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対中関係 月 3 機能を有している。最近リニューアルし、かなり大きいビ

ル。
・台湾は『北美事務協調委員會』を設置。 2019 年 5 月に
アメリカ大統領 中国国家主席 台湾総統 名称変更『台湾美国事務委員会』”
Taiwan Council for U.S. Affairs”
毛沢東 蔣介石
(1949-1976) (1949-1975) ・ 台 湾 は ア メ リ カ に ” Taipei Economic and Cultural
ニクソン (1969- Representative Office in the United States”を設置。事実
1972) 上の台湾の駐米大使館・領事館機能を有している。→
名称変更が焦点
フォード 蒋経国 ・アメリカは『台湾関係法』という国内法を制定。武器の提
(1972-1977) (1978-1988) 供や安全保障を約束。
・リトアニアは代表機関の名称に Taiwan を使用したため、
カーター (1977- 鄧小平 国交断絶直前の自国の大使の償還し、リトアニアの大
1981) (1978-1989) 使館を強制帰国させた。
レーガン (1981-
1989)
ブッシュ (1989- 江沢民 李登輝 ・中国共産党
1993) (1989-2002) (1988-2000) ・Chinese Communist Party
・中国国民党
・または Communist Party
・Chineseof Nationalist
China Party
クリントン (1993-
・略称:CCP ・または kuomintang
2001)

・略称:KMT
ブッシュ (2001- 胡錦涛 陳水扁
中華人民共和国 ↓
2009) (2002-2012) (2000-2008) ○中国にとって台湾とは?
PRC 中華民国
・中華人民共和国憲法『台湾は中華人民共和国の神聖
オバマ ROC
(2009-2017) な領土の一部である』
習近平 馬英九  中国は分裂していない⇄台湾を統一する、台湾を取り戻
(2012-20xx) (2008-2016) す 矛盾が発生!
トランプ (2017-
2021) ・清朝以来の帝国主義諸国による侵略侵害・国土分断の
バイデン 蔡英文 象徴(対日・対米)
(2021-) (2016-2024) ・中国共産党一党支配体制の必要性を示す(対国民党、
対国内)
・台湾の統一によって『中華民族の偉大な復興』を実現す
第二回 10/11 る→習近平の『中国の夢』の実現 
○台湾の外交関係 武力で台湾を抑えたら意味ない。
・中華民国を承認しているのは 15 ヶ国のみ。2016 年から ・戦略的(軍事的)要所の確保→アメリカへの対抗、太平
四年間で7国減少。 洋進出、シーレーン
キリバズは 19 年に断行し、北京(中国)と国交を。
パラオは親台。アフリカは一国のみ、エスワティニ 🇸🇿 ○中国の言う『一つの中国』原則
(王国主義)、台湾の民主主義と ①『中国は一つである』
合わないが援助を続けている。 ②『台湾は中国の不可分の一部である』
ヨーロッパではバチカンのみ、ローマ・カトリックと中国 ③『中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府で
の共産党は歩み寄りつつある。ラテンアメリカ・カリブ地
区は多い、パナマは 17 年に中国と国交を、パナマの重 ある』と言う三段論法。
要性、アメリカも中国の侵略性に気づき、これ以上台湾
の外交を崩さないように力を入れている、外交関係をス ○台湾国民党の言う『一つの中国』
イッチさせないように。 ・国民党は『一つの中国は中華民国』と主張、揺らいでい
・日華懇談会、会長の古谷さんが玉山フォーラムに参加 る
・主要国は台湾と外交関係がない。 ・馬政権は中国の言う『一つの中国』を原則認めたことは
・多くの国は中国の主張する『一つの中国』を原則『承認 ない。
する』(多くの国)『理解し尊重する』(日本)『認知する』
(アメリカ) 共産党と国民党は『一つの中国』の立場が一致。
・しかし、多くの国は台湾と実質的な交流をしている。 民進党は『一つの中国』を認めない。→『一中一台論』
・中国と台湾両国と国交を結んでいる国はない。二重承認 共産党、民進党、国民党の 3 党の立場を理解する。
はできない。
2017 年名称変更形
○台湾と中国の関係 〜公式には双方とも相手を認めて
○台湾と日本の関係 いない〜 は民間
・外交関係はないが経済的、社会的に交流は活発である。 ・台湾側が『海峡交流基金会』・中国側が『海峡両岸関係
・日本側が『公益財団法人日本台湾交流協会』、台湾側 協会』(海基会)
が『台湾日本関係協会』を設置。外務省、外交部の代 ・この窓口を通して連絡、交渉、取り決めなどの雑務を行
わり。 なっている。→停止
・日本側は台北に『交流協会台北事務所』、台湾側は東 ・政府内の監察官長は台湾側が『行政院大陸委員会』、
京に『台北駐日経済文化代表処』 中国側が『国務院台湾事務弁公室』。いづれも責任者は
をおいている。事実上の大使館・領事館機能を有する。 官僚。
(台湾とパレスチナのみ代表処としている)
中国共産党中央対台湾工作両道
○台湾とアメリカの関係 陳徳銘
・アメリカは台湾に”American Institute in Taiwan”(AIT)を
設置。その”Taipei Office”が事実上の大使館・領事館 ○中国の対台湾政策
・中国の対台湾政策には歴代の指導者の 1954/9/3 人民解放軍が厦門側から金門島を砲撃
1958/8/23 金門島に 1 日で五万発の砲弾を打ち込み、
最高指導者全部覚える。在任期間 台湾側で 440 人の死傷者。地下要塞化が進んでいた。
砲弾を溶かし、包丁にしたため、それが今でもお土産。
金門島を砲撃によって封鎖し、中華民国軍を撤退させよう
としたができず、台湾本島攻撃できなかった。
十年くらいルーティン的に二日に一回砲弾した。米軍の後
ろ盾により軍事的には失敗。
→『台湾解放』の第一歩であるとともに、対米、対ロの外
第3回 交的狙いがあった。
(ソ連に原爆の作り方?を教えてもらおうとした狙いもあ
○毛沢東の対台湾政策 1949~1970 年台 る)
台湾解放:武力で成し遂げる方針 金門島砲撃など軍事
攻撃をしたがアメリカに 毛沢東の対台湾政策③ 1958~1960 年代
反植民地主義の外交工作を発展させ、第三世界で支持を 1958 年の金門島砲弾撃を最後に人民解放軍の台湾攻
拡大した。 撃を停止。
国内的背景(理由)
○鄧小平の対台湾政策 1978~1980 年代 ・反右派闘争 (1957-1958) 知識人の多くが反政府
改革開放政策の推進という観点から。プラグマティズム。 ・大躍進政策 (1958-60) イギリスに追いつくことを目標に
アメリカとの国交樹立=アメリカと台湾の したが大失敗、餓死者多数、鄧小
平和的統一:一国二制度による台湾問題解決を提唱。 平が実権を握る
香港返還の道筋を立てた。 ・文化大革命 (1966-76) 若者に闘争をさせる??
→武力衝突はないが軍事的緊張が続く状態。
○江沢民の対台湾政策 1990 年台(1989〜2002) 蒋介石は『大陸反攻』を唱え、国内で準備を進める。お互
中国の大国化の進行。 いを攻撃することを国内の独裁強化に利用。
香港の次は台湾の統一という方針を引き継ぎ、台湾との <まとめ>
接触・交流の枠組みを作る。   ※
北京が中央で台湾は地方という硬い枠(中国共産党の考 中 国
え)を押し付けようとしたため、台湾の台湾化とズレていた。 語 で
そこで、台湾の圧力をかけ、台湾及び周辺諸国の対中警 は 両
戒感を高めた。 岸 関
係 と
○胡錦濤の対台湾政策 2000 年代 (2002~2012) 使う。
中国の大国化が明確に。平和的な台頭(大国化)を標榜
とする。 日 本
台湾問題に関しても戦略目標を調節し、統一を目指しつ 語 で
つも『両岸関係の平和的発展』。台湾独立を阻止し、統一 は 中
はじっくり。台中の交流拡大を進め、台湾人の心を掌握す 台 関
る方針へ。民意の揺れをついてくる。 係 と
使う。
○習近平の対台湾政策 (2012~20??) 規定では 2022 ま
で 中 台
・中国ナショナリズムの強化    台湾政策:①ハード 関係と使用するのは不適切だと
パワーを使って台湾を威嚇、抑え込み   いう人もいる。
・共産党の一党支配の強化          ②ソ      
フトパワーを使っての台湾取り込み(就業など)

強国中国 → 台湾統一を一歩でも前に進めるという強
い意志 → 強制的平和統一(武力を使い屈服させる)?

毛沢東の対台湾政策④ 1960~1970 年代  反米闘争
毛沢東 (在任 : 1949 年 10 月 1 日 - 1976 年 9 月 9 で進行独立国の支持を得る。
日) ・国際的背景:武力行使は控える。
・毛沢東の対台湾政策 ① 1949~1950 年代  中華人民共和国を承認する国が徐々に増える→一つの
革命思想の中に『台湾解放』、武力闘争や階級闘争史観 中国原則→中華民国を国際的に孤立させる外交闘争。
を反映、台湾でも社会主義革命や改革を進めたい。 ・半植民地闘争、反帝国主義闘争=反米
→人民解放軍が進行し、蒋介石一派を殲滅させ、社会主 1971 年 10 月 25 日 国連総会において、『国際連合にお
義政策を実施する。 ける中華人民共和国の合法的権利の回復』(通称アルバ
背景:蒋介石は何度も毛沢東を追い込んだが、ずっと逃げ ニア決議)が可決。中国の代表権を確保し、中華民国を国
延び、延安に拠点を築く。まだ圧倒的指導者では 際機関から追放することに成功。
ない。 1964 年 原爆実験成功
延安時代から共産党内の『国民党の手下』を粛清。 ・中ソ関係悪化。1969 年には中ソ国境で武力衝突。→冷
激しい国共内戦を戦って勝利。勝利後も 1950 年 戦構造が変
代反右派闘争。国民党を許す/認める発想はない。 化
1971 年   米
毛沢東の対台湾政策② 1949~1950 年代 中接近 キッ
閩南語使用
金門島攻防戦 1949/10 国民党軍が初めて解放軍を シ ンジャー極
厦門と同じ経済圏
撃退 秘訪中
発展の差が大きい
アメリカはベト
三民主義統一中国と
金門島砲撃戦 1954・1958
いうスローガン
統一支持者多い?
ナム戦争から脱却したくて、中国の後ろ盾が必要だった。 社会主義思想(皆平等)と反する思想。とにかく経済力を
中国はソ連との対立でアメリカが必要だった。協調の合致。 高め、中国を豊かにすることが一番豊かになる力がある
1972 年 2 月 ニクソン大統領訪中、毛沢東と会談 人は秀でるべきである(市場経済思考、資本主義)
→米中共同声明(上海コミュニケ) ←50 年代に使用
後に文化大革命?の際に言葉をつかわれ失脚する。

日米との力の差を熟知しており、韜光養晦(我慢して力を
蓄えようという意味)政策=アメリカに刃向かうな
大国との協調を重視し、弱国?には強行

日華平和条約を失効させた
→日中国交正常化

激務で睡眠薬飲んでおり、その時の支持が他に伝えない
ように言っていた。
毛沢東の本面白い!!
・1979 年 米中国交正常化 カーター大統領時代
毛沢東の時代に日中国交正常化(1972 年 9 月 29 日)し、
日本からの賠償を放棄した。鄧小平も引き継ぐ。そのため
共産党に対して感謝。
・軍は駐在していないが、アメリカは武器の提供で支援。
参考文献  ・1972 年のニクソン訪中によって両国関係の改善が進ん
・日中国交正常化 服部
でいたが,国交の正常化にはいたらず,カーター政権下に
・米中対立 佐橋亮 2021 国交が樹立された。ソ連への対抗が一つの背景で,これ
・中国外交と台湾 福田円  によってアメリカは台湾の中華民国政府との政治的関係
・台湾をめぐる安全保障 安田淳 を断絶した。
・中国の領土紛争 テイラーフレイヴェル ・米中コミュニケ=共同宣言
・中国安全レポート 2017 防衛研究所  三つのコミュニケ
・ニクソン大統領訪中期間中の 1972 年 2 月 28 日、中米
第 4 回  双方は上海で「米中共同コミュニケ」(上海コミュニケ)
鄧小平時代 1978 年 12 月 22 日 - 1989 年 11 月 9 日 を発表した。
・1978 年 12 月 16 日、中米両国は「中華人民共和国とア
毛沢東の武力による台湾解放から鄧小平の平和的統一
へ メリカ合衆国の外交関係樹立に関する共同コミュニケ」
・毛沢東の反右派闘争を否定する を発表した。
・台湾統一も重要ではあるが、国力や経済力が重要だとし ・1982 年 8 月 17 日、両国政府は「中米共同コミュニケ」
た。 (八・一七コミュニケ)を発表、米国側は「台湾への武器
・周辺国との協調も重視 対日友好外交 売却を長期的政策として実施するつもりはないこと、台
・鄧小平の対台湾政策は国内の改革開放政策と連動して 湾に対する武器売却は質的にも量的にも米中外交関
いる。 係樹立以降の数年に供与されたもののレベルを越えな
いこと
・口頭での約束がトランプ時代に文書として確立された。 国境合戦続いてる中(戦争ないが)

30 周年

北ベトナムとソ連が組んで中国が激怒

1975 年統一ベトナムが成立する。

中国がポルポトを支持し、成立。しかし、虐殺が発生し、ベ
トナムが軍事進行 中国が反発!!
鄧小平がベトナムに教訓を与えると 1979 年にベトナム侵
攻。
ベトナム軍も強くて人民解放軍もかなりの被害に。
=武力行使失敗?ではない
以降ベトナムはしたてに出るようになった。

資本主義でオッケー!
軍隊保持し続けてもいいよ!
でも、完全自治ではないよ!
胡耀邦

趙紫陽   失脚→軟禁
3人で政治改革しようとしたが、遅かった。
天安門事件 1989・6・4
民主派のデモに対し、人民解放軍が発砲、戦車を出す
死者多数

イギリスの方が下だとみなした。
新界以外の変換に応じないならば、食料、水の輸出やめ
るよ。

返還はまだされてないが、返還を決定させる。二段構えの
交渉。=鄧小平が香港返還を成功させた。

台湾:習近平の人気中に返還できなくてもいい将来の返
還を決定したい。鄧小平を上回ることができる。共産党
内部でとても重要。

50 年前のことにこだわっている。。。素晴らしいと考えてい
る。
硬直化を招いたとも言える。

鄧小平  失脚
参考文献:
中国の行動原理 益尾
巨竜の胎動 毛沢東 vs 鄧小平 天児
上海市のトップを(習近平も)

改革開放を継続し、経済の自由化を
しかし政治は、法輪功:共産党を批判する気功集団を取り
締まり、民主化運動を弾圧→ 驚異的な経済成長
第 5 回江沢民時代の対台湾政策
両岸関係は国共内戦の延長という考えで、台湾を特別自 愛国主義 中国の大国化、反日

2002 年に引退後も影響力
上海閥:江沢民グループ

共産主義が崩れ始めた時期

一党主義を強調 経済だけは自由=中国ナショナリズム
民主主義は中国の発展を妨害する陰謀を持っていると考
える

治区にするよと(鄧小平の枠組みを引き継ぐ)
しかし、台湾側の変化がさらに著しくなる。

円 借
款:











資より低い金利で長期の資金を開発途上国に貸し付け
る制度

愛国主義教育実施要項
日本の支配を批判

戦争責任を問われる しかし毛沢東の時代に解決したは
ず?
日 中
悪 化
科学技術や経済運営、社会政策などの高度な技術的専 日 台
門知識によって、政策立案に参画し、その実施に関与す プラス
る官僚、管理者のこと
鄧 小

1997 年香港返還を実現

窓口機関を設置し、平和的解決を進める。
最大限の善意の表明

江沢民の信用している人と李登輝の側近が面会し、お互
いの意思疎通を図る。

中台問題を国際化しない

抗日戦争での貢献

クールな
返答
その後ア
メリカ
へ 訪

江沢民からするととんでもない状況
みん 対応してもらえず腹立ち


表 ミサイルに空母も

る 台湾海峡危機

陸での民
主化の広
がりを警戒
日本でも安全保障が改定された

国民

連戦
民進

陳水

無所

宋楚

トッ

プ会談に蔡英文いた

陳水扁は独立
を語っていな
第6回 いが、民進党
特殊 は独立路線だ
な から。






中 国
からの
圧 力
に負け
ず、民
進 党
が表を
大きく
伸ばす
2002~2012
中国に
対して
も、日
本、ア
メリカ
にも安
心して
もらう
台湾ア
イデン
テ ィ
ティの
路線、
現状維

=台湾 中 国か
に対話を呼びかける らの感
染症に
よって
前提と議題 国民レ
ベルの
反 感が
生まれ
る。
かなり
歩 み
寄って
中国に 原住民
配慮し や海外
たが、 からの
無意味 配 慮
だと感 LGBT
じる

投票日前に陳
水扁銃撃事件
かなかった。

2012 年 主任
習近平の統一への考えは強い
馬英九を取り込み、国民党を取り込む狙い
この頃馬英九は 2 期。
すでに大国化した中国

馬英九第一期から国内政策で
失敗 一方で中台関係はいい
感じだからもう一期中台政策頑
張る
目標は中国に黙認させる。
1991 年に APEC 加入したが、中
国の影響で首脳会議に参加し
たことがない。
習近平は毛沢東に並ぶほどに、
台湾統一をしたら超える。

2013 年 6 月 中台サービス貿
易協定 ECFA
初めは枠組みのみ。
中台の関係改善は良き、発展するから
台湾人は値切る、値切られる感覚があり、馬英九が現状
維持を切り売ってしまうのではないのかという不安感。=
反映と自立のジレンマ

サービス貿易協定の批准を急がせた 
サービス業広い 印刷業も
2014 年3月 18 日 ひまわり学生運動
両岸協議監督条例(中国と外交交渉するのなら、国民性
に透明性のある説明をする法律など)を先に選定する。
学生はサービス貿易協定の廃案を希望していたが、、、
不満はあるが最終的に同意して撤退。

胡錦濤政権時
代に中国統一
支持はうまくい
 92 年コンセンサス=大陸と台湾が一つの中国に属する
こと
アメリカは途中まで中国を優遇していたが、、、
オバマが水面化で馬英九を支援。陳水扁の民進党に不満

だった。
台湾では中国警戒論が多数に

シンガポールで
馬英九が一
中各表を言
わなかった。

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