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ちゃくご ま ころ ほうがく わか ち り もと
行ったのは着 後 間もないうちの事である。その頃 は方 角 もよく分 らんし、地理などは固 より
し ごてんば うさぎ きゅう にほんばし まんなか ほう だ こころも
知らん。まるで御殿場の 兎 が 急 に日本橋の真 中 へ抛 り出されたような心 持 ちであった。
おもて で なみ うち かえ きしゃ じぶん へ や しょうとつ
表 へ出れば人の波 にさらわれるかと思い、家 に帰 れば汽車が自分の部屋に 衝 突 しはせぬか
うたが あさゆうやす ごころ ひび ぐんしゅう なか す わ しんけい
と 疑 い、朝 夕 安 き 心 はなかった。この響 き、この 群 集 の中 に二年住んでいたら吾が神 経
せんい なべ ふ の り たいかろん
の繊維もついには鍋 の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論
いま だいしんり おり
を今 さらのごとく大真理と思う折 さえあった。
ロンドンとう とうきょう うえ がわ へだ め まえ のぞ よ いま ひと
この倫 敦 塔 を 塔 橋 の上 からテームス河 を隔 てて眼の前 に望 んだとき、余は今 の人 かはた
いにし おも われ わす よねん なが い ふゆ はじ ものしず
古 えの人かと思 うまで我 を忘 れて余念もなく眺 め入った。冬 の初 めとはいいながら物 静 か
ひ そら あ く おけ か ま いろ ひく た かか かべつち
な日である。空 は灰汁 桶 を掻き交ぜたような色 をして低 く塔の上に垂れ懸 っている。壁 土 を
とか こ み なが なみ た おと む り や り うご おも
溶 し込んだように見ゆるテームスの流 れは波 も立てず音 もせず無理矢理に動 いているかと思
ほかけぶね いっせき した ゆ かぜ かわ ほ ふきそく さんかくけい しろ
わるる。帆懸舟が一 隻 塔の下 を行く。風 なき河 に帆をあやつるのだから不規則な三 角 形 の白
つばさ おな ところ とま てんま おお に そ う のぼ く
き 翼 がいつまでも同 じ 所 に停 っているようである。伝馬の大 きいのが二艘 上 って来る。た
ひとり せんどう とも た ろ こ らんかん
だ一人の船 頭 が艫 に立って艪を漕ぐ、これもほとんど動かない。塔橋の欄 干 のあたりには白
かげ おおかたかもめ みわた もの ものう
き影 がちらちらする、大 方 鴎 であろう。見渡したところすべての物 が静かである。物憂げに
ねむ みんな か こ かん なか れいぜん にじっせいき けいべつ
見える、眠 っている、 皆 過去の感 じである。そうしてその中 に冷 然 と二十世紀を軽 蔑 する
きしゃ はし でんしゃ れきし あ かぎ
ように立っているのが倫敦塔である。汽車も走 れ、電 車 も走れ、いやしくも歴史の有らん限 り
い いだい おどろ
は我のみはかくてあるべしと云わぬばかりに立っている。その偉大なるには今さらのように 驚
けんちく ぞく とな たん なまえ じつ いくた やぐら な
かれた。この建 築 を俗 に塔と称 えているが塔と云うは単 に名前のみで実 は幾多の 櫓 から成り
た じしろ なら そび まる かくば けいじょう
立つ大きな地城である。並 び聳 ゆる櫓には丸 きもの角張りたるものいろいろの 形 状 はある
いんき はいいろ ぜんせいき きねん えいごう つた ちか くだん
が、いずれも陰気な灰 色 をして前世紀の紀念を永 劫 に伝 えんと誓 えるごとく見える。九段の
ゆうしゅうかん いし つく にさんじゅう むしめがね のぞ
遊 就 館 を石 で造 って二 三 十 並べてそうしてそれを虫眼鏡で覗 いたらあるいはこの「塔」に
に できあが かんが いろ すいぶん
似たものは出来上りはしまいかと 考 えた。余はまだ眺めている。セピヤ色 の水 分 をもって
ほうわ こころ うち しだい
飽和したる空気の中にぼんやり立って眺めている。二十世紀の倫敦がわが 心 の裏 から次第に
き さ どうじ がんぜん とうえい まぼろし わ のうり えが だ く あさ お
消え去ると同時に眼 前 の塔 影 が 幻 のごとき過去の歴史を吾が脳裏に描 き出して来る。朝 起
すす しぶちゃ けむ ね た ゆめ お ひ むこ ぎし
きて啜 る渋 茶 に立つ煙 りの寝足らぬ夢 の尾を曳くように感ぜらるる。しばらくすると向 う岸
なが て だ ひっぱ あや き ちょりつ みうご
から長 い手を出して余を引張るかと怪 しまれて来た。今まで佇 立 して身動きもしなかった余は
きゅう かわ わた い つよ ひ ほ うつ
急 に川 を渡 って塔に行きたくなった。長い手はなおなお強 く余を引く。余はたちまち歩を移
わた か ひ いちもくさん とうもん は
して塔橋を渡 り懸けた。長い手はぐいぐい牽く。塔橋を渡ってからは一 目 散 に塔 門 まで馳せ
つ み ま さんまんつぼ あま いちだいじしゃく げんせ ふゆう しょうてつくず きゅうしゅう
着けた。見る間に三 万 坪 に余 る過去の一 大 磁 石 は現世に浮游するこの 小 鉄 屑 を 吸 収 し
はい ふ かえ
おわった。門を入 って振り返 ったとき、
えいごう かしゃく あ
永 劫 の呵 責 に遭わんとするものはこの門をくぐれ。
めいわく ひと ご
迷 惑 の人 と伍せんとするものはこの門をくぐれ。
わ まえ もの むきゅう われ しの
我が前 に物 なしただ無 窮 あり我 は無窮に忍 ぶものなり。
す のぞみ す
この門を過ぎんとするものはいっさいの 望 を捨てよ。
く きざ おも よ とき じょうたい うしな
という句がどこぞで刻 んではないかと思 った。余はこの時 すでに 常 態 を 失 っている。
あに やさ きよ こえ ひざ うえ しょもつ よ
兄 が優 しく清 らかな声 で膝 の上 なる書 物 を読む。
わ め まえ し おり ざま おも み ひと さち ひごとよごと し ねが
「我が眼の前 に、わが死ぬべき折 の様 を想 い見る人 こそ幸 あれ。日毎夜毎に死なんと願 え。
かみ ゆ われ なに おそ
やがては神 の前に行くなる吾 の何 を恐 るる……」
おとうと よ あわ い おり とお ふ こがら たか とう ゆる
弟 は世に憐 れなる声にて「アーメン」と云う。折 から遠 くより吹く木枯しの高 き塔 を撼 が
ひとた かべ お な み よ かた かお
して一度びは壁 も落つるばかりにゴーと鳴る。弟はひたと身を寄せて兄の肩 に顔 をすりつけ
ゆき しろ ふとん いちぶ ふく かえ よ はじ
る。雪 のごとく白 い蒲団の一部がほかと膨 れ返 る。兄はまた読み初 める。
ふる しず しょ ちい まど
弟また「アーメン」と云う。その声は顫 えている。兄は静 かに書 をふせて、かの小 さき窓 の
かた あゆ と も せ た しょうぎ も き
方 へ歩 みよりて外の面を見ようとする。窓が高くて背が足りぬ。床 几 を持って来てその上につ
ひゃくり こくむ おく ふゆ ひ うつ ほふ いぬ いきち そ ぬ
まだつ。百 里 をつつむ黒霧の奥 にぼんやりと冬 の日が写 る。屠 れる犬 の生血にて染め抜いた
きょう く かえり さむ こた
ようである。兄は「今日もまたこうして暮れるのか」と弟を 顧 みる。弟はただ「寒 い」と答
いのち たす おじさま おう い しん ひと ごと
える。「 命 さえ助 けてくるるなら伯父様に王 の位を進 ぜるものを」と兄が独 り言 のようにつ
ははさま あ ときむこ かか お だ
ぶやく。弟は「母 様 に逢いたい」とのみ云う。この時 向 うに掛 っているタペストリに織り出
めがみ らたいぞう かぜ にさんど うご
してある女神の裸体像が風 もないのに二三度ふわりふわりと動 く。
あ こと ゆる おんな と
「逢う事 を許 されてか」と 女 が問う。
くさ ゆび さき ま しあん てい しず
男は鎖 りを指 の先 に巻きつけて思案の体 である。かいつぶりはふいと沈 む。ややありていう
ろうも やぶ み こ かわ つきひ すご
「牢守りは牢の掟を破 りがたし。御子らは変 る事なく、すこやかに月日を過 させたもう。
こころや おぼ かえ おしもど みうご しきいし うえ
心 安 すく覚 して帰 りたまえ」と金の鎖りを押 戻 す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷 石 の上
お そうぜん な
に落ちて鏘 然 と鳴る。
かな たず
「いかにしても逢う事は叶 わずや」と女が尋 ねる。
ご き どく ろうもり い はな
「御気の毒 なれど」と牢 守 が云い放 つ。
くろ とう かげ かた かべ さむ ひと な
「黒 き塔 の影 、堅 き塔の壁 、寒 き塔の人 」と云いながら女はさめざめと泣く。
ぶたい
舞台がまた変る。
ふ む しじゅうぎゅう く
振り向いて見るとビーフ・イーターである。ビーフ・イーターと云うと始 終 牛 でも食ってい
ひと かれ ろんどんとう ばんにん シルクハット つぶ
る人 のように思われるがそんなものではない。彼 は倫 敦 塔 の番 人 である。 絹 帽 を潰 した
ぼうし かぶ びじゅつがっこう せいと ふく まと ふと そで さき くく こし
ような帽子を被 って美 術 学 校 の生徒のような服 を纏 うている。太 い袖 の先 を括 って腰 のと
おび もよう えぞじん き はんてん
ころを帯 でしめている。服にも模様がある。模様は蝦夷人の着る半 纏 についているようなすこ
たんじゅん ちょくせん なら かくがた く あ す とき やり たずさ
ぶる 単 純 の 直 線 を並 べて角 形 に組み合わしたものに過ぎぬ。彼は時 として槍 をさえ 携 え
ほ みじ え け さ さんごくし で
る事がある。穂の短 かい柄の先に毛の下がった三国志にでも出そうな槍をもつ。そのビーフ・
ひとり うし と
イーターの一人が余の後 ろに止まった。
せ たか ふと じし しろひげ おお
彼はあまり背の高 くない、肥 り肉 の白 髯 の多 いビーフ・イーターであった。「あなたは
にっぽんじん びしょう たず げんこん えいこくじん はなし き
日 本 人 ではありませんか」と微 笑 しながら尋 ねる。余は現 今 の英 国 人 と 話 をしている気が
さんよんひゃくねん むかし かお だ きゅう いにし
しない。彼が 三 四 百 年 の 昔 からちょっと顔 を出したかまたは余が 急 に三四百年の 古 えを
のぞ かん もく かろ き い つ ゆ
覗 いたような感 じがする。余は黙 して軽 くうなずく。こちらへ来たまえと云うから尾いて行
ゆび にほんせい ふる ぐそく さ め
く。彼は指 をもって日本製の古 き具足を指して、見たかと云わぬばかりの眼つきをする。余は
もうこ にせい けんじょう
まただまってうなずく。これは蒙古よりチャーレス二世に 献 上 になったものだとビーフ・イ
せつめい み
ーターが説 明 をしてくれる。余は三たびうなずく。
うち そうぞう み よ なか なに
こんなものを書く人の心の中 はどのようであったろうと想 像 して見る。およそ世の中 に何 が
くる しょざい いしき ないよう へんか
苦 しいと云って所 在 のないほどの苦しみはない。意識の内 容 に変化のないほどの苦しみはな
つか からだ め み なわ しば うご い
い。使 える身体は目に見えぬ縄 で縛 られて動 きのとれぬほどの苦しみはない。生きるというは
かつどう おさ せい い み うば
活 動 しているという事であるに、生きながらこの活動を抑 えらるるのは生 という意味を奪 わ
おな じかく し いっそう くつう
れたると同 じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一 層 の苦痛である。この壁の
しゅうい とまつ ひとびと みんな つら な しの かぎ
周 囲 をかくまでに塗抹した人 々 は 皆 この死よりも辛 い苦痛を甞めたのである。忍 ばるる限
た たたか すえ た はじ くぎ
り堪えらるる限りはこの苦痛と 戦 った末 、いても起ってもたまらなくなった時、始 めて釘 の
おれ する つめ りよう ぶ じ しごと もと たいへい うち ふへい も へいち うえ はらん
折 や鋭 どき爪 を利用して無事の内に仕事を求 め、太 平 の裏 に不平を洩らし、平地の上 に波瀾
かれ だい い ち じ いっかく ごうきゅう ているい た しぜん ゆる
を画いたものであろう。彼 らが題 せる一字 一 画 は、 号 泣 、涕 涙 、その他すべて自然の許 す
はいもんてきしゅだん つく のち あ し ほんのう ようきゅう よ ぎ
限りの排 悶 的 手 段 を尽 したる後 なお飽く事を知らざる本 能 の 要 求 に余儀なくせられたる
けっか
結果であろう。
そうぞう み うま き いじょう い し おそ い
また想 像 して見る。生 れて来た以 上 は、生きねばならぬ。あえて死を怖 るるとは云わず、た
ヤ ソ こうしいぜん みち い ご
だ生きねばならぬ。生きねばならぬと云うは耶蘇孔子以前の道 で、また耶蘇孔子以後の道であ
なん りくつ い ひと
る。何 の理窟も入らぬ、ただ生きたいから生きねばならぬのである。すべての人 は生きねばな
ごく つな だいどう したが どうじ かれ
らぬ。この獄 に繋 がれたる人もまたこの大 道 に 従 って生きねばならなかった。同時に彼 らは
うんめい がんぜん ひか い の じじこっこく
死ぬべき運 命 を眼 前 に控 えておった。いかにせば生き延びらるるだろうかとは時々刻々彼ら
きょうり おこ ぎもん へや い かなら てんじつ ふたた み
の胸 裏 に起 る疑問であった。ひとたびこの室 に入るものは 必 ず死ぬ。生きて天 日 を 再 び見
き おんな くび こい うら は お
切れぬはずだよ 女 の頸 は恋 の恨 みで刃が折れる。
な おと きこ ひか かぜ あお と て
シュシュシュと鳴る音 のほかには聴 えるものもない。カンテラの光 りが風 に煽 られて磨ぎ手
みぎ ほう い すす うえ しゅ なが だれ ばん しつもん
の右 の頬 を射る。煤 の上 に朱 を流 したようだ。「あすは誰 の番 かな」とややありて髯が質 問
れい ばあさま へいき こた
する。「あすは例 の婆 様 の番さ」と平気に答 える。
き み わる とお す さき ぬ じゅうがん かど で めちゃくちゃ か つづ
気味が悪 くなったから通 り過ぎて先 へ抜ける。 銃 眼 のある角 を出ると滅茶苦茶に書き綴 られ
もよう もんじ わか なか ただ かく ちいさ おぼ
た、模様だか文字だか分 らない中 に、正 しき画 で、 小 く「ジェーン」と書いてある。余は覚
まえ たちど えいこく れきし な し もの
えずその前 に立留まった。英 国 の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者 はある
はくめい むざん さいご どうじょう なみだ そそ ぎ ふ
まい。またその薄 命 と無残の最後に 同 情 の 涙 を濺 がぬ者はあるまい。ジェーンは義父と
おっと やしん じゅうはちねん しゅんじゅう つみ おしげ けいじょう う ふ にじ
所天の野心のために 十 八 年 の 春 秋 を罪 なくして惜気もなく 刑 場 に売った。蹂み躙 られ
ば ら しべ き がた か とお た いた し ひもと
たる薔薇の蕊 より消え難 き香の遠 く立ちて、今に至 るまで史を 繙 く者をゆかしがらせる。
ギリシャ ご かい いちだい せきがく した ま いつじ
希 臘 語を解 しプレートーを読んで一 代 の碩 学 アスカムをして舌 を捲かしめたる逸事は、この
ししゅ じんぶつ そうけん こうざいりょう なんびと のうり ほぞん
詩趣ある人 物 を想 見 するの 好 材 料 として何 人 の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェ
うご くうそう まく
ーンの名の前に立留ったぎり動 かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空 想 の幕 はすで
にあいている。
ひと ふたた
それからは人 と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また 再 び見物に行かない事にきめた。
Whir―whir―whir―whir!
Whir―whir―whir―whir!
And the edge since then has been notched and dull.
Whir―whir―whir―whir!
Whir―whir―whir―whir!
ぜんしょう やく おも い あま ながす おそ
この 全 章 を訳 そうと思 ったがとうてい思うように行かないし、かつ余 り長過ぎる恐 れがある
からやめにした。
ふね あが しゅうじん しじん こ へい あ
舟 より上 る 囚 人 のうちワイアットとあるは有名なる詩人の子にてジェーンのため兵 を挙げた
ひと ふ し どうみょう ゆえまぎ やす き お
る人 、父子 同 名 なる故 紛 れ易 いから記して置く。