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net/publication/305699604

Nihongo Zyookenbun to Modaritii (Japanese conditionals and modality)

Thesis · March 2006


DOI: 10.13140/RG.2.1.1647.0009

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6 790

1 author:

Yukinori Takubo
National Institute for Japanese Language and Linguistics
140 PUBLICATIONS   239 CITATIONS   

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日本語条件文とモダリティ

田窪行則
謝辞

本 稿 は 、 筆 者 が こ こ 20 年 余 り の 間 に 行 っ て き た 条 件 文 に 関 す る 論 文 を 談 話

管 理 理 論 の 立 場 か ら 、ま と め な お し た も の で あ る 。本 稿 の 元 に な っ た 研 究 に

際 し て は 、内 容 、ス タ イ ル な ど 多 く の 友 人 に 負 う と こ ろ が 大 き い 。ま ず 、東

京 大 学 の 坂 原 茂 氏 か ら は 、個 人 的 に ま た 著 作 を 通 じ て 研 究 の 非 常 に 初 期 か ら

言 語 と 論 理 の 関 係 に つ い て 多 く を 学 ん だ 。ま た 、論 理 学 、メ ン タ ル ス ペ ー ス

理論などの基礎的な知識も氏との議論から学んだものが基礎となっている。

ま た 、氏 は 筆 者 の 書 い た 論 文 の ほ と ん ど に 目 を 通 し 、内 容 だ け で な く 、ス タ

イ ル 、論 証 の 仕 方 な ど に 関 し て 、詳 細 な コ メ ン ト を く れ た だ け で は な く 、常

に 筆 者 の 研 究 の 進 展 の た め に 、精 神 的 な サ ポ ー ト を 惜 し ま な か っ た 。氏 の 長

年の友情に感謝したい。

談 話 管 理 理 論 の 基 礎 と な る メ ン タ ル ス ペ ー ス 理 論 の 創 始 者 で あ る Gilles

Fauconnier 氏 に 感 謝 し た い 。 氏 は 1990 年 か ら 筆 者 の 研 究 に 注 目 し 、 要 所 要

所 で 適 切 な ア ド バ イ ス に よ っ て 、研 究 の 進 展 を 助 け て く だ さ っ た 。ま た 、
「反

事 実 条 件 文 」、
「 今 ご ろ 」な ど の 日 本 語 の 例 に 満 ち た 筆 者 の 説 明 を 何 度 も 聞 い

て 下 さ り 、メ ン タ ル ス ペ ー ス 理 論 の 立 場 か ら 、実 証 の た め に ど の よ う な 事 例

が 必 要 で あ る か を 教 示 し て く だ さ っ た 。氏 の 指 導 が な け れ ば 、こ の 論 文 は 完

成していなかったであろう。ここに感謝したい。

本 論 文 の 条 件 文 に 関 す る 部 分 は Charles Fillmore 氏 の 条 件 文 の 研 究 か ら 大

き な 影 響 を 受 け て い る 。氏 か ら は 、折 に 触 れ て 励 ま し を い た だ き 、
「今ごろ」

と「 と こ ろ 」に 関 す る 研 究 に 関 し て は 、多 く の ア ド バ イ ス を い た だ い た 。感

謝したい。

談話管理理論の研究に当たってはその初期においては大阪大学の金水敏

氏 と の 指 示 詞 の 用 法 の 記 述 に 関 す る 研 究 が も と に な っ て い る 。氏 に は 、多 く

の 共 著 発 表 、共 著 論 文 を 通 じ て 、理 論 面 、記 述 面 で 精 密 化 に 関 し て 氏 の 貢 献

は大きい。ここに感謝したい。

本 稿 の 3 章 は 、 笹 栗 淳 子 氏 と 金 城 由 美 子 氏 、 4、 5 章 は 笹 栗 淳 子 氏 と の 共

iii
同 研 究 が 元 に な っ て い る 。筆 者 の わ か り に く い 説 明 を 何 十 回 も 聞 い て 、論 文

の形にまとめる手伝いをしてくれた両氏に感謝したい。

金 水 氏 、笹 栗 氏 、金 城 氏 を は じ め 、本 稿 の も と に な っ た 研 究 は 、そ の 一 部

を 他 の 研 究 者 と の 共 同 研 究 の 成 果 に 基 づ い て い る 。本 稿 を ま と め る に あ た っ

て は 、で き る だ け 元 の 共 著 論 文 は 既 存 の 研 究 と し て 容 を 紹 介 し 、批 判 の 対 象

と し た り 、あ る い は そ の 分 担 や 貢 献 が 明 ら か に な る よ う に 再 構 成 す る よ う に

努 め た が 、ま だ 、完 全 で は な い か も し れ な い 。関 係 各 位 の ご 寛 恕 を 請 う し だ

いである。

本 稿 の 形 式 的 な 表 記 に 関 し て は 、三 藤 博 氏( 大 阪 大 学 )に 追 う と こ ろ が 大

き い 。三 藤 氏 は 本 稿 の も と に な っ た す べ て の 論 文 に 関 し て 、理 論 面 、形 式 面

のみならず、細部の議論にいたるまで、筆者との議論に付き合ってくれた。

ま た 、 郡 司 隆 男 氏 、 Stefan Kaufmann 氏 、 今 仁 生 美 氏 に は 、 論 理 意 味 論 、 モ

ー ダ ル ロ ジ ッ ク に 関 し て 多 く の 教 示 を 下 さ っ た 。残 念 な が ら 時 間 的 な 都 合 で 、

そ れ ら を 十 分 に い か せ な か っ た が 、近 い 将 来 、よ り 精 密 で 形 式 的 な 書 き 直 し

を試みて、日本語を知らない研究者にも理解が容易な論文としたい。

本 稿 を 博 士 論 文 の 形 に ま と め る の に 際 し 、上 山 あ ゆ み 氏 か ら 大 き な 実 質 的 、

精 神 的 援 助 を 受 け た 。上 山 氏 は 特 に 本 稿 の 完 成 の た め に 筆 者 と の 面 談 に 多 く

の時間を割いてくれ上山氏は本稿にまとめたすべての論文のすべての主張

に 関 し 、膨 大 な 質 問 、批 判 的 コ メ ン ト を 通 じ て 、理 論 的 な 整 合 性 、記 述 的 妥

当 性 、経 験 的 妥 当 性 が 保 証 さ れ る よ う に 助 け て く れ た 。氏 の 援 助 が な け れ ば

こ の 論 文 は 完 成 し な か っ た で あ ろ う 。論 文 の 質 が 氏 の 要 求 水 準 に 達 し て い な

いことを恐れるのみである。

本 稿 を ま と め る に 際 し て 、京 都 大 学 言 語 学 講 座 の 同 僚 た ち か ら 多 く の サ ポ

ー ト を 受 け た 。 特 に 庄 垣 内 正 弘 氏 に は 、 氏 の 助 手 時 代 か ら 35 年 の 長 き に わ

た り 、研 究 者 と し て の 態 度 や 教 師 と し て の あ り 方 を 学 ば せ て い た だ い た 。こ

れ ま で の 学 恩 に 対 し て 感 謝 を し た い 。ま た 、筆 者 が 入 学 以 来 、つ ね に 研 究 者

と し て 信 頼 を し て く れ て 、研 究 面 で は げ ま し て く れ た 佐 藤 昭 裕 氏 に 感 謝 し た

い 。両 氏 の 強 い 勧 め が な け れ ば 、こ の 時 期 に 完 成 で き る こ と は な か っ た か も

iv
し れ な い 。こ の 論 文 を ま と め る に 当 た っ て 吉 田 和 彦 氏 、白 井 聡 子 氏 に は 本 来

私 が す べ き 仕 事 の 多 く を 分 担 し て い た だ き 、時 間 を 作 っ て い た だ い た 。衣 畑

智 秀 氏 、金 城 由 美 子 氏 に は 原 稿 を 読 ん で い た だ き 助 言 を い た だ い た 。田 村 早

苗 さ ん 、林 由 華 さ ん 、淺 尾 仁 彦 君 、金 京 愛 さ ん に は 最 終 原 稿 の 作 成 に 多 く の

助 力 を い た だ い た 。こ こ に 記 し て 感 謝 し た い 。最 後 に 、こ の 原 稿 を 書 い て い

るあいだ多くの時間的、精神的に支えてくれた家族に感謝したい。

v
目次

第 1 章 言語と論理―日本語の論理表現
1.1 はじめに ............................................................................................................... 1
1.2 談話管理理論 ....................................................................................................... 5

第 2 章 日本語の条件文と反事実解釈
2.1 はじめに ............................................................................................................. 15
2.2 日本語における条件文の反事実的解釈と決定性 ......................................... 16
2.3 非現実性と前件の状態性 ................................................................................. 22
2.4 状態性と決定性 ................................................................................................. 25
2.5 状態形の仮定 ..................................................................................................... 28
2.6 反事実的世界と現実の対応 ............................................................................. 36
2.7 2 章のまとめ ...................................................................................................... 41

第 3 章 現代日本語における2種のモーダル述語類について
3.1 はじめに ............................................................................................................. 43
3.2 モーダル述語とは ............................................................................................. 43
3.3 モーダル述語類の意味 ..................................................................................... 47
3.4 2 種の条件文とモーダル述語 .......................................................................... 48
3.5 モーダル述語の意味と構造 ............................................................................. 54
3.5.1 モーダル述語と推論の方向性................................................................ 57
3.5.2 ヨウダ類と推論の方向 ........................................................................... 62
3.6 「今ごろ」とモーダル述語 ............................................................................. 70
3.7 モーダル述語の意味解釈と知識領域 ............................................................. 78
3.7.1 ダロウ類のモーダル述語の意味解釈.................................................... 78
3.7.2 ヨウダ類のモーダル述語の意味解釈.................................................... 81
3.8 モーダル述語の統語構造と意味解釈 ............................................................. 87
3.9 まとめ ................................................................................................................. 92

第 4 章 トコロダ条件文
4.1 はじめに ............................................................................................................. 95
4.2 条件推論を表す条件文の性質と反事実解釈の制約 ..................................... 96
4.2.1 条件文解釈の制約 ................................................................................... 99
4.2.2 条件文の反事実的解釈 ......................................................................... 100

vii
4.3 トコロダ条件文の性質 ................................................................................... 105
4.3.1 トコロダ条件文の反事実性 ................................................................. 106
4.3.2 田窪・笹栗(2002)................................................................................... 109
4.3.3 田窪・笹栗の問題点 ............................................................................. 112
4.4 トコロダ条件文の反事実性の導出 ............................................................... 113
4.4.1 トコロダ条件文の制約 ......................................................................... 113
4.4.2 譲歩文とトコロダ ................................................................................. 118
4.4.3 必要条件に関する制約の導出.............................................................. 120
4.5 トコロの基本的意味 ....................................................................................... 121
4.5.1 アスペクト形式の意味 ......................................................................... 122
4.5.2 動詞とアスペクト・時制時との関係.................................................. 125
4.5.3 トコロダとアスペクト形式 ................................................................. 129
4.6 条件文とアスペクトに付くトコロダの違い ............................................... 132
4.7 トコロの基本的意味 ....................................................................................... 133
4.8 まとめ ............................................................................................................... 137

第 5 章 トコロデと譲歩解釈
5.1 譲歩節を導くトコロデ ................................................................................... 139
5.2 トコロデの基本的機能 ................................................................................... 141
5.3 譲歩文のトコロデの統語的特徴と領域の性質 ........................................... 144
5.4 トコロデの意味 ............................................................................................... 150
5.5 まとめ ............................................................................................................... 157

第 6 章 結語 ............................................................................................................159

参照文献 ...................................................................................................................165

参考論文 ...................................................................................................................171
1 文の階層構造を利用した文脈情報処理の研究
―対話における知識処理について― ........................................................... 173
2 文脈理解―文脈のための言語理論―.................................................................. 211
3 「今」の対応物を同定する「今ごろ」について .............................................. 229
4 談話における名詞の使用...................................................................................... 247
5 日本語の文構造―語順を中心に―...................................................................... 275

viii
第1章

言語と論理ー日本語の論理表現

1.1 は じ めに

言語はその文法形式面においては、単に意味を持った音声形式が階層的に構成

されたものにすぎず、しかも、その階層的な構成は非常に制約されたものであ

る。そのような言語構造を用いて、意思疎通や、論理推論を含む思考活動が可

能になるのはかなり不思議なことである。ひとつの単純な文を聞くだけで我々

は膨大な意味情報を得る。これは、文が必ず文脈あるいは対話者の共有する前

提の中で解釈されるという制約から来ている。言語表現が表す新規情報は、想

定された共有知識からの差分をとることであたえられるとすると、共有知識に

関する前提がかわれば解釈が変わる。その制約は対話参加者の想定する共有知

識、広くは文化などとして捉えられるであろう。特に文化的制約は非常に重要

なものとして捉えられる。実際、文化による想定の違いがコミュニケーション

を阻害する場合は多々あるだろう。このような観点から、言語表現やその使用

法の違いを文化の違いの現れとして見る見方が広く行われている。さらに、文

化相対主義の強い立場にたつ言語観では、言語によって思考が左右されるとま

で考える。しかし、人間の言語情報処理や論理計算のメカニズムやその目的は

ほぼ同じで、観察されるバリエーションは、その目的を達成するための解が複

数ある場合であると見れば、言語差は通常考えられているほど大きくはないと

見ることもできる。本論文では、論理計算のメカニズムは言語では共通である

という後者の立場に立ち、言語間の論理形式の普遍的な特徴とその現われ方の

差異について考察する。主として考察するのは、言語における共有知識の取り

扱いが言語表現にどのように反映するか、および、言語間における論理表現の

差異とその共通性である。

ここでは、文自体の意味は、語彙要素の意味から構成的に作られるとする構

1
成 的 意 味 論 (compositional semantics)の テ ー ゼ に 従 う 1 。し か し 、構 成 的 に 合 成 さ

れ る 語 彙 要 素 自 体 の 意 味 は 決 定 不 十 分 (underdetermined)で あ り 、 そ の 意 味 の 多

くの部分はそれが結合する要素との関係で決まると考える。この意味で、語彙

要 素 の 意 味 は 、 多 く の 場 合 、 多 義 (ambiguous)で あ る と す る よ り 不 確 定 (vague)

であるとし、形態的・統語的文脈により、文脈的に精緻化すると考える。これ

はメンタルスペース理論的アプローチと共通する考え方である。

さて、否定、連言、選言、条件、推論等々、論理的な関係を言語で表す場合

にもこの考え方は当てはまる。ある論理的な関係を日常言語で表す場合、言語

間で統語的な規則、制約が異なっていれば同様の論理関係に対する表現形式が

言語によって異なりえる。つまり、論理的な意味は個別言語の中にもともと存

在するのではなく、必要に応じて、手持ちの語彙と統語的操作から作られ、そ

れが慣用化することによってできているとみることができる。用いられている

表現形式が言語間で異なっていても翻訳可能なのは、その表現形式を構成する

統語的操作が異なっている場合でも論理形式が翻訳可能であるからであると考

えられるのである。

例えば、日本語には一致が義務的でないため、主語は義務的ではない 2 。従

って、英語などで一致が要因となっておきる義務的な主語上昇は日本語では必

1
この点ではメンタルスペース理論とは異なり、意味論と語用論との区別をする。し

かし、メンタルスペースと同様に、特に要素の語彙的意味は、非常に未決定の部分を

多く含み、実際に構成されるときに、他の要素との構成の過程で互いに制約し、真理

条 件 的 意 味 が 決 ま る と 考 え る 。メ ン タ ル ス ペ ー ス に 関 し て は 、Fauconnier (1994、1997)

参照。この考え方の実際の応用に関しては 5 章参照。

2
Kuroda (1988)参 照 。

2
で は な い 。 こ の 統 語 的 制 約 と 、 ル ー ト モ ダ リ テ ィ (root modality) 3 と 認 識 的 モ ダ

リ テ ィ (epistemic modality)の 形 式 上 の 区 別 と が 相 関 す る 現 象 が 存 在 す る 。英 語 で

は 、must、may、canな ど は シ ス テ マ テ ィ ッ ク に ル ー ト モ ダ リ テ ィ (root modality)

と認識的モダリティの解釈で二義的である。これに対して、日本語ではこの両

者は区別される。認識的モダリティの解釈をとるモーダル述語は、主語位置は

意 味 的 に 空 で 、構 造 的 に は 主 語 が な く 、seemな ど と お な じ く 、補 足 節 の み を と

る一項述語である。これは、英語では主語位置が語彙的に埋められることが義

務的であり、助動詞類が主語を持つため、認識的モダリティの述語の場合も主

語の位置に補足節の主語が上昇し、モーダル述語句の主語位置に移動しなけれ

ばならないことから生じる。英語において、制御構造をとり、主語位置に意味

役 割 を 与 え る た め D-構 造 で 主 語 位 置 が 埋 め ら れ な け れ ば な ら な い ル ー ト モ ー

ダ ル (root modal)の 構 文 と 、主 語 上 昇 を と も な う 認 識 的 モ ー ダ ル 述 語 の 構 文 が 表

面的には同じ形式になり、二義的になるのはこのためである 4 。

もし主語位置が義務的でなく、補文の主語からその母文の主語位置への上昇

がければ、認識モーダルがルートモーダルと同じ構造を持つ事態が生じる余地

はない。日本語では、認識的モーダルは派生的に構成され、その意味から主語

の位置は埋められる必要はない。ルートモーダルは主語位置が埋められ、認識

的モーダルは主語位置が埋められていない。このため同音異義的な構造的多義

性が生じる可能性はない。日本語で、ルートモーダルと認識的モーダルが体系

的に別の形式で表されていることは、主語位置が語彙的に埋められなければな

3
Brennen (2001)に よ れ ば 、 ル ー ト モ ー ダ リ テ ィ と い う 用 語 は 、 Hofmann (1966)( こ こ

で は 改 訂 版 で あ る Hofmann (1976)を 参 照 し た ) が 最 初 に 提 出 し た 概 念 で 、 非 認 識 的 モ

ダ リ テ ィ で 、 義 務 、 許 可 、 能 力 な ど を 含 む 。 主 語 位 置 が D-構 造 で θ -役 割 を 与 え ら れ 、

制御構造をとる。

4
認 識 モ ダ リ テ ィ と 統 語 構 造 上 の 違 い は Jackendoff (1972: 100-107)、 Brennan (2001)を

参照。

3
らないという統語制約と関係していることが示唆されるのである 5 。これらに

ついては 3 章でもう一度取り上げる。

もう一つ例を見てみよう。日本語と韓国語では、義務や必要性を表す表現の

作 り 方 が 異 な る 。日 本 語 で 義 務 を あ ら わ す「 ね ば な ら な い 」「 な い と い け な い 」

などの表現は、条件文の必要条件をあらわす形式である。これらの表現は次の

ような過程で生じているとみることができる。

(1) 君が行けば、物事はうまくおさまる.

(2) 君が行かなければ、物事はうまくおさまらない。

(2 )は (1 )の 逆 の 対 偶 で あ る 。つ ま り 、p⊃ qの 逆 で あ る q⊃ pの 対 偶 を と っ た ¬ p⊃

¬ qの 形 に な っ て い る 。こ の こ と で pを qの 必 要 条 件 と し て 扱 う こ と が で き る 。
「p

なければならない」の形式は、このような逆の対偶をとった形を作って必要条

件を表す表現を慣用化することで生じている。この形式がなぜ義務をあらわす

のかを考えてみよう。一般的にこれらの言語形式を言うときは、前提となる知

識 が 存 在 し て い る 。 こ の 前 提 は 通 常 p⊃ qと い う 条 件 的 な 知 識 で あ ら わ す こ と が

できる。そこで、この知識が与えられているとき、必要条件を表す表現を必要

条 件 を 表 し 、pの 時 だ け qと い う 意 味 を 与 え れ ば 、qを 生 じ さ せ る た め に は 他 の 方

法はないという意味になるわけである。逆の対偶の形になっているのは、前提

となる条件と前件の形を合わせる形にすることで、前提の想起を容易にしてい

る の で は な い か と 想 像 さ れ る 。つ ま り 、
「 pね ば な ら な い 」は 、
「 な る only if p」、

す な わ ち 、 許 さ れ る の は ( あ る い は 、 必 要 な の は ) pで あ る と い う こ と を 表 す 。

こ れ に 対 し 、 同 じ こ と を 韓 国 語 で は 、 p ya toy-ta な ど と い っ た 表 現 で あ ら わ

5
ここで述べた論の立て方は認識的モーダルとルートモーダルが共通する意味を持つ

可能性を前提としている。日本語でも認識モーダルを表す表現が制御構造を持つよう

な統語的変化を起こせば、同じ形式が認識モーダルとルートモーダルの両方の用法を

持ち、その違いは統語構造の違いとして表せることになる。

4
す 。 p+ya は 、 「 p こ そ 」 、 toy-ta は 「 な る 」 と い う 意 味 で あ る 。 す な わ ち 、 問

題となっている条件のなかで p であってはじめて q であるという意味で p 以外

に十分条件となるものはないということを表し、実質的に必要十分条件を表す

ことができるのである。日本語と韓国語はどちらの表現も必要十分条件をあら

わす形式であるということができるのだが、日本語と韓国語ではその手段が違

うわけである。

これらの言語形式を形成しているおのおのの語彙要素はもともと論理形式を

表すための形式と言うことはできないであろう。このように各言語で同じ論理

的関係を表す場合でも、その言語の語彙的、形態的、統語的性質により実際に

構成される言語形式の性質は異なる。そのために、言語形式の違いに注目すれ

ば必要以上に言語差が強調されて見えるが、論理的な関係自体にそれほどの差

はない場合も多く、言語間で翻訳可能性があるのは、個別の言語差を取り除い

た後の論理的な関係にそれほどの差がないからであると見ることもできるわけ

である。以下の章で扱う論理表現は、日本語に特有な表現を多く含むが、それ

が表す論理関係は普遍的なものとみなすことができる。

1.2 談話管理理論

本 論 文 は 、 田 窪 (1987、 1989)、 田 窪 ・ 金 水 (1996)、 Takubo& Kinsui (1997) な ど

で名詞の解釈に関して提案した談話管理理論にもとづいている。談話管理理論

は、言語表現の意味を認知主体としての話し手、聞き手の知識状態の変化とし

てモデル化したものである 6 。

6
談話管理理論は、当初メンタルスペースを基本として、それを対話的談話モデルに

拡張したものであったが、メンタルスペースは必ずしも構成的な意味論と相性が良く

な い た め 、統 語 構 造 と の イ ン タ ー フ ェ イ ス を と り や す い 理 論 と は い え な い 。こ の た め 、

以下の記述では、便宜上単純化した可能世界意味論を記述装置として使っている。し

かし、メンタルスペースの利点は、部分状況を簡単に扱えることと、視点の階層性を

5
談話管理理論がとる基本的な方法論は次のようなものである。まず、辞書で

定義された語彙形式は、真理条件を決めるには不十分なものであり、特定の語

彙 形 式 は 決 定 不 十 分 (underdetermined)な 形 で 表 示 さ れ 、 統 語 的 ・ 意 味 的 な 文 脈

により、真理条件を得ることができるとする。これにより、言語における多義

性の一部に対して説明を与える。この意味で、談話管理理論のアプローチは認

知的なものであるが、文のレベルでは、真理条件的で、かつ、統語論と準同型

的な意味論を認めるため、従来の意味論的、統語論的アプローチとかわるとこ

ろ は な く 、 基 本 的 に 文 の 意 味 は そ の 構 成 要 素 か ら 構 成 性 原 理 (compositionality

principle)に 従 っ て 作 ら れ る と 見 る 。 決 定 不 十 分 な 形 で 辞 書 に 登 録 さ れ た 語 彙 形

式 は 、そ れ が 組 み 合 わ さ る 要 素 と の 関 係 で 、精 緻 化 さ れ 、具 体 的 な 意 味 を 取 る 。

つ ま り 、統 語 的 な 環 境 に よ り 、無 標 の 形 式 が 有 標 化 さ れ る と み る こ と が で き る 。

例えば、トコロは、補足部が空間、時間、論理空間のどの領域に関わるかによ

って意味が変わる。これは例えばトコロを次のように 2 変数の項をとる関係名

詞とし、変数の領域を変化させることで表すことができる 7 。

z トコロの基本的意味:

λ X,λ Y.( X is at Y)

X, Y は さ ま ざ ま な タ イ プ を 取 り う る メ タ 変 項 (meta variable)

z トコロのとる領域による意味の精緻化

非常にうまく表せることであるので、メンタルスペースを構成意味論として構成しな

おせば解釈装置として採用することも可能である。

7
本稿での論理表記は、ここで取り扱う言語表現の意味が構成性原理を守りながら記

述できることを示すことを主として目的とするもので論理意味論的な厳密性を意図し

ておらず、非常に単純化したものにすぎない。本稿で使用したλ演算などの論理表記

に 関 し て は 、 Heim & Kratzer (1998)な ど を 参 照 さ れ た い 。

6
1. 空間の場合: x は個体、y は空間位置

ト コ ロ : λ x,λ y∈ 空 間 位 置 ( x is at y)

田 中 の と こ ろ : λ y∈ 空 間 位 置 ( ||田 中 || 8 is at y)

「田中のところ」は田中が存在している場所の集合となり、田中という固有

名詞が場所化する。

8
|| ||は 解 釈 関 数 を 表 す 。 言 語 表 現 を と っ て そ の 解 釈 ( = 指 示 対 象 ) を 返 す 関 数 で あ

る。すなわち、言語表現とその意味を区別する役目を果たすが、この区別が自明な場

合は特に表記しないことにする。

7
2. 時点 の場合: x はイベント系列における位置、y はイベント系列

ト コ ロ : λ x,λ y∈ イ ベ ン ト 系 列 9 ( x is at y)

田 中 が 来 た と こ ろ : λ y∈ イ ベ ン ト 系 列 ( ||田 中 が 来 た ||at y)

トコロのこのような解釈の多義性は、統語的にはその厳密下位範疇特性と関

連しており、トコロがとる統語的な構成要素の広さと意味の差が相関している

ということを示している。これに関しては、4 章、5 章で詳しくみる。

認知主体は談話に際してある特定の知識状態にある。この状態を初期値とす

ると、言語表現は、談話の初期値を変化させるものとして働く。談話管理理論

では、この初期値は言語表現の意味解釈を作用する要因として設定され、基準

点として働く。従来の意味論では、談話の初期値は、文脈や共有知識のような

ものとして与えられていた。ここでいう談話の初期値は、認知主体(話し手、

聞き手)が談話に当たって想定する直接経験の一部である。ここで直接経験と

9
こ こ で「 イ ベ ン ト 系 列 」と は 、イ ベ ン ト と そ の イ ベ ン ト 項( event argument: そ の イ

ベントの生起する時間、場所を指定する項のことでθ役割などと同列に扱われる)の

対によって形成される系列のことである。イベントはそれがとる時間によって系列化

できる。また、イベントがとる時間はそのイベントによって同定できる。例えば、次

のようなイベント系列が与えられているとしよう。これは結婚式の式次第とでもいっ

たものとしてみればよい。

ⅰ ) イ ベ ン ト 系 列 E: <e1,t1>,<e2,t2>,<e3,t3>,<e4,t4>,<e5,t5>

このときに、別の系列のイベントをこの系列を基準スケールとして位置づけることが

可能である。

ⅱ ) e7 before e2

ⅲ ) e8 at e1

すなわち、イベントを表す表現によってそのイベントのイベント系列における時間的

位置を表すことができるわけである。

8
は、直知として認識した認知経験、および認知主体が自分の知識中に直接経験

として取り入れ、推論操作なしで取り出せる知識としたものである。実際の談

話では、経験知識をすべて必要としているわけではなく、その一部だけが活性

化される。ここでは、談話の初期値は直接経験のうちその当該の談話のセッシ

ョンのために活性化されたもののみを指す。

認 知 主 体 が 談 話 の 初 期 値 と し て 設 定 す る 要 素 を D-要 素 と し よ う 。D-要 素 は 定

項 で あ る 。D-要 素 が 個 体 で あ る 場 合 、固 有 名・ア -系 列 名 詞 な ど が 指 す も の が こ

れにあたる。これらの固有名や指示詞に対応する知識は、直接体験にもとづく
10
知識である 。D-要 素 が 命 題 で あ る 場 合 、こ れ は 話 し 手 の 現 実 世 界 の う ち 話 し

手が直接認識している知識を表す。あるいは、別の言い方では、直知している
11
世界の知識であることを表す 。 D-命 題 は 次 の よ う に 定 義 さ れ る 。

定義 1

z D-命 題 : 話 し 手 ( 認 知 主 体 ) が 直 接 知 っ て い る 命 題

10
黒 田 (1979: 98)は 、 ア 系 ( お よ び コ 系 ) の 指 示 詞 に 対 応 す る 直 接 的 な 知 識 と そ れ に

対立する概念的知識について次のように述べている。

この意味での直接的知識・体験的知識というものの特徴は、知識の主体はその対象に

ついて、原則上は、無限の知識を持っているということである。言換えれば、我々が

ある対象を直接的に知っていれば、我々は、原則上は、それについて不特定に多様な

概念的把握への可能性に開かれている。これに対して、ある対象についての我々の知

識が単に概念的であれば、我々の知識はその概念に限定されている」

11
直 知 に 関 し て は 、 Russell ( 1905,1910) を 参 照 の こ と 。 D-領 域 と I-領 域 の 区 別 は 、

Russellの knowledge by acquaintanceと knowledge by descriptionの 概 念 と そ れ ぞ れ ほ ぼ 並

行 し た 区 別 で あ る 。ま た 、黒 田 (1979)の 直 接 知 識 、概 念 的 知 識 も 類 似 し た 概 念 で あ る 。

と推察される。

9
z 直接知っている:

話し手(認知主体)が直接経験によって真であるとしっているか、偽である

ことを知っている。直接知っている命題は、推論などの操作なしで直接アクセ

スできる。

認知主体は、時間的・空間的な位置を占めて存在している。従って、認知主体

が認知している現実は時間に沿って変化する。発話場面において認知主体が直

接 認 知 し て い る 現 象 は 、定 義 上 真 で あ る 命 題 と し て D-領 域 に 登 録 さ れ る 。こ れ

に対し、認知主体が過去において直接経験した体験も、直接知っていおり、従

って、推論などの操作なしで、直接アクセスできる命題とすることができる。

さらに、次のように考えることにする。

規 定 1: p が D 命 題 で あ る と き 、 ¬ ¬ p も D 命 題 で あ る 。

p⊃ ¬ ¬ p は 、 二 重 否 定 と い う 推 論 規 則 に よ っ て 導 出 さ れ る の が 普 通 で あ る が 、

ここではこれは直知できるとする。例えば、猫を見るといった直接的な認知に

より「ここに猫がいる」が真であると知っているとき、同時にその否定命題で

ある「ここに猫がいない」が偽であることも特に推論なしで直接的に知ってい

るとみなすことができる。従って、¬p も D 命題とみなす。また、例えば、猫

が見えないという直接的認知を根拠に、「ここに猫がいない」が真であると認

識しているとき、
「 こ こ に 猫 が い る 」が 偽 で あ る こ と は 推 論 な し に 直 知 で き る 。

従って、次のことがいえる。

規 定 2:p が 真 で あ る こ と を 直 知 し て い る と き ¬ p が 偽 で あ る こ と を 直 知 し て い

る。

こ こ で 、D-命 題 の み を 含 む 知 識 の 領 域 を D-領 域 と 呼 ぼ う 。す で に 真 偽 が 決 定 し

て い る 現 実 を R-領 域 と 呼 ぶ こ と に す る 。 R-領 域 は 、 発 話 場 面 の 事 態 、 す で に 起

10
こっているか、未来のことであっても予定や規則などにより真偽がすでにその

範囲で決まっているとみなせる命題からなる。しかし、真偽がすでに決定して

い て も 、認 知 主 体 が 直 接 し ら な い 領 域 を 含 む 。D-領 域 は 定 義 上 、真 偽 が 定 ま っ

て お り 、 そ れ を 直 接 知 っ て い る 命 題 か ら な る 領 域 で あ る の で 、 R-領 域 に 含 ま れ

る 。従 っ て 、R-領 域 は 、Dと 、R- D( Rか ら Dを 引 い た 部 分 )と か ら な る 。こ こ

で 、Rの 領 域 は 定 項 の み を 含 み 、談 話 文 脈 に よ り 付 値 は 変 わ ら な い 。Rは 真 偽 が

決定している命題からなる。ここで真偽が「決定している」命題を次のように
12
定義しよう 。

定 義 2:

決定している命題:真偽が決まっていることを話し手(認知主体)が知ってい

る命題

決定していない命題:真偽が決まっていないことを認知主体が知っている命題

12
真 偽 が 決 定 し て い る (determined)は 、 基 本 的 に は 、 Fauconnier (1994:3 章 ) の 用 語 で

あ り 、ス ペ ー ス 内 で p、¬ p が ど ち ら も 可 能 な 場 合 を 未 決 定 、ど ち ら か が 満 た さ れ て い

る(すなわち、どちらかが可能でない)場合を決定している、という。可能世界意味

論 に お け る こ の 概 念 の 厳 密 な 定 義 に 関 し て は 、Kaufmann (2001, 2005)を 参 照 。Kaufmann

は 、 こ れ に 該 当 す る 概 念 を settlednessと 呼 ん で い る 。 settlednessと い う 概 念 を 使 っ た 日

本 語 条 件 文 に 関 し て は 有 田 (2004)参 照 。有 田 は 、settlednessを「 既 定 性 」と 呼 ん で い る 。

有 田 の 論 文 は 、 主 に 条 件 節 時 制 の 区 別 と 既 定 性 と の 関 係 を 研 究 し て い る 。 有 田 (2004)

は 、 本 稿 で い う R-領 域 と I-領 域 の 区 別 、 あ る い は 、 総 称 的 条 件 文 ( 一 般 的 な 知 識 を 表

す条件文)と認識的条件文との区別を不完全時制、完全時制との相関にと関係させて

見 た も の で あ り 、 本 稿 と は 一 部 相 補 う 研 究 で あ る と い う こ と が で き る 。 本 稿 は D-命 題

の 役 割 を 考 察 す る の が 目 的 で あ る た め 、よ り 単 純 化 し た 概 念 で あ る 、「 決 定 し て い る 」

を使用する。ここでいう命題の真偽が「決定している」というときの決定性は、語彙

の 意 味 が 不 十 分 に 決 定 さ れ て い る と い う 場 合 の underdeterminedと は 無 関 係 で あ る 。 特

に誤解は生じないと考えられるので用語の区別はしない。

11
話し手は認知主体として談話における知識管理者として機能する。談話は、

話 し 手 の も つ 知 識 ベ ー ス 全 体 か ら 、 談 話 の た め に 構 成 し た 臨 時 領 域 で あ る R-

領 域 の う ち 、D-領 域 に そ の 時 点 で 活 性 化 し て い る 直 接 体 験 知 識 を 流 し 込 み 、初

期 値 が 定 ま っ て か ら ス タ ー ト す る 。 こ の 時 点 で は 、 R- D 領 域 は 空 で あ る 。 R-

領 域 に は 、 時 間 の 経 過 に と も な い D-領 域 以 外 の 直 知 で き な い 状 況 、 す な わ ち 、

決 定 し て い る が 認 知 主 体 が 知 ら な い 状 況 ( R- D に 属 す る 状 況 ) が 生 じ る こ と

が想定される。

談話の初期値の設定

ス テ ッ プ 1. R-領 域 の 設 定

ス テ ッ プ 2.R-領 域 に D-領 域 を 作 り 、そ こ に 活 性 化 し て い る 直 接 体 験 知 識 を 流

し込む。

D-領 域 は 、発 話 現 場 か ら 知 覚 な ど の 直 知 に よ り ア ッ プ デ ー ト さ れ る 。発 話 現 場

から直接得ることができない知識に関しては、推論によって得られる。

R-領 域 以 外 の 領 域 は 、 推 論 や 伝 聞 に よ っ て し か 知 識 は 得 ら れ な い 。 推 論 な ど

の 手 段 に よ っ て 得 ら れ た 知 識 の う ち 真 偽 が 決 定 し て い な い 命 題 を I-命 題 と 呼 ぶ

と 、 R-領 域 以 外 の 知 識 は I-命 題 よ り な る 。 I-命 題 か ら な る 知 識 領 域 を I-領 域 と

呼 ぶ こ と に す る 。 I-領 域 は 変 項 の み を 含 む 。 文 脈 に よ り 付 値 が 変 わ る 。

談 話 に 際 し て 準 備 さ れ 、推 論 操 作 な し で 直 接 的 に ア ク セ ス で き る 知 識 を D-命
13
題ということにする 。 談 話 の 初 期 値 に お か れ る 命 題 は 定 義 上 D-命 題 で あ る 。

談 話 で 知 識 を 増 や し て い く 方 法 は 二 つ あ る 。一 つ は 、直 知 に よ る D-命 題 の 増 加

である。これは基本的に発話現場における認知主体の認識によるもので、現実

世界で認知主体が認識していなかった情報を認識したことによる。談話では、

13
D-命 題 と い う 名 称 は 傍 士 元 氏 の 提 案 ( 2005 年 2 月 個人談話)による。

12
直 知 以 外 に D-命 題 が 増 え る こ と は な い 。 こ れ を 以 下 の よ う に 表 そ う 。

情報転送制約Ⅰ

談 話 中 は D-命 題 で な い 命 題 を D-命 題 に す る こ と は で き な い 。

もう一つは、推論および他の談話参加者からの言語的情報の提供による。談話

管 理 理 論 で は 、D-命 題 の 追 加 に よ る 情 報 の 追 加 と そ れ 以 外 の 命 題 の 追 加 は 区 別

されると考える。この区別自体はなんらかの意味で普遍的であると考えられる

が、日本語ではこの区別が言語表現上の区別をうけていると考えられる。すな

わ ち 、情 報 転 送 制 約 が 対 応 す る 言 語 表 現 上 の 制 約 を 持 つ と 考 え ら れ る の で あ る 。

情報転送制約Ⅱ

談 話 中 に 直 知 以 外 で 獲 得 さ れ た 知 識 を D-命 題 を 表 す 形 式 で 表 し て は い け な

い。

以 下 で 、こ の 談 話 の 初 期 値 と D-命 題 と い う 概 念 が 日 本 語 の 形 式 の 意 味 を 特 徴

付けるのに重要な役割を果たすことを明らかにする。

13
第2章

日本語の条件文と反事実解釈

2.1 は じ め に

本章では日本語条件文の反事実的解釈について述べる。日本語の条件文の反事

実 的 解 釈 に つ い て の 研 究 の 歴 史 は そ れ ほ ど 長 く な い 。日 本 語 の お も な 文 法 書 で 、

仮定法や反事実条件文について述べたものは多くないであろう。英語などの仮

定法など法による文法形式が存在する西欧語と違い、日本語には、反事実的な

条件を示す特定の法形式は存在せず、文法形式としてとりあげる必要がないと

いってよい。例えば、英語やフランス語では、条件節の時制を言及時より一つ

前の時制とすることで反事実的条件節を作るといった反事実的解釈と結び付い

た文法的な形式が存在するのに対し、日本語では、これといった明示的な文法

形式が結びついているわけではない。しかし、日本語でも、文脈が与えられれ

ば条件文の反事実的解釈は安定的に得られ、かつ、この際それらはある一定の

形式的性質を示す。これらの形式は、それ自体反事実性と結びついているわけ

ではないのであるから、その解釈過程の研究により、反事実性解釈にかかわる

意味論的要因を探ることができる。また、一般の条件文が事態間の条件的な制

約と、条件的推論の両方の解釈を許すのに対して、条件文の反事実解釈は、条

件的推論の解釈しか許さないと思われる。そのため、条件文の反事実解釈を考

察することによって、条件的推論とは、さらには、反事実的推論とはなにかを

明らかにすることができる。その考察を通じて、日本語の解釈装置の特徴を浮

き彫りにする。

日本語の条件文の反事実解釈を考えるのに特徴的な形式、譲歩形式、「今ご

ろ」、「ところ」などの基本的な性質を紹介し、次章以下の導入とするのが本

章のもう一つの目的である。

15
2.2 日 本 語 に お け る 条 件 文 の 反 事 実 的 解 釈 と 決 定 性

条 件 文 は 、文 脈 に よ っ て 反 事 実 的 に も 単 な る 仮 定 と し て も 解 釈 さ れ る 。例 え ば 、

前件が明示的に否定される先行文脈があれば、条件文は反事実的になる。

(1) パーティに田中が来なくてよかった。

田中が来ていれば大変なことになっているだろう。

日本語では、反事実性を示すような明示的、文法形式は無いが、従来から、反

事実的な解釈をうけやすい構文が指摘されている。日本語教科書や文法書でも

扱われる標準的な反事実的条件文は、次のようなものである。

(2) 君も来ればよかったのに。

(3) あそこで桂馬に飛んでおけば、負けなかったのに。

(2 )、 (3 )の 条 件 文 は 、 反 事 実 的 な 解 釈 が ほ ぼ 義 務 的 で あ る と い え る 。 従 っ て 、

「君が来たかどうか」「あそこで桂馬に飛んだかどうか」を話し手が知らない

文脈とは、整合性がない。

(2 )' ?君 は 来 た か ど う か し ら な い が 、 君 も 来 れ ば よ か っ た の に 。

(3 )' ?あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん だ か ど う か し ら な い が 、 あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん で お け

ば、負けなかったのに。

こ れ ら の 例 で は 反 事 実 解 釈 を 保 証 し て い る 要 素 は 二 つ あ る 。ひ と つ は 、
「 の に 」、

いまひとつは「のに」が付く節(以後ノニ節)の述語のタ形である。

条件文の後件につくノニ節は、以下のようにそれを従属節としてとる主節の

部分が省略されている形式として理解できる。

16
(2 )" 君 も 来 れ ば よ か っ た の に 、 [φ]。

(3 )" あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん で お け ば 、 負 け な か っ た の に [φ]。

ノニという接続助詞は、テンス区別がある節を取るとき、それが付く節と主節

の事態との共起が期待されるものと違うことを表す 1 。ノニ節が条件文を取る

場合、条件文の方が期待され、望ましい事態であり、主節の表す事態が望まし

く な い こ と を 表 す 。 従 っ て 、 省 略 さ れ た 節 φは 、 望 ま し く な い 事 態 を 表 す 。 こ

のような希望や願望に関わる節は、望み、希望と反する状況が存在することを

前 提 と す る 。す な わ ち 、 (2 ")で は 、「 来 な く て 良 く な か っ た 」、 (3 ")で は 、「 桂

馬に飛ばなくて負けた」といった事態が前提とされる。

「のに」をとる条件文が反事実的に解釈されるためには、それがとる節のあ

らわす命題の真偽がすでに決定していることが前提となる。「負けなかった」

は、「負けたか負けなかった」の真偽がすでに決定しており、その期待に沿う

方をノニ節で述べているために、反事実性が生じている。ノニ節の述語のタ形

は、この決定性に関わると見ることができる。主節がタ形をとり、過去の状況

を表したとすると、過去に関する望ましい事態を表す文が反事実的であること

は普遍的なものであるともいえる。

ノ ニ は 、 い わ ゆ る ビ ュ レ テ ィ ッ ク モ ダ リ テ ィ ( buletic modality:希 望 や 願 望 に

関わるモダリティ)に関するものであった 2 。もし、ノニという接続助詞がな

く、モーダルの述語「ダロウ」が続いているとすると認識的モダリティ、すな

わち知識からの推論を導くモダリティに関わる条件文になる。この場合は、テ

ン ス ・ ア ス ペ ク ト と の 関 係 が よ り 明 確 に な る 。 前 件 が 、 非 状 態 形 で 「 Vれ ば ・

た ら 形 」で あ る 場 合 、後 件 が 基 本 形 で あ れ ば 、未 来 の 状 況 を 表 す 条 件 文 に な り 、

非現実ではあるが反事実とは解釈できない。

1
テンスの区別がない場合は、主節の述語の目的などを表す。

2
モ ダ リ テ ィ の 分 類 に 関 し て は Palmer (2001)を 参 照 。

17
(4) 彼が来ればきっとうまくいくだろう。

(5) あそこで桂馬に飛べば、きっと負けないだろう。

このとき後件をタ形にすると前件を過去の状況に関する仮定と解釈できるよう

になり、過去の仮定状況を表すことができる。

(6) 彼が来ればきっとうまくいっただろう。

(7) あそこで桂馬に飛べば、きっと負けなかっただろう。

このような場合、前件が表すイベント時は、後件のイベント時より前であるこ

とが前提となる。

こ の と き 、前 件 も 後 件 も 反 事 実 で あ る 必 要 は な く な る 。「 う ま く い っ た 」「 負

け な か っ た 」は 、そ れ ぞ れ「 彼 が 来 た 」時 点「 桂 馬 に 飛 ん だ 」時 点 よ り 後 で か ま

わないから、前件の起こる前の時点までに話し手の知識が限られている場合を

あらわすことが可能で、後件が実際に発生したかどうかは知らなくてよい。こ

のため、前件も後件も反事実である必要はない。

(8)' あ の あ と 彼 が 来 た か ど う か し ら な い が 、彼 が 来 れ ば き っ と う ま く い っ た だ

ろう。

(9)' あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん だ か ど う か し ら な い が 、あ そ こ で 桂 馬 に 飛 べ ば 、き っ

と負けなかっただろう。

こ の 場 合 、前 件 が 付 け 加 え ら れ る 過 去 の 想 定 状 況 A の 時 点 、「 あ の あ と 」「 あ

そこ」などで言及されている参照時、すなわち話し手の視点 3 がある参照時を

3
こ こ で い う 視 点 は 、共 感 視 点 (empathy)の こ と で は な く 、メ ン タ ル ス ペ ー ス 理 論 に お

ける焦点スペースのことで、属性情報の付加が行われるスペースのことを意味する。

18
r 1 と す る と 、 「 彼 が 来 る 」 時 点 t 1 は 、 r< t 1 で あ っ て よ い 。 つ ま り 、 認 知 主 体 と

し て の 話 し 手 が 真 偽 の 判 断 を す る 時 点 は rが 問 題 と な る 時 点 で あ り 、文 脈 上 、こ

のとき前件「彼が来る」の真偽は知らないと解釈されるため、後件の真偽も知

らない解釈が普通である 4 。

前件の真偽を知らないという制約がなければ、発話時現在で後件を偽、前件

も偽として解釈することは可能である。

(10)' 彼 は 来 な か っ た 。 あ の と き 彼 が 来 れ ば き っ と う ま く い っ た だ ろ う 。

(11)' 彼 は あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ば な か っ た 。 あ そ こ で 桂 馬 に 飛 べ ば 、 き っ と 負 け

なかっただろう。

前件の起きる時間をt1、後件の起きる時間をt2とすると 5 、t1<t2<発話時であ

り 、発 話 時 で は 話 し 手 が t 1 の 事 態 も 、t 2 の 事 態 も 真 偽 を 知 っ て い る と い う 解 釈 が

可能である。従って、後件がタ形で決定命題を表すことができ、かつその命題

の真偽を話し手が知っているとすると、後件が偽であるという解釈、従って、

詳 し く は 、Fauconnier (1997)参 照 。談 話 管 理 理 論 で は 、認 知 主 体 と し て の 話 し 手 の 視 点

がある部分世界のことであり、参照時点におかれ、通常話し手の真実世界(本稿では

R-領 域 に ほ ぼ 相 当 す る ) に 一 致 す る 。

4
条件文の解釈に関して、前件の真偽を知らないのに、それから予測される後件の

真 偽 を 知 っ て い る 場 合 は あ り え な い 。そ の 場 合 は 譲 歩 文 の 形 式( pテ モ q な ど )を と る 。

もし、p後件の真偽を知っているなら、推論は逆になり、条件文の形式は前件と後件

を逆にする必要がある。この場合、単なるタ形では表せない(逆の推論に関しては 3

章参照、条件と推論との関係については 5 章も参照)。

5
実際には、「彼が来る」も「うまくいく」というイベントも起きていないが、ここ

では特定の時間(=「あのとき」)に起きたかもしれない反事実的イベントを表して

いるので、時間を問題にすることが可能である。

19
前件も偽であることを知っているという解釈が可能であるからである。

テイルは、それがつく動詞句の表すイベントがすでに完了しているという解

釈を持つため、テイルを使うと後件にタを使うのと同じ効果がでる。この場合

前件にもテイルを使うのが自然である。このとき、解釈は必ずしも反事実であ

る必要はない。

(12) 彼 が 来 た か ど う か し ら な い が 、 彼 が { ??来 れ ば /来 て い れ ば } き っ と う ま

くいっているだろう。

(13) あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん だ か ど う か し ら な い が 、 あ そ こ で 桂 馬 に { ??飛 べ ば /

飛んでいれば}きっと負けていないだろう。

(14) 彼 は 来 な か っ た 。 彼 が { ??来 れ ば /来 て い れ ば } き っ と う ま く い っ て い る

だろう。

(15) 彼 は あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ば な か っ た 。 あ そ こ で 桂 馬 に { ??飛 べ ば /飛 ん で い

れば}きっと負けていないだろう。

ここで、テイルをつけなくとも、単に状態を表す形式であれば同様の効果が

でる。

(16) 彼 が い る か ど う か し ら な い が 、 彼 が い れ ば き っ と う ま く い っ た だ ろ う 。

(17) 彼 は い な い が 、 彼 が い れ ば き っ と う ま く い っ て い た だ ろ う 。

(18) 彼 が 貧 乏 か ど う か 知 ら な い が 、彼 が 貧 乏 で な け れ ば き っ と う ま く い っ た だ

ろう。

(19) 彼 は 貧 乏 だ が 、 彼 が 貧 乏 で な け れ ば き っ と う ま く い っ た だ ろ う 。

さて、後件をすこし変えて、テイタの形にしてみよう。

(20) ?彼 が 来 た か ど う か し ら な い が 、 彼 が 来 れ ば き っ と う ま く い っ て い た だ ろ

う。

20
(21) 彼 は 来 な か っ た が 、 彼 が 来 れ ば き っ と う ま く い っ て い た だ ろ う 。

(22) ?彼 は あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん だ か ど う か し ら な い が 、 あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん で

おけば、きっと負けていなかっただろう。

(23) 彼 は あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ば な か っ た が 、あ そ こ で 桂 馬 に 飛 ん で お け ば 、き っ

と負けていなかっただろう。

(24) ?彼 が 貧 乏 か ど う か 知 ら な い が 、 彼 が 貧 乏 で な け れ ば き っ と う ま く い っ て

いたただろう。

(25) 彼 は 貧 乏 だ が 、 彼 が 貧 乏 で な け れ ば き っ と う ま く い っ て い た だ ろ う 。

この場合、反事実以外の解釈は不自然であるため先行文脈に「~かどうか知ら

ないが」はつけられない。つまり、後件をテイタの形式にすると反事実の解釈

が強制されるわけである 6 。「うまくいっていた」「負けていた」といえる時

点では、「桂馬に飛んで負けた」という事態が、テイタの形式ではすでに成立

しており、話し手はその真偽を知っているということが前提とされていること

になる。テイルの形式は発話時でそれが付いている動詞句の表すイベントが決

定していることを意味する。これをタ形にすることで、決定しているイベント

が過去に存在したことを意味するために反事実的解釈が生じると考えられる。

このメカニズムに関しては以下で改めて考察する。

以上をまとめると日本語の条件文の非現実性解釈(あるいは非事実的解釈)

はつぎのようになる。

6
Ogihara (2005)が 同 様 の 観 察 を し て い る 。Ogiharaは 、こ の 反 事 実 解 釈 に つ い て 、Iatridou

(2000)の 理 論 に も と づ い た 説 明 を 試 み て い る 。 氏 の 分 析 と 本 章 の 分 析 と が 実 質 的 な 違

いがあるかについてはここでは明らかにできなかった。

21
反事実解釈が可能

z 後件をタ形にする。

z 前件、後件を状態述語(テイル形を含む)にする。

反事実解釈が義務的

z 後件をタノニの形にする。

z 後件を状態述語(テイル形を含む)のタ形にする。

1 章で、タ形、状態性の決定性について触れたが、以下で決定性が非現実性解

釈と結びついていることを見て、状態述語、あるいは、タ形にすることがなぜ

非現実性と結びついているのかを考察する。次に「状態性述語+タ」の形式で

はなぜ反事実解釈が義務的となるのかを見る。

2.3 非 現 実 性 と 前 件 の 状 態 性

反事実条件文とは、反事実的な仮定からの妥当な推論を断定、あるいは、質

問することを表す文であるといえる。従って、条件文が反事実的であるために

は、まず、前件が偽でなければならない。前件が偽であるためには、条件文の

反 事 実 的 解 釈 で は 、前 件 命 題 の 真 偽 が 決 定 し て い る こ と が 前 提 と な る 。つ ま り 、

前件命題を評価すべき現実が存在し、これに照らしあわせて、偽であることが

確定することで反事実性を保証するのである。これを反事実条件文の現実性と

呼ぼう。すなわち真偽が決定していることの必要条件として、前件が現実に言

及していることが必要になる。

日本語動詞の状態性と非状態性は、この現実への言及に関して差があると考

えられている。

広く知られているように、通常仮定の形式とされている「と」「れば」「た

ら」は仮定だけを表すものではない。「と」は、主語を視点主とし、視点主が

あ る 動 作 を し た 場 合 に 遭 遇 す る 状 況 ( 例 え ば (26 )) や 、 あ る 状 態 に あ る と き に

22
遭 遇 す る イ ベ ン ト( 例 え ば (27 ))、ま た 、二 つ の 継 起 的 な 状 況 を 表 す( 例 え ば (28 ))

ことを基本的意味とするであろう。

(26) 角 の ラ ー メ ン 屋 を 右 に 曲 が っ て ち ょ っ と 歩 く と 郵 便 局 が あ っ た 。

(27) 正 門 の 前 に た っ て い る と 若 い 男 が 話 し か け て き た 。

(28) り ん ご を 食 べ る と 血 が 出 る 。

この形式が条件的解釈を受けるのは、この二つのイベントの解釈が実質含意

の解釈と両立するからだけであると考えられる。「と」による条件文は、通常

認 識 的 な 条 件 文 解 釈 、反 事 実 的 な 解 釈 、対 偶 、逆 な ど の 条 件 解 釈 が で き な い 7 。

つまり、知識にもとづいた条件的推論とは直接は関係がない形式であると考え

られるため本稿ではこれ以上扱わないことにする。

「なら」はテンスの区別があり、認識的な条件文として使われるのが普通で

ある。「なら」は、反事実としての用法は普通ではないのでここでは扱わない

( 「 な ら 」 に つ い て 詳 し く は 有 田 (2004)を 参 照 ) 。

「「てい+れば/たら」や「状態述語+れば/たら」が事実的でなく、仮定

的 、さ ら に は 反 事 実 的 に と り や す い の は な ぜ だ ろ う 。「 状 態 性 」が 、反 事 実 性 、

あるいは、より一般的に「非現実性」と結びついていることは、従来から指摘

がある。例えば、非状態形の動詞に「たら」を接続した場合は、仮定的状況で

も 、実 際 に 起 こ っ た 状 況 で も 使 え る の に 対 し 、状 態 形 の 動 詞 に 接 続 し た「 た ら 」

は、仮定的な状況にしか使えない。

(29) そ の こ と は こ の 本 を 読 ん だ ら 分 か る で し ょ う 。

(30) そ の こ と は こ の 本 を よ ん だ ら 分 か っ た 。

7
例えば、「とすると」「と考えると」など、明示的に仮定行為を表す認識動詞を表

す動詞を「と」とともに使うと、反事実以外は表せる。この場合、条件的意味は、仮

定的認識行為を表す動詞が担っているといえる。

23
(31) 時 間 が あ っ た ら 、 映 画 を 見 に 行 こ う と 思 っ て い る 。

(32) *時 間 が あ っ た ら 、 映 画 を 見 に 行 っ た 。 ( 過 去 の 一 回 的 事 態 に 関 す る 解 釈

では非文)

(32 )は 、 「 だ ろ う 」 、 「 は ず だ 」 等 を つ け れ ば 、 仮 定 的 あ る い は 反 事 実 的 な 解

釈 で 文 法 的 な 文 に な る 。 Jacobsen (1990)は 、 こ れ ら の 事 実 か ら 、 状 態 性 と 非 現

実性が相関を持つとし、その理由を、状態的な状況が、基本的に具体的な時点

にアンカーされていないということに求めている 8 。

状態形が反事実的条件文に解釈しやすいこと、また、状態的状況が単一の均

一な状況に言及しているのに対し、非状態形が、2つの状況に言及していると

い う Jacobsen の 観 察 は 、基 本 的 に は 正 し い が 、状 態 形 そ の も の が 非 現 実 と 結 び

ついているという彼の主張はそのままでは受け入れ難い。状態形が非現実と結

びついているのは、「たら」、「れば」といった条件形の場合なのであって、

主文ではまったくそのような事実はないからである。

8
States represent single, homogeneous situations, whereas the concept of change by

definition involves reference to two differing situations, one earlier and one later in time,

separated by the point or interval of time at which the change itself occurs. The concept of

change is therefore inherently incompatible with that of stativity. The perception of change is,

however, intimately intertwined in human experience with the perception of passage of time.

It can even be said that humans would not be cognitively aware of the passage of time in the

absence of observable changes accompanying the passage of time. The lack of any element of

change thus i.e., outside of -- real time. It is then but a short conceptual jump to viewing the

situation as being a non-real one altogether. Stativity and irreal modality are therefore

cognitively related to each other in a way which makes their interaction in the grammar of

Japanese a reasonable, if not inevitable consequence. (Jacobsen 1990: 84)

24
さらに、次のような文では、状態形でも、実際に起こった事態の継起を表す

解釈が普通である。

(33) そ の 部 屋 で 一 人 で 本 を 読 ん で い た ら 、 美 智 子 が 入 っ て き た 。

で は 、非 状 態 形 と 状 態 形 と は ど う 違 う の か 、ま た 、状 態 形 条 件 文 の な か で も (31 )

の よ う に 非 現 実 と 結 び つ く 文 と 、 (33 )の よ う な 文 は ど う 違 う の だ ろ う か 。

状 態 形 そ の も の が 非 現 実 性 、反 事 実 性 と 結 び つ い て い る の で な い と す る な ら 、

なぜ、「状態形+たら/れば」が、非現実的、反事実的にとりやすいのだろう

か 。状 態 形 式 が 、そ の ま ま 、非 現 実 や 反 事 実 を 表 し て い る の で は な い と す る と 、

「状態性の状況を仮定すること」と「非現実性」「反事実性」の性質から、解

釈の過程で非現実性が生じているとみるしかない。条件文の非現実性、反事実

解釈とはなにか、状態形の性質、状態の仮定の性質を見ることでこれに答える

ことにする。

2.4 状 態 性と決定性

状態が単一の均一な状況に位置づけられ、非状態があい前後する2つの異な

る状況と結びつけられるということはどういうことであろうか。日本語におけ

る、形容詞、名詞、状態動詞などの状態性述語と非状態述語とでは、その時制

解釈が異なる。非状態述語と状態述語の一番大きな違いは、非状態述語がイベ

ント時を持つのに対して、状態述語はイベント時をもたないことである。日本

語における時制の解釈は、非状態述語では、その述語(およびそれを主要部と

する述語句)が表すイベント時と発話時との関係で表される。

(34) 田 中 が 東 京 に 行 っ た 。

(35) 田 中 が 東 京 に 行 く 。

25
例 え ば 、 「 田 中 が 東 京 に 行 く 」 時 間 を 「 田 中 が 東 京 に 行 く at t」 と 表 す こ と に

すると、この時間が、発話時より以後であるのが基本形、以前であるのがタ形

である。

(36) 基 本 形 : ∃ t.||田 中 が 東 京 に 行 く || at t∧ t≤発 話 時

(37) タ 形 : ∃ t.||田 中 が 東 京 に 行 く || at t∧ 発 話 時 ≤t

これに対し、状態述語では談話で設定された参照時 9 にその状態述語の表す状

態が成り立っていることを表す。その参照時は、基本形では発話時と一致し、

過去形では発話時よりまえに設定された時点を指す。

(38) 田 中 は 学 生 だ

(39) 田 中 は 学 生 だ っ た 。

(40) 基 本 形 : 参 照 時 ∈ { t: ||田 中 が 学 生 だ || at t} ∧ ( 参 照 時 = 発 話 時 )

(41) タ 形 : 参 照 時 ∈ { t: ||田 中 が 学 生 だ || at t} ∧ ( 参 照 時 < 発 話 時 )

(40 )で は 、 発 話 時 が 、 (41 )で は 参 照 時 が 田 中 が 学 生 で あ る 時 間 の 集 合 の 中 に 含

まれていることを表している。つまり、状態形は参照時でその状態(「田中が

学生であること」)がなりたっていることを表しているわけである。

ここでテイル形も基本的には状態形と同じ解釈をうける。ここでテイルを動

詞句の表すイベントの始点より以後の時点の集合を表すとしよう。

9
工 藤 (1995)は 、 参 照 時 を 「 設 定 時 点 」 と 読 ん で い る 。

26
(42) 本 を 読 ん で い る:参 照 時 ∈{ t:s(||本 を 読 む ||)< t}∧( 参 照 時 = 発 話 時 ) 10

(43) 本 を 読 ん で い た : 参 照 時 ∈ { t: s (||本 を 読 む ||)< t} ∧ ( 参 照 時 < 発 話 時 )

ここで、上の特徴づけではテイルは、本を読み終わった時間が t より以後であ

るような場合は進行、本を読み終わった時間が t より以前であるばあいは完了

あるいは経験となる。

参照時には通常話し手の観察視点があると考えられる。非状態形は参照時以

降におきる動作、過程を表すため、その時点では、まだ存在してない。これに

対して、状態述語は、参照時現在で状態が成立している。

(44) ( い ま 、 こ こ は ) 風 が 吹 い て い る 。

(45) 行 っ て み る と 、 そ の 時 、 そ こ は 風 が 吹 い て い た 。

(46) 彼 は 病 気 だ 。

(47) 彼 は 英 語 が で き る 。

状 態 述 語 は 参 照 時 で す で に 成 立 し て い る 命 題 を 表 し て い る わ け で あ る 。従 っ て 、

状態形は、「いま、ここ」、「その時、そこ」といった、その状態が成立して

いる参照時で真である状況を記述したものと見ることができる。また、「彼は

病気だ」のような「彼」の現在の状態を示す表現や「彼には英語が分かる」、

「彼は背が高い」といった、原則として時間、場所に限定されない状態形も、

「彼」についての参照時での属性を表し、間接的に、その時点、その場所の属

性 と い っ て も よ い 性 質 を 持 っ て い る と い え る 。こ の よ う な 性 質 を 持 つ 状 態 形 は 、

参照時の場面属性を表すということにする。

テ イ ル 形 は 、 活 動 動 詞 (activity verb) 11 に つ い て い る 場 合 と そ う で な い 場 合 と

10
sは イ ベ ン ト を 取 っ て イ ベ ン ト の 開 始 時 を 表 す 関 数 。 詳 し く は 4 章 を 参 照 。

11
以 下 の 動 詞 の 分 類 お よ び そ の 名 称 に つ い て は Vendler (1967)を 参 照 。

27
で多少解釈が異なる。活動動詞ではテイル形は進行を表すことができるため、

参 照 時 現 在 で 動 作 は ま だ 終 わ っ て い な い 。 到 達 動 詞 (achievement verb)、 達 成 動

詞 (accomplishment verb)で は 、テ イ ル は 完 了 を 表 し 、参 照 時 現 在 で 動 作 は 終 わ っ

ている。このとき、動詞が表すイベント時は参照時とは異なることになる。場

面属性の性質はテイルの解釈により異なるわけである。

2.5 状 態 形 の 仮 定

以上の特徴づけをもとに条件文における状態形と非状態形の解釈の相違を考

えよう。まず、仮定の接続助詞、「れば」「たら」は、それが付く節が表す命

題 を 、話 し 手 が 想 定 し て い る 場 面 属 性 A に つ け く わ え る こ と を 表 す と す る 。通

常、この想定への付加はそれから導出できる命題を表すために行われると考え

ら れ る 。従 っ て 、多 く の 場 合 、後 件 に は 認 識 の モ ダ リ テ ィ を 表 す 形 式( ダ ロ ウ 、

ハズダなど)がつく。

(48) a. p れば、たら q

b. A, p┣q

場 面 属 性 と い う 概 念 は 、 (49 )が 反 復 的 な 事 実 に し か 取 れ な い こ と の 説 明 を 可 能

にする。

(49) 僕 は 時 間 が あ っ た ら 、 映 画 を 見 に 行 っ た 。

前件の「時間がある」は、状態形であるためイベント時を持たず、参照時現在

でなりたつ状態を表す。仮定の表現によって、参照時現在で成り立つ状態を仮

定 す る と 、参 照 時 現 在 の 場 面 属 性 に「 時 間 が あ る 」を 付 け 加 え る こ と に な る が 、

このとき、参照時現在では定義上場面属性の値は決まっている。つまり、その

ときまでに何が起こったかはすでに決まっていて、話し手がそれを知っている

28
か 知 ら な い か で あ る 。 参 照 時 現 在 で の 命 題 の 集 合 は R、 参 照 時 現 在 で 話 し 手 が

知 っ て い る 命 題 の 集 合 は Dと し よ う 。Dが「 時 間 が あ る 」を 含 ん で い る 場 合 、こ

れ は 知 っ て い る こ と を 仮 定 し て い る こ と に な り 意 味 が な い 。 も し 、 Dが 「 時 間

が あ る 」を 含 ん で い な い 場 合 、次 の 二 つ の 場 合 が あ る 。一 つ は 、R- Dに「 僕 に

時間がある」という知識がある場合で、これは決定しているが話し手がまだ知

ら な い 場 面 の 属 性 を 精 緻 化 (elaboration)す る こ と に な る 。も う 一 つ は 、「 時 間 が

あ る 」の 否 定 が Dに あ る 場 合 で 、こ の 場 合 、「 時 間 が あ る 」を 仮 定 す る こ と は 、

話し手の信念に矛盾を生じ、これを取り除いた上で仮定を加えなければならな

い。すなわち反事実的仮定である。どちらの場合も、仮定的な状況が設定され

る 。 し か し 、 (49 )は 後 件 が 、 モ ー ダ ル 述 語 を 含 ま な い た め 、 通 常 の 解 釈 で は 現

実 に 起 こ っ た こ と を 表 す 。仮 定 的 状 況 か ら 、現 実 に 生 じ た 状 況 を 述 べ る こ と は 、

条件文では表せないので、この文は非文として解釈される。このとき、「だろ

う、はずだ」などのモーダルの述語をつければ問題なく非現実的仮定として解

釈される。

この条件文は、前件が「~時にはいつでも」のような総称的解釈を受ける場

合は、解釈が可能である。「映画を見に行った」は、特定の時間で解釈される

必 要 は な く 、た と え ば 、「 そ の こ ろ 」、「 20 年 前 」、「 学 生 時 代 」な ど の 幅 を

持つトピック時をその文脈で問題となる参照時とすると、複数のイベント時と

結びついていて良い。このとき、「時間があったら」は、このトピック時のう

ち「時間がある」で特徴づけられる部分集合を取り出す役割を果たす。この場

合は、参照時で想定される特定の場面属性の集合は存在せず、あるトピック時

に お い て「「 時 間 が あ る 」状 況 の 集 合 ⊂「 映 画 を 見 に 行 く 」状 況 の 集 合 」と い

う関係を表していることになる。これが事実的な解釈となる。この場合、「p

た ら q」と い う 命 題 全 体 が 参 照 時 の 場 面 属 性 を 記 述 し て い る と い っ て よ い 。ま た 、

前 件 も 後 件 も 状 態 形 の 場 合 に も 、命 題 全 体 が 場 面 属 性 を 表 す こ と が 可 能 で あ る 。

次の例も一般的な現実状況を表す。

(50) 結 婚 し て い れ ば 、 つ ら い こ と も 多 い 。

29
つ ま り 、状 態 述 語 が 条 件 文 の 前 件 に 来 て 、仮 定 的 状 況 を 表 す の は 、Jacobsen( 前

掲)がいうように、状態形がもともと非現実と結びついているからではなく、

状態形が参照時現在の属性、すなわち決定している属性を表すからであるとい

えるのである。

さて、述語の非状態形は変化を表し、真理条件的記述は、複数の場面の状態

を必要とする。例えば、「田中が来た」は、少なくとも、発話時点より前に、

「田中がいない」場面、「田中がいる」場面の2つ、さらにイベント時である

その中間の場面の3つが必要になる。

(51) 田 中 が 来 た 。

田 中 が い な い at ti< 田 中 が く る at tj< 田 中 が い る at tn

ti< tj= r< tn < 発 話 時 点

これに対し、「田中が来ている」が表しているような結果の状態は、基本的に

は場面の状態1つで表すことができる。

(52) 田 中 が 来 て い る 。

(53) 田 中 が 来 て い た 。

発話時、あるいは参照時で話し手が見たのは田中の存在だけで、例えば田中が

部 屋 に 入 っ て き た と こ ろ を 目 撃 し て い る 必 要 は な い 。つ ま り 、こ れ ら の 文 は「 田

中が来る」という事態があれば結果として生じる結果である「田中がいる」と

いう状態を目撃すれば、真として述べることができる。次の場合はどうであろ

う。

(54) 田 中 が 3 時 に 来 て い る 。

30
(54 )で は 、 田 中 が 来 た 時 間 を 明 示 し て い る た め 、 実 際 に は 「 田 中 が 来 て い る

∧田中が来たのは 3 時である」という二つの命題の連言を表している。このた

め、例えば裁判での目撃証言としてこれを問題とする場合、真として述べるた

めには、3 時の田中の来訪を目撃していなければならない。同様の問題が達成

動詞の場合にも生じる。例えば「殺されている」は、「殺した結果、死んでい

る」状況を表すことができる。

(55) 田 中 が 殺 さ れ て い る 。

例 え ば 、(55 )は 、田 中 が 庭 で 死 ん で い る の を 発 見 し て 述 べ る こ と が 可 能 で あ る 。

こ の と き 、p1=「 田 中 が 死 ん で い る 」と p2=「 誰 か が p1 を 生 じ さ せ る 行 為 を 行

っ た 」と は 、別 の こ と で あ る た め 、p1 は 目 撃 で き て も p2 は 直 接 知 ら な い 場 合 が

あ り え る 。こ の と き 、 (55 )は 例 え ば 、p1∧ p2 と い う 連 言 を 表 し て い る こ と に な

り 、 (54 )と 同 じ 問 題 が 生 じ る 。も ち ろ ん 、 (55 )自 体 も「 3 時 に 」と か「 庭 で 」な

どの状況補語を伴うことができ、それらはすべて連言で表せるから、これらも

同様の問題をさらに生じさせる。後述するように、仮定条件を付けた場合、仮
12
定されるのが連言全体なのか、その一部なのかは焦点の問題として生じる 。

しかし、これらの場合でもテイル形が結果の状態を表し、参照時現在の属性を

表していることにはかわらない。

さて、以上の考察から、参照時現在の場面属性を述べる文と参照時現在の場

面属性の集合に当該の命題を加え、それに続く別の場面属性を定義する文が区

別 さ れ る 。 ビ デ オ で い え ば 、 静 止 画 面 の 記 述 か 、 コ マ 送 り か で あ る 。 (56 )は 、

1場面の記述であり、どのような場面であったかを、場面の属性記述をしてい

12
例 え ば 、p1 =「 田 中 が 来 て い る 」が D-命 題 で 、p2=「 田 中 が 来 た の は 3 時 だ 」が R

- D命 題 で あ る こ と 、あ る い は 、そ の 反 対 に 、p1 が R- D命 題 、p2 が D-命 題 で あ る こ と

がありえる。しかし、どちらも現実で成立している参照時現在の属性であることには

変わりない。

31
ると見ることができる。

(56) そ こ に は 、山 田 が い た 。山 田 は 背 が 高 い 。田 中 も 来 て い た 。田 中 は 本 を 読

んでいた。

こ れ に 対 し て 、 非 状 態 形 を 使 え ば コ マ が 進 む ( 工 藤 (1989)参 照 ) 。

(57) そ こ に は 、 山 田 が い た 。 山 田 は 赤 い シ ャ ツ を 着 て い た 。 田 中 も 来 て い た 。

田中が山田のシャツをからかった。

これは状態形が参照時現在で成立している状態を表しているのに対し、非状態

形 が 参 照 時 に 付 け 加 え ら れ る 状 況 を 表 し て い る と い う 違 い で あ る 。こ の 違 い が 、

「たら/たら」をつけた場合の解釈の相違と相関している。

状態/非状態の性質より、状態形は参照時現在と同じ時点の状態属性を記述

する。非状態形は、参照時現在より後に生じる変化を記述し、話し手の主語で

ある進行の「てい」もこれに準ずる。「たら」、「れば」は、主文の述語の表

すイベントの起こる時点を参照時として、その時点を参照時現在として、そこ

に属性やイベントを付け加えるとする。参照時現在自体をそこで成立している

属性からなる世界とすると、この状態、非状態の2つの仮定形はまったく別の

操作を定義する。状態形の「れば、たら」形は、参照時現在の属性に対する仮

定である。参照時現在では定義上それに属する命題は、真偽は決定しており、

知っているか、知らないかである。仮定が状態形の場合は、話し手が直接観察

できない、現在の状況に対する仮定か、話し手が直接観察できる現在の状況に

関する仮定であるかである。前者は、決定しているが話し手が知らない場面の

属 性 を 述 べ る 。後 者 の 場 合 、直 接 観 察 で き る 事 実 や 経 験 し た 事 実 を 仮 定 す れ ば 、

知っていることを仮定しているので情報量はない。また、直接観察できる事実

や経験していた事実に反する仮定をすれば反事実的仮定になる。つまり、状態

形が非現実的、反事実的になるのは、状態的状況が、特定の時点にアンカーさ

32
れないからではなく、参照時現在にアンカーされるからであると考えられるこ
13
とが示された 。

(58) 田 中 が 来 て い る か ど う か 知 ら な い が 、田 中 が 来 て い れ ば 、パ ー テ ィ ー は 盛

り上がっ{た、ている}だろう。

(59) 田 中 が 来 て い た か ど う か し ら な い が 、田 中 が 来 て い れ ば 、パ ー テ ィ ー は 盛

り 上 が っ { た 、 ?て い た } だ ろ う 。

(60) 田 中 は 来 な か っ た が 、田 中 が 来 て い れ ば 、パ ー テ ィ ー は 盛 り 上 が っ て い る

だろう。

(61) 田 中 は 来 な か っ た が 、 田 中 が 来 て い れ ば 、 パ ー テ ィ ー は 盛 り 上 が っ { た 、

ている}だろう。

一方、非状態形は参照時現在には、まだ成立していないので、これを仮定する

ことは、参照時現在よりあとの分岐的条件を定義する。

従って、前件だけで見る限り、非状態形は、参照時より後に生じる動作、過

程を述べているだけであり、非現実的な仮定を含まないことになる。

非状態形の「たら/れば」形でも後件を過去にし、「だろう、はずだ」等の

13
活 動 動 詞 の テ イ ル 形 は 進 行 を 表 す の で 、タ ラ・レ バ が 付 く と 他 の テ イ ル 形 と は 多 少

異なる振る舞いをする。「活動動詞+テイタラ・テイレバ」は、「活動動詞+ている

時に」と近い意味を表すことができ、事実的な解釈になる。

ⅰ)田中が本を読んでいたら、花子が入ってきた。

この解釈になるのは、後件が非状態の形式の場合であり、主節と従属節の主語は異主

語で、エンパシーが条件節の主語にある。前件が表すインターバルに後件の時点が含

まれるという解釈になり、参照時点での変化を表す。この解釈がどのようなメカニズ

ムで生じるのかは明らかではない。このような変化を表す場合には事実的になること

は 5 章の譲歩文のところで考察する。

33
モーダルの述語をつければ当然、非現実、反事実の解釈もあり得る。後件が過

去になれば、前件が非状態形でも、後件よりイベント前に起こったイベントを

表すため、真偽は決定しているからである。その場合でも「かりに」などを前

件につけると多少不自然になることは、前件そのものは非現実的な仮定をして

いるのではないことの証拠としてあげられるであろう。

(62) ?か り に そ の と き 彼 が 来 た ら 、 き っ と 困 っ た こ と に な っ た で し ょ う 。

(63) ?か り に そ の と き 彼 が 来 れ ば 、 き っ と 困 っ た こ と に な っ た で し ょ う 。

(64) ?か り に そ の と き 彼 が 来 た ら 、 き っ と 困 っ た こ と に な っ て い た で し ょ う 。

(65) ?か り に そ の と き 彼 が 来 れ ば 、 き っ と 困 っ た こ と に な っ て い た で し ょ う 。

さて、次になぜ後件をテイタ(あるいは一般的に状態形+タ形)にすると反

事実性が強制されるのかを考えよう。まず、状態形は、参照時現在での場面属

性を表す。後件が状態形+タ形である場合、前件が状態形であるか否かに関わ

ら ず 、前 件 も 参 照 時 現 在 で す で に 起 こ っ て い る 状 況 、す な わ ち 場 面 属 性 を 示 す 。

テ イ が 参 照 時 現 在 の 属 性 を 示 し て い る と 、そ れ は R の 属 性 、す な わ ち 、参 照 時

現在で決定している命題となる。このとき、話し手がこの命題の真偽を参照時

現在で知らないとしよう。参照時現在ですでに起こっており、かつ、その真偽

を知らない命題である。さて、このとき、この命題が未知のままで現在に至る

場 合 、そ れ は テ イ ル 、あ る い は 状 態 形 の 現 在 の 形 式 で 表 現 で き る 。テ イ ル 形 は 、

発話時現在ですでに決定している命題を表せ、それは過去の事態でかまわない

からである。

(66) 彼 が 来 て い れ ば 、 困 っ た こ と に な っ て い る は ず だ 。

p:彼 が 来 る 、 q: 困 っ た こ と に な る

とする。後件がテイルのとき次のことがいえる。

34
(67) p at t1, q at t2, t1≤t2≤発 話 時

こ の と き p、q は ど ち ら も 発 話 時 現 在 、す な わ ち 、R- D の 属 性 で あ っ て か ま わ

ない。もし、後件がテイタの形式をとったとしよう。

(68) 彼 が 来 て い れ ば 、 困 っ た こ と に な っ て い た は ず だ 。

時間関係は次のようになる。

(69) p at t1, q at t2, t1≤t2≤参 照 時 <発 話 時

こ の と き 前 件 p、q の 時 点 は 、参 照 時 と 同 時 か そ れ よ り 以 前 で あ る 。視 点 は 参 照

時に置かれるので問題となる属性は参照時のものになる。この時は、反事実の

解釈は義務的ではなくなる。

(70) あ の と き 彼 が 来 て い れ ば 、お そ ら く 困 っ た こ と に な っ て い た は ず だ 。実 際

にどうなったかはしらない。

実 際 に は 、こ の 解 釈 は 、t 1 ≤ t 2 = 参 照 時 と い う 組 み 合 わ せ の と き の み に お き 、か

なり有標的であるため、意識しにくいのだと考えられる。

後件が発話時の属性を述べるとする。この解釈は「今ごろ」をつけると強制

される。

(71) 彼 が 来 て い れ ば 、 今 ご ろ 困 っ た こ と に な っ て い た は ず だ 。

この時タは、過去の意味はなく、現実と対比される状況を表すことができる。

このタの用法は単なる状態形のタ形ではなく、テイタの形式が条件文の帰結に

35
使 わ れ る と き の み 生 じ る よ う で あ る 。前 件 の 条 件 文 が 付 け 加 わ る 前 提 を A と す

る と 、こ こ で テ イ タ 形 は 発 話 時 現 在 、す な わ ち D-領 域 の 命 題 で あ る こ と を 表 す

と 考 え ら れ る 。 つ ま り 、 テ イ ル が R-命 題 を 表 し 、 タ に よ っ て 、 R- D の 命 題 で

は な く 、D-命 題 で あ る こ と が 指 定 さ れ る と 考 え る の で あ る 。こ こ で テ イ タ の タ

は、参照時現在を表すという特性をもっていることになる。このとき、条件文

は 反 事 実 の 解 釈 し か で き な く な る 。つ ま り 、D-領 域 で 条 件 文 の 解 釈 を す る と 反

事 実 し か な く な る の で あ る 。こ の タ の 用 法 に つ い て は 、5 章 、6 章 で も う 一 度 考

察する。

2.6 反 事 実的世界と現実の対応

反事実文の前件はその反事実的前提を述べるが、後件は、必ずしも、反事実

的 で あ る 必 要 は な い 。反 事 実 的 な 前 提 か ら 、現 実 と 同 じ 帰 結 を 導 い て も よ い し 、

まだ決定していない未来の行動について述べてもよい。しかし、日本語では反

事実的な前提から、現実と同じ帰結を導く場合は、譲歩文の形をとるのが普通

である。

(72) a. 彼が来なかったので、大したことにならなかった。

b. 彼 が 来 て い た ら 、 大 変 な こ と に な っ て い た だ ろ う 。

c. *彼 が 来 て い た ら 、 や は り 大 し た こ と に な ら な か っ た だ ろ う 。

(73) 彼 が 来 て い て も 、 大 し た こ と に な ら な か っ た 。

英語では、譲歩文と条件文は同じ形式で表されてよいが、日本語の場合譲歩文

は必ず条件文とは異なる形式を使わないといけない。両者は、多少、異なった

ストラテジーが関わっていることを示す現象がある。

反事実条件文の帰結に「今ごろ」という語が現れることがある。

(74) あ の 時 彼 が 助 け て く れ な か っ た ら 、 今 ご ろ 、 ど う な っ て い る だ ろ う 。

36
(75) あ そ こ で 会 社 が 倒 産 し て い た ら 、今 ご ろ は 、一 家 は 路 頭 に 迷 っ て い た と こ

ろだ。

ここで「今ごろ」のかわりに「いま」とすると、現実世界の状況に言及する文
14
になり、不自然になるのが普通である 。

また、「だろう」、「はずだ」は、反事実以外の解釈も可能だが、「ところ

だ」を後件に使うと、反事実性が非常に強くでる。「ところだ」、「今ごろ」

は、原則として、譲歩文の帰結には使えない。この2つの語の使用規則を観察

し、反事実的な譲歩文と条件文の違いについて考えてみよう。

「今ごろ」は、反事実条件文の後件以外にも使われる。

(76) あ し た の 今 ご ろ は ニ ュ ー ヨ ー ク だ 。

(77) 去 年 の 今 ご ろ ど う し て ま し た 。

「今ごろ」は、「いま」に対応する時刻、時間を表す。日や週、月、年等は、

同 じ 構 造 を 持 つ か ら 、「 い ま 」の 対 応 時 点 を 決 め る こ と が で き る 。こ れ に 対 し 、

季節はこの意味では同じ構造を持つと見なせないので対応物をもたない。午前
15
と午後も多少難しい 。

14
実 際 に は 、次 の よ う な 文 で は 反 事 実 解 釈 で も「 い ま 」を 使 う こ と は 可 能 か も し れ な

い。

ⅰ)田中は今回は京都にこなかったが、もし来ていれば、(彼はいつもこのレストラ

ンで食事するので)いまこの部屋で一緒にご飯をたべているはずだ。

15
「 今 ご ろ 来 て も な に も な い よ 。」は 、い ま よ り 、前 か 後 の 時 点 が 、来 る べ き 時 点 で 、

「いま」は適当でないというニュアンスがあり、やはり、「いま」の対応物があると

い う 解 釈 に な る 。そ の よ う な 対 応 物 が 想 定 で き な い「 今 ご ろ 来 て く れ 」は 、「 今 ご ろ 」

を「いま」と解釈する限り不適である。

37
(78) 明 日 の 今 ご ろ 、 去 年 の 今 ご ろ 、 来 週 の 今 ご ろ

(79) ?夏 の 今 ご ろ ( cf.来 年 の 夏 の 今 ご ろ ) 、 ?午 後 の 今 ご ろ

さて、反事実文の帰結に「今ごろ」が現れるということは、反事実的な状況に

も「 い ま 」に 対 応 す る 時 点 が 存 在 す る こ と を 示 し て い る と 見 な す こ と が で き る 。

つまり、昨日とか反事実文的状況が、「いま」に対応する構造を持つ別の時間

系列を成していることが前提となる。

(80) 昨日---今ごろ--

今日----いま---

(81) 非 現 実 /反 事 実 空 間 - 今 ご ろ

現実空間------いま----

すなわち、「今ごろ」は、同型の時間系列を持った複数の領域の存在を前提と

しているのである。

次に「ところ」の方を考えてみよう。本来場所を表す「ところ」が「時間」

に拡張されると、時系列の中で観察視点がおかれる場面の切片のようなものを

表 す 。( 寺 村 (1984)、田 窪 (1984)参 照 )。「 と こ ろ だ 」は 、発 話 者 の 観 察 視 点 が

ある場面を表すといってよい。上で述べたように動作や過程は始点状態と終点

状態の間の事態を表す。「ところだ」は、これらの動作や過程を話し手が観察

時点でスライスして取りだしたようなもの、すなわち、場面切片を表すと考え

ることができる。

(82) 読 む と こ ろ 、 読 ん で い る と こ ろ 、 読 ん だ と こ ろ

38
r を参照時現在、s を動作の始点、f を動作の終点とすると、次のようになる。

(83) 読む r< s( 読 む )

読んでいる s( 読 む ) < r

読んだ f( 読 む ) < r

さて、この場合、動作始点、終点と参照時点は、離れていてもよい。「私は、

その本を読みます」というとき、何時間後に読んでもよいし、「私は、その本

を読みました」は、何日前に読んでいてもよいわけである。「ところ」は、こ

の始点、終点、動作が、参照時点に存在することを表す。動作を局面で捉える

ということは、その動作の局面が、参照時現在という、「現場」に接触してい

ることを前提とするからである。従って、接触的な同時性、継起性を前提とす

る ( 接 触 的 な 同 時 性 、 継 起 性 の 概 念 に つ い て は 、 工 藤 (1992)参 照 ) 。 こ の 接 触

的な同時性、継起性は、話し手が現場でこの局面を観察していることを含意す

る 。つ ま り 、「 と こ ろ だ 」は 、話 し 手 の 観 察 視 点 の あ る 場 面 切 片 の 記 述 を 表 す 。

この「ところだ」は、「質問文にならない」、「否定できない」といった制限
16
が あ る こ と が 知 ら れ て い る ( 寺 村 (1984)参 照 ) 。

(84) ?彼 は 勉 強 し て い る と こ ろ で は あ り ま せ ん 。

(85) ?い ま 勉 強 し て い る と こ ろ で す か 。

このような制限は、「ところだ」が、話し手の観察視点のある場面切片、つま

り、評価時現在とでもいえる時点を指定することからでてくるものである。こ

れ は 、例 え ば 、時 点 を 表 す 語 を「 と こ ろ 」の 前 に つ け た 場 合 、
「 い ま の と こ ろ 」、

16
複数の場面を事後的に列挙する場合には、このような制限はない。

ⅰ)これは御飯を食べているところではありません。

39
「ここのところ」、「本当のところ」、「実際のところ」、「正直のところ」

等といった、「現在、真実、自分の本当の信念」といった類の語しか来ないこ

とからも分かる。これらは、「今日現在で評価すれば」、「いま現在の状況を

述べれば」、「本当の状況を述べれば」といった意味である。「さっきのとこ

ろ」とか「うそのところ」という表現は存在しないのである。従って、「とこ

ろ」は、話し手の観察し、評価した時点を指定すると考えられる。

さらに「ところだ」は、時間系列の流れのなかで、予定されている、あるい

は 、本 来 あ る べ き コ ー ス (natural course of events)を 示 す 、シ ナ リ オ の 場 面 の よ う

なものを示す。

(86) 本 来 な ら 、 私 が や る と こ ろ で す 。
17
(87) こ こ が 日 本 な ら 、 醤 油 を た ら し て い る と こ ろ だ 。

反事実文の帰結に使われる「ところだ」もある意味では、話し手の視点のある

「いま」に対応する時点を示すと言える。反事実的なシナリオを採用した場合

の事態の流れの中で「いま」に対応する時点の状態を自分があたかも直接観察

した場面として記述しているのだと考えられる。この場合「だろう」、「はず

だ」が、予想、推論という形で非現実的・反事実的な状況にアクセスしている

のに対し、「ところだ」は、「いま」に対応する時点という形でアクセスして

いる。帰結に「だろう」、「はずだ」を持つ条件文が、反事実解釈以外の解釈

を持つのに対して、「ところだ」による条件文が、反事実的な解釈しか持たな

い事実も、この「いま」の現実に対応する時点を指すという「ところだ」の持

つ性質から、予測できる。「今ごろ」が、同じ構造を持つ時間系列の対応する

時点にアクセスするのに対して、「ところだ」は、話し手の観察視点のある位

置を示すわけである。「今ごろ」については 3 章、「ところだ」については 4

章で詳しくみる。

17
この例は金水(個人談話)による。

40
「だろう」、「はずだ」が、譲歩的反事実文に使えるのに対し、「ところ」

は、譲歩文の帰結には使えない。これは、「ところ」が分岐的な条件に関わっ

ているのに対し、譲歩文が原則的に現実からの分岐を想定しないことにその理

由がある。

(88) ?も し 彼 女 と 離 婚 し て い て も 、 成 功 し て い る と こ ろ だ 。

(89) 彼 女 と 離 婚 し て い て も 、 成 功 し て い る だ ろ う 。

つ ま り 、「 と こ ろ だ 」の 使 用 に は 、現 実 と 異 な る 状 態 を 持 つ 反 事 実 的 世 界( あ

るいは状況)が想定されることが前提となるが、反事実的な譲歩文とは、そも

そも、前件の反事実的想定が、後件に影響を与えないことを述べるものなのだ

から、後件の表す属性に関しては、現実と一致する世界(あるいは状況)を想

定することになる。譲歩文に関しては 6 章で詳しくみる。

2.7 2 章のまとめ

状態形の条件文が非現実と結びついているのはなぜかという問題を考えた。

状態形自体が非現実性と結びついているのではなく、状態形がすでに決定して

いる現実を指し、それを仮定するところに、非現実性、反事実性が生じること

を示した。ここで述べたことは、別に日本語に依存したところはさほどないの

で、英語や他の言語における条件文の反事実解釈と変わるところはないはずで

ある。実際、次のような英語の例を見れば、日本語と同じ一般化ができること

を示唆している。

(90) If you gave me a kiss, I would give you beer.

(91) If you had given me a kiss, I would have given you beer.

(90 )の 方 は 、 「 キ ス す る 」 の は 未 来 の こ と な の で 、 文 字 ど お り 反 事 実 的 に 解 釈

41
は 通 常 で き な い 。反 事 実 的 に す る た め に は 、(91 )の よ う に 、過 去 完 了 に す る か 、

If I were a birdの ご と く 、 状 態 形 に す る 必 要 が あ る で あ ろ う 。

ただ、後件が日本語では、「今ごろ」、「ところだ」のように、「いま」の

時 点 の 対 応 物 で 表 現 し て い る の に 、英 語 で は 、by now の よ う に 、now よ り 前 の

時点を問題にする。

(92) If you had arrived on time, we would have finished by now.

君が時間通りに来ていたら、今ごろはとっくにすんでいるところだ。

日本語で、前件が参照時現在の状況に言及するのに対して、英語では参照時現

在 よ り 、時 制 が 一 つ 前 に 設 定 さ れ る こ と な ど を 考 え あ わ せ る と 、日 本 語 の 方 が 、

現在時の視点を取る表現がより無標である可能性が示唆される。

42
第3章

現代日本語における2種のモーダル述語類について

3.1 はじめに

「ようだ、らしい」は証拠推論を表すモーダルの助動詞として捉えられ、話し

手が直接経験した知識に基づく推論を表すとされてきた(寺村(1984:6 章)、森

本(1994:4 章)など)。しかし、「ようだ」、「らしい」にかかわる証拠推論と

いうものがどのような性質のものであるのか、それらが、「だろう、はずだ」

などの他のモーダル述語とどのように異なるのかについて議論はそれほど明確

ではない。この章では、条件文の帰結に使われたモーダル述語類の振る舞いと、

田 窪 ・ 笹 栗 (2001)で 記 述 さ れ た 、 発 話 時 の 他 領 域 で の 対 応 物 を 表 す 表 現 で あ る

「今ごろ」を使って、「らしい、ようだ」のような話し手が発話現場の要素の

体験にもとづいて証拠推論をする述語類と「かもしれない、はずだ、だろう」

など、話し手が予測や可能性などの現実と別の可能的状況を構成することを示

す述語類との違いを明らかにする。

まず、2 節においてここでいうモーダル述語類の統語的位置づけを行い、3

節で、それらの区別にかかわる現象を紹介する。次に、4,5 節でこれらの区別

がどのような意味的違い、統語的違いから生じているかを、推論の方向性の相

違、それがとる命題の性質の違いという観点から明らかにする。6 節で推論の

方向性が命題の性質の違いから導出できることを示し、命題に関する話し手の

知識がこれらのモーダル述語の意味的、統語的区別に関与していることを主張

する。7 節では、ダロウ類の中で特殊な働きをするダロウの意味論的・統語論

的機能を考察して、モーダル述語の一般的な構造を提案する。

3.2 モーダル述語とは

英 語 で は 、 モ ー ダ ル の 助 動 詞 と い う 語 類 と 動 詞 類 と は (い ) 主 語 - 助 動 詞 倒 置

43
(Subject Aux inversion)、(ろ)動詞句消去(VP ellipsis)、(は)否定の位置、など

の統語的な振る舞いから特定することができる。しかし、日本語においては、

そのように特定の統語的振る舞いを基準にモーダルの助動詞という語類をとり

だすことはできないため、何をモーダルの助動詞類とするかはそれほど自明で

はない。ここで問題としたいモーダル述語は、テンスの区別がある節を項とし

て、節の主語と共起制約関係をもたない語類である。時制をあらわす「タ、ル」

のあとに来る要素がこの類にあたる。さらに、節を取っても、「つもりだ」の

ように、節の主語と意味的共起関係を持つ場合は、節を補文として取る主動詞

とする。これに対しここでモーダル述語として扱う「らしい、ようだ、そうだ、

かもしれない、はずだ、だろう」などは、節の主語と意味的共起関係を持たず、

単に節に接続するだけである。

(1) 雨が降る{らしい、ようだ、そうだ、だろう、かもしれない、はずだ}。

(2) 田中が来る{らしい、ようだ、そうだ、だろう、かもしれない、はずだ}。

(3) *雨が降るつもりだ。

(4) 田中が来るつもりだ。

「つもりだ」のように主語と選択関係を持つものは、制御構造(control structure)

を持ち、次のような構造であると考えられている(Nakau (1973)、井上(1976)、

田 窪 (1982)な ど 参 照 ) 。 つ ま り 、 「 つ も り だ 」 は 、 経 験 者 と そ の 経 験 者 の 未 来

の動作を表す節をとる 2 項述語と考えられるわけである。

(5) [田中が[[PRO そこに行く]つもりだ]]

「つもりだ」は、ガ格名詞句にたいして、経験者という意味役割を与え、ガ格

は有情の名詞句しか来ることができない。これに対し、「ようだ」、「らしい」

などは、ガ格名詞句に意味役割を与えているわけではないため、ガ格主語は、

特に有情性の制約を受けず、先行する動詞から与えられる意味役割に関する制

44
約を受けるのみである。従って、これらの述語は節を補文としてとり、その述

語の主語の位置は基本的には空であるとすることができる。

これらの節をとる述語類の特徴は、その定義より、節につき、それ自身の主

語の位置は基本的には空で(あるか、理論によっては位置として存在しないかの

どちらかで)なければならない。構造的には以下のようになる 1 。

(6) [ △ [[節]らしい]]。

英語のモーダル助動詞は、認識的なモーダルか、義務的なモーダルかであいま

いになることが知られている。以下の文において、 must、can はそ れぞれ、必

然性、可能性を意味する認識的なモーダルか、義務、能力を表す義務的なモー

ダルかであいまいになる。このあいまい性は、不明確(vague)ではなく、多義的

(ambiguous)であると考えられる。よく知られているようにこれらの解釈の違い

は構造的な差と相関している。

ルートモダリティであって、義務や能力を表す解釈は制御構造と結びつき、

認識モダリティであって、必然性や可能性を表す認識的な解釈はいわゆる主語

上昇を伴う構造と結びついている。英語では、空の主語位置への補足部主語の

上昇は義務的であるため、表面的な多義性が生じている。英語では、must、can

の辞書的特性が経験者と命題の 2 項関数を表すものと、命題だけをとる 1 項関

数の二つあることになる。

must 義務的(ネバナラナイ):<経験者、命題>、

必然的(ニチガイナイ):<命題>

1
こ の よ うな 構造 に対す る根 拠など は、中右 (1973)、田 窪(1982)および 、こ れらに 所収

の 参 考 文 献参 照 。 澤 田 (1980)は T(T6)の よ う な 構 造 か ら 、 主語 上 昇 、 動詞 上 昇 な どを 経

て、英語の seemの よ う に主 語の 位置に 補足 節の主 語が 入ると する 分析を 提示 してい る。

澤 田が この分 析の 根拠と して いる議 論が 誤って いる ことは Takubo (1982)参 照。

45
can 能力(デキル):<経験者、命題>、

可能性(カモシレナイ):<命題>

これに対して日本語では通常このような語彙的あいまい性はない。それぞれ

の解釈は、別の語彙で表現される。

たとえば、日本語の可能形はさまざまな用法を持つが、基本的には主語名詞

が持つ能力を表し、可能性を表すことはない。このように日本語では認識的モ

ダリティとルートモダリティが同一形式で表されることはなく、別の形式を持

っている。

必然性:ニチガイナイ <命題>

義務:ナケレバナラナイ <経験者、命題>

(7) 明日は雨が降るに違いない。

(8) ??明日は雨が降らなければならない。

(9) 田中は大阪に行くに違いない。

(10) 田中は大阪に行かなければならない。

可能性:カモシレナイ <命題>

能力:可能形 <経験者、命題>

(11) 田中は明日大阪に行くかもしれない。

(12) 田中は明日大阪に行ける。

これらの表現は複合的な言語表現であり、英語のような単純で、統語的、形態

的な共通性を持つモーダルの助動詞という範疇に属すわけではない。しかし、

意味論的な考慮からは、モーダルの解釈は、日本語の方が区別が明示的である

といえる。

46
本章で問題とするモーダル述語とは、ここでいう認識のモダリティに当たる

ものであり、主語位置に意味役割は与えられない。日本語では主語位置の投射

は義務的ではないと考えられるため、時制節が補語節に来ても動詞は、動詞句

のみからなる述部が生じてよい。

日本語と英語のこのような差は英語が主語を義務的に投射しなければならな

いのに対し、日本語では主語の投射が義務的ではないという統語的な差から来

ると考えられる 2 。

日本語では、これらの述語類は話し手の命題に対する態度を示すものとして

しばしばモーダル助動詞などと呼ばれる(寺村(1984)、仁田(2004)、益岡・田窪

(1991)そ の 他 の 文 献 ) 。 し か し 、 こ こ で 扱 う 述 語 類 は 多 く 複 合 的 な 言 語 表 現 で

あり、統語的に助動詞という範疇をたてるべき根拠はそれほど強くないので、

ここではモーダル述語あるいは単にモーダルとよぶことにする。

3.3 モーダル述語類の意味

モーダル述語類は命題に対する話し手のなんらかの態度、すなわち命題態度を

表すとされる。その態度によってダロウ(予測)、カモシレナイ(可能性)のよ

うに、おのおのが表す態度に一般的な名前をつけることも可能であろう。しか

し、これらのラベルは恣意的なものになる可能性があるし、お互いの関係が不

明確になる。ここで問題としているモーダル述語類はすべて認識のモダリティ

にかかわるものであり、なんらかの形で推論による知識の導出と関わっている。

2
たとえば、英語ほどシステマティックではないが、韓国語、中国語でも同様なあい

まい性が生じることがある。中国語、韓国語では主語の投射は義務的ではないと考え

られるため、これが事実であればこの説明は多少修正が必要となる。また義務的なモ

ーダル述語も制御構造でなく、主語上昇によって派生され、制御的な特徴はモーダル

述語ではなく、主動詞の性質による文脈的特徴であるとする主張もある。これに関し

て は、Wurmbrand (1998)参 照。

47
これらのモーダル述語は推論の根拠となる知識の性質によって決まっていると

考えられる。本論では推論による知識の導出がどのような形で行われるか、ま

た、その推論操作がそれぞれのモーダル述語類の使用制約とどのように関連し

ているかをみることによって、これらのモーダル述語類の意味的特徴づけを試

みる。そこで現れた述語類成員間の振る舞いの共通性と差異により意味的な一

般化への道筋をつけるのが目的である。

3.4 2 種の条件文とモーダル述語

形式の意味づけに推論操作が深く関わっているものの典型的な例として条件文

を考えよう。条件形式は、条件的知識をあらわす場合と推論を表す場合がある。

たとえ ば、 推論を 表す 条件文 は一 般的な 条件 的知識 を元 にして いる 。 (13)のよ

うな条件文は推論を表しているが、この推論の妥当性は、それが基にしている

条件的知識の妥当性によっている。

(13) 公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる{かもしれない、はずだ、

だろう}。

条件文のひとつの典型的な使用は、話者の条件的な推論の表明であると考えら

れる。すでに与えられた前提に前件による前提を付け加えて、それらから導出

できる帰結を述べるものである。通常推論を表す条件文では、条件文全体が新

規の情報であるわけではなく、前件の内容が先行文脈ですでに与えられている

場合が普通である。一般に多くの言語で条件文が主題形式と関係するのはこの

せいであるとされる 3 。従って、前件に疑問詞がはいる「誰が首相になれば、

この国の政治が変わるだろうか」のような文を除けば、通常、帰結の方が新規

の情報となる。使用に際しては、文脈に対する効果がなければならないため、

3
Haiman (1978)などを 参照 。

48
条 件 文 の 形 式 自 体 の 意 味 は 実 質 含 意 (material implication:(P⊃ Q))で あ っ た と し

て も 、 帰 結 は 普 通 自 明 な も の で は な い わ け で あ る 。 詳 し く は 坂 原 (1985)を 参 照

されたい。

さて、自明でない帰結は推論操作等によって導出をする必要がある。モーダ

ル述語の語彙的意味はこのような推論操作に関係しているとみなすことができ

る。先に見た、モーダル述語に対するラベルは、このような推論操作の様態を

表したものとみなせば理解ができるだろう。つまり、条件文についたモーダル

の場合は、条件文の前件により拡張した前提から、後件が推論される際、その

後件がどのような知識にもとづいてどのような方法で得られたかをこれらモー

ダル述語類が提示していると考えるわけである。

このように考えると、条件文の帰結に後続した場合、{ようだ、らしい、そ

うだ}の類(以下ヨウダ類)は{かもしれない、はずだ、だろう}など(以下

ダロウ類)のモーダル述語類と異なる性質を示す。

(14) 公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる{ようだ、らしい、そう

だ}。

まず、ダロウ類は、話し手が提示された条件文前件を暫定的に受け入れて、帰

結を推論しているため、前件と後件は別の人が提示してもかまわない。

(15) A: 公定歩合が 1%上がるよ。

B: へえ、じゃ倒産する企業がでる{かもしれないね、はずだね、だろう

ね}。

(15)では、BはAの情報提示を受け入れてそれを前提に組み込み、それからの推

論 に よ り 帰 結 を 出 し て い る 。 こ の と き Bは 、 相 手 の 言 う こ と を 繰 り 返 し て 以下

のように言ってもかまわない。

49
(16) B: へえ、公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる{かもしれな

いね、はずだね、だろうね}。

相手が述べたものは、当然Bの主張部分には入らないから、ダロウ類の述語は、

少なくとも意味的には条件文全体をスコープにとるのではなく、後件だけをス

コープに取っているとみることができる。構造としては次のようになる 4 。

つまり、前件は、ダロウ類モーダル句の付加節となっているとみることができ

るわけである。

(17) [[(もし)公定歩合が 1%も上がれば]、[[倒産する企業がでる]かもしれ

ない]]

これに対し、ヨウダ類は、前件と後件を別の人間が提示することは不自然であ

る。

(18) A: 公定歩合が 1%上がるよ。

B: #へえ、じゃ倒産する企業が出る{ようだね、らしいね、そうだね}。

(18)は、Aが言った内容を前提にして推論して得た帰結を述べているとは考えら

れない。特に、相手の言ったことからの推論であることを示す「じゃ」を入れ

る限り、認容度は非常に低い。「じゃ」を省けば、単にAの言明とは関係なく、

感想を述べている文になる。

4
統 語 論 的 に は モ ー ダ ル 述 語 が 文 全 体 に 係 る 分 析 も 可 能 で あ る 。 そ の 場 合 、 前 件の部

分 が前 提とな るた め、モ ーダ ル述語 の意 味的ス コー プの外 に出 ている と考 えれば 良い 。

50
(19)のよ うにヨ ウダ 類が条 件文 の帰結 に用 いられ た場 合は、 条件 節を含 んだ

条件文全体をスコープに取ると考えたほうがよく、ダロウ類のように前件を前

提にして、帰結を提示するとは考えられない。

(19) [[(もし)公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる]そうだ]

つまり、(19)は、「公定歩合の 1%上昇」と「倒産する企業がでる」ことの条件

的相関に関して伝聞的知識を持っていることを述べているのであって、前件が

すでに与えられて、後件のみを聞いたという意味ではないのである。「ようだ」

「らしい」についても同様のことが言える。この条件的言明そのものについて、

「らしい」は伝聞証拠や経験的証拠に基づく推論を、「ようだ」は経験的証拠

に基づく推論を述べていると言うことができるだろう 5 。

(20) [[(もし)公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる]らしい]

(21) [[(もし)公定歩合が 1%も上がれば、倒産する企業がでる]ようだ]

以上から、ダロウ類とヨウダ類がとる条件文には差があることがわかる。ダロ

ウ類は、条件推論を表し、帰結の部分だけをスコープにとると考えられる。こ

れに対し、ヨウダ類は、条件文全体がスコープに入る。ヨウダ類は条件推論を

表すのではなく、それらがとる条件文は前提とそれから導出できる帰結を表す

のではなく、条件的知識、すなわち前件が表す事態と後件が表す事態間の依存

関係を述べるものと見ることができる。

同じことが、理由・根拠を表す節についても言える。ダロウ類は、前件から、

5
こ の 区 別 が 正 し け れ ば 「 て も 」 を 使 っ た 譲 歩 文 は 、 条 件 文 と は 異 な る 構 造 を してい

ることになる。「ても」は、ダロウ類であっても、スコープに入った解釈が可能であ

る。

ⅰ ) [公 定歩合が 0.1%上 がっ ても 、倒産 する 企業が でる ]だ ろう 。

51
帰結を導くことの根拠を述べる理由節で述べることができる。

(22) 有利子債務の金利負担が増えるから、公定歩合が 1%も上がれば倒産する

企業がでる{だろう}

この場合、カラ節はダロウ句を修飾する付加節となり、構造は次のようになる。

(22)' [有利子債務の金利負担が増えるから、[[公定歩合が 1%も上がれば][倒

産する企業がでる]だろう]

これに対し、ヨウダ類は、判断の根拠を表す理由節を自然に付け加えることは

できない。

(23) #有利子債務の金利負担が増えるから、公定歩合が 1%も上がれば倒産す

る企業がでるようだ。

これは、ヨウダ類は前件と後件の条件的関係を述べているだけで、前提から帰

結を導き出すという条件的推論を述べているのではないからであると考えられ

る。構造は次のようになる。

(23)' #[有利子債務の金利負担が増えるから][[公定歩合が 1%も上がれば倒産

する企業がでる]ようだ]

この場合ヨウダ類の文では、推論の根拠をあらわすカラ節は係り先がないので

ある。従って、ヨウダ類の述語を含む条件文で理由節を持つ場合、その可能な

解釈は、理由の部分を条件文の内部に含めてしまう解釈ぐらいである。

(24) 株価が上がると自己資産比率が 増える 。一般に自己資産比率が増えるか

52
ら株価があがれば銀行の倒産の危険性が減るようだ。

上の文は、意味的には、[[株価の上昇に伴い、自己資産比率が上がるため銀行

の倒産の危険性が減る]ようだ]と見るべきであり、カラ節は「倒産の危険性が

減る」理由を述べているにすぎない。「ために」「ので」は通常推論の根拠を

示さないためヨウダ類の助動詞のスコープ内に入る解釈が可能である。

また、条件節と共起しない、理由節に関しても両者で係り先の差がでる。

(25) 公定歩合が上がったから、景気が悪くなるだろう。

(26) 公定歩合が上がったから、景気が良くなるようだ。

(25)は 、 帰 結 を 導 出 す る た め の 根 拠 を い う 理 由 節 で あ る が 、 (26)は 、 そ の よ う

な解釈はすこし難しく、やはり、「公定歩合の上昇」と「景気が良くなること」

の相関を述べる解釈が普通である。構造は以下のようになる 6 。

(25)' [[公定歩合が上がったから]、[景気が悪くなる]だろう]。

(26)' [[[公定歩合が上がったから]、景気が良くなる]ようだ]。

これらの理由節は、以下の文のように状態の述語が関わる文にすると違いが鮮

明になる。

(27) 三時間前に出発したから、もう先方に着いているだろう。

(28) ?三時間前に出発したから、もう先方に着いているようだ。

6
南 (1979)、田 窪 (1987)の 用 語 で は、 (25)の 理由 節 は C類 の 付 加 節 、 (26)の 理 由 節は B類

の 付加 節であ る。

53
田 窪 (1987)で は 、 丁 寧 形 を 含 む 付 加 節 は 、 モ ー ダ ル 述 語 句 を ス コ ー プ に 取 る こ

とが示されている。上の例で、「上がった」「出発した」を丁寧形に変えると

ヨウダ類では、理由節がヨウダ類述語のスコープ内に収まることができなくな

る。

(25)" [[公定歩合が上がりましたから]、[景気が悪くなる]でしょう]。

(26)" ??[[公定歩合が上がりましたから]、景気が良くなる]ようです]。

(27)' [三時間前に出発しましたから]、[もう先方に着いている]でしょう。

(28)' ?[[三時間前に出発しましたから]、もう先方に着いている]ようです]。

条件文とモーダル述語の関係をまとめると次のようになる。

(29)

ダロウ類

根拠に基づく推論:条件文の場合は、条件的知識を元にして、推論する。

条件節はダロウ類の述語のスコープの外に出る。理由節は、推論の根

拠を述べることができる。

ヨウダ類

検討した結論を述べる:条件文の場合は、条件的関係そのものが結論であ

り、条件節全体がスコープの中に入る。理由節は、推論の根拠を述べ

ることはできない。

3.5 モーダル述語の意味と構造

上で見たダロウ類とヨウダ類のこのような差はどこから生じると考えられるだ

ろうか。寺村(1984)は、「推量のヨウダ」について「真実かどうか確信はでき

54
ないが、自分の観察したところから推し量って、これが真相に近いだろう」と

いう時に使われるという特徴づけをしている。

ヨウダは、ふつう推量と比況の二通りの使い方があるといわれるが、その中心

的な意味は、「真実に近い」ということだといえる。真実かどうか確信はでき

ないが、自分の観察したところから推し量って、これが真相に近いだろう」と

いうことが言いたいときは、「推量」になり、「真実でないことは分かってい

るが、ある対象が真実と似た様相を持っている」ということが言いたいときは

いわゆる比況の表現になる(寺村 1984:243)。

森本(1994:5 章)は、この特徴づけをラシイにも拡張し、ダロウとラシイの違い

に関して、「ラシイは「認知的体験によって裏付けられる推論(内容)と話し

手の確信の不足で特徴付けられる」のに対し、ダロウは文の内容の妥当性を裏

付けるような認知的経験を含意しない」としている。

彼女はこの特徴づけの根拠として「どうも」「どうやら」という副詞類との

共起制限を挙げている。ヨウダ類とは自然に共起するがダロウ類とは共起しな

い(森本(1994:5 章)、及びそこに引用されている文献参照、益岡・田窪(1992:Ⅲ

部 6 章)も参照のこと)。

( 30) a. どうも公定歩合が 1%程度上がるようだ。

b. #どうも公定歩合が 1%程度上がるだろう。

森本は (31)のような文を挙げて、bは「話し手はこの子を実際に見た」という

含意を含む のに対し、 aはそ のよ うな含意を 含まないこ とを観察し ている。 (森

本 1994:86)

(31) a. 加藤さんの息子は小さい。

b. 加藤さんの息子はどうも小さい。

55
実際に加藤の息子を見たことがないことが明らかな文脈では、b は不自然にな

り、「どうも」ではなく、「きっと」のような推量の副詞を用いる。もし、会

ったことないのが明らかな文脈で「どうも」を使うなら、例えば、「写真で見

た限り」のような補足文脈が必要になるとしている。すなわち、「どうも」の

使用は直接見るとか、写真を見るなどの認知体験の存在を含意するわけであり、

「ヨウダ、ラシイ」と共起しダロウ類と共起しないことから、「ヨウダ、ラシ

イ」とダロウ類との認知的体験の有無に関する含意の相違が説明されるとして

いる。

また、広くしられているように、ヨウダ類のモーダルは「きっと」「多分」

「ひょっとすると」など、ダロウ類と共起する副詞類と共起しない。

(32) a. きっと公定歩合が上がるだろう。

b. ??きっと公定歩合が上がる{ようだ、らしい}。

しかし、森本も述べているように「どうも」はソウダとは共起しない 7 。上

で見た条件文のスコープに関してはソウダは明らかにヨウダ類にはいると考え

られる。そこで以下では、認知的体験の有無に関する一般化をソウダ類を抱合

するような形に拡張する方法を考える。

7
連用形につくソウダは「どうも」と共起し、「きっと」とは共起しないので推論の

ラ シイ との並 行性 を見せ る。

ⅰ ) a. ?どうも公定歩 合が 1%あが った そうで す。

b. ど うも 公定歩 合が 1%あが った らしい です 。

c. ど うも 公定歩 合が あがり そう です。

ⅱ ) a. *きっ と公 定歩 合が 1%あが った そうで す。

b. *きっ と公 定歩 合が 1%あが った らしい です 。

c. *きっ と公 定歩 合が あがり そう です。

56
3.5.1 モーダル述語と推論の方向性

ここでは、ダロウ類とヨウダ類の差が、推論の方向性と関係していることを示

す。前節で、ダロウ類は条件文の前件を前提としてそれから推論できる帰結を

述べる際に用いられると述べた。これは基本的に肯定式(modus ponens)を用いた

推論が関わっているとみることができる。

(33) [[(もし)公定歩合が 1%も上がれば]、[[倒産する企業がでる]かもしれな

い]]

(33)の推論は、次のような形式をしている。

(34)

大前提 A:公定歩合が1%上がれば、倒産する企業がでる

小前提 p:公定歩合が 1%上がる

帰結 q:倒産する企業がでる

つまり、A と p から q を帰結させる以下のような推論である。

(35) A,p┣q

論理的な推論とは違い、実際の推論では、A におく知識はもっと一般的な形を

している。たとえば、話し手の信念の中に、ある一般的な知識、(ex.「公定歩

合の上昇と企業業績の間に負の相関がある」、といった知識)が存在し、その

知識の具体例的適用として帰結を導出する。そのような一般的知識を関数 f と

して考えることにする。この場合、具体例となる小前提の変数を x とし、帰結

を y とすると、f(x)=y の形で書くことができる。これを一般化肯定式(generalized

modus ponens)と呼ぶことにしよう。この形で知識を書くのは、推論に関わるさ

57
まざまな知識を一括して扱うためと、この知識と導出される知識との間に方向

性を与えるためである。認識的推論に使われる知識には多くのものがあるが、

関数の形で書くことで、取り扱いが非常に簡単にできる。このような例として

スケジュールを取り上げて説明しよう。スケジュールは、時間と事態の間の関

数 f(t)=e としてあらわすことができる。t としてカレンダー上の時間をとり、e

として、学会発表の行動をとると、次のようなスケジュールができる。

時間 イベント

10 月 10 日 論文の学会発表

10 月 20 日 プロシーディングの形式と締め切り通知

12 月 2 日 福岡で共同執筆者との打ち合わせ

12 月 21 日 原稿第一校の完成

12 月 21 日~1 月 20 日 メールによる打ち合わせ

1 月 30 日 原稿第二校の完成

1 月 30 日~2 月 22 日 メールによる打ち合わせ

2 月 26 日 提出

2 月 28 日 締め切り

このスケジュールがある人物のものとして与えられているとき、話し手はこの

人物の行動に関して時間の値からその行動を予測したり、予想することができ

る。

f(12 月 2 日)=福岡で共同執筆者と打ち合わせ

f(12 月 21 日)=第一校完成

このような知識をもとに次のようにいうことができる。

58
(36) A: 田中は 12 月 2 日には福岡で共同執筆者と打ち合わせしている{でし

ょう、はずです}。

スケジュールは、必ずしも予定どおりに進行するわけではないし、未確定の部

分も存在する。これは、f が確定していない場合、x が確定していない場合があ

る。たとえば、当該の事態が遂行されるための条件が整わなければ条件が分岐

する。そのため、条件が付いている場合は、f というスケジュールは時間の関

数ではなくなり、一対多の写像となる。

12 月 5 日 ドラフト完成

12 月 10 日 ドラフトにもとづいて福岡で共同執筆者と打ち合わせ。

f(12 月 10 日)の値は、ドラフトの完成の確率と相関するので、たとえば、予測

としては、次のようになるかもしれない。

f(12 月 10 日)=福岡で共同執筆者と打ち合わせ/20%

しかし、これだけが条件であれば、ドラフトが完成している状況では、「福岡

で打ち合わ せしている 」確率は 100%に近い 。このとき 、「ドラフ トが完成 し

ている」を条件文の前件とすると、前件が成立している状況では「きっと」の

ような副詞を使うことができる。

(37) ドラフトが完成していれば、きっと福岡で共同執筆者と打ち合わせをして

いるでしょう。

また、ドラフトの完成は、12 月 5 日以前では、確率が低いが、12 月 5 日以後、

田中がドラフトを完成したことを知っている状況では、福岡で共同執筆者と打

ち合わせをしている確率は上がり、以下の文がいえる。

59
(38) 田中はきっと福岡で共同執筆者と打ち合わせしているだろう。

これに対し、12 月 10 日までに田中がドラフトを完成していないことを知って

いる状況では、福岡行きはキャンセルとなり、田中が家にいる確率があがり、

以下の文がいえる。

(39) 田中はきっと家でふて寝をしているに違いない。

ここで、スケジュールでは f は、領域を時間、値域をイベントとする関数(1

対 1 にならない場合は写像)であったが、通常、推論を行う場合、領域は話し

手の信念システムの中の命題で、値域はそこから導出できる帰結である命題で

ある。ダロウ類のモーダル述語は、このように話し手の知識にもとづいて予測、

推測、推論を行う際に、f を用いてどのような計算方法をとったかを示すもの

として考えることができる。たとえば行動スケジュールであれば、本人がほぼ

把握できる性質のものであるから、それが話し手自身のものであれば、この知

識 f も小前提となるものも完全に確定しており、それによって導出される帰結

が未来の行動に関するものであってもモーダル述語は特に必要ない。また、ス

ケジュールは決定しているものでも実際の実行は変更されるものであり、推論

にそれが影響を与える。また、これがたとえば自分の上司のスケジュールを管

理している秘書のものだったりすれば、外部の人間に対しては、結論を確信し

ているものとして言語的に表現され、モーダル述語は付けない場合も多いだろ

う。それに対し、先ほどの例のように、条件的な分岐が入っているスケジュー

ルであれば、自分のスケジュールであっても確定したものではなく、不確定の

部分を含むことになり、モーダル述語が義務的になる。また、当然のことなが

ら f は明示的、意識的なものである必要はないが、たとえば、特に理由がなく

感じた場合に使う「なんとなく」は、ダロウ類のモーダル述語とは普通共起し

ない。

60
(40) なんとなく東京には行かない気がする。

(41) ??なんとなく東京には行かない{だろう、はずだ、かもしれない、にちが

いない}。

ダロウ類と共起するのは、「きっと、多分、おそらく、ひょっとすると」のよ

うな帰結の確信度の量に関わる副詞類であり、f からの帰結が成立する可能性

の程度を表していると見ることができる。これはダロウ類述語に関わるのは、

推論を必要とする確信度であって、理由を必要としない気持ちに関わる態度で

はないということを示唆している。

この場合、帰結の部分、すなわちダロウ類のとる補足部の節は、談話の初期

値に入っていないことが要求される。すなわち、発話時点までは未知であるこ

とが必要である。 8

なお、ダロウは、カモシレナイ、ニチガイナイ、ハズダの中では特殊で、カ

8
ハ ズダ は例 外で 、補足 節が D-命題 であ ってよ い。

ⅰ ) 寒 いは ずだ。 池に 氷が張 って いる。

こ の場 合、「 寒い」「池 に氷 が張っ てい る」は どち らも D-命題 であり、どち らも 話し

手にとって情報としては新規の情報ではない。この文は、前提を述べる文ではないの

で、新規の情報が含まれていなければならない。従って、ハズダの部分が新規の情報

であるべきである。実際、このような解釈の場合ハズダの部分が焦点を受け、「サム

イ」「ハズダ」の両方にアクセント核が保持されて二つのアクセント句ができる。単

なる推論の場合は、「サムイハズダ」はひとつのアクセント核で発音され、ハズダの

ア クセ ント核 は消 える。 この ハズダ はワ ケダと 同じ く、二 つの D-命題 を f の要素 とし

て結びつけるものであると見ることができる。狭い意味でのモーダル述語としてはみ

な せな い。以 下の 議論で は、 このハ ズダ は議論 から はずす こと にする 。

61
モシレナイダロウ、ニチガイナイダロウ、ハズダロウ、が可能である。これに

ついてはあとで統語的、意味的な形式化をするときに再考する。

3.5.2 ヨウダ類と推論の方向

上では、ダロウ類が方向性を持った知識fを用いた推論に関わるということを見

た。では、ヨウダ類が関わる推論はどのようなものであろうか。森本(前掲書)

が挙げている次のような例を考えよう 9 。

(42) 文脈:卒業名簿を見たら、みちこの姓が変わっていた。

a. 彼女はもう結婚したらしい。

b. #彼女は結婚しただろう。

(42)で は「 みちこ の姓 が変わ って いた」 こと は、「 彼女 がもう 結婚 した」 とい

う推量の判断の根拠となっている。この根拠を支えているのは、「結婚すれば、

姓が変わる」という条件的な知識によって表される(現在の話し手の)社会的常

識fである。しかし、(42)の例では推論の方向はダロウ類の場合と比べて、逆の

方向を持っている。

(43)

f:結婚すれば姓が変わる。

y:姓が変わった

----------

x:結婚した

逆の推論は必ずしも正しいわけではなく、 (43)は、論理的に妥当な推論とはい

えないが、もし、文脈的に結婚する以外姓が変わる要因が考え付かなかったと

9
森 本に よる 説明 はこの 差に 関して はあ まり明 確で はない 。

62
すると、姓が変わったことから、結婚したと結論することが許される。つまり、

「姓が変わった」ことを生じさせた原因として、「彼女の結婚」があったと考

えることが許される。これは、結果からそれが生じた原因を考えるという意味

で、肯定式を用いたdeductionではなく、abductionといえる。ここでは、問題と

なる関数は、領域と値域を逆転した、fの逆関数であるf -1 である。 この例では、

文脈上ほかに結婚した以外の原因が排除されているため、f -1 は関数として機能

しているが、通常、関数の領域と値域を逆にした場合、一対多との写像となっ

てよい。 (42)bが示すように、ダロウはこの場合には使えない。

さて 、 (42)ではf -1 は 、関数 とし て意味 があ ったが 、次 の例で はf -1 という 知識

の使用は不可能である。

(44) 文脈:前の恋人と別れて 7 年になるが、

a. 彼女はもう結婚しただろう。

b. #彼女はもう結婚したらしい。

「一般的な女性の結婚年齢に関する知識+前の恋人の別れたときの年齢」とい

う知識 f と「分かれて 7 年になる」という前提から、「もう結婚した」という

帰結を引き出すことは推論規則から可能である。これがダロウ類の述語が使え

る理由である。

しかし、fを逆にして、「別れて 7 年になる」という現状に対して、「結婚し

た」が根拠になり得るとするなら、すなわち、{f -1(彼女は結婚した)=彼女と

分かれて 7 年になる}という逆関数(または逆写像)が成立しなければならな

い。この場合、もとの関数fとして「結婚すること」が原因で「別れて 7 年にな

る」ことが生じるという前提知識、{f(彼女と分かれて 7 年になる)=彼女は

結婚した}を与えるようなfが存在しなければならないが、そのようなことはあ

りえない。

63
( 45)

f:女性は大体 30 前に結婚する。前の恋人と別れたのは 7 年前で彼女が 25

のとき。

y:彼女はもう結婚している。

----------

x:別れて 7 年になる。

つまり、「別れて 7 年になる」という状況に対してその原因を「結婚する」に

求めることは普通できない。これが (44)でラシイが使えない理由である。しか

し、「別れて 7 年になる」ことが「結婚する」ことの原因になるという前提知

識を持つ場合はありえるだろう。従って「結婚した」という知識が新規に与え

られれば、「別れて 7 年になるらしい」といってその原因を推測することは可

能である。

(46) 文脈:3 年前から結婚を申し込んでいる彼女がやっと結婚を OK してくれ

た。

a. 前の恋人と別れて 7 年たったらしい。

b. ?前の恋人と別れて 7 年たっただろう。

以上の考察が示していることは、森山(1989:71)、大鹿(1995:534)が指摘す

るようにヨウダ類は推論の方向が逆であるということである。しかし、推論の

方向性だけを両者の違いとして見ることはできない。よく知られているように

ノダは推論の方向性を逆転させる。それと同じように、ノダロウ、ノカモシレ

ナ イ の よ う に ダ ロ ウ 類 で も ノ を 前 置 さ せ る と 推 論 の 方 向 は 逆 転 す る 。 (42)で b

は、ノダロウにすれば認容性は上がる。

64
(42)' 文脈:卒業名簿を見たら、みちこの姓が変わっていた。

a. 彼女はもう結婚したらしい。

b. 彼女は結婚したのだろう。

また、 (44)は、次のようにノダロウにすると認容性が落ちる。

(44)' 文脈:前の恋人と別れて 7 年になるが、

a. #彼女はもう結婚したのだろう。

b. #彼女はもう結婚したらしい。

また、ニチガイナイは、ノなしで abduction の解釈が可能である。

(42)" 文脈:卒業名簿を見たら、みちこの姓が変わっていた。

a. 彼女は結婚したらしい。

b. 彼女は結婚したにちがいない。

さらに、ハズダは、次のような場合にも逆の推論が可能である。たとえば、f

として、「この薬を飲めば病気が治る」を考えよう。このとき、「病気が治っ

た」が与えられると、逆に「この薬を飲んだ」を原因として考えることが可能

である。

(47)

f:この薬を飲めば病気が治る

y:病気が治った

----------

x:この薬を飲んだ

65
このとき、 (48)のように言うことが可能である 10 。

(48) 病気が治ったならこの薬を飲んだはずだ。

また、「結婚すれば姓が変わる」の場合でも逆が成り立つ状況であれば、「こ

の国では結婚する以外に 姓が変わることはないのだから、姓が変わっていれば、

結婚しているはずだ」などということも可能である。

従って、これらのダロウ類の述語は f の逆関数を用いた abduction をハズダを

用いて表現することが可能であることがわかる。

さて、このようなノダロウ、ニチガイナイ、ハズダにかかわる abduction とヨ

ウダ類のそれとは同じものであろうか。1 節で見たスコープに関する議論は、

アブダクションの解釈でも成り立つ。たとえば、次のような推論を考えよう。

(49)

f:公定歩合が上がれば、景気が悪くなる。

x:景気が悪くなった

----------

y:公定歩合が上がった。

これは、f の逆の知識を使った推論であり、abduction である。このとき、y を

次のように言うことが可能である。

(50) 景気が悪くなったのなら、公定歩合が上がったのだろう。

さて、このとき、小前提を A が、帰結を B がいうことが可能である。

10
ハズダと他のダロウ類との違いは、ハズダが 一般的な条件的知識を 必要とするのに

対 し、 他のダ ロウ 類が個 別的 な知識 でよ いとい うこ とのよ うで ある。

66
(51) A: 景気が悪くなったよ。

B: じゃ、公定歩合があがったのだろう。

また、相手がいった小前提を繰り返すことも可能である。

(52) A: 景気が悪くなったよ。

B: 景気が悪くなったのなら、公定歩合が上がったのだろう。

しかし、同様のことをヨウダ類のモーダル述語で行うことはできない。

(53) A: 景気が悪くなったよ。

B: #じゃ、公定歩合が上がったようだ。

(54) A: 景気が悪くなったよ。

B: #景気が悪くなったのなら、公定歩合が上がったようだ。

11
(53 )、 (54 )では、Bの発言はAの発言からの推論とはみなせない 。つまり、ア

ブダクションをあらわしているといってもダロウ類はあくまであらたに与えら

11
「( の )なら 」は 相手が 言っ たこと をい ったん 受け 入れて 、そ れから 推論 を行う 形

式であるため、モーダル述語のスコープには入らない。「(の)なら」の制約に関し

て は 、有田 (2004)参照 。(48)で、前件 を「たら」「 れば 」の 形式 にすれ ば 、前件を ヨウ

ダ類述語のスコープ内にいれることができる。その場合は、条件文は一般的な知識を

表 すこ とにな り、 さらに 認容 性が落 ちる 。

ⅰ ) A: 景 気が 悪くな った よ。

B: #景気 が悪 くな (っ てい) れば 、公定 歩合 が上が った ようだ 。

67
れた情報から推論により、未知の帰結を導出するのであり、ヨウダ類はそうで

はないのである。 すなわち、ダロウ類は、話し手の現実、あるいは仮に受け入

れた前提から想定できる推量、予測などの仮想的状況への構成に関わり、基本

的には仮想的な命題につけられる。ヨウダ類は、反対に、認知的な体験や、仮

に受け入れた現実の状況を生じさせる原因となる状況の構成にかかわると考え

られる 12 。

ダロウ類は、知識から推論により非可視領域方向、すなわち、発話現場から

離れた状況、未来状況、仮想状況を構築する際につけられ、ヨウダ類は、眼前

の現実を眼前でない現実からの反映として見る形の推論である。

先のスコープの現象と合わせてみるときダロウ類とヨウダ類の解釈は次のよ

うに考えることができる。まず、ヨウダ類は現在の状況がどのような性質を持

つものかを叙述するものと考えることができる。これに対してダロウ類は、前

提となる状況から投射できるある非可視領域の状況がどういう性質を持つかを

叙述するものであると考えられる。これは (55)のように表せる。

(55) A: [現在の状況は[P ヨウダ]]

B: [前提となる状況から[想定できる仮想状況は P ダロウ]]

従って、ヨウダ類が現実の状況の構成に関わる言明であるのに対し、ダロウ類

12
こ の こ とは、観察 され た現 実を生 じさ せた原 因を 現実に 対す る説明 とし て提示 する

ことであり、まず現実を「説明されるべきもの」として捉える必要がある。従って、

他に、説明を表すとされる「のだ、わけだ」、場合によっては「にちがいない」も現

状 から、その 原因 を推察 する 行為に 関係 する表 現と なる。従 って ダロ ウも「 ノダ ロウ」

と すれ ば可能 であ る。こ こで は寺村 (1984:6 章 )のいう 説明 のム ードを あら わすも のと

してヨウダ類を捉えることになるかもしれない。寺村は、ヨウダ類はダロウ類ととも

に概言のムードをあらわすものとし、ハズダに関しては説明のムードを表すものとし

て いる 。

68
は現実の可視的状況と分岐した別の状況(離れた場所、未来、仮想など)の構

成に関わる言明である。このことから、ダロウ類が反事実条件文の帰結に使用

できるのに対し、ヨウダ類が使用できないことを説明できる。

(56) a. もし山田が助けてくれなかったら一家は路頭に迷っていた{だろう、

はずだ、かもしれない}。

b. ??もし山田が助けてくれなかったら一家は路頭に迷っていた{ようだ、

らしい}。

ダロウ類は反事実的な解釈が可能であるのに対し、ヨウダ類はこの場合条件文

自体が不自然で、反事実的解釈では非文である。このことは、次のように実際

に起こ った 状況を 明示 的に述 べれ ばはっ きり とする 。 (57)は、条 件 文をヨ ウダ

のスコープ内に入れる解釈では非文である。

(57) 山田が助けてくれて良かった。

*[もし、山田が助けてくれなかったら、一家は路頭に迷ってい]たようだ。

これは、ダロウ類が前件を加えた上でそこから構成できる拡張した状況である

仮想状況を導入するのに対し、ヨウダ類には前件を加えた拡張が関与しておら

ず、仮想の状況を導入することができないということから説明できる 13 。

ここで推論の方向性からたてたヨウダ類に関する統語構造と意味的制約は必

要な変更を加えれば、伝聞のラシイ、ソウダでも成り立つ。ヨウダ類は観察さ

れた状況や認知した体験と非可視的で非眼前の状況とを結びつける機能を持つ。

13
反 事 実 条件 文の 構成に 関し ては、Fauconnier (1997)参照、お よび、本 稿 5 章、6 章参

照。

69
ラシイ、ヨウダに関しては、語彙的な意味からなんらかの形で推論を発火する

用法を持つのに対し、ソウダを文末に用いた文では、そのような推論を発火す

る用法を持たないと考えることができる。ラシイの伝聞用法や、ヨウダの比況

の用法には特に推論が関わっていないとすることもできるが、その場合でも、

これらのモーダル述語に対する意味的制約は共通していると見ることを可能に

する。これらの述語類も現実の状況の構成に関わり、眼前の状況と非眼前の状

況との関係を指定するものと考えられるのである。

この立場から、伝聞のソウダ、ラシイと比況のヨウダに「どうも」がつきに

くい理由を次のように考えることができる。「どうも」は、話し手が観察した

状況や認知した体験があることを前提とする。その際の、操作は基本的には、

自分の出した仮説と観察等によって得られた認知体験とのすり合わせに関わる

といってよい。言いかえれば「どのように考えても」「どのようにやっても」

という意味である。伝聞や比況には話者の方で解を探す操作は含まれておらず、

仮説と観察の刷り合わせが含まれていないため、「どうも」とは共起しないの

である。

6 節で、これらの用法がそれぞれのモーダル述語の語彙的意味からどのよう

に導出されるかを見る。

3.6 「今ごろ」とモーダル述語

以上ダロウ類とヨウダ類の条件文における振る舞いの違いを見た。ダロウ類は

話し手に見えている現実の状況と別の状況が想定され、その状況に言及する。

ヨウダ類では現実の状況に言及して、それを生じさせた原因となる状況を想定

し、その状況に言及する。従って、ダロウ類は非可視的知識から非可視的知識

を導出し、ヨウダ類は知覚された現実の状況から非可視的な現在の状況を推論

するときに用いられる。以下では、この違いがもっとも明確に生じる状況、す

なわち、発話時現在におけるダロウ類とヨウダ類の違いを見ることにする。

70
(58) 田中はいまニューヨークに着いただろう。

(59) 田中はいまニューヨークに着いたようだ。

(58)、 (59)は ど ち ら も 発 話 時 に 田 中 が ニ ュ ー ヨ ー ク に 着 い た こ と を 述 べ て い る

が、ダ ロウ を用い た (58)は多少 の 不自然 さが ある。 「い ま」と いう 言葉の 使用

は、発話時現在を指すと同時に、発話者のいる発話場所、さらに、話し手が直

接経験できる可視領域が含まれていると考えられる。従って、発話時現在にお

ける実際の「田中のニューヨークへの到着」という出来事に関する情報は、通

常、実際に観察するとか、電話で観察した人から情報を得るとかができなけれ

ば、す なわ ち可視 領域 におけ る情 報がな けれ ば得ら れな いため 、 (58)の文では

「ダロウ・デショウ」の予測の意味とはそぐわないのである。そこで (58)の可能

な解釈は、発話の現場で田中の到着を予測するという解釈、例えば、ある種の

予感のようなもので田中の行動を計算し、発話時現在にニューヨークに着いた

ことを確信したといった無理のある解釈になってしまう。一方、「いま」を使

っても、「田中さんはいまニューヨークに着いたでしょう?」と疑問文にする

とか、「田中はいまニューヨークにいるでしょう」のように「いる」の形にす

れば問題ない。前者は、聞き手が直接の知識を持っていると想定される場合に

自然であり、後者は、発話時現在において話し手のいる場所から単に田中の所

在を予測、想像することは可能であるからである。

さて、これに対しヨウダ類は、「いま-着いた」の形が可能である。

(60) 田中はいまニューヨークに着いた{ようだ、らしい、そうだ}。

(61) 田中はいまニューヨークにいる{ようだ、らしい、そうだ}。

このことは、ヨウダ類が発話現場についての記述であることを示唆している。

「田中の到着」自体は発話現場には存在しない事態であるのだが、「いま田中

がニューヨークに着いたらしい」によって表される状況は発話現場から可視的

な状況、すなわち、直接知りうる知識が関わっている状況であるといえる。こ

71
こ で 、 「 い ま 田 中 が ニ ュ ー ヨ ー ク に 着 い た ら し い 」 は 、 斎 藤 (2004)に 従 い 、 あ

る前提のもとで「いま田中がニューヨークに着いた」が生じていれば必ず生じ

る状況、例えば、信頼の置ける人から報告を受けたとか、テレビで到着を見た

とかを示すとしよう。このとき報告者への信頼が高いとか、報告が義務的であ

るとか、テレビの報道を信じやすい人であればラシイを使って他者からの報告

を真実として述べることができ、その構造は[現在の現場の状況は[いま田中が

ニューヨークに着いたらしい]]とでも表される。つまり、この文は「現在の現

場の状況は、ある語用論的前提のもとで「いま田中がニューヨークに着いた」

場合に必ず起こる状況の部分集合である」という主張、となる。ヨウダ、ソウ

ダも同様に分析される。ヨウダは、[現在の現場の状況は、[いま田中がニュー

ヨークに着いた]なら引き起こされる状況の部分集合である]とでもなり、通常

は、誘導推論によって田中がニューヨークに着いたことを主張する文となる。

ソウダの場合は、[現在の現場の状況は報告によれば[いま田中がニューヨーク

に着いた]状況である]とでもなるであろうか。

さて、ダロウ類とヨウダ類の違いは、「いま」ではなく、「今ごろ」を使っ

た場合により鮮明に現れる。

(62) 田中は今ごろニューヨークに着いているだろう。

(63) 田中は今ごろニューヨークに着いているようだ。

(62)、(63)の「今ごろ」は両者で音声、解釈ともに異なる。(62)では、「今ごろ」

は卓立なしで発音することが可能で、発話現場から離れた場所で起こっている

ことを想像している文である。これに対し、 (63)は、音声的卓立なしでは不自

72
然であり、「今ごろ」の部分を強く、高く発音して田中のニューヨークへの到

着が予定より遅れていることを意味するのが普通である 14 。

同様の区別が、ダロウ類とヨウダ類のほかの成員でも見られる。

(64) 田中は今ごろニューヨークに着いている{かもしれない、はずだ}。

(65) 田中は今ごろニューヨークに着いている{らしい、そうだ}。

また、「今ごろ」を含む文では、ダロウ類が「ている」形が自然で、「た」

形は多少意味が取りにくいのに対し、ヨウダ類はどちらかといえば「た」形の

方が自然である。

(66) ?田中は今ごろニューヨークに着いただろう。

(67) 田中は今ごろニューヨークに着いたようだ。

また、基本形ではダロウ類はかなり不自然になる。

(68) ?田中は今ごろニューヨークに着くだろう。

(69) 田中は今ごろニューヨークに着くようだ。

例えば、田中の出発の時間と関西空港からニューヨークからの所要時間を知っ

ていれば、到着の時間は予測できる。発話時現在でこの予測が妥当であること

を述べ た文 として (68)は使用 でき 、「今 ごろ 」はこ の予 測的状 況の 中で発 話時

に対応する時間を述べた表現として使われている。「今ごろ」が解釈のために

14
人 に よ って は「 今ごろ 」に 卓立を 置か なけれ ば、「最近 」「 近頃」のよ うな現 在時

を 含む すこし 幅を もった 時間 に解釈 され るよう であ る。

73
並行する時間領域を必要とすることから、上のパラダイムは、ダロウ類が話し

手の可視的現実から非可視的領域を予測、想像、推量している命題に付くとい

う性質を持っていることと並行している。また、「今ごろ」はダロウ類ととも

に使われると現実と対応する非可視領域で成立している状態を述べるのが普通

であり、基本形が多少不自然なのはそのためである。

これに対しヨウダ類では、「今ごろ」は離れた場面の状況ではなく、明らか

に現状について述べた文になり、ここでは到着がスケジュール通りでないこと

を表す。

ここで田窪・笹 栗(2001)の「 今 ごろ」解釈に関わる研究を紹介し、どのよう

にして上記の解釈が生じるのかを見よう。「今ごろ」は、発話時をスケール上

で評価し、発話時が持つ値をスケール上での性質に変えるという機能を果たす。

このため、発話行為が行われれば自動的にその値が固定する「いま」と異なり、

「今ごろ」は取る領域により値を変えることができる。発話時を表す「いま」

は、その値を文脈で与えるためにはスケールという概念は必要ないが、「今ご

ろ」を「いま」の値から計算して解釈を与えるためにはスケールが必ず必要に

なる。このスケール領域は3種類ある 15 。

一つは、周期的な時間スケールで日、年などがそれにあたる。例えば、「来

年の今ごろ」であれば、1年のなかで「いま」が位置づけられる時間的性質が

「今ごろ」の意味となる。つまり、発話時が1年の初めであれば、来年の始め

ごろを指すことになるわけである。日でも同様である。日、年は一つ一つの構

成要素が同じ構造をし、初めと終わりが定義される。スケール的な値を与える

ためにはスケールの片端があればよいので、次のような始めだけが問題にされ

15
時間スケールと時間スケール上で同定される出来事の性質からこの3つしかない

ことが予測できると思われるが、いまのところはっきりしないためここでは論じない

こ とに する。

74
る場合も可能である 16 。

(70) 今度の課長は仕事の覚えが遅い。前任の田中課長は今ごろもう部下の仕事

の内容を把握していた。

課長の交代は周期的に行われるわけではないが、交代の最初の時点を合わせれ

ば両者の仕事ぶりの比較が可能である。ここで重要なのは、二つの異なる系列

が最初だけを合わせて比較され、今度の課長における発話時現在が、別の課長

における対応する時期と同一視されているということである。このスケール導

入の型が基本的にダロウの場合に関与している非可視領域における予測的文で

も用いられていると見ることができる。すなわち、田中の関西空港出発時間を

基点として、現在時を位置づけているのである。

(71) 田中は今ごろニューヨークに着いているだろう。

このことがもっとはっきりする例を見て見よう。関西空港-ニューヨーク直行

便がなくなったため、今年からサンフランシスコ経由でしかニューヨークに行

けなくなったとする。この場合に次のように言うことができる。

(72) 去年だったらもう今ごろニューヨークに着いているだろう。

16
こ の 例 はGilles Fauconnierの ア ドバイ ス( 2001 年 2 月 27 日個 人談 話)に 基づ いて い

る 。Fauconnierの 例は 以下 のよ うなも ので あった が、大 統領の 任期 は決ま って いるの で、

任 期が 特定さ れな い場合 に変 えた。

ⅰ ) Bush is slow. Clinton had achieved much more at this time.

75
この場合は、去年の行程と今年の行程を同時に比較して、関西からの時間をは

かり、出発から 12 時間といった行程上の位置に発話時を位置づけている。ここ

では空の交通機関に関する現在の状況と去年までの状況という二つの状況が並

行して考えられ、そこで、一つの共通の基点が設定されてスケールが定義され

ている。これを「行程スケール」とでも呼ぼう。

両端を持つ周期的なスケール、二つの並行する世界における基点からの時間

的進行である行程スケール以外のもう一つの可能性はスケジュール上での位置

づけである。スケジュールは時間軸とその上に配置された出来事の組み合わせ

が関与しており、時間軸と時間軸上に配置された出来事の順序からなる。また、

スケジュールは予定とその実行が存在し、この2者を比較することができる。

さらに、スケジュールは両端を持ち、すべての予定が決定している場合から、

約束などのように単に時間と一つの出来事がペアになっている場合までがある。

「今ごろ」の周期的な用法は、ダロウ類、ヨウダ類ともに使える。しかし、

行程スケールはダロウ類でしか使えず、ヨウダ類では「今ごろ」は周期的なス

ケールでなければスケジュールスケールで解釈され、行程スケールでは解釈で

きない。このことは、行程スケール、スケジュールスケールの性質とダロウ類、

ヨウダ類の性質から来ていると考えられる。

行程スケールは、先にも述べたように性質の異なる二つの別の状況を設定す

ることが前提になる。二つの行程は同じ時間的位置を持ち、かつ、その位置で

別の状況が生じていること(あるいは、それが可能であること)が行程スケー

ルの定義的性質であるからである。従って、非可視的な状況を設定するダロウ

類がこのスケールを導入することができるのに対し、ヨウダ類は現実状況しか

設定しないためにこのスケールは導入できないのである。さて、スケジュール

スケールの特徴は、その定義的性質から理想的なスケジュール実行である「予

定」と実際の実行という二つのスケールが一つの状況に融合しているというこ

とである。すなわち、スケジュールという概念は、計画の際は、未来の予定で

あるが、実際に実行の段階では、現実の時間の上で起こるように構成されてい

るのである。このためにヨウダ類でもスケジュールスケール上では「今ごろ」

76
が使用できる。スケジュールスケール上の時点を同定する「今ごろ」は基本的

に現在時を同定しているからである 17 。

さて、最後に、スケジュールにおける「今ごろ」がなぜ「遅すぎる」という

ニュアンスを持つのかを見てみよう。スケジュールは、<時間スケール、時間

スケール上の予定時間、予定時間に起こるべき出来事>からなるが、実際の出

来事は、その時間スケール上に書きこまれ、その出来事の予定の時間と比較さ

れる。一種の、競争のスキーマが導入されて、予定時間と実際の実行時間が競

争するわけである 18 。

スケジュール上の実行段階では、ある時点をある出来事との関連で取り上げ

ることは、その出来事が予定どおりか、予定より遅いか、予定より早いかの3

種類となる。予定通りであれば、とくに述べる必要はない。従って、予定から

のずれを述べるのが通常である。スケジュールは前もって立てられた明示的な

ものであれば予定が未来であってもよいため、問題となる出来事が予定と関連

して早すぎる場合も述べることができる。

(73) 会議は 3 時ですから、今ごろ来てもだれもいませんよ。

17
こ こ で 述べ たス ケジュ ール の考え 方は 田窪・ 笹栗 (2001:5 節 )の述 べ方 と多 少異な っ

ている。田窪・笹栗では、予定の方を仮想の状況ととっており、仮想状況から現実の

方 の時 間を同 定す るよう な述 べ方を して いる。こ こで は、Fauconnier (1997)の融合 の概

念を用い、予定と実行が融合した時間スケール上で「今ごろ」の意味を考えることに

す る。
18
Fauconnier (1997:1 章)参 照。

77
通常は、このような明示的な予定ではなく、約束時間などが問題になるのなら、

遅すぎる方が普通になる。

(74) 田中は今ごろニューヨークに着いた。

(67)で 見た ように ヨウ ダ類の 助動 詞を付 けて も同じ よう な解釈 とな る。す なわ

ち、「今ごろ」が同定する発話時のスケジュールスケール上の位置は予定(こ

れは話し手の期待により設定されている)より遅いのである。

(75) 田中は今ごろニューヨークに着いているようだ。

以上「今ごろ」がスケジュールスケールで解釈される場合、スケジュールの定

義的性質より現実の時間軸上で解釈されねばならないことから、ヨウダ類は現

実の状況に言及することが示される。

3.7 モーダル述語の意味解釈と知識領域

これまでの二つのモーダル述語類の特徴づけをもとにこれらがどのような知識

にもとづいて推論を行っているかを談話管理的な観点から見て、これを多少単

純化した構成的意味論により記述することをこころみる。

3.7.1 ダロウ類のモーダル述語の意味解釈

まず、ダロウ類のモーダルは次のような制約がある。

(76) ダロウ類モーダルの制約:補足節が D-命題であってはいけない。

「はずだ、わけだ」を除いてダロウ類のモーダル述語の補足節は I-命題である。

78
つまり、ダロウ類のモーダルは、話し手が真偽を直接知っている命題を取るこ

とはできない。

ダロウ類のモーダル述語は f のような知識ベースと照らしあわせることで、

どのような推論が可能であるかを表したものということができる。この知識ベ

ースは発話時現在で話し手がアクセスできる知識である。ここでの推論は、知

識ベースに新しい知識を加えて、そこから導出できる知識を表す。さて、f は

命題の集合であり、世界の集合の集合とみなすことができる。新たに付け加え

られた小前提はこの世界を限定する機能を果たす。条件文、理由文などが新た

に付け加えられた場合、その記述をもとに世界の集合の集合を限定する。これ

らは、世界の集合に関する一般化量化詞としてあつかわれる方法が使われる。

たとえば、一般知識を表す条件文「p たら・れば q」が成立しているとすると

問題となるモーダルベースでは{Wp}⊂{Wq}という制約があることを表す。

この知識が与えられ、かつ、p であることがわかると、この制約に従って、問

題となる世界 w に関して、w∈Wq であることが保証される。

ところで、実際には、日常生活に関わる知識がモーダルベースになるとき、

この推論 は 100%確 信が持てる ものではな く、知識に よって信頼 度やアクセ ス

の仕方が異なる。ダロウ類のモーダル述語は問題となるモーダルベースの性質

を現していると見ることができる。たとえば、次のように「記憶」や「記録」

が問題になる場合、ハズダは許されるが他のダロウ類のモーダルは不自然にな

る。

(77) 僕の記憶によれば、田中はいなかった{φ、はずだ、??かもしれない、??

にちがいない、??だろう}。

(78) この記録によれば、田中はいなかった{φ、はずだ、??かもしれない、??

にちがいない、??だろう}。

記憶や記録は、すでに決定した出来事の集合であり、その記録や記憶の正確

さに対する信頼とそれとつき合わせて出される結論の確信度は相関する。自分

79
の直接関与した記録や、はっきりとした記憶であれは確信度は高い。論理、規

則、自然法則に対する知識などもほぼ同じ性質を持つ。認識的推論がこのよう

なモーダルベースに照らしあわせてなされるときハズダが使われると考えられ

る 19 。

さて、ダロウ類のモーダルは、量化のモーダル副詞が付くが、これらとの共

起関係はモーダルによって異なる。

(79) {??ぜったい、?きっと、?多分、?おそらく、ひょっとすると}こないか

もしれない。

(80) {ぜったい、きっと、多分、おそらく、??ひょっとすると}こないにちが

いない。

(81) {ぜったい、きっと、多分、おそらく、ひょっとすると}こないだろう。

(82) {ぜったい、きっと、多分、おそらく、?ひょっとすると}こないはずだ。

(83) {?ぜったい、?きっと、?多分、?おそらく、ひょっとすると}こないかも

しれない。

モーダルに関わる形式意味論的研究では、モーダル述語は、世界に関する量化

が関わるとされる。カモシレナイ、ニチガイナイに関してはこの考え方でほぼ

あつかえる。

た と え ば 、 問 題 と な る 参 照 世 界 を w 0 と し て そ こ か ら 関 係 ρに よ っ て ア ク セ ス

できる知識の集合があるとする。この知識の集合は、命題の集合、すなわち、

世界の集合の集合として表すことができる。さて、ダロウ類のモーダル述語、

カモシレナイ、ニチガイナイはこの命題の集合と、モーダル述語が付く命題が

表す世界との共通集合に関する量化としてみることができる。

19
ハ ズ ダ は、「 たし か」と いう ほかの モー ダルと 共起 しない 副詞 と共起 する ことが で

きるが、「たしか」は基本的には、記憶と照らしあわせることの談話標識とみること

が でき る。

80
pダロウ類の述語は、wから到達可能な知識の集合f(w)とpに対して、D-命題で

あってはいけないという制約をかける 20 。

ダロウ類のモーダル述語はこのようにアクセスされる世界が可視的な世界で

はいけないという制約のもとでの推論からの帰結に付くと考えられる。

3.7.2 ヨウダ類のモーダル述語の意味解釈

これに対して、ヨウダ類のモーダルは次のような制約がある。

(84) ヨウダ類モーダルの制約:補足節が I-命題であってはいけない。自身は

D-命題を構成する。

これまでの議論から、ヨウダ類のモーダルは原則的に話し手の現実の状況を表

しているということができる。つまり、「p-ヨウダ類」は文自体が現実の状況

に関する描写であると考えられるのである。D-命題は話し手にとって談話の初

期値に存在するものでなければならず、相手の発言や、推論によって得られた

知識であってはいけない。1 節でみた、ヨウダ類の特徴から、相手によって提

供された知識が推論のための小前提として受け入れられることがないという事

実は、それ自身が D-命題であるということから生じる。「p ノナラ q ヨウダ」

という形式の文で、「q ヨウダ」が D-命題であると、「q ヨウダ」であること

を知っていて、q ヨウダを大前提と p⊃q からという小前提からは導出すること

になる。大前提を A とすると、q∈A のとき「q ヨウダ⊃(p⊃q ヨウダ)」は恒

に真であり、この推論に情報量はない。

このヨウダの制約は、ヨウダ類の述語が、D-スペースに関わる述語づけであ

ることから生じる。可視的な現実に対してたとえば、「雨が降ったようだ」の

ような文は次のような構造をしていると考えられる。

20
こ の点 に関 する 考察と 形式 化に関 して はHara (2006a, b)を 参照 。

81
(85) [△ [[雨が降った]ようだ]]

このうち△は音形を持たない主語で、[雨が降ったようだ]によって述語づけさ

れる現実の状況に相当する。[雨が降ったようだ]自身は、D-命題を表し、「水

溜りができている」、「湿度が高い」「葉っぱがぬれている」など、現実に生

じている状況を表す。さらに[雨が降った]は、その状況を生じさせる状況を表

すとすることができる。

斉藤(2004)は、ヨウダは一般に p が表す状況が p ヨウダがあらわす眼前状況

の十分条件と、またラシイは反対に p が表す状況が、p ラシイが表す状況の必

要条件とみなすことができると主張している。たとえば、「雨が降った」は、

「雨が降ったようだ」によって表される眼前の状況の十分条件、「雨が降った

らしい」によって表される眼前の状況が「雨が降った」ことの必要条件とみな

される。

この関係は次のように表すことができる。この性質は、ヨウダ、ラシイ、ソ

ウダの語彙的性質から生じると思われる。P ヨウダの基本的な意味は「P のよ

うに見える」という意味である。同様に P ラシイは、「P の典型的な性質であ

る」という意味であり、現在の状況の成立には P である必要があることを表す。

また、伝聞の P ソウダ(以後ソウダ 1)は「P という情報を得た」という意味

であると考えられる。これらの述語は補足部を取って話し手の現実の状況を述

語づけしている。これを次のように表そう。

(86) ヨウダ:λP. λw. [P⊃look-as-if(P) ] in w

(87) ラシイ:λP. λw. [¬P⊃¬(Proto(P))] in w

(88) ソウダ 1:λP. λw. [info(P)⊃P] in w

このようにこれらの語彙を特徴づければ、その振る舞いを捉えることができる

ことを示す。例としてヨウダの場合をみよう。上のような関係があるとき、p

である状況が存在すれば当然 p であるように見えることが予測される。しかし、

82
もちろん逆は成り立たないので、p が起こった状況に似て見えても p が起こっ

たとは限らない。そこで、この二つの場合を見てみる。まず、話し手が現実状

況で p(=「台風が来た」)でないことを知っているとしよう。

(89) 台風が来たようだ。

話し手 が「 台風が 来た 」が偽 であ ること を知 ってい る場 合 (89)の解 釈はど うな

るであろうか。 (89)の構造は次のようになる。

(89)' [△ [[台風が来た]ようだ]

「台風が来たようだ」の意味解釈は次のようになる。

い) ヨウダの意味:ヨウダ:λP. λw. [P⊃look-as-if(P) ] in w

「台風が来た」の意味解釈をPに代入すると

ろ) 「台風が来たようだ」:λP. λw. [P⊃look-as-if(P)] in w(||台風が来た||)

Pに、「台風が来た」の値を入れるとλ転換により次のようになる。

は) λw.[||台風が来た||⊃look-as-if(||台風が来た||)in w)

△を現 実の 状況と 解釈 すると (89)は次の 状況 を表し てい る。つ まり 、現実 の状

況rは台風 が来ればそのように見える世界であることを示していることになる。

に) r∈λw.[||台風が来た||⊃look-as-if(||台風が来た||)in w]

83
ここで「台風が来た」が偽であると、単に現実世界で「台風が来た」場合に似

た状況があるという意味、すなわち比況になる。

次に「台風が来た」が真であることを話し手が知っている場合は、「台風が

来た」の方が「台風が来たようだ」より情報量が多いので、グライスの量の公

準から「台風が来た」と言うべきであり、「ようだ」をつける理由はない 21 。

さて、「台風が来た」ことを話し手が知らないとしよう。そして、ヨウダの性

質より、look as if(||台風が来た||)は話し手が知っているとする。このとき、「台

風が来たように見える」ことから「台風が来た」ことを推論することが可能で

ある。これはたとえば、「窓が開いている」という状態から、「窓が開く」と

いう状態変化があったことを推論するのと変わりない。つまり、⊃がより強い

意味を持ち、p⇒qというある種の因果的関係があるときに、qの存在からpの存

在を推測するという行為である。このときqは発話現場に存在している必要があ

るが、pの存在は前提となっておらず推測されている。しかし、⇒が因果関係で

あるかぎり、pはすでに起こっていることが前提となる 22 。従って、pもIではな

く、R-Dの状況、すなわち、現実の状況で話し手が直接知らない命題というこ

とになる。

このように考えるとこれまで見てきたヨウダ類の性質は説明できる。ヨウダ

類の補足部は R-D、ヨウダ類自身は D に属する知識を表しているとすると、

条件文は R-D に属することになる。このとき条件文は一般知識の解釈しかで

きない。R-D に属するということはすでに真偽は決まっているからである。

真偽が決まって、その真偽をしらない条件文は一般知識に属するものしかない

からである。また、条件文の帰結部分だけをスコープに入れることができない

21
ヨ ウダ の解 釈を グライ スの 量の公 準と 結び付 ける 議論は 齊藤 学氏の 提案 による 。

22
ヨ ウ ダ の 推 論 の 用 法 に 関 し 、 因 果 関 係 の 前 件 が R- Dに 属 す る こ と か ら 、 ヨ ウ ダ の

補 足 部 が R- Dに 属 す る 命 題 を 表 す こ と が 前 提 と さ れ る と い う 一 般 化 は 上 山 あ ゆ み 氏

と の議 論によ る。

84
のは、仮定からの推論の帰結は、かならず I-命題にならざるを得ないからであ

る。

ラシイの場合もほぼ同じように記述できる 23 。

(90) [△ [[台風が来た]らしい]

い) ラシイの意味解釈:λP. λw. [¬P⊃¬Proto(P)] in w

ろ) 「台風が来たらしい」:λP. λw.[[¬P⊃¬Proto(P) ] in w](||台風が来た||)

は) λ転換:λw.[¬||台風が来た||⊃¬Proto(||台風が来た||)] in w

に) [△ [[台風が来た]ラシイ]の意味解釈

r∈λw.[¬||台風が来た||⊃¬Proto(||台風が来た||)] in w

この文は、眼前の世界 r は台風が来ていなければ起こらないような世界である

ことを意味する。この場合も現実に生じている状況の観察から、その原因を推

測するというabductionが関わっている。ヨウダの場合と同様に「台風が来た」

はR-Dに属する命題となる 24 。

23
斉 藤 (2004)の 記述 を元に した もので ある 。

24
齊 藤 (2004) に よ れ ば 、 ラ シ イ と ヨ ウ ダ の 語 彙 的 特 徴 づ け の 違 い に よ り 、 森 田

(1989:1185)の 次の ような 観察 が説明 でき るとい う。

ⅰ ) (胃 の辺り を指 して )どう もこ のへん が痛 い{ a.#ラ シイ、 b.ヨ ウダ }。

「 本稿 の捉え 方か らする と,(ib)はお よそ「 眼前 世界 は,『 この へんが 痛い』が必 然で

ある世界である」となる.つまり,他の場所が痛いということは無い状況であると述

べていることになり,このことが言えるためには痛い可能性のあるすべての場所を精

査 し て い な け れ ば な ら な い . し か し , (i)の よ う な 発 話 は 通 常 そ の よ う な こ と を し た後

に なさ れない ため ラシイ は不 自然に なる と説明 でき る.ま た, 逆に精 査を した後 の発

85
ソウダの場合はとくに推論が関係しているのではないが、問題となる知識の

位置関係はこれらと変わらない。伝聞の p ソウダは、p がテンスを含み、言語

的な情報であることを表す。そこで p という言語情報を得たことを表すことに

する。この言語情報を得たというイベント自体は、認知主体の現実に起きたこ

とである。言語情報を得たことを info という関数であらわすとする。

(91) [△ [[台風が来た]そうだ]

い) ソウダ 1 の意味解釈:λP.λw.[ info(P)⊃P ] in w

ろ) 「台風が来たそうだ」:λP.λw.[[ info(P)⊃P] in w](||台風が来た||)

は) λ 転換:λw.[ info(||台風が来た||)⊃||台風が来た||] in w

に) [△ [[台風が来た]そうだ]の解釈

r∈ λw.[ info(||台風が来た||)⊃||台風が来た||] in w

ソウダ 1 の場合、現実に存在するのは伝聞行為であり、伝聞により伝えられる

情報は R-D にある。この場合、伝聞行為と伝聞情報の間に因果関係はなく、

推論は発火しない。

最後に連用形+ソウダ(以後ソウダ 2)の例を見てみよう。この表現はこれ

まで見たのものなかでは特殊であり、補足部が I-命題をとり、全体は D-命題と

なる。

(92) 雨が降りそうだ。

話 で あ る と 考 え れ ば (i)の ラ シ イ 文 は 自 然 に な る こ と が 予 測 さ れ る が 実 際 こ の 予 測 は正

し いと 思われ る. 」(齊藤 2004:55)

86
「雨が降る」という自体は未来の状況で特にスケジュールで決まっているわけ

でないため発話時現在で決定していない命題である。しかし、「どうも」「ど

うやら 」が つくこ とで わかる よう に、 (92)は 、発話 時現 在の状 況を 描写し てい

る。このソウダ 2 は次のような意味を持つと考えよう。まず、ソウダ 2 のとる

補 足 節 は 動詞 が 連 用 形で 終 わ る ので 、 wの 集 合 で な く 、未 来 の 時 間の 集 合 を 表

すとする。以下のDispoはそのような性質を持つということ意味するとする。

(93) ソウダ 2:λP. λt. [[Dispo (P) in t ⊃P in t'] ∧ t<t' ]

ソウダ 2 は、現実の状況や性質から未来の状況を予測する機能を持つ。従って

abductive ではなく、推論としては deductive であることがヨウダ類と異なる。

しかし、ソウダまでを含む文自体は D-命題であり、「きっと」「たぶん」など

の副詞はソウダと共起しない。これがダロウ類との違いである。

3.8 モーダル述語の統語構造と意味解釈

ダロウ類のモーダルのうちダロウは特殊な位置を占めている。まず、金田一

(1953)が 示 し た よ う に 、 ダ ロ ウ は テ ン ス の 区 別 を 持 た ず 、 終 止 形 ・ 連 体 形 以 外

の活用形を持たない。次に広く知られているように、ダロウだけが自然な疑問

形を持つ。疑問形は「か」を伴うものと伴わないものがあり、それぞれ質問と

いうより、疑念、聞き手に対する確認の意味を持つ。

z 疑念

(94) 彼も行くだろうか

(95) 彼も行く{??はずか、?かもしれないか、?にちがいないか}

z 確認

(96) 君も行くだろう?

87
(97) *君も行く{はず、かもしれない、にちがいない}?

また、カモシレナイ、ニチガイナイは、それが共起するモーダルの量化副詞は

限られているのに対し、ダロウはどの量化副詞も許される。

(98) 彼は{きっと、?多分、??ひょっとすると}来ないにちがいない。

(99) 彼は{??きっと、?多分、ひょっとすると}来ないにかもしれない。

(100) 彼は{きっと、多分、ひょっとすると}来ないだろう。

これらのモーダル述語は、相互に重ねることができるが、{カモシレナイ、ニチ

ガイナイ}-{ハズダ、ダロウ}の方が、その反対よりはるかに自然である。

(101) 将来は月に観光旅行に行けるようになるかもしれない{はずだ、だろう}。

(102) この看板を見れば、多くの人がきっとごみをすてるのを思い直してくれる

にちがいない{はずだ、だろう}。

これに対し、カモシレナイ、ニチガイナイはダロウ、ハズダで終わる補足節を

とるのは多少不自然である 25 。

(103) ?この看板を見れば、多くの人がきっとごみを捨てるのを思いなおしてく

れるはず{かもしれない、にちがいない}。

(104) ?この看板を見れば、多くの人がきっとごみを捨てるのを思いなおしてく

れるだろう{かもしれない、にちがいない}。

ダロウの上の性質は、実はダロウがなくとも生じる。

25
実 際 に は、「はず{か もし れない 、にち がい ない}」「 だろ う{か もし れない 、に

ち がい ない} 」と もに、 googleの 検 索に よれば 使用 例があ る。

88
z 疑念

(105) a. 彼も行くか

b. 彼も行ったか。

z 確認

(106) a. 君も行く?

b. 君も行った?

ダ ロ ウ と 交 代 す る こ の ゼ ロ の 位 置 を φと 表 す こ と に す る と 、 こ の 位 置 は 、 命 題

に主張などの発話の力を加える位置、としてみることができる。次に、疑念と

か確認の発話の力を与える位置もあるとしよう。この位置はカなどと交代する

位置とする。終助詞はこのあとにつく。このようにすると、これらの発話の力

を持つ位置は次のような構造をしているとみることができる 26 。

(107) [S-{φ、ダロウ}]-{φ、カ}]-{φ、ヨ、ネ}]

[[B [ C ] D] E]

φ は、すべての位置でデフォールト値をあらわし、音形のある要素は何らかの

制約を課すとする。また、φ はその位置のカテゴリが選ばれないことではなく、

選ばれて音形がないことを意味するとする。

さて、この考え方ではカモシレナイ、ニチガイナイは本来モーダル述語では

なく、ダロウ以下の要素と結びついてモーダルになっていることになる。たと

26
Bは ヨ ウ ダ類 を含 む命題 核、 Cはダ ロウ 類のモ ーダ ル、Dは疑 問など の発 話の力 を現

す 接辞 、Eは終 助詞 が来る 位置 にほぼ 当す る。こ の階 層は、ダ ロウの機 能を 説明す るた

めに暫定的に設定したもので、すべてのパラダイムを説明できるようにはなっていな

い 。こ の点に つい ては田 窪 (2005)を 参照 。

89
えば、日本語では可能世界の量化に illocutionary force を与えるために、モーダ

ル要素が加わると考えよう。すると、ここには話し手によるある種の主張が加

わることになる。「きっと、たぶん、ひょっとすると」などの副詞は、この主

張の強さを量化すると考える。つまり、これらの副詞は、カモシレナイ、ニチ

ガイナイ、を修飾しているのではなく、ダロウあるいは、ダロウとパラダイム

をなす φ と結びついた「カモシレナイ-φ」「ニチガイナイ-φ」を修飾するこ

とになる。これらのモーダル副詞が、基本的には話し手指向的な

(speaker-oriented)副詞であることと相関している。主文では、「φ、ダロウ」の

投射は義務的であるため、これらの要素がモーダルの解釈をとることは義務的

である 。「 φ、ダ ロウ 」は、 それ がとる 節 が I-命 題 である こと を要求 する 。こ

の 性 質 が 、 「 φ、 ダ ロ ウ 」 と 結 合 し た モ ー ダ ル 述 語 が 量 化 可 能 で あ る こ と を 保

証する。「きっと」「たぶん」「ひょっとして」は、このようにしてできた複

合的モーダルを修飾するわけである。

この性質は量化を可能とする要素が結合しなければ生じないと考えられるた

め、ヨウダ類の要素との結合では生じないはずである。ヨウダ類は本節の分析

が 正 し け れば 、 R- Dの 命 題 で ある 。 R- Dの 命 題 は すで に 決 定 して い る という

制約があるため、基本的に定項とみなすことができ、量化はできないことが予

測されるからである 27 。また、上の分析が正しければ「カモシレナイ」「ニチ

27
ソウダは、量 化のモーダル副詞と共起するカモ シレナイ、ニチガイナイの例が存在

す るよ うであ る。 実際、 これ らの例 はそ れほど 悪く ない。

ⅰ ) ひ ょっ とする とな くなる かも しれな いそ うだ。

ⅱ ) 田 中は きっと 来な いにち がい ないそ うだ 。

これは、ソウダが終止形をとることと関係しているかもしれない。人によっては、ソ

ウダは直接引用に近い解釈が可能であるようである。その場合は、「きっとこないに

ちがいない」「ひょっとするとなくなるかもしれない」は、引用元の話者の視点から

述 べた 量化副 詞に なり、話し手 の視 点か ら述べ た話 し手指 向 (speaker-oriented)の 量 化モ

90
ガイナイ」は、ヨウダ類の補足部に含まれてかまわない。しかし、その場合は、

量化のモーダルの副詞類とは共起できなくなることを予測する。量化のモーダ

ル副詞類は主文あるいは主文に準じた節にしか生じない。カモシレナイ、ニチ

ガイナイがヨウダ類の補足部に生じた場合、ダロウ類のモーダルと結合しない

ため、これらの副詞類と共起しないからである 28 。

(108) a. 彼は東京に転勤するかもしれないようだ。

b. ??彼は多分東京に転勤するかもしれないようだ。

(109) a. 山田は東京に転勤させられるにちがいないらしい。

b. ??山田はきっと東京に転勤させられるにちがいないらしい。

ここで、「カモシレナイ、ニチガイナイ」は、日本語学でいう擬似モダリテ

ー ダル 副詞で はな いこと にな る。た だ、これら の実 例は google の検索 では 無視で きる

ほ どの 量(1 0 例 以下) であ る。

28
関係節は非制限節でも、制限節でもモーダル は入っていてもよいよ うで量化のモー

ダ ル副 詞が生 じえ る。

ⅰ ) a. 田 中は きっと この 実験に 成功 するに ちが いない 。

b. き っと この実 験に 成功す るに ちがい ない 田中さ ん

ⅱ) a. あ の人 はひょ っと すると この 実験に 成功 するか もし れない 。

b. ひ ょっ とする とこ の実験 に成 功する かも しれな い人 がいる 。

「 時 」 、 「 場 合 」 「 と こ ろ 」 「 こ と 」 な ど 寺 村 (1984)の い う い わ ゆ る 外 の 関 係 を 表 す

形式名詞が底となる連体節でもニチガイナイ、カモシレナイは生起でき、量化モーダ

ル 副詞 も生じ にく いが可 能で ある。

ⅲ ) a. 彼 がこ の実験 に成 功する かも しれな いこ とがわ かっ た。

b. ひ ょっ として 彼が この実 験に 成功す るか もしれ ない ことが わか った。

91
ィである 29 。仁田(1989)の観察に よれば過去形、否定 形 などでは、 真正モダリ

ティを表さないという 30 。確かに、上の議論からこの二つの区別は必要である

ことがわかる。本章の立場では、ダロウは、真正モダリティしか表さないが、

カモシレナイ、ニチガイナイは、ダロウあるいはダロウとパラダイムをなすφ

と結合して、真正モダリティを表すといえるわけである。ここでは、{ダロウ、

φ} は 、 話 し 手 の 発 話 時 に お け る 、 モ ー ダ ル ベ ー ス に も と づ く 認 識 的 推 論 判 断

を表すといえる。

3.9 まとめ

以上、モーダル述語の分類について論じた。ヨウダ類は現実の状況に対する

言明であり、現実の状況を生じさせた原因を述べる文に付く。従って、推論の

根拠を述べる理由文はとることができず、条件文はヨウダ類モーダル述語のス

コープ内に入り、前提として機能できない。また、現実の可視的状況と並行す

る別の状況に言及することはできないため、反事実条件文の帰結にヨウダ類は

使えず、「今ごろ」の解釈の領域は、周期的なものでなければ、スケジュール

的なものでしかありえず、行程スケールの解釈はできない。これに対し、ダロ

ウ類は現実の可視的状況とは別の状況である非可視的状況、未来の状況、仮想

的な状況に対する言明であり、現実の状況や、仮に受け入れた状況から推論な

どで投射された状況を述べる文につく。従って、推論の根拠を述べる理由文を

とることができ、条件文はダロウ類モーダル述語のスコープの外にでて、非可

29
野 田 (1989)は 、 「 発 話 時 の 話 し 手 の 心 的 態 度 を 直 接 に 表 明 し て い る 」 時 の モ ダ リ テ

ィを真性モダリティと呼び、たとえば、「たい」であれば、一人称、現在、肯定の形

のみが真性モダリティを持っているとする。これが二人称、疑問、否定になっても何

ら かの モダリ ティ を表し てい るので 、野 田はこ れは 虚性モ ダリ ティと 呼ぶ 。

30
仁 田 の いう「真 正モダ リテ ィ」は「発 話時の 心的 態度を 表す 」もの で、過去形 、否

定 形を とらな いと いう定 義な ので、 いわ ば循環 的な 特徴づ けに なって いる 。

92
視的状況を構成するための前提として働く。現在の可視的状況と並行する別の

状況に言及するため、反事実条件文の帰結に使え、「今ごろ」の解釈の領域と

して、周期的なもの以外に分岐的な状況を示すことの可能な行程スケールが使

える。

以上のヨウダ類とダロウ類の意味的、語用論的区別は、従来、ともに概言の

ムードに属するとされてきたヨウダ、ラシイ、ソウダとダロウ類が別の統語的

位 置 に 来 る こ と を 予 想 さ せ る 。 実 際 、 ヨ ウ ダ 類 は 寺 村 (1984)が 説 明 の ム ー ド に

属するとした位置に来ると思われる。また、寺村が説明のムードに属するとし

たハズダは、以上の考察からは、φ と結びついた場合概言のムードに属するこ

とになる。

93
第4章

トコロダ条件文

4.1 は じ めに

言語形式は文脈によりさまざまに用法を変えるが、それが同一語の複数の用

法 で あ る の か 、別 の 語 と 分 類 さ れ る か は 、そ れ ほ ど は っ き り し た も の で は な い 。

た と え ば 、 「前 」は 、 場 所 に 関 す る 「 前 」 と 時 間 に 関 す る 「 前 」 が あ る 。 こ れ ら

を同じ語彙項目の用法とするか、別の語彙項目とするかは理論を離れては決め

られない。しかし、互いの意味がどのような関係を持つのか、それらがどのよ

うな環境でそのような意味を持つのか、また、そのような意味を決定する要因

がなんであるのかは、理論を離れても押さえることができる。

本章では、ケーススタディーとして「ところ」(以下トコロ)という形式の

文脈におけるさまざまな用法を見る。本稿の目的は、語の基本義、統語的合成

による意味、文脈による意味がどのように相互干渉するかを見ることである。

ここでも基本的なアプローチは談話管理理論を採用する。談話管理理論はメン

タルスペースを知識の管理として再構成したものである 1 。辞書に登録される

べき語の意味は、非常に未指定部分を多く含み、ほとんど、関係する認知的な

領域を活性化するだけの働きしかしない。具体的な意味は、それが現れる統語

環境との相互作用によって具現化する。ここでは、言語表現が基本的な語義と

統語的な環境、言語以外の認知機構からの支えにより具体的な意味をどのよう

にして得るかを見る。

本章の目的は、トコロダ条件文の反事実性をトコロ、ダ、日本語条件文の性

質から導出することである。このため、以下の主張を行う。

1
特にメンタルスペースの表記法はとらない。

95
主 張 1:ト コ ロ ダ は D-命 題 を 補 足 節 と し て と ら な け れ ば な ら な い 。こ の 性 質 と

条件文の性質とから、トコロダ条件文の前件、後件の反事実性を導出でき

る。

主張2:トコロダの1の性質は、トコロが基準点(参照点)を表すという性質

から導出できる。

この章の構成は以下のようになっている。まず、2 節で日本語における条件

文一般の性質を述べ、次に条件文が反事実解釈を受けるときの制約について記

述 す る 。3 節 で 田 窪・笹 栗 (2002)の 観 察 に も と づ い て ト コ ロ ダ 条 件 文 の 性 質 を 述

べ 、 ト コ ロ ダ が 反 事 実 解 釈 し か な い こ と を 示 す 。 さ ら に 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)の ト

コ ロ ダ 条 件 文 に 対 す る 提 案 と そ の 問 題 点 を 指 摘 す る 。ト コ ロ ダ が D-命 題 を と る

という制約をたてることで、田窪・笹栗の観察を説明できると同時にその問題

点 が 解 決 で き る こ と を 示 す 。4 節 で 、5 節 と 6 節 で 条 件 文 の ト コ ロ ダ と ア ス ペ ク

ト 形 式 に つ く ト コ ロ ダ と を 比 較 し 、ど ち ら も ト コ ロ ダ が D-命 題 を 取 る と い う 制

約 に よ り そ の 性 質 を 説 明 で き る こ と を 示 す 。さ ら に ト コ ロ ダ が D-命 題 を と る と

い う 性 質 は 、ト コ ロ が 参 照 点 を 表 す と い う 性 質 か ら 導 出 で き る こ と を 示 唆 す る 。

8 節で、参照点を取るというトコロの基本的な意味の特徴づけを行い、トコロ

が参照点を表すことと、空間、時間、論理空間に置ける参照点の解釈の違いに

より、トコロのとる意味が導出できることを提案する。8 節はまとめである。

4.2 条件推論を表す条件文の性質と反事実解釈の制約

条件文は、その使用用途により大きく二つに分けることができる。ひとつは、

条件的知識を述べる形式で、事態間の一般的な関係を述べるものである。この

条件文では、モーダルの述語類は付かないのが普通である。また、主語を省略

した一般的な言明となる場合も多い。

96
z 条件的知識を述べる形式: モーダル助動詞は付かない。

p⊃ q

(1) 風が吹{いたら、けば、くと}桶屋が儲かる。

(2) りんごをかじると血が出る。

(3) 20 歳 に な れ ば 選 挙 権 が も ら え る 。

2 章で述べたようにこの形式は後件がタ形などになり決定的な解釈が可能な場

合、事実的な解釈が可能である。この場合、普遍量化解釈が普通であり、実質

含意と解釈できる。

(4)' 風が吹{いたら、けば、くと}桶屋が儲かった。

(5)' りんごをかじると血が出た。

(6)' 20 歳 に な れ ば 選 挙 権 が も ら え た 。

これらの条件文の意味に関しては、さまざまな説が行われている。本論文で

は 基 本 的 に は 、 坂 原 (1985)に 従 い 、 話 し 手 の 想 定 と 実 質 含 意 と の 組 み 合 わ せ で

意味が与えられるという立場をとる。

一方、条件文形式は推論を述べる場合にも用いることができる。推論は、話

し手が持っている想定や、発話場面で述べられた知識に条件的仮定を加え、そ

こからの帰結を導出する操作である 2 。この場合は、モーダルの述語が用いら

2
条 件 文 「 pれ ば ・ た ら q」 と 推 論 の 形 式 、 A、 p├ qは 、 結 局 は 同 じ も の で あ る 。 後 者

か ら 、演 繹 定 理 に よ り 、A├p⊃ qが 導 け 、逆 も な り た つ 。し た が っ て 、「 pれ ば・た ら q」

を 話 し 手 の 想 定 Aか ら の 導 出 で き る 命 題 と し て 定 義 す る と 、 話 し 手 の 想 定 Aに 仮 定 pを

加 え て 導 き 出 せ る 帰 結 を qと す る も の と 同 じ で あ る 。 ま た 、 Stalnaker(1968)は 、 日 常 言

語 の 条 件 文 の 解 釈 を 実 質 含 意 ⊃ で は な く 、>( cornerと 読 む )と 解 釈 し 、両 者 の 違 い を

説明している。しかし、>は、基本的に隠れた想定がある場合の実質含意と同値であ

97
れるのが普通である。

日本語では、一般的知識を表す条件形式と、推論操作を表す条件形式は多く

の場合、形式的な区別が可能である。一般的知識を表す条件形式においては、

前 件 の 条 件 形 は 、 南 (1979、 1992)、 田 窪 (1987)で い う B 類 の 付 加 節 で あ る と 見

る こ と が で き る 。す な わ ち 、主 節 は B 類 に 属 す る 。こ れ に 対 し 、推 論 操 作 と 関

連している条件形式は、C 類の付加節と見ることができ、モーダルの述語節を

修飾していると見ることができる。

まず、3 章で述べたように一般的知識を表す条件文形式は、ヨウダ類のモー

ダル述語のスコープ内に入る。

(7) [20 歳 に な れ ば 選 挙 権 が も ら え る ]ら し い 。

(8) [風 が 吹 け ば 桶 屋 が 儲 か る ]そ う だ 。

これに対し、推論操作を表す条件形式は、前件の部分がヨウダ類のモーダル助

動詞のスコープ内に入らない。推論操作を表す条件形式では、前提となる想定

があり、それに前件を加えることにより、後件が導出されることを示す。認識

的条件文は、現在の話し手の想定と仮定から導出できるなんらかの意味で現状

に対する記述として働く。

z 条件的推論を述べる形式:

認 識 的 条 件 文 は 話 し 手 の 想 定 (A)に 仮 定 を 加 え て 、そ こ か ら の 帰 結 を 推 論 に よ っ

て述べるための形式であり、通常、モーダルの述語がつく。

(9) p れ ば ・ た ら q Modal

(10) A, p ├ q

ることが坂原によって示されている。ここでは坂原の考えかたを採用する。詳しくは

坂 原 (1985)を 参 照 。

98
p は 条 件 推 論 に お け る 小 前 提 を 表 し 、q は 帰 結 を 表 す 。モ ー ダ ル は 、3 章 で 示 し

たように帰結を導くためにどのような知識ベースに言及したかや帰結に対する

確信度などを表す。

4.2.1 条件文解釈の制約

条件文形式は、それが条件的解釈を受けるためには、意味論的、語用論的制約

を持つ。まず、条件文は前件を前提に付けくわえることで得られる帰結を導き

出すとすると、前件がすでに前提に入っていてはいけない。前件がすでに前提

に入っている場合は、理由として解釈されるからである。

Ⅰ.意味論的制約

z 話し手は p が真であることを知っていてはいけない。

pが 真 で あ る こ と を 話 し 手 が 知 っ て い る 場 合 、事 実 的 解 釈 に な る 。後 件 に モ ー ダ

ルが来た場合、前件が条件形式では推論とその帰結を述べるという認識的条件

文の解釈が義務的になるため、事実的解釈は不可能になる。この場合、日本語

では条件形式では表されず、理由を表す形式になる。つまり、確定条件を「れ

ば 」、「 た ら 」の 形 式 で は 表 現 で き な い 3( Akatsuka(1985)、赤 塚 他 (2003)参 照 )。

(11) A: あ 、 風 が 吹 い た 。

A: ?風 が 吹 い た ら 、 桶 屋 が 儲 か っ た だ ろ う 。

A': 風 が 吹 い た か ら 、 桶 屋 が も う か っ た だ ろ う 。

(12) A:あ 、 風 が 吹 い た よ 。

B: そうかい、風が吹いたら桶屋が儲かるだろう。

3
推論の根拠となる一般的な条件的知識を述べる場合は当然条件形式も用いることが

できる。

A: あ 、 風 が 吹 い た 。 風 が 吹 け ば 桶 屋 が も う か る 。 だ か ら 、 桶 屋 が も う か る だ ろ う 。

99
Ⅱ.語用論的制約

話し手は条件文の後件 q が真であることを聞き手も知っていると信じていて

はいけない。

qが 真 の 時 q∧ (p⊃ q)は pの 付 値 に 関 係 な く 真 と な る 。従 っ て 、こ の 場 合 、条 件 文

と し て は 情 報 量 が な く な り 、Griceの 量 の 原 則 に 違 反 す る (Grice 1975)。量 の 原 則

に 違 反 し な い た め に は 、 pの 付 値 に 関 係 な く qが 真 で あ る と い う 情 報 そ の も の を

述 べ る 必 要 が あ る 。こ れ を 表 す 形 式 は 条 件 形 式 で は な く 、「 pて も 」の よ う な 譲

歩形式が使われなくてはならない 4 。

4.2.2 条件文の反事実的解釈

日本語の条件文は、反事実の明示的な表示形式を持たない。同じ形式が文脈

により反事実解釈が可能になる。条件文が反事実的解釈を受けるのは話し手が

前件が表す事態が偽であることを知っていることが前提となる。

4
広 く 知 ら れ て い る よ う に 、話 し 手 に と っ て 常 に 真 で あ っ て も 、聞 き 手 が qに 気 が つ い

ていないような場合は、条件形式で述べることには意味がある。

ⅰ) あの角を右に曲がれば A ホテルの前に郵便局があるよ。

A ホ テ ル の 前 に 郵 便 局 が あ る こ と は 、右 に 曲 が る こ と と は 無 関 係 に 真 で あ る 。し か し 、

聞き手がこの情報を知らず、かつ、前件に対応する行動をすることが、この情報を知

ることと結びついている場合は、情報を持つ文となる。つまり、帰結の部分は、前件

が表す行動の結果、たとえば聞き手が後件を知ることができることが示される。これ

は、条件文としては、推論を含まないため、推論にかかわるモーダル述語類をつける

ことはできない。また、この場合は、譲歩文にはできない。

100
z 条件文の反事実的解釈:

話し手は前件が偽であることを話し手は知っていなければならない。

(13) 田 中 が ペ プ チ ン 12 を 飲 ん で い れ ば 、 今 ご ろ も っ と や せ て い る だ ろ う 。

(13 )は 、 文 脈 に よ り あ い ま い で あ る 。 こ の と き 前 件 が 偽 に な る た め に は 、 (13 )"

の よ う に 話 し 手 は 田 中 が ペ プ チ ン 12 を 飲 ん で い な い こ と を し っ て い な け れ ば

ならない。

(13 )' 田 中 が ペ プ チ ン 12 を 飲 ん だ か ど う か 知 ら な い が 、彼 が ペ プ チ ン 12 を 飲 ん

でいれば、今ごろもっとやせているだろう。

(13 )'' 田 中 が ペ プ チ ン 12 を 飲 め ば よ か っ た の に 、彼 が ペ プ チ ン 12 を 飲 ん で い れ

ば、今ごろもっとやせているだろう。

多くの反事実条件文の使用では、反事実的前提を設定することで、その前提

が実現していたら発生していたであろう現実より望ましい仮想状況を想像して

残念がったり、あるいは、発生していたかもしれない不幸を現実では避けるこ

とができたことを喜ぶのが普通である。従って、後件においても、それが表す

事態と比較すべき事実が生じていることが情報的には必要となる。

(14) 田 中 が あ の 薬 を 飲 ま な く て 良 か っ た 。あ の 薬 を 飲 ん で い た ら 死 ん で い た だ

ろう。

(15) 田 中 が あ の 薬 を 飲 ん で 残 念 だ 。あ の 薬 を 飲 ん で い な か っ た ら 、死 ん で い な

かっただろう。

しかし、このことは語用論的な問題であり、後件が偽であることを知っている

必要はなく、後件が反事実の解釈を受けず、単に可能性が低いことなどを表し

101
ていてもよい。以下、反事実に解釈される条件文を反事実条件文と呼ぶ場合も

ある。

(16) 田 中 は 結 局 あ の 薬 を 飲 ま な か っ た 。あ れ か ら 、彼 に は あ っ て い な い が 、元

気でいるだろうか。

彼 が も し あ の 薬 を 飲 ん で い た ら 、お そ ら く 今 ご ろ 彼 は 死 ん で い る に ち が い

ない。

(17) 田 中 は 司 法 試 験 に 落 ち た 。今 ご ろ ど う し て い る だ ろ う 。こ の 近 く で 働 い て

いるのだろうか。

彼 が 司 法 試 験 に 通 っ て い た ら 、お そ ら く こ ん な と こ ろ で 働 い て は い な い だ

ろう。

反事実条件文は前件が偽であるので、実質含意で解釈すると必ず真となる。ま

た、反事実条件文はすでに前件が決定しているので一般的な知識を表す条件文

を表すことはない。従って、反事実条件文は、反事実でない条件文と同じく推

論 を 表 す と 考 え る こ と に す る ( 坂 原 (1985)な ど 参 照 ) 。 基 本 的 に は 、 日 本 語 に

おいて反事実条件文は、認識的条件文として解釈される。条件文「p れば・た

ら q」 の 認 識 的 解 釈 は 、 想 定 A に p を 加 え て 、 q を 導 く 、 次 の よ う な 推 論 と し

て与えられる。

(18) A、 p├q

こ の と き Aの な か の 話 し 手 が 真 で あ る と 知 っ て い る 命 題 に ¬ pが 含 ま れ て い

る 場 合 に「 pれ ば・た ら q」は 反 事 実 条 件 文 に な る 。し か し 、Aは ¬ pを 含 ん で い

る の で 、A∧ pは こ の ま ま で は 矛 盾 す る 。推 論 を す る た め に は 、Aの な か か ら ¬ p

を 取 り 除 か な い と い け な い 。 Aの う ち 話 し 手 が 直 接 知 っ て い る 命 題 の 集 合 を D

と す る と 、 条 件 文 の 反 事 実 的 解 釈 は 、 ま ず pを Dか ら 取 り 除 き 、 ¬ pを 加 え て 、

適 切 に 調 整 し た 反 事 実 的 想 定 D’を 作 る 必 要 が あ る 。ま た 、命 題 pは 独 立 し て 存

102
在 す る わ け で は な く 、 pと 随 伴 す る 命 題 が 存 在 す る 。 ¬ pを 加 え た こ と で 、 矛 盾

す る こ と に な る pに 随 伴 す る 命 題 も 取 り 除 か な け れ ば な ら な い 。D’は こ の よ う

にして調整された命題の集合である 5 。

さて、このとき後件 q について次の 3 つの場合がある。

い) q が D に 含 ま れ る 場 合 、 つ ま り p∧ q∈ D の 場 合 、

ろ) ¬ q が D に 含 ま れ る 場 合 、 つ ま り p∧ ¬ q∈ D の 場 合 、

は) q が決定しておらず、q も¬q もどちらも含まれない場合

さて、反事実条件文は定義上以下の前提を持つ。

z 前提:反事実条件文 p⊃ q か つ ¬ p∈ D

このときに、(い)-(は)の 3 つの場合についてどのような解釈の可能性が

あるかを考えてみよう。

い) q∈ D の と き 、 す な わ ち ¬ p∧ q∈ D の と き

話 し 手 が 、 q で あ る こ と を 知 っ て い る 場 合 、 p⊃ q は 、 p の 値 に 関 わ ら ず 真 で あ

り、A という前提と関係なく成り立つ。従って、D のままでも、D から p を取

り除いても、帰結は変わらないため、条件形式は譲歩的解釈を受ける。日本語

では、条件形式に譲歩解釈は与えられないので、条件文としてはこの解釈はな

く、この解釈は日本語では譲歩文の形式になると考えられる。

ろ) ¬ q∈ D の と き 、 す な わ ち 、 ¬ p∧ ¬ q∈ D の と き :

¬ p∧ ¬ q で あ る こ と を 知 っ て い て 、 「 p れ ば q」 と い う 反 事 実 条 件 文 を い う こ

とになり、この場合、後件も反事実の条件文となる。

5
Lewis (1968)、 坂 原 (1985)お よ び そ こ に 引 用 さ れ て い る 文 献 参 照 。

103
は) どちらも D に含まれない場合:

後件の真偽を知らない反事実条件文となる。

反 事 実 条 件 文 は 、 通 常 推 論 を 表 す 条 件 文 で あ り 、 Grice の 量 の 原 則 を 守 る 限 り 、

話し手は後件が偽であると知っているか、後件の真偽を知らないことになる。

後件が偽であると知っている必要はなく、後件が真であると知っていても反事

実的解釈は可能である。

(19) 彼 が あ の と き ペ プ チ ン 12 を 飲 め ば 、 先 月 ま で に 12 キ ロ や せ た だ ろ う 。

この文の前件は過去の出来事に対する反事実的解釈が可能である。後件は、過

去形であるため、過去のある時点における反事実的予測となり、後件も反事実

的解釈が可能である。しかし、この反事実解釈は語用論的なものであり、キャ

ンセル可能であるから、次のように続けることが可能である。

(20) 実 際 は 、彼 は ペ プ チ ン 12 を 飲 ま ず に 運 動 し て 先 月 ま で に 12 キ ロ や せ た ん

だから問題ないだろう。

こ こ で 、実 際 に 12 キ ロ や せ た こ と を 話 し 手 は 知 っ て お り 、聞 き 手 も 知 っ て い る

が 、情 報 p∧ qと ¬ p∧ qは 、同 時 に 扱 っ て い る わ け で は な い の で 、Griceの 原 則 に

違 反 せ ず に 提 示 で き る 。 つ ま り 、 (19 )は 、 誰 か の 言 っ た こ と を い っ た ん 認 め る

といった解釈をすればよい。「たしかに君の言うように」といった注釈を加え

れ ば 、 「 p⊃ q、 し か し 、 ¬ p∧ q」 と い う 言 明 は 情 報 を 持 つ 。

以上をまとめると、日本語における条件文の反事実解釈は次のようになる。

z 反事実条件文は、推論を表す形式であり、モーダルの述語を伴う認識的条

件文である。

104
z (日本語の)反事実条件文とは文脈により、前件が反事実であると解釈で

きる文である。

z (日本語の)条件文の反事実解釈では、前件の反事実性が文脈からあれば

よい。

以上の準備にもとづいて、トコロダ条件文について見てみよう。

4.3 ト コ ロダ条件文の性質

こ こ で ト コ ロ ダ 条 件 文 と 呼 ん で い る の は 、田 窪 (1989)、田 窪・笹 栗 (2002)で 取 り

扱った、後件にトコロダを持つ次のような条件文である。

(21) 田 中 が 誤 っ て こ の 薬 を 飲 ん で い れ ば 、死 ん で い た{ だ ろ う 、は ず だ 、 と

ころだ}。

(22) 田中が来ていれば大変なことになった{だろう、はずだ、ところだ}。

ここでは、トコロダが他の認識的モダリティを表すモーダルの述語類のあらわ

れる位置に生起している。トコロダとハズダ、ダロウなどの述語類とはシンタ

グマティックな関係を持たず、トコロダは、モーダルの述語と類似した機能を

果たしていると考えられる。トコロダは、場所を表す形式名詞に繋辞のダをつ

けたもので、通常、節を補語にとる場合は、アスペクトに関する制約を与える

ものである。このような形式が推論を表す条件形式に用いられるのは説明を要

する。さらに、田窪(前掲)、田窪・笹栗(前掲)では、この条件形式が、他

の条件形式とかなり違った振る舞いをすることを明らかにした。以下では、田

窪・笹栗に従って、トコロダ条件文の振る舞いと、どのようなメカニズムによ

ってこの構文が解釈されているかを解説する。

105
4.3.1 トコロダ条件文の反事実性

トコロダ条件文は他のモーダル述語を取る条件文とは異なり、次の性質を持

っている。

z 前件に反事実的解釈が強制される。

(23) 彼 が こ の 薬 を 飲 ん だ か ど う か 知 ら な い が 、 彼 が こ の 薬 を 飲 ん で い た ら 、 死

ん で い た { だ ろ う 、 は ず だ 、 ??と こ ろ だ }

(24) 彼 が い た か ど う か し ら な い が 、 彼 が い れ ば 大 変 な こ と に な っ て い た { だ ろ

う 、 は ず だ 、 ??と こ ろ だ } 。

次に、他のモーダル述語では、前件が反事実的な解釈を受けた場合でも、後件

の反事実解釈は義務的ではない 6 。しかし、トコロダ条件文は、後件に現れる

次の現象から後件にも反事実解釈が強制されると思われる。通常、条件文は対

偶 と 逆 の 解 釈 が 可 能 で あ り 、 こ れ は 反 事 実 解 釈 の 場 合 で も そ う で あ る 。 (25 )で

は 、 前 提 と な る 条 件 的 知 識 を 元 に 、 aの 対 偶 的 条 件 文 、 bの 逆 の 条 件 文 が 可 能 で

ある。このとき、文脈が前件に関する事態を含んでおり、話し手が前件が偽で

あることを知っている場合は、反事実的な解釈が可能になる。つまり、条件的

知 識 fに よ り f(p)= qが 与 え ら れ て い る 場 合 、対 偶 的 推 論 に よ り f -1 (¬ q)か ら 、¬ p

を 導 出 す る こ と が 許 さ れ る 。 ま た 、 f -1 (q)か ら pを あ る 確 信 度 で 予 測 す る こ と も

許 さ れ る 。こ れ が 逆 の 推 論 で あ る 。逆 は 当 然 論 理 的 に 妥 当 で は な い が 、abductive

な推論としては、可能である。

6
ダロウ類のモーダル述語が後件に来て、後件の動詞がテイルの形の場合、後件は反

事実の解釈は義務的ではない。後件の動詞がテイタの形の場合、反事実解釈は強制さ

れ る よ う で あ る( 2 章 お よ び 、荻 原 (2005)参 照 )。後 件 が ト コ ロ ダ の 場 合 、こ の 区 別 は

ない。

106
(25) も し こ の 薬 を 飲 め ば 、 ク ラ ー ク ・ ケ ン ト は 必 ず 死 ぬ 。 ( 条 件 的 知 識 )

a. も し 死 ん で い な け れ ば 、ク ラ ー ク は こ の 薬 を 飲 ん で い な か っ た は ず だ 。

(対偶)

b. も し 死 ん で い れ ば 、 ク ラ ー ク は こ の 薬 を 飲 ん で い た は ず だ 。 ( 逆 )

さて、トコロダ条件文ではこのような対偶条件文、逆の条件文はつくれない。

(26) a. ??も し 死 ん で い な け れ ば 、 ク ラ ー ク は こ の 薬 を 飲 ん で い な い と こ ろ だ

(対偶)。

b. ??も し 死 ん で い れ ば 、ク ラ ー ク は こ の 薬 を 飲 ん で い た と こ ろ だ( 逆 )。

これは、対偶、逆の条件形式が持つ性質から来ると思われる。条件形式で、帰

結が反事実解釈の場合、逆条件、対偶条件解釈は不可能である。まず逆の条件

形式は、大前提で帰結となる部分が小前提となり、大前提の前件を帰結として

導 出 す る 。こ の た め 、逆 の 条 件 形 式 は abductive な 推 論 に 使 わ れ る と 考 え ら れ る 。

従って、逆の条件形式の帰結は未知でなければならない。帰結が反事実である

とすると、定義上、話し手は、帰結が偽であることを知っていなければならな

い。従って、帰結は話し手にとって未知ではないことになり、反事実解釈では

逆の解釈が不可能であることになる。

また、対偶条件形式についても同様のことが言える。条件的知識が与えられ

たうえで述べられる対偶条件形式は、条件的知識の帰結を否定することで、そ

の前件が成立していないことを主張する形式である。この場合も、条件的知識

の前件の否定にあたる対偶条件形式の後件は、話し手にとって未知であること

が前提となる。このため、対偶条件形式の場合でも、後件が反事実の解釈は難

しくなる 7 。

7
対偶も逆も後件が反事実の解釈は可能であるが、その場合は、前件は反事実の解釈

はできない。

107
トコロダ条件文は、帰結が未知であることができないため、逆条件解釈は不

可能になると解釈できる。

また、対偶条件が推論として使用される場合も同様である。対偶条件でも、

大前提の妥当性に基づいて、大前提の後件の否定から、前件の否定を導き出す

推論であり、対偶条件の後件は、未知でなければならず、反事実にはなりえな

い。従って、トコロダ条件文は、対偶条件推論にも使えないことは、トコロダ

条件文の帰結が反事実であることを示している。

さらにトコロダは、譲歩の条件節とも共起しない。ダロウ類のモーダルは譲

歩の条件節との共起が可能である。

z 譲歩節と共起しない 8 。

(27)こ の 薬 を 飲 ん で い な く て も 、ク ラ ー ク ケ ン ト は 死 ん だ{ だ ろ う /??と こ ろ だ }。

また、ダロウ類のモーダル述語が関わる条件文は反事実解釈であろうと、量化

のモーダル副詞が可能である。

(28) こ の 薬 を 飲 ん で い た ら ク ラ ー ク ケ ン ト は { き っ と 、 多 分 、 お そ ら く } 死 ん

でいるだろう。

これに対して、トコロダ条件文は、量化の副詞がつけられない 9 。

8
田 窪 ・ 笹 栗 (前 掲 )で は 、 対 偶 、 逆 の 条 件 文 で ト コ ロ が 使 え な い こ と は 、 別 の 説 明 が

されているが、その説明はここでの説明に包摂される。

9
「おそらく」は可能であるかもしれない。「おそらく」は量化の副詞ではない可能

性がある。

108
(29) こ の 薬 を 飲 ん で い た ら ク ラ ー ク ケ ン ト は { ??き っ と 、 ??多 分 } 死 ん で い る

ところだ。

以上をまとめると次のようになる。

トコロダ条件文の特徴(他のモーダル形式との相違):

a. 前件・後件ともに反事実的解釈しかゆるさない。

b. 譲 歩 的 条 件 文 に は 使 え な い 。

c. 量化の副詞がつけられない。

4.3.2 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)

田 窪 ・ 笹 栗 (2002)は 、 ト コ ロ の 基 本 義 を 以 下 の よ う に 設 定 し 、 そ れ か ら ト コ ロ

ダ条件文の性質を導出しようとした。

トコロ:トコロはある領域をとり,その領域内の値の候補から,トコロが付加

した記述により値を一つ取り出す。

た と え ば 、 「 p ト コ ロ 」 と い う 表 現 が あ っ た と す る と 、 ト コ ロ (領 域 、 p)= V の

ような関数を表すということである。ここで「領域」には、空間、時間、論理

空間などが入る。すなわち、トコロは特定の部分を表し、それが取る記述によ

りその部分をある全体に位置付けるというのが基本的な意味としたわけである。

全体が空間である場合には、空間の位置を表す。全体が時間の場合は時間でも

位置を表すことになる。そこで論理空間においては、事実とそれに対応する反

事実的論理空間を表すと考えたわけである。領域による解釈の決定は以下のよ

うになる。

109
領域 トコロの取り出す値 例

空間 空間位置 彼のいるところ

時間 局面シーン 泥棒が窓からはいるところ

論理空間 事実に対応する反事実 この薬を飲んでいたら死んでいたところだ。

ト コ ロ (位 置 の 集 合 、 ||彼 が い る ||)= 彼 の 位 置

泥 棒 が 窓 か ら 入 る ト コ ロ (シ ー ン の 集 合 、 ||泥 棒 が 窓 か ら 入 る ||)= 泥 棒 の シ ー ン

論理空間で条件文にトコロが付いた場合、条件文の解釈を多義から一義にする

機能があるとして、次のように考えた。

(30) ||ト コ ロ ||( 世 界 の 集 合 、 ||p れ ば q||) = ||p れ ば q||の 世 界

こ れ は 例 え ば 現 実 の 直 前 の 状 況 A か ら 枝 分 か れ し 、相 容 れ な い 二 つ の 可 能 な 状

況が与えられて、一方が現実状況のとき、現実から対応する反事実状況を与え

る関数fを定義する。

f( 反 事 実 的 状 況 ) =現 在 の 状 況

(31) p ----q----->W1 = A∧ P∧ Q

¬p ------¬ q--> W4= A∧ ¬P∧ ¬Q

(32) 現 在 の 状 況 = ( 彼 が こ の 薬 を 飲 ん で い た ら , 死 ん で い た / 死 ん で い る ) と

ころだ。

従って現在の状況はつぎのようになる。

(33) 現 在 の 状 況 = ( 彼 が こ の 薬 を 飲 ん で い な く て , 死 ん で い な い )

110
つまり、トコロダ条件文「p れば、q トコロダ」は、反事実的条件だけでなく、

その逆も成り立つことを表すことになる。

(34) (p⊃ q)∧ (q⊃ p)

このとき、双方向に条件文が成り立つので、定義上 p の値と q の値は同じであ

る。従って次が成り立つ。

(35) (p∧ q)∨ (¬ p∧ ¬ q)

A と整合的な世界(の集合)はこの二つしかないことになり、A に p を仮定す

ると q が導出でき、¬p を仮定すると¬q が導出できることになる。この場合、

p と q の間になんらかの因果関係が設定されることになる。

また、トコロダ条件文は、ダが発話時現在を表しており、話し手の現在の状

況 に 関 す る 述 語 付 け で あ る と み ら れ る 。こ の た め 、話 し 手 の 現 在 の 世 界 が p∧ q、

す な わ ち w 0 ∈ W p ∧ q で あ れ ば 、そ の 対 応 す る 反 事 実 世 界 w i は 、¬ p∧ ¬ q、す な わ

ち 、 w i ∈ W ¬ p ∧ ¬ q で あ る こ と に な る 。 条 件 文 「 pれ ば ・ た ら q」 が そ の 様 な 関 係

を指定しているとき、そしてそのときのみトコロダ条件文が許されるとしたわ

けである。

以上の考察から、田窪・笹栗は以下のようにしてトコロダ条件文の反事実性

を導出した。

(36)ト コ ロ ダ 条 件 文 の 反 事 実 性 まとめ;

ⅰ)命題間の関係を表す:トコロが組み合わさる要素の統語的性質から。

ⅱ)因果的状況にしか使われない:(ⅰ)とトコロの定義的意味から。

ⅲ )ト コ ロ ダ 条 件 文 自 体 が あ る 状 況 を 表 し 、そ の 状 況 は 構 成 さ れ る 命 題 が 真 偽

に お い て 対 立 す る 対 応 状 況 を 表 す : ( ⅰ ,ⅱ ) か ら

111
( ⅰ ,ⅱ ,ⅲ ) に 次 の 仮 定 を 入 れ れ ば 、 反 事 実 性 が で て く る 。

ⅳ )ト コ ロ ダ 条 件 文 は( 非 明 示 的 に 設 定 さ れ る 主 題 と し て の )話 し 手 の 現 実 状

況に対する述語付けである:仮定

4.3.3 田窪・笹栗の問題点

以 上 説 明 し た 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)は 、 ト コ ロ ダ 条 件 文 の 特 徴 を 正 確 に 捉 え て い る

が、この説明はいくつかの問題を内包している。まず、空間や時間に使われる

トコロの特徴づけと、条件文に関わる特徴づけがそれほど明確とはいえない。

また、トコロダ条件文が反事実的であることは、それが双方向の条件であり、

因果的関係を表していることから導出しているが、これは実は現象の観察であ

って、どこからも導出されていない。つぎにトコロダは対応する世界を与える

「 p れ ば q 」は 、¬ p∧ ¬ q で あ る 世 界 、
だ け で あ る の で 、条 件 を 当 て は め る と 、

すなわち現実世界を表してもよいことになる。トコロダは対応世界を表すとい

う 解 釈 に な る の で 、p∧ q で あ る 反 事 実 世 界 を 基 本 に と っ て 、そ の 対 応 世 界 を あ

ら わ す こ と を 許 す こ と に な り 、反 事 実 性 が そ の ま ま で は 説 明 で き な い の で あ る 。

田窪・笹栗が観察したトコロダ条件文の性質はほぼすべてが妥当であると思

われるので、トコロダの語彙的性質と反事実条件文の性質を改めて考察し、ト

コロダ条件文の性質を構成的意味論により表すことを試みる。

次節では、まず反事実を表すトコロダに関する田窪・笹栗の記述を導出でき

る制約を提案する。しかるのちにこのトコロダの説明がアスペクト形式につく

トコロダにも適用できることを示し、これが補文をとるトコロダに関する一般

的 な 制 約 で あ る こ と を 示 す 。 さ ら に 4.5 節 で は こ の 制 約 を ト コ ロ に 関 す る 語 彙

的な特徴づけとダの性質から導出できることを示す。

112
4.4 ト コ ロダ条件文の反事実性の導出

4.4.1 トコロダ条件文の制約

本論ではトコロダ条件文の特徴として以下の制約を提案する。

z トコロダ条件文の制約

ト コ ロ ダ 条 件 文 に お け る ト コ ロ ダ の 補 足 部 は D-命 題 で な け れ ば な ら な い 。

D-命 題 の 定 義 は 次 の よ う で あ っ た 。

定義:

D-命 題 : 話 し 手 ( 認 知 主 体 ) が 真 で あ る こ と を 直 接 知 っ て い る 命 題 。

直接知っている:認知主体が直接経験によって知っているか、以前の論証

により真であることをすでに信じているため、推論なし

にアクセスできる。

条 件 文 の 補 足 部 が D-命 題 で あ る と い う 制 約 か ら 、補 足 部 の 反 事 実 性 が 導 出 で き

ることを示そう。

まず、トコロダ制約によりトコロダ条件文の性質を説明できることをみる。

ト コ ロ ダ 条 件 文 の 補 足 部 q が D-命 題 だ と し よ う 。

z 「 p れ ば q ト コ ロ ダ 」 に お い て 、 q が D-命 題 で あ る 。

条 件 文 「 p れ ば q」 に お い て 、 q が D-命 題 で あ る と は 、 話 し 手 が q が 真 で あ る

こ と を 知 っ て い る か 、q が 偽 で あ る こ と を 知 っ て い る か で あ る 。ま ず 、q が 真 で

あることを知っている場合を考えよう。

い) 前提:q が真であることを知っている

113
話 し 手 が q が 真 で あ る こ と を 知 っ て い る と き 、q∧ (p⊃ q)は 、前 提 な し で 真 で あ

る 。つ ま り 、話 し 手 の 想 定 す る 文 脈 A の 内 容 に よ っ て 真 偽 が か わ る も の で な く 、

条 件 文 p⊃ q を 述 べ る こ と で q を 導 出 す る こ と に 情 報 的 に 意 味 は な い 。 こ れ は

Grice の 量 の 公 準 、 お よ び 、 様 式 の 公 準 に よ る 。 従 っ て 、 q を 述 べ た い と き に 、

p⊃ q の 形 式 、 す な わ ち 条 件 文 の 形 式 で い う こ と に 情 報 的 意 味 は な い 。 し か し 、

p の方を述べたいときには意味がある。認識的に q の導出が情報論的に意味が

あ る の は 、「 p れ ば 」が only if p の 意 味 に な る と き で あ る 。つ ま り 、p が 必 要 条

件を表す場合である。

こ の と き 前 件 p の 取 り え る 値 と し て 、( ⅰ ) 話 し 手 が 、p が 真 で あ る こ と を

知っている場合、(ⅱ) p が偽であることを知っている場合、(ⅲ) どちら

も知らない場合の 3 つの場合がある。前提が成り立っているときこれらの場合

で条件文全体がどうなるかを見てみよう。

(ⅰ) 話し手が p が真であることを知っている場合: すなわち p∧ q∈ D

p⊃ q は 真 に な る 。し か し 、問 題 は 、話 し 手 が 日 本 語 の 条 件 形 式「 p れ ば 、q」が

p が 真 で 、q も 真 で あ る と 知 っ て い る と き に 使 え る か で あ る 。こ の と き 、q で あ

る こ と を 聞 き 手 に 伝 え る 文 と し て は 、 Grice の 量 の 公 準 に 違 反 す る 。 ま ず 、 「 p

た ら ・ れ ば q」 が 、 p⊃ q を 意 味 す る と す る と 、 そ の 真 理 条 件 は ¬ p∨ q で あ る 。

q と ¬ p∨ q で は 、q の 方 が 情 報 量 が 多 い の で 、q と 言 え ば よ く 、条 件 形 式 で い う

必要はないからである。次に p が真であることを伝える文としてはどうであろ

うか。この場合は情報量がある。このとき二つの可能性がある。ひとつは、文

脈 に ¬ p で あ る と い う 想 定 が あ り 、聞 き 手 は ¬ p と 思 っ て い る と 想 定 さ れ る と き

で あ る 。 こ の と き で 、 「 p た ら ・ れ ば q」 で こ れ を 否 定 す る と い う 場 合 で あ る 。

次に、文脈に¬p がない場合で、単に p であることを伝える場合である。順に

考察してみよう。

ア)文脈に¬p という想定がある場合。

この場合、話し手は q が真であることを知っており、かつ、q を新情報として

114
伝 え な い 文 で あ る の で 、想 定 は ¬ p∧ q と な る 。条 件 文 は こ の 想 定 を 変 更 す る も

のとして機能する可能性があるわけである。

こ の 想 定 の も と で 日 本 語 で は 、条 件 文「 p れ ば・た ら q」と い う 形 式 で は 、こ

の情報は伝えられないし、どのような条件形式でも伝えられない。

(37) 文 脈 : 相 手 は 「 田 中 が こ の 薬 を 飲 ん で い な い 」 と 思 っ て お り 、 話 し 手 は 、

田中がこの薬を飲んで死んだと思っている。

#田 中 が こ の 薬 を 飲 ん で い た ら 、 死 ん で い る 。

こ の 想 定 が 成 立 し て い る 場 合 、 日 本 語 で は 「 pて も q」 と い っ た 譲 歩 文 と し て 、

表 さ れ る の が 原 則 で あ る か ら で あ る 。こ の と き 譲 歩 文「 pて も q」は 、条 件 文「 p

た ら・れ ば q」に 対 す る 反 例 と し て 機 能 す る 10( 坂 原 (1991)、お よ び 第 5 章 参 照 )。

(38) 田 中 は こ の 薬 を 飲 ん だ し 、 こ の 薬 を 飲 ん で い て も 、 ( 実 際 に ) 死 ん で い る

よ。

(だからこの薬は言われている効果はなかったんだ)

10
こ の と き 譲 歩 文 の 形 式 は 使 え な い 。 ま ず 、 譲 歩 文 は 、 qが 偽 で あ る こ と を 知 っ て い

る 場 合 に は 使 え な い 。し た が っ て 譲 歩 文 の 解 釈 は qが 真 で あ る こ と を 知 っ て い る 場 合 に

限 ら れ る 。譲 歩 文「 pて も q」は 、pが 偽 で あ り 、qが 真 で あ る こ と を 知 っ て い る と き に 、

つ ま り ¬ p∧ qが 整 合 的 な 世 界 で あ る と き 、 p∧ qも ま た 整 合 的 な 世 界 で あ る こ と を 述 べ

る 形 式 で あ る 。 qが 真 で あ る こ と を 話 し 手 が 知 っ て お り 、 か つ 、 pに 関 し て も 真 偽 を 知

っ て い る と い う 制 約 が あ れ ば 、 こ の 「 pて も qト コ ロ ダ 」 と い う 形 式 は 使 え な い こ と に

な る 。 pが 偽 で あ る こ と を 知 っ て い れ ば pは 真 で は あ り え な い こ と に な る 。

115
イ)¬p という想定がない場合。

聞き手が¬p と思っていない場合を考えよう。話し手は田中がこの薬を飲んだ

ことを知っている。しかし、相手はその事実を知らない。田中が死んだことを

話し手は知っている。この事実も相手は知らない。この文脈で以下の条件文が

いえるだろうか。

(39) 田 中 が こ の 薬 を 飲 ん で い た ら 死 ん で い る 。

こ の 場 合 も 、条 件 文 で は 表 現 で き な い 。こ の 場 合 、話 し 手 は p、q を 知 っ て い る

た め 、 情 報 量 と し て は q> p⊃ q で あ る か ら 、 量 の 公 準 に よ り 、 q を 知 ら せ た い

場 合 に は 、条 件 文 は 使 え な い 。し か し 、情 報 量 は p と p⊃ q と で は 、情 報 量 は 必

ずしも p が多いわけではないので、この場合も単に p を述べずに条件文でいう

意 味 は あ る 。さ て 、想 定 と し て ¬ p が な い の で 、譲 歩 文 で 表 さ れ る 必 要 は な い 。

このときこの条件的文が情報量を持つのは、p と q の間の条件的関係を述べる

場合である。しかし、p が真であることを話し手が知っている場合は、いわば

確 定 条 件 と な り 、仮 定 条 件 で は な い 。つ ま り 、こ の と き は 、「 p だ か ら q」の よ

うに理由文となり、条件文にはなれないのである。

次 に 、p が 偽 で あ る こ と を 知 っ て い る 場 合 、p が 真 か 偽 か 知 ら な い 場 合 を 考 え

よう。

(ⅱ) p が偽であることを知っている場合。

p⊃ q は 常 に 真 で あ り 、情 報 量 と し て は q> p⊃ q と な っ て q を 言 う 文 と し て は 条

件文は意味がない。また、p が偽であるため、p であることを言う文としては

Grice の 質 の 公 準 に 違 反 す る 。

(ⅲ) p か真か偽か知らない場合。

や は り 情 報 量 的 に q> p⊃ q で あ り 、q を 相 手 に 伝 え る 文 と し て は な り た た な い 。

ま た 、p の 真 偽 を 知 ら な い の で 、p を 伝 え る 文 と し て も 条 件 文 の 形 式 は 使 え な い 。

116
従って、q が真であることを知っているという前提では、条件形式を情報量

的に意味ある形式としては使えないのである。

次に前提として q が偽であることを知っている場合を見てみよう。

ろ) 前提:話し手が q が偽であることを知っている。

このとき、p が偽であることを知っている場合と、真であることを知っている

場合がある。p が真であることを知っている場合は、条件文の使用はありえな

い。q が偽であるということを知っている場合、条件文が偽であることを知っ

て い る こ と に な り 、Grice の 質 の 公 準 に 違 反 す る か ら で あ る 。p が 偽 で あ る こ と

を 知 っ て い る 場 合 、 「 p れ ば ・ た ら q」 は 、 反 事 実 の 解 釈 を 受 け る こ と に な る 。

この解釈は整合的である。

従 っ て 、 q が D-命 題 で あ れ ば 、 「 p れ ば q」 は 前 件 も 後 件 も 反 事 実 の 解 釈 し

かゆるされないことが導出できる。トコロダ条件文が前件も後件も反事実であ

る こ と が ト コ ロ ダ が D-命 題 を と る こ と か ら 導 出 で き る こ と が 示 さ れ た 。

さ て 、 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)は ト コ ロ ダ 条 件 文 に 対 し て よ り 厳 し い 制 約 を 課 し て

い る 。ま ず 、ト コ ロ ダ が 値 を ひ と つ と る と い う 性 質 か ら 、¬ p⊃ ¬ q も な り た つ

と し 、 こ れ か ら (p∧ q)∨ (¬ p∧ ¬ q)を 導 出 し て 、 想 定 A か ら 分 岐 す る 二 つ の パ

ス を 考 え て 、 現 実 世 界 (A∧ p∧ q)に 対 応 す る 反 事 実 世 界 (A∧ ¬ p∧ ¬ q)を 考 え て

い る 。ト コ ロ が D-命 題 を と る と い う 条 件 だ け か ら は 、こ の よ う な 制 約 は で て こ

ない。

また、以上の仮定からは、仮定的譲歩文「p ても q ところだ」がなぜいえな

いのかが導出されない。この譲歩文は、たとえば、¬p が想定されているとき

に 、p を 反 事 実 の 仮 定 と し 、q を 事 実 と し た 場 合 に も 成 り 立 つ 。先 ほ ど の 説 明 は 、

こ の と き に 「 p た ら ・ れ ば q」 が な ぜ い え な い か を 説 明 し た に 過 ぎ な い 。

以 下 で は 、ト コ ロ ダ が D-命 題 を と る と い う 性 質 か ら 、仮 定 的 譲 歩 文 に 関 す る

制約が導出できることを示し、その結果から必要条件に関わる制約も導出でき

117
ることを見る。

4.4.2 譲歩文とトコロダ

ま ず 、 「 p て も q と こ ろ だ 」 で 、 q が D-命 題 で あ る と し よ う 。 こ の と き 、 条

件 文 と は 異 な り 、 p が D-命 題 で あ る 場 合 と 、 D-命 題 で な い 場 合 が 考 え ら れ る 。

譲 歩 文 「 p て も q」 は 、 基 本 的 に 条 件 文 ¬ p⊃ q の 否 定 、 す な わ ち 必 要 条 件 の 否

定 、あ る い は 、p⊃ ¬ q の 否 定 、す な わ ち 十 分 条 件 の 否 定 と 解 釈 で き る( 坂 原 (1989)

お よ び 本 稿 5 章 参 照 )。ダ ロ ウ 類 の モ ー ダ ル で は ど ち ら の 解 釈 も 可 能 で あ る し 、

モ ー ダ ル が な け れ ば 後 件 を D-命 題 と し て 述 べ る こ と が で き る 。

(40) 酒 を 飲 ん だ ら 眠 れ る 。 ( 条 件 的 知 識 )

(41) 酒 を 飲 ん で も 眠 れ な か っ た ( だ ろ う ) 。 ( 十 分 条 件 の 否 定 )

(42) 酒 を 飲 ま な く て も 眠 れ た ( だ ろ う ) 。 ( 必 要 条 件 の 否 定 )

この文でダロウのかわりにトコロダを入れると、条件的解釈ではなく、参照時
11
の状況を述べる文の解釈となる 。

(43) 酒 を 飲 ん で も 眠 れ な か っ た と こ ろ だ 。

(44) 酒 を 飲 ま な く て も 眠 れ た と こ ろ だ 。

このとき前件を条件的な解釈をするとトコロダは不自然である。

(45) 酒 で も 飲 め ば 眠 れ る と い わ れ た が 、興 奮 し て い た の で 、酒 を 飲 ん で も 眠 れ

な か っ た { だ ろ う / ??と こ ろ だ } 。

11
たとえば、次のような文脈を考えればよい。

ⅰ ) い い と こ ろ に 来 た 。ち ょ う ど い く ら 酒 を 飲 ん で も 眠 れ な か っ た と こ ろ だ 。い っ し

ょに散歩に行こう。

118
(46) 酒 で も 飲 め ば 眠 れ る と い わ れ た が 、疲 れ て い た の で 、酒 を 飲 ま な く て も 眠

れ た { だ ろ う / ??と こ ろ だ } 。

前 件( お よ び 後 件 )を テ イ ル の 形 に す れ ば 、反 事 実 的 仮 定 の 解 釈 が 普 通 で あ る 。

(47) 酒 を 飲 ん で い て も 眠 れ て い な か っ た ( だ ろ う ) 。

(48) 酒 を 飲 ん で い な く て も 眠 れ て い た ( だ ろ う ) 。

この場合もトコロダは不自然になる。

(49) 酒 で も 飲 め ば 眠 れ る と い わ れ た が 、興 奮 し て い た の で 、酒 を 飲 ん で い て も

眠 れ て い な か っ た { だ ろ う / ??と こ ろ だ } 。

(50) 酒 で も 飲 め ば 眠 れ る と い わ れ た が 、疲 れ て い た の で 、酒 を 飲 ん で い な く て

も 眠 れ て い た { だ ろ う / ??と こ ろ だ } 。

譲 歩 文 は 前 件 を 譲 歩 的 仮 定 と 解 釈 し た 場 合 、後 件 を D-命 題 と 解 釈 で き な い の
12
だと考えられる 。先 ほ ど 譲 歩 文 は 条 件 文 の 十 分 条 件 、必 要 条 件 に 反 例 を 提 示

す る こ と で 否 定 す る の が そ の 意 味 で あ る と 言 っ た 。つ ま り 、p∧ q、p⊃ qの と き p

∧ ¬ q、あ る い は 、p∧ q、¬ p⊃ ¬ qの と き 、¬ p∧ qが 存 在 す る こ と で 反 証 を す る

わ け で あ る 。 こ の p、 ¬ pが 仮 定 的 で あ る と き 、 pが 真 で あ る 世 界 で も 、 qが 真 、

12
前 件 を 事 実 的 に 取 る と 後 件 を D-命 題 に す る こ と が 可 能 で あ る は ず で あ る が 、以 下 の

ような場合はトコロダはとれない。

ⅰ) このねじは右に回せば外れます。

右に回しても外れないよ。

*右 に 回 し て も 外 れ な い ト コ ロ ダ 。

トコロダは特定の場面を表すため節が特定の場面を表す場合にしかつかない。

119
あ る い は ¬ pが 真 で あ る 世 界 で も qが 真 で あ る こ と を し め す 。 こ の 世 界 w p ∧ q 、 w

¬ p∧ ¬ q は 参 照 時 現 在 の 世 界 で は な く 、 仮 定 の 状 況 を 表 し て い る 。 す な わ ち 、 D-

命題を表すことができないのである。

と こ ろ で 、 「 pテ モ q」 の 形 式 は 、 2 章 で 示 し た と お り 、 ダ ロ ウ 類 の モ ー ダ ル

においても、前件、後件ともモーダル述語のスコープに入ると考えられる。こ

の よ う に 考 え る と 、 (45 )、 (46 )の よ う に 譲 歩 文 が 仮 定 的 な 場 合 D-命 題 で は な い

た め 帰 結 に ト コ ロ ダ が 付 く こ と が で き ず 、 (43 )、 (44 )の よ う に 事 実 的 な 場 合 に

のみトコロダがつくことができることがトコロダの制約から説明できる。

4.4.3 必要条件に関する制約の導出

トコロダ条件文は、十分条件だけでなく、同時に必要条件も主張していると

し た 。 (19 ) (20 )で あ げ た 例 を 使 っ て 、 具 体 的 に 見 て み よ う 。

(51) 彼 が あ の と き ペ プ チ ン 12 を 飲 め ば 、 先 月 ま で に 12 キ ロ や せ た と こ ろ だ 。

( = (19 ))

(52) 実 際 は 、彼 は ペ プ チ ン 12 を 飲 ま ず に 運 動 し て 先 月 ま で に 12 キ ロ や せ た ん

だ か ら 問 題 な い だ ろ う 。 ( = (20 ))

(51 )は 、 ト コ ロ ダ を 用 い た 文 で は 、 (52 )の よ う に 続 け ら れ な い 。 つ ま り 、 (52 )

に よ る 必 要 条 件 の 反 例 ( 「 ペ プ チ ン 12 を 飲 ま な く て も や せ た 」 ) が 許 さ れ ず 、

単に十分条件を主張しているだけでなく、必要条件も主張していること、すな

わち双方向の条件と見ることができるのである。

トコロダ条件文は、双方向条件を表すことは仮定的譲歩文がトコロダと共起

し な い こ と か ら 説 明 で き る 。仮 定 的 条 件 文 に お い て は 、前 件 p を 想 定 A に 付 け

加 え て 、 A∧ p か ら 導 出 で き る 帰 結 q を 述 べ る 。 逆 が 成 り 立 つ と き は 、 A に q

を付け加えて p が導出できることを述べる。仮定的譲歩文は、十分条件の否定

を述べる場合は、前者が成り立たないことを述べ、必要条件の否定を述べる場

合は、後者が成り立たないことを述べるものである。トコロダ条件文は補足節

120
が D-命 題 で あ る と い う 制 約 の た め 、ど ち ら の 反 証 も 表 す こ と が で き な い 。す な

わち、推論が双方向に成り立つことを示すのである。

この事情は、次のように考えると捉えることができるだろう。条件文の前件

が仮定的命題 p をそれまでの話し手の想定 A に付けくわえるとする。ここで、

p が 反 事 実 的 だ と す る と 、A か ら ¬ p を 取 り 、p を 加 え る 必 要 が あ る 。A か ら ¬

p を と っ た も の を A'と す る と A'∧ p が 新 た な 想 定 で あ る 。 こ れ に q が 帰 結 だ と

す る と 、こ の 仮 定 に よ っ て 想 定 さ れ る 状 況 は 、[A'∧ (p∧ q)]で あ る 。こ こ で q が

D-命 題 で あ る こ と か ら 、 q は A に 存 在 す る こ と に な る が 、 こ れ は 許 さ れ な い 。

ト コ ロ ダ は 発 話 時 現 在 の 状 況 に 関 す る 述 語 付 け で あ り 、帰 結 が D-命 題 で あ る

と い う 制 約 が あ る 。 A'は 定 義 上 D-命 題 、 q も D 命 題 で あ る 。 こ の と き 、 「 p れ

ば q」 が 表 す の は 、 A を と っ て 、 [A'∧ (p∧ q)]を か え す 関 数 で あ る 。 す な わ ち 、

(p⊃ q)∧ (q⊃ p)が 与 え ら れ る の で あ る 。

以 上 で ト コ ロ ダ が D-命 題 を 表 す と い う 制 約 が 与 え ら れ る と 田 窪・笹 栗 の 一 般

化が説明できることがわかった。

つ ぎ に ト コ ロ ダ が な ぜ D-命 題 を 表 す と い う 制 約 を 持 つ の か を 説 明 し よ う 。以

下では、まず条件文以外でトコロダが使われる場合を観察し、それが参照時に

おける状況を表すこと、現在形では発話時の状況を表すことを見る。しかる後

に、この参照時を表す用法が、トコロの基準点を表すという特徴付けと、ダが

述語付けを表すことから導出する。

4.5 ア ス ペクト形式に付くトコロ

トコロは節を取る形式としては、次のようなものがある。

(53) 私 は 田 中 が 生 協 の 食 堂 で 食 事 を し て い る と こ ろ を 見 た 。

(54) 田 中 は 生 協 の 食 堂 で 食 事 を し て い る と こ ろ だ 。

(55) こ の 写 真 は 田 中 が 生 協 の 食 堂 で 食 事 を し て い る と こ ろ だ 。

121
ここでは、まず、トコロダがアスペクト形式についてどのような意味を付けく

わえるかを見る。

4.5.1 アスペクト形式の意味

テ ン ス・ア ス ペ ク ト を 表 す 基 本 形 式 と し て 、基 本 形「 V- ル 」、タ 形「 V- タ 」、

テ イ ル 形 「 V- テ イ ル 」 の 形 式 を 取 り 上 げ 、 そ れ ら に ト コ ロ ダ が 接 続 し た 場 合
13
どのような意味的制約を加えるかを見よう 。ま ず 、こ れ ら の 形 式 が 表 す 意 味

について簡単に見てみよう。これらの形式は、アスペクトを表すとするかテン

スを表すとするかに関して立場が分かれる。しかし、中国語のアスペクト形式

が主文においても時制解釈と独立しているのとは異なり、日本語において、基

本形とタ形はこれらの形式が主文においては、動詞語幹が表すイベント時と発

話時との相対的関係によって意味が決まるという意味でテンスを含む。テイル

をテ-イとルとに分けて、ルがテンスを表すとしてテイをもっぱらアスペクト

を表すとすることは可能であるかもしれないが、テイルの構成要素である動詞

イ ル は 基 本 形 と し て 、テ ン ス を 表 す だ け で は な く 連 体・終 止 の 形 式 で あ る た め 、

テイとルは、実際の分析では分離できない場合も多い。そこで、ここでは特に

形態的な分離はせず、動詞語幹の表すイベントとアスペクトを統語的、意味的

な要素に分けるだけにする。

トコロダは非状態動詞にしか接続しない。形容詞、名詞+ダ、状態動詞など

はアスペクト形式に接続するトコロと共起しない。

(56) *田 中 は 学 生 の と こ ろ だ 。 ( 「 学 生 で あ る 」 の 意 味 )

(57) *田 中 に は 英 語 が で き る と こ ろ だ 。

13
こ こ で は 動 詞 ア ス ペ ク ト の 説 明 に 関 し て Igarashi& Gunji(1998)の 記 述 に 多 く を 負 っ

ているが、彼らのシステムはここでの議論にとっては不必要な部分を多く含むため、

彼らの記述装置は使っていない。

122
14
トコロダがこれらの述語と接続するのは反事実の場合だけである 。こ こ で は 、

動詞句のテンス・アスペクトの体系を記述するのが目的ではなく、トコロとの

共起関係とその構成的意味を考察するのが主たる目的であるため、非状態動詞

のみ扱う。

基 本 形 「 V- ル 」 は 、 非 過 去 形 と も い わ れ る が 、 普 遍 的 な 命 題 を 表 し て 、 時

間を持たない文を除いて、V が非状態動詞であれば、基本形は未来の動作しか

表さない。韓国語、ドイツ語、フランス語などでは非状態動詞の現在形は、活

動 動 詞 (activity verb)で あ れ ば 未 来 だ け で な く 、 現 在 進 行 中 の 動 作 を 表 す こ と が

できるが、日本語は非状態動詞の基本形は現在の進行中は表せない。さて、こ

の場合未来であればよく、動作が実現する時点が発話時よりいくらあとでもか

まわない。たとえば、以下の例のように「私はチョムスキーの本を読みます」

という発話をした場合、「チョムスキーの本を読む」時点が、発話時からすぐ

あ と で も 、 10 年 後 で あ っ て も よ い 。

(58) a. 私はチョムスキーの本を読む。

b. 私 は 今 か ら チ ョ ム ス キ ー の 本 を 読 む 。

c. 私 は 10 年 後 に チ ョ ム ス キ ー の 本 を 読 む 。

こ れ に 対 し 「 V- タ 」 は 、 そ の 動 作 の 終 了 が 発 話 時 よ り 前 で あ れ ば よ く 、 ど れ

くらい前であるかの指定は必要ない。

(59) a. 私はチョムスキーの本を読んだ。

b. 私 は 今 チ ョ ム ス キ ー の 本 を 読 ん だ 。

c. 私 は 10 年 前 に チ ョ ム ス キ ー の 本 を 読 ん だ 。

14
そ の 場 合 は 、名 詞 述 語 の 形 態 は 動 詞 形 に な り 、「 あ の と き 大 学 院 の 試 験 に 合 格 し て

い れ ば 今 こ ろ ま だ 学 生 { で あ る / ??の } と こ ろ だ 」 の よ う に 「 の 」 は 「 で あ る / で あ

った」の形になる。

123
活 動 動 詞 (activity verb)、達 成 動 詞 (accomplishment verb)は 、テ イ ル を つ け る と 進

行をあらわすことができ、活動動詞以外の非状態動詞は結果の状態を表すこと

ができる。すべての非状態動詞がテイルをつけることによって、「完了」、す

なわち動詞が表す事態がすでに発話時より前の時点で終わっていることを表せ
15
る 。

活 動 動 詞 (activity verb)

(60) a. 私はチョムスキーの本を読んでいる。

b. 私 は 1 時 間 前 か ら チ ョ ム ス キ ー の 本 を 読 ん で い る 。 ( 進 行 )

c. 私は 1 年前にチョムスキーの本を読んでいる。(完了)

到 達 動 詞 (achievement verb)

(61) a. 私は結婚している。(状態)

b. 私 は 14 年 前 か ら 結 婚 し て い る 。 ( 状 態 の 継 続 )

c. 私 は 14 年 前 に 結 婚 し て い る 。 ( 完 了 )

達 成 動 詞 (accomplishment verb)

(62) a. 私は赤い服を着ている。(状態または進行)

b. 私 は さ っ き か ら 赤 い 服 を 着 て い る 。 ( 状 態 の 継 続 、 進 行 )

c. 私はおととい赤い服を着ている。(完了)

このようなアスペクト・テンスの形式を動詞の意味と構成的に表す方法を以下

15
す べ て の 動 詞 は 反 復 を 表 す こ と が で き る が 反 復 は ア ス ペ ク ト と は 関 係 な く 、動 作 の

複数性を表すだけなのでここでは扱わない。

124
16
に示す 。

4.5.2 動詞とアスペクト・時制時との関係

Stowell (1993) な ど に 従 い 、テ ン ス は 時 点 の 前 後 関 係 を 表 す 述 語 と す る と 、タ 、

ルは、基本的に発話時と述語が表すイベントの時点との前後関係を表す。つま

り、これらは「前」、「後」、「最中」などの名詞が表す意味と似た性質を持

つと考える。これらの時間名詞と時制形式との違いは、前者がイベント同士の

前後関係を表すのに対し、テンスは発話時あるいは参照時とイベントの間の関

係を表すことである。さて、日本語の場合、これらの形式は単にイベントと発

話時との関係を表すだけではなく、イベントの内部構造にも言及する。すなわ

ち 、 動 詞 の 表 す イ ン タ ー バ ル Iの 始 発 時 点 、 終 了 時 点 が 関 与 的 で あ る と 考 え る 。

ル、テイルには始点が、タには終点が指定される。この点が、これらの形式が

時制だけではなくアスペクト的性質を持っているとも考えられるゆえんである
17

Dowty(1977)な ど に 従 っ て 、動 詞 の 意 味 (denotation)を 動 詞 が 表 す 行 為 が 成 立 し

て い る イ ン タ ー バ ル Iと し て 表 す と す る 。こ の イ ン タ ー バ ル を そ の 動 詞 の 表 す イ
18
ベ ン ト の 始 発 時 点 s(I)と 終 了 時 点 f(I)で あ ら わ す と 、基本形、タ形、テイル形

16
以 下 の 記 述 法 は 、Igarashi&Gunji(1998)の 記 述 の 仕 方 を 参 考 に し て い る が 、彼 ら の 記

述 体 系 は 非 常 に 複 雑 で 、か つ 、reset time, viewな ど こ こ で 扱 う 範 囲 内 で は 必 要 の な い 装

置を多く含む。日本語を扱う限りでは、それらは必要ないと考えられるので、含めな

かったが、おそらくは記述的に等価である可能性はある。

17
田 窪 他 (2004)で は 、 こ れ ら の 形 式 を ア ス ペ ク ト を 表 し て い る 部 分 と テ ン ス を 表 し た

部分と分離した二層構造を仮定することで記述する試みをしてある。このやり方は可

能であるが、形態論が複雑になるという難点がある。

18
こ れ は 略 記 法 で 、動 詞( 句 )が あ ら わ す イ ベ ン ト を と っ て そ の 時 間 区 間 を 与 え る 関

数 τ を イ ベ ン ト に か け 、そ の 最 初 の 部 分 を sが 、最 後 の 部 分 を fが 取 り 出 す こ と に す る 。

125
の 基 本 的 意 味 は 、動 詞 句 の イ ン タ ー バ ル を 取 っ て 、参 照 時 rと の 関 係 を 位 置 付 け

る関数として次のようにあらわせる。

(63) 基 本 形 = λ r.λ I.[r < s(I)]

テ イ ル = λ r.λ I.[s(I)<r]

タ = λ r.λ i.[f(I) < r]

こ こ で r は 主 文 で は 発 話 時 UT、従 属 節 で は 、発 話 時 は 主 文 の 表 す イ ベ ン ト の

持 つ 時 間 を 参 照 時 と す る RT で あ る 。 こ こ で 、 詳 し く 論 じ る わ け に は 行 か な い

が、このテンス・アスペクト形式には、動詞句の表すインターバルを制約する

機能と制約されたインターバルを参照時と関係付ける機能の両方が含まれてい

る。主文では、この参照時は発話時と一致し、従属節では、主文のイベント時

が参照時となったり(=相対テンス)、発話時と一致したり(=絶対テンス)

する。

ここでこれらの形式はアスペクトとテンスの両方を表しているといったが、

これはいわばこれらの形式を終止形として扱った場合の特徴であるといえる。

名詞修飾節など連体形で現れるばあいは、これらの形式は単にイベント時を表

していると見ることが可能である。

z 基本形は、発話時と動詞の表すインターバルをとって、発話時が動詞のイ

ンターバルの始点よりも前であることを指定する 2 項述語であり、発話時

が始点と同一であってもよい。

s(I)= s(τ (e))、 f(I)=f(τ (e))。 ま た 、 イ ベ ン ト を 表 す 動 詞 の 形 式 を そ の ま ま そ れ が 表 す

区間として使うことにする。

126
z タ形は、発話時と動詞の表すインターバルをとって、発話時が動詞のイン

ターバルの最終点より後であることを指定する 2 項述語であり、発話時が

最終点と同一ではいけない。

z テイル形は、発話時と動詞の表すインターバルをとって、インターバルの

始発点が発話時より前であることを指定する 2 項述語であり、発話時が始

発点と同一ではいけない。

z テ イ タ 形 は 、発 話 時 よ り ま え の 参 照 時 と 動 詞 の 表 す イ ン タ ー バ ル を と っ て 、

インターバルの始発点が参照時より前であることを指定する 2 項述語であ

り、参照時が始発点と同一ではいけない。

さ て 、上 の 特 徴 づ け は 基 本 形 、タ 形 に 関 し て は そ れ ほ ど 問 題 が な い で あ ろ う 。
19
テ イ ル 形 に 関 し て は 、こ の よ う な 特 徴 づ け を し た 先 行 研 究 は な い と 思 わ れ る 。

この特徴づけは単なる帰納的一般化であるから、このようにすれば進行、結果

の状態、完了の用法をカバーすることができるのは明らかである。反復の用法

は、主語あるいは動作の複数性と関わるのであり、アスペクトとする必要はな

い。このように特徴づけることにはいくつかの利点がある。

ま ず 、井 上・生 越・木 村 (2002)で 観 察 さ れ て い る 韓 国 語 ko iss-taと 日 本 語 テ イ

ル の 違 い が こ の 一 般 化 か ら 説 明 で き る 。井 上・生 越・木 村 (2002:133-134)で は 、

日本語のテイル形が、発話時以前に起きた状況にも言及できることのに対し、

韓 国 語 の ko issesstaが 明 示 的 に 述 べ ら れ た 参 照 時 で 動 作 の 行 わ れ て い る 時 点 に

し か 言 及 で き な い こ と を 指 摘 し て い る 。 た と え ば 、 (64 )は 、 日 本 語 で は テ イ ル

の形を使えるが、韓国語では単なる過去形でなければおかしい。

19
Igarashi&Gunji(1998)は こ の テ イ ル と 似 た 特 徴 づ け を し て い る と 見 る こ と も で き る

がそれほど明示的ではない。

127
(64) 文 脈 : 夫 が ど こ か で 酒 を 飲 ん で 帰 っ て き た 。 ス ー ツ が や け に 香 水 く さ い

a. あなた女の人と飲んでたでしょう。

b. yeca-lang kathi masye-cyo (#masi-ko iss-ess-cyo)?

女の人と 一緒に 飲んだでしょう(飲んでいたでしょう)?

井 上 ・ 生 越 ・ 木 村 (前 掲 : 134)で は 、 韓 国 語 で 「 状 態 形 hako issessta(し て い た )

を用いるには、次のように、動作の進行状態が観察された場面を具体的に設定

することが必要である」

(65) 文 脈:前 日 の 夜 、話 し 手 は 渋 谷 で 聞 き 手 が 女 性 と お 酒 を 飲 ん で い る の を 見

a. 昨日の夜、渋谷で女の人と飲んでたでしょう?

b. eceyspam-ey, sipwuya-eyse yeca-lang kathi masi-ko

昨夜 に 渋谷で 女の人と 一緒に 飲んで

iss-ess-cyo.

いた でしょう。

金 京 愛 (2006)に よ れ ば 、韓 国 語 の -ko issta( し て い る )は 、s- r の イ ン タ ー バ ル 、

すなわち動詞の表すイベントの始発点からリセット時までしか表せないという。

井 上 ら の 観 察 は こ の 金 の 一 般 化 に よ り 説 明 す る こ と が で き る 。韓 国 語 の -ko issta

の過去形は、参照時におけるイベントの始発点から、リセット時までを表すの

であるから、実際に「飲んでいる」時間しか表すことができないわけである。

これに対し、日本語の「ていた」では、参照時に始発時点が終わっていればよ

く、特に、解釈に際して特定のトピック時を設定する必要はないのである。

さて、井上らは、次の例を挙げてトコロダをつけるとトピック時の設定が日

本語でも必要になることを示唆している。

(66) 文 脈 : 夫 が ど こ か で 酒 を 飲 ん で 帰 っ て き た 。 ス ー ツ が や け に 香 水 く さ い

128
#あ な た 女 の 人 と 飲 ん で た と こ ろ だ っ た で し ょ う 。

(66 )の 解 釈 に は (65 )の よ う な 明 示 的 な ト ピ ッ ク 時 を 必 要 と す る 。 こ れ は 、 田 窪

(1993)で 示 唆 さ れ た よ う に ト コ ロ ダ が 観 察 視 点 の あ る 状 況 を 指 し 、 明 示 的 な ト

ピック時でなりたつ状況しか指せないからである。

以下でトコロダがどのようにして動詞の意味を制限するのかを示す。

4.5.3 トコロダとアスペクト形式

上 の テ ン ス・ア ス ペ ク ト 形 式 の 特 徴 づ け に お い て 、テ ン ス・ア ス ペ ク ト 形 式 は 、

動 詞 の 語 幹 の denotation で あ る イ ン タ ー バ ル の 一 部 と 発 話 時 と を 関 係 付 け れ ば

よい。従って、発話時と「動詞+アスペクト形式」が表すイベントの関係は間

接的であり、発話時現在にイベントが存在する必要はない。「チョムスキーの

本を{読む、読んだ、読んでいる}」が表すイベントは、発話時には存在して

いなくてよいのである。

これに対して、トコロダをつけた文では、イベントが発話時、参照時に存在

することが要請される。

(67) チ ョ ム ス キ ー の 本 を { 読 む / 読 ん だ / 読 ん で い る / 読 ん で い た } と こ ろ

(だ)。

(67 )で は 、 「 読 む 」 「 読 ん だ 」 「 読 ん で い る 」 形 式 が 表 す 事 態 の イ ン タ ー バ ル

が 発 話 時 と 接 触 し て い る こ と が 要 求 さ れ る 。す な わ ち 、「 読 む 」は 直 近 の 未 来 、

「読んだ」は直近の過去、「読んでいる」は、現在の進行、また、「読んでい

た」は、参照時で動作が進行している解釈しかできない。すなわち、

(68) V- ル ト コ ロ ダ : 参 照 時 = s(I)

V- テ イ ル ト コ ロ ダ : s(I)< 参 照 時 < f(I)

V- タ ト コ ロ ダ : : f(I)= 参 照 時

129
こ の よ う な 制 約 が な ぜ 生 じ る の で あ ろ う か 。ま ず 、D-命 題 の 性 質 上 、テ ン ス の

区 別 が あ る 節 が D-命 題 を 表 す 場 合 、発 話 時 点 、参 照 時 点 で 、直 接 知 覚 で き る イ

ベ ン ト を 表 し て い る こ と に な る 。D-命 題 は 発 話 時 に お い て は 、直 知 で き る 状 況

をあらわすからである。つまり、上のアスペクト形式のあらわす範囲のうちイ

ベントそのものを表す部分が発話時、参照時と重なる必要がある。

V- ル ト コ ロ ダ ( 参 照 時 , s(I)) : 参 照 時 = s(I)

V- テ イ ル ト コ ロ ダ ( 参 照 時 , s(I)) : s(I)< 参 照 時 < f(I)

V- タ ト コ ロ ダ ( 参 照 時 , f(I)) : f(I)= 参 照 時

ト コ ロ ダ は 有 界 動 詞 ( telic verbs: achievement verbs、 accomplishment verbs が 属

する)のテイル形、テイタ形には普通付かず、もし付けば、活動動詞の解釈に

なる。つまり、発話時(参照時)にいる認知主体(=話し手)に動詞の表すイ

ベントが見えないといけないわけである。

(69) 太 郎 は 花 子 と { 結 婚 し て い る /結 婚 し て い た } と こ ろ ( だ ) 。
20
ト キ 、ア イ ダ も 参 照 時 を 表 す こ と が で き る が 、ト コ ロ と ト キ 、ア イ ダ は そ れ

が課すアスペクトの制約が多少異なる。

(70) 花 子 が 服 を 着 て い る { と き 、 間 }

(71) 花 子 が 村 に 来 て い る { と き 、 間 }

(72) 花 子 が 服 を 着 て い る と こ ろ ( で )

(73) *花 子 が 村 に 来 て い る と こ ろ ( で )

20
「 時 」は「 間 」と は 異 な り 、動 作 の 始 点 、終 点 を も 示 す こ と が で き る 。「 彼 が こ こ

に来た」は、時間的には到着時間を表すため、「彼がここに来た時」とはいえるが、

「彼がここに来た間」とはいえない。

130
「着ている」は、着衣行為と着衣行為の結果の状態からリセット時まで(=脱

衣するまでの着衣状態)をあらわすことができる。これに「時」「間」をつけ

た「着ている時・間」でも着衣行為の最中の意味と着衣状態のときの意味とで

あいまいである。しかし、トコロをつけると着衣行為の解釈しかなく、着衣状

態の解釈はない。「着る」という動詞の意味は、「着衣行為+着衣状態」の二

つのイベントからなるイベント複合であるが、行為としての「着る」自体は着

衣行為であり、着衣状態は、行為の結果でしかない。すなわち「着る」行為の

うち可視的な部分は着衣行為だけである。さらに、「来る」は、到達動詞であ

り、テイルには進行の意味はなく、結果の状態の意味しかない。このため「来

ているところ」は、先ほどの「結婚する」のように活動動詞として解釈しなお

さなければ解釈はない。

す な わ ち 、 動 詞 句 の 表 す イ ン タ ー バ ル I の う ち 発 話 時 、 参 照 時 RT と 接 触 し

て い る も の も の だ け が 、 [[VP+ア ス ペ ク ト ]+ ト コ ロ ]の 意 義 (denotation)に な る

ことになる。

こ こ で「 ト コ ロ だ 」は D-命 題 を と る と す る と 、ア ス ペ ク ト 形 式 に つ く ト コ ロ

ダの意味が出てくる。トコロダがつくと動詞のインターバルのうち、I の部分

(すなわち行為の部分)のみに動詞の視野を狭める。着衣の場合は、着衣行為

の結果の状態の部分や脱衣の以後は視野に入らないのである。つまり、発話時

(あるいは過去の場合は参照時)において、イベントのうち直知できる部分、

すなわち動詞の可視部分が存在することを制約として課すとみることができる。

条件文で仮定したトコロダの制約がここでも成り立つとすると自然に説明す

ることができる。トコロダは、補文として、真であると話し手が知っている命

題が来るという制約をたてることにする。

z ト コ ロ ダ 制 約 : ト コ ロ ダ は D-命 題 を 補 足 部 に と る 。

ア ス ペ ク ト 形 式 に 付 く 場 合 で は 、条 件 文 に 付 く 場 合 と 異 な り D-命 題 の う ち 可 視

131
的な部分のみが問題になるので、トコロダを付けた文は真であると直接経験で

知っていることを表す解釈になる。「アスペクト形式+トコロダ」が目撃的な

ニュアンスを持つことがこれから導出される。

この制約は、トコロダは参照時点を表すとすると導出できる。日本語のテン

ス形式においてはイベント時と参照点は独立しており、それにより遠い未来、

遠い過去、完了などの解釈が可能になる。ところが、トコロダをつけることで

イベント自体を参照点と一致させることが強制されるのである。つまり、トコ

ロダはイベントを取ってそれを認知主体が観察視点を持つ参照点とすることに

なる。現在時では、この参照点は発話時点と一致する。このため、テンス・ア

スペクト形式に付くトコロダは、イベントの可視部分しか取り出さないのであ

る。

4.6 条 件 文とアスペクトに付くトコロダの違い

田 窪 ・ 笹 栗 (2002)で は 、 ア ス ペ ク ト 形 式 に つ く ト コ ロ ダ と 条 件 文 に つ く ト コ ロ

ダとの違いをいくつか観察している。テイル形式につくトコロダは通常活動動

詞にしか後続しない。これは、通常活動動詞しか、トコロダが制限するイベン

ト の 可 視 部 分 を 持 た な い か ら で あ る 。 (74 )で は 、 「 死 ん で い る 」 は ま っ た く 不

自然で、これが可能なのは、これらを意思的で、継続的な動詞として使える場

合、すなわち役者が芝居で死ぬふりをしていたり,ドラキュラのように自由に

死んだり,生き返ったりする場合に限られる。

(74) a. 彼は今死ぬところです。

b. ??彼 は 今 死 ん で い る と こ ろ で す 。

c. 彼は今死んだところです。

aは 自 殺 と か 処 刑 の 意 味 合 い が あ り 、 cも な に か 死 が 予 定 さ れ て い る よ う な ニ ュ

アンスがある。これは、トコロダに観察視点が置かれることと関連している。

132
さて、このような制約は条件文に使われるトコロダにはない。トコロダ条件文

は、
「 死 ぬ 」の よ う な 到 達 動 詞 で も 可 能 で あ る 。か つ 、2 章 で 見 た 時 制 の 対 立 は

基本的には中和しておりテイタ形とテイル形の区別はない。これらの違いは、

アスペクト形式と条件文が関わる領域の性質の差から説明することができる
21

(75) 彼 が こ の 薬 を 飲 ん で い た ら ,今 こ ろ{ 死 ん で い た / 死 ん で い る }と こ ろ だ 。

つぎにトコロダがなぜ参照点を表すのかをトコロの語彙的な意味とダの意味か

ら導出しよう。

4.7 ト コ ロの基本的意味

田 窪 (1984)で は 、 場 所 の ト コ ロ の 表 す 意 味 を 基 準 点 と し て い る 。 方 向 や 時 間 の

前後関係は、基準点を必要とする。たとえば、方向を表す相対名詞は、基準と
22
する位置を持つ 。

21
このような時間領域と論理領域が同じ語彙により表されることに関しては、

Michaelis (1996)に よ る stillの 時 間 用 法 と 譲 歩 の 用 法 に 関 す る 研 究 を 参 照 。通 常 、stillは 、

時 間 的 解 釈 で は ⅰ )の よ う に 変 化 を 前 提 と す る 継 続 状 態 に し か 使 え な い(「 ま だ 生 き て

い る vs.ま だ 死 ん で い る 」 ) 。 し か し 、 論 理 領 域 に お け る 解 釈 で は 、 帰 結 の 変 化 を 前 提

と す る 論 理 的 な 継 続 性 を 表 す 解 釈 が 可 能 と な り 、 ⅱ )の よ う に still deadの 表 現 が 可 能 に

な る ( ま だ 生 き て い る vsや は り 死 ん で い る ) 。

ⅰ ) a. John is still alive.

b. *John is still dead.

ⅱ ) a. If John had taken these pills, he would still be alive.

b. If John had taken these pills, he would still be dead.

22
こ こ で 、実 際 の 基 準 が ど の よ う に な る か は 、さ ま ざ ま な 観 点 か ら 決 ま る こ と が 知 ら

133
(76) 京 都 の 東 、 西 :

京都を基準としてその東、西を指す。

(77) 田 中 の 前 :

田中を基準として、その前を指す。

時間の関係名詞にしても同じである。

(78) 授 業 の 前 :

授業の時間を基準にその時間より以前を表す

(79) 新 郎 新 婦 が 入 っ て く る 前 に 照 明 が 暗 く な る :

新郎新婦が入っている時間が基準時としてそれより以前を表す。

こ れ ら の 名 詞 は 、あ る 基 準 点 を ひ と つ の 項 と す る 2 項 述 語 と み る こ と が で き る 。

(80) 東 ( A、 B) 、 前 ( A、 B)

A が B の東にあるというのは、B を基準として、その東という意味である。A

が B の 前 に あ る と い う の は 、B を 基 準 と し て そ の 前 と い う 意 味 と な る 。こ れ ら

はそれぞれ次のように表すことができる。

(81) 前 : λ l 1 ,λ l 2 .l 2 is in front of l 1

東 : λ l 1 ,λ l 2 .l 2 is east of l 1

れている。たとえば、車のようにもの自体が前部を持っている場合は、話し手の視点

と関係なく、車を基準として方向は決まる。これに対して、箱やテーブルのようにそ

れ自体が方向の指定を持たない場合は、話し手の視点が方向を決める。

134
例えば、B をそれぞれ「田中」「京都」が表すとして、代入すると次のように

なり、それぞれ2項述語の項の一つが従属されて1項述語となる。

(82) 「 田 中 の 前 」 :

前 : λ l 1 ,λ 1 2 .l 2 is in front of l 1

田中の前 = λ l 1 ,λ l 2 .l 2 is in front of l 1 (||田 中 ||)

= λ l 2 .l 2 is in front of (||田 中 ||)

「京都の東」:

東 : λ l 1 ,λ l 2 .l 2 is east of l 1

京 都 の 東 = λ l 1 ,λ 1 2 .l 2 is east of l 1 (||京 都 ||)

= λ 1 2 . l 2 is east of (||京 都 ||)

時間に関しても同じようにあらわせる。

(83) 前 に : λ e 1 λ e 2 . π (e 2 )<π (e 1 )

基準時として「新郎新婦が入ってくる」というイベントがとる時間を与えると

次のようになる。

(84)「 新 郎 新 婦 が 入 っ て く る ま え 」

: λ e 1 λ e 2 .[π (e 2 )<π (e 1 )](||新 郎 新 婦 が 入 っ て く る ||)

= λ e 2 . π (e 2 )<π (||新 郎 新 婦 が 入 っ て く る ||)

「新郎新婦が入ってくるまえに照明が暗くなる」

= λ e 2 . [π (e 2 )<π (||新 郎 新 婦 が 入 っ て く る ||)](||照 明 が 暗 く な る ||)

135
= π (||照 明 が 暗 く な る ||)< π (||新 郎 新 婦 が 入 っ て く る ||)

さて、トコロはこの空間、時間の関係名詞が表す関係において基準点を表すと

み る こ と が で き る 。た と え ば 、先 ほ ど の「 田 中 の 前 」と い う 表 現 で は 、「 田 中 」

が 基 準 と な っ て 「 前 」 と い う ダ イ ク テ ィ ッ ク な 方 向 を 決 め て い る 。 田 窪 (1984)

では、このような方向の基準となる位置を示す語がトコロであるとし、そこか

らトコロの場所化の用法を導出している。つまり、「田中のところ」が人間で

はなく、場所を示すのは、「田中のトコロ」が「田中」を基準とする位置を示
23
すからであるとするのである 。

トコロを基準点を表し、かつ、2 項述語であるとすると次のように表せる。

(85) ト コ ロ ( x,y)

λ x.λ y.[(x is at y)∧ y は 基 準 点 ]

例えば、「田中のところ」は次のようになる。

(86) λ x.λ y.[x is at y∧ (y は 基 準 点 )](||田 中 ||)

= λ y. ||田 中 || is at y ∧ (y は 基 準 点 )

さて、この基準点自体を表すトコロは、すべての用法においてダイクティッ

クな視点が置かれるところと一致する。すなわち認知主体の基準視点位置であ

る。これは、認知主体の認知的基準点とみなしてよいだろう。この位置は、領

域により次のような形で実現する。

23
実 際 に は 、基 準 点 を 示 す ト コ ロ は 義 務 的 で は な く 、方 向 名 詞 に お い て は 省 略 で き る 。

136
(87)

空間 基準位置:所在位置

時間 基準時点:参照時

論理空間 基準世界:参照世界

さ て 、ト コ ロ が こ の よ う な 性 質 の も の で あ る と す る と 、 文 や ア ス ペ ク ト 形 式 に

つくトコロの性質は非常によく理解できる。まず、アスペクト形式につく場合

トコロは、アスペクト句が表すイベントを基準点として、話者の認知視点があ

る参照時と一致させる役割を果たす。

す な わ ち 、イ ベ ン ト の 可 視 部 分 が 話 者 の 可 視 領 域 で あ る D-領 域 に 存 在 す る こ

と を あ ら わ す こ と に な る 。イ ベ ン ト の 可 視 部 分 が 存 在 で き る D-領 域 は 発 話 時 の

直示空間だけであるから、これによりイベントの直時空間へのダイクティッ

ク・スペースへの存在を強制することになる。また、過去時制においては、発

話時は参照時、あるいはトピック時をあらわし、談話で問題となっている過去

における直示空間を表す。

4.8 ま と め

以 上 、ト コ ロ ダ 条 件 文 の 反 事 実 性 に 関 し て は 、ト コ ロ ダ が D-命 題 を と る と い う

制約をたてることで導出できた。また、このトコロダの性質は、トコロが参照

点、基準点を表すという語彙的性質とダが属性述語を作り、発話時現在の状況

に関する述語付けであるという性質、補足部がアスペクト句ではなく、命題で

あるという性質、条件節を付加節としてとるという性質から導出できることを

示した。

137
第5章

トコロデと譲歩解釈 1

5.1 譲歩節を導くトコロデ

次の例ではトコロが譲歩的条件文に用いられている。

(1) 彼が来たところで,何も起こらないだろう

(1 )は 前 件 に 「 と こ ろ +で 」 ( 以 下 ト コ ロ デ ) と い う 形 式 で 現 れ 、 「 て も 」 ( 以

下 テ モ )と 同 じ よ う な 譲 歩 の 接 続 助 詞 の 役 目 を 果 た す 。ト コ ロ は 前 章 で 基 準 点 、

参照点を表すと特徴付けたが、どのようにして譲歩文に使われて、接続助詞の

ような機能を果たすのだろうか。以下ではトコロデによる譲歩文の特徴、テモ

をとる譲歩文との比較で見て、これらがトコロが基準点、参照点を表すという

特徴づけからどのように説明されるかを見る。

日本語においては、譲歩条件文も通常、反事実的か否かは形式的に表す必要

はなく、解釈は文脈により決まる。つぎのようなテモを用いた譲歩条件文(以

下 テモ譲歩文)では前件は文脈により反事実的でもそうでなくてもよい。

(2) a. 田中は来なかったが、彼が来ていても、なにも起こらなかった{だろ

う、はずだ、かもしれない、ゼロ}。

b. 田 中 が 来 た か ど う か し ら な い が 、 彼 が 来 て い て も 、 な に も 起 こ ら な か

った{だろう、はずだ、かもしれない、ゼロ}。

1
本 章 は 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)の 譲 歩 節 の 記 述 部 分 を も と に 、 分 析 、 結 論 を 全 面 的 に 書 き

直したものである。

139
また、譲歩解釈において、後件は、当該の現実と相違しないことを表すのであ

るから、後件の反事実性の解釈は意味上ありえない。

これらの点に関してはトコロデが表す譲歩文も同じである。トコロデ譲歩文

は 次 の よ う な 点 で テ モ 譲 歩 文 と 異 な る 。前 田 (1996:176)に よ れ ば 、テ モ 譲 歩 文

は、前件を複数にして、譲歩的条件を並列的に述べることができるが、トコロ

デ譲歩文は前件にこの並列の構文がとりにくい。

(3) a. 彼が行っても行かなくても,僕は行かない。

b. *彼 が 行 っ た と こ ろ で , 行 か な か っ た と こ ろ で , 僕 は 行 か な い

またトコロデが結びつける前件と後件とは事態間の譲歩条件的な論理関係を表

すのが普通であり、後件に「よう」のような話し手の意志や意向の表現が来る

の は 不 自 然 で あ る ( 宮 崎 (1984:40), 前 田 (1996:177)) 。

(4) a. 田中が 2 時に来て,我々は 3 時に出よう。

b. *田 中 が 2 時 に 来 た と こ ろ で , 我 々 は 3 時 に 出 よ う 。

c. 田中が 2 時に来たところで,我々が 3 時に出るという予定は変わらな

い。

さらにトコロデが後続する動詞のアスペクトはタ形でなければならない(前田

(1996: 176)) 。

(5) a. 犯人が死んだところで、事態にかわりはない。

b. *犯 人 が 死 ぬ と こ ろ で 、 事 態 に か わ り は な い 。

以上トコロデ譲歩文の特徴をまとめるとそれぞれ次のようになる。

140
(6) トコロデ譲歩文の特徴(テモ譲歩文との相違):

a. 並列の構文がとりにくい

b. 前 件 と 後 件 は 事 態 間 の 論 理 関 係 を 表 す の が 普 通 で 、 後 件 に 意 思 の 表 現

は来にくい

c. トコロデが後続する動詞の形式はタ形でなければならない

以下では、まず、トコロデの基本的な用法を観察し、譲歩条件文におけるトコ

ロデの基本的な特徴を改めて記述する。しかる後、これらの特徴が、トコロが

基準点、参照時点を表すという前章での特徴づけから導出できるかどうかを見

る。

5.2トコロデの基本的機能

トコロデは節的要素をうけて接続助詞的に用いられる。ここではまず,節的要

素を補足部にとるトコロデの基本的機能を見てみよう。トコロデはトコロと助

詞のデとの組み合わせによりなるものであると考える 2 。トコロデはさまざま

な用法を持つが、それらは、基本的にトコロが指定する値の領域の性質によっ

て決まる。トコロデは、大きく分けて少なくとも場所、時点あるいは場面・状

況、譲歩条件の 3 つの用法がある。

(7) 彼が住んでいるところで立ち退き騒動があった。(場所)

2
トコロデのデをコピュラの連用形と見ることも可能であるが、本稿ではその分析は

とらない。アスペクト形式につくトコロダも、条件文の帰結に付くトコロダも連用形

は並列節の解釈しか不可能であり、ここで問題とする用法を持たないからである。

ⅰ) 田中は博士論文を書いているトコロデ、いまは時間がない。

ⅱ) もしそのとき地盤がゆるんだため雨が降っていれば大変なことになっていたトコ

ロデ、我々はすんでのところで惨事をまぬかれた。

141
(8) 議 長 が 閉 会 の 辞 を 述 べ た と こ ろ で ,記 者 た ち が 入 っ て き た 。( 時 点 、場 面・

状況)

(9) 彼女がいたところでパーティーは成功しない。(譲歩条件)

場所の場合、動作が行われる場所、位置を表す場所の両方が可能で、これらは

「そこ」のような語句で明示的に同一指標を持つ句を示すことができる。従っ

て、これらは基本的に関係節であるとしてよい。

(10) 彼 が そ こ に 住 ん で い る と こ ろ で 立 ち 退 き 騒 動 が あ っ た 。

(11) 彼 が そ こ で 働 い て い る と こ ろ で 傷 害 事 件 が あ っ た 。

これに対し、時点や譲歩の解釈の場合、同一指標を持つ句を明示的に示すこと

はかなり不自然である。

(12) ??そ こ で 議 長 が 閉 会 の 辞 を 述 べ た と こ ろ で 、 記 者 た ち が 入 っ て き た 。

(13) ??そ こ で 彼 女 が い た と こ ろ で 、 パ ー テ ィ ー は 成 功 し な い 。

このような例におけるトコロは、トコロ自体が節の中の要素と関係を持つわけ

で は な い 。 寺 村 (1991: 235)の い わ ゆ る 外 の 関 係 を な す わ け で あ る 。

トコロデの時点の意味は、「場面」や「状況」と言いかえることができ、一

つの場面や状況が別の場面や状況の生起する契機となる。譲歩の解釈はテモと

言いかえられる。時点の解釈は、場面や状況がより大きな事態の系列のなかに

埋め込まれることで得られる。この解釈は、トコロダの場面、シーンの用法と

同じである。「議長が閉会の辞を述べる」という事態を場面の系列の中に位置

づ け て 、そ れ を「 記 者 た ち が 入 っ て き た 」と い う 事 態 の 発 生 の 契 機 と し て い る 。

以後この用法を契機の解釈と呼ぶ。このトコロデもトコロダと同じく、アスペ

クトの制約を受ける。

142
(14) [彼 が 住 ん で い る / 住 ん で い た ] と こ ろ で , 立 ち 退 き 騒 動 が あ っ た 。

上の文はテイルが状態を表すため場面の解釈、従って、前件を契機として、

後件が生起するという契機の解釈は普通はとれず、場所の解釈しかとれない。

ただ、映画などの進捗状況などを述べる場合、「ている」であっても、大きな

ストーリーのなかの一場面として扱うことが可能であれば、契機的な解釈がそ

れほど不自然ではなくなる。

(15) 犯 人 が 死 ん で い る と こ ろ で 、 終 わ り の マ ー ク が 出 た 。

この場合、ストーリー全体を系列としてとると「死んでいる」はある特定のシ

ーンを表し、そうでない場合は場所の解釈をとる。この場合でも、譲歩の解釈

は難しい。

場所、契機のトコロデと譲歩のトコロデはさまざまに異なる振る舞いを見せ

る。まず、場所、契機のトコロデは補足節に疑問詞を入れると、それを含む文

全体が疑問詞疑問文となる。

(16) 誰 が 住 ん で い る と こ ろ で 、 立 ち 退 き 騒 ぎ が あ っ た ん だ ?

(17) 誰 が 死 ん で い る と こ ろ で 、 終 わ り の マ ー ク が 出 た ん だ ?

これに対して、譲歩のトコロデでは、疑問詞はトコロデまでしかかからない。

従って、次の文は、平叙文である。

(18) 誰 が 来 た と こ ろ で 、 パ ー テ ィ ー は 成 功 し な い さ 。

これは、次のようなテモによる譲歩文が示す性質と同じである。

(19) 誰 が 来 て も 、 パ ー テ ィ ー は 成 功 し な い さ 。

143
テモの場合は、モによってテモがとる節が量化可能な節となるため、疑問詞が

モによって束縛され、「誰~も」で量化の機能が与えられる 3 。これは、たと

えば次のような意味を持っていると考えられる。

(20) for all <x、 w>, such that (x が 来 る ) in w,パ ー テ ィ ー が 成 功 し な い in w

同様の量化がトコロデでも許されていると見ることができる。

以上がトコロデの基本的な意味とその機能である。以下ではこのトコロデが

どのように譲歩文の解釈を導くのかを見ていく。

5.3 譲 歩 文のトコロデの統語的特徴と領域の性質

トコロデを譲歩条件の前件として解釈した場合、次のような制約がある。

(21) 彼 が 来 { た /*る } と こ ろ で , 事 態 に 変 わ り は な い だ ろ う 。

まずトコロデが接続する動詞の形式は基本形ではなくタ形でなければならない。

次のように「ている」という状態を意味する形式の場合も同様にタ形をとる。

(22) 犯 人 が 死 ん で い { た /*る } と こ ろ で , 事 態 に 変 わ り は な い 。

3
「誰~ても」が、全称量化に解釈できるのは、全称汎化によると考えられる。一般

に 、 p(x)で 、 xが 任 意 の 変 数 の 場 合 、 p(x)か ら ∀ x. p(x)を 導 く こ と が 許 さ れ る 。 こ れ を x

と wの 対 に 関 し て か け る と 、 p<x、 w>か ら 、 ∀ <x,w>. p<x、 w>を 導 け る 。

144
次の例のように通常タとは共起しない「明日」という未来を表す時の副詞と共

起していることから,トコロデが後続するタ形は時制を表すものではなく、仮

定を表すといえる 4 。

(23) 彼 が 明 日 来 た と こ ろ で , ど う し よ う も な い 。

テモは、後件に意思を表す表現が来て、予定の不変更などを表すことができ

るが、トコロデではそれが不自然である。トコロデが用いられ,譲歩文の解釈

が 整 合 的 に 得 ら れ る の は 、 (25 )の よ う に 前 件 と 後 件 の 間 の 論 理 関 係 を 表 す 場 合

だけである。

(24) 田 中 が 遅 れ て 来 { テ モ 、 ??タ ト コ ロ デ } 、 待 っ て い っ し ょ に 出 発 し よ う 。

(25) 田 中 が 2 時 に 来 た と こ ろ で , 会 議 に は も う 間 に 合 わ な い だ ろ う

このようにトコロデが用いられ譲歩文の解釈を導く場合、前件も後件も時制の

区 別 が な く 、形 式 に 関 わ ら ず 発 話 時 と 相 対 的 な 未 来 、現 在 、過 去 を 意 味 し な い 。

従ってトコロダが条件文に用いられる場合と同様に、前件、後件の命題間の関

係を表すような場合にトコロデが譲歩解釈を取ると考えられる。譲歩解釈を取

る 場 合 、 前 件 pは 仮 定 の 状 況 を あ ら わ し 、 後 件 qは 基 本 的 に 変 化 で は な く 特 定 の

事態や状況を表す。もし、後件が変化を表し、特定の時間や場所を伴って解釈

できれば、前件も、時点を表す解釈になる。いわば、両者は相補分布をなすと

いってよい。例えば次の文を見られたい 5 。

4
発話時、参照時以前の事態を表すときは、テイル形を使う。

ⅰ) 彼が昨日パーティーに来ていたところで、どうしようもない。

ⅱ)) ??彼 が 明 日 パ ー テ ィ ー に 来 て い た と こ ろ で 、 ど う し よ う も な い 。

5
実際には、トコロデがとる節の構成要素が異なるので厳密には相補分布をなすとは

145
(26) 彼 が 来 た と こ ろ で 、 パ ー テ ィ ー は 終 わ る 。

こ の 文 の 解 釈 は 譲 歩 と 時 点 解 釈 で 曖 昧 で あ る 。 時 点 解 釈 で は 、 [彼 が t に 来 た ]

に よ り 、t の 時 点 を 確 定 し 、こ の 時 点 を [パ ー テ ィ ー が t に 終 わ る ]の 時 点 t と の

一致を述べる解釈になる。この場合、前件は後件の方の生起の時点を表す契機

の意味になる。これに対し、譲歩に取る場合は、先ほど見たように前件、後件

と も に 時 点 は 無 関 係 と な り 、成 立 す る か し な い か だ け が 問 題 と な り 、[彼 が 来 た ]

が 真 で あ る 場 合 、 [パ ー テ ィ ー が 終 わ る ]が 真 で あ る こ と を 表 す 。

さ て 、「 p が 真 で あ る 場 合 、q が 真 で あ る 」と い う 解 釈 が な ぜ 譲 歩 に な る の だ

ろ う 。こ れ は 、譲 歩 と い う 概 念 の 定 義 的 性 質 に よ る 。こ こ で 坂 原 (1991)に 従 い 、

譲 歩 条 件 は 、条 件 文 の 否 定 で あ る と し よ う 。条 件 文 p⊃ q が な り た た な い こ と を

示 す に は 、 そ の 反 証 例 を 挙 げ れ ば よ い 。 条 件 文 p⊃ q は 、 p が 真 で あ る と き に q

が 偽 で あ る こ と は な い と い う 意 味 で あ る 。こ の と き の 反 証 は 、p で あ り ¬ q で あ

る 整 合 的 な 状 況 、 p∧ ¬ q が 存 在 す る こ と を 示 せ ば よ い 。 ま た 、 「 p れ ば ・ た ら

q」 は 、 そ の 強 い 主 張 で は 、 q と い う 帰 結 は p で な け れ ば 生 じ な い 、 す な わ ち p

であるときのみ q であるという意味で使う場合がある。つまり、p と q の間に

因果的な関係を想定した解釈であり、暗黙の想定 A が設定されて、q であるた

め に p 以 外 の ほ か の 要 因 が な い こ と が 想 定 さ れ る 場 合 で あ る 。こ の 場 合 は 、¬ p

⊃ ¬ q、 す な わ ち 、 p が q の 必 要 条 件 で も あ る こ と (q⊃ p)で あ る こ と を 主 張 す る

場合に使うこともできる。これを否定しようとすれば、この反証である、¬p

∧q であることを示せばよい。

p を「 こ の 薬 を 飲 む 」、q を「 ク ラ ー ク ケ ン ト が 死 ぬ 」と す る と 次 の よ う に な

る。

(27) こ の 薬 を 飲 め ば ク ラ ー ク ケ ン ト は 死 ぬ 。

いえない。譲歩文では、アスペクトが区別されなくなる。

146
z 十分条件の否定

この薬を飲んでもクラークケントは死なない。

この薬を飲んだところでクラークケントは死なない。

z 必要条件の否定

この薬を飲まなくてもクラークケントは死ぬ。

この薬を飲まなかったところでクラークケントは死ぬ。

十分条件の反証は、想定に前件を加えても後件が成り立たないこと、必要条

件の反証は前件が成立している場合以外に後件が成り立つ場合があることを表

している。どちらの場合も、譲歩文では前件が p 以外に存在することを表して

おり、量化が可能であることを示している。モは、後件の成立が条件文の前件

以外の場合でも成り立つことを表す。テモは、テによる連言の機能とモによる

累加の機能により、譲歩的解釈が成立することがわかるのである。

テモによる譲歩条件は、反事実である必要はないので、前件は想定と矛盾す

るものでない場合もある。どのような解釈が可能であるかを見てみよう。譲歩

文の前件 p が想定 A で決定していない場合、すなわち、p が未来の事態である

場合、p が A で決定している場合、つまり、p が過去の場合、p が A で決定し

ており反事実である場合である:

p、 q と し て 次 の よ う な 命 題 を 考 え よ う 。

p: 田 中 が 2 時 に 京 都 駅 に 着 く

q: 田 中 が 会 議 に 間 に あ う 。

(28) a. 田中が 2 時に京都駅に着いても,会議にはもう間にあわないだろう

b. 田 中 が 2 時 に 京 都 駅 に 着 い て い て も 、 会 議 に は 間 に あ わ な い だ ろ う 。

c. 田中が 2 時に京都駅に着いていても、会議には間にあわなかっただろ

う。

147
(28 )aの 場 合 、 「 p: 田 中 が 京 都 駅 に 着 く 」 は 、 未 来 の 事 態 で あ り 、 決 定 し て お

ら ず 、 従 っ て 話 し 手 は 真 偽 は 知 ら な い 。 bの 場 合 、 pは 決 定 し て い る が 、 そ の 真

偽 を 知 っ て い る 必 要 は な い 。 さ ら に cの 場 合 、 pは 決 定 し て お り 、 反 事 実 の 解 釈

が普通である。

さ て 、譲 歩 文 の 解 釈 は そ れ ぞ れ の 場 合 次 の よ う に 得 ら れ る 。ま ず 、a の 場 合 、

話し手の想定 A では、p も q も決定していない。このとき文脈に「p れば・た

ら q」 が あ れ ば 、 「 p テ モ ¬ q」 は 、 p を 文 脈 に 加 え て も q に な ら な い こ と を 主

張 す る 文 に な る 。想 定 に「 ¬ p れ ば・た ら ¬ q」が あ れ ば 、p を 文 脈 に 加 え て も 、

¬q になること、すなわち必要条件の否定になる。あとの場合も同様である。

トコロデが譲歩となるのも基本的にはこの条件文に対する反証の提示による

ものであるが、トコロはモのような累加の助詞が関与しないため別のメカニズ

ムが働いていると考えられる。トコロデは、どのようにして条件文の反証とし

ての譲歩的解釈を受けるのであろうか。

田 窪 ・ 笹 栗 (2002)で は 、 譲 歩 文 に お け る ト コ ロ デ は 、 先 行 文 脈 で 与 え ら れ た

命 題 の 真 偽 値 を フ リ ッ プ す る 役 目 を 果 た す と 考 え た 。0→1、1→0 の ご と く で あ

る。

つまり、テモによる譲歩とトコロデによる譲歩は基本的な構成は同じである

が、前件の作り方が違うといえる。先に述べた次のような事実は、トコロデが

累加ではなく、前件の真偽値のフリップが関わっていることを示している。テ

モ譲歩文は前件に複数の事態を羅列することが可能であるのに対し、トコロデ

譲歩文では前件に複数の事態を述べることが不自然である。

(29) ダ イ エ ッ ト を し て も 散 歩 を し て も や せ な い 。

(30) ??ダ イ エ ッ ト を し た と こ ろ で 、 散 歩 を し た と こ ろ で と こ ろ で や せ な い 。

テモが譲歩文の解釈を導くのは,取り立て詞としてのモの基本的な機能,すな

わち取り立てた要素以外にも同じ性質を持つものが存在することを意味するこ

148
と に よ り 現 れ る と 考 え る の が 普 通 で あ る ( 前 田 (1993)参 照 ) 。 テ モ の 場 合 、 累

加は文脈で前提となる条件的知識の前件命題だけではなく、対照的な集合が作

れさえすればなんでもかまわない。これに対して、トコロデはそのような対照

的集合ができるだけでは使えない。

(31) A: 薬 を 飲 ん だ ら , 風 邪 な ん て す ぐ な お る さ 。

B: 寝 て も / *寝 た と こ ろ で , な お る よ 。

(31 )で , テ モ 譲 歩 文 が 「 薬 を 飲 む 」 と い う 条 件 に 対 し て 、 「 寝 る 」 と い う 他 の

条件を用いることによって、「薬を飲む」ことが「風邪がなおるため」の必要

条件であることを否定することができる。「薬を飲む」ことは「風邪が直る」

ために十分な条件ではあるが、必要な条件ではないわけで、逆がなりたたない

ことを主張している。

こ れ に 対 し 、 ト コ ロ デ は こ の よ う な 譲 歩 文 を 導 く こ と は で き な い 。 Bが 可 能

なのは、「寝なければ風邪がなおる」という妙な主張に反論するときだけであ

り、「薬を飲まなければ、風邪はなおらない」という主張の反論には使えない
6

以上のようなトコロデの制約は、トコロ譲歩文がテモと異なり累加の機能を

使っていないことを示唆する。譲歩文におけるトコロデは、トコロの性質から

その対照集合は、命題の成否だけ、すなわち、命題の真偽値のフリップが関わ

っていると考えたのである。

しかし、命題の真偽をフリップするという仮定は、特にどの理論的想定から

も導出されない命題である。すなわち、田窪・笹栗の説明では、トコロデの性

6
「寝なければ風邪がなおる」の前件の真偽値をフリップすれば、「寝たところで風

邪がなおる」となる。つまり、「寝なくても、寝ても風邪がなおる」と言うのと同じ

ことになるが、「寝なければ風邪がなおる」という主張が不自然になるため、この文

は不自然になる。

149
質を説明するために、独立した規定としてこの仮定をしなければならないとい

う欠陥を持っている。そこで、以下ではこの仮定をトコロの性質から導出する

ことを試みる。

このような効果を得るのには、トコロデ譲歩文の前件が想定にある条件文の

前件にあたる命題の真偽をフリップすると考える必要はない。後件の命題が想

定された値から変化しないという、規定だけで説明できる。つまり、さきに述

べた契機のトコロデに関して観察された譲歩解釈と契機解釈の「相補性」に着

目することで、記述できるのである。このことを以下で示そう。

5.4 ト コ ロデの意味

ここでトコロデの持つ性質がトコロとデの意味からどのようにして導出できる

かを考えよう。まず、トコロデとトコロダの違いは次のようになっている。

トコロダ:

z 補足部節が反事実命題を表す。

z 条件文の帰結部分に来る。

z タ、テイル、テイタの意味解釈上の区別がない、あるいは明確でない。

トコロデ:

z 反事実を表さなくてもよい。

z 譲歩文の前件に来る。

z タが義務的である。

トコロが参照時を表すという本稿の立場からはどのようにしてトコロデの性

質が導出できるであろうか。

まず、反事実性に関して見てみよう。先に見たトコロダと異なり、トコロデ

は「 D-命 題 を 取 る 」と い う 制 約 が な い 。ト コ ロ ダ が D-命 題 を 取 る と い う 制 約 は 、

150
ダが発話時現在を表し、トコロダ句が、発話時現在の状況に関する述語付けで

あるという性質をトコロが補足部にそのまま伝えるために生じる 7 。トコロデ

は 、発 話 時 現 在 の 状 況 に 対 す る 述 語 づ け で は な い た め 、補 足 部 は D-命 題 で あ る

必要はないのだと考えられる。

トコロデは、発話時を表すわけではなく、それがとる時間的関係は、文脈に

おける主題によって決まる参照時であるようである。

p、 q と し て 先 ほ ど と 同 じ 次 の よ う な 命 題 を 考 え よ う 。

p: 田 中 が 2 時 に 京 都 駅 に 着 く

q: 田 中 が 会 議 に 間 に あ う 。

(32) a. 2 時に京都駅に着いたところで会議には間にあわないだろう。

b. 2 時 に 京 都 駅 に 着 い て い た と こ ろ で 会 議 に は 間 に あ わ な い だ ろ う 。

c. 2 時に京都駅に着いていたところで会議には間にあっていなかっただ

ろう。

(33) a. この薬を飲んだところで田中は直らないだろう。

b. こ の 薬 を 飲 ん で い た と こ ろ で 田 中 は 直 ら な い だ ろ う 。

c. この薬を飲んでいたところで田中は直っていなかっただろう。

さて、4 章ではアスペクト形式に付くトコロと条件文に付くトコロは基本的に

は同じ操作がかかわっており、違いは領域の差として説明された。譲歩条件で

も同様のことが起こっていると考えられる。2 節でみた契機のトコロデは、ア

7
ト コ ロ は 基 準 点 、参 照 点 を 表 す と い う 性 質 か ら 、ほ ぼ identity関 数 と し て の 性 質 を 持

ち、主要部の性質と補足部の性質が同じという語彙的性質を持つ。すなわち、補足部

の イ ベ ン ト の 持 つ 時 間 、場 所 の 値( indexical values)と 補 足 部 を 含 め た 全 体 の も つ 時 間 、

場所は同じ値を持つからである。

151
スペクト形式につき、前件を契機として後件が起きるという変化の契機点を表

した。契機の用法では時系列上の点を基準点として同定し、それを変化の契機

とみなすことができる。

(34) 時 点 の 系 列

p at t

------------------t -------->

q at t

譲歩文のトコロデも、命題の系列における点を基準として同定することが可能

であろうか。

ここで領域として次のものが挙げられる。時系列が水平方向の系列であるの

に対し、命題の系列は垂直方向、すなわち、可能世界の方向であると考えられ

る 。譲 歩 文 で は 、想 定 さ れ た 命 題 の 集 合 A に 前 件 を 加 え て 、後 件 を 帰 結 と し て

導出する。

ま ず 、前 件 を フ リ ッ プ す る 場 合 を 見 て み よ う 。b、c で は V- テ イ タ ト コ ロ が

決定している。主文のテンス・アスペクトから b の例では、p が決定している

が 話 し 手 は 真 偽 を し ら な い 。c で は 、p が 決 定 し て お り 、話 し 手 は そ れ が 偽 で あ

ることを知っている。後者の場合、p を加えることで前件の真偽値はフリップ

する。

話 し 手 の 認 知 状 態 Aが ¬ p∧ ¬ qを 含 ん で い る と す る 。 こ の と き 、 p⊃ qと い う

想 定 が あ る と す る 。こ こ で 、+ を あ る 想 定 状 態 へ の 知 識 の 付 加 を 表 す と し 、>>

を 状 況 変 化 、あ る い は 認 知 状 態 の 変 化 と す る と 、あ る 時 点 で + pと い う 操 作 に よ

り 、¬ p>>pと い う 状 況 変 化 や 信 念 の 変 化 が あ れ ば 、条 件 的 知 識 p⊃ qに よ り 、状

況 の 認 識 や 信 念 が p∧ qへ と 変 化 す る こ と が 期 待 さ れ る 8 。 そ の と き 、 ¬ p>>pと

変 化 し て も 、 そ れ に と も な っ て 信 念 が ¬ q>>qと か わ ら な い と き 、 す な わ ち 、

8
ここでは命題の表記をしているが状況の変化を扱うので、イベントの表記をした方

152
(35)

い ) 参 照 時 の 話 し 手 の 想 定 : (¬ p∧ ¬ q)∧ (p⊃ q)

ろ) 状況の認識:+p

は ) 信 念 の 変 化 : ¬ p>>p

は ) ( ろ ) に と も な う ( い ) の 変 化 : p∧ ¬ q

で あ る と き 、p タ ト コ ロ デ q は 、p⊃ q へ の 反 例 と し て は た ら く 。こ こ で 、VP-

タという表現は、+という、参照時の状況に対する命題の付加の結果の状況を

表すとする。実はこの+という操作は、譲歩の場合だけでなく、契機解釈の場

合 で も 同 じ で あ る と 思 わ れ る 。 契 機 解 釈 に お け る VP1 タ ト コ ロ デ VP2 と い う

形 式 は 、 f を イ ン タ ー バ ル か ら 時 点 を 取 り 出 す 関 数 と し 、 VP'を VP の イ ン タ ー

バルとすると二つの時点の関係で表せる。

(36) f j (VP'2) at f i (VP'1)

こ の と き 、 f i (VP'1)は 、 基 準 点 、 す な わ ち 話 し 手 の 視 点 の 存 在 す る 位 置 を 表 す 。

このとき、契機のトコロデが変化の契機を表すのは、後件が非状態述語である

からであるとみなすことができる 9 。

がよいかもしれない。時間と世界を両方扱わないといけないため、便宜上ここでは命

題の表記を使う。ここで注意すべきは、この式は命題の論理計算をしているのではな

く、可能な状況の変化、あるいは認知主体が行う思考実験を扱っていることである。

9
後 件 が 状 態 述 語 の 場 合 、前 件 が 縮 退 し た 解 釈 で な く 、非 状 態 述 語 の 解 釈 の ま ま で は 、

自然な解釈はない。

ⅰ ) ??新 郎 新 婦 が 入 っ て き た と こ ろ で 、 参 加 者 が ざ わ つ い て い る 。

ⅱ ) ??映 画 が 終 わ っ た と こ ろ で 、 場 内 が 暗 い 。

153
10
動 的 述 語 VPが ア ス ペ ク ト を 持 た ず 、時 間 的 に 縮 退 した場合が命題を表すと

すると、譲歩文のトコロの性質を説明することができる。

p タトコロデを A という想定状況において+p という操作を行った結果を示

すとした。p タトコロデ q は次のようになる。

(37) q at A+p

や は り 、A+ p に 話 し 手 の 視 点 が あ る 。さ て 、+ p に よ り 実 際 q に 変 化 し た と す

る。

(38)

状 態 1: ¬ p∧ ¬ q、 p⊃ q

「p タトコロデ」の解釈に相当する操作

状 態 2: +p

状 態 3: ¬ p>>p

状 態 4: p、 p⊃ q┣ q

q が帰結する。従って、

状 態 5: p∧ q

これは、「で」が、事態が起きる状況句を作るといった解釈をもち、トコロが参照時

という特定の状況しか指せないため、状態述語がなりたつ状況を表せないからである

と考えられる。また、トコロデは、視点を持つ認知主体の観察視点があり、後件の方

に 新 た に 気 が つ い た 状 況 が こ な い と い け な い た め 、日 本 語 で は 非 状 態 述 語 が 来 る 。
(ⅰ、

ⅱ)は、「とき」などの本来時間を表す時点句であれば問題ない。

10
縮 退 (degenerate)は Igarashi & Gunji(1998)の 用 語

154
たとえば、このような論理操作により、現在の状況に+p という思考実験操作

を行った帰結を述べることが可能である。

(39) 消 費 が あ と 2%上 が っ た と こ ろ で 、 日 本 経 済 は イ ン フ レ か ら 抜 け 出 せ る だ

ろう。

こ こ で 、q は ¬ q か ら の 変 化 を あ ら わ し 、契 機 の 読 み に な る 。す な わ ち 、前 件 の

変化に伴って、後件に状況の変化がある場合は、後件は非状態述語がくるか、

状態述語であっても変化の解釈がされて、契機の解釈が強制される。つまり、

変化の解釈が時点の導入を強制すると考えられる。後件に時点解釈がなく、命

題の真偽に関する解釈しかない場合は、後件は変化してはいけないのである。

後件が変化しなければ、前件が想定になくとも譲歩の解釈は可能である。ト

コ ロ が 参 照 点 を あ ら わ す と す る と 、 pタ ト コ ロ デ は 、 pの 状 況 が 参 照 点 で 成 立 す

る こ と を 示 す 。 す な わ ち p タ ト コ ロ デ は 想 定 Aに pを 付 け く わ え た 時 点 、 A+ p

が 成 立 し て い る 状 況 に 視 点 が あ る こ と を 意 味 す る 。 タ は 、 参 照 点 が Aよ り 後 に
11
移行したことを示すと見てよい 。 (32 )で aは 、 Vの 語 幹 に タ ト コ ロ を 加 え る た

め 、pも qも 未 定 で あ る 。し か し 、ト コ ロ デ の 意 味 よ り 、後 件 は ¬ qが 想 定 さ れ て

い る 。 こ の と き 、 p∧ ¬ qは 次 の こ と を 言 っ て い る 。

(40)

状 態 1: p の 真 偽 が 未 定 の 状 態 : p∨ ¬ p

状 態 2: + p

状 態 3: p∨ ¬ p>>p

状 態 4: ¬ q at p

11
「 後 」と い う の は 時 間 的 に「 後 」で あ る こ と を 意 味 し な い 。時 間 を 持 た な い イ ベ ン

ト系列上で後であってよい。

155
¬ q at p、 す な わ ち 、 p∧ ¬ q は 、 p の 真 偽 が 決 ま っ て い な い 状 態 か ら 、 p を 付 け

くわえることでその真偽が決まった状態に移行し、そのときに¬q であること

を 表 す 。こ の と き 、話 し 手 は p∧ ¬ q が 整 合 的 で あ り 、参 照 時 で あ る 将 来 の 状 況

で 、 知 識 状 態 (p∨ ¬ p)と い う 状 態 か ら 、 p と い う 状 態 に 移 行 し た と き 、 こ の p

の付加によって q が変化しないと主張していることになる。従って、この言明

は p⊃ q の 反 証 に な っ て い る 。 こ の と き 、 も し 、 ¬ p∧ q が 整 合 的 で あ る と い う

意 見 を 持 っ て い る と す る と 、 ¬ p>>p へ の 真 偽 値 の フ リ ッ プ が あ る こ と に な る 。

し か し 、こ の と き 話 し 手 は ¬ p∧ q が 整 合 的 で あ る か い な か に つ い て 意 見 を 持 っ

ている必要はない。単に、p が付加されて情報量が増えたというだけでかまわ

ない。すなわち、フリップしたと考える必要は特にないのである。b の場合も

話し手は p の真偽をしらないため同じことがいえる。

c の場合は、想定として¬p があり、q の真偽値がかわらないため、+p の時

点 で ¬ p∧ ¬ q が 想 定 さ れ て い る 。

(41)

現 在 の 想 定 状 態 1: ¬ p∧ ¬ q

状 態 2: + p

状 態 3: ¬ p >> p

状 態 4( 反 証 す べ き 想 定 ) : p、 p⊃ q⇒ q

状 態 5: ¬ q at p

こ の と き 「 p た と こ ろ で ¬ q」 と い う か た ち で p∧ ¬ q を 主 張 す る と き 、 p⊃ q が

否 定 さ れ る と 同 時 に 、 想 定 が ¬ q∧ ¬ p で あ る こ と か ら 当 然 の こ と な が ら 、 ¬ p

⊃q も否定されている。これは反事実譲歩文の解釈として非常に自然である。

この場合は前件をフリップしたものと同じになる。

以 上 、「 p た と こ ろ で q」に お い て 、後 件 q が 想 定 と か わ ら な い と い う 非 常 に

自然な規定を設けることと、「p た」が想定に p をくわえ、その時点を参照時

とするという定義により、「タトコロデ」の属性が導き出せることを示した。

156
こ れ に よ り 、 田 窪 ・ 笹 栗 (2002)の 説 明 に あ る 、 反 証 さ れ る 条 件 文 の 前 件 を フ リ

ップしてトコロデ譲歩文を作るという規定は反事実譲歩文にしかなりたたない

こ と が わ か っ た 。か つ 、反 事 実 譲 歩 文 で 前 件 が フ リ ッ プ す る 場 合 を 規 定 な し で 、

導出できることを示した。

5.5 ま と め

譲歩の意味は、条件文の反証であり、十分条件の否定、必要条件の否定の両方

を、前件が対照集合を持つ連言で表すことができる。本章ではこの譲歩の意味

が与えられたとき、タトコロデの譲歩の用法は、(い)の規定と、以下のよう

にその構成要素の意味の組み合わせから構成的に説明できることを示した。

い) p タトコロデ譲歩文は、文脈の想定 A にpを加える。

そのとき

a. p が決定していないとき:

A より以後の時点に p を加える。

b. p が 決 定 し て 話 し 手 が 真 偽 を 知 ら な い と き :

A のある時点に p を加える。

c. p が決定して話し手が真偽を知っているとき:

A のある時点以前に p を加えて、それと矛盾する¬p があれば

取り除く

ろ)トコロは視点のある参照時を表す

は)タは命題を加えた後の状況に視点を移動させることを意味する。

に)デが後件の状況が前件の状況で成立することを意味する。

157
第 6章
結語

本 稿 で は 、談 話 管 理 理 論 に 基 づ い て 、日 本 語 の 条 件 文 の 反 事 実 解 釈 、譲 歩 解

釈 と モ ー ダ ル 述 語 の 使 用 規 則 に つ い て 考 察 を 行 っ た 。ど の 場 合 も 使 用 規 則 は

認知主体が真であることを知っている命題および偽であることを知ってい

る 命 題 、 す な わ ち D-命 題 を 基 本 に し て い た 。 談 話 に お け る 意 味 の 計 算 で は

D-命 題 が 格 納 さ れ て い る 知 識 ベ ー ス を 出 発 点 に す る と い う こ と が 主 張 さ れ

た 。本 稿 で 提 出 さ れ た D-命 題 は 田 窪 (1989,2001)、田 窪・金 水 (1996)、Takubo

& Kinsui (1996)で 名 詞 に 関 す る 談 話 管 理 と し て 提 出 し た 理 論 を 文 の 領 域 に

対 し て 拡 張 し た も の で あ る 。従 来 の 論 理 意 味 論 に お い て 、文 や 発 話 の 解 釈 で

文 脈 や 前 提 が 問 題 に さ れ る 場 合 、文 脈 と し て ど の よ う な も の が 必 要 と さ れ る

か は 往 々 に し て 不 明 確 で あ っ た 。従 来 の 、共 有 知 識 、一 般 知 識 、常 識 な ど と

し て 表 さ れ た 文 脈 知 識 の 概 念 は 、話 し 手 が 聞 き 手 の モ デ ル を 想 定 し て お く 必

要 が あ る た め 、モ デ ル と し て は 、不 十 分 な も の に な ら ざ る を 得 な い 。こ こ で

議 論 し た D-命 題 と い う 概 念 は 、 認 知 主 体 と し て の 話 し 手 、 聞 き 手 が 直 知 に

よ っ て 知 る こ と が で き る 事 態 、あ る い は 、す で に 既 存 知 識 と し て 組 み 込 ま れ

て 、推 論 な ど の 操 作 な し で ア ク セ ス で き る 知 識 の こ と で あ る 。こ の 意 味 で 固

有 名 と 同 じ 定 項 (constant)と し て の 解 釈 を 受 け る 。 こ の た め 、 そ こ で 定 義 さ

れ る 知 識 管 理 操 作 は 、認 知 主 体 と し て の 話 し 手 、あ る い は 、聞 き 手 だ け の 操

作 と し て 定 義 す る こ と が で き 、話 し 手 に よ る 聞 き 手 の 知 識 の 想 定 、あ る い は

聞き手による話し手の知識の想定にもとづく共有知識の実時間での計算に

言 及 す る 必 要 が な か っ た 。こ の 意 味 で 、従 来 の 論 理 意 味 論 の モ デ ル よ り も 言

語 形 式 に 即 し た 記 述 が 可 能 と な る 。本 稿 で は 、日 本 語 に お け る 条 件 文 の 反 事

実 解 釈 と モ ー ダ ル 述 語 の 用 法 を D-命 題 、 お よ び そ れ と 対 比 さ れ る I-命 題 と

いう概念を使って記述した。

序 章 で 、談 話 の 初 期 値 と い う 概 念 を 導 入 し た 。談 話 の 初 期 値 は 認 知 主 体 が

談 話 の 際 に 設 定 す る 知 識 状 態 で あ る が 、 そ こ に は 定 義 上 D-命 題 の み が 含 ま

159
れ て い る 。談 話 は 、他 の 談 話 参 加 者 か ら 得 ら れ る 言 語 情 報 、認 知 主 体 の 認 知

に よ る 直 知 情 報 、さ ら に そ こ か ら 得 ら れ る 推 論 操 作 に よ り 初 期 状 態 を 更 新 し

ていく操作である。

次 の 情 報 転 送 制 約 が あ る と す る と 、初 期 状 態 と そ れ 以 後 の 更 新 状 態 は 言 語

上区別される。

情報転送制約

談 話 中 は D-命 題 で な い 命 題 を D-命 題 に す る こ と は で き な い 。

こ の よ う な 制 約 が あ る 言 語 と そ う で な い 言 語 と で は 、統 語 的 、意 味 的 な 構

成 の 仕 方 が 異 な る こ と が 予 想 さ れ る 。本 論 で の べ た 、モ ー ダ ル 述 語 の 二 種 の

区別、トコロの使用制約はこの制約の反映であると見ることができる。

第 3 章 で は 、D-命 題 と い う 概 念 を 使 い モ ー ダ ル 述 語 の 推 論 の 方 向 性 を 議 論

し た 。 モ ー ダ ル 述 語 に お け る ヨ ウ ダ 類 と ダ ロ ウ 類 の 差 は 、 ヨ ウ ダ 類 が D-命

題 を 表 す の に 対 し て 、 ダ ロ ウ 類 は そ れ 自 身 が D-命 題 を 表 せ な い こ と で あ る

が 、 ヨ ウ ダ 類 は 補 足 部 自 体 は D-命 題 で あ っ て は い け な い 。 そ の た め 、 ヨ ウ

ダ類は言語情報や知覚情報として入った新規の情報を登録する際の標識と

し て 機 能 す る 。 こ の 標 識 は 、 た と え ば 神 尾 (1990) な ど で は 間 接 情 報 と し て

話 し 手 の 領 域 外 に あ る こ と を 表 す 標 識 と し て 特 徴 づ け ら れ た 。本 稿 の 立 場 か

ら は 、こ の 標 識 は 間 接 情 報 を 話 し 手 の 直 接 経 験 領 域 の も の と し て 特 徴 づ け る

も の と な る 。す な わ ち 、間 接 情 報 は 定 義 上 、D-命 題 で 表 さ れ る 話 し 手 の 領 域

に は 存 在 し な い の だ が 、 そ の 間 接 情 報 を D-命 題 で 表 せ る 証 拠 と の 関 連 で 述

べ る も の と み な す わ け で あ る 。こ の よ う な 証 拠 性 の モ ー ダ ル 述 語 が 逆 の 推 論

を 発 火 す る の は 、こ の よ う に 間 接 情 報 と 直 接 情 報 を 結 び つ け る 機 能 を 持 っ て

いるからであると考えられる。

すなわちヨウダ類とダロウ類の推論の方向は以下のようになる。

160
z 補足節+ヨウダ類 D 命題を表す

補足節 R- D 命 題 を 表 す

z 補足節+ダロウ類 non-D 命 題 を 表 す

補足節 non-D 命 題 を 表 す

z 推論の方向に関する制約

ヨウダ類 R- D⇒ D

ダロウ類 制 約 な し ⇒ non-D

ヨ ウ ダ 類 と ダ ロ ウ 類 の ス コ ー プ の 差 も 、推 論 の 方 向 と 相 関 し て い る こ と が 示

された。

4 章 で み た 条 件 文 の ト コ ロ ダ に 関 わ る 推 論 は 、ヨ ウ ダ 類 、ダ ロ ウ 類 と の 関

連 で は 興 味 深 い 特 徴 を 見 せ る 。 ま ず 、 条 件 文 を と る ト コ ロ ダ は D-命 題 の 補

足 部 を と っ て そ れ 自 身 が D-命 題 を 表 す 。D-領 域 の 記 述 を す る と い う 意 味 で 、

ヨ ウ ダ 類 と 類 似 し た 性 質 を 示 す 。し か し 、「 今 ご ろ 」の ス コ ー プ 、条 件 文 の

ス コ ー プ な ど の 性 質 か ら は 、ト コ ロ ダ は 、ダ ロ ウ 類 と 共 通 の 性 質 を 示 す 。こ

の 性 質 は 、 ト コ ロ ダ が D-命 題 と D-命 題 を 結 び つ け る 役 割 を し て い る こ と か

ら で て く る 。つ ま り 、D-領 域 に 対 す る 仮 定 は 、反 事 実 命 題 に な ら ざ る を 得 な

い か ら で あ る 。モ ー ダ ル の 述 語 と い う 観 点 か ら み る と 、ト コ ロ ダ を 基 準 点 と

し て 、ヨ ウ ダ 類 は 求 心 的 な 推 論 方 向 、ダ ロ ウ 類 は 遠 心 的 な 推 論 方 向 を 持 っ て

いるのがわかる。これはダロウ類に関する逆の推論の場合も同じである。

4 章、5 章ではトコロダ、トコロデが条件文で用いられた際の構文的性質

の よ っ て 来 た る と こ ろ を 説 明 し た 。ト コ ロ は 一 見 非 常 に 複 雑 な 用 法 の 広 が り

を 持 つ よ う に 見 え る 。し か し 、そ の 個 々 の 用 法 は 、ト コ ロ ダ 、ト コ ロ デ 自 体

が 辞 書 的 に も っ て い る 固 有 の 性 質 が 、文 脈 に お い て 持 つ 使 用 的 な 意 味 で あ る 。

こ の 使 用 的 意 味 は 、ト コ ロ 、ダ 、デ の 固 有 の 辞 書 的 意 味 、そ れ ら と 結 び つ く

言 語 表 現 の 統 語 タ イ プ 、そ れ ら の 統 語 タ イ プ が 内 在 的 に 持 つ 意 味 タ イ プ 、そ

の 意 味 タ イ プ が 言 及 す る 世 界 に 関 す る 知 識 、と い う 統 語 的 、意 味 的 、語 用 論

161
的 相 互 作 用 に よ り 規 定 さ れ る 。本 稿 で は 、ト コ ロ 自 体 の 辞 書 的 意 味 を「 あ る

領 域 を 想 定 し て 、基 準 点 を 記 述 に よ り 設 定 す る 」と い う 非 常 に 単 純 化 し た も

のと捉えることで言語表現の寄与する部分とそれ以外の部分がどのように

相互作用して個々の用法が生じるかを見た。

連 体 修 飾 要 素 は そ の 被 修 飾 要 素 が 持 つ 性 質 を 記 述 す る 。連 体 修 飾 要 素 が 表

す 集 合 と 、被 修 飾 の 名 詞 が 表 す 性 質 が な り た つ 集 合 と の 共 通 集 合 は 特 定 さ れ

る が 、そ の 要 素 は 、あ る 限 ら れ た 領 域 で は 一 つ だ け に 限 る こ と が で き る 。こ

の 限 定 化 の 作 用 を ト コ ロ が 担 う こ と が で き る と 考 え る 。つ ま り 、領 域 に お い

て 記 述 が 成 り 立 つ 限 定 さ れ た「 部 分 」を ト コ ロ が 表 す た め 、「 記 述 + ト コ ロ 」

は 、 特 定 の 領 域 に お け る そ の 要 素 の 所 在 、 位 置 ( = location) を 表 す こ と が

で き る の で あ る 。座 標 に お け る 位 置 の 特 定 化 と そ の 位 置 へ の 視 点 の 所 在 は 並

行する。すなわち、トコロは空間における視点の位置を表すといえる。

領 域 は 、ト コ ロ が と る 記 述 が 成 り 立 つ 領 域 で あ る か ら 、連 体 修 飾 要 素 の 統

語 的 タ イ プ 、お よ び 、そ れ が 結 び つ く 意 味 タ イ プ に よ り ほ ぼ 決 ま る 。「 名 詞

の ト コ ロ 」で あ れ ば 、そ れ が 空 間 的 存 在 を 持 つ 場 合 に は「 位 置 」を 示 す だ ろ

う し 、時 間 名 詞 で あ れ ば 時 間 ス ケ ー ル を 表 す 。ま た 、「 本 」「 映 画 」な ど の

よ う に 、始 め 、終 わ り と い う 方 向 的 性 質 を 持 つ も の で あ れ ば 、特 定 の 位 置 を

表 す 。さ ら に 、節 や 動 詞 句 に よ っ て 示 さ れ る 記 述 は ア ス ペ ク ト 局 面 の 系 列 や 、

シ ー ン の 系 列 と な り 、条 件 の 場 合 は 因 果 の 系 列( 条 件 分 岐 や 真 偽 値 )と な る

だろう。

トコロダ条件文の基本的性質(「義務的反事実解釈」「譲歩に使えない」

「逆 推 論 、 対 偶 推 論 に 使 え な い 」 ) は 、 こ の よ う な ト コ ロ の 基 本 的 性 質 に ダ

と い う 述 語 化 を 加 え て 、さ ら に 、命 題 系 列 の 領 域 に お け る 基 本 的 意 味 の 解 釈

(=因果的な系列を前提とすることなど)から、導出される。

ト コ ロ デ に つ い て は 、こ れ が 格 助 詞 デ に よ る 契 機・並 列 の 意 味 と 、仮 定 を

表すタの意味と基準位置を示すというトコロの基本的意味により合成され

る 。仮 定 的 文 脈 に お い て 、ト コ ロ デ は 前 件 が 指 定 す る 前 提 が 取 り 得 る 二 つ の

162
値 で あ る「 命 題 の 真 と 偽 」を 入 れ 替 え 、後 件 と 並 列 さ せ る と い う 効 果 を 持 つ 。

この効果から譲歩文としての性質が導出されることをみた。

ト コ ロ ダ 、ト コ ロ デ の 一 見 複 雑 な 振 る 舞 い は 、ト コ ロ と い う 語 の 基 本 的 な

意 味 と ダ 、タ 、デ の 持 つ 文 法 的 性 質 を 合 成 し 、そ れ に ト コ ロ が 持 つ 領 域 の 指

定 に か か わ る 部 分 を 設 定 す る こ と に よ っ て 出 て く る 。す な わ ち 、こ れ ら の 用

法 は 、特 定 の 領 域 が 文 脈 に よ り 指 定 さ れ れ ば 、非 常 に 基 本 的 な ト コ ロ の 意 味

と 、他 の 統 語 要 素 と の 意 味 か ら 合 成 的 に 生 じ て い る こ と が 示 さ れ た 。ト コ ロ

ダ の 反 事 実 条 件 文 、ト コ ロ デ の 譲 歩 文 の 用 法 は 、実 際 に そ れ ほ ど 多 く 使 わ れ

る も の で は な い 。し か し 、こ れ ら の 用 法 は ど の よ う に 複 雑 な 解 釈 を 含 ん で い

た と し て も 、誰 で も 簡 単 に 解 釈 が 可 能 で 、し か も ほ と ん ど 解 釈 の ゆ れ を 含 ま

ない。それはこれらの解釈が構成的に作られていることの証左となる。

ま た 、こ の よ う な 複 雑 な 構 成 が 可 能 な の は 条 件 推 論 、論 証 操 作 な ど の 論 理

操 作 と「 ス ケ ー ル 」や「 位 置 」な ど の 空 間 認 知 操 作 と の 連 関 を 言 語 形 式 が 一

部 つ な ぐ 役 割 を 果 た し て い る か ら で あ る 。こ の よ う な 現 象 の 研 究 に よ り 日 本

語 、ひ い て は 言 語 が ど の よ う に し て 人 間 の 論 理 推 論 を 反 映 し て い る の か 、ま

た 、い か に し て 言 語 表 現 が 推 論 操 作 を 補 助 し て い る の か に 迫 る こ と が で き る 。

言 語 に 対 す る 談 話 管 理 的 な ア プ ロ ー チ の も う 一 つ の 特 徴 は 、論 理 と 言 語 の

関 係 に 対 す る 見 方 で あ る 。論 理 計 算 は 人 間 で は ほ ぼ 等 質 な も の と 見 る こ と も

で き る が 、実 際 の 論 理 計 算 を 支 え て い る の は 、言 語 形 式 に よ る 論 理 の 表 現 で

あ る 。本 稿 で 見 た 、さ ま ざ ま な 論 理 表 現 は 、実 際 に は ア プ リ オ リ に 与 え ら れ

て い る も の で は な く 、日 本 語 に お い て 長 期 間 に わ た り 、必 要 に 応 じ て い わ ば

発 明 さ れ 、構 成 さ れ た も の で あ る 。そ の 要 素 は 、本 来 論 理 表 現 と し て 生 ま れ

て き た も の で は な い と も い え る 。し か し 、本 稿 で 論 じ て き た よ う に こ れ ら の

論 理 表 現 は 、統 語 規 則 、形 態 規 則 な ど さ ま ざ ま な 制 約 を 守 り 、構 成 性 原 理 を

満 た し て 、文 法 規 則 に 応 じ て 作 ら れ 使 用 さ れ て い る 。し た が っ て 、論 理 の 一

般 性 は 存 在 す る が 、日 本 語 に お け る 論 理 は 、日 本 語 の 精 密 な 観 察 を 通 じ て し

か み る こ と は で き な い こ と が わ か る 。一 方 、論 理 か ら み た 日 常 言 語 の 研 究 は 、

論 理 法 則 と 言 語 法 則 と を 守 り な が ら 、ど の よ う な 言 語 形 式 が 可 能 で あ る か を

163
み る こ と で な す こ と が で き る の で あ る 。言 語 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 言 語 に よ

る 命 題 の 真 偽 の 立 証 作 業 と み る 談 話 管 理 理 論 は 、言 語 と 論 理 の 関 係 を 経 験 的

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