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安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信

2014年12月31日初版 第28号 www.abekobosplace.blogspot.jp


迷う あな
事の たへ
あな ない :
ただ
けの
迷路
を通 あこのもぐら通信を自由にあなたの「友達」に配付して下さい
番地 って
に届
きま

英語版『箱男』

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ニュース&記録&掲示板

「10代の安部公房を読む会」(第3回)を開催します

第1回の参加者の中から声が上がり、楽しかったのもう一度やりましょうと
いうことから、次の要領にて、第3回の同会を開催致します。

出席ご希望の方は、来年2015年1月9日(金)までに下記(7)「備考」
欄にあるメールアドレス宛に御連絡下さい。

(1)日時:2015年1月10日(土)13:00~17:00
(2)場所:八王子市南大沢文化会館 第4会議室
(3)会費:会議室利用代金の1100円を参加者の人数で割ることに致し
ます。
(4)アクセス:京王線(相模線)南大沢駅徒歩2分:
http://www.hachiojibunka.or.jp/minami/
(5)対象作品:『詩と詩人(意識と無意識)』
(6)申込期限:来年2015年1月9日(金)まで
(7)備考:前回同様に輪読の形式とし、各人が一段落ごとに音読して、安
部公房の声に耳を傾け、その文字と行間の意味を読み取ることを致します。

この20歳の論文は、10代の安部公房の思想の集大成であり、同時に10
代の詩、それから『無名詩集』の詩の重要な註釈と解説(であるばかりか、
その後の晩年に至るまでのすべての作品成立の基礎)になっておりますの
で、安部公房という人間を理解するために、全集第1巻に収められている1
0代の安部公房の詩をも併せて読み解くことに致します。

前回第2回で、3時間かけて、この作品の最初の3ページを読み込みまし
た。全集第1巻のページ数で行きますと、106ページまでに当たります。

次回第3回は、106ページの下段左下の「諸々の声は」から始まります。
4時間の時間を予定しています。

新しく参加なさる方は、あらかじめ最初の3ページをお読みになってご参加
下さい。

勿論、最初に前回の3ページの復習を簡単にしてから、4ページ目に入ろう
と思います。

多分3回目でも終りませんので、更に隔月としてか、何度か連続的に会を開
催することを考えております。この頻度は出席者に当日相談を致します。安
部公房全集第1巻をご持参下さい。お持ちでない方には事前に資料を御届け
しますので、次のアドレス迄:eiya.iwata@gmail.com

また、2次会を近くの焼き鳥屋「おっけい」本店(看板は焼き鳥屋ですが、
本当は鮮魚が抜群に美味い)で予定しております。予算は、一寸高めで申し
訳ないのですが、3000円から4000円未満です:http://tabelog.com/
tokyo/A1329/A132904/13046158/

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もぐら通信 ページ3
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目次

1。ニュース&記録&掲示…page 2
2。目次…page 3
3。SFを創る人々*その1 安部公房氏:大伴秀司…page 4
4。レストランキャンティ(CHIANTI)と安部公房:岩田英哉…page 9
5。うずめ劇場公演、ネストロイの喜劇の二本仕立て『昔の関係』と『酋長、
夜風』を観劇する:編集部…page 14
6。もぐら感覚22:ミリタリー•ルック(後篇):岩田英哉…page 16
7。読者からの感想...page 32
8。編集者通信:何故川端康成は安部公房の『壁』を芥川賞に推したのか?
…page 34
9。編集後記:…page 37
10。次号予告... page 38

・本誌の主な献呈送付先…page 39
・本誌の収蔵機関…page 39
・編集方針…page 39
・バックナンバー…page 39

お知らせ:PDFで閲覧しますので、ツールバーにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店
で買ったジャンプ•シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページに
ジャンプします。そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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もぐら通信 ページ4
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SFを創る人々*その1 安部公房氏
大伴秀司
[このインタビュー記事は、『SFマガジン』(1963年、5月号)に掲載されたものです。安部公房全集
には未収録の記事です。1962年に『砂の女』を出した翌年の、安部公房の旺盛な創作活動を伺うことの
できる貴重な記事です。]

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もぐら通信 ページ5
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SFを創る人々の生の姿を読者にご紹介する、これは、気楽な雑談の十五分です

京王線仙川に近い西南向きの高台、あか
るい住宅地の一角の、あかるい二階建て
の住宅に住む安部公房氏は、創作、戯曲、
映画、ショウ、TVと活躍する新しい芸術
運動の強力な旗手。当然、SFにも深い関
心をみせている。そもそも昭和二十七年
芥川賞を得た『壁』(バベルの塔の狸、S・
カルマ氏の犯罪、赤いマユなどの連作)
は完全なSF。”日本最初の本格”SFなど
というタイトルはこの作品に与えられる
べきなのだ。『砂の女』が読売文学賞を
受賞したばかりの多忙な安部公房氏。こ
の取材で訪問した時も、SFミュージカル
(?)映画の打合せ中だった。忙しい時
間をさいてのインタビューである。(大
伴)

砂の女・考
⚪うーん、どうかな、これSFかな?せいまい意味じゃ、SFとはいえないだろうな。
もっとも僕としては、SFであろうとなかろうと一向に構わないんだ。意識もしないし区別
もしない、ただ仮説の物語を書こうとして書いたんだから。
⚪なにがヒントか、とよく訊かれるが、僕の作品にはそもそもの発想というものが無い。意
識せずに捕らえていることのほうが多いんだ。知らず知らずのうちに、書く気になっている
のだろうね。
⚪でも書きはじめの動機のようなものは断片的だが、いくつかある。
”砂”は子供のときから親しみ深い物質だった。僕が育った奉天は、ものすごい乾燥地帯で
ね。小学校のウラ側など広大な砂丘につづいていたんだ。
ところが、その砂丘が年々、学校に向かって移動してくる。
一年に何メートル押し寄せたか、はっきりおぼえていないが、前の年にはたしかにあった
水溝が、いつの間にか砂の下にかくれているんだ。
この率でいけば、いまに学校が埋まってしまうんじゃないかと考えてね。早く埋まって、
休みになればいいな、とたのしみにしていたものだ。
⚪ だが、僕の砂に対する関心は、それほど偏執的なものではない。
水とか海と同じく、流動するものの一つとしてとらえているにすぎないんだ。
たまたまある週刊誌に、酒田の大砂丘のグラビアが出ているのをみて、瞬間的にパッとひ
らめいたものがあった。それが『砂の女』を書くそもそもの発端となった。
書き下ろしだが、あれで七ヶ月ぐらいかかったかなあ。

数学・考
⚪学生時代、数学が好きだった。得意だったし、抜群の成績をあげていた。
その反対に、暗記力にたよる学科はだめだった。人一倍、物覚えの悪いほうだった。
⚪数学は暗記の学問ではない。よく誤解されることだが、数学を理づめで考えるようになっ
たら、その人はとたんに成績が落ちるだろう。数学を暗記の学問と考える人にかぎって、い
つまでたっても上達しない。数学は思いつきと訓練の学問だ。
数学は思考の跳躍力だけに頼っている。
今まであったものを切り捨てて、まったくちがった方向に飛躍する能力と思いつきの早さだ
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けが大切で、訓練次第でいくらでものびるものなのだ。
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⚪僕の場合も、どんどん上達し、一年で三年の教科書がわかり、答え方の相違まで予測す
るようになってしまった。
数学は純粋なゲーム性にたよる学問だし、それは無償の行為でもある。疲れたときやイ
ライラするときは、数学のいい問題をやるにか
ぎる。一種のレクリエーションだ。
⚪しかし、学校(東大)では、医学部に進んだ。
数学が思考の跳躍を重視する学問である以上、
その能力の限界は二十二、三才までと判断した
からだ。年をとるにつれ、思考は複雑化しバラ
ンスがとれてくる。思考が未熟なうちは演繹一
点ばりで押しまくれるが、成長してくると帰納 モ
的な要素が入り込んでくる。大脳が緻密になる ダ
と、逆に飛躍する力がにぶくなるものだ。 ン
⚪数学はボクシングと同じように、若い時代の学 な
問である。年をとると、分解する能力だけが上 安
達して、学校の先生になるのがオチだ。そうい 部
う考えもあった。 氏

SF・考
⚪SFは、意外に文学的だと考えている。文学のも
つ特性を、もっとも有効的に使える分野がSFだ
からである。
文学が行き詰まりに達しているとすれば、そ
の突破口になるのがSFだろう。
⚪僕はSFを、科学を使った仮説の文学だと考えて
いる。
これに対して、反論する人も多い。
SFには、正しい科学知識が描かれない。実現しないような科学知識は、一見の価値もない
はずだ、たとえそれが仮説であろうと現実の科学の進歩とは別物であり、なんらプラスに
なるものがない。エセ科学を描くSFを認めることはできない。
という説である。
⚪だが、僕は強調したい。SFは科学ではない。SFは文学の一つとして書かれるものであろ
う。科学とは別物であるのが当り前ではないか、と。
科学を啓蒙するだけが目的であるとすれば、SFはひどくつまらないものになろう。科学
は純粋に記号だけのものである。SFはちがうのだ。
SFは、サイエンスを媒介にして、独特の仮説を立てるところが特色である。SFは科学の
啓蒙のために書かれるものではないのだ。
⚪”現代怪談”という言葉があるが、いうなればSFも現代怪談の一つであろう。しかもお
化けを信じない怪談である。怪談をバカにするような気持では、文学もなにも成り立たな
いではないか。
⚪荒唐無稽な話を、エセ科学の衣を借りて書きこんでゆく、きわめて健康的な心理ではな
いか。
SFは科学ではない。
エセ科学だ。エセ科学だからこそ面白いのだ。エセ科学を利用するからこそ、イメージ
の展開が可能なのだ。でなきゃ、SFではなくなる。
エセ科学の精神に反撥する人は、面白いSFが書けないだろう。
⚪といっても僕は、シリアスなSFを否定するものではない。ソ連のSF論は納得できない点
が多いが、一般にいうリアリズムSFにはそれなりに価値があるだろう。
「月は地獄だ!」の理詰めのぐいぐい押しまくるところは気持ちがいい。
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しかし、これさえも、純粋な意味での”科学”
ではない。論理の面白さを主眼にしているから
である。
仮説を立て、仮説をたどる論理の面白さで読
ませるのがSFであり、SFの条件であろう。わか
りきった仮説でも、たどりかたの面白さ次第で、 自
立派な作品になる。
同時に、これは文学一般にもつながる要素で 宅
ある。 の
面白いSFは、面白い文学だということができ 庭
よう。 で
⚪SFに未来を書くのも一つの方法である。しか 安
し、それがSFのすべてではない。 部
未来を語る、という行為よりも、未来を媒介 氏
にして現代を見ることのほうが大切なのだ。 は
未来のビジョンを与えるのがSF、という考え 何
がそもそも間違いなのだ。未来はあくまでも仮
説の範囲で考えるべきである。ウエルズの『タ を
イム・マシン』も明らかにそうだった。 考
SFは、あくまで仮説の文学として書かれるべ え
きである。 る
⚪SFにブームがくるのはいいことだ。SFのため
だけではなく、文学のためにもいいことだ。
従来の啓蒙主義的な文学の読者層に対し、潜
在的な読者層も増えるだろうから。
自然主義に慣らされた日本の文学読者の思考
を、大きくゆさぶることだろうから。
(註・安部氏のSF観や仮説文学論は昭和三十七年九月二十三日号の朝日ジャーナルに掲載
されています。このインタビューとあわせてお読み下さい)

身のまわり・考
⚪車があるので、気軽に旅行できる。行き当たりばったり走りまわって、新しい土地を発
見することが多い。広大な地形が好きだ。四国を含む南国の景色にも惹かれた。次は大雪
の北陸を旅行したいとおもう。
⚪パキスタンという国は、日本の商社が進出して、かつての満州に似た国情という。ここ
を舞台に、満州時代の経験を書きたいと思う。グレアム・グリーンのようなカラーの小説
にしたい。
⚪僕の作品はカフカの影響が強いといわれるが、そういうレッテルは困る。そのときどき
でたえず変わってゆくものであるから。現在はヘンリー・ミラーに興味を持っている。日
本文学は苦手である。
⚪推理小説もよく読む。外国物である。
本格、非本格にかぎらず、しっかりした作品であれば傾向を問わない。よい作品には、よ
いリズムがあるものだ。
むずかしい論文を読むと寝つきが早いという説はウソだ。面倒くさい論文や、つまらぬ
作品ほど目がさえてくるものである。
面白い作品には一種独特のテンポがあり、それが眠りをさそうのであろう。よい推理小
説ほどよく眠れるものである。
⚪音楽も同じである。ジャズよりもクラシックのほうが、よく眠れる。
以前はバルトークが好きだったが、現在はいろいろなものをきくようになった。ロマン
派は好きにはなれない。
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もぐら通信 ページ8
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⚪物を彫ることも好きだ。自分で印章を彫ることもある。造型に興味がある。
⚪易のような神秘的なものは一切信じない。興味はもつが好奇心だけだ。
⚪円盤に関しては、否定も肯定もしない。個人的な願望として、あってくれてもいいような
気がする。
円盤狂のうわさをきくが、あの連中は、いつの時代にもいる”終末願望患者”の一種で
あろう。
満州のアヘン窟の壁にも、地球の最後を立証するような、さまざまな落書き(原文傍
点)やはり紙(原文傍点)があったものだ。自分の行動を弁解し、正当化するために危機
意識を高めているのだ。円盤狂もこれに似ている。
⚪今後も映画や戯曲、ミュージカル、テレビなど、なんでも幅広くやってゆきたい。
昨年の『お気に召すまま』は、平均十七パーセントという高い視聴率だったが、いろい
ろな事情が重なって中止になった。みんな一生県命に努力したがだめだった。
『砂の女』が『おとし穴』と同じスタッフで映画化される。ミュージカル映画の計画も
あり、忙しくなりそうだ。
意識せずにSF的な作品をどんどん書いていきたいと思います。期待して下さい。

その後、安部氏は大雪見舞いかた
がた、単身北陸を一周して歩いた。
理論とともに行動を重視する安部
氏らしい機敏さが感じられる。

安部氏の愛車コンテッサー

ご寄付
匿名の読者の方より、もぐら通信に2000円のご
寄付を戴きました。

誠に、ありがとうございます。

謝して、ここにお礼の気持ちをお伝えするものです。

また、これを機会として、もしご寄付を戴けるので
あれば、どなたからも広く薄く、よろこんでお受け
したいと思います。以下の口座です。

ゆうちょ銀行
(1)ゆうちょ銀行間の場合
①記号 10160
②番号 3695511
③口座名義人:イワタエイヤ

(2)他の金融機関からの振込みの場合
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①店名:〇一八(読み:ぜろいちはち)
②店番:018
③預金種目:普通預金
④口座番号:0369551
⑤口座名義人:イワタエイヤ
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もぐら通信 ページ9
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レストランキャンティ(CHIANTI)と安部公房
~リルケの贋の息子と出合った場所~

岩田英哉
安部公房の『リルケ』と題したエッセイに、六本木のあるレストラン
で友人と食事をしていたところ、その友人に促されて、隣の席にいた男がリルケの息子だと
言われて、その老人を見て、笑いがとまらなくなったという経験を書いています(全集第2
1巻、436ページ)。

「数年前、六本木のあるレストランで、知人何某氏がぼくの肘を小突いて囁いた。
―――ほら、あの角のテーブルにいる外人、誰だか知っていますか?リルケの息子なんです
よ。そっくりでしょう……
むろんぼくは信じなかった。あまり唐突すぎて、信じがたい話だった。しかし、似ていた
ことは事実である。あの、水でふくらませたゴム人形のような、どんよりとした、長すぎる
顔。
知人が言葉を続け、
――いま、マルローの秘書をしているんですが、とんでもない女ぐせの悪い男でね、浮世絵
の展覧会をやるというので、その作品集めに日本に来ているんだけど、毎晩ああして、女遊
びばかりして、仕事の方はさっぱりなんだ。さすがのマルロー先生も、頭に来ちゃいまして
ね……
ぼくは信じなかった。信じはしなかったが、大笑いした。ぼくらは、かなり酔っていたし、
冗談にしても、かなり上出来の冗談のように思われたからだ。それに、単なる冗談以上に、
ぼくの心をくすぐる、何かがあった。だからぼくは、よけいに大笑いした。涙を流さんばか
りにして笑いつづけた。笑いながら、ぼくは考えていた。おれは本当に、冗談に笑っている
のだろうか?もし、隣のテーブルの男が、本当にリルケの息子だとしたら、それでもこんな
ふうに笑っただろうか?そう考えると、よけいにおかしくなって来た。どうやら、冗談に対
して笑っていただけではないらしい。ぼくはリルケのことを笑っていたらしいのである。」

これは、1967年12月25日発表のエッセイであり、その冒頭に「数年前、六本木のあ
るレストランで、知人某氏がぼくの肘を小突いて囁いた」とあるので、そうすると、196
4年頃、安部公房40歳の頃ということになります。

この贋の「リルケの息子」の名前は、バリュティスという有名な画家です。[註1]

[註1]

父親のエリク・クウォソフスキ(ドイツ語: Erich Klossowski, von Rola-Kłossowski, ポーランド語: Eryk


Kłossowski h(erbu). Rola)は東プロイセン・ラグニットのシュラフタ(ポーランド貴族)で、母親エリーザ
ベト・シュピーロ(Elisabeth Dorothea Spiro)はノヴゴロドに起源をもつブレスラウ(ヴロツワフ)生まれ
のロシア・ユダヤ人。また、実兄のピエール・クロソウスキーはマルキ・ド・サドやフリードリヒ・ニーチェ
の研究者として著名な作家である。(http://ja.wikipedia.org/wiki/バルテュス)

この男の母親が、リルケの恋人だった。そして、詩人のリルケに幼いころに才能を見出され
たと言われておりますので、実際にはリルケの実の息子ではないにせよ、リルケの息子とい
う噂話が出てくる素地は十分にあったのです。
安部公房の、同席していた知人が言っているというように、確かにこのバルテュスは、「と
んでもない女ぐせの悪い男でね、浮世絵の展覧会をやるというので、その作品集めに日本に
きているんだけど、毎晩ああして、女遊びばかりして、仕事の方がさっぱりなんだ。さすが
にマルロー先生も、頭に来ちゃいましてね……」ということであったのでしょう。

Wikipediaによれば「1964年、作家で当時は文化大臣だったアンドレ・マルローによって、
ローマのヴィラ・メディチ(芸術のためのフランス大使館の役割をもっていた)の館長に就
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任、文化交流とともに館の再生にあたる。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/バルテュス)と
ありますので、当時はマルローの下で、そうしてローマに住んで、パリでの浮世絵展開催の企画
のために日本に滞在していたのです。

「毎晩ああして、女遊びばかりして」という知人の言葉ですから、
この夜も、女性と一緒にバルテュスは居て、このレストランで騒
いでいたのです。

バルテュスという画家は、性的な嗜好が決まっていて、若い女
ばかりを好きになる男でした。この絵に、このことをみることが
できます。

最初の結婚は1937年にしています。1962年に、パリの
日本美術展での出品作品選定のために日本に来て、当時20歳で
の上智大学仏文科の学生であった山田節子と出会い、恋に落
ちて、この女性の言葉によれば「誘拐されるようにして」この若
い女性をローマに連れて帰っております。このとき、バルテュス
は最初の妻とはまだ離婚しておらず、そうでありながら義理の
姪とも8年間も同棲生活を送っている状態ですから、安部公房の
知人が「とんでもなく女ぐせの悪い男」というのは、その通りで
ありました。

しかし、リルケもそうですが、藝術家という人種はそういうよう
な、性的には放埓放恣の、世間の人間の目からみれば、そのよう
にだらしのない人間が当たりで、それが藝術家としての素晴らし 夢見るテレーズ
い作品を生み出す能力を獲得する代償に支払った対価だと思って、
わたしたちとは別種の人間だと割り切ってしまえば、他方、この画家
の日本に関する造詣の深さは大変なものだということも率直に理解し、日本人として感謝するこ
とができるでしょう。この「誘拐するように」ローマに攫(さら)って行った日本人の女性には、
この画家はヨーロッパの日常で和服を着ることを要求し、節子夫人はその通りにして応えたので
した。[註2]
[註2]
この画家の後半生を妻として共に過ごした山田節子の言葉:「本当に誘拐、あれよあれよという間にローマに住ん
でいました(笑)。でも私自自 身身、冒険が大好きでしたし、何度かコミュニケーションを取っているうちに、直感
的にこの人と過ごしたい と思ったのです。バルテュスは外見こそくだけた印象でしたが、話してみるとやはり館長
を務めるだけの人物でした。特に日本の芸術・文化については造詣が深く、私が勉強させられるこ ばかり。例えば
バルテュスはユーモアについて興味を持っていて、イギリスの「不思議な国のアリス」の中のナンセンスと、日本
の江戸時代の滑稽本に似たものを感じると言って、十返舎一九は読んだ?と聞いてくるわけです。私は漫画しか読
んだことがなかったので、その時 に初めて原本を読んで、こんなに素晴らしい滑稽さが日本にあるのだと気付かさ
れました。これはバルテュスも好きだったんですけど、「長閑なる霞ぞ野辺の匂いかな」という俳句があって、こ
れを空腹の弥次さんは「喉が鳴る糟味噌の屁の臭いかな」と詠んだ。濁点の付ける位置を変えるだけでまったく違っ
た意味の俳句にしてしまう日本の滑稽の感覚。バルテュスという 人物と結婚したことによって自分の知らない日本
を発見することが多々ありましたね。 」(http://president.jp/articles/-/12536)





もぐら通信
もぐら通信 ページ11
ページ11

安部公房が、「あの、水でふくらませたゴム人形のような、
どんよりとした、長すぎる顔」をした男と書いているバルテュ
スの写真です。

さて、安部公房がバルテュスを隣の席で見かけたこの場所は、
間違いなくCHIANTIというイタリアレストランです
(http://www.chianti-1960.com)。

キャンティのWikipediaです:
http://ja.wikipedia.org/wiki/キャンティ_(イタリア料理店)

この店は、川添浩史、梶子という夫婦によってつくられたイタリア・レストランです。この夫
婦のそれぞれの、そして一緒になってからの人生も誠に面白く、波乱万丈で、当時の、戦後の、
1960年代の高度経済成長の時代の日本人の若者がどのような生き方をしていたのかがよく
解る、冒険とその逸話の連続なのですが、そちらの方向に筆を走らせたいという思いを抑え
て、やはり話をキャンティと安部公房に絞ることにします。

『キャンティ物語』(野地秩嘉著。幻冬舎文庫)を読むと、この店の客筋は、みな当時の有名
な人物であることに驚きます。

「そんな「キャンティ」にはいつも見かける人人々がいた。作家の三島由紀夫、安部公房、丸
谷才一、作曲家の黛敏郎、團伊玖磨、画家の今井俊満、堂本尚郎、岡本太郎、建築家の村田豊、
映画監督の黒澤明、谷口千吉、山本薩夫、演出家の伊藤道郎、千田是也、浅利慶太、草月流の
勅使河原宏、プロデューサーの小谷正一、評論家の古波蔵保好、海藤日出男、安部寧……。」
(同書、20ページ)

当時のキャンティの2階(飯倉本店の2階)

この店に出入りする常連は、キャンティ族と呼ばれていました。

1962年に『砂の女』を発表して、世に広く名前の知られるようになった安部公房も、この
リルケの贋の息子であるバルテュスという、これも世界の絵画史に名前の残る高名な画家に出
遭った1964年には、既に、キャンティ族の一人だったのです。

『キャンティ物語』を読むと、足繁く通っていたのは、安部公房の親しい友人たちでは、三島
由紀夫と勅使河原宏であることが分かります。このふたりのどちらかが、最初に安部公房をこ
の店に誘ったものと思われます。
もぐら通信
もぐら通信 ページ12
ページ12

「開店してからの十年間、一九六〇年から六九年にかけての日々は、「キャンティ」にとって
も、そこに出入りしていた客達にとっても、たくさんの思い出が詰まっている時間だった。
その中心は浩史と同じ世代の友人達。三島由紀夫、黛敏郎、今井俊満、鹿内信隆、古波蔵保
好、海藤日出男、石津謙介、勅使河原宏、彼らも四十代の働き盛りで仕事をしていても、酒を
飲んでいても、恋をしていても、もっとも充実していた時期であり、彼らはちょうどその時に
「キャンティ」と出会った。」(同書、116ページ)

キャンティの経営者、川添浩史は、その豊かな人脈を使って、安部公房の『砂の女』の映画化
をした勅使河原宏の同名作の映画を、1964年にカンヌ映画祭に自ら持ち込んでおり、『キャ
ンティ物語』には、その写真が掲載されていて、前列に向かって右から、当時カンヌに来てい
て合流した加賀まりこ、勅使河原宏、岸田今日子、入江美樹[註3]、後列向かって右から、川
喜多かしこ、一人おいて川添浩史が、前後二列に並んでいて、みな和服の正装をしております。

[註3]
入江美樹は、1962年に指揮者小澤征爾と結婚。勅使河原宏監督の『他人の顔』に出演。

黛敏郎は、当時(1960年代)を振り返って、この店について、次のように語っています。

「「キャンティ」の常連の中でも長老格だった黛敏郎にその頃の店の空気を尋ねると、「六〇年
代か」と、ふーっと息を吐き出し、少しの間考えて、そして話はじめた。
「真夜中が「キャンティ」の華やかな時間だった。がさつじゃない仲間達がいたから。その大
元締めが川添氏でね。『キャンティ』のなかはゆったりしていたけど、外は物情騒然とした時代
でね。六〇年代とは、ベトナム戦争やらロックミュージックやらで。いつだったか、六〇年代最
後の年だったかな。三階の『キャンティシモ』へ行ったら、三島(由紀夫)さん[註4]、安部
(公房)さん、堂本(尚郎)さんといった『ああ、あんな人が』と思うような人がゴーゴーを踊っ
ててねえ。しかし、あれはダンスが好きで踊ってたわけじゃない。時代の雰囲気にうかれて踊っ
ていたんじゃないか――――――と、今になってみればそう思うね」」
もぐら通信
もぐら通信 ページ13
ページ13

[註4]
三島由紀夫は、本当にこの店の常連でした。「同じ年(筆者註:1970年)の十一月二十五日、三島由紀夫
は、盾の会のメンバー三人とともに、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺。その一週間ほど前の夜、
三島は「キャンティ」で松竹の永山と夕食を摂り、「永山、俺は芝居は一切書かない。手を引く。しかし、君
は歌舞伎から手を離しちゃいけない」と言い残している。」(同書、234ページ)

ゴーゴーを踊る安部公房は、一寸想像がつかないでしょう。今の若い安部公房の読者は、ゴー
ゴー(Go Go)という当時最新流行の踊りは知らないことでしょう。当時のゴーゴーを踊る
若者たちの写真です。

YouTubeでも探しましたが、なかなかいい動画がありませんでした。それでも、この動画
であれば、どんな踊りであったかを垣間見ることができます。:
https://www.youtube.com/watch?v=IGWXOgtKVG8

この『リルケ』と題したエッセイは、安部公房とリルケの関係がどのような関係であった
と安部公房が表面上は考えていたかを十分過ぎる位に伝えてくれるものですが、他方同時
に、1964年という第1回東京オリンピックの開催された年のこの頃、日本という国が
高度経済成長を急激に成し遂げつつある、異様に活気に満ちた東京にあって、安部公房が
どのような生活を送っていたかの、貴重な記録ともなっています。

やはり、わたしたち安部公房の読者としては、この意味でも、キャンティで女遊びをして
いたリルケの贋の息子、安部公房の言う通り、リルケという(この贋の息子にとっての)
贋の父親と同様に女たらしであったその贋の息子、画家バルテュスに、安部公房にこの『リ
ルケ』という題の重要なエッセイを書かせしめたということに、感謝することに致しましょ
う。

そして、安部公房にこの重要なエッセイを書かしめた、今も六本木に健在のレストランキャ
ンティ(CHIANTI)にも。
もぐら通信
もぐら通信 ページ14
ページ14

ネストロイの喜劇に二本仕立て、『昔の関係』と『酋長、夜風』を観劇する

編集部

12月12日金曜日の夜の部で、うずめ劇場の公演する、オーストリアの19世紀の劇作家
ネストロイの喜劇の二本仕立て、『昔の関係』と『酋長、夜風』を観劇することができた。
場所は両国のシアターΧ(カイ)。

二作とも、面白い劇であった。

ネストロイの作劇の根本は、この二つの作品をみると、人間同士のお互いの錯誤、誤解、行
き違いをその骨子として作劇するものだと思った。

人間同士の行き違いから笑いのある喜劇を生み出すのです。これが、ネストロイの作劇法な
のでしょう。話は全く荒唐無稽であるのに、舞台の役者同士の行き違いが、観客にはよくわ
かるように作られているし、また舞台の役者がそれぞれに、観客に直接訴えて、自分の窮状
を伝えて共感を得ることなど、この作者の工夫は、わたしたち観る側にとっても実に楽しい
ものでした。客席からは、よく笑いが起こりました。この上演は成功でした。

また、ピアノとヴァイオリンが舞台の裾で演奏されていて、役者も歌を歌うので、これはア
メリカ人ならばミュージカルという劇でもありましょう。

音楽が入り、役者の歌う姿を見ておりますと、ああヴィーンという歴史のあり、文化の洗練
された、ハプスブルク家の支配したこの都に住むひとたちにとって、音楽という藝術は生活
の一部になっていて、生きるために欠かせない藝術なのだと、そう思われるのでした。

実は、この作家は、わたしが学生時代にドイツ文学を学んだときに、ドイツ文学史で教わり、
オーストリア文学のヴィーンの民衆劇の作家として覚えている作家なのでした。

今ネットで調べると、ネストロイという作家についての日本語のWikipediaはない。日本人は、
この作家を知らないのでしょう。ドイツ語と英語のWikipediaがあります。

http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Nestroy

http://de.wikipedia.org/wiki/Johann_Nestroy

このWikiをみると、ネストロイは劇作家であるばかりではなく、みづから舞台に立ち、オペ
ラの歌手としても歌を歌ったとあります。さもありなむという、楽しいうずめ劇場の舞台で
した。

その作家の作品を、しかも二本も、更にしかもこの日本で、それも更にしかも日本語で、お
目にかかるなどとは、全く思いもかけない、これは東ドイツ出身の演出家、そうして演劇の
歴史の専門家でもあるペーター・ゲスナー氏でなければ思いもよらないネストロイという、
もぐら通信
もぐら通信 ページ15
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この今の日本での選択だと思います。

この、今ネストロイを選択したということが、わたしを驚かせました。

そして、期待にたがわぬ上演でした。

舞台を見ていると、おそらくドイツ語の原文では、ヴィーン訛りや、或いはヴィーン周辺
の土地の訛りも香辛料にまぶして、役者はそのセリフを口にするものなのでしょう、この
台本の日本語の翻訳者は、その訛りを薩摩弁や東北弁に置き換えて、そのおかしさを誘い、
楽しいセリフ劇として日本語の世界で再現しておりました。

舞台をみるということは、楽しいことなのだという当たり前のことを改めて思い出した2
時間半でした。あっという間の2時間半でした。

舞台が終わって、役者の挨拶が終わってから、ゲスナー氏が挨拶に立って、うずめ劇場が
今年前半に上演した安部公房の『砂の女』が、テアトロ誌上による今年の演劇ベスト5に
入ったということでした。これも嬉しいことで、こころの中でおめでとうと言いました。
『砂の女』で仁木順平と砂の女を熱演した荒牧大道さんも後藤まなみさんもともに、この
ネストロイの二つの舞台では主役を、また主役級の配役を演じていて、安定した演技で、
わたしたちを楽しませてくれました。そのほかの役者のみなさんの演技も素晴らしかった。
セリフ廻しもよく熟(こな)れていて、これもよかった。翻訳もよかったのです。

同じ『砂の女』の舞台に立っていた安部公房の読者、荒井孝彦さんの姿も『酋長、夜風』
では拝見することができ、お元気でご活躍のこと、なによりでした。

しかし、酋長の名前が夜風とは、何という命名でありましょう。Nachtwind(ナハトヴィ
ント)という名前なのでしょう。

『酋長、夜風』では、舞台を太平洋に浮かぶ島々の中の土人の世界を舞台にして、土人の
酋長、夜風の科白には、当時のヨーロッパの植民地支配、その侵略に対する辛辣な科白も
あって、ネストロイという人間の人間観察と時代観察も織り込まれておりました。(南太
平洋の島々の土人たち、これらの人たちにとって、ヨーロッパ人のその手前勝手な文明の
侵略がどのようなものであったかは、中島敦の名作『光と風と夢』に詳しい。これは、
R.L. Stevensonを描いた素晴らしい作品、中島敦の傑作の一つです。)

しかし、素晴らしいことは、これが政治劇なのでは全然なく、全く楽しい文字通りの、そ
してわたしが学生時代に教わった通りの、科白と歌と踊りとから成る、ヴィーンのにぎや
かなる民衆劇(Volkstheater、フォルクステアーター)であったということです。

Theaterというこの言葉の、本来の意義を久し振りで思い出した、いい師走の夜でした。

ネストロイを選んだゲスナー氏に、声をかけて下さった荒井さんに、そして役者のみなさ
んに、翻訳者のみなさんに、この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

追記:
ふたつの作品の幕間に、ロビーで飲食が供せられていて、これも全くヴィーンの観劇の作
法の通りに工夫を凝らしていて、ゲスナーさんのヨーロッパ人であることの経験と知識を
活かしたのだなあと思いました。

Theater(劇場)での幕間の飲食というこの贅沢を、これも久し振りに思い出した夜でし
た。観劇するとは、確かにこのように楽しい経験、贅沢な日常の経験なのです。

日本ならば、さしづめ、歌舞伎の舞台をみながら幕間に幕内弁当を広げるというところで
しょうか。
もぐら通信
もぐら通信 ページ16
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もぐら感覚22:ミリタリィ•ルック
(後篇) 岩田英哉
そして、同じ『没我の地平』にある「光と影」の第5連から。下線部は筆者。

「そして此の天の調べを
お前の胸に和して歌えへよ
未だ吾等の生が形無き
宇宙に満ちる力であつた頃
吾等の知つたあの歌を
奪ひ取つたのはお前の名前
其の名に交ふ郷愁の路」

「故郷(フルサト)」である十字路、前の『人間』という詩の中では、「光つた露のゆ
らぎ」を契機に「あんな遠くの天の歩みが」最も身近なものに突然なる、この「此の突
然の変容」をもたらす「森の路標の十の字」とあるこの形象は、リルケの詩を読み込ん
で自分のものとなした安部公房の形象です。

リルケの道の十字路は神聖な場所であって、その最晩年の傑作ふたつのうちの一つ『オ
ルフェウスへのソネット』では、高度に無償の生を、即ち一所に留まることなく変身の、
果てしない化生の人生を求めて苦しみ歩み、ありとあらゆるものに変身し続け、誰から
もそれがその人間であるとは気付かれず、そのことによって無名の神聖性を、オルフェ
ウスというその神的な若者は獲得するわけですが、そのような楽々と刻苦した人間にとっ
ては、この場所には魔法の力が備わっていて、その人間の(この世では)二つに遠く分
かれていたものも、易々とそこでは一つになる、即ち存在になる場所なのです。生きた
人間が十字路で存在になり、一つになるとは、普通の身には、死を意味するでしょう。
[註10]

[註10]
『オルフェウスへのソネット』第1部ソネットIIIの第2連と第2部のソネットXXIXに、このよう
な十字路が出て来ます。少し長くなりますが、安部公房を理解するためにおつきあい下さい。

第1部オルフェウスへのソネット(III)

III
EIN Gott vermags. Wie aber, sag mir, soll
ein Mann ihm folgen durch die schmale Leier?
Sein Sinn ist Zwiespalt. An der Kreuzung zweier
Herzwege steht kein Tempel für Apoll.
Gesang, wie du ihn lehrst, ist nicht Begehr,
nicht Werbung um ein endlich noch Erreichtes;
Gesang ist Dasein. Für den Gott ein Leichtes.
Wann aber sind wir? Und wann wendet er
もぐら通信
もぐら通信 ページ17
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an unser Sein die Erde und die Sterne?


Dies ists nicht, Jüngling, daß du liebst, wenn auch
die Stimme dann den Mund dir aufstößt, — lerne
vergessen, daß du aufsangst. Das verrinnt.
In Wahrheit singen, ist ein andrer Hauch.
Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind.

【散文訳】
神様ならばできるだろう。しかし、おい、男がひとり、
弦が狭く張ってある竪琴を、神さまの後をおって、
潜り抜けることなどどうやってできようか。この男の
感覚は、分裂する(二つに分かれる)。ふたつの、こころの
道の交差するところには、アポロのための寺院など立って
いないのだ。

聖なる歌、お前がその男に教えるのは、欲求ではない、
求めることではない、かろうじて到達できるものを
求めることではない。(歌うとは、そのように容易に手に入る、
到達できることではない。)聖なる歌、歌うことは、今ここに
こうしてあることだからだ。神にとっては、安きもの、安きことである。
さて、われわれ人間は、一体いつ存在するのだ?そうして、いつ、
われわれの存在に、大地と星辰を向けることを、この男は
するのだろうか?若き者、オルフェウスよ、お前が愛するということ、
たとえ声が、愛することで、お前の唇からほとばしり出たとしても、
お前が愛するということでは、それは、ないのだ。忘れることを

学びなさい、お前が声高らかに歌ったということを忘れることを。
それは、失われ、消えてしまう。真実に歌うということ、それは
また別の息吹だ。何ものをも求めぬ、そっと吐く息だ。神様の中を吹く風だ。
すなわち、風。

【解釈】
1.やはり、この詩は、話者が重要な役割を演じている。話者は、オルフェウスでは
ない。その話者が、オルフェウスに直接呼びかけたり、間接的に歌ったりしている。

2.「ふたつの、こころの道の交差するところには、」と訳したところに似た箇所が、ずっと後
の、ソネットXXIXの第3連の第2行に出てくる。ここにもSinn、ジン、感覚という言葉が出てくる
ので、このふたつのソネットは照応し、対応し、互いに響きあっていると思う。それが、本当は
何を意味しているのか、これを考えることが、このソネットを理解する道筋のひとつだと思う。
解釈があれば、お教えください。

3.そこで、アポロのための寺院がたっていないということは、何を言っているのだろうか。ア
ポロは、オルフェウスの父親ということである。父のための寺はたっていないという文である。
これは、オルフェウスと父親の何か特別な関係を示しているのだろうか。リルケは、この文で、
もぐら通信
もぐら通信 ページ18
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一体なにを言いたいのか。多分わたしの知識の少ないことによって、理解することができないの
だろう。これも、解釈があれば、どなたか、お教えください。この箇所は、安部公房の贋の父親
の起源の一つかも知れない。

4.「聖なる歌、歌うことは、今ここにこうしてあることだからだ。」という文は、『ドゥイー
ノの悲歌』6番第3連第2行にある

Sein Aufgang ist Dasein.


彼(英雄)の上昇は、今ここにこうしてあることだ

という一行と同じ意味を有している。悲歌をソネットの解釈のために利用することができる。

悲歌のこの部分でも、星辰が出てくる。悲歌のこの箇所では、英雄は、死者、若い死者に不思議
なほどよく似ていると歌われている。時間の持続が英雄を刺激することはない、絶えず攻撃する
ことはないのだという。何故ならば、彼の上昇は、今ここにこうしてあることだからだ、という
のである。

ここでも言われていることは、英雄の行為は、無私の、無償の行為であるということである。そ
れは、絶えずわが身を危険にさらす行為であり、星辰、それがなにも本当の星辰であるとしてで
はなくとも、星辰に相当するものの中に、そのような像の中へと歩み入るのが英雄なのだと、悲
歌では歌われている。同様に、オルフェウスもまた、そのような人間ならぬ人間として、そのよ
うなありかたであるのだと、リルケの創造した話者は、歌っているのだ。それが、真実の中で歌
うことだ、と。それは、容易なわざではないのだと、話者は言っている。

最後のHauch,ハウホ、息、息吹とは、リルケらしい言葉である。悲歌では、同じ言葉が、atmen、
アートメン、息をするという動詞として、繰り返し出てきたことを思う。

何も求めるのではない、という箇所は、悲歌の2番の冒頭そのものである。

こうしてみると、リルケは、悲歌を書きながら、このソネットにおいて、もっと静かな調子で、
同じ思想を展開したのだと理解することができる。

第2部のソネットXXIX

XXIX

Stiller Freund der vielen Fernen, fühle,


wie dein Atem noch den Raum vermehrt.
Im Gebälk der finsteren Glockenstühle
laß dich läuten. Das, was an dir zehrt,

wird ein Starkes über dieser Nahrung.


Geh in der Verwandlung aus und ein.
Was ist deine leidendste Erfahrung?
Ist dir Trinken bitter, werde Wein.
もぐら通信
もぐら通信 ページ19
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Sei in dieser Nacht aus Übermaß


Zauberkraft am Kreuzweg Deiner Sinne,
ihrer seltsamen Begegnung Sinn.

Und wenn dich das Irdische vergaß,


zu der stillen Erde sag: Ich rinne.
Zu dem raschen Wasser sprich: Ich bin.

【散文訳】
たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友よ、
どのようにお前の呼吸がまだ空間を増大させるかを感じよ。
昏い鐘楼の釣り下がっている台座の梁の中で
お前を鳴り響かせよ。お前を貪(むさぼ)るものは

この養いによって、一個の強きものになる。
変身の中を、出入りせよ。
お前の最も苦しい経験は何だ?
酒を飲むことが苦(にが)いのであれば、お前が酒になりなさい。

この夜の中で、過剰の中から外へと
お前の五感の感覚の交差路に、魔法の力があれよかし、
魔法の力の稀なる遭遇の感覚よ。

そうして、もし地上的なものがお前を忘れたならば
静かな大地に向かって言え。わたしは、迸(ほとばし)り、流れている。
急激に流れる水に向かって話せ。わたしは存在している。

【解釈】
これが、ソネットの全篇を通じて、最後のソネットです。

棹尾を飾るにふさわしく、やはり、オルフェウスが歌われている。このソネットは、今まで歌わ
れた54篇のソネットの集大成です。既に思弁的なソネットをあとにしているので、リルケの言
葉も、言葉の、語彙の上では、易しく、優しい。

第1連の冒頭、「たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友」とは、オルフェウスのことを言っ
ている。距離、遠さとは、リルケが歌ってきた、真の意思疎通に必要な距離、遠さです。第1部ソ
ネットIIの眠れる娘が、世界を眠り、その純粋な距離をわがものとしておりました。第1部ソネッ
トXIIでは、近代技術のアンテナの距離ではなく、音楽が純粋な距離を現出せしめるのでした。第
1部ソネットXXIIIでは、飛行機がその孤独の空の果てに飛んでいって、距離に近しいものとなる
のでした。第2部ソネットXIIでは、変身を欲しないものには、距離の中から、最も厳しいものが、
厳しいものを呼んできて、いわば不在の鉄槌を下すのでした。オルフェウスは、そのような意味
をもつ距離の中にいて変身を重ね続ける神的な若者です。

神的な美しい若者が我が身を犠牲にし、青春のときに死ぬことによって、新しい生命、新しい世
界が躍動するという主題は、最晩年のリルケの悲歌と、このオルフェウスへのソネットの大きな、
もぐら通信
もぐら通信 ページ20
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また典型的な主題です。

静かな友という、その静かなとは、このように死にも親しいという意味が入っていると思いま
す。リルケは、この言葉もあちこちで多用しておりました。その言葉の意味に、わたしたちの理
解は従いたいと思います。このソネットの第4連で、静かな大地と言われていますので、それは、
静かなということは、豊穣であるということも意味しています。自然の豊かさについては、やは
り今まで読んできた複数のソネットで歌われていた通りです。今、ひとつひとつを挙げることを
いたしません。

さて、やはり、オルフェウスの呼吸は、空間を増大させ、増加させる。これは、オルフェウスの
獲得する純粋な空間を前提に歌われていることです。オルフェウスは純粋な空間を歌い上げるこ
とができる。それは、どのようにできるのかというのが、第1連の鐘の音を鳴り響かせよという一
行です。それは、第2部ソネットXXIIで歌われていたように、鐘楼の鐘の音とは、日常に抗して、
毎日垂直方向に樹木のようにそそり立つものなのでした。

このようなオルフェウスの変身の人生は、無私の、我が身を捨てての苦行でありますが、第2連で
は、そのお前を食い尽くすものが、お前を滋養にして、強いものになるのだと歌われています。
だから、変身の中で、出入りをしなさい。苦しいことがあったら、苦(にが)い酒を飲むのでは
なく、お前が酒に変身しなさいと歌っている。このお酒(葡萄酒)についての一行は、全篇のソ
ネットを通じて、第2部ソネットXXに出てくる魚の行と一緒に、わたしの好きな一行です。わたし
も苦しければ、葡萄酒、酒に変身しよう。これはわたしの本懐であります。

さて、そうして、やはり過剰ということが、第3連で歌われる。第1部ソネットXIVの死者たちの眠
る地下の根の世界で、死者たちはその過剰をわたしたち人間に恵んでくれるのでした。また、第2
部ソネットXXIIの冒頭で、運命に抗して、わたしたちが今こうしてここにあることの素晴らしい、
herrlich、ヘルリッヒな過剰を歌っておりました。その同じ過剰が、この最後のソネットのこの
連でも歌われております。昼にではなく、夜に、過剰の中から(これをわたしたちのそのような
現存在の過剰から生まれる過剰だということを否定する言葉は、このソネットにはありません。
あるいは、どのようなものに由来する過剰を考えてもよいと思います)、魔法の力が生まれてく
る。それも、交差路、十字路に生まれてくる。「お前の五感の交差路」とは、第1部ソネットIII
の第2連で歌われているものと同じだと思います。普通のわたしたち人間は、そのような場所では、
こころも感覚もふたつに引き裂かれるが、オルフェウスと、そのような努力をして能力を獲得し
たものは、その場所でひとつの存在としていることができる。そのような存在として、歌われて
いるのは、第1部ソネットIVの第1連の風であり、小さく吐く息であり、そうであれば、空間なの
でありました。それゆえ、「魔法の力の稀なる遭遇の感覚」と歌われているのでしょう。ふたつ
に分かれたものが、ひとつになることが稀だといっているのです。そうであれば、わたしたちは、
また、第1部ソネットXIのふたりの、そうしてふたりで、孤独な旅をする騎士たちを思い出すこと
にいたしましょう。

そうして、最後の連では、お前、オルフェウスを最もよく知っている筈の大地がお前を忘れるこ
とがあれば、静かな豊かな大地に向かって、わたしは流れているといえ、激しく流れている水に
向かっては、わたしは変わらずに留まっている、即ち存在しているといえと、そう歌って、最後
に話者はオルフェウスに命じているのです。

激しく水のように流れ、変身をひとに知られず重ねること、そうして変わらずに存在しているこ
と、これがオルフェウスの姿、Figur、フィグーアなのでありました。そのentity、実在、存在を、
わたしたち過ぎ行く人間は、認識し、この「友の健康な祝祭のために」(第2部ソネットXXVIIIの
もぐら通信
もぐら通信 ページ21
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第4連)褒め称え、荘厳しようではありませんか。

また、『〈静かに〉』という詩の第1連には、次の様にあります(全集第1巻、124ペー
ジ)。下線部は筆者。

「静かに あんな静かに
誰が来るのだ
街(まち)のすきまを次第次第に埋め乍ら
夜が昼の光を月の中に押し込める時
紫色の空気の中に色の無い蝙蝠が
ヂグザグの隙(ひび)を入れて
お前を此処に導いて来る」

この詩に歌われている「ヂグザグの隙(ひび)」を入れるのが、本来黒い色をしている蝙
蝠と歌われてありますので、黒い鉤十字に一番近い形象ではあります。しかも、その蝙蝠
は「色の無い」と歌われていて、透明な(黒い)蝙蝠ということになります。安部公房の
透明感覚が何を意味するかは、既に『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)に
詳述しましたので、これをご覧下さい。安部公房が透明感覚を思い出すときには、いつも
死を思っているのです。しかし、それは単なる死ではなく、やはりひとつ上の次元への脱
出の前触れの感覚なのです。

そして、この詩の全体を読むと判りますが、

「色の無い蝙蝠が
ヂグザグの隙(ひび)を入れて
お前を此処に導いて来る」

と歌われている「此処」という場所は、やはり、愛と別離と死の場所なのです。

多分、安部公房の眼には、ナチスの黒い鉤十字の色は、透明な黒い色の隙間、『旅よ』の
詩で歌われた「木の間 木の間」の、あの位相幾何学的なより高次の次元へ接続(論理積
:conjunction)する通路、リルケに学んだ神聖な、魔法の力の在る十字路に見えていた
に違いありません。そうして、そのように現実の世界に異次元への通路としてある「ヂグ
ザグの隙(ひび)」によく似たナチスの黒い鉤十字という形象が、安部公房を魅了するの
です。

この『〈静かに〉』という詩の第1連も、安部公房の感覚と論理に満ちた連です。そうし
て、この透明の形象と意味もまた、リルケに、その『マルテの手記』に教わったものです。

もうあと二つ、裂け目と黒い色を一緒に歌った10代の詩を見てから、大人の安部公房に
戻ります。
もぐら通信
もぐら通信 ページ22
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『〈秋でした〉』という全部で6篇からなる詩の第2番目の詩です(全集第1巻、65ペー
ジ)。「もぐら感覚21:緑色」(もぐら通信第24号)で論じて、わたしたちには親し
い「木の間 木の間」も出て参ります。下線部は筆者。

「君たち、さうでした。
じつと炎える様なさぐる様な僕の目を、
いつか遠ざかり乍ら木の間木の間を、
静かに縫つて行く、君達でした。
其の度に僕の胸には、
堪えられない恥と雨とが、
重い気流を流すのです。
御解りですか あの山の、
黒い雲とのわづかのさけ目に、
やさしくふるへた何かの光を。」

「木の間木の間」と「木の間」二語の間に空白のないのは、この真の友達の遠ざかり方の
速度が速いからでしょう。安部公房は文字を厳密に配置して、意味を持たせます。また、
その間隙の空間が、安部公房にとっての、一次元上の時間の無い接続空間、陰画のユート
ピアであることを示していることは、「もぐら感覚21:緑色」で読み解いた通りです。

黒い色と裂け目に、光が射すとは、そこが、安部公房にとっての、一次元上の時間の無い
接続空間、陰画のユートピアであることを示していることは、「もぐら感覚21:緑色」
で読み解いた通りです。

また、上で最初に纏めて、10代の詩人安部公房の感覚の凝縮したナチスの黒い鉤十字の
形象の構成要素を列挙しましたが、これらの形象と感覚の凝縮したものを、文字通りに紋
章として歌っている詩がありますので、見てみましょう。『嘆き』と題した、全部で6つ
の詩からなる詩篇のうちの「其の1」です(全集第1巻、240ページ)。下線部は筆者。

「神々は死んで行くのであらうか
それとも唯
人間の心には無い混沌と共に去つて行くのであらうか
(略)
恰も朝(あした) 消え行く時を泣く涙の中に
無数の太陽が凍り閉される様に
最早暗雲を破るものは太陽ではない
更に凝集する嵐と共に落下する稲妻だ
無形が凝縮して作るその紋章は
規律と混乱を総計する正午の静謐だ
(略)」
もぐら通信
もぐら通信 ページ23
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このような暗雲という黒色の中で「無形が凝縮」する稲妻、そして、その紋章としてある形
の稲妻を見ると、やはり安部公房は、稲妻のように落下し、没落するのです。こうしてみる
と、安部公房の没落とは、愛と別離と死の、一言下の異名です。稲妻もまた「ヂグザグの隙
(ひび)」なのです。隙(ひび)とは、小さきものですから、安部公房の感覚に全く相応(ふ
さわ)しい接続空間です。そして、これも、安部公房の感覚に全く相応(ふさわ)しい接続
の形象である涙という小さな滴に譬(たと)えられた稲妻が暗雲の中に陰画の太陽、即ち「凍
り閉され」る「無数の太陽」として光るのであり、その黒地に光る「ヂグザグ」は、そのよ
うな陰画の太陽として一瞬輝く、紋章という不変の形象なのです。

そして、全く対照的に、反対のように、その落下する稲妻の作るその紋章は、反転して「規
律と混乱を総計する正午の静謐だ」というのです。この落下という没落から生まれる「正午
の静謐」はニーチェでしょうが、しかしまた、安部公房の求めて止まなかった、時間も無く
音も無い、静寂と沈黙の支配する、リルケの純粋空間の姿でもあることでしょう。

この10代の形象と感覚と論理(デザイン)は、ナチスの軍服と黒い鉤十字に愛着する成年
の安部公房のこころに、脈々と生きていたのです。

10代の詩の世界で、このような安部公房でありますから、10代の安部公房は、戦争中の
ドイツ軍の、ナチスの左右対称性を備えた軍服と、それ以上の意義と意味を有する対称性を
備えた黒い鉤十字には、上のエッセイに率直に述べているのと同じ論理と感覚を以て、同じ
変わらぬ感情を抱いていたものと、わたしは思います。

このエッセイを書いた歳は、1968年8月1日。安部公房、44歳。安部公房の年譜を見
ると、前年、1967年には『燃えつきた地図』を書き、1973年に出る筈の『箱男』の
前の時間です。

この歳、短編集『夢の逃亡』を出しておりますから、全集30巻の出た今、安部公房は、自
分自身の人生の前半の20年間を振り返っていたことになります。

全集の中では、このエッセイの前にある文章は、「小学生三年生の心に刻まれた戦争の記録
――谷真介•逆さか三好著『失われぬ季節』」という題名の短文であり、このエッセイの後
に収録されている文章は、1968年8月1日にこのエッセイを書いた後、同月20日に、
当時のソヴィエト連邦とその他のワルシャワ機構の軍隊が、チェコに侵入して、この国の民
主化を制圧した事件についての「〈チェコ問題と人間解放〉『読売新聞』の談話記事」であ
りますから、確かに、当時安部公房が軍服について語る動機は十分にあったのです。

このエッセイの後半で、安部公房は、当時の時代を、このエッセイの標題との関係で、次の
ように言っております。

「ところで、ミリタリィ•ルックなるものの流行の噂を耳にしたのは、たしか数年前のこと
だ。率直に言って、苦々しい思いを隠すことが出来なかった。これ見よがしの週刊誌の記事
もぐら通信
もぐら通信 ページ24
ページ24

によれば、あるデパートの一角には、ミリタリィ•ルック専用のコーナーまでがもうけられ
ナチスの鉤十字の腕章などが、人気の的だという。なるほど、ナチス亡き後、あれほど純粋
は美学的軍服は、すっかり跡を絶ってしまった。」

といい、その後に続けて、何故苦々しく思ったかの理由をこう述べています。

「だから、ぼくが苦々しく思ったのは、なにもミリタリィ•ルックの流行そのものに対して
ではなく、鉤十字の腕章で象徴されるような、美学的軍服が、あたかも現代における異端で
あり、青年の反抗心をくすぐる旗印になりうるかのような、馬鹿げた錯覚を植えつけた世間
の流行に対してだったのだ。」と言い、更に当時のベトナム戦争を例にとって、「仮に明日、
ベトナム戦争が終って、地上で戦火に倒れる者が一人もいない日が来たとしても、その平和
は、結局休戦の別名にしかすぎないのだ。さらにその平和が、そのまま十年つづいてくれた
としても、おそらく長い休戦以上のものでは、ありえまい。ミリタリィ•ルックが反抗にな
りうるような条件は、あいにくまだ何処にも見当たらないのである。」と、この流行に乗る
若者に対して、実に辛辣な発言をしております。

この、「平和は、結局休戦の別名にしかすぎない」という安部公房の発言は、21世紀の今
でも有効であり、先鋭的な発言だと、わたしは思います。

そうして、この言葉は、当時の時代の、平和に正当性を見て何も感じないような、ミリタリィ
•ルックという美学的軍服を、贋物であるとも知らずにただ流行させたままにしていて鈍感
な平和呆けした日本の社会(21世紀の今でも同じですが)に対する痛烈な批評です。

この批評の上に、次に、安部公房は、ふたつのことについて論じます。ひとつは、新宿で見
かけた、そのような軽佻浮薄なミリタリィ•ルックではない「本物のミリタリィ•ルック」で
あり、ふたつめは、「ミリタリィ•ルックの元祖だという説」のあるビートルズについてで
す。

本物のミリタリィ•ルックという言葉そのものが、既に自己撞着を起こしていて、lookとは
見かけということですから、本物のという形容詞とは本来相容れない互いの組合せであり、
逆説的な可笑しみがありますが、しかし、この一見反する矛盾に安部公房は意味を見つけて、
その人物の風体を次のように書いています。それは、

「場所は新宿、人通りのはげしい地下街の一角。とりあえずその風体の紹介から始めると……
上衣はむろん詰襟、色はネイビィ•ブルー、それに黄土色の肋骨の縫取り。形式は十八世紀
頃のヨーロッパの軍服らしいが、実際の引用としては、むしろキャバレーのドア•ボーイか
らゆずり受けた古着である。ところきらわず貼りめぐらせた、各種各様のワッペン類。左肩
にたらした金モール。右腕には臆面もなく、鉤十字マークのナチスの腕章。ズボンは両脇に
赤の縫取りのある、黒のラシャ地。加えて足には、靴のかわりに、ゴム草履。そして頭は、
のばしほうだいのピッピー•スタイルという組合せ。」という風体です。
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もぐら通信
もぐら通信 ページ25
ページ25

この風体は、『箱男』に登場するワッペン乞食を連想させます。恐らく、ワッペン乞食は、
この人物に想を得たものでしょう。

そして、この乞食に安部公房の見たのは、ミリタリィ•ルックのパロディであり、「純粋
軍服をイキがっているのだとしたら、精神病院を逃げ出してきた分裂病患者以外にはあり
えないが、しかし、この乞食は、「分裂病患者には、とうてい」不可能な「批評」である
と言うのです。

そうして、この本物のミリタリィ•ルックは、ミリタリィ•ルックの流行に「ナチスの鉤十
字だと聞いただけで、真面目に首を傾げたりしてい」て浮薄に反応した自分自身への、ミ
リタリィ•ルックのパロディーによるからかいの批判だというのです。

同じように、ビートルズの『SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND』のジャケットに


いる4人の「派手でごてごてした」ミリタリィ•ルックは、新宿で見たこの純粋軍服の制
服パロディストの元祖だといい、そのミリタリィ•ルックによる「パロディを、覚醒であ
り、流行の反対物だと考えれば、どうやらこれは、反流行の流行ということになる」と言っ
て、エリザベス女王から叙勲を受けた4人について言って、こう続けるのです。

「それにしても、彼等の悪ふざけの中には、勲章でも薄めきれない毒が感じられる。ぼく
の思い過ごしかもしれないが、異端をパロディにすることで、正統の根拠を同時にパロディ
化しようとする、不敵な知恵があるような気さえするのだ。
ともかく、どうやら、悲痛な異端の時代は既に過ぎ去ったらしい。本物の異端は、たぶ
ん、道化の衣裳でやってくる。」

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もぐら通信
もぐら通信 ページ26
ページ26

「異端をパロディにすることで、正統の根拠を同時にパロディ化しようとする」という
論理展開は、既に『もぐら感覚21:緑色』やその他諸処で何度も述べた様に、対象の
周囲、周辺に着目し、対象以外のものに眼をやって、そうしておいてから、その対象を
周囲にある物ではないものとして陰画で見る(「パロディにする」)、安部公房独特
の、安部公房らしい、10代の安部公房から変わらぬ、論理の展開です。[註11]

[註11]
さて、そうしてAもBも否定をして、何を肯定するかと言えば、安部公房の論理は10代のときか
ら生涯変わらず、10代の思想と哲学の総決算である論文『詩と詩人(意識と無意識)』で言う、
限りない外部と内部の交換による次元変換の末に観る、AでもBでも無いその向こうに在る「第三
の客観」を肯定するのであり(全集第1巻、107、108、110ページ)、『榎本武揚』で
は、主人公、榎本武揚について語り、求める、その個人としてあるべき人間の「第三の道」なの
です。この陰画の、両極端の否定を通じての第三の客観に関する思考論理は、論ずる対象と語彙
が違うだけで、その作品の至るところに見られます。

ここで安部公房の言う異端の道化の姿は、次に構想される小説の中に、箱男として、現
れるものでしょう。

「けれど小さな滴がぽつたりと......
おゝ 僕は、
大きなゆがんだレンズです。
救ひに両手を差しのべる、
大きなゆがんだレンズです。」

と歌った10代の安部公房のこころは、そのまま透明な、歪んだレンズの眼となって、
いやその全身が歪んだ大きなレンズの眼となって、箱の内側から窓を通して外を見る箱
男という奇形、異形の者として、そうしてわたしたち自身の姿として、今もわたしたち
のこころの中に、活き活きと生きています。読者であるわたしたちが、箱男に「救ひに
両手を差しのべる」のか、箱男がわたしたちに「救ひに両手を差しのべる」のか、両方
が絶えず交換関係にあって、AなのかBなのか、AでもなくBでもなく、解らぬままの、安
部公房らしい、この詩の歌う通りに、第三の客観を求める異形の者の姿として。

1973年の『箱男』には、『〈秋でした〉』の第6連に歌われている「大きなゆがん
だレンズ」の写真がある(全集第24巻、109ページ)。
もぐら通信
もぐら通信 ページ27
ページ27

やはり、1970年11月25日の三島由紀夫の市ヶ谷での、戦後の日本の国という贋の
国家(偽装国家)の贋の軍隊施設の司令の中枢での、日本古来の儀式に則った自己に固有
の死、即ちその切腹を契機に、安部公房はリルケの純粋空間へと、その10代の詩の世界
へと回帰したというわたしの仮説は、正しいのだと思われる。
写真撮影が如何に安部公房の詩の世界であり、詩作の代償行為であるかは、『もぐら感覚
5:窓』(もぐら通信第3号)で詳しく論じた通りです。

勿論、この写真にある「大きなゆがんだレンズ」、即ち凸面鏡は、道路の十字路によく立
てられていることは、周知の通りです。安部公房による、この写真への説明書き:「小さ
なものを見つめていると、生きていてもいいと思う。雨のしずく……濡れてぢぢんだ革の
手袋…… 大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。国会議事堂だとか、
世界地図だとか……」(以上下線部筆者)

この写真に添えた言葉の中の「しずく」が、10代の詩で歌われた『旅よ』の「木の間
木の間」の、また、その他の詩でも歌われた、あの接続空間に、射し入る複雑な日の光に
照らされて滴(したた)る「緑のしづく」、即ち旅そのものであり、安部公房の動いて止
まない「故郷(フルサト)」であることは、明白です(全集第1巻、77ページ)。

そして、この凸面鏡という「大きなゆがんだレンズ」は、現実にはいつも「黒い雲」があ
るかのように見通しの悪い、しかし安部公房の詩心においては神聖な、自己が存在に成る
十字路に立っていて、安部公房を異界へと誘うのです。それも単なる情緒や叙情によって
だけでは全然なく、全く数理•論理的な積算(論理積:conjunction)という高次の次元の
接続への誘いとして。

この論考の最初を、女優山口果林著『安部公房とわたし』の中の逸話を以て始めましたの
で、同書の中の逸話を以て、この論考を閉じることに致します。
もぐら通信
もぐら通信 ページ28
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「「箱男」には何枚か写真がはめ込まれている。その中のひとつ、小説舞台の病院らしき建
物の写真の凸面鏡に、私の写っている写真がある。「君の写っていない写真を探すのに苦労
した」と言っていた。」(同書、29ページ)[註12]

この逸話から、安部公房がその自己の詩的世界の形象であり、十代の詩に歌った通りの自己
そのものである、自己が存在になることのできる十字路という神聖な場所に立つ「大きなゆ
がんだレンズ」の中に、『不思議の国のアリス』の化身である飛娘[註13]の姿を撮影す
ることは、10代の安部公房には考えられなかった、現実の人生での夢の実現であったこと
が判ります。確かに、「君の写っていない写真を探すのに苦労した」ことでしょう。

[註12]
『シャボン玉の皮』と題したエッセイに、次の箇所があります(全集第24巻、418ページ)。

「『箱男』におさめられた八枚の写真も、それぞれなんらかの意味で、廃物、もしくは廃人のイメー
ジである。

――期限切れの宝くじの番号に見入っている、若い暴力団員。
――喀血で呼吸困難におちいった重症患者のための病室の貼紙。
――万博会場における、身体障害者のための記念撮影風景。
――駅の公衆便所。
――ミラーに映っている旧海軍将校用のクラブ。
――タイヤのない自転車に全財産をつみ込んで歩いている乞食。
――文字どおりのスクラップの山
――それからなぜか、貨物列車。ぼくの分類法によれば、これも廃物の仲間らしいのだ。」

これを読みますと、自己が存在になる十字路という神聖な場所に立つ「大きなゆがんだレンズ」」に
映る建物は、旧海軍将校用のクラブということになります。この10代から大切にして来た歪んだレ
ンズに、やはり軍隊の形象を写そうとする安部公房のこころの深淵に隠れている動機は、既にこの論
考で詳細に論じた通りです。また、安部公房が安部スタジオの俳優たちに「ニュートラル」になるこ
とを、即ち役割を「演ずる前に、まず存在していなければならない」ことを求めたことも(『人間・
反人間』:全集第24巻、465ページ)、ここで、同時に思い出すことにしましょう。

これら8枚の写真の説明文を読むと、それぞれの一行の根底に、実に安部公房らしい論理と感情が伏
在していることを知ります。『もぐら感覚21:緑色』とこの論考の読者には、このうちの幾つかの
根拠を既に知ることができるでしょう。これら8枚の『箱男』所収の写真の一枚一枚の意味について
は、即ち何故安部公房がこれらの写真を収め、『箱男』に入れたのかは、別途稿を改めて論じること
にします。

[註13]
『水中都市(GUIDE BOOK III)』の主人公。飛娘は、勿論、最晩年の作品『飛ぶ男』と一対になって
います。また、『アリスのカメラ』(全集25巻、201ページ)に安部公房にとって「カメラは存
在しないもののシンボル」であり、写真は「現実のネガ」(陰画)であり、「現実の拒絶であり、部
分への解体の願望であ」り、アリスに会うための「不思議の国」の中への「脱出」であることが書い
てあります。閉鎖空間からのこの永遠の脱出の繰り返し、永遠に出発点に回帰しては出発するこの繰
り返しは、勿論、10代で耽読したニーチェの『ツァラトゥストゥラ』の永劫回帰の、安部公房流の
換骨奪胎であることは論を俟たない。そうして、その脱出が、「現実の拒絶であり、部分への解体の
もぐら通信
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願望である」こと、全体を備えた小さなもの(部分)への注視であること、これは、リルケの純粋空
間(安部公房にとっては数理•論理的な高次の次元への接続(論理積:conjucntion))であること
は、これも論を俟たない。藝術家が、物事(宇宙)を創造することは、これほど見事に、尊敬した藝
術家の作品を自分のものとすること、自家薬籠中のものとすることだと判ります。
『アリスのカメラ』のカメラを書いたのは、1974年、『箱男』[註14]刊行の翌年です。

[註14]
『箱男』は、安部公房が、三島由紀夫の切腹を契機に、自分の詩の世界と自己との関係を再度反省す
るために書いた二回目の、安部公房自身の『マルテの手記』です。『箱男』に挿入された「大きなゆ
がんだレンズ」[註15]、即ち「カーブミラー」の写真は、そのことを示しています。この「カー
ブミラー」という名前から、何故『燃えつきた地図』の冒頭と結末に「カーブの向こう」を書いたの
か、その理由が判ります。さて、そして、勿論、第1回目の『マルテの手記』は、詩人から小説家に
なるために、詩の世界と自己とを反省して書いた『名もなき夜のために』です。

安部公房のこの世での人生が完結した今振り返ってみると、安部公房は、20年に一度、20年前に
最初は詩人から小説家になるときに、そうして、今度は20年後に小説家から詩人に戻ることを考え
たときに、二度、リルケの『マルテの手記』の方法(安部公房は「態度」ということでしょう)によっ
て、それぞれの小説を書いたことになります。

安部公房の前半の20年は、青春の力を以て、社会と国家の中に出ていった20年でした。後半の2
0年は、三島由紀夫の死、それも切腹という儀式に即した死、日本の国と天皇陛下の
ためにそのように実際に死んだというその死によって衝撃を受けた安部公房が、「植物のみがもつ、
あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」(全集第19巻, 470ページ)という自己の、再帰的人
間としての本来の合わせ鏡世界とその世界の中での自己の在り方に、従いリルケの純粋空間に、回帰
しようとした後半の20年だと、わたしは思っております。リルケに学んだ通りに無名性に没して
「自分だけのオリジナルな死を死ぬために、一般的な死を拒絶したい」(『シャボン玉の皮』、全集
第24巻、419ページ上段)と思いながら。

しかし、三島由起夫の死ほど、敗戦後において一般的ではなくその人間固有の死は無かったの
です。これが、安部公房とあらゆる接点を共有していて互いに対称的・対照的であった三島由紀夫の
死が、安部公房に、大きな、深い衝撃を与えた一番の理由だと、わたしは思っています。

安部公房は、三島由紀夫の死後6年を経て、1976年にやっとその鎮魂の文章『反政治的な、あま
りに反政治的な』を書いております(全集第25巻、374ページ)。また、1973年には、やは
りその演技論として、安部公房スタジオの役者たちにニュートラルという呼称で伝えて、「俳優が、
言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題なのである。」という演技者
のそもそもの、人間のそもそもの在り方を説いております(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー
周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ)。この周辺飛行19の前後の時期には、安部公房は
当然のことながら『箱男』の話をすることが多く、また『箱男』の話をするときには、自分の10代
を振り返り、ポー(仮説設定の文学)を語り、リルケを語り、そうして安部公房スタジオを立ち上げ
た時機ですから、役者に存在になることを要求したニュートラルという概念についての言及が頻度高
く有り、これらのことを頻りに語って、そのこころの内を読者に明かしております。このように見て
参りますと、わたしの上の仮説は正しいのではないかと思っております。安部公房スタジオの創設は
10代の詩の世界に回帰することであった。安部公房と三島由紀夫については、稿を改めます。

[註15]
『〈秋でした〉』の第6連に歌われている「大きなゆがんだレンズ」という自己の姿は、安部公房が
もぐら通信
もぐら通信 ページ30
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何故バロック音楽が好きなのか、そしてこの音楽を、何故、リルケの純粋空間、ナチスの純粋制服に
同列に並べて、純粋音楽と呼んだのか、その理由を明かしています。「一流の音楽同士は、どうしたっ
て矛盾しあう。その矛盾するものが衝突しあって、加え算ではない、掛け算的な効果を可能にしてく
れるんだな。」(下線部筆者)
(『演劇と音楽と―バロック風にバロックを』(全集第25巻、351ページ上段)

「使いやすいバロック

そんな使い方をしようとすると、こんどの「ウェー」に限らず、不思議にバロック音楽が使いやす
い。なぜだろう。バロックというのは、あんがい、音楽の中で、いちばん純粋な構造を持っているん
じゃないか。純粋というのは、文学だとか、演劇だとか、美術だとかいった、音楽以外の要素を含ん
でいないという意味。だから、舞台の上でも自立しやすいんじゃないかな。舞台には、言葉も、肉体
も、美術も、ぜんぶそろっていますからね。音楽に今さら肩がわりしてもらう余地はないんだ。バロッ
クというのは、ある意味で、もとも音楽的な音楽なのかもしれないという気がする。極論すると、現
代音楽の一部をのぞいて、バロックは音楽史のなかに築かれた純粋音楽のピラミッドだったのかもし
れないね。」(下線部筆者)
(『演劇と音楽と―バロック風にバロックを』:全集第25巻、350ページ下段から351ページ
上段)

安部公房とバロック様式については、稿を改めて論じます。

[註16]
[註12]と[註15]に述べた「大きなゆがんだレンズ」についてと同じレンズについて、安部公
房は『都市を盗る』という作品(写真と文章)の連作の作品のうちの「風景に穴がー都市を盗る14」
で、次のように述べている(全集第26巻、460ページ)。1980年、安部公房56歳。下線は
筆者。

「とつぜん風景に穴があいた。まわりの街が吸い込まれはじめる。周辺部からの放物線をえがいてみ
くれ込み、しだいに速度を増しながら遠ざかっていく。
錯覚にきまっている。正体はすぐに分かった。鏡のように磨きあがられたステンレス製のタンク
ローリーにうつる影だったのだ。わずかながら凸面鏡の作用をしていたのである。
それにしても釈然としなかった。その錯覚におちいっているあいだ、なぜすこしも驚きを感じな
かったのだろう。ほんの一瞬の出来事だったせいだろうか。それだけではなさそうだ。まるで見馴れ
た光景に出会ったように平然と構えていた。(略)」
もぐら通信
もぐら通信 ページ31
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「風景に穴があいた」というこの穴の意味は、この論考で、割れ目、隙間、一次元上の接続(論理
積:conjunciton)へと通じる形象だということは詳述した通りです。そして、それが錯覚だという
こと、騙し絵であるということも、安部公房は十分に知っているのです。ここに、実にバロック的
な安部公房がおります。このバロック的な安部公房は、マルクス主義を超克して初めて誕生しまし
た。これらのことについては、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)、『安部公房とバ
ロック様式』と題して、稿を改めて論じます。

そして、この「大きなゆがんだレンズ」は、「周辺部から」立ち上がって安部公房の眼に見える、
それも一瞬眼に見える。この「周辺部から」見えるということも、既に前回の『もぐら感覚21:
緑色』その他の論考で諸処言及した通りの、安部公房にとっての事実です。10代からの、安部公
房の思考論理と感性の顕著な特徴は、眼にみえる当の対象を直視せずに、その対象の周辺に眼をやっ
て、その周辺ではないものとして当の対象を見る、即ちそれを陰画として否定して見るということ
なのです。

もぐら通信の英語版の翻訳者を求む
『もぐら通信計画』に基づき、その第2PHASEと
して、もぐら通信の英語版(有料)を出す事を考
えております。

1号分の量の翻訳にかかる時間を3ヶ月とみて、
最初の段階では、四半期に一回、海外の安部公房
ファンに届けることを考えています。

ゆくゆくは、毎月、一号遅れで海外の読者に、も
ぐら通信を届けたい。そうして、日本の読者との
交流の場を創造したい。

海外の読者は、ほとんど世界中どこにもいるといっ
ていい程、どの地域にも、どの個別言語の世界に
も、いることを知っておりますので、できるだけ
早い時機に採算の合うように事業化を図りたい考
えています。

英語版を出す初期の段階では、その文学的な仕事
(翻訳)の難しさも考慮して、もぐら通信の英語
版の販売で得られた利益の30%を、翻訳者に支
払いたいと考えております。その金額は、単価と
読者数との函数として計算されます。この原稿を
書いている今の時点で厳密にお伝えできないこと
を、どうかご了解下さい。またその「初期の段階」
の時間の長さも、これからのわたくしの計画によ
りますので、これもご了承下さい。

もし欲を言えば、安部公房のよき読者であること
が望ましい。しかし、これは絶対条件では全くあ
りません。
もぐら通信
もぐら通信 ページ32
ページ32

読者からの感想
もぐら通信を発行していて、読者の方からの感想ほど、うれしいものはありません。 以下に転載
して、もぐら通信の読者のみなさんにも、ご覧戴きたく思います。

内藤由直先生より

岩田英哉様

いつもお送りいただきありがとうございます。
完結した中田耕治のエッセイはたいへん面白かったです。
今号には勅使河原宏の文章も掲載されていますが、
こうした安部とゆかりのある人々の文章を、今後もぜひ
ご紹介ください。とても勉強になります。
それでは、次号も楽しみにしております。

秋川久紫さんより

岩田 英哉 様

大変、遅くなってしまいましたが、『もぐら通信』第27号にようやくきちんと眼を通すことが出来ま
したので、多少の感想をお送りいたします。

まず、最初に「詩人たちの論じた安部公房論」について。

安部公房と飯島耕一に接点があることについて、これまで私は全く知りませんでしたので、大変興味
深く拝読しました。

引用された飯島の文章の中に「芸術家の〈思想〉と〈方法〉とは、この空間と砂漠の内臓を、あるい
は現実の本質を、むき出すための努力でなければならない。端的に言えば、存在をかくすのではなく、
むき出すところに、シュールレアリスムのオブジェ意識はあった。」という箇所がありますが、正に
これと似たようなことを(面白いことに安部公房が接点を持っていた「列島」ではなく)「荒地」の
詩人・三好豊一郎が親しい画家・野見山暁治に捧げた詩作品の中で以下のように書いています。

なにごとも根源から感受しようとすれば
内臓的にグロテスクにならざるをえないんでネ
ノミヤマさん
あなたの風景にも それを感ずる

(三好豊一郎「風景――野見山暁治に」より)

野見山暁治の半具象・半抽象の絵画も三好豊一郎の硬質で観念的な詩作品も写実からは程遠く、どち
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らかと言えばシュールレアリスムの手法に近いのですが、「むき出す」という方法論、「内臓」とい
う語彙がもたらすグロテスクなイメージを肯定する姿勢など、非常に近いものを感じるのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ33
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逆に言うと、こうした手法は二十世紀に活躍した表現者の中の特異なある層に共有されていた手
法の一つだったのではないか、という気がします。恐らく、飯島は安部公房の作品の中に、そう
した匂いを嗅ぎ取り、自分自身の詩法と通底する部分があったことから、共感を持ったのではな
いかと想像出来ます。

そして、安部公房が若い頃に勅使河原宏・関根弘・瀬木慎一と「世紀の会」を結成したり、花田
清輝・岡本太郎・埴谷雄高・梅崎春生・椎名麟三などによる「夜の会」に出入りしていたことな
ど、そうしたシュルレアリスム的な方法論を醸成する契機になったようにも思います。

また、最後の部分の佐伯彰一の文章に書かれている戦後文学への違和感、「楽天的な民主主義賛
美の横行」への違和感等を書いた文章は非常に先鋭的で、今読んでも、古びていないと感じます。
このような優れた批評家が安部公房を論じていることの意味は決して小さくないのだろう、と感
じました。

それから、次に「もぐら感覚22・ミリタリィ・ルック」について。

岩田さんが書かれたこの長文の論評の中で、一番感服させられ、眼からウロコが落ちた思いになっ
たのは「軍隊と性愛(性交)は同じ起源を共有しているのです」という部分です。

映画「愛の嵐」(リリアナ・カヴァーニ監督・1973年)で、ナチス親衛隊の将校である主人公
(ダーク・ボガード)が、強制収容所で弄んだユダヤ人の少女(シャーロット・ランプリング)
に、まるでオスカー・ワイルドの「サロメ」のように、かねて少女が嫌っていた囚人仲間の男を殺
害し、その生首を与えるシーンを想い出してしまいました。この映画は正に「軍隊と性愛」の共
通項を映像として具現化しているものであるように思ったからです。

また、「命令文」と「祈願文」という分析も見事だと思います。性愛が倒錯性を帯びると容易に
「命令文」になることは、我々も経験していることであり、「命令文」とはサディズム、「祈願
文」はマゾヒズムの逆立形ということも出来ますね。

それから、最後の方に書かれている三島由紀夫と安部公房の正反対でありながら、どこか共感を
持っていた節があるという部分、それは特に左右対称の「美学的な」軍服への傾倒という点から
も伺い知ることが出来るという指摘には、なるほどと感嘆いたしました。

三島由紀夫には、一時期傾倒し、やがてその「人工的な感じ」、頭で考えているだけである「現
実感の希薄さ」が嫌になって離れましたが、まさか安部公房と「同じ接点を深く共有している」
関係を持っていたとは、考えもしませんでした。これは、ある意味で二十世紀文学をある一つの
観点から「串刺し参照」するような素晴らしい発見ではないかと思います。

もぐ
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編集者通信
何故川端康成は安部公房の『壁』を芥川賞に推したのか

最近ある理由があって、それに前々から素晴らしい文章だと思っておりましたので、川端康成の
作品の幾つかを読みました。

そのひとつ『伊豆の踊り子』を読んで、この若い人を発掘する名人であった言語藝術家は、安部
公房の『壁』所収の作品に(例えば『S・カルマ氏の犯罪』や『バベルの塔の狸』や『赤い
繭』)、自分と同じ孤児の文学を見たのだなと思いました。安部公房の文学も孤児の文学です。

この見立ては間違っていないと思います。

そして、わたしが驚いたのは『片腕』という短編でした。

これは、男の主人公がある美しい女性の片腕を持って彷徨し、その片腕と生きた会話をする話で
す。あまつさへ、最後のところでは、自分の 右腕と入れ替えてしまうのです。実にシュールレ
アリスティックの作品です。

Wikipediaにその解説がありますので、URLを示します:http://ja.wikipedia.org/wiki/片腕
_(小説)

「『片腕』(かたうで)は、川端康成の短編小説。ある男が、ひとりの若い娘からその片腕を一
晩借りうけて、自分のアパートに持ち帰り一夜を過ごす物語。官能的願望世界を、シュール・レ
アリズムの夢想で美しく抒情的に描いている。」

「『片腕』について筒井康隆は、シュール・レアリズムを日本の感性で書いていることに感心し
たと述べ、特に驚いた箇所は、主人公が娘の腕を雨外套の懐に入れ、夜のもやの町を歩く中、近
所の薬屋の奥から聞こえてくるラジオの天気予報の内容が描写されているところだとし、「さす
が東京帝國大學文學部、シュール・レアリスムの精神をよくぞここまで日本に写し変えたものだ
とぼくは嘆息した。現実と非現実すれすれのはざまで勝負していて、踏み出し過ぎることがない。
この芸当を学ばねばと思い、以後これはファンタジイを書くときのぼくの目標となった」と語っ
ている。」
「主人公が娘の腕を雨外套の懐に入れ、夜のもやの町を歩く中、近所の薬屋の奥から聞こえてく
るラジオの天気予報の内容が描写されているところ」という指摘は、安部公房の世界にまっすぐ
に通じています。

この指摘を容易にすることのできる筒井康隆という作家も大した作家です。

この川端康成のラジオは、『砂の女』の主人公が女に買ってやるよというラジオであり、『友達』
や『密会』やその他の作品の、登場するときにはいつも物語の最後に登場する「明日の新聞」で
あることの深い意味を、川端康成も孤児としてよく知っていたということなのです。

このような川端康成であるからこそ、安部公房を認めることができたのです。1951年。この
とき、川端康成、52歳。安部公房、27歳。

安部公房は、芥川受賞時の言葉として、次のように言っております。

「意外だった。
まるで想像もしていなかった。
(略)
だが、ぼくが芥川賞を受けたことについて、その本当の意味を語りうるのが何年か先のことで
あるように、今のぼくの気持ちを、客観的にのべることができるのは、更にずっと先のことで
あるように思われる。」
しかし、このわたしの文章は、安部公房の冒頭二行の驚きの言葉に対して、何故それが意外なこ
とではなかったのか、「更にずっと先の」の21世紀の今答えたことになるのではないでしょう
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か。
もぐら通信
もぐら通信 ページ35
ページ35

[註]
『片腕』は、1963年(昭和38年)、雑誌『新潮』8月号から(12月号は欠載)翌年1964年(昭和39年)1月
号にかけて5回にわたり連載されました。安部公房が『砂の女』を出した翌年ということになります。

誠に興味深いことは、孤児として天城峠を超える『伊豆の踊り子』の主人公は、やはり峠を上位
接続(論理積:conjunction)の接続点として歌う安部公房の主人公に通っているということで
す。この二人の作家は峠を共有しているのです。

「北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で
その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」


(『カンガルー・ノート』。全集第29巻、188ページ下段)

この詩を読みますと、峠の下で人さらいを待っているこの話者は、人さらいには会うことができ
ないので、さらってもらって峠を超えることができたのかできなかったのか。

この詩の直前には、この歌を歌うBという人間の声が「Bの錆びた笛のような歌がつづいた。」と
あって、この詩になりますので、やはり笛ということから、既に『もぐら感覚17:笛』(もぐ
ら通信第15号)で論じましたように、この詩もまた、同じ『カンガルー・ノート』の「6.風
の長歌」で出て来る草笛と同様に、主人公にとっては死の笛の音による歌なのでありましょう。
人さらいにさらわれて死の世界へ行くことが、この話者にとっての救いであり、助けられること
なのです。この詩のあとに、新聞からの抜粋の囲み記事の体裁をとって(これがいつも、安部公
房の物語の最後に登場する「明日の新聞」の意味なのです)、主人公の死の報道が引用されてこ
の小説が終わるのは、必然的な結末ということになります。『砂の女』も同様でした。

さて、安部公房を強く推したふたりの選者、即ち川端康成と瀧井孝作の選評を転載します。この
選評を読みますと、滝井孝作という私小説作家が、私小説を全面的に否定する安部公房を推した
ことが興味深い。滝井孝作は安部公房の文学が仮説設定の文学であることを見抜いております。

1。川端康成:川端康成全集第34巻。昭和57年12月20日発行。320ページ。新潮社。

「第二十五囘 昭和二十六年上半期 石川利光「春の草」(その他) 安部


公房「壁」

「壁」を推す。

堀田善衞氏の「齒車」か安部公房氏の「壁」を私は推薦したかつた。理由は簡単である。堀田
氏や安部氏のやうな作家が出て「齒車や「壁」のやうな作品の現はれることに、私は今日の必然
を感じ、その意味での興味を持つからである。
「壁」も「齒車」も作品として缺點は多いだらう。「壁」は冗漫と思へた。また部分によつて
鋭敏でない。「齒車」は注文通りの類型と思へるところがある。しかし、二つとも作者の目的も
作品の傾向も明白であつて、このやうな道に出るのは新作家のそれぞれの方向であらう。
「齒車」は最近の翻譯小説の幾つかを連想させ、比較もされて、それが賞を逸する原因の一つ
ともなつた。作者としてはやむを得ないことのやうだが、つくりものの繩も目立つ。しかし堀田
氏は発展してゆく作家だらう。
私は堀田氏をしばらくおいて、安部氏の「壁」に投票した。
その他の候補作品は新味が乏しいと思つた。好奇心といふ言葉を、いい意味に解して、私の好
奇心を誘ふものがない。石川利光氏の「春の草」も、特に推薦するほどの作品ではなからうが、
石川氏がすでに確實な作家であり、この作品にもそれが現はれてゐるといふことは、私も認めな
いわけにはゆかない。
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富士正晴氏の「敗走」も確實であった。安岡章太郎氏の「ガラスの靴」には特色があつた。
(昭和二十六年十月號)」
もぐら通信
もぐら通信 ページ36
ページ36

2。瀧井孝作:瀧井孝作全集第7巻。昭和54年3月25日発行。中央公論社。

「第二十五回芥川賞選評
受賞作 石川利光「春の草」・安部公房「壁」

架空の小説

(略)

安部公房氏の作は、人間の十二月号で「三つの寓話」といふうのを初めて読んで、これは短
編の「赤い繭」と「洪水」と「魔法のチョーク」と三つで、随分毛色の異なつた作だと思ひま
した。また近代文学二月号の「壁」と、人間四月号の「バベルの塔の狸」など読んで、この人
の本物である事が分かりました。これは、このやうな寓話諷刺の作品にふさはしい文体がちや
んと出来ているからです。文体文章がちやんと確かりしてゐるから、どんな事が書いてあつて
も、読ませるので、筆に力があるのです。自分のスタイルを持つてゐる。これはよい作家だと
思ひました。それから、この人の経歴は、出身地は満洲瀋陽市、昭和二十四年東大医科卒業で、
この経歴から、このやうなバタ臭いやうな作品も、この人の身についたものと分かりました。
尚、群像七月号の「手」と「事業」と云ふのを読みました。これは筆致が強く諷刺も逞しく、
この作家はこの作家なりに成長してゐると思ひました。
私は今回はこの二人を推したいと考へました。石川利光氏も安部公房氏も、両人共、夢と想
とで小説を作つてゐる、架空小説の作家だと思はれますが、架空小説もこれだけに出来れば宜
いと考へました。

(略)」

[岩田英哉]

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もぐら通信では、読者であるあなた
のご寄稿をお待ちしております。
安部公房についての、どんな文章で
も構いませんので、お寄せ戴ければ、
ありがたく存じます。

お寄せ戴くどんな言葉も、もぐら通
信発行の励みとなりますし、また読
者の方達との共有の財産となり、わ
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う。

下記のメールアドレス宛にご連絡下
さい。次号に掲載したいと思います。

編集部一同、こころからお待ちして
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連絡先:eiya.iwata@gmail.com

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もぐら通信
もぐら通信 ページ37
ページ37

【編集後記】
今月号は、『SFマガジン』(1963年5月号)の安部公房へ
のインタビュー記事の転載をお届けすることができました。『砂
の女』を出した翌年の当時の安部公房の生き生きとした姿が髣
髴とします。読者には貴重な写真、貴重な発言をお伝えできた
のではないかと思っております。この記事の中の安部公房の発
言は、どれもその文学観の内実をよく示しております。そうし
てまたSFは当初空想科学小説と呼ばれていたことも久し振りで
思い出しました。⚫ ️全集第17巻、288ページに『ぼくの
SF観』という文章があります。そこに自分と同類の作家とその
作品の名前を挙げていて、内田百閒の『冥途』、宮沢賢治の『銀
河鉄道の夜』と『グスコーブドリの伝記』、三島由紀夫の『美
しい星』等々を挙げております。その他の国内外の作家と作品
の名前もみな安部公房の文学を理解するための鍵になります。
これも1963年の8月の文章です。今月号の『SFマガジン』
のインタビュー記事と一緒に、ご一読あれ。⚫ ️レストラン
キャンティ(CHIANTI)のご好意で、やはり安部公房が当時よ
く通った六本木の有名な此のレストランの写真と逸話をお届け
できたことも嬉しいことでした。写真の使用の許諾を下さった
レストランキャンティ(CHIANTI)に感謝申し上げます。⚫ ️今
年もあっという間に歳の瀬となりました。読者のみなさんにお
かれましても、よき年末よき年始をお迎え下さい。ここ東京の
西、柚木の里より次号をお届けするのは、来年1月の24日(土
曜日)を予定しております。では、また次号にてお会いいたし
ましょう。[岩田英哉]

差 出 人 :
次号の原稿締切は来年1月23日(金)です。
贋安部公房
〒182-00 ご寄稿をお待ちしています。
03東京都
調布市若葉
「閉ざされ 町
た無
限」

次号の予告
次の記事を予定しています。
1。詩人たちの論じた安部公房論(連載第2回):
長田弘の『安部公房を読む』
2。安部公房と共産主義:岩田英哉
3。もぐら感覚23:明日の新聞
4。その他のご寄稿と記事
もぐら通信
もぐら通信 ページ38
ページ38

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方な
どに僭越ながら 本誌をお届けしました。 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
ご高覧いただけたらありがたく存じます。 もぐら通信の編集及び発行を行うもので
(順不同) す。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池 【もぐら通信のバックナンバー】
田龍雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治
様、宮西忠正様(新潮社)、北川幹雄様、 次のURLで「もぐら通信」と検索して下さ
冨澤祥郎様(新潮社)、三浦雅士様、平野 い。過去のすべての本誌をダウンロードす
啓一郎様、、鳥羽耕史様、加藤弘一様、友 ることができます。:
田義行様、内藤由直様、番場寛様、田中裕 https://ja.scribd.com
之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマ
リ様、小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩
志様、島田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀
様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝日新聞
社)、富田武子様(岩波書店)、待田晋哉
様(読売新聞社)など

【もぐら通信の収蔵機関】

国立国会図書館 、日本近代文学館、
コロンビア大学東アジア図書館、「何處
にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想およびその作品の意義と価値を広
く知ってもらうように努め、その共有を喜
びとするものです。

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