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幻冬舎

とかげ
吉本ばなな
目次

◆新婚さん

◆とかげ

◆らせん

◆キムチの夢

◆血と水

き たん

◆大川端奇譚

◆あとがき
◆文庫版あとがき
挿画 田中英樹
と か げ
私は一度だけ、電車の中でものすごく偉大な人に会ったことがあ
る。もうずいぶん前のことだが、記憶は鮮明だ。

あつ こ ころ

敦子と結婚して一か月位の頃だった。私はまだ二十八でその夜ひ
どく酔っていた。降りるべき駅はとうに過ぎていた。夜遅くのその
車両には、私を含めて四人しかいなかった。
帰りたくなくて、降りそびれたのだと思う。さっき、酔った視界
に私の降りるべき駅の見慣れたホームがゆっくりと迫ってきて、ぴ
たりと静止した。ドアが開き、新鮮な夜風が入ってきた。そして再
びドアは閉まり、まるで永遠に閉ざされたようにぴったりと閉ま
り、電車はゆっくり走り出した。知っているネオンが次々に走り
去っていった。それを座ったままただじっと見ていた。
しばらくしたある駅で、その老人は乗ってきた。いわゆるホーム
レスの人らしく、身なりはぼろぼろで、髪とひげはのびてがっちり
と固まり、異様な臭気を放っていた。私以外の三人はそうっと、ま
るで合言葉を聞いたかのように左右の車両に移動していった。私は
動きそびれて、車両の真ん中あたりの席にどっしりと深く座り込ん
だままだった。どうでもよかったし、そういう特別な対応をむき出
けん お かん

しにする人々にかすかな嫌悪感があったかもしれない。
老人はなぜかわざわざ私の横にしかもぴったりと座った。息を止
め、そちらを見ないようにした。
正面の窓ガラスに、私と彼の顔が並んで映っていた。暗やみに斜
めに浮かぶ美しい夜景に重なって、二人の男が寄り添っていた。私
は我ながら面白いくらい困った顔をしていた。

「どうして帰りたくないんだろうねえ!」
彼がかすれた、しかし大きな声で言った。
その言葉が自分に当てはまっていることにはじめ全く気づかな
かった。彼の臭さで思考が止まっていたのかもしれない。目を閉じ
て、寝たふりをした。しばらくしてまた彼が私をのぞきこむように
して言った。
「帰りたくないわけは本当のところ何だろう。」
私は目を閉じたままでいた。さすがに私に話しかけていることが
わかっていたから。電車の行く規則的な音がやたらに大きく聞こえ
た。
「私がこういう姿でも帰りたくない?」
彼が言った。目を閉じていてもその音の変化ははっきりわかっ
た。ちょうどテープを早回ししたように、そのせりふの途中でぎゅ
うっと音が高くゆがんだ。空間ごとゆがんだように、頭がくらっと
した。そして、その恐ろしい臭気がふっと消え、何か甘い……花の
にお

ような、ごく薄い香水の匂いのような香りがじょじょに感じられる
ようになった。目を閉じているから匂いがよくわかった。それは女

はだ
はだ

の肌の匂いと、生花の混じったようなかすかに澄んだ……誘惑にか
られて見てしまった。
そして、心臓が止まりそうになった。
私の隣にはなぜか女がいた。あわてて両隣の車両を見回したが、
人々はまるで異空間にいるように遠く、こちらを見ず、車両と車両
の間には透明な壁があるかのように皆さっきまでと同じ疲れた顔で
電車に揺られているのだった。何が起こったのだろう、このチェン
ジはいつの間になされたのだろう、と私は再び女を見た。
つんと前を向いて座っている。
ひとみ

国籍もわからない。とび色の 瞳に、長い茶の髪。黒いワンピー
ス。すらりと伸びた足に黒いエナメルのハイヒール。確かに私の
知っている顔だった。気にいっている芸能人や、初恋の子や、いと
こや母や思春期に性欲を覚えた年上の人や、そういう「いつかのだ
れか」に似ている気がした。大きくふくらんだ胸元に生花のコサー
ジュをつけていた。パーティの帰りだろうか、と思った。さっきま
でここにはあの汚い男がいたのに。
「これでも帰りたくない?」
女が言った。匂い立つような甘い声で。だからこれは酔って見て
いる悪夢の続きだと思おうとした。ホームレスから美女へ、醜いあ
ひるの子的変身の悪夢。何が何だかわからない分、目の前にあるこ
とだけが納得できた。
「そういう姿だとますます帰りたくなくなるんだよ。」
私は言った。余裕のある言い方に自分でも驚いた。口が勝手に心
を開いてしまったような感じだった。電車はまた駅に停車したが、
なぜかこの車両には誰も乗ってこなかった。両隣の車両にぱらぱら
と乗り込む人々はただ暗く退屈そうな顔をしていて、こちらを見向
きもしない。夜を抜けてゆく、本当は遠くへ行きたいかもしれない
人々。
「へそ曲がり。」
女は言った。
「そういう簡単なものでもないんだ。」
私は言った。
「どうして?」
のぞ

女が私の目を覗き込んだ。胸元の花が揺れた。大きな瞳にまつげ
がびっしりとはえているのが見えた。深く、どこまでも遠く、子供
のとき初めてプラネタリウムを見たときのあの丸い天井を思い出し
た。こんなに小さい空間に大宇宙を閉じ込めている。

「さっきまで汚いおやじだったくせに。」
「どっちにしても怖いでしょう。」
女は言った。
「奥さんはどういう人?」
「小さいよ。」
べらべらしゃべっている自分を遠くから見ている感じだった。お
ざんげ
まえはまるで懺悔をしているようだよ。
「背がすごく小さくて、髪が長くて、目が細い。そのせいで怒って
ても笑っているように見えるんだ。」
「玄関を開けると?」
確かに女はそう言った。
「開けると必ず笑って出てくるんだ。義務か聖職のように笑いなが
ら。テーブルには花とか菓子とかがあるんだ。奥でテレビの音がす
るんだ。レース編みをしているんだ。仏壇にいつも新しいご飯がそ
せんたく き
なえてあるんだ。日曜の朝起きると、掃除機や洗濯機の音がするん
だ。隣のおばさんと世にも明るい調子で世間話をしている。近所の
ねこ

猫に毎晩えさをやりに行くんだ。ドラマを見て涙ぐむし、ふろで鼻
歌を歌っているんだ。縫いぐるみにはたきをかけて話しかける。女
友達から電話があると無理に笑って取り次ぐんだ。故郷の同級生と
女子高生みたいに長電話をして笑いころげてるんだ。そういうもの
すべてがかもしだす何かで部屋全体のトーンが一段明るくなってい
て、どうしてだか『うわーっ、やめてくれ』と叫びたくなる。暴れ
そうだ。」
私はまくしたてた。女はうなずいた。
「わかる、わかる。」
「わかられてたまるか。」
私が言うと、女は笑った。妻の笑顔とは違う、しかしやはりずっ
と昔のいつか見たような、知っている感じの笑い方だった。まだ半
ズボンの子供の時、真冬に友達と登校していてあまりにも寒いから
寒いと言うのがばかばかしくて、思わずお互い笑ってしまったこと
をふいに思い出した。そしてこれまでの人生で誰かとそうして笑い
あった、いくつもの場面が浮かんできて、突如いい気分になった。
「いつから東京にいるの?」
くちびる
くちびる

女が言った。東京、という単語がその 唇 から出たとき、おかしな
ことに気づいた。私は言った。
「ちょっと待って、あなた、どこの国の言葉使ってる?」
わからなかったのだ。女はうなずいて、言った。
「どこの国のものでもない、あなたと、私にしか通じない言葉で話
している。すべての人どうしにそういう言葉がある。本当はね。あ
なたと誰か、あなたと奥さん、あなたと前に一緒にいた女、あなた
と父親、あなたと友達、その人たちどうしだけのためのたった一種
類の言葉が。」
「二人だけじゃなかったら? どうなるんだ、その言葉っていうの
は。」
「三人いたら、その場のその三人だけの言葉が、そこにひとり増え
たら、また言葉は変わる。私はずっとこの街を見てきた。あなたも
一人で立って、そうしてきた人。そういう人は沢山いて、私はあな
たにそういう人にしか通じない『自分と東京との距離を同じくする
人』の言葉で話している。でももしここに独り暮らしの優しいおば
あさんが座っていたら、私はその人とは孤独についての言葉で話す
でしょう。今から女を買いに行く人であれば、性欲についての言語
で。そういうものなの。」
おれ やつ

「じゃあ俺と、おばあさんと、女を買いに行く奴と、あなただった
ら?」
「口の減らない子ね。でもそうしたらきっと、夜の電車で運び去ら
れるそれぞれの人生についての言葉を、世界中のどの四人でもな
ふん い き
く、今ここにあるその四人の雰囲気で語るわ。」
「そういうものかな。」
「いつから東京に?」
「十八の時から。母親が死んですぐに出てきた。ずっと東京にい
た。」
「女と暮らすってどういうこと?」
「目の前で日常のどうでもいいささいなことや、あまりにもくだら
そ がいかん
ないことをえんえん話されたりすると、奇妙な疎外感を覚える。敦
子といると、そういうことばかりを大切にして生きている女という
概念そのものといるようだ。」
まくらもと
記憶もないくらいに小さいころ、スリッパでぱたぱたと枕 元を通
り抜けて行った母の足とか、飼っていた猫が死んだ時の幼いいとこ
の泣く後ろ姿とか。刻みつけられた凝視の、映像。異物としての他
者の親近感やぬくもりの、胸騒ぎのするような感触だ。
「そういう感じなのかしらね。」
「あなたはどこへ行くんですか。」
私はたずねた。
「こうやって電車に乗って、ずっといろいろなものを見ている。終
わることのない直線のように、いつからかずっとこうしていた。た
いていの人は知らない。電車を朝定期を出して改札を抜け、夜、も
との駅に戻ってくるための安定した箱だと思っている。違う?」
女は言った。
「そうでないと、毎日が取りとめのない恐ろしく不安定なものに
なってしまう。」
私は言った。女はうなずき、そして続けた。
「実際そうしろといっているのではない、すべては心の問題だ。も
し人生を電車という側面からだけ見たなら、帰る家や続いてゆく仕
事などを電車という機能とごっちゃにしなければ、ここに乗ってい
るほとんどの人が、そのかばんの中の財布に入っている分のお金だ
けでいますぐに、驚くほどとおくに行くことができる。」
「そりゃそうだ。」
「そういうことをいつも考えているのよ、ここで。」
「暇なんだな。」
わく

「同じ枠にいるのよ、ここに乗っている間。ある人は本を読み、あ
なか づ なが

る人は中吊り広告を眺め、ある人は音楽を聴いている。同じ時間の
中で、私は電車の可能性について考えてる。」
「なんで突然美女になるのさ。」
「降りるべき駅で降りなかったあなたと話がしたかったから。気を
引くために何となく。」
自分が誰と、何を話しているのかをまともに考えられなくなって
いた。ただ、繰り返し電車は駅に停車し、また夜の中に滑り出す。
やみ
闇に包まれ、住んでいる町はどんどん遠ざかってゆく。
なつ
隣にいるものは、何か懐かしい感触を持っている。生まれるより
前、嫌悪も愛情もごっちゃになって空気に含まれている場所の匂
い。しかしその反面、近寄り難く触れたら危険なものであることも
同時に伝わってきた。私は内心びくびくしていた。じぶんの酔いや
狂気の心配ではなくて、より本能的な、卑小感だった。明らかに自
分より強大なものに出会った野生動物が無条件に抱くであろう、逃
走への欲求のような。
「住んでいる駅になんて、もう二度と降りなくっていいのよ。充分
ありうることだもの。」
彼女が言ったのをぼんやり聞いた。
そうなのかな、と思った。しばらく沈黙が続いた。
私は揺れの音とリズムの中で静かに目を閉じて、住んでいる駅を
思い浮かべた。午後の駅前、ロータリーの花壇に揺れる赤と黄の名
を知らない花の一群。その向こうには本屋がある。いつも立ち読み
の人々がずらりとこちらに背を向けている。そう、こちら。私は多
分駅舎になって、駅前をじっと眺めているのだろう。中華屋から
漂ってくるスープの匂い。和菓子屋に並んで名物のまんじゅうを買
う人々。笑いさざめく女子校の生徒たちのいつもの制服の一群が、
ふしぎにゆっくりとした速度で横切っていく。また笑いの波が起
こった。その子らとすれ違うときちょっと緊張する男子高校生た
ち。平然としている子もいる。きっともてるんだろう、いい顔だち
かんぺき
をしている。完璧な化粧をした眠そうなOL。手ぶらだから、きっ
とお使いの帰りなのだろう。会社に戻りたくなさそうだ。いい天気
だから。KIOSKでドリンク剤を買って立ち飲みする営業マン。
待ち合わせであちこちに立っている人々。文庫本を読んだり、道行
く人を眺めたり、待ち合わせの相手を発見して駆け寄ったりしてい
る。ただゆっくりと視界に入ってくる老人達。赤ん坊を背負った母
親。ロータリーに並ぶタクシーの色とりどりの行列が、人を乗せて
は羽ばたくように駅を離れて行く。この町、少し古びていて少し整
然としている建物や、広い道路にふちどられている場所。
もう二度と訪れることがないと思うと、それらの場面はすべてが
まるで古い映画のように意味のある映像として、胸の奥底に響いて
いと
きた。目に映るすべての生き物が愛おしい。いつか私が死んで魂だ
けがある夏の夜に帰って来るとしたら、きっと世界はそういう感じ
に映るのだろう。
そこに敦子がやって来る。
真夏の駅前に、てくてくと歩いて。その髪型はばばあくさいから
よせって言ってるのに、きっちりと髪の毛をひっつめて後ろでゆわ
えている。細い細い目、ちゃんと見えているんだろうかね。太陽の
光に照らされ、特別まぶしそうだ。買い物かごの代わりにでかい
バッグを持っている。駅前の屋台の大判焼きを食べたそうにじっと
見つめる。買うか? やめて立ち去る。薬屋に立ち寄る。シャン
たな

プーの棚をじっと見つめる。シャンプーなんてどれだって一緒だか
ら、そんなに迷わなくていいよ。そんなに真剣な顔をするな。座り
込んでまだ迷っている。急いでいるふうの男が敦子にぶつかる。敦
子が少しよろける。ごめんなさい、じゃないよ、どうしてどつかれ
て謝るんだ。私にするようにきびしくしろ、そういう奴にこそ。
シャンプーが決定した。店のおばさんと立ち話をしている。にこに
こ笑う。店を出る。細い後ろ姿。一本の線になって消えてゆきそう
な小ささ。ゆっくりと歩いてゆく。踊るような足取りで、この小さ
な町の空気をいっぱいに吸って。
家の中は敦子の宇宙だ。女は小さな分身の小物で家をいっぱいに
しん し
する。それらはひとつずつ、かのシャンプーのように真摯に選び取
られ、そして彼女は母でもなく女でもない何かの顔をするようにな
る。
私にとってその何かのはりめぐらした美しいくもの巣はおぞまし
く汚いものであり、すがりつきたいほど清らかでもある。震えるほ
ど恐ろしく、何事も隠していられない気がする。生まれながらの魔
力にほんろうされている。いつからか。
「ようするに新婚っていうことだね。」
女は言った。私ははっと我に返った。
「いつか新婚以外の世界に移行する日が怖いんだね。」
む だ

「そうなんだ、一生懸命考えても無駄だね、まだ子供なんだ。不安

なんだよ。帰るよ。次の駅で降りて。酔いも醒めた。」
私は言った。
「楽しかったわ。」
女は言った。
「うん。」
私はうなずいた。
電車はまるで貴重なひとときをすり減らす砂時計のようにそうっ
と進んでいき、次の駅名を告げる車内放送が流れた。私たちは黙っ
ていた。別れがたく、とてもとても長い間ここにいた気がした。あ
らゆるメディア、あらゆる建物、あらゆる人々の位置から東京を一
巡りしたようだった。それは私の住む町のあの駅から、私がこの生
活に、この人生に対して持つささやかな違和感や敦子の横顔さえ、
そういうものすべての痛みを内包して息づく生命体のような感触
だった。ここにいるすべての人がそれぞれに持つ無限の風景を、こ
の街はおおきく呼吸している。
何か言いたくて横を見ると、女は汚いおやじに戻ってぐうぐう
眠っていた。
私は言葉を失い、電車は次のホームにまるで船のようにゆっくり
と、静かにたどりついた。がたん、と止まり、ドアが開く。立ち上
がって、思った。さよなら、偉大な人よ。
この文章の中で彼女をとかげ、と呼ぶ。
そう呼ぶのは、彼女の内ももにちいさなとかげの入れ墨がしてあ
るからではない。
彼女の目は黒くて丸い。は虫類の目、無心の目だ。
すみずみ
彼女は小さく、体は隅々まで冷たい。あまりにも冷たいので、私
は彼女をこの両手のひらに包み込んでやりたいと思う。でもそれは
ひなどりや子ウサギのようではない。包み込んだ手のひらでちょろ
とが

ちょろと違和感のある感触の尖った足でくすぐったく動き回り、の
いつく

ぞきこむと小さな赤い舌を出して、そのガラス玉の目で「何かを慈
しみたい」という私自身の、心細げな顔を映し出す。
そういう生き物の感触だ。

「疲れた。」
ふ き げん

とても不機嫌な声で、とかげが部屋に入ってきた。顔は見えず、
白衣だけが光って見えた。
時計を見ると夜中の2時で、私はもう眠ろうとしてベッドに入っ
ていた。私がライトをつけようとするより速く、とかげは私に抱き
ついてきた。そして痛いくらい強く私の肩と胸の間に顔を押しつ

す はだ
す はだ

け、私の寝巻きのなかにその冷たい手のひらを入れてきた。素肌に
触れるその手が氷のように気持ちよかった。
私は29歳男、自閉症児専門の小さな病院でカウンセラーや、治療
をしている。とかげと出会ってからもう3年になる。
いつのころからか、とかげは私以外の人間とはほとんど口をきか
なくなった。基本的に人は人と口をきかなくては生きていけない。
だから私は彼女の命綱なのだと思う。
それから彼女は私の胸の骨と骨の間に、ものすごく強く顔を押し
つけてきた。いつもそうだ。あまりにも強く、くいこむように押し
てきて、苦しい程だ。はじめ私はそういうとき、彼女が泣いている
のかと思った。
でも違う。顔をあげるととかげはすっきりしたいい顔をしてい
る。甘い、柔らかい目をしている。
まくら

きっと、昼間の何かを吐き出しているのだ。枕に顔をうずめて泣
き叫ぶかのように。
でなければ、疲れた自分から意識を切り離そうとしているに違い
ない。
そう思っていた。
しかし、その夜のとかげは、突如私のそんな疑問に答えたのだ。
「実は、私子供のころ目が見えなかったことがあるの。」
やみ

告白は闇に響いた。
「え? 全然?」
私は驚いてたずねた。
「そうなの、全然。」
「何でまた。」
「ヒステリー性の発作で。5歳から、8歳くらいまで、ずっと。」
「どうして見えるようになった?」
「今、あなたがつとめているような病院で、手厚い看護の末。」
「そうか……。」
私は言った。
「聞いてもいいかな、じゃあ、どうして見えなくなったの?」
ごくん、ととかげがつばを飲んだ。
「あのね、家の中でひどいことが起こったの。それで、それを見て
しまって……」
無理に言わなくていいよ、と私は言った。言うのがつらそうだっ
た。とかげの両親は健在だ。会ったこともある。きょうだいはいな
い。離婚もしていない。だから何か問題があったことは初耳だっ
た。
「……だからね、本当に小さいころに見えなかったからね、何にで
も触れたぐらいじゃ安心しないの。特に疲れて五感がにぶっている
と、目を閉じて強く押しつけたり、強くつかんだりしていないと安
心できないの。痛い? ごめんね。」
「目が開いていても、こわいときはこわいんだよ。うちの病院には
そういう子がいっぱい来るよ。」
「うん、知ってる。」
「結婚しようよ。引っ越して2人で住もう。」
私は前から思っていたことを衝動的に言った。
とかげは私の胸に顔を押しつけたまま、じいっと黙ってしまっ
た。その沈黙に緊張して心臓がどきどきするのがわかった。違う皮
膚に違う内臓を包んで、夜寝るとき違う夢を見る遠い遠い他人を意
識した。
「ひ」
とかげは小さな声でしかしはっきりとそう言った。そして言うの
をやめた。また沈黙した。
私は考えた。ひどい? ひとりでいたい? 避妊? ひなまつ
り? ひ?
くちびる

やがて、私の胸によりいっそう強く押しつけられた 唇 からくぐ
もった声が聞こえてきた。
「秘密があるの。」

ころ
私がはじめてとかげに会ったのは、その頃通っていたスポーツク
ラブだった。
私はそこで週に2日泳いでいたのだが、とかげはというと、そこ
でエアロビクスのインストラクターをやっていたのだ。
変な女がいるな、と見かけるたびに思っていたのだ。

小さくて、きゅっとしまっていて、釣り目で何だか暗くて、ほか
のインストラクターの陽気さに比べてその独特のムードは良くも悪
くもすごく異質だった。恋というよりもまず、とにかく目を引い
た。いつも私がプールからあがってくるとちょうど、スタジオで彼
女がエアロビクスを教えている時刻だった。おばさんとおばさんと
からだ
おばさんの肉体の海の向こうに細すぎる彼女の身体がまるでダリの
彫刻みたいに無理な姿勢で静止しているように見える。あまりにし
なやかに動いているので、どのポーズも止まって見えるのだ。どん
なに激しい音楽が鳴っていても、彼女だけが音のない世界にいるよ
うに見えた。
何となく気にして見ているうちに、ある事件が起こった。
その日も私は泳ぎを終えて、スタジオの前を通りかかった。彼女
はいつものようにそこにいて、おばさんたちにマット運動を教えて
なが

いた。私はジュースを飲みながら何となくそれを眺め、もしある日
急にあの人がやめてしまったら、つまらないだろうな、と思った。
その頃私は、人妻との長い大変な恋愛が終わったばかりで、しかも
ふられたのでかなり疲れ果てていてとても色恋に向けるエネルギー
なんてなかったのだが、そう思ったことで自分の中に何かが芽生え
るのを感じた。
よい
たとえて言えば、気持ちのいい春の宵、あまりよく知らないけれ
ど好意を持っている女性と待ち合わせをしていて、どこに食事に行
こうか、飲みに行こうかと考えながら電車に乗っているときのよう
な浮かれた感じ、今晩やれるかやれないかとかまったく考えなくて
も、そのひとの整った立ち居ふるまい、私のために装われたスカー
がら

フの柄とかコートのすそとか笑顔とかをみていると、まるで遠くの
美しい風景を見ているように、自分の心までもがきれいになったよ
うな気分になれる感じ、ずっと失われていたそういううきうきする
かお

ものがそのとき、香るようにふっとよみがえったのだ。
さあ、帰ろうかなと立ち去りかけたとき、痛たた……という叫び
が聞こえた。振り向くとスタジオの中でひとりのおばさんが足を押
さえていた。足をつったな、と思う間もなくとかげがその人にすっ
とあゆみより、足に触れた。薄暗いスタジオの、音楽がまだ流れる
中でとかげは医師のように冷静にその人の足をさすった。私にはそ
れを見ている時間がものすごく長く感じられた。座って腕を伸ばし
ているとかげがまるで闇にぬらぬらと光る美しい彫像のように見え
た。
すぐにその人は笑顔になり、とかげも赤い唇でにっこり笑った。
ガラス越しのこちらからは音も声もかすかにしか聞こえないの
で、ますます不思議な感じのする場面だった。そしてとかげが再び
立ち上がるとき、その投げ出した両足の、右のももの付け根にちい
さなとかげの入れ墨を見てとったとき、私は完全にまいってしまっ
た。それがとかげとの妙な恋愛の始まりだ。

確かにこういう仕事にひどく疲れるときもある。
患者を本当に助けたかったら、患者にシンクロしたり、共鳴した
りしてはいけない。でも強烈にただ、同調を求めてくる患者に波長
を合わせないようにするのは苦しい。腹ぺこのときに目の前にごち
そうがあっても気にしないようにする、それと同じくらい難しい。
向こうは命がけでシンクロだけを望んでいるのだから。エネル
ギーのすべてをその一時しのぎに注いでくるのだ。
たと
だから喩えて言うと、プロのウエイターになったように意識を保
つ。腹がへっていてもウエイターが食べ物を運びながらむらむらし
ていては仕方がない。そんなふうにそらす。
自分が何をしたいのかを忘れないようにする。治したいんだろ
う? 治ってもらいたいんだろう? その基本に常に意識を合わせ
る。適当にでも何でも、合わせる。とりこまれないようにする。
自分が手伝おうとしているもののほうに協力体制がない、そのこ
とに時々、ものすごーく疲れる。
こんなふうに悩みごとがあるようなとき特に。
昼飯を食べながら、とかげの秘密って何だろう? とずっと考え
いや

ていた。もしかすると単に私との結婚が 嫌なだけではないだろう
か。
いつも、病院から少しはなれた、公園のわきのそば屋で昼を食べ
る。そこだと患者に出くわすこともないからだ。窓の外には緑が香
り、公園は静かに午後のひざしをたたえている。ベンチには営業マ

ンや年寄りが陽にさらされてのんびりと座っている。そうやって見
かんぺき
るとその整った完璧に機能的な姿に、人間というもののフォルムの
美しさを知る。年寄りも子供も、女も男も、みなそれぞれに美し
い。もともとの気持ちがすっかりよみがえってきて、仕事をがんば
ろうと思う。単純にそう思う。同じ空の下、とかげもそう思って働
いているのだろうか、と思う。

はじめて食事に誘ったのは、彼女のクラスが終わるのを待ってい
たあの夜だ。
私服の彼女を見るのは初めてで、ごくふつうの黒いセーターとG
パンといういでたちだったが、なんとなく何かを隠しているように
見えた。そうやってレオタードを脱いでしまうと、とりたてて目立
つところはない人だった。
ほお

笑うと歯ぐきが見えるし、頰ぼねのところにそばかすがあって、
化粧も濃すぎる。でもそんなものじゃない。とかげが歩いていると
そこにはそれだけで何かがあった。
私は彼女を見るたびなぜか「使命」という言葉をいつも思い出し
た。何か重いものを背負っているが、それをやむなく受け入れてい
る、そういうシリアスさを感じた。それをどうして自分が感じるの

かわからない。でもそういうところに惹かれた。そんな人が歯ぐき
を見せてにっこり笑ったりすると、それはひどくめりはりのある、
本当の笑顔だという感じがする。笑顔の「意味」を発見する。
小さな和食屋で食事をした。テーブル席に向かい合って、他にひ
とがいない静かな店内で。こんなに緊張したことはない、というく
らい緊張した。とかげは無口で少食で、酒はほとんど飲めなかっ
た。
「ダンス、うまいんですね、すごく。」
私が言うといきなりとかげは、
「うん、でもあの仕事やめるの。来月で。」
と言った。
びっくりして私が、
「どうして?」
とたずねると、
「他にやりたいことがあって。」
とほほえんだ。
「何?」
私は言った。
「さしつかえなければ聞いてもいいかな? いや、だってすごく才
能あるから、惜しいなと思ってさ。」
はり きゅう
「いいわよ。あのね、鍼と灸の学校に行くの。」
とかげは言った。
「えー?」
私はもっと驚いた。
「何でまた。」
「そっちのほうにもっともっと才能があることがわかったの。私、
見るとそのひとの悪いところがわかるの。さわると治せることもあ
るの。それを伸ばそうと思って。」
「そんな才能もあったのか。」
「あったのよ。」
デザートのアイスを食べながら彼女は淡々と言った。
「体を使って外に向かって表現し続けていくよりも、中にあるもの
いや
を外に押し出さないと、渇きは癒されないことがわかったの。今ま
で私は激しく動くことでやっと自分を保ってきたけれど、べつのや
りかたを捜そうと思って。もう33だし。」
「えっ、33?」
25くらいかと思いこんでいた。
「そう、きっとあなたより年上ね。」
とかげは笑った。
別れぎわに駅のところでとかげは私に、
「誘ってくれてありがとう。」
と言った。
「私、友達いないし。親ともほとんど話さないし。人に自分のこと
を話したの、すごく久しぶりで、話しすぎたみたい。」
夜の闇、道ゆく人々。夜風、ビルの窓。電車の音。遠くから聞こ
えてくるような、発車のベルの音。釣り目のとかげの、澄んだ表
情。
「また会ってください。」
私は言って、彼女の手を握った。
どうしてもどうしてもさわりたくて、気が狂うほど、もういても
たってもいられなくて、彼女の手に触れることができたらもうなん
でもする、神様。
そう思った。そう思ってした。自然も不自然もない。せざるをえ
ない。思い出した。本当はそうだった。何となく気があるふたりが
いて、何となく約束して、夜になって、食べて飲んで、どうす
る? となって、今日あたりいけるとお互いが暗黙の打ち合わせを
してる、というものではなかった、本当はただたださわりたくて、
キスしたくて、抱きたくて、少しでも近くに行きたくてたまらなく
て一方的にでもなんでも、涙がでるほどしたくて、今すぐ、その人
とだけ、その人じゃなければ嫌だ。それが恋だった。思い出した。
「ええ、また。」
そう言って、電話番号を教えてくれた。
振り向かずに駅の階段を上がって行った。後ろ姿が人波に消え
る。帰ってしまう。
この世が終わるような喪失感だった。

とかげは学校に行き、資格を取った。
そして在学中に才能を認められた気功師に弟子入りして半年間中
国に留学した後、帰国して小さな治療院を開いた。腕前がいいので
繁盛して、従業員も雇った。
毎日、日本中から彼女のところに患者がやってくる。病が重い人
が多い。うわさを聞いて、わらにもすがる思いでくる。忙しさがど
んなに増しても彼女の治す力は減りはしない。ただ、口数だけはど
んどん減っていった。いちどだけひやかしで行ったそこはマンショ
ンの一室で、ベッドはひとつしかなく、病気の人々が静かに列を作
り長いすで待っていた。モグリかと思うくらいあじけない治療院
だった。白衣を着たとかげがそのなかを静かに歩き回っている。変
な感じだった。とかげは優しい言葉もかけないし、愛想がいいわけ
でもない。だから症状が軽くて切実じゃないひとはすぐ来なくなっ
てしまう。でもよそで見放されてここに流れついて、痛みから、苦
しさから、不安から解放された重症の患者が、治療室から出てきて
は涙を流さんばかりの目でとかげを見上げる。立てなかった人がと
かげに支えられて歩いて病室を出てくると、付き添いのひとが感嘆
の声をあげる。とかげは少し笑うだけで、次のひとの治療に行って
しまう。
ほんとうに一生懸命なのだ、と思う。治したいのだ。それだけ
だ。本当に才能があって、感謝や好かれることに重点がないのだ。
私は胸を打たれ、彼女をほこりに思う。自分を少し恥じて、とかげ
のようでありたいと思う。

その夜、部屋でとかげを待った。
「8時に行くね。」
と電話があった。
「ピザとっといて。辛いの。」
きら
とかげはデリバリーのピザが好きだ。外食が嫌いだ。人間は嫌い
じゃないけれど、人間を見たくない、と言う。わかる気がする。人
間相手の仕事は、人間にあたり、疲れる。私たちはたいてい部屋
で、照明も暗くして、ほとんど話もしない。ただ音楽をかけて、ぼ
うっとしていることが多い。旅行も、人のいない山奥に行く。変な
交際だ。
8時半を回っても、とかげは来なかった。
私はひとりで先にピザを食べ、ビールを飲み考えた。もう来ない
かもしれない……と。秘密があって、プロポーズされて、言えなく
て。とかげの性格だったら、別れたいときは今夜来ないことで終わ
りにする。そう思った。
出会ったころのような激しいものはもう消えていたが、それでも
悲しかった。いてほしかった。そういう交際だから、明るさとか安
らぎとかは得られなくて、よく病院にいる陽気な看護婦にふらっと
きたりしたが、あんなとかげの、かわりはどこにもいない。
絶望と酔いにまみれた11時過ぎ、ばたんとドアを開けてとかげが
入ってきた。
「遅くなって。」
にお

と言ってもたれてきた頭髪から、外の風の匂いがした。
「来ないかと思った。」
私は言った。もし私が子供だったら、そのときべそをかいていた
だろう。
「迷った。」
そう言って、とかげはいすに座り、冷めたピザをぼそぼそ食べ
た。
「あっためなおそうか?」
「いい、このままで。」
とかげは言った。
「私、あなたしか話せる人がいない。」
「知ってる。でも、患者と最小限のこと話すでしょ? 病気ではな
いよ。」
私は言った。
「でも、あなたに言ってないことがあるの。大事なことで。」
「言ってみな。」
私は言った。
とかげは黙った。そして壁を見つめ、深く呼吸をした。そのかた
ちは影絵のようだった。なめらかに闇に生きる、私とは違う種類の
生き物のようだった。
「私、目が見えない期間があったって言ったでしょう?」
とかげは言った。そのことだとは思っていた、と私は言った。
「私が5歳のとき、うちに気が狂った人が突然入ってきて、裏口か
ら突然ね、そして何だかわからないことをわめきながら台所にあっ
た包丁で母のももと腕を刺して、逃げちゃったの。私は父の会社に
電話して、父が救急車を手配するから待ってろって言って、それか
ら救急車がくるまでの時間、死にゆく母のそばにいたの。母が死ん
でいくのがわかって、こわくてこわくて、必死で傷口に手を当て
て、止血しようとしたのね。そのときに、自分は治す力がある、っ
て知った。映画や漫画みたいに血が止まったり、傷口が消えたりは
しなかったけれど、確かに、手が光った感じがして、手ごたえが
あった。血の流れる量が少なくなっていくという感じが。すぐに車
が来て、血だらけの私と母は両方病院に運ばれた。私はこわくて口
もきけなくて、こわばったままでいた。父が駆けつけて、警察が来
て、でも何も話せなかった。医者が、奇跡的に出血が少なくて助か
りました、って言った。ちゃんと止血もしてないのに。よくぞ、っ
て。」
私は黙って聞いた。とかげの母親の、歩くとき少し引きずり、立
ち上がるとき大変に重そうな右足を思い出していた。
「母は、ショックでしばらくおかしくなるし、私は見えなくなる
し、父は戸締まりに病的に神経質になって、うちは大変だったの。
私の目がある日突然再び見え始め、母がひとりで近所を歩けるよう
かぎ
になり、父が7つある鍵を全部閉めなくても安心して出かけるよう
に、そうやってひとつひとつとりもどしていくのに何年もかかった
の。暗い期間だった。私ね、でもそのとき命の秘密を知ったの。
からだ

身体で知ったの。母はその頃私にとって、見上げる宇宙だった。父
とけんかして泣いたりはするけど、母としてしか私に接しない、安
定した何かだった。でもその日、私は泣き叫び、にげまどう母や、
血を流して横たわり、しだいに『もの』になって行く母の様子を
いっぺんに見てしまったの。魂が私を見ていないかぎり、体はいれ
ものだということを知ったよ。だからこそ心をこめて車の整備をす
るように、体も治せる、そう思った。気をつけて見ていると、町で
も、もうすぐ死ぬ人は黒い。肝臓が悪ければ肝臓のところが黒い。
肩こりだと肩がグレー。そういうのが見えるようになった。見えす
ぎて狂わないようにとダンスを続けていたけれど、やっと今、バラ
ンスを見つけた。あなたと知りあってから。満たされてから。で、
天職につくことができた。」
「いいはなしじゃないか。問題ないよ。」
私は言った。
「まだあるのよ、かんじんなことがひとつ。」
とかげは言った。
「親にも言ってないことが。」
そしてまた黙った。長い沈黙だった。そのあいだにとかげはもう
ひとつばさばさとピザを食べ、見ると驚いたことに涙を流してい
た。とかげが泣いたのを初めて見たので動揺した。彼女にとってよ
ほどのことだとわかった。
「そうだ、犯人は? 見つかったり捕まったりしたの?」
私はたずねた。とかげはきょとんと私を見た。もしその質問を、
そのタイミングでしなかったら、と思うとぞっとする。でもでき
た。好きだったから。失いたくなかったから。たぶんそうだろう。
「捕まって、精神鑑定して、すぐ出てきちゃった。」
とかげは涙声で言った。
「私、殺したの。」
「えっ?」
私は叫んだ。
「自分で?」
のろ

「違う……呪い殺した。信じない? でも本当よ。私が、呪い殺し
たの。」
「そんなことまでできるとは。」
たか
私は言った。だいたい、そんなに長く、昂ぶった話し方をすると
かげを見たのははじめてだった。
「どうやって?」

「毎日、毎日祈っただけ。あいつが車に 轢かれて死にますよう
に、って。毎日、家のなかでいやなことや悲しいことがある度に。
そうしたら2年目のある夕方、夕焼けの明るい方を向いてすわって
たら突然、その願いが届いたことがわかったの。わかったのよ。
かな
あ、叶う。私の目も治る。そう思ったの。あいつは死ぬって。それ
から1週間後のニュースで、偶然聞いた。おかしくなって自分から
トラックに突っ込んでいったって。私がやった、そう思った。ざま
あみろ、と思った。でも日にちがたち、自分が大人になってから、
自分のしたことの意味がわかってきた。多くの人を治しても、ひと
り殺したことに変わりはない、そのことがしだいに重くなってき
た。あなたと知りあってから特に、わかってきた。私は誰かを憎ん
だら、殺すかもしれない。あのときも自分が偉く思えた。やった、
と笑った。そういうところがあるの。でもこれはものがたりではな
そうかい

く、江戸時代の爽快なあだ討ちのドラマでもない。この平和な日本
で、現実に私は死ぬつもりのない人ひとりの人生を終わらせてし
かえ

まった。ばちがあたる、いつか自分に還ってくるに決まってる。あ
のときは憎しみのあまり、それでもいいと決心していた。でも時間
が……時間があんなに偉大だなんて、知らなかったの。父と母が仲
良く暮らし、私は見えるようになって仕事につき、あなたと知り
あって……そんな日が来るなんて、それは当時ありえないことだっ
たの。みんなが窓を開けず暗く自分をむき出しにしていたあの家の
状態が、終わるなんて絶対思えないくらいひどかったの。失うもの
がなにもないと思っていたから、呪いをかけるのをおそれなかっ
た。自分に還ってきてもいい、と思ってた。でも今は。今は何もか
もが変わっているのに、私だけがまだおそれている。あの男が夢に
おれ

出てくる。俺は殺してないのに、おまえは殺した……って言う。本
当だ、と思う。こわいの。」
とかげはかすれた鼻声で訴え続けた。
そいつの死は偶然だ、君に責任はない、というのは簡単だった。
じゅばく

でも思いこんでいるかぎり、その 呪縛は本物なのだ。そのことを
知っていた。思いこんで捕らわれ、命を落とした子供を何人も見て
うえ き ばち

いる。守ると約束した植木鉢を枯らせたからと首をつった子やら、
決まった時刻にお祈りをし忘れたと手首を切った子。
戦っていたんだな、と思った。いいことをすればするほど、才能
はいせつ

をのばせばのばすほど。重くのしかかること。生理や性欲や排泄み
たいに、まったく自分だけの、決して他人と分かち合えない無意識
の重み。どんどんふくらんでくる、この世のあらゆる殺人や自殺の
もとになっている、暗いエネルギー。
そして私は理解できてもなにもできないことにいつもいらだちを
覚える。患者にも、いつも。自分が無力なマザコンのオカマみたい
に思えてくる。そうなるともう、何もできなくなる。
とかげがこんなに長く話したのは初めてかもしれなかった。私は
言った。
「出かけよう。」
まゆ
とかげは眉をひそめた。
「大丈夫、嫌なところには行かないから。家にいるとうまく話せな
いから。」
私は言った。
「まさか、あなたの勤め先にいって私よりももっとひどい患者を見
がん ば
せて、頑張れよ……っていうんじゃないでしょうね。」
と言ってとかげは笑い、薄いコートをはおった。
「その案、いただき。」
冗談を言って私も立ち上がった。
くつ
とかげがコートをはおるのを見るのが好きだ。靴を履こうとかが
んだときの首が。鏡をのぞくうわめづかいが。いろいろな場面のい
ろいろなとかげ。死にゆく細胞。生まれ続ける細胞。ほほの張り、
つめの白い半月。生きている、水分をたたえて、流れに乗って。そ
れを感じる。彼女の一挙一動に、生きているはずの自分を映し出す
ことができる。
初夏の匂いが、街じゅうにあふれていた。
穏やかで力があって、苦しいほどの草の匂いがする。
「どこへ?」
とかげが聞いた。
「2人で外出するのが、あんまり久しぶりなんで。」
「忙しいしね。」
そのとき、突然に、
2人はもう終わるかもしれない……と思った。やることがない。
のびてゆく方向が閉ざされている。ガラスケースのなかの植物のよ
うに、助け合っていてもお互いがお互いに救いや解放感を感じさせ
ない。
やみ
闇の中で傷をなめあったり、老夫婦のように寄り添って暖をとっ
たり。
それだけ。
その思いは胸にふくれあがり、私を支配しようとした。
でもそのときとかげが突然言った。すべてを変える魔法のタイミ
うれ
ングで。生きた言葉、生の変化の喜びをたたえて、嬉しそうに。
なり た さん
「そうだ、成田山行かない?」
「何でまた。」
「いいじゃない? 明日仕事は午後からにして、行こうよ。ここか
らタクシーで1時間くらいでしょ?」
「何でまた。」
つけもの

「行きたい。昔、行ったことあるの。朝、参道で漬物買ったり、お
せんべい買ったり、にぎわう露店を見たい。」
とかげは丸い目で私を見上げた。
欲望の芽生えは大切だ……という臨床よりなによりも、とかげが
とかげから何かしたいと、他でもない私に言いだしたことが誇らし
かった。嬉しかった。
「いいよ、行こう。」
行きたいときに、行きたいところに。
2人きりで。

成田に着いたのは夜中の1時近く、電話をしたら幸い宿がとれ
た。
もう真っ暗な参道のくねくねした坂道を、2人で歩いた。建物は
みな古く、木の匂いがした。風が強く、見上げると細い道はばの建
物の透き間に星がくっきりとまたたいていた。
本当に風が強く、はためくとかげの髪の毛が闇に踊った。
寺の門はもう閉まっていて、たたまれた露店の色とりどりの影
ちょうちん ぼん じ さく

と、揺れる巨大な提 灯の梵字が柵のこちらがわから見えた。
町はまったくの無人で、こわいくらい静かだった。ゴーストタウ
ンみたい……ととかげが笑った。
柵にもたれて、5分以内に人が通るかかけて待ってみたけれど誰
も来なかった。歴史の匂いがする参道を、風が、大勢の人々のよう
な気配とともに勢いよく吹いて行くだけだった。
闇の中のとかげが、その白い歯が、白いシャツが、夢の中のよう
に映えて見えた。
「実は俺も、秘密があるんだ。」
私は言った。
「俺、母親と父親の子供じゃないんだ。」
とかげは何も言わず、私を見上げもせず、全身で聞いていた。
「母親は、はじめ父親の弟とつきあっていたがふっちゃって、今の
父と結婚したんだ。そうしたらそいつは思いつめちゃっておかしく
なって、ある日家に押し入り、ナイフでおどして2人を縛り上げ
て、父の目の前で母親を犯して、目の前で自分に灯油をかけて、火
をつけて、自殺したんだ。何の騒ぎかと駆けつけた近所の人の通報
で命からがら救出されて、2人は無事だったんだけれどね。残念な
ことに俺ができてたんだよね。」
うち

「家よりひどかったのかも。」
とかげが言った。
「だろう?……母親は父親の望みで俺を産んで、すぐに調子がおか
しんせき

しくなって、俺は親戚の家にあずけられて、またいっしょに暮らす
ようになって、5つのときだったかな。自殺した。ごめんね、っ
て、遺言を聞いたのは俺だった。やさしいひとだな、と今でも思う
よ。」
「今のお母さんは?」
「父親の再婚した母だよ。」
「そう。」
「ひどいものをみて死ぬ人もいて、君のお母さんみたいに死なない
人もいて、立ち直る家族、だめになる家族、いろいろあって、事件
の質によるのか、ひとびとの性格なのかわからない。でも子供のほ
うは、ハンデを背負うよね。俺は母親の悲惨な死体をみた。でも生
うま
うま

きていれば、ハンデがあっても旨いものを食ったり、天気のいい日
にいい気分になったりできる。すくなくとも。大したことじゃない
けど。」
「だから医者になったの?」
「そうだね。それもあるね。」
死と親しいからなった。小さいうちに死に強い印象を刻み込まれ
て、興味を持ってしまった。匂いがしみ込んだ。離れない。
そういう2人だったことを、今日知ってそれなりに私もショック
を受けていた。あれほど宿命的にひかれた訳がわかったからだ。
「でもいいんだ。ひどいことにはきりがないんだ。だから気楽に
引っ越しでもして、緑の多いところに住もうよ。2人だけはいい目
がみれるって思おうよ。」
「『短かい金曜日』って小説知ってる?」
とかげが言った。
「知らない。」
「地味な夫婦の死の話。ああいうふうだといいな。完璧に幸福な1
日を終えた信仰の厚い2人が並んで寝てて、向こうの台所で明日の
パンを用意してて手違いでいつのまにか部屋にガスが充満してい
て、気づいたときにはもう遅いんだけど2人とも何となく納得し
て、何となく幸せなまま死んじゃうの。」
「読んでみるよ。」
「ああだといいな。誰かが死ぬのを見るのはいや。あんなふうだと
いいな。」
「自分たちはもういいんだそんなこと考えなくて。たくさん、たく
さん、考えてきて仕事にした段階でもういいんだ。そう思おうよ。
まだできることはたくさんあるよ。すこしずつ。はうようにでも、
いい思いをしよう。できることを増やそう。でなければ生きている
とは言えない。今はどんなに変な様子でも。」
かつとう あらし
心の中が 葛藤の 嵐だとしてもとかげは小さくうなずいた。やっ
た、と私は思った。
とかげにかかると私はいつも15の少年で、そういう恋人を持つと
やつ

いうことは男としてはほかの奴に自慢ができるような気分だ。

古びた宿で、へとへとの体で横たわった。
とかげはいつものように私に鼻づらをつよく食い込ませ、眠りに
つこうとしていた。私も眠くて、まぶたが落ちてくるのがわかっ
た。
とかげが何かむにゃむにゃいうので、聞き取れず「何?」と聞い
た。
とかげは言った。
「だからね、だれか神様みたいなこの世のきまりごとの担当の人が
いて、これはあんまりだから絶対あってはいけない、とかこのひと
はここまでなら大丈夫だから、とか見ててくれればいいのに。でも
いない。もしいるなら止めてくれればいいのにね。でも止めてくれ
ない。自分でやるのね。どんなにひどいことを見ても、何でも起こ
りうるって思うしかないのね。今夜、どれだけの悲しい人がいるん

だろう? 身内を亡くす人や、死ぬ人や。裏切られる人や、殺され
る人。現実に、今。世界は広いの。少しでも、止めてくれるといい
のに。少しでもへるといいのに。私たちみたいな、生きてくのがつ
らい子がすこしでもへるようにね。」
悲しい祈りは、悲しい詩のように暗く湿った和室に響いた。私は
半分眠りながら、
でも、あの暗い参道も朝になればにぎわい、大勢の人がやってき
て、店も全部開いて、寺もばーんと門を開いて、とにかくまったく
ちがう顔になる。どっちがどうじゃなくて、変わって行く。楽しも
うよ。うなぎの焼ける匂い、せんべいの匂い、漢方薬を買って、お
ふだ は

参りして、お札でも買って、新居に貼ろう。人々の往来を見よう。
今夜は無人だった町の生き返る繰り返しのありさまを。
と思った。眠すぎて口には出せなかったが、そう、明日言おう。
死ぬって何だろう。
いなくなって何も言ってくれなくなって、今はここに強く押しつ
けられている鼻の、その押しつける力の源。そうしたいという意志
の器。それが消えてなくなること。
とかげのこのさらさらした髪の、キューティクル。ほほに落ちる
あと

抜けたまつげ。マニキュアの指の、小さなやけどの痕。それらすべ
てを動かしている魂の回転の。
そういうこと、話したい、言葉にしたくない何もかものこと。
生きてさえいれば。
明日言える。
そう思ったとき、とかげがますます小さい声で言った。
「おやすみ。」
もう寝ていると思っていた私は少し驚いて目が覚めた。見るとと
かげは目を閉じて、今にもとろりと眠りに落ちそうな感じだった。
おやすみ、と言うと、とかげは目を閉じたままでぐにゃぐにゃ言っ
た。
「私、地獄におちるのかなあ、死んだら。」
大丈夫だよ、と私は言った。
「でもいいわ。」
とかげは言った。
「地獄のほうが、患者さん多そうだから。」
そして、すうすうと寝息をたてはじめた。子供の寝顔で眠ってい
た。
なが

私はそれをしばらく 眺め、2人の子供時代のために数分間泣い
た。
ふつかよ

私はその日ひどい 宿酔いで、午後いっぱいは仕事にならなかっ
た。
私は文章を書いて暮らしている。実はその日も急ぎの仕事で、あ
る写真家の撮った風景写真に文章をつけるというのがあったのだ
が、頭が痛くてとてもその荒波の海の写真世界に入っていけなかっ
た。
つく
そうやって人と組む仕事は不思議だ。特に自分の好きなものを創
る人との仕事は。何だか自分の頭の中をのぞかれたような気がいつ
もする。あらかじめその人との間に約束ができているように思う。
はる

遥かな昔からの約束。
でもとにかくその日は、ずっとベッドに寝ころんで秋空の透明を
見ていた。ほんとうにどこまでも透明で、どうしてだか、何だか裏
切られているような感じがした。
となりの子供が練習しているへたくそなバイオリンが泣かせた。
心の中に映し出された青空いっぱいに、まるでしみこむようにその
音色が流れてゆくのだ。へたならへたなほど、不器用なら不器用な
ほど、目を閉じても見える鮮やかな青に合うのだった。
目を閉じて聴いていたら、その青空の映像に重なってよく知って
いるある女性のまつげのことも思いだした。そのひとは、言葉につ
まると「つまり……」とか「ええと」とか言いながら、必ずいった
ん目を閉じるのだが、そうすると白いまぶたをふちどるまつげが突
まゆ

然くっきり見えて、かすかにひそめた眉に、おおらかなのと神経質
なのが入り混じった彼女の人格のすべてがわかったという独特な感
じがする。
わかる瞬間はいつも怖い。
心臓が止まりそうになる。これまでにわかってしまってうまくい
くことなんて、ひとつもなかったからだと思う。
しかもなぜだろう、私は、彼女がそうしてしばらく目を閉じるの
がことさらに怖い。
怖くてとまどっていると、やがて(といってもほんのしばらくの
ことだけれど)、彼女はぱっちりと目を開け、うってかわって明解
な人格になり、例えば「わかるってすばらしいことよ。」とか言
う。簡単なひとだな、と思うが憎めない。その簡単さが美徳だった
りするんだなぁ、と分析する自分の美徳のなさを恥じる。
彼女とは今夜会うことになっていたが、少し面倒くさかった。最
近彼女はいつもなにか言いたそうにしていたからだ。
「夜9時に、いつものお店で。」と言うことだったが、その店は8
時閉店で、そういうのもいかにも思わせぶりだった。
断りの電話をかけたが、留守番電話の甘い声が留守を繰り返すば
かりだった。仕事に出ていない時の彼女が最近どこで何をしている
のかを私は全然知らなかった。
仕方ないので出かけることにした。
暗い街角には人がいない。秋風が一番の主役だ。道を曲がっても
さび

曲がっても同じ月光に照らされた淋しい夜だ。透明な空気の中で、
時間が変なよどみ方をしている。行き場のない考えごとを涼しい風
やみ

がさらってゆく。ビルの谷間にそれは暗くよどんで闇をつくる。
店はやっぱり閉まっていた。店の前に彼女はいなかった。その店
は輸入物の雑貨屋で、手前がガラス張りのカフェになっている。
そんなふうに何かと何かの境目が溶けそうなものが好きだ。夜と
昼、皿の上のソース、カフェにまで流れこむ雑貨たち。それは、彼
女を愛した影響だ。彼女は夕月に似ている。淡い青のグラデーショ
ンにいまにも消えそうなあの白光。
近くまでいって、店の入口に上る階段をのぞきこんでみても彼女
はいなかった。
しかし、私の名を呼ぶ彼女の声がした。少しくぐもった不思議な
響きだった。ちょうど天国の雲の上から、下界にいる私に呼びかけ
たような感じだった。
見上げてみると何のことはない、真暗な店内から、白いいすや
テーブルがぼうっと浮かび上がるのを背景にして彼女がガラス越し
に呼びかけたのだ。
彼女は笑って手まねきし、重いガラスのドアを内側から開けてく
れた。
「どうやって入ったの?」
私はたずねた。
「店長にたのんでカギ貸してもらっちゃった。」
彼女は言った。入ると暗い店内には物が博物館のように立ち並
くつおと

び、靴音も声もやたら大きく響き、いつも待ち合わせをしているの
と同じ店とはとても思えなかった。私たちは昼の混雑の亡霊のよう
に、向かいあってテーブルにすわった。
店の冷蔵庫から彼女はジュースを出し、洗い場にふせてあるコッ

プに注いだ。
「そんな勝手なことしていいの?」
とたずねると、
「いいのよ、いいって言われたもの。」
とカウンターの向こうから答えた。
「明かりはつけちゃいけないの?」
あまりの暗さに落ち着かず、私はたずねた。
「だめよ、他のお客さんが入ってきちゃう。」
「じゃ、暗いままここにいるのか。」
「何かたのしくていいでしょう。」
と言ってウエイトレスのように、ジュースの入ったコップをト
レーにのせて、やってきた。
「ビールはないのかな。」
「宿酔いなんじゃないの?」
「何でわかるんだ?」
私はびっくりして言った。
「言ったっけ?」
「留守電に入ってたじゃない。」
彼女はくすくす笑い、私はほっとした。
「もう夜だから大丈夫だよ。」
「じゃあ。」
と言って彼女は冷蔵庫に歩いてゆき、ビールを出してくれた。
どうも雲行きがおかしかった。彼女はいつにもましてにこにこと
ほほえ

微笑み、その靴音は遠ざかって行くように大きく響いた。いやな予
感がした。
しかも、闇の中で飲むビールはあんまりうまくなかった。そら寒
く金に光り、北極で飲んでいるようだった。まだ体内に残っている
アルコールとその月世界のような薄暗さのせいで、すぐに酔いがま
わってきた。
「私ね、来週からある講座に行くの。」
彼女が言った。
「何だそりゃ。」
私は言った。
「友達に、いろいろなことにとても苦しんでいる子がいてね、その
子が捜してきたんだけれども、すこし過激な講座だからついてき
てって頼まれてね。」
「過激?」
「何でも、頭の中をすっかり洗い出してしまうんだって。よく聞く
めいそう たぐい

能力開発とか瞑想の類じゃなくって、まるっきりゼロに戻しちゃう
んですって。そしてやり直せるんだって。もしかすると、いろんな
ことを忘れちゃって、その忘れたことは自分に必要ないことなん
だって。面白いでしょう?」
「面白くないよ。その、必要かどうかってのは誰が決めるのさ。」

「それが賭けなのよ。きっと。なんかね、自分にとって大切だと自
分が思い込んでいるようなことを、すっかり忘れちゃったりもする
らしいわ。」
「自分が執着してることってこと?」
「そうとも限らないみたい。これは勘だけど、彼女は離婚のショッ
クでノイローゼになって、そのことを忘れたくて行くんだけど、私
は多分、彼女はそのこと忘れないと思う。」
「やめなよ、行くの。」
私は言った。
「だって、ひとりで行かせられないわ、相談に乗ってしまった
し。」
彼女は言った。
「それに、興味あるし。行ってみないといいところかどうかわから
ないし。」
「悪いよ、そんなところ。全部忘れてしまうなんていいわけないだ
ろう?」
いや

「忘れちゃいけないの? 嫌なことも?」
「自分で決めていくんだよ、それ。」
「大丈夫、つまり……」
彼女は目を閉じて言葉を選んだ。そして目を開けて言った。
「そうそう、少なくともあなたのこと忘れたりはしないから。」
「どうしてわかるのさ。」
「わかるわよ、大丈夫。」
にこにこして彼女は言ったが、彼女の心の底のもう一人の彼女の
不安をようく知っていた。聞こえてくるようだった。
「あなたのことをみんな忘れてしまいたいと思っている自分を忘れ
たい。」
それが痛ましくて、もう説得をやめた。
「二人の今までのこと、全部忘れちゃうかもしれないね。」
私は笑った。
「千年分全部?」
彼女も笑った。彼女がそういうことを言うと、その明るく深い声
の響きのせいで一瞬それが真実のように思える。そうか、千年もの
あいだだったのか、と。
「初めて旅行にいったときのことも?」
「まだ19かそこらだったね。」
「そう、旅館に泊まって、意地悪な仲居さんに『ずいぶんお若い奥
様ですね』って言われたのよね。」
とし
「僕たち歳、変わんないのにね。」

「あなた、老けて見えたのよ……部屋が広すぎて、天井が暗くてこ
わかった。」
「でも、夜中に庭に出たとき、星がすごかったよ。」
にお

「夏で、草の匂いがしてたわ。」
「君、髪が短かった。」
ふ とん
「それから、蒲団ならべて寝たね。」
「うん。」
「あなたがこわい話するから、ひとりで温泉いけなくなったわ。」
「二人でいったよ。」
ろ てん ぶ ろ
「露天風呂で抱き合ったわね。」
「うん、ジャングルにいるみたいだった。」
「星がきれいだった。……なつかしいわね。」
「それってさ、死ぬのに似てるかなぁ。」
「なに?」
「忘れてしまうのって。」
「やめて、悲しくなっちゃうじゃない。」
「それってさ、『カッコーの巣の上で』に出てきたみたいなのか
な。」
「ロボトミー? 違うと思う。」
目を閉じた。
「ただ、きっといらないことを忘れてしまうのよ。」
「僕のことが?」
「……ううん、でもいらないことが何なのか、私にはわからな
い。」
「……出ようか、静かすぎて、深刻な気持ちになってしまう。」
「声がすいこまれると、何を話してもたいへんに大事なこと言って
るようね、ね、物見てもいい?」
たな

私たちは店内をぐるりと回った。いくつもの棚にいくつもの外国
の品々がひっそりと陳列されていた。重ねられてプリズムのように
光るコップのひとつひとつが、昼間とはまるでちがった価値を持っ
ているように思えた。
店を出て自分たちの部屋を出たようにカギを閉め、外に一歩出た
ら、夜風が吹いてくるのとともに急に、時間も動きはじめたような
気がした。
「もう少し飲んでいきましょうよ。」
「いいねぇ。」
急に気持ちも軽くなった。

「私はきっと何もかもにあなたのことを見つけて、必ず思いだす
わ。」
歩きながらふいに彼女が言った。
「たとえ忘れちゃったとしても。」
「何もかもって?」
「だって一緒にいろんな物を見て、いろんな物を食べたわ。だから
おもかげ
この世のどの風景にもあなたの面影はうつしだされる。通りすがり
の、生まれたての赤ん坊。ふぐさしの下に透けるお皿の鮮やかな模
様。夏空の花火。夕方の海の、月が雲に隠れるとき。テーブルの下
で誰かと足がぶつかって、ごめんなさいと言うとき、人にやさしく
物をひろってもらって、ありがとうを言うとき。今にも死にそうな
ねこ
おじいさんがふらふら歩いてくのを見たとき。街中の犬や猫。高い
ところから見た景色。地下鉄の駅に降りていって、なま温かい風を
顔に受けたとき。真夜中電話が鳴ったとき。ほかの誰かを好きに
なったとき、そのひとの眉の線にも必ず。」
「それって、生きとし生けるものってこと?」
「うーん……。」
ひとみ
ひとみ
彼女はまた目を閉じ、そしてそのガラスみたいな 瞳をこちらに
まっすぐ向けて言った。
「ちがう、私の心の風景のこと。」
「そうか、それが君の愛なのか。」
私は多少おどろいて言った。
その時だった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
ちょうど雷のように、光と音がほんの少し違和感をなしてずれた
ような感じだった。向こうの角に見えるビルの上が明るくなり、急
に火が出て、鈍い音と共にガラスの破片がスローモーションで闇に
降りそそいだのだ。
ほんの数秒後に、眠っていた街のすみずみから人がわらわらとと
び出して来てとたんににぎやかになり、遠くからパトカーや消防車
のサイレンの音が近づいてきた。
「爆破だ!」
私は興奮して言った。
「私たちだけが見たわ!……けが人はいないのかしら。」
「いないよ。あのビルは暗かったし、人通りもなかったもの。ただ
のいたずらだろう。」
「なら良かった。……きれいだったわ、不謹慎だけど、花火みたい
だった。」
「すごかったね。」
「ほんとうに!」
彼女はまだ空を見上げていた。
その横顔を見ながら考えた。

私の愛は君のと少しちがう。
たとえば君が目を閉じた時、まさにその瞬間に宇宙の中心が君に
集中する。
すると君の姿は無限に小さくなり、後ろに無限の風景が見えはじ
める。君を中心にして、それはものすごい加速でどんどん広がる。
私の過去のすべて、私の生まれる前のこと、書いたことのすべて、
なが
今まで私が見てきたすべての眺め、星座、遠くに青い地球の見える
暗黒の宇宙空間まで。
すごいすごいと私は内心狂喜し、
そして君が目をあけたとたんにそれはすべて消えてしまう。もう
いちど思い悩んでくれないかな、と私は思う。
二人の考えはそのように全くちがうが、私たちは太古の男女だ。
アダムとイブの恋心のモデルだ。愛しあう男女のすべての女にそう
いうくせのバリエーションが、すべての男に凝視の瞬間がある。お
互いを写しあい永遠に続くらせんだ。
DNAのように、この、大宇宙のように。

そのとき 奇しくも彼女が私のほうを見て笑い、答みたいにこう
言った。
「ああ、ほんとにきれいだった。私ほんとに一生忘れない。」
「不倫の末にきちんと結婚したという例はほとんど0です。そのこ
とがわかっている人だけが不倫の恋を楽しめる資格があります。そ
してこの恋を自分の成長のためのひとつのステップにしましょ
う。」
どういう女性誌を見ても、たいていそう書いてある。たぶん、本
当のことなのだろう。
私もよく、そういう記事を読んだ。
本当に、そのときは何とも思わなかった。
珍しく会社からはやく帰って来た夜なんかに簡単な夕食を食べ
て、TVを見たり、おふろに入ったり、たまった手紙を書いたり、
長電話したりしてすっかりくつろいでいるとき、ふと夕方買ってき
たそういう雑誌をぱらぱらめくると、そういう記事をよく見かけ
た。
私だけの部屋はお城のように暖かく安心で、満たされていて、タ
オルから食器から室内ばきまでみんな私が選んだインテリア、いわ
ば私の分身で、何も私をかき乱すものはなく、会社の何もかもがざ
わめく風景のように遠く、毎晩決まった時刻に来る恋人の電話を
(深く考えないで、もしくは体が疲れてて深く考えられなくて)待
つばかり。
そう、そういう楽で甘い時間に、よく見かけた。
いろんな、頭のいいひとのアドバイスもあった。手記もあった。
にお

いろいろなケースがあったが、何となく息苦しい、無理と絶望の匂
いがした。私は本当に何の気なしに、ひとごととして読んでいるん
だけど、口でもふーん、とか言っておかしをぽりぽり食べながら
ページをめくって、見終わるとすぐに忘れてしまうんだけど、なぜ
だろう?
今、思い出すとその光景がいちばん暗い。
大恋愛だった。しかし泣きわめいたり、けんかしたり、もうこれ
で絶対終わりだと思いながら電話を切ったときよりも、奥さんと直
接会って話した帰り道の「ちぇっ」という感じよりも、とにかくそ
のいつよりもその、
『一人暮らしのあの、大好きだった部屋。くつろいで、TVの音が
していた。明かりのこうこうとついた室内の暖かい空気の中、ひと
りで不倫の記事を、平気な顔して読んでいた』自分がいちばんあわ
れに見える。
抱きしめてやりたくなる。どうしてだかわからない。
でも抱きしめてあげられるのは、恋人でもない、親でもない、ま
して勝利者としての今の自分でもない。微妙なところだ。
街をうろつく他人としてふと窓辺からのぞき込んで、ガラス越し
の彼女の部屋、暖かい避難所でひとりいる彼女に言ってあげたい。
そういう感じだ。
がん ば

「よく頑張っているけど、君は本当はそんなもの読みたくないんだ
よ、今、そうとうつらそうな顔をしているよ。」
もし天使がいるとしたら、いつもこんな気持ちでみんなを見てい
るのだろうか?
記憶はエネルギーだから、発散されなければ世にもさみしいかた
ちで体内に残留する。天使は心配する。寝転んでページをめくって
いる私のまわりをぐるぐる回って、見えない手でその体を必死に揺
さぶって、聞こえない声で叫ぶ。
「ここにあるよ、感じないふりしないで。」
私は彼と結婚した。
私にはわかっていた。勘でもなく、念力で取り込んだのでもな
い。はじめて会った時から、
「放っておいても私とこの人は一度は生活を共にするだろう。」
と普通に思っていた。熱望でもなく、夢でもなかった。ただ、そ
うなって当然という気運が2人の間にあった。

実際はそんなに簡単ではなかった。苦しかったり、 磨り減った
り、疲れてどうでもよくなったりした。「うまくいく、わかりやす
い結果がここにこうして見えているのに、なぜこんな苦労を?」と
正直言って何かあるとすぐ思った。でも、そういうなまけごころが
ますます私を2人の生活から遠ざけていた。
なまけても仕方ないのだ。ほんとうはもうすでにわかっているこ
とをこの手足で感じ、実現させるために私たちは肉体を持って生ま
れてきたんだから。
だから私たちは不倫からスタートして結婚した、たった5%のう
ちの一組ということになる。
しかし、自分のこと以外みんなひとごとなのに、なぜパーセン
テージが出るのだ?
ころ
今になってみるとあの頃私を支配していたのはそういう、目に見
えないへんな圧力だった。
みんなでお茶を飲む時はわりかんで、ひとりだけごはんを食べた
りしない。
行きたくなくても社員旅行には行かないと先輩と気まずくなる。
夜中のタクシーは全部、とにかく遠くに行く客を求めてる。
一人暮らしの女が3軒も飲みに行くと物欲しそうだ。
未婚の男子社員とお昼を食べると、いつも一緒に食べている子た
ちが怒る。
何もかもが細分化しているだけに、狭い地域のなかで絶対の力を
持つ、いくらでもある異様な決まり。不倫がいいとかいけないとか
言う前にまず行われる、一般化の処理。
私はそういうものを頭に入れまいと無視して常に自分だけの空間
を生きようとつとめていたが、電波のように細かい粒子で飛びかう
そんなものは、「気にしていない」という言葉を意識するだけで脳
に侵入してくるようだった。
かすかながらも何か他のものと戦っていたことを、今になって知
る。
今思えば私が戦っていたのは、彼や奥さんや、自分自身……それ
だけではなかったような気がする。
自分でいることすらむつかしい、この現代のありよう。くもの巣
みたいに張りめぐらされ、歩くとふっ、ふっとまとわりついてくる
何かの影。はらいのけてもぺたりとした感触を残す。無視しきれな
いくらいの割合で空気にまぎれ込み、バイタリティーとか、生命の
輝きとは最もかけはなれた弱っちい虫けらのようなエネルギー。見
えないふりができても、それがあるかぎり、すっきりと視界が晴れ
ることはない。

結婚して2年になる。会社は去年やめた。子供はまだいない。2
ねこ

人で買ったマンションに住んでいる。猫を飼っている。
「遅くなるようなら電話する。」
と言って朝、TVを消して彼は出ていく。突然室内は静寂に包ま

れる。彼は朝食を摂らないので私はたいていまだベッドに入ってい
る。いってらっしゃいの言葉もほとんど発さず、寝室から寝ぼけて
見送る。玄関のドアが閉まる音がすると、かすかな後悔がよぎる。

一瞬さみしく思う。ダイニングのテーブルの上に朝日が射している
のが見える。コーヒーの香りがする。猫が部屋に入ってくる。ベッ
ドにとびのり、私の足元で丸くなる。見ているうちにまた眠気が
襲ってくる。もう少し寝よう、と思う。
そんなふうに目覚めるとき、はじめのうちはよく場所を間違え
た。
目が覚めると、
「きょんちゃん?」
と妹の名を呼んでしまうのだ。
不倫の後半(?)、私は自分の部屋に彼が来て、コートをハン
ガーにかけて、ご飯を食べ、ビールを飲み、一緒に寝て、朝帰って
まくら
まくら

いって、洗い物や寝巻きや並んだ 枕だけが残る感じに疲れてしま
い、妹と2人で暮らすことにした。広い部屋に住めるから、と妹は
喜んだ。
いまさらホテルに行ったりするのはいやだったが、このくらいで
2人がだめになるならなればいい、という試す気持ちが強かった。
それにそんなふうに不便なかたちになっても、私と彼の間にほのか
かお

に香る未来の空気は消えなかった。

瘦せて、どことなく暗くなっていた私は、妹と住んでだんだん元
は ね ぶ とん
気を回復していった。あの頃妹は、まるで心地よい羽根布団や、熱
のある日のアイスノン、寒い日のシチューみたいに思えた。私は知
らず知らずのうちに、まいっていたのだろう。
朝起きると、妹が台所にいる。お湯を沸かしている。そして私を
しか
叱ったり、おふろを洗わせたりする。私はおかしを2人分買って
帰ったり、今日あったことを話すことができる。誤解されたりしな
い。裏を読み取られたりしない。休日の夜、ひとりでぼんやり
「ミュージックフェア」を見なくてもいい。
こんな当たり前のことに飢えるなんて、曲がってきてる、とよく
思った。やはりできれば不倫はしないほうがいい。相手の人はそれ
らを、日々の自然なぬくもりをほかのところで持っているのだか
ら。
そして、目覚めるといつも妹があちらの部屋でぱたぱた歩いてい
る。私はまだ眠くて、半分夢の中にいるので、心は子供のように素
直だ。
あの子は私を傷つけない。
あの子は安心だ。
だから何も恐れず、もう一度眠ってもいい。
今度目覚めてもひとりじゃないし、あの子は帰ってしまうことも
ない。
あの子は自分の恋人と、私を違う形で等しく愛している。そのこ
とが私を傷つけることはない。彼が私と妻を等しく愛しているのと
は訳が違う。
と、私は妹についてぼんやり思う。
そしてまた、いつの間にか眠ってしまう。暖かいふとんの中で、
何も思いわずらうことなく。
いい日々だった。
だから、正式に彼が離婚してしばらくして「結婚しよう。」と
うれ

言ってきたとき、「あっ、そう。」と思ってしまった。嬉しかった
けれど、妹といるのは楽で、そのリハビリがなかったらつぶれてい
たかもしれない。
そして、一生妹と暮らすわけには行かない。
跳び込んでいくのだ、新しいわずらわしさに。

ところで、何事かがあってから一緒になったのを、何事もなかっ
たようにふるまうのには無理がある。
私は知らず知らずのうちに、いつも「待って」いるようになって
しまっていた。
この疲れやしこりのようなものがなくなるまでは私は「待つ」を
生きざるをえないんだな……と勘ではわかっていた。
たとえば電話がかかってくる。
夜7時半で、夕食はいちおう作ってある。朝ごはん並の、いいか
げんなものだ。彼は言う。
「今日は少し遅くなるから、夕食はきょんちゃんのところで食べれ
ば。」
気をつかってくれる、親切な人なのだ。
「わかった。じゃあ。」
と電話を切るときには何でもない。
でもそれから30分くらいすると、何かが起こりはじめているのが
わかる。それはちょうど化学反応みたいなもので、自分ではどうす
ることもできない。ただ見つめているしかない。血液とともに体中
を駆けめぐり私を支配するのに2時間とかからない。
「待つ」は家中の空気に満ちる。
ふ ろ
TVの画面も、友人との電話も、風呂も本も、私の表面に薄い膜
ができていて、それを透かさないことには何も見えなくなってしま
う。
もうそう あくりょう
あらゆる妄想が悪 霊のように訪れる。
妹と暮らしているときは、よかったなー、と思ってしまう。 %
存在を許されていた。
でも私は、
「妹と暮らすよりここを選んだ、戻るつもりはない。」
と思う。それはたしかなことだが気は晴れない。
「これが人生だ。」
じゅもん
という呪文は案外よく効く。何回か口に出して言ってみる。何と
なく自分でも納得する。彼が帰ってきても、そういうことは口に出
さない。言ってもしかたない。
そういう毎日はきつい。

「いいですか、言わせてもらいますけれど、一度浮気した男は、必
ずまた繰り返します。私はよく知っています、あの人はそういう人
です。弱いんです。」
いや
捨てぜりふにしては重く、嫌な手ごたえがあるな……とあのとき
気楽に私は思った。
失うものがなくて、強かったからだろうか。
待てよ?
と私は思う。
今はある? 彼?
こ くう
いや、もともと虚空に浮かぶこの魂があちらからこちらへの一巡
りをするだけのこの流れの中で、握りしめていられるものなんかな
いのに。誰も、何も。
違うのだ。
「毎日、毎日、待っていました。あなたのいることはずいぶん前か
ら知っていました。でも、私は毎日起きて待っていました。」
そういう手紙も沢山もらった。さわやかな不倫なんてないのはわ
かっていたが、それでも重かった。
画面に出てくるのが同じ男なので、その心情にシンクロしやす
かったのだ。
最後に奥さんに会ったときあんまり彼の悪口を並べたてるので、
気持ちは痛いほどわかったが腹が立ち、
「奥さん、そんな男に執着するのはよしなせい。」
とつい言ったら、間髪入れずに奥さんが私を、
「ばしーん。」
と音を立てて平手で打った。
痛さで涙が出た。
あの手の感触のところから、私の体内にエイリアンのように「待
ち」が植えつけられ、繁殖をはじめたに違いない。エネルギーが吸
い取られ、いろいろなゲージのレベルが落ちている。
でも仕方ないと思う。ある人Aの夢や希望や将来を、ある人Bが
すべて奪ったとなると(私はそうは思わない。流れはどんな人の力
でも変えられないものだし、あのまま、別れずにいるのがAにとっ
ての健全な将来だとは決して思えない。でもAはそう思いこんでい
る。)、AがBに対して、自分の将来にかけていたエネルギーをす
べて注ぎこんだら、それもネガティブなものに変換してぶつけてき
たら、このくらいの影響はあっても当たり前だと思う。
刻印され、何となく思ってしまう。
「私を好きになった流れと同じものが、いつかまた別の人と彼の間
に訪れる。」
新婚につきもののこの心配に濃い色が加わり、いつも何となく肩
が重い。明日はだらだらと今日の続きで、先のことを考えても楽し
くない。
昔の人はこれを悪霊と呼んだのであろう何か。思念の力。人が人
を憎く思う、圧力。
そんなものがもしあったとしても仕方ない。私は多分それだけの
ことをしたのだ。流れを変える。あらすじを変更する。ひずみに生
じたエネルギーが、ここに集まる。
人に言ったら、単なる新生活の疲れだよ、人と暮らすのは大変な
ことだもの! と言うだろう。それも当たっている。今のすべては
この状態の大きなひとつの固まりで、どれもこれもその一局面だ。
彼がまだ、月日を重ねた前の暮らしよりこの暮らしになじんでいな
いことも、本当は0・00001%くらいは私も申し訳なく思って
いることも。

そんな疲れが頂点に達したという感じのある日のことだった。私
は風邪気味で、頭が痛かった。彼は夕食はいらないと言ったが、比
較的早く帰ってきた。
そして笑顔で「これ、もらったんだ。」と言って、かばんの中か
らぐんにゃりしたオレンジ色の固まりを出した。
「何それ?」
と私は言った。
「キムチだよ。」
彼は言った。
「なんで会社からキムチ持って帰ってくるの?」
私は受け取ってたずねた。袋からは辛い、おいしそうな匂いがし
た。
「言わなかった? 今日は会社は顔出しただけで、遠藤の家に行っ
たんだよ。デザイン頼むんでさ。そしたら奥さんが自家製キムチを
分けてくれたんだ。奥さん、韓国の人だから、うまいよ。」
本当だろう、とわかっている。こんなこみいったうそがつけるタ
イプなら、今頃私と正直に結婚していないだろう。でも、うそかも
しれない。でき合いのものを買ってきていて、ビニール袋をよく見
ると製造元のシールをはがしたあとがあるかもしれない。
いや
もちろん私は確かめたりしない。卑しい人間になりたくない。で
も、妄想にはまるというのはこういうことだ。彼よりも誰よりも自
分が信頼できなくなりはじめる。
「ありがとう。」
と力なく言って、よく見もせずに冷蔵庫に入れた。それが精一杯
だった。
頭痛はおさまっていたが、妹と電話しても、風呂に入っても、気
持ちは晴れなかった。
「何かあったの?」
と彼が聞くくらい、暗い顔をしているのが自分でもわかった。
「何でもない。」
といいながらも笑顔をつくることができなかった。
エネルギーが落ちている、枯れている。
それでもキムチをつまみにビールを飲んで、とにかく1日が終わ
ろうとしていた。特別おもしろくもないTVを見ながら、2人で何

となく話していた。どうやっても気分が 冴えなくて、話も冴えな
かった。最近、調子悪そうだね、と彼は言い、そうでもない、と私
は言った。少し疲れ気味かな、とは思うけれど、と。そのときだっ
た。
その変化が自分のなかであまりにもはっきりしていたから、思わ
ず時計を見てしまった。
10時15分。
はっと気づくと、突如頭がクリアーになっていた。ずーっと目の
おお
前を覆っていた霧が晴れたような感じだった。なにが起こったのか
わからなかったけれど、ああ、昔は世の中がこんなふうに見えてい
たのか、と私は思った。
昔?
そう、彼に出会ったころ、私は人生のすべての味をかみしめるよ
うな気持ちでいつもいた。
デートの約束をした晴れた朝の切なさ。
2人でいられる短い時間の風の匂い、歩く速度すら速すぎて、流
れていくようだった街並の角度。
つめ
ガラス、アスファルト、ポスト、ガードレール、自分の爪。店の
ショーケース。

ビルの窓に光る陽の光。すべてを細胞に刻み込む勢い、何もかも
に勝てる確信。
いつく

勝つために、忘れてしまわないために時の一粒一粒を慈しみ、情
報として体に取り込もうとする働き。

恋によってあふれたエネルギー、見開かれた眼。
あのときそのままに美しかった。美しい。何もかもがよく見え
て、はっきりしている。一つ一つのものが、香り立つようにその存
きわ だ
きわ だ

在の輪郭を際立たせる。

おなかのほうからわくわくした気持ちが湧いてくるのが感じられ
うず ま
た。目を閉じると目の前にマーブルのように渦巻くエネルギーの流
れが見えた。
ほんとうに今、何が起こったんだろう? と思った。どうして突
然あの感覚がよみがえったのだろう。
まさにその時、電話が鳴った。彼が取って、話しはじめた。
かん

私はすっきりした頭で、空き缶を台所に運んでいった。何だか楽
しささえ芽生えてきた。もう少し飲もうかな、と冷蔵庫からビール
を出した。はっと気づけば何といいところに私はいるんだろう。明
日の心配もなく、家は明るく、2人で選んで越してきた心地よい空
間がある。ここで寝て起きて、明日が来る。今まで何がひっかかっ
ていたのだろう。
彼は居間でうん、うん、とうなずいていた。誰から? と思うと
今までなら暗くなっていただろう。しかし今は違う。
しっ と
「誰から?」と聞けばいいや、と思った。たぶん、ひどい嫉妬とい
うのは本人と相手の関係性ではなくて、ほとんどの場合単にエネル
ギーの低さを表すのだ。
ビールを持っていくと彼は「またな」と電話を切った。
「誰?」
と聞くと
「……から。」
と前の妻の名を言った。さすがに驚いて(自宅にかけてきたこと
がなかったので)、
「どうしたの?」
とたずねた。
「もう年だからもらい手もない、とか言ってすごい恨み言を言って
たくせに、若い男と結婚することにしたんだそうだ。今日、入籍し
て引っ越し先も決めてきたって。言わずにいるつもりだったけど急
に言いたくなったんだってさ。」
なるほど、と私は思った。こういうのは偶然ではなくて、でも
きっとよくあることだ。めぐりめぐってつながっている。そのこと
には不思議と驚かなかった。自然に受け入れた。ためていた重みか
ゆる

ら解き放たれた赦しがこうして夜を駆けめぐる。もう恨むのをよし
た。恨まれているべき自分を忘れていいときが訪れた。
「少しさみしい?」
と聞くと、
「いや、やっとここで本当に生活を始められる気がする。」
と言った。
「今までがそうじゃなかった、って言ってるんじゃなくて、悪いこ
としたな、と思ってたから。」
「わかる。」
と私は言った。

ハイになったのは恨みが去ったからだけではなかったらしく、熱
が出ていたのだった。
私はアイスノンをして寝ることにした。
となりのベッドで彼が言った。
「何かこの部屋、臭くない?」
「私もそう思う。キムチくさい。」
私は答えた。
おれ
「俺たち自身が臭いのかな?」

彼は言った。出どころをさぐるために私たちはあちこちを嗅ぎま
わった。
「わかった、君のアイスノンだ。」
彼が笑った。
嗅いでみるとそうだった。
にお

「冷凍室にも匂いが回っていたのね。」
私は言った。タオルを巻いてみてもどことなく臭かったが、頭が
熱いのに比べればいい、と我慢してそのまま寝ることにした。
電気を消した寝室に、キムチの匂いがうっすらと漂っていた。
それから、少しうとうとして、夢を見た。
断片だけだったが、強烈だった。韓国の市場を歩いている。
私の片手……開いているような気がしていた片手がだれかとつな
がれている。
見あげると、彼だった。
明るい太陽、強い陽に照らされる様々な品物。ざわめき、にんに
まゆ

くの匂い、眉をきっちりと描いた女達。
目のくらむような色彩。
キムチを選ぶ。
たるやつぼの中の鮮やかな赤。
オイキムチが欲しいな、と彼が言う。
もっと遠くに買いに行こうよ、あっちのほうまで、と。
そこに肉体の現実が割りこんできた。ビールを飲みすぎて、トイ
レに行きたくなったのだ。目を覚まして起き上がるとまだかなり
熱っぽかった。
トイレから戻ると彼が暗やみの中、目を開けているのがわかっ
た。
「眠れないの?」
とたずねると、ねぼけた声で、
「キムチの夢見たよ、君と焼肉屋に行くんだ。」
と言った。
「あ、私も。」
「匂いって、すごいね。何よりもダイレクトに脳に入ってくるんだ
ね。」
「本当ね。」
「おやすみ。」
「おやすみ。」
横になると、キムチの匂いがする冷たい枕が熱い頭に再び心地よ
く当たった。
うとうとと私は思った。
同じ食物、同じ匂い、同じ部屋に含まれた情報がもたらした同じ
夢。別々の体を持ちながら共有できるもの、生活。暮らしていくこ
との意味。
様々なもののぐにゃぐにゃした重みに耐えながらここまで来た。
気づけばずっと、ずっと長いことそうやってきたような気がす
る。
小さなときから。生まれる前から。
そのことを知ってしまったような気がする。
それをずっと続けていくような気がする。
いやでも。死ぬまで。死んでからも。
でも、今は休息の時が来て、いろいろなことが長かったし、疲れ
て、もう眠い。今日一日が終わる。つぎに目ざめると朝日がまぶし
くて、また新しい自分が始まる。新しい空気を吸って、見たことも
ない一日が生まれる。子供の頃、例えばテストが終わった放課後
や、部活の大会があった夜はいつもこういう感じがした。新しい風
みたいなものが体内をかけめぐり、きっと明日の朝にはきのうまで
のことがすっかりきれいにとり去られているだろう。そして自分は
すっかりいちばんおおもとの、真珠みたいな輝きと共に目を開くの
だろう。いつもお祈りのようにそう思ったあの頃と、同じくらい単
純に素直に、そう信じることができた。
私はずいぶん長い間、オカルトとか宗教とかニューエイジとか喜
多郎とかチャネリングとか、そういうもの全部を毛ぎらいしてい
た。それに類するものを新聞やテレビや街頭で見かけるだけで顔を
そむけるほどだった。
今は少し違って、もっと微妙な感情を持っている。たとえば形が
悪いからといって、自分の鼻を憎んだりはしないように、それとか
体の中を流れている血液を意識したりしないように。
ひとがら

私の両親は普通に生きていくには人が良すぎた。もともと人柄だ
けで築き上げた財を、ある男にだまされて手放さざるをえなくなっ
ころ
てしまったのは、私がまだ幼い頃のことだった。父の古い友人であ
り共同経営者であったその男を許すという苦行をなし遂げるため
に、彼らは密教をベースにした名もない宗教にのめり込んでいっ
た。教祖は読心術にたけた、私なんかから見るとただ単に気のいい
おじさんで、信者とともに村を作って住み、何人かのブレーンを
持って細々と確実に宗教活動をしている。父はある日街角で教祖に
やさしく声をかけられて何か「大切なこと、そのとき求めていた
答」を賜ったそうだ。私がいくらたずねても、父はその言葉を教え
てくれなかった。やがて両親は家も土地も売り払って借金を返済
し、幼い私をつれて小さな村での共同生活に突入したのだった。
私はそこで12年間暮らした。
何もかもが何だかたまらなくなって逃げ出したのが18の時だっ
た。
特別何の理由もなかった。悪い人もいなかったし、両親を好き
だった。ただいてもたってもいられなかったあの日の衝動は、田舎
の人が「東京に出たい、東京に行きさえすれば何とかなる」と思う
気もちと似ているだろうか? 同じ立場になったことがないので、
よくわからない。ただ、もしかしたら私の存在や私の両親を支えて
いた宗教のしくみに絶望していたのかもしれない。気づけば腐臭の
にお

ように村や両親や私にまとわりつく、弱者の匂いに。
ひとみ

私の瞳に宿るそういう子供じみた世界観を、父や母や教祖や信者
たちは何度もその熟練した大きな考えかたで包もうとしたが、若い
年齢の持つエネルギーを止めることは誰にもできなかった。私の遠
い瞳が見ていたのは、山の向こうにあるはずの、もっとどろどろし
て、もっと強く、とてつもなく美しいはずの「人間」というものに
対する夢だった。泣いたり、笑ったり、だましたり裏切ったり、ひ
どくまじめだったりして、ふまれてもふまれても笑うことができ
る、そんなふうになまなましく生きているはずの架空の人々だっ
た。
いや

その人たちは私の知っている信者の人達とちがって、嫌なことか
きら

ら笑顔で逃げたり、本当は嫌いなのに愛しているとか、怒っている
のに許すとか言ったりしないはずだった。村人たちのデリケートな
優しさや上手に他人を拒むやり方は、私の生きたハートを侵食して
ゆくように思えた。それはもちろん、中にはすごい人もいた。悟っ
ているなんて言う安っぽい言葉じゃ説明できない人。どうしたら人
間こういうふうになれるんだろうと思うくらいかっこいい人。さす
がに私は尊敬して、でもそういうふうになるには、私はここを出な
ければだめだとやはり思った。
実際来てみると、街の普通の人々は村にいた人々よりももっと煮
えきらない場合が多かった。でも何ていうか、やっぱり時々すごい
人がいて、びっくりさせられたり、大笑いしたり、とにかく楽しく
て仕方なかった。あの独特のトーンを除いては、すごい人と逃げが
ちな人の割合なんて、どこに行っても同じなんだな、と知った。
じゃあどうして東京にいるんだろう?
と、時々思った。
母が買ってきたたった1枚の黒いたいくつなワンピースをいっ
ちょうらとして10何年も着ていてごらんなさい。その上、自分をか
わいく見せたいとそれなりの努力をしていたと思いねえ。おかげで
うれ

私は東京に来てからというもの、どんな服を着ても嬉しくて、どん
なでたらめな服でも勢いで着倒せるようになってしまった。コスト
を悟られず、どこにでもいけてどこにでもとけこめる理想的な感じ
になっていた。つまり、ある種の修業をつんだ人のように「自分」
というもののカラーが確立されてしまっていたのだ。
はじめのうち私は毎日どこに行ってもただ楽しくて、目に映る何
もかもがきらきらしていた。ただ街を見ているだけでもよかった。
空気が汚くても、星が少なくても、体がなまっても、幸せだった。
ずっと外にいた。ゲームセンターもディスコも公園もバーも喫茶店

い せ たん
い せ たん

もパルコも 伊勢丹も、何もかもがきれいでただわくわくするもの
だった。
更に理想的なことに、どこまでも宗教的に開いている私の両親
は、無理に私を連れ戻そうとはしなかった。いつでもかえっておい
でという主旨の長い手紙と共に、通帳と印鑑が送られてきた。村で
はあまりお金というものを使わなかったが、個人の財産は所有を許
されていたのだ。通帳には、父が何もかも失ってしまった社会生活
のわずかな名残がかなしい数字として残っていた。それで住むとこ
ろの礼金と敷金を払うことができた。
そういう日々の後、お金がつきたころ、しばらくつきあっていた
妻子ある年上の男の人の持っているデザイン事務所に潜り込むこと
ができた。私は義務教育を受けなかった代わりに、村にいたいろい
ろな人から、いろんなことを教わった。美大出の人が多かったの
で、デッサンやデザインの基礎は習っていた。そのほかにもワープ
ロの打ちかたや、簡単な数学、屋外でのすがすがしいセックスま
で。あそこではとにかくみんな暇で、やることがなかったから、そ
れぞれにできることをのんびりと教えあっていたのだ。
だから私は、社会人に混じってもそんなにとんちんかんな存在で
はなかった。自分の生い立ちの傷を自分できちんと知っているつも
りでいたし、常識を知っていた。自分が選んで村を出たということ
も自覚していた。バランスを見つめて、うまく流れていた。
それでもたまに父母を思って、真夜中、発作のように大泣きして
しまうことがあった。
さび
それは淋しさよりも、会いたさよりも、感謝よりも、今この地球
のうえで、2人やみんながあの頃とまったく同じように暮らしてい
て、みんなが私のことをたとえ独特なやり方であっても心から愛し
ていて、いつでもあの変なトーンの明るさで、私がうそだと思って
はいたがもっともなじんでいる、あの人達なりの奇妙な優しさでむ
かえいれてくれることを知っているからだった。夜が明けたら電車
に乗ってあの場所に帰ろう、と本気で思う。こがれる。人は普通決
して過去には帰れないのに、戻れないからこそ無理に進めるのに、
私に限ってはあの緑の村での時の止まった日々に今すぐ帰れるの
だ。それはきつい誘惑だった。
でも自分がそうしないのを知っている。淋しいし、自分がここで
何をしているかもわからない。でも戻ってはいけないと私の勘が言
う。それは、99%までが本気で帰りたがっているのにどうしても許
可が下りないという感じだった。だから真夜中のふとんの中でのた
うち回り、歯を食いしばって耐えた。

そうすると翌朝はきちんと陽がのぼっていて、私は顔を洗って会
社へ行く。ゆうべどうしてあんなに苦しかったのか思い出せないほ

どからっぽの頭で。腫れたまぶたも電車にのるころには元に戻って
いる。私が時々するおかしな発言を、みんなが「ブッシュマン」と
か「コイサンマン」とか言って笑うけど、人気は高い。恋を打ち明
けられたり、けんかを売られたり、しかられたり、悩みを相談され
たり、誕生日のプレゼントをもらったりもする。
そういう順調な2年間を送ってきた。
あきら

昭に会うまでは、そうだった。
昭に会って、ここに来た理由がわかったような気がするまでは。
私は今、昭と暮らしている。
彼は何もしていない。ずっと家にいて、あるものを作っている。
それは金属と木で出来ていて、手で握れるくらいの大きさで、何と
も言えない形をしている。アクセサリーではない。ペンチや、彫刻
刀や、私は余り深く考えていないが、例のスプーンを曲げるような
力を加えたりもしているらしい。
私はデザイン事務所に行くかたわら、副業として、ロコミでそれ
を買いに来た人にそれを売る仕事もしている。昭があんまり人に会
いたがらないからだ。

今日のお客さんは、電話の声の感じから言うと、20代後半くらい
の、女の人だった。
「行ってきます。」
と私が言うと、昭は玄関まで送ってくれた。
新宿の高層ビル街の中の喫茶店で待ち合わせをしていた。目印は
私の赤いスカートだった。彼女はすぐに私を見つけた。スーツを着
ていてはっきりした顔だちの、きれいな人だった。私と目が合う
え しゃく

と、ほほえんで会 釈した。
「はじめまして。」
私は言った。私は名乗ったりしない。名刺も渡さない。事業拡張
が面倒だと昭が言うから。
「はじめまして、小久保といいます。」
彼女は明るい調子で名乗った。
私は、早速ですが……と言って茶の薄い紙に包んだ品物をかばん
から取り出した。テーブルに置くと、ごとん、と音がした。
「見てもいいですか?」
子供っぽい表情で彼女は手を伸ばした。うちのお客さんにはこう
いう正直そうな人が多いのでほっとする。
「どうぞどうぞ。」
私は言った。がさがさと包みを開けて、彼女は品物を取り出し
た。
「これがその……」
と彼女は言って、しばらく手のうえに載せて黙っていた。何とも
言えない顔をしていた。困ったような、幸せなような。

私には彼女の気持ちがよくわかった。私もそうだった。
はじめて会ったとき、昭はまだ学生で、友達の友達だった。紹介
されて目と目が合ったとたんに、私は彼から濃密な宗教の匂いを感
じ取った。その背の低さ、その目の光、立ち居ふるまい、すべて。
なつ
うねるように発散される懐かしい空気を感じた。
それで嫌になって、嫌なのと同じくらい必然的に好きになった。
私は村で心理学も勉強していたから、村を出たらどういう形でだ
かわからないけれどしわよせがくるのは確実だと思っていた。それ
が自然に起こってきたものならば、どういうしわよせであろうと仕
方ないものとして受け入れるしかないことも知っていた。
しわよせと言う言葉はしあわせと限りなく似ている。だから良
かった。しわよせが人の男の形をしていたのは、苦しいけれどいい
ことだった。少なくとも、普通に暮らしているうちにいつのまにか
ノイローゼになったり、同じ会社の人と幸せな結婚をしてみたもの
の産まれた子供を絞め殺したくなったりするという形で出るより
ずっと、立ち向かい方がある感じがした。私は私の人生前半の重み
を知っていたから、その位のことは覚悟していた。悲しいことだけ
がん

れど、両親の家系に異常に癌の発生率が多い人とか、ひどい貧血症
とか、そういうのを抱えている人と同じ位宿命的に避けられない血
の重みを確かに感じていた。
「どうやっても私は私で、他の両親に育てられた子にはなれない」
彼と暮らしはじめた頃私があまりにも情緒不安定だったので、彼
が私のために作ったお守りがこの商売の試作品第1号だった。
一度持たせてあげたい、あなたにも。
この世でたったひとつだけ、私だけのためにあるもの、つきつめ
ていくとみんなが欲しがっているそういう何かを形にしたもの。
たぶん乳児がはじめて母の乳首を口に含んだときのような感触な
んだと思う。ここにいることをとにかく徹底的に全面的に許されて
いるという柔らかな衝撃、昭の作るものにはそういう力が宿ってい
るのだ。
はい、と手のひらに渡されたとき、暖かい涙のスコールが心の天
空をよぎっていくのがわかった。手がしびれるように重く甘く、
昔、子供のころ、生まれたての小鳥を持たされたときのことを思い
出した。
「こんなものを手に入れてしまってどうしよう。形あるものはみな
こわれるのに。」
と私が泣いたら、彼は
「何度手放してもまたいくらでも作れるから。作ってあげるよ。」
と言った。
そのとき、すごく長かった夢から目が覚めた。
ぱっちりと。これだった、とわかった。
たとえそれがうそだとしても、それは私にとって、家と大家族と
アイデンティティをすべて置いてきてしまった、自分では気づかな
かったが心細かったらしい私、何もかもがいっぺんに変わったり、
なくなったりすることがこの世には本当にあるから、だからこわく
じゅもん

て何にも心をとどめにくくなっていた私にとって、一番重要な呪文
だった。
父も教祖にそういう言葉を聞いたのだろうか、と思った。はじめ
て父を少し理解したような気がした。
その瞬間、そのときの「私」にしか当てはまらなくて、ほかの人
が聞いても陳腐だったり、ありふれていたり、そういう言葉。言っ
たほうの人は何の気なしできょとんとしてて、そのくせ本当の本当
は、自分の言った言葉の力をどこか深いところで絶対に知ってい
かなた
る。自分がどこか彼方の美しいところからそれを取ってきて差し出
したことを感じている。

「何だか不思議な感じがしますね。」
お客さんは言った。
「そうですか?」
と私は言った。
「私は友達から聞いたんです、このお守りのこと。」
彼女は大きな目でまっすぐ私を見て言った。
「そうなんですか。」
私は言った。私はそれぞれの事情を、なるべく聞かないようにし
ている。でもこういう感じの人は基本的に信頼出来るし、必要以上
に自分のことをくどくど話さないものだ。そう直感したので私はい
つもみたいにストップをかけなかった。
「私、もっと若い頃に何回も中絶をしていて、恥ずかしい話なんで
すけどね、それで、結婚したのになかなか子供が出来なくって、主
人は優しい人なんだけど、言えなくって。病院では何も問題はな
いって言われてるんですけどね。」
「それでお友達が?」
「そうなの。でも誰にでも作ってくれるものじゃないって言うか
ら、緊張しちゃった。」
彼女は笑った。
「大丈夫ですよ。」
私は言った。こんな細々とした仕事依頼の中にも、確かに断る
ケースはまれにあったが、昭の傾向から行くとこういう人は大丈夫
だった。それはこれまでやって来たこととかで判断されるものじゃ
なくて、人生に対する姿勢のあり方みたいなものが大丈夫と感じら
れるらしいのだ。
昭は、お客の事情を私以上に聞きたがらない。知ってしまうと考
えてしまって、うまく作れないと言う。こんなこともあった。ある
日、末期の癌で病院にいる母親が欲しいと言っているからぜひ作っ
てほしいと言ってやってきた男の人がいた。男がいくら必死で頼ん
でも、昭は作れないと言った。何でだか作れないと言い張った。男
は母親の思い出や性格を事細かに話して哀願し始めた。心の柔らか
い昭はとうとう泣き出して、それでもやはり、私の作るものはあな
たのお母さんには合わないと思うんです、と言った。男はしかたな
く帰っていき、私は、どうして作れないんだろうと泣き続ける昭を
いつまでも慰めなくてはならなかった。
後日、その男はおまじないグッズを製造、販売している会社のス
パイだったことを人づてに知った。私の感想はこうだった。
「大の男がおまじないグッズの会社とは嘆かわしい。その上に昭を
スパイしに来るとはもっとばかばかしい。どうりで貧相な顔をして
ると思った。やってることはたいして違いないようだけど、昭のほ
うが 倍ましだわ。」
昭の感想はこうだった。
「なるほど、だから作れなかったのか。」
それ以上でも以下でもなかった。
私はちょっと感動して、だからきっと私達は一緒にいるんだなと
思った。
「ありがとうございました。」
と言って、お金の入った封筒を置いて、彼女は去っていった。多
分すぐに子供ができると思う。私はちょっと接しただけなのに本当
に彼女がいとおしくなってしまって、がんばって下さい、とつよい
そとづら
握手で別れた。よく昭に「外面が良すぎるんじゃない? 家ではす
ごく冷たいくせに。」と怒られるけれど、本当にそうなのだからし
かたない。こういう深い知り合いじゃなくって、むしろ通りすがり
の人に近い誰かに好感を持つともう止まらない。緊張とあいまっ
て、もう胸がいっぱいになるほど優しい気持ちになって、好きで好
きで大好きでたまらなくなって、この人のために何でもしたいとそ
のとき私はいつも本気で思うのだ。

部屋に帰ったら、昭はビデオを見ていた。何かな、とのぞき込む
と「ライトスタッフ」だった。ちょうど飛行士が大気圏内に突入す
重力
るところだった。Gがかかってつらそうだなぁと思った。その場面
を昭は自分のことのような苦しげな表情で見ていた。そうして家に
いるとき、昭は本当に普通の人で、何だか影も薄いし根性もなさそ
いや

うで、この人のどこに人を癒したりいろいろなことを気づかせてし
まうあんなすごいものを作る力が潜んでいるのかさっぱりわからな
くなる。
「お帰り。」
と彼は言った。
「お父さんから、手紙来てるよ。机のうえに載ってる。」
「えっ。」
私は驚いて机のうえを見た。いつも昭がそのうえで作業している
ので、彫金の道具がごちゃごちゃと置いてある低いその机に、分厚
い封筒が載っていた。

3年ぶりに父と会ったのは、先月のことだった。桜が散り終った
上野で、昭についてきてもらって会った。
父が友人(そのだまされた男ではなかった、さすがに)に会うた
めに東京に出てくるから、会えないかと会社に電話をよこしたのは
3月のことだった。
私はびっくりした。あの人が村を出るなんてことがあるとは思っ
てもみなかったのだ。10年以上の間、父も母も村を出たことがない
おっくう
のを知っていた。あんなに出たがらないし億劫になっている彼が来
るなんて、もしかしたらそれなりにいろんなことから立ち直ってい
るのだろうか、と考えているうちにふいに知った。私がいるから、
私に会いに来るんだということを。うちの宗教には厳しいタブーと
いうものはほとんどなかったようだけれども、教祖が喜んで父の遠
出を勧めたのは、私に会うという目的あってのことだったと思う。
もしかしたら、いや、確実に父は私に戻って来いと言うのだろう
と思った。その説得は恐ろしく胸にしみるだろう、と私は予測し
た。もしも昭に出会う前だったら、私は決して父に会おうとは思わ
なかっただろう。離れている分だけ、従属していたから。そして、
父がこちらにいる期間ずっと、せつなく暗く泣き暮らしただろう。
自立とは、結婚とか独り暮らしとか、そういうことではないの
だ。全然違う。結婚して家を出ていて子供がいても親の影を背負っ
ている人を大勢見た。それが悪いということはないけれど、とにか
く自立ではないのだと思う。
昭と出会ってからはじめてそのことを知った。それは、昭と新し
いっつい

い 一対とか家族とかを作った、そういう甘ったるい話ではなくっ
て、昭と出会ってはじめて私は自分がひとりだというさみしいこと
の本当の意味を知ったということだった。父でも母でも村でも、昭
と暮らすこの部屋でもなく、私は私のことを考え、それをしている
のはこの世で私だけだということ、ぽっかりと私はここにいて、何
もかもを決めていて、ここにしかいない。
うまく言えない。
私の家は私だけで、私のいるところがいつもここで、それでもま
るですばらしく美しく青い夜明け前もすぐにまた別の美を宿す朝焼
けになっていくように、何ひとつとどめることができない。そんな
ようなこと。
もしこのことをもっと早くに実感していたら、私は村を出なかっ
ただろう。出る必要はなかった。でも、ここに来てから、昭と会っ
てから気づいた。だから、私はここにいるほうがいい、そういう静
かな結論だった。
しのばずのいけ
4月の10日、日曜日に上野の 不 忍 池、弁天堂の前で父と待ち合わ
せた。どうしてそこかというと、昔よく家族3人でお参りしたから
だった。
父に会うのがやっぱり怖くて、私はその日朝からおかしかった。
まだ寝ている昭にべたべたしてうるさがられたり、皿を割ったり、
それが悲しくて泣いてしまったり、かと思うと「笑っていいとも増
刊号」を見て自分でも変だと思うほど大笑いをしたり、支離滅裂
だった。自分のしていることがよくわからなかった。ひとりで行こ
うと思っていたけれど、だんだん胸が苦しくなっていくのがわかっ
た。昭さえいれば何だか平気な気がして、お願い、やっぱりついて
きて、と言うといつもは出無精の昭が、いいよと手をつないで連れ
ていってくれた。
春の池は静かで、たくさんのボートがひっそりと行きかってい
た。どんよりとした曇り空が低く重く広がっていた。20分も早くつ
いてしまったのに、弁天堂の前に父はいた。
あっさりと、あっけなくいた。
私はどうしても近づいてゆけなかった。だから物陰から父を見て
いた。昭はそういう私を押し出そうともせず、力を抜いてだらんと
した私の手を握ったまま、一緒に立っていた。父のグレーの上着、
くつ ひざ

古びた黒い靴、はげた頭、固い膝。気が狂いそうだった。
そして雨が降ってきた。突然、大粒の雨がかなりの勢いで降って
きたのだ。
あわ
池のボートはみな慌てて岸を目指しているだろうな、と私はそこ
から見えない池のことを思った。父は持っていたかさを開こうとも
せず、私を待っていた。お堂の濃い茶色が、煙るように距離をなく
して父の後ろにそびえていた。土産物屋の色とりどりの色彩が、さ
ぬ まゆ

みしく濡れていた。父はくっきりと立っていた。横顔のその眉は私
にそっくりな形にカーブを描き、まなざしはただ私を捜していた。

その時、昭が言った。歌うようにつぶやくように言った。
はと

「お父さんと弁天堂と鳩がみんな雨に濡れちゃってるよ。」
それで私は、そう、そのとおりだと思った。歩いて行ってお父さ
ん、と言った。私は泣かなかった。父は目を細めて笑った。昭を紹
介して、昭がもう帰ると言っているのに無理に一緒にご飯を食べに
行った。母の作ったジャムを受け取った。父は戻って来いと言わな
かった。私はそして、もしかしたらそのうち、いつか遠い将来には
村を訪ねて行けるかもしれないと思った。そんなことこわくって今
まで1回も考えたことはなかった。でも、可能性程度だけれど予感
はかすかに明るかった。まるで大学生の帰省みたいに、いつか?

千佳子

先日は会えて良かった。
よい人と暮らしているので安心しました。
母さんもそう言っています。
おいしいうなぎをごちそうさまでしたと昭さんにお伝えくださ
い。
そちらへ行く飛行機が遅れたうえ、ひどく揺れたのです。長い待
ち時間の間、多くの人と会話をし、親しくなりました。信者以外の
人と話すのは本当に久しぶりだったので、ずいぶんと陽気な気持ち
しんせき
になり、心からうちとけた気分になりました。東京の親戚のところ
へ行く娘さんや、妻子に土産を持ったサラリーマンや、老夫婦や、
1人旅の青年や、そういう人たちでした。
飛行機が突如ひどく揺れだして不安になっていたところに、やた
ら慌てて行きかうスチュワーデスが真っ青な顔をしているのを見た
ふん い き

ら、何だかいやな雰囲気が機内に漂ってきました。結局ぶじだった
わけですが、それはもうとにかくひどい揺れだったのです。死の匂
いがしました。みんながいっせいに心のどこかで死を思ったので
しょう。
私はお経を唱え、やがて死ぬことは怖くなくなってきたのです
が、ただ悲しかったのは、まわりの席にいるさっきまで笑顔だった
人たちが、今は吐いたり、顔をこわばらせていることでした。もう
笑顔にならずに別れゆくのかもしれないと思うと心からつらくな
り、いとおしくなり、妻や友人やおまえとおなじくらい大切にな
り、何よりもあの笑顔だったときを覚えていようと私はただそれだ
けを思い、でも悲しくて、そして信仰の道に入ったことをはじめて
心から肯定した気がします。
昔の私は決してそういうことに気づかなかったでしょう。すべて
み こころ
は仏の御 心なのです。
父と母はここで暮らしていきます。
あなたはそこでやれることをおやりなさい。どこにいても、あな
たは許されていて、愛されています。私たちからだけではなく。
体に気をつけて。

父より。

「何て宗教くさい手紙なの!」
と私はあまりのあいかわらずさに感動すら覚えて言った。
「いい手紙じゃない。」
ビデオを見ながらこっちを見もせずに昭が言ったので、
「読んだの?」
と聞くと、
「違う、読んでる君の顔を見てた。」
と答えた。
私の固いしなやかさと、昭のしなやかな固さが、陰陽のひとつの
うずになって続いてゆく様を見ていよう。
彼がお守りを作れなくなっても、私には水商売でも何でもある
し、貧乏も怖くない。

ただ怖いのは、柳の枝が陽にさらされては次の瞬間大風に揺れる
ように、桜が咲いては散るように、時がたっていくこと。
西日のさしこむこの部屋に、寝転んでビデオを見ている彼の背
に、この空気に別れを告げて夜がやってくること。ただそれだけの
ことがいちばんかなしい。
ちょうじゅあん
「晩は長 寿庵のそばにしようよ。」
と昭が言った。
「いいわよ。」
と私は答え、生きているかぎり続くそのかなしみをひととき忘れ
て、それが決してなくならないということを忘れて、そうやっても
うすぐふたりで出かけることにした。
私が性的に一般的とは言えなくなったのは、いつのころだったか
よく思い出せない。
男とも、女ともしたし、大勢でもしたし、外でもしたし、外国で
もしたし、縛ったり縛られたり、薬を使ったり、直接死につながる
ことと汚いこと以外、とにかくたいていのことはしたと思う。振り
向いたらいつの間にか、ありとあらゆることをしていた。
でもそれで知ったことは、この世にはもっともっと、もっともっ
とすごいことを毎日毎日してしまいには死んでしまうようなひとが
かな

本当に実際に大勢いて、陶器とかパンを焼くとか、バイオリンを奏
でるとかそういうことのように、ありとあらゆる特定のジャンルに
しろうと

素人からプロまでいろんな人が心を傾けていて、ありとあらゆる奥
こうしょう

深さがあり、高 尚な気持ちからすごい下品さまですべてがふくまれ
ていて、その気になれば人間は、それにかかりっきりになって人生
のすべてを使うことができる……ということだ。
それが「道」というものなんだろう。
みんな、なにかの「道」を通って行きたくて、だから生きている
のかもしれない。
私もそういうものを求めていたのだと思う。
いろんな場面、そのとき抱いたさまざまな気持ち、その場を共有
した人達のこと。その人達とした、とにかくただ必死な快楽の感
からだ

触。自分がものになって、 身体は精神に溶けてゆくようなあの時
間。
あの、後ろめたい青空。光、緑。何もかもに後ろめたくて消えい
るほどせつなくなる真昼。
でも、性のことを言いたいわけではない。
確かにエネルギーはあまっていたが、私が特別性に向いていたと
は思えない。多分、きっかけさえあれば何でもよかったんだと思
う。
ただ、これからはじめてのことをしようとするときのあの強烈な
わくわくしかげん、気が狂うほどの激しい欲情。自分の肉体が自分
とつながっているという実感のスイッチを入れるのに、あれほども
のすごい発散法はなかったのだろう。
しかし私は肝臓を悪くしたのがきっかけでその集まりに行くのを
やめてしまった。
それがセックスから離れた理由だった。

体が治ってからの私はOLとしてきちんと働いていた。
コンピューターのプログラミングをする会社に、父親の紹介で
入った。
それで、新しくできた友達と話していると、「もしかして自分は
人よりセックスがうまいのかもしれない」と思うときがあった。当
時は夢中で、そんなことを思う余裕はなかったが物事はたくさんや
ればやるほどわかってきたりうまくなったりするものだ。いつの間
にか私は、同い年くらいの子がどんなに遊んでいても、そういう話
が子供じみて感じられるくらいの回数や場所を自然に体験していた
ことを知った。だからそれはいつのまにかひとつの自信となって身
についていたのかもしれない。

そうしているうちに恋人ができた。
知りあったのは1年前で、会ってひと月でつき合い始めた。
出会いはまるで美しい絵のようだった。
彼は取引先の会社の社員で、年が離れた彼の兄が、その会社の社
長に就任したばかりだった。
1年前の7月、彼の会社の社長、つまり彼の父親が死んだ。私は
部署を代表してその葬儀に出席した。
葬式であんなに感動したことはない。
私はその社長をよく知らなかったが、いかにすばらしいひとであ
るかといううわさは聞いていた。その会社の事業がいかに大胆でう
さんくさくなく、働きやすいかについても聞いたことがある。しか
し、葬儀にやってきた人々の様子を見たら、そんなことはもう、ひ
とめでわかってしまった。
「ああ、本来これが葬式というものだったんだ」と私は思った。生
前に何があったとしてもすべてを忘れて、その場を共有している全
いた めいふく
員が 悼んでいる、惜しんでいる、心から悲しみ、 冥福を祈ってい
る。美しすぎる。生まれて、生き抜いて死んでゆく人生というもの
がすばらしく見えすぎる。このたった数時間に死んだ人もその人に
かかわ

関った人々も、すべてがゆるされている。
そうごん ど きょう
品のいい花輪、心のこもったお供え物。荘厳な読 経。ひとりひと
りがこの場にいることを本当に大切にして一丸となっている。
私はそういう、大勢のエネルギーがひとつになるために清らかな
流れを組むところを、恐縮だが、大好きな人々との乱交の場でしか
見たことがなかった。
次男である彼は、母親につき添っていた。

亡き社長の夫人はもう年老いているのにまるで若妻のようにはか
なく、上品にたたえられた悲しみは喪服の全身から淡く立ちのぼ
り、愛されたことも死を覚悟したことも、まるで美しいことのよう
に感じさせた。
彼は、影のように母に寄り添い、2人の喪服は茶器のうわぐすり
いろど
のように2人の迫力ある悲しみと決心の文様を彩っていた。
私はみとれ、焼香の間も、出棺のときも、ただただ2人と、それ
を取り巻くある美しいエネルギーの流れを見ていた。故人の一生を
賛美するために人々が結集させた力を。
あんまりじろじろ見ていたから、彼が私に気づいてしまったこと
ころ
は、ずいぶんはじめの頃から知っていた。目が合うたび、話しかけ
たくなった。
年が近いのに彼の方が大変な立場にいるという同情と尊敬の気持
ちも確かにあったが、こんなに大勢の人や身内がいても、立場とし
て、精神のありようとして孤独だった彼にシンクロし、理解してい
たのは私だけ、そういう感じがした。どんなに大勢いても、そうい
なつ
なつ
うものどうしは通じあう。浮いて見える。 懐かしく親しげに見え
る。
え しゃく

帰りに何となく別れ難くて軽く会 釈をした。また会いたいな、と
心から思った。きっとまた会える、と。
そのとおりになった。しばらくして彼から電話がかかってきたの
だ。

「結婚を考えてくれないか。」
と言われたのは、彼の部屋でごはんを食べた後のことだった。
私はすぐに、
「いいわよ。」
と、答えた。自然だったのだ。
彼の部屋は川べりの2階にあって、窓を開け放つと川音が聞こえ
にお

る。窓べに立つと風が吹いてくるし、少しどぶくさい匂いもする。
でも川の水に映る対岸の街も見えるし、川の上に浮かぶ月も見え
る。
はじめのころは、川べりを毎日通った。彼の家に向かって、もう
戻れない気持ちを確かめるように。2人は週に一度しか会えなかっ
たが、それでも私が夜中に泊まりに来ることはあった。ここから出
勤することが多くなった。いつも川音を聞いていた。先に先に流れ
て行くんだよ、と言っているみたいに聞こえた。大きく、揺るぎな
く聞こえて、この恋に対していつも不安だった私を安心させる子守
歌だった。
彼が若いのにあまりにも大きいマンションの広い部屋に住んでい
るのに戸惑った時期もあった。それは私だって、両親も健在で父は
中小企業ではあるが社長だし、エスカレーター式の女子校を出てい
るし、決してお嬢様でないとは言えないが、何と言うかその「真の
美」に対する妥協のない感覚、惜しみない探求のほんものぶりが、
戸惑わせたのだ。
名づけようもない、「彼」の味で統一されて彼のもとで年月を重
ねる家具調度品、食器。もしこれが、この部屋でなかったら、「な
んていやみな趣味人であろう」と思って私は逃げ出しただろう。
でも、そうではない、そういうひとではなかった。
ここで過ごすうちに、窓からの風景が、彼にこの部屋を気にいら
せて選ばせたことがよくわかってきた。大きな窓。そして川。川が
この部屋の中心だ。
ダイナミックな景観は、窓という額縁の中の生きた絵だ。船が行
とも
く。街にあかりが灯る。夕焼けが忍びよる。川の音は音楽だ。部屋
を彩る。
そしてまるで盆栽のように、川のかもしだす自然の力を部屋に封
きっこう
じ込めたのは彼だ。その生命力を取りこみ、拮抗する力としての室
内装飾を考えた。何がどうというのではなく、わざとつくりあげた
のでもなく、彼の持ち物とこの立地が調和してある空間が産まれ
た。そういう意図がある、意志を感じる。この部屋の何もかもに、
彼がいる。
それが私には何よりも興味深かった。
私はここに住みたかった。彼と彼の部屋とそこに産まれた時間の
ない空間を探求し、その一部になりたかった。窓に立ち、その風の
冷たさまでもが伝わってくる大きな川の、風景の中に溶けたかっ
た。
「そう言ってくれると思っていたよ。」
彼は言った。
「でもあれかね、結婚式で、なれそめは、新郎の父の葬式で出会っ
ひと め ぼ

て一目惚れしたんです、っていわれるのかね。何となくいきなり縁
起が悪いね。」
「本当ね。でも何もかも正直に言わなくてもいいものみたいよ。友
達の式とかでると、うそついてるのが多いもの。」
あいさつ
「よし、そうとなればご両親にもお会いしてきちんとご 挨拶しよ
う。いつごろがいいだろう。」
うれ
彼が嬉しそうなことが、何よりも嬉しかった。
「私から電話してきいてみるわ。大丈夫、絶対に反対したりしない
から。意地悪もしないし。」
私は笑った。
「問題ないわよ。恋人がいるって言ってあるし、この年で恋人がい
るっていうことはそういう覚悟もあると思うし。」
問題があるとしたら、私に、私の人生に決定的に何かが欠けてい
るらしいことだ。何もかもにむやみに体ごと飛込んでいるのに、基
本的に何も見たり聞いたり肉にすることができない。それを私は何
か美しいことで誤魔化そうとしてきた。
つまりそれが趣味というものではないだろうか。
彼も多分、何か私に似た、しかし明らかに違うものが欠けている
らしい。だからこの部屋は私を受け入れたのだと思う。そしてそん
な夫婦は沢山いるけれど、何よりも私がそれに気付いているという
ことが不安だった。
この部屋は私を無尽蔵に、ただとにかく許している。
川が流れているからだ。
なぜか落ち着かず、なぜかいつも暗い気分になる。どこか遠くの
事ばかり考える。
あさひ

食事していても、着替えていても、寝ていても、朝陽の中でコー
ヒーをのんでいても、何となく水の流れる音を考えている。大切な
何かを忘れていたり、後悔するべき事があるような気がする。
私のそういうところと、この部屋とこの風景は重なり合って一緒
に呼吸しているような気がした。彼と窓と川。
私を許すものたち。

「そんな、すごいおうちにお嫁にいって大丈夫なの? あなた。」
母が言った。
実家に帰るのは久しぶりだった。
思ったとおり父は別に反対しなかった。私には姉が1人、兄が1
人いて、みんな結婚している。慣れてしまったのだ。反対しないば
マージャン

かりか、誘われて麻 雀をしに出かけてしまった。
母と応接間で2人になった。
兄と兄の嫁は誰だかのパーティーに行ってまだ帰ってこない。ほ

んとうにうちは絵に描いたような上流の下の家なのだ。みんながみ
んなきちんとそういう生活をしている。
何で私だけが、それをしながらもそれにはまりきれないままきて
しまったんだろう。
母は、お祝いだからと言って取って置きのワインを開けてくれ
た。そして少し酔ってそういうことを初めて言った。
「大丈夫よ。後をつぐということもないし、要するに道楽息子だ
し。」
私は言った。
「昔からなにか、そういうかんじでいたけれど、あなたはそのまま
いっちゃうのねえ。」
母が言った。
「何が。」
私はたずねた。
「現実味が薄いというか、夢見がちというか。そのくせきょうだい
の誰よりも、ごみ捨てとか掃除とか、犬の世話とかをいやがらない
子だったわね。結婚はもっと現実的なものよ、って言いたいけど多
分、なんとかやって行くでしょう。それに、言いにくいけれどお金
がなんとかしてくれる部分って、結婚には多いのよ。」
言っている事があまりに母らしくて、懐かしささえおぼえた。
父は浮気はしなかったが、焼物にのめり込んで、散財したりだま
されたりしょっちゅうしていた。焼物がなかったらきっと女の人を
つくっていたわ、というのが母の知恵であり意見だった。だからそ
ういうときも何も口出ししなかった。
そういうことは、すごくスノッブで、しかもかなり真実に近い。
亡くなった彼の父とくらべてみるとよくわかったが、父は会社の社
長に向くようなダイナミックな性格ではなく、繊細で、優しすぎ
た。
そういう人が大きな決断をしたり、他人の収入を左右したりして
いるのだから、もう、趣味を持つしかないのだ。
趣味、何だかこれがすべてのキーワードのように思える。私の育
ち、私の人生の。「しっかりしてるようで、いつもどこかへ行って
しまいそうにこころもとないのは、川沿いで産まれたからかし
ら。」
母が言った。
「え? 誰が?」
私はたずねた。
「あなたよ。」
「私、東京の病院で産まれたんじゃないの?」
私は言った。姉や兄は、同じ病院で産まれたのを知っていた。
「ちがうのよ、言わなかった?」
母は言った。
「おまえは、私の実家のそばの小さな産院で産まれたの。その頃、
お父さん、事業がうまく行ってなくて、私とお父さんともうまく
行ってなくて、私の精神状態が不安定になっていたから、お産の時
わき
はずっと実家に帰っていたの。実家は川の脇で、私の部屋から外を
見ると川と土手がよく見えたの。それまではがむしゃらに家の事ば
かりやって、とにかく疲れ果てていたから、そこでは小さいおまえ
を抱いてて、ずっとぼんやりと川ばかり見ていたの。半年くらい
ね。そのうちお父さんがむかえに来て、帰ったんだけど。あのとき
は、心細かったわねえ。」
私は驚いた。そしてたずねた。
「そんなことがあったなんて、全然知らなかった。おかあさん、そ
の時、私ごと、川に入ろうと思ったりしなかった?」
「それはなかった。」
母はくすくす笑って、何のまじりけもない明るい顔で言った。
ばくぜん

「もっと漠然とした事ばかり、考えていたわ。元気がないぶん、ぼ
んやりと考え事ばかりして、人生であんなにゆったりしたときはな
かったかもしれない。あの枝についている赤い花は何だろう、とか
かわ も
いつも来るあのおじいさんは、何を考えて 川面を見ているんだろ
う、とか。少女時代からずっと見てきた風景だったから、何だか子
供に返ったようでね。今思うと、私にとって必要な時間だったの
ね。懐かしくさえ思えるわ。」
ほんとうかなあ、あやしいなあ、と私は思った。
でもあんまり優雅にその頃のことを言うので、その母の様子がき
れいすぎて聞く気になれなかった。

ゆいのう
結納、というけったいな儀式もすんだ真冬のある夜、私は会社に
いた。夕方5時をまわったあたりで、自分あての電話が内線で回っ
てきたので取った。
「明美?」
女の声が私を呼んだ。
知っている声だった。必死で考えた。
「結婚するんだって?」
思いだした。一緒に遊んでいた頃の友達で、とても上品な、奥様
だった。
「そうなんです。」
私は言った。
「Kから聞いたの。偶然に。あのへんのみんなと会ってる?」
彼女は言った。
「体をこわして、縁を切られました。」
私は笑った。
「体力が資本の世界だからねえ。」
彼女も笑った。
私は、小学生が中学生になって、小学生時代の友達とは遊ばなく
なるように、昔の友達とはあんまり仲良くしないほうだった。
いっぺんにいろんなことをするのがめんどうだからだ。特にあの
頃の人達は、あっちも照れ臭いものだから見かけても声をかけない
ことが多かった。だから、集まりに顔を出さないことで、自然に切
れていった。会いたいな、とも不思議と思わなかった。
でも彼女はどうしてか別だった。もしあの頃の他の人から電話が
かかってきたら私は黙って切るか、いやそうにあいづちだけうっ
て、電話を終えるだろう。
でも私は嬉しかった。
行きずりのひと同然の彼女がおぼえていて気にかけてくれたこと
が。
彼女は仲間の知りあいだった。初めて会った時、私は「静かで、
人の時間を邪魔しない、無神経でないレズの子」はいないか、いた
ら彼女が今軽井沢の別荘にひとりで落込んでいるからいってやって
くれないか、という求人に答えて、単身軽井沢にいったのだ。
彼女とは、1週間暮らし、そのあと浮気中でろくに帰ってこない
彼女の夫をほっぽらかして2人で半月くらい北海道に行った。
それいらい、初めて声を聞く。5年ぶりだった。
「とにかくおめでとう。」
「ありがとう。」
「結婚したら、ほんとうにもうあんなことしてちゃだめよ。あなた
にはねえ、何かがあるのよ。それだけ言いたくてかけたの。」
彼女は言った。
「なんですかそれは。」
私はたずねた。
「この人といると、悩まなくていい。そういう感じかな。どこまで
いっても、この人といれば何かあたらしいことが待ってる、そうい
う、何ていうのかしらね。期待とか、可能性みたいなもの。あの
時、北海道に行ったでしょう? 本当はそんなことしてる気分じゃ
なかったのに。でも、すごく楽しかった。明美には『明美の世

界』っていうのがあって、決して変わらない。だから映画を観るよ
うに、それを観ていれば安心だったし、面白かったの。自分は参加
しなくても、映画は流れて行くでしょう? 人を、引きずりこむの
ね。逃がさないくらい、強烈に。無意識のうちに。」
彼女は、言葉を選んでゆっくりとそう言った。
「それじゃ、私といても幸せにはなれないじゃない。」
私は言った。
「幸せってなに? 私、あなたと旅をして楽しかったわよ。それよ
り幸せな事ある?魂の中に刺激を隠し持ってるっていうのは、いい
ことよ。」
彼女は言った。
とし

「だから、もうああいうのはよしなさい。 歳になってからだと、
ひ ぎわ

しゃれにならなくなってくるし、エイズのこともあるしね。引き際
が肝心よ。」
「ありがとう。」
「おしあわせに。」
電話は切れた。
多分もう、二度と話をすることはないとお互い知っていた。

私の中で、彼女の思い出は鮮烈だ。
それは林の中に立つ別荘群の中でも目立つ、小さいながらも派手
なつくりの建物だった。
初めて会った時、品定めをするようにではなくて私の価値をはか
るように私を見つめた。
ドアが開いて、バスローブ姿の彼女が立っていた。私はジーンズ
に革のジャケットを着て、何日いるようになるかわからないので大
かばん

きな 鞄を持っていた。今も愛用しているヴィトンのエピの緑の鞄
で、買ったばかりだったから使いたくてその役目を買って出たのを
よくおぼえている。
思ったよりずっと楽しい滞在だった。
何だかとんちんかんで切ない2人だった。
彼女は料理が好きだが不器用で、オードヴルみたいな物を長い時
間をかけてゆっくり作った。レズを楽しみたいというよりもその時
間、丸ごとのムードを楽しみたいという、お金持ちにはよくあるタ
イプの、でもとても勘がよくて美しい人だった。
暖炉の使い方がよくわからない彼女を手伝って火を入れ、すすだ
ねこあし

らけになったので小さいけれど猫足の、大理石のバスに入った。
しゃべ

そして暖炉のまえで並んでウイスキーを飲みながら、あまり喋ら
ずに夜を待った。
どんよく

その待ちかたが下品でも貪欲でもなく、まるですごくよく晴れた
朝にやはり美しいに違いない夕焼けを待っているような、来るべき
おうよう

ものに対して鷹揚なよい時間だった。
彼女が何かに傷ついている事や、人生の中での休息の時間を取っ
ている事がその全身から伝わってきた。
古いレースのベッドカバーをそっとはがして、私たちははじめて
一緒に寝た。きっと昔彼女はここで夫に抱かれたのだろう、と思っ
た。品のいい、どこまでも続くセックスだった。あるいはベッドま
わりに関する考えやセンスが似ていたのかもしれない。
朝が来たら、もう10年も2人でその山の中にいたような気がし

た。木立をぬう朝陽と澄んだ空気が、心の表面を射すように懐かし
かった。どこもかしこも丸くたるんだその体もあまい匂いがして好
きだった。
午後はヴィデオ映画を観て、夜はどこまでも続けた。
そして何をしていても夜を待っていた。
あまり話さなかったし、あまり笑わなかったのに楽しかった。ど
こまでも空気が薄くなってそのあたりの森林の青い空に溶けていく
ような気がした。北海道に行かない? と言われた時も、これがど
こまで続けられてどうなっていくのか知りたかった。
でも何も変わらなかった。
彼女は毎日求め、何回でもいった。
そして、私を丁寧に愛した。
ある日北海道のホテルに夫から電話があって、「もう帰らないと
本当に離婚だわ。」と彼女が言うまでそれは続いた。
何本も映画を観たし、市場にも行ったし、スキー場に行ってス
キーをしたりもした。ロッジで体が痛い、と言いながら熱いコー
ヒーも飲んだ。
さび

だから淋しかった。

いつかそんな日が来るに決まっていたし、また東京で逢って情事
かんぺき

をかさねたりするにはその日々は完璧すぎた。
こういうことってあるんだなあ、と私は思った。完璧で、そのま
まもう終わってゆくしかないことが。
夜の羽田で別れた。
飛行機の中でも、ほとんど話せないくらい淋しくて、私は今にも
泣きそうだった。
彼女はサングラスをしていたが、やはり泣きそうだった。別れ際
にきれいな花もようの分厚い封筒をくれた。
後姿がタクシー乗り場に消えてゆくのをみて、もう会うこともな
いんだと思った。さっきまで一緒にいて、手をつないだりキスをし
たり、パンティの中身まで知っているのに、もういない。
淋しかった。
封筒には、現金50万円と、軽井沢の木立のなかで笑って手を振る
私と陽光と青い空の写真と、もういちまい、裸でレモネードを飲み
ながらベッドサイドのあかりで雑誌を読む私、の写真が入ってい
た。ポラロイドでとったやつだった。
思い出を残したくなかったのか、証拠を残したくなかったのか。
感傷か。
わからなかった。
でも切ない写真だった。今でも大切に取ってある。

それからしばらくして会社をやめた直後、青山のドトールでエス
プレッソのLサイズを飲んでいた時にKにばったり会ったのには驚
いた。
はだ

運命の流れを肌で感じた。何かが始まろうとしている。私の結婚
に向けて、過去が静かにうごめいている。そう直感した。
婚約者の家にはエスプレッソの機械があっていつでも濃いのが飲
めるのだが、私はOL時代にやみつきになったここの薄いコーヒー
が飲みたくて、会社をやめたのにわざわざ飲みにきていた。買物の
帰りで、午後6時だった。全く気が抜けてぼんやりしていたので、
そんなまずい知りあいが歩いてきていても気付かなかった。しかし
もしも結婚前に会っておきたい人というのがいるとしたら彼だけ
だったから、無意識のうちに呼び寄せた、そんな気さえした。
「明美。」
Kは突然私の名を呼んだ。
その強い目の光を見た時、私は反射的に人違いだとはごまかせな
うそ

くなってしまった。そういう意図がみえみえの噓は、気合いでつく
しかないのでタイミングをずらすと崩れてしまう。
「お久しぶり。」
私は言った。わざわざ困ったような顔をして。
でも彼はくじけなかった。
にこにこ笑って席を移ってきた。
「結婚するんだって。」
彼は言った。
「そのことを言いふらしているでしょう。」
私は言った。
「びっくりしたから、ついね。悪気はないんだよ。」
「今は、何をやっているの。バブル崩壊の後は。」
こっとう

彼は昔、スペインかどこかのアクセサリーと骨董を輸入する小さ
な会社をやっていた。金回りがよく、強引で、しかし上品なので人
うわさ
うわさ
気があった。その会社がだめになったのは噂できいていた。
「今? 相変わらず、らしい仕事だよ。深夜だけのデリバリーの、
やつ
洋食弁当屋。でももうかってるけどね。働く若い奴もありあまって
るしね。今はもう自分はタッチしてないけど、はじめはからあげの
研究とか、まじめにしてた。」
「いろいろあったのね。」
「人生楽しいよ。」
「みんなは?」
「エイズも出さずに仲良くしてるよ。」
「そう。」
「言っちゃなんだけど。」
彼は言った。
「ああいうのって、一度のめり込むと完全には抜けられないもの

じゃない? 特に君ほどだと。週末を思って昼間の会社で濡れてた
くちでしょ?」
「いつのまにか、忘れたみたい。入院がよかったのかな。」
私は言った。
「君はいつもそうだった。いつもひとりで涼しい顔をしてて。安い
ナルシシズムだよ、そんなのは、と思っていたけど、あそこに集ま
るような奴らともともと求めてるものが違ったのかもね。」
「いつも、いまにしか興味がないようにしてるのよ。」
私は言った。
いえがら

「結婚ってそんなにいいか? 家柄ってそんなに守ってくれるも
の? きれいな部屋とか、いい暮らしはそんなに何もかものかわり
になるのか?」
彼は言った。いやみなのではなく、率直なのだ。セックスの上で
も、そういう性格だった事を思いだした。そしてたまらない懐かし
さにつつまれた。突如強烈に、あの頃の空気、気持ちのテンション
が私を襲い、丸ごと引き戻した瞬間だった。
「でもね、私にとって、子供時代に戻って幼稚園に行きたいって
言っても行けないのと同じように、戻れないのよ。興味ないもの、
セックスに、もう。」
「あれほどの情熱と体力を傾けておいて? おまえほどの集中力を
持った女は後にも先にもいないよ。」
「だからこそ、何かをつかみとってもういらなくなってしまったの
ね。もういいのよ。したくないことはしない、それのどこが悪いと
言うの? そんな人、大勢いたじゃない。あなた、そんな、人の心
の自由のことまで、とやかくいうほどセンスの悪い人だった?」
私は言った。彼にはどこかおかしい感じがあった。それは昔の彼
には感じられなかったものだ。夫婦や、医者にしか見せないような
体のあらゆる部分をおおぜいにさらけだしつづけるうちに、どこか
がおかしくなってきたのかもしれない。
おれ
「君には才能があったんだよ。俺にはなかった。」
「何のよ、セックスの?」
私は笑った。
「違う、生きていくこつをつかむ才能だよ。時間というものがあっ
みが

て、前に進むことを好む才能だ。腕は磨かれ、飽きがきて、卒業す
る、そんなうそを信じ込める才能。人は本当は一生同じようなとこ
ろをぐるぐるまわっているだけのものなのに。」
「理屈はわからない。」
私は言った。
「ただ、心のそこからグループというものに飽きたみたい。排他的
で、あたらしい人材は寄ってたかってつぶす、そういうなれあいの
システムが。私たちは一時期たしかにすてきだった。何やっても。
何も怖くなかったし、死んでもいいと思ってた。真夜中も、真昼も
好きだった。でもそういう時期がずれた時、ごく正直に面白くなく
なったのよ。ディズニーランドの、ビッグサンダーマウンテンっ
て、知ってる?」
「唐突だなあ、知らないよ。」
「あれに乗ってて、夕空の下の坂をぐるぐる降りていくとき、乗っ
ている人がひとつになったのを体験したことがあるの。日本人なの
に、ひゃっほーとか叫んで、ああ、千葉まで来て、ここに入って、
この晴れた日にこれに乗って、今、本当に楽しい、っていう気持ち
でね。しかもこの日、この時間、二度とあわないこの人々とこのス
ピードの中にいることが切なくてね、みんなが楽しむ事にひとつに
なった。あれはそれが3分だけだからなのよ。」
「そりゃそうだ。」
「それと同じような感じで、そういう楽しさが過ぎたら何だかいづ
らくなっちゃって。やりすぎたのかな。」
言えば言うほど何かがずれていくのを感じながら、話し続けた。
わかってもらいたいという欲望はなくて、彼にわかるようにフィク
ションを語っていた。うそではなくても、ぜんぜん本音ではないこ
とだった。
私は熟した実が落ちるようにあの場をはなれ、川がどんどん流れ
ていくのと同じに今に至っているだけだった。そこに理屈はつけら
れない世界だ。
ならどうして説明しようとするのだろう?
それはきっとあの頃の彼への敬意からでたものだ。
未練、とも言い換えられる。彼は言った。
「おぼえてる? あの頃の自分のこと。すごかったよ。俺はいつも
興奮したけど、怖かったよ。君は狂ってるって思ったことが何回も
あった。このひとは世界一飢えているってね。あれからもいろんな
人を見た。俺らのラインが限られているからだとも思うし、いろん
なすごい話はきくけど、でも実際には俺は君ほどの切実さ、狂気に
かつぼう
出会った事はない。そんな奴が結婚するからって、ああいう渇望を
忘れられるものなのだろうか。」
〝だから違うんだって、あなたはどうだか知らないけど、あんなこ
とは私には少し疲れるくらいで、何てことなかったんだってば。子
供と同じで、欲しい、やってみたいと思ったら夜寝るのも忘れるだ
けよ、多分、容量が根本的に違って、あなたは一生、あの人達と週
末に乱交を重ねていくのが何の矛盾もないタイプで、私は違うの〟
そう思ったがうまく言葉にできなかった。それこそが才能、とか差
別、とかにかかわるなにか口に出せない意味を含んでいる気がし
た。
彼は彼の人生を、彼にできる範囲で楽しく生き切っているのだ。
は たん
たとえ年とともにそれが破綻をきたしはじめて性格や物言いに妙な
影が生まれていても。
「おまえだけは、」
彼は言った。今日2回目の「おまえ」だった。
「遊びをやめて結婚、っていうタイプじゃないと思ってたのに。
よっぽどいい男で、いい条件なんだね。」
彼は言った。
体をこわして、この人達と会わなくなって、会社に入ってしばら
くは、変な感じだった。そして多分、神経がまいっていたのだろ
う。疲れた時や面倒な会食の時なんかに、話そうとすると軽くほほ

が引き攣るのが、半年くらいは治らなかった。
性欲だって、食欲と同じで、死ぬほど食べたら体がこわれるのと
同じに、かたよりがどこかにでてくる。
私がだんだんもとに戻ってきて、普通程度にしかセックスを営ま
なくなって、会社に行って、同僚とランチを食べたり、洋服を買っ
たり、朝起きて、夜は眠り、肌荒れも治り、気が狂うほどの欲情が
襲ってくる禁断症状もなくなってきて、この世の美しい、楽しい事
はセックスだけじゃないんだ、と思えるようになっていった間……
彼はずっと、あの人達やあの人達の友達と、いろいろな場所であん
なことをくりかえしてきたのだ。
そう思ったらぞっとして、ああ、私は私でよかった。うまくタイ
ミングをつかんだんだ、そう思った。きっと神様っているんだ、と
まで思った。危ういタイミングを教えてくれる。
別れ際、「またね」とお互いに言った。でも、もう二度とは会わ
ないと思った。ドトールで偶然会う以外は。
私だって、あなたがすごく好きだった。
晩秋の骨董通りを歩きながらひとりでそう思った。風は冷えて、
コートのすそが踊った。建物の影は暗く、もう明るい陽が照らすこ
となどないかのように静まりかえっていた。
あなたの肉体は、いつも人間が人間であるのが悲しい、と思わせ
るくらい、他人を拒み、そして欲していた。他の人達にはない魅力
があって、時間を失う事ができた。
もうすこし、あなたが穏やかで、疲れてなくて、下品なもの言い
をせずに私を懐かしんでくれたら、もしかしたら今頃私たちは、ど
こかに泊まりに行ったかもしれない。そのまま昔みたいに1ケ月も
2ケ月も戻らず、どこかでずっと、部屋にこもってやりまくってい
だ め

たかもしれない。何もかも忘れて。きっと結婚も駄目になって、そ
れでも。
でも、そんなことにあなたは気づかなかった。自分では気付かな
くても終始、捨てられた子犬みたいな孤独と屈辱感の膜に包まれて
いるみたいに見えた。もう、本当に同じ場所にはいない、通じあえ
ないひとなんだ。
……そう思いながらぼんやり歩いていたら、すっと自転車が追い
い す

越して行った。うしろに備え付けられた小さな椅子に、5歳くらい
の女の子が乗っていた。お母さんが必死でこいでいるのもお構いな
しに、彼女はぼんやりと私を見つめた。風に吹かれてまだ細い毛が
やみ
やみ

闇にさらさら揺れた。彼女はとてもおとなびた、アンニュイな顔を
うれ
していた。何かを憂えているように、何もかもを見下しているよう
に。
ああ、私もこんなものだ。
と私は実感した。反省ではなくて。
人に運ばれ、守られ、世話され、甘やかされ、この日本の中で平
和にひたりながら、いっぱしの何かを生きていてそのうえ自分がど
こか優れていて、人よりいろんなことをしているような気になって
おぼ じつ

いる。セックスに溺れていたつもりになって、その実身元のわから
ない人と単独で交わるリスクはおかさなかった。
だからって、今すぐ私がアフリカにいって井戸をほればいいって
いうものではない。そんなことならどんなにいいだろう。
私も彼も変わらない。
街にまみれて希望もなく、生きて死んで。
希望が何かわからない。でももしそういうものがぎらぎらとぴか
ぴかとどこかに手つかずであるとしても、その勢いが呼吸できてな
いことだけはわかる。この街にはなく、道ゆくひとの目にもない。
TVのなかにも、デパートの中にもどうもないようだ。そこで成長
してきたのだ。隣のテーブルのひとたちの殴りたくなるようなくだ
らない世間話をききながら。
過激なセックスの中にそれがあると思いながら彼は日常にそれを
とりいれて人生の重みに溶けていく。
私はそこに飽きて、祭壇を幾つもつくってそのなかに自分をおこ
うとする。どちらがりこうかわからないが、今はこれでいい気がす
る。でも同じところをぐるぐるまわっているようにも思える。この
迷いはたぶん、すごい豪華な結婚式をして、喜びに泣く両親を見て
も、出産してよそにはない自分だけの子供の重みをこの腕に抱いて
も消えないだろう。
時代のせいなのか、自分の性質のせいなのか、もとはあったもの
がなくなったのかよくわからない。ときどきこうした迷路に入ると
何もかもが遠く外側のことに思えて実感や喜びや苦痛が失われる。
私の悲しみも、私の美学も、箱庭の中で展開するだけだ。……何
はん ぱ
と半端な存在なのだろう。
果てしなく落込んだ気分になった。
多分、過去の亡霊が最後の力をふるったのだった。暗いチャンネ
ルに巻き込まれたのだ。

土曜日の昼間、これから彼の家に出かけようというとき突如ドア
チャイムが鳴り、宅配便でも来たかと玄関に走るとなぜか父が立っ
ていた。
私は驚いて、父を招き入れた。
父が母をともなわずに私のマンションを訪ねてくるなんて、信じ
られない事だった。
「仕事にでかけるところなんだ。外に車を待たせてあるから、すぐ
に帰るよ。」
父は言った。

昔はスポーツ青年で瘦せていた父は年とともに太り、重そうな体
でリビングのいすに座った。
大きな包みを抱えていた。
「何、それ。」
私はたずねた。
「おみやげに、と思って倉庫からみつくろってきたんだ。陶器だ
よ。備前焼だね。飾っておかずに生活の中で使ったほうがいい
よ。」
父はいい、ふろしきをとき、木箱を開けた。
重くて大きな器が出てきた。
「ありがとう。」
父なりの結婚祝を届けに来たのか、と訪問の意味を納得した私は
ほほえ
嬉しく思い、微笑んだ。
そして用事が済んだらもう2人で話す話題もないのできっとすぐ
帰ると言いだすだろうと思ったら、父はまだそこにすわっていた。
おかしな感じだった。
「何か話があるの?」
私は言った。
「うん……。」
父はまだためらっていた。
「言っておいた方がいいことなのか、迷ったんだが。」
「何? なんのこと。」
私は言った。
「知らなくてすむことなら、知らないままでいいような気がして、
今まで話題にもださなかったんだが、こんどから住むところがそ
の……川べりだっていうのを聞いて、なんとなく話したほうがいい
ような気がむしょうにしてきてね。」
「もしかしてそれ、お母さんのこと?」
私は言った。母のいない場所でしか言えないから、ここに来たの
だと思った。
「そうなんだ。君が産まれた時のことなんだ。」
「お父さんは、私が他のきょうだい達と同じ東京の産院で産まれ
た、って言ってたけど、あれはうそだったんでしょう? そのこと
はお母さんから聞いたよ。」
私が言うと、父は悲しそうな顔をした。
「君が産まれる頃、会社がうまく行ってなくて。その上、好きな女
のひとがいたんだよ。会社もたたんで、そのひとと一緒になろうと
思ったんだけれど、お母さんの心の具合が悪くなって、君も産まれ
て、それでごたごたしているうちにそのひととは結局だめになって
しまったんだけどね。」
「そのこと、お母さんは知っていたの?」
私はたずねた。
「それでおかしくなっちゃったんだからねえ。もちろん知っていた
よ。」
父は言った。
相変わらず悲しそうな顔だった。私が産まれてからは家庭第一
で、焼物だけにのめりこんでいったことのもうひとつの理由を見
た。そして私に用意されていたかもしれないもうひとつの人生も。
あるいは人生が用意されていなかったことも。
「君が産まれて、半年ぐらいは君とお母さんは川べりの、今は東京
にいるおばあちゃんの家にいたんだ。それは聞いたか?」
「うん。」
「生後半年くらいに、はじめて君の顔を見にいった。そのとき、家
にお母さんはいなくて、おばあちゃんが笑顔で『川にいるわよ』っ
ていうんだ。昼はいつも川にいるって。笑顔なんだけど何となく物
言いたげな様子で、いたたまれなくて帰りをまたずにすぐに川の方
に歩いていった。その川は土手には降りられなくて、急な流れを見
降ろす形で大きな橋がかかっているんだ。車が通れるような広さで
はないんだけれど、大きい橋。そこの欄干にもたれてお母さんが赤
ん坊の君を抱いていた。すごく怖い光景だった。人通りはなかった
けれど、もし誰かが見たら無条件に止めただろうと思った。お母さ
んは君を抱いたまま多分無意識に、すごく身を乗り出して流れを見
てたんだ。君はもう、全身が川の流れの真上にあった。近付いて
いって声をかけたら、お見合いではじめて会ったときみたいな若い
笑顔で平気そうにしたからほっとした。だから少し抱かせてもらっ
て、何か、何でもない事を話していたら突然、お母さんが黙り込ん
だんだ。どうした、って声をかけたとたんにお母さんはただただ錯
ほう
乱して叫びだして、ふいに君を川に放りこんだんだ。もちろんすぐ
に飛びおりて助けに行ったよ。運よく落ちた場所はそんなに深くな
くて流れもほとんどなかったから君は何でもなくて、病院ではもう
笑っていたけれど、お母さんのほうはショックで意識がもうろうと
していて、こわばったまま何も反応しなくなってしまった。しばら
くして意識がちゃんとしてからは君にあやまって泣くばかりでね、
それからしばらく東京の、別の病院に入院したんだよ。私もいろい
ろ考えたんだが、これではだめだ、と思ってすべてをやり直そうと
いうことにして毎日見舞いにいった。その時にはもう、お母さんに
は病院に入るほど疲れていたのや、どうしてそんなになったかの理
由はわかるようになっていたが、君を川に落としたという記憶だけ
がなかった。……今も多分ないと思う。多分だが。ただ、他の点で
はどんどん回復していった。だからすぐに退院して元のように暮ら
しを始められたんだ。新しく君を迎えてね。うちがうまくなかった
ことをお兄ちゃんはかすかにおぼえているかもしれないが、お姉
とし
ちゃんは多分わかる歳じゃなかったんじゃないかな。とにかく、そ
のことはおばあちゃんと私だけの秘密だった。
もしかすると君のほうに後々影響がでるかもしれないなと思って
病院に相談もしたりしていたんだが、水を怖がる様子もなく大きく
なって、何事もないようだから、気にしてなかったんだが、結婚と
なるといろいろ心の傷のうち隠れていた面も出てくるかと思い、そ
んなとき知っていたほうがいい部分もあるにちがいないと判断した
んだ。」
父は言った。
私はおどろかなかった。
ただ、どこかで知っていたことを、しっかりと確認したというよ
うな安心感だけがどんどんわきあがってきた。
それはものすごい勢いでわいてきて、しばらくは胸がいっぱいに
なって苦しいほどで、私は何も言えなかったくらいだった。
「ショックを受けたか?」
と父は言った。
「ううん、今がうまく行ってなければそうだったかもしれないけ
ど。」
私は言った。
「私がものごころついてからは、うちはうまくいってたもの。」
「そうだな。」
父はほっとした顔で言った。
「君はうちにとって、結果的には救いの天使だったよ。それから事
業はもりかえしたし、それ以来、他に女のひとはいない。何ていう
か、道を誤る時期だったんだな。」
心の傷はあったのかもしれない。
私は思った。
でも、私はサヴァイヴァルできる。
そういう自信がいつも、どこでもあって、それこそがその隠され
た事件から、私が体で得たものなのかもしれない。

父が帰ってから、私は器を抱えてタクシーで彼の部屋に行った。
お父さんがくれたけれどどうかしら、と言って見せると、そうい
う美しいものが大好きな彼は嬉しそうにして、これから2人でずっ
と使えるね、と言った。
煮物を入れたり、まぜごはんのときにも生きるね、こういういい
ものは思い切って普段使いたいね、とそれに関してたわいのない話
をしているうちにさっきの話と、何よりも川に入ろうなんて思った
こともないと笑った母の姿を忘れてしまった。
もしも私がショックを受けたとしたら、それだけだったからだ。
つい先日、笑っていた母の顔。
そういうことが熱いお茶や会話や部屋の明るさでまぎれて消え
る。
そんなことがしたいだけなんだと思った。
何も傷つかずに育ってくる人間はいない。
みんなが一度くらい親から決定的に拒まれたことをどこかでおぼ
えている。例えばおなかの中で、まだ目もみえないとき。話もでき
ない時。だからもう一度、誰かが自分の親になってくれることを、
本当に死にそうな時に物理的に共同責任をおってくれることを、理
屈ではなく、ただとにかくむしょうに求めてひとはひとと暮らそう
とするのだろう。
ふ ろ
外で食事をして帰ってきて、彼が風呂に入っているときなんの気
なしに台所のワゴンの上を見たら1通の封書が目に止まった。
ひとの手紙なんて見やしないし、まして女文字ではなかったので
どうしてまじまじと見てしまったのかわからない。
あて な
でも何かひっかかる宛名の書きかただった。
だから、反射的に中身を見てしまった。
そんなことは生まれて初めてすることなのに、なぜか後ろめたさ
はなく、見なくてはという確信だけがあった。
そこには手紙はなかった。
しかし、数枚の写真が入っていた。
私はそれを見、本当に気が遠くなった。
そこには、昔の私の、「恥かしい写真」が入っていたのだ。背景
はKの部屋か都内のホテル、私は裸で、もちろんひとりではなかっ
た。さらにいうと他の写真では2人ですらなかった。4人も、5人
も、ひとりで相手をしていた。化粧はとれかけ、目はうつろで、今
よりも少し太めの、でもまぎれもない私が写っていた。
あらららら、というのが遠くに聞こえた自分の第一声だった。そ
して、誰がこんなものを彼に送ってきたのかという怒りがわいてき
た。Kかな、と一瞬思ったが、表書きがKの筆跡ではないのは確か
だった。誰か別の、あの頃の誰か。
次に冷静に、彼は風呂からでたら私に別れを告げるかどうか考え
た。食事のときはそんなそぶりは全く無かったが、何も言わずにこ
のまま結婚しようというひとがこの世にいるとは思えない。
仕方ない、自分がしてきたことなんだから、仕方ない。
そう思った。すぐにあきらめはついた。
私は立ち上がると、川に面した窓辺にすわってとにかく気を落ち
着けようと思った。
そしてひとを取り巻いている目に見えない悪意や、記憶の外にあ
る死について考えようとした。けれど夜の川は暗く恐ろしく光って
いて、ものすごい速さで流れ去っていくので、いつのまにかぼんや
りして考えが止まってしまった。
月が真っ黒な空に小さく光って、沈む街並みに真珠みたいに映え
ていた。
窓を開けると下の道を歩いていく人々の笑い声がかすかに聞こえ
てくる。川の音も、水音としてではなくて、夜そのものが音を出し
ているような不思議な響きとして届いてくる。
風も、どこから来たのか、どこかものすごく遠いところか、もの
すごく近いところか、わからないくらいに自分を丸ごと取り巻いて
いるように感じられる。恐ろしい臨場感だった。
ただ川だけを見てそうやって腰掛けていたら、彼が出てきた。
彼は見慣れたパジャマを着て、笑いながら
「お先に、次どうぞ。」
とこわいくらいにいつもどおりに言った。
あの手紙はいつ来ていたんだろう、と私は気づいた。私は今日だ
と思い込んでいたが、もしかすると先週かもしれないし、先月かも
しれない。黙っていればこのまま時間が過ぎるかもしれない……そ
う思った。しかし、
「どうかした?」
と彼が言った時、私は思い切って言った。
「その、ワゴンの上にあった手紙、いつ来たの?」
彼が真顔になった。
いつも柔かい表情でいる彼のそれほどの固い表情を見たのは、は
じめて会った日、あの葬式の日以来だった。
「先週の、土曜日かな。」
彼は言った。
「どうして言ってくれなかったの?」
私は言った。
「何を言えばいいのさ。」
彼は言った。
「別れるとか、無理だとか、軽べつするとか、いろいろ。」
私は言った。
「もしかすると、あなたの会社やお兄さんにも迷惑がかかるかもし
れないし。」
「大丈夫だよ。」
彼は言った。
私は黙った。どうしていいか見当もつかなくなったからだ。
彼は言った。
「君は何で結婚を決めたんだ。」
「なんとなく、大丈夫な感じがして。」
私は答えた。
「でしょ? 僕もそうなんだ。そういうのは理屈じゃないよ。」
彼は言った。
「でも、困ることもあるでしょう……。」
私は言った。自分がどうしたいのかよくわからなくなってきた。
「うちの会社を、もし自分が継いだらもしかすると父のときよりも
もっと大きくできたかもしれない。根拠がない自信だけれど、そう
思う。兄には経営の才能がないように思うんだ。維持はできるけ
ど、あたらしいことはね。」
彼は言った。
「でも僕は一生ヒラでもいいから、好きなことをしてのんびりやり
たくて、兄に会社をゆずったんだ。もめてひどかったよ。人間がひ
とり死ぬと、後始末がすごく大変なんだ。特に金がからむとね。そ
ういう世界をよく知っていたつもりだったし、覚悟はしてたけれ
ど、まいったよ。父は本当は僕に継がせたかったらしいし、それを
見抜いて僕にずいぶん前から取り入ろうとする奴も大勢いたし、兄
ともすこしこじれてしまったし。すっかり興味がなくなってしまっ
て、少し遺産を多くもらうってことで、いいじゃないかって言い通
したけれど、世の中はそういうものじゃないって、何人から何度言
われたことか。
しかも、この若さで仕事をやる気がないってことは、人間として
半分終わってる、死んでるつまらない人間っていうことだ。自分で
もわかってるんだけれど、今の時点で今の会社をはなれられないの
まどぎわぞく
はもう、仕方がない。こうするしかなかったんだ。若き窓際族で、
野心もなくて、やりたいこともなくて、みじめはみじめなんだけれ
ど、仕方がない。そういう精神状態が、父が倒れてからずっと続い
てたんだよ。金持ちの家には心がない、っていうつまんないお話
じゃなくて、自分の話。
そのなかでしたいことといえば、君ともういちど会いたい、仲良
くしたい、っていうことだけだったんだ。くだらない人間だな、と
思うけど、本当だから仕方ない。いまさらそのくらいじゃ驚かない
よ。そりゃあ、最近の写真だったら別だけど、どう見ても昔のもの
だし。もしそれを送ってきた奴が今の写真を持っていたら、もちろ
ん効果を期待してそっちを送ってくるだろうから、最近の君がそう
いう生活をしてないことは考えればわかるし。」
彼は説明を多くはしなかったが、彼の会社で前社長が倒れてから
うわさ

どういうことがあったのかは、まだ私が勤めている時に社内の噂で
よく聞いていた。
「だいたい、失礼だけど、一度でも寝れば、どのくらい経験がある
かわかるものだよ。」
彼は言った。
「わかったの?」
私は笑った。
「わかるよ。普通の回数ではないってことが。はじめのときにわ
かったよ。」
彼は言った。
私は本当に言葉を失い、世の中は私があれこれ考えているから動
うず ま

いているのではなく、おおきな渦巻きのなかに私もこのひとも誰も
彼もがいて、何も考えたり苦しんだりしなくてもただどんどん流れ
ては正しい位置に注ぎ込まれていくのかもしれないと思った。
自分が世界の中心だと思っていた世界からわずかに一歩をはずし
た瞬間だった。
それは歓喜でも、失望でもない感覚で、ただ今まで余分な筋肉を
使っていたのをゆるめたような妙にこころもとない気分だった。
「それなら、ここに住むわよ、いいの?」
私は言った。
「いいよ。」
彼は言った。
「ひとを見る目だけは、育ててきたんだ。君は面白いよ、一緒にい
ると映画を観ているような感じがするんだ。」
「それは、ほかのひとにも言われたことがあるわ。」
私は言った。
「そりゃあはじめは驚いたし、送ってきた奴に腹もたったけどさ。
きれいな写真じゃない。何枚でも送ってくればいいよ。」
ふざけてそう言って、彼は笑った。
「さあ、冷えるから窓をしめて、風呂にでも入ってきな。」
私は窓を閉め、もう一度川を見降ろした。
川はさっきの混乱と不安をたたえた景色とはうってかわってまる
で映像に閉じこめられたように、穏やかに力強く見えた。柔らか
く、いつもそこにあって、安定して流れていく日常のように静か
だった。
すごい、全く、違って見えるなんて。
私は思った。
私の心ばえ次第で、全く。
そして母のことを思い、母が私を抱いて見ていた水面や、父が迎
えに来て緑のなかを遠くから歩いてきた時の気持ちや、待っている
のかくやしいのか母自身にもわからなかったであろうことを思っ
た。それを腕の中で感じていたであろう赤ん坊の私のこと。あてつ
けに私を放り込んだ時、私が吸込まれていった水面が激しく見えた
のか、静かに澄んで見えたのかということも。
そして何かを隠すということと明るみにでるということの意味を
考えた。
そのなかで、川に呼ばれたのかな、という思いがふと訪れた。
私は川に入ったりはしないけれど、決して。
でも、川がここに私を呼んだのかもしれない。
目に見えないもの、悪意、優しさ、父と母がなくしたもの、得た
もの、私があの頃求めてやまなかったもの。それと等しい引力で、
この窓辺に私を。
そういう運命の力、川が持ち、自然やビルや山々の連なりがこの
世にあるだけで発散する力がもしかしたらあるのかもしれない。そ
ういう何もかもがからまりあってつながりあって、私がここにい
て、ひとりではなくひとりで決められることでもなく、生きのびて
きたし生き続けていく。そういうふうに思うと、心のなかで何かが
ちらちら光るのがわかった。
この窓から朝見る川面、まるで金のくしゃくしゃの紙が何万枚も
流れていくみたいに光っている。
そういうのに似たゴージャスな光だった。
もしかして、昔のひとはこれを希望と呼んだのかもしれない、と
ぼんやり思った。
あとがき

この本の中に収められた小説は、おおよそ2年くらいの間に書か
いや

れたものです。全部、「時間」と「癒し」、「宿命」と「運命」に
ついての小説です。
「生きていくことは地獄だ」というのは「生きていくことは天国
だ」と全く同じ「意味の分量」で置き換えられることであるような
気がします。どちらがいいとか悪いとかではなくて、自分、という
意識をとにかく続けていくこと自体の中に、天国や地獄というよう
な何かが生じるのです。その、続けていくことについて描きたくて
書きました。重い話や、宗教の話が多いのはそのせいでしょう。
ここに出てくる人々は、すべて一般には希望と呼ばれる変化の一
歩手前にいて、突然何かに気づいてしまって忘れていた感覚がよみ
がえってきたり、今までの状態にはなかったある種の行動力を必要
とされたりする時期にいます。そのとまどいとか精神的な荷物をま
とめていくようなこころもとなさとか、そのすっきりした気持ちと
か、そういったことがテーマになっています。
作品について少し説明します。
「らせん」は原マスミさんの文庫「トロイの月」に解説としてよせ
た短編です。再録をこころよく許していただき、ありがとうござい
なか づ

ました。また、「新婚さん」はJRの中吊り小説として実際に電車
の車内に連載され、原さんのすばらしいイラストとともに東京の線
路をかけめぐったものです。
き たん

また、このなかの「大川端奇譚」は、タイツというバンドの名曲
のタイトルをお借りしました。イメージもその曲を聞いて思い浮か
んだものです。作詞、作曲した一色進さんに、この場を借りて御礼
もうしあげます。ありがとうございました。
これを書いている期間、近くにいていろいろはげましや助言をあ
かか

たえてくださった、この本に関わるすべてのみなさま、どうもあり
がとうございました。
この本をつくるのは、とても楽しい作業でした。それもみな、労
もち

を惜しまずに力をつくしてくださった新潮社の今田京二郎さん、望
づきれい こ

月玲子さんのおかげさまです。ありがとうございました。
また、本人が北海道に出張中にこっそりと自宅から資料を借り出

し、その作品群をみんなで見て「田中に決まりだ!」「田中に賭け
ましょう!」と呼び捨てで勝手に決められてしまった、そのくらい
つく

人を興奮させるエネルギッシュですばらしい作品群を創る田中英樹
うれ

さんと仕事ができたこと、とても嬉しく思います。
そしていつも読んでくださったり、お手紙を書いてくださる読者
の皆様、ありがとうございます。これからもいいものを書いていけ
るようにがんばっていきます。
どうぞ楽しい毎日をお過ごしください。
春のはじめ、ある夕方、事務所にて。
これからソニックユースのコンサートに行きます!

吉本ばなな
文庫版あとがき

「現場の声」を感じさせるすばらしい文章を寄せてくださった片山
洋次郎先生、ありがとうございました。今の私はしっとりまろや
か、純米吟醸。変わらず大食いです。
小説家とヒーラーは似た仕事だな、と思うことがよくあります。
どこか厳しい気持ちを持って、どこの誰とも、なるべく先入観を持
たずに一対一で向き合う。私はそれが文章を通してだからまだ楽だ
けれど、治療をする人は、生身の人間に触れる。その違いは大き
く、私はいつもヒーラーに出会うと、その人類愛の大きさに胸を打
たれます。
田中英樹くん、ありがとう。

あなたが描きおろした沢山の表紙候補を、なぜかローマのホテル

で、ソファーに並べて見ました。明るい陽ざしの中でそれらはとて
も美しく、どれもが内容にどことなく合っていて、どれもあまりに
すばらしく、全部を表紙にしたかった、というのがかけねなく本当
の気持ちです。
新潮社の私市憲敬さん、望月玲子さん、ありがとうございまし
た。
このような短編集を今の私はどうやってももう書くことができな
いけれど、当時の楽しい気持ちのまま、文庫を作ることができたの
はお2人のおかげです。

1996年4月
吉本ばなな
本書は平成八年新潮文庫として刊行された。なお「新婚さん」は『中吊り小説』(吉本ば
なな他著 新潮文庫)に、「らせん」は『トロイの月』(原マスミ著 角川文庫)に収録
されている。
とかげ

平成27年10月発行

よしもと

吉本ばなな
見城徹
株式会社幻冬舎
〒151‐0051
東京都渋谷区千駄ヶ谷4‐9‐7

田中英樹

新潮社装幀室

新潮文庫版『とかげ』カバーより
幻冬舎ホームページ
http://www.gentosha.co.jp/

この電子書籍に関するご意見・ご感想をメールでお寄せいただく場
合は、 comment@gentosha.co.jp へ。

©Banana Yoshimoto, GENTOSHA 2015

●本作品は『とかげ』(新潮文庫)を底本として作成しています。電子書籍版と通常書籍版
では、仕様上の都合により内容が一部異なる場合があります。
●電子書籍版『とかげ』には解説を収録しておりません。

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