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歴史の中の毛沢東

著者 竹内 啓, TAKEUCHI Kei
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review
International & regional studies
号 32
ページ 55-68
発行年 2007-12
その他のタイトル The Historical Role of Mao Zedong
URL http://hdl.handle.net/10723/1364
【書評論文】

歴史の中の毛沢東

竹 内 啓

Ⅰ)Philip Short: “Mao: a Life” Hodder and Stoughton 1999, paperback edition, John Murray 2005
Ⅱ)Jung Chang and Jon Halliday: “Mao: the Unknown Story” Jonathan Cape 2005

とも不利な立場に置かれている農民層にしても,
1. 「資本主義の道を行く」中国 人民公社の「強制された貧しさの平等」よりも,
資本主義下の「自由な不平等」の方を望んでいる
最近の中国の経済発展は,すべての人々の予想 ように思われることである。したがって,今後現
を越えた勢いである。1950 年代後半「工業生産で 在のほとんど「市場原理主義」的な経済グローバ
イギリスを追い越す」という目標を掲げた「大躍 ル化路線が修正され,また政治的民主化,自由化
進」政策は,3000 万人の餓死者を出すという悲惨 が進められることになったとしても,またその過
な大失敗に終わったが,
「改革開放」政策の下で年 程で必ずしも平穏でない政治的紛争が起こること
率 8~10%という高度成長を続けている中国経済 があったとしても,かつての「毛沢東主義」が復
は,いまや購買力平価で測定した総生産はほとん 活することはほとんどあり得ないことと思われる
ど日本の 2 倍に達し,工業生産の総量でアメリカ のである。
を追い越すほどになっている。しかしその一面所 事態の理解を困難にしているのは,毛沢東路線
得分配の不平等,都市と農村の格差は極端にまで からの 180°の転換が「反革命」はいうまでもな
拡大し「社会主義市場経済」を標榜する中国は共 く,政権内部の明確な権力移動さえないまま行わ
産党の一党独裁の下で,先進国において産業革命 れたことである。確かに毛沢東死後「四人組」の
初期に見られたようなむき出しの資本主義がはび 逮捕と裁判が行われて,
「文革派」は追放されたが,
こり,一方で先進国の富裕層を超えるような豊か しかしそれは中国共産党内部にも,中国社会全般
な生活を享受する人々が出現する中で,大多数の にも,あまり大きな波紋を起こすことなく行われ
労働者,農民,特に大都市近郊以外の地域の農民 たようである。むしろ対立はどこまで政治的自由
は,多くの開発途上地域の人々と同じような貧困 化を進めるかに関して生じ,1989 年の天安門事件
を強いられている。現在政治権力を握っている に至ったが,その混乱の中で政治的保守派が勝利
人々が,文化大革命中に毛沢東が政敵を表現した した後は,毛沢東路線からの完全な転換が,明確
「資本主義の道を行く実権派」そのものにほかな な宣言なしに行われたのである。「毛沢東には
らないことは,明確に証明されたといってよい。 70%の正しさと 30%の誤りがあった」というのが
もし毛沢東が現在生きていたとすれば,必ず「私 現在の中国共産党の見解なようであるが,何が正
はもう一度山に入って革命運動をやる」と言った しく,何が「誤り」であったかは明確にされてい
に違いない。 ないし,フルシチョフ時代に行われた「スターリ
しかし極めて皮肉なことに,現在の「改革開放」 ン批判」ほどの「毛沢東批判」も行われていない
路線は,中国人民に圧倒的に支持されており,もっ のである。

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しかし毛沢東の「功績と誤り」の客観的評価は, る。このことは必ずしも「中国の赤い星」の著作
結局近代中国,少なくとも 1911 年辛亥革命以降の としての評価を無にするものではないが,その記
中国の歴史の再吟味と再評価に基づかなければな 述を必ずしも客観的資料として依拠することはで
らない。そうしてそのことは,中国共産党がその きないことを意味している。
歴史に深くコミットしそして現時の中国共産党が このような状況の中で最近私は標記の 2 つの本
その歴史を引き継いでいく以上,現在の中国共産 格的評伝といわれるべきものを読んだ。
党,中国政府にとって極めて困難なことであるこ Philip Short は BBC の海外特派員として長年に
とも理解されなければならない。 わたり中国に住みかつ取材してきた。Jung Chang
したがって現在の中国共産党あるいは中国政府 はベストセラーとなった“Wild Swan”の著者,Jon
の毛沢東評価が極めてあいまいであり,中途半端 Halliday は彼女の夫で,イギリスの学者である。
であるのは,政治的には止むを得ないことである。 どちらも注をふくめると 800 ページ,厖大な一
しかし中国革命がこれまでに与え,そして今後強 次資料,関係者のインタビューに基づいて書かれ
大に発展した中国が世界に与える強大なインパク た本格的な評伝である。ただしそのことはこれら
トを考えるとき,毛沢東の歴史的評価を中国共産 が客観的に書かれたものであることを意味しない。
党の政治的立場の故にあいまいにしておくことは Short は努めて客観的,中立的であろうと努力して
できないことである。 いるところがうかがえるが,Chang and Halliday の
本はほとんど徹頭徹尾毛沢東に対する敵意に満ち
2. 毛沢東の思想形成 ており,すべての資料(それは極めて厖大である
が)は彼に対して悪意に解釈されている。したがっ
毛沢東の歴史的評価を行うに当たっての困難は, て引用されている事実そのものは必ずしも否定す
信頼できる,十分な資料に基づいた評伝がこれま る必要はないとしても,その解釈には疑問を持た
でに存在しなかったことである。ヒトラーやレー ざるを得ないことが少なくない。Chang and Halliday
ニン,そしてスターリンについては,これまで膨 によれば,毛沢東はその途方もない邪悪な野心に
大な書物が書かれ,そしてなおいろいろな歴史的 よって中国の歴史をねじ曲げ,幾千万の中国人の
事実の「真相」をめぐる論争は続いているものの, 命を犠牲にしたということになる。(「彼は平和時
ソ連崩壊後十余年を経,第二次大戦後 60 年を経た において 7000 万人以上の死をもたらした責任が
現在,ソ連のみならず,英米などの政府の文書も あり,彼は 20 世紀における世界のいかなる指導者
利用可能になって,それぞれの政治的行為の客観 よりも多くの死について責任がある」と冒頭に書
的分析が可能になっている。 かれている。)1920 年代からの中国共産党,国民
しかし毛沢東と中国革命については,まだ中国 党との内戦,そして政権獲得からその死に至るま
共産党や中国政府の内部文書は公開されていない での中国の歴史は,すべて毛沢東個人の権力欲と
し,それ以外の決して少ないとはいえない文書や 野心によって説明されることになる。それはいわ
資料も分析,整理されているとはいい難い。した ば歴史が優れた個人の理念と行動によって創造さ
がって毛沢東の評伝は,政治的な敵味方による政 れるという「英雄史観」の裏返しであり,毛沢東
治的意図の明白なもの以外はほとんどなかったと を歴史を思いのままに操ることのできる「悪魔」
いってよい。ある意味で古典的といってもよいエ と見る「悪魔史観」ともいうべきものになってい
ドガー・スノーの「中国の赤い星」にしても,著 る。
者が一定の政治的効果を意図して書いたことは明 それはともかく内容を追って紹介しょう。Short
らかであるし,また著者自身が必ずしも意識せず の本の最初の 4 章までは,毛沢東が共産党に入党
に,毛沢東自身や中国共産党による宣伝的な目的 するまでをかなりくわしく扱っており,辛亥革命
のために利用されていた面もあることは確かであ の混乱した状況の中での若き毛沢東の思想的遍歴

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がのべられていて興味深い。彼は一時クロポトキ 動かす英雄の崇拝につながる。毛沢東は水滸伝や
ン流の無政府主義友愛主義に魅かれ,マルクス主 三国志を愛読し,過去の英雄の行動の中から政治
義の暴力主義には反対した時期もあったとし,い 的リアリズム,ときにはマキアベリズムの多くの
ろいろ迷った末に共産主義に転じたという。マル 教訓を引き出したのであった。実際毛沢東は自分
クス主義者になった後にも,毛沢東の思想には若 自身を歴史的英雄になぞらえていたと思われる。
い日の思想の跡が残っていることを Short は指摘 まだ政権を取る前,アメリカの仲介による国民党
している。一つは無政府主義的傾向であり,もう との合作のため重慶に向かう飛行機の旅の際作っ
一つは西欧思想よりも中国の古典に親しんだこと た「雪」という有名な詞の中で,毛沢東は始皇帝
である。実際毛沢東は外国語は苦手であった。何 以来の中国の歴史上の大英雄の名を次々あげた後,
回も英語をマスターしようとしたがだめだったと 「これらの英雄もすべてそれぞれ欠けたところが
いう。また主意主義的傾向が強く,西欧マルクス あるが,真の英雄は現代に求めなければならない
主義にも強く流れている客観的科学を重視する傾 (自分こそそうだ)」と詠んでいる。
向は毛沢東には見られない。毛沢東の初期の著作 Chang and Halliday は Paulsen の本への注釈を毛
として有名な湖南省の農村調査報告についても, 沢東の考えの中核となるものとして引用している。
個々のケースについて詳細な事実を厖大に積み上 「私は道徳的であるためには人の行動の動機は他
げながら,そこに働いている社会の流れ,客観的 の人の利益になることでなければならないという
法則性というようなことにはほとんど触れていな 考えには組しない。道徳的であることは他の人々
いと Short は指摘している。この点は科学を重視 との関係で定義されるものではない。私のような
し,客観的法則性を強調したレーニンとは対照的 人間は,われわれの望むことを果たそうとする。
であったと私は思う。毛沢東は中国の古典を愛し, そうすることによって,われわれは自動的に最も
自ら「詞」というスタイルの詩を作った。
(その詩 価値ある道徳的基準を持つことになる・・・私の
集は日本でも出版され一時かなりよく知られてい ような人間はただ自分自身に対してだけ義務を負
た。)毛沢東は人々を政治的に操ることについては い,他の人々には一切義務を負わない・・・」さ
恐るべきリアリストであったが,一面では詩人で らに「私は自分の知っている現実についてのみ責
あり夢想家であったと思う。それが後に大躍進政 任を持ち,それ以外のことについては一切責任を
策,人民公社による共産主義社会の一気の実現と 持たない。私は過去を知らないし,未来を知らな
いう壮大な夢想を生み出し,結果として中国社会 い。それは私自身の現実とは関係がない。したがっ
に大きな惨禍をもたらすことになったのであった。 てまた死後の名誉や将来の世代のための仕事など
その素地は彼が共産主義者になる前の若き日に作 ということにも一切関心ない。」
られたものであるということを Short の本は示し Chang and Halliday は,絶対的な利己主義と無責
ている。 任が毛沢東の性格の中核であるという。彼は自分
Short は毛沢東がまだ学生であったころ,新カン が一切の制限や抑制にとらわれない特別な英雄の
ト 派 の 哲 学 者 Friedlich Paulsen の “ System der 一人であると信じていた。そうして彼等がもたら
Ethik”を読んで影響を受けたこと(そのことを毛 すものは,破壊と混乱であった。毛沢東は書いて
自身延安でスノーに語っている),そうして残され いる。「長く続く平和は耐え難い。平和の状態に
ている中国語訳本の書き込みから,毛沢東が,強 あっては混乱の潮波を作り出さねばならない。
力な集権国家の必要性,強力な意志の重要性,そ 我々が歴史を見るとき,次から次へとドラマが生
して個人中心の 3 つのポイントを引きだしている み出される戦時を喜び,それを読むと大変面白い
ことを指摘している。ここで強力な中央集権国家 と思う。平和と繁栄の時期になると退屈する・・・」
は西欧の近代国家よりも,中国の伝統的な王朝の 彼は本を読むことと現実を混同し,人々の悲惨
イメージに近い。また個人の意志の強調は歴史を な運命と死を全く気にかけなかったと彼らはいう。

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Chang and Halliday の毛沢東の解釈は単純明快 座に登った漢の高祖・劉邦,明の洪武帝・朱元璋


である。つまり自分の欲望を満足させること以外 のような「英雄」に通ずるものを感ぜざるを得な
に全く関心を持たない利己主義者,そして世界の い。そのような「カリスマ性」をもたらすものが
破壊と混乱をもたらして,世界を自分の思うまま 何であるのか,二つの評伝を読んでもよく分から
に従えようとする権力主義者,簡単にいえばいわ ないところが残る。それは「史記」の中で「劉邦
ば「完全な悪人」
「悪人の理想型」とでもいうべき は将に将たる器だった」と書かれていても,結局
ものになっている。 よくわからないところがあることに通ずる。
しかしこのような見方には疑問を持たざるを得
ない。もし毛沢東が単なる「完全な悪人」であっ 3. 新中国政府成立まで
たとしたら,なぜ彼があれだけ多くの人々にあれ
だけの影響力を持ち得たのかは大きな疑問として Short の 本 で は 次 に 「 The Comintern Takes
残る。彼がいかに政治的操作と権力の行使に長け Charge」と題された章で,毛沢東が共産党に参加
ていたとしても,それだけですべてを説明すると してから蒋介石の上海クーデターによって国共分
すれば,他の数億の人々は,すべて「大悪人」の 裂が決定的になるまでの,国共合作期での毛沢東
乾分(こぶん)になりたがる「小悪人」か,簡単 の活動を扱っている。この間毛沢東が 1927 年に行
に欺かれてしまう「馬鹿者」ばかりであったとい い,その結果を「湖南農民運動の調査報告」にま
うことになる。それはあまりにも馬鹿げた考え方 とめた調査を通じて,彼の考えが大きく変わった
である。 こと,農民の地主に対する反抗運動こそが中国に
そもそも歴史上の「英雄」なるものは,すべて おける革命の主体となるべきであり,そしてそこ
「大悪人」の素質を備えているといってよいであ での農民の暴力行動は抑制されてはならないと考
ろう。しかし「英雄」には何かそれ以上の人をひ えるに至ったことが述べられている。ここに有名
きつけるものがなければならない。毛沢東は確か な「革命は人々を晩餐に招くことではない」
「革命
に私生活,とくに女性関係ではかなりルーズで においては行き過ぎた行動は絶対に必要である」
あったことは今ではよく知られているし,よく という言葉が現れる。毛沢東は共産党に入党した
いっても通常のモラルや人情に捉われていなかっ ときにはすでに革命のためには暴力行使を厭わな
たことは事実である。しかし毛沢東が悪人であっ い暴力革命主義者になっていた。しかしその暴力
たというだけでは,なぜ彼が長い権力闘争の末に 革命はスターリンのように(あるいはレーニンも)
中国共産党内で主導権を獲得して,蒋介石との内 政治権力を奪取した後は,権力の暴力行使によっ
戦に勝ち,遂には 8 億を越える中国の人々の上に て「上から」反対勢力を抑圧するのではなく,貧
絶対的権力を振るうことができるようになったか 農の地主に対する「下から」の暴力を容認,ある
の説明にはならない。毛沢東はヒトラーのような いは扇動するというものであった。その考えがこ
雄弁家ではなかったし,レーニンのような鋭い筆 の時期に成立したものと見られる。後には毛沢東
力を持った理論家でもなかった。またスターリン は自分の権力を確立するために「下からの暴力」
のような組織を操る実務家としての能力や勤勉さ を作り出すようになったのである。
も持っていなかったように思われる。それにもか Chang and Halliday はもちろん,最初から毛沢東
かわらず,毛沢東が権力闘争において最後まで勝 が自分の権力を確立するために,テロを組織した
ち抜くことができたのはなぜか。それは一つの大 と主張しているが,しかし個人の野心だけで革命
きな謎であるし,Chang and Halliday のような単純 が生み出されるものでないことは当然であろう。
明快な理論(?)で割り切ることは到底できない 毛沢東は先の「農民運動報告」の中で農村におけ
ように思われる。私はやはり毛沢東に,低い身分 る革命をいわば「発見」したように述べている。
から身を起し激烈な権力闘争を勝ち抜いて皇帝の 実際彼自身はいわば富農の出身で,後に農民運動

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を「指導」するようになっても,自らが農民とし 引きこもってしまい,また実際に体調も悪くなっ
て農民運動に関わったことは一度もないことは注 てしまったのである。毛沢東は日常的な行政事務
意すべきである。とすれば彼が「発見」したもの はおよそ嫌いであり,夜更かし朝寝坊で「勤勉」
は何であったか。それが 2000 年以上の長い歴史を とは程遠い生活スタイルであった。健康面でも生
持つ中国の「農民運動」の伝統とどのように結び 涯便秘に悩まされ,絶えず不調を訴えていた。長
つくのか。またそれが 20 世紀の中国社会の中でど 征やその他の経験に耐え,82 歳まで生きた毛沢東
のような意味をもっていたのかを改めて分析する は「病弱」であったはずはないが,
「頑健」という
必要があると感じられる。Chang and Halliday のよ には遠かったし,絶えず煙草をのみ,女性関係も
うな「反毛沢東主義」者や逆に毛沢東崇拝論者は, ほとんど「ふしだら」といってよいほどで,不健
ともに「農村革命」を毛沢東の「発明」であるか 康な生活であった。文化大革期に長江を泳いで健
のようにいうが,それが誤っていることは明白で 康を誇示したこともあったが,日常的にスポーツ
あると思う。この点を解明することは,毛沢東と に親しんだこともなかったようである。毛主席の
中国共産党の活動の底にある,中国農村社会の歴 日常生活は,一般民衆や一般党員の目からは注意
史的な流れを知るために重要な点である。毛沢東 深く隠されていたのであって,毛沢東の「カリス
や共産党はその流れに乗り,それを利用し,場合 マ性」は,オープンなリーダーシップから生まれ
によってはそれを歪めたかもしれないが決してそ たものでなかったことは確かである。
れを創り出すことはできなかったはずである。 江西ソヴエト政府の建設について,Chang and
実際中国共産党の成立から国共分裂に至る期間, Halliday は単純に毛沢東がその地域の共産党の
生まれたばかりの共産党も,それを「指導」した 作った基地をテロで乗っ取ったものとしている。
コミンテルン,そして国民党の側もかなり右往左 Short はよりくわしく経過を説明しているが,
“Futian
往したことは Short の本の記述からも知ることが (福田)
:Loss of Innocence”という短い章で「AB
できるし,その中で個人の行動も,それぞれのイ 団事件」という,でっち上げによる粛清が行われ,
デオロギーと個人的野心とが入り混じってジグザ 多くの党員やゲリラ隊員が拷問,処刑されたこと
グになるのも当然であり,毛沢東も例外ではな が述べられている。Short はそれが毛沢東によって
かった。辛亥革命後の中国のような混沌とした状 計画されたものであるとはいっていないが,結果
況の中ではそれは当然であり,その中にコミンテ 的に地元の党員が多く殺され,主導権が毛沢東以
ルンを通したスターリンと毛沢東の一貫した野心 下の湖南組に移ったことを示している。毛沢東の
と「邪心」を見る Chang and Halliday の見方は偏 中国共産党においては,政治的に擁立した「大物」
見の産物としかいえないであろう。 の指導者は批判に曝され,失脚し,あるいは追放
毛沢東の政治的生涯における次の段階は,蒋介 されたが,スターリンのソ連のように直接裁判に
石のクーデターに続く湖南省での蜂起,そして大 かけられ処刑されることは無かった。それが毛沢
弾圧大殺戮から江西省での瑞金ソヴエト政府の成 東とスターリンの「独裁」のスタイルの違いを外
立,毛沢東の政府主席就任までである。Short の本 部に印象付けたが,しかし毛沢東の中国共産党も,
にはこの時期の過程もかなりくわしく描かれてい 一般党員やその他の同調者のように,いわば「小
る。この段階で共産党ははっきり国民党や他の党 者」に対しては,康生の指揮下にあった秘密警察
派と訣別し,武力による独自の政府の設立に踏み が,KGB と同じように恣意的な逮捕,拷問,投獄,
切るということになるが,興味あることはその中 処刑を行い,テロによる支配を行ったことを Short
でも党の主導権は周恩来らの手にあり,毛沢東は は明らかにしており,それが江西ソヴエト政府の
国家主席の地位についたにもかかわらず,しばし 建設以来始まっていることを指摘している。
ば党の指導部から疎外されていたのである。また 江西ソヴエト政府は蒋介石軍の包囲攻撃を 4 回
彼自身,そのような場合には病気と称して勝手に にわたって耐えたが,第 5 次の徹底的な包囲殲滅

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作戦によって遂に崩壊し,赤軍は根拠地を放棄し 主張するであろうが,しかしそのような大きな犠
て有名な「長征 2 万里」に向うことになるが,こ 牲を払って遂行された「革命」とは要するに何で
の間江西省での人命の被害は莫大であった。それ あったかが改めて問われなければならないであろ
については Chang and Halliday はすべてを赤軍の う。
責任にしているが,Short はテロにはテロで応酬し 江西省の根拠地を失った共産党軍は有名な「長
た双方に責任があることと述べており,それは正 征」に向うことになるが,毛沢東はその途上の遵
当であろう。先に私が紹介した「中国人口史」
(『国 義会議で,主導権を周恩来等から決定的に奪うこ
際学研究』25 号,2004 年)の中でも 1920 年代か とに成功したことも知られている。Short はそれよ
ら 30 年代にかけて江西省の人口が 2400 万人から り少し前に開かれた Tongdao(同島?)でのあま
1600 万人に 3 分の 1 減少したという記述があるが, り知られていない会議の方が実はより重要であっ
正確な数字は知ることができないとしても,この たとしているが,いずれにしても彼はこれまでの
間数百万の人命が失われたことは確かであろう。 「失敗」の責任を周恩来やあるいはコミンテルン
そしてその大部分は戦争に巻き込まれた一般農民, から派遣された Otto Braun の責任として追求し,
市民であったに違いない。また戦闘員にしてもど その「誤り」を認めさせたのであった。
ちらの側も自発的に志願した兵士から成り立って 神話化されている「長征 2 万里」について Chang
いたわけではなかった。共産党の方も脱走を試み and Halliday はほとんどについて嘘であるとし,実
たものは処刑されるという強制された規律の下で 際は「長征」ではなく,蒋介石軍によって誘導さ
戦っていたことを Short は示している。革命戦争 れたものであり,蒋介石の目的は共産党を追尾す
や内戦は,しばしば国際的な紛争よりも残酷なも ることによって,軍閥の割拠する西南の諸省に軍
のになるが,中国革命もその例外ではない。その を進めることにあったという。そして毛沢東は自
いわば「戦争責任」はしばしば敗者に一方的に押 分の主導権を脅かすような指導者のいる根拠地に
し付けられることになるが,しかし実際には一方 早く到着することを恐れて,ことさらに廻り道を
の側にのみ,あるいは特定の指導者にのみ帰せら し,またある時はわざわざ自軍の敗北を招くよう
れるものではないであろう。それだけにそれにつ な不要な戦いをしかけたという。一方「大渡河渡
いてのいわば正当な歴史的判決をどのように下す 河作戦」のような英雄的戦闘の話はすべて架空の
かは難しい。ロシア革命の際にも内戦は多くの犠 話だったといっている。彼等の説は信じ難いが,
牲者を出した。しかしその際少なくとも責任の一 Short はこの点ではもっと慎重である。伝説化され
半はいろいろな反革命勢力を応援して干渉した帝 た「長征 2 万里」をすべて真実であるとする必要
国主義諸国にあったが,中国国共内戦においては, はないが,しかし敢えてその全体を否定する必要
軍閥間の内戦には干渉した日本やその他の勢力も はないであろう。
直接には介入しなかったし,また共産党を支援し 長征の後もなお毛沢東は,元来西北の根拠地を
たコミンテルンあるいはソ連も,Chang and Halliday 築いた張国燾とモスクワ帰りの王明の勢力を打破
が主張しているのとは違い,それほど主導権を しなければならなかった。毛沢東が党内で絶対的
持っていたわけではないであろう。中国内戦の犠 な,独裁的な権力を握るに至ったのは延安での「整
牲者がどれだけの数に上ったか,正確な値は不明 風運動」を経た後であった。この運動については,
であるが,恐らく一千万のオーダーに上ったと思 スノーの本などを通じて理想化されたイメージが
われる。その責任は Chang and Halliday の主張す 伝わっているが,それが他面政治的な権力闘争,
るように毛沢東にのみあるわけではないが,少な しかも見方によっては打倒された政敵に屈辱的な
くともその一端が毛沢東にもあることは確かであ 「自己批判」を強要する,かなり陰険な政治的キャ
る。そうして毛沢東自身はそれを敢えて避けるこ ンペーンであったことも見て取ることができる。
となく,それは「革命のために必要であった」と そしてそれが後に至るまで毛沢東が反対派あるい

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は反対派と判断したものを処断する基本的な方法 乱させ,命令の伝達を妨げて,衝突を作り出した
となったのである。 としている。これもいささか信じられないことで
延安到着後,対日戦,そして内戦の勝利に至る ある。しかし,抗日戦において共産軍がもっぱら
まで,Chang and Halliday は長々と書いているが, 日本軍と戦い,国民党軍はいわば「さぼって」い
結局すべてをスターリンとコミンテルン,そして たという共産党側の宣伝も,その全く逆も正しく
その支持を得た毛沢東の謀略に帰着させている。 ないであろう。どちらの側も対日戦終了後をにら
その中にはかなり荒唐無稽というに近い話もある。 んで「一面協力,一面対立」を行い,抗日戦と同
例えば 1929 年の張作霖爆殺事件を KGB の工作だ 時に自らの勢力の拡大をはかっていたことが事実
としているが,これが関東軍河本大作大佐の行っ であろう。そして双方において一般の軍人や兵の
たことであることは,その直後から日本政府の上 多数は,やはりナショナリズムに動かされて「ま
層部に知られ,その処理が政治的大問題になり, じめに」戦っていたことは事実であると思う。抗
ひいては昭和天皇の怒りを買った田中義一首相の 日戦におけるそれぞれの貢献を客観的に評価する
辞任にまで至ったことは,すでによく知られてい ことは,まだ今後の課題であろう。なお Short の
ることである。今ごろこのことを元 KGB 将校の告 本にはこの問題はあまりくわしく論ぜられていな
白などというものに基づいて KGB のしたことと い。
主張していることは,Chang and Halliday の本の全 内戦における共産軍の勝因として,Chang and
体の信用を失わせるものである。それにもかかわ Halliday はスターリンの援助,コミンテルンが国
らず,日本の右翼の論者の中にはこの本を証拠と 民党の軍と政府の高い地位に送り込んだスパイ
して「張作霖殺害も,満州事変もコミンテルンの (“もぐら”),そしてアメリカの内戦における仲介
謀略であった」などと主張する者も現れているの という形での援助を上げている。もちろんそれら
は何をかいわんやである。 の要因もあったにしても,共産軍側の要素が決定
また Chang and Halliday はヒトラーとスターリ 的であったに違いない。国民党軍の中の一部幹部
ンの間で独ソ同盟条約が結ばれてポーランドが両 の「裏切り」については,そのようなことが,と
国の間で分割された後,毛沢東は同様の条約が日 くに内戦末期にはあったとしても,内戦の場合状
ソ間で結ばれ,中国が日本とソ連の間で分割され, 況が決定的になるような段階では「勝つ」と思わ
彼自身がソ連支配地域の首領となることを望んで れた側に雪崩を打って加わる現象が起るのは不思
いたと主張している。三国同盟にソ連を加えて, 議ではない。やはり国民党政府の腐敗,それによっ
対米英四国同盟とすることで,イギリスを屈服さ て国民の支持を失ったことが大きな要因であった
せるという動きが全く無かったわけではないが, ことは疑いない。それに対して共産党軍(人民解
しかし中国を日ソで分割支配するなどということ 放軍)がより清潔なイメージを持たれていたこと
は,日本の軍もスターリンも想像さえしなかった は事実であると思う。共産側の勝利を,外部から
はずである。いわんや毛沢東がそれを望んでいた の援助と毛沢東の権力闘争における「悪どさ」に
などというのは馬鹿げた話である。 帰する Chang and Halliday の考えはやはり偏って
彼等は有名な西安事件,その後の抗日戦におけ いることは疑いない。しかし逆に内戦における共
る国共協力の中で,毛沢東はひたすら蒋介石の打 産軍の勝利を「正義の勝利」とする中国政府の正
倒を目標として,自分の権力を保存することだけ 統的な立場も一面的であるといわねばならないだ
に努めて,時には共産軍の指導者の意にも反して, ろう。
抗日戦を極力避け,国民党軍の力を減らすことを Short の本では第 2 次大戦終結後の内戦の軍事
はかったという。共産軍の新四軍が国民党軍に包 的経過が客観的にのべられているが,その背後の
囲攻撃され大きな被害を出した事件についても, 社会的状況についてはあまりのべられていない。
Cnang and Halliday は毛沢東がことさら通信を混 内戦の歴史の客観的分析はまだまだこれからの課

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題であろう。一ついえることは毛沢東は持久戦論 については,すべてが毛沢東の策略であったのか,
や遊撃戦論という形でゲリラ戦を強調したにもか それとも彼自身予期しない事態の展開に流された
かわらず,内戦における実際の勝敗は,やはり林 のかという問題がある。Chang and Halliday はもち
彪や彭徳懐の指揮下の軍隊による通常戦によって ろん前者の考えで,毛沢東は「大躍進」について
決定されたと思われることである。もちろん毛沢 もそれが非現実的であることを十分知っていなが
東によればそれはゲリラ戦によって敵が消耗して ら,核武装による軍事大国を建設するために農民
しまった後の最後の段階にあるということになる を最大限搾取するために遂行したのだという。そ
であろうが,果たしてそうだろうか。 れは極端な考えであって,彼等は毛沢東をいわば
「全知全能の悪魔」とする傾向があるが,しかし
4. 新中国成立から毛の死まで 私も「百花斉放」は毛沢東が仕掛けた「わな」で
あったという方が正しいと感じている。毛沢東は
1949 年以後の主要な政治的事件として,解放と 自分自身,伝統的な中国知識人の性格を強く持っ
ともに進められた農地改革,1950 年の朝鮮戦争, ていたにもかかわらず(あるいはそれ故に?)知
そして 1957 年の「百花斉放,百家争鳴」その「反 識階級に強い不信感を抱いていたので,それを「わ
右派闘争」への転換,その直後から始められた「大 な」に掛けて引き出し撲滅しようとしたとしても
躍進」,人民公社化,1954-61 年の大飢饉,その 不思議ではないと思う。そしてまた中国の伝統社
後の大躍進路線の修正,そして 1966 年からの「文 会において,知識人と官僚=地主階級とが一体化
化大革命」,劉少奇の失脚,林彪の「反逆」と死, していたことを考えれば,地主階級を打倒する階
そして 1976 年周恩来と毛沢東の死,等が挙げられ 級闘争が知識階級にも向けられたのも当然である。
るであろう。また対外関係においては,朝鮮戦争 しかし,
「大躍進」政策については,やはり毛沢
について 1953 年のスターリンの死,1956 年フル 東は後から考えれば荒唐無稽と思われる数字を信
シチョフの「スターリン批判」とハンガリーの反 じたのであろう。それは彼の現実認識の弱点で
ソ暴動,中ソの決裂,そして 1971 年ニクソン訪中 あったと解釈すべきであると思う。ただ他の共産
による中米の国交回復と国連への参加,等があげ 党幹部が報告された数字が誇大であることを知ら
られるであろう。 なかったはずはないし,1959 年の廬山会議におけ
その中からいくつかの問題点が生ずる。 る彭徳懐の批判に多くの幹部は内心では同意した
新中国成立後,しばらくの間,少なくとも外部 に違いないが,その会議における毛沢東の巧妙な
からは中国共産党の改革は,ソ連共産党とくらべ 政治的工作によって,政策に対する批判が毛沢東
てずっと穏健なように思われていた。実際初期の に対する「反逆」にすりかえられてしまったため
経済政策や資本家に対する公表された政策は極め に,批判を封じ込められてしまったのである。し
て穏やかなものであった。しかしすでに内戦期間 たがって 1962 年の「7000 人大会議」の時には圧
中から,農地改革の中では厳しい「階級闘争」路 倒的多数の人々は「大躍進」政策の修正に賛成し
線が採用され,地主に対する「人民裁判」が行わ たのであった。毛沢東は撤退を余儀なくされたが,
れて,多くの地主や富農が糾弾され,迫害され, 彼は「大躍進」政策が 1959-61 年の大飢饉の根本
処刑されたのであった。Chang and Halliday はいう 原因であったことを認識したか否かは明確ではな
までもなく Short も百万を越える人々が処刑され い。彼はむしろもしも大飢饉が人災であったこと
あるいは自殺に追い込まれたと書いている。 を認めるとすれば,それを下部の党員の責任にし,
Short はまた朝鮮戦争の勃発が,毛沢東にとって 基本的な政策そのものは間違っていないと主張し
国民に対する厳しい引き締めを行うのに極めて好 たに違いないと思う。
都合だったといっている。 1966 年から始められた「文化大革命」は,毛沢
「百花斉放」から「大躍進」に至る一連の過程 東の共産党幹部に対する「巻き返し」であった。

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歴史の中の毛沢東

1960 年代の経験を通して毛沢東はほとんどすべ クソンの訪中,中米国交回復は毛と中国にとって


ての党幹部が内心では(場合によっては本人が意 救いであった。
識することなく)毛の路線に反対であることを 1970 年代には,毛沢東の健康も悪化し,その政
知ったのであった。政権を握った党幹部にとって 治的指導力も衰えて行ったようである。彼は最後
は「階級闘争」よりも国の繁栄と国力の増強の方 まで文革路線に固執したが,江青,張春橋,王洪
が重要と思われたのである。実はその点が毛沢東 文らはそれを引き継ぐ力量のないことは毛沢東に
にとっては許せないことであったが,逆に多くの とっても明らかなことであった。彼は表面的には
党幹部はなぜそれが悪いのかほとんど理解できな 文化大革命は成功であったと主張しつづけたが,
かったようにも思われる。 内心ではそれが失敗であったことを認めていたか
「文化大革命」は,毛沢東が中学生から大学生 どうかははっきりしない。
の若者,あるいはほとんど子供を動員して,既成 中国共産党の長い歴史を通して興味あることは
の秩序を破壊するという,世界史上にもない(も 毛沢東と周恩来の関係である。長征までの期間は
ちろん中国史にも前例のない)極めて異常な事件 両者の路線はしばしば対立し,そして党内の実権
から始められた。それについては毛沢東が江青ら は周の方が握っていた。しかし長征を経て延安以
を通して,党や政府の幹部に気づかれない間に種 後はその死に至るまで周は毛の完全に忠実な部下
を播いたことは事実であるにしても,なぜ一気に になり,そして毛の指示のままに内政,外交の実
あれほど燃え上がり,かつ暴力が横行したか,よ 務を精力的に遂行した。そしてまたその人格的魅
く理解できないところがあるし,ここに上げた 2 力によって内外の多くの人々を魅惑し,中国共産
つの本もその点納得の行く説明を与えていない。 党や中国政府に対する信頼を勝ち取ることに貢献
ただこれをきっかけにして 1970 年に至る間に,政 した。しかし裏面では,毛はしばしば周を疑い,
治的には直接の関係は全くない世界中,西ヨー 「批判」したのであった。そしてそのたびに周は
ロッパ,アメリカ,日本において「学園紛争」が 毛に全面的に屈服し,屈辱的な「自己批判」を行
多発し,それが共産党をふくむ既成の左翼政党を い,また毛に批判された人々を容赦なく批判し,
否定する過激な革命主義と,しばしば対立するセ また毛が迫害した人々を救おうとしなかった。
クト同志の暴力的紛争へと変わったことが思い合 Chang and Halliday は,周は毛に対し奴隷的に追従
わされる。そのような現象はいずれにしても多分 したといい,それはひたすら自己保身のためで
に「わけのわからない」ものであった(アメリカ あったといっているが,しかしこの 2 人の間には
においては「ベトナム戦争反対」がどうやらまと もっと複雑な関係が存在したと思われる。
もな「大義名分」を与えていたが)。中国において 毛が皇帝の権力を望み,保持しようとしたとす
「文化大革命」は熱狂的な毛沢東個人崇拝を生み れば,周はまた皇帝の下にあって皇帝を支えると
出したが,
「毛沢東語録」を振りかざした紅衛兵達 同時に,皇帝の過ちや恣意から人民と国家を守る
が,毛沢東の思想を本当に理解していたとは思わ 「宰相」としての役割を自覚していたように思わ
れない。したがってまた逆に文化大革命によって れる。そして周の中国国家についてのビジョンは
毛沢東の狙った党幹部は打倒されたが,その進行 やはり毛のそれとは根本的に異なるものであった
は必ずしも彼によってすべて統御されていたわけ と思われる。しかし周にとって自らのビジョンを
ではなかったと思う。 表現するための第一の前提は毛に排除されないこ
Short は Epilogue の一つ前の章を Things Fall とであった。
「宰相」の地位は結局「皇帝」の権力
Apart と題しているが,毛は 1970 年ころには党か に依存するからである。
「保身」は周の自らの歴史
らも中国人民からも完全に孤立してしまったよう 的使命の中の不可欠な一環であった。そのために
である。国際社会でもソ連とほとんど敵対関係に 屈辱的な自己批判を行うことも,盟友を裏切るこ
なった中国は完全に孤立してしまった。この時ニ とも敢えてしたのであると思われる。毛は周が自

63
歴史の中の毛沢東

分とは異なる思想を持つことを知り,何とかして ない。
それを暴露し,周を追い落そうとしたが,周は結 Chang and Halliday は毛沢東の考えと行動は終
局最後までそれをさせなかったのであった。 始一貫したものと捉えており,毛沢東の目的は中
両者の最晩年は,どちらがより長く生き残るか 国においては絶対的な支配権を獲得すること,そ
の競争であった。毛は周が自分より先に死ぬこと の上で世界全体に個人的支配を確立するために中
を望み,周がガンに冒されていることを知ったと 国を核兵器を持つ super power にすること,その
き,彼が手術を受けることを頑として許さなかっ 目的のためにいかなる犠牲も,いかに多くの人命
たのであった。周が死んだとき毛はひそかに爆竹 の損失も厭わないこと,その妨げになるものは長
を鳴らして喜んだという話も他の本には書かれて 年の忠実な同志であってもすべて打倒してしまう
いるが,それも嘘ではないように思われる。 ことであったとしている。
毛と周の対立は,決して公にされることはな 彼等はそれを立証するために,多数の証言や毛
かったが,しかし多くの人々は何らかの形でそれ 沢東自身の発言や著作を引用しているが,しかし
を感じ取っていたように思われる。周の死が公式 いわば非常に多数の断片をつなぎ合わせて作り上
にはむしろ極めて軽く扱われたにもかかわらず, げた story は,あまりに首尾一貫しているだけに,
多くの人々によって心から悲しまれ,その追悼の かえって著者達によって作り上げられた「物語」
気持が第一次天安門事件を引き起こしたのに対し となってしまっている。その上一つ一つの「証拠」
て,毛の死に対して公式には盛大に国葬が行われ の信頼性についても,先の「張作霖爆殺は KGB
たが,人々は特別に哀悼を示すことはなかったよ のしわざ」のように,全く信用できないものもあ
うである。 るし,あるいは毛沢東の「われわれが政権獲得を
毛と周の関係には,二人の巨人の意志の凄まじ したのは日本帝国主義のおかげだ」というような
い闘争が感じられる。そして周は毛より僅かに先 発言をそのアイロニカルなニュアンスを全く無視
に死んだが,両者の死後の歴史は,明白に周の毛 して,毛沢東が日本の侵略を本当は歓迎していた
に対する勝利を示していると感じられる。現在の と解釈するなど,われわれがよく知っている事実
「改革開放」路線を周恩来が全面的に支持したか に関して,明確な誤り,あるいは極端な歪曲と思
どうかは明らかでない。周は生え抜きのコミュニ われるところも少なくないから,当然他の部分に
ストであったから,現在のような看板だけ社会主 ついても,著者達のいうことをすべでまともに信
義の資本主義を本当に支持したか否かはわからな じることはできない。
い。しかし周恩来が,毛沢東の「階級闘争第一主 Short の方は,それほど単純明快でない。むしろ
義」よりも「豊かで強力な中国の建設」を第一と 多くの点で判断を留保している。しかし歴史的事
したことは疑いない。そしてその点で中国の民衆 実に関しては,両者の記述は Chang and Halliday
は毛の「暴政」に対して周が自分達の味方であっ がつねに「犠牲者」の数を多くのべていることを
たことを感じているのであり,それが周の死後も 除けばそれほど違っていないようにも思われる。
衰えない人気の秘密であると思う。 新中国成立後の毛沢東の政策に一貫しているの
は,結局「極左派」のイデオロギーであり,その
5. 毛沢東の歴史的役割 中核は「階級闘争第一」ということであったと思
う。もちろん現実の中国政府の政策がつねにその
1949 年中国人民共和国成立後,1976 年毛沢東の 方針に沿っていたものではなかった。実際中国共
死に至るまで,中国の波瀾にみちた歩みの中で毛 産党指導部の毛沢東以外の人々は,毛沢東に取り
沢東が終始強力な力を持っていたことは疑いない 入って自らの権力を握ろうとした人々を除けば,
が,しかし彼が意図したものは何であり,それが ほとんどすべて「極左派」ではなかったのであり,
現実にどのように反映したかは,それほど明確で 毛沢東の考えは必ずしもつねに実行されたわけで

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歴史の中の毛沢東

はなかったが,彼の思想はつねに変わらなかった。 れたものであったと思う。それはマルクスの本来
毛沢東が共産党の絶対的指導権を獲得した後に の思想とはかけ離れて,議会活動のような合法闘
も,彼以外の指導部の人々,周恩来,劉少奇,彭 争はもちろん,デモやストライキのような非暴力
徳懐,鄧小平,あるいは林彪などは結局基本的に 的活動をもほとんどふくむことなく,あるいは二
毛沢東の「極左主義」と相容れなかったように思 つの組織された軍の間の一定のルールにもとづい
われる。そして毛沢東はつねに彼等に対して不信 た「戦争」ですらなく,相手を徹底的に殲滅し,
感を持っているのであった。それが「文化大革命」 肉体的にも精神的にも破滅させてしまわなければ
を発動して自らの作った「中国共産党」を破壊し すまない敵対関係と理解されたのであった。彼自
てしまうに至った根本の理由であったと思う。そ 身はそのような概念を,若い時代の湖南における
して毛沢東路線の支持者は江青,張春橋,王洪文 軍閥の残虐な相互の抗争と支配,農民暴動とそれ
のようなほとんど「取るに足らない」人々だけで を圧殺した地主の私的暴力,そして江西省ソヴエ
あったし,そのことを毛自身もはっきり認識して ト地区における国民党軍の「共匪絶滅」作戦と共
いたのであった。 産党内部の抗争などの経験から作り上げたものに
毛沢東の生涯を今から見て感ずることは,彼は 違いない。それが長い中国の歴史の中でくり返さ
一度も真の「同志」や「友人」を持たず,誰とも れた,破壊的な農民暴動と,それに対する権力側
コミュニケートせず,また真の意味の討論も行わ の残酷な大弾圧の歴史の記憶,とくには太平天国
なかったということである。そういう意味で彼は の乱の記憶が結びつくものであった。ある意味で
孤独であった。それは必ずしも一般的な「権力者 は中国の歴史に根ざしたものであったともいえる
の孤独」ではなく,彼自らが作り出したものであっ が,しかしそれはやはり一面的にすぎたといわね
た。毛沢東が党の指導部から外れていた場合には, ばならない。中国共産党の指導部の中でも,その
彼は自ら「引きこもって」しまったし,遵義会議 ような思想を持つものはほとんどいなかったであ
後一旦指導権を握ると,今度は自分と異なる意見 ろう。だから中国政府の実際の政策は,しばしば
を一切許そうとしなかった。そうして意見を異に 「穏健派」の方向にもどったし,毛沢東も妥協せ
する人間はすべて彼にとっては打倒すべき「敵」 ざるを得ないこともあった。しかし彼はそのたび
でしかなかった。そして「敵」は単に論破された に巻き返しをはかり,権力的政治工作によってそ
り,あるいは政治的に失脚させられたり,さらに れに成功したのであった。
は単に肉体的に抹殺されたりしただけではすまず, 毛沢東の「極左主義」が,結局中国に大きな悲
徹底的に道徳的に破滅させられなければならな 劇をもたらしたといわざるを得ないであろう。悲
かった。そこに延安時代の「整風運動」から文化 劇の根本的原因は結局毛沢東の「階級闘争主義」
大革命に至る,政治闘争のスタイルが生まれたの がそれに拠って立つはずの農民階級に支持されて
である。 いなかったことである。彼は農民の自発的暴力を
毛沢東の階級闘争の見方も,権力闘争の場合と 歓迎したが,農民大衆の積極的な自発性には全く
同じであった。つまり「階級敵」との間には一切 期待していなかったように思われる。農民が「ブ
の妥協や交渉はあり得ず,階級敵からは単に政治 ルジョア的生活」に憧れることは,毛沢東には許
権力を奪うだけでなく,その持つすべての道徳的, せないことであったかもしれないが,もし可能な
文化的権威を剥奪しなければならないと考えたの らば農民は物質的に安楽な生活を送ることを望む
であった。彼にとって,地主,資本家,知識階級 のは,あまりにも自然のことであった。それを否
はすべて暴力的に打倒されるべき「階級敵」であっ 定することは結局不可能であった。それを抑え込
た。そしてそれに対する貧農の暴力は望ましいも もうとする努力が,結局新中国発足以来,ほとん
の,少なくとも「必要なもの」であった。 ど 30 年にわたって,中国人民のエネルギーを政治
毛沢東の「階級闘争」の概念は著しく単純化さ 的社会的抗争に無駄に費やしてしまうことになっ

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歴史の中の毛沢東

たのであった。 最高権力者として避けられないことではあったが,
悲劇のもう一つの側面は「極左主義」の否定が, 彼自身がそのことが自分の判断に及ぼす危険性に
すべての「左翼」思想の否定,
「ブルジョア階級の ついて十分気づいていなかったと思われる。政治
打倒」の否定は,資本主義の野放図な成長の容認, 的現実感覚は極めて鋭かったが,社会の客観的現
という結果を生むことになってしまったことであ 実についてはまともな感覚を持っていたか否か疑
る。それが毛沢東の死後「極左主義」を否定した わしい。もしそうであれば「大躍進」の時に殺到
中国共産党指導部が取った「資本主義の道」であっ した生産量についての誇大報告を信じることはな
た。 かったはずである。もしそれが嘘であることを知
毛沢東の「矛盾論」では,つねに対立する矛盾 りながら,政治的目的のためにそれを信じるふり
が強調され,弁証法における正―反―合の第三の をしたのであったとしても,その結果のもたらす
段階,対立を止揚して新たなものが生まれるとい 重大性についての感覚に欠けていたといわざるを
う段階は軽視されていた。文化大革命時代には更 得ない。
に「二が合して一はなる」とするのは誤りで「一 毛沢東はまた「過激派」にしばしば見られるよ
が分れて二となる」と考えるのが正しい(毛沢東 うに身近な人間に対する「人間的モラル」に欠け
思想)とするといわれたことがあるが「あれかこ ていたと感ぜざるを得ない。彼が人間的な愛情を
れか」の「二者対立」だけを強調すれば「あれで 感じたのは,初恋の人というべき楊開慧に対して
なければこれ」
「共産主義がだめなら資本主義」と だけであったように思われる。その他の女性,中
いうことになってしまう。毛沢東的「貧困の共産 でも彼の多くの子供を生んだ賀子貞や,あるいは
主義」を捨てた中国は,もっぱら富を追求する資 江青にしても,性的欲望の対象でなければ政治的
本主義へと 180゜転回してしまったように見える 道具に過ぎなかったように思われる。年長者に対
が,それは皮肉な意味で「中間」や「第三の道」 する尊敬,同僚に対する友情,あるいは輩下に対
を認めない毛沢東の考え方の遺産であるともいえ する愛情などとも無縁であったように思われる。
るのである。 時には政治的手段としてそれらを見せかけること
があったかもしれないが,それも稀であったと思
6. 「毛沢東思想」 われるのは,毛沢東は人々に恐れられ,あるいは
畏敬されても,愛されることは無かったと思われ
毛沢東の思想は根本的に観念論であったと思う。 るからである。身近な人々を自分の目的のために
革命主義的「過激派」の思想がほとんどすべて中 犠牲にして顧みないことは,自らの歴史的使命を
産階級や貴族階級出身のインテリが生み出した観 信じた「英雄」や「天才的指導者」に共通のこと
念論であるように,毛沢東の思想も結局現実に根 であって,特にそのために毛沢東を非難する必要
ざしたものでない観念論であったと思う。もちろ はないかもしれない。しかし一人一人の人間の痛
ん彼は空想的なユートピアや,冒険主義を批判し みに鈍感なことが,何百万人の人命の犠牲をもた
て,政策は現実にもとづかなければならないと主 らす政策を断行することにつながるとすれば,そ
張したが,彼のいう「現実」とは,何か操作すべ れはやはり否定されなければならないものである。
き「対象」であって,自分自身がその中の一部で 毛沢東が自らの歴史的使命を信じていたことは,
あるという感覚に欠けているように思われる。毛 先に引用した「雪」という詞からも明らかである。
沢東は農民出身ではあったが,現実の農民生活に 毛沢東の行動をすべて,利己主義的な欲望と権力
触れることは幼少期を除いてほとんど無かった。 欲からだけ説明しようとする Chang and Halliday
人民共和国政府成立後は彼はほとんど中南海にと の説明は一面的であると思う。何千万人もの人を
じこもっていたし,地方に行くことがあっても, 殺すような巨大な「悪」を遂行するには,莫大な
人々の生活に直接触れることはなかった。それは エネルギーが必要である。また多くの人々を巻き

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歴史の中の毛沢東

込み動かさねばならない。それには合理的利己主 ら「期待を寄せられた」毛沢東路線下での「近代
義を超えた強い信念,明確なビジョンが必要であ 化なき現代化」あるいは一種の「近代の超克」は
る。毛沢東にとってそれはどういうものであった やはり夢想でしかなかったことが明確になった現
か案外わからない。彼は未来社会のビジョンなど 在,
「近代化」
(より具体的にいえば民主主義政治,
は一切語らなかった。自分を歴代の皇帝より優れ 市場経済,人権尊重等々の実現)が中国の歴史の
たものと自負しているところを見ると,目標は強 重要な一段階であることは認識されなければなら
大な中国の建設ということであったのだろうか。 ない。
しかしそれならば現在の中国はその夢に近づきつ その中で毛沢東の功績は近代化の大きな一歩を
つある。
「大躍進」の目標は大量生産においてイギ 進めたことにあったといえるのだろうか。あるい
リスを追い越すことであった。現在中国の工業生 は毛沢東政治は,近代化の一段階で必要であった
産は少なくとも量的にはアメリカをも追い越して のだろうか。清朝の下でとはいわないまでも,国
世界一となっている。鉄鋼生産では今や単に世界 民党の下では「近代化」をある程度以上進めるこ
一というだけでなく,アメリカ,日本,ロシアを とは不可能であったのだろうか。前近代社会から
合せたよりも多くなっているのである。軍事的に 近代社会への移行が一切の「革命」なしにスムー
もアメリカに次ぐ「超大国」になろうとしている。 ズに行われるということは,世界のすべての国々
これを見て毛沢東は満足するであろうか。毛沢東 の歴史に照らしてもあり得ないことであろう。し
はやはり現在のような「資本主義大国中国」は強 かしその「革命」が常に血にまみれたものである
く拒否するであろう。もう一度「階級闘争」によっ 必要はないのではなかろうか。毛沢東の「階級闘
て,事実上ブルジョアと化した現共産党幹部を, 争主義」は,近代化のための「必要な革命」を大
官僚や資本家と一緒に打倒しようとするに違いな きく歪め,莫大な人命の不必要な損失をもたらし
い。それとも彼は自分の誤りを認めて「歴史に負 たのではなかろうか。毛沢東下の中国の状況は,
けた」ことを受け入れるであろうか。それはあり フランス革命の場合にジャコバンの恐怖政治が
得ないことのように思われる。 20 年以上も続いたようなものではなかったろう
しかしそれでは毛沢東自身のビジョンから離れ か。
て,彼が歴史に残したものは何であったのだろう しかし他方,少なくとも 10 世紀宋朝の成立以来
か。清朝末期の「変法運動」の時代から現代に至 確立された皇帝の絶対権のもとでの地主=文民官
るまでの中国の歴史は端的にいって,中国社会の 僚の支配体制は,ヨーロッパや日本の前近代体制
「近代化」の過程であったといえよう。それは「歴 よりも遥かに強固であった。それを打破するには,
史の必然」であってまだ終ったとはいえないが, 強力な暴力は必要だったのではないかという疑問
すでにその基本的な姿は出来上がりつつあると も生じ得る。そうであれば毛沢東政治はやはり必
いってよいであろう。その中で中華人民共和国の 要ではあったということになるのではなかろうか。
成立が極めて重要な一段階であったことはいうま 更に進んで,本当に階級としての官僚の支配体
でもない。しかしその後の毛沢東指導下の中国で 制は打破されたのだろうかという疑問が残る。現
は「近代化」の歩みは大きくねじ曲げられたこと 在の中国に極めて大きな格差,不平等が存在して
はいうまでもない。そうして毛沢東死後の「改革 いることは周知の事実である。そのこと自体は資
開放」路線が不十分なところを含んでいるとして 本主義経済に不可避のものとして,ある意味では
も「近代化」の方向に一致するものであり,それ 「近代化」の一面を表しているといえるかもしれ
が今後ますます進められることはあっても逆戻り ないが,しかし多大の腐敗をともなった官僚制,
することはあり得ない。 住民戸籍制度にもとづいて作り出された都市住民
もちろん「ポスト・モダン」が云々される現在 と農村住民のほとんど身分的差別といってよい不
「近代化」がすべてではあり得ないが,一時外か 平等,などを見ると,中国の伝統的社会の残滓を

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歴史の中の毛沢東

感じさせられるのである。そうとすれば中国が真
に「近代化」を達成するには,もう一つの革命を
必要とするのだろうか。しかしかりにそうであっ
たとしても,それは毛沢東の想定したような「階
級闘争」による革命,あるいは「文化大革命」で
はあり得ないであろう。
Short は本の末尾で,毛沢東が歴史に残したもの
は何であるかの問いに対して,彼の業績を毛自身
が好んだような秦の始皇帝,あるいは隋の文帝の
業績にたとえている。すなわち秦の始皇帝は戦国
時代の長い混乱を収めて,中国最初の真の統一国
家を実現した。また隋の文帝は五朝十六国,南北
朝の長い分裂を克服して統一国家を再建し,律令
制度を完成させた。そうして彼等自身の王朝はす
ぐ次の代に潰れてしまったが,秦は古代の世界帝
国である漢に引き継がれ,隋は中国の中世文明を
花咲かせた唐に受け継がれたというのである。同
じ意味で毛自身の構想は破滅したが,彼の築いた
基礎の上に現代中国は発展するであろうというの
である。しかし私はその説には納得できない。秦
や隋は新しい体制の枠組みを作り上げたのであっ
て,それは明確に次の時代に受け継がれた。その
王朝が二代で滅んでしまったのは,秦や隋の試み
が野心的にすぎて,人民に過重な負担を課し,農
民の大反乱を招き,人口の大減少を生じたためで
あり,次の世代の最初には漢の高祖,唐の太宗は,
むしろ規模を縮小して「民力の休養」をはからな
ければならなかったのである。これに対して毛沢
東は旧社会の破壊は成し遂げたが,新しい社会の
枠組みを作り出すことはできなかったし,また彼
がそれについて持っていた構想は次の世代によっ
て完全に否定されてしまったからである。
毛沢東の死後すでに 30 年を経過したが,その
「歴史的評価」を定めることはまだ困難であると
いうことが,この 2 つの本を読んだ後の感想であ
る。

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