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Subhasitamaharatnavad伽amal豆について

岡 野 潔

南アジア古典学第1号別刷
2006年7月発行
南アジア古典学1,2006

Subhasitamallammavadanam訓豆について

九州大学岡野潔

本稿はアヴァダーナマーラー(ネパールの梵文仏教説話集)の一つであるSubhasi-

tamaharatnavad5nam515(善説大宝警嶮鬘)について報告する。この作品は,世界に一

本しか写本が存在せず,これまで学界に知られていなかった。
この作品は,高畠寛我(1954)が報告したRatnavadanatatva(宝譽嶮真実。古典梵
語正書法では−tattva)という作品の本来の形を示すものである。Ratnavadanatatva

は、高畠がRatnalnnlavad伽という題で出版した梵文テキストの(注'),第13章から
第38章までの部分を構成しているが,その写本として当時は京大写本A'だけが知ら
れており,高畠はその1写本を用いて,ローマ字転写を行った。その後NGMPPのネパー
ル写本マイクロフイルム化計画のおかげで,その写本のほかに、もう1本のRatnavadas

natatvaの写本がネパールにあることが判明している。その写本のマイクロフィルム

(NGWPE1343/4)を筆者は1995年に佐藤誠司氏の助力で入手し,調べてみた。その写

本は京大写本A'と同内容をもつものであった。この写本は,高畠がローマ字転写した
テキストの校訂のために役立つであろう。しかしBIhatsncipatramカタログにより,

その写本以上に注目すべき価値をもつ別の写本がカトウマンドウにあることがわかり,

NGMPPのおかげで,その写本も利用可能になっている。その写本こそが,SubhaSita-
maharatnavad5nam515である。筆者は1992年にそのマイクロフイルム(NGMPPB101/
3)を入手した。その写本は,NepalSamvatlO12(西暦1892年)に筆写された紙写本

であるが,内容を調べてみると,Ratnavadanatatvaの内容と重なり,しかもRatn5va-
danatatvaよりも規模が大きく,より古い形を伝える作品であることが判明した。この
作品はAvadanaSatakaを詩形改稿した梵文仏教説話集の中で最も規模が大きく,注目
すべき重要さをもつ。

このSubhasitamaharatnavadanam51豆の価値は、次の点にあろう。高畠の校訂本が作

られた時点で京大写本A'(Goshima・Noguchi87)しか知られていなかったRatnavadZP
natatvaの全内容をこの写本は含んでおり、そればかりかその京大写本が全26章なのに
対し、この新出の写本には41章があり、新たに未知の15の章が得られた。さらに、その
新たに得られた15の章こそが、AyadanaSatakaのこれまでに見つかっている詩形改稿本
の諸本に欠けていた最後の部分であることが知られる。従ってこの写本の発見によって、

− 1 −
百年以上前のL.Feerの研究以来学者によって探し求められてきた、Avad5naGataka

の詩形改稿本の諸本を組み合わせて完成体にするための最後のパーツが発見されたこと
になる。これで、L.Feerが推測した通り、AvadanaSatakaの詩形改稿本たるKalpa-
drumavadanam51且とASokavadanamgl且とRatn5vadanam51且とが、まるで或る一つの巨

大な作品を構築する部分であるかのように計画されていたこと、つまりAvadanaSataka
の100の章を詩形改稿してゆく作業計画が中途半端に放棄されたのではなく,実はその
作業がほぼ完成されていたらしいことを知ることができる。この点を,諸学者によるこ
れまでのAvadanaSatakaの詩形改稿本の研究史を振り返ることによって説明する。
Feer(1879),(1891)は(注2)、AvadanaSatakaと、アヴアダーナマーラー類の中
のAvadana"taka系列の章との対応関係を初めて指摘した。彼はKalpadrumavadinamaF

laとRatnavadanalnnl嵐とASokavadanam51豆の、3つのアヴアダーナマーラー文献に含
まれる多くの章が、AvadanaSatakaの章の詩形改稿本であることを明らかにし、その対
応関係を対照表として示した。

KalpadrumZvadanam515(略号剛州)とAvad5naSataka(略号Av鋤の章の対応は次
の通り:

KDAM: 123456789101112131415-
Av6: 10011121415161718191212224252-

KDAM: 161718192021222324252627282930
AvS: 6272829254153316

次にパリ写本Ratnavadanam515(略号RAM)とAvadanaSatakaの章の対応は次の通り
↓↓

RAM:12345678910111213141516
AvS:31323435363738393414244432(?)

RAM:171819202122232425262728293031323334
Av6:5564748494

この表の中で,Ratnavadanam51516KanakavarnaとAvadana"taka32Kavadaとの
対応関係については,Feer(1891),XXIVの表で「32Kavada(R.-av.16?)」と,Feer
自身がクエスチヨン・マークをつけている。Feer(1891),p.119でも,Ratnavadana-
m且laの16KanakavarnaとAvadanaSataka32Kavadaは「正確には対応していない」

と述べ,むしろDivyavadanaの第20章の同名のタイトルをもつテキストと合致するこ

− 2 一
とを指摘している。そのため,Ratnavadanamal豆の16KanakavarnaとAvad5naSataka
32Kavadaはその対応関係(借用関係)を無理に認める必要はない。また現在の研究で,
このRatn5vadanalnal5[16]は多くの詩節をBodhisattvavad5nakalpalat5[42]から
借用したことも判明している。Ratnavadanam515[16]の直接的な源泉はAvad5naSa-
takaではなくDivyavadanaやBodhisattvavadanakalpalat目のKanakavarnaの章で
あると思われる。

次にA釦kavadgnamal5(略号AAM)とAvadana"takaの章の対照は次の通り:


17

08

19


60
15
70
10
剖岫


41

10
13
●●






以上の対照によって、KalpadruInZvadanamal豆は、10部類(varga)×10話から成
るAvadanaSatakaの各部類(varga)の第1と第2の話を、また、Ratnavad5nam51恩は、
その続きとして、AvadanaSatakaの各部類の第3と第4の話を、また、ASokavadanam副目
(の第14章∼21章の部分)は、AvadanaSatakaの各部類の第10の話を詩形改稿し
た集成であることがわかる。

Feerはこのようにアヴァダーナマーラー類に詩形改稿されたAvadanaSatakaの章を
次表(表A)の如くまとめている:

[表A]
AvS(部類)IⅢⅢWVVIVⅡⅥIIIXX

1 ll 21-41 5161 718191


KDAM2 12 22−42 5262 728292
<15> <33> <54> <100>
<16>

<32?>
乃刈

38

34

31


RAM 23−435363 93
2 4 − 4 4 6 4 94
<55>

AAM102030-5060708090-

(この表で,〈>の中に数字がある章は,あるべき場所がはずれて
いるように思われる章)

− 3 −
こうしてAvadanaSatakaの100章の約半分にあたる数の章の詩形改稿本が見つかった
わけであり、またこれらの整然とした作品間の規則性から、Feerは、これらのアヴァ

ダーナマーラーの該当章(Kalpadrumavadanamal且とRatnavadgnalnalョの大部分,ASo-
kavadanam51豆の一部)が本来、AvadanaSatakaに詩形改稿を行った或る一つの巨大な

アヴァダーナマーラーの作品の構成部分であったと推定した(注3)。これを「同時成
立仮説」と呼ぶことが出来る。Feerの後に,AvadanaSatakaを校訂したSpeyer
(1906,1909)はこの仮説に批判的な立場を取り,彼は上記の三つのアヴアダーナマー
ラーが段階的に成立したと考え,KalpadruInavadanainal且が最も古く成立したとみなす
(注4)。この考えは「漸次成立仮説」と呼んでよいであろう。
Speyerの研究から数十年経って、高畠(1954)によって全26章から成るRatniva-
danatatvaが、変則的な形で(Ratnavadanamal且の12章の後に無理に接続されている
という形で)、ローマ字転写されて出版された。Feerが知り得なかったこのRatn3
vadanatatvaという4番目の資料を,高畠は京大の1写本(Goshima・Noguchi87)に
より知ることが出来た。Ratnavadanatatva(略号RAT)の各章の、AvadanaSatakaの
章との対照は、高畠自身によりなされた(注5)。

RAT:12345678910111213-
AvS:617254578582728494657-

RAT:14151617181920212223242526
AvS:97886489779298777

これを見ると、RatnavadanatatvaではAvadanaSatakaの章を利用してゆく順序が上
記の三つのアヴァダーナマーラーのようにはっきり残っておらず、順序がひどく乱れて
いる。しかし、Ratnavadanatatvaで対応が見つかったAvad5naSatakaの章と、上の三
つのアヴァダーナマーラーで対応が見つかったAvadanaSatakaの章との間に重複はな
く、Ratngvadgnatatvaは、AvadanaSatakaの各部類の第5∼第9の話を詩形にした集
成(の一部)であることがわかる。高畠は上記のFeerの「同時成立仮説」が,この
Ratnavadanatatva写本の発見によって部分的に裏付けられたと考えた。
京大写本Ratnavadanatatvaにおいて対応関係がわかったAvad5na"takaの章を、
上にならって並べ変えてみると次のようになる:

−4一
AvS(部類)1HIHIVVVIVⅢⅥIIIXX

25 45

6789
17 46 86

刀沌 刃
55
78
RAT 27 8797

州紗
28
29

表にまだ空きがめだつ。Ratnavadanatatvaは、AvadnnaSatakaの各部類の第5∼第

9の話を詩形改稿した集成であるとしても、AvadanaSatakaとの対応関係を全部埋める

にはかなりの脱落があり、不完全な集成であるといえる。Ratnavadanatatvaがこのよ

うにAvadanaSatakaの詩形改稿本としてのあるべき章をかなり欠いていて不完全であ

るのは,一体AvadanaSatakaからの詩形改稿がアト・ランダムに行われて中途半端な
形で終ったためであるのか、それとも完成していた本来の完全な形が伝承の途中で失わ

れたためであるのか、その点が不明であった。従って、AvadanaSatakaの100章を詩形

改稿してゆく壮大な作業計画が歴史のある時点で完成されていたのかどうかは,京大写
本でもわからなかったのである。

ところが京大写本1本でしか存在しないと思われていたRatnavadanatatvaには、冒

頭で述べた通り,カトウマンドウに別の写本2本があることが現在わかっている。その
うちの1本は、Ratn5vadanatatvaではなくSubhasitamaharatn5vadanaInnl豆という題

をもつ作品であり、それが有する41の章は、京大本の有する26の章をすべて含んで

いる。この新出の写本の末尾のコロフォンを見ると、元々そこにsubhasitamaharatnaP
vadanam副ョsamapta(善説大宝警嶮童は完結した)と記されていたのが、後からわざ
わざ、豆l豆(鬘)の語がtatve(真実)と書き替えられて、さらに欄外にvasundhar5
vratakathasamaptaと書き加えられている。
泣亙〃
変変
更更

″伽

伽伽
hh

卿伽
順胞

晦皿

一肌偽一卿

韮︾


噛”
aa

Se

su

−aV
。I.I一a

,b,D
,、,〃

一垂一麺

一a一a
ー鋸.一錨.
●勺。“壬●で。ユ
,子,︾︲−.0︺


tn




,K

,n

−即
−a

−a
一m




つまり写本にあるSubhasitamaharatnavadanatatva(善説大宝警嶮真実)という作品

名は、写経生の書き直しによって出来たもので、新写本が筆写した原本にはその作品名
はなかったのであり、本来の作品名は、SubhasitamaharatnavadanaInal豆であったと推測

−5−
することが出来る。新写本の最終章の本文の偶中の1箇所(fol.367b)にもSubhaSi-
tamaharatnam51ヨという名が出ている。

etadevamsa"激hyayajaya金丑Isajm毎加ajah/sarvanst"Sigyasamgh町sca
sa"鋤antryaiva畑毎di"t"subhaSitamahara加anEI伽加伽prabhaSati/yoyatraye
camlvantidraVayantyapiyemud豆〃虚utvgnumodantiyecad"vgnamantiye

mu"/satkrtyafraddhay毎nityamsamabhyarcyabhajantiye"etelamtatra
sarvesambhavatumaligalamsada/

また京大本Ratnavadanatatvaも、本文の同一の箇所(p.479)において、SubhaSi-
tamaharatnamalヨと呼ばれている。京大本Ratnavadanatatvaの写本を校訂した高畠も

この箇所の記述に気づいており,Ratnavadanatatvaという名前の他に,SubhaSitama-
haratnamal豆という別の名前が写本の中に記されていることをIntrodution(p・iii)
において指摘している。また、京大本の写本では、最初の章の冒頭に、本文中において、

avadanatatvamvakSy5minatvatamSrighanamgurumという偶の1文があって、そこ
にAvadanatatvaという作品名が見られるのであるが、興味深いことに、新写本にはそ

の文はなく(fol.1b)、しかし写本の欄外において、後からその1文が別のペンで書

き加えられているのである。また、新写本の第1章の章末のコロフオン(fol.14a)
でも、後からavadanatatveと横に書き加えられている。これらの修正が、後から無理
に作品名を変更しようと意図していることは明白である。

このように,この作品の本来の名前はSubhasitamah5ratnavadZnam515(以下,略号

SMRAM)であり,Ratnavadanatatvaは後から出来た名前らしいと推測される。京大本

Ratnavadanatatvaにおいては,SWAMにあった15の章を削ぎ落とすという編集作業が
なされている。SMRAMとRatnavadanatatvaとの違いは,多数の章の削除がされている

かどうかの,大小の違いにすぎない。本論文ではSMRAMを「新写本」と呼びたい。

さて,この新写本で新たに見つかった15の章は,次のようにAvadanaSatakaの対応
章の詩形改稿本であることが確認できる:
第第第第第
話話話話話

66

V,S〃S〃S〃S,S

新写本第5Suka

57


VA

■■■■■■■
69
VA

第6Priya
一一

88
VA

第8KaSisundarIkanyak5 目==

第9Gangika
’一

第23Ya釦mitra =二二

−6一
第第第第第第第第第第

第第第第第第第第第第
話話話話話話話話話話

89

VAグ︽軍凹〃、、哩〃︽ご画グ︽垂哩〃︽壷︺〃画一回〃毎尭︾グ︽二回〃心一回〃︽﹄U

59
24Kapphi叩anma :==

VA
62
25Samsarabhiksu

VA
二==

64
VA
26Guptika

’一

74
VA
27Sitaprabha

1■■■■■■

86
VA
30Jatyandhapretika
■■■■■■■

66
VA
31Sresthinanavadana
■■■■■■■■

76
VA
35Padmgksa 二二二

86
VA
36Dundubhisvara
ロ■■■■■■■■



37Ekape師恩taSatakumZra 二二二

38Snrya ニーー

新写本の有する全41章を、京大本Ratnavad5natatvaの26章と対応せしめ、さら

に、高畠(1954)が作った京大本とAvadanaSatakaの章の対照表をベースにして、新

写本と京大本とAvadgnaSatakaの章との、三者の対照表を作ってみると以下の如くで

ある:

新写本の章 京大本の同一の章AvadanaSataka対応章
1Vajika [
1] [6]Vajika
2Gandharvika [
2] [17]Stuti
3Snkgnatvaco [
3] [25]Snkgnatvag
4Pretika [
4] [45]Maudgalyayana
5Suka(注6) [56]Suka
6Priya [65]Priya
(写本には第7章がない。章の番号付けを間違えたようである)
8KaSisundarikanyak5 [76]KaSikasundari

9Gangika [98]Gangika
10Kacamgal5 [
5] [78]Kacamgala
11Dhanika [
6]
12Raivata [
7]
13Mahi" [
8] [58]Mahi"
14NHvik5 [
9] [27]Navik5
15GandhaIngdana [
10
] [28]Gandhamadana
16Pretika [
11
] [49]Putra
17Pret"hntamaharddhika [
12
] [46]Uttara
18Dnta [
13
] [57]Dnta

− 7 一
fflf

91
92
1 [
14

71
02 Tairthika Dhnpa

81
12
Malika [
15
] Padma


22

P誼c51ar5ja [
16
] Paicala

8f
15
32

[
17

8f
Upapaduka Aupapaduka

18
42

8E
Ya"mitra Yammitra

15
52

96
Kapphinampa Kapphma

16

9f
62

Samsarabhiksu ■■■■■■■

Samsara

19
2f
72

Guptika Guptika

19
7f
82

S
Ita
pra
bha SItaprabha

17
2f
93

K配、颪 [
21
] K"m5

18
44
03

Aranika [
22
] Nirmala



13

Jatyandhapretika J5tyandh5

23

Sresthinamavadana S
res
thI

fff
11

33

旧1

Anityatasntra

帥附剛伽肘紬帥舳

帥唖一uⅢ.ryht
価阻伽.州曲.a・1l
43

S
reS
thi
pre
tIb
hnt
a
別一一一一瀦

[
48

53

Virnpa [
97

63

PadInaksa [
66

73




Dundubhisvara [
67

83

EkapeSijataSatakumara [
68

94

Smya [
69

f別
11妬
04

t a

ff邪

Sobhita [
87

14

11

Mukt5 [
77

DhinatI
■■■■■■■■

Vasumdhar5
■■■■■■■■

この表では,SMRAM[31]Sre"hinanavadanaと[33]SreSIhipretibhntaの2つの
章について,どちらも対応するAvadana"takaの章が[48]Sresthiとなっている。つ
まりAvadanaSataka[48]SreSthiには,対応する詩形改稿本たる章が2つもある(注
7
)。
さて、新写本SMRAMが京大本RatnavadanatatvaよりもAvadanaSatakaの詩形改稿
本を15章多く含むことが確認されたわけであるが、この新たなAvadanaSatakaの詩
形改稿本の発見によって、従来知られた4つの文献では埋めることが出来なかった、
AvadanaSatakaの詩形改稿を受けていない章の空きが、大部分埋まることになった。新
写本で対応関係がわかったAvadanaSatakaの章を、順番を並べかえた上で、先の表A
に接続してみると次のようになる:

−8−
[表B]
AvS(部類)InⅢⅣVVIWIVⅢⅨX

l ll 21-41 5161 71 8191


KDAM2 12 22−42 5262 72 8292
<15> <33> <54> <100>
<16>

<32?>

37

38

34
11
34


RAM 23−435363 93
2 4 − 4 4 6 4 94
<55>

砺価印侃的

稲師師朋
墹妬幻州⑲
52

一一一一一
62

95
6789

■■■■■■■ −
72

新写本 56 76 96
82

17 57 77 97

58 78 98
− U■■■■■

79 I ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

AAM102030-5060708090-

この表Bをみて、次の三点が特に気づかれよう:

第一点。AvadanaSatakaの第4部類(第31∼第40章)に対応する章の詩形改稿が
Ratnavadnnatatvaの新写本においても、見事に欠けている。まるでKalpadrumavadaP

namgl且とRatnavadanamal面とSMRAMとASokavadanamgl豆が互いに相談して作成計画

を立てたかのように,共通して第4部類が欠けている(注8)。欠損の仕方に一貫性が
あるわけである。このことから、これら四つの詩形改稿本が別々に成立したとしても,
その成立時期は互いに大きくは隔たっていないことが推測される。ほぼ同時代に一つの
巨大な作品として作られた可能性も否定し切れない。
第二点。新写本の章の順序は、種本のAvadanaSatakaの章を詩形改稿してゆく順序
を、Kalpadrumavadanam51ヨやRatn5vadanam51目に見られるほどの整然とした規則性を
もって残してはいない。この点は京大本Ratnavadanatatvaと同じである。しかし話の
順番が現在は乱れていても、初めからそうなのではなかったと思われる。話の順序がア
ト・ランダムであることはみかけだけで、内容から見れば、AvadanaSatakaの各部類の
第5∼第9の話が実に整然と詩形改稿されたものであることが、上の表の並べかえの結

−9一
果からわかる。現在の順序は、何らかの意図で再編集を受けて章の並べかえを被った結

果と思われる。

第三点。Kalpadrumgvadanamal颪とRatn5vadanam51豆は、それぞれ原則的にAvadana-

"takaの各部類の第1・第2と、第3・第4の話を詩形改稿した作品集であるが、そ
の原則に従っていない余計な章を幾つかもっていた。即ち、上の表で山形カッコでくく

られた、<15><16><33><54><100><55>の各章である。新写本においては、それら

の、Kalpadr皿司vadgnamil豆とRatnavadanama1豆で余計に存在する<15><16><55>の箇

所がちょうど見事に欠けている。この整合性は偶然ではありえない。新写本は、

Kalpadrumavadanam51豆とRatnavadanam51面と艦okavadanam51豆の空けた部分にぴった

りと接続して全体を完結するような、第4の詩形改稿本であることが疑いない。
ここで大きな疑問に私たちは再び戻ってくる。これら4種類のAvadanaSatakaの詩

形改稿本は、一体、継起的・段階的に別々に作られていった作品であると見なすべきな

のか、それとも同時成立仮説のように,初め一つの完成体であったものが、伝承の過程
で、ばらばらになったものと見なすべきであるのか。

上で指摘した、Kalpadrulnavadanam51豆とRatnavadanam51且で余計に存在する<15>
とく16>とく55>の箇所が新写本SMRAMではうまく欠けているという不思議な符合も、

KalpadrumZvadanamal且とRatnavadanamZ1aがSMRAMと泣き別れたためであると解釈す

るならば,同時成立説の根拠となるが、SMRAMという作品が後からKalpadrumZvadana-
mヨ1目とRatnavad5nam51豆を補う形で成立したのだと解釈するならば、継起的成立説の
根拠となろう。

作品群がKalpadrumavadanam51颪のように,独立した作品名をもって別々に伝承され

てきた事実は,確かに継起的成立説を支持する一根拠となりうるが,しかし同時成立説
を否定するほどの強い根拠たりえない。そもそもAvadanaSatakaを詩形改稿して出来

上がるはずの巨大な嵩をもつ韻文説話集は、写本の厚さを考えると,一つの写本として
束ねるのが物理的にむずかしい。写本は300葉から400葉の厚さで分割しなければ,管理
や筆写や読調などの扱いに困る。もし同時期に一応全体が完成したとしても、分割した

形でそれぞれのパートを維持してゆくのが現実的である。作品群に対して,一つの統一

的な作品名を与える必要がなかったのは,そのような現実的な写本管理上の要請に基づ
いているとも考えられる。全体が分割された形で写本が伝承されてきたことは,必ずし
も継起的成立説だけを支持する根拠とはならないように思われる。

同時完成説を支持する理由として第一に挙げるべきは、先に指摘した、4種類の
AvadanaSatakaの詩形改稿本のどれもがAvadanaSatakaの第4部類にあたる章を同じ
様に欠いていることであるが,また理由の第二に挙げるべきは,4種類のAvadanaSa-

−10−
takaの詩形改稿本が、全体のバランスから見た場合、Ratnavadanam51ヨとSMRAM(=

Ratnavadanatatva)にほぼ7割を占められ、偏っていることである。
この第二の理由について、もう少し突っ込んで考えてみよう。Ratnavadanatatvaと

いう奇妙な題名が,後から変更された結果の仮の名であることはSMR州写本から判明
したので,両者はSMRAMの名で統一できるが,このSMRAMという名はそもそもRatnaF

vadgnamgl颪という名と差別化を図って付けられた名とは思えない。subhasita-(善説)

とmaha-(大)の語は,あってもなくてもよい語である。すると、Ratnavad5nam515

とSMRAM(≧Ratnavadanatatva)の両者は、Ratnavadanam51ヨかSMRAMの,一つの
作品名に統一できる可能性がある。

さて,岩本裕は高畠寛我が校訂テキストの出版においてRatnavadanam51ヨの13章
以降を切り捨てて、代わりに京大本Ratn5vadanatatvaをRatnavad5nam51ヨの12章の

後ろに接続させて「Ratnamilavadana」という作品名で出版したことを批判したが、し

かし京大本Ratnavadanatatvaが本来Ratnavad5namal且の一部であったことの可能性

は否定していない。岩本の批判は、京大本Ratnavadanatatvaの冒頭の2話(Vadik3
vadana,Gamdharvikavadana)が、Ratnavadanalnm1豆の派生系の伝本においてしか見ら
れないものである故に、その2話を結節点として、Ratnavadanamnl且とRatnavadaP

natatvaとを奇妙に接続させてしまう高畠の処置が誤りであることを指摘しただけであ

る。共有する2章をもって両者を接続させることが誤りであったからといって、両者が
本来、同一の作品ではなかった、と決めつけてしまうことは出来ない。確かに、京大本

Ratnavadanatatva(≦SMRAM)は内容的にみてRatn5vadanamal且の延長なのである。

両者が本来は一つの作品であったとすると、AvadanaSatakaの詩形改稿本の7割がRa-
tnavadanalna1豆であったことになる:

加伽、k

訓厄
、刎刎d

−咽畑舳畑
刎一aala
刎一諏一諏舳


−a

−a

Av§各部類の第1∼第2話を詩形改稿

aw遍

Avs各部類の第3∼第4話を詩形改稿



三一

Av§各部類の第5∼第9話を詩形改稿

Av§各部類の第10話を詩形改稿

この全体のバランスから考えると、7割を占めるRatnavadanam51嵐はAvadanaSa-

takaの各部類の第3∼第9の話の詩形改稿を集めた説話集なのではなく、AvadanaSa-
takaの詩形改稿本の全体に付けられた名前であった可能性もありうるように思われる。
残りの3割の部分としてKalpadrumavadanamal豆とASokavadanama1面があるわけである
が、そのうちA釦kavadanam51恩は、少なくとも中心核の部分は,その題名が示すよう

−11−
に,初めからAvadanaSatakaを詩形改稿した作品集として企画され編集されたのでは
ない。A釦k5vadanamal且の一部分(第14章∼21章)のみが,AvadanaSatakaの各部
類の第10の話の詩形改稿を集めた説話にすぎず、その部分は、本来A釦kavadanam515
という作品の最初に出来た中核の部分であったとは思えない。A釦kavadanam51颪の中の
AvadanaSatakaを詩形改稿した部分は付加された部分であり,どこかから持ってこられ
たものである可能性がある。つまり、A釦k5vadanam51ヨの中のそのAvadanaSataka系列
の部分は、本来はどういう名称であったか不明な部分であり,Ratngvadanamal颪という,
Avad5naSatakaを詩形改稿した巨大な作品の一部が泣き別れてASokavadanamalaに伝わっ
ただけである可能性も出てくる。

以上のように考える時,AvadanaSatakaを詩形改稿した各章がほぼ同時期に成立した
とみなす見方は十分に弁護しうるものであると私は考えるが,しかし「Feerの同時成
立仮説とSpeyerの継起的成立仮説の二つの仮説のどちらが正しいのか」という問題の
設定の仕方そのものが,あまりこだわるほど重要な意味をもちえないものである。同時
成立仮説は「一人の著者が全部書いて編集した」とまで主張したいのではないであろう
し,もし同時成立仮説が厳密に「一人の著者による成立説」を意味しないのならば,継
起的成立仮説とどこがどう違うのかは,暖昧になる。
もし学者がAvadanaSatakaを詩形改稿したそれぞれの詩形改稿の章に見られる定型
句や韻律の使用上の癖などを細かく吟味して,Kalpadrumavadanamal颪等のAvad5naSa-
takaを詩形改稿した章がすべて文体的同質性をもっていると判断を下すならば,その
時は著者同一性による「同時成立仮説」が証明できるかもしれない。しかし完全な証明
は不可能であるし,著者名をもたないアヴァダーナマーラー類のような宗教文献におい
て厳密に著者同一性にこだわることにどのような意味があるのだろうか。また
Kalpadrumavadanalnal颪やRatnavadanamal豆などを調べてそれぞれの作品の固有性,そ
れを作った複数の著者たちの固有の癖などが明確に把握できたならば,それで「継起的
成立仮説」が証明されたことになるかというと,そうはならない。同時代の複数の作者
が連絡を取り合い,組織的に集中的に作業して,一挙に巨大な一つの文献を作ったとい
う可能性が残っているからである。そして,私自身はその第3の可能性一「ある同
時代の複数の著者たちによる計画的な製作の仮説」と名づけたい−が実は最もあり
うる本当らしい仮説ではないかと考える。ある時期にカトウマンドウ盆地で,梵語で聖
典説話の詩形改稿本を作る一つの文学的創作運動が起こり,かなりの短期間に,カトウ
マンドウ盆地の限られた領域内で,同じ知識人サークルに属する同時代人の仏教徒たち
によってASokavad5nam515,Kalpadrumgvadanamala,Ratnavadanam51訂等の作品群の中
核部分であるAvadanaSataka詩形改稿の部分が,計画的に集中的に作成されたのでは
−12−
ないかと私は推測する。複数の人による製作期間の長さがかなり短ければ,それは同時

成立仮説とも言えようし,製作期間がかなり長ければ,継起的成立仮説とも言えること
になるが,そのような区別にこだわることはあまり意味がないであろう。

またRatnavadanamla,Kalpadrumvadanamgl圃舶okavadanamalヨの三作品についてい

えば,それらの作品ではAvadanaSatakaを詩形改稿した部分が一斉に出来てから,次
に,Bodhisattvavadanakalpalat5(略号BAKL)と密接に関係する第2段階の付加が一
斉になされた可能性が指摘できる。それらのアヴァダーナマーラー文献が,何かしら金
太郎飴のような似た構造になっていることに注意したい。それらの文献において,Ava-

danaSatakaの詩形改稿として作られた章を「Aグループ」(AvadanaSataka系列)と

呼び,またB肌Lの影響を受けて作られた章を「Bグループ」(BAKL系列)と呼ぶな
ら,まずRatnivadanamal恩という作品は第1章から第21章までがAグループで,第
22章以降に並んでいる章がBグループである。また,Kalpadr皿圃vadanamal面は第1章
から24章までがほぼAグループで占められ,後ろの方にBグループとして第22,26,27
章がある(また第25章もBAKLと関係)。このようにRatnavadgnam51豆とKalpadrumaP
vadanam51颪はどちらもAグループの章を作品の前方に配置し,Bグループの章を作品

の後方に配置するという仕方で共通している。A釦k5vadanamgl豆においては冒頭にDi-
vyavadanaに見られるアショーカ王説話を詩形改稿した説話群が置かれているのでその
点で配置の仕方が異なるといえるけれども,しかしこの作品の中頃から後ろだけを見れ
ば,やはりRatnZvadanainalヨとKalpadrumavadanamgl且と同じような配置の仕方が見ら
れる。A釦kavadanam51ヨは作品の中頃に(第14章から21章まで)Aグループの章を
配置し,その後の22章以降にアシヨーカ関係以外のBグループの章を配置する。この
ような,Ratnavadanam51aとKalpadrum5vadanam51恩とASokavadanamal豆に共通して見
られる,Aグループを前に,Bグループを後ろに配置する仕方の共通性(金太郎飴的な
構成)はなぜだろうか。それはAとBの成立が段階的であったこと,つまり成立の層を
表わしている可能性がある。それは雪だるまに善えられよう。ある日に降った雪によっ

て,三つの雪だるまが作られたとしよう。翌日にまた新しい雪が降ったので,三つの雪
だるまをさらにころがして大きくしたとする。すると,それらの雪だるまはどれも金太
郎飴のように,中核部分が古い雪で出来ており,それを包む部分は新しい雪で出来てい
ることになる。そのように三つのアヴァダーナマーラーが形成されたとすると,先に作
られたAグループが各作品では前の方にあり,後から作られたBグループが各作品の後
の方にあることが説明がつく。このように,もし各作品が少なくとも2段階にわたって
形成されたとすると,それは「同時成立仮説」とも「漸次成立仮説」とも異なり,それ
らの作品のAグループとBグループの部分は別々に段階的に成立して,しかも一斉に編
−13−
集がなされたことになる。

AグループとBグループがいつ頃に成立したのかは,昨年『印度学仏教学研究』に発
表した拙稿で論じた(注9)。その結論をかいつまんでいうと,両グループとも,BAKL
の成立した西暦1052年以後にネパールで成立したと思われ,そしてAグループは1302年

以前に成立していた可能性があるが,Bグループは1302年以後であることが,かなりの

確からしさをもって推測できる(注'0)。
AvadanaSatakaの詩形改稿本は,ネパールでマッラ王朝(13世紀∼)の初期にネパー
ルのカトウマンドウ盆地で作られたらしいと私はその拙稿で記したが,詩形改稿本の製
作の問題は,アヴァダーナマーラー文献全般(注'')の製作がいつどこで開始されたか,
という問題と密接にかかわっている。

アヴァダーナマーラー類の成立の問題について,過去の諸学者の見解の中で最も代表

的なものは』.S・Speyerのものである。Speyer(1906,1909)はA釦kavadanamala,
Kalpadrumavadanamala,Ratnavadanamal目の三アヴァダーナマーラー文献について,そ
れらはA.D、400年以後1000年頃までに成立したと推測した(注'2)。彼によれば,
それら三つのavadanam31豆はBhadrakalp5vadana(これはOldenburgの研究によって
BAKLの後に成立したことがSpeyerにもわかっている)よりも古い。それらの作品の
成立地としては,それらの作品にネパールで書かれた徴候はないという理由によって,

むしろインドで書かれたと見なした。またM.Winternitzは6世紀かそれ以後とした

(注'3)。日本の代表的なアヴァダーナ文献の研究者もそれらの学者の意見に追随する。
岩本裕もSpeyerの意見を否定しない。それどころか岩本の『序説』(p・173)には,
Kalpadrumavadanam51豆の成立をほぼ西暦3世紀として差し支えない,というかなり思い
切った意見も記されている。岩本はアヴァダーナマーラー文献にB肌Lと共通する詩節

を多く見つけていたにもかかわらず,アヴァダーナマーラー文献がBAKLから詩節を借
用したという見方に対して,ひどく慎重な態度をとった。彼はそれを認めたくなかった
のである。Ratnavadanamala,Ratnavadanatatvaを研究した高畠も,アヴァダーナマー

ラー文献の成立に関して,Speyerの意見を何ら批判せずにそのまま紹介しているから,
ほぼ同じ意見をもっていたと思われる(注'4)。
しかしこのような意見とは別の意見が最近西洋の学者の間に形成されつつあるように

思われる。Mahajj5takam51毎を研究したMichaelHahnはそのテキストの出版において,
書名の副題を「ネパール中世の仏教伝説集」とした(注'5)。つまりその作品は中世ネ
パールで成立したと考えた。しかし彼の出版本の中に,彼がそう考えた理由を見出すこ
とは残念ながら出来ない。また最近Bhadrakalpavadanaの詳細な研究をしたTatelman
はその作品の成立を15世紀以降のネパールと考えている(注16)。アヴアダーナマーラー

−14−
類がネパールで成立したという仮説は,Divyavadanam51豆を例外として,現存のアヴァ

ダーナマーラー類には貝葉写本が存在せず,紙写本ばかりであるという事実と合致して

いるように思える(注'7)。
アヴァダーナマーラー類は,中世の北インド・ヒマラヤ仏教文化圏の民衆の生活と仏
教信仰を明らかにする上で貴重な資料になる。今後,民衆的な文化の研究資料として活
用してゆくために,これらの文献の成立がBAKL以前,つまり11世紀以前なのか,以
後なのか,ネパールで成立したのか否かをきちんと押さえる必要がある。私の考えでは,
11世紀以前にネパール外で成立した可能性が残っているアヴァダーナマーラー類の作
品は,せいぜいDivyavadanalnal恩くらいであろう。しかしアヴァダーナマーラー類の
中でDivyavadanamal画は明らかに異質である。その作品は,根本有部律中の説話部分
の古いテキストをそのまま切り貼りした集成に,アショーカ王説話集などの古いテキス
トを付け足したものにすぎないからである。それは古い聖典資料から部分部分を写経生
が勝手に選んで写し取った結果,出来た産物であって,新たに書き下ろされたものは皆
無といってよい。また同様にBodhisattvajatakivadanam51ヨという作品も,Michael

Hahn(1977)の報告によれば,インドで作られたHaribhatlajatakamil目などの作品を
写経生が抜粋して写して出来たものにすぎない。それらの編集物はアヴァダーナマーラー
類の成立年代の問題を考える場合には,いったん除外されるべきである。
アヴアダーナマーラー類の一大創作運動が13世紀ころからネパールで始まって18
世紀ころまで続いたとすると,それは東南アジアで13∼16世紀にあった,パン
ニャーサ・ジャータカ等の「擬経ジャータカ文献」の−大創作運動とほぼパラレルな創
作運動であるとみなしうるであろう。13世紀にインドで仏教が滅びつつあったとき,
インド語(サンスクリット語とパーリ語)による文学的な仏教文献の創作の「第二波」
が,インド外のインド仏教文化圏の,ネパールと東南アジアにおいて,同時に起こった
わけである。ネパールにおいてはアヴァダーナ,東南アジアにおいてはジャータカとい
う形でなされたこの聖典外の韻文説話文献の拡大運動は,インド本国で滅びたインド仏
教の文化をインド周辺の非アーリヤ系の民族が自らの力で強く継承してゆこうとした文
化的運動であり,またエリート知識人層(表層)の宗教を自らの民族の民衆層(基層)
に根づかせようという教化運動の一環でもあったと思われる。そのため,それらの文献
は,インド仏教文学の延命にすぎぬ文学,「息絶え絶えの末期の文学」ではない。イン
ド仏教文学の流れの惰性で生じた「偽物的なもの」と見るべきではない。インドから学
んだものを忠実に模倣しながらも,自分たちの手で仏教文化を作ってゆこうとする,民
族の誇らしい精神が作り上げた,新しい文学と見なすべきである。それは中国文明の仏
教芸術の模倣から出発した,わが国の奈良時代の仏教芸術のようなものである。
−15−
SMRAM等のAグループの諸作品はAvadanaSatakaという種本を詩形改稿して出来た

ものであるが,しかし詩形改稿の作業とは,単なる韻文への改稿ではない。AvanaSa-
takaの種本の十倍も二十倍も作品を膨らませるという作業は,単に散文を韻文に変え

るだけではできるものではない。膨らませるためには新しい材料が多く必要であるし,

新しい材料を入れて練り上げて作ったそこには中世ネパールの仏教徒たちの思想が吹き
込まれている。それは新しい文学の創造以外の何物でもない。
アヴァダーナマーラー文献群の研究は,FeerやSpeyerの研究の後,最近になって
MichaelHahnやJoelTatelmanが校訂研究を行うまで,長く停滞してきた観がある。

日本でも岩本裕や高畠寛我のような学者が出たが,それでも本格的な研究は21世紀まで

後回しにされてきた領域であったといえよう。アヴァダーナマーラー文献群のうち,校

訂が な さ れ た も のは少数である。この巨大な 文献群の全部がネパールで生まれたことが

明らかになれば,その研究を「インド仏教学」の枠組の他に,「ネパール文化学」の研
究の枠組にも組み込むことができる。そのことによって,新たなアプローチの仕方,様々
な研究の意義が生じてくるものと思われる(注'8)。

(')KangaTakahata(1954):Ra加a順Igva"1a.AGarlandofPreciousGems,
Tokyo.


2

L.Feer(1879):LeLivredescentLegendes(Avad5na-sataka),Jburnal
Asiatique,Juilletl879,pp.141-189,etOct.-Nov.pp.273-307.;

L・Feer(1891):Avalafataka,Centl"endes(bouddhiqueS),traduitesdu
sanskrit,<AnnalesduMuseeGu加et,XVIII>,Paris,1891,p.xvi-xxvii.

(3)その巨大な作品の名は、Kalpadrumavadanamal且写本の末尾のコロフォンにity
a"kopag叩tasambMranekalpadru"豆va("'aml3samgptZ//とあることから、Aso-
kopaguptasambharana (アショーカとウパグプタの会談)という名ではなかったかと
Feerは推測した。しかしAvadanaSatakaの詩形改稿とは無関係な作品であるBha-
drakalpavadanaにおいても、ASokopaguptasamvadeあるいはASokopaguptasambhaSane
というコロフオンの書き方がされているのを考え合わせると(cf.Matsunami,pp.99,
169)、FeerのいうA"kopaguptasambharaneという言葉が作品名を表わす固有名詞で
あることを疑問視せざるを得ない。

(4)J.S・Speyer(1906,1909):AvadalaSataka(BBu3)はp.XXIで,Kalpadru-
mavadanam515,Ratn5vadanamla,ASokavadanam51且の三者の中で,KalpadrumavadanalnaF
1ヨが最も古いと見なす。

−16−

5

KangaTakahata(1954),p・viii.

6

第5章の途中、40a/40b,41a/41b,42a/42bの3葉が欠けている。

(7)この事実は詩形改稿の計画・実施に,多少の大まかさがあったらしいことをうか
がわせるが,またSMRAM全章の製作が一人の手によるものではなかったことを示唆す
るものかもしれず,興味深い。

(8)SMRAMという新資料の発見の後でも,なお未だAvadanaSatakaの詩形改稿本が
アヴアダーナマーラー文献において見つかっていないものは,全部で16あり,Ava(Ena-
"takaの次の章にあたるものである。
5.Soma,18.Varada,19.KaSikavastra,31.Padmaka,

32.Kavaja,34.Sibi,35.Surnpa,36.Maitryakanyaka,
37.SaSa,38.DharmagaveSin,39.Anathapi"ada,40.Subhadra,
59.Upo"dha,75.Kuvalay5,89.Bhadrika,99.Dirghanakha

私はこれら16の章は何らかの理由により詩形改稿されなかったのではないかと推測し
ている。これら16の詩形改稿本が欠けている章をよく眺めると,特にAvadanaSataka
の第4部類(31∼40話)のところで,まとまって連続的であることに気づく。これは,
AvadgnaSatakaの詩形改稿本を作ったアヴァダーナマーラー文献の作者たちはBAKL
を意識して,BAKLと話が重なることを避けたからではないかと思われる。

(9)拙稿「Avadanakalpalataからavadanam51圃類へ」,『印度学仏教学研究』54
巻1号,2005年12月,374∼367頁。私はこの論文で,アヴアダーナマーラー類に対して
BAKLの借用詩節の調査を行った。なお,この論文を書き終えた後にマールブルクの
MartinStraubeから私信があり,BAKL第64章Sudhanakinnaryavadanaにあるほとん
ど全部の詩節がBhadrakalpavadanaの第29章に借用されているのを見つけたとの報告
があった。これについてはまもなくドイツで出版される彼の博士論文K"mendras
FEssungderSudhana-KinnarH,egendeundihreQuellenの2.1.3節を参照されたい。
(10)この1302年という年号は,BAKLのケンブリッジ写本Add.1306の筆写年である。
この写本Add.1306は,ネパールのアヴアダーナマーラー文献の成立年代を推測する
時に,極めて重要な役割を果たす。

11

現在知られているアヴァダーナマーラー類には,次のような作品がある:
1.Amkavadanamala,2.Bhadrakalpavadana,3.Bodhisattvajatakavadanamala,
4.Divyavadanamala,5.Dv5vimSatyavadanakatha,6.Jatakamalavadanasntra,
7
.Ka
lpa
dru
mva
dan
am5
15,
8.M
aha
jja
tak
ama
l5,
9.T
ath
aga
taj
anm
ava
dan
am5
15
(
orS
uga
taj
anm
ara
tna
vad
ana
m51
5),
10.
Rat
nav
ada
nam
ala
,11
.Sa
mbh
adr
iva
dan
amm
l5,
12.SubhaSitamaharatnavadanam515(≧Ratn5vadanatatva),

−17−
13.Vicitrakarnikavadana,13.Vrat5vadanamgl5

これらは「広義の」アヴァダーナマーラー類であり,これらの中で特にavad5nam313
という語が作品名にあるものを「狭義の」アヴァダーナマーラー類と呼びたい。様式を
見ても,作品の規模(分量)をみても,これらの広義・狭義のアヴァダーナマーラー作
品はある程度の様式的共通性をもっており,明らかに仏教文献の中で一つのジャンルを
形成すると思われるので,これらを「アヴァダーナマーラー類」と呼びたい。

(12)J.S.Speyer(1906,1909):AvadaIa3ataka,ace"加〃ofedify加gtales
belongingtothelhayma,<BibliothecaBuddhica,III>,St.-Petersbourg.Vol.
II,p・xxxvi.

('3)MorizWinternitz(1913):GeschichtederIndischenliteratur,Zweiter
Band,S、227.

('4)高畠寛我(1932):「寶嶮鬘経(Ratnavadanamala)に就いて」,日本佛教学協会
年報,第5年,p、223.;KangaTakahata(1954):Ra加anmalava]a,agarlandof
preciousgemsoracollectionofedifymgtales,toldinametricalfbrm,
belong加gtothe脆随yala,<OrientalLibrarySeriesD,Vol、3>,Tokyo.p.
XV111.

(15)M・Hahn(1985a):DergrosseLegendenkranz(Ifha〃説aka噸卿・Eine
mittelalterliche加ddhistischeLegendensammlungausNepal,nachVorarbeiten
vonGudrunBiihnemannundMichaelHahn,herausgegebenundeingeleitetvonM.
Hahn,<AsiatischeForschungen,Bd,88>,Wiesbaden.

(16)JoelTatelman(1996);TYle乃ialsofl/aSodhalZACriticalEdition,
AnnotatedTranslationandS加dyofBhadrakalpaVa(EnaH−KPartl:Text.
Partll:StudyandTranslation,1996.WolfsonCollege,Univ・ofOxford,
Trinity・pp・vi-xvii.

(17)NGMPPによる梵語写本のマイクロフイルム化のおかげでネパールに存在する
avadanamil且類の全貌がほぼつかめるようになり,Divyavadanam515(SastrI22,BSP
ca737)とSuvarnavamavadana(Sankrtyayanal54),Kathin5vadana(Matsunami72),
Sugatavadana(BSPtr592)などの少数の例外を除いて,Kalpadrumavadanamala,Ratn3
vadgnam515,ASokavadanam51ヨなどの有名なavad5nam51a類の写本は紙の写本ばかりで,
貝葉写本が存在しないという状況がわかってきた。私は1992年にカトマンドウに2箇月
ほど滞在して,NGWPによって撮影された仏教梵語文学文献すべての写本情報を出来る
限り集めたが,今のところavadanam劃豆類の貝葉写本は見つかっていない(ただし
sugatavadana という10葉ほどの規模の説話集成の貝葉写本なら存在するが,さほど古
い貝葉ではない)。インドから伝わった由緒正しい古い作品ならば,ネパールでは紙写

−18−
本が使われるようになる前は貝葉写本で伝えられていたはずである。AvadanaSatakaに
せよ,Jatakam51ヨにせよ,BAKLにせよ,Buddhacaritaにせよ,Saundaranandaにせ
よ,MahasamvartanIkathヨにせよ,いくつかの根本有部律の説話にせよ,インドから伝
わった古い文学作品には貝葉の写本も見つかっている(Divyavadanam51颪にも貝葉写本
が見つかっているが,この作品の場合はインドから伝わったかどうかはわからない)。
Divyavadanam51豆を例外として,avadanam51面類には貝葉写本の断片すら見つからない
というのは一つの状況証拠となる。ただし成立の問題は最終的には文献学的に,テキス
ト内部の証拠によって決着がつけられねばならない。

('8)筆者は現在SMRAMを校訂中であるが,様々な事情で遅々として進まない。4
つの章の校訂が終ったところである。高畠が1本の写本に基づいて作ったRatnavadaF
natatvaのテキストも,新しい写本が2本出てきたので,再校訂する必要がある。また
翻訳も必要であろう。アヴァダーナマーラー文献群に正面から取り組む,新しい研究者
の出現が待たれる。

−19−

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