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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2017年6月1日 第58号 第三版 www.abekobosplace.blogspot.jp

あな
迷う たへ 或る時私は急な用事が出来て、白蛾丸という小さな100トンばかりの船で旅行し
事の :
あな
ない あ なければならないことになりました。
迷路
ただ を通
けの って 『白蛾』の冒頭第一行
番地
に届
きま

擬態

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?:岩田英哉…page 6
   I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
    1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
    2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
    3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
    4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫
   II 1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行中の安部公房が真知夫人に当てた
     葉書の文面から解ること
   III 『キンドル氏とねこ』:第五の猫殺人事件
   IV 安部公房の小説観と世界認識  
   V 何故安部公房の主人公は複数存在するのか?
   VI 安部公房はリルケの天使を殺したのか?
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)…page 32
   IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)
   V 「転身」といふ語のある詩を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の詩)
   VI 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
4 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(3)∼安部公房をより深く理
  解するために∼:岩田英哉…page 55

5 私の本棚:SF映画『インターステラ』を読む:岩田英哉…page 58
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 60
7 編集後記…page 62
8 次号予告…page 62

・本誌の主な献呈送付先…page63
・本誌の収蔵機関…page63
・編集方針…page 63
・前号の訂正箇所…page63

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  ニュース&記録&掲示板

1。 今月の安部公房ツイート BEST 10
e
ole
Priz 来月号を(来月からみれば過去である即ち)前月の号である、従ひ今月号ならざる
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Gold 過去の未来号且つ未来の過去号を今月といふ有名月に発行するといふ超越論的な理由
により、該当tweet、なし。「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越さ
れ、ぼくは明日という過去の中で、なんども確実に死に続ける」といふあなたのため
の、純粋空間の中に存在する第58号。
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同上

1。今月の安部公房本
Title(タイトル) @Title_books 21時間
女王の図書館に配架された本のリスト。安部公房 / アンナ・カヴァン / クッツェー / 『黒い時計の
旅』/ 谷崎潤一郎 / ダンセイニ / 野上七生子 / ブニュエル / マンディアルグ….。遠景を眺めることが
出来る本の数々、手に収まる装幀。皆川博子『辺境図書館』(講談社)

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2。今月の上演
奥村飛鳥 Asuka Okumura @askafeyokumura 8分
再演ですが、あっと驚く組み合わせで参ります!
どれくらいかって言うと、もう安部公房の作品はできなくなっても良い!というくらいの思い切りで
す。詳細は後日。
よろしくお願いします!

笛井事務所 @FeyOffice
【上演決定!】
笛井事務所 第9回公演
「愛の眼鏡は色ガラス」
作 安部公房…
https://www.theater-officefey.com

hirokd267 @hirokd267 4月12日


「砂の女」(原作:安部公房)舞台化につき主演女優募集!(関西/大阪) ¦ 演劇365ドットコム
http://engeki365.com/002/read.cgi?no=4093 … @theaterplanetsさんから

3。今月の安部公房勉強会
早稲田大学現代文学会 @genbun_e515
【本日】安部公房勉強会
16:30∼ 学生会館E515(部室)にて
友達同士が挨拶時に笑うのはその場にいない第三者を仮定して連帯感、つまり共犯意識を深めること
の表明だそうです。情けない話ですが、安部公房の愛読者は集まるといつもニヤニヤしています。こ
の時期の新入生は諸々不安で

4。 今月の映画
マッチポイント @matchpointinc 4月10日

公開が3年見送られた小林正樹社会派野心作、BC級戦犯を描いた点では裏東京裁判とも言える物申す
系、安部公房の脚本参加にも明確な狙いを感じるがなんだ
ろうこのもう一超え感は?大島のようなぶった切りをやる
にはどこか行儀が良過ぎるのである。 


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日本映画専門チャンネルの「訪問インタヴュー」で、安部公房が

https://www.nihon-eiga.com/osusume/interview/

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何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?

岩田英哉

目次

I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫
II 1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行中の安部公房が真知夫人に当てた葉書の文面か
ら解ること
III 『キンドル氏とねこ』:第五の猫殺人事件
IV 安部公房の小説観と世界認識
V 何故安部公房の主人公は複数存在するのか?
VI 安部公房はリルケの天使を殺したのか?

****

I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
何故安部公房の猫はいつも殺されるのでせうか?

猫が人殺しの目に遭ふといふのは言葉の理屈には合ひませんが、この理不尽は、理不尽なる
安部公房の世界ならばゆるされるでありませう。これは一つのcase(事件)ですので、「猫
殺人事件」と呼んでも良いでせう。アガサ・クリスティならば『ABC殺人事件』といふやう
なものです。何故なら、この「猫殺人事件」は連続して起きてゐるからです。

日本近代文学史上、最初の猫の死は、夏目漱石の猫の死ですが、この名前のない無名の猫の
死は水甕に自ら墜落するといふ過失ですから、殺人の意思を作者が持つて猫を殺したのは、
恐らくは安部公房を以つて嚆矢とするのではないかと思ひます。犬好きの安部公房に対して、
猫好きの三島由紀夫が猫を腑分けして殺したのは『午後の曳航』(1963年)、即ち安部
公房が『砂の女』を発表した翌年39歳の時ですが、安部公房はそれよりも20年早く、未
成年であつた19歳の時の処女作『(霊媒の話より)題未定』で、既に最初の猫を殺してゐ
ます。それは一体何故なのか。
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1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
処女作の『(霊媒の話より)題未定』の冒頭で、最初の猫が、老婆にステッキ、即ち後年の
十分に概念化された安部公房の言葉でいへば棒で、殺されます。

「一体に年寄りと云うとじっとして居て野菜ばかり食って居るものだが、此の婆さんと来た
らぴんぴん動き廻って、魚も食えば肉に大好物と云う有様で、おまけにひどく荒っぽいの
だ。一度等は僕の家にやって来て何やら話して居たが、婆さんの側に置いてある風呂敷包み
―例の町から買って来た「新鮮な魚っ切れ」が入って居たのだが、それを近くの野良猫がか
ぎつけで(ママ)ギャアギャア縁側の所でわめき立てたんだ。始めの内は婆さん小声で
「しっしっ」と云って居たが、一向にその利目が無いと見ると、いきなり僕達もビクッとし
た程の大声をはり上げ乍ら、手元にあった婆さん愛用のステッキを振上げて跣足のままで庭
先にかけ出したと見るや、あっと云う間もあらでその野良猫を叩き殺して終ったと云う様な
次第だ。」(全集第1巻、19ページ)(傍線筆者)

私が上で線を付した箇所が既にtopologyの発想で書かれた箇所なのですが、topologyと呪
文と変形の関係については、「IV 安部公房の小説観と世界認識」のところで詳述します。

風呂敷包み[註1]は、何かを包めば、それは袋と同じであり、壺であり、穴であり、いづ
れにせよ(外部に開かれてゐながら)全てを1に、即ち存在にする凹の形象であり、そこに
は繰り返しの呪文(呪文は同じ繰り返しの言葉ですから「繰り返しの」は贅語です)が、唱
へられて、存在が招来されることになる。

[註1]
凹の形が、安部公房の汎神論的存在論として重要な存在の宿る形だといふことが一番よく説明されてゐるのは、
『様々な光を巡って』(全集第1巻、202ページ)です。これをお読みください。また何故風呂敷包みが、
これに関係するかといふと、日本の風呂敷は、なんでもかんでも入れることができて、一つに包んで、全体を
1に、即ち存在にすることができるからです。それから、「IV 安部公房の小説観と世界認識」で後述するや
うに、安部公房は現実を二次元の面の集合として捉へてゐるからです。

婆さんは最初は「しっしっ」と小声で呪文を唱へるが、「一向にその利目が無い」。と見る
や、「いきなり」、即ち不意に、突然に、前後なく、即ち超越論的に、今度は小声の呪文で
はなく、対照的に又対称的に又反対の極に「大声をはり上げ乍ら」、「あっと云う間もあら
で」、これも時間無く従ひ超越論的に「有無を云はさず」に、「野良猫を叩き殺して終っ
た」、即ちこれも超越論的なことに(気がついた時には)既にして「叩き殺して終っ」てゐ
たのです。

呪文に効き目がなければ、棒を以つて無名の名無しの猫を、さういふ意味であれば無名とい
ふことから存在であり得る猫を、野良といふ理由で、即ち社会に未登録非登録といふ理由で、
そして婆さんの大好きな、それ故に例のといふ意味で鉤括弧付きの「新鮮な魚っ切れ」と呼
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ばれる定例的に婆さんが日常の時間の中で所有してゐることを村の人たちに周知の魚を盗ま
うとした理由で、超越論的に「叩き殺して終っ」てゐる。「新鮮な魚っ切れ」とは、後述す
る断面であり断層であり、複数の主人公の生まれる契機となる日常の時間の世界の現物の切
断面のことなのです。「新鮮な」断面であることに意義があるのです。

これが、呪文を間に媒介として置いた、猫と棒の関係といふことになります。

そして更に、興味深いことには、この婆さんの作中の役割は、これもやはり呪文と同じ何か
と何かを接続する媒介者であるといふことです。即ち此の婆さんはシャーマンであり、巫女
なのです。それ故に、この猫殺しの後に次の文章が続きます。「はらはらして心配して居る
ばかり」でゐるのは、婆さんと山の上に一緒に住んでゐる地主の息子です。

「やれ婆さんが土方の喧嘩を仲裁したとか、男でも恐ろしい様な山寺へ行く途中の吊り橋を
走り乍ら通ったとか云うのを聞く度に奥さんと二人ではらはらして心配して居るばかりだっ
た。」(全集第1巻、19ページ下段))(傍線筆者)

そして、この後の「後段」と題された章で、婆さんは橋の上で(意味の深いことに安部公房
の大好きな)自動車によつて跳ね飛ばされて橋から河へ落ちて死んでしまひます。

「一台の自動車が、実際にこの事すら不思議なのであるが、恐ろしい急で向うの方から疾走
して来て、橋の上に通り掛かった。自動車なんでこんな所じゃ、年に数度しかお目に掛かる
事は出来ないのである。そして其時丁度例の地主さんの所の婆さんが元気よく町に「新鮮な
魚っ切れ」を買いに行く為に其の橋の上を通り掛かった居た。(略)自動車はキーとすざま
しい(ママ)音を立てて制動を掛けたけれども、時すでに遅しである。自動車はらんかんを
つき抜いて半分河の上に乗り出すし、婆さんは真逆さに河の中に飛び込んだまましばらく浮
いて来なかった。(略)彼は其時すぐ様クマ公の云った例を想い出したのだ。「霊媒」にな
ろう。そうすれば俺はあそこの家にあの婆さんの代りになって住む事が出来る。下男として
ではなく、家庭の一員として住まう事が出来る。乞食なぞしないでもすむのだ。」(全集第
1巻、43ページ上段)(傍線筆者)

話の順序に戻ると、猫を殺した媒介者の婆さんが、今度は移動する(さういふ意味では機能
としてみれば橋と同様の媒介の機能を有する)箱である自動車によつて殺される。さうして、
少年であり、さういふ意味では未だ性の分化してゐない即ち未分化の実存たるパー公といふ
本来名無しの子供が、婆さんの役割を引き継いで、その死者の役割を演ずると、親のゐない
生涯孤独の此の孤児は、縁もゆかりもない家族の一員として「あの婆さんの代りになって住
む事が出来る。下男としてではなく、家庭の一員として住まう事が出来る。乞食なぞしない
でもすむ」ことができるのです。即ち、赤の他人として、またさうであるにも拘らず、家族
の一員として遇されることになる。
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安部公房の家族は、三島由紀夫の家族同様に、いやさういふ意味では安部公房の発見者埴谷
雄高の『死霊』の異母兄弟の男女の若者たちと同様に、みな疑似家族を構成してゐる。戯曲
『友達』の疑似家族です。

このやうに考へてみれば、安部公房の作品の主人公はみな、霊媒(シャーマン)なのではな
いでせうか。何かと何かを接続する媒介者、媒体であるといふ性格を濃厚に宿してゐる。さ
うして、両極端の、橋の両側を自らが渡つて接続し、一番重大な場合には、生死の間といふ
橋の上をさ迷ひ、最後には此の世とあの世の接続者、媒介者、霊媒になつて失踪する。失踪
が、婆さんの場合のやうに「未必の故意」によるかも知れない、いづれにせよ事故によるも
のか、猫の場合のやうに殺人によるものか、パー公のやうに(曲馬団といふことから)人攫
(さら)ひによるものかは別にしても。かうしてみると、後年の安部公房の主人公たちの失
踪類型が全て処女作に出てゐることになります。

安部公房の概念化した棒については、「『赤い繭』論」(もぐら通信第51号)に詳述しま
したので、ご覧ください。婆さんが猫を殺した棒が、その後小説家として世に出てから、壁
が垂直方向といふ時間のない方向に永遠に成長して行く普通名詞の壁になるやうに、一体ど
のやうに時間のない空間で成長して、縄と一対の、普通名詞の姿をした棒になつたのかを。

2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
「 はるかな迷路のひだを通り抜けて、とうとうおまえがやって来た。「彼」から受け取っ
た地図をたよりに、やっとこの隠れ家にたどりついた。たぶん、いくらか酔った様な足取り
で、オルガンのペダルのような音をたてながら、階段を上りきった、とっつきの部屋。息を
こらして、ノックをしてみたが、なぜか返事は返ってこなかった。かわりに一人の少女が、
仔猫のように駆けよってきて、おまえのために、ドアを開けてくれるはず。伝言でもあるか
と、声をかけてみるが、少女は答えず、薄笑いを残して逃げ去った。」(単行本版『他人の
顔』:全集第18巻、322ページ上段)

冒頭共有については良いでせう。襞といふ隙間からなる迷路を最初に置き(空間的な差異)、
次に「オルガンのパダルのような音」が時間的な差異として繰り返され、「階段を上りきっ
た」垂直方向の高みには存在の部屋がある。そこへの案内人は、管理人の小さな偏奇な娘、
即ち未分化の実存たる少女であつて、その実存は恰も「仔猫のように」駆け寄って来る。そ
して、安部公房の部屋にはドアはありませんので、ドアの開閉は筋書きの展開といふ時間の
差異の中で、「空白の論理」に従つて、最初の段落と次の段落の間の空白に隠されて「既に
して」(超越論的に)終つてをり、安部公房特有の「僕の中の「僕」」といふ内省的・再帰
的話法の中では「既にして」(超越論的に)「おまえ」と二人称で呼ばれてゐる妻(といふ
三人称)は、「彼」(三人称の「僕」)を求めて、部屋の中を、ドアを「いつの間にか」通
り抜けて、「のぞきこ」んでゐる。

さて、ここで安部公房は未分化の実存たる少女を猫に、それも子猫ではなく「仔猫」に譬へ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ10

て直喩[註2]を使つてゐます。これは、雑誌で発表した版にはなかった。何故子猫ではな
く、仔猫なのかは、『方舟さくら丸』の冒頭の同様の用字である「仔鯨」を論じた、「『方
舟さくら丸』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第53号)で論じたので、これを以下に引用
してお伝へします。

[註2]
直喩の持つ安部公房文学に関する意義については『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒
剤∼』(もぐら通信第55号)をご覧ください。

「「『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第46号)と題して、安部公房が
三島由紀夫と交わした時間と空間に関する哲学談義を論じ、それを小説といふ虚構の世界に
映したことを述べましたが、1967年刊行の『燃えつきた地図』より17年後の、198
4年刊行の『方舟さくら丸』の冒頭に、やはり三島由紀夫の愛した形象を二つ書いて、この、
安部公房の人生に於いて最も親しかつた筈の友人の霊に、安部公房は密かに追悼の意を表は
してをります。

その二つの形象とは、仔鯨と、ラグビーのボールです。

「仔鯨」と、「子鯨」とではなく、何故安部公房は、この文字で此の言葉を選んで、書いた
のでせう。

三島由紀夫が1970年に亡くなつたあと立ち上げた安部公房スタジオのために書いた戯曲
『仔象は死んだ』(1979年)の題名が、子象ではなく、仔象でなければならない理由は、
当時奉天で小学生の頃に、当時何度も大陸を巡回して、奉天では千代田公園でテントを張っ
た[註1]矢野サーカス団のサーカスでは間違ひなく見た筈の子供の象の曲藝に、死を思は
せる何かを同じ子供の安部公房が見たのか、それともサーカスを観て感動した後に、その子
象が死んだことを知つたのか、いづれかでありませう。『安部公房文学サーカス論』は別途
論じます。

ここで、安部公房が仔鯨と書き、子鯨と書かなかつたのは、同じ理由によります。安部公房
は詩人ですから、『没我の地平』でも『無名詩集』でも、用字については、その文字の間の
一文字文の空白も含め、厳密厳格に此れを文字通りに用ゐてゐることは、『安部公房の奉天
の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について(後篇)』(もぐら通信第33号)
で詳細に論じた通りです。

この仔鯨は、死んだ鯨の子供、いや、それ故に、仔供なのです。
(略)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 11

また、それが証拠には、例へば『カンガルー・ノート』の中の「3 火炎河原」の章では、
ここで一度使はれて以降は小鬼と呼ばれる子供の登場に際しては、単に子供と書き表し、仔
共といふ用字とは別にして書き分けてをります。(全集第29巻、119ページ下段)」(も
ぐら通信第53号)

注目すべきことは、この小説では、また詩人としての安部公房固有の「呼びかける話者」が
復活してゐるといふことです。即ち『デンドロカカリヤA』型の小説に戻つてゐる。これが、
安部公房が後年雑誌の連載を巡つて出版社との問題が起きて、連載は苦手だといひ、時間を
かけて一冊の作品を仕上げることの方が自分の性に合つてゐるといふ理由だと思はれます。
即ち、安部公房の生涯に亘る問題と解決の工夫は、話法の問題であつて、それも一般的な話
法なのではなく、個別安部公房固有の「僕の中の「僕」」といふ内省的・再帰的話法にあつ
たのだといふことなのです。[註3]

[註3]
安部公房固有の此の話法については、『デンドロカカリヤ論(後篇)』(もぐら通信第54号)を参照下さい。

3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするの
は、もう沢山だ。車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなっ
た猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼ
くはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微
笑が頰を融かし、顔をほころばせる。」(全集第21巻、311ページ)

最後の一行の下線部からいつて、死んだ猫は名前のない猫であり、即ち無名の存在、文字通
りに名付けられぬ存在だといふことです。名付ける資格と能力のあるのは、「存在しながら
存在しない、あのカーブの向うを覗き込んでしまったことになる」透明な人間になつた主人
公、即ち次の章で引用するやうに『方舟さくら丸』の最後に主人公の到る「街ぜんたいが生
き生きと死んでいた」街の中に立つ透明な人間だけといふことです。この透明感覚はリルケ
に学んだこと[註4]は諸処で述べた通りです。

[註4]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号)より『マルテの手記』
を耽読して、安部公房が自得した透明感覚の当該箇所を以下に引用します。

「[註11]
当該箇所を岩波文庫の『マルテの手記』(望月市恵訳)から引用します。訳文では「透明なるもの」を空気と
解して「空気」と訳してありますが、これをリルケの論理に従つて原文の単語(durchsichtig)に忠実に「透
明なるもの」と替えてあります。それ以外は望月訳の通り。:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

「空気のすみずみにまで感じられるこの恐ろしいものの存在。僕たちはそれを透明なるものとともに吸い込む。
そして、それは僕たちのなかに沈殿し、凝固し、期間と期間のあいだでとがった幾何学的図形をつくる。」」

ここでも話法に関して付記すれば、この小説では、「呼びかけない話者」、即ち『デンドロ
カカリヤA』型(雑誌「表現」版)ではなく、『赤い繭』型の一人称小説になつてゐるとい
ふことが留意すべきことです。

4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫
「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向って、カメラを構えてみる。二十四ミリの口角レン
ズをつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。それにしても透明
すぎた。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透
明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔のまえに手をひろげてみた。手を透し
て街が見えた。振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死
んでいた。誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めるこ
とにした。」(全集第27巻、469ページ下段)

記念撮影をする対象の中に「自分を入れ」るといふ下線部が、安部公房の再帰的な論理を示
してゐます。これは、如何にも安部公房らしい。変形の計算に自分自身を入れるのです。

そして、存在である無名の猫、それもトラックといふ大型車両に何度も轢き殺されてペシヤ
ンコになつてゐる猫を最後に書かずにはゐられない安部公房。無名の猫の形象は、『燃えつ
きた地図』の猫と同様に、存在と透明感覚と分かち難い。何しろ形象としても、限りなくペ
シャンコになつて二次元の面になる猫とは、限りなく透明に薄く薄くなる平面であるでせう。

そして、何故自動車に何度も何度も猫は轢かれなければならないかと云へば、「IV 安部公
房の小説観と世界認識」で後述する『使者』や『人間そっくり』の作品中に書かれてゐる
topologyの論理による「箱の中の論理」によつてゐるからです。しかも単なる箱ではなく、
常にオルフェウスと同じく「転身」し続けてやまない移動体としての箱である自動車は、安
部公房のお気に入りの媒体であつたに間違ひありません。そして閉鎖空間であつて、存在の
部屋の窓までついてゐて、おまけに前進しながら後ろが見えるといふ、時間を相殺して無に
するバックミラーまで装着されてゐて、これもまた小学生の頃「零下二十何度かになると学
校休みだったな。後ろ向きに歩ける眼鏡を発明しようとしたことがあるよ、本気になって。
風に向かって歩くとつらいんだ、眼も鼻も凍ってしまう」ことから其のやうな眼鏡を発明し
ようとした」(全集第27巻、156ページ)といふ、此の小学生の子供の時に既に
topologicalであつた「公房好み」だといへませう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 13

II 1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行中の安部公房が真知夫人に当てた葉書
の文面から解ること
さて、1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行の途次、安部公房が真知夫人に当て
た葉書の文面中に、帰国したら一人娘ねりさんのために猫を買ひたいと書いた文は、次のや
うになつてゐます。

「真知子へ
その後、変わりありませんか。
今日、スロヴァキヤ旅行を終えて、プラーハに帰ってきました。チェコスロヴァキヤを見る
だけでも、なかなか大変です。(略)
(略)
すこぶる家がなつかしくなりました。帰って、いろいろ話すのがたのしみです。ネリに会い
たいと思います。ネコを買おうと思っています。むろん、おもちゃの。
プラーハという町は、やはり一番リルケのことを思い出すような町です。日本のことを考え
ると、胸苦しいような気持ちになります。(略)
(略)」
(『安部公房展[没後10年]Kobo ABe Exhibition』91ページ、世田谷美術館編集・発行)

さて、この「むろん、おもちゃの」「ネコ」とはなんでせうか。「むろん」といふからには、
既に真知子夫人に話も度々し、猫がなぜ玩具でなければならないのかについても二人の間に
は共通の理解がある。ねり氏は1954年(昭和29年)生まれ、此の時満年齢で3歳、数
え年で4歳。4歳の子供の玩具に猫のオモチャはふさはしい。しかし、何故猫なのでありま
せうか。このオモチャは安部公房の「空白の論理」に従つて、中が空の、空洞の猫なのかも
知れません。当時のことですから、ブリキでできてゐるのかも知れません。生きた猫ではな
いのですから、生きた猫から見れば、死んだ猫といふことになります。死んだ猫から見れば、
それは死んだ猫ですらないといふことになりませう。何しろオモチャなのですから。そして、
後述するやうに此の猫は確かに剥製の猫に相当する動かない猫なのです。それは何故でせう
か。

1951年の『玩具と思想』といふエッセイによれば、玩具とは、もし玩具に対する関心を
人が持てば、それは「人間の存在形式の原型であると言っても過言ではない。現実を理解す
る方法を、人間は最初玩具から学ぶのだ。その方法に従って、人間は道具の意味を了解する。
それから、ついに、言語という球を、現実という複雑な傾斜の上をころがしてみるようにな
る。その運動が思想と名づけられるのだ。」(『玩具と思想』第3巻、140ページ下段)

玩具(おもちや)の猫は「人間の存在形式の原型である」といふ事ができる。この玩具の猫
はこの「現実という複雑な傾斜の上をころが」る「言語という球」である。といふのです。
この「運動は思想と名づけられる」以上、玩具の猫の運動は体系的であつて、従ひ一つの原
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もぐら通信                          ページ14

理に基づいて動くものでありませう。

結局、かうしてみると、玩具の猫は言語である、といふことになります。この猫は現実の時
間の断層であり断面である斜面を転がつて、言語的に多次元的な諸相を写し映すものである、
そのやうな写像の対象となる投影体である。と、このやうにいふ事ができるでせう。ここま
で此のエッセイの論旨を問題上昇させてみると、確かに其のやうである。

また、1966年の『玩具箱』といふ、安部公房が『終りし道の標べに』で世に出た後に『近
代文学』を舞台に親交のあつた埴谷雄高や、花田清輝、それから存在の中の師石川淳、また
千田是也についての印象を書いたエッセイがある。それにはかうあります。

「戦後はすでに、遠く霧のなかに沈んでしまった。べつに、思想や方法のことを言っている
のではない。ごく単純な、記憶の問題である。霧の中に目をこらしていると、浮かんでくる
のは、ただ、雑然とした玩具箱のようなものだ。(略)霧の向うから強くさしこむ、これら
の光をのぞいたあとは、めったに思い出したこともない玩具箱の中で、なにか仔鼠のような
ものがこそこそ音をたてているばかりである。しかし、すべてにわたって掃除の大嫌いなぼ
くは、べつだんネコイラズを仕掛けようとも思わない。」(『玩具箱』第20巻、363
ページ)

ここには鼠の側から、鼠退治のための猫が、ネコイラズ(猫要らず)、即ち鼠を退治する毒
薬として、また同時に『不思議の国のアリス』のチェシー猫、即ち謂はば「不在の猫」とし
て在る猫として言及されてゐます。

それから重要なことは、安部公房は、子鼠ではなく、「仔鼠」と書いてゐることです。既に
「『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫」で上述しましたたやうに、安部公房が子供の子では
なく、『仔象は死んだ』の仔の字を用ゐる際には、これは存在の子供であること、生から見
たら、この世にゐない死者に等しい、存在に生きてゐる子供であることを意味してゐます。
とすれば、仔鼠もまた存在の子鼠であり、それ故に仔鼠なのです。

これが、鼠と猫、それも存在の仔鼠と不在の猫との関係なのです。これが、安部公房の世界
の鼠と猫の関係、安部公房流のTom & Jerryの関係といふ訳です。

そして、上述のところによれば、玩具の猫は言語であるといふ事でありましたから、玩具の
猫は不在の猫であるといふことになり、確かに言語は関数であり関係概念ですので、猫は不
在であれば言葉同様に尚意味はなく、何かと何かの関係を接続する機能を、その不在性と空
虚によつて、有してゐるといふことになります。ドーナツの穴のやうに。

これだけでも確かに、安部公房の猫は殺されねばならないといふ理屈にはなります。
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ページ

今ここでリルケの詩の世界との関係を考へてみますと、接続の機能を有する存在といへば、
それは『ドゥイーノの悲歌』に歌はれる天使です。この天使は空間から空間を無時間で飛翔
し、超越論的に「突然」その空間に出現するのです。同じ機能を有する猫が殺され得るなら
ば、もし殺人の動機が同じ動機であるならば、場合によつては、ひよつとしたら天使殺しも
またあり得るのかも知れません。

III 『キンドル氏とねこ』:第五の猫殺人事件
さて、さうしてまた、「この猫は現実の時間の断層であり断面である斜面を転がつて、言語
的に多次元的な諸相を写し映すものである、そのやうな写像の対象となる投影体である」な
らば、何匹もの猫が(この世にはあらぬ)不在の猫として、安部公房の主人公が凹(窪地)
を脱出する際にいつも見る時間の断層と断面である此の世の現実の斜面に存在するといふこ
とになります。安部公房の猫は、このやうに、何匹にも異次元では分かれてゐるのです。こ
のことを念頭に置いて先へ進みます。

『キンドル氏とねこ』と題する1949年に企図した小説のメモが全集にあります。

「アクマ氏の死に対する責任追及
 カルマ氏の謀略(ネズミを逃したこと)
 カワド氏の反動的存在について(アクマ無用論者と変りない)
 アクマ招コン式を急がねばならぬ。
 アクマ哲学について、コモン式の解説。
 マダムにソーセージをふるまわれ、あわてて逃出す。
 八百屋にネコを借りに行く。ハクセイ。
  ネコのほとんどが会社に買上げられている事実の発見。ネコの暗殺。
 家畜病院の訪問(公園の風景)
  ネコを一匹とにかく手に入れる。
 カルマ氏の訪問。

 カワド氏の来訪。」
(全集第2巻、222ページ)

このメモを見ても、猫は殺されることになつてゐる。そして八百屋に猫の剥製を借りに行く
ことになつてゐます。これは剥製の猫ですから、一人娘ねりさんにいふ、帰国したら猫を買
いたい、生きた猫ではなく、勿論オモチャの猫だといふ言葉に通つてゐます。猫と鼠の関係
では、前者は後者を食べてしまひますから、カルマ氏の罪は、ここでは猫からネズミを守る
ためにネズミを逃したといふことにあるやうです。

話は『カンガルー・ノート』に飛びます。ここに猫と鼠の関係を解く鍵があります。その鍵
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は、小説の冒頭に主人公が職場の上司と交わす会話の中の、生態学的分類に関しての、有袋
類を巡る動物の分類にありました。以下、その会話です。

「ぼくはただ、カンガルーの生態学的特徴に関心をもっただけなんです」
「で、君の提案の真意は……要約すると、ノートの何処がカンガルー的なの?」
「何処と言われても……」
「何処かに袋がついているんだろ?」
「つい先週、週刊誌に『有袋類の涙』という記事が載っていて……」
「そう言えば、コアラも有袋類だったっけ。待てよ、そう言えばうちの息子が履いていた靴、
たしかワラビーとか言っていたっけ。ワラビーもカンガルーの一種だね?どこか愛嬌がある
んだよ。有袋類ってやつは」
「その『有袋類の涙』という記事によると……」
「とにかく、週末までに、ラフ・スケッチでいいから……もちろん部外秘……採用に決まれ
ば、賞与はもちろん、昇給の可能性だってあるんだ……期待していますよ」
「でも有袋類って、観察すればするほどみじめなんです。ご存じとは思いますけど、真獣類
も有袋類も、鏡に映したみたいにそれぞれに対応する進化の枝をもっていますね。ネコとフ
クロネコ、ハイエナとタスマニア・デビル、オオカミとフクロ・オオカミ、クマとコアラ、
ウサギとフクロウサギ……すみません、つい脱線してしまいました」(全集第29巻、83
ページ;最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承と作品継承について』もぐら通信第
57号を参照下さい)

ここに言はれてゐるのは、真獣類と呼ばれるネコ、ハイエナ、オオカミ、クマ、ウサギに対
して、有袋類が対になつてゐて、フクロネコ、タスマニア・デビル、フクロ・オオカミ、コ
アラ、フクロウサギと、分類上対照的に「鏡に映したみたいに」並んでゐるといふことです。

かうしてみると、安部公房の関心は、主たる真獣類にではなく、存在を宿す形象である凹を
意味する袋を前綴に持つ有袋類にあることはお判りでせう。後者は、安部公房のクレオール
論に通じる親のない子供、主語のない子供、主語(主体)ではなく述部にある目的語(客体)
こそが真獣類に対して本質的な価値を持つといふ論理による有袋類の選択なのです。

主人公は続けて次のやうに上司に弁明します。

「……たとえば、リスの背の縞模様、けっこう明瞭なうえに、ちゃんと個体差が識別されま
す。でもフクロリスの縞はぼやけていて、個体差もないにひとしい。それからフクロネズ
ミ、動作もけっこう敏捷だけど、ほんものの鼠にはとうていかないません。有袋類というの
は、結局のところ、真獣類の不器用な模倣なんじゃないんでしょうか。その不器用さが、一
種の愛嬌になって、身につまされるというか……」(全集第29巻、83ページ下段∼84
ページ)
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この箇所を見ますと、やはり、真獣類が其の名前の通りに本物であるならば、これに対して、
有袋類のネズミは本物ではなく、偽物または贋物の鼠だといふことに、主人公の考へでは、
なる。「真獣類の不器用な模倣」ですから、全く同じではなく、そこに何か差異があつて且
つ似てゐる、即ち火星人は「人間そつくり」だといふのと同じ論理で、「真獣類そつくり」
が有袋類の特徴だといふのです。この論理は安部公房らしい。有袋類は火星人である。

さて、さうだとして、いや、さうだとすれば、安部公房が真知夫人宛の葉書でいふ猫は、本
物の猫ではなく、「猫そつくり」の玩具の猫、即ち贋の、有袋類の猫、即ちフクロネコでな
ければならないといふのが、安部公房の論理であるといふことになります。

それでは、鼠はどうでせうか。

『キンドル氏とねこ』のメモの前に、『複数のキンドル氏』といふ、これもまたキンドル氏
を巡るメモがあります。しかも、複数のキンドル氏です。

「5. かいねずみ。「わたしは人間の哲学ですよ。すなわち人間はわが苦悩なり、われは世
界の傷なり。……わたしは通常アクマと呼ばれています」(全集第2巻、220ページ)

ネズミに対してカイネズミ。真獣類に対するに、もし存在する有袋類がカイネズミであるな
らば、これが上の引用にあるフクロネズミに相当するのであれば、確かにカイネズミは「人
間の存在形式の原型である」といふ事ができる。さうであれば、「わたしは人間の哲学です
よ。すなわち人間はわが苦悩なり、われは世界の傷なり」といふカイネズミの科白も納得が
行きます。

しかし、現実には不在の、非現実では存在の、有袋類のカイネズミが、現実の世界では「通
常アクマと呼ばれてい」るとは。さうであれば、ネコもまた、有袋類のフクロネコは、現実
には不在の、非現実では存在であつて、現実の世界では「通常アクマと呼ばれてい」るとい
ふことになるのではないでせうか。さう考へますと、引用はしませんが、この「複数のキン
ドル氏」の存在する現実の断面断層の、此の構想だけに終つた小説のメモには「昼のアクマ」
と「夜のアクマ」と名前が書かれてゐて(全集第2巻、220ページ下段)、それぞれ人間
の姿をしてゐて、二人の悪魔は「アクマとアクマの対立を意識すること」になつてをり(同
巻、220ページ上段)、この対立を止揚するために、『S・カルマ氏の犯罪』ではマネキ
ンのY子に相当する未分化の実存に生きる女性が「メタ嬢」と呼ばれて其の名前がメモされ
てをります(同巻、220ページ下段)。この「メタ嬢」は、「メタ嬢の手の作用」(同巻、
220ペー上下段)とありますから、安部公房の片手は存在の手でありますので[註5]、
二つの悪の対立を、メタ嬢の手といふ存在の中で止揚する構想なのでありませう。この女性
によつて統合されない状態を、安部公房は「主観と客観の混同、一般と特殊の混同」とメモ
してをります(同巻、220ページ下段)。
もぐら通信
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ページ

[註5]
存在の片手については、『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)をご覧ください。

「証明書ナシの生活だけが正シイとなすカルマ氏の説」とあるメモを見ますと(同巻、22
1ページ下段)、登場人物の一人に過ぎないカルマ氏が、2年後には主人公になつて、安部
公房に芥川賞を授与せしめるほどの形象に成長してゐるといふことになります。これらのメ
モを読みますと、恐らくは「夜のアクマ」氏とカルマ氏が一つに統合されて、受賞作にある
主人公、S・カルマ氏となつたものと推測されます。さうすると、S・カルマ氏を騙る名刺は、
昼のアクマといふことになります。さうでなければ、即ちS・カルマ氏が夜のアクマでなけ
れば、一つが二つに分裂して、主人公が其の間に存在する無名の何か、即ち時間の中で存在
のまま生きること、即ち未分化の実存になつて、社会から無罪の罪を問はれて遁走を続け、
両極端の間で苦悩する話にはならなかつたでありませう。

更に、このメモには、

「使用と支払の一致。その間のズレを埋めるのがカイネズミ。かいねずみによる幸福販売の
経ザイ理論。」(同巻、221ページ上段)とあつて、現実の時間の中での商行為といふ交
換関係にありまた交換関係より生ずる差異を埋めるのが、真獣類に対して二義的な存在であ
るカイネズミの役割であることが書かれてをります。

S・カルマ氏は以上のやうな「夜のアクマ」であり、カイネズミであつたのでありませう。
それ故に、『S・カルマ氏の犯罪』の最後に通じる「カルマ氏の言」として、「希望をなく
した壁ぎわ組」とあるメモ(同巻、221ページ下段)の次に、更に同氏の科白が次のやう
にメモされてゐます。

「君はいつか、壁ぎわにもたれた刹那のことを深い悦びとともに想浮かべる日があるにちが
いない」(同巻、221ページ下段)

このメモによりますと、『魔法のチョーク』の主人公コモン君に同じ名前がコモン氏と呼ば
れ、「アクマ哲学について、コモン式の解説」とありますから(同巻、222ページ下段)、
コモン氏はどうも「昼のアクマ」と「夜のアクマ」の一対の、そして其の後者である有袋類
の哲学に詳しい登場人物の様子です。ちなみに、『複数のキンドル氏』ではコモン君ではな
く、コモン氏ですから、安部公房は此のメモでは、何とか三人称の小説を書きたいと企図し
てゐたことがわかります。『魔法のチョーク』の主人公コモン君といふ君付けでは、まだ、
安部公房固有の話法の「僕の中の「僕」」に依るあの「呼びかける話者」が此の作品には残
つてゐるますから。
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ページ

興味深いことは、上の「アクマ哲学について、コモン式の解説」の次の行に、「マダムにソー
セージをふるまわれ、あわてて逃げ出す。」とありますので、「マダムにソーセージをふる
まわれ、あわてて逃げ出す」わけですが、このメモの後の作品、即ち『赤い繭』『魔法の
チョーク』『S・カルマ氏の犯罪』を念頭に置いて考へますと、このソーセージは『事業』
に描かれるソーセージ、それも「生物化学的にみても其の「蛋白質は牛よりも豚よりも、ま
してや、いかなる魚類などよりも人間に適した食物」である「鼠」のソーセージであるに相
違なく(同巻、510ページ上段)、「アクマ哲学かからソーセージへ」とメモのある以上
(同巻、220ページ下段)、また其の次の行のメモが「幸福の製造販売。副産物たるソー
セージ。」とある以上、このソーセージは『S・カルマ氏の犯罪』の主人公が最後に変形し
てなる壁と同類、壁と同質の形象なのです。何故ならば、主たる「幸福の製造販売」に対し
て副次的な位置にある「副産物たるソーセージ」が販売されるからです。主体(主語)は「幸
福の製造販売」、主体の販売する幸福に副次的、二義的に販売される客体(目的語)が「副
産物たるソーセージ」といふ訳です。クレオール論の論理構造と同じです。クレオール語も
また凹型をした存在の袋を持つ有袋類なのです。

さて、かうしてみれば、「アクマ哲学について、コモン式の解説」のできるほど此の哲学に
親炙してゐるコモン氏は、「条件の単純化―トロピズム、その必然性が方法を示」し、「条
件の単純化にそった認識方法。すべてが単純化トイウトロピズムのシンボルとして了解し、
その了解を自己のカンネントスル。ソレヘの帰依が真の幸福」といふメモ(同巻、221ペー
ジ上段))にある発想に従つて、トロピズムといふ植物の性質、即ち「植物が特定の刺激に
対し一定方向に屈曲する性質」[註6]を有するデンドロカカリヤといふ植物に、それもラ
テン名が「Dendrocacalia crepideifolia」といふ二つの語の間に一文字分の存在の隙間を有
する名前の植物に変形する運命に既に此の時、あり、またS・カルマ氏は、このメモの段階
では「カルマ氏の謀略(ネズミを逃したこと)」とあることから、かうして見ると判るやう
に、有袋類である「夜のアクマ」といふ贋アクマを逃したことによつて、「アクマ氏の死に
対する責任追求」がなされることになつてゐることが、これも、判ります(同巻、222ペー
ジ上段)。

[註6]
「コトバンク」:https://kotobank.jp/word/トロピズム-586508)

安部公房の「空白の論理」または「奉天の窓」の論理によれば、ドーナツといふ真獣類は、
真ん中にある従たり副たる二義的な空白の穴(凹)がなければ、この世には存在しないので
すし、シャミッソーの物語のやうに影といふクレオール語がなければ人間といふ真獣類は存
在しないのですから、カルマ氏がフクロネズミである「かいねずみ」即ち「通常アクマと呼
ばれている」アクマの一対の「夜のアクマ」を謀略的に逃してしまへば、真獣類たる「昼の
アクマ」も死んでしまひ、従ひ「アクマの死」といふことになり(同巻、221ページ下
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段)、「アクマ招コン式を急がねばならぬ」ことになり(同巻、222ページ下段)、「ア
クマ氏の部屋」(同巻、220ページ下段)といふ存在の部屋に「アクマ」といふ名前の存
在を招来しなければならないのです。

このメモを見る限り、後の『S・カルマ氏の犯罪』の最後に成長する壁は、まだここでは「希
望をなくした壁ぎわ組」の壁であり、カルマ氏が誰かに向かつて「君はいつか、壁ぎわにも
たれた刹那のことを深い悦びとともに想浮べる日があるにちがいない」といふ程度の、カル
マ氏が壁になるのではなく、誰かがなる壁であるといふ程度の、微かな形象としての壁とい
ふ名前になつてゐるに留まつてゐます。このメモの全体を見ますと、このメモで「壁にもた
れた刹那のことを深い悦びとともに想浮べる日があるにちがいない」登場人物は、「アクマ
氏」であると思はれます。それ故に、と言ひますか、順序は逆で安部公房の発想からいへば、
「ネズミを逃がした」カルマ氏によつて死んでしまつた「アクマ氏」が「アクマ招コン式」
によつて「アクマの部屋」に招魂されて「アクマの部屋」が存在の部屋になる。[註7]
「壁にもたれた刹那のことを深い悦びとともに想浮べる日」にもたれかかる壁は、このやう
に読みますと、存在の部屋の壁であり、存在の壁、即ち後々の『S・カルマ氏の犯罪』の最
後に成長する壁の前兆の形象としてある存在の壁といふことになります。

[註7]
アクマといへば、この初期安部公房の書いた小説に『悪魔ドゥベモウ』があります(全集第1巻、420ペー
ジ)。

この1948年3月8日付の作品には、安部公房の哲学用語、例へば、傾斜(断面・断層のこと)、転身、永
劫回帰、自己承認、暗号、実存、「明日の新聞」である「古新聞」、現存在、手の世界等の用語が使はれてゐ
て、翌年3月9日付の『キンドル氏とねこ』に到るまでの、丁度正確に一年前に其の前哨としての位置にある
ことがわかります。勿論、悪魔は「割れ目」から登場します。

また1963年、砂の女上梓の翌年に『悪魔』といふ3ページに満たない小説を、安部公房は書いてゐます(全
集第17巻、252ページ)。これも同線上で論ずることができます。やはり「ネズミ」が、それも日本語を
話す鼠が出てきて、主人公と時間論を論ずるのですが、最後に主人公が鼠を悪魔と呼ぶと、後者は此れを即座
に否定して、「私はこれでもれっきとした宇宙人なのですよ」と答へる。ここでもまた『使者』や『人間そっ
くり』の場合と同様に、topologicalに、有袋類の鼠がゐるといふことになりませう。

『S・カルマ氏の犯罪』の最後の方でS・カルマ氏をマネキンのY子が手を引いて地下世界か
ら地上世界へと(古代神話の世界の、例へばイザナギ、イザナミのミコトのやうな地下世界
からの男女の逃避・脱出行のやうに)導くやうに、このメモでもメタ嬢が其の役割を男に対
して演ずることになるので、男女の間にある「メタ嬢とアクマ氏の変な噂」が立つのです。
それ故に「アクマの死」に「メタ嬢のススリ泣き」の声が聞こえる(同巻、221ページ下
段)。この悲しむメタ嬢に、その死の因をなしたカルマ氏は、素知らぬ顔で「いかにも、そ
の死について秘密を共有しようといわんばかり」に近づくといふ訳です。この時のカルマ氏
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は「証明書ナシの生活だけが正シイとなす」とありますから(同巻、221ページ下段)、
存在となつた「アクマ氏」は「証明書ナシの」今や「正しい生活」を存在にあつてしてゐる
のだ、だから安心しろといふ口説き文句で、メタ嬢を口説くといふ設定になつてゐるのであ
りませう。

対して、社会的な立法の世界で「証明書の認可者にキンドル氏がなれるか?いないと困る。」
とありますから(同巻、221ページ下段)、「アクマ氏」に対するに(この場合は従ひ「ア
クマ氏」が『S・カルマ氏の犯罪』の主人公の位置にゐることになります)、キンドル氏が、
安部公房の散文詩『ユァキントゥス』[註8]の第一段落で呼びかけられてゐる「立法の女
神」、即ち「僕の中の「僕」」の後者、更に同じ段落の第一行に呼びかけられてゐる「運命
よ、私の心よ」に相当するといふことになります。

[註8]
散文詩『ユァキントゥス』の「立法の女神」と「僕の中の「僕」」の詳細な論述については、『安部公房の初
期作品に頻出する「転身」といふ語について(2)』(もぐら通信第57号)の「2。1 ユァキントゥスと
S・カルマ氏の関係:かくして安部公房は詩人から小説家への「転身」に成功した」をご覧ください。

ここまで話が進み理解が深まりますと、芥川受賞作『壁―S・カルマ氏の犯罪』所収の「事
業」の最後に、「彼の中の彼」殿に、即ち安部公房の固有の話法の形式で、宛名が書かれて
ゐるのは、宜(むべ)なるかなといふことになります。

何故なら、『事業』のソーセージは、このメモのソーセージと同じソーセージであり、しか
も時間の中で商業的に売買されて交換関係の中にある、醜悪とはいへ鼠の肉、人間の肉でも
なんでも潰して食用に供せられ得るものを一つにして袋状になつてゐる、有袋類の袋の存在
の姿であり、腸といふ袋に形象化された何かであるからです。この場合はソーセージと呼ば
れてゐる。何故ならば、ソーセージは一枚の皮に包まれてゐて、どんなものでも一つにまと
めて1にする、即ち存在にするからです。そして、しかも、この製品は大量販売されて世に
普及する。ここで連想するのは、戯曲『友達』の家族の帰属してゐて元記者が懇請して入会
させてくれるといふ、陰画の家族愛があれば「村から村へ、町から町へと編みひろげられ、
やがては国家や民族全体を暖かく包み込む、巨大なジャケツにと成長」して広く世に流布し
てゐて姿は見えないが誰でも入会できるのに何処に入り口があるのかわからない秘密の「編
物クラブ」[註9]であり、また大量販売され此の世での姿をした存在といふことであれ
ば、そして何でも飲み込んでしまつて1にしてしまふのであれば、『方舟さくら丸』の何で
も飲み込んで海といふ(リルケに学んだ)存在へと流し出す便器を思はずにはゐられません。
このやうに連想すると、あの便器もまた、海と共に存在の便器なのです。

[註9]
戯曲『友達』(全集第20巻、472ページ下段)を参照ください。この家族の背景にも、やはり大量販売、
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大量流布の形象のあることが書かれてゐます。辛辣な陰画の愛の組織の、陰画の存在としての流布。また、さ
うである巨大な編み物の形象。従ひ、1951年の『詩人の生涯』といふ「ユーキッタン、ユーキッタン」と
いふ呪文で始まる短編の編み物であるジャケツもまた、このやうに考へると、存在の編み物であり、それ故に
最後には「ジャケツを着て笑いながら働きに出る群衆」の間に流布するのです。

また、同じ受賞作所収の『洪水』もまたかうしてみれば、この洪水の形象は、大量に流布す
るといふことから、このメモの構想にある大量販売のソーセージと同様であることが判りま
す。同様だといふのは最後にはやはりいづれにせよ、人間の死があることが存在の実現と表
裏一体になつてゐるからです。『洪水』では、人間はソーセージにはなりませんが、液体人
間になつて世界中に大量頒布、大量流布されて、最後にはノアの方舟に侵入しー戯曲『友達』
で家族が闖入して来て最後には青年の死によつて青年の個人的な部屋が存在の部屋になるの
と同じ論理です(この主題はリルケの主題です)ー、方舟は生物が死に絶えて空っぽになり、
凹となつた箱である「無人の方舟は、風の間に間に流れだたよった。」といふ結末を迎へま
す。勿論、風は、安部公房がリルケに習つた、分離することのないー永遠の別離が愛の証明
であるといふ安部公房の論理からいへば其の愛の真性を証明するー、障害にあたつて別れて
もまた向かうで一つになることを容易になす存在といふ概念の具体的な形象です。

かうしてみますと、初期安部公房が存在、部屋、愛、別離、死(と生)、自己証認、「昼の
アクマ」でもなく「夜のアクマ」でもないといふAでもなくZでもないといふ第三の客観、
即ち両極端を否定しての無限回数の次元展開、即ち「転身」を繰り返す詩人の姿と其の世界
を、如何にこれらの言葉を特殊安部公房式に使用することなく、具体的一般的な形象に写し
て(写像と投影体)作品となしたかがよく判ります。これが、詩人から小説家になるに当た
つての、安部公房による問題下降[註10]の工夫であつた。

[註10]
問題下降が何を意味するかは、『デンドロカカリヤ論(前篇)』(もぐら通信第53号)に詳述しましたので、
これを参照して下さい。

IV 安部公房の小説観と世界認識
この『キンドル氏とねこ』のメモを総覧しますと、存在になる「アクマ氏」に対するカルマ
氏とコモン氏に対するに更に、複数たり得るキンドル氏を自己証明書の交付資格を有する第
三者として配し、「夜のアクマ」にメタ嬢を恋愛関係の中にある女性として配してゐること
が判ります。そして、この物語の主人公は、やはり「複数のキンドル氏」なのです。何故な
らば、メモの第一行が、次のやうであるからです。

「複数のキンドル氏→だからこれはあるキンドル氏の物語と言ってもよい。」
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ23
同じ文章が、私たちは『人魚伝』といふ、最後には主人公が「沢山のぼくの類似品」になつて
しまつてゐる小説の冒頭にあることを知つてをります。

「 ぼくがいつも奇妙に思うのは、世の中にはこれだけ沢山の小説が書かれ、また読まれたり
しているのに、誰一人、生活が筋のある物語に変わってしまうことの不幸に、気がつかないら
しいということだ。 [註10­1](略)
 物語の主人公になるといふことは、鏡にうつった自分のなかに、閉じこめられてしまうこと
である。向う側にあるのは、薄っぺらな一枚の水銀の膜にしかすぎない。未来はおろか、現在
さえも消え失せて、残されているのは、物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりする
ことだけである。(略)息をひそめた囁きや、しのび足が求めているのは、むしろ物語から人
生をとりもどすための処方箋……いつになったら、この刑期を満了できるのかの、はっきりし
た見とおしだというのに。」(全集第16巻、77ページ)

これでわかる事は、安部公房の物語観ですし、それは其のまま小説観です。

(1)物語は主人公の閉籠められてゐる閉鎖空間である。何故ならば、
(2)この空間は合わせ鏡の空間であるからだ。
(3)この空間には時間は存在しない。従ひ、
(4)主人公はただ「物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりすることだけである。」
しかし、
(5)小説は本来「筋のある物語」ではない。即ち超越論的な物語である。
(6)日常の時間に生きる人間は「筋のある物語」を求める不幸の自覚がない。
(7)「自分の人生をとりもどすための処方箋」として、安部公房の「筋のない物語」として
小説はあるのだ。 [註10­2]

[註10­1]
18歳の安部公房は此の社会を「無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口が殆ど無い」「偉大なる蟻
の社会」と呼びました。(『問題下降に依る肯定の批判』全集第1巻、13ページ下段)

[註10­2]
この(1)から(7)の全体を安部公房はエドガー・アラン・ポーを規準にして「仮説設定の文学」と呼びました。
詳細は「安部公房の変形能力2:ポー」(もぐら通信第4号)をご覧下さい。

この(7)にある此の目的のための小説の形式(form)と様式(style)が、「シャーマン安部
公房の秘儀の式次第」です。それ故に、いつも安部公房は存在へのtopologicalな「終わりし道
の標べに」立て札の標識を立てて、そこに存在の方向を示して、この世での主人公の死ととも
に、読者を次の次元へと案内して、小説は終る、いや、開いて続くのです。

この安部公房の小説観のついでに、同じ小説観を述べてゐる作品で、『人間そっくり』の元の
短編『使者』にある主人公奈良順平が火星人だと自称する男と会話をしながら心の中で思ふ論
理を見てみませう。

「……気違いだとすると、こいつは相当によく出来た気違いだよ。だが待てよ、もし本物の気
違いなら、この話はそのまま使ってもかまわないだろうな。これが使えるとなると、今日の馬
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ24
鹿気た手違いも、まんざらではなかったということになる。さっそく今日の講演に拝借して
やるか……うん、ちょっとした風刺もあるし、なかなか悪くなさそうだぞ……題は「偽火星
人」……通俗的すぎるかな?「箱の中の論理」というのはどうだろう?いや、ちょっと高級
すぎるよ。なにかその中間くらいのを考えてみることにしよう……」(『使者』全集第9巻、
306ページ下段∼307ページ上段)(傍線筆者)

この同じ「箱の中の論理」、即ち後年の『箱男』の論理をtopoloty(位相幾何学)との関係
で、本物と偽物、この論考でいふ真獣類と有袋類の関係を、人間と人間そつくりの関係の問
題として解を種明かしとして説明してゐる箇所が、前者、即ち『人間そっくり』に書かれて
ゐます。即ち『箱男』はtopologyで解読することができるのです。即ち、このことは、『箱
男』のみならず、全ての安部公房の作品は、接続と変形といふ視点、言ひ換へれば真獣類と
有袋類といふ視点から解読することができるといふことを意味してゐます。[註11]

[註11]
Topologyと存在概念については、『存在とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼』(もぐら通信第
41号)をご覧ください。また「箱の中の論理」と其の読解については『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真
を読み解く∼」(もぐら通信第34号)をご覧ください。

『人間そっくり』より以下に引用する奈良純平といふ主人公と火星人との会話を読むと解り
ますが、主人公の思つた「箱の中の論理」は、「そつくり」といふ事の内にtopolotyと呪文
と変形(の方法論と方法)を含んでをり、あるいは逆にこれらの三つの構成要素に基礎を置
いて、全ての作品の持つ「箱男」の論理は成立してゐるのです。

十代の安部公房が考へ抜いて概念化した四つの用語、即ち部屋、窓、反照、自己証認からな
る安部公房の宇宙を思ひ出して下さい。部屋は存在の部屋、窓はtopologicalな変形と脱出
の出入り口、反照は再帰的な複数の自己の存在する合はせ鏡、自己証認は次元展開、即ち「転
身」の果てにみることによつて成り立つ第三の客観によつて存在が証明される「僕の中の
「僕」」。これらの関係については『詩と詩人(意識と無意識)』に詳述されてゐますので、
ご一読をお薦めします。

「「それ、なんなの?トポロジー、トポロジー、と、しきりに言っているけど、さっぱり、
どうも、その方面のことにはうとくてね。」
「要するに、ほら、位相幾何学のことですよ。」
「そう言われても、残念ながら、ぼくの知識はやっとこさ球面幾何どまりなんだ。」
「これは失礼……なあに、原理はひどく単純素朴なものでしてね……一と口に申せば、《そっ
くり》の数学とでも言いますか……つまり、《人間そっくり》の《そっくり》ですね。従来
の数学では、イコールで結ぶことなど思いもよらなかった、たとえば、野球のバットとボー
ルの様なものでも、トポロジーの世界では、共に一次元ベッチ数がゼロの、ホモローグな球
面ということで、イコールになってしまう。ちょっと、奇妙に感じられるかもしれませんが、
これがけっこう、人間の直観の形式に、ひどく似通ったものを持っているんですね。別なた
とえですが、ドーナッツ、あの輪の形をした揚げパン―トポロジーのほうでは、一次元ベッ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ25

チ数2のトーラスって言うんですが―一応ドーナッツの形をしているかぎり、ふくらんでい
ようが、ひしゃげていようが、人間の眼には同じドーナッツです。ところが、電子計算機に
とっては、変形ドーナッツのパターンの判読は、意外にやっかいなことらしいんですね。反
対にこれが、犬なんかの場合だと、まるでホモロジーでないパンとドーナッツでも、原料と
製法が同じなら、完全に同じものに見えるにちがいない。どうです、トポロジーってやつは、
えらく人間くさいものでしょう。逆に言えば、これまではただ曖昧で、いいかげんな概念だ
と思われていた《そっくり》が、じつはトポロジー以前の数学ではとらえられないほど、高
度、かつ精密な論理構造を持っていたといふことにもなるわけですね。たかだか《そっくり》
だなんて、馬鹿にしちゃいけないってことですよ。まったく、その《そっくり》のおかげで、
ぼくなんか、現にこのとおり、半死半生の目にあわされているんですから。」
「それよりも、君、彼女たちの方は……」
「まあ聞いて下さいよ……けっきょく、気違いと火星人という、二つのヴェクトルを統一す
る場は何か。考えられるのは、まず次の様なトポロジーです。すなわち、自分を火星人だと
思い込んで居る、地球人の気違い……」
「……それだけ?」
「もしくは、自分を火星人だと思い込んで居る、地球人の気違い……だと思い込まれている、
火星人……」
(略)
「でも、いまのホモローグ、直観だけじゃ追いつけないんじゃないですか。先々、どこまで
も、無限に続いていって……自分を火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込ま
れている火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人だと思い込
んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人……」
「その辺で、もうけっこう。それじゃ、その呪文を、君のトポロジーでやったら、うまく、
けりがついてくれるっていうの?」」(『人間そっくり』全集第20巻、304ページ下段
∼305ページ上段)(傍線筆者)

「人間そつくり」から「真獣類そつくり」に、「キンドル氏そつくり」に話を戻します。

さて、従ひ、「複数のキンドル氏→だからこれはあるキンドル氏の物語と言ってもよい。」
といふメモは、上記(1)から(7)を巡る物語のメモなのです。といふ事は、一人の主人
公が閉鎖空間である物語といふ現実に流布されてをり人々が信じてゐる、時間の流れる一次
元の日常の虚構または虚構の日常から脱出すると、キンドル氏は複数になる、これを分裂と
いふのが適切かどうか、要するに同じキンドル氏が複数、日常の時間を脱すると、ゐるとい
ふことになる。

再度前述の「人間の存在形式の原型である」玩具(おもちや)の猫、即ちこの「現実という
複雑な傾斜の上をころが」る「言語という球」としての猫についての引用しますと、「この
猫は現実の時間の断層であり断面である斜面を転がつて、言語的に多次元的な諸相を写し映
すものである、そのやうな写像の対象となる投影体である」ならば、何匹もの猫が(この世
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

にはあらぬ)不在のチェシー猫として、安部公房の主人公が凹(窪み)を脱出する際にいつ
も見る時間の断層と断面である此の世の現実の斜面に存在するといふことになります。安部
公房の猫は、このやうに、人間の意識に応じて、何匹にも異次元では分かれてゐるのです。
さて、このことを念頭に置いて先へ進みます。

上の『人魚伝』の冒頭にある安部公房独特の小説観と上の段落の此の再述を併せて考へます
と、安部公房は明らかに現実を面の集合と考へてゐることが判ります。[註12]安部公房は
二次元の面の集合として、立体的な三次元の此の時空間を考へてゐる。成る程、これで何故
安部公房が言語の本質を人に伝へる時にいつも幾何学的に、二次元の平面としての円を持ち
出して、この円の積分値を求めれば、ほら見てごらん、3次元のチューブになるだらう、こ
れが言語なのだよ、といふ理由がよく解ります。[註13]

[註12]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より、言語化する禁忌(タブー)の意識と現実を面としてみ
て、その交換をtopologicalに考へる19歳の安部公房の言葉を『僕は今こうやって』(全集第1巻、88ペー
ジから89ページ)から引用します。

「冒頭引用した『〈僕は今こうやつて〉』の文章に戻ります。これを読むと、安部公房の展開する論理は、

「僕が其の内面について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事なのだ。努力して外面
を見詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。そして特に、僕達が為
し得る事は、そして為さねばならぬ事は、その外面を区別し見る事を学ぶと云う事ではないだろうか。」
(略)
この窪みにある秘密は、

「では内面は?そうだ、それが問題なのだ。だが一体言葉がその内面に直接触れる等と言う事があって良いも
のだろうか。勿論それはいけない事だし、それに第一あり得可からざる事ではないだろうか。」

と考えているように、言葉にしてはならないという禁忌意識と分かちがたく結び付いています。」

[註13]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論
理といふ毒(詩の毒)」より、以下に引用してお伝へします。

「[註20]
「 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて推測すれば、要するに言語は一
般条件反射の積分値だと言いたかったんじゃないかな。
――-積分値、ですか?
安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考
えて貰えばいい。初めが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換
のほうを採りたいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理してい
るのかは、今後の研究に待つしかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。 」
(『破滅と再生2』全集第28巻、255ページ)また、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

「たとえばパブロフは、条件反射で有名なあのパブロフですが、《言語》を一般の条件反射よりも一次元高次
の条件反射とみなしていたようです。(略)
 「一次元高次」のという意味は、たとえば紙のうえに円を画き、その円を紙から話して空中移動させてみて
ください。チューブが出来ますね。平面が一次元高次の空間になったわけです。言葉を替えれば二次元が三次
元に積分されたことになります。つまりある条件反射の系の積分値として《ことば》を想定したのがパブロフ
の仮説になるわけです。ぼくとしては「積分」よりも「デジタル転換」のほうを採りたいような気もしていま
すが、今のところこれ以上の深入りはやめておきましょう。肝心なことは、《ことば》をあくまでも大脳皮質
のメカニズムとして捉えようとした姿勢です。」(『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そして
DNA』全集第28巻、232ページ)」

言語は、安部公房の主人公が現実といふ閉鎖空間を脱出するための再帰的な道、そうであれ
ばtopologicalな変形の道[註14]である。闇夜の中にゐて、一筋天上から射す再帰的な光
である。[註15]何故ならば、元々現実は座標を持たず、皆人々は座標があるといふ虚構の
物語を盲目的に無反省に信じてゐるからだ。といふのが、安部公房の思ひであり、論理です。

[註14]
『問題下降に依る肯定の批判』から、この道の定義を引用します。

「そして此の道は他の道とははっきりと区別されて居なければいけない。第一に此の遊歩道はその沿傍に総て
の建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。それは一つの具体
的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や
湖に出る事が出来る事が必要だ。或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。
遊歩場は、都会に住む人々の休憩所となると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」(全集第1巻、12ペー
ジ下段∼13ページ上段)

[註15]
『問題下降に依る肯定の批判』から、この箇所を引用します。

「我々は常に余りに座標を近辺に求め過ぎる。勿論一つの断定は座標に依って為されなければなるまい。が一
体その座標はそれ自身何処に定義されて居るのだ。此処に於いて更に新しい座標―より抽象的な―が現れる。
そして此の事は無限に繰返されて行く。では此の事―真理の認識―は不可能なのだろうか。しかし此処に新し
い問題下降―一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか。これこそ雲間より洩れ来る一条の光なのであ
る。」(全集第1巻、12ページ下段∼13ページ上段)(原文は傍線は傍点)

V 何故安部公房の主人公は複数存在するのか?
前の章の「人間そつくり」のtopologyの説明で、この問ひに対する答えは抽象論理的には明
解に回答したことになりますが、しかし、やはり具体的に更に作品に即して考察を続けませ
う。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ28

初期安部公房の「②詩と散文統合の為の問題下降」と「③散文の世界での問題下降」の丁度
中間期、1949年8月1日の小説『デンドロカカリヤ』(雑誌「表現」版)発表の前の3
月9日付の小説のためのメモが『複数のキンドル氏』ですので、この版の『デンドロカカリ
ヤ』に同じ「複数のキンドル氏」の登場する場面がありますので、そこを以下に引用してお
伝へします。勿論、名前はキンドル氏ではなく、コモン君といひます。冒頭共有と結末共有
については変はりません。「複数のコモン君」の話、それが実は『デンドロカカリヤ』とい
ふ小説なのです。何故ならば、いふまでもなく、それは接続と変形の話だからです。否、後
者の故に、前者があるのです。即ち変形するに際しては、いつも複数の主人公がゐるのです。
上に引用した『人間そっくり』の中の、人間と人間そっくりの会話を思ひ出しながらお読み
下さい。再帰的な変形の合はせ鏡の世界です。

「石ころを今度は別な足が蹴っているのさ。ざっと音をたてて、意識が軽い断層の模型をつ
くる。すべすべした[註16]その断層面に、コモン君は、そう、はっきりそのままの格好
をした自分が映っているのを見たんだ。路端の石を蹴って驚き、想出せないものを想出そう
と努めながら、断層の鏡に映っている自分を見詰めている自分を見詰めている自分を……。
二枚の鏡に映った無限の像だね。それらを隔てているものが時間上の距離だか空間的な距離
だかよく分からなかったが、多分両方にまたがっていたのだろう。どう考えてみても、これ
は最初の体験ではなく、到るところで、もう何回となく繰り返した憶えがある。どこかへ引
きさらわれてゆく感じと言ってもいいさ。その時なんだよ。コモン君はふと心の中で何か植
物みたいなものが生えてくるように思った。ひどく悩ましい生理的な墜落感、不快だったが
心持良くもあった。と、今度は本格的な地割れらしい。地球が鳴りだした。(地球もやっぱ
り此の重みに耐えかねたのだろうか?)ぐらぐらっとしたと思ったとたん……全く変なのさ、
(略)足が見事に地面にめり込んでいる。なんと植物になっているんだ!(略)木とも草と
もつかぬ変形。そして意識の断層は、もう模型どころではない。たしかに自分の外に、空を
覆うように巨大な壁が現実に存在していた。だが模型のときほどの断層面が滑らかでないの
で、顔を近づけてみると……、いや、そうじゃないのさ。顔がぼんやり見えたので、断層面
が滑らかでないと考えたのだが、実はね、ぼんやり見えたのじゃない、顔の具合がひどく変
てこだったので、錯覚しちゃったのさ。どんなって、君、コモン君の顔は裏返しになってい
たんだ。(略)顔を境界面にして内と外がひっくりかえる。」
(全集第2巻、236ページ上下段)

「意識が軽い断層の模型をつくる」といふ「その断層面」の「すべすべした」感触は、既に
『別離』といふ転身を歌つた詩に、現世の一次元の時間の消失との関係で、次のやうに歌は
れてゐます。

「暁とは郷愁の転身する兆(しるし)
 夕べに生まれたまたゝきを
 消し去る陽差(ひざし)の予感にあつて
 尚ほ滑石(ためいし)の肌さらす
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

 別離とも呼ぶ孤独の惑星」
(全集第1巻、181ページ)

すべすべした滑石の肌の孤独の惑星であるのか、または別離といふことの肌合いが滑石のや
うなすべすべとした肌であるのか、この両義性も安部公房らしい。ここにあるのは、別離が
愛の証明であり、遥かな距離を隔てて、閉鎖空間から脱出すること、さうして孤独の惑星に
住むこと、そして此の契機は「天の斜面に光り出て」、即ち天の断面、断層から光が現れて
(ここは『問題下降に依る肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―』の一
条の光と同じ)、過去から未来への時間が消えて断層面の俯瞰と鳥瞰ができるといふことで
す。これは、『没落の書』の後半に散文詩「概念の古塔」で書かれてゐる世界と同じである。
塔の中は空虚であり且つ自然豊かに豊饒である。『没落の書』の散文詩「概念の古塔」の一
読をお薦めします。

さうして、「断層の鏡に映っている自分を見詰めている自分を見詰めている自分を……。二
枚の鏡に映った無限の像」とある通りで、これは全くtopologicalに再帰的な、「人間そつ
くり」の火星人と同様の「コモン君そつくり」の複数のコモン君の姿が、それが何故かも含
めて、明らかに書かれてゐるのです。

「どこかへ引きさらわれてゆく感じ」といふのも、良いでせう。問題下降に依る肯定の批判
―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―』に書かれてゐる通りに、座標軸がなくなる
わけですから(「一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか。」(傍線は原文点線)
全集第1巻、12ページ)、即ち日常の時間の中で信じてゐた物語の虚構が壊れるわけです
から、コモン君は「ひどく悩ましい生理的な墜落感」を覚える。かうして人攫(さら)ひに
あへば、いつもの通りに救急車の甲高いサイレンの音が聞こえる。コモン君の場合には、「地
球が鳴りだした」のであれば、この鳴動の音もまた甲高い音でありませう。さうして、「木
とも草ともつかぬ変形」、即ちAでもなくZでもなく、右でもなく左でもなく、両極端の否
定を超えて其の向かうの第三の客観、即ち合はせ鏡の世界で無限回数の「転身」の結果に至
る自己の究極の反照を観て、コモン君自身が存在になる。つまり、自分には外部があり、「た
しかに自分の外に、空を覆うように巨大な壁が現実に存在していた」ことを知るのです。こ
こに至つて「既にして」(超越論的に)、コモン君は内部と外部が交換されてゐるのは、「顔
を境界面にして内と外がひっくりかえる」とある通りです。ここから『S・カルマ氏の犯罪』
の結末まで、もう少しです。

さて、随分道草を食つて、少し遠くへ来すぎました。最初の問ひに戻ります。

何故安部公房の猫はいつも殺されるのでせうか?

それは、真獣類に対するに、現実には存在しない、存在に永遠に生きる贋の猫、即ち有袋類
の猫であるから、前者に対するに対称的な、しかし少しだけズレてゐる本物そつくりの猫、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

即ち「猫そつくり」であるから。といふのが、その理由になりませう。『燃えつきた地図』
の冒頭に描かれるあの「たがい違いにずらして建ててある」団地の建物群[註17]と同じや
うに「団地そつくり」の「猫そつくり」なのです。『燃えつきた地図』の依頼人の住む高台
の団地も有袋類の存在の袋なのです。真獣類と有袋類のズレの隙間を主人公の探偵は彷徨ふ
のです。『カンガルー・ノート』の主人公と同じやうに。

[註17]
全集第21巻、117ページ下段を参照下さい。

『人間そっくり』の主人公は「《トポロジー神経症》」かも知れないと自分が疑ふ其の医者
に問診されて、この精神病院の中が地球の上なのか火星の上なのかに答へられない。何故な
ら、述語部にゐる客体かも知れないと医者のことを疑ふと、医者と自分もtopologicalに述
語部で等価交換されて、自分もまた「人間そっくり」といふことになり、私は火星人である
といふ答へを口にすることになるから。小説では、主人公が火星人か地球人かの判定は「法
廷の外にいるあなたに」委ねられてゐる。[註18]即ち、あなたが「法廷の外にいる」無
名の何か、即ち存在でゐなければ、この医者の質問に正解することはできません。Aでもな
くZでもない、第三の客観に、あなたは限りない自己放棄、自己滅却、自己忘却、自己喪失
の次元展開即ち「転身」の果ての果てに自己の反照たる第三の客観を観ることがなければ存
在になることはできない。これは、しかし、禅問答の公案に答へるのと同じ要領ですが、こ
の要領を会得するのが難しい。

[註18]
全集第20巻、334ページを参照下さい。

VI 安部公房はリルケの天使を殺したのか?
最後に付記すれば、有袋類のカイネズミがアクマであれば、対するフクロネコはテンシだと
いふ事になります。『複数のキンドル氏』でも、猫は悪魔に対抗する反対の極でしたから、
一言で結論を言へば、安部公房はリルケの天使を有袋類のフクロネコに変形させて、殺した
といふことになります。

一人娘ねり氏に買ひたいといふ葉書の「おもちゃのネコ」は、リルケの天使であつた。

「安部公房」であるあなたに問ひたい、しかしまさか『オルフェウスへのソネット』の、あ
れほど大切にしてゐて、「空白の論理」の世界で永遠に休むことなく「転身」し続けるあな
た自身に外ならぬオルフェウスを、まさか有袋類に変形させて、小説の中のどこかで、殺し
たりはしてゐないでせうね、と。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

しかし、もしひよつとしてさうしてゐたとしたら、その有袋類の名前はなんといふのか。天
使は飛翔しますから、ひよつとして、あの『飛ぶ男』の存在になつて空飛ぶ贋の弟なのか?
「飛ぶ男」は最後に殺されるのか?

いや、私もここゐら辺で、真獣類の正統なる堅気の、立法の世界に戻る方がよささうです。
「飛ぶ男」が「天使そつくり」の有袋類かどうかの判定は「法廷の外にいるあなたに」安部
公房に倣つて、委ねることに致します。どうか此の恐ろしい問ひに回答する「以前に」[註
19]、あなたが存在になるための呪文をまづ唱へてから、有袋類の世界にお入り下さい。

(「ぶつぶつと 呪文のやうに いつまでも……」)[註20]

[註19]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)の註釈から、安部公房の超越論の論理を支へる「∼以前」と
いふ言葉についての解説を引用します。

「安部公房は、何か危機的な時、転機の時には、いつも言語とは何か、文学とは何かを問い、後者の問いの次
には、必ずといってよい程、その最初に戻って物を考え、前者との関係で詩とは何か、小説とは何か、戯曲と
は何かを問うて、そうして言語以前、詩以前の、即ち未分化の実存と言う未だ名付けられない存在のことを考
察してから、その問題の本質へと入って行きます。即ち、論ずる対象「以前」に戻って考えるということを致
します。更に即ち、時間を捨象して、物事の本来の、根源的なあり方として物事を考える、そのそもそもを存
在論的に考えるのです。そうしての根源的な、論ずる対象のあり方を存在と呼び、存在として、即ちこの世に
現れている「以前」の無名のものとして考え、それを論じる対象との関係にある語彙を使って次に有名なもの
として考え、論じるのです。 [註22]」

[註20]
全集第29巻、14ページの最初の、主人公のプロフィールとしてある案内板、存在の方向を指し示す立て札
の隣にある呪文をご覧ください。この立て札は、神社の社務所で私たちの買ふ護符のお札のやうに見える。ま
た、お寺の山門にあなたが貼付する千社札。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 32

安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
(3)

岩田英哉

目次

I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について
II 「転身」といふ語について:「転身」とは何か
III 「転身」といふ語のある詩を読む(「①詩の世界での問題下降」期の詩)
1。転身といふ語のある詩
2。「①詩の世界での問題下降」の時期の詩
2。1 ユァキントゥスとS・カルマ氏の関係:かくして安部公房は詩人から小説家への「転
身」に成功した
2。2 安部公房はリルケから何を独自に学んだか
3。「②詩と散文統合の為の問題下降」の時期の詩
3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題
3。2 詩集『没我の地平』:1946年(転身:計4回):問題上昇(デジタル変換)に
よる詩集
3。3 詩集『無名詩集』:1947年5月(転身:計1回):問題下降(アナログ変換)
による詩集
IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)
V 「転身」といふ語のある詩を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の詩)
VI 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界で
の問題下降」後の小説)

*****

IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)
転身といふ言葉を、その出現頻度の多寡によらず、これを含む主要な小説を、以下に年代順
に挙げて論じます。

1。「②詩と散文統合の為の問題下降」の時期
(2)詩と散文の統合:詩形式による「今後の問題の定立」(『無名詩集』):1946年
∼1949年:22歳∼25歳:チャート図では青い色の枠で示してゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

【散文に関する結論】

『終りし道の標べに』では、

(1)安部公房独自の話法、即ち内省的な記憶の中での「僕の中の「僕」」に呼びかける話
法にあつては、会話は《 》でやりとりされてゐる。それから、
(2)此の意識に連なる場合の哲学用語についても、《 》で書かれてゐる。これに対して、

(3)呼びかけない話法、即ち形式上普通の話法にあつては地の文の中で「 」で語られて
ゐる。
(4)『終りし道の標べに』は、このやうな二層の構成をとつてゐる。そして、

『名もなき夜のために』では、

(1)《 》の使ひわけはそのまま〈 〉といふ記号として『名もなき夜のために』に受け
継がれてゐる。しかし、この使ひわけはもつとよく整理されてゐて、
(2)安部公房独自の話法の内にある詩の世界の言葉だけが〈 〉といふ記号で識別されて
ゐる。一言でいへば、リルケの世界に関する用語だけが〈 〉の中にある。勿論哲学用語と
重なる同じ言葉はあるが、それは哲学用語ではなく、リルケと自分の詩の世界の言葉である。
哲学用語が〈 〉の中にあることはない。即ち哲学用語は地の文の中に問題下降されてゐて、
普通の言葉になつてゐる。
(3)『終りし道の標べに』を問題下降して『魔法のチョーク』を書くために、『無名詩集』
をも併せて問題下降した数学的中間項である詩的・散文的作品『名もなき夜のために』は、
『終りし道の標べに』を踏襲して、このやうな二層の構成をとつてゐる。
(4)『名もなき夜のために』では、後述する安部公房の問題下降の努力によつて、安部公
房らしいことに、《 》や〈 〉の記号の階層にある文と地の文に書かれた文字そのもの、
文章(text)そのもののtopologicalな交換、即ち『デンドロカカリヤA』(雑誌「表現」
版)の主人公コモン君の経験した座標の喪失、即ち内部と外部の交換を、安部公房は『名も
なき夜のために』で、自分自身の事として、そして文章(texts)の問題として実行した。こ
れは、全くバロック的な試みであるといふ事ができる。

このやうに意図して、また同時にtopological(位相幾何学的)な方法で、安部公房は詩人か
ら小説家になつたのである。この論理的な、問題下降による変身または「転身」は、誠に安
部公房らしい。

『終りし道の標べに』にある関連用語は[註1]に、『名もなき夜のために』にある関連用
語は[註2]に洗い出して、この章の最後にまとめて列挙してありますので、詳細はこれら
の註をご覧ください。今その中から論ずるための目的、即ち如何に安部公房が詩人から小説
家に変身を遂げたか、即ち安部公房が如何に詩と小説を融合させたかを論ずる為に、必要な
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ページ

言葉を抜き出して、論じます。各行の最初の( )の中の番号は、この章の最後にある[註
1]と[註2]の通し番号です。

(2。1)『終りし道の標べに』
『終りし道の標べに』にある哲学用語と関連する安部公房独自の用語と句を洗い出すと、次
のやうになります。《 》の中の言葉ではあるものの、しかし会話のやり取りの言葉は省き
ました。

(16)《斯く在る》(32回)
(17)《私は在る》(1回)
(18)《存在象徴》(2回)
(19)《自己の存在象徴》(1回)
(20)《どんな事にでも何でも無い人間が居るものさ》(1回)
(21)《故郷の無い真理はない》(1回)
(22)《何か》(1回)
(23)《失われた自由》(1回)
(24)《その内お前の秘密までも売るのだろう》(1回)
(25)《終りし道の標べに》(9回)
(26)《さようなら……愛する故郷よ》(1回)
(27)《総ては詩》(1回)
(28)《小さな神様》(1回)
(29)《詩》(1回)
(30)《愛は永遠に始まらないもの》(1回)
(31)《知られざる神》(1回)
(32)《崇高な》忘却(1回)
(33)《人間は……何故に……斯く在らねばならぬのか》(1回)
(34)《気持ちの悪い人間》(1回)
(35)《経験》(1回)

上の(16)から(35)から似た者同士を集めて類の集合を作つてみませう。つまり、意
味の同じか同じ意味に相当する語、即ち類語類句を一つにして幾つかのグループに分けて見
るのです。すると、似た者同士を色分けして見ますと、かうなります。

(16)《斯く在る》(32回)
(17)《私は在る》(1回)
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ページ

(18)《存在象徴》(2回)
(19)《自己の存在象徴》(1回)
(20)《どんな事にでも何でも無い人間が居るものさ》(1回)
(21)《故郷の無い真理はない》(1回)
(22)《何か》(1回)
(23)《失われた自由》(1回)
(24)《その内お前の秘密までも売るのだろう》(1回)
(25)《終りし道の標べに》(9回)
(26)《さようなら……愛する故郷よ》(1回)
(27)《総ては詩》(1回)
(28)《小さな神様》(1回)
(29)《詩》(1回)
(30)《愛は永遠に始まらないもの》(1回)
(31)《知られざる神》(1回)
(32)《崇高な》忘却(1回)
(33)《人間は……何故に……斯く在らねばならぬのか》(1回)
(34)《気持ちの悪い人間》(1回)
(35)《経験》(1回)

これを見ますと、結局二つのグループがある、といふか二つのグループしかないのです。こ
れを更に赤と青の二つに分けてみませう。

[赤のグループ]
(18)《存在象徴》(2回)
(19)《自己の存在象徴》(1回)
(21)《故郷の無い真理はない》(1回)
(22)《何か》(1回)
(25)《終りし道の標べに》(9回)
(26)《さようなら……愛する故郷よ》(1回)
(27)《総ては詩》(1回)
(28)《小さな神様》(1回)
(29)《詩》(1回)
(30)《愛は永遠に始まらないもの》(1回)
(31)《知られざる神》(1回)
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(32)《崇高な》忘却(1回)

[青のグループ]
(16)《斯く在る》(32回)
(17)《私は在る》(1回)
(20)《どんな事にでも何でも無い人間が居るものさ》(1回)
(23)《失われた自由》(1回)
(24)《その内お前の秘密までも売るのだろう》(1回)
(33)《人間は……何故に……斯く在らねばならぬのか》(1回)
(34)《気持ちの悪い人間》(1回)
(35)《経験》(1回)

[赤のグループ]は何についての集合かといへば、存在(sein:ザイン)といふ概念につい
ての集合、[青のグループ]は何についての集合かといへば、現存在(dasein:ダーザイ
ン)といふ概念についての集合であることがわかります。前者を代表するする語は1回のみ
書かれる《何か》、即ち存在であり、後者を代表する語は32回も書かれる《斯く在る》で
す。即ち前者は存在、後者は現存在です。前者は時間を捨象した概念、後者は時間の中での
概念であり、それ故に前者は小説全体の均衡(バランス)の中心に一度だけあればよく、後
者は時間の中で何度も何度も繰り返して書かれる必要があるのです。私たちが毎朝歯磨きを
するやうに。さて、ここから更に重要なことに言及します。それは、

存在と現存在に関わる言葉、即ち哲学用語については、安部公房は《 》といふ記号を使つ
て表してゐることです。

これに対して、この記号を使はない地の文の中にある言葉、とは云つても相変はらず哲学的
な抽象用語であるわけですが、それでも上記用語と峻別して、安部公房が哲学用語と其の概
念に学んで、これを自分自身の詩の世界に問題下降した、普通の言葉で言へば自家薬籠中の
ものとなした『終りし道の標べに』の中の言葉は、次の通りです。最初から色分けして頻度
順に並べます。

(1)愛(36回)
(2)存在(29回)
(3)存在象徴(24回)
(4)象徴(21回)
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ページ

(15)存在の象徴(1回)
(5)在る(7回)
(6)「在る」(5回)
(7)転身(3回)
(8)かく在る(3回)
(12)斯く在る(1回)
(13)実存(1回)
(9)象徴自身(3回)
(11)存在自身(1回)
(10)暗号(2回)
(14)微号(暗号)(1回)

これを使用頻度順・類義語順で、更に次のやうにまとめます。

象徴:46回
(3)存在象徴(24回)
(4)象徴(21回)
(15)存在の象徴(1回)

存在:41回
(2)存在(29回)
(5)在る(7回)
(6)「在る」(5回)

愛:36回
(1)愛(36回)

現存在:5回
(8)かく在る(3回)
(12)斯く在る(1回)
(13)実存(1回)

再帰的自身:4回
(9)象徴自身(3回)
(11)存在自身(1回)
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転身:3回
(7)転身(3回)

暗号:3回
(10)暗号(2回)
(14)微号(暗号)(1回)

このまとまりを見ますと、

象徴:46回
存在:41回
愛:36回
現存在:5回
再帰的自身:4回
転身:3回
暗号:2回

でありますから、結局安部公房は、『終りし道の標べに』で一体何を書いたのかといへば、

(1)『終りし道の標べに』の地の文では圧倒的に、象徴と存在と愛の関係について書いて
ゐるといふこと。これに対して、上で見たやうに、
(2)《 》といふ記号を使つた哲学的思惟の領域では、安部公房はもつぱら存在と現存在
について書いてゐるといふこと。即ち、
(3)『終りし道の標べに』は二層になつてゐて、下層は存在と現存在について語り、上層
は、これもやはり時間の中で、即ち後者、即ち現存在に人間が生きることの象徴と存在と愛
の関係について語つてゐること。即ち、

『終りし道の標べに』の中で安部公房は何を書いたのかといふと、「金山の伝記を書き度い
と思つてゐる。これは容易な事ではない。詩であつてもならないし、伝説であつてもならな
い。やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、
人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人
の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないのだとしたら……」といふ思ひで、この
「……」といふ余白と沈黙の中で書いた此の小説は、存在と現存在との関係で、歴史と時間
の中に生きる人間についての象徴と存在と愛について書いたのだ、といふことになります。

勿論(3)の上層と下層の上下を逆にしても良いでせう。また、上の(1)から(3)の中
で、
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もぐら通信                          ページ39

現存在:5回
再帰的自身:4回
転身:3回
暗号:2回

といふ頻度の少ない4つの言葉は、頻度が少ないから重要ではないのではなく、象徴・存在・
愛との関係で、その重要性が論ぜられるべきことなのです。何故なら、現存在は存在と結び
つき、従ひ(その語構成から言つても)存在自身に再帰的に結びつき、存在として(時間の
在る)現実の中を生きること、即ち無償の愛と永遠の別離による愛の真実性の証明をするた
めの転身の愛、即ち自己犠牲、自己忘却の愛が転身の果てに(現存在として)解読する
(decode)混沌と迷路の世界の暗号(code)といつたやうに。

(2。1)『名もなき夜のために』
『終りし道の標べに』と同様の方法と手順で、「転身」と其の関連用語を抽出して、分類し、
色で識別して、列挙します。最初にリルケと自分の詩の世界に関する〈 〉で括られた用語
から挙げます。

その用語を使用頻度の高い順に並べると、次のやうになります。

(9)〈在る〉:存在)(8回)+(8)〈存在〉(3回)=11回
(11)〈愛〉(4回)
(10)「〈斯く在る〉」:現存在(3回)
(14)〈名前〉(2回)
(12)〈恋人〉(2回)
(13)〈今〉(1回)
(15)〈リルケ論〉(1回)
(16)〈夜の調べ〉:「あんなに素朴な〈夜の調べ〉でさえ僕を置きざりにして見る螺旋
の渦に吸いこまれて行くようだった。」(1回)
(17)〈原始音〉(1回)
(18)〈笑い〉(1回)
(19)〈僕〉(1回)[註3]
(20)〈彼〉(1回)[註3]

これを見ると、主題は圧倒的に存在です。哲学用語とリルケと詩に関する用語は極度に減少
してゐることが判ります。
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もぐら通信                          ページ40

『名もなき夜のために』では、安部公房の問題下降の努力によつて、〈存在〉とは書かれず、
〈在る〉といふ普通の動詞が〈 〉の中に入れられてゐるが、『終りし道の標べに』では存
在といふ地の文の中の「存在」は29回もある。愛は、後者では地の文で36回書かれてゐ
るが、しかし前者では〈愛〉は4回に減つてゐる。安部公房らしい、《 》や〈 〉の記号
の階層にある文と、地の文に書かれた文字そのもの、文章そのもののtopologicalな交換、
即ち『デンドロカカリヤA』(雑誌「表現」版)の主人公コモン君の経験した座標の喪失、
即ち内部と外部の交換による超越論的な変形を、安部公房は『名もなき夜のために』で、自
分自身の事として、そして文章(texts)の問題として実行したのです。

〈リルケ論〉とだけ1回書いて、あとは安部公房は沈黙してゐる。この事は、ここまでに問
題下降に成功したといふ事実を示してゐます。さて、これに対して、地の文の関連用語をみ
て見ませう。

(5)愛(11回)+(6)愛:運命との関係で言はれる愛(4回)+(7)愛:父親との
関係で(3回)=18回
(2)存在(17回)
(1)転身(9回)
(4)態度(5回)
(3)存在の象徴(1回)

〈 〉で括られた抽象用語の回数の減少分だけ、日常の時間の中で現れる地の文の言葉が多
くなつてゐて、しかも其れが普通名詞と化してゐます。愛、存在、転身。特に前二者、即ち
(「転身」を前提にした)愛と存在が、この作品の地の文の主題であり、これ以降の安部公
房の終生の主題です。

[註3]
安部公房の〈 〉を使つての会話は何を意味するのか。

この〈 〉を使つて会話を構成してゐるが、しかし「 」による地の文の会話が別にあり、後者は登場人物同
士の会話であるのに対して、〈 〉を使つての会話は、対外的な他者との会話ではなく、対内的な自問自答で
あり独白による「僕の中の「僕」」との対話である。つまり、この「僕の中の「僕」」の後者の「僕」が少女
と三人称で呼ばれてゐるのだし、主人公の僕といふ一人称に呼びかける(主人公から見ると)二人称になる誰
かが、主人公にとつての「あなた」たる二人称なのです。

「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号)より引用して、以下に、この安部公房独自の内
省的・独白的話法についてお伝へします。:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

「2。2 安部公房独自の話法(個別)

さて、それでは更に考へを進めて、この話者と話者に呼びかけられるコモン君の関係は、どのやうな関係なの
でせうか?この答へがもう少し先の段落に書かれてゐます。

「ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、
意識が絶えず顔の内側へおっこちてしまう……、それが植物になることさ。」(全集第1巻、235ページ上
段)

これは、「ぼく」といふ一人称の中に、もう一人「ぼく」といふ一人称がゐるといふことを言つてゐるのです。
安部公房の話法は内省的であり、普通の話法とは違つて、この分複雑です。そして、これは其のまま、安部公
房の終生変はらぬ作者・読者論であり、主観・客観論であり、主語・述語論であり続けました。

例へば、論ずる対象を問はず、政治的な社会現象を論ずる場合でも、同じ全集第2巻にあるエッセイ、『デン
ドロカカリヤA』の前年に書かれた1948年の『平和について』に於いても、「僕の中の「僕」」に向かつ
て、話者(この場合の話者は、小説ではなくエッセイであるので安部公房自身)が話かけ、語りかけてゐます。
(同巻、57ページ)

『終わりし道の標べ』では、同じ論理が感覚の問題としては、「二重感覚」と呼ばれてゐます。(「第三のノー
トー知られざる神ー」、全集第1巻、363∼369ページ)合わせ鏡の世界にゐる再帰的な自己のことです。
[註3]

[註3]
安部公房の此の再帰的な自己については、『安部公房の変形能力17:まとめ∼安部公房の人生の見取り図と
再帰的人間像∼』(もぐら通信第17号)に詳述しましたので、これをご覧下さい。この論考から以下に一部
の引用をします。:

「安部公房は、この再帰的な人間の持つ二重感覚を『終りし道の標べに』の「第三のノート―知られざる神―」
中で、高という登場人物の口を借りて、「二重感覚」とか、「二重の判断や意志」とか、また「二重の意識」
とか、そして「あの感覚」と言わせております。」

これは、私の中の私、一人称の中の一人称、自己の中の(もう一つの)自己といふことであり、後者の私、後
者の一人称、後者の自己は、実は前者の私、前者の一人称、前者の自己から見れば、実は三人称の役割を演じ
てゐるのです。

上記の『平和について』では、このことを次のやうに言つてゐます。前後の脈絡がわかると一層よく理解がで
きますが、引用の量と解説が多くなりますので、最小限の量に留めて引用します。

「そして実用主義的にその人間学が「君」の(僕の中の)平和を創り出すだろう。(略)「彼」のということ
さえ危険だ。平和はあくまでも「君」の、そして其処に於けるものだから。」

「僕の中の「僕」」を巡つて、僕と君と彼が登場するのです。これらは皆、安部公房の意識の内部の一人称、
二人称、三人称でありますから、それを示すために「僕の中の「僕」」と、後者の僕には一重鉤括弧が付され
てをります。この「僕」が、「君」であり、「彼」なのです。そして、これらの人称が、そのまま安部公房の
小説の登場人物たちの関係であるといふことなのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ42

そして、上記の3つの人称の関係は、安部公房の世界を理解するためのキーワードである存在、象徴、部屋、
窓、反照、自己承認の関係と繋がつてをり、これらの用語と一緒に論ぜられてゐて、23歳の安部公房が哲学
談義を交した親しき友、中埜肇宛の手紙に書いてゐる「新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)」(『中埜肇宛第1
0信』全集第1巻、270ページ)といふ安部公房独自の哲学の骨格をなしてゐるのです。

エッセイ『平和について』は、謂はば(同じ年に書かれた)『終りし道の標べに』の理論篇といふことができ、
ここに書かれてゐる論理を以って、そのまま『終りし道の標べに』といふ実践篇を、それも上記に引用した「二
重感覚」は勿論のこと此れも合わせて、理解することができます。安部公房独自の哲学については、『安部公
房の象徴学:「新象徴主義哲学」入門』と題して稿を改めて論じます。」

さて、この上の[註3]に註釈した固有の独白の話法の例がやはり〈 〉を使つて『名もな
き夜のために』に現れてゐます。以下同様に列挙します。

〈君の前に居る少女は盲目だよ〉:497ページ下段
〈いや明いていたとも。見たのだから事実だよ〉:497ページ下段
〈盲目かと思われるのはその眼が澄明過ぎたからなのさ。幾分色素が足らないのかも知れな
いね。でも僕にはその眼が自分の中に判然り焦点を結んでいたのを知っているよ。ガラスの
ように透きとおっていて、其処から少女の内側が手に取るように覗き込めたほど……〉:4
97ページ下段
〈私は病気なんですもの〉:498ページ上段
「ニイチェは〈最も小さな物理学でさえ……〉」と書いた。:499ページ下段
「〈僕〉が呼ぶものであったことを忘れ、呼ばれたものに化し、ついには感情すら成立しな
い〈彼〉だけの世界に落ち込むよりほかはない。」:503ページ下段

この一連の科白を読むと、1973年初演の『愛の眼鏡は色ガラス』といふ戯曲を連想しま
す。あるいは『カンガルー・ノート』の最後の男女の別れの哀切な、もののあはれの余情漂
ふ、しかし安部公房らしい男女の会話、

「君には見えているの?」
「見えていないと思う?」
「暗すぎるじゃないか」
「わたしは見える」
(全集第29巻、186∼187ページ))

さて上で「(「転身」を前提にした)愛と存在が、この作品の地の文の主題であり、これ以
降の安部公房の終生の主題」と書きました。即ち哲学用語が表から姿を決して、哲学概念が
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 43

普通の日常の言葉として、安部公房の文章(テキスト)の中に透明な姿をして現れるのです。

このやうな安部公房の変貌の文脈で、『名もなき夜のために』といふ作品は一体何について
書いてある作品なのだと再度問へば、存在(Sein:ザイン)を圧倒的な主題にして、愛と
(愛の証明であり且つ其の真性であることの証明が別離である其の)転身について語つた小
説であるのだといふ答へになります。

まさに、これは、『オルフォイスへのソネット』の主題と展開そのものです。従ひ、上で「空
白の論理」の中に置かれた詩集が『オルフォイスへのソネット』であるといふ推論は正しく、
『名もなき夜のために』は、詩人から小説家になるために、この意味で安部公房の書かねば
ならなかつた問題下降の中間項としての詩的小説であったのです。[註4]この時の詩人安
部公房の内心の苦しみを、安部公房は、文藝誌「近代文學」で埴谷雄高に紹介されて親しく
交友してゐた中田耕治宛に、1949年7月4日付の手紙で、次のやうにで語つてゐます。

「僕は近頃あまりはかばかしく行かず困つて居ります。今また「名もなき夜のために」のIII
を書いてゐます。精神的にも肉体的にも少し休息が必要だと思ふのですが、まことに思ふや
うにはならぬものです。
 しかしこれは単に疲ればかりではないやうです。僕の内部で何か大きな変動が起り始めて
ゐるやうな気がしてなりません。何が始まるのか自分でもよく分かりませんが、とにかくも
て余すやうな苦しみが僕をぐつたりさせてゐます。此処数日徹夜が続いてゐるのですが大し
た仕事も出来ず、毎日ぐつたりした気持で胃病のやうに重苦しい夜明を見てゐます。
 色々お話ししたいことがあるやうなのですが、いざ書いてみるとどうも上手くまとまりま
せん。仕方のないことかもしれませんね。苦しいことなどよりも、うれしいこと、たのしい
ことをこそ語り合ふべきなのですから。しかし残念なことに、近頃僕にはうれしいことが見
えなくなつたやうなのです。いけないことです。沈黙して待つべきかもしれません。或の日
(ママ)、ふと夜が明けてみると突然明るく強い結実の季節が来てゐる……そんなことを僕
はやはり信ずるのです。それで僕は近々君ともたのしく語り合へる日が来るものと信じてゐ
るわけです。」(『中田耕治宛書簡第1信』全集第2巻、49ページ)

[註4]
「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図(第53号のもぐら通信)を参照ください。URLを
再度掲示すると次の通り:https://ja.scribd.com/document/343689487/詩人から小説家へ-しかし詩人のま
まに-藝術家集団を付記-v8

さうして、他方安部公房独自の哲学思弁的な領域は、態度であり、現存在(Dasein:ダーザ
イン)であり、存在の象徴または存在象徴といふ(現存在たる自分の眼前に立ち現れる)暗
号を解読して初めて意義深い形象となる象徴的な(時間の中に顕現する)存在のことなので
す。安部公房の主人公たちにとつては、周囲にあるのは(時間の中では)混沌といふ以外に
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もぐら通信                          ページ44

はない、そのやうに見える存在の現れ、そして其の暗号を解読して初めて言語化して言へる
存在象徴といふ象徴なのです。

この普通と一見みえる言葉を用ゐて哲学思弁的な領域を表す、即ち象徴的な言葉を創造する
事、これが以後の安部公房の小説の性格を決定したのです。かうして、23歳の安部公房が
哲学談義を交した親しき友、中埜肇宛の手紙に書いてゐる「新象徴主義哲学(存在象徴主
ギ)」(『中埜肇宛第10信』全集第1巻、270ページ)が、日本語の文藝の、小説の世
界で完成したといふわけです。

また、「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに(藝術家集団付き)」のチャート図を見ま
すと、この変貌の時期の安部公房にとつて、世紀の会と夜の会での活動時期が重なつてをり、
これら二つの団体が如何に此の時期の安部公房にとつて大切な団体であつたかが、そしてま
た上のやうに考へて参りますと、更に一層よく解ります。

[註1]
『終りし道の標べに』:1948年10月10日:
(1)転身(3回):321ページ下段、373ページ上段、388ページ上段
(2)存在(29回):276ページ上段(3回)276ページ下段(1回)、277ページ下段、279ペー
ジ上段(2回)、279ページ下段(2回)、284ページ下段、285ページ下段、293ページ上段、2
95ページ下段、313ページ上段、317ページ下段、321ページ上段、339ページ下段(2回)、3
40ページ上段、340ページ下段(2回)、346ページ上段(2回)、349ページ下段(2回)、36
1ページ上段、371ページ上段、373ページ上段、387ページ上段
(3)在る(7回):279ページ下段(1回)、287ページ上段、292ページ上段、293ページ上段
(2回)、299ページ下段、349ページ下段
(4)「在る」(5回):276ページ下段(2回)、277ページ上段、277ページ下段(2回)
(5)存在自身(1回):387ページ上段
(6)かく在る(3回):273ページ上段、280ページ上段、304ページ上段
(7)斯く在る(1回):384ページ上段
(8)実存(1回):276ページ上段
(9)愛(36回):278ページ下段、316ページ上段、316ページ下段、317ページ上段(4回)、
319ページ下段(7回)、320ページ上段、326ページ下段(5回)、326ページ上段(6回)、3
28ページ上段、338ページ下段、361ページ下段、364ページ上段、364ページ下段、372ペー
ジ下段、377ページ下段(2回)、381ページ下段(3回)、384ページ上段、387ページ(2回)
(10)微号(暗号)(1回):278ページ下段
(11)暗号(2回):340ページ上段、380ページ下段
(12)象徴(21回):282ページ下段、291ページ下段、292ページ上段、307ページ上段、3
09ページ上段、309ページ下段(5回)、340ページ上段、346ページ上段、349ページ下段、3
61ページ上段(2回)、365ページ上段、371ページ下段、372ページ下段、373ページ上段、3
81ページ下段、384ページ上段
(13)象徴自身(3回):282ページ下段、347ページ上段、347ページ下段
(14)存在象徴(24回):284ページ上段、289ページ下段、291ページ下段、292ページ上段
(3回)、295ページ上段、302ページ上段(2回)、302ページ下段、303ページ上段(2回)、
303ページ下段(2回)、304ページ下段(2回)、308ページ下段、309ページ上段、310
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もぐら通信                          45
ページ

ページ上段、345ページ下段、349ページ下段(2回)、371ページ上段、385ページ上段
(15)存在の象徴(1回):307ページ上段

(16)《斯く在る》(32回):274ページ上段(2回)、274ページ下段、279ページ下段(2
回)、282ページ下段、289ページ下段、292ページ上段、292ページ下段、293ページ上段、2
95ページ下段、302ページ下段、303ページ下段(2回)、304ページ上段、309ページ上段、3
39ページ下段(2回)、340ページ上段、347ページ上段、349ページ上段、349ページ下段、3
54ページ上段、357ページ下段、373ページ上段、376ページ下段、381ページ上段(2回)、3
84ページ下段、387ページ下段、388ページ下段(2回)
(17)《私は在る》(1回):279ページ下段
(18)《存在象徴》(2回):303ページ下段、384ページ上段
(18−1)《自己の存在象徴》:303ページ下段
(19)《どんな事にでも何でも無い人間が居るものさ》(1回):283ページ上段
(20)《故郷の無い真理はない》(1回):279ページ上段
(21)《何か》(1回):282ページ下段
(22)《失われた自由》(1回):284ページ下段
(23)《その内お前の秘密までも売るのだろう》(1回):289ページ下段
(24)《終りし道の標べに》(9回):309ページ上段、309ページ下段、310ページ上段、340
ページ上段(2回)、341ページ下段、342ページ上段、342ページ下段、344ページ下段
(25)《さようなら……愛する故郷よ》(1回):310ページ上段
(26)《総ては詩》(1回):318ページ上段
(27)《小さな神様》(1回):320ページ上段
(28)《詩》(1回):321ページ上段
(29)《愛は永遠に始まらないもの》(1回):326ページ下段
(30)《知られざる神》(1回):346ページ上段
(31)《崇高な》忘却(1回):349ページ上段
(32)《人間は……何故に……斯く在らねばならぬのか》(1回):355ページ上段
(33)《気持ちの悪い人間》(1回):379ページ上段
(34)《経験》(1回):278ページ上段

[註2]
 『名もなき夜のために』:1948年7月8日:
(1)転身:(9回):507ページ下段、511ページ下段、515ページ上段、518ページ下段、51
9ページ上段(3回)、554ページ上段、554ページ下段
(2)存在:(17回):489ページ上段、494ページ上段、502ページ上段、507ページ下段、5
12ページ上段、519ページ下段、524ページ上段、529ページ下段、539ページ下段(2回)、5
43ページ下段(動詞と名詞の二つ)、555ページ下段(2回)、556ページ下段、557ページ上段(2
回)
(3)存在の象徴:(1回):全集第1巻、491ページ下段
(4)態度:(5回):全集第1巻、491ページ下段(2回)、492ページ上段、493ページ上段、4
99ページ下段
(5)愛:(11回):501ページ上段、506ページ上段(2回)、506ページ下段、522ページ上
段(3回)、530ページ下段、551ページ下段、552ページ上段、555ページ上段
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

(6)愛:運命との関係で言はれる愛:(4回):530ページ下段、551ページ下段、552ページ上段、
555ページ上段
(7)愛:父親との関係で:(3回):522ページ上段

(8)「〈在る〉」(存在):(8回):493ページ上段、499ページ下段、505ページ上段、514
ページ上段、515ページ上段、526ページ上段、527ページ上段、529ページ上段
(9)「〈斯く在る〉」(現存在):(3回):493ページ上段(2回)、499ページ上段
(10)〈名前〉:489ページ上段、491ページ上段
(11)〈リルケ論〉:489ページ上段
(12)〈夜の調べ〉:「あんなに素朴な〈夜の調べ〉でさえ僕を置きざりにして見る螺旋の渦に吸いこまれ
て行くようだった。」:506ページ上段
(13)〈原始音〉:499ページ下段
(14)〈笑い〉:501ページ下段
(15)〈僕〉:503ページ下段[註3]
(16)〈彼〉:503ページ下段[註3]

以上が、小説といふ散文に関する考察でしたが、今度は同時期の詩文について、即ち②詩と
散文統合の為の問題下降のうち(2)詩と散文の統合:詩形式による「今後の問題の定立」
(『無名詩集』)の時期の詩文について考察してみませう。

V 「転身」といふ語のある詩を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の詩)

【詩文に関する結論】
この時期の安部公房の詩から解る事は、次の通りです。

(1)詩人のままに小説家になりたいといふ安部公房の意志がはつきりと現れてゐること
(2)リルケの『秋』といふ詩の動機(モチーフ)の「落ちる」または「落ちてゆく」とい
ふ言葉とニーチェに教はつた「没落」の形象(イメージ)が使はれて、詩が書かれてゐるこ
と。そして、
(3)「転身」といふ言葉が、一語も使はれてゐないこと
(4)安部公房自分自身が現実の時間の中で切断されて断面になり、断層になつてゐて、一
次元の時間の中で複数の次元に存在する自分自身を如何に護るか、座標のあることを前提に
した社会の定形的な現実と、座標の無い変形の世界を如何に均衡させるかに腐心してゐるこ
と。即ち、(5)「空白の論理」または「奉天の窓」の論理が、現実と衝突をして、その均
衡に心を砕いてゐること
(6)「転身」や「変容」といふ安部公房の詩の世界の言葉を如何にして現実に普通に通用
もぐら通信
もぐら通信                          ページ47

する言葉に置き換へるかの苦心をしてゐること。
(7)『悪夢のやうに』といふ詩を書いた1948年といふ年は、この詩の内容に小学校の
教室のことが歌はれてあることから、後年のエッセイ『思い出』の例でもさうであるやうに、
安部公房にとつては苦しみの年であつたといふこと。

時系列で見ますと、この時期に書かれた此の詩の両側に、『友を持つといふことが』といふ
小説(1948年11月8日)と、『牧神の笛』と題した(詩人と小説家との統一を論じた)
エッセイ(1949年1月4日)があります。この時期には、これら二つの散文の間にある
同時期の詩文を挙げます。

この一連の詩の後に1949年に入つて、3つのエッセイ『牧神の笛』(1月4日)『芸術
を大衆の手へ』(2月21日)『蛸壺の思想』(2月22日)が書かれ、その後に、次の5
つの詩文が書かれ、さうして世紀の会(第2期)ための宣言詩である『宣言』と題した詩が
書かれ、次に『世紀の歌』といふ詩が書かれて、1949年4月20日『デンドロカカリヤ
A』(雑誌『表現』版)が発表されるといふ順序になつてゐます。

(1)『夜のうた』(1948年12月17日):全集第2巻、188ページ
(2)『悲歌』(1948年12月29日):同巻、192ページ
(3)『手のひらに』(1948年):同巻、195ページ
(4)『悪夢のやうに』(1948年):同巻、196ページ
(5)『一切が僕等に』(1948年):同巻、197ページ

1948年は5月から『名もなき夜のために』に集中した年です。上記に引用した中田耕治
宛の手紙は7月。一番苦しい時の一つであつたのでせう。何しろ詩人としての自己の座標を、
自分自身を含めて根底から引つくり返して、『デンドロカカリヤA』を書いてゐた時期だか
らです。それ故に、同氏宛に執筆に疲れてゐる其の疲れの性質は単なる疲れではなく、「僕
の内部で何か大きな変動が起り始めてゐるやうな気がしてなりません。何が始まるのか自分
でもよく分かりませんが、とにかくもて余すやうな苦しみが僕をぐつたりさせてゐます。」
とあるのは、まさしく其の通りの事実を手紙に書いてゐる事が判ります。

上記の詩の(1)(2)(3)に共通してゐる特徴は、詩人のままに小説家になりたいとい
ふ安部公房の意志がはつきりと現れてゐることです。それはどこに現れてゐるかといひます
と、

①リルケの詩で安部公房が成城高校以来大好きな詩であつた『秋』といふ詩の動機(モチー
フ)の「落ちる」または「落ちてゆく」といふ言葉の類義語またはニーチェに教はつた「没
落」の形象(イメージ)が使はれて、詩が書かれてゐること。そして、
②「転身」といふ言葉が、一語も使はれてゐないこと

この二つに、その意志が現れてゐます。
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もぐら通信                          ページ48

『無名詩集』の詩には「転身」の語が一つもなく、むしろ散文詩の『ソドムの死』に一語だ
け使つたといふ散文家になることを目指す意志が、詩に於いては一層徹底されてゐて、他方
同時に此の論考で考察して来たやうな考へ方と方法で『名もなき夜のために』といふ同じ年
の、リルケの『マルテの手記』を第一部第二部の両方を否定して第三部としてある存在の世
界の創造、自分の小説家としての宇宙を創造する強い意志に基づく小説を書いてゐる。これ
が、この年1948年の安部公房といふことになります。

(1)『夜のうた』(1948年12月17日):全集第2巻、188ページ
『夜のうた』の第一連を読みますと、その声調と文字と記号の書き方は、宮澤賢治を思はせ
るものがあります。例へば、この第一連の第三行と第八行の「………………」と( )の中
の句を。

「太陽は緑の中でしぼみ 夜の季節がきて
 そつと枯葉に抱きしめられた数多の月が降り
 ………………(ああ 裸形の天)
 黒々とそびえる梢の傷痕
 見たまえ いま 切々にひきさかれて
 降りはじめた 空のほの白さ
 降りしきり 降りつくし
 ………………(ああ 裸形の天)
 黒々と消えはてた天の傷痕」

「数多の月が降」るのは、内部と外部の交換によつて梢と天の傷痕に断面または断層が現れ
て、話者の目には『人魚伝』の結末がさうであるやうに、『キンドル氏とねこ』のキンドル
氏が複数人ゐるやうに、また『さまざまな父』に複数の父親がゐるやうに、そのやうに複数
の月が見えるからです。[註5]

[註5]
この詳細な、呪文とtopologyとの関係は『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)
をご覧ください。

「………………外界の不遜!」と最後の連の最初の行にありますので、現実にぶつかって苦
しみ悩む安部公房の姿を読みとる事ができます。沈黙と空白の印の点線のあとに、現実の不
遜、実際には生きた人間たちの不遜でありませうが、感嘆符を以つて書くべき一行であつた
のでありませう。「空白の論理」または「奉天の窓」の論理が、現実と衝突をしてゐること
がわかります。この二つの均衡を得るために、「裏返つた顔」や「マスク」や「内部」と「外
部」や「孤独」や「天」や(リルケの継承である)「ほらなる巣へと急ぐけだもの」(『オ
ルフォイスへのソネット』第一連)や「非在」その他が歌はれてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

このやうに読んで参りますと、「裸形の天」も「梢の傷痕」も、安部公房自身である傷つい
た天なのであり、梢なのでありませう。即ち、自分自身が現実の時間の中で切断されて断面
になり、断層になつてゐるといふことです。

(2)『悲歌』(1948年12月29日):同巻、192ページ
この中で其れまでならば散文的に「内部と外部の交換」として書いたものを、「翻転」と書
いた箇所が、第5連と第6連にあります(全集第2巻、193ページ)。

これは此処一箇所だけで使はれた言葉です。「転身」を現実の中で生きるために、一体どの
やうに普通の言葉に詩の言葉を直すのかといふ安部公房の苦心が偲ばれます。

また、第7連に、それまでならば外部からの自然の威力によつて話者たる詩人が変身するこ
とを、内部からの力には拠らないことから「変容」と使つてゐた此の言葉を、「変貌」と言
葉を変へてゐます。これも何とかリルケと自分の詩の世界の言葉を、《 》や〈 〉で数学
的に意味を割り当てた記号抜きの、普通名詞にしようといふ安部公房の腐心です。

それまでの詩人として概念化した用語を変形させて、新たな詩を書かうといふ意志を読むこ
とが、ここでも見ることができる。

(3)『手のひらに』(1948年):同巻、195ページ
安部公房の詩に出てくる、蜘蛛と連想語であり、topologicalな変形の連想語である「網目」
といふ言葉があります。

そのほかに、壁、一次元の時間を表す歴、やはり落下する雪のひとひら、天である空、そし
て「けだものたち」、枯葉に、(木の幹ではなく)分岐した二義的な枝々といふ安部公房ら
しい形象が続きます。

(4)『悪夢のやうに』(1948年):同巻、196ページ
ここには、間違ひなく奉天の小学生であつた頃から安部公房の問題意識にある「奉天の窓」
の論理、即ちリルケに出遭つて一層文学的には深まつた「空白の論理」があります。安部公
房にとつて教室といふ閉鎖空間は誠に問題に満ちてゐたことがわかります。「何故僕は毎日
学校に行き、教室といふところに入つて勉強しなければならないのだらうか?」多分少年安
部公房の問題の一つはこの素朴な疑問から始まつてゐた事でせう。

後年1954年に『思い出』とふ短いエッセイがありますが、此処には其の恐怖心が率直に、
そして小学生の時の安部公房の超越論の意識の目覚めが、これも安部公房らしく夢みたこと
として、日本共産党員になつて一番苦しい時期の文章として、以下の通りに残つてゐます。
(全集第4巻、312ページ)。教室での同じ恐怖心は、『箱男』にも書かれてゐます。

「この二つの転機がある、ということになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ50

このそれぞれの危機的時期において、即ち前者にあっては、社会的な関係の中に存在と劇場
を求めて言語による革命を起こそうと考えた前期20年の一番苦しい時期に書いた『思い
出』(全集第4巻、312ページ。1954年6月30日。安部公房30歳)に登場する動
機と形象が、後者にあって、即ち存在の中に社会的な関係と劇場を求めて再度言語による革
命を起こそうと決心した後期20年の最初に書いた『箱男』(全集第24巻、9ページ。1
973年3月30日、安部公房49歳)に再び登場するということは、誠に興味深く、安部
公房の文学のこころの深淵と本質を語っていると、わたしは思います。また、それがどのよ
うに『天使』という最初の作品や『S・カルマ氏の犯罪』の詩に通っているかは[註17]
で論じた通りです。」(『安部公房と共産主義』もぐら通信第29号)以下、引用をします。

①詩『悪夢のやうに』
「悪夢のやうに小学校の黒板を想出すと
 放課後のたそがれた光線の中で、
 白い線がくつきりと問題を残してゐる。
 答へは書いてないが、もう済んでしまつた問ひを……。

 そんなにして、ぼくらは沢山の問ひを済ませてきた。
 その後に、答へのない問ひだけを残して、
 それでも済ませてきた
 いつも生存の放課後のたそがれの中に……。

 しかしまだ何かを問はうとするのだらうか、
 一つの問ひを消して過去のものにするのは、
 その解答ではなく、
 新しい、別の問ひである。」

②エッセイ『思い出』
「幼年の思い出はいつわりにみちている。
 白い砂ほこりの中を、三頭立ての荷馬車がコトコト進んでいた。いや、コトコト鳴ってい
るのは車のそばにつった黒い油壺で、馬車はギイギイほとんど悲鳴にちかい、叫び声をあげ
ていた。馬車夫が五メートルもあるムチをふりあげて宙をうつたびに、その先が私をすれす
れにかすめた。しかし私は馬車から離れることができず、どこまでもいっしょに並んで歩い
た。恐ろしさで、私はいくどもシャクリあげた。
 学校の前で、やっと馬車から離れることができた。昼間でもうす暗く、廊下が油でぬるぬ
るしている学校のほうが、馬車よりももっとこわかった。ちょうど何かの始まりをつげるベ
ルが鳴りひびき、私は鞄をおさえて駆けこんだ。しかし学校の中はひっそりとして、人影ひ
とつみえないのだ。早すぎて、まだ始まっていないのかと思い、教室に入って席にかけてい
ると、廊下に面した窓が開いて、見知らぬ顔の男がのぞきこんだ。見知らぬ男だったが、小
使だということはその頭のかっこうですぐ分かった。小使の顔は若いくせに皺だらけだった。
おどろいて逃げ出そうとする私をつかまえて、今ごろなにをグズグズしているんだ、もうみ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

んな注射をうけに出かけてしまった後だと、しかりつける。
 とつぜん私は思い出した。今日はみんなで大人になる注射をうけに行く日だった。今日か
ぎり、世界中の子供がみんな大人になって、もう子供はいなくなるはずだった。それだのに
遅刻した私だけが取残されて、まだ子供でいるのだ。(略)」

③小説『箱男』から「《少年Dの場合》」の章
特筆すべきは、『箱男』では『終りし道の標べに』と同じ《 》の記号が各見出しに使はれ
てゐるといふことである。各章は個別の存在の物語といふ事になる。既に最初から
topologicalな導入部をご覧ください。

「めざす家は、坂の上にあって、いわば町の出口にあたっていた。ぼくは長い道のりを、は
るばる乗ってやって来て、いまやっとその門の前に辿り着いたところである。その道のりの
長さからすると、この家は町の出口というより、むしろ入口なのかも知れなかった。
 それに、馬車とは名ばかりで、車をひいていたのは馬ではなく、じつはダンボールの箱を
かぶった人間だったのだ。もっと正直に言ってしまうと、ぼくの父だったのである。」8全
集第24巻、128ページ)

(5)『一切が僕等に』(1948年):同巻、197ページ
『悲歌』と同じで、この詩もまた安部公房特有の呼びかける話者の話法で書かれてゐる。

しかし、19歳のエッセイ『僕は今こうやって』に初出の声調とは異なり、叙情性は薄く、
何か日常の時間の中の閉鎖空間の中に閉籠められてゐて、少し疲れて、沈鬱な調子のある詩
になつてゐる。詩の第一連の第一段落、特に最初の二行を。

①詩『一切が僕等に』
「一切が僕等にあつては
 ひとへな慄きと蒼ざめた隔りであるのを知つた時
 君もまた驚きを怖れたゞらうか
 いや、僕等は知つたゞけだつた
 そして唯見詰めた
 黄金色の夕暮に笑ひさへした」

②エッセイ『僕は今こうやって』
「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出し
て其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努
力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何
うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きで
あろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎ
ないのではあるまいか。」(全集第1巻、89ページ)
もぐら通信
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この時期の1948年の『名もなき夜のために』と同年の短編小説には、次のものがありま
すので、この時期の詩文散文で上に論じたことに倣つて読み解くと、この初期安部公房の『デ
ンドロカカリヤA』以前の安部公房の様子と苦心を知ることできる筈です。ちなみに、『悪
魔ドベモウ』には、転身の語が出てきます。これは、『何故安部公房の猫はいつも殺される
のか?』(もぐら通信第58号)中の『キンドル氏とねこ』を論じた章と併はせてご覧にな
ると、安部公房の位相幾何学的な論理によつて、『悪魔ドベモウ』は一層よくわかるのでは
ないかと思ひます。ここでは提案に留めて、先を急ぎます。

『第一の手紙∼第四の手紙』
『白い蛾』
『牧草』
『悪魔ドベモウ』:転身あり。
『憎悪』
『異端者の告発』
『タブー』
『虚妄』
『鴉沼』
『虚構』
『薄明の彷徨』

VI 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
(3)散文形式(小説様式)の確立:1949年∼1952年:25歳∼28歳:チャート
図では赤い色の枠で示してゐます。

1949年の作品、詩人から小説家へと変身するために『終りし道の標べ』にを、『名もな
き夜のために』を中間項となして、問題下降した『デンドロカカリヤA』の「転身」に関す
る用語は次の通りです。

(0)転身(0回):『デンドロカカリヤA』で「転身」の文字はなくなりました。その代
わりに、普通の一般的な言葉である変形が採用されてゐます。
(1)変形(9回):235ページ上段、242ページ上段、249ページ下段、252ペー
ジ下段、249ページ上段(2回)、249ページ下段(2回)、252ページ下段
(2)原存在(1回):235ページ上段
(3)原・存在(1回):251ページ下段
(4)存在(4回):236ページ、243ページ上段、253ページ下段(2回)
(5)非存在(1回):243ページ上段
(6)存在の面(1回):243ページ上段
(7)断層(4回):236ページ上段(2回)、242ページ上段、243ページ下段
(8)断層面(5回):236ページ上段、236ページ下段(2回)、243ページ下段
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(2回)、244ページ下段
(9)カットグラス(1回):断面の形象:241ページ下段
(10)切石(1回):断面の形象:2412ージ下段
(11)愛(2回):246ページ下段(2回)
(12)ユアキントゥス(1回):249ページ下段
(13)リルケ(1回):249ページ下段

以上の言葉をもう少し要約すると、次のやうになります。

(0)転身(0回):『デンドロカカリヤA』で「転身」の文字はなくなりました。その代
わりに、普通の一般的な言葉である変形が採用されてゐます。
(1)変形(9回)
(2)原存在(1回)+(3)原・存在(1回)=2回
(4)存在(4回)
(5)非存在(1回):243ページ上段
(6)存在の面(1回)+(7)断層(4回)+(8)断層面(6回)+(9)カットグラ
ス(1回)+(10)切石(1回)=13回:全て断面としてまとめる
(11)愛(2回)
(12)ユアキントゥス(1回)
(13)リルケ(1回)

これを従前の方法でまとめると、

断面:13回
変形(9回)
存在(4回)

『デンドロカカリヤA』といふ小説は、もはや「転身」の話ではなく、普通の変形譚といふ
事になり、この小説は、存在の断面または断層、即ち割れ目にあつて変形して存在となる主
人公コモン君の物語といふ事になります。

以下、『デンドロカカリヤA』と同年1949年の作品は次の3つです:
『キンドル氏とねこ』(これは『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』で詳述。もぐ
ら通信第58号)
『啞の娘』
『夢の逃亡』

さて、更に『デンドロカカリヤA』(1949年)と、『赤い繭』『魔法のチョーク』『S・
カルマ氏の犯罪』で小説家としての技能に磨きをかけて「シャーマン安部公房の秘儀の式次
第」を確立した後に、問題下降ではなく、水平方向の書き直しがなされた『デンドロカカリ
もぐら通信
もぐら通信                          54
ページ

ヤB』(1952年)を比べてみると、後者には前者に比して、次の一層の差異があります。

『デンドロカカリヤB』(全集第2巻、361ページ上段)からの、変形に関する以下の引
用をします。

①「また、風信子になったユァキントゥスはアポロの、バラになったアドーニスはアフロ
ディテの、それぞれ結局はゼウス一族の追憶のための記念にしかすぎない。」(全集第3
巻、360ページ下段と361ページ上段)
②「結局、植物への変形は、不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われる事であ
り、罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投込まれることなんだ。」(全集第3
巻、361ページ上段)

以下、結論をいへば、『デンドロカカリヤB』からは、『デンドロカカリヤA』にあつた、

(1)転身の文字は消えた。
(2)変形も3度だけ、それも古代ギリシャ神話の中での変形(全集第3巻、360ページ
下段と361ページ上段)、そしてそれが植物の変形であることといふ、特段に独自の文脈
といふ訳ではない文脈で使われてゐる(全集第3巻、361ページ上段)やうに改変したと
いふことである。
(3)存在の文字は消えた。
(4)断層、断面の文字も消えて「複雑なカットグラス」といふ形象の言葉だけになつた(全
集第3巻、354ページ下段)
(5)『デンドロカカリヤA』にあつたリルケの文字が消えた。(『デンドロカカリヤA』
にも引用されてゐた『ドゥイーノの悲歌』第9番の同じ引用だけになつた:全集第3巻、3
56ページ上段)

これで安部公房の「転身」は完成、即ち文字としては作品の中から、関連する用語一式とと
もに、すつかり姿を消した事になります。この後の変形といふ言葉は、世間一般の普通の言
葉として、しかしその根底には存在といふ概念と其の関係概念を相変はらずに隠し持つたま
ま、そして「複雑なカットグラス」といふ例がさうであるやうに、形象の言葉だけになつて、
あの魅力的な直喩の文体(style)と「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」といふ様式
(style)を隠し持つた世界が、文字通り世界中の読者に広く読まれてゐるといふ事になり
ます。

(続く)
もぐら通信
もぐら通信                          55
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(3)

∼安部公房のをより深く理解するために∼

岩田英哉
III

EIN Gott vermags. Wie aber, sag mir, soll



ein Mann ihm folgen durch die schmale Leier?

Sein Sinn ist Zwiespalt. An der Kreuzung zweier

Herzwege steht kein Tempel für Apoll.

Gesang, wie du ihn lehrst, ist nicht Begehr,



nicht Werbung um ein endlich noch Erreichtes;

Gesang ist Dasein. Für den Gott ein Leichtes.

Wann aber sind wir? Und wann wendet er

an unser Sein die Erde und die Sterne?



Dies ists nicht, Jüngling, daß du liebst, wenn auch

die Stimme dann den Mund dir aufstößt, ― lerne

vergessen, daß du aufsangst. Das verrinnt.



In Wahrheit singen, ist ein andrer Hauch.

Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind.

【散文訳】

神様ならばできるだろう。しかし、おい、男がひとり、
弦が狭く張ってある竪琴を、神さまの後をおって、
潜り抜けることなどどうやってできようか。この男の
感覚は、分裂する(二つに分かれる)。ふたつの、こころの
道の交差するところには、アポロのための寺院など立って
いないのだ。

聖なる歌、お前がその男に教えるのは、欲求ではない、
求めることではない、かろうじて到達できるものを
もぐら通信
もぐら通信                          ページ56

求めることではない。(歌うとは、そのように容易に手に入る、
到達できることではない。)聖なる歌、歌うことは、今ここに
こうしてあることだからだ。神にとっては、安きもの、安きことである。
さて、われわれ人間は、一体いつ存在するのだ?そうして、いつ、

われわれの存在に、大地と星辰を向けることを、この男は
するのだろうか?若き者、オルフェウスよ、お前が愛するということ、
たとえ声が、愛することで、お前の唇からほとばしり出たとしても、
お前が愛するということでは、それは、ないのだ。忘れることを

学びなさい、お前が声高らかに歌ったということを忘れることを。
それは、失われ、消えてしまう。真実に歌うということ、それは
また別の息吹だ。何ものをも求めぬ、そっと吐く息だ。神様の中を吹く風だ。
すなわち、風。

【解釈と鑑賞】

1.やはり、この詩は、話者が重要な役割を演じている。話者は、オルフェウスでは
ない。その話者が、オルフェウスに直接呼びかけたり、間接的に歌ったりしている。

2.「ふたつの、こころの道の交差するところには、」と訳したところに似た箇所が、ずっと
後の、ソネットXXIXの第3連の第2行に出てくる。ここにもSinn、ジン、感覚という言葉が出
てくるので、このふたつのソネットは照応し、対応し、互いに響きあっていると思う。それが、
本当は何を意味しているのか、これを考えることが、このソネットを理解する道筋のひとつだ
と思う。解釈があれば、お教えください。

2.そこで、アポロのための寺院がたっていないということは、何を言っているのだろうか。
アポロは、オルフェウスの父親ということである。父のための寺はたっていないという文
である。これは、オルフェウスと父親の何か特別な関係を示しているのだろうか。リルケ
は、この文で、一体なにを言いたいのか。多分わたしの知識の少ないことによって、理解
することができないのだろう。これも、解釈があれば、どなたか、お教えください。

4.「聖なる歌、歌うことは、今ここにこうしてあることだからだ。」という文は、デゥイー
ノの悲歌6番第3連第2行にある

Sein Aufgang ist Dasein.


もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

彼(英雄)の上昇は、今ここにこうしてあることだ

という一行と同じ意味を有している。悲歌をソネットの解釈のために利用することができる。

悲歌のこの部分でも、星辰が出てくる。悲歌のこの箇所では、英雄は、死者、若い死者に不思
議なほどよく似ていると歌われている。時間の持続が英雄を刺激することはない、絶えず攻撃
することはないのだという。何故ならば、彼の上昇は、今ここにこうしてあることだからだ、
というのである。

ここでも言われていることは、英雄の行為は、無私の、無償の行為であるということである。
それは、絶えずわが身を危険にさらる行為であり、星辰、それがなにも本当の星辰であるとし
てではなくとも、星辰に相当するものの中に、そのような像の中へと歩み入るのが英雄なのだ
と、悲歌では歌われている。同様に、オルフェウスもまた、そのような人間ならぬ人間として、
そのようなありかたであるのだと、リルケの創造した話者は、歌っているのだ。それが、真実
の中で歌うことだ、と。それは、容易なわざではないのだと、話者は言っている。

最後のHauch,ハウホ、息、息吹とは、リルケらしい言葉である。悲歌では、同じ言葉が、
atmen、アートメン、息をするという動詞として、繰り返し出てきたことを思う。

何も求めるのではない、という箇所は、悲歌の2番の冒頭そのものである。

こうしてみると、リルケは、悲歌を書きながら、このソネットにおいて、もっと静かな調子で、
同じ思想を展開したのだと理解することができる。

【安部公房の読者のためのコメント】

(1)「ふたつの、こころの道の交差するところには、アポロのための寺院など立って
いない」。存在の十字路には存在が存在するだけだ。それほどに神聖な交差点。
(2)Sein Aufgang ist Dasein.(彼(英雄)の上昇は、今ここにこうしてあることだ
)といふ一行は、第一連の樹木と同様に、安部公房の主人公たちが何故皆垂直方向を目指すか
の理由になつてゐる。例へば『密会』の主人公は何故特別高く飛べるジャンプシューズを履い
て登場するのか、といつたやうに。
(3)存在の風、人間の吐く吐息、吐息と呼気に依る内部と外部の交換によつて透明な存在に
なること。これは小さな風であるが、神の中を吹く風である。『第四間氷期』の最後に水棲人
間の子供が死を賭して求める風であり、聴きたいと願ふ風の歌である。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ58
私の本棚

SF映画『インターステラ』を読む 岩田英哉

Interstellarといふ題名の示す惑星間宇宙飛行の話の世界と安部公房の世界が誠に通底し
てゐるから、尚更素晴らしい作品だと思つたのかも知れない。

以下に、メモした共通点を列挙して、お伝へします。

1。差異
彼我、即ちここ(地球)とあそこ、ブラックホール(あるいはワームホールといふのか
も知れない)の向こうの未知の宇宙の間の往復宇宙飛行。人類の住める星を探すといふ
計画の実行。地球とブラックホールの向こうの宇宙の星。さうして、また地球にブラッ
クホールを抜けて帰つて来るが、向かうの1年は地球の7年、いや、これは途中で着陸
した星と地球の時間差であつたか、いづれにせよ、時間は相対的であるといふ事の映像
化の成功と素晴らしさ。

何よりも、画面も音響も誠に静かで、このことも安部公房の世界に通じてゐると思つた。
生きてゐる死者同士の会話こそ静かである。幽霊はいつもここにゐる。

2。再帰的な世界
その肯定と否定が表現されてゐること。肯定とは、人事ならば、別れた人に会いたいと
いふこと。父と娘の惑星間宇宙の遥かなる距離を超えて、愛の真性が証明される。いつ?
最初に回帰して、互ひの姿形が変へつてゐやうとも、互ひが存在の十字路で逢着して、
互ひに何かを感じ、想ひ出すならば、その時に。このやうに此の映画をまとめると、以
前論じたアニメーション映画『君の名は。』(もぐら通信第51号)の話と全く同じ話
だといふことになる。日本の話なのか、宇宙の話なのかは問はない。

何故物語は再帰的か、それは言語構造と同じにあなた自身が本来再帰的に生まれついて
ゐるからであり、従ひあなたのみる世界も再帰的になつてゐるから。安部公房ならば、
無償の愛と永遠の別離といふことを実行して、これを証明するといふでせう。しかし、
宇宙の果てで(S・カルマ氏ならば世界の果てといふでせう)父親は使命を果たして、
地球を出発した時の若い姿のままで、老婆となつた、自分よりも年の若い娘のゐる地球
へと帰還する。無限に垂直に無時間の方向へと成長する壁の向かう、天の向かうに、も
う一つの宇宙があるのです。S・カルマ氏の成つた壁は、地球を飛び立つた、孤独な惑
星間宇宙飛行船である。安部公房の詩に「別離とも呼ぶ孤独の惑星」といふ一行がある
(『別離』全集第1巻、181ページ)。

このやうに考へると、全ての物語は、浦島太郎の話である。安部公房の小説もまた。

3。暗号の解読
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ59
上記1と2のことのある現実によつて、二つの星の世界は、父親の腕時計と娘の同じ腕
時計によつて接続され、通信が可能になつてゐる(後者は、父親の地球出立の時のプレ
ゼント)。それもモールス信号といふ暗号によつて時間を超えて父と娘が通信できると
いふ最初と最後の設定。最初の謎の通信の場面が、最後の通信の謎解きの場面に結果す
ると告げ、何しろ地球も終末で地上の自然も荒れ果ててゐる、外から部屋に吹き込む砂
に文字を書いて、娘に意志を伝へようとし、最後の場面で成長して科学者となつてゐる
娘が同じモールス信号を解読する。勿論、最初の場面では、子供である娘は、その部屋
にゐて、それが自分自身の発信したモールス信号だといふことを知らぬ父親と一緒にゐ
て、この砂文字がモールス信号だと父親にいふのであるが父親は信じない。この時間の
断面、断層、斜面には、「既にして」(超越論的に)父親が最初から時間を超えて向う
とこちらに二人ゐる。これは下記5につながる。

4。Caseといふ名前のロボット
これが言って見れば下半身だけの歩くロボット。下半身の半分だけのやうなロボツト。
安部公房全集第2巻の表表紙裏の安部公房撮影の写真の左に立つ男と同じで、片半分の
体しかない。しかし、この写真は歩道の隣の建物の面が鏡になつてゐて、男の全身を映
してゐるといふ趣向になつてゐる。また、このロボツトと宇宙飛行士たちとのやりとり
は絶妙に味はひ深い。ユーモアと笑ひがあり、切羽詰まった死と隣り合はせの危機的な
状況にも拘らず、これも、安部公房の世界に通じてゐる。死を前にして笑へたら最高の
人生である。

5。父親の物語:様々な父親
不在の父親の物語である。娘は一人地球に待つ。そして、過去である未来の時間に今、
父親が回帰するといふ超越論の世界。安部公房ならば「明日の新聞」の論理。こちらの
宇宙とブラックホールを抜けた向かうの宇宙を往復する宇宙船は、地球上の娘にとつて
は、「明日の新聞」である。昨日といふ明日に出発した父親が、今日といふ(差異に在
る)日に老婆となつた娘のところに帰つて来る。若い姿のままで。

6。位相幾何学的(topological)に最後が最初に戻る
124歳の若いままの父親が地球に帰還して、83歳の過去の時間では子供だつた娘(既
に老婆となってゐて、ベツドの周りには子供達が騒いでゐる)を病院に見舞ふといふこ
と。娘は死の床にゐるやうに思はれる。一筆書きの、topologyの世界であるといふこと。
即ち、時間が存在しない。全ての関係がお互ひに幾何学的な対称性を備へてゐて、そし
て閉ぢながら且つ外部に開かれてゐる。惑星間宇宙飛行は、「周辺飛行」です。即ち、
「別離とも呼ぶ孤独の惑星」間飛行。

これを映像といふ形象(イメージ)で表すといふことの素晴らしさがあつた。繰り返し
観て飽きず、読んで飽きない映画です。沈黙があるから。安部公房の小説のやうに。

映画監督は、クリストファー・ノーラン。脚本は、ジョナサン・ノーラン。2014年
の静寂のSF映画。Wikipediaです:https://goo.gl/YRULBw
もぐら通信                         

もぐら通信 60
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼11
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(1)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 61
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論の日欧比較論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
(44)安部公房と高橋虫麻呂
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ62
【編集後記】

●これで、来月の第58号(6月号)を今月4月の末今日に出して、しかもはや二ヶ
月先行してゐて、さて、一と月の間に3号出したといふことになります。安部公房
の世界らしく、一と月の時間の流れが遅くなつてゐるのでせう。私の住む山の上
の時間の1日が、地上では3ヶ月に相当してゐるらしい。
●『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』:書いてゐて、新たな発見が幾つ
もありました。いや、幾つも以上です。私の発見の思考プロセス通りのリアルタイ
ムの順序で其のまま書いた文章ですので、猫殺しの事件でもあり、スリルとサスペ
ンスを一緒に味はつて下さるとありがたい。しかし、ここまで論理が生活にも小
説にも徹底してゐれば、もはや何をか況んや、です。書きながらの私の胸中に浮か
んだ言葉は「何とまあ、よくやつてくれるぜ、安部公房」といふものでした。これ
で、topology(位相幾何学)という概念が読者に伝はればありがたい。安部公房
が何故呪文を唱へるシャーマンであるのか。Topologyと呪文と(自分自身を計算
に入れた)変形は同一の「没我の地平」にあるのです。
●『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)』:これで安
部公房がどのやうにtopologicalに詩人から小説家に変身したかが、相当詳細に、
それも全体を失ふ事なく、理解されたのでは無いでせうか。もうほとんど解明の連
載は終はりですが、後一回詩文散文統合後の様子について論じます。
●『インターステラ』は、CAKE読書会の伊東さんに教はつて鑑賞したものです。
渋い、いい映画でした。SF映画で観たものは『2001年宇宙の旅』(1968
年)『時計仕掛けのオレンジ』(1972年)以来です。映画を観ないものぐさと
しては珍しいことでした。伊東さんに感謝。あなたにもお薦めします。「公房好み」
だと思ひます。織部好み、利休好み、といつたやうに。
●ではまた次号。

差出人:
贋安部公房 次号の原稿締切は5月26
〒 1 8 2 -0 0 日(金)です。
03東京都
調布
市若葉町「
閉ざされた
無 次号の予告
限」 1。安部淺吉のエッセイ
2。安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)
3。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝
4。「安部公房の写真」とは何か
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(4)
6。言葉の眼11
7。その他のご寄稿と記事
もぐら通信
もぐら通信                          63
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新しい知
見の発見に努め、それを広く紹介し、その共有
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくため を喜びとするものです。
に、 安部公房縁りの方、有識者の方などに僭
越ながら 本誌をお届けしました。ご高覧いた 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、も
だけるとありがたく存じます。(順不同)  ぐら通信の編集及び発行を行うものです。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池田龍 【過去の号の訂正箇所】
雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治様、宮西 第54号
忠正様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎 P36
様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行様、内藤 訂正前:
いづれも三人称
由直様、番場寛様、田中裕之様、中野和典様、
坂堅太様、ヤマザキマリ様、小島秀夫様、頭木
訂正後:
弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、
いづれも一人称または三人称
藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝
日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田晋 第57号
哉様(読売新聞社)その他の方々 『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語
について(2)』
【もぐら通信の収蔵機関】 P32
訂正前:
「僕の中の「僕」」と言葉の存在の関係
 国立国会図書館 、日本近代文学館、
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處  訂正後:
 にも無い圖書館」 「僕の中の「僕」」と言葉と存在の関係

【もぐら通信の編集方針】 上の二つの号は特に配信はいたしませんがGoogle
Driveに収めてある上記の号は最新版(改訂版)に
差し替へてあります。
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集と交
歓の場を提供し、その手助けや下働きをするこ
とを通して、そこに喜びを見出すものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間とその
思想及びその作品の意義と価値を広く知っても
らうように努め、その共有を喜びとするもので
す。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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