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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine

あな 2017年7月1日 第59号 第五版 www.abekobosplace.blogspot.jp
迷う たへ
事の :
ない 勝見 頼木君は?
あな 迷路
ただ
けの
番地
を通
って あ 和田 計算室じゃないかしら?
ます に届 『第四間氷期』[シナリオ]の最初の会話

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?…page 12
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4):最終回
  VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界で 
   の問題下降」後の小説)…page 24
4 私の本棚:岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・
   ゲーム論集』を読む…page 46 
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(4)∼安部公房をより深く理解する
   ために∼:岩田英哉…page 59
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 65
7 編集後記…page 67
8 次号予告…page 67

・本誌の主な献呈送付先…page68
・本誌の収蔵機関…page68
・編集方針…page 68
・前号の訂正箇所…page68

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプしま
す。そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

1。 今月の安部公房ツイート BEST 10
e
nM
ole
Priz Silence, Silence @Silenece_2015 4月28日
e
Gold
カフカが「変身」を書いた時、彼はそれを笑い飛ばすために書いた
安部公房が「壁」を書いた時、彼はきっとそれを笑い飛ばすために書
いた
ole
M
er
Silv Mayart @illust_choco 5月4日
女の人の描写が詳しくてエロティックだから安部公房と裸体デッ
サンを楽しむという意味不明な妄想してしまった。ごめん。

れな☆MAX@NEWシングル発売中 @ManjinoRyuu 5月4日


安部公房「箱男」、断念。
5年ぶりぐらいに、本を読むのを途中で止めてしまった。小説にいたっては、初じゃ
なかろうか。
いつか、もっと大人になってその面白さが理解できるようになったら、また会いま
しょう。しばらく眠っててください。おやすみなさい。

エーテル財団職員のレモリア @poke_glassnote 5月5日


文学部の民なら一度は『一握の砂の女』ってタイトルの石川啄木 安部公房本を思い
ついてしまったことあるだろ。

Q @Q_9q9q 5月4日
カフカは無意識から色々ひっぱり出してきてしまっているイメージなんだけど安部
公房は意識的に色々仕組んでいるという印象があって不条理は不条理でも不条理さ
の質が違う

2。今月のアクセス
演劇感想文リンク @kansolink 5月2日
先月アクセス数 TOP 人 8位 安部公房 http://engeki.kansolink.com/people/
pabekobo.html … http://engeki.kansolink.com

演劇感想文リンク
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演劇、ダンス、ミュージカル(国内上演分)等の舞台の感想、劇評、レビューを一
元にリンクするサイトを目指しています。
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engeki.kansolink.com

猫色電動物 @nekosonaLab 5月2日


砂の女(安部公房) #mouseart
boards of canada 「geogaddi」
https://www.pixiv.net/member_illust.php?
illust_id=52461591&mode=medium …

3。今月のレビュー
新ペリシテ同盟 @neophilistines 5月1日
それにしても、安部公房『城塞』は、清水邦夫『狂人なおもて往生をとぐ』と、テー
マも構造もそっくり!・・・それは、とりもなおさず、安部の1963年の作品を、清水
が1969年にコピーしたってことかなぁ・・・

海老原いすみ @ebiharaism 5月4日


「砂の女/著 安部公房」の感想 - モブトエキストラ http://merkmal-for-
someone.hatenablog.com/entry/2017/05/04/220016 … #はてなブログ
絶対面白いと思った。 この本を読みたいと思った理由は砂に埋もれていく家から脱出
するというあらすじに心を掴まれてしまったからです。「...
merkmal-for-someone.hatenablog.com

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宮本正樹@『第九条』 @miyamotofilm 4月30日


新国立劇場「城塞」すごい芝居だった!和彦のアイデンティティの確立を描きながら
日本という国家のアイデンティティに疑問を投げかける二重構造。さすがは安部公房
である。そして登場する五人の役者の演技が皆、素晴らしかった!特に松岡依都美さ
ん!この人は日本の演劇界、映画界を支えて行く逸材。

hirokd267 @hirokd267 5月1日


#城塞 新国立劇場の『城塞』について「『城塞』の「こわれてしまうんだ!」の意味」
を安部公房掲示板「貝殻草と贋魚」に投稿しました。 @8024atc
http://8010.teacup.com/w1allen/bbs/297

ホッタタカシ @t_hotta 4月29日


ブロマガを更新しました。安部公房『城
塞』公演、頭木弘樹『カフカはなぜ自
殺しなかったのか』、『岸田森全仕事』
にYES Feat. ARW公演などいろいろで
す。
【スローリィのぴんぼけ日記∼最近観
たもの読んだもの(2017年4月)】
スローリィのぴんぼけ日記∼最近観た
もの読んだもの(2017年4月)
 前回の更新から早いもので2ヶ月あま
りが経過、このブロマガも開設3周年を
迎えまし
ch.nicovideo.jp

もち @motikinoko 5月2日
【読了】『人間そっくり (新潮文庫)』安部 公房 http://booklog.jp/item/
1/4101121125 … #booklog

『人間そっくり (新潮文庫)』(安部公房)の感想(163レビュー) - ブクログ


『人間そっくり (新潮文庫)』(安部公房) のみんなのレビュー・感想ページです(163レ
ビュー)。
booklog.jp
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ミレイ @mirei303 4月30日


【箱男 (新潮文庫)/安部 公房】話には聞いていたけど予想以上に難解。いや、話筋自体
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は単純で文章も平坦なのですらすらと読めてしまうのだが、実はそれが罠で、見事な
までに煙に巻かれてしまったという印象。
... →http://bookmeter.com/cmt/63951565 #bookmeter

jeek @5619jeek 5月1日


#書評 #鷲田清一 

『顔の現象学』 鷲田清一 著

安部公房の「他人の顔」を思い出して・・。

(4/30 静岡新聞朝刊)

未翻訳ブックレビュー @kaseinoji 5月1日


返信先: @kaseinojiさん
前にブログにも書いたような気もするけど、電子書籍で「安部公房全部入り3000円」
とか「筒井康隆全部入り5000円」とか発売されないかな

未翻訳ブックレビュー @kaseinoji 5月1日


返信先: @8th_monthさん
安部公房の喋り方、単語選択もロジックも淀みがなくてシビれる。
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「育った満州は周囲の農村と切り離されていた/敗戦は観念でなくて場所を全て失う
という事実だった/人間はいつでも何かを失っていく方が幸せ/満州が自分を'都市的な
人間'にした」
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安部公房の人生
youtube.com

八月 @8th_month 5月1日
CSでやってた安部公房のインタビュー。海軍将校から「絶対に負ける」と聞いて
たから偽の診断書(結核)で徴兵忌避した事、列車で日本人が座席の中国人を蹴飛ば
してて五族協和が絵に描いた餅と知った事、終戦直後の奉天で一番怖かったのが
日本人を襲う元憲兵(日本人)の強盗団だった事など色々面白い

4。今月の榎本武揚
アスペルガーによろしく @lenalee220 5月3日
安部公房「榎本武揚」読みました。
散文的で分かりにくい部分が多々あったが、榎本武揚の人物像が坂本竜馬と被り、
他の武士とは違う視点を持っているという書き方は出来ていたと思う。
エンタメというより、本当に作者の考察を重ねた歴史小説。

5。今月のカンガルー・ノート
サンリオ男子ゲイセハメ撮掲載追詰太郎 @NoWolfAllowed 4月29日
齋藤飛鳥さんの前に供えられたカンガルー・ノート(安部公房)です。

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6。今月のSF
アイカワ @aikawajenjenn 5月3日
安部公房『人間そっくり』は、金子信雄、田中邦衛の共演でテレビドラマ化され
ているが(中京テレビ、1959)、これは今でもキャスティングさえしっかりやれ
ば、低予算で映画化可能なSFとして、検討に値する作品だと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%9D%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8
A…

舩橋岬 @funabasi83p 5月3日


小説という列車が読者という荷物を目的地まで運んでくれる時代は終わったんだ
よ残念だったね、みたいなことを安部公房が言ってた気がする。うろ覚え。

7。今月の映画
磯田勉 @isopie_ 5月12日
ラピュタ阿佐ヶ谷 モーニングショー/アバンギャルド・ニッポン 安部公房を
観る
7.23(日)∼ 29(土)おとし穴
7.30(日)∼8.5(土)砂の女
8. 6(日)∼ 12(土)他人の顔
8.13(日)∼ 19(土)燃えつきた地図

ラピュタ阿佐ヶ谷 Mail Train [2017/05/11]


映画館・劇場・レストランを備えた、東京・阿佐ヶ谷のエンタテイメント・スペー
ス「ラピュタ阿佐ヶ谷」の公式メールマガジン。当館の上映・公演スケジュール
や...
archives.mag2.com

8。今月の箱男
YASUTERU KOJIMA @Yasuteru_Kojima 5月1日
また読みたくなった。

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KEIKO @qhrbn221 5月1日


安部公房の箱男を読んだりもしてた。内容が頭に入ってこなくて、途中でやめた。
今度、冷蔵庫を買い換えた時に、絶対に箱をかぶってみようと思った。

8。今月の読書会
木曜読書会 @mokuyou_dokusho 5月1日
こんばんは。今月の木曜読書会の課題図書は、安部公房の『砂の女』(新潮文庫)で
す。5/25(木)19時∼、北九州文学サロンさんで行います。北九州の読書好きの方、
ご参加をお待ちしております♪詳しいお問い合わせ、ご予約は
mokuyoudokusho@gmail.comまで

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もぐら通信                           10
ページ

9。今月の贋物
古書 書肆田髙 @shoshitakou 5月1日
これ、ボロボロになって使えない初版本の奥付紙を再版本に貼り付けたとかじゃ
ないかなあ。『壁』安部公房著。昭和26年。月曜書房刊。本体が再版・受賞帯付
に拘わらず、奥付紙が初版のerror。珍本。 https://page.auctions.yahoo.co.jp/
jp/auction/u140515730 … #ヤフオク

10。今月の安部公房論
雑学系論文bot @kumagaikazuhimi 5月1日
安部公房論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007025818 … #文学
CiNii 論文 - 安部公房論
安部公房論 和田 勉 九州産業大学国際文化学部紀要 37, A1-A14, 2007-09
ci.nii.ac.jp

11。今月の上演
笛井事務所 @FeyOffice 5月1日
「愛の眼鏡は色ガラス」
出演者を募集しています!
江古田のガールズの山崎洋平さんを演出に迎えて挑む安部公房作品に是非ご参加
ください!

掲示板[笛井事務所 第9回公演「愛の眼鏡は色ガラス」出演者募集] ¦ 演劇・ミュー


ジカル等のクチコミ&チケット予約★CoRich舞台芸術!
今観られるお薦めの演劇、ミュージカル等が分かる舞台芸術のクチコミ・チケッ
ト情報ポータルサイト。公演・劇団・劇場情報や役者のオーディション・チケッ
ト...
stage.corich.jp

中原くれあ @ClareNakahara 5月1日


THEATRE MOMENTS1年半ぶりの日本での公演!第4回せんがわ劇場演劇コンクー
ルでグランプリ受賞した安部公房短編小説『パニック』の舞台化再演!本日5月1
日チケット販売開始しました。公演詳細はhttp://moments.jp/nextstage/
#engeki

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もぐら通信                           ページ 11

12。今月のオマージュ
アメリカの安部公房愛読者パトリック・サンプラー(Patrik Sampler)氏が『密
会』に対するオマージュとしての小説『The Ocean Container』を近々刊行。

”Elements of The Ocean Container are an homage to Abe. Two elements, anyway: a
reference to Secret Rendezvous, and the trope of confined space. ”

閉鎖空間を譬喩(ひゆ)として使つた小説。大きなタンカーに積まれるコンテナ
を巡る密室閉鎖空間小説なのでありませう。表紙絵を見ると鯨も登場するのでせ
うか。これは、クラウドテンファン
ディングを使つて資金を集めて
出版されるものです。日本の安部公
房の読者で私も小説を出したいとい
ふ読者には一考の余地のある
方法ではないでせうか。

Patrik Samplerのwebsite:
https://patriksampler.com/the-ocean-
container/

Crowd fundingのページ:
https://www.indiegogo.com/projects/the-
ocean-container-by-patrik-sampler-
novel#/

Fa
k eF
ish

ネットの広告にあつた、これは多分贋魚でせう。

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何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?
∼スプーンのtopology∼

岩田英哉

何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?といふ問ひに答へてみませう。

スプーンに似た形のものにパイプがあります。 [註0] 安部公房は、NHKのために子供向け


連続ラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』を1959年9月に書いてゐます。このドラマの
冒頭と終了に歌はれる安部公房作詞、芥川也寸志作曲、橋本力編曲の歌をご覧ください。

[開始テーマソング]
「スパッ スパッ フウ
 スパッ スパッ フウ
 ぼうのパイプは
 小声でうたう
  スパッ スパッ フウ
  赤い目玉に 煙のしっぽ
 するとなんでも
 望みがかなう
 スパッ フウ」

[終了テーマソング]
「スパッ スパッ フウ
 スパッ スパッ フウ
 ねがいがあれば
 パイプのために
  スパッ スパッ フウ
  赤いしっぽに 煙の目玉
 するとたちまち
 おのぞみどおり
 スパッ フウ」
(傍線は筆者)

[註0]
初期安部公房の小説『保護色』にもパイプが出てきます(全集第3巻、15ページ)。この凹と線の組み合わ
せからなるこの喫煙のための器具の形は、安部公房には興味深い形象であつたのでせう。自らもパイプを手に
する写真があります。

Topologicalであることに、最初は「赤い目玉に 煙のしっぽ」、最後は目玉としっぽを引っ
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ13
くり返して交換し「赤いしっぽに 煙の目玉」と書いてゐます。これで、目玉としっぽが入
れ替はることによつて、それまでの話の中身がすべて交換されて、目玉の内部は外部に、しっ
ぽの外部は内部に、また目玉の外部は内部に、しっぽの外部は内部になることになります。
何の内部と外部が交換されるかといへば、この場合の内部外部は、赤い色と煙の関係で在る、
目玉としつぽの意味です。

最初の「赤い目玉に 煙のしっぽ」は、まだ隠喩として理解することができますが、しかし
最後の「赤いしっぽに 煙の目玉」は、パイプとの関係では、non-senseです。このやうに
考へて見ると、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて『S・カルマ氏の
犯罪』が一気呵成に出来上がつたといふ逸話の意味するところは、やはりnon-senseな一行
は、もともと安部公房の位相幾何学的なsenseと論理によるものだといふことです。今私は
文字で此の変形を説明してゐるわけですが、これを絵筆を以つて描けば、そのまま「赤いしっ
ぽに 煙の目玉」といふ題のシュールレアリスムの絵が出来上がるでせう。non-senseを
シュールレアリスムとの関係で説明すれば、解釈が幾通りもあつて、多義的な一行だといふ
意味です。例えば、英語に翻訳してみると、

red tail and eye(s) of smoke


smoky eye(s) to red tail
smoking eye(s) to red tail等々

といつたやうに、幾らでも解釈可能です。それを日本語の一行で表すことができてゐる。勿
論「赤いしっぽに」と「煙の目玉」の間の余白の一文字に、安部公房の「空白の論理」とい
ふ深い沈黙の意味のあることはいふまでもありません。しかし、子供は素直だ。当時の少年
少女は、このドラマの歌を楽しく聴いたやうです。

「当時小学校5年生だった私はこのラジオドラマをわくわくして聴いていた。古びたパイプ
が太郎君のいろいろな願いを叶えてくれるんじゃなかったかな。なんせ、50年も前のこと
なのでおぼろにしか憶えていない。でも時代的には藤子不二夫のドラえもんの秘密のポケッ
トはこのドラマに影響を受けているのかもしれない。

 主題歌をかすかに憶えていて「すぱっ、すぱっ、ふう、すぱっ、すぱっ、ふう、赤い目玉
に煙の尻尾」と歌っていた。でも変な意味なんて知らなかった。何だろう。

 パイプってくわえて使う。口からパイプが出ている。そのパイプにヒゲが生えている。あ、
分かった。

 田舎の純朴な小学校5年生に分からなかったのは無理もない。日本中の小学生の誰一人わ
からなかっただろう。それから5年後に書かれた吉行淳之介の「砂の上の植物群」にすらそ
のような行為は行われていなかったのだから。」(「mmpoloの日」:http://
d.hatena.ne.jp/mmpolo/20110701/1309468679)

この文章の前に此のブログの筆者は、『安部公房伝』(安部ねり著)から次の箇所を引用し
もぐら通信
もぐら通信                          ページ14

てゐます。(同著、260∼261ページ)

「それからご一緒に単発のドラマを何本かやって、1959年にラジオドラマの「ひげの生え
たパイプ」を書いていただきました。太郎君が主人公。お父さんはダム工事で遠いところに
行ってしまって、太郎君が寂しいなって、お父さんのおいていったかびの生えたパイプをけっ
飛ばすと、パイプが口をきく、というところから始まるんです。題名をどうしようかってい
うことになったので、かびが生えてるパイプじゃつまんないから「ひげの生えたパイプ」で
どうですかって私が言ったら、安部さんあっはっはってお笑いになって…あとで、いや、あ
のときは驚いたよ、NHKであんなタイトルよく許したって思わなかった?って言われまし
た。聞いたらなんか変な意味があるんだそうです。」

この投稿に関する以下のコメントが付いてゐます。

ジイジ 2012/08/31 08:37


『ひげの生えたパイプ』の放送時期を知りたくてウエブ・サーフィンしていたらこのサイト
に行き着きました。 まさしく私が小学校5年生の時だったんですね。主題歌『ぷかぷかぷ
う』もうろ覚えながら覚えています。印象に残った情景は、 ひげの生えたパイプのコピー
をパイプに頼んだら『消去機能(取消機能)の省略されたパイプ』だったため、ソフトクリー
ム製造機から無限にソフトクリームが出てくる場面。 病気になったパイプを治すため太郎
君が パイプの胎内 にもぐりこむ情景。最後に『魔法の力を失った』パイプを父親に返すシー
ンなどなどです。

TAKATSU 2015/05/12 10:33


熊倉一雄さんの名を覚えたのがこの番組でした。学生時代、下鴨神社の糺の森と、上賀茂神
社の境内で、少年時代を懐旧しました。

dabocat 2015/10/17 14:03


はじめまして。熊倉一雄さんがお亡くなりになったニュースで、子供のころにラジオの子供
番組で聞いた魔法のパイプの出てくる話を思い出し、本当は何というタイトルだったのだろ
うと探していたらここに出ました。懐かしい、当方小学生の女の子だった時代のはなしです。
最後を聞き逃していたので今回やっと最後がどうなるのかわかりました。おばば世代になっ
ても心の中に住んでいる女の子がパイプ、パイプと騒ぐのでした。

存在自体となつた安部公房も喜んでゐることでせう。

さて、ひげの生えたパイプの話です。

「小声でうたう」とあるのですから、この呪文は小声で、できれば誰にも聞かれぬやうに唱
へなければならない。そうであれば最後に「するとたちまち」(超越論的に)願ひ事が実現
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 15

してゐる。そして、願ひごとが実現するためには、パイプにヒゲが生えてゐなければならな
い。

何故パイプにヒゲが生えてゐるのかといへば、これは『カンガルー・ノート』の主人公の脛
から、ある朝突然に「既にして」生えてしまつてゐたカイワレダイコンと同じく、差異の集
合、即ち存在になり得る形象であるからです。ヒゲとカイワレダイコンは、人間と人間そつ
くりの火星人の関係に在る。位相幾何学は幾何学ですから、歴史的時間は関係がない。どち
らが最初に発表されたか後に発表されたかといふ先後は、どうでも良いことなのです。ヒゲ
とカイワレダイコンは、従ひ、相互に等価交換の関係にある。さて従ひ、これは、存在のパ
イプなのですし、この形状は存在の形状なのです。32年を経て、安部公房はまた同じ形象
をスプーンとして採用したことになります。

何故スプーンであり、スプーン曲げの少年なのでせうか?思ひつくままに其の理由を挙げて
みませう。

1。安部公房はいつも凹の形象に着眼する。[註1]そして、それを裏返しにする。何故な
らどっちに裏返しても、凹は凸であり、凸は凹であるから。「赤い目玉に 煙のしっぽ」は
「赤いしっぽに 煙の目玉」であるから。パイプも凹であれば凸であるから。スプーンの凹
の面と凸の面は一体になつてゐて裏表ですから、二次元ならばメビウスの環であり、三次元
ならばクラインの壺[註2]であるから。そして、壷といへば、必ずリルケの『涙の壷』で
あるから。『涙の壷』であれば、必ず其れは「転身」であり変形であり、存在へ至る
topologicalな道であるから。

[註1]
この凹の形象に人間が繰り返し永劫回帰する事の理論は、『様々な光を巡って』(全集第1巻、202ページ)
に書かれてゐます。一読をお薦めします。

[註2]
二次元のメビウスの環と同じやうに三次元で内部と外部が接続してゐる壺がクラインの壺です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

2。スプーンは銀メッキされた鏡である。即ち「ゆがんだレンズ」[註3]である。現実を
歪曲する鏡である。

3。スプーンは二つの部分からなつてゐる。一つは、凹凸を両面で持つてゐる頭部。二つは、
その頭部に真っ直ぐな柄(棒)がついてゐる。

スプーンの掬う部分は凹であることから、これは其のまま存在の窪み(凹)であり、引っ繰
り返して見れば凸であり、これは存在の十字路に立つカーブミラーである[註3]。実際、
この柄の部分に当たる棒を曲げると、その曲がりは下記のインタビューで引用する安部公房
の言語機能論または其処でいふ言語構造論の「カーブの向かう」といふ積分値になる。

4。頭部は歪んだ鏡、しかも凹凸両方の。そして柄を曲げて「カーブの向かう」を超越論的
に予見する能力のある少年がゐる、即ち、未分化の実存である子供の、当たり前であるが、
少年がゐる。そして未分化の実存たる少年といふ性的に分化してゐない時間の中に生きる存
在、即ち現存在として生きる未分化の実存であるといふことから、安部公房の主人公が教師
の場合には、高校の教師ではなく、いつも中学校の教師であるといふことの、安部公房の舞
台設定であり、人物設定です。

と、このやうになります。

[註3]
「ゆがんだレンズ」は、『終りし道の標べに』に次のやうに書かれてゐます。

「さて粘土塀の行きづまった極点で不信を信におき換えた。そして幸福の上に理解の信仰を附加えたのだ。何
に一つ理解出来なかった私は、今や一切を理解する忘却の旅に立ったのだ。確かに《終りし道の標べに》は一
つの象徴であったし、粘土の塀もその確証であったにちがいない。しかしあの私と今の私とは恐らくなんの関
係もないだろう。一切の関係が更に新しい象徴の影に消えてしまったのだ。私はしばらくの間、その阿片の幕
に映った不思議に明るい光の点を見詰めていた。しかも幸いな事に私の手の中には存在象徴と云うレンズが掴
まれている。用心深くその関係にそって、そのレンズを動かして見た。するとやがてその光の点は明瞭な焦点
を結ぶ。それは……。」(全集第1巻、310ページ上段)(傍線筆者)

このレンズは「存在象徴と云うレンズ」で、そして主人公の手の中にある。片方の手は、両手とは異なり、安
部公房にとつては存在の手を意味します。この手の中では矛盾や背反が一つになるのです。この存在の手につ
いては『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)と題して詳述しましたので、これをごらんください。また
安部公房独自の哲学用語「存在象徴」については、『もぐら感覚4:触覚』(もぐら通信第2号)で論じてを
りますので、これをご覧ください。存在、現存在、忘却、記憶、暗号、存在象徴は、一連の安部公房の哲学用
語一式なのです。

さて、このレンズは安部公房が詩人である時代から、安部公房自身である媒体としての、従ひシャーマン(霊
媒)としての「ゆがんだレンズ」です。『秋でした』といふは詩の当該連(最後の第六連)を引用します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

「白い壁の上に 秋の日差しは、
 クリーム色に柔らかな影やそよぎを
 ぢつと 静かに夢見ます。
 けれど小さな滴がぽつたりと……
 おゝ 僕は、
 大きなゆがんだレンズです。
 救いに両手を差しのべる、
 大きなゆがんだレンズです。」
(全集第1巻、67ページ)

「この『秋でした』といふは詩は、全部で6つの連から成つてゐます。と、このやうに此の詩の構成をみて見
ますと、何故安部公房は詩の形式に惹かれたかといふ理由が判ります。それは、時系列的な話の筋の連続では
なく、時間を捨象して、空間的な構造的な配列に6つの連を配置して一つの世界を創造することができるから
です。

この詩では第1連で早や失踪が行はれ、最後の第6連で透明感覚の涙が歌はれて、存在に生きようと決心する
一人称たる僕の「救ひに両手を差しのべる/大きな歪んだレンズ」たる当の僕の姿が印象的に歌はれて終つて
をります。このレンズは小説家になつてからの『燃えつきた地図』のカーブミラーであり、『箱男』の中の写
真のカーブミラーといふ、ともに存在の十字路に立つ超越論的な「既にして」角を曲がる「以前に」(これが
安部公房が超越論で考へる時の言葉)カーブの向かうが観える鏡であること、即ち安部公房のいふ「投影体」
であることは、これまで諸処で論じた通りです。」(『処女作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カ
ンガルー・ノート』の結末継承と作品継承について』もぐら通信第57号)

1986年((昭和61年)のインタビュー『破滅と再生2』(第28巻、253ページ下
段)に、安部公房は言語論との関係で、スプーン曲げの少年を書く理由を説明してゐます。。
安部公房の作品を論ずる場合には、いつも言語とtopologyを念頭に置かねばなりません。
特に、「∼以前」と「超」といふ言葉を使ふ場合には。このインタビューで安部公房の発言
し言及してゐることは、言語の備へてゐる再帰性であり、そもそもの言語の構造が其のやう
な合わせ鏡の世界であるといふことです。この合わせ鏡の言語構造の外部へと出る意志を論
ずる場合には、安部公房は「超」を使ひ(AでもなくZでもない第三の客観を求める場合
[註4])、最初からそもそもさうであることを論じる場合には「∼以前」[註5]を使ひま
す。いづれも白人種キリスト教徒のヨーロッパの哲学者のいふ用語でいふ超越論であり、私
たちには極く当たり前の汎神論的存在論、即ち八百万の神々の世界、古事記の神話と二十一
世紀の私たち日本人の日本語の当たり前の今の世界です。

「安部 もともと超能力は実験的に検証すべきで問題じゃない。仮に実証されたら、その時
点で科学的な枠内に組み込まれてしまうわけだから、超能力でなくなってしまう。科学的検
証に耐えうる超科学というのは、論理的に意味をなさない。
――そうですね。
 安部 「超」の世界を論ずる前に、超のつかない「普通」の世界のほうを、もっと問題に
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ18
してほしいと思う。方法の自覚もなしに、科学では説明しきれない何か、と言うようなこと
を簡単に言ってのける自然科学しゃが実在するんだから呆れるね。ああいうのは科学者では
なく、ただの技術者なんだろうね。科学者ならこう言うべきだよ。「従来の科学的方法では
説明しきれないある自然現象」でもスプーン曲げは超自然現象で、絶対に自然現象であって
は困るわけだろ。
 いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の謎なんだ。
一種の「認識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超えたものが
あるはずだという……
――つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。
 安部 そうなんだ。でも認識に限界があると言う認識は何によって認識されるかというと、
言語以外にはありえない。だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。だから、認識に限
界があるという認識は、鏡のなかの自分を拳銃で射殺するような矛盾におちいらざるを得な
いわけだ。つまり限界の認識は言語の自己認識で……いや、やめておこう、ここで認識論を
やってみても始まらないからね。ただはっきりさせておきたいことは、だからといって「超」
の願望までいちがいに否定はしたくないということなんだ。スプーン曲げはありえない。あ
りえないがその願望までは否定出来ない。スプーン曲げを信じたがある真理は、しょせんあ
る種の御破算願望だし、逸脱の願望だろう。それは人間にとって欠かすことの出来ない行動
原理の一つなんじゃないかな。」

[註4]
合わせ鏡の言語構造の外部へと出る意志を論ずる場合には、安部公房は「超」を使ひ(AでもなくZでもない
第三の客観、即ち自己の反照たる究極の自己の存在を求める場合)、存在を再帰的に論じますが、これを平俗
な普通の文章では「純粋」といふ名詞を冠して次のやうに同義につかひます。「『さまざまな父』の朝食は何
故ドーナツと鶏の燻製とブラックコーヒーなのか?」(もぐら通信第57号)より安部公房が「超∼」といふ
言葉と同義で使つてゐる「純粋」の例を示します。

「安部公房が純粋と形容するものは、リルケの純粋空間[註1]、ナチスの純粋制服[註2]、バロックの純
粋音楽[註3]、哲学的な安部公房用語としてある純粋主観と純粋客観[註4]といふやうに全集の中でも限
られてゐて、いづれも結局は一言で言へば「公房好み」なのですが、この趣味を論理立てていひますと、『詩
と詩人(意識と無意識)』の根底にある論理、即ちAでもなくZでもなく、両極端を否定して、その向かうへ
と際限のない次元展開の果てに両極端を超越して詩人が眼にする自己の反照たる第三の客観、即ち存在といふ
わけですから、このブラックコーヒーは、あれでもなくこれでもない、無際限のneither-norの判断と選択の繰
り返しの果ての選択だとすると、例へば、紅茶でもなく牛乳でもない、第三の飲み物といふ事になる筈です。
あるいは、野菜ジュースでもなくココアでもない第三の飲み物。(略)

[註1]
エッセイ『リルケ』をご覧ください。(全集第21巻、437ページ下段)

[註2]
『ミリタリィ・ルック』を参照ください。(全集第22巻、129∼130ページ)

[註3]
ドナルド・キーンさんとの対談『演劇と音楽とーバロック風にバロックを』安部公房はバロック音楽を純粋音
楽と呼んでゐる。(全集第25巻、351ページ)また、同じキーンさんとの対談『安部公房氏と音楽を語る』
と題した対談の冒頭で、安部公房は、創作のときに聴く音楽のほとんどがバロック音楽だと言っている。また、
キーンさんが安部公房に『ガイドブック』の結末にバロック音楽を使ったことを指摘している。(全集第25
巻、397ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

[註4]
『詩と詩人(意識と無意識)』に純粋主観と純粋客観といふ言葉がある。(全集第1巻、104ページ下段)」

[註5]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より以下に「∼以前」といふ安部公房の超越論的な思考論理
について引用します。

「安部公房は、何か危機的な時、転機の時には、いつも言語とは何か、文学とは何かを問い、後者の問いの次
には、必ずといってよい程、その最初に戻って物を考え、前者との関係で詩とは何か、小説とは何か、戯曲と
は何かを問うて、そうして言語以前、詩以前の、即ち未分化の実存と言う未だ名付けられない存在のことを考
察してから、その問題の本質へと入って行きます。即ち、論ずる対象「以前」に戻って考えるということを致
します。更に即ち、時間を捨象して、物事の本来の、根源的なあり方として物事を考える、そのそもそもを存
在論的に考えるのです。 そうして其の根源的な、論ずる対象のあり方を存在と呼び、存在として、即ちこの世
に現れている「以前」の無名のものとして考え、それを論じる対象との関係にある語彙を使って次に有名なも
のとして考え、論じるのです。[註22]

[註22]
詩については、『第一の手紙∼第四の手紙』で「詩以前」を論じています(全集第1巻、191ページ下段)。
この散文を書いた1947年、安部公房23歳の時には、既に詩人安部公房にとっての危機と転機の時期が訪
れていたのです。前年1946年には満洲から引き揚げて来て、日本に帰国した翌年のことです。このときの
危機は、詩人としての危機でした。

この危機をこのように『第一の手紙∼第四の手紙』で存在論的に思考して考え抜いて乗り越えて同じ歳に出版
したということが『無名詩集』の持つ、それまでの10代の「一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定
立し得た様に思つて居ります」(『中埜肇宛書簡第9信』。全集第1巻、268ページ)と10代の哲学談義
をした親しき友中埜肇に書いた『無名詩集』の持つ、安部公房の人生にとっての素晴らしい価値であり、安部
公房の人生に持つ『無名詩集』の意義なのです。

小説については、この『猛獣の心に計算機の手を』で、「読者の存在」(全集第4巻、497ページ)と呼ん
でいます。「小説の存在」とは言わなかったのは、小説は読者あっての小説だという考えであるからです。こ
こで「読者の存在様式こそ、小説の表現(認識の構造)の様式を決定する」と書いておりますので、小説以前
の存在を読者の存在として論じていることがわかります。この読者とは何を意味するかについては、上記本文
で、また[註20]で論じた通りです。このときの危機は、小説家としての危機でした。そうして、シナリオ
(drama、劇)を執筆する戯曲家たる安部公房が、小説家たる安部公房のこころを救済したのです。

戯曲と舞台についても、安部公房は同じ思考の順序を踏んでいて、1970年代の安部公房スタジオの俳優た
ちには、「戯曲以前」にまづ「言葉による存在」になること、俳優以前にまづ「言葉によって存在」すること
を要求しています。[註24]この言葉を読むと、安部公房が、この安部スタジオをどのような思いで立ち上
げたのかが、よく判ります。これも、詩や小説の場合と同様に、10代の安部公房の詩の世界、即ち、時間の
無い、自己が存在になることのできるリルケの純粋空間への回帰なのです。このときの危機は、戯曲家として
の危機でした。

その淵源を求めて時間を遡れば、最初にこの何々以前という考え方が文字になっているのは、やはり20歳の
ときに書いた『詩と詩人(意識と無意識)』です。この詩論・詩人論では、「価値以前」と存在が呼ばれて、
この存在を更に夜と言い換えて論じられております(全集第1巻、112ページ上段)。この『詩と詩人(意
識と無意識)』は、『中埜肇宛書簡第1信』によれば、遅くとも此の書簡を書いた1943年10月14日、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

安部公房19歳の秋には、「新價値論とも云ふ可きものの体系」として考えられております(全集第1巻、6
8ページ下段)。」

この発言の後に、ローレンツを持ち出して、ローレンツの学説「特に刺激情報と、それによっ
て解発される行動様式の関係は、基本的に遺伝子に組み込まれいるという一種の生得説」は、
実に重要な考えだと思うといひ、「その遺伝子情報に「言語」を組み込んだらどうなるか。
人間になるわけだ。そうなんだよ、「言語」というのはデジタル信号だろう。他の動物の場
合、行動を解発する刺激情報はアナログなものに限られるけど、人間だけはデジタル信号を
行動解発のサインにすることが出来た。(略)その結果はとんでもない飛躍だった。具体的
で直接的なアナログ信号と、それに一対一で対応する行動という「閉ざされたプログラム」
の世界から、一気に判断や洗濯が自由な「開かれたプログラム」の世界に飛び出してしまっ
たんだからね。まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう
遺伝子を見てしまったんだ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだ
よ。
 だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表
現でさえ言語表現の枠を出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語のなかを覗き
込んでいるのが人間なんだな。
――つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。
 安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)それまでのアナログ的プログ
ラムをどうやってデジタル転換できたのか、その辺りのメカニズムが解明されないかぎり言
語の謎が解けたことにはならない。次元を超えた跳躍だからな。(略)
 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて憶測すれば、要
するに言語は一般条件反射の積分値だと言いたかったんじゃないかな。
――積分値ですか?
 安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて
出来る三次元像を考えて貰えばいい。はじめが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示に基づく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号
のデジタル変換のほうを採りたいな。(略)」

この、全集第28巻の此のインタヴューは、安部公房の言語観を知る格好のインタヴューで
すので、是非一読することをお薦めします。

言語に関して、『MEMO――「スプーンを曲げる少年」』に、人工言語のプログラムに関す
る次のメモが残つてゐます。(全集第28巻、411ページ下段)

「★ プログラム論。コンピューターに即して、複合、もしくは重複プログラムの機能を検
討すること。人間の複合プログラムとしての把握」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 21

これは、人間と人間そつくりの関係に関する言語構造的な、従ひまた汎神論的存在論の、やは
り『カンガルー・ノート』の冒頭にある真獣類と有袋類の関係についての、topologicalな論理
を考察したいといふことなのです。言語の本質、即ち関係は、再帰性にあるので、この機能は、
再帰関数(recursive function)といふ関数によつて実現されます。むしろ、この関数は、ソ
フトウエア・プログラムのエンジニアが詳しいでせう。ネットに、この関数に関する次のやう
な説明がありました。:http://flute.u-shizuoka-ken.ac.jp/ s-okubo/class/language/
t001.htm

上の引用の「sample03の中でsample03を呼び、呼び出されたsample03の中でsample03を
呼び、……」と永遠に呪文のやうに繰り返される合わせ鏡の自己参照的な、即ち再帰的な文
については、同じ論理を安部公房は『人間そっくり』で次のやうに書いてゐます。この場合
は人間と「人間そつくりの火星人」といふsample03同士の関係についての、そしてどちら
が呼び出したのか呼び出されたのかといふ主語(subject)と述語(predicate)または主体
(subject)と客体(object)の関係を、もつといへば、気違ひと正常の「地球人と火星人」
の関係を、永遠に入籠構造の中で唱へ続ける呪文です。

「「まあ聞いて下さいよ……けっきょく、気違いと火星人という、二つのヴェクトルを統一
する場は何か。考えられるのは、まず次の様なトポロジーです。すなわち、自分を火星人だ
と思い込んで居る、地球人の気違い……」
「……それだけ?」
「もしくは、自分を火星人だと思い込んで居る、地球人の気違い……だと思い込まれている、
火星人……」
(略)
「でも、いまのホモローグ、直観だけじゃ追いつけないんじゃないですか。先々、どこまで
も、無限に続いていって……自分を火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込ま
れている火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人だと思い込
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人……」
「その辺で、もうけっこう。それじゃ、その呪文を、君のトポロジーでやったら、うまく、
けりがついてくれるっていうの?」」(『人間そっくり』全集第20巻、304ページ下段
∼305ページ上段)(傍線筆者)

この再帰的な人間の姿を、私は繰り返し、もぐら通信に書いた安部公房論のあちらこちらで、
次の画像を引用して、読者に視覚的に伝はるやうにと図つて来ました。この図が、上記の論
理の図であることは、一目、お判り戴けると思ひます。これが、安部公房のtopologyの世界
の視覚的論理の、人間の形をした、人間そつくりの姿です。『安部公房の変形能力16:ま
とめ∼安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像∼』(もぐら通信第17号)より引用しま
す。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ23

しかし、この言語の有する再帰性がなければ、国家も社会も、そもそも血縁結縁無縁を問は
ず、個人同士の関係も、成り立たないのです。安部公房のアメリカ論を読みたかつたと思ひ
ます。言語の再帰性を論理的に十分に理解した上で、この論理を自家薬籠中のものと、安部
公房のやうに、なした上で、国家や社会を本質的に批判し否定するならば、良いでせう。新
しい国家像、社会像を思ひ描くことができるでせうから。しかし、さうでなければ、安部公
房の毒に殺(や)られて思考能力を失ふ幼稚な人間になつてしまふといふ安部公房文学の毒
については、既に『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐ
ら通信第55号)にてお話しした通りです。何しろシャーマンを否定する安部公房自身が
シャーマンなのですから、誠に否定的(negative)に再帰的(recursive)である。シャーマンで
あれば、政(祭り事)をし、呪文を唱へぬシャーマン(霊媒)は、確かに普遍的に世界中に
人間の典型として何処にも、ゐないのですから。

安部公房の読者であるあなたの眼の前には、「あなたといふ私」は祭り事(政治)を司る霊
媒足り得るか?といふ古代的な問ひが、消しゴムで書かれて、存在への立て札として、立つ
てゐるといふ事になります。立て札が立つてゐれば、そこは「既にして」存在の十字路です。
あなたの覚悟や如何に。あなたは人間なのか?それとも人間そつくりなのか?

あなたは如何に生きるのか。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 24

安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
(4)

岩田英哉

目次

I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について
II 「転身」といふ語について:「転身」とは何か
III 「転身」といふ語のある詩を読む(「①詩の世界での問題下降」期の詩)
1。転身といふ語のある詩
2。「①詩の世界での問題下降」の時期の詩
2。1 ユァキントゥスとS・カルマ氏の関係:かくして安部公房は詩人から小説家への「転身」に
成功した
2。2 安部公房はリルケから何を独自に学んだか
3。「②詩と散文統合の為の問題下降」の時期の詩
3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題
3。2 詩集『没我の地平』:1946年(転身:計4回):問題上昇(デジタル変換)による詩

3。3 詩集『無名詩集』:1947年5月(転身:計1回):問題下降(アナログ変換)による
詩集
IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)
V 「転身」といふ語のある詩を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の詩)
VI 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下
降」後の小説)

*****

VI 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界で
の問題下降」後の小説)

掲題に答へる前に、最初に、『無名詩集』を問題下降して中間項の『名もなき夜のために』
を成し、それを更に『デンドロカカリヤA』へと問題下降した考へ方が、後年の安部公房ス
タジオのニュートラルといふ概念と何も変はつてゐないこと、むしろ全く同じであることの
説明をしてから、本題に入りたいと思ふ。即ち、

中間項の作品『名もなき夜のために』の構造は『終りし道の標べに』の構造と同様二層にな
つてゐて、そこで安部公房は、安部公房らしいことに、リルケに関係した言葉である〈 〉
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ25
の記号で表した階層にある文と、地の文にベタで書かれた文字そのもの、文章(text)その
ものの階層のtopologicalな交換を行つてゐること、即ち『デンドロカカリヤA』(雑誌「表
現」版)の主人公コモン君の経験した座標の喪失、即ち内部と外部の交換を、安部公房は『名
もなき夜のために』で、自分自身の事として、そして言葉の上で文字と文章(texts)の問題
として実行したといふ、言語に関する此の全くバロック的な考へ方を思ひ出して欲しい。即
ち『終りし道の標べに』ならば《 》の、『名もなき夜のために』ならば〈 〉の記号で表
現される哲学やリルケの世界の用語の数が、問題下降によつて減少するに応じて、他方、地
の文の同類の言葉が、しかし一般的な言葉である普通名詞、普通の動詞が、反対に増加して、
最後には前者が作品の中から消滅してしまひ、後者だけの言葉からなる平俗な、しかし抽象
概念を隠し持つたが故に象徴的な、文章(texts)になるといふことをです。

もう一度『名もなき夜のために』は、第一部でもなく第二部でもなく第三部を( )の中の
最後の存在の中での言葉、即ち「空白の論理」に従つて、余白と沈黙の中の言葉として表し
た安部公房の論理を、更に即ちAでもなくZでもない第三の客観、即ち存在として( )の
中に表した第三部を、ここでも併せて思ひ出して欲しい。このことを念頭に置いた上で、ナ
ンシー・K・シールズ著『安部公房の劇場』の次の記述を読んで欲しい。

「次のゴム人間ゲームは、最初の段階のゲームを、安部が探し求める演技を創り出す踏み台
として使っていた。安部は二人の俳優の関係を、Kを定数とするA+B=Kという固定方程式と
規定した。AとBは互いに反比例するかたちで物理的に拡大縮小し、二人のあいだの物理的
総量の定数Kをいつも保っていた。安部はそれが純然たる物理的練習であり、熟達する第一
歩は解釈を加えずに馴れてゆく事であると力説した。俳優たちは、どんな心理的予備知識も
持ち込まないよう、細心の注意を払うように指示されていた。」(同書88ページ)(傍線
筆者)

Aが増えればBは減少する。何故ならばKは定数だから。そしてAとBの関係は足し算である
から。さうして、このことで解る通り、足し算は時間の中での計算であることも銘記してを
いて下さい。即ち、『名もなき夜のために』の二重構造又は二層構造は、次のやうな、時間
の中での動態的な、そして単純な、構造をしてゐるといふことです。

A(第一部)+B(第二部)=K(第三部)

この方程式が、『終りし道の標べに』と中間項の作品『名もなき夜のために』の中で安部公
房が使用した《 》や〈 〉の記号とそれぞれの地の文の関係であることがお解り戴けるこ
とと思ひます。安部公房は、演劇の領域でも小説の領域で自らが行なつたことと同じことを
したのです。前者と後者の関係を交換する。二層の内部と外部を互ひにー交換することによ
つて互ひが互ひの外部と内部になるーtopologicalに交換して、一人称の私、即ち安部公房
固有の話法である「私の中の「私」」の一人称を果てし無く「転身」させて、存在の部屋の
窓に映ずる(自己の反照たる)第三の客観、即ち存在、即ち(座標の無い世界で)ニュート
ラルな状態及び位置に至るまでの訓練を、安部公房スタジオの若い俳優たちに施す。さうす
ると、俳優たちは次の段階に至る。即ち、
もぐら通信 ページ26

時間の中での計算である足し算から、掛け算による時間の存在しない世界での計算値の計算
へと、リルケの天使がさうであるやうに無時間で、「いつの間にか」「どこからともなく」
「あつといふ間に」、即ち超越論的に、「気がつけば」「既にして」移行してしまつてゐた
のでなければならない。この段階のための訓練が、次の訓練です。肉体は量、それならば人
間にとつての質とは何でせうか。

「体が十分滑らかになるまでこれを反復したあと、俳優たちは相手との関係に留意しはじめ
ることができたが、まだ心理的解釈は差し控えなければならなかった。そのとき、体表面、
とりわけ相手の俳優に向いた体表面の伸縮の経験に注意を集中しなければならなかった。安
部は、俳優たちが物理的〈量〉の感覚から物理的〈質〉の感覚への転換を経験することを要
求した【α】。伸縮が極限まで推し進められ、一方の状態を観察する手筈になっていた
【β】。安部は、これによって、型芝居や気持芝居では到達できなかった、支配者であるこ
との内面の、質的な経験が達成されるはずであると考えた。練習を終えるにあたって、人間
関係は心理から生じるのではなく、その逆であることを指摘し、役を創り出すときにこれを
十分理解しておくことが重要であると指摘した。」(同書88ページ)(傍線筆者)

【α】の文にいふ「物理的〈質〉の感覚」とは生理・心理的な感覚のことでせう。【β】に
いふところは、A+B=K(定数)の方程式で、俳優Aの値が0になるか、または俳優Bの値が
0になるか、このやうな両極端の相手の状態を観察する事によつて此れを知ることができる
といふことです。あるいは「私の中の「私」」の前者の私が、後者の「私」である状態にあ
ることを、また更に互ひに其の逆の関係にあることを、俳優AとBが、時間の中の増減関係
でお互ひに知り合ふ事になる。即ち、この訓練を通じて、お互ひにtopologicalに果てしな
い「転身」をし続けて、「いつの間にか」自己の内部と外部を交換してしまつてゐる事に至
る。相手の私と「私の中の「私」」、そして自分の私と「私の中の「私」」の相互交換。さ
うして、AでもなくBでもない第三の客観、即ち存在Kを観るか、存在Kを観る事とさうであ
ることとが一緒になつてKといふ値に自らがなつてゐる。即ち、方程式は「いつの間にか」
次のやうに変形して、時間の中の物理的〈量〉の足し算の感覚が、時間に無関係な従ひ時間
を捨象した、物理的〈質〉の掛け算の感覚へと転換してゐる。

A x B=K

これが、「支配者であることの内面の、質的な経験が達成」されたといふ事を表す方程式で
す。何故ならば、「私の中の「私」」の二つの一人称を相互に交換して、その動態的な交換
の境界域、即ち人間が生きてゐる事といふ事実そのものに俳優はなつた・なつてゐ・なる、
から、即ち文法学でいふ不定形(infinitiv)、即ちneutral(ニュートラル)になつてゐるか
らです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

Kが真獣類ならば、K は有袋類です。[註1]

それ故に、安部公房の世界では、K になつた人間や物、もつと云へば有機物や無機物は、贋
の文字を冠せられて言はれるのです。安部公房の世界で贋といふ、もうほとんどprefix(前
綴)に等しい此の文字は、存在を表す文字、といふよりは、記号なのであり、それ故に、こ
の「prefix擬(もど)き」、「prefixそつくり」の前辞を配された名詞は皆、差異に在り、
差異から明瞭に生まれる何か、即ち存在なのです。例へば、『箱男』の中の一章「《それか
ら何度かぼくは居眠りをした》」といふ題のの章の冒頭に描かれてゐる(「隙間という隙間
を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めている」)貝殻草という存在の草と其の匂いを嗅
いでKからK に成る贋魚のやうに。

[註1]
『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「III 『キンドル氏とねこ』:第五
の猫殺人事件」をご覧ください。Topologyについて、安部公房の作品に即して詳細に論じました。

そして、文法学的に見れば、K は、Kといふ主体(subject)が支配し、Kに支配される述語
部にある客体(object)である。このKがK を時間の中で支配する絶対的な支配の仕方は、
主語が述語部の時間を主従の従属関係にして此れを固定化し、それによつて支配を執行し、
支配する。これが、私たちが義務教育の英語の授業で教はつた「時制の一致」(sequence
of tenses)です。アメリカ人の著者が支配といふ言葉を使つてゐることと其の理由は正しい
のです。これは、話法の一部です。

この述語部にある客体が主体をひつくり返す生命と力を有してゐるといふのが、安部公房の
topologicalな論理であり、従ひ思想です。クレオール論然り、上に引用した「支配者である
ことの内面の、質的な経験が達成」されたといふ事然りです。「支配者であることの内面の、
質的な経験が達成」されたとは、「私の中の「私」」の交換関係が自己の中で(相手との関
係にあつて)、そして相手の「私の中の「私」」との交換関係もが、無時間で成立したとい
ふ事であり、AとBの自己の間でも、AとBの自分自身のことも含み、そのやうに其れが成立
したといふ事である。親のない孤児が、不在の親を「僕の中の「僕」」の交換によつて克(こ
く)する。孤児の少年が不在の父親を「僕の中の「僕」」の関係に発見するに至る。これ
が、安部公房が終生、アメリカ文化に深い関心を抱いた理由です。

「僕の中の「僕」」がコーラに惹かれる、スーパーマンに惹かれる、ベースボールに惹かれ
る、ジーンズに惹かれる、ディズニーランドに惹かれる、カウボーイに惹かれる、ハンバー
ガーに惹かれる、ジャズに惹かれる、アメリカ式の(場所を選ばずに、伝統や歴史とは無縁
に何処にでも建設可能なアメリカの模造品の)都市に惹かれる、インターネットに惹かれる。
これらアメリカ人の創造したものはみな、大量販売、大量頒布、大量流布の性質と特徴を有
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してゐる。即ち「いつでも何処でも」の文化的事物です。この大量流布といふ形象(イメージ)は、
安部公房の数学的・哲学的「奉天の窓」の論理、即ち安部公房の存在の概念に充分過ぎる位に通じ
てゐる。[註2]即ち、私の云ふ汎神論的存在論、即ち私たち日本人ならば、日本民族の古代からの
八百万の神々の世界、古事記の世界です。即ち欧米白人種キリスト教徒の信ずる唯一絶対のGodの
世界とは別した(この一神教の人間たちのいふ言葉で言へば)多神教の世界、白人種以外の有色人
種の精神と魂の世界です。これに、欧州(ヨーロッパ)をキリスト教カトリックによる宗教的な理
由で迫害された白人種が建てた「贋の国」アメリカ[註3]で、アングロサクソン語族の裔(えい)
アメリカ人が想到したといふことが、歴史と人間の不思議です。

[註2]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(第32号、第33号)で詳細に論じましたので、お読み下さい。

[註3]
『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)で詳細に論じましたので、これをお
読み下さい。

さて、A x B=K といふ方程式に話を戻しますと、この方程式は『名もなき夜のために』


で、第一部でもなく第二部でもなく第三部を( )の中の最後の存在の中での言葉、即ち「空
白の論理」に従つて、余白と沈黙の中の言葉として表した次の言葉と全く同じなのです。

「此処に空白がある。空白の告白がある。これが恐怖なのだらうか。僕は欺瞞が苦しかった。
まだとどまっていると思わせる駈引きがいやだった。僕ら人間を物への供物としよう。名も
なき夜に生きて昼を織り出すものとなろう。
 ある日…………。)」(全集第1巻、558ページ下段)(傍線筆者)

「僕ら人間を物への供物としよう。」即ち「A+B=Kを、AxB=K にしよう。」24歳の安
部公房の汎神論的存在の論理、これが49歳の安部公房の設立した安部公房スタジオのニュー
トラルといふ概念なのです。満洲帝国の都市の一つ、奉天の、地平線に囲まれて育つた一桁
の学齢の時から、この安部公房の論理は首尾一貫してゐて、いつも変はらない。この汎神論
的存在論の方程式は、『クリヌクイ』といふ二行詩を書いた学齢の時(私の推定では遅くと
も6歳から8歳の時)には既に安部公房の意識の中に、あつた。

「A+B=Kを、AxB=K にしよう。」、「僕ら人間を物への供物としよう。」即ちKは定数で
はなくK といふ「ゼロのニュートラル」であるのだから、「比喩的に言えば、(略)この、
ゼロのニュートラルを基点にして、無数のニュートラルの変形が存在する。(略)ニュート
ラルというのは、要するに、存在自体が表現として成立つための、基本条件なのである。」
(『再び肉体表現における、ニュートラルなものの持つ意味について。ー周辺飛行18』全
集第24巻、146∼147ページ)と、安部公房が若い役者たちに伝へようとした此の概
念が、このやうに考へて来ると、より良く理解されるのではないでせうか。「AxB=K 」の
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ページ

関係式に於いて、確かにAとBの関係には無限に其の変形(variants)が存在する。

さて、以上の如くに小説の世界のK と演技の世界のニュートラルといふ概念が同じ概念であ
ることを知つたので、藝術の範疇の違ひとは無関係に、私たち安部公房の読者は、安部公房
の諸作品を縦横無尽に論ずることができることになります。安部公房の読者もまた作品の主
人公たちに負けず劣らずに「越境者」であり、「無範疇者」であり、「無法者」であり、宇
宙に同質に遍在することの出来るバロック的な何者かであり何かであり、何かであり何者か
である。

前章では、哲学用語とリルケに関する用語が、AxB=K といふ論理によつて、安部公房の詩
文と散文の作品から消えた次第をみました。この最後の章では、「③散文の世界での問題下
降」後の代表的な小説を通覧して、哲学用語とリルケに関する用語の其の後を追つて見てみ
ませう。

1950年:
(1)『赤い繭』
 哲学用語とリルケに関する用語なし。

(2)『魔法のチョーク』
 哲学用語とリルケに関する用語なし。

しかし、「その窓が(外)を持たないため」とか「窓に(外)を与えるようなことをしては
いけない」(全集第2巻、504ページ上下)とか「窓に自分の手で(外)を与える責任」
とか「ドアの外によって(外)を決定しよう」とか「窓の(外)の責任」(全集第2巻、5
05ページ上段)といつた形で、外部が存在として窓の向かうにあるといふ表現をとつて、
まだ、ゐる。(全集第2巻、504ページ上下。505ページ上段)

また、ここには「「ドアの外」」とあつて、「 」を使って言葉を囲つてゐて、ドアの外に
ついては、窓の外の( )とは明らかに識別区別をしてゐることが判る。(全集第2巻、5
05ページ上段)

窓は存在である外部に通じてゐて、存在の部屋の内部と外部が交換される境界域であるのに
対して、ドアは、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び
第33号)で論じたやうに、安部公房の存在の部屋にはドアはなく、窓だけであるので、窓
の場合には( )を使つて「(外)」と書き、窓を意識したドアの場合には「「ドアの
外」」と書き、また所謂窓を意識しない普通名詞のドアの場合には、(地の文として、俗に
いふベタで)ドアの外(全集第2巻、505ページ上段)と書くわけである。安部公房の窓
については『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)を参照ください。
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しかし、窓といひ、部屋といふ言葉は、既に高校生の時代の安部公房によつて以来『没我の
地平』や『無名詩集』で十二分に概念化されてゐる事が証明されてゐるので、これらの語
は、一般的な形象として見える程に其のまま恰も普通名詞の如くに通じてゐる。

この普通名詞と一見みえる名詞を使ひながら、しかし実は安部公房が全く独自に概念化した、
言つてみればやはり哲学用語同然の言葉を使つて小説を書くこと、これが此の後の安部公房
の流儀となり、習ひとなります。それ故に読者は作品に惹かれるが、しかし、一体何を言つ
ているのかが、自分の言葉にならずにもどかしい思ひをし、小説を寓意や寓話や比喩で解釈
したりするといふ仕儀には相成るといふわけです。

(3)『バベルの塔の狸』
この小説には「(存在)」が二箇所出てくる(全集第2巻、455ページ上段)。

存在に( )があるのは、安部公房特有の存在の表し方。即ち『(霊媒の話より)題未定』
の「(霊媒の話より)』の( )の使ひ方と同じく、また『名もなき夜のために』の中のリ
ルケに関する用語を存在を巡る安部公房独自の詩の用語として( )に入れて表したのと同
じです。霊媒は存在になること(自己を喪失すること)であるので、存在になるのであり、
従ひ「(存在)」と書かれるのですし、リルケに学んだ安部公房の詩の用語もまた、存在に
なること(自己を喪失すること)は霊媒の務めでもあり、使命であり宿命でもであるので、
従ひ其のやうに存在になるのであり、従ひ「(存在)」と書かれるのです。

しかし、この「(存在)」といふ表記は、上に述べた『魔法のチョーク』での判定「哲学用
語とリルケに関する用語なし」の程度と同程度にまで、問題下降された言葉になつてゐま
す。

この存在の中にあることを示す存在の記号である( )の例は、時間を戻して、詩人安部公
房の作品中に求めれば、次の詩の、次の( )があります。

①『旅よ』:安部公房20歳:「(友よ、雪なる友人よ、/私を許し給へ……。」(全集第
1巻、77∼78ページ)
②『迷い』:安部公房22歳::「(友よ吾等夜の眼は/しかし迷ひと裡にて語る/此の太陽
の駈る翼も/あのほのめきと色綾に/始めて呼ばれた名ではないのか)」:『没我の地平』所
収(全集第1巻、162∼163ページ)
③『夜の歌』:安部公房24歳:(全集第2巻、188ページ):「(ああ 裸形の天)

他方、時間を最長に進めると、『カンガルー・ノート』にも詩は歌はれてゐますので、改め
て其の冒頭を見ますと(全集第29巻、82ページ)、これまでも『終りし道の標べに』で
論じた《 》が最初に書かれてをりました。
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《カンガルー・ノート》

冒頭の第一行「いつもどおりの朝になる筈だった。」が、最初の19歳の小説『(霊媒の話
より)題未定』の未発表の原稿を参照したのではないかといふ私の仮説については既に『処
女作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承と作品継
承について』(もぐら通信第57号)で論じた通りですが、更に此処でも『終りし道の標べ
に』で採用した存在の記号《 》が使はれてゐるところを見ますと、いや勿論その間『箱男』
の各章の見出しに使はれてゐるとはいふものの、ここでもやはり安部公房は自分の健康を考
へて、これが最後の作品かもしれないと思ひ、小説の世界では『終りし道の標べに』以来親
み深い此の記号を存在の投書箱といふ「《提案箱》」の中に「ほとんど冗談のつもりで走り
書きのメモ」である「《カンガルー・ノート》」といふ一行を投じたのではないでせうか。

さて、最後の作品『カンガルー・ノート』の最後に書かれた存在の記号( )の中の、安部
公房最後の一行詩の呪文、呪文の一行詩:

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)

『バベルの塔の狸』には、上述の二つの場合以外には哲学用語はでてこない。皆具体的な形
象(イメージ)とnon-senseな会話や議論に置き換へられてゐるのは、『S・カルマ氏の犯
罪』に同じです。このやうにして安部公房の記号を整理しながら、その文章を読んでみます
と、『バベルの塔の狸』の第2章「二、奇妙な動物が現れて、ぼくの影を咬えて逃げ去った
こと。」にある次のものは皆、存在の( )であると読むことができることに気づきます。

(アル矩形を有限個ノスベテ大サノ異ル正方形デ埋メルコトガデキルカ?)
(二進法応用の自動計算器)
(食用鼠)
(立体顕微鏡写真)
(液体レンズ)
(時間彫刻器)
(倒立式絞首台)
(人間計算図表)

これ以外にも其のほかの章にも、一々ページ数を挙げませんが、この作品には此の存在の
( )が幾つも書かれてゐます。といふことは、此の上の例をみますと、もはや( )の記
号の中の言葉は哲学用語を遥かに離れ、しかし哲学的論理を下敷きにした遊戯の、皆言葉に
なつてゐて、翌年の『S・カルマ氏の犯罪』の登場を既に、この作品は予見してゐます。
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勿論、( )の中の空白に上の第2章「二、奇妙な動物が現れて、ぼくの影を咬えて逃げ去っ
たこと。」のやうに存在の文字が出現するのは、第1章「一、ぼくは空想しプランを立てる」
の最後に、主人公が「冷い心、冷い心……」といふ呪文、即ち「女たちの脚を見るとき、あ
るいは街を歩く時の呪文を」「何度も繰返して、その言葉の効果をたしかめ」た後のことで
す。

1951年:
(1)『S・カルマ氏の犯罪』
全集第1巻、404∼405ページをご覧ください。

ここにある法廷のやりとりのやうに、哲学用語が直かにではなく、科白の中で、遊戯的な会
話の一部として書かれてゐるほどに、哲学的なものを文学的、文藝的なものに変へることが
できてゐます。つまり、安部公房の劇作家としての能力が存分に発揮されてゐるのです。以
下、その例です。

「「それは、」と別な哲学者が言いました。「つまり被告は有罪であり、無罪であり、同時
に有罪ではなく、無罪でもないといふことだな。認識論的に言えば、この問題はきっと主観
の問題にすぎないのだろう。「いや、」と数学者が金切り声をあげました。「数学だ、数学
だ。公理の設定によって問題を現実に引き戻せ!」「だから、」と第二の法学者が急いでさ
えぎりました。」

この引用部の議論の中のやりとりにある論理は、『詩と詩人(意識と無意識)』で20歳の
安部公房が展開した、AでもなくZでもなく、第三の客観を求めるといふ論理であることが、
このやうに引き写してみると、よくわかります。即ち、有罪でもなく無罪でもない第三の客
観、即ち存在に、主人公はなつてしまつてゐるのです。

同じ遊戯としての哲学的な、また数学的な議論は、上の議論から更に数ページをめくった後
に、次の箇所にもあります。(全集第2巻、407ページ上段)

そして、遊戯としての、時間論と空間論と存在論のやりとり:

「「被告がこの世界の内に留まる限り、法廷は被告の後を追ってゆく。」睡そうな声の哲学
者でした。ぼくはそれらの声が確かに机の下から聞こえてくるように思いました。
「われわれは一つの公理を設定する。すなわち、被告がある空間に存在すれば、同じ時間に
法廷もその空間に存在するものとする。」いうまでもなくそれは数学者でした。」

その他には、名刺がY子に話す(名刺のいふ)「哲学」的な話が、人間、善と悪、偶然と必
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然、正気と狂気、昼と夜、人間と悪魔を巡つて書かれてゐます。(全集第2巻、423∼4
24ページ)

そして、この議論の後に続いて、詩人から小説家になつた安部公房の書いた、その成長と変
貌を示してゐる、次の遊戯的な、即ちnon-senseの会話:

「「まあ、」とY子が驚きの声をあげました。「哲学って、聞いているとなんとなく興奮し
てくるものね。」名刺が柄にもなくはにかんで答えました。「うん、哲学ってのは一種の詩
だよ。」(全集第2巻、424ページ上段)

更に、「世界の果て」と題する映画の上映に当たつて登場する「せむし」の世界(全集第2
巻、431∼435ページ)と「世界の果という概念」に関する演説(全集第2巻、434
ページ上段)、それから其の後に挿入されてゐてロール・パン氏の歌ふ歌の(詩としての)
歌詞は、やはり上記の引用と同様に、遊戯的なnon-senseの演説であり歌となつてゐる。

以下、『S・カルマ氏の犯罪』と同年の作品の名前を、備忘のやうにして挙げてをきます。

『大きな砂ふるい』
『保護色』
『チーズ戦争』
『手』
『飢えた皮膚』
『詩人の生涯』
『壁の変貌』
『空中楼閣』
『闖入者』
『歴史の頁が』

(2)『デンドロカカリヤB』
『デンドロカカリヤA』(1949年)と、『赤い繭』『魔法のチョーク』『S・カルマ氏
の犯罪』で小説家としての技能に磨きをかけて「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」を確
立した後に、問題下降ではなく、水平方向の書き直しがなされた『デンドロカカリヤB』(1
952年)を比べてみると、後者には前者に比して、次の一層の差異があります。

『デンドロカカリヤB』(全集第2巻、361ページ上段)からの、変形に関する以下の引
用をします。

①「また、風信子になったユァキントゥスはアポロの、バラになったアドーニスはアフロ
ディテの、それぞれ結局はゼウス一族の追憶のための記念にしかすぎない。」(全集第3
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巻、360ページ下段と361ページ上段)
②「結局、植物への変形は、不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われる事であ
り、罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投込まれることなんだ。」(全集第3
巻、361ページ上段)

以下、結論をいへば、『デンドロカカリヤB』からは、『デンドロカカリヤA』にあつた、

(1)転身の文字は消えた。
(2)変形も3度だけ、それも古代ギリシャ神話の中での変形(全集第3巻、360ページ
下段と361ページ上段)、そしてそれが植物の変形であることといふ、特段に独自の文脈
といふ訳ではない文脈で使われてゐる(全集第3巻、361ページ上段)やうに改変したと
いふことである。
(3)存在の文字は消えた。
(4)断層、断面の文字も消えて「複雑なカットグラス」といふ形象の言葉だけになつた(全
集第3巻、354ページ下段)
(5)『デンドロカカリヤA』にあつたリルケの文字が消えた。(『デンドロカカリヤA』
にも引用されてゐた『ドゥイーノの悲歌』第9番の同じ引用だけになつた:全集第3巻、3
56ページ上段)

これで安部公房の「転身」は完成、即ち文字としては作品の中から、関連する用語一式とと
もに、すつかり姿を消した事になります。この後の変形といふ言葉は、世間一般の普通の言
葉として、しかしその根底には存在といふ概念と其の関係概念を相変はらずに隠し持つたま
ま、そして「複雑なカットグラス」といふ例がさうであるやうに、形象の言葉だけになつて、
あの魅力的な直喩の文体(style)と「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」といふ様式
(style)を隠し持つた世界が、文字通り世界中の読者に広く読まれてゐるといふ事になり
ます。

以下、『デンドロカカリヤB』と同年の作品の名前を、備忘のやうにして挙げてをきます。

『ノアの方舟』
『水中都市』
『ブルートーのわな』:オルフォイスといふ名前が出てくる。
『鉄砲屋』
『イソップの裁判』
『新イソップ物語』

さあ、これで、初期安部公房が如何にして詩人から小説家に「転身」したのかの全体が、ま
た全貌が、私たち安部公房の読者に知られることとなりました。改めて安部公房のチャート
図「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」をご覧になると、安部公房文学への一層の理
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解を得ることができて、読者各位にをかれては、各人の興味と関心の在り方に応じて個別の
知見を得ることができ、感慨深いものがあるのではないでせうか。これは長年の、謂はば、
沈黙せる安部公房の でありましたから。改訂版のチャート図(version 9)を以下に掲げ
ます。改訂箇所は二箇所。後述する『悪魔ドゥべモウ』には、『問題下降』論の期間に安部
公房が熟慮し、その後の「詩形式による「今後の問題の定立」=詩と散文の統合」期間にも
引き続き持ち越されて思弁されてゐる問題が書かれてゐるからです。

ダウンロードは次のURLにて:
https://ja.scribd.com/document/348350137/詩人から小説家へ-v9

この一連の論考の最後の章を閉じるにあたつて、一捻(ひね)りを加へて、この章をメビウ
スの環とするために、初期安部公房の時計の歴史的な時計の針を反対方向に回転させて、
『名もなき夜のために』の年に書かれた短編小説『悪魔ドゥべモウ』を論じて、掉尾を飾る
ことに致します。

前者は、1948年7月8日の、後者は、1948年3月25日の発表です。

ここでもう一度初期安部公房のチャート図の最新版(version 9)を便覧として手元に置い
て、初期安部公房の全体を念頭にをいて御読み下さると読み易いかも知れません。さて、そ
の上で、次の説明を続けます。
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チャート図によれば、詩文と散文を統合するために、即ち『無名詩集』(1947年5月)を
最終的な散文として安部公房が「定立した問題」に答へるために、数学的中間項として『名も
なき夜のために』(1948年7月8日)を書き、更に『名もなき夜のために』を中間項とし
て『終りし道の標べに』を問題下降して、『名もなき夜のために』のやうな詩的散文としての
小説でもなく、また〈 〉といふ記号を使つて二層化した過渡期の小説でもなく、散文的散文
である小説『デンドロカカリヤA』(1949年8月1日)を書きました。

さうして、詩文散文の中間状態にある『デンドロカカリヤA』を更に問題下降して小説の様式
を完成するために、中間項として理論篇のエッセイ『牧神の笛』(1950年5月5日)を書
き、『デンドロカカリヤA』を問題下降した次の二つの作品、即ち『赤い繭』と『魔法のチョー
ク』といふこれら二つの短編小説に至つて、「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」を備へた
安部公房独自の小説様式が『S・カルマ氏の犯罪』で確立したわけです。

以上の初期安部公房の詩人から小説家への変貌が完成する過程で重要な、中間項である『名も
なき夜のために』(1948年の7月8日 [註3A])を経由し『S・カルマ氏の犯罪』に至る
ための道筋で、この中間項の年である1948年の7月8日以前に安部公房は7つの短編小説
を書いてゐますが、その内特に重要な役割を『名もなき夜のために』に演じてゐる小説が、『悪
魔ドゥべモウ』(1948年3月25日)です。

[註3A]
全集第1巻巻末の書誌「作品ノート」と当該作品末尾の[ ]内の日付によれば、この作品は1948年5月14
日∼10月7日にかけて原稿が書かれてゐて、この最後の日付である10月7日を採用すれば、この日以前の短編
の数は8つであるが、8つ目の短編『虚構』を対象に入れて考慮しても『悪魔ドゥべモウ』の作品系譜上の位置と
意義については変はらないので、全集第30巻に検索される1948年7月8日を基準の日として論述上採用した。

何故なら、この作品には、「転身」の語が3回出て来るからです。そして更に此の作品は、天
使と悪魔論といふ哲学・論理学的な主題[註4]といふ点で、『第一の手紙∼第四の手紙』(1
947年1月2日)を受け継ぎ、『キンドル氏とねこ』(1949年3月9日)へと繋がり、
最後には初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』(1951年2月1日)に収斂しますの
で、このことからも初期安部公房につて意義ある小説だといふことがいへます。

[註4]
この主題については、『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「III 『キンド
ル氏とねこ』:第五の猫殺人事件」をご覧ください。詳細に論じました。

この、安部公房の哲学的論理の主題の連鎖を構成してゐる『第一の手紙∼第四の手紙』『キン
ドル氏とねこ』『S・カルマ氏の犯罪』の3つの作品の名前を濃く太い文字にして矢印で接続し
て示した改訂版の初期安部公房チャート図(version 9)を作成しましたので、ご覧下さい。こ
のチャート図の中にある他の要素との関係を眺めると、初期安部公房について様々なことがわ
かります。再度、次のURLです:
https://ja.scribd.com/document/348350137/詩人から小説家へ-v9
もぐら通信
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さて、作品主題の連鎖の話ではなく、後者、即ち「転身」の語が3回出て来る事実についての
『悪魔ドゥべモウ』の話です。

『悪魔ドゥべモウ』には、転身の語が3回出てきます。悪魔に関係する用語も一緒に関係用語
として出てきます。

(1)1回目の転身:全集第1巻、425ページ下段
リルケの、オルフォイスに安部公房が学んだ此れは転身ではない。なぜならば、その人間当人
の転身ではなく、人間の転身となつてゐて、従ひ「人間も亡びるのだ」とある悪魔の言葉であ
り、その願望となつてゐる。人類が滅びて、人類が転身することを願つてゐるのです。これは、
安部公房がリルケに習つた転身ではない。

(2)2回目の転身:430ページ下段
暗号(429ページ下段)、「不思議な暗号に満ちた運命」(430ページ下段)、神と悪魔、
手(427ページ上段、428ページ下段他)、神の左手(427ページ上段他)、存在の手
を意味する〈手〉、人類、創造、(煙草を吸うための)パイプ[『保護色』と『ひげの生えた
パイプ』のパイプや『スプーン曲げの少年』のパイブの類似物に通じる]、存在、「存在が存
在である実存」といふ存在の再帰性(430ページ下段、437ページ上段)、即ち言語の再
帰性(437ページ上段)が、人間の実存との関係で、書かれてゐる。安部公房の実存とはこ
れである。それ以外には、成城高校時代以来の自己承認と窓(428ページ下段)、傾斜(4
21ページ上段)、割れ目(差異。421ページ上段他)、凹(窪み)との関係でいつも考へ
られる窪みへの永劫回帰(428ページ下段)、愛、「斯く在る」(現存在。429ページ上
段、429ページ下段他)、ノートの余白(430ページ下段)、「自分を構成する未分化な
感受性」(434ページ上段)、古新聞(「明日の新聞」434ページ下段)。

更に、この存在の再帰性は、リルケの詩『秋」』といふ安部公房が成城高校時代に大好きだつ
た此の詩をを意識して直喩で「自分自身の上にしか落ちて行けない地球のような、石と粘土の
廃墟をさまようパンの神のような哀愁だった。」と書かれてゐる(431ページ上段)。

また、上に列挙した用語の中にある通りに、悪魔の言葉として「――つまりそんな具合だ。君
は俺を気分でしか捉えていないのだ。何度も言ったじゃないか。あらゆる言葉が存在し意味を
持ち、存在が存在し、意味が意味を持つ実存の了解がどんなに大きな人間の保証であるか……
俺のことは俺にとっても無なんだ。俺には矛盾というものが無い。」と書かれてゐる(437
ページ上段)(傍線筆者)ここに、存在の再帰性が言語の再帰性と同じことであるといふこと
が語られてゐる。人間の世界に関する物事の本質を、悪魔が語るのである。第4章の冒頭での
マルクス主義(共産主義)との関係で、折角悪魔がこの宇宙の秘密ともいふべき存在と言語の
再帰性を人間に教へても、人間は役立てることができず、仕方ないので最後に「弁証法という
魔法のランプを与えてみ」ても其の価値を理解できなかつたことが、次の3回目に出てくる転
身との関係で判ります。
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この文章を読むと、安部公房の論理は、明らかに一次元の単純素朴な経験的な時間を考へるマ
ルクス主義といふ共産主義や其の共鳴者たちとは一線を画し、異質です。安部公房が日本共産
党員であつた(歴史的な事実としては此の小説の3年後さうになるわけですが)といふことは、
成城高校時代の哲学談義をした親しき友中埜肇に宛てた手紙に書いた通りに、「ぼくは次第に
マルクシズムに接近してゐます。マルクシズムはぼくのアンチテーゼではなく、ぼくの超える
べきものであるやうに思はれます。革命と超越のイデーがぼくの中で結ばれかかつてゐます。」
(『中埜肇書簡 第17信』全集第1巻、333ページ)としてあるものとして安部公房にはあ
つたといふことです。

ここでも安部公房は対立する二項の双方を否定して、AでもなくZでもない、さうではない第三
の客観、即ち自己の身を投じて無限回数の転身の果てに遂に観るに至り、自己もまた存在とな
つてゐる第三の客観、即ち存在になることを、時間の中で現存在(未分化の実存)として求め
て生きたといふことになります。しかし、革命と超越論では、前者は政治のこと、後者は哲学
的思弁による宇宙と人間の真理のこと。安部公房は古代ギリシャのプラトンと同じ志を果たさ
うとしたといふことになります。しかし、理想の国家はならなかつた。これも歴史的事実です。
2500年も前の古代も20世紀の時代でも、時間を一次元でしか理解できない人間たちには、
即ち歴史は直線で進歩するといふものの考へ方しか出来ない人間たちには、安部公房のいふ言
語と存在のメビウスの円環を為す森羅万象に存在する再帰性といふ性質(quality)など、とて
も理解には及ばぬことは、最初から自明のことだと、私には思はれる。高次の宇宙が低次の宇
宙に理解されることは、決して、ない。低次の宇宙が高次の宇宙を理解する事も、決して、な
い。

しかし、敢へて問題下降する。これが、安部公房といふ人間なのです。社会の中に、理解され
ないことを承知で、敢へて存在の中の孤立を求めたといふことになります。これが、前期20
年の安部公房の姿です。これに対して1970年の三島由紀夫の死から始まる後期20年は、
順序を逆にして、存在の中に社会を求めたことは、既に諸処にて言及し、論じた通りです。さ
て、次は、

(3)3回目の転身:436ページ下段
ここでは、悪魔の言葉として、人間に「弁証法という魔法のランプを与えてみたが、やはり人
間共は俺の気持ちを理解出来ずにそれを転身の堕落にしか使うことをしなかった」とあり、転
身が(悪魔の立場から見て)堕落する行為として、それも人類が堕落する行為として転身とい
ふ言葉が書かれてゐる。従ひ、この人類の転身は、無括弧でもあり、もはやリルケに学んだオ
ルフェウスの転身でもなく安部公房の転身ではない。これほどに、転身といふ言葉の意味を問
題下降して一般的に、立場も交替させて使へるやうになつたといふことです。

『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1月2日)には、次のやうな〈 〉といふ記号を使
つた言葉が出てきます。この記号は『名もなき夜のために』に於いて既に使はれてゐて、リル
ケと安部公房の詩論と存在論の世界の言葉であることは、上述した通りです。
もぐら通信
もぐら通信                          39
ページ

〈詩〉(1回)(全集第1巻、191ページ下段);(4回)(191ページ):計5回
〈詩人〉(1回)(191ページ下段)
〈詩的なもの〉(1回)(191ページ下段)
〈詩以前の事〉(1回)(191ページ下段)
〈歩道〉(4回)(193ページ);(1回)(194ページ上段)
〈運命の顔〉(6回)(195ページ);(4回)(199ページ下段):計10回。
《 》:話者を窓辺にゐる夜に訪れる得体の知れない男の話す哲学的な話中にだけ使われる。

上記の〈 〉の中に書かれる言葉のうち特徴的なものは、〈運命の顔〉であつて、全て《 》で
示される話中話の中で現れるのが、この〈運命の顔〉といふ言葉です。

『終りし道の標べに』では、存在と現存在に関する哲学用語の記号《 》を使用してゐるのでし
た。『第一の手紙∼第四の手紙』では、この《 》の中に更に〈 〉を設けて、話中話の中で〈運
命の顔〉と〈 〉で書いてゐるのです。

数学的な頭脳を持つ安部公房のことですから、記号の使用には厳密なものがあります。此の事
実も、『第一の手紙∼第四の手紙』が《 》の使用といふことから『終りし道の標べに』と連絡
してゐることを示してゐます。

この『第一の手紙∼第四の手紙』といふ作品では、哲学用語の領域と、リルケと自分の詩の世
界の領域と、地の文の領域の3つの領域が3層をなしてゐることになる。何故ならば、既に此
の論考で上述した通り、安部公房は最初の領域については『終りし道の標べに』では《 》を使
用し、二つ目の領域については『名もなき夜のために』では〈 〉を使用してゐるからです。そ
して三つ目の領域である地の文については、〈運命の顔〉以外の〈 〉は地の文の中に置かれて
ゐます。

といふことは、記号によつて作品を時系列的に並べれば、

A系統の作品:
(1)『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1月2日)は《 》と〈 〉の二つの領域を持
つてゐる。地の文を入れて、3層の層を成す小説である。
(2)『名もなき夜のために』(1948年5月14日∼10月7日)は〈 〉の領域を持つて
ゐる。地の文を入れて、2層の層を成す小説である。
(3)『終りし道の標べに』(1948年10月10日)は《 》の領域を持つてゐる。地の文
を入れて、2層の層を成す小説である。

そして、ここでもう一度『悪魔ドゥべモウ』に戻つて見ませう。さうすると上述の順序に従ひ
有り得るもう一つの脈絡は、主題によつて作品を時系列的に並べれば、
もぐら通信
もぐら通信                          40
ページ

B系統の作品:
(1)『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1月2日):『問題下降』論の時代からの安
部公房の詩の世界の哲学の主題を受け継ぎ、
(2)『悪魔ドゥべモウ』(1948年3月25日):「転身」の語が3回出て来る。『第一
の手紙∼第四の手紙』の安部公房の詩の世界の哲学的な主題である天使・悪魔論を受け継ぎ、
(5)『キンドル氏とねこ』(1949年3月9日)の天使・悪魔論へと繋がり、最後には、
(6)初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』(1951年2月1日)に収斂して、この
作品では、『キンドル氏とねこ』で(真獣類ではなく)有袋類のカイネズミが、「昼のアク
マ」である同じく有袋類のフクロネコに対して「夜のアクマ」氏と一対で呼ばれ、後者がカル
マ氏と一つに統合されて、『S・カルマ氏の犯罪』では、S・カルマ氏になつてゐます。

A系統の作品とB系統の作品を時系列に並べてみませう。A系統は赤、B系統は青にします。

(1)『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1月2日)は《 》と〈 〉の二つの領域を持


つてゐる。地の文を入れて、3層の層を成す小説である。『問題下降』論の時代からの安部公
房の詩の世界の哲学の主題を受け継ゐでゐる。
(2)『悪魔ドゥべモウ』(1948年3月25日):「転身」の語が3回出て来る。『第一
の手紙∼第四の手紙』の安部公房の詩の世界の哲学的な主題を受け継ぎ、
(3)『名もなき夜のために』(1948年5月14日∼10月7日)は〈 〉の領域を持つて
ゐる。地の文を入れて、2層の層を成す小説である。
(4)『終りし道の標べに』(1948年10月10日)は《 》の領域を持つてゐる。地の文
を入れて、2層の層を成す小説である。
(5)『キンドル氏とねこ』(1949年3月9日)へと繋がり、最後には、
(6)初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』(1951年2月1日)に収斂する。

上記AとBの二つの系統の作品のあることと、記号の使ひ方からわかることは、次のことです。

1。安部公房は遅くとも『第一の手紙∼第四の手紙』の日付が1947年1月2日であること
から考へて、1946年には、詩文と散文の統合を考へてゐたといふこと。
2。『天使』が1946年に引き揚げ船の中で書き始められてゐたといふのであれば[註5]、
詩集『没我の地平』と同年であることから、この問題上昇の詩集を著した時には既に、問題下
降を、それは何といつても散文といふことになりませうから、小説を書くことを既に考へてゐ
たといふこと。

[註5]
『(霊媒の話より)題未定』の最後にある加藤弘一氏による「解説」(288ページ)を参照。

「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てゝ生きると言ふ事は、恐ら
く僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思ひます。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存在
自体―愚かな表現ですけれど―であれば良いのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作といふ事が必要
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

なのです。これが僕の仕事であり労働です。」(『中埜肇宛書簡 第8信』[1946.12.23]全集第1巻、188ペー
ジ)とある、1946年12月23日付の此の手紙の傍線部が、この意識と具体的な企図を示してゐることにな
ります。その企図による最初の小説が『天使』であつた。

とすれば、満洲帝国の崩壊、父親の喪失、安部家の喪失、安部公房といふ家長の地位の未来の方向への喪失、自
己の喪失、このやうな中で、また此のやうなことに負けずに其れにも拘らず、大陸から海を渡つて島国の日本の国
に帰還する此処の前後で、安部公房は「詩人、若しくは作家として生きる事」を考へ、この手紙ではまだ「詩人、
若しくは作家として生きる事」ですが、これを「詩人且つ作家として生きる事」を成す為に、この論考で明らかに
したやうに数々の「転身」を数学的にまたtopologicalに成し遂げ、「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」
変貌したといふことになります。

3。『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1月2日)は、《 》と〈 〉と地の文の三つの


領域を持つてゐる詩文散文統合の意志を以つて書かれた最初の小説であること。そして、
4。『第一の手紙∼第四の手紙』は、『問題下降』論の時代からの安部公房の詩の世界の哲学
の主題を受け継ゐでゐること。
5。安部公房は、概念詩集『没我の地平』(問題上昇詩集)を『無名詩集』に問題下降して「此
の詩集で僕は一応是迄の自分に与へ、今後の問題を定立し得た」こと[註6]に成功した後、更
に、
6。『無名詩集』といふ詩の領域で更に此れを問題下降するための中間項として『名もなき夜
のために』(1948年7月8日)といふ〈 〉の領域(リルケと自分の詩の世界の領域)と地
の文から成る、2層の層を成す小説を「制作」し、

[註6]
『中埜肇宛書簡 第9信』(全集第1巻、268ページ上段)を参照。また、この問題定立が何かは、この論考の
「3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題」で詳述しましたので、お読み下さい。

7。『終りし道の標べに』(1948年10月10日)といふ《 》の領域(存在論といふ哲学
の世界の領域)と地の文から成る、2層の層を成す小説を書き、最後に、
8。上記6と7、即ち詩と哲学を散文の世界、即ち小説の形式(「シャーマン安部公房の秘儀
の式次第」)で統合することを企図して、
9。『キンドル氏とねこ』(1949年3月9日)といふ小説を書こうとして未完途上のまま
に、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて、
10。初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』(1951年2月1日)が一気呵成に生ま
れた。

と、このやうになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ42

今度は時間を捨象して、初期安部公房を作品の主題と構造で見て見ませう。さうすると、次の
チャート図「初期安部公房の主題と作品の構造から観た作品系統図」を得ることが出来ます。
ダウンロードは次のURLで:
https://ja.scribd.com/document/348350612/初期安部公房の主題と作品の構造から観た作品

このチャート図からわかる事は次の通りです。

1。初期安部公房の詩人から小説家になる変貌の相(phase)は同時並行的に二つあること。
(1)一つは、A系統の作品と呼んだ詩文散文に関する問題下降の相であり、詩文は〈 〉の記
号で、哲学は《 》の記号で示されてゐるといふこと。
(2)二つ目は、B系統の作品と呼んだ《 》で示された天使と悪魔に関する哲学的な対話の相
であり、この相は、哲学的な対話を安部公房固有の内省的・再帰的な「僕の中の「僕」」の話
法で対話するといふ相であるといふこと。[註7]

[註7]
「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号)をご覧ください。『デンドロカカリヤ』の此の話
法について、詳述しました。

2。これら二つの相が成功裏に一つに統合されたのが『S・カルマ氏の犯罪』であるといふこ
と。
3。安部公房は当初はまづ詩の世界の問題下降を考へたといふこと。即ち、先の戦争が終はつ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ43

て現実の時間の中を生きるために詩の散文化を考へて『名もなき夜のために』を書き始めたと
いふこと。これが〈 〉の中のリルケ論の記号の、この文脈での意味です。そこに、
4。金山時夫の訃報に接して、今度はA系統ではなく、B系統の安部公房固有の「僕の中の
「僕」」の話法の世界で哲学的な思弁の領域を『終りし道の標べに』を書くことによつて現実
の世界へと問題下降したといふこと。これが《 》の記号の、この文脈での意味です。このやう
にして誕生した此の論理的哲学的な思弁小説(SF:Speculative Fiction)は、かうして見ると
確かに安部公房の意識では小説を書くといふものではなかつたことがわかります。これは安部
公房が言語で生きる事そのものでした。
5。『第一の手紙∼第四の手紙』は原稿の一部が欠落してゐて全体が不明であるが、しかしA系
統の作品とB系統の作品の二つの相の発祥の源となる重要な分岐点にある作品であること。とい
ふ事から云つても、
6。『第一の手紙∼第四の手紙』といふ作品に於ける、夜になると出現して主人公たる一人称
の話者に語る得体の知れない男の話の論理は、このあと天使の姿を隠した体裁(「空白の論
理」)で語られる『悪魔ドゥべモウ』の中の悪魔の語りかける論理に通じてゐて、この後『キ
ンドル氏とねこ』で其れまでの天使・悪魔論では姿を隠してゐた猫は有袋類の二義的な猫に変
形されて、悪魔である此れも有袋類であるカイネズミと一対になつて登場し、いつも殺される
猫としての変形された天使[註8]の姿になつてゐる事。

[註8]
『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(第58号)お読みください。詳細に論じました。

7。B系統の作品の特徴は、安部公房固有の「僕の中の「僕」」の話法の中での内省的・独白的
な又哲学的な、天使の出てこない、天使の隠れた天使・悪魔論であるので、言ひ方を変へると、
この天使・悪魔論を語る登場人物の登場する時には、「僕の中の「僕」」の話法の形を、安部
公房の小説は採る事。あるいは、「僕の中の「僕」」の話法の形をとる時には、安部公房の作
品は、いつも「空白の論理」[註9]によつて天使の隠れた天使・悪魔論である哲学的対話にな
る事。

[註9]
『安部公房文学の毒について』(第55号)にて詳述しましたので、これをご覧ください。

8。この天使・悪魔論は、成城高校時代に熟考した、森羅万象を原理的に理解し体系的に説明
するための4つの概念の関係、即ち部屋、窓、反照、自己承認を巡る「転身」に関する多次元
的な存在論である事、私の云ふ汎神論的存在論である事。[註10]

[註10]
この論の詳細は20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)に詳細に書かれてゐま
す。安部公房の実作は全て、生涯に亘つて、この理論篇に書かれてゐる通りの実践です。安部公房のOS
(Operating System)たるこの理論篇の一読を強く貴方にお薦めします。(全集第1巻、104ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ44

9。1946年に引き揚げ船の中で書き始めた『天使』の中の天使が、B系統の作品の中で「空
白の論理」によつて姿を隠し(それほど安部公房にとつてはリルケに学んだ天使は尊く大切だ
つた)、安部公房固有の話法である「僕の中の「僕」」の中で、topologicalに真獣類に対する
に二義的な有袋類に変形されて、「キンドル氏とねこ」に猫になつて登場し、その後の殺され
る猫の嚆矢となつたといふ事。

さうして、以上『初期安部公房の作品の主題と構造から観た作品系統図』のチャート図と此の
図から知られたことを念頭に置いた上で、そして『詩人から小説家へ、しかし詩人のままに』
のチャート図の上で特にB系統といふ安部公房固有の「僕の中の「僕」」といふ内省的・哲学的
対話の話法を其のまま『S・カルマ氏』以降の作品群に延長して適用して見ると、これが安部公
房のTVドラマ、ラジオドラマ、映画の脚本、戯曲の脚本といふ俗にいふマルチメディアの世界
での、安部公房の戯曲家としての才能を活かした活動に其の儘真っ直ぐに連なつてゐることが
判ります。

後者のチャート図を前者のチャート図附属のものと考へて、これらを一つのものとすると、安
部公房といふ人間が、初期安部公房の藝術家人生のみならず其の後の活躍も含めて、安部公房
の人生の全体を更に一層一望の元に収めることができます。

初期安部公房の姿を、言葉でまとめますと、次のやうになります。

A系列の作品群に於いて、安部公房は小説家になつた、B系列の作品群に於いて、安部公房は戯
曲家または脚本家(シナリオライター)になつた。そして詩人から小説家にオルフォイスのや
うに「転身」するにあたり、其の二つの系列の根底には問題下降論の論理があり、同時に書い
てゐた存在と現存在を歌つたリルケの詩とリルケを自家薬籠中のものとした自己の詩の実践が
あつた。小説については既に19歳の処女作『(霊媒の話より)題未定』(1943年3月7
日)でtopologicalなシャーマン安部公房の秘儀の式次第は確立してゐた(袋で始まり袋で終わ
る)。この小説様式を、同時並行で自己の詩でも独自に同様の秘儀の式次第の確立に成功して
から(詩集『没我の地平』にて)、二つの藝術範疇を一つに統合した。これは「『デンドロカ
カリヤ』論(前篇)」で明らかにした通りに問題下降によつてなし遂げたものである。その逐
次の様子は『詩人から小説家へ、しかし詩人のままに』のチャート図に表した通りです。

安部公房が戯曲家になつた根底にあるB系列といふ安部公房固有の「僕の中の「僕」」といふ内
省的・哲学的対話の話法を使つて詩人から小説家への移行期の作品『デンドロカカリヤA』(1
949年4月30日)を書いたことは「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」で明らかにした通
りです。このA系統とB系統を併せて備へてゐる作品が、欠損があるのは惜しむべきことです
が、これまで其の意義の知られることのなかつた『第一の手紙∼第四の手紙』(1947年1
月2日)です。この間、安部公房は独自の記号を用ゐて、問題下降を成し遂げた。この問題下
降はtopologicalに行われた。この同じtopologyの論理は、1970年代以降の小説のみならず、
安部公房スタジオの演技論にも其のまま生きてゐる。即ち、安部公房の作品は、全て例外なく、
topologyで書かれてゐる[註11]。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

[註11]
Topologyについては『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)を、そしてtopologyが
如何に全作品を接続し変形してゐるか、結局安部公房文学とは何かについては「『デンドロカカリヤ』論(前編)」
(もぐら通信第53号)をお読み下さい。安部公房文学の全体の姿が判ります。

さて、短編小説『悪魔ドゥべモウ』から始めた(安部公房らしくも)論中論といふべき此の
「初期安部公房の作品の主題と構造から観た作品系統」論は、この論考の最後の章を閉じるに
あたつて、この論考全体を一捻(ひね)りして最初に戻るメビウスの環とすることに成功した
でせうか。

この問ひに答へると、安部公房の読者であるあなたは二次元のメビウスの環の結び目の一捻り
の上にtopologicalに無時間で「いつのまにか」(超越論的に)立つてゐることになつてしまつ
てゐるのではないでせうか。あるいは、あなたが三次元に今ゐるならば、クラインの壷の空虚
な接続面の上に。あなたが何次元で生きるかは、あなたが自分自身の意志で決めるべきことで
す。

あなた自身に繰り返し再帰的な変形の人生を。世界は差異でありますから。

これで、初期安部公房論は、ひとまづ、お仕舞ひです。初期安部公房の本質論を語りました。本
当は、論じ尽くしたといふ気持ちが、少しだけ、してゐます。

(終り)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

私の本棚

岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・
幻想文学・ゲーム論集』を読む

岩田英哉

安部公房の世界から此の評論集を眺めたらどのやうに見えるかといふ視点から論じます。話
を小説に絞ります。

日本の小説について私が予々(かねがね)思つてゐたことの一つに、何故昨今の小説は少し
も面白くなく、読みたいと思ふ作品が、これほどにもないのかといふ事があります。

昨年ある機会あり、そこは小説好きで読み巧者といふべき教養ある人士の集ふ読書会にて、
課題の最新の小説を読むために、全く数十年振りで月刊文藝誌『新潮』を買つて中をみたと
ころ、新潮文学新人賞といふ賞があつて其の賞金30万円といふ金額の低さに驚いたことで
あつた。それを上の機会に率直に伝へたところ、その反応を見ると、いづれも出版業界にゐ
るにも拘らず思ひもかけぬ私の発言と思はれた。私の意見はかうである。

30万円といふ懸賞金額は低すぎる、これでは優秀な若者が応募するわけがない。もし優秀
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 47

な若者の書き手を真剣に探さうといふならば、私の思ふ懸賞金額は100万円から300万
円である。どうあつても100万円(これでも私は少ないといふ気がするの)である。とい
ふことを言つた。そして続けて、予(かね)てよりの私の以下の仮説を申し述べた。即ち、

小説を書く能力を有する若者たちの良質な潜在的小説家である部分は皆、ソフトウエアの業
界、特にゲーム業界にとられてしまひ、あるいは願つて行つてしまつて、それ故に文学の世
界には来ない、それ故に日本の現代文学は貧弱な小説しかないのだといふ仮説です。何故な
らば、二進数のデジタルの1と0といふ数字からなる人工言語で記述しようが、文字といふ
自然言語で記述しようが、前者の数学的な(ブール代数の)論理と論理学的な、エンジニア
が参照する真理値表の論理[註1]も、後者の自然言語による思考論理も、論理の上では全
く同じだからです。これが、安部公房が言語はデジタルだからね、といふ意味なのです。
[註2]

[註1]
真理値表とは、次のやうな表です。この表では「T(=truth)」=真=1、「F(=false)」=偽=0。人間の論理的
に思考する際の全ての論理の場合を尽くした組み合わせが、肯定形と否定形の両方が一覧表になつてゐる。
Wikipediaです:https://ja.wikipedia.org/wiki/真理値表

[註2]
安部公房は色々なところで言語とは何かといふ問ひに答へてゐますが、そのうちの今二つを以下の通り引用し
ます。:

「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾
の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力な
んだね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にね
たみを感じるんだよ。そのねたみの本質は何かというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小
説家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。」(『内的亡命の文学』全集第26巻、383ページ下
段)(傍線筆者)

「その遺伝子情報に「言語」を組み込んだらどうなるか。人間になるわけだ。そうなんだよ、「言語」という
のはデジタル信号だろう。他の動物の場合、行動を触発する刺激情報はアナログなものに限られるけど、人間
だけはデジタル信号を行動触発のサインにすることが出来た。」(『破滅と再生2』全集第28巻、254
ページ上段)

二つの言語に異なるところがあるとすれば、それは後者には、これは生きた人間の言語です
から、感情といふものがあつて、これを前者は直接には代表する事が出来ないといふ事です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

しかし、二進数の論理を使つて、ゲーム業界のエンジニアが、生きた人間の様な表情や動作
や振る舞ひを表す事ができれば、これは人間が小説を読んで感情移入することができるのと
変はらないことになります。即ち、ソフトウエアのエンジニアが、安部公房のいふ「文学と
いうものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、
自己矛盾の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナロ
グに到達するための努力なんだね。」といふ此の努力をして、その文学的な言語能力といふ
本来論理的である才能を存分に発揮すれば、小説と同等の価値を持つ作品を創造できること
になります。

そして二つの言語共に、ネスト構造、螺旋構造または入籠構造といふ、当然ながら共通の普
遍的な言語文法に基づいてゐる。

今ネットで調べると、平均給与が年額で600万円ですから[註3]、それは言語能力のあ
る人間、即ち若さに任せて情緒的に好き勝手な譬喩(ひゆ)を作るのではなく、論理的に従
ひ散文的に、従ひ小説を書く能力を有する若者は、RPG(Role Playing Game)業界に行く
ことになるでせう。何故ならば、小説はRPGであるからです。

[註3]

http://nensyu-labo.com/gyousyu_game.htm
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

この著者が、その経歴から、SFといふ文学とRPGといふゲーム文学またはRPG文学(と仮
に、後者をさう此処では呼ぶことにします)の両者を等量等質のものとして論ずることに、
私も賛成したい。何故ならば、安部公房の文学は、本人自らのいふ通りに「仮説設定の文学」
[註4]、即ち世にいふSF、もつと此のふた文字の英語を略称ではなく、正称で打ち開けば
Speculative Fictionであり、SFだからです。これは、安部公房固有の話法「僕の中の「僕」」
といふ言ふ事からも、また其の哲学的・論理的な文体(style)からも、また擬似科学的な
意匠から言つても、さういふ事ができます。

[註4]
『安部公房の変形能力2:エドガー・アラン・ポー』(もぐら通信第4号)に詳述しましたので、ご覧くださ
い。

さうして、小説はRPGだといふ意味は、言語から見れば、二つの作品の構造、即ち此の場合
は話法は、同じだといふ事がいひたいのです。即ち、

作者>話者>話者の語る物語または世界

といふ話法です。

更に二つの物語または物語の創造する世界は、神話の構造を備へゐるといふ事です。即ち、
小説にもRPGにも浦島太郎の物語の骨格が入つてゐれば、それは交換可能な小説とRPGの
関係であるといふことになります。この神話的な結構上の特色が、文字の文学にではなく、
よりRPG文学に色濃いといふ事が、何か前者の内容の貧困と混乱に通じてゐるやうな気がし
て、私にはなりません。

つまり、今の現代日本語の小説を読んでもちつとも面白くない。即ち、thrillとsuspenseが
ない。これは、文藝の範疇を問はぬ作品の要諦です。

著者によれば、RPGでは上の話法に於ける話者、即ち「審判役のプレーヤー」を「ダン
ジョンマスター」または「ゲームマスター」と呼んでゐます。これは、文字の文学では、話
者が節々に顔を出して、文字の世界でいふ登場人物たち、即ち「プレーヤーたちの行動によっ
て何が起きるのかを判定するだけでなく、探索が行われる舞台の設定全般を担当し、それを
説明する役目を負うことにな」ってゐるとあって、此処でも全く異同がありません。(「七、
公共哲学のロールプレイング・ゲーム的要請過程」(P40∼P44))

以下、この著作から得た知見を列挙して、安部公房の世界との対比をして、これは此のまま
私が此の本を読んで得た知見の順序であり、最後に示す「安部公房文学世界地図」に至るま
での道程です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ50

1。「文学の〈特異点〉――ポストヒューマニズムの前史のために」
(1)「一、〈特異点を求めて〉」(P11∼P12)
ここで述べられてゐるのは、17世紀スペインの著名なバロック小説『ドン・キホーテ』を
巡つての、安部公房ならば(果てしない「転身」といふ自己没却の果てに至る)Aでもなく
Zでもなく第三の客観、即ち存在を求める論理の、SFの世界での、考察です。

著者はこの安部公房の論理を、宇宙の特異点との関係で論じてゐます。安部公房の世界から
眺めますと、特異点とは、いつも小説の主人公が失踪し、消滅し、または殺される存在の十
字路、いつも次の次元への立て札が立つてゐる其処の事です。そこでは、それまでの全ての
内部と外部が交換される。顔が裏返り、コモン君はデンドロカカリヤといふ植物に変形する。
『赤い繭』の一人称の俺が其処で空虚な、夕焼けを反照する繭といふ三人称に変形する。S・
カルマ氏が垂直といふ時間のない方向へと無限に成長する壁になる其の場所です。この主人
公たちの変形によつて、主人公以外の外部もまた全て内部へと変形する。

この数学的な又言語的な論理を著者の引用する物理学者の言葉によれば、次のやうに、この
同じ事が、なります。

「〈特異点〉とは、ヴァーナー・ヴィンジらが提唱している自然科学における概念である。
数学では関数の値が無限大になる点、物理学では通常の物理法則が成り立たない点(例えば
ブラックホールの内部)を意味する言葉だ。この概念を彼らは、科学技術の発展が加速度的
に進行した結果想定される、従来の人間中心主義的な世界観を覆すやうな、爆発的かつ革命
的な変化が発生する地点の定義に用いている(「特異点とは何か」)。

数学者と物理学者が、簡潔に安部公房の世界を説明してくれてゐる。上の文の次に書かれた
著者の言葉は、引用はしませんが、コンピュータとの関係で上の引用を敷衍してゐて、これ
は其のまま『第四間氷期』の、これも簡潔なる、説明になつてゐます。

『名もなき夜のために』を書いた安部公房は、これを其の最後に「僕ら人間を物への供物と
しよう。名もなき夜に生きて昼を織り出すものとなろう。ある日……。」と書いて、特異点
を通り抜ける覚悟を示してゐます。(全集第1巻、558ページ下段)

(2)「三、〈エコノミメーシス〉の実践」:ジャック・デリダとロブ・グリエ(P18∼
23)
ジャック・デリダといふ20世紀のフランスのバロック哲学者の美学論「『絵画における心
理』上」(123ページ)を引いて、デリダがカントの類比(Analogie)概念を引用して、
一つのものに関する概念が類比を用ゐれば二つあり、一つは概念の存在するものであり、二
つは他方概念の存在しないものであるといふ、即ち安部公房の世界ならば人間と人間そつく
り、また真獣類と有袋類、K(定数)とK (存在としての1)の関係に言及し、その次に、
安部公房も好んで「消しゴムで書く」といふ言葉のことでよく言及してゐるロブ・グリエと
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

いふ作家の著した『新しい小説のために』を引用して、デリダの類比の場合と同じく、この
作家の「〈内的な距離〉」、即ちこれが「いつわりの距離」であるといふことを引用して言
ひ、即ちK の道こそが「公然たる大道、すなわちすでにひとつの和解である」と続けるので
す。

いづれによせ、安部公房の世界観は、宇宙は差異であるといふ方程式でありますから、デリ
ダであれ、ロブ・グリエであれ、いふことは、領域分野は異なれども、全く変はらない。安
部公房ならばtopologyだね、と一言で言ふことでせう。[註5]

[註5]
Topologyの概念については、『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)をご覧
ください。

(3)「八、否定性より生じる結節点」:欧米白人種一神教と国家と教会の関係(P46∼
P49)
この章では、キリスト教徒といふ唯一絶対のGodを奉戴する欧米白人種の、著者の遠慮勝ち
な言ひ方でいへば否定的な面を、私が率直にいへば思考欠陥を、この宗教の大前提である
「Godは唯一絶対に存在する」といふ論理の求める「超越性」が志とは反対に惹起した否定
的な面を「結節点」として、複数の論者の言葉を引用して、その否定面の最たるものである
共産主義(マルクス主義)を、この論理との関係で其処に至るまでを論じてゐる。

ヨーロッパの白人種キリスト教徒の生んだ哲学といふ学問は、その宗教の教義の論理的な根
本的な矛盾を解決するために生まれた科学ですが、この哲学者たちが呼ぶ超越論といふ論を、
安部公房の世界では(宗教の世界では多神教の世界に相当する)汎神論的存在論といふ哲学
論として読者には諸所にてお伝へして来た通りです。

著者は21世紀の今も欧米白人種キリスト教徒の難題である、この問題を指摘してゐるわけ
です。さて、私たちは文学の世界の読者として、これにどう身を処するものか。と考へると、
やはり其の解決は、汎神論的存在論に基づく語彙と形象(イメージ)のSF小説といふこと
になります。これを著者は、これ以降、バロックとゴシックに関係する作家や作品や藝術思
潮をSFとの関係で論じながら、広範囲に読者をSFの世界に案内してくれます。ありがたい
ことに、それぞれの章の末尾に参考文献が明示されてをります。

(4)「二、「SF冬の時代」と伊藤計劃――高橋良平の総括から」:失われた20年
「『SFマガジン』二〇一六年四月号に「早川書房七十年のSF出版で最良の年はいつだった
のか」というテーマでの対談「ランキングで振り返るSF出版70年」が採録された。」で
始まるこの対談の問ひは、安部公房の世界の読者であつてみれば、そのまま所謂純文学と呼
ばれる世界の文学についても問ふことができる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ52

高橋良平さんといふSF評論家によれば「一九九七年三月号に載った鏡明との対談「この1
0年のSFはみんなクズだ!」とあるので、1987年からの10年かと思ひきや、更に同
氏はこの対談の中で「本来はこの二十年」はクズだといふ発言であるといふことであれば、
更に10年を差し引いて、1977年からクズだといふことになります。1977年からの
純文学と呼ばれる文字文学の行方や如何。

伊藤計劃さんといふSF作家の登場を一つの画期的な基準として採点するSFの最良の年を挙
げろといふのでせう。1977年であれば、安部公房が安部公房スタジオに傾注した時期。
同時に書いた小説は『箱男』(1973年)と『密会』(1977年)があります。この対
談の対象となつた年代は結果として1970年以降といふことですから、SFの傑作『第四
間氷期』(1959年)が選評に上らないのは残念。

(4)「思弁小説(スペキュレイティヴ・フィクション)の新しい体系――『定本荒巻義雄
メタSF全集』完結によせて」(P82∼P84)
「「SFは主流に対するサブ・カルチャーではない。あくまでカウンター・カルチャーであ
る。」といふ一行で此の章は始まります。

この分類で行くと、間違ひなく安部公房の文学もカウンター・カルチャーです。不在の父親
に対するサブ・カルチャーといふ位置にゐるやうに一見見えるし、そこでだけで安部公房を
論ずることもできませう。しかし、その位置はいづれ、いつも小説では転倒し、内部と外部
が交換されて、家を訪ね歩く主人公は空虚な、即ち不在の父親そのものに最後にはなつてし
まひ、形象(イメージ)や姿はどうあれ、空っぽの繭になり、社会に対するカウンター・カ
ルチャーの位置に不在の何か、即ち存在として其処に変位してゐる。

大変面白く興味深いことは、著者の文章を読むと、この荒巻義雄さんといふSF作家もまた、
安部公房と同然の、再帰的(recursive)な人間であつて、標題の自分の全集の編集に作家
自身が積極的に関はつて「テクストの校訂(アップデート)という形で作品群の読み直し
(リ・リーディング)に参加していることだろう。こうして本全集は作品集という体裁を取
りつつも、実質的には批評集でもあるという、まこと特異な性格を帯びるに至った。」とあ
りますし、「自作解説魔」たる作家自身を含んだ多士済々たる解説者や月報寄稿者」といふ
ことですから、この方もまた、合わせ鏡の世界に棲んでゐる再帰的な人間なのです。

この後に続く文章の中の言葉には、ノヴァーリスの名前があり、『体現/体験されるマニエ
リスム』(高山宏著)の名前があり、最後のページをめくると、カウンターカルチャーは、
「内宇宙(インナー・スペース」であることが判る。この内宇宙が「無限の発展可能性を秘
め」てゐるとあるならば、この宇宙もまた特異点で外部宇宙と等価交換されて、自らが外宇
宙となるといふ、topologicalな展開が前途に控へてゐるのでありませう。それも、等価交
換される宇宙が一つとは限らない。といふ。
もぐら通信
もぐら通信                          53
ページ

(5)「「世界にあけられた弾痕」にふれて――『定本荒巻義雄メタSF全集 別巻』月報
解説(P85∼P86)

安部公房の名前が最初に出てくるので、冒頭を引用する。

「一九八一年生まれの私が荒巻義雄(敬称略)の名前を初めて意識したのは、国書刊行会か
ら『山尾悠子作品集成』が出版された二〇〇〇年までに遡る。かつて荒巻は、山尾の『夢の
棲む街』(一九七八)や『仮面物語〈或は鏡の王国の記〉』(一九八〇)の解説を手がけて
いたが、そこではデュシャンやダリが言及されつつ、「小説のアナログな力」(安部公房)
を復権する硬質な幻想小説として、山尾の作品が位置づけられていた。」(傍線筆者)

荒巻義雄さんといふ方は、上記[註2]に引用した安部公房の言葉に接して、これを理解し
たSF作家のお一人だといふことになります。

この作家が、この山尾評を書いた8年後の開催になる「SFセミナ−2008」の場で、
「Speculative Japan 始動!」とあるパネルの下に、他のパネリストに同席して語つたとい
ふ「物質元素と空間認識を軸としたバシュラールの理論を紹介することで、自然科学的な認
識論と詩的なイマージュの橋渡しの必要性を訴えかけたのだった」(傍線筆者)といふので
あれば、これは安部公房の文学そのものであり、上の安部公房の文章を読んでゐたことはむ
べなるかなと思ひます。

この方の小説の中には、安部公房の小説のやうに、詩が歌はれることがあるのでせうか。読
んで見たいと思ひました。

(6)「SF文学・現代思想を横断し「脱領土化」する、平滑的な比較精神史――藤元登四
郎「『物語る脳』の世界」解説(P87∼P94)

この章も安部公房の読者としては見逃す事のできない、興味深い章でした。何故ならば、こ
の掲題の批評家は、荒巻義雄といふSF作家を、シュールレアリスムのダリの理論やエッ
シャー、またヒエロニムス・ボッシュにまで遡つて論じ、著書「『シュルレアリスト』では、
エディプス・コンプレックスでは解釈できない、逸脱する「何か」の存在が指摘されていた。
その後、藤元はさらに思弁を進め、続く「荒巻義雄の謎」、および「荒巻義雄とジル・ドゥ
ルーズ――比較精神史の試み――」(「SFファンジン」復刊三号)では、その「何か」につ
いて具体的な考究が行なわれている。その過程で析出されたキーワードこそが、ボードレー
ルやアンドレ・ブルトンの文学を通して得られた「ヴィジョン高速記述法」、そしてドゥルー
ズ&ガタリの哲学で用いられる「脱領土化」の概念である。」とありますので、この批評家
もまた、荒巻義雄さんといふ作家と同じバロックの人間といふことが明瞭です。何故なら、
ドゥルーズはバロック哲学を論じ、『襞』といふ差異の集合についての著作がありますので、
従ひ、「脱領土化」とは、安部公房ならば逃走であり失踪であり、箱男の箱抜けの術であり
もぐら通信
もぐら通信                          ページ54

論理であり、バッハならば遁走Fugaといふ少しづづズレて行く、逸脱の、そしてまた最後
には最初に回帰する構造の、そのやうな小説を荒巻義雄といふ方は書いたのではないでせう
か。やはり、ここでもtopology!と安部公房は一言云つて、沈黙する事でせう。

何しろバロックの感覚と論理は、目に表立つて見えやうが見えまいが、時間と空間に関する
差異、相違、ズレ、違ひ、距離、懸隔、隙間、ハザマ等々にありますから。この章を読むと、
ブルトンの修辞学でいふ隠喩(メタファー)だけからなる宣言書は、その隠喩といふ譬喩(ひ
ゆ)の性格から言つて時間の存在しない文を重ねて、無時間の空間の中で異質のもの同士を
接続するといふことから、安部公房の世界ならば無時間の方向である垂直方向に成長する壁
の論理がさうであるやうに、やはりバロックの論理といふべきでありませう。

この「七〇歳まで文壇の外部に自らを置いていた藤元」さんは、掲題の著書では、「直接話
法でも間接話法でもない「自由関節話法」が重要なキーワードとなっている」ことを見ても、
AでもなくZでもない第三の道たる自由話法を選んだといふ事、この論理、即ち二つの異な
るものの差異を超越する論理によつて、誠にバロック人間だといふことになります。

といふことは、全くバロックの人間たちがヨーロッパの17世紀に国家を問はずに登場して
来て、皆が皆ジャンル、範疇を問はず、差異だけに着目したといふ此の、唯一絶対全知全能
のGodの支配、実際にはローマ法王庁の支配から脱出し、逸脱し、逃れ、逃げたい、遁走し
たいと考へた此の、その論理のあり方から言つて時代を超越した(時間を捨象した)超越論
は、欧米の文学の主流の支配から脱出し、逸脱し、逃れ、逃げたい、遁走したいと考へたSF
文学の誕生と同じ理由があるのではないでせうか。遁走が消極的だと難ずるならば、超越と
いひませう。従ひ、「脱領土化」とは汎神論的存在論に行き着く以外にはありません。安部
公房はこれを予見してをりました。

この章でもまた、「おわりに」と題されたあとがきにて、neighborといふ概念を、そして
此の概念はtopologyの概念でもあり近傍と日本語では訳されてゐるのですが、この概念を持
ち出して、上で述べたデリダがカントの美学論の問題として論じた類比、類似、即ち
Analogieのことが書かれてゐるといふ掲題の本の著者による指摘があります。安部公房なら
ば、真獣類と有袋類、ネコとフクロネコの類比、従ひ対照的且つ対称的な非対称であり非対
照といふご近所にゐるもの同士の話です。これもまた、安部公房の読者のご存知の通りに、
やはりtopology!といふ呪文を唱へれば、それで問題解決といふわけです。

なるほど、 topologyはSF文学の宝庫です。安部公房のtopologyが表に出て書かれてゐる作
品『人間そっくり』は、1966年の『SFマガジン』の9、10、11月号に3回に亘り
連載されたものです。

この評論集の著者によれば、荒巻義雄の「『白き日旅立てば不死』の「続編」である『聖シュ
テファン寺院の鐘の音』(全集 第四巻)は、ドイツ・ロマン主義を代表する詩人ノヴァー
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もぐら通信                          ページ55

リスが『青い花』の第一部で表象の彼方として描いたものを未完の第二部で前景化させよう
としたようなものだから、スキゾ分析とは別のマニエリスム的な解釈によって「断層線」を
探る試みが有効だろう」といふことであるので、「断層線」とは、初期安部公房の詩の中に
既に書かれてゐる、そして安部公房がリルケに教はつた形象である、美しい花の咲いてゐる
崖であり斜面であり、数学的な論理の裏打ちされた言葉としては、斜面にある斜めに切られ
て現実の時間の中に露出した断面であり断層であり、更に再度詩の言葉としては傷口でもあ
り、いづれによせ、複数の時間の存在する相応に複数の次元のことを言つてゐるわけですか
ら、藤元さんの論じる荒巻義雄はもとより、論ずる藤本登四郎といふ論者自身が、バロック
的な多次元宇宙論の当人といふことになります。

「断層線」は、一つ次元を上げれば断層面になり、二つ次元を上げれば断層体になり、もう
一つ次元を上げれば四次元断層体(連続量としてみた場合)または四次元断層関係(非連続
量としてみた場合)になり、この最後の四次元小説が安部公房が1973年に発表した『箱
男』であることは、既に「『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く∼」(もぐら通
信第34号)で詳細に論じた通りです。

この藤元さんといふSF文学の批評家が、安部公房の読者であるあなたと同じ関心事を共有
してゐる事の判る発言を此の章の最後のページから引用します。

「二〇一三年、デビュー間もない書き手としては異例のことに、藤元登四郎を顕彰するパー
ティが日本SF作家クラブ主催で開かれたが、この催しに向けた挨拶文で藤元は、「言葉は
不思議なもので、一見、途方も無い空想を語っているようであっても、最終的には無意識に
たどり着きます。また、精神の内面を語っているつもりであっても、メビウスの輪のように、
いつの間にか外の出来事を語っています。SFは、この内と外、そして意識と無意識の交錯の
問題に向かって、大胆に切り込むことができる先端的な分野です。と述べていた。」

この方は、安部公房が医者になるなら精神科医にと思つてゐたといふ其の精神医学の専門家
になつたSF人間の文学者です。

(7)「SFの伝統に接続される、現代社会の諸問題――伊藤計劃のためのノンフィクショ
ンガイド10」(P99∼P101)
この章は「伊藤計劃の登場によって、SFのみならず日本の文化状況は抜本的なパラダイム・
シフトを迎えたといっても過言ではない」といはれる当のSF作家を取り上げて、幾つかの
ものとの関係で、その登場の画期性を論じてゐる。

この論を拝見すると、やはり此の伊藤計劃さんといふ登場数年にして惜しむらくは夭逝した
SF作家はバロックの作家であると知ることができます。何故ならば、作品の一つに『The
Indifference Engine』といふ題名の小説があるからです。これは明らかに、世界は差異で
ある、differenceであるといふことの認識に基づいてゐる。それならば、未完の遺作を継い
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ56
で完成させたといふ、伊藤計劃さんの盟友といふべき位置に親しくあつた円城塔といふ方も
バロックでありませう。

そして、この記述の後にある、人工知能の高度に発達することに対する長所短所の論を読み、
特に後者、即ち短所としてある「個人の制御を離れて自走する」テクノロジーのあり方につ
いての箇所を読んで、私がここで銘記すべきは、次のことです。

言語と人間の関係から、関係からしか、小説は生まれない。RPGの二進数文学然り、文字
文学然りであり、デジタル文学然り、アナログ文学然りである。

フェイスブックやTwitterなどのSNSは、既に「個人の制御を離れて自走」してゐる。インター
ネットが既に「個人の制御を離れて自走」してゐる。

さて、まだまだサイバーパンクやスチームパンクやクルトゥルフパンクといつた、SFの下位
ジャンルについても述べたいところです。即ち下位のものと上位のものとを等価交換すると、
即ち「特異点」で内部と外部をSFらしいことにtopologicalに交換してひっくり返すと一体
何が目の前に現れるかを論じたかつた。しかし、紙幅が尽きました。最後のページまであと
半分の旅程ですが、ここで筆ををくことにします。幾つも生まれたメモは、安部公房論に生
かしませう。

どうも此の著作を読みますと、SF文学といふのはそもそも其の出自から言つて、バロック
文学ではないのか?[註6]これが、サイバーパンクとかスチームパンクとかいふSF文学的
なパンクの正体ではないのか、またクルトゥフ神話と呼ばれるラヴクラフトによるものも同
様の理由で、さうなのではないのか。ラヴクラフトがアメリカ人だといふのが面白い、即ち
贋の神話の創造であることは全く、他のアメリカ製の文物に徴しても、同じだからである。
[註7]即ち、安部公房が確信的に予見したやうに、SF文学は汎神論的存在論の世界ではな
いのか? YES。と、私はいひたいのであるが、あなたの意見は如何か。

[註6]
『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』によれば、パンクと呼ばれるSFのサブ
ジャンルについては、次のやうな、1985年8月31日に「北米SF大会(ナスフィック)で開催された世界
最初の「サイバーパンク・パネル」における作家ジョン・シャーリィの発言が、その理由を雄弁に物語ってい
るだろう。」とあつて、このジョン・シャーリィの発言を著者は、巽孝之著『サイバーパンク・アメリカ』
(勁草書房、1988年)25ページより次のやうに引用してゐます。傍線筆者。

「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だろう。いっぽう、SFは多くの文化̶̶主流文学、現代詩、
ロック̶̶を吸収するジャンルだった。パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した̶̶それは
いってみれば〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり、少なくとも二〇年間というものSFの成長を不毛に
してきたクリシェの一群を拭い去ってくれるひとつの浄化作用なのだ。サイバーパンクは、だからパンク音楽
における怒りのエネルギーと幻視力の強さをあわせもった新たなメディア・マトリクスを利用する点でSF的プ
ロセスの等価物と呼ぶことができる。」
もぐら通信                         

もぐら通信 57
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「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だ」といふ言葉は、「パンク・バロックはあらゆるものを歪曲
する力だ」と、私には聞こえる。何故ならば、「あらゆるものを歪曲する力」があるからだ。バロックの語源
はbarrocoといふポルトガル語で歪んだ真珠といふ意味であれば、これは連続量、連続体としての差異をいつ
てゐるのである以上、そしてバロックの概念は差異である以上、パンク・ロックが「あらゆるものを歪曲する
力」があるのは然るべきことだと私は考へる。従ひ、本文で論じたやうに、SFそのものの出自がバロックであ
るので、即ち汎神論的存在論であるので、「パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した」といふ
のもまた当然です。それが証拠に、この作家は続けて「〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり」といつ
て、バロックの概念である差異といふ概念が再帰的な概念であることを発言してゐるのも、然るべき発言の論
理の筋道です。それ故に、安部公房の「奉天の窓」の格子窓の論理[註6­1]、即ち「メディア・マトリク
スを利用する」といふ言葉も正しいし、「SF的プロセスの等価物」といふ等価交換についての言葉も正しい。
この作家は非常に明晰な文体を有する作家です。本質的にものを考へて生きて来た作家です。

[註6­1]
奉天の窓については『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通
信第32号及び第33号)をご覧ください。

[註7]
安部公房の世界から観たアメリカ文化の贋物性の由来については、『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリ
カ∼』(もぐら通信第22号)をご覧ください。

しかし、ご紹介しなかつた残りのページの内容も含め、安部公房の世界文学上の位置はどこ
にあるのかを「安部公房文学世界地図」としてまとめましたので、ご覧下さい。

この優れた著作を読んで得た成果は、安部公房を巡る文学的な世界地図が出来た事です。著
者に感謝致します。安部公房文学がバロックの外部に接続されました。次ページに掲示しま
す。このPDFは、次のURLでダウンロードする事ができます:

https://ja.scribd.com/document/347872617/安部公房文学世界地図
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リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(4)

∼安部公房をより深く理解するために∼

岩田英哉

IV

O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen



in den Atem, der euch nicht meint,

laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,

hinter euch zittert er, wieder vereint.

O ihr Seligen, o ihr Heilen,



die ihr der Anfang der Herzen scheint.

Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,

ewiger glänzt euer Lächeln verweint.

Fürchtet euch nicht zu leiden, die Schwere,



gebt sie zurück an der Erde Gewicht;

schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.

Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,



wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.

Aber die Lüfte... aber die Räume....

【散文訳】

ああ、優しいひとたちよ、ときには、
お前たちのことを思っていない息の中に歩みいりなさい、
そうして、自分の両の頬に息を当てて、息が分かれるようにしなさい、
お前たちの後ろで息は震え、再びひとつになるから。

ああ、聖なるものたちよ、完全なるものたちよ、
(複数の)こころの始まりとみえるものたちよ。
もぐら通信
もぐら通信                          60
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矢の飛び行き弓なりに描く弧と、矢の的、
矢よりも一層永遠に、お前たちの微笑みは、涙して、輝く。

重力を苦しむことを恐れてはならない、
重力は地上の重さに返しなさい。
山々は重たいし、海という海もみな重たいのだ。

お前たちが、子供のときに植えた木々さえも、
時間がたってもう重過ぎる位になってしまった。
持って担ごうとしても、それはできはしない。
しかし、空気は、そうではない、しかし、空間は、そうではない。
(時間がたっても、お前たちは、空気や空間を持ち運ぶことができる。それらは、落ちるもの
ではないのだ。)

【解釈と鑑賞】

最初のソネットからこの4番まで読み返してみて、リルケの詩想がわかったように思う。あるい
は、リルケの連想という方が正しいか。

ソネットIの主調は、耳の中の平安ということである。そのために沈黙から飛び出した、あるい
は生まれ出でた動物たちに、オルフェウスは、平安のための寺院を耳の中に建立した。

ソネットIIも、同様の主調、モチーフで理解することができる。耳の中に永遠に眠る少女を歌っ
ている。この少女は、眠っていて、覚醒することを求めないということを以って、オルフェウス
は、少女の眠っている世界を完成させたのである。この求めないという主調は、悲歌7番の第1
連に出てくる主調と同じである。この悲歌7番の第5連にもMaedchen、メートヒェン、少女、
いや女たちが出てくるが、これらは、都会の自堕落な生活を求める逆の展開の女たちであった
けれども。

そうして、この求めないということから、更に詩想と連想の糸は繋がっていて、ソネットIIIに続
いている。

ソネットIIIでは、神ならば、竪琴の弦の間を通り抜けてみせ、そうして分かれずに、分裂するこ
となく一つでいられるのであるが、人間はそうはいかないと歌っている。この、駱駝が針の穴
を通るという、聖書にある譬えに似た言葉を思い出させる表現であるが、人間には、そのよう
な行為は苦しみであり、不安であろうものを、歌は、それを平安に導くと歌っている。わたし
たちを存在ならしめるような、そんな歌を歌え、そのように歌を歌えとオルフェウスよ、お前が
歌を教えているその男に教えよとリルケは歌っている。
もぐら通信
もぐら通信                          61
ページ

ここで、リルケは、こころの交差点にはアポロのための寺院は立っていないのだといっている。
この意味を前回ソネットIIIを解釈するときには、わからないとしたのであるが、このような詩
想の糸を辿ってみると、その意味は平明である。アポロは神であるので、ふたつのこころの交差
点にあっても不安にはならず、そのこころは平安であるので、ソネットIでオルフェウスが動物
たちの避難のために建立したような寺院は不要なのである。そのような意味であるとわたしは
思う。

ふたつのこころの道の交差点とは何かは、もっとこれからソネットを読むに従い、また考えを
深めて行こう。既にソネットIIIのところで触れたように、ソネットXXIXの第3連の第2行に同じ
詩想が出てきます。そこに至るまでに、正解に至ることでしょう。

さて、そうして、このソネットIIIの最後のふたつの連で、真に歌うということは、大きな声で大
仰に歌うのではなく、小さな声で、息をそっと吹きかけるような声、何ものをも求めぬ息なの
だとリルケは歌い、それは神の中を行渡る風と言い換え、すなわち一言で風だと言って、このソ
ネットIIIを終わっていますが、この息、風という連想から、更にソネットIVが始まっています。

O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen



in den Atem, der euch nicht meint,

laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,

hinter euch zittert er, wieder vereint.

【散文訳】

ああ、優しいひとたちよ、ときには、
お前たちのことを思っていない息の中に歩みいりなさい、
そうして、自分の両の頬に息を当てて、息が分かれるようにしなさい、
お前たちの後ろで息は震え、再びひとつになるから。

このソネットIIIの第1連で、リルケはソネットIIの終わりのところから、詩想を繋いで、息とい
うものを歌っています。息は、人間とは違ってばらばらになることなく、ひとつになっているも
のだとリルケは言っています。この言い方は、上に見た、ソネットIIIの第1連の第3行の、竪琴
の弦の間を通り抜けるという主調と同じものです。神はいつも一体だと、リルケが言っているこ
とが、これでわかります。悲歌7番で鳥が編隊を組んでいつも、人間のようにバラバラに孤独で
はなく、ひとつになって意思疎通ができる、距離がなくひとつになっていられることを、rein、
ライン、純粋だ、鳥のように純粋だと歌っています。同じように、息も、従って風も、こうして
みると、純粋だということができるでしょう。それゆえ、リルケは、神の中を吹き渡るとソネッ
トIIIの最後の連で歌ったのでしょう。

思えば、悲歌の中で、特にその2番では、天使たちもまたいつも一体になっている存在でありま
した。地上においては、ばらばらになって鏡としてその姿をあらわしていたわけですが。
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こうしてこのような順序で天使のことを考えてみると、詩人とは、Vision、ヴィジョンを歌う者
のことだといわずにはいられません。Hart CraneのTo Brooklyn Bridgeもそうでした。リルケ
の天使といい、ブルックリン橋に立つ、自由の女神、否、白い鴎の織り成す聖母マリアといい、
それは素晴らしいヴィジョンだと思います。Visionを歌う人間こそ詩人と呼ばれるに相応しい。

さて、Atem、アーテム、息の中へ歩みいれよとなにをいっているかということに戻りましょう。
これは、以上説明してきた文脈から明らかなように、息の中、風の中に入るということは、分
裂せず、ばらばらにならなず、平安になること、ひとつであること、存在していることを意味し
ています。

だから、続いて、こころの平安ということから、第2連で、聖者たちよ、完全無欠な、健やかな
るものたちよという呼びかけに繋がるのです。第2連です。

O ihr Seligen, o ihr Heilen,



die ihr der Anfang der Herzen scheint.

Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,

ewiger glänzt euer Lächeln verweint.

【散文訳】

ああ、聖なるものたちよ、完全なるものたちよ、
(複数の)こころの始まりとみえるものたちよ。
矢の飛び行き弓なりに描く弧と、矢の的、
矢よりも一層永遠に、お前たちの微笑みは、涙して、輝く。

さて、上では、息、風は、分裂しないということ、一体であることをみてきましたが、これに
対して、矢は、それを切り裂いて飛び行くものです。リルケの連想の矢も一筋に飛んでいるよう
です。

そうして、聖者は、こころの平安をもっているひとです。矢は、最初は勢いがあり高く上を目指
して飛んでいくが、いづれは弧を描いて落ちてゆき、的を射ることになるのだとリルケはいって
いて、それは、次の第3連で、重力のことを歌っていることに繋がっているのですが、それはそ
れとして、(複数の)こころの始まりには、こころの平安があるのだとリルケはいっているので
す。

したがって、平安を知っている聖者たちのこころは、重力とは無縁で、風のようであり、その微
笑は、そうやって飛ぶ矢よりももっと永遠に、重力で落ちることなく、いやあるいは、矢が落
つるものであればなお一層、かえって、風のように永遠に、微笑んで、輝くのです。

さらに、しかし、その微笑の輝きには、涙して輝くとあるように、その身に受ける矢の悲しみ
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も知っているということなのでしょう。いかがでしょうか。

第3連に参りましょう。

Fürchtet euch nicht zu leiden, die Schwere,



gebt sie zurück an der Erde Gewicht;

schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.

【散文訳】

重力を苦しむことを恐れてはならない、
重力は地上の重さに返しなさい。
山々は重たいし、海という海もみな重たいのだ。

前の連の矢の譬えから、この連では、重力のことを歌っています。これは、ここに歌われている
通りの、文字通りの解釈で、よいのではないでしょうか。理解のままに。

最後の連です。

Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,



wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.

Aber die Lüfte... aber die Räume....

お前たちが、子供のときに植えた木々さえも、
時間がたってもう重過ぎる位になってしまった。
持って担ごうとしても、それはできはしない。
しかし、空気は、そうではない、しかし、空間は、そうではない。
(時間がたっても、お前たちは、空気や空間を持ち運ぶことができる。それらは、落ちるもの
ではないのだ。)

この最後の連で、空気、呼気、このソネットIII第1連に出てきた言葉で言えば、Atem、アーテ
ム、息、呼吸は、地上に落ちないとリルケは考えていることがわかります。それから、空間もま
た。空気も空間もともにドイツ語では、複数形になっています。

この連は、丁度そのまま悲歌の、リルケの空間論の註釈になっています。実は、わたしはこのブ
ログの2009年7月と8月に集中的にリルケの空間を論じましたが、この論がそうであったように、
リルケの空間の、これは、格好の註釈になっています。わたしは、ここから、実はリルケは空間
をなんだと考えていたのかを書きたいと思っています。それは、空間論を書いたときに、敢て書
かずに、一歩手前で筆を抑制したところに、この最後の連は触れているからです。でも、これは、
また稿を改めたいと思います。ひとこと今ここに書くとすると、リルケは現実を、かくも、この
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ように意味だと考えていたということです。言葉の意味、です。リルケの空間は、ことばの世界
によく似ているのです。もっと正確にいいますと、概念の世界に。

さて、この最後の連で、リルケは、子供のときにと訳しましたが、直訳すれば、子供として植樹
をすると歌っています。リルケは、子供として木を植えるといっているのです。子供、人間の初
期の、幼児期がどんな人間にとってに本質的に重要だとリルケが考えているかは、悲歌の「天使
と死者を語る前に」(2009年6月21日付:https://shibunraku.blogspot.jp/2009/06/blog-
post_21.html)で、Frühe、フリューエ、早い時期にというリルケの愛好する言葉について分析
することで、論じたとおりです。それが、天使の性格と能力に、リルケからみると憧憬の強い思
いを抱かせるのでした、勿論、恐怖心と裏腹に。

【安部公房の読者のためのコメント】
1。風は、存在である。何故なら、あなたの頬で別れても、その背後で自然に一つに、即ち存
在になるから。安部公房の風は、この風です。
2。空気と空間は、重力がなく、時間とともに重たくなつて地上に留まる事はない。空気は風
と同じ存在の風であり、空気といふならば人間の吐く息も同じで、人間が呼気をすれば、人間
は内部と外部が入れ替わつて、透明な存在になるのだ。即ち、空を鳥のやうに飛ぶ事さへでき
る。
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連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(1)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 66
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キャニール:二十世紀のバロック小説
(48)『密会』論
(49)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(50)『方舟さくら丸』論
(51)『カンガルー・ノート』論
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もぐら通信 【編集後記】
ページ67

●何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?: スプーンもパイプ
もtopologyの視点で見れば同じものです。本当に安部公房は、安部公房そつくりです。
●安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4):最終回
VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世
界での問題下降」後の小説): これで初期安部公房を、先の戦争直後の時代の風潮
によつてではなく、正しく安部公房文学自体との関係で其の総体を明らかにすること
ができました。「われわれは今や安部公房の作品を「前衛文学」という枠にとらわれ
ずに、総体として読むべきなのだ」(『(霊媒の話より)題未定』の「解説」286
ページ)といふ加藤弘一氏の言葉に、私も賛成です。安部公房を理解するキーワード
は、存在、topology。こんな作家は日本にはゐなかつた。と、あらためて思ひます。
とすれば、安部公房の読者とはみな、従来の小説に満足してゐない人たちの集合だと
いふことになります。私の論考が、これから世界中の読者の間で書かれる二十一世紀
以降の安部公房論に役立ちますやうに。
●私の本棚:岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲー
ム論集』を読む: この評論集を読んで、改めて安部公房が日本のSF文学の世界に及ぼ
した深い影響について考へずにはゐられませんでした。荒巻義雄氏が安部公房の言語
論をここまで読み込んでゐたとは驚きでした。また作家ジョン・シャーリィの発言は、
まさしくSFがバロックであることを率直に述べてをります。たとへ、それがパンクと
いふ新しい衣裳を身にまとつてゐるにせよ概念は変らない。SFはバロックであるとい
ふ知見に加へたもう一つの成果は、「安部公房文学世界地図」が描けたことです。安
部公房のバロック文学が、後進とはいへ、同時代のフランスの作家パスカル・キニョー
ルといふバロック作家と同じ時代に同じ圏内の作家であつたといふことです。ロブ・
グリエについてはいふまでもありません。そしてポーを通じての世界のSF文学や探偵
推理小説文学やゴシック文学との関係がSFを通じて明らかになつた。安部公房の日本
の読者の知見を広げてくれた著者に感謝です。●ではまた次号。

差出人:
贋安部公房 次号の原稿締切は6月23日(金)です。
〒 1 8 2 -0 0 ご寄稿をお待ちしています。
03東京都
調布
市若葉町「
閉ざされた
無 次号の予告
限」 1。安部淺吉のエッセイ
2。「転身」論余滴:VII 安部公房はオルフォイスを殺したのか?
3。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝
4。「安部公房の写真」とは何か
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(5)
6。共産主義ドイツ見聞録
7。言葉の眼12:メイド論
もぐら通信
もぐら通信                          68
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新しい知
見の発見に努め、それを広く紹介し、その共有
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくため を喜びとするものです。
に、 安部公房縁りの方、有識者の方などに僭
越ながら 本誌をお届けしました。ご高覧いた 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、も
だけるとありがたく存じます。(順不同)  ぐら通信の編集及び発行を行うものです。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池田龍 【過去の号の訂正箇所】
雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治様、宮西 第54号
忠正様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎 P36
訂正前:「いづれも三人称」
様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行様、内藤
訂正後:「いづれも一人称または三人称」
由直様、番場寛様、田中裕之様、中野和典様、
坂堅太様、ヤマザキマリ様、小島秀夫様、頭木 第57号
弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、 『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語につ

藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝 いて(2)』
P32
日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田晋
訂正前:「僕の中の「僕」」と言葉の存在の関係
哉様(読売新聞社)その他の方々 訂正後:「僕の中の「僕」」と言葉と存在の関係

【もぐら通信の収蔵機関】 第58号
『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』
P13
 国立国会図書館 、日本近代文学館、
訂正前:「プラーは」
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處  訂正後:「プラーハ」
 にも無い圖書館」
P21

【もぐら通信の編集方針】 訂正前:「懇情」
訂正後:「懇請」

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集と交 P25
歓の場を提供し、その手助けや下働きをするこ 最後の段落の三行目の2つ目の科白として次の文言を一行
とを通して、そこに喜びを見出すものです。 追加する:「要するに、ほら、位相幾何学のことですよ。」

P26
2.もぐら通信は、安部公房という人間とその
『人間そっくり』の会話の最後の文言に下線を引く:
思想及びその作品の意義と価値を広く知っても 「先々、どこまで」から「思い込まれる火星人……」ま
らうように努め、その共有を喜びとするもので で。
す。
上の三つの号は特に配信はいたしませんがGoogle Drive
に収めてある上記の号は最新版(改訂版)に差し替へてあ
ります。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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