You are on page 1of 85

安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊 もぐら通信

Mole Communication Magazine


2015年6月30日初版 第34号 www.abekobosplace.blogspot.jp

迷う あな
事の たへ
あな ない :
ただ
けの
迷路
を通 あこのもぐら通信を自由にあなたの「友達」に配付して下さい
番地 って
に届
きま

ドイツ語版『第四間氷期』

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信 ページ2
ページ2

ニュース&記録&掲示板

1。全集未収録の安部公房草稿『ぼくたちのための肖像画』に20万円の値が
夏目書房という書店のウエッブサイトに短文エッセイ『ぼくたちのための肖像画』が売りに
掛かっております。価格20万円。

ご興味のある方は、次のURLへ:

http://www.natsume-books.com/list_photo.php?id=204349

このエッセイについては、編集者通信にて、その解説を書きましたので、お読
み下さい。

2。難解な安部公房『箱男』を何回でも読みたくなる読み方【芥川奈於の「い
まさら文学」】
ネット上に、『箱男』についての面白い、そして的確な感想と紹介の文章をお書きに
なっている方がいらしたので、ご紹介します。
http://top.tsite.jp/news/o/24215281/

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信 ページ3
ページ3

「■では、その「箱男」の正体は?

ストーリーのはじめでは、「箱男」は紛れもなく元カメラマンの男であり、所謂「プチ世捨て
人」でもある。

しかし、読んでいくうちにその中身は次々と移り変わる。だが、本文としてのあらすじ、つま
り小説『箱男』(の記録)はどんどんと進んでいくのだ。あたかもひとりの人物が書き続けて
いるように。

結果、「箱男」とは、人物としては存在しない「とある視点」なのかもしれない。看護婦を観
ている視点、そして箱男という「何か」として見られる視点の関係性が重要なキーポイントに
なっていると考えれば、この作品をより理解できる。」

という上の引用の下線を施した箇所の理解は、全く安部公房の文学の世界の本質、即ち関係性、
即ち関数であることを言い当てています。

決して、難しい論を書いているのではなく、しかし、安部公房の文学を読む楽しさを平易な言
葉で、芥川さんは、読者に伝えてくれております。
http://top.tsite.jp/news/o/24215281/

3。第7回関西安部公房オフ会(略称KAP)の読書会の開催されます
(1)日時:7月18日(土) 午後1時ー5時
(2)開場:12時50分
(3)場所:京都市右京ふれあい文化会館 第二会議室
アクセス http://www.kyoto-ongeibun.jp/ukyo/map.php
地図 http://goo.gl/RXxyJ5
(4)課題図書:『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)
(5)主宰人:hirokd267(岡田)・w1allen(岡)
(6)内容:①自己紹介
②作品が書かれた背景やトピックなどの簡単な説明(岡)
③フリートーク
④発表する方歓迎。事前に連絡のこと
(7)二次会:会場:餃子の王将 花園店(予定)。費用 3000円以下。
http://www.ohsho.co.jp/shop/index.php?a=shop_detail&shop_id=19

4。第1回「安部公房のエッセイを読む会」が開催されます
(1)日時:7月週末土日または祝祭日に開催予定。詳細決まり次第ブログ「安部公
房の広場」にてお知らせします。
(2)場所:南大沢文化会館。京王線の相模線(調布で分岐)南大沢駅下車徒歩2
分。:http://www.hachiojibunka.or.jp/minami/
(3)課題図書:『没落の書』(全集第1巻、140ページ)
(4)参加のご連絡:eiya.iwata@gmail.com(岩田)まで
(5)費用:無料
(6)二次会:駅隣の焼き鳥屋「鍛冶屋文蔵」です。お一人3000円というところです。:
http://r.gnavi.co.jp/r5zkdjgg0000/menu6/
(7)その他:「十代の安部公房を読む会」が十代のエッセイと論文を読了しましたので、二
十代以降遺作『もぐら日記』までのエッセイを全 読み尽くす読書会となりま
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
した。資料のないかたはご連絡下さい。
もぐら通信
もぐら通信 ページ4
ページ4


目次

0 ニュース&記録&掲示板…page 2
1 目次…page 4
2 安部公房を巡る想い出(連載第3回):中田耕治…page 5
3 餓え:滝口健一郎…page 11
4 『箱男』論〜奉天の窓から8枚の写真を読み解く:岩田英哉…page 12
5 リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回):
『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の二つの詩のうちの
最初の詩『月夜』:岩田英哉…page 65
6 編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(1):提灯…page 76
7 編集後記…page 84
8 次号予告… page 84

・本誌の主な献呈送付先…page 85
・本誌の収蔵機関…page 85
・編集方針…page 85
・バックナンバー…page 85
・前号の訂正…page 85

お知らせ:PDFで閲覧しますので、ツールバーにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買っ
たジャンプ•シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプしま
す。そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信 ページ5
ページ5

安部公房を巡る想い出
(連載第3回)
中田耕治
2015/05/30(Sat) 1617

【13】

はじめて「近代文学」に荒正人を訪れたとき応対してくれた若い女性は、藤崎恵子だった。

「文化学院」の卒業生で、戦時中に人形劇団をやっていたという。はるか後年、画家になっ
た。同時に、フランスのジュモー人形のコレクターとして知られ、人形に関する著書もある。

私は、彼女と親しくなった。といっても、私より、二、三歳、年上で、頭の回転が早く、
きびきびしていた。だから、私にとっては姉のような存在といってよかった。

私はいつも背広を着ていたから、外からみれば、いちおう中流の生活環境にいたように見
えたに違いない。
実際には、すさまじい貧乏で、本を買うためにその日の食事をぬくような状態だった。

荒正人に会ってすぐに、埴谷雄高に会った。
はじめて会ったときの印象はあざやかに残っている。当時、36歳だった埴谷さんは、長
身で、グレイの服に、オイスター・ホワイトのヴェストを着ていた。はじめて紹介されたと
き、演劇人かと思った。誰かに似ていると思った。このときは、誰に似ているか思い出さな
かった。

その日、「近代文学」の人びとは、発表されたばかりの坂口安吾の「白痴」を論じあった。
私も飛び入りで、この人たちの、めざましい、生彩あふれる批評に加わった。私も、いろい
ろと発言したが、どんなことを話したのか。
平野さんが、坂口安吾と、ある女流作家の恋愛にふれたことはおぼえている。
私は、すぐれた批評家たちの発言を聞きもらすまいとしていたが、この人たちの話をじか
に聞くことができる幸福感にあふれていた。生意気にも、この人たちに認められたいという
思いから、できるだけ正直に自分の読後感を述べたのだった。

2015/06/04(Thu) 1618

【14】

戦後の一時期ほど、さまざまな議論が沸騰し、誰もがお互いに夢中になって語りあった時
代はない。昨日まで、お互いに知らなかった人たちが、百年の知己のように生き生きとした
会話をかわし、討論したり論争したり、ときには酒の勢いもあって殴りあいになったりした
ものだった。
私なども、武田泰淳に首をしめられ失神しそうになったことがある。
もぐら通信
もぐら通信 ページ6
ページ6

1946年、妹が就職したため、我が家の経済状態はいくらか楽になった。ある日、妹が新
しい服を買ったので、それまで着ていた服を私に譲ってくれた。ブルーの背広だったが、裏
地が赤のベンベルグだった。妹はあたらしいパンプスも買ったので、それまではいていた平
底の靴を私にくれた。女ものなので気がひけたが、私はこの服と靴で押し通した。
ある日、「近代文学」のあつまりが、中野の「モナミ」であった。その帰り、私は野間
宏といっしょにプラットフォームで電車を待っていた。いつものように文学論をかわしてい
たのだろう。
野間さんが、私の足元に目をおとした。不思議なものを見たような表情になっている。
私が女もののパンプスをはいていることに、始めて気がついたのだった。
野間さんは黙って見ていた。顔から火が出るような思いだったが、私は黙って立っていた。

「きみは、いい靴をはいているね」
と、野間さんがいった。
「妹からもらいました」
野間さんの口もとが、数秒たってゆっくり左にあがった。これが野間さんの微笑だった。
それだけで、あとは何もいわなかった。

裏地があざやかな赤で、胴がキュッとしまっているブルーのジャケット、履いているのが
女もののパンプス。まさか野間さんが、私を女装趣味(トランスヴェスタイト)と見たはず
はない。
ただ、そんな私を見て、ひとりだけ気がついた人がいる。

「時事新報」の記者で、小説を書いていた鈴木重雄だった。私より、一世代上の先輩で、
「三田文学」出身、私小説を書いていた。作家としては大成しなかったが、戦争中、白いウー
ルのセーターに派手なネクタイを巻いて銀座を歩くようなダンデイーだった。夫人は、「ムー
ラン・ルージュ」出身で、のちに「日本の悲劇」などで名女優といわれた望月優子。
私が、しょっちゅう有楽町の「時事新報」に行っては、近くの喫茶店で椎野と話をしたり、
ときにはいっしょに芝居を見に行くので、疑ったのかも知れない。
「中田君、きみって、コレじゃないの?」
片手をあげて、手のウラで口を隠す仕種だった。私は鈴木重雄が何をいっているのか、そ
のしぐさがよくわからなかった。
鈴木重雄は、図星をさされた私がトボけて、知らぬ顔をして見せたと思ったのか。鈴木
重雄はニヤニヤしていた。

それからしばらくして、私は、「劇作」の集まりに出た。ここで、はじめて、「劇作」の
同人たち、とくに内村直也先生と親しくなったが、この席に、鈴木八郎がいた。
彼は完全なホモセクシュアルで、劇作家志望だった。私は、鈴木八郎と親しくなってから、
はじめてゲイについて知ったのだった。

ブルーのジャケットに女もののパンプス。
こわいもの知らずで、先輩たちの議論にとび込んで、いっぱしに文学論を戦わす。この頃
の私は鼻もちならない、生意気な文学少年だったと思う。今の私は、先輩の批評家たちを相
手に、とくとくと昭和初期の作家を語っていた「中田耕治」を思い出すと、はげしい嫌悪を
おぼえる。というより、恥ずかしさのあまり、ワーッと叫びたい気分になる。
もぐら通信
もぐら通信 ページ7
ページ7

2015/06/11(Thu) 1619

【15】

戦時中からかなり多数の本を読んでいた。「文芸科」の科長だった山本有三先生が、蔵書の
一部を川崎の工場に寄贈したため、私たちは本を読むことに不自由しなかった。戦後は、山
王の立花忠保さんの書斎にいりびたって、手あたり次第に読みつづけた。忠保さんの書庫に
は、戦前の映画雑誌がたくさんあって、私はその全部を読破した。そればかりか、忠保さん
のレコードを聞いて音楽に親しむこともできた。

立花忠保さんは、京大に在籍中だったが、肺結核の療養のために休学していた。戦時中、
古書も払底していた時期に自分の蔵書を開放して、隣組や近所の人たちが自由に利用できる
ようにしてくれた。利用者は少なかったと思われるが、私は毎日のようにこの書庫に通った。

おもに文学書が並んでいたが、戦前の古い映画雑誌、「スター」などがそろっていた。私
はこの雑誌を全部読んだ。
見たことのない映画ばかりだったが、多数のスターのグラビアを見るだけでも楽しかった。
その中に、植草甚一、双葉十三郎などの訳で、アリメカの短編小説や、飯島正の訳で、フラ
ンスの短編小説や、映画の紹介などが掲載されている。とにかく何でも読んだのだった。
少年時代の私は、立花忠保さんの蔵書にじつに多くを負っている。いま思い出して感謝の
ことばもない。

こうした「修行」apprenticeship があったおかげで、「近代文学」の人
びとの話題にも、なんとかついてゆくことができたのだった。
あるとき、私がうっかり昭和初期の作家も読んでいるといったとき、平野謙が、疑わしそ
うな顔をして、
「きみは、プロレタリア文学のものまで読んでいたの?」
と訊いた。
私の年齢の少年が、戦時中にプロレタリア文学を読んでいるはずはない。そう思うのが自
然だろう。しかし、中学生の私は、「三省堂」の書棚で「新興芸術派叢書」を見つけて、1
冊づつ買って読んでいた。(1943年には、「三省堂」でさえ、新刊書が極度にすくなく
なって、書棚に空きが見えるようになった。そのため、倉庫に残っていた本を並べたらし
い。)
私がなんとか金を工面して、一方で堀辰雄や、津村信夫を読みながら、同時に、片岡鉄兵
や、前田河広一郎などを読んでいたことは偽りではない。

むろん、中学生の知識で、プロレタリア文学を理解していたなどとはいえない。それでも、
「空想家とシナリオ」や「鶏飼いのコミュニスト」なども、古雑誌で読んでいた。
空襲がひどくなってから、あわてて疎開する人がふえた。運ぶ荷物が多すぎて、蔵書や、
古雑誌などが路傍に投げ出されていることもあった。たちまち、通行人がむらがって、勝手
に選びだして持ち去るのだが、そんな古雑誌に戦前のプロレタリア文学作品が掲載されてい
ても不思議ではない。ただし、伏せ字が多かったけれど。

ほんの少しばかり、昭和初期の作品を知っていたからといって、平野さんが、私に一目を
置いたなどということはない。ただ、戦時中にプロレタリア文学を読んでいた中学生がいた
ことに驚いたようだった。
もぐら通信
もぐら通信 ページ8
ページ8

ある日、今では何を話したのかほとんどおぼえていないのだが、丹羽文雄の「海戦」(1
943年)が話題になった。荒さんたちは、丹羽文雄が戦争に協力した作家と見ていたが、
私は、戦時中のドキュメンタリーとしては出色のものと見ていた。この作品に見られる文壇
作家としての反省めいたものは、まったく不要で、これがノン・フィクション(当時は、こ
んなことばもなかった)としての力を弱めていると見た。
私の意見は、たちまち反論をうけて、すごすごと引きさがるしかなかったが、「近代文学」
の人びとの話を聞くことが、どんなに有効な文学修行になったことか。どんな話も、私にとっ
ては有益だったからである。

「近代文学」の人びとは、編集会議を終えたあと、すぐに雑談に入るのだが、そのときの
話に、安部君も私も加わることが多かった。話題は、文学にかぎらず、宇宙論からデモノロ
ギー、社会の動きから、個々の雑誌の作品の月旦、はてはゴシップまで、かぎりなくひろがっ
てゆく。

埴谷雄高の発言は、いつも驚くほど犀利で正確だった。「死霊」の難解さに驚いていた私
は、いろいろな座談での埴谷さんの発言が、高度な内容をもちながらもやさしく語られるこ
とに驚いたものだった。いろいろな人のウワサが出ても、それはいつも人情の機微をわきま
えたもので、埴谷さんの個性が聞き手におよぼす直接的な効果は大きかった。

2015/06/14(Sun) 1620

【16】

「近代文学」が、戦後のジャーナリズムの中心の一つになったため、同人たち、とくに荒
正人に原稿を依頼する人たちが、ひっきりなしにやってくる。「近代文学」の応接室がいっ
ぱいなので、駿河台下の「きゃんどる」という喫茶店が、文学者のたまり場になった。

ある日、「近代文学」の人びとが「きゃんどる」に集まっていた。
そこに、1人の作家が入ってきた。青い外套を着て、胸もとにフランス語の原書をはさん
でいる。驚いたことに、素足で、底のすりへった下駄を履いている。
「きゃんどる」は、客が七、八人も入ればいっぱいになる狭い店で、隅にちぢこまってい
る私の横に、その作家が腰をおろした。

佐々木基一さんが立って、挨拶した。その作家は、かるく会釈しただけで、コーヒーを注
文すると、ふところにはさんだ原書を左手にもって読みはじめた。

フランス語はおろか、英語も読めなかった私だが、この作家が何を読んでいるのか好奇心
にかられた。せめて本の題名だけでも知りたいと思って、横目使いで見たが、わからなかっ
た。
そのうちに、「近代文学」のひとたちの話題が、何かのことにおよんだ。誰も知らないこ
とで、ちょっと沈黙がながれた。
と、その作家が、本を読む手をやすめず、
「それは、太田南畝の……に出てきますよ。……版の……ページですが」
といった。

この作家が石川淳だった。
もぐら通信
もぐら通信 ページ9
ページ9

私は、石川淳の博識に驚いたが、そのとき、彼が読んでいたのが、アナトール・フランス
の「ペンギンの島」だったことにもっと驚いた。フランスの小説をいとも気楽に読みこなす
作家がいる。これが、私にショックをあたえた。

「きゃんどる」の思い出も多いのだが、やがて「近代文学」の編集室が、「文化学院」か
ら駿河台下、「昭森社」の一室に移ったため、戦後派の人びとも、「ラムポオ」に集まるよ
うになった。

2015/06/21(Sun) 1621

【17】

1947年。まだ春も浅い頃。

その日も、「近代文学」に行くつもりで、ゆるやかな坂を歩いて行くと、たまたま埴谷雄
高が若い青年と一緒に外に出てきた。
「やあ、中田君」
埴谷さんが声をかけてきた。
「きみに紹介しておこう。安部公房君。いい小説を書いている」
つれの青年に、
「これが中田耕治君。批評を書いている」
安部公房と私の出会いだった。

この坂は、ポプラ並木が続いている。戦後の記憶が、遠くはるかな霧のなかに沈んでしまっ
た今でも、あのポプラの木の下で安部君と出会ったときの光景は心に残っている。

埴谷さんが、安部君と私をつれて行った店は、安普請の喫茶店で、レコードのバック・
ミュージックが流れていた。
お茶の水界隈で、いちばん早く開業した喫茶店だが、名前はおぼえていない。その後、こ
の店は、何度か名前を変えた。しばらくは、女子学生相手のみつ豆専門の和風喫茶だったり、
有名なドーナツのチェーン店になったり、さらに大規模なパンとコーヒー専門のカフェになっ
たりした。

そのときの話で、安部公房が、評論家の阿部六郎の紹介で、埴谷さんに会いにきたことを
知った。私は、安部公房が、阿部六郎の推輓で、埴谷さんに会いにきたと知って大きな興味
をもった。むろん、理由はある。

戦時中の私は、ただひたすら小林秀雄のエピゴーネンだったといっていい。ただし、小林
につづく世代の批評家のものもかなり読んでいた。
たとえば、阿部六郎、杉山英樹、丸山静、小松伸六。

杉山英樹は「近代文学」の人々とも親しかった批評家だが、惜しいかな、戦後すぐに夭折
した。戦後の丸山静は、一、二度、「近代文学」にも書いたひとだが、左翼の批評家。戦時
中に書いた「ジュリアン・デュヴィヴィエ論」は、若き日の佐々木基一、福永武彦の映画批
評とともに私の心に刻まれている。
もぐら通信
もぐら通信 ページ10
ページ10

阿部六郎は、シェストフの「悲劇の哲学」(河上徹太郎共訳)で知られている。
私は、「地霊の顔」で、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、
「ウェージマ」という地霊、魔女について教えられた。後年、私が「ゴーゴリ論」を書いた
原点は、この「地霊の顔」にあったと自分では思っている。むろん、影響をうけたとまでは
いわない。
この人の兄にあたる阿部次郎の「生い立ちの記」や、「学生と語る」といった著作に、私
はまったく心を動かされなかったが、それに較べれば、阿部六郎の「地霊の顔」のほうが主
題的にもずっとおもしろかった。そんな程度のことだったかも知れない。

しばらく話をしているうちに、阿部六郎とそれほど親しいわけではなく、ただ、高校で阿
部六郎の著作を読んだことがあるだけという。

安部公房と友だちになって、私にとって人生は、かなり楽しいものになった。生まれては
じめて、まぎれもない詩人を見つけたのだった。

作家志望者を友人にもつのは初めてではなかった。作家志望者なら文芸科の学生たちに、
いくらでもいた。しかし、安部公房には、驚くべき知力と、しかも、優しさとデリカシーが
あって、いっしょにいるのが楽しかった。
その知性には――なんというか、強靱な伸長力のある鋼鉄のようなものがあって、それは
私のもたないものだった。私は、当時の安部公房に、「戦後」という時代にこそふさわしい、
わかわかしい生命力、はげしい意欲を見ていた。

ただし、彼と私ははじめから違っていた。彼は天才だったが、私はただの文学青年だった
から。
お互いの関心もまるで違っていた。
安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学にまったく関心がなかった。私は、
中学生のときに久保田万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、
雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。それで、お互いの違いから
いろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

いろいろな話題が出た。私は、埴谷さんが上手に話をふってくれるので、カレル・チャペ
クの戯曲の話をしたことをおぼえている。安部君は、リルケのことを話した。埴谷さんは、
私と安部君が、お互いに仲よくなればいい、と思っていたようだった。

この日から、私は、毎日のように、安部公房と会って、お互いに語りあうようになった。
私にとっては「近代文学」以外に、はじめて知りあった仲間だった。
もぐら通信
もぐら通信 ページ11
ページ11

餓え

滝口健一郎
食い物を買う金が乏しい。「餓えなければ…」と『もぐら通信/第32号』に書いたら最近
徹底して餓えだした。
『カンガルー・ノート』(1991)男の脛からカイワレ大根が密生しだす…この不気味な小
説を読んで以来、カイワレ大根が食えなくなった。スーパーに見つけるのだが、ついつい
目をそらしてしまっていた。ここのところの飢餓状態。まとまった野菜を買う金がない。
2パック¥68(消費税抜き)の カイワレ大根を購入。なんとか野菜を摂取。あれだけ嫌っ
ていたカイワレ大根に救われるとは……。
餓えても、書ければいいのだが…仕事にかまけて、安部公房思考はすえ置きだった。おぼ
ろげに感じとっていた食い物の乏しさから来る飢餓ではない、たぶん精神部分の欠乏の意
識。それは、ABE言語を体内にいれていないことによる禁断症状なのかもしれない。仕事が
ひと段落してから「ABE言語世界」へ入っていく!と思っていても…2週間が経ち…気がつ
くと、次の仕事に追い詰められている……書く間がない?
岩田さんは、毎日、合間をみつけて書き進めているようだ。そう、仕事がひと段落してか
らではなく、仕事と同時進行のなかに書いていくしかない。
評論集『砂漠の思想』(1965)の帯に書かれていたように、「複眼の思考」が必要とされ
ているのではないでしょうか。仕事の合間に書き、引越しをひかえた荷物の整理の合間に
書き、ABE言語思考は日々絶やさず続行し…というように、多元的複眼のマナコで同時進行
的に思考し行動をおこしていかなくてはならない。
「きみ、飢えの入り口にはいったところだよ」 「焼けつくような…そして、憎悪の牙を剥
くような…」安部公房の幻の声が飢餓の隙間を狙って忍びこんでくる…はじまったばかり
…先に待ちかまえている強烈な「飢餓」…これからだ…という希望…「飢餓をいやという
ほど味わわなければホンモノにはなれないな」
西武新宿線・車内の律動のなかで『啞のむすめ』(1949)を読む。餓えたつむじ風と啞の
少女の不思議なおとぎばなし…『壁』(1951)以前、安部公房が餓えていた時代に書かれた
作品には透明感と優しさと残酷な味わいが…。
いつまでつづくのか…餓えの予感。精神も肉体も餓えたなかに未読の安部公房初期作品を
読み込んでいこう……。
もぐら通信
もぐら通信 ページ12
ページ12

『箱男』論
〜奉天の窓から8枚の写真を読み解く〜

岩田英哉

藝術家は常に新しい形を創造しなければならない。だが、彼に重要なのは
新しい形ではなく、新しい形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密
の闇黒(あんこく)である。

小林秀雄『様々なる意匠』

目次

1。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則って『箱男』の地図を描いてみる
2。奉天の窓から『箱男』の8枚の写真を読み解く
3。個別の章を読み解いてみる
3。1 贋魚の章(第8章)『《それから何度かぼくは居眠りをした》』を読み解く
3。2 第9章『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上か
ら投げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付しておく》』を読み解

*****

1。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則って『箱男』の地図を描いてみる

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で、安部公房の奉天の窓を解析して明らかにした
通り、安部公房が夜の中で[註1]、「座標なくして判断」しようとするために[註2]、真っ
暗な宇宙に浮かんで天地無く前後左右のない状態で、自分の孤独な存在の部屋の中にいて、
存在の十字路に立って、そうして執り行うシャーマン(祈祷師)安部公房の闇黒(あんこく)
の秘密の、秘儀の式次第は、次の通りでありました。

[註1]
安部公房20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』に次の言葉があります(全集第1巻、104ページ)。

「夜はまねかれた客人ではない。夜は此の部屋に満ちる空気である。総てをかくあらしめるもの、それが夜であ
る。此の吾等の判断も、表現も、生も、行為も、幻想も、総てそれがある如くあらしめるもの、それが夜なので
ある。解釈学的体験、-----次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねが
う為に此の余白を用意したのだ)
……………………………………
……………………………………
……………………………………

そして人間の在り方は正に数行の余白によって明確に示されるのだ。夜はかくあらしめるものであった。」
(全集第1巻、112ページ下段)
もぐら通信
もぐら通信 ページ13
ページ13

[註2]
安部公房18歳の論文『問題下降に拠る肯定の批判ー是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光であるー』に次の言葉
がある(全集第1巻、11ページ)。

「では此の事---真理の認識---は不可能なのだろうか。しかし此処に新しい問題下降---一体座標なくして判断
は有り得ないものだろうか。これこそ雲間より洩れくる一条の光なのである。」(全集第1巻、12ページ上
段)原文は傍線は傍点。

ここで言う座標軸のない判断とは、上の[註1]で安部公房の言っている解釈学的体験を言っている。

1。差異(十字路)という神聖な場所を設けて、
2。その差異に向かって、また其の差異で呪文を唱えて、
3。その差異に、存在を招来し、
4。主人公と読者のために、存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を存在の十字路
(差異)に立て、または案内人か案内書を配し、
5。存在を褒め称え、荘厳(しょうごん)して、
6。最後に、次の存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を立てる。

という、このような、安部公房の秘儀の式次第でありました。

安部公房の読者が、安部公房の作品を読むための便覧として役立つように、もう少し簡略に
してお伝えすると、

1。差異を設ける。
2。呪文を唱える。
3。存在を招来する。
4。存在への立て札を立てる。
5。存在を荘厳(しょうごん)する。
6。次の存在への立て札を立てる。

ということになります。

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)でみましたよう
に、安部公房の人生の表通りにある主要な作品は、すべて此の秘儀の式次第の通りになって
おりました。

『箱男』も同様に作られていたことは、そこで説明をした通りです。

このことを前提にして8枚の写真を読み解くという本題に入る前に、『箱男』という作品の
全体をみておきたいと思います。その後で、8枚の写真を論じたい。

『安部公房との対話』というナンシー・S・ハーディンとの対談があります(全集第24巻、
472ページ)。ここで、安部公房は、後述するように『箱男』の8枚の写真の意味を問わ
れて、解説をしています。この対談は1973年。安部公房49歳。『箱男』刊行の後の対
談です。以下に引用して、読者の理解に供します。傍線筆者。
もぐら通信
もぐら通信 ページ14
ページ14

「安部 『箱男』が型破りの小説であることはまさにそのとおりだと思います。独特の構造
を持っていますから。トリックもたくさん仕掛けてあります。しかし、それらが理解される
とは考えられないな。たとえ注意深い読者であってもね。
――どういうことですか。
安部 大ざっぱにいって、『箱男』はサスペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造なので
す。
――『燃えつきた地図』や『他人の顔』がそうであるのと同じ意味ですか。
安部 ええ。でもこっちのほうが極端です。あの小説を書いている男は罪を犯した男ですか
ら、したがってぼくがあの小説を書くためにその罪を犯したことになると思います。でもあ
の男の正体はだれにもわかりません。ぼくが『箱男』の中で読者に伝えようとしたのは、箱
の中に住むことはどういうことなのかと考えてもらうことでした。もしだれかが自分で箱を
作りたいと思ったときのために、箱の組み立て方まで説明してあります。
(略)」

この安部公房の発言に鑑みて、わたしたち読者がこの作品を読むことができれば、或いは本
当に理解して読むということになるには、

この小説の、

1。独特の構造
2。たくさん仕掛けられているトリック

この二つを読み解くことになります。

安部公房は、この小説は、「スペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造」と言っておりま
すので、特に後者の、即ち探偵小説の構造と聞けば、奉天の中学生のとき以来安部公房が大
好きであるエドガー・アラン・ポーの探偵小説を連想することは、わたしたち読者にとって
は、自然なことです。

ポーは、一体どうやって探偵小説を作ったのか。

この答えは、ポーの『詩の原理』という詩論があって、自分は一体どういう順序で『大鴉』
という詩を書いたかということの理屈を説明しております。勿論、これは、本当にこの順序
で書いたのかどうかとはまた別のことです。大事なことは、そのような理論立った考えで創
作したと言っていることなのです。

即ち、『大鴉』という詩は、最初に結末を決め、それを逆算して、最初に戻って、その間の
連を、nevermoreという言葉の効果だけを狙って書いたということを、ポーは書いております。
そうして、確かに、そのようにして此の詩を書いたのでありましょう。何故ならば、ポーの
創始した探偵小説という文学領域の、その最初の作品『モルグ街の殺人』も同じ作り方がな
されておりますから。

即ち、最初にパリの集合住宅の4階での密室殺人という不可能犯罪を置き、それが如何に可
能であり得るかということ次に考え、あらゆる連想と論理の鎖を繋いで、その犯人を決め(た
とえ犯人がどのような犯人になろうとも)、そのための状況と話しの筋と配役の設定をして、
その物語を創造するという順序で、この探偵小説を作ったのです。即ち、読者に奇想天外な
もぐら通信
もぐら通信 ページ15
ページ15

謎解きの楽しみを味わうように作ったわけです。

安部公房は、この『モルグ街の殺人』という探偵小説がとても好きだったに違いありません。
[註3]何故ならば、犯人は、奉天の窓から自分の部屋に出入りした安部公房と同じように、
楽々と窓から出入りをするからです。そうして、この作品の冒頭のエピグラフもまた、全く
安部公房好みなのであり、『無名詩集』のエピグラフ、即ち「私の真理を害ふのは常に名前
だつた -読人不知-」に全く通じているからです。[註4]

[註3]
同じナンシー・S・ハーディンとの対談で、安部公房は、自分はポーがとても好きだということを次のように語っ
ています(全集第24巻、474~476ページ)。

「安部 ルイス・キャロルはとても好きです。エドガー・アラン・ポーの次ぐらいに。
(略)
安部 ポーは、ぼくに書こうという気を起こさせた最初の作家でした。十五歳ごろのことです。これは普通は
人に話したりしないのですが、ぼくは満州生まれで、そこは冬がとてもきびしいところでした。学校にいっても
非常に寒いので、休み時間も教室にいなければならなかった。そこでぼくは自分が読んだポーの短編の内容を級
友に話してやったのです。体面を保つには一日一編は読まなければならない。そのうちその翻訳も全部読んでし
まったけれど、話を聞かせろという要求は続いた。そこでその寒い冬のあいだ中、自分で話を作らなければなら
なかったのです。それが他人を喜ばせることができる物語を書きはじめた最初でした。」

また『安部公房の変形能力2:エドガー・アラン・ポー』(もぐら通信第4号)で、ポーと安部公房の文学概念
である仮説設定の文学、即ち積算の文学という文学概念の詳細を論じましたので、お読みください。

[註4]
「サイレーンがどんな歌を歌ったか、またアキリースが女たちの間に身を隠したときどんな名を名のったかは、
難問ではあるが、みなみな推量しかねることではない。
トマス・ブラウン卿」
(佐々木直次郎訳。http://www.aozora.gr.jp/cards/000094/files/605_20934.html)

さて、そうだとして、『箱男』の結末は一体どのような結末であるのでしょうか。

勿論、安部公房のことですから、冒頭に掲げた式次第に従って、作品は、最後に存在に対し
て開かれて終わりますが、しかし、次の次元への上位接続の立て札を立てるだけの終わりと
いうことにできない終わり、即ち再(ま)たの始まりが始まり終わり、終わり始まるわけで
すが、この循環構造の結末を考えるときに、当初安部公房が少し躊躇したことが、次の小松
左京との対談で判ります。

「小松 ところで次は何を書くの?『箱男』書いて、『愛の眼鏡は色ガラス』を書いてさ。
安部 次か……、何を書こうかな。
小松 『箱女』というのを書いて『箱男』と結婚させたらどうだい?(笑い)
安部 初めねえ……(いいかけて)やめとこう。後で後悔するからな。それより、小松君
の『日本沈没』。(略)」
(『日本文化の根源を考える』全集第24巻、401ページ。1973年7月20日付)

安部公房は「初め」にどういう結末にしようとしたものか、ハッピー・エンドにしようとし
たものか。しかし、結局、いつもの安部公房らしい結末になった。

さて、それでは、わたしたち読者には、この『箱男』という密室殺人事件を取り扱った探偵
小説の犯人を推理するために、その幾つも仕掛けられたトリックを見つけて、真犯人に至る
もぐら通信
もぐら通信 ページ16
ページ16

には、どのような手立てが許されているのでしょうか。以下、備忘のようにして、この作品
のトリックを見抜くための手掛かりを、上に引用したナンシー・S・ハーディンとの対談での
安部公房の言葉に従って、まづ論理的に列挙してみましょう。

(1)手掛かり1
①トリックもたくさん仕掛けてある。たとえ注意深い読者にもわからないように。
②探偵小説と同じ構造である。

(2)手掛かり2
安部公房の小説作法は、冒頭に差異の時空間を設けて、呪文を唱えて、その差異に存在を呼
び出すことである。

存在の方向への案内人及び案内書(ガイドブック)は、この場合は、前者は予め失踪した者
である箱男自身であり、後者はその箱男という案内人の書いた箱男になるための箱の製作マ
ニュアル(案内書)である。

(3)手掛かり3
存在の十字路に次の五者が立っている。②の作者も(1)と(2)とふた色あるので、この
二種類の作者を勘定すると七者といってもよい。しかし、③話者以下⑤読者までもが人間と
しては作者と同じ此のふた色であると考えれば、全部で九者になる。言語によって小説を書
く安部公房の意識の在り方は、安部公房の②の考えによって、次のようになるでしょう。

①存在:即ち箱である。汎神論的な箱である。箱は幾つもあり、複数の箱男たちは、
この複数の存在を出たり入ったりする。
②作者:
(1)安部公房という名前で呼ばれる実存、即ち小説の中では箱男という主人公足
り得る作者
(2)安部公房という名前の無い、無名の本質(関係、関数)であるsubject(主
体、主観)としての私、存在に棲む未分化の実存である「安部公房」[註5]
③話者:話者も、ノート(手記)の種類の数だけ複数いるように読むことができる。
そうして、話者も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更
に作者の(1)と(2)に相当する、一人の話者に二つの話者の在り方
を考えることができる。
④主人公:複数の箱男がいる。
そうして、主人公も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更に
作者の(1)と(2)に相当する、一人の主人公に二つの主人公の在り方を考え
ることができる。
⑤読者:読者も全くひとそれぞれである。
そうして、読者も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更に作
者の(1)と(2)に相当する、一人の読者に二つの読者の在り方を考えること
ができる。

[註5]
成城高校時代の親しき、哲学談義を交わした友、中埜肇が次のような安部公房の姿を書き残しております。

「たしか高校二年の夏休前のことではなかったろうか。彼の方からそれまで全く面識のなかった私に、話したい
ことがあると言って接触を求めてきた。時と所をきめて改めて会うや否や、彼はいきなり私に向かって「君は解
釈学についてどう思う」と切り出した。(その時の彼の言葉だけは五十年以上経った今でも私の耳にはっきりと
残っている。)当時既に日本でもハイデッガーの『存在と時間』の翻訳が出版され、わが国の哲学界や思想的
ジャーナリズムにも「解釈学的現象学」という言葉が姿を見せていた。(中略)
当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解していた。」(『安部
もぐら通信
もぐら通信 ページ17
ページ17

公房・荒野の人』35ページ)

安部公房は、デカルトの『方法叙説』と解析幾何学の本を読んでいたのです。デカルトは、バロックの哲学者で
す。

安部公房が中埜肇に初めて会ったときに発した「君は解釈学についてどう思う」という問いは、18歳に成城高
校の校友誌『城』に発表した『問題下降に拠る肯定の批判』の中で安部公房が、わたしは普通の社会の人間とは
違って「座標」軸なしで物を考えるのだといい、「一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか」と問い、
この問いの答えが、この論文の副題「是こそ大いなる蟻の巣を輝らす光である」という言葉の由来である「これ
こそ雲間より洩れ来る一条の光なのである」といい、この一条の光こそが、この蟻の生きる閉鎖空間から脱出を
するための唯一の方法であり、その方法とは、「遊歩場」という「道」、即ち時間も空間もない抽象的な上位の
次元の位相幾何学的な場所の創造であり、その為の方法が「問題下降に拠る肯定の批判」だといっています。

また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解して
いた。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理
解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ
上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。

「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを
問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」
が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように
方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づ
き、五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方を
するのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれども、
実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、
それは観念論になってしまうということです。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デカルト的な」の意
味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」

既に18歳の安部公房は、この晩年の発言にある認識に至っていたということがわかります。そうして、何故ジュ
リー・ブロックが「でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでて」来ないかという理由を、上の二つの
表(マトリクス)は示しています。

ここには、「ジュ(私)」は有りません。何故ならば、それは、安部公房のいう通り、「実は「私」というのは
本質」であるからです。何故ならば、本質とは、実体のあるものではなく、差異であり、関数だからです。

この、安部公房のいう「私」を、西洋の哲学用語で、subject(主観、主体、主辞、主語)と言うのです。

上に表にした、実体の無い、関係概念としての、安部公房のいう此のsubject(「ジュ(私)」)の概念を理解
することは、安部公房の文学を理解するために大変大切です。「実は「私」というのは本質なんですよ。そして、
「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。」
という安部公房の発言をよくお考え下さい。上の表は、次のところでダウンロードすることができます:
https://ja.scribd.com/doc/266831849/安部公房の読者と作者-我と自我-主体と客体の関係-差異

(4)手掛かり4
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』でみたように、水平と垂直の交換を、外部と内部
を交換することによって、即ち安部公房は積算を必ずする。奉天の窓と其の向こうの存在の
部屋を創造するために。これは安部公房の小説構造造形観であり、その方法である。

即ち、この交換の起きる上位接続(論理積:conjuntion)の書いてある所に着目すれば、こ
の小説の構造を知ることができる。
もぐら通信
もぐら通信 ページ18
ページ18

この接続の場所で、次の手掛かり5のことが起きる筈である。即ち存在の革命が。[註6]
作者、話者、主人公、読者の四者の意識の中で。

即ち、『箱男』は、読者に対しては、一度箱の中に入り、そこで箱男を殺すという殺人の罪
を犯し、その後で、密室である箱の窓から箱の窓を通って如何に外部に脱出するかという箱
抜けの術を教える小説である。

しかし、作者も読者も話者も主人公も、この四者が一体となって窓から脱出する契機は、間
違いなくあって、それは自己喪失であり、記憶を失う其の一瞬の到来であること、それによっ
て奉天の窓という通路、即ち存在の十字路を潜って、その向こうにある次なる存在の部屋に
至ることであり、そのことによって、この四者が、こ小説の動態的な構造を知ることである
ことには間違いがない。

(5)手掛かり5
1968年の秋山駿との三田文学誌上のインタビューで、安部公房は、『箱男』はチェ・ゲ
バラの小説であり、安部公房の文学の主題から言って、存在の革命を起こすための小説だと
いう発言をしている。[註6]

[註6]
「この次は、すでに失踪してしまった状況で、失踪の向こうにある世界を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの
話です。ぼくはふり向くことがいやなんだ」(『私の文学を語る』全集第22巻、45ページ上段)安部公房が、
ここに至るまでにどんなに苦労をしたかは『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)をお読み下さい。

更に、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(前篇)より引用して、あなたに安部公房のこころをお伝えし
ます(もぐら通信第32号)。

「安部公房は、1968年の『三田文学』誌上で、秋山駿のインタビューによる質問に答えて、次のように、満
洲は奉天で子供時代に見た窓について語っています(全集第22巻、45ページ)。傍線筆者。

「秋山 「燃えつきた地図」の調査員の人、レモン色のカーテンのところにいる女の人が
好きなのですね。
安部 女というより、場所みたいなものですね。
秋山 安部さんのあの小説を読んでいますと、非常に精巧な機械みたいなものを感ずる
のですが、女の人が実に生々しく感じられるものですから。
安部 それはうれしい。あれも満州育ちのせいですね。日本でも最近は団地などで窓が
目立って来たけど。
秋山 窓を。普通はあまり意識しませんね。
安部 僕には、非常に強い意味をもっているのですね。
秋山 あちらは、窓というのは。
安部 非常に重要なんですよ。
秋山 そうだもう一つお聞きしようと思っていて、この小説は、坂道を上っていく最初
の場面がもう一度最後のところで現れるわけですね。あそこの道の描写にその難しい性
質が現れているように思うのです。一番最初に出てくるときは「急勾配の切石の擁壁」
ですが、二番目ですとそれが「わずかな勾配」ということになっているものですから。
安部 あれ、文章は同じなのです。
秋山 文章は同じなんですか......。いや、同じではないと思いますが。
安部 なるほど「急勾配」と「わずかな勾配」か……サインとタンジェントのちがい
だな……ぼくとしては、同じつもりで......はじめは水平の視線で、あとは垂直の視
もぐら通信
もぐら通信 ページ19
ページ19

線なんですね。」

このインタビューのあった1968年は、前年に『燃えつきた地図』を出し、1970年までの前期20年の終
わりの時期に当たっています。『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』の3部作、即ち社会的関係の中に存
在を求める3部作を世に出して、名実共に小説家としての盛名を馳せた其の前期20年の終わりの時期です。

上に引用した箇所の前で、安部公房は次の小説、即ち『箱男』の構想を語っています。上の前期20年の後半の
3部作を「失踪前駆症状にある現代」を描いた作品群であるのに対して、このとき「この次は、すでに失踪して
しまった状況で、失踪の向こうにある世界を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの話です。」といっています。

この「チェ・ゲバラ」という言葉からわかるように、『箱男』は明らかに、埴谷雄高の言葉を借りて言えば「存
在の革命」を起こすこと、読者の中に存在の革命を起こすことを企図していたのです。それ故の、多重的・多次
元的な構造を敢えて作品の中に採用したということなのです。即ち、読者を小説の理解の共同作業の中に招じ入
れることによって、読者に『箱男』という小説を創造することに加担させて、言語によって読者の意識を根本か
ら変革しようとしたのです。

この『箱男』が、存在の革命を起こす事であったのであれば、同時に立ち上げた安部公房スタジオも同じ企図の
元に創設された劇団であるということになります。このスタジオの最初の上演作品『愛の眼鏡は色ガラス』は、
従い、『箱男』と対になっており、従い、これら二つの作品を合わせ鏡にすると、安部公房の意図が分かり、互
いの作品をよりよく理解することができるでしょう。」

さて、以上の手掛かりを念頭に措いた上で、再度、安部公房が言語による世界を創造する秘
儀の順序に戻ってみます。

1。差異を設ける。
2。呪文を唱える。
3。存在を招来する。
4。存在への立て札を立てる。
5。存在を荘厳(しょうごん)する。
6。次の存在への立て札を立てる。

この6つの順序の5は、リルケに教わった通りの陽画としての詩による存在の招来のあり方
ですが、これを、もう少し安部公房に即して満州国で喪失した5つの喪失[註7]から生まれ
た陰画としての秘儀の式次第の名前に変えて表現すると、その全体は、更に、次のように正
確なものになります。

1。差異を設ける。
2。呪文を唱える。
3。存在を招来する。
4。存在への立て札を立てる。
5。存在を陰画として荘厳(しょうごん)する。
6。次の存在への立て札を立てる。

[註7]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力~(後篇)』(もぐら通信第33号)より以下
に引用します。:

5つの喪失とは、次の喪失です。これが、そのまま『無名詩集』の最初の詩『笑ひ』に歌われている。この『笑
ひ』という詩にある喪失は、安部公房が奉天で経験した、間違いなく、次の五つの喪失です。
もぐら通信
もぐら通信 ページ20
ページ20

1。満洲国という安部公房にとっての祖国の喪失
2。奉天という圧倒的に幾何学的な町、即ち安部公房の古里の喪失
3。父親の喪失
4。安部家の喪失
5。自己の喪失

シャーマン安部公房の此の孤独な闇黒の秘儀の式次第の六つの順序と、『箱男』の各章の見
出しの掛け算、即ちmatrixを作れば、そこに、この小説の構造が、そうして特に上位接続点
(存在の十字路)に着目すれば尚より一層、明瞭に現れることになる筈です。

このように考えて来て、一言で此の『箱男』を言い表しますと、『箱男』は百人一首です。
畳の上に百人一首の札を並べてみたらどのように見えるかを想像して下さい。その配列は、
あなたの自由な裁量に任せられている筈です。

安部公房の次の言葉があります。

『箱男』を「二回読んでもらうとわかると思うのですが、バラバラに記憶したものを勝手
に、何度でも積み変えてもらうように工夫してみたんですよ。つまり作者にとって一人称の
タッチでは手法的に限定があるし、三人称では勝手すぎて作品の信用が薄れる危険がある。
そこで両方を自由に操る方法はないかと考えた結果で、読者にとっては小説への参加という
魅力が生まれるんじゃないか……」(『〈「箱男」を完成した安部公房氏〉共同通信の談話
記事』。全集第24巻、164ページ)傍線筆者。

「二回読んでもらうとわかると思う」という発言の意味は、わたしはこの小説を体系的に書
いたという意味です。

そうして、「二回読んでもらうとわかると思う」という言葉の意味の反面は、その読解を、
上の引用にあるように、そのような体系的な思考のできる、その作品の持つ空間的な対称性
と構成要素同士の交換関係の理解できる、それを楽しむことのできる読者に委ねるという意
味でもあるのです。

このことがわかる読者にだけ、読んでもらいたいという安部公房の心境は、『箱男』脱稿直
後の講演の発言の最後の自分の劇に対する読者への、他の作家の書いた劇は決して観てくれ
るな、僕の劇だけを観て欲しいと、強い調子で言う安部公房の要求にも伺うことができます。
この劇とは勿論『愛の眼鏡は色ガラス』です。興味のある方は、『箱男 小説を生む発想
「箱男」について』と題した次のYouTubeの4つの動画での安部公房の声をお聴き下さい。4
つめの音声に、安部公房の此の劇に、従い『箱男』に掛ける安部公房の強い思いが伝わって
参ります。

⒈ https://www.youtube.com/watch?v=JI_V9gZJoJ0
⒉ https://www.youtube.com/watch?v=QN68K4CZIOE
⒊ https://www.youtube.com/watch?v=IEgC_oIPzV4
⒋ https://www.youtube.com/watch?v=5N68d2rX_Tk
もぐら通信
もぐら通信 ページ21
ページ21

上の考えに基づいて、存在を招来し荘厳する秘儀の順序に従って、『箱男』の地図を描いて
みましょう。次のような地図が出来ました。横軸にシャーマン(祈祷師)安部公房の呪術の
式次第を、縦軸に『箱男』の章立てを配して、matrixという地図を描いたわけです。『箱男』
の構造図です。すると、こうなりました。紙幅の都合あり、これは、その一部です。

この図の全体のダウンロードは、次のところですることができます:

https://ja.scribd.com/doc/269351927/箱男-論の全体図

上の手掛かり4で、

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』でみたように、水平と垂直の交換を、外部と内部を交換
することによって、即ち安部公房は積算を必ずする。奉天の窓と其の向こうの存在の部屋を創造す
るために。これは安部公房の小説構造造形観であり、その方法である。

即ち、この交換の起きる上位接続(論理積:conjuntion)の書いてある所に着目すれば、この小説
の構造を知ることができる。

と書きました通りに、地図である上のmatrixの見出しの列ををみますと、「《……》」と書かれて
いる章の見出しが複数あります。

これまでも、もぐら通信の幾つもの論考で述べて参りましたし、特に『安部公房の奉天の窓の暗号
もぐら通信
もぐら通信 ページ22
ページ22

を解読する』で其の理由も由来も明確にした通りに、この余白は差異を示し、差異である以
上、これは奉天の窓でありますから、積算値であり、存在であり、存在とは上位接続の関数
でありますから、それはまた言葉を換えて言えば、一つの次元でありますので、この『箱男』
という小説の「《……》」という章の数を数えれば、この小説が何次元の小説かを知ること
ができます。

上の表によって其の数を数えれば、「《……》」は、3つありますので、表向きは3次元と
いうことになりますが、しかし冒頭にネガティヴ・フィルムの写真という(陽画の現実に対
する最大距離の)陰画の差異を置いておりますので、この差異を勘定に入れますと、4次元
の小説ということになります。

そうして、4次元の小説を書くためには、作者である安部公房は5次元にいることになりま
す。4次元にいては4次元の文章を書くことができません。最低でももう一つ上の次元にい
なければ、その次元以下の次元の階層を言語で記述することはできないからです。

しかし、再度、上に述べた「(3)手掛かり3」を思い出してください。この手掛かり3は、
次のようなものでした。

「存在の十字路に次の五者が立っている。②の作者も(1)と(2)とふた色あるので、こ
の二種類の作者を勘定すると七者といってもよい。しかし、③話者以下⑤読者までもが人間
としては作者と同じ此のふた色であると考えれば、全部で九者になる。言語によって小説を
書く安部公房の意識の在り方は、安部公房の②の考えによって、次のようになるでしょう。

①存在:即ち箱である。汎神論的な箱である。箱は幾つもあり、複数の箱男たちは、
この複数の存在を出たり入ったりする。
②作者:
(1)安部公房という名前で呼ばれる実存、即ち小説の中では箱男という主人公足
り得る作者
(2)安部公房という名前の無い、無名の本質(関係、関数)であるsubject(主
体、主観)としての私、存在に棲む未分化の実存である「安部公房」[註5]
③話者:話者も、ノート(手記)の種類の数だけ複数いるように読むことができる。
そうして、話者も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更
に作者の(1)と(2)に相当する、一人の話者に二つの話者の在り方
を考えることができる。
④主人公:複数の箱男がいる。
そうして、主人公も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更に
作者の(1)と(2)に相当する、一人の主人公に二つの主人公の在り方を考え
ることができる。
⑤読者:読者も全くひとそれぞれである。
そうして、読者も、②の作者と同じ二つの意識の持ち主だと仮定すると、更に作
者の(1)と(2)に相当する、一人の読者に二つの読者の在り方を考えること
ができる。」

一つの次元に一人の主人公がおりますから、併せて4人の主人公は、上の④にいる複数の箱
男のことです。そうして、この複数の、4人の箱男を巡って、上の①、②、④、⑤の関係す
るものたちが、話の中に入り込んでくるのです。その可能性の組み合わせを計算すると、こ
れは譬喩として言えば無限にあるということになります。しかし、読者に伝達でき、理解さ
れ得るぎりぎりの次元数、即ち4次元に落として、安部公房は、この小説を書いたのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ23
ページ23

ドイツ語の哲学の世界に、ヴィトゲンシュタインという哲学者がおります。この哲学者の考
えも、安部公房と同じ言語機能論ですので、差異だけに着目し、言語は差異であると考え、
そうして、この認識は全く正しいのですが、『論理哲学論考』という著作を生前唯一の著作
として刊行しております。

言葉に意味があり、意味とは実体であると考える世界中の哲学の世界の専門家たちは、この
論文についての膨大な論文を書いているようです。そうして、ヴィトゲンシュタインは難し
いのだそうです。そして、確かにそうでありましょう。

しかし、言語は機能である限り、言語宇宙の原理は、どの個別言語であれ、極めて共通して
いて、単純なのです。

この哲学者の論考で書かれているのは、只々差異だけなのであり、その次元の数を、『箱男』
の上のmatrixと同じ考えで差異(上位接続)にだけ着目して勘定すれば、この論考は5次元
の論考だということが直ぐにわかりますし、従い、この著者は最低でも6次元にいて、その
文章を書いたのだということがわかるのです。

この哲学者の此論文を読みますと、中に幾つも数式が出てまいりますから、そのように、人
間の話す自然言語を使っても、数式を交えて5次元で書くことが出来たということなのです。

そうして、『論理哲学論考』の最後は、有名な次の言葉で終わっていることが喧伝(けんで
ん)され、そうして其の言葉の解釈を巡って世界中で議論が喧(かまびす)しい。

「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」(日本語訳)
" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.”(ドイツ語原文)
" Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.”(英語訳)

ここでいう沈黙とは、『箱男』で安部公房の言う「《……》」という見出しの沈黙、即ち余
白を、その差異を、その上位接続点たる掛け算(論理積:conjunction)意味しています。

安部公房の読者にとっては、この最後の一行は少しも難しい一行ではない。そうして、この
最後の一行は常に最初の一行に回帰することを、わたしたち安部公房の言語機能論の読者は
よく知っております。英語版の同書から最初の一行を引用して、あなたにお目にかけましょ
う。

1. The world is everything that is the case.


1.1 The world is the totality of facts, not of things.
1.11 The world is determined by the facts, and by these being all the facts.
1.12 For the totality of facts determines both what is the case, and also all that is not the case.
1.13 The facts in logical space are the world.

安部公房の相対性原理の方程式は、「世界は私の差異である」という方程式でした。

このヴィトゲンシュタインの最初の一行も同じことを言っているのです。

「世界は、場合(事件)であるものの総てである」(日本語訳)
“Die Welt ist alles, was der Fall ist.”(ドイツ語原文)
“The world is everything that is the case.”(英語訳)
もぐら通信
もぐら通信 ページ24
ページ24

Webster Onlineを引くと、caseという言葉の其の最初の定義は、

A set of the circumstances or conditions


環境、状況、経緯、いきさつ(以上 circumstances)または条件の一式、一つの集合(以上
a set)。

となっていて、このa set、一式、集合ということに眼目があるわけです。

一式と呼ばれるまとまりあるものになるためには、即ちわたしたち人間が集合と呼ぶ対象に
なるためには、その要素がすべて上位接続されていなければなりません。即ち積算されてい
なければならないということなのです。

1. The world is everything that is the case.


世界は、(定冠詞のついて呼ばれる、即ちあなたが知っている見ている当の其の)条件の、
環境の、状況の、経緯の、いきさつの、場合の、事件の一式であるもののすべてのことであ
る。

この一行の補足説明が1.1以下となっているわけですが、その1.13が、読者にはわかり易い一
行の説明となっています。

1.13 The facts in logical space are the world.


1.13 論理的な空間の中にある諸事実が、世界である。[註8]

この空間、spaceが、隙間であり、差異であり、関係なのであり、論理的な差異、即ち論理的
な関係なのであり、従い論理的な空間とは、積算による値、即ち幾つもある複数の上位接続
によって生まれた存在なのです。

この最初の一行と最後の一行の間に、延々と階層化されて記述されているのが、この書物な
のです。即ち、

上位接続(という関係空間、即ち言語という機能)の中に諸事実は一式(集合)として存在
し、その諸事実の存在(すること)とは余白であり沈黙(発声言語によっては変換され得な
い)という場所、即ち透明なる関数、機能、functionである其処、それが世界である。

というのが、ヴィトゲンシュタインの此の書物の結論なのです。即ち、ヴィトゲンシュタイ
ンも間(まざま)に棲む箱男の一人なのです。

ヴィトゲンシュタインが『箱男』を読んで感想を書いてくれたら、素晴らしい『箱男』論を
書いたことでしょう。

[註8]
三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』の中で、ヴィトゲンシュタインと全く同じことを、安部公房はこういっ
ております(全集第20巻、74ページ下段)。傍線筆者。

「三島 安部公房のような伝統否定と、おれのような伝統主義者とが、どういいうふうにケンカするかというこ
とは、おもしろいよ。
安部 おれも科学的伝統は幾分守っているからな。
三島 でも科学には、前の学説が否定されたら、どうやってやる?
安部 方法だよ。
もぐら通信
もぐら通信 ページ25
ページ25

三島 メトーデの伝統か。
安部 そうそう、事実というものはだね。科学のなかでは非常にもろいものだよね。だから好きなんだ、おれ
は、科学は。」

ヴィトゲンシュタインもまた、ドイツ語圏に棲息するもぐらの一匹であったということにな
ります。[註9]

[註9]
プラトンの描いたソクラテスの議論の仕方、その対話の仕方を読みますと、ソクラテスもまた再帰的な人間であ
ることが判ります。何故ならば、ソクラテスの立てる問いは、S・カルマ氏の立てる問いと同じで、いつも、そ
れは何か?という問いであるからです。(そうして、その議論は果てしなく逸脱し、しかしそうしながら絶えず
最初の本質的な、即ち関係の問い、即ち其れは何か?という問いに回帰して来るのです。)

S・カルマ氏の場合であれば、S・カルマと呼ばれるわたしとは何かという問いに対する答えが、わたしは壁(と
いう存在)であるという現実であるわけです。

この日本の島の上であっても、それは何か?という問いを日常生活の中で問い続けると、西洋の古代のギリシャ
に発する哲学と日本人が明治時代に訳した此の学問の本質、即ち関係を、差異を考えるという単純な科学の本質
を容易に理解することができます。

即ち平易に言えば、自分の頭でものを考えるということです。或いは、それは何々であるとわたしは思う、と唯
(ただ)そう言えばいいのです。

この再帰的な人間の一人に、デカルトという17世紀のバロックの時代のフランスの哲学者がいます。安部公房
の好きだった解析幾何学の創始者です。

あなたもご存知のように、cogito ergo sum我思う、故に我ありという認識の方程式に従って、自己の哲学体系を


打ち立てた人です。

cogito ergo sum、我思う、故に我あり、などという再帰的な(未分化の実存に生きる人間の発する)一行は、そ


うではない世間の大多数の(分化した)人間からみると、馬鹿のような嘲笑の一行でありましょう。現代の此の
二十一世紀の現在の日常にあって、この一行を人前で主張してごらんなさい。あなたは、恐らく嗤(わら)われ
ることでしょう。真の知識、即ち真理とは、それ程に普段は考えられることが極めて少ないのです。そうして、
そのような問いを問うことなく、人間は、私は現実の中に実際に生きている、と思っているのです。

わたしの知っている再帰的な人間の例を挙げます。これがすべてではありません。この人間たちにみな、共通し
ていることは、再帰的な人間であって、西洋のキリスト教の主張する唯一絶対の神の存在を批判し、人によって
は強く否定したということ、即ち神は複数存在し、存在は幾つも汎神論的にあると考えた人間であるということ
です。

その著作を読みますと、唯一絶対の神の存在証明をすると其の著作の冒頭では言っておきならが、そうしてそれ
に嘘はないのでしょうし、そう書かねば当時の絶対的なローマ法皇庁の権力の忌諱の感情に触れて異端審問の裁
判所に出廷して(ガリレオのように)、逆らえば死刑になったでありましょうから已むを得ない訳ですが、実際
に書いている論理と感情は、そうではなく、表看板とは裏腹に、再帰的な自己ということを思考の根拠にして、
神は複数存在するという論理と感情になっています。一言で、わたしたち日本人の身近な平易な言葉で言えば、
神も仏もあるものか、いや、神々も諸仏も存在するのだと言っているのです。汎神論に傾いているのです。

そうして、この考えと感覚は、隠れた汎神論でありますから、古代と原始の論理と感情に通じているのです。そ
れぞれの人間が、それぞれの人生で、それぞれの時代で、如何に様々な新しい風な意匠を凝らしていても。しか
し、この汎神論的な事実は、八百万の神のいまします私たち日本人にとっては、余りにも自明のことです。以下、
わたしの知る古今東西に生きる様々なもぐら達です。これらのもぐら以外にも、勿論もぐらはいるのです。私の
知っているこれらのもぐらの発した再帰的な鍵語(キーワード)と一緒に、最初に、再帰的な人間ということか
ら、その名前を列挙すると、次のようになります。

ソクラテス:無知の知。無知の知という再帰的な循環構造の問答、即ち産婆術。
アリストテレス:entelechiae[アリストテレス哲学で、デュミナス(可能態)としての質料がその形相を実現
もぐら通信
もぐら通信 ページ26
ページ26

して現実に存在し、そのものの機能を十分に発揮している状態。完全な現実態。:http://dictionary.goo.ne.jp/
leaf/jn2/26681/m0u/]現在此処にあるもの(現存在)として完全である状態。
デカルト:cogito ergo sum(我思う、故に我あり)。『方法叙説』の開巻第一行:「良識はこの世でもっとも公平
に配分されているものである。」あるものが等価で遍在しているという思想、安部公房の存在の考え方。
ライプニッツ:Monade(モナド)=存在=機能の集合=1であり数多であるもの。『モナド論』(『単子論』)の
開巻第一行:「モナドは複数のモナドがあるのだが、それはそもそも一つ(「1」)なのである。」(上のデカル
トと同じ等価性の認識)モナドという世界構成単位には開口部(窓)が無いという設定においても、安部公房の閉
鎖空間に通じている。
パスカル:人間は考える葦である。『随想録』の開巻第一行:「古代に対する注目が、今日では明るみに出ている
のであり、(略)」
スピノザ:『倫理学』の開巻第一行:「神自身の原因とは、その本質が自分自身の中に現存在を閉じ籠めているも
のである当のもの、又は、その自然の性が、ただ其処に今存在している(現存在である)として理解され得る当の
ものである。」
(こうしてみますと、デカルトも、ライプニッツもパスカルも、スピノザも、みなバロックの17世紀の哲学者で
す。これは、17世紀の、ヨーロッパの哲学の歴史に名を残す哲学者たちが皆、再帰的な人間であるということ、
そのことによって全知全能唯一絶対神から限りなく逸脱する者たちであるとは、実に興味深いことです。)
ショーペンハウアー:その主著『意志と表象としての世界』開巻第一行:「世界は私の表象である。」即ち、世界
はわたしの差異であり、わたしを映す鏡であり、私は意志の鏡であるという合わせ鏡の、再帰的な思想。
ニーチェ:超人[自己を、自分自身を超克する自己という人間像]
ヴィトゲンシュタイン:安部公房と同じ言語機能論。螺旋構造を備えた論文。言語の本質をゲーム(試合遊戯)の
概念で説明する。
ソシュール:安部公房と同じ言語機能論。言語の本質をチェスという西洋将棋というゲーム(試合遊戯)の駒の在
り方に喩える。ヴィトゲンシュタインと同じゲーム(試合遊戯)に言語を譬えているのが同一。
ジャック・デリダ:deconstruction(脱構築:概念の差異にのみ着目し、思考が果てしなく逸脱する)
ドゥルーズ:差異を唱えた哲学者。この人にはバロック論がある。ニーチェ、スピノザ、ライプニツを論じてい
る。明らかに、20世紀のバロックの哲学者である。
アイヒェンドルフ:絶えず自己と言葉自体に帰って行く再帰的な詩の世界を歌った18世紀から19世紀の詩人。
トーマス・マン:”わたしは関係という言葉を愛する。”その文体も螺旋構造の複雑多層の文体である。
リルケ:”最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近い”=距離(差異)の交換=差異を生み出すことによ
る概念の変形
埴谷雄高:死霊という再帰的な存在を書く。存在は、現世に幾つもの使者を送って寄越す。その再帰性から生まれ
る其の螺旋構造の文体
石川淳:『巻貝の文学』(安部公房の石川淳論の表題)。巻貝=螺旋構造
安部公房:差異だけに着目した接続と変形の文学。文と文の間の空白に上位接続機能がある、透明な(見えない)
螺旋構造の文体
吉田健一:文の一行が異様に長い、螺旋構造の文体
安部公房の読者であるあなた:???(自分の人生の中に、自分で自分の鍵語(キーワード)を見つけて下さい)

ヴィトゲンシュタインのWikipediaに次の記述があります。再帰的人間は再帰的人間を知るという好例です。:

「1903年までウィトゲンシュタインは自宅で教育を受けている。
その後、技術面の教育に重点をおいたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。このと
き同じ学校の生徒にはアドルフ・ヒトラーがいた。
この学校に在学しているあいだに信仰を喪失したとウィトゲンシュタインは後に語っている。宗教への懐疑に悩む
ウィトゲンシュタインに姉のマルガレーテはショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を読んでみるよう
薦める。ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書は、この一冊だけである。ショーペンハウ
エルに若干の付加や明確化を施せば基本的に正しいと思っていたとウィトゲンシュタインは後に語っている。」
[http://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]

また、ヴィトゲンシュタインを見つけたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが、その最初の印象を次のよう
に語っています。同じWikipediaから。この印象は実に正確で、安部公房の第一印象だと言い換えても全くいいも
のです:

「哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即
座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた」:「見知らぬドイツ人が現れた。頑固でひねくれているが、
馬鹿ではないと思う。
―An unknown German appeared … obstinate and perverse, but I think not stupid.」

この英語のperverseを、この訳では、ひねくれていると訳していますが、それでは情緒的な訳語でよく読者には伝
もぐら通信
もぐら通信 ページ27
ページ27

わりません。感情ではなく論理の言葉として訳すれば、正確には、倒錯、転倒、倒立、天地逆さま、前後ろが逆、
左右前後が逆という意味です。即ち、合わせ鏡の世界にいる再帰的なヴィトゲンシュタインという人間を、この
高名なイギリスの哲学者は発見したのです。頑固でと訳してある此のobstinateという言葉の意味も、perversely
に(倒錯して)意見を主張して譲らないという意味です。

「見知らぬ日本人が現れた。頑固でひねくれているが、馬鹿ではないと思う。
―An unknown Japanese appeared … obstinate and perverse, but I think not stupid.」

これは、全く安部公房にこそふさわしい賛辞です。もっとも日本には、このような、そして此のように、人間を
褒め称える伝統と歴史が脈々とありますから、安部公房を隠者と呼び、数寄者と呼ぶもよし、へうげ者と呼ぶも
よし、歌舞伎者と呼ぶのもよし、婆娑羅(ばさら)と呼ぶのも良いでありましょう。

さて、しかし、数学の達者な安部公房は勿論数式も交えて書くこともできたでしょうが、小
説家でありますから、自然言語を使って、日本語の世界で、次元を落として来て、そうして
読者が其の言語による形象(イメージ)として理解できるぎりぎりの、いづれの側、即ち作
者と読者の両方から見てもの限界の次元数が、4次元だと考えたのです。

そうして書かれたのが、『箱男』という小説です。

勿論、人間は何次元で考えてもいいのです。人間はN次元で考えることができます。そのNと
いう次元数は、自分で決めればいいのです。これが、人間の自由であり、もし人間にとって
絶対的な自由があるとすれば、このように絶対的に相対的に考える自由が、それなのです。

さて、この場合、安部公房の上述の「二回読んでもらうとわかると思うのですが、バラバラ
に記憶したものを勝手に、何度でも積み変えてもらうように工夫してみたんですよ。」[註1
0]の言葉をみて解る通りに、4次元ということを考えると、次の二つの場合の4次元があり
ます。

[註10]
安部公房伝の中の、幼稚園の先生が安部公房には特別に大きな積み木を特注して与えたという逸話がある(『安
部公房伝』、21ページ)。

「幼稚園のころからすでにある種の特異性を発揮していたのか、担任の先生は、ふつうの積み木は公房には小さ
すぎるからと、大きな積み木を特注した。抽象と現実を自在に行き来する、公房の特異な素質を見抜いたのだろ
うか。」

この逸話をどう解釈するかということになりますが、そうすると、恐らく安部公房は普通の子供ならば、積み木
で家を建てたり、何か高さを競って積み上げたりということをしなかったのではないかと想像されます。

考えられることは、積み木で差異を作り、その中に潜り込んだという幼児の安部公房の姿です。小さな積み木で
はそれはできませんが、「ふつうの積み木は公房には小さすぎるからと、大きな積み木を特注した」ら、それは
十分に可能です。

1。垂直方向の4次元
作品全体を一つの存在(全体)と考えた場合に、その階層を垂直方向に4階層にしたという
場合

2。水平方向の4次元
4つの次元をそれぞれ一つの作品という存在(全体)と考えて、これらを4つに水平に展開
して、垂直方向に4つの列を作り、それぞれの存在(列)の下位に、更に次元(章)を設け
て階層化したという場合
もぐら通信
もぐら通信 ページ28
ページ28

ということは、後者、即ち水平方向の4次元の列の場合もまた、ひとつひとつの全体は垂直方
向の、即ち前者の場合になりますので、水平も垂直も、いつもの安部公房の小説構造論と同じ
で、即ち言語構造と同じで、同じことだということになります。

これが、『箱男』の世界の動態的な言語構造です。

それ故に、あなたは『箱男』の読者として、自由自在に「バラバラに記憶したものを勝手に、
何度でも積み変え」ることができるのです。即ち、あなたは、この小説を読んで、自由にもの
を考えることができるのです。それ故に、この小説に惹かれるのです。

この自由をあなたに知ってもらい、自分の意志で此の小説の次元数を決定してもらい、その自
由を知ってもらうことによってあなたの意識に存在の革命を惹き起こすこと、これが、この小
説で安部公房が企図したことの、深いこころなのです。

この章の最後に、『箱男』の地図の章立てを数えて、章立ての規則を明らかにしておくことに
します。

上述しましたように、最初にネガティヴ(陰画)のフィルムを置いて差異を示し、その次に新
聞記事「《上野の浮浪者一掃けさ取り締り 百八十人逮捕》」という、存在の方向への立て札
を立て、その次に存在を招来するための呪文「「箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけている」
という箱男という言葉の再帰的な繰り返しを唱え、さて、それから後の章立ても含めて全体の
構成を平面的に分かりやすく示すと、次のようになっております。

0。ネガティヴ・フィルム(陰画)の写真:差異
1。新聞記事《上野の浮浪者一掃けさ取り締り 百八十人逮捕》:立て札
2。《ぼくの場合》:呪文

3。7つの章
(1)《箱の製法》:案内書(ガイドブック)[註A]
(2)《たとえばAの場合》
(3)《安全装置を とりあえず》
(4)《表紙裏に貼付した証拠写真についての二、三の補足》
(5)《行き倒れ 十万人の黙殺》(という見出しの新聞記事)
(6)《それから何度かぼくは居眠りをした》
(7)《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ
落とされた。つい五分ほど前のことである。その手紙をここに貼付しておく》

[註A]
この「(1)《箱の製法》:案内書(ガイドブック)」という案内書を此のまとまりから外して前の0、1、2の
シャーマンの秘儀の式次第のまとまりに入れると、次の「4。1つの接続の章」の「(1)
《……………………》」の章、即ち写真の世界への接続の章が、この「3。7つの章」の7番目に入って来る。と
いうように、章と章の接続部を浮動の状態にしてある。勿論「(1)《箱の製法》:案内書(ガイドブック)」を
秘儀の式次第のまとまりの中に入れて、「4。1つの接続の章」の「(1)《……………………》」の章を最初の
「3。7つの章」のまとまりにいれても構わない。しかし、安部公房は、以下の「6。7つの章」の最後の写真へ
の接続の章「(7)《死刑執行人に罪はない》」が、その「6。7つの章」のまとまりの中に入っているので、最
初の「3。7つの章」の次の「4。1つの接続の章」という次の「5。4つの写真」という写真への接続部である
此の章は、一つの章のまとまりの外に出したかった筈である。

4。1つの接続の章
(1)《……………………》:写真の世界への接続
実際に物理的な書物の構成としては、この《……………………》という題名の余
白の章のなかにつぎの4つの写真が入っている。
もぐら通信
もぐら通信 ページ29
ページ29

5。4つの写真
(1)期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員
(2)静止して動かない貨物列車
(3)喀血で呼吸困難におちいった重症患者のための病室の貼紙
(4)万博会場における、身体障害者のための記念撮影風景

6。7つの章
(1)《鏡の中から》
(2)《別紙による三ページ半の挿入文》
(3)《書いているぼくと 書かれているぼくとの
不機嫌な関係をめぐって》
(4)《供述書》
(5)《Cの場合》
(6)《続・供述書》
(7)《死刑執行人に罪はない》[註B]

[註B]
最後にある筆記の突然の中断による余白は、次の4つの写真の世界への接続部です。

7。4つの写真
(1)カーブ・ミラーに写っている旧海軍将校用クラブ
(2)駅の公衆便所
(3)タイヤのない自転車に全財産を積み込んで歩いている乞食
(4)自動車の廃棄物の山

8。7つの章
(1)《ここに再び そして最後の挿入文》
(2)《Dの場合》
(3)《……………………》
(4)《夢のなかでは箱男も箱を脱いでしまっている。箱暮らしを始める前の夢をみて
いるのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢見ているのだろうか……》
(5)《開幕五分前》
(6)《そして開幕のベルも聞かずに劇は終わった》
(7)無題の、時計の文字盤の詩

9。《……………………》:余白:次の次元(存在)への接続の章

以上の構成の順序をまとめると、『箱男』の構成は、安部公房の秘儀の式次第に則り、その
見かけを裏切って、実は、次のように単純で美しい構成であることが判ります。

(1)シャーマン安部公房の秘儀の式次第
(2)7つの章(散文)
(3)4つの写真(詩)
(4)7つの章(散文)
(5)4つの写真(詩)
(6)7つの章(散文)
(7)《……………………》:余白:次の次元への接続の章
もぐら通信
もぐら通信 ページ30
ページ30

さて、いよいよ8枚の写真の本題に入ります。

2。奉天の窓から『箱男』の8枚の写真を読み解く

この写真から入るという『箱男』の中への入り方は、作品の正面玄関から入る入り方ではな
く、窓から入る入り方です。しかしながら、写真とは、安部公房にとっては世界の反照を見
る窓でありますから、やはり奉天の窓と同様に、これは正しい『箱男』の箱という存在の中
への入り方ということになるでしょう。

即ち、後述することになるでしょうが、この奉天の窓である写真(安部公房にとっての詩同
然の、窓から眺めた(反照としての)景色と光景)をこそ、むしろ『箱男』の中核をなす章
であると考えることによって、即ち安部公房らしく主客を交換して考え直して此の作品を見
てみると、この作品の構造が明瞭になるのです。それは、上で此の作品の地図(matrix)を
お見せした通りです。

さて、この論考の冒頭に引いたナンシー・S・ハーディンとの対談で、安部公房は、作品中
に挿入された8枚の写真について、更に、次のように言っています。

「――『箱男』の話題が終わる前に、作品中に挿入された八枚の写真についてなにか話して
いただけませんか。
安部 あの一連の写真は一種のモンタージュです。説明するのは難しいですね。
(略)
安部 写真を褒められるのは小説を褒められるのよりうれしいです。
(略)
安部 説明文は必ずしも写真を説明しているのではありません。それらの詩が主張している
ことがあるとすれば、ぼくは写真は全体として詩であるべきだと思っていることです。
――写真の並べ方には特別な意味がありますか。最後に廃車になったトラックの写真が来て
いるには理由があるのでしょうか。
安部 意味があったかどうかは忘れてしまいました。ただ、それぞれがひとつの詩のような
ものなのです。(略)」(『安部公房との対話』全集第24巻、472~473ページ)

安部公房が「写真を褒められるのは小説を褒められるのよりうれしいです。」と率直に語っ
ているのは、写真は小説ではなく、詩であるからです。安部公房は後期20年の最初に当たっ
て、即ち存在の革命を起こそうと一番集中して十代の詩の世界への再帰と再起を図っていた
ときに、写真を褒められることは詩を褒められることと同然ですから、嬉しかったのです。

また、安部公房のモンタージュという言葉からも、『箱男』の一章一章は百人一首の一枚の
札だという譬喩(ひゆ)の意味がお解りいただけるのではないでしょうか。これらの札をど
う読み、どう並べて、またshuffleして、その一枚一枚のモンタージュの一章をどのように
組み合わせ、編集して、作品の全体に独自の意味を持たせるかは、読者の自由なのです。こ
の読者の自由をどのように構造的に保証しようとしたかは、前章で述べた通りですし、また
更に『箱男』の地図を以って後述致します。

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号と第33号)でお話したよ
うに、安部公房の言語論、即ち言語機能論(言語関数論)の方程式は、「言葉とは私の差異
である」のですから、この小説で安部公房が読者に期待していることは、この言葉という媒
体による言語宇宙の中に、読者であるあなたが、あなたという私の差異を発見し、知ること
だということになります。
もぐら通信
もぐら通信 ページ31
ページ31

さて、ここで安部公房は、8枚の写真の下にある「説明文は必ずしも写真を説明しているの
ではありません。それらの詩が主張していることがあるとすれば、ぼくが写真は全体として
は詩であるべきだと思っていることです。」といっております。

この安部公房の発言、これらの説明文は、実は詩であると言っていることは、重要です。や
はり、存在の革命を起こそうと思った安部公房は、十代の詩の世界に戻ったのです。

そうして、ここで言っていることは、「写真は全体としては詩であるべきだと思っている」
ということです。写真の下の言葉のみならず、言葉の上にある写真もまた詩であるのです。

前者は言語、後者は写真という、それぞれに異なる媒体ですが、同じ詩という表現形式であ
り、表現であると言っているのです。

そうして、この二つの詩同士の関係は、「説明文」のように見える言葉の詩は「必ずしも写
真を説明しているのでは」なく、そうではなくて、「それらの詩が主張していることがある
とすれば」、その詩の主張していることは「写真は全体として詩であるべきだ」という主張
は、写真の下にある詩の主張でもあるということです。

これらの言葉による、写真に関する主張もまた、詩は全体として詩であるべきだという主張
を主張していることになるでしょう。

この場合、詩の全体とは、同様に上述したシャーマン安部公房の秘儀の6つの順序に従っ
て、やはり生まれるものである筈です。

そうしてこのように考えて来ますと、実に安部公房らしいことは、これら二種類の媒体によ
る詩は、それぞれの詩が全体として(詩として)、それぞれ独立していて、そのような詩と
して写真の下の詩は、もう一つの詩である上の写真という詩を、また後者は前者を、お互い
に説明しているのだということを言っていることになることです。そうして、このことに間
違いはないでしょう。

さて、このように考えて来て、いよいよ写真を読み解くわけですが、最初に、これら8枚の、
小説の中での位置について言えば、これはやはり、上の安部公房の発言を読み解いてよく解
る通りに、写真という媒体によって表された全体としての詩であるこれらの写真は、言葉と
いう媒体によって書かれた章と同じ意味(質)を持った一枚の章なのだということです。

即ち、これら8枚の写真は一つの章として其処にあるということなのです。従い、『箱男』
という小説は、8枚の写真の一枚一枚を一章と数えて、最初にシャーマン安部公房の秘儀の
式次第に則り置かれたネガティヴのフィルムという差異(余白)という神聖なる祭壇を除き、
その次の存在の方向を示す新聞記事といった立て札をも1章として数えると、全部で33章
から成る小説だということになります。

『笑う月』所収の「シャボン玉の皮」に、この8枚の写真についての安部公房自身による解
説の言葉が載っていますので(全集第24巻、416ページ)、その言葉に沿って、写真を
みてみましょう。また、同じ『笑う月』の「アリスのカメラ」に、写真撮影の意味がやはり
書いてありますので(全集第25巻、201ページ)、これも必要に応じて参照することに
します。

そうして更に、冒頭に引用した『安部公房との対話』にも、8枚の写真についての説明があ
るので(全集第24巻、472~473ページ)、これも、その理解のための資料として活
もぐら通信
もぐら通信 ページ32
ページ32

用することにします。

それから、安部公房にとって如何に写真は詩作の補償行為、代償行為であったかは、『もぐ
ら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)に詳述しましたので、これをお読み下さると有り難く
思います。

さて、『シャボン玉の皮』と題したエッセイに、次の箇所があります(全集第24巻、41
8ページ)。

「『箱男』におさめられた八枚の写真も、それぞれなんらかの意味で、廃物、もしくは廃人
のイメージである。

――期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員。
――喀血で呼吸困難におちいった重症患者のための病室の貼紙。
――万博会場における、身体障害者のための記念撮影風景。
――駅の公衆便所。
――ミラーに映っている旧海軍将校用のクラブ。
――タイヤのない自転車に全財産をつみ込んで歩いている乞食。
――文字どおりのスクラップの山
――それからなぜか、貨物列車。ぼくの分類法によれば、これも廃物の仲間らしいのだ。」

最初の「期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員」の写真から見てみましょ
う。

そうして、それぞれの写真に共通していると安部公房が言う「廃物」と「廃人」の形象(イ
メージ)を探してみましょう。お手元に『箱男』を用意して、お読み下さい。

(1)期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員(1枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:シャッターの降りた宝くじ売り場
何故これが廃物であるかというと、未来の時間の中である種の交換可能な物(巨額のお金)
の偶然による所有という運の有無、その交換を生み出す運(偶然)の実現の有無を販売(お
金との交換関係の成立)する建屋の窓が閉まっているから。この窓が閉まっていると役に立
たない、即ち廃物同然であるから。

②廃人:後ろ向きのヤクザ
そのような廃物の前に執着している人間もまた廃物ということになります。この人間が本当
のヤクザかどうかは関係なく、そのような人間として其処にいることになるという安部公房
の考えなのです。即ち、何かの期限が切れても破滅しない、決して無効になることのない、
法律の外の人間が、この後ろ姿を見せている男、即ちヤクザ、なのです。

終末のあり期限のある切符を持っていながら、法律の外の隙間に棲むが故に、従い世間の管
理台帳に未登録の人間、即ち未分化の実存である無名の人間であるが故に、切符の期限が来
ても、破滅しない人間です。『方舟さくら丸』の登場人物たち、この存在の船への乗船有資
格者たち、即ち「既にして」(超越論的に)乗船している人間たちです。[註11]
もぐら通信
もぐら通信 ページ33
ページ33

[註11]
未分化の実存の棲む隙間、差異については、全集の諸処から拾うことが出来ますが、ここでは、やはり淵源を求
めて、十代の詩から『旅よ』から、その3つの連を引用します(全集第1巻、76ページ)。

「木の間 木の間」や「青い波間」という差異の中に、安部公房は生きているのです。

「それとも果てしない没落の
あの か弱い あこがれであるのか。

いや、お前は一つの故郷(フルサト)ではなかつたか
私達の帰つて行く家ではなかつたか。
木の間 木の間の緑のしづく
あのこぼれ落ちる 日光ではなかつたか。

待ち給へ、あの故郷(フルサト)よ、湖よ
私は一緒に出掛けよう。
やがて夕日が、とけて行くだろう、
あのくづれ行く 青い波間に。」

また、存在へと入る此の乗船切符については、リルケの『マルテの手記』に、主人公のマルテが図書館へ入館す
る切符を夢想する、次の場面があります。安部公房には、この場面の印象は忘れがたかったのでありましょう。
望月市恵訳の岩波文庫の『マルテの手記』(40~44ページ)から以下に引用します。安部公房がどんなにリ
ルケに影響を受け、それを自家薬籠中のものとなしたか。詩人の読書する此の静謐な空間が、方舟さくら丸に変
形したのです。傍線筆者。

「国立図書館で
僕は図書館にすわって詩人の作品を読んでいる。広間には多くの人がすわっているが、ほとんどそれを感じさ
せないほど静かである。だれも本に読みふけっている。ときどきここかしこでページを繰る人が、夢から夢へ移
るときに寝がえりをするように身動きするのみである。ああ、読書をしている人々にかこまれているのは、なん
と快いことだろう。なぜみんなはいつもこのように静かにしていないのだろう。だれかに近づいて、そっと彼に
ふれても、彼はすこしもそれに気づかない。立ち上がるときに隣の者に軽くふれ、それをわびると、彼はこちら
の声が聞こえたほうへうなづき、振り返るが、こちらの姿は目にはいらないし、その髪は眠っている者の髪の感
じである。僕はそういう人々のあいだにすわって、詩人の作品を読んでいる。これはなんと快いことだろう。僕
はそういう人々のあいだにすわって、詩人の作品を読んでいる。なんというまわり合わせだろう。(略)
これは二週間前のことであった。しかし、このごろではそういう人間にあわない日がほとんど一日もない。日
暮れどきばかりではなく、白昼の雑踏した街上でも、小さな男か老婆が不意に現れて、僕にうなずいて見せ、な
にかを示し、それで役目が終わったかのように姿を消してしまうのである。今に僕の部屋まで押しかけて来るこ
とを思いつくだろう。僕がどこに住んでいるかももう知っているにちがいない。門番にとがめられずに通ること
ぐらいは朝飯前だろう。しかし、君たち、僕がこの図書館にいるかぎり僕は君達につかまる心配はない。ここへ
はいるには特定の入場券が必要なのだ。君たちが持っていないその入場券を、僕は持っているのだ。僕は街路を
お察しのとおりいくぶんびくびくしながら歩いて、ついにあるガラス戸の前へ来て、家へ帰ったようにその扉を
あけて、つぎのドアの前で入場券を示し(君たちが鉛筆や針を見せるのと同じようにではあるが、僕の気持ちが
すぐに相手にも通じ、僕の意思がすぐにわかってもらえる点だけがちがう---)、そして僕はこの本にとりまか
れ、あの世の人間のように君たちの手にとどかなくなり、安心してすわって詩人の作品を読んでいる。
君たちは詩人がなんであるかを知らないだろう。----たとえばヴェルレーヌといわれても……なにも感じない?
なにも連想しない?それだ。君たちは君たちの知っている者のなかからヴェルレーヌを見わけることができなかっ
ただろう?君たちが区別をしない人種であることは僕も知っている。しかし、僕が読んでいるのはほかの詩人で、
パリには住んでいない詩人である。山中の静かな家に住んでいて、高原の清らかな空気のなかで鳴る鐘の音のよ
うな詩をつくる詩人である。彼は静かな家の窓を歌い、可憐な静寂な遠景をひっそりと映している書棚のガラス
戸を歌う幸福な詩人である。僕がなりたいと思ったような詩人である。(略)」

あなたは、時間の空間化が、安部公房の詩作であり、写真撮影であり、小説を書くことであ
り、戯曲であることを知っていることでありましょう。即ち、時間の変化を関数関係に置き
換えて、その関数の変化として空間的に時間の変化を示すという考えであり方法です。[註1
2]
もぐら通信
もぐら通信 ページ34
ページ34

[註12]
時間の空間化ということは、「明日の新聞」発行の論理でもあります。またこの考えは、安部公房スタジオの演
劇論としても、何度も語られております。そうしてまた、時間がなくなるということ、即ち此の世の終わり、即
ち終末という時間のご破算の話が、『死に急ぐ鯨たち』と題したインタビュー集の中で繰り返し語られています。
『方舟さくら丸』の動機(モチーフ)です。更にまた、この終末の到来があるかないかを賭ける賭けの話も同様
の発想を、賭けと確率という面から、語っています。今、それらのインタビューや文章とは別に、『箱男』が探
偵小説であるという安部公房の発言から、探偵小説のプロットとの関係で、次の発言を引くことにします(『歴
史をすてるべき時』全集第25巻、392ページ)。

「現代小説=プロットとの戦い

安部 ――武満くん、時計持ってる?
武満 いいえ。
安部 持ってないの。珍しい人だな。(笑)たいていの人、時計を持っているよ。とくに三島くんなんか、上
等の時計持ってないやつのこと、すごい軽蔑してたからね。
武満 あ、そうですか。
安部 時間に鈍感なやつは芸術家じゃないって言ってさ。まあ、それはいいけど、たとえば時計の文字盤をつ
かってわれわれは時間を空間化する、それが小説におけるプロットであり、筋立てなんだな。ほら、子供のと
き、よく経験を語るじゃない、フィクションとして。経験の空間化なんだよ。だから子供の嘘にはつねに夢が
ある。時間のサイクルを空間的なイメージに配分し替えて、ぼくらがそのなかに自分を置けるものとして客体
化するわけ。だからおとぎ話というものは、おそらく一番最初の、ぼくらの、つまり客体化の始まりなんだよ
ね。だから、どんな子供でも、必ずある物語というものをある段階で聞いたりつくったりする。現代の小説
が、物語を越えるというのも、結局は物語というものが根底にいつでもあるからなんだ。(略)」

このような廃物や廃人は、世間の人々の忘却した、誰も気づかないビルとビルとの隙間、何
かと何かの隙間、間(はざま)、差異にあるのでした。

これらの廃物廃人は、どのような差異に在るのでしょうか?と問うでみれば、その答えは明
らかです。

二つの異なる型の自動車の間に、その差異に、廃人廃物は存在しているのです。

宝くじ売り場の後ろに二台の異なる型の車が見えます。これが、廃人廃物の生きている差異
なのです。

そうして、この二つの自動車も、廃物のように静止して動かない自動車であり、互いに違い
異なる種類の車であるという、そのような差異としてある二つの自動車である。

そして、あなたは、この写真の黒い葬儀の写真の窓枠のこちら側にいる箱男である。そうし
て、箱男として窓の向こうの外見ると、そこには其のような差異と差異の中に存在する廃人
廃物の在る風景が見えるという趣向なのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ35
ページ35

安部公房の写真は、物を写しているのではないのです。物と物との淡(あわ)い、その間(は
ざま)を、そうしてリルケの詩を「”物”と”実存”との対話」を学んだといっているよう
に[註13]、物と実存の関係、即ち差異を、その差異のある空間、隙間を写しているので
す。

[註13]
安部公房の自筆年譜によれば、昭和18年(西暦1943年)に「ただリルケの『形象詩集に耽溺した』」とあ
り、昭和22年(1947年)の項には「手垢にまみれたリルケの『形象詩集』がついてまわっていた。いつの
間にか、リルケ調の詩を書きはじめていた。それは詩というよりも、”物”と”実存”に関する対話のようなも
のだった。」とあります(全集第12巻、465~466ページ)。

そうして、この差異という間(はざま)は、積算値でありますから、時間は存在しないとい
うこともまた自明のことなのです。

さて、次は、この写真の下にある詩を読んでみましょう。

「 この先に進もうとすれば、塀を乗り越えるか、左右にまわり道するしかない。この辺り
が中間なので、どっちをまわっても、時間的には似たようなものだ。普通に歩いて一日半、
途中で休めば、それ以上かかってしまう。」

「この塀」といっている塀は、写真の窓の向こうに見える宝籤売場の建屋のことをいってい
るのでしょう。しかし、またこれは『終りし道の標べに』の満洲の村のあの粘土塀という塀
でもあるのです。安部公房の形象(イメージ)はいつも終始一貫しています。

この宝籤売場の建屋には、これは早朝であるか夕刻であるか、昼と夜の、時間と時間の差異
にある建屋ですから、その売場の窓、即ちその建屋の更に奥の交換関係のある社会に通じて
いる窓は未だ開かれておりません。

この窓がその日の定刻の朝か次の日の朝かになれば、窓が開いて、ヤクザは未来の偶然への
切符である宝籤を(買おうと思えば)買うことができるというわけです。

しかし、この詩を読みますと、この男は、その未来の時間へ続く窓の開く時刻まで待つつも
りはなく、この建屋を塀と呼んで、如何にこの塀(壁と呼んでも同じですが)の向こうに行
くかということを思案しています。

勿論『S・カルマ氏の犯罪』の主人公がそうしたように、このヤクザな男も宝籤売場の建屋そ
のものになってしまえば、一番いいわけですし、解決に至るわけです。

「この辺りが中間なので、どっちをまわっても、時間的には似たようなものだ。」という言
葉が、そのことを暗示しています。

「この辺りが中間なので」という「この辺り」とは、後ろに見える二台の自動車の差異にあ
る「この辺り」なのであり、それが「中間なので」あるという意味なのです。

「普通に歩いて一日半」とありますので、上で述べた二つの時間のいづれであろうとも、や
はりこの写真の時刻が其の日の定刻の朝であれば翌日の同じ時刻に、またこの写真の時刻が
次の日の朝であれば翌々日の朝の時刻になることになって、永遠に其の向こうには行けない
ことになるでしょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ36
ページ36

安部公房の選択肢には、急いで先へ先へと前に進むという発想と選択肢は全くないのです。
それ故に、「途中で休めば、それ以上かかってしまう」と書いてあるわけです。この発想
と同じ詩が『箱男』の第32章としてある無題の時計の詩です。

この詩では、

「もし まんべんなく風化した
平らな時計を持っている者がいたら
それはスタートしそこなった
一周おくれの彼」

と、若いヤクザのことが歌われてあり、このヤクザもまた箱男と同じ「スタートしそこなっ
た/一周おくれの彼」であることが解ります。

こうしてみると、この「期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員」が、こ
の詩に大変関係のある詩だということがわかるでしょう。

「時計の文字盤は片減りする
いちばんすり減っているのが
8の字あたり
かならず一日に二度
ざらついた眼で見つめられるので
ざらついた眼で見つめられるので
風化してしまうのだ
その反対側が
2の字あたり
夜は閉じた眼が
無停車で通過してくれるので
減り方も半分ですむ
もし まんべんなく風化した
平らな時計を持っている者がいたら
それはスタートしそこなった
一周おくれの彼

だからいつも世界は
一周進みすぎている
彼が見ているつもりになっているのは
まだ始まってもいない世界
幻の時
針は文字盤に垂直に立ち
開幕ベルも聞かずに
劇は終わった」
(全集第24巻、138ページ)

確かに、この写真では、いや私たち読者が箱男の此の窓から覗いて向こうに見える此の若
いヤクザという「彼が見ているつもりになっているのは/まだ始まってもいない世界」だと
いうのは、その通りです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ37
ページ37

確かに、「時計の文字盤は片減りする/いちばんすり減っているのが/8の字あたり/かならず
一日に二度/ざらついた眼で見つめられるので/ざらついた眼で見つめられるので
/風化してしまうのだ」とあるように、宝籤売場が窓を開けるのは次の日の早朝の8時であり
ましょうし、また夜の8時だとしても、文字盤の8の数字は「風化してしまうの」でしょう。

そうして、この時間の差異を見る眼が「ざらついた眼」なのであり、ざらざらしている紙や
すりのような眼であるので「時計の文字盤は片減りする」というのです。

8の字の反対側は、2の字であり、これは深更深夜の時間でありますから、貨物列車も「無
停車で通過してくれるので/減り方も半分ですむ」わけでしょう。この貨物列車は、8枚の写
真のうちの次に来る写真の一枚として『箱男』に挿入されております。そこでもまた、この
詩を参照することになるでしょう。

前半の連の後ろから4行目にある、

もし まんべんなく風化した

というこのような二つの語句の間、即ち「もし」と「まんべんなく風化した」という語句の
間に一文字分の空白をおいて二つの語句を透明に上位接続(積算値を計算)すると、これは
安部公房の世界では奉天の小学生以来の「クリヌクイ クリヌクイ」の呪文なのであり、こ
の呪文によって存在が招来されて、この呪文の導く話の最後には、例外なく人さらいがやっ
て来るのでした。

後半の連では、「針は文字盤に垂直に立ち/開幕ベルも聞かずに/劇は終わった」という其の
劇の存在しない「幻の時」という時間の差異が歌われていて、その時間の差異が、その通り
に次の最終章の見出しの「《………………》」という沈黙の名前の章、即ち余白と差異を示
す此の題名に変換されていて、そのまま此の短い章の中へと話は続き、この章の最後には、
やはり「救急車のサイレンが聞こえて来」て、主人公の箱男は、人さらいにさらわれること
を暗示する結末となっております。

安部公房は、ここでも其のシャーマンの秘儀の式次第に従って、連続・非連続の接続を使っ
て、小説を構造化しているのです。

(2)喀血で呼吸困難におちいった重症患者のための病室の貼紙(3枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:骸骨、または骸骨の図
何故これが廃物であるかというについては説明無用でありましょう。安部公房は骸骨が好き
なのです。第一にそれは死者の実在であり、骨格だけになった人間の構造であるからです。
1980年以来棲む箱根の存在の部屋である仕事場の部屋にも英国製の紙製の人体の骸骨が
おいてありました。

②廃人:「喀血で呼吸困難におちいった重症患者」
安部公房の率直な連想は、やはり病人、それも重病人は廃人なのです。大切なことは「重症」
であるということ「重症患者」であることなのです。

これは『シャボン玉の皮』の文章を読みますと、次のようにある理由で「重症患者」は被写
体足り得るのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ38
ページ38

「とにかくぼくは、ゴミにひかれる。廃物や廃人との出会いが、何よりもぼくを触発する。
それは人間の恥部ににている。虚しく、壮麗で、ただ存在することによってあらゆる意味を
圧倒してしまう。当然のことだ。「有用性」が「廃物」に負けることはありえても、「廃物」
が「有用性」に屈服したりすることはまず不可能だろう。」

廃人や廃物は、「恥部」という人間の意識の隠された深層にある意識の裏側に通じている其
のようなものであるからなのです。そうして、世の中にある有用性に十分に対抗して、無用
の長物、無為なるものとして、そこにあるからです。

死に直面した「喀血で呼吸困難におちいった重症患者」は、正(まさ)しく其のような物に
一番近い人間なのです。

その人間のための病室にある張り紙が廃物としての骸骨の絵図というわけです。これが、耳
と鼻の解説図であるのは、呼吸困難に患者が直面するからでしょう。

このような題名のことを、このように考えて参りますと、やはり安部公房が19歳で出逢っ
て読みふけったリルケの『マルテの手記』を思い出さずには入られません。そこには、その
人間が呼吸する呼気を体内に吸い込んで入れ、また吐いて外に出すという行為が重要な行為
として書かれていて(この箇所は10年後に完成する『ドィーノの悲歌』の抽象度の極めて
高い言語表現になっています)、呼吸による外部と内部の交換は透明なるものによって行わ
れるからです。安部公房の小説に最後にいつも登場する透明感覚です。安部公房は、この交
換を無意識の深い底にまで落とし込み、吸収したのです。

さて、そうすると此れは、そのような廃人と廃物を描いた絵図であり、図解の絵であり、ま
た壁に張ってあるということから看板なのであり、もうここまで来れば『安部公房の奉天の
窓の暗号を解読する』をお読みになって安部公房の暗号を解読したあなたには十分お判りの
ことだと思いますが、これは、存在の十字路に立つ立て札、即ち存在への方向指示板、方向
標識板なのです。

そうして、この骸骨の立て札の隣にも、「病室禁煙」という立て札が立っております。「喀
血で呼吸困難におちいった重症患者」のいる病室の、その患者の存在の十字路に立つ、しか
も禁止則の、そこにいて煙草を吸うという嗜好品を味わう贅沢の行為を否定し、禁止する厳
しい立て札です。

つまり、「喀血で呼吸困難におちいった重症患者」についての、その状態を肯定する立て札
と否定する立て札の二種類の立て札の差異を写したのが此の写真だということになります。

上で言及したリルケの透明感覚との関係では、この骸骨の形象は、早くも十代の詩の中で、
透かし彫り、という言葉を使って歌われております。[註14]

[註14]
その一例を、『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)より引用してお伝えします。

「無名詩集の「孤独より」という詩の「其の六」の詩の第1連を引きます(全集第1巻、233ページ)。
もぐら通信
もぐら通信 ページ39
ページ39

「その淡い"孤独"のすかしぼり
飾り戸棚の古い置ものの様に
感動もなく又忘れられる
嘆きを歌つた人々の想出」

ここでも、透かし彫りの感覚、透けて向こうが見えるという感覚と一緒に、孤独の感覚のあることがわかりま
す。そして、思い出と忘却も。

この詩の残りふたつの連も、その始まりの一行で、同じ「その淡い"孤独"のすかしぼり」という言葉が繰返さ
れています。

孤独ということから、この詩の根底には、上でみたように、安部公房の一連の連想の鎖、孤独ー次元転換(転
身)ー別離ー悲しみー内部の透視ー対象の非所有ー死ー忘却という連鎖が隠れていると理解することは、文字に
はなっておりませんが、間違いではないことでしょう。」

また、「20歳のときに、安部公房は、「ユァキントゥス」という詩を書いています(全集第1巻、101ペー
ジ)。

この詩を読むと、このユァキントゥスと作者によって呼びかけられる詩人が、それまでの、過去の詩人として
の自分自身のことであることがわかります。あるいは、詩人としての自分自身の弱点を持った詩人、そういう意
味では弱い詩人の姿といってよいでしょう。それを、この詩の中で否定をし、次元変換又は転身をしつつ、別れ
を告げる、ありうべき詩人の姿を歌っています。

この詩は、明らかに、「詩と詩人(意識と無意識)」という論文と裏表の関係にある典型的な詩のひとつです。
(「詩と詩人(意識と無意識)」については、贋岩田英哉さんの、「18歳、19歳、20歳の安部公房」と題
した詳細な解読が、今迄の号にありますので、それをお読み下さい。)

さて、この詩の中で、安部公房は次のように書いています。

「彼(筆者註:恋する男)の前には、思ひにふけつたユァキントゥスが遠くをみつめ乍ら幻のやうに佇んでゐる。
その内部を迄も見透かせる位近くに、しかし近付く事が出来ぬ程遠くに。」

この言葉からわかることは、安部公房は、詩人は、内部を透視する、透かしてみる人間だと考えていたという
ことです。しかも、その対象との距離は、透かしてみることができる程近く、同時に近付くことが出来ぬ程に遠
いのです。この距離の遠近に関する思考と表現には、安部公房が深く受容した、ニーチェとリルケが、間違いな
く、います。

つまり、透明に見えたその対象は、自分のものではないのです。近くあり、同時に遠くある対象は、自分のも
のではないのです。自分の所有するものではない。対象の非所有。しかし、そのように見ることだけは、透徹し
て、できるのです。

これは、全く無能な人間の認識であると、わたしは思っています。或いは、無名の人間の認識だと、言葉を換
えてもよいでしょう。」

さて、このように写真を読み解いてから、今度は、その下にある文字で書かれた詩を読んで
みましょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ40
ページ40

「 いま、こうして眺めまわしている箱の内側……自分の容積よりわずかに広い、立方体……
汗と溜息でなめされた、ダンボールの壁……一面に小さく書き込まれた、ボールペンの落書
……裏返しに彫られた入れ墨……見栄えのしない履歴のすかし彫り……」

安部公房の詩は、『無名詩集』の詩もそうですが、この詩もまた差異を歌った詩だとして理
解することができます。安部公房は差異を、差異をだけ、歌った。

即ち、この詩の主題は「……」にあって、「……」と「……」の間に文字が書かれているの
です。文字で書かれた行が詩であるのではないのです。これが、「”物”と”実存”との対
話」という安部公房の言葉の意味なのであり、この考えで書かれた、安部公房の詩の意味な
のです。

「いま、こうして眺めまわしている箱の内側」と最初の語句にありますから、この文を言っ
ている話者、そうしてこの文を一緒に読んでいる読者であるあなたは、箱男になっっている
ということになります。やはり、最初の4枚の写真を置いた目的は、その前後の文字によっ
て書かれた章との関係から言って、読者が箱男になって、この写真という窓から外界の存在
を眺めるようにということなのであり、その仕掛けを仕組んだ安部公房のトリックの一つで
あるのです。

二つ目の文「自分の容積よりわずかに広い、立方体」。

これは、最初期の短編小説『天使』にもあります、安部公房の主人公がひとしなみに閉じ込
められている、或いは閉じ込められていると感じている閉鎖空間です。これは、全集の第1
巻の最初に収録されている18歳の安部公房の論文『問題下降による肯定の批判』以来終生
変わらぬ安部公房の問題意識であり、すべての作品を貫く主題です。

ここでは、この閉鎖空間は箱であり、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で明ら
かなように、この箱は存在なのであり、存在から存在へと窓から脱出をして、また次の存在
の部屋である箱へと出入りを繰り返す主人公の意識であり人生であるのです。

さて、そうであるとして、「汗と溜息でなめされた、ダンボールの壁」は、やはり此のダン
ボールの箱もまた存在なのであり、『S・カルマ氏の犯罪』以来の(存在の)壁であることが
歌われております。

しかし、箱といい、壁といい、主人公は存在の中に未分化の実存として生きることができて
いるわけですから、一体何の不足がありましょう。何故箱男は、箱抜けをして、箱から脱出
を図らねばならないのでしょうか。

さて、三つ目の文「一面に小さく書き込まれた、ボールペンの落書」。

この耳と鼻の解説図には、ボールペンの落書きは書かれていないように見えます。しかし、
この詩が上の写真の解説であるという役割を演じているのであれば、間違いなく透明なイン
クの入ったボールペンで、頭骨の間の空白余白に書かれているのでありましょう。消しゴム
で書くと言っている安部公房の落書きであり、箱男の落書きです。

四つ目の文「裏返しに彫られた入れ墨」。
もぐら通信
もぐら通信 ページ41
ページ41

確かに、この耳と鼻の解説図の下方には、入れ墨のような人体の部分の紋様の如き絵図が見
えますし、この図柄は人体の裏側の図ですから、「裏返しに彫られた入れ墨」であるのです。
しかし、この発想もまた、安部公房らしい。何故ならば、入れ墨は普通は、表側に彫るもの
だからです。

この「裏返しに彫られた入れ墨」ということから、最初の写真の若いヤクザの男と同じ人間、
裏返った人間を、デンドロカカリヤや他人の顔の主人公やら、安部公房の作品に共通の人間、
即ち未分化の実存を歌った語句であるのです。

そうして、この彫るという連想から、最後の五つ目の一行が書かれるのです。

五つ目の文「見栄えのしない履歴のすかし彫り」

入れ墨は、確かに「履歴のすかし彫り」であるのであり、その人間が法律の外に生きる未分
化の実存、即ち社会の管理台帳に登録されていない法律の外に棲む人間であるということを
意味しています。

そうして、そのような人間としてビルとビルの隙間に棲む箱男は、これも確かに「見栄えの
しない」存在なのです。すかし彫りの論理と感覚については、上の[註14]をご覧くださ
い。

リルケに学んだ此の「ビルとビルの隙間に棲む」という隙間に棲む感覚と論理については、
上の[註11]で述べた通りです。

(3)万博会場における、身体障害者のための記念撮影風景(4枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:静止している車椅子
何故これが廃物であるかというと、動かない移動体であるからです。これも役立たずの、そ
うして、永遠の時間の中にある廃物の一つなのです。廃物は、永遠の中にあるのです。

ここでは、『方舟さくら丸』の存在の洞窟の中への入り口であるスバル360という廃物た
る自動車と同じものを、安部公房は写しているのです。

また、後に出てくる、タイヤの無い自転車を押して行く乞食の写真と同じ対象を撮影してい
るのです。

②廃人:身体障害者の少女
この廃人の形象(イメージ)も、上述した「喀血で呼吸困難におちいった重症患者」の形象
と全く同じです。

安部公房の意識では、このような少女は廃人に帰属する形象なのです。わたしたちは『密会』
の溶骨症のあの哀切極まりない少女を思い出せば十分ではないでしょうか。もちろん、同じ
(わたしが偏奇な少女と名付ける)未分化の実存に生きる少女は、『終りし道の標べに』に
料理人の(まだ純朴素朴の)娘として、『他人の顔』のアパートの知恵遅れの管理人の娘と
もぐら通信
もぐら通信 ページ42
ページ42

して、『カンガルー・ノート』にも「火焔河原」などに出てくる「下り目の少女」として、
繰り返し登場しております。細かく拾えば、これ以外にももっと登場していることでしょう。

身体障害者の少女を廃人だということは、普通の社会の中に住む登録された人間の意識では
あり得べからざる、何か本来大切なものであり優しくしなければいけない筈の重度の患者や
病者に対する言ってはいけないことを言っているように、もし単純に情緒的に反応すれば、
そのようなあなたには聞こえるのではないでしょうか。

安部公房が嫌い抜いたのは、そのような、あなたの偽善なのです。安部公房は、そのような
偽善を徹底的に否定しました。もっと正確に言えば、そのようにわたしたち人間のこころ
に、弱者と呼ばれる人間に対して持ちがちな安易な同情から生まれる偽善を嫌ったのです。

そうして、同様に今度は反対の側から、即ち患者と呼ばれる人間が、自分が弱者であること
に甘えて、強者には何かをしてもらうことが当然だという思いから発する偽善をも嫌い、否
定しました。

それ故に、この両者の差異から、安部公房の『密会』のエピグラフ「弱者への愛には、いつ
も殺意がこめられている----」という苛烈な箴言、第三の箴言が生まれるのです。

この辛辣な、黒い笑いの言葉もまた、上に述べた弱者と強者の差異、即ち両者の関係の中に
身をおいて安部公房が発した一言なのです。[註15]

[註15]
以下『もぐら感覚21:緑色』(もぐら通信第25号)より引用してお伝えします。:

「『裏からみたユートピア』(全集第25巻、503ページ)の最後の節「逆転した寓話」に、安部公房は次の
ようにこの『密会』の愛と殺意と弱者•強者の関係を解説しています。

「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という言葉を置いたけ
れども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆
転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立ち場と、小説を書いている僕
の立ち場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、
この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたというこ
とになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書い
たとも言える。」(下線部筆者)

「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場は、強者、即ち「登録された空間に棲む人
間達」の立場であり、「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という立場は、弱者、即ち「世
間にとって未登録の空間」の中に孤独に居る「蹲る影」の立場だということになります。

「「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょ
うど裏表なんだな」とありますから、小説家安部公房の立場は弱者の立場のように思われますが、実はそうでは
ありません。続けて、「書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はや
はり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた(下線部筆者)という
ことになる」と言っているからです。

大切なことは、安部公房は強者•弱者のどちらか一方の立ち場に立って書いたといっているのではなく、「僕の
眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた」と言っていることです。この論
理は、この論考の最初で10代の安部公房の詩を解析したときに指摘した安部公房の顕著に特徴的な思考論理、
即ち「安部公房は対象の周囲、周辺に着目するのです。対象以外のものに眼をやるのです。そうしておいて、そ
もぐら通信
もぐら通信 ページ43
ページ43

の対象を、周囲にある物ではないものとして陰画で見るのです。」と指摘したことの、安部公房自身による証明
になっております。安部公房は率直に自分と作品(対象)の関係を、ここで語っているのです。」

「僕が自分の眼にはしたくない眼」というのが、陰画として差異(関係)だけをみる眼のことなのです。

そのように考えて、この写真の下の詩を読んでみましょう。

「 見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとし
て、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者
が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。」

安部公房がリルケに学んだ主題と動機(モチーフ)は、愛と別れと死と遥かな距離でありま
すが、この他者との距離を0にするために安部公房の小説の主人公たちは皆、その命を引き
換えにして、無名のままに、失踪したり死んだりするのです。そうやって、最初の物語の閉
鎖空間を脱出する。

この場合の、この詩にある距離は、弱者というものを巡って、見るものと見られるものと、
それから愛と憎しみという、これら両極端のものがあり、その差異にこの詩は生まれたとい
うことになります。

そうして、見るものと見られるものの両極端が、見るということを通じて、交換されて、互
いが互いに今度は反対の立場になり、愛することと憎むこととも交換される。

この平等な、superflatな交換関係の中に、確かに「弱者への愛には、いつも殺意がこめられ
ている----」という苛烈な箴言の生まれる道理がよくわかります。

何故ならば、愛することは憎むことに通じ、憎むことの一番極端なるものは殺人であるから
です。これが、安部公房の論理であり、『密会』の世界の論理です。だとすれば、今度は、
憎むことは愛することに通じ、愛することの一番極端なるものは一体何になるのでしょうか。

このことを、(弱者、強者)と(愛すること、憎むこと)の関係で考えると、上の[註1
5]で安部公房の言っていることは、次のようになります。
もぐら通信
もぐら通信 ページ44
ページ44

この表をみて、空白のセルが幾つかあることを知って、浮かぶ疑問は、次のような疑問です。

(1)弱者は強者を愛することはないのだろうか?
(2)弱者は強者を憎むことはないのだろうか?
(3)強者は弱者に愛されることはないのだろうか?
(4)強者は弱者に憎まれることはないのだろうか?

この4つの問いのうち、(4)については、肯定の答えが上の[註15]に安部公房の言葉とし
て言われております。とすると、残りの3つの問いについては、どうでしょうか。

『密会』の偏奇な少女、即ち溶骨症の少女は、この3つの問いには沈黙しているように思われま
す。

それならば、ジャンプシューズを履いた主人公はどうでしょうか。

この答えは、安部公房の思考論理に戻って考えれば、これらの3つの問いに対しての答えは、い
づれも,肯定と否定の場合が両方あるということになりましょう。この肯定と否定の差異、その間
(はざま)、その空虚空間を選択するのが、安部公房の思考論理です。これを、『榎本武揚』に
ついて言えば、その主人公の求める道を第三の道と呼びましたし、この思考論理は既に『詩と詩
人(意識と無意識)』という20歳の其れまでの思考の総決算の論文に書かれている通りです。

さて、この写真の中にある差異は、一体何でありましょうか。

それは、手前の身体障害者の乗っている静止した車椅子に対して、後方に背景としてある移動し
てやまない自動車との対比、その差異を写したものだということが、写真の奥をみるとわかりま
す。

そうして、更に、その自動車そのものが、何かと何かの建物の差異(間)にあるように写ってお
ります

そして、その自動車の前に立っている二人の人間が一組の男女であるならば、尚更に一層の差異
を写したということになります。この男女の差異については、安部公房は写真の現像の処理によっ
て、敢えてぼかしています。差異という混沌の創造、迷路迷宮の創造です。

このように、安部公房の世界は入籠構造(ネスト構造)の世界なのです。

(4)駅の公衆便所(6枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:小便
何故これが廃物であるかというについては説明無用でありましょう。

②廃人:ここには廃人はいないように見えますが、しかし廃物である小便を排出する人間であれ
ば、生きた人間も其の時には廃物になると考えるのであれば、そのような此の瞬間、この時間の、
便所の中の人間は廃人であるということができます。

そうして、何故便所が、安部公房の嗜好の場所かといえば、それは奉天の郊外の底なし沼以来の、
そうして其の底なし沼の近くにあった河を渡る鉄橋という二つの場所を接続する橋と、その交差
の傍にあった死刑に処された人間たちの晒し首の台のあった場所の形象と連想から、死に親しい
交差した底なしの場所、即ちそのような形象として在る上位接続への場所であるからです。『も
もぐら通信 ページ45
もぐら通信 ページ 45
ぐら感覚15:便器』(もぐら通信第13号)で詳細を論じましたので、お読み下さい。

この場所が死に親しい接続の場所であるのは、例えば『S•カルマ氏の犯罪』の中の箒を持って便
所周りを掃除する老人として、また後年も『方舟さくら丸』にも老人箒隊として登場することは、
読者周知の通りです。

排泄の場所=廃棄物の捨て場=隙間=差異(世間から忘れ去れている場所)=余白=空=関数=
上位接続の場所という連想です。

排泄こそ、最大の差異なのです。従い、廃棄するという行為も、その廃棄される廃棄物も。こう
してみると、安部公房が何故、公道で歩きながら脱糞する馬という動物を嫌ったのかもよくわか
ります。廃物を排泄するという行為と、その行為が上位接続をすることであるということ、この
差異が、この写真にあるように隠されて表されるのではなく、公道で太陽の下でおおっぴらになっ
ていることに不快と嫌悪を覚えているのです。

そうして、この廃棄物と廃人は、絶えず移動してやまない旅人なのです。馬も、確かに移動し、
移動するための動物です。安部公房十代の詩に『旅よ』と題した、旅そのもの、旅という移動す
ることそのものに呼びかけた詩があります(全集第1巻、76ページ)。1943年、安部公房
19歳。

「旅よ、お前は情(つれ)ない別離であるのか
あてどもなくさまよふ夢であるのか。
それとも果てしない没落の
あの か弱い あこがれであるのか。

いや、お前は一つの故郷(ふるさと)ではなかつたか
私達の帰つて行く家ではなかつたか
木の間 木の間の緑のしづく
あのこぼれ落ちる 日光ではなかつたか。

(略)」

既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で、安部公房の暗号の規則を解読した私達には、
やはりここにも、一文字分の空白のあることを発見するのです。それは、「あの か弱い あこ
がれ」であり、「木の間 木の間の緑のしづく」であり、「あのこぼれ落ちる 日光で」あり、
上の引用の後に続く連から更に引用すれば、「あのくづれ行く 青い波間」であり、「金や銀や
小さな星」であり、「静かに そつと 眠らせ」て下さい」という、存在と存在へ誘う使者を招
来するための祈願であり、祈祷であり、祈りです。

この詩では、旅そのものが絶えず移動して止まない当の存在の性格そのものですから、最後に人
さらいが招来されるのではなく、旅が話者を眠らせて、「あの湖底の一時」という存在の世界に
優しく連れて行くという体裁、しかしいづれにせよ人がさらわれる体裁になつております。

さて、この写真には、どのような差異が写っているのでしょうか。

この写真にある男子便所の空間はタイル張りであることからお判りのように、水平と司直の線か
らなる奉天の窓と同じ解析幾何学的な積算値が一つのタイルに差異の値として存在する世界、セ
ル(細胞)の集合、窓の集合であるのですから、もうこのことを思うだけで、これは奉天の窓そ
のものでありますから、この問いには答えたことになります。

そうだとして、写真の下の詩を読んでみましょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ46
ページ46

「 滑り止めの溝を刻み、枯葉色のぶちを散らせた堅焼きの白タイル。その溝を伝って静かにう
ねっている、細い水の流れ……いったん小さな水溜りをつくり、再び流れだし、ドアの下に消え
る。」

この詩では唯一ある「……」が、その両端の文を上位接続する役割を負っています。

「滑り止めの溝を刻み、枯葉色のぶちを散らせた堅焼きの白タイル」という一行で、この場所の
紹介をしています。それは、上で述べたようなマトリクスの世界です。

さて、そうしますと、この詩は、その積算の値の集合である、其の場所にある「その溝を伝って
静かにうねっている、細い水の流れ」と「いったん小さな水溜りをつくり、再び流れだし、ドア
の下に消える」流れのふたつの流れの接続を歌っていることになります。

前者は、流れ、後者は、滞留という状態、この二つの差異の接続でありましょう。そうして、そ
の流れは「ドアの下に消え」て行く。

この流れは、どこへ消えてゆくのでしょうか。やはり、これも上の『旅よ』の詩でみましたよう
に移動をして止まず、次の存在の部屋へと流れていくものと思われます。

(5)ミラーに映っている旧海軍将校用のクラブ(5枚目)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:鏡の中に映じている旧海軍将校用のクラブ
何故これが廃物であるかというについては説明無用でありましょう。これは、既に廃屋になって
いるのでしょう。

②廃人:ここに廃人は映ってはいないように見えます。しかし、敢えて言えば、この建物の中に
いるかも知れない旧海軍将校の幽霊たち、或いは表通りには人気がないものの、しかしそこにい
るかも知れない透明人間たちということになるかも知れません。『幽霊』という戯曲を連想する
読者もいることでしょう。

さて、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』でも述べましたが、奉天の窓と存在の部屋は存
在の十字路にあります。その通りに、このカーブ・ミラーと呼ばれる凸面鏡もまた、十字路に立っ
ていて、まだ予測できない筈の(時間ならば)未来を、(空間ならば)『カーブの向こう』、即
ち曲がり角の向こうを予め見ることができるわけです。[註16]

[註16]
安部公房のエッセイ『ミリタリィ・ルック』(1968年、全集第22巻、135ページ)について論じた『もぐら
感覚22:ミリタリィ・ルック』より以下に引用してお伝えします。:

ここで安部公房の言う異端の道化の姿は、次に構想される小説の中に、箱男として、現れるものでしょう。

「けれど小さな滴がぽつたりと......
おゝ 僕は、
大きなゆがんだレンズです。
救ひに両手を差しのべる、
大きなゆがんだレンズです。」
(『〈秋でした〉』の第6連。全集第1巻、67ページ)

と歌った10代の安部公房のこころは、そのまま透明な、歪んだレンズの眼となって、いやその全身が歪んだ大きな
レンズの眼となって、箱の内側から窓を通して外を見る箱男という奇形、異形の者として、そうしてわたしたち自身
の姿として、今もわたしたちのこころの中に、活き活きと生きています。読者であるわたしたちが、箱男に「救ひに
もぐら通信
もぐら通信 ページ47
ページ47

両手を差しのべる」のか、箱男がわたしたちに「救ひに両手を差しのべる」のか、両方が絶えず交換関係にあって、
AなのかBなのか、AでもなくBでもなく、解らぬままの、安部公房らしい、この詩の歌う通りに、第三の客観を求める
異形の者の姿として。

1973年の『箱男』には、『〈秋でした〉』の第6連に歌われている「大きなゆがんだレンズ」の写真がある(全
集第24巻、109ページ)。

やはり、1970年11月25日の三島由紀夫の市ヶ谷での、戦後の日本の国という贋の国家(偽装国家)の贋の軍
隊施設の司令の中枢での、日本古来の儀式に則った自己に固有の死、即ちその切腹を契機に、安部公房はリルケの純
粋空間へと、その10代の詩の世界へと回帰したというわたしの仮説は、正しいのだと思われる。
写真撮影が如何に安部公房の詩の世界であり、詩作の代償行為であるかは、『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3
号)で詳しく論じた通りです。

勿論、この写真にある「大きなゆがんだレンズ」、即ち凸面鏡は、道路の十字路によく立てられていることは、周知
の通りです。安部公房による、この写真への説明書き:「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
雨のしずく……濡れてぢぢんだ革の手袋…… 大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。国会議事堂
だとか、世界地図だとか……」(以上下線部筆者)

この写真に添えた言葉の中の「しずく」が、10代の詩で歌われた『旅よ』の「木の間 木の間」の、また、その他
の詩でも歌われた、あの接続空間に、射し入る複雑な日の光に照らされて滴(したた)る「緑のしづく」、即ち旅そ
のものであり、安部公房の動いて止まない「故郷(フルサト)」であることは、明白です(全集第1巻、77ペー
ジ)。

そして、この凸面鏡という「大きなゆがんだレンズ」は、現実にはいつも「黒い雲」があるかのように見通しの悪い、
しかし安部公房の詩心においては神聖な、自己が存在に成る十字路に立っていて、安部公房を異界へと誘うのです。
それも単なる情緒や叙情によってだけでは全然なく、全く数理•論理的な積算(論理積:conjunction)という高次の
次元の接続への誘いとして。

さて、この写真の下に付された詩を読んでみましょう。

「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。雨のしずく……濡れてちぢんだ革の
手袋……大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。国会議事堂だとか、世界地図
だとか……」

既に上の「(2)喀血で呼吸困難におちいった重症患者のための病室の貼紙(3枚目の写真)」
でみた通りに、ここでも「……」と「……」の間に文字が書かれていると解します。

ここに歌われている差異は、言うまでもなく、小さなものと大きなもの、 生と死という対比によっ
て示されて、それらのあいだにある「……」という余白でありましょう。

この詩の上にある写真の差異もまた余白として、沈黙として在る差異の筈ですが、それはどこに
写っているのでしょうか。

まづ、気がつくところから言葉を挙げて行きますと、

(1)方向指示板としての立て札が、凸面鏡の下にあります。この撮影の対象の切りとり方であ
れば、この矢印は存在である鏡の中の世界に通じていると、撮影者によって変形されていること
になります。そうして、その矢印は、時間の存在しない方向、即ち垂直の方向を指し示しており
ます。さて、
(2)その指し示された先にある凸面鏡という「大きなゆがんだレンズ」に映じているのが廃墟
たる建物である。
(3)「大きなゆがんだレンズ」にの中には、交通標識としての立て札も更に、入籠構造になっ
て、合わせ鏡になって、立っている。
もぐら通信
もぐら通信 ページ48
ページ48

ということになり、そうして、このように考えて来て、この写真にある差異を考えると、次のよ
うになります。

(1)現実の時間の中にいる読者であるあなたが、箱男になって、その箱の中から其の向こうに
ある外を眺めたときの、現実・非現実の差異。或いは逆に、箱男では無いあなたが、単純な読者
になって、箱男の箱の中を覗いて、其の中にある内側の景色を眺めたときの、現実・非現実の差

(2)その後者の非現実の差異の中にある更なる差異、即ち凸面鏡という「大きなゆがんだレン
ズ」に映じている贋の、従い存在の現実と、その周辺にある(写真の中とはいへ)本物の現実と
の差異。現実の方が贋の現実の周囲にあるというのが如何にも安部公房らしい更なる逆転。

このような差異だということになるでしょう。

(6)タイヤのない自転車に全財産をつみ込んで歩いている乞食(7枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:乞食の運んでいる、人の捨てた廃物
何故これが廃物であるかというについては説明無用でありましょう。

②廃人:乞食。これもまた、安部公房によれば、役立たずの人間でありますから、廃人の一人で
す。安部公房の好きなサミュエル・ベケットが何故よくゴミ箱のそばにいて、いつも写真に撮ら
れるようにすのるかを思って下さい。安部公房の世界は、ベケットの世界に大変よく通じている
のです。

安部公房の上の見出しによれば、これは「タイヤのない自転車」でありますから、永遠に前に進
まない乗り物であるということになります。

しかし、実際にはタイヤがないとは言へ、動いて移動するわけのものでありましょう。しかし、
「タイヤのない自転車」とは、移動し且つ移動しないという永遠の廃物ということになり、これ
を此のように考えますと、やはりまた此処でも『方舟さくら丸』の大きな洞窟という方舟への高
い崖にある入り口として在る廃車となったスバル360という、方舟という存在の洞窟への入り
口を思い出します。この自転車は、『方舟さくら丸』のスバル360でもあるのです。

この乞食は、社会の管理台帳には登録されることなく、無名のまま、名無しのまま、ただただ、
この箱男たるあなたの眺めやる其の窓の向こうで、永遠に動かぬ自転車を押しながら、存在への
旅を続けているということになります。

手前に写っている金網の柵は、その向こうとこちら側との境界線なのでありましょう。そして、
またこちら側にいるのが、箱男としての読者であるあなたということにもなれば、柵のこちら側
にいて、箱男の箱の中にある光景を眺めているあなたということにもなります。

そのように箱の窓から外へ、また同時に(同時とは何か?です)逆に外から中への景色を眺めて、
奉天の窓の下に落書きされている詩を読むことにしましょう。

「 ここは箱男の街。匿名が市民の義務となり、誰でもない者だけに許された、居住権。登録さ
れた一切のものが、登録されたというそのことによって、裁かれるのだ。」(傍線筆者)[註1
7]

このように考えて参りますと、この詩にある「匿名が市民の義務」というこの義務という言葉の
意味は、もはや法律上の権利と義務の義務では全くなく、市民という(現実ならば)地方自治体
もぐら通信
もぐら通信 ページ49
ページ49

と其の上に統治する国家という組織体に帰属する法律上の個人の義務ではなく、何か人間として
本来なすべきことという意味に使われていることが解ります。

[註17]
この「誰でもない者」を歌ったリルケの『形象詩集』の最初の詩があります。この詩集の詩を、安部公房は20歳前
後に貪るように、溺れるように、読みふけったのです。『リルケの『形象詩集』を読む(連載第1回)』(もぐら通
信第32号)より引用して、安部公房という人間をあなたにお伝えします。:

「【原文】

EINGANG

Wer du auch seist: am Abend tritt hinaus


aus deiner Stube, drin du alles weißt;
als letztes vor der Ferne liegt dein Haus:
wer du auch seist.
Mit deinen Augen, welche müde kaum
von der verbrauchten Schwelle sich befrein,
hebst du ganz langsam einen schwarzen Baum
und stellst ihn vor den Himmel: schlank, allein.
Und hast die Welt gemacht. Und sie ist groß
und wie ein Wort, das noch im Schweigen reift.
Und wie dein Wille ihren Sinn begreift,
lassen sie deine Augen zärtlich los...

【散文訳】

入り口

お前が誰であろうとも:夕方には外に出よ
お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ、何故ならば
遥かな距離の前に在る最後のものとして、お前の家はあるのだから
お前が誰であろうとも。
お前の両眼は、疲れていて、
消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはないが、
その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。
そして、お前は世界をつくったのだ。そして、その世界は偉大だ
未だ沈黙の中に在って成熟している一つの言葉のように。
そして、お前の意志が、その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解するに従って
お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...

【解釈と鑑賞】

この詩は、あるいは詩というものは、上に述べましたように、書かれたそのままをその通りに無媒介で受け取る以外
にはないものです。この読み方に堪え得る詩だけが、一流の詩です。

安部公房の作品をよく寓話ととる人がいますし、そのような読者の多々いることも確かですが、しかしそれは安部公
房自らが言っている通りで、安部公房の作品の読み方ではない。安部公房は寓話を書いているのではないからです。

即ち、安部公房の言葉の性質は、詩の言葉の性質を同じなのです。その言葉をその通りに受け取るということが大切
なことなのです。そうして、そうやってみて、この詩に何か難しさを感じたら、それは安部公房の小説の言葉を読む
ときの難しさと全く同じなのです。

そうして、上の詩を読んで、よくわからないところがある、これは何をいっているのだろうと思い、引っ掛かる言葉
が、あなたにはあるでしょう。それが、この詩を理解する鍵なのです。

その鍵を手にしたまま、次の段階に入ります。即ち、詩の言葉をそのまま素直に受け取った後に、解釈をするのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ50
ページ50

解釈ということは、何かと比較をして初めて成り立つものです。

(略)

第1連:

「お前が誰であろうとも」とは、お前が誰であろうが、即ち男であろうが女であろうが、教師であろうが生徒であろ
うが、どこそこの生まれであろうがそうでなかろうが、警察官であろうが、消防士であろうが、また、お前が何の何
兵衛、何の何子であろうが、という意味です。

これは、文法用語でいう認容文出会って、条件文の一つです。この「お前が誰であろうとも」という条件文は、副文
であって主文ではなく、庭であって母屋ではないのです。

この「お前が誰であろうとも」という状態にある私のことを、十代の安部公房は、後年言っているように、未分化の
実存と理解し、そう呼んだのです(『錨なき方舟の時代』、全集第27巻、167ページ下段)。

即ち、「お前が誰であろうとも」ということは、主たる文(主文)にはなく、二次的な、二義的な、周辺にある、条
件文(副次的な文)の中にあるということ、これが未分化の実存という言葉の持つ意味の一つなのです。

更に即ち、「お前が誰であろうと」いいのですから、お前と呼びかけられる読者たる私は、有名ではなく、無名の人
間だということになります。

この人間にとっては、この条件文に棲むこと、即ち二次的な、二義的な場所に棲み、その直ぐ隣にある境界線とその
向こう(にある主文と主文を構成する主語)を、国境と呼び国家と呼ぶか、それを孤独と呼び、その向こうにいる人
間を隣人と呼ぶか(或いは呼ばずに)他者他人と呼ぶか、カーブと呼び、その向こうを「カーブの向こう」と呼ぶの
かは、本質的には皆全く同じことなのです。

そうして、この位置を保持したままの移動を「周辺飛行」と呼び、何故ならばflying(飛行)とは、放浪する、さ迷
うという意味でありますから、絶えず移動をして旅することになり、そのような周辺という二義的な、条件文の場所
を辺境と呼べば、そこは「内なる辺境」となるのです。

これらのことは、安部公房の語彙を使って説明をしたものですが、しかし、これはそのままリルケが、この詩の冒頭
の「お前が誰であろうとも」という一句、この認容文で、19歳の安部公房に教えたことなのです。

安部公房は、この最初の言葉を読んで、これらのことを理解したのです。

そうして大切なことは、この「お前が誰であろうとも」で始まる「形象詩集」を、祖国日本に帰還しようと復員船に
乗っている間も読み耽っていたということ、即ち、大陸で満洲国が崩壊し、失われた、存在しない国になったその国
から、同様に戦争に敗れて国家の独立性を喪失した大日本帝国という国の間を、大陸から日本列島へと移動しながら、
そうして従い存在しない国境を越えながら、読み耽ったということ、このことの持つこの詩集の意義は、安部公房の
人生にとっては、実に意義深いものがあります。

その最初の言葉が、無名である私を歌った認容文であって、主文ではなく、二次的な条件文であったということ、中
心にではなく、周縁に棲むことであったこと、無名の人間として、即ち未分化の実存として、二つの失われた祖国の
国境を越えることであったこと、これが、安部公房にとってのリルケの『形象詩集』の持つ、そのまま最晩年に至る
までの深い意義であり、深い影響であったのです。

さて、このように最初の条件文を理解して、その次に来るのは、夕方、夕暮れです。

夕暮れというのは、昼と夜の境目の時間、これも境目の時間です。やはり、時間の境界なのです。そして、この境界
は、時間が朝から昼になるために通過する境界ではなく、昼から夜になるために通過する境界なのです。

最初の「お前が誰であろうとも」という認容文と、この「夕暮れには」という言葉で
始まる主文との間には「:」(コロン)があって、これは、即ちという意味です。

即ち、この詩は、最初の条件文の意味を説いた詩なのです。この小説は、最初の条件文の意味を説いた小説なのです、
と言い換えると、そのまま安部公房の小説の世界のことになるでしょう。

そうすると、安部公房の小説はみな、上位接続(積算)された空間(次元)へのEingang(アインガング)、即ち入
り口を描いたものと理解されるでしょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ51
ページ51

と、このように考えて参りますと、この「お前が誰であろうとも」という最初に置かれた認容文は、この詩の入り口
であるのみならず、この詩集全体の入り口であることに気づきます。詩人は、このように多層的に、多重的に、多次
元的に、言葉を用います。これは、安部公房の持つ言葉の性質と全く同じです。

さて、そうしてその次に、やはり、ここに部屋という言葉、安部公房にとっては重要な言葉が出てきます。

(略)」

余談のようになりますが、このタイヤの無い自転車というものは、文法で考えますと、述語(タ
イヤ)の無い自転車(乗り物たる主語)ということになって、文法の世界では、そのまま、述語
の無い主語という論理に変形します。

即ち、述語がなければ、主語は意味を失うのです。何故ならば、主語に働きかけて二つの間の関
係を創造するのは述語だからですし、述語には差異が置かれるからです。述語がなければ、主語
の絶えざる移動という旅は成立しないのです。

これは、このまま最晩年のクレオール論であることに、ここまで来ますと、読者は気付かれるこ
とでしょう。

(7)文字どおりのスクラップの山:自動車の廃棄物の山(8枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:廃棄された自動車
何故これが廃物であるかというについては説明無用でありましょう。そうして、それが自動車で
あって、全く動かない自動車であるということに意味があるのです。即ち永遠に、動力なく、自
然の力の法則を無視して走り続ける永遠動力機関だからです。即ち、『方舟さくら丸』に登場す
るスバル360や、同様に其のように自給自足の存在の生物、従い贋という文字を冠せられて命
名されたユープケッチャという贋の、従い存在の虫、即ちこの物語で方舟の洞窟という存在の船
の中へと主人公と乗船有資格者を導く使者、即ち存在への案内人と同じ意味を、安部公房にとっ
ては、持っているのです。従い、この写真にある廃物としての自動車は皆、贋自動車と呼ぶに値
する自動車なのです。

②廃人:もしこの、存在の自動車、即ち贋自動車の運転席に乗っているものが、この写真に写っ
ていれば、それが廃人ということになりましょう。そうして、多分その本物の贋物の運転手は、
そうなると存在の運転手でありますから、透明人間になっていてしまい、このアナログ処理の写
真には写らないということになっているのです。それは、上の旧海軍将校のクラブの映る歪んだ
カーブミラーの中の存在(幽霊)と同じ被写体です。

さて、写真の下の詩を読んでみましょう。

「走りつづけたが
追いつけなかった人々の
贋のゴール
旗は振られ
審判も観客も
とうに引揚げてしまった
夜の競技場」

これは、確かに競技場の、時間の中での競争を歌っておりますが、しかし、その競技場としての
もぐら通信
もぐら通信 ページ52
ページ52

場所は、夜の中にあり、審判も観客も「とうに引揚げてしまった」場所でありますから、「走り
つづけたが/追いつけなかった人々の/贋のゴール」とは、永遠に到達しない其のゴールとは、正
(まさ)しく此の廃棄物の場所、永遠に移動して止まない自動車の墓場、即ち贋のゴールであり、
従い贋の現実だということになりましょう。

さて、そうしますと、この贋の現実に存在する廃物としての自動車は、差異に存在するわけです
から、その差異はどこにあるのでしょうか。

それは、廃物の後ろに写っている、生きた人間の住んでいる家の屋根との差異があり、そうして、
また更に、この写真の手前にいるあなたという読者と其の家の間、この差異に此の廃物たる自動
車は永遠に、動かぬままに動いているということになります。

(8)貨物列車:「それからなぜか、貨物列車。ぼくの分類法によれば、これも廃物の仲間らし
いのだ。」(2枚目の写真)
この写真に写っている廃物と廃人の形象は、次のようなものではないでしょうか。

①廃物:貨物列車
何故貨物列車は廃物なのでしょうか。これは、当然のことながら移動している貨物列車ではなく、
停止し静止して動かぬ貨物列車でありますから、本来は移動すべきものが静止しているというこ
とから、上の万博の身体障害者の少女の乗る車椅子や、タイヤのない自転車を押して行く乞食の
其の自転車や、廃車のスクラップの山と同じ理由で、安部公房の分類法によれば、廃物の仲間に
なるのです。

何故ならば、静止している貨物列車、それは永遠に移動する(次の次元へと次々と移動して止ま
ない)旅する上位接続者であるからです。

②廃人:貨物列車の運転士。もしこの貨物列車に運転士がいれば、その人間は存在の人間であり
ますから、他の写真の該当する場合と同様に、幽霊となり透明人間となって、廃人の面影を宿す
ことになるでしょう。

この写真に写っているのは、この全体としてみれば、これは存在の方向を示す方向指示板たる立
て札です。この貨車は、仙台とどこかの間を移動する貨車なのでありましょう。

そしてまた、「ワム 93332」という文字が、部外者には一種の暗号になっていることもま
た、安部公房を惹きつけたことでしょう。何故ならば、安部公房の差異を歌う『無名詩集』やそ
の他の詩は、は、独自に概念化された、従い普通には容易に読むことの出来ない此のような暗号
で書かれているからです。

そうして、やはり此処に差異を安部公房は写しているのは、更に立て札の中にある二つのより小
さい立て札の間の差異にある文字「積2.0/空1.0」という文字によって示されている積載時の重さ
と空っぽの時の重さの差異を更に一層写しているからです。

このより小さな立て札の差異によく似た差異を、安部公房は公衆便所でありましょう、全集第2
4巻、裏表紙裏の写真、即ち二つのトイレットペーパを収める容器の間と其の間にある落書きを
撮影しています。お手元に全集のある方はご覧になって下さい。安部公房の主題と動機はいつも
変わりません。

さて、この写真の下にある詩を読むことにします。

「 その日最後の貨物列車が、機関区の支線から本線へと、外側に大きく傾き、ポイントを鳴ら
もぐら通信
もぐら通信 ページ53
ページ53

しながら発車して行った後、後尾の赤いランプをぼんやり見送っていた操車掛は、線路の上にダ
ンボールの紙箱が落ちているのを見つけて、首をかしげた。
箱が歩きだした。」

この詩に歌われているのは、支線から本線へと上位接続をして旅し移動して行く貨物列車です。
ポイントは、上位接続の接続点。赤いランプを操車掛が見送るのですから、やはり存在は夜になっ
て姿を表すのでありましょう。そうして、その差異の接続点、即ち交通の要衝たる交差点、存在
の十字路にこそ、箱男が姿を現し、歩き出すのです。

その貨物列車が支線から本線へと上位接続するのは、やはり、夜である。最初の若いヤクザの写
真の中の時間がそうであったように、そうして、第32章の無題の詩に歌われているように、時
間を空間化する時計の文字盤の上では、午前2時の2の文字も、貨物列車が「無停車で通過して
くれるので/減り方も半分ですむ」わけでしょう。

最後にこの8枚の写真についての安部公房の言葉を、冒頭言及した『シャボン玉の皮』より引用
して、以上、わたしたちが一体何をしたのかを反省してみることに致しましょう。

「『箱男』の中に入れた八枚の写真は、それなりに好評だった。と、自画自賛したりできるのも、
ぼくがまだアマチュアのせいだろう。(略)
考えてみると、ぼくにはまだ自分のモチーフがよく自覚できていない。なぜ写真を撮ろうとす
るのか、どんな写真を撮りたいと考えているのか、自分で自分の気持ちが整理できていないのだ。
だがある種の傾向はある。ぼんやりとだが、一定の嗜好はみとめられる。シャッターを押す動機
を、無理に分析したりするまえに、どんな場合にシャッターを押したくなるのか、とにかくその
具体例を思いつくままに並べてみることにしよう。」

と書いて、その後に、ゴミ、「川や橋や道路や鉄道が交差し合っているような所で、構造上どう
しても人間が住めない空間があり、しぜんゴミ捨て場として利用されることになる」そのような
空間、そのような「未登録の空間」について述べています。

この安部公房の最後の言葉を引用すれば、これらすべての「未登録の空間」を一枚一枚写真とし
てみてきたということ、「シャッターを押す動機を、無理に分析」してきたということになりま
す。

後は、写真と等価である、文字で書かれた小説本文の一章一章を読み、その章同士の「支線から
本線へと」上位接続されている接続点である見出しの「《………………》」という見出しに着目
しながら、この『箱男』という4次元小説を読むこと、これが、わたしたち読者の喜びというこ
とになるでしょう。

この論考で論じた8枚の写真をすべてshuffleして、ご破算にして、チェスという西洋将棋のゲー
ム(試合遊戯)でいうall undone(すべて無かったことにして、ご破算にしてー『方舟さくら丸』
の主題の一つー)、札を並べ替えて、わたしたちそれぞれの『箱男』を想像することに致しましょ
う。

さて、そうだとして、再度最初に戻って最後を考えることに致しましょう。即ち、箱男殺人事件
の犯人は一体誰かという問いに答えるのです。

「安部 『箱男』が型破りの小説であることはまさにそのとおりだと思います。独特の構造を
持っていますから。トリックもたくさん仕掛けてあります。しかし、それらが理解されるとは考
もぐら通信
もぐら通信 ページ54
ページ54

えられないな。たとえ注意深い読者であってもね。
――どういうことですか。
安部 大ざっぱにいって、『箱男』はサスペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造なのです。
――『燃えつきた地図』や『他人の顔』がそうであるのと同じ意味ですか。
安部 ええ。でもこっちのほうが極端です。あの小説を書いている男は罪を犯した男ですから、
したがってぼくがあの小説を書くためにその罪を犯したことになると思います。でもあの男の正
体はだれにもわかりません。ぼくが『箱男』の中で読者に伝えようとしたのは、箱の中に住むこ
とはどういうことなのかと考えてもらうことでした。もしだれかが自分で箱を作りたいと思った
ときのために、箱の組み立て方まで説明してあります。
(略)」(『安部公房との対話』と全集第24巻、472ページ)

安部公房が「あの小説を書いている男は罪を犯した男ですから、したがってぼくがあの小説を書
くためにその罪を犯したことになると思います。」といっております。

『箱男』の中で、自身箱男である自己も含めて箱男について手記を書いている男は、何故罪を犯
した男なのでしょうか?それは一体どのような罪なのでしょうか?

つまり、箱男は犯人であるということになる。最後に箱男は死んで被害者となる訳ですので、そ
れは箱男殺人事件の犯人は、箱男であるということになる。

ということは、この作品を読んで、実際に8枚の写真の向こうの外部を箱の内部から覗き、また
箱の外部に出て箱の内部の光景を覗いたあなた、即ち箱男になったりならなかったりしたあなた、
無意識の内に箱抜けをして再(ま)た箱に入ったあなた。あなたが箱男になったときに、あなた
は箱男を殺したのではないでしょうか?しかし、また、あなたが箱から脱皮したときにもまた、
箱男を殺さなかったでしょうか?

「でもあの男の正体はだれにもわかりません。ぼくが『箱男』の中で読者に伝えようとしたのは、
箱の中に住むことはどういうことなのかと考えてもらうこと」

箱の中に住み、箱男を殺した犯人であるあなたとは、一体何者であるのでしょうか?殺人者とし
ての、犯罪者としての、あなたの本当の名前は何というのでしょうか?

この問いにあなたが答えることができたときに、「箱の中に住むことはどういうことなのか」と
いう問いに答えたことになるのです。[註18]

そうして、そのときに、あなたは、5次元の存在の十字路に立っている箱男殺人者なのです。三
つの意味に於いて。即ち、一つは、箱男を殺した殺人者という意味であり、もう一つは、箱男と
して殺人したあなたが殺人者という意味であり、三つ目は、あなたという箱男が其の箱男によっ
て殺された被害者の箱男だという意味に於いて。

箱男が箱男を殺し殺された箱男だという再帰的な循環の世界の構造。「弱者への愛には、いつも
殺意がこめられている」

即ち、この最後に於いてもまた、あなたは依然として複数の差異の間にいるのです。即ち、合わ
せ鏡の世界にいて、殺人者と被害者との役割が永遠に交換される関係の成り立つ等価の世界にい
るのです。そして、あなたが現実だと思っている現実から永遠に逸脱を繰り返す。これが、存在
の革命です。

そうして、『箱男』を読み終えて、眼をあげると、あなたの周囲の世界が混沌として見えること
を、即ち差異がなくなって見えるばかりではなく実際に混沌になることを、混沌で実際にあるこ
もぐら通信
もぐら通信 ページ55
ページ55

とを、安部公房は願ったのです。

さて、そうして、あなたの目の前の現実が混沌であると知った時、その次にあなたの考える
べきこと、なすべきことは、一体何なのでしょうか?

(勿論、『箱男』を最初に戻って読み始めることです。
(答え)

[註18]
この箱男の「正体はだれにもわか」らないという正体について、安部公房は、『箱男』という小説そのものは無関係
なインタビューで、次のように、その答えを明かしております。重要な箇所ですので、[註5]との重複を厭わず、
もぐら通信第33号の『リルケの『形象詩集』を読む(連載第2回)』より以下に引用します:

成城高校時代の親しき、哲学談義を交わした友、中埜肇が次のような安部公房の姿を書き残しております。

「たしか高校二年の夏休前のことではなかったろうか。彼の方からそれまで全く面識のなかった私に、話したいこと
があると言って接触を求めてきた。時と所をきめて改めて会うや否や、彼はいきなり私に向かって「君は解釈学につ
いてどう思う」と切り出した。(その時の彼の言葉だけは五十年以上経った今でも私の耳にはっきりと残っている。)
当時既に日本でもハイデッガーの『存在と時間』の翻訳が出版され、わが国の哲学界や思想的ジャーナリズムにも「解
釈学的現象学」という言葉が姿を見せていた。(中略)
当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解していた。」(『安部公房・
荒野の人』35ページ)

安部公房は、デカルトの『方法叙説』と解析幾何学の本を読んでいたのです。デカルトは、バロックの哲学者です。

安部公房が中埜肇に初めて会ったときに発した「君は解釈学についてどう思う」という問いは、18歳に成城高校の
校友誌『城』に発表した『問題下降に拠る肯定の批判』の中で安部公房が、わたしは普通の社会の人間とは違って「座
標」軸なしで物を考えるのだといい、「一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか」と問い、この問いの答え
が、この論文の副題「是こそ大いなる蟻の巣を輝らす光である」という言葉の由来である「これこそ雲間より洩れ来
る一条の光なのである」といい、この一条の光こそが、この蟻の生きる閉鎖空間から脱出をするための唯一の方法で
あり、その方法とは、「遊歩場」という「道」、即ち時間も空間もない抽象的な上位の次元の位相幾何学的な場所の
創造であり、その為の方法が「問題下降に拠る肯定の批判」だといっています。

また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解してい
た。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮
面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)。ジュ
リー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。

「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを問題
になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」が
答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように方程式
をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から
勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方をする
のはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれども、実は
「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観
念論になってしまうということです。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デカルト的な」の意味)
の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」

既に18歳の安部公房は、この晩年の発言にある認識に至っていたということがわかります。そうして、何故ジュ
リー・ブロックが「でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでて」来ないかという理由を、上の二つの表(マ
トリクス)は示しています。

ここには、「ジュ(私)」は有りません。何故ならば、それは、安部公房のいう通り、「実は「私」というのは本質」
であるからです。何故ならば、本質とは、実体のあるものではなく、差異であり、関数だからです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ56
ページ56

この、安部公房のいう「私」を、西洋の哲学用語で、subject(主観、主体、主辞、主語)と言うのです。

上に表にした、実体の無い、関係概念としての、安部公房のいう此のsubject(「ジュ(私)」)の概念を理解
することは、安部公房の文学を理解するために大変大切です。「実は「私」というのは本質なんですよ。そし
て、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということで
す。」という安部公房の発言をよくお考え下さい。上の表(マトリクス)は、次のところでダウンロードする
ことができます:

https://ja.scribd.com/doc/266831849/安部公房の読者と作者-我と自我-主体と客体の関係-差異

3。個別の章を読み解いてみる
3。1 贋魚の章(第8章)『《それから何度かぼくは居眠りをした》』を読み解く

さて、以上の考察を元に、この贋魚の章を読み解いてみましょう。

この章の主人公、贋魚もまた、その登場する『《それから何度かぼくは居眠りをした》』と
いう章の冒頭で、シャーマン安部公房の秘儀の式次第に従い、次のような隙間、即ち差異の
中から生まれるのです。

「 ところで君は、貝殻草の話を聞いたことがあるだろうか。いまぼくが腰を下ろしている、
この石積みの斜面の、隙間という隙間を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めているの
が、どうやらその草らしい。」

貝殻草は、隙間に存在し、その「貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという」の
です。これは、差異に生まれた魚であり、従い、存在が招来される筈であり、そうであれば、
贋の文字を冠する有資格者となり、贋魚と呼ばれるのです。

やはり、話中話であっても、一つの話を創造する時には、まづは差異を設けて、その神聖な
る空間(次元)を設けてから、その場所で、本題に入る、即ち存在を招来する安部公房がい
るのです。

今詳述しませんが、「斜面」という言葉もまた、リルケの詩に歌われる形象です。安部公房
を論じているうちに、また出てくることでしょうから、そこでお話を致します。

さて、それでは、存在を招来するための、安部公房の呪文、奉天の小学生のときの詩『夜』
にある「クリヌクイ クリヌクイ」の繰り返しの呪文は、一体どこにあるのでしょうか。

その呪文を見つける前に、この『《それから何度かぼくは居眠りをした》』という題の章の
前に、新聞記事が掲げられいいることに注目しましょう。この新聞記事は、既に『安部公房
の奉天の窓の暗号を解読する』で解読しましたように、存在への方向を指し示す方向指示板、
即ち『S・カルマ氏の犯罪』にたくさん出てくる立て札であるのでした。

この方向指示板の後に、『《それから何度かぼくは居眠りをした》』という題の章が置かれ
ているわけです。ですから、この贋魚の章は、単なる話中話ではなく、本格的な一篇の独立
した物語だといってもよいのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ57
ページ57

そうして、その上で、差異を設け、呪文を唱え、その差異に存在を招来し、主人公は存在の中へ
と潜り込み、贋者になり、隠れてしまい、その道中、案内人としての未分化の存在たる女性に手
を引かれて行くというのが、安部公房の主人公の道行なのでした。

さて、立て札は立ちました。次は呪文の番です。

と思って、『《それから何度かぼくは居眠りをした》』というこの十分な独立性を備えた話中話
の題名を見ると、呪文が、即ち繰り返しの言葉が書いてありました。何故なら、一人称の「ぼく」
は、「何度か」即ち繰り返し、「居眠りをして」いるからです。

この題そのものが、「クリヌクイ クリヌクイ」の繰り返しの呪文なのです。

さて、そうしますと、存在は必ず使者、即ち自己たる存在へと案内する案内人、即ち浦島太郎の
亀を使いに送って寄越す筈です。

安部公房の案内人は、例外なくいつも予(あらかじ)め喪われたものでありました。

それが、貝殻草です。

冒頭の引用に続けて、次の言葉が続きます。

「 貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。
(略)
しかし、それだけだったら、とくにどうという事もない。貝殻草の夢が、やっかいなのは、
夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の魚のことは、
知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ 方を
するという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて
感じられるらしいのだ。」

安部公房は、安部公房スタジオの若いは俳優たちに「貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を
見るという。」という此の一行の発声訓練をさせて、ニュートラルという概念を理解させるため
の実験と訓練をしております(『贋魚のエピソードー周辺飛行24』、全集第24巻、420ペー
ジ)。

この中で、貝殻草について、「そんな草が実存するか、しないかは別にして」と述べております
から、そうして此処で「実存」という言葉を明確に使っておりますから(安部公房は言葉を厳密
に使います)、この貝殻草という草は、『他人の顔』の喪われた顔の仮面と同じものであるので
す。即ち、予(あらかじ)め喪われたもの、これが貝殻草なのであり、この話中話へとあなたを
案内する案内人なのです。

安部公房は、ナンシー・シールズとのインタビューに答えて、次のように言っています(全集第
24巻、471ページ)。

「安部 『箱男』が型破りの小説であることはまさにそのとおりだと思います。独特の構造を
持っていますから。トリックもたくさん仕掛けてあります。しかし、それらが理解されるとは考
えられないな。たとえ注意深い読者であってもね。」

上に解説したところは、間違いなく、安部公房のたくさん仕掛けたトリックの一つなのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ58
ページ58

また、この存在の中での、贋魚の夢みる夢の中での時間が永遠に進み進まないのは、8枚の写真
の解読で、例えば最初の若い暴力団員の写真で説明した通りの理由によります。言って見れば、
神話の世界のお話と同じで、浦島太郎が龍宮城で時間を忘れて永遠の中で乙姫様の接待を受け、
現実の世界を忘れ呆けるのと同じです。

「夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ方をするという。速度が
目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて感じられるらしいの
だ。」

また、第32章の無題の時計の詩を、再度思ってもよいでしょう。傍線筆者。

「時計の文字盤は片減りする
いちばんすり減っているのが
8の字あたり
かならず一日に二度
ざらついた眼で見つめられるので
風化してしまうのだ
その反対側が
2の字あたり
夜は閉じた眼が
無停車で通過してくれるので
減り方も半分ですむ
もし まんべんなく風化した
平らな時計を持っている者がいたら
それはスタートしそこなった
一周おくれの彼

だからいつも世界は
一周進みすぎている
彼が見ているつもりになっているのは
まだ始まってもいない世界
幻の時
針は文字盤に垂直に立ち
開幕ベルも聞かずに
劇は終わった」
(全集第24巻、138ページ)

3。2 第9章『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投
げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付しておく》』を読み解く

第8章の贋魚の話中話の次に、『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙
が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付しておく》』と
いうバロック的に長い題名の章が続きます。
もぐら通信
もぐら通信 ページ59
ページ59

そうして、この題名の次に、やはり存在の方向への立て札が立っております。

さて、その立て札と関係して、必ず差異を設けるのが、安部公房の常道でありました。そうして、
その通りになっております。それも、『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通
の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付してお
く》』という題名の章の中に、本来あるべきようにその差異を設けるのではなく、その外部に持
ち出して、その外に、新たな一章として、その差異を設けているのです。[註19](この一枚の
手紙に唐突に出てくる海とは、勿論『水中都市』や安部公房スタジオの公園で登場する存在の海
に違いありません。)

[註19]
この安部公房の小説の作り方について、『安部公房の変形能力17:まとめ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人
間像~』(もぐら通信第17号)の「IV 再帰的な人間の書いた小説の構造」の章から以下に引用して、『箱男』の
小説の構造を再度、お伝えします。
もぐら通信
もぐら通信 ページ60
ページ60

この図像も、recursive manでGoogleの画像検索をして得た図像です。

これは、筆を持って描いている図であるから、一層よくお解り戴けるのではないかと思いますが、安部公房は、こ
のような意識で小説を書いたのです。

この構造を明確に意識して文字にしたのは、1973年の『箱男』からではないかと思います。勿論、小説として
のその最初の試みは、最初期の『白い蛾』という作品に見ることができます(全集第1巻、211ページ)。話の
中に話をこしらえるという構造化の試みです。

『箱男』の手記の話者は、次の様なネスト構造の中の、a, b, c, d, eというそれぞれの次元に居て、話をしていた
ということなのです。一番最上位の次元にいつも固定して居るのが、19世紀の写実主義の、そして我が国の私小
説の、足し算の作家たちです。安部公房のような再帰的な作家は、a, b, c, d, eのどの階層にでも出没して、その
階層で話をすることができます。

話法(mode)のネスト構造

この次元は理論上又は論理上、何次元まででも深め(下降方向)、また高める(上昇方向)ことができます。20
歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』の次元変換、次元展開を思い出して下さい。

これが、安部公房の小説の構造です。『箱男』の次に執筆した『密会』も然りです。言葉で説明するよりも、この
ように図像で示した方が、解り易いのではないかと思います。

この構造は、安部公房が晩年の言語論で論じている通り、そのまま人間の認識の構造ですから、これが安部公房の
認識した言語構造だということになります。

しかし、何も特別な構造ではなく、知る人ぞ知る構造です。むしろ、文学の世界の人間よりも、ソフトウエアのエ
ンジニアの人たちの方が、人工言語において、この再帰的な構造について、数学的にはよく知っています。

また、次の様な、同様にa recursive manでGoogleの画像検索をして出て来る図像を観ると、安部公房の小説の構


造がどのようなものかがよく判るのではないかと思います。話法(mode)のネスト構造(入籠構造)です。
もぐら通信
もぐら通信 ページ61
ページ61

『安部公房の変形能力11:ドストエフスキー』で論じた、安部公房の小説の構造、即ち「そう。構造が全部ぬけた
テントの梁みたいな小説が好きなんだ。ふつうの建物は構造と中身が対応していて、外から見ればだいたい中身が想
像できるだろう。そんな小説は書く気がしない。さまざまなイメージの断片が並んでいて、一つ一つははっきりと明
瞭なんだが、横に並んでいるものがいつの間にか縦に見えてくる迷路のような小説が好きなんだ」という小説の構造
は、上の図像の示す通りのものです(『文学世界にテーマはいらない[聞き手]浦田憲治』(全集第29巻、244
ページ))。確かに、垂直と水平の関係が交換されるような構造になっていることがお判りでしょう。また、上で定
義した再帰的人間の定義に「 その人間の一部が、常にその人間の全体を含んでいる人間である」とある定義通りの人
間です。

『安部公房の変形能力11:ドストエフスキー』で論じた、安部公房の小説の構造、即ち「そう。構造が全部ぬけた
テントの梁みたいな小説が好きなんだ。ふつうの建物は構造と中身が対応していて、外から見ればだいたい中身が想
像できるだろう。そんな小説は書く気がしない。さまざまなイメージの断片が並んでいて、一つ一つははっきりと明
瞭なんだが、横に並んでいるものがいつの間にか縦に見えてくる迷路のような小説が好きなんだ」という小説の構造
は、上の図像の示す通りのものです(『文学世界にテーマはいらない[聞き手]浦田憲治』(全集第29巻、244
ページ))。確かに、垂直と水平の関係が交換されるような構造になっていることがお判りでしょう。また、上で定
義した再帰的人間の定義に「 その人間の一部が、常にその人間の全体を含んでいる人間である」とある定義通りの人
間です。

即ち、それが次の章、『《……………………》』で始まる章です。

(しかし、シャーマン安部公房の秘儀に式次第に則って考えれば、形式上は独立した章として小
説を構成していますが、この章が前の章の一部だと考えることは全く問題がありません。つまり、
章と章の接続に関して、連続の不連続、不連続の連続の接続を、安部公房は此処で行っているの
です。)

そうして、従い、最初から、次の呪文が唱えられるのです。

「 妙なことになってしまった。何度も繰り返して、彼女の手紙を読み返してみた。何か別の読
み方がありうるだろうか。文字どおり解釈する以外、いまのぼくには不可能だった。三つに折っ
もぐら通信
もぐら通信 ページ62
ページ62

たその緑色の罫の便箋を嗅いでみた。微かにクレゾールの臭いがしただけだった。」

「何度も繰り返して」というところが、もっと言えばこの副詞句の掛かる「何度も繰り返して、彼
女の手紙を読み返してみた。」という一文が、文としての呪文になるでしょう。

そうして、「その緑色の罫の便箋を嗅いでみた。微かにクレゾールの臭いがした」という其の臭い
を嗅ぐ行為に、貝殻草の匂いを嗅ぐと、夢を見て存在になる贋魚の章との消極的・否定的な、即ち
陰画としての接続が暗示されております。

何故ならば、微かなクレゾールの臭いは、前の章の臭いの消臭を意味しています。話を続けて続け
ない、続けずに続けるという絶妙な連続と非連続の接続、如何にも安部公房らしい第三の道として
の接続、即ち存在の接続というべき接続を此処でも実現しているのです。この接続の呪文によって、
この呪文で始まる章は、更に次元を垂直方向に上げることになるのです。

また、緑色という色は、安部公房の文学の世界では、リルケに習った愛と別れと死と遥かな距離の
象徴の色、即ち入り口であり同時に次の次元、次の存在への、死へ旅立つのも同然の出口を示す色
でありますから[註20]、この章の話者は、間違いなくそのような運命を辿るのです。従い、この
章は、次の言葉で終わっております。勿論、この言葉は、次の次元、次の存在への旅の始まりを意
味していて、この小説全体の(リルケに習った無時間の、或いはまた位相幾何学の)循環構造を備
えているのです。

「もっとも、箱男という人間の蛹から、
どんな生き物が這い出してくるのやら、
ぼくにだってさっぱりわからない。」

そうして、この箱男の蛹の脱皮は、贋魚の夢からの脱出に同じであることを、あなたは知るでしょ
う。

前者、即ち贋魚の章は、既に上述しましたように箱男の蛹から脱皮する章である『《約束は履行さ
れ、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことで
ある。その手紙をここに貼付しておく》』という題名の章との関係では、話の全体の垂直方向とい
う方向に於いては、後者が普通ならば贋魚の章の下位に本来帰属すべき章であるものを、それが外
に出て独立をして一章を成し得るように作ってあり、そうして、

他方、前者に対しては、後者即ち『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙
が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付しておく》』とい
う題名の箱男の蛹からの脱皮の章は、次の『《鏡の中から》』という章に、やはり連続的且つ非連
続的に接続されて、恰も外に出るかの如くに作っているのです。

何故ならば、この次の『《鏡の中から》』という題名の意味は、解釈のための余白を読者に対して
残しており、次の二つの意味があるからです。

1。鏡の中から脱出をする
2。鏡の中から外部を覗き見する

この二つの意味です。

これが、箱という存在の中にいる箱男の在り方なのです。もっと言えば、『安部公房の奉天の窓の
暗号を解読する』で書きましたように、この二重の在り方は、箱男という未分化の実存が、即ち「既
にして」(超越論的に)喪われている男が、存在の十字路に立っているということの意味なのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ63
ページ63

そうして、安部公房が、ここで鏡という言葉を題名にしたことがよく示しているように、贋魚
の『《それから何度かぼくは居眠りをした》』という題名の章と『《約束は履行され、箱の代
金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことである。
その手紙をここに貼付しておく》』という題名の章は、夢の中からの脱出(存在、即ち贋の現
実からの脱出)と、今度は自己の殻を脱いでの脱皮(反対の性格の、自己からの脱出)という
二つの、同じ脱出ではあるものの、対照的な、言わば合わせ鏡の世界での相互の脱出でありま
すから、次の章では、この合わせ鏡の世界からの更なる脱出を、この『《鏡の中から》』とい
う題名は、二重に、示しているのです。

[註20]
安部公房の緑色の意味については『もぐら感覚21:緑色』(もぐら通信第25号及び第26号 )に詳述しまし
たので、これをお読み下さい。

やはり、安部公房は、『無名詩集』がそうであるように、『箱男』という小説もまた、このよ
うに暗号化して書いたのです。この暗号化された作品には、写真という詩と文字による詩が多
分に含まれているわけです。いや、詩を意識したときにはいつでも、安部公房は、このような
暗号化を行うというのが、正しい順序でありましょう。

これは、世間の目には韜晦と映るかも知れませんが、そうではなく、あくまでも言語に関する
深い智慧に基づく、無名の人間である未分化の実存「安部公房」の神聖なる秘密の行為、即ち
秘儀であり、数理と言語論理に則ったシャーマン(shaman)安部公房の無言の祈り、沈黙の祈
願であり、悲願であるのです。[註5]でジュリー・ブロックに語っている安部公房の本質と
実存に関する認識と理解、即ちこれら二つの概念の関係(本質)についての簡潔な言葉を熟読
玩味して下さい。

この論考の最初に引用したナンシー・S・ハーディンとのインタビューで答えた、安部公房の言
葉に再々度戻ります(全集第24巻、471ページ)。

「-----どういうことですか。
安部 大ざっぱにいって、『箱男』はサスペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造なのです。
-----『燃えつきた地図』や『他人の顔』がそうであるのと同じ意味ですか。
安部 ええ。でもこっちのほうが極端です。あの小説を書いている男は罪を犯した男ですから、
したがってぼくがあの小説を書くためにその罪を犯したことになると思います。でもあの男の
正体はだれにもわかりません。ぼくが『箱男』の中で読者に伝えようとしたのは、箱の中に住
むことはどういうことなのかと考えてもらうことでした。もしだれかが自分で箱を作りたいと
思ったときのために、箱の組み立て方まで説明してあります。
(略)」

上の下線を施したところ、この安部公房の罪の感覚は、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解
読する』の読者には自明の通りのことですが、安部公房は玄関からではなく窓から部屋の中に
入った子供でありましたから、そのことによる罪の感覚の通りに、自分と同じ男を描いている
のだと言っているのです。そのように考えて、この『箱男』全体の最初に戻ってみてみますと、

1。最初にネガティヴ・フィルムという陰画の絵を置いて、陽画という現実との対極のものを
以って、その差異を設けて、読者に示し、その次に、
2。新聞記事という、存在の方向を示す立て札を立て、その次に、
3。『《ぼくの場合》』という題名の、「既にして」(超越論的に)箱という其の存在の部屋
(時間の無い空間)の中にいる男の記述を始める。
もぐら通信 ページ64
もぐら通信 ページ 64
ということの順序、安部公房の、この詩文と散文共通の正当なる、安部公房の秘儀とも呼ぶべき
順序通りの書き方になっており(何しろ安部公房は言葉と差異と存在のシャーマン(祈祷師)な
のですから)、更に言うべきことは、

4。上の1から3の儀式の式次第を踏んで最初に登場する此の最初の章の箱男が、この小説全体
の最初の案内人、浦島太郎の亀になっているということです。既に『安部公房の奉天の窓の暗号
を解読する』で明らかにしましたように、安部公房の存在の数は奉天の窓の数ほどありますから、
当然のことながら、存在の遣わす使者たる案内人、即ち箱男も、存在の数ほどに、わたしたちの
ところにやって来るのです。

上で述べましたように、この小説は4次元小説ですから、一つの次元に一人の箱男がいると考え
ますと、4人の箱男がいるのです。

その最初の案内人である箱男が、最初の章の箱男というわけです。箱男が箱男を案内するという
わけです。箱男が箱男を案内するという小説が『箱男』という小説なのです。

この再帰的な世界、即ち合わせ鏡の世界が、安部公房の、一生変わらぬ、世界なのです。安部公
房は、未分化の実存に生きる、即ち再帰的な人間なのです。

ナンシー・S・ハーディンとのインタビューの中での安部公房の言葉を再々度引用しますと、こ
の小説について、安部公房は、次のように言っています。

「安部 『箱男』が型破りの小説であることはまさにそのとおりだと思います。独特の構造を
持っていますから。トリックもたくさん仕掛けてあります。しかし、それらが理解されるとは考
えられないな。たとえ注意深い読者であってもね。」(全集第24巻、471ページ)と言って
おります。

しかしながら、こうして、わたしたちは、安部公房の小説のうち最も複雑な次元を有する此の小
説のトリックの根本を明らかにし、十分に理解し始めていることになります。

わたしたちは、「トリックもたくさん仕掛けてあります。しかし、それらが理解されるとは考え
られないな。たとえ注意深い読者であってもね。」という安部公房の期待を十分に裏切って、こ
うして、十分過ぎる位の「注意深い読者」になり得たということになります。

ここから先の個別の章に関する各論は、安部公房の読者であるあなたにお任せ致します。

そうしてまた、わたしたちは、最後には、『箱男』の冒頭の差異,即ちあの陰画のフィルムへと
回帰することになりましょう。

[最後の註]

『われらコンタックス仲間:対談者 安部公房・林忠彦』(全集第26巻、369ページ下段)に、『箱男』の写
真の持つ重要性に関する、安部公房の次の発言があります。

「安部 「箱男」は、全く写真がなかったらできないような小説です。文章の中にも写真をたくさん入れました。」

安部公房がここで言っていることは、この小説を書くために写真をたくさんとって、この引用の箇所のあるページ
の上段で言及しているように、それらの写真を「書斎の壁一面に全部張ってお」きながら書いたということになり
ます。

また、コンタックスは、父親浅吉の愛好したカメラでもあることが、この対談での冒頭の発言からわかります。こ
れらの写真は間違いなく、コンタックスで撮影したものでありましょう。何故ならば、最後に安部公房の
発言にある通り、安部公房もコンタックスが大好きであるからです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ65
ページ65

リルケの『形象詩集』を読む
(連載第3回)

『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』
Zwei Gedichte zu Hans Thomas Sechzigstem Geburtstage
『月夜』
岩田英哉

この詩は、この題名にある通りに、ハンス・トマスという人間の60歳の誕生日を祝うために、
リルケの書いた詩でありましょう。

この誕生日の詩もまた、毎年繰り返し迎えることになる誕生日ということから、リルケの好む
循環の詩なのであり、従い、そしてしかし、ここには無時間の空間が、純粋空間が再た歌われ
ることになるのでしょう。

「ハンス・トマスの60歳の誕生日に際して」と訳した此の「際して」とあるドイツ語のzuと
いう前置詞は、英語ならばtoであり、その意味は場所を表しますので、時間ではなく場所(空
間)を表すということが、何もこれという特別な前置詞の置き方ではないものの、尚一層リル
ケの感覚を思わせませす。

東京でみるレストランのチェーン店に、To The Herbsという名前の店を見かけますが、英語な


らば此のToに当たります。この店の名前は、日本語ならば、薬草亭ということになるでしょう。

さて、この時間無く循環する此の人物の誕生日の60回目の其の日に、リルケの詠んだ二つの
詩を読むことにしましょう。ひとつは『月夜』、もうひとつは『騎士』という詩です。
まづ最初の『月夜』という題の詩です。

【原文】

Mondnacht

Süddeutsche Nacht, ganz breit im reifen Monde,


und mild wie aller Märchen Wiederkehr.
Vom Turm fallen viele Stunden schwer
in ihre Tiefen nieder wie ins Meer, -
und dann ein Rauschen und ein Ruf der Ronde,
und eine Weile bleibt das Schweigen leer;
und eine Geige dann (Gott weiß woher)
erwacht und sagt ganz langsam:
Eine blonde...

【散文訳】

月夜
もぐら通信
もぐら通信 ページ66
ページ66

南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...

【解釈と鑑賞】

普通に散文的な言葉で表せば、月の光が夜の南ドイツの此の土地を広く照らしている、とい
うことになるでしょう。

リルケの最晩年の、そうして一生の最高傑作である『ドウィーノの悲歌』と『オルフェウス
へのソネット』という長編詩の後者を読みますとよく分かりますし、今ここでは詳述しませ
んが、結論を言いますと、この冒頭の二行のように、動詞を欠いて、名詞だけを並べるリル
ケの詩句の書き方は、この書き方をする時には、リルケは女性の性、それも処女たる無垢の
若い女性の性を意識し、歌う時には、動詞を使わずに、いつも名詞だけを置いて、そのeros、
その恋情、その欲情に発する感情と自分の女性に対する論理と其の論理に対する思いを歌う
のです。動詞を欠くことによって、その女性の美と女性なるものを永遠の不動のものにして
おきたいと思っているからです。

そうして、それから、リルケの現実の幾つもの恋愛のあり方から来たものなのでしょう、処
女と、処女を男が奪うものだということに対する(男としての)罪悪感を覚えていることが、
複数の其のような処女についての詩を読むと解ります。[註1]
[註1]
リルケの最晩年の傑作ふたつの詩集のうちの一つ『オルフェウスへのソネット』の第二部の第五番目の詩に、上
で言っている通りの詩があります。:

BLUMENMUSKEL, der der Anemone


Wiesenmorgen nach und nach erschließt,
bis in ihren Schooß das polyphone
Licht der lauten Himmel sich ergießt,
in den stillen Blütenstern gespannter
Muskel des unendlichen Empfangs,
manchmal so von Fülle übermannter,
daß der Ruhewink des Untergangs
kaum vermag die weitzurückgeschnellten
Blätterränder dir zurückzugeben:
du, Entschluß und Kraft von wieviel Welten!
Wir, Gewaltsamen, wir währen länger.
Aber wann, in welchem aller Leben,
sind wir endlich offen und Empfänger?

【散文訳】

花の筋繊維、それは、アネモネの草原の朝を次第に開く
その子宮の中へと、響く天の多声音楽的な光がみづからを注ぎ込むまで

すなわち、果てしない受容の、張りつめた筋繊維の、静かな花芯の星の中へと入るまで。
もぐら通信
もぐら通信 ページ67
ページ67

花の筋繊維は、時には、充溢で一杯になり、もっと圧倒され、打ち負かされて、
下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)が、

遠くまで行ってそこから撥(は)ね返される葉という葉の縁(へり)をお前に返すことがほとんどできないほど
だ、お前、どれほどたくさんの世界の決心と力であるものよ

わたしたち、暴力的で無法なものたちは、(アネモネの花よりも)より長く存続するだろう。
しかし、いつ、すべての生活のどの生活において、わたしたちは、ついに、開いており、且つ受け容れる者であ
るか?

【解釈】

冒頭に出てくる、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケルという言葉は、ドイツ語をそのまま直訳すると、花の筋
肉というのである。しかし、この無粋な訳語はないであろう。試しに、Googleの画像検索でこの言葉を検索する
と、ヒットした数はたった47件、文字の検索で727件。いづれも、やはり、リルケのこの詩が検索されて、こ
の言葉そのものが、リルケのこのソネットの言葉で、一般的な言葉ではないし、専門の言葉でもないのだという
ことがわかる。画像としてみようとしても、やはり花の画像としては出てこない。ただ、それを思わせるデザイ
ンの、放射状の梁の走った何かの天井の写真をみることができた。

しかし、他に言いようもないのだと思う。この言葉は、花びらの根元にある肉厚の、内側と外側の部分で、そこ
に走っている、花びらの開閉を支え、維持する筋(きん)繊維部分を言っているのだ。それは、詩からも明らか
だと思う。花の筋肉ということばは、いささか抵抗があったので、花の筋繊維という訳語をあてました。

一寸話しが横道に入りますが、Google検索をすると、リルケのこのオルフェウスへのソネットからいくつかのソ
ネットを歌曲にしたてた作曲家がいて、ちなみに、それは、次のようなことになっています。無料体験でこれら
の曲を聴くことができました(http://ml.naxos.jp/album/BCD9178)

リーバーソン:リルケ歌曲集/6つの王国/ホルン協奏曲(リーバーソン/ピーター・ゼルキン/パーヴィス)

作曲されているソネットは、次のソネットです。既にこれまで読んだソネットもありますし、これから読むソネッ
トもあります。

No. 1. O ihr Zartlichen(第1部ソネットIV:おお、柔らかき者たちよ)


No. 2. Atmen, du unsichtbares Gedicht(第2部ソネットI:呼吸せよ、お前、眼に見えぬ詩よ)
No.3. Wolle die Wandlung(第2部ソネットXII:変身を求めよ)
No. 4. Blumenmuskel, der der Anemone(第2部ソネットV:花の筋繊維、それがアネモネの)
No.5. Stiller Freund(第2部ソネットXXIX:静かなる友よ)

さて、性愛を歌うリルケの常で、アネモネという花を歌っている第1連、第2連、第3連は、すべて、冒頭の花の
筋繊維という名詞にかかっているだけで構成されています。なんという構成でしょう。

「下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)」と註釈的に訳したところは、
花びらが反り返って下に行くという意味と、没落するという意味が掛け合わされているのではないかと思い、そ
う訳しました。何か、そのような女性の姿態を想像せしむるものがあります。静かにせよという合図というのも、
エロティックに響きます。

このアネモネは、ドイツ名では、Windroeschen、直訳すれば、風薔薇、風の小さい可愛らしい薔薇という名前で、
リルケは薔薇に似た形状の花を愛したのでしょう。

それは、花びらが幾重にも深く重なっているからで、その筋繊維を「どれほどたくさんの世界の決心と力である
もの」と呼んでいます。花びらの一枚一枚が、それから花びらと花びらの構成する空間が、それぞれひとつの世
界だといっているのです。それらの決意と力であるものが、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケル、花の筋繊維
なのです。

最後の連は、いうまでもなく、アネモネと人間を対比させて、わたしたち人間が、アネモネの花ほど、開いてい
て、受容するものであるかと問うています。リルケにとって、開いているとは、前のソネットで書いたように、
外側を知っているということ、永遠に向かって、普通名詞としての神に向かって、開かれているということです。
しかし、ここでは、このように註解しないことの方が正しいことだと思います。この詩のエロティックなものを
生かすために。

そうしてみると、最後の、「わたしたち、暴力的で無法なものたち」というのは、男たちのことをいっているので
はないでしょうか。

リルケは、そう意識したのではないでしょうか。それゆえ、次のソネットは、薔薇が歌われており、それを君臨
する女性、女王として歌い始めます。恰も男性と均衡を保たせむかの如くに。
もぐら通信
もぐら通信 ページ68
ページ68

この詩の冒頭の二行、即ち、

Süddeutsche Nacht, ganz breit im reifen Monde,


und mild wie aller Märchen Wiederkehr.

この二行を、

南ドイツの夜は、熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。

とわたしは訳しましたが、しかし、上のような考察を思い出して、動詞がないということに
力点を置いて訳しますと、

南ドイツの夜、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかい。

という訳に一層なるでありましょう。

これは、何か、そうして何故か知りませんが、非常にeroticな南ドイツの夜であり、成熟し
た月なのです。即ち、成熟した月の中にというこの成熟という形容詞には、何か女性の性の
成熟ということが歌われているのです。これは、sexualな、性的な含意のある詩なのです。

それ故に、表向きに此の詩を読んできた読者にとっては、最後に唐突のように、

或る金髪の女が...

という女性のことが歌われて、それも不完全に歌われていて、余白と余韻を残しているのは、
やはり成熟した月という言葉の選択の、成熟という形容詞と、南ドイツの夜という名詞だけ
で表現して、それに形容詞的な句を掛ける、このような性を暗示するときのリルケの表現方
法に大いに関係しているからなのだと思われます。

これは些(いささ)か読みすぎかも知れませんが、

und mild wie aller Märchen Wiederkehr.


そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。

という一行の童話というMärchen(メールヒェン、童話)は、また次のWiederkehr(ヴィーダー
ケア、再来、再帰)という言葉と相俟って、Mädchen(メートヒェン、処女)というMärchen
という語に大変よく似た言葉を連想させますから、

そして、すべての娘たちの再帰再来のように、柔らかである

という思いを想起させる体験を、もしこのハンス・トマスという友人との個人的な関係の中
に、この友人とリルケが共有しているのだとすれば、この一種の暗号も意味のあることかも
知れません。

もしそうであれば、柔らかという形容詞もまた、女性の柔肌を思わせて、実にeroticだとい
うことになりましょう。

しかし、このような性的なことを離れて考えて、何故すべてのMärchen(メールヘェン)は回
帰するのかと言いますと、現実は一次元の直線的な時間が経過して、人間は過去に戻ること
はできませんが、しかし、そのような物理的な時間の中の現実のお話ではない童話(メール
ヒェン)は、時間を無視して回帰する、即ち同じ場所に戻って来るのだといっているのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ69
ページ69

この60歳の友人の誕生日も、こうして一次元の時間の中の一回限りの誕生日ではなく、繰
り返しやって来る、リルケに親しい無時間の循環の誕生日に変形するのです。

さて、話を最初の一行に戻します。

この最初の一行で、大事なことは、月が熟しているということなのでありました。これは普
通の言い方をすれば、その月は満月でありましょう。しかし、リルケは満月という月並みな
言葉は使わずに、成熟した月というのであり、この成熟の月は、上でみた性的な感覚を含ん
で、尚且そのそのような月の中に、夜があるという此の順序なのです。普通ならば、夜の中
に月が浮かんでいると歌うことでありましょう。ここでも、リルケは、普通の順序である筈
の内部と外部を交換しているのです。

そうして何故この交換が可能であるのか、即ち何故夜の方が、月の光の中に在ることが可能
であるのか、その理由は、月に掛かる形容詞である「熟している」という此の形容詞に拠っ
ているのです。

『形象詩集』にあるreif(ライフ)、日本語で熟する、熟しているという形容詞と、reifen
(ライフェン)、熟するというreifに関連する動詞を探しますと、これらの言葉を含む詩は、
以下の通りに全部で8つ出て参ります。既に、最初に読みました『入口』という詩にも確か
にreifen(熟する)という動詞が出ておりました。以下、これらの8つの語と其の詩の名前
を列挙してから、その先へと解釈を進めます。

1。『Eingang』(『入口』)
2。『Das Lied der Bildsäule』(『彫像の歌』)
3。『Abend』(『夕暮』)
4。『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告 天使の言葉』)
5。『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』)
6。『Das jüngste Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中から
の最後の審判』)
7。『Der Sohn』(『息子』)
8。『Die Blinde』(『盲目の女』)

これら8つの詩に歌われてある成熟という言葉の意味を列挙すると、次のようになります。

1。沈黙の中に成熟はあること。言葉は沈黙の中で熟すること。(『Eingang』(『入口』))
2。石でできた彫像の人物像の体の中に血液の流れへの憧れがあつて、それは葡萄酒のよう
に熟成していること。そして、その像を愛する生きた人間がいて、その人間が海に没し
て死ぬようなことがあれば、石の体を脱して、生命の中に蘇り、救済されること。葡萄
酒の成熟とは、沈黙する彫像のこのような思いであること。(『Das Lied der
Bildsäule』(『彫像の柱の歌』))
3。夕暮れに、その人間の生命が不安であり巨大であり成熟するままに委(まか)せておく
と、生命はその人間の中で石になる、そのような成熟であること。『Abend』(『夕
暮』)
4。その人間の両手は祝福されてあり、その祝福された両手は、女性の手を借りずに成熟し
て、(衣服の)縁(へり)の中から外に出てきて輝く、そのような成熟であること。そ
うして、そのような成熟した両手を持つ人間の私(一人称)は、天使が日であり露であ
るのに対して、樹木であること。(『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告
天使の言葉』))
5。聖母マリアがイエス・キリストを産む其の厩(うまや)に来る三人の王たちは、その長
い(羊飼いのするような)旅の途上で其々(それぞれ)の支配している成熟した王国を
喪失する其のような成熟であること。そして、その喪失は聖母マリアのような聖なる女
性の胎内で起きること。(『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』))
6。その人間の成熟した愛を、光の中から生まれる朝は決して創造しないこと。同様に叫び
声からは、成熟した愛は生まれないこと、さやけき音、さやさやという音、川の水音な
らば潺湲(せんかん)たる流れの音から成熟した愛は生まれること。(『Das jüngste
Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中からの最後の審
もぐら通信
もぐら通信 ページ70
ページ70

判』))
7。雌馬は早朝の露の中で強くなり、そのように在る雌馬の血管の中には力と高貴が眠って
いて、この馬は騎乗者が乗ることによって其の重さを成熟させる其のような成熟である
こと。(『Der Sohn』(『息子』))
8。世界は、事物、物の中で花咲き成熟すること。(『Die Blinde』(『盲目の女』))

これらを一連なりにすれば、成熟は、沈黙の内部にあり、石像の内部にあり、自己の命を投
げ出す無償の愛によって永遠に石像となる愛であり、縁(周辺)から輝き出る両手(安部公
房の大好きだったリルケの『秋』という詩に歌われている、落下するすべてのものを優しく
受け止める唯一者(神)の両手))であり、その両手を持つ人間は樹木であり、神聖なる存
在の誕生の祝福のために所有する王国の喪失を代償とする其のような王の手にするものであ
り、聖なる女性の胎内で起こるものであり、それは夜に在る愛であり、さやけき音の内部か
ら生まれる愛であり、雌馬が騎乗者の重さを成熟させることなのであり、事物の内部で世界
が熟する其の成熟である、という意味になるでしょう。

この成熟という形容詞の意味が、この詩の冒頭の二行、即ち、

南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。

と、夜の月に掛かっていることの意味が、わたしたちには知られることになります。

さて、そのように成熟した月であればこそ、「南ドイツの夜」の方がその月の中にあり、「す
べての童話の再来のように、柔らかである」と歌うことができるのです。

また、「柔らかである」という言葉は、上に列挙した成熟の言葉の意味の一覧の中では、「さ
やけき音、さやさやという音、川の水音ならば潺湲(せんかん)たる流れの音」が其れに相
当するでありましょう。それ故に第5行目に「と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして」
とあるように「さやけき音」が連語として縁語として連想語として必然的に出てくるのです。

さて、第3行目から第6行目までを読んでみましょう。

塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている

とある最初の此の行は、安部公房の読者には知られている通りに、安部公房の大好きであっ
たリルケの『秋』という詩と同じ発想から生まれた一行です。まづ『秋』を読んでから、こ
の複数の行の解釈に入ります。『秋』という詩です。

「秋

数々の葉が落ちる、遠くからのように
恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れ
るかの如くに
葉は、否定の身振をしながら、落ちる
そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
総ての星々の中から、孤独の中へと。

わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
の中に在るのだ。

そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」
もぐら通信
もぐら通信 ページ71
ページ71

前の詩の『四月の中から(外へ)』という詩では、雲雀という春の鳥が、本来ならば垂直に
飛ぶところを、リルケは順序を逆にして、即ち内部と外部を交換することによって、雲雀が
天を垂直に持ち上げて歌っていることを見ました。それによって時間の無い純粋空間を創造
した。

また、垂直に樹木が成長するとは、やはり時間のない空間の中で起きることなのでありまし
た。

リルケにとって、垂直という方向は、そのような方向であるのです。勿論、安部公房にとっ
て、最晩年に至るまで同様です。

さて、これに対して、落ちるとは、逆に垂直の方向に、上ではなく下に、『秋』という詩に
歌われた私達や星々や地球と同じように、落ちるということ、落下するということを意味し
ています。

しかし、こうしてみますと、この垂直方向の落下もまた、時間の無い空間の創造なのではな
いでしょうか。垂直であれば、雲雀のように上へ昇ろうが、星のように下へ落ちようが、同
じではないでしょうか。

しかし、そこに差異があるとすれば、落下の場合には、最初に純粋空間が想定されているこ
とです。上昇方向の垂直は、雲雀のように主語(主体)が内部と外部を交換して純粋空間を
創造するのに対して、落下方向の垂直は、最初から其の落下を受け止めてくれる両手の窪み、
それも唯一者(神)の両手の窪みを想定しております。当然のことながら、この神の両手の
窪みには、『砂の女』のあの砂の穴という窪みがそうであるように、時間が存在していない、
存在の窪みなのです。

リルケの詩では、高い塔から落下する時には(この時という時間に関する言葉もリルケなら
ば使用することを避けるでありましょうから、場所という言葉を使って言い換えてみます
と)、高い塔から落下する場所では、存在の中に落下するのです。

従い、「たくさんの時間」の其の落下の後で、これらの時間は皆、「海の中へと落ち入るよ
うに、時間たちの深淵の中へと落ち入」ることになるのです。

何故ならば、海は、また水は、別れても分かれても必ずいつも一つに、即ち1になる、即ち
存在でありますから、当然のことながら、時間は「海の中へと落ち入」り、またそのように
「時間たちの深淵の中へと落ち入」るのですから、この深淵もまた存在であるのですし、そ
れは単なる存在であるのみならず、「時間たちの其の深淵」と呼ばれているように、時間た
ちにとっては、再帰的な深淵なのです。存在であるとは、存在とは、常に再帰的なのです。
この存在の再帰性は何もリルケに限らず、ヨーロッパ大陸の哲学の世界では、存在を論ずる
論者が知っても知らなくても、気付いても気付かなくても、常に存在の此の再帰性を巡って、
古代ギリシャのソクラテスの時代以来、いやソクラテス以前の哲学者の時代以来、延々と2
500年以上の時を超えて議論をしている当の主題なのです。[註2]
[註2]
プラトンの描いたソクラテスの議論の仕方、その対話の仕方を読みますと、ソクラテスもまた再帰的な人間であ
ることが判ります。何故ならば、ソクラテスの立てる問いは、S・カルマ氏の立てる問いと同じで、いつも、そ
れは何か?という問いであるからです。

S・カルマ氏の場合であれば、S・カルマと呼ばれるわたしとは何かという問いに対する答えが、わたしは壁(と
いう存在)であるという現実であるわけです。

この日本の島の上で、それは何か?という問いを日常生活の中で問い続けると、西洋の古代のギリシャに発する
哲学と日本人が明治時代に訳したこの学問の本質、即ち関係を、差異を考えるという単純な科学の本質を容易に
理解することができます。
もぐら通信
もぐら通信 ページ72
ページ72

しかし、安部公房の読者でいることは、実に幸せなことです。安部公房は、リルケを読み耽っ
た十代の終わり二十代の初めに、既に此の議論に解答を出していて、その上で書かれた作品
群をわたしたちは日本語読むことが出来るからです。わたしたちは、リルケに感謝しなけれ
ばなりませんし、そのリルケの詩を読んで、特に此の『形象詩集』を読んで、奉天の窓とい
う数学の世界の論理を言語と文学の世界の言葉に変換することの出来た安部公房という、こ
の大変な人間に感謝しなければなりません。

塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている

この4行をこうして読んで参りますと、段々とリルケと安部公房の世界に入って参ります。

即ち、上で見たような夜の月の成熟、上の4行の中にある落下、存在の海、時間自身の存在
の深淵、さやけき音、沈黙、「暫くの間」という副詞的な時間の差異、時間の隙間に存在す
る空虚なるものとしての沈黙という連語が、わたしたちの目の前にあることに気が付くから
です。

このように美事な(美事でなければなりません)一行を書くことが、詩作という行為なので
す。あなたも、このような考えで、日本語の一行を書くことをすれば、安部公房のこころに
近づくことができるのです。あなたも、一行の詩をお書きになってはいかがでしょうか。

さて、「さやけき音」と訳した此のドイツ語では、rauschen、ラオシェンと発音される言葉
の説明を致します。何故ならば、この言葉と此の発声の音は、ドイツ人にとっては、大変神
聖な尊い言葉であり音であるからなのです。

どの詩人の詩を読んでも、このrauschen、ラオシェンという言葉が出てくると、それだけで
一つの世界が生まれるのです。この音は、ドイツの森の中で樹木の葉擦れの音であり、自然
の中を流れる潺湲(せんかん)たる川の流れの音なのであり、何か神聖性を宿している事物
の立てる音だと詩人が思えば、そこに其のような神聖なる事物として存在が現れるのです。
勿論、詩のみならず、散文の世界でも同様です。ドイツ人は何かこう、自然の中で閑(かん)
たる中にささやかに響く、何か神聖な感覚を、この言葉と其の響きに、持っているのです。

わたしたち日本人の世界の言葉で言えば、さやさや、さやけさ、皐月(さつき)の此の五月
の月の「さ」、早乙女の「さ」に当たるような神聖なる音なのです。この「さ」の音を、そっ
とあなたの口から息とともに発声してみると、あなたは安部公房スタジオの一員になること
ができるでしょう。

さて、「夜間歩哨の叫び声がして」とあるこの叫び声は、上に列挙した成熟という言葉の一
覧の番号でいえば6番にある通りに、「叫び声からは、成熟した愛は生まれない」という其
の叫び声なのです。「その人間の成熟した愛を、光の中から生まれる朝は決して創造しない」
以上、夜こそは、成熟した愛の生まれる場所(時間ではなく)である筈ですが、この夜とい
う場所で叫び声を上げる、秩序立った時間の中の巡回の声、警備の声、即ち前回の詩『四月
の中から(外へ)』で見たように、存在の窓が接している表通りの整然たる昼間の景色の中
にある事物たちからでは、成熟した無償の愛は生まれないのです。

「さやけき音と、夜間歩哨の叫び声」という対照と両極端の間にある此の差異は、時間とし
ても「暫くの間」という時間の差異なのであり、その時間の差異の中に「沈黙が空虚のまま
に留まっている」。「沈黙が空虚のままに留まっている」のは、その差異は空虚であり、実
体の無い関係であり、関数であり、空であるからです。この差異の中に沈黙は宿る。こうな
ると、もう全く安部公房の世界です。いや、安部公房がリルケに、これを学んだということ
の方が、物事の順序でありましょう。

さて、最後の3行を読みましょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ73
ページ73

すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...

このように読み進めて参りますと、このヴァイオリンの音(ね)もまた、この差異で演奏さ
れて、その音が響きでて来るのではないでしょうか。

「何処から聞こえてくるのか誰が知ろう」と括弧に入れてある一行を、そのように訳しまし
たが、英語の世界も同様のことですが、神のみぞ知るという意味です。原文のドイツ語を其
のまま訳せば「何処から聞こえてくるのか神だけが知っている」という意味なのです。

そうしてみれば、やはりこのヴァイオリンの音は、神聖な、神的な音色であり、楽器である
ということになります。試みに、この詩集の中でヴァイオリンの登場する詩は、この詩を含
めると4篇あり、今残りの3篇を挙げて示します。

1。『Der Nachbar』(『隣人』)
2。『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』)
3。『Der Sohn』(『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

この三つの詩を読み、ヴァイオリンの登場する箇所と其の前後を読みますと、ヴァイオリン
という楽器は、次のような意味を、リルケの世界では、備えております。

1。ヴァイオリンは、異邦人であり旅人であり、町を都会を訪れるが、それは誰も知らない
異質のものである。ヴァイオリンは、夜に奏(かな)でられる。ヴァイオリンは孤独に
鳴る。奏でるのは、やはり孤独な私である。ヴァイオリンは、沢山の大都会で、そのよ
うに鳴る。このヴァイオリンが無ければ、都会の孤独な人々は、川の流れに身を失うよ
うに(時間の中に流されて)自己を失ってしまう。そのような隣人が、ヴァイオリンを
不安にするために奏でている。その演奏によって都会の人間たちがヴァイオリンに歌わ
せる歌は、人生は重い、全ての物の重さよりも重いという歌である。(『Der Nachbar』
(『隣人』))
2。この詩の一人称でる私は、弦であり、さやさやと音立てる幅の広い共振(共鳴)の上に
張り渡されている弦である。これに対して、物はヴァイオリンの体であり、ぶつぶつ言
う暗闇で満ちている。(『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』))
3。父親は剥落し病を得た王である。夜に息子は父親の王と小さな声でそっと話をする。こ
の夜の中で、父と息子は、夢見られたヴァイオリンになる。ヴァイオリンは祈りを捧げ
る。ヴァイオリンの演奏する歌の数々の背後で(泉の背後で、風の中に在る森のよう
に)ヴァイオリンの暗い楽器箱が、さやさやと音を立てている。(『Der Sohn』(『息
子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

さて、そうしてみると、

すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る或る金髪の女が...

という最後の3行の最初にあるヴァイオリンは、誰かに夢見られているヴァイオリンであり、
誰かが夢みているヴァイオリンであり、それは夜の中のヴァイオリンであり、「暫くの間、
沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、その隙間に存在している、存在のヴァイオリ
ンであることになります。

そうして、そのヴァイオリンが、その差異の中で目を覚ます。夜の夢見られているヴァイオ
リンであれば、歌を歌うわけですが、例え(安部公房の『箱男』の中の贋魚のように)夢の
中でまた目を覚ますとしても、やはり目を覚ますヴァイオリンであってみれば、それは歌を
歌うわけではなく、物を言うヴァイオリンであるのです。それ故に、「一人の金髪の女が」
と言って、話を始めるわけなのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ74
ページ74

それも、早口で、急いて話をするのではなく、「全くゆっくりと」話をするのです。

こうして此の詩を読んで参りますと、上で少し言及しましたように、この詩の詩想は全く『箱
男』の中の話中話に登場する贋魚に大変よく通っております。以下『箱男』から引用します。

「 貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。
(略)
しかし、それだけだったら、とくにどうという事もない。貝殻草の夢が、やっかいなの
は、夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の
魚のことは、知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まる
で違った流れ 方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、
数週間にも、引延ばされて感じられるらしいのだ。」

ヴァイオリンが夢みているのは、「暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、
その隙間でありますし、目を覚ますのも、その隙間の中で目を覚ますわけですが、同様にし
て、この贋魚もまた、その登場する『《それから何度かぼくは居眠りをした》』という、章
の冒頭で、次のような隙間、即ち差異の中から生まれるのです。
「 ところで君は、貝殻草の話を聞いたことがあるだろうか。いまぼくが腰を下ろしてい
る、この石積みの斜面の、隙間という隙間を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めてい
るのが、どうやらその草らしい。」

貝殻草は、隙間に存在し、その「貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという」の
です。これは、存在の魚であり、従い贋の文字を関する有資格者となり、贋魚と呼ばれるの
です。

やはり、話中話であっても、一つの話を創造する時には、まづは差異を設けて、その神聖な
る空間(次元)を設けてから、その場所で、本題に入る、即ち存在を招来する安部公房がい
るのです。

さて、このようにリルケの詩を読み解き、また同時に安部公房の作品の一つ、『箱男』を、
このように少しばかり読み解いてみるだけでも、安部公房は、一体どれだけリルケを読み
耽って、無意識の中に取り込んで、自家薬籠中のものとなしたかを、あなたは、これで理解
することができるのではないでしょうか。

さて、以上のように前半の一つ目の詩を読んできて、最後にもう一度此の詩の全体を振り返っ
て、あらためて味読することに致しましょう。

月夜

南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...

この「或る金髪の女」とは、『箱男』の贋魚の世界であれば、それは、夢見られたヴァイオ
リンの音色に相当する貝殻草の匂いを嗅いで夢見られた存在の魚、即ち贋魚でありましょう
し、従い、この「或る金髪の女」は存在の女であり、そうしてみれば、安部公房の世界の中
もぐら通信
もぐら通信 ページ75
ページ75

では、例えば『砂の女』の砂の女なのであり、『燃えつきた地図』の依頼人のあの「レモン
色のカーテン」のある窓の向こうの女と同じ存在の女だということになるでしょう。

これらの女が存在に棲む女であり、従い差異という余白に棲む女である以上、リルケが此の
詩の最後に、

或る金髪の女が...

と「…」と符号で、余白という沈黙を以って表したことは、全く理にかなっているというこ
となのです。

十九歳でリルケに出逢って『形象詩集』を読み耽った安部公房は、この「…」の深い意味を、
十分過ぎる位に理解をしていたのです。

次回は、『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の題のもとにあるもう一
つの詩『騎士』を読むことに致します。
もぐら通信
もぐら通信 ページ76
ページ76

編集者通信
奉天の窓から日本の文化を眺める(1)
〜提灯〜
岩田英哉

前月号の第33号で『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』を書き終えましたので、そこの最
初のところに写真を入れて、安部公房の云う存在の概念が、わたしたちの日本の文化の中で、ど
のような形象として姿を現しているかをお伝えし得たと思っております。

そこから、更に歩一歩を進めて、再度その姿を、奉天の窓から眺めてみることにいたしましょう。

安部公房が言語について理解を求めるためによく云う説明の仕方に、平面の二次元では円形であ
るが、それを積分すると立体のチューブ(円筒形)になるだろうという説明の仕方があります。
その実際の例を上記の論考では、わたしたち日本文化の日常にある提灯の姿として以下のように
お伝えしました。

二次元の円形としての提灯 三次元の立体(積分値=存在)としての提灯

また、提灯が、そのようなものであるならば、有名な浅草寺の門という柱と柱の差異(間)に掛か
る巨きな提灯もまた、積算の値の存在であることをお話ししました。
もぐら通信
もぐら通信 ページ77
ページ77

江戸は、浅草寺の雷門と提灯と、其の先の仲見世と呼ばれる次の次元(存在)
へと至る道

この安部公房の存在の概念は相対概念であり、関係概念でありますから、二つの異なるものを一
つに統合する上位接続なのであり、そうであれば、この雷門の向こうに神聖なる奥の院、即ち本
殿(上位の次元)に至る道(上位接続線)が敷かれているということになります。

そうして、それを仲見世と呼んで、道の両側に店を並べて、お参りの信者たちが楽しくお参りの
できるようにと、もっと言えば、我を忘れるようにと、自己を喪失するようにと、それまでの門
を潜り存在の提灯の下を潜る前の記憶を忘れるように、工夫を凝らしているのです。

明治神宮の鳥居

奉天の窓から眺めますと、神社の鳥居も確かに、二本の柱で差異を設けて、それを聖なる場所への
入り口としております。

この差異の間を、あまたの祖霊が通過して、出入りをする、また私たち此の世に生きているあまた
の人間たちも出入りをしているということになります。
もぐら通信
もぐら通信 ページ78
ページ78

神社の門であり鳥居には、上で見た浅草寺のお寺の門のようには提灯は掛かっておりませんが、し
かし、額がかかっております。そうしてみますと、確かにお寺の山門にも額がかかっておりますの
で、この額といいますものも、何かやはり大古の縄文時代以来の、わたくしたちの祖霊に関係して
いるものです。

折口信夫の『だいがくの研究』によれば、祭りのときに「だいがく」という額を掲げて、やはり町
中を山車(だし)と一緒に、掲げて練り歩く様子が描かれ、その意義が説かれております。この「だ
いがく」は大額と漢字では書くのでありましょうけれども、これは次の写真にあるように、やはり
積分値たる存在の提灯による面的な奉天の窓なのです。

大額(だいがく)

このように考えて参りますと、わたしたちは額というものを、やはり大変神聖なものと感じ考
えており、それはヨーロッパの白人種が絵画に装飾のようにして嵌め込むあの英語で云うframe
という額縁とは意味が随分と異なっているのということが判ります。

わたしたちの額と額縁は、単なる枠でもなければ枠の縁(へり)でもない。

今、偶々ネット上で、神田の古本屋、夏目書房のウエッブサイトに、安部公房の原稿が売りに
出されているとの記事を見たところです。その原稿の写真が、これです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ79
ページ79

この原稿の文章は、全集未収録です。

この文章は、安部公房がマックス・エルンストというシュールレアリスムの画家の『化石した
森』という題の絵を見て、その感想を述べたものです。その絵が、これです。その後に、安部
公房の感想を再生します。

「 その森の前に立って、ぼくは耳をすます。何かが聞こえていることは確かなのだが、それが
なんであるのか、ぼくには見当もつかないのだ。最初は、太古の野獣の叫びかとも思ったが、森
自体が化石してしまっている以上、そこに暮らしていた獣たちだって、同じく化石してしまって
いるに違いないのである。化石した森が、もはや風にそよぎはしないように、化石した獣たちだっ
て、いまさら叫んだりするはずがない。
もぐら通信
もぐら通信 ページ80
ページ80

だが、もしかすると、ぼくはとんでもない思い違いをしているのかもしれないのだ。この森のもっ
ている奇妙な既知感......化石して」

安部公房がこの額縁の中にある絵を見るときには、いつもそうだと思いますが、奉天の窓から外界
を眺めているのです。恐らく映画という動く画像の場合にも、そのスクリーンの向こうにある外界
の景色は、そのスクリーという額縁にある奉天の窓から眺めているのだと、わたしは思います。

さて、そうだとして、わたしたち日本人の無意識に心理の深層に持っている額の向こうの絵に、安
部公房が最初に「太古の野獣の叫び」を聞くというのは、興味深いことです。

「この森のもっている奇妙な既知感」という此の既知感の次の言葉を読みたいものです。

「この森のもっている奇妙な既知感」と来れば、それはもう、奉天の窓を通して、この化石の森を
見ているのだという告白に等しいでありましょう。同様の文章を、わたしたちは全集の中に見つけ
ることができます。『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第33号)より引用し
ます。

「[註37]
安部公房の好きな写真家、アルティエ・ブレッソンについての二つの文章が全集に収められている。
一つは、『アルティエ・ブレッソン作品によせて』と題した短文(全集第28巻、414ページ)、
もうひとつは、この写真家への書簡です(全集第28巻、416ページ)。1988年、安部公房
64歳。

前者に明白なように、安部公房はこの写真家の撮影する写真に差異を見ているのです。そうして、
その差異には当然のことながら、存在が宿っている。ここに見る窓を見て、「つよい既視感がにじ
んでいる」窓のある光景とは、満州の奉天の窓を見ていることが、次の言葉で明らかに判ります。
ここには、奉天に住んでいた安部公房が、「そこ」で何を見ていたのかが鮮明に語られております。
1988年、安部公房64歳。傍線筆者。

「ブレッソンについて語ることは不可能である。なぜならその画面の中で、つねにすべてが語りつ
くされているからだ。
その画面は空間の窓というようより、むしろ時間の窓だろう。時間を突きぬけて走る列車の窓で
ある。どの光景にもつよい既視感がにじんでいる。しかもなぜか私的な記憶を呼びさまされるの
だ。ぼくは「そこ」をよく知っている。ぼくは「そこ」で立ちすくみ、強く両目を閉じて心をかき
みだされながら、不可解なその場面の意味を記憶のなかに刻みこんでしまうのだ。
ブレッソンはぼくにとって単なる偉大な写真家にとどまらない。自分の眼球の運動軌跡が無条件
に共鳴するほとんど唯一の作家である。ぼくはそのたびごとにブレッソンがシャッターを切ったそ
の瞬間に、その場所に引き戻されてしまう。
[1988.10.19]」

また後者、即ちこの写真家宛の次の書簡をご覧ください。この窓の撮影されている写真を見ると、
安部公房の心には、散文ではなく詩文が自然に生まれるのです。このことは、安部公房にとって写
真とは何であったのか、詩とは何であったのかを自づから語っております。安部公房にとって写真
から覗くファインダーが窓であり、また矩形の写真が窓であり、それがどれほど重要であったのか
は、この論考以外にも『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にて論じましたので、お読みく
ださい。64歳の詩人安部公房の詩です。

「黒から湧き出る白 白に落ちていく黒
たがいに溶け合うことなく 機略に富んだせめぎあい
平面と立体のあいだの 存在しない次元に
さしかかった一羽の鳥
追憶に声を奪われた 沈黙の鳥

[1989.2.16]」

この詩は明らかに、次のことを示しています。
もぐら通信
もぐら通信 ページ81
ページ81

(1)差異の中にある存在、存在は差異の中にあるということ:「平面と立体のあいだの 存在し
ない次元」「黒から湧き出る白 白に落ちていく黒」

この詩の行の一字分を空けて書く書き方は、奉天の小学校以来の、安部公房が何か存在を招来しよ
うというときに唱える呪文の形式であることは、本文での考察で明らかでありますから、この年齢
になっても、安部公房は、この呪文をまづ書いてから、その差異に飛翔する鳥、この死んでいる「追
憶に声を奪われた」「沈黙の鳥」を蘇生させるために、詩という呪文の一文字分の空白、即ち透明
な上位接続機能を以って、「追憶に声を奪われた 沈黙の鳥」を招来するのです。

(2)「さしかかった一羽の鳥」:この差異の中を飛ぶ鳥、これは間違いなく、安部公房の撮影す
るカラスです。その黒い色は、こうしてみると、安部公房にとっては死の色であるからであり、存
在に棲息する動物の色であるからであり、リルケの純粋空間に棲む動物と同じように生きている、
安部公房の純粋空間、即ち差異の中の上位接続により生まれる次元、即ち存在に生きる動物なので
す。全集第29巻、裏表紙の中を飛ぶカラスです。」

この64歳の詩を読み、またこのような安部公房の差異の認識を思ってみれば、このマックス・エ
ルンストの絵画の額の向こうにも、やはり差異の中に在る存在を見ていること、即ち奉天の窓から
化石の森を見ていることは明らかです。

そうして、このエッセイの題が『ぼくたちのための肖像画』という題である以上、やはり此の絵は
奉天の窓から眺める自己の反照なのです。この場合、「ぼくたち」と云っている此の一人称複数形
が指している人の集合が何を意味するかによって、この肖像画についての記述の内容が異なってく
るでしょう。

この原稿の二ページ目以降を読みたいものです。

閑話休題。

さて、お寺や神社の門前と神前にある門と鳥居と参道という此の三つの要素は、安部公房の世界で
あれば、窓(差異と積算値)であり、部屋(存在)であり、そこに至る通路である上位接続線の道
は、やはり窓であるということになるでしょう。

安部公房の世界は、基本的には、窓と部屋の二つから成り立っているということが判ります。

もう少し提灯に焦点を当てて、わたしたちの生活の中にある提灯をみることにしましょう。やはり、
提灯は、祭礼に際して登場する存在であるのです。例えば、次のような立体的な提灯の集合。

わたしたち日本人の文化にある御祭りのときの此の提灯は、まさしく建物を巡って四囲にある奉天
の窓のあのマトリクスそのものです。存在の窓窓ということになります。

この祭礼の塔のような提灯もまた同様に、奉天の窓と言えるでしょう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ82
ページ82

また、このような軒下にある提灯もあります。これはやはり神社仏閣か、そのような神聖な場所に
立つ建物の軒下であるのでしょう。悪霊を払う、内部と外部の接続を清め衛(まも)るための提灯
なのでしょうか。

存在は、死者に縁のある場所ですから、わたしたちは、賑やかなお祭りの、とはいへ、お祭りとは
祖霊を、死者を再び呼び戻し、お迎えする祭りであり、それがお祭りするということの意味であり
ましょうから、実は其のこころは全く同じことでありますが、しかし、そのような社会的なお祭り
のときばかりではなく、その人の個人の死に際してのお祭りのときにも、このような提灯を確かに
掲げております。

しかし、わたくしに何と言っても一番親しく、いつも喜んで毎日お参りしたい提灯は、やはり、こ
れです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ83
ページ83

酔っ払うことは、やはり人間が自己を喪失して存在になるために必要なことではないでしょう
か。とはいへ、安部公房全集に次の安部公房のメモを見つけました。(第24巻、13ページ
の「参考資料」)

「酔い
最初に時間感覚のマヒ
次に空間感覚のマヒ
たのしい(?)のはその中間」

やはり、酒が入って酔っ払っていても、人間の本源的な二つの認識の柱の間の差異に存在して
いたい、第三の客観を、第三の道を求めたいという安部公房の願望が、ここにメモされており
ます。まさか、安部公房はこのメモを酔っ払いながら書いたのではないのでしょうね。しかし、
自己観察の透徹した安部公房であれば、そうであったかも知れません。

あなたが、もし酒の好きな安部公房の読者であるにも拘らず、残念ながら下戸であるというの
であれば、勿論わが日本の文化はこころ優しく、次のような提灯も用意しているのです。

次回は、奉天の窓から巻物を眺めてみることにします。その間、日常にある巻物について観察
なさっては如何でしょうか。
もぐら通信 ページ84
もぐら通信 ページ 84
【編集後記】
中田耕治さんが安部公房に出逢う逸話を、今月号で読むことができました。「生まれてはじめて、
まぎれもない詩人を見つけたのだった。」という言葉は、誠に、小説から入って来て安部公房の世
界に親しむ読者にとっては、貴重な、傾聴すべき回想の言葉であると、わたしは思います。この先、
どのような交流が始まり、世紀の会が生まれ、どうやって初めての読書会に三島由紀夫が登場して、
安部公房と三島由紀夫が出逢うのでしょうか。今月号のご寄稿もまた、文字通りに有り難きご寄稿
となりました。存在の中で安部公房との子弟関係を結び、安部公房の師であった石川淳の登場もま
た鮮やかです。安部公房の読者と致しましては、感謝の言葉を申し述べる以外にはありません。次
号の展開もまた楽しみにお待ち致します。⚫ 滝口健一郎さんのご寄稿を戴きました。安部公房もそ
うですが、トーマス・マンも20代は、餓えた若者、孤児ともいうべき放浪する一所不住の若者を
主人公に幾つも短編小説を書いていることを、滝口さんの文章を読んで、思い出しました。勿論、
マンの大長編も安部公房の長編小説もともに、この20代の姿勢を少しも崩さずに成し遂げられた
成果です。謀(はか)り難きこととはいいながら、少しでも、マンや安部公房の勤勉に近づきたい
ものです。滝口さんの勤勉にもまた敬意を払い、一層の精進を祈り(とは言へ、時には手と体を休
めて)、次回『ABE日誌3』の完成をお待ちします。⚫ 思いがけなくも『箱男』論が出来上がりま
した。これもまた、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』と同様に、迷うことなく、自然に一
気に出来上がったものです。『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』がなければ、『箱男』論の
解析もなかったことでありましょう。8枚の写真の解読もすることができました。このような写真
の解読は今まで誰もできなかったのではないでしょうか。安部公房は差異と存在のバロックの作家
です。この流儀で読み解けば、あなたもまた安部公房の如何なる写真であろうとも解析することが
できます。あなたの物事を見る目を養い、認識の能力を深めて、あなたの人生を豊かにするために、
この論考がお役に立てば幸いです。⚫ リルケ『形象詩集』も第三回目になります。段々とリルケの
世界がどのような世界か、また日本の詩人たちの詩と如何に異質であるかが、少しづつお判りいた
だいているのではなないかと思います。19歳から20代初の安部公房の理解した「”物”と”実
存”の対話」を少しでも読者にお伝えしたいと思います。⚫ 『安部公房の奉天の窓の暗号を解読す
る』の副産物である『三島由紀夫の十代の詩を読み解く』が近々三島由紀夫研究会のメールマガジ
ンに連載されることになり、その後同会の季刊誌『三島由紀夫の総合研究』に掲載される運びとな
りました。これもまた、もぐら通信第31号にご自分の安部公房論の転載を快諾くださった、三島
由紀夫全集の唯一の編集委員田中美代子さんより拙論に過分な賛辞を戴いたことによります。「こ
れまでずっと解けなかった微細な謎の一つ一つがミラーボールのようにまわり、目からウロコが次々
と落ちるような胸のうずく体験でした。ことに「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の
抜粋」についての解析は圧巻です。」戴いたお葉書は護符にしていつも傍において大切にしており
ます。この事件もまた先の戦争の後70年目の時代の大きな潮目であり、その激しい変化の予兆で
あり現実でありましょう。ではまた来月お目にかかります。

差 出 人 : 次号の原稿締切は来年7月24日(金)です。
贋安部公房
ご寄稿をお待ちしています。
〒182-00
03東
京都調布市 次号の予告

葉町「閉ざ

れた無限」
次の記事を予定しています。
1。存在感覚の変換:埴谷雄高
2。安部公房を巡る思い出(連載第4回):中田耕治
3。ABE日誌3:滝口健一郎
4。ドイツ語圏の『二十世紀文学辞典』の中の安部公房:編集部
5。リルケの『形象詩集』を読む(連載第4回):岩田英哉
6。編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(2):巻物
6。その他のご寄稿と記事
もぐら通信
もぐら通信 ページ85
ページ85

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方な
どに僭越ながら 本誌をお届けしました。 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
ご高覧いただけたらありがたく存じます。 もぐら通信の編集及び発行を行うもので
(順不同) す。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池 【もぐら通信のバックナンバー】
田龍雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治
様、宮西忠正様(新潮社)、北川幹雄様、 次のURLで「もぐら通信」と検索して下さ
冨澤祥郎様(新潮社)、三浦雅士様、加藤 い。過去のすべての本誌をダウンロードす
弘一様、平野啓一郎様、巽孝之様、鳥羽耕 ることができます。:
史様、友田義行様、内藤由直様、番場寛様、 https://ja.scribd.com
田中裕之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマ
ザキマリ様、小島秀夫様、頭木弘樹様、
高旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、藤沢 【前号の訂正】
美由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝 もぐら通信第33号の『安部公房の奉天の
日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待 窓の暗号を解読する』(後篇)、129ペー
田晋哉様(読売新聞社)その他の方々 ジにおいて、『方舟さくら丸』の呪文は、
その目次に含まれていると書きましたが、
【もぐら通信の収蔵機関】 そうではなく、同作品の本文の冒頭の第一
行目「月に一度、県庁のある街まで買い物
国立国会図書館 、日本近代文学館、 に出る。」が、その呪文であることに訂正
コロンビア大学東アジア図書館、「何處 を致します。何故ならば、奉天の小学生の
にも無い圖書館」 ときに書いた詩『夜』と題した詩の「クリ
ヌクイ クリヌクイ」という言葉と同じよ
【もぐら通信の編集方針】 うに、実際に繰り返される言葉か、繰り返
しを意味する言葉が、安部公房の終生の呪
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集 文の言葉であったからです。
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

You might also like