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パンデミック下の⽣政治・死政治とジェンダー

2021 年度⽇本政治学会研究⼤会
2021 年 9 ⽉ 25 ⽇

名古屋⼤学⼤学院法学研究科
武⽥宏⼦
h.takeda@law.nagoya-u.ac.jp

DRAFT ONLY

地球制覇をめぐる戦いの最後の勝者が「星々を併合し」得ないとすれば、彼は無限のプロセスを
(アーレント 2017: 48)
また新たに始めるために⾃分⾃⾝を破壊するほかない。

はじめに
2020 年 9 ⽉、内閣府男⼥共同参画局に「コロナ下の⼥性への影響と課題に関する研究会」が
⽴ち上げられた。新型コロナウィルスの感染が世界的に拡⼤し、パンデミックの状況に陥ったこ
とが動かしがたい事実となったこの年の春の段階で、国連や OECD などの国際機関によって、
パンデミックから⼈びとが被る影響にはジェンダー格差が存在すること、したがって、各国にお
ける新型コロナ対策の策定と実施はジェンダー視点を盛り込んで⾏われる必要があることが既
に指摘されていた。男⼥共同参画局に設置された研究会は、こうした新型コロナ対策におけるジ
ェンダー主流化の要請に応えるものであった。
「コロナ下の⼥性への影響と課題に関する研究会」の会合は 2021 年 4 ⽉ 28 ⽇に最終報告書
が提出されるまでに計 11 回開かれ、この間、11 ⽉ 19 ⽇には政府に対して緊急提⾔を⾏うなど、
精⼒的に活動を展開した1。たとえば、急激な増加を⽰した 2020 年 10 ⽉の⼥性の⾃殺者数の速
報値が速やかに緊急提⾔に盛り込まるなど、研究会が発信した情報はマスメディアを通じて広
く報道され、パンデミックの状況下で多くの⼥性たちが困難に直⾯していることが周知される
こととなった。また、最終報告書では新型コロナ・パンデミックが⼥性の就労⾯、⽣活⾯で暴⼒
的な影響を及ぼしていることを指摘し、その理由を「コロナによる経済や⽣活への直接的な影響
だけでなく、もともと平時においてジェンダー平等・男⼥共同参画が進んでいなかったことが、
コロナの影響によりあぶり出された」と説明している(コロナ下の⼥性への影響と課題に関する
研究会 2021: 32)。こうした問題に対処するために、報告書では、男⼥共同参画の視点に⽴った
意思決定の拡⼤、特に、⼥性が議員として政治分野へ参画することと制度や慣⾏の⾒直しの必要
性が提案されている(ibid.: 33-35)。
第1回⽬の緊急事態宣⾔が東京都などに発令されてから 5 ヶ⽉が経過していたとはいえ、パ
ンデミックの⼥性への影響に焦点を当てた研究会が男⼥共同参画局に設置され、丹念な調査・研
究に基づいて情報を発信し、緊急提⾔や最終報告書の公表を通じて雇⽤や健康・安全に関する施
策に留まらず、意思決定の場でのジェンダー平等の実現までも含めた包括的な対策を具体的に
提案したことの政治的な意義は強調される必要がある。
「コロナ下の⼥性への影響と課題に関す
る研究会」は、実際、⽇本における新型コロナ対策策定の政治過程にジェンダーの視点を盛り込
む上で重要な役割を果たした。
こうした政治的実践の成果を踏まえつつ、本稿で問うていくのは、新型コロナ・パンデミック
が⽇本において多くの⼥性に深刻な被害を与えたという事実は、より構造的な問題として、すな
わち、資本主義経済とそれを管理運営する国家の統治システムに関わる問題として検討される
必要があるのではないかという問題である。パンデミックという危機的な状況を通じて⼥性の
苦境がより鮮明に認識されるようになったのは、⾼度資本主義社会の段階にある⽇本における
統治の仕組みそのものが⼀定の「棄⺠」の存在を必要としており、従来から存在していた「棄⺠」
の存在が可視化されただけではなく、さらに広範囲の⼈びとが「棄⺠」状況に陥るリスクが⾼ま
ったことを意味しているという可能性も考えられる。もう少し違った⾔い⽅をすると、パンデミ
ック下の⽇本において⼥性たちが経験している苦境と困難は、権⼒構造としてのジェンダー秩
序を通じて作⽤する現⾏の新⾃由主義型の統治システムのオペレーションの暴⼒的な帰結であ
る可能性は排除できず、もし、こうした疑念が⼀定の妥当性を有するのならば、報告書によって
提案された「平時においてジェンダー平等や男⼥共同参画型の社会を実現する」という解決⽅法
に加え、新⾃由主義型の資本主義経済システムとその舵取りをする国家の統治システム⾃体が
はらむ暴⼒性に正⾯から取り組まない限り、今後⽣じるかもしれない危機的状況において多く
の⼥性たちが困難に直⾯し、命を失うという状況が変化するとは考えにくい。
そこで、本稿は現代⽇本の統治システムをそこで作⽤する統治ロジックに焦点を当てて再検
討し、それが⼥性ジェンダーに属する⼈びとにどういった含意を持ったのか、多くの⼥性たちが
どのように「棄⺠」状態に追い詰められていったのか考察することを⽬指す。このため、本稿で
は、個々⼈と⼈⼝全体に働きかけ、配慮することを通じて資本主義経済システムの円滑なオペレ
ーションを維持・発展させるための統治システムである「統治性」の議論を、アシ−リ・ムベン
ビ(Achille Mbembe)が提⽰したデモクラシーの「夜の⾝体」としての「死政治」の概念に照ら
すことで、これまでの「統治性」の議論では明確に触れられてこなかった問題設定を分節化する。
そして、その上で、現代⽇本での新型コロナ・パンデミックにおいて展開した「⽣」と「死」の
「統治」を、特に、ジェンダーの観点から理解することを試みる。

⽣政治と死政治
ミシェル・フーコーが「統治性」
(governmentality)という造語を⽤いて⽰そうとしたのは、彼
、あるいは「⼈⼝の⽣政治」2と名づけた権⼒のテクノロジーが国家
が「規律権⼒」と「⽣権⼒」
の統治シスステムに取り⼊れられ、作⽤するようになり、これによって、近代国家の統治の実践
が 18 世紀から 19 世紀に移⾏する過程で変化したことであった。前者の「規律権⼒」は個々⼈の
⾝体に働きかけ、規律・調教することを通じて⼈びとの⾏動の仕⽅を制御する権⼒であり、対し
て、後者の「⼈⼝の⽣政治」は⽣物である「種」として⼈間の⽣存状態や⽣活状況に気を配り、
国⺠が⾃由主義的資本主義社会の環境において健康で幸福な⽣と⽣活を送ることができるよう
に⽀援する権⼒だと定義される(Foucault 2007; 2008; フーコー 2007;2008)
。こうした「規律権
⼒」と「⼈⼝の⽣政治」の働きかけにより、個々⼈は国家の統治システム内で特定の⽣き⽅、⽣
活の仕⽅をするように促される。より具体的には、⽣産性の⾼い経済⾏為に従事する労働者、あ
るいは、そうした⽣産性の⾼い労働者の再⽣産をつつがなく⾏うケア労働提供者というように、
フーコー⾃⾝や彼の死後、統治性の議論を発展させた論者たちは明確に⾔及しなかったが3、個々
⼈は近代社会において広く実践されてきたジェンダー役割分担等の規範に基づいて、⾃らの⽣
と⽣活を最適化するように導かれ、そうした⽣き⽅を⽀援する⽅向で国家の諸制度は整備され
ていった。フーコーによれば、戦後のケインズ主義型福祉国家はこうした統治性のロジックに基
づいて編成された国家形態に連なるものとして理解される(Foucault 2008: 67-70; フーコー2008:
82-85)

ジェソップが指摘したように、戦後のケインズ主義型福祉国家は、男性稼ぎ主を媒介としてそ
の家族である⼥性と⼦どもを経済資源の再分配の仕組みに間接的に接続し、これにより⼈と労
働⼒の再⽣産を「外部性」の外観を保ちながら資本主義経済システムの⼀環として位置づける仕
組みであった(Jessop 2002: 47)
。統治性の観点からこうしたケインズ型福祉国家制度のあり⽅を
検討すると、それは⾃由主義的資本主義経済には本来的に存在する資本蓄積の要請と⼈と労働
⼒の再⽣産の間の⽭盾を克服し、政治経済を「合理的」に運営するための統治システムを編成す
る努⼒であったと理解することができる(武⽥ 2016: 170)

こうしたケインズ主義型福祉国家制度に期待された「⽀配の合理性」は、しかしながら、1970
年代以降、グローバル化と産業構造の転換が進⾏し、資本主義経済の性質が変化したことによっ
て、その有効性を維持することができなくなる。肥⼤化したケインズ主義型福祉国家の「統治不
可能性」に注⽬が集まり、また、新⾃由主義が政治経済のモデルとして急速に影響⼒を持つよう
になる時代状況の中、
「統治性」は個々⼈によって内⾯化される形で「⾼度化」された(Burchell
1996; Rose 1996)。フーコーから「統治性」の議論を受け継ぐ形でニコラス・ローズが論じた「企
業家的主体」に観察されるように、
「統治性」の権⼒テクノロジーを内⾯化した個⼈は⾃らの⽣
と⽣活を最適化するために意欲的であり、それを⾃律的に遂⾏するだけの能⼒を⾝に着けた「有
能な」主体である (Rose 1999)。したがって、この種の⼈びとは、学校やソーシャル・ワーカー
の介⼊などの制度的仕掛けを必要とせず、⾼度資本主義社会に適合的な形で⾃らの⽣と⽣活を
組織化し、⾼い⽣産性と有能さを⾝につけ、維持したまま⾃律的に⽣きていくことが可能である。
アンジェラ・マクロビ−は「ポスト・フェミニズム」論において、イギリスの若年⼥性たちが
充実したキャリアと幸福な家族⽣活の獲得、⾔いかえれば、⽣産者であるとともに再⽣産ケア労
働者となることに駆り⽴てられていった政治社会の状況を批判的に論じているが(McRobbie
2009)4、この点は「企業家的主体」の奨励が⼈びとに依然としてジェンダー性を帯びながら⽣
と⽣活の最適化に励むことを求めるものであったことを⽰唆する。とはいえ、別稿で既に論じた
ように、グローバル化された政治経済の環境で⽣と⽣活の最適化を図る「企業家的主体」が家族
を作り、⼦どもを育てる⾏為、つまり「再⽣産」に従事することの「合理性」は必ずしも⾃明で
はない(Takeda 2008; 武⽥ 2016)
。さらに、⾼度化された「統治性」に関しては、誰もが「企業
家的主体」の規範が指し⽰す⽣き⽅をできるわけではないことも考慮する必要がある。既に、ロ
ーズによって、
「企業家的主体」になれない、あるいはなることを拒否する個⼈には「再−訓練」
の機会が与えられること、そして「再−訓練」の機会を有効に活⽤できない者は社会的排除の状
況に留め置かれることが指摘されている(Rose 1996)。このことは、個⼈の内⾯のメカニズムとし
て作⽤する⾼度資本主義社会型の「統治性」は、近代的国家に「統治性」の権⼒テクノロジーが
取り⼊れられていった段階では、ジェンダー性を帯びた「国⺠」として個⼈を包摂する制度的仕
掛けだと想定されていたのに対して、現代的状況においては包摂とともに強制と排除のシステ
ムとしても機能していることを意味している。
「統治性」の権⼒テクノロジーに基づいた⾃由主義的な統治システムがシステム内に存在する
⼈びとを包摂するだけではなく、⼀定の規範を強制し、規範から外れる者を排除するメカニズム
としても機能するという問題は、フーコーが講義において既に触れていた論点であった。⾃由主
義的な状況で個々⼈の間での⾏動の⾃由と安全が保障されるためには、⾃由と安全を脅かす危
険が特定され、抑制・管理されることが求められる。したがって、
「統治性」が作⽤する⾃由主
義的統治システムにおいては、⾃由を確保するために「統制、制約、強制の⼿続きが⼤幅に拡⼤」
するのみではなく、さらなる⾃由を導⼊することを⽬的としてより多くの統制と介⼊が「⾃由の
経済的コスト」として実施されるようになる(Foucault 2008: 63-69; フーコー2008:77-84)
。フー
コーはこのことの帰結として、
「結局、⾃由主義的統治術はそれ⾃⾝が統治性の危機と呼べるも
(ibid.: 68; 83)と指摘している。
のを持ち込み、内部からその犠牲者となる」
もっとも、
「統治性」をめぐる包摂と排除の逆説的な関係がもっとも鮮明に現れるのが、それ
が統治システム内に存在する⼈びとをどのように「⽣」と「死」に配置するのかという点におい
てであろう。よく知られているように、フーコーは 1975−76 年に⾏われた講義シリーズ『社会は
防衛されなければならない』(Foucault 2003; 2007)や『性の歴史 I 知恵の意志』(Foucault 1978; フ
ーコー 1991)において、統治性の権⼒は「⽣き「させる」
、そして死ぬに「任せる」権⼒」
(the
power to ‘make’ live and ‘let die’)であると説明している (Foucault 2003: 241)。
「⽣きさせる」権⼒、
すなわち「⽣政治」は⼈びとの⽣に様々なレベルで介⼊して⽣命と⽣活を最適化するために、事
故や偶発的問題などの⽣きる上での危険を排除することを⽬指して統治を実践するが、このこ
との論理的帰結として「⽣の終わりとしての死」は「明らかに権⼒の終わり、限界、末端」を意
味するようになる。これにより、
「死」は権⼒の外にこぼれ落ちてしまい、私的な領域に移⾏す
る。同時に、
「⽣政治」が作⽤する統治システムにおいても、⼀旦、戦争という状況になった場
合は、国⺠は⽣命の危険に曝され、また、戦争に参加して敵国の⼈びとを殺すように求められる。
こうした「本質的に⽣かすことを⽬標とする権⼒が、どのように死ぬことに任せることができる
(Foucault 2003: 254; フーコー 2007: 253)という⽭盾をフーコーは、⼈種差別(racism)の
のか」
問題を介在させて次のように説明している。

⼈種差別はこの戦争の関係—「おまえが⽣きたければ、他者が死ななければならない」—を、ま
ったく新しく、また、⽣権⼒の⾏使と上⼿く両⽴するやり⽅で機能させる。⼀⽅で、⼈種差別は
⾃分⾃⾝の⽣と他者の死の間の関係性を軍事的、あるいは戦争時の対⽴関係としてではなく、⽣
物学的な関係性として構築することを可能にする。
「より多くの劣等種が死に絶え、異常な⼈び
とが殲滅され、種全体として変質者が少なくなれば、私−個⼈ではなく種としての私−はより良
く⽣きることができ、⼒強い存在となり、ずっと精⼒的になるであろう。そして、私はより繁栄
することができるであろう。
」他者が死ぬという事実は、単に、その死が⾃分の安全を保障する
という意味で私の⽣存を意味することに留まるものではない。他者の死、劣悪⼈種の死、劣等種
(あるいは変質者や異常者)の死は⽣⼀般をより健全にしていく。そして、⽣はより純粋なもの
になる。
(Foucault 2003: 255)

フーコーによれば、
「死ぬに「任せる」
」側に位置づけられる⼈びとを特定するために動員される
⾔説は⼈種差別に留まらない。犯罪性や狂気など、⼈間の「否定的」と解される属性や特徴を表
す表現が⽤いられて排除される⼈びとが集団として特定され、彼らを死の側へと追いやる。こう
した排除が、科学的⾔説、特に⽣物学的⾔説や医学的⾔説に依拠して正当化されてきたことも、
フーコーは講義の中で触れている(Foucault 2003: 256; フーコー 2007: 255)。
フーコーによって提起された「⽣政治」が排除と死へのドライブをはらんでいるという論点は、
その後、世界各地の様々な論者によって引き継がれ、議論が展開している。もっともよく知られ
ているは、ジョルジオ・アガンベンによる例外状態において「剥き出しの⽣」に留め置かれる「ホ
モ・サケル」の議論であろう(Agamben 1998)。この時、アガンベンにとっての中⼼的な関⼼は、
ホロコースト時代の強制収容所に代表される、死が訪れるまで⾏為者としての⾏為遂⾏能⼒を
剥奪され、⽣と死の間で宙ぶらり状態にされたままの状況に置かれることを特定の⼈びとに強
いる「主権」であり、したがって、彼の議論は「⽣政治」についてというよりも「死ぬに「任せ
る」 (thanatopolitics、あるいは necropolitics という⽤語が⽤いられている)
」権⼒である「死政治」
に特化しているという⽅が正確であろう。より根幹的な問題として、フーコー以来の「⽣政治」
の議論は、何よりもまず国⺠がより健康で、幸福な⽣と⽣活を送ることを促す「⽣産的」権⼒の
テクノロジーが統治システムに取り⼊れられ、⽇常的に展開するようになったことで「主権」の
性質に変化が⽣じたことを指摘するものであり、こうした観点からアガンベンの議論を⾒返す
と、「⽣政治」の議論としては射程が限定的であるという批判は免れえない(Campbell 2008;
。5
Bratton 2021)
フーコーとアガンベンによって⼗分に検討されることがなかった「⽣政治」と「死政治」の関
係性については、近年、別の論者によって、考察が進められている。例えば、やはりイタリアの
哲学者であるロベルト・エスポジトは、害を及ぼす可能性のある「外部」の要素を、予防を⽬的
として中和化して内在化する実践として定義される「免疫」
(immunity)の概念を導⼊して、ナ
(彼の⽤語では thanatopolitics)の展開を、
チス・ドイツに代表される「死政治」 「免疫化」の実践
をもって共同体である国家を守る試みであったと位置づけている。こうしたエスポジトの議論
は、先に紹介したフーコーの講義の内容に⾁付けをする形で、
「死政治」の実践を「⽣政治」を
展開するために⼿段として解釈することを可能にするものである(Esposito 2008; エスポジト
2009)
。とはいえ、
「死政治」に着⽬することでより⼤胆に「⽣政治」の議論を刷新することを試
みているのは、アシ−リ・ムベンビの議論であろう。カメルーン出⾝であるムベンビが展開する
(彼は necropolitics という⽤語を使う)の議論は、世界システムとしての資本主義経
「死政治」
済と帝国主義、⼈種差別の歴史を踏まえたものであり、ともすれば、国⺠国家の枠内での議論に
終始してしまいがちであった「⽣政治」の議論が⾒落としていた問題をあぶり出し、
「⽣政治」
の議論を鍛え直すことを⽬指すものであると解釈できる。そこで、次節では、ムベンビによる「死
政治」の議論を検討していく。

⽣政治・死政治の配置/再配置と資本主義の歴史的展開
デモクラシーにおける⽣が根本的に平和に満ちていて、秩序が保たれ、暴⼒(戦争や破壊という
形式を含めて)から解放されているとする考え⽅は、ほんの些細な検証にさえ耐えうるものでは
ない。真実とは、⺠主政は個別の暴⼒を統制し、規制することで低減させることや、あるいは道
徳的な⾮難と法的制裁という⼿段によって、もっとも劇的で、おぞましい暴⼒の発現を取り除く
ための多様な試みと密接に関連することで誕⽣し、確⽴したのである。
(Mbembe 2019: 16)

ムベンビは彼の「死政治」の議論を始めるにあたって、フーコーが講義の中で提起した「⽣政
治」の問題設定を正⾯から受け⽌めている。まず冒頭で、
「主権の究極の表現体は誰が⽣きるこ
とができ、誰が死ななければならないのか命令する(dictate)権⼒と権限の中に存在する」
(ibid.:
66)と確認した上で、具体的な考察の課題として「どういった実際的な条件下で、殺し、⽣きさ
せ、死に曝す権⼒が⾏使されるのか」
「誰がこうした権利の主体であるのか」
「こうした権利の⾏
使は死に追いやられる者と、その者を殺⼈者との敵対的な関係に置く敵意に満ちた関係性につ
いて何を語るのか」などを列挙している(ibid.)
。この段階では、ムベンビによる「死政治」の議
論は、フーコーによっては果たされることがなかった「死ぬに「任せる」
」権⼒の⾏使のされ⽅
をより具体的、かつ精緻に理解するという課題に、現代的な状況を視野に⼊れて取り組むもので
あるようにも読める。
実際には、ムベンビの分析は、フーコーに由来し、これまで世界各地の論者によって積み重ね
られてきた「⽣政治」の議論には盲点が存在しており、したがって、現代的な状況における「⼈
の⽣を死に従属させる権⼒」
、つまり「死政治」の展開が⼗分に理解されていないことを⽰す⽅
向で展開していく。この時、鍵となるのは、従来は国⺠国家内の⼈⼝の配置と管理の考察に終始
していた「⽣政治」の議論を地政学的に拓いていくことであった。具体的には、ムベンビは、⻄
欧諸国においてデモクラシーの政治が急速に発達していた時期は帝国主義の時代であり、した
がって、列強諸国によって植⺠地獲得競争が盛んに展開されていた⼀⽅、奴隷制が正当な⽣産シ
ステムとして機能していたことを直截に指摘する。このことは、⾔いかえれば、国⺠が健康で幸
福な⽣と⽣活を送ることを保障する統治の実践である「⽣政治」は、国⺠国家の外に⻑期的な武
⼒紛争の対象となっていた地域や、市場で売買される⽣産のための⼿段として⾒なされること
で「⼈」のカテゴリーから排除され、しばしば⽂字通り「消耗品」として「使⽤」された奴隷集
団という「外部」の存在があったからこそ成り⽴っていたことを意味する。こうした近代デモク
ラシーのふたつの異なる側⾯を、ムベンビは「近代デモクラシーの歴史のふたつの⾝体」と表現
(the solar body)があり、他
している。すなわち、⼀⽅には⻄欧諸国の状況を⽰す「太陽の⾝体」
⽅にはもともとは刑罰のための流刑地であった植⺠地と⽣産⼿段として奴隷を収奪するプラン
(the nocturnal body)が存在する(ibid.: 22-23)
テーションを意味する「夜の⾝体」 。「夜の⾝体」
にあたる場所では、異なる法や原則が適⽤され、⼤規模収奪と⼤量殺戮のための技術と⽅法がし
ばしば実験的に⽤いられ、その結果、奴隷貿易と植⺠地化の対象となった地域では⼈⼝が⼤幅に
減少する事態を経験する(ibid.: 24)
。このように、デモクラシーの発展とプランテーション、そ
して植⺠地⽀配は共時的に展開し、この過程は「夜の⾝体」とされた地域に深いトラウマを残し
てきたが、
「太陽の⾝体」にあたる場所では明確に認知されてはこなかった。ムメンビによれば、
近代のデモクラシーが⼗全に機能し、維持されていくためには神話的ロジックが政治社会に浸
透することが必要とされていたため、デモクラシーの政体が当初、内包していた暴⼒はそれ以外
の場所、つまり、プランテーションや植⺠地へと外部化され続け、これにより外部で進⾏した暴
⼒の⾏使は列強諸国内では不可視化されてきた。ムベンビは、こうした「外部化」のメカニズム
は今⽇でも観察することができ、現代的状況では収容所や刑務所を通じて⾏われていると指摘
している(ibid.: 27)
。現代の「死政治」
、たとえばパレスチナのガザや⻄岸地区で観察されるそ
れは、最新の科学技術を使⽤して、地理的空間を断⽚化し、⼈びとの空間的・社会的関係性を統
制することを通じて、アパルトヘイト国家のモデルに基づいて特定の集団を隔離する。他⽅で、
殺害は時に、特定のターゲットを正確さに狙い撃ちする形で実⾏されたり、あるいは、ブルドー
ザーが地ならしをするように無差別的に⾏われることもある(ibid.: 80-83)
。いずれしろ、
「死政
治」の下では、「⼈⼝のうちの多くの者が⽣きる屍の地位を付与する⽣存条件にさらされる」
(ibid.: 92)

イギリスやフランスなど⻄欧列強諸国におけるデモクラシーの政治システムの発達が国⺠国
家の枠外に存在する⼈⼝を「死政治」の対象とし、⾔ってみれば「棄⺠」として位置づけること
と同時並⾏的な過程であったというムベンビの指摘は、国⺠国家内部のメカニズムを問題とし
てきたこれまでの「統治性」の議論で等閑視されてきた根幹的な論点を可視化し、これを通じて、
「統治性」の議論全体を刷新する意義を持つと評価できる。こうしたムベンビの議論の仕⽅に関
して興味深いのは、彼が「⽣政治」の議論を整理する際に、明⽰的にハナ・アーレントの『全体
(1997; 2017[1951])に⽴ち戻っていることであろう(Mbembe 2019: 71-72)
主義の起源』 。先に紹
介したフーコーによる 1975−76 年講義シリーズ『社会は防衛されなければならない』の最終講
義では、フーコー⾃⾝がアーレントを強く想起させる仕⽅で⼈種差別を国⺠が「⽣」と「死」の
側に配置される際に動員されるロジックとして名指ししている上、講義の構成⾃体に『全体主義
の起源』の議論の展開が反映されているように読める。したがって、ムベンビがアーレントのテ
キストに⾔及することは議論を進める上での当然の⼿続きであるとも考えられるが、同時に、ア
ーレントの『全体主義の起源』にまで遡ることは、ムベンビが提⽰する「死政治」概念を通じて
射程が拡⼤された「統治性」の議論を世界システムとしての資本主義経済に関連させ、考察する
ことを可能にする。
よく知られているように、アーレントはローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』を参照して、
帝国主義政策を推進したのは、剰余価値の実現のために「外部」を必要とする資本主義経済の特
質であったと議論した。このメカニズムをアーレントは、次のように説明している。

需要と供給が⼀国の範囲内で調整され得たのは、資本主義制度が住⺠のすべての階層を⽀配す
るにいたらないうち、つまり資本主義制度がその全⽣産能⼒を発揮し切らないうちのことだっ
た。資本主義が⾃国の経済⽣活・社会⽣活の全組織に浸透し、住⺠の全階層が資本主義によって
決められた⽣産と消費のシステムの中に組み込まれてしまったときはじめて、
「資本主義的⽣産
は最初から、その運動形態および運動法則において、⽣産能⼒の宝庫としての全地球を計算に⼊
れて」いたこと、そして、停⽌すれば全体制の崩壊となるほかない蓄積の運動は、いまだ資本主
義に組み込まれていない領⼟、それゆえに原料と商品市場と労働市場の資本主義化の過程を進
め得る新しい領⼟を絶えず必要とすることが、明らかとなった。
(アーレント 1997: 50-51; Arendt 2017 [1951]: 192)

「本源的蓄積」が不可能となり、危機的状況に陥ったヨーロッパ資本主義は資本蓄積を継続して
「国⺠全体の破滅」を避けるための⼿段として帝国主義政策に乗り出す。アーレントはこの過程
を「純粋な経済法則を政治的⾏為によって破らなければ、明らかに資本主義経済の崩壊は避けら
(ibid.: 51)6と説明したが、
れなかった」 「国⺠」の枠組みの外に位置する⼈びとの観点からすると、
このことは彼らが「死政治」の対象とされることであり、この意味で、
「死政治」は資本主義経
済の発展を第⼀次的な⽬的とする国家の統治システムにとっては不可⽋な権⼒のテクノロジー
であったと⾔える。
(accumulation by dispossession)
デービッド・ハーヴェィが「本源的蓄積」を「収奪による蓄積」
と⾔いかえたり(Harvey 2003)
、あるいはナンシー・フレイザーが資本主義の「裏話」
(back-story)
を明⽰的に議論する必要性を強調するなど(Fraser and Jaeggi 2018)
、資本主義経済が発達した過
程で資本蓄積のために暴⼒的な権⼒⾏使が⾏われてきたことを可視化する試みは「死政治」の議
論に限られないが、
「死政治」に着⽬することは、
「統治性」に基づいた統治システムのある種の
巧妙さを認識する上で役⽴つ。アーレントは植⺠地に渡った⼊植者たちを「⼈間の廃物」(the
human debris)
(アーレント 1997: 54; Arendt 2017 [1951]: 195)と形容しているが、実際、彼らの
多くは国⺠国家内で⼈種・エスニックの観点から周辺化された⼈びとであったり、あるいは、た
とえば「⼯業拡⼤の時期のあとを必ず襲った恐慌ごとに⽣産者の列から引き離され、永久的失業
状態におとしいれられ」7(ibid.)た⼈びとのように、国⺠国家内において「死政治」の対象とな
っていた者たちであった。そうした⼈びとが植⺠地に渡り(あるいは⾔ってみれば「棄てられ」
)、
⼈種のカテゴリーに照らして「他者」と⾒なす⼈びとに「死政治」のテクノロジーを⾏使するよ
うになる。このように、
「死政治」にはその⾏使者と対象者が絶えず変化し、⼊れ替わっていく
ものであり、ムメンビは、こうしたダイナミクスが進⾏することを通じて「憎悪のサイクル」は
拡⼤し、その拡散が⽌むことはないと指摘している(Mbembe 2019: 39)

ムベンビによる「死政治」の議論はフランツ・ファノンが残した仕事を主要な学術的源泉とし
ており、またに学術的試みとしては哲学的な思索を意図するものである。したがって、本節で検
討した「死政治」の政治経済の構造や統治システムへの含意は、ムベンビ⾃⾝の問題関⼼におい
ては決して中⼼的な論点であるとは⾔えない。この点の帰結のひとつであるのが、ムベンビの議
論においては、帝国主義時代の「死政治」がその現代的な展開と連続するように読めてしまうこ
とであろう。ムベンビは科学技術の発展により、
「死政治」を⾏使する⼿段や道具が⾼度化した
ことには⾔及するが、資本主義経済の性質の変化、特に新⾃由主義の影響⼒の拡⼤によって⽣じ
た変化の問題は明⽰的に論じられていない。対して、前節で論じたように、新⾃由主義の影響⼒
の浸透した⾼度資本主義社会における「統治性」のオペレーションは、個⼈に内⾯化される形で
転換したことが既に指摘されている。こうした「統治性」の転換の過程は、ムベンビによる「死
政治」の問題提起を受けて、
「殺し、⽣きさせ、死に曝す権⼒」のテクノロジーが作⽤するもの
として「統治性」を捉え直す時、どのように理解できるのだろうか。そこで、次節では、
「死政
治」の現代⽇本における展開を検討するための準備作業として、新⾃由主義の「死政治」への影
響を現代⽇本の⽂脈を考慮しながら辿ることを試みる。

政治的プロジェクトとしての新⾃由主義と統治性の展開
「新⾃由主義」には多様な学派が存在しており、また、ことば⾃体も多義的で、論者によって
異なる側⾯に焦点が当てられる変幻⾃在な⽤語であることは、この問題の議論を始める際にほ
ぼ必ず確認される論点である。加えて、学術的議論としての新⾃由主義とその現実社会における
(‘actually existing neoliberalism’)
適⽤と実践のされ⽅(いわゆる「実際に存在する新⾃由主義」
(Brenner and Theodore 2002)
)の間には⼀連の⽭盾が存在することも⻑い間、指摘されてきた。
こうした新⾃由主義を分析する際の特有の困難さを克服するための戦略のひとつが、
「政治的
・ ・ ・ ・
プロジェクト」としての新⾃由主義を学術的議論からなるべく区別し、両者の相互的な関係性に

着⽬して理解の構築を⽬指すアプローチである。
「「政治プロジェクト」として新⾃由主義」とい
う観点を提⽰したハーヴェィに留まらず(Harvey 2005)、広く参照されているフィリップ・ミロ
ウスキ(Mirowski 2013)やウェンディ・ブラウン(Brown 2015; 2019)
、ウィリアム・デーヴィス
(Davies 2017)
、トマス・ビーエブリチャー(Biebricher 2018)などの分析で、このアプローチは
採⽤されている。たとえば、ミロウスキは、1947 年に、フレデリック・フォン・ハイエクの呼び
かけで経済学者を主とする研究者と政治家、ビジネス・リーダーが集い、設⽴されたモンペルラ
ン協会(the Mont Pèlerin Society)が国際的な知的ネットワークとして機能する「新⾃由主義思想
(Neoliberal Thought Collective)を形成することで国際政治と国内政治の両⽅のレベルで政
集団」
治的な影響⼒を⾏使してきたことを跡づけるため、ハイエクやミルトン・フリードマンなどによ
る議論が政策形成エリート・レベルで国際的に拡散されただけではなく、⾃⼰啓発に関する書物
(everyday neoliberalism)として浸透し、⼈びと
や商品の宣伝などを通じて「⽇常の新⾃由主義」
によって内⾯化され、実践されている状況を検討している(Mirowski 2013)
。ミロウスキによれ
ば、新⾃由主義が世界⾦融危機を経験したにもかかわらず「死な」ずに(Crouch 2011)
、影響⼒
を維持できたという事実は、
「新⾃由主義思想集団」が新⾃由主義の政治的プロジェクトと思想
の両⽅を擁護する⽬的で精⼒的に活動を展開しただけではなく、こうした新⾃由主義の「⽇常性」
にも依拠している。⾔いかえれば、
「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義は「⾼度化され
た」統治性の権⼒のテクノロジーが作⽤する統治システムに下⽀えされており、だからこそ、ミ
ロウスキは「⽣政治はここに存在し、今後も存在し続ける」(‘biopolitics is here to stay’)
(Mirowski
2013: 148)と断⾔するのである。
ここで、エリート・レベルの新⾃由主義の議論と⽇常化された⾔説との間にはギャップが存在
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
することがそもそも意図されていたというミロウスキによる指摘を確認することには意味があ

「⼆重の真実」の原則」(the doctrine of ‘double truth’)と


るであろう。ミロウスキはこの現象を「
呼んでいる。ミロウスキは、この⽤語を使って、ハイエクなどのモンペルラン協会の知的エリー
トが、意図的に欺瞞を振りまいたり、あるいは印象操作を⾏ったと論じているのではない。彼に
よれば、

より洗練された政治についての理解の必然的な結果として、学術的思想集団が⼤衆に向けてそ
の教義を⼀般の⼈びとにもわかりやすい形にとどめておく必要があると譲歩することはあり得
るだろう。なぜなら、その⽅が世界にとってより安全であり、普通の社会にとっては恩恵が⼤き
いと考えられるからである。けれども、他⽅で、少数の閉鎖的なエリートの間では、彼らが集団
として叡智の光彩の継承者であると⾒なされることから、難解な議論を固守する。
(Mirowski 2013: 68)

問題は、こうした⾔説の⼆重性は、しばしば⼀般向けとエリート向けのふたつのバージョンの間
で⽭盾を⽣じさせたことである。特に、ミロウスキは、モンペルラン協会が反⾃由主義的で階層
(spontaneous order)
的な統制によって運営された組織であったことと、ハイエクが「⾃⽣的秩序」
を強調したのとは対照的に、モンペルラン協会は国家に対して「上から」特定の政策を実施し、
考え⽅を普及させるために運動したロビー組織であり、したがって、⾃らの⾏為で「⾃⽣的秩序」
の原則を否定していることを問題視している。
「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義が、エリート以外の⼈びとにとって実態としては
反⾃由主義的で権威主義的な試みであったというミロウスキの指摘と交錯するように、ウェン
ディ・ブラウンは近年、観察される移⺠排除やあからさまな⼈種差別的⾔動、⼥性嫌悪の運動の
⾼まりといった現象に代表される反⺠主的であり反社会的、かつ権威主義的な「⾃由」を声⾼に
主張する⾵潮を新⾃由主義的理性(neoliberal reason)の論理的帰結であると⾒なし、これを「新
⾃由主義のフランケンシュタイン」と名づけた(Brown 2018; 2019)。集団的統制を全体主義に通
じるものとして退ける新⾃由主義の議論は、ハイエクが論じたように、市場による競争と伝統や
家族に関する特定の道徳が存在することによって⽣み出される「⾃⽣的秩序」の機能や「私的な
(personal protected sphere)の拡⼤により、
保護された領域」 「社会」や「政治」が介在することな
く、強制が存在しないという意味での「⾃由」で良き⽣活が確保されると想定する。したがって、
新⾃由主義の議論では、脱政治化され、反規制のスタンスを取る国家が私的な領域が拡⼤するこ
とを保護することが推奨されるが、その現実としての結果は⼤資本を持つ有⼒企業の活動を促
す⽅向で国家の制度が改変・調整されたり、私有財産や家族的伝統、プライバシーの保護を理由
として、⼈種的少数者や性的少数者への差別的⾔動が正当化されることであり、したがって、ブ
ラウンからすると「政治⽂化を脱⺠主化し、包摂、多元性、寛容、そして平等という規範を貶め
(Brown 2016: 33)結果を招いている。さらに、市場と伝統や家族のプライバシーを重視する
る」
道徳の強調は、
「ネーション」として認識される政治共同体が「⺠主的なシティズンシップによ
(ibid.: 34)という理解につながり、こうした環
って構成されているのではなく所有されている」
境においては私的な経済利益を最⼤化する「抜け⽬のない」商業⾏為が最優先され、他⽅でそう
した競争が全⾯化した危険な社会において安息の場所と⾒なされる「ホーム」の安全を確保しよ
うとする衝動が強まり、法や規制など、国家の制度はこうした傾向や⾏動様式を裏付けるように
改⾰されていく。ブラウンによれば、これら⼀連のダイナミクスの帰結は、「⾃由」(freedom)
の性質の変化である。

⾃由は経済的弱者や歴史的に排除されてきた者たちに対する武器となり、逆説的に、経済と安全
保障の両⽅の領域において、⽗権主義的な保護主義の形で国家の権能が拡⼤することを促す。
(ibid: 34)

⾃らの経済的⾏為や私的⾃由を最⼤化するために、国家の制度を利⽤して、他者を管理・統制
し、同時に、攻撃して排除する。新⾃由主義の議論が⾏き着いたこうした権⼒⾏使のテクノロジ
ーは、ブラウンが指摘するように、規範的価値がその意味基盤を失い、政治的武器あるいは商業
的なブランドに転嫁することによって道具化されてしまった時代のニヒリズムに対応している
(Brown 2019: 159-60)
。新⾃由主義のロジックは、時に、
「新⾃由主義思想集団」に属する知的
エリートから外れる⾏為者によって、彼らの政治的・経済的・私的な⽬的を実現するため、論理
的⾸尾⼀貫性を考慮せず、しばしば虚実を含めて主張されるが、その結果として、そうした⾔説
状況で「他者」と名指しされた⼈びとは保護する必要がない存在として、周辺化される。この時、
既に「包摂、多元性、寛容、そして平等という規範が貶められ」てしまっていることから、新⾃
由主義の「他者」たちが周辺化から回復するために利⽤できる⾔説資源は存在せず、他⽅で、
「最
⼤化」の要請は「他者」に振り分けられる⼈びとの範囲を拡⼤⽅向で作⽤する。このように⾒て
いくと、新⾃由主義が影響⼒を拡⼤した⾼度資本主義社会における「統治性」のオペレーション
で、
「死政治」の主な対象となるのは新⾃由主義の「政治的プロジェクト」によって「他者」化
される⼈びとであると考えられる。⾔いかえれば、彼らは「企業家的主体」にはならない/なれ
ない⼈びとであり、こうした⼈びとの内には労働市場での競争に不利な⽴場にありがちな⼥性
や⼈種的マイノリティが相対的に多く含まれている。
以上をまとめると、新⾃由主義の理論的議論と「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義の
展開の関係性を検討することを通じて、ミロウスキとブラウンの分析が⽰すのは、政治的プロジ
ェクトとしての新⾃由主義の展開には「統治性」のオペレーションが不可⽋であり、その過程に
おいて「死政治」は国内外に存在する「企業家的主体」にならない/なれない⼈びとを周辺化し、
排除する、⾔いかえれば「棄⺠」化する形で進⾏するということである。こうした理解は、ジグ
(wasted lives)の議論(Bauman 2004)や刑罰国家化や排除
ムント・バウマンの「廃棄された⽣」
型社会の進展を指摘する議論(Wacquant 2009; Young 1999; 2007)と呼応している。
それでは、
「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義に関連して進⾏する「統治性」のオペ
レーション、特に「死政治」は⽇本においてどのように展開しているのだろうか。ここでこの問
題の考察に⼊る前に確認しなければならないのは、先⾏研究にならえば、⽇本での新⾃由主義の
展開は、本節で参照したミロウスキやブラウンなどの議論が下敷きとした欧⽶の状況と⽐較す
ると、⼀定の独⾃性が認められることである。特に、次の 3 点は検討に値する。
第⼀に、
「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義に関して、⽇本は確実に後発国であり、
その実施のされ⽅には欧⽶と⽐べるとタイム・ラグがあるだけではなく、適⽤対象を選択して導
⼊されたという特徴を⾒出すことができる。たとえば、⽥中拓道は近著で⽇本において新⾃由主
義的改⾰を導⼊したとされる中曽根政権は、イギリスのサッチャー政権・アメリカのレーガン政
権と⽐較すると、①労使協調路線を堅持し、雇⽤の安定と企業福祉を維持した、②公共事業や各
種規制を通じて、地⽅や中⼩企業を保護した、③男性稼ぎ主型家族モデルを社会保険や税控除を
通じて強化したという特徴を⽰すと整理している(⽥中 2020:168-170)。こうした⽥中の議論
は、宮本太郎が「⽇本型⽣活保障の三重構造」と呼んだ⽣活保障の仕組み(宮本 2021)が 1980
年代以降も維持され、その揺らぎが可視化したのは 1990 年代後半から 2000 年代への過程であ
ったことの背景を説明するものである。雇⽤制度や公共事業と各種規制のあり⽅は「構造改⾰」
が唱えられた過程で徐々に改⾰されていったが、男性稼ぎ主型家族モデルは現在に⾄るまで多
少の修正が施されつつ維持されている。
第⼆に、
「政治的プロジェクト」としての新⾃由主義の選択的な実施のされ⽅は新⾃由主義改
⾰が体系的・包括的に⾏われなかったことだけではなく、改⾰の射程と効果が限定的であったこ
とを⽰唆する。この点を考える上で興味深いのは、宮本が説明する⽇本におけるワークフェア政
策のちぐはぐさであろう。福祉受給者を就労の⽅向に誘導することを⽬指すワークフェア政策
は⾔ってみれば「政治プロジェクト」としての新⾃由主義の看板政策プログラムであるが、⽇本
においては「空回りした」というのが宮本の評価である。その理由として宮本は、①⽇本の⽣活
「とくに 1960 年代半ば以降は、働く条件のある⼈は給付対象から排除される傾向
保護制度では、
が強まっていた」
、②⺟⼦世帯の就労⽀援に関しては「対象となった⺟⼦世帯の多くは、⽇本で
はすでに働いていた」
、③若年者の就労⽀援については「就労可能性のある若者に対する扶助の
制度はほとんど存在しなかった」と指摘している。つまり、⽇本の状況では新⾃由主義改⾰の対
象とされる「
「福祉」に相当する部分がなかった」ことから、
「そもそも打ち切る福祉がなければ、
(宮本 2021: 109-113)
ワークフェアというカードは切れない」 。こうした宮本の指摘を⽇本の公
的社会⽀出は国際的に⽐較すると、⽼齢・遺族⽀出と医療⽀出の割合が際⽴って⾼く、また抑制
されたレベルに留まるという知⾒(⼤沢 2013; ⽥中 2017)と重ね合わせると、⽇本における「政
治プロジェクト」としての新⾃由主義は制度改⾰の余地が限定的であったにもかかわらず導⼊
されたものであったことが⾒えてくる。他⽅で、ワークフェア政策の導⼊は、与党が主導した⽣
活保護受給者へのバッシングに代表される改⾰の必要性を訴える規範的性を強く帯びたレトリ
ックの拡散を伴っていた。規範を強調するレトリックが過剰に⽤いられる⼀⽅で、制度改⾰の射
程は限定的であるというのは、2000 年代の⾷のガバナンス改⾰の試みをイギリスの事例と⽐較
することでも確認できる傾向であり、家族の営為と深く関係する⾷のガバナンスの場合、性別役
割分担に強く結びついたジェンダー規範が表⽴って動員された(武⽥ 2011)

関連して、⽇本における「政治プロジェクト」としての新⾃由主義改⾰に観察される独⾃性の
第三点⽬は、この過程でジェンダー規範が強く作⽤する「男性稼ぎ主型家族モデル」が中⼼的な
役割を果たしていることである。⽇本における「統治性」型の統治システムのオペレーションを
検討した別稿で論じたように、⽇本の場合、
「⽣政治」の進展は、1950 年代に国⺠運動を通じて
「家族計画」のアイディアが企業福利の⼀環として勤労者家庭に普及し、これにより個々⼈をジ
ェンダー役割を実施する主体として家族内に位置づけ、その上で家族全体を⾔わば「企業する」
ことが奨励される⽅式で⾏われた(Takeda 2005)
。1990 年代以降、企業福祉が後退し、家族のあ
り⽅がゆらぎ始めると、
「新しい社会的リスク」への対応が模索され、家族を「企業」するため
の努⼒としての⼥性の就業が奨励されるというレトリック上の修正が試みられたが(Takeda
2008)、基本的には「男性稼ぎ主型家族モデル」の制度設計が維持された(⼤沢 2013; ⽥中 2017;
宮本 2021)
。「男性稼ぎ主型家族モデル」の⾒直しはジェンダー平等の観点からだけではなく(⼤
沢 2013; 三浦 2018)、現代的な⽣活困難に対応するためにも⽋かせない政治課題であると繰り
返し指摘されてきているが、次節で述べるように、家族単位で「企業」することを推奨する傾向
は新型コロナ対策にまで持ち越されている。とはいえ、
「統治性」の観点からすると、こうした
⽇本における「男性稼ぎ主型家族モデル」という枠組みへの固執は、新⾃由主義の規範が浸透し
た社会では論理⽭盾から機能不全に陥るというジレンマが観察される(武⽥ 2016; Takeda 2016)。
他⽅で、既に多くの論者によって指摘されてきているように、近現代⽇本の制度環境では労働
市場と福祉国家システムが「男性稼ぎ主型家族モデル」に基礎づけられて編成されているがゆえ
に、
「男性稼ぎ主型家族モデル」に属さない⼈びと、その中でも特に⼥性たちが、⻑い間、経済
的・社会的な困難に直⾯してきた。この傾向は現在まで継続しており、たとえば、⼤沢真理は安
倍政権下の⽣活保障政策を分析する論⽂で「男性稼ぎ主型家族モデル」から外れたシングルマザ
ー世帯と⽚稼ぎ世帯(どちらも⼦どもふたり)で⽐較すると、
「純負担率」が特に低所得者層で
はひとり親世帯の⽅で重くなるという税・社会保障制度上の機能不全を指摘している(⼤沢
2019)
。こうした指摘は、⽇本のデモクラシーの「夜の⾝体」は⼈種だけではなく、ジェンダー
秩序を通じて存在してきたのではないかという疑問を提起する。
新型コロナのパンデミックが現実化した段階の⽇本では、以上で⽰したように⼀定の独⾃性
をもって「政治プロジェクト」としての新⾃由主義が依然として進⾏していた。そうした環境で
「⽣政治」と「死政治」がどのように展開したのか、次節で検討する。

感染症パンデミック下の「⽣」と「死」のマネジメントと家族
「感染症」は⽣活環境の中に存在する微⽣物が体内に侵⼊し、増殖することで引き起こされる
疾患であり、したがって、新型コロナ感染症のように予防や治療のための医療技術が未発達な段
階では、個々⼈は⽣活習慣や⾏動パターンを調整し、統制することによって⾃らが感染すること
を防⽌することが求められる。今回の新型コロナパンデミックでは、多くの国でロック・ダウン
が⾏われることで⽣活の仕⽅が急変し、⽇本でも⽇常的なふるまいや意識の変更を促すために
「新しい⽣活様式」の導⼊が促された。厚⽣労働省による「新しい⽣活様式」の実践例の紹介8
においては、
「⼀⼈ひとりの基本的感染対策」
「⽇常⽣活を営む上での基本的⽣活様式」
「⽇常⽣
活の各場⾯別⽣活様式」
「働き⽅の新しいスタイル」という状況ごとにどのような⾏動様式を取
ることが奨励されるのか⽰している。書かれていることを読む限りでは、マスクの着⽤や⼿洗い、
ソーシャル・ディスタンスの確保などの⾃分⾃⾝の⾏動の仕⽅のみではなく、
「料理に集中、お
しゃべりは控えめに」など、他者との関わり⽅や働き⽅にも⼀定の調整を求めている。こうした
厚⽣労働省の要請は、
「企業家的主体」が⾃らの⽣と⽣活を意欲的に最適化することを想定する
⾼度化した「統治性」の権⼒テクノロジーを通じての統治の試みであるようにも読める。
とはいえ、ここで問題としなければならないのは、
「新しい⽣活様式」の導⼊を含むパンデミ
ックへの対策は、医療・保健体制の整備に加え、経済活動が⼀時停⽌・鈍化することによって、
雇⽤が不安化したり、⽣活上の困難さが⽣じることにも対応しなければならず、そのためには⼤
規模な公的機関による政治的介⼊の必要性を伴っていたことである。たとえば、⾦井利之が議論
したように、学校の⼀⻫休業によって学校がケア施設としての機能を果たしてきたことが露呈
したが(⾦井 2021: 193-199)
、⽇本の場合は休業補償など代替措置が提供されないまま突然に実
施されたので⼤混乱が⽣じた。この問題が⽰唆するのはパンデミックへの対策は、⾼度化された
「統治性」ではなく、公的機関が医療従事者や専⾨家と協⼒し、⼈びとが健康な⽣活を送ること
ができるように配慮するために適切な制度を整備する 19 世紀型の「統治性」に基礎づけられる
⽅が適切であったことである。けれども、検査体制と医療体制の拡充や休業補償、あるいは給付
⾦の⽀給による直接的な経済⽀援など、⼤規模な組織的介⼊への政府の対応は、⼀貫して消極的
であった。⽵中治堅は⽇本における新型コロナ対策の進展がスピード感に⽋け、限定的であった
ことの理由を⾸相と地⽅⾃治体の間の権限の関係が複雑であったことと 1990 年代以来、⾏財政
改⾰が進んだことによる「キャパシティ」不⾜であると説明しているが、他⽅で、⽵中による安
倍政権関係者に関する記述からは⼤規模な経済的⽀援への消極的姿勢と「⾃粛」への選好−「政
治プロジェクト」としての新⾃由主義の傾向−が読み取れる(⽵中 2020)。
こうした状況の中で、特定定額給付⾦が家族の全員をまとめた形で世帯主に⼀括して振り込
まれたことに象徴されるように、家族を基調とする統治へのアプローチは堅持された。その上で、
公的な社会的・経済的⽀援が進まない状況で、家族は家族としてパンデミック下の⽇常⽣活の
様々な問題を⾃分たちで処理しながら、⽣活していくことを求められたわけである。⼀⽅では、
前出の「コロナ下の⼥性への影響と課題に関する研究会」による緊急提⾔や報告書などで既に指
摘されているように、緊急事態宣⾔が出され、飲⾷店などに休業要請が発せられた直後、サービ
ス産業に従事する多くの⼥性たちは解雇や雇い⽌め、シフト減の対象となった。その後、2020 年
7 ⽉以降、⼥性の就業者数は増加に転じるが、同年 11 ⽉以降は横ばいの状態で、2021 年 3 ⽉の
段階ではパンデミック前のレベルを回復していない(男⼥共同参画局 2021)。「コロナ下の⼥性
への影響と課題に関する研究会」報告書によれば、⺠間企業の共働きの⼥性社員を対象とした調
査で、⼥性の収⼊減があった回答者の 18.8%が⾷費を切り詰めたと回答しているのに対し、収⼊
減のなかった回答者の間での数字は 7.7%であった(コロナ下の⼥性への影響と課題に関する研
究会:11 & 図−12)
。さらに報告書では、これらの経済的困難に加えて、配偶者からの暴⼒被害、
家事・育児時間の増加と⼥性への偏り、⾃分時間の減少、ストレスといった問題が検討されてい
る。報告書にも盛り込まれた内閣府で⾏われた「男⼥共同参画の視点からの新型コロナウイルス
感染症拡⼤の影響等に関する調査」では、
「配偶者にもっと⼦どもの世話をしてほしい」と答え
た回答者が 38.5%にものぼっている(ibid.: 29)

こうした調査結果に呼応するように、パンデミック下の⽇本での⼥性の⾃殺数の増加を報じ
る新聞や雑誌の記事では、困難な状況の中でそれでも家族を「企業する」役割を担い、それを誠
実に果たそうとするがゆえに⼥性たちが追い詰められていく様⼦が伝えられている(Rich 2021;
古川 2021; 週刊⼥性 PRIME 編集部)。メンタルケア協議会の理事は Japan Times 紙の記事で、⼥
性は感染防⽌の責任を担い、家族の健康に気を配り、清潔さを保つ必要があり、そうした義務を
適切に履⾏できない場合は⾒下されるとコメントしていたが、実際、ジェンダー役割分担規範か
ら家族の主たる運営者と⾒なされがちな⼥性たちは、家族の感染に多⼤な責任感を感じていた
ことに加え、失業や収⼊減から家族の重荷になっていると⾃分を責めることで⼤きな⼼理的負
担を抱えるようになった。けれども、緊急事態宣⾔が出され、前述の報告書が⽰したように⾃分
の時間が減少している状況では、そうした⼼理的負担を家族の外で発散させる機会を確保する
ことは難しい。また、家族が危険にさらされている時に、⾃分を優先することにも⼼理的抵抗を
感じる。こうした過程では、
「⽣政治」と「死政治」が密接に絡まりあっているように⾒受けら
れる。家族を「企業」することに強く動機づけられているからこそ、それが⼤きな⼼理的プレッ
シャーとなり、他⽅で、家族を「企業」することに失敗した時、つまり、標準的モデルの家族像
から外れてしまった場合には「死にさらされる」ことを強く意識することになる。このように⾒
ていくと、パンデミック下での家族の運営は、実際、
「同居あり」の⼥性にとっては、⼼理的負
担の重い、⽣を消耗させる課題である。
他⽅で、
「男性稼ぎ主型家族モデル」に属さない⼥性たちが「死政治」の対象に陥りがちであ
る傾向は依然として続いているのみではなく、パンデミックの状況によって死にさらされる強
度が⾼まっているように観察される。2020 年 11 ⽉にバス停で殴打され、亡くなったホームレス
の⼥性のケース9を取材した N H K の記者による記事は、この⼥性が夫の暴⼒が理由で離婚をし、
その後、職を転々として、亡くなる前は⾮正規労働者としてスーパーでの試⾷販売員をしていた
と伝えている。仕事が不定期で短期であったことから、数年前にネットカフェに寝泊りするよう
になっていたところに、パンデミックでほとんど仕事に就けなくなり、深夜から早朝までバス停
に座って過ごしていたところ、被害を受けたと報じられている。N H K の記事によれば、この⼥
性を殺害した男性は⼥性が「邪魔だった」と強い排除の意思を⽰す供述をしている(徳⽥・岡崎
2021)
。また、ジャーナリストの中村敦彦は、パンデミック下の状況で学費や⽣活費を捻出する
ために「セックス・ワーク」10に携わる⼥⼦⼤学⽣の事例を複数、報告しているが、その中には
親に仕送りをしている例も含まれている(中村 2000; 中村・藤井 2000)。⽇本という国の歴史
には、離別や死別で結婚制度から外れた⼥性たちが低賃⾦で不安定な労働に就き、追い詰められ
る例や、⽣家の経済的事情から若年⼥性がセックス・ワークに追いやられる例が数多と存在して
いる。国⺠経済の成⻑により、⼀時期、そうした事例は⾒えにくくなり、あるいは海外で展開す
るようになったが、1990 年代以降の⻑期的な経済停滞とグローバリゼーションの進展により再
び国内で可視化されるようになった。⾔いかえれば、
「死政治」を伴う「収奪による蓄積」が再
度、明⽰的に⽇本国内で展開するようになり、そうした状況がパンデミックによって拡⼤してい
る。現在進⾏している状況をそのようにも解釈できないだろうか。

おわりに
「死政治」に着⽬するムベンビとエスポジトはふたりとも、
「死政治」をファルマコンと形容
している。
「毒」でもあり「薬」にもなると解釈は、害悪をもたらすと⾒なされる対象を排除す
ることで共同体が守られるという意味での⼆⾯性を指しているのであろう。とはいえ、相反する
過程が同時進⾏するというのは、そもそも統治性の議論の核⼼であった。フーコーに遡れば、統
治性とは個⼈にとっては主体となり、権⼒に従属する過程である。
こうした統治性の⼆⾯性に着⽬して、パンデミック後の世界ではポジティブな「統治性」を展
開することが重要だと、ベンジャミン・ブラットンは議論する(Bratton 2021)
。前述したよう
に、確かに、国家が医療と福祉制度を整備し、⼤規模な介⼊を⾏う 19 世紀型の「統治性」の⽅
がパンデミックに対応するためのより適切なキャパシティを有するとも考えられる。けれども、
「統治性」の議論では⻑らく明確に論じられてこなかった「死政治」を改めて「統治性」に位置
づけた後では、
「統治性」をポシティブな⽅向で転換するというアイディアにどの程度の実現可
能性と有効性があるのか、慎重に考察することが求められるだろう。特に、ポジティブな「統治
性」が「死政治」へのドライブをどのように⼿懐け、暴⼒的な排除を抑え込むことができるのか
⾒定める必要がある。
新⾃由主義がフランケンシュタインになっていると結論づけたブラウンの議論を踏まえると、
問題の核⼼は「統治性」が特定の「経済」に関する理解に基礎づけられていることであるように
も考えられる。資本主義、特に、新⾃由主義型の資本主義では、⾃らの⽣と⽣活を最適化するた
めには、個⼈は市場での競争で他者に優位し、経済的利益を最⼤化して、そのためにもプライベ
ートな領域を固守し、防御することが求められる。したがって、他者の排除は、新⾃由主義型の
資本主義の過程では本質的な要素である。これに対して、世界⾦融危機の後、緊縮財政の政治が
10 年以上にわたって続いてきた時代状況で注⽬を集めつつある協同組合⽅式は、経済のダイナ
ミクスとそれを⽀える他者と関係に関する対照的な理解の仕⽅を提⽰している(Guinan and
Hanna 2018)
。協同組合⽅式では、組合員が増え、組織として拡⼤することで経済システムとし
ての⼀層の安定を得られるわけであり、したがって、これを「統治」する際の関⼼は他者と⽀え
合い、彼らが安定して快適な状態にあることに優先的に向けられる。統治のシステムを構想する
時、こうしたロジックの違いが権⼒テクノロジーの作⽤に⼤きな違いをもたらすと考える。

参照⽂献
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1
緊急提⾔と報告書は以下のウエッブサイトから⼊⼿できる。
https://www.gender.go.jp/kaigi/kento/covid-19/index.html (最終アクセス 2021 年 9 ⽉ 18
⽇)
2
1977−1978 年および 1978−1979 年の講義録では「⽣権⼒」 「⼈⼝の⽣政治」の両⽅の⽤語
が使⽤されている。本稿では、他の論者による議論との統⼀性も考慮し、主に「⽣政治」を使
⽤する。
3
統治の装置として「家族」に焦点を当てたジャック・ドンズロの議論では、たとえば、フラ
ンスの労働者階級の⼥性に対する「良き⺟」となるための働きかけが検討されており、統治性
に基づいた統治システムにおいてジェンダー規範が基幹的な機能を果たしてきたことが理解で
きるが、ドンズロ⾃⾝はこの問題に関してジェンダーとの関連で議論を展開することは特にし
ていない (Donzulot 1997)。
4
同様の傾向が 2000 年代以降の⽇本で観察されたことは別稿で既に論じている(Takeda 2008;
2011) 。また、近年、ポスト・フェミニズム論が⽇本にも紹介され、その⽂脈でポスト・フェ
ミニズムの⽇本における展開が議論されている(菊池 2019; ⾼橋 2020) 。
5
アガンベンは 2020 年 2 ⽉ 26 ⽇付けのブログ記事で新型コロナの感染拡⼤から甚⼤な被害が
⽣じ、世界各国に先駆けてロックダウンが開始されたイタリアの状況を不相応な応答
(disproportionate response)であり、 「例外的⼿段」を⽤いるために「エピデミックの発明」
が利⽤されたと痛烈に批判した(Agamben 2020)。そうした彼の主張はスラボイ・ジジェクを
含め(Zizek 2020) 、数多くの論者よる厳しい⾮難を受けた。ベンジャミン・ブラットンは、こ
のできごとをアガンベンによる「⽣政治」の議論の射程の限定性から派⽣したと解釈している
(Bratton 2021) 。
6
引⽤した部分は英語版には含まれていない。
7
英語版では該当部分は以下のようになっている。「産業発展の時期にいつも次々と発⽣する危
機によって⽣産する社会から永久的に取り除かれる⼈間の廃物。コミュニティにとって、仕事
をせず、⽣産的でない⼈びとは余剰な富の所有者と同じ程度に余剰な存在であった。 」
8
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html(最終アク
セス 2021 年 9 ⽉ 18 ⽇)
9
この⼥性のケースは堅⽥(2021)と⾬宮(2021)でも取り上げられている。
10
⼥性の貧困と⽇本における「セックス・ワーク」の関係については、 「セックス・ワーク」
という⽤語の使⽤のされ⽅を含めて、⻑い間、議論されてきた。本稿で問題としたいのは、 「セ
ックス・ワーク」という職業そのものの性質や社会的評価ではなく、藤⽥孝典が指摘したよう
に「家庭に経済的余裕がなければ、性産業に従事して学費や⽣活費を稼げばいい」 (藤⽥ 2021:
131)というロジックによって、⽇本では、しばしば事実上の貧困対策として「セックス・ワ
ーク」が⾏われていることである。

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