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フェミニズムと家族

江 原 由美子*

本稿の主題は,現代フェミニズムと家族との関連性を考察することである.
まず,第 1 に,現代フェミニズムの家族に関する主要な論点を明らかにする.
それは「家族の否定」ではなく,「性別分業家族」批判であった.「性別分業家
族」においては,女性の過重な家庭内役割のゆえに,女性の経済的自立が困難
だったからである.次に,現代フェミニズムの家族批判の根底にある公私分離
規範に関する論点を,「家族領域」を社会から切り離す公私分離規範批判と,
女性の「身体の自由」権を認めない公私分離規範批判の,2 点で把握し,それ
らがいずれも,いわゆる「近代家族」への批判につながることを示す.この観
点から「近代家族」類型を位置づけると,「近代家族」とは,女性の人権を認
めない前近代的要素を含んでいる家族類型と位置づけることができる.最後に,
現代フェミニズムの公私分離規範批判から導かれた論点に関連する家族変動要
因を,ハビトゥスの水準と,社会制度的水準において把握し,「ジェンダー秩
序論」の視点から,「これからの家族」を考える.
キーワード:フェミニズム,近代家族,公私分離

0 はじめに フェミニズムは「家族を否定し」たか

本稿では,フェミニズムに関わる論点から,「これからの家族」を考えることと
する.ここでいうフェミニズムとは,女性の地位向上や女性解放を主題とする思
想・社会運動一般を指すものとする.広くは,西欧近代人権思想に端緒をもつ近代
フェミニズム以降のフェミニズム全体を指すが,本稿の主題に主要に関連性をもつ
のは,1960 年代から 80 年代において,欧米や日本において女性の職業参加や社会
参加等の争点に関し社会的影響力を行使し,社会理論の領域においてはその後も今
日に至るまで大きな影響力をもち続けている,いわゆる第 2 波フェミニズム(=現
代フェミニズム)である.本稿では,第 2 波フェミニズムを時期的に大きく 2 つに
分け,60 年代〜70 年代を前期,80 年代以降を後期と呼ぶことにする.
フェミニズムに関わる論点から「これからの家族」を考えるという主題が立てら
* 首都大学東京大学院人文科学研究科教授 EHRYMK@gmail.com

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れた背景には,フェミニズムが家族に対して大きな影響を与えてきているという認
識があると思われる.その影響とは,一般に否定的な影響であると考えられている.
「フェミニズムは家族を破壊している」と非難する論者もいるし(林 1999),そこ
までは言わないまでも,「フェミニズの影響によって,夫婦関係の安定性が失われ
つつある」と感じている人も,多くいるように思う.
では,実際フェミニズムは,その主張内容において,
「家族を否定し」てきたの
だろうか.第 1 波フェミニズムの主流であるリベラル・フェミニズムのおもな主張
は,婦人参政権等,公的領域に対する男性と同等の参加要求であり,家庭内の性役
割の変更要求はそれほど強くなかった.他方,同時期リベラル・フェミニズムを中
流階層の思想と批判して成立した社会主義フェミニズムにおいては,家事育児の社
会化が強く主張され,コミューン等家族を超えた生活共同体への実験的試みが多く
提唱された.ロシア革命期等,家族を超えた共同体による子育て等の実験的試みが
行われたこともあったが,そうした試みが成功することはまれであり,基本的には,
家事育児の社会化は,家族の破壊を伴わないかたちで,一部行われるにとどまった.
本稿の主題にもっとも大きな関連性をもつ第 2 波フェミニズムにおいては,第 1
波フェミニズムでは,いわゆる公的領域,すなわち政治(参政権)や社会(教育や
職業への参加)の領域における男女平等が焦点化されたのに対し,公的領域におけ
る男女平等を阻害している主要要因としての私的領域,すなわち家族を含む親密圏
の問題が,争点化された.1960 年代〜70 年代のラディカルなフェミニストたちの
中には,まさにこのような論点を強調しようとして,
「家族は女性の抑圧の根本的
な原因であるから『破壊』されなければならない」1)等の主張を行う論者も現れた.
しかし,それは前期第 2 波フェミニズムのごく一部にとどまった.「現代の多くの
フェミニストは,ジェンダー構造化された特定の家族形態を批判の俎上に載せてき
たものの,あらゆる家族形態を攻撃してきたわけではない」
(Okin 1989=2013:
202)のである.もし第 2 波フェミニズムにとって「家族」がたんに女性抑圧の原
因として位置づけられるだけであったのなら,家族間の関係や諸活動について論じ
ることは必要なかったであろう.
「家族」がたんに否定的なものにすぎないもので
あったのなら,
「仕事か家庭か」という選択に悩むこともなかったであろう.しか
し実際は,まったく逆であった.第 2 波フェミニズムは,「仕事か家庭か」「仕事か
子どもか」などの選択を,自らへの問いとして引き受けた.家族を無視するどころ
か,ますます家族という主題にのめりこんだ.たとえば,非常に多くのフェミニス
トが,親密な家族間における諸活動,とりわけ「ケア(世話・養育)」という活動
を主題化し,その意義を論じ,これまで家族内で(おもに女性によって)行われて
きた「ケア」が,家族間で,あるいは家族外の社会組織との間で,どのように配分
されるべきか等の論点をめぐって,非常に熱い議論を展開してきた2).この意味に
おいて,現代フェミニズムの主要な主題は,「家族をめぐる主題であった」とすら
言いうるだろう.
以下においては,現代フェミニズムが家族をめぐってどのような主張を展開して

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きたのか,その概要を考察する.そのうえで,本稿では「フェミニズムの家族への
影響」を,フェミニズムの主張からだけではなく,そのような主張に対する「社会
の反応」や「人々の反応」をも考慮に入れて,考える.「フェミニズムの家族への
影響」とは,フェミニズムが「人々の家族に関わる行動を変化させること」によっ
て引き起こされる.しかし,フェミニズムが人々の家族に関わる行動に生じさせる
変化は,たんに人々がフェミニズムに感化されて行動変容するから生じるだけでな
く,それに反発したり反対することからも,生じうる.フェミニズムは,社会の外
に立ったまま社会に影響を与えているのではなく,社会過程の中に投げ込まれてお
り,フェミニズムの影響とは,まさにそのような人々のリアクションをも含むそれ
なのである.

1 第 2 波フェミニズムは,家族をどのように論じてきたのか

「フェミニズムは,家族を否定してきた」わけではないとしても,オーキンが言
うように,「特定の家族形態を非難の俎上に載せてきた」ことは間違いない.では
どのような家族形態が批判の対象となったのか.
ブライソンは,おもに英語圏の第 2 波フェミニズムの多様な意見を主題ごとに概
観した 1999 年の著作の中で,第 2 波フェミニズムの家族に関する論点の特徴を,
「就労との関連において家族を論じている」という点にあると,指摘している.す
なわち,
「女性が経済的に男性に依存せざるをえない」性別分業家族がおもな批判
の対象になってきたのであり,その理由は,「女性の(経済的)自立」を阻んでい
るという点にあった(Bryson 1999=2004: 164-92).
先述したように,第 1 波フェミニズムにおいては,政治的職業的領域における男
女平等をおもな主張とするリベラル・フェミニズムが大きな影響力をもった.すな
わちリベラル・フェミニズムにおいては,女性は男性と同じく,自立した主体とし
て,政治的権利を行使し,自らの意思によって自己の生活を統御する自立的人間で
あることが「女性解放」という理想像として目指された.リベラル・フェミニズム
の担い手は,多くが相対的に豊かな中流階層の女性であったので,そこでは暗黙に,
家事使用人の存在が前提とされていたと推測される.おそらくそのような背景があ
ったがゆえに,リベラル・フェミニズムは,
「女性は,家庭生活から解放され社会
で活動できるようになるべきだ」と主張したけれども,そこから女性が現実に行っ
てきた家庭内での仕事(あるいはその一部)をそのあと誰が担っていくべきかにつ
いて,主要な主題として論じることはなかった.リベラル・フェミニズムは,私生
活に深くは踏み込まなかったのである.
それに比較して第 2 波フェミニズムは,同様に「自立」を求めつつも,その実現
が実際には難しいこと,その理由は,たんに「女性個人の問題」や「個別家族の問
題」なのではなく,近代社会において規範として維持されてきた家庭内の性別分業
と,そこにおいて多くの女性に課せられている女性の家庭内役割の重圧こそが,問

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題の枢要であることを明らかにした.
産業化と国民国家化により,先進資本主義国においては,1970 年代までは,階
級格差の相対的縮小が生じた.その結果「中間階級」においては,家事使用人はほ
とんど姿を消し,多くの女性は,家庭電化製品等の助けを借りつつ,自ら家事育児
を行うようになっていた3).それゆえ,女性たちの多くは,家庭内において女性が
行ってきた労働の意義や家族にとっての重要性を十分に知り尽くしており,その労
働負担の分担なしには,男性と同等の職業参加が難しいことも十分認識していた.
たとえ自立を志向していたとしても,家庭内の性別役割の義務を果たすために,賃
金労働に従事する時間を制限したり職業を辞めたりキャリアを諦めたりせざるをえ
ず,その結果経済的に夫に依存せざるをえなくなってしまう女性が,大半だった.
第 2 波フェミニズムは,このような,家事育児などの活動の社会的重要性を認識し,
それゆえにこそ「経済的自立」を奪われていく女性たちのあり方を規定している
「家族のあり方」をこそ,問題化するべきだと考えたのであり,既存のジェンダー
構造を前提とした家族,すなわち性別分業家族を,批判の俎上に載せたのである.
ではその批判の方向は,「女性が家族から撤退する」という方向であったのだろ
うか.たしかにファイアストーンのように,「女性の抑圧は家族制度が存在する限
り終わることがない」という認識のもと,
「親子」や「夫婦」等の人間関係へのコ
ミットメントの意義そのものを否定するフェミニストもいた.しかし,フェミニズ
ムの多くは,
「母親になる」という経験の意義を否定することも,「家族から男性を
排除する」ことを主張することも,なかった.多くのフェミニストは,コミットメ
ントの意義を否定することなく,ただ女性が経済的に自立できないほどの重い負担
を負わざるをえない性別分業家族のあり方の変更を,すなわち女性の家庭内役割の
軽減を,求めたのである.
その軽減の方法は,大きくつであった.すなわちつは,男性にも同じ負担を
求めることで,女性だけが「家事育児」を担うことによる労働市場からの(既婚)
女性の締め出しにストップをかけ,
「家事や育児」を担いながら働く男女労働者の
労働環境を整えることによって,女性の経済的自立の可能性を高めることである.
他のつは,母親だけ,夫婦だけに子育て責任を負わすのではなく,保育所その他
の社会的な育児支援環境を整えることである.このつの方向は,どちらに力点を
置くかの相違はあれ,基本的にいずれも,現代フェミニズムの主張に組み入れられ
た.
ここから言いうることは,第 2 波フェミニズムは,少なくとも第 1 波リベラル・
フェミニズムとの比較においては,むしろ「家事や育児」などの活動が,社会にと
って,あるいは女性自身にとって,重要性であるという認識,すなわち「家庭の重
要性」を,より強く強調する認識をもっていたということである.第 1 波リベラ
ル・フェミニズムにおいては,これまでの男性の働き方に女性が合わせるかたちで
参加することが「解放」とされがちだったのに比較して,第 2 波フェミニズムでは
逆に,「家事や育児などのケア労働を担いながら働く」という既婚女性労働者の働

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き方こそが,普遍的な働き方として認められるべきだという主張が強まった4).
「一般通念とは異なり,フェミニストの多くは,『ただの主婦』を人生の浪費と決め
つけてキャリア・ウーマンを賞賛しているわけでもなければ,政府からの援助に頼
って,女性のみでの家庭で子育てをする男性嫌いの聖母を奉っているわけでもな」
(Bryson 1999=2004: 164)かった.むしろ,現代フェミニズムは,女性にとって,
(性愛関係を含む)家族生活と職業生活は,そのいずれも手放せないような重要性
をもっているということを,共通認識としている.
むろん,レズビアン・フェミニズムからは,異性愛中心主義に対する強い批判が
あったこと等を受けて,現代フェミニズムは基本的に,セクシュアリティの多様性
を承認する立場に立っている.この点において,異性愛カップルを前提とした既存
の家族観に対しては,距離をとる.けれども,レズビアン・フェミニズムにおいて
も,性愛カップルの関係性の重要性自体を否定する立場は,多くはない.
あるいは,社会的に支援されるべき「家族」を,「性愛関係(婚姻)」によって定
義するのではなく,「養育(ケア)」によって定義するべきだという主張もある
(Fineman 1995=2003).しかし,ここにおいても,養育という活動へのコミット
メントの重要性は,否定されてはいない.
つまり,第 2 波フェミニズムは,家父長制的な近代家族だけを家族として承認す
るのではなく,家族の多様性を承認するように主張しているとは言いうるけれども,
「家族的関係の意義」をすべて否定したり,破壊したりすることを,主張している
わけではない.むしろ第 2 波フェミニズムは,人々が社会活動や職業活動を行いな
がら,家族生活を維持できるような労働環境・育児環境・介護環境の形成を主張す
ることによって,多様な家族観をもつ人々が多様な家族のあり方を実現できるよう,
社会を変えることを,主張しているのである.その意味においては,社会生活にお
ける家族の重要性を,第 1 波フェミニズムよりもむしろ強調していると言いうる.

2 「社会」と密接につながった領域としての「家族」
第 2 波フェミニズムの公私分離規範批判(1)

以下では,「近代家族」との関係において,現代フェミニズムの主張を理解する
うえで,もっとも重要な論点の 1 つである公私分離規範に焦点を当てて,現代フェ
ミニズムの主張を再考する.
1 節で見たような第 2 波フェミニズムの主張の背景には,「家族」という社会領
域を「私的領域」と位置づけるのかどうかということに関して,従来の見方とは異
なる「家族の見方」が存在する.
近代社会において「家族」は,他の社会領域から切り離された「私的領域」とし
て位置づけられてきた.近代社会は,王権や封建的身分制における貴族の特権を制
限し,個人の生命・自由・財産を犯すべからざる自然権として尊重する(古典的)
自由主義に基づき,民主的で平等な社会を理想として成立している.けれども,

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「家族」は,このような「すべての人の自由と正義」という価値観が及ばない領域
として,位置づけられてきたのである.「家族」においては,「正義」よりも,互い
に相手のことをおもんぱかる利他的な愛情が存在しているのだ(Okin 1989=2013:
36)と.
「家族領域」における行動には当然,セクシュアリティに関わる行動も含まれる.
このことが「家族領域」に「私的領域」という定義を与えることを,心理的に正当
化してきた.セクシュアリティに関わる行動に関しては,多くの人がその行動内容
や感情を公にすることに羞恥心をもっており,社会的介入に強い抵抗感をもつ.こ
こから,
「性に関することは私的領域であり,国家や社会はそこに介入するべきで
はない」という考え方が,当然視されてきた.性愛は,理性ではコントロールでき
ない深い感情の領域であり,性愛関係の外にいる人々にとっては理解しがたい感情
も含まれる.それゆえ,家族に関することは,
「正義」のような合理的規範によっ
て判断されるべきではないと.
このような家族観を前提とすると,家族の中で生じることはおもに,家族メンバ
ー間の愛情や関係性等,個人的要因によって規定されているかのような認識が成立
しがちになる.
「家族」は,「社会」の外にあり,家族内役割は社会変動によって変
化するような性格のものではなく,人間の普遍的規範として維持されるべきもので
あるというような考え方が強くなる.つまりは,それゆえ家庭内役割の内容が,
「家族」の外の社会環境や法規範によって大きく異なることや,家庭内役割を担う
人にも家庭外の活動や社会的役割や期待があること等,「家族」が「家族の外」の
社会環境によって大きく規定されていることが,見えにくくなってしまう.
「家族」を「社会」の外に位置づけるこうした見方(公私分離規範)こそ,近代
社会における女性(や子ども)の無権利状態を正当化してきた主要なイデオロギー
だったことは,言うまでもない.公私分離という近代社会の二元モデルはそもそも,
「私的領域」に「公的領域」の価値規範が入り込むことを抑制すると同時に,逆に
「公的領域」の活動に「私的領域」における愛情やケア等の都合を入り込ませない
ようにすることを,おもな社会的機能として,維持されてきた.この二元モデルに
立つならば,当然にも,「家庭の都合」を「職場に持ち込む」べきではないし,「家
族の愛情の問題」であるはずの家庭内役割の遂行に関する問題を,「仕事を理由に
して」議論するべきではないということになる.つまり,女性が「家庭内役割の過
重さ」によって「職業生活の持続が困難になる」としても,それを社会問題化する
ことは公私分離規範を前提とするかぎり,きわめて困難であった.現代フェミニズ
ムの出発点である「個人的なことは政治的」という主張は,まさにこの公私分離規
範による社会問題化の抑制を,打ち破るために必要だったのである.
ここから考えれば,現代フェミニズムの家族に対するもっとも重要な認識は,性
別分業の問題以前に,家族を私的領域として他の社会領域から切り離す公私分離規
範に対する疑義にこそ求めるべきだとも,言いうるだろう.現代フェミニズムのす
べての主張は,「家族」を「社会」から切り離したまま「家族」を論じるのではな

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く,「家族」というあり方自体が,他の社会の構成のあり方と密接に結びついてい
るということを前提として論じられるべきだと考える点で,共通している.家事育
児介護労働を再生産労働と規定し,生産労働・市場労働とともに論じるべきだとす
る家事労働論や性別分業論,育児や介護に対する社会的支援論,ジェンダーという
視点から社会的再生産過程全体を俯瞰するジェンダー論,家族再生産やジェンダー
再生産を国や自治体の予算に結びつけるジェンダー予算論,夫婦間・恋人間の暴力
という,従来私的領域と考えられてきた DV(domestic Violence)を人権問題とし
て位置づける性暴力論等,現代フェミニズムのほとんどの主張が,「家族」(あるい
は親密な人間関係)の問題を「社会」と関連づけて論じている.
また,現代フェミニズムの現代社会理論に対する理論的貢献も,まさにこの公私
分離規範に関わっていたと言いうる.たとえば,マルクス主義フェミニズムは,マ
ルクス主義社会理論が,市場労働のみを理論化したのに対し,前述したごとく市場
労働と再生産労働をともに労働として位置づけ理論化した5).また,現代リベラリ
ズムに立つフェミニズムは,現代リベラリズムが,「家族」という「私的領域」を
「正義」を適用すべきでない領域として理論化したのに対し,「正義は家族に届かな
いのか」と強く批判した(Okin 1989=2013).いずれも,主流の(既存の)社会理
論が公私分離規範を前提として「家族」を社会理論の外においていたことを批判し,
「家族」を社会理論の中心に位置づけた.現代フェミニズムは,まさに「家族」を
社会の議論の焦点に据えた.この点において,現代フェミニズムは,他の社会理論
と比較してもっとも熱く「家族を語ってきた」と言いうる.

3 「女性の人権」の確立 第 2 波フェミニズムの公私分離規範批判(2)

しかし,現代フェミニズムには,公私分離規範に関連するもう 1 つの論点がある.
それは女性の「身体の自由」に関するものである6).「女性の人権は人権である」
という言葉が,世界人権会議から発出されたのは,20 世紀も最後の 10 年に入って
からのことであった.このことは,近代社会における「女性の人権」に関する認識
の確立が,いかに困難な課題であったかを物語って余りある.
なぜ「女性の人権」の確立が困難であったのか.それは端的に言って,女性たち
が「身体の自由」という自由権を認められてこなかったことに由来している7).男
性のみに人権を付与した近代社会において,女性は,そもそも人権を付与されるべ
き存在として構築されていなかった.女性は,その意思を尊重される自律的・自立
的存在ではなく,男性の保護と監督のもとにおかれるべき存在であり,当然女性の
「身体の自由」も,確立されていなかった.父親は,娘の意思に反して,娘の居場
所を決定することができた.結婚に関しても,父親は娘の意思に反して結婚を取り
決めたり,取りやめたりすることができた.また夫は,妻の意思にかかわらず妻の
居場所を決める事ができ,妻の意思に反して妻に対する性行為を行うことができた.
つまり,女性の正当な保護者である男性であれば,たとえ女性の意思に反した「女

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性の身体の拘束」であっても,それは,男性の女性保護という責務と権利の当然の
範囲内の行為として許容されていた.他方,それ以外の人間が女性の「身体の自
由」を侵害(誘拐など暴力による強制・拘束等)した場合は,その女性を保護して
いる男性市民の権利(所有権)の侵害として位置づけられていた.
婦人参政権が成立し,女性市民も男性市民と同様の権利を認められる時代になる
と,女性は成人すれば自分で自分の職業選択や居住場所の選択や結婚などを,決め
る事ができる存在になった.しかしまさにその時女性は,市民革命期に家長である
男性市民を想定して構想された市民権の枠組みでは,女性の人権を保障するには十
分ではないことに気づくことになった.女性が人の自立した人間として生存する
ためには,「身体を侵害されない」ことや,「自分の意思に反した身体的拘束を受け
ない」ことの範囲に,「意思に反した性的行為を強要されない」ことが当然含まれ
なければならないはずである.女性が被る身体的拘束や暴力の多くが,性に関連す
る暴力であるからである.また「意思に反した性的行為を強要されない」ことの範
囲には,当然にも「意思に反した妊娠や出産を強要されない」ことを含むべきであ
る.妊娠・出産は,女性の身体においては,性的行為と連続的に,その延長上に生
じる過程であり,
「意思に反した妊娠・出産を引き起こすような性的行為の強要」
は,「意思に反した性的行為の強要」の一部であるからである.
さらに言えば,それだけでは女性の,生命維持を含む「身体の自由」権の確立に
は,不十分である.女性は,人間の生殖過程において,男性とは比較にならないく
らい重い身体的負担を負う.妊娠出産産後期におけるなんらかのトラブルが,母体
の生命を危うくすることも,多々ある.それゆえ過去のさまざまな民族社会におい
ても,多くの場合女性は,出産期に他の人々のケア(多くは女性のケア)を受けて
きた.近現代社会においては,適切な医療措置や医療サービスによって,妊娠・出
産・産後命を落とす女性の数は減少した.すなわち女性が自分の健康や生命に対す
る不安なく出産できるためには,妊娠・出産・産褥期において,医療サービスを含
む適切なケアを受けることが不可欠なのである.女性の「身体の自由」権は,性と
生殖にかかわる健康と権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ8))の保障なしに
は,不十分だということができる.
しかし女性にとって重要なそうした権利は,近代市民革命期において成立した男
性市民の権利の中には,まったく書かれていなかった.男性市民のみに人権を付与
した近代市民社会当初においては,性や生殖の領域における人権の確立に対して注
意が払われることは,ほとんどなかった.それはおそらく,成人異性愛男性におい
ては,「身体の自由」という概念の中に,「性的身体の自由権」すなわち「性的自由
権」が含まれていることは当然のことだと考えられており,その「身体の自由」権
を前提として,
「家族」を「私的領域」として位置づける家族観,すなわち社会や
国家の家族への介入を拒否できる権利が保証されれば,それだけで,性と生殖にお
ける人権が十分保障されるものと,考えられていたからではなかろうか.多くの男
性は,生殖においてケアや医療サービスを受けることを,とくに必要とはしていな

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い.また,男性市民は女性と比較して,意思に反した性行為を強要される可能性は,
かなり低い.それゆえ,性や生殖における権利をとくに明確にしなくても,大きな
問題は生じなかったのではなかろうか.けれども,女性市民の人権保障を考える場
合には,それではすまない.それゆえ,婦人参政権実現後,第 2 波フェミニズムに
おける,「女性に対する暴力」の社会問題化・セクシュアリティの多様性の承認・
リプロダクティブ・ヘルス/ライツ等の主張が,20 世紀末に,生まれてきたので
ある.「女性の人権は人権である」という認識が,世界人権会議から発出されたの
が,20 世紀も最後の 10 年に入ってからのことであったのは,このようなことを背
景にしている.
むろん,セクシュアリティに関する人権概念の確立には,フェミニズムだけでは
なく,その他のセクシュアリティの多様性の承認を求める社会運動が深く関わって
いたことは,言うまでもない.近代社会において,「私的領域」を社会が介入でき
ない領域とされた結果,成人異性愛者男性は,そこである程度事実上の「性的自
由」を享受できていたと推測できるが,それはあくまで社会通念的に許容されてい
る範囲の性行動に関するかぎりのことであり,その範囲を逸脱しない範囲のことに
すぎなかった9).近代社会において,逸脱的性行為に対する社会的制裁は一般に非
常に厳しく,成人男性が社会的に許容されている範囲を逸脱した性行為に対しては,
厳しい社会的制裁があった.そもそも女性や子どもは,自らの意思によって性的行
為を行う・行わないことを決められる存在としては位置づけられておらず,性的対
象として身体的侵害を受けた場合にも,その侵害を訴える手段すらなかった.ゆえ
に女性や子どもが「性的自由」を享受することは,なかったのである.
しかも,近代国民国家の富国強兵策によって近代化以降,軍事力強化や工業化を
押し進めるうえで,国民の精神・身体を強化する政策の重要性が認識され,性意識
や性行動に対する国家統制が強化された.強く強靭(かつ従順な)精神と身体をも
った国民,強い策がとられるようになり,性と生殖に関わる意識や行動は,コント
ロールの対象とされた.国民の性意識や性行動をコントロールすべく,教育政策や
保健政策がなされ,性的逸脱行為を防止する教育や逸脱者への矯正措置や隔離政策
が,なされるようになった.宗教に基づく性規範が緩んだ後,国民国家による教育
政策や保健政策が社会統制機能を引き継いだのである.
女性の身体も当然,国家による社会統制の対象となった.良質な子孫を産み育て
るためには,未婚女性の純潔が必要とされ,自慰行為も厳しく統制された.つまり,
成人異性愛男性は,「身体の自由」権を,自由権のもっとも規定的な権利として享
受してきたにもかかわらず,女性は同じ「身体の自由」権を,婦人参政権確立以前
は無論のこと,その確立以後においても,十分に享受できる社会体制の確立をみな
いまま,20 世紀末まで,さらに言えば現在にまで,至っていたゆえに,第 2 波フ
ェミニズムは,女性の「身体の自由」を,その主要な主張の 1 つとして行わざるを
えなかったのである.
しかし,この女性の「身体の自由」を求める主張は,前節で論じた「公私分離規

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範批判」とは逆の論点を含むことになる.前節で挙げた公私分離規範批判は,「家
族」を「私的領域」に位置づける規範を批判し,「家族」を「社会」と密接な関連
性をもつ領域に位置づけた.たとえば「家族」にも正義という規範を適用すること
や,家族間のケアも「労働」として認める等の,「私的領域」を社会に開く方向で,
批判した.それに対して,本節で扱った女性の「身体の自由」権に関する公私分離
規範批判の方向は,女性の身体を女性自身の意思のもとにおくこと,女性自身の意
思に反した他者や社会からの女性の身体への介入を拒否できる権利を確立すること,
すなわち女性の「身体の自由」を,女性個人の個人的領域(=「私的領域」)として
確立する方向での批判であった.前者が,「私的領域」を「社会に開く」方向での
批判であるのなら,後者は女性の身体を,女性の「私的領域」として確立する方向
での批判であり,この点においてこの 2 つの批判の方向は逆立しているのである.

4 第 2 波フェミニズムと「近代家族」

以上,第 2 波フェミニズムには,公私分離規範に関して,逆立する 2 つの主張を


含んでいることを見てきた.このことは,いわゆる「近代家族」という家族類型に
対して,どのような問題を突きつけているのであろうか.
落合恵美子は,ヨーロッパ家族史における「近代家族」の家族類型の社会学的含
意を整理し,
(1)家内領域と公共領域の分離,(2)構成員間の強い情緒的絆,(3)
子ども中心主義,(4)性別分業,(5)家族の集団性の強化,(6)社交の衰退とプラ
イバシーの成立,
(7)非親族の排除,(8)核家族,の 8 項目を,近代家族の特徴と
した(落合 1989: 18).
2 節で論じた第 1 の公私分離規範批判は,この 8 つの項目の中で,とくに(1)
家内領域と公共領域の分離および(6)社交の衰退とプライバシーの成立等の「家
族」を私的領域と定義する項目,および(4)性別分業の項目に関連性をもってい
る.第 2 波フェミニズムは,家内領域と公共領域を分離し,女性を家内領域にのみ
配置する「近代家族」型家族において,女性が労働としては評価されない家事や介
護や子育て等の活動に時間的空間的に拘束される結果,職業労働の場において不利
な位置におかれ,社会的地位のうえでも男性に比較して低い位置にとどめおかれた
ことを,問題化した.その結果,社会的経済的な力の男女差が強まり,女性は自立
性を失ってしまったからである.それゆえ,女性の自立のためには,女性に過大な
負担になっている家事育児介護の負担を,男性と平等分担するか社会化することで
軽減し,女性の社会参加と職業参加を強めることが,求められたのである.「家族」
を他の社会領域と切り離すことなく連続的に論じることは,女性の負担を軽減する
ための労働政策(ワークライフ・バランス政策)のためにも,社会保障・社会福祉
政策の拡充のためにも,必要な前提となっている.
では女性の「身体の自由」権を確立することをおもな主張とする第 2 の公私分離
規範批判は,「近代家族」の特徴とどのような関連性をもつのだろうか.直接的に

64(4) 562
対応する項目を指摘することは難しいが,(2)構成員間の強い情緒的絆,(3)子ど
も中心主義,(5)家族の集団性の強化,等に関連性をもつと考えるのが,妥当だろ
う.これらの項目は,「近代家族」における家族間の強い愛情的結びつきに関わる
項目である.しかし,「男性は仕事,女性は家庭」という性別分業を前提とすれば,
家族間の愛情の中でもとりわけ強調されたのは,女性の家族成員に対する愛情的関
与だったと考えられる.女性は,その居場所を家庭に定められることによって,
「家族的本質」をもつ存在として位置づけられたのである.中でもとりわけ強調さ
れたのが,母親の子どもに対する愛情であった.すなわち「近代家族」類型におい
ては,「自分のことよりも子どものことを優先する」強い愛情を子どもに注ぐよう
な母親像が作られた.この母親像を前提とすると,個人として自分自身の興味や関
心によって生きる女性や,「子どもの利害よりも自分の利害を優先する」女性は,
母親失格,女性失格として,厳しく指弾されることになる.
このような女性観は,女性の「身体の自由」権を否定する結果をももたらす.
「女性は自分の生活の都合よりも家族の生活の都合を優先するべきだ」という考え
方は,身体にもおよぶからである.
「女性は自分の身体の自由を,家族(子ども)
のために放棄するべきだ」とする社会規範があるからこそ,女性の身体的健康や人
生設計,さらには生命までも犠牲にして,出産が強制された.「頻産の悲惨さ」を
救うための産児制限運動,意思に反した妊娠出産を避けるための避妊法普及活動,
人工妊娠中絶の自由等の主張に対しては,女性が個人としての利害を家族よりも優
先させることと解釈され,過去において,あるいは現在においても,強い反対があ
るのである.
しかし,
「身体の自由(人身の自由)権」は,「個人の尊厳」を維持するうえでも
っとも基盤に置かれている基本的人権の 1 つではなかったのか.この権利なくして,
「個人の尊重」が可能だと言いうるのか.実際,婦人参政権確立以降も女性たちは,
「性と生殖」の領域において,性的に「人身の自由」を奪われ,また自分の身体を
「生殖の道具」とすることを強いる社会規範に縛られてきた.だからこそ女性たち
は,性と生殖の過程自体を,自らの意思のもとにおくこと,つまり性と生殖の過程
においても,女性が自らの生を,人格的統合を維持しつつ生きることができること
を,求めたのである.なぜなら,女性も「個人として尊重」されるべきだからであ
る.近代啓蒙思想において,「身体の自由」の否定は,自分の身体が他者の意思に
よって動かされること,すなわち人間の隷属状態を意味すると論じられてきた.女
性にとっても同様である.女性の「身体の自由」権の確立は,女性の人格的統合に
とって,個人の尊厳の確立にとって,不可欠の要件なのである.
つまり,「女性の人権は人権」として認められたのが 20 世紀末だとすると,「近
代家族」類型において女性は,
「人権を認められていなかった」ことになる.近代
家族において女性は,「家族的本質」をもつものとして位置づけられ,逆に「家族」
は,「女性にのみ」結びつけられてきた.近代社会において基本的人権をもつ存在
として位置づけられたのは,近代家族の家長という位置にある成人男性だけである

社会学評論 64(4) 563


ことは,すでに通説である.そこから考えれば,近代家族という家族類型は,女性
に,近代啓蒙思想において人間が自然的にもっているものとして措定された基本的
人権を欠いた位置を与えることでしか,成立しない類型,女性に「個人としての尊
厳」を認めない前近代的構成要素を内部に備えていたと言いうる.そこでは,近代
家族の家長としての男性は,妻という女性を「自分の意思のもと」におき,女性の
身体および労働を「自由にする」(=「所有する」)ことが,「家族」を作ることと,
イコールにおかれていたのだ.このような家族観(近代家族観)を前提とすれば,
女性が自分自身の意思をもち,女性自身の身体および労働を自らのものにする(=
男性の所有物ではなくなる)ことは,イコール「家族を破壊する」こととして現れ
ることになるだろう.
第 2 波フェミニズムは,第 1 波フェミニズムと同じく,女性の自立をもっとも重
要な目的とした.
「仕事か家庭か」の選択は,それ自体が目的なのではなく,あく
まで女性の自立の実現にとっての意義に即して議論された.そして女性の自立にと
ってもっとも重要な項目の 1 つが,「意思に反した性行動や生殖を強要されない権
利」
「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」であることを見出した.すなわち第 2
波フェミニズムの視点からは,
「近代家族」類型は,社会から「家族領域」が「私
的領域」として位置づけられ,社会からの介入を拒否できる領域と位置づけられな
がら,その実,その「私的領域」において女性は,自らの身体に関してさえ,自分
のパーソナルな領域に対する男性や家族や社会からの介入を拒否できないという矛
盾をはらんだ類型であることになる.だからこそ,第 2 波フェミニズムは,近代家
族類型を批判の対象としたのだ.
このフェミニズムの視点に立つならば,「近代家族」の近代性には,大きな疑問
が付与されることになる.少なくとも「近代家族」は,家族の最終形態の類型であ
るどころか,近代社会の基本的価値観が浸透する過程において大きな変動を被らざ
るをえない類型であると,言いうるだろう.

5 これからの家族とジェンダー ジェンダー秩序論からの考察

近代家族という類型が,「近代」における家族類型であるにもかかわらず,その
構成素に女性の「個人としての尊厳」を認めているとは言いがたい前近代的構成要
素を含んでいたとするならば,どうしてそれが可能だったのだろうか.
それを可能にした一因が,「生物学的性別」という近代社会固有の性別観にあっ
たことは,ほぼ間違いない.宗教的規範が性別観を基礎づけていた前近代とは異な
り,近代社会においては,科学が同じ機能を果たすようになる.近代家族類型を規
定した「生物学的性別観」は,主流社会科学における女性の扱いをも,規定した.
女性学やジェンダー研究が批判を展開するまで(あるいは分野によっては現在もな
お),
「家族領域」における女性の働きをすべて「自然的なもの」と位置づけ,ある
いは逆に家族以外の政治経済等の社会領域において,女性などいないかのような扱

64(4) 564
いをすること,あるいは女性を論じる場合には例外にすぎないかのような扱いを行
うこと等が,当たり前のように行われていた.
「女性は生物学的に男性とは異なっ
ている」ということを理由として,このような女性の扱い方が正当化されたのだ.
それゆえ,第 2 波フェミニズムは,そのような性別観を批判するために,ジェン
ダーという概念の導入を必要とした.ジェンダーとは,たんに性別や性差を意味す
るのではない.また,たんに「生物学的性別」とは異なる「社会的・文化的性別」
を,含意するのでもない.むしろ,「生物学的性別」という性別観を利用すること
で正当化された社会における女性の位置づけ(主流社会科学における女性の位置づ
けも含む)を批判的に考察する視点を,意味している.
ジェンダー概念の導入は,家族を見る見方を大きく変えた.生物学的性別のよう
な「社会外変数」によって家族内の役割分担を説明するのでなく,社会的・文化的
性別という「社会内変数」により説明することによって,家族関係を変動可能な相
において見ることを可能にし,家族と家族の外の社会領域に共通する変数として,
ジェンダーを位置づけ,家族を家族外の社会領域と密接な関連性をもつものとして
位置づけた.また,ジェンダーを,個人のアイデンティティにおいても大きな規定
力をもつ変数と位置づけることで,家族変動を,個人のジェンダー・アイデンティ
ティの変容と関連性をもつものとして位置づけた.ジェンダー概念の導入は,家族
変動を主題化するとともに,個人と家族と社会の,より複雑かつ密接な変動様相に
目を向けさせたと言いうるだろう.
本稿では「フェミニズムの家族への影響」を,フェミニズムの主張内容に対する
「社会の反応」「人々の反応」をも考慮に入れて,考察する.そのためには,個人と
社会と家族の複雑かつ密接な関連性をもっともよく理論化していると思われる「ジ
ェンダー秩序論」
(江原 2001)を適用することにする.ジェンダー秩序論によれば,
社会のジェンダー構造の再生産と変動は,社会成員の社会的実践による構造の再生
産と変動,および構造による社会成員の社会的実践の再生産と変動によって多重的
に規定される.「フェミニズムの家族への影響」を考える場合,まずフェミニズム
が個人としての社会成員の社会的実践に対してもたらす影響(フェミニズムに賛同
する方向での影響だけでなく,フェミニズムに反対する方向での影響も含む),フ
ェミニズムが法や社会制度に与えた影響,そこからの家族への間接的な影響などに
よって,複雑かつ多重的に規定されることになる.子細な記述は本稿では当然不可
能であるので,以下ではおもに,これまで論じてきた近代家族と公私分離規範に関
する論点に即して,概括する.
第 2 波フェミニズムの「家族」に対するおもな批判点は,女性の家庭内役割の過
重さを原因とする経済的自立の困難さに対する批判であったことは,すでに見たと
おりである.このことから,
「フェミニズムの家族への影響」を見る場合,しばし
ば「既婚女性の就業継続率」に焦点を当てる見方が,提示される.つまり「既婚女
性の就業継続率」が高くなれば,
「フェミニズムの影響」が指摘され,逆に「既婚
女性の専業主婦志向」が強まれば「フェミニズム離れ」が指摘されるのである.現

社会学評論 64(4) 565


代日本では,若年層の女性の「専業主婦志向」が高くなっているので,ここから,
「フェミニズム離れ」や「性別分業家族」や「近代家族」の復活が,取り沙汰され
るのである.
しかし,「ジェンダー秩序論」から見れば,「既婚女性の就業継続率」や「若年女
性の専業主婦志向」からただちに,「性別分業家族」「近代家族」の復活を見出すこ
とは,早計だと言いうるだろう.家族変動は,人々の家族に関わる社会的実践の変
動によって生じると考えられるが,社会的実践に影響を与える要因としては,ハビ
トゥスの水準における変化と,家族以外の社会の構造的・制度的変動要因の双方を,
考慮に入れるべきであろう.つまり「就業継続率」や「専業主婦志向」など現象的
に把握できる変化を規定する要因においても,この双方が考慮されるべきなのであ
る.以下では,これまで論じてきたことを,ハビトゥスの水準に関わる変化と,家
族以外の制度的・構造的変動要因に関わる変化に分け,この双方から「これからの
家族」のを考えてみたい.
「性別分業」は通常,「男性はその仕事,女性は家庭」という役割分業を意味する
と考えられているが,江原は,家族以外の社会領域においても広範に用いられてい
る「性別分業」を,「人々を性別カテゴリーによって男女に分け,男性は活動の主
体,女性は他者の活動を手助けする存在というパターンを当てはめて社会的実践を
構成したり解釈したりする」社会的実践構成のしかたの中に見出し,それを「ジェ
ンダー秩序」の重要なパターンの 1 つと位置づけた(江原 2001: 120)
.ここでい
う「ジェンダー秩序」とは,人々の社会的実践において,自己の実践を理解可能な
ものとして提示するときに意識的あるいは無意識的に使用されるパターンであり,
しばしば人々の身体感覚として,ハビトゥスとして,維持されているパターンであ
る.
「性別分業」をこの「ジェンダー秩序」の水準で把握すると,たんに既婚女性の
就業に関わる行動だけが「性別分業」に関連するのではなく,女性が自分自身を活
動の主体と見なすかどうかということが大きな関連性をもっていることになる.こ
こには,女性の自由権,とりわけ,
「身体の自由」権に関する論点が,大きな影響
力をもつと考えられる.私見では,女性が人格的に統合し,1 人の主体として生き
ていくためには,
「身体の自己決定」および自分の活動をセルフコントロールする
ことが不可欠であり,女性がこうした身体感覚を形成維持強化していくことは,今
後もあまり大きく変化することがない一貫した傾向性であると考える.現代社会の
若年層女性たちは,フェミニズムの影響かどうかは別として,自分の身体や生き方
や人生に対するセルフコントロール感を確実に強化させている.そうだとすれば,
一見「性別分業家族に回帰している」ように見える選択をしているとしても,「近
代家族に回帰している」とは言えないのではなかろうか10).
なぜなら,「性別分業」のハビトゥスからの離脱を意味するセルフコントロール
感の強化は,女性の専業主婦選択を肯定することにも,通じるからである.自分自
身が選択しているのであれば,「専業主婦志向であろうが,就業継続であろうが,

64(4) 566
周りからとやかくと言われるべきことではない」という感覚である11).この感覚
は,若い世代ではもはや「当たり前」に近いほど,強まっていると思われる.現代
社会においては,若年世代の女性の就業環境が悪化しているので,就業継続に魅力
を感じない女性も増加している.ライフコース選択に関して,
「専業主婦志向の高
まり」のような一見「近代家族回帰」に見える志向が生じているのは,そうした利
害状況を敏感に察知したうえでの選択であるかもしれない.そうであればそれはセ
ルフコントロール感の強化傾向と矛盾するものではなく,「性別分業」のハビトゥ
スを離脱するハビトゥスの現れと見ることもできるのである.そうだとすれば,今
後女性の就業行動や家族形成選択行動は,今よりもいっそう「利害に敏感に反応す
る」ものに変化していくだろう.
他方,フェミニズムによる女性の「身体の自由」権の主張は,「近代家族観」を
維持している一部男性たちにとっては,男性アイデンティティの基礎を直接揺るが
す「危機」として現出することに,注意が必要だろう.「女性の家族的本質」を前
提とする家族観やジェンダー観をもっている(一部の)男性にとっては,女性が
「身体の自由」権に基づく身体感覚を獲得していくことは,女性に対する支配権の
喪失体験として体験されると思われる.「家族」=「女性」という前提を置けば,
「女性に対する支配権の喪失体験」はイコール「家族喪失体験」を意味することに
なる.私見では,おそらくこの男性の「家族喪失体験」こそ,現代社会におけるジ
ェンダーをめぐる争いの中で,もっとも対処が難しい問題であるように思う12).
他方,フェミニズムの「ケア論」は,社会福祉・社会保障論に大きな影響を与え
た.
(大沢 2013).第 2 波フェミニズムが,「家族」を「社会」との関連性で論じる
理論的枠組みを形成していたのとまさに同じ時期,多くの先進資本主義国において,
「福祉国家」という文脈において,
「家族」が政治的イシューとなっていった.
「福
祉国家と家族に注目すると,両者の関係は相互規定的である.すなわち福祉国家が
家族の形態や構成の変化によって生じるニーズに対応するという方向性がある」け
れども,「他方で福祉国家が家族そのものの範囲や責任を規定するという方向性が
ある」(辻 2012: 4).「家族」は,他の社会領域から切り離された領域なのではな
く,国家・市場・コミュニティとせめぎあいながら,その範囲や責任を形成してい
るのである.女性が家事育児介護を担い続けるのかどうかということは,社会福祉
社会保障制度や雇用制度を作るのかということと密接に関連することであり,まさ
に社会政策の中心に置かれるべき事柄になっている.たとえば,エスピン=アンデ
ルセンは,
「福祉供給」における国家・市場・家族・コミュニティの責任分担のあ
り方を,福祉レジームという概念で把握した.また福祉国家化や市場化によって
人々の生活における家族への依存度が低下することを,
「脱家族化」という概念で
把握した.この福祉レジームという考え方自体が,「家族」とその他の社会領域を
連続的に位置づけるという点において,フェミニズムの家族の見方と重なり合うと
言いうるだろう.また,「脱家族化」は,女性の育児介護家事負担を軽減すること
と重なりあう.第 2 波フェミニズムが求めた女性の社会参加は,多くの国々で,社

社会学評論 64(4) 567


会政策の中に位置づけられてきたのである.
その後の社会主義崩壊を含む社会変動の中で,「家族」は,もっとも激しい政治
的対立の渦中に放り込まれた.1980 年代以降の英米における「ネオ・リベラリズ
ム」の台頭,とくに 90 年代の冷戦体制崩壊以降のグローバル化の動きの中で,「福
祉国家」の縮小が多くの先進国で政策的に模索されるようになり,市場化が促進さ
れるとともに,「脱家族化」を阻止する動きが生じた.この文脈において,第 2 波
フェミニズムに対する批判も,強化された.日本社会においては,80 年代の英米
ネオリベラズムの影響を受けて,「福祉国家」化以前に「脱家族化」に対する懸念
が生じ,80 年代において日本型福祉(福祉供給の責任は第 1 に家族=女性である
とする福祉枠組み)が強く主張され,専業主婦を優遇する税制や社会保障制度が作
られた.その後,経済状況悪化・未婚化・少子化等の影響を受け,福祉に関わるさ
まざまな課題が議論されてきたが,日本型福祉論の前提である,「福祉供給の責任
は第 1 に家族=女性である」という近代家族観に基づく主張は,現在も大きな影響
力をもっている.
「女性の家族的本質」や「女性の家族責任」を前提とするかぎり,第 2 波フェミ
ニズムの家族政策の要求も,「家族を否定するもの」として攻撃されることになる.
保育所設置要求や社会的介護の要求は,女性の「家庭の価値の軽視」や「家庭否定
の主張」として解釈されるからである.
家族が今後どのようなかたちをとるのか予測は難しい.しかし多くの論者が言う
ように,現在の先進国の経済社会状況は,「男性は仕事,女性は家庭」という性別
分業を維持することを次第に困難にしている.そのような状況の中で,女性のみを
「家族」に結びつけ,「女性への支配権喪失体験=家族喪失体験」から,社会保障・
社会福祉の「脱家族化」施策の方向を「家族の危機」として攻撃することは,まっ
たく「家族を支える」ことにはならない.
「脱家族化」とは,家族成員へのケアに
社会も責任を分かちもつことであり,家族を支えることでもあるからである.
「これからの家族」は,これまで論じてきたさまざまな力のせめぎあいによって,
作られていくであろう.「フェミニズムの家族への影響」は,フェミニズムの主張
内容だけからではなく,そのような主張に対する「社会の反応」「人々の反応」に
よっても,かたち作られる.これまで,第 2 波フェミニズムが家族について直接主
張したこと,していることは,
「性別分業家族批判」および「家族の多様性」であ
り,
「家族の意義の否定」でも,「家族へのコミットメントへの拒否」でもないこと
を,述べた.しかしそうだとしても,「女性」と「家族」を等号で結ぶ家族観を維
持している人々にとっては,フェミニズムの主張は「家族を否定する」ものと,解
釈されるであろう.もしこのような解釈が大勢を占め,社会福祉・社会保障におけ
る「脱家族化」を阻止し続けるならば,家族形成は今後,いっそう困難になってい
くに違いない.

64(4) 568
[注]
1) もっとも著名な著作としては,シュラミス・ファイアスト ンの『性の弁証法』(Firestone
1970)があげられる.
2) たとえば,日本を代表するフェミニストである上野千鶴子の現在の集大成は,『ケアの社会
学』である(上野 2011).
3) 家電製品は,家事の省力化には有効でも,育児などケアに関しては,ほとんど寄与しなかっ
た.それゆえ現代フェミニズムは,
「ケア労働」を問題の焦点に据えたのである.
4) たとえば,ナンシー・フレイザーは,「差異」と「平等」のジレンマを解消するモデルとし
て,
「普遍的ケア提供者モデル(universal caregiver model)」を提唱する.これは,男性の役
割を規範に,女性が男性と類似したライフスタイルを望むのではなく,男性が女性のライフス
タイルを目指すモデルである.
5) 上野(1990)等,参照のこと.
6) この「身体の自由」に関わる論点は,直接には「家族」に関する論点ではないにもかかわら
ず,フェミニズムを批判する立場からは,フェミニズムの「家族観」を象徴するものとして,
もっとも強く批判・非難の対象とされてきた.まさにこの点にこそ,フェミニズムが,家族に
ついて他のいかなる思想よりも「熱く語ってきた」にもかかわらず,「家族を否定する思想」
と思われているのかということを考えるうえで,重要なヒントがあるように思う.
7) 辻村みよ子は,1990 年代以降の国際人権論の分野における「女性の人権」論において,「女
性の人権」概念の用法の検討が不十分であることを問題として指摘し,その議論においては,
現在問題になっている「女性の人権」がおもに女性の身体的自由等の基本的諸権利を問題にし
ているという認識のうえで,
「近代以降,
『人権』が,男性と女性の両性からなる人間の普遍的
な権利であることが,宣言されながら,実際には女性がその主体から排除されてきた歴史を踏
まえて検討することが有益」
(辻村 2008: 9)だと指摘する.本稿も,基本的に同じ認識を共有
する.
8) 辻村によれば,リプロダクティブ・ライツの概念には,「リプロダクションの自己決定権」
と,「リプロダクティブ・ヘルスケアへの権利」の 2 つが含まれる(辻村 2008: 261).
「リプロ
ダクティブ・ヘルスケアへの権利」の意味を強めたリプロダクティブ・ライツを表す語として,
リプロダクティブ・ヘルス/ライツという語が用いられることが多い.
9) 同性愛行為は,キリスト教の中で宗教的に禁じられていただけではなく,刑法においても処
罰の対象とされていることが多かった.社会的にも強い禁忌がかかっており,同性愛行為が知
られただけで,社会的に抹殺されることもあった.また同性愛者に対する異性愛者男性からの
暴力的制裁が日常的に行われることもあった.
10) たとえば,このことは,フェミニズムに対する女性の若い女性の反感の一因が,「女性を犠
牲者として描く」ことにあることからも,見て取れるだろう.女性を犠牲者として描くことは,
結局のところ,女性自身を自らの行動に責任をとれない存在として描くことであり,そうした
描き方をするフェミニズムを「毛嫌いする」女性は多い.
11) 妙木忍は,戦後日本の「主婦論争」を 6 次にわたって考察しているが,妙木が第 5 次「主婦
論争」と位置づける「主婦論争」(1998-2002)の主要論者である石原里沙の『ふざけるな専業
主婦』(1998)その他の著作において,「専業主婦であるかどうか」よりも,「積極的に選んで
専業主婦であるのかどうか」を問題にする論点が強調されたことを指摘している(妙木 2009:
151).
12) ここでは,簡略のため,「身体の自由」権に関するフェミニズムの影響を,おもに個人のア

社会学評論 64(4) 569


イデンティティや身体感覚に関わる問題として論じてきたが,無論影響はそれだけでなく,法
的制度的変動にも及んでいる.第 2 波フェミニズムの影響を受けて,女性に対する暴力禁止の
法制化,セクシュアリティの多様性を承認しセクシュアル・マイノリティの人権擁護の法制化,
同性婚の法制化等を生み出した.こうした変化も,家族の多様化等の家族変動を加速している.

[文献]
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『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店.
,2011,
『ケアの社会学』太田出版.

64(4) 570
Feminism and Modern Family

EHARA, Yumiko
Tokyo Metropolitan University
EHRYMK@gmail.com

The subject of this paper is an examination of the relationship between


contemporary feminism and the family. First, it summarizes the main questions in
contemporary feminism concerning the family. Rather than denying the family,
contemporary feminism argues for changing the family structure of gender-based
division of labor. This is because a family structure of gender-based division of labor
makes the economic independence of women difficult due to excessive roles
assigned to women in the household. Second, this paper summarizes questions
concerning the norms on separation between public and private spheres in family
theory in contemporary feminism as follows: Contemporary feminism is critical of
the norms on separation between public and private spheres in modern society that
define the family domain as a private domain separate from other social domains
and considers the family domain to be a domain that is related to other social
domains. In addition, women positioned in the family domain in the modern family
are considered to have an essential family-based nature and have not been
recognized to have the right of freedom of their own bodies. Looking at the pattern
of the modern family from these two points of view, the modern family can be
considered to be a family pattern that includes some pre-modern elements from
prior to the establishment of womenʼs rights. Lastly, in connection with the
questions identified from contemporary feminismʼs criticism of the norms on
separation between public and private spheres, this paper ascertains the primary
causes of changes in the family at the habitus level and at the level of social systems
and considers the family of the future from the perspective of gender order theory.
Key words: feminism, modern family, separation between public and private
spheres

社会学評論 64(4) 571

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