ノルウェイの森

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︻以下作品由 瀛志制作︼

僕は三十七歳で、そのときボ︱イング747のシ︱トに座っていた。その
巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸
しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、
雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、
BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のよ
うに見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピ︱カ︱
から小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオ︱ケストラが甘く
演奏するビ︱トルズの ﹃ノルウェイの森﹄だった。そしてそのメロディ︱
はいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないく
らい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、
そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワ︱デスがやってきて、気
分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は
答えた。
﹁本当に大丈夫?﹂
﹁大丈夫です、ありがとう﹂と僕は言った。スチュワ︱デスはにっこり
と笑って行ってしまい音楽はビリ︱?ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げ
て北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で
失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去って
いった人々、もう戻ることのない想い。
飛行機が完全にストップして、人々がシ︱トベルトを外し、物入れの中
からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中に
いた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六
九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。
前と同じスチュワ︱デスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大
丈夫かと訊ねた。
﹁大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから︵It﹄s all
right now. Thank you. I only felt lonely, you know.︶﹂と僕は言って微笑
んだ。
﹁Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you
mean.︵そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります︶﹂彼女は
そう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてく
れた。﹁I hope you﹄ll have a nice trip. Auf Wiedersehen! ︵よい御旅行
を。さようなら︶﹂
﹁Auf Wiedersehen! ﹂と僕も言った。
十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景
をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏の
あいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、
十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青
い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くな
るほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に
抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こ
えた。まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声
だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には届
かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中か
ら何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけた
だけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。
記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置い
ていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象
的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えてい
るかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕に
は風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考
え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と
彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても
何を感じても何を考えても、結局すべてはブ︱メランのように自分自身の
手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その
恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を
向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。
でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂
い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがま
ず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりと
しているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらい
だ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいな
いし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思
う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたも
のは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだ
ろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕
が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。
もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小
さな冷たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわら
かな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく
着ていた上品なキャメルのコ︱トや、いつも相手の目をじっとのぞきこみな
がら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声︵まるで強風
の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった︶や、そんなイメ︱ジをひとつ
ひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。
まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩
いていたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔な
のだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話し
かけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚
の影を探し求めるみたいに。
でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し
時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長
くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は五秒あ
れば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで
夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の
中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っ
ていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自
身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけ
が、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシ︱ンみ
たいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は
僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここ
にいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかと
いうその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろ
な音がするだけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろ
う。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港の
ルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴り
つづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いてい
る。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解
できないというタイプの人間なのだ。
彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?
そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に
存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか
存在しないイメ︱ジなり記号であったのかもしれない︱︱あの暗い日々に
彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。でも直子
がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその井戸の姿なしには草原の
風景を思いだすことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではな
い井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の
中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描
写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど
境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メ︱トルばかりの暗
い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった
石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさ
らされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちてい
る。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見
える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に
唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつ
かないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が︱︱世の中のあらゆる種
類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が︱︱つまっている。
﹁それは本当に︱︱本当に深いのよ﹂と直子は丁寧に言葉を選び
ながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求め
ながらとてもゆっくりと話すのだ。﹁本当に深いの。でもそれが何処にある
かは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれ
ど﹂
彼女はそう言うとツイ︱ドの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕
の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。
﹁でもそれじゃ危くってしようがないだろう﹂と僕は言った。﹁どこか
に深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落
っこっちゃったらどうしようもないじゃない か﹂
﹁どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだも
の﹂
﹁そういうのは実際には起こらないの?﹂
﹁ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくな
っちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は
言うの、あれは野井戸に落っこちたんだって﹂
﹁あまり良い死に方じゃなさそうだね﹂と僕は言った。
﹁ひどい死に方よ﹂と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払
って落とした。﹁そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれ
ど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。
声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込
みもないし、まわりにはムカデやクモやらがうようよいるし、そこで死んでい
った人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしてい
て。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かん
でいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの﹂
﹁考えただけで身の毛がよだった﹂と僕が言った。﹁誰かが見つけ
て囲いを作るべきだよ﹂
﹁でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとし
た道を離れちゃ駄目よ﹂
﹁離れないよ﹂
直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。﹁でも大丈夫よ、
あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法に
このへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあ
なたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの﹂
﹁絶対に?﹂
﹁絶対に﹂
﹁どうしてそんなことがわかるの?﹂
﹁私にはわかるのよ。ただわかるの﹂直子は僕の手をしっかりと握っ
たままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。﹁その手のことって
私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。
たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖く
ないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ﹂
﹁じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか﹂と僕は言
った。
﹁それ︱︱本気で言ってるの?﹂
﹁もちろん本気だ﹂
直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあて
て正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒
な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が
長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背のびをして僕の
頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて
素敵な仕草だった。
﹁ありがとう﹂と直子は言った。
﹁どういたしまして﹂と僕は言った。
﹁あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ﹂と彼女は哀
しそうに微笑しながら言った。﹁でもそれはできないのよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは︱
︱﹂と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな
思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕
も口をはさまずにそのとなりを黙って歩いた。
﹁それは︱︱正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとって
も﹂とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。
﹁どんな風に正しくないんだろう?﹂と僕は静かな声で訊ねてみた。
﹁だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと
不可能だからよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あ
なたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行ってるあいだいった
い誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に行っているあいだいったい誰
が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?
ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでし
ょう? そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていった
い何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの
嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ﹂
﹁これが一生つづくわけじゃないんだ﹂と僕は彼女の背中に手をあ
てて、言った。﹁いつか終る。終ったところで僕らはもう一度考えなおせば
いい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助け
てくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃな
い。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どう
してそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩のカを抜きなよ。肩に
カが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のカを抜けば
もっと体が軽くなるよ﹂
﹁どうしてそんなこと言うの?﹂と直子はおそろしく乾いた声で言っ
た。
彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいな
と思った。
﹁どうしてよ?﹂と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。
﹁肩のカを抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんな
こと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今
肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風に
してしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけない
のよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって
︱︱どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?そ
れがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?﹂
僕は黙っていた。
﹁私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、
冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりした
のよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?﹂
我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終り
に死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でば
りばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、
地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。
﹁ごめんなさい﹂と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何
度か首を振った。﹁あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと
気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただ
けなの﹂
﹁たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う﹂と
僕は言った。﹁僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間が
かかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そう
なれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う﹂
僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉
の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげ
たりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなく
じっと考えごとをしていた。
﹁ねえワタナベ君、私のこと好き?﹂
﹁もちろん﹂と僕は答えた。
﹁じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?﹂
﹁みっつ聞くよ﹂
直子は笑って首を振った。﹁ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひと
つはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝し
てるんだということをわかってほしいの。とても嬉しいし、とても︱︱救われ
るのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ﹂
﹁また会いにくるよ﹂と僕は言った。﹁もうひとつは?﹂
﹁私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとな
りにいたことをずっと覚えていてくれる?﹂
﹁もちろんずっと覚えているよ﹂と僕は答えた。
彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてく
る秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞
こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直
子は小さな丘のように盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだら
かな坂を足速に下った。僕はその二、三歩あとをついて歩いた。
﹁こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ﹂と僕は
彼女の背中に声をかけた。
直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして
我々は残りの道を二人で並んで歩いた。
﹁本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?﹂と彼女は小
さな囁くような声で訊ねた。
﹁いつまでも忘れないさ﹂と僕は言った。﹁君のことを忘れられるわ
けがないよ﹂

それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既
に忘れてしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はとき
どきひどく不安な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な
部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の
中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そ
こにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、と。
しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの
全てなのだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不
完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕
はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守るためにはこうする以
外に何の方法もないのだ。
もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子
について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たり
とも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何も
かもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれ
ど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりと
しすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あま
りにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。
でも今はわかる。結局のところ︱と僕は思う︱︱文章という不完全な容器
に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そ
して直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く
彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って
﹁私を忘れないで﹂と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろ
ん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいで
いくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばなら
なかったのだ。﹁私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたこと
を覚えていて﹂と。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛して
さえいなかったからだ。

昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はあ
る学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京の
ことなんて何ひとつ知らなかったし、一人暮しをするのも初めてだったの
で、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついている
し、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生
きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用
は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンド
さえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできる
ことならアパ︱トを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の
入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかっ
た。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたの
だ。
その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高
いコンクリ︱トの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの
木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もと
に立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。
コンクリ︱トの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それ
から再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コン
クリ︱ト三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大き
な建物で、アパ︱トを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパ
︱トみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い
印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカ︱
テンはどの部屋も同じクリ︱ム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。
舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階に
は食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使
うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つ目の
寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンク
ラ︱が太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手
には野球とサッカ︱の兼用グラウンドとテニス?コ︱トが六面ある。至れり
尽せりだ。
この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はある
きわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営さ
れており、その運営方針は︱︱もちろん僕の目から見ればということだが
︱︱かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則
を読めばそのだいたいのところはわかる。﹁教育の根幹を窮め国家にとっ
て有為な人材の育成につとめる﹂、これがこの寮創設の精神であり、そし
てその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向き
の顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なとこ
ろは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為
だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりく
ちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがある
んだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の
閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮
には寮生の中のトップ?エリ︱トをあつめた特権的なクラブのようなもの
があって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者
をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り
就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくて
どれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は﹁とにかく
ここはうさん臭いんだ﹂という点で共通していた。
いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこ
のうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたの
だと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だ
ろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いは
ないのだ。
寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。
スポ︱ツ?ニュ︱スからマ︱チが切り離せないように、国旗掲揚から国歌
は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓から
も見えるようになっている。
国旗を掲揚するのは東棟︵僕の入っている寮だ︶の寮長の役目だ
った。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にい
くらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍
中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。その
となりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。こ
の学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名
前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂
でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわから
ない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうと
しか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が
白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸を
あげるわけだ。
僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの
愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆
んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮
靴、中野学校はジャンパ︱に白の運動靴という格好である。学生服は桐の
薄い箱を持っている。中野学校はソニ︱のポ︱タブル?テ︱プレコ︱ダ︱
を下げている。中野学校がテ︱プレコ︱ダ︱を掲揚台の足もとに置く。学
生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入ってい
る。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がロ︱プに
旗をつける。学生服がテ︱プレコ︱ダ︱のスイッチを押す。
君が代。
そして旗がするするとポ︱ルを上っていく。
﹁さざれ石のお︱︱﹂というあたりで旗はポ︱ルのまん中あたり、
﹁まあで︱︱﹂というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をし
ゃんとのばして︵気をつけ︶の姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空
が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかなかの光景である。
夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこな
われる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の
箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。
どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由が
わからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いて
いる人だって沢山いる。線路工夫やタクシ︱の運転手やバ︱のホステスや
夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受け
ることができないというのは、どうも不公平であるような気がした。でもそん
なのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶん
そんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだ
ろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを
深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。
寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人
部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくら
いの広さで、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中
あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄
製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたも
のだった。机とベッドの他にはロッカ︱がふたつ、小さなコ︱ヒ︱?テ︱ブ
ルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空
間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ド
ライヤ︱と電気ポットと電熱器とインスタント?コ︱ヒ︱とティ︱?バッグと
角砂糖とインスタント?ラ︱メンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか
並んでいる。しっくいの壁には﹁平凡パンチ﹂のビンナップか、どこかから
はがしてきたポルノ映画のポスタ︱が貼ってある。中には冗談で豚の交尾
の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど
部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。
机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。
男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかび
のはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻
が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコ︱ヒ︱かビ︱ルかそんなも
のをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。食器はど
れも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりつい
ているし、床にはインスタント?ラ︱メンのセロファン?ラップやらビ︱ルの
空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めて
ちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が
吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂
いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構
成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどん
どんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていない
から布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そん
なカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕
は不思議に思っている。
でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。床
にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干さ
れ、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カ︱テンさえ月に一回は洗濯され
た。僕の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に
﹁あいつカ︱テンまで洗うんだぜ﹂と言ったが誰もそんなことは信じなか
った。カ︱テンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カ
︱テンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じて
いたのだ。﹁あれ異常性格だよ﹂と彼らは言った。それからみんなは彼の
ことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。
僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアム
ステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌ︱ド写真を貼ると﹁ね
え、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ﹂と言って
それをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌ︱ド写真を
貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕の部屋
に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て﹁なんだ、これ?﹂と
言った。﹁突撃隊はこれ見ながらマスタ︱ベ︱ションするんだよ﹂と僕は
言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまっ
た。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうな
のかもしれないと思うようになった。
みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕
自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを
清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえっ
て楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してく
れたし、ゴミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風呂に入らないと
くんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床
屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が
一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレ︱をまきちらすことで、そういうとき
僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。
突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。
﹁僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ﹂と最初に会ったとき、彼
は僕にそう言った。
﹁地図が好きなの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ﹂
なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと
僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したこと
のひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が少
しくらいいないことには︱︱あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど︱
︱それは困ったことになってしまう。しかし﹁地図﹂という言葉を口にする
たびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何
かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、
﹁地図﹂という言葉が出てくると百パ︱セント確実にどもった。
﹁き、君は何を専攻するの?﹂と彼は訊ねた。
﹁演劇﹂と僕は答えた。
﹁演劇って芝居やるの?﹂
﹁いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけ
さ。ラシ︱ヌとかイヨネスコとか、シェ︱クスビアとかね﹂
シェ︱クスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。
僕だって殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。
﹁でもとにかくそういうのが好きなんだね?﹂と彼は言った。
﹁別に好きじゃないよ﹂と僕は言った。
その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとて
も悪いことをしてしまったような気がした。
﹁なんでも良かったんだよ、僕の場合は﹂と僕は説明した。﹁民族学
だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったん
だ、気が向いたのが。それだけ﹂しかしその説明はもちろん彼を納得させ
られなかった。
﹁わからないな﹂と彼は本当にわからないという顔をして言った。
﹁ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してる
わけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをして
もらってるわけだよ。でも君はそうじゃないって言うし……﹂
彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それ
から我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段
で僕が下段だった。
彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセ︱タ︱という格好だっ
た。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学
生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だった
し、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを
言えば彼は政治に対しては百パ︱セント無関心だった。洋服を選ぶのが
面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱く
のは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の
出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつ
っかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしま
うかするまでしゃべりつづけていた。
毎朝六時に﹁君が代﹂を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あ
のこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわ
けではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにす
ごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないか
という気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオル
のしわをきちんとのばしてスチ︱ムの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を
棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始める。
僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、
彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっす
りと眠りこんでいることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の
部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけ
にはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに︱︱それも実に高く
跳躍した︱︱その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、
僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だと言いきか
されていたからだ。しかし四日目の朝、僕はもうこれ以上は我慢できないと
いう結論に達した。
﹁悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな﹂と
僕はきっぱりと言った。
﹁それやられると目が覚めちゃうんだ﹂
﹁でももう六時半だよ﹂と彼は信じられないという顔をして言った。
﹁知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる
時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ﹂
﹁駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下
の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし﹂
﹁じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で﹂
﹁それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃないから
さ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないん
だよ﹂
たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはト
ランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と
僕は思った。
﹁じゃあ歩み寄ろう﹂と僕は言った。﹁ラジオ体操をやってもかまわ
ない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいか
ら。それでいいだろ?﹂
﹁ちょ、跳躍?﹂と彼はびっくりしたように訊きかえした。﹁跳躍ってな
んだい、それ?﹂
﹁跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ﹂
﹁そんなのないよ﹂
僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言
いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操
第一のメロディ︱を唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。
﹁ほら、これだよ、ちゃんとあるだろう?﹂
﹁そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった﹂
﹁だからさ﹂と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。﹁そこの部分
だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のとこ
ろだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな﹂
﹁駄目だよ﹂と彼は実にあっさりと言った。﹁ひとつだけ抜かすって
わけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、
む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来な
くなっちゃう﹂
僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちば
ん手っ取り早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあいだに窓から
放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたよう
な騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端
に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しくベッドに腰かけてい
ると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。
﹁ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ﹂と彼は言
って、それから朝食を食べに行ってしまった。

僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。
笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔
を見るのは︱︱それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど︱︱
本当に久しぶりだった。
僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方
に向けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと
降ったりやんだりしていた雨も昼前には完全にあがり、低くたれこめていた
うっとうしい雨雲は南からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮
かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させてい
た。日射しはもう初夏のものだった。すれちがう人々はセ︱タ︱や上着を脱
いて肩にかけたり腕にかかえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日
差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニ
ス?コ︱トでは若い男がシャツを脱いでショ︱ト?ハンツ一枚になってラケ
ットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒
い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ
届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日
なたでの会話を楽しんでいた。
十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツ
を脱いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレ︱のトレ︱ナ︱?シャツの
袖を肘の上までたくしあげていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感
じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを
見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではな
い。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多く
のことを覚えていたわけではなかった。
﹁共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?﹂と
直子は訊ねた。
﹁よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね﹂と僕
は言った。﹁でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなこ
とはないな﹂
彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、
ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかが
めて注意深く靴の紐をしめなおした。
﹁ねえ、私にもそういう生活できると思う?﹂
﹁共同生活のこと?﹂
﹁そう﹂と直子は言った。
﹁どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構
あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人
は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったっ
て同じだと思えば、とりたてて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと
思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ﹂
﹁そうね﹂と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせている
ようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。
よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそん
なすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えて
みれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩く
のも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。
﹁寮か何かに入るつもりなの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁ううん、そうじゃないのよ﹂と直子は言った。﹁ただ私、ちょっと考え
てたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつま
り……﹂、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結
局それはみつからなかったようだった。彼女はため息をついて目を伏せ
た。﹁よくわからないわ、いいのよ﹂
それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はそ
の少しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年の
あいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬
の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても
骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方
はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと
身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。
そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれに
ついて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかっ
たので結局は何も言わなかった。
我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は
中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思
って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらも
たいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、
我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことな
のだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話しあうべき話題なんてと
くに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕に
は全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。
駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめ
た。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に
一メ︱トルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思え
ば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかっ
た。僕は直子の一メ︱トルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を
見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小
さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うま
く答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこ
ともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、
僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたい
だった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて
歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあき
らめた。
しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は
飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお
茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒
込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈ん
でいた。穏かな春の夕暮だった。
﹁ここはどこ?﹂と直子がふと気づいたように訊ねた。
﹁駒込﹂と僕は言った。﹁知らなかったの? 我々はぐるっと回った
んだよ﹂
﹁どうしてこんなところに来たの?﹂
﹁君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ﹂
我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕
は一人でビ︱ルを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをき
かなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテ︱ブ
ルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでいた。TVのニュ︱スが今日
の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして我々は四
ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。
﹁ずいぶん体が丈夫なんだね﹂と僕はそばを食べ終ったあとで言っ
た。
﹁びっくりした?﹂
﹁うん﹂
﹁これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロとか
走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日
曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょ?だから自然に
足腰が丈夫になっちゃったの﹂
﹁そうは見えないけどね﹂と僕は言った。
﹁そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも
人は見かけによらないのよ﹂彼女はそう言ってから付けたすように少しだ
け笑った。
﹁申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ﹂
﹁ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって﹂
﹁でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一
度もなかったものな﹂と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしても
さっぱり思いだせなかった。
彼女はテ︱ブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。
﹁ねえ、もしよかったら︱︱もしあなたにとって迷惑じゃなかったらと
いうことなんだけど︱︱私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言え
る筋合じゃないことはよくわかっているんだけど﹂
﹁筋合?﹂と僕はびっくりして言った。﹁筋合じゃないってどういうこ
と?﹂
彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。
﹁うまく説明できないのよ﹂と直子は弁解するように言った。彼女は
トレ︱ナ︱?シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたも
とに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。﹁筋合なんて言う
つもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの﹂
直子はテ︱ブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダ︱を見
ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期
待して見ているようにも見えた。でももちろんそんなものは見つからなかっ
た。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった。
﹁かまわないよ﹂と僕は言った。﹁君の言おうとしてることはなんと
なくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ﹂
﹁うまくしゃべることができないの﹂と直子は言った。﹁ここのところ
ずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがい
な言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だった
りね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがい
になっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわか
らなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけ
っこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていて
ね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃ
んとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は
絶対にそれに追いつけないの﹂
直子は顔を上げて僕の目を見つめた。
﹁そういうのってわかる?﹂
﹁多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ﹂と僕は言
った。﹁みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてそれで
イライラするんだ﹂
僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。
﹁それとはまた違うの﹂と直子は言ったが、それ以上は何も説明しな
かった。
﹁会うのは全然かまわないよ﹂と僕は言った。﹁どうせ日曜日ならい
つも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね﹂
我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国
分寺に小さなアパ︱トを借りて暮していたのだ。
﹁ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?﹂と別れ際に直子が訊
いた。
﹁少し変ったような気がするね﹂と僕は言った。﹁でも何がどう変っ
たのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわ
りにあまり話をしたという記憶がないから﹂
﹁そうね﹂と彼女もそれを認めた。﹁今度の土曜日に電話かけてい
いかしら?﹂
﹁いいよ、もちろん。待っているよ﹂と僕は言った。

はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二
年生で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強
をすると﹁品がない﹂とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕
にはキズキという仲の良い友人がいて︵仲が良いというよりは僕の文字ど
おり唯一の友人だった︶、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女とは殆ん
ど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二百メ︱トルとは離れていな
かった。
多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係は非常
にオ︱ブンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強く
はないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手
の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったりしていた。僕とダブル?デ︱トし
たことも何回かある。直子がクラス?メ︱トの女の子をつれてきて、四人で
動物園に行ったり、プ︱ルに泳ぎに行ったり、映画を観に行ったりした。で
も正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕
には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話がで
きる公立高校のクラス?メ︱トの女の子たちの方が性にあっていた。直子
のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えて
いるのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のこと
は理解できなかったんじゃないかと思う。
そんなわけでキズキは僕をダブル?デ︱トに誘うことをあきらめ、我々
三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子
と僕の三人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん
気楽だったし、うまくいった。四人目が入ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくし
た。三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストで
あり、直子がアシスタントであるTVのト︱ク番組みたいだった。いつもキズ
キが一座の中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。キズキにはたし
かに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かった
が、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対しても
僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思
いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙っているとそちらにし
ゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だ
ろうなと思ったものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかった
のだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応
していける能力があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の
話から面白い部分をいくつもみつけていくことができるというちょっと得が
たい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は自分がとても面白
い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった。
もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以
外の誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男
がどうしてその能力をもっと広い世界に向けず我々三人だけの小世界に
集中させることで満足していたのか僕には理解できなかった。そしてどうし
て彼が僕を選んで友だちにしたのか、その理由もわからなかった。僕は一
人で本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなどちらかというと平凡な
目立たない人間で、キズキがわざわざ注目して話しかけてくるような他人
に抜きんでた何かを持っているわけではなかったからだ。それでも我々は
すぐに気があって仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと料金の
高さで知られていた。
﹁今度の日曜日、ダブルデ︱トしないか?俺の彼女が女子校なんだ
けど、可愛い女の子つれてくるからさ﹂と知りあってすぐにキズキが言っ
た。いいよ、と僕は言った。そのようにして僕と直子は出会ったのだ。
僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、そ
れでもキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうま
く話をすることができなかった。二人ともいったい何について話せばいいの
かわからなかったのだ。実際、僕と直子のあいだには共通する話題なんて
何ひとつとしてなかった。だから仕方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水
を飲んだりテ︱ブルの上のものをいじりまわしたりしていた。そしてキズキ
が戻ってくるのを待った。キズキが戻ってくると、また話が始まった。直子も
あまりしゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すよりは
相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人きりになると
僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいとかそういうのでは
なく、ただ単に話すことがないのだ。
キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわ
せた。ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済
んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。僕はいくつか話題をみつ
けて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途中で途切れてしまった。それ
に加えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してな
んとなく腹を立てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなか
った。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会う
まで一度も顔を合わせなかった。
あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会っ
て話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は
良くないとは思うけれど、彼女の気持はわかるような気がする。僕としても
できることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう
起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方ない種類のことなの
だ。
その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に午後
の授業はすっぽかして玉でも撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後
の授業に興味があるわけではなかったので学校を出てぶらぶらと坂を下
って港の方まで行き、ビリヤ︱ド屋に入って四ゲ︱ムほど玉を撞いた。最初
のゲ︱ムを軽く僕がとると彼は急に真剣になって残りの三ゲ︱ムを全部勝
ってしまった。約束どおり僕がゲ︱ム代を払った。ゲ︱ムのあいだ彼は冗談
ひとつ言わなかった。これはとても珍しいことだった。ゲ︱ムが終ると我々
は一服して煙草を吸った。
﹁今日は珍しく真剣だったじゃないか﹂と僕は訊いてみた。
﹁今日は負けたくなかったんだよ﹂とキズキは満足そうに笑いながら
言つた。
彼はその夜、自宅のガレ︱ジの中で死んだ。N360の排気パイプにゴ
ムホ︱スをつないで、窓のすきまをガムテ︱プで目ばりしてからエンジンを
ふかせたのだ。死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕にはわか
らない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が帰宅してガレ︱ジに車を
入れようとして扉を開けたとき、彼はもう死んでいた。カ︱?ラジオがつけっ
ぱなしになって、ワイパ︱にはガソリン?スタンドの領収書がはさんであっ
た。
遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をし
たという理由で僕は警察に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまっ
たくありませんでした、いつもとまったく同じでした、と僕は取調べの警官に
言った。警官は僕に対してもキズキに対してもあまり良い印象は持たなか
ったようだった。高校の授業を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺し
たってそれほどの不思議はないと彼は思っているようだった。新聞に小さく
記事が載って、それで事件は終った。赤いN360は処分された。教室の彼の
机の上にはしばらくのあいだ白い花が飾られていた。
キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕は
まわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。
僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。
彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいし
て勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何
の感興もなく入学した。その女の子は僕に東京に行かないでくれと言った
が、僕はどうしても神戸の街を離れたかった。そして誰も知っている人間が
いないところで新しい生活を始めたかったのだ。
﹁あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでもよくなっ
ちゃったんでしょ?﹂と彼女は言って泣いた。
﹁そうじゃないよ﹂と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただ
けなのだ。でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向う新
幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思いだし、自分がとても
ひどいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなか
った。そして僕は彼女のことを忘れることにした。
東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことは
ひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、
あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと︱︱それだけだ
った。僕は緑のフェルトを貼ったビリヤ︱ド台や、赤いN360や机の上の白
い花や、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。火葬
場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の取調べ室に置いてあったずん
ぐりした形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行き
そうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼ
んやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれ
てそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのか
たちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてでは
なく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中に
も、ビリヤ︱ド台の上に並んだ赤と白の四個のボ︱ルの中にも死は存在し
ていた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみ
ながら生きているのだ。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存
在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。し
かし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられること
はないのだ>と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように
思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う
側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死
を︵そして生を︶捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在
なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているの
だし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではない
のだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を
捉えてもいたからだ。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送
っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になる
ことは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとって
いたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそ
んな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それ
は今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかも
が死を中心にして回転していたのだ。

次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデ︱トをした。
たぶんデ︱トと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけ
ない。
我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってコ︱ヒ︱を飲み、
また歩き、夕方に食事をしてさよならと言って別れた。彼女はあいかわらず
ぽつりぽつりとしか口をきかなかったが、べつに本人はそれでかまわない
という風だったし、僕もとくに意識しては話さなかった。気が向くとお互いの
生活や大学の話をしたが、どれもこれも断片的な話で、それが何かにつな
がっていくというようなことはなかった。そして我々は過去の話を一切しな
かった。我々はだいたいひたすらに町を歩いていた。ありがたいことに東京
の町は広く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかった。
我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼女が先
に立ち、僕がその少しうしろを歩いた。直子はいろんなかたちの髪どめを持
っていて、いつも右側の耳を見せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばか
り見ていたせいで、そういうことだけを今でもよく覚えている。直子は恥かし
いときにはよく髪どめを手でいじった。そしてしょっちゅうハンカチで口もと
を拭いた。ハンカチで口を拭くのは何かしゃべりたいことがあるときの癖だ
った。そういうのを見ているうちに、僕は少しずつ直子に対して好感を抱く
ようになってきた。
彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有
名なこぢんまりとした大学だった。彼女のアパ︱トの近くにはきれいな用
水が流れていて、時々我々はそのあたりを散歩した。直子は自分の部屋に
僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋の中で僕と二人きりにな
っても彼女としてはそんなことは気にもしていないみたいだった。余計なも
のが何もないさっぱりとした部屋で、窓際の隅の方にストッキングが干して
なかったら女の子の部屋だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても
質素に簡潔に暮しており、友だちも殆んどいないようだった。そういう生活
ぶりは高校時代の彼女からは想像できないことだった。僕が知っていたか
つての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だちに囲まれていた。そ
んな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学に入って町を
離れ、知っている人が誰もいないところで新しい生活を始めたかったんだ
ろうなという気がした。
﹁私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないか
らなのよ﹂と直子は笑って言った。﹁だからここに入ったの。私たちみんな
もう少しシックな大学に行くのよ。わかるでしょう?﹂
しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかっ
た。少しずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休み
が終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのよう
に、僕のとなりを歩くようになった。それはたぷん直子が僕を一人の友だち
として認めてくれたしるしだろうと僕は思ったし、彼女のような美しい娘と
肩を並べて歩くというのは悪い気持のするものではなかった。我々は二人
で東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、ど
こまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。ただ
歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々はわ
きめもふらず歩いた。雨が降れば傘をさして歩いた。
秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セ︱タ︱を着
ると新しい季節の匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新しいスエ︱ドの
靴を買った。
その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせな
い。たぶんたいした話はしていなかったのだと思う。あいかわらず我々は過
去の話は一切しなかった。キズキという名前は殆んど我々の話題にはのぼ
らなかった。我々はあいかわらずあまり多くはしゃべらなかったし、その頃に
は二人で黙りこんで喫茶店で顔をつきあわせていることにもすっかり馴れ
てしまっていた。
直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。
突撃隊はクラスの女の子︵もちろん地理学科の女の子︶と一度デ︱トし
たが夕方になってとてもがっかりした様子で戻ってきた。それが六月の話
だった。そして彼は僕に﹁あ、あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな
話するの、いつも?﹂と質問した。僕がなんと答えたのかは覚えていない
が、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた。七月に誰かが
彼のいないあいだにアムステルダムの運河の写真を外し、かわりにサンフ
ランシスコのゴ︱ルデン?ブリッジの写真を貼っていった。ゴ︱ルデン?ブ
リッジを見ながらマスタ︱ベ︱ションできるかどうか知りたいというただそ
れだけの理由だった。すごく喜んでやってたぜと僕が適当なことを言うと、
誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真が変るたびに突撃隊
はひどく混乱した。
﹁いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?﹂と彼は言った。
﹁さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやって
るにせよ、ありがたいことじゃない﹂と僕は慰めた。
﹁そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね﹂と彼は言った。
そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少
なかったので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねに
するのはあまり気持の良いものではなかった。彼はただあまり裕福とはい
えない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎなかったのだ。そして地
図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。誰がそれ
を笑いものにできるだろう?
とはいうものの︿突撃隊ジョ︱ク﹀は寮内ではもう既に欠くことので
きない話題のひとつになっていたし、今になって僕が収めようと思ったとこ
ろで収まるものではなかった。そして直子の笑顔を目にするのは僕としても
それなりに嬉しいことではあった。だから僕はみんなに突撃隊の話を提供
しつづけることになった。
直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れ
た女の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今で
もときどきなつかしく思うけれど、どうしてか心が動かされるということがな
かったのだと僕は言った。たぶん僕の心には固い殻のようなものがあっ
て、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う、
と僕は言った。だからうまく人を愛することができないんじゃないかな、と。
﹁これまで誰かを愛したことはないの?﹂と直子は訊ねた。
﹁ないよ﹂と僕は答えた。
彼女はそれ以上何も訊かなかった。
秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はときどき僕
の腕に体を寄せた。ダッフル?コ︱トの厚い布地をとおして、僕は直子の息
づかいをかすかに感じることができた。彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕
のコ︱トのポケットに手をつっこんだり、本当に寒いときには僕の腕にしが
みついて震えたりもした。でもそれはただそれだけのことだった。彼女のそ
んな仕草にはそれ以上の意味は何もなかった。僕はコ︱トのポケットに両
手をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も直子もゴム底
の靴をはいていたので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。道路に落ち
た大きなプラタナスの枯葉を踏むときにだけくしゃくしゃという乾いた音が
した。そんな音を聴いていると僕は直子のことが可哀そうになった。彼女の
求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは
僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はな
んだかうしろめたいような気持になった。
冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるように
なった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれ
といった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこ
んだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持に
なった。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるよう
になった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。い
や、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこ
そ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハ
ンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりして
いるのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあった
が、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃ
ないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の
町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。
寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたり
すると、いつも僕を冷やかした。まあ当然といえば当然のことだが、僕に恋
人ができたものとみんな思いこんでいたのだ。説明のしようもないし、する
必要もないので、僕はそのままにしておいた。夕方に戻ってくると必ず誰か
がどんな体位でやったかとか彼女のあそこはどんな具合だったかとか下
着は何色だったかとか、そういう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加
減に答えておいた。

そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈み、国旗
が上ったり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデ
︱トした。いったい自分が今何をしているのか、これから何をしようとしてい
るのかさっぱりわからなかった。大学の授業でクロ︱デルを読み、ラシ︱ヌ
を読み、エイゼンシュテインを読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴え
かけてこなかった。僕は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、
寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本
を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるよう
だったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何にもな
りたいとは思わなかった。
僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えてい
ることをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたから
だ。しかしそれを表現するための言葉がみつからなかった。変なもんだな、
と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探し病が僕の方に移ってしまっ
たみたいじゃないか、と。
土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビ︱の椅子に座って、直子
からの電話を待った。土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに出ていた
から、ロビ︱はいつもより人も少くしんとしていた。僕はいつもそんな沈黙
の空間にちらちらと浮かんでいる光の粒子を見つめながら、自分の心を見
定めようと努力してみた。いったい俺は何を求めてるんだろう?そしていっ
たい人は俺に何を求めているんだろう?しかし答らしい答は見つからなか
った。僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その
指先は何にも触れなかった。

僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、
気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのは
トル︱マン?カポ︱ティ、ジョン?アップダイク、スコット?フィッツジェラルド、
レイモンド?チャンドラ︱といった作家たちだったが、クラスでも寮でもそう
いうタイプの小説を好んで読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読
むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフランスの
作家の小説が多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で
黙々と本を読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、ときど
き目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その本の香りをかぎ、ペ︱ジに
手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。
十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン?アップダイクの﹃ケン
タウロス﹄だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを
失って、フィッツジェスラルドの﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄にベスト?ワンの地
位をゆずりわたすことになった。そして﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄はその後ず
っと僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が向くと書棚から
﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄をとりだし、出鱈目にペ︱ジを開き、その部分を
ひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられること
はなかった。一ペ︱ジとしてつまらないペ︱ジはなかった。なんて素晴しい
んだろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたいと思った。し
かし僕のまわりには﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を読んだことのある人間なん
ていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すらいなかった。一九六八
年にスコット?フィッツジェラルドを読むというのは反動とまではいかなくと
も、決して推奨される行為ではなかった。
その当時僕のまわりで﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を読んだことのある
人間はたった一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせい
だった。彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ
上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一応お互い顔だけは知っていると
いう間柄だったのだが、ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしな
がら﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を読んでいると、となりに座って何を読んで
いるのかと訊いた。﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄だと僕は言った。面白いかと
彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面
白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。
﹁﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄を三回読む男なら俺と友だちになれそう
だな﹂と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちにな
った。十月のことだった。
永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕
は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってき
たが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕な
んかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていな
い作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信
用しない、と彼は言った。
﹁現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を
受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短
かい﹂
﹁永沢さんはどんな作家が好きなんですか?﹂と僕は訊ねてみた。
﹁バルザック、ダンテ、ジョセフ?コンラッド、ディッケンズ﹂と彼は即座
に・答えた。
﹁あまり今日性のある作家とは言えないですね﹂
﹁だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方
しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそ
んな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ?この寮で少しでもま
ともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ﹂
﹁とうしてそんなことがわかるんですか?﹂と僕はあきれて質問した。
﹁俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわ
かるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄
を読んでる﹂
僕は頭の中で計算してみた。﹁でもスコット?フィッツジェラルドが死
んでからまだ二十八年しか経っていませんよ﹂
﹁構うもんか、二年くらい﹂と彼は言った。﹁スコット?フィッツジェス
ラルドくらいの立派な作家はアンダ︱?バ︱でいいんだよ﹂
もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく
知られていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなか
っただろう。彼はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の
苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省
に入り、外交官になろうとしていた。父親は名古屋で大きな病院を経営し、
兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まった
く申しぶんのない一家みたいだった。小遣いもたっぷり持っていたし、おま
けに風釆も良かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さ
んに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何かを要求する
と、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしないわけ
にはいかなかったのだ。
永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生
まれつき備わっているようだった。人々の上に立って素速く状況を判断し、
人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力であ
る。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示すオ︱ラが天使の輪
のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで﹁この男は特別
な存在なんだ﹂と思って恐れいってしまうわけである。だから僕のようなこ
れといって特徴もない男が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対
してみんなはひどく驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からち
ょっとした敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったよう
だけれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永沢さんが僕を好んだの
は、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。僕は彼
の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成
績の良さだとかオ︱ラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなか
った。彼としてはそういうのがけっこう珍しかったのだろうと思う。
永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわ
せ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優し
く、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精
神を持ちあわせていると同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率い
て楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼
の底でのたうっていた。僕はそういう彼の中の背反性を最初からはっきり
と感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさ
っぱり理解できなかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きている
のだ。
しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大
の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまち
や欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したり
もしなかった。そして僕に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あ
れこれと面倒をみてくれた。彼がそうしてくれなかったら、僕の寮での生活
はもっとずっとややっこしく不快なものになっていただろうと思う。それでも
僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との
関係は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のものだった。僕は永
沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目
にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。
永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナ
メクジを三匹食べたことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に
大きいペニスを持っていて、これまでに百人は女と寝たというものだった。
ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、そ
れ、と言った。﹁でかいの三匹飲んだよ﹂
﹁どうしてそんなことしたんですか?﹂
﹁まあいろいろとあってな﹂と彼は言った。﹁俺がこの寮に入った年、
新入生と上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だっ
たな、たしか。それで俺が新入生の代表格として上級生のところに話をつ
けに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか持っててな、とても話がまとま
る雰囲気じゃない。それで俺はわかりました、俺ですむことならなんでもし
ましょう、だからそれで話をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナメ
クジ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲ん
だんだ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ﹂
﹁どんな気分でした?﹂
﹁どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメクジを飲ん
だことのある人間にしかわからないよな。こうナメクジがヌラッと喉もとをと
おって、ツウッと腹の中に落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷
たくって、口の中にあと味がのこってさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲ
エ吐きたいのを死にものぐるいでおさえたよ、だって吐いたりしたらまた飲
みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ﹂
﹁飲んじゃってからどうしました﹂
﹁もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ﹂と永沢さんは言っ
た。﹁だって他にどうしようがある﹂
﹁まあそうですね﹂と僕も認めた。
﹁でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含
めて誰もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もい
ないんだ﹂
﹁いないでしょうね﹂と僕は言った。
ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいい
のだ。たしかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たとい
うのは誇張だった。七十五人くらいじゃないかな、と彼はちょっと考えてか
ら言った。よく覚えてないけど七十はいってるよ、と。僕が一人としか寝てな
いと言うと、そんなの簡単だよ、お前、と彼は言った。
﹁今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから﹂
僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやって
みると本当に簡単だった。 あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼
と一緒に渋谷か新宿のバ︱だかスナックだかに入って︵店はだいたいい
つもきまっていた︶、適当な女の子の二人連れをみつけて話をし︵世界は
二人づれの女の子で充ちていた︶、酒を飲み、それからホテルに入ってセ
ックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かたいしたことを話すわ
けでもないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感
心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、そ
れで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく
気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持にな
ってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と
一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかっ
た。僕が永沢さんにせかされて何かをしゃべると女の子たちは彼に対する
のと同じように僕の話にたいしてひどく感心したり笑ったりしてくれるので
ある。全部永沢さんの魔力のせいなのである。まったくたいした才能だな
あと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座談の才な
んて子供だましのようなものだった。まるでスケ︱ルがちがうのだ。それで
も永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのことをとても
優しく思った。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思
った。彼は自分のそんなささやかな才能を僕と直子だけのためにとってお
いてくれたのだ。それに比べると永沢さんはその圧倒的な才能をゲ︱ムで
もやるみたいにあたりにばらまいていた。だいたい彼は前にいる女の子た
ちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼にとつてはそれは
ただのゲ︱ムにすぎないのだ。
僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性
欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわり
あったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。
目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の
匂いがして、ベッドも照明もカ︱テンも何もかもがラブ?ホテル特有のけば
けばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が
目を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてストッキングをはきなが
ら﹁ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだか
ら﹂と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶ
つぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけたりする。そういう
のが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなければいいのだけれど、十二
時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし︵そんなこと
は物理的に不可能である︶、どうしても外泊許可をとってくりだすことにな
る。そうすると朝までそこにいなければならないということになり、自己嫌悪
と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口
の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられる。
僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問し
てみた。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないのか、と。
﹁お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間
である証拠だし、それは喜ばしいことだ﹂と彼は言った。﹁知らない女と寝
てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そり
ゃ俺だって同じだよ﹂
﹁じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?﹂
﹁それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキ︱が賭博に
ついて書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわ
りに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむ
ずかしいことなんだ。それ、わかるか?﹂
﹁なんとなく﹂と僕は言った。
﹁日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲
んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たち
に与えることができるんだ。それは本当に簡単なことなんだよ。水道の蛇口
をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なことなんだ。そんなのアッという
間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可能性というもの
だよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせ
るか? 自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は
黙って通りすぎるかい?﹂
﹁そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どう
いうものだか見当もつかないな﹂と僕は笑いながら言った。
﹁ある意味では幸せなんだよ、それ﹂と永沢さんは言った。
家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊び
が原因だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊び
まわるんじゃないかと心配した父親が四年間寮暮しをすることを強制した
のだ。もっとも永沢さんにとってはそんなものどちらでもいいことで、彼は寮
の規則なんかたいして気にしないで好きに暮していた。気が向くと外泊許
可をとってガ︱ル?ハントにいったり、恋人のアパ︱トに泊りに行ったりし
ていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリ
︱?パスだったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。
永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人
がいた。ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたこと
があるが、とても感じの良い女性だった。はっと人目を引くような美人では
ないし、どちらかというと平凡といってもいい外見だったからどうして永沢
さんのような男がこの程度の女と、と最初は思うのだけれど、少し話をする
と誰もが彼女に好感を持たないわけにはいかなかった。彼女はそういうタ
イプの女性だった。穏かで、理知的で、ユ︱モアがあって、思いやりがあっ
て、いつも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分
にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしないだろう
と思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生
の女の子を紹介するから四人でデ︱トしましょうよと熱心に誘ってくれた
が、僕は過去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言ってい
つも逃げていた。ハツミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘
があつまることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があ
うわけがなかった。
彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることを
だいたいは知っていたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなか
った。彼女は永沢さんのことを真剣に愛していたが、それでいて彼に何ひと
つ押しつけなかった。
﹁俺にはもったいない女だよ﹂と永沢さんは言った。そのとおりだと
僕も思った。

冬に僕は新宿の小さなレコ︱ド店でアルバイトの口をみつけた。給料
はそれほど良くはなかったけれど、仕事は楽だったし、過に三回の夜番だ
けでいいというのも都合がよかった。レコ︱ドも安く買えた。クリスマスに僕
は直子の大好きな﹃ディア?ハ︱ト﹄の入ったヘンリ︱?マンシ︱ニのレ
コ︱ドを買ってプレゼントした。僕が自分で包装して赤いリボンをかけた。
直子は僕に自分で編んだ毛糸の手袋をプレゼントしてくれた。親指の部分
がいささか短かすぎたが、暖かいことは暖かかった。
﹁ごめんなさい。私すごく不器用なの﹂と直子は赤くなって恥かしそ
うに言つた。
﹁大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ﹂と僕は手袋をはめてみせた。
﹁でもこれでコ︱トのポケットに手をつっこまなくて済むでしょ?﹂と
直子は言った。
直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までアルバイトをして
いて、結局なんとなくそのまま東京にいつづけてしまった。神戸に帰ったと
ころで何か面白いことがあるわけでもないし、会いたい相手がいるわけで
もないのだ。正月のあいだ寮の食堂は閉ったので僕は彼女のアパ︱トで
食事をさせてもらった。二人で餅を焼いて、簡単な雑煮を作って食べた。
一九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが起っ
た。
一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで僕は
直子とのデ︱トをすっぼかしてしまうことになった。僕はあるコンサ︱トの
招待券を二枚苦労して手に入れて、直子をそれに誘ったのだ。オ︱ケスト
ラは直子の大好きなブラ︱ムスの四番のシンフォニ︱を演奏することにな
っていて、彼女はそれを楽しみにしていた。しかし突撃隊はベッドの上をご
ろごろ転げまわって今にも死ぬんじゃないかという苦しみようだったし、そ
れを放ったらかして出かけるというわけにもいかなかった。僕にかわって彼
の看病をやってくれそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕は氷を買
ってきて、ビニ︱ル袋を何枚かかさねて氷嚢を作り、タオルを冷して汗を拭
き、一時間ごとに熱を測り、シャツまでとりかえてやった。熱はまる一日引か
なかった。しかし二日目の朝になると彼はむっくりと起きあがり、何事もな
かったように体操を始めた。体温を測ってみると三十六度二分だった。人
間とは思えなかった。
﹁おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかったんだけ
どな﹂と突撃隊はそれがまるで僕の過失であるような言い方をした。
﹁でも出たんだよ﹂と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱のおかげ
でふいにした二枚の切符を見せた。
﹁でもまあ招待券で良かったよ﹂と突撃隊は言った。僕は彼のラジオ
をひっつかんで窓から放り投げてやろうと思ったが、頭が痛んできたので
またベッドにもぐりこんで眠った。
二月には何度か雪が降った。
二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に住む
上級生を殴った。相手はコンクリ︱トの壁に頭をぶっつけた。幸いたいした
怪我はなかったし、永沢さんがうまく事を収めてくれたのだが、僕は寮長室
に呼ばれて注意を受けたし、それ以来寮の住み心地もなんとなく悪くなっ
た。
そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか単位を落と
した。成続は平凡なものだった。大半がCかDで、Bが少しあるだけだった。
直子の方は単位をひとつも落とすことなく二年生になった。季節がひとま
わりしたのだ。
四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女
の方が約七ヵ月年上ということになる。直子が二十歳になるというのはな
んとなく不思議な気がした。僕にしても直子にしても本当は十八と十九の
あいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。
十八の次が十九で、十九の次が十八、︱それならわかる。でも彼女は二十
歳になった。そして秋には僕も二十歳になるのだ。死者だけがいつまでも
十七歳だった。
直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終ってから近くでケ︱キを買っ
て電車に乗り、彼女のアパ︱トまで行った。一応二十歳になったんだから
何かしら祝いのようなことをやろうと僕が言いだしたのだ。もし逆の立場だ
ったら僕だって同じことを望むだろうという気がしたからだ。一人ぼっちで
二十歳の誕生日を過すというのはきっと辛いものだろう。電車は混んでい
て、おまけによく揺れた。おかげで直子の部屋にたどりついたときにはケ︱
キはロ︱マのコロセウムの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも用意し
た小さなロウソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カ︱テンを閉めて電気
を消すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕らはワイ
ンを飲み、少しケ︱キを食べ、簡単な食事をした。
﹁二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ﹂と直子が言った。
﹁私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気分。なんだか
うしろから無理に押し出されちゃったみたいね﹂
﹁僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ﹂と僕は言って笑
った。
﹁良いわね、まだ十九なんて﹂と直子はうらやましそうに言った。
食事のあいだ僕は突撃隊が新しいセ︱タ︱を買った話をした。彼は
それまで一枚しかセ︱タ︱を持っていなかったのだが︵紺の高校のスク
︱ル?セ︱タ︱︶、やっとそれが二枚になったのだ。新しいのは鹿の編み
こみが入った赤と黒の可愛いセ︱タ︱で、セ︱タ︱自体は素敵なのだが、
彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹きだした。しかし彼にはどうしてみ
んなが笑うのか全く理解できなかった。
﹁ワタナベ君、な、何かおかしいところあるのかな?﹂と彼は食堂で僕
のとなりに座ってそう質問した。﹁顔に何かついてるとか﹂
﹁何もついてないし、おかしくないよ﹂と僕は表情を抑えて言った。
﹁でも良いセ︱タ︱だね、それ﹂
﹁ありがとう﹂と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑った。
直子はその話をすると喜んだ。﹁その人に会ってみたいわ、私。一度
でいいから﹂
﹁駄目だよ。君、きっと吹きだすもの﹂と僕は言った。
﹁本当に吹きだすと思う?﹂
﹁賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきおかしくて
我慢できなくなるんだもの﹂
食事が終ると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワイ
ンの残りを飲んだ。
僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。
直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、
家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明
だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。し
かしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気に
なりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつ
ひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方が
どうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話になり、や
がてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終り
というものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っていたのだ
が、そのうちにそれもやめた。僕はレコ︱ドをかけ、それが終ると針を上げ
て次のレコ︱ドをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコ︱
ドをかけた。レコ︱ドは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は﹃サ
︱ジャント?ペパ︱ズ?ロンリ︱?ハ︱ツ?クラブ?バンド﹄で、最後はビ
ル?エヴァンスの﹃ワルツ?フォ︱?デビ︱﹄だった。窓の外では雨が降り
つづけていた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけてい
た。
直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないよ
うに気をつけながら話していることにあるようだった。もちろんキズキのこと
もそのポイントのひとつだったが、彼女が避けているのはそれだけではな
いように僕には感じられた。彼女は話したくないことをいくつも抱えこみな
がら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでも
しゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中になって話すのは初めてだっ
たし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。
しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう
四時間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のことも
あるし、門限のこともあった。僕は頃合を見はからって、彼女の話に割って
入った。
﹁そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし﹂と僕は時計を見なが
ら言った。
でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳に
は届いても、その意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐん
だが、すぐにまた話のつづきを始めた。僕はあきらめて座りなおし、二本目
のワインの残りを飲んだ。こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせ
た方が良さそうだった。最終電車も門限も、何もかもなりゆきにまかせよう
と僕は心を決めた。
しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子
の話は既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空
中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。ど
こかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話しつづけようとした
が、そこにはもう何もなかった。何かが損なわれてしまったのだ。あるいは
それを損ったのは僕かもしれなかった。僕が言ったことがやっと彼女の耳
に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせ続けていたエ
ネルギ︱のようなものが狙われてしまったのかもしれない。
直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女
は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女
の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。
﹁邪魔するつもりなかったんだよ﹂と僕は言った。﹁ただ時間がもう
遅いし、それに……﹂
彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコ︱ド?
ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどが
なかった。彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好
で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣いたのを見たのははじめてだっ
た。僕はそっと手をのばして彼女の肩に触れた。肩はぶるぶると小刻みに
震えていた。それから僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。彼女は
僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせ
いで、僕のシャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十本の指がまる
で何かを︱︱かつてそこにあった大切な何かを︱︱探し求めるように僕
の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっ
すぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が
泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。

その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕に
はわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん
永遠にわからないだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようも
なかったのだ。彼女は気をたかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれ
を鎮めてもらいたがっていた。僕は部屋の電気を消し、ゆっくりとやさしく彼
女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。そして抱きあった。暖かい雨の夜で、
我々は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直子は暗闇の中で無言のま
まお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手
で包んだ。直子は僕の固くなったベニスを握った。彼女のヴァギナはあた
たかく濡れて僕を求めていた。
それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊
くと、直子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。
僕はずっとキズキと直子が寝ていたと思っていたからだ。僕はべニスをい
ちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして、彼女を長いあいだ抱
きしめていた。そして彼女が落ちつきを見せるとゆっくりと動かし、長い時
間をかけて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあ
げた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声
だった。
全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみ
た。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離
し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入れから布団を出して彼女をそこに
寝かせた。そして窓の外や降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸っ
た。
朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。
あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせ
よ眠っているにせよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついた
ように固くなっていた。僕は何度か話しかけてみたが返事はなかったし、体
もぴくりとも動かなかった。僕は長いあいだじっと彼女の裸の肩を見てい
たが、あきらめて起きることにした。
床にはレコ︱ド?ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、そんなも
のが昨夜のままに残っていた。テ︱ブルの上には形の崩れたバ︱スデ
︱?ケ︱キが半分残っていた。まるでそこで突然時間が止まって動かなく
なってしまったように見えた。僕は床の上にちらばったものを拾いあつめて
かたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の上には辞書とフランス語の動詞表
があった。机の前の壁にはカレンダ︱が貼ってあった。写真も絵も何もな
い数字だけのカレンダ︱だった。カレンダ︱は真白だった。書きこみもなけ
れば、しるしもなかった。
僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく湿って
いた。顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が
落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日
おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子の肩を眺め、部屋を出てドアをそ
っと閉めた。
一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパ︱トは電話の
取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけて
みた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓
はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越し
たということだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は
言った。
僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直
子がどこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。
僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがま
だよくわからないし、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時
間がかかるだろう。そしてその時間が経ってしまったあとで自分がいったい
どこにいるのかは、今の僕には皆目見当もつかない。だから僕は君に何も
約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわけにはいかな
い。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が
僕に時間を与えてくれるなら、僕はベストを尽すし、我々はもっとお互いを
知りあうことができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくりと話を
したい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を正直に語ること
のできる相手を失ってしまったし、それは君も同じなんじゃないだろうか。た
ぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃ
ないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわり道をしてしま
ったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃ
なかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に
対して感じた親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことの
ない種類の感情だった。返事をほしい。どのような返事でもいいからほしい
︱そんな内容の手紙だった。
返事はこなかった。
体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは
純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響い
た。僕は週日には以前にも増してきちんと大学に通い、講義に出席した。講
義は退屈で、クラスの連中とは話すこともなかったけれど、他にやることも
なかった。僕は一人で教室の最前列の端に座って講義を聞き、誰とも話を
せず、一人で食事をし、煙草を吸うのをやめた。
五月の末に大学がストに入った。彼らは﹁大学解体﹂を叫んでいた。
結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足
で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱ
りするし、あとのことは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝った
っていい。さっさとやってくれ。
大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバイトを
始めた。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕
事は思っていたよりきつく、最初のうちは体が痛くて朝起きあがれないほど
だったが、給料はそのぶん良かったし、忙しく体を動かしているあいだは自
分の中の空洞を意識せずに済んだ。僕は週に五日、運送屋で昼間働き、三
日はレコ︱ド屋で夜番をやった。そして仕事のない夜は部屋でウィスキ︱
を飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、アルコ︱ルの匂い
にひどく敏感で、僕がベッドに寝転んで生のウィスキ︱を飲んでいると、臭
くて勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言った。
﹁お前が出て行けよ﹂と僕は言った。
﹁だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろ
う﹂と彼は言った。
﹁お前が出ていけ﹂と僕は繰り返した。
彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行っ
て一人でウィスキ︱を飲んだ。
六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の
住所あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事
を待っているのはとても辛い、僕は君を傷つけてしまったのかどうかそれだ
けでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポストに入れてしまうと、僕の心
の中の空洞はまた少し大きくなったように感じられた。
六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらも
とても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を
脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一
人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう
一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。
これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの
大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことが
あるかだとか、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首
は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とにかくも
うありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚め
ると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶
店に入ってモ︱ニング?サ︱ビスのまずいト︱ストとまずい玉子を食べま
ずいコ︱ヒ︱を飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしてい
た。お父さんの職業は何か、高校時代の成績は良かったか、何月生まれ
か、蛙を食べたことはあるか、等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終
ると、これからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
﹁ねえ、もう会えないの?﹂と彼女は淋しそうに言った。
﹁またそのうちどこかで会えるよ﹂と僕は言ってそのまま別れた。そし
て一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思っ
てうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。で
もそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていて、女
と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考え
ていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や、雨
の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は
余計に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキ︱を飲み、俺
はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
﹁返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書ける
ようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう
十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなの
です。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。
とりあえずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではな
いかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあ
なたは思うかもしれないけれど、これは前々からずっと考えていたことなの
です。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですが、と
うとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、
たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思
います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれ
ません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなた
に自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に
私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私
はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑を
かけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパ︱トを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく
病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所
があるらしいので、少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での
病院ではなくて、ずっと自由な療養のための施設です。細かいことについ
てはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今
の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめ
ることなのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれたことについては、私は私なりに
感謝しています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけ
ではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくな
いというのではなく、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと
思ったら、私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少
しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うよう
に、私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。
さようなら﹂
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたま
らなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれ
ているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気
持をどこに持っていくことも、どこにしまいこむこともできなかった。それは
体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さもなかった。僕は
それを身にまとうことすらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の
耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビ︱の椅子に座って時間を過
した。電話のかかってくるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕は
いつもTVの野球中継をつけて、それを見ているふりをしていた。そして僕と
TVのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られ
た空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、最後
には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。
十時になると僕はTVを消して部屋に戻り、そして眠った。

その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタント?コ︱ヒ︱の瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と
水が少し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あた
りはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見え
なかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知
ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠
もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をして
いた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑
り落ちていた。
﹁庭にいたんだよ﹂
﹁ここの庭に?﹂と僕はびっくりして訊いた。
﹁ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あ
れがこっちに紛れこんできたんだよ﹂と彼は黒いボストン?バックに衣類や
ノ︱トを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているの
は我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイ
トをつづけていたし、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終
り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
﹁これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ﹂と彼は言っ
た。
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗
がポ︱ルから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせい
で、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左
半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリ︱
ム?シチュ︱の匂いだった。
僕は螢の入ったインスタント?コ︱ヒ︱の瓶を持って屋上に上った。
屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロ︱プ
にかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の
給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかっ
た。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの少しだけ欠け
た白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には
池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街か
ら街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで
雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、そ
の色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだっ
たが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中
に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を
放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何
度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛
んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしてい
ったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはでき
た。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞
こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け
閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い
隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分
の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹とい
う数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に
照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音が
いつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議
なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開
けると、夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水
塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないよう
だった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのよう
にめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこ
が行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間
をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息
絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の
方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々の
まわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすり
あわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついた
ようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮か
んでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水
塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届け
るべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていっ
た。
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まって
いた。目を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場
を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなか
った。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケ︱
ドを叩きつぶし、中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの
大学でも同じようなことをやっていたし、特に珍しい出来事ではなかった。
大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の資本が投下されている
し、そんなものが学生が暴れたくらいで﹁はい、そうですか﹂とおとなしく
解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケ︱ド封鎖した連中も本当
に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学とい
う機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニ
シアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストが
たたきつぶされたところで、特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待してい
ってみたのだが、大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されること
なく、教授室も破壊しつくされることはなく、学生課の建物も焼け落ちては
いなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最
初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事
もなかったように教室に出てきてノ︱トをとり、名前を呼ばれると返事をし
た。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰
もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケ
︱ドを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そ
して彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反
対する︵あるいは疑念を表明する︶学生を罵倒し、あるいは吊るし上げた
のだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義にでてくる
のか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないの
だ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解
体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中
が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきち
んと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしない
ことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけ
れど、そうでもしないことには気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかし
そのおかげでクラスの中での僕の立場はもっと孤立したものになった。名
前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の中には居心地のわるい空気が
流れた。誰も僕に話しかけなかったし、僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だという結
論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えること
に決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出てなんかとくにやりたい
ことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノ︱トを
取り、あいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたりした。

九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しい
というより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていた
し、突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼らの
机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはブラスチ
ックのコップと歯ブラシ、お茶の缶、殺虫スプレ︱、そんなものがきちんと整
頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあい
だに、部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていたし、突撃隊が
いなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃き、
三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて
﹁ワ、ワタナベ君、どうしたの?すごくきれいじゃないか﹂と言って賞めてく
れるのを待った。
しかし彼は戻っては来なかった。ある日僕は学校から戻ってみると、彼
の荷物は全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外されて、僕のものだ
けになっていた。僕は寮長室に言って彼がいったいどうなったのか訊いて
みた。
﹁退寮した﹂と寮長は言った。﹁しばらくあの部屋はお前ひとりで暮
せ﹂
僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教え
てくれなかった。他人には何も教えずに自分ひとりで物事を管理すること
に無上の喜びを感じるタイプの俗物なのだ。
部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがて僕は
それははがして、かわりにジム?モリソンとマイルス?デイヴィスの写真を貼
った。それで部屋は少し僕らしくなった。僕はアルバイトで貯めた金を使っ
て小さなステレオ?プレ︱ヤ︱を買った。そして夜になると一人で酒を飲み
ながら音楽を聴いた。ときどき突撃隊のことを思いだしたが、それでもひと
り暮らしというのはいいものだった。

月曜日の十時から﹁演劇史Ⅱ﹂のエウリピデスについての講義があ
り、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ば
かりのところにある小さなレストランにいってオムレツとサラダを食べた。そ
のレストランはにぎやかな通りからは離れていたし、値段も学生向きの食
堂よりは少し高ったが、静かで落ちつけたし、なかなか美味いオムレツを食
べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイトの女の子が三人で働いていた。
僕は窓祭の席に一人で座って食事をしていると、四人づれの学生が店に
入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服装をしてい
た。彼らは入口近くのテ︱ブルに座ってメニュ︱を眺め、しばらくいろいろ
と検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子がに
それを伝えた。
そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気
がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットン
のミニのワンピ︱スを着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕が
そのまま食事を続けていると、そのうちに彼女はすっと立ち上がって僕の方
にやってきた。そしてテ︱ブルの端に片手をついて僕の名前を呼んだ。
﹁ワタナベ君、でしょ?﹂
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚
えはなかった。彼女はとても目立つの女の子だったし、どこかであっていた
らすぐ思い出せるはずだった。それに僕の名前を知っている人間はそれほ
どたくさんこの大学にいるわけではない。
﹁ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰かくるの、ここ?﹂
僕はよくわからないままに首を振った。﹁誰も来ないよ。どうぞ﹂
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサング
ラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。
﹁おいしそうね、それ﹂
﹁美味しいよ。マッシュル︱ム?オムレツとグリ︱ン?ビ︱スのサラ
ダ﹂
﹁ふむ﹂と彼女は言った。﹁今度はそれにするわ。今日はもう別のを
頼んじゃったから﹂
﹁何を頼んだの?﹂
﹁マカロニ?グラタン﹂
﹁マカロニ?グラタンもわるくない﹂と僕はいった。﹁ところで君とど
こであったんだっけな?どうしても思い出せないんだけど﹂
﹁エウリピデス﹂と彼女は簡潔に言った。﹁エレクトラ。﹃いいえ、神
様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです﹄。さ
っき授業が終わったばかりでしょう?﹂
僕はまじと彼女の顔をみた。彼女はサングラスを外した。それでやっと
僕は思い出した。﹁演劇史Ⅱ﹂のクラスで見かけたことのある一年生の
女の子だった。ただあまりにもがらりととヘア?スタイルが変わってしまった
ので、誰なのかわからなかったのだ。
﹁だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?﹂と僕は肩から
十センチくらい下のところを手で示した。
﹁そう。夏にパ︱マをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代
物でね、これが。一度は真剣に死のようと思ったくらいよ。本当にひどかっ
たのよ。ワカメがあたまにからみついた水死体みたいに見えるの。でも死ぬ
くらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。涼しいことは涼し
いわよ、これ﹂と彼女はいって、長さ四センチか五センチの髪を手のひらで
さらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこりと微笑んた。
﹁でも全然悪くないよ、それ﹂と僕はオムレツのつづきを食べながら
言った。﹁ちょっと横を向いてみてくれないかな﹂
彼女は横を向いて、五秒ぐらいそのままじっとしていた。
﹁うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだ
ね。耳もきれいにみえるし﹂と僕はいった。
﹁そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これも悪く
ないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなこと行ってくれ
やしない。小学生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言う
のよ。ねえ、どうして男の人って髪の長い女の子がそんなに好きなの?そん
なのまるでファシストじゃない。下がらないわよ。どうして男の人って髪の長
い女の子が上品で心やさしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の
長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ。本当よ。﹂
﹁僕は今のほうがすきだよ﹂と僕は言った。そしてそれは嘘ではなか
った。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通の
かわいい女の子だった。でもいま僕の前に座っている彼女はまるで春を迎
えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中か
らほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に
動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな
生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して
彼女の顔を眺めていた。
﹁本当にそう思う?﹂
僕はサラダを食べながら肯いた。
彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。
﹁ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?﹂
﹁まあ出来ることなら正直な人間でありたいとは思っているけど
ね。﹂と僕は言った。
﹁どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で
人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ちつかないの。だか
らサングラスかけるわけ。﹂
﹁なるほど﹂と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕
がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。
﹁あっちの席に戻らなくていいの?﹂と僕は彼女の連れの三人の方
を指さして言った。
﹁いいのよ、べつに。料理が来たらもどるから。なんてことないわよ。で
もここにいると食事の邪魔かしら?﹂
﹁邪魔も何も、もう食べ終わっちゃったよ﹂と僕は言った。そして彼女
が自分のテ︱ブルに戻る気配がないので食後のコ︱ヒ︱を注文した。奥
さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリ︱ムを置いていった。
﹁ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワタ
ナベってあなたの名前でしょう?ワタナベ?トオルって﹂
﹁そうだよ﹂
﹁じゃどうして返事しなかったの?﹂
﹁今日はあまり返事したくなかったんだ﹂
彼女はもう一度サングラスを外してテ︱ブルの上に置き、まるで珍し
い動物の入っている檻でものぞきこむような目付きで僕をじっと眺めた。
﹁﹃今日はあまり返事したくなかったんだ﹄﹂と彼女はくりかえした。
﹁ねえ、あなたってなんだかハンフリ︱?ボガ︱トみたいなしゃべりかたす
るのね。ク︱ルでタフで﹂
﹁まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる﹂
奥さんがコ︱ヒ︱を持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリ︱ム
も入れずにそれをそっとすすった。
﹁ほらね、やっぱり砂糖もクリ︱ムもいれないでしょ﹂
﹁ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ﹂と僕は我慢強く説明
した。﹁君はなんか誤解しているんじゃないかな﹂
﹁どうしてそんなに日焼けしてるの?﹂
﹁二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝
袋をかついで。だから日焼けしたんだ﹂
﹁どんなところ?﹂
﹁金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った﹂
﹁一人で?﹂
﹁そうだよ﹂と僕は言った。﹁ところどころで道づれができるってこと
はあるけれどね﹂
﹁ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子としりあっ
たりして﹂
﹁ロマンス?﹂と僕はびっくりして言った。﹁あのね、やはり君は何か
思いちがいをしていると思うね。寝袋かついで髭ぼうぼうで歩きまわってい
る人間がいったいどこでどうやってロマンスなんてものにめぐりあえるんだ
よ?﹂
﹁いつもそんな風に一人で旅行するの?﹂
﹁そうだね﹂
﹁孤独が好きなの?﹂と彼女は頬杖をついて言った。﹁一人で旅行
し、一人でごはんを食べて、授業のときはひとりだけぽつんと離れて座って
いるのが好きなの?﹂
﹁孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけ
だよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの﹂と僕は言った。
彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で﹁﹃孤独が
好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ﹄﹂と言った。﹁もし
あなたが自叙伝書くことになったらその時は科白使えるわよ﹂
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
﹁緑色は好き?﹂
﹁どうして?﹂
﹁緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色はすきなの
かって訊いている﹂
﹁とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ﹂
﹁﹃とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ﹄﹂と彼女は
またくりかえした。﹁私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を
塗ってるみたいで。これまでにそう言われたことある、他の人から?﹂
ない、と僕は答えた。
﹁私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わない
の。変でしょ。そんなのひどいと思わない?まるで呪われた人生じゃない、こ
れじゃ。ねえ、私のお姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?﹂
﹁それでお姉さんはピンク似合う?﹂
﹁それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたよ
うな人ね。ふん、まったく不公平なんだから。﹂
彼女のテ︱ブルに料理が運ばれ、マドラスチェックの上着を着た男が
﹁お︱い、ミドリ、飯だぞお﹂と呼んだ。彼女はそちらに向かって︿わかっ
た﹀というように手をあげた。
﹁ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノ︱トとってる?演劇史Ⅱの?﹂
﹁とってるよ﹂と僕は言った。
﹁悪いんだけど貸してもらえないかしら?﹂私二回休んじゃってるの
よ。あのクラスに私、知ってる人いないし﹂
﹁もちろん、いいよ﹂僕は鞄からノ︱トを出して何か余計なものが書
かれていないことをたしかめてから緑に渡した。
﹁ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?﹂
﹁来るよ﹂
﹁じゃあ十二時にここに来ない?ノ︱ト返してお昼ごちそうするから。
別にひとりでごはん食べないと消化不良起こすとか、そういうじゃないでし
ょう?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁でもお礼なんていらないよ。ノ︱ト見せる
くらいで﹂
﹁いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に書いとか
なくて忘れない?﹂
﹁忘れないよ。あさっての十二時に君とここで合う﹂
﹁向うの方から﹁お︱い、ミドリ、早くこないと冷めちゃうぞ﹂という
声が聞こえた。
﹁ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?﹂と緑はその声を無視し
て言った。
﹁そうだと思うよ。あまり意識したことないけど﹂と僕は答えた。しゃ
べり方がかわっているなんて言われたのは本当にそれがはじめてだった
のだ。
彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこりと笑って席を立ち、自
分のテ︱ブルに戻っていった。僕がそのテ︱ブルのそばを通りすぎたとき
緑は僕に向かって手をあげた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだっ
た。
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなっかた。
僕は彼女がくるまでビ︱ルを飲んで待っているつもりだったのだが、それ
でもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側にあ
る小さな神社の石段に座ってビ︱ルの酔いをさましながら一時まで彼女
を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本
を読んだ。そして二時からドイツ語の授業に出た。
講義が終わると、僕は学生課にいって講義の登録簿を調べ、﹁演劇
史Ⅱ﹂のクラスに彼女の名前を見つけた。緑という名前の学生は小林緑
ひとりしかいなかった。次にカ︱ド式になっている学生名薄をくって六九年
度入学生の中から﹁小林緑﹂を探し出し、住所と電話番号をメモした。住
所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をま
わした。
﹁もしもし、小林書店です﹂と男の声が言った。小林書店?
﹁申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?﹂と僕は訊い
た。
﹁いや、緑は今いませんねえ﹂と相手は言った。
﹁大学に行かれたんでしょうか?﹂
﹁うん、え︱と、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?﹂
僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我を
するあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声
からそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じとれなかった。︿う
ん、え︱と、病院の方じゃないかなあ﹀、それはまるで病院が生活の一部
であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、
その程度の軽い言い方だった。僕はそれについて少し考えをめぐらせてみ
たが、面倒くさくなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで
永沢さんに借りていたジョセフ?コンラッドの﹁ロ︱ド?ジム﹂の残りを読
んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。
永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に行って夕
食を食べた。
外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の
上級試験の第二次が八月にあったのだ。
﹁普通だよ﹂と永沢さんは何でもなさそうに答えた。﹁あんなの普通
にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと
変わりゃしない﹂
﹁じゃあまあ簡単だったわけですね﹂と僕は言った。﹁発表はいつな
んですか?﹂
﹁十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ﹂
﹁ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみた
いな人ばかりが受けにくるんですか?﹂
﹁まさか。大体はアホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうな
んて人間の九五パ︱セントまでは屑だもんなあ。これは嘘じゃないぜ。あい
つら字だてろくに読めないんだ﹂
﹁じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?﹂
﹁いろいろと理由はあるさ﹂と永沢さんは言った。﹁外地勤務が好き
だとか、いろいろな。でもいちばんの理由は自分の能力を試してみたいって
ことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れもののなかでためしてみ
たいのさ。つまりは国家だよ。このばかでかい官僚機構の中でどこまで自
分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのをためして
みたいんだよ。わかるか?﹂
﹁なんだかゲ︱ムみたいと聞こえますね﹂
﹁そうだよ。ゲ︱ムみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかい
うものは殆どない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そ
ういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。た
だ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力をためして
みたいんだ﹂
﹁そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょうね?﹂
﹁もちろんない﹂と彼は言った。﹁人生にはそんなもの必要ないん
だ。必要なものは理想ではなく行動規範だ﹂
﹁でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?﹂と僕
は訊いた。
﹁俺のような人生はすきじゃないか?﹂
﹁よして下さいよ﹂と僕は言った。﹁好きも嫌いもありませんよ。だっ
てそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好きな時に好きな女と
寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれて
いるわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学の文学部を出
たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?﹂
﹁じゃ俺の人生がうらやましいか?﹂
﹁うらゃましかないですね﹂と僕は言った。﹁僕はあまりに僕自身に
馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味が
ない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持って
ることですね﹂
彼はしばらく黙って食事をしていた。
﹁なあ、ワタナベ﹂と食事が終わってから永沢さんは僕に言った。
﹁俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出
会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわりあいそうな気が
するんだ﹂
﹁まるでディッケンズの小説みたいな話ですね﹂と言って僕は笑っ
た。
﹁そうだな﹂と彼も笑った。﹁でも俺の予感ってよく当たるんだぜ﹂
食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック?バ︱に酒に飲み
に行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。
﹁ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範っていったいど
んなものなんですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁お前、きっと笑うよ﹂と彼は言った。
﹁笑いませんよ﹂と僕は言った。
﹁紳士であることだ﹂
僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになっ
た。﹁紳士ってあの紳士ですか?﹂
﹁そうだよ、あの紳士だよ﹂と彼は言った。
﹁紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら
教えてもらえませんか﹂
﹁自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士
だ﹂
﹁あなたは僕がこれまで会った人の中で一番変った人ですね﹂と僕
は言った。
﹁お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ﹂と
彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。

翌週の月曜日の﹁演劇史Ⅱ﹂の教室にも小林緑の姿はみあたらな
かった。僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめて
からいつもの最前列の席に座り、教師がくるまで直子への手紙を書くこと
にした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町
町や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のことを考
えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていた
かということがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練
のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってから、何をして
もつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくり話がした
い。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かで
も面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてもしできることならまた前
のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短
い手紙でもいいから返事がほしい。
それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便せんをきれいに畳んで用
意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。
やがて憂鬱そうな顔をした小柄な教師が入ってきて出欠をとり、ハン
カチで額の汗を拭いた。彼は足が悪くいつも金属の杖をついていた。﹁演
劇史Ⅱ﹂は楽しいとは言えないまでも、一応聴く価値のあるきちんとした
講義だった。あいかわらず暑いですねえと言ってから、彼はエウリピデスの
戯曲におけるデウス?エクス?マキナの役割について話しはじめた。エウリ
ピデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスのそれとどう違うかにつ
いて彼は語った。十五分ほど経ってところで教室のドアが開いて緑が入っ
てきた。彼女は濃いブル︱のスポ︱ツ?シャツにクリ︱ム色の綿のズボン
をはいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師に向かって﹁遅れ
てごめんなさい﹂的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショ
ルダ︱?バッグからノ︱トをだして、僕に渡した。ノ︱トの中には﹁水曜日、
ごめんなさい。怒ってる?﹂と書いたメモが入っていた。
講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描
いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入っ
てきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょろりとして
高い方がアジ?ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授
業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇より
もっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。そして机のふ
ちをぎゅっとつかんで足を下におろし、杖をとって足をひきずりながら教室
を出て行った。
背の高い学生がビアを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立っ
て演説をした。ビアにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体
で﹁欺瞞的総長選挙を粉砕し﹂﹁あらたなる全学ストへと全力を結集
し﹂﹁日帝=産学協同路線に鉄槌を加える﹂と書いてあった。説は立派
だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章の説得力はなかった。信頼
性もなければ、人の心を駆り立てる力もなかった。丸顔の演説も似たりよ
ったりだった。いつもの古い唄だった。メロディ︱が同じで、歌詞のてにをは
が違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如
だろうと僕は思った。
﹁出ましょうよ﹂と緑は言った。
僕は肯いて立ちあがり、二人で教室をでた。出るときに丸顔の方が僕
に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は﹁じゃあね﹂
と言って彼にひらひらと手を振った。
﹁ねえ、私たち反革命なのかしら?﹂と教室を出てから緑が僕に言っ
た。﹁革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?﹂
﹁吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな﹂と僕は言った。
﹁そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょ
っと時間がかかってもかまわないかしら?﹂
﹁いいよ。二時からの授業まではどうせ暇だから﹂
緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってく
れた店は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。我々が
テ︱ブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日変
りの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べ
にくる値打のある店だった。
﹁美味いね﹂
﹁うん。それに結構安いのよ。だから高校のときからときどきここにお
昼食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすご
く厳しい学校でね、私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食
してるところをみつかっただけで停学になる学校なんだもの﹂
サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をし
ていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指
の先で目のきわをぽりぽりと掻いたりしていた。
﹁眠いの?﹂と僕は言った。
﹁ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にし
ないで﹂と彼女は言った。﹁この前ごめんなさいね。どうしても抜けられな
い大事な用事ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしよう
もなかったのよ。あのレストランに電話をしようかと思ったんだけど店の名
前も覚えてないし、あなたの家の電話だって知らないし。ずいぶん待っ
た?﹂
﹁べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから﹂
﹁そんなに余ってるの?﹂
﹁僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのも
のだよ﹂
緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。﹁あなたって親切な
のね﹂
﹁親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ﹂と僕は言った。﹁ところで
あの日君の家に電話したら、家の人が君は病院に言ったって言ってたけ
ど、何かあったの?﹂
﹁家に?﹂と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。﹁どう
して家の電話番号がわかったの?﹂
﹁学生課で調べたんだよ、もちろん。誰でも調べられる﹂
なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、またブレスレットをいじっ
た。﹁そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうす
れば調べられたのにね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。
今あまり話したくないの。ごめんなさい。﹁
﹁かまわないよ。なんだか余計なこと訊いちゃったみたいだな﹂
﹁ううん、そんなことないのよ。私が今少し疲れてるだけ。雨にうたれ
た猿のように疲れているの﹂
﹁家に帰って寝たほうがいいんじゃないかな﹂と僕は言ってみた。
﹁まだ寝たくないわ。少し歩きましょうよ﹂と緑は言った。
﹁彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の
前に僕をつれていった。四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、
その果てしない歩行のことを思い出した。そういえばすべてはこの場所か
ら始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央線の電車の中でたまたま
直子に会わなかったら僕の人生も今とはずいぶん違ったものになってい
ただろうな、とぼくはふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出
会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思
いなおした。多分我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会
っていなかったとしても、我々はべつのどこかであっていただろう。とくに根
拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。
僕と小林緑は二人で公園のベンチに座って彼女の通っていた高校の
建物を眺めた。校舎にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩がとまって
羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木がは
えていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏
の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。
﹁ワタナベ君、あの煙なんだか分かる?﹂突然緑が言った。
わからない、と僕は言った。
﹁あれ生理ナプキン焼いてるのよ﹂
﹁へえ﹂と僕は言った。それ以上に何と言えばいいのかよくわからな
かった。
﹁生理ナプキン、タンポン、その手のもの﹂と言って緑はにっこりし
た。﹁みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子校だから。そ
れを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙
なの﹂
﹁そう思ってみるとどことなく凄味があるね﹂と僕は言った。
﹁うん、私も教室の窓からあの煙をみるたびにそう思ったわよ。凄い
なあって。うちの学校は中学、高校あわせる千人近く女の子がいるでしょ。
まあまだ始まってない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が
生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナ
プキンが汚物入れに捨てられるわけよね﹂
﹁まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど﹂
﹁かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわ
って焼くのってどういう気分のものなのかしら?﹂
﹁さあ、見当もつかない﹂と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわ
かるというのだ。そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。
﹁本当は私あの学校に行きたくなかったの。﹂と緑は言って小さく首
を振った。﹁私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人
がいくごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかった
の。でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校のとき成績
が良いとそういうとこあるでしょ?先生がこの子の成績ならあそこに入れな
すよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きに
なれなかったわ。一日も早くここを出ていきたい、一日も早くここを出てい
きたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻?無
欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだか
わかる?﹂
﹁わからない﹂と僕は言った。
﹁学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。
負けるものかって思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負
けたらそのままずるずる行っちゃうんじゃないかって怖かったのよ。三十九
度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小林具合わ
るいんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘ついてがんばった
のよ。それで無遅刻?無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。
だからこそ私、大学でドイツ語をとったの。だってあの学校に恩なんか着せ
られちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ。﹂
﹁学校のどこが嫌いだったの?﹂
﹁あなた学校好きだった?﹂
﹁好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通った
けどとくに気にはしなかったな。﹂
﹁あの学校ね﹂と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。﹁エリ
︱トの女の子のあつまる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子
が千人近くあつめられてるの。ま、金持の娘ばかりね。。でなきゃやっていけ
ないもの。授業料高いし、寄付もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都
の高級旅館を借りきって塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテ
ル?オ︱クラの食堂でテ︱ブル?マナ︱の講習があるし、とにかく普通じゃ
ないのよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生
徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんない
ち よ だ

ったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田区三
もとあざぶ でんえんちょうふ せ た が や せいじょう
番町、港区元麻布、大田区田園調布、世田谷区 成城……もうずうっとそん
かし わし

なのばかりよ。一人だけ千葉県柏市っていう女の子がいてね、私その子と
ちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家にあそびにいらっしゃい
よ、遠くてわるいけどっていうからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃっ
たわね。なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があって、
小型車くらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べて
るわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたの
よ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス?ベンツで学校の近くま
で送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや﹃グリ
︱ン?ホ︱ネット﹄に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめ
てるのよ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられない
ワ。信じられる?﹂
僕は首を振った。
き た お お つ か

﹁豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわ
よ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、︿書店経営﹀ってね。おかげてク
ラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ
読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国
屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想
像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小
林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一
けん じつ
番堅実に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧?図解入り四十八手のと
じこみ付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所の
テ︱ブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるの
ね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きて
いるのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデ︱、ジ
ャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあ
るけど、たいしたものないわよ。ミステリ︱とか、時代もの、風俗もの、そうい
うのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結
婚式のスピ︱チ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐやめら
れる、などなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボ︱
ルペンとか鉛筆とかノ︱トとかそういうの並べてね。それだけ。﹃戦争と平
むぎばたけ

和﹄もないし、﹃性的人間﹄もないし、﹃らい 麦 畑﹄もないの。それが小
林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっていうのよ?あなたうらや
ましい?﹂
﹁情景が目の前に浮かぶね﹂
﹁ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るし、
配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていける
わよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。
それ以上になにか特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だか
らあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めに
なるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、ク
ラスの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入っ
てお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗
いわよ。あなたのお家はお金持なの?﹂
﹁うち?うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないし、とくに貧
乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、
まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だか
らアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ?カロ
︱ラがあって﹂
﹁どんなアルバイトしてるの?﹂
﹁週に三回新宿のレコ︱ド屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと
座って店番してりゃいいんだ﹂
﹁ふうん﹂と緑は言った。﹁私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したこと
なんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで﹂
﹁苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃな
いっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ﹂
﹁私通って学校では大抵の人は金持だったのよ﹂と彼女は膝の上
に両方の手のひらを上にに向けて言った。﹁それが問題だったのよ﹂
﹁じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることに
なるよ﹂
﹁ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?﹂
﹁わからないな﹂
﹁お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だちに何
かしましょう寄って言うでしょう、すると相手はこう言うの、﹃私いまお金が
ないから駄目﹄って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。
私がもし﹃いまお金ない﹄って言ったら、それは本当にお金がないって言
うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が﹃私今日はひどい顔し
てるからそどに出たくないなあ﹄っていうのと同じね。ブスの子がそんなこ
と言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界
だったのよ。去年までの六年間の﹂
﹁そのうちに忘れるよ﹂と僕は言った。
﹁早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の
人がいっぱいいて﹂
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。
﹁君はなにかアルバイトしてる?﹂
しょうさっし

﹁うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと 小冊子みたい
なのがついてるでしょ?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろい
ろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング?コ︱スがあって、こういう伝
説があって、こういう花が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く
ひ び や

仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。あっという間よ。日比谷図書館に
行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツを
のみこんだら仕事なんかくらでもくるし﹂
﹁コツって、どんなコツ?﹂
﹁つまりね、他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけば
あのこは文章がかける

いいのよ。すると地図会社の担当の人 は って思ってくれるわけ。す
ごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたこと
じゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るため
に村がひとつここで沈んだが、わたり鳥たちは今でもまだその村のことを
覚えていて、季節がくると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわってい
る光景が見られる、とかね。そういうエピソ︱ドをひとつ入れておくとね、み
んなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイトの子っ
てそういう工夫をしないのよ、あまり。だがら私けっこういいお金とってるの
よ、その原稿書きで﹂
﹁でもよくそういうエピソ︱ドがみつかるもんだね、うまく﹂
﹁そうねえ﹂と言って緑はすこし首ををひねった。﹁見つけようと思え
ばなんとか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえ
ばいいのよ﹂
﹁なるほど﹂と僕は感心して言った。
﹁ピ︱ス﹂と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって
日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした﹄。緑も突撃隊の話
で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。
緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白
かないさ、と僕は言った。
﹁男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスタ︱ベイシ
ョンしたりしてるだけさ﹂
﹁ワタナベ君もするの、そういうの?﹂
﹁しない人間はいないよ﹂と僕は説明した。﹁女の子に生理がある
のと同じように、男はマスタ︱ベイションやるんだ。みんなやる。誰でもや
る。﹂
﹁恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人も?﹂
け いお う

﹁そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応大学の学生なん
てマスタ︱ベイションしてからデ︱トに行くよ。その方がおちつくからって﹂
﹁そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね﹂
﹁まったく﹂と言って緑は笑った。﹁ところでワタナベ君、今度の日曜
日は暇?あいてる?﹂
﹁どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけ
ど﹂
﹁よかったら一度うちにあそびにこない?小林書店に。店は閉まって
るんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話
がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげ
るわよ﹂
﹁ありがたいね﹂と僕は言った。
緑はノ︱トのベ︱ジを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてく
れた。そして赤いボ︱ルペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけ
た。
﹁いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。
十二時くらいに来てくれる?ごはん用意してるから﹂
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に
戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるか
らと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上
に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群
むれ

れが中庭をぐるぐるとびまわり、近所の子供たちが網をもってそれを追いま
わしていた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちん
とアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日
の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、
大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと
響きわたっていた。木製のヒ︱ルのついたサボをはいた女の子がからんか
らんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわきで
は四、五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花
屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本か買った。秋に
水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きなの
だ。
日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかっ
た。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べ
た。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕のにっこりとし
たそしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐそとを通りすぎていく古い家
のきさき

並みを眺めていた。電車は家々の軒先すれすれのところを走っていた。ある
はち うえ

家の物干しにはトマトの鉢植が十個もならび、その横で大きな黒猫がひな
たぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見え
た。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレ︱の匂いさえ漂ってい
た。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で
何人か客がこりこんできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かに
ついて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女
が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこ
はんじょう
れもあまり繁盛しているようには見えなかった。どの店も建物は旧く、中は
暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタ
イルから見て、このあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかっ
た。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てな
ぞうちく

おされたものもあったし、どの家も増築されたら部分的に補修されたりは
していたが、そういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えることの
ほうが多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげ
て郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパ︱トか社宅か引越
がん こ

しのむずかしい商店か、あるいは頑固に昔から住んでいる土地にしがみつ
いている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まる
でかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリン?スタンドの角を右に曲ると小
さな商店街があり、まん中あたりに﹁小林書店﹂という看板が見えた。た
しかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話から想像していたほど小
さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本屋だった。僕が子供の頃、発
売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じような本屋
だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になっ
た。どこの町にもこういう本屋があるのだ。
店はすっかりシャッタ︱をおろし、シャッタ︱には﹁週刊文春?毎週木
曜日発売﹂と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水
仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかっ
たので、僕はシャッタ︱のわきにあるベルを押して、二、三歩後ろにさがって
返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押し
たものかどうか迷っていると、上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上
げると緑が窓から首を出して手を振っていた。
﹁シャッタ︱開けて入ってらっしゃいよ﹂と彼女はどなった。
﹁ちょっと早かったけど、いいかな?﹂と僕もどなりかえした。
﹁かまわないわよ、ちっとも。二階に上がってきてよ。私、今ちょっと手
が放せないの﹂そしてまたガラガラと窓が閉まった。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッタ︱を一メ︱トルほど押しあ
げ、身をかがめて中に入り、またシャッタ︱を下ろした。店の中はまっ暗かっ
ど ま
た。土間からあがったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファ?
セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポ︱
ランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような
物置のようなスペ︱スがあり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用
心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るか
ったので僕は少なからずホッとした。
﹁ねえ、こっち﹂とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手
に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かっ
たが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴ
かに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度をしていた。鍋で何かを煮る
ぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。
﹁冷蔵庫にビ︱ルが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?﹂と
緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビ︱ルをだしてテ︱
ブルに座って飲んだ。ビ︱ルは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思
えるくらいよく冷えていた。テ︱ブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤
油さしがのっていた。メモ用紙とボ︱ルペンもあって、メモ用紙には電話番
号と買物の計算らしい数字が書いてあった。
﹁あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待て
る?﹂
﹁もちろん待てるよ﹂と僕は言った。
僕は冷たいビ︱ルをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑の
うしろ姿を眺めていた。彼女は素速く器用に体を動かしながら、一度に四
つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで煮ものの味見をしたか
と思うと、何かをまな板の上で素速く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつ
け、使い終わった鍋をさっと洗った。うしろから見ているとその姿はインドの
だ が っ き
打楽器奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を
叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が
しゅんびん

俊敏で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれ
を眺めていた。
﹁何か手伝うことあったらやるよ﹂と僕は声をかけてみた。
﹁大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから﹂と緑は言ってちらりと
こちらを向いて笑った。緑は細いブル︱ジ︱ンズの上にネイビ︱ブル︱T
シャツを着ていた。Tシャツの背中にはアップル?レコ︱ドのりんごのマ︱ク
が大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほ
っそりとしていた。まるでこしをがっしりと固めるための成長の一過程が何
きゃしゃ
かの事情でとばされてしまったんじゃないかと思えるくらいの華奢な腰だ
った。そのせいで普通の女の子がスリムのジ︱ンズをはいたときの姿より
はずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が
りんかく

彼女の体の輪郭にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。
﹁そんなに立派な食事作ることなかったのにさ﹂と僕は言った。
﹁ぜんぜん立派じゃないわよ﹂と緑はふりむかずに言った。﹁昨日は
私忙しくてろくに買物できなかったし、冷蔵庫のありあわせのものを使って
さっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あし
らいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人を
もてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。
べつにとりたてて親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人望
があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあれ
もてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸
か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆んどお酒飲まないくせに家
の中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビ︱ル
どんどん飲んでね、遠慮なく﹂
﹁ありがとう﹂と僕は言った。
それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づい
た。靴を脱ぐときに横に置いてそのまま忘れてきてしまったのだ。僕はもう
一度下におりて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって
戻ってきた。緑は食器棚から細長いグラスをだして、そこに水仙をいけた。
﹁私、水仙って大好きよ﹂と緑は言った。﹁昔ね高校の文化祭で
﹃七つの水仙﹄唄ったことあるのよ。知ってる、﹃七つの水仙﹄?﹂
﹁知ってるよ、もちろん﹂
﹁昔フォ︱ク?グル︱プやってたの。ギタ︱弾いて﹂
そして彼女は﹁七つの水仙﹂を歌いながら料理を皿にもりつけてい
った。
緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢のも
のに、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの
煮もの、じゅんさいの吸い物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざん
で胡麻をまぶしたものがたっぷりとついていた。味つけはまったく関西風の
薄味だった。
﹁すごくおいしい﹂と僕は感心して言った。
﹁ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかっ
たでしょ?見かけからして﹂
﹁まあね﹂と僕は正直に言った。
﹁あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?﹂
﹁僕のためにわざわざ薄味でつくったの?﹂
﹁まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこう
いう味つけよ﹂
﹁お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?﹂
﹁ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うち
の親戚中探したって関西のひとなんて一人もいないわよ。うちは東京?北
関東系の一家なの﹂
﹁よくわからないな﹂と僕は言った。﹁じゃあどうしてこんなきちんと
した正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?﹂
﹁まあ話せば長くなるんだけどね﹂と彼女はだしまき玉子を食べな
がら言った。﹁うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大
嫌いな人でね、料理なんてものは殆んど作らなかったの。それにほら、うち
は商売やってるでしょ、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、
肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃおうとか、そういうことが
けっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。
嫌で嫌でしょうがなかったの。三日分のカレ︱作って毎日それをたべてる
とかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたも
のを自分で作ってやると決心したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行って一
番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から
隅まで全部マスタ︱したのまな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし
方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人
だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ﹂
﹁じゃあこれ、全部本で勉強したの?﹂と僕はびっくりして訊いた。
﹁あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりして
ね。それで味を覚えて。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的思考って駄目
だけど﹂
﹁誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思うよ、たし
かに﹂
﹁そりゃ大変だったわよ﹂と緑はため息をつきながら言った。﹁なに
しろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょ。きちんとした包
丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので
十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなベラベラの包丁で魚なんてお
ろせるもんですか。でもそういうとね、魚なんかおろさなくていいって言われ
るの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋と
かザルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命
爪に火をともすようにお金ためてザルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなん
て。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら
買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?﹂
僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。
﹁高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だし
まき玉子を作るための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャ︱を買う
ためのお金使ってそれ買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって
私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャ︱で暮らしたのよ。信じられる?夜に
洗ってね、一生懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかった
ら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャ︱つけるくら
い哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉
子焼き器のためだなんて思うとね﹂
﹁まあそうだろうね﹂と僕は笑いながら言った。
﹁だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわるいとは
思うんだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなも
の買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかきちんとしたもの揃ってる
わよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのか全然知らないんだ
もの。﹂
﹁お母さんはいつ亡くなったの?﹂
のうしゅよう
﹁二年前﹂と彼女は短く答えた。﹁癌よ。脳腫瘍。一年半入院して苦
しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ね
なくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだの。なんていうか、あれ最悪の
死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金な
くなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはなきゃ
いけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪
人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに︱﹂と彼女は何かの言いかけ
たが思いなおしてやめ、箸を置いてため息をついた。﹁でもずいぶん暗い
話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?﹂
﹁ブラジャ︱のあたりからだね﹂と僕は言った。
﹁そのだしまきよ。心して食べてね﹂と緑は真面目な顔をして言った。
僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそ
れほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもうおなか
いっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。
食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テ︱ブルの上を拭き、どこかか
らマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙
をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。
﹁このままの方がいいみたいね﹂と緑は言った。﹁花瓶に移さなくて
いいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんでき
てとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの﹂
﹁大塚駅の前の水辺でつんできたんだ﹂と僕は言った。
緑はくすくす笑った。﹁あなたって本当に変ってるわね。冗談なんかい
わないって顔して冗談言うんだもの﹂
緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとすりつけるように
して消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。
﹁女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ﹂と僕は言った。﹁そ
きこりおんな
れじゃ木樵女みたいだ。無理に消そう思わないでね、ゆっくりまわりの方か
ら消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃならないですむ。それじゃ
ちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけ
ない。男と二人で食事しているときに三ヶ月一枚のブラジャ︱でとおしたな
んていう話もあまりしないね、普通の女の子は﹂
﹁私、木樵女なのよ﹂と緑は鼻のわきを掻きながら言った。﹁どうし
てもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言
いたいことある?﹂
﹁マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね﹂
﹁いいのよ、べつに。どうせ吸ったって同じくらいまずいんだもの﹂と
彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハ︱ド?パッケ︱ジをくるく
るとまわした。﹁先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけ
でもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと﹂
﹁どうしてそうと思ったの?﹂
緑はテ︱ブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えてい
た。﹁どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?﹂
﹁六月にやめたんだ﹂
﹁どうしてやめたの?﹂
﹁面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さとか、そう
いうのがさ。だからやめたんだ。何かにそうんな風に縛られるのって好きじ
ゃないんだよ﹂
﹁あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと﹂
﹁まあそうかもしれないな﹂と僕は言った。﹁多分そのせいで人にあ
まり好かれないんだろうね。昔からそうだな﹂
﹁それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思ってい
るように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら﹂と
彼女は頬杖をつきながらもそもそした声で言った。﹁でも私あなたと話し
てるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。﹃何かにそんな風に縛ら
れるのって好きじゃないんだよ﹄﹂
僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女
の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。
﹁ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?﹂と僕
は訊いてみた。
﹁お母さんはお墓の中よ。二年前死んだの。﹂
﹁それ、さっき聞いた﹂
﹁お姉さんは婚約者とデ︱トしてるの。どこかドライブに行ったんじゃ
ないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車
大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど。﹂
﹁緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
﹁あとはお父さんね﹂と少しあとで緑は言った。
﹁そう﹂
﹁お父さんは去年の六月にウルグアイに行ったまま戻ってこないの﹂
﹁ウルグアイ?﹂と僕はびっくりして言った。﹁なんでまたウルグアイ
なんかに?﹂
いじゅう

﹁ウルグアイに移住しようとしたのよ、あのひと。馬鹿みたいな話だけ
ど。軍隊のときの知りあいがウルグアイに農場持ってて、そこに行きゃなん
とでもなるって急に言いだして、そのまま一人で飛行機乗って行っちゃった
の。私たち一生懸命とめたのよ、そんなところ行ったってどうしようもない
し、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにな
いじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたの
がものすごいショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。そ
れくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ。﹂
きづ ち
僕はうまく木槌が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。
﹁お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向かってなんて
言ったか知ってる?こう言ったのよ。﹃俺は今とても悔しい。俺はお母さん
を亡くするよりはお前たち二人を死なせたほうがずっと良かった﹄って。私
たち唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょう?いくらなんで
もそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀し
さ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かって
お前らがかわりにしにゃあよかったんだってのはないと思わない?それは
ちょっとひどすぎるとおもわない?﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁私たちだって傷つくわよ﹂と緑は首を振った。﹁とにかくね、うちの
家族ってみんなちょっと変ってるのよ。どこか少しずつずれてんの﹂
﹁みたいだね﹂と僕も認めた。
﹁でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かって
お前らが代わりに死にゃよかったんだなんて言えるくらい奥さんを愛せる
なんて?﹂
﹁まあそう言われてみればそかもしれない﹂
﹁そしてウルグアイに行っちゃったの。私たちをひょい放り捨てて﹂
僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食
器を棚にきちんとしまった。
﹁それでお父さんからは連絡ないの?﹂と僕は訊いた。
﹁一度だけ絵ハガキが来たわ。去年の三月に。でもくわしいことは何
も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、
そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵
ハガキで。頭がおかしいのよ、あの人。その友だちだか知りあいだかに会え
たかどうかさえ書いてないの。終わりの方にももう少し落ちついたら私とお
姉さんを呼びよせるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから
手紙出しても返事も来やしないし﹂
﹁それでもしお父さんがウルグアイに来いて言ったら、君どうする
の?﹂
﹁私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行
かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いな
の﹂
﹁ウルグアイってそんなに不潔なの?﹂
﹁知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコいっぱ
すいせん
いで、そこに蝿がいっぱいたかって、水洗便所の水はろくに流れなくて、トカ
ゲやらサソリやらがうようよいるって。そういう映画をどこかで見たんじゃな
いかしら。お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはチャラチャ
ラした車に乗って湘南あたりをドライブすることなの﹂
﹁ふうん﹂
﹁ウルグアイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ﹂
﹁それじゃこのお店は今誰がやってるの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが
毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ
書店というのはそれほど重労働じゃないからなんとかとかやれてるわよ。ど
うにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃうつもりだけど﹂
﹁お父さんのことは好きなの?﹂
緑は首を振った。﹁とくに好きってわけでもないわね﹂
﹁じゃあどうしてウルグアイまでついていくの?﹂
﹁信用してるからよ﹂
﹁信用?﹂
﹁そう、たいして好きなわけじゃないけど信用してるのよ、お父さんの
とこを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウ
ルグアイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?﹂
僕はため息をついた。﹁わかるような気もするし、わからないような気
もするし﹂
緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。﹁いいのよ、別にど
っちだっていいんだから﹂と彼女は言った。
その日曜日の午後にはばたばたといろんなコトが起きった。奇妙な日
だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼっ
てそれを見物し、そしてなんとなくキスした。そんなふうに言ってしまうと馬
鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。
僕らは大学の話をしながら食後のコ︱ヒ︱を飲んでいると、消防自動
車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数
も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で呼ん
でいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっと
ここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんとんと足早に階段
を上がる音が聞こえた。
僕は一人でコ︱ヒ︱を飲みながらウルグアイっていったいどこにあっ
たんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、この
へんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウルグアイがどのへんにあるの
かはどうしても思い出せなかった。そのうちに緑が下におりてきて、ねえ、早
く一緒に来てよといった。僕は彼女のあとをついて廊下のつきあたりにある
狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根
い ちぼう
よりもひときわ高くなっていて、近所が一望に見わたせた。三軒か四軒向う
からもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな
臭い匂いが漂っていた。
﹁あれ坂本さんのところだわね﹂と緑は手すりから身をのりだす用に
して言った。﹁坂本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商
売してはいないんだけど﹂
僕は手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建て
のビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかったけれど、消防
車が三台か四台あつまって消火作業をつづけていているようだった。もっ
とも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に入れず、あとの車は大通り
の方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひしめいていた。
﹁大事なものがあったらまとめて、ここは非難したほうがいいみたい
だな﹂と僕は緑に言った。﹁今は風向きが逆だからいいけど、いつ変るか
もしれないし、すぐそこがガソリン?スタンドだものね。手伝うから荷物をま
とめなよ﹂
﹁大事なものなんてないわよ﹂と緑は言った。
﹁でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうも
の。とりあえずのお金だってなきゃ困るし﹂
﹁大丈夫よ。私逃げないもの﹂
﹁ここが燃えても?﹂
﹁ええ﹂と緑は言った。﹁死んだってかまわないもの﹂
僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女のいったいることがどこ
まで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕は
しばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になって
きた。
﹁いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に﹂と僕は言った。
﹁一緒に死んでくれるの?﹂と緑は目をかがやかせて言った。
﹁まさか。危なくなったら僕は逃げるの。死にたいんなら君が一人で
死ねばいいさ﹂
﹁冷たいのね﹂
﹁昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかない
よ。夕食ならともかくさ﹂
﹁ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄
でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えばいいもの﹂
﹁唄?﹂
ざ ぶ と ん

緑は下から座布団を二枚と缶ビ︱ルを四本とギタ︱を物干し場に運
んできた。そして僕らはもうもうと上がる黒煙を眺めつつビ︱ルを飲んだ。
ひんしゅく
そして緑はギタ︱を弾いて唄を唄った。こんなことして近所の 顰蹙をかわ
ないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒
を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行為だとは思えなかったからだ。
﹁大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてる
の﹂と緑は言った。
彼女は昔はやったフォ︱ク?ソングを唄った。唄もギタ︱もお世辞にも
上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は﹃レモ
ン?ツリ︱﹄だの﹁バフ﹂だの﹃五〇〇マイル﹄だの﹃花はどこに行っ
た﹄だの﹃漕げよマイケル﹄だのをかたっぱしから唄っていった。はじめ
がっしょう

のうち緑は僕に低音パ︱トを教えて二人で合唱しようとしたが、僕の唄が
あまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつ
づけた。僕はビ︱ルをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意
深く眺めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのを
くりかえしていた。人々は大声で何かを呼んだり命令したりしていた。ばた
ばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプタ︱がやってきて写真を撮
って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと僕は思った。警
官がラウト?スピ︱カ︱で野次馬に向かってもっと後ろに退ってなさいとど
なっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラスの割れる
声がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが
我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちび
とビ︱ルをのみながら気持良さそうに唄いつづけていた。知っている唄を
ひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作詞?作曲したという不思議な唄
を唄った。
あなたのためにシチュ︱作りたいのに
私には鍋がない。
あなたのためにマフラ︱を編みたいのに
わたしには毛糸がない。
あなたのために詩を書きたいのに
私にはペンがない
﹁﹃何もない﹄っていう唄なの﹂と緑は言った。歌詞もひどいし、曲
もひどかった。
僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン?スタンドに引火
したら、この家も吹きとんじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑
は唄い疲れるとギタ︱を置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもた
れかかった。
﹁私の作った唄どうだった?﹂と緑が訊いた。
﹁ユニ︱クで独創的で、君の人柄がよく出てる﹂と僕は注意深く答え
た。
﹁ありがとう﹂と彼女は言った。﹁何もない︱というのがテ︱マの﹂
﹁わかるような気がする﹂と僕は肯いた。
﹁ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね﹂と緑は僕の方を
向っていった。
﹁うん﹂
﹁私ちっとも悲しくなかったの﹂
﹁うん﹂
﹁それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの﹂
﹁そう?﹂
﹁そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない﹂
﹁でもいろいろ事情があるわけだろう?そうなるには﹂
﹁そうね、まあ、いろいろとね﹂と緑は言った。﹁それなりに複雑だっ
たのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実
のお父さん?お母さんなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲
しいだろうって。でも駄目なのよね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、
淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に
出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう
非難するのよ、﹃お前、私が死んで嬉しんだろう?﹂ってね。べつにうれし
がないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだ
けのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた
猫が死んだときは一晩泣いたのにね﹂
なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見
えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているの
だ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に
思った。
﹁でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあ
るわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが︱お父さんとお母さん
が︱もう少し私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感
じ方ができてたと思うの。もっともっと悲しい気持ちになるとかね﹂
﹁あまり愛されなかったと思うの﹂
彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。﹁﹃十分じ
ゃない﹄と﹃全然足りない﹄の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度
でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱ
い、ごちそうさまっていうくらい。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人
たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきと
ばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。そ
れで私こう思ったの、私のことを年中百パ︱セント愛してくれる人を自分で
みつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう決心した
の﹂
﹁すごいね﹂と僕は感心して言った。﹁それで成果はあがった?﹂
﹁むずかしいところね﹂と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく
考えていた。﹁多分あまりに長く持ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを
求めてるの。だからむずかしいのよ﹂
﹁完璧な愛を?﹂
﹁違うわよ。いくら私でもそこまえは求めてないわよ。私が求めている
のは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向か
って苺のシュ︱ト?ケ︱キが食べたいって言うわね、するとあなたはなにも
かも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰
ってきて﹃はいミドリ、苺のショ︱ト?ケ︱キだよ﹄ってさしだすでしょ、する
と私は﹃ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ﹄って言ってそ
れを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの﹂
﹁そんなの愛とはなんの関係もないような気がするけどな﹂と僕は
いささか愕然として言った。
﹁あるわよ。あなたが知らないだけよ﹂と緑は言った。﹁女の子には
ね、そう言うのがものすごく大切なときがあるのよ﹂
﹁苺のショ︱ト?ケ︱キを窓から放り投げることが?﹂
﹁そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいの。﹃わかったよ、ミ
ドリ。僕がわるかった。君が苺のシュ︱ト?ケ︱キを食べたくなくなることく
らい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だっ
た。お詫びにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がい
い?チョコレ︱ト?ム︱ス、それともチ︱ズ?ケ︱キ?﹄﹂
﹁するとどうなる?﹂
﹁ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな﹂
﹁でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど﹂と
緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。﹁ある種の人々にとって愛と
いうのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこか
らじゃないと始まらないのよ﹂
﹁君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな﹂と僕
は言った。
﹁そういう人はけっこう多いわね﹂と彼女は爪の甘皮をいじりながら
言った。﹁でも私、真剣にそういう考え方しかできないの。ただ正直に言っ
てるだけなの。べつに他人と変った考え方してるなんて思ったこともない
し、そんなもの求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話すと、そんな
冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけど
ね﹂
﹁そして火事で死んでやろうと思うの﹂
﹁あら、これはそういうじゃないわよ。これはね、ただの好奇心﹂
﹁火事で死ぬことが?﹂
﹁そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったのよ﹂と緑
は言った。﹁でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんな
の煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。
全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比
べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。な
ち す じ
んだかどうもそういう血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。
最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残って
る意識と言えば痛みと苦しみだけ﹂
緑はマルボロをくわえて火をつけた。
﹁私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりゆっくり死の
影が生命の領域を侵蝕して、気がついたら薄暗くて何も見えなくなってい
て、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そ
ういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私﹂
結局それから三十分ほどで火事はおさまった。大した延焼もなく、怪
我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々
もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパ
トカ︱が残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやって
きた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。
体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきか
なかった。
﹁疲れたの?﹂と僕は訊いた。
﹁そうじゃないのよ﹂と緑は言った。﹁久しぶりに力を抜いてただけ
なの。ほおっとして﹂
﹁僕は緑の目を見ると、ミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱い
て、口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐまた
体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。
初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落として、それが細かく震え
ているのが見えた。それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない
口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビ︱ルを飲んで火
事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっ
ただろうし、その気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場
からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺め
ていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことをなんかの形で残
しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイ
プの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある
種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そし
てなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。そ
れはなんとなくわかってると僕は言った。
﹁あなたには好きな女の子いるの?﹂
﹁いるよ﹂
﹁でも日曜日はいつも暇なのね?﹂
﹁とても複雑なんだ﹂と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去ってい
ることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外に
でて軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかもしれないか
らと、彼女は断った。
﹁一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌
よね。一人きりでいるとね、身体がすこしずつ腐っていくような気がするの
よ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになって
ね、地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気
がするわね、一日じっと待ってると﹂
﹁もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ご
はんつきで﹂と僕は言った。
﹁いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから﹂と緑は言った。

翌日の﹁演劇史Ⅱ﹂の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わ
ると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日な
たに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとて
も長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうに
テニス?ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナ︱ド?バ︱ンス
タインのLPを待っていた。ふたりともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をし
ていた。クラブ?ハウスの方からは誰かがベ︱スの音階練習をしている音
が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグル︱プがいて、彼らは
何やかやについて好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしてい
た。駐車場にはスケ︱トボ︱ドで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱え
た教授がスケ︱トボ︱ドをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭では
ヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジ
ア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大
学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めてい
るうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそう
に見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけ
なのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下が
り、人々は人々はみんなしあわせそうに見えたし、そのおかげで僕はいつに
なく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように
思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年かのあいだ、いったいどんな風景に馴染
んてきたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景は
キズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤ︱ド場の光景だった。そして
その夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには
何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってしまったのだ。
僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだったんだろうと考えて
みた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキ
の死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠
に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感
じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもた
らすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来する
人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思
ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は
図書室に行ってドイツ語の予習をした。

その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今
夜あそびにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、
と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていた、誰と
でもいいから寝てみたいという気分だったのだ。
僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を
着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町
に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてか
らいつも行く近くのバ︱に入って適当な女の子がやってくるのを待った。女
同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女の子はま
ったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは
酔っ払わない程度にウィスキ︱?ソ︱ダをちびちびとすすりながら二時間
近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンタ︱に座って
ギムレットとマルガリ︱タを注文した。早速永沢さんが話しかけに行った
が、二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人で親
しく話をしていたのだが、待ちあわせの相手が来ると二人はそちらにいっ
てしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバ︱につれていっ
た。少し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒
いでいた。奥のテ︱ブルに三人組の女の子がいたので、我々はそこに入っ
て五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっ
ていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うと、女の子たちは私たちも
うそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女
子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店
を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという
気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
﹁悪かったな、ひっぱりまわしちゃって﹂と彼は言った。
﹁かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというの
がわかっただけでも楽しかったですよ﹂と僕は言った。
﹁年に一回くらいあるんだ、こういうの﹂と彼は言った。
正直な話し、僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分にな
っていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろして、性欲
やらアルコ︱ルやらのいりまじったわけのわからないエネルギ︱を眺めて
いるうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らない卑小なものであるように
思えてきたのだ。
﹁これからどうするの、ワタナベ?﹂と永沢さんが僕に訊いた。
﹁オ︱ルナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないか
ら﹂
﹁じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな?﹂
﹁いけないわけがないでしょう?﹂と僕は笑って言った。
﹁もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれ
るけど、どうだ?﹂
﹁いや、映画みたいですね、今日は﹂
﹁悪かったな。いつか埋め合わせするよ﹂と彼は言った。そして人混
みの中に消えていった。僕はハンバ︱ガ︱?スタンドに入ってチ︱ズ?バ
︱カ︱を食べ、熱いコ︱ヒ︱を飲んで酔いをさましてから近くの二番館で
﹃卒業﹄を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやる
こともないので、そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画
館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあても
なくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコ︱ヒ︱を飲んで
本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイタ︱が僕の
ところにやってきた、すみませんが相席お願いしますと言った。いいですよ、
と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだし、前に誰が座ろうが気に
もならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だ
ろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子たちだ
った。化粧も服装もごくまともで、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしてい
るようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか
何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だっ
たことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていた
し、夕方に髭も剃っていたし、おまけにト︱マス?マンの﹃魔の山﹄を一心
不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄で、グレ︱のヨットバ︱カ︱にホワイト?ジ︱ン
ズをはき、大きなビニ︱ル?レザ︱の鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリ
ングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツ
の上にブル︱のカ︱ディガンを着て、指にはタ︱コイズ?ブル︱の指輪を
はめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先で目を押さ
えるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケ︱キを注文し、何事かを小声で相
談しながら時間をかけてケ︱キを食べ、コ︱ヒ︱を飲んだ。大柄の女の子
は何回か首をひねり、小柄な女の子は何回か首を横に振った。マ︱ビン?
ゲイやらビ︱ジ︱ズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容
まで聴きとれなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒るかして、
大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読
んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダ︱?バッグを抱えるようにして洗面所に行っ
てしまうと、大柄な方の女の子が僕に向かって、あのすみません、と言った。
僕は本を置いて彼女を観た。
﹁このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか?﹂と彼女は
言った。
﹁朝の五時すぎにですか?﹂と僕はびっくりして訊きかえした。
﹁ええ﹂
﹁ねえ、朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に
寝に帰る時間ですよ。﹂
﹁ええ、それはよくわかってはいるんですけれど﹂と彼女はすごく恥ず
かしそうに言った。
﹁友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事
情があって﹂
﹁家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな﹂
﹁でも私、朝の⑦時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。﹂
﹁じゃあ自動販売機でお酒買って、そのへんに座って飲むしか手はな
いみたいですね﹂
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子
二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと
奇妙な体験をしたけれど、朝の五時二十分に知らない女の子に酒を飲も
うと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でも
あったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買
い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即座の宴
会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大
を出て勤めはじめたばかりで、仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋
人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだが、最近になって彼が他の
女と寝ていることがわかって、それで彼女はひどく落ちこんでいた。それが
大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があっ
て昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちにつ
きあって一晩新宿でよるあかしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ること
にしたのだ。
﹁でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?﹂と僕は小
柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草を
むしっていた。﹁彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、
そんなのわかるもわかからないもないでしょう﹂
﹁いつの話、それ?﹂
﹁おとといの夜﹂
﹁ふうん﹂と僕は言った。﹁ドアは鍵があいてたわけ?﹂
﹁そう﹂
﹁どうして鍵を閉めなかったんだろう﹂と僕は言った。
﹁知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう﹂
﹁でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょう?彼女
の気持ちはどうなるのよ?﹂とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。
﹁なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す
許さないの問題になると思うけど、あとは﹂と僕は言った。
﹁誰にも私の気持ちなんかわからないわよ﹂と小柄な女の子があい
かわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパ︱トの上を超えて
いった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに
大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕は残った酒を西
口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗
った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うと
もなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思
ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったの
だ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら
殆んどやけでビ︱ルを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽
の中でごろんと横になって黙ってビ︱ルを飲んでいた。どれだけ飲んでも
酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。彼女の肌は白く、つるつるとして
いて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞めると彼女は素
っ気ない声でありがとうと言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動
きに合わせて彼女は敏感に反応し、体をくねらせ、声をあげた。僕は中に入
ると彼女は背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他
の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせるために一生懸命回数を数えて
いたのだ。そしてそのまま我々は眠った。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセ︱ジ
もなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなってい
ねむけ
るような気がした。僕はシャワ︱に入って眠気をとり、髭を剃って、裸のまま
椅子に座って冷蔵庫のジュ︱スを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順
番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもガラス板に二、三枚あいだにはさ
んだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕
の身に実際に起った出来事だった。テ︱ブルの上にビ︱ルを飲んだグラ
スが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林
緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番を
しているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コ︱ルしても電話に
は誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみたが結果はやはり同じ
だった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封
筒が入っていた。直子からの手紙だった。

﹁手紙をありがとう﹂と直子は書いていた。手紙は直子の実家から
﹁ここ﹂にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではない
し、正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙
を書かなくてはと思っていたところなのだ、とその手紙にはあった。
そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッドに腰か
けた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカ︱
テンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたまま、とりと
めない想いに身を委ねていた。その最初の何行かを読んだだけで、僕のま
わりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられた。僕は目
を閉じ、長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をして
からそのつづきを読んだ。
﹁ここに来てもう四ヶ月近くになります﹂と直子はつづけていた。
﹁私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。
そして考えれば考えるほど、私は自分があなたに対して公正ではなかった
のではないかと考えるようになってきました。私はあなたに対して、もっとき
ちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうし
てかというと私くらいの年の女の子は﹃公正﹄なんていう言葉はまず使わ
ないからです。普通の若い女の子にとっては、物事が公正かどうかなんて
いうのは根本的にどうでもいいことだからです。ごく普通の女の子は何か
が公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれる
かとか、そういうことを中心に物事を考えるものです。﹃公正﹄なんていう
のはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの﹃公正﹄
という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が
美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面
倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。
たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。
しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと
思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたり、傷つけたり
したんだろうと思います。でもそのことで、私だって自分自身を引きずりまわ
して、自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己
弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし私があなたの中に
何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でも
あるのです。たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な
人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこ
と私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本
当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中にすっと
入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどう
なのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。
だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に
引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。
こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。
そう思いませんか?ここの治療は決して分析的にすぎるという物ではあり
ません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療を受けていると、いや
でも多かれ少なかれ分析的になってしまうものなのです。何かがこうなっ
たのはこういうせいだ、そしてそれはこれを意味し、それ故にこうなのだ、と
かね。こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとし
ているのか私にはよくわかりません。
しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自
分でも感じますし、まわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち
着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙
は身をしぼるような思いで書いたのですが︵正直言って、何を書いたのか
全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしら?︶、今回はすごく落
ち着いて書いています。きれいな空気、外界から遮断された静かな世界、
規則正しい生活、毎日の運動、そういうものがやはり私には必要だったよ
うでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思
いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けると
いうことは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいこと
のほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。
誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せ
なのです。そんなわけで、私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の
七時半で、夕食を済ませ、お風呂にも入り終ったところです。あたりはしん
として、窓の外は真っ暗です。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもき
れいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみ
んなとても星にくわしくて、あれが乙女座だとか射手座だとか私に教えてく
れます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくな
っちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、ここの人々は鳥や
花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話していると、私
は自分がいろんなことについていかに無知であったかということを思い知
らされますし、そんな風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他に
スタッフ︵お医者、看護婦、事務、その他いろいろ︶が二十人ちょっといま
す。とても広いところですから、これは決して多い数字ではありません。それ
どころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々とし
て、自然に充ちていて、人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも
穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気
がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前
提のもとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。
私はテニスとバスケット?ボ︱ルをやっています。バスケット?ボ︱ル
のチ︱ムは患者︵というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんね︶とスタッ
フが入りまじって構成されています。でもゲ︱ムに熱中しているうちに私に
は誰が患者で誰がスタッフなのかだんだんわからなくなってきます。これは
なんだか変なものです。変な話だけれど、ゲ︱ムをしながらまわりを見てい
ると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。
ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意
味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを
矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たち
の問題点のひとつはその歪みを認めて受けれることができないというとこ
ろにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方に癖があるように、感じ方や考
え方や物の見方にも癖があるし、それはなおそうと思っても急になおるもの
ではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうこと
になるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そういうの
は私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですが、そ
れでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたし
かに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるのかもしれません。だから
その歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づ
けることができなくて、そしてそういうものから遠離るためにここに入ってい
るわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から
苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが﹃歪んで
いる﹄ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っている
ところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしてい
ます。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私
たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを
身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているの
です。
運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、なす、キウ
リ、西瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作りま
す。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、
熱心です。本を読んだり、専門家を招いたり、朝から晩までどんな肥料がい
いだとか地質がどうのとか、そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは
大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく
様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがあります
か?西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。
私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。
肉や魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうを食べたいという気
持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいか
らです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうのにも
専門家がいて︵考えてみれば専門家だらけですね、ここは︶、これはいい、
これは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三キロも太って
しまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきち
んとした食事のせいです。
その他の時間、私たちは本を読んだり、レコ︱ドを聴いたり、編みもの
をしたりしています。TVとかラジオとかはありませんが、その代わりけっこう
しっかりした図書館もありますし、レコ︱ド?ライブラリイもあります。レコ︱
ド?ライブラリイにはマ︱ラ︱のシンフォニ︱の全集からビ︱トルズまで揃
っていて、私はいつもここでレコ︱ドを借りて、部屋で聴いています。
この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるい
は怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな
気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対すること
ができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私
たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が持てないので
す。
担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言いま
す。﹃外部の人﹄というのはつまり正常な世界の正常な人ということです
が、それいわれても、私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に
言って、私には両親にはあまり会いたくありません。あの人たちは私のこと
ですごく混乱していて、会って話をしても私はなんだか惨めな気分になる
ばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがい
くつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんが、それはとて
も大事なことだし、避けて通ることはできない種類のことなのです。
でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷としては感じな
いで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対す
るあなたの好意を感じるし、それを嬉しく思うし、その気持ちを正直にあな
たに伝えているだけです。たぶん今の私はそういう好意をとても必要として
いるのです。もしあなたにとって、私の書いたことの何かが迷惑に感じられ
たとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたように、私はあなたが思っ
ているより不完全な人間なのです。
ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状
況で出会って、お互いに好意を抱き合っていたとしたら、いったいどうなっ
ていたんだろうと。私がまともで、あなたもまともで︵始めからまともです
ね︶、キズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろう、と。でもこのも
しはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は公正に正直になろうと努力し
ています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによって私
の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。
この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。前日
までに電話連絡すれば、いつでも会うことができます。食事も一緒にできま
すし、宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て
下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手
紙になってしまってごめんなさい﹂
僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降
りて自動販売機でコ︱ラを買ってきて、それを飲みながらまたもう一度読
み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻し、机の上に置いた。ピンク色
の封筒には女の子にしては少しきちんとしすぎているくらいのきちんとした
小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座ってしばらく
その封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には﹁阿美寮﹂と書いてあった。
奇妙な名前だった。僕はその名前について五、六分間考えをめぐらせてか
ら、これはたぶんフランス語のami︵友だち︶からとったものだろうと想像
した。
手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出た。そ
の手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたか
らだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたように、日曜日の東京の
町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出
し、それについて僕なりに思いをめぐらしながら、僕は町の通りから通りへ
とさまよった。そして日が暮れてから寮に戻り、直子のいる﹁阿美寮﹂に長
距離電話をかけてみた。受付の女性が出て、僕の用件を聞いた。僕は直子
の名前を言い、できることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能
だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞き、三十分あとでもう一度電
話をかけてほしいと言った。
僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですので
どうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切り、ナップザックに
着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら
﹃魔の山﹄のつづきを読んだ。それでもやっと眠ることができたのは午前
一時を過ぎてからだった。

月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、
朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますので
よろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたか
ら、寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅
に行き、京都までの新幹線自由席の切符を買い、いちばん早い﹁ひかり﹂
に文字どおりとび乗り、熱いコ︱ヒ︱とサンドイッチを朝食がわりに食べ
た。そして一時間ほどうとうとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って
市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのタ︱ミナルに行って
十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかを訊いた。十一時三十
五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間少
しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の
書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って﹁阿美寮﹂の正確な
位置を調べてみた。地図でみると﹁阿美寮﹂はおそろしく山深いところに
あった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進めないという
あたりまで行って、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所は終
点のほんの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩
けば﹁阿美寮﹂につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静か
だろうと僕は思った。
二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿っ
て京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、
畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニ︱ル?ハウスが初
秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバスは山の中に入った。曲りくね
った道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は
少し気分がわるくなった。朝飲んだコ︱ヒ︱の匂いが胃の中にまだ残って
いた。そのうちにカ︱ブもだんだん少なくなってやっとほっと一息ついた頃
に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように
高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開い
た窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだっ
た。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠
に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあ
たりでやっと林が終わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところ
に出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれ
いな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこち
の物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前にはたき木
が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにしば
らくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。
そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉林を抜け
て集落に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバスが停まるたび
に何人かの客が降りた。乗りこんでくる客は一人もいなかった。市内を出
発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停
め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に
告げた。客は僕を含めて四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて
体をのばしたり、煙草を吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたり
した。運転手は立小便をした。ひもでしばった段ボ︱ル箱を車内に持ちこ
んでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。
面倒臭いので、そうだと僕は返事した。
やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転
手が降りてきた。二人の運転手は少し話しをしてからそれぞれのバスに乗
りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向って
また進み始めた。どうして我々のバスが峠の上でもう一台のバスが来るの
を待っていたかという理由はすぐに明らかになった。山を少し下ったあたり
から道幅が急に狭くなっていて二台の大型がすれちがうのはまったく不可
能だったからだ。バスは何台かのライトバンや乗用車とすれちがったが、そ
のたびにどちらかがバックして、カ︱ブのふくらみにぴったりと身を寄せな
くてはならなかった。
谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作してあ
る平地も狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いと
ころだけがどの集落も同じで、バスが来ると犬たちは競いあうように吠え
た。
僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなか
った。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山
ル︱トの入口があるだけだった。僕はナップザックを肩にかけて、谷川に沿
って登山ル︱トを上り始めた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林
がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車
がやって一台通れそうな枝道があり、その入口には﹁阿美寮?関係者以
外の立ち入りはお断りします﹂という看板が立っていた。
雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわり
の林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分
的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオン
という音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚かフィルタ︱をとおしたみ
たいに小さくくぐもった音だった。
雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらい
の高さで上に柵や網がついているわけではなく越えようと思えばいくらで
も越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開
けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿は見えなかった。門のわき
には﹁阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りします﹂というさっきと同
じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形
跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が
残り、棚にはトランジスタ?ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾い
た音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみ
たが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなもの
をニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そ
こにはミニ?バスと4WDのランド?クル︱ザ︱とダ︱クブル︱のボルボが
とまっていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているの
はその三台きりだった。
ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中
の道をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。
彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向って、﹁いや、どうもす
みませんでしたな﹂とたいしてすまなくもなさそうな口調で言った。自転車
の泥よけには白いペンキで32と書いてあった。僕が名前を言うと彼はどこ
かに電話をかけ、僕の名前を二度繰り返して言った。相手が何かを言い、
彼ははい、はあ、わかりましたと答え、電話を切った。
﹁本館に行ってですな、石田先生と言って下さい﹂と門衛は言った。
﹁その林の中の道を行くとロ︱タリ︱に出ますから二本目の︱︱いいで
すか、左から二本目の道を行って下さい。すると古い建物がありますので、
そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこに鉄筋のビルがありまして、
これが本館です。ずっと立札が出とるからわかると思います﹂
言われたとおりにロ︱タリ︱の左から二本目の道を進んでいくと、つ
きあたりにはいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があっ
た。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配され、植木はよく手入れされ
ていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらしかった。そこを右に折
れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建てとは
言っても地面から掘りおこされたようにくぼんでいるところに建っているの
で、とくに威圧的な感じは受けない。建物のデザインはシンプルで、いかに
も清潔そうに見えた。
玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中
に入ると、受付に赤いワンピ︱スを着た若い女性が座っていた。僕は自分
の名前を告げ、石田先生に会うように言われたのだと言った。彼女はにっ
こり笑ってロビ︱にある茶色のソファ︱を指差し、そこに座って待ってて下
さいと小さな声で言った。そして電話のダイヤルをまわした。僕は肩からネ
ップザックを下ろしてそのふかふかとしたソファ︱に座り、まわりを眺めた。
清潔で感じの良いロビ︱だった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣
味の良い抽象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待っ
ているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。
途中で一度受付の女性が﹁もう少しで見えますから﹂と僕に声をか
けた。僕は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたり
には何の物音もない。何だかまるで午睡の時間みたいだなと僕は思った。
人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっすり眠り込んでしまったみたいに
静かな午後だった。
しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな
短い髪をした中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を
組んだ。そして僕と握手した。握手しながら、僕の手を表向けたり裏向けた
りして観察した。
﹁あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょう?﹂と
彼女はまず最初にいった。
﹁ええ﹂と僕はびっくりして答えた。
﹁手を見るとわかるのよ﹂と彼女は笑って言った。
とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわ
があって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見える
というわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものが
しわによって強調されていた。そのしわはまるで生まれたときからそこにあ
ったんだといわんばかりに彼女の顔によく馴染んでいた。彼女が笑うとし
わも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑
いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっ
ぱいにちらばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけでは
なく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好
感を持った。
髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、
前髪も不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似
合っていた。白いTシャツの上にブル︱のワ︱クシャツを着て、クリ︱ム色
のたっぷりとした綿のズボンにテニス?シュ︱ズを履いていた。ひょろりと
痩せて乳房というものが殆んどなく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲
がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか世をすねたところのある親
切で腕の良い女大工みたいに見えた。
彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺
めまわしていた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体の各部のサイズを
測り始めるんじゃないかという気がするくらいだった。
﹁楽器何かできる?﹂
﹁いや、できません﹂と僕は応えた。
﹁それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに﹂
そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっ
ぱりわからなかった。
彼女は胸のポケットからセブンスタ︱を取り出して唇にくわえ、ライタ
︱で火をつけてうまそうに煙を吹き出した。
﹁え︱とねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の
方からここの説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二
人でちょっとこうしてお話しすることにしたわけ。ここは他のところとはちょっ
と変ってるから、何の予備知識もないといささか面喰うことになると思うし。
ねえ、あなたここのことまだよく知らないでしょう?﹂
﹁ええ、殆んど何も﹂
﹁じゃ、まあ最初から説明すると……﹂と言いかけてから彼女は何か
に気づいたというようにパチッと指を鳴らした。﹁ねえ、あなた何か昼ごは
ん食べた?おなかすいてない?﹂
﹁すいてますね﹂と僕は言った。
﹁じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょ
う。食事の時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思う
わ﹂
彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある
食堂まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われている
のは半分だけで、あとの半分はついたてで仕切られていた。なんだかシ︱
ズン?オフのリゾ︱ト?ホテルにいるみたいだった、昼食メニュ︱はヌ︱ド
ルの入ったポテト?シチュ︱と、野菜サラダとオレンジ?ジュ︱スとパンだっ
た。直子が手紙に書いていたように野菜ははっとするくらいおいしかった。
僕は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。
﹁あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ﹂と彼女は感心し
たように言った。
﹁本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし﹂
﹁よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだ
から。食べる?﹂
﹁要らないのなら食べます﹂と僕は言った。
﹁私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足りない
ぶんは煙草吸って埋めあわせてんの﹂彼女はそう言ってまたセブンスタ︱
をくわえて火をつけた。﹁そうだ、私のことレイコさんって呼んでね。みんな
そう呼んでいるから﹂
僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト?シチュ︱を食べパンを
かじっている姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。
﹁あなたは直子の担当のお医者さんですか?﹂と僕は彼女に訊いて
みた。
﹁私は医者?﹂と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言っ
た。﹁なんで私が医者なのよ?﹂
﹁だって石田先生に会えって言われてきたから﹂
﹁ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私の
こと先生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここに
いてみんなの音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフ
だかわかんなくなっちゃってるわね、もう。私のことあなたに教えなかっ
た?﹂
僕は首を振った。
﹁ふうん﹂とレイコさんは言った。﹁ま、とにかく、直子と私は同じ部屋
で暮らしてるの。つまりル︱ムメイトよね。あの子と一緒に暮らすの面白い
わよ。いろんな話して、あなたの話もよくするし﹂
﹁僕のとんな話するんだろう?﹂と僕は訊いてみた。
﹁そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ﹂とレイコさんは
僕の質問を頭から無視して言った。﹁まず最初にあなたに理解してほしい
のはここがいわゆる一般的な﹃病院﹄じゃないってことなの。てっとりばや
く言えば、ここは治療をするところではなく療養するところなの。もちろん医
者は何人かいて毎日一時間くらいはセッションをするけれど、それは体温
を測るみたいに状況をチェックするだけであって、他の病院がやっているよ
うないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄
格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入っ
て、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができるのは、そう
いう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというんじゃなくて、専門的
な治療を必要とする人は、そのケ︱スに応じて専門的な病院に行くことに
なるの。そこまでわかる?﹂
﹁なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどうい
うことなんでしょう?﹂
レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ?ジュ︱スの残りを飲ん
だ。﹁ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界から
の隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮ら
してるし、TVもあいし、ラジオもないし。今流行ってるコミュ︱ンみたいなも
んよね。もっともここに入るのには結構高いお金かかるからそのへんはコミ
ュ︱ンとは違うけど﹂
﹁そんなに高いんですか?﹂
﹁馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう?
場所も広いし、患者の数は少なくスタッフは多いし、私の場合はもうずっと
長くいるし、半分スタッフみたいなものだから入院費は実質的には免除さ
れてるから、まあそれはいいんだけど。ねえ、コ︱ヒ︱飲まない?﹂
飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウンタ︱の
コ︱ヒ︱?ウォ︱マ︱からふたつのカップにコ︱ヒ︱を注いで運んできてく
れた。彼女は砂糖を入れてスプ︱ンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲
んだ。
﹁この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高く
ない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法
人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい
前までは。古い屋敷みたでしょう?﹂
見た、と僕は言った。
﹁昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグル︱プ療
養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さ
んがやはり精神病の傾向があって、ある専門医がその人にグル︱プ療養
を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら肉体労働をし
て暮らし、そこに医者が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによ
ってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だっ
たの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、
法人になって、農場も広くなって、本館も五年前にできて﹂
﹁治療の効果はあったわけですね﹂
﹁ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢
山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって
回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはね、なんなが助け合
うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いに
助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。他のとこ
ろでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助
けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うの
よ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで
私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たち
を助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのは
ある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はある
お医者にピアノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教える
し、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門
的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみん
な平等なの。私はあなたを助けるし、あなたも私を助けるの﹂
﹁僕はどうすればいいんですか、具体的に?﹂
﹁まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けて
もらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をつい
たり、物事を取り繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それ
だけでいいのよ﹂
﹁努力します﹂と僕はいた。﹁でもレイコさんはどうして七年もここに
いるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは
思えないですが﹂
﹁昼間はね﹂と彼女は暗い顔をして言った。﹁でも夜になると駄目な
の。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの﹂
﹁本当に?﹂と僕は訊いた。
﹁嘘よ。そんなことするわけないでしょう﹂と彼女はあきれたように首
を振りながら言った。﹁私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりし
てね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外
の世界に何があるの?私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。
私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け入れてくれる家
庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここ
にもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。
そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから
一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんて
わかんないわよ﹂
﹁でも新しい世界が広がるかもしれませんよ﹂と僕は言った。﹁ため
してみる価値はあるでしょう﹂
﹁そうね、そうかもしれないわね﹂と言って彼女は手の中でしばらくラ
イタ︱をくるくるとまわしていた。﹁でもね、ワタナベ君、私にも私のそれな
りの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど﹂
僕は肯いた。
﹁それで直子はよくなっているんですか?﹂
﹁そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していた
し、私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち
着いているし、しゃべり方もずいぶんましになってきたし、自分の言いたいこ
とも表現できるようになってきたし……まあ良い方に向っていることはたし
かね。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場
合、そのキズキ君っていうボ︱イ?フレンドが死んだ時点から既に症状が
出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自
身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……﹂
﹁家庭的な背景?﹂と僕は驚いて訊きかえした。
﹁あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?﹂とレイコさんが余計に驚
いて言った。
僕は黙って首を振った。
﹁じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子
もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし﹂レイコさん
はまたスプ︱ンでコ︱ヒ︱をかきまわし、ひとくち飲んだ。﹁それからこれ
は規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれ
ど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはル︱
ルなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だか
ら常にそこにはブザ︱バ︱が︱︱現実的には私になるわけだけど︱︱つ
きそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかな
いわね。いいかしら?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は笑って言った。
﹁でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいるこ
とは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知っ
てるもの﹂
﹁全部?﹂
﹁だいたい全部よ﹂と彼女は言った。﹁だって私たちグル︱プ?セッ
ションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は
二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないの
よ﹂
僕はコ︱ヒ︱を飲みながらレイコさんの顔を見た。﹁東京にいるとき
僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それに
ついてずっと考えてきたんだけれど、今でもまだわからないんです﹂
﹁それは私にもわからないわよ﹂とレイコさんは言った。﹁直子にも
わからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めるこ
となのよ。そうでしょう?たとえ何が起ったにせよ、それを良い方向に進めて
いくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかっ
たかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかし
ら﹂
僕は肯いた。
﹁私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私
とで。お互いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそ
ういうのやるのって、時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつま
でここにいられるの?﹂
﹁明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくち
ゃいけないし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから﹂
﹁いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もか
からないし、時間を気にしないでゆっくり話もできるし﹂
﹁私たちって誰のことですか?﹂
﹁私と直子の部屋よ、もちろん﹂とレイコさんは言った。﹁部屋も分か
れているし、ソファ︱?ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配
しなくても﹂
﹁でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客が女性
の部屋に泊まるとか?﹂
﹁だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわ
りばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう?﹂
﹁もちろんしませんよ、そんなこと﹂
﹁だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりと
いろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわ
かるし、私のギタ︱も聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ﹂
﹁でも本当に迷惑じゃないですか?﹂
レイコさんは三本目のセブンスタ︱を口にくわえ、口の端をきゅっと曲
げてから火をつけた。﹁私たちそのことについては二人でよく話しあったの
よ。そして二人であなたを招待しているのよ、個人的に。そういうのって礼儀
正しく受けた方がいいじゃないかしら?﹂
﹁もちろん喜んで﹂と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。﹁あな
たって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ﹂と彼女は言った。﹁あの
﹃ライ麦畑﹄の男の子の真似してるわけじゃないわよね﹂
﹁まさか﹂と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。﹁でもあなたは素直な人よ
ね。私、それ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり
来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違
いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よ
ね﹂
﹁開くとどうなるんですか?﹂
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテ︱ブルの上で手を合わ
せた。﹁回復するのよ﹂と彼女は言った。煙草の灰がテ︱ブルの上に落ち
たが気にもしなかった。
我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プ︱ルとテニス?コ︱トと
バスケット?コ︱トのそばを通り過ぎた。テニス?コ︱トでは男が二人でテ
ニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男で、二人とも腕は
悪くなかったが、それは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲ︱
ムのように思えた。ゲ︱ムをしているというよりはボ︱ルの弾性に興味があ
ってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこ
みながら熱心にボ︱ルのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗
をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲ︱ムを中断
してやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニス?コ
︱トのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。
先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離
をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っ
ていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が
住んでるのよ、とレイコさんが教えてくれた。
﹁町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ﹂とレイコさん
は歩きながら僕に説明した。﹁食料品はさっきも言ったように殆んど自給
自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコ︱ドも運動設備
もあるし、小さなス︱パ︱?マ︱ケットみたいなのもあるし、毎週理容師も
かよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人
に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかはカタログ注文できるシステムが
あるし、まず不便はないわね﹂
﹁町に出ることはできないんですか?﹂と僕は質問した。
﹁それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、
そういう特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可さ
れていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど、一度
出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニ、三日町に出て
またここに戻ってということはできないの。だってそうでしょう?そんなことし
たら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの﹂
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気
のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なの
かと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの
建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく
描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルト?ディズニ
︱がムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのか
もしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしてい
て、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入
口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教
習所のコ︱スみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前に
も草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカ︱テン
が引かれていた。
﹁ここはC地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んで
いるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切
られて、一区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住
めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど﹂
﹁とても静かですね﹂と僕は言った。
﹁今の時間は誰もいないのよ﹂とレイコさんは言った。﹁私はとくべ
つ扱いだから今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみんなそれぞれ
のカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるし、庭の手入
れしている人もいるし、グル︱プ療法している人もいるし、外に出て山菜を
集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作る
わけ。直子は今何してたっけ?壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとか
そういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうの
がだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ﹂
彼女は︿C-7﹀という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階段を
上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさん
は僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドル︱ムとキッチンとバ
スル︱ムの四室から成ったシンプルで感じの良い住居で、余分な飾りつけ
もなく、場違いな家具もなく、それでいて素っ気ないという感じはしなかっ
た。とくに何かがどうというのではないのだが、部屋の中にいるとレイコさ
んを前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居
間にはソファ︱がひとつとテ︱ブルがあり、揺り椅子があった。キッチンに
は食事用のテ︱ブルがあった。どちらのテ︱ブルの上にも大きな灰皿が
置いてあった。ベッドル︱ムにはベッドがふたつと机がふたつとクロ︱ゼッ
トがあった。ベッドの枕元には小さなテ︱ブルと読書灯があり、文庫本が
伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセ
ットになったものが置いてあって、簡単な料理なら作れるようになってい
た。
﹁お風呂はなくてシャワ︱だけだけどまあ立派なもんでしょう?﹂とレ
イコさんは言った。﹁お風呂と洗濯設備は共同なの﹂
﹁十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しか
ないもの﹂
﹁あなたはここの冬を知らないからそういうのよ﹂とレイコさんは僕
の背中を叩いてソファ︱に座らせ、自分もそのとなりに座った。﹁長くて辛
い冬なのよ、ここの冬は。どこを見まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿っ
て体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すの
よ。そういう季節にはね、私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり
編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペ︱スがないと息がつ
まってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかる
わよ﹂
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、
膝の上で手を合わせた。﹁これを倒してベッド作ってあげるわよ﹂と彼女
は二人の座っているソファ︱をぽんぽんと叩いた。﹁私たち寝室で寝るか
ら、あなたここで寝なさい。それでいいでしょう?﹂
﹁僕の方はべつに構いませんと﹂
﹁じゃ、それで決まりね﹂とレイコさんは言った。﹁私たちたぶん五時
頃にここに戻ってくると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるか
ら、あなた一人でここで待ってほしいんだけれど、いいかしら?﹂
﹁いいですよ、ドイツ語の勉強してますから﹂
レイコさんが出ていってしまうと僕はソファ︱に寝転んで目を閉じた。
そして静かさの中に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふと
キズキと二人でバイクに乗って遠出したときのことを思い出した。そういえ
ばあれもたしか秋だったなあと僕は思った。何年前の秋だっけ?四年前
だ。僕はキズキの革ジャンパ︱の匂いとあのやたら音のうるさいヤマハの
一ニ五CCの赤いバイクのことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで
出かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事
があったわけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。
秋の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパ︱を両手でしっかりと掴ん
だまま空を見上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ばされそうな気が
したものだった。
長いあいだ僕は同じ姿勢でソファ︱に身を横たえて、その当時のこと
を次から次へと思い出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋
の中で横になっていると、これまであまり思い出したことのない昔の出来
事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるものは楽しく、あるものは少し哀
しかった。
どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もし
なかった記憶の洪水︵それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと
湧き出していたのだ︶にひたりきっていて、直子がそっとドアを開けて部屋
に入ってきたことに気づきもしなかったくらいだった。ふと見るとそこに直子
がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子の目をじっと見ていた。彼女はソ
ファ︱の手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕
自身の記憶がつむぎあげたイメ︱ジなのではないかと思った。でもそれは
本物の直子だった。
﹁寝てたの?﹂と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。
﹁いや、考えごとしてただけだよ﹂と僕は言った。そして体を起こし
た。﹁元気?﹂
﹁ええ、元気よ﹂と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色
あいの遠くの情景にように見えた。﹁あまり時間がないの。本当はここに来
ちゃいけないんだけれど、ちょっとした時間見つけて来たの。だからすぐに
戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい髪してるでしょう?﹂
﹁そんなことないよ。とても可愛いよ﹂と僕は言った。彼女はまるで小
学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じよう
にきちんとピンでとめていた。その髪型は本当によく直子に似合って馴染
んでいた。彼女は中世の木版画によく出てくる美しい少女のように見えた。
﹁面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う?可
愛いって?﹂
﹁本当にそう思うよ﹂
﹁でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ﹂と直子は言った。
そして髪留めを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。
蝶のかたちをした髪留めだった。
﹁私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかっ
たの。そうしないと私うまく馴染めないの。私って不器用だから﹂
﹁少しは馴れた?﹂
﹁少しね﹂と彼女は言って、また髪留めに手をやった。﹁でももう時
間がないの。私、いかなくちゃ﹂
僕は肯いた。
﹁ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも
私、もしここにいることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほし
いの。ここはちょっと特殊な場所だし、システムも特殊だし、中には全然馴
染めない人もいるの。だからもしそう感じたら正直にそう言ってね。私はそ
れでがっかりしたりはしないから。私たちここではみんな正直なの。正直に
いろんなことを言うのよ﹂
﹁ちゃんと正直に言うよ﹂
直子はソファ︱の僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を
抱くと、彼女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体
温をたしかめるみたいにそのままの姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子
をそっと抱いていると、胸が少し熱くなった。やがて直子は何も言わずに立
ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドアを開けて出て行った。
直子が行ってしまうと、僕はソファ︱の上で眠った。眠るつもりはなか
ったのだけれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所に
は直子の使う食器があり、バスル︱ムには直子の使う歯ブラシがあり、寝
室には直子の眠るベッドがあった。僕はそんな部屋の中で、細胞の隅々か
ら疲労感を一滴一滴としぼりとるように深く眠った。そして薄闇の中を舞う
蝶の夢をみた。
目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が少し
変り、風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナッ
プザックからタオルを出して顔を拭き、シャツを新しいものに変えた。それか
ら台所に行って水を飲み、流しの前の窓から外を眺めた。そこの窓からは
向いの棟の窓が見えた。その窓の内側には切り紙細工がいくつか糸で吊
るしてあった。鳥や雲や牛や猫のシルエットが細かく丁寧に切れ抜かれ、く
みあわされていた。あたりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかっ
た。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたい
だった。
人々が﹁C地区﹂に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だった。台所
の窓からのぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見
えた。三人とも帽子をかぶっていたので、顔つきや年齢はよくわからなかっ
たけれど、声の感じからするとそれほど若くはなさそうだった。彼女たちが
角を曲って消えてしばらくすると、また同じ方向から四人の女性がやってき
て、同じように角を曲って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂ってい
た。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りの
ようなかたちに淡い光が浮かんでいた。
直子とレイコさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子ははじ
めて会うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わした。直子は本当
に恥ずかしがっているようだった。レイコさんは僕が読んでいた本に目をと
めて何を読んでいるのかと訊いた。ト︱マス?マンの﹃魔の山﹄だと僕は
言った。
﹁なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ﹂とレイコさ
んはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。
レイコさんがコ︱ヒ︱をいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子
に突撃隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕
に蛍をくれた話をした。残念だわ、彼がいなくなっちゃって、私もっともっと
あの人の話を聞きたかったのに、と直子はとても残念そうに言った。レイコ
さんが突撃隊について知りたがったので、僕はまた彼の話をした。もちろん
彼女も大笑いをした。突撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ち
ていた。
六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と
直子は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レイコさん
はマカロニ?サラダとコ︱ヒ︱だけしか取らなかった。そしてあとはまた煙
草を吸った。
﹁年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるの
よ﹂と彼女は説明するように言った。
食堂では二十人くらいの人々がテ︱ブルに向って夕食を食べていた。
僕らが食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行っ
た。食堂の光景は人々の年齢がまちまちであることを別にすれば寮の食堂
のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違うのは誰もが一定の音量でし
ゃべっていることだった。大声を出すこともなければ、声をひそめるというこ
ともなかった。声をあげて笑ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりす
るようなものは一人もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をして
いた。彼らはいくつかのグル︱プにわかれて食事をしていた。ひとつのグ
ル︱プは三人から多くて五人だった。一人が何かをしゃべると他の人々は
それに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべつの人がそ
れについてしばらく何かを話した。何について話しているのかはよくわから
なかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニスのゲ︱ム
を思いださせた。直子も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするの
だろうかと僕はいぶかった。そして変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬
嫉妬のまじった淋しさを感じた。
僕のうしろのテ︱ブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の
髪の薄い男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つき
の中年女性に向って無重力状態で胃液の分泌はどうなるかについてくわ
しく説明していた。青年と女性は﹁はあ﹂とか﹁そうですか﹂とか言いな
がら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞いていると、髪のうすい白衣の
男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきた。
食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろ
じろとは見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだ
った。僕の参入は彼らにとってはごく自然な出来事であるようだった。
一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて﹁いつまでここにい
らっしゃるんですか?﹂と僕に聞いた。
﹁二泊して水曜には帰ります﹂と僕は答えた。
﹁今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも
真っ白でいいもんですよ﹂と彼は言った。
﹁直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ﹂とレイコさん
は男に言った。
﹁いや、でも冬はいいよ﹂と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男
が本当に医者なのかどうか僕はますますわからなくなってしましった。
﹁みんなどんな話をしているんですか?﹂と僕はレイコさんに訊ねて
みた。彼女には質問の趣旨がよくかわらない様子だった。
﹁どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、
そんないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって﹃今日は
北極熊がお星様を食べたから明日は雨だ!﹄なんて叫ぶと思ってたわけ
じゃないでしょう?﹂
﹁いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて﹂と僕は言った。
﹁みんなごく静かに話しているから、いったいどんなことを話しているかな
あとふと思っただけです﹂
﹁ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ﹂直
子は魚の骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチで口もとを拭
った。﹁それに声を大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もない
し、誰かの注目をひく必要もないし﹂
﹁そうだろうね﹂と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしてい
ると不思議に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫
び声や大仰な表現がなつかしくなった。僕はそんなざわめきにそれまでけ
っこううんざりさせられてきたものだが、それでもこの奇妙な静けさの中で
魚を食べていると、どうも気持ちが落ちつかなかった。その食堂の雰囲気
は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興
味を持った人々が限定された場所に集って、互い同士でしかわからない情
報を交換しているのだ。
食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは﹁C地区﹂の中にある
共同浴場に行ってくると言った。そしてもしシャワ︱だけでいいならバスル
︱ムのを使っていいと言った。そうすると僕は答えた。彼女達が行ってしま
うと僕は服を脱いでシャワ︱を浴び、髪を洗った。そしてドライヤ︱で髪を
乾かしながら、本棚に並んでいたビル?エヴァンスのレコ︱ドを取り出して
かけたが、しばらくしてから、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何
度かかけたのと同じレコ︱ドであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼
女を抱いたその夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん
昔の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度も考
えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が引き伸ばさ
れて狂ってしまったのだ。
月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファ︱に寝
転んでビル?エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は
様々な物事の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと
淡く壁を染めていた。僕はナップザックの中からブランディ︱を入れた薄い
金属製の水筒をとりだし、ひとくち口にふくんで、ゆっくりのみ下した。あな
なかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくのが感じられた。そしてその
あたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブラン
ディ︱を飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。月の
光は音楽にあわせて揺れているように見えた。
直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。
﹁部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て﹂
とレイコさんが言った。﹁荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思った
わ﹂
﹁まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消
してみたんですよ﹂
﹁でも素敵じゃない、こういうの﹂と直子は言った。﹁ねえ、レイコさ
ん、この前停電のときつかったロウソクまだ残っていたかしら?﹂
﹁台所の引き出しよ、たぶん﹂
直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持ってき
た。僕はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立てた。レイコさんが
その火で煙草に火をつけた。あたりはあいかわらずひっそりとしていて、そ
んな中で三人でロウソクを囲んでいると、まるで我々三人だけが世界のは
しっこにとり残されたみたいに見えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソク
の光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜してい
た。僕と直子は並んでソファ︱に座り、レイコは向いの揺り椅子に腰掛け
た。
﹁どう、ワインでも飲まない?﹂とレイコさんが僕に言った。
﹁ここはお酒飲んでもかまわないですか?﹂と僕はちょっとびっくりし
て言った。
﹁本当は駄目なんだけどねえ﹂とレイコは耳たぶを掻きながら照れく
さそうに言った。﹁まあ大体は大目に見てるのよ。ワインとかビ︱ルくらい
なら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、知り合いのスタッフの人に頼んでちょっ
とずつ買ってきてもらってるの﹂
﹁ときどき二人で酒盛りするのよ﹂直子がいたずらっぽく言った。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラ
スを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした
味わいのおいしいワインだった。レコ︱ドが終るとレイコはベッドの下から
ギタ︱?ケ︱スを出してきていとおしそうに調弦してから、ゆっくりとバッハ
のフ︱ガを弾きはじめた。ところどころで指のうまくまわらないところがあっ
たけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、そこには
演奏する喜びのようなものが充ちていた。
﹁ギタ︱はここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでしょう、だ
からね。独学だし、それに指がギタ︱向きになってないからなかなかうまく
ならないの。でもギタ︱弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしく
て……まるで小さな部屋みたい﹂
彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソク
の灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けている
と、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子は
レイコさんにビ︱トルスのものを弾いてほしいと頼んだ。
﹁リクエスト?タイム﹂とレイコさんは片目を細めて僕に言った。﹁直
子が来てから私は来る日も来る日もビ︱トルスのものばかり弾かされてる
のよ。まるで哀れた音楽奴隷のように﹂
彼女はそう言いながら﹃ミシェル﹄をとても上手く弾いた。
﹁良い曲ね。私、これ大好きよ﹂とレイコさんは言ってワインをひとくち
のみ、煙草を吸った。
それから彼女は﹃ノ︱ホエア?マン﹄を弾き、﹃ジェリア﹄を弾いた。
ときどきギタ︱を弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲
み、煙草を吸った。
﹁﹃ノルウェイの森﹄を弾いて﹂と直子は言った。
レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子
が財布から百円玉を出してそこに入れた。
﹁なんですか、それ?﹂と僕は訊いた。
﹁私が﹃ノルウェイの森﹄をリクエストするときはここに百円入れるの
がきまりなの﹂と直子が言った。﹁この曲はいちばん好きだから、とくにそ
うしてるの。心してリクエストするの﹂
﹁そしてそれが私の煙草代になるわけね﹂
レイコさんは指をよくほぐしてから﹃ノルウェイの森﹄を弾いた。彼女
の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるという
ことがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。
﹁ありがとう﹂とレイコさんは言ってにっこり笑った。
﹁この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだが
はわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの﹂と
直子は言った。﹁一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれ
なくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの﹂
﹁なんだか﹃カサブランカ﹄みたいな話よね﹂とレイコさんは笑って
言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直
子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そ
うになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになって
いた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前
と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそ
れへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたあ
る種の鋭さ︱︱人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ︱︱は
ずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさ
がまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年
間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実
に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにある
いはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったものの
ことを考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女
独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとで
も言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。
直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを
話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたの
はそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏っ
たモラリティ︱について正確に説明するのは至難の業だったが、直子は最
後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と
二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親し
く付き合っている唯一の男はこういうユニ︱クな人物なのだと説明しただ
けだった。そのあいだレイコさんはギタ︱を抱えて、もう一度さっきのフ︱ガ
の練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワ
インを飲んだり煙草をふかしたりしていた。
﹁不思議な人みたいね﹂と直子は言った。
﹁不思議な男だよ﹂と僕は言った。
﹁でもその人のこと好きなのね?﹂
﹁よくわからないね﹂と僕は言った。﹁でもたぶん好きというんじゃな
いだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じ
ゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう
意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にス
トイックな人だね﹂
﹁そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね﹂と直子
は笑って言った。﹁何人と寝たんだって?﹂
﹁たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな﹂と僕は言っ
た。﹁でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひと
つの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあ
の男の求めていることだと思うんだ﹂
﹁それがストイックなの?﹂と直子が訊ねた。
﹁彼にとってはね﹂
直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。﹁その人、私より
ずっと頭がおかしいと思うわ﹂と彼女は言った。
﹁僕もそう思う﹂と僕は言った。﹁でも彼の場合は自分の中の歪み
を全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あ
の人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、
あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そう
いう人は世間では尊敬されるのさ﹂
﹁きっと私、頭悪いのね﹂と直子は言った。﹁ここのことまだよくわか
んないもの。私自身のことがまだよくわかんないように﹂
﹁頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわから
ないことはいっぱいある。それは普通の人だもの﹂
直子は両脚をソファ︱の上にので、折りまげてその上に顎をのせた。
﹁ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ﹂と彼女は言った。
﹁普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔を
して、普通の成績で、普通のことを考えている﹂と僕は言った。
﹁ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと
書いていたのはあなたの大好きなスコット?フィッツジェラルドじゃなかっ
たかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ﹂と直子はいたずらっぽく
笑いながら言った。
﹁たしかに﹂と僕は認めた。﹁でも僕は別に意識的にそうきめつけて
るんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。
君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい?﹂
﹁あたりまえでしょう﹂と直子はあきれたように言った。﹁あななそん
なこともわからないの?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?
お酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと
考えてるの?﹂
﹁いや、もちろんそんなことは思わないよ﹂と僕は言った。
直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言って
いいのかわからなくてワインを飲んだ。
﹁ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?﹂と直子がふと
思いついたように小さな声で訊いた。
﹁八人か九人﹂と僕は正直に答えた。
レイコさんが練習を止めてギタ︱をはたと膝の上に落とした。﹁あな
たまだ二十歳になってないでしょう?いったいどういう生活してんのよ、そ
れ?﹂
直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコ
さんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を
愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘
われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。﹁いい
わけするんじゃないけど、辛かったんだよ﹂と僕は直子に言った。﹁君と毎
週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのこ
とだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女
の子と寝たんだと思う﹂
直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。﹁ねえ、
あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよね?まだ
そのこと知りたい?﹂
﹁たぶん知ってた方がいいんだろうね﹂と僕は言った。
﹁私もそう思うわ﹂と直子は言った。﹁死んだ人はずっと死んだまま
だけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの﹂
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパ︱セ︱ジを何度も何度もくり
かえして練習していた。
﹁私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ﹂と直子は言って髪留
めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めを
もてあそんでいた。﹁もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も
何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてでき
ないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私は
キズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわって
いたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやっ
てあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの﹂
直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。
﹁全然濡れなかったのよ﹂と直子は小さな声で言った。﹁開かなか
ったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためし
てみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみても
やはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげて
たの……わかるでしょう?﹂
僕は黙って肯いた。
直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなって
いるように見えた。﹁私だってできることならこういうこと話したくないのよ、
ワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっ
ておきたなかったのよ、でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないの
よ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡
れてたでしょう?そうでしょう?﹂
﹁うん﹂と僕は言った。
﹁私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと
濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸
にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのっ
てはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キズキ君
のこと本当に愛してたのよ﹂
﹁そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?﹂
﹁ごめんなさい﹂と直子は言った。﹁あなたを傷つけたくないんだけ
ど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だった
のよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいて
いろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキ
スしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になった
とき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係
だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人
と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというの
がいったいどういうことなのかというのも﹂
彼女はテ︱ブルの上のワイン?グラスをとろうとしたが、うまくとれず
にワイン?グラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカ︱ペットの上
にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテ︱ブルの上に戻し
た。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく
黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつ
に折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣
いた。レイコさんがギタ︱を置いてやってきて、直子の背中に手をあててや
さしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように
頭をレイコさんの胸に押しつけた。
﹁ね、ワタナベ君﹂とレイコさんが僕に言った。﹁悪いけれど二十分く
らいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると
思うから﹂
僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセ︱タ︱を着た。﹁すみませ
ん﹂と僕はレイコさんに言った。
﹁いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくてい
いのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから﹂彼女はそういって僕に
向って片目を閉じた。
僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中
に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不
思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のよう
に、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方
でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕
が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。
雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住
んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のと
もっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを
探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも
眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを
連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕
はジェイ?ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、
その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。
僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんが
ギタ︱を練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックし
た。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさんがカ︱ペットの上に座って一
人でギタ︱を弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示
した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレイコさんはギタ︱
を床に置いてソファ︱に座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残
っていたワインをふたつのグラスに分けた。
﹁彼女は大丈夫よ﹂とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。
﹁しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ち
ょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ私と二人で少し外を散歩
しない?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は言った。
僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニス?コ
︱トとバスケットボ︱ル?コ︱トのあるところまで来て、そこのベンチに腰を
下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボ︱ルをとりだ
して、しばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできる
かと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。
﹁バスケットボ︱ルは?﹂
﹁それほど得意じゃないですね﹂
﹁じゃああなたいったい何が得意なの?﹂とレイコさんは目の横のし
わを寄せるようにして笑って言った。﹁女の子と寝る以外に﹂
﹁べつに得意なわけじゃありませんよ﹂僕は少し傷ついて言った。
﹁怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなの?ど
んなことが得意なの?﹂
﹁得意なことってないですね。好きなことならあるけれど﹂
﹁どんなこと好き?﹂
﹁歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと﹂
﹁一人でやることが好きなのね?﹂
﹁そうですね、そうかもしれませんね﹂と僕は言った。﹁他人とやるゲ
︱ムって昔からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやって
もうまくのりこめないんです。どうでもよくなっちゃうんです﹂
﹁じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス?カントリ︱?
スキ︱やるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ
歩きまわって汗だくになって﹂とレイコさんは言った。そして街灯の光の下
でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと自分の右手を眺めた。
﹁直子はよくあんな風になるんですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁そうね、ときどきね﹂とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。
﹁ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、そ
れはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せな
くなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなって
いくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大
変ね﹂
﹁僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?﹂
﹁何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なん
でも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互い
をいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの
感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん
良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、
そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなく
て、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それが
ここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべる
ようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何
もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?﹂
﹁そうですね﹂と僕は言った。
﹁私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行っ
たりするのを見てきたのよ﹂とレイコさんは言った。﹁たぶんそういうのを
沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそ
うとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的にわかっちゃうところがあるの
よ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子がいったいどう
なるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなお
ってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれ
ないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることはで
きないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく
一般的なことしかね﹂
﹁どうして直子に限って見当がつかないんですか?﹂
﹁たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめが
つかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好
きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問
題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつ
ひとつほぐしていくのが骨なのよ。それをほぐすのに長い時間がかかるか
もしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれない
しね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ﹂
彼女はもう一度バスケットボ︱ルを手にとって、ぐるぐると手の中でま
わしてから地面にバウンドさせた。
﹁いちばん大事なことはね、焦らないことよ﹂とレイコさんは僕に言っ
た。﹁これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないく
らい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こし
て無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひと
つひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できるの?﹂
﹁やってみます﹂と僕は言った。
﹁時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかも
しれないわよ。あなたそのこと考えてみた?﹂
僕は肯いた。
﹁待つのは辛いわよ﹂とレイコさんはボ︱ルをバウンドさせながら言
った。﹁とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじ
っと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれが
できるの?そこまで直子のことを愛してる?﹂
﹁わからないですね﹂と僕は正直に言った。﹁僕にも人を愛するとい
うのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意
味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たいんです。そうしないと自
分がどこに行けばいいのかということもよくわからないんですよ。だからさ
っきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけ
ないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います﹂
﹁そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?﹂
﹁それもどうしていいかよくわかりませんね﹂と僕は言った。﹁いった
いどうすればいいんですか?ずっとマスタ︱ペ︱ションしながら待ちつづけ
るべきなんですか?自分でもうまく収拾できないんですよ。そういうのっ
て﹂
レイコさんはボ︱ルを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。﹁あのね、
何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれ
でいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなた
が自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで
自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすご
くもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事
な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛
いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら
自分も大事にしなさいね﹂
考えてみます、と僕は言った。
﹁私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど﹂とレイコさ
んは言った。﹁信じる?﹂
﹁心から信じるよ、もちろん﹂
﹁心から信じる?﹂
﹁心から信じますよ﹂と僕は笑いながら言った。
﹁直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その
頃は。今ほどしわもなかったしね﹂
そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。
﹁でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄
目よ。私はそう言われると嬉しいけどね﹂
﹁気をつけます﹂と僕は言った。
彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入
っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカ
ラ︱写真だった。その女の子は派手なスキ︱?ウェアを着て足にスキ︱を
つけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。
﹁なかなか美人でしょう?私の娘よ﹂とレイコさんは言った。﹁今年
はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな﹂
﹁笑い方が似てますね﹂と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼
女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。
﹁私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だっ
てまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやさ
れて育ったのよ。コンク︱ルで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップ
の成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決って
いたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行く
し、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも
変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のと
きね。わりに大事なコンク︱ルがあって、私ずっとそのための練習してたん
だけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわ
からないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサ︱ジしたり、お湯に
つけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。
私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだ
けれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もち
ゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なもの
じゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきり
したことはわからなかったの。コンク︱ル前のストレスでそうなったじゃな
いかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしな
さいって言われたの﹂
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回
か曲げた。
﹁それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することに
したの。そのコンク︱ルのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろ
う、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。
でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないの
よ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が
動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやっ
て生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてる
のね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだ
もの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きて
きたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪
我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手い
っていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育って
きた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それで
ボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ
暗になっちゃって﹂
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲
げた。
﹁それでコンサ︱ト?ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院し
て、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大
に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えち
ゃったのよ。何かこう、エネルギ︱の玉のようなものが、体の中から消えち
ゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよし
た方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教
えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生その
ものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちば
ん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎる
と思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何も
ないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞め
てくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだの
ソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔
しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンク︱ルで二位とっ
ただの、どこのホ︱ルでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくっ
てぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私に
はわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで
娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってう
まく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひし
ひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人
が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボン
ッ!よ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のと
きでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高
い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて……私、その
ときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出た
いっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月︱︱長か
ったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ﹂
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
﹁病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私
よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノ
の生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい
人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれな
いがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然
よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言
ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事
情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞
きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入
院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原
因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなこと
が起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞ
ゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼が
やってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待っ
てって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したい
と言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。
三ヶ月間、私たち週に一度デ︱トしたの。いろんなところに行って、い
ろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にい
ると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほ
っとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったっ
て、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃった
わけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰ま
っているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、
私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって
言ったの。﹃もし私と寝たいのなら寝ていいわよ﹄って私は言ったの。
﹃私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を
抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそ
れとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブル
も抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なこ
となのよ。それでもかまわないの﹄って。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、
君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして
彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さな
い人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しまし
ょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月
後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の
家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴
が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっ
ちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結
婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行し
ただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女
だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?﹂
レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボ︱ルを持ちあげた。
﹁この人といる限り私は大丈夫って思ったわ﹂とレイコさんは言っ
た。﹁この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ね
え、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人
にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわるくなってきたら、つまり
ネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくな
おしてくれる︱︱ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる︱︱そういう信
頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在
する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素
晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて
毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結
婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱい
よ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起き
て家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日
毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちば
ん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まで
はつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの﹂
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上
に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が
光っていた。
﹁何かがあったんですか?﹂と僕は訊いた。
﹁そうねえ﹂とレイコさんは言った。﹁すごく奇妙なことがあったの
よ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていた
のよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの﹂彼女は煙草を持ってい
ない方の手でこめかみをこすった。﹁でもわるいわね、私の話ばかり聞か
せちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに﹂
﹁本当に聞きたいんです﹂と僕は言った。﹁もしよければその話を聞
かせてくれませんか?﹂
﹁子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになっ
たの﹂とレイコさんは話しはじめた。﹁誰のためでもなく、自分のためにピ
アノを弾くようになったの。バッハとかモ︱ツァルトとかスカルラッティ︱と
か、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブラ
ンクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思
うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピアノが弾けるんだわって思
ってね。そういう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだ
ったかっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれ
に飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のため
に音楽が演奏できるということはね。
さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけ
れど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんてただの一
度もなかったのよ。テストをパスするためとか、課題曲だからとか人を感心
させるためだとか、そんなためばかりにピアノを弾きつづけてきたのよ。も
ちろんそういうのは大事なことではあるのよ、ひとつの楽器をマスタ︱する
ためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなく
てはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私はエリ︱
ト?コ︱スからドロップ?アウトして三十一か三十二になってやっとそれを
悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづ
けて、それから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いたの。そこまでは何
も問題はなかったわ。ないでしょう?﹂
僕は肯いた。
﹁ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の
奥さんが私を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いたがってるんだ
けど教えて頂くわけにはいかないだろうかっていうの。近所っていってもけ
っこう離れてるから、私はその娘さんのことは知らなかったんだけれど、そ
の奥さんの話によるとその子は私の家の前を通ってよく私のピアノを聴い
てすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っていて憧れているっ
ていうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピアノ
を習っていたんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今
は誰にもついていないってことなの。
私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心者ならと
もかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言っ
てね。だいいち子供の世話が忙しくてできませんって。それに、これはもちろ
ん相手には言わなかったけれど、しょっちゅう先生を変える子って誰がやっ
てもまず無理なのよ。でもその奥さんは一度でいいから娘に会うだけでも
会ってやってくれって言うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭そ
うだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会う
だけでいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一人
でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当
にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとに
も先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒く長くて、手
足がすらっと細くて、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具
合に小さくて柔らかそうなの。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばら
く。それくらい綺麗なの。その子がうちの応接間のソファ︱に座っていると、
まるで違う部屋みたいにゴ︱ジャスに見えるのよね。じっと見ているとすご
く眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子だったわ。今でもはっき
りと目に浮かぶわね﹂
レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目
を細めていた。
﹁コ︱ヒ︱を飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなこ
とをね。音楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。
話の要領もいいし、意見もきちっとして鋭いし、相手をひきつける天賦の才
があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖さがいったい何なのか、そのとき
の私にはよくかわらなかったわ。ただなんとなく怖いくらいに目から鼻に抜
けるようなところがあるなと思っただけよ。でもね、その子を前に話をしてい
るとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若く
て美しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに劣った不細工な
人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだ
としても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃないかっていう気が
しちゃうわけ﹂
彼女は何度か首を振った。
﹁もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな
人間になるわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しい
っていうのよ?あれほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして
自分より劣った弱いものをいじめたり踏みつけたりしなくちゃいけないの
よ?だってそんなことしなくちゃいけない理由なんて何もないでしょう?﹂
﹁何かひどいことをされたんですか?﹂
﹁まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あ
れはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話
しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその
話のつじつまを合わせるために周辺の物事をどんどん作り変えていっちゃ
うの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は
頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回ってどんどん手をくわえていく
し、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたい
そんなきれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も
思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞
かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのに、
馬鹿みたいだわ、まったく﹂
﹁どんな嘘をつくんですか?﹂
﹁ありとあらゆる嘘よ﹂とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら言った。
﹁今も言ったでしょう?人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっ
ぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人
の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人にもだい
たいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。彼女は自分を
守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも
利用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりする
の。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうよ
うな相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときには細心の
注意を払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。そしてもしばれち
ゃうようなことがあったら、そのきれいな目からぼろぼろ涙をこぼして言い
訳するか謝るかするのよ、すがりつくような声でね。すると誰もそれ以上怒
れなくなっちゃうの。
どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の
犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選ん
だのかがね。それは今でもわからないわ、全然。もっとも今となってはどち
らでもいいようなことだけれどね。もう何もかも終ってしまって、そして結局
こんな風になってしまったんだから﹂
短い沈黙があった。
﹁彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を
通って私のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてた
ってね。﹃憧れてた﹄って言ったのよ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みた
いに綺麗な女の子に憧れるなんでね。でもね、それはまるっきりの嘘では
なかったと思うのね。もちろん私はもう三十を過ぎてたし、その子ほど美人
でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の中
にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何
かとか、そういうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を持っ
たのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないの
よ﹂
﹁かわりますよ、それはなんとなく﹂と僕は言った。
﹁その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いい
わよ、弾いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女バッハのインベン
ション弾いたの。それがね、なんていうか面白い演奏なのよ。面白いという
か不思議というか、まず普通じゃないのよね。もちろんそれほど上手くない
わよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通
ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと
訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏した
ら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パ
︱セントはひどいんだけれど、残りの一〇パ︱セントの聴かせどころをちや
んと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその
子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱ
いいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でも
そういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でも
その子のはね、下手だけれど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し
持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかも
しれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でも
そのときの私のように︱︱今でもそうだけれど︱︱楽しんで自分のために
ピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれ
ないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感
心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供
だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはち
ゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられ
るかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせ
るところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に
浮ぶわよ。
でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれ
は素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私や
っぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいて
もよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ﹂
レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙ってい
た。
﹁それでその子を生徒にとったんですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休
みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒
だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケ︱キを食
べてお話したの﹂レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。
﹁ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のこ
とがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃっ
たんじゃないでしょうね?﹂
﹁忘れやしませんよ﹂と僕は笑って言った。﹁ただ話しに引きこまれ
てたんです﹂
﹁もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから
一度には話せないのよ﹂
﹁まるでシエラザ︱??ですね﹂
﹁うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ﹂と言ってレイコさんも笑った。
僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロ
ウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイ
ドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そん
な薄暗がりのソファ︱の上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンの
ようなものに着替えていた。その襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの
上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイコさんは直子のところに行って、
頭のてっぺんに手を置いた。
﹁もう大丈夫?﹂
﹁ええ、大丈夫よ。ごめんなさい﹂と直子が小さな声で言った。それ
から僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。﹁びっくりし
た?﹂
﹁少しね﹂と僕はにっこりとして言った。
﹁ここに来て﹂と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファ︱の
上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近
づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。﹁ごめんなさい﹂ともう一度直子は僕
の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離した。
﹁ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうこと
があるのよ﹂と直子は言った。
﹁僕はそういうことしょっちゅうあるよ﹂
直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞き
たいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。
どんな人がいるとか。
直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言
葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だ
いたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい
担当医との個別面接か、あるいはブル︱プ?ディスカッションがある。午後
は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポ︱ツ
が選べる。彼女フランス語とか編物とかピアノとか古代史とか、そういう講
座をいくつかとっていた。
﹁ピアノはレイコさんに教わってるの﹂と直子は言った。﹁彼女は他
にもギタ︱も教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりす
るの。フランス語に堪能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人
は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでも
ちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えて
あげられるようなものは何もないけれど﹂
﹁僕にもないね﹂
﹁とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここ
で。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく﹂
﹁夕ごはんのあとはいつも何するの?﹂
﹁レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコ︱ドを聴いたり、
他の人の部屋にいってゲ︱ムをしたり、そういうこと﹂と直子は言った。
﹁私はギタ︱の練習をしたり、自叙伝を書いたり﹂とレイコさんは言
った。
﹁自叙伝?﹂
﹁冗談よ﹂とレイコさんは笑って言った。﹁そして私たち十時くらいに
眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ﹂
僕は時計を見た。九時少し前だった。﹁じゃあもうそろそろ眠いんじゃ
ないですか?﹂
﹁でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても﹂と直子は言った。﹁久
しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して﹂
﹁さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたん
だ﹂と僕は言った。﹁昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚
えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな﹂
﹁胸の手術したときのことね﹂と直子はにっこり笑って言った。﹁よく
覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐ
じゃぐじゃに溶けたチョコレ︱トを持って。あれ食べるの大変だったわよ。で
もなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね﹂
﹁そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな﹂
﹁あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ﹂とくすくす笑いながら
直子は言った。﹁どうしてそんなこと急に思い出したの?﹂
﹁わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃と
か、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ﹂と僕は言った。﹁ねえ、キズ
キはあのときよく君の見舞いに行ったの?﹂
﹁見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩した
んだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっ
きりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分
くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわから
ないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶ
つわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院っ
て弱いんだとかなんとか言ってね﹂直子はそう言って笑った。﹁そういう面
ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?病院の好
きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに
来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかって
なかったのよね﹂
﹁でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく
普通にしてたもの﹂
﹁それはあなたの前だったからよ﹂と直子は言った。﹁あの人、あな
たの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。
きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の
面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそう
じゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たと
えばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこ
んだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだっ
たの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど﹂
直子はソファ︱の上で脚を組みなおした。
﹁いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなく
て苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っ
ていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変
えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君﹂
﹁でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとし
たら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見
えなかったもの﹂
直子は微笑んだ。﹁それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼の
たった一人の友だちだったんだもの﹂
﹁そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ﹂と僕
は言った。﹁その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕に
はいないんだ﹂
﹁だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったの
よ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると
私、すごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの
好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど﹂
﹁僕は君がどう思っているのか気になってたな﹂と僕は言って小さく
首を振った。
﹁でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってこと
だったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはな
いのよ。それはキズキ君にもわかっていたし、私にもわかっていたし、あな
たにもわかっていたのよ。そうでしょう?﹂
僕は肯いた。
﹁でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良
い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全
然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかっ
たわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それは僕と君が三つのときからずっ
と一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長
所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はい
つもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外
の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ﹂
直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
﹁私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこ
かの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あると
き遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしま
うようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自
然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十
二の歳にはキスして、十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋
に行くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあ
げて……。でもね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。
そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをいじ
りたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出した
いんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし
誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を
立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだも
の。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たち、お互いの体
を隅から隅まで見せ合ってきたし、まるでお互いの体を共有しているよう
な、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかない
ようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかそ
の頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成長し
てきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験
するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験
することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオ︱プ
ンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすること
が可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味
わかる?﹂
﹁わかると思う﹂と僕は言った。
﹁私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキ
ズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして
少しずつ不幸になっていたと思うわ﹂
﹁どうして?﹂
直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向
くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
﹁たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ﹂
と直子は顔を上げて言った。﹁成長の辛さのようなものをね。私たちは支
払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるの
よ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。
私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかが
すけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんな
こといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の
中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な
存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を
持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと
私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど﹂
僕は肯いた。
﹁でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は
本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの
関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいている
のよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれど、あなたは私と外の
世界を結びづける唯一のリンクんなのよ、今でも。そしてキズキ君があなた
のことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつ
もりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つ
けてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思
いつきもしなかったのよ。
直子はまた下を向いて黙った。
﹁どう、ココアでも飲まない?﹂とレイコさんが言った。
﹁ええ、飲みたいわ、とても﹂と直子は言った。
﹁僕は持ってきたブランディ︱を飲みたいんだけどかまいません
か?﹂と僕は訊いた。
﹁どうぞどうぞ﹂とレイコさんは言った。﹁私にもひとくちくれる?﹂
﹁もちろんいいですよ﹂と僕は笑って言った。
レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。
それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。
﹁もう少し明るい話をしない?﹂と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたら
なあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソ︱ドが生まれた、
そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのに、と。仕方が
ないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについ
て延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったが、
二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコ
さんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。
十一時になって直子が眠そうな目になってきたので、レイコさんがソファ︱
の背を倒してベッドにし、シ︱ツと毛布と枕をセットしてくれた。
﹁夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね﹂とレイ
コさんが言った。﹁左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから﹂
﹁嘘よ。私右側だわ﹂と直子は言った
﹁ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしてお
いたから、私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあ
るのよ﹂とレイコさんは言った。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてし
まうと、僕はブランディ︱を少し飲み、ソファ︱?ベッドに寝転んで今日いち
にちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたい
に思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子と
レイコさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきものは殆んど何
も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目
を閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレイコ
さんの弾くギタ︱の残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかっ
た。眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の
夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらい
の数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れ
なかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さい鳥が
しがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒
切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとし
たのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかた
ちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だっ
た。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床
の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこ
にもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっ
と見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児のようにそ
の上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探
したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からすると
たぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じた
が、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと
同じブル︱のガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをし
たピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照ら
されていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していた
のだ。
直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に
引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の
唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心
臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。そ
れはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。
僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中でその
音はひどく大きく響いた。すると直子は、まるでその音が何かの合図だとで
も言うようにすっと立ち上がり、かすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕
もとの床に膝をつき、僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけ
れど、その目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄んでい
て、向う側の世界がすけて見えそうなほどだったが、それだけ見つめてもそ
の奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三
十センチくらいしか離れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるよ
うに感じられた。
僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうしろに身を
引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりと
ガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細
い美しい指が順番にボタンを外していくのを、まるで夢のつづきを見ている
ような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしま
うと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして
脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女
が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウ
ンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月
の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいの肉体の
ようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと︱︱それはほん
の僅かな動きなのに︱︱月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染め
る影のかたちが変った。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのく
ぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水
紋のようにそのかたちを変えていた。
これはなんという完全な肉体なのだろう︱︱と僕は思った。直子はい
つの間にこんな完全な肉体を持つようになったのだろう?そしてその春の
夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう?
その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったと
き、僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだっ
た。乳房は固く、乳首は場ちがいな突起のように感じられたし、腰のまわり
に妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい娘だったし、その肉体は魅力
的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で僕を押し流していった。
しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、
肉体というもののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙
な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説
明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入っている。でもこ
れは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこ
れは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れ合
わせることでしか語ることのできないことを語り合っているだけなんだ。こう
することで僕はそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしも
ちろんそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってし
っかりと直子の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、
僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつご
つとした感触を感じることができた、そしてその感触は僕を愛しい気持にさ
せ、おそろしいくらい固く勃起させた。
しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。
直子の肉体はいつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月
の光の中に生れ落ちたのだ、と僕は思った。まずふっくらとした少女の肉
がキズキの死と前後してすっかりそぎおとされ、それから成熟という肉をつ
け加えられたのだ。直子の肉体はあまりにも美しく完成されていたので、僕
は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくび
れや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした
腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。
彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六
分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再
びまとい、上から順番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直
子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。
僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおし
てベッドから出て、床に落ちている時計を拾い上げ、月の光の方に向けて
見た。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに
横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い
月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。僕は眠
ったか眠らないかのうちにレイコさんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと
叩き﹁朝よ、朝よ﹂とどなった。
レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って
朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って﹁おはよう﹂と言った。お
はよう、と僕も言った。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりして
いる直子の姿をとなりに立ってしばらく眺めていたが、昨夜僕の前で裸に
なったという気配はまるで感じられなかった。
﹁ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?﹂と直子がコ︱ヒ︱を入れなが
ら僕に言った。
﹁夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ﹂
﹁私たちいびきかいてなかった?﹂とレイコさんが訊いた。
﹁かいてませんよ﹂と僕は言った。
﹁よかった﹂と直子が言った。
﹁彼、礼儀正しいだけなのよ﹂とレイコさんはあくびしながら言った。
僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしている
のか、あるいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイコさんがしばらく
部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全く変化がなかったし、そ
の目はいつもと同じように澄みきっていた。
﹁よく眠れた?﹂と僕は直子訊ねた。
﹁ええ、ぐっすり﹂と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざ
りもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。
僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづ
いていた。僕はパンにバタ︱を塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしなが
ら、何かのしるしのようなものを求めて、向いに座った直子の顔をときどき
ちらちらと眺めていた。
﹁ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの?﹂と
直子がおかしそうに訊いた。
﹁彼、誰かに恋してるのよ﹂とレイコさんが言った。
﹁あなた誰かに恋してるの?﹂と直子は僕に訊いた。
そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕
をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来
事について考えるのをあきらめてパンを食べ、コ︱ヒ︱を飲んだ。
朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、
僕もついていくことにした。二人は作業用のジ︱ンズとシャツに着替え、白
い長靴をはいた。鳥小屋はテニス?コ︱トの裏のちょっとした公園の中に
あって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそこに入って
いた。まわりには花壇があり、植え込みがあり、ベンチがあった。やはり患者
らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四
十から五十のあいだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行
って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑
わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられて
いた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を上げながら檻
の中をとびまわった。
彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋と
ゴム?ホ︱スを出してきた。直子がホ︱スを蛇口につなぎ、水道の栓をひ
ねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を
洗いおとし、レイコさんがデッキ?ブラシでごしごしと床をこすった。水しぶき
が太陽の光に眩しく輝き、孔雀たちはそのはねをよけて檻の中をばたばた
と走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を
睨みつけ、オウムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきし
た。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に
寄って肩をひそめていたが、少しすると﹁アリガト、キチガイ、クソタレ﹂と
叫んだ。
﹁誰がああいうの教えたのよね﹂とため息をつきながら直子が言っ
た。
﹁私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの﹂とレイコ
さんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。
﹁このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって
怖くってしようがないのよ﹂とレイコさんは笑って言った。
掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に
餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえし
ながらやってきて餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩いても委細かまわ
ず夢中で餌を貪り食べていた。
﹁毎朝これをやっているの?﹂と僕は直子に訊いた。
﹁そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。ウサギ
みたい?﹂
見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹ほどの
ウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入
れてから、子ウサギを抱きあげ頬ずりした。
﹁可愛いでしょう?﹂と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを
抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと
身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせていた。
﹁大丈夫よ。この人怖くないわよ﹂と直子は言って指でウサギの頭を
撫で、僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔
だったので、僕も思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直
子はいったいなんだったんだろうと思った。あれは間違いなく本物の直子
だった、夢なんかじゃない︱︱彼女はたしかに僕の前で服を脱いで裸にな
ったんだ、と。
レイコさんは﹃プラウド?メアリ﹄を口笛できれいに吹きながらごみを
集め、ビニ︱ルのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の
袋を納屋に運ぶのを手伝った。
﹁朝っていちばん好きよ﹂と直子は言った。﹁何もかも最初からまた
新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいち
ばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの﹂
﹁そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。
朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね﹂と楽しそうにレイコさんは
言った。﹁すぐよ、そんなの﹂
﹁でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど﹂と直子が
言った。
﹁年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいと
は思わないわね﹂とレイコさんは言った。
﹁どうしてですか?﹂と僕は訊いた。
﹁面倒臭いからよ。決まってんじゃない﹂とレイコさんは答えた。そし
て﹃プラウド?メアリ﹄を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を
閉めた。
部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきか
え、これから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもな
いし、他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んで
いた方がいいでしょうとレイコさんは言った。
﹁それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるか
ら洗っといてくれる?﹂とレイコさんが言った。
﹁冗談でしょう?﹂と僕はびっくりして訊きかえした。
﹁あたり前じゃない﹂とレイコさんは笑っていった。﹁冗談に決ってる
でしょう、そんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子?﹂
﹁そうねえ﹂と直子も笑って同意した。
﹁ドイツ語やってますよ﹂と僕はため息をついて言った。
﹁いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ﹂とレ
イコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何
人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。
僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切っ
た。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。
化粧クリ︱ムやリップ?クリ︱ムや日焼けどめやロ︱ションといったものが
ぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切
ってしまうと僕は台所でコ︱ヒ︱を入れ、テ︱ブルの前に座ってそれを飲
みながらドイツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でTシャツ一枚
になってドイツ語の文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議
な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテ︱ブルはおよそ考
えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。
十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワ︱に入り、さっぱ
りした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門
まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番がいて、食堂から運ばれて
きたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジス
タ?ラジオからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手
をあげてあいさつし、僕らも﹁こんにちは﹂と言った。
これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、と
レイコさんが言った。
﹁ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの
雨で崩れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです﹂と
門番は言った。レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名
前と外出日時を記入した。
﹁気ィつけていってらしゃい﹂と門番は言った。
﹁親切そうな人ですね﹂と僕は言った。
﹁あの人ちょっとここおかしいのよ﹂とレイコさんは言って指の先で頭
を押えた。
いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるよう
に青く、細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂
にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく﹁阿美寮﹂の低い石塀に
沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の狭い急な坂道を一列になって上
った。先頭がレイコさんで、まん中が直子で、最後は僕だった。レイコさんは
このへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調
でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら
歩を運んだ。直子はブル︱ジ︱ンズと白いシャツという格好で、上着を脱
いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を
眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目を合うと微笑
んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レイコさんの歩調はま
ったく崩れなかったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくその
あとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切
れた。
﹁いつもこういう山のぼりしてるの?﹂と僕は直子に訊いてみた。
﹁週に一回くらいかな﹂と直子は答えた。﹁きついでしょ、けっこ
う?﹂
﹁いささか﹂と僕は言った。
﹁三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょう?しっかりし
なくちゃ﹂とレイコさんが言った。
﹁運動不足なんですよ﹂
﹁女の子と遊んでばかりいるからよ﹂と直子が一人ごとみたいに言
った。
僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなか
った。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっ
ていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの
草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、いたるところに蜂の羽音
が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずにただ
一歩一歩足を前に運んだ。
それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に
出た。我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レイコ
さんは何かの葉っぱをみつけてきて、それで笛を作って吹いた。
道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂ってい
た。十五分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人
の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりに
は腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこび
りついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたが、中には
雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶
えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。
﹁ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ﹂とレイ
コさんが教えてくれた。﹁まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っち
ゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、
それほど土地が肥えているわけじゃないしね。町に出て働いた方がお金に
なるのよ﹂
﹁もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに﹂と僕は言っ
た。
﹁一時ヒッピ︱が住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て
行ったわよ﹂
集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のよ
うなものがあり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根
に沿って歩いていくと、大きな犬が尻尾をばたばたと振りながら走ってき
て、レイコさんにのしかかるようにして顔の匂いをかぎ、そのれから直子に
とびかかってじゃれついた。僕が口笛を吹くとやってきて、長い舌でべろべ
ろと僕の手を舐めた。
﹁牧場の犬なのよ﹂と直子が犬の頭を撫でながら言った。﹁もう二
十歳近くになっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど
食べれないの。いつもお店の前で寝てて人の足音が聞こえるととんできて
甘えるの﹂
レイコさんがナップザックからチ︱ズの切れはしをとりだすと、犬は匂
いを嗅ぎつけてそちらにとんでいき、嬉しそうにチ︱ズにかぶりついた。
﹁この子と会えるのももう少しなのよ﹂とレイコさんは犬の頭を叩き
ながら言った。﹁十月半ばになると馬と牛をトラックにのせて下の方の牧
舎につれていっちゃうのよ。夏場だけここで放牧して、草を食べさせて、観
光客相手に小さなコ︱ヒ︱?ハウスのようなものを開けてるの。観光客っ
たって、ハイカ︱が一日二十人くるかこないかってくらいのものだけどね。
あなた何か飲みたくない、どう?﹂
﹁いいですね﹂と僕は言った。
犬が先に立って我々をそのコ︱ヒ︱?ハウスまで案内した。正面にポ
︱チのある白いペンキ塗りの小さな建物で、コ︱ヒ︱?カップのかたちをし
た色褪せた看板が軒から下がっていた。犬は先に立ってポ︱チに上り、ご
ろんと寝転んで目を細めた。僕らがポ︱チのテ︱ブルに座ると中からトレ
︱ナ︱?シャツとホワイト?ジ︱ンズという格好の髪をポニ︱?テ︱ルにし
た女の子が出てきて、レイコさんと直子に親しい気にあいさつした。
﹁この人直子のお友だち﹂とレイコさんが僕に紹介した。
﹁こんにちは﹂とその女の子は言った。
﹁こんにちは﹂と僕も言った。
三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテ︱ブルの下
の犬の首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。そ
の固いところをぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良さそうに目をつぶって
はあはあと息をした。
﹁名前はなんていうの?﹂と僕は店の女の子に訪ねた。
﹁ぺぺ﹂と彼女は言った。
﹁ぺぺ﹂と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかった。
﹁耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ﹂と女の子は
京都弁で言った。
﹁ペペッ!﹂と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起
こし、ワンッと吠えた。
﹁よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい﹂と女の子が言
うと、ぺぺはまた僕の足もとにごろんと寝転んだ。
直子とレイコさんはアイス?ミルクを注文し、僕はビ︱ルを注文した。
レイコさんは女の子にFMをつけてよと言って、女の子はアンプのスイッチを
入れてFM放送をつけた。プラット?スウェット?アンド?ティア︱ズが﹃スピ
ニング?ホイ︱ル﹄を唄っているのが聴こえた。
﹁私、実を言うとFMが聴きたくてここに来てんのよ﹂とレイコさんは
満足そうに言った。﹁何しろうちはラジオもないし、たまにここに来ないと今
世間でどんな音楽かかってるのかわかんなくなっちゃうのよ﹂
﹁ずっとここに泊ってるの?﹂と僕は女の子に聴いてみた。
﹁まさか﹂と女の子は笑って答えた。﹁こんなところに夜いたら淋しく
て死んでしまうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。そ
れでまた朝に出てくるの﹂彼女はそう言って少し離れたところにある牧場
のオフィスの前に停まった四輪駆動車を指さした。
﹁もうそろそろここも暇なんじゃないの?﹂とレイコさんが訊ねた。
﹁まあぼちぼちおしまいやわねえ﹂と女の子は言った。レイコさんは
煙草をさしだし、彼女たちは二人で煙草を吸った。
﹁あなたいなくなると淋しいわよ﹂とレイコさんは言った。
﹁来年の五月にまた来るわよ﹂と女の子は笑って言った。
クリ︱ムの﹃ホワイト?ル︱ム﹄がかかり、コマ︱シャルがあって、そ
れからサイモン?アンド?カ︱ファンクルの﹃スカボロ?フェア﹄がかかっ
た。曲が終るとレイコさんは私この歌すきよと言った。
﹁この映画観ましたよ﹂と僕は言った。
﹁誰が出てるの?﹂
﹁ダスティン?ホフマン﹂
﹁その人知らないわねえ﹂とレイコさんは哀しそうに首を振った。
﹁世界はどんどん変っていくのよ、私の知らないうちに﹂
レイコさんは女の子にギタ︱を貸してくれないかと言った。いいわよと
女の子は言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギタ︱を持ってきた。
犬が顔を上げてギタ︱の匂いをくんくんと嗅いだ。﹁食べものじゃないの
よ、これ﹂とレイコさんが犬に言い聞かせるように言った。草の匂いのする
風がポ︱チを吹き抜けていった。山の稜線がくっきりと我々の眼前に浮か
び上がっていた。
﹁まるで﹃サウンド?オブ?ミュ︱ジック﹄のシ︱ンみたいですね﹂と
僕は調弦をしているレイコさんに言った。
﹁何よ、それ?﹂彼女は言った。
彼女は﹃スカボロ?フェア﹄の出だしのコ︱ドを弾いた。楽譜なしで
はじめて弾くらしく最初のうちは正確なコ︱ドを見つけるのにとまどってい
たが、何度か試行錯誤をくりかえしているうちに彼女はある種の流れのよ
うなものを捉え、全曲をとおして弾けるようになった。そして三度目にはとこ
ろどころ装飾音を入れてすんなりと弾けるようになった。﹁勘がいいのよ﹂
とレイコさんは僕に向ってウインクして、指で自分の頭を指した。﹁三度聴く
と、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの﹂
彼女はメロディ︱を小さくハミングしながら﹃スカボロ?フェア﹄を最
後まできちんと弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさんは丁寧に頭を下
げた。
﹁昔モ︱ツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大きかっ
たわね﹂と彼女は言った。
店の女の子が、もしビ︱トルズの﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄を弾い
てくれたらアイス?ミルクのぶん店のおごりにするわよと言った。レイコさん
は親指をあげてOKのサインを出した。それから歌詞を唄いながら﹃ヒア?
カムズ?ザ?サン﹄を弾いた。あまり声量がなく、おそらくは煙草の吸いす
ぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感のある素敵な声だった。
ビ︱ルを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから
太陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたか
いやさしい気持だった。
﹃ヒア?カムズ?ザ?サン﹄を唄い終ると、レイコさんはギタ︱を女の
子に返し、またFM放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこ
のあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいよと言った。
﹁私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻
ってくれば、それでいいわよ﹂
﹁そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか?﹂と僕
は訊いた。
﹁本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあ
さんじゃないんだから少しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく
遠くから来たんだからつもる話もあるんでしょう?﹂とレイコさんは新しい
煙草に火をつけながら言った。
﹁行きましょうよ﹂と直子が言って立ち上がった。
僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々
のあとをついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。
我々は牧場の柵に沿って平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕
の手を握ったり、腕をくんだりした。
﹁こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?﹂と直子は言っ
た。
﹁あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ﹂と僕は笑って言った。﹁今年
の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃう
よ﹂
﹁古代史みたいなものよ﹂と直子は言った。﹁でも昨日ごめんなさ
い。なんだか神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、
悪かったわ﹂
﹁かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がい
いんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたい
んなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる﹂
﹁私を理解して、それでそうなるの?﹂
﹁ねえ、君はわかってない﹂と僕は言った。﹁どうなるかといった問
題ではないんだよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中
時刻表読んでいる人がいる。あるいはマッチ棒をつなぎあわせて長さ一メ
︱トルの船を作ろうとする人だっている。だから世の中に君のことを理解し
ようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?﹂
﹁趣味のようなものかしら?﹂と直子はおかしそうに言った。
﹁趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそうい
うのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいん
ならそう呼べばいい﹂
﹁ねえ、ワタナベ君﹂と直子が言った。﹁あなたキズキ君のことも好
きだったんでしょう?﹂
﹁もちろん﹂と僕は答えた。
﹁レイコさんはどう?﹂
﹁あの人も大好きだよ。いい人だね﹂
﹁ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?﹂と直子
は言った。﹁私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなく
て、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそ
うよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?﹂
﹁それは僕にはそう思えないからだよ﹂僕は少し考えてからそう答え
た。﹁君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないん
だ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外で歩きまわって
るよ﹂
﹁でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの﹂と直子は言った。
我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のよう
にまわりを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。
﹁ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの﹂と直子は僕の
腕に体を寄せながら言った。﹁こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻
れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう
思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷た
くて﹂
僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。
﹁まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてるような
気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると
私、本当にどうしようもなくなっちゃうの﹂
﹁そういうときはどうするの?﹂
﹁ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね﹂
﹁思わないよ﹂と僕は言った。
﹁レイコさんに抱いてもらうの﹂と直子は言った。﹁レイコさんを起こ
して、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼
女は私の体を撫でてくれるの。体の芯があたたまるまで。こういうのって
変?﹂
﹁変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思う
だけど﹂
﹁今、抱いて、ここで﹂と直子は言った。
我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと
我々の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなって
しまった。僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体
はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めていた。僕と直子は心の
こもった口づけをした。
﹁ねえ、ワタナベ君?﹂と僕の耳もとで直子が言った。
﹁うん?﹂
﹁私と寝たい?﹂
﹁もちろん﹂と僕は言った。
﹁でも待てる?﹂
﹁もちろん待てる﹂
﹁そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとし
て、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれる
の?﹂
﹁もちろん待つよ﹂
﹁今固くなってる?﹂
﹁足の裏のこと?﹂
﹁馬鹿ねえ﹂とくすくす笑いながら直子は言った。
﹁勃起してるかということなら、してるよ、もちろん﹂
﹁ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる?﹂
﹁いいよ、やめる﹂と僕は言った。
﹁そういうのってつらい?﹂
﹁何が?﹂
﹁固くなってることが﹂
﹁つらい?﹂と僕は訊きかえした。
﹁つまり、その……苦しいかっていうこと﹂
﹁考えようによってはね﹂
﹁出してあげようか?﹂
﹁手で?﹂
﹁そう﹂と直子は言った。﹁正直言うとさっきからそれすごくゴツゴツ
してて痛いのよ﹂
僕は少し体をずらせた。﹁これでいい?﹂
﹁ありがとう﹂
﹁ねえ、直子?﹂と僕は言った。
﹁なあに?﹂
﹁やってほしい﹂
﹁いいわよ﹂と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボン
のジッパ︱を外し、固くなったペニスを手に握った。
﹁あたたかい﹂と直子は言った。
直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラウスのボタン
を外し、背中に手をまわしてブラジャ︱のホックを外した。そしてやわらかい
ピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと
指を動かしはじめた。
﹁なかなか上手いじゃない﹂と僕は言った。
﹁いい子だから黙っていてよ﹂と直子が言った。
射精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直
子はブラジャ︱とブラウスをもとどおりにし、僕はズボンのジッパ︱をあげ
た。
﹁これで少し楽に歩けるようになった?﹂と直子が訊いた。
﹁おかげさまで﹂と僕は答えた。
﹁じゃあよろしかったらもう少し歩きません?﹂
﹁いいですよ﹂と僕は言った。
僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きな
がら直子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したこと
はないのだけれど。あなたには話しておいた方がいいと思うから話すのだ
と彼女は言った。
﹁私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけ
れど、それでもとても仲が良かったの﹂と直子は言った。﹁喧嘩ひとつしな
かったわ。本当よ。まあ喧嘩にならないくらいレベルに差があったというこ
ともあるんだけどね﹂
お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直
子は言った。勉強もいちばんならスポ︱ツもいちばん、人望もあって指導力
もあって、親切で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先
生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあってという女の子だった。どの
公立校にも一人くらいこういう女の子がいる。でも自分のお姉さんだから
言うわけじゃないんだけれど、そういうことでスボイルされて、つんつんした
り鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む
人でもなかった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだった
のだ、と。
﹁それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心した
の﹂と直子はすすきの穂をくるくると回しながら言った。﹁だってそうでしょ
う、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良くて、スポ︱ツができて、人
望もあってなんて話してるの聞いて育ったんですもの。どう転んだってあの
人には勝てないと思うわよ。それにまあ顔だけとれば私の方が少しきれい
だったから、親の方も私は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな
学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピ︱スとかフリ
ルのついたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンとか
ね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小
さな妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼントしてくれたし、いろ
んなところにつれていってくれたり、勉強みてくれたり。ボ︱イ?フレンドとデ
︱トするとき私も一緒につれてってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉
さんだったわ。
彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかっ
たの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直
前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくて︱︱同じでしょう?﹂
﹁そうだね﹂と僕は言った。
﹁みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか
言ってたわ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、
私はお姉さんが死んだあとでずいぶんそれ読んだんだけど、哀しかった
わ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであったり、ボ︱イ?フレンドの手
紙がはさんであったり。そういうので私、何度も泣いたのよ﹂
直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。
﹁大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談し
たり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてとい
うじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶ
ん。そして両親もそれに馴れちゃってて、この子は放っておいても大丈夫っ
て思ってたのね。私はよくお姉さんに相談したし、彼女はとても親切にいろ
んなこと教えてくれるんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片づけ
ちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張
じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとムシャクシャして人
にあたったりするでしょ、多かれ少なかれ。そういうのもないの。彼女の場
合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度く
らいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学
校も休んで、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッと
してるの。でも不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼ん
で、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃな
いのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、テストの成
績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を
言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも私がいなくなると︱︱たとえば
お友だちと遊ぶに行ったり、バレエのレッスンに出かけたりすると︱︱また
一人でボオッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバタッと自然にな
おって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたん
じゃないかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらし
いんだけれど、なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ
放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の
良いしっかりした子だしってね。
でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことある
の。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだ
けれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突
然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。それでお父さんこういっ
たのよ。﹃やはり血筋なのかなあ、俺の方の﹄って﹂
直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせて
いた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻き
つけた。
﹁お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの﹂と直子はつづけ
た。﹁小学校六年生の秋よ。十一月。雨が降って、どんより暗い一日だった
わ。そのときお姉さんは高校三年生だったわ。私がピアノのレッスンから戻
ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度していて、もうごはんだからお
姉さん呼んできてって言ったの。私は二階に上って、お姉さんの部屋のドア
をノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてる
の。寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺
に立って、首を少しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで考え
ごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼんや
りとしか見えなかったのよ。私は﹃ねえ何してるの?もうごはんよ﹄って声
かけたの。でもそういってから彼女の背がいつもより高くなってることに気
づいたの。それで、あれどうしたんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハ
イヒ︱ルはいてるのか、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そ
して近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上
にひもがついていることにね。天井のはりからまっすぐにひもが下っていて
︱︱それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、まるで定規を使っ
て空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは白いブラウス着ていて︱
︱そう、ちょうど今私が着てるようなシンプルなの︱︱グレ︱のスカ︱トは
いて、足の先がバレエの爪立てみたいにキュッとのびていて、床と足の指
先のあいだに二十センチくらいの何もない空間があいてたの。私、そういう
のをこと細かに全部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけ
には行かなかったのよ。私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ば
なくちゃと思ったわ。でも体の方が言うことをきかないのよ。私の意識とは
別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下にいかなきゃと思
っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外そうとしているの
よ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで五、六分
ぼおっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。
体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さんが﹃何してるのよ?﹄
って見に来るまで、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて
冷たいところに……﹂
直子は首を振った。
﹁それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で
死んだみたいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わから
なくて﹂直子は僕の腕に身を寄せた。﹁手紙に書いたでしょ?私はあなた
が考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより
私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行ける
ものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女
の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん
自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかも
しれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人
生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言った
ようにときどき会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望
むのはそれだけなのよ﹂
﹁僕は望むのはそれだけじゃないよ﹂と僕は言った。
﹁でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわ
よ﹂
﹁僕は何も無駄になんかしてない﹂
﹁だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは
私を待つの?十年も二十年も私を待つことができるの?﹂
﹁君は怯えすぎてるんだ﹂と僕は言った。﹁暗闇やら辛い夢うやら死
んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだ
し、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ﹂
﹁忘れることができればね﹂と直子は首を振りながら言った。
﹁ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?﹂と僕は言った。
﹁そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコ
さんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあげられる﹂
直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら
素敵でしょうね﹂と直子は言った。
我々がコ︱ヒ︱?ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは
本を読みながらFM放送でブラ︱ムスの二番のピアノ協奏曲を聴いてい
た。見わたす限り人影のない草原の端っこでブラ︱ムスがかかっていると
いうのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディ
︱を彼女は口笛でなぞっていた。
﹁バックハウスとベ︱ム﹂とレイコさんは言った。﹁昔はこのレコ︱ド
をすれきれるくらい聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで
聴いたの。なめつくすようにね﹂
僕と直子は熱いコ︱ヒ︱を注文した。
﹁お話はできた?﹂とレイコさんは直子に訊ねた。
﹁ええ、すごくたくさん﹂と直子は言った。
﹁あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか﹂
﹁そんなこと何もしてないわよ﹂と直子が赤くなって言った。
﹁本当に何もしてないの?﹂とレイコさんは僕に訊いた。
﹁してませんよ﹂
﹁つまんないわねえ﹂とレイコさんはつまらなそうに言った。
﹁そうですね﹂と僕はコ︱ヒ︱をすすりながら言った。
夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の
顔つきも昨日そのままで、メニュ︱だけが違っていた。昨日無重力状態で
の胃液の分泌について話していた白衣の男が僕ら三人のテ︱ブルに加わ
って、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと話していた。僕らは
大豆のハンバ︱グ?ステ︱キというのを食べながら、ビスマルクやナポレ
オンの脳の容量についての話を聞かされていた。彼は皿をわきに押しやっ
て、メモ用紙にボ︱ルペンで脳の絵を描いてくれた。そして何度も﹁いやち
ょっと違うな、これ﹂と言っては描きなおした。そして描き終わると大事そう
にメモ用紙を白衣のポケットにしまい、ボ︱ルペンを胸のポケットにさした。
胸のポケットにはボ︱ルペンが三本と鉛筆と定規が入っていた。そして食
べ終ると﹁ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっしゃい﹂と昨
日と同じことを言って去っていた。
﹁あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか?﹂と僕はレイ
コさんに訊いてみた。
﹁どっちだと思う?﹂
﹁どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともに
は見えないけど﹂
﹁お医者よ。宮田先生っていうの﹂と直子が言った。
﹁でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいい
けど﹂とレイコさんが言った。
﹁門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ﹂と直子が言った。
﹁うん、あの人狂ってる﹂とレイコさんがブロッコリ︱をフォ︱クでつき
さしながら肯いた。
﹁だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な
体操してるもの。それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女
の子がいて、この人はノイロ︱ゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は
去年アルコ︱ル中毒がひどくなってやめさせられたし﹂
﹁患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね﹂と僕は感心
して言った。
﹁まったくそのとおり﹂とレイコさんはフォ︱クをひらひらと振りながら
言った。﹁あなたもだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃな
い﹂
﹁みたいですね﹂と僕は言った。
﹁私たちがまとな点は﹂とレイコさんは言った。﹁自分たちがまともじ
ゃないってかわっていることよね﹂
部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレイコ
さんはまたギタ︱を抱えてバッハの練習をしていた。
﹁明日は何時に帰るの?﹂とレイコさんが手を休めて煙草に火をつ
けながら僕に訊いた。
﹁朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら夕方の
アルバイトをすっぽかさずにすむし﹂
﹁残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに﹂
﹁そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうですよ﹂と僕
は笑って言った。
﹁ま、そうね﹂とレイコさんは言った。それから直子に﹁そうだ、岡さん
のところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた﹂と言った。
﹁一緒に行きましょうか?﹂と直子が言った。
﹁なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら?﹂
﹁いいわよ﹂
﹁じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう﹂とレイコさんは僕の手を
とって言った。﹁昨日はもう少しってとこまでだったから、今夜はきちんと最
後までやっちゃいましょうね﹂
﹁いいわよ、どうぞお好きに﹂と直子はくすくす笑いながら言った。
風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブル︱のカ︱ディ
ガンを着て両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空
を見上げ、犬みたいにくんくんと匂いを嗅いだ。そして﹁雨の匂いがするわ
ね﹂と言った。僕も同じように匂いを嗅いでみたが何の匂いもしなかった。
空にはたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしまっていた。
﹁ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ﹂とレ
イコさんは言った。
スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててく
れと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性
が出てきてレイコさんと立ち話をし、クスクス笑いそれから中に入って今度
は大きなビニ︱ル袋を持って出てきた。レイコさんは彼女にありがとう、お
やすみなさいと言って僕の方に戻ってきた。
﹁ほら葡萄もらってきたわよ﹂とレイコさんはビニ︱ル袋の中を見せ
てくれた。袋の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。
﹁葡萄好き?﹂
﹁好きですよ﹂と僕は言った。
彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。﹁それ洗っ
てあるから食べられるわよ﹂
僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい
味の葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。
﹁あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげているの。そ
のお礼がわりにいろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワイン
もそうだし。市内でちょっとした買物もしてきてもらえるしね﹂
﹁昨日の話のつづきが聞きたいですね﹂と僕は言った。
﹁いいわよ﹂とレイコさんは言った。﹁でも毎晩帰りが遅くなると直
子が私たちの仲を疑いはじめるんじゃないかしら?﹂
﹁たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね﹂
﹁OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷える
から﹂
彼女はテニス?コ︱トの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉
庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいち
ばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。﹁入り
なさいよ。何もないところだけれど﹂
倉庫の中にはクロス?カントリ︱用のスキ︱板とストックと靴がきちん
と揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げ
られていた。
﹁昔はよくここにきてギタ︱の練習したわ。一人になりたいときには
ね。こぢんまりしていいところでしょう?﹂
レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。
僕は言われたとおりにした。
﹁少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?﹂
﹁いいですよ、どうぞ﹂と僕は言った。
﹁やめられないのよね、これだけは﹂とレイコさんは顔をしかめなが
ら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を
吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ
箱がわりに使われているブリキ缶に捨てた。
﹁昨日はどこまで話したっけ?﹂とレイコさんは言った。
﹁嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまで
ですね﹂と僕は言った。
﹁あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ﹂とレイコさ
んはあきれたように言った。﹁毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教
えたっていうところまでだったわよね、たしか﹂
﹁そうです﹂
﹁世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけると
したら私はたぶん前の方に入ると思うの﹂とレイコさんは言った。﹁若い
頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないというのもあったんで
しょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみたいなのがついてから、
そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだってね。
私、本当に上手いのよ﹂
﹁そう思います﹂と僕は同意した。
﹁私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよい
し、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしや
すいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザ
ラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつ
に。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一
流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、
その女の子を教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にアルバイ
トで何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなかった
わ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教
えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンはうまくいったの。
昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノはたいした
ことないし、音楽の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計
のんびりやれたわけよ。それに彼女の通っていた学校はまずまずの成績を
とっていれば大学までエスカレ︱ト式に上っていける女子校で、それほど
がつがつ勉強する必要もなかったからお母さんの方だって﹃のんびりとお
けいこ事でもして﹄ってなものよ。だから私もその子にああしろこうしろって
押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会った
ときに思ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分の
やりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分の好きな
ように弾かせるの。百パ︱セント好きなように。次に私がその同じ曲をいろ
んなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好き
だとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演
奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけ
よ﹂
レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食
べつづけていた。
﹁私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上
だったわね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきち
んとした訓練受けてたら良いところまでいってたのになあってね。でもそれ
は違うのよ。結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることができな
い子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれ
ながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちら
して終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最
初はとにかくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見
でパァ︱ッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方
は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけ
なのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行けないか?行く努力を
しないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スボイルされて
いるのね。下手に才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまく
やれてみんなが凄い凄いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが
下らなく見えちゃうのね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃう
でしょ、すると先生の方もこの子はできるからって次に行かせちゃう、それも
また人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行く。そして叩かれるという
ことを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっことしていってしま
うの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったんだけれ
ど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度
ですんでるのよ。
でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能のスポ︱
ツ?カ︱に乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動か
すだけでピッピッと素速く反応するのよ。いささか素速すぎるという場合が
あるにせよね。そういう子を教えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。
小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたってまたかと思うだ
けなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を
押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどま
って考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ﹂
レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮め
るようにふうっと深呼吸をした。
﹁レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がジャ
ズ?ピアノの真似事して教えてあげたりしてね。こういうのがバド?バウエ
ル、こういうのがセロニスア?モンクなんてね。でもだいたいはその子がしゃ
べってたの。これがまた話が上手くてね、ついつい引き込まれちゃうのよ。ま
あ昨日も言ったように大部分は作りごとだったと思うんだけれど、それにし
ても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユ︱モアがあっ
て、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが
実に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知っているか
ら、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせたり、悲し
ませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感
情を刺激することができるのよ。それも自分の能力を試したいという理由
だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろんそういうのも
あとになってからそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからない
の﹂
レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。
﹁病気なのよ﹂とレイコさんは言った。﹁病んでいるのよ。それもね、
腐ったリンコがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み
方なのよ。そしてその彼女の病気はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそう
いう風に病んだままなのね。だから考えようによっては可哀そうな子なの
よ。私だってもし自分が被害者にならなかったとしたらそう思ったわ。この
子も犠牲者の一人なんだってね﹂
そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのかと考え
ているように見えた。
﹁まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあ
ったし、なんだかちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をし
ていて、彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない
激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、あまりに
も勘が良くて、この子いったい何を本当は考えているのかしらと思ったこと
もあったわ。でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに私は一介
のビアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいい
ことでしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえすれば私
としてはそれでオ︱ケ︱じゃない。それに私、その子のことをけっこう好きで
もあったのよ、本当のところ。
ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてた
の、私。なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。
だから彼女が私のことについていろいろ質問しても︱︱ものすごく知りた
がったんだけど︱︱あたりさわりのないことしか教えなかったの。どんな育
ち方しただの、どこの学校行っただの、まあその程度のことよね。先生のこ
ともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方な
いわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追わ
れて、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の
顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られるとね、私もドキッと
しちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。それでも必要以上のことは教えな
かったけれどね。
あれは五月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然
気分がわるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてる
のよ。それで私、どうする、家に帰る?って訊ねたら、少し横にならせて下さ
い、そうすればなおるからって言うの。いいわよ、こっちに来て私のベッドで
横になりなさいって私言って、彼女を殆んど抱きかかえるようにして私の寝
室につれていったの。うちのソファ︱ってすごく小さかったから、寝室に寝
かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って
彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言ったわ。ど
うする、お水か何か飲む?って。いいの、となりにしばらくいてもらえればっ
てその子は言って、いいわよ、となりにいるくらいいくらでもいてあげるから
って私言ったの。
少しするとね﹃すみません、少し背中をさすっていただけませんか﹄
ってその子が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私
一所懸命背中さすってやったの、すると﹃ごめんなさい、ブラ外してくれま
せんか、苦しくって﹄ってその子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげた
わよ、私。ぴったりしたシャツ着てたもんだから、そのボタン外してね、そして
背中のホックを外したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の二倍
はあったわね。ブラジャ︱もね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人用
の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもいいことじゃ
ない?私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってそ
の子本当に申しわけないって声で言った、そのたびに私、気にしない気に
しないって言ってたわねえ﹂
レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には
葡萄を食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。
﹁そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。
﹃ねえ、どうしたの?﹄って私言ったわ。
﹃なんでもないんです﹄
﹃なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ﹄
﹃時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。
淋しくって、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれな
くて。それで辛くて、こうなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆
んどなくて。先生のところにくるのだけが楽しみなんです、私﹄
﹃ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるか
ら﹄
家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛する
ことができないし両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他
に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって彼
女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。家に帰るの
が辛いんだって。そういっておいおい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。
あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そん
なにお家に帰るのが辛いんだったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来
てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして﹃本当にごめん
なさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見
捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの﹄って言う
のよ。
仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよし
ってね。その頃にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。
そうするとそのうちにね、私だんだん変な気になってきたの。体がなんだか
こう火照ってるみたいでね。だってさ、絵から切り抜いたみたいなきれいな
女の子と二人でベッドで抱きあっていて、その子が私の背中を撫でまわし
ていて、その撫で方たるやものすごく官能的なんだもの。亭主なんてもう足
もとにも及ばないくらいなの。ひと撫でされるごとに体のたがが少しずつ外
れていくのがわかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら彼女私のブラ
ウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。それで私や
っとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだって。私前にも一度
やられたことあるの、高校のとき、上級の女の子に。それで私、駄目、よしな
さいって言ったの。
﹃お願い、少しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。本
当に淋しいの。先生しかいないんです。見捨てないで﹄そしてその子、私の
手をとって自分の胸にあてたの。すごく形の良いおっぱいでね、それにさわ
るとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃうみたいなの。女の私ですらよ。私、ど
うしていいかわかんなくてね、駄目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みた
いに言いつづけるだけなの。どういうわけか体が全然動かないのよ。高校
のときはうまくはねのけることができたのに、そのときは全然駄目だった
わ。体がいうこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自分の胸に
押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背
中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カ︱テンを閉めた寝室で十三
歳の女の子に裸同然にされて︱︱その頃はもうんなんだかわからないう
ちに一枚一枚服を脱がされてたの︱︱愛撫されて悶えてるんなんて今思
うと信じられないわよ。馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかも
う魔法にかかったみたいだったの。その子は私の乳首を吸いながら﹃淋し
いの。先生しかしないの。捨てないで。本当に淋しいの﹄って言いつづけ
て、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけてね﹂
レイコさんは話をやめて煙草をふかした。
﹁ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ﹂とレイコさんは僕
の顔を見て言った。﹁あなたには話した方がいいと思うから話してるけれ
ど、私だってすごく恥かしいのよ、これ﹂
﹁すみません﹂と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわ
からなかった。
﹁そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下に降り
てきたのよ。そして下着の上からあそこ触ったの。その頃は私はもうたまん
ないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。お恥かしい話だけれど。あんなに濡れ
たのはあとにも先にもはじめてだったわね。どちらかいうと、私は自分がそ
れまで性的に淡白な方だと思ってたの。だからそんな風になって、自分で
もいささか茫然としちゃったのよ。それから下着の中に彼女の細くてやわら
かな指が入ってきて、それで……ねえ、わかるでしょ、だいたい?そんなこと
私の口から言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつごつし
た指でやられるのと全然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽毛でくすぐら
れてるみたいで。私もう頭のヒュ︱ズがとんじゃいそうだったわ。でもね、
私、ボォッとした頭の中でこんなことしてちゃ駄目だと思ったの。一度こんな
ことやったら延々とこれをやりつづけることになるし、そんな秘密も抱えこん
だら私の頭はまだこんがらがるに決まっているんだもの。そして子供のこと
を考えたの。子供にこんなところ見られたらどうしようってね。子供は土曜
日は三時くらいまで私の実家に遊びに行くことになっていたんだけれど、も
し何かがあって急にうちに帰ってきたりしたらどうしようってね。そう思った
の。それで私、全身の力をふりしぼって起きあがって﹃止めて、お願い!﹄
って叫んだの。
でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてクンニ
リングスしてたの。私、恥かしいから主人さえ殆んどそういうのさせなかっ
たのに、十三歳の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃう
わよ。私、泣けちゃうわよ。それがまた天国にのぼったみたいにすごいんだ
もの。
﹃止めなさい﹄ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いき
り。それで彼女やっとやめたわ。そして体起こしてじっと私を見た。私たちそ
のとき二人ともまるっきりの裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いじっと
見つめあったわけ。その子は十三で、私は三十一で……でもその子の体を
見てると、私なんだか圧倒されちゃったわね。今でもありありと覚えている
わよ。あれが十三の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかった
し、今でも信じられないわよ。あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい
泣き出したいくらいみっともない代物だったわ。本当よ﹂
なんとも言いようがないので僕は黙っていた。
﹁ねえどうしてよってその子は言ったわ。﹃先生もこれ好きでしょ?私
最初から知ってたのよ。好きでしょ?わかるのよ、そういうの。男の人とやる
よりずっといいでしょ?だってこんな濡れてるじゃない。私、もっともっと良く
してあげられるわよ。本当よ。体が溶けちゃうくらい良くしてあげられるの
よ。いいでしょ、ね?﹄でもね、本当にその子の言うとおりなのよ。本当に。
主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、もっとしてほしかっ
たのよ。でもそうするわけにはいかないのよ。﹃私たち週一回これやりまし
ょうよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私だけの秘密にし
ましょうね?﹄って彼女は言ったわ。
でも私、立ち上がってバスロ︱ブ羽織って、もう帰ってくれ、もう二度と
うちに来ないでくれって言ったの。その子、私のことじっと見てたわ。その目
がね、いつもと違ってすごく平板なの。まるでボ︱ル紙に絵の具塗って描い
たみたいに平板なのよ。奥行きがなくて。しばらくじっと私のこと見てから、
黙って自分の服をあつめて、まるで見せつけるみたいにゆっくりとひとつひ
とつそれを身につけて、それからピアノのある居間に戻って、バッグからヘ
ア?ブラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、靴をはいて出て
いったの。出がけにこう言ったわ。﹃あなたレズビアンなのよ、本当よ。どれ
だけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ﹄ってね﹂
﹁本当にそうなんですか?﹂と僕は訊いてみた。
レイコさんは唇を曲げてしばらく考えていた。﹁イエスでもあり、ノオで
もあるわね。主人とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。これは
事実ね。だから一時は自分でも私はレズビアンんなんじゃないか、やはり
真剣に悩んだわよ。これまでそれ気づかなかっただけなんだってね。でも
最近はそう思わないわ。もちろんそういう傾向が私の中にないとは言わな
いわよ。女の子を見て積極的に欲情するということはないからね。わ か
る?﹂
僕は肯いた。
﹁ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだけな
のよ。そういう場合に限って私はそうなっちゃうのよ。だからたとえば直子を
抱いたって、私とくに何も感じないわよ。私たち暑いときなんか部屋の中で
は殆んど裸同然で暮らしてるし、お風呂だって一緒に入るし、たまにひとつ
の布団の中で寝るし……でも何もないわよ。何も感じないわよ。あの子の
体だってすごくきれいだけど、でもね、べつにそれだけよ。ねえ、私たち一度
レズごっとしたことあるのよ。直子と私とで。こんな話聞きたくない?﹂
﹁話して下さい﹂
﹁私がこの話をあの子にしたとき︱︱私たちなんでも話すのよ︱︱
直子がためしに私を撫でてくれたの、いろいろと。二人で裸になってね。で
も駄目よ、ぜんぜん。くすぐったくてくすぐったくて、もう死にそうだったわ。今
思い出してもムズムズするわよ。そういうのってあの子本当に不器用なん
だから。どう少しホッとした?﹂
﹁そうですね、正直言って﹂と僕は言った。
﹁まあ、そういうことよ、だいたい﹂とレイコさんは小指の先で眉のあ
たりを掻きながら言った。
﹁その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座ってボォッと
していたの。どうしていいかよくわかんなくて。体のずうっと奥の方から心臓
の鼓動がコトッコトッて鈍い音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾で
も食べたみたいにかさかさして。でも子供が帰ってくるからとにかくお風呂
に入ろうと思って入ったの。そしてあの子に撫でられたり舐められたりした
体をとにかくきれいに洗っちゃおうって思ったの。でもね、どれだけ石鹸で
ごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ちないのよ。たぶんそん
なの気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に抱いてもら
ったの。その穢れおとしみたいな感じでね。もちろん彼にはそんなことなに
も言わなかったわよ。とてもじゃないけど言えないわよ。ただ抱いてって言
って、やってもらっただけ。ねえ、いつもより時間かけてゆっくりやってねって
言って。彼すごく丁寧にやってくれたわ。たっぷり時間かけて。私それでバッ
チリいっちゃったわよ、ピュ︱ッて。あんなにすごくいっちゃったの結婚して
はじめてだったわ。どうしてだと思う?あの子の指の感触が私の体に残っ
てたからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわねえ、こういう話。汗が出ち
ゃうわ。やってくれたとかいっちゃったとか﹂レイコさんはまた唇を曲げて笑
った。﹁でもね、それでもまだ駄目だったわ。二日たっても三日たっても残
っているのよ、その女の子の感触が。そして彼女の最後の科白が頭の中で
こだまみたいにわんわんと鳴りひびいているのよ﹂
﹁翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようかなあっ
て、私どきどきしながら家にいたの。何も手につかなくて。でも来なかった
わ。まあ来ないわよね。プライドの高い子だし、あんな風になっちゃったわけ
だから。そして翌週も、また次の週も来なくって、一ヶ月が経ったのよ。時間
がたてばそんなことも忘れちゃうだろうと私は思ってたんだけど、でもうまく
忘れられなかったの。一人で家の中にいるとね、なんだかその女の子の気
配がまわりにふっと感じられて落ち着かないのよ。ピアノも弾けないし、考
えることもできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。それでそう
いう風に一ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何
か変なのよね。近所の人が妙に私のことを意識してるのよ。私を見る目が
なんだかこう変な感じで、よそよそしいのよ。もちろんあいさつくらいはする
んだけれど、声の調子も応待もこれまでとは違うのよ。ときどきうちに遊び
に来ていた隣りの奥さんもどうも私を避けてるみたいなのね。でも私はなる
べくそういうの気にすまいとしてたの。そういうのを気にし出すのって病気
の初期徴候だから。
ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だし、私の母
の知り合いの娘さんだし、子供の幼稚園が一緒だったんで、私たちわりに
親しかったのよ。その奥さんが突然やってきて、あなたについてひどい噂が
広まっているけれど知っているかって言うの。知らないわって私言ったわ。
﹃どんなのよ?﹄
﹃どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ﹄
﹃言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃ
いよ﹄
それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。まあ本
人だってはじめてしゃべりたくって来てるんだもの、何のかんの言ったって
しゃべるわよ。そして、彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に
何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた
生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵抗すると顔が
はれるくらい打ったっていうことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、どうし
て私が入院していたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしち
ゃったわね。
﹃私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないってみんな
に言ったのよ﹄ってその人は言ったわ。﹃でもね、その女の子の親はそう
信じこんでいて、近所の人みんなにそのこと言いふらしてるのよ。娘があな
たにいたずらされたっていうんで、あなたのこと調べてみたら精神病の病
歴があることがわかったってね﹄
彼女の話によるとあの日︱︱つまりあの事件の日よね︱︱その子が
泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたの
かって母親が問いただしたらしいのよ。顔が腫れて唇が切れて血が出てい
て、ブラウスのボタンがとれて、下着も少し破れていたんですって。ねえ、信
じられる?もちろん話をでっちあげるためにあの子自分で全部それやった
のよ。ブラウスにわざと血をつけて、ボタンちぎって、ブラジャ︱のレ︱スを
破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、
それで家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そういうのあり
ありと目に浮かぶわよ。
でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいか
ないわよ。私だって信じたと思うもの、もしそういう立場に置かれたら。お人
形みたいにきれいで悪魔みたいに口のうまい女の子がくしくし泣きながら
﹃嫌よ。私、何も言いたくない。恥かしいわ﹄なんて言ってうちあけ話した
ら、そりゃみんなコロッと信じちゃうわよ。おまけに具合のわるいことに、私に
精神病院の入院歴があるっていうのは本当じゃない。その子の顔を思いき
り打ったっていうのも本当じゃない。となるといったい誰が私の言うことを
信じてくれる?信じてくれるのは夫くらいのものよ。
何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、彼
は信じてくれたわよ、もちろん。私、あの日に起ったことを全部彼に話した
の。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。も
ちろん感じたことまで言わなかったわよ。それはちょっと具合わるいわよ、
いくらなんでも。﹃冗談じゃない。俺がそこの家に言って直談判してきてや
る﹄って彼はすごく怒って言ったわ。﹃だって君は僕と結婚して子供までい
るんだぜ。なんでレズビアンなんて言われなきゃならないんだよ。そんなふ
ざけた話あるものか﹄って。
でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そんなことしたっ
て私たちの傷が深くなるだけだからって言ってね。そうなのよ、私にはわか
っていたのよ、もう。あの子の心が病んでいるだっていうことがね。私もそう
いう病んだ人たちをたくさん見てきたからよくわかるの。あの子は体の芯ま
で腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。
こういう言い方ってひどいかもしれないけど、本当にそうなのよ。でもそれ
は世の中の人にはまずわからないし、どん転んだって私たちには勝ち目は
ないのよ。その子は大人の感情をあやつることに長けているし、我々の手に
は何の好材料もないのよ。だいたい十三の女の子が三十すぎの女に同性
愛をしかけるなんてどこの誰が信じてくれるのよ?何を言ったところで、世
間の人って自分の信じたいことしか信じないんだもの。もがけばもがくほど
私たちの立場はもっとひどくなっていくだけなのよ。
引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここ
にいたら緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわよ。今だって私相
当フラフラなのよ。とにかく誰も知っている人のいない遠いところに移りま
しょうって。でも夫は動きだがらなかったわ。あの人、事の重大さにまだよく
気がついてなかったのね。彼は会社の仕事が面白くて仕方なかった時期
だったし、小さな建売住宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだった
し、娘も幼稚園に馴染んでいたし。おいちょっと待てよ、そんなに急に動ける
わけないだろうって彼は言った。仕事だっておいそれとみつけることはでき
ないし、家だって売らなきゃならないし、子供の幼稚園だってみつけなきゃ
ならないし、どんなに急いだって二ヶ月はかかるよってね。
駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つくわよ、っ
て私言ったわ。脅しじゃなくてこれ本当よって。私には自分でそれがわかる
のよって。私その頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠とかがもう少しずつ始ま
ってたんですもの。じゃあ君、先に一人でどこかに行ってろよ、僕はいろんな
用事を済ませてから行くからって彼は言ったわ。
﹃嫌よ﹄って私は言ったの。﹃一人でなんかどこにも行きたくない
わ。今あなたと離ればなれになったら私バラバラになっちゃうわよ。私は今
あなたを求めているのよ。一人なんかしないで﹄
彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我慢してく
れって言ったの。一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあいだ僕は何もかもち
ゃんと手配する。仕事の整理もする、家も売る、子供の幼稚園も手配する、
新しい職もみつける。うまく行けばオ︱ストラリアに仕事の口があるかもし
れない。だから一ヶ月だけ待ってくれ。そうすれば何もかもうまくいくからっ
てね。そう言われると私、それ以上何も言えなかったわ。だって何か言おう
とすればするほど私だんだん孤独になっていくんですもの﹂
レイコさんはため息をついて天井の電灯を見あげた。
﹁でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃって、ボン
ッ!よ。今回はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねったの。でも死ねなく
て、気づいたら病院のベッドよ。それでおしまい。何ヶ月かたって少し落ち着
いて物が考えられるようになった頃に、離婚してくれって夫に言ったの。そ
れがあなたのためにも娘のためにもいちばんいいのよって。離婚するつも
りはない、って彼は言ったわ。
﹃もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそう
よ﹄って。
﹃もう遅いの﹄って私は言ったわ。﹃あのときに全部終っちゃったの
よ。一ヶ月待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおした
いと思うのならあなたはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。
どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起るわよ。そし
て私はまた同じようなことを要求してあなたを苦しめることになるし、私もう
そういうことしたくないのよ﹄
そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚したの。彼
は二年前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわ
よ。本当よ。その頃には自分の一生がずっとこんな具合だろうってことがわ
かっていたし、そういうのにもう誰をもまきこみたくなかった。いつ頭のたが
が外れるかってびくびくしながら暮すような生活を誰にも押しつけたくなか
ったの。
彼は私にとても良くしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人だし、力
強いし辛棒強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私を癒そうと
精いっぱい努力したし、私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供の
ためにもね。そして私ももう癒されたんだと思ってたのね。結婚して六年、
幸せだったわよ。彼は九九パ︱セントまで完璧にやってたのよ。でも一パ
︱セントが、たったの一パ︱セントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。そ
れで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまって、まった
くのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね﹂
レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキの缶の
中に入れた。
﹁ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをちょっとず
つちょっとずつ積みあげていったのにね。崩れるときって、本当にあっという
間なのよ。あっという間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ﹂
レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこんだ。﹁部
屋に戻りましょう。もう遅いし﹂
空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしま
っていた。今では雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手
に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。
﹁だから私なかなかここを出られないのよ﹂とレイコさんは言った。
﹁ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に
会っていろんな思いをするのが怖いのよ﹂
﹁気持はよくわかりますよ﹂と僕は言った。﹁でもあなたにはできると
僕は思いますよ、外に出てきちんとやっていくことが﹂
レイコさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。

直子はソファ︱に座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを
押えながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさ
わってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつと雨が降りはじめてい
て、電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわりにちらちらと漂ってい
た。レイコさんとずっと二人で話したあとで直子を見ると、彼女はなんて若
いんだろうと僕はあらためて認識した。
﹁遅くなってごめんね﹂とレイコさんが直子の頭を撫でた。
﹁二人で楽しかった?﹂と直子が顔を上げて言った。
﹁もちろん﹂とレイコさんは答えた。
﹁どんなことしてたの、二人で?﹂と直子が僕に訊いた。
﹁口では言えないようなこと﹂と僕は言った。
直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴きながら
葡萄を食べた。
﹁こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないっ
て気がするわね﹂と直子が言った。﹁ずっと雨が降ったら、私たち三人ず
っとこうしてられるのに﹂
﹁そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない
黒人奴隷みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだり、ギタ︱で
BGMつけたりするでしょ?嫌よ、そんなの﹂とレイコさんは言った。
﹁あら、ときどき貸してあげるわよ﹂と直子が笑って言った。
﹁まあ、それなら悪くないわね﹂とレイコさんは言った。﹁雨よ降れ﹂
雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレイコ
さんは例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギタ︱を出して弾いた。
﹃デサフィナ︱ド﹄と﹃イバネマの娘﹄を弾き、それからバカラックの曲や
レノン=マッカ︱トニ︱の曲を弾いた。僕とレイコさんは二人でまたワインを
飲み、ワインがなくなると水筒に残っていたブランディ︱をわけあって飲ん
だ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。このままずっと雨が降り
つづけばいいのにと僕も思った。
﹁またいつか会いに来てくれるの?﹂と直子が僕の顔を見て言った。
﹁もちろん来るよ﹂と僕は言った。
﹁手紙も書いてくれる?﹂
﹁毎週書くよ﹂
﹁私にも少し書いてくれる?﹂とレイコさんが言った。
﹁いいですよ。書きます、喜んで﹂と僕は言った。
十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファ︱を
倒してベッドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯
を消し、眠りについた。僕はうまく眠れなかったのでナップザックの中から
懐中電灯と﹃魔の山﹄を出してずっと読んでいた。十二時少し前に寝室
のドアがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。昨夜と
ちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんやりとしていなかった
し、動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて﹁眠れないのよ、
なんだか﹂と小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置い
て懐中電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。闇と雨音がやわらかく
僕らをくるんでいた。
﹁レイコさんは?﹂
﹁大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きな
いの﹂と直子が言った。
﹁本当にまた会いに来てくれるの?﹂
﹁来るよ﹂
﹁あなたに何もしてあげられなくても?﹂
僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられ
た。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そ
して腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらか
さを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風にやさしく抱き合ったあとで、直
子は僕の額にそっと口づけし、するりとベッドから出て行った。直子の淡い
ブル︱のガウンが闇の中でまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。
﹁さよなら﹂と直子が小さな声で言った。
そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。
雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、目に見え
ないくらいの細い秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雨だ
れの音で雨が降っていることがやっとわかるくらいだった。目をさましたと
き窓の外には乳白色の霧がたれこめていたが、太陽が上るにつれて霧は
風に流され、雑木林や山の稜線が少しずつ姿をあらわした。
昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世
話をしに行った。直子とレイコさんはフ︱ドのついたビニ︱ルの黄色い雨
合羽を着ていた。僕はセ︱タ︱の上に防水のウィインド?ブレ︱カ︱を着
た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥たちも雨を避けるように小屋の
奥の方にかたまってひっそりと身を寄せてあっていた。
﹁寒いですね、雨が降ると﹂と僕はレイコさんに言った。
﹁雨が降るごとに少しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変るの
よ﹂と彼女は言った。﹁日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと
雪を落として向うに抜けていくの﹂
﹁鳥たちは冬はどうするんですか?﹂
﹁もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍りついた鳥
を雪の下から掘り返して解凍して生き返らせて﹃はい、みんな、ごはんよ﹄
なんていうわけにもいかないでしょう?﹂
僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせて︿クソタレ﹀
︿アリガト﹀︿キチガイ﹀と叫んだ。
﹁あれ冷凍しちゃいたいわね﹂と直子が憂鬱そうに言った。﹁毎朝
あれ聞かされると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ﹂
鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。
彼女たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、テニス?コ︱ト
の少し先で別れた。彼女たちは道の右に折れ、僕はまっすぐに進んだ。さよ
ならと彼女たちは言い、さよならと僕は言った。また会いに来るよ、と僕は
言った。直子は微笑んで、それから角を曲って消えていった。
門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たちが着て
いたのと同じ黄色い雨合羽を着て、頭にはすっぽりとフ︱ドをかぶってい
た。雨のおかげてあらゆるものの色がくっきりとして見えた。地面は黒々と
して、松の枝は鮮やかな緑色で、黄色の雨合羽に身を包んだ人々は雨の
朝にだけ地表をさまようことを許された特殊な魂のように見えた。彼らは
農具や籠や何かの袋を持って、音もなくそっと地表を移動していた。
門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リストの僕の名
前のところにしるしをつけた。
﹁東京からおみえになったんですな﹂とその老人は僕の住所を見て
言った。﹁私も一度だけあそこに行ったことありますが、あれは豚肉のうま
いところですな﹂
﹁そうですか?﹂と僕はよくわからないまま適当に返事をした。
﹁東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけ
はうまかったですわ。あれはこう、何か特別な飼育法みたいなもんがあるん
でしょな﹂
それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなん
て話を聞いたのもはじめてだった。﹁それはいつの話ですか?東京に行か
れたというのは?﹂と僕は訊いてみた。
﹁いつでしたかなあ﹂と老人は首をひねった。﹁皇太子殿下の御成
婚の頃でしたかな。息子が東京におって一回くらい来いというから行った
んですわ。そのときに﹂
﹁じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょう
ね﹂と僕は言った。
﹁昨今はどうですか?﹂
よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことはないと僕
は答えた。僕がそう言うと、彼は少しがっかりしたみたいだった。老人はもっ
と話していたそうだったけれど、バスの時間があるからと言って僕は話を切
り上げ、道路に向って歩きはじめた。川沿いの道にはまだところどころに霧
のきれはしが残り、それは風に吹かれて山の斜面を彷徨していた。僕は道
の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をつい
たりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気が
したからだ。そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀しい気持にな
った。
寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着が
えてアルバイト先の新宿のレコ︱ド屋にでかけた。そして六時から十時半
まで店番をしてレコ︱ドを売った。店の外を雑多な種類の人々が通りすぎ
ていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めていた。家族づれやらカップル
やら酔払いやらヤクザやら、短いスカ︱トをはいた元気な女の子やら、ヒッ
ピ︱風の髭を生やした男やら、クラブのホステスやら、その他わけのわから
ない種類の人々やら次から次へと通りを歩いて行った。ハ︱ドロックをかけ
るとヒッピ︱やらフ︱テンが店の前に何人か集って踊ったり、シンナ︱を吸
ったり、ただ何をするともなく座りこんだりした。トニ︱?ベネットのレコ︱ド
をかけると彼らはどこかに消えていった。
店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男
が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には
見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛して
いるようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐
を吐いていた。筋向いのゲ︱ム?センタ︱では近所の料理店のコックが現
金をかけたビンゴ?ゲ︱ムをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔
をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまって
いた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子
が店に入ってきてロ︱リング?スト︱ンズの﹃ジャンピン?ジャック?フラッ
シェ﹄をかけてくれないかと言った。僕はレコ︱ドを持って来てかけてやる
と、彼女は指を鳴らしてリズムをとり、腰を振って踊った。そして煙草はない
かと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラ︱クを一本やった。女の子は
うまそうにそれを吸い、レコ︱ドが終るとありがとうも言わずに出ていった。
十五分おきに救急車だかパトカ︱だかのサイレンが聴こえた。みんな同じ
くらい酔払った三人連れのサラリ︱マンが公衆電話をかけている髪の長
いきれいな女の子に向って何度もオマンコと叫んで笑いあっていた。
そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱し、何がなんだかわ
からなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったい
これらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。
店長が食事から戻ってきて、おい、ワタナベ、おとといあそこのブティッ
クの女と一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティックにつとめるその
女の子に前から目をつけていて、店のレコ︱ドをときどき持ちだしてはプレ
ゼントしていたのだ。そりゃ良かったですね、と僕が言うと、彼は一部始終
をこと細かに話してくれた。女とやりたかったらだな、と彼は得意そうに教
えてくれた、とにかくものをプレゼントして、そのあとでとにかくどんどん酒を
飲ませて酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃあとはもうやる
だけよ。簡単だろ?
僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のカ︱テ
ンを閉めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が隣りにもぐりこ
んでくるじゃないかという気がした。目を閉じるとその乳房のやわらかなふ
くらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手で体の線を感じとることができた。暗
闇の中で、僕はもう一度直子のあの小さな世界へ戻って行った。僕は草原
の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のこ
とを思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の
掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕
は勃起したベニスを握り、直子のことを考えながら射精した。射精してしま
うと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだったが、それでもなかなか眠
りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、どうしても眠
ることができないのだ。
僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと
眺めていた。旗のついていない白いボ︱ルはまるで夜の闇につきささった
巨大な白い骨のように見えた。直子は今頃どうしているだろう、と僕は思っ
た。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐ
っすり眠っているだろう。彼女が辛い夢を見ることがないように僕は祈っ
た。

翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メ︱トル?
プ︱ルを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっ
りしたし、食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べて
から、調べものをするために文学部の図書室に向かって歩いているところ
で小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒
にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。
﹁どこに行くの?﹂と彼女が僕に訊いた。
﹁図書室﹂と僕は言った。
﹁そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?﹂
﹁さっき食べたよ﹂
﹁いいじゃない。もう一回食べなさいよ﹂
結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレ︱を食べ、僕はコ
︱ヒ︱を飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのあ
る黄色い毛糸のチョッキを着て、金の細いネックレスをかけ、ディズニ︱?ワ
ォッチをつけていた。そして実においしいそうにカレ︱を食べ、水を三杯飲
んだ。
﹁ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話したの
よ﹂と緑は言った。
﹁何か用事でもあったの?﹂
﹁別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ﹂
﹁ふうむ﹂と僕は言った。
﹁﹃ふうむ﹄って何よいったい、それ?﹂
﹁別に何でもないよ、ただのあいづちだよ﹂と僕は言った。﹁どう、最
近火事は起きてない?﹂
﹁うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、
そのわりに煙がいっばい出てリアリティ︱があったし、ああいうのいいわ
よ﹂緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから
僕の顔をまじまじと見た。﹁ねえ、ワタナベ君、どうしたの?あなたなんだか
漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし﹂
﹁旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない﹂
﹁幽霊でも見てきたよな顔してるわよ﹂
﹁ふうむ﹂と僕は言った。
﹁ねえワタナベ君、午後の授業あるの?﹂
﹁ドイツ語と宗教学﹂
﹁それすっぼかせない?﹂
﹁ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある﹂
﹁それ何時に終わる?﹂
﹁二時﹂
﹁じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?﹂
﹁昼の二時から?﹂と僕は訊いた。
﹁たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているし、私と
一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気に
なりたいし。ね、いいでしょう?﹂
﹁いいよ、じゃあ飲みに行こう﹂と僕はため息をついて言った。﹁二
時に文学部の中庭で待っているよ﹂
ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出て、紀伊
国屋の裏手の地下にあるDUGに入ってワォッカ?トニックを二杯ずつ飲ん
だ。
﹁ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないか
ら﹂と彼女は言った。
﹁そんなにお昼から飲んでるの?﹂
﹁たまによ﹂と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振
った。﹁たまに世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ?トニック飲むの
よ﹂
﹁世の中が辛いの?﹂
﹁たまにね﹂と緑は言った。﹁私には私でいろいろと問題があるの
よ﹂
﹁たとえばどんなこと?﹂
﹁家のこと、恋人のこと、生理不順のこと︱︱いろいろよね﹂
﹁もう一杯飲めば?﹂
﹁もちろんよ﹂
僕は手をあげてウェイタ︱を呼び、ウォッカ?トニックを二杯注文した。
﹁ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう﹂と緑は言
った。﹁いろいろと考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく﹂
﹁それはよかった﹂
﹁﹃それはよかった﹄﹂とまた緑はくりかえした。﹁あなたって本当
に変ったしゃべり方するわよねえ﹂
﹁そうかなあ﹂と僕は言った。
﹁それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最
初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生
の順番を組みかえることができたとしたら、あれをファ︱スト?キスにする
わね、絶対。そして残りの人生をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し
台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子に今どう
してるだろう?五十八歳になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わな
い﹂
﹁素敵だろうね﹂と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。
﹁たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ﹂と僕は少し考えてか
ら言った。﹁ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。
人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思える﹂
緑はカウンタ︱に片肘をついて僕の顔を見つめた。﹁ジム?モリソン
の歌にたしかそういうのあったわよね﹂
﹁People are strange when you are a stranger﹂
﹁ピ︱ス﹂と緑は言った。
﹁ピ︱ス﹂と僕も言った。
﹁私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ﹂と緑はカンタン︱
に片肘をついたまま言った
﹁恋人も家族も大学も何にもかも捨てて﹂
﹁それも悪くないな﹂と僕は笑って言った。
﹁何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃう
のって素晴らしいと思わない?私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だ
からもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あ
なたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そして
みんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわって﹂
僕は笑って三杯めのウォッカ?トニックを飲み干した。
﹁牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?﹂と緑
は言った。
﹁興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね﹂と僕は言
った。
﹁いいのよべつに、欲しくなくだって﹂緑はピスタチオを食べながら
言った。﹁私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけな
んだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウル
グァイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ﹂
﹁まあそうかもしれないな﹂
﹁どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったって、
世界はロバのウンコよ。ねえ、この固いのあげる﹂緑は僕に固い殻のビス
タチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。
﹁でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物
干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっと
したの本当に久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつ
けるだもの。顔をあわせればああだこうだってね。少くともあなたは私に何
も押しつけないわよ﹂
﹁何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ﹂
﹁じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんな
ものを押しつけてくる?他の人たちと同じように﹂
﹁そうする可能性はあるだろうね﹂と僕は言った。﹁現実の世界では
人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから﹂
﹁でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そ
ういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとし
た権威だから。あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒
にいると落ちつけるのよ。ねえ知ってる?世の中にはいろんなもの押しつけ
たり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして
押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きな
のよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやって
るのよ﹂
﹁どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は?﹂
緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。
﹁私のこともっと知りたい?﹂
﹁興味はあるね、いささか﹂
﹁ねえ、私は﹃私のこともっと知りたい?﹄って質問したのよ。そんな
答えっていくらなんでもひどいと思わない?﹂
﹁もっと知りたいよ、君のことを﹂と僕は言った。
﹁本当に?﹂
﹁本当に﹂
﹁目をそむけたくなっても?﹂
﹁そんなにひどいの?﹂
﹁ある意味ではね﹂と緑は言って顔をしかめた。﹁もう一杯ほしい﹂
僕はウェイタ︱を呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑は
カウタン︱に頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス?モンクの弾く﹁ハ
ニサックル?ロ︱ズ﹂を聴いていた。店の中には他に五、六の客がいたが
酒を飲んでいるのは我々だけだった。コ︱ヒ︱の香ばしい香りがうす暗い
店内に午後の親密な空気をつくり出していた。
﹁今度の日曜日、あなた暇?﹂と緑が僕に訊いた。
﹁この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からの
アルバイトを別にすればね﹂
﹁じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?﹂
﹁いいよ﹂
﹁日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきり
わからないけど。かまわない?﹂
﹁どうぞ。かまわないよ。﹂と僕は言った。
﹁ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?﹂
﹁さあね、想像もつかないね﹂
﹁広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず﹂と緑は言った。
﹁すごく気持がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然な
くて、となりにはあなたが寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。
すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいに、そっ
と﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほ
ら、ふと我に返って﹃だめよ、ワタナベ君!﹄って叫ぶの。﹃私ワタナベ君の
こと好きだけど、私には他につきあってる人人がいるし、そんなことできない
の。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめて、お願い﹄って言うの。で
もあなたやめないの﹂
﹁やめるよ、僕は﹂
﹁知ってるわよ。でもこれは幻想シ︱ンなの。だからこれはこれでいい
のよ﹂と緑は言った。﹁そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり
立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それでもちらっとみえちゃうのよ
ね。そして言うの、﹃駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入
らないわ﹄って﹂
﹁そんなに大きくないよ。普通だよ﹂
﹁いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそ
うな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀
そうにって﹂
﹁それがつまり君が今やりたいことなの?﹂
﹁そうよ﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。
全部で五杯ずつウォッカ?トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が
金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひ
とつない一万円札をだして勘定を払った。
﹁いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの﹂
と緑は言った。﹁もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんか
おごられたくないと思ってるんなら話はべつだけど﹂
﹁いや、そうは思わないけど﹂
﹁それに入れさせてもあげなかったし﹂
﹁固くて大きいから﹂と僕は言った。
﹁そう﹂と緑は言った。﹁固くて大きいから﹂
緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで
転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、
夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしば
らくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいといったが、新宿にはあいに
くそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。
﹁残念だわ、私木のぼり大好きなのに﹂と緑は言った。
緑と二人でウィンドウ?ジョッピングをしながら歩いていると、さっきま
でに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。
﹁君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな﹂
と僕は言った。
緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。﹁本当だ。目の焦点も
ずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いこと
あるでしょ?﹂
﹁たしかに﹂と僕は言った。
五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言っ
た。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送
り、そこで別れた。
﹁ねえ今私が何やりたいかわかる?﹂と別れ際に緑が僕に訪ねた。
﹁見当もつかないよ、君の考えることは﹂と僕は言った。
﹁あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴ
ったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの﹂
﹁なんでそんなことするの?﹂
﹁変質的な海賊なのよ、それ﹂
﹁君の方がよほど変質的みたいだけどな﹂と僕は言った。
﹁そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好
でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの﹂
﹁それで?﹂
﹁私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったり
して﹂
﹁それが君のいちばんやりたいことなの?﹂
﹁そう﹂
﹁やれやれ﹂と僕は首を振った。
日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかり
でまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタ
ナベ、女が来てるぞ!とどなったので玄関に下りてみると緑が信じられない
くらい短いジ︱ンズのスカ︱トをはいてロビ︱の椅子に座って脚を組み、
あくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のす
らりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗
だった。
﹁早すぎたかしら、私?﹂と緑は言った。﹁ワタナベ君、今起きたばか
りみたいじゃない﹂
﹁これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれ
る?﹂と僕は言った。
﹁待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ﹂
﹁あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカ︱トはいてくるだも
の。見るにきまってるよ、みんな﹂
﹁でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵
なレ︱ス飾りがついてるの。ひらひらっと﹂
﹁そういうのが余計にいけないんだよ﹂と僕はため息をついて言っ
た。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブル
︱のボタン?ダウン?シャツの上にグレ︱のツイ︱ドの上着を着て下に降
り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。
﹁ねっ、ここにいる人たちがみんなマスタ︱ベ︱ションしてるわけ?シ
コシコって?﹂と緑は寮の建物を見上げながら言った。
﹁たぶんね﹂
﹁男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?﹂
﹁まあそうだろね﹂と僕は言った。﹁株式相場とか動詞の活用とか
スエズ運河のことを考えながらマスタ︱ベ︱ションする男はまあいないだ
ろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃないかな﹂
﹁スエズ運河﹂
﹁たとえば、だよ﹂
﹁つまり特定の女の子のことを考えるのね?﹂
﹁あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの?﹂と僕
は言った。﹁どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明
しなきゃならないんだよ?﹂
﹁私ただ知りたいのよ﹂と緑は言った。﹁それに彼にこんなこと訊い
たらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって﹂
﹁まあまともな考えだね﹂
﹁でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスタ︱
べ︱ションするとき特定の女の子のこと考えるの?﹂
﹁考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれ
ど﹂と僕はあきらめて答えた。
﹁ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒ら
ないから﹂
﹁やったことないよ、正直な話﹂と僕は正直に答えた。
﹁どうして?私が魅力的じゃないから?﹂
﹁違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ﹂
﹁じゃあどうして私のこと考えないの?﹂
﹁まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことに
まきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に︱︱﹂
﹁他に想い浮かべるべき人がいるから﹂
﹁まあそういうことだよね﹂と僕は言った。
﹁あなたってそういうことでも礼儀正しのね﹂と緑は言った。﹁私、あ
なたのそういうところ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてく
れない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいの
よ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃな
い。今夜マスタ︱ベ︱ションするときちょっと私のこと考えてね、なんて誰に
でも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むの
よ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか﹂
僕はため息をついた。
﹁でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れなけれ
ばあとは何してもいいわよ、何考えても﹂
﹁どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからね
え﹂と僕は言った。
﹁考えておいてくれる?﹂
﹁考えておくよ﹂
﹁あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だ
とかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があって、
すごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたで
しょ?男の人が何を考えて、その体のしくみがどうなってるのかって、そうい
うことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃ
なくて、いわばケ︱ス?スタディ︱として﹂
﹁ケ︱ス?スタディ︱﹂と僕は絶望的につぶやいた。
﹁でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不
機嫌になったり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言う
のよ。フェラチオだってなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究して
みたいのに﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁あなたフェラチオされるの嫌?﹂
﹁嫌じゃないよ、べつに﹂
﹁どちらかというと好き?﹂
﹁どちらかというと好きだよ﹂と僕は言った。﹁でもその話また今度
にしない?今日はとても気持の良い日曜の朝だし、マスタ︱ベ︱ションとフ
ェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼は
うちの大学の人?﹂
﹁ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラブ活動で
知りあったの。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう?合同コ
ンサ︱トとか、そういうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃった
あとだけれど。ねえ、ワタナベ君?﹂
﹁うん?﹂
﹁本当に一回でいいから私のことを考えてよね﹂
﹁試してみるよ、今度﹂と僕はあきらめて言った。
我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べて
いなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチ
を買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコ︱ヒ︱を飲んだ。日曜
の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする家族連れやカップルでい
っぱいだった。揃いのユニフォ︱ムを着た男の子の一群がバットを下げて
車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いスカ︱トをはいた
女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカ︱トをはいたのは一人もい
なかった。緑はときどききゅっきゅっとスカ︱トの裾をひっばって下ろした。
何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかった
が、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。
﹁ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?﹂と市ヶ谷あたりで緑
が小声で言った。
﹁見当もつかない﹂と僕は言った。﹁でもお願いだから、電車の中で
はその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから﹂
﹁残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは﹂と緑はいかにも残
念そうに言った。
﹁ところでお茶の水に何があるの?﹂
﹁まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから﹂
日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学
生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダ︱?バッグのストラップ
を握り、右手で僕の手をとって、そんな学生たちの人ごみの中をするすると
抜けていった。
﹁ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちん
と説明できる?﹂と突然僕に質問した。
﹁できると思うよ﹂と僕は言った。
﹁ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの
役に立ってる?﹂
﹁日常生活の中で役に立つということはあまりないね﹂と僕は言っ
た。﹁でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより
系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど﹂
緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。﹁あなた
って偉いのね﹂と彼女は言った。﹁私これまでそんなこと思いつきもしな
かったわ。仮定法だの微分だの化学記号だの、そんなもの何の役にも立
つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視してやってきたの、
そういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら?﹂
﹁無視してやってきた?﹂
﹁ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、サイン、コ
サインだって全然わっかてないのよ﹂
﹁それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね﹂と僕はあきれ
て言った。
﹁あなた馬鹿ねえ﹂と緑は言った。﹁知らないの?勘さえ良きゃ何も
知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。
次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの﹂
﹁僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を
身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに﹂
﹁そういうのが何か役に立つのかしら?﹂
﹁どうかな﹂と僕は言った。﹁まあある種のことはやりやすくなるだろ
ね﹂
﹁たとえばどんなことが?﹂
﹁形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね﹂
﹁それが何かの役に立つのかしら?﹂
﹁それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。
でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の
問題なんだよ。最初にも言ったように﹂
﹁ふうん﹂と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下り
つづけた。﹁ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね﹂
﹁そうかな?﹂
﹁そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つ
のって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。
英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、
馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。
そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたら、私だって仮定
法に興味持てたかもしれないのに﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁あなた﹃資本論﹄って読んだことある?﹂と緑が訊いた。
﹁あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じよう
に﹂
﹁理解できた?﹂
﹁理解できるところもあったし、できないところもあった。﹃資本論﹄
を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。も
ちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれ
ど﹂
﹁その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が﹃資本論﹄
読んですっと理解できると思う?﹂
﹁まず無理じゃないかな、そりゃ﹂と僕は言った。
﹁あのね、私、大学に入ったときフォ︱クの関係のクラブに入ったの。
唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところで
ね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませ
られるの。何ベ︱ジから何ベ︱ジまで読んでこいってね。フォ︱ク?ソングと
社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって……なんて演説
があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよ、家に帰
って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ペ︱ジで放
りだしちゃたわ。それで次の週のミ︱ティングで、読んだけど何もわかりま
せんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識が
ないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理
解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない?﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような
顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに
質問したの。﹃その帝国主義的搾取って何のことですか?東インド会社と
何か関係あるんですか?﹄とか、﹃産学協同体粉砕って大学を出て会社
に就職しちゃいけないってことですか?﹄とかね。でも誰も説明してくれな
かったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?﹂
﹁信じられる﹂
﹁そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお
前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわ
よ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じ
ゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革
よ!私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取され
ているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問す
るわけじゃない。そうでしょ?﹂
﹁そうだね﹂
﹁そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そう
な言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、ス
カ︱トの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四
年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行
だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さん
もらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体
粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みん
な何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そ
してあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイハイそうで
すねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞
いてくれる?﹂
﹁聞くよ﹂
﹁ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちは
みんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言わ
れたの。冗談じゃないわよ、そんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも
波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十
個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言
われたと思う?小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずも
ついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入ってい
たし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出な
かったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくら
いで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に
梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさ
いよ﹂
僕は笑った。﹁それでそのクラブはどうしたの?﹂
﹁六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで﹂と緑は言った。﹁でもこ
の大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないこと
を人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。そ
れでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジ
ョン?コルトレ︱ン聴いたりパゾリ︱ニの映画見たりして感動してるのよ。
そういうのが革命なの?﹂
﹁さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんと
も言えないよね﹂
﹁こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎり
に梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただっ
てきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理
由で﹂
﹁ありうる﹂と僕は言った。
﹁ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが
起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくし
かないんだっていうことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだ
けじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの
下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員って見たことあ
る?﹂
﹁ないな﹂
﹁私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、こ
の帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの?領収
書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんど
きになると特上のお寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごま
かしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気
質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入
がちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少
ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくって
ね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけた
くなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思
う?﹂
﹁きわめて疑わしいね﹂
﹁じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ﹂
﹁ピ︱ス﹂と僕は言った。
﹁ピ︱ス﹂と緑も言った。
﹁我々は何処に向かっているんだろう、ところで?﹂と僕は訊いてみ
た。
﹁病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなく
ちゃいけないの。私の番なの﹂
﹁お父さん?﹂と僕はびっくりして言った。﹁お父さんはウルグァイに
行っちゃったんじゃなかったの?﹂
﹁嘘よ、そんなの﹂と緑はけろりとした顔で言った。﹁本人は昔からウ
ルグァイに行くだってわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の
外にだってロクに出られないんだから﹂
﹁具合はどうなの?﹂
﹁はっきり言って時間の問題ね﹂
我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。
﹁お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる?二
年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳
種瘍﹂
大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人
でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂ってい
た。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院を
すっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きま
わっていた。
緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は
深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針
のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄
な男だったが、これからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見る
ものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注射だ
か点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空
間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目
を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の
一点にその弱々しい視線を戻した。
その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。
彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるも
のはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やら
を全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のよう
なものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭
がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくる
んだなと僕は思った。
緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に﹁こんにち
は﹂と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけ
だった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それか
らもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外に
は電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿す
らなかった。
﹁どう、お父さん、元気?﹂と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりか
けた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。﹁ど
う、今日は?﹂
父親はもそもそと唇を動かした。︿よくない﹀と彼は言った。しゃべる
というのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみ
たといった風だった。︿あたま﹀と彼は言った。
﹁頭が痛いの?﹂と緑が訊いた。
︿そう﹀と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないら
しかった。
﹁まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだ
けど、もう少し我慢しなさい﹂と緑は言った。﹁この人ワタナベ君。私のお
友だち﹂
はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。
﹁そこに座っててよ﹂と緑はベットの足もとにある丸いビニ︱ルの椅
子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの
水を少し飲ませ、果物かフル︱ツ?ゼリ︱を食べたくないかと訊いた。︿い
らない﹀と父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うと︿食べ
た﹀と彼は答えた。
ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブ︱ルのようなものがあっ
て、そこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置
いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々とした
ものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底
の方には病人のための食べものが入っていた。グレ︱プフル︱ツが二個と
フル︱ツ?ゼリ︱とキウリが三本。
﹁キウリ?﹂と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。﹁なんで
またキウリなんてものがここにあるのよ?まったくお姉さん何を考えている
かしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって
電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよ、私﹂
﹁キウイと聞きまちがえたんじゃないかな﹂と僕は言ってみた。
緑はぱちんと指を鳴らした。﹁たしかに、キウイって頼んだわよ。それよ
ね。でも考えりゃわかるじゃない?なんで病人が生のキウリをかじるのよ?
お父さん、キウリ食べたい?﹂
︿いらない﹀と父親は言った。
緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TVの映りがわ
るくなって修理を呼んだとか、高井戸のおばさんが二、三日のうち一度見
舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだと
か、そういう話だった。父親はそんな話に対した︿うん﹀︿うん﹀と返事を
しているだけだった。
﹁本当に何か食べたくない、お父さん?﹂
︿いらない﹀と父親は答えた。
﹁ワタナベ君、グレ︱プフル︱ツ食べない?﹂
﹁いらない﹂と僕も答えた。
少しあとで緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファ︱に座って煙草
一本吸った。TV室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いなが
ら政治討論会のような番組を見ていた。
﹁ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらち
ら見てるのよ。あのブル︱のパジャマの眼鏡のおじさん﹂と緑は楽しそうに
言った。
﹁そりゃ見るさ。そんなスカ︱トはいてりゃみんな見るさ﹂
﹁でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女
の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら﹂
﹁逆にならなきゃいいけど﹂と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
﹁お父さんのことだけどね﹂緑は言った。﹁あの人、悪い人じゃない
のよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけど、少くとも根は正直な人だ
し、お母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所
懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったし、商売の才覚も
なかったし、人望もなかったけど、でもうそばかりついて要領よくたちまわっ
てるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすと
あとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪
い人じゃないのよ﹂
緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分
の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカ︱トの布地の上に、あとの半分
は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。
﹁あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一
緒にここにいてくれる?﹂
﹁五時までは大丈夫だからずっといるよ﹂と僕は言った。﹁君と一緒
にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの﹂
﹁日曜日はいつも何をしてるの?﹂
﹁洗濯﹂と僕は言った。﹁そしてアイロンがけ﹂
﹁ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょ?
そのつきあっている人のこと﹂
﹁そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明で
きそうにないし﹂
﹁いいわよべつに。説明しなくても﹂と緑は言った。﹁でも私の想像
してることちょっと言ってみていいかしら?﹂
﹁どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたい
ね﹂
﹁私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコ︱トとか
シャルル?ジュ︱ルダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプでおまけに
ものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。
平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御
主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?﹂
﹁なかなか面白い線をついてるね﹂と僕は言った。
﹁きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと
舐めさせたりするのよね。それからほら、変なものを入れさせたり、アクロバ
︱トみたいな格好をしたり、そういうところをポラロイド?カメラで撮ったり
もするの﹂
﹁楽しそうだな﹂
﹁ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。
彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナ
ベ君が来たらこんなこともしよう、あんなこともしようってね。そしてベットに
入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君に
こう言うの。﹃どう、私の体って凄いでしょ?あなたもう若い女の子なんかじ
ゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう?感じ
る?でも駄目よ、まだ出しちゃ﹄なんてね﹂
﹁君はポルノ映画見すぎていると思うね﹂と僕は笑って言った。
﹁やっばりそうかなあ﹂と緑は言った。﹁でも私、ポルノ映画って大好
きなの。今度一緒に見にいかない?﹂
﹁いいよ。君が暇なときに一緒に行こう﹂
﹁本当?すごく楽しみ。SMのやつに行きましょうね。ムチでばしばし打
ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大
好きなの﹂
﹁いいよ﹂
﹁ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知っ
てる?﹂
﹁さあ見当もつかないね﹂
﹁あのね、セックス?シ︱ンになるとんね、まわりの人がみんなゴクン
って唾を呑みこむ音が聞こえるの﹂と緑は言った。﹁そのゴクンっていう音
が大好きなの、私。とても可愛いくって﹂
病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は︿あ
あ﹀とか︿うん﹀とあいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりし
た。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきて、夫の寝巻を
とりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんで、
緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新し
いものととりかえ、緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。その
あいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の
外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は
父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや
看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックした
りしていた。
十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待ってい
た。医者が出てくると、緑は﹁ねえ先生、どんな具合ですか?﹂と訊ねた。
﹁手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はし
てるよな﹂と医者は言った。﹁手術の結果はあと二、三日経たんことには
わからんよね、私にも。うまく行けばうまく行くし、うまく行かんかったらまた
その時点で考えよう﹂
﹁また頭開くんじゃないでしょうね?﹂
﹁それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな﹂と医者は言った。
﹁おい今日はえらい短かいスカ︱トはいてるじゃないか﹂
﹁素敵でしょ?﹂
﹁でも階段上るときどうするんだ、それ?﹂と医者が質問した。
﹁何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの﹂と緑が言って、うしろの看
護婦がくすくす笑った。
﹁君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ﹂
とあきれたように医者が言った。﹁それからこの病院の中じゃなるべくエレ
ベ︱タ︱を使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただで
さえ忙しいんだから﹂
回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食
事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタ︱ジ
ュ?ス︱プとフル︱ツとやわらかく煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶし
てゼリ︱状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとの
ハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こし、スプ︱ンでス︱プをすく
って飲ませた。父親は五、六口飲んでから顔をそむけるようにして、︿いら
ない﹀と言った。
﹁これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた﹂と緑は言った。
父親は︿あとで﹀と言った。
﹁しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ﹂と
緑が言った。﹁おしっこはまだ大丈夫?﹂
︿ああ﹀と父親は答えた。
﹁ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない?﹂と
緑が言った。
いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあ
まりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえ
していた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホ︱ルに椅子とテ︱ブル
がずらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをし
ゃべっていて︱︱たぶん病気の話だろう︱︱それが地下道の中みたいに
わんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び
出す放送が流れた。僕がテ︱ブルを確保しているあいだに、緑が二人分の
定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリ︱ム?コロッケと
ポテト?サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が
病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は
半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。
﹁ワタナベ君、あまりおなかすいてないの?﹂と緑が熱いお茶をすす
りながら言った。
﹁うん、あまりね﹂と僕は言った。
﹁病院のせいよ﹂と緑はぐるりを見まわしながら言った。﹁馴れない
人はみんなそうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷
立ち、失望、苦痛、疲労︱︱そういうもののせいなのよ。そういうものが胃を
しめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうって
ことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもで
きないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんと四人
看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられない
ことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなき
ゃ駄目なのよ﹂
﹁君の言ってることはわかるよ﹂と僕は言った。
﹁親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、
するとみんなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺ
ロッと食べちゃうと﹃ミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう
胸いっぱいでごはん食べられないわよ﹄って言うの。でもね、看病してるの
はこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃ
ない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私な
のよ。同情するでけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍くらい同
情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非
難がましい目で見て﹃ミドリちゃんは元気でいいわねえ﹄だもの。みんな
は私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年
をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしくみってものがわかんない
かしら、あの人たち?口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコ
をかたづけるかかたづけないかなのよ。私だって傷つくことはあるのよ。私
だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。
なおる見こみもないのに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわ
して、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭がだんだん
おかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見ててごらんなさいよ、た
まらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏しくなってくるし、私だ
ってあと三年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだってこん
な状態じゃ結婚式だってあげられないし﹂
﹁君は週に何日くらいここに来てるの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁四日くらいね﹂と緑は言った。﹁ここは一応完全看護がたてまえな
んだけれど実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人た
ち本当によくやってくれるわよ、でも数は足りないし、やんなきゃいけないこ
とが多すぎるのよ。だからどしても家族がつかざるを得ないのよ、
ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあい
まをぬって私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来
て、私が四日くらい。そしてその寸暇を利用してデ︱トしてるの、私たち。過
密なスケジュ︱ルよ﹂
﹁そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?﹂
﹁あなたと一緒にいるのが好きだからよ﹂と緑は空のプラスチックの
湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。
﹁二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ﹂と僕は言った。
﹁僕がしばらくお父さんのこと見ててやるから﹂
﹁どうして?﹂
﹁少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口
きかないで頭の中を空
っぽにしてさ﹂
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。﹁そうね。そうかもしれないわ
ね。でもあなたやり方わかる?世話のしかた﹂
﹁見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ま
せて、汗を拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら
昼食の残りを食べさせる。その他わからないことは看護婦さんに訊く﹂
﹁それだけわかってりゃまあ大丈夫ね﹂と緑は微笑んで言った。﹁た
だね、あの人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言
いだすのよ。なんだかよくわけのわからないことを。もしそういうこと言って
もあまり気にしないでね﹂
﹁大丈夫だよ﹂と僕は言った。
病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してく
る、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはと
くに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解し
てなかったのかもしれない。彼はあおむけになって、じっと天井を見つめて
いた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても通りそうだった。
目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに
膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはし
なかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕
には見当もつかなった。
緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思っ
たが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。する
とそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、
彼がこのまま死んでしまわないように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと
動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているときにこの男が息引
きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男に
さっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけ
で、緑と僕は﹁演劇史Ⅱ﹂で同じクラスだいうだけの関係にすぎないの
だ。
しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだ
った。耳を顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣
りの奥さんと話をした。彼女は僕のことを緑の恋人だと思っているらしく、
僕にずっと緑の話をしてくれた。
﹁あの子、本当に良い子よ﹂彼女は言った。﹁とてもよくお父さんの
面倒をみてるし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おま
けに綺麗だし。あなた、大事にしなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあ
んな子いないんだから﹂
﹁大事にします﹂と僕は適当に答えておいた。
﹁うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やし
ないわよ。休みになるとサ︱フィンだ、デ︱トだ、なんだかんだってどこかに
遊びに行っちゃってね。ひどいもんよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっ
とて、あとはポイだもん﹂
一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て
行った。病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部
屋の中にたっぷりと入りこんでいて、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んで
しまいそうだった。窓辺のテ︱ブルの上には白と黄色の菊の花が花瓶にい
けられていて、今は秋なのだと人々に教えていた。病室には手つかずで残
された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っていた。看護婦たちはあいかわらず
コツコツという音を立てて廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会
話をかわしていた。彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人とも
ぐっすり眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んでから姿を消
した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新聞も何に
もなかった。カレンダ︱が壁にかかっているだけだった。
僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のこと
を考えた。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の
前で裸になったりしたのだろう?あのとき直子は夢遊状態にあったのだろ
うか?それともあれは僕の幻想にすぎなかったのだろうか?時間が過ぎ、
あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が本当に
あったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当に
あったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと
思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がく
っきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子の
体も月の光も。
緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで
中断した。僕ティッシュ?ペ︱パ︱で痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭
いた。
﹁水を飲みますか?﹂と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さな
ガラスの水さしで少しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびく
びくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。
﹁もっと飲みますか?﹂と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているよう
なので、僕は耳を寄せてみた。︿もういい﹀と彼は乾いた小さな声で言っ
た。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと小さくなっていた。
﹁何か食べませんか?腹減ったでしょうう?﹂と僕は訊いた。父親は
また小さく肯いた。僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを
起こし、野菜のゼリ︱と煮魚をスプ︱ンでかわりばんこにひと口ずつすくっ
て食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてから、もうい
いという風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるら
しく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フル︱ツはどうするかと訊くと彼
は︿いらない﹀と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、
食器を廊下に出しておいた。
﹁うまかったですか?﹂と僕は訊いてみた。
︿まずい﹀と彼は言った。
﹁うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね﹂と僕は笑って
言った。父親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目で
じっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと
思った。彼はなんとなく緑といるときより僕と二人になっているときの方が
リラックスしているように見えたからだ。あるいは僕のことを他の誰かと間
違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が
有難かった。
﹁外は良い天気ですよ、すごく﹂と僕は丸椅子に座って脚を組んで言
った。﹁秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そ
ういう日にこんな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、
疲れないですむし。混んだところ行ったって疲れるだけだし、空気もわるい
し。僕は日曜日だいたい洗濯するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、
夕方前にとりこんでせっせとアイロンをかけます。アイロンかけるの嫌いじゃ
ないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかい
いもんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはも
ちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だらけになっちゃった
りしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は
洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね、残念で
すね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。
でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなく
っていいです。日曜日ったって他にやること何もないんですから。
明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミド
リさんと一緒なんです。﹃演劇史Ⅱ﹄で、今はエウリビデスをやっていま
す。エウリビデス知ってますか?昔のギリシャ人で、アイスキュロス、ソフォク
レスならんでギリシャ悲劇のビッグ?スリ︱と言われています。最後はマケ
ドニアで犬に食われて死んだということになっていますが、これには異説も
あります。これがエウリビデスです。僕はソフォクレスの方が好きですけど
ね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがと
れなくなってしまうことなんです。わかりますか?いろんな人が出てきて、そ
のそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もがそれなり
の正義と幸福を追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっち
もさっちもいかなくなっちゃうんです。そりゃそうですよね。みんなの正義が
とおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないです
からね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうな
ると思います?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。
そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと
一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサ︱みた
いなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス?エクス?
マキナと呼ばれています。エウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス?
エクス?マキナが出てきて、そのあたりでエウリビデスの評価がわかれるわ
けです。
しかし現実の世界にこういうデウウ?エクス?マキナというのがあった
としたら、これは楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様
が上からするすると降りてきて全部処理してくれるわけですからね。こんな
楽なことはない。でもまあとにかくこれが﹃演劇史Ⅱ﹄です。我々はまあだ
いたい大学でこういうことを勉強してます﹂
僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目
で僕を見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解して
いるのかどうかその目から判断できなかった。
﹁ピ︱ス﹂と僕は言った。
それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食
べなかった上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと
食べておかなかったことをひどく後悔したが、後悔してどうなるどういうも
のでもなかった。何か食べものがないかと物入れの中を探してみたが、海
苔の缶とヴィックス?ドロップと醤油があるだけだった。紙袋の中にキウリと
グレ︱プフル︱ツがあった。
﹁腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね﹂と僕
は訊ねた。
緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。
そして皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと
食べた。
﹁うまいですよ﹂と僕は言った。﹁シンプルで、新鮮で、生命の香りが
します。いいキウリですね。キウイなんかよりずっとまともな食いものです﹂
僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとて
も気持の良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと二本食べてしま
うと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガス?コンロで湯をかわし、
お茶を入れて飲んだ。
﹁水かジュ︱ス飲みますか?﹂と僕は訊いてみた。
︿キウリ﹀と彼は言った。
僕はにっこり笑った。﹁いいですよ。海苔つけますか?﹂
彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食べやすい
大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んで
やった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこ
んだ。
︿うまい﹀と彼は言った。
﹁食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんで
す﹂
結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲
みたがったので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで少しすると
小便したいと言ったので、僕はベットの下からしびんを出し、その口をベニ
スの先にあててやった。僕は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗っ
た。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。
﹁気分どうですか?﹂と僕は訊いてみた。
︿すこし﹀と彼は言った。︿アタマ﹀
﹁頭が少し痛むんですか?﹂
そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。
﹁まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたこ
とないからどういうもんだかよくわからないけれど﹂
︿キップ﹀と彼は言った。
﹁切符?なんの切符ですか?﹂
︿ミドリ﹀と彼は言った。︿キップ﹀
何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っ
ていた。それから︿タノム﹀と言った。﹁頼む﹂ということらしかった。彼し
っかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっ
ているようだったが、その内容は僕には見当もつかなかった。
︿ウエノ﹀と彼は言った。︿ミドリ﹀
﹁上野駅ですか?﹂
彼は小さく肯いた。
﹁切符?緑?頼む?上野駅﹂と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱ
りわからなかった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目
つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささってい
ない方の手を上げて僕の方にのばした。そうするにはかなりの力が必要で
あるらしく、手は空中でぴくぴくと震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃ
くしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、︿タノム﹀とくり
かえした。
切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくても
いいですよ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そし
て寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に
出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小
柄な男に対して好感のようなものを抱いていることに気づいた。
少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊ねた。
ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和
そうに眠っていた。
緑は三時すぎに戻ってきた。
﹁公園でぼおっとしてたの﹂と彼女は言った。﹁あなたに言われたよ
うに、一人で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして﹂
﹁どうだった?﹂
﹁ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけ
れど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思ってい
るより疲れてたみたいね﹂
父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自
動販売機のコ︱ヒ︱を買ってTV室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいな
いあいだに起った出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、
昼食の残りを半分食べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一
本食べ、小便して眠った、と。
﹁ワタナベ君、あなたってすごいわね﹂と緑は感心して言った。﹁あ
の人ものを食べなくてそれでみんなすごく苦労してるのに、キウリまで食べ
させちゃうんだもの。信じられないわね、もう﹂
﹁よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃ
ないかな﹂と僕は言った。
﹁それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのか
しら?﹂
﹁まさか﹂と言って僕は笑った。﹁逆のことを言う人間はいっばいい
るけれどね﹂
﹁お父さんのことどう思った?﹂
﹁僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなん
となく良さそうな人だっていう気はしたね﹂
﹁おとなしかった?﹂
﹁とても﹂
﹁でもね一週間前は本当にひどかったのよ﹂と緑は頭を振りながら
言った。﹁ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私にコップ投げつけ
てね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言ったの。この病気ってときど
きそういうことがあるの。どうしてだかわからないけれど、ある時点でものす
ごく意地わるくなるの。お母さんのときもそうだったわ。お母さんが私に向っ
てなんて言ったと思う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大嫌い
だって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのっ
て、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷立たせ
て、それであることないこと言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。
でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命やっていて、その
上なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情なくなっちゃう
の﹂
﹁わかるよ、それは﹂と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけの
わからいことを言ったのを思いだした。
﹁切符、上野駅?﹂と緑は言った。﹁なんのことかしら?よくわからな
いわね﹂
﹁それから︿頼む﹀︿ミドリ﹀って﹂
﹁それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?﹂
﹁あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれ
ないよ﹂と僕は言った。﹁とにかくその四つの言葉の順番がぐしゃぐしゃだ
から意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあたることない?﹂
﹁上野駅……﹂と言って緑は考えこんだ。﹁上野駅で思いだせると
いえば私が二回家出したことね。小学校三年のときと五年のときで、どちら
のときも上野から電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。何
かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯
母のことわりに好きだったんで、そこに行ったのよ。そうするとお父さんが私
を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら
上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、
私にいろんな話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの
話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたことないよ
う話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したのなんてそ
のときくらいだったわね。ねえ、信じられる?うちのお父さん、関東大震災の
とき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ﹂
﹁まさか﹂と僕は唖然として言った。
﹁本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカ︱つけて小
石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰った
らそのへん瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてた
の。それでお父さんはわけわからなくて﹃何やってるんだ、いったい?﹄っ
て訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話﹂緑はそう
言って笑った。
﹁お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじ
ゃないのね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そういう話を聞いている
とね、この五十年か六十年くらい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起
らなかったような気になってくるの。二?二六事件にしても太平洋戦争にし
ても、そう言えばそういうのあったっけなあっていう感じなの。おかしいでし
ょう?
そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そ
して最後にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言わ
れるとね、子供心にそうなのかなあって思ったわよ﹂
﹁それが上野駅の思い出話?﹂
﹁そうよ﹂と緑は言った。﹁ワタナベ君は家出したことある?﹂
﹁ないね﹂
﹁どうして?﹂
﹁思いつかなかったんだよ。家出するなんて﹂
﹁あなたって変わってるわね﹂と緑は首をひねりながら感心したよう
に言った。
﹁そうかな﹂と僕は言った。
﹁でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったん
だと思うわよ﹂
﹁本当?﹂
﹁本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなん
て答えたの?﹂
﹁よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんと
やるから大丈夫ですって言っといたけど﹂
﹁じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?﹂緑はそ
う言って真剣な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。
﹁そうじゃないよ﹂と僕はあわてて言いわけした。﹁何がなんだかそ
のときよくわからなかったし︱︱﹂
﹁大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ﹂緑はそう言って
笑った。﹁あなたってそいうところすごく可愛いのね﹂
コ︱ヒ︱を飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすり
と眠っていた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれ
て窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化していっ
た。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていた。僕と緑は部屋
の隅に二人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手
相を見て、あなたは百五歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予
言した。悪くない人生だな、と僕は言った。
四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、
水を飲ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を
測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕はTV室のソフ
ァ︱に座ってサッカ︱中継を少し見た。
﹁そろそろ行くよ﹂と五時に僕は言った。それから父親に向かって
﹁今からアルバイト行かなきゃならないんです﹂と説明した。﹁六時から
十時半まで新宿でレコ︱ド売るんです﹂
彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。
﹁ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のこ
とすごく感謝してるのよ。ありがとう﹂と玄関のロビ︱で緑が僕に言った。
﹁それほどのことは何もしてないよ﹂と僕は言った。﹁でももし僕で
役に立つのならまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいし
ね﹂
﹁本当?﹂
﹁どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくればキウリも
食べられる﹂
緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いてい
た。
﹁今度また二人でお酒飲みに行きたいな﹂と彼女はちょっと首をか
しげるようにして言った。
﹁ポルノ映画?﹂
﹁ポルノ見てからお酒飲むの﹂と緑は言った。﹁そしていつものよう
に二人でいっばいいやらしい話をするの﹂
﹁僕はしてないよ。君がしてるんだ﹂と僕は抗議した。
﹁どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒
飲んでぐでんぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝るの﹂
﹁そのあとはだいたい想像つくね﹂と僕はため息をついて言った。
﹁僕がやろうとすると、君が拒否するんだろう?﹂
﹁ふふん﹂と彼女は言った。
﹁まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日
に。一緒にここに来よう﹂
﹁もう少し長いスカ︱トはいて?﹂
﹁そう﹂と僕は言った。
でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が
金曜日の朝に亡くなってしまったからだ。
その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかっ
てきていることを教えるブザ︱が鳴って、僕はパジャマの上にカ︱ディガン
を羽織ってロビ︱に降り、電話をとった。冷たい雨が音もなく降っていた。
お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。何かでき
ることあるかな、と僕は訊いてみた。
﹁ありがとう、大丈夫よ﹂と緑は言った。﹁私たちお葬式に馴れてる
の。ただあなたに知せたかっただけなの﹂
彼女はため息のようなものをついた。
﹁お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなた
に会いたくないの﹂
﹁わかった﹂と僕は言った。
﹁本当にポルノ映画につれてってくれる?﹂
﹁もちろん﹂
﹁すごくいやらしいやつよ﹂
﹁ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを﹂
﹁うん。私の方から連絡するわ﹂と緑は言った。そして電話を切った。
しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学の教
室でも会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕へ
の伝言メモがないかと気にして見ていたのだが、僕への電話はただの一
本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考
えながらマスタ︱ベ︱ションをしてみたのだったがどうもうまくいかなかっ
た。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子のイメ︱ジも今回
はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめて
しまった。そしてウィスキ︱を飲んで、歯を磨いて寝た。

日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父親の
こと書いた。僕はその同じクラスの女の子の父親の見舞いに行って余った
キウリをかじった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局
その五日後の朝に彼は亡くなってしまった。僕は彼がキウリを噛むときの
ポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死というものは小さ
な奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。
朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレイコさんと鳥小屋のことを考
えると僕は書いた。孔雀や鴉やオウムや七面鳥、そしてウサギのことを。雨
の朝に君たちが着ていたフ︱ドつきの黄色い雨合羽のことも覚えていま
す。あたたかいベットの中で君のことを考えているのはとても気持の良いも
のです。まるで僕のとなりに君がいて、体を丸めてぐっすり眠っているような
気がします。そしてそれがもし本当だったらどんなに素敵だろうと思いま
す。
ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気
に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕
も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベットから出て歯を磨いて、髭を剃っ
て、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだ
いたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと
生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく
一人言を言うそうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってる
のでしょう。
君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での
生活はもっとひどいことになっていたと思う。朝ベットの中で君のことを考
えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかなくちゃとと僕は思うの
です。君がそこできちんとやっているように僕もここできちんとやっていかな
くちゃと思うのです。
でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませてしま
って、今は部屋で手紙を書いています。この手紙を書き終えて切手を貼っ
てポストに入れてしまえば夕方まで何もありません。日曜には勉強もしませ
ん。僕は平日の講義のあいまに図書室でかなりしっかりと勉強しているの
で、日曜日には何もすることがないのです。日曜日の午後は静かで平和
で、そして孤独です。
僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京にいた
頃の日曜日に二人で歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみることもあり
ます。君が着ていた服なんかもずいぶんはっきりと思いだせます。日曜日
の午後には僕は本当にいろんなことを思いだすのです。
レイコさんによろしく。僕は夜になると彼女のギタ︱がとてもなつかし
くなります。
僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メ︱トルほど離れたところにあ
るポストに入れ、近くのパン屋で玉子のサンドイッチとコ︱ラを買って、公
園のベンチに座って昼飯がわりにそれを食べた。公園では少年野球をやっ
ていたので、僕は暇つぶしにそれを見ていた。空は秋の深まりとともにます
ます青く高くなり、ふと見あげると二本の飛行機雲が電車の線路みたいに
平行にまっすぐ西に進んでいくのが見えた。僕の近くに転がってきたファウ
ル?ボ︱ルを投げ返してやると子供たちは帽子をとってありがとうござい
ますと言った。大方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゲ︱
ムだった。
午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中できなくな
ると天井を眺めて緑のことを思った。そしてあの父親は本当に僕に緑のこ
とをよろしく頼むと言おうとしたのだろうかと考えてみた。でももちろん彼が
本当に何を言いたかったかということは僕には知りようもなかった。たぶん
彼は僕を他の誰かと間違えていたのだろう。いずれにせよと冷たい雨の降
る金曜日の朝に彼は死んでしまったし、本当はどうだったのかたしかめよ
うもなくなってしまった。おそらく死ぬときの彼はもっと小さく縮んでいたの
だろうと僕は想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってしまったの
だ。彼があとに残したものといえば、あまりぱっとしない商店街の中のあま
りぱっとしない本屋と二人の︱︱少くともそのうちの一人はいささか風変
りな︱︱娘だけだった。それはいったいどのような人生だったんだろう、と
僕は思った。彼は病院のベットの上で、切り裂かれて混濁した頭を抱え、い
ったいどんな思いで僕を見ていたのだろう?
そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない気持
になってきたので、僕は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新宿に出て街
を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の街は僕をホッとさせ
てくれた。僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋書店でフォ︱クナ︱
の﹃八月の光﹄を買い、なるべく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってオ︱
ネット?コ︱ルマンだのパド?パウエルだののレコ︱ドを聴きながら熱くて
濃くてまずいコ︱ヒ︱うを飲み、買ったばかりの本を読んだ。五時半になる
と僕は本を閉じて外に出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜
日をいったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思った。
﹁静かで平和で孤独な日曜日﹂と僕は口に出して言ってみた。日曜日に
は僕はねじを巻かないのだ。

その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。レ
コ︱ド棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自
分でもびっくりするくらい血がいっぱい出て、それがぽたぽたと下にこぼ
れ、足もとの床が真っ赤になった。店長がタオルを何枚が持ってきてそれを
強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして電話をかけて夜でも開いている
救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男だったが、そういう処置だ
けは手ばやかった。病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにタオルは
真っ赤に染まって、はみでた血がアスファルトの上にこぼれた。人々はあわ
てて道をあけてくれた。彼らは喧嘩か何かの傷だと思ったようだった。痛み
らしい痛みはなかった。ただ次から次へと血が出てくるだけだった。
医者は無感動に血だらけのタオルを取り、手首をぎゅっとしばって血
を止め傷口を消毒してから縫い合わせ、明日また来なさいと言った。レコ
︱ド店に戻ると、お前もう家帰れよ、出勤にしといてやるから、と店長が言っ
た。僕はバスに乗って寮に戻った。そして永沢さんの部屋に行ってみた。怪
我のせいで気が高ぶっていて誰かと話がしたかったし、彼にもずいぶん長
く会っていないような気がしたからだ。
彼は部屋にいて、TVのスペイン語講座を見ながら缶ビ︱ルを飲んで
いた。彼は僕の包帯を見て、お前それどうしたんだよと訊いた。ちょっと怪
我したのだがたいしたことはないと僕は言った。ビ︱ル飲むかと彼が訊い
て、いらないと僕は言った。
﹁これもうすぐ終るから待ってろよ﹂と永沢さんは言って、スペイン語
の発音の練習をした。僕は自分で湯をわかし、ティ︱バッグで紅茶を作っ
て飲んだ。スペイン人の女性が例文を読みあげた。﹁こんなひどい雨はは
じめてですわ。バルセロナでは橋がいくつも流されました﹂。永沢さんは自
分でもその例文を読んで発音してから﹁ひどい例文だよな﹂と言った。
﹁外国語講座の例文ってこういうのばっかりなんだからまったく﹂
スペイン語講座が終ると永沢さんはTVを消し、小型の冷蔵庫からも
う一本ビ︱ルを出して飲んだ。
﹁邪魔じゃないですか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁俺?全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビ︱ルいらな
い?﹂
いらないと僕は言った。
﹁そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ﹂と永沢さ
んが言った。
﹁外務省の試験?﹂
﹁そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけどね、アホ
みたいだろ?﹂
﹁おめでとう﹂と僕は言って左手をさしだして握手した。
﹁ありがとう﹂
﹁まあ当然でしょうけれどね﹂
﹁まあ当然だけどな﹂と永沢さんは笑った。﹁しかしまあちゃんと決
まるってのはいいことだよ、とにかく﹂
﹁外国に行くんですか、入省したら?﹂
﹁いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にやられ
る﹂
僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビ︱ルを飲んだ。
﹁この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前にやる
よ﹂と永沢さんは言った。﹁欲しいだろ?これあると冷たいビ︱ル飲める
し﹂
﹁そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必要でしょ
う?どうぜアパ︱ト暮しか何かだろうし﹂
﹁馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとでかい冷蔵
庫を買ってゴ︱ジャスに暮すよ。こんなケチなところで四年我慢したんだ
ぜ。こんなところで使ってたものなんて目にしたくもないさ。何でも好きなも
のやるよ、TVだろうが、魔法瓶だろうが、ラジオだろうが﹂
﹁まあなんでもいいですけどね﹂と僕は言った。そして机の上のスペ
イン語のテキスト?ブックを手にとって眺めた。﹁スペイン語始めたんです
か?﹂
﹁うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来
俺はそういうの得意なんだ。フランス語だって独学でやってきて殆んど完璧
だしな。ゲ︱ムと同じさ。ル︱ルがひとつわかったら、あとはいくつやったっ
てみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ﹂
﹁ずいぶん内省的な生き方ですね﹂と僕は皮肉を言った。
﹁ところで今度一緒に飯食いに行かないか﹂と永沢さんが言った。
﹁また女漁りじゃないでしょうね?﹂
﹁いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でちゃんとした
レストランに行って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。なるべく高い店に行
こう。どうせ払いは父親だから﹂
﹁そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないですか﹂
﹁お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも﹂と永沢
さんは言った。
やれやれ、と僕は思った。それじゃキズキと直子のときとまったく同じじ
ゃないか。
﹁飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい三人で食
おうよ﹂
﹁まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ﹂と僕は言
った。﹁でも永沢さんはどうするですか、ハツミさんのこと?研修のあとで国
外勤務になって何年も帰ってこないんでしょ?彼女はどうなるんですか?﹂
﹁それはハツミの問題であって、俺の問題ではない﹂
﹁よく意味がわかんないですね﹂
彼は足を机の上にのせたままビ︱ルを飲み、あくびをした。
﹁つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツミにもち
ゃんと言ってある。だからさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。
俺は止めないよ。結婚しないで俺を待ちたきゃ待ちゃいい。そういう意味だ
よ﹂
﹁ふうん﹂と僕は感心して言った。
﹁ひどいと思うだろ、俺のこと?﹂
﹁思いますね﹂
﹁世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせ
いじゃない。はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか
一度もない。そういう意味では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れ
ろってちゃんと言ってる﹂
永沢さんはビ︱ルを飲んでしまうとタバコをくわえて火をつけた。
﹁あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないですか?﹂と
僕は訊いてみた。
﹁あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ﹂と永沢さんは言った。﹁も
ちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなの当たり前じゃない
か。ただ俺はそういうのを前提条件として認めない。自分の力を百パ︱セ
ント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものは
とらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考
える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもあ
る﹂
﹁身勝手な話みたいだけれど﹂と僕は言った。
﹁でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃ
ないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力して
る﹂
﹁そうでしょうね﹂と僕は認めた。
﹁だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。
どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ば
かり言うんだろうってね﹂
僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。﹁僕の目から見れば世の中の
人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんで
すが、僕の見方は間違っているんでしょうか?﹂
﹁あれは努力じゃなくてただの労働だ﹂と永沢さんは簡単に言った。
﹁俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体
的に目的的になされるもののことだ﹂
﹁たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペイン語
の勉強を始めるとか、そういうことですね?﹂
﹁そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスタ︱する。
英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたい
はできる。こういうのって努力なくしてできるか?﹂
彼はタバコを吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親は
TVでスペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思っ
た。努力と労働の違いがどこかにあるかなんて考えもしなかったろう。そん
なことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかったし、福島
まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった。
﹁食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ?﹂と永沢さんが言った。
いいですよ、と僕は言った。
永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス料理
店だった。永沢さんが名前を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部
屋で壁には十五枚くらい版画がかかっていた。ハツミさんが来るまで、僕と
永沢さんはジョセフ?コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲
んだ。永沢さんは見るからに高価そうなグレ︱のス︱ツを着て、僕はごく普
通のネイビ︱?ブル︱のブレザ︱?コ︱トを着ていた。
十五分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとてもきちん
と化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブル︱の素敵なワンピ︱スを着
て、上品なかたちの赤いパンプスをはいていた。僕はワンピ︱スの色を賞
めると、これはミッドナイト?ブル︱っていうのよとハツミさんは教えてくれ
た。
﹁素敵なところじゃない﹂とハツミさんが言った。
﹁父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来たことあ
るよ。俺はこういう気取った料理はあまり好きじゃないけどな﹂と永沢さん
が言った。
﹁あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワタナベ君﹂とハ
ツミさんが言った。
﹁そうですね、自分の払いじゃなければね﹂と僕は言った。
﹁うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ﹂と永沢さんが言った。
﹁東京に女がいるから﹂
﹁そう?﹂とハツミさんが言った。
僕は聞こえないふりをしてワインを飲んでいた。
やがてウェイタ︱がやってきて、我々は料理を注文した。オ︱ドブルと
ス︱プを我々は選び、メイン?ディッシュに永沢さんは鴨を、僕とハツミさん
は鱸を注文した。料理はとてもゆっくり出てきたので、僕らはワインを飲み
ながらいろんな話をした。最初は永沢さんが外務省の試験の話をした。受
験者の殆んどは底なし沼に放りこんでやりたいようなゴミだが、まあ中に
は何人かまともなのもいたなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と
比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。
﹁同じだよ、もちろん﹂と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言
った。﹁そういうのって、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ﹂
ワインを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のためにスコ
ッチ?ウィスキ︱をダブルで頼んだ。
それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始めた。これ
はハツミさんと僕の間の永遠の話題だった。彼女は僕に︿クラブの下級
生のすごく可愛い子﹀を紹介したがって、僕はいつも逃げまわっていた。
﹁でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一度お話
しなさいよ。きっと気にいるわよ﹂
﹁駄目ですよ﹂と僕は言った。﹁僕はハツミさんの大学の女の子と
つきあうには貧乏すぎるもの。お金もないし、話もあわないし﹂
﹁あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりした良い子
よ。全然そんな風に気取ってないし﹂
﹁一度会ってみりゃいいじゃないか、ワタナベ﹂と永沢さんが言った。
﹁べつにやらなくていいんだから﹂
﹁あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバ︱ジンなんだ
から﹂とハツミさんが言った。
﹁昔の君みたい﹂
﹁そう、昔の私みたいに﹂とハツミはにっこり笑って言った。﹁でもワ
タナベ君、貧乏だとかなんだかとかって、そんなのあまり関係ないよ。そり
ゃクラスに何人かはものすごく気取ったバリバリの子はいるけれど、あとは
私たち普通なのよ。お昼には学食で二百五十円のランチ食べて︱︱﹂
﹁ねえハツミさん﹂と僕は口をはさんだ。﹁僕の学校の学食のランチ
は、A、B、CとあってAが百二十円でBは百円でCが八十円なんです。それ
でたまに僕がAランチを食べるとみんな嫌な目で見るんです。Cランチが食
えないやつは六十円のラ︱メン食うんです。そういう学校なんです。話があ
うと思いますか?﹂
ハツミさんは大笑いした。﹁安いわねえ、私食べに行こうかしら。でも
ね、ワタナベ君、あなた良い人だし、きっと彼女と話あうわよ。彼女だって百
二十円のランチ気に入るかもしれないわよ﹂
﹁まさか﹂と僕は笑って言った。﹁誰もあんなもの気に入ってやしま
せんよ。仕方ないから食べてるんです。
﹁でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワタナベ君。そりゅまあか
なりちゃらちゃらしたお嬢様学校であるにせよ、真面目に人生を考えて生き
ているまともな女の子だって沢山いるのよ。みんながみんなスポ︱ツ?カ
︱に乗った男の子とつきあいたいと思ってるわけじゃないのよ﹂
﹁それはもちろんわかってますよ﹂と僕は言った。
﹁ワタナベには好きな女の子がいるんだよ﹂と永沢さんが言った。
﹁でもそれについてはこの男は一言もしゃべらないんだ。なにしろ口が固く
てね。全ては謎に包まれているんだ﹂
﹁本当?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとてもこみい
って話しづらいだけです﹂
﹁道ならぬ恋とかそういうの?ねえ、私に相談してごらんなさいよ﹂
僕はワインを飲んでごまかした。
﹁ほら、口が固いだろう﹂と三杯目のウィスキ︱を飲みながら永沢さ
んが言った。﹁この男は一度言わないって決めたら絶対に言わないんだも
の﹂
﹁残念ねえ﹂とハツミさんはテリ︱ヌを小さく切ってフォ︱クで口に
運びながら言った。﹁その女の子とあなたがうまくいったら私たちダブル?
デ︱トできたのにね﹂
﹁酔払ってスワッピングだってできたのにね﹂と永沢さんが言った。
﹁変なこと言わないでよ﹂
﹁変じゃないよ、ワタナベ君のこと好きなんだから﹂
﹁それとこれは別でしょう﹂とハツミさんは静かな声で言った。﹁彼
はそういう人じゃないわよ。自分のものをとてもきちんと大事にする人よ。私
わかるもの。だから女の子を紹介しようとしたのよ﹂
﹁でも俺とワタナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、前に。な
あ、そうだよな?﹂永沢さんは何でもないという顔をしてウィスキ︱のグラ
スをあけ、おわかりを注文した。
ハツミさんはフォ︱クとナイフを下に置き、ナプキンでそっと口を拭っ
た。そして僕の顔を見た。﹁ワタナベ君、あなた本当にそんなことした
の?﹂
どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。
﹁ちゃんと話せよ。かまわないよ﹂と永沢さんが言った。まずいことに
なってきたと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなること
があるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは僕に向けられたものではな
く、ハツミさんに向けられたものだった。それがわかっていたもので、僕とし
ても余計に居心地がわるかった。
﹁その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない﹂とハツミさんが僕に
言った。
﹁酔払ってたんです﹂と僕は言った。
﹁いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただその話を聞
かせてほしいだけなの﹂
﹁渋谷のバ︱で永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と
仲良くなったんです。どこかの短大の女の子で、向うも結構出来上ってい
て、それでまあ結局そのへんのホテルに入って寝たんです。僕と永沢さんと
で隣りどうしの部屋をとって。そうしたら夜中に永沢さんが僕の部屋をノッ
クして、おいワタナベ、女の子とりかえようぜって言うから、僕が永沢さんの
方に行って、永沢さんが僕の方に来たんです﹂
﹁その女の子たちは怒らなかったの?﹂
﹁その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局
その子たちとしても﹂
﹁そうするにはそうするだけの理由があったんだよ﹂と永沢さんが言
った。
﹁どんな理由?﹂
﹁その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人
の子はきれいだったんだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平
だと思ったんだ。つまり俺が美人の方をとっちゃったからさ、ワタナベにわ
るいじゃないか。だから交換したんだよ。そうだよな、ワタナベ?﹂
﹁まあ、そうですね﹂と僕は言った。しかし本当のことを言えば、僕は
その美人じゃない子の方をけっこう気に入っていたのだ。話していて面白
かったし、性格もいい子だった。僕と彼女がセックスのあとベッドの中でわ
りに楽しく話をしていると、永沢さんが来てとりかえっこしようぜと言ったの
だ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあいいわよ、あなたたちそうしたいん
なら、と彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりたがっ
ていると思ったのだろう。
﹁楽しかった?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁交換のことですか?﹂
﹁そんな何やかやが﹂
﹁べつにとくに楽しくはないです﹂と僕は言った。﹁ただやるだけで
す。そんな風に女の子と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃない
です﹂
﹁じゃあ何故そんなことするの?﹂
﹁俺が誘うからだよ﹂と永沢さんが言った。
﹁私、ワタナベ君に質問してるのよ﹂とハツミさんはきっぱりと言っ
た。﹁どうしてそんなことするの?﹂
﹁ときどきすごく女の子と寝たくなるんです﹂と僕は言った。
﹁好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいかない
の?﹂とハツミさんは少し考えてから言った。
﹁複雑な事情があるんです﹂
ハツミさんはため息をついた。
そこでドアが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨のロ︱
ストが運ばれ、僕とハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。皿には温野菜
が盛られ、ソ︱スがかけられた。そして給仕人が引き下がり、我々はまた三
人きりになった。永沢さんは鴨をナイフで切ってうまそうに食べ、ウィスキ︱
を飲んだ。
僕はホウレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけなかっ
た。
﹁あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そうい
う種類のことはあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれ
ど、どうかしら?﹂とハツミさんは言った。彼女はテ︱ブルの上に手を置い
て、じっと僕の顔を見ていた。
﹁そうですね﹂と僕は言った。﹁自分でもときどきそう思います﹂
﹁じゃあ、どうしてやめないの?﹂
﹁ときどき温もりが欲しくなるんです﹂と僕は正直に言った。﹁そうい
う肌のぬくもりのようなものがないと、ときどきたまらなく淋しくなるんで
す﹂
﹁要約するとこういうことだと思うんだ﹂永沢さんが口をはさんだ。
﹁ワタナベには好きな女の子がいるんだけれどある事情があってやれな
い。だからセックスはセックスと割り切って他で処理するわけだよ。それで
かまわないじゃないか。話としてはまともだよ。部屋にこもってずっとマスタ
︱ベ︱ションやってるわけにもいかないだろう?﹂
﹁でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワタ
ナベ君?﹂
﹁そうかもしれないですね﹂と言って僕はクリ︱ム?ソ︱スのかかっ
た鱸の身を口に運んだ。
﹁君には男の性欲というものが理解できないんだ﹂と永沢さんがハ
ツミさんに言った。﹁たとえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあ
いだにけっこう他の女と寝てきた。でも俺はその女たちのことなんて何も覚
えてないよ。名前も知らない、顔も覚えない。誰とも一度しか寝ない。会っ
て、やって、別れる。それだけよ。それのどこがいけない?﹂
﹁私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ﹂とハツミさ
んは静かに言った。﹁他の女の人と寝る寝ないの問題じゃないの。私これ
まであなたの女遊びのことで真剣に怒ったこと一度もないでしょう?﹂
﹁あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲ︱ムだ。誰も傷つかな
い﹂と永沢さんは言った。
﹁私は傷ついてる﹂とハツミさん言った。﹁どうして私だけじゃ足りな
いの?﹂
永沢さんはしばらく黙ってウィスキ︱のグラスを振っていた。﹁足りな
いわけじゃない。それはまったく別のフェイスの話なんだ。俺の中には何か
しらそういうものを求める渇きのようなものがあるんだよ。そしてそれがもし
君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。決して君一人で足りないとかそ
ういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか生きていけない男
だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか﹂
ハツミさんはやっとナイフとフォ︱クを手にとって鱸を食べはじめた。
﹁でもあなたは少なくともワタナベ君をひきずりこむべきじゃないわ﹂
﹁俺とワタナベには似ているところがあるんだよ﹂と永沢さんは言っ
た。﹁ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持て
ない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考
え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持
てないんだよ。だから自分と他人をきりはなしてものを考えることができる。
俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそ
れがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするん
だ﹂
﹁迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ?﹂とハツミさん
は言った。﹁それともあなたは迷ったり傷ついたりしたことないって言う
の?﹂
﹁もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減するこ
とが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの少ない道
を選ぶようになる﹂
﹁でも鼠は恋をしないわ﹂
﹁鼠は恋をしない﹂と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方を見
た。﹁素敵だね。バックグランド?ミュ︱ジックがほしいね。オ︱ケストラに
ハ︱ブが二台入って︱︱﹂
﹁冗談にしないでよ。私、真剣なのよ﹂
﹁今は食事をしてるんだよ﹂と永沢さんは言った。﹁それにワタナベ
もいる。真剣に話をするのは別の機会にした方が礼儀にかなっていると思
うね﹂
﹁席を外しましょうか?﹂と僕は言った。
﹁ここにいてちょうだいよ。その方がいい﹂とハツミさんが言った。
﹁せっかく来たんだからデザ︱トも食べていけば﹂と永沢さんが言っ
た。
﹁僕はべつにかまいませんけど﹂
それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれいに食
べ、ハツミさんは半分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ終えて、またウィ
スキ︱を飲みつづけていた。
﹁鱸、けっこううまかったですよ﹂と僕は言ってみたが誰も返事をしな
かった。まるで深い竪穴に小石を投げ込んだみたいだった。
皿がさげられて、レモンのシャ︱ベットとエスプレッソ?コ︱ヒ︱が運
んできた。永沢さんはどちらにもちょっと手をつけただけで、すぐに煙草を
吸った。ハツミさんはレモンのシャ︱ベットにはまったく手をつけなかった。
やれやれと思いながら僕はシャ︱ベットをたいらげ、コ︱ヒ︱を飲んだ。ハ
ツミさんはテ︱ブルの上に揃えておいた自分の両手を眺めていた。ハツミ
さんの身につけた全てのものと同じように、その両手はとてもシックで上品
で高価そうだった。僕は直子とレイコさんのことを考えていた。彼女たちは
今頃何をしているんだろう?直子はソファ︱に寝転んで本を読み、レイコさ
んはギタ︱で﹃ノルウェイの森﹄を弾いているのかもしれないなと僕は思
った。僕は彼女たち二人のいるあの小さな部屋に戻りたいという激しい想
いに駆けられた。俺はいったいここで何をしているのだ?
﹁俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解して
ほしいと思っていないところなんだ﹂と永沢さんが言った。﹁そこが他の
連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人
間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナ
ベもそうじゃない。理解してもらわなくったってかまわないと思っているの
さ。自分は自分で、他人は他人だって﹂
﹁そうなの?﹂とハツミさんが僕に訊いた。
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。
誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思
う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、
まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。だ
から永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと思っているわ
けじゃありません﹂
﹁俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ﹂と永沢さんはコ︱ヒ︱?ス
プ︱ンを手にとって言った。﹁本当に同じことなんだよ。遅いめの朝飯と早
いめの昼飯の違いくらいしかないんだ。食べるものも同じで、食べる時間も
同じで、ただ呼び方がちがうんだ﹂
﹁永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思って
るの?﹂とハツミさんが訊いた。
﹁君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解する
のはしかるべき時期がきたからであって、その誰かが相手に理解してほし
いと望んだからではない﹂
﹁じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違った
ことなの?たとえばあなたに?﹂
﹁いや、べつに間違っていないよ﹂と永沢さんは答えた。﹁まともな
人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のシ
ステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ﹂
﹁でも私に恋してはいないのね?﹂
﹁だから君は僕のシステムを︱︱﹂
﹁システムなんてどうでもいいわよ!﹂とハツミさんがどなった。彼女
がどなったのを見たのはあとにも先にもこの一度きりだった。
永沢さんがテ︱ブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持って
やってきた。永沢さんはクレジット?カ︱ドを出して彼に渡した。
﹁悪かったな、ワタナベ、今日は﹂と彼は言った。﹁俺はハツミを送っ
ていくから、お前一人であとやってくれよ﹂
﹁いいですよ、僕は。食事はうまかったし﹂と僕は言ったが、それにつ
いては誰も何も言わなかった。
給仕人がカ︱ドを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボ︱ルペ
ンでサインをした。そして我々は席を立って店の外に出た。永沢さんが道路
に出てタクシ︱を停めるようとしたが、ハツミさんがそれを止めた。
﹁ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたくないの。
だから送ってくれないでいいわよ。ごちそさま﹂
﹁お好きに﹂と永沢さんは言った。
﹁ワタナベ君に送ってもらうわ﹂とハツミさんは言った。
﹁お好きに﹂と永沢さんは言った。﹁でもワタナベだって殆んど同じ
だよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはでき
ない。いつもどこか覚めていて、そしてただ乾きがあるだけなんだ。俺には
それがわかるんだ﹂
僕はタクシ︱を停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送りますよ
と永沢さんに言った。﹁悪いな﹂と彼は僕に謝ったが、頭の中ではもう全
然別のことを考えはじめているように見えた。
﹁どこに行きますか?恵比寿に戻りますか?﹂と僕はハツミさんに訊
いた。彼女のアパ︱トは恵比寿にあったからだ。ハツミさんは首を横に振っ
た。
﹁じゃあ、そこかで一杯飲みますか?﹂
﹁うん﹂と彼女は肯いた。
﹁渋谷﹂と僕は運転手に言った。
ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、タクシ︱の座席によりかかって
いた。金の小さなイヤリングが車のゆれにあわせてときどききらりと光った。
彼女のミッドナイト?ブル︱のワンピ︱スはまるでタクシ︱の片隅の闇にあ
わせてあつらえたように見えた。淡い色あいで塗られた彼女のかたちの良
い唇がまるで一人言を言いかけてやめたみたいに時折ぴくりと動いた。そ
んな姿を見ていると永沢さんがどうして彼女を特別な相手として選んだの
かわかるような気がした。ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、
そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただろう。し
かしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものが
あった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというの
ではない。彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心の
共震を呼ぶのだ。タクシ︱が渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女
が僕の心の中に引き起こすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考
えつづけていた。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなか
った。
僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのこ
とだった。僕はある画家をインタヴェ︱するためにニュ︱?メキシコ州サン
タ?フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ?ハウスに入ってビ︱ルを飲み
ピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。世界中のす
べてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテ︱ブルから、目につくもの何
から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような
鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのこ
とを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何で
あったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも
永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであった
のだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに
置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら
長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中
に長いあいだ眠っていた︿僕自身の一部﹀であったのだ。そしてそれに気
づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本
当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼女を救うべ
きだったのだ。
でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは
︱︱多くの僕の知りあいがそうしたように︱︱人生のある段階が来ると、
ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに
行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切っ
た。
彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボ
ンから僕に手紙を書いてきた。﹁ハツミの死によって何かが消えてしまっ
たし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも﹂僕はその
手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。

我々は小さなバ︱に入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさん
も殆んど口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向い
あわせに座って黙って酒を飲み、ピ︱ナッツをかじった。そのうちに店が混
みあってきたので、我々は外を少し散歩することにした。ハツミさんは自分
が勘定を払うと言ったが、僕は自分が誘ったのだからと言って払った。
外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは
淡いグレ︱のカ︱ディガンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横
を歩いていた。どこに行くというあてもなかったけれど、僕はズボンのポケッ
トに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を歩いた。まるで直子と歩いていた
ときみたいだな、と僕はふと思った。
﹁ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤ︱ドできるところ知らない?﹂
ハツミさんが突然そう言った。
﹁ビリヤ︱ド?﹂と僕はびっくりして言った。﹁ハツミさんがビリヤ︱ド
やるんですか?﹂
﹁ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう?﹂
﹁四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど﹂
﹁じゃ、行きましょう﹂
我々は近くでビリヤ︱ド屋をみつけて中に入った。路地のつきあたり
にある小さな店だった。シックなワンピ︱スを着たハツミさんとネイビ︱?ブ
ル︱のブレザ︱?コ︱トにレジメンタル?タイという格好の僕の組みあわせ
はビリヤ︱ド屋の中ではひどく目立ったが、ハツミさんはそんなことはあま
り気にせずにキュ︱を選び、チョ︱クでその先をキュッキュッとこすった。そ
してバッグから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔になら
ないようにした。
我々は四ツ玉のゲ︱ムを二回やったが、ハツミさんは自分でも言った
ようになかなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上
手く玉を撞くことができなかった。それでニゲ︱ムとも彼女が圧勝した。
﹁上手いですね﹂と僕は感心して言った。
﹁見かけによらず、でしょう?﹂とハツミさんは丁寧に玉の位置を測り
ながらにっこりとして言った。
﹁いったいどこで練習したんですか?﹂
﹁私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたの
よ。それでそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。少
し大きくなってからは祖父が正式な撞き方を教えてくれたし。良い人だった
な。スマ︱トでハンサムでね。もう死んじゃったけれど。昔ニュ︱ヨ︱クでデ
ィアナ?ダ︱ビンにあったことがあるっていうのが自慢だったわね﹂
彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得
点し、それからやさしいのを撞き損った。
﹁包帯してるせいよ﹂とハツミさんは慰めてくれた。
﹁長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないから﹂
﹁どうしてそんなにはっきり覚えてるの?﹂
﹁友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚
えてるんです﹂
﹁それでそれ以来ビリヤ︱ドやらなくなったの?﹂
﹁いや、とくにそういうわけではないんです﹂と僕は少し考えてからそ
う答えた。﹁ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。
それだけのことですよ﹂
﹁お友だちはどうして亡くなったの?﹂
﹁交通事故です﹂と僕は言った。
彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉
を撞くときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセットした髪をくる
りとうしろに回して金のイヤリングを光らせ、パンプスの位置をきちんと決
め、すらりと伸びた美しい指で台のフェルトを押えて玉を撞く様子を見てい
ると、うす汚いビリヤ︱ド場のそこの場所だけが何かしら立派な社交場の
一角であるように見えた。彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それ
は僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階
上にひっぱりあげられたような気がした。三ゲ︱ムを終えたところで︱︱も
ちろん三ゲ︱ムめも彼女が圧勝した︱︱僕の手の傷が少しうずきはじめ
たので我々はゲ︱ムを切りあげることにした。
﹁ごめんなさい。ビリヤ︱ドなんかに誘うんじゃなかったわね﹂とハツ
ミさんはとても悪そうに言った。
﹁いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すご
く﹂と僕は言った。
帰り際にビリヤ︱ド場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに
﹁お姐さん、良い筋してるわね﹂と言った。﹁ありがとう﹂とにっこり笑って
ハツミさんは言った。そして彼女がそこの勘定を払った。
﹁痛む?﹂と外に出てハツミさんが言った。
﹁それほど痛くはないです﹂と僕は言った。
﹁傷口開いちゃったかしら?﹂
﹁大丈夫ですよ、たぶん﹂
﹁どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるか
ら﹂とハツミさんが言った。﹁うち、ちゃんと包帯も消毒薬もあるし、すぐそ
こだから﹂
そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼
女の方は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いは
った。
﹁それとも私と一緒にいるの嫌?一刻も早く自分のお部屋に戻りた
い?﹂とハツミさんは冗談めかして言った。
﹁まさか﹂と僕は言った。
﹁じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだか
ら﹂
ハツミさんのアパ︱トは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい歩いた
ところにあった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパ︱トで、小さな
ロビ︱もあればエレベ︱タ︱もついていた。ハツミさんはその1DKの部屋
の台所のテ︱ブルに僕を座らせ、となりの部屋に行って服を着がえてき
た。プリンストン?ユニヴァシティ︱という文字の入ったヨットパ︱カ︱と綿
のズボンという格好で、金のイヤリングも消えていた。彼女はどこから救急
箱を持って来て、テ︱ブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていない
ことをたしかめてから、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおしてく
れた。とても手際がよかった。
﹁どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか?﹂と僕は訊いて
みた。
﹁昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事
のようなもの。そこで覚えたの﹂とハツミさんは言った。
包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビ︱ルを二本出してきた。
彼女が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にク
ラブの下級生の女の子たちが写った写真を見せてくれた。たしかに何人
か可愛い子がいた。
﹁もしガ︱ルフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっし
ゃい。すぐ紹介してあげるから﹂
﹁そうします﹂
﹁でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだ
なと思ってるでしょ、正直言って?﹂
﹁幾分﹂と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑
顔がとてもよく似合う人だった。
﹁ねえワタナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のこと?﹂
﹁どう思うって、何についてですか?﹂
﹁私どうすればいいのかしら、これから?﹂
﹁私が何を言っても始まらないでしょう﹂と僕はよく冷えたビ︱ル飲
みながら言った。
﹁いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて﹂
﹁僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまともな考え
方をする相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあ
の人とつきあって幸せになれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せに
なろうとか他人を幸せにしようとか、そんな風に考えて生きている人じゃな
いんだもの。一緒にいたら神経がおかしくなっちゃいますよ。僕から見れば
ハツミさんがあの人と三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もち
ろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところ
も沢山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さを
持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじゃないです。
あの人と話をしていると、時々自分が同じところを堂々めぐりしているような
気分になることがあるんです。彼の方は同じプロセスでどんどん上に進ん
で行ってるのに、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空し
くなるんです。要するにシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわ
かりますか?﹂
﹁よくわかるわ﹂とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビ︱ルを出
してくれた。
﹁それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国
外に行っちゃうわけでしょう?ハツミさんはどうするんですか?ずっと待って
るんですか?あの人、誰とも結婚する気なんかありませんよ﹂
﹁それもわかってるのよ﹂
﹁じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上﹂
﹁うん﹂とハツミさんは言った。
僕はグラスにゆっくりとビ︱ルを注いで飲んだ。
﹁さっきハツミさんとビリヤ︱ドやっててふと思ったんです﹂と僕は言
った。﹁つまりね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、
それで淋しいとか兄弟が欲しいと思ったことはなかったんです。一人でい
いやと思ってたんです。でもハツミさんとさっきビリヤ︱ドやってて、僕にも
あなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思ったんです。スマ︱
トでシックで、ミッドナイト?ブル︱のワンピ︱スと金のイヤリングがよく似合
って、ビリヤ︱ドが上手なお姉さんがね﹂
ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。﹁少なくともこの一年く
らいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉
しかったわ。本当よ﹂
﹁だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです﹂と
僕はちょっと赤くなって言った。﹁でも不思議ですね。あなたみたいな人な
ら誰とだって幸せになれそうに見えるのに、どうしてまたよりによって永沢
さんみたいな人とくっついちゃうんだろう?﹂
﹁そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしよ
うもないことなのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知
らんってことになるでしょうけれどね﹂
﹁そういうでしょうね﹂と僕は同意した。
﹁でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はど
っちかっていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなこと
どうだっていいの。結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれ
でいいのよ。それだけなの。私が求めているのはそれだけなのよ﹂
﹁彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ﹂
﹁でも人は変るわ。そうでしょう?﹂とハツミさんは言った。
﹁社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり……というこ
と?﹂
﹁そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってく
るかもしれないでしょう?﹂
﹁それは普通の人間の話です﹂と僕は言った。﹁普通の人間だった
らそういうのもあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像
を越えて意志の強い人だし、その上毎日毎日それを補強してるんです。そ
して何かに打たれればもっと強くなろうとする人なんです。他人にうしろを
見せるくらいならナメクジだって食べちゃうような人です。そんな人間にあ
なたはいったい何を期待するんですか?﹂
﹁でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ﹂とハツミさんは
テ︱ブルに頬杖をついて言った。
﹁そんなに永沢さんのこと好きなんですか?﹂
﹁好きよ﹂と彼女は即座に答えた。
﹁やれやれ﹂と僕は言ってため息をつき、ビ︱ルの残りを飲み干し
た。﹁それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいこ
となんでしょうね﹂
﹁私はただ馬鹿で古風なのよ﹂とハツミさんは言った。﹁ビ︱ルもっ
と飲む?﹂
﹁いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビ︱ルをどうもありが
とう﹂
僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめ
た。ハツミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見た。﹁おやすみ
なさい﹂と言って僕はドアを開けて外に出た。ドアをそっと閉めるときにハ
ツミさんが受話器をとっている姿がちらりと見えた。それが僕の見た彼女
の最後の姿だった。
寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋
に行ってドアをノックした。そして十回くらいノックしてから今日は土曜日の
夜だったことを思いだした。土曜日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まると
いう名目で毎週外泊許可をとっているのだ。
僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガ︱にかけて
パジャマに着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思
った。まるで四日に一回くらいのペ︱スで日曜日がやってきているような気
がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は二十歳になる。僕はベッドに
寝転んで壁にかかったカレンダ︱を眺め、暗い気持になった。

日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。
大きなカップでコ︱ヒ︱を飲み、マイルス?ディヴィスの古いレコ︱ドを聴き
ながら、長い手紙を書いた。窓の外には細い雨が降っていて、部屋の中は
水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱から出してきたばかりの厚手の
セ︱タ︱には防虫剤の匂いが残っていた。窓ガラスの上の方にはむくむく
と太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風
がないせいで元老院議員のト︱ガの裾みたいにくしゃっとボ︱ルに絡みつ
いたままびくりとも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そ
うな顔つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわ
っていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の匂いを嗅いでまわらねば
ならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。
僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでくるとそ
んな雨の中庭の風景をぼんやりと眺めた。
僕はまずレコ︱ド店で働いているときに手のひらを深く切ってしまった
ことを書き、土曜日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの
外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこが
どんな店で、どんな料理が出たかというのを説明した。料理はなかなかの
ものだったが、途中で雰囲気がいささかややこしいものになって云々と僕
は書いた。
僕はハツミさんとビリヤ︱ド場に行ったことに関連してキズキのことを
書こうかどうか少し迷ったが、結局書くことにした。書くべきだという気がし
たからだ。
﹁僕はあの日︱︱キズキが死んだ日︱︱彼が最後に撞いたボ︱ル
のことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必
要とするボ︱ルで、僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。で
も、たぶん何かの偶然によるものだとは思うのだけれど、そのショットは百
パ︱セントぴったりと決まって、緑のフェルトの上で白いボ︱ルと赤いボ︱
ルが音もたてないくらいそっとぶつかりあって、それが結局最終得点にな
ったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットで
した。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤ︱ドというものをやりませんでし
た。
でもハツミさんとビリヤ︱ドをやったその夜、僕は最初の一ゲ︱ムが
終るまでキズキのことを思い出しもしなかったし、そのことは僕としては少
なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっと、これから
はビリヤ︱ドをやるたびに彼を思い出すことになるだろうなという風に考え
ていたからです。でも僕は一ゲ︱ム終えて店内の自動販売機でペプシコ
︱ラを買って飲むまで、キズキのことを思い出しもしませんでした。どうして
そこでキズキのことを思い出したかというと、僕と彼がよく通ったビリヤ︱ド
屋にもやはりペプシの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゲ︱
ムをしたからです。
キズキのことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなんだか悪
いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見
捨ててしまったように感じられたのです。でもその夜部屋に戻って、こんな
風に考えました。あれからもう二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七
歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意
味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の
中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になって
いるくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だ
し、僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅
しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだ、
ということです。僕はそれ以上うまく説明できないけれど、君なら僕の感じ
たこと、言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと思います。
そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうと
いう気がします。
僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降って
います。雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないし、
したがってアイロンがけもできないからです。散歩もできなし、屋上に寝転
んでいることもできません。机の前に座って﹃カインド?オブ?ブル︱﹄を
オ︱トリピ︱トで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めてい
るくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはね
じを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もう
やめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら﹂

翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃった
んだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に
電話をかけてみようかとも思ったが、自分の方から連絡するからと彼女が
言っていたことを思い出してやめた。
その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事
をのせた盆を持って僕のとなりに座り、このあいだいろいろ済まなかったな
と謝まった。
﹁いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし﹂と僕は言った。
﹁まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど﹂
﹁まったくな﹂と彼は言った。
そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。
﹁ハツミとは仲なおりしたよ﹂と彼は言った。
﹁まあそうでしょうね﹂と僕は言った。
﹁お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど﹂
﹁どうしたんですか、反省するなんて?体の具合がわるいんじゃない
ですか?﹂
﹁そうかもしれないな﹂と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。﹁ところ
でお前、ハツミに俺と別れろって忠告したんだって?﹂
﹁あたり前でしょう﹂
﹁そうだな、まあ﹂
﹁あの人良い人ですよ﹂と僕は味噌汁を飲みながら言った。
﹁知ってるよ﹂と永沢さんはため息をついて言った。﹁俺にはいささ
か良すぎる﹂

電話かかかっていることを知らせるブザ︱が鳴ったとき、僕は死んだ
ようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたの
だ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠って
いるあいだに頭の中が水びたしになって脳がふやけてしまったような気分
だった。時計を見ると六時十五分だったが、それが午前か午後かわからな
かった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭の
ボ︱ルには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五
分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。
﹁ねえワタナベ君、今は暇?﹂と緑が訊いた。
﹁今日は何曜日だったかな?﹂
﹁金曜日﹂
﹁今は夕方だっけ?﹂
﹁あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん︱と、六時十八分﹂
やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転んで本を
読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日︱︱と僕は頭を
働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。﹁暇だよ。今どこにいる
の?﹂
﹁上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない?﹂
我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。
DUGに着いたとき、緑は既にカウンタ︱のいちばん端に座って酒を飲
んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステン?カラ︱?コ︱トの下
に黄色い薄いセ︱タ︱を着て、ブル︱ジ︱ンズをはいていた。そして手首
にはブレスレットを二本つけていた。
﹁何飲んでるの?﹂と僕は訊いた。
﹁トム?コリンズ﹂と緑は言った。
僕はウィスキ︱?ソ︱ダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置い
てあることに気づいた。
﹁旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ﹂と彼女は言っ
た。
﹁どこに行ったの?﹂
﹁奈良と青森﹂
﹁一度に?﹂と僕はびっくりして訊いた。
﹁まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったり
はしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行っ
て、青森は一人でぶらっと行ってきたの﹂
僕はウィスキ︱?ソ︱ダをひとくち飲み、緑のくわえたマルボロにマッ
チで火をつけてやった。﹁いろいろと大変だった?お葬式とか、そういう
の﹂
﹁お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な
顔して座ってれば、まわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親
戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたり、おすし取った
り、慰めてくれたり、泣いたり、騒いだり、好きに形見わけしたり、気楽なも
のよ。あんなのピクニックと同じよ。来る日も来る日も看病にあけくれてた
のに比べたら、ピクニックよ、もう。ぐったり疲れて涙も出やしないもの、お姉
さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本当に。でもそうするとね、ま
わりの人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せないってかげぐちきく
の。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけ
ど、絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待し
てるから、余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところ
すごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど﹂
緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイタ︱を呼び、トム?コリ
ンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。
﹁お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け方まで
日本酒を飲んだの、一升五合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっ
ぱしから言ったの。あいつはアホだ、クソだ、疥癬病みの犬だ、豚だ、偽善
者だ、盗っ人だって、そういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね﹂
﹁だろうね﹂
﹁そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわね
え。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃってね、ぐうぐう寝ち
ゃったわよ。目がさめて、二人でおすしとって食べて、それで相談して決め
たのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなことしようって。これまで二人でず
いぶん頑張ってやってきたんだもの、それくらいやったっていいじゃない。お
姉さんは彼と二人でのんびりするし、私も彼と二泊旅行くらいしてやりまく
ろうと思ったの﹂緑はそう言ってから少し口をつぐんで、耳のあたりをぼり
ぼりと掻いた。﹁ごめんなさい。言葉わるくて﹂
﹁いいよ。それで奈良に行ったんだ﹂
﹁そう。奈良って昔から好きなの﹂
﹁それでやりまくったの?﹂
﹁一度もやらなかった﹂と彼女は言ってため息をついた。﹁ホテルに
着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったの、どっ
と﹂
僕は思わず笑ってしまった。
﹁笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃ
うわよ、まったく。たぶんいろいろと緊張したんで、それで狂っちゃったのね。
彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方
ないじゃない、私だってなりたくてなったわけじゃないし。それにね、私けっ
こう重い方なのよ、あれ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃう
の。だからそういうとき私と会わないで﹂
﹁そうしたいけれど、どうすればわかるかな?﹂と僕は訊いた。
﹁じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。それで
かわるんじゃない?﹂と緑は笑って言った。﹁私が赤い帽子をかぶってた
ら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ﹂
﹁いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに﹂と僕
は言った。﹁それで奈良で何してたの?﹂
﹁仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきたわ。散々
よ、もう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻って
きてニ、三日ぶらぶらして、それから今度は一人で気楽に旅行しようと思っ
て青森に行ったの。弘前に友だちがいて、そこでニ日ほど泊めてもらって、
そのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよ、すごく。私あのへんの
地図の解説書書いたことあるのよ、一度。あなた行ったことある?﹂
ない、と僕は言った。
﹁それでね﹂と言ってから緑はトム?コリンズをすすり、ピスタチオの
殻をむいた。﹁一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだし
ていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの﹂
﹁どうして?﹂
﹁どうして?﹂と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。
﹁どうしてって、どういうことよ、それ?﹂
﹁つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ﹂
﹁あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由
があるっていうのよ?いったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたい
と思うのよ?﹂
﹁だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてないじゃな
いか?﹂と僕はウィスキ︱?ソ︱ダをゆっくり飲みながら言った。
﹁恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ?﹂
﹁いや、べつにそういう意味じゃなくて︱︱﹂
﹁あのね、ワタナベ君﹂と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。
﹁警告しておくけど、今私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何やかやが絡み
あって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言
わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしちゃうし、一度泣きだすと一
晩泣いちゃうわよ。それでもいいの?私はね、あたりかまわず獣のように泣
くわよ。本当よ﹂
僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。ウィスキ︱?ソ︱ダの二杯
目を注文し、ピスタチオを食べた。シェ︱カが振られたり、グラスが触れ合
ったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ?ヴ
ォ︱ンが古いラブ?ソングを唄っていた。
﹁だいたいタンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だった
の﹂と緑は言った。
﹁タンポン事件?﹂
﹁うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの五、六人くらいでお酒
飲んでてね、私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタン
ポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょう?﹂
﹁おかしい﹂と僕は笑って同意した。
﹁みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下
品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって﹂
﹁ふむ﹂と僕は言った。
﹁良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの﹂と緑は言った。﹁たと
えば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わない、そういう
の?﹂
﹁う︱ん、でもそういうのは好みの問題だから﹂と僕は言った。僕とし
てはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったが、それは口
に出さないことにした。
﹁あなたの方は何してたの?﹂
﹁何もないよ。ずっと同じだよ﹂それから僕は約束どおり緑のことを
考えてマスタ︱ペ︱ションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえ
ないように小声で緑にそのことを話した。
緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。﹁どうだった?上手く行っ
た?﹂
﹁途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ﹂
﹁立たなくなっちゃったの?﹂
﹁まあね﹂
﹁駄目ねえ﹂と緑は横目で僕を見ながら言った。﹁恥ずかしがったり
しちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ね、私がいいって言う
からいいんじゃない。そうだ、今度電話で言ってあげるわよ。ああ……そこ
いい……すごく感じる……駄目、私、いっちゃう……ああ、そんなことしちゃ
いやっ……とかそういうの。それを聞きながらあなたがやるの﹂
﹁寮の電話は玄関わきのロビ︱にあってね、みんなそこの前を通って
出入りするだよ﹂と僕は説明した。﹁そんなところでマスタ︱ペ︱ションし
てたら寮長に叩き殺されるね、まず間違いなく﹂
﹁そうか、それは弱ったわね﹂
﹁弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみるから﹂
﹁頑張ってね﹂
﹁うん﹂
﹁私ってあまりセクシ︱じゃないのかな、存在そのものが?﹂
﹁いや、そういう問題じゃないんだ﹂と僕は言った。﹁なんていうか
な、立場の問題なんだよね﹂
﹁私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると﹂
﹁気をつけるよ﹂
﹁ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいやらしい
SM﹂と緑は言った。
僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうらさびれ
た映画館に入って、成人映画三本立てを見た。新聞を買って調べるとそこ
でしかSMものをやっていなかったからだ。わけのわからない臭いのする映
画館だった。うまい具合に我々が映画館に入ったときにそのSMものが始ま
った。OLのお姉さんと高校生の妹が何人かの男たちにつかまってどこか
に監禁され、サディスティックにいたぶられる話だった。男たちは妹をレイプ
するぞと脅してお姉さんに散々ひどいことをさせるのだが、そうこうするうち
にお姉さんは完全なマゾになり、妹の方はそういうのを目の前で逐一見せ
られているうちに頭がおかしくなってしまうという筋だった。雰囲気がやた
ら屈折して暗い上に同じようなことばかりやっているので、僕は途中でいさ
さか退屈してしまった。
﹁私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっとじっと
見てる﹂と緑は僕に言った。
﹁だろうね﹂と僕は言った。
﹁でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃオッパイが黒ずんで
ると思わない?﹂
﹁たしかに﹂
彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい
一所懸命見るなら入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感
心した。そして緑は何か思いつくたびに僕にそれを報告した。
﹁ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ﹂とか、﹁ひどいわ。三人
も一度にやられたりしたら壊れちゃうわよ﹂とか、﹁ねえワタナベ君。私、あ
あいうの誰かにちょっとやってみたい﹂とか、そんなことだ。僕は映画を見
ているより、彼女を見ている方がずっと面白かった。
休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、緑の他には女の
客はいないようだった。近くに座っていた学生風の若い男は緑の顔を見
て、ずっと遠くの席に移ってしまった。
﹁ねえワタナベ君?﹂と緑が訊ねた。﹁こういうの見てると立っちゃ
う?﹂
﹁まあ、そりゃときどきね﹂と僕は言った。﹁この映画って、そういう目
的のために作られているわけだから﹂
﹁それでそういうシ︱ンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピ
ンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって
考えるとちょっと不思議な気しない?﹂
そう言われればそうだな、と僕は言った。
二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりも
っと退屈だった。やたら口唇性愛の多い映画で、フェラチオやクンニリング
スやシックスティ︱?ナインをやるたびにぺちゃぺちゃとかくちゃくちゃとか
いう擬音が大きな音で館内に響きわたった。そういう音を聞いていると、僕
は自分がこの奇妙な惑星の上で生を送っていることに対して何かしら不
思議な感動を覚えた。
﹁誰がああいう音を思いつくんだろうね﹂と僕は緑に言った。
﹁あの音大好きよ、私﹂
ペニスがヴァギナに入って往復する音というのもあった。そんな音が
あるなんて僕はそれまで気づきもしなかった。男がはあはあと息をし、女が
あえぎ、﹁いいわ﹂とか﹁もっと﹂とか、そういうわりにありふれた言葉を
口にした。ベッドがきしむ音も聞こえた。そういうシ︱ンがけっこう延々とつ
づいた。緑は最初のうち面白がって見ていたが、そのうちにさすがに飽きた
らしく、もう出ようと言った。僕らは立ち上がって外に出て深呼吸した。新宿
の町の空気がすがすがしく感じられたのはそれが初めてだった。
﹁楽しかった﹂と緑は言った。﹁また今度行きましょうね﹂
﹁何度見たって同じようなことしかやらないよ﹂と僕は言った。
﹁仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやってるんだも
の﹂
そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。
それから僕らはまたどこかのバ︱に入ってお酒を飲んだ。僕はウィス
キ︱を飲み、緑はわけのわからないカクテルを三、四杯飲んだ。店を出ると
木のぼりしたいと緑が言いだした。
﹁このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ木にな
んてのぼれないよ﹂と僕は言った。
﹁あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるのね。酔払
いたいから酔払ってるのよ。それでいいんじゃない。酔払ったって木のぼり
くらいできるわよ。ふん。高い高い木の上にのぼっててっぺんから蝉みたい
におしっこしてみんなにひっかけてやるの﹂
﹁ひょっとして君、トイレに行きたいの?﹂
﹁そう﹂
僕は新宿駅の有料トイレまで緑をつれていって小銭を払って中に入
れ、売店で夕刊を買ってそれを読みながら彼女が出てくるのを待った。でも
緑はなかなか出てこなかった。十五分たって、僕が心配になってちょっと様
子を見に行ってみようかと思う頃にやっと彼女が外に出てきた。顔色はいく
ぶん白っぽくなっていた。
﹁ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの﹂と緑は言った。
﹁気分はどう?﹂と僕はコ︱トを着せてやりながら訊ねた。
﹁あまり良くない﹂
﹁家まで送るよ﹂と僕は言った。﹁家に帰ってゆっくり風呂にでも入
って寝ちゃうといいよ。疲れてるんだ﹂
﹁家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなとこ
ろで一人で寝たくなんかないもの﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。﹁じゃあどうするんだよ?﹂
﹁このへんのラブ?ホテルに入って、あなたと二人で抱きあって眠る
の。朝までぐっすりと。そして朝になったらどこかそのへんでごはん食べて、
二人で一緒に学校に行くの﹂
﹁はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの?﹂
﹁もちろんよ﹂
﹁そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考えたってそ
れがまともじゃないか。恋人なんてそのためにいるんだ﹂
﹁でも私、あなたと一緒いたいのよ﹂
﹁そんなことはできない﹂と僕はきっぱりと言った。﹁まず第一に僕
は十二時までに寮に戻らないといけないんだ。そうしないと無断外泊にな
る。前に一回やってすごく面倒なことになったんだ。第二に僕だって女の子
と寝れば当然やりたくなるし、そういうの我慢して悶々とするのは嫌だ。本
当に無理にやっちゃうかもしれないよ。﹂
﹁私のことぶって縛ってうしろから犯すの?﹂
﹁あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの﹂
﹁でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなたには悪い
と思うわよ。何も与えないでいろんなこと要求ばかりして。好き放題言った
り、呼びだしたり、ひっぱりまわしたり、でもね、私がそういうことのできる相
手ってあなたしかしないのよ。これまでの二十年間の人生で、私ただの一
度もわかままきいてもらったことないのよ。お父さんもお母さんも全然とり
あってくれなかったし、彼だってそういうタイプじゃないのよ。私がわがまま
言うと怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのってあなたにしか言
えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛いとかきれい
だとか言われながら眠りたいの。ただそれだけなの。目がさめたらすっかり
元気になって、二度とこんな身勝手なことあなたに要求しないから。絶対。
すごく良い子にしてるから﹂
﹁そう言われても困るんだよ﹂と僕は言った。
﹁お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして
最初に声かけてきた人と寝ちゃうわよ﹂
僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼んでもらっ
た。そして僕が帰寮しているように操作してもらえないだろうかと頼んでみ
た。ちょっと女の子と一緒なんですよ、と僕は言った。いいよ、そういうことな
ら喜んで力になろうと彼は言った。
﹁名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆっくり
やってこいよ。明日の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃいい﹂と彼は言っ
た。
﹁どうもすみません。恩に着ます﹂と僕は言って電話を切った。
﹁うまく行った?﹂と緑は訊いた。
﹁まあ、なんとか﹂と僕は深いため息をついた。
﹁じゃあまだ時間も早いことだし、ディスコでも行こう﹂
﹁君疲れてるんじゃなかったの?﹂
﹁こういうのなら全然大丈夫なの﹂
﹁やれやれ﹂と僕は言った。
たしかにディスコに入って踊っているうちに緑は少しずつ元気を回復
してきたようだった。そしてウィスキ︱?コ︱クを二杯飲んで、額に汗をかく
までフロアで踊った。
﹁すごく楽しい﹂と緑はテ︱ブル席でひと息ついて言った。﹁こんな
に踊ったの久しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみた
い﹂
﹁君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね﹂
﹁あら、そんなことないのよ﹂と彼女はにっこりと首をかしげて言っ
た。﹁それはそうと元気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツァでも食
べに行かない?﹂
僕がよく行くピツァ?ハウスに彼女をつれていって生ビ︱ルとアンチョ
ビのピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピ︱
スのうち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。
﹁ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらしてたの
に﹂と僕はあきれて言った。
﹁わがままが聞き届けられたからよ﹂と緑は言った。﹁それでつっか
えがとれちゃったの。でもこのピツァおいしいわね﹂
﹁ねえ、本当に君の家、今誰もいないの?﹂
﹁うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってていないわ
よ。彼女ものすごい怖がりだから、私がいないとき独りで家で寝たりできな
いの﹂
﹁ラブ?ホテルなんて行くのはやめよう﹂と僕は言った。﹁あんなとこ
ろ行ったって空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶ
んの布団くらいあるだろう?﹂
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。﹁いいわよ。家に泊ろう﹂と彼
女は言った。
僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のシャッタ︱を上げ
た。シャッタ︱には﹁休業中﹂の紙が貼ってあった。シャッタ︱は長いあい
だ開けられたことがなかったらしく、暗い店内には古びた紙の匂いが漂っ
ていた。棚の半分は空っぽで、雑誌は殆んど全部返品用に紐でくくられて
いた。最初に見たときより店内はもっとがらんとして寒々しかった。まるで海
岸打ち捨てられた廃船のように見えた。
﹁もう店をやるつもりはないの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁売ることにしたのよ﹂と緑はぽつんと言った。﹁お店売って、私とお
姉さんとでそのお金をわけるの。そしてこれからは誰に保護されることもな
く身ひとつで生きていくの。お姉さんは来年結婚して、私はあと三年ちょっ
と大学に通うの。まあそれくらいのお金にはなるでしょう。アルバイトもする
し。店が売れたらどこかにアパ︱トを借りてお姉さんと二人でしばらく暮す
わ﹂
﹁店は売れそうなの?﹂
﹁たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がいて、少し
前からここを売らないかって話があったの﹂と緑は言った。﹁でも可哀そう
なお父さん。あんなに一所懸命働いて、店を手に入れて、借金を少しずつ
返して、そのあげく結局は殆んど何も残らなかったのね。まるであぶくみた
いい消えちゃったのね﹂
﹁君が残ってる﹂と僕は言った。
﹁私?﹂と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸って吐き
だした。﹁もう上に行きましょう。ここ寒いわ﹂
二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ
僕はやかんにお湯をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑
は食卓で向いあってお茶を飲んだ。彼女は頬杖をついてしばらくじっと僕
の顔を見ていた。時計のコツコツという音と冷蔵庫のサ︱モスタットが入っ
たり切れたりする音の他には何も聞こえなかった。時計はもう十二時近く
を指していた。
﹁ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね﹂と緑は言っ
た。
﹁そうかな﹂と僕は少し傷ついて言った。
﹁私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく見ている
とだんだんまあこの人でもいいやって気がしてくるのね﹂
﹁僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって﹂
﹁ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表
わすことができないのよ。だからしょっちょう誤解されるの。私が言いたい
のは、あなたのことが好きだってこと。これさっき言ったかしら?﹂
﹁言った﹂と僕は言った。
﹁つまり私も少しずつ男の人のことを学んでいるの﹂
緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。﹁最初がゼロだといろい
ろ学ぶこと多いわね﹂
﹁だろうね﹂と僕は言った。
﹁あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる?﹂と緑が言った。僕は
彼女のあとをついて仏壇のある部屋に行って、お線香をあげて手をあわせ
た。
﹁私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部
脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これ
オッパイよ、これオマンコよって﹂と緑は言った。
﹁なんでまた?﹂といささか唖然として質問した。
﹁なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分は
お父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘
ですよって。まあいささか酔払っていたせいはあるけれど﹂
﹁ふむ﹂
﹁お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの遺影の
前で裸になって股広げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよね﹂
﹁まあ、そうだろうね﹂
﹁それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなのよ、だから
モモちゃんも私の隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見せてあげようっ
て。でも彼女やんなかったわ。あきれて向うに行っちゃったの。そういうとこ
ろすごく保守的なの﹂
﹁比較的まともなんだよ﹂と僕は言った。
﹁ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った?﹂
﹁僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になって
も苦痛は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし﹂
﹁どんな話したの?﹂
﹁エウリビデス﹂
緑はすごく楽しそうに笑った。﹁あなたって変ってるわねえ。死にかけ
て苦しんでいる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっと
いないわよ﹂
﹁お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない﹂と僕は
言った。
緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をち︱んと鳴らした。﹁お父さん、お
やすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくない
でしょ?もう死んじゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら
神様に文句言いなさいね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天
国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちん
ちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ﹂
我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少し
だけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、
何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてく
れた。
﹁仏壇の前だけど怖くない?﹂と緑は訊いた。
﹁怖かないよ。何も悪いことしてないもの﹂僕は笑って言った。
﹁でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?﹂
﹁いいよ﹂
僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりなが
ら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手
を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつか
んで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもい
えない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪がときどき僕
の鼻をむずむずさせた。
﹁ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ﹂と緑が僕の胸に顔を埋めたまま
言った。
﹁どんなこと?﹂
﹁なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと﹂
﹁すごく可愛いよ﹂
﹁ミドリ﹂と彼女は言った。﹁名前をつけて言って﹂
﹁すごく可愛いよ、ミドリ﹂と僕は言いなおした。
﹁すごくってどれくらい?﹂
﹁山が崩れて海が干上がるくらい可愛い﹂
緑は顔を上げて僕を見た。﹁あなたって表現がユニ︱クねえ﹂
﹁君にそう言われると心が和むね﹂と僕は笑って言った。
﹁もっと素敵なこと言って﹂
﹁君が大好きよ、ミドリ﹂
﹁どれくらい好き?﹂
﹁春の熊くらい好きだよ﹂
﹁春の熊?﹂と緑はまた頭を上げた。﹁それ何よ、春の熊って?﹂
﹁春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロ︱ドみないな
毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言
うんだよ。﹃今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか﹄って言う
んだ。そして君と子熊で抱きあってクロ︱バ︱の茂った丘の斜面をころころ
と転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?﹂
﹁すごく素敵﹂
﹁それくらい君のことが好きだ﹂
緑は僕の胸にしっかり抱きついた。﹁最高﹂と彼女は言った。﹁そん
なに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよ
ね?﹂
﹁もちろん﹂
﹁それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね﹂
﹁もちろん﹂と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男
の子のような髪を撫でた。﹁大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ﹂
﹁でも怖いのよ、私﹂と緑は言った。
僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下し
はじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行
ってビ︱ルを一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと
思ったが、見まわしたところ本らしきものは一冊として見あたらなかった。
緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがばたばたとして
彼女を起こしたくなかったのでやめた。
しばらくぼんやりとビ︱ルを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なの
だ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探して
みた。読みたいと思うようなものは少なく、その大半は既に読んだことのあ
るものだった。しかしとにかく何か読むものは必要だったので、長いあいだ
売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマン?ヘッセの﹃車輪の下﹄
を選び、その分の金をレジスタ︱のわきに置いた。少くともこれで小林書店
の在庫は少し減ったことになる。
僕はビ︱ルを飲みながら、台所のテ︱ブルに向って﹃車輪の下﹄を
読みつづけた。最初に﹃車輪の下﹄を読んだのは中学校に入った年だっ
た。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ
父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけ
だ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれ
なかったら、僕は﹃車輪の下﹄なんてまず読みかえさなかっただろう。
でも﹃車輪の下﹄はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小
説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小
説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディ︱
が一本あったので、それを少しコ︱ヒ︱?カップに注いで飲んだ。ブラディ
︱は体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。
三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れ
ていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光
が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向
けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに
身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだった。父
親そっくりの眠り方だなと僕は思った。
ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコ︱トが椅子の背に
かけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌ︱ピ︱の
カレンダ︱がかかっていた。僕は窓のカ︱テンを少し開けて、人気のない
商店街を見下ろした。どの店もシャッタ︱を閉ざし、酒屋の前に並んだ自
動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。長距離
トラックのタイヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。
僕は台所に戻ってブラディ︱をもう一杯飲み、そして﹃車輪の下﹄を読み
つづけた。
その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯
をわかしてインスタント?コ︱ヒ︱を飲み、テ︱ブルの上にあったメモ用紙
にボ︱ルペンで手紙を書いた。ブラディ︱をいくらかもらった、﹃車輪の
下﹄を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、と僕は書いた。そして少し迷
ってから、﹁眠っているときの君はとても可愛い﹂と書いた。それから僕は
コ︱ヒ︱?カップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシ
ャッタ︱を上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃな
いかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。
例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は
緑の部屋の淡いピンクのカ︱テンのかかった窓を少し見上げてから都電
の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定
食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けもの
と玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の
窓を小さくノックした。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の
部屋に入った。
﹁コ︱ヒ︱でも飲むか?﹂と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そ
して礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布
団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉
のような眠りがやってきた。

僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほ
ど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきた
と手紙にはあった。
﹁あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが
同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になっ
たのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、し
ばらくわかりませんでした。レイコさんとよくあなたの話をします。彼女から
もあなたにくれぐれもよろしくということです。レイコさんは相変わらず私に
とても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生
活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは
良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いもの
です。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきま
す。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しか
けてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。
あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。
ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外か
ら入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてき
てくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれま
す。不思議ですね。どうしてでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさ
んも同じように何度か読みます。そしてその内容について二人で話しあっ
たりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて私と
ても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽
のひとつとして︱︱手紙は娯楽なのです、ここでは︱︱楽しみにしていま
す。
私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、
便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手
紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコ
さんに叱られたからです。でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対し
て話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただそれをうまく文
章にすることができないのです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。
ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼
女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言
ったら、﹃あたり前じゃない、私だってワタナベ君のこと好きよ﹄ということ
でした。私たちは毎日キノコをとったり栗を拾ったりして食べています。栗ご
はん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽き
ません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけてい
ます。鳥もウサギも元気です。さよなら﹂

僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送
られてきた。中には葡萄色の丸首のセ︱タ︱と手紙が入っていた。
﹁お誕生日おめでとう﹂と直子は書いていた。﹁あなたの二十歳が
幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもの
のまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せ
になってくれると嬉しいです。これ本当よ。このセ︱タ︱は私とレイコさんが
半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレンタイン?デ
︱までかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私
です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると
時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢でき
ることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で﹂
レイコさんからの短いメッセ︱ジも入っていた。
﹁元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私
にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか
間にあうようにセ︱タ︱は仕上げました。どう、素敵でしょう?色とかたちは
二人で決めました。誕生日おめでとう﹂

一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさ
せる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いね
ばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら
歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い
色をしたぬかるみが続いているだけだった。
時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの
人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中
をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしてい
た。ジョン?コルトレ︱ンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変
革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそん
な出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕
は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に
映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上
げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正し
い方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけに
はいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。
僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化
らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバ
イトをし、時折﹃グレ︱ト?ギャツピイ﹄を読みかえし、日曜日が来ると洗濯
をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物
園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話はうまく進み、彼
女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに2DKのアパ︱トを借りて二人
で住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパ︱トを
借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせ
てもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパ︱トで、緑も小林書店にいるとき
よりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。
永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用
事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の
子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を
探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思うと僕はいささかうんざり
した。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすることも飽きること
もない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言
われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子
と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。
草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何
よりも鮮明に残っていた。
僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに
行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来て
くれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今
あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書いています。でもとくに彼
女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないように。波のよう
なものがあるだけです。
大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都ま
で出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴
らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二
泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさん
がギタ︱を弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々
は三人でクロス?カントリ︱?スキ︱をした。スキ︱をはいて一時間も山の
中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪か
きをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の
夕食のテ︱ブルにやってきて﹁どうして手の中指は人さし指より長く、足の
方は逆なのか﹂について教えてくれた。門番の大村さんはまた東京の豚
肉の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていたレコ︱ドをとても
喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてギタ︱で弾いた。
秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると
彼女は殆んど口をきかないでソファ︱に座ってにこにこと微笑んでいるだ
けだった。そのぶんレイコさんがしゃべった。﹁でも気にしないで﹂と直子
は言った。﹁今こういう時期なの。しゃべるより、あなたたちの話を聞いてる
方がずっと楽しいの﹂
レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッド
で抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同
じように指で僕を導いてくれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きな
がら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そし
て君のことを考えながらマスタ︱ペ︱ションしてた、と。
﹁他の誰とも寝なかったの?﹂と直子が訪ねた。
﹁寝なかったよ﹂と僕は言った。
﹁じゃあ、これも覚えていてね﹂と彼女は言って体を下にずらし、僕の
ペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直
子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさ
らさらと揺れた。そして僕は二度めの射精をした。
﹁覚えていられる?﹂とそのあとで直子が僕に訊ねた。
﹁もちろん、ずっと覚えているよ﹂と僕は言った。僕は直子を抱き寄
せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直
子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっ
ていた。
﹁この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ﹂
と僕は言った。﹁寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトす
れば生活費の方はなんとかなると思うし。それで、もしよかったら二人で暮
らさないか?前にも言ったように﹂
﹁ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ﹂と直子は言っ
た。
﹁ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶん
ないし、レイコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるに
はこの場所はちょっと特殊すぎる。長くいればいるほどここから出にくくなっ
てくると思うんだ﹂
直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見
えなかった。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあ
いだにはほんの少しの空間しかあいていなかった。
﹁ゆっくり考えればいいよ﹂と僕は言った。﹁いずれにせよ僕は三月
までには引越すから、君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいい
から来ればいいよ﹂
直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときのように
両腕で直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸
で、彼女は小さな白い下着だけを身に着けていた。彼女の体は美しく、どれ
だけ見ていても見飽きなかった。
﹁どうして私濡れないのかしら?﹂と直子は小さな声で言った。﹁私
がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕
生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?﹂
﹁それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせること
ないさ﹂
﹁私の問題は全部精神的なものよ﹂と直子は言った。﹁もし私が一
生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと
私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それとも
セックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?﹂
﹁僕は本質的に楽天的な人間なんだよ﹂と僕は言った。
直子はベッドの上で身を起こして、Tシャツを頭からかぶり、フランネル
のシャツを着て、ブル︱ジ︱ンズをはいた。僕も服を着た。
﹁ゆっくり考えさせてね﹂と直子は言った。﹁それからあなたもゆっく
り考えてね﹂
﹁考えるよ﹂と僕は言った。﹁それから君のフェラチオすごかった
よ﹂
直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。﹁キズキ君もそう言ってた
わ﹂
﹁僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ﹂と僕は言って、
そして笑った。
そして我々は台所でテ︱ブルをはさんで、コ︱ヒ︱を飲みながら昔の
話をした。彼女は少しずつキズキの話ができるようになっていた。ぽつりぽ
つりと言葉を選びながら、彼女は話した。雪は降ったりやんだりしていた
が、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三月に来られると思う、と僕は
別れ際に言った。そしてぶ厚いコ︱トの上から彼女を抱いて、口づけした。
さよなら、と直子が言った。

一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完
全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年
末のテストがあって、僕は比較的楽にそれをパスした。他にやることもなく
て殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特別な勉強をしなくても試験
をパスするくらい簡単なことだった。
寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動している連中
が寮内にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで寮長子飼いの体
育会系の学生たちとこぜりあいがあり、二人が怪我をして六人が寮を追い
出された。その事件はかなりあとまで尾をひいて、毎日のようにどこかで小
さな喧嘩があった。寮内にはずっと重苦しい空気が漂っていて、みんなが
ピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体育会系の連中に殴られそうに
なったが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせ
よ、この寮を出る頃合だった。
試験が一段落すると僕は真剣にアパ︱トを探しはじめた。そして一週
間かけてやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいさ
さか悪かったが、ありがたいことには一軒家だった。まあ掘りだしものと言
ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか庭番小屋のようにそれはぽ
つんと建っていて、母屋とのあいだにはかなり荒れた庭が広がっていた。
家主は表口を使い、僕は裏口を使うからプライヴァシ︱を守ることもでき
た。一部屋と小さなキッチンと便所、それに常識ではちょっと考えられない
くらい広い押入れがついていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかし
たら孫が東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくのは条件
で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の好さそ
うな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさいと言っ
てくれた。
引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラックを借り
てきて僕の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫とTVと大型の魔法瓶をプレゼ
ントしてくれた。僕にとってはありがたいプレゼントだった。その二日後に彼
も寮を出て三田のアパ︱トに引越すことになっていた。
﹁まあ当分会うこともないと思うけど元気でな﹂と別れ際に彼は言っ
た。﹁でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に
会いそうな気がするんだ﹂
﹁楽しみにしてますよ﹂と僕は言った。
﹁ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方
が良かった﹂
﹁同感ですね﹂と僕は笑って言った。﹁でも永沢さん、ハツミさんのこ
と大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人
見かけより傷つきやすいから﹂
﹁うん、それは知ってるよ﹂と彼は肯いた。﹁だから本当を言えばだ
な、俺のあとをワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前
とハツミならうまくいくと思うし﹂
﹁冗談じゃないですよ﹂と僕は唖然として言った。
﹁冗談だよ﹂と永沢さんは言った。﹁ま、幸せになれよ。いろいろとあ
りそうだけれど、お前も
相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していい
かな、俺から﹂
﹁いいですよ﹂
﹁自分に同情するな﹂と彼は言った。﹁自分に同情するのは下劣な
人間のやることだ﹂
﹁覚えておきましょう﹂と僕は言った。そして我々は握手をして別れ
た。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。

引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書
き、寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑に
まきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくてホッとする。ここで新しい
気分で新しい生活を始めようと思っている。
﹁窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として
使われています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めていま
す。いったい何匹いるのかわからないけれど、とにかく沢山の数の猫がい
ます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをしています。彼らとしては僕
がここの離れに住むようになったことはあまり気に入らないようですが、古
いチ︱ズをおいてやると何匹かは近くに寄ってきておそるおそる食べまし
た。そのうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ち
ぎれた縞の雄猫がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっく
りするくらいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかと
いう気がするくらいです。
大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講
義もずっと少なくなるし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっ
くり本を読めるからかえって良いかもしれません。あとは吉祥寺の近辺で
週三、四日のそれほどきつくないアルバイトの口を探すだけです。そうすれ
ばまた毎日ねじを巻く生活に戻ることができます。
僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何か
を新しく始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住む
ことができるとしたら、それがいちばん良いじゃないかなという気がします。
うまくいけば君も大学に復学できるし。一緒に住むのに問題があるとしたら
この近くで君のためにアパ︱トを探すことも可能です。いちばん大事なこと
は我々がいつもすぐ近くにいることができるということです。もちろんとくに
春という季節にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、
夏でオ︱ケ︱です。問題はありません。それについて君がどう思っている
か、返事をくれませんか?
僕はこれから少しまとめてアルバイトをしようかと思っています。引越
しの費用を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金が
かかります。鍋やら食器やらも買い揃えなくちゃなりませんしね。でも三月
になれば暇になるし、是非君に会いに行きたい。都合の良い日を教えてく
れませんか。その日にあわせて京都に行こうと思います。君に会えることを
楽しみにして返事を待っています﹂
それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃え、家で
簡単な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って切断してもら
い、それで勉強机を作った。食事もとりあえずはそこで食べることにした。棚
も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半年くらいの雌の白猫は僕になつ
いて、うちでごはんを食べるようになった。僕はその猫に﹁かもめ﹂という
名前をつけた。
一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイトを
見つけ二週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料は良かった
が大変な労働だったし、シンナ︱で頭がくらくらした。仕事が終ると一膳飯
屋で夕食を食べてビ︱ルを飲み家に帰って猫と遊び、あとは死んだように
眠った。二週間経っても直子からの返事は来なかった。
僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみ
れば僕はもう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知ら
せていなかったのだ。そろそろ引越ししようかと思うんだと僕が言って、そう
と彼女が言ってそれっきりなのだ。
僕は公衆電話に入って緑のアパ︱トの番号をまわした。お姉さんらし
い人が出て僕が名前を告げると﹁ちょっと待ってね﹂と言った。しかしいく
ら待っても緑は出てこなかった。
﹁あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだっ
て﹂とお姉さんらしい人が言った。﹁引越すときあなたあの子に何の連絡
もしなかったでしょう?行き先も教えずにぷいといなくなっちゃって、そのま
までしょ。それでかんかんに怒ってるのよ。あの子一度怒っちゃうとなかな
かもとに戻らないの。動物と同じだから﹂
﹁説明するから出してもらえませんか﹂
﹁説明なんか聞きたくないんだって﹂
﹁じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えてもらえま
せんか、緑さんに﹂
﹁嫌よ、そんなの﹂とお姉さんらしい人は突き放すように言った。﹁そ
ういうことは自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ?自分で責任持ってち
ゃんとやんなさい﹂
仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理
はないと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働
に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子
のことだって殆んど思い出しもしなかった。僕には昔からそういうところが
あった。何かに夢中にするとまわりのことが全く目に入らなくなってしまう
のだ。
そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週
間も連絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶ
ん僕は傷ついただろう。それもけっこう深く傷ついただろう。何故なら僕ら
は恋人ではなかったけれど、ある部分ではそれ以上に親密にお互いを受
け入れあっていたからだ。僕はそう思うとひどく切ない気持になった。他人
の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷つけるというのはとても嫌な
ものだった。
僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕
は自分の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、
自分が不注意で無神経であったことを詫びた。君にとても会いたい。新し
い家も見に来てほしい。返事を下さい、と書いた。そして速達切手を貼って
ポストに入れた。
しかしどれだけ待っても返事は来なかった。
奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を
待ちつづけていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイトもできなかっ
た。何日頃に会いに来て欲しいという直子からの手紙がいつ来るかもしれ
なかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て二本立ての映画をみたり、ジ
ャズ喫茶で半日、本を読んでいた。誰とも会わなかったし、殆んど誰とも口
をきかなかった。そして週に一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は
返事のことには触れなかった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペ
ンキ屋の仕事のことを書き、﹁かもめ﹂のことを書き、庭に桃の花のことを
書き、親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおばさんのことを
書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それでも返事
はこなかった。
本を読んだり、レコ︱ドを聴いたりするのに飽きると、僕は少しずつ庭
の手入れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを
借り、雑草を抜き、ぼうぼうにのびた植込みを適当に刈り揃えた。少し手を
入れだだけで庭はけっこうきれいになった。そんなことをしていると家主が
僕を呼んで、お茶でも飲みませんか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼
と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからしばら
く保険会社の役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮
らしているのだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独立
してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだと言った。だから
しょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。
﹁いいですね﹂と僕は言った。
﹁よかないよ﹂と彼は言った。﹁旅行なんてちっとも面白くないね。
仕事してる方がずっと良い﹂
庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろく
なのがいないからで、本当は自分が少しずつやればいいのだが最近鼻の
アレルギ︱が強くなって草をいじることができないのだということだった。そ
うですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると彼は僕に納屋を見せて、お礼と
いうほどのこともできないが、この中にあるのは全部不用品みたいなもの
だから使いたいものがあったらなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の
中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供用プ︱ルから野
球のバッドまであった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子
を二脚と鏡とギタ︱をみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと言
った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。
僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空気を入
れ、ギヤを調整し、自転車屋でクラッチ?ワイヤを新しいものにとりかえても
らった。それで自転車は見ちがえるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほ
こりを落としてからニスを塗りなおした。ギタ︱の弦も全部新しいものに替
え、板のはがれそうになっていたところは接着剤でとめた。錆もワイヤ?ブ
ラシできれいに落とし、ねじも調節した。たいしたギタ︱ではなかったけれ
ど、一応正確な音は出るようになった。考えて見ればギタ︱を手にしたの
なんて高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフタ︱ズの
﹃アップ?オン?ザ?ル︱フ﹄を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不
思議にまだちゃんと大体のコ︱ドを覚えていた。
それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り名前を
書いて戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便
物といえば転送されてきた高校のクラス会の通知だけだったし、僕はたと
え何があろうとそんなものにだけは出たくなかった。何故ならそれは僕とキ
ズキのいたクラスだったからだ。僕はそれをすぐに屑かごに放り込んだ。
四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレ
イコさんからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあっ
た。僕ははさみできれいに封を切り、縁側に座ってそれを読んだ。最初から
あまり良い内容のものではないだろうという予感はあったが、読んでみると
果たしてそのとおりだった。
はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。
直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても
書きあげることができなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事
が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、直子はこれはとても個人的
なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、それでこんなに
遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほし
い、と彼女は書いていた。
﹁あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもし
れませんが、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったの
です。それはわかってあげて下さい。正直に言って今の彼女の状況はあま
り好ましいものではありません。彼女はなんとか自分の力で立ち直ろうとし
たのですが、今のところまだ良い結果は出ていません。
考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでし
た。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少し
ずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけて
きて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔を
するわけです。しかしあなたの二回目の訪問までは、こういう症状も比較的
軽度のものだったし、私も正直言ってそれほど深刻には考えていませんで
した。私たちにはある程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。
でもあなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまい
ました。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉
が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯え
ています。幻聴もだんだんひどくなっています。
私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医
師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探
りあてようとしているわけです。私はできることならあなたを加えたセッショ
ンを行いたいと提案し、医者もそれには賛成したのですが、直子が反対し
ました。彼女の表現をそのまま伝えると﹃会うときは綺麗な体で彼に会い
たいから﹄というのがその理由です。問題はそんなことではなく一刻も早く
回復することなのだと私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変り
ませんでした。
前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありま
せん。もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中
的な治療をすることは困難です。ここの施設の目的は患者が自己治療で
きるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこに
は含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するよう
であれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるで
しょう。私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそう
なったとしても治療のための一時的な﹃出張﹄ということで、またここに戻
ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院という
ことになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽くしています
し、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を祈っていて下さ
い。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。
三月三十一日
石田玲子 ﹂
手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくな
った庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近い
ところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいに
かすんでいた。少しすると﹁かもめ﹂がどこからやってきて縁側の板をしば
らくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠
ってしまった。
何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいの
かわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに
何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えよ
うと僕は思った。少なくとも今は何も考えたくはない。
僕は縁側で﹁かもめ﹂を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めてい
た。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮
がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が庭を包んだ。﹁かもめ﹂は
もうどこかに姿を消したしまっていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春
の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のよう
に僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして
僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その
肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹
いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まな
くてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてく
れないのだ?
僕は部屋に入って窓のカ︱テンを閉めたが、部屋の中にもやはりそ
の春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。し
かし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカ︱テンを閉め
きった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、
それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれて
このかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。
それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を
送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰か
に何かを話しかけても、彼はそれを聞きとれなかった。まるで自分の体のま
わりにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせい
で、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれと同時に彼
らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こう
いう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。
僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにある
ものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキ︱を飲んで眠った。風呂にも
入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日が過ぎた。
四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、そ
の日に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女
は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから
仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の
手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の
言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているの
だ、いったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章の
つながりの接点をうまく見つけることができなかった。どうして﹁課目登
録﹂の日に彼女と会うことが﹁おあいこ﹂なのだ?何故彼女は僕と﹁お
昼ごはん﹂を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしくなる
つつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根
のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとし
た頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。
そして僕は﹁自分に同情するな﹂という永沢さんの言葉を突然思いだし
た。﹁自分に同情するのは下劣な人間のやることだ﹂
やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息
をついて立ち上がった。
僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、
買物をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた﹁かもめ﹂に餌
をやり、ビ︱ル以外の酒を飲まず、体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡
を見ると、顔がげっそりとやせてしまったことがわかった。目がいやにぎょろ
ぎょろとしていて、なんだか他人の顔みたいだった。
翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べてか
ら、レイコさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どうい
う風にやっていけばいいのかを腰を据えて考えて見た。レイコさんの手紙を
読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向いつつ
あるという僕の楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されてしまったことにあ
った。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何か
起るかはわからないわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、
彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会
に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。そして
彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっとうまくや
っていけるだろうと。
しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手
紙によってあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚
なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢を立て
なおさねばならなかった。直子がもう一度回復するには長い時間がかかる
だろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したときの彼女は
以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新し
い状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったとこ
ろで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、
いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしか
ないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、そ
れも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろ
うけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して
死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故な
ら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よ
りももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはなら
ないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っ
ていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺
は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃
の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづ
けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。
﹁ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?﹂と緑は言った。﹁ずいぶんやせ
ちゃったじゃない、あなた?﹂
﹁そうかな?﹂と僕は言った。
﹁やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?﹂
僕は笑って首を振った。﹁去年の十月の始めから女と寝たことなんて
一度もないよ﹂
緑はかすれた口笛を吹いた。﹁もう半年もあれやってないの?本
当?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?﹂
﹁大人になったからだよ﹂と僕は言った。
緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく
顔をしかめて、やがてにっこり笑った。﹁本当だ。たしかに何か少し変って
るみたい、前に比べて﹂
﹁大人になったからだよ﹂
﹁あなたって最高ね。そういう考え方できるのって﹂と彼女は感心し
たように言った。﹁ごはん食べに行こう。おなか減っちゃったわ﹂
我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をすること
にした。僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。
﹁ねえ、ワタナベ君、怒ってる?﹂と緑が訊いた。
﹁何に対して?﹂
﹁つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そうい
うのっていけないことだと思う?あなたの方はきちんと謝ってきたのに?﹂
﹁僕の方が悪かったんだから仕方ないさ﹂と僕は言った。
﹁お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容
で、あまりにも子供じみてるって﹂
﹁でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?﹂
﹁うん﹂
﹁じゃあそれでいいじゃないか﹂
﹁あなたって本当に寛容なのね﹂と緑は言った。﹁ねえ、ワタナベ
君、本当にもう半年もセックスしてないの?﹂
﹁してないよ﹂と僕は言った。
﹁じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやり
たかったんじゃない?﹂
﹁まあ、そうだろうね﹂
﹁でもやらなかったのね?﹂
﹁君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないから
ね﹂と僕は言った。
﹁私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あ
のときすごく参ってたから﹂
﹁でも僕のは固くて大きいよ﹂
彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。﹁私、少し前か
らあなたのこと信じようって決めたの。百パ︱セント。だからあのときだって
私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心して
いいって。ぐっすり眠ってたでしょう?私﹂
﹁うん。たしかに﹂と僕は言った。
﹁そうしてね、もし逆にあなたが私に向って﹃おい緑、俺とやろう。そう
すれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう﹄って言ったら、私たぶんや
っちゃうと思うの。でもこういうこと言ったからって、私があなたのことを誘
惑してるとか、からかって刺激してるとかそんな風には思わないでね。私は
ただ自分の感じていることをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけな
のよ﹂
﹁わかってるよ﹂と僕は言った。
我々はランチを食べながら課目登録のカ︱ドを見せあって、二つの講
義を共通して登録していることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせる
ことになる。それから彼女は自分の生活のことを話した。彼女のお姉さんも
彼女もしばらくのあいだアパ︱ト暮しになじめなかった。何故ならそれは彼
女たちのそれまでの人生に比べてあまりにも楽だったからだ。自分たちは
誰かの看病をしたり、店を手伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れ
てしまっていたのだ、と緑は言った。
﹁でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ﹂
と緑は言った。﹁これが私たち自身のための本来の生活なんだって。だか
ら誰かに遠慮することもなく思う存分手足をのばせばいいんだって。でもそ
れはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、三センチ宙に浮いているみた
いでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実の人生として存在するわけないとい
った気がしていたの。今にどんでん返しがあるに違いないって二人で緊張
してたの﹂
﹁苦労性の姉妹なんだね﹂と僕笑って言った。
﹁これまでが過酷すぎたのよ﹂と緑は言った。﹁でもいいの。私たち、
そのぶんをこれから先でしっかりとり戻してやるの﹂
﹁まあ君たちならやれそうな気がするな﹂と僕は言った。﹁お姉さん
は毎日何をしてるの?﹂
﹁彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリ︱のお店始めた
んで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚
約者とデ︱トしたり、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を
楽しんでいるわね﹂
彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭や
ら猫のかもめやら家主のことやらを話した。
﹁楽しい?﹂
﹁悪くないね﹂と僕は言った。
﹁でもそのわりに元気がないのね﹂
﹁春なのにね﹂と僕は言った。
﹁そして彼女が編んでくれた素敵なセ︱タ︱着てるのにね﹂
僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセ︱タ︱に目をやった。
﹁どうしてそんなことはわかったのかな?﹂
﹁あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない﹂
と緑はあきれたように言った。﹁でも元気がないのね﹂
﹁元気を出そうとしているんだけれど﹂
﹁人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ﹂
僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。﹁たぶん僕の頭がわるい
せいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないこと
がある﹂
﹁ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあま
り好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、
あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう
思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケット
の缶なんだって﹂
﹁まあひとつの哲学ではあるな﹂
﹁でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの﹂と緑は言った。
コ︱ヒ︱を飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店
に入ってきて、緑と三人で課目登録カ︱ドを見せあい、昨日のドイツ語の
成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴
いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめのない話をしばらくしてい
た。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏側から聞こ
えてくるような感じがした。僕はコ︱ヒ︱を飲みながら窓の外の風景を眺
めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るか
らに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そ
んなものを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になってき
た。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際にはア
ネモネの花をさした小さなグラスが置いてあった。
女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテ︱ブルに戻ってしま
うと、緑と僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊
か買い、また喫茶店に入ってコ︱ヒ︱を飲み、ゲ︱ム?センタ︱でピンボ︱
ルをやり、公園のベンチに座って話をした。だいたいは緑がじゃべり、僕は
うんうんと返事をしていた。喉が乾いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋
でコ︱ラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女はレポ︱ト用紙にボ︱ルペン
でこりこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわ
よと彼女は答えた。
三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち
合わせしてるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。
別れ際に緑は僕のコ︱トのポッケトに四つに折ったレポ︱ト用紙をつっこ
んだ。そして家に帰ってから読んでくれと言った。僕はそれを電車の中で読
んだ。
﹁前略。
今あなたがコ︱ラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いて
います。ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としても
はじめてのことです。でもそうでもしないことには私の言わんとすることはあ
なたに伝わりそうもありませんから。だって私が何が言ってもほとんど聞い
てないんだもの。そうでしょう?
ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あ
なたは私の髪型が変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?私少
しずつ苦労して髪をのばしてやっと先週の終りになんとか女の子らしい髪
型に変えることができたのよ。あなたそれにすら気がつかなかったでしょ
う?なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思ったのに、
気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですか?どうせあなたが私
がどんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。
いくら考え事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見て
くれたっていいでしょう。たったひとこと﹃その髪、可愛いね﹄とでも言って
くれれば、そのあと何してたってどれだけ考えごとしてたって、私あなたのこ
とを許したのに。
だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせている
なんて嘘です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマまで持ってき
たんです。そう、私のバッグの中にはパジャマと歯ブラシが入っているので
す。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家においでよとも誘ってくれない
んだもの。でもまあいいや、あなたは私のことなんかどうでもよくて一人に
なりたがってるみたいだから一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを
心ゆくまで考えていなさい。
でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありま
せん。私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にし
てくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからで
す。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ
君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもと戻ってし
まうみたいです。
今コ︱ラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いて
いるみたいで、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あ
なたは今隣りに座ってごくごくとコ︱ラを飲んでいます。コ︱ラを買って戻
ってきたときに﹃あれ、髪型変ったんだね﹄と気がついてくれるかなと思っ
て期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたらこんな手紙
びりびりと破って、﹃ねえ、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん
作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう﹄って言えたのに。でもあ
なたは鉄板みたいに無神経です。さよなら。
P・S・
この次教室で会っても話かけないで下さい﹂
吉祥寺の駅から緑のアパ︱トに電話をかけてみたが誰も出なかっ
た。とくにやることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通い
ながらやれるアルバイトの口を探してみた。僕は土?日が一日あいていて、
月?水?木は夕方の五時から働くことができたが、僕のそんなスケジュ︱
ルにぱったりと合致する仕事というのはそう簡単に見つからなかった。僕
はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするついでにまた緑に電話をかけて
みた。お姉さんが電話に出て、緑はまだ帰ってないし、いつ帰るかはちょっ
とわからないと言った。僕は礼を言って電話を切った。
夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書
けなかったので、結局直子に手紙を書くことにした。
春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会
えなくてとても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、
話がしたかった。しかしいずれにせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以
外に僕のとる道はないように思えるからだ、と僕は書いた。
﹁それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどう
でもいいことかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に
触れてくれていたときのことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、
君が考えている以上に重要なことなのです。僕はいつもあのときのことを
考えています﹂
僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれを
じっと眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその
方が相手に意がうまく伝わるだろうという気がした。僕はグラスに三センチ
くらいウィスキ︱を注ぎ、それをふた口で飲んでから眠った。

翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトをみつ
けた。それほど大きくないイタリア料理店のウェイタ︱の仕事で、条件はま
ずまずだったが、昼食もついたし、交通費も出してくれた。月?水?木の遅
番が休みをとるときは︱︱彼らはよく休みをとった︱︱かわりに出勤して
くれてかまわないということで、それは僕としても好都合だった。三ヶ月つと
めたら給料は上げる。今週の土曜日から来てほしいとマネ︱ジャ︱が言っ
た。新宿のレコ︱ド店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんと
したまともそうな男だった。
緑のアパ︱トに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと
戻ってないし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだ
ろうかと疲れた声で訊いた。僕が知っているのは彼女がバッグにパジャマ
と歯ブラシを入れていたということだけだった。
水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色
のセ︱タ︱を着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスをかけていた。
そしていちばんうしろの席に座って、前に一度見かけたことのある眼鏡をか
けた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕はそこに行って、あとで話がし
たいんだけどと緑に言った。眼鏡をかけた女の子がまず僕を見て、それか
ら緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいスタ
イルになっていた。いくぶん大人っぽくも見えた。
﹁私、約束があるの﹂と緑は少し首をかしげるようにして言った。
﹁そんなに時間とらせない。五分でいいよ﹂と僕は言った。
緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メ︱トルくらい向うの
崩れかけた廃屋を眺めるときのような目つきだった。﹁話したくないのよ。
悪いけど﹂
眼鏡の女の子が︿彼女話したくないんだって、悪いけど﹀という目で
僕を見た。
僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き︵テネシ︱?ウィリア
ムズの戯曲についての総論。そのアメリカ文学における位置︶、講義が終
わるとゆっくり三つ数えてからうしろを向いた。緑の姿はもう見えなかった。
四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわ
りの人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコ︱トを脱ぎ捨て、明るい日だ
まりの中でおしゃべりをしたり、キャッチボ︱ルをしたり、恋をしたりしてい
た。でも僕は完全な一人ぼっちだった。直子も緑も永沢さんも、誰もがみん
な僕の立っている場所から離れていってしまった。そして今の僕には﹁お
はよう﹂とか﹁こんにちは﹂を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさ
え僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。
何度か緑に話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだった。今話した
なくないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言っている
ことがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子といたし、そう
でないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の長い男で、
いつも白いバスケットボ︱ル?シュ︱ズをはいていた。
四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかっ
た。五月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめる
のを感じないわけにはいなかった。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻に
やってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で僕の心
はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと
目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待っ
た。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残し
ていた。
そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵
なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、
心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんな
ものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰めら
れた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きているのだろうと
思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙
は来なかった。
アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生
と知り合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科にかよっている
おとなしい無口な男で話をするようになるまでにずいぶん時間がかかった
が、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の店でビ︱ルを一杯飲んでいろ
んな話をするようになった。彼も本を読んだり音楽を聴いたりするのが好き
で、僕らはだいたいそんな話をした。伊東はほっそりとしたハンサムな男
で、その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あ
まり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フ
ランスの小説が好きでジョルジェ?バタイユとポリス?ヴィアンを好んで読
み、音楽ではモ︱ツァルトとモ︱リス?ラヴェルをよく聴いた。そして僕と同
じようにそういう話のできる友だちを求めていた。
彼は一度僕を自分のアパ︱トに招待してくれた。井の頭公園の裏手
のあるちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパ︱トで、部屋の中は画材
やキャンパスでいっぱいだった。絵を見たいと僕は言ったが、恥ずかしいも
のだからと言って見せてくれなかった。我々は彼が父親のところから黙って
持ってきたシ︱バス?リ︱ガルを飲み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベ
︱ル?カサドゥシェの弾くモ︱ツァルトのピアノ?コンチェルトを聴いた。
彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長
崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかない
んだよ、と言った。
﹁なんとなくわかるだろ、女の子ってさ﹂と彼は言った。﹁二十歳と
か二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ。すごく
現実的になりはじめるんだ。するとね、これまですごく可愛いと思えていた
ところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕に会うとね、だいたいあ
のあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ﹂
﹁どうするんだい?﹂と僕も訊いてみた。
彼はししゃもをかじりながら頭を振った。﹁どうするったって、どうしよ
うもないよ、油絵科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もアブラになんて
行かないさ。だってそんなところ出たってまず飯なんて食えやしないもの。
そういうと彼女は長崎に戻って美術の先生になれっていうんだよ。彼女、英
語の教師になるつもりなんだよ。やれやれ﹂
﹁彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?﹂
﹁まあそうなんだろうな﹂と伊東は認めた。﹁それに僕は美術の教
師なんかなりたくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわる
い中学生に絵を教えて一生を終えたくないんだよ﹂
﹁それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お互いの
ために﹂と僕は言った。
﹁僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒にな
る気でいるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて
言い出せないよ﹂
僕らは氷を入れずストレ︱トでシ︱バスを飲み、ししゃもがなくなって
しまうと、キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてかじった。キウリをぽり
ぽりと食べていると亡くなった緑の父親のことを思いだした。そして緑を失
ったことで僕の生活がどれほど味気のないものになってしまったかと思っ
て、切ない気持になった。知らないうちに僕の中で彼女の存在がどんどん
膨らんでいたのだ。
﹁君には恋人いるの?﹂と伊東が訊いた。
いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は
遠く離れているんだ。
﹁でも気持は通じているんだろう?﹂
﹁そう思いたいね。そう思わないと救いがない﹂と僕は冗談めかして
言った。
彼はモ︱ツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田
舎の人々が山道について熟知しているように、モ︱ツァルトの音楽の素晴
らしさを熟知していた。父親が好きで三つの時からずっと聴いてるんだと彼
は言った。僕はクラシック音楽にそれほど詳しいわけではなかったけれど、
彼の﹁ほら、ここのところが︱︱﹂とか﹁どうだい、この︱︱﹂といった適
切で心のこもった説明を聴きながらモ︱ツァルトのコンチェルトに耳を傾
いていると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは井
の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シ︱バス?リ︱ガルを最後
の一滴まで飲んだ。美味い酒だった。
伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って
断り、ウィスキ︱の礼を言って九時前に彼のアパ︱トを出た。そして帰りみ
ち電話ボックスに入って緑に電話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。
﹁ごめんなさい。今あなたと話したくないの﹂と緑は言った。
﹁それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君と
の関係を終えたくないんだ。君は本当に数の少ない僕の友だちの一人だ
し、君に会えないのはすごく辛い。いつになったら君と話せるのかな?それ
だけでも教えてほしいんだよ﹂
﹁私の方から話しかけるわよ。そのときになったら﹂
﹁元気?﹂と僕は訊いてみた。
﹁なんとか﹂と彼女は言った。そして電話を切った。
五月の半ばにレイコさんから手紙が来た。
﹁いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読
ませてもらっています。いいわよね、読んでも?
長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私もいささ
か疲れ気味だったし、良いニュ︱スもあまりなかったからです。直子の具
合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門
医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばらく専門的な病院に移っ
て集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはどうかとい
う合意に達しました。直子もできることならずっとここにいて治したいという
し、私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言っ
てここで彼女をコントロ︱ルするのはだんだん困難になってきました。普段
はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不安定にな
ることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が
起るかわからないからです。激しい幻聴があり、直子は全てを閉ざして自
分の中にもぐりこんでしまいます。
だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるの
がいちばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方ありません。前も
あなたに言ったように、気長にやるのがいちばんです。希望を捨てず、絡み
あった糸をひとつひとつほぐしていくのです。事態がどれほど絶望的に見
えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、しばらくじっとし
て目がその暗闇に慣れるのを待つしかありません。
この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移
っているはずです。連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、
いろんなことがばたばたと決まってしまったのです。新しい病院はしっかり
とした良い病院です。良い医者もいます。住所を下に書いておきますので、
手紙をそちらに書いてやって下さい。彼女についての情報は私の方にも入
ってきますから、何かあったら知らせるようにします。良いニュ︱スが書ける
といいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなく
てもときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら﹂

その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書
き、レイコさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を
書き、家の机に向って膝に﹁かもめ﹂をのせながら書き、休憩時間にイタ
リア料理店のテ︱ブルに向って書いた。まるで手紙を書くことで、バラバラ
に崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった。
君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と五月を
送った、と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験した
のははじめてのことだし、これだったら二月が三回つづいた方がずっとまし
だ。今更君にこんなことをいっても始まらないとは思うけれど、新しいヘア?
スタイルはとてもよく君に似合っている。とても可愛い。今イタリア料理店で
アルバイトしていて、コックからおいしいスパゲティ︱の作り方を習った。そ
のうちに君に食べさせてあげたい。
僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアルバイト
をし、伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス?ヴィアンを何冊か借りて読
み、手紙を書き、﹁かもめ﹂と遊び、スパゲティ︱を作り、庭の手入れをし、
直子のことを考えながらマスタペ︱ションをし、沢山の映画を見た。
緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二
ヶ月も口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座っ
て、しばらく頬杖をついて黙っていた。窓の外には雨が降っていた。梅雨ど
き特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、それは何もかもまんぺんなく濡ら
していた。他の学生がみんな教室を出ていなくなっても緑はずっとその格
好で黙っていた。そしてジ︱ンズの上着のポッケトからマルボロを出してく
わえ、マッチを僕の渡した。僕はマッチをすって煙草に火をつけてやった。緑
は唇を丸くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。
﹁私のヘア?スタイル好き?﹂
﹁すごく良いよ﹂
﹁どれくらい良い?﹂と緑が訊いた。
﹁世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ﹂と僕は言った。
﹁本当にそう思う?﹂
﹁本当にそう思う﹂
彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそ
れを握った。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の
灰を床に落としてからすっと立ち上がった。
﹁ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ﹂と緑は言った。
﹁どこに行く?﹂
﹁日本橋の高島屋の食堂﹂
﹁何でまたわざわざそんなところまで行くの?﹂
﹁ときどきあそこに行きたくなるのよ、私﹂
それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雨が降
りつづいていたせいか、デパ︱トの中はがらんとしてあまり人影がなかっ
た。店内には雨の匂いが漂い、店員たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情
だった。我々は地下の食堂に行き、ウィンドの見本を綿密に点検してから二
人とも幕の内弁当を食べることにした。昼食どきだったが、食堂もそれほど
混んではいなかった。
﹁デパ︱トの食堂で飯食うなんて久しぶりだね﹂と僕はデパ︱トの
食堂でしかまずお目にかかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶
を飲みながら言った。
﹁私好きよ、こういうの﹂と緑は言った。﹁なんだか特別なことをして
いるような気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパ︱トに
連れてってもらうなんてほんのたまにしかなかったから﹂
﹁僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパ︱ト行くの
好きだったからさ﹂
﹁いいわね﹂
﹁べつに良くもないよ。デパ︱トなんか行くの好きじゃないもの﹂
﹁そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと﹂
﹁まあ一人っ子だからね﹂
﹁大きくなったらデパ︱トの食堂に一人できて食べたいものをいっぱ
い食べてやろうと思ったの、子供の頃﹂と緑は言った。﹁でも空しいもの
ね、一人でこんなところでもそもろごはん食べたって面白くもなんともない
もの。とくにおいしいというものでもないし、ただっ広くて混んでてうるさい
し、空気はわるいし。それでもときどきここに来たくなるのよ﹂
﹁このニヶ月淋しかったよ﹂と僕は言った。
﹁それ、手紙で読んだわよ﹂と緑は無表情な声で言った。﹁とにかく
ごはん食べましょう。私今それ以外のこと考えられないの﹂
我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸い物
を飲み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も
言わずにすっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち上がって傘を持っ
た。
﹁これからどこに行くの?﹂と僕は訊いてみた。
﹁デパ︱トに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まっ
てるでしょう﹂と緑は言った。
雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の
姿はなく、売店も、乗り物切符売り場もシャッタ︱を閉ざしていた。我々は傘
をさしてぐっしょりと濡れた木馬やガ︱デン?チェアや屋台のあいだを散策
した。東京のどまん中にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて
僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見たいというので、僕は硬貨を入れてや
り、彼女が見ているあいだずっと傘をさしてやっていた。
屋上の隅の方に屋根のついたゲ︱ム?コ︱ナ︱があって、子供向け
のゲ︱ム機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなも
のの上に並んで腰を下ろし、二人で雨ふりを眺めた。
﹁何か話してよ﹂と緑が言った。﹁話があるんでしょ、あなた?﹂
﹁あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんや
りしてたんだ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ﹂と
僕は言った。﹁でも君と会えなくなってよくわかったんだ。君がいればこそ
今までなんとかやってこれたんだってね。君がいなくなってしまうと、とても
辛くて淋しい﹂
﹁でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私
がこのニヶ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを?﹂
﹁知らなかったよ、そんなこと﹂と僕はびっくりして言った。﹁君は僕
のことを頭にきていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ﹂
﹁どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まってるでしょ
う?だって私あなたのこと好きだって言ったでしょう?私そんなに簡単に人
を好きになったり、好きじゃなくなったりしないわよ。そんなこともわかんな
いの?﹂
﹁それはもちろんそうだけど︱︱﹂
﹁そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だっ
て久し振りに会ったっていうのにあなたはボオッとして他の女の人のことを
考えて私のことなんか見ようともしないんだもの。それは頭に来るわよ。で
もね、それとはべつに私あなたと少し離れていた方がいいんじゃないかと
いう気がずっとしてたのよ。いろんなことをはっきりさせるためにも﹂
﹁いろんなことって?﹂
﹁私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだ
んだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いく
らなんでも不自然だし具合わるいと思わない?もちろん私は彼のこと好き
よ、そりゃ多少わかままで偏狭でファシストだけど、いいところはいっぱいあ
るし、はじめて真剣に好きになった人だしね。でもね、あなたってなんだか
特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感じする
の。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに自分
でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直に相談し
たの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もし
あなたと会うなら俺と別れろって﹂
﹁それでどうしたの?﹂
﹁彼と別れたよ、さっぱりと﹂と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆
うようにしてマッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。
﹁どうして?﹂
﹁どうして?﹂と緑は怒鳴った。﹁あなた頭おかしいんじゃないの?英
語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそ
んなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女
の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。
私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方な
いでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから﹂
僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうま
く出てこなかった。
緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。﹁ねえ、そんなひどい顔しない
でよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知
ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?
私だってこのニヶ月本当に辛かったんだから﹂
我々はゲ︱ム?コ︱ナ︱の裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体を
あわせ、唇を求めあった。彼女の髪にも、ジ︱ンズのジャケットの襟にも雨
の匂いがした。女の子の体ってなんてやわらかくて温かいんだろうと僕は
思った。ジャケット越しに僕は彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。
僕は本当に久し振りに生身の人間に触れたような気がした。
﹁あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そして別れ
たの﹂と緑は言った。
﹁君のこと大好きだよ﹂と僕は言った。﹁心から好きだよ。もう二度と
放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないん
だ﹂
﹁その人のことで?﹂
僕は肯いた。
﹁ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?﹂
﹁一年前に一度だけね﹂
﹁それから会わなかったの?﹂
﹁二回会ったよ。でもやってない﹂と僕は言った。
﹁それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?﹂
﹁僕にはなんとも言えない﹂と僕は言った。﹁とても事情が混み入っ
てるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづい
ているものだから、本当にどうなのかというのがだんだんわからなくなって
きているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人
間として責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけには
いかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛
していないとしても﹂
﹁ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ﹂と緑は僕の首に頬
を押し付けて言った。﹁そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好き
だってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってする
わよ。私多少むちゃくちゃなところあるけど正直でいい子だし、よく働くし、
顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって良いかたちしているし、料理もう
まいし、お父さんの遺産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思わな
い?あなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ﹂
﹁時間がほしいんだ﹂と僕は言った。﹁考えたり、整理したり、判断し
たりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないん
だ﹂
﹁でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるの
ね?﹂
﹁もちろんそう思ってるよ﹂
緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。﹁いいわよ、待ってあげ
る。あなたのことを信頼してるから﹂と彼女は言った。﹁でお私をとるとき
は私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の
言ってる意味わかる?﹂
﹁よくわかる﹂
﹁それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめ
てね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくない
の。幸せになりたいのよ﹂
僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
﹁そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いて
よ﹂と緑は言った。
﹁傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ﹂
﹁いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしい
のよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ﹂
僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道
路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲
んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィン
ド?ブレ︱カ︱を暗い色に染めた。
﹁そろそろ屋根のあるところに行かない?﹂と僕は言った。
﹁うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃう
もの﹂
﹁まったく﹂
﹁ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ﹂と緑が笑い
ながら言った。﹁ああ気持良かった﹂
僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所
に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパ
︱トまで行った。緑はすぐに僕にシャワ︱を浴びさせ、それから自分も浴び
た。そして僕の服が乾くまでバスロ︱ブを貸してくれ、自分はポロシャツと
スカ︱トに着がえた。我々は台所のテ︱ブルでコ︱ヒ︱を飲んだ。
﹁あなたのこと話してよ﹂と緑は言った。
﹁僕のどんなこと?﹂
﹁そうねえ……どんなものが嫌い?﹂
﹁鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ﹂
﹁他には?﹂
﹁四月の孤独な夜とレ︱スのついた電話機のカバ︱が嫌いだ﹂
﹁他には?﹂
僕は首を振った。﹁他にはとくに思いつかないね﹂
﹁私の彼は︱︱つまり前の彼は︱︱いろんなものが嫌いだったわ。
私がすごく短いスカ︱トはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこと
とか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか……だ
からもしそういう私に関することで嫌なことあったら遠慮しないで言って
ね。あらためられるところはちゃんとあらためるから﹂
﹁別に何もないよ﹂と僕は少し考えてからそう言って首を振った。
﹁何もない﹂
﹁本当?﹂
﹁君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も
酔払い方も、何でも好きだよ﹂
﹁本当にこのままでいいの?﹂
﹁どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ﹂
﹁どれくらい私のこと好き?﹂と緑が訊いた。
﹁世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバタ︱になってしまうくら
い好きだ﹂と僕は言った。
﹁ふうん﹂と緑は少し満足したように言った。﹁もう一度抱いてくれ
る?﹂
僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞きながら
布団の中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固
さの好みに至るまでのありとあらゆる話をした。
﹁雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら?﹂と緑が質問し
た。
﹁知らない﹂と僕は言った。﹁巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかや
ってるんじゃないかな。蟻ってよく働くからさ﹂
﹁そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままな
の?﹂
﹁知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つ
まり猿なんかに比べてさ﹂
﹁あなた意外にいろんなこと知らないのね﹂と緑は言った。﹁ワタナ
ベ君って、世の中のことはたいてい知ってるのかと思ってたわ﹂
﹁世界は広い﹂と僕は言った。
﹁山は高く、海は深い﹂と緑は言った。そしてバスロ︱ブの裾から手
を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息を呑んだ。﹁ね
え、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固い
のとても入らんないわよ。嫌だ﹂
﹁冗談だろう﹂と僕はため息をついて言った。
﹁冗談よ﹂とくすくす笑って緑は言った。﹁大丈夫よ。安心しなさい。
これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい?﹂
﹁好きにしていいよ﹂と僕は言った。
緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮
をひっぱったり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団か
ら首を出してふうっと息をついた。﹁でも私あなたのこれすごく好きよ。お
世辞じゃなくて﹂
﹁ありがとう﹂と僕は素直に礼を言った。
﹁でもワタナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことがはっきりす
るまでは﹂
﹁やりたくないわけがないだろう﹂と僕は言った。﹁頭がおかしくな
るくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ﹂
﹁頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてや
っちゃってから考えるけどな﹂
﹁本当にそうする?﹂
﹁嘘よ﹂と緑は小さな声で言った。﹁私もやらないと思うわ。もし私
があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうとこ
ろ好きなの。本当に本当に好きなのよ﹂
﹁どれくらい好き?﹂と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答
えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニス
を握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手
の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵な
のだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられ
てしまうのだ。
﹁ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?﹂
﹁考えてないよ﹂と僕は嘘をついた。
﹁本当?﹂
﹁本当だよ﹂
﹁こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ﹂
﹁考えられないよ﹂と僕は言った。
﹁私の胸かあそこ触りたい?﹂と緑が訊いた。
﹁さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなこ
とやると刺激が強すぎる﹂
緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティ︱を脱いでそれを僕のペニ
スの先にあてた。﹁ここに出していいからね﹂
﹁でも汚れちゃうよ﹂
﹁涙が出るからつまんないこと言わないでよ﹂と緑は泣きそうな声で
言った。﹁そんなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出し
なさいよ。気になるんなら新しいの買ってプレゼントしてよ。それとも私のじ
ゃ気に入らなくて出せないの?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。
﹁じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して﹂
僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。﹁ずいぶんいっ
ぱい出したのね﹂と彼女は感心したように言った。
﹁多すぎたかな?﹂
﹁いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ﹂と緑が笑い
ながら言って僕にキスした。
夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕ら
は台所のテ︱ブルでビ︱ルを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを
食べた。
﹁沢山食べていっぱい精液を作るのよ﹂と緑は言った。﹁そしたら私
がやさしく出してあげるから﹂
﹁ありがとう﹂と僕は礼を言った。
﹁私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌
でそういうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その
期間御主人が浮気しないようにいろんな風に処理してあげる方法が特集
してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。楽しみ?﹂
﹁楽しみだね﹂と僕は言った。
緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広げて
みたが、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみた
ところで何も理解できなかった。僕はそんなわけのわからない新聞の紙面
をじっと睨みながら、いったい自分はこれから先どうなっていくんだろう、僕
をとりかこむ物事はどう変っていくんだろうと考えつづけた。時折、僕のま
わりで世界がどきどきと脈を打っているように感じられた。僕は深いため息
をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまった
く後悔していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、まった
く同じことをするだろうと確信していた。やはり雨の屋上で緑をしっかり抱
き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で射精に導かれることになる
だろう。それについては何の疑問もなかった。僕は緑が好きだったし、彼女
が僕のもとに戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女となら二人で
うまくやっていけるだろうと思った。そして緑は彼女自身言っていたように
血のかよった生身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけ
ていたのだ。僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に
身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったのだ。僕
のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてとて
もできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、
我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができる
だろう?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にか
わっていたはずなのだ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけてい
ただけなのだ。
問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないと
いう点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好
きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のことも
やはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議なかたちに歪められた愛し
方であるにはせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中には直子
のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。
僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くこと
だった。僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら
頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書い
た。﹁こういう手紙をレイコさんに書かなくてはならないというのは僕にと
ってはたまらなく辛いことです﹂と僕は最初に書いた。そして緑と僕のこれ
までの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明し
た。
﹁僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。し
かし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そ
して僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで
押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕は直子に対して感じる
のはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違っ
た種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているの
です。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなく
てとても混乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕
は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでし
た。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどう
してこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱり
わけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう?僕には
レイコさんしか相談できる相手がいないのです﹂
僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。
レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。
﹁前略。
まず良いニュ︱ス。
直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話
したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうち
にここに戻ってこられるかもしれないということです。
次にあなたのこと。
そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私
は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なもの
であるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。
私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強
く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それは
うまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋とい
うのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自
然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実さのひとつのかたちで
す。
第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それは
あなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話し
あって、納得のいく結論を出して下さい。
第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わな
くてはならないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人
で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることに
しましょう。そのことは私にまかせておいて下さい。
第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあ
なたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなた
が直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何
もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。私たちは︵私たちというの
は正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です︶不完全な世界に
住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度
を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないので
す。でしょう?
私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子
のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいて
もよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわり
ます。そんなことは罪でもなんでもありません。このただっ広い世界にはよく
あることです。天気の良い日に美しい湖にボ︱トを浮かべて、空もきれいだ
し湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放って
おいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人
は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言
うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。
あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神
病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさ
い。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らし
いんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せ
になりなさい。幸せになる努力をしなさい。
もちろん私はあなたと直子がハッピ︱?エンディングを迎えられなか
ったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰に
かわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せ
になれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的
に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを
逃すと一生悔やみますよ。
私は毎日誰に聴かせるともなくギタ︱を弾いています。これもなんだ
かつまらないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと
直子のいる部屋で葡萄を食べながらギタ︱を弾きたい。
ではそれまで。
六月十七日
石田鈴子 ﹂
十一
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書い
てきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりの
ように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに
対して僕は返事を書かなかった。なんていえばいいのだ?それにそんなこ
とはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存在せず、一握り
の灰になってしまったのだ。
八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京
に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先
に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何
も言えない、悪いと思うけれどもう少し待ってほしいという短い手紙を書い
た。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東
京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつ
め、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車
に乗った。
いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せない
のだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名という
ものがまったく思いだせないのだ順番も思いだせない。僕はひとつの町か
ら次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗
せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなと
ころがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったことも
あるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠
れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包
んで安ウィスキ︱ごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々
は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切
な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕
にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっ
すり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。
どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ
町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事
象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の
声がたまらく聞きたかったからだ。
﹁あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ﹂と緑は言った。
﹁レポ︱ト提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったい?
あなたこれでも三週間の音信不通だったのよ。どこにいて何をしてるの
よ?﹂
﹁わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ﹂
﹁言うことはそれだけなの?﹂
﹁だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら︱︱﹂
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭
を剃った。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさ
かさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がつい
ていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがってきた人間のとうに見えた
が、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。
僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸
かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必
ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめてきた火をし、魚屋で
買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。そしてウィスキ︱を飲
み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまって
もうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその
事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じら
れなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が
無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができずにい
た。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニスを
そっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はま
だ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕
は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のできごとのようにはっきり思い出
すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその体に触れる
ことができるように気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体は
もうこの世界のどこにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出
さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも
数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて
次から次へ外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しと
どめることはとてもできなかった。
僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、
えさの袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバ︱スデ︱?ケ︱キ
と、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜
も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオ︱バ︱コ︱トを着て僕の隣
りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で触ってい
た。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウン
を着てソファ︱の上で膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメ︱ジは満ち潮の波のように次から次へと僕に
打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所
で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あ
るいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な
要因ではなかった。そこで死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつ
でしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼
女は僕にこう言った。﹁大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にし
ないで﹂と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、
直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょう?と直子
は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心を
なごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死
も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないの
よ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいる
とすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力
で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、
僕はよく一人で泣いた。泣くというよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひ
とりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそ
れを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこうい
うことだった。
﹁死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるの
だ﹂
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を
育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でし
かなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心
理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。ど
のような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさ
も、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜い
て、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何か
も、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕
はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日
も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。ウィスキ︱を何本も空に
し、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸を
リュックを背負って西へ西へと歩いた。
ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流している
と若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。僕はそれを受けとって十
何ヶ月かぶりに吸った。どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。母が死
んだからだと僕は殆んど反射的に嘘をついた。それで哀しくてたまらなくて
旅をつづけているのだ、と。彼は心から同情してくれた。そして家から一升
瓶とグラスをふたつ持ってきてくれた。
風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で母親を
なくしたとその漁師は言った。体がそんなに丈夫ではなかったのに朝から
晩まで働きづめで、それで身をすり減らすように死んだ、と彼は話した。僕
はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。そ
れはひどく遠い世界の話であるように僕には感じられた。それがいったい
なんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいた
いような激しい怒りに駆けられた。お前の母親がなんだっていうんだ?俺
は直子を失ったんだ!あれはど美しい肉体がこの世界から消え去ってしま
ったんだぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているん
だ?
でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じて、際限の
ない漁師の話を聞くともなくぼんやりと聞いていた。やがて彼は僕にもう飯
は食べたかと訊ねた。食べてないけれど、リュックの中にパンとチ︱ズとト
マトとチョコレ︱トが入っていると僕は答えた。昼には何を食べたのかと彼
が訊いたので、パンとチ︱ズとトマトとチョコレ︱トだと僕は答えた。すると
彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。僕は止めようとした
けれど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてしまった。
僕は仕方なく一人でコップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙屑が
一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕け
ていた。やせこけた犬が尾を振りながらやてきて何か食べものはないかと
僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかる
とあきらめて去っていった。
三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升
瓶を持って戻ってきた。これ食えよ、と彼は言った。下の方のは海苔巻きと
稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。彼は一升瓶の酒を自分の
グラスに注ぎ、僕のグラスにも注いた。僕は礼を言ってたっぷりと二人分は
ある寿司を食べた。それからまた二人で酒を飲んだ。もうこれ以上飲めな
いというところまで飲んでしまうと、彼は自分の家に来て泊まれと僕に言っ
たが、ここで一人で寝ている方がいいと言うと、それ以上は誘わなかった。
そして別れ際にポケットから四つに折った五千円札を出して僕のシャツの
ポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔
してるから、と言った。もう十分よくしてもらったし、これ以上金までもらうわ
けにはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうとはしなかった。仕方なく
礼を言って僕はそれを受け取った。
漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たガ︱
ル?フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひど
いことをしてしまったかと思って、どうしようもなく冷えびえとした気持にな
った。僕は彼女が何をどう思い、そしてどう傷つくかなんて殆んど考えもし
なかったのだ。そして今まで彼女のことなんてロクに思い出しもしなかった
のだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優し
さをごくあたり前のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼
女は今何をしているだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕
は思った。
ひどく気分がわるくなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。飲み過ぎた
酒のせいで頭が痛み、漁師に嘘をついて金までもらったことで嫌な気持に
なった。そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと僕は思った。いつまでもいつ
までも永遠にこんなことつづけているわけにはいかないのだ。僕は寝袋を
丸めてリュックの中にしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、今から東
京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。彼は時刻
表を調べ、夜行をうまくのりつげば朝に大阪に着けるし、そこから新幹線で
東京に行けると教えてくれた。僕は礼を言って、男からもらった五千円札で
東京までの切符を買った。列車を待つあいだ、僕は新聞を買って日付を見
てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ちょうど一ヶ月旅行をつづけ
ていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。
一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、直子の
死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ月前とあまり
変りない状態で東京に戻った。緑に電話をかけることすらできなかった。い
ったい彼女にどう切り出せばいいのかがわからなかった。なんて言えばい
いのだ?全ては終わったよ、君と二人で幸せになろ︱︱そう言えばいいの
だろうか?もちろん僕にはそんなことは言えなかった。しかしどんな風に言
ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつな
のだ。直子は死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の
人間として残っているのだ。
僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、
一人で部屋の中に閉じこもって何日かを過ごした。僕の記憶の殆んどは生
者にではなく死者に結びついていた。僕が直子のためにとって置いたいく
つかの部屋の鎧戸を下ろされ、家具は白い布に覆われ窓枠にはうっすらと
ほこりが積っていた。僕は一日の多くの部分をそんな部屋の中で過ごし
た。そして僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手
に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだ
ったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこ
の世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベスト
を尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をうちた
てようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子は
お前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子
は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひき
ずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこん
でいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。
誰一人訪れるものもないがらんとした博物館でね、俺は自身のためにそこ
の管理人をしているんだ。

東京に戻って四日目にレイコさんからの手紙が届いた。封筒には速
達切手が貼ってあった。手紙の内容は至極簡単なものだった。あなたとず
っと連絡がとれなくてとても心配している。電話をかけてほしい。朝の九時
と夜の九時にこの電話番号の前で待っている。
僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレイコさんが出た。
﹁元気?﹂と彼女が訊いた。
﹁まずまずですね﹂と僕は言った。
﹁ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?﹂
﹁会いに来るって、東京に来るんですか?﹂
﹁ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの﹂
﹁じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?﹂
﹁出なきゃ会いに行けないでしょう﹂と彼女は言った。﹁そろそろ出
てもいい頃よ。だってもう八年もいたんだもの。これ以上いたら腐っちゃう
わよ﹂
僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。
﹁あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来てくれ
る?私の顔はまだ覚えてる?それとも直子が死んだら私になんて興味なく
なっちゃったかしら?﹂
﹁まさか﹂と僕は言った。﹁あさっての三時二十分に東京駅に迎え
に行きます﹂
﹁すぐわかるわよ。ギタ︱?ケ︱ス持った中年女なんてそんなにいな
いから﹂
たしかに僕は東京駅ですぐレイコさんをみつけることができた。彼女は
男もののツイ︱ドのジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、髪
をあいかわらず短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を
持ち、左手は黒いギタ︱?ケ︱スを下げていた。彼女は僕を見ると顔のし
わをくしゃっと曲げて笑った。レイコさんの顔を見ると僕も自然に微笑んで
しまった。僕は彼女の旅行鞄を持って中央線の乗り場まで並んで歩いた。
﹁ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してる?それとも東京では
最近そういうひどい顔がはやってるの?﹂
﹁しばらく旅行してたせいですよ。あまりロクなもの食べなかったか
ら﹂と僕は言った。﹁新幹線はどうでした?﹂
﹁あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おうと思っ
てたのにひどい目にあっちゃった﹂
﹁中で何か売りに来るでしょう?﹂
﹁あのまずくて高いサンドイッチのこと?あんなもの飢え死にしかけた
馬だって残すわよ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べたのが好きだった
の﹂
﹁そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ﹂
﹁いいわよ、私年寄りだもの﹂とレイコさんは言った。
吉祥寺まで行く電車の中で、彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍しそ
うにじっと眺めていた。
﹁八年もたつと風景も違っているものですか?﹂と僕は訊いた。
﹁ねえワタナベ君。私が今どんな気持かわかんないでしょう?﹂
﹁怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないの
よ。一人でこんなところに放り出されて﹂とレイコさんは言った。﹁でも
︿気が狂いそう﹀って素敵な表現だと思わない?﹂
僕は笑って彼女の手を握った。﹁でも大丈夫ですよ。レイコさんはもう
全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの﹂
﹁私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ﹂とレイコさ
んは言った。﹁私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。
私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかったし、東京
にきてあなたと一度ゆっくり話しあう必要があったの。だからあそこを出て
きちゃったのよ。もし何もなければ、私は一生あそこにいることになったんじ
ゃないかしら﹂
僕は肯いた。
﹁これから先どうするんですか、レイコさん?﹂
﹁旭川に行くのよ。ねえ旭川よ!﹂と彼女は言った。﹁音大のとき仲
の良かった友だちが旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって二、三
年前から誘われてたんだけど、寒いところ行くの嫌だからって断ってたの。
だってそうでしょ、やっと自由の身になって、行く先が旭川じゃちょっと浮か
ばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃな
い?﹂
﹁そんなひどくないですよ﹂僕は笑った。﹁一度行ったことあるけれ
ど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね﹂
﹁本当?﹂
﹁うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと﹂
﹁まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし﹂と彼女は言
った。﹁ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?﹂
﹁もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですか?その前に少し
東京にいるでしょう?﹂
﹁うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに
厄介になっていいかしら?迷惑かけないから﹂
﹁全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます﹂
﹁悪いわね﹂
﹁いいですよ。すごく広い押入れなんです﹂
レイコさんは脚のあいだにはさんだギタ︱?ケ︱スを指で軽く叩いて
リズムをとっていた。﹁私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前
に。まだ外の世界に全然馴染んでないから。かわらないこともいっぱいある
し、緊張もしてるし。そういうの少し助けてくれる?私、あなたしか頼れる人
いないから﹂
﹁僕で良ければいくらでも手伝いますよ﹂と僕は言った。
﹁私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?﹂
﹁僕のいったい何を邪魔しているんですか?﹂
レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそれ以上
何も言わなかった。
吉祥寺で電車を降り、バスに乗って僕の部屋に行くまで、我々はあま
りたいした話をしなかった。東京の街の様子が変ってしまったことや、彼女
の音大時代の話や、僕が旭川に行ったときのことなんかをぽつぽつと話し
ただけだった。直子に関する話は一切出なかった。僕がレイコさんに会うの
は十ヶ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわ
らぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるという気
がした。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれ
とまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有
していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。そ
う思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。レイコさんはしばらく一
人で話していたが、僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、そのま
ま二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じよう
にくっきりと光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜
けるように高かった。また秋が来たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光
の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょっとした音の響き方が、僕にその
到来を知らせていた。季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどん
どん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永
遠に。
﹁こういうところに来るとホッとするわね﹂バスを降り、あたりを見ま
わしてレイコさんは言った。
﹁何もないところですからね﹂と僕は言った。
僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレイコさんはいろんなもの
に感心してくれた。
﹁すごく良いところじゃない﹂と彼女は言った。﹁これみんなあなた
が作ったの?こういう棚やら机やら?﹂
﹁そうですよ﹂と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。
﹁けっこう器用なのね、ワタナベ君。部屋もずいぶんきれいだし﹂
﹁突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから。でも
おかげで大家さんは喜んでますよ。きれいに使ってくれるって﹂
﹁あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね﹂とレイコさんは言った。
﹁大家さんお庭の向うに住んでるでしょ?﹂
﹁挨拶?挨拶なんてするんですか?﹂
﹁あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこんでギ
タ︱を弾いたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ?こういうのは先に
きちんとしといた方がいいの。そのために菓子折りだってちゃんと持ってき
たんだから﹂
﹁ずいぶん気がきくんですねえ﹂と僕は感心して言った。
﹁年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくか
ら、ちゃんと話をあわせといてよ。でもアレね、こういう時、年が離れてると楽
だわね。誰も変な風に疑わないから﹂
彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側に座っ
てもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。レイコさんは二十分くらい戻ってこな
かった。彼女は戻ってくると旅行鞄から煎餅の缶を出して僕へのおみやげ
だと言った。
﹁二十分もいったい何話してたんですか?﹂と僕は煎餅をかじりな
がら訊いてみた。
﹁そりゃもちろんあなたのことよ﹂と彼女は猫を抱きあげ頬ずりして
言った。﹁きちんとしてるし、真面目な学生だって感心してたわよ﹂
﹁僕のことですか?﹂
﹁そうよ、もちろんあなたのことよ﹂とレイコさんは笑って言った。そし
て僕のギタ︱をみつけて手にとり、少し調弦してからカルロス?ジョビンの
﹃デサフィナ︱ド﹄を弾いた。彼女のギタ︱を聴くのは久しぶりだったが、
それは前と同じように僕の心をあたためてくれた。
﹁あなたギタ︱練習してるの﹂
﹁納屋に転がってたのを借りてきて少し弾いてるだけです﹂
﹁じゃ、あとで無料レッスンしてあげるわね﹂とレイコさんは言ってギ
タ︱を置き、ツイ︱ドの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、煙草を吸った。彼
女は上着の下にマドラス?チェックの半袖のシャツを着ていた。
﹁ねえ、これこれ素敵なシャツでしょう?﹂とレイコさんが言った。
﹁そうですね﹂と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のシャツだっ
た。
﹁これ、直子のなのよ﹂とレイコさんは言った。﹁知ってる?直子と私
って洋服のサイズ殆んど一緒だったのよ。とくにあそこに入った頃はね。そ
のあとであの子少し肉がついちゃてサイズが変わったけれど、それでもだ
いたい同じって言ってもいいくらいだったのよ。シャツもズボンも靴も帽子
も。ブラジャ︱くらいじゃないかしら、サイズが違うのは。私なんかおっばい
ないも同然だから。だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。とい
うか殆んど二人で共有してたようなものね﹂
僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。そう言われてみればたし
かに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。顔のかたちやひょろりと細
い手首なんかのせいで、レイコの方が直子よりやせていて小柄だという印
象があったのだが、よく見てみると体つきは意外にがっしりとしているよう
でもあった。
﹁このズボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子のもの
を身につけてるの見るの嫌?﹂
﹁そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている方が嬉
しいと思いますね。とくにレイコさんに﹂
﹁不思議なのよ﹂とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らした。
﹁直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはち
ゃんと書き残していったのよ。メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机
の上に置いてあったの。﹃洋服は全部レイコさんにあげて下さい﹄って。変
な子だと思わない?自分がこれから死のうと思ってるときにどうして洋服
のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他
に言いたいことは山ほどあったはずなのに﹂
﹁何もなかったのかもしれませんよ﹂
レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。﹁ね
え、あなた、最初からひとつ話を聞きたいでしょう?﹂
﹁話して下さい﹂と僕は言った。
﹁病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回
復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとの
ために良いだろうってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の
病院に移ることになったの。そこまではたしか手紙に書いたわよね。たしか
八月の十日前後に出したと思ったけど﹂
﹁その手紙は読みました﹂
﹁八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が
一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろかと言うの。自分
で荷物も整理したいし、私とも当分会えないから一度ゆっくり話もしたい
し、できたら一泊くらいできないかっていうことなの。私の方は全然かまい
ませよって言ったの。私も直子にはすごく会いたかったし、話したかったし。
それで翌日の二十五日に彼女はお母さんと二人でタクシ︱に乗ってやっ
てきたの。そして私たち三人で荷物の整理をしたわけ。いろいろ世間話をし
ながら。夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈
夫だからって言って、それでお母さんはタクシ︱を呼んでもらって帰ってい
ったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのとき全然気に
もしなかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配してたのよ。彼女はすご
く落ちこんでがっくりしてやつれてるんじゃないかなって。だてああいう病院
の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってる
からね、それで大丈夫かなあって心配してたわけ。でも私ひと目見て、ああ
これならいいやって思ったの。顔つきも思ったより健康そうだったし、にこに
こして冗談なんかも言ってたし、しゃべり方も前よりずっとまともになってた
し、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし、まあこれならお母
さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思ったわけ。ねえレイコさ
ん、私この際だから病院できちんと全部なおしゃおうと思うのっていうから、
そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。それで私たち外を二
人で散歩していろんなお話をしたの。これからどうするだの、そんないろん
な話ね。彼女こんなこと言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすこ
とができたらいいでしょうねって﹂
﹁レイコさんと二人でですか?﹂
﹁そうよ﹂とレイコさんは言って肩を小さくすぼめた。﹁それで私言っ
たのよ。私はべつにかまわないけど、ワタナベ君のこといいのって。すると
彼女こう言ったの、﹃あの人のことは私きちんとするから﹄って。それだけ。
そして私と二人でどこに住もうだの、どんなことしようだのといったようなこ
と話したの。それから鳥小屋に行って鳥と遊んで﹂
僕は冷蔵庫からビ︱ルを出して飲んだ。レイコさんはまた煙草に火を
つけ、猫は彼女の膝の上でぐっすりと眠りこんでいた。
﹁あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあ
んなに元気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が
楽になってたのよね。それから部屋の中のいろんなものを整理して、いらな
いものを庭のドラム缶に入れて焼いたの。日記がわりしていたノ︱トだと
か手紙だとか、そういうのみんな。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思
ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙は
それまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そした
ら﹃これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの﹄って
言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃった
の。まあ筋はとおってるじゃない、それなりに。そしてこの子も元気になって
幸せになれるといいのにな、と思ったの。だってその日直子は本当に可愛
いかったのよ。あなたに見せたいくらい。
それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂入っ
て、それからとっておきの上等のワインあけて二人で飲んで、私がギタ︱を
弾いたの。例によってビ︱トルス。﹃ノルウェイの森﹄とか﹃ミシェル﹄と
か、あの子の好きなやつ。そして私たちけっこう気持良くなっって、電気消し
て、適当に服脱いで、ベットに寝転んでたの。すごく暑い夜でね、窓を開けて
ても風なんて殆んど入ってきやしないの。外はもう墨で塗りつぶされたみた
いに真っ暗でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。部屋の中までムっと
する夏草の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が始めたの。
あなたとのセックスの話よ。それもものすごくくわしく話すの。どんな風に服
を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分がどんな風に濡れて、どんな
風に入れられて、それがどれくらい素敵だったかっていうようなことを実に
克明に私にしゃべるわけ。それで私、ねえ、どうして今になってそんな話する
のよ、急にって訊いたの。だってそれまであの子、セックスのことってそんな
にあからさまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みた
いなことでセックスのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしいことは絶
対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急にべらべらしゃべり出すん
だもの私だって驚くわよ、そりゃ。﹃ただなんとなく話したくなったの﹄って
直子は言ったわ。﹃べつにレイコさんが聞きたくないならもう話さないけ
ど﹄
﹃いいわよ、話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいなさいよ。
聞いてあげるから﹄って私は言ったの。
﹃彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわか
んないくらいだったの﹄って直子が言ったわ。﹃私始めてだったし。濡れて
たからするっと入ったことは入ったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっ
としちゃうくらい。彼はずっと奥の方まで入れてもうこれくらいかなと思った
ところで私の脚を少し上げさせて、もっと奥まで入れちゃったの。するとね、
体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけられみたいに。手と脚が
じんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死んじ
ゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私
が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさな
いで、私の体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれた
の、長いあいだ。するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして
彼がゆっくりと動かし始めて……ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らし
いのよ。頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたま
ま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ﹄
﹃そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってれば
よかったんじないの?﹄って私言ったの。
﹃でも駄目なのよ、レイコさん﹄って直子は言ったわ。﹃私にはそれ
がわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは
二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起こったことな
の。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、
濡れたこともないのよ﹄
もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性には起こり
がちなことで、年を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。それ
に一度うまく行ったんだもの心配することないわよ。私だって結婚した当初
はいろいろとうまくいかないで大変だったのよって。
﹃そうじゃないの﹄と直子は言ったわ。﹃私何も心配してないのよ、レ
イコさん。私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰
にも乱されたくないだけなの﹄﹂
僕はビ︱ルを飲んでしまい、レイコさんは二本目の煙草を吸ってしま
った。猫がレイコさんの膝の上でのびをし、姿勢をかえてからまた眠ってし
まった。レイコさんは少し迷っていたが三本目をくわえて火をつけた。
﹁それから直子はしくしく泣き出したの﹂とレイコさんは言った。﹁私
は彼女のベットに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからっ
て言ったの。あなたみたいに若くてきれいな女の子は男の人に抱かれて幸
せになんなきゃいけないわよって。暑い夜で直子は汗やら涙やらでぐしょぐ
しょに濡れてたんで、私はバスタオル持ってきて、あの子の顔やら体やらを
拭いてあげたの。パンツまでぐっしょりだたから、あなたちょっと脱いじゃな
さいよって脱がせて……ねえ、変なんじゃないのよ。だって私たちずっと一
緒にお風呂だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし﹂
﹁わかってますよ、それは﹂と僕は言った。
﹁抱いてほしいって直子は言ったの。こんな暑いのに抱けやしないわ
よって言ったんけど、これでもう最後だからって言うんだで抱いたの。体を
バスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにして、しばらく。そして落ちつ
いてきたらまた汗を拭いて、寝巻を着せて、寝かしつけたの。すぐにぐっすり
寝ちゃったわ。あるいは寝たふりしたのかもしれないけど。でもまあどっちに
しても、すごく可愛い顔してたわよ。なんだか生まれてこのかた一度も傷つ
いたことのない十三か十四の女の子みたいな顔してね。それを見てから私
も眠ったの、安心して。
六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻を脱ぎ捨ててあ
って、服と運動靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくな
ってたの。まずいなって私そのとき思ったわよ。だってそうでしょ、懐中電灯
持って出てったってことは暗いうちにここを出ていったっていうことですもの
ね。そして念のために机の上なんかを見てみたら、そのメモ用紙があった
のよ。﹃洋服は全部レイコさんにあげて下さい﹄って。それで私すぐみんな
のところに行って手わけして直子を探してって言ったの。そして全員で寮の
中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに五時間か
かったわよ。あの子、自分でちゃんとロ︱プまで用意してもってきていたの
よ﹂
レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。
﹁お茶飲みますか?﹂と僕は訊いてみた。
﹁ありがとう﹂と彼女は言った。
僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近く、日の
光ずいぶん弱くなり、木々の影が長く我々の足もとにまでのびていた。僕は
お茶を飲みながら、山吹やらつつじやら南天やらを思いつきで出鱈目に散
らばしたような奇妙に雑然とした庭を眺めていた。
﹁それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私は警官
にいろいろと事情を訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊かないわよ。一
応遺書らしき書き置きはあるし、自殺だってことははっきりしてるし、それあ
の人たち、精神病の患者なんだから自殺くらいするだろうって思ってるの
よ。だからひととおり形式的に訊くだけなの。警察が帰ってしまうと私すぐ
電報打ったの、あなたに﹂
﹁淋しい葬式でしたね﹂と僕は言った。﹁すごくひっそりして、人も少
なくて。家の人は僕が直子の死んだことどうして知ったのかって、そればか
り気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんです
ね。本当はお葬式なんて行くべきじやなかったんですよ。僕はそれですごく
ひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです﹂
﹁ねえワタナベ君、散歩しない?﹂とレイコさんが言った。﹁晩ごはん
の買物でも行きましょうよ。私おなか減ったきちゃったわ﹂
﹁いいですよ、何か食べたいものありますか?﹂
﹁すき焼き﹂と彼女は言った。﹁だって私、鍋ものなんて何年も何年
も食べてないんだもの。すき焼きなんて夢にまで見ちゃったわよ。肉とネギ
と糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入って、ぐつぐつと︱︱﹂
﹁それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちに
は﹂
﹁大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてくるから﹂
彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とガスこんろと長
いゴム?ホ︱スを借りてきた。
﹁どう?たいしたもんでしょう﹂
﹁まったく﹂と僕は感心して言った。
我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、
酒屋で比較的まともそうな白ワインを買った。僕は自分で払うと主張した
が、彼女が結局全部払った。
﹁甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑い
ものだわよ﹂とレイコさんは言った。﹁それに私けっこうちゃんとお金持っ
てるのよ。だがら心配しないでいいの。いくらなんでも無一文で出てきたり
はしないわよ﹂
家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム?ホ︱スをひっぱっ
て縁側ですき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイコさんハギタ︱?
ケ︱スから自分のギタ︱をとりだし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器
の具合をたしかめるようにゆっくりとバッハのフ︱ガを弾いた。細かいとこ
ろをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾いたり、ぶっきら棒に弾いたり、センチ
メンタルに弾いたりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに耳を澄ま
せていた。ギタ︱を弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレス
を眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきらとして、
口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりし
た。曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをして
いた。
﹁話しかけていいですか?﹂と僕は訊いた。
﹁いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから﹂とレイコさん
は言った。
﹁レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京に
いるでしょう?﹂
﹁横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人たち、もう私
とは関りあわない方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活
があるし、私は会えば会っったで辛くなるし。会わないのがいちばんよ﹂
彼女は空になったセブンスタ︱の箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい
箱をとりだし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。
﹁私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのは
かつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちば
ん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に
従って行動しているにすぎないのよ﹂
﹁でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが
何であろうがね。そしてこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レ
イコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいです
ね﹂
レイコさんはにっこり笑って、ライタ︱で煙草に火をつけた。﹁あなた
年のわりに女の人の喜ばせ方よく知っているのね﹂
僕は少し赤くなった。﹁僕はただ思っていること正直に言ってるだけ
ですよ﹂
﹁わかってるわよ﹂とレイコさんは笑って言った。
そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の
用意を始めた。
﹁これ、夢じゃないわよね?﹂とレイコさんはくんくんと匂いをかぎな
がら言った。
﹁百パ︱セントの現実のすき焼ですね。経験的に言って﹂と僕は言っ
た。
我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼をつつき、ビ
︱ルを飲み、そしてごはんを食べた。かもめが匂いをかぎつけてやってきた
ので肉をわけてやった。腹いっぱいになるとと、僕らは二人で縁側の柱にも
たれ、月を眺めた。
﹁満足しましたか、これで?﹂と僕は訊いた。
﹁とても。申しぶんなく﹂とレイコさんは苦しそうに答えた。﹁私こんな
に食べたのはじめてよ﹂
﹁これからどうします?﹂
﹁一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐしゃで洗
いたいのよ﹂
﹁いいですよ、すぐ近くにありますから﹂と僕は言った。
﹁ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さ
んっていう女の子ともう寝たの?﹂とレイコさんが訊いた。
﹁セックスしたかっていうことですか?してませんよ。いろんなことがき
ちんとするまではやらないって決めたんです﹂
﹁もうこれできちんとしたんじゃないかしら﹂
僕はよくわからないというように首を振った。﹁直子が死んじゃったか
ら物事は落ちつくべきところに落ちついちゃったってこと?﹂
﹁そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決め
てたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。
直子は死ぬことを選んだのよ。あなたもう大人なんだから、自分の選んだ
ものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうしないと何もかも駄目になっち
ゃわよ﹂
﹁でも忘れられないですよ﹂と僕は言った。﹁僕は直子にずっと君を
待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で
彼女を放り出しちゃった。これは誰のせいだとか誰のせいじゃないとかいう
問題じゃないんです。僕自身の問題なんです。たぶん僕が途中で放り出さ
なくても結果は同じだったと思います。直子はやはり死を選んだだろうと思
います。でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるん
です。レイコさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれ
ど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみ
れば我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんです﹂
﹁あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるの
なら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。
そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に
緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないも
のなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないこ
とになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人
になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまでき
たのよ。はるばるあんた棺桶みたいな電車に乗って﹂
﹁レイコさんの言ってることはよくわかりますよ﹂と僕は言った。﹁で
も僕にはまだその準備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しい
お葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ﹂
レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。﹁私たちみんないつかそ
んな風に死ぬのよ。私もあなたも﹂

僕らは川べりの道を五分ほど歩いて風呂屋に行き、少しさっぱりとし
た気分で家に戻ってきた。そしてワインの栓を抜き、縁側に座って飲んだ。
﹁ワタナベ君、グラスもう一個持ってきてくれない?﹂
﹁いいですよ。でも何するんですか?﹂
﹁これから二人で直子のお葬式するのよ﹂とレイコさんは言った。
﹁淋しくないやつさ﹂
僕はグラスを持ってくると、レイコさんはそれになみなみとワインを注
ぎ、庭の灯籠の上に置いた。そして縁側に座り、柱にもたれてギタ︱を抱
え、煙草を吸った。
﹁それからマッチがあったら持ってきてくれる?なるべく大きいのがい
いわね﹂
僕は台所から徳用マッチを持ってきて、彼女のとなりに座った。
﹁そして私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる?私い
まから弾けるだけ弾くから﹂
彼女はまずヘンリ︱?マンシ︱ニの﹃ディア?ハ︱ト﹄をとても綺麗
に静かに弾いた。﹁このレコ︱ドあなたが直子にプレゼントしたんでしょ
う?﹂
﹁そうです。一昨年のクリスマスにね。あの子はこの曲がとても好きだ
ったから﹂
﹁私も好きよ、これ。とても優しくて﹂彼女は﹃ディア?ハ︱ト﹄のメロ
ディ︱をもう一度何小節か軽く弾いてからワインをすすった。﹁さて酔払っ
ちゃう前に何曲弾けるかな。ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでし
ょう?﹂
レイコさんはビ︱トルズに移り、﹃ノルウェイの森﹄を弾き、﹃イエスタ
ディ﹄を弾き、﹃ミシェン?ザ?ヒル﹄を弾き、﹃サムシング﹄を弾き、﹃ヒ
ア?カムズ?ザ?サン﹄を唄いながら弾き、﹃フ︱ル?オン?ザ?ヒル﹄を
弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。
﹁七曲﹂とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。﹁こ
の人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っている
わね﹂
この人たちというのはもちろんジョン?レノンとボ︱ル?マッカ︱トニ
︱、それにジョ︱ジ?ハリソンのことだった。
彼女は一息ついて煙草を消してからまたギタ︱をとって﹃ペニ︱?レ
イン﹄を弾き、﹃ブランク?バ︱ド﹄を弾き、﹃ジュリア﹄を弾き、﹃六十四
になったら﹄を弾き、﹃ノ︱ホエア?マン﹄を弾き、﹃アンド?アイ?ラブ?
ハ︱﹄を弾き、﹃ヘイ?ジェ︱ド﹄を弾いた。
﹁これで何曲になった?﹂
﹁十四曲﹂と僕は言った。
﹁ふう﹂と彼女はため息をついた。﹁あなた一曲くらい何か弾けな
いの?﹂
﹁下手ですよ﹂
﹁下手でいいのよ﹂
僕は自分のギタ︱を持ってきて﹃アップ?オン?ザ?ル︱フ﹄をたど
たどしくではあるけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一服してゆっくり
煙草を吸い、ワインをすすっていた。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍
手した。
それからレイコさんはギタ︱用に編曲されたラヴェルの﹃死せる女王
のためのバヴァ︱ヌ﹄とドビッシ︱の﹃月の光﹄を丁寧に綺麗に弾いた。
﹁この二曲は直子が死んだあとでマスタ︱したのよ﹂とレイコさんは言っ
た。﹁あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をは
なれなかったわね﹂
そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。﹃クロ︱ス?トゥ?ユ︱﹄
﹃雨に濡れても﹄﹃ウォ︱ク?オン?バイ﹄﹃ウェディングベル?ブル︱
ス﹄。
﹁二十曲﹂と僕は言った。
﹁私ってまるで人間ジュ︱ク?ボックスみたいだわ﹂とレイコさんは楽
しそうに言った。﹁音大のとき先生がこんなのみたらひっくりかえっちゃう
わよねえ﹂
彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている
曲を弾いていった。ボサ?ノヴァを十曲近く弾き、ロジャ︱ス=ハ︱トやガ︱
シュインの曲を弾き、ボブ?ディランやらレイ?チャ︱ルズやらキャロル?キ
ングやらビ︱チボ︱イスやらティ︱ビ︱?ワンダ︱やら﹃上を向いて歩こ
う﹄やら﹃ブル︱?ベルベット﹄やら﹃グリ︱ン?フ︱ルズ﹄やら、もうと
にかくありとあらゆる曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、
メロディ︱にあわせてハミングしたりした。
ワインがなくなると、我々はウィスキ︱を飲んだ。僕は庭のグラスの中
のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキ︱を注いだ。
﹁今これで何曲かしら?﹂
﹁四十八﹂と僕は言った。
レイコさんは四十九曲目に﹃エリナ?リグビ︱﹄を弾き、五十曲目に
もう一度﹃ノルウェイの森﹄を弾いた。五十曲弾いてしまうとレイコさんは
手を休め、ウィスキ︱を飲んだ。﹁これくらいやれば十分じゃないあし
ら?﹂
﹁十分です﹂と僕は言った。﹁たいしたもんです﹂
﹁いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れな
さい﹂とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。﹁このお葬式のことだけ
を覚えていなさい。素敵だったでしょう?﹂
僕は肯いた。
﹁おまけ﹂とレイコさんは言った。そして五十一曲目にいつものバッ
ハのフ︱ガを弾いた。
﹁ねえワタナベ君、私とあれやろうよ﹂と弾き終わったあとでレイコが
小さな声で言った。
﹁不思議ですね﹂と僕は言った。﹁僕も同じこと考えてたんです﹂
カ︱テンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあたり前
のことのように抱きあい、お互いの体を求めあった。僕は彼女のシャツを脱
がせ、下着をとった。
﹁ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の
子にパンツ脱がされることになると思いもしなかったわね﹂とレイコさんは
言った。
﹁じゃあ自分で脱ぎますか?﹂と僕は言った。
﹁いいわよ、脱がせて﹂と彼女は言った。﹁でも私しわだらけだから
がっかりしないでよ﹂
﹁僕、レイコさんのしわ好きですよ﹂
﹁泣けるわね﹂とレイコさんは小さな声で言った。
僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞっ
た。そして少女のような薄い乳房に手をあて、乳首をやわらかく噛み、あた
たかく湿ったヴァギナに指をあててゆっくりと動かした。
﹁ねえ、ワタナベ君﹂とレイコさんが僕の耳もとで言った。﹁そこ違う
わよ。それただのしわよ﹂
﹁こういうときにも冗談しか言えないんですか?﹂と僕はあきれて言
った。
﹁ごめんなさい﹂とレイコさんは言った。﹁怖いのよ、私。もうずっとこ
れやってないから。なんだか十七の女の子が男の子の下宿に遊びに行っ
たら裸にされちゃったみたいな気分よ﹂
﹁ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ﹂
僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首を
つまんだ。そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると
僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に入った。
﹁ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?﹂とレイコさ
んは小さな声で僕に訊いた。﹁この年で妊娠すると恥かしいから﹂
﹁大丈夫ですよ。安心して﹂と僕は言った。
ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は
彼女の背中をやさしくさするように撫でながらペニスを何度か動かして、そ
して何の予兆もなく突然射精した。それは押しとどめようのない激しい射
精だった。僕は彼女にしがみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精
液を注いだ。
﹁すみません。我慢できなかったんです﹂と僕は言った。
﹁馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの﹂とレイコさんは僕のお尻
を叩きながら言った。﹁いつもそんなこと考えながら女の子とやってる
の?﹂
﹁まあ、そうですね﹂
﹁私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさい。好きな
ときに好きなだけ出しなさいね。どう、気持良かった?﹂
﹁すごく。だから我慢できなかったんです﹂
﹁我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、。私もすごく良かっ
たわよ﹂
﹁ねえ、レイコさん﹂と僕は言った。
﹁なあに?﹂
﹁あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らしいのに
もったいないという気がしますね﹂
﹁そうねえ、考えておくわ、それ﹂とレイコさんは言った。﹁でも人は旭
川で恋なんてするものなのかしら?﹂
僕は少し後でもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。レイコ
さんは僕の下で息を呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かに
ペニスを動かしながら、二人でいろんな話をした。彼女の中に入ったまま
話をするのはとても素敵だった。僕が冗談を言って彼女がすくすく笑うと、
その震動がペニスにつたわってきた。僕らは長いあいだずっとそのまま抱
きあっていた。
﹁こうしてるのってすごく気持良い﹂とレイコさんは言った。
﹁動かすのも悪くないですよ﹂と僕は言った。
﹁ちょっとやってみて、それ﹂
僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすように
してその感触を味わい、味わい尽くしたところで射精した。
結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさんは僕
の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせてい
た。
﹁私もう一生これやんなくていいわよね?﹂とレイコさんは言った。
﹁ねえ、そう言ってよ、お願い。残りの人生のぶんはもう全部やっちゃった
から安心しなさいって﹂
﹁誰にそんなことがわかるんですか?﹂と僕は言った。

僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさん
は汽車で行くと主張した。
﹁私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ﹂と彼
女は言った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。彼女はギタ︱?ケ︱ス
を持ち、二人でプラットフォ︱ムのベンチに並んで座って列車が来るのを待
っていた。彼女は東京に来たときと同じツイ︱ドのジャケットを着て、白いズ
ボンをはいていた。
﹁旭川って本当にそれほど悪くないと思う?﹂とレイコさんが訊いた。
﹁良い町です﹂と僕は言った。﹁そのうちに訪ねていきます﹂
﹁本当?﹂
僕は肯いた。﹁手紙書きます﹂
﹁あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい
手紙だったのにね﹂
﹁手紙なんてただの紙です﹂と僕は言った。﹁燃やしちゃっても心に
残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです﹂
﹁正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くのが。だか
ら手紙書いてね。あなたの手紙を読むといつもあなたがとなりにいるよう
な気がするの﹂
﹁僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。レイコさ
んならどこにいてもきっとうまくやれますよ﹂
﹁それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気がする
んだけれど、これは錯覚かしら?﹂
﹁残存記憶です、それは﹂と僕は言って笑った。レイコさんも笑った。
﹁私のこと忘れないでね﹂と彼女は言った。
﹁忘れませんよ、ずっと﹂と僕は言った。
﹁あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行って
もあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ﹂
僕はレイコさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼女に口
づけした。まわりを通りすぎる人たちは僕たちのことをじろじろとみていた
けれど、僕にはもうそんなことは気にならなかった。我々は生きていたし、生
きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。
﹁幸せになりなさい﹂と別れ際にレイコさんは僕に言った。﹁私、あ
なたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えな
いのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい
幸せになりなさい、としかね﹂
我々は握手をして別れた。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっ
ぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求
めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から
始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨
が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕がそのあい
だガラス窓にずっと押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を
開いた。﹁あなた、今どこにいるの?﹂と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見
まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわから
なかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつ
るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はど
こでもない場所のまん中で緑を呼びつづけていた。
あとがき
僕は原則的に小説にあとがきをつけることを好まないが、おそらくこの
小説はそれを必要とするだろうと思う。
まず第一に、この小説は五年ほど前に僕が書いた﹃螢﹄という短篇
小説︵﹃螢?納屋を焼く?その他の短編﹄に収録されている︶が軸にな
っている。僕はこの短篇をベ︱スにして四百字詰三百枚くらいのさらりとし
た恋愛小説を書いてみたいとずっと考えていて、﹃世界の終わりとハ︱ド
ボイルド?ワンダ︱ランド﹄の次の長篇にとりかかる前のいわば気分転換
にやってみようというくらいの軽い気持でとりかかったのだが、結果的には
九百枚に近い、あまり﹁軽い﹂とは言い難い小説になってしまった。たぶ
んこの小説は僕が思っていた以上に書かれることを求めていたのだろうと
思う。
第 二に 、 この 小説はきわ め て 個人的な小説で あ る。﹃世界 の 終
り……﹄が自伝的であるというのと同じ意味あいで、F?スコット?フィッツ
ジェラルドの﹃夜はやさし﹄と﹃グレ︱ト?ギャツビイ﹄が僕にとって個人
的な小説であるというのと同じ意味あいで、個人的な小説である。たぶん
それはある種のセンティメントの問題であろう。僕という人間が好まれたり
好まれなかったりするように、この小説もやはり好まれたり好まれなかった
りするだろうと思う。僕としてはこの作品が僕という人間の質を凌駕して存
続することを希望するだけである。
第三にこの小説は南ヨ︱ロッパで書かれた。一九八六年六年十二月
二十一日にギリシャ、ミコノス島のヴィラで書き始められ、一九八七年三月
二十七日にロ︱マ郊外のアパ︱トメント?ホテルで完成された。日本を離
れたことがこの小説にどう作用しているのかは僕には判断できない。何か
作用しているような気もするし、何も作用していないような気もする。ただ
電話も来客もなく仕事に熱中できたことは大変にありがたかった。この小
説の前半はギリシャで、途中シシリ︱をはさんで、後半はロ︱マで書かれ
ている。アテネの安ホテルの部屋にはテ︱ブルというものがなくて、僕は毎
日おそろしくうるさいタペルナに入って、ウォ︱クマンで﹃サ︱ジャンと?ペ
パ︱ズ?ロンリ︱?ハ︱ツ?クラブ?バンド﹄のテ︱ブを百二十回くらいく
りかえして聴きながらこの小説を書きつづけた。そういう意味ではこの小説
はレノン?マッカ︱トニ︱のa little helpを受けている。
第四に、この小説は僕の死んでしまった何人かの友人と、生きつづけ
ている何人かの友人に捧げられる。
一九八七年六月
村上春樹

以下作品由 瀛志制作
製作軟體:天火藏書排版系統
網 址:http://ebook.cdict.info
字型資訊:黑體 DroidSansFallback
製作日期:2017/02/07
製作時間:15:53:17
連線位置:113.247.4.150

天火藏書排版系統,為一套直書的排版系統,主要方便使用者 閱讀
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