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[1]ヨーロッパ文化との接触と国内統一

p.104-105
1 ヨーロッパ文化との接触

●大航海時代とアジア
 13 世紀から 15 世紀にかけて,イベリア半島からイスラム勢力を追い払ったスペイン(イスパニア)・ポル
トガルの両国は,中央集権国家を成立させ,直接,東方との交易をめざすようになった①。15 世紀後半,ポル
トガルは,アフリカ西海岸を南下する航路を開発して喜望峰にまで達した。15 世紀末にはヴァスコ・ダ・ガマ
が,インド西岸のカリカットに到達し,インド航路が開かれた。16 世紀になると,ポルトガルは,ゴアやマラ
ッカを占領して東南アジアや東アジアで発達していた通商網に割りこみ,さらに中国のマカオに居住権をえて,
貿易を行った。
 スペインは,ポルトガルに対抗し,大西洋を西回りでインドに行けると信じたコロンブスを後援した。コロ
ンブスは,1492 年に大西洋を横断し,西インド諸島に到達した。ポルトガル人のマゼランは,スペイン国王の
援助をえて船を出し,南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)を通過し,太平洋に出た。1521 年にフィリピン
諸島に到達したマゼランは住民に殺害されたが,残った乗組員は喜望峰をまわってスペインにもどり,世界一
周を達成した。こうしてアジアとヨーロッパが直接に接触することになった。

① この背景には,ルネサンスによって発達した造船技術の向上,羅針盤の改良,さらに天文学・地理学の発展な
どがあった。

●鉄砲の伝来と南蛮貿易
 1543(天文 12)年,ポルトガル人を乗せて中国の寧波に向かう中国船が,種子島に漂着した。領主の種子島
時尭は,ポルトガル人のもっていた鉄砲 2 挺を購入し,家臣にその使用法と製造法を学ばせた。鉄砲は,まも
なく和泉の堺や近江の国友,紀伊の根来など,国内でも製造されるようになった。鉄砲は,戦国大名のあいだ
に急速に普及し,それまでの戦闘方法や築城技術に大きな変化をもたらして,国内統一の動きを促進した。
 その後,ポルトガル船は,毎年のように肥前の平戸や長崎,豊後の府内(大分)など九州の港に来航し,貿
易を行った。スペイン船も,1584(天正 12)年,平戸へ来航し,日本との貿易を開始した。当時,日本では,
彼らを南蛮人とよび,その船を南蛮船とよんだ。彼らとの南蛮貿易では,鉄砲や火薬,中国の生糸や絹織物な
どを輸入し,そのころ日本で生産が増大していた銀を輸出した。

●キリスト教の伝来
 1549(天文 18)年,イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て,キリスト教を伝えた。イ
エズス会はカトリックの一会派②で,貿易船に便乗し,アジアで布教を進めていた。ザビエルは京都をたずね,
その後,山口の大内氏,府内の大友氏など西国の大名の保護をえて布教につとめた。その後も宣教師の渡来は
つづき,各地に南蛮寺とよばれる教会やセミナリオ(神学校),コレジオ(宣教師の養成所),病院などを建
設し,布教や慈善事業を行った。ポルトガル・スペイン両国は,布教と貿易を一体のものとしていたので,貿
易をのぞむ大名は,南蛮船を寄港させるため宣教師を保護し,なかには洗礼を受ける者もいた(キリシタン大
名)。
 こうしてキリスト教は,九州をはじめとして,中国地方や畿内の武士や民衆のあいだに広まっていった。
1582(天正 10)年,宣教師ヴァリニャーノは,九州の大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の 3 キリシタン
大名にすすめ,4 人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らは,ヨーロッパ各地で熱
狂的な歓迎を受けた。

②16 世紀におこった宗教改革によってプロテスタントが成立したが,カトリック側もアジアやアメリカ大陸へ
の布教につとめた。その活動の中心を担ったのが,スペイン人のイグナティウス・ロヨラが設立したイエズス
会である。

〈問い〉キリスト教が急速に広まったのはなぜだろうか。

P.106-109
2 織豊政権による全国統一

●織田信長の統一事業
 16 世紀後半になると,有力な戦国大名が領地を広げ,なかには京都にのぼって全国を統一しようとする者も
あらわれた。尾張の大名だった織田信長は,1560(永禄 3)年,領内に侵入してきた今川義元を桶狭間の戦い
でやぶり,やがて美濃の斎藤氏をほろぼして肥沃な濃尾平野を支配した。1568(永禄 11)年,信長は,援助を
たのんできた,13 代将軍足利義輝の弟義昭を奉じて京都にのぼり,義昭は 15 代将軍となった。
 やがて信長は義昭と対立するようになり,1570(元亀元)年,姉川の戦いで,近江の浅井長政と越前の朝倉
義景の連合軍をやぶり,さらに翌年,比叡山延暦寺を焼き打ちした。1573(天正元)年には,挙兵した将軍足
利義昭を追放し(室町幕府の滅亡),朝倉氏,浅井氏をほろぼした。さらに,伊勢長島や越前の一向一揆をほ
ろぼし,1575(天正 3)年には,甲斐の武田勝頼を大量の鉄砲をたくみに使った集団戦法でやぶった(長篠の
戦い)。信長は,近江の琵琶湖に面した地に新たに五層の天守閣をもつ華麗な安土城を築き,全国統一の拠点
とした。
 信長は,貿易を行い自治都市として繁栄した堺をしたがわせて直轄地とし,安土城下では商工業者に自由な
営業を認める楽市・楽座の令を出して都市の繁栄をはかった。また,畿内に多くあった関所を撤廃し,貨幣の
円滑な流通のために撰銭令を出すなど,商業の発達に力をそそいだ。これらの政策は,それまで関銭を徴収し
たり,市や座を認めることで収入をえていた寺社や公家に経済的な打撃をあたえるもので,これまでの支配秩
序は大きくくずれていった。
 1580(天正 8)年,信長は,途中講和をはさんで 10 年間にわたって敵対してきた石山本願寺を屈服させ,畿
内全域をほぼ支配下に置いた。1582(天正 10)年には武田氏を攻めほろぼし,甲斐・信濃・駿河・上野をも支
配下に置いた。ところが,同年,家臣の明智光秀にそむかれ,京都の本能寺で自害した(本能寺の変)。

●豊臣秀吉の全国統一
 中国地方を支配する毛利氏と対戦中であった信長の家臣羽柴秀吉は,本能寺の変を知ると,急いで毛利氏と
講和し,軍をかえして山崎の戦いで明智光秀を倒した。1583(天正 11)年,対立していた信長の重臣柴田勝家
を賤ヶ岳の戦いでやぶった秀吉は,信長の後継者としての地位をかためた。翌年には小牧・長久手の戦いで信
長の次男織田信雄と徳川家康の連合軍と戦い,のちに屈服させた。秀吉は,石山本願寺の跡地に大坂城を築き,
1585(天正 13)年には朝廷から関白に任じられ,翌年には太政大臣にもなり,豊臣の姓をあたえられた。
 秀吉は,四国の長宗我部元親を降伏させたのち,全国の戦国大名に天皇の命令だとして私戦をやめるよう命
じた。そして,この指示にしたがおうとしない九州の島津義久を攻めて降伏させ,1590(天正 18)年には小田
原の北条氏政を攻め,北条氏を滅亡させた。伊達政宗ら東北地方の諸大名も降伏し,秀吉の全国統一は完成し
た。
 秀吉の全国統一は,強大な軍事力によるものであるが,一方で朝廷という伝統的な権威も利用した①。豊臣
政権の経済基盤は,征服のたびに全国各地に設けられた約 200 万石の蔵入地(直轄地)と,大坂,京都,伏見,
堺,長崎などの重要都市,さらに相川(佐渡)・大森(石見)・生野(但馬)の金山や銀山などであった。こ
れらの経済力を背景に,秀吉は金貨である天正大判などの貨幣を鋳造した。

①1588(天正 16)年には,京都に新築した聚楽第に後陽成天皇を迎えて歓待し,諸大名に天皇と自分への忠誠
を誓わせた。

●検地と刀狩
 秀吉の功績は,中世を通じて存続した荘園制を最終的に解体したことである。それまで畿内周辺の土地には,
本所などの荘園領主を頂点に複雑な権利関係があったが,秀吉は,1582(天正 10)年以後,各地で検地を行っ
て領地の生産力を把握①し,一地一作人を原則として一区画の土地ごとに耕作者の氏名を検地帳にのせた。ま
た,征服した領地や降伏した戦国大名の領地にも検地を行い,土地の生産力を米の量である石高で表示した。
 太閤検地では,土地測量の基準を統一し,全国の村の田畑・屋敷地ごとに面積と等級を定め,それにもとづ
いて決定した石高によって年貢を決めた。また,大名の領地はおおむね領する村高の総計であらわされ(石高
制),これを基準に統一的な軍役を負担させた②。
 また,1588(天正 16)年,大仏建立を口実に刀狩令を出し,百姓たちから武器をとりあげて武力をうばい,
1591(天正 19)年には,家臣がかかえる奉公人(侍)が町人や百姓になることや,百姓が商業や賃仕事に従事
することを禁止する身分統制令を出し,身分の固定化を進めた。このような,軍役をはたす兵と,刀をうばわ
れ耕作に専念する百姓とを身分的に区別する政策を兵農分離という。

① 戦国大名や信長も,その地の領主から報告書を提出させる指出検地を行った。
② 戦国大名は,年貢高を銭であらわした貫高制をとる者が多かった。

〈史料〉刀狩令(小早川家文書)
一、諸国の百姓、刀、脇指、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。其の
子細(理由)は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ(年貢や雑税の納入を困難にし)、自
然(もしも)一揆を企て、給人にたいし非儀の動き(よからぬおこない)をなすやから、勿論御成敗あるべし。
…其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。(第二条略)
一、百姓は農具さへもち、耕作専に仕り候へば、子々孫々まで長久に候。百姓御あはれみをもって、此の如く
仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基なり。…
天正十六(一五八八)年七月八日 秀吉朱印

●秀吉の強硬外交
 信長は,南蛮貿易の利益に着目し,また仏教勢力をきらっていたことから,ルイス・フロイスらの宣教師を
保護し,布教に便宜をあたえた。秀吉も,積極的に南蛮貿易を進め,布教は黙認していた。ところが 1587(天
正 15)年,九州出兵の際に秀吉は,大村純忠が長崎をイエズス会に寄進していることを知り,同地を直轄領に
編入するとともに,博多でバテレン(宣教師)追放令を出した。
 秀吉は,海外貿易には積極的で,京都・長崎・堺などの商人が東南アジアへ渡航することを奨励し,1588
(天正 16)年には海賊取締令を出して倭寇などの海賊行為を禁止し,貿易船の安全な航行をはかった。日本を
統一したのちは,ゴアのポルトガル政庁,マニラのスペイン政庁,高山国(台湾)などに入貢を求めた。

●朝鮮侵略
 秀吉が,早くから表明していたのは,大陸出兵の方針である。秀吉は,朝鮮に対し,日本への朝貢と明への
侵攻の際の先導を求めた。朝鮮がこれを拒絶すると,1592(文禄元)年,秀吉は,朝鮮に 15 万余の大軍を送
って侵略戦争を開始した(文禄の役)。釜山に上陸した日本軍は,各地に軍を展開し,朝鮮の都である漢城
(現ソウル)を落とした。しかし,明から援軍が到着し,各地では朝鮮民衆による義兵が蜂起した。また海上
では,朝鮮水軍をひきいる李舜臣によって劣勢となり,しだいに戦局は不利になった。
 秀吉は,明との講和交渉のため休戦したが,交渉は決裂した。1597(慶長 2)年,秀吉はふたたび朝鮮と戦
争を開始した(慶長の役)が,苦戦を強いられた。翌年,秀吉が病死すると,五大老・五奉行③は全軍を撤兵
させた。
 この前後 7 年にわたる侵略のあいだ,諸大名は,朝鮮から陶工など多くの人々を連れ帰り,活字印刷術や多
くの書籍などももち帰った。朝鮮は多くの犠牲者を出し,国土は荒廃した。日本でも兵糧などを運搬するため
百姓を動員し,荒れはてる耕地が増大した。諸大名のあいだにも対立が生まれ,豊臣政権の没落をはやめる原
因となった。

③ 五大老は有力大名である徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の 5 人で,五奉行は浅野長政
・石田三成ら 5 人の秀吉の家臣である。

〈コラム〉李舜臣と亀甲船
 日本軍は大船団を組んで釜山に渡ったので,最初は朝鮮の水軍も手の出しようがなかったが,やがて,李舜
臣のひきいる水軍が朝鮮南部の沿海にいる日本の軍船に攻撃を開始した。
 この戦いでは,朝鮮の亀甲船とよばれる新型船が活躍した。この船は性能のよい大砲を備え,攻撃力にもす
ぐれていた。海岸の地形や潮の流れをよく知っていた李舜臣の水軍は,数回の海戦で日本の水軍を打ちやぶり,
制海権をうばいかえしたので,日本側は物資の補給が困難になった。

〈問い〉織田信長・豊臣秀吉は,どんな政策によって全国統一をなしとげたのか。

p.110-111
3 桃山文化

●豪壮華麗な文化
 信長・秀吉の時代の文化を,桃山文化という。室町時代からの伝統にみがかれた文化を基盤に,新興の大名
や海外貿易で巨富をえた豪商の気風と経済力を反映した豪壮華麗な文化であった。また現実主義的な気風が支
配的となり,ヨーロッパ文化もとりいれられた。
 桃山文化を象徴するのは,安土城・大坂城・伏見城に代表される天守閣のそびえ立った城郭建築である。幾
重もの堀をめぐらし,大きな石を組んで石垣とした城には,瓦や壁に金箔がはられ,城郭のなかには,書院造
の様式をとりいれた豪華な御殿が建てられた。内部の襖や屏風には,金地に青や緑の濃厚な色彩が用いられた
濃絵の障壁画がえがかれ,欄間には花鳥をすかし彫りにした彫刻がほどこされた。
 障壁画では,狩野永徳が力強い筆致で水墨画と大和絵を融合させた桃山様式を完成させ,門人の狩野山楽は
装飾性をさらに高めた。また,都市や庶民の生活や遊興を題材とした風俗画もえがかれた。海北友松や長谷川
等伯は,水墨画に新しい境地を開いた。

●茶道と芸能
 茶の湯は,信長や秀吉らの保護も受けてさかんになった。なかでも堺の町衆である千利休は,簡素をたっと
ぶ侘茶を大成した。茶の湯の流行とともに,茶器や茶室,庭園などにもすぐれたものが生まれ,茶道とともに
華道や香道なども発達した。また,西国の大名が朝鮮から連れ帰った陶工によって,有田焼,薩摩焼,萩焼な
どが始められた。
 芸能では,大名や庶民の娯楽であった能のほか,出雲阿国が京都で始めたかぶき踊りが人々の評判をよんだ。
三味線の伴奏で,浄瑠璃も語られ始めた。小歌では,堺の町衆高三隆達が節づけした隆達節が庶民のあいだに
人気をよんだ。
 人々の生活様式も大きく変化し,書院造が上流の邸宅として普及し始めた。衣服では小袖が一般に用いられ
るようになり,男も派手な絵模様を染め出した小袖を着るようになった。食事は 1 日に 3 度となり,調味料に
醤油と砂糖が加わった。また,戦国時代のころから三河を中心に栽培が始まった木綿は,麻にかわる衣料とし
て普及した。

●南蛮文化
 宣教師や貿易商人の活動が活発に行われたため,多くのヨーロッパの文物がもたらされた。特に宣教師は,
進んだ医学,天文学,地理学などの知識や,航海術や造船術を伝えた。活字印刷術ももたらされ,ローマ字に
よる宗教書や文学,日本古典,辞書など活字版の図書が出版された(キリシタン版①)。油絵や銅版画の技法
も伝えられ,日本人画家によって西洋画風の宗教画や南蛮屏風などがえがかれた。
 また,たばこ・パン・カステラ・てんぷら・カルタ・めがね・時計・ボタン・メリヤスなど,現在にも影響
をあたえる嗜好品や食品,遊具,装身具などももたらされた。これらを南蛮文化といい,桃山文化に影響をあ
たえた。

①『伊曽保物語』『平家物語』『日葡辞書』などが出版された。

〈問い〉桃山文化と現代の類似点や相違点は何だろうか。

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