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2022 年 1 月 30 日

ニーチェへの応答 :「よき服従者」
— 哲学倫理学特殊 IID「哲学的なレポート」—

所属 文学部哲学専攻 2 年
学籍番号 12000555
氏名 荒金 彰

この考察では、「西洋哲学倫理学史 IV」の自由課題で扱った論題で、字数不足のため書ききれなかった内
容を記している。

目次
1. 導入
2. ソクラテスの擁護
3. 「よいもの」と「わるいもの」
4. ニーチェの道徳批判への反論
5. 「力への意志」理論への反論
6. 終わりに

1. 導入

ニーチェほど人々の間に不快感をもたらす哲学者は、多くはいないだろう。ニーチェはその著作
において道徳(とりわけ「奴隷道徳」)を攻撃している。その批判の要は、「道徳とは、弱者の精
神的優位を保証するための弱者による欺瞞」であるということである。ニーチェによると、弱者は
強者に力でもって対抗できないゆえに、怨恨(いわゆるルサンチマン)を募らす。そこで弱者は、
強者に対する精神的優位を得るため、「強者を善、弱者を悪」とする価値観を転倒して「弱者を
善、強者を悪」とすることによって「奴隷道徳」を生むのである。その代表格が、同情・平等・博
愛といったものであるという。
私がニーチェに対面する際に感じていた不快感は、ニーチェの問題意識が誠実であるために、
「意識の背後に隠されているべきものを暴く」性質のゆえに生じたものなのかも知れない。もし仮
に同情・平等・博愛を支持する理由が、我々の弱さの裏返しであり、強者への怨恨だとするなら
ば、その理由を我々は隠しておきたいと願うだろう。道徳は人間をよい状態へと導いてくれる神聖
で崇高なものであり、それを行う人間に誇りを与えてくれるものでなければならないと一般に考え
られているからである。
しかし道徳は、ニーチェが批判するような側面だけを持つのではない。私はこの小論で、道徳的
行為による評判ではなく、道徳法則に従う行為それ自体が当人を利する、ということを示したい。
道徳はそれ自体で人間にとって有益であるか、という問題は非常に古くから扱われてきた。例え

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ば、プラトンの『国家』の冒頭では「強者が道徳に服従することによる利益は何もない」という主
張に対してソクラテスたちが反論を試みるのがいかに難しかったが描かれている。またマキアヴェ
ッリの『君主論』においても「実際に道徳に従う行為は当人に不利益をもたらすが、道徳的である
かのように人々から思われることによる評判は、当人に有益である」ということが語られている。

現代の人々多くは、人と人とを結ぶ社会規範としての道徳に、かつてほどの権威は認めていない
だろう。場合によって道徳は宗教的で時代遅れのものとみなされるかもしれない。というのも、近
現代の西側諸国の人々の関心は、政府や共同体からの束縛を逃れ、個人が独立して自由を手にする
ことに焦点が当てられてきたからである。資本主義後期において物質的な豊かさが手に入り、生き
るために他の人間と協力する必要性が薄らいでいることは、多くの場面で指摘される。人類の歴史
が始まって以来、人間が共同体から孤立する傾向が、現代ほど強まった時代はないだろう。今日の
感染症の隔離の時代においてその傾向はますます顕著になっている。例えば、「道徳」から逸脱す
る「愚行権」を認め、「それが他者に危害を加えない限り」許される、と考える人も増えている。
このような時代において、ニーチェの道徳批判は多くの人々の問題意識を刺激するかもしれない。
しかし道徳とは、本当にそのような「守れたらよいもの」にとどまるのだろうか?道徳それ自体
が必然的に人間に利益をもたらす可能性はないのだろうか?その可能性はある、というのが本稿の
主旨である。道徳法則は、人間個人の力と人間の集団の力を発揮する際に必然的に守る必要が生じ
る。

2.ソクラテスの擁護

ギリシャの古典文献学者から出発したニーチェによれば、アポロンは、混沌を分割し明晰化と個
体化をもたらす理性の象徴であり、現実を超越する力を持つ。一方ディオニュソスは、形にならな
い混沌や、衝動と情念の象徴であり、生命の根源的な力である。
ニーチェは、世界の本質をロゴス(言語・論理)によって把握するためにディオニュソス的なも
のを追放したという理由で、ソクラテスを批判した。しかし私は、一部の非合理性を排除すること
に、一定の意義があると考える。
確かに、現象学の方面からしばしば指摘されるように、混沌としたものが生命の力の根源である
という主張は、全否定することが難しい。というのも、我々が世界を言語や論理によって明晰な形
で区切ることができるのは、それが我々の生命活動において有用だからであり、我々が我々の肉体
によって世界を認識する以前の次元では、世界は未区分であり混沌とも表現できるようなものだか
らである。また第二に、ディオニュソス的な非合理性を完全に排除し、アポロン的な合理性のみを
追求するならば、我々の生は実用的なものだけに焦点が絞られ、「遊び」を失い、無味乾燥でつま
らないものになるだろう。
しかしどうだろうか。仮にディオニュソス的なものの一部に価値を認めることがでたとしても、
その全部に価値が認められるとは限らない。つまり私が考えるには、ディオニュソス的なもの全体
には、「よいもの」と「わるいもの」が混在しており(この意味は直後に説明する)、後者「わる

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いもの」をあらかじめ退けるという理由で、一部の非合理性を退けるソクラテス以来の試みは支持
できるである。

3.「よいもの」と「わるいもの」

さて、「よいもの」と「わるいもの」の区別は何か。私は、調和が取れていて持続するものを
「よいもの」と呼び、調和が取れておらず持続しないものを「わるいもの」と呼ぶ。
まず、「生への意志」を持つ者全てが、望み通り生を獲得するわけではない。例えば、生命のな
かには、自然選択によって排除されるものもいれば、自然選択を乗り越え保存されるものもいる。
ディオニュソス的なものは「生への意志」を持つが、それらは全て未選別であり、その中には調和
の取れた健全体も含まれるが、調和の取れない奇形も含まれる。健全体は保存され、奇形は排除さ
れる。(なお健全性の定義は単純ではなく、必ずしも「肉体が強く美しいこと」であるとは限らな
い。肉体が弱く醜くても精神が整っていれば、人間は部分的に健全に生きることができる。)

調和の取れないものは、その個体内部で力が相殺されるため、長く存続するのに適していないか
ら、自然によって排除されるか自滅する宿命にある。例えば、「功利の一切を度外視して欲望の赴
くままに振る舞う人間」は、非合理的なもののうち調和の取れないものの一例である。このような
人間が自滅する運命にあることは多くの人に知られている。
反対に、調和の取れたものは、その個体内部で力が一方向に結束されるため、長く存続するのに
適しているから、自然によって排除されることも自滅することもない。例えば、「功利の一切を度
外視して他人を思いやる人間」は、非合理的なもののうち調和の取れたものの一例である。このよ
うな人間は、人と人との間の争いを終わらせ、共同体の力を一方向に結束させる(社会契約を促
す)ため、人間によって構成される共同体の能力と、その共同体の保護下にある人間個人の能力を
豊かにするのである。

このような理由で、自由は警告付きであると言える。ディオニュソス的(非合理的)であること
は可能なのだが、それがよい結果をもたらすとは限らないからだ。ニーチェは、社会における支配
的な見解によって思考や行動を束縛された精神とは逆の、自由精神を賞賛する。しかし、自由は、
一時的に認められて然るべきであるものの、いつまでも自由が有益であるわけではないと私は考え
る。例えば、人は自由な観点から事物を批判されることが許される。もし反対に自由に疑問を提示
することが制限されるなら、真理が本当の意味で理解されることも制限されるのである。真理を理
解するための批判的思考の自由は与えられて然るべきである。ただし人は一度なすべきことが理解
されたなら、自由を行使して真理を疑う権利を自発的に慎み、あたかも自由が与えられなかったと
きと同様に、自ら確認した「我を利する真理」に従って行為せざるを得なくなるだろう。というの
も、人はよい状態を望み、また自由の行為の結果を利益であれ不利益であれ引き受けるのは本人で
あり、かつ己の自由が他人によって阻害されない以上、自分に制限を設けることができるのは自分
だけだからである。これが私の結論である。

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4.ニーチェの道徳批判への反論

私とニーチェに共通するのは、「人間の生の上昇」(これはニーチェの言葉である)を支持する
点である。従ってここでは、「人間の生の上昇」へ到達するためには、ニーチェが主張したように
道徳を亡きものにする方法は不適当である、という形式でニーチェに反論する。前章で展開した
「個体内部の調和」と「警告付き自由」の議論は、同時にニーチェの道徳批判に対する反論となっ
ている。
私が思うに、ニーチェが批判するところの既存の道徳の一部は、人々が調和の取れない存在と化
すことから人々を遠ざける、という役割を持つ。当の道徳に従わずに放埒に振る舞えば、当人の内
部で調和が乱されるため、当人の生を下降させることになる。例えば、ニーチェが批判するところ
の、節制という弱者の道徳にも見える既存道徳は、我々の生を上昇させる作用を与える。好き放題
に飲食していては身体の健康を損ない、好き放題思考していては精神の健康を損なって、正常で有
効な判断が不可能になる。節制は、これらの危険から我々を守ってくれるのである。

ニーチェが奴隷道徳に分類した既存道徳のうちに、人間の生を上昇させることを目的として創設
されたものが含まれていると私は考える。ニーチェによれば、道徳の背後には「あまりに人間的
な」欲望が潜む。確かにその側面は確認される。同情が、相手よりも精神的優位に立ちたいという
欲求に、正義が、人々を利用するための利己主義に、由来している場合もある。しかし、全ての同
情や正義が、そのような欲望を起源としているという保証はどこにもない。同情や正義が、人間の
集団としての調和がもたらす力を発揮するために行われることもあり得るだろう。また、心の奥底
から邪念を排除したうえで、同情や正義に従って行為しようと努める者も、一定数いるだろう。そ
ういった人々の存在を、ニーチェは見落としているのである。
国家の内部には 4 種類の人間がいる。優れた支配者、劣った支配者、優れた服従者、劣った服従
者、である。ニーチェは「善い強者」と「悪い弱者」の対立の構図にもとに「優れた支配者」と
「劣った服従者」に注目するあまり、「劣った支配者」と特に「優れた服従者」の存在を見過ごし
てしまっている。この点が、次の「力への意志」という理論への非難にも受け継がれる。

5.「力への意志」理論への反論

ニーチェは、世界内の諸事物を、個々が常に力の増大を要求する「力への意志」という原理によ
って理解する。それによると、世界に生起する一切のものは「力への意志」を持ち、自己を維持し
発展させるために、多くの力の獲得へ向かうという。無機物も有機物、芸術・政治・宗教・道徳と
いったものも、全て「力への意志」が変形した形である。ニーチェは、遠近法主義のもと、全ての
存在者は自らの生の維持発展のために、それぞれの方法で世界を解釈し価値づけ、自身の世界解釈
を他のものに押し付けることで拡大し続けると考えた。

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しかし私が思うに、世界に生起する万物の本質は、常に力の不断の増大にあるわけではない。場
合によっては、自らを生かすために「力を抑制する」ということが必要になる。言ってしまえば、
世界を動かす原理は、厳密には「力への意思」ではなく、自己保存・生存への意志なのである。
例えば、プラトンの『プロタゴラス』の一節で、ソフィストであるプロタゴラスは神話の形式で
国家の原理を語っているが、その本質的な内容は非常に全うである。すなわち、人間がもし謙虚さ
や正義といった徳を持っておらず、優れた支配者になり得るだけで優れた服従者になり得なかった
ら、人間は集団を形成することもできず、より強い身体的武器を持つ獣との生存競争に敗れていた
だろう。またプラトンの『国家』では、いかなる悪人の集団であろうとも、その内部で争っていて
は、一つの悪事すら達成することができないということが考察の対象となっている。いかなる集団
も、その目的を達成するためには、構成員がその力を抑制し、支配者となることを諦め、全体に対
する優れた服従者となる徳を持っていなければならないのである。
人間の臓器においても同様のことが考えられる。もし肝臓が肝臓のことしか考えなかったなら、
肝臓を支えている人体はバランスが取れなくなり、やがては肝臓自身にも害が及ぶ。肝臓は自らの
力を、全身が活きるように調節しなければならない。脳が脳のことしか考えなかった場合もそうで
ある。同じように人間も、常にその生を保護し支えてくれる共同体がなければ安全に生きることが
できないため、共同体との関係を成立させる道徳に従うことが利益となる。なぜなら、人々が互い
に不正を行うのなら、人々は共同体に参画しない方が有益であることになり、共同体は解散する運
命に向かうからだ。

「全体と部分」の関係に着目すること。これは、近代の「全体による支配からの個人の解放」が
叫ばれた一時期を除いて、人類が持っていた、全体への優れた服従者の考え方に回帰することを意
味する。自然環境のなかで生きる人間社会は、自然環境との調和関係を保つのが適している。これ
と同様に、集団のなかで生きる人間は、集団との調和関係を保つことが適しているのである。
ニーチェは、道徳の内実が虚妄であると暴かれたことでニヒリズムが到来することを「神は死ん
だ」と表現している。しかし道徳が、部分と全体の関係を結びつけるものであったなら、どうだろ
うか。その道徳は生き続けている。なぜなら、いくらその道徳原理を無視しようとも、その原理に
従わないことによる部分と全体の分裂がもたらす不利益と、従うことによる部分と全体の融合がも
たらす利益は生じ続けるからだ。これは、人間の認識の有様によって左右されるということがな
い、普遍の原理である。

6.終わりに

以上の小論で私は、道徳的行為による評判ではなく、道徳法則に従うという行為それ自体が、当
人を利するということを示すことを試みた。道徳には、第 2 章や第3章で述べられたような「個人
を直接利する、個人における徳」と、第4章で述べたような「共同体と共同体の庇護下にある個人
を直接利する、個人の共同体における徳」の2つがあり、それらを区別することもより問題を明確
にすると思う。

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参考資料
[1] 柘植尚則編著『入門・倫理学の歴史 —24 人の思想家—』. 松戸, 梓出版社, 2016.
第 15 章「ニーチェ」,pp.157—166.
[2] Nietzsche, Friedrich Wilhelm 著, 丘沢静也訳.『ツァラトゥストラ 上』. 東京, 光文社, 2010.
[3] Nietzsche, Friedrich Wilhelm 著, 丘沢静也訳.『ツァラトゥストラ 下』. 東京, 光文社, 2011.
[4] Nietzsche, Friedrich Wilhelm 著, 中山元訳.『道徳の系譜学』. 東京, 光文社, 2009.
[5] Plato 著, 藤沢令夫訳.『国家 上』. 東京, 岩波書店, 1979.
[6] Plato 著, 中澤務訳.『プロタゴラス—あるソフィストとの対話—』. 東京, 光文社, 2010.
[7] Machiavelli, Niccolò 著, 河島英昭訳.『君主論』. 東京, 岩波書店, 1998.

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