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︻以下作品由东瀛志制作︼


僕は三十七歳で、そのときボ︱イング747のシ︱トに座ってい
た。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブ
ルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややか
な雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとし
た空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフ
ランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、ま
たドイツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピ︱
カ︱から小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオ︱ケス
トラが甘く演奏するビ︱トルズの ﹃ノルウェイの森﹄だった。そ
してそのメロディ︱はいつものように僕を混乱させた。いや、いつ
もとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かし
た。
僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を
覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワ︱デス
がやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目
まいがしただけだと僕は答えた。
﹁本当に大丈夫?﹂
﹁大丈夫です、ありがとう﹂と僕は言った。スチュワ︱デスは
にっこりと笑って行ってしまい音楽はビリ︱?ジョエルの曲に変っ
た。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこ
れまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失わ
れた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想
い。
飛行機が完全にストップして、人々がシ︱トベルトを外し、物
入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっ
とあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の
声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろ
うとしていた。
前と同じスチュワ︱デスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろ
し、もう大丈夫かと訊ねた。
﹁大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから
︵It﹄s all right now. Thank you. I only felt lonely, you know.︶﹂と僕は
言って微笑んだ。
﹁Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you
mean.︵そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかりま
す︶﹂彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵
な笑顔を僕に向けてくれた。﹁I hope you﹄ll have a nice trip. Auf
Wiedersehen! ︵よい御旅行を。さようなら︶﹂
﹁Auf Wiedersehen! ﹂と僕も言った。
十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原
の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわら
かな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮
かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細
長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は
高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわた
り、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉が
さらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別
の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だっ
た。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には
届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草
原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでい
くのを見かけただけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をして
くれた。
記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を
置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかっ
た。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風
景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。
正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなも
のだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで
歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考
え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じ
ても何を考えても、結局すべてはブ︱メランのように自分自身の手
もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしてい
て、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわり
の風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。
でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草
の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そ
んなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。そ
れらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひと
つ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人
の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々
はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうして
こんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたも
のは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしま
ったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさ
えできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなの
だ。
もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができ
る。小さな冷たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれい
な髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホク
ロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコ︱トや、いつも
相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの
加減で震え気味になる声︵まるで強風の吹く丘の上でしゃべってい
るみたいだった︶や、そんなイメ︱ジをひとつひとつ積みかさねて
いくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が
浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いて
いたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔
なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首を
かしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をち
らりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。
でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには
少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間は
だんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実
なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十
秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長く
なる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうこと
になるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実
に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立ってい
た場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、そ
の十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシ︱ンみた
いにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその
風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起き
ろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうし
て俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みは
まったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてそ
の音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが
結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハン
ザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつ
づけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書
いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物
事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。
彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?
そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が
本当に存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼
女の中にしか存在しないイメ︱ジなり記号であったのかもしれない
︱︱あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事
物と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、
僕ほその井戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくな
ってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の
中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼
きつけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描写すること
だってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境
い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メ︱トルばかり
の暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少
し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけであ
る。縁石は風雨にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころ
でひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のす
きまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の
中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれが
とにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい
深いのだ。そして穴の中には暗黒が︱︱世の中のあらゆる種類の暗
黒を煮つめたような濃密な暗黒が︱︱つまっている。
﹁それは本当に︱︱本当に深いのよ﹂と直子は丁寧に言葉を選
びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉
を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。﹁本当に深いの。で
もそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かに
あることは確かなんだけれど﹂
彼女はそう言うとツイ︱ドの上着のポケットに両手をつっこん
だまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。
﹁でもそれじゃ危くってしようがないだろう﹂と僕は言った。
﹁どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らな
いなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃない か﹂
﹁どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それで
おしまいだもの﹂
﹁そういうのは実際には起こらないの?﹂
﹁ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急に
いなくなっちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうする
とこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っこちたんだって﹂
﹁あまり良い死に方じゃなさそうだね﹂と僕は言った。
﹁ひどい死に方よ﹂と彼女は言って、上着についた草の穂を手
で払って落とした。﹁そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃ
えばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったら
どうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえない
し、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやク
モやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があた
り一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の
方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいる
の。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの﹂
﹁考えただけで身の毛がよだった﹂と僕が言った。﹁誰かが見
つけて囲いを作るべきだよ﹂
﹁でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからち
ゃんとした道を離れちゃ駄目よ﹂
﹁離れないよ﹂
直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。﹁でも大丈
夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇
夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちない
の。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落
ちないの﹂
﹁絶対に?﹂
﹁絶対に﹂
﹁どうしてそんなことがわかるの?﹂
﹁私にはわかるのよ。ただわかるの﹂直子は僕の手をしっかり
と握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。
﹁その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなの
じゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっか
りとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いもの
も暗いものも私を誘おうとはしないのよ﹂
﹁じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか﹂
と僕は言った。
﹁それ︱︱本気で言ってるの?﹂
﹁もちろん本気だ﹂
直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩
にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の
方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな
一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから
彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつ
まってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。
﹁ありがとう﹂と直子は言った。
﹁どういたしまして﹂と僕は言った。
﹁あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ﹂と彼
女は哀しそうに微笑しながら言った。﹁でもそれはできないのよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。
それは︱︱﹂と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつ
づけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっているこ
とがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩
いた。
﹁それは︱︱正しくないことだからよ、あなたにとっても私に
とっても﹂とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。
﹁どんな風に正しくないんだろう?﹂と僕は静かな声で訊ねて
みた。
﹁だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そん
なこと不可能だからよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚した
とするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社
に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張
に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬま
であなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃな
いじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう? そしてあ
なたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だっ
たんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの
嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないの
よ﹂
﹁これが一生つづくわけじゃないんだ﹂と僕は彼女の背中に手
をあてて、言った。﹁いつか終る。終ったところで僕らはもう一度
考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはある
いは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を
睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているな
ら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考
えるんだよ?ねえ、もっと肩のカを抜きなよ。肩にカが入ってるか
ら、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のカを抜けばもっと
体が軽くなるよ﹂
﹁どうしてそんなこと言うの?﹂と直子はおそろしく乾いた声
で言った。
彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたら
しいなと思った。
﹁どうしてよ?﹂と直子はじっと足もとの地面を見つめながら
言った。﹁肩のカを抜けば体が軽くなることくらい私にもわかって
いるわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないの
よ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっ
ちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかった
し、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜
いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって︱︱どこ
かに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?そ
れがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができ
るの?﹂
僕は黙っていた。
﹁私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。
暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのと
き私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったの
よ?﹂
我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏
の終りに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それ
が靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しもの
でもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の
道を歩いた。
﹁ごめんなさい﹂と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そ
して何度か首を振った。﹁あなたを傷つけるつもりはなかったの。
私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自
分に腹を立てていただけなの﹂
﹁たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思
う﹂と僕は言った。﹁僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解す
るのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきち
んと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解で
きると思う﹂
僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の
先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見え
る空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこ
んで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。
﹁ねえワタナベ君、私のこと好き?﹂
﹁もちろん﹂と僕は答えた。
﹁じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?﹂
﹁みっつ聞くよ﹂
直子は笑って首を振った。﹁ふたつでいいのよ。ふたつで十
分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して
私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの。とても
嬉しいし、とても︱︱救われるのよ。もしたとえそう見えなかった
としても、そうなのよ﹂
﹁また会いにくるよ﹂と僕は言った。﹁もうひとつは?﹂
﹁私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあな
たのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?﹂
﹁もちろんずっと覚えているよ﹂と僕は答えた。
彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜
けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。ま
た犬の声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいて
いるように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを
上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はその
二、三歩あとをついて歩いた。
﹁こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ﹂
と僕は彼女の背中に声をかけた。
直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかん
だ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。
﹁本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?﹂と彼
女は小さな囁くような声で訊ねた。
﹁いつまでも忘れないさ﹂と僕は言った。﹁君のことを忘れら
れるわけがないよ﹂

それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くの
ことを既に忘れてしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書い
ていると、僕はときどきひどく不安な気持になってしまう。ひょっ
として自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじ
ゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべ
き暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい
泥と化してしまっているのではあるまいか、と。
しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられる
ものの全てなのだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄ら
いでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえ、骨でもし
ゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約
束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。
もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、
僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそ
のときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さ
え出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうと
いうことはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出
てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、ど
こから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克
明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。
でも今はわかる。結局のところ︱と僕は思う︱︱文章という不完全
な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしか
ないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいく
ほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思
う。何故彼女が僕に向って﹁私を忘れないで﹂と頼んだのか、その
理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中
で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。
だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。﹁私
のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えてい
て﹂と。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のこと
を愛してさえいなかったからだ。

昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれ
ど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばか
りだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人暮しを
するのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてく
れた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っている
し、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうとい
うことだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮し
のそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえ
あればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはでき
ることならアパ︱トを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私
立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがまま
は言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだってい
いやと思っていたのだ。
その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわ
りを高いコンクリ︱トの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には
巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年と
いうことだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉に
すっぽりと覆い隠されてしまう。
コンクリ︱トの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲
り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両
側には鉄筋コンクリ︱ト三階建ての棟がふたつ、平行に並んでい
る。窓の沢山ついた大きな建物で、アパ︱トを改造した刑務所かあ
るいは刑務所を改造したアパ︱トみたいな印象を見るものに与え
る。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しにな
った窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカ︱テンはどの部屋も同
じクリ︱ム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。
舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一
階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それ
から何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のと
なりには三つ目の寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑
の芝生の中ではスプリンクラ︱が太陽の光を反射させながらぐるぐ
ると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカ︱の兼用グラウ
ンドとテニス?コ︱トが六面ある。至れり尽せりだ。
この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮
はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によ
って運営されており、その運営方針は︱︱もちろん僕の目から見れ
ばということだが︱︱かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内の
パンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。
﹁教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる﹂、
これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの
財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏の
ことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわか
らない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言う
ものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりく
ちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読
みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で
政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだというこ
とであった。たしかに寮には寮生の中のトップ?エリ︱トをあつめ
た特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく
知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のような
ものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はない
ということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間
違っているのか僕には判断できないが、それらの説は﹁とにかくこ
こはうさん臭いんだ﹂という点で共通していた。
いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕
はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに
二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベ
ルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろう
が、それほどたいした違いはないのだ。
寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流
れる。スポ︱ツ?ニュ︱スからマ︱チが切り離せないように、国旗
掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあって
どの寮棟の窓からも見えるようになっている。
国旗を掲揚するのは東棟︵僕の入っている寮だ︶の寮長の役目
だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そう
な髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがあ
る。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽
のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の
如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らな
い。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの
部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔を
あわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。ま
あしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうと
しか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太り
で色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭
に日の丸をあげるわけだ。
僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよ
くこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報
が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろ
ん、学生服に黒の皮靴、中野学校はジャンパ︱に白の運動靴という
格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニ︱
のポ︱タブル?テ︱プレコ︱ダ︱を下げている。中野学校がテ︱プ
レコ︱ダ︱を掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱
の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学
校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がロ︱プに旗をつける。
学生服がテ︱プレコ︱ダ︱のスイッチを押す。
君が代。
そして旗がするするとポ︱ルを上っていく。
﹁さざれ石のお︱︱﹂というあたりで旗はポ︱ルのまん中あた
り、﹁まあで︱︱﹂というところで頂上にのぼりつめる。そして二
人は背筋をしゃんとのばして︵気をつけ︶の姿勢をとり、国旗をま
っすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはな
かなかの光景である。
夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとり
おこなわれる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするす
ると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。
どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその
理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続して
いるし、働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシ︱の運転
手やバ︱のホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働
く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不
公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいし
たことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもと
めないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに
僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く
追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。
寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が
一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細
長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついて
いて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットさ
れている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極
端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他には
ロッカ︱がふたつ、小さなコ︱ヒ︱?テ︱ブルがひとつ、それに作
りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなか
った。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ドライヤ
︱と電気ポットと電熱器とインスタント?コ︱ヒ︱とティ︱?バッ
グと角砂糖とインスタント?ラ︱メンを作るための鍋と簡単な食器
がいくつか並んでいる。しっくいの壁には﹁平凡パンチ﹂のビンナ
ップか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポスタ︱が貼ってあ
る。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたが、そう
いうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女
か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や
辞書や小説なんかが並んでいた。
男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底に
はかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空
缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコ︱ヒ︱
かビ︱ルかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた
匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところ
にわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタン
ト?ラ︱メンのセロファン?ラップやらビ︱ルの空瓶やら何かのふ
たやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを
使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹
くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひ
どい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違ってい
るが、匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみ
だ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期
的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこ
んで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命
的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思ってい
る。
でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だっ
た。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団
は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カ︱テンさ
え月に一回は洗濯された。僕の同居人が病的なまでに清潔好きだっ
たからだ。僕は他の連中に﹁あいつカ︱テンまで洗うんだぜ﹂と言
ったが誰もそんなことは信じなかった。カ︱テンはときどき洗うも
のだということを誰も知らなかったのだ。カ︱テンというのは半永
久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。﹁あ
れ異常性格だよ﹂と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナ
チだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。
僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわ
りアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌ︱ド写真を
貼ると﹁ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじ
ゃないんだよ﹂と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼っ
たのだ。僕もとくにヌ︱ド写真を貼りたかったわけでもなかったの
でべつに文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんな
その運河の写真を見て﹁なんだ、これ?﹂と言った。﹁突撃隊はこ
れ見ながらマスタ︱ベ︱ションするんだよ﹂と僕は言った。冗談の
つもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。
あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそ
うなのかもしれないと思うようになった。
みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれた
が、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが
身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったか
ら、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやって
くれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてくれ
た。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから
入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻
毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもい
ると部屋の中に殺虫スプレ︱をまきちらすことで、そういうとき僕
は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。
突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。
﹁僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ﹂と最初に会った
とき、彼は僕にそう言った。
﹁地図が好きなの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作
るんだ﹂
なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだ
なと僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感
心したことのひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意
を持った人間が少しくらいいないことには︱︱あまりいっぱいいる
必要もないだろうけれど︱︱それは困ったことになってしまう。し
かし﹁地図﹂という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国
土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼
は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、﹁地図﹂とい
う言葉が出てくると百パ︱セント確実にどもった。
﹁き、君は何を専攻するの?﹂と彼は訊ねた。
﹁演劇﹂と僕は答えた。
﹁演劇って芝居やるの?﹂
﹁いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研
究するわけさ。ラシ︱ヌとかイヨネスコとか、シェ︱クスビアとか
ね﹂
シェ︱クスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言
った。僕だって殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあ
っただけだ。
﹁でもとにかくそういうのが好きなんだね?﹂と彼は言った。
﹁別に好きじゃないよ﹂と僕は言った。
その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。
僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。
﹁なんでも良かったんだよ、僕の場合は﹂と僕は説明した。
﹁民族学だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまた
ま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ﹂しかしその説明は
もちろん彼を納得させられなかった。
﹁わからないな﹂と彼は本当にわからないという顔をして言っ
た。﹁ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地
図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に
入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃ
ないって言うし……﹂
彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめ
た。それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決
めた。彼が上段で僕が下段だった。
彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセ︱タ︱という格好
だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くと
きはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼
学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼ん
でいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パ︱セン
ト無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をし
ているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新し
い鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られてい
た。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえた
りしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしま
うかするまでしゃべりつづけていた。
毎朝六時に﹁君が代﹂を目覚し時計がわりにして彼は起床し
た。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立た
ないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を
洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外
して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻っ
てくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてス
チ︱ムの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それから
ラジオをつけてラジオ体操を始める。
僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡する
から、彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始め
ても、まだぐっすりと眠りこんでいることもある。しかしそんなと
きでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を
覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なに
しろ彼が跳躍するたびに︱︱それも実に高く跳躍した︱︱その震動
でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢し
た。共同生活においてはある程度の我慢は必要だと言いきかされて
いたからだ。しかし四日目の朝、僕はもうこれ以上は我慢できない
という結論に達した。
﹁悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないか
な﹂と僕はきっぱりと言った。
﹁それやられると目が覚めちゃうんだ﹂
﹁でももう六時半だよ﹂と彼は信じられないという顔をして言
った。
﹁知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはま
だ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそう
なってるんだよ﹂
﹁駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここ
なら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし﹂
﹁じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で﹂
﹁それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃ
ないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体
操ってできないんだよ﹂
たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕
のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。
やれやれ、と僕は思った。
﹁じゃあ歩み寄ろう﹂と僕は言った。﹁ラジオ体操をやっても
かまわない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれす
ごくうるさいから。それでいいだろ?﹂
﹁ちょ、跳躍?﹂と彼はびっくりしたように訊きかえした。
﹁跳躍ってなんだい、それ?﹂
﹁跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ﹂
﹁そんなのないよ﹂
僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もした
が、まあ言いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実
際にNHKラジオ体操第一のメロディ︱を唄いながら床の上でぴょん
ぴょん跳んだ。
﹁ほら、これだよ、ちゃんとあるだろう?﹂
﹁そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった﹂
﹁だからさ﹂と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。﹁そこ
の部分だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するか
ら。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないか
な﹂
﹁駄目だよ﹂と彼は実にあっさりと言った。﹁ひとつだけ抜か
すってわけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、
やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすと
さ、み、み、みんな出来なくなっちゃう﹂
僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?
いちばん手っ取り早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあ
いだに窓から放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら
地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。
突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言
葉を失って空しくベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕
を慰めてくれた。
﹁ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ﹂
と彼は言って、それから朝食を食べに行ってしまった。

僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと
笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑っ
た。彼女の笑顔を見るのは︱︱それはほんの一瞬のうちに消えてし
まったのだけれど︱︱本当に久しぶりだった。
僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷
の方に向けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方
ばらばらと降ったりやんだりしていた雨も昼前には完全にあがり、
低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南からの風に追い払われる
ように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽
の光をきらきらと反射させていた。日射しはもう初夏のものだっ
た。すれちがう人々はセ︱タ︱や上着を脱いて肩にかけたり腕にか
かえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰
もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニス?コ︱ト
では若い男がシャツを脱いでショ︱ト?ハンツ一枚になってラケッ
トを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちん
と黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏
の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち
足りた顔つきで日なたでの会話を楽しんでいた。
十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿の
シャツを脱いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレ︱のトレ︱
ナ︱?シャツの袖を肘の上までたくしあげていた。よく洗いこまれ
たものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれ
と同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がした
が、はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がした
だけだった。直子について当時僕はそれほど多くのことを覚えてい
たわけではなかった。
﹁共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮すのって楽し
い?﹂と直子は訊ねた。
﹁よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないから
ね﹂と僕は言った。﹁でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えが
たいというようなことはないな﹂
彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を
飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。そ
れから身をかがめて注意深く靴の紐をしめなおした。
﹁ねえ、私にもそういう生活できると思う?﹂
﹁共同生活のこと?﹂
﹁そう﹂と直子は言った。
﹁どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいこ
とは結構あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張
ってるし、同居人は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそ
ういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはな
らない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。
そういうことだよ﹂
﹁そうね﹂と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐら
せているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕
の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深く
すきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに
僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見
るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こ
んなに長く話をするのも初めてだった。
﹁寮か何かに入るつもりなの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁ううん、そうじゃないのよ﹂と直子は言った。﹁ただ私、ち
ょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そ
してそれはつまり……﹂、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表
現を探していたが、結局それはみつからなかったようだった。彼女
はため息をついて目を伏せた。﹁よくわからないわ、いいのよ﹂
それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、
僕はその少しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶり
だった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だ
ったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くな
っていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった
印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見
えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうち
に体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子
は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについ
て直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなか
ったので結局は何も言わなかった。
我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と
直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見
ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだ
った。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降り
ましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま
四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになっ
てしまうと我々には話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。
直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解
できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。
駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩き
はじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕の
あいだには常に一メ︱トルほどの距離があいていた。もちろんその
距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気
おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メ︱トルほどうし
ろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶
色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見え
た。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えら
れることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこ
ともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあっ
た。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女には
どちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言
ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩に
は良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。
しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。
彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差
点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都
電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に
着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕暮だった。
﹁ここはどこ?﹂と直子がふと気づいたように訊ねた。
﹁駒込﹂と僕は言った。﹁知らなかったの? 我々はぐるっと
回ったんだよ﹂
﹁どうしてこんなところに来たの?﹂
﹁君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ﹂
我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いた
ので僕は一人でビ︱ルを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は
一言もロをきかなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとして
いたし、彼女はテ︱ブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんで
いた。TVのニュ︱スが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでし
たと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と
僕は思った。
﹁ずいぶん体が丈夫なんだね﹂と僕はそばを食べ終ったあとで
言った。
﹁びっくりした?﹂
﹁うん﹂
﹁これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロ
とか走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さ
い頃から日曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山で
しょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの﹂
﹁そうは見えないけどね﹂と僕は言った。
﹁そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うの
ね。でも人は見かけによらないのよ﹂彼女はそう言ってから付けた
すように少しだけ笑った。
﹁申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ﹂
﹁ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって﹂
﹁でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたこと
なんて一度もなかったものな﹂と僕は言ったが、何を話したのか思
いだそうとしてもさっぱり思いだせなかった。
彼女はテ︱ブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわして
いた。
﹁ねえ、もしよかったら︱︱もしあなたにとって迷惑じゃなか
ったらということなんだけど︱︱私たちまた会えるかしら?もちろ
んこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけ
ど﹂
﹁筋合?﹂と僕はびっくりして言った。﹁筋合じゃないってど
ういうこと?﹂
彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろ
う。
﹁うまく説明できないのよ﹂と直子は弁解するように言った。
彼女はトレ︱ナ︱?シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、
それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染め
た。﹁筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言う
つもりだったの﹂
直子はテ︱ブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダ
︱を見ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじ
ゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろんそんな
ものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめ
をいじった。
﹁かまわないよ﹂と僕は言った。﹁君の言おうとしてることは
なんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけど
さ﹂
﹁うまくしゃべることができないの﹂と直子は言った。﹁ここ
のところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとして
も、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだ
ったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとす
ると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうする
と最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃう
の。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをし
てるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていて
ね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしている
のよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えて
いて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの﹂
直子は顔を上げて僕の目を見つめた。
﹁そういうのってわかる?﹂
﹁多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ﹂と
僕は言った。﹁みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現で
きなくてそれでイライラするんだ﹂
僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。
﹁それとはまた違うの﹂と直子は言ったが、それ以上は何も説
明しなかった。
﹁会うのは全然かまわないよ﹂と僕は言った。﹁どうせ日曜日
ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね﹂
我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女
は国分寺に小さなアパ︱トを借りて暮していたのだ。
﹁ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?﹂と別れ際に直
子が訊いた。
﹁少し変ったような気がするね﹂と僕は言った。﹁でも何がど
う変ったのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔を
あわせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから﹂
﹁そうね﹂と彼女もそれを認めた。﹁今度の土曜日に電話かけ
ていいかしら?﹂
﹁いいよ、もちろん。待っているよ﹂と僕は言った。

はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやは
り二年生で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり
熱心に勉強をすると﹁品がない﹂とうしろ指をさされるくらい品の
良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い友人がいて︵仲が良
いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった︶、直子は彼の恋
人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじ
みで、家も二百メ︱トルとは離れていなかった。
多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係
は非常にオ︱ブンだったし、二人きりでいたいというような願望は
それほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家
を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったり
していた。僕とダブル?デ︱トしたことも何回かある。直子がクラ
ス?メ︱トの女の子をつれてきて、四人で動物園に行ったり、プ︱
ルに泳ぎに行ったり、映画を観に行ったりした。でも正直なところ
直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には少々
上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話ができ
る公立高校のクラス?メ︱トの女の子たちの方が性にあっていた。
直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい
何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼
女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。
そんなわけでキズキは僕をダブル?デ︱トに誘うことをあきら
め、我々三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになっ
た。キズキと直子と僕の三人だった。考えてみれば変な話だが、結
果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。四人目が入
ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまる
で僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシス
タントであるTVのト︱ク番組みたいだった。いつもキズキが一座の
中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。キズキにはたしかに
冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かった
が、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対
しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰か
がつまらない思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長
く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだし
た。そういうのを見ていると大変だろうなと思ったものだが、実際
はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の
空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力
があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の話から
面白い部分をいくつもみつけていくことができるというちょっと得
がたい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は自分が
とても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になっ
たものだった。
もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では
僕以外の誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の
才のある男がどうしてその能力をもっと広い世界に向けず我々三人
だけの小世界に集中させることで満足していたのか僕には理解でき
なかった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにしたのか、その
理由もわからなかった。僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりす
るのが好きなどちらかというと平凡な目立たない人間で、キズキが
わざわざ注目して話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持
っているわけではなかったからだ。それでも我々はすぐに気があっ
て仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと料金の高さで知
られていた。
﹁今度の日曜日、ダブルデ︱トしないか?俺の彼女が女子校な
んだけど、可愛い女の子つれてくるからさ﹂と知りあってすぐにキ
ズキが言った。いいよ、と僕は言った。そのようにして僕と直子は
出会ったのだ。
僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだ
が、それでもキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、
僕と直子はうまく話をすることができなかった。二人ともいったい
何について話せばいいのかわからなかったのだ。実際、僕と直子の
あいだには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから仕
方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水を飲んだりテ︱ブルの上の
ものをいじりまわしたりしていた。そしてキズキが戻ってくるのを
待った。キズキが戻ってくると、また話が始まった。直子もあまり
しゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すより
は相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人き
りになると僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいと
かそういうのではなく、ただ単に話すことがないのだ。
キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔を
あわせた。ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだ
が、用件が済んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。僕
はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途
中で途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどこと
なく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているよう
に見えたが、その理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直
子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔
を合わせなかった。
あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後
に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こ
ういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持はわかるよう
な気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思
う。しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、
どう思ったところで仕方ない種類のことなのだ。
その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に
午後の授業はすっぽかして玉でも撞きにいかないかと言った。僕も
とくに午後の授業に興味があるわけではなかったので学校を出てぶ
らぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリヤ︱ド屋に入って四ゲ︱
ムほど玉を撞いた。最初のゲ︱ムを軽く僕がとると彼は急に真剣に
なって残りの三ゲ︱ムを全部勝ってしまった。約束どおり僕がゲ︱
ム代を払った。ゲ︱ムのあいだ彼は冗談ひとつ言わなかった。これ
はとても珍しいことだった。ゲ︱ムが終ると我々は一服して煙草を
吸った。
﹁今日は珍しく真剣だったじゃないか﹂と僕は訊いてみた。
﹁今日は負けたくなかったんだよ﹂とキズキは満足そうに笑い
ながら言つた。
彼はその夜、自宅のガレ︱ジの中で死んだ。N360の排気パイプ
にゴムホ︱スをつないで、窓のすきまをガムテ︱プで目ばりしてか
らエンジンをふかせたのだ。死ぬまでにどれくらいの時間がかかっ
たのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が
帰宅してガレ︱ジに車を入れようとして扉を開けたとき、彼はもう
死んでいた。カ︱?ラジオがつけっぱなしになって、ワイパ︱には
ガソリン?スタンドの領収書がはさんであった。
遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って
話をしたという理由で僕は警察に呼ばれて事情聴取された。そんな
そぶりはまったくありませんでした、いつもとまったく同じでし
た、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に対してもキズキに対
してもあまり良い印象は持たなかったようだった。高校の授業を抜
けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議は
ないと彼は思っているようだった。新聞に小さく記事が載って、そ
れで事件は終った。赤いN360は処分された。教室の彼の机の上には
しばらくのあいだ白い花が飾られていた。
キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあい
だ、僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることが
できなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局
半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけて
こなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の
私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。その女
の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸
の街を離れたかった。そして誰も知っている人間がいないところで
新しい生活を始めたかったのだ。
﹁あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでも
よくなっちゃったんでしょ?﹂と彼女は言って泣いた。
﹁そうじゃないよ﹂と僕は言った。僕はただその町を離れたか
っただけなのだ。でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れ
た。東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思
いだし、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔
したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れ
ることにした。
東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべき
ことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないよ
うにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置
くこと︱︱それだけだった。僕は緑のフェルトを貼ったビリヤ︱ド
台や、赤いN360や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれいさ
っぱり忘れてしまうことにした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる
煙や、警察の取調べ室に置いてあったずんぐりした形の文鎮や、そ
んな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見え
た。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼん
やりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つ
につれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめ
た。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこう
いうことだった。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉とし
てではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたの
だ。文鎮の中にも、ビリヤ︱ド台の上に並んだ赤と白の四個のボ︱
ルの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいち
りみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的
な存在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手
に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は
死に捉えられることはないのだ>と。それは僕には至極まともで論
理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う
側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単
純に死を︵そして生を︶捉えることはできなくなってしまった。死
は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に
既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去る
ことのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを
捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春
を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力してい
た。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと
僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところ
で死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限り
のない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに
奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして
回転していたのだ。

次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデ︱トを
した。たぶんデ︱トと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言
葉を思いつけない。
我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってコ︱ヒ︱
を飲み、また歩き、夕方に食事をしてさよならと言って別れた。彼
女はあいかわらずぽつりぽつりとしか口をきかなかったが、べつに
本人はそれでかまわないという風だったし、僕もとくに意識しては
話さなかった。気が向くとお互いの生活や大学の話をしたが、どれ
もこれも断片的な話で、それが何かにつながっていくというような
ことはなかった。そして我々は過去の話を一切しなかった。我々は
だいたいひたすらに町を歩いていた。ありがたいことに東京の町は
広く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかった。
我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼
女が先に立ち、僕がその少しうしろを歩いた。直子はいろんなかた
ちの髪どめを持っていて、いつも右側の耳を見せていた。僕はその
頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そういうことだけを今で
もよく覚えている。直子は恥かしいときにはよく髪どめを手でいじ
った。そしてしょっちゅうハンカチで口もとを拭いた。ハンカチで
口を拭くのは何かしゃべりたいことがあるときの癖だった。そうい
うのを見ているうちに、僕は少しずつ直子に対して好感を抱くよう
になってきた。
彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育
で有名なこぢんまりとした大学だった。彼女のアパ︱トの近くには
きれいな用水が流れていて、時々我々はそのあたりを散歩した。直
子は自分の部屋に僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋
の中で僕と二人きりになっても彼女としてはそんなことは気にもし
ていないみたいだった。余計なものが何もないさっぱりとした部屋
で、窓際の隅の方にストッキングが干してなかったら女の子の部屋
だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮
しており、友だちも殆んどいないようだった。そういう生活ぶりは
高校時代の彼女からは想像できないことだった。僕が知っていたか
つての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だちに囲まれてい
た。そんな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学
に入って町を離れ、知っている人が誰もいないところで新しい生活
を始めたかったんだろうなという気がした。
﹁私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来
ないからなのよ﹂と直子は笑って言った。﹁だからここに入った
の。私たちみんなもう少しシックな大学に行くのよ。わかるでしょ
う?﹂
しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではな
かった。少しずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていっ
た。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まる
で当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。それはた
ぷん直子が僕を一人の友だちとして認めてくれたしるしだろうと僕
は思ったし、彼女のような美しい娘と肩を並べて歩くというのは悪
い気持のするものではなかった。我々は二人で東京の町をあてもな
く歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩
きつづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。ただ歩
けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々
はわきめもふらず歩いた。雨が降れば傘をさして歩いた。
秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セ︱タ
︱を着ると新しい季節の匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新
しいスエ︱ドの靴を買った。
その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思
いだせない。たぶんたいした話はしていなかったのだと思う。あい
かわらず我々は過去の話は一切しなかった。キズキという名前は殆
んど我々の話題にはのぼらなかった。我々はあいかわらずあまり多
くはしゃべらなかったし、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で顔
をつきあわせていることにもすっかり馴れてしまっていた。
直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話を
した。突撃隊はクラスの女の子︵もちろん地理学科の女の子︶と一
度デ︱トしたが夕方になってとてもがっかりした様子で戻ってき
た。それが六月の話だった。そして彼は僕に﹁あ、あのさ、ワタナ
ベ君さ、お、女の子とさ、どんな話するの、いつも?﹂と質問し
た。僕がなんと答えたのかは覚えていないが、いずれにせよ彼は質
問する相手を完全に間違えていた。七月に誰かが彼のいないあいだ
にアムステルダムの運河の写真を外し、かわりにサンフランシスコ
のゴ︱ルデン?ブリッジの写真を貼っていった。ゴ︱ルデン?ブリ
ッジを見ながらマスタ︱ベ︱ションできるかどうか知りたいという
ただそれだけの理由だった。すごく喜んでやってたぜと僕が適当な
ことを言うと、誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真
が変るたびに突撃隊はひどく混乱した。
﹁いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?﹂と彼
は言った。
﹁さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰
がやってるにせよ、ありがたいことじゃない﹂と僕は慰めた。
﹁そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね﹂と彼は言った。
そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うこ
とは少なかったので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑
い話のたねにするのはあまり気持の良いものではなかった。彼はた
だあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にす
ぎなかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生
のささやかな夢なのだ。誰がそれを笑いものにできるだろう?
とはいうものの︿突撃隊ジョ︱ク﹀は寮内ではもう既に欠くこ
とのできない話題のひとつになっていたし、今になって僕が収めよ
うと思ったところで収まるものではなかった。そして直子の笑顔を
目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあった。だから
僕はみんなに突撃隊の話を提供しつづけることになった。
直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は
別れた女の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだ
ったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、どうしてか心が動
かされるということがなかったのだと僕は言った。たぶん僕の心に
は固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくる
ものはとても限られているんだと思う、と僕は言った。だからうま
く人を愛することができないんじゃないかな、と。
﹁これまで誰かを愛したことはないの?﹂と直子は訊ねた。
﹁ないよ﹂と僕は答えた。
彼女はそれ以上何も訊かなかった。
秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はとき
どき僕の腕に体を寄せた。ダッフル?コ︱トの厚い布地をとおし
て、僕は直子の息づかいをかすかに感じることができた。彼女は僕
の腕に腕を絡めたり、僕のコ︱トのポケットに手をつっこんだり、
本当に寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそ
れはただそれだけのことだった。彼女のそんな仕草にはそれ以上の
意味は何もなかった。僕はコ︱トのポケットに両手をつっこんだま
ま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も直子もゴム底の靴をは
いていたので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。道路に落ちた
大きなプラタナスの枯葉を踏むときにだけくしゃくしゃという乾い
た音がした。そんな音を聴いていると僕は直子のことが可哀そうに
なった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼
女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が
僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持になっ
た。
冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられる
ようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直
子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の
目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやり
きれないような不思議な気持になった。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考え
るようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができな
いのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することがで
きないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょ
っちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の
目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできるこ
となら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷
った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃな
いかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東
京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。
寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけ
たりすると、いつも僕を冷やかした。まあ当然といえば当然のこと
だが、僕に恋人ができたものとみんな思いこんでいたのだ。説明の
しようもないし、する必要もないので、僕はそのままにしておい
た。夕方に戻ってくると必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女
のあそこはどんな具合だったかとか下着は何色だったかとか、そう
いう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加減に答えておいた。

そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈
み、国旗が上ったり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友
だちの恋人とデ︱トした。いったい自分が今何をしているのか、こ
れから何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。大学の
授業でクロ︱デルを読み、ラシ︱ヌを読み、エイゼンシュテインを
読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えかけてこなかった。僕
は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあ
いも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読ん
でいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるよう
だったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何
にもなりたいとは思わなかった。
僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考
えていることをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという
気がしたからだ。しかしそれを表現するための言葉がみつからなか
った。変なもんだな、と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探
し病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか、と。
土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビ︱の椅子に座って、
直子からの電話を待った。土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに
出ていたから、ロビ︱はいつもより人も少くしんとしていた。僕は
いつもそんな沈黙の空間にちらちらと浮かんでいる光の粒子を見つ
めながら、自分の心を見定めようと努力してみた。いったい俺は何
を求めてるんだろう?そしていったい人は俺に何を求めているんだ
ろう?しかし答らしい答は見つからなかった。僕はときどき空中に
漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れ
なかった。

僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家では
なく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好
きだったのはトル︱マン?カポ︱ティ、ジョン?アップダイク、ス
コット?フィッツジェラルド、レイモンド?チャンドラ︱といった
作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好ん
で読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳や
大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が
多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と
本を読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、と
きどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その本の香りをか
ぎ、ペ︱ジに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることが
できた。
十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン?アップダイクの
﹃ケンタウロス﹄だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ
最初の輝きを失って、フィッツジェスラルドの﹃グレ︱ト?ギャツ
ビイ﹄にベスト?ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして
﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄はその後ずっと僕にとっては最高の小説
でありつづけた。僕は気が向くと書棚から﹃グレ︱ト?ギャツビ
イ﹄をとりだし、出鱈目にペ︱ジを開き、その部分をひとしきり読
むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはな
かった。一ペ︱ジとしてつまらないペ︱ジはなかった。なんて素晴
しいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたい
と思った。しかし僕のまわりには﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を読ん
だことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな
人間すらいなかった。一九六八年にスコット?フィッツジェラルド
を読むというのは反動とまではいかなくとも、決して推奨される行
為ではなかった。
その当時僕のまわりで﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を読んだこと
のある人間はたった一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなった
のもそのせいだった。彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、
僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一応お
互い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食堂
の日だまりで日なたぼっこをしながら﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を
読んでいると、となりに座って何を読んでいるのかと訊いた。﹃グ
レ︱ト?ギャツビイ﹄だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通
して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じ
る部分がふえてくると僕は答えた。
﹁﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を三回読む男なら俺と友だちにな
れそうだな﹂と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々
は友だちになった。十月のことだった。
永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だ
った。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、
すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかった
ことはない。彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だっ
たが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうと
はしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
﹁現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の
洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないん
だ。人生は短かい﹂
﹁永沢さんはどんな作家が好きなんですか?﹂と僕は訊ねてみ
た。
﹁バルザック、ダンテ、ジョセフ?コンラッド、ディッケン
ズ﹂と彼は即座に・答えた。
﹁あまり今日性のある作家とは言えないですね﹂
﹁だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ
考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。ま
ともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタ
ナベ?この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみ
んな紙屑みたいなもんだ﹂
﹁とうしてそんなことがわかるんですか?﹂と僕はあきれて質
問した。
﹁俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにち
ゃんとわかるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも﹃グレ︱
ト?ギャツビイ﹄を読んでる﹂
僕は頭の中で計算してみた。﹁でもスコット?フィッツジェラ
ルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ﹂
﹁構うもんか、二年くらい﹂と彼は言った。﹁スコット?フィ
ッツジェスラルドくらいの立派な作家はアンダ︱?バ︱でいいんだ
よ﹂
もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではま
ったく知られていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を
引くことはなかっただろう。彼はなんといってもまず第一に頭の良
さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をと
り、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしてい
た。父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部
を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まったく申しぶんのな
い一家みたいだった。小遣いもたっぷり持っていたし、おまけに風
釆も良かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さ
んに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何かを要求
すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そ
うしないわけにはいかなかったのだ。
永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何か
が生まれつき備わっているようだった。人々の上に立って素速く状
況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わ
せるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっているこ
とを示すオ︱ラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰も
が一目見ただけで﹁この男は特別な存在なんだ﹂と思って恐れいっ
てしまうわけである。だから僕のようなこれといって特徴もない男
が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対してみんなはひどく
驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からちょっとした
敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったようだ
けれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永沢さんが僕を好ん
だのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなの
だ。僕は彼の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を
持ちはしたが、成績の良さだとかオ︱ラだとか男っぷりだとかには
一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっこう珍し
かったのだろうと思う。
永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちで
あわせ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそう
なくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。び
っくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょ
うもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行
きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。僕は
そういう彼の中の背反性を最初からはっきりと感じとっていだし、
他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさっぱり理解で
きなかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。
しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼
の最大の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自
分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合の
わるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつ
も変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。彼が
そうしてくれなかったら、僕の寮での生活はもっとずっとややっこ
しく不快なものになっていただろうと思う。それでも僕は彼には一
度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との関係
は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のものだった。僕は
永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあた
るのを目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと
決心したのだ。
永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは
彼がナメクジを三匹食べたことがあるというものであり、もうひと
つは彼が非常に大きいペニスを持っていて、これまでに百人は女と
寝たというものだった。
ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だ
よ、それ、と言った。﹁でかいの三匹飲んだよ﹂
﹁どうしてそんなことしたんですか?﹂
﹁まあいろいろとあってな﹂と彼は言った。﹁俺がこの寮に入
った年、新入生と上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあった
んだ。九月だったな、たしか。それで俺が新入生の代表格として上
級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか
持っててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわか
りました、俺ですむことならなんでもしましょう、だからそれで話
をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナメクジ飲めって言
うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲んだん
だ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ﹂
﹁どんな気分でした?﹂
﹁どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメク
ジを飲んだことのある人間にしかわからないよな。こうナメクジが
ヌラッと喉もとをとおって、ツウッと腹の中に落ちていくのって本
当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がのこっ
てさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲエ吐きたいのを死にもの
ぐるいでおさえたよ、だって吐いたりしたらまた飲みなおしだもん
な。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ﹂
﹁飲んじゃってからどうしました﹂
﹁もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ﹂と永沢さんは
言った。﹁だって他にどうしようがある﹂
﹁まあそうですね﹂と僕も認めた。
﹁でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級
生も含めて誰もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の
他には誰もいないんだ﹂
﹁いないでしょうね﹂と僕は言った。
ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入れば
いいのだ。たしかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女
と寝たというのは誇張だった。七十五人くらいじゃないかな、と彼
はちょっと考えてから言った。よく覚えてないけど七十はいってる
よ、と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡単だよ、お
前、と彼は言った。
﹁今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから﹂
僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際に
やってみると本当に簡単だった。 あまりに簡単すぎて気が抜けるく
らいだった。彼と一緒に渋谷か新宿のバ︱だかスナックだかに入っ
て︵店はだいたいいつもきまっていた︶、適当な女の子の二人連れ
をみつけて話をし︵世界は二人づれの女の子で充ちていた︶、酒を
飲み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がう
まかった。べつに何かたいしたことを話すわけでもないのだが、彼
が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感心して、その話
にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、それで彼
と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、
よく気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい
気持になってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議
なのだけれど、彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男の
ように見えてしまうらしかった。僕が永沢さんにせかされて何かを
しゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の話にたいし
てひどく感心したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの
魔力のせいなのである。まったくたいした才能だなあと僕はそのた
びに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座談の才なんて子供
だましのようなものだった。まるでスケ︱ルがちがうのだ。それで
も永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのこと
をとても優しく思った。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕
はあらためて思った。彼は自分のそんなささやかな才能を僕と直子
だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べると永沢さんは
その圧倒的な才能をゲ︱ムでもやるみたいにあたりにばらまいてい
た。だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているとい
うわけではないのだ。彼にとつてはそれはただのゲ︱ムにすぎない
のだ。
僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかっ
た。性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあっ
たり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌な
のは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知らない女の子がぐ
うぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカ︱テ
ンも何もかもがラブ?ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は
二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が目を覚まして、もそ
もそと下着を探しまわる。そしてストッキングをはきながら﹁ね
え、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだ
から﹂と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらな
いだのとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけ
たりする。そういうのが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなけ
ればいいのだけれど、十二時の門限を気にしながら女の子を口説く
わけにもいかないし︵そんなことは物理的に不可能である︶、どう
しても外泊許可をとってくりだすことになる。そうすると朝までそ
こにいなければならないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じ
ながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口の
中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられ
る。
僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質
問してみた。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないの
か、と。
﹁お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまと
もな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ﹂と彼は言った。
﹁知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自
分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ﹂
﹁じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?﹂
﹁それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキ︱
が賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまり
さ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通り
すぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかる
か?﹂
﹁なんとなく﹂と僕は言った。
﹁日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして
酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何
かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡単なこと
なんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なこ
となんだ。そんなのアッという間に落とせるし、向うだってそれを
待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目
の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか? 自分に能
力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通り
すぎるかい?﹂
﹁そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりません
ね。どういうものだか見当もつかないな﹂と僕は笑いながら言っ
た。
﹁ある意味では幸せなんだよ、それ﹂と永沢さんは言った。
家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女
遊びが原因だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうも
なく女と遊びまわるんじゃないかと心配した父親が四年間寮暮しを
することを強制したのだ。もっとも永沢さんにとってはそんなもの
どちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしないで
好きに暮していた。気が向くと外泊許可をとってガ︱ル?ハントに
いったり、恋人のアパ︱トに泊りに行ったりしていた。外泊許可を
とるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリ︱?パスだ
ったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。
永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとし
た恋人がいた。ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔
をあわせたことがあるが、とても感じの良い女性だった。はっと人
目を引くような美人ではないし、どちらかというと平凡といっても
いい外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女
と、と最初は思うのだけれど、少し話をすると誰もが彼女に好感を
持たないわけにはいかなかった。彼女はそういうタイプの女性だっ
た。穏かで、理知的で、ユ︱モアがあって、思いやりがあって、い
つも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自
分にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしな
いだろうと思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女
のクラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデ︱トしましょう
よと熱心に誘ってくれたが、僕は過去の失敗をくりかえしたくなか
ったので、適当なことを言っていつも逃げていた。ハツミさんの通
っている大学はとびっきりのお金持の娘があつまることで有名な女
子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。
彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっている
ことをだいたいは知っていたが、そのことで彼に文句を言ったこと
は一度もなかった。彼女は永沢さんのことを真剣に愛していたが、
それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。
﹁俺にはもったいない女だよ﹂と永沢さんは言った。そのとお
りだと僕も思った。

冬に僕は新宿の小さなレコ︱ド店でアルバイトの口をみつけ
た。給料はそれほど良くはなかったけれど、仕事は楽だったし、過
に三回の夜番だけでいいというのも都合がよかった。レコ︱ドも安
く買えた。クリスマスに僕は直子の大好きな﹃ディア?ハ︱ト﹄の
入ったヘンリ︱?マンシ︱ニのレコ︱ドを買ってプレゼントした。
僕が自分で包装して赤いリボンをかけた。直子は僕に自分で編んだ
毛糸の手袋をプレゼントしてくれた。親指の部分がいささか短かす
ぎたが、暖かいことは暖かかった。
﹁ごめんなさい。私すごく不器用なの﹂と直子は赤くなって恥
かしそうに言つた。
﹁大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ﹂と僕は手袋をはめてみせ
た。
﹁でもこれでコ︱トのポケットに手をつっこまなくて済むでし
ょ?﹂と直子は言った。
直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までアルバイト
をしていて、結局なんとなくそのまま東京にいつづけてしまった。
神戸に帰ったところで何か面白いことがあるわけでもないし、会い
たい相手がいるわけでもないのだ。正月のあいだ寮の食堂は閉った
ので僕は彼女のアパ︱トで食事をさせてもらった。二人で餅を焼い
て、簡単な雑煮を作って食べた。
一九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが
起った。
一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで
僕は直子とのデ︱トをすっぼかしてしまうことになった。僕はある
コンサ︱トの招待券を二枚苦労して手に入れて、直子をそれに誘っ
たのだ。オ︱ケストラは直子の大好きなブラ︱ムスの四番のシンフ
ォニ︱を演奏することになっていて、彼女はそれを楽しみにしてい
た。しかし突撃隊はベッドの上をごろごろ転げまわって今にも死ぬ
んじゃないかという苦しみようだったし、それを放ったらかして出
かけるというわけにもいかなかった。僕にかわって彼の看病をやっ
てくれそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕は氷を買ってき
て、ビニ︱ル袋を何枚かかさねて氷嚢を作り、タオルを冷して汗を
拭き、一時間ごとに熱を測り、シャツまでとりかえてやった。熱は
まる一日引かなかった。しかし二日目の朝になると彼はむっくりと
起きあがり、何事もなかったように体操を始めた。体温を測ってみ
ると三十六度二分だった。人間とは思えなかった。
﹁おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかった
んだけどな﹂と突撃隊はそれがまるで僕の過失であるような言い方
をした。
﹁でも出たんだよ﹂と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱の
おかげでふいにした二枚の切符を見せた。
﹁でもまあ招待券で良かったよ﹂と突撃隊は言った。僕は彼の
ラジオをひっつかんで窓から放り投げてやろうと思ったが、頭が痛
んできたのでまたベッドにもぐりこんで眠った。
二月には何度か雪が降った。
二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に
住む上級生を殴った。相手はコンクリ︱トの壁に頭をぶっつけた。
幸いたいした怪我はなかったし、永沢さんがうまく事を収めてくれ
たのだが、僕は寮長室に呼ばれて注意を受けたし、それ以来寮の住
み心地もなんとなく悪くなった。
そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか単
位を落とした。成続は平凡なものだった。大半がCかDで、Bが少し
あるだけだった。直子の方は単位をひとつも落とすことなく二年生
になった。季節がひとまわりしたのだ。
四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、
彼女の方が約七ヵ月年上ということになる。直子が二十歳になると
いうのはなんとなく不思議な気がした。僕にしても直子にしても本
当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじ
ゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八、︱
それならわかる。でも彼女は二十歳になった。そして秋には僕も二
十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳だった。
直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終ってから近くでケ︱キ
を買って電車に乗り、彼女のアパ︱トまで行った。一応二十歳にな
ったんだから何かしら祝いのようなことをやろうと僕が言いだした
のだ。もし逆の立場だったら僕だって同じことを望むだろうという
気がしたからだ。一人ぼっちで二十歳の誕生日を過すというのはき
っと辛いものだろう。電車は混んでいて、おまけによく揺れた。お
かげで直子の部屋にたどりついたときにはケ︱キはロ︱マのコロセ
ウムの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも用意した小さなロウ
ソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カ︱テンを閉めて電気を消
すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕ら
はワインを飲み、少しケ︱キを食べ、簡単な食事をした。
﹁二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ﹂と直子が言っ
た。﹁私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気
分。なんだかうしろから無理に押し出されちゃったみたいね﹂
﹁僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ﹂と僕は言
って笑った。
﹁良いわね、まだ十九なんて﹂と直子はうらやましそうに言っ
た。
食事のあいだ僕は突撃隊が新しいセ︱タ︱を買った話をした。
彼はそれまで一枚しかセ︱タ︱を持っていなかったのだが︵紺の高
校のスク︱ル?セ︱タ︱︶、やっとそれが二枚になったのだ。新し
いのは鹿の編みこみが入った赤と黒の可愛いセ︱タ︱で、セ︱タ︱
自体は素敵なのだが、彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹きだ
した。しかし彼にはどうしてみんなが笑うのか全く理解できなかっ
た。
﹁ワタナベ君、な、何かおかしいところあるのかな?﹂と彼は
食堂で僕のとなりに座ってそう質問した。﹁顔に何かついてると
か﹂
﹁何もついてないし、おかしくないよ﹂と僕は表情を抑えて言
った。﹁でも良いセ︱タ︱だね、それ﹂
﹁ありがとう﹂と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑っ
た。
直子はその話をすると喜んだ。﹁その人に会ってみたいわ、
私。一度でいいから﹂
﹁駄目だよ。君、きっと吹きだすもの﹂と僕は言った。
﹁本当に吹きだすと思う?﹂
﹁賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきお
かしくて我慢できなくなるんだもの﹂
食事が終ると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きなが
らワインの残りを飲んだ。
僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。
直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校
のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細
密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞
きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に
含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいの
だ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともで
ちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙な
のだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話になり、やがてB
に含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。
終りというものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っ
ていたのだが、そのうちにそれもやめた。僕はレコ︱ドをかけ、そ
れが終ると針を上げて次のレコ︱ドをかけた。ひととおり全部かけ
てしまうと、また最初のレコ︱ドをかけた。レコ︱ドは全部で六枚
くらいしかなく、サイクルの最初は﹃サ︱ジャント?ペパ︱ズ?ロ
ンリ︱?ハ︱ツ?クラブ?バンド﹄で、最後はビル?エヴァンスの
﹃ワルツ?フォ︱?デビ︱﹄だった。窓の外では雨が降りつづけて
いた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけてい
た。
直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れな
いように気をつけながら話していることにあるようだった。もちろ
んキズキのこともそのポイントのひとつだったが、彼女が避けてい
るのはそれだけではないように僕には感じられた。彼女は話したく
ないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細
かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。でも直
子がそんなに夢中になって話すのは初めてだったし、僕は彼女にず
っとしゃべらせておいた。
しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子
はもう四時間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最
終電車のこともあるし、門限のこともあった。僕は頃合を見はから
って、彼女の話に割って入った。
﹁そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし﹂と僕は時計を
見ながら言った。
でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるい
は耳には届いても、その意味が理解できないようだった。彼女は一
瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始めた。僕はあきらめ
て座りなおし、二本目のワインの残りを飲んだ。こうなったら彼女
にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も
門限も、何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。
しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたと
き、直子の話は既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられた
ような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終った
わけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はな
んとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何か
が損なわれてしまったのだ。あるいはそれを損ったのは僕かもしれ
なかった。僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて
理解され、そのせいで彼女をしゃべらせ続けていたエネルギ︱のよ
うなものが狙われてしまったのかもしれない。
直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見てい
た。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたい
に見えた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているよう
にかすんでいた。
﹁邪魔するつもりなかったんだよ﹂と僕は言った。﹁ただ時間
がもう遅いし、それに……﹂
彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコ
︱ド?ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あ
とはもうとめどがなかった。彼女は両手を床について前かがみにな
り、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣
いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の
肩に触れた。肩はぶるぶると小刻みに震えていた。それから僕は殆
んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。彼女は僕の腕の中でぶるぶる
と震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせいで、僕のシャ
ツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十本の指がまるで何
かを︱︱かつてそこにあった大切な何かを︱︱探し求めるように僕
の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそ
のまっすぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿
勢で直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。

その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどう
か、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわ
からない。たぶん永遠にわからないだろうと思う。でもそのときは
そうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせ
ていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいたがってい
た。僕は部屋の電気を消し、ゆっくりとやさしく彼女の服を脱が
せ、自分の服も脱いだ。そして抱きあった。暖かい雨の夜で、我々
は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直子は暗闇の中で無言の
ままお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をや
わらかく手で包んだ。直子は僕の固くなったベニスを握った。彼女
のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。
それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなの
かと訊くと、直子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなく
なってしまった。僕はずっとキズキと直子が寝ていたと思っていた
からだ。僕はべニスをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずに
じっとして、彼女を長いあいだ抱きしめていた。そして彼女が落ち
つきを見せるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて射精した。最
後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれま
でに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。
全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊
いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕
の体から手を離し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入れから布
団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外や降りつづける四
月の雨を見ながら煙草を吸った。
朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠って
いた。あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起
きているにせよ眠っているにせよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、
その体は凍りついたように固くなっていた。僕は何度か話しかけて
みたが返事はなかったし、体もぴくりとも動かなかった。僕は長い
あいだじっと彼女の裸の肩を見ていたが、あきらめて起きることに
した。
床にはレコ︱ド?ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、
そんなものが昨夜のままに残っていた。テ︱ブルの上には形の崩れ
たバ︱スデ︱?ケ︱キが半分残っていた。まるでそこで突然時間が
止まって動かなくなってしまったように見えた。僕は床の上にちら
ばったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の
上には辞書とフランス語の動詞表があった。机の前の壁にはカレン
ダ︱が貼ってあった。写真も絵も何もない数字だけのカレンダ︱だ
った。カレンダ︱は真白だった。書きこみもなければ、しるしもな
かった。
僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく
湿っていた。顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ
用紙に、君が落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに
電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子
の肩を眺め、部屋を出てドアをそっと閉めた。
一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパ︱トは
電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺
まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札は
とり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に
訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したの
かはちょっとわからないなと管理人は言った。
僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書い
た。直子がどこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送される
はずだった。
僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなこ
とがまだよくわからないし、わかろうとは真剣につとめているけれ
ど、それには時間がかかるだろう。そしてその時間が経ってしまっ
たあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕には皆目見当も
つかない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求した
り、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互い
のことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間を与え
てくれるなら、僕はベストを尽すし、我々はもっとお互いを知りあ
うことができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくり
と話をしたい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を
正直に語ることのできる相手を失ってしまったし、それは君も同じ
なんじゃないだろうか。たぶん我々は自分たちが考えていた以上に
お互いを求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおか
げで僕らはずいぶんまわり道をしてしまったし、ある意味では歪ん
でしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも
思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して
感じた親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことのな
い種類の感情だった。返事をほしい。どのような返事でもいいから
ほしい︱そんな内容の手紙だった。
返事はこなかった。
体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、
それは純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音は
うつろに響いた。僕は週日には以前にも増してきちんと大学に通
い、講義に出席した。講義は退屈で、クラスの連中とは話すことも
なかったけれど、他にやることもなかった。僕は一人で教室の最前
列の端に座って講義を聞き、誰とも話をせず、一人で食事をし、煙
草を吸うのをやめた。
五月の末に大学がストに入った。彼らは﹁大学解体﹂を叫んで
いた。結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバ
ラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。
そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとで
もする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってく
れ。
大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバ
イトを始めた。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしを
するのだ。仕事は思っていたよりきつく、最初のうちは体が痛くて
朝起きあがれないほどだったが、給料はそのぶん良かったし、忙し
く体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに済んだ。
僕は週に五日、運送屋で昼間働き、三日はレコ︱ド屋で夜番をやっ
た。そして仕事のない夜は部屋でウィスキ︱を飲みながら本を読ん
だ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、アルコ︱ルの匂いにひどく敏感
で、僕がベッドに寝転んで生のウィスキ︱を飲んでいると、臭くて
勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言った。
﹁お前が出て行けよ﹂と僕は言った。
﹁だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、
き、規則だろう﹂と彼は言った。
﹁お前が出ていけ﹂と僕は繰り返した。
彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上
に行って一人でウィスキ︱を飲んだ。
六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神
戸の住所あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして
最後に、返事を待っているのはとても辛い、僕は君を傷つけてしま
ったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポ
ストに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた少し大きくなった
ように感じられた。
六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。ど
ちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつ
れこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭く
なってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方
から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕
についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の
子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、ど
んな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことがあるかだと
か、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首は
他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とに
かくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしま
った。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕
は彼女と一緒に喫茶店に入ってモ︱ニング?サ︱ビスのまずいト︱
ストとまずい玉子を食べまずいコ︱ヒ︱を飲んだ。そしてそのあい
だ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何か、高校
時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはある
か、等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそ
ろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
﹁ねえ、もう会えないの?﹂と彼女は淋しそうに言った。
﹁またそのうちどこかで会えるよ﹂と僕は言ってそのまま別れ
た。そして一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやってい
るんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきで
はないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。
僕の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕
は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白
く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や、雨の音のことを
考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計
に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキ︱を飲
み、俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
﹁返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章
を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そし
てこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私に
とってとても辛いことなのです。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにし
ました。とりあえずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそ
らくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上
のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれど、これは
前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに
何度か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せません
でした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたと
しても、たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなって
いたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つ
けることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。
私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないで
ほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部
引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしの
ばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしま
ったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパ︱トを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、
しばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に
向いた療養所があるらしいので、少しそこに入ってみようかと思い
ます。正確な意味での病院ではなくて、ずっと自由な療養のための
施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにしま
す。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮
断されたどこか静かなところで神経をやすめることなのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれたことについては、私は私
なりに感謝しています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私
を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私
はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会い
たくないというのではなく、会う準備ができていないのです。もし
準備ができたと思ったら、私はあなたにすぐ手紙を書きます。その
ときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないか
と思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと
知りあうべきなのでしょう。
さようなら﹂
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたび
にたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目
をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。
僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしま
いこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風
のように輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを身にまとうこと
すらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉
は僕の耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビ︱の椅子に座って時間
を過した。電話のかかってくるあてはなかったが、他にやることも
なかった。僕はいつもTVの野球中継をつけて、それを見ているふり
をしていた。そして僕とTVのあいだに横たわる茫漠とした空間をふ
たつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そし
て何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小
さな空間を作りあげた。
十時になると僕はTVを消して部屋に戻り、そして眠った。

その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタント?コ︱ヒ︱の瓶に入っていた。瓶の中には草
の葉と水が少し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開い
ていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い
水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと
主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方
にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それ
は螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつ
るとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちてい
た。
﹁庭にいたんだよ﹂
﹁ここの庭に?﹂と僕はびっくりして訊いた。
﹁ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放す
だろ?あれがこっちに紛れこんできたんだよ﹂と彼は黒いボスト
ン?バックに衣類やノ︱トを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残って
いるのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたく
なくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があったから
だ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家
は山梨にあった。
﹁これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ﹂と彼
は言った。
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになっ
た。国旗がポ︱ルから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の
数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかっ
た。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕
食の匂いが漂っていた。クリ︱ム?シチュ︱の匂いだった。
僕は螢の入ったインスタント?コ︱ヒ︱の瓶を持って屋上に上
った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツ
が洗濯ロ︱プにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺
れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒
形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあた
たかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほ
んの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿
の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが
鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じ
りあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に
浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも
弱く、その色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっ
と昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした
鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそう
いう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持
って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほん
の少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしてい
た。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そ
していったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだ
すことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかっ
た。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。
ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではな
い。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れ
だ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えない
くらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛
んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映
えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の
音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないの
に、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹
き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほんの少し深まって
いた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだし
た給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつか
めないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周した
り、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしてい
た。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめて
から、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじの
ぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみ
たいに、そのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めてい
た。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。
風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木が
その無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思い
ついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い
闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうと
するかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光
の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってか
ら、やがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留
まっていた。目を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光
は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさま
よいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れ
なかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請し、機動隊はバリ
ケ︱ドを叩きつぶし、中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当
時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、特に珍しい出
来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量
の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで
﹁はい、そうですか﹂とおとなしく解体されるわけがないのだ。そ
して大学をバリケ︱ド封鎖した連中も本当に大学を解体したいなん
て思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシア
チブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニシアチブ
がどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからスト
がたたきつぶされたところで、特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待
していってみたのだが、大学はまったく無傷だった。図書館の本も
略奪されることなく、教授室も破壊しつくされることはなく、学生
課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと
僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちば
ん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。
彼らは何事もなかったように教室に出てきてノ︱トをとり、名前を
呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト
決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったから
だ。大学が機動隊を導入してバリケ︱ドを破壊しただけのことで、
原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議の
ときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する︵ある
いは疑念を表明する︶学生を罵倒し、あるいは吊るし上げたのだ。
僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義にでて
くるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられる
わけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そ
んな連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なか
った。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくな
ったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう
奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社
会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事を
しないことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよ
くわかっていたけれど、そうでもしないことには気分がわるくて仕
方がなかったのだ。しかしそのおかげでクラスの中での僕の立場は
もっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っている
と、教室の中には居心地のわるい空気が流れた。誰も僕に話しかけ
なかったし、僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だと
いう結論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間と
して捉えることに決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出
てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大
学に行って講義に出てノ︱トを取り、あいた時間には図書館で本を
読んだり調べものをしたりした。

九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは
珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が
始まっていたし、突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえな
かったからだ。彼らの机やラジオの上にはうっすらとほこりがつも
っていた。棚の上にはブラスチックのコップと歯ブラシ、お茶の
缶、殺虫スプレ︱、そんなものがきちんと整頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半の
あいだに、部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていた
し、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。
僕は毎日床を掃き、三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干した。
そして突撃隊が帰ってきて﹁ワ、ワタナベ君、どうしたの?すごく
きれいじゃないか﹂と言って賞めてくれるのを待った。
しかし彼は戻っては来なかった。ある日僕は学校から戻ってみ
ると、彼の荷物は全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外され
て、僕のものだけになっていた。僕は寮長室に言って彼がいったい
どうなったのか訊いてみた。
﹁退寮した﹂と寮長は言った。﹁しばらくあの部屋はお前ひと
りで暮せ﹂
僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何
も教えてくれなかった。他人には何も教えずに自分ひとりで物事を
管理することに無上の喜びを感じるタイプの俗物なのだ。
部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やが
て僕はそれははがして、かわりにジム?モリソンとマイルス?デイ
ヴィスの写真を貼った。それで部屋は少し僕らしくなった。僕はア
ルバイトで貯めた金を使って小さなステレオ?プレ︱ヤ︱を買っ
た。そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときど
き突撃隊のことを思いだしたが、それでもひとり暮らしというのは
いいものだった。

月曜日の十時から﹁演劇史Ⅱ﹂のエウリピデスについての講義が
あり、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩い
て十分ばかりのところにある小さなレストランにいってオムレツと
サラダを食べた。そのレストランはにぎやかな通りからは離れてい
たし、値段も学生向きの食堂よりは少し高ったが、静かで落ちつけ
たし、なかなか美味いオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦と
アルバイトの女の子が三人で働いていた。僕は窓祭の席に一人で座
って食事をしていると、四人づれの学生が店に入ってきた。男が二
人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服装をしていた。彼らは
入口近くのテ︱ブルに座ってメニュ︱を眺め、しばらくいろいろと
検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子
がにそれを伝えた。
そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているの
に気がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、
白いコットンのミニのワンピ︱スを着ていた。彼女の顔には見覚え
がなかったので僕がそのまま食事を続けていると、そのうちに彼女
はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテ︱ブルの端に
片手をついて僕の名前を呼んだ。
﹁ワタナベ君、でしょ?﹂
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見て
も見覚えはなかった。彼女はとても目立つの女の子だったし、どこ
かであっていたらすぐ思い出せるはずだった。それに僕の名前を知
っている人間はそれほどたくさんこの大学にいるわけではない。
﹁ ちょっ と座 ってもいい かしら?それとも 誰かくるの、こ
こ?﹂
僕はよくわからないままに首を振った。﹁誰も来ないよ。どう
ぞ﹂
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座って
サングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移し
た。
﹁おいしそうね、それ﹂
﹁美味しいよ。マッシュル︱ム?オムレツとグリ︱ン?ビ︱ス
のサラダ﹂
﹁ふむ﹂と彼女は言った。﹁今度はそれにするわ。今日はもう
別のを頼んじゃったから﹂
﹁何を頼んだの?﹂
﹁マカロニ?グラタン﹂
﹁マカロニ?グラタンもわるくない﹂と僕はいった。﹁ところ
で君とどこであったんだっけな?どうしても思い出せないんだけ
ど﹂
﹁エウリピデス﹂と彼女は簡潔に言った。﹁エレクトラ。﹃い
いえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさら
ないのです﹄。さっき授業が終わったばかりでしょう?﹂
僕はまじと彼女の顔をみた。彼女はサングラスを外した。それ
でやっと僕は思い出した。﹁演劇史Ⅱ﹂のクラスで見かけたことのあ
る一年生の女の子だった。ただあまりにもがらりととヘア?スタイ
ルが変わってしまったので、誰なのかわからなかったのだ。
﹁だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?﹂と僕は
肩から十センチくらい下のところを手で示した。
﹁そう。夏にパ︱マをかけたのよ。ところがぞっとするような
ひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のようと思ったくらい
よ。本当にひどかったのよ。ワカメがあたまにからみついた水死体
みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主
頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ﹂と彼女はいっ
て、長さ四センチか五センチの髪を手のひらでさらさらと撫でた。
そして僕に向かってにっこりと微笑んた。
﹁でも全然悪くないよ、それ﹂と僕はオムレツのつづきを食べ
ながら言った。﹁ちょっと横を向いてみてくれないかな﹂
彼女は横を向いて、五秒ぐらいそのままじっとしていた。
﹁うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが
良いんだね。耳もきれいにみえるし﹂と僕はいった。
﹁そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、
これも悪くないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそ
んなこと行ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収容所だ
とか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の
長い女の子がそんなに好きなの?そんなのまるでファシストじゃな
い。下がらないわよ。どうして男の人って髪の長い女の子が上品で
心やさしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の長い下品
な女の子二百五十人くらい知ってるわよ。本当よ。﹂
﹁僕は今のほうがすきだよ﹂と僕は言った。そしてそれは嘘で
はなかった。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りでは
まあごく普通のかわいい女の子だった。でもいま僕の前に座ってい
る彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のよう
に瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで
独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあ
きれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を
目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺
めていた。
﹁本当にそう思う?﹂
僕はサラダを食べながら肯いた。
彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見
た。
﹁ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?﹂
﹁まあ出来ることなら正直な人間でありたいとは思っているけ
どね。﹂と僕は言った。
﹁どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?﹂と僕は訊いて
みた。
﹁急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まる
で裸で人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ちつか
ないの。だからサングラスかけるわけ。﹂
﹁なるほど﹂と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。
彼女は僕がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見てい
た。
﹁あっちの席に戻らなくていいの?﹂と僕は彼女の連れの三人
の方を指さして言った。
﹁いいのよ、べつに。料理が来たらもどるから。なんてことな
いわよ。でもここにいると食事の邪魔かしら?﹂
﹁邪魔も何も、もう食べ終わっちゃったよ﹂と僕は言った。そ
して彼女が自分のテ︱ブルに戻る気配がないので食後のコ︱ヒ︱を
注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリ︱ムを置
いていった。
﹁ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかった
の?ワタナベってあなたの名前でしょう?ワタナベ?トオルって﹂
﹁そうだよ﹂
﹁じゃどうして返事しなかったの?﹂
﹁今日はあまり返事したくなかったんだ﹂
彼女はもう一度サングラスを外してテ︱ブルの上に置き、まる
で珍しい動物の入っている檻でものぞきこむような目付きで僕をじ
っと眺めた。﹁﹃今日はあまり返事したくなかったんだ﹄﹂と彼女
はくりかえした。﹁ねえ、あなたってなんだかハンフリ︱?ボガ︱
トみたいなしゃべりかたするのね。ク︱ルでタフで﹂
﹁まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもい
る﹂
奥さんがコ︱ヒ︱を持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もク
リ︱ムも入れずにそれをそっとすすった。
﹁ほらね、やっぱり砂糖もクリ︱ムもいれないでしょ﹂
﹁ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ﹂と僕は我慢強く
説明した。﹁君はなんか誤解しているんじゃないかな﹂
﹁どうしてそんなに日焼けしてるの?﹂
﹁二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リ
ュックと寝袋をかついで。だから日焼けしたんだ﹂
﹁どんなところ?﹂
﹁金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った﹂
﹁一人で?﹂
﹁そうだよ﹂と僕は言った。﹁ところどころで道づれができる
ってことはあるけれどね﹂
﹁ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子とし
りあったりして﹂
﹁ロマンス?﹂と僕はびっくりして言った。﹁あのね、やはり
君は何か思いちがいをしていると思うね。寝袋かついで髭ぼうぼう
で歩きまわっている人間がいったいどこでどうやってロマンスなん
てものにめぐりあえるんだよ?﹂
﹁いつもそんな風に一人で旅行するの?﹂
﹁そうだね﹂
﹁孤独が好きなの?﹂と彼女は頬杖をついて言った。﹁一人で
旅行し、一人でごはんを食べて、授業のときはひとりだけぽつんと
離れて座っているのが好きなの?﹂
﹁孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らない
だけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの﹂と僕は言
った。
彼 女はサ ング ラスのつる を口にくわえ、も そもそした声 で
﹁﹃孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ﹄﹂
と言った。﹁もしあなたが自叙伝書くことになったらその時は科白
使えるわよ﹂
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
﹁緑色は好き?﹂
﹁どうして?﹂
﹁緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色はす
きなのかって訊いている﹂
﹁とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ﹂
﹁﹃とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ﹄﹂と
彼女はまたくりかえした。﹁私、あなたのしゃべり方すごく好き
よ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそう言われたこ
とある、他の人から?﹂
ない、と僕は答えた。
﹁私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合
わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?まるで呪われた
人生じゃない、これじゃ。ねえ、私のお姉さん桃子っていうのよ。
おかしくない?﹂
﹁それでお姉さんはピンク似合う?﹂
﹁それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれ
てきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから。﹂
彼女のテ︱ブルに料理が運ばれ、マドラスチェックの上着を着
た男が﹁お︱い、ミドリ、飯だぞお﹂と呼んだ。彼女はそちらに向
かって︿わかった﹀というように手をあげた。
﹁ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノ︱トとってる?演劇史Ⅱ
の?﹂
﹁とってるよ﹂と僕は言った。
﹁悪いんだけど貸してもらえないかしら?﹂私二回休んじゃっ
てるのよ。あのクラスに私、知ってる人いないし﹂
﹁もちろん、いいよ﹂僕は鞄からノ︱トを出して何か余計なも
のが書かれていないことをたしかめてから緑に渡した。
﹁ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?﹂
﹁来るよ﹂
﹁じゃあ十二時にここに来ない?ノ︱ト返してお昼ごちそうす
るから。別にひとりでごはん食べないと消化不良起こすとか、そう
いうじゃないでしょう?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁でもお礼なんていらないよ。ノ︱
ト見せるくらいで﹂
﹁いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に
書いとかなくて忘れない?﹂
﹁忘れないよ。あさっての十二時に君とここで合う﹂
﹁向うの方から﹁お︱い、ミドリ、早くこないと冷めちゃう
ぞ﹂という声が聞こえた。
﹁ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?﹂と緑はその声
を無視して言った。
﹁そうだと思うよ。あまり意識したことないけど﹂と僕は答え
た。しゃべり方がかわっているなんて言われたのは本当にそれがは
じめてだったのだ。
彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこりと笑って席を立
ち、自分のテ︱ブルに戻っていった。僕がそのテ︱ブルのそばを通
りすぎたとき緑は僕に向かって手をあげた。他の三人はちらっと僕
の顔を見ただけだった。
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなっ
かた。僕は彼女がくるまでビ︱ルを飲んで待っているつもりだった
のだが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出
て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビ︱ルの酔いをさ
ましながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあ
きらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そして二時からドイツ
語の授業に出た。
講義が終わると、僕は学生課にいって講義の登録簿を調べ、
﹁演劇史Ⅱ﹂のクラスに彼女の名前を見つけた。緑という名前の学生
は小林緑ひとりしかいなかった。次にカ︱ド式になっている学生名
薄をくって六九年度入学生の中から﹁小林緑﹂を探し出し、住所と
電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話
ボックスに入ってその番号をまわした。
﹁もしもし、小林書店です﹂と男の声が言った。小林書店?
﹁申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?﹂と
僕は訊いた。
﹁いや、緑は今いませんねえ﹂と相手は言った。
﹁大学に行かれたんでしょうか?﹂
﹁ うん、 え︱ と、病院の 方じゃないかなあ 。おたくの名 前
は?﹂
僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は
怪我をするあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?
しかし男の声からそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じ
とれなかった。︿うん、え︱と、病院の方じゃないかなあ﹀、それ
はまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであっ
た。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だっ
た。僕はそれについて少し考えをめぐらせてみたが、面倒くさくな
ったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに
借りていたジョセフ?コンラッドの﹁ロ︱ド?ジム﹂の残りを読ん
でしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。
永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に行
って夕食を食べた。
外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務
省の上級試験の第二次が八月にあったのだ。
﹁普通だよ﹂と永沢さんは何でもなさそうに答えた。﹁あんな
の普通にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女
の子口説くのと変わりゃしない﹂
﹁じゃあまあ簡単だったわけですね﹂と僕は言った。﹁発表は
いつなんですか?﹂
﹁十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやる
よ﹂
﹁ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さん
みたいな人ばかりが受けにくるんですか?﹂
﹁まさか。大体はアホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚に
なろうなんて人間の九五パ︱セントまでは屑だもんなあ。これは嘘
じゃないぜ。あいつら字だてろくに読めないんだ﹂
﹁じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?﹂
﹁いろいろと理由はあるさ﹂と永沢さんは言った。﹁外地勤務
が好きだとか、いろいろな。でもいちばんの理由は自分の能力を試
してみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れも
ののなかでためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。このばかでか
い官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が
力を持てるかそういうのをためしてみたいんだよ。わかるか?﹂
﹁なんだかゲ︱ムみたいと聞こえますね﹂
﹁そうだよ。ゲ︱ムみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲
とかいうものは殆どない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもし
れないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば
無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタ
フな世界で自分の力をためしてみたいんだ﹂
﹁そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょう
ね?﹂
﹁もちろんない﹂と彼は言った。﹁人生にはそんなもの必要な
いんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ﹂
﹁でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですか
ね?﹂と僕は訊いた。
﹁俺のような人生はすきじゃないか?﹂
﹁よして下さいよ﹂と僕は言った。﹁好きも嫌いもありません
よ。だってそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好き
な時に好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもな
い。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもな
い。二流の私立大学の文学部を出たって将来の展望があるわけでも
ない。僕に何が言えるんですか?﹂
﹁じゃ俺の人生がうらやましいか?﹂
﹁うらゃましかないですね﹂と僕は言った。﹁僕はあまりに僕
自身に馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務
省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたい
に素敵な恋人を持ってることですね﹂
彼はしばらく黙って食事をしていた。
﹁なあ、ワタナベ﹂と食事が終わってから永沢さんは僕に言っ
た。﹁俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたど
こかで出会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわり
あいそうな気がするんだ﹂
﹁まるでディッケンズの小説みたいな話ですね﹂と言って僕は
笑った。
﹁そうだな﹂と彼も笑った。﹁でも俺の予感ってよく当たるん
だぜ﹂
食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック?バ︱に酒
に飲みに行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。
﹁ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範っていっ
たいどんなものなんですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁お前、きっと笑うよ﹂と彼は言った。
﹁笑いませんよ﹂と僕は言った。
﹁紳士であることだ﹂
僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうに
なった。﹁紳士ってあの紳士ですか?﹂
﹁そうだよ、あの紳士だよ﹂と彼は言った。
﹁紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義が
あるなら教えてもらえませんか﹂
﹁自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやる
のが紳士だ﹂
﹁あなたは僕がこれまで会った人の中で一番変った人ですね﹂
と僕は言った。
﹁お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だ
よ﹂と彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。

翌週の月曜日の﹁演劇史Ⅱ﹂の教室にも小林緑の姿はみあたらな
かった。僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたし
かめてからいつもの最前列の席に座り、教師がくるまで直子への手
紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道
筋や、通り過ぎた町町や、出会った人々について書いた。そして夜
になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、
僕は自分がどれくらい君を求めていたかということがわかるように
なった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと
出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまら
なく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくり話がし
たい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、
何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてもしで
きることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かも
しれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほしい。
それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便せんをきれいに畳ん
で用意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。
やがて憂鬱そうな顔をした小柄な教師が入ってきて出欠をと
り、ハンカチで額の汗を拭いた。彼は足が悪くいつも金属の杖をつ
いていた。﹁演劇史Ⅱ﹂は楽しいとは言えないまでも、一応聴く価値
のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねえと言っ
てから、彼はエウリピデスの戯曲におけるデウス?エクス?マキナ
の役割について話しはじめた。エウリピデスにおける神が、アイス
キュロスやソフォクレスのそれとどう違うかについて彼は語った。
十五分ほど経ってところで教室のドアが開いて緑が入ってきた。彼
女は濃いブル︱のスポ︱ツ?シャツにクリ︱ム色の綿のズボンをは
いて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師に向かって﹁遅
れてごめんなさい﹂的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。
そしてショルダ︱?バッグからノ︱トをだして、僕に渡した。ノ︱
トの中には﹁水曜日、ごめんなさい。怒ってる?﹂と書いたメモが
入っていた。
講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵
を描いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学
生が二人入ってきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。
一人はひょろりとして高い方がアジ?ビラを抱えていた。背の低い
方が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承
していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世
界を覆っているのだと言った。そして机のふちをぎゅっとつかんで
足を下におろし、杖をとって足をひきずりながら教室を出て行っ
た。
背の高い学生がビアを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に
立って演説をした。ビアにはあのあらゆる事象を単純化する独特の
簡潔な書体で﹁欺瞞的総長選挙を粉砕し﹂﹁あらたなる全学ストへ
と全力を結集し﹂﹁日帝=産学協同路線に鉄槌を加える﹂と書いて
あった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章
の説得力はなかった。信頼性もなければ、人の心を駆り立てる力も
なかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だ
った。メロディ︱が同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。こ
の連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思っ
た。
﹁出ましょうよ﹂と緑は言った。
僕は肯いて立ちあがり、二人で教室をでた。出るときに丸顔の
方が僕に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑
は﹁じゃあね﹂と言って彼にひらひらと手を振った。
﹁ねえ、私たち反革命なのかしら?﹂と教室を出てから緑が僕
に言った。﹁革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるの
かしら?﹂
﹁吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな﹂と僕は言
った。
﹁そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店がある
の。ちょっと時間がかかってもかまわないかしら?﹂
﹁いいよ。二時からの授業まではどうせ暇だから﹂
緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれて
いってくれた店は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋
だった。我々がテ︱ブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四
角い容器に入った日変りの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしか
にわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だった。
﹁美味いね﹂
﹁うん。それに結構安いのよ。だから高校のときからときどき
ここにお昼食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあっ
たのよ。ものすごく厳しい学校でね、私たちこっそり隠れて食べに
来たもんよ。なにしろ外食してるところをみつかっただけで停学に
なる学校なんだもの﹂
サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そう
な目をしていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットを
いじったり、小指の先で目のきわをぽりぽりと掻いたりしていた。
﹁眠いの?﹂と僕は言った。
﹁ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈
夫、気にしないで﹂と彼女は言った。﹁この前ごめんなさいね。ど
うしても抜けられない大事な用事ができちゃったの。それも朝にな
って急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレストランに電
話をしようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの
家の電話だって知らないし。ずいぶん待った?﹂
﹁べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから﹂
﹁そんなに余ってるの?﹂
﹁僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくら
いのものだよ﹂
緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。﹁あなたって
親切なのね﹂
﹁親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ﹂と僕は言った。
﹁ところであの日君の家に電話したら、家の人が君は病院に言った
って言ってたけど、何かあったの?﹂
﹁家に?﹂と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言っ
た。﹁どうして家の電話番号がわかったの?﹂
﹁学生課で調べたんだよ、もちろん。誰でも調べられる﹂
なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、またブレスレット
をいじった。﹁そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの
電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、その病院のことだ
けど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさ
い。﹁
﹁かまわないよ。なんだか余計なこと訊いちゃったみたいだ
な﹂
﹁ううん、そんなことないのよ。私が今少し疲れてるだけ。雨
にうたれた猿のように疲れているの﹂
﹁家に帰って寝たほうがいいんじゃないかな﹂と僕は言ってみ
た。
﹁まだ寝たくないわ。少し歩きましょうよ﹂と緑は言った。
﹁彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高
校の前に僕をつれていった。四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕は
ふと直子と、その果てしない歩行のことを思い出した。そういえば
すべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央
線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とはず
いぶん違ったものになっていただろうな、とぼくはふと思った。そ
してそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わなかったとしても結
局は同じようなことになっていたかもしれないと思いなおした。多
分我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会って
いなかったとしても、我々はべつのどこかであっていただろう。と
くに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。
僕と小林緑は二人で公園のベンチに座って彼女の通っていた高
校の建物を眺めた。校舎にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩
がとまって羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には
大きな樫の木がはえていて、そのわきから白い煙がすうっとまっす
ぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇
らせていた。
﹁ワタナベ君、あの煙なんだか分かる?﹂突然緑が言った。
わからない、と僕は言った。
﹁あれ生理ナプキン焼いてるのよ﹂
﹁へえ﹂と僕は言った。それ以上に何と言えばいいのかよくわ
からなかった。
﹁生理ナプキン、タンポン、その手のもの﹂と言って緑はにっ
こりした。﹁みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、
女子校だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉
で焼くの。それがあの煙なの﹂
﹁そう思ってみるとどことなく凄味があるね﹂と僕は言った。
﹁うん、私も教室の窓からあの煙をみるたびにそう思ったわ
よ。凄いなあって。うちの学校は中学、高校あわせる千人近く女の
子がいるでしょ。まあまだ始まってない子もいるから九百人とし
て、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。
で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわ
けよね﹂
﹁まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど﹂
﹁かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集め
てまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら?﹂
﹁さあ、見当もつかない﹂と僕は言った。どうしてそんなこと
が僕にわかるというのだ。そして我々はしばらく二人でその白い煙
を眺めた。
﹁本当は私あの学校に行きたくなかったの。﹂と緑は言って小
さく首を振った。﹁私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。
ごく普通の人がいくごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青
春を過ごしたかったの。でも親の見栄であそこに入れられちゃった
のよ。ほら小学校のとき成績が良いとそういうとこあるでしょ?先
生がこの子の成績ならあそこに入れなすよ、ってね。で、入れられ
ちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。
一日も早くここを出ていきたい、一日も早くここを出ていきたいっ
て、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻?無
欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どう
してだかわかる?﹂
﹁わからない﹂と僕は言った。
﹁学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかっ
たの。負けるものかって思ったの。一度負けたらおしまいだって思
ったの。一度負けたらそのままずるずる行っちゃうんじゃないかっ
て怖かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行っ
たわよ。先生がおい小林具合わるいんじゃないかって言っても、い
いえ大丈夫ですって嘘ついてがんばったのよ。それで無遅刻?無欠
席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学
でドイツ語をとったの。だってあの学校に恩なんか着せられちゃた
まらないもの。そんなの冗談じゃないわよ。﹂
﹁学校のどこが嫌いだったの?﹂
﹁あなた学校好きだった?﹂
﹁好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に
通ったけどとくに気にはしなかったな。﹂
﹁あの学校ね﹂と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。
﹁エリ︱トの女の子のあつまる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良
いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持の娘ばかり
ね。。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄付もしょっ
ちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借りきって塗り
のお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル?オ︱クラの食堂でテ
︱ブル?マナ︱の講習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ね
え、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って
私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんない
ったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、
ち よ だ もとあざぶ でんえんちょうふ せ た が や せいじょう
ち よ だ もとあざぶ でんえんちょうふ せ た が や せいじょう
千代田区三番町、港区元麻布、大田区田園調布、世田谷区 成 城……
かしわし

もうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県柏市っていう女の
子がいてね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だっ
たわよ。家にあそびにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどっていう
からいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷
地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があって、小型車くら
い大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわ
け。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてた
のよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス?ベンツで
学校の近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、そ
の運転手たるや﹃グリ︱ン?ホ︱ネット﹄に出てくる運転手みたい
に帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子、自分のこと
を恥ずかしがってるのよ。信じられないワ。信じられる?﹂
僕は首を振った。
き た お お つ か
﹁豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしな
いわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、︿書店経営﹀って
ね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれた
わ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわ
よ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの
人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、
実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがら
けんじつ
と戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一番堅実に
売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧?図解入り四十八手のとじこ
み付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってって、台
所のテ︱ブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとた
めしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さ
んって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れ
るわよね。マガジン、サンデ︱、ジャンプ。そしてもちろん週刊
誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあるけど、たいした
ものないわよ。ミステリ︱とか、時代もの、風俗もの、そういうの
しか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てか
た、結婚式のスピ︱チ、これだけは知らねばならない性生活、煙草
はすぐやめられる、などなど。それからうちは文房具まで売ってる
のよ。レジの横にボ︱ルペンとか鉛筆とかノ︱トとかそういうの並
べてね。それだけ。﹃戦争と平和﹄もないし、﹃性的人間﹄もない
むぎばたけ

し、﹃らい麦 畑﹄もないの。それが小林書店。そんなものいったい
どこがうらやましいっていうのよ?あなたうらやましい?﹂
﹁情景が目の前に浮かぶね﹂
﹁ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに
来るし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十
分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはで
きるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるよう
な余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりする
べきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付
があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこ
かにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足り
なくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわ
よ。あなたのお家はお金持なの?﹂
﹁うち?うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもない
し、とくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこ
う大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送り
はそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の
家だよ。小さな庭があって、トヨタ?カロ︱ラがあって﹂
﹁どんなアルバイトしてるの?﹂
﹁週に三回新宿のレコ︱ド屋で夜働いている。楽な仕事だよ。
じっと座って店番してりゃいいんだ﹂
﹁ふうん﹂と緑は言った。﹁私ね、ワタナベ君ってお金に苦労
したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけ
で﹂
﹁苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわ
けじゃないっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだ
よ﹂
﹁私通って学校では大抵の人は金持だったのよ﹂と彼女は膝の
上に両方の手のひらを上にに向けて言った。﹁それが問題だったの
よ﹂
﹁じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみ
ることになるよ﹂
﹁ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?﹂
﹁わからないな﹂
﹁お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だ
ちに何かしましょう寄って言うでしょう、すると相手はこう言う
の、﹃私いまお金がないから駄目﹄って。逆の立場になったら私と
てもそんなこと言えないわ。私がもし﹃いまお金ない﹄って言った
ら、それは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけ
よ。美人の女の子が﹃私今日はひどい顔してるからそどに出たくな
いなあ﹄っていうのと同じね。ブスの子がそんなこと言ってごらん
なさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だった
のよ。去年までの六年間の﹂
﹁そのうちに忘れるよ﹂と僕は言った。
﹁早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたの
よ。普通の人がいっぱいいて﹂
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫で
た。
﹁君はなにかアルバイトしてる?﹂
しょうさっし
﹁うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子
みたいなのがついてるでしょ?町の説明とか、人口とか、名所とか
についていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング?コ
︱スがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲いて、こう
いう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に
ひ び や
簡単なの。あっという間よ。日比谷図書館に行って一日がかりで本
を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら
仕事なんかくらでもくるし﹂
﹁コツって、どんなコツ?﹂
﹁つまりね、他の人が書かないようなことをちょっと盛りこん
あのこは文章がかける
でおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人 は って思って
くれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれ
るのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたこと
でいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだ
が、わたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節が
くると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわっている光景が見ら
れる、とかね。そういうエピソ︱ドをひとつ入れておくとね、みん
なすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイト
の子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だがら私けっこうい
いお金とってるのよ、その原稿書きで﹂
﹁でもよくそういうエピソ︱ドがみつかるもんだね、うまく﹂
﹁そうねえ﹂と言って緑はすこし首ををひねった。﹁見つけよ
うと思えばなんとか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程
度に作っちゃえばいいのよ﹂
﹁なるほど﹂と僕は感心して言った。
﹁ピ︱ス﹂と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によ
って日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした﹄。緑も突
撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせ
るようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと
言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。
﹁男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスタ︱ベ
イションしたりしてるだけさ﹂
﹁ワタナベ君もするの、そういうの?﹂
﹁しない人間はいないよ﹂と僕は説明した。﹁女の子に生理が
あるのと同じように、男はマスタ︱ベイションやるんだ。みんなや
る。誰でもやる。﹂
﹁恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人
も?﹂
けいおう
﹁そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応大学の学生
なんてマスタ︱ベイションしてからデ︱トに行くよ。その方がおち
つくからって﹂
﹁そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね﹂
﹁まったく﹂と言って緑は笑った。﹁ところでワタナベ君、今
度の日曜日は暇?あいてる?﹂
﹁どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃなら
ないけど﹂
﹁よかったら一度うちにあそびにこない?小林書店に。店は閉
まってるんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょ
っと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごは
ん食べない?作ってあげるわよ﹂
﹁ありがたいね﹂と僕は言った。
緑はノ︱トのベ︱ジを破って家までの道筋をくわしく地図に描
いてくれた。そして赤いボ︱ルペンを出して家のあるところに巨大
な×印をつけた。
﹁いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てる
から。十二時くらいに来てくれる?ごはん用意してるから﹂
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそ
ろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行
くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯もの
を屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。
むれ
赤とんぼの群れが中庭をぐるぐるとびまわり、近所の子供たちが網
をもってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗はだらん
と下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て
寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えた
ようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まって
いた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっ
ていた。木製のヒ︱ルのついたサボをはいた女の子がからんからん
と音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわき
では四、五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げてい
た。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本か
買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から
水仙の花が好きなのだ。
日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなか
った。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花
を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑っ
た。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座り、窓のす
ぐそとを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の
のきさき
軒先すれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの
はちうえ
鉢植が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなたぼっこをしてい
た。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこ
かからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレ︱の匂いさえ漂ってい
た。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途
中の駅で何人か客がこりこんできたが、三人のおばあさんたちは飽
きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通り
を彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商
はんじょう
店はどれもこれもあまり繁 盛しているようには見えなかった。どの
店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消えかけているも
のもあった。建物の旧さやスタイルから見て、このあたりが戦争で
爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並み
がそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあ
ぞうちく

ったし、どの家も 増築されたら部分的に補修されたりはしていた
が、そういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えること
のほうが多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音を
あげて郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパ︱トか
がんこ
社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑固に昔から住んでい
る土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の
排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼ
んやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリン?スタンドの角を右に曲
ると小さな商店街があり、まん中あたりに﹁小林書店﹂という看板
が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話から
想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本
屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに
走っていったのと同じような本屋だった。小林書店の前に立ってい
ると僕はなんとなく懐かしい気分になった。どこの町にもこういう
本屋があるのだ。
店はすっかりシャッタ︱をおろし、シャッタ︱には﹁週刊文
春?毎週木曜日発売﹂と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど
間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのも
あまり気が進まなかったので、僕はシャッタ︱のわきにあるベルを
押して、二、三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待っ
たが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷ってい
ると、上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上げると緑が窓か
ら首を出して手を振っていた。
﹁シャッタ︱開けて入ってらっしゃいよ﹂と彼女はどなった。
﹁ちょっと早かったけど、いいかな?﹂と僕もどなりかえし
た。
﹁かまわないわよ、ちっとも。二階に上がってきてよ。私、今
ちょっと手が放せないの﹂そしてまたガラガラと窓が閉まった。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッタ︱を一メ︱トルほ
ど押しあげ、身をかがめて中に入り、またシャッタ︱を下ろした。
ど ま

店の中はまっ暗かった。土間からあがったところは簡単な応接室の
ようになっていて、ソファ?セットが置いてあった。それほど広く
はない部屋で、窓からは一昔前のポ︱ランド映画みたいなうす暗い
光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペ︱ス
があり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上がっ
ていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので
僕は少なからずホッとした。
﹁ねえ、こっち﹂とどこかで緑の声がした。階段を上がったと
ころ右手に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そ
のものは旧かったが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も
蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕
度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く
匂いがした。
﹁冷蔵庫にビ︱ルが入ってるから、そこに座って飲んでてくれ
る?﹂と緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビ︱
ルをだしてテ︱ブルに座って飲んだ。ビ︱ルは半年くらいそこに入
ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テ︱ブルの上
には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボ
︱ルペンもあって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字
が書いてあった。
﹁あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててく
れる?待てる?﹂
﹁もちろん待てるよ﹂と僕は言った。
僕は冷たいビ︱ルをすすりながら一心不乱に料理を作っている
緑のうしろ姿を眺めていた。彼女は素速く器用に体を動かしなが
ら、一度に四つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで
煮ものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素速く刻み、
冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗っ
だ が っ き
た。うしろから見ているとその姿はインドの 打楽器奏者を思わせ
た。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして
しゅんびん
水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が 俊 敏で
無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれ
を眺めていた。
﹁何か手伝うことあったらやるよ﹂と僕は声をかけてみた。
﹁大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから﹂と緑は言ってち
らりとこちらを向いて笑った。緑は細いブル︱ジ︱ンズの上にネイ
ビ︱ブル︱Tシャツを着ていた。Tシャツの背中にはアップル?レコ
︱ドのりんごのマ︱クが大きく印刷されていた。うしろから見ると
彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるでこしを
がっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてし
きゃしゃ
まったんじゃないかと思えるくらいの華奢な腰だった。そのせいで
普通の女の子がスリムのジ︱ンズをはいたときの姿よりはずっと中
性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女
りんかく
の体の輪郭にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。
﹁そんなに立派な食事作ることなかったのにさ﹂と僕は言っ
た。
﹁ぜんぜん立派じゃないわよ﹂と緑はふりむかずに言った。
﹁昨日は私忙しくてろくに買物できなかったし、冷蔵庫のありあわ
せのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしない
で。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。う
ちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなの
よ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたて
て親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人望がある
というのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあ
れもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、
幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆んどお酒
飲まないくせに家の中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に
出すためよ。だからビ︱ルどんどん飲んでね、遠慮なく﹂
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づ
いた。靴を脱ぐときに横に置いてそのまま忘れてきてしまったの
だ。僕はもう一度下におりて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙
の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から細長いグラスをだし
て、そこに水仙をいけた。
﹁私、水仙って大好きよ﹂と緑は言った。﹁昔ね高校の文化祭
で﹃七つの水仙﹄唄ったことあるのよ。知って る、﹃七つの 水
仙﹄?﹂
﹁知ってるよ、もちろん﹂
﹁昔フォ︱ク?グル︱プやってたの。ギタ︱弾いて﹂
そして彼女は﹁七つの水仙﹂を歌いながら料理を皿にもりつけ
ていった。
緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢
のものに、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西
京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸い物、しめじの御飯、それに
たくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついて
いた。味つけはまったく関西風の薄味だった。
﹁すごくおいしい﹂と僕は感心して言った。
﹁ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待して
なかったでしょ?見かけからして﹂
﹁まあね﹂と僕は正直に言った。
﹁あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?﹂
﹁僕のためにわざわざ薄味でつくったの?﹂
﹁まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家は
いつもこういう味つけよ﹂
﹁お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?﹂
﹁ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の
人よ。うちの親戚中探したって関西のひとなんて一人もいないわ
よ。うちは東京?北関東系の一家なの﹂
﹁よくわからないな﹂と僕は言った。﹁じゃあどうしてこんな
きちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわ
け?﹂
﹁まあ話せば長くなるんだけどね﹂と彼女はだしまき玉子を食
べながら言った。﹁うちのお母さんというのがなにしろ家事と名の
つくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆んど作らなかった
の。それにほら、うちは商売やってるでしょ、だから忙しいと今日
は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそ
れで済ましちゃおうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。
私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしょう
がなかったの。三日分のカレ︱作って毎日それをたべてるとかね。
それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたも
のを自分で作ってやると決心したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行
って一番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあ
ることを隅から隅まで全部マスタ︱したのまな板の選び方、包丁の
研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そして
その本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風にな
っちゃったわけ﹂
﹁じゃあこれ、全部本で勉強したの?﹂と僕はびっくりして訊
いた。
﹁あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったり
してね。それで味を覚えて。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的
思考って駄目だけど﹂
﹁誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思う
よ、たしかに﹂
﹁そりゃ大変だったわよ﹂と緑はため息をつきながら言った。
﹁なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょ。
きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出し
てくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あ
んなベラベラの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそういう
とね、魚なんかおろさなくていいって言われるの。だから仕方ない
わよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋とかザルとか買っ
たの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命爪に火をと
もすようにお金ためてザルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。
まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴
やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?﹂
僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。
﹁高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかった
の。だしまき玉子を作るための細長い銅のやつ。それで私、新しい
ブラジャ︱を買うためのお金使ってそれ買っちゃったの。おかげで
もう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャ︱
で暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一生懸命乾かして、
朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世
の中で何が哀しいって生乾きのブラジャ︱つけるくらい哀しいこと
ないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子
焼き器のためだなんて思うとね﹂
﹁まあそうだろうね﹂と僕は笑いながら言った。
﹁だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわ
るいとは思うんだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好き
に使って好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかき
ちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどう
なってるのか全然知らないんだもの。﹂
﹁お母さんはいつ亡くなったの?﹂
のうしゅよう
﹁二年前﹂と彼女は短く答えた。﹁癌よ。脳腫瘍。一年半入院
して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになっ
て、それでも死ねなくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだの。
なんていうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大
変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万
円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはなきゃいけないわ、なんのか
のでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪人しちゃうし、
踏んだり蹴ったりよ。おまけに︱﹂と彼女は何かの言いかけたが思
いなおしてやめ、箸を置いてため息をついた。﹁でもずいぶん暗い
話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?﹂
﹁ブラジャ︱のあたりからだね﹂と僕は言った。
﹁そのだしまきよ。心して食べてね﹂と緑は真面目な顔をして
言った。
僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。
緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだ
けでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。
食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テ︱ブルの上を拭き、ど
こかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけ
た。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。
﹁このままの方がいいみたいね﹂と緑は言った。﹁花瓶に移さ
なくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺
で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じが
するもの﹂
﹁大塚駅の前の水辺でつんできたんだ﹂と僕は言った。
緑はくすくす笑った。﹁あなたって本当に変ってるわね。冗談
なんかいわないって顔して冗談言うんだもの﹂
緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとすりつける
ようにして消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。
﹁女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ﹂と僕は言っ
きこりおんな
た。﹁それじゃ木樵女みたいだ。無理に消そう思わないでね、ゆっ
くりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃく
しゃならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどん
なことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事し
ているときに三ヶ月一枚のブラジャ︱でとおしたなんていう話もあ
まりしないね、普通の女の子は﹂
﹁私、木樵女なのよ﹂と緑は鼻のわきを掻きながら言った。
﹁どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につ
かないの。他に言いたいことある?﹂
﹁マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね﹂
﹁いいのよ、べつに。どうせ吸ったって同じくらいまずいんだ
もの﹂と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハ︱ド?パ
ッケ︱ジをくるくるとまわした。﹁先月吸いはじめたばかりなの。
本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみよ
うかなと思ってね、ふと﹂
﹁どうしてそうと思ったの?﹂
緑はテ︱ブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考
えていた。﹁どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?﹂
﹁六月にやめたんだ﹂
﹁どうしてやめたの?﹂
﹁面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さと
か、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそうんな風に縛ら
れるのって好きじゃないんだよ﹂
﹁あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっ
と﹂
﹁まあそうかもしれないな﹂と僕は言った。﹁多分そのせいで
人にあまり好かれないんだろうね。昔からそうだな﹂
﹁それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思
っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃ
ないかしら﹂と彼女は頬杖をつきながらもそもそした声で言った。
﹁でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変っ
てるし。﹃何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだ
よ﹄﹂
僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立っ
て、彼女の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいっ
た。
﹁ ところ で家 族の人はみ んな何処に行っち ゃったの、今日
は?﹂と僕は訊いてみた。
﹁お母さんはお墓の中よ。二年前死んだの。﹂
﹁それ、さっき聞いた﹂
﹁お姉さんは婚約者とデ︱トしてるの。どこかドライブに行っ
たんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてる
の。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけ
ど。﹂
﹁緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
﹁あとはお父さんね﹂と少しあとで緑は言った。
﹁そう﹂
﹁お父さんは去年の六月にウルグアイに行ったまま戻ってこな
いの﹂
﹁ウルグアイ?﹂と僕はびっくりして言った。﹁なんでまたウ
ルグアイなんかに?﹂
いじゅう
いじゅう
﹁ウルグアイに移住しようとしたのよ、あのひと。馬鹿みたい
な話だけど。軍隊のときの知りあいがウルグアイに農場持ってて、
そこに行きゃなんとでもなるって急に言いだして、そのまま一人で
飛行機乗って行っちゃったの。私たち一生懸命とめたのよ、そんな
ところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいい
ちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。で
も駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすご
いショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それ
くらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ。﹂
きづち
僕はうまく木槌が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。
﹁お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向かって
なんて言ったか知ってる?こう言ったのよ。﹃俺は今とても悔し
い。俺はお母さんを亡くするよりはお前たち二人を死なせたほうが
ずっと良かった﹄って。私たち唖然として口もきけなかったわ。だ
ってそう思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃ
ない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわ
かるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かってお前らがか
わりにしにゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょ
っとひどすぎるとおもわない?﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁私たちだって傷つくわよ﹂と緑は首を振った。﹁とにかく
ね、うちの家族ってみんなちょっと変ってるのよ。どこか少しずつ
ずれてんの﹂
﹁みたいだね﹂と僕も認めた。
﹁でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向
かってお前らが代わりに死にゃよかったんだなんて言えるくらい奥
さんを愛せるなんて?﹂
﹁まあそう言われてみればそかもしれない﹂
﹁そしてウルグアイに行っちゃったの。私たちをひょい放り捨
てて﹂
僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭
いた食器を棚にきちんとしまった。
﹁それでお父さんからは連絡ないの?﹂と僕は訊いた。
﹁一度だけ絵ハガキが来たわ。去年の三月に。でもくわしいこ
とは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がう
まくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよね
え。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ、あの
人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてない
の。終わりの方にももう少し落ちついたら私とお姉さんを呼びよせ
るって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙出
しても返事も来やしないし﹂
﹁それでもしお父さんがウルグアイに来いて言ったら、君どう
するの?﹂
﹁私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは
絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所
とかが大嫌いなの﹂
﹁ウルグアイってそんなに不潔なの?﹂
﹁知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウン
すいせん

コいっぱいで、そこに蝿がいっぱいたかって、水洗便所の水はろく
に流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。そうい
う映画をどこかで見たんじゃないかしら。お姉さんって虫も大嫌い
なの。お姉さんの好きなのはチャラチャラした車に乗って湘南あた
りをドライブすることなの﹂
﹁ふうん﹂
﹁ウルグアイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ﹂
﹁それじゃこのお店は今誰がやってるの?﹂と僕は訊いてみ
た。
﹁お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじ
さんが毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば
手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じゃないからなんと
かとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っち
ゃうつもりだけど﹂
﹁お父さんのことは好きなの?﹂
緑は首を振った。﹁とくに好きってわけでもないわね﹂
﹁じゃあどうしてウルグアイまでついていくの?﹂
﹁信用してるからよ﹂
﹁信用?﹂
﹁そう、たいして好きなわけじゃないけど信用してるのよ、お
父さんのとこを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放
りだしてふらっとウルグアイに行っちゃうような人を私は信用する
のよ。わかる?﹂
僕はため息をついた。﹁わかるような気もするし、わからない
ような気もするし﹂
緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。﹁いいの
よ、別にどっちだっていいんだから﹂と彼女は言った。
その日曜日の午後にはばたばたといろんなコトが起きった。奇
妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物
干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスした。そんな
ふうに言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおり
に進行したのだ。
僕らは大学の話をしながら食後のコ︱ヒ︱を飲んでいると、消
防自動車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大き
くなり、その数も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走
り、何人かは大声で呼んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓
を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからど
こかに消えた。とんとんとんと足早に階段を上がる音が聞こえた。
僕は一人でコ︱ヒ︱を飲みながらウルグアイっていったいどこ
にあったんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラ
があそこで、このへんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウル
グアイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。その
うちに緑が下におりてきて、ねえ、早く一緒に来てよといった。僕
は彼女のあとをついて廊下のつきあたりにある狭い急な階段を上
り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひと
いちぼう
きわ高くなっていて、近所が一望に見わたせた。三軒か四軒向うか
らもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れてい
た。きな臭い匂いが漂っていた。
﹁あれ坂本さんのところだわね﹂と緑は手すりから身をのりだ
す用にして言った。﹁坂本さんって以前建具屋さんだったの。今は
店じまいして商売してはいないんだけど﹂
僕は手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど
三階建てのビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかっ
たけれど、消防車が三台か四台あつまって消火作業をつづけていて
いるようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中
に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには
例によって見物人がひしめいていた。
﹁大事なものがあったらまとめて、ここは非難したほうがいい
みたいだな﹂と僕は緑に言った。﹁今は風向きが逆だからいいけ
ど、いつ変るかもしれないし、すぐそこがガソリン?スタンドだも
のね。手伝うから荷物をまとめなよ﹂
﹁大事なものなんてないわよ﹂と緑は言った。
﹁でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そう
いうもの。とりあえずのお金だってなきゃ困るし﹂
﹁大丈夫よ。私逃げないもの﹂
﹁ここが燃えても?﹂
﹁ええ﹂と緑は言った。﹁死んだってかまわないもの﹂
僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女のいったいること
がどこまで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからな
かった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでも
いいやという気になってきた。
﹁いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に﹂と僕は言った。
﹁一緒に死んでくれるの?﹂と緑は目をかがやかせて言った。
﹁まさか。危なくなったら僕は逃げるの。死にたいんなら君が
一人で死ねばいいさ﹂
﹁冷たいのね﹂
﹁昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはい
かないよ。夕食ならともかくさ﹂
﹁ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺
めながら唄でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時
に考えばいいもの﹂
﹁唄?﹂
ざ ぶ と ん
緑は下から座布団を二枚と缶ビ︱ルを四本とギタ︱を物干し場
に運んできた。そして僕らはもうもうと上がる黒煙を眺めつつビ︱
ルを飲んだ。そして緑はギタ︱を弾いて唄を唄った。こんなことし
ひんしゅく
て近所の顰 蹙をかわないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を
見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行
為だとは思えなかったからだ。
﹁大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないこと
にしてるの﹂と緑は言った。
彼女は昔はやったフォ︱ク?ソングを唄った。唄もギタ︱もお
世辞にも上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだっ
た。彼女は﹃レモン?ツリ︱﹄だの﹁バフ﹂だの﹃五〇〇マイル﹄
だの﹃花はどこに行った﹄だの﹃漕げよマイケル﹄だのをかたっぱ
しから唄っていった。はじめのうち緑は僕に低音パ︱トを教えて二
がっしょう
人で合 唱しようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあ
きらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。僕はビ︱ルをす
すり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めていた。
煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえ
していた。人々は大声で何かを呼んだり命令したりしていた。ばた
ばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプタ︱がやってきて写
真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと
僕は思った。警官がラウト?スピ︱カ︱で野次馬に向かってもっと
後ろに退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んで
いた。どこかでガラスの割れる声がした。やがて風が不安定に舞い
はじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにもちらほらと
舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビ︱ルをのみな
がら気持良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり
唄ってしまうと、今度は自分で作詞?作曲したという不思議な唄を
唄った。
あなたのためにシチュ︱作りたいのに
私には鍋がない。
あなたのためにマフラ︱を編みたいのに
わたしには毛糸がない。
あなたのために詩を書きたいのに
私にはペンがない
﹁﹃何もない﹄っていう唄なの﹂と緑は言った。歌詞もひどい
し、曲もひどかった。
僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン?スタン
ドに引火したら、この家も吹きとんじゃうだろうなというようなこ
とを考えていた。緑は唄い疲れるとギタ︱を置き、日なたの猫みた
いにごろんと僕の肩にもたれかかった。
﹁私の作った唄どうだった?﹂と緑が訊いた。
﹁ユニ︱クで独創的で、君の人柄がよく出てる﹂と僕は注意深
く答えた。
﹁ありがとう﹂と彼女は言った。﹁何もない︱というのがテ︱
マの﹂
﹁わかるような気がする﹂と僕は肯いた。
﹁ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね﹂と緑は僕
の方を向っていった。
﹁うん﹂
﹁私ちっとも悲しくなかったの﹂
﹁うん﹂
﹁それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの﹂
﹁そう?﹂
﹁そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わ
ない﹂
﹁でもいろいろ事情があるわけだろう?そうなるには﹂
﹁そうね、まあ、いろいろとね﹂と緑は言った。﹁それなりに
複雑だったのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なん
のかんのといっても実のお父さん?お母さんなんだから、死んじゃ
ったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのよ
ね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛
くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくる
だけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう
非難するのよ、﹃お前、私が死んで嬉しんだろう?﹂ってね。べつ
にうれしがないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲し
くないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかっ
たわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね﹂
なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。
火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちの
ぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだ
ろうと僕は不思議に思った。
﹁でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄い
ところあるわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが︱お
父さんとお母さんが︱もう少し私のことを愛してくれていたとした
ら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっ
と悲しい気持ちになるとかね﹂
﹁あまり愛されなかったと思うの﹂
彼 女は首 を曲 げて僕の顔 を見た。そしてこ くんと肯いた。
﹁﹃十分じゃない﹄と﹃全然足りない﹄の中間くらいね。いつも飢
えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかった
の。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一
度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私に
そういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金が
かかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。それで
私こう思ったの、私のことを年中百パ︱セント愛してくれる人を自
分でみつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう
決心したの﹂
﹁すごいね﹂と僕は感心して言った。﹁それで成果はあがっ
た?﹂
﹁むずかしいところね﹂と緑は言った。そして煙を眺めながら
しばらく考えていた。﹁多分あまりに長く持ちすぎたせいね、私す
ごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ﹂
﹁完璧な愛を?﹂
﹁違うわよ。いくら私でもそこまえは求めてないわよ。私が求
めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私
があなたに向かって苺のシュ︱ト?ケ︱キが食べたいって言うわ
ね、するとあなたはなにもかも放りだして走ってそれを買いに行く
のよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて﹃はいミドリ、苺のシ
ョ︱ト?ケ︱キだよ﹄ってさしだすでしょ、すると私は﹃ふん、こ
んなのもう食べたくなくなっちゃったわよ﹄って言ってそれを窓か
らぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの﹂
﹁そんなの愛とはなんの関係もないような気がするけどな﹂と
僕はいささか愕然として言った。
﹁あるわよ。あなたが知らないだけよ﹂と緑は言った。﹁女の
子にはね、そう言うのがものすごく大切なときがあるのよ﹂
﹁苺のショ︱ト?ケ︱キを窓から放り投げることが?﹂
﹁そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいの。﹃わかっ
たよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のシュ︱ト?ケ︱キを食べ
たくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみ
たいに馬鹿で無神経だった。お詫びにもう一度何かべつのものを買
いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレ︱ト?ム︱ス、それ
ともチ︱ズ?ケ︱キ?﹄﹂
﹁するとどうなる?﹂
﹁ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな﹂
﹁でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれ
ど﹂と緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。﹁ある種の人々
にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところ
から始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ﹂
﹁君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな﹂
と僕は言った。
﹁そういう人はけっこう多いわね﹂と彼女は爪の甘皮をいじり
ながら言った。﹁でも私、真剣にそういう考え方しかできないの。
ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方してるな
んて思ったこともないし、そんなもの求めてるわけでもないのよ。
でも私が正直に話すと、そんな冗談か演技だと思うの。それでとき
どき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね﹂
﹁そして火事で死んでやろうと思うの﹂
﹁あら、これはそういうじゃないわよ。これはね、ただの好奇
心﹂
﹁火事で死ぬことが?﹂
﹁そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったの
よ﹂と緑は言った。﹁でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。
それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃう
だけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母
さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚っ
てみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう
ちすじ
血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生
きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識
と言えば痛みと苦しみだけ﹂
緑はマルボロをくわえて火をつけた。
﹁私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりゆっ
くり死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたら薄暗くて何も見
えなくなっていて、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近い
と考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶
対に耐えられないわ、私﹂
結局それから三十分ほどで火事はおさまった。大した延焼もな
く、怪我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰
路につき、人々もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていっ
た。交通を規制するパトカ︱が残って路上でライトをぐるぐると回
転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんに
とまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたい
だった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして
殆んど口をきかなかった。
﹁疲れたの?﹂と僕は訊いた。
﹁そうじゃないのよ﹂と緑は言った。﹁久しぶりに力を抜いて
ただけなの。ほおっとして﹂
﹁僕は緑の目を見ると、ミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩
を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かした
けれど、すぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒、我々は
そっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影
を落として、それが細かく震えているのが見えた。それはやさしく
穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だ
まりの中で物干し場に座ってビ︱ルを飲んで火事見物をしていなか
ったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、
その気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場から
きらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺
めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことをなん
かの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口
づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口
づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていない
というわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととっ
た。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいる
のだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
﹁あなたには好きな女の子いるの?﹂
﹁いるよ﹂
﹁でも日曜日はいつも暇なのね?﹂
﹁とても複雑なんだ﹂と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っ
ていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒
に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくる
かもしれないからと、彼女は断った。
﹁一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当
に嫌よね。一人きりでいるとね、身体がすこしずつ腐っていくよう
な気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとし
た液体だけになってね、地底に吸いこまれていくの。そしてあとに
は服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると﹂
﹁もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあう
よ。昼ごはんつきで﹂と僕は言った。
﹁いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから﹂と緑は
言った。

翌日の﹁演劇史Ⅱ﹂の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わ
ると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それか
ら日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生
が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱く
みたいに大事そうにテニス?ラケットを胸に抱え、もう一人は本を
何冊かとレナ︱ド?バ︱ンスタインのLPを待っていた。ふたりと
もきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしていた。クラブ?ハウス
の方からは誰かがベ︱スの音階練習をしている音が聞こえてきた。
ところどころに四、五人の学生のグル︱プがいて、彼らは何やかや
について好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしてい
た。駐車場にはスケ︱トボ︱ドで遊んでいる連中がいた。革かばん
を抱えた教授がスケ︱トボ︱ドをよけるようにしてそこを横切って
いた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむ
ようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を
書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久
しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に
気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが
本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかわからな
い。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下がり、人々
は人々はみんなしあわせそうに見えたし、そのおかげで僕はいつに
なく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいない
ように思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年かのあいだ、いったいどんな風景に
馴染んてきたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親
密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤ︱ド場の光
景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来
僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入
りこむことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存
在はいったいなんだったんだろうと考えてみた。でもその答えを見
つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕
のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれ
てしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感
じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結
果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来
する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもし
れないとも思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。
昼休みが終ると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。

その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかった
ら今夜あそびにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。
いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもや
もやとしていた、誰とでもいいから寝てみたいという気分だったの
だ。
僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの
上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗
って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降り、そのへ
んをぶらぶらしてからいつも行く近くのバ︱に入って適当な女の子
がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったの
だが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々
のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ払わない程度にウィ
スキ︱?ソ︱ダをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。
愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンタ︱に座ってギムレット
とマルガリ︱タを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、
二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人
で親しく話をしていたのだが、待ちあわせの相手が来ると二人はそ
ちらにいってしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバ︱につれて
いった。少し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうで
きあがって騒いでいた。奥のテ︱ブルに三人組の女の子がいたの
で、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。
みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲ま
ないかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門
限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らし
だったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変え
てみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるとい
う気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
﹁悪かったな、ひっぱりまわしちゃって﹂と彼は言った。
﹁かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだ
というのがわかっただけでも楽しかったですよ﹂と僕は言った。
﹁年に一回くらいあるんだ、こういうの﹂と彼は言った。
正直な話し、僕はもうセックスなんてどうだっていいやという
気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろ
うろして、性欲やらアルコ︱ルやらのいりまじったわけのわからな
いエネルギ︱を眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足ら
ない卑小なものであるように思えてきたのだ。
﹁これからどうするの、ワタナベ?﹂と永沢さんが僕に訊い
た。
﹁オ︱ルナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観て
ないから﹂
﹁じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな?﹂
﹁いけないわけがないでしょう?﹂と僕は笑って言った。
﹁もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介し
てやれるけど、どうだ?﹂
﹁いや、映画みたいですね、今日は﹂
﹁悪かったな。いつか埋め合わせするよ﹂と彼は言った。そし
て人混みの中に消えていった。僕はハンバ︱ガ︱?スタンドに入っ
てチ︱ズ?バ︱カ︱を食べ、熱いコ︱ヒ︱を飲んで酔いをさまして
から近くの二番館で﹃卒業﹄を観た。それほど面白い映画とも思え
なかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くり
かえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時感のひやり
とした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩い
た。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコ︱ヒ︱を飲
んで本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイ
タ︱が僕のところにやってきた、すみませんが相席お願いしますと
言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだ
けだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらい
の年だろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくな
い女の子たちだった。化粧も服装もごくまともで、朝の五時前に歌
舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと
何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は
思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとし
たみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたし、夕方に髭も
剃っていたし、おまけにト︱マス?マンの﹃魔の山﹄を一心不乱に
読んでいた。
女の子の一人は大柄で、グレ︱のヨットバ︱カ︱にホワイト?
ジ︱ンズをはき、大きなビニ︱ル?レザ︱の鞄を持ち、貝のかたち
の大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡を
かけ、格子柄のシャツの上にブル︱のカ︱ディガンを着て、指には
タ︱コイズ?ブル︱の指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはと
きどき眼鏡をとって指先で目を押さえるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケ︱キを注文し、何事かを小
声で相談しながら時間をかけてケ︱キを食べ、コ︱ヒ︱を飲んだ。
大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄な女の子は何回か首を横に
振った。マ︱ビン?ゲイやらビ︱ジ︱ズやらの音楽が大きな音でか
かっていたので話の内容まで聴きとれなかったけれど、どうやら小
柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだ
めているような具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察し
たりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダ︱?バッグを抱えるようにして洗面所
に行ってしまうと、大柄な方の女の子が僕に向かって、あのすみま
せん、と言った。僕は本を置いて彼女を観た。
﹁このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか?﹂と彼
女は言った。
﹁朝の五時すぎにですか?﹂と僕はびっくりして訊きかえし
た。
﹁ええ﹂
﹁ねえ、朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして
家に寝に帰る時間ですよ。﹂
﹁ええ、それはよくわかってはいるんですけれど﹂と彼女はす
ごく恥ずかしそうに言った。
﹁友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろ
とまあ事情があって﹂
﹁家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな﹂
﹁ でも私 、朝 の ⑦ 時 半 ご ろ の 電 車 で 長 野 に い っ ち ゃ う ん で
す。﹂
﹁じゃあ自動販売機でお酒買って、そのへんに座って飲むしか
手はないみたいですね﹂
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。
女の子二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の
町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の五時二十分に知らな
い女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るの
も面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日
本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱え
て西口の原っぱに行き、そこで即座の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今
年短大を出て勤めはじめたばかりで、仲良くしだった。小柄な方の
女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだが、最
近になって彼が他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひ
どく落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子
は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰
ることになっていたのだが、友だちにつきあって一晩新宿でよるあ
かしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
﹁でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?﹂
と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑
草をむしっていた。﹁彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやって
たんだもの、そんなのわかるもわかからないもないでしょう﹂
﹁いつの話、それ?﹂
﹁おとといの夜﹂
﹁ふうん﹂と僕は言った。﹁ドアは鍵があいてたわけ?﹂
﹁そう﹂
﹁どうして鍵を閉めなかったんだろう﹂と僕は言った。
﹁知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう﹂
﹁でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょ
う?彼女の気持ちはどうなるのよ?﹂とひとのよさそうな大柄の女
の子が言った。
﹁なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよ
ね。許す許さないの問題になると思うけど、あとは﹂と僕は言っ
た。
﹁誰にも私の気持ちなんかわからないわよ﹂と小柄な女の子が
あいかわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言っ
た。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパ︱トの上を超
えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話を
しているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたの
で、僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買っ
て彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、
僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の
方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないの
だが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかり
ながら殆んどやけでビ︱ルを飲んだ。女の子もあとから入ってき
て、二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビ︱ルを飲んでい
た。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。
彼女の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれい
だった。僕が脚のことを賞めると彼女は素っ気ない声でありがとう
と言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕
の手の動きに合わせて彼女は敏感に反応し、体をくねらせ、声をあ
げた。僕は中に入ると彼女は背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズ
ムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせる
ために一生懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠っ
た。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッ
セ︱ジもなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に
ねむけ

重くなっているような気がした。僕はシャワ︱に入って 眠気をと
り、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュ︱スを一本飲
んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみ
た。どれもガラス板に二、三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によ
そよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起
った出来事だった。テ︱ブルの上にビ︱ルを飲んだグラスが残って
いたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って
小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人
で電話番をしているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コ
︱ルしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話して
みたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入
口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だ
った。

﹁手紙をありがとう﹂と直子は書いていた。手紙は直子の実家
から﹁ここ﹂にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑な
んかではないし、正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方から
あなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだ、
とその手紙にはあった。
そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッド
に腰かけた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてき
た。風がカ︱テンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を
手にしたまま、とりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何
行かを読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を
失っていくように感じられた。僕は目を閉じ、長い時間をかけて気
持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読
んだ。
﹁ここに来てもう四ヶ月近くになります﹂と直子はつづけてい
た。
﹁私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていま
した。そして考えれば考えるほど、私は自分があなたに対して公正
ではなかったのではないかと考えるようになってきました。私はあ
なたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきで
はなかったのかと思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれません
ね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は﹃公正﹄なんてい
う言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子にとっては、物
事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだから
です。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいか
とかどうすれば自分が幸せになれるかとか、そういうことを中心に
物事を考えるものです。﹃公正﹄なんていうのはどう考えても男の
人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの﹃公正﹄という言葉はと
てもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が美しい
かとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面
倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわ
けです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的で
あるかとかね。
しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなか
ったと思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわした
り、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことで、私だっ
て自分自身を引きずりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。
言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、
本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとし
たら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。
たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間
です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だか
らこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりす
ると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自
分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができない
のです。あなたは本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんと
なくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あなたのことが
すごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に引きずりまわるこ
とになったのもあるいはそのせいかもしれません。
こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませ
んね。そう思いませんか?ここの治療は決して分析的にすぎるとい
う物ではありません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療
を受けていると、いやでも多かれ少なかれ分析的になってしまうも
のなのです。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれは
これを意味し、それ故にこうなのだ、とかね。こういう分析が世界
を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私には
よくわかりません。
しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したよ
うに自分でも感じますし、まわりの人々もそれを認めてくれます。
こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月
にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが
︵正直言って、何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じ
ゃなかったかしら?︶、今回はすごく落ち着いて書いています。き
れいな空気、外界から遮断された静かな世界、規則正しい生活、毎
日の運動、そういうものがやはり私には必要だったようでう。誰か
に手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝
えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書ける
ということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言
いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれで
もかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれる
だけで今の私には幸せなのです。そんなわけで、私は今あなたに手
紙を書いています。今は夜の七時半で、夕食を済ませ、お風呂にも
入り終ったところです。あたりはしんとして、窓の外は真っ暗で
す。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるので
すが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみんなとても
星にくわしくて、あれが乙女座だとか射手座だとか私に教えてくれ
ます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわ
しくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、
ここの人々は鳥や花や虫のこともとてもよく知っています。そうい
う人たちと話していると、私は自分がいろんなことについていかに
無知であったかということを思い知らされますし、そんな風に感じ
るのはなかなか気持ちの良いものです。
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。そ
の他にスタッフ︵お医者、看護婦、事務、その他いろいろ︶が二十
人ちょっといます。とても広いところですから、これは決して多い
数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が
近いかもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみ
んな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきこ
こが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいで
す。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前提の
もとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。
私はテニスとバスケット?ボ︱ルをやっています。バスケッ
ト?ボ︱ルのチ︱ムは患者︵というのは嫌な言葉ですが仕方ありま
せんね︶とスタッフが入りまじって構成されています。でもゲ︱ム
に熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだんだ
んわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話
だけれど、ゲ︱ムをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくら
い歪んでいるように見えちゃうのです。
ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることは
ある意味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるの
はその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだ
といいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれる
ことができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩
き方に癖があるように、感じ方や考え方や物の見方にも癖がある
し、それはなおそうと思っても急になおるものではないし、無理に
なおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるん
だそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そういう
のは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけで
すが、それでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかりま
す。私たちはたしかに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるの
かもしれません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦し
みを上手く自分の中に位置づけることができなくて、そしてそうい
うものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限
り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくて
すみます。何故なら私たちはみんな自分たちが﹃歪んでいる﹄こと
を知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っていると
ころです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らし
ています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件な
のです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつ
けるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのな
いようにそっと暮らしているのです。
運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、な
す、キウリ、西瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。
大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜
づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読んだり、専門家を
招いたり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのと
か、そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりま
した。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を
見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがあります
か?西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんです
ね。
私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしてい
ます。肉や魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうを食
べたいという気持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにか
く瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をす
ることもあります。そういうのにも専門家がいて︵考えてみれば専
門家だらけですね、ここは︶、これはいい、これは駄目と教えてく
れます。おかげで私はここにきてから三キロも太ってしまいまし
た。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきち
んとした食事のせいです。
その他の時間、私たちは本を読んだり、レコ︱ドを聴いたり、
編みものをしたりしています。TVとかラジオとかはありませんが、
その代わりけっこうしっかりした図書館もありますし、レコ︱ド?
ライブラリイもあります。レコ︱ド?ライブラリイにはマ︱ラ︱の
シンフォニ︱の全集からビ︱トルズまで揃っていて、私はいつもこ
こでレコ︱ドを借りて、部屋で聴いています。
この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、
あるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り
平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然
な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じま
す。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれる
ものかどうか、私には確信が持てないのです。
担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言
います。﹃外部の人﹄というのはつまり正常な世界の正常な人とい
うことですが、それいわれても、私にはあなたの顔しか思い浮ばな
いのです。正直に言って、私には両親にはあまり会いたくありませ
ん。あの人たちは私のことですごく混乱していて、会って話をして
も私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私には
あなたに説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うま
く説明できるかどうかはわかりませんが、それはとても大事なこと
だし、避けて通ることはできない種類のことなのです。
でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷として
は感じないで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないので
す。私は私に対するあなたの好意を感じるし、それを嬉しく思う
し、その気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の
私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにと
って、私の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝りま
す。許して下さい。前にも書いたように、私はあなたが思っている
より不完全な人間なのです。
ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の
普通の状況で出会って、お互いに好意を抱き合っていたとしたら、
いったいどうなっていたんだろうと。私がまともで、あなたもまと
もで︵始めからまともですね︶、キズキ君がいなかったとしたらど
うなっていただろう、と。でもこのもしはあまりにも大きすぎま
す。少なくとも私は公正に正直になろうと努力しています。今の私
にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持
ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。
この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。
前日までに電話連絡すれば、いつでも会うことができます。食事も
一緒にできますし、宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いと
きに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地
図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい﹂
僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして
下に降りて自動販売機でコ︱ラを買ってきて、それを飲みながらま
たもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻し、机の
上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にしては少しきちんとしす
ぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いて
あった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒
の裏の住所には﹁阿美寮﹂と書いてあった。奇妙な名前だった。僕
はその名前について五、六分間考えをめぐらせてから、これはたぶ
んフランス語のami︵友だち︶からとったものだろうと想像した。
手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出
た。その手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそう
な気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたよう
に、日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女
の手紙の一行一行を思い出し、それについて僕なりに思いをめぐら
しながら、僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れ
てから寮に戻り、直子のいる﹁阿美寮﹂に長距離電話をかけてみ
た。受付の女性が出て、僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言
い、できることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろ
うかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞き、三十分あとでもう一度
電話をかけてほしいと言った。
僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能です
のでどうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切り、ナ
ップザックに着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブラ
ンディを飲みながら﹃魔の山﹄のつづきを読んだ。それでもやっと
眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。

月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃
り、朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りして
きますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も
小旅行をしていたから、寮長もああと言っただけだった。僕は混ん
だ通勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線自由席の切符
を買い、いちばん早い﹁ひかり﹂に文字どおりとび乗り、熱いコ︱
ヒ︱とサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうと
うとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従
って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのタ︱ミナ
ルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかを訊い
た。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まで
はだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で
切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベ
ンチに座って﹁阿美寮﹂の正確な位置を調べてみた。地図でみると
﹁阿美寮﹂はおそろしく山深いところにあった。バスはいくつも山
を越えて北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行っ
て、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所は終点のほ
んの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩
けば﹁阿美寮﹂につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれ
は静かだろうと僕は思った。
二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川
に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさ
びしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビ
ニ︱ル?ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバス
は山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に
左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分がわるくなった。朝
飲んだコ︱ヒ︱の匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカ︱
ブもだんだん少なくなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突
然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高く
そびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。
開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛い
ばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進
み、世界中が永遠に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかと
いう気分になり始めたあたりでやっと林が終わり、我々はまわりを
山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が
見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠く
の方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物が
かかり、犬が何匹か吠えていた。家の前にはたき木が軒下までつみ
あげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにしばらくそん
な人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。
そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉
林を抜けて集落に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバ
スが停まるたびに何人かの客が降りた。乗りこんでくる客は一人も
いなかった。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出た
が、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするので降り
たい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めて四人し
か残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を
吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたりした。運転手は立
小便をした。ひもでしばった段ボ︱ル箱を車内に持ちこんでいた五
十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒
臭いので、そうだと僕は返事した。
やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停ま
り、運転手が降りてきた。二人の運転手は少し話しをしてからそれ
ぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスは
それぞれの方向に向ってまた進み始めた。どうして我々のバスが峠
の上でもう一台のバスが来るのを待っていたかという理由はすぐに
明らかになった。山を少し下ったあたりから道幅が急に狭くなって
いて二台の大型がすれちがうのはまったく不可能だったからだ。バ
スは何台かのライトバンや乗用車とすれちがったが、そのたびにど
ちらかがバックして、カ︱ブのふくらみにぴったりと身を寄せなく
てはならなかった。
谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作
してある平地も狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫って
いた。犬の多いところだけがどの集落も同じで、バスが来ると犬た
ちは競いあうように吠えた。
僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑
もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れ
ていて、登山ル︱トの入口があるだけだった。僕はナップザックを
肩にかけて、谷川に沿って登山ル︱トを上り始めた。道の左手には
川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道
を十五分ばかり進むと右手に車がやって一台通れそうな枝道があ
り、その入口には﹁阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りしま
す﹂という看板が立っていた。
雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついてい
た。まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音
が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度
だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こえたが、こちら
は何枚かフィルタ︱をとおしたみたいに小さくくぐもった音だっ
た。
雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈
くらいの高さで上に柵や網がついているわけではなく越えようと思
えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そう
だったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿
は見えなかった。門のわきには﹁阿美寮?関係者以外の立ち入りは
お断りします﹂というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋
にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には
三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジ
スタ?ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾いた音を立て
て時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみた
が、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのよう
なものをニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場に
なっていて、そこにはミニ?バスと4WDのランド?クル︱ザ︱とダ
︱クブル︱のボルボがとまっていた。三十台くらいは車が停められ
そうだったが、停まっているのはその三台きりだった。
ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林
の中の道をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった
男だった。彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向っ
て、﹁いや、どうもすみませんでしたな﹂とたいしてすまなくもな
さそうな口調で言った。自転車の泥よけには白いペンキで32と書い
てあった。僕が名前を言うと彼はどこかに電話をかけ、僕の名前を
二度繰り返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、はあ、わか
りましたと答え、電話を切った。
﹁本館に行ってですな、石田先生と言って下さい﹂と門衛は言
った。﹁その林の中の道を行くとロ︱タリ︱に出ますから二本目の
︱︱いいですか、左から二本目の道を行って下さい。すると古い建
物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこ
に鉄筋のビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とる
からわかると思います﹂
言われたとおりにロ︱タリ︱の左から二本目の道を進んでいく
と、つきあたりにはいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い
建物があった。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配され、植木
はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地である
らしかった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建て
の建物が見えた。三階建てとは言っても地面から掘りおこされたよ
うにくぼんでいるところに建っているので、とくに威圧的な感じは
受けない。建物のデザインはシンプルで、いかにも清潔そうに見え
た。
玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開け
て中に入ると、受付に赤いワンピ︱スを着た若い女性が座ってい
た。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように言われたのだと
言った。彼女はにっこり笑ってロビ︱にある茶色のソファ︱を指差
し、そこに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そして電話
のダイヤルをまわした。僕は肩からネップザックを下ろしてそのふ
かふかとしたソファ︱に座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良い
ロビ︱だった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽
象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待ってい
るあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。
途中で一度受付の女性が﹁もう少しで見えますから﹂と僕に声
をかけた。僕は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は
思った。あたりには何の物音もない。何だかまるで午睡の時間みた
いだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっす
り眠り込んでしまったみたいに静かな午後だった。
しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬
そうな短い髪をした中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとな
りに座って脚を組んだ。そして僕と握手した。握手しながら、僕の
手を表向けたり裏向けたりして観察した。
﹁あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょ
う?﹂と彼女はまず最初にいった。
﹁ええ﹂と僕はびっくりして答えた。
﹁手を見るとわかるのよ﹂と彼女は笑って言った。
とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさ
んしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせい
で老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した
若々しさのようなものがしわによって強調されていた。そのしわは
まるで生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の
顔によく馴染んでいた。彼女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難
しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑いも難しい顔もし
ない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっぱいにち
らばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけではな
く、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女
に好感を持った。
髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって
飛び出し、前髪も不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼
女にとてもよく似合っていた。白いTシャツの上にブル︱のワ︱ク
シャツを着て、クリ︱ム色のたっぷりとした綿のズボンにテニス?
シュ︱ズを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んど
なく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわ
が細かく動いた。いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い
女大工みたいに見えた。
彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から
下まで眺めまわしていた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体
の各部のサイズを測り始めるんじゃないかという気がするくらいだ
った。
﹁楽器何かできる?﹂
﹁いや、できません﹂と僕は応えた。
﹁それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに﹂
そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくる
のかさっぱりわからなかった。
彼女は胸のポケットからセブンスタ︱を取り出して唇にくわ
え、ライタ︱で火をつけてうまそうに煙を吹き出した。
﹁え︱とねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前
に私の方からここの説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だか
らまず私と二人でちょっとこうしてお話しすることにしたわけ。こ
こは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識もないと
いささか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだ
よく知らないでしょう?﹂
﹁ええ、殆んど何も﹂
﹁じゃ、まあ最初から説明すると……﹂と言いかけてから彼女
は何かに気づいたというようにパチッと指を鳴らした。﹁ねえ、あ
なた何か昼ごはん食べた?おなかすいてない?﹂
﹁すいてますね﹂と僕は言った。
﹁じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話し
ましょう。食事の時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べ
られると思うわ﹂
彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階
にある食堂まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今
使われているのは半分だけで、あとの半分はついたてで仕切られて
いた。なんだかシ︱ズン?オフのリゾ︱ト?ホテルにいるみたいだ
った、昼食メニュ︱はヌ︱ドルの入ったポテト?シチュ︱と、野菜
サラダとオレンジ?ジュ︱スとパンだった。直子が手紙に書いてい
たように野菜ははっとするくらいおいしかった。僕は皿の中のもの
を残らずきれいに平らげた。
﹁あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ﹂と彼女は感
心したように言った。
﹁本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし﹂
﹁よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかい
っぱいだから。食べる?﹂
﹁要らないのなら食べます﹂と僕は言った。
﹁私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足
りないぶんは煙草吸って埋めあわせてんの﹂彼女はそう言ってまた
セブンスタ︱をくわえて火をつけた。﹁そうだ、私のことレイコさ
んって呼んでね。みんなそう呼んでいるから﹂
僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト?シチュ︱を食べ
パンをかじっている姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。
﹁あなたは直子の担当のお医者さんですか?﹂と僕は彼女に訊
いてみた。
﹁私は医者?﹂と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしか
めて言った。﹁なんで私が医者なのよ?﹂
﹁だって石田先生に会えって言われてきたから﹂
﹁ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。
だから私のこと先生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者な
の。でも七年もここにいてみんなの音楽教えたり事務手伝ったりし
てるから、患者だかスタッフだかわかんなくなっちゃってるわね、
もう。私のことあなたに教えなかった?﹂
僕は首を振った。
﹁ふうん﹂とレイコさんは言った。﹁ま、とにかく、直子と私
は同じ部屋で暮らしてるの。つまりル︱ムメイトよね。あの子と一
緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話して、あなたの話もよくする
し﹂
﹁僕のとんな話するんだろう?﹂と僕は訊いてみた。
﹁そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ﹂とレイ
コさんは僕の質問を頭から無視して言った。﹁まず最初にあなたに
理解してほしいのはここがいわゆる一般的な﹃病院﹄じゃないって
ことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではな
く療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くら
いはセッションをするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチ
ェックするだけであって、他の病院がやっているようないわゆる積
極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄格子もな
いし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入っ
て、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができる
のは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというん
じゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケ︱スに応じて
専門的な病院に行くことになるの。そこまでわかる?﹂
﹁なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的に
はどういうことなんでしょう?﹂
レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ?ジュ︱スの残り
を飲んだ。﹁ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、
運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持って
て殆んど自給自足で暮らしてるし、TVもあいし、ラジオもないし。
今流行ってるコミュ︱ンみたいなもんよね。もっともここに入るの
には結構高いお金かかるからそのへんはコミュ︱ンとは違うけど﹂
﹁そんなに高いんですか?﹂
﹁馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備で
しょう?場所も広いし、患者の数は少なくスタッフは多いし、私の
場合はもうずっと長くいるし、半分スタッフみたいなものだから入
院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいいんだけど。ね
え、コ︱ヒ︱飲まない?﹂
飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウン
タ︱のコ︱ヒ︱?ウォ︱マ︱からふたつのカップにコ︱ヒ︱を注い
で運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてスプ︱ンでかきまわし、
顔をしかめてそれを飲んだ。
﹁この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほ
ど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附
したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だっ
たの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう?﹂
見た、と僕は言った。
﹁昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグル
︱プ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというと
ね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があって、ある専門医
がその人にグル︱プ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみん
な助け合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってア
ドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病いを治癒
することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風
にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、法人に
なって、農場も広くなって、本館も五年前にできて﹂
﹁治療の効果はあったわけですね﹂
﹁ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならな
い人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさん
ここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いと
ころはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だとい
うことを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のとこ
ろはそうじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくま
で医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医
者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。
私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そば
で私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってき
て私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助け
るの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているか
らよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし、一人の患者
は看護婦にフランス語を教えるし、まあそういうことよね。私たち
のような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけ
っこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあ
なたを助けるし、あなたも私を助けるの﹂
﹁僕はどうすればいいんですか、具体的に?﹂
﹁まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに
助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になる
こと。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合の悪いことを誤魔
化したりしないこと。それだけでいいのよ﹂
﹁努力します﹂と僕はいた。﹁でもレイコさんはどうして七年
もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変って
ところがあるとは思えないですが﹂
﹁昼間はね﹂と彼女は暗い顔をして言った。﹁でも夜になると
駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの﹂
﹁本当に?﹂と僕は訊いた。
﹁嘘よ。そんなことするわけないでしょう﹂と彼女はあきれた
ように首を振りながら言った。﹁私は回復してるわよ。今のところ
は。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたい
なものだし。それに比べて外の世界に何があるの?私は三十八でも
うすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待って
てくれる人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした
仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年
も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そ
りゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへ
んから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうし
ていいかなんてわかんないわよ﹂
﹁でも新しい世界が広がるかもしれませんよ﹂と僕は言った。
﹁ためしてみる価値はあるでしょう﹂
﹁そうね、そうかもしれないわね﹂と言って彼女は手の中でし
ばらくライタ︱をくるくるとまわしていた。﹁でもね、ワタナベ
君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっく
り話してあげるけど﹂
僕は肯いた。
﹁それで直子はよくなっているんですか?﹂
﹁そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱
していたし、私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだ
けれど、今は落ち着いているし、しゃべり方もずいぶんましになっ
てきたし、自分の言いたいことも表現できるようになってきた
し……まあ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子は
もっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ
君っていうボ︱イ?フレンドが死んだ時点から既に症状が出始めて
いたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身
にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……﹂
﹁家庭的な背景?﹂と僕は驚いて訊きかえした。
﹁あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?﹂とレイコさんが
余計に驚いて言った。
僕は黙って首を振った。
﹁じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。
あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってる
し﹂レイコさんはまたスプ︱ンでコ︱ヒ︱をかきまわし、ひとくち
飲んだ。﹁それからこれは規則で決ってることだから最初に言って
おいた方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりにな
ることは禁じられているの。これはル︱ルなの。部外者が面会の相
手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザ
︱バ︱が︱︱現実的には私になるわけだけど︱︱つきそってなきゃ
いけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわ
ね。いいかしら?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は笑って言った。
﹁でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりに
いることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだい
たい全部知ってるもの﹂
﹁全部?﹂
﹁だいたい全部よ﹂と彼女は言った。﹁だって私たちグル︱
プ?セッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。
それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそん
な沢山秘密ってないのよ﹂
僕はコ︱ヒ︱を飲みながらレイコさんの顔を見た。﹁東京にい
るとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのか
どうか。それについてずっと考えてきたんだけれど、今でもまだわ
からないんです﹂
﹁それは私にもわからないわよ﹂とレイコさんは言った。﹁直
子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこ
れから決めることなのよ。そうでしょう?たとえ何が起ったにせ
よ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解
しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあ
とでまた考えればいいことなんじゃないかしら﹂
僕は肯いた。
﹁私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直
子と私とで。お互いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思え
ばね。三人でそういうのやるのって、時によってはすごく効果があ
るのよ。あなたはいつまでここにいられるの?﹂
﹁明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行か
なくちゃいけないし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから﹂
﹁いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすれば
お金もかからないし、時間を気にしないでゆっくり話もできるし﹂
﹁私たちって誰のことですか?﹂
﹁私と直子の部屋よ、もちろん﹂とレイコさんは言った。﹁部
屋も分かれているし、ソファ︱?ベッドがひとつあるからちゃんと
寝られるわよ、心配しなくても﹂
﹁でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客
が女性の部屋に泊まるとか?﹂
﹁だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきて
かわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう?﹂
﹁もちろんしませんよ、そんなこと﹂
﹁だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆ
っくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお
互い気心もよくわかるし、私のギタ︱も聴かせてあげられるし。な
かなか上手いのよ﹂
﹁でも本当に迷惑じゃないですか?﹂
レイコさんは三本目のセブンスタ︱を口にくわえ、口の端をき
ゅっと曲げてから火をつけた。﹁私たちそのことについては二人で
よく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよ、個
人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかし
ら?﹂
﹁もちろん喜んで﹂と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。
﹁あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ﹂と彼女は言
った。﹁あの﹃ライ麦畑﹄の男の子の真似してるわけじゃないわよ
ね﹂
﹁まさか﹂と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。﹁でもあなたは素直
な人よね。私、それ見てればわかるわ。私はここに七年いていろん
な人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開
ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言え
ば、開こうと思えば開ける人よね﹂
﹁開くとどうなるんですか?﹂
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテ︱ブルの上で手
を合わせた。﹁回復するのよ﹂と彼女は言った。煙草の灰がテ︱ブ
ルの上に落ちたが気にもしなかった。
我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プ︱ルとテニス?コ
︱トとバスケット?コ︱トのそばを通り過ぎた。テニス?コ︱トで
は男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若
い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の目にはテニスと
はまったく異なった別のゲ︱ムのように思えた。ゲ︱ムをしている
というよりはボ︱ルの弾性に興味があってそれを研究しているとこ
ろといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボ︱
ルのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいて
いた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲ︱ムを中断し
てやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニ
ス?コ︱トのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈
っていた。
先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅
が距離をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前に
は門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここに
はスタッフの家族が住んでるのよ、とレイコさんが教えてくれた。
﹁町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ﹂とレイ
コさんは歩きながら僕に説明した。﹁食料品はさっきも言ったよう
に殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本
もレコ︱ドも運動設備もあるし、小さなス︱パ︱?マ︱ケットみた
いなのもあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だっ
て上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼める
し、洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるし、まず不便
はないわね﹂
﹁町に出ることはできないんですか?﹂と僕は質問した。
﹁それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならな
いとか、そういう特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的に
はそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人
の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼
くのと同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはで
きないの。だってそうでしょう?そんなことしたら、出たり入った
りする人ばかりになっちゃうもの﹂
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰
囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう
奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感
じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それ
は我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感
情に似ていた。ウォルト?ディズニ︱がムンクの絵をもとに漫画映
画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと
思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗
られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広
く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教
習所のコ︱スみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物
の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、ど
の窓もカ︱テンが引かれていた。
﹁ここはC地区と呼ばれているところで、ここには女の人たち
が住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、
一棟が四つに区切られて、一区切りに二人住むようになってるの。
だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住
んでないけど﹂
﹁とても静かですね﹂と僕は言った。
﹁今の時間は誰もいないのよ﹂とレイコさんは言った。﹁私は
とくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみ
んなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している
人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、グル︱プ療法してい
る人もいるし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そうい
うのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっ
け?壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってる
んじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいた
い五時くらいまでいくつかあるのよ﹂
彼女は︿C-7﹀という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階
段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかっ
た。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッ
ドル︱ムとキッチンとバスル︱ムの四室から成ったシンプルで感じ
の良い住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それ
でいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうとい
うのではないのだが、部屋の中にいるとレイコさんを前にしている
時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居間には
ソファ︱がひとつとテ︱ブルがあり、揺り椅子があった。キッチン
には食事用のテ︱ブルがあった。どちらのテ︱ブルの上にも大きな
灰皿が置いてあった。ベッドル︱ムにはベッドがふたつと机がふた
つとクロ︱ゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテ︱ブルと読
書灯があり、文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型
の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあって、簡
単な料理なら作れるようになっていた。
﹁お風呂はなくてシャワ︱だけだけどまあ立派なもんでしょ
う?﹂とレイコさんは言った。﹁お風呂と洗濯設備は共同なの﹂
﹁十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と
窓しかないもの﹂
﹁あなたはここの冬を知らないからそういうのよ﹂とレイコさ
んは僕の背中を叩いてソファ︱に座らせ、自分もそのとなりに座っ
た。﹁長くて辛い冬なのよ、ここの冬は。どこを見まわしても雪、
雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬
になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私た
ち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過
すわけ。だからこれくらいのスペ︱スがないと息がつまってうまく
やっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわ
よ﹂
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息を
つき、膝の上で手を合わせた。﹁これを倒してベッド作ってあげる
わよ﹂と彼女は二人の座っているソファ︱をぽんぽんと叩いた。
﹁私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それでいいでし
ょう?﹂
﹁僕の方はべつに構いませんと﹂
﹁じゃ、それで決まりね﹂とレイコさんは言った。﹁私たちた
ぶん五時頃にここに戻ってくると思うの。それまで私にも直子にも
やることがあるから、あなた一人でここで待ってほしいんだけれ
ど、いいかしら?﹂
﹁いいですよ、ドイツ語の勉強してますから﹂
レイコさんが出ていってしまうと僕はソファ︱に寝転んで目を
閉じた。そして静かさの中に何ということもなくしばらく身を沈め
ているうちに、ふとキズキと二人でバイクに乗って遠出したときの
ことを思い出した。そういえばあれもたしか秋だったなあと僕は思
った。何年前の秋だっけ?四年前だ。僕はキズキの革ジャンパ︱の
匂いとあのやたら音のうるさいヤマハの一ニ五CCの赤いバイクの
ことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで出かけて、夕方に
くたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事があった
わけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。
秋の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパ︱を両手でしっか
りと掴んだまま空を見上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ば
されそうな気がしたものだった。
長いあいだ僕は同じ姿勢でソファ︱に身を横たえて、その当時
のことを次から次へと思い出していた。どうしてかはわからないけ
れど、この部屋の中で横になっていると、これまであまり思い出し
たことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるも
のは楽しく、あるものは少し哀しかった。
どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予
想もしなかった記憶の洪水︵それは本当に泉のように岩の隙間から
こんこんと湧き出していたのだ︶にひたりきっていて、直子がそっ
とドアを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしなかったくらい
だった。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばら
く直子の目をじっと見ていた。彼女はソファ︱の手すりに腰を下ろ
して、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕自身の記憶がつむ
ぎあげたイメ︱ジなのではないかと思った。でもそれは本物の直子
だった。
﹁寝てたの?﹂と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。
﹁いや、考えごとしてただけだよ﹂と僕は言った。そして体を
起こした。﹁元気?﹂
﹁ええ、元気よ﹂と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡
い色あいの遠くの情景にように見えた。﹁あまり時間がないの。本
当はここに来ちゃいけないんだけれど、ちょっとした時間見つけて
来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい
髪してるでしょう?﹂
﹁そんなことないよ。とても可愛いよ﹂と僕は言った。彼女は
まるで小学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片
方を昔と同じようにきちんとピンでとめていた。その髪型は本当に
よく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木版画によく出て
くる美しい少女のように見えた。
﹁面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう
思う?可愛いって?﹂
﹁本当にそう思うよ﹂
﹁でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ﹂と直子は言
った。そして髪留めを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてか
らまたとめた。蝶のかたちをした髪留めだった。
﹁私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会い
たかったの。そうしないと私うまく馴染めないの。私って不器用だ
から﹂
﹁少しは馴れた?﹂
﹁少しね﹂と彼女は言って、また髪留めに手をやった。﹁でも
もう時間がないの。私、いかなくちゃ﹂
僕は肯いた。
﹁ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しい
のよ。でも私、もしここにいることが負担になるようだったら遠慮
せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと特殊な場所だし、シス
テムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だからもしそ
う感じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしな
いから。私たちここではみんな正直なの。正直にいろんなことを言
うのよ﹂
﹁ちゃんと正直に言うよ﹂
直子はソファ︱の僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかっ
た。肩を抱くと、彼女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そ
してまるで僕の体温をたしかめるみたいにそのままの姿勢でじっと
していた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が少し熱くな
った。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同
じようにそっとドアを開けて出て行った。
直子が行ってしまうと、僕はソファ︱の上で眠った。眠るつも
りはなかったのだけれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く
眠った。台所には直子の使う食器があり、バスル︱ムには直子の使
う歯ブラシがあり、寝室には直子の眠るベッドがあった。僕はそん
な部屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりとるよう
に深く眠った。そして薄闇の中を舞う蝶の夢をみた。
目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が
少し変り、風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいてい
たので、ナップザックからタオルを出して顔を拭き、シャツを新し
いものに変えた。それから台所に行って水を飲み、流しの前の窓か
ら外を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓の内
側には切り紙細工がいくつか糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫
のシルエットが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあわされていた。あ
たりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか
手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたいだった。
人々が﹁C地区﹂に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だっ
た。台所の窓からのぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通り
すぎていくのが見えた。三人とも帽子をかぶっていたので、顔つき
や年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからするとそれほど
若くはなさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくする
と、また同じ方向から四人の女性がやってきて、同じように角を曲
って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂っていた。居間の窓
からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りのような
かたちに淡い光が浮かんでいた。
直子とレイコさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子
ははじめて会うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わし
た。直子は本当に恥ずかしがっているようだった。レイコさんは僕
が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。ト︱マ
ス?マンの﹃魔の山﹄だと僕は言った。
﹁なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ﹂と
レイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのと
おりだった。
レイコさんがコ︱ヒ︱をいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕
は直子に突撃隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会っ
た日に彼が僕に蛍をくれた話をした。残念だわ、彼がいなくなっち
ゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかったのに、と直子は
とても残念そうに言った。レイコさんが突撃隊について知りたがっ
たので、僕はまた彼の話をした。もちろん彼女も大笑いをした。突
撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ちていた。
六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。
僕と直子は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食
べ、レイコさんはマカロニ?サラダとコ︱ヒ︱だけしか取らなかっ
た。そしてあとはまた煙草を吸った。
﹁年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわって
くるのよ﹂と彼女は説明するように言った。
食堂では二十人くらいの人々がテ︱ブルに向って夕食を食べて
いた。僕らが食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人
かが出て行った。食堂の光景は人々の年齢がまちまちであることを
別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違う
のは誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を出すこ
ともなければ、声をひそめるということもなかった。声をあげて笑
ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりするようなものは一人
もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をしていた。彼ら
はいくつかのグル︱プにわかれて食事をしていた。ひとつのグル︱
プは三人から多くて五人だった。一人が何かをしゃべると他の人々
はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべ
つの人がそれについてしばらく何かを話した。何について話してい
るのかはよくわからなかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあ
の奇妙なテニスのゲ︱ムを思いださせた。直子も彼らと一緒にいる
ときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕はいぶかった。そし
て変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを
感じた。
僕のうしろのテ︱ブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲
気の髪の薄い男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のよう
な顔つきの中年女性に向って無重力状態で胃液の分泌はどうなるか
についてくわしく説明していた。青年と女性は﹁はあ﹂とか﹁そう
ですか﹂とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞い
ていると、髪のうすい白衣の男が本当に医者なのかどうか僕にはだ
んだんわからなくなってきた。
食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方
をじろじろとは見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気
づかないようだった。僕の参入は彼らにとってはごく自然な出来事
であるようだった。
一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて﹁いつまでこ
こにいらっしゃるんですか?﹂と僕に聞いた。
﹁二泊して水曜には帰ります﹂と僕は答えた。
﹁今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃ
い。何もかも真っ白でいいもんですよ﹂と彼は言った。
﹁直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ﹂とレ
イコさんは男に言った。
﹁いや、でも冬はいいよ﹂と彼は真剣な顔つきでくりかえし
た。その男が本当に医者なのかどうか僕はますますわからなくなっ
てしましった。
﹁みんなどんな話をしているんですか?﹂と僕はレイコさんに
訊ねてみた。彼女には質問の趣旨がよくかわらない様子だった。
﹁どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日
の天気、そんないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち
上がって﹃今日は北極熊がお星様を食べたから明日は雨だ!﹄なん
て叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?﹂
﹁いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて﹂と僕は言
った。﹁みんなごく静かに話しているから、いったいどんなことを
話しているかなあとふと思っただけです﹂
﹁ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるの
よ﹂直子は魚の骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチ
で口もとを拭った。﹁それに声を大きくする必要がないのよ。相手
を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必要もないし﹂
﹁そうだろうね﹂と僕は言った。でもそんな中で静かに食事を
していると不思議に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声
や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなった。僕はそんなざ
わめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それ
でもこの奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落
ちつかなかった。その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場
に似ていた。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された
場所に集って、互い同士でしかわからない情報を交換しているの
だ。
食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは﹁C地区﹂の中
にある共同浴場に行ってくると言った。そしてもしシャワ︱だけで
いいならバスル︱ムのを使っていいと言った。そうすると僕は答え
た。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでシャワ︱を浴び、髪を
洗った。そしてドライヤ︱で髪を乾かしながら、本棚に並んでいた
ビル?エヴァンスのレコ︱ドを取り出してかけたが、しばらくして
から、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同
じレコ︱ドであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼女を抱い
たその夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん昔
の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度
も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が
引き伸ばされて狂ってしまったのだ。
月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファ
︱に寝転んでビル?エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこん
でくる月の光は様々な物事の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも
塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕はナップザックの
中からブランディ︱を入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとく
ち口にふくんで、ゆっくりのみ下した。あななかい感触が喉から胃
へとゆっくり下っていくのが感じられた。そしてそのあたたかみは
胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブランディ
︱を飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。
月の光は音楽にあわせて揺れているように見えた。
直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。
﹁部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から
見て﹂とレイコさんが言った。﹁荷物をまとめて東京に帰っちゃた
のかと思ったわ﹂
﹁まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電
灯を消してみたんですよ﹂
﹁でも素敵じゃない、こういうの﹂と直子は言った。﹁ねえ、
レイコさん、この前停電のときつかったロウソクまだ残っていたか
しら?﹂
﹁台所の引き出しよ、たぶん﹂
直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持
ってきた。僕はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立て
た。レイコさんがその火で煙草に火をつけた。あたりはあいかわら
ずひっそりとしていて、そんな中で三人でロウソクを囲んでいる
と、まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに
見えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソクの光にふらふらと揺
れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜していた。僕と直子
は並んでソファ︱に座り、レイコは向いの揺り椅子に腰掛けた。
﹁どう、ワインでも飲まない?﹂とレイコさんが僕に言った。
﹁ここはお酒飲んでもかまわないですか?﹂と僕はちょっとび
っくりして言った。
﹁本当は駄目なんだけどねえ﹂とレイコは耳たぶを掻きながら
照れくさそうに言った。﹁まあ大体は大目に見てるのよ。ワインと
かビ︱ルくらいなら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、知り合いのス
タッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってるの﹂
﹁ときどき二人で酒盛りするのよ﹂直子がいたずらっぽく言っ
た。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあ
け、グラスを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったよう
なさっぱりとした味わいのおいしいワインだった。レコ︱ドが終る
とレイコはベッドの下からギタ︱?ケ︱スを出してきていとおしそ
うに調弦してから、ゆっくりとバッハのフ︱ガを弾きはじめた。と
ころどころで指のうまくまわらないところがあったけれど、心のこ
もったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、そこには演奏す
る喜びのようなものが充ちていた。
﹁ギタ︱はここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでし
ょう、だからね。独学だし、それに指がギタ︱向きになってないか
らなかなかうまくならないの。でもギタ︱弾くのって好きよ。小さ
くて、シンプルで、やさしくて……まるで小さな部屋みたい﹂
彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロ
ウソクの灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに
耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。
バッハが終ると、直子はレイコさんにビ︱トルスのものを弾いてほ
しいと頼んだ。
﹁リクエスト?タイム﹂とレイコさんは片目を細めて僕に言っ
た。﹁直子が来てから私は来る日も来る日もビ︱トルスのものばか
り弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように﹂
彼女はそう言いながら﹃ミシェル﹄をとても上手く弾いた。
﹁良い曲ね。私、これ大好きよ﹂とレイコさんは言ってワイン
をひとくちのみ、煙草を吸った。
それから彼女は﹃ノ︱ホエア?マン﹄を弾き、﹃ジェリア﹄を
弾いた。ときどきギタ︱を弾きながら目を閉じて首を振った。そし
てまたワインを飲み、煙草を吸った。
﹁﹃ノルウェイの森﹄を弾いて﹂と直子は言った。
レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってき
て、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
﹁なんですか、それ?﹂と僕は訊いた。
﹁私が﹃ノルウェイの森﹄をリクエストするときはここに百円
入れるのがきまりなの﹂と直子が言った。﹁この曲はいちばん好き
だから、とくにそうしてるの。心してリクエストするの﹂
﹁そしてそれが私の煙草代になるわけね﹂
レイコさんは指をよくほぐしてから﹃ノルウェイの森﹄を弾い
た。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に
流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出し
て貯金箱に入れた。
﹁ありがとう﹂とレイコさんは言ってにっこり笑った。
﹁この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。ど
うしてだがはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているよう
な気になるの﹂と直子は言った。﹁一人ぼっちで寒くて、そして暗
くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない
限り、彼女はこの曲を弾かないの﹂
﹁なんだか﹃カサブランカ﹄みたいな話よね﹂とレイコさんは
笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあい
だ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように
以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいで
しまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかし
そうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみ
ると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の
彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ︱︱人をふ
とひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ︱︱はずっとうしろの
方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわ
りに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半
年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだと
いう事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと
同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が
失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでも
なかった。あの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩き
してしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女に
は二度と戻ってはこないのだ。
直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストの
ことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さ
んの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の
思考システムと偏ったモラリティ︱について正確に説明するのは至
難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい
理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは
伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男
はこういうユニ︱クな人物なのだと説明しただけだった。そのあい
だレイコさんはギタ︱を抱えて、もう一度さっきのフ︱ガの練習を
していた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワ
インを飲んだり煙草をふかしたりしていた。
﹁不思議な人みたいね﹂と直子は言った。
﹁不思議な男だよ﹂と僕は言った。
﹁でもその人のこと好きなのね?﹂
﹁よくわからないね﹂と僕は言った。﹁でもたぶん好きという
んじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そう
いう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてる
わけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だ
し、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね﹂
﹁そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね﹂
と直子は笑って言った。﹁何人と寝たんだって?﹂
﹁たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな﹂と僕は
言った。﹁でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、その
ひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、
それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ﹂
﹁それがストイックなの?﹂と直子が訊ねた。
﹁彼にとってはね﹂
直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。﹁その
人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ﹂と彼女は言った。
﹁僕もそう思う﹂と僕は言った。﹁でも彼の場合は自分の中の
歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だ
からね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃう
ね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかった
ってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるの
さ﹂
﹁きっと私、頭悪いのね﹂と直子は言った。﹁ここのことまだ
よくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように﹂
﹁頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のこと
でわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの﹂
直子は両脚をソファ︱の上にので、折りまげてその上に顎をの
せた。﹁ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ﹂と彼女は言
った。
﹁普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通
の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている﹂と僕は言っ
た。
﹁ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけ
ないと書いていたのはあなたの大好きなスコット?フィッツジェラ
ルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ﹂
と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
﹁たしかに﹂と僕は認めた。﹁でも僕は別に意識的にそうきめ
つけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普
通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられ
るかい?﹂
﹁あたりまえでしょう﹂と直子はあきれたように言った。﹁あ
ななそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして私があ
なたと寝たのよ?お酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思って
あなたとそうしちゃったと考えてるの?﹂
﹁いや、もちろんそんなことは思わないよ﹂と僕は言った。
直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を
言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。
﹁ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?﹂と直子
がふと思いついたように小さな声で訊いた。
﹁八人か九人﹂と僕は正直に答えた。
レイコさんが練習を止めてギタ︱をはたと膝の上に落とした。
﹁あなたまだ二十歳になってないでしょう?いったいどういう生活
してんのよ、それ?﹂
直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕は
レイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明し
た。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといっ
た。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝るこ
とになった事情も話した。﹁いいわけするんじゃないけど、辛かっ
たんだよ﹂と僕は直子に言った。﹁君と毎週のように会って、話を
していて、しかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってこ
とがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子
と寝たんだと思う﹂
直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。
﹁ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊い
たわよね?まだそのこと知りたい?﹂
﹁たぶん知ってた方がいいんだろうね﹂と僕は言った。
﹁私もそう思うわ﹂と直子は言った。﹁死んだ人はずっと死ん
だままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだ
もの﹂
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパ︱セ︱ジを何度も何度
もくりかえして練習していた。
﹁私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ﹂と直子は言っ
て髪留めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをし
たその髪留めをもてあそんでいた。﹁もちろん彼は私と寝たかった
わ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だった
の。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなか
ったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛して
いたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃな
いんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげ
ようと思ってたのよ。でも、できなかったの﹂
直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。
﹁全然濡れなかったのよ﹂と直子は小さな声で言った。﹁開か
なかったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。い
ろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだった
わ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君
のを指とか唇とかでやってあげてたの……わかるでしょう?﹂
僕は黙って肯いた。
直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きく
なっているように見えた。﹁私だってできることならこういうこと
話したくないのよ、ワタナベ君。できることならこういうことはず
っと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方な
いのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかない
んだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そ
うでしょう?﹂
﹁うん﹂と僕は言った。
﹁私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からず
っと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。
抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってた
の。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそん
なことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたの
よ﹂
﹁そして僕のことは愛していたわけでもないのに、というこ
と?﹂
﹁ごめんなさい﹂と直子は言った。﹁あなたを傷つけたくない
んだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべ
つな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私
たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、
そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵
だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわん
わん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあ
の人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すれば
いいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのが
いったいどういうことなのかというのも﹂
彼女はテ︱ブルの上のワイン?グラスをとろうとしたが、うま
くとれずにワイン?グラスは床に落ちてころころと転がった。ワイ
ンがカ︱ペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、
それをテ︱ブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は
直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を
震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を
埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさ
んがギタ︱を置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく
撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のよう
に頭をレイコさんの胸に押しつけた。
﹁ね、ワタナベ君﹂とレイコさんが僕に言った。﹁悪いけれど
二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすれ
ばなんとかなると思うから﹂
僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセ︱タ︱を着た。﹁すみ
ません﹂と僕はレイコさんに言った。
﹁いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にし
なくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから﹂彼
女はそういって僕に向って片目を閉じた。
僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の
中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな
物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている
人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえ
てきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜
の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているよう
な、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。
雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子
の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だっ
た。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺
れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその
小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最
後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆っ
てしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイ?ギャツビイが対岸
の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯
を長いあいだ見つめていた。
僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコ
さんがギタ︱を練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上
り、ドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさん
がカ︱ペットの上に座って一人でギタ︱を弾いているだけだった。
彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、という
ことらしかった。それからレイコさんはギタ︱を床に置いてソファ
︱に座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていた
ワインをふたつのグラスに分けた。
﹁彼女は大丈夫よ﹂とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言
った。﹁しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくて
もいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ
私と二人で少し外を散歩しない?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は言った。
僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テ
ニス?コ︱トとバスケットボ︱ル?コ︱トのあるところまで来て、
そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色の
バスケットのボ︱ルをとりだして、しばらく手の中でくるくるとま
わしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だ
けれどできないことはないと僕は答えた。
﹁バスケットボ︱ルは?﹂
﹁それほど得意じゃないですね﹂
﹁じゃああなたいったい何が得意なの?﹂とレイコさんは目の
横のしわを寄せるようにして笑って言った。﹁女の子と寝る以外
に﹂
﹁べつに得意なわけじゃありませんよ﹂僕は少し傷ついて言っ
た。
﹁怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどう
なの?どんなことが得意なの?﹂
﹁得意なことってないですね。好きなことならあるけれど﹂
﹁どんなこと好き?﹂
﹁歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと﹂
﹁一人でやることが好きなのね?﹂
﹁そうですね、そうかもしれませんね﹂と僕は言った。﹁他人
とやるゲ︱ムって昔からそんなに興味が持てないんです。そういう
のって何をやってもうまくのりこめないんです。どうでもよくなっ
ちゃうんです﹂
﹁じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス?カ
ントリ︱?スキ︱やるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪
の中を一日バタバタ歩きまわって汗だくになって﹂とレイコさんは
言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいに
じっと自分の右手を眺めた。
﹁直子はよくあんな風になるんですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁そうね、ときどきね﹂とレイコさんは今度は左手を見ながら
言った。﹁ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣い
て。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだか
らね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情
が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固
まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね﹂
﹁僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?﹂
﹁何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわ
よ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。
もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、ある
いはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとして
も長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に
直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言
ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復
させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのや
り方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべ
るようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界では
みんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?﹂
﹁そうですね﹂と僕は言った。
﹁私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出
て行ったりするのを見てきたのよ﹂とレイコさんは言った。﹁たぶ
んそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見
ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直
感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私に
もよくわからないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目
見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなおってるかもし
れないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれない
し、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすること
はできないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいと
か、そういうごく一般的なことしかね﹂
﹁どうして直子に限って見当がつかないんですか?﹂
﹁たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見き
わめがつかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、
私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、
あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みた
いに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なの
よ。それをほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは
何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそう
いうことよ。それで私も決めかねているわけ﹂
彼女はもう一度バスケットボ︱ルを手にとって、ぐるぐると手
の中でまわしてから地面にバウンドさせた。
﹁いちばん大事なことはね、焦らないことよ﹂とレイコさんは
僕に言った。﹁これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事
が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ち
になったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なの
よ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしてい
かなきゃいけないのよ。できるの?﹂
﹁やってみます﹂と僕は言った。
﹁時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならな
いかもしれないわよ。あなたそのこと考えてみた?﹂
僕は肯いた。
﹁待つのは辛いわよ﹂とレイコさんはボ︱ルをバウンドさせな
がら言った。﹁とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女
がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もな
いのよ。あなたにそれができるの?そこまで直子のことを愛して
る?﹂
﹁わからないですね﹂と僕は正直に言った。﹁僕にも人を愛す
るというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直
子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たい
んです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよ
くわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、
僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお
互いが救われる道はないと思います﹂
﹁そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?﹂
﹁それもどうしていいかよくわかりませんね﹂と僕は言った。
﹁いったいどうすればいいんですか?ずっとマスタ︱ペ︱ションし
ながら待ちつづけるべきなんですか?自分でもうまく収拾できない
んですよ。そういうのって﹂
レイコさんはボ︱ルを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。
﹁あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃない
のよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれは
あなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の
言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっ
ていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。
十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、
そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いの
よ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思
うなら自分も大事にしなさいね﹂
考えてみます、と僕は言った。
﹁私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど﹂とレ
イコさんは言った。﹁信じる?﹂
﹁心から信じるよ、もちろん﹂
﹁心から信じる?﹂
﹁心から信じますよ﹂と僕は笑いながら言った。
﹁直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったの
よ。その頃は。今ほどしわもなかったしね﹂
そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は
言った。
﹁でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っ
ちゃ駄目よ。私はそう言われると嬉しいけどね﹂
﹁気をつけます﹂と僕は言った。
彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのとこ
ろに入っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわい
い女の子のカラ︱写真だった。その女の子は派手なスキ︱?ウェア
を着て足にスキ︱をつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。
﹁なかなか美人でしょう?私の娘よ﹂とレイコさんは言った。
﹁今年はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生か
な﹂
﹁笑い方が似てますね﹂と僕は言ってその写真を彼女の返し
た。彼女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわ
えて火をつけた。
﹁私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。
才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。
けっこうちやほやされて育ったのよ。コンク︱ルで優勝したことも
あるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツ
に留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇り
もない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かな
きゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変な
ことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年の
ときね。わりに大事なコンク︱ルがあって、私ずっとそのための練
習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どう
して動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないの
よ。マッサ︱ジしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりし
たんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行
ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよ
くわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとして
いるし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじ
ゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはり
はっきりしたことはわからなかったの。コンク︱ル前のストレスで
そうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく
当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの﹂
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首
を何回か曲げた。
﹁それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養す
ることにしたの。そのコンク︱ルのことはあきらめて、ここはひと
つのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きな
ことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の
中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひ
とつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃない
だろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きてい
けばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるの
ね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだっ
たんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけ
を考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考
えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつし
たことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつ
かってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノを
とってごらんなさいよ、いったい何が残る?それでボンッ!よ。頭
のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗に
なっちゃって﹂
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首
を曲げた。
﹁それでコンサ︱ト?ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ
月入院して、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くよう
になったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわ
よ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギ︱
の玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロ
のピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言
うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていた
の。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生その
ものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生の
いちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなの
ってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたの
に、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰も
ちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来
る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけ
よ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくって
ね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンク︱ルで二位とっ
ただの、どこのホ︱ルでリサイタル開いただの、そういう話を聞く
と悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でも
ね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあっ
て。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神
病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう
気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。
嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしてい
るみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッ!よ。
ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四の
ときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなく
て、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピ
アノもなくて……私、そのときはもうどうしていいかわかんなかっ
たわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂
いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月︱︱長かったわね。そんな風に
してしわが少しずつ増えてったわけよ﹂
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
﹁病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。
彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニア
で、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、
誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあ
とで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッ
スンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃた
わ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなた
は良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があ
ってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞
きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくな
って入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話し
たわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先
だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさ
せてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言
ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚
したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ
月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと
言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょう
って。
三ヶ月間、私たち週に一度デ︱トしたの。いろんなところに行
って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになっ
たの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がし
たの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れ
られたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したこと
があったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないん
だ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっている
んだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけ
で、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結
婚したいって言ったの。﹃もし私と寝たいのなら寝ていいわよ﹄っ
て私は言ったの。﹃私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたの
ことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。
でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。
あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになる
のよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。そ
れでもかまわないの﹄って。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃない
んだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだ
ってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思ってい
ることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行す
る人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言
うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそ
のことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田
舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あ
ることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっち
ゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私
たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根
に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局
私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょ
う?﹂
レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボ︱ルを持ち
あげた。
﹁この人といる限り私は大丈夫って思ったわ﹂とレイコさんは
言った。﹁この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだ
ろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの
信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合
がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人は
すぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる︱︱ネジをしめ
なおし、糸玉をほぐしてくれる︱︱そういう信頼感があれば、私た
ちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまず
あのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴
らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げ
られて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそ
んな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子
供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっか
り忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰
ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも
幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。
そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよ
ね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの﹂
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はま
っすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空
には無数の星が光っていた。
﹁何かがあったんですか?﹂と僕は訊いた。
﹁そうねえ﹂とレイコさんは言った。﹁すごく奇妙なことがあ
ったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそ
こで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がする
の﹂彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。﹁で
もわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子
に会いにきたのに﹂
﹁本当に聞きたいんです﹂と僕は言った。﹁もしよければその
話を聞かせてくれませんか?﹂
﹁子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くよう
になったの﹂とレイコさんは話しはじめた。﹁誰のためでもなく、
自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモ︱ツァル
トとかスカルラッティ︱とか、そういう人たちの小さな曲から始め
たのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻
らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。
でも嬉しかったわ。またピアノが弾けるんだわって思ってね。そう
いう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだった
かっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほど
それに飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自
分自身のために音楽が演奏できるということはね。
さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきた
わけだけれど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたこと
なんてただの一度もなかったのよ。テストをパスするためとか、課
題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなためばかりにピ
アノを弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことで
はあるのよ、ひとつの楽器をマスタ︱するためにはね。でもある年
齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなくてはならないの
よ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私はエリ︱ト?コ
︱スからドロップ?アウトして三十一か三十二になってやっとそれ
を悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと
早くかたづけて、それから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いた
の。そこまでは何も問題はなかったわ。ないでしょう?﹂
僕は肯いた。
﹁ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの
間柄の奥さんが私を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いた
がってるんだけど教えて頂くわけにはいかないだろうかっていう
の。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘さんのこ
とは知らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私
の家の前を通ってよく私のピアノを聴いてすごく感動したんだって
いうの。そして私の顔も知っていて憧れているっていうのね。その
子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピアノを習ってい
たんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今
は誰にもついていないってことなの。
私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心
者ならともかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無
理ですって言ってね。だいいち子供の世話が忙しくてできませんっ
て。それに、これはもちろん相手には言わなかったけれど、しょっ
ちゅう先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその
奥さんは一度でいいから娘に会うだけでも会ってやってくれって言
うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭そうだったし、ま
あ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会うだけ
でいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一
人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにし
ろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子
を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかり
の墨みたいに黒く長くて、手足がすらっと細くて、目が輝いてい
て、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうな
の。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい
綺麗なの。その子がうちの応接間のソファ︱に座っていると、まる
で違う部屋みたいにゴ︱ジャスに見えるのよね。じっと見ていると
すごく眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子だった
わ。今でもはっきりと目に浮かぶわね﹂
レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしば
らく目を細めていた。
﹁コ︱ヒ︱を飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろ
んなことをね。音楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良
い子だったわ。話の要領もいいし、意見もきちっとして鋭いし、相
手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖
さがいったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。
ただなんとなく怖いくらいに目から鼻に抜けるようなところがある
なと思っただけよ。でもね、その子を前に話をしているとだんだん
正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美
しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに劣った不細工
な人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふ
と浮んだとしても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃ
ないかっていう気がしちゃうわけ﹂
彼女は何度か首を振った。
﹁もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっと
まともな人間になるわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ
以上の何が欲しいっていうのよ?あれほどみんなに大事にされてい
るっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじめたり踏
みつけたりしなくちゃいけないのよ?だってそんなことしなくちゃ
いけない理由なんて何もないでしょう?﹂
﹁何かひどいことをされたんですか?﹂
﹁まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったの
よ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃう
わけ。そして話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこん
じゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるために周辺の物事
をどんどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、
おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速
いから、人の先に回ってどんどん手をくわえていくし、だから相手
は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんな
きれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も
思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間
山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話
だっていうのに、馬鹿みたいだわ、まったく﹂
﹁どんな嘘をつくんですか?﹂
﹁ありとあらゆる嘘よ﹂とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら
言った。﹁今も言ったでしょう?人は何かのことで嘘をつくと、そ
れに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが
虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類
のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。で
もその子の場合は違うのよ。彼女は自分を守るためには平気で他人
を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利用しようよする
の。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母
さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうよ
うな相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときに
は細心の注意を払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。
そしてもしばれちゃうようなことがあったら、そのきれいな目から
ぼろぼろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、すがりつくよ
うな声でね。すると誰もそれ以上怒れなくなっちゃうの。
どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないの
よ。彼女の犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救い
を求めて私を選んだのかがね。それは今でもわからないわ、全然。
もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれどね。もう
何もかも終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったん
だから﹂
短い沈黙があった。
﹁彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。う
ちの前を通って私のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か
会って憧れてたってね。﹃憧れてた﹄って言ったのよ。私。赤くな
っちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れるなんでね。で
もね、それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私
はもう三十を過ぎてたし、その子ほど美人でも頭良くもなかった
し、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の中にはきっと
その子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何かと
か、そういうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を
持ったのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してる
わけじゃないのよ﹂
﹁かわりますよ、それはなんとなく﹂と僕は言った。
﹁その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いた
の。いいわよ、弾いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女
バッハのインベンション弾いたの。それがね、なんていうか面白い
演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普通じゃないの
よね。もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってや
っているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったり
しでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音
じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発
でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇
パ︱セントはひどいんだけれど、残りの一〇パ︱セントの聴かせど
ころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンショ
ンでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいった
い何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子
はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だってい
るでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。か
すかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少
なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思
ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もち
ろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの
私のように︱︱今でもそうだけれど︱︱楽しんで自分のためにピア
ノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かも
しれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女
は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をし
てやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞め
てくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイ
プの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きち
んと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにか
く一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。
でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、や
はりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされ
たとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと
嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことっ
てあるのよ﹂
レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく
黙っていた。
﹁それでその子を生徒にとったんですか?﹂と僕は訊いてみ
た。
﹁そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日
もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかった
し、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッス
ンが終ると、私たちケ︱キを食べてお話したの﹂レイコさんはそこ
でふと気がついたように腕時計を見た。﹁ねえ、私たちそろそろ部
屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配
になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃ
ないでしょうね?﹂
﹁忘れやしませんよ﹂と僕は笑って言った。﹁ただ話しに引き
こまれてたんです﹂
﹁もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話
だから一度には話せないのよ﹂
﹁まるでシエラザ︱??ですね﹂
﹁うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ﹂と言ってレイコさん
も笑った。
僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻っ
た。ロウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開
いてベットサイドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方
にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファ︱の上に直子がぽつんと
座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その襟を
首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座
っていた。レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手
を置いた。
﹁もう大丈夫?﹂
﹁ええ、大丈夫よ。ごめんなさい﹂と直子が小さな声で言っ
た。それから僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。
﹁びっくりした?﹂
﹁少しね﹂と僕はにっこりとして言った。
﹁ここに来て﹂と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソフ
ァ︱の上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳
もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。﹁ごめんなさ
い﹂ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして
体を離した。
﹁ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっち
ゃうことがあるのよ﹂と直子は言った。
﹁僕はそういうことしょっちゅうあるよ﹂
直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをも
っと聞きたいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんな
ことしているとか。どんな人がいるとか。
直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりと
した言葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除
をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前
かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブル︱プ?
ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好き
な講座かあるいは野外作業かスポ︱ツが選べる。彼女フランス語と
か編物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとって
いた。
﹁ピアノはレイコさんに教わってるの﹂と直子は言った。﹁彼
女は他にもギタ︱も教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先
生になったりするの。フランス語に堪能な人はフランス語教える
し、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編
物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっ
ちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなもの
は何もないけれど﹂
﹁僕にもないね﹂
﹁とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわ
よ、ここで。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、
すごく﹂
﹁夕ごはんのあとはいつも何するの?﹂
﹁レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコ︱ドを
聴いたり、他の人の部屋にいってゲ︱ムをしたり、そういうこと﹂
と直子は言った。
﹁私はギタ︱の練習をしたり、自叙伝を書いたり﹂とレイコさ
んは言った。
﹁自叙伝?﹂
﹁冗談よ﹂とレイコさんは笑って言った。﹁そして私たち十時
くらいに眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわ
よ﹂
僕は時計を見た。九時少し前だった。﹁じゃあもうそろそろ眠
いんじゃないですか?﹂
﹁でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても﹂と直子は言っ
た。﹁久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して﹂
﹁さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出し
てたんだ﹂と僕は言った。﹁昔キズキと二人で君を見舞いに行った
ときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな﹂
﹁胸の手術したときのことね﹂と直子はにっこり笑って言っ
た。﹁よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来
てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレ︱トを持って。あ
れ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたい
な気がするわね﹂
﹁そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな﹂
﹁あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ﹂とくすくす笑い
ながら直子は言った。﹁どうしてそんなこと急に思い出したの?﹂
﹁わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹
桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ﹂と僕は言っ
た。﹁ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの?﹂
﹁見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧
嘩したんだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二
人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだって
なんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持
ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それから
オレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからな
いこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いん
だとかなんとか言ってね﹂直子はそう言って笑った。﹁そういう面
ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?
病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰
めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうの
があの人ってよくわかってなかったのよね﹂
﹁でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかった
よ。ごく普通にしてたもの﹂
﹁それはあなたの前だったからよ﹂と直子は言った。﹁あの
人、あなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいっ
て頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君
は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。
でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くの
よね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人で
しゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そ
ういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだっ
たの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど﹂
直子はソファ︱の上で脚を組みなおした。
﹁いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手く
いかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや
美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、
あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考
えていたのよ。可哀そうなキズキ君﹂
﹁でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたん
だとしたら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の
良い面しか見えなかったもの﹂
直子は微笑んだ。﹁それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなた
は彼のたった一人の友だちだったんだもの﹂
﹁そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだ
よ﹂と僕は言った。﹁その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな
人間なんて僕にはいないんだ﹂
﹁だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだ
ったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょ
う。そうすると私、すごく気持が楽になったの。安心していられる
の。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたの
かは知らないけれど﹂
﹁僕は君がどう思っているのか気になってたな﹂と僕は言って
小さく首を振った。
﹁でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはない
ってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持
されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたし、私に
もわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうでし ょ
う?﹂
僕は肯いた。
﹁でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったの
よ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意
地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう
言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、
それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りす
ぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくて
いろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言った
わ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人
になんて殆んど興味すら持てなかったのよ﹂
直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
﹁私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何か
どこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だっ
たの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに
戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のよ
うな関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余
地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳
にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部
屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあげて……。で
もね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そん
なの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをい
じりたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液
を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったの
よ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私き
っとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったこ
とやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってた
だけのことなのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せ合って
きたし、まるでお互いの体を共有しているような、そんな感じだっ
たのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにして
いたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかその
頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成
長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供
たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなも
のを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に
対しては一貫してオ︱プンだったし、自我にしたってお互いで吸収
しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識
することもなかったし。私の言ってる意味わかる?﹂
﹁わかると思う﹂と僕は言った。
﹁私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だから
もしキズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っ
ていて、そして少しずつ不幸になっていたと思うわ﹂
﹁どうして?﹂
直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、
下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
﹁たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったか
らよ﹂と直子は顔を上げて言った。﹁成長の辛さのようなものを
ね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつ
けが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃった
し、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の
子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、
淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまで
もつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中
に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては
重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクの
ような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界
にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうま
くいかなかったけれど﹂
僕は肯いた。
﹁でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ
君は本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとって
はあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは
今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃっ
たけれど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなの
よ、今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったように、
私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくな
かったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまっ
たのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思い
つきもしなかったのよ。
直子はまた下を向いて黙った。
﹁どう、ココアでも飲まない?﹂とレイコさんが言った。
﹁ええ、飲みたいわ、とても﹂と直子は言った。
﹁僕は持ってきたブランディ︱を飲みたいんだけどかまいませ
んか?﹂と僕は訊いた。
﹁どうぞどうぞ﹂とレイコさんは言った。﹁私にもひとくちく
れる?﹂
﹁もちろんいいですよ﹂と僕は笑って言った。
レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾
杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。
﹁もう少し明るい話をしない?﹂と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてく
れたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソ︱
ドが生まれた、そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持に
なれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不
潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚く
て話してるだけで嫌な気分になったが、二人にはそういうのが珍し
いらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精
神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時にな
って直子が眠そうな目になってきたので、レイコさんがソファ︱の
背を倒してベッドにし、シ︱ツと毛布と枕をセットしてくれた。
﹁夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね﹂
とレイコさんが言った。﹁左側のベッドで寝てるしわのない体が直
子のだから﹂
﹁嘘よ。私右側だわ﹂と直子は言った
﹁ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるよう
にしておいたから、私たちピクニックに行きましょうよ。近所にと
てもいいところがあるのよ﹂とレイコさんは言った。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げ
てしまうと、僕はブランディ︱を少し飲み、ソファ︱?ベッドに寝
転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだか
とても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に
白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそ
りとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折
ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると、暗闇の
中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレイコさんの弾く
ギタ︱の残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかった。
眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は
柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられ
ないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の
枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の
枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重み
で柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみ
た。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びた
たなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属にな
ってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような
気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。
僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もち
ろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとに
ぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝を
ふたつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕
は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、それは置い
たはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か
三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたが、僕は
そのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと
同じブル︱のガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかた
ちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっき
りと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前に
は髪留めを外していたのだ。
直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで
月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせ
いで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそ
うな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴく
ぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない
言葉を囁きかけるかのように。
僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中で
その音はひどく大きく響いた。すると直子は、まるでその音が何か
の合図だとでも言うようにすっと立ち上がり、かすかな衣ずれの音
をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、僕の目をじっとのぞきこ
んだ。僕も彼女の目を見たけれど、その目は何も語りかけていなか
った。瞳は不自然なくらい澄んでいて、向う側の世界がすけて見え
そうなほどだったが、それだけ見つめてもその奥に何かを見つける
ことはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらい
しか離れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるように感
じられた。
僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうし
ろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上に
あげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で
七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボタンを外していく
のを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その
小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮す
るときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸に
なった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身に
つけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウ
ンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわ
らかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新
しいの肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動か
すと︱︱それはほんの僅かな動きなのに︱︱月の光のあたる部分が
微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛り上がった
乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす
粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変
えていた。
これはなんという完全な肉体なのだろう︱︱と僕は思った。直
子はいつの間にこんな完全な肉体を持つようになったのだろう?そ
してその春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってし
まったのだろう?
その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせて
いったとき、僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を
持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ちがいな突起のように感
じられたし、腰のまわりに妙にこわばっていた。もちろん直子は美
しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮
させ、巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼
女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、肉体というも
ののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙な感慨
を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説
明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入ってい
る。でもこれは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいこ
となんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互
いの不完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないこと
を語り合っているだけなんだ。こうすることで僕はそれぞれの不完
全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろんそんなことを口
に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子
の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、僕は
その中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつ
ごつとした感触を感じることができた、そしてその感触は僕を愛し
い気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。
しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違って
いた。直子の肉体はいつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉
体となって月の光の中に生れ落ちたのだ、と僕は思った。まずふっ
くらとした少女の肉がキズキの死と前後してすっかりそぎおとさ
れ、それから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体はあ
まりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなか
った。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややか
な乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下の
やわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。
彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か
六分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガ
ウンを再びまとい、上から順番にボタンをはめていった。ボタンを
はめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドアを開け
てその中に消えた。
僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思い
なおしてベッドから出て、床に落ちている時計を拾い上げ、月の光
の方に向けて見た。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲ん
でからまたベッドに横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の
隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまう
まで眠りは訪れなかった。僕は眠ったか眠らないかのうちにレイコ
さんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き﹁朝よ、朝よ﹂とど
なった。
レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に
立って朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って﹁おはよ
う﹂と言った。おはよう、と僕も言った。ハミングしながら湯をわ
かしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばら
く眺めていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じ
られなかった。
﹁ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?﹂と直子がコ︱ヒ︱を入
れながら僕に言った。
﹁夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかった
んだ﹂
﹁私たちいびきかいてなかった?﹂とレイコさんが訊いた。
﹁かいてませんよ﹂と僕は言った。
﹁よかった﹂と直子が言った。
﹁彼、礼儀正しいだけなのよ﹂とレイコさんはあくびしながら
言った。
僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをし
ているのか、あるいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイ
コさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全
く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄みきってい
た。
﹁よく眠れた?﹂と僕は直子訊ねた。
﹁ええ、ぐっすり﹂と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は
何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。
僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっ
とつづいていた。僕はパンにバタ︱を塗ったり、ゆで玉子の殻をむ
いたりしながら、何かのしるしのようなものを求めて、向いに座っ
た直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。
﹁ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てる
の?﹂と直子がおかしそうに訊いた。
﹁彼、誰かに恋してるのよ﹂とレイコさんが言った。
﹁あなた誰かに恋してるの?﹂と直子は僕に訊いた。
そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がその
ことで僕をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながら、それ
以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食べ、コ︱
ヒ︱を飲んだ。
朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言った
ので、僕もついていくことにした。二人は作業用のジ︱ンズとシャ
ツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニス?コ︱トの裏のち
ょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウム
にいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植
え込みがあり、ベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路
に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から五十のあ
いだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝の
あいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わ
せた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えら
れていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を
上げながら檻の中をとびまわった。
彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の
袋とゴム?ホ︱スを出してきた。直子がホ︱スを蛇口につなぎ、水
道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の
中に入って汚物を洗いおとし、レイコさんがデッキ?ブラシでごし
ごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀たち
はそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首
を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけ、オウムは横
木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんは
オウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に寄って肩
をひそめていたが、少しすると﹁アリガト、キチガイ、クソタレ﹂
と叫んだ。
﹁誰がああいうの教えたのよね﹂とため息をつきながら直子が
言った。
﹁私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの﹂
とレイコさんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは
黙り込んだ。
﹁このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が
怖くって怖くってしようがないのよ﹂とレイコさんは笑って言っ
た。
掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌
箱に餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水を
はねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩
いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。
﹁毎朝これをやっているの?﹂と僕は直子に訊いた。
﹁そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だか
ら。ウサギみたい?﹂
見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹
ほどのウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、
餌箱に餌を入れてから、子ウサギを抱きあげ頬ずりした。
﹁可愛いでしょう?﹂と直子は楽しそうに言った。そして僕に
ウサギを抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の
腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせていた。
﹁大丈夫よ。この人怖くないわよ﹂と直子は言って指でウサギ
の頭を撫で、僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩
しいような笑顔だったので、僕も思わず笑わないわけにはいかなか
った。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。
あれは間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない︱︱彼女は
たしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだ、と。
レイコさんは﹃プラウド?メアリ﹄を口笛できれいに吹きなが
らごみを集め、ビニ︱ルのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は
掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。
﹁朝っていちばん好きよ﹂と直子は言った。﹁何もかも最初か
らまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しい
の。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの﹂
﹁そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年を
とるのよ。朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね﹂と楽しそ
うにレイコさんは言った。﹁すぐよ、そんなの﹂
﹁でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど﹂
と直子が言った。
﹁年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなり
たいとは思わないわね﹂とレイコさんは言った。
﹁どうしてですか?﹂と僕は訊いた。
﹁面倒臭いからよ。決まってんじゃない﹂とレイコさんは答え
た。そして﹃プラウド?メアリ﹄を吹きつづけながらほうきを納屋
に放りこみ、戸を閉めた。
部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはき
かえ、これから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い
仕事でもないし、他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残
って本でも読んでいた方がいいでしょうとレイコさんは言った。
﹁それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあ
るから洗っといてくれる?﹂とレイコさんが言った。
﹁冗談でしょう?﹂と僕はびっくりして訊きかえした。
﹁あたり前じゃない﹂とレイコさんは笑っていった。﹁冗談に
決ってるでしょう、そんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう
思わない、直子?﹂
﹁そうねえ﹂と直子も笑って同意した。
﹁ドイツ語やってますよ﹂と僕はため息をついて言った。
﹁いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるの
よ﹂とレイコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋
を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し
声が聞こえた。
僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪
を切った。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした
洗面所だった。化粧クリ︱ムやリップ?クリ︱ムや日焼けどめやロ
︱ションといったものがぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らし
いものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコ︱ヒ︱
を入れ、テ︱ブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書
を広げた。台所の日だまりの中でTシャツ一枚になってドイツ語の
文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議な気持になっ
た。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテ︱ブルはおよそ考えられ
る限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。
十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワ︱に入り、
さっぱりした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をと
り、そのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番が
いて、食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食
べていた。棚の上のトランジスタ?ラジオからは歌謡曲が流れてい
た。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつし、僕らも
﹁こんにちは﹂と言った。
これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくる
と思う、とレイコさんが言った。
﹁ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道は
こないだの雨で崩れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、
問題ないです﹂と門番は言った。レイコさんは外出者リストのよう
な用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。
﹁気ィつけていってらしゃい﹂と門番は言った。
﹁親切そうな人ですね﹂と僕は言った。
﹁あの人ちょっとここおかしいのよ﹂とレイコさんは言って指
の先で頭を押えた。
いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜け
るように青く、細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもし
たみたいに天頂にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく
﹁阿美寮﹂の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の
狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんで、まん中
が直子で、最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら
隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調でその細い坂道
を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運ん
だ。直子はブル︱ジ︱ンズと白いシャツという格好で、上着を脱い
で手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる
様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目
を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、
レイコさんの歩調はまったく崩れなかったし、直子もときどき汗を
拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕は山のぼり
なんてしばらくしていないせいで息が切れた。
﹁いつもこういう山のぼりしてるの?﹂と僕は直子に訊いてみ
た。
﹁週に一回くらいかな﹂と直子は答えた。﹁きついでしょ、け
っこう?﹂
﹁いささか﹂と僕は言った。
﹁三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょう?し
っかりしなくちゃ﹂とレイコさんが言った。
﹁運動不足なんですよ﹂
﹁女の子と遊んでばかりいるからよ﹂と直子が一人ごとみたい
に言った。
僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出て
こなかった。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤
い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮や
かだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、
いたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺
めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。
それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場
所に出た。我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を
飲んだ。レイコさんは何かの葉っぱをみつけてきて、それで笛を作
って吹いた。
道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂
っていた。十五分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎた
が、そこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化して
いた。家のまわりには腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩
の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残して
すっかり崩れ落ちていたが、中には雨戸を開ければ今すぐにでも住
みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさま
れた道を抜けた。
﹁ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ﹂
とレイコさんが教えてくれた。﹁まわりもずっと畑でね。でももう
みんな出て行っちゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつも
って身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えているわけじゃな
いしね。町に出て働いた方がお金になるのよ﹂
﹁もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに﹂と僕は
言った。
﹁一時ヒッピ︱が住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げ
て出て行ったわよ﹂
集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧
場のようなものがあり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが
見えた。垣根に沿って歩いていくと、大きな犬が尻尾をばたばたと
振りながら走ってきて、レイコさんにのしかかるようにして顔の匂
いをかぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛
を吹くとやってきて、長い舌でべろべろと僕の手を舐めた。
﹁牧場の犬なのよ﹂と直子が犬の頭を撫でながら言った。﹁も
う二十歳近くになっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固い
ものは殆んど食べれないの。いつもお店の前で寝てて人の足音が聞
こえるととんできて甘えるの﹂
レイコさんがナップザックからチ︱ズの切れはしをとりだす
と、犬は匂いを嗅ぎつけてそちらにとんでいき、嬉しそうにチ︱ズ
にかぶりついた。
﹁この子と会えるのももう少しなのよ﹂とレイコさんは犬の頭
を叩きながら言った。﹁十月半ばになると馬と牛をトラックにのせ
て下の方の牧舎につれていっちゃうのよ。夏場だけここで放牧し
て、草を食べさせて、観光客相手に小さなコ︱ヒ︱?ハウスのよう
なものを開けてるの。観光客ったって、ハイカ︱が一日二十人くる
かこないかってくらいのものだけどね。あなた何か飲みたくない、
どう?﹂
﹁いいですね﹂と僕は言った。
犬が先に立って我々をそのコ︱ヒ︱?ハウスまで案内した。正
面にポ︱チのある白いペンキ塗りの小さな建物で、コ︱ヒ︱?カッ
プのかたちをした色褪せた看板が軒から下がっていた。犬は先に立
ってポ︱チに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。僕らがポ︱チの
テ︱ブルに座ると中からトレ︱ナ︱?シャツとホワイト?ジ︱ンズ
という格好の髪をポニ︱?テ︱ルにした女の子が出てきて、レイコ
さんと直子に親しい気にあいさつした。
﹁この人直子のお友だち﹂とレイコさんが僕に紹介した。
﹁こんにちは﹂とその女の子は言った。
﹁こんにちは﹂と僕も言った。
三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテ︱ブ
ルの下の犬の首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張
っていた。その固いところをぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良
さそうに目をつぶってはあはあと息をした。
﹁名前はなんていうの?﹂と僕は店の女の子に訪ねた。
﹁ぺぺ﹂と彼女は言った。
﹁ぺぺ﹂と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかっ
た。
﹁耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ﹂と女
の子は京都弁で言った。
﹁ペペッ!﹂と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっ
と身を起こし、ワンッと吠えた。
﹁よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい﹂と女
の子が言うと、ぺぺはまた僕の足もとにごろんと寝転んだ。
直子とレイコさんはアイス?ミルクを注文し、僕はビ︱ルを注
文した。レイコさんは女の子にFMをつけてよと言って、女の子はア
ンプのスイッチを入れてFM放送をつけた。プラット?スウェット?
アンド?ティア︱ズが﹃スピニング?ホイ︱ル﹄を唄っているのが
聴こえた。
﹁私、実を言うとFMが聴きたくてここに来てんのよ﹂とレイコ
さんは満足そうに言った。﹁何しろうちはラジオもないし、たまに
ここに来ないと今世間でどんな音楽かかってるのかわかんなくなっ
ちゃうのよ﹂
﹁ずっとここに泊ってるの?﹂と僕は女の子に聴いてみた。
﹁まさか﹂と女の子は笑って答えた。﹁こんなところに夜いた
ら淋しくて死んでしまうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送
ってもらうの。それでまた朝に出てくるの﹂彼女はそう言って少し
離れたところにある牧場のオフィスの前に停まった四輪駆動車を指
さした。
﹁もうそろそろここも暇なんじゃないの?﹂とレイコさんが訊
ねた。
﹁まあぼちぼちおしまいやわねえ﹂と女の子は言った。レイコ
さんは煙草をさしだし、彼女たちは二人で煙草を吸った。
﹁あなたいなくなると淋しいわよ﹂とレイコさんは言った。
﹁来年の五月にまた来るわよ﹂と女の子は笑って言った。
クリ︱ムの﹃ホワイト?ル︱ム﹄がかかり、コマ︱シャルがあ
って、それからサイモン?アンド?カ︱ファンクルの﹃スカボロ?
フェア﹄がかかった。曲が終るとレイコさんは私この歌すきよと言
った。
﹁この映画観ましたよ﹂と僕は言った。
﹁誰が出てるの?﹂
﹁ダスティン?ホフマン﹂
﹁その人知らないわねえ﹂とレイコさんは哀しそうに首を振っ
た。﹁世界はどんどん変っていくのよ、私の知らないうちに﹂
レイコさんは女の子にギタ︱を貸してくれないかと言った。い
いわよと女の子は言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギタ
︱を持ってきた。犬が顔を上げてギタ︱の匂いをくんくんと嗅い
だ。﹁食べものじゃないのよ、これ﹂とレイコさんが犬に言い聞か
せるように言った。草の匂いのする風がポ︱チを吹き抜けていっ
た。山の稜線がくっきりと我々の眼前に浮かび上がっていた。
﹁まるで﹃サウンド?オブ?ミュ︱ジック﹄のシ︱ンみたいで
すね﹂と僕は調弦をしているレイコさんに言った。
﹁何よ、それ?﹂彼女は言った。
彼女は﹃スカボロ?フェア﹄の出だしのコ︱ドを弾いた。楽譜
なしではじめて弾くらしく最初のうちは正確なコ︱ドを見つけるの
にとまどっていたが、何度か試行錯誤をくりかえしているうちに彼
女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおして弾けるよう
になった。そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなり
と弾けるようになった。﹁勘がいいのよ﹂とレイコさんは僕に向っ
てウインクして、指で自分の頭を指した。﹁三度聴くと、楽譜がな
くてもだいたいの曲は弾けるの﹂
彼女はメロディ︱を小さくハミングしながら﹃スカボロ?フェ
ア﹄を最後まできちんと弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさ
んは丁寧に頭を下げた。
﹁昔モ︱ツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大
きかったわね﹂と彼女は言った。
店の女の子が、もしビ︱トルズの﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄
を弾いてくれたらアイス?ミルクのぶん店のおごりにするわよと言
った。レイコさんは親指をあげてOKのサインを出した。それから歌
詞を唄いながら﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄を弾いた。あまり声量
がなく、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていた
けれど、存在感のある素敵な声だった。ビ︱ルを飲みながら山を眺
め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから太陽がもう一度顔を
のぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたかいやさしい気
持だった。
﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄を唄い終ると、レイコさんはギタ
︱を女の子に返し、またFM放送をつけてくれと言った。そして僕と
直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいよと言
った。
﹁私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時
までに戻ってくれば、それでいいわよ﹂
﹁ そんな に長 く二人きり になっちゃってか まわないんで す
か?﹂と僕は訊いた。
﹁本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつき
そいばあさんじゃないんだから少しはのんびりしたいわよ、一人
で。それにせっかく遠くから来たんだからつもる話もあるんでしょ
う?﹂とレイコさんは新しい煙草に火をつけながら言った。
﹁行きましょうよ﹂と直子が言って立ち上がった。
僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしば
らく我々のあとをついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所
に戻っていた。我々は牧場の柵に沿って平坦な道をのんびりと歩い
た。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだりした。
﹁こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?﹂と直子は
言った。
﹁あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ﹂と僕は笑って言った。
﹁今年の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史
になっちゃうよ﹂
﹁古代史みたいなものよ﹂と直子は言った。﹁でも昨日ごめん
なさい。なんだか神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来て
くれたのに、悪かったわ﹂
﹁かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し
方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情
をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっと
お互いを理解できる﹂
﹁私を理解して、それでそうなるの?﹂
﹁ねえ、君はわかってない﹂と僕は言った。﹁どうなるかとい
った問題ではないんだよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが
好きで一日中時刻表読んでいる人がいる。あるいはマッチ棒をつな
ぎあわせて長さ一メ︱トルの船を作ろうとする人だっている。だか
ら世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたって
おかしくないだろう?﹂
﹁趣味のようなものかしら?﹂と直子はおかしそうに言った。
﹁趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人は
そういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味っ
て呼びたいんならそう呼べばいい﹂
﹁ねえ、ワタナベ君﹂と直子が言った。﹁あなたキズキ君のこ
とも好きだったんでしょう?﹂
﹁もちろん﹂と僕は答えた。
﹁レイコさんはどう?﹂
﹁あの人も大好きだよ。いい人だね﹂
﹁ ねえ、 どう してあなた そういう人たちば かり好きにな る
の?﹂と直子は言った。﹁私たちみんなどこかでねじまがって、よ
じれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私も
キズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな
人を好きにならないの?﹂
﹁それは僕にはそう思えないからだよ﹂僕は少し考えてからそ
う答えた。﹁君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうし
ても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元
気に外で歩きまわってるよ﹂
﹁でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの﹂と直子は
言った。
我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖
のようにまわりを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。
﹁ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの﹂と直子
は僕の腕に体を寄せながら言った。﹁こんな風にねじ曲ったまま二
度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていく
んじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっ
ちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて﹂
僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。
﹁まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてる
ような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。
そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの﹂
﹁そういうときはどうするの?﹂
﹁ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね﹂
﹁思わないよ﹂と僕は言った。
﹁レイコさんに抱いてもらうの﹂と直子は言った。﹁レイコさ
んを起こして、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらう
の。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてくれるの。体の芯があ
たたまるまで。こういうのって変?﹂
﹁変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげた
いと思うだけど﹂
﹁今、抱いて、ここで﹂と直子は言った。
我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下
ろすと我々の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見
えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、
抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を
求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。
﹁ねえ、ワタナベ君?﹂と僕の耳もとで直子が言った。
﹁うん?﹂
﹁私と寝たい?﹂
﹁もちろん﹂と僕は言った。
﹁でも待てる?﹂
﹁もちろん待てる﹂
﹁そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。
きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。そ
れまで待ってくれるの?﹂
﹁もちろん待つよ﹂
﹁今固くなってる?﹂
﹁足の裏のこと?﹂
﹁馬鹿ねえ﹂とくすくす笑いながら直子は言った。
﹁勃起してるかということなら、してるよ、もちろん﹂
﹁ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる?﹂
﹁いいよ、やめる﹂と僕は言った。
﹁そういうのってつらい?﹂
﹁何が?﹂
﹁固くなってることが﹂
﹁つらい?﹂と僕は訊きかえした。
﹁つまり、その……苦しいかっていうこと﹂
﹁考えようによってはね﹂
﹁出してあげようか?﹂
﹁手で?﹂
﹁そう﹂と直子は言った。﹁正直言うとさっきからそれすごく
ゴツゴツしてて痛いのよ﹂
僕は少し体をずらせた。﹁これでいい?﹂
﹁ありがとう﹂
﹁ねえ、直子?﹂と僕は言った。
﹁なあに?﹂
﹁やってほしい﹂
﹁いいわよ﹂と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕の
ズボンのジッパ︱を外し、固くなったペニスを手に握った。
﹁あたたかい﹂と直子は言った。
直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラウスの
ボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャ︱のホックを外した。
そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を
閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。
﹁なかなか上手いじゃない﹂と僕は言った。
﹁いい子だから黙っていてよ﹂と直子が言った。
射精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。
そして直子はブラジャ︱とブラウスをもとどおりにし、僕はズボン
のジッパ︱をあげた。
﹁これで少し楽に歩けるようになった?﹂と直子が訊いた。
﹁おかげさまで﹂と僕は答えた。
﹁じゃあよろしかったらもう少し歩きません?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は言った。
僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして
歩きながら直子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰
にも話したことはないのだけれど。あなたには話しておいた方がい
いと思うから話すのだと彼女は言った。
﹁私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違った
んだけれど、それでもとても仲が良かったの﹂と直子は言った。
﹁喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。まあ喧嘩にならないくらいレ
ベルに差があったということもあるんだけどね﹂
お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったの
だ、と直子は言った。勉強もいちばんならスポ︱ツもいちばん、人
望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱりしているから男
の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚も
あってという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女
の子がいる。でも自分のお姉さんだから言うわけじゃないんだけれ
ど、そういうことでスボイルされて、つんつんしたり鼻にかけたり
するような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む人でもな
かった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだった
のだ、と。
﹁それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心
したの﹂と直子はすすきの穂をくるくると回しながら言った。﹁だ
ってそうでしょう、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良く
て、スポ︱ツができて、人望もあってなんて話してるの聞いて育っ
たんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。そ
れにまあ顔だけとれば私の方が少しきれいだったから、親の方も私
は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな学校に小学校か
らいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピ︱スとかフリルのつ
いたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンと
かね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれた
わ、可愛い小さな妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼ
ントしてくれたし、いろんなところにつれていってくれたり、勉強
みてくれたり。ボ︱イ?フレンドとデ︱トするとき私も一緒につれ
てってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉さんだったわ。
彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわから
なかったの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年
も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もな
くて︱︱同じでしょう?﹂
﹁そうだね﹂と僕は言った。
﹁みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだ
とか言ってたわ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本
を持ってて、私はお姉さんが死んだあとでずいぶんそれ読んだんだ
けど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであ
ったり、ボ︱イ?フレンドの手紙がはさんであったり。そういうの
で私、何度も泣いたのよ﹂
直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。
﹁大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに
相談したり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプラ
イドが高くてというじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思っ
てそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れちゃって
て、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお
姉さんに相談したし、彼女はとても親切にいろんなこと教えてくれ
るんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片づけちゃうの。
怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張
じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとムシャク
シャして人にあたったりするでしょ、多かれ少なかれ。そういうの
もないの。彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまう
の。二ヶ月か三ヶ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいず
っと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆んど食べ
ないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。でも不
機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣り
に座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃ
ないのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、
テストの成績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを
熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも
私がいなくなると︱︱たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレエ
のレッスンに出かけたりすると︱︱また一人でボオッとしてるの。
そして二日くらい経つとそれがバタッと自然になおって元気に学校
に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんじゃな
いかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたら
しいんだけれど、なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでし
ょ、だからまあ放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思う
ようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。
でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたこ
とあるの。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭
がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこ
もって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだ
って。それでお父さんこういったのよ。﹃やはり血筋なのかなあ、
俺の方の﹄って﹂
直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にち
らせていた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐ
るぐると指に巻きつけた。
﹁お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの﹂と直子はつづ
けた。﹁小学校六年生の秋よ。十一月。雨が降って、どんより暗い
一日だったわ。そのときお姉さんは高校三年生だったわ。私がピア
ノのレッスンから戻ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度し
ていて、もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は
二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってど
なったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。寝ちゃったの
かしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺に立っ
て、首を少しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで
考えごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、
何もかもぼんやりとしか見えなかったのよ。私は﹃ねえ何してる
の?もうごはんよ﹄って声かけたの。でもそういってから彼女の背
がいつもより高くなってることに気づいたの。それで、あれどうし
たんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハイヒ︱ルはいてるの
か、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そして近づい
ていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上に
ひもがついていることにね。天井のはりからまっすぐにひもが下っ
ていて︱︱それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、
まるで定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは
白いブラウス着ていて︱︱そう、ちょうど今私が着てるようなシン
プルなの︱︱グレ︱のスカ︱トはいて、足の先がバレエの爪立てみ
たいにキュッとのびていて、床と足の指先のあいだに二十センチく
らいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと細かに全
部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行か
なかったのよ。私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ば
なくちゃと思ったわ。でも体の方が言うことをきかないのよ。私の
意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下に
いかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひも
から外そうとしているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でで
きるわけないし、私そこで五、六分ぼおっとしていたと思うの、放
心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが死んで
しまったみたいで。お母さんが﹃何してるのよ?﹄って見に来るま
で、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷た
いところに……﹂
直子は首を振った。
﹁それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッ
ドの中で死んだみたいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなん
だか全然わからなくて﹂直子は僕の腕に身を寄せた。﹁手紙に書い
たでしょ?私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだ
って。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根は
ずっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に
行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのな
ら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好
きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかも
しれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。
あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくない
の。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そして私のことを
いつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ﹂
﹁僕は望むのはそれだけじゃないよ﹂と僕は言った。
﹁でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にし
てるわよ﹂
﹁僕は何も無駄になんかしてない﹂
﹁だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあ
なたは私を待つの?十年も二十年も私を待つことができるの?﹂
﹁君は怯えすぎてるんだ﹂と僕は言った。﹁暗闇やら辛い夢う
やら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれ
を忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ﹂
﹁忘れることができればね﹂と直子は首を振りながら言った。
﹁ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?﹂と僕は言
った。﹁そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることがで
きるし、レイコさんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあ
げられる﹂
直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることが
できたら素敵でしょうね﹂と直子は言った。
我々がコ︱ヒ︱?ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイ
コさんは本を読みながらFM放送でブラ︱ムスの二番のピアノ協奏曲
を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の端っこでブラ︱ムス
がかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチ
ェロの出だしのメロディ︱を彼女は口笛でなぞっていた。
﹁バックハウスとベ︱ム﹂とレイコさんは言った。﹁昔はこの
レコ︱ドをすれきれるくらい聴いたわ。本当にするきれっちゃたの
よ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね﹂
僕と直子は熱いコ︱ヒ︱を注文した。
﹁お話はできた?﹂とレイコさんは直子に訊ねた。
﹁ええ、すごくたくさん﹂と直子は言った。
﹁あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか﹂
﹁そんなこと何もしてないわよ﹂と直子が赤くなって言った。
﹁本当に何もしてないの?﹂とレイコさんは僕に訊いた。
﹁してませんよ﹂
﹁つまんないわねえ﹂とレイコさんはつまらなそうに言った。
﹁そうですね﹂と僕はコ︱ヒ︱をすすりながら言った。
夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も
人々の顔つきも昨日そのままで、メニュ︱だけが違っていた。昨日
無重力状態での胃液の分泌について話していた白衣の男が僕ら三人
のテ︱ブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係について
ずっと話していた。僕らは大豆のハンバ︱グ?ステ︱キというのを
食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞
かされていた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用紙にボ︱ルペン
で脳の絵を描いてくれた。そして何度も﹁いやちょっと違うな、こ
れ﹂と言っては描きなおした。そして描き終わると大事そうにメモ
用紙を白衣のポケットにしまい、ボ︱ルペンを胸のポケットにさし
た。胸のポケットにはボ︱ルペンが三本と鉛筆と定規が入ってい
た。そして食べ終ると﹁ここの冬はいいですよ。この次は是非冬に
いらっしゃい﹂と昨日と同じことを言って去っていた。
﹁あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか?﹂と僕
はレイコさんに訊いてみた。
﹁どっちだと思う?﹂
﹁どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりま
ともには見えないけど﹂
﹁お医者よ。宮田先生っていうの﹂と直子が言った。
﹁でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けて
もいいけど﹂とレイコさんが言った。
﹁門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ﹂と直子が言っ
た。
﹁うん、あの人狂ってる﹂とレイコさんがブロッコリ︱をフォ
︱クでつきさしながら肯いた。
﹁だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦
茶な体操してるもの。それから直子の入ってくる前に木下さんって
いう経理の女の子がいて、この人はノイロ︱ゼで自殺未遂したし、
徳島っていう看護人は去年アルコ︱ル中毒がひどくなってやめさせ
られたし﹂
﹁患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね﹂と僕
は感心して言った。
﹁まったくそのとおり﹂とレイコさんはフォ︱クをひらひらと
振りながら言った。﹁あなたもだんだん世の中のしくみがわかって
きたみたいじゃない﹂
﹁みたいですね﹂と僕は言った。
﹁私たちがまとな点は﹂とレイコさんは言った。﹁自分たちが
まともじゃないってかわっていることよね﹂
部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだ
レイコさんはまたギタ︱を抱えてバッハの練習をしていた。
﹁明日は何時に帰るの?﹂とレイコさんが手を休めて煙草に火
をつけながら僕に訊いた。
﹁朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら
夕方のアルバイトをすっぽかさずにすむし﹂
﹁残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに﹂
﹁そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうで
すよ﹂と僕は笑って言った。
﹁ま、そうね﹂とレイコさんは言った。それから直子に﹁そう
だ、岡さんのところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり
忘れてた﹂と言った。
﹁一緒に行きましょうか?﹂と直子が言った。
﹁なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら?﹂
﹁いいわよ﹂
﹁じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう﹂とレイコさんは
僕の手をとって言った。﹁昨日はもう少しってとこまでだったか
ら、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね﹂
﹁いいわよ、どうぞお好きに﹂と直子はくすくす笑いながら言
った。
風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブル︱のカ
︱ディガンを着て両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女
は歩きながら空を見上げ、犬みたいにくんくんと匂いを嗅いだ。そ
して﹁雨の匂いがするわね﹂と言った。僕も同じように匂いを嗅い
でみたが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月
もその背後に隠されてしまっていた。
﹁ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるの
よ﹂とレイコさんは言った。
スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待
っててくれと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥
さんらしい女性が出てきてレイコさんと立ち話をし、クスクス笑い
それから中に入って今度は大きなビニ︱ル袋を持って出てきた。レ
イコさんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻
ってきた。
﹁ほら葡萄もらってきたわよ﹂とレイコさんはビニ︱ル袋の中
を見せてくれた。袋の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入ってい
た。
﹁葡萄好き?﹂
﹁好きですよ﹂と僕は言った。
彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。﹁そ
れ洗ってあるから食べられるわよ﹂
僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。
瑞々しい味の葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。
﹁あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげてい
るの。そのお礼がわりにいろんなものくれるのよ、あの人たち。こ
のあいだのワインもそうだし。市内でちょっとした買物もしてきて
もらえるしね﹂
﹁昨日の話のつづきが聞きたいですね﹂と僕は言った。
﹁いいわよ﹂とレイコさんは言った。﹁でも毎晩帰りが遅くな
ると直子が私たちの仲を疑いはじめるんじゃないかしら?﹂
﹁たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね﹂
﹁OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささ
か冷えるから﹂
彼女はテニス?コ︱トの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小
さな倉庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。
そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイ
ッチを入れた。﹁入りなさいよ。何もないところだけれど﹂
倉庫の中にはクロス?カントリ︱用のスキ︱板とストックと靴
がきちんと揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品な
どが積み上げられていた。
﹁昔はよくここにきてギタ︱の練習したわ。一人になりたいと
きにはね。こぢんまりしていいところでしょう?﹂
レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと
言った。僕は言われたとおりにした。
﹁少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?﹂
﹁いいですよ、どうぞ﹂と僕は言った。
﹁やめられないのよね、これだけは﹂とレイコさんは顔をしか
めながら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおい
しいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡
萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリキ缶に捨て
た。
﹁昨日はどこまで話したっけ?﹂とレイコさんは言った。
﹁嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくとこ
ろまでですね﹂と僕は言った。
﹁あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ﹂とレ
イコさんはあきれたように言った。﹁毎週土曜日の朝にその女の子
にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、たしか﹂
﹁そうです﹂
﹁世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけ
るとしたら私はたぶん前の方に入ると思うの﹂とレイコさんは言っ
た。﹁若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないと
いうのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわ
めみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人
に物を教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ﹂
﹁そう思います﹂と僕は同意した。
﹁私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づ
よいし、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を
引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱の
わきについているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要する
に。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじ
ゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好き
よ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を
教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にアルバイトで
何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなか
ったわ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんな
に人に物を教えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンは
うまくいったの。
昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノは
たいしたことないし、音楽の専門家になろうっていうんでもない
し、私としても余計のんびりやれたわけよ。それに彼女の通ってい
た学校はまずまずの成績をとっていれば大学までエスカレ︱ト式に
上っていける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかった
からお母さんの方だって﹃のんびりとおけいこ事でもして﹄ってな
ものよ。だから私もその子にああしろこうしろって押しつけなかっ
たわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思
ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分の
やりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分
の好きなように弾かせるの。百パ︱セント好きなように。次に私が
その同じ曲をいろんなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの
弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう
一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。良い
ところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ﹂
レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄
を食べつづけていた。
﹁私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私
以上だったわね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生
についてきちんとした訓練受けてたら良いところまでいってたのに
なあってね。でもそれは違うのよ。結局のところその子はきちんと
した訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人
っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化する
ための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう
人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最初はとに
かくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見で
パァ︱ッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。
見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないって
ね。でもそれだけなのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何
故行けないか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこま
れていないからよ。スボイルされているのね。下手に才能があって
小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれてみんなが凄い凄
いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えち
ゃうのね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、
すると先生の方もこの子はできるからって次に行かせちゃう、それ
もまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行く。そして叩か
れるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっ
ことしていってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそ
ういうところがあったんだけれど、幸いなことに私の先生はずいぶ
ん厳しい人だったから、まだこの程度ですんでるのよ。
でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能の
スポ︱ツ?カ︱に乗って高速道路を走っているようなもんでね、ち
ょっと指を動かすだけでピッピッと素速く反応するのよ。いささか
素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教えるときの
コツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてる
から、いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上
手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押しつけない
こと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどまって
考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ﹂
レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情
を鎮めるようにふうっと深呼吸をした。
﹁レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私
がジャズ?ピアノの真似事して教えてあげたりしてね。こういうの
がバド?バウエル、こういうのがセロニスア?モンクなんてね。で
もだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手くて
ね、ついつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部
分は作りごとだったと思うんだけれど、それにしても面白いわよ。
観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユ︱モアがあって、人の感
情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが実
に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知って
いるから、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を
怒らせたり、悲しませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせ
たり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。それ
も自分の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を
操ったりもするわけ。もちろんそういうのもあとになってからそう
だったんだなあと思うだけでそのときはわからないの﹂
レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。
﹁病気なのよ﹂とレイコさんは言った。﹁病んでいるのよ。そ
れもね、腐ったリンコがまわりのものをみんな駄目にしていくよう
な、そういう病み方なのよ。そしてその彼女の病気はもう誰にもな
おせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だから考え
ようによっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者に
ならなかったとしたらそう思ったわ。この子も犠牲者の一人なんだ
ってね﹂
そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのか
と考えているように見えた。
﹁まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思
うこともあったし、なんだかちょっとおかしいなと思うこともあっ
たわ。それから話をしていて、彼女が誰かに対してどう考えても理
不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかっ
てゾッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いっ
たい何を本当は考えているのかしらと思ったこともあったわ。でも
人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに私は一介のビアノ
の教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいい
ことでしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえ
すれば私としてはそれでオ︱ケ︱じゃない。それに私、その子のこ
とをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。
ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないように
してたの、私。なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと
思ってたから。だから彼女が私のことについていろいろ質問しても
︱︱ものすごく知りたがったんだけど︱︱あたりさわりのないこと
しか教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただ
の、まあその程度のことよね。先生のこともっとよく知りたいの
よ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方ないわよ、つま
んない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追われ
て、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、
彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られ
るとね、私もドキッとしちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。そ
れでも必要以上のことは教えなかったけれどね。
あれは五月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子
が突然気分がわるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめ
て汗かいてるのよ。それで私、どうする、家に帰る?って訊ねた
ら、少し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。
いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言っ
て、彼女を殆んど抱きかかえるようにして私の寝室につれていった
の。うちのソファ︱ってすごく小さかったから、寝室に寝かせない
わけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って
彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言っ
たわ。どうする、お水か何か飲む?って。いいの、となりにしばら
くいてもらえればってその子は言って、いいわよ、となりにいるく
らいいくらでもいてあげるからって私言ったの。
少しするとね﹃すみません、少し背中をさすっていただけませ
んか﹄ってその子が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かい
ているから、私一所懸命背中さすってやったの、すると﹃ごめんな
さい、ブラ外してくれませんか、苦しくって﹄ってその子言うの
よ。まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたシャツ
着てたもんだから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外
したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の二倍はあった
わね。ブラジャ︱もね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人
用の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでも
いいことじゃない?私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。
ごめんなさいねってその子本当に申しわけないって声で言った、そ
のたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ﹂
レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もそ
の頃には葡萄を食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入ってい
た。
﹁そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。
﹃ねえ、どうしたの?﹄って私言ったわ。
﹃なんでもないんです﹄
﹃なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ﹄
﹃時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもな
いんです。淋しくって、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私
のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こうなっちゃうんで
す。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところに
くるのだけが楽しみなんです、私﹄
﹃ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあ
げるから﹄
家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親
を愛することができないし両親の方も自分を愛してはくれないんだ
って。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はその
ことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだ
って彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておい
おい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見たら神様だってほ
ろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰
るのが辛いんだったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来てもい
いわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして﹃本当にごめ
んなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。
私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないん
だもの﹄って言うのよ。
仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よ
しよしってね。その頃にはその子は私の背中にこう手をまわして
ね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、私だんだん変な気にな
ってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。だってさ、
絵から切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱きあ
っていて、その子が私の背中を撫でまわしていて、その撫で方たる
やものすごく官能的なんだもの。亭主なんてもう足もとにも及ばな
いくらいなの。ひと撫でされるごとに体のたがが少しずつ外れてい
くのがわかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら彼女私のブ
ラウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。
それで私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだ
って。私前にも一度やられたことあるの、高校のとき、上級の女の
子に。それで私、駄目、よしなさいって言ったの。
﹃お願い、少しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないん
です。本当に淋しいの。先生しかいないんです。見捨てないで﹄そ
してその子、私の手をとって自分の胸にあてたの。すごく形の良い
おっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃ
うみたいなの。女の私ですらよ。私、どうしていいかわかんなくて
ね、駄目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みたいに言いつづける
だけなの。どういうわけか体が全然動かないのよ。高校のときはう
まくはねのけることができたのに、そのときは全然駄目だったわ。
体がいうこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自分の胸
に押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右
手で私の背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カ︱テンを
閉めた寝室で十三歳の女の子に裸同然にされて︱︱その頃はもうん
なんだかわからないうちに一枚一枚服を脱がされてたの︱︱愛撫さ
れて悶えてるんなんて今思うと信じられないわよ。馬鹿みたいじゃ
ない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだっ
たの。その子は私の乳首を吸いながら﹃淋しいの。先生しかしない
の。捨てないで。本当に淋しいの﹄って言いつづけて、私の方は駄
目よ駄目よって言いつづけてね﹂
レイコさんは話をやめて煙草をふかした。
﹁ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ﹂とレイコ
さんは僕の顔を見て言った。﹁あなたには話した方がいいと思うか
ら話してるけれど、私だってすごく恥かしいのよ、これ﹂
﹁すみません﹂と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのか
よくわからなかった。
﹁そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下
に降りてきたのよ。そして下着の上からあそこ触ったの。その頃は
私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。お恥かしい
話だけれど。あんなに濡れたのはあとにも先にもはじめてだったわ
ね。どちらかいうと、私は自分がそれまで性的に淡白な方だと思っ
てたの。だからそんな風になって、自分でもいささか茫然としちゃ
ったのよ。それから下着の中に彼女の細くてやわらかな指が入って
きて、それで……ねえ、わかるでしょ、だいたい?そんなこと私の
口から言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつご
つした指でやられるのと全然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽
毛でくすぐられてるみたいで。私もう頭のヒュ︱ズがとんじゃいそ
うだったわ。でもね、私、ボォッとした頭の中でこんなことしてち
ゃ駄目だと思ったの。一度こんなことやったら延々とこれをやりつ
づけることになるし、そんな秘密も抱えこんだら私の頭はまだこん
がらがるに決まっているんだもの。そして子供のことを考えたの。
子供にこんなところ見られたらどうしようってね。子供は土曜日は
三時くらいまで私の実家に遊びに行くことになっていたんだけれ
ど、もし何かがあって急にうちに帰ってきたりしたらどうしようっ
てね。そう思ったの。それで私、全身の力をふりしぼって起きあが
って﹃止めて、お願い!﹄って叫んだの。
でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせて
クンニリングスしてたの。私、恥かしいから主人さえ殆んどそうい
うのさせなかったのに、十三歳の女の子が私のあそこぺろぺろ舐め
てるのよ。参っちゃうわよ。私、泣けちゃうわよ。それがまた天国
にのぼったみたいにすごいんだもの。
﹃止めなさい﹄ってもう一度どなって、その子の頬を打った
の。思いきり。それで彼女やっとやめたわ。そして体起こしてじっ
と私を見た。私たちそのとき二人ともまるっきりの裸でね、ベッド
の上に身を起こしてお互いじっと見つめあったわけ。その子は十三
で、私は三十一で……でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒
されちゃったわね。今でもありありと覚えているわよ。あれが十三
の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかったし、今でも
信じられないわよ。あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい泣
き出したいくらいみっともない代物だったわ。本当よ﹂
なんとも言いようがないので僕は黙っていた。
﹁ねえどうしてよってその子は言ったわ。﹃先生もこれ好きで
しょ?私最初から知ってたのよ。好きでしょ?わかるのよ、そうい
うの。男の人とやるよりずっといいでしょ?だってこんな濡れてる
じゃない。私、もっともっと良くしてあげられるわよ。本当よ。体
が溶けちゃうくらい良くしてあげられるのよ。いいでしょ、ね?﹄
でもね、本当にその子の言うとおりなのよ。本当に。主人とやるよ
りその子とやってる方がずっと良かったし、もっとしてほしかった
のよ。でもそうするわけにはいかないのよ。﹃私たち週一回これや
りましょうよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私
だけの秘密にしましょうね?﹄って彼女は言ったわ。
でも私、立ち上がってバスロ︱ブ羽織って、もう帰ってくれ、
もう二度とうちに来ないでくれって言ったの。その子、私のことじ
っと見てたわ。その目がね、いつもと違ってすごく平板なの。まる
でボ︱ル紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。奥行きがな
くて。しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめ
て、まるで見せつけるみたいにゆっくりとひとつひとつそれを身に
つけて、それからピアノのある居間に戻って、バッグからヘア?ブ
ラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、靴をはいて出
ていったの。出がけにこう言ったわ。﹃あなたレズビアンなのよ、
本当よ。どれだけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ﹄ってね﹂
﹁本当にそうなんですか?﹂と僕は訊いてみた。
レイコさんは唇を曲げてしばらく考えていた。﹁イエスでもあ
り、ノオでもあるわね。主人とやるよりはその子とやるときの方が
感じたわよ。これは事実ね。だから一時は自分でも私はレズビアン
んなんじゃないか、やはり真剣に悩んだわよ。これまでそれ気づか
なかっただけなんだってね。でも最近はそう思わないわ。もちろん
そういう傾向が私の中にないとは言わないわよ。女の子を見て積極
的に欲情するということはないからね。わかる?﹂
僕は肯いた。
﹁ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだ
けなのよ。そういう場合に限って私はそうなっちゃうのよ。だから
たとえば直子を抱いたって、私とくに何も感じないわよ。私たち暑
いときなんか部屋の中では殆んど裸同然で暮らしてるし、お風呂だ
って一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし……でも何も
ないわよ。何も感じないわよ。あの子の体だってすごくきれいだけ
ど、でもね、べつにそれだけよ。ねえ、私たち一度レズごっとした
ことあるのよ。直子と私とで。こんな話聞きたくない?﹂
﹁話して下さい﹂
﹁私がこの話をあの子にしたとき︱︱私たちなんでも話すのよ
︱︱直子がためしに私を撫でてくれたの、いろいろと。二人で裸に
なってね。でも駄目よ、ぜんぜん。くすぐったくてくすぐったく
て、もう死にそうだったわ。今思い出してもムズムズするわよ。そ
ういうのってあの子本当に不器用なんだから。どう少しホッとし
た?﹂
﹁そうですね、正直言って﹂と僕は言った。
﹁まあ、そういうことよ、だいたい﹂とレイコさんは小指の先
で眉のあたりを掻きながら言った。
﹁その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座って
ボォッとしていたの。どうしていいかよくわかんなくて。体のずう
っと奥の方から心臓の鼓動がコトッコトッて鈍い音で聞こえて、手
足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさして。でも
子供が帰ってくるからとにかくお風呂に入ろうと思って入ったの。
そしてあの子に撫でられたり舐められたりした体をとにかくきれい
に洗っちゃおうって思ったの。でもね、どれだけ石鹸でごしごし洗
っても、そういうぬめりのようなものは落ちないのよ。たぶんそん
なの気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に抱
いてもらったの。その穢れおとしみたいな感じでね。もちろん彼に
はそんなことなにも言わなかったわよ。とてもじゃないけど言えな
いわよ。ただ抱いてって言って、やってもらっただけ。ねえ、いつ
もより時間かけてゆっくりやってねって言って。彼すごく丁寧にや
ってくれたわ。たっぷり時間かけて。私それでバッチリいっちゃっ
たわよ、ピュ︱ッて。あんなにすごくいっちゃったの結婚してはじ
めてだったわ。どうしてだと思う?あの子の指の感触が私の体に残
ってたからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわねえ、こうい
う話。汗が出ちゃうわ。やってくれたとかいっちゃったとか﹂レイ
コさんはまた唇を曲げて笑った。﹁でもね、それでもまだ駄目だっ
たわ。二日たっても三日たっても残っているのよ、その女の子の感
触が。そして彼女の最後の科白が頭の中でこだまみたいにわんわん
と鳴りひびいているのよ﹂
﹁翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようか
なあって、私どきどきしながら家にいたの。何も手につかなくて。
でも来なかったわ。まあ来ないわよね。プライドの高い子だし、あ
んな風になっちゃったわけだから。そして翌週も、また次の週も来
なくって、一ヶ月が経ったのよ。時間がたてばそんなことも忘れち
ゃうだろうと私は思ってたんだけど、でもうまく忘れられなかった
の。一人で家の中にいるとね、なんだかその女の子の気配がまわり
にふっと感じられて落ち着かないのよ。ピアノも弾けないし、考え
ることもできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。
それでそういう風に一ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけ
れど、外を歩くと何か変なのよね。近所の人が妙に私のことを意識
してるのよ。私を見る目がなんだかこう変な感じで、よそよそしい
のよ。もちろんあいさつくらいはするんだけれど、声の調子も応待
もこれまでとは違うのよ。ときどきうちに遊びに来ていた隣りの奥
さんもどうも私を避けてるみたいなのね。でも私はなるべくそうい
うの気にすまいとしてたの。そういうのを気にし出すのって病気の
初期徴候だから。
ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だ
し、私の母の知り合いの娘さんだし、子供の幼稚園が一緒だったん
で、私たちわりに親しかったのよ。その奥さんが突然やってきて、
あなたについてひどい噂が広まっているけれど知っているかって言
うの。知らないわって私言ったわ。
﹃どんなのよ?﹄
﹃どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ﹄
﹃言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部
おっしゃいよ﹄
それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。
まあ本人だってはじめてしゃべりたくって来てるんだもの、何のか
んの言ったってしゃべるわよ。そして、彼女の話によるとね、噂と
いうのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピ
アノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずら
しようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったってい
うことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、どうして私が入院し
ていたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしちゃっ
たわね。
﹃私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないっ
てみんなに言ったのよ﹄ってその人は言ったわ。﹃でもね、その女
の子の親はそう信じこんでいて、近所の人みんなにそのこと言いふ
らしてるのよ。娘があなたにいたずらされたっていうんで、あなた
のこと調べてみたら精神病の病歴があることがわかったってね﹄
彼女の話によるとあの日︱︱つまりあの事件の日よね︱︱その
子が泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いっ
たいどうしたのかって母親が問いただしたらしいのよ。顔が腫れて
唇が切れて血が出ていて、ブラウスのボタンがとれて、下着も少し
破れていたんですって。ねえ、信じられる?もちろん話をでっちあ
げるためにあの子自分で全部それやったのよ。ブラウスにわざと血
をつけて、ボタンちぎって、ブラジャ︱のレ︱スを破いて、一人で
おいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それ
で家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そういうの
ありありと目に浮かぶわよ。
でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけに
はいかないわよ。私だって信じたと思うもの、もしそういう立場に
置かれたら。お人形みたいにきれいで悪魔みたいに口のうまい女の
子がくしくし泣きながら﹃嫌よ。私、何も言いたくない。恥かしい
わ﹄なんて言ってうちあけ話したら、そりゃみんなコロッと信じち
ゃうわよ。おまけに具合のわるいことに、私に精神病院の入院歴が
あるっていうのは本当じゃない。その子の顔を思いきり打ったって
いうのも本当じゃない。となるといったい誰が私の言うことを信じ
てくれる?信じてくれるのは夫くらいのものよ。
何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけ
ど、彼は信じてくれたわよ、もちろん。私、あの日に起ったことを
全部彼に話したの。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、
それで打ったんだって。もちろん感じたことまで言わなかったわ
よ。それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。﹃冗談じゃ
ない。俺がそこの家に言って直談判してきてやる﹄って彼はすごく
怒って言ったわ。﹃だって君は僕と結婚して子供までいるんだぜ。
なんでレズビアンなんて言われなきゃならないんだよ。そんなふざ
けた話あるものか﹄って。
でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そん
なことしたって私たちの傷が深くなるだけだからって言ってね。そ
うなのよ、私にはわかっていたのよ、もう。あの子の心が病んでい
るだっていうことがね。私もそういう病んだ人たちをたくさん見て
きたからよくわかるの。あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美
しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。こういう言い方っ
てひどいかもしれないけど、本当にそうなのよ。でもそれは世の中
の人にはまずわからないし、どん転んだって私たちには勝ち目はな
いのよ。その子は大人の感情をあやつることに長けているし、我々
の手には何の好材料もないのよ。だいたい十三の女の子が三十すぎ
の女に同性愛をしかけるなんてどこの誰が信じてくれるのよ?何を
言ったところで、世間の人って自分の信じたいことしか信じないん
だもの。もがけばもがくほど私たちの立場はもっとひどくなってい
くだけなのよ。
引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ
以上ここにいたら緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわ
よ。今だって私相当フラフラなのよ。とにかく誰も知っている人の
いない遠いところに移りましょうって。でも夫は動きだがらなかっ
たわ。あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。彼
は会社の仕事が面白くて仕方なかった時期だったし、小さな建売住
宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだったし、娘も幼稚園に
馴染んでいたし。おいちょっと待てよ、そんなに急に動けるわけな
いだろうって彼は言った。仕事だっておいそれとみつけることはで
きないし、家だって売らなきゃならないし、子供の幼稚園だってみ
つけなきゃならないし、どんなに急いだって二ヶ月はかかるよって
ね。
駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つく
わよ、って私言ったわ。脅しじゃなくてこれ本当よって。私には自
分でそれがわかるのよって。私その頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠
とかがもう少しずつ始まってたんですもの。じゃあ君、先に一人で
どこかに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからっ
て彼は言ったわ。
﹃嫌よ﹄って私は言ったの。﹃一人でなんかどこにも行きたく
ないわ。今あなたと離ればなれになったら私バラバラになっちゃう
わよ。私は今あなたを求めているのよ。一人なんかしないで﹄
彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我
慢してくれって言ったの。一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあい
だ僕は何もかもちゃんと手配する。仕事の整理もする、家も売る、
子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつける。うまく行けばオ︱
ストラリアに仕事の口があるかもしれない。だから一ヶ月だけ待っ
てくれ。そうすれば何もかもうまくいくからってね。そう言われる
と私、それ以上何も言えなかったわ。だって何か言おうとすればす
るほど私だんだん孤独になっていくんですもの﹂
レイコさんはため息をついて天井の電灯を見あげた。
﹁でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃっ
て、ボンッ!よ。今回はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねっ
たの。でも死ねなくて、気づいたら病院のベッドよ。それでおしま
い。何ヶ月かたって少し落ち着いて物が考えられるようになった頃
に、離婚してくれって夫に言ったの。それがあなたのためにも娘の
ためにもいちばんいいのよって。離婚するつもりはない、って彼は
言ったわ。
﹃もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりな
おそうよ﹄って。
﹃もう遅いの﹄って私は言ったわ。﹃あのときに全部終っちゃ
ったのよ。一ヶ月待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本
当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのときにそんなこと言
うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移って
も、また同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなこ
とを要求してあなたを苦しめることになるし、私もうそういうこと
したくないのよ﹄
そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚した
の。彼は二年前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったん
だと思ってるわよ。本当よ。その頃には自分の一生がずっとこんな
具合だろうってことがわかっていたし、そういうのにもう誰をもま
きこみたくなかった。いつ頭のたがが外れるかってびくびくしなが
ら暮すような生活を誰にも押しつけたくなかったの。
彼は私にとても良くしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人
だし、力強いし辛棒強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。
彼は私を癒そうと精いっぱい努力したし、私もなおろうと努力した
わよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたん
だと思ってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九パ︱
セントまで完璧にやってたのよ。でも一パ︱セントが、たったの一
パ︱セントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。それで私たち
の築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまって、まったく
のゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね﹂
レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキ
の缶の中に入れた。
﹁ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをち
ょっとずつちょっとずつ積みあげていったのにね。崩れるときっ
て、本当にあっという間なのよ。あっという間に崩れて何もかもな
くなっちゃうのよ﹂
レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこん
だ。﹁部屋に戻りましょう。もう遅いし﹂
空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなく
なってしまっていた。今では雨の匂いが僕にも感じられるようにな
っていた。そして手に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこに
まじりあっていた。
﹁だから私なかなかここを出られないのよ﹂とレイコさんは言
った。﹁ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。
いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いのよ﹂
﹁気持はよくわかりますよ﹂と僕は言った。﹁でもあなたには
できると僕は思いますよ、外に出てきちんとやっていくことが﹂
レイコさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。

直子はソファ︱に座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめ
かみを押えながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる
言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつ
と雨が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉のように彼女の体の
まわりにちらちらと漂っていた。レイコさんとずっと二人で話した
あとで直子を見ると、彼女はなんて若いんだろうと僕はあらためて
認識した。
﹁遅くなってごめんね﹂とレイコさんが直子の頭を撫でた。
﹁二人で楽しかった?﹂と直子が顔を上げて言った。
﹁もちろん﹂とレイコさんは答えた。
﹁どんなことしてたの、二人で?﹂と直子が僕に訊いた。
﹁口では言えないようなこと﹂と僕は言った。
直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴き
ながら葡萄を食べた。
﹁こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかい
ないって気がするわね﹂と直子が言った。﹁ずっと雨が降ったら、
私たち三人ずっとこうしてられるのに﹂
﹁そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきか
ない黒人奴隷みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだり、
ギタ︱でBGMつけたりするでしょ?嫌よ、そんなの﹂とレイコさん
は言った。
﹁あら、ときどき貸してあげるわよ﹂と直子が笑って言った。
﹁まあ、それなら悪くないわね﹂とレイコさんは言った。﹁雨
よ降れ﹂
雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わる
とレイコさんは例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギタ︱
を出して弾いた。﹃デサフィナ︱ド﹄と﹃イバネマの娘﹄を弾き、
それからバカラックの曲やレノン=マッカ︱トニ︱の曲を弾いた。
僕とレイコさんは二人でまたワインを飲み、ワインがなくなると水
筒に残っていたブランディ︱をわけあって飲んだ。そしてとても親
密な気分でいろんな話をした。このままずっと雨が降りつづけばい
いのにと僕も思った。
﹁またいつか会いに来てくれるの?﹂と直子が僕の顔を見て言
った。
﹁もちろん来るよ﹂と僕は言った。
﹁手紙も書いてくれる?﹂
﹁毎週書くよ﹂
﹁私にも少し書いてくれる?﹂とレイコさんが言った。
﹁いいですよ。書きます、喜んで﹂と僕は言った。
十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソフ
ァ︱を倒してベッドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあい
さつをして電灯を消し、眠りについた。僕はうまく眠れなかったの
でナップザックの中から懐中電灯と﹃魔の山﹄を出してずっと読ん
でいた。十二時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってき
て僕のとなりにもぐりこんだ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ
直子だった。目もぼんやりとしていなかったし、動作もきびきびし
ていた。彼女は僕の耳に口を寄せて﹁眠れないのよ、なんだか﹂と
小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置いて懐中
電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。闇と雨音がやわらかく
僕らをくるんでいた。
﹁レイコさんは?﹂
﹁大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとま
ず起きないの﹂と直子が言った。
﹁本当にまた会いに来てくれるの?﹂
﹁来るよ﹂
﹁あなたに何もしてあげられなくても?﹂
僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じ
られた。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩か
ら背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女
の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風に
やさしく抱き合ったあとで、直子は僕の額にそっと口づけし、する
りとベッドから出て行った。直子の淡いブル︱のガウンが闇の中で
まるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。
﹁さよなら﹂と直子が小さな声で言った。
そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。
雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、
目に見えないくらいの細い秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつた
って落ちる雨だれの音で雨が降っていることがやっとわかるくらい
だった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていた
が、太陽が上るにつれて霧は風に流され、雑木林や山の稜線が少し
ずつ姿をあらわした。
昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋
の世話をしに行った。直子とレイコさんはフ︱ドのついたビニ︱ル
の黄色い雨合羽を着ていた。僕はセ︱タ︱の上に防水のウィイン
ド?ブレ︱カ︱を着た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥た
ちも雨を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄
せてあっていた。
﹁寒いですね、雨が降ると﹂と僕はレイコさんに言った。
﹁雨が降るごとに少しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変
るのよ﹂と彼女は言った。﹁日本海からやってきた雲がこのへんに
どっさりと雪を落として向うに抜けていくの﹂
﹁鳥たちは冬はどうするんですか?﹂
﹁もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍り
ついた鳥を雪の下から掘り返して解凍して生き返らせて﹃はい、み
んな、ごはんよ﹄なんていうわけにもいかないでしょう?﹂
僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせて︿クソ
タレ﹀︿アリガト﹀︿キチガイ﹀と叫んだ。
﹁あれ冷凍しちゃいたいわね﹂と直子が憂鬱そうに言った。
﹁毎朝あれ聞かされると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ﹂
鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまと
めた。彼女たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、
テニス?コ︱トの少し先で別れた。彼女たちは道の右に折れ、僕は
まっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは言い、さよならと僕は言
った。また会いに来るよ、と僕は言った。直子は微笑んで、それか
ら角を曲って消えていった。
門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たち
が着ていたのと同じ黄色い雨合羽を着て、頭にはすっぽりとフ︱ド
をかぶっていた。雨のおかげてあらゆるものの色がくっきりとして
見えた。地面は黒々として、松の枝は鮮やかな緑色で、黄色の雨合
羽に身を包んだ人々は雨の朝にだけ地表をさまようことを許された
特殊な魂のように見えた。彼らは農具や籠や何かの袋を持って、音
もなくそっと地表を移動していた。
門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リストの
僕の名前のところにしるしをつけた。
﹁東京からおみえになったんですな﹂とその老人は僕の住所を
見て言った。﹁私も一度だけあそこに行ったことありますが、あれ
は豚肉のうまいところですな﹂
﹁そうですか?﹂と僕はよくわからないまま適当に返事をし
た。
﹁東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉
だけはうまかったですわ。あれはこう、何か特別な飼育法みたいな
もんがあるんでしょな﹂
それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいし
いなんて話を聞いたのもはじめてだった。﹁それはいつの話です
か?東京に行かれたというのは?﹂と僕は訊いてみた。
﹁いつでしたかなあ﹂と老人は首をひねった。﹁皇太子殿下の
御成婚の頃でしたかな。息子が東京におって一回くらい来いという
から行ったんですわ。そのときに﹂
﹁じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでし
ょうね﹂と僕は言った。
﹁昨今はどうですか?﹂
よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことは
ないと僕は答えた。僕がそう言うと、彼は少しがっかりしたみたい
だった。老人はもっと話していたそうだったけれど、バスの時間が
あるからと言って僕は話を切り上げ、道路に向って歩きはじめた。
川沿いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残り、それは風
に吹かれて山の斜面を彷徨していた。僕は道の途中で何度も立ちど
まってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。な
んだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がしたか
らだ。そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀しい気持に
なった。
寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を
着がえてアルバイト先の新宿のレコ︱ド屋にでかけた。そして六時
から十時半まで店番をしてレコ︱ドを売った。店の外を雑多な種類
の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めてい
た。家族づれやらカップルやら酔払いやらヤクザやら、短いスカ︱
トをはいた元気な女の子やら、ヒッピ︱風の髭を生やした男やら、
クラブのホステスやら、その他わけのわからない種類の人々やら次
から次へと通りを歩いて行った。ハ︱ドロックをかけるとヒッピ︱
やらフ︱テンが店の前に何人か集って踊ったり、シンナ︱を吸った
り、ただ何をするともなく座りこんだりした。トニ︱?ベネットの
レコ︱ドをかけると彼らはどこかに消えていった。
店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした
中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしが
るのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも
店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では
酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲ︱ム?センタ
︱では近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ?ゲ︱ムをやっ
て休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の
軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの
口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入って
きてロ︱リング?スト︱ンズの﹃ジャンピン?ジャック?フラッシ
ェ﹄をかけてくれないかと言った。僕はレコ︱ドを持って来てかけ
てやると、彼女は指を鳴らしてリズムをとり、腰を振って踊った。
そして煙草はないかと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラ︱ク
を一本やった。女の子はうまそうにそれを吸い、レコ︱ドが終ると
ありがとうも言わずに出ていった。十五分おきに救急車だかパトカ
︱だかのサイレンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れ
のサラリ︱マンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に
向って何度もオマンコと叫んで笑いあっていた。
そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱し、何がなん
だかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は
思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろ
う、と。
店長が食事から戻ってきて、おい、ワタナベ、おとといあそこ
のブティックの女と一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティ
ックにつとめるその女の子に前から目をつけていて、店のレコ︱ド
をときどき持ちだしてはプレゼントしていたのだ。そりゃ良かった
ですね、と僕が言うと、彼は一部始終をこと細かに話してくれた。
女とやりたかったらだな、と彼は得意そうに教えてくれた、とにか
くものをプレゼントして、そのあとでとにかくどんどん酒を飲ませ
て酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃあとはもう
やるだけよ。簡単だろ?
僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋の
カ︱テンを閉めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が
隣りにもぐりこんでくるじゃないかという気がした。目を閉じると
その乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手で
体の線を感じとることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子の
あの小さな世界へ戻って行った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音
を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のことを思い、そのやわ
らかく美しい肉体が黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり
野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕は勃起
したベニスを握り、直子のことを考えながら射精した。射精してし
まうと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだったが、それでもな
かなか眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないの
に、どうしても眠ることができないのだ。
僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼ
おっと眺めていた。旗のついていない白いボ︱ルはまるで夜の闇に
つきささった巨大な白い骨のように見えた。直子は今頃どうしてい
るだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな
不思議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が辛
い夢を見ることがないように僕は祈った。

翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メ︱ト
ル?プ︱ルを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいく
らかさばっりしたし、食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量
のある昼食を食べてから、調べものをするために文学部の図書室に
向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼
鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕
の方にやってきた。
﹁どこに行くの?﹂と彼女が僕に訊いた。
﹁図書室﹂と僕は言った。
﹁そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?﹂
﹁さっき食べたよ﹂
﹁いいじゃない。もう一回食べなさいよ﹂
結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレ︱を食べ、僕
はコ︱ヒ︱を飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み
込みのある黄色い毛糸のチョッキを着て、金の細いネックレスをか
け、ディズニ︱?ワォッチをつけていた。そして実においしいそう
にカレ︱を食べ、水を三杯飲んだ。
﹁ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話
したのよ﹂と緑は言った。
﹁何か用事でもあったの?﹂
﹁別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ﹂
﹁ふうむ﹂と僕は言った。
﹁﹃ふうむ﹄って何よいったい、それ?﹂
﹁別に何でもないよ、ただのあいづちだよ﹂と僕は言った。
﹁どう、最近火事は起きてない?﹂
﹁うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになか
ったし、そのわりに煙がいっばい出てリアリティ︱があったし、あ
あいうのいいわよ﹂緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲ん
だ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。﹁ねえ、ワタ
ナベ君、どうしたの?あなたなんだか漠然とした顔しているわよ。
目の焦点もあっていないし﹂
﹁旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともな
い﹂
﹁幽霊でも見てきたよな顔してるわよ﹂
﹁ふうむ﹂と僕は言った。
﹁ねえワタナベ君、午後の授業あるの?﹂
﹁ドイツ語と宗教学﹂
﹁それすっぼかせない?﹂
﹁ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある﹂
﹁それ何時に終わる?﹂
﹁二時﹂
﹁じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?﹂
﹁昼の二時から?﹂と僕は訊いた。
﹁たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔してい
るし、私と一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたと
お酒飲んで元気になりたいし。ね、いいでしょう?﹂
﹁いいよ、じゃあ飲みに行こう﹂と僕はため息をついて言っ
た。﹁二時に文学部の中庭で待っているよ﹂
ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出
て、紀伊国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってワォッカ?トニック
を二杯ずつ飲んだ。
﹁ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じし
ないから﹂と彼女は言った。
﹁そんなにお昼から飲んでるの?﹂
﹁たまによ﹂と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立
てて振った。﹁たまに世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ?
トニック飲むのよ﹂
﹁世の中が辛いの?﹂
﹁たまにね﹂と緑は言った。﹁私には私でいろいろと問題があ
るのよ﹂
﹁たとえばどんなこと?﹂
﹁家のこと、恋人のこと、生理不順のこと︱︱いろいろよね﹂
﹁もう一杯飲めば?﹂
﹁もちろんよ﹂
僕は手をあげてウェイタ︱を呼び、ウォッカ?トニックを二杯
注文した。
﹁ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう﹂と
緑は言った。﹁いろいろと考えてみたけど、あれよかったわよ、す
ごく﹂
﹁それはよかった﹂
﹁﹃それはよかった﹄﹂とまた緑はくりかえした。﹁あなたっ
て本当に変ったしゃべり方するわよねえ﹂
﹁そうかなあ﹂と僕は言った。
﹁それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生
まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろっ
て。もし私が人生の順番を組みかえることができたとしたら、あれ
をファ︱スト?キスにするわね、絶対。そして残りの人生をこんな
風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキス
をしたワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう?五十八歳
になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わない﹂
﹁素敵だろうね﹂と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。
﹁たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ﹂と僕は少し考
えてから言った。﹁ここがなんだか本当の世界にじゃないような気
がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思
える﹂
緑はカウンタ︱に片肘をついて僕の顔を見つめた。﹁ジム?モ
リソンの歌にたしかそういうのあったわよね﹂
﹁People are strange when you are a stranger﹂
﹁ピ︱ス﹂と緑は言った。
﹁ピ︱ス﹂と僕も言った。
﹁私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ﹂と緑はカン
タン︱に片肘をついたまま言った
﹁恋人も家族も大学も何にもかも捨てて﹂
﹁それも悪くないな﹂と僕は笑って言った。
﹁何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っ
ちゃうのって素晴らしいと思わない?私ときどきそうしたくなちゃ
うのよ、すごく。だからもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連
れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん
坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床
の上をころころと転げまわって﹂
僕は笑って三杯めのウォッカ?トニックを飲み干した。
﹁牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?﹂
と緑は言った。
﹁興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね﹂と
僕は言った。
﹁いいのよべつに、欲しくなくだって﹂緑はピスタチオを食べ
ながら言った。﹁私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考
えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまい
たいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバのウンコ
くらいしかないのよ﹂
﹁まあそうかもしれないな﹂
﹁どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに
行ったって、世界はロバのウンコよ。ねえ、この固いのあげる﹂緑
は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。
﹁でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと
二人で物干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄っ
て。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわよ。だってみん
な私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこ
うだってね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ﹂
﹁何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ﹂
﹁じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私に
いろんなものを押しつけてくる?他の人たちと同じように﹂
﹁そうする可能性はあるだろうね﹂と僕は言った。﹁現実の世
界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから﹂
﹁でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわか
るのよ、そういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに
関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそういうタイプでは
ないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ知っ
てる?世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりする
のが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして押しつけた、押し
つけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。で
も私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやって
るのよ﹂
﹁どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君
は?﹂
緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。
﹁私のこともっと知りたい?﹂
﹁興味はあるね、いささか﹂
﹁ねえ、私は﹃私のこともっと知りたい?﹄って質問したの
よ。そんな答えっていくらなんでもひどいと思わない?﹂
﹁もっと知りたいよ、君のことを﹂と僕は言った。
﹁本当に?﹂
﹁本当に﹂
﹁目をそむけたくなっても?﹂
﹁そんなにひどいの?﹂
﹁ある意味ではね﹂と緑は言って顔をしかめた。﹁もう一杯ほ
しい﹂
僕はウェイタ︱を呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るま
で緑はカウタン︱に頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス?モ
ンクの弾く﹁ハニサックル?ロ︱ズ﹂を聴いていた。店の中には他
に五、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。コ︱ヒ
︱の香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出し
ていた。
﹁今度の日曜日、あなた暇?﹂と緑が僕に訊いた。
﹁この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時
からのアルバイトを別にすればね﹂
﹁じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?﹂
﹁いいよ﹂
﹁日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとは
っきりわからないけど。かまわない?﹂
﹁どうぞ。かまわないよ。﹂と僕は言った。
﹁ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?﹂
﹁さあね、想像もつかないね﹂
﹁広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず﹂と緑は言
った。﹁すごく気持がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウン
コなんて全然なくて、となりにはあなたが寝ている。そしてちょっ
とずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供
の服を脱がせるときみたいに、そっと﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でも
ね、ほら、ふと我に返って﹃だめよ、ワタナベ君!﹄って叫ぶの。
﹃私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人人が
いるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。
だからやめて、お願い﹄って言うの。でもあなたやめないの﹂
﹁やめるよ、僕は﹂
﹁知ってるわよ。でもこれは幻想シ︱ンなの。だからこれはこ
れでいいのよ﹂と緑は言った。﹁そして私にばっちり見せつけるの
よ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それ
でもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、﹃駄目よ、本当に
駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ﹄って﹂
﹁そんなに大きくないよ。普通だよ﹂
﹁いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはす
ごく哀しそうな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげ
るの。よしよし、可哀そうにって﹂
﹁それがつまり君が今やりたいことなの?﹂
﹁そうよ﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。
全部で五杯ずつウォッカ?トニックを飲んでから我々は店を出
た。僕が金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いの
け、財布からしわひとつない一万円札をだして勘定を払った。
﹁いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったん
だもの﹂と緑は言った。﹁もちろんあなたが筋金入りのファシスト
で女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら話はべつだけ
ど﹂
﹁いや、そうは思わないけど﹂
﹁それに入れさせてもあげなかったし﹂
﹁固くて大きいから﹂と僕は言った。
﹁そう﹂と緑は言った。﹁固くて大きいから﹂
緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく
下まで転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆ってい
た雲が晴れて、夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕
と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがした
いといったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑
はもう閉まる時間だった。
﹁残念だわ、私木のぼり大好きなのに﹂と緑は言った。
緑と二人でウィンドウ?ジョッピングをしながら歩いている
と、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられな
くなってきた。
﹁君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がする
な﹂と僕は言った。
緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。﹁本当だ。目
の焦点もずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあって
るとけっこ良いことあるでしょ?﹂
﹁たしかに﹂と僕は言った。
五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると
言った。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新
宿駅まで送り、そこで別れた。
﹁ねえ今私が何やりたいかわかる?﹂と別れ際に緑が僕に訪ね
た。
﹁見当もつかないよ、君の考えることは﹂と僕は言った。
﹁あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわ
せにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃう
の﹂
﹁なんでそんなことするの?﹂
﹁変質的な海賊なのよ、それ﹂
﹁君の方がよほど変質的みたいだけどな﹂と僕は言った。
﹁そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでそ
の格好でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの﹂
﹁それで?﹂
﹁私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よ
じったりして﹂
﹁それが君のいちばんやりたいことなの?﹂
﹁そう﹂
﹁やれやれ﹂と僕は首を振った。
日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたば
かりでまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩い
て、おいワタナベ、女が来てるぞ!とどなったので玄関に下りてみ
ると緑が信じられないくらい短いジ︱ンズのスカ︱トをはいてロビ
︱の椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行く
連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺
めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。
﹁早すぎたかしら、私?﹂と緑は言った。﹁ワタナベ君、今起
きたばかりみたいじゃない﹂
﹁これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待って
くれる?﹂と僕は言った。
﹁待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみて
るわよ﹂
﹁あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカ︱トはいて
くるだもの。見るにきまってるよ、みんな﹂
﹁でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクの
で素敵なレ︱ス飾りがついてるの。ひらひらっと﹂
﹁そういうのが余計にいけないんだよ﹂と僕はため息をついて
言った。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃っ
た。そしてブル︱のボタン?ダウン?シャツの上にグレ︱のツイ︱
ドの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が
出た。
﹁ねっ、ここにいる人たちがみんなマスタ︱ベ︱ションしてる
わけ?シコシコって?﹂と緑は寮の建物を見上げながら言った。
﹁たぶんね﹂
﹁男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?﹂
﹁まあそうだろね﹂と僕は言った。﹁株式相場とか動詞の活用
とかスエズ運河のことを考えながらマスタ︱ベ︱ションする男はま
あいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃな
いかな﹂
﹁スエズ運河﹂
﹁たとえば、だよ﹂
﹁つまり特定の女の子のことを考えるのね?﹂
﹁ あのね 、そ ういうのは 君の恋人に訊けば いいんじゃな い
の?﹂と僕は言った。﹁どうして僕が日曜日の朝から君にいちいち
そういうことを説明しなきゃならないんだよ?﹂
﹁私ただ知りたいのよ﹂と緑は言った。﹁それに彼にこんなこ
と訊いたらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃな
いだって﹂
﹁まあまともな考えだね﹂
﹁でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、
マスタ︱べ︱ションするとき特定の女の子のこと考えるの?﹂
﹁考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからな
いけれど﹂と僕はあきらめて答えた。
﹁ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えて
よ、怒らないから﹂
﹁やったことないよ、正直な話﹂と僕は正直に答えた。
﹁どうして?私が魅力的じゃないから?﹂
﹁違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似
合うよ﹂
﹁じゃあどうして私のこと考えないの?﹂
﹁まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そうい
うことにまきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二
に︱︱﹂
﹁他に想い浮かべるべき人がいるから﹂
﹁まあそういうことだよね﹂と僕は言った。
﹁あなたってそういうことでも礼儀正しのね﹂と緑は言った。
﹁私、あなたのそういうところ好きよ。でもね、一回くらいちょっ
と私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そ
ういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこ
んなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスタ︱ベ︱ションする
ときちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃな
いじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むのよ。そしてど
んなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか﹂
僕はため息をついた。
﹁でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れ
なければあとは何してもいいわよ、何考えても﹂
﹁どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことな
いからねえ﹂と僕は言った。
﹁考えておいてくれる?﹂
﹁考えておくよ﹂
﹁あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発
的だとかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興
味があって、すごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけ
の中で育ってきたでしょ?男の人が何を考えて、その体のしくみが
どうなってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それ
も婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃなくて、いわばケ︱ス?
スタディ︱として﹂
﹁ケ︱ス?スタディ︱﹂と僕は絶望的につぶやいた。
﹁でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりする
と、彼不機嫌になったり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の
頭が変だって言うのよ。フェラチオだってなかなかさせてくれない
の。私あれすごく研究してみたいのに﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁あなたフェラチオされるの嫌?﹂
﹁嫌じゃないよ、べつに﹂
﹁どちらかというと好き?﹂
﹁どちらかというと好きだよ﹂と僕は言った。﹁でもその話ま
た今度にしない?今日はとても気持の良い日曜の朝だし、マスタ︱
ベ︱ションとフェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違
う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人?﹂
﹁ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラ
ブ活動で知りあったの。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあ
るでしょう?合同コンサ︱トとか、そういうの。恋人っていう関係
になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワタナベ君?﹂
﹁うん?﹂
﹁本当に一回でいいから私のことを考えてよね﹂
﹁試してみるよ、今度﹂と僕はあきらめて言った。
我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食
べていなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄い
サンドイッチを買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコ
︱ヒ︱を飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようと
する家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォ︱ムを
着た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわって
いた。電車の中には短いスカ︱トをはいた女の子が何人もいたけれ
ど、緑くらい短いスカ︱トをはいたのは一人もいなかった。緑はと
きどききゅっきゅっとスカ︱トの裾をひっばって下ろした。何人か
の男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかった
が、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。
﹁ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?﹂と市ヶ谷あた
りで緑が小声で言った。
﹁見当もつかない﹂と僕は言った。﹁でもお願いだから、電車
の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから﹂
﹁残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは﹂と緑はいか
にも残念そうに言った。
﹁ところでお茶の水に何があるの?﹂
﹁まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから﹂
日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中
学生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダ︱?バッグの
ストラップを握り、右手で僕の手をとって、そんな学生たちの人ご
みの中をするすると抜けていった。
﹁ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをき
ちんと説明できる?﹂と突然僕に質問した。
﹁できると思うよ﹂と僕は言った。
﹁ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で
何かの役に立ってる?﹂
﹁日常生活の中で役に立つということはあまりないね﹂と僕は
言った。﹁でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうの
は物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってる
けれど﹂
緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。
﹁あなたって偉いのね﹂と彼女は言った。﹁私これまでそんなこと
思いつきもしなかったわ。仮定法だの微分だの化学記号だの、そん
なもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからず
っと無視してやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方
は間違っていたのかしら?﹂
﹁無視してやってきた?﹂
﹁ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。
私、サイン、コサインだって全然わっかてないのよ﹂
﹁それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね﹂と僕は
あきれて言った。
﹁あなた馬鹿ねえ﹂と緑は言った。﹁知らないの?勘さえ良き
ゃ何も知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく
勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわ
かっちゃうもの﹂
﹁僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え
方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみ
たいに﹂
﹁そういうのが何か役に立つのかしら?﹂
﹁どうかな﹂と僕は言った。﹁まあある種のことはやりやすく
なるだろね﹂
﹁たとえばどんなことが?﹂
﹁形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね﹂
﹁それが何かの役に立つのかしら?﹂
﹁それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人も
いる。でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たな
いはその次の問題なんだよ。最初にも言ったように﹂
﹁ふうん﹂と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道
を下りつづけた。﹁ワタナベク君って人にもの説明するのがとても
上手なのね﹂
﹁そうかな?﹂
﹁そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役
に立つのって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してく
れなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問する
と混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰も
ちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がい
てきちと説明してくれたら、私だって仮定法に興味持てたかもしれ
ないのに﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁あなた﹃資本論﹄って読んだことある?﹂と緑が訊いた。
﹁あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同
じように﹂
﹁理解できた?﹂
﹁理解できるところもあったし、できないところもあった。
﹃資本論﹄を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が
必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理
解できていると思うけれど﹂
﹁その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が﹃資本
論﹄読んですっと理解できると思う?﹂
﹁まず無理じゃないかな、そりゃ﹂と僕は言った。
﹁あのね、私、大学に入ったときフォ︱クの関係のクラブに入
ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃
ってるところでね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入ると
ね、まずマルクスを読ませられるの。何ベ︱ジから何ベ︱ジまで読
んでこいってね。フォ︱ク?ソングと社会とラディカルにかかわり
あわねばならぬものであって……なんて演説があってね。で、まあ
仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何
がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ペ︱ジで放りだし
ちゃたわ。それで次の週のミ︱ティングで、読んだけど何もわかり
ませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。
問題意識がないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわ
よ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんな
のひどいと思わない?﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかっ
たような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんない
からそのたびに質問したの。﹃その帝国主義的搾取って何のことで
すか?東インド会社と何か関係あるんですか?﹄とか、﹃産学協同
体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことです
か?﹄とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真
剣に怒るの。そういうのって信じられる?﹂
﹁信じられる﹂
﹁そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてる
んだお前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんな
い頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、
搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわし
て何が革命よ、何が社会変革よ!私だってね、世の中良くしたいと
思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせな
くちゃいけないと思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そ
うでしょ?﹂
﹁そうだね﹂
﹁そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適
当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子
を感心させて、スカ︱トの中に手をつっこむことしか考えてないの
よ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事
だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクス
なんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみった
らしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくっ
て涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわ
かってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そ
してあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイ
ハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来
たことあるんだけど聞いてくれる?﹂
﹁聞くよ﹂
﹁ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子た
ちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくるこ
とって言われたの。冗談じゃないわよ、そんな完全な性差別じゃな
い。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わ
ずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔
まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う?小林のおにぎり
は中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言
うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入っていたし、玉子焼な
んかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかっ
たわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのこと
くらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまい
てあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供の
こと考えてごらんなさいよ﹂
僕は笑った。﹁それでそのクラブはどうしたの?﹂
﹁六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで﹂と緑は言った。
﹁でもこの大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわ
かってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビ
クした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みん
な同じような言葉ふりまわして、ジョン?コルトレ︱ン聴いたりパ
ゾリ︱ニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命な
の?﹂
﹁さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないから
なんとも言えないよね﹂
﹁こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっと
おにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃう
もの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと
理解してるというような理由で﹂
﹁ありうる﹂と僕は言った。
﹁ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起
きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼ
ちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ?そんな
の役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういう
のが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人た
ちには。あなた税務署員って見たことある?﹂
﹁ないな﹂
﹁私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張る
の。何、この帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当
に経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の
方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とる
の。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もな
いのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに
税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと
少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少
ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私
悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさ
いよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起った
ら税務署員の態度って変ると思う?﹂
﹁きわめて疑わしいね﹂
﹁じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じない
わ﹂
﹁ピ︱ス﹂と僕は言った。
﹁ピ︱ス﹂と緑も言った。
﹁我々は何処に向かっているんだろう、ところで?﹂と僕は訊
いてみた。
﹁病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそ
ってなくちゃいけないの。私の番なの﹂
﹁お父さん?﹂と僕はびっくりして言った。﹁お父さんはウル
グァイに行っちゃったんじゃなかったの?﹂
﹁嘘よ、そんなの﹂と緑はけろりとした顔で言った。﹁本人は
昔からウルグァイに行くだってわめいてるけど、行けるわけないわ
よ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから﹂
﹁具合はどうなの?﹂
﹁はっきり言って時間の問題ね﹂
我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。
﹁お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じら
れる?二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度
はお父さんが脳種瘍﹂
大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の
病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂い
が漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつ
になって病院をすっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音
を立ててその中を歩きまわっていた。
緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている
姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべ
り、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつし
なかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小
さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包
帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが
点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやり
と見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動
かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点に
その弱々しい視線を戻した。
その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解
できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかっ
た。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。
それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待って
いるだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりには
まるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力
を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。
緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に﹁こんに
ちは﹂と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと
肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあっ
た水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の
外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何に
も見えなかった。空には雲の姿すらなかった。
﹁どう、お父さん、元気?﹂と緑が父親の耳の穴に向けってし
ゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなし
ゃべり方だった。﹁どう、今日は?﹂
父親はもそもそと唇を動かした。︿よくない﹀と彼は言った。
しゃべるというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず
言葉に出してみたといった風だった。︿あたま﹀と彼は言った。
﹁頭が痛いの?﹂と緑が訊いた。
︿そう﹀と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれ
ないらしかった。
﹁まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀
そうだけど、もう少し我慢しなさい﹂と緑は言った。﹁この人ワタ
ナベ君。私のお友だち﹂
はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉
じた。
﹁そこに座っててよ﹂と緑はベットの足もとにある丸いビニ︱
ルの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は
父親に水さしの水を少し飲ませ、果物かフル︱ツ?ゼリ︱を食べた
くないかと訊いた。︿いらない﹀と父親は言った。でも少し食べな
きゃ駄目よ緑が言うと︿食べた﹀と彼は答えた。
ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブ︱ルのようなものが
あって、そこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑
はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着や
その他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッ
カの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入って
いた。グレ︱プフル︱ツが二個とフル︱ツ?ゼリ︱とキウリが三
本。
﹁キウリ?﹂と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。
﹁なんでまたキウリなんてものがここにあるのよ?まったくお姉さ
ん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物は
これこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれ
なんて言わなかったわよ、私﹂
﹁キウイと聞きまちがえたんじゃないかな﹂と僕は言ってみ
た。
緑はぱちんと指を鳴らした。﹁たしかに、キウイって頼んだわ
よ。それよね。でも考えりゃわかるじゃない?なんで病人が生のキ
ウリをかじるのよ?お父さん、キウリ食べたい?﹂
︿いらない﹀と父親は言った。
緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TVの映
りがわるくなって修理を呼んだとか、高井戸のおばさんが二、三日
のうち一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さんがバイク
に乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対し
た︿うん﹀︿うん﹀と返事をしているだけだった。
﹁本当に何か食べたくない、お父さん?﹂
︿いらない﹀と父親は答えた。
﹁ワタナベ君、グレ︱プフル︱ツ食べない?﹂
﹁いらない﹂と僕も答えた。
少しあとで緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファ︱に座っ
て煙草一本吸った。TV室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草
を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。
﹁ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきか
らちらちら見てるのよ。あのブル︱のパジャマの眼鏡のおじさん﹂
と緑は楽しそうに言った。
﹁そりゃ見るさ。そんなスカ︱トはいてりゃみんな見るさ﹂
﹁でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまに
は若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじ
ゃないかしら﹂
﹁逆にならなきゃいいけど﹂と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
﹁お父さんのことだけどね﹂緑は言った。﹁あの人、悪い人じ
ゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけど、少くとも
根は正直な人だし、お母さんのこと心から愛していたわ。それにあ
の人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱い
ところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけ
ど、でもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢し
い連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引か
ない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い
人じゃないのよ﹂
緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとっ
て、自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカ︱トの布地の上
に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を
見ていた。
﹁あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少
し私と一緒にここにいてくれる?﹂
﹁五時までは大丈夫だからずっといるよ﹂と僕は言った。﹁君
と一緒にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの﹂
﹁日曜日はいつも何をしてるの?﹂
﹁洗濯﹂と僕は言った。﹁そしてアイロンがけ﹂
﹁ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくない
でしょ?そのつきあっている人のこと﹂
﹁そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、う
まく説明できそうにないし﹂
﹁いいわよべつに。説明しなくても﹂と緑は言った。﹁でも私
の想像してることちょっと言ってみていいかしら?﹂
﹁どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いて
みたいね﹂
﹁私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコ︱
トとかシャルル?ジュ︱ルダンの靴とか絹の下着とか、そういうタ
イプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすご
くいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人
で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会
えないの。違う?﹂
﹁なかなか面白い線をついてるね﹂と僕は言った。
﹁きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべ
ろべろと舐めさせたりするのよね。それからほら、変なものを入れ
させたり、アクロバ︱トみたいな格好をしたり、そういうところを
ポラロイド?カメラで撮ったりもするの﹂
﹁楽しそうだな﹂
﹁ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっち
ゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だか
ら。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしよう、あんなこともし
ようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くら
いイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。﹃どう、私の体
って凄いでしょ?あなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわ
よ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう?感じる?でも
駄目よ、まだ出しちゃ﹄なんてね﹂
﹁君はポルノ映画見すぎていると思うね﹂と僕は笑って言っ
た。
﹁やっばりそうかなあ﹂と緑は言った。﹁でも私、ポルノ映画
って大好きなの。今度一緒に見にいかない?﹂
﹁いいよ。君が暇なときに一緒に行こう﹂
﹁本当?すごく楽しみ。SMのやつに行きましょうね。ムチでば
しばし打ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするや
つ。私あの手のが大好きなの﹂
﹁いいよ﹂
﹁ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何
か知ってる?﹂
﹁さあ見当もつかないね﹂
﹁あのね、セックス?シ︱ンになるとんね、まわりの人がみん
なゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの﹂と緑は言った。﹁その
ゴクンっていう音が大好きなの、私。とても可愛いくって﹂
病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方
は︿ああ﹀とか︿うん﹀とあいづちを打ったり、何にも言わずに黙
っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがや
ってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸
顔の人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をし
た。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣
りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何を
するともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線
をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は
父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣り
の奥さんや看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の
具合をチェックしたりしていた。
十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っ
ていた。医者が出てくると、緑は﹁ねえ先生、 どんな具合で す
か?﹂と訊ねた。
﹁手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消
耗はしてるよな﹂と医者は言った。﹁手術の結果はあと二、三日経
たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けばうまく行くし、
うまく行かんかったらまたその時点で考えよう﹂
﹁また頭開くんじゃないでしょうね?﹂
﹁それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな﹂と医者は言
った。﹁おい今日はえらい短かいスカ︱トはいてるじゃないか﹂
﹁素敵でしょ?﹂
﹁でも階段上るときどうするんだ、それ?﹂と医者が質問し
た。
﹁何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの﹂と緑が言って、う
しろの看護婦がくすくす笑った。
﹁君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がい
いぜ﹂とあきれたように医者が言った。﹁それからこの病院の中じ
ゃなるべくエレベ︱タ︱を使ってくれよな。これ以上病人増やした
くないから。最近ただでさえ忙しいんだから﹂
回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴ
ンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のも
のはポタ︱ジュ?ス︱プとフル︱ツとやわらかく煮て骨をとった魚
と、野菜をすりつぶしてゼリ︱状したようなものだった。緑は父親
をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベット
を上に起こし、スプ︱ンでス︱プをすくって飲ませた。父親は五、
六口飲んでから顔をそむけるようにして、︿いらない﹀と言った。
﹁これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた﹂と緑は言った。
父親は︿あとで﹀と言った。
﹁しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわ
よ﹂と緑が言った。﹁おしっこはまだ大丈夫?﹂
︿ああ﹀と父親は答えた。
﹁ ねえワ タナ ベ君、私た ち下の食堂にごは ん食べに行か な
い?﹂と緑が言った。
いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという
気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客や
らでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホ
︱ルに椅子とテ︱ブルがずらりと並んでいて、そこでみんなが食事
をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて︱︱たぶん病気の話だ
ろう︱︱それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときど
きそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕
がテ︱ブルを確保しているあいだに、緑が二人分の定食をアルミニ
ウムの盆にのせて運んできてくれた。クリ︱ム?コロッケとポテ
ト?サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定
食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んで
いた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食
べてしまった。
﹁ワタナベ君、あまりおなかすいてないの?﹂と緑が熱いお茶
をすすりながら言った。
﹁うん、あまりね﹂と僕は言った。
﹁病院のせいよ﹂と緑はぐるりを見まわしながら言った。﹁馴
れない人はみんなそうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人
の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦痛、疲労︱︱そういうもののせい
なのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるの
よ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごは
んしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当
よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんと四人看病し
てきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられな
いことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べ
ておかなきゃ駄目なのよ﹂
﹁君の言ってることはわかるよ﹂と僕は言った。
﹁親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるで
しょ、するとみんなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じよう
に。でね、私がぺロッと食べちゃうと﹃ミドリちゃんは元気でいい
わねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ﹄
って言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃない
わよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話し
たり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情す
るでけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍くらい同情し
ちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを
非難がましい目で見て﹃ミドリちゃんは元気でいいわねえ﹄だも
の。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってる
のかしら。いい年をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしく
みってものがわかんないかしら、あの人たち?口でなんてなんとで
も言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかな
のよ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになるこ
とはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。なおる見こみ
もないのに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわし
て、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭が
だんだんおかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見てて
ごらんなさいよ、たまらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだん
だん乏しくなってくるし、私だってあと三年半大学に通えるかどう
かもわかんないし、お姉さんだってこんな状態じゃ結婚式だってあ
げられないし﹂
﹁君は週に何日くらいここに来てるの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁四日くらいね﹂と緑は言った。﹁ここは一応完全看護がたて
まえなんだけれど実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないの
よ。あの人たち本当によくやってくれるわよ、でも数は足りない
し、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどしても家族
がつかざるを得ないのよ、
ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業
のあいまをぬって私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれ
でも週に三日来て、私が四日くらい。そしてその寸暇を利用してデ
︱トしてるの、私たち。過密なスケジュ︱ルよ﹂
﹁そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?﹂
﹁あなたと一緒にいるのが好きだからよ﹂と緑は空のプラスチ
ックの湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。
﹁二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ﹂と僕は言っ
た。﹁僕がしばらくお父さんのこと見ててやるから﹂
﹁どうして?﹂
﹁少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰
とも口きかないで頭の中を空
っぽにしてさ﹂
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。﹁そうね。そうかもし
れないわね。でもあなたやり方わかる?世話のしかた﹂
﹁見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、
水を飲ませて、汗を拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあ
って、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その他わからないこ
とは看護婦さんに訊く﹂
﹁それだけわかってりゃまあ大丈夫ね﹂と緑は微笑んで言っ
た。﹁ただね、あの人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからと
きどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわからないこと
を。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね﹂
﹁大丈夫だよ﹂と僕は言った。
病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出
してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそ
れについてはとくに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の
言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけ
になって、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなけれ
ば、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに
赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼は
もうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはしなか
った。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。
僕には見当もつかなった。
緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかと
も思ったが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙
っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は
枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈り
ながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしても
し僕がつきそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれ
は妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男にさっきはじめて
会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と
僕は﹁演劇史Ⅱ﹂で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。
しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠ってい
るだけだった。耳を顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで
僕は安心して隣りの奥さんと話をした。彼女は僕のことを緑の恋人
だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれた。
﹁あの子、本当に良い子よ﹂彼女は言った。﹁とてもよくお父
さんの面倒をみてるし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっ
かりしてるし、おまけに綺麗だし。あなた、大事にしなきゃ駄目
よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから﹂
﹁大事にします﹂と僕は適当に答えておいた。
﹁うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来
やしないわよ。休みになるとサ︱フィンだ、デ︱トだ、なんだかん
だってどこかに遊びに行っちゃってね。ひどいもんよねえ。おこづ
かいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポイだもん﹂
一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病
室を出て行った。病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏や
かな日差しが部屋の中にたっぷりと入りこんでいて、僕も丸椅子の
上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺のテ︱ブルの上には
白と黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと人々に
教えていた。病室には手つかずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが
漂っていた。看護婦たちはあいかわらずコツコツという音を立てて
廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会話をかわしてい
た。彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人ともぐっす
り眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んでから姿を
消した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新
聞も何にもなかった。カレンダ︱が壁にかかっているだけだった。
僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体
のことを考えた。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どう
して彼女は僕の前で裸になったりしたのだろう?あのとき直子は夢
遊状態にあったのだろうか?それともあれは僕の幻想にすぎなかっ
たのだろうか?時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れ
るほど、その夜の出来事が本当にあったことなのかどうか僕にはだ
んだんわからなくなってきていた。本当にあったことなんだと思え
ばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であ
るような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきり
としていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子
の体も月の光も。
緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそ
こで中断した。僕ティッシュ?ペ︱パ︱で痰を取ってやり、タオル
で額の汗を拭いた。
﹁水を飲みますか?﹂と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯い
た。小さなガラスの水さしで少しずつゆっくり飲ませると、乾いた
唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそう
な水を全部飲んだ。
﹁もっと飲みますか?﹂と僕は訊いた。彼は何か言おうとして
いるようなので、僕は耳を寄せてみた。︿もういい﹀と彼は乾いた
小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと小さ
くなっていた。
﹁何か食べませんか?腹減ったでしょうう?﹂と僕は訊いた。
父親はまた小さく肯いた。僕は緑がやっていたようにハンドルをま
わしてベットを起こし、野菜のゼリ︱と煮魚をスプ︱ンでかわりば
んこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてそ
の半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に
振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとし
か動かさなかった。フル︱ツはどうするかと訊くと彼は︿いらな
い﹀と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、
食器を廊下に出しておいた。
﹁うまかったですか?﹂と僕は訊いてみた。
︿まずい﹀と彼は言った。
﹁うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね﹂と僕
は笑って言った。父親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っ
ているような目でじっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっ
ているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑といるときより
僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えた
からだ。あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれな
かった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が有難かった。
﹁外は良い天気ですよ、すごく﹂と僕は丸椅子に座って脚を組
んで言った。﹁秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でい
っばいですよ。そういう日にこんな風に部屋の中でのんびりしてい
るのがいちばんですね、疲れないですむし。混んだところ行ったっ
て疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯する
んです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっ
せとアイロンをかけます。アイロンかけるの嫌いじゃないですね、
僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいい
もんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初の
うちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だ
らけになっちゃったりしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいま
した。そんなわけで日曜日は洗濯とアイロンがけの日なんです。今
日はできませんでしたけどね、残念ですね、こんな絶好の洗濯日和
なのにね。
でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気
にしなくっていいです。日曜日ったって他にやること何もないんで
すから。
明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義
はミドリさんと一緒なんです。﹃演劇史Ⅱ﹄で、今はエウリビデスを
やっています。エウリビデス知ってますか?昔のギリシャ人で、ア
イスキュロス、ソフォクレスならんでギリシャ悲劇のビッグ?スリ
︱と言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだとい
うことになっていますが、これには異説もあります。これがエウリ
ビデスです。僕はソフォクレスの方が好きですけどね、まあこれは
好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働
きがとれなくなってしまうことなんです。わかりますか?いろんな
人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんが
あって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求しているわけです。そ
してそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんで
す。そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福
が達成されるということは原理的にありえないですからね、だから
どうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると
思います?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんで
す。そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来
い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろって
いう風に。フィクサ︱みたいなもんですね。そして全てはぴたっと
解決します。これはデウス?エクス?マキナと呼ばれています。エ
ウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス?エクス?マキナが
出てきて、そのあたりでエウリビデスの評価がわかれるわけです。
しかし現実の世界にこういうデウウ?エクス?マキナというの
があったとしたら、これは楽でしょうね。困ったな、身動きとれな
いなと思ったら神様が上からするすると降りてきて全部処理してく
れるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあとにかくこ
れが﹃演劇史Ⅱ﹄です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉
強してます﹂
僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりと
した目で僕を見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかな
りとも理解しているのかどうかその目から判断できなかった。
﹁ピ︱ス﹂と僕は言った。
それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を
殆んど食べなかった上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。
僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひどく後悔したが、後
悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べものがないか
と物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス?ドロップと
醤油があるだけだった。紙袋の中にキウリとグレ︱プフル︱ツがあ
った。
﹁腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんか
ね﹂と僕は訊ねた。
緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗
った。そして皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつ
けてぽりぽりと食べた。
﹁うまいですよ﹂と僕は言った。﹁シンプルで、新鮮で、生命
の香りがします。いいキウリですね。キウイなんかよりずっとまと
もな食いものです﹂
僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりと
いうとても気持の良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと
二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガ
ス?コンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。
﹁水かジュ︱ス飲みますか?﹂と僕は訊いてみた。
︿キウリ﹀と彼は言った。
僕はにっこり笑った。﹁いいですよ。海苔つけますか?﹂
彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食
べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に
刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も
何度も噛み、そして呑みこんだ。
︿うまい﹀と彼は言った。
﹁食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのよう
なもんです﹂
結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまう
と水を飲みたがったので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を
飲んで少しすると小便したいと言ったので、僕はベットの下からし
びんを出し、その口をベニスの先にあててやった。僕は便所に行っ
て小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残
りを飲んだ。
﹁気分どうですか?﹂と僕は訊いてみた。
︿すこし﹀と彼は言った。︿アタマ﹀
﹁頭が少し痛むんですか?﹂
そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。
﹁まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんて
したことないからどういうもんだかよくわからないけれど﹂
︿キップ﹀と彼は言った。
﹁切符?なんの切符ですか?﹂
︿ミドリ﹀と彼は言った。︿キップ﹀
何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしば
らく黙っていた。それから︿タノム﹀と言った。﹁頼む﹂というこ
とらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。
彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕には
見当もつかなかった。
︿ウエノ﹀と彼は言った。︿ミドリ﹀
﹁上野駅ですか?﹂
彼は小さく肯いた。
﹁切符?緑?頼む?上野駅﹂と僕はまとめてみた。でも意味は
さっぱりわからなかった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕
は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼
は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方にのばした。そ
うするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと
震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握っ
た。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、︿タノム﹀とくりかえし
た。
切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配し
なくてもいいですよ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったり
と目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいない
ことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そ
して自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなもの
を抱いていることに気づいた。
少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊
ねた。ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝
息を立てて平和そうに眠っていた。
緑は三時すぎに戻ってきた。
﹁公園でぼおっとしてたの﹂と彼女は言った。﹁あなたに言わ
れたように、一人で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして﹂
﹁どうだった?﹂
﹁ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少し
だるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自
分自身で思っているより疲れてたみたいね﹂
父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったの
で、我々は自動販売機のコ︱ヒ︱を買ってTV室で飲んだ。そして僕
は緑に、彼女のいないあいだに起った出来事をひとつひとつ報告し
た。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕がキウリを
かじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。
﹁ワタナベ君、あなたってすごいわね﹂と緑は感心して言っ
た。﹁あの人ものを食べなくてそれでみんなすごく苦労してるの
に、キウリまで食べさせちゃうんだもの。信じられないわね、も
う﹂
﹁よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてた
せいじゃないかな﹂と僕は言った。
﹁それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあ
るのかしら?﹂
﹁まさか﹂と言って僕は笑った。﹁逆のことを言う人間はいっ
ばいいるけれどね﹂
﹁お父さんのことどう思った?﹂
﹁僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、
でもなんとなく良さそうな人だっていう気はしたね﹂
﹁おとなしかった?﹂
﹁とても﹂
﹁でもね一週間前は本当にひどかったのよ﹂と緑は頭を振りな
がら言った。﹁ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私に
コップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言った
の。この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわ
からないけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さ
んのときもそうだったわ。お母さんが私に向ってなんて言ったと思
う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大嫌いだって言っ
たのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのっ
て、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷
立たせて、それであることないこと言わせるのよ。それはわかって
いるの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだ
け一所懸命やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃなら
ないんだってね。情なくなっちゃうの﹂
﹁わかるよ、それは﹂と僕は言った。それから僕は緑の父親が
わけのわからいことを言ったのを思いだした。
﹁切符、上野駅?﹂と緑は言った。﹁なんのことかしら?よく
わからないわね﹂
﹁それから︿頼む﹀︿ミドリ﹀って﹂
﹁それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?﹂
﹁あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかも
しれないよ﹂と僕は言った。﹁とにかくその四つの言葉の順番がぐ
しゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあ
たることない?﹂
﹁上野駅……﹂と言って緑は考えこんだ。﹁上野駅で思いだせ
るといえば私が二回家出したことね。小学校三年のときと五年のと
きで、どちらのときも上野から電車に乗って福島まで行ったの。レ
ジからお金とって。何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に
伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そこ
に行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで
来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰るのよ。
そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、私にいろ
んな話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの
話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたこ
とないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり
話したのなんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる?う
ちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあっ
たことすら気がつかなかったのよ﹂
﹁まさか﹂と僕は唖然として言った。
﹁本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカ︱つ
けて小石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですっ
て。家に帰ったらそのへん瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみつ
いてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて﹃何
やってるんだ、いったい?﹄って訊いたんだって。それがお父さん
の関東大震災の思い出話﹂緑はそう言って笑った。
﹁お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマテ
ィックじゃないのね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そう
いう話を聞いているとね、この五十年か六十年くらい日本にはたい
した事件なんか何ひとつ起らなかったような気になってくるの。
二?二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうの
あったっけなあっていう感じなの。おかしいでしょう?
そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあ
いだ。そして最後にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、
ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうなのかなあって思っ
たわよ﹂
﹁それが上野駅の思い出話?﹂
﹁ そうよ ﹂と 緑は言った 。﹁ワタナベ君は 家出したこと あ
る?﹂
﹁ないね﹂
﹁どうして?﹂
﹁思いつかなかったんだよ。家出するなんて﹂
﹁あなたって変わってるわね﹂と緑は首をひねりながら感心し
たように言った。
﹁そうかな﹂と僕は言った。
﹁でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたか
ったんだと思うわよ﹂
﹁本当?﹂
﹁本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あ
なたなんて答えたの?﹂
﹁よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符も
ちゃんとやるから大丈夫ですって言っといたけど﹂
﹁じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?﹂
緑はそう言って真剣な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。
﹁そうじゃないよ﹂と僕はあわてて言いわけした。﹁何がなん
だかそのときよくわからなかったし︱︱﹂
﹁大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ﹂緑はそ
う言って笑った。﹁あなたってそいうところすごく可愛いのね﹂
コ︱ヒ︱を飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだ
ぐっすりと眠っていた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午
後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静
かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そ
して去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小さな
声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百五歳ま
で生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だ
な、と僕は言った。
四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭
いたり、水を飲ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦が
やってきた熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしか
めた。僕はTV室のソファ︱に座ってサッカ︱中継を少し見た。
﹁そろそろ行くよ﹂と五時に僕は言った。それから父親に向か
って﹁今からアルバイト行かなきゃならないんです﹂と説明した。
﹁六時から十時半まで新宿でレコ︱ド売るんです﹂
彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。
﹁ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、
今日のことすごく感謝してるのよ。ありがとう﹂と玄関のロビ︱で
緑が僕に言った。
﹁それほどのことは何もしてないよ﹂と僕は言った。﹁でもも
し僕で役に立つのならまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一
度会いたいしね﹂
﹁本当?﹂
﹁どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくれ
ばキウリも食べられる﹂
緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと
叩いていた。
﹁今度また二人でお酒飲みに行きたいな﹂と彼女はちょっと首
をかしげるようにして言った。
﹁ポルノ映画?﹂
﹁ポルノ見てからお酒飲むの﹂と緑は言った。﹁そしていつも
のように二人でいっばいいやらしい話をするの﹂
﹁僕はしてないよ。君がしてるんだ﹂と僕は抗議した。
﹁どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっ
ばいお酒飲んでぐでんぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝る
の﹂
﹁そのあとはだいたい想像つくね﹂と僕はため息をついて言っ
た。﹁僕がやろうとすると、君が拒否するんだろう?﹂
﹁ふふん﹂と彼女は言った。
﹁まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の
日曜日に。一緒にここに来よう﹂
﹁もう少し長いスカ︱トはいて?﹂
﹁そう﹂と僕は言った。
でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父
親が金曜日の朝に亡くなってしまったからだ。
その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がか
かってきていることを教えるブザ︱が鳴って、僕はパジャマの上に
カ︱ディガンを羽織ってロビ︱に降り、電話をとった。冷たい雨が
音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静
かな声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみ
た。
﹁ありがとう、大丈夫よ﹂と緑は言った。﹁私たちお葬式に馴
れてるの。ただあなたに知せたかっただけなの﹂
彼女はため息のようなものをついた。
﹁お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところで
あなたに会いたくないの﹂
﹁わかった﹂と僕は言った。
﹁本当にポルノ映画につれてってくれる?﹂
﹁もちろん﹂
﹁すごくいやらしいやつよ﹂
﹁ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを﹂
﹁うん。私の方から連絡するわ﹂と緑は言った。そして電話を
切った。
しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学
の教室でも会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰る
たびに僕への伝言メモがないかと気にして見ていたのだが、僕への
電話はただの一本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果
たすために緑のことを考えながらマスタ︱ベ︱ションをしてみたの
だったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りか
えてみたのだが、直子のイメ︱ジも今回はあまり助けにならなかっ
た。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。そして
ウィスキ︱を飲んで、歯を磨いて寝た。

日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父
親のこと書いた。僕はその同じクラスの女の子の父親の見舞いに行
って余ったキウリをかじった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽ
りと食べた。でも結局その五日後の朝に彼は亡くなってしまった。
僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよ
く覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残
していくものだ、と。
朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレイコさんと鳥小屋のこ
とを考えると僕は書いた。孔雀や鴉やオウムや七面鳥、そしてウサ
ギのことを。雨の朝に君たちが着ていたフ︱ドつきの黄色い雨合羽
のことも覚えています。あたたかいベットの中で君のことを考えて
いるのはとても気持の良いものです。まるで僕のとなりに君がい
て、体を丸めてぐっすり眠っているような気がします。そしてそれ
がもし本当だったらどんなに素敵だろうと思います。
ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおお
むね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をした
りするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベットから
出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の
玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリ
とねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけで
す。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく一人言を言う
そうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってるのでし
ょう。
君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京
での生活はもっとひどいことになっていたと思う。朝ベットの中で
君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかな
くちゃとと僕は思うのです。君がそこできちんとやっているように
僕もここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。
でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませ
てしまって、今は部屋で手紙を書いています。この手紙を書き終え
て切手を貼ってポストに入れてしまえば夕方まで何もありません。
日曜には勉強もしません。僕は平日の講義のあいまに図書室でかな
りしっかりと勉強しているので、日曜日には何もすることがないの
です。日曜日の午後は静かで平和で、そして孤独です。
僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京
にいた頃の日曜日に二人で歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみ
ることもあります。君が着ていた服なんかもずいぶんはっきりと思
いだせます。日曜日の午後には僕は本当にいろんなことを思いだす
のです。
レイコさんによろしく。僕は夜になると彼女のギタ︱がとても
なつかしくなります。
僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メ︱トルほど離れたとこ
ろにあるポストに入れ、近くのパン屋で玉子のサンドイッチとコ︱
ラを買って、公園のベンチに座って昼飯がわりにそれを食べた。公
園では少年野球をやっていたので、僕は暇つぶしにそれを見てい
た。空は秋の深まりとともにますます青く高くなり、ふと見あげる
と二本の飛行機雲が電車の線路みたいに平行にまっすぐ西に進んで
いくのが見えた。僕の近くに転がってきたファウル?ボ︱ルを投げ
返してやると子供たちは帽子をとってありがとうございますと言っ
た。大方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゲ︱ムだ
った。
午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中でき
なくなると天井を眺めて緑のことを思った。そしてあの父親は本当
に僕に緑のことをよろしく頼むと言おうとしたのだろうかと考えて
みた。でももちろん彼が本当に何を言いたかったかということは僕
には知りようもなかった。たぶん彼は僕を他の誰かと間違えていた
のだろう。いずれにせよと冷たい雨の降る金曜日の朝に彼は死んで
しまったし、本当はどうだったのかたしかめようもなくなってしま
った。おそらく死ぬときの彼はもっと小さく縮んでいたのだろうと
僕は想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってしまったの
だ。彼があとに残したものといえば、あまりぱっとしない商店街の
中のあまりぱっとしない本屋と二人の︱︱少くともそのうちの一人
はいささか風変りな︱︱娘だけだった。それはいったいどのような
人生だったんだろう、と僕は思った。彼は病院のベットの上で、切
り裂かれて混濁した頭を抱え、いったいどんな思いで僕を見ていた
のだろう?
そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない
気持になってきたので、僕は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新
宿に出て街を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の街
は僕をホッとさせてくれた。僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊
国屋書店でフォ︱クナ︱の﹃八月の光﹄を買い、なるべく音の大き
そうなジャズ喫茶に入ってオ︱ネット?コ︱ルマンだのパド?パウ
エルだののレコ︱ドを聴きながら熱くて濃くてまずいコ︱ヒ︱うを
飲み、買ったばかりの本を読んだ。五時半になると僕は本を閉じて
外に出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜日をいった
い何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思った。
﹁静かで平和で孤独な日曜日﹂と僕は口に出して言ってみた。日曜
日には僕はねじを巻かないのだ。

その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまっ
た。レコ︱ド棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなか
ったのだ。自分でもびっくりするくらい血がいっぱい出て、それが
ぽたぽたと下にこぼれ、足もとの床が真っ赤になった。店長がタオ
ルを何枚が持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。
そして電話をかけて夜でも開いている救急病院の場所を訊いてくれ
た。ろくでもない男だったが、そういう処置だけは手ばやかった。
病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにタオルは真っ赤に染
まって、はみでた血がアスファルトの上にこぼれた。人々はあわて
て道をあけてくれた。彼らは喧嘩か何かの傷だと思ったようだっ
た。痛みらしい痛みはなかった。ただ次から次へと血が出てくるだ
けだった。
医者は無感動に血だらけのタオルを取り、手首をぎゅっとしば
って血を止め傷口を消毒してから縫い合わせ、明日また来なさいと
言った。レコ︱ド店に戻ると、お前もう家帰れよ、出勤にしといて
やるから、と店長が言った。僕はバスに乗って寮に戻った。そして
永沢さんの部屋に行ってみた。怪我のせいで気が高ぶっていて誰か
と話がしたかったし、彼にもずいぶん長く会っていないような気が
したからだ。
彼は部屋にいて、TVのスペイン語講座を見ながら缶ビ︱ルを飲
んでいた。彼は僕の包帯を見て、お前それどうしたんだよと訊い
た。ちょっと怪我したのだがたいしたことはないと僕は言った。ビ
︱ル飲むかと彼が訊いて、いらないと僕は言った。
﹁これもうすぐ終るから待ってろよ﹂と永沢さんは言って、ス
ペイン語の発音の練習をした。僕は自分で湯をわかし、ティ︱バッ
グで紅茶を作って飲んだ。スペイン人の女性が例文を読みあげた。
﹁こんなひどい雨ははじめてですわ。バルセロナでは橋がいくつも
流されました﹂。永沢さんは自分でもその例文を読んで発音してか
ら﹁ひどい例文だよな﹂と言った。﹁外国語講座の例文ってこうい
うのばっかりなんだからまったく﹂
スペイン語講座が終ると永沢さんはTVを消し、小型の冷蔵庫か
らもう一本ビ︱ルを出して飲んだ。
﹁邪魔じゃないですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁俺?全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビ︱ルい
らない?﹂
いらないと僕は言った。
﹁そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ﹂
と永沢さんが言った。
﹁外務省の試験?﹂
﹁そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけど
ね、アホみたいだろ?﹂
﹁おめでとう﹂と僕は言って左手をさしだして握手した。
﹁ありがとう﹂
﹁まあ当然でしょうけれどね﹂
﹁まあ当然だけどな﹂と永沢さんは笑った。﹁しかしまあちゃ
んと決まるってのはいいことだよ、とにかく﹂
﹁外国に行くんですか、入省したら?﹂
﹁いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にや
られる﹂
僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビ︱ルを飲んだ。
﹁この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前
にやるよ﹂と永沢さんは言った。﹁欲しいだろ?これあると冷たい
ビ︱ル飲めるし﹂
﹁そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必
要でしょう?どうぜアパ︱ト暮しか何かだろうし﹂
﹁馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとで
かい冷蔵庫を買ってゴ︱ジャスに暮すよ。こんなケチなところで四
年我慢したんだぜ。こんなところで使ってたものなんて目にしたく
もないさ。何でも好きなものやるよ、TVだろうが、魔法瓶だろう
が、ラジオだろうが﹂
﹁まあなんでもいいですけどね﹂と僕は言った。そして机の上
のスペイン語のテキスト?ブックを手にとって眺めた。﹁スペイン
語始めたんですか?﹂
﹁うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいた
い生来俺はそういうの得意なんだ。フランス語だって独学でやって
きて殆んど完璧だしな。ゲ︱ムと同じさ。ル︱ルがひとつわかった
ら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だ
よ﹂
﹁ずいぶん内省的な生き方ですね﹂と僕は皮肉を言った。
﹁ところで今度一緒に飯食いに行かないか﹂と永沢さんが言っ
た。
﹁また女漁りじゃないでしょうね?﹂
﹁いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でち
ゃんとしたレストランに行って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。
なるべく高い店に行こう。どうせ払いは父親だから﹂
﹁そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないです
か﹂
﹁お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも﹂
と永沢さんは言った。
やれやれ、と僕は思った。それじゃキズキと直子のときとまっ
たく同じじゃないか。
﹁飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい
三人で食おうよ﹂
﹁まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ﹂と
僕は言った。﹁でも永沢さんはどうするですか、ハツミさんのこ
と?研修のあとで国外勤務になって何年も帰ってこないんでしょ?
彼女はどうなるんですか?﹂
﹁それはハツミの問題であって、俺の問題ではない﹂
﹁よく意味がわかんないですね﹂
彼は足を机の上にのせたままビ︱ルを飲み、あくびをした。
﹁つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツ
ミにもちゃんと言ってある。だからさ、ハツミは誰かと結婚したき
ゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結婚しないで俺を待ちたきゃ
待ちゃいい。そういう意味だよ﹂
﹁ふうん﹂と僕は感心して言った。
﹁ひどいと思うだろ、俺のこと?﹂
﹁思いますね﹂
﹁世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺
のせいじゃない。はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだま
したことなんか一度もない。そういう意味では俺はひどい人間だか
ら、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる﹂
永沢さんはビ︱ルを飲んでしまうとタバコをくわえて火をつけ
た。
﹁あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないです
か?﹂と僕は訊いてみた。
﹁あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ﹂と永沢さんは言っ
た。﹁もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなの当
たり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件として認めな
い。自分の力を百パ︱セント発揮してやれるところまでやる。欲し
いものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きてい
く。駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会
というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある﹂
﹁身勝手な話みたいだけれど﹂と僕は言った。
﹁でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわ
けじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍
くらい努力してる﹂
﹁そうでしょうね﹂と僕は認めた。
﹁だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりす
るんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努
力もせずに不平ばかり言うんだろうってね﹂
僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。﹁僕の目から見れば世の
中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象
を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?﹂
﹁あれは努力じゃなくてただの労働だ﹂と永沢さんは簡単に言
った。﹁俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力という
のはもっと主体的に目的的になされるもののことだ﹂
﹁たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペ
イン語の勉強を始めるとか、そういうことですね?﹂
﹁そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスタ
︱する。英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イ
タリア語もだいたいはできる。こういうのって努力なくしてできる
か?﹂
彼はタバコを吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の
父親はTVでスペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかっ
たろうと思った。努力と労働の違いがどこかにあるかなんて考えも
しなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたの
だ。仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行か
ねばならなかった。
﹁食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ?﹂と永沢さんが言
った。
いいですよ、と僕は言った。
永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス
料理店だった。永沢さんが名前を言うと我々は奥の個室に通され
た。小さな部屋で壁には十五枚くらい版画がかかっていた。ハツミ
さんが来るまで、僕と永沢さんはジョセフ?コンラッドの小説の話
をしながら美味しいワインを飲んだ。永沢さんは見るからに高価そ
うなグレ︱のス︱ツを着て、僕はごく普通のネイビ︱?ブル︱のブ
レザ︱?コ︱トを着ていた。
十五分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとて
もきちんと化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブル︱の素敵な
ワンピ︱スを着て、上品なかたちの赤いパンプスをはいていた。僕
はワンピ︱スの色を賞めると、これはミッドナイト?ブル︱ってい
うのよとハツミさんは教えてくれた。
﹁素敵なところじゃない﹂とハツミさんが言った。
﹁父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来た
ことあるよ。俺はこういう気取った料理はあまり好きじゃないけど
な﹂と永沢さんが言った。
﹁あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワタナ
ベ君﹂とハツミさんが言った。
﹁そうですね、自分の払いじゃなければね﹂と僕は言った。
﹁うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ﹂と永沢さんが言
った。﹁東京に女がいるから﹂
﹁そう?﹂とハツミさんが言った。
僕は聞こえないふりをしてワインを飲んでいた。
やがてウェイタ︱がやってきて、我々は料理を注文した。オ︱
ドブルとス︱プを我々は選び、メイン?ディッシュに永沢さんは鴨
を、僕とハツミさんは鱸を注文した。料理はとてもゆっくり出てき
たので、僕らはワインを飲みながらいろんな話をした。最初は永沢
さんが外務省の試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放り
こんでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもい
たなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高
いのかと僕は質問してみた。
﹁同じだよ、もちろん﹂と永沢さんはあたり前じゃないかとい
う顔で言った。﹁そういうのって、どこでも同じなんだよ。一定不
変なんだ﹂
ワインを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のた
めにスコッチ?ウィスキ︱をダブルで頼んだ。
それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始め
た。これはハツミさんと僕の間の永遠の話題だった。彼女は僕に
︿クラブの下級生のすごく可愛い子﹀を紹介したがって、僕はいつ
も逃げまわっていた。
﹁でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一
度お話しなさいよ。きっと気にいるわよ﹂
﹁駄目ですよ﹂と僕は言った。﹁僕はハツミさんの大学の女の
子とつきあうには貧乏すぎるもの。お金もないし、話もあわない
し﹂
﹁あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりし
た良い子よ。全然そんな風に気取ってないし﹂
﹁一度会ってみりゃいいじゃないか、ワタナベ﹂と永沢さんが
言った。﹁べつにやらなくていいんだから﹂
﹁あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバ︱
ジンなんだから﹂とハツミさんが言った。
﹁昔の君みたい﹂
﹁そう、昔の私みたいに﹂とハツミはにっこり笑って言った。
﹁でもワタナベ君、貧乏だとかなんだかとかって、そんなのあまり
関係ないよ。そりゃクラスに何人かはものすごく気取ったバリバリ
の子はいるけれど、あとは私たち普通なのよ。お昼には学食で二百
五十円のランチ食べて︱︱﹂
﹁ねえハツミさん﹂と僕は口をはさんだ。﹁僕の学校の学食の
ランチは、A、B、CとあってAが百二十円でBは百円でCが八十円な
んです。それでたまに僕がAランチを食べるとみんな嫌な目で見る
んです。Cランチが食えないやつは六十円のラ︱メン食うんです。
そういう学校なんです。話があうと思いますか?﹂
ハツミさんは大笑いした。﹁安いわねえ、私食べに行こうかし
ら。でもね、ワタナベ君、あなた良い人だし、きっと彼女と話あう
わよ。彼女だって百二十円のランチ気に入るかもしれないわよ﹂
﹁まさか﹂と僕は笑って言った。﹁誰もあんなもの気に入って
やしませんよ。仕方ないから食べてるんです。
﹁でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワタナベ君。そり
ゅまあかなりちゃらちゃらしたお嬢様学校であるにせよ、真面目に
人生を考えて生きているまともな女の子だって沢山いるのよ。みん
ながみんなスポ︱ツ?カ︱に乗った男の子とつきあいたいと思って
るわけじゃないのよ﹂
﹁それはもちろんわかってますよ﹂と僕は言った。
﹁ワタナベには好きな女の子がいるんだよ﹂と永沢さんが言っ
た。﹁でもそれについてはこの男は一言もしゃべらないんだ。なに
しろ口が固くてね。全ては謎に包まれているんだ﹂
﹁本当?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとて
もこみいって話しづらいだけです﹂
﹁道ならぬ恋とかそういうの?ねえ、私に相談してごらんなさ
いよ﹂
僕はワインを飲んでごまかした。
﹁ほら、口が固いだろう﹂と三杯目のウィスキ︱を飲みながら
永沢さんが言った。﹁この男は一度言わないって決めたら絶対に言
わないんだもの﹂
﹁残念ねえ﹂とハツミさんはテリ︱ヌを小さく切ってフォ︱ク
で口に運びながら言った。﹁その女の子とあなたがうまくいったら
私たちダブル?デ︱トできたのにね﹂
﹁酔払ってスワッピングだってできたのにね﹂と永沢さんが言
った。
﹁変なこと言わないでよ﹂
﹁変じゃないよ、ワタナベ君のこと好きなんだから﹂
﹁それとこれは別でしょう﹂とハツミさんは静かな声で言っ
た。﹁彼はそういう人じゃないわよ。自分のものをとてもきちんと
大事にする人よ。私わかるもの。だから女の子を紹介しようとした
のよ﹂
﹁でも俺とワタナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、
前に。なあ、そうだよな?﹂永沢さんは何でもないという顔をして
ウィスキ︱のグラスをあけ、おわかりを注文した。
ハツミさんはフォ︱クとナイフを下に置き、ナプキンでそっと
口を拭った。そして僕の顔を見た。﹁ワタナベ君、あなた本当にそ
んなことしたの?﹂
どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。
﹁ちゃんと話せよ。かまわないよ﹂と永沢さんが言った。まず
いことになってきたと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地
がわるくなることがあるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは僕
に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられたものだった。
それがわかっていたもので、僕としても余計に居心地がわるかっ
た。
﹁その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない﹂とハツミさん
が僕に言った。
﹁酔払ってたんです﹂と僕は言った。
﹁いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただそ
の話を聞かせてほしいだけなの﹂
﹁渋谷のバ︱で永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の
子と仲良くなったんです。どこかの短大の女の子で、向うも結構出
来上っていて、それでまあ結局そのへんのホテルに入って寝たんで
す。僕と永沢さんとで隣りどうしの部屋をとって。そうしたら夜中
に永沢さんが僕の部屋をノックして、おいワタナベ、女の子とりか
えようぜって言うから、僕が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕
の方に来たんです﹂
﹁その女の子たちは怒らなかったの?﹂
﹁その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんで
す。結局その子たちとしても﹂
﹁そうするにはそうするだけの理由があったんだよ﹂と永沢さ
んが言った。
﹁どんな理由?﹂
﹁その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだ
よ。一人の子はきれいだったんだけど、もう一人がひどくってさ、
そういうの不公平だと思ったんだ。つまり俺が美人の方をとっちゃ
ったからさ、ワタナベにわるいじゃないか。だから交換したんだ
よ。そうだよな、ワタナベ?﹂
﹁まあ、そうですね﹂と僕は言った。しかし本当のことを言え
ば、僕はその美人じゃない子の方をけっこう気に入っていたのだ。
話していて面白かったし、性格もいい子だった。僕と彼女がセック
スのあとベッドの中でわりに楽しく話をしていると、永沢さんが来
てとりかえっこしようぜと言ったのだ。僕がその子にいいかなと訊
くと、まあいいわよ、あなたたちそうしたいんなら、と彼女は言っ
た。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりたがっていると思っ
たのだろう。
﹁楽しかった?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁交換のことですか?﹂
﹁そんな何やかやが﹂
﹁べつにとくに楽しくはないです﹂と僕は言った。﹁ただやる
だけです。そんな風に女の子と寝たってとくに何か楽しいことがあ
るわけじゃないです﹂
﹁じゃあ何故そんなことするの?﹂
﹁俺が誘うからだよ﹂と永沢さんが言った。
﹁私、ワタナベ君に質問してるのよ﹂とハツミさんはきっぱり
と言った。﹁どうしてそんなことするの?﹂
﹁ときどきすごく女の子と寝たくなるんです﹂と僕は言った。
﹁好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいか
ないの?﹂とハツミさんは少し考えてから言った。
﹁複雑な事情があるんです﹂
ハツミさんはため息をついた。
そこでドアが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨
のロ︱ストが運ばれ、僕とハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。
皿には温野菜が盛られ、ソ︱スがかけられた。そして給仕人が引き
下がり、我々はまた三人きりになった。永沢さんは鴨をナイフで切
ってうまそうに食べ、ウィスキ︱を飲んだ。
僕はホウレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけ
なかった。
﹁あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれ
ど、そういう種類のことはあなたには向いてないし、ふさわしくな
いと思うんだけれど、どうかしら?﹂とハツミさんは言った。彼女
はテ︱ブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。
﹁そうですね﹂と僕は言った。﹁自分でもときどきそう思いま
す﹂
﹁じゃあ、どうしてやめないの?﹂
﹁ときどき温もりが欲しくなるんです﹂と僕は正直に言った。
﹁そういう肌のぬくもりのようなものがないと、ときどきたまらな
く淋しくなるんです﹂
﹁要約するとこういうことだと思うんだ﹂永沢さんが口をはさ
んだ。﹁ワタナベには好きな女の子がいるんだけれどある事情があ
ってやれない。だからセックスはセックスと割り切って他で処理す
るわけだよ。それでかまわないじゃないか。話としてはまともだ
よ。部屋にこもってずっとマスタ︱ベ︱ションやってるわけにもい
かないだろう?﹂
﹁でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかし
ら、ワタナベ君?﹂
﹁そうかもしれないですね﹂と言って僕はクリ︱ム?ソ︱スの
かかった鱸の身を口に運んだ。
﹁君には男の性欲というものが理解できないんだ﹂と永沢さん
がハツミさんに言った。﹁たとえば俺は君と三年つきあっていて、
しかもそのあいだにけっこう他の女と寝てきた。でも俺はその女た
ちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、顔も覚えな
い。誰とも一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけ
よ。それのどこがいけない?﹂
﹁私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ﹂とハ
ツミさんは静かに言った。﹁他の女の人と寝る寝ないの問題じゃな
いの。私これまであなたの女遊びのことで真剣に怒ったこと一度も
ないでしょう?﹂
﹁あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲ︱ムだ。誰も傷つ
かない﹂と永沢さんは言った。
﹁私は傷ついてる﹂とハツミさん言った。﹁どうして私だけじ
ゃ足りないの?﹂
永沢さんはしばらく黙ってウィスキ︱のグラスを振っていた。
﹁足りないわけじゃない。それはまったく別のフェイスの話なん
だ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きのようなものが
あるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけない
と思う。決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。
でも俺はその渇きのもとでしか生きていけない男だし、それが俺な
んだ。仕方ないじゃないか﹂
ハツミさんはやっとナイフとフォ︱クを手にとって鱸を食べは
じめた。﹁でもあなたは少なくともワタナベ君をひきずりこむべき
じゃないわ﹂
﹁俺とワタナベには似ているところがあるんだよ﹂と永沢さん
は言った。﹁ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにし
か興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあ
れね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、
そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をき
りはなしてものを考えることができる。俺がワタナベを好きなのは
そういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと
認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ﹂
﹁迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ?﹂とハツ
ミさんは言った。﹁それともあなたは迷ったり傷ついたりしたこと
ないって言うの?﹂
﹁もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽
減することが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つ
くことの少ない道を選ぶようになる﹂
﹁でも鼠は恋をしないわ﹂
﹁鼠は恋をしない﹂と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方
を見た。﹁素敵だね。バックグランド?ミュ︱ジックがほしいね。
オ︱ケストラにハ︱ブが二台入って︱︱﹂
﹁冗談にしないでよ。私、真剣なのよ﹂
﹁今は食事をしてるんだよ﹂と永沢さんは言った。﹁それにワ
タナベもいる。真剣に話をするのは別の機会にした方が礼儀にかな
っていると思うね﹂
﹁席を外しましょうか?﹂と僕は言った。
﹁ここにいてちょうだいよ。その方がいい﹂とハツミさんが言
った。
﹁せっかく来たんだからデザ︱トも食べていけば﹂と永沢さん
が言った。
﹁僕はべつにかまいませんけど﹂
それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれ
いに食べ、ハツミさんは半分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ
終えて、またウィスキ︱を飲みつづけていた。
﹁鱸、けっこううまかったですよ﹂と僕は言ってみたが誰も返
事をしなかった。まるで深い竪穴に小石を投げ込んだみたいだっ
た。
皿がさげられて、レモンのシャ︱ベットとエスプレッソ?コ︱
ヒ︱が運んできた。永沢さんはどちらにもちょっと手をつけただけ
で、すぐに煙草を吸った。ハツミさんはレモンのシャ︱ベットには
まったく手をつけなかった。やれやれと思いながら僕はシャ︱ベッ
トをたいらげ、コ︱ヒ︱を飲んだ。ハツミさんはテ︱ブルの上に揃
えておいた自分の両手を眺めていた。ハツミさんの身につけた全て
のものと同じように、その両手はとてもシックで上品で高価そうだ
った。僕は直子とレイコさんのことを考えていた。彼女たちは今頃
何をしているんだろう?直子はソファ︱に寝転んで本を読み、レイ
コさんはギタ︱で﹃ノルウェイの森﹄を弾いているのかもしれない
なと僕は思った。僕は彼女たち二人のいるあの小さな部屋に戻りた
いという激しい想いに駆けられた。俺はいったいここで何をしてい
るのだ?
﹁俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理
解してほしいと思っていないところなんだ﹂と永沢さんが言った。
﹁そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自
分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくして
る。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解して
もらわなくったってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、
他人は他人だって﹂
﹁そうなの?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁僕はそれほど強い人間じゃありま
せんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理
解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはあ
る程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っている
だけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解
されなくたってかまわないと思っているわけじゃありません﹂
﹁俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ﹂と永沢さんはコ︱ヒ
︱?スプ︱ンを手にとって言った。﹁本当に同じことなんだよ。遅
いめの朝飯と早いめの昼飯の違いくらいしかないんだ。食べるもの
も同じで、食べる時間も同じで、ただ呼び方がちがうんだ﹂
﹁永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと
思ってるの?﹂とハツミさんが訊いた。
﹁君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理
解するのはしかるべき時期がきたからであって、その誰かが相手に
理解してほしいと望んだからではない﹂
﹁じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間
違ったことなの?たとえばあなたに?﹂
﹁いや、べつに間違っていないよ﹂と永沢さんは答えた。﹁ま
ともな人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのな
らね。俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違
うんだよ﹂
﹁でも私に恋してはいないのね?﹂
﹁だから君は僕のシステムを︱︱﹂
﹁システムなんてどうでもいいわよ!﹂とハツミさんがどなっ
た。彼女がどなったのを見たのはあとにも先にもこの一度きりだっ
た。
永沢さんがテ︱ブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持
ってやってきた。永沢さんはクレジット?カ︱ドを出して彼に渡し
た。
﹁悪かったな、ワタナベ、今日は﹂と彼は言った。﹁俺はハツ
ミを送っていくから、お前一人であとやってくれよ﹂
﹁いいですよ、僕は。食事はうまかったし﹂と僕は言ったが、
それについては誰も何も言わなかった。
給仕人がカ︱ドを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボ
︱ルペンでサインをした。そして我々は席を立って店の外に出た。
永沢さんが道路に出てタクシ︱を停めるようとしたが、ハツミさん
がそれを止めた。
﹁ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたく
ないの。だから送ってくれないでいいわよ。ごちそさま﹂
﹁お好きに﹂と永沢さんは言った。
﹁ワタナベ君に送ってもらうわ﹂とハツミさんは言った。
﹁お好きに﹂と永沢さんは言った。﹁でもワタナベだって殆ん
ど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛
することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ乾きが
あるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ﹂
僕はタクシ︱を停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送
りますよと永沢さんに言った。﹁悪いな﹂と彼は僕に謝ったが、頭
の中ではもう全然別のことを考えはじめているように見えた。
﹁どこに行きますか?恵比寿に戻りますか?﹂と僕はハツミさ
んに訊いた。彼女のアパ︱トは恵比寿にあったからだ。ハツミさん
は首を横に振った。
﹁じゃあ、そこかで一杯飲みますか?﹂
﹁うん﹂と彼女は肯いた。
﹁渋谷﹂と僕は運転手に言った。
ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、タクシ︱の座席により
かかっていた。金の小さなイヤリングが車のゆれにあわせてときど
ききらりと光った。彼女のミッドナイト?ブル︱のワンピ︱スはま
るでタクシ︱の片隅の闇にあわせてあつらえたように見えた。淡い
色あいで塗られた彼女のかたちの良い唇がまるで一人言を言いかけ
てやめたみたいに時折ぴくりと動いた。そんな姿を見ていると永沢
さんがどうして彼女を特別な相手として選んだのかわかるような気
がした。ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、そして
永沢さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただろ
う。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺
さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相
手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなもの
なのだが、それが相手の心の共震を呼ぶのだ。タクシ︱が渋谷に着
くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引き起こすこの
感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそ
れが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。
僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あと
のことだった。僕はある画家をインタヴェ︱するためにニュ︱?メ
キシコ州サンタ?フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ?ハウス
に入ってビ︱ルを飲みピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕
陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から
皿からテ︱ブルから、目につくもの何から何までが赤く染まってい
た。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そ
んな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだし
た。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であっ
たかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれか
らも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなも
のであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れを
ずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて
自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハ
ツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた︿僕自
身の一部﹀であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど
泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別
な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼女を救うべきだった
のだ。
でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツ
ミさんは︱︱多くの僕の知りあいがそうしたように︱︱人生のある
段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。彼女
は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、そ
の二年後に剃刀で手首を切った。
彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。
彼はボンから僕に手紙を書いてきた。﹁ハツミの死によって何かが
消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕に
とってさえも﹂僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を
書かなかった。

我々は小さなバ︱に入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツ
ミさんも殆んど口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦
みたいに向いあわせに座って黙って酒を飲み、ピ︱ナッツをかじっ
た。そのうちに店が混みあってきたので、我々は外を少し散歩する
ことにした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自分
が誘ったのだからと言って払った。
外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミ
さんは淡いグレ︱のカ︱ディガンを羽織った。そしてあいかわらず
黙って僕の横を歩いていた。どこに行くというあてもなかったけれ
ど、僕はズボンのポケットに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を
歩いた。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思っ
た。
﹁ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤ︱ドできるところ知ら
ない?﹂ハツミさんが突然そう言った。
﹁ビリヤ︱ド?﹂と僕はびっくりして言った。﹁ハツミさんが
ビリヤ︱ドやるんですか?﹂
﹁ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう?﹂
﹁四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれ
ど﹂
﹁じゃ、行きましょう﹂
我々は近くでビリヤ︱ド屋をみつけて中に入った。路地のつき
あたりにある小さな店だった。シックなワンピ︱スを着たハツミさ
んとネイビ︱?ブル︱のブレザ︱?コ︱トにレジメンタル?タイと
いう格好の僕の組みあわせはビリヤ︱ド屋の中ではひどく目立った
が、ハツミさんはそんなことはあまり気にせずにキュ︱を選び、チ
ョ︱クでその先をキュッキュッとこすった。そしてバッグから髪ど
めを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔にならないように
した。
我々は四ツ玉のゲ︱ムを二回やったが、ハツミさんは自分でも
言ったようになかなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていた
のであまり上手く玉を撞くことができなかった。それでニゲ︱ムと
も彼女が圧勝した。
﹁上手いですね﹂と僕は感心して言った。
﹁見かけによらず、でしょう?﹂とハツミさんは丁寧に玉の位
置を測りながらにっこりとして言った。
﹁いったいどこで練習したんですか?﹂
﹁私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持ってい
たのよ。それでそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊
んでたの。少し大きくなってからは祖父が正式な撞き方を教えてく
れたし。良い人だったな。スマ︱トでハンサムでね。もう死んじゃ
ったけれど。昔ニュ︱ヨ︱クでディアナ?ダ︱ビンにあったことが
あるっていうのが自慢だったわね﹂
彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一
回得点し、それからやさしいのを撞き損った。
﹁包帯してるせいよ﹂とハツミさんは慰めてくれた。
﹁長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないか
ら﹂
﹁どうしてそんなにはっきり覚えてるの?﹂
﹁友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それで
よく覚えてるんです﹂
﹁それでそれ以来ビリヤ︱ドやらなくなったの?﹂
﹁いや、とくにそういうわけではないんです﹂と僕は少し考え
てからそう答えた。﹁ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会が
なかったんです。それだけのことですよ﹂
﹁お友だちはどうして亡くなったの?﹂
﹁交通事故です﹂と僕は言った。
彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣
で、玉を撞くときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセッ
トした髪をくるりとうしろに回して金のイヤリングを光らせ、パン
プスの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい指で台のフェル
トを押えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤ︱ド場のそ
この場所だけが何かしら立派な社交場の一角であるように見えた。
彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それは僕にとって素敵
な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱり
あげられたような気がした。三ゲ︱ムを終えたところで︱︱もちろ
ん三ゲ︱ムめも彼女が圧勝した︱︱僕の手の傷が少しうずきはじめ
たので我々はゲ︱ムを切りあげることにした。
﹁ごめんなさい。ビリヤ︱ドなんかに誘うんじゃなかったわ
ね﹂とハツミさんはとても悪そうに言った。
﹁いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったで
す、すごく﹂と僕は言った。
帰り際にビリヤ︱ド場の経営者らしいやせた中年の女がハツミ
さんに﹁お姐さん、良い筋してるわね﹂と言った。﹁ありがとう﹂
とにっこり笑ってハツミさんは言った。そして彼女がそこの勘定を
払った。
﹁痛む?﹂と外に出てハツミさんが言った。
﹁それほど痛くはないです﹂と僕は言った。
﹁傷口開いちゃったかしら?﹂
﹁大丈夫ですよ、たぶん﹂
﹁どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえ
てあげるから﹂とハツミさんが言った。﹁うち、ちゃんと包帯も消
毒薬もあるし、すぐそこだから﹂
そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言った
が、彼女の方は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべ
きだと言いはった。
﹁それとも私と一緒にいるの嫌?一刻も早く自分のお部屋に戻
りたい?﹂とハツミさんは冗談めかして言った。
﹁まさか﹂と僕は言った。
﹁じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いて
すぐだから﹂
ハツミさんのアパ︱トは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい
歩いたところにあった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパ
︱トで、小さなロビ︱もあればエレベ︱タ︱もついていた。ハツミ
さんはその1DKの部屋の台所のテ︱ブルに僕を座らせ、となりの部
屋に行って服を着がえてきた。プリンストン?ユニヴァシティ︱と
いう文字の入ったヨットパ︱カ︱と綿のズボンという格好で、金の
イヤリングも消えていた。彼女はどこから救急箱を持って来て、テ
︱ブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていないことをたしか
めてから、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおしてくれ
た。とても手際がよかった。
﹁どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか?﹂と僕は
訊いてみた。
﹁昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦
のまね事のようなもの。そこで覚えたの﹂とハツミさんは言った。
包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビ︱ルを二本出して
きた。彼女が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミ
さんは僕にクラブの下級生の女の子たちが写った写真を見せてくれ
た。たしかに何人か可愛い子がいた。
﹁もしガ︱ルフレンドがほしくなったらいつでも私のところに
いらっしゃい。すぐ紹介してあげるから﹂
﹁そうします﹂
﹁でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみ
たいだなと思ってるでしょ、正直言って?﹂
﹁幾分﹂と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼
女は笑顔がとてもよく似合う人だった。
﹁ねえワタナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のこと?﹂
﹁どう思うって、何についてですか?﹂
﹁私どうすればいいのかしら、これから?﹂
﹁私が何を言っても始まらないでしょう﹂と僕はよく冷えたビ
︱ル飲みながら言った。
﹁いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて﹂
﹁僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまと
もな考え方をする相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう
好意的に見てもあの人とつきあって幸せになれるわけがないです
よ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、そ
んな風に考えて生きている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経
がおかしくなっちゃいますよ。僕から見ればハツミさんがあの人と
三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もちろん僕だって
僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところも沢
山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さ
を持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじ
ゃないです。あの人と話をしていると、時々自分が同じところを
堂々めぐりしているような気分になることがあるんです。彼の方は
同じプロセスでどんどん上に進んで行ってるのに、僕の方はずっと
堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空しくなるんです。要する
にシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわかります
か?﹂
﹁よくわかるわ﹂とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビ︱
ルを出してくれた。
﹁それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当
分国外に行っちゃうわけでしょう?ハツミさんはどうするんです
か?ずっと待ってるんですか?あの人、誰とも結婚する気なんかあ
りませんよ﹂
﹁それもわかってるのよ﹂
﹁じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上﹂
﹁うん﹂とハツミさんは言った。
僕はグラスにゆっくりとビ︱ルを注いで飲んだ。
﹁さっきハツミさんとビリヤ︱ドやっててふと思ったんです﹂
と僕は言った。﹁つまりね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で
育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟が欲しいと思ったことは
なかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミさん
とさっきビリヤ︱ドやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがい
たらよかったなと突然思ったんです。スマ︱トでシックで、ミッド
ナイト?ブル︱のワンピ︱スと金のイヤリングがよく似合って、ビ
リヤ︱ドが上手なお姉さんがね﹂
ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。﹁少なくともこ
の一年くらいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなた
のが最高に嬉しかったわ。本当よ﹂
﹁だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんで
す﹂と僕はちょっと赤くなって言った。﹁でも不思議ですね。あな
たみたいな人なら誰とだって幸せになれそうに見えるのに、どうし
てまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだろ
う?﹂
﹁そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分で
はどうしようもないことなのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと
君の責任だ。俺は知らんってことになるでしょうけれどね﹂
﹁そういうでしょうね﹂と僕は同意した。
﹁でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないの
よ。私はどっちかっていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責
任とか、そんなことどうだっていいの。結婚して、好きな人に毎晩
抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけなの。私が求め
ているのはそれだけなのよ﹂
﹁彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ﹂
﹁でも人は変るわ。そうでしょう?﹂とハツミさんは言った。
﹁社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり……と
いうこと?﹂
﹁そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情
も変ってくるかもしれないでしょう?﹂
﹁それは普通の人間の話です﹂と僕は言った。﹁普通の人間だ
ったらそういうのもあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人
は我々の想像を越えて意志の強い人だし、その上毎日毎日それを補
強してるんです。そして何かに打たれればもっと強くなろうとする
人なんです。他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べ
ちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待する
んですか?﹂
﹁でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ﹂とハツ
ミさんはテ︱ブルに頬杖をついて言った。
﹁そんなに永沢さんのこと好きなんですか?﹂
﹁好きよ﹂と彼女は即座に答えた。
﹁やれやれ﹂と僕は言ってため息をつき、ビ︱ルの残りを飲み
干した。﹁それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと
素晴らしいことなんでしょうね﹂
﹁私はただ馬鹿で古風なのよ﹂とハツミさんは言った。﹁ビ︱
ルもっと飲む?﹂
﹁いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビ︱ルをど
うもありがとう﹂
僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴り
はじめた。ハツミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見
た。﹁おやすみなさい﹂と言って僕はドアを開けて外に出た。ドア
をそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとっている姿がちらり
と見えた。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。
寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの
部屋に行ってドアをノックした。そして十回くらいノックしてから
今日は土曜日の夜だったことを思いだした。土曜日の夜は永沢さん
は親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許可をとっているのだ。
僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガ︱に
かけてパジャマに着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた
日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペ︱スで日曜日がや
ってきているような気がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は
二十歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったカレンダ︱を眺
め、暗い気持になった。

日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書
いた。大きなカップでコ︱ヒ︱を飲み、マイルス?ディヴィスの古
いレコ︱ドを聴きながら、長い手紙を書いた。窓の外には細い雨が
降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱
から出してきたばかりの厚手のセ︱タ︱には防虫剤の匂いが残って
いた。窓ガラスの上の方にはむくむくと太った蠅が一匹とまったま
ま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風がないせいで元老院議
員のト︱ガの裾みたいにくしゃっとボ︱ルに絡みついたままびくり
とも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そうな顔
つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわ
っていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の匂いを嗅いでまわ
らねばならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。
僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでく
るとそんな雨の中庭の風景をぼんやりと眺めた。
僕はまずレコ︱ド店で働いているときに手のひらを深く切って
しまったことを書き、土曜日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の
三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書
いた。そして僕はそこがどんな店で、どんな料理が出たかというの
を説明した。料理はなかなかのものだったが、途中で雰囲気がいさ
さかややこしいものになって云々と僕は書いた。
僕はハツミさんとビリヤ︱ド場に行ったことに関連してキズキ
のことを書こうかどうか少し迷ったが、結局書くことにした。書く
べきだという気がしたからだ。
﹁僕はあの日︱︱キズキが死んだ日︱︱彼が最後に撞いたボ︱
ルのことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいク
ッションを必要とするボ︱ルで、僕はまさかそんなものがうまく行
くと思わなかった。でも、たぶん何かの偶然によるものだとは思う
のだけれど、そのショットは百パ︱セントぴったりと決まって、緑
のフェルトの上で白いボ︱ルと赤いボ︱ルが音もたてないくらいそ
っとぶつかりあって、それが結局最終得点になったわけです。今で
もありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットでした。そ
してそれ以来二年近く僕はビリヤ︱ドというものをやりませんでし
た。
でもハツミさんとビリヤ︱ドをやったその夜、僕は最初の一ゲ
︱ムが終るまでキズキのことを思い出しもしなかったし、そのこと
は僕としては少なからざるショックでした。というのはキズキが死
んだあとずっと、これからはビリヤ︱ドをやるたびに彼を思い出す
ことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲ
︱ム終えて店内の自動販売機でペプシコ︱ラを買って飲むまで、キ
ズキのことを思い出しもしませんでした。どうしてそこでキズキの
ことを思い出したかというと、僕と彼がよく通ったビリヤ︱ド屋に
もやはりペプシの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゲ
︱ムをしたからです。
キズキのことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなん
だか悪いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分
が彼のことを見捨ててしまったように感じられたのです。でもその
夜部屋に戻って、こんな風に考えました。あれからもう二年半だっ
たんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは
僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありま
せん。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っている
し、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているく
らいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十
歳だし、僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は
既に消滅しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻
っては来ないのだ、ということです。僕はそれ以上うまく説明でき
ないけれど、君なら僕の感じたこと、言わんとすることをうまく理
解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解
してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。
僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が
降っています。雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗
濯できないし、したがってアイロンがけもできないからです。散歩
もできなし、屋上に寝転んでいることもできません。机の前に座っ
て﹃カインド?オブ?ブル︱﹄をオ︱トリピ︱トで何度も聴きなが
ら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがな
いのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじを巻かないので
す。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめま
す。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら﹂

翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしち
ゃったんだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経
っていた。家に電話をかけてみようかとも思ったが、自分の方から
連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。
その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は
食事をのせた盆を持って僕のとなりに座り、このあいだいろいろ済
まなかったなと謝まった。
﹁いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし﹂と僕は
言った。﹁まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど﹂
﹁まったくな﹂と彼は言った。
そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。
﹁ハツミとは仲なおりしたよ﹂と彼は言った。
﹁まあそうでしょうね﹂と僕は言った。
﹁お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけ
ど﹂
﹁どうしたんですか、反省するなんて?体の具合がわるいんじ
ゃないですか?﹂
﹁そうかもしれないな﹂と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。
﹁ところでお前、ハツミに俺と別れろって忠告したんだって?﹂
﹁あたり前でしょう﹂
﹁そうだな、まあ﹂
﹁あの人良い人ですよ﹂と僕は味噌汁を飲みながら言った。
﹁知ってるよ﹂と永沢さんはため息をついて言った。﹁俺には
いささか良すぎる﹂

電話かかかっていることを知らせるブザ︱が鳴ったとき、僕は
死んだようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢
に達していたのだ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱり
わからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳
がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だ
ったが、それが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのか
も思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボ︱ルには旗は上って
いなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五分なのだろうと僕
は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。
﹁ねえワタナベ君、今は暇?﹂と緑が訊いた。
﹁今日は何曜日だったかな?﹂
﹁金曜日﹂
﹁今は夕方だっけ?﹂
﹁あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん︱と、六時十八
分﹂
やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転
んで本を読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜
日︱︱と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。
﹁暇だよ。今どこにいるの?﹂
﹁上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない?﹂
我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。
DUGに着いたとき、緑は既にカウンタ︱のいちばん端に座って
酒を飲んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステン?カラ
︱?コ︱トの下に黄色い薄いセ︱タ︱を着て、ブル︱ジ︱ンズをは
いていた。そして手首にはブレスレットを二本つけていた。
﹁何飲んでるの?﹂と僕は訊いた。
﹁トム?コリンズ﹂と緑は言った。
僕はウィスキ︱?ソ︱ダを注文してから、足もとに大きな革鞄
が置いてあることに気づいた。
﹁旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ﹂と彼女
は言った。
﹁どこに行ったの?﹂
﹁奈良と青森﹂
﹁一度に?﹂と僕はびっくりして訊いた。
﹁まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度に
いったりはしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈
良には彼と行って、青森は一人でぶらっと行ってきたの﹂
僕はウィスキ︱?ソ︱ダをひとくち飲み、緑のくわえたマルボ
ロにマッチで火をつけてやった。﹁いろいろと大変だった?お葬式
とか、そういうの﹂
﹁お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て
神妙な顔して座ってれば、まわりの人がみんなで適当に事を進めて
くれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買って
きたり、おすし取ったり、慰めてくれたり、泣いたり、騒いだり、
好きに形見わけしたり、気楽なものよ。あんなのピクニックと同じ
よ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたら、ピクニッ
クよ、もう。ぐったり疲れて涙も出やしないもの、お姉さんも私
も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本当に。でもそうするとね、
まわりの人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せないってかげ
ぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思
えばできるんだけど、絶対にやんないもの。しゃくだから。みんな
が私たちの泣くことを期待してるから、余計に泣いてなんかやらな
いの。私とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はず
いぶん違うけれど﹂
緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイタ︱を呼
び、トム?コリンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。
﹁お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け
方まで日本酒を飲んだの、一升五合くらい。そしてまわりの連中の
悪口をかたっぱしから言ったの。あいつはアホだ、クソだ、疥癬病
みの犬だ、豚だ、偽善者だ、盗っ人だって、そういうのずうっと言
ってたのよ。すうっとしたわね﹂
﹁だろうね﹂
﹁そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく
寝たわねえ。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃって
ね、ぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめて、二人でおすしとって食
べて、それで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好き
なことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたん
だもの、それくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人
でのんびりするし、私も彼と二泊旅行くらいしてやりまくろうと思
ったの﹂緑はそう言ってから少し口をつぐんで、耳のあたりをぼり
ぼりと掻いた。﹁ごめんなさい。言葉わるくて﹂
﹁いいよ。それで奈良に行ったんだ﹂
﹁そう。奈良って昔から好きなの﹂
﹁それでやりまくったの?﹂
﹁一度もやらなかった﹂と彼女は言ってため息をついた。﹁ホ
テルに着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃ
ったの、どっと﹂
僕は思わず笑ってしまった。
﹁笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。
泣けちゃうわよ、まったく。たぶんいろいろと緊張したんで、それ
で狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っ
ちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方ないじゃない、私だってなりたく
てなったわけじゃないし。それにね、私けっこう重い方なのよ、あ
れ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそ
ういうとき私と会わないで﹂
﹁そうしたいけれど、どうすればわかるかな?﹂と僕は訊い
た。
﹁じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。
それでかわるんじゃない?﹂と緑は笑って言った。﹁私が赤い帽子
をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいい
のよ﹂
﹁いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに﹂
と僕は言った。﹁それで奈良で何してたの?﹂
﹁仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきた
わ。散々よ、もう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあ
それで東京に戻ってきてニ、三日ぶらぶらして、それから今度は一
人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがい
て、そこでニ日ほど泊めてもらって、そのあと下北とか竜飛とかま
わったの。いいところよ、すごく。私あのへんの地図の解説書書い
たことあるのよ、一度。あなた行ったことある?﹂
ない、と僕は言った。
﹁それでね﹂と言ってから緑はトム?コリンズをすすり、ピス
タチオの殻をむいた。﹁一人で旅行しているときずっとワタナベ君
のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといい
なあって思ってたの﹂
﹁どうして?﹂
﹁どうして?﹂と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を
見た。﹁どうしてって、どういうことよ、それ?﹂
﹁つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ﹂
﹁あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にど
んな理由があるっていうのよ?いったいどこの誰が好きでもない相
手と一緒いたいと思うのよ?﹂
﹁だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてない
じゃないか?﹂と僕はウィスキ︱?ソ︱ダをゆっくり飲みながら言
った。
﹁恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ?﹂
﹁いや、べつにそういう意味じゃなくて︱︱﹂
﹁あのね、ワタナベ君﹂と緑は言って人さし指を僕の方に向け
た。﹁警告しておくけど、今私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何
やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だから
それ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣き
だしちゃうし、一度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいい
の?私はね、あたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ﹂
僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。ウィスキ︱?ソ︱ダ
の二杯目を注文し、ピスタチオを食べた。シェ︱カが振られたり、
グラスが触れ合ったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がし
たりするうしろでサラ?ヴォ︱ンが古いラブ?ソングを唄ってい
た。
﹁だいたいタンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だっ
たの﹂と緑は言った。
﹁タンポン事件?﹂
﹁うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの五、六人くら
いでお酒飲んでてね、私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたと
たんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでし ょ
う?﹂
﹁おかしい﹂と僕は笑って同意した。
﹁みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。
そんな下品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの﹂と緑は言っ
た。﹁たとえば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと
思わない、そういうの?﹂
﹁う︱ん、でもそういうのは好みの問題だから﹂と僕は言っ
た。僕としてはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだ
ったが、それは口に出さないことにした。
﹁あなたの方は何してたの?﹂
﹁何もないよ。ずっと同じだよ﹂それから僕は約束どおり緑の
ことを考えてマスタ︱ペ︱ションしてみたことを思いだした。僕は
まわりに聞こえないように小声で緑にそのことを話した。
緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。﹁どうだった?上手
く行った?﹂
﹁途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ﹂
﹁立たなくなっちゃったの?﹂
﹁まあね﹂
﹁駄目ねえ﹂と緑は横目で僕を見ながら言った。﹁恥ずかしが
ったりしちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ね、
私がいいって言うからいいんじゃない。そうだ、今度電話で言って
あげるわよ。ああ……そこいい……すごく感じる……駄目、私、い
っちゃう……ああ、そんなことしちゃいやっ……とかそういうの。
それを聞きながらあなたがやるの﹂
﹁寮の電話は玄関わきのロビ︱にあってね、みんなそこの前を
通って出入りするだよ﹂と僕は説明した。﹁そんなところでマスタ
︱ペ︱ションしてたら寮長に叩き殺されるね、まず間違いなく﹂
﹁そうか、それは弱ったわね﹂
﹁弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみる
から﹂
﹁頑張ってね﹂
﹁うん﹂
﹁私ってあまりセクシ︱じゃないのかな、存在そのものが?﹂
﹁いや、そういう問題じゃないんだ﹂と僕は言った。﹁なんて
いうかな、立場の問題なんだよね﹂
﹁私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると﹂
﹁気をつけるよ﹂
﹁ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいや
らしいSM﹂と緑は言った。
僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうら
さびれた映画館に入って、成人映画三本立てを見た。新聞を買って
調べるとそこでしかSMものをやっていなかったからだ。わけのわか
らない臭いのする映画館だった。うまい具合に我々が映画館に入っ
たときにそのSMものが始まった。OLのお姉さんと高校生の妹が何
人かの男たちにつかまってどこかに監禁され、サディスティックに
いたぶられる話だった。男たちは妹をレイプするぞと脅してお姉さ
んに散々ひどいことをさせるのだが、そうこうするうちにお姉さん
は完全なマゾになり、妹の方はそういうのを目の前で逐一見せられ
ているうちに頭がおかしくなってしまうという筋だった。雰囲気が
やたら屈折して暗い上に同じようなことばかりやっているので、僕
は途中でいささか退屈してしまった。
﹁私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっ
とじっと見てる﹂と緑は僕に言った。
﹁だろうね﹂と僕は言った。
﹁でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃオッパイが黒
ずんでると思わない?﹂
﹁たしかに﹂
彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。こ
れくらい一所懸命見るなら入場料のぶんくらいは十分もとがとれる
なあと僕は感心した。そして緑は何か思いつくたびに僕にそれを報
告した。
﹁ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ﹂とか、﹁ひど
いわ。三人も一度にやられたりしたら壊れちゃうわよ﹂とか、﹁ね
えワタナベ君。私、ああいうの誰かにちょっとやってみたい﹂と
か、そんなことだ。僕は映画を見ているより、彼女を見ている方が
ずっと面白かった。
休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、緑の他には
女の客はいないようだった。近くに座っていた学生風の若い男は緑
の顔を見て、ずっと遠くの席に移ってしまった。
﹁ねえワタナベ君?﹂と緑が訊ねた。﹁こういうの見てると立
っちゃう?﹂
﹁まあ、そりゃときどきね﹂と僕は言った。﹁この映画って、
そういう目的のために作られているわけだから﹂
﹁それでそういうシ︱ンが来ると、ここにいる人たちのあれが
みんなピンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピン
と?そういうのって考えるとちょっと不思議な気しない?﹂
そう言われればそうだな、と僕は言った。
二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目
よりもっと退屈だった。やたら口唇性愛の多い映画で、フェラチオ
やクンニリングスやシックスティ︱?ナインをやるたびにぺちゃぺ
ちゃとかくちゃくちゃとかいう擬音が大きな音で館内に響きわたっ
た。そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で
生を送っていることに対して何かしら不思議な感動を覚えた。
﹁誰がああいう音を思いつくんだろうね﹂と僕は緑に言った。
﹁あの音大好きよ、私﹂
ペニスがヴァギナに入って往復する音というのもあった。そん
な音があるなんて僕はそれまで気づきもしなかった。男がはあはあ
と息をし、女があえぎ、﹁いいわ﹂とか﹁もっと﹂とか、そういう
わりにありふれた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こえた。
そういうシ︱ンがけっこう延々とつづいた。緑は最初のうち面白が
って見ていたが、そのうちにさすがに飽きたらしく、もう出ようと
言った。僕らは立ち上がって外に出て深呼吸した。新宿の町の空気
がすがすがしく感じられたのはそれが初めてだった。
﹁楽しかった﹂と緑は言った。﹁また今度行きましょうね﹂
﹁何度見たって同じようなことしかやらないよ﹂と僕は言っ
た。
﹁仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやって
るんだもの﹂
そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。
それから僕らはまたどこかのバ︱に入ってお酒を飲んだ。僕は
ウィスキ︱を飲み、緑はわけのわからないカクテルを三、四杯飲ん
だ。店を出ると木のぼりしたいと緑が言いだした。
﹁このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ
木になんてのぼれないよ﹂と僕は言った。
﹁あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるの
ね。酔払いたいから酔払ってるのよ。それでいいんじゃない。酔払
ったって木のぼりくらいできるわよ。ふん。高い高い木の上にのぼ
っててっぺんから蝉みたいにおしっこしてみんなにひっかけてやる
の﹂
﹁ひょっとして君、トイレに行きたいの?﹂
﹁そう﹂
僕は新宿駅の有料トイレまで緑をつれていって小銭を払って中
に入れ、売店で夕刊を買ってそれを読みながら彼女が出てくるのを
待った。でも緑はなかなか出てこなかった。十五分たって、僕が心
配になってちょっと様子を見に行ってみようかと思う頃にやっと彼
女が外に出てきた。顔色はいくぶん白っぽくなっていた。
﹁ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの﹂と緑は言っ
た。
﹁気分はどう?﹂と僕はコ︱トを着せてやりながら訊ねた。
﹁あまり良くない﹂
﹁家まで送るよ﹂と僕は言った。﹁家に帰ってゆっくり風呂に
でも入って寝ちゃうといいよ。疲れてるんだ﹂
﹁家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あ
んなところで一人で寝たくなんかないもの﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。﹁じゃあどうするんだよ?﹂
﹁このへんのラブ?ホテルに入って、あなたと二人で抱きあっ
て眠るの。朝までぐっすりと。そして朝になったらどこかそのへん
でごはん食べて、二人で一緒に学校に行くの﹂
﹁はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの?﹂
﹁もちろんよ﹂
﹁そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考え
たってそれがまともじゃないか。恋人なんてそのためにいるんだ﹂
﹁でも私、あなたと一緒いたいのよ﹂
﹁そんなことはできない﹂と僕はきっぱりと言った。﹁まず第
一に僕は十二時までに寮に戻らないといけないんだ。そうしないと
無断外泊になる。前に一回やってすごく面倒なことになったんだ。
第二に僕だって女の子と寝れば当然やりたくなるし、そういうの我
慢して悶々とするのは嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれない
よ。﹂
﹁私のことぶって縛ってうしろから犯すの?﹂
﹁あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの﹂
﹁でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなた
には悪いと思うわよ。何も与えないでいろんなこと要求ばかりし
て。好き放題言ったり、呼びだしたり、ひっぱりまわしたり、でも
ね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかしないのよ。こ
れまでの二十年間の人生で、私ただの一度もわかままきいてもらっ
たことないのよ。お父さんもお母さんも全然とりあってくれなかっ
たし、彼だってそういうタイプじゃないのよ。私がわがまま言うと
怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのってあなたにしか
言えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛い
とかきれいだとか言われながら眠りたいの。ただそれだけなの。目
がさめたらすっかり元気になって、二度とこんな身勝手なことあな
たに要求しないから。絶対。すごく良い子にしてるから﹂
﹁そう言われても困るんだよ﹂と僕は言った。
﹁お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわ
よ。そして最初に声かけてきた人と寝ちゃうわよ﹂
僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼ん
でもらった。そして僕が帰寮しているように操作してもらえないだ
ろうかと頼んでみた。ちょっと女の子と一緒なんですよ、と僕は言
った。いいよ、そういうことなら喜んで力になろうと彼は言った。
﹁名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆ
っくりやってこいよ。明日の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃい
い﹂と彼は言った。
﹁どうもすみません。恩に着ます﹂と僕は言って電話を切っ
た。
﹁うまく行った?﹂と緑は訊いた。
﹁まあ、なんとか﹂と僕は深いため息をついた。
﹁じゃあまだ時間も早いことだし、ディスコでも行こう﹂
﹁君疲れてるんじゃなかったの?﹂
﹁こういうのなら全然大丈夫なの﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。
たしかにディスコに入って踊っているうちに緑は少しずつ元気
を回復してきたようだった。そしてウィスキ︱?コ︱クを二杯飲ん
で、額に汗をかくまでフロアで踊った。
﹁すごく楽しい﹂と緑はテ︱ブル席でひと息ついて言った。
﹁こんなに踊ったの久しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が
解放されるみたい﹂
﹁君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね﹂
﹁あら、そんなことないのよ﹂と彼女はにっこりと首をかしげ
て言った。﹁それはそうと元気になったらおなかが減っちゃった
わ。ピツァでも食べに行かない?﹂
僕がよく行くピツァ?ハウスに彼女をつれていって生ビ︱ルと
アンチョビのピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかっ
たので十二ピ︱スのうち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。
﹁ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらして
たのに﹂と僕はあきれて言った。
﹁わがままが聞き届けられたからよ﹂と緑は言った。﹁それで
つっかえがとれちゃったの。でもこのピツァおいしいわね﹂
﹁ねえ、本当に君の家、今誰もいないの?﹂
﹁うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってて
いないわよ。彼女ものすごい怖がりだから、私がいないとき独りで
家で寝たりできないの﹂
﹁ラブ?ホテルなんて行くのはやめよう﹂と僕は言った。﹁あ
んなところ行ったって空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家
に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだろう?﹂
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。﹁いいわよ。家に泊ろ
う﹂と彼女は言った。
僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のシャッタ︱
を上げた。シャッタ︱には﹁休業中﹂の紙が貼ってあった。シャッ
タ︱は長いあいだ開けられたことがなかったらしく、暗い店内には
古びた紙の匂いが漂っていた。棚の半分は空っぽで、雑誌は殆んど
全部返品用に紐でくくられていた。最初に見たときより店内はもっ
とがらんとして寒々しかった。まるで海岸打ち捨てられた廃船のよ
うに見えた。
﹁もう店をやるつもりはないの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁売ることにしたのよ﹂と緑はぽつんと言った。﹁お店売っ
て、私とお姉さんとでそのお金をわけるの。そしてこれからは誰に
保護されることもなく身ひとつで生きていくの。お姉さんは来年結
婚して、私はあと三年ちょっと大学に通うの。まあそれくらいのお
金にはなるでしょう。アルバイトもするし。店が売れたらどこかに
アパ︱トを借りてお姉さんと二人でしばらく暮すわ﹂
﹁店は売れそうなの?﹂
﹁たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がい
て、少し前からここを売らないかって話があったの﹂と緑は言っ
た。﹁でも可哀そうなお父さん。あんなに一所懸命働いて、店を手
に入れて、借金を少しずつ返して、そのあげく結局は殆んど何も残
らなかったのね。まるであぶくみたいい消えちゃったのね﹂
﹁君が残ってる﹂と僕は言った。
﹁私?﹂と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸
って吐きだした。﹁もう上に行きましょう。ここ寒いわ﹂
二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。その
あいだ僕はやかんにお湯をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわ
くまで、僕と緑は食卓で向いあってお茶を飲んだ。彼女は頬杖をつ
いてしばらくじっと僕の顔を見ていた。時計のコツコツという音と
冷蔵庫のサ︱モスタットが入ったり切れたりする音の他には何も聞
こえなかった。時計はもう十二時近くを指していた。
﹁ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね﹂と
緑は言った。
﹁そうかな﹂と僕は少し傷ついて言った。
﹁私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく
見ているとだんだんまあこの人でもいいやって気がしてくるのね﹂
﹁僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやっ
て﹂
﹁ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情
を言葉で表わすことができないのよ。だからしょっちょう誤解され
るの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。これさ
っき言ったかしら?﹂
﹁言った﹂と僕は言った。
﹁つまり私も少しずつ男の人のことを学んでいるの﹂
緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。﹁最初がゼロだと
いろいろ学ぶこと多いわね﹂
﹁だろうね﹂と僕は言った。
﹁あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる?﹂と緑が言っ
た。僕は彼女のあとをついて仏壇のある部屋に行って、お線香をあ
げて手をあわせた。
﹁私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃった
の。全部脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。は
い、お父さん、これオッパイよ、これオマンコよって﹂と緑は言っ
た。
﹁なんでまた?﹂といささか唖然として質問した。
﹁なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の
半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。こ
れがあなたの娘ですよって。まあいささか酔払っていたせいはある
けれど﹂
﹁ふむ﹂
﹁お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの
遺影の前で裸になって股広げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよ
ね﹂
﹁まあ、そうだろうね﹂
﹁それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなの
よ、だからモモちゃんも私の隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見
せてあげようって。でも彼女やんなかったわ。あきれて向うに行っ
ちゃったの。そういうところすごく保守的なの﹂
﹁比較的まともなんだよ﹂と僕は言った。
﹁ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った?﹂
﹁僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人に
なっても苦痛は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろ
んな話したし﹂
﹁どんな話したの?﹂
﹁エウリビデス﹂
緑はすごく楽しそうに笑った。﹁あなたって変ってるわねえ。
死にかけて苦しんでいる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話
する人ちょっといないわよ﹂
﹁お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない﹂
と僕は言った。
緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をち︱んと鳴らした。﹁お父
さん、おやすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさ
い。もう苦しくないでしょ?もう死んじゃったんだもん、苦しくな
いわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじ
ゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってし
っぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけ
ど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ﹂
我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親
が少しだけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくは
あったけれど、何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に
客用の布団を敷いてくれた。
﹁仏壇の前だけど怖くない?﹂と緑は訊いた。
﹁怖かないよ。何も悪いことしてないもの﹂僕は笑って言っ
た。
﹁でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?﹂
﹁いいよ﹂
僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうにな
りながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつ
け、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左
手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性
的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があっ
て、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。
﹁ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ﹂と緑が僕の胸に顔を埋め
たまま言った。
﹁どんなこと?﹂
﹁なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと﹂
﹁すごく可愛いよ﹂
﹁ミドリ﹂と彼女は言った。﹁名前をつけて言って﹂
﹁すごく可愛いよ、ミドリ﹂と僕は言いなおした。
﹁すごくってどれくらい?﹂
﹁山が崩れて海が干上がるくらい可愛い﹂
緑は顔を上げて僕を見た。﹁あなたって表現がユニ︱クねえ﹂
﹁君にそう言われると心が和むね﹂と僕は笑って言った。
﹁もっと素敵なこと言って﹂
﹁君が大好きよ、ミドリ﹂
﹁どれくらい好き?﹂
﹁春の熊くらい好きだよ﹂
﹁春の熊?﹂と緑はまた頭を上げた。﹁それ何よ、春の熊っ
て?﹂
﹁春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロ︱ドみ
ないな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そ
して君にこう言うんだよ。﹃今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がり
っこしませんか﹄って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクロ
︱バ︱の茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そ
ういうのって素敵だろ?﹂
﹁すごく素敵﹂
﹁それくらい君のことが好きだ﹂
緑は僕の胸にしっかり抱きついた。﹁最高﹂と彼女は言った。
﹁そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒
らないわよね?﹂
﹁もちろん﹂
﹁それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね﹂
﹁もちろん﹂と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小
さな男の子のような髪を撫でた。﹁大丈夫、心配ないよ。何もかも
うまくいくさ﹂
﹁でも怖いのよ、私﹂と緑は言った。
僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に
上下しはじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け
出し、台所に行ってビ︱ルを一本飲んだ。まったく眠くはなかった
ので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきもの
は一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か
借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかった
のでやめた。
しばらくぼんやりとビ︱ルを飲んでいるうちに、そうだ、ここ
は書店なのだ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文
庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなものは少なく、その
大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読む
ものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の
変色したヘルマン?ヘッセの﹃車輪の下﹄を選び、その分の金をレ
ジスタ︱のわきに置いた。少くともこれで小林書店の在庫は少し減
ったことになる。
僕はビ︱ルを飲みながら、台所のテ︱ブルに向って﹃車輪の
下﹄を読みつづけた。最初に﹃車輪の下﹄を読んだのは中学校に入
った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で
真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ
本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。
もしこういう状況に置かれなかったら、僕は﹃車輪の下﹄なんてま
ず読みかえさなかっただろう。
でも﹃車輪の下﹄はいささか古臭いところはあるにせよ、悪く
ない小説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっ
こう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほ
こりをかぶったブラディ︱が一本あったので、それを少しコ︱ヒ
︱?カップに注いで飲んだ。ブラディ︱は体を温めてくれたが、眠
気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。
三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん
疲れていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店
街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしてい
て、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体は
まるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけ
ると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は
思った。
ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコ︱トが椅子
の背にかけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁には
スヌ︱ピ︱のカレンダ︱がかかっていた。僕は窓のカ︱テンを少し
開けて、人気のない商店街を見下ろした。どの店もシャッタ︱を閉
ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにして
じっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがと
きおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブ
ラディ︱をもう一杯飲み、そして﹃車輪の下﹄を読みつづけた。
その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。
僕はお湯をわかしてインスタント?コ︱ヒ︱を飲み、テ︱ブルの上
にあったメモ用紙にボ︱ルペンで手紙を書いた。ブラディ︱をいく
らかもらった、﹃車輪の下﹄を買った、夜が明けたので帰る、さよ
なら、と僕は書いた。そして少し迷ってから、﹁眠っているときの
君はとても可愛い﹂と書いた。それから僕はコ︱ヒ︱?カップを洗
い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシャッタ︱を上
げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと
心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。
例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだっ
た。僕は緑の部屋の淡いピンクのカ︱テンのかかった窓を少し見上
げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩い
た。朝食を食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかい
ごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして寮の裏
手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢
さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。
﹁コ︱ヒ︱でも飲むか?﹂と彼は言ったが、いらないと僕は断
った。そして礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボン
を脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やが
て夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。

僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。そ
れほど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒く
なってきたと手紙にはあった。
﹁あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まっ
たのが同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったよう
な気分になったのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもた
らすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさんとよく
あなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくとい
うことです。レイコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれま
す。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられな
かったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いこ
とだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いも
のです。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話し
かけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人
が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そん
な風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話
し相手を求めているのです。
ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえしま
す。外から入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタ
ナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をと
てもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だ
から私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みま
す。そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさ
んという人のお父さんのことを書いた部分なんて私とても好きで
す。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽のひ
とつとして︱︱手紙は娯楽なのです、ここでは︱︱楽しみにしてい
ます。
私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるの
ですが、便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしま
います。この手紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かな
くちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。でも誤解しない
で下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことが
いっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができない
のです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。
ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を
読んで彼女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレ
イコさんにそう言ったら、﹃あたり前じゃない、私だってワタナベ
君のこと好きよ﹄ということでした。私たちは毎日キノコをとった
り栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというの
がずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレ
イコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけています。鳥も
ウサギも元気です。さよなら﹂

僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが
送られてきた。中には葡萄色の丸首のセ︱タ︱と手紙が入ってい
た。
﹁お誕生日おめでとう﹂と直子は書いていた。﹁あなたの二十
歳が幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだか
ひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんも
あわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。こ
のセ︱タ︱は私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人で
やっていたら、来年のバレンタイン?デ︱までかかったでしょう。
上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。レイコさんとい
う人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつく
づく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できるこ
となんて何もないだもの。さようなら。お元気で﹂
レイコさんからの短いメッセ︱ジも入っていた。
﹁元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれません
が、私にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でも
まあなんとか間にあうようにセ︱タ︱は仕上げました。どう、素敵
でしょう?色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう﹂

一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い
起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそう
な深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひ
どい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかっ
た。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだ
った。
時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。ま
わりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけが
ぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は
大きく変ろうとしていた。ジョン?コルトレ︱ンやら誰やら彼や
ら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角
までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もか
も実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げ
ずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは
無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上
げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかっ
た。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに
行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだ
けだった。
僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活に
は変化らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週
に三日アルバイトをし、時折﹃グレ︱ト?ギャツピイ﹄を読みかえ
し、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときど
き緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりし
た。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄
の茗荷谷のあたりに2DKのアパ︱トを借りて二人で住むことになっ
た。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパ︱トを借りるの
だ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせて
もらったが、陽あたりの良い綺麗なアパ︱トで、緑も小林書店にい
るときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。
永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたび
に用事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。も
ちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲ん
で、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程
を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつ
づけていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男
にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言われたせいもある
かもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るより
は直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原
のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何
よりも鮮明に残っていた。
僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会
いに行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書い
てきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙
にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわり
に書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもない
からあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。
大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて
京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の
風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレ
イコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごし
た。日が暮れるとレイコさんがギタ︱を弾き、我々は三人で話をし
た。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス?カントリ
︱?スキ︱をした。スキ︱をはいて一時間も山の中を歩いていると
息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするの
を手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食
のテ︱ブルにやってきて﹁どうして手の中指は人さし指より長く、
足の方は逆なのか﹂について教えてくれた。門番の大村さんはまた
東京の豚肉の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていた
レコ︱ドをとても喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてギ
タ︱で弾いた。
秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人で
いると彼女は殆んど口をきかないでソファ︱に座ってにこにこと微
笑んでいるだけだった。そのぶんレイコさんがしゃべった。﹁でも
気にしないで﹂と直子は言った。﹁今こういう時期なの。しゃべる
より、あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの﹂
レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子
はベッドで抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけ
し、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。射精しおわった
あとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触の
ことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスタ
︱ペ︱ションしてた、と。
﹁他の誰とも寝なかったの?﹂と直子が訪ねた。
﹁寝なかったよ﹂と僕は言った。
﹁じゃあ、これも覚えていてね﹂と彼女は言って体を下にずら
し、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、
舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女
の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精
をした。
﹁覚えていられる?﹂とそのあとで直子が僕に訊ねた。
﹁もちろん、ずっと覚えているよ﹂と僕は言った。僕は直子を
抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは
乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばら
く何も言わずに抱きあっていた。
﹁この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思う
んだ﹂と僕は言った。﹁寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、
まあアルバイトすれば生活費の方はなんとかなると思うし。それ
で、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように﹂
﹁ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ﹂と直
子は言った。
﹁ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も
申しぶんないし、レイコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じ
ゃない。長くいるにはこの場所はちょっと特殊すぎる。長くいれば
いるほどここから出にくくなってくると思うんだ﹂
直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪し
か見えなかった。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた
大地と空のあいだにはほんの少しの空間しかあいていなかった。
﹁ゆっくり考えればいいよ﹂と僕は言った。﹁いずれにせよ僕
は三月までには引越すから、君はもし僕のところに来たいと思えば
いつでもいいから来ればいいよ﹂
直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときの
ように両腕で直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわし
た。僕は裸で、彼女は小さな白い下着だけを身に着けていた。彼女
の体は美しく、どれだけ見ていても見飽きなかった。
﹁どうして私濡れないのかしら?﹂と直子は小さな声で言っ
た。﹁私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの
二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄
目なのかしら?﹂
﹁それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あ
せることないさ﹂
﹁私の問題は全部精神的なものよ﹂と直子は言った。﹁もし私
が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それで
もあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけ
で我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決す
るの?﹂
﹁僕は本質的に楽天的な人間なんだよ﹂と僕は言った。
直子はベッドの上で身を起こして、Tシャツを頭からかぶり、
フランネルのシャツを着て、ブル︱ジ︱ンズをはいた。僕も服を着
た。
﹁ゆっくり考えさせてね﹂と直子は言った。﹁それからあなた
もゆっくり考えてね﹂
﹁考えるよ﹂と僕は言った。﹁それから君のフェラチオすごか
ったよ﹂
直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。﹁キズキ君もそう
言ってたわ﹂
﹁僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ﹂と僕は言
って、そして笑った。
そして我々は台所でテ︱ブルをはさんで、コ︱ヒ︱を飲みなが
ら昔の話をした。彼女は少しずつキズキの話ができるようになって
いた。ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼女は話した。雪は降っ
たりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三
月に来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いコ︱ト
の上から彼女を抱いて、口づけした。さよなら、と直子が言った。

一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代
に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入
れた。学年末のテストがあって、僕は比較的楽にそれをパスした。
他にやることもなくて殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特
別な勉強をしなくても試験をパスするくらい簡単なことだった。
寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動して
いる連中が寮内にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで
寮長子飼いの体育会系の学生たちとこぜりあいがあり、二人が怪我
をして六人が寮を追い出された。その事件はかなりあとまで尾をひ
いて、毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっと
重苦しい空気が漂っていて、みんながピリピリとしていた。僕もそ
のとばっちりで体育会系の連中に殴られそうになったが、永沢さん
が間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせよ、この寮を
出る頃合だった。
試験が一段落すると僕は真剣にアパ︱トを探しはじめた。そし
て一週間かけてやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通
の便はいささか悪かったが、ありがたいことには一軒家だった。ま
あ掘りだしものと言ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか
庭番小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあいだには
かなり荒れた庭が広がっていた。家主は表口を使い、僕は裏口を使
うからプライヴァシ︱を守ることもできた。一部屋と小さなキッチ
ンと便所、それに常識ではちょっと考えられないくらい広い押入れ
がついていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかしたら孫が
東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくのは条件
で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の
好さそうな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおや
りなさいと言ってくれた。
引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラッ
クを借りてきて僕の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫とTVと大型の魔
法瓶をプレゼントしてくれた。僕にとってはありがたいプレゼント
だった。その二日後に彼も寮を出て三田のアパ︱トに引越すことに
なっていた。
﹁まあ当分会うこともないと思うけど元気でな﹂と別れ際に彼
は言った。﹁でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところ
でひょっとお前に会いそうな気がするんだ﹂
﹁楽しみにしてますよ﹂と僕は言った。
﹁ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃな
い子の方が良かった﹂
﹁同感ですね﹂と僕は笑って言った。﹁でも永沢さん、ハツミ
さんのこと大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかい
ないし、あの人見かけより傷つきやすいから﹂
﹁うん、それは知ってるよ﹂と彼は肯いた。﹁だから本当を言
えばだな、俺のあとをワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良
いんだよ。お前とハツミならうまくいくと思うし﹂
﹁冗談じゃないですよ﹂と僕は唖然として言った。
﹁冗談だよ﹂と永沢さんは言った。﹁ま、幸せになれよ。いろ
いろとありそうだけれど、お前も
相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告
していいかな、俺から﹂
﹁いいですよ﹂
﹁自分に同情するな﹂と彼は言った。﹁自分に同情するのは下
劣な人間のやることだ﹂
﹁覚えておきましょう﹂と僕は言った。そして我々は握手をし
て別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻ってい
た。

引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子
を書き、寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下ら
ない思惑にまきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくてホッ
とする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。
﹁窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所
として使われています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を
眺めています。いったい何匹いるのかわからないけれど、とにかく
沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをし
ています。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことは
あまり気に入らないようですが、古いチ︱ズをおいてやると何匹か
は近くに寄ってきておそるおそる食べました。そのうちに彼らとも
仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫
がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっくりするく
らいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかと
いう気がするくらいです。
大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば
朝の講義もずっと少なくなるし、たいした問題はないと思います。
電車の中でゆっくり本を読めるからかえって良いかもしれません。
あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほどきつくないアルバイト
の口を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻るこ
とができます。
僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節
は何かを新しく始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月か
ら一緒に住むことができるとしたら、それがいちばん良いじゃない
かなという気がします。うまくいけば君も大学に復学できるし。一
緒に住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにアパ︱トを
探すことも可能です。いちばん大事なことは我々がいつもすぐ近く
にいることができるということです。もちろんとくに春という季節
にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、夏で
オ︱ケ︱です。問題はありません。それについて君がどう思ってい
るか、返事をくれませんか?
僕はこれから少しまとめてアルバイトをしようかと思っていま
す。引越しの費用を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なん
のかのとお金がかかります。鍋やら食器やらも買い揃えなくちゃな
りませんしね。でも三月になれば暇になるし、是非君に会いに行き
たい。都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京都
に行こうと思います。君に会えることを楽しみにして返事を待って
います﹂
それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃
え、家で簡単な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って
切断してもらい、それで勉強机を作った。食事もとりあえずはそこ
で食べることにした。棚も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半
年くらいの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べるように
なった。僕はその猫に﹁かもめ﹂という名前をつけた。
一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイ
トを見つけ二週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料
は良かったが大変な労働だったし、シンナ︱で頭がくらくらした。
仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビ︱ルを飲み家に帰って猫と
遊び、あとは死んだように眠った。二週間経っても直子からの返事
は来なかった。
僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考
えてみれば僕はもう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越し
たことさえ知らせていなかったのだ。そろそろ引越ししようかと思
うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりなのだ。
僕は公衆電話に入って緑のアパ︱トの番号をまわした。お姉さ
んらしい人が出て僕が名前を告げると﹁ちょっと待ってね﹂と言っ
た。しかしいくら待っても緑は出てこなかった。
﹁あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくない
んだって﹂とお姉さんらしい人が言った。﹁引越すときあなたあの
子に何の連絡もしなかったでしょう?行き先も教えずにぷいといな
くなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってるの
よ。あの子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同
じだから﹂
﹁説明するから出してもらえませんか﹂
﹁説明なんか聞きたくないんだって﹂
﹁じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えて
もらえませんか、緑さんに﹂
﹁嫌よ、そんなの﹂とお姉さんらしい人は突き放すように言っ
た。﹁そういうことは自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ?自
分で責任持ってちゃんとやんなさい﹂
仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るの
も無理はないと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼
ぐために労働に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかった
のだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い出しもしなかった。
僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわり
のことが全く目に入らなくなってしまうのだ。
そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのま
ま三週間も連絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考
えてみた。たぶん僕は傷ついただろう。それもけっこう深く傷つい
ただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、ある部分では
それ以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思
うとひどく切ない気持になった。他人の心を、それも大事な相手の
心を無意味に傷つけるというのはとても嫌なものだった。
僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書い
た。僕は自分の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も
説明もやめて、自分が不注意で無神経であったことを詫びた。君に
とても会いたい。新しい家も見に来てほしい。返事を下さい、と書
いた。そして速達切手を貼ってポストに入れた。
しかしどれだけ待っても返事は来なかった。
奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返
事を待ちつづけていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイ
トもできなかった。何日頃に会いに来て欲しいという直子からの手
紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て
二本立ての映画をみたり、ジャズ喫茶で半日、本を読んでいた。誰
とも会わなかったし、殆んど誰とも口をきかなかった。そして週に
一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事のことには触れな
かった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペンキ屋の仕事の
ことを書き、﹁かもめ﹂のことを書き、庭に桃の花のことを書き、
親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおばさんのことを
書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それで
も返事はこなかった。
本を読んだり、レコ︱ドを聴いたりするのに飽きると、僕は少
しずつ庭の手入れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりと
りと植木ばさみを借り、雑草を抜き、ぼうぼうにのびた植込みを適
当に刈り揃えた。少し手を入れだだけで庭はけっこうきれいになっ
た。そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませ
んか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、
煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからしばらく保険会社の
役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮らして
いるのだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独
立してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだと言
った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
﹁よかないよ﹂と彼は言った。﹁旅行なんてちっとも面白くな
いね。仕事してる方がずっと良い﹂
庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋
にろくなのがいないからで、本当は自分が少しずつやればいいのだ
が最近鼻のアレルギ︱が強くなって草をいじることができないのだ
ということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると
彼は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この
中にあるのは全部不用品みたいなものだから使いたいものがあった
らなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の中には実にいろんな
ものがつまっていた。風呂桶から子供用プ︱ルから野球のバッドま
であった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子を二脚
と鏡とギタ︱をみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと
言った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。
僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空
気を入れ、ギヤを調整し、自転車屋でクラッチ?ワイヤを新しいも
のにとりかえてもらった。それで自転車は見ちがえるくらい綺麗に
なった。食卓はすっかりほこりを落としてからニスを塗りなおし
た。ギタ︱の弦も全部新しいものに替え、板のはがれそうになって
いたところは接着剤でとめた。錆もワイヤ?ブラシできれいに落と
し、ねじも調節した。たいしたギタ︱ではなかったけれど、一応正
確な音は出るようになった。考えて見ればギタ︱を手にしたのなん
て高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフタ︱ズの
﹃アップ?オン?ザ?ル︱フ﹄を思い出しながらゆっくりと弾いて
みた。不思議にまだちゃんと大体のコ︱ドを覚えていた。
それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り
名前を書いて戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入
っていた郵便物といえば転送されてきた高校のクラス会の通知だけ
だったし、僕はたとえ何があろうとそんなものにだけは出たくなか
った。何故ならそれは僕とキズキのいたクラスだったからだ。僕は
それをすぐに屑かごに放り込んだ。
四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それ
はレイコさんからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が
書いてあった。僕ははさみできれいに封を切り、縁側に座ってそれ
を読んだ。最初からあまり良い内容のものではないだろうという予
感はあったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。
はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っ
ていた。直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたの
だが、どうしても書きあげることができなかった。私は何度もかわ
りに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったの
だが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書く
のだと言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったの
だ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほしい、と彼女は
書いていた。
﹁あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったか
もしれませんが、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ
月だったのです。それはわかってあげて下さい。正直に言って今の
彼女の状況はあまり好ましいものではありません。彼女はなんとか
自分の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結果は
出ていません。
考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたこ
とでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それか
ら幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、い
ろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が
言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回目
の訪問までは、こういう症状も比較的軽度のものだったし、私も正
直言ってそれほど深刻には考えていませんでした。私たちにはある
程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。でもあなたが
帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいまし
た。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。
言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混
乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。
私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子
と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部
分を正確に探りあてようとしているわけです。私はできることなら
あなたを加えたセッションを行いたいと提案し、医者もそれには賛
成したのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝え
ると﹃会うときは綺麗な体で彼に会いたいから﹄というのがその理
由です。問題はそんなことではなく一刻も早く回復することなのだ
と私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変りませんでし
た。
前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院では
ありません。もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行い
ますが、集中的な治療をすることは困難です。ここの施設の目的は
患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学
的治療は正確にはそこには含まれていないのです。だからもし直子
の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に
移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いこと
ですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても
治療のための一時的な﹃出張﹄ということで、またここに戻ってく
ることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院と
いうことになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽
くしていますし、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回
復を祈っていて下さい。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって
下さい。
三月三十一日
石田玲子 ﹂
手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春
らしくなった庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆
んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼん
やりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると﹁かもめ﹂がど
こからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、
僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。
何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけば
いいのかわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかっ
た。そのうちに何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、
そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少なくとも今は何も考
えたくはない。
僕は縁側で﹁かもめ﹂を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺め
ていた。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が
深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が庭を包
んだ。﹁かもめ﹂はもうどこかに姿を消したしまっていたが、僕は
まだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂
いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多
くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思っ
た。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植
物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹いてくる風に
小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まなくて
はならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておい
てくれないのだ?
僕は部屋に入って窓のカ︱テンを閉めたが、部屋の中にもやは
りその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちてい
るのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕
はカ︱テンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕
にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼き
のようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何か
を憎んだのははじめてだった。
それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な
日々を送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかっ
たし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼はそれを聞きとれなかっ
た。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまった
ような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触するこ
とができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触
れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしてる
限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。
僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへん
にあるものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキ︱を飲んで
眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日
が過ぎた。
四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるか
ら、その日に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べな
いかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、こ
れでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないの
はやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙
を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解で
きなかった。この手紙は何を意味しているのだ、いったい?僕の頭
はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接
点をうまく見つけることができなかった。どうして﹁課目登録﹂の
日に彼女と会うことが﹁おあいこ﹂なのだ?何故彼女は僕と﹁お昼
ごはん﹂を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしく
なるつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、
暗黒植物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけない
な、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことして
ちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は﹁自分に同情する
な﹂という永沢さんの言葉を突然思いだした。﹁自分に同情するの
は下劣な人間のやることだ﹂
やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そし
てため息をついて立ち上がった。
僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃
除をし、買物をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた
﹁かもめ﹂に餌をやり、ビ︱ル以外の酒を飲まず、体操を三十分や
った。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそりとやせてしまった
ことがわかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他
人の顔みたいだった。
翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べ
てから、レイコさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこ
れから先どういう風にやっていけばいいのかを腰を据えて考えて見
た。レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の
理由は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観測が一瞬に
してひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病
いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何か起るかはわからな
いわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよ
くなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に
復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。
そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせて
きっとうまくやっていけるだろうと。
しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさん
の手紙によってあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあ
とには無感覚なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕は
なんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直子がもう一度回復
するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復
したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと
自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適応
させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全
てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、いず
れにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいし
かないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決め
たし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってき
っと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これとい
うのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼
女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女より
は俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そし
て成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。
俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思ってい
た。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだ
よ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前
と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだ
よ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃなら
ないんだよ。
﹁ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?﹂と緑は言った。﹁ずい
ぶんやせちゃったじゃない、あなた?﹂
﹁そうかな?﹂と僕は言った。
﹁やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?﹂
僕は笑って首を振った。﹁去年の十月の始めから女と寝たこと
なんて一度もないよ﹂
緑はかすれた口笛を吹いた。﹁もう半年もあれやってないの?
本当?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?﹂
﹁大人になったからだよ﹂と僕は言った。
緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そして
しばらく顔をしかめて、やがてにっこり笑った。﹁本当だ。たしか
に何か少し変ってるみたい、前に比べて﹂
﹁大人になったからだよ﹂
﹁あなたって最高ね。そういう考え方できるのって﹂と彼女は
感心したように言った。﹁ごはん食べに行こう。おなか減っちゃっ
たわ﹂
我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をす
ることにした。僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれで
いいと言った。
﹁ねえ、ワタナベ君、怒ってる?﹂と緑が訊いた。
﹁何に対して?﹂
﹁つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対し
て。そういうのっていけないことだと思う?あなたの方はきちんと
謝ってきたのに?﹂
﹁僕の方が悪かったんだから仕方ないさ﹂と僕は言った。
﹁お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも
非寛容で、あまりにも子供じみてるって﹂
﹁でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?﹂
﹁うん﹂
﹁じゃあそれでいいじゃないか﹂
﹁あなたって本当に寛容なのね﹂と緑は言った。﹁ねえ、ワタ
ナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?﹂
﹁してないよ﹂と僕は言った。
﹁じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすご
くやりたかったんじゃない?﹂
﹁まあ、そうだろうね﹂
﹁でもやらなかったのね?﹂
﹁君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくない
からね﹂と僕は言った。
﹁私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかった
わよ。あのときすごく参ってたから﹂
﹁でも僕のは固くて大きいよ﹂
彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。﹁私、
少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パ︱セント。だ
からあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あ
なたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってたでしょ
う?私﹂
﹁うん。たしかに﹂と僕は言った。
﹁そうしてね、もし逆にあなたが私に向って﹃おい緑、俺とや
ろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう﹄って
言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言った
からって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激し
てるとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じているこ
とをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけなのよ﹂
﹁わかってるよ﹂と僕は言った。
我々はランチを食べながら課目登録のカ︱ドを見せあって、二
つの講義を共通して登録していることを発見した。週に二回彼女に
顔を合わせることになる。それから彼女は自分の生活のことを話し
た。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあいだアパ︱ト暮しになじ
めなかった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比べてあ
まりにも楽だったからだ。自分たちは誰かの看病をしたり、店を手
伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れてしまっていたの
だ、と緑は言った。
﹁でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきた
のよ﹂と緑は言った。﹁これが私たち自身のための本来の生活なん
だって。だから誰かに遠慮することもなく思う存分手足をのばせば
いいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、
三センチ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実
の人生として存在するわけないといった気がしていたの。今にどん
でん返しがあるに違いないって二人で緊張してたの﹂
﹁苦労性の姉妹なんだね﹂と僕笑って言った。
﹁これまでが過酷すぎたのよ﹂と緑は言った。﹁でもいいの。
私たち、そのぶんをこれから先でしっかりとり戻してやるの﹂
﹁まあ君たちならやれそうな気がするな﹂と僕は言った。﹁お
姉さんは毎日何をしてるの?﹂
﹁彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリ︱のお店始
めたんで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を
習ったり、婚約者とデ︱トしたり、映画を見に行ったり、ぼおっと
したり、とにかく人生を楽しんでいるわね﹂
彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い
庭やら猫のかもめやら家主のことやらを話した。
﹁楽しい?﹂
﹁悪くないね﹂と僕は言った。
﹁でもそのわりに元気がないのね﹂
﹁春なのにね﹂と僕は言った。
﹁そして彼女が編んでくれた素敵なセ︱タ︱着てるのにね﹂
僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセ︱タ︱に目をやっ
た。﹁どうしてそんなことはわかったのかな?﹂
﹁あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじ
ゃない﹂と緑はあきれたように言った。﹁でも元気がないのね﹂
﹁元気を出そうとしているんだけれど﹂
﹁人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ﹂
僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。﹁たぶん僕の頭がわ
るいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解
できないことがある﹂
﹁ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きな
のとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどん
どん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。
私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあ
とになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって﹂
﹁まあひとつの哲学ではあるな﹂
﹁でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの﹂と緑は言
った。
コ︱ヒ︱を飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二
人店に入ってきて、緑と三人で課目登録カ︱ドを見せあい、昨日の
ドイツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をし
ただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりと
めのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そう
いう話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。
僕はコ︱ヒ︱を飲みながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春
の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生と
いう格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなも
のを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になってき
た。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際
にはアネモネの花をさした小さなグラスが置いてあった。
女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテ︱ブルに戻っ
てしまうと、緑と僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわ
って本を何冊か買い、また喫茶店に入ってコ︱ヒ︱を飲み、ゲ︱
ム?センタ︱でピンボ︱ルをやり、公園のベンチに座って話をし
た。だいたいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉
が乾いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋でコ︱ラをニ本買ってき
た。そのあいだ彼女はレポ︱ト用紙にボ︱ルペンでこりこりと何か
を書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわよと彼
女は答えた。
三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座
で待ち合わせしてるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、
そこで別れた。別れ際に緑は僕のコ︱トのポッケトに四つに折った
レポ︱ト用紙をつっこんだ。そして家に帰ってから読んでくれと言
った。僕はそれを電車の中で読んだ。
﹁前略。
今あなたがコ︱ラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を
書いています。ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くな
んて私としてもはじめてのことです。でもそうでもしないことには
私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませんから。だ
って私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょ
う?
ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことした
のよ。あなたは私の髪型が変っていたことにすら気がつかなかった
でしょう?私少しずつ苦労して髪をのばしてやっと先週の終りにな
んとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あなたそれに
すら気がつかなかったでしょう?なかなか可愛くきまったから久し
ぶりに会って驚かそうと思ったのに、気がつきもしないなんて、そ
れはあまりじゃないですか?どうせあなたが私がどんな服着てたか
も思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。いくら考え
事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見て
くれたっていいでしょう。たったひとこと﹃その髪、可愛いね﹄と
でも言ってくれれば、そのあと何してたってどれだけ考えごとして
たって、私あなたのことを許したのに。
だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせ
ているなんて嘘です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマ
まで持ってきたんです。そう、私のバッグの中にはパジャマと歯ブ
ラシが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家
においでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなた
は私のことなんかどうでもよくて一人になりたがってるみたいだか
ら一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを心ゆくまで考えて
いなさい。
でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけで
はありません。私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にい
ろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは
何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこも
っていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもち
ょっと目を上げるだけで、またすぐもと戻ってしまうみたいです。
今コ︱ラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら
歩いているみたいで、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませ
んでした。あなたは今隣りに座ってごくごくとコ︱ラを飲んでいま
す。コ︱ラを買って戻ってきたときに﹃あれ、髪型変ったんだね﹄
と気がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でし
た。もし気がついてくれたらこんな手紙びりびりと破って、﹃ね
え、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん作ってあげ
る、それから仲良く一緒に寝ましょう﹄って言えたのに。でもあな
たは鉄板みたいに無神経です。さよなら。
P・S・
この次教室で会っても話かけないで下さい﹂
吉祥寺の駅から緑のアパ︱トに電話をかけてみたが誰も出なか
った。とくにやることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、
大学に通いながらやれるアルバイトの口を探してみた。僕は土?日
が一日あいていて、月?水?木は夕方の五時から働くことができた
が、僕のそんなスケジュ︱ルにぱったりと合致する仕事というのは
そう簡単に見つからなかった。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買
物をするついでにまた緑に電話をかけてみた。お姉さんが電話に出
て、緑はまだ帰ってないし、いつ帰るかはちょっとわからないと言
った。僕は礼を言って電話を切った。
夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもう
まく書けなかったので、結局直子に手紙を書くことにした。
春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。
君に会えなくてとても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に
会いたかったし、話がしたかった。しかしいずれにせよ、僕は強く
なろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように思えるから
だ、と僕は書いた。
﹁それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるい
はどうでもいいことかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていま
せん。君が僕に触れてくれていたときのことを忘れたくないからで
す。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要なことなので
す。僕はいつもあのときのことを考えています﹂
僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらく
それをじっと眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、
なんとなくその方が相手に意がうまく伝わるだろうという気がし
た。僕はグラスに三センチくらいウィスキ︱を注ぎ、それをふた口
で飲んでから眠った。

翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトを
みつけた。それほど大きくないイタリア料理店のウェイタ︱の仕事
で、条件はまずまずだったが、昼食もついたし、交通費も出してく
れた。月?水?木の遅番が休みをとるときは︱︱彼らはよく休みを
とった︱︱かわりに出勤してくれてかまわないということで、それ
は僕としても好都合だった。三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週
の土曜日から来てほしいとマネ︱ジャ︱が言った。新宿のレコ︱ド
店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんとしたまとも
そうな男だった。
緑のアパ︱トに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日から
ずっと戻ってないし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心
あたりはないだろうかと疲れた声で訊いた。僕が知っているのは彼
女がバッグにパジャマと歯ブラシを入れていたということだけだっ
た。
水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたい
な色のセ︱タ︱を着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスを
かけていた。そしていちばんうしろの席に座って、前に一度見かけ
たことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕
はそこに行って、あとで話がしたいんだけどと緑に言った。眼鏡を
かけた女の子がまず僕を見て、それから緑が僕を見た。緑の髪は以
前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいスタイルになっていた。い
くぶん大人っぽくも見えた。
﹁私、約束があるの﹂と緑は少し首をかしげるようにして言っ
た。
﹁そんなに時間とらせない。五分でいいよ﹂と僕は言った。
緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メ︱トルくら
い向うの崩れかけた廃屋を眺めるときのような目つきだった。﹁話
したくないのよ。悪いけど﹂
眼鏡の女の子が︿彼女話したくないんだって、悪いけど﹀とい
う目で僕を見た。
僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き︵テネシ︱?ウ
ィリアムズの戯曲についての総論。そのアメリカ文学における位
置︶、講義が終わるとゆっくり三つ数えてからうしろを向いた。緑
の姿はもう見えなかった。
四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月に
はまわりの人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコ︱トを脱ぎ捨
て、明るい日だまりの中でおしゃべりをしたり、キャッチボ︱ルを
したり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一人ぼっちだった。
直子も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離れ
ていってしまった。そして今の僕には﹁おはよう﹂とか﹁こんにち
は﹂を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさえ僕には懐かしか
った。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。何度か緑に
話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだった。今話したな
くないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言って
いることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子とい
たし、そうでないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけ
に脚の長い男で、いつも白いバスケットボ︱ル?シュ︱ズをはいて
いた。
四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひ
どかった。五月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、
揺れはじめるのを感じないわけにはいなかった。そんな震えはたい
てい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってく
るような淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛み
に刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて歯をくいしばっ
た。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと
長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残してい
た。
そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は
素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかっ
た。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、
感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みか
えしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴
らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を
何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。
アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイ
ト学生と知り合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科
にかよっているおとなしい無口な男で話をするようになるまでにず
いぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の
店でビ︱ルを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本を
読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、僕らはだいたいそんな話
をした。伊東はほっそりとしたハンサムな男で、その当時の美大の
学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あまり多くを語
らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フラ
ンスの小説が好きでジョルジェ?バタイユとポリス?ヴィアンを好
んで読み、音楽ではモ︱ツァルトとモ︱リス?ラヴェルをよく聴い
た。そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めてい
た。
彼は一度僕を自分のアパ︱トに招待してくれた。井の頭公園の
裏手のあるちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパ︱トで、部屋
の中は画材やキャンパスでいっぱいだった。絵を見たいと僕は言っ
たが、恥ずかしいものだからと言って見せてくれなかった。我々は
彼が父親のところから黙って持ってきたシ︱バス?リ︱ガルを飲
み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベ︱ル?カサドゥシェの弾く
モ︱ツァルトのピアノ?コンチェルトを聴いた。
彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼
は長崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくり
といかないんだよ、と言った。
﹁なんとなくわかるだろ、女の子ってさ﹂と彼は言った。﹁二
十歳とか二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめる
んだ。すごく現実的になりはじめるんだ。するとね、これまですご
く可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるん
だよ。僕に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てから
どうするのって訊くんだ﹂
﹁どうするんだい?﹂と僕も訊いてみた。
彼はししゃもをかじりながら頭を振った。﹁どうするったっ
て、どうしようもないよ、油絵科の学生なんて。そんなこと考えた
ら誰もアブラになんて行かないさ。だってそんなところ出たってま
ず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って美術
の先生になれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなん
だよ。やれやれ﹂
﹁彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?﹂
﹁まあそうなんだろうな﹂と伊東は認めた。﹁それに僕は美術
の教師なんかなりたくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるし
つけのわるい中学生に絵を教えて一生を終えたくないんだよ﹂
﹁それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お
互いのために﹂と僕は言った。
﹁僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と
一緒になる気でいるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好き
じゃないからなんて言い出せないよ﹂
僕らは氷を入れずストレ︱トでシ︱バスを飲み、ししゃもがな
くなってしまうと、キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてか
じった。キウリをぽりぽりと食べていると亡くなった緑の父親のこ
とを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほど味気
のないものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知
らないうちに僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいたのだ。
﹁君には恋人いるの?﹂と伊東が訊いた。
いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があっ
て今は遠く離れているんだ。
﹁でも気持は通じているんだろう?﹂
﹁そう思いたいね。そう思わないと救いがない﹂と僕は冗談め
かして言った。
彼はモ︱ツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。
彼は田舎の人々が山道について熟知しているように、モ︱ツァルト
の音楽の素晴らしさを熟知していた。父親が好きで三つの時からず
っと聴いてるんだと彼は言った。僕はクラシック音楽にそれほど詳
しいわけではなかったけれど、彼の﹁ほら、ここのところが︱︱﹂
とか﹁どうだい、この︱︱﹂といった適切で心のこもった説明を聴
きながらモ︱ツァルトのコンチェルトに耳を傾いていると、本当に
久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは井の頭公園の
林の上に浮かんだ三日月を眺め、シ︱バス?リ︱ガルを最後の一滴
まで飲んだ。美味い酒だった。
伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるから
と言って断り、ウィスキ︱の礼を言って九時前に彼のアパ︱トを出
た。そして帰りみち電話ボックスに入って緑に電話をかけてみた。
珍しく緑が電話に出た。
﹁ごめんなさい。今あなたと話したくないの﹂と緑は言った。
﹁それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風に
して君との関係を終えたくないんだ。君は本当に数の少ない僕の友
だちの一人だし、君に会えないのはすごく辛い。いつになったら君
と話せるのかな?それだけでも教えてほしいんだよ﹂
﹁私の方から話しかけるわよ。そのときになったら﹂
﹁元気?﹂と僕は訊いてみた。
﹁なんとか﹂と彼女は言った。そして電話を切った。
五月の半ばにレイコさんから手紙が来た。
﹁いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいま
す。私も読ませてもらっています。いいわよね、読んでも?
長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私も
いささか疲れ気味だったし、良いニュ︱スもあまりなかったからで
す。直子の具合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母
さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、
しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てま
たここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。直子も
できることならずっとここにいて治したいというし、私としても彼
女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言ってここで
彼女をコントロ︱ルするのはだんだん困難になってきました。普段
はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不
安定になることがあって、そういうときには彼女から目を離すこと
はできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があ
り、直子は全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。
だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受
けるのがいちばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方あ
りません。前もあなたに言ったように、気長にやるのがいちばんで
す。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつほぐしていくので
す。事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はありま
す。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇に慣れる
のを待つしかありません。
この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病
院に移っているはずです。連絡が後手後手にまわって申し分けない
と思いますが、いろんなことがばたばたと決まってしまったので
す。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良い医者もいま
す。住所を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって
下さい。彼女についての情報は私の方にも入ってきますから、何か
あったら知らせるようにします。良いニュ︱スが書けるといいです
ね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなくて
もときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら﹂

その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を
書き、レイコさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教
室で手紙を書き、家の机に向って膝に﹁かもめ﹂をのせながら書
き、休憩時間にイタリア料理店のテ︱ブルに向って書いた。まるで
手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやく
つなぎとめているみたいだった。
君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と
五月を送った、と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい
春を体験したのははじめてのことだし、これだったら二月が三回つ
づいた方がずっとましだ。今更君にこんなことをいっても始まらな
いとは思うけれど、新しいヘア?スタイルはとてもよく君に似合っ
ている。とても可愛い。今イタリア料理店でアルバイトしていて、
コックからおいしいスパゲティ︱の作り方を習った。そのうちに君
に食べさせてあげたい。
僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアル
バイトをし、伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス?ヴィアンを
何冊か借りて読み、手紙を書き、﹁かもめ﹂と遊び、スパゲティ︱
を作り、庭の手入れをし、直子のことを考えながらマスタペ︱ショ
ンをし、沢山の映画を見た。
緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑は
もう二ヶ月も口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとな
りの席に座って、しばらく頬杖をついて黙っていた。窓の外には雨
が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、そ
れは何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教室を
出ていなくなっても緑はずっとその格好で黙っていた。そしてジ︱
ンズの上着のポッケトからマルボロを出してくわえ、マッチを僕の
渡した。僕はマッチをすって煙草に火をつけてやった。緑は唇を丸
くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。
﹁私のヘア?スタイル好き?﹂
﹁すごく良いよ﹂
﹁どれくらい良い?﹂と緑が訊いた。
﹁世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ﹂と僕は言
った。
﹁本当にそう思う?﹂
﹁本当にそう思う﹂
彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。
僕はそれを握った。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見え
た。緑は煙草の灰を床に落としてからすっと立ち上がった。
﹁ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ﹂と緑は言っ
た。
﹁どこに行く?﹂
﹁日本橋の高島屋の食堂﹂
﹁何でまたわざわざそんなところまで行くの?﹂
﹁ときどきあそこに行きたくなるのよ、私﹂
それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと
雨が降りつづいていたせいか、デパ︱トの中はがらんとしてあまり
人影がなかった。店内には雨の匂いが漂い、店員たちもなんとなく
手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の食堂に行き、ウィンドの
見本を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べることにし
た。昼食どきだったが、食堂もそれほど混んではいなかった。
﹁デパ︱トの食堂で飯食うなんて久しぶりだね﹂と僕はデパ︱
トの食堂でしかまずお目にかかれないような白くてつるりとした湯
のみでお茶を飲みながら言った。
﹁私好きよ、こういうの﹂と緑は言った。﹁なんだか特別なこ
とをしているような気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせい
ね。デパ︱トに連れてってもらうなんてほんのたまにしかなかった
から﹂
﹁僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパ︱
ト行くの好きだったからさ﹂
﹁いいわね﹂
﹁べつに良くもないよ。デパ︱トなんか行くの好きじゃないも
の﹂
﹁そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていう
こと﹂
﹁まあ一人っ子だからね﹂
﹁大きくなったらデパ︱トの食堂に一人できて食べたいものを
いっぱい食べてやろうと思ったの、子供の頃﹂と緑は言った。﹁で
も空しいものね、一人でこんなところでもそもろごはん食べたって
面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでもない
し、ただっ広くて混んでてうるさいし、空気はわるいし。それでも
ときどきここに来たくなるのよ﹂
﹁このニヶ月淋しかったよ﹂と僕は言った。
﹁それ、手紙で読んだわよ﹂と緑は無表情な声で言った。﹁と
にかくごはん食べましょう。私今それ以外のこと考えられないの﹂
我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸
い物を飲み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると
彼女は何も言わずにすっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち
上がって傘を持った。
﹁これからどこに行くの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁デパ︱トに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に
決まってるでしょう﹂と緑は言った。
雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店
員の姿はなく、売店も、乗り物切符売り場もシャッタ︱を閉ざして
いた。我々は傘をさしてぐっしょりと濡れた木馬やガ︱デン?チェ
アや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中にこんなに人気のな
い荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見
たいというので、僕は硬貨を入れてやり、彼女が見ているあいだず
っと傘をさしてやっていた。
屋上の隅の方に屋根のついたゲ︱ム?コ︱ナ︱があって、子供
向けのゲ︱ム機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台
のようなものの上に並んで腰を下ろし、二人で雨ふりを眺めた。
﹁何か話してよ﹂と緑が言った。﹁話があるんでしょ、あな
た?﹂
﹁あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭
がぼんやりしてたんだ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこ
なかったんだ﹂と僕は言った。﹁でも君と会えなくなってよくわか
ったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだって
ね。君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい﹂
﹁でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えない
ことで私がこのニヶ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかというこ
とを?﹂
﹁知らなかったよ、そんなこと﹂と僕はびっくりして言った。
﹁君は僕のことを頭にきていて、それで会いたくないんだと思って
たんだ﹂
﹁どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まって
るでしょう?だって私あなたのこと好きだって言ったでしょう?私
そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃなくなったりしない
わよ。そんなこともわかんないの?﹂
﹁それはもちろんそうだけど︱︱﹂
﹁そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいく
らい。だって久し振りに会ったっていうのにあなたはボオッとして
他の女の人のことを考えて私のことなんか見ようともしないんだも
の。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなたと少し
離れていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。い
ろんなことをはっきりさせるためにも﹂
﹁いろんなことって?﹂
﹁私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるとき
の方がだんだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。
そういうのって、いくらなんでも不自然だし具合わるいと思わな
い?もちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多少わかままで偏狭でフ
ァシストだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好
きになった人だしね。でもね、あなたってなんだか特別なのよ、私
にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感じするの。あ
たなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに
自分でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正
直に相談したの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うな
って彼は言ったわ。もしあなたと会うなら俺と別れろって﹂
﹁それでどうしたの?﹂
﹁彼と別れたよ、さっぱりと﹂と言って緑はマルボロをくら
え、手で覆うようにしてマッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。
﹁どうして?﹂
﹁どうして?﹂と緑は怒鳴った。﹁あなた頭おかしいんじゃな
いの?英語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読
めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くの
よ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が
好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男
の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと
好きになっちゃったんだから﹂
僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉
がうまく出てこなかった。
緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。﹁ねえ、そんなひどい顔
しないでよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好き
な人がいること知ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いて
くれるくらいはいいでしょ?私だってこのニヶ月本当に辛かったん
だから﹂
我々はゲ︱ム?コ︱ナ︱の裏手で傘をさしたまま抱きあった。
固く体をあわせ、唇を求めあった。彼女の髪にも、ジ︱ンズのジャ
ケットの襟にも雨の匂いがした。女の子の体ってなんてやわらかく
て温かいんだろうと僕は思った。ジャケット越しに僕は彼女の乳房
の感触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間
に触れたような気がした。
﹁あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そし
て別れたの﹂と緑は言った。
﹁君のこと大好きだよ﹂と僕は言った。﹁心から好きだよ。も
う二度と放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は
身うごきとれないんだ﹂
﹁その人のことで?﹂
僕は肯いた。
﹁ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?﹂
﹁一年前に一度だけね﹂
﹁それから会わなかったの?﹂
﹁二回会ったよ。でもやってない﹂と僕は言った。
﹁ それは どう してなの? 彼女はあなたのこ と好きじゃな い
の?﹂
﹁僕にはなんとも言えない﹂と僕は言った。﹁とても事情が混
み入ってるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長
いあいだつづいているものだから、本当にどうなのかというのがだ
んだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわか
っているのは、それがある種の人間として責任であるということな
んだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくと
も今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとし
ても﹂
﹁ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ﹂と緑は僕の首
に頬を押し付けて言った。﹁そして私はあなたに抱かれて、あなた
のことを好きだってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言
えば私なんだってするわよ。私多少むちゃくちゃなところあるけど
正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっ
ぱいだって良いかたちしているし、料理もうまいし、お父さんの遺
産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思わない?あなたが
取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ﹂
﹁時間がほしいんだ﹂と僕は言った。﹁考えたり、整理した
り、判断したりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそ
うとしか言えないんだ﹂
﹁でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思って
るのね?﹂
﹁もちろんそう思ってるよ﹂
緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。﹁いいわよ、待
ってあげる。あなたのことを信頼してるから﹂と彼女は言った。
﹁でお私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私
のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?﹂
﹁よくわかる﹂
﹁それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけ
はやめてね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷
つきたくないの。幸せになりたいのよ﹂
僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
﹁そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり
抱いてよ﹂と緑は言った。
﹁傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ﹂
﹁いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめ
てほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ﹂
僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。
高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々の
まわりを取り囲んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄
色いナイロンのウィンド?ブレ︱カ︱を暗い色に染めた。
﹁そろそろ屋根のあるところに行かない?﹂と僕は言った。
﹁うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪
引いちゃうもの﹂
﹁まったく﹂
﹁ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ﹂と緑
が笑いながら言った。﹁ああ気持良かった﹂
僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに
洗面所に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の
茗荷谷のアパ︱トまで行った。緑はすぐに僕にシャワ︱を浴びさ
せ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバスロ︱ブを
貸してくれ、自分はポロシャツとスカ︱トに着がえた。我々は台所
のテ︱ブルでコ︱ヒ︱を飲んだ。
﹁あなたのこと話してよ﹂と緑は言った。
﹁僕のどんなこと?﹂
﹁そうねえ……どんなものが嫌い?﹂
﹁鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ﹂
﹁他には?﹂
﹁四月の孤独な夜とレ︱スのついた電話機のカバ︱が嫌いだ﹂
﹁他には?﹂
僕は首を振った。﹁他にはとくに思いつかないね﹂
﹁私の彼は︱︱つまり前の彼は︱︱いろんなものが嫌いだった
わ。私がすごく短いスカ︱トはくこととか、煙草を吸うこととか、
すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの
悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なこ
とあったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃん
とあらためるから﹂
﹁別に何もないよ﹂と僕は少し考えてからそう言って首を振っ
た。﹁何もない﹂
﹁本当?﹂
﹁君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも
歩き方も酔払い方も、何でも好きだよ﹂
﹁本当にこのままでいいの?﹂
﹁どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいい
よ﹂
﹁どれくらい私のこと好き?﹂と緑が訊いた。
﹁世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバタ︱になってしま
うくらい好きだ﹂と僕は言った。
﹁ふうん﹂と緑は少し満足したように言った。﹁もう一度抱い
てくれる?﹂
僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞き
ながら布団の中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方から
ゆで玉子の固さの好みに至るまでのありとあらゆる話をした。
﹁雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら?﹂と緑が質
問した。
﹁知らない﹂と僕は言った。﹁巣の掃除とか貯蔵品の整理なん
かやってるんじゃないかな。蟻ってよく働くからさ﹂
﹁そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のまま
なの?﹂
﹁知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないか
な。つまり猿なんかに比べてさ﹂
﹁あなた意外にいろんなこと知らないのね﹂と緑は言った。
﹁ワタナベ君って、世の中のことはたいてい知ってるのかと思って
たわ﹂
﹁世界は広い﹂と僕は言った。
﹁山は高く、海は深い﹂と緑は言った。そしてバスロ︱ブの裾
から手を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息を
呑んだ。﹁ねえ、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄
目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌だ﹂
﹁冗談だろう﹂と僕はため息をついて言った。
﹁冗談よ﹂とくすくす笑って緑は言った。﹁大丈夫よ。安心し
なさい。これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわし
く見ていい?﹂
﹁好きにしていいよ﹂と僕は言った。
緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわ
した。皮をひっぱったり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしてい
た。そして布団から首を出してふうっと息をついた。﹁でも私あな
たのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて﹂
﹁ありがとう﹂と僕は素直に礼を言った。
﹁でもワタナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことが
はっきりするまでは﹂
﹁やりたくないわけがないだろう﹂と僕は言った。﹁頭がおか
しくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ﹂
﹁頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。
そしてやっちゃってから考えるけどな﹂
﹁本当にそうする?﹂
﹁嘘よ﹂と緑は小さな声で言った。﹁私もやらないと思うわ。
もし私があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あな
たのそういうところ好きなの。本当に本当に好きなのよ﹂
﹁どれくらい好き?﹂と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。
そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇
をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初
に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだ
った。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、そ
れでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。
﹁ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?﹂
﹁考えてないよ﹂と僕は嘘をついた。
﹁本当?﹂
﹁本当だよ﹂
﹁こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ﹂
﹁考えられないよ﹂と僕は言った。
﹁私の胸かあそこ触りたい?﹂と緑が訊いた。
﹁さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にい
ろんなことやると刺激が強すぎる﹂
緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティ︱を脱いでそれを僕
のペニスの先にあてた。﹁ここに出していいからね﹂
﹁でも汚れちゃうよ﹂
﹁涙が出るからつまんないこと言わないでよ﹂と緑は泣きそう
な声で言った。﹁そんなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで
好きなだけ出しなさいよ。気になるんなら新しいの買ってプレゼン
トしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。
﹁じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して﹂
僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。﹁ずいぶ
んいっぱい出したのね﹂と彼女は感心したように言った。
﹁多すぎたかな?﹂
﹁いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ﹂と緑
が笑いながら言って僕にキスした。
夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれ
た。僕らは台所のテ︱ブルでビ︱ルを飲みながら天ぷらを食べ、青
豆のごはんを食べた。
﹁沢山食べていっぱい精液を作るのよ﹂と緑は言った。﹁そし
たら私がやさしく出してあげるから﹂
﹁ありがとう﹂と僕は礼を言った。
﹁私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、
婦人雑誌でそういうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれ
ないから、その期間御主人が浮気しないようにいろんな風に処理し
てあげる方法が特集してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。
楽しみ?﹂
﹁楽しみだね﹂と僕は言った。
緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広
げてみたが、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかった
し、読んでみたところで何も理解できなかった。僕はそんなわけの
わからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いったい自分はこれか
ら先どうなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変ってい
くんだろうと考えつづけた。時折、僕のまわりで世界がどきどきと
脈を打っているように感じられた。僕は深いため息をつき、それか
ら目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまったく後悔
していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、ま
ったく同じことをするだろうと確信していた。やはり雨の屋上で緑
をしっかり抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で射精
に導かれることになるだろう。それについては何の疑問もなかっ
た。僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてくれたこ
とはとても嬉しかった。彼女となら二人でうまくやっていけるだろ
うと思った。そして緑は彼女自身言っていたように血のかよった生
身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたの
だ。僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身
を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったの
だ。僕のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせる
ことなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女も
それを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそ
れを押しとどめることができるだろう?そう、僕は緑を愛してい
た。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはずなの
だ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなの
だ。
問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明でき
ないという点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他
の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そ
して僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思
議なかたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく直
子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つ
かず保存されていたのだ。
僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を
書くことだった。僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の
庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机
に向って手紙を書いた。﹁こういう手紙をレイコさんに書かなくて
はならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです﹂と僕
は最初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明
し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。
﹁僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛してい
ます。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なも
のなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、この
ままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がする
のです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ
愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるの
です。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそ
れは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとて
も混乱しています。決して言いわけをするつもりではありません
が、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘は
つきませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意して
きました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこ
まれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕
はいったいどうすればいいのでしょう?僕にはレイコさんしか相談
できる相手がいないのです﹂
僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れ
た。
レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。
﹁前略。
まず良いニュ︱ス。
直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電
話で話したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。
あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもしれないということ
です。
次にあなたのこと。
そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないこと
だと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛
情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。
自信を持ちなさい。
私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあな
たが強く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のこ
とです。それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかない
かもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋
に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私は
そう思います。それも誠実さのひとつのかたちです。
第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、
それはあなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑
さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して下さい。
第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か
言わなくてはならないような状況になったとしたら、そのときは私
とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの
子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておい
て下さい。
第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、
もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとし
ても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだとい
うことです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさ
い。私たちは︵私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっ
くるめた総称です︶不完全な世界に住んでいる不完全な人間なので
す。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金み
たいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょう?
私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女
の子のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を
読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれると
いうのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありませ
ん。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美
しい湖にボ︱トを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと
同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は
流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つ
くときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなこと
を言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学ん
でいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこ
もうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開
いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女で
もときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当
よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸
せになる努力をしなさい。
もちろん私はあなたと直子がハッピ︱?エンディングを迎えら
れなかったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かっ
たなんて誰にかわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮な
んかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せ
になりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生
に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
私は毎日誰に聴かせるともなくギタ︱を弾いています。これも
なんだかつまらないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつか
またあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながらギタ︱を弾きた
い。
ではそれまで。
六月十七日
石田鈴子 ﹂
十一
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙
を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、
それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言
ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんて
いえばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなの
だ。直子はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまった
のだ。
八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕
は東京に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶
し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと
言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう少し待
ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館
をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を
全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残ら
ずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。
いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出
せないのだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだ
が、地名というものがまったく思いだせないのだ順番も思いだせな
い。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りか
かったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園
や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を
敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで
眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところ
ならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで
安ウィスキ︱ごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行け
ば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたり
したし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わ
せた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求
めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼
いた。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくという
あてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広
く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度
緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったからだ。
﹁あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ﹂と緑は
言った。﹁レポ︱ト提出するやつだってけっこうあるのよ。どうす
るのよ。いったい?あなたこれでも三週間の音信不通だったのよ。
どこにいて何をしてるのよ?﹂
﹁わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ﹂
﹁言うことはそれだけなの?﹂
﹁だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら︱
︱﹂
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に
入り髭を剃った。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けの
せいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわ
からないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあ
がってきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の
顔だった。
僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海
岸かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のど
こかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめて
きた火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることも
できた。そしてウィスキ︱を飲み、波の音に耳を澄ませながら直子
のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しない
というのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうし
ても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかっ
た。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に
帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができず
にいた。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベ
ニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの
光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせ
ない射精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のでき
ごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子
がいて、手をのばせばその体に触れることができるように気がし
た。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のど
こにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。
思い出さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出
があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少し
の隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだそうとしていたから
だ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかっ
た。
僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除した
り、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバ︱スデ
︱?ケ︱キと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思い
だした。そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオ
︱バ︱コ︱トを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめを
つけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でい
つも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファ︱の上で
膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメ︱ジは満ち潮の波のように次から次へと
僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇
妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きてい
て、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では
死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは生
を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を
含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言っ
た。﹁大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで﹂
と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死
であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいる
でしょう?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものち
ょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこ
う思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。
そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言
った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすご
く楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は
無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでい
た。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりまるで汗
みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。
そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思っ
た。それはこういうことだった。
﹁死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでい
るのだ﹂
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時
に死を育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真
理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうこと
だった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀し
みを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実
さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒す
ことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから
何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何か
も、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たない
のだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませ
ながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。
ウィスキ︱を何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を
砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩
いた。
ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流し
ていると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。僕はそれを
受けとって十何ヶ月かぶりに吸った。どうして泣いているのかと彼
は僕に訊いた。母が死んだからだと僕は殆んど反射的に嘘をつい
た。それで哀しくてたまらなくて旅をつづけているのだ、と。彼は
心から同情してくれた。そして家から一升瓶とグラスをふたつ持っ
てきてくれた。
風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で
母親をなくしたとその漁師は言った。体がそんなに丈夫ではなかっ
たのに朝から晩まで働きづめで、それで身をすり減らすように死ん
だ、と彼は話した。僕はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を
聞き、適当に相槌を打った。それはひどく遠い世界の話であるよう
に僕には感じられた。それがいったいなんだっていうんだと僕は思
った。そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒り
に駆けられた。お前の母親がなんだっていうんだ?俺は直子を失っ
たんだ!あれはど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったん
だぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているん
だ?
でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じ
て、際限のない漁師の話を聞くともなくぼんやりと聞いていた。や
がて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。食べてないけれど、リュ
ックの中にパンとチ︱ズとトマトとチョコレ︱トが入っていると僕
は答えた。昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチ︱ズ
とトマトとチョコレ︱トだと僕は答えた。すると彼はここで待って
ろよと言ってどこかに行ってしまった。僕は止めようとしたけれ
ど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてしまった。
僕は仕方なく一人でコップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙
屑が一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打
ち際で砕けていた。やせこけた犬が尾を振りながらやてきて何か食
べものはないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろして
いたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。
三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい
一升瓶を持って戻ってきた。これ食えよ、と彼は言った。下の方の
は海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。彼は
一升瓶の酒を自分のグラスに注ぎ、僕のグラスにも注いた。僕は礼
を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。それからまた二人
で酒を飲んだ。もうこれ以上飲めないというところまで飲んでしま
うと、彼は自分の家に来て泊まれと僕に言ったが、ここで一人で寝
ている方がいいと言うと、それ以上は誘わなかった。そして別れ際
にポケットから四つに折った五千円札を出して僕のシャツのポケッ
トにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい
顔してるから、と言った。もう十分よくしてもらったし、これ以上
金までもらうわけにはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうと
はしなかった。仕方なく礼を言って僕はそれを受け取った。
漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝た
ガ︱ル?フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対して
どれほどひどいことをしてしまったかと思って、どうしようもなく
冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思い、そしてど
う傷つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今まで彼女
のことなんてロクに思い出しもしなかったのだ。彼女はとても優し
い女の子だった。でもその当時の僕はそんな優しさをごくあたり前
のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼女は今何
をしているだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と
僕は思った。
ひどく気分がわるくなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。飲み
過ぎた酒のせいで頭が痛み、漁師に嘘をついて金までもらったこと
で嫌な気持になった。そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと僕は思
った。いつまでもいつまでも永遠にこんなことつづけているわけに
はいかないのだ。僕は寝袋を丸めてリュックの中にしまい、それを
かついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすれ
ばいいだろうと駅員に訊いてみた。彼は時刻表を調べ、夜行をうま
くのりつげば朝に大阪に着けるし、そこから新幹線で東京に行ける
と教えてくれた。僕は礼を言って、男からもらった五千円札で東京
までの切符を買った。列車を待つあいだ、僕は新聞を買って日付を
見てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ちょうど一ヶ月旅
行をつづけていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃ
な、と僕は思った。
一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、
直子の死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ
月前とあまり変りない状態で東京に戻った。緑に電話をかけること
すらできなかった。いったい彼女にどう切り出せばいいのかがわか
らなかった。なんて言えばいいのだ?全ては終わったよ、君と二人
で幸せになろ︱︱そう言えばいいのだろうか?もちろん僕にはそん
なことは言えなかった。しかしどんな風に言ったところで、どんな
言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は
死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間
として残っているのだ。
僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っ
ても、一人で部屋の中に閉じこもって何日かを過ごした。僕の記憶
の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。僕が直子のため
にとって置いたいくつかの部屋の鎧戸を下ろされ、家具は白い布に
覆われ窓枠にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一日の多くの
部分をそんな部屋の中で過ごした。そして僕はキズキのことを思っ
た。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は
思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局
そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界
で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベスト
を尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方
をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお
前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心み
たいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は
昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子
が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自
分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるもの
もないがらんとした博物館でね、俺は自身のためにそこの管理人を
しているんだ。

東京に戻って四日目にレイコさんからの手紙が届いた。封筒に
は速達切手が貼ってあった。手紙の内容は至極簡単なものだった。
あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配している。電話をかけ
てほしい。朝の九時と夜の九時にこの電話番号の前で待っている。
僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレイコさんが
出た。
﹁元気?﹂と彼女が訊いた。
﹁まずまずですね﹂と僕は言った。
﹁ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?﹂
﹁会いに来るって、東京に来るんですか?﹂
﹁ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたい
の﹂
﹁じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?﹂
﹁出なきゃ会いに行けないでしょう﹂と彼女は言った。﹁そろ
そろ出てもいい頃よ。だってもう八年もいたんだもの。これ以上い
たら腐っちゃうわよ﹂
僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。
﹁あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来て
くれる?私の顔はまだ覚えてる?それとも直子が死んだら私になん
て興味なくなっちゃったかしら?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁あさっての三時二十分に東京駅に
迎えに行きます﹂
﹁すぐわかるわよ。ギタ︱?ケ︱ス持った中年女なんてそんな
にいないから﹂
たしかに僕は東京駅ですぐレイコさんをみつけることができ
た。彼女は男もののツイ︱ドのジャケットに白いズボンをはいて赤
い運動靴をはき、髪をあいかわらず短くてところどころとびあが
り、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手は黒いギタ︱?ケ︱スを
下げていた。彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑っ
た。レイコさんの顔を見ると僕も自然に微笑んでしまった。僕は彼
女の旅行鞄を持って中央線の乗り場まで並んで歩いた。
﹁ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してる?それとも
東京では最近そういうひどい顔がはやってるの?﹂
﹁しばらく旅行してたせいですよ。あまりロクなもの食べなか
ったから﹂と僕は言った。﹁新幹線はどうでした?﹂
﹁あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おう
と思ってたのにひどい目にあっちゃった﹂
﹁中で何か売りに来るでしょう?﹂
﹁あのまずくて高いサンドイッチのこと?あんなもの飢え死に
しかけた馬だって残すわよ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べた
のが好きだったの﹂
﹁そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ﹂
﹁いいわよ、私年寄りだもの﹂とレイコさんは言った。
吉祥寺まで行く電車の中で、彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍
しそうにじっと眺めていた。
﹁八年もたつと風景も違っているものですか?﹂と僕は訊い
た。
﹁ ねえワ タナ ベ君。私が 今どんな気持かわ かんないでし ょ
う?﹂
﹁怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわか
んないのよ。一人でこんなところに放り出されて﹂とレイコさんは
言った。﹁でも︿気が狂いそう﹀って素敵な表現だと思わない?﹂
僕は笑って彼女の手を握った。﹁でも大丈夫ですよ。レイコさ
んはもう全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの﹂
﹁私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ﹂とレ
イコさんは言った。﹁私があそこを出られたのは、直子とあなたの
おかげなのよ。私は直子のいないあの場所に残っていることに耐え
られなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話しあう必要が
あったの。だからあそこを出てきちゃったのよ。もし何もなけれ
ば、私は一生あそこにいることになったんじゃないかしら﹂
僕は肯いた。
﹁これから先どうするんですか、レイコさん?﹂
﹁旭川に行くのよ。ねえ旭川よ!﹂と彼女は言った。﹁音大の
とき仲の良かった友だちが旭川で音楽教室やっててね、手伝わない
かって二、三年前から誘われてたんだけど、寒いところ行くの嫌だ
からって断ってたの。だってそうでしょ、やっと自由の身になっ
て、行く先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか
作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?﹂
﹁そんなひどくないですよ﹂僕は笑った。﹁一度行ったことあ
るけれど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね﹂
﹁本当?﹂
﹁うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと﹂
﹁まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし﹂と
彼女は言った。﹁ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれ
る?﹂
﹁もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですか?その
前に少し東京にいるでしょう?﹂
﹁うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなた
のところに厄介になっていいかしら?迷惑かけないから﹂
﹁全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます﹂
﹁悪いわね﹂
﹁いいですよ。すごく広い押入れなんです﹂
レイコさんは脚のあいだにはさんだギタ︱?ケ︱スを指で軽く
叩いてリズムをとっていた。﹁私たぶん体を馴らす必要があるの
よ、旭川に行く前に。まだ外の世界に全然馴染んでないから。かわ
らないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。そういうの少し助
けてくれる?私、あなたしか頼れる人いないから﹂
﹁僕で良ければいくらでも手伝いますよ﹂と僕は言った。
﹁私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?﹂
﹁僕のいったい何を邪魔しているんですか?﹂
レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそ
れ以上何も言わなかった。
吉祥寺で電車を降り、バスに乗って僕の部屋に行くまで、我々
はあまりたいした話をしなかった。東京の街の様子が変ってしまっ
たことや、彼女の音大時代の話や、僕が旭川に行ったときのことな
んかをぽつぽつと話しただけだった。直子に関する話は一切出なか
った。僕がレイコさんに会うのは十ヶ月ぶりだったが、彼女と二人
で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以
前にも同じような思いをしたことがあるという気がした。考えてみ
れば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく
同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有し
ていたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有している
のだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。レ
イコさんはしばらく一人で話していたが、僕が口をきかないことが
わかると彼女も黙って、そのまま二人で無言のままバスに乗って僕
の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同
じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細
く、空はつき抜けるように高かった。また秋が来たんだな、と僕は
思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょ
っとした音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が巡っ
てくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは
十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。
﹁こういうところに来るとホッとするわね﹂バスを降り、あた
りを見まわしてレイコさんは言った。
﹁何もないところですからね﹂と僕は言った。
僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレイコさんはいろん
なものに感心してくれた。
﹁すごく良いところじゃない﹂と彼女は言った。﹁これみんな
あなたが作ったの?こういう棚やら机やら?﹂
﹁そうですよ﹂と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。
﹁けっこう器用なのね、ワタナベ君。部屋もずいぶんきれいだ
し﹂
﹁突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったか
ら。でもおかげで大家さんは喜んでますよ。きれいに使ってくれる
って﹂
﹁あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね﹂とレイコさん
は言った。﹁大家さんお庭の向うに住んでるでしょ?﹂
﹁挨拶?挨拶なんてするんですか?﹂
﹁あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこ
んでギタ︱を弾いたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ?こ
ういうのは先にきちんとしといた方がいいの。そのために菓子折り
だってちゃんと持ってきたんだから﹂
﹁ずいぶん気がきくんですねえ﹂と僕は感心して言った。
﹁年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにし
とくから、ちゃんと話をあわせといてよ。でもアレね、こういう
時、年が離れてると楽だわね。誰も変な風に疑わないから﹂
彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側
に座ってもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。レイコさんは二十分く
らい戻ってこなかった。彼女は戻ってくると旅行鞄から煎餅の缶を
出して僕へのおみやげだと言った。
﹁二十分もいったい何話してたんですか?﹂と僕は煎餅をかじ
りながら訊いてみた。
﹁そりゃもちろんあなたのことよ﹂と彼女は猫を抱きあげ頬ず
りして言った。﹁きちんとしてるし、真面目な学生だって感心して
たわよ﹂
﹁僕のことですか?﹂
﹁そうよ、もちろんあなたのことよ﹂とレイコさんは笑って言
った。そして僕のギタ︱をみつけて手にとり、少し調弦してからカ
ルロス?ジョビンの﹃デサフィナ︱ド﹄を弾いた。彼女のギタ︱を
聴くのは久しぶりだったが、それは前と同じように僕の心をあたた
めてくれた。
﹁あなたギタ︱練習してるの﹂
﹁納屋に転がってたのを借りてきて少し弾いてるだけです﹂
﹁じゃ、あとで無料レッスンしてあげるわね﹂とレイコさんは
言ってギタ︱を置き、ツイ︱ドの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、
煙草を吸った。彼女は上着の下にマドラス?チェックの半袖のシャ
ツを着ていた。
﹁ねえ、これこれ素敵なシャツでしょう?﹂とレイコさんが言
った。
﹁そうですね﹂と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のシ
ャツだった。
﹁これ、直子のなのよ﹂とレイコさんは言った。﹁知ってる?
直子と私って洋服のサイズ殆んど一緒だったのよ。とくにあそこに
入った頃はね。そのあとであの子少し肉がついちゃてサイズが変わ
ったけれど、それでもだいたい同じって言ってもいいくらいだった
のよ。シャツもズボンも靴も帽子も。ブラジャ︱くらいじゃないか
しら、サイズが違うのは。私なんかおっばいないも同然だから。だ
から私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。というか殆んど二
人で共有してたようなものね﹂
僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。そう言われてみれ
ばたしかに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。顔のかたちや
ひょろりと細い手首なんかのせいで、レイコの方が直子よりやせて
いて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意
外にがっしりとしているようでもあった。
﹁このズボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子
のものを身につけてるの見るの嫌?﹂
﹁そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている
方が嬉しいと思いますね。とくにレイコさんに﹂
﹁不思議なのよ﹂とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らし
た。﹁直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のこ
とだけはちゃんと書き残していったのよ。メモ用紙に一行だけ走り
書きして、それが机の上に置いてあったの。﹃洋服は全部レイコさ
んにあげて下さい﹄って。変な子だと思わない?自分がこれから死
のうと思ってるときにどうして洋服のことなんか考えるのかしら
ね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他に言いたいことは
山ほどあったはずなのに﹂
﹁何もなかったのかもしれませんよ﹂
レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽ってい
た。﹁ねえ、あなた、最初からひとつ話を聞きたいでしょう?﹂
﹁話して下さい﹂と僕は言った。
﹁病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のとこ
ろ回復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方が
あとあとのために良いだろうってことになって、直子はもう少し長
期的にその大阪の病院に移ることになったの。そこまではたしか手
紙に書いたわよね。たしか八月の十日前後に出したと思ったけど﹂
﹁その手紙は読みました﹂
﹁八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直
子が一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろかと言
うの。自分で荷物も整理したいし、私とも当分会えないから一度ゆ
っくり話もしたいし、できたら一泊くらいできないかっていうこと
なの。私の方は全然かまいませよって言ったの。私も直子にはすご
く会いたかったし、話したかったし。それで翌日の二十五日に彼女
はお母さんと二人でタクシ︱に乗ってやってきたの。そして私たち
三人で荷物の整理をしたわけ。いろいろ世間話をしながら。夕方近
くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だか
らって言って、それでお母さんはタクシ︱を呼んでもらって帰って
いったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのと
き全然気にもしなかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配して
たのよ。彼女はすごく落ちこんでがっくりしてやつれてるんじゃな
いかなって。だてああいう病院の検査とか治療ってずいぶん消耗す
るものだってことを私はよく知ってるからね、それで大丈夫かなあ
って心配してたわけ。でも私ひと目見て、ああこれならいいやって
思ったの。顔つきも思ったより健康そうだったし、にこにこして冗
談なんかも言ってたし、しゃべり方も前よりずっとまともになって
たし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし、まあこ
れならお母さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思った
わけ。ねえレイコさん、私この際だから病院できちんと全部なおし
ゃおうと思うのっていうから、そうね、それがいいかもしれないわ
ねと私も言ったの。それで私たち外を二人で散歩していろんなお話
をしたの。これからどうするだの、そんないろんな話ね。彼女こん
なこと言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができ
たらいいでしょうねって﹂
﹁レイコさんと二人でですか?﹂
﹁そうよ﹂とレイコさんは言って肩を小さくすぼめた。﹁それ
で私言ったのよ。私はべつにかまわないけど、ワタナベ君のことい
いのって。すると彼女こう言ったの、﹃あの人のことは私きちんと
するから﹄って。それだけ。そして私と二人でどこに住もうだの、
どんなことしようだのといったようなこと話したの。それから鳥小
屋に行って鳥と遊んで﹂
僕は冷蔵庫からビ︱ルを出して飲んだ。レイコさんはまた煙草
に火をつけ、猫は彼女の膝の上でぐっすりと眠りこんでいた。
﹁あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だから
きっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決
めちゃって、気が楽になってたのよね。それから部屋の中のいろん
なものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いた
の。日記がわりしていたノ︱トだとか手紙だとか、そういうのみん
な。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃ
うのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙はそれまでずっ
と、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そしたら
﹃これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わる
の﹄って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに単純
に納得しちゃったの。まあ筋はとおってるじゃない、それなりに。
そしてこの子も元気になって幸せになれるといいのにな、と思った
の。だってその日直子は本当に可愛いかったのよ。あなたに見せた
いくらい。
それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂
入って、それからとっておきの上等のワインあけて二人で飲んで、
私がギタ︱を弾いたの。例によってビ︱トルス。﹃ノルウェイの
森﹄とか﹃ミシェル﹄とか、あの子の好きなやつ。そして私たちけ
っこう気持良くなっって、電気消して、適当に服脱いで、ベットに
寝転んでたの。すごく暑い夜でね、窓を開けてても風なんて殆んど
入ってきやしないの。外はもう墨で塗りつぶされたみたいに真っ暗
でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。部屋の中までムっとす
る夏草の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が始めた
の。あなたとのセックスの話よ。それもものすごくくわしく話す
の。どんな風に服を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分が
どんな風に濡れて、どんな風に入れられて、それがどれくらい素敵
だったかっていうようなことを実に克明に私にしゃべるわけ。それ
で私、ねえ、どうして今になってそんな話するのよ、急にって訊い
たの。だってそれまであの子、セックスのことってそんなにあから
さまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みた
いなことでセックスのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしい
ことは絶対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急にべらべ
らしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ、そりゃ。﹃ただなんと
なく話したくなったの﹄って直子は言ったわ。﹃べつにレイコさん
が聞きたくないならもう話さないけど﹄
﹃いいわよ、話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいな
さいよ。聞いてあげるから﹄って私は言ったの。
﹃彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいか
よくわかんないくらいだったの﹄って直子が言ったわ。﹃私始めて
だったし。濡れてたからするっと入ったことは入ったんだけど、と
にかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方
まで入れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げ
させて、もっと奥まで入れちゃったの。するとね、体中がひやっと
冷たくなったの。まるで氷水につけられみたいに。手と脚がじんと
しびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死
んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思った
わ。でも彼は私が痛がっていることを知って、奥の方に入れたまま
もうそれ以上動かさないで、私の体をやさしく抱いて髪とか首とか
胸とかにずっとキスしてくれたの、長いあいだ。するとね、だんだ
ん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始
めて……ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らしいのよ。頭の中
がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたまま、
一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ﹄
﹃そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やっ
てればよかったんじないの?﹄って私言ったの。
﹃でも駄目なのよ、レイコさん﹄って直子は言ったわ。﹃私に
はそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまった
ものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一
度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。
やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ﹄
もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性に
は起こりがちなことで、年を取れば自然になおっていくのが殆んど
なんだって。それに一度うまく行ったんだもの心配することないわ
よ。私だって結婚した当初はいろいろとうまくいかないで大変だっ
たのよって。
﹃そうじゃないの﹄と直子は言ったわ。﹃私何も心配してない
のよ、レイコさん。私はただもう誰にも私の中に入ってほしくない
だけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの﹄﹂
僕はビ︱ルを飲んでしまい、レイコさんは二本目の煙草を吸っ
てしまった。猫がレイコさんの膝の上でのびをし、姿勢をかえてか
らまた眠ってしまった。レイコさんは少し迷っていたが三本目をく
わえて火をつけた。
﹁それから直子はしくしく泣き出したの﹂とレイコさんは言っ
た。﹁私は彼女のベットに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかも
うまく行くからって言ったの。あなたみたいに若くてきれいな女の
子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけないわよって。暑い夜
で直子は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れてたんで、私はバスタ
オル持ってきて、あの子の顔やら体やらを拭いてあげたの。パンツ
までぐっしょりだたから、あなたちょっと脱いじゃなさいよって脱
がせて……ねえ、変なんじゃないのよ。だって私たちずっと一緒に
お風呂だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし﹂
﹁わかってますよ、それは﹂と僕は言った。
﹁抱いてほしいって直子は言ったの。こんな暑いのに抱けやし
ないわよって言ったんけど、これでもう最後だからって言うんだで
抱いたの。体をバスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにし
て、しばらく。そして落ちついてきたらまた汗を拭いて、寝巻を着
せて、寝かしつけたの。すぐにぐっすり寝ちゃったわ。あるいは寝
たふりしたのかもしれないけど。でもまあどっちにしても、すごく
可愛い顔してたわよ。なんだか生まれてこのかた一度も傷ついたこ
とのない十三か十四の女の子みたいな顔してね。それを見てから私
も眠ったの、安心して。
六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻を脱ぎ捨
ててあって、服と運動靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐
中電灯がなくなってたの。まずいなって私そのとき思ったわよ。だ
ってそうでしょ、懐中電灯持って出てったってことは暗いうちにこ
こを出ていったっていうことですものね。そして念のために机の上
なんかを見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。﹃洋服は全部レ
イコさんにあげて下さい﹄って。それで私すぐみんなのところに行
って手わけして直子を探してって言ったの。そして全員で寮の中か
らまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに五時間
かかったわよ。あの子、自分でちゃんとロ︱プまで用意してもって
きていたのよ﹂
レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。
﹁お茶飲みますか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁ありがとう﹂と彼女は言った。
僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近
く、日の光ずいぶん弱くなり、木々の影が長く我々の足もとにまで
のびていた。僕はお茶を飲みながら、山吹やらつつじやら南天やら
を思いつきで出鱈目に散らばしたような奇妙に雑然とした庭を眺め
ていた。
﹁それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私
は警官にいろいろと事情を訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊
かないわよ。一応遺書らしき書き置きはあるし、自殺だってことは
はっきりしてるし、それあの人たち、精神病の患者なんだから自殺
くらいするだろうって思ってるのよ。だからひととおり形式的に訊
くだけなの。警察が帰ってしまうと私すぐ電報打ったの、あなた
に﹂
﹁淋しい葬式でしたね﹂と僕は言った。﹁すごくひっそりし
て、人も少なくて。家の人は僕が直子の死んだことどうして知った
のかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だっ
てわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじや
なかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、
すぐ旅行に出ちゃったんです﹂
﹁ねえワタナベ君、散歩しない?﹂とレイコさんが言った。
﹁晩ごはんの買物でも行きましょうよ。私おなか減ったきちゃった
わ﹂
﹁いいですよ、何か食べたいものありますか?﹂
﹁すき焼き﹂と彼女は言った。﹁だって私、鍋ものなんて何年
も何年も食べてないんだもの。すき焼きなんて夢にまで見ちゃった
わよ。肉とネギと糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入って、ぐつぐつ
と︱︱﹂
﹁それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんです
よ、うちには﹂
﹁大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてく
るから﹂
彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とガスこん
ろと長いゴム?ホ︱スを借りてきた。
﹁どう?たいしたもんでしょう﹂
﹁まったく﹂と僕は感心して言った。
我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃
え、酒屋で比較的まともそうな白ワインを買った。僕は自分で払う
と主張したが、彼女が結局全部払った。
﹁甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の
笑いものだわよ﹂とレイコさんは言った。﹁それに私けっこうちゃ
んとお金持ってるのよ。だがら心配しないでいいの。いくらなんで
も無一文で出てきたりはしないわよ﹂
家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム?ホ︱スを
ひっぱって縁側ですき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイ
コさんハギタ︱?ケ︱スから自分のギタ︱をとりだし、もう薄暗く
なった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるようにゆっくりとバ
ッハのフ︱ガを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いた
り、速く弾いたり、ぶっきら棒に弾いたり、センチメンタルに弾い
たりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに耳を澄ませてい
た。ギタ︱を弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったド
レスを眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらき
らとして、口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影
をふと浮かべたりした。曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空
を眺め、何か考えごとをしていた。
﹁話しかけていいですか?﹂と僕は訊いた。
﹁いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから﹂とレ
イコさんは言った。
﹁レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東
京にいるでしょう?﹂
﹁横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人た
ち、もう私とは関りあわない方がいいのよ。あの人たちにはあの人
たちの新しい生活があるし、私は会えば会っったで辛くなるし。会
わないのがいちばんよ﹂
彼女は空になったセブンスタ︱の箱を丸めて捨て、鞄の中から
新しい箱をとりだし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけな
かった。
﹁私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にい
るのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあ
ったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、
私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ﹂
﹁でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であ
ろうが何であろうがね。そしてこんなことどうでもいいことかもし
れないけれど、レイコさんが直子の服を着てくれていることは僕と
してはとても嬉しいですね﹂
レイコさんはにっこり笑って、ライタ︱で煙草に火をつけた。
﹁あなた年のわりに女の人の喜ばせ方よく知っているのね﹂
僕は少し赤くなった。﹁僕はただ思っていること正直に言って
るだけですよ﹂
﹁わかってるわよ﹂とレイコさんは笑って言った。
そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてす
き焼の用意を始めた。
﹁これ、夢じゃないわよね?﹂とレイコさんはくんくんと匂い
をかぎながら言った。
﹁百パ︱セントの現実のすき焼ですね。経験的に言って﹂と僕
は言った。
我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼を
つつき、ビ︱ルを飲み、そしてごはんを食べた。かもめが匂いをか
ぎつけてやってきたので肉をわけてやった。腹いっぱいになると
と、僕らは二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。
﹁満足しましたか、これで?﹂と僕は訊いた。
﹁とても。申しぶんなく﹂とレイコさんは苦しそうに答えた。
﹁私こんなに食べたのはじめてよ﹂
﹁これからどうします?﹂
﹁一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐし
ゃで洗いたいのよ﹂
﹁いいですよ、すぐ近くにありますから﹂と僕は言った。
﹁ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけ
ど、その緑さんっていう女の子ともう寝たの?﹂とレイコさんが訊
いた。
﹁セックスしたかっていうことですか?してませんよ。いろん
なことがきちんとするまではやらないって決めたんです﹂
﹁もうこれできちんとしたんじゃないかしら﹂
僕はよくわからないというように首を振った。﹁直子が死んじ
ゃったから物事は落ちつくべきところに落ちついちゃったってこ
と?﹂
﹁そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃ
んと決めてたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはい
かないんだって。直子は死ぬことを選んだのよ。あなたもう大人な
んだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そ
うしないと何もかも駄目になっちゃわよ﹂
﹁でも忘れられないですよ﹂と僕は言った。﹁僕は直子にずっ
と君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結
局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。これは誰のせいだとか誰
のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕自身の問題なんで
す。たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思いま
す。直子はやはり死を選んだだろうと思います。でもそれとは関係
なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさん
はそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直
子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば
我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんです﹂
﹁あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じ
るのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつ
づけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさ
い。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの
痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたり
したら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだ
ろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私
はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまできたのよ。
はるばるあんた棺桶みたいな電車に乗って﹂
﹁レイコさんの言ってることはよくわかりますよ﹂と僕は言っ
た。﹁でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。ねえ、あれ
は本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃな
いですよ﹂
レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。﹁私たちみんない
つかそんな風に死ぬのよ。私もあなたも﹂

僕らは川べりの道を五分ほど歩いて風呂屋に行き、少しさっぱ
りとした気分で家に戻ってきた。そしてワインの栓を抜き、縁側に
座って飲んだ。
﹁ワタナベ君、グラスもう一個持ってきてくれない?﹂
﹁いいですよ。でも何するんですか?﹂
﹁これから二人で直子のお葬式するのよ﹂とレイコさんは言っ
た。﹁淋しくないやつさ﹂
僕はグラスを持ってくると、レイコさんはそれになみなみとワ
インを注ぎ、庭の灯籠の上に置いた。そして縁側に座り、柱にもた
れてギタ︱を抱え、煙草を吸った。
﹁それからマッチがあったら持ってきてくれる?なるべく大き
いのがいいわね﹂
僕は台所から徳用マッチを持ってきて、彼女のとなりに座っ
た。
﹁そして私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれ
る?私いまから弾けるだけ弾くから﹂
彼女はまずヘンリ︱?マンシ︱ニの﹃ディア?ハ︱ト﹄をとて
も綺麗に静かに弾いた。﹁このレコ︱ドあなたが直子にプレゼント
したんでしょう?﹂
﹁そうです。一昨年のクリスマスにね。あの子はこの曲がとて
も好きだったから﹂
﹁私も好きよ、これ。とても優しくて﹂彼女は﹃ディア?ハ︱
ト﹄のメロディ︱をもう一度何小節か軽く弾いてからワインをすす
った。﹁さて酔払っちゃう前に何曲弾けるかな。ねえ、こういうお
葬式だと淋しくなくていいでしょう?﹂
レイコさんはビ︱トルズに移り、﹃ノルウェイの森﹄を弾き、
﹃イエスタディ﹄を弾き、﹃ミシェン?ザ?ヒル﹄を弾き、﹃サム
シング﹄を弾き、﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄を唄いながら弾き、
﹃フ︱ル?オン?ザ?ヒル﹄を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べ
た。
﹁七曲﹂とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかし
た。﹁この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうもの
をよく知っているわね﹂
この人たちというのはもちろんジョン?レノンとボ︱ル?マッ
カ︱トニ︱、それにジョ︱ジ?ハリソンのことだった。
彼女は一息ついて煙草を消してからまたギタ︱をとって﹃ペニ
︱?レイン﹄を弾き、﹃ブランク?バ︱ド﹄を弾き、﹃ジュリア﹄
を弾き、﹃六十四になったら﹄を弾き、﹃ノ︱ホエア?マン﹄を弾
き、﹃アンド?アイ?ラブ?ハ︱﹄を弾き、﹃ヘイ?ジェ︱ド﹄を
弾いた。
﹁これで何曲になった?﹂
﹁十四曲﹂と僕は言った。
﹁ふう﹂と彼女はため息をついた。﹁あなた一曲くらい何か弾
けないの?﹂
﹁下手ですよ﹂
﹁下手でいいのよ﹂
僕は自分のギタ︱を持ってきて﹃アップ?オン?ザ?ル︱フ﹄
をたどたどしくではあるけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一
服してゆっくり煙草を吸い、ワインをすすっていた。僕が弾き終わ
ると彼女はぱちぱちと拍手した。
それからレイコさんはギタ︱用に編曲されたラヴェルの﹃死せ
る女王のためのバヴァ︱ヌ﹄とドビッシ︱の﹃月の光﹄を丁寧に綺
麗に弾いた。﹁この二曲は直子が死んだあとでマスタ︱したのよ﹂
とレイコさんは言った。﹁あの子の音楽の好みは最後までセンチメ
ンタリズムという地平をはなれなかったわね﹂
そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。﹃クロ︱ス?ト
ゥ?ユ︱﹄﹃雨に濡れても﹄﹃ウォ︱ク?オン?バイ﹄﹃ウェディ
ングベル?ブル︱ス﹄。
﹁二十曲﹂と僕は言った。
﹁私ってまるで人間ジュ︱ク?ボックスみたいだわ﹂とレイコ
さんは楽しそうに言った。﹁音大のとき先生がこんなのみたらひっ
くりかえっちゃうわよねえ﹂
彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っ
ている曲を弾いていった。ボサ?ノヴァを十曲近く弾き、ロジャ︱
ス=ハ︱トやガ︱シュインの曲を弾き、ボブ?ディランやらレイ?
チャ︱ルズやらキャロル?キングやらビ︱チボ︱イスやらティ︱ビ
︱?ワンダ︱やら﹃上を向いて歩こう﹄やら﹃ブル︱?ベルベッ
ト﹄やら﹃グリ︱ン?フ︱ルズ﹄やら、もうとにかくありとあらゆ
る曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、メロディ
︱にあわせてハミングしたりした。
ワインがなくなると、我々はウィスキ︱を飲んだ。僕は庭のグ
ラスの中のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキ︱を注
いだ。
﹁今これで何曲かしら?﹂
﹁四十八﹂と僕は言った。
レイコさんは四十九曲目に﹃エリナ?リグビ︱﹄を弾き、五十
曲目にもう一度﹃ノルウェイの森﹄を弾いた。五十曲弾いてしまう
とレイコさんは手を休め、ウィスキ︱を飲んだ。﹁これくらいやれ
ば十分じゃないあしら?﹂
﹁十分です﹂と僕は言った。﹁たいしたもんです﹂
﹁いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱ
り忘れなさい﹂とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。﹁この
お葬式のことだけを覚えていなさい。素敵だったでしょう?﹂
僕は肯いた。
﹁おまけ﹂とレイコさんは言った。そして五十一曲目にいつも
のバッハのフ︱ガを弾いた。
﹁ねえワタナベ君、私とあれやろうよ﹂と弾き終わったあとで
レイコが小さな声で言った。
﹁不思議ですね﹂と僕は言った。﹁僕も同じこと考えてたんで
す﹂
カ︱テンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあた
り前のことのように抱きあい、お互いの体を求めあった。僕は彼女
のシャツを脱がせ、下着をとった。
﹁ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下
の男の子にパンツ脱がされることになると思いもしなかったわね﹂
とレイコさんは言った。
﹁じゃあ自分で脱ぎますか?﹂と僕は言った。
﹁いいわよ、脱がせて﹂と彼女は言った。﹁でも私しわだらけ
だからがっかりしないでよ﹂
﹁僕、レイコさんのしわ好きですよ﹂
﹁泣けるわね﹂とレイコさんは小さな声で言った。
僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌で
なぞった。そして少女のような薄い乳房に手をあて、乳首をやわら
かく噛み、あたたかく湿ったヴァギナに指をあててゆっくりと動か
した。
﹁ねえ、ワタナベ君﹂とレイコさんが僕の耳もとで言った。
﹁そこ違うわよ。それただのしわよ﹂
﹁こういうときにも冗談しか言えないんですか?﹂と僕はあき
れて言った。
﹁ごめんなさい﹂とレイコさんは言った。﹁怖いのよ、私。も
うずっとこれやってないから。なんだか十七の女の子が男の子の下
宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ﹂
﹁ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ﹂
僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、
乳首をつまんだ。そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく
震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に
入った。
﹁ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?﹂
とレイコさんは小さな声で僕に訊いた。﹁この年で妊娠すると恥か
しいから﹂
﹁大丈夫ですよ。安心して﹂と僕は言った。
ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をつい
た。僕は彼女の背中をやさしくさするように撫でながらペニスを何
度か動かして、そして何の予兆もなく突然射精した。それは押しと
どめようのない激しい射精だった。僕は彼女にしがみついたまま、
そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。
﹁すみません。我慢できなかったんです﹂と僕は言った。
﹁馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの﹂とレイコさんは
僕のお尻を叩きながら言った。﹁いつもそんなこと考えながら女の
子とやってるの?﹂
﹁まあ、そうですね﹂
﹁私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさ
い。好きなときに好きなだけ出しなさいね。ど う、気持良か っ
た?﹂
﹁すごく。だから我慢できなかったんです﹂
﹁我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、。私もすご
く良かったわよ﹂
﹁ねえ、レイコさん﹂と僕は言った。
﹁なあに?﹂
﹁あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らし
いのにもったいないという気がしますね﹂
﹁そうねえ、考えておくわ、それ﹂とレイコさんは言った。
﹁でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?﹂
僕は少し後でもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。
レイコさんは僕の下で息を呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を
抱いて静かにペニスを動かしながら、二人でいろんな話をした。彼
女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。僕が冗談を言
って彼女がすくすく笑うと、その震動がペニスにつたわってきた。
僕らは長いあいだずっとそのまま抱きあっていた。
﹁こうしてるのってすごく気持良い﹂とレイコさんは言った。
﹁動かすのも悪くないですよ﹂と僕は言った。
﹁ちょっとやってみて、それ﹂
僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわす
ようにしてその感触を味わい、味わい尽くしたところで射精した。
結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさ
んは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく
震わせていた。
﹁私もう一生これやんなくていいわよね?﹂とレイコさんは言
った。﹁ねえ、そう言ってよ、お願い。残りの人生のぶんはもう全
部やっちゃったから安心しなさいって﹂
﹁誰にそんなことがわかるんですか?﹂と僕は言った。

僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイ
コさんは汽車で行くと主張した。
﹁私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわ
よ﹂と彼女は言った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。彼女は
ギタ︱?ケ︱スを持ち、二人でプラットフォ︱ムのベンチに並んで
座って列車が来るのを待っていた。彼女は東京に来たときと同じツ
イ︱ドのジャケットを着て、白いズボンをはいていた。
﹁旭川って本当にそれほど悪くないと思う?﹂とレイコさんが
訊いた。
﹁良い町です﹂と僕は言った。﹁そのうちに訪ねていきます﹂
﹁本当?﹂
僕は肯いた。﹁手紙書きます﹂
﹁あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あん
ないい手紙だったのにね﹂
﹁手紙なんてただの紙です﹂と僕は言った。﹁燃やしちゃって
も心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らない
んです﹂
﹁正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くの
が。だから手紙書いてね。あなたの手紙を読むといつもあなたがと
なりにいるような気がするの﹂
﹁僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。
レイコさんならどこにいてもきっとうまくやれますよ﹂
﹁それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気が
するんだけれど、これは錯覚かしら?﹂
﹁残存記憶です、それは﹂と僕は言って笑った。レイコさんも
笑った。
﹁私のこと忘れないでね﹂と彼女は言った。
﹁忘れませんよ、ずっと﹂と僕は言った。
﹁あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこ
に行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ﹂
僕はレイコさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼
女に口づけした。まわりを通りすぎる人たちは僕たちのことをじろ
じろとみていたけれど、僕にはもうそんなことは気にならなかっ
た。我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはな
らなかったのだ。
﹁幸せになりなさい﹂と別れ際にレイコさんは僕に言った。
﹁私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以
上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直
子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね﹂
我々は握手をして別れた。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すこ
とがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世
界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何も
かもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細か
い雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕
がそのあいだガラス窓にずっと押しつけて目を閉じていた。それか
らやがて緑が口を開いた。﹁あなた、今どこにいるの?﹂と彼女は
静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐ
るりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこな
のか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここは
どこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく
無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中で緑を
呼びつづけていた。
あとがき
僕は原則的に小説にあとがきをつけることを好まないが、おそ
らくこの小説はそれを必要とするだろうと思う。
まず第一に、この小説は五年ほど前に僕が書いた﹃螢﹄という
短篇小説︵﹃螢?納屋を焼く?その他の短編﹄に収録されている︶
が軸になっている。僕はこの短篇をベ︱スにして四百字詰三百枚く
らいのさらりとした恋愛小説を書いてみたいとずっと考えていて、
﹃世界の終わりとハ︱ドボイルド?ワンダ︱ランド﹄の次の長篇に
とりかかる前のいわば気分転換にやってみようというくらいの軽い
気持でとりかかったのだが、結果的には九百枚に近い、あまり﹁軽
い﹂とは言い難い小説になってしまった。たぶんこの小説は僕が思
っていた以上に書かれることを求めていたのだろうと思う。
第二に、この小説はきわめて個人的な小説である。﹃世界の終
り……﹄が自伝的であるというのと同じ意味あいで、F?スコッ
ト?フィッツジェラルドの﹃夜はやさし﹄と﹃グレ︱ト?ギャツビ
イ﹄が僕にとって個人的な小説であるというのと同じ意味あいで、
個人的な小説である。たぶんそれはある種のセンティメントの問題
であろう。僕という人間が好まれたり好まれなかったりするよう
に、この小説もやはり好まれたり好まれなかったりするだろうと思
う。僕としてはこの作品が僕という人間の質を凌駕して存続するこ
とを希望するだけである。
第三にこの小説は南ヨ︱ロッパで書かれた。一九八六年六年十
二月二十一日にギリシャ、ミコノス島のヴィラで書き始められ、一
九八七年三月二十七日にロ︱マ郊外のアパ︱トメント?ホテルで完
成された。日本を離れたことがこの小説にどう作用しているのかは
僕には判断できない。何か作用しているような気もするし、何も作
用していないような気もする。ただ電話も来客もなく仕事に熱中で
きたことは大変にありがたかった。この小説の前半はギリシャで、
途中シシリ︱をはさんで、後半はロ︱マで書かれている。アテネの
安ホテルの部屋にはテ︱ブルというものがなくて、僕は毎日おそろ
しくうるさいタペルナに入って、ウォ︱クマンで﹃サ︱ジャンと?
ペパ︱ズ?ロンリ︱?ハ︱ツ?クラブ?バンド﹄のテ︱ブを百二十
回くらいくりかえして聴きながらこの小説を書きつづけた。そうい
う意味ではこの小説はレノン?マッカ︱トニ︱のa little helpを受けて
いる。
第四に、この小説は僕の死んでしまった何人かの友人と、生き
つづけている何人かの友人に捧げられる。
一九八七年六月
村上春樹
以下作品由东瀛志制作
製作軟體:天火藏書排版系統
網 址:http://ebook.cdict.info
字型資訊:黑體 DroidSansFallback
製作日期:2017/02/07
製作時間:15:53:17
連線位置:113.247.4.150

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