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日本教科教育学会誌 2018.12 第41巻 第3号 pp.

81-90
DOI: 10.18993/jcrdajp.41.3_81

〈原著論文〉

読み深めのための発展的再読を促す学習指導の開発
― 芥川龍之介「地獄変」の場合 ―

大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎 松 岡 礼 子
(広島大学大学院教育学研究科 院生)

本研究は小説「地獄変」の教材性を明らかにし,読み深めのための発展的再読を促す学習指
導を提案するものである。考察対象に高2「現代文 B」の単元「芥川『地獄変』を読む」[以下
「前半単元]]と単元「芥川短編小説群を読む」[以下「後半単元」]を取り上げる。両単元とも
にねらいは作家の創意に留意した作品の批判的な読みである。小説「地獄変」の場合,それは
結末部の分析であり,「信頼できない語り手」への着目であり,「芸術至上主義」という語の問
い直しであった。前半単元は批判的な読みのための観点を示し,後半単元では教科書教材の芸
術論に照らした作品再読と条件付き短歌創作を試みる。後半単元における再読の手立てはどの
ように機能し得たか,学習者反応分析を通して後半単元の成果を明らかにし,本学習指導構想
の可能性と課題とを述べる。

キーワード:再読,読み深め,批判的な読み

1.研究の目的と方法 説明する。最後に学習者反応分析をとおして単元
1)
本研究の目的は,小説「地獄変」 の読み深め の課題と可能性とを明らかにする。
を意図した学習指導構想が,学習者の読みにどの
ような変容をもたらしたかを実証し,再読2)の学 2.年間カリキュラムにおける本実践の位置づけ
習指導体系のひとつとして提案することにある。 まずは資料1「高2『現代文B』年間学習指導
そのための考察対象として勤務校の高2全157名 計画」にもとづいて,年間学習指導における本実
(男82,女75)を対象とした「現代文 B」の単元「芥 践の位置づけを以下の4観点から述べる。
川『地獄変』を読む」
[1学期実施,以下「前半 2.1.「山月記」との比べ読み:悲劇性を読む
単元」]と単元「芥川短編小説群を読む」[3学期 年度当初に「山月記」の悲劇性について論じる
実施,以下「後半単元」]を取り上げる。 課題に取り組んでおり,「地獄変」の前半単元に
学習者は高1「国語総合」での小説「羅生門」 おける悲劇性の解釈は応用にあたる。
読解を通して「エゴイズム」とは何かを学び,便 2.2.回想形式の一人称小説の重ね読み:
「こころ」
覧を用いた作家調べから「新技巧派」や「芸術至 「日の名残り」
上主義」といった語を芥川学習語彙として知って 「地獄変」の語りを理解した上で,カズオ・イシ
いる。「地獄変」の教材化は,教科書教材以外か グロ「日の名残り」の老執事スティーブンスの職
らのテキスト選択の試みに他ならないが,同作家 業人語りを解釈させる展開である。長編小説「こ
の他作品への読み広げによって作家の創意に留意 ころ」の教材化は元書生の「私」という語り手と
した作品の読み深め,さらには批判的な読みの力 出会わせるための試みである。
の育成を企図した結果である。 2.3.評論を用いた小説の読解
研究は以下の手順をふんでおこなう。まず,年 教科書の評論教材,長谷川宏「芸術を楽しむ」
間カリキュラムにおける2単元の位置づけを述べ を前半・後半ともに「地獄変」読解に活用した。
る。次に,教材研究と先行研究の検討をふまえて 前半はパトロンとお抱え画師の力関係を理解し
地獄変の教材性を述べ,構想した2単元の概要を て「地獄変」の人物読解が出来るよう,後半は近

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松岡 礼子

資料1 高2「現代文B」年間学習指導計画 以上の(1)から(9)の手続きを経て,


「地獄変」
月 読む 見る 書く 話す・聞く の再読と条件付き創作短歌実施にいたる。
4 「三四郎」
「山月記」⑴
「山月記」
3.小説「地獄変」の教材性:教材研究と先行研
5 「山月記」批評文
批評文
「地獄変」 究の検討をふまえて
6 「地獄変」⑴ 批評文
評論「芸術を楽しむ」⑴ 本実践では小説「地獄変」読み深めのための具
「三四郎」
7 「三四郎」批評文
批評文 体的三観点を,結末部の解釈,「信頼できない語
8 「こころ」 り手」への着目,
「芸術至上主義」の問い直しに
映画
9 「こころ」
おいた。以下,教材研究と先行研究の検討をふま
10
11 「日の名残り」 映画
「こころ」
「こころ」解説文
えて三観点の抽出意図を述べる。
解説文
12 イシグロ作品群 講演録 3.1.「信頼できない語り手」への着目
1 詩歌➀歌人の創意 創作短歌 学習者の実態をふまえた選書の基本的背景につ
作品紹介
➁本歌取りと本説 スピーチ いて説明しておく。小説「地獄変」の面白さは,
「山月記」⑵
読み手に先を読む楽しみを与える,新聞連載小説
芥川短編集/「地獄変」⑵
2 歌人の随想 インタビュー録 ならではの技巧にある。本格的な文学の鑑賞力を
評論「芸術を楽しむ」⑵ 高めていく高2段階にあって好適な文学テキスト
3 批評文 として選書した。
なかでも,回想型一人称小説の「信頼できない
代芸術の創作原理との比べ読みを通して良秀の創 語り手」4) への着目が学習者の創造的な読みを開
作原理の問題点にせまるための援用である。 くことに通ずると考えた。都合の良いことを都合
2.4.短歌を用いた小説の読解 の良いように語る語り手は,物語に綻びをつくり,
短歌の学習指導が中心となる3学期に,小説「地 「空所」を生み出す。その語りの綻びを見つけ,
「空
獄変」の再読に臨み,読解の成果を短歌創作で表 所」を学習者個々に「想像力を働かせることで,
す授業を構想した。小説の読解指導における短歌 首尾一貫したもうひとつの物語をつくりだす」
創作の有効性は青木(2002)に詳しく,手法を援 (前田,1993)生産的な読みを小説「地獄変」は
用することにした。 可能にすると考えた。
小説作品の読みのための短歌創作と,学習の目 以下,資料2「『地獄変』屏風制作に関わるプロッ
的は明確であるが,ひろく短歌を味わい短歌創作 ト案」を用いて,教材化にあたっての単元構想の
の楽しみを味わえるよう配慮して,学習指導は次 背景を説明する。
の(1)から(9)の流れでおこなった。 まず,資料2の(a)~
(d)は「
〈真相〉探しの
(1)指導者の創作短歌を用いた創意の説明 過程に読者を巻き込んでゆく小説技巧」(西山,
(2)プロの歌人の作品解釈 2014)が冴え,娘の出仕も焼死も大殿の懸想に起
(3)「山月記」を本説とした四行詩「詩の妄執」 因するという読みを誘発すると考えた。ここでは
(西原,2018)と藤原定家の歌論「詠歌大概」を 「噂」と「評判」を話題にしては否定する語りの
テキストにした本歌取りの意義と技法の説明 パターンの反復への気づきが「謎解き」の観点と
(4)自由短歌創作と並行して,既読教材「こころ」 なる。
「日の名残り」を本説とした本歌取り 篠崎(2017)は「説話に基づく物語内容に『謎』
(5)指導者による創作短歌の添削 の要素が加えられ,しかもその『謎』が『登場人
(6)短歌コンクールへの参加 物』の『内面』の提示によって解かれる構造」を
(7)カズオ・イシグロ作品群を本説とした本歌取り 特徴とする芥川初期王朝物の,語り手と読み手と
(8)芥川王朝物6短編を本説とした本歌取り3) の距離を問題視する。それは「『内面』は,その
(9)指導者による(7)
(8)の二次テキスト化と公 人物に焦点化する語りに依存し,それを信じるこ
開添削 とでしか把握できないものである」から「語り手

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読み深めのための発展的再読を促す学習指導の開発

の言うままをその人物の『内面』だと信じ,そこ し得た〈傑作〉などでは毛頭ないと主張する浅野
に感情移入するとすれば,それはただ『内面』を は,その根拠として「言語のフェティシズム」を
実体化するだけでなく,言葉の実体化を防ぐ仮の 挙げた。それに対して当時の芥川が「言語のあい
概念のはずだった『語り手』をも実体化すること まいさ,多義性に悩んで」「いかに言語の呪縛と
になる」
という危惧である。本実践で学習者に「信 格闘したかは,当時の書簡やエッセイなどからも
頼できない語り手」という概念を与えて「地獄変」 うかがえる」と作家論の立場から反論した関口
の語り手と出会わせるのは,実践者が同様の危惧 (2007)は,
「恍惚とした法悦の輝き」について
を共有し,批評するテキストとして小説「地獄変」 「良秀には〈芸術至上〉などという高尚な観念は
の価値を重視するためである。 ない。娘を奪った大殿への復讐が,地獄変屏風の
完成へのエネルギーとなった」との解釈を示し,
資料2 「地獄変」屏風制作に関わるプロット案 大殿の権威と闘う良秀と「文壇」の権威と闘う芥川
(a) 大殿の「御声がかり」で良秀の娘が小女房と とを重ねて論じた。解釈の前半の「芸術至上」を
して堀川邸に出仕[5章] 否定する点においては浅野と共通し,解釈が笠井
(b)大殿の「御云いつけ」で良秀の「地獄変」の の二類型には収まらない点も同じである。
制作開始[5章] 浅野は「芸術家の問題は,まず自己の選んだ表
(c)「地獄変」の制作中断: 良秀の懇願(『見たも 現方法とそれ自体を問い返す制作の内側の苦心と
のでなければ描けませぬ』)と大殿の受諾(『地 して存在する」ものであるのに,良秀には「制作
獄を見なければなるまいな』)[14章]
上の苦悩がない」上に,
「見たものでなければ描け」
(d)「地獄変」の制作再開:大殿による地獄の可視
ぬという「
〈創作原理〉がどのような過程をへて
化と良秀の凝視(「恍惚とした法悦の輝き」)
ゆるぎない芸術的信条にまでたどりついたのか,
と娘の焼死[16~19章]
(e)「地獄変」の制作完了[20章]
それを問いつめて読者の共感を誘う」こともない
(f) 良秀の縊死[20章] と喝破し,良秀を芸術家と呼ぶことへの注意を喚
(g)「地獄変」の永在( 「今では御家の重宝になっ 起する。この〈創作原理〉は,現実を現実以上に
ております」)[1章] 再現して見せようという写実主義への挑戦とは違
*[ ]内の章は語り手が当該の出来事を語る章 う。そしてここには,創作に必要な想像力の希求
がない。
3.2.「芸術至上主義」の問い直し 3.3.結末部の解釈
次に資料2の(d)「恍惚とした法悦の輝き」の 「恍惚とした法悦の輝き」の従来型見解に対す
解釈の多様性に言及する。良秀の「狂気」が冴え る浅野(1988)と関口(2007)の慎重な態度には,
るクライマックスである。「地獄の責苦に悩んで 語りそのままに父性や芸術に言及することへ留保
いたよう」だった良秀がなぜ「恍惚とした法悦の が想起される。
輝き」を浮かべるにいたったか。従来の解釈には, (d)の解釈は(f)の解釈に多分に関わっ
そして,
笠井(1993)の二類型を引用すると,芸術愛が父 ていることから,学習者から「芸術至上主義であ
性愛を超克したという読みと,人間良秀は娘と死 れば,娘亡き後も芸術のために生きるのではない
を共にし,芸術家良秀だけが後に残されたという か」との問いが生起することも想像される。
読みがある。 加えて,授業用テキスト付録の吉田精一氏の解
これらの解釈に対し,浅野(1988)はこのフレー 説も少なからず学習者の読みに影響を及ぼすこと
ズが塚本文宛書簡にも「戯作三昧」にも「沼地」 が考えられる。すなわち良秀の縊死は「人情の自
にも繰返し援用された「常套的な修辞のひとつ」 然に背いた行為への反省」という読みである。
にすぎないとして,「地獄変」発表前後の「痛々 そもそも「地獄変」には親の情も父性愛もない。
しい芸術家」としての芥川のイメージ戦略とあわ あったのは,良秀の,加えて大殿の,娘に対する
せて批判している。 一方的で独善的な偏愛である。己の生の一切の決
「地獄変」は芥川の〈芸術至上主義〉をよく形象 定権を持たず焼かれ死んだ娘は,二人の男の偏愛

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と狂気の果てに惨殺されたのであり,彼らのエゴ 題を想定していた。
イズムの犠牲者に他ならないのではないか。 前半単元の構想は次の通りである。パトロンと
お抱え画師という特別な力関係を冒頭部の読みか
4.後半単元の構想 ら理解させ主要登場人物の造型理解をはかり(第
資料3は以上の検討をふまえて構想した前・後 1次),クライマックスの小説技巧の理解をふま
半編成の単元の概要と3つの 考察 対象1~3を えて(第2次)
「山月記」のまとめ同様に「悲劇性」
示した見取り図である。 の創出という観点で作家の創意に迫らせ(第3
次),浅野(1988)と関口(2006)にもとづき「道
資料3 単元の概要と考察対象の見取り図 徳と芸術」という二項対立を用いない作品解釈の
〈前半〉単元:芥川「地獄変」を読む 可能性を求め(第4次)
,烏帽子をかぶった初老
実施時期:2017年6月(全5時間) の男性が語り手として描きこまれた漫画 a と,描
第1次 冒頭と結末を比べ読み,主人公良秀と大殿 きこまれていない漫画bを比べ読み,異なる表現
の造型,語り手による人物評価を読み取る。教科 形態において小説の語りを忠実に再現しようとし
書教材「芸術を楽しむ」の部分を取り立てて読ま た漫画bの表現手法に気づかせ,小説の語りの効
せ,近代芸術と照らし合わせて,平安時代の画師 果に気づかせる(第5次)。
とパトロンの特別な関係を理解させる。 前半単元の価値は,結末部の解釈,「信頼でき
第2次 娘と子猿の造型を読み,クライマックスの
ない語り手」への着目,
「芸術至上主義」の問い
演出技法を理解する。
直しのための手掛かりを与えたところにある。け
第3次 書き手の創意に着目し,小説「地獄変」の
悲劇性について考える。 れども,後の 考察1 で詳述するが,批判的な読
第4次 併読教材のプロの批評文を読み,「芸術至 みを促すための批評文指導は,モデル案の提示で
上主義」について考える。 は不十分である。そこで単元のまとめの批評文に
第5次 併読教材の漫画を分析し冒頭部における 取り組む前に取り入れたのが,短歌創作を用いた
「信頼できない語り手」の役割を解釈する。 小説読解という発展的再読である。
考察1 定期テスト(1)批評文 4.2.後半単元の評論「芸術を楽しむ」の再読部
〈後半〉単元:芥川短編小説群を読む 分と取り立てのねらい
実施時期:2018年1,2月(全4時間)
後半単元は,自ら選んだ芥川短編を本説とした
第1次 芥川の王朝物6短編を比べ読み,好きな
短歌創作とその交流(第1,2次)に始まり,芸
短編を本説とした短歌を創作する
術論を援用した「地獄変」の再読(第3次)を経
第2次 材を得た古典と6短編を比べ読み,芥川の
創意を読む。 て,条件付き創作短歌の創作と交流を通した読み
第3次 評論「芸術を楽しむ」の再読 深め(第4次)を考案した。
第4次 小説「地獄変」・「見たものでなければ描 第3次の教科書教材「芸術を楽しむ」の再読部
けぬ画師なれば」の付け句創作と相互交流 分にとりわけ次の2カ所への着目を促した。
考察2 条件付き創作短歌 「理想とは,現実を超えようとする意識が,言
考察3 定期テスト(2)批評文 うならば無の世界に打ち上げるイメージであっ
て,芸術制作とは無のイメージを現実たらしめる
後半の単元構想には前半の反省をふまえた修正 活動にほかならないが,作品の完成によって無が
を施した。以下,年度当初の見通しに言及し,何 有へ転じたとしても,芸術家は,現実を超えよう
をねらって後半単元の構想に修正を施したのかを とする理想追求の意識をなくしてしまうわけでは
説明し,再読のねらいを明らかにする。 ない。」「芸術家は,完成した作品を前にして,追
4.1.前半の積み残しをふまえた後半の構想 い求めた理想の美はこれだったのだなと確認す
年度当初のカリキュラム構想時には,前半単元 る。逆に言えば,理想の美を定着できたと確認で
のまとめに批評文のモデル案を示し,後半単元の きるときが作品完成のときなのだ。」
最終次には個々の「結末部の解釈」を批評する課 (明治書院「精選現代文B」,pp.84-85.)

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読み深めのための発展的再読を促す学習指導の開発

これらの部分再読を通して,良秀は「本朝第一 評文に取り組む前の言語活動として取り入れ,,
の画師」かもしれないが,執着があるというだけ 作品を再読する契機とした。
で「本物の」芸術家と呼んでいいのか,加えて,
作品は完成したといえるのか,という問いをみず 5.学習者反応分析をふまえた単元の検討
からに向けることを求めた。 ここからは,資料3の 考察1 ~ 考察3 の詳細
4.
3.
後半単元で良秀の創作原理を取り立てるね を説明し,学習者反応分析をふまえた前・後半単
らい 元の検討をおこなう。
第4次で良秀の創作原理を取り出して言語活動 5.1.考察1 批評文(1)クライマックスから読
を組み立てたねらいは,作品の悲劇性が既に主人 む作品の悲劇性
公の造型のなかにはらまれていることを,芸術家 前半単元の指導の成果は学習者の批評文にどの
としての限界に着目することによって気づかせる ようにあらわれたか。第3次終了時に,
「小説『地
ところにある。前半単元の,劇的なクライマック 獄変』の悲劇性について述べる」批評文課題を提
スに着目して作品の悲劇性を読む作業は与しやす 示し,まずは指導者の作成した批評文3案を示し
いが,娘の死だけが悲劇を創出しているのではな た。その後,前半単元終了後の定期テストで同じ
い。読み深めの方法として,良秀の創作原理「見 題で批評文を課した。
たものでなければ描けない」への着目は有効だと 5.1.1 批評文3案と第4・5次のつながり
考えた。大殿とのダイアローグ(15章)の中で発 3案A~Cはそれぞれ200字前後の批評文であ
せられた言葉であり,少なくとも二つの点で良秀 るが,ここでは相違点が分かりやすいように骨子
の愚かさが際立つ。ひとつに,良秀がみずから大 を示すにとどめる。なお,クライマックスの「娘
殿に弱点をつかませたことに気づかない点だ。そ の死」の意味を考えるところから作品の悲劇性に
のことに自覚的な大殿は「微笑」を浮かべて奸計 迫った点と,二人の男のエゴイズムの犠牲者とし
をめぐらす。もう一つは,画師としての価値に疑 ての娘の評価が3案の共通点である。
問符がついてしまう点だ。地獄を見せると約束し A案 良秀がなによりも芸術を優先する本物の芸
た大殿はその刹那,良秀を「さすが天下第一の画 術家であったこと,娘が美しかったこと,娘が
師」と誉めそやす。大殿の皮肉は,語り手が繰り 大殿に気に入られてしまったこと。そして娘が
返し言う「本朝第一の画師」なる表現も揶揄をこ 大殿を受け容れなかったこと,それらがすべて
めた良秀の蔑称であったかもしれない可能性を開 逃れ難い運命として娘の死へとつながる。
く。すなわち良秀が取るに足らない画師であるこ B案 良秀は芸術に執着し,大殿は権威に執着し
との遠回しの表現であって,つまるところ彼は「真 た。彼らの生きる世に生まれ落ちた時点で,彼
正の」画師ではないという解釈の可能性だ。 女の非業の死は運命付けられていた。
以上,「見たものでなければ描けない」という C案 愛娘が焼き殺される姿を本物の画師である
フレーズの取り立てが,本実践の三観点―結末部 良秀が描くことで,地獄変の屏風は至極の芸術
の解釈,
「信頼できない語り手」への着目,「芸術 へと完成した。大殿様の権威に対する執着と良
至上主義」の問い直しのために有効であることを 秀の芸術に対する執着が一致したことで,娘の
述べた。 死は逃れることのできない運命となった。
4.4.後半単元で付け句を取り入れるねらい 「良秀が本物の芸術家であった」(A案)ならび
指導者の提案する上の句「見たものでなければ に「地獄変の屏風は至極の芸術へと完成した」
(C
描けぬ画師なれば」に付け句を求めるというもの 案)は,続く第4次の浅野(1988)と関口(2007)
である。前述の短歌学習指導と短歌創作に楽しん の論稿を用いた「芸術至上主義」の問い直しおよ
で取り組む場づくりがあってはじめて可能となっ び作品の読み深めのための前振りである。第5次
た,短歌を用いた小説の読みの学習指導である。 は前述の通り,漫画という異なる表現形態におけ
批評文にはなかなかに与し得なかった学習者の る語り手の表現に着目を促して,小説の語り手へ
読みの表現手段として有効だと考え,まとめの批 の注意を喚起するねらいにもとづく。

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5.1.2 定期テストの学習者反応分析 「地獄変」の悲劇性についての批評文作成課題に


定期テストの「小説『地獄変』の悲劇性につい 無回答だった4型は45%の取り組みがあり,批評
て述べる」批評文課題に対する学習者反応は,以 文作成に比べて付け句の課題のほうが与しやす
下の1~4型にまとめられる。 かったことを示す。
学習者反応4類型(全157例中) 5.2.1 2
 型の読みの変化したところ・変化しな
1型 B + C 案の混合型 …78例 かったところ
2型 A 案採用型 …8例 以下,定期テストの批評文で良秀は「本物の画
3型 主人公の人間性と芸術性対比型 …35例 師」だと述べた2型の学習者反応にしぼって考察
4型 無回答 …36例 をおこない,指導の成果と課題を検証する。併読
最多の1型は,良秀の芸術性の有無,芸術家と テキストの理解と小説の再読による読み深めをと
しての良秀の判断を,慎重に回避したパターンで おして,
「本物の画師」といえない解釈も導き出
ある。 せたか否かを,解答にみてとりやすいと考えたた
2型は根拠なく良秀は「本物の画師」だと述べ めである。
るパターンである。 2型8名の内,6名が提出した付け句は以下の
3型は初発の感想にありがちな,父としての良 通りである。
秀と芸術家としての良秀の比較である。モデル案 Ⅰ見たものでなければ描けぬ画師なれば
をみずからの思考の揺さぶりのための素材として ①彼の理想は現実にあらず
用いなかったパターンである。 ②たどりつくのは画の道の果て
4型は無回答である。4分の1の学習者が解答 ③自己の芸術は描けず終い
を導き出せなかった。その理由のひとつとして, ④見て描きし画も心満たさず
芸術家としての限界について読み深めの学習指導 Ⅱ見たものでなければ描けぬ画師なれど
に積み残しがあったと考えた。同様の理由は,2 ⑤いまだに地獄変完成せず
型・3型にもあてはまる。慎重派の1型も,この ⑥見た現実は受け入れられぬか
点の読み深めの学習指導は必要である。 ①から④がⅠパターンの上の句を,⑤と⑥はⅡ
前述の通り,これらの学習者反応分析から分 パターンを選んで下の句を作成した。
かった1学期の積み残しをふまえ,後半単元の構 ①~③,⑤は三人称短歌で,併読テキスト「芸
想に修正を加えたのである。 術を楽しむ」の筆者,長谷川氏の視点で芸術家・
5.2.考察2 条件付き創作短歌 良秀を評価している。
「芸術制作とは無のイメー
良秀の創作原理「見たものでなければ描けませ ジを現実たらしめる活動にほかならない」のであ
ぬ」を次のⅠ~Ⅲの3通りの上の句にして付け句 るから,この文脈において良秀の画業は「芸術制
課題に取り組ませた。 作」とはとおい。①はそうした理解を「彼の理想
Ⅰ見たものでなければ描けぬ画師なれば は現実にはあらず」という下の句で表現した。②
Ⅱ見たものでなければ描けぬ画師なれど は芸術の道から外れた良秀を「たどりつくのは画
Ⅲ(自己アレンジ型) の道の果て」と表現し,⑤は小説「地獄変」の結
結果,付け句の取り組み状況を先の類型別にみ 末部に「追い求めた理想の美はこれだったのだな
ると,次のようになった。 と確認する」良秀の描写がないことに着目してお
1型 50人←78人(67%←100%) り,絵は出来上がったが芸術作品としては未完成
2型 6人←8人(75%←100%) だという解釈を「いまだに地獄変完成せず」と表
3型 21人←35人(60%←100%) した。敢えてⅡパターンを選んだのは,良秀への
4型 16人←36人(45%←0%) 批判を強めるための工夫ととらえられる。
1~3型については平均して6,7割が積極的 一方,④は一人称短歌的要素の強い短歌である。
に課題に臨めており,条件付き短歌創作への意欲 「見る」ことに執着する「心」は見たい素材を「見
度において3類型の間に大差はない。一方,小説 る」ことで満たされたが,結局娘を失うことになっ

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読み深めのための発展的再読を促す学習指導の開発

た父の「心」は満たされない。良秀への憐みと娘 資料4「二次テキストとして活用した条件付き
への同情・共感を表現しており,芸術家としての 創作短歌」は相互交流のために使用した授業資料
良秀の評価は見られない。⑥は二人称短歌で,⑤ である。学習者の付け句全93首からは「見たもの
と同じく良秀批判の色が強い。「見たものでなけ でなければ描けぬ画師なれば」という上の句の設
れば描け」ない良秀に,芸術家としての限界では 定の,三通りの解釈がみてとれた。学習者にわか
なく,拘りが強く自分勝手な画師の姿を読みとっ りやすいように資料は短歌30首にしぼってⅠ~Ⅲ
ている。そうした「性質」のせいで娘が非業の死 型順に,二次テキスト化した。
を遂げたという読みは,④と同様,1学期の読み a~cに示す。
上の句の三通りの解釈を,以下,
から変化はない。しかしながら,自らの拘りゆえ a 良秀の「見る」ことへの強い拘りと執着と欲
に愛娘を死に追いやった愚かな父批判と,結局誰 望への批判的読み:この解釈にもとづいた付け
も幸せにならなかった小説の結末部批判の歌とし 句には,総じて,クライマックスで娘が火に焼
て力強い。 かれるのを「見る」場面の取り立てと,良秀の
5.2.2.上の句の解釈 エキセントリックな気質が誰も幸せにしなかっ
結果,2型8名の半数(①~③,⑤)には,指 たという結末への評価が表れる。
導者の意図への理解が見られ,良秀の芸術家とし →資料4の1, 15~17, 22~25, 30〔9首〕
ての限界を読むという再読に与することができ b 良秀の創作原理に芸術家の限界ではなく,前
た。④と⑥を含むあとの半数への揺さぶりは,相 近代の芸術家の制約をみる読み:このタイプの
互交流のなかで仕掛けることとした。 付け句には評論「芸術を楽しむ」に対する学習

資料4 二次テキストとして活用した条件付き創作短歌
「地獄変」を本説とした短歌30首-評論「芸術を楽しむ」に照らした作品再読の試み
Ⅲ Ⅱ Ⅰ Ⅰ
畜生でございますからと言う娘哀れ良秀と地獄の業火に
地獄火よ燃やしてしまえ黒髪を!誰も救えぬ芸術なんて!
燃えてやるお前がお前をやめるまで俺を見つけろうみだせ俺を!
生燃やせど現ることない理想を描く者こそ画家となる

見たものでなければ描けぬ画師なれど
見たものでなければ描けぬ画師ゆえに

見たものでなければ描けぬ画師なれば
それでも未完か重なる悲劇
娘の地獄見たくなかた
目前で苦しむ娘は見えずか
見た現実は受け入れられぬか
見たものの真捉えられたか
見ても描けぬ地獄なるもの
画師と認めぬ人もありけり
それ以上には表現できぬ
胸の炎は絶えて灯らず
事実は見えねど執念現る
愛娘の死をも描かざるを得ず
娘を失う地獄を見たり
イデアの炎世に現れず
望む景色をそうぞうできず
近代の絵師に良秀なれず
畢竟未完の枇榔毛の車
追うこともせぬ理想的な美
殿を満たせど理想は描けず
彼の描く画は偽の芸術
真の芸術を描くにあたはず
たどりつくのは画の道の果て
現実超える芸術描けず
描けぬ語れぬ己のイデア
真の画師にはなれなかた
もとより地獄描けるはずなし
己の地獄も見ることとなる

30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

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松岡 礼子

者の読みが反映している。その結果,12は時代 を追い求めたポール・セザンヌの「サント・ビク
を嘆き良秀に憐憫を示す短歌となり,20は「画 トワール山」や〈女性なるもの〉を追い求めたダ・
師と認めぬ人」もいるようだと評論の筆者の考 ヴィンチの「モナ・リザ」と照らし合わせて良秀
えをまとめて自身の解釈は回避している。29は の「地獄変」を評し,芸術家としての限界を表そ
「誰も救えぬ芸術なんて」芸術とは言わないの うとした学習者の試みがみてとれる。
だと,みずからの芸術観を短歌に表した。いず 11と26は,「地獄変」は「未完」だという読み
れも併読テキストの評論と照らし合わせた作品 を提示し,1学期に良秀を「本物の画師」だと評
再読のあとがみてとれる。 し,地獄変は「完成した」という読みを選んだ2
→資料4の12, 20, 29〔3首〕 型(A案採用型)の学習者の読みに揺さぶりをか
c 「見たものでなければ描けぬ」画師という設 けるものである。
定に既に作品の悲劇性がはらまれているという 21のように,筆者の言わんとすることをみずか
読み:今回の学習で共有したい読みである。 らの言葉で概念化できるようになる「発展的再読」
→資料4の2~11, 13, 14, 18, 19, 21, 26~28〔18首〕 のあとがみてとれる短歌もあれば,11と26のよう
5.2.3 
短 歌を用いた小説「地獄変」の発展的再 に,「地獄変は完成したといえるのか,いえない
読の学習指導における可能性と課題 のか」という問いを掘り起こして「発展的再読」
主人公良秀の芸術家としての限界を,「見たも のあとを示す短歌もある。
のでなければ描けない」という具体的な表現のな 5.3. 考察3 批評文(2)学習者④と⑥の分析
かにみとめ,主人公の造型そのものに作品の悲劇 最後に,評論「芸術を楽しむ」の部分再読にも
性の胚胎をよむ,というねらいに照らせば,a9 とづいて小説「地獄変」の結末部を再読し「屏風
首の取り立ては一見不必要に思えるかもしれな は完成したか未完か」を問うたまとめの批評文課
い。彼らの作品には,義務教育課程から今日まで 題への学習者反応2例を考察する。対象者は,批
の短歌の学習指導のなかで培われてきた,短歌と 評文(1)の2型の2名で,創作短歌の付け句か
はみずからの感動の中心を表現するものだという
資料5 考察3 批評文(2)左④右⑥
考えがみてとれる。ゆえに,衝撃的なクライマッ
クスに心揺さぶられたみずからの読みから離れる
のは,短歌という表現形式を与える限り,難しい。
一方で,非業の死を遂げる娘への同情と,良秀の
怒りや批判は,「見る」という動詞が繰り返され
るたびに,偏執さ,欲望,自分勝手,といったイ
メージの増幅が図られ,これらの短歌はまさに「地
獄変」を本説とした本歌取りの短歌として仕上
がっている。
翻って,発展的再読がc18首のように一足飛び
にかなうわけではなく,aの学習者たちが初発の
感想を大切にしながら,そういう読みもあると読
みの幅を広げられるまでには,やはりまた別の仕
掛けと時間が必要である。
資料4の短歌30首を用いた相互交流では,次の
三首を取り上げて,学習者の感想を求めた。
21 見ても描けぬ地獄なるもの
11 畢竟未完の枇榔毛の車
26 それでも未完か重なる悲劇
21には評論「芸術を楽しむ」の〈山なるもの〉

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読み深めのための発展的再読を促す学習指導の開発

らもさらなる揺さぶりが必要と述べた女子学習者 うか」と結ぶ。
④と⑥である。 3)本稿では詳細に触れないが,芥川の王朝物6
④が良秀の芸術を問う読みにいたるのに対し, 短編からひとつ選出し,作品を本説とした本歌
⑥に見られるのは初読の読みの反復である。しか 取りに臨ませる課題で,テキストには短編集
し,良秀断罪型の読みへの拘りが女子学習者固有 (芥川,1968)を用いた。157名中109名が作歌を
の傾向なのだとしたら,それは今後「地獄変」享 提出した。なお,学習者が選んだ作品の内訳は
受を考える上での貴重な示唆を与えるものであ 以下の通りであり,既読教材の「地獄変」を選
り,看過できない。 出した学習者が62名と最も多かった。次いで「偸
盗」15首,
「藪の中」13首,
「往生絵巻」8首,
「竜」
6.まとめ 6首,「六の宮の姫君」5首であった。
本稿では発展的再読の意義を,手法として用い 4)デイヴィッド・ロッジ,柴田元幸・斎藤兆史
た短歌創作指導の成果の分析をとおして明らかに 訳(1997)小説の技巧,pp.210-215,白水社
した。一方で評価の問題について考察を深められ
なかった。小説「地獄変」の男女の読みの傾向把 引用参考文献
握も含め,この課題については別稿で論じること 青木雅一(2002)「小説教材における短歌創作の
とする。 指導」『学大国文』45,pp.93-109.
芥川龍之介(1968)地獄変・偸盗,新潮社.
注 浅野洋(1988)「地獄変」の限界-自足する語り,
1)「大阪毎日新聞」
(夕刊)1918年5月1日~21 文学,56(5),pp.37-53.
日(5日,16日休載),同年5月2日~22日(18 足立幸子(2010)「国語科教育における初読と再
日休載)
「東京日日新聞」
(夕刊)に連載。 読 : 物語の初読の過程解明を中心に」
『全国大
2)元全米国語教師協議会会長シェリダリン・ブ 学国語教育学会発表要旨集』118,pp.41-44.
ラウは著書『文学ワークショップ』において,授 笠 井 秋 生(1993) 芥 川 龍 之 介 作 品 研 究,pp.87-
業実践の結論として得られた知見として「再読」 102,双文社.
の生産性に言及した。読むことが固定されたも 佐々木幸綱編(1983)現代短歌,鑑賞日本現代文
のではなく,絶えず修正を繰り返しながら成り 学,第32巻,角川書店.
立つものだという指摘である(山元,2014)。再 「『芥川』をつくったメディア:
篠崎美生子(2014)
読は初読との関係において検討しなければなら 『大阪毎日新聞』の小説戦略」『恵泉女学園大学
ない。竜田(2011)はブラウが重視する読みの 紀要』26,pp.221-239.
プロセス-
「初読,再読,省察,話し合い」-に 篠崎美生子(2017)弱い「内面」の陥穽:芥川龍之介
言及し,誤読の可能性を多分にはらんだ初読の から見た日本近代文学,pp.15-16,翰林書房.
後に再読のプロセスへと誘う手立ての必要性を 関口安義(2007)世界文学としての芥川龍之介,
述べ,「初読の価値づけ・権威づけを通して再 pp.141-163,新日本出版社.
読を励ましていくような学習指導のあり方」を 田近洵一(2013)創造の〈読み〉新論:文学の〈読
示唆する。田近(2013)は初読(「通し読みの段 み〉の再生を求めて,東洋館出版社.
階」)と再読(「振り返り読みの段階」
)のそれ 竜田徹(2011)「再読を励ます読書教育の探究:
ぞれの〈読み〉のはたらきを明らかにすること 初読の価値づけ・権威づけを通して」広島大学
によって,「
〈読み〉の成立・深化の過程」を解 大学院教育学研究科国語文化教育学講座『論叢
明すべきだとする。足立(2010)は初読と再読 国語教育学』復刊2,pp.1-10.
の扱いの違いを問題視し,最終的に「初読の過 デイヴィッド・ロッジ,柴田元幸・斎藤兆史訳
程そのものを話し合い,初読の特徴を内観的に (1997)小説の技巧,pp.210-215,白水社.
明らかにしていくことの方が,初読の意味を学 西原大輔(2018)本詩取り,pp.183,七月堂.
習者に自覚させる学習に近づくのではないだろ :大阪毎日新聞の戦略,
西山康一(2014)「地獄変」

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松岡 礼子

宮坂覺編著『芥川龍之介と切支丹物:多声・交 前田愛(1993)増補文学テクスト入門,pp.186-
差・越境』pp.27-39,翰林書房. 187,筑摩書房.
長谷川宏(2007)高校生のための哲学入門,筑摩 山元隆春(2014)読者反応を核とした「読解力」
書房. 育成の足場づくり,pp.272-312,溪水社.

Development of Teaching to Encourage Rereading Deeply of Already Learned Material:


In the Case of “Jigokuhen” by Ryunosuke Akutagawa

by

Reiko MATSUOKA
High School Attached to Osaka Kyoiku University (Tennoji Campus)
(Graduate School of Education, Hiroshima University)

The purpose of this paper is to propose a design of teaching for encouraging students to reread texts
deeply by teaching reading closely Ryunosuke’s novel “Jigokuhen” based on a study of the teaching concept
and classroom practice. To understand the tragedy of Jigokuhen, the first half of learning process was
designed for focusing the setting, characterization, and the unreliable narrator. Then, the second half was for
approaching to the limit of Yoshihide’s abilities as an artist, reading an essay on art, and using the idea
Honkadori and Tsukeku to write Tanka and show their understandings of the tragedy of an artist. Through
the process, students learned to find the way of reading Jigokuhen deeply and the pleasure of literature.

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