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「死」と「契約」の国際秩序から、「生」の国際秩序の構築へ

―アーレント的公的領域は、国際舞台において構築は可能か―

ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ
未来創造学部 政治ジャーナリズム専攻コース
学籍番号:16000237
竹 内 光 風
2020年3月
目次

序論...............................................................................................................................................................3

第1章 国際政治における自然状態の考察..........................................................................................7

(1) 自然権観念の起源...............................................................................................................7
(i) ソクラテス―プラトン型の自然状態の考察..............................................................................8

(ii) アリストテレス型とトマス型の自然状態の考察...................................................................9

(2) 近代的自然状態の考察......................................................................................................11
(i) ホッブズの自然状態................................................................................................................11

(ii) ロックの自然状態の考察....................................................................................................14

(3) 近代的自然状態と古典的自然状態の相違と融合...........................................................15
(i) 「愛」を本質とした人間の自然状態の考察............................................................................17

(ii) 発展性を内在した人間の行動原理...................................................................................20

第2章 政治体としての国家................................................................................................................22

(1) 国家の諸発展.....................................................................................................................23

(2)「労働」における国家の性格...........................................................................................................24

(3)「仕事」としての国家の性格...........................................................................................................25

(4)「活動」としての国家の性格...........................................................................................................27

(5) 国家において「観照」が及ぼす可能性について................................................................32

第3章 国際秩序の構築......................................................................................................................34

(1) 国際秩序が抱える課題.......................................................................................................34

(2) 国際秩序の形成過程.........................................................................................................35

(3)「文明の公的領域の確立」という国際秩序...................................................................................36

結論.............................................................................................................................................................37

【参考文献】.................................................................................................................................................39

2
序論
 様々な学派が存在し、様々な制度や理論が考案され展開されてきたが、国際政
治の舞台において、唯一の秩序は「無秩序」であるように見える。そのため、
「国益を確保し、いかに国家として存続するのか」ということが、アクターとし
ての国家の行動原理であるように説明される。そのため、国際秩序は、国家間の
理念や理想の元に実現されうるものではなく、「力と道義力、安全性と正統性の
間の関係についての十分な認識の上に創造される」1とも言われ、政治家の仕事
の本質は、国際関係における力のバランスや、構図を理解することにあると主張
される。こうした考えは、リアリズムと称され国際政治学の一派として研究され
ている。しかし、こうした現実主義の国際政治学においては、国家が下す判断や
国家の持つパワーがどのような目的でもって使用されるのかまでは研究されてい
ない。つまり、国際社会として、何かを解決するということよりも、国際政治の
構造を国のトップである政治家がきちんと理解し、力の均衡を図り、戦争のない
空白地帯を形成することが大切であると考えるのである2。
 その一方で、国際秩序を経済的利益と考えて、その共通部分を互いに持つこと
によって安定した国際政治を実現しようとする考え方も存在する。ドイツ観念論
のカント(Kant)は『永遠平和のために』の中で、「商業精神は、戦争とは両立で
きないがおそかれ早かれあらゆる民族を支配するようになるのは、この商業精神
である。つまり国家権力にあるあらゆる力(手段)のなかで、金力こそはもっと
も信頼できる力であろうから、そこで諸国家は自分自身が(もとより道徳性の動
機によるのではないが)高貴な平和を促進するように強いられ、また世界のどこ
でも戦争が勃発する恐れがあるときは、あたかもそのために恒久的な連合が結ば
れているかのように、調停によって戦争を防止するように強いられている、と考
える」3と述べた。
実際、現実の同盟関係は、国の力関係や利害計算などのリアリズム的分析を主
な要因をもって形成される。しかし、いったん同盟関係が形成されてしまうと、

1
ヘンリー・A・キッシンジャー『キッシンジャー 回復された世界平和』伊藤幸雄訳(原書房)561 頁
2
「正統性に基づいた秩序においては、戦争が不可能なのではなく、戦争の範囲が限定されるということ
である。戦争は起こるかもしれないが、戦争は、存在する体制のもとに斗られ、そのあとに来る平和は
“正統性”つまり一般合意をよりよく表したものになるとして正当化されるのである。伝統的意味でも外
交――交渉を通じて意見の調整すること――は、“正統性”に基づいた国際秩序においてのみ可能である。
国際秩序や、それを正統化しようとする手段を抑圧的と考えるような国が存在するときは常に、そのよう
な国家と他の諸国との関係は、革命的なものとなる」ヘンリー・A・キッシンジャー。正統化を求める国
際秩序には、戦争という力の行使が必要であり、そうした国際秩序は革命的な国家の登場を促す。つまり、
こうした国際秩序ではなく、国家が力の制限を互いにできる国際秩序が望ましいと考えるのである。
3
イマニュエル・カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳(岩波文庫)74 頁

3
同盟それ自体が組織化され、制度化されることになる。同盟関係を運営するため
の組織が互いの国に形成され、さらには企業、大学、そしてメディアなどの民間
の交流も盛んになっていきネットワークの幅が広がっていく。そのため、軍事的
な同盟であっても、外交政策と経済政策の両方が検討されるべきであって、そう
した同盟国の中のルールがアナーキーの中においても、各国際問題において規範
として実現しうると考える4。こうした考え方は、リベラリズムの制度論として
提唱されていおり、カントの目指した国際的な秩序の形成を具体化していると言
える。
 こうした二つの流れを統合していこうとする考え方も存在する。人間の本質を
力や優位への欲望と見なし、そのため起きる「万人は万人の闘争」が人間の自然
状態であると考えるホッブズ主義者は、国際社会の登場はあくまでも「フィク
ション」であると考え、そうした考え方がリアリストの中に根強く残っている
5
。しかし、こうした国家の崩壊や不安定に着目したホッブズ(Hobbes)の自然状
態よりも、「他人の許可も、他人の意思に依存することもいらない」従属や服従
のない平等状態のことを示すロック(Rock)の自然状態の方が現代の国際関係を分
析する際に有効であるとして、国際秩序の形成がアナーキーの状態でも実現可能
であるとの考えが登場してくる6。そして、国家間の何らかの相互作用が発生し
うるものが国際体系であり、国家間に共通した利益や目標を共有したとき、また
はさらにその目標達成のために必要なルールや制度が存在するときに国際社会が
存在すると区別することになる。こうした考え方は、リベラリズムの制度論と一
部結びつき、覇権安定理論として結集していくことになる。
 覇権国の登場が、擬似的な世界政府の役割を果たしてハイラーキー的に国際秩
序の形成を成し遂げていくと考えるのである。そして、「民主的な政治体制、
オープンな経済、そして相互の安全を保障し合う軍事枠組みなどに基礎を置いた

4
Ernst B Hass, Allen S Whiting, Dynamic of International Rations,(United States: McGrew Hill)pp83 また、Ernst
B Hass, beyond the nation-state functionalism and international organization (United State: ECPR press)を参照され
たい。
5
「国民社会では、その平和と秩序は国家の存在の恩恵を受けている。しかも国家は、国家領域内で最高
の権力を与えられていて平和と秩序を維持している。これはまさにホッブズの理論である。ホッブズは、
そうした国家がないのならば、国民社会は国際部隊と似たものとなり、「万人の万人に対する」闘いが人
類の普遍的な状況になるだろうと論じた。この前提に立てば、国家間の平和と秩序は、地球上のあらゆる
国家からなる世界国家の中でのみ確保される、という結論が論理必然的に出てくる。中世の普遍的秩序の
瓦解以来、この結論はしばしば繰り返されてきたのである」モーゲンソー『国際政治―権力と平和―
(下)』原彬久訳 212-213 頁 岩波文庫(岩波書店、2015)。しかし、こうした世界国家の実現は、「世
界的内戦への準備を整えよという招待状である」ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』河野勝、岡垣知子
訳(勁草書房、2015)147-148 頁であり、アナーキーな国際政治においてはこうしたハイラーキーな秩序
形成の構造は実現しない。
6
ヘドリー・ブル『国際社会論 アナカーキカル・ソサエティ』臼井英一訳(岩波書店、2000)を参照。

4
国際社会の制度化が進めば、国際協力が容易となり国際秩序はより安定する」
7
とリベラリズム派の論者は考えている。そして、こうして構築された国際秩序
では、国際政治の中で起きた環境問題、資源保護問題が一定の信頼関係のもとで
解決へと向かうことができるというものが「グローバル・ガヴァナンス」の主張
である。
 これまで見てきたように、国際秩序の形成の問題は、単純にリアリズム、リベ
ラリズムと区別することは難しく、多くの部分で重なり、融合しながら現在にお
いて論じてられている。しかし、リアリズムであれば「死」―国家の崩壊、国民
の不安全―を意識し、戦争という恐怖からの回避という観点から国際政治を考え
リベラリズムであれば、利益という観点からは互いに信頼でき、構築する「契
約」を念頭に置いている。どれも恐怖からの脱出、利益を獲得したい欲に着目し
て、国家の善悪や公共性に対する議論はなされていない。微に入り細に穿つなら
ば、国際連合が主導で進めているようなSDGsのような目標は一つの善悪の判断
であるかもしれない。だが、パワーに対しての価値判断はされず、国家の侵略的
性格がどこまで許容されるのかなどに対してのアプローチは存在していない。
 こうした現状を見るにつけて、国際社会を多様性という観点から捉え直し、公
的領域を確立することによって、価値判断を下し、制度や秩序構築を基礎とした
文明構築を果たすことのできる国際舞台を論じていくことが本論考の目的である
宗教家である大川隆法は「まず、「この国において、守られるべき正義とは何か
ということをはっきりさせます。さらに、その考え方が、他国の考えている正義
と両立しない場合には、それをどのように考えていけばよいかということに作業
が移ってきます。最後は、それぞれの国に、応援する国がつくはずですので、応
援する国家の意見も交えて、「地球的レベルでの正しさとは何か」ということが
決まっていくことになるわけです」8と述べている。
本質的に国際政治は、パワーの大きさで国としての強さは違えども、垂直的で
はなく水平的な構造を持つ。こうした水平権力の構造は、政治哲学者のハンナ・
アーレント(Hanna A rent)
の公的領域の考え方を入れることができると考える。国
際政治学者のアイケンベリー(Ikenberry)において、パワーが増大すれば、覇権国
が国際舞台の私有化が始まり、制度としての役割が小さくなってしまい、こうし
た正反対の関係も示されている9。こうした分析は、同質的な考え方が力によっ

7
土山實男『安全保障の国際政治学』(有斐閣、2014)63 頁
8
大川隆法『正義の法 憎しみを超えて、愛を取れ』(幸福の科学出版、2016)22-23 頁
9
G・ジョン・アイケンべリー『アフター・ヴィクトリー』鈴木康雄訳(NTT 出版、2004)296-297 頁

5
て実現されると、そこに公的領域としての役割が果たされることはなくなること
や、暴力は権威や正統性を破壊するというアーレントの考え方と近い。
 また、アーレントは「死の下の平等や暴力で死が現実化されることを基礎と
して出来上がった政治体はいまだかつてない」10と主張する。国際政治の舞台に
おいては、ホッブズ的な自然状態から政治体を考えるべきなのか、ロック的な自
然状態から政治体を考えるのか。人間の自然状態の考察を踏まえて、政治体とし
ての国家を描写していく。国際政治の舞台において、実現されるべき秩序とは何
かまで迫るのが本論考の目的である。本論考では、第1章「国際政治における自
然状態の考察」、第2章「政治体としての国家」、第3章「国際秩序の構築」、結
論という流れで論じていく。

10
ハンナ・アーレント『暴力について』山田正行訳(みすず書房、2015)156 頁

6
第1章 国際政治における自然状態の考察
アナーキー
 国際政治学において、唯一の秩序は「無秩序」と言われる際に、必ず引き合い
に出されるのがホッブズの自然状態への考察である。そして、リベラリズムの議
論がなされる根底には、ロックの自然状態への考察が存在し、国際政治学の本質
を理解するためには、こうした自然状態への議論を見ていく必要がある。
 しかし、自 然状態の 議論は、 古代ギリシア 哲学から存在し、プラトン
(Plato)、アリストテレス(Aristole)、キケロ(Cicero)など数多くのソフィストが議論
している。そして、近代だとホッブズ、ロックの近代的な手法で議論されている
ことは国際政治学の中では触れられることは少ない。リベラリズムの大家として
知られる哲学者レオ・シュトラウス(Leo S trauss)
によると、「自然権の否定は必
然的に悲惨な結果に至らざるを得ないように思われる。多くの人々によって、い
やそればかりか最もコアだかの自然権反対論者によってさえ悲惨とみなされてい
る諸々の結果が、今日の自然権否定から帰結であることは明らかである」11。そ
して、「社会科学において、価値判断を下さなくなっている原因はここにある」
とまで主張する。すなわち、一種の価値判断、そして文明構築を果たしていく国
際政治のあり方を明らかにしていく上で、自然状態の議論や、自然権の考察を参
照していくことによって、「国際舞台をどのように捉えていくべきか」を議論す
ることは有益であると考える。

(1) 自然権観念の起源
 自然権の観念は、遡るとソクラテス(Socrates)に行き着く。それを、プラトン
アリストテレス、ストア派、キリスト教学へと受け継がれることになり、こうし
て形成されてきた自然権への観念は、ロック、ホッブズを代表する近代的な自然
権とは区別されるべきである。そもそも、自然権の発見には自然の観念を知らね
ばならないが、そのきっかけになるのは哲学の必要である。何故ならば、哲学の
発達によって、世界の「原理」、そして「第一原因」「第一存在」を探究してい
くことになる12。実際、アリストテレスは自然の些細な不思議に対して驚嘆の念
を抱き、それを探求していくことに人間の本性である「愛知者」の本質を見出す

11
レオ・シュトラウス『自然権と歴史』塚崎智、石崎嘉彦訳 ちくま学術文庫(筑摩書房、2013)17 頁
12
「自然権の観念は、自然の観念を知らない限り知ることができないはずである。ところで自然の発見は
哲学の仕事である。哲学の存在しないところには、自然権そのものの知識も存在しない「自然」に相当す
るヘブライ語聖書には見当らない。たとえば、「天と地」が「自然」と同じものではないことは言うまで
もない。したがって自然権そのものの知識も旧約聖書には存在しないのである。自然の発見が必然的に自
然権の発見に先行するのであって、哲学の方が政治哲学よりも古いのである」同上 p.120

7
13
。そのため、ギリシャ哲学はタレスから始まり、自然の原理から哲学が始まっ
ている。
 そして、「哲学を天上から呼びおろし、哲学を人生や生の様式や善悪の事柄に
ついての探究へと向かわせた最初の人物」14が、ソクラテスである。言い換えれ
ば、政治哲学の祖と言える。そのため、自然から自然権まで概念として具体化さ
せたのが、最初の人物が彼であると言える。そして、ソクラテスは人間の本性は
階層的秩序が存在することと考える。つまり、魂と身体を区別し、魂の方が上位
概念として身体を支配していると考えるのである。そして、動物たちと区別され
るべき特質は、理性、知性、言葉を持っていることになる。そのため、人間固有
の働きは、知性を働かせること、思慮深く生きることになる。

(i) ソクラテス―プラトン型の自然状態の考察
 ソクラテスは、「善き生とは、人間存在の自然的秩序に合致した生、よく秩序
づけられた健全な魂にもとづく生(中略)人間の自然的傾向性の欲求が正しい秩
序において最高度に満たされているような生、可能な限り最高度に目覚めている
人の生、魂のなかで陶冶されぬままに放置されているものがないような人の生
(中略)人間的自然の完成態である」15と考える。つまり、人間の本性である知
性や理性というものが最高度に発揮された状態が人間にとっての自然状態であり
魂の徳の要素が陶冶されていることを指している。プラトンが示すところところ
のイデアというあるべき姿を人間の自然状態として捉える。
 そして、人間を社会的存在として、他者との関わり合いを避けることができず
こうしたところから正義の観点が出てくる。人間性の完成には、こうした最高度
の社会体制を確立することも含まれるようになる。最善の社会は最善ポリティア
と呼び、示したことは市民的社会ないし政治的社会でなければならないと主張す
る。法は、人々によって採択され、保持され、執行されるものである。政治共同
体を形成している人間存在は、共同体の事柄の統御に関して、きわめて多様な仕
方で「整序」されるうる。ポリティアの意味することは、元来、政治的権力に関
する人間存在の事実的「整序」である。
 都市を考えた時に、隣国や敵国のことさえも考え、友好的に考えることは人間
13
「けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの倍にもあのように、知恵を愛求し
(哲学し)始めたのである。ただしその初めには、ごく短の不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから
次第に少しずつ進んではるか大きな事象についても疑念を抱くようになったのである」アリストテレス
『形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫(岩波書店、1959)p.28
14
シュトラウス、自然権と歴史 169 頁
15
同上 179 頁

8
の善である。その一方で、自らの国の安全を脅かすことになる国に対して敵意を
示すことは正しいことである。ここで矛盾が生じることになるので、こうした矛
盾を解決するには都市国家は「世界国家」として成長しなければこうした矛盾は
解決できないと考える。しかし、すべての都市国家を統治できる人間集団や人間
は存在しない不完全性を認めるなら、やはり、多様性を認めながらも神のもとの
コスモスこそが真実の都市国家として認識しておかなければならない。こうした
時に、人は自由であり、賢明であると考える。

(ii) アリストテレス型とトマス型の自然状態の考察
 こうした思想が、ソクラテス―プラトン的な自然権としての特徴としてまとめ
るなら、ここから発展した古典的自然権はあと2種類に分類できる。一つが「ア
リストテレス型」と呼ばれるもので、二つが「トマス型」と言われるものである
16
。アリストテレスは、「自然権と政治社会の要求との間には何らの基本的な不
均等も存在しないこと、あるいは自然権を希釈する必要は本質的に存在しないと
いうこと」17と考える。プラトンにおいては、都市のこと、天界のこと、数字の
ことにおいても、ソクラテスの根本問題である「いかに善く生きるか、正しく生
きるか」ということが念頭に置かれている。自然的正義は、唯一の生であり、哲
学者の生であると定義づけている。
 その一方で、アリストテレスは、「人間的性のそれぞれのレヴェルをそれ自体
の条件に即して取り扱う」18。プラトンやソクラテスが考えるように、根本問題
に立ち返り、哲学的生のみに正義が立つと考えるのではなく、誰もが知っている
政治的生の中に実現されると考える。つまり、「アリストテレスの示唆すること
は、自然的生の最も発展した形態は市民仲間の間で成立しているものであるとい
うこと、すなわち、正や正義の主題をなしている関係は、ただ市民仲間において
のみ、最も密度の高い、従って最も成熟した状態に達することができるというこ
とである」19。
そして、アリストテレスがもう一つ主張したことは、自然的な正義は可変的で
あるということである20。ここで留保しておかなければいけないことは、様々な
16
シュトラウス、自然権と歴史 202 頁
17
同上 214 頁
18
同上 214-215 頁
19
同上 216 頁
20
「市民社会的な「正」にも自然法的(フュシコン)なそれもあるし、人為法(ノミコン)なそれもある。
自然法的なそれはいたるところにおいて同一の妥当性を持ちそれが正しいと考えられているといなとにか
かわらない。これに対して、人為法的なそれは、こうであってもまたそれ以外は仕方であっても本来は一

9
議論が存在するが、端的にいうならば、一般的な命題ではなく、具体的な命題が
念頭にあり自然的正義を考えているということである。例えば、殺人を許されな
いものと、許容されるべきものを区別して考えるよりも、個別具体的に判断して
いくことの方が容易であると考えているということを意味してるに過ぎない。つ
まり、自らの利益や憎しみによって殺人を行うことは許されるべきではないが、
戦争などの大義のために行った殺人はどうなのかということを抽象的に全て答え
るよりも、それぞれの事象に対して正義を下したほうが容易であるということで
ある。
 そして、トマス型の自然状態は、端的に言って神の厳命の元に実現されると考
える神学的なものである。「トマスの自然法観は究極的には、自然法は実際的に
は自然神学――すなわち、実際には聖書的啓示信仰に基づく自然神学――と不可
分であるばかりでなく、啓示神学と不可分である、という帰結にいたるのであ
る」21。こうした考えは、人間の自由裁量を回復させようと考え、近代の思想家
の努力を招くようになったのである。つまり、これまで見たような自然状態の考
察は、「善く生きる」という根本問題を自然状態の基礎と考えるソクラテス―プ
ラトン型、個別具体的に考え、市民的なレヴェルにおいて自然的正義は実現する
というアリストテレス型にキリスト教的神学の要素が加わり、人間の自由裁量を
制限するようになったのがトマス型の自然状態の特徴である。しかし、こうした
自然状態に反発する形で、近代の政治理論は構築されるようになった。

(2) 近代的自然状態の考察
 近代の自然状態の考察において、最も影響を与えたのはホッブズ、ロックの二
人である。殊に、国際政治学においては、ホッブズの自然状態の考察を適用する
ことが実に多い。しかし、近代において成立した自然状態の考察は、トマス型の
自然状態への批判と反発のもとに形成された。そして、近代自然科学、非目的自
然科学の勃興があり、伝統的な自然権の基盤を破壊する動きになっていた。その

向差支えを生じないのであるが、いったんこうと定めて上は、そうではなくて差支えを生ずるごときこと
がらである。(中略)けだし、自然本性によるものならば変動せず、いたるところにおいて同一の妥当性
を有している(中略)のに対して、もろもろの「正しい」ことがらというものは可変的なものでしかない
ことを彼らは見ているからである。変動的といっても、しかしそれは、端的にそうといえるわけのもので
はなく、或る意味においてそうであるというにとどまる。神々のもとにおいてならば、おもうに、いかな
る意味においてもこういったことはないであろう。だが、われわれのもとにおいては、そこにやはり自然
本性による何者かが存在していないわけではないが、それでいて、すべてのものが変動をまぬがれず、そ
こにやはり、自然本性によるものとそうではないものとがともに存在しているのである。だが、「それ以
外の仕方においてもありうることがら」のうち、いかなる性質のものが自然本性によるものであり、いか
なる性質のものはそうではなくして人為法的であり契約によるものであるのだろうか、ともに同じく変動
的なものでありながら――。明らかにしかし、同じ区別は他の場合にも見出だされるであろう」アリスト
テレス『ニコマス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫(岩波書店、1973)252-253 頁
21
シュトラウス、自然権と歴史 225 頁

10
中で、自然状態、自然権の考察を深めてきたのが、ホッブズであった。近代的自
然状態への考察を深めていったホッブズ、ロックを古典的自然状態の相違と対照
しながら論じていく。

(i) ホッブズの自然状態
 ホッブスは、ソクラテス的伝統が失敗した理由が「基本的誤謬、すなわち、伝
統的政治哲学が人間は自然本性的に政治的ないし社会的動物であることを前提に
したこと」22にあると説く。こうした前提を退けることによってホッブズは、快
楽主義で有名なエピクロスの伝統的な考えと近接するようになる。つまり、人間
は、本源的に非政治的、非社会的であるということと共に、善いことは、快いこ
とであるという快楽主義的な前提を受け入れるようになるのである。そして、
ホッブズはこうした非政治的、非社会的なところに精神的政治性を見出す23。快
楽主義の中に、ソクラテス、プラトンが理想とした精神性を融合しようとしたの
である。しかし、プラトンの哲学の中で採用した考え方は、「宇宙の叡智は神的
知性がなければ理解することはできない」ということではなく、「数はあらゆる
自然科学の母」という考え方を採用することによって、唯物的=機械的な考え方
と快楽主義的な考え方を融合することに至ったのである。
 そして、古典的自然状態は、人間の性質を最大限発揮した状態、つまり人間の
完成態を目的として考えられていた。ホッブズは、こうした自然状態の観念は維
持しつつも、人間の完成という観点を分離しようとした。自然状態は、人間の最
終目的に求められるものではなく、その起源のうちに求められることになる。そ
の起源の元になる人間の性質は、「自然的欲求」である。つまり、「人間が他の
あらゆる獣たちと同じく一個の獣であり、知覚する生命体として、欲望と嫌悪を
機械的に呼び起こす多種多様な印象を絶えず身を委ねている」24存在であるとい
うことである。しかし、他のあらゆる獣たちと相違するものは、理性であり、人
間は瞬間的な感覚的印象で身を委ねている度合いは少なく、自己の利益を未来に
向けて思考することができるという特性である。
22
同上 232 頁
23
「《快楽》欲求と呼ばれ、その現象についてよろこびおよび快楽とよばれる、この運動は、生命的運動
の強化であり、それへの援助であるようにおもわれる。したがって、よろこびをひきおこすものごとが、
たすけたり、つよめたりすることから、快適な Jucundo( a Juvando)とよばれたのは、不適当ではなかった
し、《立腹》そして反対のものごとは、生命的運動を妨げ、めんどうを与えることから、邪魔な Molesta
腹立たしい Offensive とよばれた。快楽(あるいはよろこび)はそれゆえに善の現象あるいは感覚であり、
そして邪魔あるいは不快は、悪の現象あるいは感覚である。したがって全ての欲求、意欲、愛好は、おお
かれすくなかれ、あるよろこびをともない、全ての憎悪、嫌悪は、おおかれすくなかれ、不快と立腹をと
もなう」ホッブズ『リヴァイアサン(一)』水田洋訳 岩波文庫(岩波書店、1954)102 頁
24
レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』渋谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳(みすず書房、2019)12 頁

11
 こうした動物性が人間に宿っているから、自発的な欲望は無限大に広がる。そ
して、無限大に広がる欲望は、虚栄心と理解されあくなき力の追求に変化する。
したがって、人間は自然状態において欲望の拡大を図る存在であることがうかが
える。
 こうした人間であっても、「死」へと投企された存在である。いつ死ぬのかわ
からない不確実性を内在した存在である。しかし、こうした不確実性に対する理
性的な認識ではなく、この「死」というものから逃れたいという恐怖から動く衝
動が国家、法の起源であるとホッブズは主張するのである25。自己保存というも
のそのものではなく、死への恐怖そのものを道徳の源泉として理解したのがホッ
ブズの政治哲学の源泉には流れているのである。「ホッブズ政治論の出発点とな
る対立は、一方における自然的欲望の根源としての虚栄心と、他方における、人
間に道理を弁えさせる情動としての暴力による死への恐怖との対立である。(中
略)ホッブスは人間の自然的欲望を虚栄心に還元するがゆえに、それゆえかれは
苦痛に満ちた死一般への恐怖ではなく、いわんや自己保存の追求などではまった
くなく、ただただ暴力による死への恐怖だけを道徳の原理として承認することが
できるのである」26。このように、「万人の万人に対する闘争」という有名な一
節は、ホッブズの政治観を端的に示したものであることが理解できる。
 ホッブズの自然状態をまとめると、人間の動物性に着目して、人間の自己拡大
欲求は虚栄心から無限大に広がるものであるとし、その個々人の存在から犯され
る自らの安全や、自分の存在を失うかもしれないという他者がもたらしうる
「死」への恐怖27が道徳の源泉であるということになる。理想から人間のあるべ
き姿を解くのではなく、現実に即した人間像を明らかにすることによって政治を
捉え直すという試みが、近代政治原理の祖として評価されている所以である。
 こうした人間の本性は、人々を畏怖させる共通権力を持つこと、「国」という
共同体を作り上げることによって、制限することができると考えられる。国際舞
台においては、主権国家を畏怖させる共通権力が存在しないので、こうした解決
は図ることができない。ホッブズの説明では、このような状態には三つの特徴が
存在すると言う。一つ目が「いかなる産業も、農業も、通商も、その他の一切の
25
「死は最大かつ最高の悪であるという理性的な、したがってまた常に不確実な認識ではなく、死への恐
怖、すなわち死を免れようとする王道的、不可避的な、それゆえまた必然的にかつ確実な衝動こそが、法
と国家の源泉なのである」同上 22 頁
26
同上 23 頁
27
「ホッブズは、その著作の中で暴力死への恐怖というかたちで死が重大な役割を果たしていることを示
した唯一の政治哲学者である。しかし、ホッブズにとって決定的なのは、死のもとの平等ではない。自然
状態における人間に団結して国家をつくる気にさせるのは、だれもが所有する平等な殺人能力から生ずる
恐怖の平等である」ハンナ、暴力について 156 頁

12
生活の改良がありえない」、二つ目が「一切の法的・道徳的規則が存在しない」
三つ目が「自然状態が戦争状態であるので、『万人の万人に対する闘争』が現実
の戦争として現れなくても緊張感が保たれる」である28。
 しかし、こうした特徴は国際的無政府状態において当てはまらないものが多い
特に一つ目の特徴は当てはまらない。「世界政府が存在しないことは、産業や通
商やその他の生活の改良にとって、けっして必然的な障害とはならない」29。実
際、自由貿易圏が成立し、TPP、 ASEAN、EUなどに代表されるFTAが存在する
ことが、こうしたホッブズの主張の反駁になる。また、一切の法的、道徳的規則
が存在しないと言う特徴に関しても、SDGs、国際司法裁判所など国際的な規則
は存在している。道徳的観点からの主張は、国際政治の舞台においてもされるこ
とは大いにあり、これもホッブズの主張を反駁することになっている。
 しかし、二つの世界大戦を経験し、戦後も中東戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争
湾岸戦争など、戦争を多く経験してきた。こうした経験が、ホッブズの主張の流
布に大きな助力を与え、無秩序、無政府であるということは「戦争の状態」を保
つこと、つまり「万人の万人に対する闘争」が国際舞台の本質であり、ホッブズ
の自然状態が国際政治を描写するのに適していると考えられるようになった。
(ii) ロックの自然状態の考察
 ロックの自然状態の考察と、ホッブズの自然状態の考察は、対比されて論じら
れることが多い。実際、ホッブズの自然状態は、リアリズムの国際政治学の説明
に多く用いられ、ロックの自然状態の考察はリベラリズムの説明で用いられる。
しかし、「ロックが認めた自然法は、ホッブズは述べたように、他の人間に対す
る人間の「保全と防衛にとって何か役立つかについての結論ないし定理」に他な
らない、と考えれば、彼の自然法の教説は完全に理解されうる」30。
ロックの『統治二論』を読めばわかるように、伝統的な出発点から考察が始め
られていることがわかる。自然状態とは、自然法の範囲内で自らの行動を律し、
自らの判断の中で所有物や身体を使うことができる完全な自由状態であるとロッ
クは考える31。そして、各個人が持つ権利と権力は基本的に平等であり、「すべ
ての者の主であり支配者である神が、その意思の明確な宣言によってある者を他
のものを上に置き、その者に、明示的な任命によって疑う余地のない支配権と主

28
ブル、国際社会論 57 頁
29
同上 57 頁
30
シュトラウス、自然権と歴史 300 頁
31
ジョン・ロック『完訳 統治二論』加藤節訳 岩波文庫(岩波書店、2010)296 頁

13
権を与えるのでない限り」32、その関係は保たれる。
しかし、こうした平等史観を採用しながらも、ホッブズのように戦争状態を自
然状態のように想定はしない。人間の自由は理性によって自らが決定することが
でき、法に従うことのできる被創造物であるので他の存在と争うことなく共存す
ることのできるものであると考える33。そして、この従うべき規範を自然法と呼
び、その淵源には神の存在があると説く34。こうした考察が、キリスト教神学の
影響が色濃く見え、トマス型として分類分けされる古典派自然状態の考察を受け
継ぐところである。
 しかし、自然法がどこまで効力を持つのかについてのロックの考察において
神学的アプローチを純粋に現実社会に即して論じることができていない。自然法
は、ホッブズが想定するような自然状態が平和状態でなければ、その効力を発揮
しない。自らと他者の間に競争関係が存在しない時に、神の存在を淵源とした自
然法は効力を発揮し、法としての役割を担うことになる。その一方で、平和状態
ではない時には、自己保存という欲求が一段階高い行動原理となるのである。
 ロックが描写した自然状態は、神の命が各個人の内心に宿り、平和の状態が続
き、自己の保存を危ぶむ資源の不足もない黄金期のような状態である。このよう
な自然状態は、厳しい条件下のもとでしか成立しない。そして、それはあくまで
も、無政府状態であり、統治なき状態に成立した「奇跡」の平和状態である。
 そして、いったん自然状態が崩れてしまえば、社会が存在しなくなり、ホッブ
ズの想定した戦争状態になる。こうしたことを考えると、人間自身に宿る性質は
他人への配慮でも、自分の子孫への配慮でもなく、自己保存の欲求になる。
 こうして、ロックはホッブズと同じく、「自然状態においては各人が、何が自
己保存にとって有益な手だてであるかの判定者である」35と言う結論にいたる。
そして、自らが適切であると考えたことを行える主体が人間であるとし、そうす
ることを許される存在であるとするのである。しかし、平和じゃなければ、生命
の維持はされない、享受することはできないため、理性の宿る人間は平和を希求
し行動すること願うのである。つまり、ロックの考えた自然法は、平和を構築す
32
同上 296 頁
33
福田歓一『政治学史』(東京大学出版会、1985)372 頁
34
「自然状態はそれを支配する自然法をもち、すべての人間がそれに拘束される。そして、その自然法た
る理性は、それに耳を傾けようとしさえすれば、全人類に対して、すべての人間は平等で独立しているの
だから、何人も他人の生命、健康、自由、あるいは所有物を侵害すべきではないと言うことを教えるので
ある。というのは、人間が、すべて、ただ一人の全能で無限の知恵を備えた造物主の作品であり、主権を
もつ唯一の主の僕であって、彼の命により、彼の業のためにこの世に送り込まれた存在であるその人間は、
決して他者の欲するままにではなく、神の欲する限りにおいて存続すべく造られているからである」ロッ
ク、統治二論 298 頁
35
シュトラウス、自然権と歴史 299 頁

14
る定式を探究することにあったといえば理解することができる。自然法を万人が
遵守する世界には、必然的に平和が訪れる。そのような普遍的な状態が存在しな
いのであれば、ホッブズの考えるような戦争状態が起きることも想定できる範囲
である。
 ロックの自然状態は、ホッブズの自然状態を反駁した形で、論じられたと理解
されがちではあるが、結論において類似したものが出ていると言える。「死」の
恐怖が道徳の源泉であるとまでは言い切らないとしても、自己を保存するために
最適化される行動を認めている。そのため、一切の規範や道徳が成立しないホッ
ブズの自然状態に、人間の理性を持っていくことによって、利益を行動原理に置
くことで社会関係を構築することができると考えるのである。

(3) 近代的自然状態と古典的自然状態の相違と融合
 ここまで論じてきたように、古典的自然状態は、総じて「人間の卓越性を発揮
するための善く生きる」、「キリスト教神学における神の絶対観」が特徴であり
近代的自然状態は、「個人の権利や自由は、自己保存欲求のもと展開される」と
解釈されてきた。古典的自然状態は、人間の成長や完成を目的として動的に自然
状態を解釈している。しかし、問題に対して抽象化して理解し、現実社会にそく
さないところが多く、キリスト教神学的解釈が加わることによって、神の啓示を
絶対化するあまりに人間の可能性を排する傾向を示すようになる。
 古典的自然状態に異論を称える形で自然状態を議論したのが、近代的自然状態
の議論である。前節で論じた通り、現実志向で、唯物的に議論したのがホッブズ
の自然状態であり、その折衷として議論したのがロックの自然状態の議論である
近代自然状態を大別すると、ロック、ホッブスの議論の二つになるが、両者とも
「自己保存の欲求」から契約を結び社会秩序を構築するべきであると言う結論に
至る。17世紀に盛んになった政治哲学の議論の目的は、自然状態の議論からも
見ることができるように、思考方法を、神を抜きにして構築しようとした「世俗
性」にあると言える36。

36
「ほぼ一七世紀において哲学的自覚に達した「近代思想」の主要な微表の一つは明らかに思考様式の神
なしにすましうる「世俗性」にあり、しかも、一七世紀社会契約説が、「人間の哲学」に支持せられたそ
の反神学的地上性の故に、長く神学に統御されきたった伝統的政治学を精算して「近代政治原理」への不
動の視点に立ちえたとすれば、一七世紀社会契約説における宗教に解釈上過重の力点を置き、例えばそれ
を、伝統の強い傾斜において「神学的政治学」と解するかの如き態度は、一七世紀社会契約説の原理的確
信それ自体を見誤る虞れなしとしないからである」加藤節『近代政治哲学と宗教』(東京大学出版
会,1979)4 頁 、「カントは、こうした神仏的な「天上界から来た教え」を拒否し、「人格率になる」と
言うように、「人々が真似をしてもいいようなことをすることが正義だ」と考えたのです。これが近代の
出発点にもなっています。さらに、ロックやルソーなどの思想家による「契約説」の思想が入ってきて、
「社会契約を作り、人々がそれに縛られて生きていくことが正しいことにつながるのだ」と言うような考
え方になってきたのです。要するに、近代社会においては、「神や仏がいなくてもいい社会」をつくろう

15
 抽象的なあり方ではなく、現実に即して個人のこの世界における生活を守るこ
とのできる秩序を構築しようとしてきたのが、近代政治哲学の原点にあたる。し
かし、人間が求める欲求を利益という具体的に、可視化することのできるものに
限定することは、根深い世界不信へと誘い、困窮や危険を回避すべく自らの身を
隠し、回避させる衝動を起こさせることになる。国家の政策を決定する面におい
ては、プラグマティックな側面から人間観を考察していくことは有益であるが、
価値判断が不明瞭になりかつ、政治領域を構築しようとする熱意を欠いてしまう
ことになる37。
(i) 「愛」を本質とした人間の自然状態の考察
 人間の本質を「闘争」であるとか、「理性」に見出すことが、近代の自然状態
の考察であった。しかし、こうした自然状態の考察には、「欲求」という観点が
共通している。つまり、自らの安全や権力を欲するように、自己保存と表現され
るが「何か」を欲する存在を想定している。アウグスティヌスは、「愛とは何か
を欲すること」と定義していることから、政治哲学者であるハンナ・アーレント
は人間の本質を考察し始めている。そして、人間は「善きもの」を欲し、所持し
ようと働きかけるのである。そして、これが世界への志向することになる38。
 しかし、「善きもの」の特徴は、それ自体が所有されていないという点にある
そして、それを所有したなら、「欲求」は失うことへの「恐怖」に転化してしま
う。そして、人間それ自体が、「善きもの」と「悪しきもの」の両者に親和性を
持つ存在であり、「至福に生きること」を求める存在でもある。そのため、
「「欲求」、つまり、「愛」とは、人間が自らの「善きもの」を確保する可能性
にほかならない」39であるから、近代的な自然状態、古典的自然状態ともに「欲
する」という人間の本質から出てきたものである。
 そして、人間は、「一時的なもの」を所有することで、「失うことへの恐れ」
と所有への欲求」が不断に現れ、人間が本当に求める「至福の生」を脅かすこと
になってしまう。こうした「欲求」と「恐れ」は不確実な未来と結びつくことに
よって、消滅が予想される目の前の利益に対して安らぎを持てなくなるだけでは
なく、本来の「善きもの」自体が何かということさえもわからなくなってしまう
としたのです」大川、正義の法 184 頁
37
「快楽主義の真の指導原理は、快ではなく、苦痛であり、欲求ではなく、恐怖である」ハンナ・アーレ
ント『活動的生』森一郎訳(みすず書房、2015)404 頁。 ホッブズの政治原理は、この快楽主義と類似
している。一方で、ロックの政治原理は、人間に本来備わっている自然法、道徳観、理性で持って秩序が
構築されるとしている。しかし、行動原理においては、こうした快不快の法則が根底にはあり、政治体の
構築への情熱を削いでしまう。
38
ハンナ・アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』千葉眞訳(みすず書房、2012)13 頁
39
同上 14 頁

16
必ず滅んでしまう「生」を持つ人間の運命において、永遠性を求める「至福の
生」から「死」そのものが「悪しきもの」になる。すなわち、ホッブズは、こう
した限定的な人間の性において、「死」への恐怖から動機付けられた「万人の万
人に対する闘争」が、人間の自然状態の本質だと考察した。
 探究されるべきは、生そのものを確保する「何か」ではなく、至福の生であり
生そのものが探究されるべきである。この世界限りで、死に行く存在として人間
を捉えるのではなく、歴史という「連続性」の中に自らの存在を認識することに
よって永遠と絶対的未来を追求するようになる。こうした愛は、「愛」 caritas
と呼ぶ。所有を欲する状態の「愛」amorとは区別されるものである40。
 「人間とは、その人が追い求めるものにほかならない。「愛」amorは「愛す
るもの」amansと「愛されるもの」amatumとを媒介するが、「愛する者」は、決
して「愛されるもの」から孤立しているわけではなく、むしろそれに帰属してい
アモール
るのである」41。つまり、「 愛 」を志向している人においては、その対象にな
る一時的な性質と同じものを持ち、消えゆく運命を定められることになる。その
カリタス
一方で、「 愛 」を志向うするものにとっては、追求される「永遠性」のゆえに
自らも永遠性という性質を持つことになるのである。
アモール
 個人は孤立したかたちで生きていくが、「 愛 」によってこうした孤立した状
態を解決しようと欲していくため、この世界の住人となすことになる。しかし、
カリタス
「 愛 」に生きるときには、この世界は住まい、故郷ではなく、「荒野」となる
つまり、この世界は仮の住まいとして認識されるということになる。そうした際
に、いくつかの疑問に直面することになる。「なぜ、この世界は荒野として認識
されることになるのか」、「この世界における要求をすることなく、自らの問い
に科し生きることができるのか」という疑問である。
 追及の先にあるものは、「安らぎ」であり、それは所有することの中に存在す
る。この所有において、孤立的な状態から解放され、「安らぎ」を実現すること
になる。この孤立的な状態からの解放とは、「内着」することにほかならない。
すなわち、善き者からの孤立の状態を解消するために、こうした「内着」の状態
を維持しなければならないということになる。
 そして、「愛」amorは、外にある何かを所有しようとし、世界そのものを所
40
「人間、すなわち「死にゆく者」moriturus の観点から世界を見るときに、地上のものと死すべきものと
を明確に同一視することが、可能となる。アウグスティヌスは、世界に固執し、それによって同時にこの
アモール
世界を構成する――すなわち、現世的な――この誤った「 愛 」を、「欲望」cupiditas と呼び、永遠と
アモール
絶対的未来を追求する正しい「 愛 」を、「愛」caritas と呼ぶのである」同上 24 頁。
41
同上 25 頁

17
有しようとする。しかし、プラトン―ソクラテスの自然状態で説明されるように
人間の自然状態は人間の特性が最大限発揮された完成形と説明するように、本来
生は自らの内面に根本的な問題の答えを求めるようになる。そのため、「至福」
から断絶され、そのものが認識することさえできなくなる傾向に陥るのである。
そのため、恐怖から動機付けられた行動には自由が存在せず、恐れなき状態、
「安らぎ」からは離れてしまう。
カリタス
 こうしたジレンマから抜け出すことができるのは、「 愛 」を通じてのみ可能
である。そもそも「愛」そのものに、主体に帰属性を与える性質がある。つまり
何を志向するかによって、その本人の性質が決まるということである。恐れから
外なるものを志向し、欲しても、この世界自体が有限性という性質を持っている
ため、人間本来の「至福」としての永遠性を得ることが難しくなる。しかし、人
間を超えた宗教的な存在、また人間の卓越性、徳というものに視点を置き、求め
ていくことは、本人に「永遠性」を与えることになる。「人間は、自らは永遠で
はないが、永遠そのものである神を愛し、また自らのうちにあって、決して奪い
去ることなき存在として神を愛する」42のであり、奪い去られることのできない
精神に価値を見出すことができる。ここで、自らを愛することと、神を愛するこ
とは一致することになる。「人間がそもそも愛するものは、自己自身、この現在
的なもの、つまり、「死にゆく者」moriturusではなく、自らを永遠に生きるもの
とさせるはずのものである」43。
 この世界において、探究される人間性は、極めて刹那的な傾向を持ち、移ろい
ゆくものとして観察される。そのため、永続性を得るためには、神との関係を表
アモーレ
す信仰の世界であるか、「連続体」としての歴史に見出すしかない。「 愛 」が
カリタス
世界と人間の関係において論じられるものとしたならば、「 愛 」は神と人間の
関係において論じられるものである。すなわち、欲求として理解され、それが永
遠性を求めるという人間の目的性から、最高善としての「神」との対峙によって
幸福を見出すという発展が人間の本性にはあるということである。

(ii) 発展性を内在した人間の行動原理
 したがって、人間性の自然状態は、完成されたものであるべきであるという観
点から論じたプラトン―ソクラテス型と神の永遠性を強調し、人間の精神動向の
描写が不完全であったトマス型、そして、人間の本質を「自己保存」として、恐
42
同上 32 頁
43
同上 33 頁

18
怖からの動機付けを論じたホッブズ型、そして「理性」も行動原理として成り立
ちうるとしたロック型は、「人間は『欲する』という動機から、永遠性を求める
存在である」という観点から整理し、統合することができる。
 欲するという動機が所有への渇望に変わり、その喪失への恐怖から、また所有
しようとする連鎖が、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」の世界観である。
そして、その世界の中で、「理性」で互いに争いを減らしていき秩序を構築する
ことができると説いたのがロックの世界観であり、近代以降に受け入れられてき
たものである。しかし、こうした「愛」の動機は、一段の高みに発展することが
カリタス
できる。それが、前述した「 愛 」の概念であり、永遠性を持った「最高善」と
内着することによって、人間の「至福」を享受するに至るのである。人間そのも
のが、こうした永遠性へと動機付けられた存在でなければならないということで
ある。「欲する」という人間が、有限的な生の中で一時的なものを所有し「欲
求」満たすことのみに目を向けるのではなく、「永遠性」へと発展していき、内
心や神といった最高善に向かうように動機付けるものが「自然法」でなければな
らない。古典的な解釈ではあるが、自然状態を一つのユートピア状態として考え
るならば、「持続する精神状態」を指し、「その精神的なものは永遠不滅であっ
ても、現実的状態論、生活論においては変遷」しながらも、変遷しない精神―つ
まり自然法―が内在するものである44。つまり、「向上していかん」という発展
性を内在したものが人間の自然法であり、ユートピアの精神状態であると言える
 欲するという状態から、神仏へと内着することで永遠性を得ることのできると
いうこと、そして、社会として人間の本来の精神性が自覚できる状態が望ましく
そうしたものへと恒常的に近づいていこうとする状態を自然状態として理解され
るべきで、その連続した成長過程において45、現れくる状態の一部分を描写した
のが「近代的自然状態」であり、その完成形を描写したのが「古典的自然状態」
である。

44
大川隆法『ユートピア価値革命』(土屋書店、1989)182-183 頁
45
「総じて言えば、個人としは、「神仏の子としての自覚」に目覚めるような努力ができる世界が望まし
いでしょう。一方、全体としては、遅れている人や進んでいる人などがいるけれども、いろいろな状態に
ある人が、目指すべきユートピアに向かって、夢を持ち続けられる社会を作っていくことが大事であると
思います」正義の法 217 頁、「仏が、さまざまの段階の意識・魂を作って、その進化を目指しているの
は進化それ自体ではなく、進化にともなう副次的なものをよしとされたからです。(中略)仏がさまざま
なレベルの意識・魂をつくられて、それぞれの進化、発展を願っておられるのは、その進化してゆくとい
うこと自体によろこびがともなうからなのです。つまり、大宇宙の創造、そひて、各生命体の創造は、進
化ということを目指すことによって、仏の喜びの表現となり、幸福の源となっているのです。これが大宇
宙の進化の法則の根本の理由です」大川隆法『太陽の法』(幸福の科学出版、2011)97-98 頁
自らが永遠性を求める存在であるという自覚をするということが「神仏の子としての自覚」であり、進
化そのものを意図して創造されたところに人間の行動に発展段階を設ける正当性がある。

19
第2章 政治体としての国家
  国際政治において近代国家の形が、確立したのはナポレオン戦争以降とされ
ることが多い。近代国家は、国民国家と同義として扱われ、同じ民族に一国家、
国家の主権をより重要視していくという流れが近代の国家観46の系譜である。そ
アクター
して、国際舞台において、国家が最大の主体として認識され、国家においては平
等に扱われる。また、その優劣を決めるのは、国力というもので、その概念は国
家の総合力とも言える極めて数値化しにくいものでもって判断される。その国力
を判定される最後の手段が、戦争という手段であり、国家の間の外交の最終段階
となる。
 しかし、古代ギリシャのアリストテレスは、「われわれのみるところ、およそ
国家というものは共同体の一種であり、どんな共同体も何らかの善なるものを目
的にして組成されたものである(中略)祖ベテの共同体は何らかの善を目標にす
るのであるが、それらのうちでも最高の共同体、他のすべてを包括する共同体は
あらゆる前のうち最高の善のために、最大の努力をもって目指すのである。これ
が国家露呼ばれるもの、すなわち国家共同体にほかならない」47と、『政治学』
の最初に述べている。つまり、国家は善の実現を目的に結成されたものであると
いう理念から出発しており、その理念を共通項としてまとまった共同体が国家の
原点には存在していたということである。こうした考え方は、近代の国家観の中
ではあまり議論されなくなり、民族に一国家であるというような考え方に支配さ
れているように思われる。
 また民主化を論じる際に、よく国民の「成熟性」に論点をおいて論じられるこ
とが多い。それを経済的な観点48であったり、文化の違いなどのアプローチは違
いはあれども、民主主義が成立するために必要な「成熟」について議論を重ねて
いる。ここでは、こうした成熟はどのような善を実現しようとしているのかとい
う観点から測られるものであると考え、前章で論じた「人間の自然状態は、発展
的に向上しようとする性質」という結論から、国家の発展段階を論じていくとこ
ろに本章の目的はある。既に、政治発展については、オーガンスキー
(Organski)、また支配の諸類型についてはマックス・ウェーバーなどが研究実績

46
「世界は効率的な工業化や民族国家の政治組織化へと進んでいるようにみえる。」A.F.K.オーガンス
キー『政治発展の諸段階』沖野安春, 高柳先男訳(福村出版,1968) 3 頁
47
アリストテレス『政治学』牛田徳子訳(京都大学出版会,2011)  4 頁
48
ポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』甘糟智子訳(日経 BP,2010)を参照

20
として結実している。こうした研究実績に参照はしつつも、本論考のテーマでも
あるハンナ・アーレントの人間発展の諸段階から国家論を展開していきたい。

(1) 国家の諸発展
国家の諸発展の概念は、前述した通り、オーガンスキーによって確立されたも
のである。オーガンスキーによると、「国家発展は、特に経済的生産性の増大、
地理的・社会的可動性の増大、国家の人的・物的資源の国家目標へ向けての政治
権力による動員効率の増大という特徴をもつ(これは国家発展を考える場合確実
な指標となるのであるが、もっぱらこれだけを指標とするわけにはいかない)。
この三つの指標は、相互に密接な関連を持っている」49。そして、政治発展の諸
段階は、(1)初期統一の政治、(2)工業化の政治、(3)国民福祉の政治、
(4)豊富の政治の4段階50に分けることができ、発展していくと考える。経済
資源の生産性の効率を上昇するところに政治性の発展を見出していく流れが、国
家の発展として考えられるのがオーガンスキーの政治発展の理論の中心概念であ
ると言える。
 しかし、国家の性格、政治体としての国家の成長、発展というものを考えら
れていない。こうした経済的な効率性を発展の基準として求める国家体制は、
アーレントの労働および仕事の概念に留まるものでしかない。アーレントの活動
と向上していくためには、どのような諸条件があるのかということを考察してい
く。

(2)「労働」における国家の性格
  「労働laborとは、人間の肉体の生物的過程に対応する活動力である。人編
の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行い、そして最後に朽ちてしまうこの過程は
労働によって生命家庭の中で生み出される生活の必要物に拘束されている。そこ

49
オーガンスキー、政治発展の諸段階 4-5 頁
50
(1)初期統一の政治は、国家の誕生時やその幼年期に随伴する政治であり、経済的に未発展、工業化
していないという特徴を持っている。そのため、この段階のどの国も統一の問題で苦闘している。(2)
工業化の政治は、新しい階級が権力を掌握し、新しい経済秩序が樹立され、市民大衆が決定的に国家の中
へと包括される過渡期に現れる政治形態である。この政治段階において選択される政治体制は、西欧型民
主主義体制、共産主義体制、ファシスト体制の三つになる。この段階の政府の主要な政府の機能は、経済
的近代化を許容し、援助することにあり、三つの政治体制はこの役割を果たしてきた。(3)国民福祉の
政治は、完全に工業化された国家の政治である。国家の力は一般の民衆の労働、戦う能力に依存するよう
になり、一般市民は工業経営者になるとともに、中央政府に寄りかかってきた不況による貧困や戦争によ
る破壊から保護されることを望むようになる特徴をもつ。(4)豊富の政治は、オートメーションの導入
を容易にし、その結果を処理することが要求される政治状態。新しい科学技術を要求する段階の政治であ
り、オーガンスキーが論文を執筆した時点ではどの国もこの段階に到達していない。現代社会に置き換え
て考えるなら、AI, IoT, ビッグデータなどの発達によって享受される政治体制とも解釈することはできる
だろう。( オーガンスキー、政治発展の諸段階 を参照)

21
で、労働の人間的条件は生命それ自体である」51。生命維持に必要な人間生活に
おける行動が「労働」とするならば、国家が存続のために必要と思われるものは
「労働」に当たるものである。国家の存亡が、行動原理の第一原理として考える
リアリスティック
現実主義は、この「労働」という観点から国家を分析し、考察したと言える。
 しかし、「近代は伝統をすっかり転倒させた。すなわち、近代は活動と観照の
伝統的価値ばかりか、〈活動的生活〉内部の伝統的ヒエラルキーさえ転倒させ、
あらゆる価値の源泉として労働を賛美し、かつて〈理性的動物〉が占めてきた地
位に〈労働する動物〉を引き上げたのである」52。ナポレオン戦争後に近代国際
政治学が成立してきた過程には、やはり中世のヨーロッパの伝統、ローマ帝国の
伝統、カトリック教会の伝統の混合物として表現される秩序の崩壊から始まって
いる。そして、各国家における主権の平等を保つことによって、お互いの勢力を
均衡させ、国際秩序を構築しようとしてきたのである。こうした考え方は、「国
家理性」を上位概念として設定することによって生まれるのである。すなわち、
国家というものを存続させ、国家の発言力を担保しておくことが、国家の均衡が
保ち、動乱が防ぐことができるというバランス・オブ・パワーの考え方が構築さ
れた53。そして、こうした国際秩序を支える国というものは、国民国家となった
のである。
 こうした国民国家の基礎になっているのは、一つの経済主体としての「家族」
という集団がある。「家族の手段が経済的に組織された一つの超人間的家族の模
写になっているものこそ、私たちが「社会」と呼んでいるものであり、その政治
的な組織形態が「国民」と呼ばれているものである」54。一つの民族、家族を基
盤にする国民国家という形態が国家の基本として展開していったときに、その経
済的効率に関心が集まっていった。つまり、アリストテレスが考えるような
「善」を目的として共同体を構成していった古典的な政治学から、必要〔必然〕
から共同体を構築され、その原理が支配していったのが近代の政治学の源流にあ
ると考えられる。
 そして、「近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」
51
ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳 ちくま学術文庫(筑摩書房,1944) 19 頁
52
ハンナ、人間の条件 139 頁
53
「結合の概念の崩壊は、ヨーロッパに出現した国々の異端性を正当化してこうした国々の間の関係を律
する何らかの原則を必要とした。そうした国々は、それを国家理性(リーゾン・デタ)の概念の中に、そ
してバランス・オブ・パワーの概念を見いだした。それは相互に関係していた。国家理性は、国家の福利
を守るためにはどんな手段をとることも正当化されると主張した。国益は、中世的な普遍的な道徳観に
とって代わった。バランス・オブ・パワーは、各国が自国の利益を追求することにより他のすべての国の
安全と進歩に何らかの貢献をするだろうという慰めを持つことにより、全世界的帝国へのノスタルジアに
とって代わった」キッシンジャー『外交(上)』岡崎久彦訳(日本経済新聞社,1996) 63 頁
54
ハンナ、人間の条件 50 頁

22
にあったからである。そして、神ではなく労働こそ人間を作ったとか、理性では
なく労働こそ人間を他の動物から区別するようなマルクスの冒涜的な観念は、近
代全体が同意したある事柄の最も過激で一貫した定式にすぎなかった」55。オー
ガンスキーが考えるような政治発展の諸段階は、いわゆる「労働→仕事→活動→
観照」というヒエラルキーを根本から覆し、労働や、人間の必然性を上位概念に
置く近代の流れを踏襲したものであることが窺える。
 しかし、労働が実現された後も続く永続性に対する絶対的な信頼のもと、その
永続性が崩壊していることが、享楽的な目的を希求するために気づかないという
危険性が、この国家が最上として考えると浮き彫りになる56。つまり、国際秩序
という政治性を孕むものにおいて、善なるものよりも、必然的なるものを重視し
ていく流れは、こうした政治性を失わせることになる。
(3)「仕事」としての国家の性格
 仕事と呼ばれるものは、労働とは異なる概念である。これは、制作とも言われ
ホ モ ・ フ ァ ー レ ン
多種多様なものが創造される。「制作する人は、所与の素材を、制作という目的
アニマル・ラボランス
のために加工するのであり、労働する動物のように、労働の素材と自分の肉体と
を「混ぜ合わせ」、労働の産物を消化吸収してしまうのではない。制作という活
動によって、まったく際限のないほど多種多様なものが製造される。それら者の
集まりの総体が組み合わさって成り立っているものこそ、人間によって打ち立て
られた世界にほかならない。こうしたものの大部分は、全部がそういうものでは
ないが、使用対象物であり、そうである以上、丈夫で長持ちするという耐久性を
持っている。この耐久性は、ロックの見立てでは、財産の前提条件であり、アダ
ム・スミスはこれを、誌上に登場し交換される「価値」の前提条件として必須で
あると考えた」57。国の存続を目的とする「労働」という概念とは違い、国際政
治においては「仕事」という概念は外交という中に現れると思われる。どのよう
な国家関係、同盟関係、国際的な枠組みの構築において現れる。帝国主義、植民
地主義などの侵略性、また伝統や文化を壊しかねない国際的枠組みは、まさに
「仕事」の概念の中に含まれるものである。国家に与えられている伝統的な考え

55
同上 140 頁
56
「この生命が、消費社会あるいは労働社会において、安楽になればなるほど、生命を突き動かしている
必要の緊急性に気づくことが困難になる。しかし、実際は、必要〔必然〕の外部的現われにほかならぬ苦
痛や努力がほとんど消滅しているように見えるときでさえ、生命はこの必要によって突き動かされている
のである。社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえら
れる。このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができない。つまり「労働が終わった後
にも持続する、何か永続的な主体の中に、自らを固定したり、実現したりしない」生命の空虚さを認める
ことができない。危険はこの点にある」同上 198 頁
57
ハンナ、活動的生 161 頁

23
方、また周りの国際情勢などを組み合わせて政策決定をしていくプロセス自体が
「暴力性」を伴うものであると考えられる。つまり、外交の延長に戦争を捉え、
「政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行」58されるもの
である。国際政治の中で行われている外交という政治性は、暴力性を含むもので
あり、こうした暴力性が伴うのはアーレントの「仕事」という概念に当てはまる
59

  国内での消費を満たすために産業を活発にさせ、工業化させていく方向へと
発展していこうとすることは、国家としての労働に当てはまることは前述したと
おりである。また、国家の安全を保障し、安寧を実現していこうとする動きも、
国家の生命を維持していくという観点から労働に当てはまる。しかし、分業化が
進み、自由貿易の枠組み、また国際レジームを建設していこうとする動きには、
制作、すなわち「仕事」の概念に入ると思われる。
 
(4)「活動」としての国家の性格
 そして、ここで「活動」という段階に入る。活動とは、「新しい始まりとして
誰かの誕生に応答するものであり、各個人において、生まれという事実を現実化
する」60ということである。 そ して、その活動性の実現にはいかなる事柄
物の介入が存在されずに実現される人と人の間に行われる行為である61。活動は

58
クラウゼヴィッツ『戦争論』淡徳三郎訳(徳間書房,1965)44 頁
ホモ・ファーレン
59
「世界の作り手である制作する人の仕事は、物化 Verdinglichung という形でなされる。物は、どんなに
壊れやすいものであろうと、制作する人によって一定の堅固さで授けられるが、この堅固さは材料から引
き出される。物は材料から製造されるのである。その材料にしても、物と同じく、すでに製造されたもの
である。材料は、林の木々に実っている果物のように、ただそこに所与としてあるのではない。果物なら、
われわれはそれを、もぎとろうがぶら下がったままにしようが、好きにできるし、だからといって自然界
に介入するわけではない。材料は、まずいったんは獲得され、自然環境から引き離されなければならない。
材料を獲得することで、人間は自然界に介入するが、その仕方には、生きているものを破壊するか――例
えば木材絵終えるために木を切り倒す――、自然の緩慢なプロセスの一つを中絶させるか、の二通りであ
る。(中略)およそ制作とはすべて、暴力的なのであり、界の創造者たる人は、自然を破壊しなければ自
分の仕事を果たすことができない。聖書では、アダムという最初の人間は、土地を守る労働力という責務
アニマル・ラポランス
を与えられ、生きとし生けるものの主人という地位にある。しかるに、労働する動物は、自分自身の力を
手なずけた家畜によって倍増させることによって、生活の糧を調達することはできるものの、大地と自然
そのものの主人には決してなれない。人間は、制作するものであるこそ、大地全体を支配する主人に成り
上がることができるのである。人間の生産性は、神の創造力と比べられるのがつねであった。その場合、
神は、ex nihilo つまり無から創造するのに対し、人間は、形を与えるべき素材を必要とする。だとすれば、
ゼウスに反逆する巨人プロメテウスのイメージが、聖書の意味では、祝福された生――実は労苦と労働で
あった――にとっての模範となったのと同様である。いかなる制作にも、何かしたプロメテウス的なもの
がある。なぜなら、制作によって打ち建てられる世界は、神によって造られた自然の一部を、暴力的に蹂
躙することを基礎に置くからである」同上 166-167 頁
60
同上 221 頁
61
「活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多
様性という人間という人間の条件、すなわち、地球上に行き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多
数の人間 men であるという事実に対応している。」人間の条件 p.20 「これは人間が複数の存在として共
存するために必要となる営みであり、その異人間的な条件は人間たちの複数生である。これは政治的な生
活の最大の条件である。この複数性とは、人間が誰もが人間でありながら、同じ人がただ一人もいないこ
とによって生まれたものである。」中山元『ハンナ・アレント〈世界への愛〉 その思想と生涯』(新曜
社,2013)22 頁 多様性が存在する政治の舞台で、暴力や直接的な行為が介在しないで、言論や思想で持っ

24
政治的な意味を含んでおり、その重要な要素として言論をあげる。つまり、人は
語ることによって活動する。人は語ることで、「自分は何者であるのか」が明ら
かになり、ユニークな人格が積極的に明らかになっていく。こうした活動の担保
には、人間の複数性によって可能になるものである。「この人間の複数性には
「平等と差異という二重の性格」がある。たがいに平等な存在であるから理解し
あえるのである」62。
 そして、活動には、6つの性格を持っている63。第1に、活動は自発的に行わ
れるものである。第2に、活動は自由なものとして行われる。第3に、活動には
暴露という性格があり、自分は何者であるのかということを示し、自らのアイデ
ンティティを明らかにする。第4に、活動は人々の間に一つの網の目(人間関
係)を作り出すものである。第5に、活動は人間の複数性のために、他者の間に
行わなければならない。そして、第6に、活動には目的に達成、終わりが存在し
ない。
こうした特徴の持つ活動の1つの目的は、公的領域の形成していくことにある
つまり、共同体のなかに公的領域を形成し、政治性を実現していくことに活動の
目的が存在している64。ここで明らかになるのは、活動の営みを実現する主体は
共同体として自らが所属しているものを認識し、人間の複数性を保障する公的領
域を実現しなければならないということである。
こうした「活動」の特徴を国家に当てはめるとどのような国家像が浮かび上
がってくるのか。特に考察が必要なものは、第1の特徴「自発性」、第4の特徴
「網の目を形成する」、第5の特徴「複数性のため、他者間に行われる」の3点
であると考えられる。まず、活動における第1の特徴である「活動は自発的に行
われるものである」ということから考察していく。国家が政策を決定していくう
えで、自発的かつ主体的に決定でき、内政不干渉の原則は国際法上担保されてい
るものである。しかし、こうした内政不干渉の原則で保証されるような自発性だ
けではなく、その営みによって「自らのアイデンティティ」が積極的に開示され
る自発性を持つことができているのかということが、ここにおいてより重要な意
味を持つ。こうした自発性は、アーレントが言う「新しさ」をもたらすことにな
る。
て相手と対峙することが「活動」の特徴である。そのため、労働は自らの生命を維持するための営み、仕
事はその特性上、暴力的性質を持つ営みとは一線を画す。
62
同上 27 頁
63
ハンナ、『人間の条件』 ハンナ、『活動的生』 中山、『ハンナ・アレント〈世界への愛〉その思想
と生涯』 を参照。
64
中山、ハンナ・アレント〈世界への愛〉その思想と生涯 30 頁

25
 自発性のある国家の行動として昨今の国際情勢で見られるのは、米国とソ連
の対立が激化した冷戦期である。特に、活動の自発性を見ることができるのは、
ジョージ・ケナンからの文書で「X論文」と呼ばれるものである。これは、「ス
ターリンの外交政策を解釈する上で哲学的、概念的な枠組みを提供するもの」
65
である。そして、ソ連の強硬的な外交態度は、共産主義のイデオロギーの意思
と古いツァー時代の拡張時代が混合したものであると指摘した66。これによって
これまでソ連と米国の間の摩擦は、相互の誤解が生じたものであるとか、コミュ
ニケーション不足であるという指摘を批判したことになった。こうして、ソ連の
哲学的、概念的な枠組みを指摘したうえで、封じ込め政策を展開した冷戦期の米
国の行動は、「活動」における自発性が生じており、かつ第3の特徴であるとこ
ろの「米国」というユニークなアイデンティティを積極的に明らかにするもので
あった。
 次に、第4の特徴である「網の目(人間関係)形成」について考察していく。
アーレントが言う「網の目」とは、「人びとの間にあって、人びとを関係づけ、
人々を結びつける何者かを形成する」67もののことを指す。活動において、前述
した「自発性」、そして自らが何者であるのかと言うことを明らかにする「暴露
性」が最も重要視されるものである。しかし、活動において、その最終生産に当
たるものをこの世界に残しておくことができない。しかし、「仕事」が作り出す
ものが作り出すような世界と同じく、現実感をもって認識することのできるもの
が「網の目」とアーレント が呼ぶものである68。
 この「網の目」と呼ぶ人間間の空間は、活動の展開空間であると同時に、万
人の共通項である空間(公的領域)の形成を果たしていくものである。そして、
こうした空間を作り出すことそのものが権力の能力となり、活動によって形成さ
れた権力は、「活動し、語る人々の間に現れる潜在的な現れの空間、すなわち公
的領域を存続させるものである」69。そして、この権力自体が、公的空間を作り
出し、維持していくことになる。
 公的領域の形成のプロセスには、王政として展開した「活動」を記憶する場
所としてポリスが形成され、政治的な空間として共同空間が形成されてきたと考

65
キッシンジャー『外交(下)』岡崎久彦訳(日本経済新聞社,1996)5 頁
66
George F. Kennan, “Long Telegram” Foreign Affairs, vol.VI, (February 22, 1946) pp.666-709 を参照。
67
ハンナ、人間の条件 296 頁
68
同上 297 頁
69
同上 322 頁

26
える70。こうしたプロセスを国際政治の中に当てはめると、覇権国と呼ばれた国
が台頭し、公共的な役割を果たし、国際秩序の形成に勤めたものを記憶し、語り
継ぐ「歴史」としての公的領域の実現を果たすことができている状態が、この活
動が実現することができた国家が存在していた指標になるということである。
 各時代の覇権国と呼ばれた国家が当てはまる。ローマ帝国は滅亡後も、ヨー
ロッパの国家間に強く影響を与え、イギリスは植民地主義のような拡張主義的な
政策を促した。米国に関して言えば、「自由主義」「民主主義」という西洋的価
値観の流布を果たしている。
 しかし、王政のもとで実現した秩序は、大きな欠陥がある。それは、「事業
が終わった瞬間に消え去ってしまう性格」71である。ここで意味する事業は、王
政が行う活動の展開として遂行されるものである。国家に当てはめると、規模が
大きくなるのでタイムラグがあったとしても、覇権国の衰退はその国がもたらし
た公的役割の衰退を招いていく。王政は民主制へと移行していくことで、この刹
那性を乗り越えることができる。「勇気により生み出された偉業が、ポリスにお
いて人間事象〈ta t on
a nthropon
p ragmata
〉のより堅牢な共通世界として最終的に
現れることになるものの始まりになるのである。この共通世界が、人々が行い対
外に耐えるすべての事柄の存続をふくみ、確保する――それによって、人間の偉
大さが、言葉の狭い意味での行いと行うものだけを意味するのではなく、耐える
者、苦しんでいる者にもひとしくあてはまるとされるのである」72。つまり、国
際舞台において、力の統制を是とする「王政」的な性格がある以上は、国家の興
亡を1つの事業として捉えるなら、ある程度の慣性は働くとしても、それがもた
らした現れの空間は消滅することになる。
 第6の特徴である「複数性のため、他者間で行われければならない」に移って
いく。労働すること、また仕事をすることは、他者の目に触れず、一人で作業に
没頭することができる。しかし、活動という営みは、その特性上、様々な他者の
目に触れなければ行うことのできないものである。国家の主権が尊重されている
近現代の国家観では、多くの国家が存在していることそのものが、複数性を担保
しているように思われる。しかし、活動の特性上、自らが何者であるのか開示す
る特性から、同じ文明圏や、同じようなイデオロギー圏の中にいる国家は、国際

70
中山、ハンナ・アレント〈世界への愛〉その思想と生涯 32 頁
71
中山、ハンナ・アレント〈世界への愛〉その思想と生涯 33 頁
72
ハンナ・アーレント『カールマルクスと西欧政治思想の伝統』佐藤和夫訳(大月書店,2002) 216 頁
ポリスが作り出す公的空間には、こうした事業に伴う刹那性が伴わない。この世界で展開された活動は、
見られ、記憶されるのである。

27
舞台においては複数性の主体にはならない。国際政治学者であるサミュエル・ハ
ンチントンによると「文明の衝突は世界平和の最大の脅威であり、文明に依拠し
た国際秩序こそが世界大戦を防ぐ最も確実な安全装置」73であり、複数性の主体
となり得るのは、やはり「文明」である。
 「民主化」「自由主義化」をはていくことは、即して「西洋化」を意味し、
多くの発展と繁栄を享受している先進国の大部分は、民主化、自由主義化してい
ることから、近代化していくことがそのまま「西洋化」していくと解させること
が多い。しかし、こうした世界に多くの文明が存在していても、近代化、先進化
していく過程において、普遍的な価値観、文明へと合流していくという考え方が
存在する。しかし、「普遍的な文明という概念は、西欧文明の固有の産物」
74
でしかない。そして、19世紀には、「白人の義務」として未開発国を指導す
べきだという、西洋の伝統的な考え方である「騎士道の十戒」が発達してきた行
動原理が他の文明を西洋化していく考えが流布していった75。つまり、普遍的な
文明というものが存在し、その普遍的な文明どの中で、西洋は世界において最も
発達した文明圏であるという自己認識から、それを世界に広げ、教化していく義
務があるという傾向を持っているのである。
 近代化した社会が類似している理由は、普遍的な文明が存在するという事実
からではない。「近代社会の方が伝統的な社会よりも類似性が強まる理由が二つ
ある。第一に、たとえ近代社会で相互交流が盛んになることで共通の文化が生ま
れなくとも、技術や発明、生活習慣が伝統的な世界では考えられなかったほどの
速さで、容易に社会から社会へと伝播するようになる。第二に、伝統的な社会は
農業を基盤としているが、近代社会が基盤としているのは工業であり、それは手
工業から典型的な重工業、さらには知識産業へと発展していくだろう」76。農耕
社会では、天候に左右されて農作技法が決定したり、収穫高が変化してくるとこ
ろがある。反対に、工業社会では、天候に左右されることが少なく、日常のサイ
クルが一定になりやすい。こうしたところから、近代化、工業化した国は、似た
73
サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』鈴木主税訳(集英社,1998)14 頁
74
同上 91 頁
75
「騎士の十戒」第一の戒律 汝、須く教会の教えを信じ、その命令に服従すべし。 第二の戒律 汝、
教会を守るべし 第三の戒律 汝、須く弱気ものを尊び、かのものたちの守護者たるべし 第四の戒律 
汝、その生まれし国家を愛すべし 第五の戒律 汝、敵を前にして退くなかれ 第六の戒律 汝、異教徒
に対し手を休めず、容赦をせず戦うべし 第七の戒律 汝、神の律法に反しない限りにおいて、心中の義
務を厳格に果たすべし 第八の戒律 汝、嘘偽りを述べるなかれ、汝の誓言に忠実たるべし 第九の戒律
汝、寛大たれ、そして誰に対しても施しを為すべし 第十の戒律 汝、いついかなる時も正義と善の味方
となりて、不正と悪に立ち向かうべし(レオン・ゴーティエ『騎士道』武田秀太郎訳(中央公論新
社,2020)を参考)特に、第三の戒律、第六の戒律、第十の戒律の内容が、拡張主義、宣教主義的な西洋
の特徴を形成していったと思われる。
76
ハンチントン、文明の衝突 96 頁

28
傾向を持つことになる。しかし、「産業の成り立ちのちがいは、地勢よりもむし
ろ文化や社会構造のちがいから生まれる」77。工業化したとしても、文明の違い
はあり得るとともに、工業化と近代化は等しい概念ではないので「文明の複数
性」は近代化しても失われることはない78。つまり、工業化し、同じ文明圏の国
はより似た類似性を持つ傾向にあるということであり、国際政治の舞台において
複数性が成り立つとしたならば、文明の違いにおいてである79。
 ここまでの「活動」の議論をまとめると、以下の通りになる。「活動」を営
みとして政策を行う国家の性格は、複数性の主体である「文明」の代表として国
家が行動を起こすこと、過去の活動が記憶として残る場として「歴史」を認識す
ること、そして、「活動」が契機に「始まり」を起こすことになる特徴を持つと
思われる。文明を複数性として捉え、それを尊重し、自らのユニークなアイデン
ティティができる場を形成することにつながることが、国家においての「活動」
の営みである。

(5) 国家において「観照」が及ぼす可能性について
 第1章にて、人間の自然状態は「発展性」があることにおいて見出せると論証
した。そして、第2章において国家の発展性を工業化や、近代化をベースに考え
るオーガンスキーの研究から出発し、そうした経済を中心に関心を集める国家は
アーレントにおける「労働」の営みをする国家であるしかなく、具体的な利益が
明確な国際レジームなどの形成を果たしていく動きは「仕事」の営みでしかない
そして、それより高次な概念として「活動」の営みをする国家の性格を前節まで
詳しく論じてきた。このように、経済発展のみではなく、国家にも「発展性」を
内在した性格があることを暗に示したと言える。
 しかし、アーレントの営みの発展には、もう一つ高尚な概念が存在する。それ
は「観照」という概念で、精神活動として現象に具現するものである。それは、
思考すること、意志すること、判断することの基本的な三要素から成立するもの

77
同上 97 頁
78
「近代化はかならずしも西欧化を意味していない。非西欧社会は近代化することが可能だし、近代化す
るのに独自の文化を捨てたり、西欧の価値観や制度や生活習慣などをすっかり採用する必要はなかった。
むしろ、後者は不可能に近いかもしれない。非西欧社会が近代化するのに大きな障害があるとしても、西
欧化することへの障害とはくらべようがない。近代化、つまり「単数形の文明の勝利」によって、世界の
偉大な文明として数世紀の間に体系化されてきた複数の歴史ある文化に終止符が打たれると思うのは、ブ
ローデルが言うように「子供じみた」考えに近い。それどころか、近代化はそれらの文化を強くし、西欧
の相対的な力を弱める。根本的なところでは近代化しながら、西欧化しているのである」同上 111 頁
79
「文明とは人類を分類する最終的な枠組みであり、文明の衝突とはグローバルな広がりを持った種族間
の紛争である」同上 312 頁

29
である80。ここでは深く論じはしないが、思考、意志、判断の三要素から成り立
つ国家の可能性を見出せるのは、「宗教」としての黎明期であると言える。新し
い価値を生み出す一つの厳選として、宗教というものがある。つまり、新たな価
値を生み出し、広めていこうとしていく「宗教」において、こうした観照的特徴
を見ることができる。しかし、近代の科学的な発見の連続から、観照と活動のヒ
エラルキーを転倒させることになった81。しかし、本章の冒頭でも述べたことで
はあるが、善を求めるということが目的として共同体を形成することを前提とし
て政治学を成立させた。この善を求めるという動機を、現象に具体的な展開とし
たのが「観照」であり、「精神活動」であると言える。その意味で、「観照」に
これからの新たな価値発生の可能性を見出すことができるとして、本章を閉じる
ことにする。

80
ハンナ・アーレント『精神の生活(上)』佐藤和夫訳(岩波書店,2015)81 頁
81
ハンナ、人間の条件 456 頁

30
第3章 国際秩序の構築
 国際秩序の形成が、ある意味で国際政治の大きな目的の一つとして数えてもい
いかもしれない。ウェストファリア条約で成立した原理は、複数の国家を基盤と
する国際秩序の枠組みとして認識されている82。そして、近代においては新たな
原理として、経済の枠組みを作る、国際法、国際機関を拡大していくことによっ
て秩序の構築を図ってきたようにも見える。しかし、前章で述べたとおり、そう
した試みは、ある国家の制作物としての役割しか果たさず、国際秩序の構築へと
成長するよりも、国家の一つの自己実現の形態になってきていると言える。一方
で、中立的な枠組みを実現しようと努力しているが、それもまた解決能力を有さ
ない理念上の組織になってしまっているという批判を免れることはできないだろ
う。
 人間の自然状態、政治体としての国家の発展段階を論じた上で、本章において
は、現代に国際秩序を形成していくためにはだかっている障害、そして、望まれ
る国際秩序の一片を論じる。

(1) 国際秩序が抱える課題
  様々な価値観と在来の理論が展開する文明圏が多く存在している中で、国際
秩序を構築する上で、その正当性を主張し、納得させることができるのかという
問題がある。これまで、西洋型の「自由主義」「民主主義」を中心とした価値観
これまで構築してきた西欧型の外交を世界に流布してきたのは、西洋の国々の工
業化、発展から来ていた。こうした工業化、近代化していくことは、必ず西洋的
な価値観が入る必要があると主張している「普遍的な文明」の幻想が漂っていた
こうした幻想とともに、西洋の宣教主義的な行動原理から、世界に積極的に価値
観の流布をしてきた。しかし、前述したように、世界の実相はそうではなく、西
洋の価値観も同時に他の文明圏の価値観から挑戦を受ける存在であるということ
は、シュペングラーの『西洋の没落』出版後、様々な場面で論じられていること
である。
 こうした問題について、キッシンジャーによると三つのレベルの秩序で対処し
なければならないと主張する。それは、(1)地域秩序:特定の地域に適応され
る同じ原則、(2)地球秩序:地域もしくは文明が持つ概念を示し、全世界に適

82
ヘンリー・キッシンジャー 『国際秩序』伏見威蕃訳(日本経済新聞出版社,2016) 14 頁

31
応できると考えられる力の分配が重要になる、(3)国際秩序:地球秩序の概念
を、多くの国に影響を与えるほど広く、実用的に適用した秩序を示す、の三つの
秩序である83。この3つの秩序は、いずれも2つの要素に基づいている。1つ目
が「許容される行動の限界を明確にし、一般に受け入れられたルール一式」
84
。2つ目が、「ルールが破られたときに抑制を実施するような力の均衡で、ひ
とつの政体が他の全てを従属させるのを防ぐ」85ことである。この二つの要素は
競争や対立構造は防ぐことはできないが、秩序の中で大きな争いを通さずに問題
解決をしていくことができる。しかし、こうした秩序をどのように構築していく
のか、そして、それをどのように定着させるのかは、依然、解決の緒が見えてい
ない。

(2) 国際秩序の形成過程
 国際秩序の形成過程は、様々存在する。一つは、力による流布である。これは
覇権安定理論と呼ばれるもので、一国が大きな国力を持ち、国際舞台における公
共的な役割を果たすことで、覇権国の「世界秩序」が遍く流布し、国際秩序とし
ての役割を果たすことになるという考え方である。二つは、力の均衡を保つとい
う考え方であり、ウェストファリアの原理とも呼ばれる西洋の国際政治の伝統的
な考え方である。三つは、商業主義のようなものが、須く国家の中に流れている
ので、経済学の市場の原理のように「神の見えざる手」が均衡点を見出すように
「協調点」を見出すという考え方がある。これは、国家間の関税をできるだけ廃
し、ボーダレスな世界秩序を自由貿易の原則から実現していこうとする中に見出
すことができる。そして、四つは、「共同体」を国家観の中に作り出すことに
よって、世界に自由な連合体を形成していくことで国際秩序が形成されるという
考え方がある。これは、国際連盟の直接的な起源にあたり、それを受け継ぐのは
現在の国際連合である。
 そもそも、均衡という概念が、国際秩序になっているのかどうかは一定の議論
の余地がある86。しかし、その均衡の概念を除外した3つの形成のプロセスには
83
同上 16 頁
84
同上 17 頁
85
同上 17 頁
86
「バランス・オブ・パワーのシステムは、危機または戦争を避けるのを目的とするものではない。バラ
ンス・オブ・パワーはうまく機能している場合でも、他の国を支配しようとする国の能力を制限し、衝突
の機会を制限するという二つのことを達成するようにしか作られていない。その目標は平和と言うよりも
むしろ安全とか鎮静化といったものである。本来バランス・オブ・パワーのシステムは、この国際システ
ムに参加した国すべてを完全に満足させることは出来ない。すなわち、不満を持つ国が国際秩序を破壊し
ようとするレベル以下にその不満を抑えることが、バランス・オブ・パワーの最高の機能なのである」外
交(上) 8 頁、「リシュリューによりはじめられた世界においては、国はもはや道徳律によっては抑制さ

32
共通することがある。それはどのように、価値を国家観において共有することが
できるのかということである。

(3)「文明の公的領域の確立」という国際秩序
 国際政治において、多様性による国家観の相克を乗り越えるために、一つの価
値を共有する方法を模索してきた。しかし、それ自体、一つの文明が世界を覆う
というある意味での「世界政府」的な発想と変わらない。そして、中立点を模索
していこうとする考えは、力の真空を生み出し空中分解を招く、極めて危うい考
え方でもある。
 第2章で論じたように、国際舞台において複数性の主体となるのは、「文明」
である。その代表者として国家が述べることが、自らの所在を明らかにし、「政
治」を作り出す「活動」の営みとなる。そのため、国際秩序は、「文明の公的領
域の確立」を目指すことが、望まれる国際秩序の姿だと考える。しかし、国家に
は、「労働」「仕事」が主な関心になり、営みとなっている国家が存在する、そ
うひた国家のインセンティブは、利益であったり、力の支配というものに限定さ
れている。そこから、国際舞台を一つの公的領域として捉え、自らの文明からの
意見や、政策の展開をする国家が文明圏において代表的な立場になる。文明を代
表する国家が複数存在し、侵略性や拡張主義的な意思ではなく、その国家におい
て国際舞台において「善」の探究という目的のもと、政治の場を形成することが
望まれる。
結論
これまで議論してきたように、「アーレント的国際秩序は成り立つのか」という
問題について考察してきた。これまで、定説として受け入れられてきた自然状態
から始まり、国家の発展の諸段階を「人間の営み」という観点から再整理した。
そして、国際秩序のあるべき姿について不十分ではあるが考察をしてきた。国際
政治の舞台において、国の政治のように十分な哲学的議論がなされていない。国
際政治の目的を、戦争の回避、平和構築に定め、解決できないパラドックスにと
直面しているように思われる。

れないものとなった。もしも国益が最高の価値を持つならば、支配者の義務は領土を増大し、栄光を増進
することである。強い国は支配を求め、弱い国々はここの力を増大させるために政治的連合を形成するこ
とにより、それに抵抗するだろう。もし政治的連合が、侵略国を阻止するのに役立つほど強力なものであ
れば、バランス・オブ・パワーは出現する。さもなければ、ある国が覇権を握ることになる。どういう結
果となるかは、あらかじめ決められたものではないので、頻繁な戦争により試されることとなる」 キッ
シンジャー 、外交(上) 76 頁。国際秩序として流布していく価値があって、その価値に挑戦する勢力を
封じ込めることに、均衡の役割がある。バランス・オブ・パワーと呼ばれる均衡のシステムは、それ自体
が国際秩序であるかは、議論の余地があると思われる。

33
 しかし、政治の目的は、「善」の探究にあり、人間の特性を最大限発揮できる
状態を目指すことが人間の本質であり、その発展性が政治においても実現される
べきである。人間にも様々な相違点があると同じく、国家においてもそれは同じ
ことである。工業化していくプロセスにおいて、単一な文明が現れるという西洋
文明のおごりがまだ、尾をひいているように思われる。工業化、近代化していく
ことで、単一化していくのではなく、相違していた根本的な要素が明らかになっ
ていくということがわかるだろう。それを乗り越えていく単一的な価値の共有で
はなく、その複数性を保障し、そこに政治性を実現できる場を形成していこうと
することが、これからの「国際政治」に必要なことであるとしたのが、本論考の
結論である。
 国民国家が成立し、近代国家として主権を尊重されている中にも、国家の発展
段階が存在し、高度な政治性を発揮できる国家とそうではない国家が存在すると
いうことである。そして、一国の考え方や意見に複数性を見出すのではなく、根
本的な相違の原因となっている文明に複数性の主体を見出すべきであるというこ
とである。その代表的な意見を発信し、自らの国家がどのような出自であるのか
を明らかにし発信していくところに、アーレント的「活動」の営みを見出すこと
ができるのである。つまり、多くの文明圏が存在し、その複数性を認め、そこに
政治性を見出していこうとする「公的領域の確立」が必要であるということであ
る。その意味で、「まず、「この国において、守られるべき正義とは何かという
ことをはっきりさせます。さらに、その考え方が、他国の考えている正義と両立
しない場合には、それをどのように考えていけばよいかということに作業が移っ
てきます。最後は、それぞれの国に、応援する国がつくはずですので、応援する
国家の意見も交えて、「地球的レベルでの正しさとは何か」ということが決まっ
ていくことになるわけです」87という大川隆法の提言は示唆にあふれたものであ
り、これからの国際舞台のあるべき姿を指し示したものでもある。
 「国際秩序の構築」という章においては、まだまだ検証していけない論点が数
多く残っており、稚拙な考察になってしまったことをここでお詫び申し上げたい
こうした「文明の公的領域の確立」という国際秩序の形成は、そのようになされ
るのかという点について、今後の研究でさらに深めていければと思う。

87
大川、正義の法 22-23 頁

34
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