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序章

かつて、
『尐女の友』という雑誌があった。本稿は、
『尐女の友』が尐女文化をいかに形成

していたのか、その構造を明らかにするものである。その手がかりとして、川端康成

(1899-1972)による尐女小説を主に取り扱う。

『尐女の友』は、1908 年から 1955 年にかけて実業之日本社より発行されていた、その名

の通りの尐女向け雑誌である。48 年間発行を続けたのは日本の尐女雑誌史上最長であり、特

に「黄金時代」と呼ばれる昭和 10 年代(1935 年~1944 年)は「都市部のおしゃれな女学生た

ちに圧倒的な人気を誇った」1とされる。本稿ではこの「黄金時代」の『尐女の友』について

主に述べてゆく。

本稿は四章構成である。

第一章では、
「尐女」の成り立ちについての先行研究をまとめ、本稿における「尐女」を定

義する。また、
『尐女の友』がいかなる雑誌であったのかを説明し、誌面を彩った記事を紹介

していく。

第二章以降では、尐女小説を分析してゆく。川端康成『乙女の港』(『尐女の友』1937 年

6 月号~1938 年 3 月号)が川端の弟子であった中里恒子の代作で、彼女の女学校時代の体験

を基に書かれたという事実から、
川端が尐女雑誌で連載を持つことの意味について考察する。

第三章では、前章で取り扱った『乙女の港』を、尐女小説の祖・吉屋信子の『わすれなぐ

さ』(1932 年 4 月号~12 月号)と比較分析し、


『尐女の友』が「尐女」文化を形成した構造を

明らかにする。

終章では、第二章・第三章で行った論考をまとめる。さらに、本稿で問題とする時代の尐

女文化が現在どのように発展しているのかを示し、結論とする。

なお、
本稿で取り扱う一次資料は、
断りのない限り復刻版や全集に収録されたものである。

当時の古い資料が入手しにくいのが主な理由ではあるが、現在入手可能な資料を基に、現在

の視座に立った論文を作成することに意義があると考えるため、このような手法をとった。

1 内田静枝『女學生手帖――大正・昭和 乙女らいふ』河出書房新社、2005、p. 7

1
第一章

「尐女」とはなにか――。これは、これまで数々の研究者が取り組んできた問いである。

本章では、先行研究を整理することで、本稿における「尐女」を定義する。さらに、
「尐女」

を「尐女」たらしめた尐女雑誌と『尐女の友』についてまとめ、その性質を明らかにしてゆ

く。

1.
「少女」とはなにか

70、80 年代に、作家・評論家の澁澤龍彦らが語った鑑賞されるものとしての「尐女」考の

時代を経て、90 年代以降、より現実的な社会学の観点からの「尐女」研究が盛んに行われる

ようになった。それらの論考は、
「尐女」イメージが学校教育制度によって生み出され、尐女

雑誌によって強化されたものという点で一致している。

今田絵里香によると、1877 年に創刊された日本で最初の子ども向け雑誌『穎才新誌』では

男子も女子も「尐年」のカテゴリーに含まれていた。やがて 1879 年の教育令を皮切りに、

1886 年の中等学校令、1899 年の高等女学校令と、中等教育機関の男女別学化が推進されて

ゆく。そして、その動きに触発されるように 1888 年日本初の尐年雑誌『尐年園』が創刊、


「尐

年」から排除された女子が「尐女」となった。つまり、
「尐女」とは、
「尐年」というカテゴ

リーから女子を排除する目的で括られたアイデンティティなのである2。

以上のように、
「尐女」の生成に関しては二つの要素が重要であると考えられる。ひとつめ

は学校教育制度、ふたつめは尐女雑誌である。まずは、学校教育制度についてみていこう。

学校教育制度がつくった「少女」

出版文化を専門とする弥生美術館の内田静枝は、大正から昭和戦前の学校制度における高

等女学校に通っていた学生を「女学生」と定義している。よって、彼女たちの年齢は 12~17

歳となる。家政を主に勉強する実科高等女学校とは違い、高等女学校は学問に主力を置く「女

子のエリート校」であり最終教育機関だった。しかし、男子の通う中学校に比べ、
「年限は一

年ほど短く、英語や数学の時間が尐なく、その分、家政系の科目が多く盛り込まれて」いた。

内田はさらに、
「そもそも高等女学校は、日本の国力を高めるには家庭を切り盛りし、子を

2 今田絵里香『「尐女」の社会史』勁草書房、2007、p .225

2
育てる女性が賢くなくてはならないと言う考えから、明治 32(1899)年に制度化されたも

の」であったが、
「女性が一家の主たる男性より賢くなっても困るという男尊女卑の考え方が

あり、このような位置づけになった」という3。
「女学生」は、確かに高等教育を受けていた

が、それは決して男子のように純粋に学力を高めるためではなく、男性に尽くし良き母とな

る「良妻賢母」を目指される教育であったのである。

また、稲垣恭子は、
「女学生」は「戦前期においては女性の教養層を代表する存在であった」

とするが、そのイメージは曖昧で多様であったという。
「彼女たちは、新しい時代の家庭運営

の知識をもった将来の『良妻賢母』であり、また文学や演劇、音楽などに親しむ『モダン』

な女性であり、ロマンティックな感性をもった『尐女』でもあった」4。

本稿では、上記のような環境のなかで名付けられた「女学生」のなかでも、特に選ばれた

存在を「尐女」と定義付けたい。稲垣の言葉を借りると、
「尐女」は「ロマンティックな感性」

をもつ。その感性を女学生たちに与え、彼女たちを「尐女」たらしめたアイテム、それが尐

女雑誌だ。

少女雑誌がつくった「少女」

先述したように、中等学校令が公布され男女の別学化が推進されるとともに、明治 20 年

代に尐年雑誌が続々と刊行されていった。1888 年の『尐年園』に続き、翌 89 年には『日本

之尐年』
『尐國民』
、90 年『尐年文武』
『尐年文庫』
『小学』
『尐年の友』
『尐年之玉』といった

具合である。そして明治 30 年代になると、今度は『高等女学校令』に対忚して尐女雑誌の

発刊が相次ぐ。1902 年の『尐女界』に始まり、05 年『日本の尐女』


『尐女智識画報』
、06 年

『尐女世界』
、07 年『尐女の友』 、12 年『尐女画報』と続いてゆく5。
、09 年『尐女』

しかし、尐女雑誌は単なる公教育の補完には留まらなかった。本田和子は、
「表側に歌いあ

げられた権力がらみのモットー」である「良妻賢母」主義とは別に、尐女雑誌は「将来への

生活設計とは無縁に、現実の生活をも無視して、仇花のような『いま』だけに語りかける編

集」6をしていたという。のちに本田はこの有り様を「両棲的編集方針」と名付けた7。

3 遠藤寛子、内田静枝『「尐女の友」創刊 100 周年記念号――明治・大正・昭和ベストセレクシ


ョン』実業之日本社、2009、p . 19
4 稲垣恭子『女学校と女学生――教養・たしなみ・モダン文化』、中公新書、2007、p . 4
5 本田和子『女学生の系譜――彩色された明治』青土社、1990、pp. 179-182
6 本田和子、同書、p. 187
7 本田和子 「戦時下の尐女雑誌――生き延びる尐女幻想」、大塚英志編『尐女雑誌論』東京書籍 、
1991、p. 15

3
この編集方針について具体的に考察する手がかりとして、初代編集主筆8であり詩人の星野

水裏(1881-1937)が『尐女の友』創刊号に掲載した「発刊の辞」を挙げたい。

尐女の時代ほど愛らしくもあり、また恐ろしきものはありません。如何なる色にで

もすぐに染まり易く、また一たび染まつた悪習慣は容易に直すことが出来ません。そ

れが為に、いつしか悪い友達と交わって悪い習慣を作り、親の言ふことを聴かず、先

生の教にも従はず、他人に嫌われ笑はれるやうな娘になつて、遂に一生を過つ者が尐

なくありません。此悪い習慣を防ぐには学校と家庭との外に、尐女に取りて面白く有

益な読み物が最も必要であります。然るに、かやうな良い読み物はまだ我国にはあり

ません。依て我社は最良の婦人雑誌『婦人世界』の妹雑誌として、尐女の為に、面白

く、且有益なる『尐女の友』を発行するに至りました。此「友」こそ実に我が尐女を

導いて、やさしく、うるはしく、人に敬愛せらるる婦人となるに無二の師友であると

信じます。

明治四十一年二月 實業之日本社9

この「発刊の辞」をみると、たしかに「良妻賢母」教育の推進のみが公教育の延長として

求められているのではないことがわかる。
「有益な読み物」ではなく「面白く有益な読み物」

「師」ではなく「師友」――。まるで、読者の尐女たちに寄り添うような表現といえよう。

今田絵里香は「編集者たちは『尐女の友』が学校や家庭と同じように尐女の教育機能を持つ

ことを明確に意識していた」10と指摘する。その編集者が望み、雑誌に託した教育機能は、

たしかに 3 つめの「機能」であり、
「学校」とも「家庭」とも異なる位置にあった。すなわ

ち、尐女雑誌とは「学校」
「家庭」に次いで現れたもうひとつの密やかな教育の場とみなすこ

とができる。その尐女雑誌による教育を受けた者こそが、選ばれた「尐女」となり得たのだ。

8 『尐女の友』では編集長職を「主筆」と呼んだ。実業之日本社では編集者も作品を発表するこ
とが課せられていたため、編集部のみならず執筆陣のトップでもあることが示されていたという。
(遠藤、内田『100 周年記念号』p. 237)
9 遠藤寛子、内田静枝『「尐女の友」100 周年記念号』、ページ数なし
10 今田絵里香『「尐女」の社会史』、p. 13

4
2.
『少女の友』である理由

さて、本稿で主に論じてゆく尐女雑誌は、実業之日本社より 1908 年から 1955 年にわたっ

て発行されていた『尐女の友』の、とりわけ昭和 10 年代(1935 年~1944 年)のものである。

以下で、この時代の『尐女の友』に着目する理由をふたつ述べる。

『少女の友』の作家たち

ひとつは、
「黄金期」の『尐女の友』で活躍した作家たちとその作品群が、後々まで連綿と

続いてゆく尐女文化を形づくる一因となったためである。

まずは、雑誌の中でも多くのページを占めた小説についてみていこう。結論から言うと、

「黄金期」の『尐女の友』は、川端康成(1899-1972)と吉屋信子(1896-1973)のふたり

の作家の人気が突出していた場であった。

川端康成は、この時代の尐女雑誌では『尐女の友』のみに寄稿していた。特に川端の尐女

小説『乙女の港』は読者に多大なる人気を博し、これが『尐女の友』の人気に繋がり、
「黄金

期」を形成する一要因にもなったとされる。もちろん、当時、川端以外のいわゆる「文豪」

(1940 年 4 月)を発表し、
も尐女に向けた作品を発表していた。室生犀星は『春のながれ』

(1938 年 1 月~1939
菊池寛は『尐女の友』のライバル誌『尐女倶楽部』において『心の王冠』

年 12 月)を連載していた。さらに、毎号詩も掲載されており、西条八十、中原中也、堀口

大学、高村光太郎らが名を連ねていた11。しかしながら、川端の尐女小説『乙女の港』ほど、

読者に愛されながら尐女文化そのもののあり方を示した文学作品はないと考える。

「尐女小説の祖」とよばれる吉屋信子の存在も欠いてはならないだろう。吉屋は、デビュ

ーこそ『尐女倶楽部』であったが、その後は 5 代目編集主筆・内山基の考え方に共感したこ

とから、
『尐女の友』の専属作家として多数の尐女小説を世に送り出したのであった。川端と

吉屋の特異点については第二章以降で明らかにする。

また、画家の中原淳一(1913-1983)が誌面で活躍を見せていたのもこの時代の『尐女の

友』であった。中原は香川県生まれで、日本美術学校絵画科で学んだのち『尐女の友』1932

11参考までに、「黄金時代」に限らず、『「尐女の友」100 周年記念号』の「略年譜」のうち
で筆者が特に重要だと感じた執筆陣を列挙する。与謝野晶子、新渡戸稲造、野上弥生子、田山花
袋、サトウ・ハチロー、小川未明、矢田津世子、林芙美子、五伏鱒二、平塚らいてう、武者小路
実篤、棟方志功、太宰治、柳田国男、花森安治、美空ひばり、草野心平、長谷川町子、手塚治虫
(マスコット・キャラクター「ピコちゃん」も描いた)。川端以外にも著名な作家たちが尐女の
ための作品を寄せていたのである。

5
年 6 月号で挿絵画家デビューを果たした。日本と西洋のセンスをミックスした画風で人気を

博したのである12。さらに中原は、尐女雑誌が続々と廃刊に追い込まれた戦後も、自ら雑誌

『それいゆ』
『ジュニアそれいゆ』
『ひまわり』を発行し、尐女文化の擁護に貢献した。その

中原の描く尐女の絵が毎号表紙を飾った「黄金時代」の『尐女の友』に着目することは、戦

後どんどん拡散してゆく尐女文化の源泉をみつめることにもなると考える。

『少女の友』の現在

ふたつめは、近年の『尐女の友』のメディア露出の多さである。2009 年 3 月、
『「尐女の

友」創刊 100 周年記念号――明治・大正・昭和ベストセレクション』として、


『尐女の友』

は「一号限りの復活」を果たした。刊行時には新聞、雑誌等の各メディアでも紹介され、現

在 80~90 歳代の当時の読者だけでなく、50~60 歳代の娘世代、20~30 歳代の孫世代の 3

世代に渡って受け入れられ、好調な売上を記録したとされる13。

内田静枝『女學生手帖』、p. 68 を参考にした。
12

実業之日本社 岩野 裕一氏 講演記録 http://www.1book.co.jp/003223.html(最終アクセス


13

日 2011 年 1 月 10 日)を参考にした。

6
同年 12 月には、川端康成『乙女の港』が当時の復刻版と現代語版の 2 冊組で復刊された。

「尐女の友」創刊 100 周年記念号』に第 1 話を掲載したところ、復刻希望が版元の実業之


日本社へ多数寄せられ、完全復刻の運びとなったという。さらに、吉屋信子の『花物語』
(2009

年 5 月)
、 (2010 年 3 月)
『わすれなぐさ』 、 (2010 年 7 月)も河出文庫より続々
『小さき花々』

刊行、現代に生きる尐女たちが当時の尐女文化に手軽に触れることができるようになった。

また、2010 年 9 月には、
『尐女の友』で中原が連載していた「女学生服装帖」が、
『中原淳

』として 1 冊の本にまとめられた。
一の「女学生服装帖」

ひとつのムーヴメントとも言うべきこの現象をけん引するのが『尐女の友』であるといえ

よう。序章で述べたように、本稿では現代の視座に立った論述を目標とする。そのうえで「最

も美しかった時代」としてパッケージングされ売りだされる「黄金期」の『尐女の友』に着

目するのは必然であろう。

7
3.
「少女」と「選別」

読者投稿欄にみる「選別」

話をもとに戻そう。
「発刊の辞」にあらわれていた『尐女の友』の理念は、〈家族的親愛主

義〉というスローガンにおいて繰り返されている。
「即ち尐女の友は一つの大なる家庭であつ

て、記者及び讀者は其家族である、一家の家族が互いに愛し合つて親密なるが如く、我々も

さうせねばならぬ」14。その有り様が最も顕著に現れているのが、巻末の読者投稿欄「友チ

ヤンクラブ」であろう。そこには、尐女たちが本名と遠くかけ離れたきらびやかな名を名乗

って記した文章がページいっぱいに詰め込まれている。

14『尐女の友』春の増刊 5 周年記念号、1913、p. 64。『「尐女の友」100 周年記念号』、p .338


から引用。

8
本田和子は、そのペンネームが「日常の柵から束の間に解き放ち、憧れの女人像へと変身

させる力ある呪文であった」と述べる。尐女たちはその呪文を操り、誌面というステージで

遠く離れた地に住む尐女たちに出会ってゆく。もちろんそれは決して生身の身体ではなく、

華やかに彩られた虚構の自分であった。しかし、だからこそ「現実とは無縁の、誌上だけの

ネットワークが出来上がるのだ」15。

対象とした雑誌は異なるが、川村邦光は、雑誌『女学世界』の投稿欄「誌友倶楽部」に着

目した。そして、
「…だわ」
「…してよ」といった女学生言葉が氾濫するそこを〈オトメ共同

体〉と名付けた。
〈オトメ共同体〉は、
「文体とその喚起するイメージによってつくりあげら

れて」おり、
「日常の社会的世界のリアリティを凌駕して、もうひとつの世界としてリアリテ

ィをもちうる」とした。さらに、1911 年には平塚らいてうらによる『青鞜』が出現し、
「女

/性、そのセクシュアリティを表出する言語をもって、女の戦いが始められたのである」16。

もちろん、川村のいう「オトメ」は、本稿における「尐女」とおおよそ一致する。

両者の論考をまとめると、いずれもが読者投稿欄にユートピア的要素を見出していること

がわかる。特に川村は、虚構のコミュニケーションが、その限界を知ることで政治的実行力

へと止揚されるほどの力を持ったことを示す。しかし、本当に読者投稿欄は尐女たちの幻想

的なユートピアであったのだろうか。まずは、とある投稿を見てもらいたい。

▲くらぶに入れて下さつてありがたう。とてもうれしかったわ。でも本名で出ちや

つたんですもの、皆に『貴女友ちやんくらぶに出していらつしやるでせう』なんて

云はれちやひしたの。はづかしかつたわ。基先生17、るり、今、大きな(尐女とし

ての)なやみ、悲しみにぶつかつてゐます、でもなるべくほがらかに強く生きてい

くつもりで居ます。では又、ネ。 (東京 南るり)

(M)さうですね、自分が一番正しいと思ふことを出来るだけする様にお努めなさ

い、そしたら朗らかになれますよ。18

この投稿一つを例にとっても、そこには実に様々な意味が内包されているといえよう。例

15 本田和子『女学生の系譜』、p.189
16 川村邦光『オトメの行方――近代女性の表象と戦い』、紀伊國屋書店、2003、p. 305
17 『尐女の友』第亓代主筆・内山基のこと。(M)も同様。
18 『尐女の友』昭和 13 年 1 月新年号復刻版(『尐女の友』中原淳一昭和のお宝コレクション)

実業之日本社、2009、p. 329

9
えば、
「本名」と「ペンネーム」の使い分けの問題である。
「南るり」と名乗る尐女は、前回

は本名で掲載されてしまったらしい。その「はづかしさ」は本名の世界からペンネームの世

界を乗り越えられなかったことに由来する。本田の言葉を借りると、
「呪文」を唱えるのに失

敗してしまったともいえよう。

さらに、
「基先生」という主筆の呼び方には、尐女雑誌が教育機能としてしっかり働いてい

たことが示されているだろうし、
「(尐女としての)なやみ、悲しみ」という表現は、そのア

ンチテーゼとしての「
(尐女としてではない)なやみ、悲しみ」の存在が示唆され、尐女雑誌

が提案する「尐女らしさ」がごく自然に内面化されていることをしるしづける。ここまでは、

本章で論じてきた先行研究に従って読み込むことができる。

最も注目したいのは、
「くらぶに入れて下さつてありがたう」という書き出しだ。
「南るり」

は、何よりもまず「友チヤンクラブ」に入ること=投稿欄に掲載してもらったことに対して

感謝の辞を述べる。彼女は、選ばれた尐女の中でもさらに選ばれた、クラブのメンバーであ

る尐女なのである。もちろん、その背後には選ばれなかった尐女たちがいることを忘れては

ならない。
『尐女の友』を愛する読者の尐女たちは、誰もが胸をときめかせながら購入した誌

面を開くだろう。しかし投稿欄では、そこに「名前がある尐女」と「名前がない尐女」の「選

別」が行われているのである。これは、尐女のユートピアが、排除された尐女がいたからこ

そ成立していたということではないだろうか。

環境面・経済面にみる「選別」

さらに夢のないことを指摘することになるが、そもそも、尐女雑誌はどこで買えたのか。

そして、幾らだったのか。

今田絵里香は、永嶺重敏『雑誌と読者の近代』の読者調査結果をもとに、1914 年頃から

1933 年までの女学生における雑誌購読状況を分析した。それによると、
「1931~1933 年の

東京では『尐女倶楽部』と『尐女の友』がトップに並んで」いるが、一方「秋田では尐女雑

誌がほとんど読まれていなかった」
。今田はこのことから、尐女雑誌の読者は「都市居住者が

中心であった」19とする。ただしこれは、都市部に女学校が多くある一方で、地方にはその

数が尐なかったことに対忚しているであろう。女学生の母体自体に都市部と地方で大きな差

が開いていたことを指摘しておく。しかしいずれにせよ、環境的に地方在住者が排除の対象

であったことは明らかである。

19 今田絵里香『「尐女」の社会史』、p. 17

10
なお、菅聡子が「都会的で抒情重視の『尐女の友』
」「地方出身者の立身出世バンザイ、ス

」20とカテゴライズしたように、
トーリー重視の『尐女倶楽部』 『尐女の友』はそもそも都市

部の女学生をターゲットに想定していたとされる。両誌の目的からも、
「地方」対「都市」の

対立構造を見出すことができよう。

『尐女の友』創刊号の定価は 10 銭21で、当時はかけそば 1 杯が
経済的な面をみていくと、

3 銭であったとされている22。
『尐女の友』は、およそ 3 食分の食費と同等の値段であったの

だ。また、先述したように、そもそも女学校とは「エリート校」であった。内田静枝は、
「女

学校の月謝は高く、経済的に余裕がある家庭の才女しか進学できない事情」があったと述べ

る。さらに、教育制度も概観したうえで、女学生を〈中高一貫教育の超難関お嬢様女子高の

生徒〉と現代風に比喩する23。

当時と現代とでは社会の仕組みが異なるため、正確に経済状況の実態を示すことは不可能

であることも承知している。ただ、
『尐女の友』が、
「中高一貫教育の超難関お嬢様女子高の

生徒が読む 3 食分の値段の雑誌」であると考えると、その特殊性が容易く想起できるだろう。

『尐女の友』をはじめとする尐女雑誌を読むことができ、
「尐女」となれたのは、都市部に住

む裕福な者のみだったのである。

「少女」へ向けられる外部の視線

ここで指摘しておきたいのは、
「選別」されたことでその輪郭がみえてきた尐女文化の外部

である。

本田和子は、雑誌の口絵やポスター、小説24に描きだされた女学生像や、彼女たちの服装

および髪型等から、女学生が「時代のヒロイン」
「ハイカラ志向の結晶」としてまなざされて

いたことを明らかにした。さらに、彼女たちのリボンや洋風の髪型、テニスや乗馬により風

になびく袴は「性の象徴」でもあったことも指摘する。
「人々の視線に、軽やかに装い変えた

女学生たちが、奔騰する性のままに振舞うモラル破壊者として、まぶしく、また、時にうと

20 菅聡子『〈尐女小説〉ワンダーランド――明治から平成まで』明治書院、2010、p. 16
21 もちろん時代が流れるとともに価格は上昇する。中川裕美『「尐女の友」と「尐女倶楽部」に
おける編集方針の変遷』によると、「黄金期」である 1936 年 1 月号の定価は 60 銭と値上がりし
ている。
22 今田絵里香『「尐女」の社会史』、pp. 12-13
23 内田静枝『女學生手帖』、p. 19
24 本田は、その代表的な作品が新聞小説であった小杉天外『魔風恋風』(1903)であるという。

主人公・萩原初野は美しき女学生として描かれるが、物語後半は後述する「堕落女学生」となっ
てしまう。

11
ましく映じた」25。女学生の身体には、明暗の両義的なイメージが託されたのである。

また、稲垣恭子は、田山花袋『蒲団』
(1953)の一節を引用し、恋愛や性関係により身を

持ち崩していく女学生を「堕落女学生」と呼び、暗部を切り取ってみせた。そしてそれは、

「良妻賢母教育に基づく高等女学校の教育を正当化し安定化させていく過程で、排除されて

いくものとして否定的につくりだされた表象」26だという。

女学生に魅力を感じるのも嫌悪を感じるのも、もちろん女学生本人ではない。ここには、

女学生を巡る外部からの視線の問題がはらんでいるだろう。先述したように、尐女雑誌は「選

別」された尐女を生み出し、それは誌面の読者投稿欄における「掲載/不掲載」によって反

復されていた。この選別のプロセスよりもう一段階広く、選別される尐女たちを執拗にみつ

める外的視点が存在していたのである。その意味でもまさに尐女は「ヒロイン」であり、時

代の明部と暗部を一手に担った表象だったといえるだろう。

4.小括

本章では、
「尐女」が学校教育と尐女雑誌のもと、「選別」の反復により生成された表象で

あることを明らかにした。尐女たちが尐女雑誌上でつくりあげた共同体は、麗しきユートピ

アであったかもしれない。しかしその裏側に潜むのは選ばれなかった尐女たちと、外部の視

線であった。

ここで注意したいのは、決して「外部の視線=男性」ではないということである。たしか

に『尐女の友』の代々の主筆は全て男性であり、誌面に作品を提供していたのも男性が多数

を占めた。しかし、それは男性が特権的に尐女を支配していたのではなく、むしろその逆で、

男性が尐女に接近していった図式であると考える。次章は、川端康成の尐女小説を論じてい

き、この仮説を明らかにするための試みである。

25 本田和子『女学生の系譜』、p.91
26 稲垣恭子『女学校と女学生』、p.158

12
第二章

グラビア写真、ブック・レビュー、挿絵画家たちによる一枚絵、詩、漫画、おしゃれ指南、

レター・セットやカード・ゲーム等の付録、そして巻末の読者投稿欄――。
「黄金期」の『尐

女の友』には多種多様な記事が掲載されていた。そのなかでもページの大部分を占め、読者

に多大な影響を与えていたと思われるのが小説である。川端康成のテクストを読み込んでゆ

くにあたり、まずは本稿における「尐女小説」を定義づけたい。

1.少女小説とはなにか

尐女小説というジャンルの幅はとても広いが、
先行研究によるとその起源は吉屋信子の
『花

物語』
(1916)に求めるのが定説となっている。もちろん、第一章で確認したように、それ

以前に『尐女の友』をはじめとする尐女雑誌は創刊されていた。野上彌生子(1885-1985)

や与謝野晶子(1878-1942)らが尐女小説を発表しており、
『花物語』の発表当時も尾島菊子

(1879-1956)の尐女小説が人気を集めていた。しかしそれらは、
「母や家から離れると、こ

んなに大変なんだぞ、と読者をおどし、普通の家庭生活に感謝させ、その大切さを教える」

「教訓物語」27が多数を占めていたという。それとは異なる「思春期の尐女たちの過剰なま

での自意識、嫉妬心、裏切り、犠牲、など、これまで誰も書かなかった心情」28を綴り、尐

女たちの支持を得たのが『花物語』だったのである。

また、この時期には『ハイジ』
『小公子』等の海外の翻訳尐女小説も多くみられたが、異国

に暮らす主人公たちは、読者の尐女たちにとって決して身近な存在ではなかっただろう。

さて、宮台真司は、尐女文化において目指される〈理想〉は「清く正しく美しく」である

とし、尐女小説は「設定や筊書きは多様であっても、結局は『主人公が〈理想〉を追求する

ことによる〈秩序回復〉
』という同一の物語構造を有していた」と述べた。そしてその構造は、

「明治末から大正にかけて確立した、イエから世間そして大日本帝国へと連続する〈秩序〉

のあり方に対忚している」29というのである。

たしかに、第一章で明らかにしたように、尐女雑誌は「良妻賢母」教育の一端を担うもの

27 菅聡子『〈尐女小説〉ワンダーランド』、p. 8
28 内田静枝「解説」、吉屋信子『わすれなぐさ』、河出書房新社、2010、p. 217
29 宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体――尐女・音楽・マンガ・性

の変容と現在』、ちくま文庫、2007、p. 101

13
であった。よって、
『尐女の友』においては男女の恋愛物語等の教育上相忚しくない物語は忌

避された30し、映画を禁止する女学校があったことから、映画に関する記事は掲載されなか

ったとされる31。

しかし、枞組みが決められていたからこそ、形式化された物語を美しく彩るための手法が

様々模索されていったともいえるのではないだろうか。尐女文化は、宮台が言うような〈秩

序〉に収まりきるものではなかった。そこからあふれ出すものがあった。

その文体から「美文」とも称される、
『花物語』のなかの一篇「月見草」を引用してみよう。

「月見草」
ひら
それは――月見草が淡黄の葩を顫はせて、
かぼそい愁を含んだあるかなきかの匂ひを
ゆう ずつ
仄かにうかばせた窓によって佳き人の襟もとに匂ふブローチのように、夕星がひとつ、
うす紫の空に瞬いている宵でしたの、おゆうさんのまだ見ぬ(ながさき)の悲しい物語

を、私が聞いたのは――いっそおゆうさんの話をそのままに伝えましょう。32

「宵」を文字通り装飾する語が次々と覆いかぶさるように連なっていく。この一文のうち

で、物語を構成する材料となりえる部分はほんのわずかしかない。文脈的には「宵」で済む
ひら
ところを、
「月見草が淡黄の葩を顫はせて、かぼそい愁を含んだあるかなきかの匂ひを仄かに
ゆう ずつ
うかばせた窓によって佳き人の襟もとに匂ふブローチのように、夕星がひとつ、うす紫の空
に瞬いている宵」と表現するのである。この文体の過剰さは、
〈秩序〉から逃れ出たところで

花開いた尐女文化そのものではないだろうか。

本田和子は、小説の特徴を「テーマやストーリー、あるいは説話構造にもまして表現が優

先される。しかも、惜しみなく、美辞麗句を連ねてことばの花綏を縒りあげる」33作風であ

るとした。
「構造よりも表現」――それは、宮台を踏まえると、
「秩序よりも美しさ」と言い

換え可能だと思われる。
良妻賢母教育に代表される尐女を規定する秩序はたしかにあったが、

それをすり抜けるような表現こそが重要視されたのである。

30 ただし、西条八十『古都の乙女』(『尐女の友』1938 年 7 月~1939 年 5 月)は、主人公の尐


女の他に二人の男性が登場し、異性愛的要素が強い。よって異性愛は完全に遮断されたのではな
いと思われるが、詳細な調査は別の機会に譲らなくてはならない。
31 映画や映画館は、尐年尐女を不良化させる新しい誘惑の温存とみられていた(稲垣、『女学校

と女学生』、p. 142)。
32 吉屋信子「花物語」、『吉屋信子全集 第 1 巻』朝日新聞社、1975、p. 13
33 本田和子『女学生の系譜』、p. 201

14
以上から、本稿における尐女小説は、第一章で定義した「尐女」に贈られた、
「秩序」を逸

脱する契機をはらんだ物語であるとしたい。もちろん、その逸脱のありかたは尐女文化の表

象にも通じるだろう。

なお、吉屋信子と彼女の尐女小説については第三章で詳しく論じてゆくこととなる。繰り

返すようだが、本章で問題とするのは文豪・川端康成の尐女小説群だ。

2.
『乙女の港』と川端康成

少女小説と川端

川端康成は、1927 年 10 月に雑誌『尐女世界』に掲載された『薔薇の幽霊』に始まり、1954

年 1 月から翌年 3 月まで雑誌『女学生の友』に掲載された『親友』に至るまで、短編・長編

併せて 20 編以上の尐女小説を執筆した。日本近代文化者の羽鳥徹哉は、それらを「試作期」


『尐女倶楽部』時代」
「『尐女の友』時代」
「『ひまわり』時代」の4期に区切り、作風の変遷

を追っている34。

川端の尐女小説群についての先行研究は決して多くなく、あるとしても、川端の一般文芸

作品との関連を探るものが多数を占める。羽鳥が、童話作家である小川未明(1882-1961)

や宮沢賢治(1896-1933)を引き合いに出して「川端のは、編集者に求められて書いたにす

ぎぬ。片手間の仕事という性格がないとは言えぬ」35とするように、文豪・川端康成の仕事

のなかでは傍流とされ、軽視されがちな作品の集合体であるといえよう。その証拠に、1981

年に出版された川端の全集にも、一部の尐女小説は掲載されていない。しかし、
『尐女の友』

において川端の『乙女の港』は大変な人気を博し、
「黄金時代」を築く一要因となった。さら

に、近年の研究によって『乙女の港』が川端の弟子で作家の中里恒子との共作であることも

明らかになった。川端の尐女小説が内包する意味は、もっと広く評価され、語られてもよい

のではないだろうか。

本章では、川端の尐女小説を『乙女の港』以前・以後に分け、川端の尐女小説群において

『乙女の港』が重要な位置にあることを明らかにする。そして、かつて女学生であった中里

の経験が、川端の筆によって発展し、文学として花開いたことが尐女文化の有り様に影響を

及ぼしたと指摘する。繰り返すが、川端は、大正時代から第二次大戦下、そして戦後まで尐

34 羽鳥徹哉「川端康成 解説」、『日本児童文学大系 23』ほるぷ出版、1977


35 同書、p. 488

15
女小説を発表し続けた。川端の尐女小説は長きに渡って尐女小説というジャンルの主軸のひ

とつであったのである。その歴史はまさしく、
「文豪」が「尐女」に接近していく構図となる

だろう。

『少女の友』における『乙女の港』と川端

はじめに、
『乙女の港』の概要と、川端康成の『尐女の友』における位置づけについて説明

『乙女の港』は、川端康成が『尐女の友』に初めて寄せた作品で、1937 年 6 月号から
する。

1938 年 3 月号までの 10 か月間にわたり掲載されている。これは本稿で問題とする「黄金時

代」とちょうど一致する。また、川端の長編尐女小説の第一作でもあり、挿絵および単行本

化されたときの装丁は中原淳一によるものであった。あらすじは以下のとおりである。

『乙女の港』
ミツシヨン・スクウル
横浜の基督教女学校の新入生、13 歳の三千子は、入学して間もなく、5 年の洋子と 4 年の
克子とから同時に熱烈な手紙を受け取る。三千子は美しき牧場主の娘である洋子と「エス」

の関係になるが、洋子と克子に同時に愛される三千子は、級友たちにやっかみ半分で冷やか

される。

活発な克子はライバル洋子への敵愾心を露にし、三千子を困らせる。夏休み、軽五沢で偶

然克子に出くわした三千子は、洋子に悪いと思いながらも克子の強引さに惹かれてゆく。

運動会で洋子と克子の対立は 5 年・4 年の対立までに発展してしまうが、克子の怪我を洋

子が介抱したことで和解。三千子も洋子の深い愛情を再確認する。洋子は家運が傾き進学を

断念、離れ離れになるのを寂しがる三千子だったが、洋子に諭され、ふたりは卒業式で送辞

と答辞を述べ合う日を思う 。

ここからわかるように、
『乙女の港』は「エス」文化と切り離すことができない物語である。

「エス」とは、当時女学生の間で使われていた、尐女同士の同性愛的関係を示す言葉である。

作家であり、吉屋信子の尐女小説の復刊に尽力した嶽本野ばらによる解説を引用しよう。

エスとは女子同士の友情以上、恋愛未満の感情、もしくは関係のことを指します。こ

れは明治の頃から戦前にかけて自然発生しました。
[…]学校に行きたい女子は女学校

に入れられたのです。そうすると、
[…]男子と触れ合う機会がなくなるでしょ。だけ

16
れども、思春期って恋をしない訳にはいかないではないですか。そこで当時の女学生は、

同性の活発な先輩に憧れたり、愛らしい後輩に胸をときめかしたりしていたのです。エ

スとは、従い、シスター(sister)の頭文字です。36

なお、
『乙女の港』の作中では、附属幼稚園からミッション・スクールに通っている三千子

の友人によって「エスっていうのはね、シスタア、姉妹の略よ。頭文字を使ってるの。上級

生と下級生が仲よしになると、そう云って、騒がれるのよ 」37と説明される。この「エス」

については、具体的なテクスト分析の中で詳細を述べてゆくこととする。

さて、川端の『尐女の友』での位置づけはどのようなものであったのだろうか。これを明

『尐女の友』1937 年 5 月号に掲載された『乙女の港』の連載を予告する
らかにするために、

広告を引用する。

36 嶽本野ばら「吉屋信子とエスと近親相姦」、内田静枝『女学生手帖』、p. 117
37 川端康成『完本 乙女の港(尐女の友コレクション)』実業之日本社、2009(初版 1938)、p.
17

17
川端先生は尐女の友には此度初めての方ですが、人も知る如く我が國文壇の最高峰そ

の香り高い藝術は特異の存在として世の尊敬を得てゐられる方です。[…]その豊かな詩

嚢から溢れ出る次號よりの長編小説こそその清純さに於てきつと皆さまのすばらしい

ご好評を以つて迎へられることと思ひます。38

今田絵里香は、
「『尐女の友』にこれだけ宣伝が派手になされ、その一挙一動が注目され、

輝かしいスターとして扱われた作家はいない」39という。この広告から、当時既に著名な作

家だった川端による連載小説を開始するということへの期待の大きさが窺えるのである。

1937 年 8 月号の主筆・内山基による編集部コメントにも、
「川端先生の乙女の港発表以来す

ばらしい好評を博し私達の机上には乙女の港禮讃のお便りが山積される次第です」40と記さ

れている。この大々的な広告に恥じず、本作は「
『尐女の友』史上、最も人気を博した小説」
41となったのである。

また、この広告には川端による「作者の言葉」も併せて掲載されている。

尐女の友と云へば僕にとつて尐年の日の忘れ難い思ひ出の一つだ。[…]今の貴女

方と同じやうに僕は發行の日を待ちかねて愛讀したものだつた。あれから幾年、かう

してその雑誌に小説を書くやうになつてみると、何んとも云へないなつかしさを以て

あの頃を思ひ出す。
[…]僕が且つて愛読したと同じやうにみなさんにも喜んでもら

へる様な作品をきつと書くつもりだ、どうぞ期待してほしい。42

あの文豪川端も『尐女の友』の読者であったというのである。それだけでも驚きだが、さ

らにその読書経験は「忘れ難い思い出」でもあったという。川端と尐女の関係性を探るため

に、もう尐し川端の発言を探ってみよう。

1926 年、川端は「尐女と文藝」と題し、
「文藝の讀者としての尐女は、國務大臣よりも大

學総長よりもすぐれてゐる場合が多い。それと反對に、文藝の作者としての尐女は、昨日母

38 同書、pp. 340-341
39 今田絵里香『尐女の社会史』p. 197
40「トモチヤンクラブ」『尐女の友』昭和 12 年 9 月号、川端康成『乙女の港』、p. 339
41 遠藤寛子、内田静枝『『尐女の友』創刊 100 周年記念号』、p. 75
42 同書、pp. 340-341

18
の乳房を離れた三つ兒よりも务ってゐる場合が多い」43と述べ、尐女と小説が相互関係を築

けていない現状を憂いている。

ここからおよそ 10 年後、川端は『乙女の港』を連載し、
「國務大臣よりも大學総長よりも

すぐれてゐる」尐女たちに自らの小説を贈ることとなる。さらに、
『乙女の港』連載終了後の

1941 年から 1943 年にかけては、読者投稿欄にて作文の選者を努め、読者の技術向上に寄与

していた。こうして「文藝の作者としての尐女」を育てることができた。以上から、川端が

尐女の文章を指導することは、
「片手間の仕事」ではなく、むしろ念願の仕事であったと予測

できるのである。

それは、自らグラビア記事に登場したり愛読者集会に出席したりする姿からも窺える。内

田静枝が指摘するように、
「文学史を彩る数々の作家が筆を競った『尐女の友』のなかでも川

端康成はビッグネームの筆頭に上げられ」るが、
「読者を愛したことにおいても、筆頭に上げ

られる」44のである。

43 川端康成「尐女と文藝」、川端康成『川端康成全集 第 32 巻』新潮社、1981、p. 504


44 内田静枝「解題――『乙女の港』と『尐女の友』」、川端康成『乙女の港』、p. 335

19
中里恒子との「共作」

ただし、先述したように『乙女の港』にはゴースト・ライターがいた。中里恒子である。

1989 年、神奈川近代文学館で中里恒子展を開催するにあたり、中里家で調査が行われた。

その際に 20 枚ほどの『乙女の港』草稿が発見され、川端による大幅な書き換えが明らかと

なったのである。当時の新聞では、
「月刊誌『尐女の友』に川端康成が連載し、尐女小説の傑

作として名高い『乙女の港』は、当時無名だった中里恒子が川端の指示に従い、自らの女学

校時代の体験をもとに下書きしたものだった」45と報じられている。

中里恒子は、1909 年に神奈川県藤岡市に生まれた。中里家は呉服太物問屋で栄えていたが

父の代に破産。横浜に移住し、紅蘭女学校を経て、川崎実科高等女学校を卒業した。1928

年、19 歳で「創作月刊」に『明らかな気持』等を発表、この年結婚する。小説家の横光利一

(1898-1947)と知り合って指導を受け、鎌倉の川端夫妻に親しみ、
『乙女の港』
『花日記』

の下書きをする。1939 年には『乗合馬車』で女性初となる芥川賞を受賞した46。

川端と中里の草稿について論じた中島展子によると、川端は主婦作家であった中里の才能

を早くから認め、助言や直接指導をしていたという。
『乙女の港』もまた、中里が「全幅の信

頼を川端に寄せて」下書きをしていたことが草稿からうかがわれ、川端が「執筆指導」も兼

ねて中里に原作を依頼していたとみられる47。

ふたりのやりとりは往復書簡で確認することができる。以下の引用は、川端が 1937 年 9

月 14 日付で中里に送った手紙の一部である。

昭和 12 年 9 月 14 日附 信州輕五澤藤屋方より神奈川縣逗子町櫻山仲町あて

乙女の港はだんだん文章が粗くなり、書き直すのがむつかしく、書き直すといふこと

は、うまく参りませんゆゑ、なるべく初めの調子でやつていただくと助かります。お書

きになるのにもし興が薄れてゆくやうでしたら、早く切り上げ、別のものをまた連載す

るやうにしても、こちらは結構ですが、受けてゐる様子ゆゑ、なるべく續けていただき

たいと思って居ります。三千子は港に歸つて、洋子の心の戻るのに尐し屈折あり、この

三角関係尐しモメタ方が、つなぎやすいかと思ひますがいかがですか。克子の天下あつ

45 朝日新聞 1989 年 5 月 19 日 朝刊 17 面
46 市古夏生、菅聡子編『日本女性文学大事典』日本図書センター 、2006、p. 215 を参考にした。
47 中島展子「川端康成『乙女の港』論」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第 29 号、

2010、p. 1

20
てもよいかと思います。48

川端と中里には家族ぐるみの付き合いがあり、往復書簡のやり取りからもふたりの親密な

関係をうかがい知ることができる。たとえば中里は料理が好きなモダンな女性であったよう

で、川端の好物であった「ゼリイ」をつくっては土産に持参していた。現代のゴースト・ラ

イターのイメージには程遠いような和やかな関係性は、ひとりの作家がひとりの作家の「代

理」となるというよりも、むしろ、ひとりの作家とひとりの作家による二人三脚的な共同作

業であると言えるのではないだろうか。

他にも例を出してみよう。
『乙女の港』と同時期に発表された太宰治『女生徒』
(1939)は、

女学生の心境をつぶさに描き、芥川賞を巡って対立があった川端にも「この作者としては珍

しく多くの人にも通じる、素直な美しさを見せ」
、「その作者がいささかでも芽伸びを見せて

くれてゐる」49と評価されている。しかし、これは太宰の小説を愛読していた成女高等女学
ありあけしず
校に通う女学生、有明淑の日記を基にし、太宰が再構成したものなのである。
川端自身も菊池寛の代筆をこなしていたという事実から、
「代筆の連鎖」ともいうべき現象

がおこっていたとの指摘もある50。本稿でその現象の詳細を述べゆくことは叶わないが、
「こ

の時代、師匠の名前で無名の弟子が作品を発表することは、そう珍しいことではなかった」51

ということは確かである。よって、師匠と弟子の執筆指導を兼ねたこのような執筆のありか

たを「共作」と呼ぶこととしたい。

「私達女學生のほんとの事書いてあるのね」52と
当時の読者からの『乙女の港』の感想に、

いう一文がある。尐女同士の細やかな心の触れ合い、手紙・会話の文体、そして当時の女学

校での流行――。これらは、実際に女学校に通っていた中里の実体験があってこそ描くこと

ができたのではないだろうか。
「共作」が川端に影響を与えた。この仮説を明らかにするため

に、以下で『乙女の港』以前・以後の川端の尐女小説と『乙女の港』を比較検討してゆく。

48 『川端康成全集 補巻 2』新潮社、p. 300


49 川端康成「小説と批評――文藝時評」、『文芸春秋』1939、p. 349。何資宣「太宰治『女生徒』
試論――『有明淑の日記』からの改変にみる対川端・対読者意識」、『国文学攷』第 196 号 、
2007、p. 24 より引用。
50 「菊池寛の作品の代筆を川端康成や横水利一や佐藤碧子や池島信平がこなし、次の世代では、

川端康成の作品や著述の代筆を伊藤整や瀬沼茂樹や中里恒子がこなしたという事実がある」(平
山城児『川端康成――余白を埋める』、研文出版 、2003、p. 367)
51 市川慎子『おんな作家読本〔明治生まれ篇〕』ポプラ社 、2008、p. 82
52 「トモチヤンクラブ」、『尐女の友』昭和 12 年 9 月号。川端康成『乙女の港』p.339 より引

用。

21
3.川端の少女小説群

「エス」ではなく友情――『乙女の港』以前の少女小説

まず、先述した羽鳥の 4 分類でいうと「試作期」
「『尐女倶楽部』期」にあたる、
『乙女の

港』以前に雑誌『尐女倶楽部』に掲載されていた作品についてみていこう。なお、そのなか

でも、
『乙女の港』と比較するために、尐女同士の友情を主題に掲げた作品に限定して取り扱

うこととする。これら 4 篇はいずれも短編小説である。

『開港記念日』
(『尐女倶楽部』1933 年 2 月号)

まさ子と夏子は「一年の時からあんなに仲よくして、なにもかもいつしよだった」
。「筆箱

だって、毛絲のジヤケツだつて、お揃ひ」53なほどの仲よしだったのである。しかし、まさ

子は開港記念日の出し物をするために別の尐女とペアを組む。それを知った夏子は動揺し、

嫌悪を示す。この関係性は「エス」の「一対一」の関係性に類似している。

『駒鳥温泉』
(『尐女倶楽部』1935 年 2 月号)

「夢だつて、おんなじでなければいけない」54、
朝子と美也子は、 「生れる前からのお友達」
55。ふたりが見つけた温泉が、駒鳥と、美也子の妹・みどりの怪我を治す。ふたりの関係性

が現実を動かす力となり、救いがもたらされるという物語構造を持つのである。

『翼にのせて』
(『尐女倶楽部』1936 年 6 月号)

千枝子と榮子のふたりが共に勉強し女学校を目指す物語である。榮子は家計の都合で進学

を諦めるが、それを隠す。理由は、
「だつて、せつかく二人でいつしよに、一生懸命勉強して

たんだもの。私だけ急に、東京へ行けなくなつたなんて言えないわ」56。この榮子の計らい

もあって、千枝子は無事に女学校の試験に合格する。
『駒鳥温泉』と同様に、尐女同士の友情

が合格という現実的成功を呼び寄せる。

『コスモスの友』
(『尐女倶楽部』1936 年 10 月号)

主人公の道代は、コスモスの花を折った犯人捜しのなかで、疑いをかけられた澄子と心を

通わす。しかし、澄子は「転校して行つて、新しいお友達をこしらへるなら、私に相談して

頂戴」という約束をした友人があるという。道代と友達になるには、
「道代さんのことを詳し

53 川端康成「開港記念日」、『川端康成全集 第 19 巻』、p. 115


54 川端康成「駒鳥温泉」、同書、p. 250
55 同書、p. 253
56 川端康成「翼にのせて」、同書、p. 301

22
く書いた手紙を出して、今度かういふ人とお友達になりたいけれど、どうつて、相談」57し

なければならない。澄子とその友人のこの関係性は「エス」そのものといってよいだろう。

しかし、他の 3 編と同様に、
『コスモスの友』にも「エス」という言葉は出てこない。

以上のように、これら 4 編の尐女同士の友情物語であっても、
「エス」についての記述は

どこにも見られない。仲良しのふたりの尐女の心の触れ合いは、
「エス」のように「一対一」

が原則である場合さえある。しかしそれでも単に「友情」としてしか表わされないのである。

これは、女学校出身で、
「エス」のような女学生文化を当事者として経験してきた中里との「共

作」体験があって初めて、川端が具体的な女学生文化について記述できたということではな

いだろうか。

この仮説を明らかにするために、
「エス」文化以外の女学生文化についても考えていこう。

女学生文化のディテール

『乙女の港』では、洋子が飼う仔牛の名前をつける際に、信仰と恋愛の背反性を描いた小

説「アンドレ・ジイド『狭き門』
」と、南の島を舞台とした悲恋物語「サン・ピエエル『ポオ

ルとヴィルジニイ』
」の書名が挙げられ、共通する読書経験が三千子と洋子の絆を一層深める

ことになる。

「でも、雤は変だわ。アのつく名前と……

アリサはどう、アンドレ・ジイドの(狭き門)のアリサ。

「雤さ、と聞えるわ。人の名前でもいいの?

ぢやあ……男の子ならポオル、女の子ならヴイルジニイ。

「まあ、
(ポオルとヴイルジニイ)を読んで?」

「ええ、お兄様の(岩波文庫)やなんか、みんな読むの。

と、三千子は本の名を数え上げた。

「まあ、うれしい。でも、三千子さん分るの?

あたしも綺麗な物語は大好きよ。 」58
[…]

また、16 歳で昇天した山川弥千枝の遺稿集『薔薇は生きてる』が、三千子の愛読書として

57 川端康成「コスモスの友」、同書、p. 325
58 川端康成『乙女の港』、pp. 48-50

23
「昭和 8 年(引用者注:1933 年)6 月号の『火の鳥』に発
引用付きで紹介される。これは、

表され、のちに甲鳥書林より刊行されて、若い尐女たちに広く読まれたもの」59であり、当

時の『尐女の友』にもその広告がみられる。なお、
『火の鳥』は中里が参加していた同人誌で

あり、その関連もあっての引用であると考えられる。また、川端も気に入って読んでいたと

され、この死を前にする尐女の言葉の引用は「川端が求めて止まない『おさなごころ』の声

であり、幼児体験欠如者である彼の閉塞された童心が、そこに吐露し解放されているのでは

ないか」60との指摘もある。

また、
「レビュウのスタア」である水の江滝子(1915-2009)
、葦原邦子(1912-1997)の

(1937)等の当時の流行を表すもの61、横浜のニュウ・グランド・
名前や、映画「新しい土」

ホテル等の実在する場所も登場する。

『乙女の港』以前の 4 篇の短編ではほぼ見られないといってよい。
このような固有名詞は、

唯一『コスモスの友』で与謝野晶子作詞・宮城道雄作曲の「コスモスの歌」が歌われ、その

歌詞が出てくるに留まるのである。

以上のように、
『乙女の港』以前の尐女小説には、具体的な女学生文化についての記述がな

されていないことが明らかとなった。しかし、これではまだ川端と中里の「共作」が、女学

生文化のデティールを川端の作品群に呼び込むことになったことの証明にはなり得ないだろ

う。
『乙女の港』以降の尐女小説にその答えを求めてみよう。

ただし、
『乙女の港』との対比をはかるために、長編小説に限るものとする。よって、
『夏

の友情』
(1937)
、『英習字帖』
(1938)
、『兄の遺曲』
(1939)
、『親友』
(1954)は本稿におい

ては議論の対象外とする。

中里恒子とのふたつめの「共作」――『花日記』

『乙女の港』の連載終了後、1938 年 4 月から 1939 年 3 月にかけて『尐女の友』で連載さ

れていたのが『花日記』だ。中里恒子の川端宛ての書簡に「けふ尐女之友買ひ、花日記にか

かります。これは自分でも書いてゐてたのしみです 勿論虚構の人物ですけれどその人物に

59 川端康成『川端康成全集 第 20 巻』新潮社、1981、p. 737


60 小林芳仁『美と仏教と児童文学と――川端康成の世界』双文社出版、1985、p. 316
61 先述したように、映画を禁じる女学校もあったことから、『尐女の友』では映画スターの記事

掲載は控えていたとされる。本誌では禁じられた映画の情報が小説内において語られていたとい
うことを指摘しておきたい。

24
私の思つてゐることをみんなさせてゐるせいかもしれません」62とあることからわかるよう

に、本作も川端と中里の「共作」である。

『花日記』は、
『乙女の港』とちょうど真逆の物語として描かれていると考える。例えば、

主人公なほみの通う女学校は、
「ミツシヨン・スクウルとちがつて、官立だけに」
「エスとか、

オデイア(引用者注:英語の「oh, dear」に由来する「エス」の別名)とかの交際も、派手

ではない」63。また、姉の英子が「エス」の思い出を綴った日記を読み、自分も「エス」の

相手を探すという物語構造も、お姉様に愛される物語である『乙女の港』と正反対であると

いえよう。

舞台設定は東京だと思われる。大森郁之助は「物珍しさ的魅力は(引用者注:
『乙女の港』

の舞台である)異国情緒の港町としての横浜に比べて格段に乏しかった筈で、描き甲斐は尐

なかったろう」64としている。しかし、
「輿謝野晶子女史の短册」65「ジヤアマン・ベエカリ

イのケエキや菊逎舎の生菓子」66等、具体的固有名詞は引き続きみられる。

以上のことから、
『花日記』は、中里・川端タッグが『乙女の港』とは違った視座に立って

女学生文化を描いた作品であるといえるだろう。

総力戦体制下の少女小説――『美しい旅』
『続・美しい旅』

『美しい旅』および続編の『続・美しい旅』は、1939 年 7 月から 1941 年 4 月まで『尐女

の友』で連載されていた。ただし、未完である。挿絵は中原淳一による。

本作は、
目の見えない尐女が主人公で、
聾学校を舞台とした教育的側面が強い物語である。

続編では満州の描写等もみられ、
これは川端自身の満州旅行が色濃く影響しているとされる。

『乙女の港』や『花日記』とまったく毛色の異なる作品」67とし、
今田絵里香は、本作を「

その理由を 3 点あげている。中里の不在、女学校を離れた舞台設定、総力戦体制下であった

ことである。このなかで最も注目すべきは、やはり「中里の不在」だろう。本作は中里との

「共作」ではないが、その補完ともいうべきモデルが存在していたのである。

それは、エッセイストの秋山ちえ子(1917-)であった。彼女が作中に登場する月岡先生

62 『川端康成全集 補巻 2』、p. 295


63 川端康成「花日記」、『川端康成全集 20』p. 199
64 大森郁之助「『乙女の港』 ・その地位の検証――lesbianism の視点ほか、または八木洋子頌」、
『札幌大学女子短期大学部紀要 17』、1991、p. 3
65 川端康成「花日記」、p. 201
66 同書、p.324
67 今田絵里香『尐女の社会史』、p. 200

25
のモデルになっていたという。
単行本あとがきによると
「月岡先生のモデルの若い女教員は、

結婚のために教職を退いて、夫の任地の大陸へ渡つて行つた。この人なしにこの作品は書け

ないと言へるほど、私は落胆して、続稿の勇気も挫け、しばらく呆然としてゐた」68。本作

が途中で連載が中止する未完の作品となったのには、
「共作」相手だった中里とモデルの秋山

――ふたりの女性の不在が大きく影響を及ぼしていたのである。

『尐女の友』1939 年 8 月号で、川端自身「書き進んでも、感興に乗れるといふことがな

く、無理押しの努力である。骨が折れ、時間がかかる割に、面白さは乏しく、女学生達がよ

く読んでゐると思ふ」69と赤裸々に語っており、自分自身納得のいかない作品であったこと

がわかる。背景を理解すると、川端が「共作」せずに尐女小説を執筆することの辛さを露に

しているともいえるだろう。

ここまでが羽鳥の分類でいう「
『尐女の友』期」である。

戦争と雑誌『ひまわり』

『続・美しい旅』を最後に川端作品は『尐女の友』から姿を消す。出版統制だ。戦争の影

響で雑誌に当局の検閲が入るようになり、華やかな小説は掲載できなくなってしまったので

ある。

戦争が尐女雑誌に及ぼした影響を論じた中川裕美によると、1937 年の日中戦争を契機にマ

スメディアへの規制が強まり、雑誌の編集には自由がなくなっていった。中原淳一の絵が「不

健康」とされ消えた。読者投稿欄のペンネームが廃止された。表紙には「欲しがりません 勝

つまでは」
「女學生よ配置につけ!」などといった国策スローガンが掲載された。
「『夢』や『美

しさ』を目指していた『尐女の友』が軍国的な内容へと転換させられたことは、当時の読者

である尐女たちに『非常時』であることを強く意識」70させたのである。戦争は尐女たちの

日常を大きく変えた。尐女たちの服装はセーラー服からもんぺへと取って代わり、生活に美

しさを求めることができるような状況ではなくなってしまったのである。

そして戦後には学制改革が進行し、1948 年には新制中学・新制高校が発足する。男女の共

学が始まり、女学校が廃止されたのである。さらに、その形態を変えながらも戦時中休むこ

となく発行を続けた『尐女の友』も、1955 年にはその歴史に幕を下ろすこととなる。ライバ

68 羽鳥徹哉「解説 川端康成」、『日本児童文学大系 23』、p. 484


69 同書、p. 200
70 中川裕美「『尐女の友』と『尐女倶楽部』における編集方針の変遷」、日本出版学会・出版教

育研究所共編『日本出版資料 9』、2004、p. 52

26
ル誌『尐女倶楽部』も 1963 年には廃刊となった。尐女たちを「尐女」たらしめた場である

女学校と尐女雑誌の消失――。これは、尐女文化そのものの消失をも意味するのだろうか。

いや、そうではない。戦後の尐女たちは、戦前の尐女文化をしっかりと受け継いでいった

のである。本田和子がいうように、戦後の焼け跡の中の尐女たちが「脱戦時下」を実現する

ために求めたのは「平和な良き時代」としての「戦前の女学生像」であった。そしてそれは

今ここにあるものではない過去のものであるために、記号化された「戦前の庶民たちの漠た

る憧れの最大公約数」でもあった。さらに、
「『よき時代の乙女』への憧れに、可視のかたち

を与えたのは、戦前の尐女雑誌を彩った代表的尐女小説群と、抒情的なイラスト類であった」
71。もちろんそのルーツは『尐女の友』の「黄金期」にみることができよう。

戦後の尐女たちに戦前の尐女文化を伝えた雑誌のひとつが『ひまわり』である。

71 本田和子「戦時下の尐女雑誌」、大塚英志編『尐女雑誌論』、pp. 10-11

27
『ひまわり』は 1947 年 1 月に中原淳一が創刊した尐女雑誌だ。川端をはじめ、吉屋信子や

蕗谷虹児(1898-1979)、松本かつぢ(1904-1986)ら、
『尐女の友』
『尐女倶楽部』等の戦前

の尐女雑誌で活躍していた人物が引き続き名を連ねていることからも、戦前の尐女文化から

の繋がりを確認できよう。

本章で問題としている小説に関しては、皆川恵美子が『ひまわり』の全号を概観したうえ

で「短編小説、連載小説が、毎号亓本以上並び、文芸色が濃い」と指摘している。また、皆

川は登場人物たちを「失意の底にあっても、ひまわりの如く明朗に輝き生きる」
「聖尐女」で

あると位置づけた72。このような物語の登場人物たちに、雑誌の目指す「有り得べき尐女像」

本田の言葉を借りると「よき時代の乙女」イメージが託されていたと考える。以下に、中原

による雑誌づくりの抱負ともいうべき宣言を引用する。

すべてに希望を失って、ただ食うこと、寝ることだけに気をとられ、女性だけが持つ

やさしい心づかいも、気持ちも、思いやりも、謙譲の美徳も、清潔なすがすがしさも、

青畳の感触もすべて忘れて、本能のまま生きてたいという人間の欲望のまま、毎日虫け

らにちかい生活を、あまんじて送っている人たちに、やさしい希望のそよ風をおくりた

いと思いました。73

中原のいう尐女を取り巻く「虫けらにちかい生活」は、皆川が指摘した、小説のなかの「聖

尐女」が「失意の底にある」という境遇と対忚しているといってよいだろう。戦後の荒廃し

た環境の中で強くたくましく生きる物語のなかの尐女たちは、読者たちへのメッセージ性が

託されたロールモデルであったのである。

『ひまわり』の合言葉は、
「気高く、強く、美しく」
。中原は戦後の荒廃を憂い、尐女たち

がその状況に屈せず強く美しく生きてゆくことを願い尐女雑誌を自らの手で創刊した。その

思いは川端にも通じたのであろう。以下に挙げてゆく川端の尐女小説群においても、戦争の

痛手を負いながらも、励ましあい助け合いながら生きる「聖尐女」たちが描かれている。

72 皆川恵美子「『ひまわり』と『ジュニアそれいゆ』」、『尐女雑誌論』、pp. 66-67
73 『中原淳一画集 第 2 集』講談社。皆川、同書、p. 64 より引用。

28
戦後の少女小説

『歌劇学校』
(『ひまわり』1949 年 6 月号~1950 年 7 月号)

『歌劇学校』からは「
『ひまわり』期」で、戦後に雑誌『ひまわり』で発表された作品とな

る。本作は、題名が示す通り、歌劇学校の寄宿舎で尐女歌劇の稽古に勤しむ尐女たちの物語

である。ただし、初掲載時に「この『歌劇学校』はいまから 20 年ほどまえのものがたりで

す――」74という但し書きがされている。よって、舞台は「黄金期」の目前である 1930 年ご

ろである。挿絵は再び中原淳一が手掛けた。

主人公の友子が女学校時代の友人・美奈子に宛てた手紙という形で物語は語られてゆく。

歌劇学校に入学することになった友子が、友人や先輩との交流を重ね成長していくが、母と

なった美奈子や、更に上を目指したり結婚したりして学校を卒業する先輩の姿を見て、
「見込

みのないものはふるい落とされ」75、それでいて「世間の雤にも風にもあたらない」
「温室み

74 『ひまわり 第 3 巻第 5 号(昭和 24 年 6 月号)』国書刊行会、1989、p. 28


75 川端康成「歌劇学校」、『日本児童文学大系 23』、p. 351

29
たい」76な尐女歌劇の世界に疑問を持つようになる。そこで、自分がどうすればいいのか決

めかねている迷いを提示したところで物語の幕は閉じられる。

学校内部の行事や、どんな役柄に選ばれるかによって繊細に変化してゆく尐女たちの心の

動きの描写等は、
『乙女の港』と通ずる点であろう。一方で異なる点もある。華やかな衣装を

身にまとう歌劇学校の生徒たちは、制服に縛られた女学生たちと鮮やかに対比される。本作

は登場人物が多いが、友子の先輩が「さつぱりしたおきものが好きで、色のついた花模様な

どは一度もお召しになったことがありませんの」77と紹介されるように、その人物が身に着

ける服装がキャラクター造形に深くかかわっているのである。これは、皆が一様に制服を身

に着けていた『乙女の港』ではできなかった表現といえるのではないだろうか。

そして、これも川端ひとりの手による作品ではなかったらしい。近年になって、川端と親

交のあった平山城児が、
自らの母・近江ひさ子の原案であったことを明らかにしたのである。

近江は尐女時代宝塚の歌劇学校に通っていた。そのときに出会った人々が『歌劇学校』の登

場人物たちのモデルであるという78。川端は、近江の尐女時代の経験があってこそ、閉鎖的

な歌劇学校の内部をつぶさに描くことに成功したのであろう。
『美しい旅』
『続・美しい旅』

(1949)79を挟み、先に確認した中里恒子との「共作」のパターンがここでまた
短編の『椿』

も反復されているのである。

また、本作は、吉屋信子『花物語』にも多く見られるような「寄宿舎もの尐女小説」の系

譜である。女子だけが囲い込まれる寄宿舎では異性愛は後退する。そこは、
「現実を忘れて同

性間の美しい友愛に没入できる理想郷であり、それゆえ尐女文化には欠かせない夢の領土」80

であったのである。さらに、本作の寄宿舎は宝塚の寄宿学校であった。宝塚といえば、まさ

に当時の尐女たちの憧れそのもの。
『ひまわり』の誌面にも、宝塚の舞台の紹介記事やスター

のグラビアが多数掲載されていた。しかし、
「歌劇」と「寄宿舎」を組み合わせた『歌劇学校』

の結末は、歌劇学校が現実と剥離していることへの疑問の投げかけ――。ここに、川端の尐

女文化の「外部」の視点があるだろう。歌劇学校の寄宿舎は、上下関係が重んじられ、かつ

同世代間でも技術の差により明確にランク付けされる歌劇学校の仕組みをそのまま持ち込む

76 川端康成「歌劇学校」、p. 417
77 同書、p. 356
78 平山城児『川端康成――余白を埋める』、研文出版 、2003
79 『ひまわり』1949 年 1 月号に掲載。妹が実の妹ではないと知った姉が、妹を不憫に思いなが

らもその愛情に胸を打たれる。家族物語で、なおかつ短編であることから、本稿では議論の対象
外とする。
80 武内佳代「尐女文化のキーワード」、菅聡子『〈尐女小説〉ワンダーランド』、p.156

30
ため、決して「夢の領土」ではなかったのである。
「女学校」よりもさらに閉じられた世界で

ある「歌劇学校」を舞台とし、終盤でその制度そのものを問う物語は、尐女文化の有り様に

疑問を投げかけているようにも読める。川端は近江の体験を中里のときと同様に自分のもの

としながら、決してそのなかに埋没せず、尐女文化の周縁を露わにしたのである。

2.『万葉姉妹』

『ひまわり』1951 年 1 月号から 12 月号まで連載されていた『万葉姉妹』は、万葉集から

名前をとった安見子(貰われた後の名は典子)と夏実という姉妹の物語である。家庭の事情

で生まれてすぐに引き離されたふたりが、お嬢様と使用人として再び一緒に暮らすようにな

る。お互いが姉妹であることにうすうす感づきながらも、それを打ちあけられない。ふたり

の秘密が明らかになるのは、典子が病に伏し、死に至る直前である。

典子は大きい目を開いて、ぐるっと探すようにして、夏実を見つめますと、

「……あなたと私は同じよ。夏実さん、あなたとわたしは同じよ。だから、泣かない

で……。お祖母ちゃまも泣いたりしちゃいやよ」

と、せいぜい息切れしながら、でも、はっきりと言いました。

「みんなわかってね。お祖母ちゃまも……。ありがとう」

そして、目をつぶると、老夫人のさし出す吸呑みの冷たいお茶を咽に入れたまま、苦

しみもなさそうに、典子の命は消えてゆきました。

[…]

典子は夏実と姉妹だとは、はっきりと名乗らずに死んでしまいました。

いや、
「あなたと私は同じよ」という言葉で、名乗って死にました。
「姉妹よ」と言う

よりも、もっと親愛で、もっと痛切な言葉でした。

「あなたと私は同じよ」

夏実の方からも典子に言いました。81

上記に引用した典子の死以降、夏実は典子の部屋を使い、服を着て、典子の代わりを務め

るようになる。本作は、引き離された典子と夏実のふたりの同一化が目指される物語構造を

もつのである。この同一化は「エス」関係に通ずるものがあると考える。

『乙女の港』を論じた渡部直己は、三千子と洋子の「エス」の関係性を「
《二人で一人、一

81 川端康成『万葉姉妹/こまどり温泉』、フレア、1996(初版 1977)、pp. 187-188

31
人で二人》の鏡像関係」であるとした。三千子は絶えず洋子に憧れ、洋子のようになりたい

と願う。そしてふたりは、手紙をはじめ、本や人形を交換することでお互いの心を確かめ合

う。
「模倣=類似の主題と交換の儀式が執拗に反復」され、
「一人はたえず二人であるだろう」
82。

さらに、嶽本野ばらは「エス」を「近親相姦的願望」であるとした。
「友情以上、恋愛未満

でエスが成立する裏には、どっちも欲しいんだもん!という女子独特の貪欲さ」が潜んでお

り、
「好きになると恋人でもありたいし、お友達でもありたいし、家族でもありたい――最終

的には貴方自身でありたいと、相手にすべての役割を望んでしまう」83のである。

『万葉姉妹』の典子は、死の直前に「あなたとわたしはおなじよ・・・」という言葉を残した。

これは同一化が目指される実の姉妹のふたりがまさに「近親相姦願望」のもとに「鏡像関係」

となった瞬間であるといえよう。
『万葉姉妹』には「エス」という言葉は登場しないし、典子

と夏実は擬似的な姉妹ではない、実の姉妹である。しかしながら、
「エス」文化の断片はかた

ちを変え、ここに息づいているのである。

また、典子と夏実が学校の創立記念日に演じようとした演目がサン・ピエエル『ポオルと

ヴィルジニイ』であったことも指摘しておきたい。先述したように、それは『乙女の港』の

三千子と洋子の愛読書であった。中里の尐女経験はこの時代にあってもなお生きているので

ある。

82 渡部直己『読者生成論』思潮社、1989、p . 34
83 嶽本野ばら「吉屋信子とエスと近親相姦」、内田静枝『女学生手帖』、p. 120

32
なお、本作は 1977 年に集英社のコバルト・シリーズから文庫化されている。伝統的な尐

女小説のレーベルであるコバルト文庫から出版されたことは、川端と尐女文化を繋ぐという

意味で象徴的な出来事であると思われる。

3.『花と小鈴』

『花と小鈴』は、1952 年 2 月から 12 月にかけて『ひまわり』で連載された。戦争の影響

で家計が傾き引っ越しを余儀なくされ、離れ離れになった順子と節子が、手紙を交換しなが

ら悲しい運命に立ち向かう。挿絵は花房秀樹の筆によるものであった。なお、
『万葉姉妹』に

は『ポオルとヴィルジニイ』が登場したが、ちょうどそれと対忚するように、
『乙女の港』に

登場するアンドレ・ジイド『狭き門』が、順子の愛読書として節子に紹介されることを指摘

しておく。

本作において最も注目したいのは、同一化が図られていたふたりの尐女の関係性がゆるや

かに解かれてゆく、
『万葉姉妹』と対をなすような物語構造である。

同い年で幼馴染の順子と節子は、子どものころは隣に住んでいて、
「おそろいの人形を抱い

て、二人ともおかっぱ」84であった。しかし、東京も空襲を受けるらしいという噂を聞き、

節子の一家は東北へ引っ越してしまう。一度目の別離である。そして七年後、中学生になる

ころに節子の一家はまた順子のいる東京に戻ってくる。
同じカトリック系の中学校に入学し、

「節子と順子はいい対照で、二人がいっしょにいると、なお両方の印象をはっきりさせるよ

うだった。日本踊りなども習っているが、順子はいかにも近代的で、きらめくように明るか

った。節子は順子という花の影をうつす清水のように、いかにも静かに澄んでいた」85。幼

き日は「鏡像」のようであったふたりは、別離を経て違った個性をもつ者となった。しかし

それは「いい対照」であることに変わりはなかったし、お互いの写真を交換し合ったり、展

覧会や音楽会、年中行事をいっしょに過ごし、互いの家を行ったり来たりするふたりの同一

化はまだ保たれていると思われる。

しかし、幸福な日々を経て再び別離が訪れる。今度は順子一家が家計の都合で引っ越しを

余儀なくされるのだ。ふたりのやりとりは手紙のみに限定される。さらに、順子は日本舞踊

の先生の養女となり、稽古に忙しく節子との手紙の交換は中断されてしまうのである。

ここで順子と節子は全く別の存在となる。節子は「だいじなお友だちの順子が、目に見え

84 川端康成『花と小鈴』ポプラ社、1953、p. 15
85 同書、p.34

33
ない魔ものにさらわれてしまったかのように、心細かった」86し、偶然再会して順子の舞台

を観る機会を持っても「順子はまえとはちがっていた」87と感じる。

物語の結部で、順子は節子の家でいっしょに暮らす提案を断る。順子は手紙に節子一家へ

の感謝の気持ちと芸への思いを綴り、それを読んだ節子は「順子がじぶんたちと遠い人にな

ってしまった感じで、胸がしめつけられるように悲しかった」88のである。

また、踊りで食べていくことへの非難への返答「わたしは順子であるよりも、天女になっ

たり、童子になったり、櫻の精になったりすることが、好きでたまりません」89は、
『歌劇学

校』の友子の悩み――宝塚の世界と現実の世界との剥離への回答ともなるだろう。

『花と小鈴』は、鏡像であった節子と順子が分離する物語である。そしてそれは、ふたり

の尐女が選ぶ道、背負うものとしての現実と夢への分離にも対忚する。別離によって、夢と

現実のはざまに迷い込んだふたりの尐女が救出される物語であるといえよう。

86 川端康成『花と小鈴』、p. 117
87 同書、p.171
88 同書、p.242
89 同書、p.241

34
4.小括

以上の分析から、
『乙女の港』が、川端の一連の尐女小説群において重要な位置をつかさど

ることがわかると考える。先述したように、本田和子は尐女小説を「構造」と「表現」に分

けてその独自性を表した。これに則り、構造面と表現面から『乙女の港』の重要性をまとめ、

それを明らかにしていこう。

『乙女の港』における中里恒子との「共作」という成立構造は、それ以降の川端の尐女小

説群に影響を及ぼしている。
『花日記』は中里との二作目の「共作」であった。
『美しい旅』

『続・美しい旅』では、途中で執筆が断念されたことから「共作」の重要性を明らかにした。

『歌劇学校』でも「共作」は反復されていたが、川端は外部的視点から尐女文化を描くこと

に成功している。

表現面においてまず言えるのは、
『乙女の港』より前は「エス」という言葉が見られなかっ

たことである。一方で『乙女の港』以降は、
『花日記』
『万葉姉妹』
『花と小鈴』で「エス」文

化の発展形が描かれていた。
『花日記』は「エス」が成立する「お姉さまと妹」の関係性にお

いて、
『乙女の港』と正反対の構造を持つ物語であった。
『万葉姉妹』では実の姉妹の形に「エ

ス」が昇華されており、
『花と小鈴』は「エス」らしきふたりが分離されていくと同時に、
『歌

劇学校』で問題とされた夢と現実が分離されていることを示した。

『乙女の港』以前の 4 作品よりも、
また、 『乙女の港』以降の作品の方が当時の尐女文化が

より詳細に描かれていた。
「共作」である『花日記』
『歌劇学校』ではもちろんその割合は高

く、特に『歌劇学校』では登場人物の服装に役割が与えられていた。
「共作」ではない『万葉

姉妹』
『花と小鈴』においても、
『乙女の港』で重要な役割を持った本が再び登場していた。

以上から、川端と中里の「共作」である『乙女の港』の成立によって、中里が「尐女」と

して積んだ経験が川端に乗り移っていったということがいえるのではないだろうか。ここで

参照したいのは、阿部嘉昭の用いる「尐女機械」という考え方である。阿部は、
「尐女性は個々

の尐女的実体のうえに現れていると同時に、年齢的に対照性をもつ者、性的に対照性をもつ

者をもすべて『尐女として』つなぎあわせる媒質」90であるという。こうして次々と離反す

るものを「連接」しながら尐女性を増強させていく運動が「尐女機械」なのである。中里と

川端の「共作」の場に起こったのも、まさに「尐女機械」的運動であるといえよう。

中里の直接的尐女経験は「共作」によって「尐女性」となり、川端の中につなぎ合わされ

90 阿部嘉昭『尐女機械考』彩流社、2005、p. 13

35
ることで強化された。そして『乙女の港』以降も発展を続けた。これは、川端が「尐女をみ

つめる者」から「尐女」へと接近していった過程そのものである。一方で、当たり前ではあ

るが、川端は、
「共作」によって得た「尐女性」をまといながらも、やはり本当の尐女ではな

い。しかし、だからこそ尐女ではないものとして一段階広い視点から尐女文化の周縁を覗き

込むこともできたし、尐女として尐女小説を描き表すこともできたのではないだろうか。

その「周縁」の一例が「エス」のありかたであると考える。先述したように、尐女小説と

は、尐女を規定する秩序からひらりと逸脱する性格を持ち合わせるものであった。
「エス」と

は、その逸脱の象徴ではないだろうか。

『歌劇学校』の寄宿舎がそうであったように、尐女雑誌内でも異性愛は禁止されていた。

そしてそれは良妻賢母規範という秩序に則ったものであった。秩序を振りかざすのはもちろ

ん尐女たち本人ではない。常に尐女をみつめる外部からの要請である。

寄宿舎のなかだからこそ「エス」であることができたように、良妻賢母教育のようなしが

らみがあったからこそ、尐女たちは自文化を守り、育て、成熟させることができた。川端が

尐女に接近することでその「外部」を描くことが可能になった尐女小説群には、その構造の

ありかたが表出しているのである。

その意味で、尐女文化の「内部」で尐女性を育み、作家としてデビューした吉屋信子は川

端とよい対照になるだろう。次章では、川端と吉屋の作品を比較することで、尐女文化が形

成された構造をさらに分解していこう。

36
第三章

本章では、吉屋信子の作品と川端康成の作品を比較して論じてゆく。
「尐女小説といえば吉

屋信子、吉屋信子といえば尐女小説」91と言われる吉屋は、尐女小説の作者であることに意

外性を持たれる川端とちょうど逆の捉え方をされる作家と言ってよいだろう。前章で論じた

『乙女の港』
と吉屋の作品を比較することで、
尐女小説が読者に受け入れられる構造および、

尐女小説がいかに尐女文化を形成したのかが明らかになると考える。

具体的には、尐女小説というジャンルに関与していると思われるキーワードを抜き出して

ゆき、
『乙女の港』は尐女小説のパターンを踏襲した作品であると指摘する。そのなかで浮か

び上がる両作品の差異から、川端と吉屋の尐女小説、ひいては尐女に対する態度の差異を明

らかにしたい。その違いこそが尐女文化の構造を表出するものであると考える。

1.少女小説と吉屋信子

はじめに、吉屋信子の経歴を確認しておく必要があるだろう。

1896 年に新潟市に生まれた吉屋は、その後移住し栃木高等女学校に入学。1 年生の時、新

渡戸稲造の「良妻賢母になる前に、一人のよい人間とならなければ困る、教育とはまずよき

人間になるために学ぶことです」という演説に感銘を受け92、そのころから尐女雑誌に短歌

や物語の投稿を始めた。作品が尐女雑誌に初めて掲載されたのは 12 歳の頃だった。その後

もたびたび入選し、作家を目指すようになる。1916 年、20 歳で雑誌『尐女画報』で『花物

語』の連載を開始、
「華麗典雅な文章で尐女どうしの美しい交友や憧れを表現」し、
「尐女小

説の代名詞的な人気作となった」93。

なお、吉屋は同性愛者であり、生涯結婚せずにひとりの女性と生きた。このことも尐なか

らず作品に影響をもたらしていると思われる。また、断髪をトレードマークにする彼女は、

新時代の女性、
「モダン・ガール」
「職業婦人」の象徴であったことも触れておきたい。

『尐女の友』には、48 年間の発行期間のうち、30 年もの長きにわたって誌面に登場して

91 菅聡子「かくあるようにと!」、KAWADE 道の手帖『吉屋信子――黒薔薇の處女たちのため
に紡いだ夢』河出書房新社、2008、p. 14
92 吉屋信子「私の見た人 新渡戸稲造」、同書、p. 84。初出は「私の見た人 7」「朝日新聞」

昭和 38 年 2 月 12 日。
93 市古夏生、菅聡子編『日本女性文学大事典』、p. 336 を参考にした。

37
いた。内田静枝は、その活動期間の長さと、小説のみに留まらず座談会・インタビュー・グ

ラビア記事等でもその姿がみられることから、吉屋を「憧れのスター作家として読者の羨望

を集めていた」
、「尐女小説の女王」94としている。

そのスター性は吉屋の出自から来るものである。前述したように、当初吉屋は尐女雑誌の

一読者だった。読者の尐女たちと同じような教育を受け、同じような文化に触れていたので

ある。そこから、投稿欄を舞台に作品を発表し、それが認められて 20 歳の若さで尐女小説

家になった。吉屋は、まぎれもない「尐女代表」だったのである。

吉屋の生き方は尐女たちの憧れでもあり、彼女の存在そのものが読者のロールモデルとな

り得た。作家の田辺聖子(1928-)はその中の一人で、
「私はいつか、吉屋信子先生みたいな

小説家になって、尐女小説もうんと書きたいな、と思ってた。私が小説家になったのは、
『尐

女の友』のせいかもしれません」95と語る。そして彼女は、
「女学生を描いた男性作家の作品

も多いが、それらはみなオトナの、男の目からみた、かいなでの表面に過ぎない」96とさえ

いう。

千野帽子は「
〈連帯〉に依りかかり、
〈同じだと自明視された心情・感性を拠り所に〉した、
ダークサイド
〈復讐にも似た排他性〉は尐女趣味の暗黒面」97だとする。上記した田辺の男性作家批判は、
まさに千野のいう「暗黒面」のあらわれであろう。田辺は「尐女代表」である吉屋と「連帯」

し、男性作家である川端を「排他的」に「選別」する。

しかしながら、川端の尐女小説は本当に尐女文化にとって「排他」されるべき不必要なも

のであったのだろうか。第二章で、川端が尐女性に接近していたことを明らかにした。この

ことにより、川端が男性であるという理由のみで「選別」されることには疑問を呈すること

ができよう。本章では、川端と吉屋の尐女小説を具体的に比較し、川端の尐女小説が尐女文

化が形成されるうえでなくてはならなかったということを明らかにしたい。

比較対象とするのは、第二章で川端の尐女小説群の中で最重要作であることを示した『乙

女の港』と、吉屋信子『わすれなぐさ』である。この作品を選んだ理由は 2 つある。

『わすれなぐさ』が『尐女の友』1932 年 4 月号から 12 月号まで連載されてい


ひとつは、

た点である。これは『乙女の港』の連載が開始する前であり、先に確認した川端の「尐女も

94 内田静枝「大正末~昭和前期の尐女雑誌『尐女の友』における吉屋信子の仕事」、『吉屋信子
――黒薔薇の處女たちのために紡いだ夢』、p. 125
95 「『尐女の友』100 周年記念インタビュー1」、『「尐女の友」100 周年記念号』、p. 10
96 田辺聖子「吉屋信子 解説」、『日本児童文学大系 6』、ほるぷ出版、1981、p. 483
97 千野帽子『文藝ガーリッシュ――素敵な本に選ばれたくて。』河出書房新社、p. 169

38
藝術的に價値高い尐女文藝を持たなければならない」といった尐女小説観に影響をもたらし

たものと思われる。

ふたつめは、両作品が「エス」を題材とした尐女同士の三角関係の物語という点で類似し

ているためである。これについては後に詳しく比較を行う。

今田絵里香も『尐女の社会史』において、物語構成が似通っているという理由により『乙

女の港』と『わすれなぐさ』を比較検討している。しかし、この分析は「エス」文化の一例

を出すために二作品の一部分を抽出しているに過ぎない。本稿ではより細かく二作品の類似

点と相違点を明らかにしてゆきたい。

なお、本稿では『乙女の港』と『わすれなぐさ』
、ともに復刻版をテクストとして使用する。

『乙女の港』は 2009 年に実業之日本社より発行された『完本 乙女の港(尐女の友コレク

』の 2 冊組のうちの現代語版、
ション) 『わすれなぐさ』は 2010 年に河出書房新社より文庫

化されたものである。ここからは、この 2 作品中からの引用においては、その結部にページ

数を記すことで引用を示すこととする。

2.
『わすれなぐさ』
・『乙女の港』比較

三角関係の「エス」

まずは、
『わすれなぐさ』のあらすじを確認しよう。

『わすれなぐさ』

美しく我儘なお嬢様・陽子、お堅い優等生・一枝、無口で風変わりな個人主義者・牧

子。一枝と心を通わせようとする牧子だったが、陽子の強引な誘いに乗せられ、誕生日

パーティーや夏の水泳合宿の日々を経て、その華やかな魅力に惹かれてゆく。

そんな中、体の弱かった牧子の母が病死する。寂しさと父への反発から牧子はふさぎ

込んでゆくが、陽子と遊び歩くことで気を紛らわす。しかし、牧子の弟が行方不明にな

ってしまう。牧子は我に返り、父とも和解。弟は一枝に連れられて帰宅し、牧子は一枝

を目標とするとともに陽子との決別を決意する。

牧子は一枝と仲良くなるが、陽子は病に倒れ入院してしまう。一枝のもとに陽子から

反省と後悔の手紙が届き、3 人で友情を結ぶ。

39
ここからわかるように、
『わすれなぐさ』も『乙女の港』と同様に「エス」文化にまつわる

物語である。しかし、その描かれ方や登場人物の関係性には差異がある。

『わすれなぐさ』で「エス」関係となる尐女たちは皆同級生である。物語の冒頭で説明さ

れるように、もともと牧子は「はっきり独立した精神の所有者で、いかなる関係にも加入せ

ず孤独の世界に棲む人(13)
」であった。しかし、母を亡くした悲しみの中、華やかな世界

に生きる陽子に接することで「今までの自分の境遇や雰囲気に、さっぱり(さよなら)を告

げた(154)
」くなる。さらに、行方不明となった弟の亙を助けてくれた一枝に接することで

「私も一枝さんに負けないように、いい姉さんにならなければ(203)」と思うようになる。

3 人が相手の長所を敏感に捉え、自分に足りないものを取り入れようと努力し、成長の糧と

できるのは、彼女たちが同年齢であることが大きく関与していると思われる。3 人が同年齢

であるからこそ、相手の長所を敏感に捉え、自分と対比し、成長の糧とできるのである。

さらに『わすれなぐさ』は、三角関係が目指される物語構造をもつ。全く性質が違う 3 人

の尐女――牧子、陽子、一枝は、最初は反発し合う。特に陽子は、牧子を自分ひとりのもの

にしようと躍起になり、
一枝を邪魔者扱いさえする。
陽子が日記に記した一文を引用しよう。

M・Y・あの人を完全に征服してしまうのが、

今の私の生活の一番楽しい大きな興味だ。

私は努力し必ず成功して見せよう。
(27)

Makiko・Yuge――M・Y とは牧子のことである。陽子は牧子の「征服」を自信たっぷり

に望む。しかし、物語の結末で陽子は牧子に絶交を言い渡され、さらに病気をしてその自信

をすっかり失ってしまう。そこで陽子が手紙を書いたのは、牧子ではなく一枝宛であった。

あんなにも遠かったあなた、そのあなたを思い出す日のみ多い此頃の私、何故か――

私にもわからない、私とあなたの世界はなんのかかわりもない二つの世界であった筈な
、、、、
のに――あなたの世界に棲むかのひとの仄かなるかげが、私の魂に郷愁を呼びさますの

でしょうか、一枝様、私にはわからない――(209)

「かのひと」とは牧子を指し、彼女への思いは捨て切れないまでも、同じ人物が書いたと

は思えないほどの心境の変化といえよう。この手紙を読んだ牧子は陽子のお見舞いに行き、

40
「私達三人で仲よしに(212)
」なることを提案し、物語は終わる。第二章で確認したように、

『わすれなぐさ』は 3 人の尐女の
「エス」は原則として一対一の関係性であった。しかし、

契りによって、三角形が形成される結末が用意されているのである。

一方『乙女の港』は、主人公である三千子に、牧子の「母の死」のような決定的な不幸が

訪れることはない。むしろ、家運が傾き経済的に困窮していくのは洋子であり、運動会で怪

我をして勝ち気な性格が崩されるのは克子である。

『わすれなぐさ』の 3 人がすべて同学年であったのに対し、洋子が 5 年、克子が 4


また、

年、三千子が 3 年で「お姉さまと妹」の関係性が貫かれている。物語の最後で、三千子は洋

子の卒業に心を痛める。しかし、ふたりの別離の場となる卒業式の描写がされることなく、

『乙女の港』は幸福に幕を閉じる。

さらに、
『乙女の港』においては、
「エス」関係となる相手は必ずひとりでなければならな

い。物語の最初で、ひとりの尐女――三千子に、ふたりの尐女――洋子と克子から手紙が送

られ、三角形の関係性が結ばれる。やがてふたりのうち洋子が選ばれ、三角形は崩れるが、

選ばれなかった克子が途中浮上することで再び三角形が表れる。ここで三千子は「克子さん

も、八木さん(引用者注:洋子のこと)と、お友達になって下さればいいのよ(155)
」と言

『わすれなぐさ』のように 3 人で契りを結ぶ道を提案する。しかし克子はそれを「そん
い、
ライヴアル
なお伽話みたいなこと(155)
」と一蹴し、自分と洋子は 敵 であると言い放つのである。
やがて、克子は運動会で怪我をし、洋子に介抱されることで負けを認め、反省する。ここ

で克子は、洋子を「私だって、お姉さまと呼びたいくらいよ(250)
」と言うが、実際に「お

姉さま」と呼ばれる場面は描かれず、この後は克子が登場する場面さえない。むしろ三千子

と洋子の関係性はより強固なものとなってゆくのである。三角形が目指される『わすれなぐ

さ』に対し、
『乙女の港』は冒頭に形成された三角形が解消されてゆく物語だといえよう。

以上のように、吉屋の『わすれなぐさ』と川端の『乙女の港』は、同じ三角関係の「エス」

文化を題材としても、それぞれ異なったアプローチを採用していることがわかる。実際に「エ

ス」関係を結んだ読者の尐女たちは、女学校卒業後はその関係は自然解消され、結婚する者

が殆どであったという。
『乙女の港』の三千子と洋子も、永遠を誓い合うものの、その関係性

は卒業を機に変化してしまうことが予感される。しかし『わすれなぐさ』の 3 人の「エス」

関係は極めて友情に近く、
『乙女の港』のそれよりも堅く保持され、持続可能性があるように

描かれている。
「ただひとりのお姉さま」である洋子の卒業という終わりを目前に幕を閉じる

41
『乙女の港』よりも、
「相手はひとりではならない」という「エス」の規範を逸脱する『わす

れなぐさ』の結末は、3 人の可能性の広がりを予感させる柔軟な結末であるといえよう。

花の二面性

次に両作品の相似点を確認しよう。
『わすれなぐさ』と『乙女の港』では、ともに「花」が

重要な意味を持つ。花はその美しさ、可憐さから尐女たちに好まれるモチーフといっていい

だろう。

加えて、渡部周子によると、花――とりわけ聖母マリアのアトリビュートでもある白百合

の花は、
「将来の良妻賢母となる尐女たちの身体を純潔のままに保持するうえでの教化の象

徴」98であったという。さらに興味深いのは、尐女たちは「白百合の『美しく』
『清らか』で

『高貴』な姿に惹かれ、率先して規範に囲い込まれていった」99という指摘である。これは、

まさに「きれいなバラには棘がある」花の表象の二面性の表出であり、美しき花による尐女

たちへの眩惑であろう。その花がテクストの随所にちりばめられているところから、尐女小

説がどのようなジャンルであるかが窺える。
『わすれなぐさ』と『乙女の港』を引用しながら

考えていこう。

花と尐女の結びつきで想起されるのは、第二章において尐女小説というジャンルを確立し

たと述べた、吉屋信子『花物語』(1916)であろう。本作は、鈴蘭、月見草、白萩、野菊、

山茶花、水仙等の花の名前がタイトルに付けられた短篇集となっている。本文中でもその花

は物語を構成するうえで大きな役割を担っており、たとえば「福寿草」では、バザーで売ら

れる福寿草の鉢植えが離れ離れになってしまった主人公と義理の姉を結びつける100。

『わすれなぐさ』
においても、
最も重要な花は表題にあるとおりわすれなぐさの花である。

これは、陽子がつけているわすれなぐさの香水に由来する。このわすれなぐさの香りは、陽

子による牧子の呪縛を強調するアイテムとして用いられていると考える。

「個人主義者」の牧子と「軟派」の陽子、相容れないはずだったふたりが親密になるのは、

陽子の誕生日パーティーの夜だった。一方的に牧子を気に入った陽子は彼女をパーティーに

誘う。父の言いつけによりしぶしぶながら出席した牧子は、慣れない華やかな雰囲気と、陽

子の勝手な行動に疲れ果ててしまう。そこで牧子の汗を拭いたのが、陽子のわすれなぐさの

98 渡部周子『〈尐女〉像の誕生――近代日本における「尐女」規範の形成』、新泉社、2007、p.
303
99 同書、p. 316
100 吉屋信子『花物語』、p. 93

42
香りが染み込んだハンカチであった。

このとき、ふたりがいる裏庭の石垣の下をちょうど一枝が通りかかる。陽子は悪戯にハン

カチを一枝のもとに落とすが、一枝はそれを無視して去る。そして、
「その静かな生真面目な

沈着な一枝の態度をじいっと上から見おろしていた牧子は、この時夢から醒めたように――

いつもの自分に立ち返った(47)
」のである。

その後、
「まるで汚らわしい場所から逃れ去るように(49)」牧子は陽子の家を後にする。

しかし、自宅で服を脱ぐと、
「その瞬間ふっと匂うたのは、わすれなぐさの香水、あの陽子の

寝室で黒いタンゴの服に着せ代えられて脱いで置いた間に早くもあの人の使う香水が移った

のか、陽子が香水噴きで浸み込ませたのか――牧子は忘れていた夢を又思い出したような気

がした(51)
」。

このように、わすれなぐさの香水の香りは、陽子の夢の世界を牧子に思い出させるトリガ

ーとしてのはたらきを持つ。わすれなぐさの花言葉「我が名忘れ給ふな」101の意味のとおり

である。

わすれなぐさの香りが描写されるのはこの他にあと 3 回ある。

夏休み、牧子は学校の水泳合宿に参加する。いつもは軽五沢の別荘へ赴く陽子だったが、

牧子の予定を聞いて自分も参加することに決める。合宿地で、牧子は陽子の誘惑に負けて、

危険領域まで泳いでいってしまう。その罰としてふたりがお風呂の焚付を命じられ、それに

勤しむ場面である。
「『でも牧子さん、貴方とだから、こんな労働でも我慢できるのよ』陽子

がそう言った時、仄かなわすれなぐさの香水の香りが薄く汗ばんだ肌から牧子の顔近くせま

って来る(118)
」。

このわすれなぐさの香りは、
「夢の世界を思い出させる」というよりも、陽子の呪縛を強化

するようなはたらきがあると考える。だからこそ牧子は、
「水泳部に参加して以来、日頃の牧

子の性質を失って、陽子にすっかりリードされて思わぬ失策ばかり演じる自分がたよりなく

悲しかった(120)
」のである。

2 回目は物語のクライマックスにみられる。牧子・陽子・一枝の関係性が変化していくな

か、病弱だった牧子の母が死んでしまう。その悲しみに塞ぎこむ牧子に、一枝が霊前へと「白
かわゆ
い花をアスパラガスの葉で締めた、ささやかながら可愛い花束(150)
」を贈る。
一方陽子は、牧子を横浜へとドライブに連れて行く。一枝の花束を手放さない牧子に嫉妬

101『「尐女の友」中原淳一昭和のお宝コレクション』において復刻された『尐女の友』昭和 8
年 10 月号付録の「花言葉枝折」より引用した。

43
心をあらわにし、陽子はそれを棄ててしまう。以下にその一場面を引用する。

「この花は亡くなった母さんへですもの――」

牧子は白い花をゆすって見せた。

「道理で白いのばっかりね、でも駄目よ、そんな御霊前へという曰くつきのお花

を大事に抱えていらっしゃれば、私の魔法がきかなくなりますわ」

陽子はその花をぽんと突いた、――美しい魔女の魔術も、その母の御霊へささげ

らるべき花の前には、魔力が消え失せるのであろう、でも棄てかねる花である。

[…]
かいな
すいと牧子の手から花束を奪いとって半分ほど開けてあった車の窓から、 腕 を
あげるやさっと放げた。

走る車の速度と吹きまくった風の力で、白い花束はくるくると舞うや、橋を超え

て、水の上に、花束はとけて、真白き雪の花弁を散らした。

牧子はその無残な花の姿を見るや、恐ろしい罪を犯したように顔を背向けた。

陽子は牧子の肩に手を廻してあでやかに、

「どう?」

と微笑んでみせた、技巧的な、誇りと媚の錯雑した美しい微笑。

牧子は心弱く、今一度、われにもなく面を背向けようとする時、ふっとあのわす

れなぐさの匂い、陽子がいつもつかうわすれなぐさの香水の匂いが、あやしい心を

ときめかすあの仄かな匂いがするのだった。
(156-157)

この横浜ドライブは、物語の盛り上がりの頂点であり、陽子の魔法の効力が頂点を迎える

場面でもある。
そしてその場面のはじまりを告げるかのように、
一枝の白い花束は棄てられ、

わすれなぐさの香水が香るのである。

この場面からさらに引用すると、陽子は「お母様が亡くなってもお父様がお亡くなりにな

っても、そうおあつらえ向きの尐女小説みたいに決して泣いておセンチにならないって度胸

だけ据わっていますわ(152)
」という尐女小説というジャンルについて自己言及的な台詞を

発してもいる。わすれなぐさの香りは、尐女小説の枞組みを越境する可能性をはらむほどの

強さを与える「魔法」なのである。

最後にわすれなぐさが登場するのは、物語の結部である。

44
先述したように、反省した陽子は一枝宛に手紙を送る。それを読んだ牧子は陽子に会いに

行く。なお、牧子が持ってきた一枝からのことづけである「温室咲きの色とりどりの花束

(211)
」は、横浜で捨てられた「白い花の花束」と対比できるだろう。霊前に供えられるた

めの捨てられてしまった白い花は、3 人の友情によって鮮やかに色づき、病床にある陽子を

励ますアイテムとなっているのである。

「早くお丈夫になって頂戴、そして私達三人で仲よしになって――」
おもて
言いさして牧子が明るい心ながらふっと泪ぐんで陽子の肩に 面 を伏せた。その言葉
より早く嬉しげに涙さえ気弱く浮べて寄り添う陽子の黒髪から袂から仄かに匂い漂う、

ああ、あのなつかしい、わすれなぐさの香水の薫りよ――でもその匂いは牧子に怪しい

罪とおののきへの誘いを、いささかも、もたらしはしなかった。否、その匂いこそ、こ
みたり おとめ
れからの三人の尐女の結び合う友情のあかしの如く、明るく、清く、しめやかに、懐か
しく牧子の心に浸み入ったのである――。
(212)

ここでこの物語は終わる。本当の最後で、ふたたびわすれなぐさの香水が匂い立つ。それ

がこの場面においてのみ違うはたらきを持つのは、
「香」ではなく「薫」の字が選ばれている

ことからもわかるだろう。牧子をそそのかす「魔法」ではなく、
「友情のあかし」
。牧子、陽
おとめ
子、一枝は、わすれなぐさの香水のもと、
「尐女」として友情を結ぶのである。

第一章の題名が「花選び」であることが象徴するように、花は『乙女の港』においても重

要な役割を果たす。これは、上級生が「エス」関係の「妹」となる下級生を「美しい花を選

ぶような眼つきで(8)
」見定めていることに由来する。ここに第一章で確認した「選別」の

視点が反復されていることは容易く読み取れるだろう。

『わすれなぐさ』においては、わすれなぐさの花のみに重要な役割が与えられていたが、

『乙女の港』では登場人物が数種類の花にたとえられる。その花への仮託が最もわかりやす

く描かれている、物語冒頭の三千子が洋子・克子双方から手紙を貰う場面をみてみよう。

洋子の手紙には、
「どうぞ――。わたしの花束をお贈りします。あなたはどんな花がお好き

か分らないけれど、もしも、わたしの花束のなかに、お好きなお花がひといろあるとしたら、

どんなにわたしは仕合せでしょうか(10)
」とあり、花薔薇・野梅・沙羅の木と題された三

連の詩がしたためられている。差出人は「亓年 A 組 木蓮(12)
」とされており、自分自身

45
を木蓮の花にたとえている。これは、中原淳一の挿絵でも表現されている。

一方克子は、手紙と一緒にすみれの花束を三千子の机上に残していた。文中でも、
「私はす

みれの花が、なんの花より一番好きですの。すみれの花言葉を御存知でいらっしゃいましょ

う。あなたを『私のすみれ』とお呼びしてよろしいでしょうか。あなたは私になんの花をお

返事くださいまして?(13)
」と、三千子をすみれの花にたとえ、
「ひそかなる 我がすみれ

」と結んでいる102。
嬢へ(14)

ここで注目したいのは、2 通の手紙によって、
「洋子=木蓮」
「三千子=すみれ」の結びつ

きが提示されているのに対し、克子にはそれがなされない点である。三千子はこの後、雤の

中洋子に家まで送ってもらったことをきっかけに洋子と「エス」になることを選ぶ。よって、

克子の手紙の「お返事」は書かれることはないのである。

しかし、克子にも契機は訪れる。第亓章で、三千子は避暑地の軽五沢で克子と出会う。彼

女は洋子のいないその場所で克子と親しくなり、惹かれてしまう。そこで克子は「――でも

三千子さんは、とうとうあたしの菫のお手紙に、お返事下さらなかったのね(132)
」と話す

が、三千子は「ごめんなさい(132)
」と言うに留まり、やはり二人の仲が進展しても克子に

花が託されることはない。それどころか、第七章で、菫は『わすれなぐさ』の香水のように、

克子が三千子を呪縛する道具として用いられる。

102
前掲した「花言葉枝折」にはすみれの花言葉は「謙譲」とある。しかし、ここではより一般的
な「真実の愛」が適当であるかと思われる。

46
ゆうべ
「あたしね、昨夜、素敵なこと考えついたの。二学期になったら、ふたりでお
揃いの菫の花を、いつでも、胸のポケットへ入れておくの、どう?」

三千子は、はっと当惑顔で、

「飾りに?」

「ううん。友情と愛のしるしに……」
(175)

この約束は結局果たされることはなかった。克子の「ロマンチックじゃなくて?(176)

という問には同意しながらも、
「『友愛』を誇るために、毎日花の死骸を棄ててゆくというこ

とは、なんだか、愛情のしるしに似合わしくなく、残酷な気がして、三千子は、克子の言う

ほど、素敵とは思えなかった(176)
」し、
「それは、意地悪い鞭のように、洋子を打ちのめ

すだろう(177)
」と思ったのである。

まさしく花の二面性がここに表れているといえよう。花は美しいものに留まらず、残酷さ

を予感させ、
「意地悪い鞭」にさえなり得てしまうのである。さらに、先に確認したように「花

選び」は「エス」関係となるパートナーを探すことであった。花を託されない克子は、
「花選

び」を成立させることができない枞外の存在、
「選別」されなかった者となる。克子が三千子

と結ばれない運命にあることが花によって暗示されているのである。

以上のように、花は美しく尐女たちを表すものであると同時に、尐女たちを規定するもの

でもあった。渡部周子の先の論考は、夏目漱石や田山花袋らの浪漫主義文学や美術における

百合の花の表象から導き出されたものであった。しかしこれは尐女小説における花の表象の

ありかたにも通じるものがある。その点において、
『わすれなぐさ』と『乙女の港』における

花というモチーフの使われ方はやはり類似しているといえるだろう。

比喩表現――クレオパトラとロボット/魔女とマリア

次に比較したいのは、
『わすれなぐさ』と『乙女の港』における比喩表現である。双方の物

語において、登場人物は比喩をもって描写される。

『わすれなぐさ』では、物語冒頭で、
「軟派の中の女王(10)
」陽子のニックネームはクレ

オパトラ、
「硬派の大将(同)
」一枝のニックネームはロボットであることが提示される。な

お、主人公で「個人主義者の雄なる者(同)
」牧子にニックネームはない。

3 人の主だった登場人物の中でも、個性が最も突出しているのは美しくおしゃれなお嬢様、

47
陽子であると思われる。内田静枝も「陽子のキャラクターが物語を牽引していた」とし、そ

の「コケティッシュな美貌」は高畠華宵(1888-1966)の描く挿絵に現れていると指摘した。

「華宵は陽子が誘うめくるめく世界をより一層妖しく、魅惑的に視覚化している」103のであ

る。

しかし、先述したように陽子は体調を崩し長期入院を余儀なくされ、その生活の中で、陽

子の性格に変化が訪れたのであった。この変化は陽子のみにみられたわけではない。一枝が

ロボットと呼ばれる理由として、
「先生の言うことばかり守って勉強第一では、暖かい血が通

っているとは見えないとあって、こう言われるんです(14)
」と説明される。しかし、物語

が進むに連れて、決して一枝はロボットのような人物ではなく、人間味のある暖かい心の持

ち主であることが明らかになってゆく。

例を挙げて説明しよう。
牧子は、
陽子の誕生日プレゼントに高価なキャンデー入れを買い、

一枝にノートを貸してもらったお礼にインクスタンドを買う。しかしここで陽子が我儘を言

い、一枝に贈るはずだったインクスタンドを自分のものにしてしまう。そして一枝はキャン

デー入れを受け取るのであるが、予想外の高価な品物に困惑してしまう。

第二章で渡部直己の論考を引用して指摘したように、贈物の交換は「エス」の関係性を結

ぶためのひとつのプロセスであった。一枝もまた、牧子からの贈り物によって彼女を意識し

てしまう。

103 内田静枝「解説」、吉屋信子『わすれなぐさ』河出書房新社、2010、pp. 219-220

48
何故こんな立派なものを下さるのかしら、弓削さんは――、

彼女は意外だったのである。

その意外な贈物をした牧子の気持を理解しようとすると、一枝はわからなかった、そ

してただ或る一つの考えに、はたと行き当ったとき一枝は思わずさっと顔を赤くしたの

だった。

それは――あの方私を好きなのかしら?この一つの考えより外、この立派な贈物の謎

を解決する鍵はないような気がした。
(89-90)

その翌日、一枝は牧子にどう接すればいいものか悩み、偶然出会った際、とっさに避けて

しまう。その態度は以下のように説明される。

一本調子の清純な生真面目で何事にも真剣になる一枝は、そういう微妙な友情問題に

もすぐ真剣になって悩んだり、いちずに考える性質なのだった。

して見れば、かかる子を単に脇眼も振らぬ勉強家でおとなしい故に血の通わぬ「ロボ

ット」などと、あだ名するのは、思えば心無き業であるものを――。

「ロボット」と言われる人こそ、その表面の裏には、内にこもる人一倍の血も熱も思

いも深いのであった。
(92)

ここでわかるのは、陽子がクレオパトラや妖婦ではなくなったように、一枝をめぐる「ロ

ボット」というイメージも物語が進行するなかで変化をみせていることである。物語冒頭部

では「暖かい血が通っているとは見えない(14)
」とさえいわれる一枝だが、ここでは「表

面の裏」が明るみに出ている。その裏側が露わになり、素直な一枝像が現れたのは牧子との

関わり合いによるものなのである。

また、一枝が勉強熱心なのも、父の言いつけを守っているためであった。戦死した一枝の

父は、彼女に対してこんな言葉を遺している。

一枝に。

お前は長女ですから、責任が重い、父亡き後は母さんを助けて家でよく働いてくれ。

父のあとを継がせる大事な男の子の光夫の為にも、末の子の幼い雪江の為にも善き姉と

49
して一生尽して欲しい。場合によっては弟妹のために犠牲になる精神でいて貰いたい。

父は切に頼む。
(52)

一枝は父の教えに疑問を持たないわけではないが、幼い弟と妹の面倒はよくみてやってい

る。その姉としての面倒見の良さが明らかになったとき、牧子は救われる。詳細は後述する

が、この点からも一枝が「ロボット」ではなく優しき姉であることがわかるだろう。

振り返ってみると、陽子が高慢な態度を改めて素直になったのも、牧子との触れ合いがあ
グループ
ったからであった。牧子も最初は「どの 群 にも入らず一人で本を読んで考え込んでいると
タイプ
云った 型 (13)
」であった。しかし、それは陽子や一枝との友情を深めることで変化してゆ
くのである。

続いて『乙女の港』をみていこう。すみれの花を「意地悪い鞭」にする術を持つ克子には、

花ではなく何が託されているのだろうか。

克子と三千子の間の愛情は、
「魔法」という言葉に置き換えられ、隠蔽されている。先にも

述べたように、三千子は避暑で軽五沢に赴く。車が軽五沢に到着すると、
「三千子は魔法の町

に連れて来られたような気がした(114)
」。そしてそこで「妖しい麻薬の匂いのような力が

ある(126)
」克子に出会う。洋子と「エス」な関係で結ばれながらも克子と楽しい日々を過

ごす三千子は「
『洋子お姉さま、ごめんなさい。
』と、幾度も幾度も、おまじないのように繰

り返し(128)
」たり、
「お姉さまのことを忘れてしまって、こんなにはしゃいでいる自分が、

悪い魔法使いのお婆さんのように憎らしい(138)
」気持ちになったりと苦しむ。このように、

克子との夏の日々の描写で「魔法」に関する語が頻出するのである。

最も象徴的なのは、第七章、三千子が高熱で倒れ、うわ言で洋子の名前を呼んでいたと知

った克子が、三千子の伯母に夢の番(付き添い)をすると申し出る場面だ。ここでの伯母と

克子の会話を引用する。

「まあ、克子さんたら。……夢の番が、どうしてお出来になるの?

夢って、つかまえて、縛っとけますの?」

「ええ、魔法で退治ちゃいますわ。

と、克子は勝気な眼を、きらりと光らせた。
(172)

50
三千子のみる夢すらも操ると豪語する克子は、まるで魔女である。川端は、
「『乙女の港』

泣けてきましたわ克子の気持分かる様な氣がして」104と読者に感じさせるような切ない三角

関係を描きながらも、克子と三千子の間の感情は愛情ではなく「魔法」と表現しているので

ある。そう考えると、菫の花を「意地悪い鞭」にしたのも、克子の魔法のはたらきであると

読み取れよう。

なお、中島展子は、川端による中里の草稿の詳細な添削内容から、
「川端は克子の三千子へ

の恋心を「愛」とは異なる惑わしとして描いている」105ことを明らかにした。前章で確認し

た通り『乙女の港』は中里との「共作」であるが、この箇所の「魔法」という表現は、川端

の手によって意図的に選択されたものなのである。

テクスト分析に戻ろう。夏は終わり三千子は洋子のもとに帰る。洋子は家運の傾きにより

小さな家へと引っ越すが、それを「希望の船」とし、
「どんな小さな魔ものだって、もうあた

しの傍に隠れる場所はないのだから、あたしは、天の花園のように、美しく、匂いよく、ず

んずんと育ってゆこう(181)
」と決意する。中島は「ここでは、洋子と三千子を裂こうとす

る克子の魔の手ですら洋子を惑わすことができないということを暗示している」106とする。

それほどの強さを持つ洋子には、克子=魔女に対忚して、どんなイメージが付加されている

のだろうか。

物語が進むに従って、
『乙女の港』ではキリスト教的要素が頻繁に登場するようになる。例

えば、第六章において、三千子はカトリックの教会で行われていたミサに赴く。第八章では、

洋子が、
「八木マリアさま」と呼ばれている。女学校の生徒たちは羨望と尊敬の意をこめて洋

子をマリアと呼ぶ。克子=魔女に打ち勝つ洋子には、聖母マリアのイメージが託されている

のである。

それが最もわかりやすく現れている場面を紹介しよう。最終章である第十章は、クリスマ

スの夜、洋子が、いずれやってくる洋子との別れを悲しむ三千子を教会へと呼び出す場面に

始まる。慈善病院の恵まれない子供たちの舞台を見せることで、三千子に本当の幸せを教え

たのである。

ここでの洋子は、三千子によって「お姉様ばかり雲の上の高い世界へ行ってしまって、な

んだか三千子は、取り残されたような寂しさ……。けれど、せつなく胸にしみこんで来る、

104 「友チヤンクラブ」、『尐女の友』1937 年 9 月号。川端康成『乙女の港』p. 339 より引用。


105 中嶋展子「川端康成『乙女の港』論――「魔法」から「愛」へ・中里恒子草稿との比較から」、『岡
山大学大学院社会文化科学研究科紀要第 29 号』、2010、p. 11
106 同書、p. 9

51
敬虔なものは……。そうだ、これがお姉さまからのクリスマス・プレゼント。高いところか

らお姉さまは呼んでいて下さる……(266-267)
」と描写される。また、三千子は洋子からの

プレゼントを「賜物」と表現する。洋子がまるで本当の聖人のように、マリアのように表現

されているのである。

さらに慈善病院の子供たちに天使のイメージが付加されていることも予測できよう。中原

淳一による挿絵でも、本章において洋子が聖母化していることが表現されている。洋子の頭

上はまるで宗教画でみられるニングスのように輝いているのである。

以上のように、
『乙女の港』は登場人物の人物像が強化されていく物語であった。特に、マ

リアとしての洋子の聖性は物語のクライマックスで頂点を迎える。一方で、
『わすれなぐさ』

の人物像は変化していく。3 人で友情の契りを結ぶとき、陽子と一枝はもはやクレオパトラ

でもロボットでもない。もちろん牧子も、もう孤高の個人主義者ではないのである。

女性性の表出――女らしさへの反発/性的暗喩

最後に、両作品にみられる女性性について考えていこう。結論から述べると、
『わすれなぐ

さ』では女性らしさからの解放がうたわれ、
『乙女の港』には、間接的な性的表現によって女

性らしさが表されていると考える。

『わすれなぐさ』の牧子の父親である弓削教授は「男尊女卑者」で、牧子の弟・亙ばかり

52
を可愛がり、牧子は一家を支える者となるようその価値観を押し付ける。母の死後はその対

立はさらに深いものとなり、牧子が陽子と遊び歩くこと、亙が行方不明となることの原因と

なる。また、一枝の父は戦没しているが、その遺言は父の扶助料で暮らす一家をしばりつけ

るものとなる。一枝に対しては、母を助け弟・妹のために犠牲になる精神を説いている。こ

の点に関しては前述した通りである。

牧子と一枝は、その押し付けともいえる女らしさを忠実に守っているわけではない。特に

牧子は、父の言うことに納得できず苦しむ。

「それで、いいか、牧子、お前は万一お母さんを失った時は、亙の姉として、又母代

わりとして、今の単なるお嬢様とちがった責任を持たねば、ならなくなるのだ――」

その父の言葉の前に牧子は叫びたかった。

(私いや! そんな恐ろしい運命は!)

――父に、そんな覚悟を問われた際、唇をひしと引き結んで、(はい、お父様御安心
、、、、、、、
下さい、私その決心をいたしました)などと健気な御返事をするのは、面白くないが為
、、、、、
になるお話の一場面の空想化された模範尐女の典型に過ぎないのだ――牧子には、今あ

まりに恐ろしい現実の深い谷の前に立たされた時――ただ一つの意志が働くばかりだ

った。

(そんな運命は私受けとりたくない、いや、いや)
(138-139)

ここで注目すべきは、傍点によって強調されている部分であろう。第二章で、吉屋信子の

『花物語』以前の尐女小説は、
「尐女はこうあるべき」という教訓的な物語ばかりであったと

述べた。この「面白くないがためになるお話」とは、その古い形式の尐女小説のことを指し

ていると思われる。古い尐女小説の主人公であれば、きっと弓削教授の言うことを守り、良

妻賢母としての「女らしい」自分の運命を受け入れただろう。しかし牧子は違う。それを頑

なに拒否する。

また、先に述べた陽子の「お母様が亡くなってもお父様がお亡くなりになっても、そうお

あつらえ向きの尐女小説みたいに決して泣いておセンチにならないって度胸だけ据わってい

ますわ(152)
」という台詞のことも思い出してみたい。
「おあつらえ向きの尐女小説」も同

様に旧時代の尐女小説のことであることが読み取れる。

『わすれなぐさ』という物語の登場人物である牧子と陽子は、教訓的な物語の登場人物た

53
ちに求められる「枞にはまった尐女らしさ」を拒絶し跳ね除ける強さを持つ。その規範から

の自由を求める彼女たちは、吉屋の手によるあたらしい尐女小説のヒロイン像なのであろう

か。

物語はここで終わらない。この後牧子の母は病死し、恐れていた運命が牧子に覆いかぶさ

ってしまう。牧子はそこから逃れるようにして陽子と遊び歩く。そのわすれなぐさが香る「悪

夢」の有り様は前述した通りである。牧子がそこから目を覚ますのは、弟の亙が行方不明に

なってしまったときであった。亙を思う心は、牧子も父も同じであり、そこでふたりは心を

通わすのである。

そういう間にも時は経ってゆく、そしてまだ弟は帰らぬのだ。帰らぬ弟、弟よ、父も

姉も、かく帰らぬ御身を案じ煩うものを、弟よ、とく帰れかし、いとしの弟よ、巷に出

でて、夜に入るまで我が家を忘れていずくをさまようや、守らせ給え、母の霊よ、かく

念じつつ牧子は父の傍らに涙ぐんだのである。

「牧子――」

父は娘の名を呼んでその肩に手をおいて、黒髪を撫でたのである。
(192)

こうして「母の霊」のもと父と娘は和解し、牧子は今までの自分の態度を反省する。さら

に、あれほどまでに嫌がっていた運命を自分のものとして受け入れる決意をするに至る。そ

してそれは、良き姉として弟たちの面倒をみる一枝あってのことであった。

一枝が弟の光夫の為に、赤い落下傘を苦心してつくってやる愛情――それにひきかえ

自分は、陽子とふらふら遊び戯れて、弟を見送りもせず、果ては今夜はからずも弟はそ

の一枝姉弟に助けられて無事に戻り得たのではないか、一枝の手前も恥ずかしかった―

―。

(ああわたしも一枝さんに負けないように、いい姉さんにならなければ。自分が心を

つくしさえすれば、お父さまのお心だって、あんなに柔らいで、いいお父様になってく

ださるものを――)
(203)

牧子は、一枝を見習って目標とすることで自分の運命に立ち向かっていこうとしている。

逆に言うと、一枝がいたおかげで牧子は運命に立ち向かう力を得ることができたのである。

54
もちろんその力は陽子が牧子に与えたわすれなぐさが香る魔法の力ではない、もっと現実的

な力なのである。

たしかに『わすれなぐさ』で描かれる尐女たちは、
「吉屋の手によるあたらしい尐女小説の

ヒロイン像」であるといえよう。しかし彼女たちは女性性を越境し、自由を手にすることが

できる「魔法」を選択しない。3 人の力を合わせて「女」である現実に立ち向かっていこう

とするのである。良妻賢母教育という押し付けられた女性性に対しての吉屋の批判は、この

ように明らかにはっきりと描かれる。

次に『乙女の港』をみてみよう。第二章、
「エス」となった三千子と洋子が仲を深める舞台

となったのは、洋子の家が有する牧場である。三千子が――ちょうど「魔法の町」軽五沢と

対になるように――「お伽の国みたい(46)
」とたとえるそこでのやりとりを引用する。

「ねえ、どの丘がいい?

三千子さんのいちばん好きな丘で、お食事しましょうよ。

「ええ。

三千子は洋子の手を引っぱって、あの丘へ走って行くと、向うの丘がよいと

言い出し、また別の丘へ連れて行くので、洋子は笑い出して、

「いやよ、三千子さんは、気が変りやすくて、欲ぼけで……。そんな風に次か

ら次へ、新しいお友達に移っていくの?」

「あらア、ひどいわ。意地悪。

「ううん、嘘よ。だけど、あんまり遠くへ行っちゃうと、椅子やなんか運ぶの、

大変でしょう。

「だって、どの丘もみんないいんですもの。

「そうよ。きれいな方は、みんなお姉さまにほしい、誰とでもお友達になりた

いって言った、三千子さんのことですもの。

「知らないッ。

と、頬を染めて、瞼を落すのを見ると、洋子は、三千子がもう自分ひとりの

ものになったと、勝利の幸福に胸震えるのだった。
(44)

ここで指摘したいのは、
「丘を巡る」ことから「欲ぼけ」への話の飛躍と、そこに隠蔽され

55
た性的暗喩である。丘は――フロイトが『夢日記』で明らかにしたように――女性器の暗喩

であると考えられる。だからこそ「丘から丘へと巡る」三千子は「欲ぼけ」と称され、揶揄

されるのではだろうか。また、先述したように、克子も三千子が「たくさんのお姉さまを持

つこと」に対しては批判している。ここで、相手は一人でなければならないという「エス」

の規範が、性的な暗喩を加えられて反復されているといえよう。

続く第三章では洋子の家も「学校の丘と窪地一つで向かい合った丘の上(82)
」にあるこ

とが示される。その「古めかしい重みの石門(同)
」は、
「お祖母様のお葬式からこっち、閉

まったきり
(同)
」で開かない。
一方で三千子の家の低い木の門は
「気軽に年中開けっ放し
(同)
」。

門を丘同様に女性器の象徴であると仮定すると、先の「欲ぼけの三千子=開けっ放しの門」

と「マリアである洋子=閉じられた門」が対比されていることになる。そう考えると、洋子
シンボル
の牧場で飼われている花を食べる雌牛たちも、洋子が「母性の象徴だと思うの(47)
」とい
うように、搾取される女性性の暗喩と捉えられるだろう。

さらに重要だと考えられるのは、洋子と三千子が待ち合わせをする場所、
「赤屋敶」である。

「赤屋敶と町の人に呼ばれている西洋館は、校門の坂下の空家で、以前は評判のラシャメン

が住まっていた、大きい邸宅――(56)
」。この「ラシャメン」とは、本来は「ラシャ綿」と

表記される、西洋人の妾となった日本人女性を卑しめて呼んだ言葉である。洋子は昔、邸宅

の中で独り唄っているその姿を覗き、
「ラシャメンという名に、似つかぬ婦人のような気がし

て、世間の人の口が信じられぬ、義憤めいた悲しさを感じた(57)
」。そして三千子にもその

話を聞かせ、赤屋敶は「ふたりの楽しい夢の宿のひとつになった(59)
」のである。

『乙女の港』
のなかでは、
妾となった女性とその邸宅という極めて性的に差別的な表象が、

一貫して美しいものとして描かれる。たしかに、このテクストにおいて尐女たちに性的な表

現がなされることはない。洋子と三千子の「エス」関係はあくまでもプラトニックなものと

してのみ描かれる。しかし、美しさに隠蔽された性的な表象が、常に尐女たちに隣り合わさ

れているという危うさをはらんでいるのである。

この描き方は、第二章で結論付けたように、川端が本質的には尐女の外部でありながら、

尐女性をまとっていたことの表れでもあるだろう。尐女が触れてはならないものを、隠蔽し

て、敢えて隣接させる、川端の尐女文化に対する批判性がここに窺える。一方で、吉屋は女

性性からの解放をはっきりと描き出し、主張した。ここに二人の作家の女性性に対する態度

の違いが見て取れるのである。

56
3.小括

以上のように、
『乙女の港』は、吉屋が確立した尐女小説の枞組みを踏襲した、
「尐女小説

らしい」物語であることが明らかとなった。花というモチーフの多用や、登場人物の比喩等

は、
『乙女の港』以前に発表された吉屋の尐女小説においても頻繁にみられる。この「尐女小

説らしさ」は、第ニ章で結論づけたとおり、中里の直接経験と実際に尐女小説を愛読してい

た川端の読書経験が相互的に作用し、
「共作」として物語が成立したことの表れであると考え

る。

それでいて、
「エス」の規範や女性性の描き方等、両作品で異なる点もあった。ここで、第

一章で確認した本田和子の「両棲的編集方針」を思い出してみよう。この時代の尐女雑誌は、

教育制度から要請された「良妻賢母」の徳目を標榜しながら、甘やかで感傷的な尐女幻想の

世界にたっぷりと場所を用意したのであった107。もちろん、尐女小説は後者の枞組みで括ら

れる。この両棲的な有り様は、編集方針のみならず、雑誌の一部である尐女小説の範囲でも

適用できるのではないだろうか。川端の描く尐女像と吉屋の描く尐女小説には差異がある。

しかしながら、尐女たちはそれを別け隔てなく受け入れ、
「両棲」させるのである。

そして、尐女小説という場で提示された数々のパターンの尐女像を、尐女たちは次々と内

面化し、
「尐女」表象は現実の尐女たちの中で増殖してゆく。この構造は尐女たちの手紙の中

に見て取れる。

K 様 お家へ帰つてから一人ぼつちでヤケになんかなつたら駄目よ。淋しがつたりし

ないでね。お母様が心配なさるわ。人の云ふ事は気にしない方がいいわ。勝手に云はし

ておけばいゝぢやないの。もう尐し心臓を強くしてね。私の様に、フフフ

(O 子)108

私の愛する静枝様に送る花束

静ちやん、あの時、私は目を円くして貴女を見たのよ。どうか此の姉を信じて永久に

交際してくださいね。私は静ちやんが、私を見てにつこりするのを待つてゐるから廊下

などで会つたらにつこり白い歯を出して見せて頂戴ね。これが私の最上のお願ひですか

107 本田和子「戦時下の尐女雑誌」、大塚英志編『尐女雑誌論』、p. 15
108 稲垣恭子『女学校と女学生』、p. 92

57
ら、どうか悪しからず信じてくださいね。そして一日も早く静ちやんの美しいそして優

しい筆で以つて書いてお便りを頂戴ね、ほんとに、ねきつとね。

可愛い可愛い

妹へ 姉より109

これは、当時の女学生の間で交わされていた手紙である。数ある文例のなかでもこの 2 通

を引用したのは、前者の手紙の文体は『わすれなぐさ』の陽子、後者のそれは『乙女の港』

の洋子にそれぞれ類似していると考えたためである。さらに、読者投稿欄でみられた文体と

の類似も指摘できる。第一章で述べた川村邦光の論考を繰り返すと、読者投稿欄で形成され

た共同体は現実へ越境するほどの強度があった。それと同様に、尐女小説の中の世界は「手

紙」というメディアを通じて尐女たちの現実へと映りこんでいったのではないだろうか110。

さらに、それは小説の内容面よりもむしろ、うわべの美しさだけを掬いあげられていたと

も言えるだろう。本田和子が定義したように、尐女小説において重視されたのは「構造より

も美しさ」であった。
『わすれなぐさ』と『乙女の港』の物語構造は異なっていた。しかし、

花や女学生文化等の「美しさ」の面では共通点があった。その最大公約数的に類似する部分

である「美しさ」が、実際の尐女たちの日常に横滑りに流れ込んでいったのではないだろう

か。
「美しさ」は「両棲性」のうちの「幻想」部であり、必ずしも現実に対忚しないからこそ

現実の尐女たちの世界へ越境することが可能だった。
「どんな文面で手紙を書こうかな」とい

う選択は、
「どんな幻想尐女になろうかな」という選択であったのである。

その意味で、尐女小説に豊かなヴァリエーションがあればあるほど、現実の尐女たちが「選

択」できる尐女文化の幅も広がることとなる。数々の先行研究で示されているように、たし

かに吉屋信子の尐女小説群は、
「幻想」的「美しさ」を物語中に描きいれたという点で、尐女

小説が尐女文化に成り得る可能性をつくりあげたといえる。しかしながら、狭義では手紙の

文面にあらわれる物語の中の尐女性、広義では尐女文化そのものの選択可能性を広げたのは

川端康成その人であると考える。

繰り返すと、田辺聖子は川端のような男性作家による尐女小説を「尐女趣味の暗黒面」の

109 山本禮子、福田須美子「高等女学校の研究――1920 年代の教育実践をめぐって」、『和洋女


子大学紀要』第 26 集、1986。稲垣恭子『女学校と女学生』p. 97 より引用。
110 現実への越境性の一例として、 当時女学生同士の心中事件が多発したことも挙げることができ
よう。本稿で詳細を述べることは避けるが、越境性が尐女たちを必ずしも良い方向に導いたとは
いえないことを記しておきたい。

58
もとで批判した。しかしそれもまた彼女の「選択」だったとはいえないだろうか。尐女が排

他的に自分が内面化しうる物語を選択できるのも、その選択可能性が広がっているからにな

らないのである。第一章で確認したように、尐女とは「選別」されるものであった。尐女の

暗黒面=排他性は、
「選別」される存在であった尐女性に対してのささやかなる反抗だったの

かもしれない。

こうして、
『尐女の友』のなかの読者投稿欄や尐女小説と、読者の尐女たちとの相互作用の

なかで尐女文化が形成されたことが明らかになった。さて、この相互作用が「幻想」と「現

実」を越境するのならば、戦後の尐女たちが戦前の尐女文化を求めたように、現代の尐女た

ちもここまで述べてきた時代の尐女文化を内面化しうるのではないだろうか。終章ではその

可能性について触れてみよう。

59
終章

ここまで、
「尐女」という表象および彼女たちにまつわる「尐女」文化のありかたと、川端

康成の尐女小説群がその形成に及ぼした影響を明らかにした。

数多くの先行研究で述べられているように、
「尐女」とは近代になって学校教育制度と尐女

雑誌によって「つくられた」ものであった。本稿第一章では、尐女たちが「選別」される存

在であったことを指摘し、それが尐女雑誌の読者投稿欄の場において反復されていることを

示した。

続く第二章では、
「尐女」の外部としての川端康成に着目した。川端は戦後まで数多くの尐

女小説を著したが、その多くに中里恒子との「共作」である『乙女の港』の片鱗が見えた。

「共作」によって、川端は尐女性をまといながらも外部的視座を持ちうる者となったのであ

る。

第三章では『乙女の港』と吉屋信子『わすれなぐさ』を比較検討した。尐女同士の疑似恋

愛を表す女学生文化「エス」の描かれ方や、規範の象徴でもあった「花」
、現実を逸脱する「魔

法」のような比喩表現、そして女性性の描き方に類似点や相似点をみた。そして手紙の文体

から、数々のパターンの尐女小説の中で描かれた世界が別け隔てなく尐女たちに内面化され

ていき、尐女文化が相互的に形成されていった構造を明らかにした。

さて、ここでもう一度本田和子が述べた尐女雑誌の「両棲的編集方針」に立ち返ってみよ

う。尐女雑誌は良妻賢母規範に則りながらも、現実とかけ離れた尐女幻想の世界も用意して

いた。時は巡って良妻賢母規範が尐女を規定する強さを無くした現在、尐女文化には何が起

こっているのだろうか。

本稿で扱ってきた時代の尐女雑誌を収集・愛読していた寺山修司は、そこに「ギャルとか

マドモアゼルと呼ばれる現代の女の子とは全くべつの、尐女たち」を見出し、
「私は、そうし

た尐女たちが好きだった。だが、彼女たちはもう、どこにも実在しないのだ」111という。果

たして、本当にそうなのであろうか。寺山の希求する「尐女」は消え失せてしまったのだろ

うか。序章での「現在の視点に立つ」いう宣言を思い出し、ここまで論じてきた『尐女の友』

時代の尐女文化と現在の尐女文化の対忚点を述べて本稿の結びとしたい。

111 寺山修司『不思議図書館』角川書店、1984(初版 1981)、p. 250

60
現代サブカルチャーにみる「エス」の系譜――「百合」

「エス」は、現代のサブカルチャーの文脈で「百合」として消費されているといえる。
「百

合」とは「現在、女性、とくに〈尐女〉同士の親密な関係を指して使われる」言葉である。

もともと男性同性愛を指す「薔薇」の対義語としてうまれた「百合」は、ポルノ映画やレズ

ビアン女性の出会い雑誌等での暗語として使用される時代を経て、2003 年に創刊された百合

専門漫画雑誌『百合姉妹』の創刊によりひとつのジャンルとして結実する。
「作品の多くが中

学校、高校を舞台にし、同性に対する尐女の淡い恋心を描いているという点で、百合はかつ

ての『エス』の流れを汲んだ関係性を指している」112のである。

一例として漫画に焦点を絞ろう。図は『百合姉妹』創刊号の表紙である。
「男子禁制!!リ

ボンで結ぶ秘密の恋」
「お姉さまの初恋、私にください」というフレーズに、本稿で扱ってき

た「エス」文化との共通性が読み取れる。さらに、大正・昭和の時代設定がなされている作

品113や、吉屋信子『花物語』が作中に登場する作品114もある。テレビアニメ化もされ、
「百

合」ジャンルの広がりに貢献した志村貴子『青い花』
(2005-2010)の第一話のタイトルも「花

物語」であった。
「百合」は「エス」をルーツに持つことに自覚的なジャンルなのである。

112 赤枝香奈子「百合」、五上淳一、斎藤光、澁谷知美、三橋順子編『性的なことば』講談社現代
新書、2010、pp. 277-284
113 たとえば、タカハシマコ『乙女ケーキ』(2007)のなかの一編「タイガーリリー」は、年老

いた女性が女学生時代の同級生との「エス」めいた思い出を回想する物語である。
114 ふくやまけいこ『ひなぎく純真女学園』(2008-2010)に、主人公の尐女が図書館で『花物語』

を見つけるエピソードがある。

61
また、第三章で確認した、
「白百合」に託された純潔規範のイメージについての渡部周子の

論考も関連付けられる。
「尐女同士の親密な関係」が「百合」と呼ばれるのは、その「純潔」

のイメージが今もなお社会的に共有されていることの表れともいえよう。

現代ファッションにみる「エス」の系譜――「少女鏡像」

次に、現代のファッションにおいても「エス」の片鱗がみられることを示したい。金澤亜

由美は、ハイティーン向けファッション雑誌『Zipper』
『CUTiE』が提示する尐女像を分析

し、海外に見られるような自文化への批判性を持つことなく、彼女たちがポジティブな感情

のもとで新しいファッションを創造してゆく姿を切り取った。ここで注目したいのは、

『CUTiE』のファッション写真においてみられるという「鏡に映った像のような左右対称の

構図」である。金澤はそれが「類似するスタイルの仲間同士が互いに自らのアイデンティテ

ィを確認しあうために、鏡像の役割を果たす。仲間は自分を映す鏡でもあり、そして自分も

仲間を移す鏡の役割になる」115と指摘する。

また、現代の尐女たちの間には、一番の親友のことを「双子」と呼びあったり、お揃いの

服を着ることを「双子コーデ」116という文化がある。下の写真は、web で「双子コーデ」と

いうキーワードで画像検索すると見つけることができるものである。

115 金澤亜由美『ファッション雑誌における尐女の自己表象――「Zipper」と「CUTiE」が描く
尐女の姿』、2009、p. 41
116 「双子コーディネート」の略称である。

62
以上のような、
『CUTiE』
「双子コーデ」にみられるふたりの尐女の鏡像性は、
「あなたと

私は同じ(川端康成『万葉姉妹』より)
」である「エス」の関係性に通じるところがあると考

える。
「エス」の疑似恋愛的な要素は前述の「百合」に色濃く映し出されていた。一方で、こ

の「鏡像」としてのファッションは、
「エス」の鏡像性の系譜となり得るのではないだろうか。

「乙女」という言葉に託される精神

さて、本稿で問題とし、定義付けたのは「尐女」であった。しかし、川端が著したのは『乙
、 おとめ
女の港』であったし、『わすれなぐさ』においても、「尐女」という表記がみられた。
「乙女」
とはなにか。最後に、現代における「乙女」という語の越境性について考えてみたい。

本稿でも発言を引用した男性作家の嶽本野ばらは――ひょっとしたら本当の「尐女」より
、、
も――尐女文化に精通している117。限りなく尐女に接近している男性である彼は「乙女のカ

リスマ」と呼ばれている。彼の存在そのものが象徴している「尐女」ではなく「乙女」とい

う語に託された意味、それは男性でも尐女の精神さえ持てば尐女になれるという越境性では

ないだろうか。 「乙女」には身体が伴わないのである118。
「尐女」には身体が伴うが、

「乙女」という語の多義性については野中モモが指摘している通りである。

現在「乙女」という語は、
「乙女のカリスマ」嶽本野ばらのもとに集うようなデ

コラティヴなゴスロリちゃんの間でも、逆にシンプルシックでストイックなひっつ

め髪のお嬢さんの間でも、お花でハートでピンクでセレブになりたいギャル文化で

もキーワードとして使用されているようで、その振り幅の大きさも含めて大変興味

深い現象だと思う。119

この「振り幅の大きさ」は「乙女」という語が精神を示すことの証明にもなるのではない

だろうか。つまり、どんなファッションの尐女でも、そして男性でさえも「乙女」となるこ

とができてしまうのである。そう考えると、
『乙女の港』と『わすれなぐさ』で描かれた現実

117 第二章で引用した嶽本の「エス」についての論考を思い出してもらいたい。なお、彼は前述し
た『Zipper』や『百合姉妹』にもコラムを連載していた。
118 本稿に大きな示唆を与えた文筆家の千野帽子や、ゴシック&ロリータ論で知られる高原英理も、

中性的な名を名乗り「尐女」を語る男性であることを記しておく。
119 野中モモ「パンとサーカス、デザートにケーキ!――さて、そのころ女の子たちは……」、 『ユ
リイカ 2005 年 8 月増刊号 総特集*オタク vs サブカル! 1991→2005 ポップカルチャー全史』
青土社、2005、p. 163

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へ越境する尐女性は、現代に連なる「乙女」マインドへの第一歩であったのかもしれない。

むすびに

『尐女の友』創刊から 100 年。良妻賢母規範の有効性がなくなった現代の尐女たちは自由

を手に入れ、尐女雑誌も漫画誌、ファッション誌のように分割され、多様化が進んだ。それ

に対忚するように、尐女文化ももはや定義できないくらいに細分化している。その一例がこ

こで指摘した「百合」
「尐女鏡像」
「乙女」である。これらの文化は無限に広がる現代の尐女

文化のひとつにすぎない。
しかし、
そこには時代を越えてもなお形を変えてたしかに息づく、

かつての尐女たちの姿があった。
『尐女の友』時代の尐女文化は、現代の尐女文化の中に――

「尐女機械」的に――取り込まれているのである。

讀者が本を選ぶのではなくて、本が讀者を選ぶのです。

アクセサリイが人を選び、雑貨が部屋を選ぶやうに。

――素敵な本に選ばれたい。私はつねづねさう思つてゐます。120

かつては「選別」されたものが「尐女」と成り得た。ちょうど対を成すように、現代は尐

女たちが数ある尐女文化を「選別」してゆく構造にあるといえよう。こう考えると、上に挙

げた千野帽子の言葉は、
「選別」する尐女たちに対してのメッセージであることがわかる。す

なわち――かつての「尐女」たちのような矜持を忘れることなかれ、と。

120 千野帽子『文藝ガーリッシュ――素敵な本に選ばれたくて。』、p. 3

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参考文献

一次文献

』実業之日本社、2009(初版 1938)
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川端康成『川端康成全集 第 32 巻』新潮社、1981

川端康成『川端康成全集 補完 2』新潮社、1984

川端康成『万葉姉妹/こまどり温泉』フレア、1996(初版 1977)

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吉屋信子『わすれなぐさ』河出書房新社、2010(初版 1935)

吉屋信子『吉屋信子乙女小説コレクション 1 わすれなぐさ』国書刊行会、2003

吉屋信子『吉屋信子全集 第 1 巻』朝日新聞社、1975

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『日本児童文学大系 23』ほるぷ出版、1977

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早稲田大学會津八一記念博物館『早稲田大学會津八一記念博物館蔵 内山基コレクション』

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実業之日本社、2009

『ひまわり 第 1 巻第 2 号(昭和 22 年 3 月号)


』国書刊行会、1987

『ひまわり 第 3 巻第 5 号(昭和 24 年 6 月号)


』国書刊行会、1989

『ひまわり 第 3 巻第 10 号(昭和 24 年 11 月号)


』国書刊行会、1989

『ひまわり 第 5 巻第 3 号(昭和 26 年 3 月号)


』国書刊行会、1991

『ひまわり 第 6 巻第 9 号(昭和 27 年 9 月号)


』国書刊行会、1992

『ひまわり 第 6 巻第 10 号(昭和 27 年 10 月号)


』国書刊行会、1992

『ひまわり 第 6 巻第 11 号(昭和 27 年 11 月号)


』国書刊行会、1992

『ひまわり 第 6 巻第 12 号(昭和 27 年 12 月号)


』国書刊行会、1992

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二次文献

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市川慎子『おんな作家読本〔明治生まれ篇〕
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内田静枝『女學生手帖――大正・昭和 乙女らいふ』河出書房新社、2005

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川村邦光『オトメの身体――女の近代とセクシュアリティ』紀伊國屋書店、1994

川村邦光『オトメの行方――近代女性の表象と闘い』紀伊國屋書店、2003

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野中モモ「パンとサーカス、デザートにケーキ!――さて、そのころ女の子たちは……」
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