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世界中の安部公房の読者のための通信世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信


MoleCommunicationMonthlyMagazine
2023年12月1日第176号(第二版) www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ
ただ を通
けの って
番地
に届
きま

安部公房の広場|s.karma@molecom.org|www.abekobosplace.blogspot.jp
もぐら通信

目次

0 目次…page2
1 記録&ニュース&掲示板…page3
2 巻頭詩(61):自転車走者の至福:リヒャルト・デーメル…page11
3 コーボー・ベーシックスkobobasics(22):猫……page16
4 フォト&エッセイ『都市を盗る』を読む(9):犬の眼……page26
5 日本一極国家論(続 ):GAMECHANGE理論(18):4.1.9日本国家核ミサイル保有
論6 政治とは何か(承前2)/三つ目の切り口:日本の国の民主主義と西欧米と云ふキリスト
教圏国の民主主義の相違/キリスト教会の教義である人間有原罪論と政治の混乱…..page24
7 ネット・モナド論(38):貨幣とは何か4:金本位制と資本主義の関係∼資本主義とは
そもそもバブルである∼……page
7 ネット・モナド論(40):日本人の資本主義のモデル……pager
8 SFで思考するための本棚(13):.....page
9 私の本棚(55):●……page25
10 散文思索塾(9):6. 言葉の意味の四則演算/6.2 掛け算……page30
12 カフカの箴言(23): 真の敵対者…..page35
13 ショーペンハウアーの箴言(17): 慇懃無礼……pag36
14 糞尿と性愛の文学 生殖器・排泄器同一社会論仮説 (3):1。古事記の中の糞尿と性愛
/1.1神武初代天皇の皇后(きさき)の出生譚(2):待て次号:岩田英哉…page
16 縄文紀元論:Topologyで日本人を読み解く(41):5.60 猿田彦(2)/5.61星
座とトポロジーの関係(2)/5.61 ……page75
17 東 イツ回想記(7):シュヴェートの地理的位置…page96
18 鹿島日記(3)…page39

・本誌の収蔵機関…lastpage
・編集方針…lastpage
ド
もぐら通信

ニュース&記録&掲示板

The best tweets of the month


@untitled_thread·Aug 24
Replying to

安部公房の原作読んだの大昔だからもうちゃんと覚えてないけど、小説はそのまま「砂の
女」だったけどこちらは「砂と女」感があるかな。女性の人間的な側面が映画のほうが色
濃く描かれてる気がする。

多賀 美有@Qentar広報
@myu_Qr
·
Aug 21

夜寝る前に少しずつ、安部公房の「壁」を読み進めています

「砂の女」や「赤い繭」を読み、文体や言葉のセンスに一目惚れした大好きな作家です

この年代の作品、世界観が独特で大好きなんですよね∼

しんどう@shindo_shinjuku·23h
使ってる寝具の名前が「安眠工房」で、変な名前!と思ってたけど 安部公房…ってこ
と……?

渡邉幹 - Motoki Watanabe


@fantasytapes
·
Aug 24
公園のベンチで名刺とマネキン人形が寄り添いあっている。安部公房、壁、読了。シュー
もぐら通信

渡邉幹 - Motoki Watanabe


@fantasytapes
·
Aug 24
公園のベンチで名刺とマネキン人形が寄り添いあっている。安部公房、壁、読了。シュー
ルって何?

鈴木カオル@KOTO_SZK·Aug 24
Replying to

東大医学部出てる安部公房も講演でそれを言ってました。
「医者っていい加減にやろうと思ったらいくらでもできるんだよな」とか。
「ボクが手術なんかやったら確実に人殺しちゃう」とか。
z
爛(ran)
@ran_1214
·
Aug 21
Replying to

安部公房づいてきたぞ!
箱男読むか!()

麻郎@読書垢
@dewest_man
·

安部公房「砂の女」読了。
砂丘の中に掘られた家に閉じ込められ、寡婦との生活を強要された男が、懸命に脱出を計
ろうとする。ただの脱出ゲームものではなく、自由の意味、人間の持つ承認欲求の強さ、
見方ひとつで変わる社会構造の脆さなど、非常に哲学的な寓話的な内容となっている。
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冨澤倖之介@konocamerasuke·
SFCのメディアに安部公房の箱男がない、、、、、

澪標@_Miwotsukushi_·
今回の文スト観た?もしかしてわたくし単行本1冊買ってないとか??んーー?
それはそうとしてあの形跡から予測しちまったけどあの人だと当たって欲しく無かった
な…シグマが可愛くて仕方ないです。元ネタは安部公房じゃないかなと思ってるけど、でも

最近まで生きてた人だしな∼ん∼

コトホ@お仕事募集中@SSS_KOTOHO·
Replying to

「日」という漢字に「一」を足して別の漢字を作るという問題で思い付いた名前(こうだ
さるよし)です。 「文字が4コマみたいだ!」って気づいてからは4コマ漫画を描く時に
使ってたペンネームです。 その後に安部公房の本で同じペンネームがあるのを知りまし
た!
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エムティ@Mt0927·Aug 25
今まで読んだのが主に短編だったのもあるけど安部公房の本気というか集大成というか、
を砂の女で見れた気がする。あとともかく安部公房の比喩表現のレパートリーの豊富さに
ひれ伏すばかりだった∼∼

エムティ@Mt0927·
安部公房「砂の女」読了。
砂と暑さに囲まれた息苦しいジリジリとした描写、今の酷暑にもぴったり。徹底した「生
きにくさ」「逃げ道なし」「息苦しさ」はどの時代のどの生き方にも共通するのだな。ス
リリングな読書体験。

あ@a_genkidayo·
もしかして安部公房の「榎本武揚」ってゴールデンカムイと関係ある?

ゲルゲ
@takogelge
もぐら通信

ゲルゲ@takogelge·Aug 21
ここ10年で見たMVの中でゲルゲ不動の1位がコチラ。

安部公房の世界に迷い込んだような、 Wesの世界観と才能。凄い。

ショートムービーで最後がMV。
リンチ御大好きにもオススメっす。

https://youtu.be/jInhyEbMq20

滝沢聖峰 『女流飛行士マリア・マンテガッツァの冒険①∼⑧』『シャーズパイロット』発
売中@SeihoTakizawa·Aug 25
凄い。「いい投影体を探すこと。まだ言葉で言えない感覚を映すモノを探す作業∼小説を
書く一番の楽しみはそこですよ。あと書くのはね、よくこんなことやるなと思うくらいし
んどいけども、投影体を見つけるところだけは、自分の喜びと言えるかもしれない。」と
いう安部公房の言葉を思い出した。
Quote

yoshitomo nara / 奈良美智@michinara3·Aug 25


まだ何も見えていない描き始めはいつも楽しい。仕切りの無い原っぱで遊んでる感じだ。
でも、何かが見えてきた途端、それを表出させなきゃ!と苦しくなる。いつの間にか闘い
のリングに上げられてしまってる感じ。

グマーヴァのオヴァー@bakudewanaikuma・Aug 26
もぐら通信

まとわり着く様な描写という点で行くと 自分の中でベストがずっと安部公房

のままなのじゃ

えりん
@erin_taso
·
Aug 20
何冊も読んでいくほど三島由紀夫と安部公房って真逆だな∼って思うんだけど、何故か短

編になると急に性質が似寄るから面白い 短編のがストレートな表現にせざるを得な
いからかな

ケイ子@k14674_music·
高校生以来に安部公房を読んでいる。

不安@hs_gesu6090·
安部公房読みながら落差草原聴いててかなり良い

田所正臣@masamimix·Aug 24
サラメシに出てたウクライナの方が好きなモノで「安部公房」って答えてたけど、ロシア
で人気があるのは知ってたけどウクライナでも人気あるのかな??
もぐら通信

こざ
@kozzzza
·
Aug 24
安部公房が好きなウクライナ女子…!

ベネルクス@0370uramoopnij·
読書感想文何で書くか迷う
人間失格買ったんやけどな
安部公房で読みやすい小説あったら読んでみたい

JUN-KO @k0sHaV42L2qkfoN·
能が洗脳された本。《砂の女》安部公房。左脳のどこかしらからずっと渇いた砂がサラサ
ラ…サラサラ…読んで行くと…と言うか…読みを深くしてしまうと…落ちてくる。砂が。そ
れもオートで(笑) オートマチックで砂が…(笑)

なあこ@tr_nako·
出られない部屋で脱出するアクションを取らないままダラダラ過ごすタイプの話地味に好
きなんだけど、概要だけだと安部公房の「砂の女」がニアミスするの、なんか微妙にしっ
くりこない
もぐら通信

第一回もぐら文学賞結果発表

該当者:なし
感謝賞:この1年の期間で応募作品は芸太氏の『弱
さ』だけでした。この一作のご応募に感謝し、もぐら
通信社一般社団法人より 少の謝礼をお届けします。つ
きましては、芸太さんには、銀行の口座の詳細を下記
メールアドレス宛にお知らせください。

eya.iwata@gmail.com
もぐら通信
もぐら通信 ページ11
巻頭詩
(61)
03.JUNI:ヨーロッパ自転車の日の詩
RadlersSeligkeit
自転車走者の至福

リヒャルト・デーメル

【原文】
Wer niemals fühlte per Pedal,
dem ist die Welt ein Jammertal!
Ich radle,radle,radle.

Wie herrlich lang war die Chaussee!


Gleich kommt das achte Feld voll Klee.

Herr gott, wie groß ist die Natur!


Noch siebzehn Kilometer nur.
Ich radle,radle,radle.

Einst suchte man im Pilgerkleid


den Weg zur ewigen Seligkeit.
Ich radle,radle,radle.

So kann man einfach an den Zehn


den Fortschritt des Jahrhundertssehn.
Ich radle,radle,radle.

Noch Joethe machte das zu Fuss,


und Schiller ritt den Pegasus.
Ich radle!

【散文訳】

ペダルを踏んでは、誰も感じたことはないだらう!
世界が、嘆きの谷だなんて!
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
もぐら通信
もぐら通信 12
ページ

何とまあ素晴らしいのだ、この国道の並木道は!
直ぐに、クローバーで一杯の8番目の野原だ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。

主なる神よ、何と自然は大きいのだらう!
まだたつた17キロ走っただけだ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。

嘗(かつ)ては、巡礼服を着て
永遠の至福への道を求めたものだ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。

かうして、10といふ数字のところで簡単に
世紀の進歩を見ることができるといふ訳だ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。

まだ、ゲーテも足で歩いて、
そして、シラーはペガサスに乗つてゐた。
わたしは、自転車を漕いでゐるのだ!

【解釈と鑑賞】

ドイツの詩人です。自転車を漕ぐことの喜び(歓びといふ文字を選ぶべ
きかも知れません)を歌つた詩です。発明されて、広く販売されるよう
になつた当時、自転車がどのやうに受け止められたかの、よく伝はつて
来る詩でもあります。

日本語のWikiです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/リヒャルト・デーメル

ドイツ語のWikiです:
https://de.wikipedia.org/wiki/Richard_Dehmel

この詩人は、リューベックといふバルト海に面したハンザ同盟の中心都
市であつた町から詩の投稿をしたトーマス・マンを発見した詩人です。
もぐら通信
もぐら通信 ページ 13

マンの十代の書簡集の最初の方に、マンが詩を書いた後に、どこかの雑
誌に投稿した短編小説『転落』を賞賛してくれたことへの、デーメル宛
のお礼の手紙が収録されてをります。1894年11月9日付の手紙で
す。発信地はミュンヘンのランベルク通り2番地とありますので、小説
家としてのマンは、この時既に故郷を離れてゐたことがわかります。

以下に日本語のWikiを引きますが、これを読みますと、何故トーマス・
マンがベルリンに出てから保険会社に勤めたのか、おそらくはリヒャル
ト・デーメルに紹介されたのでせう。マンがベルリンに出て保険会社の
口をどうやつて見つけたのか、取り合わせに飛躍がありますので、長年
不思議に思つてゐたのでした。一つの解を得たやうに思ひます。勿論、
マン青年は就業時間中に会社の机に向かつて小説を書いてゐた。

ドイツ語のWikiを見ますと、以下のやうにあります。これを読みます
と、この詩人の職を奉じた団体は、Verband der Privaten Deutschen
Versicherungsgesellschaften in Berlinとありますから、ベルリンにあ
る保険会社の協会であり、その秘書または秘書役を務めたといふ事です
から、若き20歳そこそこのマンにどこかの保険会社に口利きする事
は、十分にできた事だと思ひます。この詩人の学位論文が、保険経済論
だといふのが、面白い。日本語のWikiには、この辺りの記述はありませ
ん。これは、貴重な発見でした。以下ドイツ語のWikiから。下線部が以
上に相当の箇所です。

「Nach dem Abiturin Danzig1882 studierte er in Berlin


Naturwissenschaften, Nationalökonomie und Philosophie und
beendete sein Studium mit der Promotion in Leipzig1887 zu einem
Thema aus der Versicherungswirtschaft. Während des Studiums
wurde er Mitglied der Burschenschaft Hevellia Berlin.[2]Danach
arbeitete er als Sekretär im Verband der Privaten Deutschen
Versicherungsgesellschaften in Berlin und verkehrte im Umkreis
des Berliner Naturalismus.」

さて、日本語のWikiは短いものなので、その記述を全文引用しますと、
次のような詩人です。「火災保険の職に就き」といふところが、ドイツ
語版と比較をすると曖昧であるやうに思ひます。

「リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル
(RichardFedorLeopoldDehmel、1863年11月18日-1920年2月8日)
もぐら通信
もぐら通信 ページ 14

プロイセン、ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡の小村
に山林監視人を父として生まれる。教師と対立してギムナジウムを放校
されたのち、ベルリンとライプツィヒの大学で自然科学、経済学、文学
などを学ぶ。その後火災保険の職に就き、仕事の傍らで1891年に処女
詩集『救済』を刊行、これをきっかけにリーリエンクローンとの交際が
始まる。1895年より文筆専業となり、1896年に代表的な詩集『女と世
界』を刊行。1901年よりハンブルク郊外のブランケネーゼに永住し
た。1914年から16年まで自ら志願して第一次世界大戦に従軍してい
る。終戦後の1920年に戦争時の傷の後遺症が元で死去。

その詩は自然主義的・社会的な傾向を持ちつつ、精神的・形而上学的な
エロスによる救済願望に特徴付けられている。童話、劇作などもあり、
晩年は第一次世界大戦の従軍記録も残した。

彼の詩には、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、アレク
サンドル・ツェムリンスキー、アルノルト・シェーンベルク、アントン・
ヴェーベルン、クルト・ヴァイルなど多くの作曲家が曲を付けた。ま
た、彼の詩を元にしたシェーンベルクの弦楽六重奏曲『浄められた夜』
は特に有名。」

この日本語のWikiにあつた此の詩人に相応しい写真を二葉掲載して、感
想を続けます。

第一次世界大戦出征時のデーメル

デーメルのデスマスク
もぐら通信
もぐら通信 ページ 15

第1連の「嘆きの谷」は、新約聖書の「詩編」84編 「マルコによる福
音書」15章15節∼32節の題名「嘆きの谷を通るとき」に語られてゐる
谷のことです。

第2連の「第8番目の野原」は、チェスの盤面の縁(へり)にある、双
方にとつての一番奥の院、即ち王と女王のゐる第8番目の最後の一列を
いひます。英語でいふならば、the eighth eldの eld、ドイツ語のFeld
を、このやうに縁にあるといふ意味を掛けて、あるいはまたドイツ語の
日常会話では普通にさういふのかも知れませんが、つまり例へば私たち
が得意な藝を18番といふやうに、そのやうに使つてゐるのです。

つまり、自転車は町を遠く出て、そのやうな郊外の野原を、町の領地の
縁を快適に走ることができるといふのでせう。

第5連の「10といふ数字のところで」とある意味は、その次の行に世
紀といふ言葉が出て参りますから、1世紀100年を区切る、10年ごと
の単位だと理解をすることにします。

最後の連の最初の一行で、ゲーテ、GoetheがJoetheとなつてゐるのは、
まさか誤植でなければ原文の通りで、きつとベルリン訛りの表記に違ひ
ありません。ベルリンか、あるいは低地ドイツでは、ganz gut!をjanz
jut!と発音してをりましたから。

「わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ」といふ
各連最後の一行が、誠に爽快で、自転車を漕ぐことによる疾走感と自由
を感じさせます。
fi
fi
もぐら通信
もぐら通信 ページ16

コー ー・ ーシックスkobobasics
(21)

岩田英哉

『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)より直接猫
殺しに関する作品論を部分的に抽(ひ)き出して以下に再掲し、何故安部公房の猫
はいつも殺されることになるのかの話をします。『キンドル氏と猫』の殺される猫
の話は、話題が広範囲に及びますので、ここでは省略をします。

この論考の目次は次のやうになつてゐて、このうちIの章の1から4をのみ全体を
引用して、あなたの理解に供したい。もし此の論考の全体に、『キンドル氏と猫』
も含めて、安部公房の世界の全体を知ることに御興味があるならば第58号のダウ
ンロードは:https://www.scribd.com/document/668012998/
%E7%AC%AC%EF%BC%95%EF%BC%98%E5%8F%B7-
%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%89%88

私には日本人の大好きな謙譲や謙 の美徳などといふ道徳はないので率直に申し上
げますが、この論考は非常によく安部公房のトポロジーの世界観および小説観(「仮
説設定の文学」)を論じ尽くしてといふ位に論じてゐます。空前絶後、絶海の孤島で
す。今同じものを書かうとしてもとても書くことが出来ません。

目次

I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫

II 1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行中の安部公房が真知夫人に当てた葉書
の文面から解ること

III『キンドル氏とねこ』:第五の猫殺人事件
IV 安部公房の小説観と世界認識
V 何故安部公房の主人公は複数存在するのか?
VI 安部公房はリルケの天使を殺したのか?
ボ
ベ
もぐら通信
もぐら通信 17
ページ

I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
何故安部公房の猫はいつも殺されるのでせうか?

猫が人殺しの目に遭ふといふのは言葉の理屈には合ひませんが、この理不尽は、理
不尽なる安部公房の世界ならばゆるされるでありませう。これは一つのcase(事
件)ですので、「猫殺人事件」と呼んでも良いでせう。アガサ・クリスティならば
『ABC殺人事件』といふやうなものです。何故なら、この「猫殺人事件」は連続し
て起きてゐるからです。

日本近代文学史上、最初の猫の死は、夏目漱石の猫の死ですが、この名前のない無
名の猫の死は誤つて水 に自ら墜落するといふ過失ですから、殺人の意思を作者が
持つて猫を殺したのは、恐らくは安部公房を以つて嚆矢とするのではないかと思ひ
ます。犬好きの安部公房に対して、猫好きの三島由紀夫が猫を腑分けして殺したの
は『午後の曳航』(1963年)、即ち安部公房が『砂の女』を発表した翌年39歳の
時ですが、安部公房はそれよりも20年早く、未成年であつた19歳の時の処女作
『(霊媒の話より)題未定』で、既に最初の猫を殺してゐます。それは一体何故な
のか。

1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
処女作の『(霊媒の話より)題未定』の冒頭で、最初の猫が、老婆にステッキ、即
ち後年の十分に概念化された安部公房の言葉でいへば棒で、殺されます。

「一体に年寄りと云うとじっとして居て野菜ばかり食って居るものだが、此の婆さ
んと来たらぴんぴん動き って、魚も食えば肉に大好物と云う有様で、おまけにひ
どく荒っぽいのだ。一度等は僕の家にやって来て何やら話して居たが、婆さんの側
に置いてある風呂敷包み―例の町から買って来た「新鮮な魚っ切れ」が入って居た
のだが、それを近くの野良猫がかぎつけで(ママ)ギャアギャア縁側の所でわめき
立てたんだ。始めの内は婆さん小声で「しっしっ」と云って居たが、一向にその利
目が無いと見ると、いきなり僕達もビクッとした程の大声をはり上げ乍ら、手元に
あった婆さん愛用のステッキを振上げて跣足のままで庭先にかけ出したと見るや、
あっと云う間もあらでその野良猫を叩き殺して終ったと云う様な次第だ。」(全集
第1巻、19ページ)(傍線筆者)

私が上で線を付した箇所が既にtopologyの発想で書かれた箇所なのですが、
topologyと呪文と変形の関係については、「IV安部公房の小説観と世界認識」のと
ころで詳述します。

風呂敷包み [ 1] は、何かを包めば、それは袋と同じであり、壺であり、穴であり、
もぐら通信
もぐら通信 ページ18

り、そこには繰り返しの呪文(呪文は同じ繰り返しの言葉ですから「繰り返しの」
は贅語です)が、唱へられて、存在が招来されることになる。

[ 1]
凹の形が、安部公房の汎神論的存在論として重要な存在の宿る形だといふことが一番よく説明されて
ゐるのは、『様々な光を巡って』(全集第1巻、202ページ)です。これをお読みください。また何
故風呂敷包みが、これに関係するかといふと、日本の風呂敷は、なんでもかんでも入れることができ
て、一つに包んで、全体を1に、即ち存在にすることができるからです。それから、「IV安部公房の
小説観と世界認識」で後述するやうに、安部公房は現実を二次元の面の集合として捉へてゐるからで
す。

婆さんは最初は「しっしっ」と小声で呪文を唱へるが、「一向にその利目が無い」。
と見るや、「いきなり」、即ち不意に、突然に、前後なく、即ち超越論的に、今度
は小声の呪文ではなく、対照的に又対称的に又反対の極に「大声をはり上げ乍
ら」、「あっと云う間もあらで」、これも時間無く従ひ超越論的に「有無を云はさ
ず」に、「野良猫を叩き殺して終った」、即ちこれも超越論的なことに(気がつい
た時には)既にして「叩き殺して終っ」てゐたのです。

呪文に効き目がなければ、棒を以つて無名の名無しの猫を、さういふ意味であれば
無名といふことから存在であり得る猫を、野良といふ理由で、即ち社会に未登録非
登録といふ理由で、そして婆さんの大好きな、それ故に例のといふ意味で鉤括弧付
きの「新鮮な魚っ切れ」と呼ばれる定例的に婆さんが日常の時間の中で所有してゐ
ることを村の人たちに周知の魚を盗まうとした理由で、超越論的に「叩き殺して
終っ」てゐる。「新鮮な魚っ切れ」とは、後述する断面であり断層であり、複数の
主人公の生まれる契機となる日常の時間の世界の現物の切断面のことなのです。
「新鮮な」断面であることに意義があるのです。

これが、呪文を間に媒介として置いた、猫と棒の関係といふことになります。

そして更に、興味深いことには、この婆さんの作中の役割は、これもやはり呪文と
同じ何かと何かを接続する媒介者であるといふことです。即ち此の婆さんはシャー
マンであり、巫女なのです。それ故に、この猫殺しの後に次の文章が続きます。
「はらはらして心配して居るばかり」でゐるのは、婆さんと山の上に一緒に住んで
ゐる地主の息子です。

「やれ婆さんが土方の喧嘩を仲裁したとか、男でも恐ろしい様な山寺へ行く途中の
吊り橋を走り乍ら通ったとか云うのを聞く度に奥さんと二人ではらはらして心配し
て居るばかりだった。」(全集第1巻、19ページ下段))(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信 19
ページ

そして、この後の「後段」と題された章で、婆さんは橋の上で(意味の深いことに
安部公房の大好きな)自動車によつて跳ね飛ばされて橋から河へ落ちて死んでしま
ひます。

「一台の自動車が、実際にこの事すら不思議なのであるが、恐ろしい急で向うの方
から疾走して来て、橋の上に通り掛かった。自動車なんでこんな所じゃ、年に数度
しかお目に掛かる事は出来ないのである。そして其時丁度例の地主さんの所の婆さ
んが元気よく町に「新鮮な魚っ切れ」を買いに行く為に其の橋の上を通り掛かった
居た。(略)自動車はキーとすざましい(ママ)音を立てて制動を掛けたけれど
も、時すでに遅しである。自動車はらんかんをつき抜いて半分河の上に乗り出す
し、婆さんは真逆さに河の中に飛び込んだまましばらく浮いて来なかった。(略)
彼は其時すぐ様クマ公の云った例を想い出したのだ。「霊媒」になろう。そうすれ
ば俺はあそこの家にあの婆さんの代りになって住む事が出来る。下男としてではな
く、家庭の一員として住まう事が出来る。乞食なぞしないでもすむのだ。」(全集
第1巻、43ページ上段)(傍線筆者)

話の順序に戻ると、猫を殺した媒介者の婆さんが、今度は移動する(さういふ意味
では機能としてみれば橋と同様の媒介の機能を有する)箱である自動車によつて殺
される。さうして、少年であり、さういふ意味では未だ性の分化してゐない即ち未
分化の実存たるパー公といふ本来名無しの子供が、婆さんの役割を引き継いで、そ
の死者の役割を演ずると、親のゐない生涯孤独の此の孤児は、縁もゆかりもない家
族の一員として「あの婆さんの代りになって住む事が出来る。下男としてではな
く、家庭の一員として住まう事が出来る。乞食なぞしないでもすむ」ことができる
のです。即ち、赤の他人として、またさうであるにも拘らず、家族の一員として遇さ
れることになる。

安部公房の家族は、三島由紀夫の家族同様に、いやさういふ意味では安部公房の発
見者埴谷雄高の『死霊』の異母兄弟の男女の若者たちと同様に、みな疑似家族を構
成してゐる。戯曲『友達』の疑似家族です。

このやうに考へてみれば、安部公房の作品の主人公はみな、霊媒(シャーマン)な
のではないでせうか。何かと何かを接続する媒介者、媒体であるといふ性格を濃厚
に宿してゐる。さうして、両極端の、橋の両側を自らが渡つて接続し、一番重大な
場合には、生死の間といふ橋の上をさ迷ひ、最後には此の世とあの世の接続者、媒
介者、霊媒になつて失踪する。失踪が、婆さんの場合のやうに「未必の故意」によ
るかも知れない、いづれにせよ事故によるものか、猫の場合のやうに殺人によるも
のか、パー公のやうに(曲馬団といふことから)人攫(さら)ひによるものかは別
にしても。かうしてみると、後年の安部公房の主人公たちの失踪類型が全て処女作
もぐら通信
もぐら通信 20
ページ

に出てゐることになります。

安部公房の概念化した棒については、「『赤い繭』論」(もぐら通信第51号)に詳
述しましたので、ご覧ください。婆さんが猫を殺した棒が、その後小説家として世
に出てから、壁が垂直方向といふ時間のない方向に永遠に成長して行く普通名詞の
壁になるやうに、一体どのやうに時間のない空間で成長して、縄と一対の、普通名
詞の姿をした棒になつたのかを。もぐら通信第51号のダウンロードは:https://
www.scribd.com/document/593540228

2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
「はるかな迷路のひだを通り抜けて、とうとうおまえがやって来た。「彼」から受
け取った地図をたよりに、やっとこの隠れ家にたどりついた。たぶん、いくらか
酔った様な足取りで、オルガンのペダルのような音をたてながら、階段を上りきっ
た、とっつきの部屋。息をこらして、ノックをしてみたが、なぜか返事は返ってこ
なかった。かわりに一人の少女が、仔猫のように駆けよってきて、おまえのため
に、ドアを開けてくれるはず。伝言でもあるかと、声をかけてみるが、少女は答え
ず、薄笑いを残して逃げ去った。」(単行本版『他人の顔』:全集第18巻、322ペー
ジ上段)

[前の作品の末尾を次の作品の冒頭で継承するといふ]冒頭共有については良いで
せう。襞といふ 間からなる迷路を最初に置き(空間的な差異)、次に「オルガン
のパダルのような音」が時間的な差異として繰り返され、「階段を上りきった」垂
直方向の高みには存在の部屋がある。そこへの案内人は、管理人の小さな偏奇な
娘、即ち未分化の実存たる少女であつて、その実存は恰も「仔猫のように」駆け寄っ
て来る。そして、安部公房の部屋にはドアはありませんので、ドアの開閉は筋書き
の展開といふ時間の差異の中で、「空白の論理」に従つて、最初の段落と次の段落
の間の空白に隠されて「既にして」(超越論的に)終つてをり、安部公房特有の「僕
の中の「僕」」といふ内省的・再帰的話法の中では「既にして」(超越論的に)「お
まえ」と二人称で呼ばれてゐる妻(といふ三人称)は、「彼」(三人称の「僕」)
を求めて、部屋の中を、ドアを「いつの間にか」通り抜けて、「のぞきこ」んでゐ
る。

さて、ここで安部公房は未分化の実存たる少女を猫に、それも子猫ではなく「仔
猫」に譬へて直喩 [ 2] を使つてゐます。これは、雑誌で発表した版にはなかった。
何故子猫ではなく、仔猫なのかは、『方舟さくら丸』の冒頭の同様の用字である「仔
鯨」を論じた、「『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第53号)で論
じたので、これを以下に引用してお伝へします。

[ 2]
もぐら通信
もぐら通信 21
ページ

直喩の持つ安部公房文学に関する意義については『安部公房文学の毒について 安部公房の読者のた
めの解毒剤 』(もぐら通信第55号)をご覧ください。もぐら通信第55号のダウンロードは:
https://www.scribd.com/document/668020779/
%E7%AC%AC%EF%BC%95%EF%BC%95%E5%8F%B7-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%89%88

「『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第53号)のダウンロードは:
https://www.scribd.com/document/335406196/第53号-2017-01-01

「『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第46号)と題して、安部公
房が三島由紀夫と交わした時間と空間に関する哲学談義を論じ、それを小説といふ
虚構の世界に映したことを述べましたが、1967年刊行の『燃えつきた地図』より17
年後の、1984年刊行の『方舟さくら丸』の冒頭に、やはり三島由紀夫の愛した形象
を二つ書いて、この、安部公房の人生に於いて最も親しかつた筈の友人の霊に、安
部公房は密かに追悼の意を表はしてをります。

その二つの形象とは、仔鯨と、ラグビーのボールです。

「仔鯨」と、「子鯨」とではなく、何故安部公房は、この文字で此の言葉を選んで、
書いたのでせう。

三島由紀夫が1970年に亡くなつたあと立ち上げた安部公房スタジオのために書いた
戯曲『仔象は死んだ』(1979年)の題名が、子象ではなく、仔象でなければならな
い理由は、当時奉天で小学生の頃に、当時何度も大陸を巡回して、奉天では千代田
公園でテントを張った [ 1] 矢野サーカス団のサーカスでは間違ひなく見た筈の子
供の象の曲藝に、死を思はせる何かを同じ子供の安部公房が見たのか、それとも
サーカスを観て感動した後に、その子象が死んだことを知つたのか、いづれかであ
りませう。『安部公房文学サーカス論』は別途論じます。

ここで、安部公房が仔鯨と書き、子鯨と書かなかつたのは、同じ理由によります。
安部公房は詩人ですから、『没我の地平』でも『無名詩集』でも、用字については、
その文字の間の一文字文の空白も含め、厳密厳格に此れを文字通りに用ゐてゐるこ
とは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する 安部公房の数学的能力について(後
)』(もぐら通信第33号)で詳細に論じた通りです。

この仔鯨は、死んだ鯨の子供、いや、それ故に、仔供なのです。
(略)
また、それが証拠には、例へば『カンガルー・ノート』の中の「3 火炎河原」の
章では、ここで一度使はれて以降は小鬼と呼ばれる子供の登場に際しては、単に子
もぐら通信
もぐら通信 ページ 22

供と書き表し、仔共といふ用字とは別にして書き分けてをります。(全集第29巻、
119ページ下段)」(もぐら通信第53号)

注目すべきことは、この小説では、また詩人としての安部公房固有の「呼びかける
話者」が復活してゐるといふことです。即ち『デンドロカカリヤA』型の小説に戻つ
てゐる。これが、安部公房が後年雑誌の連載を巡つて出版社との問題が起きて、連
載は苦手だといひ、時間をかけて一冊の作品を仕上げることの方が自分の性に合つ
てゐるといふ理由だと思はれます。即ち、安部公房の生涯に亘る問題と解決の工夫
は、話法の問題であつて、それも一般的な話法なのではなく、個別安部公房固有の
「僕の中の「僕」」といふ内省的・再帰的話法にあつたのだといふことなのです。[
3]

[ 3]
安部公房固有の此の話法については、『デンドロカカリヤ論(後 )』(もぐら通信第54号)を参
照下さい。第54号のダウンロードは:https://www.scribd.com/document/668022149/
%E7%AC%AC%EF%BC%95%EF%BC%94%E5%8F%B7-%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%89%88

3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけた
りするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて
紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているの
だった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろう
とし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頰を融かし、顔をほころばせる。」(全
集第21巻、311ページ)

最後の一行の下線部からいつて、死んだ猫は名前のない猫であり、即ち無名の存
在、文字通りに名付けられぬ存在だといふことです。名付ける資格と能力のあるの
は、「存在しながら存在しない、あのカーブの向うを覗き込んでしまったことにな
る」透明な人間になつた主人公、即ち次の章で引用するやうに『方舟さくら丸』の
最後に主人公の到る「街ぜんたいが生き生きと死んでいた」街の中に立つ透明な人
間だけといふことです。この透明感覚はリルケに学んだこと [ 4] は諸処で述べた
通りです。

[ 4]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号)より『マルテ
の手記』を耽読して、安部公房が自得した透明感覚の当該箇所を以下に引用します。

「[ 11]当該箇所を岩波文庫の『マルテの手記』(望月市恵訳)から引用します。訳文では「透明な
るもの」を空気と解して「空気」と訳してありますが、これをリルケの論理に従つて原文の単語
もぐら通信
もぐら通信 ページ 23

(durchsichtig)に忠実に「透明なるもの」と替えてあります。それ以外は望月訳の通り。:

「空気のすみずみにまで感じられるこの恐ろしいものの存在。僕たちはそれを透明なるものとともに
吸い込む。
そして、それは僕たちのなかに沈殿し、凝固し、期間と期間のあいだでとがった幾何学的図形をつく
る。」」

ここでも話法に関して付記すれば、この小説では、「呼びかけない話者」、即ち『デ
ンドロカカリヤA』型(雑誌「表現」版)ではなく、『赤い繭』型の一人称小説に
なつてゐるといふことが留意すべきことです。

4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫
「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向って、カメラを構えてみる。二十四ミリの
口角レンズをつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。
それにしても透明すぎた。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた
人間の向こうは、やはり透明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔の
まえに手をひろげてみた。手を透して街が見えた。振り返って見ても、やはり街は
透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。誰が生きのびられるのか、
誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした。」(全集第27巻、
469ページ下段)

記念撮影をする対象の中に「自分を入れ」るといふ下線部が、安部公房の再帰的な
論理を示してゐます。これは、如何にも安部公房らしい。変形の計算に自分自身を
入れるのです。

そして、存在である無名の猫、それもトラックといふ大型車両に何度も轢き殺され
てペシヤンコになつてゐる猫を最後に書かずにはゐられない安部公房。無名の猫の
形象は、『燃えつきた地図』の猫と同様に、存在と透明感覚と分かち難い。何しろ
形象としても、限りなくペシャンコになつて二次元の面になる猫とは、限りなく透
明に薄く薄くなる平面であるでせう。

そして、何故自動車に何度も何度も猫は轢かれなければならないかと云へば、「IV
安部公房の小説観と世界認識」で後述する『使者』や『人間そっくり』の作品中に
書かれてゐるtopologyの論理による「箱の中の論理」によつてゐるからです。しか
も単なる箱ではなく、常にオルフェウスと同じく「転身」し続けてやまない移動体
としての箱である自動車は、安部公房のお気に入りの媒体であつたに間違ひありま
せん。そして閉鎖空間であつて、存在の部屋の窓までついてゐて、おまけに前進し
ながら後ろが見えるといふ、時間を相殺して無にするバックミラーまで装着されて
もぐら通信
もぐら通信 24
ページ

ゐて、これもまた小学生の頃「零下二十何度かになると学校休みだったな。後ろ向
きに歩ける眼鏡を発明しようとしたことがあるよ、本気になって。風に向かって歩
くとつらいんだ、眼も鼻も凍ってしまう」ことから其のやうな眼鏡を発明しようと
した」(全集第27巻、156ページ)といふ、此の小学生の子供の時に既に
topologicalであつた「公房好み」だといへませう。

***

最後に安部公房のエッセイ『猫的なもの』を読んで終はりにします(全集第9巻、
358ページ)。この短いエッセイの 語・キーワードは、化け猫である。猫は化
けるといふことです。

これがほかの人間に身近な動物たちとの決定的な違ひである。ほかの獣たちに比べ
て「ただ猫だけが見事な才能を発揮して、人間社会の中心部に自分を位置づけること
に成功した。かれらは、馬のような奴隷としてでも、またブタのような食用肉とし
てでも、また犬のようないやしい従者としてでもなく、ただ家庭的だというだけ
で、その存在をみとめられてゐるわけだ。」

そして、この人間の生活の至る所に入り込んで生きることをゆるされてゐる猫と言
ふ動物を、安部公房は物質的な空間のみならず、次のやうな空間即ち魂の世界の
間にもゐるといふのである。

「たしかに、猫というやつは、人間の魂のスキ間にもぐりこんできた、寄生虫のよう
な存在だということができるかもしれない。(略)猫の存在を許す心理を、完全に
説明しつくすことはできないようだ。ただ猫だからということで許さざるをえな
い。それがなにかしら不気味でもあるわけで、自然、化け犬というのは出てこない
が、化け猫という概念は一般的なものになっている。」 だから「人間はすでに心理
的に、猫に敗北しているのかもしれない。」

ここから、一つの余談を挟んで、次の結論に至る。

「われわれの社会が抱えこんでいる猫的なもの、いわゆる既成事実と称される権威あ
る存在、わけもなく民衆から奪うだけで、しかも敬意さえももってその存在を認め
られている怪しげなものどもがいかに多い事か。」

ここまで読んできて、安部公房がもつと後年になつて或るインタビューで、人が情
報を求めるのは安心したいからだ、安心するために情報を求めるのだといふ発言を
してゐて、なるほどと思つたことがある。ここからその時私は、大衆心理といふも
もぐら通信
もぐら通信 25
ページ

のを次のやうに考へた。安部公房の生前にはインータネットのネット・メディアな
どないが、マス・メディアはあつたわけで、ともに、私はこれはメディアと人間の
問題だと考へたのです。人間が集団的に情報を求めることとの関係で、

1.大衆心理が安心したいと思つてゐるのであれば、不安にしたり恐ろしい気持ち
にさせたりすれば、大衆心理を操作することができる。

この心理を少しズラすとまた次の見解を得る。

2.大衆心理は されたいと心のどこかで思つてゐる。さうであれば、実際にだま
せばよいのである。さうすれば、大衆心理は安心する。

この大衆心理の大衆は不特定多数の人間たちの心理であるが、この大衆をもつと絞
り込んで、一つの集団心理または組織体心理と分解して来ても、上記の1と2の心
理事情は変はらないのではないだらうか。

この1・2も含めて、以上の安部公房の猫的なものを、さうだと理解をすれば、猫
的なるもの、否、すつかり別のものに化けてゐる化け猫は、私たちの身の りの其
処ここにゐることになります。
既にもうさうなつてゐるからさうなんだといはれる「既成事実と称される権威ある
存在」、「わけもなく民衆から奪うだけで、しかも敬意をもってその存在理由を認め
られている怪しげなものども」。
前者を政治の世界ならば、エスタブリッシュメント、学歴社会、出世街道といつ
た言葉が連想されて出てくる、そのやうな官僚や大同小異の「寄生虫のような存
在」。後者は、政治家の国民に課す税金などは、これになるのではないか。さすが
に、もう敬意などそんな政治家には持たなくなつたことはよいことであるとして
も。

しかしながら、「人間はどうしても猫的なものなしにすますことはできないものなの
だろうか。」と安部公房はエッセイを締め括つてゐるが、この問ひに肯定ならば、現
状の肯定、否定ならば虚構の世界を創造して其処で猫殺しをする、といふ理屈にな
るのであらうか。論理的には、さうなるのだが……。しかし、今は寄生虫である猫
的なものが、その化け方の見事さ故に、宿主である人間の方を食い殺してゐる。こ
の寄生虫といふのは特にマス・メディアであり、宿主とは国民であるとする理解
も、場合と文脈に応じて幾つもの応用的解釈が可能です。

ここでの問ひは、人間が猫的なものを捨てて、離れて、自立・独立するためには一
体どうしたらよいか?といふことである。上は日本の国家から下は大衆をなす一人
一人の心理に至るまで。
もぐら通信
もぐら通信 26
ページ

フォト&エッセイ
『都市を盗る』を読む
(9)
犬の眼

岩田英哉
もぐら通信
もぐら通信 27
ページ

安部公房の小説のなかの猫は大体大型トラックに轢かれて煎餅みたいになつて
死んでゐるのであるが(例:『方舟さくら丸』『燃えつきた地図』)、それで
は、犬はどうかといふと、犬もまた死ぬ運命にあるやうである。

安部公房が実際に飼つてゐた犬の話で『屋根の上で死んだ犬』といふ短いエッ
セイがあります(全集第九巻、368ページ)

この犬は、結局結論を一言でいふと、閉鎖空間からの脱出をいつも夢見て実行
してゐる犬である。犬は飼主に似ると昔からいはれてゐる通りであり、私も複
数回飼主であつた経験からいつても、この格言は正しいと確信してゐる。安部
公房の飼つた犬は安部公房によく似た犬になつたのだ。

それで、最初の逸話は、安部公房がこの犬が病気になつたので哀れんで「古い
毛布を出してかけてやったりしたが、すぐに下に敷きこんでしまって、まるで
訳に立たない」といふことになつたといふことである。毛布の中にゐるのでは
なく、外に出てゐたいといふことです。次の逸話は、この毛布の下に潜らない
といふ結果を受けて、安部公房が「つくった小屋の中に、むりやり押しこんで
やった」話である。「翌朝、起きてみて驚いた。犬はその屋根の上にはい上っ
て、寝ていたのである。長年の習性から、直接空が見えていないと落ちつけな
くなってしまっていたのであろうか。そのまま、屋根の上で死んでしまっ
た。」

以上二つの逸話を披露したあとに続く安部公房の思想の展開は、自由を巡る話
であつて、当然にこれは犬の話ではなく人間の話である。要するに、犬と自由
の問題と人間と自由の問題が並行して意識されてゐるのです。

結論をいへば、安部公房にとつて自由とは、閉鎖空間からの脱出である。と
いふことが、此の全集で1ページしかない短い文章でよくわかります。作家
は、そして、かう続ける。
もぐら通信
もぐら通信 ページ 28

「自由というものは、どこか遠くのちがった場所になどあるものではなく、あ
くまでも自分をつくり上げてくれた、その環境の中からだけ発見できるものな
のだ。彼らが、外部からの、わずかな同情心めいたほどこしやお説教などに、
見向きもしないといっても、それはむしろ当然なことなのではあるまいか。つ
まらぬわが家の犬でさえ、自分で知った自由の中で、毅然として死んでいった
のだ。」

ここでいはれてゐることは、さうなると、安部公房にとつての自由とは、

自分の死を代償にしてでも毅然と実行する閉鎖空間からからの脱出である

といふことになります。

これが安部公房の自由といふ概念の定義である。

そして続く最後の段落に、私は安部公房らしい愛情を感じるのです。エッセイ
の書かれて発表されたのは1958年12月22日。警察や関係する団体によ
る歳末の取締りが行はれてゐたのでせう。

「最近、少年の不良化防止の声が高まり、単なる取締りよりも愛情をという意
見が強くなってきたのは、悪いことではないとしても、彼らはおそらく、そん
な愛情など、めったに受けつけようとしはすまい。私はむしろ、彼らのそうし
たかたくなな心に、かえって人間らしいものを感じさせられるのだ。貧困が存
在するかぎり、人間らしい魂が、かえって不良化への道をえらばせることもあ
りうるのである。」(傍線は引用者)

1973年に立ち上げた安部公房スタジオの若い俳優達を前にして、二十世紀
の課題は弱者の救済であると述べた安部公房であり、その問題の解決は、愛、
であるといつた安部公房であれば、上の引用でも既にこの問題は作家の内心で
考へられ初めてゐたことでせう。

さて、以上のやうに他の文章に当つてから、この写真に『犬の眼』と題して付
けられた文章を読むと、やはり、自分は犬の眼で写真を撮影するといつてゐま
すから、それに冒頭から「都市生活者の目は、犬の目に似ている」と書き出し
てゐますから、この作家にとつては都会または都市もまた閉鎖空間であつたに
違ひなく、自分の命を懸けて毅然として自由を求めて脱出を図る場所であつた
のです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ 29

その都会に住む人間の姿の典型例として、地下鉄で通ふ人間の意識が書かれて
ゐる。いつもの通りの、地下と地上の二つの世界の直喩的な相関関係といふ枠
組みで展開する安部公房独自の論理です。
「半年ものあいだ、私鉄の新宿経由で通勤しているくせに、副都心の高層ビ
ルは新宿からは見えないものと決め込んでいた男が現実にいたらしい」と冒頭
の上の一行の次に続けて、この男が地下道を通つて移動するので地下にゐるこ
とをさうだと意識しないほどであつたせいだ、そこが「地下道であることにま
るで気付かなかつたせいだ」と述べてゐる。高層ビルも、高層ビルの間に見え
る空の一角も、「たしかに都市のなかでは全景をみはるかすのは難しい。」そ
れに、地上ばかりではなく、「歩いている地面のすぐ下にだって、どんな想像
も及ばないまた別の街が身をひそめているのだ。」安部公房の結論はかうであ
る。

「どうせ視界数メートルの世界なら、地面に鼻をすりつけ前かがみになって歩
くほかははないだろう。」

この文章を書いてゐる今全集の中にうまく其のページが見つからないのだが、
安部公房のインタビューか談話のなかに、聴覚と臭覚に優れた犬の描く地図
は、人間が眼で見て測定して作成する地図とは全くことなつてゐるのだといふ
発言をよく記憶してゐて、まあ、これは安部公房にとつて当たり前の複数の視
点でものを見るといふことの、地図を巡る思想なのですが、さう、若い日の安
部公房が『砂漠の思想』といふ二つ目の評論集の後書きに書いてゐる安部公房
用語を使へば複眼思考といふことなのです。この『都市を盗る』の連載を読み
解くに当つて、これまでのどこかで、私は安部公房の小説は地図小説だと書い
たと思ふが、ここでも同じことをいひたいのです。

どうも安部公房の地図は、都市を閉鎖空間と見立てて、地上と地下に亘る直喩
関係にある種の信頼を置きながら、犬とは其の地表の其の表面と地下の上面ぎ
りぎりの境界線を歩く動物ですから、このやうに考へればなるほど、犬とは此
の意義に於いても境界線上を歩き、これも安部公房用語を使へば「周辺飛行」
する動物なのです。安部公房の小説のみならず、舞台についても、安部公房の
期待する観客が此の犬の眼を持つた観客か、それとも逆に安部公房スタジオの
舞台をみてくれることで、そのやうな犬の眼を自分のものとしてくれる観客を
観客として期待してゐることの判る文章が次のやうに続いてゐます。

「スタジオの旅公演で、ある地方の駅に降りたとき、とっさに失敗を予感し
た。空が広すぎたのだ。駅前の広場から、空の端から端までがひと目で見渡せ
もぐら通信
もぐら通信 30
ページ

た。こんな空の下に、芝居見物をするような人間が住んでいるとは信じられな
かったのだ。」 この公演では「さいわい予感は外れてくれた」のだが、あるい
は此の駅前に広い空が広がつてゐる町といふのは、安部公房の原籍のある北海
道の旭川かと思ふのである。

さて、といふわけだから、「確かに犬の目がつねに信じられるとは限らない」
が、しかし、「犬化した目を理解する心は失うべきでないような気がする」と安
部公房は述べてゐる。

犬の眼とは、安部公房の好んだ帰納法による思考の位置といふことになるでせ
う。このやうな眼の位置といふことを地表すれすれを行く犬の眼とすると、逆
の論理である演繹法は天の眼といふことになるだらうか。古事記の開巻第一行
は、天地(あめつち)初めて開けし時といつて始まるが、この犬の眼の視点か
ら見れば、アメは演繹法で天から地へと降りてくるのに対して、ツチは逆に帰
納法で、ツチからアメに登つて行くといふことになるでせう。

この作家にズバリ『犬』と題した小説がある(全集第4巻、226ページ)。
この短編を読むと、確かに話者の友人である画家のSがモデルの女と結婚して
住むアパートの一室は閉鎖空間であり、この画家は結婚した女が結婚の条件と
した不格好な、後で人間そつくりになる、これも後で画家に判るのだが人語を
解するのみならず人語も話す犬との同居なのである。最後には閉鎖空間で二者
は格闘して戦ひ、犬が画家を食ひ殺して話は終はるといふ、さういふ話です。

まあ、話を読むと、閉鎖空間での、この奇妙な化け物のやうな犬との、三者の
同居生活は地獄といつてよい共同生活で、三者で力を合はせて生活を維持しよ
うとか、何かの目的を共有しようとか、さういふことは全くない。
何故安部公房が、この1954年3月1日に、最初の一行が「ぼくは犬とい
うやつが大きらいである。」ではじまるこんな小説を発表したのか。いふまで
もないが、話者と作者は、別物です。だから、この僕といふ者は安部公房では
ないのです。話者が犬といふものが嫌いな理由は、羊の番犬とは違つて、そこ
にゐても無意味で役に立たない動物だからであり、この考への中には、玄関先
に繋がれて其処にただゐて、何かあれば吠えるだけのやうな犬は役に立ち意味
のある犬だといふ話者の分類による範疇には入つてゐない犬である。だから、
こんな犬を飼つてゐる買主が、話者は犬よりも大嫌いだといふのだ。そして、
上述の女と犬ごと結婚した画家のSに、話者の僕は其の結婚に反対するわけで
す。
このやうに考へて来ると、犬の好きな女と結婚する藝術家は結婚生活自体
が、犬のせいで閉鎖空間になつてしまひ、死んで此の空間を脱出する以外の道
もぐら通信
もぐら通信 31
ページ

はないのだといふことにも理解の出来る、なんといつてよいか、結構陰惨な話
です。安部公房らしい笑ひ、せめて黒い笑ひ位あつてもよささうだが、それも
なく、従ひユーモアもないのです。怪奇なのは、人間そつくりに変身して行く
奇怪な犬の姿で、これが読後にも印象に残る。

安部公房は猫も描いてゐますが、猫は冒頭述べたやうにいつも殺されてしまふ
のに対して、犬の方は飼主の人間を殺してまでもして生き延びるやうである。
となると、このエッセイで行間に安部公房の語つてゐることの一つは、犬の眼
を持ち、あなたも人間としてゐながら「犬化」すれば、なんとか閉鎖空間の都市
にあつても生き延びることができますよ、といふことなのかも知れません。

この生き延びる犬といふ犬の形象は、安部公房が何かの折に持ち出す問題で、
海の上で筏か船があつて二人の人間が其処にゐて、どちらかが死ななければ二
人とも命が助からないといふ問題の解法を連想させます。安部公房の解法は、
二人のうちのどちらかを相手が殺す必要の無い解法で、それは二人とも海に飛
び込んで死んでしまへばよいのだ、といふものですが。この場合、1954年
の此の犬の姿は、二人だけの筏か船の上にゐれば相手方を殺してでも生き残る
人間の、さう、「人間そつくり」の姿に見えなくもありません。人間ならば二人
とも殺し合ひは放棄して、海に身を投げて自殺をすれば殺人を犯さずに済む
が、もしどちらかが「人間そつくり」の生き物であれば(例:『人間そっくり』
の火星人)、人間ではないので相手を食ひ殺してもよいといふ理屈になりま
す。さうか、それで、『人間そっくり』の例の評論家は最後に狂気に陥るのだ
な。

海の上の船か筏といふ閉鎖空間に女がゐないのは、『犬』といふ小説では最後
の犬と画家Sの殺し合ひの場面の前に、第三者の誤解か何か不明の間違ひが原
因で、アパートの一室といふ閉鎖空間から出奔してしまつて既に不在であつた
からであるといふ事情に通じてゐる。

最後にもう一つ犬の話を。『なわ』(1960年)といふ題名の短編小説があ
ります。この話に登場する子犬は河原にある資材置き場にある、何かを充填す
るタンクといふ閉鎖空間の中で男の子たちにいぢめられ、あげくの果てに川か
ら上陸して来た二人の女の子の姉妹によつて縄で首を絞められて殺されるとい
ふ話になつてゐる。これも凄惨な話で、こんなことを考へて来ると、かりそめ
にでも、安部公房邸の犬小屋の屋根の上で死んだ犬は、安部公房が殺したので
はないかと疑ひたくなるのである。
もぐら通信
もぐら通信 32
ページ

日本一極国家論(続篇)
GAMECHANGE理論(18)
4.1.9日本国家核ミサイル保有論9
政治とは何か:政治の本質(承前2)

岩田英哉

4.1.9 政治とは何か:政治の本質(承前2)
三つ目の切り口:キリスト教と民主主義

4.1.9.1 キリスト教の原罪とイデオロギーの関係
もぐら通信
もぐら通信 33
ページ

散文思索塾
(9)
思索とは何か

岩田英哉

6。 言葉の意味の四則演算
6.2 掛け算
もぐら通信

もぐら通信 ページ34
ネット・モナド論
(39)
貨幣とは何か4
金本位制と資本主義の関係
∼資本主義はそもそもバブルである∼

岩田英哉

貨幣とは何か4:金本位制と資本主義の関係∼資本主義はそもそもバブルである∼
もぐら通信

もぐら通信 35
ページ

カフカの箴言

(23)

真の敵対者

岩田英哉

【原文】

Vom wahren Gegner fährt grenzenloser Mut in dich.

【和訳】

真の対向者、反対者からは、限り無ない勇気が、お前の中に入って来るのだ。

【解釈と鑑賞】

これも、何をいひたいのでせうか。

自分自身に言ひきかせているやうな一行です。カフカに敵がゐたか、自分に親しい
知友に敵がゐたといふことを思つてみることができます。

敵が本當の敵であるならば、敵対されて対抗することになる自分自身に、戦ふ勇気
が湧いて来るといふのです。相手が私にエネルギーを逆に注ぎこむといふのです。
もぐら通信

もぐら通信 36
ページ

ショーペンハウアーの箴言

(17)

慇懃無礼

岩田英哉

【原文】

Höflichkeit mit Stolz zu vereinigen ist ein Meisterstück.

【和訳】

誇り高き親切、誇り高き礼儀深さというものは、それだけで、一個の名品、名作で
ある。

【解釈と鑑賞】

これも、 釈不要の箴言です。

普通、誇り高いひとは頭が高いとしたものですが、この二つの一見相反すること
を、深く一個の人間の中で結びつけている人士は、それはやはり、本当の意味の名
士でありませう。

慇懃無礼という言葉、相反する二通りの解釈をゆるす、その機微を、この箴言は突
いております。

私の経験では、この機微を言語と態度で見事に見せることのできる人間はイギリス
人です。何も王侯貴族である必要は無い。わたしは一度ロンドン塔の制服を着た案
内人の若者に見事な此の実例をみたことがあります。
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もぐら通信 37
ページ
縄文紀元論
Topology
(40)
5.55 息栖神社(2)/

岩田英哉

5.55 息栖神社(2)
5.55.1 猿田彦大神について(2)
で
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もぐら通信 38
ページ

東 イツ回想記

(7)

吾輩は熊である

岩田英哉
ド
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もぐら通信 ページ39

鹿島日記

(3)

岩田英哉

9月21日(木)
二週間ぶりに行きつけの定食屋に行くと、TVで大相撲の中継をしてゐた。見る
ともなく見るとはや中入りの日のやうである。九月の初めから風邪をこぢらせ、
食当たりにやられて固形物は食べずに、流動食だけで毎日寝てゐたら、世間では
時間が過ぎてゐて、私は浦島太郎になつてゐた。食事を制限したので、といふよ
りは、ものが食べられなかつたので、痩せた。体が軽くなつて、いい感じであ
る。
定食屋の刺身定食、いと美味し。

大相撲の土俵に 城県出身の高安といふ相撲取りが出て勝つたが、応援すること
にした。 城県とは、Ibara-kiと発音するといふのはここに来てから知つた。確
かに我が茅屋のある地区の住所は棚木と書いて、実はTanakiと清音で濁らない
のである。同様に静音と濁音の交代は他の地名にもあるのは、この 城の国の特
徴であり方言です。車で道を走つてゐると、 城県にIbaraki、漢字で 木だつ
たと思ふが、こんな地名があり、そこが 城県の名前の由来であらうと察する。
なとり、とか、永谷園とかいふ名前が呼び出しの背中に書いてあるのは、子供
の頃TVで見た当時と全然広告主が変はつてゐないのはよかつた。

9月22日(金)
といふことで、もぐら通信も配信することができるまでに復調した。今日は配信
の後には、定食屋にいつて天麩羅定食を食するつもり。
酒も全く飲まなくなつてしまつたので、これはこれで良きことなるらむ。

闘病中に読むともなくドイツ語版の『野性の思考』を眺めてゐたら、このレヴィ
=ストロースの著名な論文の中の第三章にDie Transformationssystemeといふ章
があつて、日本語に訳せば「第三章 変形の諸システム」といふことであるが、
オーストラリア大陸の北に広がる三つのネシア(ポリネシア・ミクロネシア・メ
ラネシア)の習俗と其の部族間で海を隔てて共有する定例的な儀式の等価交換の
論理(例:日本の伊勢神宮の遷宮を思へば良い、また地方地方の季節ごとのお祭
りを思ひだせ)も記号化してゐるのでよく解るのであるが、今私の住ひする鹿
嶋・香取・潮来・佐原の近隣でこの1年半見聞きして来た、利根川かその支流を
間に挟み配置されてゐる八坂神社と諏訪神社(これは佐原のこれら二つの神社の
主宰役の等価交換で毎年開催される夏と秋の祭りの例)その他の構図と様子にぴ
つたりと来てゐるのである。つまり非常に幾何学的な論理で成り立つてゐるの
だ。ここまでさうなら多分、言語も日本語の文法構造にそつくりか、相当な共有
もぐら通信

もぐら通信 ページ40
部分を有してゐるに違ひないと見当をつけた次第。そのうち『縄文紀元論』に発表
します。しかし、まあ、レヴィ=ストロースは凄いなあ。日本人は言葉の問題になる
と直ぐに、言霊などといふ漢字を書くものだからからごころに欺かれて、言葉を神
秘化して思考停止するのが欠陥に民族であるが、レヴィ=ストロースは全く記号と文
字と言葉の意味の連鎖を重ね併せて整理することができてゐる。
また、地球物理学者の竹内好さんといふ方が、これも此の海洋の一帯を「象徴と
してのムー文明圏」と呼んで、『ムー大陸から来た日本人』といふ著作もものして
ゐて、ここで象徴としてのムー文明圏と呼ばれる海域は、レヴィ=ストロースの提示
してゐるものと同じ三つのネシアの海域が適用範囲であることが興味深い。これも
また同じ連載の中で論じたい。この海域はフランスの植民地であつたので、フラン
ス人の言語学者が調査をしてゐるかも知れない。となれば、フランス語で象徴の
ムー文明圏の個別言語の文法を読む以外にはないな。

佐原氏の利根川の支流を挟んで北東と南西の位置に八坂神社と諏訪神社が対比的
に並んで配置されてゐるといふことは、ここにユダヤ人が居住してゐたといふ証拠
になるだらう。時間の順序で考へると、この八坂神社が京都に勧請されたといふこ
とになるが、果たしてどうか。同じ問を諏訪神社についてもたてることができる。
しかしネットで調べると、京都と信州の諏訪の神社の方が古い様子である。といふ
ことは、これら二つの神社のできる時期までは少なくとも或いは遅くともユダヤ人
のネットワークが働いてゐたといふことになるが、私の推理は正しいか。佐原出身
の伊能忠敬は、さうなるとユダヤ人の血脈を引いてゐるのかも知れず、同市を父祖
の地とする加瀬英明さんもユダヤ人の血脈の中にゐたのかも知れない、いや、多分
ゐたのだ。今改めて我が姓を思へば、私のイ・ハタも、ヤ・ハタ、オ・ハタ、ウ・
ハタ、シ・ハタなどと同類で秦氏・ハタ氏であるな。

9月23日(土)
朝髭を剃らうとして鏡を見ると、私の目が煌々と、あるいはキラキラと輝いでゐる
ので驚いたことである。命といふものは不思議なものだ。
言語の本質を探究して一筋の半世紀であつたが、この頃実感として感じる地球像
といふのは、日本人から見れば当たり前といふなら当たり前であるが、あのニコ
ラ・テスラの電磁気・電磁波の世界の像に大変近いものになつてゐることに気づい
て驚く。地球は一個の生命体で、膨張と収縮を繰り返して、地球のあの面と反対側
のこの面が意思疎通しながら生きてゐるのである。このコミュニケーションは始ま
つたと思ったら終つてゐる。

一週間ほど前であるが、夜デッキに出て夜空を見たら、月が二つでてゐたので驚
いたことである。以前八王子に住んでゐた時に近隣の天之御中主を祀つた山の上の
神社、麻生といふ川崎市の地区にあつたと記憶するが、バスで行き、バスで柿生の
駅に戻つたところ、まだ昼間の14:30なのに空に月が出てゐて、予感がしたの
で手持ちのデジタル・カメラで三度月の写真を写しても画像として月は写らなかつ
た不思議を思ひだした。ことの次第は『縄文紀元論』に書いた。デジタル・カメラ
もぐら通信

もぐら通信 41
ページ

に写らないといふことは、私のみた月は物質的の月ではないといふことになる。同
じ月がまた出たのであらうか。手元のスマホで写すと月は一つしか写らない。しか
し私の目には二つの月が見える。
いづれにせよ、異変の起こらぬことを祈るが、月が二つ出てゐることが既に異変
であるからして、あとは私には何が起こるかはわからない。
もぐら通信

もぐら通信 42
ページ

【も ら通信の収蔵機関】

国立国会図書館、「何處にも無い圖書館」

【も ら通信の編集方針】
1. も ら通信は、安部公房ファンの参集と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜 を見出すもの す。

2. も ら通信は、安部公房という人間とその思想及 その作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜 とするもの す。

3. も ら通信は、安部公房に関する新しい知見の発見に努め、それを広く紹介し、
その共有を喜 とするもの す。

4. 編集子自身 楽しん 、遊 心を以て、も ら通信の編集及 発行を行うもの


す。
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