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江 原 由美子*
本稿の主題は,現代フェミニズムと家族との関連性を考察することである.
まず,第 1 に,現代フェミニズムの家族に関する主要な論点を明らかにする.
それは「家族の否定」ではなく,「性別分業家族」批判であった.「性別分業家
族」においては,女性の過重な家庭内役割のゆえに,女性の経済的自立が困難
だったからである.次に,現代フェミニズムの家族批判の根底にある公私分離
規範に関する論点を,「家族領域」を社会から切り離す公私分離規範批判と,
女性の「身体の自由」権を認めない公私分離規範批判の,2 点で把握し,それ
らがいずれも,いわゆる「近代家族」への批判につながることを示す.この観
点から「近代家族」類型を位置づけると,「近代家族」とは,女性の人権を認
めない前近代的要素を含んでいる家族類型と位置づけることができる.最後に,
現代フェミニズムの公私分離規範批判から導かれた論点に関連する家族変動要
因を,ハビトゥスの水準と,社会制度的水準において把握し,「ジェンダー秩
序論」の視点から,「これからの家族」を考える.
キーワード:フェミニズム,近代家族,公私分離
0 はじめに フェミニズムは「家族を否定し」たか
本稿では,フェミニズムに関わる論点から,「これからの家族」を考えることと
する.ここでいうフェミニズムとは,女性の地位向上や女性解放を主題とする思
想・社会運動一般を指すものとする.広くは,西欧近代人権思想に端緒をもつ近代
フェミニズム以降のフェミニズム全体を指すが,本稿の主題に主要に関連性をもつ
のは,1960 年代から 80 年代において,欧米や日本において女性の職業参加や社会
参加等の争点に関し社会的影響力を行使し,社会理論の領域においてはその後も今
日に至るまで大きな影響力をもち続けている,いわゆる第 2 波フェミニズム(=現
代フェミニズム)である.本稿では,第 2 波フェミニズムを時期的に大きく 2 つに
分け,60 年代〜70 年代を前期,80 年代以降を後期と呼ぶことにする.
フェミニズムに関わる論点から「これからの家族」を考えるという主題が立てら
* 首都大学東京大学院人文科学研究科教授 EHRYMK@gmail.com
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きたのか,その概要を考察する.そのうえで,本稿では「フェミニズムの家族への
影響」を,フェミニズムの主張からだけではなく,そのような主張に対する「社会
の反応」や「人々の反応」をも考慮に入れて,考える.「フェミニズムの家族への
影響」とは,フェミニズムが「人々の家族に関わる行動を変化させること」によっ
て引き起こされる.しかし,フェミニズムが人々の家族に関わる行動に生じさせる
変化は,たんに人々がフェミニズムに感化されて行動変容するから生じるだけでな
く,それに反発したり反対することからも,生じうる.フェミニズムは,社会の外
に立ったまま社会に影響を与えているのではなく,社会過程の中に投げ込まれてお
り,フェミニズムの影響とは,まさにそのような人々のリアクションをも含むそれ
なのである.
1 第 2 波フェミニズムは,家族をどのように論じてきたのか
「フェミニズムは,家族を否定してきた」わけではないとしても,オーキンが言
うように,「特定の家族形態を非難の俎上に載せてきた」ことは間違いない.では
どのような家族形態が批判の対象となったのか.
ブライソンは,おもに英語圏の第 2 波フェミニズムの多様な意見を主題ごとに概
観した 1999 年の著作の中で,第 2 波フェミニズムの家族に関する論点の特徴を,
「就労との関連において家族を論じている」という点にあると,指摘している.す
なわち,
「女性が経済的に男性に依存せざるをえない」性別分業家族がおもな批判
の対象になってきたのであり,その理由は,「女性の(経済的)自立」を阻んでい
るという点にあった(Bryson 1999=2004: 164-92).
先述したように,第 1 波フェミニズムにおいては,政治的職業的領域における男
女平等をおもな主張とするリベラル・フェミニズムが大きな影響力をもった.すな
わちリベラル・フェミニズムにおいては,女性は男性と同じく,自立した主体とし
て,政治的権利を行使し,自らの意思によって自己の生活を統御する自立的人間で
あることが「女性解放」という理想像として目指された.リベラル・フェミニズム
の担い手は,多くが相対的に豊かな中流階層の女性であったので,そこでは暗黙に,
家事使用人の存在が前提とされていたと推測される.おそらくそのような背景があ
ったがゆえに,リベラル・フェミニズムは,
「女性は,家庭生活から解放され社会
で活動できるようになるべきだ」と主張したけれども,そこから女性が現実に行っ
てきた家庭内での仕事(あるいはその一部)をそのあと誰が担っていくべきかにつ
いて,主要な主題として論じることはなかった.リベラル・フェミニズムは,私生
活に深くは踏み込まなかったのである.
それに比較して第 2 波フェミニズムは,同様に「自立」を求めつつも,その実現
が実際には難しいこと,その理由は,たんに「女性個人の問題」や「個別家族の問
題」なのではなく,近代社会において規範として維持されてきた家庭内の性別分業
と,そこにおいて多くの女性に課せられている女性の家庭内役割の重圧こそが,問
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き方こそが,普遍的な働き方として認められるべきだという主張が強まった4).
「一般通念とは異なり,フェミニストの多くは,『ただの主婦』を人生の浪費と決め
つけてキャリア・ウーマンを賞賛しているわけでもなければ,政府からの援助に頼
って,女性のみでの家庭で子育てをする男性嫌いの聖母を奉っているわけでもな」
(Bryson 1999=2004: 164)かった.むしろ,現代フェミニズムは,女性にとって,
(性愛関係を含む)家族生活と職業生活は,そのいずれも手放せないような重要性
をもっているということを,共通認識としている.
むろん,レズビアン・フェミニズムからは,異性愛中心主義に対する強い批判が
あったこと等を受けて,現代フェミニズムは基本的に,セクシュアリティの多様性
を承認する立場に立っている.この点において,異性愛カップルを前提とした既存
の家族観に対しては,距離をとる.けれども,レズビアン・フェミニズムにおいて
も,性愛カップルの関係性の重要性自体を否定する立場は,多くはない.
あるいは,社会的に支援されるべき「家族」を,「性愛関係(婚姻)」によって定
義するのではなく,「養育(ケア)」によって定義するべきだという主張もある
(Fineman 1995=2003).しかし,ここにおいても,養育という活動へのコミット
メントの重要性は,否定されてはいない.
つまり,第 2 波フェミニズムは,家父長制的な近代家族だけを家族として承認す
るのではなく,家族の多様性を承認するように主張しているとは言いうるけれども,
「家族的関係の意義」をすべて否定したり,破壊したりすることを,主張している
わけではない.むしろ第 2 波フェミニズムは,人々が社会活動や職業活動を行いな
がら,家族生活を維持できるような労働環境・育児環境・介護環境の形成を主張す
ることによって,多様な家族観をもつ人々が多様な家族のあり方を実現できるよう,
社会を変えることを,主張しているのである.その意味においては,社会生活にお
ける家族の重要性を,第 1 波フェミニズムよりもむしろ強調していると言いうる.
2 「社会」と密接につながった領域としての「家族」
第 2 波フェミニズムの公私分離規範批判(1)
以下では,「近代家族」との関係において,現代フェミニズムの主張を理解する
うえで,もっとも重要な論点の 1 つである公私分離規範に焦点を当てて,現代フェ
ミニズムの主張を再考する.
1 節で見たような第 2 波フェミニズムの主張の背景には,「家族」という社会領
域を「私的領域」と位置づけるのかどうかということに関して,従来の見方とは異
なる「家族の見方」が存在する.
近代社会において「家族」は,他の社会領域から切り離された「私的領域」とし
て位置づけられてきた.近代社会は,王権や封建的身分制における貴族の特権を制
限し,個人の生命・自由・財産を犯すべからざる自然権として尊重する(古典的)
自由主義に基づき,民主的で平等な社会を理想として成立している.けれども,
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く,「家族」というあり方自体が,他の社会の構成のあり方と密接に結びついてい
るということを前提として論じられるべきだと考える点で,共通している.家事育
児介護労働を再生産労働と規定し,生産労働・市場労働とともに論じるべきだとす
る家事労働論や性別分業論,育児や介護に対する社会的支援論,ジェンダーという
視点から社会的再生産過程全体を俯瞰するジェンダー論,家族再生産やジェンダー
再生産を国や自治体の予算に結びつけるジェンダー予算論,夫婦間・恋人間の暴力
という,従来私的領域と考えられてきた DV(domestic Violence)を人権問題とし
て位置づける性暴力論等,現代フェミニズムのほとんどの主張が,「家族」(あるい
は親密な人間関係)の問題を「社会」と関連づけて論じている.
また,現代フェミニズムの現代社会理論に対する理論的貢献も,まさにこの公私
分離規範に関わっていたと言いうる.たとえば,マルクス主義フェミニズムは,マ
ルクス主義社会理論が,市場労働のみを理論化したのに対し,前述したごとく市場
労働と再生産労働をともに労働として位置づけ理論化した5).また,現代リベラリ
ズムに立つフェミニズムは,現代リベラリズムが,「家族」という「私的領域」を
「正義」を適用すべきでない領域として理論化したのに対し,「正義は家族に届かな
いのか」と強く批判した(Okin 1989=2013).いずれも,主流の(既存の)社会理
論が公私分離規範を前提として「家族」を社会理論の外においていたことを批判し,
「家族」を社会理論の中心に位置づけた.現代フェミニズムは,まさに「家族」を
社会の議論の焦点に据えた.この点において,現代フェミニズムは,他の社会理論
と比較してもっとも熱く「家族を語ってきた」と言いうる.
3 「女性の人権」の確立 第 2 波フェミニズムの公私分離規範批判(2)
しかし,現代フェミニズムには,公私分離規範に関連するもう 1 つの論点がある.
それは女性の「身体の自由」に関するものである6).「女性の人権は人権である」
という言葉が,世界人権会議から発出されたのは,20 世紀も最後の 10 年に入って
からのことであった.このことは,近代社会における「女性の人権」に関する認識
の確立が,いかに困難な課題であったかを物語って余りある.
なぜ「女性の人権」の確立が困難であったのか.それは端的に言って,女性たち
が「身体の自由」という自由権を認められてこなかったことに由来している7).男
性のみに人権を付与した近代社会において,女性は,そもそも人権を付与されるべ
き存在として構築されていなかった.女性は,その意思を尊重される自律的・自立
的存在ではなく,男性の保護と監督のもとにおかれるべき存在であり,当然女性の
「身体の自由」も,確立されていなかった.父親は,娘の意思に反して,娘の居場
所を決定することができた.結婚に関しても,父親は娘の意思に反して結婚を取り
決めたり,取りやめたりすることができた.また夫は,妻の意思にかかわらず妻の
居場所を決める事ができ,妻の意思に反して妻に対する性行為を行うことができた.
つまり,女性の正当な保護者である男性であれば,たとえ女性の意思に反した「女
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い.また,男性市民は女性と比較して,意思に反した性行為を強要される可能性は,
かなり低い.それゆえ,性や生殖における権利をとくに明確にしなくても,大きな
問題は生じなかったのではなかろうか.けれども,女性市民の人権保障を考える場
合には,それではすまない.それゆえ,婦人参政権実現後,第 2 波フェミニズムに
おける,「女性に対する暴力」の社会問題化・セクシュアリティの多様性の承認・
リプロダクティブ・ヘルス/ライツ等の主張が,20 世紀末に,生まれてきたので
ある.「女性の人権は人権である」という認識が,世界人権会議から発出されたの
が,20 世紀も最後の 10 年に入ってからのことであったのは,このようなことを背
景にしている.
むろん,セクシュアリティに関する人権概念の確立には,フェミニズムだけでは
なく,その他のセクシュアリティの多様性の承認を求める社会運動が深く関わって
いたことは,言うまでもない.近代社会において,「私的領域」を社会が介入でき
ない領域とされた結果,成人異性愛者男性は,そこである程度事実上の「性的自
由」を享受できていたと推測できるが,それはあくまで社会通念的に許容されてい
る範囲の性行動に関するかぎりのことであり,その範囲を逸脱しない範囲のことに
すぎなかった9).近代社会において,逸脱的性行為に対する社会的制裁は一般に非
常に厳しく,成人男性が社会的に許容されている範囲を逸脱した性行為に対しては,
厳しい社会的制裁があった.そもそも女性や子どもは,自らの意思によって性的行
為を行う・行わないことを決められる存在としては位置づけられておらず,性的対
象として身体的侵害を受けた場合にも,その侵害を訴える手段すらなかった.ゆえ
に女性や子どもが「性的自由」を享受することは,なかったのである.
しかも,近代国民国家の富国強兵策によって近代化以降,軍事力強化や工業化を
押し進めるうえで,国民の精神・身体を強化する政策の重要性が認識され,性意識
や性行動に対する国家統制が強化された.強く強靭(かつ従順な)精神と身体をも
った国民,強い策がとられるようになり,性と生殖に関わる意識や行動は,コント
ロールの対象とされた.国民の性意識や性行動をコントロールすべく,教育政策や
保健政策がなされ,性的逸脱行為を防止する教育や逸脱者への矯正措置や隔離政策
が,なされるようになった.宗教に基づく性規範が緩んだ後,国民国家による教育
政策や保健政策が社会統制機能を引き継いだのである.
女性の身体も当然,国家による社会統制の対象となった.良質な子孫を産み育て
るためには,未婚女性の純潔が必要とされ,自慰行為も厳しく統制された.つまり,
成人異性愛男性は,「身体の自由」権を,自由権のもっとも規定的な権利として享
受してきたにもかかわらず,女性は同じ「身体の自由」権を,婦人参政権確立以前
は無論のこと,その確立以後においても,十分に享受できる社会体制の確立をみな
いまま,20 世紀末まで,さらに言えば現在にまで,至っていたゆえに,第 2 波フ
ェミニズムは,女性の「身体の自由」を,その主要な主張の 1 つとして行わざるを
えなかったのである.
しかし,この女性の「身体の自由」を求める主張は,前節で論じた「公私分離規
4 第 2 波フェミニズムと「近代家族」
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対応する項目を指摘することは難しいが,(2)構成員間の強い情緒的絆,(3)子ど
も中心主義,(5)家族の集団性の強化,等に関連性をもつと考えるのが,妥当だろ
う.これらの項目は,「近代家族」における家族間の強い愛情的結びつきに関わる
項目である.しかし,「男性は仕事,女性は家庭」という性別分業を前提とすれば,
家族間の愛情の中でもとりわけ強調されたのは,女性の家族成員に対する愛情的関
与だったと考えられる.女性は,その居場所を家庭に定められることによって,
「家族的本質」をもつ存在として位置づけられたのである.中でもとりわけ強調さ
れたのが,母親の子どもに対する愛情であった.すなわち「近代家族」類型におい
ては,「自分のことよりも子どものことを優先する」強い愛情を子どもに注ぐよう
な母親像が作られた.この母親像を前提とすると,個人として自分自身の興味や関
心によって生きる女性や,「子どもの利害よりも自分の利害を優先する」女性は,
母親失格,女性失格として,厳しく指弾されることになる.
このような女性観は,女性の「身体の自由」権を否定する結果をももたらす.
「女性は自分の生活の都合よりも家族の生活の都合を優先するべきだ」という考え
方は,身体にもおよぶからである.
「女性は自分の身体の自由を,家族(子ども)
のために放棄するべきだ」とする社会規範があるからこそ,女性の身体的健康や人
生設計,さらには生命までも犠牲にして,出産が強制された.「頻産の悲惨さ」を
救うための産児制限運動,意思に反した妊娠出産を避けるための避妊法普及活動,
人工妊娠中絶の自由等の主張に対しては,女性が個人としての利害を家族よりも優
先させることと解釈され,過去において,あるいは現在においても,強い反対があ
るのである.
しかし,
「身体の自由(人身の自由)権」は,「個人の尊厳」を維持するうえでも
っとも基盤に置かれている基本的人権の 1 つではなかったのか.この権利なくして,
「個人の尊重」が可能だと言いうるのか.実際,婦人参政権確立以降も女性たちは,
「性と生殖」の領域において,性的に「人身の自由」を奪われ,また自分の身体を
「生殖の道具」とすることを強いる社会規範に縛られてきた.だからこそ女性たち
は,性と生殖の過程自体を,自らの意思のもとにおくこと,つまり性と生殖の過程
においても,女性が自らの生を,人格的統合を維持しつつ生きることができること
を,求めたのである.なぜなら,女性も「個人として尊重」されるべきだからであ
る.近代啓蒙思想において,「身体の自由」の否定は,自分の身体が他者の意思に
よって動かされること,すなわち人間の隷属状態を意味すると論じられてきた.女
性にとっても同様である.女性の「身体の自由」権の確立は,女性の人格的統合に
とって,個人の尊厳の確立にとって,不可欠の要件なのである.
つまり,「女性の人権は人権」として認められたのが 20 世紀末だとすると,「近
代家族」類型において女性は,
「人権を認められていなかった」ことになる.近代
家族において女性は,「家族的本質」をもつものとして位置づけられ,逆に「家族」
は,「女性にのみ」結びつけられてきた.近代社会において基本的人権をもつ存在
として位置づけられたのは,近代家族の家長という位置にある成人男性だけである
5 これからの家族とジェンダー ジェンダー秩序論からの考察
近代家族という類型が,「近代」における家族類型であるにもかかわらず,その
構成素に女性の「個人としての尊厳」を認めているとは言いがたい前近代的構成要
素を含んでいたとするならば,どうしてそれが可能だったのだろうか.
それを可能にした一因が,「生物学的性別」という近代社会固有の性別観にあっ
たことは,ほぼ間違いない.宗教的規範が性別観を基礎づけていた前近代とは異な
り,近代社会においては,科学が同じ機能を果たすようになる.近代家族類型を規
定した「生物学的性別観」は,主流社会科学における女性の扱いをも,規定した.
女性学やジェンダー研究が批判を展開するまで(あるいは分野によっては現在もな
お),
「家族領域」における女性の働きをすべて「自然的なもの」と位置づけ,ある
いは逆に家族以外の政治経済等の社会領域において,女性などいないかのような扱
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いをすること,あるいは女性を論じる場合には例外にすぎないかのような扱いを行
うこと等が,当たり前のように行われていた.
「女性は生物学的に男性とは異なっ
ている」ということを理由として,このような女性の扱い方が正当化されたのだ.
それゆえ,第 2 波フェミニズムは,そのような性別観を批判するために,ジェン
ダーという概念の導入を必要とした.ジェンダーとは,たんに性別や性差を意味す
るのではない.また,たんに「生物学的性別」とは異なる「社会的・文化的性別」
を,含意するのでもない.むしろ,「生物学的性別」という性別観を利用すること
で正当化された社会における女性の位置づけ(主流社会科学における女性の位置づ
けも含む)を批判的に考察する視点を,意味している.
ジェンダー概念の導入は,家族を見る見方を大きく変えた.生物学的性別のよう
な「社会外変数」によって家族内の役割分担を説明するのでなく,社会的・文化的
性別という「社会内変数」により説明することによって,家族関係を変動可能な相
において見ることを可能にし,家族と家族の外の社会領域に共通する変数として,
ジェンダーを位置づけ,家族を家族外の社会領域と密接な関連性をもつものとして
位置づけた.また,ジェンダーを,個人のアイデンティティにおいても大きな規定
力をもつ変数と位置づけることで,家族変動を,個人のジェンダー・アイデンティ
ティの変容と関連性をもつものとして位置づけた.ジェンダー概念の導入は,家族
変動を主題化するとともに,個人と家族と社会の,より複雑かつ密接な変動様相に
目を向けさせたと言いうるだろう.
本稿では「フェミニズムの家族への影響」を,フェミニズムの主張内容に対する
「社会の反応」「人々の反応」をも考慮に入れて,考察する.そのためには,個人と
社会と家族の複雑かつ密接な関連性をもっともよく理論化していると思われる「ジ
ェンダー秩序論」
(江原 2001)を適用することにする.ジェンダー秩序論によれば,
社会のジェンダー構造の再生産と変動は,社会成員の社会的実践による構造の再生
産と変動,および構造による社会成員の社会的実践の再生産と変動によって多重的
に規定される.「フェミニズムの家族への影響」を考える場合,まずフェミニズム
が個人としての社会成員の社会的実践に対してもたらす影響(フェミニズムに賛同
する方向での影響だけでなく,フェミニズムに反対する方向での影響も含む),フ
ェミニズムが法や社会制度に与えた影響,そこからの家族への間接的な影響などに
よって,複雑かつ多重的に規定されることになる.子細な記述は本稿では当然不可
能であるので,以下ではおもに,これまで論じてきた近代家族と公私分離規範に関
する論点に即して,概括する.
第 2 波フェミニズムの「家族」に対するおもな批判点は,女性の家庭内役割の過
重さを原因とする経済的自立の困難さに対する批判であったことは,すでに見たと
おりである.このことから,
「フェミニズムの家族への影響」を見る場合,しばし
ば「既婚女性の就業継続率」に焦点を当てる見方が,提示される.つまり「既婚女
性の就業継続率」が高くなれば,
「フェミニズムの影響」が指摘され,逆に「既婚
女性の専業主婦志向」が強まれば「フェミニズム離れ」が指摘されるのである.現
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周りからとやかくと言われるべきことではない」という感覚である11).この感覚
は,若い世代ではもはや「当たり前」に近いほど,強まっていると思われる.現代
社会においては,若年世代の女性の就業環境が悪化しているので,就業継続に魅力
を感じない女性も増加している.ライフコース選択に関して,
「専業主婦志向の高
まり」のような一見「近代家族回帰」に見える志向が生じているのは,そうした利
害状況を敏感に察知したうえでの選択であるかもしれない.そうであればそれはセ
ルフコントロール感の強化傾向と矛盾するものではなく,「性別分業」のハビトゥ
スを離脱するハビトゥスの現れと見ることもできるのである.そうだとすれば,今
後女性の就業行動や家族形成選択行動は,今よりもいっそう「利害に敏感に反応す
る」ものに変化していくだろう.
他方,フェミニズムによる女性の「身体の自由」権の主張は,「近代家族観」を
維持している一部男性たちにとっては,男性アイデンティティの基礎を直接揺るが
す「危機」として現出することに,注意が必要だろう.「女性の家族的本質」を前
提とする家族観やジェンダー観をもっている(一部の)男性にとっては,女性が
「身体の自由」権に基づく身体感覚を獲得していくことは,女性に対する支配権の
喪失体験として体験されると思われる.「家族」=「女性」という前提を置けば,
「女性に対する支配権の喪失体験」はイコール「家族喪失体験」を意味することに
なる.私見では,おそらくこの男性の「家族喪失体験」こそ,現代社会におけるジ
ェンダーをめぐる争いの中で,もっとも対処が難しい問題であるように思う12).
他方,フェミニズムの「ケア論」は,社会福祉・社会保障論に大きな影響を与え
た.
(大沢 2013).第 2 波フェミニズムが,「家族」を「社会」との関連性で論じる
理論的枠組みを形成していたのとまさに同じ時期,多くの先進資本主義国において,
「福祉国家」という文脈において,
「家族」が政治的イシューとなっていった.
「福
祉国家と家族に注目すると,両者の関係は相互規定的である.すなわち福祉国家が
家族の形態や構成の変化によって生じるニーズに対応するという方向性がある」け
れども,「他方で福祉国家が家族そのものの範囲や責任を規定するという方向性が
ある」(辻 2012: 4).「家族」は,他の社会領域から切り離された領域なのではな
く,国家・市場・コミュニティとせめぎあいながら,その範囲や責任を形成してい
るのである.女性が家事育児介護を担い続けるのかどうかということは,社会福祉
社会保障制度や雇用制度を作るのかということと密接に関連することであり,まさ
に社会政策の中心に置かれるべき事柄になっている.たとえば,エスピン=アンデ
ルセンは,
「福祉供給」における国家・市場・家族・コミュニティの責任分担のあ
り方を,福祉レジームという概念で把握した.また福祉国家化や市場化によって
人々の生活における家族への依存度が低下することを,
「脱家族化」という概念で
把握した.この福祉レジームという考え方自体が,「家族」とその他の社会領域を
連続的に位置づけるという点において,フェミニズムの家族の見方と重なり合うと
言いうるだろう.また,「脱家族化」は,女性の育児介護家事負担を軽減すること
と重なりあう.第 2 波フェミニズムが求めた女性の社会参加は,多くの国々で,社
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[注]
1) もっとも著名な著作としては,シュラミス・ファイアスト ンの『性の弁証法』(Firestone
1970)があげられる.
2) たとえば,日本を代表するフェミニストである上野千鶴子の現在の集大成は,『ケアの社会
学』である(上野 2011).
3) 家電製品は,家事の省力化には有効でも,育児などケアに関しては,ほとんど寄与しなかっ
た.それゆえ現代フェミニズムは,
「ケア労働」を問題の焦点に据えたのである.
4) たとえば,ナンシー・フレイザーは,「差異」と「平等」のジレンマを解消するモデルとし
て,
「普遍的ケア提供者モデル(universal caregiver model)」を提唱する.これは,男性の役
割を規範に,女性が男性と類似したライフスタイルを望むのではなく,男性が女性のライフス
タイルを目指すモデルである.
5) 上野(1990)等,参照のこと.
6) この「身体の自由」に関わる論点は,直接には「家族」に関する論点ではないにもかかわら
ず,フェミニズムを批判する立場からは,フェミニズムの「家族観」を象徴するものとして,
もっとも強く批判・非難の対象とされてきた.まさにこの点にこそ,フェミニズムが,家族に
ついて他のいかなる思想よりも「熱く語ってきた」にもかかわらず,「家族を否定する思想」
と思われているのかということを考えるうえで,重要なヒントがあるように思う.
7) 辻村みよ子は,1990 年代以降の国際人権論の分野における「女性の人権」論において,「女
性の人権」概念の用法の検討が不十分であることを問題として指摘し,その議論においては,
現在問題になっている「女性の人権」がおもに女性の身体的自由等の基本的諸権利を問題にし
ているという認識のうえで,
「近代以降,
『人権』が,男性と女性の両性からなる人間の普遍的
な権利であることが,宣言されながら,実際には女性がその主体から排除されてきた歴史を踏
まえて検討することが有益」
(辻村 2008: 9)だと指摘する.本稿も,基本的に同じ認識を共有
する.
8) 辻村によれば,リプロダクティブ・ライツの概念には,「リプロダクションの自己決定権」
と,「リプロダクティブ・ヘルスケアへの権利」の 2 つが含まれる(辻村 2008: 261).
「リプロ
ダクティブ・ヘルスケアへの権利」の意味を強めたリプロダクティブ・ライツを表す語として,
リプロダクティブ・ヘルス/ライツという語が用いられることが多い.
9) 同性愛行為は,キリスト教の中で宗教的に禁じられていただけではなく,刑法においても処
罰の対象とされていることが多かった.社会的にも強い禁忌がかかっており,同性愛行為が知
られただけで,社会的に抹殺されることもあった.また同性愛者に対する異性愛者男性からの
暴力的制裁が日常的に行われることもあった.
10) たとえば,このことは,フェミニズムに対する女性の若い女性の反感の一因が,「女性を犠
牲者として描く」ことにあることからも,見て取れるだろう.女性を犠牲者として描くことは,
結局のところ,女性自身を自らの行動に責任をとれない存在として描くことであり,そうした
描き方をするフェミニズムを「毛嫌いする」女性は多い.
11) 妙木忍は,戦後日本の「主婦論争」を 6 次にわたって考察しているが,妙木が第 5 次「主婦
論争」と位置づける「主婦論争」(1998-2002)の主要論者である石原里沙の『ふざけるな専業
主婦』(1998)その他の著作において,「専業主婦であるかどうか」よりも,「積極的に選んで
専業主婦であるのかどうか」を問題にする論点が強調されたことを指摘している(妙木 2009:
151).
12) ここでは,簡略のため,「身体の自由」権に関するフェミニズムの影響を,おもに個人のア
[文献]
Bryson, Valerie, 1999, Feminist Debates; Issues of Theory and Political Practice, Macmillan.(=2004,
江原由美子監訳『争点・フェミニズム』勁草書房.)
江原由美子,2001,
『ジェンダー秩序』勁草書房.
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64(4) 570
Feminism and Modern Family
EHARA, Yumiko
Tokyo Metropolitan University
EHRYMK@gmail.com