病気のことを生命の行なっている健康法である
と見、そのように処理しているのです 。 ここで、病んでいることはすなわち正されているのであると
いう真理がおわかりになったことと思います。私達がこのようにともかくもぶじに生きていけるのは、
この異常排除、正常回復への働きが無意識的に 、 たえまなく行なわれているからです。これは生命の
働きのおかげです。異常を気づかないうちに処理できたら健康なわけであり、異常を感じはじめたと
いうことは、無意識の内に処理できないほど、その不調和が大きくなったことを意味します 。生命が
調和回復の働きへの協力を要求しているわけです。 これが正しい病気の解釈の仕方であり、生命の要
求に忠実に答えるのが正しい病気の治し方であります 。 人間の病気が治りにくいのはその観方、扱い
方が誤っているからです。
問︺よくわかりました 。 生命の働きに不調和をつくり出す原因について、今すこし具体的な説明を
︹
してくださいませんか 。
︹
筈︺あなたがあなたの疑問について、はっきりした解釈をつかむためには、まず第 一に調和維持の
働きについての理解が必要です。形のあるもの(表)は形のない奥の働きのあらわれです。表(現象)
に異常があらわれたということは、奥に原因があるということです。私達を生かしてくれている生命
は、どんな環境にでも適合していく知恵と能力を潜在的にもっていて、私達をその環境に適応させる
ため休みなく働いています。この生命は、過去の経験によって獲得した、かくれた働きによって自律
自主的に自動的調節作用をなして、自存しているもので、私達を生かしているものは生命以外の何物
でもありません 。 この原理を知らない人達は、生命(宇宙、自己)以外に、支配力をもっているとこ
ろの何物(神)かが存在しているなどと迷信に陥っているのです。 生命は自分を材料として、自分に
必要なものを作ったり(生)こわしたり(滅)して自存しつづけているのであって、これが自然現象
の姿なのです 。
私達は、このかくれた自己の中にひそむ働きによって宇宙とつながり、そして生きているのです。
この内の働きとは何でしょうか 。わかりやすくいう と、神経(クンダリ l ニ)と分泌液 (チャク
ラ)と、それを統 一する力(アラヤ、霊力)の働きです。生きているということは、内外の刺激に応
答して、それに適応する働きを行じて、その存在を保 っているということです。 私達の内外刺激を大
別すると、それは物理的刺激と化学的刺激とにわけられます。そうして、この物理的刺激に対する適
その l
応作用を行なっているものが神経であり、化学的刺激に対する適応作用を行なっているものが分泌液
です。 このふたつが調和維持の働きを行なっているわけです。さらにもうひとつ、これらの働きを統
疾病問答
一している目に見えない力があるのですが、これに対してはどういう名称をつけるべきでしょうか 。
霊聖力(アラヤ)、活力(プラ l ナ)、絶体力(ブルンヤ )などとヨガでは呼んでいます。 こういう生
命の機構を、現代医学が発見したのはごく最近ですが、ヨガの先輩達はこの真理を五千年も前に直観
0
31
しているのですから、 まったく敬服する以外にありません 。
0
32
完全なる 生命の働き(健康)というのは、この調和維持の働きがかたよりなく、スムーズに展開さ
れているということです。 不健康とか疾病状態というのは、この調和維持能力を失調しているという
ことです。 この失調の原因を取り除こうとする働きが、症状としてあらわれてくるのです。この程度
の如何が、臓器の働きの上にあらわれているのです 。 しかもそのあらわれ方は、その人の気質体質の
違いによ って、異なってくるわけです。結論はひとつであるのに、あらわれ方のひとつひとつに病名
をつけるために病種の数がふえるのです 。
それならば、どうしてこれらの働きに異常が生じたのでしょうか 。 それは誤った生活をしたからで
す。調和維持の働きが生命の働きの本質です。 しかも生命の働きは適応性の働きです。調和のとれた
刺激を与えられたときにだけ、この生命力は最も完全なる働きを自由に展開するのです。 かたよって
刺激を与えたときには過分な調和回復運動をしなければなりません 。 しかもこのかたよりを繰り返し
ているときには、過労の結果として、その回復力を失調してしまうのです。これが慢性的な病現象で
あり、その極が死であります。
ご承知のように私達人聞の身体の働きには癖(条件反射)がつきます。 この癖がつくということに
よって、私達は進歩することができるのですが、この癖が、生体の働きをかたよらせたりゆがませた
りする悪癖であると困るわけです。癖は習慣によってつくられるもので、身についた働きであり、し
かもこの働きは無意識になされるものです。 このために悪い癖が身についてしまうと、無意識に誤り
をつくり出してしまうのです。 これが慢性病の根本原因であり、それは精神面にもあらわれています。
この真理に気づいたヨガの先輩が﹁病気を見るな、生活を見よ 。病気を治そうと思うより、その原
因をなしている生活の中の悪癖を改めよ ﹂と説いている理由がおわかりになることと思います。 これ
が病気に対する正しい解釈であります 。病気になったり、治らなかったりするのは、その観方、扱い
方が誤っているからです。すなわち異常回復運動を展開している生命の働きのあらわれ(症状)を、
苦しみが伴っているために悪いものであるかのように考えて、この自然的良能作用をきらったり、お
それたり、これからにげようとしたりしています。 しかも治そうとしてこの良能作用を消すことに 一
生懸命です。 このことはい ったい何を意味するでしょうか 。 それは生命の異和解除(健康回復運動)
の機能を妨害すること以外のなにものでもありません 。 これでどうして病気が治るでしょうか 。
︹問︺よくわかりました 。反対のことをやっていて、治るはずも強まるはずもありませんね 。どうし
て、この真理に気づかなかったのでしょうか 。
それでは、正しい見方による、正しい治し方を、もっと具体的に説明してくださいませんか 。
その l
疾病問答
︹答︺ど うしてこの 真 理に気づかなかったかというと、苦しみ(異常現象)を悪いものと思 っていた
からです。過去において何人か、﹁苦しみは救う働き(神の愛)のあらわれである 。これを拝受し、こ
3
れに調和し、これを活用すべきである ﹂との福音をといた方があらわれ、これが今宗教の形でつづい
0
3
ていますが、医学の面においてはまだあらわれていないわけです。抽象的に説いた人はいるけれど、
304
具体的な研究にまでは入っていないのです。
多 く の 人 は 、 何 か を す る こ と が 治 療 で あ る と 迷 信 し て い る ら し い の で す 。 しかも現代医学における
いわゆる治療というものが、生命の自然良能作用(正常回復運動)を妨害 したり、打ち消したりして、
そのために人間の身体はかえって弱くなったり、なおらなくなったりしているという事実に気づかな
いでいるのです。人聞に自然死であるところの天寿を全うした人が少ない理由は、この自然の働きを
妨害 してきたからにほかなりません 。
人智は発達しました。この知恵で進化もしたのですが、苦しみを誤解したために迷信や邪法もまた
生じてきたのです 。幸 いにして、生命力の方が誤った治療法の妨害 力よりも強かったので、このよう
に生きながらえることができたのです。
この説明で、正しい治療法が何であるかの意味は理解されたでしょう 。
次のことが明 言 できます。
﹁病気が治らないのは、その回復への働きであるところの生命の行なっている治療法の邪魔をしてい
たからである﹂
﹁もしも自然良能作用をその発現のままに自由に経過させ、その要求に応えた協力の仕方(生活)を
なし、この協力のために生じた 二義 的 な 過 不 足 の 解 消 法 を 試 み る な ら ば 、 病 気 は 必 ず 治 る も の で あ
る
これで治すつもりで逆を行な っていたこと、病気が治らないのではない、治らないのにふさわしい
方法を行じていたのである、ということがわかると思います。
この意味において、﹁内なる力を喚起して自分の異常を自分の力によ って自然的に解消させる ﹂、
内の働きをととのえることが問題解決の鍵である ﹂、﹁病気は存在しない 。ただそれをつくりだす傾
﹁
向(悪癖)があるだけである 。 その悪癖を除けば、すなわち生活法を改善すれば、その異常は解消す
るのである 。 その方法が行法である ﹂と提唱し、その 具体的方法を教えているところのヨガの方法こ
そ真実であり、健康への鍵であると思います。
昭 和 お 年4月頃の 著作)
(
その l
疾病問答
305
講演会にて
東京・下北沢道場での断食会
3
06
疾病問答 その
病気の正しい観方 、 受け取り方
問︺症状があらわれていることは、治療されていることである 。 このことの本質をもっとわかりや
︹
すく説明してくださいませんか。症状は 異常回復運動であるという 真 理は、説明されるとわかるよう
な気がしますが、 具体的にのみこめないのです。
答︺そうですね 。 この﹁苦しみすなわち救いなり ﹂ の真 理がほんとうにわかった人を、悟っている
︹
人というのです 。逆巌が順縁であること、 苦 しみは救いの縁に 会っ ていること、症状が治療法である
ことに 気づ くことを、 自覚(正観、 正しい認識、 真 理の把握) というのです。 ひと つひとつの現象の
具体的意味の 真 実が把握できたら、それはもう神です。人間の 学 問はこの 真実 の究明に努力している
段階であり、今その過渡期で、少しずつわかってきているわけです 。真実というものはなかなかわか
0
37
るものではありません 。 仏教でも﹁業(カルマ) のあらわれることが、すなわち消えることである ﹂
0
38
と説いています。
仏教は業の哲学です。 ヨガによ って悟った釈迦は、菩提樹の下の悟りの第一 声 でつぎのように宣言
されています。
﹁誤った受け取り方、感じ方が私を苦しめる原因であった ﹂ ││この誤った物の見方、考え方は、
自分が勝手にそう思っていただけのことであり、自己流の考え方を中心として、物を観察していたか
らです。 私は 宇宙の働きの実相を観ました 。 すべての現象は調和維持の働きのあらわれ、すなわち現
象はみな、全体的調和回復および維持のために必要な働きなのです。
私はまたご切の現象には、絶対的な無上の価値と意味と使命と目的(これらが仏性)とがある ﹂
ことを知りました。私はこの絶対的な存在のものに勝手な善悪の価値をつけて、あるときは肯定しよ
うとし、あるときは否定しようとする愚かさを繰り返していたのでした 。 これが﹁我﹂ です。 この我
見を捨てて字宙的に見たときには、すべてが 善 であり、無上価値であることがわかります。 すべては
相関々係のある必要物で、このために対立否定すべき存在は何もないのです。このなすべから、さるこ
とをなしていたことが、すなわち﹁迷い﹂であったのです。 一切現象の中の善を読みとる能力のない
こと(無明│愚のこと)が惑をつくり、それが悪業(誤った生活)をつくり出すもとになり、そのた
めに苦しまなければならないのです。これが苦しみの真因です。救われるためには、まず自覚(正し
い理解の把握)することが必要です。そうしてその正しい理解にもとづいて、調和のとれた生き方
(中道すなわち入正道)をしなければなりません 。
現象は善(光、菩薩、仏)であることを私は知りました 。一 切は善(喜)であります。私は救われ
ている、私は愛されている、だから私は喜びに法悦しているのです。私は現象をそのままに受け取り、
そのままにまかせて生きるつもりです(全受、全托、合掌)。
以上が釈迦の悟りの内容であり、これが人類救済の福音となっている教えの本旨です。 この教えは
ヨガの教えのひとつ(三界は唯心の所現)で、釈迦は身体全体を通じてこの 真理を知 った(悟った﹀
のです 。仏教学の中に職伽というのがあるでしょう、あれがこの唯識論です。
ゆが
キリストもマホメットも同一の教えを基本としています。すなわち﹁すべては神の愛(義)のあら
われである。悪ありと神の愛を否定することがすなわち、罪である﹂と:::。
この教えは 真実 です。 ではどうして現象をそのまま 素直 に
、 真 実 のままに受け取り、おまかせの心
その 2
で生きることができないのでしょうか。それは誤った認識によって無意識に恐怖するからではないで
しょうか 。非科学的な時代の祖先の誤 った認識が常識となり、それが今日までつづいてわれわれを支
疾病問答
配しているからです。悪でないものを悪と思い、 善きものを敵視し、必要物を不必要と誤解して、そ
れと対 立して闘おうと思 ったり、それを消そうと思 ったりしたのですから、正しい方法が生まれてく
るわけがありません 。医学 や宗 教の方向がまちがってしまったのはこのためです 。
0
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正しい認識の仕方をせずに、正しい方法が生まれてくる道理がありません 。正 しい認識をするため
1
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には、まず誤解にもとづく恐怖観念をとり去ることが必要です。病気に対する正しい認識も方法もそ
こから生まれてくるものなのです。生 命現象というのは生体維持の防衛活動の総合的機構ですから、
この機構が与えられているためにわれわれ生あるものが生きていけるのです 。 これがわれわれ生きて
いるものの本質なのです。 ですからごらんなさい 。小さい小さい昆虫でさえも、誰から教えられるこ
ともなく、また他に守られなくとも、またいちいち考えなくても、自分の生き方、守り方、治し方を
知 っているではありませんか 。 この考えなくても存在する本質的能力(知恵)のことを、ハンニャ
(真智、神智)というのです。
ヨガは、この誰にでも与えられているハンニャの働きを呼び起こして、自分の異常を自己自身の力
によって、自然に調整しうる自己をつくりあげる訓練法を説いた哲学なのです。
問︺それでは具体的に、﹁能力は誰にでも与えられている同 一の力であるのに、そのあらわれ方に強
︹
弱がある ﹂、﹁人聞が他の動物より弱い ﹂、﹁同じ動物でも、家畜の方が野生の動物より弱い ﹂等 々:・の
ことはなぜでしょうか 。
筈︺それは生命の働きが﹁適応性の働き﹂であるからです。
︹
生命の働きの事実を見れば、このことがよくわかります。生命の働き方の傾向は環境によってつく
られていくのですから、使用すれば能力が高まり、使用しなければ弱まり、かたょ った刺激をすると
かたよってしまいます。 これが私たちの身体の働きの上にその事実をつくりだしている生命の働きの
真実の姿なのです。
人聞が弱くなった原因は、人間の進化が自己の身体だけを使用して進化したのではなく、他物に
頼つての進化であったからです。生命の働き は自己以外のものを用いると、そのも っている自己の力
を眠らせてしまうものです。他物に頼ると、それなくしては生きていけない弱い働きになってしまう
のです。 すなわち、人間が進化したのは、保護があったからで、しかもその保護物のために逆に弱く
なってしまったのです。 医学面でもそうです。 人為や他物にその治療法を頼りすぎました 。 このため
に自力で治る力が弱ってしまって、なかなか治りにくくな ってしまっているのです。 しかもその治し
方および頼ったものが、生命の要求にさからっているものである場合には、治らないだけでなく、他
の病をも作り出してしまうのです。 このために病名がふえてきたのです。
しかしいかに病名が多くなっても、結論的にいうとひとつのことの異常のあらわれにすぎません 。
それは生命の働きのアンバランスです。 そのアンバランスがどうして生じたのかというと、それをつ
その 2
くり出すいろいろな原因が内在するからです。
疾病問答
つぎにアンバランスのいくつかの例をあげてみましょう。
大脳の働きのアンバランス 大脳には興奮と抑制の両中枢があります。 この両者の働きの統 一の
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31
とれているのが健全な大脳ですが、その人の体験(知行両方)が大脳に記され、それが刺激に対
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する反応力になるのですから、ア ンバ ランスの体験をも っていると、その働きがアンバランスに
な ってしまうのです。大脳の働きを正すためには、調和的理性の開発と、調和のとれた体験をも
つことが必要です 。
間脳 の働きのアン バ ランス 間脳は自律神経と分泌腺と感情の中枢ですから、自律神経や分泌腺
や感情にアンバラ ンスがあると、この中枢の働きにアン バ ランスが 生 じてくるのです。自律神経
は内臓(不髄意筋)を働かせる神経ですから、生活の誤りが、そのままこの神経の誤りの原因と
なります。呼吸の仕方がアンバランスでも、食事の仕方がアンバランスでも 、身体の使い方や休
ませ方がアンバランスでも、みなこの神経の働きを狂わせてしまうのです。 この働きを正す方法
を修行というのです。感情のアンバランスもまた、この中枢の働きを狂わせてしまいます。バラ
ンスのとれた感情をもっ方法を、修養というのです。
大脳と間脳との不調和 これを正す目的でとなえられてきたものが、宗教であり、哲学であり、
医学 であり、道徳であり、法律です。とにかく病気というのは、神経の働きが興奮か抑制かのど
ちらかにかたよりすぎているか、体液の性状が酸性かアルカリ性かのどちらかにかたよりすぎて
いるか、筋肉および細胞が縮みすぎているか伸びすぎているか、同化作用か異化作用のどちらか
が激しくなりすぎているか、吸収力と排世力のどちらかが弱まりすぎているか、必要物に過不足
があるか、などというように、どちらかにかたよりすぎている状態です。 ところが生命の働きは
調和維持の働きですから、このかたよりが生じたときに、このかたよりをのぞいて本来の調和の
とれた姿にかえろうとする回復運動を展開してくるわけで、このときいろいろな要求を起こすの
です。このあらわれを症状というのですから、症状はすなわち治そうとしている働きです。苦し
みはすなわち、救おうとする働きのあらわれであるということができるのです。
病名は、このかたよりの過程とそのあらわれた部位によってつけられたもので、部分部分だけをみ
ればいくらでも病名はつけられるわけです。 ほんとうに治すということは、この根本的なものの異常
を除くことにあります。
︹問︺異常の 二大別では少しわかりにくいところがありますから、わかりやすくするために、さらに
それを細かくわけて、理解しやすいように説明してくださいませんか 。
その 2
︹筈︺それでは、炎症、出血、骨折、発熱、下痢、幅吐、萎縮、弛緩、発疹、腫物、水腫、精神異常
などの大別で、その他、だるい、痛い、しびれるなど、この範暗に入る諸々の症状について説明しま
疾病問答
しょう。
まず発熱から考えてみましょう 。医学ではこれに対して、千差万別の原因を列挙していますが、こ
れは体内に生じた、または体外から侵入したバイ菌や毒素を、熱によって中和解消しようとする働き
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のあらわれと見るべきです。
1
34
多くの人は病原菌が原因であるかのように誤解していますが、これはまちがいで、病原菌の住む好
環境的条件の身体を 自 分がも っているということが、 真 因です。 その条件をもたない人にと って、病
原菌はわれわれを健康の方に導く抵抗力を与えてくれるところの良き友なのです。病原菌は熱に弱い
のです 。発熱することによ って、殺菌体制を 全身的にとるわけで、発熱はすなわち治癒作用のあらわ
れです。
幅吐は、過食のときにも 毒素 のためにも起こります。 とくに排世不 完全 のときに過食すると幅吐を
催します 。幅吐するときは幅吐することが療法ですから、吐き出せばよいのです。発熱でも、幅吐で
も、下痢でも、炎症でも、それを悪いことと思 って、それをおさえようとするか ら いけないのです 。
なぜ幅吐を催すのであるかというと、生命は不足分の要求をするけれども、不要物や不適物や過剰物
を拒 否する働きもするのです。ところが人聞は ﹁
食 べなくては ﹂ の迷信 のとりこにな っているために、
生命が要求しなくてもむりに食べたりしてしまいます。
発疹は、体内(腸内ではなく血液内)に毒素が多くな っている場合、腎臓を通じてすべての毒素を
体外に排離すると腎臓をこわしてしまうので、皮膚を通じて体外に排世しようとするものであ って
、
これは体内の中和解毒力が低下していることを意味します。
糖尿病は、過剰糖分を排世しているか、または血糖増加の抑制力が低下しているかを 意味するので
す。
腫物は、体質が低下して血液がにごり、 パ イ菌がふえた場合、これを 一カ所に 集 めて殺し、それを
膿として体外に排世しようとするものであ って、腫物のできることはすなわちよいことなのです。腫
物を単なる腫物としてみてはいけないのに、それを簡単に考えて、ぬり薬とか吸い出しをは っている
人がいますが、われわれに必要なことは、深くその原因をさぐ ってそういう物をつくり出す傾向、す
なわち気質、体質を改造するのがほんとうのなおし方です。
これが病気を縁として健康体となり、 苦 しみを導きとして 真 の道を悟るということであ って、こう
な ったときに﹁救いに会 った﹂ とか﹁神の心を自己の心にして生きた ﹂ とかというのです 。 この 宇宙
に不必要なことは起こりませんから、起こ ってきたことはすなわち必 要なことです。
なぜ下痢するのかというと、これは腸内に発生 した 毒物、または侵入してきた 毒物を体内の水分を
動員 し、同時に腸の働きを促進して急速に体外に排世しようとするためです。下痢しなければならな
いような状態のときには、下痢することによ って救われるのです。 それなのに、下痢することは悪い
ことかと思 って、それを止めようとする人がいますが、これは生命の働きに逆行することです。 こう
その 2
いう場合には、自分の方から下痢を促進するような方法を自発的に行なうことが、早く下痢を解消す
る方法なのであり、経過がスムーズに展開するように協力することが、 真実 の治し方です。つ い、恐
疾病問答
怖し誤解するために誤 った方法を 講 じてしま っている現在のみなさんの常識を是 正しなければなりま
せん 。
とにかくわれわれの知らなければならないことは、悪(不適、 不調和) を悪として 受 け取 って、そ
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れを処理しようとする働きの行なわれている聞は正常であるということです。すなわち、異常を異常
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36
としている聞は健康なる働き(治す働き)が内在している証拠で、喜ぶべきことです。 このことを知
らずに、病気をしていると内の働きが不健康なのかと誤解している人がいます。 内の働きが不健康な
らば症状はあらわれません 。症状をあらわす能力がないわけです 。多くの人は、病気に対する正しい
認識をもっていないために、症状のあらわれな いことを健康かと思ったり 、症状の消えたことが治っ
たことかと誤解しているようです 。前者のような人の中には、異常を異常と感じ得ない麻薄状態の人
が多く、こういう人は大病になったり急死したりしやすいので、むりに症状を消すことがすなわち
治ったことではなく、内の働きが正常になることによって、自然に治ることがほんとうに治ったこと
であることを知らなければなりません。
下痢や発熱や葵痛は、いろいろな異常にともなっている症状で、これ自身が病気ではありません。
治している働きのあらわれです。 下痢の原因としては、過食、毒物、細菌、刺激、恐怖、驚樗などで
あって、下痢によって生体は浄化されるのです。
痛みは 、異常部に血液を集めようとする生命の働きです。その痛み方の種類によって、表面か深部
か、小範囲か広範囲かも解ります。
なぜむくむのか 。 これは栄養過剰の場合、その分解生成物が腎臓の排世能力以上とな って 、その毒
物が細胞聞にたまって、それが細胞の生存をおびやかすようになったとき、それを薄めようとして、
水分を組織細胞の聞に増加させるからです。
なぜたるむのか 。弱 っている細胞を助けるために脂肪が集まるからです。
なぜちぢむのか 。使用過剰による過労部位を保護するためです。
なぜだるいのか 。 それはエネルギーがあまっているからで、働けばこれは治るのです。
運動して治る異常の多くは、エネルギーのあま っている病気で、このような人が休養するとますま
すその症状はひどくなるわけです。痛みや驚きのとき気絶するのは、大脳を働かせていては治りにく
いために、 一時、大脳の働きを休ませて、その聞に治そうとする生命の必要なる手段です。精神異常
もそうです。
その他いろいろと千種万様の症状がありますが、いずれも生体を助けようとする生命の働きの作用
であ って、少しも心配すべきものではなく、治してくれている働きのあらわれであ って、むしろ 喜 ぶ
べき現象であることをよく頭に入れておいてください 。 ただ必要なことは、この症状に対してどのよ
うな協力および処理の仕方が正しいのであるかを知るべきであって、それを教えているのが、 ヨガの
各行法なのです。
その 2
(昭和お年5月頃の著作)
疾病問答
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ヨガのポーズ紹介で
ヨガ美療体操で
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ほんと う のこと う そのこと その
奇蹟や神秘があるのだろうか
私はこの文を書 くにあたって、自分の求道の歴史をひもとくような気がして、 いろいろなときのい
ろ いろなことが次々と思い出され 、感深きものを味わっている 。
いつの間にかヨガ実践家のひとりとなってしまったが、考えてみるとこうなることが必然であった
ような気はするものの、数年前までの私にとっては予期だにしなかったことである 。
私は奇蹟や神秘や特殊能力について興味をもち、勉強してみたいと考えた時期があり、そのことか
ら いろいろな縁に出会い(与えられたという方がほんとうであろうが)、 いろいろなことを見聞きす
るうちに、不思議なものなどこの世に存在しない、すべては自然でしかも必然なのだとわかってきた 。
今では、その頃神秘や奇蹟と感じていたことが自然で当り前のことであり、その頃当り前と感じてい
たことに神秘や奇蹟を感じている 。すなわち、今こうして生きていることやいろいろの与えられた縁
に対してである 。
1
39
私がヨガにとびこんだ縁は、私が頭をつ っこんだヨガ以外のいろいろなものと同様に、奇蹟、神秘、
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30
および特殊能力の中に真実を求めてのものであった 。だから私のヨガ研究は、決して学問的に継続的
に行な ったものではない 。 そのときそのとき、 実 践によ って否定 したり、肯定したり、わか ったつも
りにな ったり、捨てたり、いろいろとしたものである 。
そして、その結果、他のどの教えよりもヨガが 真 実を教えていることを知 った。 しかし、ずいぶん
多くのまわり道をしたものである。だが、むだに考えられるこれらのまわり道こそ、ヨガの真意の把
握に役立っ ているようである 。
私はセ ンサク好きである
センサク好きは、私の天性のようである 。 幼児のときから、何に対しても疑問をもち、それがわか
るまでは、不愉快で不安であ った。 この性分は今だにつ づ いており、知ら 、
さることへの不安、不快、
劣等感、焦燥感が、毎日毎日わいてきて、心の落ち着かない気持ちで 生きている 。 人には平静心をと
いているが、求真 に心乱れて、常に楽しめずというのが現在の心境である 。
私は幼少時代から虚弱であった 。結核性諸病の苦しみは 二十年もつ つ
e
いている 。 この自己劣弱感が
原因とな っているのであろうと思うが、幼少時から、特殊能力に対して強い関心があ った。 サーカス
や手品、忍術をまねすることに懸命であった 。 私は強くなってみたかったのである 。 そのために、ど
れだけケガをしたかわからない。
幸いなことに、親類にサーカス経営者がおり 、 そ の 人 か ら い ろ い ろ と 練 習 法 の 手 ほ ど き を 受 け る こ
とができた 。 そして、これらの能力はすべて練習の産物であることを知って心が落ち着いた(とても
できないとわかったからである)。しかし、このサーカスや手品師の人達に接して、子供心に次のよう
な疑問をもった。
﹁たしかに この人達はすばらしい能力をもっている。しかし、心は別にできているようにも思えな
い。人間的にすぐれてもいない、身体がじようぶというわけでもない 。 なぜだろうか﹂
その l
ガラスの破片の上に寝たり、それを食べたり、車を口でひっばったり、額で釘をうちこんだり、瓦
をわったりを何回も見て、それらのまねをしてみた。車をひっばったり、釘をうちこんだりは練習の
ほんとうのことうそのこと
産物であると子供心にもわかり、毎日少しずつ練習した。ガラスの上に寝ることはどうしてもおそろ
しくてできなかったが、ガラスを食べることはすぐできた。私は得意になって、人に見せたりしてい
た。内臓の傷つくこともしらないで 。
高野山で真言の 秘術とか称する棒寄せや、熱湯への手入れ、火渡り 等をみた。棒寄せは観念運動で
あり、これはすぐできたが、熱湯への手入れはなかなかできなかった 。 火渡りは、インドではじめて
やってみた。
2
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江間氏や星天学氏や中村天風氏の会で、万の刃渡りや焼火箸しごき、針の筋肉さしこみ等をみた 。
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これらのショウには必ず﹁この会に入 って精神強化の法を 学び、精神を統 一することができるよう
になれば、誰にでもできることである ﹂ と説明があった 。
この説明は、強い心身の持ち主になりたいと念願している私の心を強くひいたものである 。 またこ
れらのことのできる人達や先生 を、ほんとうにできたえらい人なのであるとも信じ ていた 。
私の求道は、何が 真 実 であるかの結論をつかまえていて行な ったものではない 。そのときほんとう
らしいと思うことに、ガムシャラにぶつかっていったのである 。
後で知 ってみれば、これ ら何か特別に見えることも、 実 は単純なる物理法則にかな ったことであ っ
て、できるのが 当 り前で、できないのがおかしいことなのであって、心身修養とは無関係のことであ
るが、ほんとうのことを知らなか ったときの私は、大いなる恐怖観念をも っていた 。だから自分自身
では、必死の覚悟で断行してみたのであった 。
できた 。なんでもないことであったが、恐怖観念をも ったまま、無我夢中で行な った私にとっては
実にうれしかった。なんだか別人種になったような感にさえなったのであった 。
これ等のことができた後しばらく私は、他人のおどろくのがおもしろくて、いろいろと実演しては、
得意がっていたものである。無知な人々は私を特別視しはじめた。私はいよいよ得意になって、前記
のものに加えて、催眠術や、千里眼、念力応用のようなこともや ってみせた 。 しかし 、私の心は悟っ
ていたわけでも救われていたわけでもなか った。身体も健康ではなか った。
この頃次のような自覚と、疑問とをもった。
自己の思考と行動の傾向を支配しているものが観念である。私達は、この観念が何かを想像する
とそのとおりに思いこんでしまうのである。それが真実であるか否かにかかわらず、観念の感ずる
とおりにしか思いこめないのである。そのように思いこむからそのように見えるのである。ちがっ
た思いこみ方ができればちがった見方ができるのである 。 このことを、いっさいの責任は自己にあ
りとか、自分が自分の運命の作り主であるとか、 三界は唯心の所現であると形容するのである。こ
の観念はどうしてできるのであろうか、この思いこみをかえるにはどうしたらよいのであろうか 。
その l
今考えてみればむだな実験であったが、これらの自覚ができ、 いろいろな疑問が生じたことはあり
がたいことであった 。
ほんとうのことうそのこと
さらに、こういうふうな特殊に見えることと、修養とはまったく無関係であることを知ったことは
ありがたかった 。事実、それができた私に、何等の心的変化もなかった。低劣な迷いのままにできた
のである 。前記の諸先生方にもその弟子達にもよく接してみたが、何も特別なことができているよう
には思えなかった 。
それにしても、あの人達はなぜ真実を語り、真実を教えないのであろうか。知らない人には、神と
か、霊とか、悟りとか、修養とかの意味をまちがえさせてしまうではないか、と疑問に思ったもので
2
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ある。 しかし、何はともあれ、私に開眼の縁を与えて下さったことに対して、 心からの感謝をささげ
2
34
ずにはおられない。
ちょっと開眼した私は、いっさいの現象はすべて自然現象であって、奇蹟とか、神秘とか、不思議
とかはないはずである 。 私達は自分に理解できないことをそのように誤信するのである 。無知が惑の
原因となるのだ 。将来をかけて、これらのひとつひとつにぶつかってやろう。 知的および体験的にこ
れらを理解して、ほんとうとうそ、ほんものとニセモノ、真実とトリックの解明をしてやろうと決心
したのであった 。
だんだんに気づいてきたことは、どうも世の中の人達は、うそのことをほんとうのように、 ほんと
うのことをうそのように、ニセ物をほんもののように、異常人を特殊能力者のように思 っているらし
いということである 。 だんだとわかったことは、 自然であることだけがほんものであるということで
ある 。 この観点から見るとき、ほとんどが、うそとニセ者だ 。 ほんものは数少ないようである 。
私は宗教的にも医学的にも少年時代から好縁を与えられている 。
一番始めに、ある有名な宗教々団の教主から霊界の話を聞かされたり(これは未だにわからない、
わからないというより必要のないことと思っている)、鎮魂帰神法を教えてもらったり、ひょう霊現
象(これは催眠状態における自己暗示だが)や、天杖(コックリさんと同じ原理で観念運動である)
とかを見せられたりした 。 無知な私はおどろいたものであった。すべて宗教や儀式の名をつけた無価
値なことではあるが、私に﹁神とは何か﹂という疑問と、心身の働きには今の私にはわからないこと
が多いのだとの思いを与えただけであった 。 私はその後、蒙古でラマ寺に入ったり、イスラムのダル
ウ ィ lシ団(神秘主義者のグループで、托鉢苦行して、神人合一するのを目的としている)に属した
ヨギのグループに属したりしたが、これらのグループは、さらにさらに不可思議なことをしたり、
り
見せたりする 。
とにかく私は、えらい人または霊能力者と称している人には、深い興味をもってひきつけられてい
た。御縁をいただいた人の数も多い 。
私に、心の面で 一番多くの問題を投げかけて下さった方は、生長の家の谷口師、天風会の中村師、
禅の鈴木大拙師、山本玄峰師、日蓮宗の藤井日達師、 真宗の暁鳥師、曾我師、キリスト教の賀川師等
である。身体の面で目を聞くきっかけを与えて下さったのは、西式健康法の西師、メシヤ教以前の岡
その l
田師、忍術の藤田師、合気道の植芝師、人間医学の大浦師、整体法の野口師、食養の桜沢師等である 。
いろいろな方の教えの総合で、私の理解度がすすみ、次第に正見ができはじめたのであ った。思えば
ほんとうのことうそのこと
ずいぶんとまちがいをまちがいとも思わず生きているものだと思う 。
私は、なぜ、あたったり、あたらなかったりするのだろうと、手相、人相、方位、姓名判断、占い
等にも興味をもっていた 。生理心理を少しずつ理解するにつれて、これらのことも、あたりまえとわ
か ってきた、なぜかというと 、相や型や眉は、生理心理の総合的なあらわれであるからである 。
一番わかりにくいのは、超自然現象に見える心霊現象であった 。 たとえば、物体浮揚、空中談話、
霊魂遊離、幽霊物質化等と称するものである。なぜ称するもの等と形容するかというと、 トリ ックか
325
錯覚としか思えないものが多いからである。あるいは云々しない方がよいのかもわからない。 しかし、
2
36
これらは悟りに関係のないことだけは事実である。
精神感応について
感応現象、透視、透聴、予知、 霊感等については、自分の体験から次のように解釈する 。 透視、透
聴、予知は六感である 。 これらの能力のすぐれているのは動物である 。 この能力は自己防衛のための
原始本能力である。多くの人は、この能力のすぐれている人を、特別視(神秘視)する。私も初期は
そうであった 。
しかし、私が山中で動物といっしょに原始的生活をしていたとき、 いつの間にかこの能力が開発さ
れて、 いろいろなものが見えたり、わかったりしたものである。
その後、インドのジャングル生活者(原始的生活者と呼ばれ、文明生活からはなれている)の村を
いくつか訪れたが、彼等はいずれもこの能力のすばらしくすぐれている人々であ った。
しからば、彼等は何か修行したというのだろうか 。解脱しているというのであろうか 。 答えは否で
ある。どうしてであろう?私達の仲間でも、この種の能力は子供や女性の方が、男性よりすぐれて
いる 。 なぜであろう?この潜在能力は使えば発達し使わなければ眠っているのである 。 この能力に
対する解釈として、注意しなければならないことがある。つまり、この能力のすぐれている人には次
の二種があるということである。
ひとつは、原始的能力が生まれつき動物的にすぐれている人がよく当るということである。巷のあ
て物師や新興宗教等の教祖のほとんど全部がこれである 。 これを拝むぐらいなら、動物を拝む方がよ
かろう。 この能力がすぐれていることと修養解脱とは無関係のことである 。 その証拠に、この能力が
すぐれているために、神秘扱いされているものにほんもの(大悟者)はいないではないか。アメリカ
のエドガ l ・ケ イ シ l氏などは、実にこの能力のすぐれていた人らしいが、人間的には疑問である 。
ヨギの中には、修練してこの能力が開発された百発百中的の人が多い 。 しかし解脱はしていない、す
なわち人間的にほんものでない。私はこういうニセモノを、霊能視したりする愚かさにたえられない
のである 。
その l
それならホンモノとは何か?心身修養修行の結果として解脱して、その人格の高さの反映として、
自然にこの能力のあらわれた人である 。 これがヨガの目的であり、私もまた解脱を目的としてヨガを
ほん とうの ことうそのこと
行じているのである 。
宗教的修行のいろいろな体験
私は何回も断食をした 。 寒中、滝にもあたった。苦行と称するロ l ソクでの皮膚焼きもした。はじ
めのころはつらいと思った 。 しかし、力を得たい、人間性を改造したいと念願していた私はがんばっ
7
32
8
こ
f
2
3
この行のもっともっと徹底したのがイスラム教のダルウィ l シ団の行である 。何回も何日もねせず、
くわせず、冥想行法のままで神名をとなえつ守つけるのである 。だいたい七日ぐらいつづけるのだが、
一
一日目ぐらいからは、無我夢中を通りこして、生きていることも忘れた、まったくの忘我状態になる。
一
このときにいろいろな心理的生理的な異常現象があらわれてくるのである。たとえば普通ではちょっ
と考えられないようなことがある 。
一例をあげると、焼き火箸をしごくのでなく、それで身体の各所を焼きまくるのである 。 万の上に
立つのでなく、身体にブスブスとさすのである 。大ケガを自発的にするわけだが、本 人達は平気な顔
をしているのである 。 しかもその傷が半日ぐらいで跡かたのこさずなおってしまうのである 。 この生
理的変化を何と説明したらよいのであろうか 。原理の解答は﹁問脳の平静﹂ であろう 。
私はある本で次のようなことを読んだことがある 。
﹁火傷をしたときは、熱いと思ってハッとするから水泡ができるのである。何も思わないときには
変化が起こらない。思う能力を失調している。冬眠中には、覚醒時の致死的なことでは死なない ﹂
これは 事実 らしいが、私達にはなかなかこの思わないということができないことである 。
私もや ってみることにした 。 このグループ(ダルウィ l シ団)に加入させてもらうためにはこの試
験の関門を通らなくてはならないからである 。バカバカしいと傍観的批判は許されないのである 。
となえつづけた ﹁アッラホ アクパル アッラホ アクパル 一フイ今ハ イッラッラ ﹂ と。とにか
く何万回かわからない 。 何日目かもわからない 。疲労をこえ、コンパイをこえ、夢中をこえ、呆然を
こえ、となえることばも反射的になっており、我もなく相手もない(これ等の状態を法悦境とまちが
えやすいが、似てはいるがま ったく 否なるものである)状態になり、導師の命ずるままに動いている
(批判能力を失っている)だけである 。
やろうと思わないのに、他の行者がはじめると私もついついふらふらと身体を焼いたり切 ったりし
はじめたのである 。﹁熱くないな、痛くないな!﹂とかすかに思いつつ 。私は出血のために失神してし
まったらしい 。気がついたのは 一日後であ った。傷はもちろん治 っていた 。 不思議に思 ったのは、日
本山妙法 寺 のグループと 一緒にロ l ソクで焼いたときにのこ った 火 傷 痕 (直径五センチぐらい)さえ
も治っていた 。どうしてであろう。
その l
﹁心頭を滅却すれば火もまた涼し ﹂ということわざがあるが、 これはさらにそれをこえて ﹁火もま
た感じず ﹂ というのである 。 ほんとうの放下というのであろう 。
ほんと うのこ とう その こと
私はとうとうや ってしま った。彼もや った。私にもできた 。彼等にもできた 。 それなら何か力を得
たか 。何か悟れたか 。 否である 。 これは悟りとか、救いには無関係のものである 。
この悟ってもいない、力もない私になぜできたのであろうか 。
それは、意識の集中から、放心状態になり、分別心が 一時停止したから、その分別心によって左右
されていた心身の働きが消失したからである 。 こういう状態のときには、内在 の働きが 最も完全 にあ
らわれるのである 。病気を治す一番の早道はこれである 。 また無分別状態にな っているので被暗示性
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が極度に 高 まるのである 。 このために、人聞ができていないと、錯覚、幻視、幻聴、 ひょう依等が起
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こりやすいのである 。 他人暗示または自己暗示の結果として:
解釈能力のない人達はこれを神秘視したのである 。 この状態が変化を起こすのに一番好適な条件な
ので、宗教の名をつけていろいろなグループがやっているのである 。 日 本 に も あ る が 、 イ ン ド 、 チ
ベ ット、 ペ ルシ ャ、エ ジプト方面には特に多い 。 私はこういう所ばかりまわって歩いてみたのである 。
ありがたそうにいうお筆先、神がかり、無意識表現、キリスト者の聖痕等、 みなこの現象である。
もともと無いものがあるように見えたり、あるものが見えなか ったりする、 いわゆる超常現象の多
くは幻視幻覚の現象である 。 ヨガ行者の下劣な人の中には、 この実演をする人がときどきいる 。私も
いくどか見学 した 。
これらはみなうそのことであるが、自分の状態のいかんによって、 そのように思わされたり、見さ
せられたりするのである 。
多くの人は、ウソやトリ ックにだまされているのだ 。私もいくどかごまかされた 。
たとえば、身体の空中浮揚、水上歩行、物品引きょせ、 霊魂遊離、姿の消失、 ロl。フマジック、神
の姿を見た等である 。
これらはみな自然という観点から見たとき、 ウソごとである 。 ウソだが暗示にかけられてしまうの
である 。ごまかされやすいものは人間である 。 いろいろなウソばかりにだまされて生きているのが人
聞の愉快な姿ではなかろうか、ただ次のことを自覚しさえすればよい 。
この世界に神秘的、超自然的なことはないのだ 。
人聞は暗示にかかりゃすいのだ 。
念の力は偉大である。
無分別(無心)になることも必要だ 。
今の学問だけでは理解できないことが多い。
私には 霊能力者と称せられている友人が多い 。 しかし彼等の心は浄化高揚されているとは思えない 。
彼等の実際生活をみて、そう思うのである 。
その l
も ち ろ ん 、 私 も ま だ ま だ ほ ん も の と は い え な い こ と は よ く 自 覚 し て い る 。だから、ほんものを求め
ているのである。私の胸中には、ほんとうの悟りと救い 、ほんとうの神、人、 生活を求める心がわき
ほんとうのことうそのこと
つづけ ているのである 。
昭和初年8月頃の著作)
(
3
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スワミ・シバナンダ師と共に(リ γ ケシにて〕
3
32
ほんとうのことうそのこと その
何がほんものか
自分勝手にほんとうだと思いこんでいるからほんものに見えるのだ 。私達は、自分が思うようにし
か思えず、自分に見えるようにしか見えないのである 。自分がそのように思うからそのように思える
し、そのように見えるのである 。 そうして、 自分の思うこと、自分に見えることをそのままほんとう
だと 信じている 。事実 の正否にかかわらず、そのように 信 じてしまうのである 。 しかしほんとうだと
信じていることが各人によ って違う 。真実がそんなに数多くあったり、違ったりするものであろうか 。
しかもこの信じ方は個人においでさえも永続的なものではない 。 違 った体験をしたり、違った状態
にな ったりすると、その思い方も見え方もまた違 ってくるのである 。
私達 は自分がそうだと思 っていることだけを 真 実 であるかどうかが判明しないままに、ほんとうの
ことと思いこんでいる 。そうして、おのおの異なった思い方、見方を固守している同志が対立しあっ
ているのが、その姿である 。
3
33
私達は自分の目で見たこと、聞いたことはまちがいなく真実 であると思いこみゃすい 。私達はまち
3
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がいなく真実を見ることができるのであろうか 。 い つもほんとうの味を味わうことができるであろう
か。私は 否といいたい 。 同 一の物の味でもい つも異な っているではないか 。
、 自 分の目で見てさえも真実が見えず、真実が思えないとすると、自分の日で見ていないこと
直接
は、人のい っている通りに思わさしめているということになる(その人達は必ずしも真実 を見知して
いるかど う かが、わか らないままである
。
)
世の中を見てみると、誤解と錯覚で各人が自分の思いのまま、それを 真 実と 信 じて、 肯定したり 否
定したりしている人がなんと多いことか 。 ほんとうに真実を知る以外に正道を歩むことはできないし、
ほんとうに 真実を知りあう以外に和合しあうことはできないのである 。無立場(空の状態)すなわち
統 一無雑 で真実 のみを求めるのがヨガの道である 。
私達に 真実がつかめる方法はないのであろうか 。否、あると思う 。現実 のお互い同志の聞においで
さえも、その 真実 はわかりにくい 。 まして過去のことがどうしてわかり得ょうか 。歴史はほんとうか
うそかとさえ思いたくなる 。
どうすれば 真実が見えるのかという原理を知るためには、な 、
ぜ実際に見ているのに 真実が見えない
のであるかを考えれば、そのヒントが与えられるのではないかと思う 。
人聞がいかにだまされやすい愚かな誤りの多い存在であるかを、私は自分の体験を通して記述して
みたい 。
私達は、自分にわからないことは否定しようとしたり、あるいは奇蹟祝したり、神秘視したりする 。
科学の発達していなかった古代においては特にこういうことが多かったが、その幼稚な考え方が今だ
につづいて、だまされているようである 。 そうして多くの人は、うそのことをほんとうのことである
かとさえ信じているようである。 その好例が幽霊だの、ひょう依だの、奇蹟だの、神秘的だのである 。
そんなものがあり得ょうか 。
私は超自然、超生理、超心理的なことはあり得ないと信じている 。 あると思うのは、トリックにだ
まされたり、原理を理解できない無知さからであると思う。私は自分の無知をしみじみと痛感する 。
その 2
魔術か奇術か霊術か
私のヨガへの出発は、神秘的なものへの解明からであ った。 しかし、中に入 ってみて知 ったことは、
ほんとうのことうそのこと
そういうものはないということであった 。 その見聞のいろいろを記してみたい 。
心臓がとまっても生きている人 一
これは私が一番はじめに見たヨギの 実演であった 。医者 も 三人 立 ち 合 っ た 。 ほ ん と う に 脈 縛 が と
まった 。 その間五分であった 。顔も死人のようになっていた。心臓がとまっても生きておれるのであ
ろうか?
335
3
36
針金を腹から背中につき通す
これは前項と同じ所でみた 実演である 。 ほんとうにぶす っと腹から背中に向けてっきささっている
ように見えたのであった 。 何度も見たがほんとうにそう見えた 。腕や、耳や、 ホホに針をさすのはわ
たしもや った体験がある 。
空 中 に 浮 く身体
身体が空中に浮 いて見えた 。何度見てもほんとうに浮いて いるように見えた 。写真をとってみたら
浮いて写らなかった 。 この違いは何であろうか 。 これには 二種類の実験法があることを知 った。 ひと
つは 、 ひとりが 他を浮かせるトリックである 。もうひとつは念力でもって、浮かんでいるように見え
るよう見物者に暗示をかけるのである 。
焼いても焼けない人
赤熱した鉄をガリガリ口でかんだり、それで身体をこすったりしていた 。 ほんとうに焼けないので
あった 。 私も瞬間的に焼き火箸をしごいた経験はある。しかし、何分間もこするわけにはいかない 。
この人達はどうして焼けないのであろうか?
剣や力ミソリの刃をのみこむ人
長い剣を胃までのみこんでまた引き出して見せた 。どうして切れないのであろうか 。 カ ミ ソ リ の 刃
を数枚のみこんで、次々と出してみせた。
人間タンク
水を バ ケツに 一杯のみこんだ 。そうしてその水を、目、鼻、耳から自由に出した 。 ほんとうに出す
のであ った。 私にはそのように見えた 。
胃に手があるように見える人
その 2
針を 三本、次々と口からのみこんだ 。 その後で糸をのみこんだ 。 そうして針に糸を通して、 口から
引き出して見せた。その次には時計をのみこみ、その後でくさりをのみこみ、引き出したときにはく
ほんとうのことうそのこと
さりが時計についていた。まるで胃に手があるようであった。
物品を引き寄せる人
彼は 二十ばかりの品物の名をいい、その内のどれでもよいから望めといった 。彼はふんどし一本で
裸であ った。手品ではない 。 次々と指示するものを手のひらの上に出してみせてくれた 。 そうして彼
は空中から物品を引き寄せるといった 。 ほんとうだろうか 。 しかし、ほんとうに品物はあらわれた。
3
37
カ メラにも写った 。
3
38
空中に浮くテーブルや人形
空中にテ ーブル が ひとりでに浮いた 。 人形や 、 メガ ホンなどもとびまわってみえた 。 人 々は心霊現
象であるとい った。 みな沈黙しているのに、空中から声が聞こえた 。 神の 声 であるとか、霊界からの
声であるという。これはほんとうであろうか?
種をまいて十五分で実った
行者が種をまいた 。 そうしてそれに水をかけたら芽が出てきた。その芽がするすると木になり 、実
が なった 。私はその実をもらって た べ た。本物の味であっ た。 この間が約十五分ぐら いだ った。あ り
得ることであろうか?
相手の品物が瞬間的に私のポケットに
彼は自分の万年筆を見学者 に見 せた。 エイッと気合いをかけたら、 そ の 万 年 筆 は私のポケッ ト に
入っていた 。どうして物品が自由に移動するのであろうか?
千里眼の人
彼は私の財布の中の金をあてた 。私のカバンの中の手紙を読んだ 。 はなれたところの友人の動静を
しらせてくれた 。ど う し て わ か る の で あ ろ う か ? ど う し て 読 め る の で あ ろ う か ?
瞬間的に消えたりあらわれたり
われわれの目の前で、瞬間的に物が消えたり、あらわれたり、人の姿が消えたり、あらわれたりす
るのである 。だまされているのではない 。注意 を集中するほどそうみ与えるのであった 。 ないものがあ
るように、あるものがないように見えるのは、なぜであろうか?
虹門から水を飲む人
ほん とうのことうそ のこと その 2
私はヨギの中には虹門や陰茎 から水を吸いあげている人を数人見た 。 ど う し て で き る の で あ ろ う
カ?
火の上を歩く人々
祭のときであ った。 たき火の 上をどんどん人が歩いていった 。私も渡 った。 しかし熱くもなんとも
なか った ?
9
念力で病気を治す人
3
3
なぜであろうか 。 その人の前に坐ると、病気が瞬間的に治 ってしまうのであ った。 かつぎこまれた
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30
人が次々と歩いて帰 って行 った。 しかし私は治らなかった 。なぜ治 ったり、治らなか ったりするので
あろうか?
いろ い ろな 特 殊 能 力 者
私はチベット系ヨガ行者が、 一時間に 二十キロも歩いているのに出会った。飛ぶように歩くという
形容があるが、ほんとうにそうであ った。零下 二十度ぐらいのところで禅の行をしている行者も見た 。
ぜんぜん 寒そうになか った。ど う し て で あ ろ う か ? 二ヵ 月 ぐ ら い 平 気 で 断 食 し て い る 人 。 高さ 三
メートル、幅九メ ートルぐらいを平気で飛ぶ人達も見た 。自分の体重の 五倍ぐらいのものを平気で持
ち上げている人々も見た 。 な ぜ で き る の で あ ろ う か ?
どうしてできるのか 、学 ぶ 点 は 何 か ?
いろいろな特殊能力的なことを列記してきた 。
このすべてのものは、私が実際に見たものである 。 なかには自分の体験したこともある 。私はこの
ようなことを列記してい ったい何をいおうとしているのであろうか 。 それは・
私がほんとうと見たことが必ずしもほんとうでなく、うそと見たことが必ずしもうそではな
かったということ。
魔力、不思議や、超自然はないということ。
無知者が、霊術とか魔術、奇蹟などとかいって神秘視したり、 これを使って人をだましたりし
ているのであるということ。
こういう特殊的なことができるためには継続的な訓練と努力が必要である。やればできるよう
になるということ。これらのことは努力の賜物と、可能性の限界を示してくれることにおいてあ
りがたいものである。
こういう特殊なことができるということと悟るということとは、無関係である。多くの人は、
こういう特殊能力を神秘視し、それのできる人を偉い人であるかと思いやすいのである。そうし
その 2
て、彼等を特殊扱いしたりする。新興宗教や邪教の成立がほとんどここからである。
これらのことができることの中に、ひとつの秘訣が含まれている。これが諸道のコツで、それ
ほんとうのことうそのこと
がヨガである。これらのことの中から学ぶことのできるものは何であろうか? 以上を把握でき
るためにひとつひとつの解説をしてみよう。
心臓がとまっても生きている人
心臓がとまっても生きておれるか。これはほんとうにとまるのではない。非常に呼吸を長く静かに
することによって、脈もまた聞こえないぐらいに静かに長くなるのである。すなわち三分間が四分間
4
31
に一回の呼吸の割合になり脈もまた静かになるために、私達の耳には聞きとれなくなるのであって、
4
32
ほんとうに心臓がとまったのではない 。 これが上手になれば、人工冬眠したり、生き埋めになったり
もできるようになるのである。どうすればこのようなことができるようになるか?プラナヤマの練
習と、自己暗示の練習である 。
私は心臓をとめた体験はないが、それに近い状態まではもっていける。このようなことができるよ
うになったら、どういう効果があるかというと、意識(心)で身体があるていど自由に支配できるよ
うになることである。心も身体も、 自由に意識的にコントロールできていつも平静を保ち得るように
なるのである。この平静維持が生命の源であるところの間脳をコントロールする最上の方法である 。
坐禅の極致は、この状態の前段階である 。
針金を腹から背中につき通す
これはトリックである 。 このトリックでは、伸縮自在な特殊な針金を用いる 。 しかし、 たとえト
リックとわかったとしても、すぐにこのまねができるものではない 。人の目をごまかし得るだけの動
作の極度な敏捷さが身についていなくてはならない 。
腕や頬に針をさす実演はほんとうである。これは誰にでもできることで、知覚神経は表皮の近くに
しかないから、思いきってすばやくさせば、痛みは瞬間的なものにすぎない 。
空中に浮く身体
私の自にはほんとうに浮いて見えた 。し かし、これはほんとうのことではない 。 しかしほんとうの
ように見えた 。 どのようにして、うそをほんとうに見せるのであろうか 。 ひとつは、奇術で行なう巧
妙なトリック的方法である 。こ れには私達の視覚をごまかす仕掛けがしてある 。今 ひと つの方法 は
、
暗示にかけられるのである 。 強力な念力によって、そのように思いこまされてしまうのである。
私はインドで、ふたりのヨギからこの 実験を見せてもら った。 ほんとうにそう見えるのであった 。
すなわち、強力な念力によってそのように見える暗示 にかか ったわけである 。
この実験のとき、私以外に 二十人近くの人が立ち合ったのだが、全員がそのように見えたのであっ
た。私は何度も目をこす ったり、 自分をつねったりしてみた。しかしどうしても浮いているように見
その 2
えた 。私は 写真をとった。写真にはうつって いなか った。機械 は 暗 示にかからないからである。
このことから次の点が考えられる 。念は力であるという事実である 。念力の強い方が相手 の観念を
ほんとうのことうそのこと
支配して しまうわけだ 。
私達は暗示にかかりゃすく、暗示にかかると、ないものがあるように見えたり、あるものがないよ
うに見えたりする。すなわちごまかされやすいわけである。この実験のときに目前で姿を消したり、
あらわしたりすることも見せてくれた 。私はこの実験のとき、われわれの目がいかに不完全であるか
を痛感した 。 われわれの心は相手のことばによって乱れやすい 。 乱れている心に 真 実 は見えないので
ある 。 これは日常の生活にも通ずることである 。,
4
33
三度目のこの実験のとき、私は精神統 一法と坐禅をした。このときには、ごまかされなかった 。何
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34
かに心がひっかかっていると、ひっかけられるわけである 。坐禅の心は、ひっかからない心である。
正見正思するためには、このひっかからない心がたいせつであると知った 。
考えるほどトリックにひっかかってしまう 。無抵抗で無心で対するときにはその真実が感受できる
ものである。
焼いても、焼けない人
これは 事実 である 。 これには 二つの方法がある 。
ひとつは火傷しない化学薬品を塗っていることである 。見せ物の場合の実験はこれに属する 。 これ
では焼けないのが 当 り前だ 。
もうひとつの方法は、無念無想になって、焼くとも思わず、焼くとも気づかず、焼くのである 。
無念無想の行法の実験のときにこの実験を行なう。私は数回この実験を見学した 。私自身もこれを
体験した 。 たしかに焼けない 。
火傷したときに、意識すると水泡ができたり傷が残ったりするという。無念無想のときには、最も
生命力が 高くなるという事実がこれでよくわかる 。
冬眠中は、致命的に近い刺激を与えても、なかなか死なないそうである 。 よく眠れれば、異常のな
おりが早いこともこのあたりにあるのであろう。
なぜ同 一の刺激から意識したら障害をうけ、意識しなか ったら障害 をうけないのであろうか 。 宗教
の極意は無はからい、無心になることであるということがよくわかるような気がする 。しかしこの無
の状態になることは相当 にむずかしいことだ。
瞬間的に焼き火箸を手でしどいたりする 。 こ の と き に 焼 け な い の は 、 手 に 出 て い る 汗 が 水 蒸 気 に
なって保護することと、瞬間的に無心になるからである 。
剣や力ミソリの刃をのむ実験
これにはほんものとトリックがある 。 ほんものはほんとうに万をのみこむのである 。私は中国で棒
をのみこむ実演はたびたび見た 。 万をのみこむ 実 演を見たのは、インドがはじめてであった 。彼等は
その 2
ほんとうにのみこんだ 。
喉に物を通すということはむずかしい 。 十 二指腸ゾンデをのみこむ練習をしたことのある人を知っ
ほんとうのこ と うそ の こと
ているが、喉はケイレンを起こすので通しにくいものである 。 しかし五、六回もかさねると、なれて
平気 でのみこめるようになる 。
初回でも容易にのみこむ方法がある 。それは、のみこむものを少し温めてからのみこむのである 。
そうするとケイレンが起こらない 。
万ののみこみはその練習の賜物である 。 その練習方法は、最初は、 ロウの棒でやり、次は木の棒で
やり、最後に万にかかるのである 。 三年かかるそうだ 。
4
35
カミソリの刃ののみこみはトリックである 。 のみこんだようにみせて、 口のどこかに上手にかくす
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36
のであると教えてもらった 。 こ の カ ミ ソ リ の 刃 を の み こ む こ と は 、 練 習 す れ ば あ る て い ど の こ と ま で
はできるようになるということであった 。 心 身 は 慣 れ る こ と に よ り 、 刺 激 に 平 気 に な る と い う こ と で
あ った。
胃に手があるように見える人
針をのみこみ、これに糸を通して吐き出した 。私はこれをほんとうかと思 っていた。術者に尋ねて
みたら、トリックであった 。 そ の 方 法 は の み こ ん だ よ う に 見 せ か け た 針 を す ば や く ど こ か に か く し て
しまい、あらかじめ 口にかくしておいた糸の通してある針を吐き出すのであると教えてくれた 。
時計はほんとうに飲みこむのである。しかし、くさりは、口中にかくしておき、吐き出すときすば
やく、くさりをつけるのであると教えてくれた 。
これらのことから学んだことは、すばやくやられるとごまかされてもわからないということであ
る。
自分の常識でこれらのことを解明しようとすると、逆にそれにひっかかって、わかることもわから
なくなってしまうということであ った。 私達は、自分でそう見える通りに見てしまうものである 。奇
術、魔術、 霊術等 と称しているものの大半がこのトリックであるわけだ 。
物品を引き寄せる人
世界的に有名なサイパブに私はインドで会った。手品ならわかるが、彼の場合には、手品と暗示の
二方法をまぜてやる 。 カメラでうつしてみたら、あるときは物がうつったが、あるときはうつらない
かった 。
どちらのときにもかかわらず、私の肉眼にはあるように見えたのであった。
(昭和初年 9月頃の著作)
その 2
ほんとうのことうそのこと
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町っくりの奉仕作業に参加(インドにて)
ロパに乗って農村巡回(インドにて)
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48
ほんとうのことうそのこと その 三
ほんとうの神秘とは当り前のこと
│ うそである 。 だがどうしてほんとうのように見えるの
サイパブの物品引き寄 せは 事実だ ろ う か │
か│ │それは暗 示にひっかけられるからである 。私達 の感覚などはまったく不正確なものだ 。多くの
人は﹁私がこの目で見たことだから、確かである ﹂とか、﹁私の目はごまかせないぞ ﹂などというけれ
ども、私がこのことか ら学 んだことは、強い念力(精神統一力)は相手を支配するということであ っ
た。分裂混乱している心の力は弱いもので、ないものがあるように見えたり、あるものが見えなか っ
たりするではないか 。 ヨギの強い念力者は、精神統 一の練習ばかりをしている 。
空中に人形やテーブルがひとりで浮くという、たしかにそのように見えた 。司会者 はこれが心 霊 現
象だといった 。心霊現象であるものか、人が動かしているのだ 。 だからこの実験は暗閣の中でしか行
なわない 。 昼 間でも黒 は人の目をあざむく 。 だから手品では 黒 幕 をつか っているのだ 。
これは断言 はできないことであるけれども、私は死後の世界があるとは思えない 。 ヨガは 否定して
4
39
いる 。
5
30
空中から聞こえる声、 これは腹話術である 。種 を ま い て 十 五 分 で 実 が な る 実 演 を イ ン ド の ア ム リ
ップルで見た 。 これは上手な手品なのである 。
しかし手品ではあっても、われわれの目をごまかすすばやさには驚くばかりである 。 そのすばやさ
には、実演者 一人ではない 。その助手が 一体となって動いている。私はこの主従一体ということが、
社会ではとてもたいせつなことのように思える。よき指導者とよき計略者のコンビが大事 業 をなしと
げていることをみてもわかるように、主従 一体となることが、事業経営のコツであると痛感する。
そうしてその秘訣は、お互いに無私になっているからであるということを知った 。 無私になるには
どうしたらよいのか、自己の見解や要求をもたないことだ。
千里眼、千里耳というのはほんとうである。動物同志は主としてこれによって通信しあっている。
人間にひそむ原始本能のひとつである 。深山に住むヨガ行者や修験道の人達には特にこの能力の発達
した人が多い 。
この能力を発達させるには、無心になる練習とできるだけこの能力をつかう練習(不便な生活をす
ると使わざるを得ない)をすることだ。
これはこの五官で見たり、聞いたりするのでなくて、全身で見たり聞いたりするのである 。なんと
なく、そのように聞こえ、見えるのである。普通に、第六感、直感、などといっているものがこれで、
これは深層意識のなすわざである 。 だから、この深層意識の働きを起こすためには、理屈をこねまわ
す意識が邪魔しないことが必要である。この表面意識のことを分別心という。分別心を考える心とい
う。この能力は考えてあらわれるのでなくて、考えないから起こるのである。
考えることをはからいという。はからいとは自分勝手な判断、認識の仕方、という意味である。す
なわち勝手にそう思い、そう見るわけである。これに頼っていると、物の正否がわからなくなってし
まう
これに頼らずに、見たり、聞いたり、思ったりすることを、無心に行なうというのである。あらゆ
る宗教や、修行法は、みなこの無の心になることを目的としている。無の心になって、自然に真実と
物事の奥が感受できるような状態になっていることを、止観というのである 。
世のインテリゲンチアと称する人達は、理屈に忠実なために誤りを犯しやすいようである。理屈を
その 3
こねまわせない人の方が、真実や奥義の把握能力が高いようである。だから、その好例として、千里
思、千里眼、千里耳、第六感、直感等の俗にいう﹁当る ﹂ という能力は、動物、子供、女性の方が高
ほんとうのことうそのこと
いのである 。
よくこれらの能力を霊能力などといったり思ったりしているが、これはまちがいである。
これは、原始的(動物的)能力である。もしこれを霊能力だというのならば、動物はみな霊能力者
であるということになる 。無智な人達は(インテリと思っている人のほとんどがそうであるが)この
﹁当る﹂という能力に驚いて、これらの原始能力者を神様扱いをしたり、おがんだりしているがこれ
などまったくナンセンスだ 。 いわゆる新興宗教の大部分がこの類いである 。それならば、動物やアフ
5
31
リカの原始生活者 の方も拝んだらよいのではなかろうか 。
5
32
これらの能力は誰にでもひそんでいるものである 。 少しでも開発するようにしたらどうだろう 。 そ
の最上 の開発法が無心行法の各種である 。すなわち、﹁感ずる力 ﹂を高 めるのである。ではこの﹁感ず
る力﹂ を高 めるにはどうしたらよいであろうか。
そう思い、 そう考え、そう見てしまう観念の掃除がたいせつである 。 この観念が邪魔をしない
イ
ようにすることが必要である。その方法としては、思考しなくてもよいようなことに心を統一す
るのである 。
これは、自己に潜在する能力であるから、できるだけ、自分を使うことが必要である 。文明や
ロ
便利や 理屈は、この能力を眠らしてしまうばかりである 。
この能力は、内にひそむ能力である 。だからこの能力を高めるためには、内に対する刺激が必
ノ、
要 である 。内に対する好刺激は、断食、プラナヤマ、くつろぎ、内観、苦行によって起こるもの
である 。
霊覚者と手品師
霊感とは何であろうか │ │これは知的に開発された原始能力である 。 すなわち、大脳と間脳および
脳幹部(原始能力の本蹄)が最上に発達している状態である 。 ヨガは 霊感者になるのが目的ではない
が、いろいろな修養、修行をつむことによってそれらの感覚は自然と養われるのである 。 不立文字を
提唱し、修行を専 一にしている禅宗に 一番経典が多いのはこのためである 。 ヨガはさらに、この経典
以外にできるだけ人生の数多くを体験しなくてはならないことになっている。だからヨガはむずかし
いのである 。達するかどうかはわからない 。とにかく死ぬまで知的に行的にがんばってや ってみよう
というのが、 ヨギである。
動物は決して 霊覚者にはなれない 。霊覚者、霊感者になり得るのは人間だけの特権である 。
物を目の前で、消したりあらわしたりしたら、これは手品である 。 トリックである 。 だがしかし、
これをトリックであるとしてすますならば、それはインテリの考えることであってヨガではない 。
その 3
ガは自分の体験しないことは批判してはならないことにな っている 。 │ │それなら私に手品やトリッ
クができるのかというとできはしない 。二 年ばかりやってみたができなかった 。 できなかったがため
ほんとうのことうそのこと
に学 んだことが多い 。物事 はわか っただけでできるものではない 。 いかなることでも、それが容易に
できるようになるためには 、毎日の不屈の訓練と独特の才能が必要である 。とくにむずかしい訓練は、
自分の心に打ち克つ修養、本能欲(食、性、娯楽)の節制、ベストコンディションを保つための身体
の訓練が必要である 。私達には各人に独特の天分(才能)が与えられていて、すべてのことの奥義に
達することはできないようにな っているらしい 。 これが、ド ングリの背くらべをきらう神意であると
思う。
5
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では、手品師にはどういう条件が必要であろうか、手先の器用、頑丈な筋肉と柔軟な身体(神経反
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射の鋭敏さが必要)、興味をもつことと沈着性が必要である 。
手品やトリックから感ずることは、私達の目は非常に不完全でごまかされやすいということである 。
鏡や光や色を用いられると正否が白昼でもわからなくなるのである 。古代の魔術などというのはみな
この 手である。
目や 耳だけでない、気を 一方 に集中していると他方のことは感じないのである 。 このことは、事の
大小はあるけれども、私達の日常生活のなかにもよく見かけられる現象である 。 ひとつのことに気を
とられている状態を執着というのだ 。執着していては 真実がわからない 。 このことからヨガでは無執
着すなわち無心になることをすすめるのである。
古来からの心霊術
ここで古来から、心霊術などと称し、神仏の加護ありなどといっているトリックを少し解明してみ
。
JaAノ
ト
探湯術と称するものこれは九字をき ったり、呪文を唱えたりしながら沸湯している熱湯の中へ手
をさしこむのである 。 しかしこれはトリックである 。まずこの実験は高山で行なう。高山は、空気が
薄くて気圧も低く、そのために湯の沸騰も早く、七十度から七十五度ぐらいで沸騰するからである 。
それから、清めると称して、塩や水を手につける 。 これ 等が遮断作用をして湯の熱を直接皮膚にふれ
させないのである 。 アルコールを用いればさらに容易である。彼等は鍋より釜を用いる 。鍋は浅く広
いが、釜は底が深いから、脇の方は沸き方がおそい、そこに手を入れるわけである 。 見せ物師の場合
は炭酸ソーダを入れる 。なぜなら、すぐ沸湯して、いかにも熱いように見えるからだ 。
真剣白刃の術これは白刃を手でにぎり、その 手 をしば って万を引くのであるが、その万を引いて
も手 はきれないのである 。 これには切れないコ ツがある 。平 均を失わないためだ 。 そのためには反 っ
ていない万の方がしやすい 。 にぎ っている手をしぼるとき手に力を入れておき、しば ったら力をぬい
、 ミネの方をこす って引 っぱればよいのである 。 万に袖でもぬ っておいたらなお切れにくいのであ
て
る。私はこのコツを中村天風師の実験のときに気づいた 。帰宅後やってみたらその通りであった 。
その 3
火 渡 り の 術 こ れ は 松 の 割 木 か 木 炭 を 用 い る 場合 が多い 。 よくもえたとき、通る道をたたきつけて
平らにする 。 それから塩をまく。渡る人も塩をふむ 。 これでは焼けないのが当り前である 。私も数回
ほん と うの ことうそ のこ と
渡 ってみた (
松薪や松炭が一番火力が弱い これら 当 り前のことを、いかにも神がかり的に吹聴する
。
)
のは、 自分をえらくみせる邪心にほかならないのではないだろうか 。
ガラスピンの破片や釘の上に寝ること彼等 は皆知覚神経の マヒ剤を身体にぬ っている 。だから痛み
を感じない 。痛みを感じないから動揺しない 。 動揺しないから切れないのである 。 私にもできたこと
である 。 これらのトリ ックか ら学 ぶことは、心を恐怖心で動揺させないこと、身体の 平均を失わない
ことである 。 平均を失わないためには丹田に力が入っていればよいのである 。安心し、くつろいで、
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丹田に力を入れて行動することは人聞が生きていくためにはたいせつなことであり、これがコツであ
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る
その 3
それはブレーキをかけるものを心と身体につけているからである 。 そのブレーキとは、異常心理と異
常生理である 。
ほんとうのことうそのこと
異常心理とは、勝手に自己限定をしてしまう消極心のことである。この消極心のことを、はからい
心とか、雑念とか、迷い心とか、妄想とかというのである 。 この邪魔物があるかぎり、力はだせない、
これを取り除くことが必要である。その方法を教えるのがヨガである 。
異常生理とは何か、それは病気である。病気があっては力は出せない。どうしたら病気を治して力
が出せるのかを教えるのがヨガ行法である 。
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神秘などはない
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この世の中には、普通人が考えているような神秘は存在しないことを自覚されよ 。理解していない
から、神秘があるように、またそれができる人がえらいように誤解してしまうのである 。私はヨガを
神秘視する人がいるために 、わざわざその迷いを悟らせるために例を示してみた 。
特殊能力者といわれる人は数多い 。 しかし彼等は、自分を超自然的人聞にみせようとして、 L'HY ツ
クまでつかっている 。だから末路の哀れなものがほとんどである 。
何が神秘であろうか
では、神秘なことはないであろうか 。 大ありだ 。自然現象のすべてが神秘である 。われわれの当り
前として、気づかずにいることのすべてが神秘である 。一 番手近なことでは、自分がこう し て生まれ
てきたこと、そうして生きていることのすべてである 。
宗教の極地は、アチンチヤの心(すべてに不思議を感じて 、 思 わ ず そ の 絶 対 性 に 感 謝 、 合 掌 、 全 拝
せざるを得ない境地)である 。自己の内観に徹することだ 。 そうするとすべてのことの 真実にふれ、
その神秘性が味わえることであろう。
だまされないことだ
ときどき妙なことをいう人がおり 、 それをほんとうだと思 っている人がいる 。 たとえば、神の姿を
見ただの、神の 声 を問いただの、地獄の様子や 霊界を見ただの、魂が遊離しただのである 。 これらの
すべては、幻視、幻聴、幻覚か、玄視、玄聴、玄覚であり、一口にいえば悦惚による 異常感覚である 。
すなわち正気の沙汰ではないということである 。 玄は幻の進歩したものである 。 これらの連中は、
つ いたのだと狂気じみたことまでいいはじめる 。
時々、何々の霊がく っ
神がこの五官に見えたり、聞こえたりしてたまるものか、生は生の法位があり、死は死の法位が
あって、全然別のものである 。生者 に死者の世界が見えてたまるものか、といいたい 。 この文明時代
に、いかにこれをほんとうだと思 っている人が多いことであろうか 。
ヨガの極地は空である
その 3
ヨガは、正 気 の沙汰を目的とするものである。ヨガの極地は空である 。空 と は 物事 がまともに見え
ることだ 。 当 り前が当り前に、まちがいなく受けとれることである 。
ほんとうのこと うそのこと
狂気になるか、正気になるかの岐路は、修行法が、正しいか否かにある。異常のままに訓練すると、
その異常力が強化して、狂気の言行をしはじめるものである 。 しかし狂気は 一途ゆえ、俗人には力強
いものと感じられる 。そうしてだまされるわけである 。
ヨガは正気にならせるために、まず、心理と生理を正すことをひたすらにやらせる 。 その 上 で、統
一法と無心法をやらせるのである 。
異常 心理、生理のままで統 一法を行なうから、狂気になるのだ 。
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修行法は正しくなくてはならない 。 悟 ったり、救われたりすることによ って正していく、 そういう
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くふうに専心されることを望んでいる 。
昭和初年叩月頃の著作)
(
質疑応答
6
32
質疑応答について
この﹃質疑応答﹄の収録については、年代の不明なもの、質問内容がはっき
りしないもの等、いろいろ問題を含んでおりましたが、本文の内容をよりわか
りやすくするためには、やはり収録した方がよいとの意見が多かったので、こ
こに収録することにしました 。
沖正弘聖師は、 ﹁
人を見て法を説く﹂教え方でしたから、各質問に対しても、
そのひとに合うようひとつの方向にし .
ぼって具体的にお答えになられておりま
す。 ここに収録した質問は、だれでもがもっている疑問でもあるので、ヨガ修
行をしている人にとってはもちろんのこと、一般の方々の道標にもなるものと
信じて疑いません。
収録にあたっては、必要と思われるものを年代は考えずに収集し、その質問
の内容ごとに整理してまとめました。また、質問者の氏名が明記されているも
のと、されていないものがありましたが、統一のため氏名はカットしましたの
でご了解下さい 。
この本に収録しきれなかった分については、十一月発行予定の E巻の方に収
録するつもりでおります 。
(編集者 鴻巣盛兄記)
ヨギと現代生活
ヨギの心身に迷いも欲望もなく、悟りき った、清らかな高い境地を尊く
思いますが、現実生活とはあまりにかけはなれすぎて、世の中の常識とへ
だたりすぎて矛盾を感じてなりません 。科学の進歩とともに現実の私達の
毎日の生活は便利となり、合理的になるとともに、また冷暖房など自然に
遠ざかった生活になってきますが、これはヨガの立場からは邪道なので
しょうか 。今後この世はますます消費、娯楽方面が盛んになって、俗にい
う楽しい生活ができるという方向にむかっていきますが、それらに順応し
ながら、なるべく自然を生活のなかにとり入れて、きわやかなくらしかた
をするように心がければよろしいのでしょうか 。
真 によいご質問です。私もヨガがよくわからないときには同様な疑問をもっておりました 。
しかし、ヨガの真意を知るとともにその疑問はなくなりました 。 なぜならばヨガの真意はあらゆる
立 場 に お け る 真 実 の 生 き 方 を 求 め る も の だ か ら で す。 ど ん な に 文 明 が 進 も う と も 人 間 そ の も の は 今 も
昔も変わりがありません。心理機構も生理機構も同一です。やはり分娩には今も昔も十ヶ月かかりま
す。 栄 養 の 必 要 量 も 同 一で す 。 だ か ら い か な る 立 場 に お か れ て も 、 健 康 で 解 脱 し て い る に は ど う し た
質疑応答
らよいかを求め、かつ教えているのがヨガです。どんな立場におかれでも、迷いなく、欲望の束縛の
な い の が ほ ん と う に 悟 っ た 清 い 尊 い 境 地 で あ っ て 、 こ の 境 地 は い か な る 環 境 に お い て も 一番重要なこ
とではないでしょうか。
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あなたはちょっとヨガの境地の解釈の仕方を誤解していらっしゃるのではないでしょうか 。 ヨガの
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境地に 達するにはなにか山にでも入りこまなくては、または現代文明を 否定しなくてはいけないので
はないかと思 っていら っしゃるのではありませんか 。 もしそうでしたらそれはまちがいです。 ヨガは
今の現実を肯定し、今の問題にそのままとりくんで、その中における 真 実の生き方、最高の生き方を
求めるものです。 ですからヨガでは現実から逃避することも、現実から束縛されたり、溺れたりする
ことも 否定しているのです。 コントロールと 善用、これがヨガの目標です。
ヨガは知的、行的訓練によ って最高の 自 己と生活と社会をつくり出そうとするものです。
その自己とはなんでしょうか。その生活とはなんでしょうか 。
その自己とは如何なる生活状態においてもいつも正常(バランスすなわち平静状態)を保ち得る心
構え、身構えが身についている自己です。どういう物からも、また状態からも束縛されない(すなわ
ちとらわれない)状態を悟り(すなわち無心)の境涯というのです。
静寂を求めるのは生命の本質です。 生命は静寂すなわち心身の働きが安定しているときに、最も完
全なる働きをあらわすのです。 このとき、最も自己の能力を発揮できるのです。 ヨガはこの安定性を
身につけるための具体的な哲学 であり科学 です。
いっさいの道の極意は不動心(事に当って心の動揺を起こさない明鏡止水の境地)、無念無想(常時
従容として迫らぬ境地に立ち、相手の想いをそのままにうつしとって、瞬時に活路を見出して自己を
救い、他を 生かす境地)、自由自在心(有にもとどめず、無にもとどめず、心をどこにもおかないこ
と、うつるにまかせ、消えるにまかせる、天地の動きと同一な大自然心)であることです。 これが生
活の極意でもあるわけです。 いつも平常心(ことさらに興奮もしない、落ち着きすぎもしない、動中
静あり、静中動ある状態)で生きてこそ誤りなき生き方ができるのであると思います。 ヨガはこれを
身につけることです。如何なる環境でも最上の生き方をするのがヨガの目標です。 その方法としては
無心、無体になることです。無心とは、ひっかかり、こだわり、とらわれのない心になることです。
無体とは、腰腹力(生理的中心点)に統一された心身の安定です 。 いっさいの動作(例えばスポー
ツでも踊りでも)は、この腰腹力が中心となることを要点としております。このことを世をつくる、
世で行なうというのです 。
ヨガ行法は積極的にこの祉をつくる修行法です。 その最適な方法が意識を整え、呼吸を整え、自然
に腰腹部に力を集約する方法です。
平静心、安定体こそ、現代生活とくに文明生活に必要なものであると思いますがいかがですか 。
質疑応答
ヨガの独習
私はインドラ・デビーさんのヨガの本と沖先生の ﹃ヨガ・行法と哲 学
﹄
を読んで、ヨガ行法を独習しているのですが、本を見ただけでの独 習が、
効果的に可能でしょうか 。
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インドラ・デピーさんと私の著書を読んでヨガを実習なさっているとのこと大いにやってください。
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ヨガ行法は健康法や治療法ではありませんが、あらゆる訓練法の基本になっていまずからね。しかし
ヨガの独習はちょっとむずかしいでしょう。 な、ぜならばひとりひとり気質、体質が違いますから、こ
れにあわせた方法をやらなければいけないからです。正しく鍛えればじようぶになり、まちがえた鍛
えかたをすればこわれ、鍛えなければ弱くなるのが生命の働きの事実です。
ヨガ行法は総合的訓練法です。ひとつだけやってそれでよいのではありません 。 ヨガのやり方には
法則があります。 体操でも型だけまねをしたからそれでよいのではありません 。 ヨガの目的は解脱で
すから、その 目的 に 従 った方法でなけれ ばなりません 。 ヨガの体操は 学校 の体操とも、サーカスの体
操 と も 違 い ま す 。 肉 体 だ け の 訓 練 が 目 的 で も あ り ま せ ん 。 ヨガの行法はすべて哲学的、科学的に理論
づけてありますので 、その 点をよく自覚して独習なさってくださ い。 そしてできたら一度東京の講習
会においでください。
ヨギになる第一条件
ヨガの行者になる第一条件は何でしょうか。
頭で知覚するのでなくして、生活を通して、体験を通して、真実を探究する決心をするのがヨギに
なる第一条件です。実行しながら考えていく 。 こ れ が ヨ ギ で す 。 だ い た い ヨ ガ の 行 者 と い う の が お か
しいのです。行者というと山の奥にいるように思うのですが、そんなものではないのです。知行を合
一さ せることがたいせつなのです。 そ れ で す からヨガにとっては修行の対象にならないものはないわ
けです。商売を通して修行する。対人関係を通して修行する。この心がけがだいじなのです。
ヨガの修行地
ヨガの修行地はインドのどこでしょうか。
沖先生ははじめ園内でヨガを研究されたとき、どういうものを資料とさ
れたのですか。
天風会とはどのような関係がありますか。
ヨガと天風会とに大きな相違点がありますか。
イ ンドはヨガの発生地ですから修行地は各地にあります。 私はカシミ l ル、ネパ l ル
、 チベット、
リシケシ、ベナレス、カルカッ夕、ブリ、バンガロー、ノナワラの各地で学びました。
私は日本では、英文とか仏文のヨガの書と仏教関係の書で勉強しました。天風先生に弟子入りして
質疑応答
師に教えられたことは多いですね。えらい方です。
私にヨガを学びたいの心をおこさせて下さった方は天風先生です。 天風会は天風先生がヨガを基本
として、先生独特の修行法を体系だてられたものです。これでおわかりと思いますが、天風会すなわ
ちヨガではありません 。 ヨガが入っているのです。
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私はヨガそのものをやっているのです。 学問的な立場と実践的な立場からヨガをとりいれて 一派を
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なしているものはずいぶんあります 。著 名 な も の と し て は 生 長 の 家 と 西 式 健 康 法 で す 。
正しい姿勢について
先生から正しい姿勢とか正しい食べ物とかを教えていただいているわけ
ですが、先日ある週刊誌を読んでいたらS・Yという有名作家が、執筆す
る際に腹ばいで 書 いているという記事が出ていました 。創造的な仕事をす
るのにあまりふさわしくない姿勢だと思えるのですが 。
いちがいにそうとはいえません 。 私 達 が 潜 在 意 識 、 無 意 識 の 力 を 借 り よ う と 思 っ た と き に は 、 く つ
ろいだ姿勢がいちばんよいのです 。 ですからY先生にしても、ずっとその姿勢だけで書かれるのでは
な い と 思 う の で す 。 私 な ど も 寝 て い る と き ひ ょ っ と 思 い つ い た こ と を 書 く こ と が あ り ま す 。文 章 を 書
く場合、机に向かってさあ書こうなどと思っても出てこないときがありますね。 Y先生の場合も同じ
で、潜在意識を引き出そうとするとき、腹ばいの姿勢がいちばん適しているのだと思います 。
ですから正しい姿勢というものは基本なのです。 身体のゆがんでいる人は机を斜めにして 書 くのが
よいわけです。悪い姿勢をむりにま っすぐにしてもよい考えは浮かんできません 。 内外が整うことに
よって、正しい姿勢をとろうと思わなくても正しい姿勢になるのがほんとうで、ゆがんでいるのをむ
りにやるのはいけないことです 。
坐法について
ヨガの坐法は、日本人の普通の坐り方にした方がより効果的ではないで
しょうか 。大宇宙の象徴としての坐法は、正 三角形の重心に体重全体がの
るといった日本人の生活の中にある正坐の姿の中にあると考えられるので
すが。また、ヨガ人となるためには、形式的な精神ではなく、実際的で生
活の中にとけこむことができる道徳と宗教の一致がたいせつであると考え
ますが、いかがなのでしょうか。
ヨガには七つの坐法があります 。 日 本 式 坐 法 は そ の 第 一 坐 法 で す が 、 長 時 間 坐 し え な い 欠 点 が あ り
ます 。第 二は結蜘扶坐、第 三は 半 醐 扶 坐 で す が 、 こ れ は 禅 宗 の 坐 法 で と り い れ て い る も の で す 。 この
坐 法 で は 尻 の 下 に 坐 布 団 を い れ な い と 重 心 が 後 に い っ て 落 ち 着 き ま せ ん 。 正 三角形の中心に重心がお
ちるように、尻に布団をあてます。第 四 は 、 通 称 の ヨ ガ 式 坐 法 で す。一 方の腫を会陰部にくっつけて
他 方 を そ の 腫 に 重 ね ま す 。 第 五 は 、 合 腫 坐 法 。 第六は安定坐法ですが、この時は坐布団を用いません。
不安定の姿勢で安定をとるくふうをするわけです。
質疑応答
第 七 の 坐 法 は 、 バ ン ド ハ と い う 特 殊 型 坐 法 で こ れ は 約 二十坐法あり、プラナヤマ、ムドラ(印型)
のとき、その目的に応じた特殊な坐り方をするのです。
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ヨガ人(ヨギ)というのは、知行合一の哲学と科学をひとつにしたもっとも合理的な生き方のくふ
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うをしたものです。科学性をもった哲学者、宗教性をもった医学者、哲学性をもった事業家、 これが
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ヨギの資格です。
霊魂は不滅か
ヨガでは心と肉体は別のものとみているのでしょうか 。そ れとも霊肉 一
致とみているのでしょうか。また、霊魂は不滅なのでしょうか 。
心とか身体とかわけで考えるからいけないのです。生 命の働きただひとつがあるだけです。私達の
目に見える生命の働きを肉体といい、目に見えない生命の働きを心といっているのです。 だから 一致
どころか、初めからひとつです。 ふたつをわけてみるのがまちがいです。 また、 霊 は不滅か、という
ことですが、霊を生命の働きとすれば不滅です。生命の働きはふたつの働きからなっているのです。
有限の生命と無限の生命です。生殖細胞は永遠につづく生命の働きですし、個体細胞は有限の生命で
す。個体細胞は私達が死ぬと同時になくなってしまいます。しかし生殖細胞はいつまでも生きとおし
ているいのちです。私たちは生きるいのちと死ぬいのちがひとつになって生きているのです 。私たち
の中に存在する永遠の生命すなわち生殖細胞を 霊というなら不滅です。
祖先の霊と現実生活
仏教ではよく ﹁祖先 の霊 をま つらな いか ら罰 せられて 、病気になったり、
不幸にな ったりするのだ ﹂とい いますが、ほんとうでしょうか 。
いっさいの現象は、なるべくしてなる自然現象です 。人間だけでなくいっさいの生物が、その祖先
なくして存在するものではありません 。犬や猫が祖先の霊をまつっていますか 。 いや、祖先のことさ
え考えないでしょう。人間は妙なことに 宗教などの 美 名 をつけて、自他をごまかしています。 ほんと
うの意味の宗教というものは少なく、名だけであって、ほんものはないみたいです。祖先の霊がたた
るか救うかわからないけれども、ほんとうの意味では祖先の 霊 をまつ ったり、感謝したりすることは
人生の第 一義としてとてもたいせつなことです。それにはまず祖先とはなにかを知ることです。
だれでも、美しい花を見たときには﹁きれいな花だな!﹂と感嘆します 。しかし、この花をこうあ
らしめている根元であるところのその奥に存在する目に見えない生命の働き、 宇宙の 働きを意識し、
感嘆する人はいないと思います。 恩とは因(モト)を知る心です。 宇宙が親です、祖先です。宇宙を
神と別称してもよいかもしれません。この本 一
克に感謝を忘れて生きるまちがった心の持ち主は、その
心によ って罰せられます。 わたしは祖先をまつるとはこのような広い意味だと思います。 ちっぽけな
質疑応答
自分だけの祖先を祖先と思わないことです。 い っさ いはひとつの祖先からわかれたものです。仏壇に
祖先をまつることより、そのあらわれである自己をたいせつにし、他をたいせつにすることが、ほん
とうの意味で祖先をまつることだと思います 。
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怨霊 のたたりがあるか
私は歯科医の妻でございます 。 四年ばかり前、実弟の手足が不自由にな
り、一週間の断食でかなり快方に向かいましたが 、それをいいことにまた
不摂生な生活にもどり 、今度は、以前よりひどい不自由になりました。弟
はわからず屋でわがままで 利己主義な人間です 。私の実家はお寺で、弟が
その寺を継いでおりますが、代今の住職が早死にで(先住であった私の父
は村中から慕われましたが、四十四歳で死亡、母は一見は常人ですが、
時々無茶で非常識な 言 動をします)、悪いことがつづき、何かの因縁のよ
うにも思われます。無縁仏のあった上に蔵が立っているので怨霊のたたり
かと思われますが、そういうことはあるのでしょうか?弟がこんな病気
にな ったのも人間わざではないようにさえ考えられます 。 また弱気のくせ
に、わからず屋でガリガリでわがままな性質も何か因巌にもとづくような
気もします 。弟の日常は罰が当るといわれても仕方ない生活で、白米の御
飯をたくさん食べて、タマゴか健詰ばかりおかずにしていますし、暇があ
れば寝ており、供養があれば度を越した飲酒です。千葉の方の日蓮宗の奥
の院とかの有名な院主様に弟の嫁が見てもらったところ ﹁
代々寺について
いる怨霊をのぞかなければ、医者も注射もきかない﹂と申されたそうです 。
お手紙を読了して、ま ったくお気の 毒 に思います。
ヨガの立場からいうと怨霊がついたり、たた ったりするようなことはありません 。 ヨガでは、す ベ
てを、理由ある自然現象として受けとめています。
霊がつくとか、たたるとか、幽霊や、魔物がどうこうするとかいうようなことは、科学の発達して
いなか った人類の初期にいっていたことです。自分達の頭で理解できないことはすべて、人間以外の
何々の仕業として、それをふせいだり、のぞいたりする目的で、いろいろな宗教が発達したようです。
人間の知恵はわからないことをわからないままではすまされないようにできています。 何々と仮定し
てまで 安 心しようとするわけです。 これが無意識にもとめている適応作用です。
とく に人間は被暗 示性の強い動物ですからそういうよ うなことを聞いていると、自己暗 示 で、その
ようになりやすいのです。
ふじゅっ
シャl マン的(亙術)傾向のつよい日蓮宗 では特にひょう 霊 のことをい っていますし、除ひょう霊
を専門にしている坊さんもよく見かけます。 しかしこのことは、釈迦が一番反対したことです。真宗
や禅宗でも反対しています。
いろいろ不思議そうにいわれていることも、最近では、ほとんど科学的に解明されています。未だ
質 疑応答
に、怨霊云 々というようでは、人類数万年昔 の思想のままということになります。
、 生活病であると思います。 お手紙によると、メチャメチャな 生活では
ですから、弟さんの病気 は
ありませんか 。特に食生活においてです。食生活のみだれていることを通じて心もみだれていること
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が想像されます。 心が平静で安定している場合は、自然に食生活も正しくなるはずです。
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私の申し上げたい 一番よい療法は、今の仕事の禅に徹底することです。 弟さんは禅寺 の住職ですよ、
坐禅をしないのでしょうか、私には不可解のことです 。
坐禅、これが最上の療法であると断言いたします。 また、 一番早い治し方は、弟さんを無一物の生
死の境目に追いこむことです 。 生 活 が 安 易 だ か ら い け な い の で す 。 日本の宗教職者の典型的姿のひと
つを、あなたの弟さんに見せつけられているような気がします 。
冥想行法の調和
冥想行法をやるにあた って、 ﹁
強い信念を持て ﹂ということと、 ﹁
放下
思考しな いこと ご とはどう調和させるのでしょ うか。また、目的が 合理
(
的なものか、それとも空想であるかはどのよ うな方法によって判断するの
でしょうか 。
放下するということは、考えないということではないのです。 ひっかからない、とらわれない、
ー
、
、
ー
だわらない、しばられないということです 。 強い 信念をもっということは、基本なのです。 強い 信念
をも っていないと放下できないのです 。 ひ っかかるのは消極的な心が原因です。 この消極心をのぞい
信仰という)です。 真 実 を知 つてのみ正しい、すなわち強い 信 念が
てくれるのが、 真実 を知ること (
もてるのです。
目的は、主観(自己の立場、実力)と客観とが一致していなければならず、その目的に到達する方
法が正しくなくてはなりません。客観にあわなかったり、自分の立場や実力を考えなかったりする目
的のたてかたは不合理です。主観、客観、全体の三位に一致する目的を合理的というのです 。
シルシアサン
シルシアサン(さか立ち)は何分間ぐらいしていいですか。
だいたい十分から十五分です。二、三年もつづけてなれできたら 一時間以上行なってもよいでしょ
う。はじめのころは十分ぐらいがいいでしょう。どのアサンスもそうですが、いっぺんに長時間行な
うより、少しずつ、一日何回も機会をとらえては行なう心構えのほうがたいせつです。
は じ め は て 二分で結構です。そうして次第にのばしていくのです。ハタヨギの中には十時間も、
またはそれ以上もシルシアサンをつづけている人がおりますが、これには目的があるのであり、まし
てこのような訓練を行なうときには、ブラマチャリを厳格に行ない、食事もまた正しています。
質疑応答
この長時間アサンスの 主 目的は、からだ内部の働きのコントロール、心のコントロールです。 ヨガ
をよく理解せずに、効果のみを求めて、突然に長時間アサンスをむりに行なう人がおりますが、 これ
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はかえって身体に弊害があります。
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シルシ・アサンで 指 がしびれる
二カ月ぐらい前からシルシ ・アサンを一日 二1 三回、五1 六分ずつはじ
めましたが、両手の親指・人差し指・中指が最初からシビレていまだにな
おりません 。壁 を頼りにしていますが、 立ち上 がりのひ っく り返りを防ぐ
だけで、それ以外は壁に触れず、もちろん蹴り上げたり、急に下ろしたり
しません 。なにか方法がまちが っているのでしょうか 。また引き続いて行
な って良いでしょうか。ボタンをかけたり、 字を書くのに多少、不自由の
程度のシビレですが││。
手の指へは頭部および胸椎上部からの神経が通っています。また内臓も関係しています。親指・中
指 が し び れ る の は 神 経 と か 内 臓 部 に 異 常 が あ る か ら で す。
ま ず あ な た は 頭 部 お よ び 胸 椎 上 部 の 筋 肉 を や わ ら げ る 各 種 の ポ lズ や 体 操 を し て そ れ か ら さ か 立 ち
をしてください 。 首、 肩 が か た い ま ま で す る か ら い け な い の で す。
血 液 が 酸 性 過 剰 で も 便 秘 し て い て も 心 臓 や 肝 臓 に 故 障 が あ っ て も 親 指 は シ ピ レ ま す。 人差 し 指 の 場
合 に は 消 化 器 系 、 中 指 の 場 合 は 神 経 系 が 関 係 し て い ま す。
そ の 部 に 故 障 が あ る こ と の 天 啓 で す。 そ の 部 の 異 常 を 調 整 し て く だ さ い 。
シルシ・アサンで身体に異常が
半年ほど前からシルシ ・アサ ンをはじめましたが、物を食べるときあご
が痛んだり、今までなか ったじんま疹がでてずっとなおりません。
あなたのさか立ちには力がはいっているからです。 身 体 を ゆ る ま せ な い か ら で す 。 いきなりさか立
ちをするのではなく、いろいろのアサンスや修正体操をして、身体をゆるめておいてからするように
して下さい 。 力を入れてするからいけないのですから、その点にくれぐれも注意してください 。
太ったりやせたりできるか
アサンスによ って太 ったりやせたりできますか 。
アサンスをしていると一番最適な身体が自然にでき上がります。太りすぎもなければやせすぎもあ
りません 。 太りす、ぎもやせすぎも不健康の証拠です 。
質疑応答
多くの人は太ることをよいことのように考えていますが、病的に太ることはよくありません。病的
に太っている原因は老廃物排世が完全でないか、運動不足による病的な過剰栄養の蓄積です。このよ
う な 人 は す ぐ 疲 れ る し 労 働 に は 耐 え ら れ な い し 、 年 中 病 気 を し て い ま す。抵 抗 力 が な い か ら す ぐ 発 病
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してしまう。病気と思ってさらに栄養をとり 、安静にしているからますます太ってくるのです 。 痩せ
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ているのは内臓の働きがわるくて栄養の完全吸収ができないからです 。
アサンスをすると以上のような弊害がとれるので正常な身体となるのです 。
美容体操などのほとんどがヨガのアサンスをまねているために、 ヨガは 美 容法とか健康法とか思わ
れて困りますが、太ったのをなおすにはパシモタナ ・アサ ンやパドアスク・アサン (
立っ て行なうパ
がよいといわれています 。
シモタナ・アサン) 、
睡眠 時聞をちぢめるには
睡眠時聞をちぢめるにはどのようなアサンスがありますか 。
眠るということは疲労回復と 異常調整のためですから、熟睡することが必要です。 眠ることにたい
せつなのは量よりも質です。熟睡すれば時間は短くてすむわけです 。
熟 睡 す る に は ど う し た ら よ い か と い う と 、 交 感 神 経 ( 興 奮 神 経) か ら 迷 走 神 経 (
抑制神経)にバト
ンをわたしゃすくしてやることです。 そのためには 、
眠りたい強い要求のおきるまで起きていること 。
眠ることは 心 のくつろぐことですから、 心身の緊張を除くこと 。
心にしこりがあっても、身体にしこりがあ っても熟睡はできません 。 心のしこりをとるには問題に
していることを忘れてしまうことです。
身体のしこりをとるには体操をすればよいわけです。寝る前に十五分アサンスをして身体のしこり
をとって眠ると 二時 間 近 く 睡 眠 時 聞 が 短 縮 で き ま す 。 ま た 、 睡 眠 時 間 は く せ に も よ り ま す か ら 、 正 し
い条件反射をつけることが必要です。
朝のアサンス
朝起きがけは身体がかたくて、 アサンスがやりくいのですが、 この場合
はどうしたらよいでしょうか。
秋から冬にかけて手足が非常に冷えます。 どこが悪いのでしょうか。ま
たこの場合どうしたら最もよいでしょうか。
動くと血液が酸性化し、休むと血液がアルカリ化します。アルカリ化すると身体がかたくなります。
だから、朝は体操がやりにくいのです。しかし、少し動いていると次第にやりやすくなります。
一番よい方法は、水をかぶるか、冷水マサツをするのです。そうすると血液が酸性化してやりゃす
質疑応答
くなります。
手足が冷えるのは、たいていの人の場合便秘しているか、腎臓が貧血していて末梢神経の血行がわ
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るくなっていることですから、まずこの原因をなおすことです。
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また、手は首の骨、上背部の骨、肺、心臓に異常があると冷えます 。 腰 骨 に 故 障 が あ る と 足 が 冷 え
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ます。 なぜならば足への神経は腰から出ているからです。腹圧がひくくて腹に力がないと、足が冷え
ます。 それは足の血液の環流がわるいからです。腹式呼吸をすればなおるはずです。
また血液が酸性(アシド l シス)化していたり、手足の動脈が硬化していると冷えます。白米食を
やめて玄米、海藻、生野菜をうんと食べてごらんなさい。この方法で手足が冷えなくなったという人
がずいぶんおります。冷える 人はほてる人です。 その理由は、血液が濃くにど っているからです 。 血
液がにどっていると血管外に血清血援をどんどん出してしまい、細胞が水びたしになります。この水
分はその部分の体温を奪って発散していきます。だから寒いときにはとくにひえるわけです。夏なら
ほてるわけです。ミネラル・ビタミンの多い物を食べるとともに、よく手足の運動をして、あわせて
前記の原因をもなおしてしまうことです。
かぎられたアサンスだけでよいか
私はシルシ・アサンとパシモタナ・アサンしかしていないのですが、そ
れでもよいでしょうか 。
いい、悪いではなく、ひとつをしたらひとつをしただけの効果があります。 ひとつ、 ひとつが違い
ますからひとつにかたよらないで他も行なうことが全身的発達には必要です 。 ただどれに重点をおく
かは各人によって違うのです。とにかくかたよらないことが必要です 。 かたよりをとり去るのがヨガ
行法の目的ですから。ーーたとえば大根だけ食べていてもよいでしょうか、との質問と同一だと思い
ます。大根には大根のもつ特徴があって、この不足したものは他で補わなければなりません。総合的
修行法がヨガ行法の特色であることをよくわきまえて、一度にでなくてよいですからいろいろの行法
をとりいれて実行してください。
体操のとき背中が痛む
準備体操のとき、頭を前に倒す運動をすると背中が痛いのですが治療法
を教えてください。
それは脊椎がくっついているからです。くっついているのは伸ばせばいいわけで、伸ばす運動を
やってみて下さい 。 ただそれがねじれている場合はねじれをなおす運動と両方やらなければ痛みはと
れません。身体内部からきている故障の場合は熱があったり、その他の異常があらわれると思います
ので、気をつけながらやってみて下さい。ただ脊椎がくっついているのであれば運動をつづけること
質疑応答
によってなおります。
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肋膜でも行法はできるか
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身体が弱くても行法を行なうことは可能でしょうか 。また病気あがり(肋
膜など)でも身体に異常をきたさないでしょうか 。また反対にかかりはじ
めの者が実行しても構わないでしょうか 。
身体が弱いならば弱いなりにやればよろしいのですから、身体が弱くても実行できます 。 健 康 に な
る秘訣は何かというと、ちょ っとむりなことをちょっとやるのです 。五 の力をもっていたら 五 ・五 の
ことをやる 。五 ・五になったら六の力のことをやるのです。 弱いなら弱いなりの適した方法をやれば
よいのです。
健康法とか治療法とかいうものは 百人 百様でなければなりません。その人に適した分を採用するの
です。それを多くの人は、画 一視できないものを画 一化してしまうのです。 他人のやっているのをみ
て、自分にもあうものと妄信してや っているのです。 それではいけません。自分でやって適している
ものだけをやるのです 。 適したものかどうかは気分がいいか悪いかによって決定するのです 。 気分が
いいか悪いかは生命の働きの間脳が判定してくれるのです 。
そ れ か ら 病 気 あ が り で も 身 体 に 異 常 は き た し ま せ ん 。身 体 の 力 、 心 の 力 を ぬ い て や る わ け で す 。
立っていることもさか立ちをしていることも同じことです。立っているのも坐っているのも同じこと
です。肋膜を病んでおろうがなかろうが同じことです 。
ヨガの体操の目的は何かというとバランスをとることです 。 前 か が み に な っ て ば か り い な い で 、 後
にそる運動をする。立ってばかりいないで、 さか立ちをする。どういう効果があるかというと、立っ
ていることによって起きたところのストレスを、さか立ちすることによって解消するのです。 それで
すから病気あがりの人こそやられたほうがいいのです。病気にかかりはじめた人がはじめたら、病気
にかからないですむわけです。
微熱があっても行法はできるか
アサンスや呼吸法の各ポ 1ズを、微熱など身体の調 子の悪 いとき行なっ
ても、だいじようぶでしょうか 。
結構です。 異常の症状があらわれているということは、本来の正常の姿に返ろうとするところの生
命運動を展開している状態なのです 。 だから解剖学的観点から観察したときでも、必ずそれをなおす
ようなか つこうをします。 腹痛をなおすときには右が痛ければそちらをゆるめるようにしますが、呼
吸の型でもそうです 。あれがポ lズなんです 。ヨガで教えて いるポ lズなんです。 ヨガが教えている
ポlズだけをやらなくてはならないというのではなくて、ポーズは身体の中の力をよび起こす、さら
質疑応答
に平生かけているむりを逆なポ lズをとることによ って改善 す る 。 立って生活したことによって生じ
た と こ ろ の ス ト レ ス を さ か 立 ち を す る こ と に よ っ て 解 消 す る 。 こ れ が 体 位 法 の 目 的 な ん で す 。右 へ よ
じった後は左へよじる 。右手を使ったら、左手を使う 。頭を使った後は血液の正常分配のために足腰
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33
に力をいれる。これがポ lズのやり方です 。 だから調子の悪いときほど行なったほうがよいのです。
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34
ただ行なうときには力を入れないよう注意しなければなりません 。多くの方は、病人など絶対安静
といわれると、寝ていることが絶対安静だと思っていますが、これが大きなまちがいです 。 異常のあ
る箇所は安静にしなければなりませんが、異常のない箇所は動かすべきです 。病気はなおるものだと
考えて下さい。身体の中の力は健康なんですから 。健康だからこそ症状を起こしているのだというこ
とを自覚して下さい 。 それを多くの人はいのちの働きが適応性の働きであるということを知らずに、
黙って天井をみて寝ているために身体の中の働きまで弱めてしまう。身体の中の働きまで弱めてし
まったらおしまいなんです。胸が悪くても足には故障が起こ っていないのです 。足の運動をすればよ
い。手の運動をすればよいわけです。 首を曲げてもよいわけです。運動をすることにより身体の中の
力が元気づけられます。身体の中の力が元気づけば抵抗力がつくことになるわけです。
それからアサンスやポ lズは日常かかっているむりを解消するのが目的ですから、どういう原因で
徴熱が生じたかによって、それに合ったポ lズをすればよいわけです 。だから、体位法や体操法はひ
とりひとりその必要とする型が違うわけです 。訓練の目的ならば別ですが、 異常調整の目的、内力喚
起の目的ならば、それに適したものをやらなければなりません 。 ここに指導をうける必要と、その理
論の講習をうける必要があるわけです。 自分で自分のゆがみはわかりません 。 理論と 実際を知るため
に、講習会に参加されることをのぞみます 。 まちがいを知らずに行なうことはあぶないことです。
アサンスはいくつやればよいか
私達仕事をもっているものは忙しいのですが、 ヨガのアサンスは、最低
いくつぐらいや ったらよいでしょうか 。
ヨガのアサンスはご承知のように、別々の目的をもって順序よく組み立てられています。前後、上
下 と い う よ う に 、 七 っ か 八 つ は 必 要 で す 。主 な も の を 全 部 や っ て も 十 五 分 ぐ ら い し か か か り ま せ ん 。
忙しいといっても十五分や 二十分ゃれないことはないでしょう。何をやるかについては、自分の一番
や り に く い も の か ら 始 め る こ と で す。 日 常 癖 づ い て い る 体 型 や 運 動 の 逆 の も の を や る と バ ラ ン ス が と
れます。手足の末梢部運動などは、歩いているときとか、電車に乗っているときなどの時聞があると
きにやればよいでしょう。とにかく正しく適当に行なえば行なうほど効果があらわれます。自分を助
けるものは自分以外にはないのですから、よく自分で判定して実践に努力すべきです 。
アサンスの数
アサンスには数がいくつありますか、全部やる必要がありますか。
質疑応答
ア サ ン ス に は 体 位 法 と 体 操 法 の ふ た つ が あ り ま す。 体 位 法 に は だ い た い 四 百 種 類 あ り 、 そ の 内 で 主
要なものは四十です。体操法には 二千種あり、その内どれが 必要であるかは、その人によ って異なる
わけです。
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アサンスの中には十年も行なわなければできないようなむずかしいものもあります 。 はじめはやさ
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36
しいものからやって、あせらないで、次第にむずかしいものをおぼえていけばよいでしょう。
アサンスの専門家は子どものときからはじめて、人体の可能な限界まで実行するのです。 私 も 数 少
ない専門家の行法を見ましたが、驚きました。練習をかさねると人体もあそこまで鍛えることができ
るのだと感心しました 。 ヨガは努力によって人間としての可能性の限界を求める教えですから、でき
るできないは別として、たえまない努力を繰り返すことが、ヨガを学ぶものの心がけです。
ヨガでは修行をつんだ人は生まれ変わると教えています 。 私 も 何 度 か 生 ま れ 変 わ っ て い つ か は 、 神
人合一の境地まで達しようと思っています。ただ、今すぐゴ l ルに達しようなどとは思いません。た
だ努力するだけです 。 努 力 す る だ け 進 む の で す 。 た だ 努 力 す る 、 努 力 主 義 が ヨ ガ イ ズ ム で す 。
アサンスと食事
食後にしてよいアサンスとしていけないアサンスがありますか 。
アサンスが上達するための食事法がありますか 。
アサンスの後にはどのようなものを食べたらよいですか。
食後にしてよいのはパジュラ・アサンだけで他のアサンスはやらないほうがよいでしょう。
肉 食 過 多 は 身 体 を 硬 く し ま す 。 ま た 断 食 を し て 行 な う と 早 く 上 達 し ま す 。 アサンスの練習をすると
きはいつも粗食小食にしておくことが必要です。菜食、植物油、植物酢がよく、美過食すると身体が
硬化して、疲れやすく、だるくなります。
食べることをしばらく休むのです。そして食べはじめのときには流動食、たとえばミルクとか果汁
のようなものを食べるとよいでしょう。アサンスやプラナヤマをしたあとで気をつけなければならな
い こ と は 、 も の す ご く 空 腹 を 感 じ る た め に 過 食 に な り や す い こ と で す 。 多くの人はこのために健康を
害しています。その好例が力 士やレスラ ーです。食前に数時間ものすごい運動をして、極度の空腹状
態にしておいてしこたまに食べるから、あのように太るのです。しかし健康的な太りかたでないから、
とかく病気をしがちです 。 よ く 動 い て 、 腹 六 分 か 八 分 食 べ て 、 い つ も 要 求 を 高 め て お く こ と が 健 康 保
持 の 秘 訣 で す 。 ア サ ン ス を し た 後 は 、 し ば ら く 心 身 を く つ ろ が せ て 下 さ い 。 すぐ仕事についたり動い
ては効果がありません。それはアサンスをした後には内部に自然運動が起こって、内臓器官の調整を
行なうのですが、動くとこの運動がとまってしまうからです 。
質疑応答
最初身体が痛い
アサンスをやりはじめて六ヵ月になりますが、アサンスをやると最初と
ても身体が痛いのですが、それでもつづけてやってよいでしょうか 。
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(苦しみ) には、悪くなることへの生命の 警 告 のものと、旧悪から脱皮するための進化の苦し
8
3
痛
み
みのふたつがあります 。 正 し い 判 断 力 が な い と こ の ふ た つ の 見 分 け は っ き ま せ ん 。 身 体 の 不 完 全 発 達
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38
にはふたつがあります。 ひとつは萎縮硬化で他は麻痔衰弱です 。 こ の 不 完 全 部 を ア サ ン ス の 刺 激 に
よ って正常化するのです。 私達 はなれると中毒 化して神経が正常な感じ方を失調してしまいますから、
異常を異常と感じなくなります 。 そ の 身 体 を 急 に 刺 激 す る の で す か ら 、 痛 い と か 発 熱 と か い ろ い ろ な
反応が起こ ってくるのは 当然 で す 。 と に か く 身 体 が 自 由 に 動 く ほ ど 健 康 体 で す 。 い ろ い ろ な 体 操 を
や ってみて動かないとか、動きにくいときは 異常があるのです。 だから病体、弱体、老体になるほど
身体は動かしにくくなるのです 。
ヨガのアサンスは全身の発達を目的としています。異常体でアサンスをはじめれば、異常がなおる
ために反応として痛みが起こるのは 当然ですから、それをおそれてはいけません 。 やめてはいけませ
ん。 つづ けてやることが必 要 です 。 しかし気をつけなければならないことは、急激に、また 一度 に 多
くをやらないことです 。 少 し ず つ 、 毎 日 つ づ け る こ と が 必 要 で す 。
アサンスとプラナヤマ
アサンスとプラナヤマはいっしょにや ったほうがい いのですか 。
このふたつはいっしょに行なったほうが効果は 高 いのです。 アサ ンスで身体の内外の各部を刺激し、
その働きを調整します。 そして、 プラナヤマによ って新しいエネルギーを 全身に注入すると同時に、
体 内 奥 深 く ひ そ ん で い る 老 廃 毒 物 を 排 除 し て し ま う わ け で す 。 この両者はいっしょに行なってこそ効
果が出てくるものです。一方 だけを行なうことは調味料なしに料理するようなものです。 ですから、
ヨガでは必ずこの 二者を併用しています。しかし、この 二者だけ行なってもヨガにはなりません。食
事法もそうですが、ご承知のヨガの段階を同時に行なってこそ、ヨガになるわけです。それをしらず
に呼吸法だけしてヨガと思ったり、体操法だけしてヨガと思ったりしていることは誤りです 。
アサンス実行中の呼吸
アサンスをしている最中の正しい呼吸の仕方について教えてください 。
アサンスをするときには、身体をゆるめてしなくてはなりません。身体を柔らかにして行なうので
す。身体をゆるめて刺激を与えると身体の働きを強める効果があるけれども身体を緊張してやると身
体を損じてしまいます。身体を柔らげてころぶとけがをしませんが、身体をかたくしてころぶとけが
をします。酒に酔ってころんだとき、あまりけがをしないのはこの理によるものです。息を吸うとき
身 体 は か た く な り 、 息 を 吐 く と き 身 体 は 柔 ら か に な り ま す 。 アサンスをするとき、手を身体に近づけ
質疑応答
るときに吸い、遠ざけるときに吐くのが基本ですが、できるだけ静かにゆっくり深く長く呼吸します 。
とくにたいせつなことはアサンスのすんだ後は、すぐ動いてはいけません 。一 動作のすむごとに、深
く、静かにゆっくりと呼吸をして、心身が落ち着いてから次の動作にうつるのです。 心身のゆとりを
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も って生きるのがヨガです。
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30
アサンスの断続は有害か
アサンスをしたりやめたりするのは有害でしょうか。
有 害 な こ と は あ り ま せ ん 。全 然 し な い よ り は し た 方 が よ い の で す 。 し か し 身 体 の 働 き は 適 応 作 用 で
すぐ元に戻りますから、やめたり行なったりしていると進歩しません 。
ヨガのモットーは、しずかに少しずつゆっくりと、そしてつづけてであります。自然的進歩の仕方
がヨガの心構えです 。 こ の つ づ け て 行 な う と い う こ と が む ず か し い こ と で す 。 継 続 す る こ と が 修 行 な
のです。 継続するには強い意志が必要です 。 一 事 に集中するためには他の物をやめなければなりせん 。
俗事をはなれて出家するのも、目的とすることに精力を傾注するためです。
自然的、漸進的というヨガの心構えを忘れて、いっぺんに大量に、急激に行法を行なう方がおりま
すがこれは危険です。またこのような人は、中途で必ず挫折しています 。
アサンスと菜食
アサン スを行 なうには菜食主義 を守らなければなりませんか 。肉食をし
ては害がありますか 。
ヨガのアサンスやプラナヤマの 主 目的は心身を浄化することです。 心身の浄化とはどういうことか
というと、バランスのとれていることです 。 心身の働きの強いということは、バランス回復力が強い
ということです 。
食の正否は身体とのバランスがとれているか、 生 活環境とのバランスがとれているか否かです 。 行
法を行な った人の血液は酸性化しています。 この人が酸性過剰の食べ物をと ったのでは身体をこわし
ます。行法を促進する食べ物をとるべきです。 その食べ物とは ー ービタミンの多いもの、ミネラルの
多いもの、植物酸の多いもの、植物油の多いもの ー ー などです 。
これらは血液を中和し、神経の働き、ホルモンの働きを整え、筋肉を柔らげ、疲労の回復を促進す
る効果 をも っています。 この意味において、アサンスを行なう人には菜食がよいということを体験的
に教えているわけです 。
老人のアサンス
老人にむくアサ ンスがありますか。
質疑応答
たくさんあります。 老人はその人の体力に合わせて、簡単 なものがよいでしょう 。 老人の体操とし
ては常時身体を軽く動かしているものがよいのです 。 特 に 手 と か 足 と か の 末 梢 神 経 の 刺 激 が よ い の で
す。 老化は末梢神経の硬化からはじまるとい ってもよいぐらいですから 。
9
31
たとえば、手首や足首をふったり、ねじったり、まわしたり、のばしたり、ちぢめたりすることを、
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いろいろな角度から行なうのです。アサンスとしては、アルダサルパンガ・アサン、ブジャンガ・ア
サン、半パチモタナ・アサンなどがよいでしょう。しばらく足をあげて耐えている練習をするのもよ
いことです。老人は完全なポ lズのできることをあせ ってはいけません。できなくてもよいから繰り
返すのです。かるく、しずかに、少しずつ、そうすると次第にできてきます。老人は特定の運動より、
たえまなく軽く動くというくふうのほうがたいせつです 。急激に行ないますと、骨折したり筋肉炎を
起こしたりのいろいろな弊害がありますので注意して下さい。
ブラマチャリとアサンス
アサンスを実施するには完全なブラマチャリ(完全なる心の出家)が必
要ですか。
よいご質問です。ヨガの場合、ただ訓練だけをしてもそれをヨガとは認めておりません。心の浄化
を伴なっている場合だけがヨガです。ここが普通の体操と、ヨガの体操のちがうところです。つまり、
心の浄化を伴なわないものはヨガではないのです 。
ブラマチャリについて、かんたんに説明しますと、欲望をコントロールすることです。欲望のコン
トロールとは、 その欲望のとりこにならずに、それからはなれることです。しかしこれはむずかしい
ことです。ヨガでは、このブラマチャリを入門の第一門としています。それはヨガは単なる訓練法で
はなくて、心身コントロールの訓練によって自己を完成し、社会に奉仕することを目的とするからで
す 。 単 な る 健 康 法 と か 、 長 寿 法 、 治 病 法 、 救 済 法 と ま ち が え な い こ と で す。 この意味においては、
ヨ
ガは世界的に誤解されているといえましょう。
ヨガのアサンスとサーカス
ヨガのアサンスには 一見、常人にはできないようなサーカス的なものが
ありますが、そこまでいかないとヨガのアサンスの効果はないものでしょ
うか、教えてください 。
ヨギたちの中には、見せ物のサーカス以上にじようずに身体をあやつる人がたくさんおります。 し
かし、これはハタヨガを修行したからではありません 。
生命の働きは適応性ですから、訓練すればいくらでも上達するわけです。あの巧妙さは訓練の賜物
です。 ヨガ哲学の立場からいいますと、巧妙だからよいのではなく、訓練すればそこまでいけるので
質疑応答
あ る と い う 訓 練 の 重 要 性 を し ら し め て く れ る と こ ろ に 価 値 が あ る わ け で す。 ハタヨギのナサンスと、
それらの人達の訓練の根本的ちがいは心の面にあります。
3
ハタヨギのアサンスの主目的は心身コントロールの補助的な手段なのです。どういう心構えで行な
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3
うかによ ってヨギと見せ物の岐路があるわけです 。 ヨギは修養の目的です。 見 せ 物 は 金 も う け が 目 的
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34
です。 ヨギがアサンスやプラナヤマをするのは、身体の働きを整えて禅定(ディヤ l ナ)法を実習し
やすくするためです 。 ヨ ギ は 心 身 は 一 如 と 思 っ て い ま す 。 身 体 の 働 き は そ の ま ま 心 の 働 き に 影 響 し 、
心の働きは身体の働きに影響するからです 。 心身コントロールのために、ヨガにはアサンスやプラナ
ヤマがあるわけです。ただ訓練するのでは、上達はするでしょうが、ヨガとはいえません 。 心 の 状 態
はどうか、何を考えているか、生活ぶりはどうであるかにヨガと非ヨガの岐路があります。
ときどき、技術の巧妙を見せ物にしてヨガと称している人がおりますが、これはまちがいです。 ヨ
ガがこのために誤解されていることは実に多いのです。 真理探究、自己調整、生命の高揚、社会への
奉仕をぬきにしたヨガの訓練はありえないのです。
アサンスと入浴
アサンスやプラマナヤマの前に、心身を清める意味も含めて、入浴した
ほうがよいでしょうか 。 ヨガにおける入浴の意味を教えて下さい 。
ヨガの実習者は、大きく次の 二グループにわけることができます。
第一のグループは、心身コントロールの一手段としてアサンスおよびプラナヤマを行なっている人
達 で あ り 、 彼 ら は 完 全 な る ブ ラ マ チ ャ リ を 行 な っ て い ま す 。 第 二のグループは、肉体的訓練を目的と
してアサンスおよびプラナヤマ行法を行なっている人達であります 。
これらのグループのちがいによって、その注意事項がちがいます。 ハタヨガを主たる行法としてい
る人達は冷水浴を禁じ、温浴だけが許されています。食事にもいろいろと制限があります。
その理由を現代生理学の立場から観察してみますと、たしかに論拠があります 。 運 動 を す る と 身 体
は酸性になります。 ハタヨギたちはたえず運動を繰り返しているのですから、中和するために温浴が
よいわけです 。 ただし 三十分ぐらい休んでからのほうがよいのです。急激な変化のショックは身体に
よくありません。運動直後、食事をしたり入浴したりする人がいますが、これは不健康的です。 しず
かに休み、それから変化をあたえるのです。身体をたいせつにするということは、できるだけ多くの
変化をしずかに、ゆ っく り与えていくことです。身体のバランスをとるのが健康的刺激ですから、入
浴も、朝は冷浴、夜は温浴が正しい方法です 。 そ の 理 由 は 、 朝 は か ら だ が ア ル カ リ 化 し て い る し 、 夕
方 は 酸 性 化 し て い る か ら で す 。 いちばんよい入浴は温冷交互裕です 。 身 体 を 休 め る た め に は ぬ る い 湯
にながく入るのがよいのです 。熱湯を好むことは不健康的です。 食べ物でも熱すぎたり、冷えすぎた
りするものを食べることは不健康的です。
アサンスの 一時間ぐらい前の入浴ならかまわないでしょうが、入浴後すぐアサンスやプラナヤマを
質疑応答
行なうと身体の調子をくずしますので、終ってから入浴して下さい 。
9
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声をよくするには
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戦前読んだ本 の中に、ヨガをやると 金属的な声がでるということが書い
てあり、それが印象に残 っていてヨガに興味をもったのですが、声をよく
するにはどういう行法をやったらよろしいでしょうか 。
声 は反響部が必要ですから 鼻 の 穴 、 口 の 中 、 鼻 、 胸 、 腰 が 影 響 す る わ け で す 。 それから 首 がやわら
かくなくてはいけません 。 胸 が 聞 い て い な け れ ば い け ま せ ん 。腰 、 丹 田 に 力 が は い っ て い な い と 声 が
でてこないわけです。 だ か ら 声 即 健 康 を 意 味します 。 細 い 小 さ い 戸 で も 遠 く ま で 響 く よ う な 声 を出せ
た ら 健 康 で す。 ですから正しい姿勢をとることです 。身 体 に し こ り が あ っ て は 戸 が で な い わ け で す 。
鼻 が 悪 く て も 声 が 出 な い わ け で す 。 胸 が 萎 縮 し て い て も 声 が 出 な い わ け で す 。 腰がかたくなっていて
も 声 が 出 ま せ ん 。練 習 と し て は 発 芦 体 操 が あ り ま す 。
非行少年の救済について
最近少年の非行が多いのですが、これは何が原因でしょうか 。それをど
う いうふうに救済したらよいでしょうか 。
私は殺人などの場合、ほんとに殺人しようと思って殺人するような人は何パーセントもいないと思
います。 た い て い の 殺 人 は と っ さ の で き ご と だ と 思 う の で す。 そ れ は 無 意 識 の 中 の 恐 怖 心 が や ら せ る
ことだと思います。
青少年の場合、責任はおとなにあると思います。良いほうにいく刺激でなく悪いほうにいく刺激ば
かり与えているからそうなるのだと思います 。 判 断 す る 能 力 の な い 少 年 た ち に 無 意 識 に 悪 い こ と を 植
えつけているのです 。
おとなが営利のためにいろいろな方策をたてて、飲みもの、見せもの、異常興奮を起こすものなど
をたくさん与えているわけです。 これは青少年の 責 任はでなく、おとなの責任だと思います。だから
おとながもう少し考えなくてはならないと思います。営利のために社会を毒するのでなく、ほんとう
に人聞を愛し、人聞を尊重するという立場で考える以外に救済の道はないと思います 。猫に餌を見せ
ておいて食うなといってもどうにもならないことだと思います 。
気分のイライラをなおすには
私は年中気持ちがイライラモヤモヤしております。生きていることが苦
しくてなりません 。この解決法を教えて下さい 。
質疑応答
人間の動作が起こる順序を考えてみましょう。 なにかの要求(欲望)が問脳に生ずると、大脳の皮
質がこれに合ヅチをうって動作を起こすわけです 。 この欲求が自由に発散できたときに感ずるのが快
7
感、満足感で、なにかの抑圧でこの欲求の発散が自由にできないとき感ずるのが不満感です。この不
9
3
満が内向したとき、生理的には食欲不振や不眠症を起こし、精神的には神経衰弱やノイローゼになり
9
38
ます。 この対策はどうしたらよいかというと、欲求エネルギーを内攻させずに上手に外部に発散させ
てしまえばよいわけです 。 こ の 欲 求 エ ネ ル ギ ー の 方 向 転 換 を し て や れ ば よ い の で す 。
精神的悩みを精神的方法で発散させる方法と、肉体的方法で発散させる方法があります。精神的発
散方法とは、その問題とは異質な別方向のものを考えたり、聞いたり、話したりするのです。音楽や
宗教の話を聞くこともよいことです。 よくおしゃべりをしている人がいるでしょう。あれはおしゃべ
り で 内 攻 エ ネ ル ギ ー を 発 散 し て い る わ け で す 。絵 や 文 章 を 書 く こ と も よ い こ と で す 。 とにかく、ほか
の楽しい方向に精神を使うくふうをするのです。
スポーツやレクリェ ー ションや清掃、洗濯、散歩およびその他の身体的労働でエネルギ ーを発散す
るのを肉体的発散方法というのです。 偉大な仕事をした人は楽な立場にあ った人よりも、苦しい立場
にあった人の方が多いでしょう 。それはエネルギーを上手につかったからです。﹁難難汝を玉にす ﹂の
諺があるでしょう。これはエネルギーを上手につかったことです。苦しみを自己向上への力とかえる
くふうを修養、修行というのです。自己を方向転換したいときには逆境こそ好チャンスです。
シャカが自分のコントロールのできるものが悟 った人であると教えています。 ゲルハルト(ドイツ
の神学者)は心の満足が得なければ、厳しく自分にうち克つ技術をおぼえなさいと教えています。自
己調禦とは自由にエネルギー(欲求力)の方向転換ができることで、ヨガではこの訓練法をプラティ
ヤハラといっています。 よく心配症などという人がいるでしょう。あれは自分の力を心配になる問題
にばかり使っているからです 。 不 健 康 に な る の は 自 分 の 力 を 病 気 に な る よ う な 方 向 に ば か り 使 っ て い
るからです。 悩みや迷いも同一です。修養、修行とはよい方向に自力をつかうということです。 その
結果として健康や悟りや喜びを与えられるではありませんか 。
夫婦和合の 秘訣もここにあります 。お互いがひっかかることなしに、責めあうことなしに自由に話
しあうのです 。 思いを抑圧しあうために不満が起こり、むだな対立や争いを起こしてしまうです。
ひとつのことに執着することは禁物です。神経質の人は﹁イライラしたくないと思ってイライラす
る﹂という調子で、原因と結果が悪循環しています。心に退屈や不満を感じて生きている人が多いで
しょう。あれは生活に抑揚がなく、単調な生活を繰り返しているからです。 同一の姿勢や同 一の刺激
の中にいるとすぐ疲れてしまいます。それは身体の 一部分だけを使うからです。上 手にほかに転換し
て、うまく心身のシコリをときほぐして心身のバランスをとって愉快に生きる人が人生の達人であり、
これがヨガ行法です。
質疑応答
気分を落ち着かせる法
気分を落ち着けるのにはどうすればよいでしょうか。
次から次へと取り越し苦労ばかりするのですが、も っと太い神経をも つ
にはどうすればよいでしょうか 。
399
プラナヤ マは食後す ぐにしてもよいでし ょうか 。
0
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神経が緊張していると、食後胃部が 気持ち悪くまた痛みますがそういう
ときど うすればよいでしょうか 。
気分を落ち 着 か せ る に は 心 理 的 方 法 と 生 理 的 方 法 の 両 方 が 必 要 で す 。
心理的方法というのは感情をやわらげることです。 そのためには安心することが必要です。 安心す
るにはす べ てのものごとを 善、または得と受け取り、信じこむことが必要です 。観念の内容を積極的
に す る た め に 、 つ ね に そ の 練習 を し て く だ さ い 。
生 理的方法 には、筋肉をやわ らげること、おだやかな深い呼吸を身に つけること、血液を浄化する
こと、 重 心を下げて、腹 圧 を高 めること │ │すなわち腰、足、 下腹 筋 に 力 の こ も っていることなどの
条件が必要です 。
こ の た め に は 、 植 物 性 の 食 事 を し 腹 圧 を た か め る 各 種 呼 吸 法 を 実行 し 、 禅 定 行 を し て く だ さ い 。
人 聞 は 、 練 習 に よ っ て 身 に つ け た こ と が 上 手 に で き ま す 。あ な た の 取 り 越 し 苦 労 症 は 練 習 の 産 物 で
す 。 なんでも心配する練習をしたからです。 太い神経がほしか ったら、なにごとにも感謝し、 喜 ぶ練
習をし、それを身につけてください 。
食 後 二、 三十分はゆ ったりとしている べきです。 なぜならば使う ところに血が 集 まるのが生理現象
だ か ら で す。食後には血が腹部に 集 ま っています。動くと血が他所にい ってしまいます。 クム パ クは
腹圧をたかめ、腹部の血行を促進する方法ですが、やはり食後 二、 三十分は行なわない方がよいです 。
緊 張 す る と 、 肩 、 首 が か た く な り ま す 。 迷 走 神 経 は 頭 か ら 首 を 通 っ て 腹 部 に い っ て い ま す 。 緊張す
る と 首 が か た く な っ て 、 こ の 神 経 を 圧 迫 す る か ら 、 胃 部 が 気 持 ち わ る く な る の で す 。 あなたは神経質
な の で す 。 首、肩の力をぬいてください 。 力 を ぬ く に は 腰 下 鹿 、 お よ び 足 に 力 が は い っ て い れ ば よ い
のです。 そこに力をいれる運動と深い呼吸法をして下さい。首、肩がやわらかくなれば、胃部の気持
ちの悪いのはなおります 。
心の悩みについて
心の中のこだわりやはからいを捨てるにはどうい う行法が適当 でしょう
か、お教え下さい 。ひとりズモウをと って、いたずらに心を消耗させてい
るような気がしてなりません 。
こだわるからこだわり は か ら う か ら は か ら っ て し ま う の で す 。 なぜそうなるのでしょう 。
それはそれを考えるからです 。 ﹁むりをいっては困る、生きている聞は考えないわけにはいかない
のだ ﹂ と、あなたはお っしゃるでしょう。 そうです。生きて目覚めているかぎり、 心 は 働 い て い る
質疑応答
(考えている)のですから 。
考 え よ う と 思 っ て 考 え る の で な く て 、 心 が 考 え る の で す か ら 、 考 え て も よ い の で す 。 ただし、自分
や他人をしば ったり、傷つけたりしないような考え方をすることです。
0
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はからいがいけないのではないのです 。妄想的、錯覚的、自己中心的なはからいがいけないのです。
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この、こだわりや、まちがったはからいかたから脱却する行法を教えましょう 。
まず第 一に、正見正思できるように、 真 理とは何かを修養体得するのです。無知が惑見惑思の因と
なるのです。
次は、無の生活をするのです。無の 生活とは、無要求、無条件、無対 立、無報酬の無の 生活を心が
けるのです。無というのは、ないということではなくて、それにひっかからず、ただ行なうというこ
とです。 しかしただ行なうということはむずかしいことです。 ただ行なう前段階の行法を申し 上げま
しよう 。
求道ということは日常の積み 重 ねです 。実力をつけつつ、 実力に応じた目標をたてて、しだいに 高
めていくのです。 ノイローゼとは、過剰欲望者がなる病気です。 よく、意志が弱いとか、不安症だと
かいう人がおりますが皆同様です。
ヨガは、しだいに高きにいたる道です。ただそのまま、おまかせの境地に生きるのを絶対的生活
(信仰の極地、まことの 宗教生活)というのですが、い っぺんに、この悟りの境地に到達できるもの
ではありません 。 その前段階として、次のようにものごとを考える練習をして下さい 。 すなわち、両
方の考え方をするのです 。まかせられないと思いつつ、まかす気持ちになる 。 ゆるせないないことを、
おがむ心になる(むりにでもやるのです)。裁きたいと思う人にあやまる心になる 。不安をいだきつつ
大胆に生きる 。 こうなってほしいと思いつつ、なるようになればと思って進む、 はらの立つことを笑
ぅ。 いいたいことを忘れてしまう 。
この段階の練習だけでもとてもむずかしいことと思いますが、 しかし やらなくては、仕方がない
のです。
この考えることの練習の後にやる行法は、坐禅です。坐禅とはただ坐ることです。 なんだ、ただ坐
るぐらいと思われるでしょう 。 しかし、このただ坐るということがむずかしいのです 。なぜかといい
ますと考えてしまうからです 。 つい考えてしまうことを雑念といっています。この雑念をのぞくこと
のむずかしさは坐禅行者がみな体験しています。
ただ坐るということの中には、考えを放下することが含まれています。どうしたら考えが放下でき
るかおわかりですか 。 それは、心を何かに統 一 (ダラナ)してしまうのです。 よくや っているでしょ
う。鼻の先に注意を集中したり、呼吸をかぞえたり、何かの音をきいたり、一点をみつめたり 。 この
行法をつづけていると、心がそれに統 一されて、他の考えを放下してしまい 。 ついには無心にまでい
たるのです。 そうして、この無心になることが身についていると、いろいろの場合すぐ無心になれる
のです。
質疑応答
ヨガの目的は いかなる場合でも、無心の平静心身で生きうる条件反射を身につけることです。
や
るのです、坐 ってごらんなさい、ただ坐ってごらんなさい、わかってきますよ 。
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無心 の境地になるは
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無心の境地を求めて久しいものですが、未だにその道程がわかりません。
どうしたらなり得るかをご教示くださいませんか 。
私は解脱の方法として参禅をしております。坐禅中どうしても無心にな
れないのですが 。
無心というのは心の無いことではありません。心はあるのです。 しかしひっかかる心がないのです。
心が浮かんだことにとらわれたりこだわったり対立したりしないのです。
無心になりたいとか、なろうとかなれないなどと心の中で争ったりあせったり、こだわったりする
からひっかかって無心になれないのです。自然をごらんなさい、 一瞬もとどまらないでしょう。無心
というのは自然心のことです。無心になるためにはそのことに自分をしばりつけないことがたいせつ
です。自由ににぎり自由に放すのです。しかし、この説明だけではわからないでしょう。無心になる
練習方法を説明してみましょう 。
無とは、自分自身がすべての対象物と調和状態にあることであり、その反対は対象物と対立状態に
あることです。なぜ対象と対立するのかを考えてみましょう 。 これはその対象を否定しようとしたり、
それと闘おうと考えるからです。無対立になるためには全肯定の練習をすることです。 全 肯定とはす
べてを良しとする立場です。対象物のすべてを味方と受け取れば、それと和合する心になり、ついに
は無心になるところまでいけます。無になるためには利害損得好嫌の対立感からはなれて、無条件、
無要求、無功徳、無立場になる練習が必要です。
無条件とは条件ぬきの生き方をすることです。わかりやすくいえば、何々のためにしたりしなかっ
たりしないのです。私たちは無意識に条件をつけやすいのです。何々でないとやりたくないと思うも
のです。
無要求というのは結果の正否にとらわれないことです。私たちはすぐにわからない結果の正否にとら
われて、心を動揺させやすいのです 。すぐなおるかなおらないか、できるかできないか、儲かるか損
するかと考えやすいのです。 そうして得すると考えられないとやりたくないし、損だと感ずると力を
失ってしまいます。 この 二対立の中で生きているかぎり常に動揺しなくてはなりません 。
無功徳というのは損得に左右されないことです。功徳を追うとあせったり、失望したりしなくては
なりません 。禅の高僧が禅の道は無功徳だと教えています 。求道心は無功徳の精進心です。信仰の道
もまたそうです。 この心構えを﹁唯﹂ というのです。 この﹁唯の心 ﹂ のものにのみ 宗教への門は聞か
れているのです。
しかし多くの人は宗教を功徳への門として求めています。 ですからいろいろな宗教がはやるわけで
す。真実 の宗教信仰者、 実践者は少ないものです。
質疑応答
無立場というのは自己本位や 主観だけに立 った物の見方考え方をしないということです。 われわれ
は無意識に自己中心になりますし、自己の尺度で相手をおしはかつてしまいやすいのです 。対象はお
のおの自分の立場をもっておりますし、自分の観方考え方をもっていますから、自己中心を押しつけ
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たときには対象と対立してしまいます。相手の立場にならないと相手の胸中はわかりません。世の中
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の争いの原因はみなこれです。自他の立場に立ち、客観を主観化した考え方をする、すなわち自己の
立場だけを固守しない無対立的観方を無立場というのです 。
無心になろうと思ってなれるものではありません。生活全般にわたって無を行じる練習をすること
です。とらわれ、こだわり、ひっかかりを放下するのです。 この無の境地すなわちバランスのとれた
平静たる境地をニルバ l ナというのです。
坐禅しているとき、雑念のことで困るようです。私も初めの数年は困りました 。安定心を得たいと
思って参禅したのに、かえって去来の激しい雑念と闘うためによけいに乱れていました。しかし次第
に次のことを知りました 。
雑念は起きるのが当り前です。なぜならば生きているからです。私はこの雑念を悪いものと思い、
これと闘おうこれをのぞこうと闘いつづける愚を繰り返していたのでした 。 しかし私は、雑念を雑念
と思うから雑念なのだ、闘おうとするからさらに激しくなるのだ、雑念が悪いのではなくてこれに
ひっかかり、争い、もがくことが悪いことなのだ。雑念が起こったら起こってよい、来るままに、去
るままにまかせればよいではないか、の無執着のコツを覚えました 。 そうしたら雑念が邪魔でなくな
りました。雑念が邪魔物でなくなったとき無心の門が聞かれたように思います。
以上述べたことでおわかりになったことと思いますが、無心になるにはこのようないろいろな方法
があります。