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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の 王 城

ロ ン ヴ ェ ー ク お よ び ウ ド ン調 査 報 告

北 川 香子

は じ め に
フ ラ ン ス 保 護 領 期 以 来, カ ン ボ ジ ア 史 研 究 は ア ン コ ー ルAngkorに 集 中 し, ア ン コ
ー ル 放 棄 後 の 時 代 で あ る ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 に 関 す る 系 統 だ つ た 研 究 は ほ と ん ど行

わ れ て い な い。 そ の 理 由 は次 の 二 点 に 求 め ら れ る。 第 一 に ポ ス ト ・ア ン コー ル 期 は カ

ン ボ ジ ア史 上, 衰 退 期 と評 価 さ れ, ナ シ ョナ リ ズ ム 下 の 歴 史 学 界 で は 関 心 を 集 め な か

っ た。 第 二 に こ の 時 期 に 関 す る 文 献 資 料 は, 19世 紀 編 纂 の 王 朝 年 代 記 と15世 紀 末 以 降

の 若 干 の碑 文 以 外 に は乏 し く, 碑 文 の 分 析 に よ る従 来 の ア ン コ ー ル 史 研 究 の 手 法 で は

扱 い に くか つ た。

文 献 資 料 の み か ら は 困 難 な ポ ス ト・ア ン コ ー ル 史 解 明 の た め に, 1996年12月1日 ∼21

日, 筆 者, 桜 井 由 躬 雄(東 京 大 学), 野 口 博 史(上 智 大 学), 大 村 晴(東 京 大 学), 小林

知(京 都 大 学), シ ヴ ・ ト ゥオ ンSiv Thon(プ ノ ンペ ン大 学), トラ ン ・リムTreng

Lim(プ ノ ンペ ン大 学), ヘ ム ・ダ ラHim Dara(プ ノ ンペ ン芸 術 大 学)は, ポ ス ト・

ア ン コ ー ル 期 王 都 の 一 つ と さ れ る ウ ド ンOudong地 域 に お い て, 航 空 写 真(1)の 踏 査

分 析, 現 地 実 測 に よ る1/2000, 1/1000地 形 図 作 成, 陶 磁 器 片 採 集(2), 寺 院 を中心

とす る伝 承 採 集(3)を 行 い, 16∼19世 紀 の ロ ン ヴ ェ ー クLongvek-ウ ド ン王 城 の 位 置

等 を 確 認 し, ロ ン ヴ ェ ー ク ー ウ ド ン王 朝 の 基 礎 資 料 を 作 成 し た。 本 論 は こ の 調 査 報 告

で あ る。

I ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 王 都 の 立 地

1 文 献 資 料 に 現 れ るカ ン ボ ジ ア 王 都 の 変 遷

従 来 の ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 史 で は, 王 朝 年 代 記 の 記 述 を根 拠 に, バ サ ン→プ ノ ン ペ

ン→ロ ン ヴ ェ ー ク →ウ ド ン と王 都 が 移 動 し た と理 解 され て い る。

シ ャ ム に よ る 侵 略 の た め, ポ ニ ェ ・ヤ ー トBana Yat王 は1431年 に ア ン コ ー ル を放

棄 し, メ コ ンMekong河 東 岸, 現 在 の コ ム ポ ン ・チ ャ ー ムKampong Cham州 スレ

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ポス ト ・ア ンコールの王城

イ・
サ ン トーSrei Santhor 郡 バ サ ンBasanに 遷 都 し た。 こ のバ サ ン に 関 し て は, 中

国 の 『大 明 実 録 』1372年 と1373年 に, 真 臓 国 の 「巴 山 王 」 に よ る 中 国 遣 使 の 記 事 が あ

る。 しか し 『
大 明 実 録 』 に は, 1377年, 1380年 に真 臓 国 王 が 中 国 に遣 使 し た と い う記

事 が 別 に あ り, 14世 紀 末 に, ア ン コ ー ル の 他 に 「
バ サ ン の王 」 が 中 国 と外 交 関 係 を結

ん で い た こ と が 分 か る。現 在 の バ サ ン に は ア ン コ ー ル 期 の プ ラ サ ー トPrasat(4)が 残

り, この 地 に何 ら か の 権 力 が 存 在 し た こ と を物 語 る。 従 つ て, バ サ ン は ア ン コー ル 王

権 の 避 難 先 と して15世 紀 に興 っ た 王 権 で は な く, 14世 紀 末 に は既 に存 在 し て い た と考

え ら れ る。

次 に ポ ニ ェ ・ヤ ー ト王 は, バ サ ン が 洪 水 に弱 い こ とを 理 由 に, 現 在 の プ ノ ンペ ン に

遷 都 した とい わ れ て い る。 この プ ノ ンペ ン時 代 に は, バ サ ン勢 力 と正 統 王 勢 力 の抗 争

が 続 い た。 そ の 最 終, 最 大 の も の が, バ サ ン の ス ダ チ ・コ ー ンSdach Kanの 王位 寡

奪 で あ る。1509年, ス レ イ ・ソ コ ン ナ ボ ッ トSri Sugandhapada王 と ス ダ チ ・コ ー ン

の 間 で戦 闘 が 起 こ り, 王 は1512年 に ス ト ゥ ン ・サ エ ンStung Saen(コ ム ポ ン ・ トム

Kampong Thom州)の 砦 で 殺 さ れ た。 ス ダ チ ・コ ー ン はバ サ ンで 王 位 に 就 き, 同 じ

く メ コ ン東 岸, トボ ー ン ・ク モ ムThbaung Khmumの バ ン テ ィ エ イ ・プ レ イ ・ノ コ
ーBanteay Prei Nokor(コ ム ポ ン ・チ ャ ー ム 州)(5)に 建 都 し た。 こ の後, シ ャムか

ら帰 国 し た 正 統 王 弟 チ ャ ン リエ チ エCandaraja(ア ン ・チ ャ ンAng Chan)が トン レ ・

サ ー ブ 湖 南 岸 の ポ ー サ ッ トPursatを 根 拠 地 に ス ダ チ ・コ ー ン と戦 い, 1525年 に勝 利

して ポ ー サ ッ トで 即 位 した。 こ の チ ャ ン リエ チ エ 王 は, 1529年 に ロ ン ヴ ェー ク を建 設

した。

ロ ン ヴ ェ ー ク 時 代 に関 し て は, チ ャ ン リエ チ エ 王 治 世 に カ ン ボ ジ ア に進 出 して き た

ポ ル トガ ル 人 の 記 述 が あ る。1555年 に カ ン ボ ジ ア を 訪 れ た ガ ス パ ー ル ・ダ ・ク ル ス

Gasparda Cruzは, 当時 の王 が先 王 治世 中 の 反 乱 を平 定 し て王 位 に就 い た こ と

[p. 51], 当 時 カ ン ボ ジ ア に は ロ エ クLoechと シ ス トルSistorと い う2つ の主 要都

市 が あ っ た[p. 76]こ と を記 述 す る。 こ の ロ エ ク は ロ ン ヴ ェ ー ク に あ た り, シ ス トル

は ス レ イ ・サ ン トー に あ た る。1594年, シ ャ ム 軍 の 侵 入 に よ っ て ロ ン ヴ ェ ー ク は落 城

し た が, ア ン トニ オ ・デ ・モ ル ガAntoniode Morgaの 『フ ィ リ ピ ン 諸 島 誌 』 に も そ

の 記 録 が あ り[p. 74, 78], ロ ン ヴ ェ ー ク落 城 後, 纂 奪 王 が シ ャ ム を駆 逐 して シ ス トル

に 自立 し た と記 述 して い る。 バ サ ン近 隣 の 河 川 港 ス レ イ ・サ ン トー が, 16世 紀 に は ロ

ン ヴ ェ ー ク に 匹 敵 す る都 市 で あ り, ロ ン ヴ ェ ー クが 崩 壊 す る や これ に 取 つ て 代 わ つ た

こ とが 分 か る。

17世 紀 初 頭, シ ャ ム か ら帰 国 した ス レ イ ・ソ リ ヨ ポ ワSri Suriyobarn王 がカンボ

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東南 アジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998

ジ ア の統 一 を取 り戻 し, そ の 子 チ ェ イ チ ェ ッ タJayajettha II世 王 が1620年 に ウ ドン

を建 設 し た。 この ウ ド ン は1865年 の プ ノ ン ペ ン遷 都 ま で 継 続 し た と い わ れ て い る。 し

か し, 17世 紀 の オ ラ ン ダ 資 料 は 当 時 の 王 都 の 名 を ロ ン ヴ ェ ー ク に 相 当 す るLeweeck,

Lauweck, Eauweckと 表 記 し[岩 生: p. 75], ベ トナ ム の 『


大 南 宴 録 前 編 』に も, 真

臓 匿 深(ト ワ マ リ エ チ エDhammaraja王)が1715年 に 「羅 壁 城LaBich Thanh」

に籠 も っ て い た が, 形 勢 が 不 利 に な つ て 城 に火 を 放 ち, 南 門 か ら逃 れ た と記 さ れ て い

る。 こ の 「
羅 壁 城 」 は 「ロ ン ヴ ェ ー ク 」 の 音 訳 で あ ろ う。 す な わ ち 外 国 の 資 料 に よ る

と, 17∼18世 紀 の 王 都 の 呼 称 は, 前 代 に 引 き続 き ロ ン ヴ ェ ー クで あ っ た こ とに な る。

他 方 ウ ド ン に つ い て は, 19世 紀 の ア ン ・ド ゥ オ ンAng Duong王 治 世 に カ ンボ ジア

を 訪 れ た ヨ ー ロ ッ パ 人 の 記 述 中 に 関 連 記 事 が 複 数 見 ら れ る。 こ こ で は, Udong,

Oodong, Oudonな ど と綴 られ て い る が, い ず れ も 「ウ ド ン」 の 音 に 一 致 す る。 後 述

す る よ う に, これ ら の記 述 と現 在 の ウ ド ン市 域 に 残 る 遺 構 の 間 に は一 致 が 見 られ る。

従 っ て文 献 資 料 か ら は, チ ェ イ チ ェ ッ タII世 王 の ロ ン ヴ ェー クー ウ ド ン と, 現 在 の ウ

ド ン市 域 の も と に な つ た ア ン ・ ド ゥ オ ン王 の ウ ド ン が 連 続 しな い 可 能 性 が 示 唆 さ れ る。

2国 内 ネ ッ トワー ク と王 都

上 述 の 王 都 は, そ の 所 属 す る水 系 お よ び 主 宰 す る 陸 路 網 か ら次 の よ う に整 理 さ れ る。

(1)バサ ンー ス レ イ ・サ ン トー は メ コ ン水 系 の 要 衝 を 占 め, メ コ ン東 岸 の 南 ラ オ ス

か らサ イ ゴ ンSaigonま で を 接 続 す る 陸 路 網 を 主 宰 す る。

(2)ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン は トン レ ・サ ー ブ 水 系 の 要 衝 を 占 め, トン レ ・サ ー ブ 南

岸, 西 岸 の 陸 路 を支 配 す る[北 川: p. 93]。

(3)両水 系 の 合 流 点 の 南 岸 に 位 置 し, (1)(2)を南 シ ナ 海 に結 ぶ の が, ポ ス ト ・ア ン コ
ー ル 期 カ ン ボ ジ ア 最 大 の 商 都 プ ノ ンペ ン で あ る。

こ の う ち(1)メ コ ン水 系 の バ サ ン ー ス レ イ ・サ ン トー は, 15世 紀 以 来(2)ト ン レ ・サ ー

ブ 水 系 の ロ ン ヴ ェ ー ク ー ウ ド ン と対 立 を繰 り返 し, ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン が 衰 退 した

際 に は 独 立 し た 勢 力 を 形 成 して い る。 す な わ ち, ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 の カ ン ボ ジ ァ

に お い て は, 両 水 系 は 別 個 の 勢 力 と し て 並 立 し, 対 抗 して い た と推 定 さ れ る。

本 論 で 扱 う ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン に 関 わ る ト ン レ ・サ ー ブ 西 南 岸 ネ ッ トワ ー ク に は,

次 の3つ が 挙 げ られ る。

(1)ト ン レ ・サ ー ブ 系 列: ト ン レ ・サ ー ブ 水 系 を 通 じて トン レ ・サ ー ブ湖 北 岸 か ら

ダ ン レ ー クDangrek山 脈 に至 る ア ン コ ー ル 地 域 と メ コ ン水 系 を 結 ぶ。

(2)ポー サ ッ トー ウ ド ン系 列: ア ラ ン ヤ プ ラ テ ー トAranyaprathet-メ コ ン, カ ル

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ポス ト・ア ンコール の王城

ダ モ ン 山脈 一 メ コ ン を ウ ド ン経 由 の 陸 路 と トン レ ・サ ー ブ水 系 を 通 じて 結 ぶ。

(3)コム ポ ー トKampot-ウ ドン 系 列; メ コ ン水 系 と トン レ ・サ ー ブ 水 系 を, ウ ド

ン 経 由 の 陸 路 を通 じ て シ ャム 湾 岸 の コ ム ポ ー トに結 ぶ。

この うち, (2)は現 在 の 国 道5号 線 の 原 型 で あ り, 16世 紀 末 以 降, シャム の進入 路 と

し て確 認 で き る。 ま た, (3)は 従 来 の メ コ ン水 系 ー シ ャ ム 湾 ル ー トで あ つ た ハ ー テ ィ エ

ンHa Tienが, 19世 紀 に院 氏 ベ トナ ム に よ つ て独 占 され て 以 来, 新 た なバ イ パ ス と

して の 意 味 を 持 ち, ア ン ・ド ゥ オ ン ・ネ ッ ト ワー ク の形 成 に お い て 中 心 的 な位 置 を 占

め た[北 川]。 ア ン コ ー ル 期 に は, (1)の意 味 が 非 常 に大 き か っ た も の と考 え られ る。

II チ ェ イ チ ェ ッ タ建 都 以 前 の 王 城 に つ い て

1ア ン コ ー ル 期 の ロ ン ヴ ェ →ク ー ウ ド ン 地 域

ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン地 域 は ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 の 王 都 の所 在 地 との み認 識 され

て き た た め, こ の 地 域 の ア ン コー ル 期, プ レ ・ア ン コ ー ル 期 に 関 わ る 歴 史 ・考 古 学 的

研 究 は 未 だ 行 わ れ て い な い。 しか し, 今 回 の 調 査 に お い て, 表1の 寺 院 旧跡 に ア ンコ
ー ル 期 の プ ラ サ ー トの 礎 石, 壁 面 に 特 徴 的 な ラ テ ラ イ ト石 材 等 が 分 布 し て い る の を 発

見 し た。 地 図1と 対 照 す れ ば こ の分 布 域 は 明 確 に, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 壁 の 中 心 寺 院 ワ ッ

ト ・ トロ ラ エ ン ・カ エ ンWat Tralaen Kaenと 聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・リエ チ ・ トロ

ァ プPhnom Preah Reach Troapを 結 ぶ 南 北 の 帯 に 限 定 され る。 こ の地 域 に お け る

ア ン コ ー ル 期 遺 構 の 濃 密 な 分 布 は, ア ン コ ー ル期 に お け る トン レ ・サ ー ブ 西 岸 陸 路 の

存 在 と, 聖 山 を基 軸 と し て 南 北 に連 な る寺 院 コ ン プ レ ク ス の 存 在 を 示 唆 す る。

2 ロ ン ヴ ェ ー ク城 趾

現 在, ウ ド ン市 域 北 方7kmの 地 点 に あ る ロ ン ヴ ェ ー ク の低 平 な 台 地 上 に は, 東 西

3km× 南 北2kmに わ た つ て, 内 部 に 廓 構 造 を 持 つ 土 城 壁 遺 構 が 存 在 す る(以 後, こ

れ を ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 と呼 ぶ)。 こ の 土 城 壁 に 関 す る 記 述 と思 わ れ る もの に, 前 述 した

ガ ス パ ー ル ・ダ ・クル ス が, ロエ ク にお いて 「
野 原 の 中 の 非 常 に 高 い 盛 り土 humuy

alto vallo de terra」 を 目 撃 し た と記 して い る[p. 77]。 立 地 か ら, こ の ロ エ ク の 土 盛

りが 現 在 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 壮 に あ た る と考 え ら れ る。 従 っ て, こ の 城 肚 は チ ャ ン リエ

チ エ 王 が 建 設 した とい う ロ ン ヴ ェー ク城 に該 当 し, チ ャ ン リエ チ エ 王 は 旧 ア ン コ ー ル

期 寺 院 群 の北 半 に王 城 を 設 定 した こ と に な る。 年 代 記 に よれ ば, チ ャ ン リエ チ エ 王 旧

来 の 勢 力 基 盤 は, トン レ ・サ ー ブ 西 南 岸 ル ー トの 要 地 ポ ー サ ッ トに あ っ た。 基 本 的 に

こ の ロ ン ヴ ェー ク城 の 立 地 は, ポ ー サ ッ ト と トン レ ・サ ー ブ水 系 を 結 ぶ ア ン コ ー ル 期

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東南 アジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998

以 来 の トン レ ・サ ー ブ 西 岸 ル ー トに依 拠 した も の で あ ろ う と思 わ れ る。

III チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐

1 17世 紀 の 歴 史 空 間

表2に 見 られ る よ う に, ウ ドン 地 域 に お い て 採 集 さ れ た 陶 器 片 で 最 も特 徴 的 な の は,

17世 紀 の 南 中 国 潭 州 窯 陶 磁 器(主 と して 皿 類)が 濃 密 に 分 布 し て い る こ とで あ る。 こ

れ は, トン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 全 遺 跡, 国 道5号 線 に沿 っ て 現 ウ ド ン市 域 に 至 る地 域

の 遺 跡 の 大 半 に 見 ら れ る。 この 他 に トゥ オ ル ・ヴ ォ リエ チTuol Voreachか ら, 恐 ら

く15世 紀 に遡 る 龍 泉 窯 の 青 磁 片, 土 手(1)か ら14∼15世 紀 以 後 の 蓮 弁 紋 を持 っ た 磁 器 片

が 発 見 され た が, 少 数, 例 外 的 で 伝 世 され た 逸 品 と見 る べ き で あ ろ う。 ま た, 18∼19

世 紀 の 陶 磁 器 片 は ク レ ア ン ・プ ラ ムKhleang Pramに 分 布 中 心 が あ り, 一 部 は 聖 山 付

近, コ ム ポ ン ・ル オ ンKampong Luong港 に発 見 さ れ た。

す な わ ち, ア ン コ ー ル 期 の 歴 史 空 間 が 現 ロ ン ヴ ェ ー ク の 台 地 か ら聖 山 に か け て 南 北

軸 に 分 布 す る の に 対 し, 17世 紀 の歴 史 空 間 は ポ ニ ェ ・ル ーPonhea Luか ら トンレ ・

サ ー ブ河 沿 い に北 上 し, 国 道5号 線 の南 に 沿 つ て 分 布 し, 19世 紀 以 降 の 歴 史 空 間 は 現

ウ ド ン市 域 を 中 心 に 展 開 す る と考 え られ る。

2オ ラ ンダ 資 料 の 分 析

(1)『南 洋 日 本 町 の 研 究 』

岩 生 成 一 は 『南 洋 日本 町 の研 究 』 に お い て, カ ン ボ ジ ア に あ っ た 日本 町 の 立 地 を 明

ら か に す る た め に, 日本 町 の位 置 に 関 わ る オ ラ ン ダ 資 料 の 記 述 を紹 介 して い る。

1622年10月14日 の カ ン ボ ジ ア 国 情 お よ び 貿 易 に関 す る 報 告 書 に は[pp. 74-75],「 碇

泊 港 或 い は 国 王 が 其 の 王 宮 を 営 ん で い る所 を チ ュ ル レ ム ッ ク(Tjurremock)お よび レ

ウ ェ ク(Leweeck)と 言 い, 河 口 か ら16蘭 哩(6)の 所 に あ り, 城 壁 を続 ら し た 堅 固 な都

市 で は な く, 唯>河 岸 に村 落 の よ う に建 っ て い る。」と記 さ れ て い る。 チ ュ ル レ ム ッ ク

と は, プ ノ ンペ ン の別 名 チ ャ ト・モ ッ クCatumukhaの 音 訳 で あ る。 レ ウ ェ ク は ロ ン

ヴ ェ ー クの こ とで あ るが, 岩 生 は ウ ド ン の 誤 記 で あ る と解 釈 し て い る。

1637年3月26日 にバ タ ビ ヤ を 出 航 した オ ラ ン ダ 船 ハ リヤ スdeGaleas号 の湖 航 日

記 で は[pp. 79-82], ポ ニ ェ ・ル ー の 商 館 前 か ら 小 舟 に乗 つ て, 前 後1哩 半 に亘 る日本

人, ポ ル トガ ル 人, シ ナ 人, コー チ シ ナ 人 と カ ン ボ ジ ア 人 の 町 に 沿 つ て 河 を 進 み, 狭

い 小 川 を 約 半 哩 上 っ て 上 陸 し, 無 牙 の 巨 象1匹 と3, 4台 の 車 に 分 乗 して 王 宮 に 至 っ

た。

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ポス ト・アンコールの王城

1664年 の オ ラ ン ダ 商 務 員 ピ ー テ ル ・ケ ッ チ ン グPieter Kettinghの 記 録 に よれ ば

[pp. 84-85], ポ ニ ヤ ル ーPonjalou(=ポ ニ ェ ・ル ー)は 大 き な 町 で, 国 王 や 国 の 大

官 た ち も私 宅 を 構 え て い た。 こ こか ら シ ャ ム人, シ ナ 人, マ レ イ人 な ど の 町 の 側 を 航

行 し, 陸 地 の 浸 水 し た 部 分 は舟, そ の 他 の 部 分 は 車, 象 や 馬 に 乗 っ て 王 宮 に赴 い た。

こ の3資 料 に よ る と, 17世 紀 の 王 城 に は, 外 国 人 居 留 地 の あ る ポ ニ ェ ・ル ー か ら数

km遡 り, 3kmほ ど 内 陸 に 小 舟 で 入 っ て 象 や 馬, 車 に 乗 り換 え て 赴 い た。 す な わ ち17

世 紀 の 王 城 は, ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 湿 地 最 初 の微 高 地 前 面 に 位 置 し た こ と に な る。

(2)オラ ン ダ 絵 地 図 に現 れ る ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン

こ こ で, オ ラ ン ダ に よ る17世 紀 の ロ ン ヴ ェ ー ク の 絵 地 図[Mullier] を詳 細 に 検 討 し

て み る。 この 絵 地 図 は, 聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ を 正 面 に 見 て, トン

レ ・サ ー ブ 河 の 東 岸 か ら傭 轍 す る 形 で 描 か れ て い る。 ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 自然 堤

防 上 に は5∼8列 の 家 並 が 並 び, 水 路 を 隔 て て 同 規 模 の 家 並 が3段 に な っ て 続 く。 絵

図 中 央 に は堀 と垣 根 を 巡 らせ た 建 物 が あ り, 王 宮 と思 わ れ る。 絵 図 右 端 の や や 高 台 に

は, 堅 固 な城 壁 を巡 ら せ た建 造 物 が 見 ら れ る。 こ れ は 位 置 的 に, チ ャ ン リエ チ エ 王 の

ロ ン ヴ ェー ク城 吐 に あ た る。 こ の城 壁 と王 宮 の 中 間 に は川 が あ り, ス トゥ ン ・ク ラ ン ・

ポ ン レ イStung Krang Ponleiに あ た る。 王 宮 正 面 に は 堀 を 渡 る橋 が あ り, ト ン レ ・

サ ー ブ 河 岸 一 段 目 の 家 並 み ま で 大 路 が 延 び て い る。 さ ら に, 王 宮 の 奥 か ら右 上 へ, 絵

図 の 最 奥 に 描 か れ た 山 地 の 麓 に 道 が あ る。 こ の 道 は, ポ ー サ ッ ト, バ ッ タ ン バ ン

Battambang経 由 で シ ャ ム に 向 か う, 現 在 の 国 道5号 線 の 原 型 と な る 街 道 で あ ろ う。

こ の絵 地 図 で は, 聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ と ロ ン ヴ ェ ー ク の 城 壁 を

結 ぶ 南 北 の線 よ り も東 側 に 王 城 が 描 か れ て い る。 従 つ て, チ ェ イ チ ェ ッ タII世 王 の 王

城 の 位 置 は, チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 と も, 現 在 の ウ ド ン市 域 あ る い は

後 述 す る ア ン ・ ド ゥ オ ン王 の 王 城 趾 と も 異 な っ て い た こ とが 分 か る。

3 航空 写真の分 析

現 ウ ドン市域 の東4kmほ どの地 点 に, 国道5号 線 を挟 む ように無 数 の土塁 が存 在


す る。 そ の多 くは, 表4に 見 られ るよ うに19世 紀 前半 のベ トナム ・シ ャム戦争 に結 び
付 け られ る もので あ り, 年代 記 もこの地域 に19世紀 の軍事施 設 が存 在 した こ とを示 し
て い る。 しか し航空 写 真 で この地域 を精査 す る と, 土 塁群 の一 部 は明 白 に巨大 な矩 形

を示 す。 本 調査 で は, 航 空 写真 上 に発 見 され た土 塁群 を実 測 し, 2000分 の1の 地 図 を
作成 した(地 図2参 照)。 それ に よ る と, これ らの 土塁, 土 壇 の分布 は, や や不 整形 な
が ら, 東 西 約400m, 南 北約650mの 巨大 な矩形 の連 続 的 な土壁 を形 作 り, 19世 紀前 半

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東南 アジア ー 歴 史 と文化 一No. 27, 1998

の ベ トナ ム ・シ ャ ム 戦 争 の 砲 台 や 砦 な ど, 孤 立 的, 分 散 的 な軍 事 施 設 群 の遺 跡 と は 全

く企 画 を異 に す る。 こ の 土 壁 列 は後 世 の 軍 事 施 設 よ り は は る か に大 き く, ま た ロ ン ヴ

ェ ー ク の都 城 吐 よ り は る か に小 さ い。 そ の規 模 か ら 見 て 宮 殿 遺 跡 とす べ きで あー
ろ う。

ベ トナ ム ・シ ャム 戦 争 の 軍 事 施 設 は, この 宮 殿 土 壁 の 残 吐 を利 用 し て構 築 され た もの

と思 わ れ る。 こ の 宮 殿 遺 跡 の 位 置 は, 先 に検 討 し た オ ラ ン ダ 資 料 の 王 城 に 一 致 す る。

また 表2に 見 られ る よ う に 本 調 査 で は, こ の 王 宮 内 部 に お い て17世 紀 潭 州 窯 の 陶 磁 器

片 を大 量 に 表 面 採 取 で き た が, 19世 紀 以 降 の 陶 磁 器 片 は採 取 で きな か っ た。 す な わ ち,

この 王 宮 は17∼18世 紀 に居 住 さ れ, そ の 後 の 時 期 に放 棄 され た 可 能 性 が 高 い。 お そ ら

く, 17世 紀 オ ラ ン ダ 資 料 に い う ロ ン ヴ ェ ー クの 王 宮 は, こ の 土 壁 肚 を さす と して 誤 り

な か ろ う。 以 後, こ の 王 宮 を チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と呼 ぶ。

4伝 承 の分布

次 に, ウ ド ン地 域 で 採 集 し た 伝 承 の分 析 を 試 み る。 ウ ドン地 区 で 採 集 し た 伝 承 は,

ア ン ・ ド ゥオ ン時 代 か ら フ ラ ンス 保 護 領 時 代 前 後 に か け て の 年 代 が は っ き り して い る

伝 承 と, そ れ 以 前 の 時 代 に 関 わ る と思 わ れ る, 年 代 が 不 明 確 な 伝 承 の2つ に大 別 され

る。 この 節 で は, ア ン ・ド ゥ オ ン王 以 前 の 時 代 に 関 わ る伝 承 の グ ル ー プ の 分 析 を行 う。

表3に 整 理 し た よ う に, ア ン ・ ド ゥ オ ン王 以 前 の 伝 承 は3種 類 に 分 類 され る。

(1)ソヴ ァ ンナ 系 列 の 王 の 伝 承

聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ と ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 を 結 ぶ 南 北 の 線 を軸 と

して, 北 は ワ ッ ト・ヴ ィ ピ ア ・ソム ノ ーWat Vihea Somno(1-14)か ら南 は ワ ッ ト・

パ デ マ コ ーWat Pademakor(K-17)ま で, 西 は ワ ッ ト・テ ー プ ・プ ロ ノ ムWat Tep

Pranam(F15)か ら東 は ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・トメ イ(L-14)ま で の 範 囲 に分 布 す る

寺 院 と関 連 し て, 「黄 金 」 を意 味 す る 「ソ ヴ ァ ンナSovanna」 を 冠 した 王 の 伝 承 が 採

集 さ れ た。 こ れ らの 王 名 は 現 存 す る い か な る年 代 記 に も存 在 し な い。 つ ま りウ ド ン地

区 に お け る伝 承 上 の 王 系 で あ り, 実 在 の 王 と直 接 結 び つ け る こ と は で き な い。

ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム で は, ソ ヴ ァ ン ナ カ オ トSovannakaot王 が 同 寺 院 の建

立 者 で あ り, ワ ッ ト・パ デ マ コ ー で は 同 王 が 表3の 諸 寺 院 に寺 田(ス ラ エ ・ワ ッ トsrae

wat)を 許 可 し た 人 物 で も あ る と い う伝 承 を 得 た。 ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イWat

Cedei Thmeiに 於 け る 調 査 で は, ソ ヴ ァ ンナ コ マSOvannakoma王 が 父 コ モ ル リエ

チKomorreac王 の遺 骨 を納 め る た め, チ ェ デ イ を 同 寺 に建 立 した とい う。 ワ ッ ト・

ス バ エ ンWat Sbaeng(J-14)で は, こ の ソ ヴ ァ ン ナ コ マ 王 は 同寺 で 捕 ら え られ, 鉄

籠 に 入 れ られ て ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ北 東 の プ ン ・プ ロ マ ー に沈 め られ た と い う

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ポス ト・アンコールの王城

伝 承 を得 た。 この ソ ヴ ァ ン ナ コ マ 王 の伝 承 に類 似 し た 逸 話 に は, マ ッ ク ・プ ア ン訳 の

年 代 記 に[pp. 198-199], チ ェ イ チ ェ ッ タII世 の 子 チ ャ ウ ・ポ ニ ェ ・チ ャ ンCau Bana

Cand王(1641-1659)が ベ トナ ム と の戦 い に敗 れ, 鉄 籠 に 入 れ ら れ て ベ トナ ム に護 送

され, 死 亡 し た と い う記 述 が あ る。

ソ ヴ ァ ン ナ 系 列 の 王 の 伝 承 は, 16世 紀 の ロ ン ヴ ェー ク城 吐 の 南 か らほ ぼ 直 線 に南 下

し, 17世 紀 の チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と結 び, さ ら に チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 の 南 側 を め ぐ っ

て 分 布 して い る。 お そ ら く こ の伝 承 上 の 王 系 は 本 来, こ の線 に 沿 っ た寺 院 の 由 来 説 話

と し て 創 作 さ れ た もの で あ ろ う が, 同 時 に こ れ ら の 寺 院 の 歴 史 上 の 建 立 者 で あ っ た 王

の 記 憶 を と どめ る もの で も あ つ た ろ う。 な れ ば こ そ, 年 代 記 編 者 は チ ェ イ チ ェ ッ タII

世 の 子 チ ャ ウ ・ポ ニ ェ ・チ ャ ン 王 に 関 わ る事 件 と して, コモル リエチ王 の子 であ る と


い う ソ ヴ ァ ン ナ コ マ 王 の伝 承 を採 用 し た と考 え られ ま い か。 ソ ヴ ァ ン ナ 王 伝 承 の 分 布

と, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 吐 一 チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 の建 設 者 で あ る チ ャ ン リエ チ エ 王-チ ェ

イ チ ェ ッ タ 王 の 事 跡 の 分 布 との 相 関 関 係 を想 定 す る こ とが で き よ う。

(2)中 国 と の 交 渉 伝 承

ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ソム ノ ー(I-14), ワ ッ ト ・ス バ エ ン(J-14)か ら聖 山 プ ノ ム ・

プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ へ の 南 北 軸 上 に は, 中 国 と の 交 渉 を 示 す 伝 承 が 分 布 し て い

る。 ワ ッ ト ・マ ハ ー ・ リエ チ ャ タ ー ンWat Maha Reacathan(K-21)で の 聞 き取 り

で は, 中 国 王 が, そ の 前 世 で あ る 犬 の 遺 骨 を 探 す た め に 使 節 を カ ン ボ ジ ア に 送 り, 発

見 され た 遺 骨 を聖 山 頂 上 の チ ェ デ イ に 祭 らせ た と い う伝 承 が 採 集 さ れ た。 こ の伝 承 は

チ ェ イ チ ェ ッ タII世 の 王 子 で あ る ア ン ・タ ンAng Tan王 治 世(1629-1634)の 出来事

と し て, や は りマ ッ ク ・プ ア ンMak Phoeun訳 の カ ンボ ジア年 代記 に収録 されて い

る[pp. 160-164]。 年 代 記 の 成 立 か ら み て, 19世 紀 前 半 を 遡 る時 期 に, この 地 域 に 伝 わ

る 中 国 王 一 犬 を モ チ ー フ とす る伝 承 が 採 集 さ れ, 17世 紀 の 歴 史 事 実 と し て 年 代 記 中 に

採 録 さ れ た も の で あ ろ う が, 中 国 王, 中 国 人 の 使 節, 聖 山 に よ っ て 象 徴 され る イ メ ー

ジ が17世 紀 に投 影 され た こ と に は意 味 が あ ろ う。

ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ソ ム ノ ー で 採 集 し た 伝 承 で は, 同 寺 院 は も と も と 島 で あ り, 此

処 に 中 国 船 が 到 着 して, 中 国 王 が 鉛(ソ ム ノ ー)の 寺 院 を建 て させ たの が起 源 であ る

とす る。 ま た ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ク ボ スWat Vihea Khpos(D-18)で 採 集 し た伝 承

で は, 中 国 船 が 到 着 し た ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ソム ノ ー の 丘 に 隣 接 す る ワ ッ ト ・ス バ エ

ン に は, 中 国 の軍 隊 が 駐 屯 し て い た とい う。 ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐

を結 ぶ 線 と, チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と ト ン レ ・サ ー ブ 河 を結 ぶ 国 道5号 線 の 交 点 に は,

中 国 人 渡 来 の イ メ ー ジ が 色 濃 く残 っ て い る。

55
東南 アジア ー 歴 史 と文化 一No. 27, 1998

(3)道 作 り伝 承

ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム(F-15)周 辺 に は, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 趾 か ら同 寺 院 に か け

て 道 を作 る王 の 伝 承 が, テ ー プ ・プ ロ ノ ム とい う地 名 の 起 こ り を説 明 す る もの と し て

残 つ て い る。 ロ ン ヴ ェ ー ク に居 た 王 が, ウ ド ン の 長 者 タ ー ・ド ン ・ミエ ン ・チ ェ イTa
Dong Mien Cheyの 娘 に求 婚 し, 長 者 は娘 を与 え る 条 件 と して, 一夜 の 内 に ロ ン ヴ ェ
ー ク か ら長 者 の 家 まで 道 を 作 る こ と を条 件 に 出 した。 道 は 完 成 せ ず, 夜 が 明 け か か っ

た の で, 王 は神 に祈 っ た。 こ の た め 同 寺 院 周 辺 の 村 を テ ー プ ・プ ロ ノ ム(テ ー プ=神,

プ ロ ノ ム=合 掌 す る)と い う。 ま た, 王 は求 婚 す る た め に 這 っ て 行 っ た の で, 寺 院 北

に コ ム ポ ン ・チ ョ ッ ・ヴ ィ ェKompong Choh Vea(チ ョ ッ=下 り る, ヴ ィ エ=這 う)

とい う地 名 が あ り, 王 が 作 っ た道 の途 絶 え て い る 地 点 を トゥ ノ ル ・ダ チThnal Dach

(ト ゥ ノ ル=道, ダ チ=途 切 れ る)と 呼 ぶ とい う。 同様 の伝 承 は1967年11月 末 ∼12月

初 め に ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム の 調 査 を行 っ た プ ノ ンペ ン芸 術 大 学 考 古 学 部 学 生 に

よ っ て も採 集 さ れ て い る[Etudiants: pp. 42-49]。 こ の 報 告 中 で は, 長 者 タ ー ドン

は 中 国 人 で あ っ た こ とに な っ て い る。 こ の 伝 承 は, ロ ン ヴ ェー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ

タ城 吐 を結 ぶ 線 の 存 在 を 示 唆 し, ア ン ・ ドゥ オ ン 王 以 前 の伝 承 に 於 い て, 両 者 が 切 り

離 され て い な か っ た こ と を示 す。 こ の こ と は, ロ ン ヴ ェー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ タ 城

を 含 め た 地 域 を ロ ン ヴ ェ ー ク王 都 と す る前 述 の オ ラ ン ダ 絵 地 図 の 考 え方 と も一 致 す る。

5 小 括

オ ラ ン ダ 資 料 ・絵 地 図 の 分 析, 航 空 写 真 の 分 析 お よ び 実 測 か ら, 現 在 ワ ッ ト ・チ ェ

デ イ ・トメ イ(L-14)近 南 方 に残 る土 塁 群 が チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 の 王 城 吐 で あ る と推 定

さ れ た。 チ ェ イ チ ェ ッ タII世 の 王 城 は チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 か ら南 に

移 動 し, 王 都 の 中 心 が 南 に移 動 した こ と に な る。 この 移 動 が, 年 代 記 に お け る1620年

の ウ ド ン遷 都 で あ ろ う。 しか し, 外 国 人 は依 然 と して この 新 城 を も ロ ン ヴ ェ ー ク と呼

び, そ の た め に前 述 の ベ トナ ム 資 料 も こ の城 を 羅 壁 城 と呼 ん だ。 オ ラ ン ダ 人 の レ ウ ェ

ク も ま た ウ ドン の 誤 記 で は な く, 当 時 の 呼 び 名 に従 っ た も の で あ ろ う。

この 新 し い チ ェ イ チ ェ ッ タ城 と古 い ロ ン ヴ ェ ー ク 城 と を結 ぶ 線 と, ト ン レ ・サ ー ブ

水 系 とポ ー サ ッ トを 結 ぶ 線 との 交 点 に は, 海 と中 国 人 に 関 わ る伝 承 が 色 濃 く残 さ れ て

い る。 そ し て, 年 代 記 編 者 は そ の 中 国 人 伝 承 を17世 紀 前 半 に 比 定 し て い る。 これ か ら

新 城 へ の 移 動 は トン レ ・サ ー ブ 水 系 へ の 近 接, 特 に 新 た に港 と して 発 展 して い っ た ト
ン レ ・サ ー ブ 河 川 港 ポ ニ ェ ・ル ー へ の ア プ ロ ー チ が 事 由 と して 考 え られ る。 ポ ニ ェ ・

ル ー は聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ の 真 東, チ ェ イ チ ェ ッタ 城 吐 の 南 東,

56
ポス ト・ア ンコールの王城

ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 自然 堤 防 上 に 位 置 し, 狭 窄 な ピ エ ム ・ロ ン ヴ ェ ー クPeam

Longvekに 代 わ っ て, オ ラ ンダ 船 の接 岸 に有 利 な 港 と して 発 展 し た と推 定 さ れ る。

ま た, 同 時 に チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 は現 在 の 国 道5号 線 の原型 とな る陸路 で ポー サ ッ

ト と結 ば れ て い る。 す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 肚 は, カ ン ボ ジ ア 内 陸 の 産 物 を収 集 し,

ポ ニ ェ ・ル ー に供 給 す る た め の 絶 好 の 位 置 に あ っ た。 ソ ヴ ァ ン ナ 系 列 王 の建 寺 伝 承 の

分 布 は, 東 西 の 広 が りが17世 紀 陶 磁 器 片 の 分 布 す る 空 間 に等 し く, 南 北 は ア ン コ ー ル

期 寺 院 コ ン プ レ ク ス の 範 囲 に ほ ぼ 等 し い。 つ ま り東 西 線 に代 表 さ れ る17世 紀 的 海 洋 的

商 業 的 な 世 界 と, 南 北 線 に代 表 され る ア ン コー ル 的 内 陸 的 な 世 界 が, チ ェイ チ ェ ッタ

城 趾 を交 点 と し て 交 差 して い る の で あ る。

IV ア ン ・ ド ウオ ン城 吐

1 シ ャ ム ・ベ トナ ム 戦 争 の 遺 構

ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・トメ イ(L-14)の 近 辺 に は, 河 か ら攻 め て 来 た ベ トナ ム 軍 と戦

つ た と き の砦 と砲 台 跡 で あ る と言 わ れ る 遺 構 が あ る。 ま た, 年 代 記 に よ る と[pp. 194
-204], ア ン ・チ ャ ン 王 治 世(1806-1834)以 来 続 い た, カ ン ボ ジ ア 支 配 を巡 る シ ャ ム ・

ベ トナ ム 戦 争 の 最 後 の 戦 い は, 1845年 に ウ ド ン地 域 で2回 に 渡 っ て 行 わ れ た。 そ の 結

果, シ ャ ム とベ トナ ム の 間 で 和 平 が 成 立 し, 1847年 に ア ン ・ ド ゥ オ ン 王 の 即 位 式 が 行

わ れ た。 即 位 後 の ア ン ・ ド ゥオ ン王 は, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ に 沿 っ て 砦 を 作

り, 首 都 の守 り に した[p. 219]。 表4に 整 理 し て あ る伝 承 お よ び 年 代 記 の 記 述 か ら,

ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ の 近 辺 す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 が, シ ャ ム ・ベ トナ ム

戦 争 の 最 後 の 戦 場 に な っ た こ とが 確 認 で き る。 陸 路 か ら進 軍 した シ ャ ム 軍 と, 水 路 を

進 軍 し た ベ トナ ム 軍 が 対 峙 す る戦 場 と な っ た こ とか ら も, チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 の 立 地

は ま さ に 陸 と海 の 接 点 で あ つ た と い え よ う。

2貝 入 り漆 喰 の 分 布

ア ン ・ ド ゥオ ン王 時 代 の 遺 構 を特 徴 付 け る もの に, 貝 入 り漆 喰 で 固 め ら れ た 石 組 が

あ る。 こ の 貝 入 り漆 喰 の 分 布 は表5に 整 理 し た。 そ の う ち, コ ム ポ ン ・ル オ ン の 港 跡

(Q-l4)の 石 組 と コ ム ポ ン ・ル オ ン と国 道5号 線 の 間 北 側(P-14)の 石 組 は共 通 の 特

徴 を 持 ち, 連 続 す る も の で あ る。 ア ン ・ ド ゥオ ン王 が 石 を購 入 し, 港 か らバ ン テ ィエ

イ ・ウ ド ン ・ル ー ・チ ェ イBanteay Oudong Lu Cheiま で の 車 道 を作 ら せ た こ とが

年 代 記 に も記 さ れ て い る[p. 220]。 上 記2つ の石組 は この道 の残 存 す る部 分 で あ ろ

う。 従 っ て, こ の 石 組 と同 様 の 貝 入 り漆 喰 か ら成 る ヴ ェ ア ン ・チ ャ スVeang Chasの

57
東 南ア ジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998

堀 の 石 組 も, ア ン ・ ド ゥ オ ン王 時 代 の も の と考 え られ る。 この ア ン ・ ド ゥオ ン王 時 代

の石 組 の 分 布 は, 先 に検 討 し た 陶 磁 器 片 に よ る19世 紀 以 降 の 歴 史 空 間 に一 致 す る。

3 ウ ドン王 城 趾

年 代 記 に よ れ ば, ア ン ・ ド ゥオ ン王 は最 初 バ ン テ ィ エ イ ・ウ ド ン ・ル ー ・チ ェ イ 王

宮 に 居 り, シ ャ ム に 居 た 王 子 ノ ロ ドム と シ ソ ワ ッ トSisowathを1856年 に 帰 国 させ た

際 に, ス ラ ッ・ス ロ ー ンSrah Slangが 西, ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ トSrah Sarapuyut

が 北 と 東 を 囲 む 土 地 に, 新 王 宮 ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト を 建 て て 移 り 住 ん だ

[p. 230]。 こ の 時, 旧 王 宮 は ノ ロ ドム 王 子 に 譲 り渡 さ れ た。

この 王 宮 の 移 動 は, 同 時 代 の ヨ ー ロ ッパ 人 の旅 行 記 か ら も確 認 で き る。1851年 にウ

ドン に ア ン ・ ド ゥ オ ン王 を訪 ね た ボ ニ ー マ ンBonnymanは, 王 宮 は 塔 門 を持 つ 城 壁

と さ ら に も う1つ の塀 に 囲 まれ て い た と記 し て い る[p. 437]。1854年 に ウ ド ン を訪 れ

た 旅 行 記 で も, 王 宮 の 周 囲 に は, 塔 門 を 持 つ12フ ィ ー ト高, 2フ ィ ー ト厚 の 土 城 壁 と

10フ ィ ー ト高 の煉 瓦 塀 が 巡 ら さ れ て い た と記 し て い る[pp. 303-304]。 こ の2つ の旅 行

記 に 記 さ れ た 王 宮 は 年 代 記 の バ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ 王 宮 で あ ろ う。1858

年 に ウ ド ン を 訪 れ た ア ン リ・ム オHenri Mouhotの 記 述 に よ る と, 3m高 の城 壁 の内

部 に あ る の は 第 二 王 の 王 宮 で あ り, 第 一 王 の 王 宮 は, 板 塀 で 囲 ま れ, 湖 の端 に 広 が っ

て い た とい う[p. 123, 132]。 こ の 湖 畔 の 第 一 王 の王 宮 が ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト新

王 宮 に あ た る。

現 在 の ウ ド ン市 域 に 接 し て, 土 城 壁 の 内 部 に 囲 ま れ た ク レ ア ン ・プ ラ ム と呼 ば れ る

地 区 と, 堀 に 囲 まれ た ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス と呼 ば れ る地 区 が 存 在 し て い る。 ク レ ア ン ・

プ ラ ム と は5つ の 倉 の 意 味 で あ り, 伝 承 で は, この 地 区 は倉 庫 で あ っ た こ と に な っ て

い る。 現 在 で は, 旧王 宮 を意 味 す る ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス が ア ン ・ ド ゥオ ン王 城 吐 と さ れ

て い るが, これ は ア ン ・ ド ゥオ ン第 二 王 城 吐 で あ る ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト新 王 宮

で あ り, ア ン ・ ド ゥオ ン 第 一 王 城 吐 で あ るバ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ 王 宮

に は, ク レ ア ン ・プ ラ ム が あ た る。

(1)ア ン ・ ド ゥ オ ン第 一 王 城 趾 バ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ

ボ ニ ー マ ン の 記 述 に よ る と, 王 宮 壁 の 中 の構 造 物 と し て, 庭 園 と こ れ を巡 る謁 見 ホ
ー ル, 王 の 私 室, 細 長 い 木 造 の 建 物 が あ っ た[p. 437]。1854年 の 旅 行 記 で も, 石 畳 の

中 庭 の 周 りに 謁 見 ホ ー ル, 後 宮, 王 の 寝 室, 細 長 い 二 階 建 て の建 物, こ の他 に機 械 室

が あ り, ア ン ・ド ゥ オ ン 王 が バ ー ミ ンガ ム のJ. イ ン グ ラ ム 社 製 の コ イ ン鋳 造 機 を 買 っ

て 設 置 して い た こ とが 記 さ れ て い る[pp. 308-312]。

58
ポス ト・アンコールの王城

地 図3に 示 し た 現 在 の ク レ ア ン ・プ ラ ム の 測 量 の 結 果, 旅 行 記 に記 さ れ た煉 瓦 の 内

城 壁 の 遺 構 が 発 見 され, 当 時 の 内 城 の 構 造 が 同 定 で き た。 この 煉 瓦 の 内 城 壁 付 近 に は

現 在 も鋼 鉄 製 の 銀 プ レ ス 機 が 放 置 さ れ(D-16), こ こ が 倉 庫 で あ っ た とす る伝 承 の 根 拠

に な つ て い る。 ア ン ・ ド ゥオ ン 王 が 銀 貨 を鋳 造 した こ と は年 代 記 に も記 述 さ れ て お り,

現 在 も ア ン ・ ド ゥオ ン 銀 貨3種 が 知 ら れ て い る。 こ の 他, 前 述 した よ う に 大 量 の 陶 磁

器 片 が こ の 内城 壁 内 部(D-16)で 表 面 採 取 さ れ, チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 と共 通 す る17世

紀 潭 州 窯 の 陶 磁 器 片 の 他 に, よ り後 代 の 潭 州 窯 の 陶 磁 器 片 が 含 ま れ て い る と鑑 定 され

た。

(2)アン ・ ドゥ オ ン 第 二 王 城 吐 ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト

年 代 記 に よ る と, ア ン ・ド ゥ オ ン 王 は北, 西, 東 の3方 を池 に 囲 ま れ た 地 に, 板 張

りの 王 宮, 草 葺 き, 漆 喰 壁, 煉 瓦 の 張 出 付 きの 王 族 の 住 居, 王 の 執 務 室, 種 々 の 平 屋,

水 上 倉 庫 な ど を 建 て させ た[p. 230]。1858年 に ウ ドン を訪 れ た ム オ に よ る と, 第 一 王

の 王 宮 す な わ ち こ の 第 二 王 城 の 内 部 に は, 王 の 妻 た ち の 住 居 で あ る100戸 ほ ど の 粘 土

壁, 草 葺 きの 小 さ な コ テ ー ジ, 湖 畔 に 広 が る石 灰 塗 り ま た は竹 造 り の建 物, ア ンナム

Annam人 織 り子 が い る工 房, 宝 物 庫, 倉 庫, 中 二 階 の 王 宮 が あ っ た。[P. 132]。 伝 承

の ウ ド ン王 城 の 地 で あ る ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス は, 3方 を堀 に 囲 ま れ た 広 場 で あ り, 内 部

に は寺 院, 築 山 が あ る(E-17)。 前 述 し た よ う に, こ こが ア ン ・ド ゥオ ン第 二 王 城 ス ラ

ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ トに あ た る。

4ア ン ・ ドゥ オ ン 王 以 降 の 伝 承 分 布

(1)アン ・ ドゥ オ ン王 の 百 寺 伝 承

ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ク ボ ス(D-18), ワ ッ ト ・プ サ ー ・ダ エ クWat Phsa Dek(F


-20), ワ ッ ト ・プ ラ ンWat Prang(E-16), ワ ッ ト ・チ ュ ー ク ・ソーWat Chhuk Sa

(C-17), ワ ッ ト ・ブ ロ ッ ク ・ク ダ ーWat Prok Kda(D-14), チ ェデ イ ・トレー ト

Cedei Tret 廃 寺(H-15)で の 聞 き取 り に よ っ て, ア ン ・ ド ゥオ ン 王 は ウ ドン地 区 に

百 寺 を建 立 し た とい う伝 承 を得 た。 ア ン ・ ド ゥオ ン 王 の 百 寺 に属 す る寺 院 の グ ル ー プ

は, ワ ッ ト ・チ ュ ー ク ・ソ ー を 最 西 端 と し, ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ(1-14)を 最東

端 と し て, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ と聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ の

間 を, 東 西 に 分 布 し て い る。 さ ら に 時 代 が 不 明 で あ るが, 処 刑 場 伝 承 も採 集 し た。 処

刑 場 伝 承 は, ア ン ・ド ゥ オ ン王 の 百 寺 の 東 と西 の 端 に分 布 して い る。

(2)龍 の 地 脈 伝 承

ア ン ・ド ゥオ ン王 の 王 宮 の位 置 を説 明 す る伝 承 と し て, ワ ッ ト ・プ ラ ン(E-17)に

59
東南 アジア ー 歴史 と文化 ーNo. 27, 1998

は, 龍 の地 脈 伝 承 が あ る。 ワ ッ ト ・プ ラ ン と は, 塔 の 寺 を意 味 す る。 そ の 名 の とお り

ワ ッ ト ・プ ラ ン に は, 一 辺40m, 高 さ50mの 巨 大 な チ ェ デ イ が 在 っ た と言 わ れ, 現 在

は 上 部 が 崩 壊 し た チ ェ デ イ が 残 つ て い る。 伝 承 に よ る と, こ の チ ェ デ イ の 地 下 に は ク

メ ー ル の 威 力 を司 る龍 が お り, こ こに 王 宮 を 建 て る と ク メ ー ル の 栄 光 が 蘇 る。 シ ャ ム

は こ の 地 に 王 宮 が 建 て ら れ な い よ う に, チ ェ デ イ を建 て て 寺 院 と し た。 こ の チ ェ デ イ

に は不 思 議 な 力 が あ り, こ れ に触 れ た 者 に は激 し く崇 る。 年 代 記 で は, ア ン ・ ドゥ オ

ン 王 が 最 初 に建 て た の が, ワ ッ ト ・プ ラ ン で あ り, シ ソ ワ ッ ト王 子 と ワ ッ タ ー 王 子 が

こ こ で 出 家 した[p. 222]。 こ の こ と か ら, ワ ッ ト ・プ ラ ン が ア ン ・ ド ゥオ ン王 の 王 宮

寺 院 で あ つ た と考 え られ る。

(3)チ ャ ウ ・ク ン伝 承

今 回 の 聞 き取 りで, ロ ン ・ノ ルLon Nol時 代(1970-1975)以 前 ま で, ウ ド ン地 区

に は王 田 ス ラ エ ・ル オ ンsrae luongが 存 在 し て い た こ と が 分 か っ た。 ス ラ エ ・ル オ

ン は王 族 が 所 有 し, メ ー ・ス ラ エme sraeま た は ニ エ イ ・ス ラ エniei sraeと 呼 ばれ

る 役 人 が 農 民 か ら籾 を 徴 収 した。 この 他 土 地 が 痩 せ て い る と こ ろで は銀 納 も あ つ た と

い う。 こ れ ら の 役 人 は 自分 で は耕 作 せ ず, 農 民 が 納 め る 税 か ら分 け 前 を 取 っ て い た。

こ の ス ラ エ ・ル オ ン は, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ の 北, ワ ッ ト ・チ ュ ー ク ・ソ
ー(C-17)西 の プ レ ア ・ス ラ エPreah Srae(聖 な る 田)地 区, ワ ッ ト ・チ ャ ド ・ ト

ゥ スWat Cado Tus(J-17)東 側 に 分 布 して い る。 そ の う ち, プ レ ア ・ス ラ エ の ス ラ


エ ・ル オ ン を所 有 す る 王 族 の 名 前 と し て, ク レ ア ン ・プ ラ ム で の 聞 き取 りで は, プ レ

ア ・ア ン ・ム チ ャ ス ・シ ー ・パ ンPreah Ang Mchas Si Pan王 子 と プ レ ア ・ア ン ・

ム チ ャ ス ・ペ ン ポ ツPreah Ang Mchas Penpoh(ペ ン ポ ツ=ト マ ト)王 子 が 挙 が っ

た。 ワ ッ ト ・プ サ ー ・ダ エ ク(F-20)の 聞 き取 りで は, こ こ の ス ラ エ ・ル オ ン の 所 有

者 は シ ソ ワ ッ ト王 の 王 女 ソ ム ダ チ ・マ リカ ーSomdec Malikaで あ っ た。 ワ ッ ト ・ヴ

ィ ピ ア ・ク ボ ス(D-18)で の 聞 き取 りで は, チ ャ ウ ・ク ン王 子 の 子 が プ レ ア ・ア ン ・

ム チ ャ ス ・ペ ン ポ ッ王 子 と プ レ ア ・ア ン ・ム チ ャ ス ・ピ ン ピエ ンPrea Ang Mcas

Pingpieng(ピ ン ピエ ン=蜘 蛛)王 子, プ レ ア ・ア ン ・ム チ ャ ス ・トラ ーPrea Ang Mcas

Tra王 子 で あ り, 妻 が ソ ム ダ チ ・マ リカ ー 王 女 で あ る。 この チ ャ ウ ・ク ン伝 承 は, ス

ラ エ ・ル オ ン と寺 院 の 建 立 に 関 係 し て, ア ン ・ ドゥ オ ン 王 城 吐 の 南 西 に分 布 し て い る。

5 小 括

ア ン ・ド ゥ オ ン 王 城 吐 は チ ェ イ チ ェ ッ タ王 城 吐 よ り も さ ら に4km西 に 後 退 した 地

点 に あ る。 王 城 が 内 陸 に退 い た 事 由 に は, チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 近 辺 が, シ ャ ム ・ベ ト

60
ポス ト・アンコールの王城

ナ ム 戦 争 の戦 場 に な つ た こ とが 挙 げ られ る。 しか し, よ り積 極 的 な 事 由 と し て, コ ム

ポ ー ト, ポ ー サ ッ トへ の ア プ ロ ー チ が 考 え られ る。 ポ ー サ ッ トは19世 紀 カ ン ボ ジ ア の

主 要 産 物 で あ る カ ル ダ モ ンや 雌 黄 の 産 地, カ ル ダ モ ン 山 地 か ら トン レ ・サ ー ブ 湖 へ の

出 口 で あ る。 ま た, コ ム ポ ー トは, 19世 紀 にハ ー テ ィ エ ン を 院 氏 ベ トナ ム に 奪 わ れ た

後 の カ ン ボ ジ ア王 権 に とつ て 唯 一 の 海 へ の 出 口 で あ り, 事 実 ア ン ・ ド ゥオ ン王 は, コ

ム ポ ー トに倉 庫 や 宿 舎 を建 て, ウ ド ン か ら コ ム ポ ー トに至 る陸 路 を 整 備 し, 自 ら も度 々

行 幸 す る な ど積 極 的 に コ ム ポ ー ト港 の経 営 を行 っ て い る。 王 は こ の コ ム ポ ー トか ら ウ

ド ン に 向 け て 陸 路 を建 設 し, ま た トン レ ・サ ー ブ 河 港 コ ム ポ ン ・ル オ ン とウ ド ンの あ

い だ に も陸 路 を建 設 し た[北 川]。 ウ ド ン に 集 中 す る 陸 路 網 を 完 成 す る こ とに よ つ て,

王 は 内 陸, シ ャ ム 湾 岸, トン レ ・サ ー ブ 水 系 を連 絡 し た の で あ っ た。

結 論

第2章 で 述 べ た よ う に, ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 を通 じ て, ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン地

域 は トン レ ・サ ー ブ 水 系 の 要 衝 を 占 め, メ コ ン水 系 の バ サ ンー ス レ イ ・サ ン トー 勢 力

と は 並 立 し対 抗 す る関 係 に あ っ た。

今 回 の 調 査 の 結 果, こ の ロ ン ヴ ェ ー ク お よ び ウ ドン 地 域 に お い て, (1)アン コー ル 期

寺 院 群 の遺 構, (2)16世 紀 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐, (3)17世 紀 の チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐, (4)19

世 紀 の ア ン ・ ド ゥオ ン城 吐 の 位 置 が 確 認 さ れ た。(1)は(2)の ロ ン ヴ ェ ー ク 城 吐 か ら聖 山

に か け て の 南 北 軸 上 に 分 布 し, (3)は こ の 南 北 軸 と現 在 の 国 道5号 線 の 交 点, トン レ ・

サ ー ブ 河 西 岸 湿 地 第 一 の 微 高 地 前 面 に位 置 した。(4)の ア ン ・ド ゥオ ン城 肚 は, (3)の チ

ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 よ り も4km内 陸, 現 在 の ウ ド ン市 域 付 近 に在 る。

こ の よ う な王 城 の 位 置 の 変 遷 の 意 味 は, 年 代 記 等 の 文 献 資 料 か ら, 以 下 の よ う に 理

解 で き る。

年 代 記 に よ る と, ロ ン ヴ ェー ク王 都 の建 設 者 チ ャ ン リエ チ エ王 は, ポ ー サ ッ ト を根

拠 地 に し て バ サ ン ー ス レ イ ・サ ン トー 勢 力 を 軍 事 力 で 圧 倒 し, ロ ン ヴ ェ ー ク に 遷 都 し

た。16世 紀 を通 じ て ロ ン ヴ ェー ク王 城 は, メ コ ン水 系 の 要 衝 バ サ ン ー ス レ イ ・サ ン ト
ー と対 抗 関 係 に あ っ た。 チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク建 都 は, 14世 紀 以 来 の メ コ

ン 水 系 ネ ッ トワ ー ク に対 抗 して, 商 都 プ ノ ン ペ ン と ト ン レ ・サ ー ブ湖 沿 岸 を結 ぶ 中 継

点 を作 ろ う とす る, カ ン ボ ジ ア 内 陸 勢 力 の 積 極 的 な 意 思 に よ る もの で あ ろ う と考 え ら

れ る。 但 し, この 仮 説 を 裏 付 け る た め に は, ポ ー サ ッ トお よ び ロ ン ヴ ェ ー ク北 方 の コ

ム ポ ン ・チ ナ ン に お け る 調 査 を待 た ね ば な ら な い。

オ ラ ン ダ 資 料 と伝 承 の 語 る17世 紀 の チ ェ イ チ ェ ッ タ王 城 は, トン レ ・サ ー ブ 河 川 港

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東 南ア ジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998

ポ ニ ェ ・ル ー を 介 して, トン レ ・サ ー ブ河 一 プ ノ ンペ ンー メ コ ン 河 一 南 シ ナ 海 と連 絡

し て い る。 さ ら に チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 か ら は, ポ ー サ ッ トに 向 か う陸 路 が 発 す る。 こ

れ は 商 業 の 時 代 に お け る国 際 勢 力 の 進 出, そ れ に と もな う商 都 プ ノ ン ペ ンの 発 展 に際

し て, 伝 統 的 な 徴 税 シ ス テ ム を 主 管 す る王 権 が, 内 陸 の 出 口 で あ る ウ ド ン渓 谷 に 王 都

を建 設 し, オ ラ ン ダ, 日本 お よ び 中 国 な どの 国 際 商 人 団 が 南 シ ナ海 一 メ コ ン 河 一 ト ン

レ ・サ ー ブ 河 ル ー トの終 点 と し て ポ ニ ェ ・ル ー を建 設 し た と見 る こ とが で き る。 チ ェ

イ チ ェ ッ タ 王 城 は ポ ニ ェ ・ル ー に 拠 つ た 新 興 勢 力 日本, オ ラ ンダ との関係 保持 に よつ

て, 中 国 人, マ レ ー 人 お よ び チ ャ ー ム 人 に 支 持 さ れ る メ コ ン水 系 の バ サ ンー ス レ イ ・

サ ン トー に対 抗 し た。

17世 紀 末 の 商 業 の 時 代 の 衰 退, 18世 紀 以 降 の ベ トナ ム に よ る サ イ ゴ ン支 配 は, チ ェ

イ チ ェ ッ タ 王 城 の 拠 っ て 立 つ 南 シ ナ 海 一 メ コ ン河 一 トン レ ・サ ー ブ 河 ル ー ト構 想 を破

壊 した。 さ ら に18世 紀 末 に は トン レ ・サ ー ブ湖 周 辺 地 域 は シ ャ ム の 領 域 と な り, バ ン

コ ク を 中 心 と す る ネ ッ トワ ー ク に組 み 込 まれ た。 プ ノ ンペ ン はベ トナ ム に 占領 さ れ,

そ の ト ン レ ・サ ー ブ 水 系 進 出 の 拠 点 と さ れ た。19世 紀 前 半 に チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 を 中

心 に 軍 事 施 設 遺 構 が 分 布 す る の は, この 地 域 が トン レ ・サ ー ブ 湖 に拠 る シ ャ ム 勢 力 と,

プ ノ ンペ ン に 拠 るベ トナ ム 勢 力 の 境 界 線 に な っ た こ と を意 味 す る。

筆 者 が 前 論[北 川]で 述 べ た よ う に, ア ン ・ ド ゥ オ ン王 の 事 業 の 一 つ に, コムポ ー

ト港 と王 都 ウ ド ン を 陸 路 で 接 続 し, メ コ ン 河 に 拠 ら な い 南 方 ル ー トを 開 発 し た こ とが

あ る。 王 は こ の ル ー ト と, 以 前 か ら存 在 した ポ ー サ ッ トに 向 か う 陸 路 を接 続 させ た。

ア ン ・ ド ゥ オ ン王 城 は コ ム ポ ー トー ウ ドン, ポ ー サ ッ トー ウ ドン の2つ の ル ー トが 交

わ る 地 点, す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 よ り も4km西 方 に建 設 さ れ た。 王 は さ ら に

ウ ド ン王 城 か ら トン レ ・サ ー ブ 河 川 港 コ ム ポ ン ・ル オ ン まで の 陸 路 を建 設 し て, トン

レ ・サ ー ブ河 一 プ ノ ンペ ン ー メ コ ン河 と ウ ド ン を接 続 させ た。 ア ン ・ ド ゥオ ン王 は全

土 を トン レ ・サ ー ブ 水 系 の ウ ド ン に 集 中 す る ネ ッ トワ ー ク 構 想 を完 成 させ, 王 城 を そ

の 要 に置 い た の で あ っ た。


(1) 本 調 査 で は, FINNMAP Oy/IMC CAMBODIA 1:25000 DECEMBER-92, ROLL
32 STRIP 77 7841お よび7843を 利 用 し た。

(2) 陶磁 器 の鑑 定 は青柳 洋治 上 智 大 学 教 授 に よる。


(3) 文 献 資 料 が 不 足 して い る地 域 にお い て, 伝 承 資 料 を収 集, 解 析 し, 歴史 研 究 の素 材
とす る試 み に は, 近 年 の桜 井 由躬 雄 の 東北 タ イ にお け る研 究 が あ る 〔
桜 井 〕。

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ポス ト・アンコールの王城

(4) プ レ ・ア ン コー ル期, ア ンコー ル期 に建 設 され た石 造 また は煉 瓦 造 の神 殿 遺 跡。

(5) バ ン テ ィエ イ ・プ レイ ・ノ コー に は, 約2.5km四 方 の 堀 で囲 まれ た 方形 の土城 壁 と


煉 瓦 の 中心 プ ラ サ ー トが 残 っ て い る。バ ン テ ィエ イ は カ ンボ ジ ア語 で砦 の意 味。
(6) 一哩 は約7.5km。

参 考文献
1. 日本 語

ア ン トニ オ ・デ ・モ ル ガ著, 神 吉 敬三 ・箭 内健 次 訳。1966。 『フ ィ リピ ン諸 島誌 』 大航 海

時代 叢 書VII岩 波書 店。
岩 生 成一。1939。 『
南 洋 日本 町 の研 究 』 南 亜 細 亜文 化 研 究 所。
ガ ス パ ール ・ダ ・クル ス著, 日埜 博 司 訳。1987。 『
十 六 世 紀華 南 事 物 誌 』 明 石 書店。

北 川香 子。1992。 「ア ン ・ドゥオ ン王 の 道 一19世 紀 中葉 カ ンボ ジ ア の国 内 ル ー ト再編 に つ い


て」『
南 方 文 化』 第19輯87-116頁。

桜 井 由躬 雄。1997年7月。 「東北 タ イ にお け る村 落 の形 成-ヤ ソー トン県 マハ ー チ ャナ チ ャ


イ郡 にお け る村 落 形 成伝 承 につ い て 」 『
東方学』 第94輯81-64頁。
2. 欧 米 語
Choan et Sarin. 1970. Le Venerable Chef de la Pagoda de Tep-Pranam, BEFEO t.
LVII, pp. 127-154.
Les Etudiants de la Faculte Royals d'Archeologie de Phnom-Penh. 1969. Le Monastere
Bouddhique de Tep Pranam a Oudong, BEFEO t. LVI, PP. 29-56.
Mac Phoeun. 1981. Chroniques Royales du Cambodge (de 1594 a 1677), Collection de
Textes et Documents sur l'Indochine XIII. Paris.
Mullier, Hendrik P. N. 1917. De Oost-Indisch Compagnie In Cambodja En Laos, S-
Gravenhage. 付 属 地 図"Eavweck Hooft Staot Van Cambodia"

3. ク メー ル語

Tran Nghia. 1974.「 ク メ ー ル 国 史 」 第2部。

カ ン ボ ジ ア 王 朝 年 代 記 タ イ 国 立 図 書 館 所 蔵 写 本。

表1 ア ン コー ル期 遺構 の分 布

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表2 陶 磁 器 片 の分 布

表3 ア ン ・ ドゥオ ン以 前 の伝 承 の 分 布

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ポ ス ト ・ア ン コー ル の王 城

表4 シャ ム ・ベ トナ ム戦 争 伝 承 と年代 記 の 記 述

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表5 貝 入 り漆 喰 の分 布

表6 ア ン ・ ドゥオ ン以 降 の伝 承 の 分 布

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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の 王 城

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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の王 城

地 図2 チ ェイ チ ェ ッタ城 壮実 測 図
作図: 桜井 由躬雄

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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の 王 城

Capitals of the Post-Angkor Period


Longvek and Oudong

KITAGAWA Takako
This paper sets out to investigate the transfer of the royal palace's location in the post
-Angkor period, and will at the same time consider the change of character of the

Longvek-Oudong dynasty.

Since the French Protectorate era, a considerable number of studies have been made
on Angkor period. However, little attention has been given to the post-Angkor period.
Reasons were that it was deemed a "Dark-Age" and an iota of historical materials. As
such, we attempted a research on the Longvek-Oudong region, about 30km north of
Phnom-Penh. We had examined some aerial photographs, measured the royal palace's

sites, made maps, picked up fragments of pottery, and lastly compiled information
relating to the beginnings of villages and temples.
There was a saying that in the post-Angkor period, the capial of Cambodia was

transferred from Angkor to Basan (Kampong-Cham Province) -Phnom- Penh- Lonvek


(Kampong-Chhnang Province)-Oudong (Kampong-Spu Province). The first capital,
Basan, occupied a key point on the Mekong River. The third and the fourth, Lonvek and

Oudong, were in close proximity. They held a strategic point on the west bank of the
Tonle-Sap River. The second and the present capital, Phnom-Pemh is situated on the

confluence of the Mekong River and the Tonle-Sap River. Based on the royal chronicle
of Cambodia and some foreign sources, we knew that Basan and Longvek-Oudong were

rivals.

The following resulted from our research:


1) From the central temple in the Fortress of Lonvek to the Sacred Mountain of

Oudong, we found the ruins of shrines belonging to the Angkor period.


2) There is a square site surrounded by walls which we had determined to be Lonvek,
the capital in the 16th century.

3) We found that the royal palace of Oudong in the 17th century was on the first

height next to the west bank of the Tonle-Sap River.


4) There are two remains known as Veang-Chas (old palace) and Khleang-Pram (five
storehouses). The former was the second royal palace of king Ang-Duong and the

latter was also his first palace, situated 4km west to the royal palace in the 17th

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東 南 ア ジ ア ー 歴 史 と文 化 一No. 27, 1998

century.
Therefore, we concluded that:
A) The capital Longvek-Oudong kept close relations with Pursat, south of the
Tonle-Sap Lake.
B) The transfer from Longvek to Oudong during the 17th century came from the
development of Ponhea-Lu as a river port in the "Age of Commerce".
C) However, with the end of the "Age of Commerce" and the control of Saigon by the
Vietnamese, this situation was changed. King Ang-Duong tried to build a new
network which could connect Pursat and Kampot via Oudong. In doing so, he built
his palace 4km inland.
D) Under the French Protectorate, Phnom-Penh became the capital of Cambodia and
the network which centered on Phnom-Penh and the Mekong River was completed
for the first time.

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