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﹁平和に対する罪﹂について

清 水 正 義
第[章 ﹁勝者の欺哺﹂
第二次世界大戦後の日本の主要戦争犯罪人を裁いた極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判について、 独特の批判糟神
でその欺鵬性を鋭く突いたアメリカの歴史家リチャード・マイニアはこう述べている。
ラ ﹁崇高な動機は存在した。だが、さほど崇高でない動機も存在していた。戦敗国の指導者たちは、主に、第二次


︵ 世界大戦を導き出した一連の行動に対して、大戦の原因だと連合国側の考えた政治的決断に対して、その責任を間



われたのであった。敵側の不当性という硬貨を裏返せば、連合国のこの間の行動は正当であったということにな

コ る。ニュールンベルグ、東京の両裁判は悪い側を処罰することだけでなく、正しい側つまりわれわれの側を正当化


パと
す することをも、目的としていた﹂。




﹁ 東京裁判をめぐる最大の論点は、戦争が行われた後に敗戦国︵とその人的体現者たる敗戦国政治軍事指導者︶が﹁侵
3
3 略﹂の故に裁かれることが正義にかなっているかどうかという点にあった。連合国側もまた﹁侵略﹂的政策を共有して
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3 いたかどうかということは、この場合は一応別次元の問題である。﹁おまえもまた﹂という反論は、自らが犯した犯罪
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ラ を免貴するものではない。ただ、敗戦国を裁くことが戦勝国の﹁正義﹂と﹁文明﹂の確証を得ることを目的とするもの
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︹ であったとすれば、仮に本来裁かれて当然なものを裁いたものであったとしても、それが同時に欺購ともなる。戦勝国


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自身の自己省察として考える場合にはなおさらそう言える。﹁日本の戦争指導者を処罰することによって、われわれは
第 ハヨロ
巻 われわれ自身を欺いていたのであり、この欺購こそ、私が非難するものなのである﹂。戦勝国による戦犯裁判の欺騎を


号 マイニアはその著書の冒頭でこのように正しく表現している。

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では欺瞳の残らぬ戦後処理、戦犯裁判はどのようなものであり得たのか。マイニアはこう言う。




﹁むしろ一九四五年以前の国際法に復帰すること、すなわち個々の残虐行為は審理し得ても、侵略戦争そのもの
ハゑ
は審理しえないとする規則に復帰することが、より賢明ではないかと思われる﹂。
﹁人間の本性に根ざす種種の制約を考慮に入れるならば、戦争犯罪の裁判は、最初から、通例の戦争犯罪のみを
対象としておくことが賢明であろう。戦敗国の指導者たちにとっては、敗戦の事実そのものが、事後のいかなる処
でロ
罰よりも、より大きな反省の契機となることであろう﹂と。
東京裁判が主要戦争犯罪人を裁いたことの欺瞳性を批判するマイニアのような見方に共感を寄せる声は、東京裁判の
被告たち、東条、板垣、木戸、広田などについて考える場合にはあるかも知れない。しかし、その同じ人がナチ戦犯に
対する裁判について考えた場合、同じ見解に逮するだろうか。ヒトラー、ヒムラー、ハイドリッヒ、ゲッベルス︵以上
の四名は敗戦前後に死んでしまっていたが、仮に生きていたならば当然に被告となったであろうから、ここで例示して
も問題はなかろう︶、ゲーリング、ヘスらを裁判によって裁かず、たんに﹁敗戦の事実そのもの﹂による反省に任せて
おくことで国際世論は満足しただろうか。さらにまた、やはり何らかの形で刑事罰を与える裁判を行わざるを得なかっ
たとして、それではその根拠として戦場における違法行為として通例の戦争犯罪を措定することで充分であったろう
か。通例の戦争犯罪違反としても、ナチの行った行為は十分に違法性が認められるものであって、この罪だけでも彼ら
のほとんどは有罪判決を受けるに値したであろう。しかし、ヒトラー、ゲーリングら政治軍事の頂点に座る彼らを裁く
には通例の戦争犯罪はいかにも個別的偶発的に過ぎる。彼らの罪状はそうした個別性、偶発性を越えた、もっと巨大で
計画的な、個別的犯罪を準備し遂行させた組織的全体的な犯罪群というようなものではなかったか。
ラ 第二次世界大戦後にニュルンベルク裁判と東京裁判という国際軍事裁判が行われたことの意味は、ゲーリングや東条


︵ 英機をはじめとする政治軍事の指導者を司法的手段を通じて断罪するという既成事実を作ることにあり、彼らが何の故



に断罪されるか、彼らが訴追される法的根拠が何であるかということは相対的に重要ではなかったはずだ。後にかまび

すしい議論の的になる﹁平和に対する罪﹂﹁人道に対する罪﹂といった国際軍事裁判で初めて採用された訴因そのもの


す には本来それほど大きな意味はなかったと考えなければならない。﹁平和に対する罪﹂であろうが何であろうが、実定

に 国際法に明記された狭義の戦争犯罪を犯した通常の戦争犯罪人というのではない指導的幹部を裁くということに、ニュ


﹁ ルンベルク裁判と東京裁判の最大の意義がある。﹁主要戦犯﹂を裁いたことがいちばん大きな眼目だったのであり、彼
ら幹部戦犯の罪状を何と呼ぷかは第二義的な間題であったはずだ。
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3 戦後ドイツでもニュルンベルク裁判をはじめとする連合国の﹁勝者の断罪﹂にはそれなりの批判があった。しかしそ
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︶ れでも、彼らナチ戦犯が裁かれるに値する人物であったこと自体にそれほどの異論が出ないのは、彼らの罪業がきわめ
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︵ て明瞭であるし、彼らが個人として裁かれたからといってドイツ国家が裁かれることには必ずしもならなかったからで


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ある。﹁勝者の断罪﹂に対する批判、とくに﹁平和に対する罪﹂﹁人道に対する罪﹂といった罪刑法定主義に抵触しかね

巻 ない事後法による処罰に対する批判はあるとしても、他方で強制収容所ガス殺人といった明々白々の犯罪行為の実行犯



や貢任者を処罰するということに対する違和感はなかったのである。
巻 ところで、戦中に国際軍事裁判を開き、主要戦争犯罪人を裁かなければならないという議論は主としてナチ戦犯につ
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いて行われ、もし彼らを裁かなければならないとするならばそれは何を根拠とするべきかという形で﹁平和に対する

法 罪﹂や﹁人道に対する罪﹂が策定された。つまり、主要戦犯を裁かなければならないという要請がまずあって、次にそ


れではどの罪で裁くかが問題とされたのである。さてそれでは、日本の主要戦犯についてナチ戦犯と同じ程度に主要戦
犯として裁かれなければならないという要請は果たしてどの程度あったのだろうか。連合国最高司令官マッカーサー
は、東条ら﹁A級戦犯﹂を国際裁判によって断罪することを好まなかったと言われる麗・軍法会議等のやり方で迅速に
処置する実際的方法ではなく国際裁判のなかで主要戦犯を裁判する﹁ニュルンベルク方式﹂はナチ戦犯ならばこそ準備
されたものであって、仮に日本戦犯だけを裁くとなれば、こうした方式が採用されたかどうか疑わしいのではないか。
第二章 侵略戦争の罪
ニュルンベルク裁判と比較した場合の東京裁判の最大の特徴は、東京裁判がとりわけ﹁A級戦犯﹂、すなわち侵略戦
争を準備、開始、遂行した戦争犯罪人をこそ裁いた点にあった。東京裁判は日本の侵略政策を戦争犯罪として裁いた。
そしてこの点こそ、東京裁判の持つもっとも重大な問題として指摘される。侵略とは何か、侵略戦争とは何か、侵略戦
争を遂行した政治軍事指導者は個人として刑事責任を負うのか、侵略者は日本だけか、連合国に侵略責任は何も発生し
ていないのか、侵略戦争の責任を勝者が敗者を断じる形で処断できるのかなどといった困難な問題が侵略戦争の断罪と
いう命題について回っていた。
東京裁判直後、戦後民主化の余波を受けて、この裁判を全面的に賛美する議論がまず出された。横田喜三郎﹃戦争犯
ラ 罪論﹂はその代表であり、﹁平和に対する罪﹂、﹁人道に対する罪﹂の罪刑法定主義問題につきこれを肯定し、戦争犯罪


︵ における上官命令の抗弁についてもこれを否認して東京裁判判決を支持し、﹁文明の裁き﹂たる東京裁判を全面的に肯
て なり

定した。


ただ横田氏のこの全面肯定論は法律家のなかでは際だったもので、もう少し冷静にこの裁判の適否を法学的に判断す



る論調もあった。

に たとえば戒能通孝氏はこう言う。



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3 ﹁それは形式的な観点からしても、また実質的な観点からしても、侵略的と言う外定義の途がない、極めて明白
8
3 な侵略主義的戦争だった。しかしそれにもかかわらず現在の法律状態は、 この戦争の計画者、準備者、 遂行者の何
ハヱ
れに対しても、処罰が可能か否か明らかな法規、先例が存在していない。 それは一体何故か﹂。
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号 日本の戦争が侵略以外の何者でもないという確固とした思いこみが戒能氏にはある。そして、これほど悪質な犯罪に
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巻 ついて処罰規定がないのは何故かと問うているのである。言い換えれば、事実として犯罪的な侵略政策があり、それを



遂行した人物がいるのに、それを処罰する規定がないことの方を問題にするのである。
巻 しかも戒能氏は、イギリス、フランスなどヨーロッバ列強のアジア、アフリカ諸地域に対する政策が侵略政策と呼ば
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れずに日本だけがそう呼ばれる理由をこう説明する。




﹁資本主義的合理性の尺度からみて客観的根拠を欠く場合、換言すれば日本の封建的、前市民的要素の故に、戦
争が自ら求めて作られた場合には、その戦争が侵略的性質を有していたことを否定することはできなかろう。この
故に戦争責任者裁判というものは、原告側が被告側に対してより高き尺度に立っていたことを全面的に挙証できる
ときの外、成立しない。侵略者が侵略者を裁いたのでは裁判になり得ない。裁判の基礎はアメリカ、イギリス、フ
ランス等の市民革命の諸成果と、日本における階級革命の未完成、それから由来した前市民的諸要素の無制約的な

行動にあった﹂。
奇妙な論理である。資本主義は合理的であり、この合理性に則った戦争ならば侵略とはならず、それを踏み外した前
市民的要素の場合に侵略的になる、したがって英米仏のように市民革命を経験した合理的国家ならば日本のような非合
理国家の侵略性を裁くことができるかのような言辞は、﹁文明の裁き﹂を僧称した連合国の論理そのものではなかった
か。
さらにその戒能氏がドイツにおける非ナチ化裁判について言及したときに、次のように述べていることは象徴的であ
る。
﹁現在ドイツの非ナチ化裁判が、いかなる法的根拠に基づいて行われているものか、情報を得ないから不明であ
る。しかしこの裁判すら侵略戦争に対する貴任者の裁判ではなくて、ナチ組織参加者に対する裁判に過ぎないよう
ハヨロ
に見受けられる﹂。



︹ 侵略戦争の貴任者もまた国内裁判によって裁かれ得ると戒能氏は考えていたと思われるが、その視点からすれば、ド



イツの非ナチ化裁判﹁ですら﹂、侵略戦争を裁くまでには至っていないということになる。ここには日本の戦争が侵略

戦争であることにまったく疑問を感じない当時の日本国民の感覚と、同時に、侵略戦争の貴任者こそ罰せられて当然と


す いう感覚が感じられる。戦争が政治の延長であり、政治は裁判の対象にはなり得ないという視点、真に裁かれるべきも

に のは戦争の最中に行われた戦争とは名ばかりの犯罪行為としての殺人、暴行、強姦、略奪であるという視点はここでは


﹁ 希薄である。
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3 もっとも、侵略戦争を裁くということの問題性について、時とともに戒能氏は敏感になっていったようだ。氏は少し
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4 経った時点で自らの見方をこう修正している。
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︵ ﹁東京裁判は形式的厳密さの立場に立てば、必ずしも﹃法による裁判﹄ではなかったとも思われる。けだし裁


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判の対象になったのは、主として一九四一年十二月八日以前における被告人達の政治的行為であった。然るに

巻 一九四一年の年末以前、侵略戦争を開始し遂行したものを処罰する法規・条約もしくは国際慣例は、厳密な形では


号 存在していなかったからである。⋮⋮中略⋮⋮国内法規はむろんのこと、国際条約集を探してみても、侵略戦争開
ハリ
巻 始責任者の処罰および処罰手続を定めた条約は、実のところないのである﹂。
H


法 ならば東京裁判の正当性はどう担保されるのか。氏は続ける。


﹁だがそれにもかかわらずあの裁判が、もし何らかの合理性を得るとするならば、それはあの裁判が革命裁判で
あったことを措いて外にあり得ない。﹂﹁革命裁判は常に事後法裁判であり、また罪刑法定主義を形式上常に否認す
る。﹂﹁だとしたら東京裁判そのものが、法による裁判か否かを論ずるのは結局のところ無意味であり、それよりも
むしろあの裁判が、革命裁判にふさわしかったか否かということが、中核の問題にならねばならなかったのだと思
われる。﹂﹁東京裁判が革命裁判としてのテストに耐えるか否かということは、⋮⋮、主としてアメリカ合衆国政府
そのものの対日政策が、直接にも聞接にも東京裁判を企画した原則に最後まで忠実であったか否かによって決定さ

れる﹂。
ではアメリカの対日政策は裁判の原則に最後まで忠実であったと戒能氏は考えるのか。そうはなるまい。
﹁東京裁判の判決が、実定の国際法規に訂か︵傍点原著︶多く忠実であって、戦争は不快なもの・非難さるべき
ものではあるけれども、これを処罰する法規はなかったと断定する方が、一層論理的であったということも、恐ら
く排斥さるべき考え方ということは尊ぎ︵傍点原著︶なかったことだろ兎﹂。
この時点で戒能氏は東京裁判についてほとんどあきらめに似た感慨を持っている。東京裁判が法律的観点からみて問
題の多い裁判であったことをもともと感じていた氏ではあるが、にもかかわらず、この裁判に一種の﹁革命裁判﹂と
しての意義を見いだそうと期待していた。しかし、その期待も時の経過とともに薄れてしまった。﹁アメリカ、イギリ
ラ ス、フランス等の市民革命の諸成果﹂による﹁日本における階級革命の未完成、それから由来した前市民的諸要素の無


︵ 制約的な行動﹂に対する﹁革命裁判﹂と名づけるには、戦後冷戦体制下の権力政策的な国際政治の現実はあまりにも冷


つ 厳であった。そのくらいだったら、いっそのこと、いかなる侵略戦争であろうとも、その貢任者を個人として処罰する

ことは実定国際法からして不可能であるということを鮮明にした方がまだ論理的でよかったのではないか、と戒能氏は


す 嘆息するのである。然り、実にその通りであって、戦勝という基本的に力を背景にした戦後裁判においては、その裁判

に を準備するものたちがいかに高遭な理想をこめていたにしても、結局は勝ったものの奢り以外ではあり得なかった。


﹁ 侵略戦争の違法性について独特の観点から論じたもう一人の論者が田畑茂二郎氏である。氏は言う。

2
4 ﹁連盟規約にしても不戦条約にしても、自衛のための戦争だけは、すべて例外として禁止していない。ところ
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︶ で、そのように自衛のための戦争が許されると、実際において問題となるのは、戦争が起こった場合、果たして自
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︵ 衛のためのものであるか否かを誰が決定するかということである。不戦条約の締結の際、何より問題となったのは


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この点であった。そして、この点について有力な諸国家のほぼ共通した見解として示されたのは結局その行動を起

巻 こす国家自身が決定する権利を持っているというのであった﹂。


号 ﹁そうした主張を貫けば、結局、戦争を行う国家自身が自衛のためであるといえば、他の国家はそれを如何とも
ぼマ
巻 することができないこととなり、実際においてはすべての戦争が合法化されることとなるのである﹂。



法 ﹁第]次大戦後、国際連盟規約とか不戦条約といったように、戦争を大幅に制限禁止する条約が数多く作られ、


少なくとも戦争禁止に関する国際法の規定の発展という面から見れば、大戦前に比べて著しい変貌が遂げられてい
ることは、何人といえども認めなければならないであろう。然し、以上の叙述から知られるように、戦争禁止の規
定が数多く設けられたからといって、直ちにそれだけで本質的に事態が改まったということは出来ない。何よりも
ヨレ
重要なのは、国家の絶対主権観念を否定しうるまでに、国際社会の構造が変化したかどうかということである﹂。
一方、指導者個人の刑事責任追及について、田畑氏はこう述べる。
﹁すべてが人間の行為に還元される時、日本のような絶対主義的政治機構の下においては、国民と関係なしに、
侵略戦争を計画し、準備し、開始したものそのものにすべての責任が帰せられることは何の不思議もないのであ
る。伝統的な国家法人格の観念をもち出すことによって個人責任を回避する人々は、そうした観念が、封建的絶対
主義体制が否定せられ国民国家の形成せられつつあった過程に成立したものであり、絶対主義的な政治構造をもつ
ハ ロ
戦前の日本のような場合にはそのままあてはまらない⋮⋮﹂。
田畑氏は東京裁判における﹁平和に対する罪﹂による貴任追及を肯定したい気持ちを持っている。しかし、その肯定
のしかたはかなり危ういものに見える。氏は自衛戦争であるかどうかは当該国家が判定するものとの弁護側主張を、そ
うなればすべての戦争が結局は合法化されるとして退ける。そして、そのように退けた東京裁判検察団の判断を支持す
る。しかし同時に、こうした無差別戦争観は近代国際法思想の根本であるとし、東京裁判はこうした近代国際法思想そ
ラ のものに挑戦しているとする。とすれば、東京裁判検察団が既存の国際法大系に挑戦するその正当性はどこに担保され


︵ るのだろうか。結局、田畑氏のような判断をする背景には、今次の大戦がいかにも不当な侵略戦争であったことを事実



として認め、日本が負けたのを積極的に受け止めて、その負の遺産を積極的に承認しようとする歴史認識がある。だか

ヨ ら法思想において多少の飛躍はあっても、それは肯定的に受け止めるべきものとするのである。個人責任の問題でも、


す まっとうな国民国家ならば国家法人説は採用できるが、日本のような絶対主義的政治機構では個人による国家機関の纂

に 奪のような状況が生じ、その場合には国家法人説は採用できないと退ける。




田畑氏の議論には法学者としての論理的思考以外の、いわば当時の時代精神とも言うべきものが混在している。それ
興 は東京裁判を﹁革命裁判﹂とまで持ち上げて正当化しようとした戒能氏の精神と相通ずるものであった。

戒能、閏畑両氏に見られるこのような苦渋に満ちた裁判理論からみれば、﹁裁判というものの純粋な法的見地からと

⑫ いうより、むしろ、政治的効果から割出された結論がどうしても大きく前面に押出され⋮⋮﹂﹁この﹃あまりに政治的﹄

号 パほロ
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な国際軍事法廷の動きが、アメリカの意向によって主導されたものであることは、明らかなところであろう﹂といった

巻 醒めた分析はむしろ没理念的とも見えたかも知れない。


号 五〇年代までの議論はこのような非常に理念的な、戦前日本の対外政策に対する強い批判と不満のなかで構築された
巻 ものであった。そこでは、日本の対外政策が侵略的なものであったことは自明の事実であり、それは断罪されなければ
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ならないものであり、従って、どのような罪状で断罪されるかということよりも、とにかく断罪されなければならない

法 ことがまず最初にあり、そのためにこそ訴追の根拠を法学上その他論理的に説明する必要に迫られたと言ってよいであ


ろう。
第三章 東京裁判論の新展開
こうした初期の議論は、六〇年代に入ると、日米安保条約問題やヴェトナム戦争間題などの陰にかくれて一時期論壇
ハレロ
から姿を消したかのようであった。そうした状況を一変させたのが、大沼保昭氏の画期的研究であった。
大沼氏の研究は、ヴェルサイユ講和条約から始まり、戦間期を経て、第二次世界大戦期に面々と続く戦争違法化の流
れのなかにニュルンベルク裁判と東京裁判を位置づけ、この両裁判が二十世紀法思想のコロラリーとして﹁平和に対す
る罪﹂を構築し、その罪に従って戦争犯罪人を断罪したものであることを豊富な資料と的確な論法で明らかにした。 そ
して、侵略戦争違法化と指導者責任観の成立とを二十世紀国際法思想のもっとも重要な到達点と示したのである。
大沼氏の議論に正面から挑み、内容的に豊かにする批評を展開したのは奥原俊雄氏であった。奥原氏はこう言う。
﹁無差別戦争観はいかなる戦争にも特定の評価を与えないことを特徴とする。いいかえるならばたとえ条件付に
せよ当該条件に反する限り特定の戦争を違法とみなすという否定的評価が下され得る場合においては、無差別戦争
観は否定されることになる︵いかなる戦争にも評価を与えないことに無差別戦争観の本質がある︶。したがって対
立する概念としての無差別戦争観が否定されたとき、戦争違法観が論理的に採用されなければならない﹂。
﹁著者︵大沼氏.,・注清水︶は戦争が個別的にではなく、一般的に禁止されることを戦争違法観の承認として考え
ン ている﹂、


︵ にもかかわらず、



﹁他方においては、ドイツという個別的な国家を対象にしたヴェルサイユ講和条約第≡一二条︵賠償責任条項︶

ヨ から戦争違法観を導き出している⋮・・。もっとも著者は全額賠償請求の原則採用から戦争違法観の承認を主張して


す いるが、かかる原則の採用があくまでもドイツを対象としたものであって、この原則をその後のすべての違法な戦
対 パゆレ
に 争にも一般的に採用すべしとしたものでないことは明らかである﹂。



5
4 奥原氏の議論は次のようなものである。まず、戦争違法観とはあらゆる戦争の評価をしない無差別戦争観の否定であ
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4 るから、個別的に違法な戦争がある場合に戦争違法観が成立する。ところが大沼氏は国際連盟を論じた際に連盟が戦争
違法観を原則とする機関ではないと結論づけており、戦争が個別的にではなく一般的に禁止された場合に戦争違法観が
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1
0
2
︵ 承認されたものと考えている。これは無差別戦争観の否定としての戦争違法観ではない。別の言い方をすれば、戦争観


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をめぐっては次の三種が存在する。第一にいかなる戦争にも評価を与えることなくその存在を許容する無差別戦争観、

巻 第二に条件によっては違法な戦争があり得ることを認める戦争違法観A、第三に条件によらず全般的に戦争が違法であ


号 るとする戦争違法観Bである。奥原氏に従えば、このうち大沼氏の主張は戦争違法観Bということになる。にも関わら
巻 ず、大沼氏は自らの戦争違法観の成立の論拠を、ドイツという個別国家を対象とするヴェルサイユ条約に置いている。
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ヴェルサイユ条約はドイツが始めたとされる戦争の違法性を認定したものに過ぎず、全般的に戦争が違法であるとした

法 ものではない。またヴェルサイユ条約第≡二一条はドイツの賠償責任を認定したものに過ぎず、この原理が他の場合に


も適用されるかどうかはまったく問題にされていない。賠償貢任においてすらそのような限定的なものである以上、こ
の条項を論拠にして戦争違法観Bの一般的な成立を論じることはできない。以上が奥原氏の議論である。私にはこれは
きわめて妥当な意見と思われる。
加えて奥原氏は、指導者責任観についても疑義を呈示する。すなわち﹁﹃指導者責任﹄の概念を用いる場合、指導者
の定義が絶えず問題になるであろう。また責任を問われている者は自己を常に指導者ではなかったと主張することに
あソ
よって貴任をのがれるであろう﹂と。指導者責任を問われたものの自己弁護の主張は現実にニュルンベルク裁判でも東
京裁判でも行われた。また、指導者に貴任があるという議論は、それ自体、そもそも国際軍事裁判が開かれべきかどう
かという議論に関わっている。その際、指導者とは何かがやはり問題になったが、現実のニュルンベルク、東京の両裁
ハリリ
判においてはその議論はあまり問題にならなかった。
八十年代に入ると、東京裁判研究はいっそう新しいものになった。その鳴矢として、八三年に行われた東京裁判国際
ハこ
シンポジウムをあげることができる。同年に小林正樹監督作品映画﹁東京裁判﹂が公開され、機運の盛り上がるなか行
われたこのシンポジウムは、内外の法学者、歴史学者、政治学者などの協力で行われたきわめて有意義でまた興味深い
ものであった。このシンポジウムにも参加するために来日した東京裁判のオランダ選出判事ベルナルト・レーリンク氏
の発言は日本の論断とは一風変わった独特のものであった。
レーリンク氏によれば、アメリカの中立法から武器貸与法にいたる流れの動機はドイツの戦争は正義に反する犯罪戦
争であったということにあり、このときに法務大臣であったロバート・ジャクソンがこの動機の正当性を確立するよう
な判決を下すことを望んだと分析する。すなわち、﹁ニュールンベルクでは、戦争前のアメリカの政策の正当性を立証
ゑり
ラ することが、そして東京では、まず何よりも真珠湾奇襲という犯罪を処罰することが肝要であった﹂。


︵ レーリンク氏は﹁平和に対する罪﹂の成立をある種の政治的配慮から説明しようとしている。ジャクソンにとっては



ドイツの戦争が正義に反する犯罪的なものであることを証明する必要があったこと、また、マッカーサーにとっては真

珠湾攻撃が犯罪的なものであることを証明すること、このふたつである。こうした政治的背景が、一方で戦争違法化へ


す と向かう国際法思想の大きな流れと一致するがゆえに、レーリンク氏にとってもそれは否定さるべきでないものとされ

に る。


﹁ このように国際軍事裁判の成立に政治的背景があったとしても︵それは当然あったものと判断されよう︶、そのこと
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の故に戦争違法化の大きな流れを考慮すればそれは否定すべきものとはされないという論調がこの時期以降むしろ主流
8
4 となって今日にまで続いているように思える。
シンポジウムならびに大沼氏の著作を高く評価する立場から、 東京裁判の﹁正﹂の側面をそれとして評価しようと田
0

1
0
2
︵ 中忠氏はこう言う。


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巻 ﹁国際法が、国家行動に対する道義的評価の判断枠組みとして、いわば、より高次の、正義の法としてのイメー



ジを持ち続けてきたことは、それ自体国際法の一特質であり、国際法に独自の魅力と精彩を付与してきた]因であ
巻 る。こうしたイメ!ジこそ、両国際軍事裁判について、合法性の面では問題があるものの、正当性は承認する、と
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第 パおり
いう受け止め方の背後に存在する一つの国際法観であるように思われる﹂。




国際法が国内法に比べてより倫理的価値的、自然法論的な性格を持つということは、国内法が法実証主義的な意味で
より繊細で緻密、形式的整合性に優れているのに対して国際法がそこまでの形式的完結性を持たないことと関係がある
かも知れない。いずれにせよ、不完全であるが故に論者の価値評価を投影する余地が国際法の世界には広く残っている
ようだ。
東京裁判を歴史的に捉え直そうという機運はシンポジウムを契機に、これ以降主流になる。その先駆が粟屋憲太郎氏
であり、氏は一連の著作のなかで東京裁判にいたる歴史過程、とりわけ被告の選定過程や天皇免責問題などについて詳
パ ロ
細な歴史学的分析を加えた。こうした東京裁判の歴史学的研究の進展と踵を合わせるかのようにニュルンベルク裁判の
研究も行われ、芝健介氏はニュルンベルク裁判の概要と、とくに継続裁判と呼ばれるアメリカ占領地区における十二の
パぞ
裁判の実情について、実に半世紀以上も経過して初めて本格的に、また詳細に紹介したのである。そして、東京裁判研
究の進展とともに、日本の戦犯裁判にとどまらずドイツ戦犯断罪をも含む第二次世界大戦後の戦争犯罪裁判を研究しよ
うとする動きが出てきた。その代表作が日暮吉延氏の一連の著作であり、これらの著作のなかで氏は東京裁判をめぐる
ハルリ
戦勝国の国際政治過程を詳細に分析したのである。また林博史氏も戦後裁判の歴史全般を検討するなかで、ロンドンに
ハサロ
本拠をおく連合国戦争犯罪委員会の動向について詳細にまとめた論稿を発表した。こうした諸論稿において、これまで
の理念的な色彩の強い戦犯裁判論が歴史学的に相対化され、裁判を準備したアメリカやイギリスの当局者の政策判断を
問題にするようになった。
こうした近年の新しい研究のなかでも、共通点はやはり﹁平和に対する罪﹂を焦点に据えている点にある。日暮氏は
両国際軍事裁判で扱われた三種の罪のうち﹁最も重大な変化であり、また両国際軍事裁判が中心的に追及した犯罪は、
ハのマ


﹁平和に対する罪﹄であった﹂としており、また﹁連合国の勝利が確実な状況で、いまこそ﹁侵略の犯罪化﹂というア

︵ メリカの念願をかなえる好機だと楽観した。それまで戦犯処罰の焦点は、ナチの﹁残虐行為﹂をいかに処罰するかだっ



たが、アメリカ陸軍省の手にかかるや、追及の重心が﹁侵略戦争の開始﹂に移ったのである﹂と砲、両裁判の中心軸が


侵略戦争の罪、﹁平和に対する罪﹂にあったことを重視している。


す 東京裁判を国際人道法の発展のなかに改めて位置づけようとした戸谷由麻氏の研究においてもまた、﹁陸軍省計画案

に で基軸をなす法概念 そしてのちのニュルンベルク裁判の基本方針−となったのは、ナチス最高指導者たちを﹃侵略戦


﹁ 争をおかした罪﹄で訴追するという考えだった﹂とし、﹁スティムソンは、侵略戦争を犯罪とみなす法概念は国際法上
49 成立しうるとみなし、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領に提言した。これを受けた大統領は支持を表明、侵略
ハのり
0
5 戦争を起こした者を裁くという案はドイツ戦争犯罪人の訴追にかんする米国政府の基本方針に決定した﹂とする。
0
ラ ニュルンベルク裁判開廷にいたるロンドン会議及びその結果としてのロンドン協定ならびに国際軍事裁判所憲章にお
1
0
2 いて﹁平和に対する罪﹂がもっとも重要な訴因として措定されたことは問違いないことである。であるがゆえに、戦犯

号 裁判が終了した後においても議論の焦点はまぎれもなく﹁平和に対する罪﹂に置かれた。しかし、侵略戦争の罪を中心


巻 に置く裁判の形になったことは、レーリンク氏が推測し、日暮氏が﹁平和に対する罪﹂の形成過程について浩潮な資料


号 分析を通じて明らかにしたように、連合国、特にアメリカのある種の理念的政策を色濃く投影したものであった。こう
巻 したアメリカの政策は、ある意味では、この両裁判の意味を変質させてしまったということもできるのではないかと私
17
第 ハハリ
は考えている。




第四章 ニュルンベルク裁判と東京裁判
﹁﹃ニュルンベルク﹄の法理はどのようにして出来上がったのか。日本の戦犯容疑者を裁くにドイツに適用した原則
をほとんどそのまま援用するにいたったのは一体何ゆえだったのか﹂という問題関心のもと、竹内修司氏はニュルンベ
おロ
ルク裁判にいたる政治過程をそれとして分析することの重要性を指摘している。氏によれば﹁﹃東京裁判﹄は、先行し
たナチス・ドイツに対する﹃ニュルンベルク裁判﹄に合わせて作ったベッドに、サイズの異なる日本を寝かせ、その身
パおロ
体を引き伸ばしたようなもの﹂ということになる。
東京裁判がニュルンベルク裁判をそのまま当てはめようとしたものであることは竹内氏の指摘の通りと思う。ただ、
裁判での力点の置き方はニュルンベルク裁判と東京裁判とではやはり違っている。ニュルンベルク裁判では﹁平和に対
する罪﹂とともに﹁人道に対する罪﹂が重視され、ナチ犯罪の実態をそれなりに反映するものになっている一方、東京
裁判では﹁平和に対する罪﹂が重視され、﹁人道に対する罪﹂がほとんど顧みられないほど軽視されている。同じ原則
でやろうとしても、裁くべき罪の実態が異なり、そのことが罪の適用の度合いにおいて相違をもたらしたのではなかろ
うか。そして、ドイツ戦犯を残虐行為で裁くことにはそれほど違和感はない一方、日本戦犯を﹁平和に対する罪﹂で裁
くことについては非常に政治的な臭いを感じさせ、そのことが戦後東京裁判史観批判のようなものを生み出すもとに
なっているのではないだろうか。
ニュルンベルク裁判及び東京裁判は、昨今の国際刑事裁判所の設立などに触発され、今日的な意義づけが行われるよ
うになりつつある。
ラ 石田雄氏は、東京裁判六〇年を記念して二〇〇八年一一月一〇日から三日間、オーストラリアで開かれた国際会議の


︵ 論調を紹介する中で、﹁侵略戦争を禁止しながら制裁規定を持たなかった不戦条約︵一九二八年︶の段階から個人の戦


争犯罪を裁く常設司法機関としての国際刑事裁判所を今日持つに至る流れの中で、東京裁判を位置づけようとする論調

に ハリい
がみられたことは注目に値する﹂と述べている。また、橘川俊忠氏は戸谷氏の業績を評価するなかで次のように述べて


いる。





﹁ ﹁こうした、法理によって、戦争そのものが犯罪とみなされるようになったわけではないが、戦争のより多くの
1
5 部分が犯罪として処罰の対象とされるようになったことは確かである。特に、政治家を含んで国家の指導者の戦争
2
5 責任が問われるようになった意味は大きい。不戦条約以来、戦争を違法化し平和を促進しようという人類の理想
茸 ︹誌︺
0
ラ カ、実現へ向けて半歩ぐらいは前進したという評価を与えてもよいのではないだろうか﹂。
1
0
2


36 東京裁判が戦争犯罪の範囲を拡大したことは間違いないことかも知れない。そしてその拡大は国際刑事裁判所などの

巻 形で今日生かされているということも言えるかも知れない。しかしそのことと東京裁判の評価という問題とはどう関係


号 するだろうか。結果として、ある事態を導くきっかけとなったということが、過去のある事象を肯定的に評価する決め
巻 手になるのだろうか。第一次世界大戦と第二次世界大戦は結果として戦争反対の声を世界的に拡大させたものだった。
W

しかしだからといって両大戦を肯定的に評価はしない。事象それ自体に内在する意味と、それが時聞の経過の中で結果

法 的におかれている位置とは、同じものではない。﹁東京裁判のいいところを考えるとすれば﹂という命題に対するひと


つの回答として﹁戦争犯罪概念の籠囲の拡大﹂を言えるかも知れないが、そのことは﹁東京裁判の悪いところを考える
とすれば﹂という命題に対する回答を否定するものにはならない。
現代史家の斎藤孝氏は大沼保昭氏の著作を戦争違法化論の形成過程を実証的に明らかにしたものとして高く評価する
ハぬロ
とともに、一方で﹁﹁人道に対する罪﹄の分析が軽い﹂と指摘している。大沼氏の間題意識が無差別戦争観から戦争違
法観への原理的転換にある以上、本書の中心が﹁平和に対する罪﹂におかれることは当然であるが、しかし、ニュルン
ベルク裁判の形成過程を実質的に準備したのは﹁平和に対する罪﹂とともにまた﹁人道に対する罪﹂であった。否、あ
る意味では﹁人道に対する罪﹂こそナチ犯罪を断罪する国際世論の要請に応えて準備された国際軍事裁判用の新しい理
念であったかも知れない。ニュルンベルク裁判の形成、東京裁判の形成に関する研究において﹁人道に対する罪﹂の
形成過程を意味づけることは依然として重要な課題として残っており、﹁平和に対する罪﹂に関わって膠着状態に陥っ
ているようなニュルンベルク、東京両裁判の意義を明確にする作業はそのなかで行われるのではないかと私は考えてい
る。三〇年以上も前の書評で斉藤氏がそこまで意識して大沼氏の著作を評したかどうかは分からないが、現代史家とし
ての氏の嗅覚がそのことを言わせていたようにも思えるのである。

︵1︶ リチャード.H・マイニア︵安藤仁介訳︶﹁東京裁判 勝者の裁き﹂福村出版、一九九八年︵初版は一九七二年︶、三四頁。
︵2V 同、九頁。
︵3︶ 同、十頁。
︵4︶ 同、二〇九頁。
︵5︶ マッカーサーの消極態度についてはいろいろな論者が指摘しているが、とりあえず、粟屋憲太郎﹃東京裁判への道﹂上、講談社、

水 二〇〇六年、三二∼三五頁、参照。

︵ ︵6︶ 横田喜三郎﹁戦争犯罪論﹂有斐閣、昭和二二年。

︵7︶ 戒能道孝﹁戦争裁判の法律理論﹂﹁歴史評論﹂第]七号︹一九四八年九月︶、一八頁。

つ ︹8︶ 同、二四頁。


︹9︶ 同、一四頁。

る ︵10︶ 戒能通孝﹁極東裁判・その後﹂﹃思想﹂三四八号︵一九五三年六月︶、二三頁。
す ︹11︶ 同、二四頁。

に ︹12︶ 同、三〇頁。

平 ︹13︶ 田畑茂二郎﹁東京裁判の法理﹂﹁世界﹂四二号︵一九四九年六月︶、一四頁。

︵14︶ 同、一七∼一八頁。
︵15︶ 同、二〇頁。
53
矢田克巳﹁世界の見た東京裁判﹂﹁改造=二三巻六号︵昭和二七年増刊号︶、=二〇頁。
甜 ︵16︶
︵17︶ 大沼保昭﹁戦争貴任論序説 ﹁平和に対する罪﹂の形成過程におけるイデオロギー性と拘束性﹂東京大学出版会、一九七五年。
0

1 ︹18︶ 奥原俊雄﹁大沼保昭 ﹁戦争貴任論序説 ﹁平和に対する罪﹂の形成過程におけるイデオロギー性と拘束性ヒ﹃法律時報﹂四八巻三号
0
2

︵一九七六年三月︶、一四六頁。
ラ ︹19︶ 同、]四六頁。

36 ︵20︶ 奥原氏同様に、無差別戦争観から戦争違法化の流れのなかに両裁判を位置づける大沼氏の見解に異を唱える論者の一人に長尾龍一氏が

巻 いる︵参照、長尾龍一﹁二十世紀における﹁戦争と平和の法﹂、筒井若水﹁戦争と法﹂﹁現代国際法論﹄、大沼保昭﹃戦争犯罪論序説旨を

︵ めぐって﹂﹁中央公論﹂九一巻六号︹一九七六年六月︶︶。長尾氏は﹁中立という無差別戦争観に基づく制度の保障者たる英国が、戦後ド
号 イツの戦争責任の追及、カイザー訴追の主張という正戦論的な主張をなしたことは一見矛盾のようにみえるが、これは却って無差別戦争
巻 観の前提を明らかにするものである。無差別戦争観は戦争の限定の枠内における戦争に対しては無差別であるが、その枠を蹴える者に対
17
第 しては犯罪者に対する態度をもって臨むのである。十九世紀ヨーロッパにおける無差別戦争観は、実は戦争の限定の枠内の戦争と枠外の

戦争との区別をしていたことが、第一次大戦によって明らかとなったともいいうる﹂︵同、二九八∼二九九頁︶と述べ、第一次世界大戦
法 におけるドイツの開戦貴任認定が戦争違法化の一里程、無差別戦争観から戦争遠法化への萌芽とみなすことはできないとする。考えるべ

白 き視点を提示していると思うが、他方、﹁無差別戦争観は戦争の限定の枠内における戦争に対しては無差別であるが、その枠を膝える者
に対しては犯罪者に対する態度をもって臨む﹂という言い回しは論理的枠組として述べるのならばともかく、ヴェルサイユ講和会議にお
ける英国代表の立場を具体的に検証した結果そう言えるのかどうか私には疑問である。
︹21︶ シンポジウムの内容は、細谷千博・安藤仁介・大沼保昭編﹁国際シンポジウム 東京裁判を問う﹄講談社、昭和五九年、を参照された
︵22︶ ベルナルト・レーリンク﹁唯一の文官死刑被告・広田弘毅を再審する﹂﹁中央公論﹂九八巻七号︵昭和五八年七月︶、一五〇頁。
︵23︶ 田中忠﹁大沼保昭の﹁東京裁判・戦争賞任﹂観﹁国際シンポジウム 東京裁判を問う﹄﹁東京裁判から戦後貴任の思想へ﹄を読んで﹂
﹃法律時報﹂第五七巻]O号︵一九八五年九月︶、一四〇頁。
︵24︶ 粟屋憲太郎﹁東京裁判論﹂大月書店、]九八九年、同﹁東京裁判への道﹄上下、講談社、二〇〇六年,
︵25︶ 芝健介﹁ニュルンペルク裁判小考﹂﹁國學院雑誌﹂第八九巻四号︵一九八九年︶、同﹁ニュルンベルク裁判の構造と展開﹂アジア民衆法
廷準備会編﹁間い直す東京裁判﹂緑風出版、一九九五年、所収。
︵26︶ 日暮吉延﹃東京裁判の国際関係 国際政治における権力と規範﹂木鐸社、二〇〇二年、同﹁東京裁判旨講談社、二〇〇八年。
︵27︶ 林博史﹁葬られた国際戦犯法廷 連合国戦争犯罪委員会の資料よウ﹂﹁季刊戦争貴任研究﹂第二九号︵二〇〇〇年秋季号︶、同﹁連合
国戦争犯罪政策 の 形 成 −連合国戦争犯罪委員会と英米1﹂上下、関東学院大学経済学部総合学術論叢﹁自然・人間・社会﹂第三六号
︵二〇〇四年一月、七月︶。
︵28︶ 日暮﹁東京 裁 判 の 国 際 関 係 ﹄ 、 三 五 頁 。
︵29︶ 日暮﹁東京裁判﹂、四九頁。
︵30︶ 戸谷由麻﹁東京裁判 第二次大戦後の法と正義の追求﹂みすず書房、二〇〇八年、二九、三〇頁。
︵訂︶ 国際軍事裁判が本来断罪の対象とすべきとしたものと、現実のニュルンベルク裁判、東京裁判が断罪の対象としたものとは、ややズレ
があるのではないかと私は考えている。この点についてはなお実証的な研究が必要とされるが、その萌芽的なものとして、拙稿﹁ニュル
ンベルク裁判の成立と﹁人道に対する罪﹂﹂﹁現代史研究﹂第四〇号︵]九八八年]二月︶を参照されたい。
︵32︶ 竹内修司﹁創られた﹁東京裁判﹂﹂新潮社、新潮選書、二〇〇九年八月、同﹁﹁東京裁判﹂はいかに創られたか﹂﹁新潮45﹂二〇〇九年
九月。
︵33︶ 竹内﹁創られた﹁東京裁判﹂﹂、二三二頁。
︹34︶ 石田雄﹁東京裁判から六〇年 残された課題と今日の選択﹂﹁一冊の本﹂二〇〇九年一月、五∼六頁。
︵35︶ 橘川俊忠﹁﹁東京裁判 第二次世界大戦後の法と正義の追求﹂戸谷由麻著﹃国際人道法﹂の発展に貢献 東京裁判を客観的に評価﹂﹁現
水 代の理論﹂二〇 〇 九 年 春 、 ] 九 一 頁 。

︵ ︵36︶ 斉藤孝﹁戦争責任法理の歴史的形成 大沼保昭﹁戦争貴任論序説﹂﹂﹃朝日ジャーナル﹂︸八巻二一号︵︸九七六年五月二八日︶、五九


∼六一頁。
つ ︵本学法学部教授︶
β










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