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不完全な世界

つやこ
2
その日の俺は疲れていたし、少しばかり諦めかけてもいた。去年の大学の学祭で一目惚れをして、彼を
探すために Scrubb
のライブに通って、でも一向にその姿を見つけられず、 Scrubb
が出演する公録やイ
ンストアイベントにまで足を運んだことは、さすがに友達にも言ってない。何ヶ月もの時間を無為に費
やし、なんであのとき声をかけなかったのかと、百万回繰り返した自責をさらに重ね、たった一枚の彼
の写真は凝視しすぎて瞼の裏に焼きつき、しょっちゅう夢に出てきた。
下見したあの大学に入学したはいいが、「半年前、確かにここにいたんだよな」と構内を歩くたびに
虚しくなって毎日にうんざりして、つまりそんなときだったのだ、彼が走ってきたのは。
「 ……

自分の眼が信じられなかったし、ついにここまで来たか、と思った。昼間っから幻覚見るなんて重症
だ、俺はこの病気みたいな恋に振り回されている。ずっと恋焦がれていた彼が俺のもとに一直線に駆け
寄ってくるなんて、そんな都合のいい話があるか?
「ぁ ――」
何か言いたげに俺を見つめて、しかし言葉が出てこないのは、白昼夢の限界だろう。彼との会話を、
俺自身が想像できない。
自分が不甲斐なくて眉間が狭まり、嫌気が差して踵を返した。
「サラワット」
背後から名前を呼ばれたところで、まるで真実味がなかった。もし彼が本物だったら俺は何を話した
だろうって、バカみたいに考えながら立ち去ろうとした。
「サラワット ―― クソ野郎!」
けれどその罵声は、やけに迫真を持って響いた。生活が一変するほどの想い人に罵倒されるというの
は、なるほど現実かもしれない。
「ごめん、あの … えっと ――」
足を止めて振り返ると、彼は謝りつつも煮え切らない様子で、困ったような作り笑いを浮かべ、それ
でも歩み寄っていく俺から眼を離さなかった。
4

「何?」
「その、あー …」
「早く言えよ、急いでるんだ」
イラついて急き立てても、彼は相変わらず歯切れが悪く、視線をさまよわせた後、またまっすぐに俺
を見つめてきた。迷うように揺れる瞳はまばたきが少なく、黒々と潤んで、吸い込まれそうだった。
彼が俺を ――俺だけを見てる。
「そんなふうに俺を見つめるなら、お前が落ちるまでキスするぞ」
考える前に本音がこぼれた。それ以上、彼と顔を合わせていられなかった。物言いたげな唇は淡くや
わらかそうで、薄く開いた隙間から白い歯が覗いてた。両手でその頬を掴んで引き寄せて、有無を言わ
さずキスしたかった。
「迷惑だ」
それを避けるには、吐き捨てて背を向けるしかない。平然と歩き去るふりで、今俺は何を言ったんだ
ろうと、動揺と錯乱で頭が真っ白になった。
正気に戻るまでどれくらいかかったのか。好奇心丸出しのマンとボスに問い詰められて、ようやく彼
が夢や幻なんかじゃなく、再会がかなったんだと実感した。
「見つけた ――彼を見つけた! 見つけたんだ」
何ヶ月も探し続けた彼に出会えて舞い上がった。
「今さっき話したのが、俺が好きな人なんだって!」
「そりゃ ……よかったな」
文字どおり地に足がついてない俺のはしゃぎように、二人ともあきれてたと思う。興奮してひとしき
り騒いだら、さすがに頭が冷えて我に返った。
「俺 ……落ちるまでキスするって言っちゃったよ …

後悔とともに疑問も押し寄せた。
いったい彼が俺に何の用があるっていうんだ?
彼からのメールでタインという名を知り、上手く話せないなりに何度か絡まれるうちに、その答えは
唐突に判明した。
「俺の彼氏になって」
「お前 ――何言ってんだ」
耳を疑ったし、また自分がおかしくなったんじゃないかと思った。それは俺が夢見ていたことで、現
実のタインにはそぐわない。
事実、すぐさまタインの口から真相を告げられた。
「ほんとの彼氏じゃなくて、俺を好きなふりをするだけでいいんだ」
ふりなんかしなくても本気でお前が好きだ。
「最近、ずっと付きまとわれてて」
俺だって出来るものならお前に付きまといたい。
「だから俺の盾になってほしいんだ」
タインの頼みなら何だって聞いてやりたい反面、疑念がこみ上げた。相手に対して不誠実じゃないか
って。彼を一方的に想ってるのは俺も同じだから、無意識に見知らぬ誰かに肩入れした。
「なんでだ? その子が美人じゃないからか」
そういう理由のほうがよっぽどマシだっただろう。
「そいつは男で、俺は女の子が好きなんだ」
「 ――…っ」
キン …ッと耳鳴りのように鼓膜の奥でかすかな金属音がして、世界が凍りついた。全身の血が一気に
下がって寒気がし、心まで冷えた。引きつった喉で息がつかえ、氷の杭でも打ち込まれたみたいに胸が
痛んだ。
タインは男に好かれても困るだけだ。俺がどれだけ彼を想っていても、絶対に届かない。
6

「何が問題なんだ? 誰かがお前を好きなのはいいことじゃないか」
自己弁護みたいに反論しながら、詭弁だって気づいてもいた。
俺を好きだと言い寄ってくる女の子達を、俺は一度だって歓迎したことがあったか? 悪気はないと
わかっていても、どこか煩わしく思ってたくせに。
「全然よくない。俺は他人に自分の生活を乱されるのは好きじゃないんだ」
「わからないだろ。いつか、誰かに自分の人生に入り込んでほしいと望むかもしれない」
そしてその「いつか」も「誰か」も自分では決して選べないんだ。何の前ぶれもなくあるとき突然、
運命が訪れる。
雷に打たれように、星が落ちてきたみたいに。
「お前も他人に踏み込まれるのを迷惑がる奴だと思ったけど」
ああ、そのとおりだよ。俺は自分のペースを乱されるのは好きじゃない。でももう出会ってしまった。
「既に一人いるけどな」
想いが苦くて舌が乾いて、タインに告げる唇が歪んだ。
「いるの? どこに 」
??
「お前だよ」
嘘だよ。
自分を守るためにタインを突き放して、一言ごとに胸がきしんだ。
「お前が迷惑なんだよ」
学祭のライブでお前を見つけて世界が開けたみたいだったし、探し続けて再会できたときは天にも昇
る心地だった。メールをもらって胸が高鳴った。お前と話したいしお前にさわりたいし、いつだって一
緒にいたい。
タイン、お前が好きだ。
あそこまで言ったんだ、もう関わることはないと思っていたのに、タインは予想外にしつこく、軽音部
に入部してきた。正直、胸がざわめいた。タインが俺を好きになることはないし、近くにいたってつら
くなるばかりだとわかっていても、タインから眼が離せなかったし、もっと親しくなりたかった。
だからって、ポッキーゲームはどうかと思うが。
「 ……

気乗りしないタインが唇で差し出したポッキーを、一度は歯先で挟んだものの、鼻先にその顔があっ
て、瞼を伏せても視線の逃げ場がない。途方に暮れて顔を引けば、タインが挑発するみたいにポッキー
を突き出してきて、もう俺もヤケになってしっかりくわえた。
とはいえタインも落ち着かないようで、最初は目線をちらちらただよわせていたが、負けず嫌いらし
くこっちを見返した。見開かれたその瞳に映っているのは俺だけで、俺に対して神経過敏になっていた。
「できるだけ短くしろ」
今この瞬間、俺だけを見て俺を気にして、俺のことを考えてる。
たまらなくなってポッキーをのみこみながら距離を詰めると、タインはどうしていいかわからないみ
たいに固まって、すれ違う鼻先がかすった。睫毛が長くて白い肌はなめらかで、かすかに洩れる息は上
ずったように熱かった。
生殺しだろ、こんなの。
「 ――…」
ほとんど誘われるみたいに、眼をつぶって顔を寄せた。顔を傾けるだけでよかった、あんなに遠くて
現実の彼方にあったタインの唇にふれた。淡い唇は柔らかくてうっすら湿っていて、あたたかかった。
そのぬくもりと吐息を感じて、痺れるみたいだった。
ポッキーを噛み切るのが惜しく、一方タインはまばたきも忘れて唖然としていて、束の間のキスはは
かなくて甘くて苦かった。
「ただのゲームに何、真剣になってんだよ?」
「昨日、俺に彼氏になってくれって頼んだんだ。あんな軽いキスくらい何でもないだろ」
8

息巻くタインを受け流しながら、平気じゃないのは俺だ、と思った。よくしゃべる唇から眼が離せな
くて、怒った顔も滅茶苦茶かわいかった。
タインが軽音部に入部してきたこと自体はうれしかった、それだけ目にする機会が増える。ただしこ
とあるごとに「偽の彼氏になって」と迫られるのには閉口した。
「俺を好きなふりするだけでいいから」
とっくにお前を好きだっていうのに、どうしろって言うんだ。
「偽の彼氏になって助けてよ」
偽の偽のって連呼されて腹が立った。そのたびに、タインが俺を好きじゃないんだって思い知らされ
る。俺がなりたいのは正真正銘、本物の彼氏なんだよ。でもお前は ――

お前は、俺の見た目と立場を利用したいだけじゃないか。
このころにはもう、タインが思い描いていたような理想の人じゃないって気づいてた。それなのに失
望したり幻滅したりはできなくて、あの奇跡みたいな一瞬に囚われて、俺はタインを好きでいる。
ただ、部室倉庫のロッカーに閉じ込められたのには、驚きを通り越してあきれた。
「出してほしかったら、俺の偽の彼氏になってよ」
「おい、厄介者! ここを開けろっ」
「一晩そこでゆっくり考えといて」
あいつ正気か? やることが無茶苦茶だ。いくらなんでも怒っていいだろう、これは。
「俺を脅す気か !?タダじゃ済まさないぞ」
現実のタインはふざけた野郎で、全然想像してたような人じゃない。言葉を交わすだけで腹が立つ。
けれど生身の彼はあざやかで、一秒ごとに眼に焼きつき、ますます俺を夢中にさせる。サプライズボ
ックスみたいな奴だ、と思う。
こいつといたら、一生退屈しないだろうな。
「入部テストに合格したら、偽の彼氏になってよ」
二言目にはこれだとうんざりしてるのに、どうしても嫌いになれない。
「俺は女の子が好きなんだ」
けれどあの言葉が棘のように胸に刺さって、呪いみたいに俺を苦しめる。
仮に仲良くしたところでどうなるんだ。いい友達になって恋の相談を受けて、すぐ隣の特等席でタイ
ンが彼女とイチャつくところを見せられるのか?
「 ……
受かったらな」
俺は未練がましい奴だ。告白してふられる勇気もないくせに、つながりを断つこともできない。
「その代わり、もし不合格だったらもう俺に関わるなよ」
タインとどう接するかすら計りかねている。
タインを合格させてほしいと、部長に頼みはしたものの、このままなし崩しに親しくなったところで
どうするつもりなんだって、まだ自分に迷いがあった。完全に吹っ切れたのは、タインが課題曲の演奏
を終えた後、部長とのやりとりを聞いたからだ。
「他にできる楽器は? 何も知らないのか」
「俺はサラワットを知ってます」
タインが俺を見つめて無自覚に口にした言葉に胸を打たれた。
「彼が、俺がギターを弾きたい理由です」
熱烈だな、と思った。今のタインにとってギターそのものは俺に近づく手段にすぎないとわかってい
ても、俺にはギターが一番でギターが俺の中心で、つまりそういうことだ。
死んだロックスターが、かつて恋人に送った手紙を思い出した。
〈ギターのように君を愛してる〉
それくらい最大級の愛の言葉に感じて、もう駄目だった。さらに深く強く、タインに心を掴まれた。
降参だ、覚悟を決めるしかない。
合格発表の後、俺は〈こいつは俺のもの〉と付箋を貼ったペットボトルをタインに差し出す。
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「いいよ。お前の偽の彼氏になってやる」
俺はこいつと恋人ごっこをする。そして間違いなく、もっとこいつを好きになる。
予感じゃなくて確信だった。
タインの彼氏のふりは、なかなか上手くいかなかった。
「それで、俺は何をしたらいいんだ?」
「女の子を口説くみたいに、おやつや飲み物を買って、俺を気にかけて」
その程度でいいのか。というか、その程度で済むと思ってるのか。
グリーンがディム部長の相手だと知ってても、タインにベタベタくっついてるのを目の当たりにして
ムカついた。愛妻弁当を脇にやってカフェテリアのランチを押しつけ、代わりにタインのドリンクを手
に取った。
「それ、俺の飲みかけ」
「だから?」
タインが口をつけたストローでブルーハワイを飲みながら、偽彼氏もまあ悪くないって、少しだけ思
ったりした。
ところが当のタインのお気に召さなかったらしく、部活の休憩中に不満をタレられた。
「お前、やりすぎなんだよ。グリーンに芝居がかって見えたら意味ないだろ」
俺は、自分なりに恋人らしく振る舞ったつもりだった。もし本当にタインと付き合えたら、あれもし
たいこれもしようって、二人でやりたいことはいくらでもあった。
「付き合うふりが下手なんだよな」
それなのにタインは、ひどく残酷なことを言う。
「恋したことないの?」
これは恋じゃないのか、と言いたかった。
お前に会いたくて何ヶ月も探し続けて、かすりもしないのに諦めきれず、夢にまで見た。お前が目の
前に現れたときは、動揺と緊張でまともに口もきけなかった。うれしくてバカみたいに浮かれて、どう
やって仲良くなろうか考えているうちに、お前が男と恋をするのは無理だって知って、でも想いを断ち
切れず、お前の近くにいたくて彼氏のふりをしてる。
これが恋じゃないなら何なんだ。
「ワット、この後、予定ある?」
「なんでだ? デートしてほしいのか」
次は俺に何をさせる気だって、身構えながらもタインに誘われて心が浮き立った。
「ダダリオの弦を買いに行くの、付き合ってくれない? 俺達が恋人らしく見えるように、もっと一緒
にすごしたほうがいいと思うんだ」
「だからギター屋にデートのお誘いか」
からかうつもりで口にした言葉に、自分で虚しくなった。
タインにとって俺は何なんだろう。彼氏のふりをさせられる便利な相手か、ギターに詳しい使える友
達か。
「俺の部屋まで取りに来るなら、使ってないギターを貸してやる」
お前を好きじゃなかったら、見返りもなくこんな真似できるか。
そうやってギターにかこつけて部屋に連れ込んだはよかったが、
「そのギター? 持ってくよ」
タインは目当てのギターを手にするなり、用は済んだと速攻帰ろうとして、つくづく薄情というか無
礼というか、俺に脈がないどころじゃない。
「チューニングしないとだろ。よこせよ」
チューニングを理由に引き止めると、タインは当然のようにマットレスで隣に腰を下ろした。黙って
待つこともできないのか、数秒で話しかけてくる。
「何の曲を録画してディム先輩に送るつもりなんだ? の『 Close
Scrubb 』はどう?」
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今度は Scrubbか。お前が俺に用があるのは、何かやらせたいときだけだな。
「 は俺の好きなバンドなんだ」
Scrubb
知ってるよ。お前の Scrubb 好きはい やというほど知 ってる。俺もこ こ半年ライブに 全通して何度も
聞いた、いい曲だ。
「 Scrubbは俺にとって、他のバンドとは違うんだ」
「どんなふうに?」
「幸せなときに Scrubb の歌を聴 くと、もっと幸 せになる。恋を してるときに聴 いたら、もっと 深く恋
に落ちる」
「悲しいときは?」
「悲しいときに聴くと元気になるんだ、慰められてるみたいに」
こいつは本当に、心の底から Scrubb が好きな んだな、と思っ た。一途で一心 で曇りがない、 自分の
全部を捧げてるみたいに。
タインにそこまで慕われている、 Scrubb が羨ましかった。
「他のバンドも聴いてみるけど、今は『 Close 』を弾いてよ」
、 Scrubb
Scrubb って、 Scrubb
が絡まなきゃ俺の隣に座ってる気もないのかよ。
それでも俺は、頼まれたとおりにしてしまうんだ、タインが喜ぶなら。
代わりにチューニングしてやってる横で、ただ待ってるのは時間の無駄だとばかりに、俺の部屋で俺
のギターで、我が物顔で動画を撮り出すような奴のために。
苦々しく思っても、俺はタインが買ってきた差し入れ一つで機嫌を直す。
「俺がこの飲み物を好きだってどうしてわかった?」
「それくらい知ってるよ。チームサラワットの妻のメンバーだからな」
そう口にした途端、しまったとタインは顔をそむけて、気まずそうに目線を泳がせた。
サラワットの妻か。
自分の知らないところであれこれ言われるのは鬱陶しいだけだが、タインの口から聞くその響きは悪
くない。照れてる顔もかわいいなと、頬がゆるみそうになる。
「お前、俺の嫁になりたいの?」
勿論、本気で訊いたわけじゃない。
「お前の情報を手に入れるために参加しただけだ」
改めて言われなくたってわかってる。わかってても、本当だったらいいって思ったんだ、俺は。まだ
お前を帰したくなくて、お前の気を引きたくて、 Scrubb
の曲を弾くような奴だからな。
「何笑ってんだ」
「今の、よかったから」
が関わるときだけ、タインは俺をちゃんと見る。その瞬間を何度でも味わいたくて、一秒でも
Scrubb
引き伸ばしたくて、俺はタインにのめりこんでいる。
「もし俺がお前と付き合ってるとしたら」
名残惜しくてタインを寮まで送り、別れ際に尋ねた。なれるものなら俺は、タインの望む彼氏になり
たい。
「こんなときはなんて言えばいいんだ?」
「おやすみ、かな」
そんな必要ないけどって、自室へ続く階段を上っていくタインの後ろ姿に、思いきって声をかけた。
「おやすみ、タイン」
もっともそれは、他の寮生の騒がしい談笑にかき消されてしまったけれど。
くさっても仕方ない。わずかでもタインに近づいている。部活で顔を合わせる機会はこれからいくら
でもある、時間をかけてお互いを知っていけばいい。
「じゃあ、俺とメロドラマならどっちを選ぶ?」
「お前」
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だから翌日の放課後、チア部の先輩に頼まれたとかいうくだらない質問にも、タインを引き合いに出
されたら即答した。
「今度は言われたとおり、好きなものを答えた」
俺はお前が好きだって、いつかちゃんとわからせてやる。
けれど「いつか」だなんて、そんな悠長なことは言ってられないって、じきに気づかされる。軽音部
に追加で入部してきた新人の女子に、タインが色めき立ったのだ。
「こんにちは、医学部のプレーです」
色白で華奢で、内気そうで、にこやかでかわいかった。タインが彼女を気に入ったのは一目瞭然だっ
た。 Scrubbの話をするときみたいに、眼を輝かせて彼女を見ていた。
胸騒ぎがした。
いやな予感は的中し、グリーンまでもが入部してきたというのに、タインはプレーの存在に浮かれきっ
ていた。彼女を見かけると表情が明るくなって、近寄っていく足取りは軽い。
「なんでこんな早く連れてきたんだよ」
見てられなくて引き離したら、露骨に文句を言われる始末だ。まだ他の部員が来ていないチアの練習
場で、タインのほうから話しかけてきたと思いきや、
「 Scrubb
のラブソングを演奏できる? それ聴いてプレーのことを想うよ」
だけじゃなくて、今度はプレーか。
Scrubb
「俺はラブソングは聴かない」
「お前が恋人のふりが下手なのも納得だよ。愛について何も知らないんだな」
多分、そうなんだろう。ようやくお前に再会できたのに、手も足も出ない。
「お前は ―― 恋をしたことのない人間が、ラブソングを書けると思うか」
俺はタインを想って曲を書いている。生まれて初めてのラブソングは、何を書いても言葉が足りなく
てもどかしくて、いつまでたっても完成しない。
「わかったぞ。歌を書くための経験が必要だから、俺と付き合うことにしたんだろ」
俺がお前といる理由はいつだって、お前が好きだからだよ。
「教えてやるよ、俺と付き合うのはかなり特別だって」
何を根拠にそう断言できるのかは知らないが、自信満々で大口を叩くタインはかわいい。ずっとずっ
と見ていたい。
「そうだよ。お前が特別だから、俺はイエスと言ったんだ」
お前ほど俺を悩ませる奴はいない。俺を引きつけてかき乱して、気が休まるときがない。
俺はお前に恋をしている。
「 ……
誰かさんが口説く練習してる」
自分から特別だとか言い出したくせに、面と向かって同意されると気恥ずかしいのか、タインはごま
かすような作り笑いで眼をそらす。実際にそのまま口説けたらよかったけれどそうもいかず、気持ちを
持て余し、書きかけのラブソングの導入を小さくギターで奏でた。
「俺はお前にラブソングを弾いたんだ」
俺はお前に言えないことがたくさんあるけど、たまに本当だ。お前が好きだよ。
大勢の前で宣言したことも、何一つ嘘はない。
「俺はお前を口説くし、お前は俺に口説かれる。どっちにしろ俺はお前が好きってことだ」
でもそれで勢いづいたのは俺だけで、タインはあの告白なんかなかったみたいに、プレーに気を取ら
れている。喉が渇いたとうるさいから、奴の好きなブルーハワイを買って行ったのに、当のタインはプ
レーとよろしくやっていた。模様替えを口実に部屋に呼ぼうとしても、例によってそっけない。
「無理だよ、午後はプレーと Scrubb の CD
を買いに行くから」
ライブで Scrubb
の曲を弾くことにしたってそうだ。
「俺のために Everything
を演奏してよ」
うれしかったんだ、俺は。頼みごとをされるならそういうのがいい。グリーンを騙して遠ざけるより、
16

飲み物を買ってとか好きな曲を弾いてとか、そんなふうに甘えられたい。本物の恋人同士みたいに思え
る。
弟の件があったにせよ、イベント前日に曲目を変更するよう先輩にねじ込んだのは、タインを喜ばせ
たい一心だった。
「お前が演奏する Scrubb
の曲を聞 く直前に、プレ ーのお母さんか ら電話が来て帰 らないといけな くな
って、今、見送ってきたんだ」
だからこそステージの後、真相を知らされて愕然とした。タインを問い詰める声が上ずった。
「お前が女の子に聴かせたかったから、俺は先輩にあの曲を演奏するよう頼まされたってことか?」
「そうだよ。俺は彼女をライブに連れて行く初めての人になるはずだったのに」
俺はタインに聴かせるために Scrubbの曲を弾 いたのに、タイ ンはあの場にい なかったばかり か、プ
レーとの仲を取り持たせるためだったなんて、喜んだ自分が滑稽すぎるだろ。
石でものみこんだみたいに息が苦しい、こめかみが脈打って胸がムカムカして、怒りで震えそうだ。
「初めての人だよ?」
自分が無様でタインの悪気のなさが憎らしくて、せり上がる感情を抑えきれない。
「じゃあ俺は? お前が女の子を口説くのに利用した初めての人になるのか?」
俺のきつい口調に、ようやくタインは責められていると気づいて、不安そうに表情を曇らせた。
「なんで怒ってんだよ」
わからないのか。そうだろうな、お前は。お前にとって俺は便利なだけの友達で、俺自身にこれっぽ
っちも興味ないんだからな。
でも俺は ――
俺は。
「俺がここでお前を口説いてるだろ!」
悔しくてやりきれなくて腹が立って、ほとばしるように本音を吐き出した。
「なんでお前は他の誰かを口説いてるんだよ?」
「でも、それはふりだろ」
お前のほうはな。もう無理だ、付き合いきれない。
「なんでそんなイラついてるの?」
会えなかった半年間に想いがつのって、彼を美化していた自覚はある。
現実のタインは単純で浅はかでお調子者で、厚かましくて身勝手で、鈍感で、考えなしに思いついた
ままにしゃべる。腹が立つばかりの厄介者だ。
「どうしたんだよ? 串焼きおごるから、怒るのやめろよ」
タインは俺の気持ちを知らないんだから、怒るのは筋違いだってわかってる。だったら俺か、言わな
かった俺が悪いのか?
「プレーに取り入るために Scrubb
の曲を頼んでごめん。許してよ。何でもするから」
気安く言ってくれるよ、俺がお前にしたいことを教えてやろうか。
「何でもって言ったな?」
手打ちの条件として手に入れた写真のなかで、珍妙な扮装をさせられたタインはいつもと違い、ヤケ
みたいな笑みを浮かべていた。
「俺をからかってるとき、メッチャうれしそうだな」
そうだよ。お前は俺を苛立たせる厄介者で、でも俺は ―― それでもお前が好きなんだ。知り合う前よ
りもっと好きになった。
明るくて無邪気で前向きで、隠しごとが下手で、軽はずみな行動をするくせに反省も立ち直りも早い。
すぐにはしゃいで簡単に感動して、安易に人を好きになり軽率にそれを明かし、好きになってほしいと
口にする。
あやういまでの素直さ、まぶしいほどの笑顔に日々、茫然とした。
タインと分け合うみたいに Scrubbの曲を聴きながら、俺はその言葉を思い出している。
「幸せなときに Scrubb
の歌を聴 くと、もっと幸 せになる。恋を してるときに聴 いたら、もっと 深く恋
18

に落ちる」
そして俺は、毎日タインを好きになる。とても手に負えない。
「プレーのために Scrubbの曲を弾いてくれなんて、もう頼まないようにする」
俺が逆上したのがよほどこたえたのか、殊勝にもタインは自分からそう言い出した。
「お前に彼氏のふりを頼んだだけでも十分迷惑かけてるし」
しかし反省して少しはしおらしくなったかと思いきや、タインは自分の都合で俺のピックを取り上げ
て、止める暇もなく鋏で真っ二つに切りやがった。
「おい、何してくれてんだ!」
またかよって、あきれて声を上げたのに、タインが消沈したらそれ以上責められない。慣れたつもり
が、タインの予想もつかない行動に未だに驚かされている。ピックだった二つのプラスチック片を、記
念みたいに後生大事にしまいこむ始末で、俺はタインに弱い。
彼氏のふりは継続中で、遠回しだけど俺なりにタインを口説いて、距離を縮めようと努力はしてる。
なのにタインは相変わらずプレーに入れ込んでいて、俺のバンドが大学で Scrubb のライブ の前座をや
るのは喜んだものの、リハに時間を取られるのはむしろ好都合らしい。
「プレーに言い寄るチャンスだと思ってるな? 俺がいない間、浮気しないで誰とも話さないと約束し
ろ」
「浮気って ――
俺達、付き合ってないだろ」
だったらせめて、付き合ってるふりしてる間くらい、おとなしくできないのか。
「俺に隠れてプレーと話したら一回につき、おっぱいを一回揉むからな」
「バカじゃないのか? 俺の胸に執着しすぎだろ」
そうだよ、俺はそういう眼でお前を見てる。そういう意味で、お前にそういうことがしたいくらい好
きだ。
でもそれは俺の都合で、事情で欲情で感情で、お前がプレーに近づくのを止められないのもわかって
る。
部室にプレーと二人きりでいるタインに出くわしたとき、一目で察した。ああそうか、と思った。約
束が違うって、割って入ることだってできたけど、タインは決してそれを望まないだろう。
「悪い、邪魔したな」
俺に出来るのは、怒りや傷心を押し殺して何でもないような顔をして、その場から立ち去ることだけ
だ。
きっとタインには大した罪悪感はない。せいぜい「まずったな」って程度だろう。当然、俺に謝った
り言い訳したりもせず、ほとぼりが冷めたら機嫌を直すだろうくらいの感覚で、何事もなかったかのよ
うに電話をかけてくるのだ。
「本気でムカつく!」
酔った勢いで吐き捨てて電話を切って、何日経っても怒りが治まらないのに、タインを着信拒否なん
かできないし、呼び出されればのこのこ寮に出向いてしまう、俺は本当にバカだ。
「ユニフォームはどこだ?」
しかも用だけ済ませてとっとと帰ればいいものを、
「軽音部の動画 ――でもお前が今できそうにないなら、また今度に」
動画撮影のために引き止められて、言われるままに応じようとした。
ただし連日ヤケ酒をあおってるせいで、だるいし熱っぽいし頭は煮えてるし、コンディションは最悪
だ。うつむくとこめかみがズキズキする。
「お前、大丈夫?」
不安げなタインにかまわずギターを構えたものの、実はそのあたりから記憶があやしい。鬱憤を晴ら
すように歌に乗せて心情を吐き出して、我ながら目が据わっていただろう。
タインが動画に残してるから、このへんは間違いない。その後は多分、酔いが回って寝落ちした …

だと思う。ただ夢は見た気がする。ムカつく夢だ。
20

「俺、プレーを真剣に口説くつもりだ」
相談なんだか報告なんだか、タインに改まった口調で切り出されて血が凍った。なんで俺に言うんだ
って、自嘲で唇が歪んだ。
義理を通したいのか? 礼儀のつもりか? お前を好きだって、さんざん伝えてる俺に向かって。
「お前が彼女を口説くつもりなら、俺は都合がいいだけの恋人か?」
無神経なタインにも不甲斐ない自分にも腹が立って、本音が皮肉になって口からあふれた。
「俺は失恋したふりでもすればいいのか? それとも泣けばいいのか 」!?
また会えるだけでいいって思ってたんだ、せめてもう一度会いたいって。願掛けしたのだってそれだ
けだった。
でも実際会えば欲が出る、好きで好きで止まらなくなる。知り合うだけじゃ足りない、俺を見てくれ。
もっと話したい、近づきたいさわりたい、キスして滅茶苦茶に抱きしめたい。俺のものにしたい。
他の奴なんか見るなよ、なんでそんなふわふわ女の子の話してんだ。イライラしてムカムカして吐き
そうだ。
「どうしたんだよ。俺は彼女を作りたいだけだよ、なんでお前 ――」
もう聞きたくなくて、タインの顔を両手で引き寄せて、ぶつけるみたいに口をふさいだ。夢でくらい
俺に愛想よくできないのかって思うのに、夢でもタインの唇は柔らかくてかすかに湿って吸いつくみた
いで、頭がくらくらした。
「俺はお前にラブソングを弾いたんだ」
「お前を口説くって言っただろ。インスタでフォローしてる人が俺の好きな人だ」
「俺は他人の買った物は使わない。でもお前が買ったのなら使うよ」
何度も言っただろ、お前は特別で、俺の好きな人だって。どうしてわからないんだよ。
「お前は俺のものだ」
無茶なキスの後も離したくなくて、タインの首を掴んで頬も抱え込んだまま、強気に出たくせに懇願
みたいな口調になる。
「二度と他の誰も口説いたりするな」
タインは絶句して驚きに眼を見開いて、何がなんだかわからないみたいな顔をしていた。びっくり目
がかわいいのと鈍感さにムカつくのとで、もっとキスしてやろうとか、このまま押し倒したいとか、ど
うせ夢なんだから泣き喚いてやろうかとか、タインの唇に引き寄せられながら考えていた。
翌朝は最悪だった。頭は痛いし吐き気はするし口のなかは苦いし、タインの部屋に泊まったらしいが、
記憶がない。全身の関節をきしませながらベッドから出て、タインを起こさずに、足を引きずるように
して寮を出た。
けれど軽音部で顔を合わせたタインはなぜかよそよそしくて、プレーのことがあって距離を置くつも
りだったのに、気になって俺のほうから追いかけてしまう。
「何怒ってんだ?」
「お前が俺にやったことで怒ってるって思わないのか」
「俺、お前に何かしたか?」
夢でタインにキレ散らかした気はするが、ろくに覚えてない。第一、夢のなかまで責任持てるか。
一つ確かなのは、タインがプレーとどうなろうが俺はタインを好きだってことだ。そんなの、最初か
らわかりきってたけど。
プレーだろうと他の誰かだろうと、タインに近づく奴は見過ごせない。寮でグリーンに抱きつかれて
るのを眼にしたときは頭に血が上って、ものも言わずに二人を引き剥がした。
「俺がタインと付き合ってるのは、タインを本当に好きだからだ」
まぎれもない本心だからこそ、考えるまでもなく口からこぼれた。
「初めは計画だった。でも気づいたんだ、俺は本当にタインを好きだって」
グリーンが信じようが信じまいがどうでもいい、タインに俺の本気をわからせたい。
「本当だって証拠にキスしろってことだな?」
22

そう言うなり俺はタインに手を伸ばし、逃げられないよう捕まえて、顔を傾けながら唇を寄せた。呆
気にとられたタインは夢と同じに目を丸くしていて、こいつほんとかわいいな、と思う。
「もういいわ、わかったから …… っ」
涙目のグリーンに邪魔されなかったら、せめてあと一秒遅かったらキスしてたのに、惜しかった。
「もしグリーンが止めに入らなかったら、ほんとにキスするつもりだった?」
当たり前だろ、と言ってやりたかった。
でもお前はプレーが ―― 女の子が好きなんだよな。俺にキスされたってうれしくないよな。
「本当にキスしてほしかったのか?」
答えは聞かなくたって知ってるよ、腹立つ。
だいたいお前も何黙って抱きつかれてんだ。付きまとわれて困ってるなら払いのけろよ。
イラつくけどそれがタインなんだって、わかってもいた。傍迷惑なグリーンだろうと傷つけたくない
んだろ。誰にだってやさしいんだ、お前は。
「誰がお前にキスなんかするか」
だから俺は、負け惜しみみたいに言うしかない。
そう、俺はもうわかっている。タインは俺を好きじゃないし、この先好きにさせるのだって難しい。
タインのほうから近づいてきたら、裏があるに違いないと身構える。
「練習終わったんなら、何か食べに行かないか?」
「 ……
お前が俺を食事に誘うなんて、何かたくらんでるだろ」
言ってて情けないが、俺だって学習してるんだ。ただし察したところで断れないから、まったく意味
はない。
「今夜、 L Co Hol
で俺のバンドのライブがある。そこなら会えるよ」
俺はタインに会う機会は逃したくないし、出来ることは全部やる。
「お前の好きな Scrubbの曲をやる」
駄目押しで言ったら、タインの顔にぱっと笑みが広がった。誘ってきたのは向こうとはいえ、異様に
乗り気で気味が悪い。やっぱり罠だな。
しかし練習が長引いて店に着くのが遅れてしまい、待ちくたびれたのかタインは機嫌が悪く、入れ違
いで席を立とうとした。
「用があるからもう行くよ」
「ここにいろよ、俺が奢る。最初に演奏するから見てて」
説得が功を奏し、俺が準備を終えてステージに上がったとき、タインはまださっきのテーブルで飲ん
でいた。曲を始める前に口上を述べるのは初めてのことで、マイクの前に立ってちらりとタインを見や
る。
「この曲は ……
俺が初めて演奏したとき、その場にいなかったバカな奴に捧げます」
こんなことして何になるって、ときどき虚しくなったりもする。でも俺は、タインに好きになっても
らえるなら何だってするって思えるんだ。
「俺のために Scrubb
の曲を弾いてよ」
タインのねだるような言葉を思い出すたびに、殺し文句だなって頭を抱えた。
もっと言えよ、お前が望むなら何でもしてやる。俺がお前のために出来ることがあるのはうれしい。
どうしたらお前は喜ぶんだろうって、いつも考えてる。だから俺を見て、俺を好きになれよ。
「 ――…

歌い終えた勢いでタインを口説ける気がして、ギターを置いてステージを降りたものの、観客に取り
囲まれて身動きがとれなくなった。その間にタインは立ち上がって店内を横切り、トイレから出てきた
ばかりの男とぶつかる。
タインを足止めしている男には見覚えがあって、いい意味でも悪い意味でも学内では有名人だが、そ
れはこの際どうでもいい。なぜかそいつはタインに対してなれなれしく、肩を抱いて一緒に写真を撮ろ
うとし、戸惑いつつも応じるタインにも苛立つ。
24

「おい、いったい何が気に食わないんだよ? どうしてあいつと写真撮ったんだ?」
「お前に関係ないだろ」
どうにか女の子達をかき分け、タインに駆け寄ってその腕を掴んだ。けれどタインは『 Everything

を聴かせる前よりさらに不機嫌で、端から喧嘩腰だ。
「俺だってお前が女の子に飲み物渡されようが抱きつかれようが、何も言ってないんだから」
「俺は飲み物にさわってもないし、誰もハグしてない。お前の思い違いだ」
「もういい」
俺がどう訴えてもタインは聞く耳を持たなくて、なんでだって問い詰めたくなる。お前を想ってあの
曲を弾いたのに、全然伝わらない。
「タイン、何イラついてるんだ」
振りほどこうとするタインの腕を、強く握り込んで振り向かせた。
「離せよ」
「教えてくれるまで離さない」
「嫉妬してるんだよ!」
怒鳴るように返されて束の間、タインを捕える力がゆるんだ。その隙にタインが俺の手を振り払って、
語気も荒く吐き捨てる。
「これで満足か」
嫉妬って ……
タインが? 俺に近寄る女の子に?
予想もしない答えに意表を突かれ、すぐには声も出なかった。信じられずにタインを見つめると、あ
の黒い瞳が物言いたげな光をたたえ、潤んだみたいに揺れていた。
そんなタインは見たことなかったし、その口から出た言葉も信じられなくて、逃げるように立ち去る
タインを追うこともできずに立ちつくす。
「 ………… 」
嫉妬って何だ、なんでタインが嫉妬なんかするんだ、俺を好きなのか? いや、そんなわけないな、
それはない。あるはずがない。
でもタインの様子がおかしいのは間違いなくて ―― もしかして俺を意識してるってことなのか。
期待しすぎるなと、自分を諌めても胸が高鳴った。ただの勘違いかもしれないのに、その程度のこと
で俺は、ますますタインを諦めきれなくなる。
案の定というか翌日、大学で顔を合わせたタインは、昨夜のことは覚えていなかった。ほんとか嘘か
計りかねたが、本人がそういうことにしたいなら、うなずくしかない。
大学での Scrubb
のライブは、滑り込みで最後の一曲だけ間に合った。
「『 Deep
』だ」
イントロの一音目とほぼ同時に言い当てて、タインがちょっと得意げに笑う。昨夜とは別人のように
上機嫌で、心底うれしそうで、誰よりもライブを楽しんでいる。だからタインを好きになったんだなっ
て、噛みしめるように思う。
胸がざわめいて落ち着かないのに、満たされたような不思議な心地がした。タインを一番近くに感じ
た。タインを探して、探して探して探してようやく見つけて、知り合った意味がここにある気がした。
幸せってこういうのだ、多分。
タインと出会う前の俺が知らなかったもの。
タインにそれを伝えたかったけど、胸がいっぱいで眼の奥が熱くて、ちょっと泣きたいような気持ち
になって、言葉にならなかった。代わりにタインが、穏やかな表情で、やさしい声で俺に言う。
「俺と一緒にいてくれてありがとう」
お礼を言いたいのは俺だよ。お前を知ってから、俺の生活は一変した。俺はあの日からずっと、お前
と一緒にいたくてこんなふうに同じ時間をすごしたくて、お前を探してたんだ。
「 ……
楽しかった」
俺が口にできたのは一言だけだったけど、タインと顔を見合わせたら同じ幸福感が伝わってくるみた
26

いで、通じ合ってるのが感じられた。
ライブが終わった後も、タインは興奮冷めやらぬ様子で、 Scrubb の話題は尽きなかった。
「なんで Scrubbが『 Deep
』をやるって知ってたんだ?」
「それくらいわかるよ。去年ここで Scrubb のライブを見たけど、あのときと同じ感じだったから」
を知りつくしていると自慢げで、それにしたって野生動物みたいだったぞ。
Scrubb
「あ~なつかしいなぁ、すっごい楽しかったな」
タインがあまりに幸せそうで、彼がどんなにあの時間を大切にすごしていたかを思い出し、うっかり
口を滑らせる。
「知ってる」
「 ……」
眉をひそめたタインの、不審げな視線が突き刺さった。
「なんで知ってるんだ?」
しまったと、思うより先にあの日の情景が脳裏によみがえる。
のライブにはしゃぐタインと、いい曲なのにノリきれずにいる俺は、たまたま会場で近くにい
Scrubb
ただけだ。跳びはねるタインにぶつかられて足を踏まれて、その場で謝られて終わり ―― ライブではよ
くある話。
「それは ―― 」
とっさに言葉が浮かばなくて、さりげなく眼を伏せて適当な言い訳をひねり出す。
「お前、さっきのライブで楽しそうだっただろ」
あれ見てれば想像はつくと、ごまかしてその話題を切り上げたけれど、タインと同じ時間を分かち合
った幸福感はいつまでも俺のなかに残った。終わらせたくなかった。永遠に自分のものにしたいって、
強く思う。
だから俺は、懲りずにタインを口説いている。タインが俺に脈がなくても関係ないって、強がりで自
分を奮い立たせて、口説き文句自体は本心だからいくらでも思いつく。
「お前はさ、何かいいことがあったときに俺と共有したいと思ったことはあるか?」
「知らないよ。それどういう質問?」
タインはまるでピンとこないみたいで半笑いを浮かべていたが、それでもかまわない。
「試しにやってみないか? お互いを知るために」
タインに口を挟む隙を与えず、今の俺の想いを伝えた。
「俺のことをそんなに好きじゃなくてもいい。ただ俺に心を開いてくれ」
手を伸ばして髪を撫でても、タインはよけも押しのけもしなかった。不思議そうに、少し困ったみた
いな眼で、首をかしげて俺を見ていた。このままキスしたらどんな顔をするだろう。
タインの反応は想像がついて、それ以上は続けられなくなる。
「カット! よかったか?」
お芝居だってごまかして、俺は勇気がない。
「俺で台詞の練習したのかよ?」
「俺がお前に告白するとでも思ったのか?」
そこまで言う必要はないのに、自分で自分にトドメを刺す俺は本当にバカだ。
「あ~よかった」
タインは気が抜けたみたいに笑っていて、俺に告白されても困るだけだって思い知らされる。何度も
何度も。
事実、飲み物を買いに行ったはずのタインはそのまま戻ってこなくて、タインにとって俺はそういう
扱いだ。電話にも出ず、心配になって部屋まで押しかけたのに、
「シャワー浴びてんだ」
「急ぎの用事が入ったんだよ」
そんなことくらいでと、あからさまに迷惑そうだった。もう何がタインの気に障るんだかわからない。
28

「タイン、俺の何が悪かったか言ってくれよ」
「グリーンとディム先輩が恋人同士だってわかったんだ、喧嘩したけどヨリが戻ったって」
しまった、と思った。そっちの件が頭から抜け落ちてた。タインが裏事情を知ってしまった。
「だから、彼氏のふりはもう終わりにしよう」
つまり、俺は必要なくなったってことだ。
「これからは俺を無理に口説かなくていいし、電話もしなくていい。会わなくていい」
淡々と並べ立てるタインは、何も感じてないみたいに無表情だった。
「俺に話しかけなくていい」
それはお前が俺に、そうしてほしいって言ってるのか。
「お前は自由の身だよ」
そんなわけがあるか、と叫びたかった。
初めてお前に出会ったあの日から、俺はお前に心を奪われている。お前が好きでお前のことばかり考
えて、上手くやれずに空回りして、自由だったことなんか一瞬だってない。
俺が震え出しそうだっていうのに、タインがさらに追い討ちをかける。
「俺達が知り合う前みたいに」
俺は用済みってことか。
「 ……
お前は本当にそうしたいのか」
喉から絞り出した声は、頼りなくかすれていた。
この何ヶ月か、お前は俺といて楽しいって思ったことは一度もなかったのか。あの時間、全部なしに
してもいい程度の付き合いだったってことか。
お前はやさしくて、そして残酷だ。
「ああ。お前はお前でお似合いの、運命の相手を探すのに時間を遣いなよ」
俺はそれはお前なんだって ――
そうだったらいいって、ずっと思ってたよ。そう確信があったら、お
前と付き合うふりもしたし、多少強引な真似もした。お前を振り向かせたくて必死だった。
でも ――
お前にとっては、俺じゃないんだな。
「わかった」
それがお前の望みなら、俺は引き下がるしかない。
けれど顔をそむけるように背を向けた俺を、タインが呼び止める。
「待って。お前のギター、返すよ」
悪気のない、むしろ律義なタインの申し出に、俺はまたも胸をえぐられる。
お前に告白する代わりに、俺はあのギターをお前に渡したんだ。俺の一番好きなものを、お前も好き
になってくれたらって思った。あれは俺の気持ちだから持っていてほしい、かなうならこの先もずっと。
「取っとけよ。最初からお前のだから」
寮からの帰り道、そういやあいつほとんど裸だったって気づいたけど、スケベ心なんか湧かず、傷心
が先に立つんだなって思ったりした。泣きたかった。
「男の子は泣いちゃいけません」なんて、いやな決まりだ。
初めてサラワットを見たとき、特別な人間なんだって一目でわかった。顔がいいとかギターが上手いと
かだけじゃなくて、天からの贈り物みたいに人を惹きつけずにはおかない。どれだけ眠くたって今にも
倒れそうだって、自然に視線が吸い寄せられる。
半分意識が飛んでたのもあって、ライトを浴びるサラワットがまぶしくて眼を開けていられず、ああ
いうのを神様に選ばれた存在っていうんだろうなって、ステージを見上げてるうちに気を失った。
「グリーンを諦めさせる偽彼氏の役に、こいつほどふさわしい奴はいない」
オームの提案に同意したのは、他に手が浮かばなかったからだ。俺とは違うとこで生きてるなって、
やっかみまがいに思ったけど、仲良くなったらどんな感じだろうってちょっと興味もあった。
「そんなふうに俺を見つめるなら、お前が落ちるまでキスするぞ」
けれどサラワットは、想像を超えていけ好かない奴だった。
30

「知らない奴とは話さない」
「お前が迷惑なんだよ」
迷惑だって二度も言われて、意地になったのは認める。チア部での自己紹介を笑われて、取り上げら
れたスマホでふざけた投稿されて、ムキになったのは確かだ。サラワットに近づくためだけに軽音部に
入部した。
でもそれが気に入らなかったからって、ゲームでキスするのはやりすぎじゃないか?
「俺に彼氏になってくれって頼んだんだから、あんな軽いキスくらい何でもないだろ」
俺をからかうためにそこまでするかって、あきれて怒る気も失せた。
だから初めてギターを教わったとき、予想外の丁寧さに驚いた。俺でも弾きやすい弦のギターを貸し
てくれて、すぐ隣に体を寄せるみたいに坐って ―― いきなり指にさわってきたのにはたじろいだけど、
それ以上にサラワットの手つきのやさしさに見とれた。
「ほら、弾いて」
もっとスカした、人を突き放すような奴だと思ってたから、この距離感の近さは意外だった。指示さ
れたとおりのフレットを押さえて弦を弾くと、なめらかでやわらかい音がした。
その後はっていうと、俺は無事に入部テストを乗り切って、サラワットに偽の彼氏になってもらうこ
とにも成功した。グリーンが軽音部まで追っかけてきたりサラワットとの仲を疑われたり、面倒はあっ
たけどどうにかなって、まあ順調だと思ってた。
グリーンと同時期に入部してきたプレーはものすごくかわいくて、俺にいい感じだったし。
そんなんだったから、学内ライブで Scrubb
の曲を弾 かせた件でサラ ワットに責めら れて、正直ショ
ックだった。
「じゃあ俺は? お前が女の子を口説くのに利用した初めての人になるのか?」
サラワットが何をそんなに怒ってるのか、全然わからなかった。最初に言わなかったのは悪かったの
かもしれないけど、別に隠してたつもりはなくて、だって同じようにフォング達に頼みごとして後から
女の子と仲良くなるためだって教えても、あいつらは笑って許してくれる。
「俺がここでお前を口説いてるだろ! なんでお前は他の誰かを口説いてるんだよ?」
「でも、それはふりだろ」
けれどサラワットは話にならないと言いたげに、俺の顔なんか見たくもないみたいに、背を向けて歩
き去ってしまう。
「どうしたんだよ? 怒るのやめろよ」
俺そこまで悪いことしたかって、心当たりはなくても放っておけなくて、サラワットの後を追った。
普段あまり感情を表に出さないサラワットがあんなに怒ってるんだから、よほど気に障ったんだろう。
俺とサラワットは特に仲がいいわけじゃないけど、冷たくされるとへこむ。
「プレーに取り入るために Scrubb の曲を頼んでごめん。許してよ、何でもするから」
サラワットには付き合ってるふりをさせて、ギターを借りたり教わったりして、よく考えたら俺が一
方的に世話になってるだけで友達じゃないのかもしれないって、不意に気づいた。
フォング達みたいな感覚で甘えたら駄目なんだな。
「お前に彼氏のふりを頼んだだけでも十分迷惑かけてる」
もうプレーのことで頼みごとはしないって、サラワットに明言したし、そうでなくてもサラワットは
アテにしないって決めた。
それなのに俺はまた、やらかしてしまう。部の課題である動画で一緒に組んでくれたからって油断し
て、分ければ二人で使えるって、軽い気持ちでサラワットのピックを鋏で切って、すごい剣幕でまくし
立てられた。
「 誰が ピ ッ クを 半 分 にで き る って 言 っ た? 面 白い と 思 って る の か? 一 人に 一 つ だろ ! 分 けら れ
るわけないし、もう使えない」
「知らなかったんだ」
俺またやったのかって落ち込んで、声が喉につまって、ごめんって言いそびれた。うんざりと顔をそ
32

むけたサラワットのため息が響いて、いたたまれない。
「そしたら、今日はもう終わりにしよう」
もう俺とは口も利きたくないだろうって提案したのに、サッカーの応援があるって話した途端、サラ
ワットは急に態度を変えた。
「俺を応援しろ」
「バカじゃないのか」
学部対抗だって知ってるくせに、サラワットは耳を貸さず、ますます不機嫌になって、俺が折れるま
で譲らない。
「わかったよ、心のなかでお前を応援する。それでいい?」
「いいよ。お前がそこにいるってわかって満足だ」
そこっていうのは「サラワットの心のなか」らしい。
さっきまで怒ってたくせに、サラワットはすっかりいつもの調子で、別れ際に俺の顔を覗き込んでき
て、ついでに頭まで撫でる。
「また後でな、厄介者」
そのうれしそうな笑みの意味もわからず、一人取り残されて首をかしげた。
「頭撫でられるほど親しかったか ……?」
そういやこれまでに何度か「かわいい」って言われたな。俺をからかってるんだろうが、どういう魂
胆だ。単におもしろがってるだけか?
サラワットは読めない奴だ。やさしいときとそうでないときが極端で、気分屋なのかなって思うけど、
そのへんはよくわからない。俺とプレーが仲良くなるのを邪魔する理由も。
「俺に隠れてプレーと絶対話すなよ」
サラワットに強く念を押されて、約束するだけはした。
ただ、まだプレーのために Scrubb
の曲頼ん だこと根に持っ てるのかとか、 彼氏のふりさせ てる腹い
せかなとか、そんな深刻には受けとめなかった。プレーに近づかないよう気をつけたつもりでも、向こ
うから話しかけられたら断れないし。
こっそりプレーと会ってるのがバレると面倒だなって、思ってはいたけど、プレーがギターの動画を
撮るまで手伝うだけだって自分に言い訳してるうちに、実際そのとおりになった。
「悪い、邪魔したな」
プレーと二人で部室にいるのを見つかったものの、予想に反してサラワットは、責めたり騒いだりし
なかった。入口でドアに手をかけたまま、こわばったような無表情で、そっけなく言って踵を返した。
だから余計に後がこわくて、気まずかった。
それから何日かは、避けられてるんじゃないかってくらいサラワットと顔を合わせる機会がなくて、
わりと途方に暮れた。あずかってるユニフォームどうすんだよって、電話して訊こうにも冷たいという
か、やっぱ怒ってんじゃないかって言い草だったし。
「ムカつくって、お前に言ったんだ」
捨て台詞みたいに通話を切られて、かと思うとマンがさらしたサラワットの画像フォルダは俺の写真
でいっぱいで、意味深な数式を投稿されたりとか。悪友連中に指摘されるまでもなく、その可能性につ
いて考えた。
もしかしてあいつ、俺のこと好きなのか?
……
それが一番筋が通ってる気がしたけど、でもサラワットだぞ? 今までさんざん冗談半分に口説かれ
てからかわれてて、真に受けたらバカだろう。手の込んだいたずらだって言われたほうがまだ合点がい
く。
だいたい、奴には俺を好きになる理由がない。
「何でもいいから、さっさとサラワットと仲直りしろ」
「彼氏のふりしてもらえなくなったらまずいぞ」
そうだった、フォング達に言われて気づいた。
34

俺は、彼氏のふりをしてもらうためにサラワットに近づいたんだよな? それ忘れてたのに、なんで
あいつに邪険にされて困ってるんだ?
それに俺だけがサラワットに借りがあって、要はサラワットは俺と縁を切っても何の支障もないって
ことなんだ。
「だから ――」
あいつが俺を好きだなんて、そんなことあるわけない。
考えてたら頭がぐるぐるしてきて、サラワットが部屋までユニフォームを取りに来るって聞いて、柄
にもなく緊張した。深酔いしたサラワットはよそよそしくて、俺なんか眼中にない感じで、プレーのこ
とを言い出すのには決心がいった。
「俺、プレーを真剣に口説くつもりだ」
責められるかなってこわかったけど、ちゃんと言わないといけない気がしたんだ。
「なら俺は、都合がいいだけの恋人か? 失恋したふりでもすればいいのか? それとも泣けばいいの
か 」
!?
でもサラワットは怒るどころじゃなくて、覚悟しててもすくみ上がった。今まで見たことないような
形相で、もしかして殴られるのかって身構えたら ――
キスされた。お遊びのゲームとかじゃなくて、ほ
んとに。
びっくりしすぎて、まばたきどころか息をするのも忘れた。
「お前はおれのものだ。絶対に誰も口説いたりするな」
なんでそんなに偉そうなんだって、思ったのは後になってからで、そのときはただただ茫然として、
またサラワットの唇が近づいてくるのがわかっててもよけられなかった。あのままだったらもっとキス
されてたんじゃないかと思う。
サラワットが酔いつぶれて気絶しなければ。
しかも一晩経ったらサラワットは、何も覚えてなかったんだ。
「俺、お前に何かしたか?」
人を悩ませておいてふざけるなって思ったけど、どんな顔していいかわからなかったら、逆によかっ
たのかもしれない。オームは「酔うと本音が出る」なんて言うけど、人によるよな。
サラワットが俺のことを好きだなんて、やっぱり違うと思う。グリーンの前でキスするふりをした後
だっていうのに、二人きりになったら相変わらずだったから。
「誰がお前にキスなんかするか」
そんな言い方しなくたっていいだろ、ちょっと傷つくじゃないか。この前は酔っ払ってほんとに俺に
キスしたくせに。
そう ――サラワットにキスされたせいで、俺は混乱してるんだろう。
だからライブハウスでサラワットが女の子達に囲まれてるのを見て、胸が苦しくなったんだ。 Scrubb
の曲を聴いた楽しさが吹っ飛んだ。サラワットがモテるのなんかいつものことなのに、ここにいたくな
かった。
「一体何が気に入らないんだ?」
「嫉妬してるんだよ!」
考える間もなく口走っていて、自分でも愕然とした。逃げるように店を出た。一晩経っても気が重く
て、サラワットに対して決まりが悪く、昨夜のあれは覚えてないことにした。
「お前のライブを見てて、気づいたらベッドの上だった」
「もういいよ」
サラワットのほうは気にも留めてない様子で、拍子抜けしたけど安心もした。
その後は連れ立って、一曲だけ Scrubb
のライブ を見た。大して 言葉は交わさな かったけど、サ ラワ
ットが楽しんでるのが伝わってきて、同じなんだってわかった。これまで Scrubb について 話したこと
とか、 Scrubb
の曲を弾いてもらったこととか、一つ一つを幸せな気持ちで思い出した。
サラワットが隣にいることが、すごくうれしかった。
36

「一緒にいてくれてありがとう」
友達になれてよかったって思った。俺はけっこうサラワットのことが好きなんだな。
胸のつかえがとれたみたいに、すっと気が楽になった。お互いの友達をまじえてサラワットと遊んで
ても、普通に楽しい。マンの部屋で飲み会になったときは、微妙な雰囲気になったけど。
「うれしかった」
サラワットがライブで俺に抱きつかれた感想がこれで、いや肩に掴まっただけで抱きついてなんかな
いし、勘弁してほしい。居心地悪くて席を外してもキッチンまでついてきて、二人になったらいつもの
やつが出る。
「お前が俺の彼氏だったら、髪の毛から影まで全部キスするのに」
酔ってるのかって訊きたかった。ほんっとよく言うよな、「誰がお前にキスなんかするか」って、い
やそうに吐いたその口で。
「頭おかしいんじゃないか」
俺が本気にしないでいると、サラワットはグリーンに見せる練習だと、残念そうに笑った。
「誰かさんが照れるとは思わなかった」
サラワットのこういうところは本当に困る。俺をからかってるだけなんだってわかってるし、くすぐ
ったいのに悪い気はしなくて、落ち着かなくなる。
サラワットが部屋に戻ってほっとしてたら、入れ違いにマンがやってきて、弱音まじりに自分の片恋
話を切り出したから、相談したいのかと耳を傾けた。
「変わるのは悪いことじゃないよな、あいつみたいに」
ところが途中で、話が違うほうに行く。
「どういうこと?」
「サラワットは変わった。以前は目もくれなかったインスタをやってるし、あいつはえらく独占欲が強
いのに、お前にギターを貸してる」
俺関係ないだろって、口を挟む隙もない。
「そうやって今じゃ、皆と同じように笑ってる」
でも確かに、そうなんだろうって思った。サラワットは最初の印象から随分変わった、こんなに感情
をあらわにする奴じゃなかった。俺のせいだとは思わないけど、マンとボスはいい友達だし、いい傾向
だ。
俺達はそんな感じで、わりと上手くやってる。部活の後で何となく話をすることも増えた。
「俺はただお前と一緒にいたいだけ」
臆面もない台詞にも、俺のほうが慣れてきて ――
そして、俺のほうがおかしくなった。アーンとサラ
ワットが急速に仲良くなったから。
「サラワット、電話番号教えて」
同じバンドを組むことになったからか、アーンは物怖じせず、あっさりとサラワットの番号を手に入
れた。入学当初はマンとボスくらいしか知らなかった、俺も聞き出すのに苦労した番号をこんなに簡単
に。
ちょっとおもしろくないのは、多分そのせいだ。
けどいいことだってある、グリーンの問題が解決した。グリーンは実はディム先輩と付き合ってて、
喧嘩してたけどヨリを戻した。
もう偽の彼氏は必要ないって、サラワットに会ったら真っ先に言うつもりだった。
「サラワット、昨日グリーンがさ ――」
「はい、あーん」
けれどサラワットは本題に入るより早く、スプーンですくったタピオカを俺の口に運んできて、飲み
込んでる間に機会を逃す。
「お前はさ、俺をどんな人間だと思う?」
急な恋人ごっこについていけずにいると、サラワットの口調に意味深に熱がこもって、俺が戸惑うう
38

ちに例のターンに入った。
「俺のことをそんなに好きじゃなくてもいい。ただ俺に心を開いてくれ」
まただよって思うのに、眼をそらせない。髪を撫でられるのも気持ちよくて、サラワットと同じくら
い自分が厄介だ。
「俺で台詞の練習したのかよ」
「俺がお前に告白するとでも思ったか?」
思ってないよ、全然思わない。もしかしてそうなのかなって感じたときもあったけど、勘違いだった。
サラワットがアーンと二人で盛り上がっても、気にすることなんかない。アーンは積極的でかわいい、
フォングも色めき立つくらいかわいい。音楽に詳しくてギターも上手くて、サラワットと対等に話がで
きる。
助けられてばっかの俺と違って。
「何か飲み物買ってくる」
部外者の俺は居場所がなくて、適当な口実で席を立った。見たくないものから眼をそらして、考えな
いようにしたかった。
なのに俺は間が悪くて、ドリンクを手に戻った際に、もっと見たくないものを見せられる。
「俺のことをそんなに好きじゃなくてもいい。ただ俺に心を開いてくれ」
囁くみたいに言ってサラワットが、アーンの髪を撫でる。俺のときと同じ台詞で同じ仕草で、ああこ
れが本番なんだなって思った。アーンを口説くために、まず俺で試したのかって。
アーンはかわいくて、 MV
用に二人で衣装を揃えてて、すごく似合ってた。アーンと見つめ合って笑
うサラワットは、やさしい横顔をしていた。
「 ……」
邪魔はしたくなかった。声もかけずにその場から立ち去った。胸が痛むのは寂しいとか悲しいとかじ
ゃなくて、疎外感ってやつだ。絶対にそうだ。
音楽のことなんか他に知らなくても、俺には Scrubb
があればいい。いやなことがあっても、 Scrubb
の曲を聴けば忘れられる。
「なんで何も言わずに帰ったんだ? 何が悪かったのか言ってくれ」
わざわざ俺の部屋まで様子を見に来るサラワットは、俺をからかっておもしろがるような奴だけど、
最初はいやな奴だって思ったけど、本当はいい奴なんだろう。わかってるよ。
だからもう放っておいてくれ。
「ディム先輩とグリーンが恋人同士だってわかったんだ。だから、彼氏のふりはもう終わりにしよう」
俺が話すのを、サラワットは黙って聞いていた。
「俺達が知り合う前みたいに」
「お前は本当にそうしたいのか」
そうだって答えると、サラワットは瞼を伏せて、わかったとうなずいた。反論らしき言葉を口にした
のは、ギターを返そうとしたときだけだ。
「取っとけよ。最初からお前のだから」
それ以来、サラワットには会ってない。軽音部に行かなかったら簡単に疎遠になって、あっけないも
んだなって思う。
俺は久しぶりの開放感に、フォング達と遊び回った。グリーンの気配に怯えたり、サラワットに会う
ために軽音部に行ったりする必要もない。仲間内で遠慮なく騒いで、好みの女の子を探したり飲みに誘
ったり、昔に戻ったみたいだ。
けれど油断するとサラワットの影がチラついて、陽気な気分は一瞬で消え失せる。振り返る直前の視
界のすみや、まばたきした瞼の裏に、記憶のなかからサラワットが現れて、どこまでも俺を追ってくる。
「俺、今日は帰って寝たほうがいいかも」
寮の部屋に戻っても、ギターを見ただけでサラワットを思い出して、動悸みたいに胸が騒いだ。あの
ときこのベッドに坐って隣にいたんだよなって、思ったら止まらなくて、忘れたかった光景が脳裏に広
40

がる。
「お前は俺のものだ。もう誰も口説いたりするな」
サラワットは酔ってるからか体温が高くて、頬にふれた手はかすかに汗ばんでいた。酒臭いのに不快
じゃなくて、唇も吐息もあたたかかった。キスと同じくらい、サラワットの切実なまなざしに気持ちを
持っていかれた。
息が止まるくらい驚いたけど ――
俺はいやじゃなかったんだ。
「ッあ~くっそ!」
知り合って間もないころに聞いた、サラワットの言葉が頭に浮かんでイライラする。
「いつか、誰かに自分の人生に入り込んでほしいと望むかもしれない」
そんなこと思うわけないだろ。俺の日常から出てけよ、勝手に入ってくるな。
これ以上俺を悩ませるなって思うのに、サラワットはなぜか去年の学祭の写真をインスタに投稿して、
ますますわけがわからない。そしてディム部長から、グリーンとの関係について聞かされた。
「俺達のことを知ってるのは友達と、テンプとサラワットくらいだな」
「サラワットが?」
最初からグリーンが俺に本気じゃないって知ってたなら、どうして彼氏のふりなんて引き受けたんだ。
なんで教えてくれなかった?
そのほうが見てておもしろいから? 俺があわてふためくのを笑ってたのか?
「 ……っ」
悪い奴じゃないって思ってた。偽の彼氏役を引き受けてくれて感謝もしてた。でも全部嘘だったんだ
って、わかったら自分がバカみたいで情けなくて、悔しい。
……悲しかった。
去年の学祭で撮った写真をインスタに上げた翌日の夜、マンから電話があった。
「タインに会った。全部話したぞ」
のライブの後、タインが公演告知のポスターの前でポーズをとってる写真で、正確には俺の自
Scrubb
撮りか、まさかこんなに拗らせることになるとは思わなくて、記念のつもりだった一枚だ。
にほんの少しでも休んでほしいって、写真もサインも諦めたのに満足してる、善意だけででき
Scrubb
たタインの笑顔。拡大してあきるほど眺めたって言いたいところだけど、一生あきない。
「お前が大学でリハやってるって教えたから、今からそっち行くんじゃないか」
ちょうど区切りがよかったこともあり、スタジオを出てタインを探した。こんな夜遅くにって、心配
になって部室棟を中心に見て回ったら、本校舎の掲示スペースに面した廊下にタインはいた。去年の俺
が例の写真を撮った、あの近くだった。
けれど俺が駆け寄る前に、見知った男が腕を掴んでタインを呼び止める。前にライブハウスでタイン
に絡んでた奴だ、建築学部のミル先輩 ―― 彼のバンドは人気だし、サッカー部でも学部間で因縁がある
から間違いない。
「送らせてくれ。取って食ったりしないから」
やけに親しげにタインの髪を撫でて、隙あらば手を出そうって下心があからさまだ。ちょっと眼を離
したらこれかって、されるがままのタインにもムカついて、二人の間に割って入り、ミルを壁際まで押
しやった。
「俺がこいつを送って行く。近寄るな」
「いやだって言ったら?」
俺が牽制してもミルは平然としていて、挑発的な物言いで神経を逆撫でしてくれる。
「やってみろよ」
噛みしめた奥歯が怒りできしんだ。睨み合う俺達をタインが引き離さなかったら、どうなっていたか
わからない。
「どうしたんだよ?」
タインに促されてあの場を離れたが、当のタインは俺がおかしいみたいな言いようで、ますます腹が
42

立つ。
「どうしたって? お前、あいつに頭撫でさせてただろ!」
「だから何だよ。俺の勝手だろ」
俺にはもう来るなって言っておいて、他の奴ならいいのか。
「 ……っ」
怒りで喉がつまってまともに息ができず、タインを問い詰めたいのにとっさに声が出なかった。けれ
ど言いたいことがあるのはタインも同じだったらしい。
「お前、ずっと俺に嘘ついてんだな。グリーンとディム先輩が付き合ってること、知ってたんだろ?」
そこまでバレたのかって、何も言い返せなかった。
「それに去年のライブで俺に会ってた」
そうだ、お前にそれを知ってほしくてあの写真を投稿した。伝えたいことがあるのに、話がとっちら
かって言葉が追いつかない。
「俺をからかって楽しいか?」
「 ……お前の気持ちを弄ぶために、黙ってたわけじゃない」
言い訳したいわけじゃない。ただタインに傷つかないでほしかった。
「じゃあなんでこんなこと」
「お前を本気で口説きたかったんだ」
俺は何度もそう言ってるのに、タインは戸惑って眉をひそめ、目線をただよわせて、今更驚く理由が
わからない。そろそろ信じてくれないか。
「でもお前はアーンが好きなんじゃ」
なんでアーンの名前が出てくるんだとか、いい加減わかれよとか、言いたいことはあったけど、頼り
なげなタインを見ていられなくてもう限界で、たまらなくなって唇を重ねた。タインに詰め寄ってその
顔を両手で包み込んで、続く言葉を封じるみたいに唇を押しつける。
ほんの数秒だったけれど、互いの唇からぬくもりが伝わってタインのかすかな吐息を感じ、心地よさ
に頭が痺れた。
「みんな知ってるけど、アーンにはもう彼氏がいる」
タインの顔を捕えたまま言い聞かせたが、この際どうでもよくて、本当に知ってほしいことは別にあ
る。
「そして俺がずっと想い続けてる人は ――お前だよ、タイン」
間近に見つめて告げると、迷うようにタインの目線が泳いだ。
「お前が好きだ。お前を見たその瞬間から好きだった」
これで俺の秘密はなくなった。これで全部だ ――ほぼ全部。
けれどタインは受けとめきれないのか、俺の手をほどくように押しのけて、納得いかないように言う。
「もしそれが本当なら、なんでお前は最初のころ、俺を助けようとしなかったんだよ?」
「なら、どう始めればよかったんだ?」
訊きたいのは俺のほうだ。
「お前は女の子が好きだって言ったろ。始めたところでどうせ、元に戻ろうってお前は言うだろ」
どうすればお前は、俺の気持ちを拒まずにいてくれたんだ。受け入れてもらうには何をすればよかっ
たんだ。
「お前は絶対に、俺達が出会う前の生活に戻りたいって思うだろ!」
タインを責めたくなんかないのに、自分の言葉に耐えられなくて、どんどん語気が荒くなる。
「お前は俺を友達以上に思えるのか 」
!?
俺が一方的にまくしたてても、タインは茫然として何も言わなかった。
「俺があの写真をインスタに上げたのは、お前に知ってほしかったからだ」
俺はお前に嘘をついたし、小細工もしたけど、本当に伝えたいことは一つだけだ。
「たとえ彼氏のふりを頼まれなかったとしても、俺にとってお前は、知らない奴なんかじゃないって」
44

タインはさっきから困惑しっぱなしで、聞いてくれるだけで十分だって思うのに、気持ちが昂って感
情があふれて止まらない。
「お前に話しかけなかった。会いに行かなかった。お前に言われたとおりにした」
思い出すと胸が締めつけられるみたいで、かすかに声が震えた。
「自分を抑えられると思ってた」
それがタインの望みなら、耐えられると思ってたんだ。
けれどさっきの光景が脳裏をよぎっただけで、こめかみがカッと熱くなる。
「でもお前が他の奴といるのを見たら、もう気持ちを抑えられなかった」
「それで? お前は俺に出来ると思う?」
タインは俺の言い分を黙って聞いていたが、タインはタインでたまっていたものがあるようで、一度
口を開いたら、言葉が流れ出るようだ。
「お前が現れなくなってからも、俺はちっとも元の生活に戻れない。何をしてても、どこに行っても、
お前は俺を追いかけてきて離してくれない」
タインが悩んでいるっていうのに、それは俺が実際にやりたいことだって思う。
「夢にまで出てきて俺をからかうんだ。お前のやったこと、どう責任とってくれるんだ?」
今のタインは、もう俺の気持ちを疑ってない。女の子が好きだから無理だとも言わない。
それだけのことが、こんなにも俺はうれしい。
「もう偽の彼氏には戻れない」
要するに俺は、どうしたってタインを好きだし、諦めきれないし、手に入れるためなら何ってするっ
て、思ってしまうんだ。
「これからは本物の彼氏になるつもりだ」
そう宣言して改めて、タインに歩み寄った。
「試してみないか? お互いを知るために。俺のことをそんなに好きじゃなくてもいい」
前と同じ言葉で、変わらない俺の本心で、タインを見つめて告げる。
「ただ俺に心を開いてくれ」
そっと手を伸ばして髪を撫でても、タインはよけなかった。どうしたらいいかわからないみたいに俺
を見ていた。見開かれた瞳が夜ににじんで、きれいでかわいかった。
「これからは本物の彼氏になるつもりだ」
あれ以来、サラワットは堂々と俺を口説くようになった。サラワットが俺を好きで、それも一年前か
らずっと好きだったって聞いて、頭ではわかったつもりでも今ひとつ実感がない。ただ前みたいにサラ
ワットと話せるのが、こんなにもうれしい。
もっとも俺がサラワットのギターに弱いからって、トイレで待ち伏せして弾き語りを始めたのには笑
った。もっと気取った奴だと思ってたのに、意外と突飛な行動をとる。
「本気で惚れた?」
軽口も前とは違い、信じたのかなんて茶化さなくて、俺はサラワットの態度に一喜一憂せず、言葉を
そのまま受け入れられるんだ。
「惚れるかよ」
これが恋なのかはわからないけど、俺は自分が思ってたよりサラワットのことが好きだったみたいだ。
サラワットと一緒にいると、浮かれたり落ち込んだりする。一緒に Scrubb
の曲を聴 くと、もっとい
い曲だって感じる。
「あいつに顔を近づけられると、心臓が動悸でおかしくなるんだ」
なりゆきでフォング達に相談してたら、自分でも心配になってきた。
「でも、それって普通だよな?」
「どこが普通だよ。お前が言ってること全部、恋に落ちる前兆だろ」
そう言われるとそんな気もする。
「なら俺は、もうあいつに恋してるのか?」
46

「あせるなよ。あいつに引きずられてるだけかもしれないぞ」
オームの言い分は一理ある。
サラワットは人気があってギターも上手くて、あの顔で言い寄られたら誰だって悪い気はしない。こ
れまで俺はいつも、女の子を追いかけてもてなす側だったし。
「好みの女の子と付き合ったら正気に戻るはずだ」
オームに説得されたわけじゃないし、気は進まなかったけど、俺のためにやってくれてるって思った
ら断れなかった。声をかけてくれたワンは色白で華奢でかわいくて、俺の好みそのもので、でも前みた
いに「彼女作んなきゃ」って躍起になれないのはどうしてなんだろう。
サラワットに対する「好き」は恋なんだろうか。フォング達にもそう見えるから、口出ししてくるの
か。
「もしお前らのチームが次の試合で工学部に負けたら、もう俺の友達に関わらないでくれ」
「そこにいるお前の友達は、俺に愛の告白をする準備をしてると思うけどな」
サラワットが自信満々なのは、そのせいなのかな。自分でも気づかないうちに、俺も知らない俺の気
持ちが洩れてたりするのかな。
そういう余裕で構えてるサラワットしか俺は知らなかったから、怪我で動けなくなってる姿を見たと
きは血の気が引いた。
「ワット! 何があったんだよ?」
思わず尋ねたけど、サッカーの事故とかじゃ絶対ない、暴力の痕跡が一目で見てとれた。サラワット
は脇腹を押さえたまま、息をするのもつらそうで、立ち上がらせるのも大変だった。
「誰にやられた?」
「いつもの連中だよ、俺のインスタを見て奴らの彼女が騒ぐからだと」
たかがそんなことでって驚いたし、サラワットの物言いにも引っかかった。
「前にもやられたってことか? なんで俺に言わないんだよ」
「 ……
余計な心配かけたくなかった」
「誰が心配なんかするかよ。このままだと早死にするぞ」
弱ってるサラワットに慣れなくて、つい憎まれ口みたいになったけど、話してほしかったのは本当だ。
「これからは何かあったら言って」
口説かれるだけじゃなくて、そのほうが信頼されてるって思える。
「顔上げて」
サラワットはどれだけやられたのか、切れた唇の端に血がにじんでいて、手当てするこっちが震えた。
逆恨みだか何だか知らないが、こんなきれいな顔、よく殴ろうって気になるな。
「それはもういいから」
けれどサラワットは俺の手を取ると、そのまま体を寄せてきて、俺の二の腕に顔をもたせかけて眼を
つぶる。痛いのかな、休みたいのかなって見守ってたら、どさくさにまぎれて胸を揉まれて、油断も隙
もない。
「お前、今何した 」
!?
「お前に癒してもらったとこ」
「どんな性癖だよ」
同情するんじゃなかったって思ったけど、サラワットなりに心配かけまいとしてるのかもな。改めて
俺の肩に顔をのせて、息をついて安らぐみたいに眼を閉じた。
「今ならもっと殴られてもいい」
サラワットは普段はまばたきが少なくて、眼光が強いというか、黒目がちの瞳でまっすぐに見つめて
くるから、こんなふうに近くでその顔を眺める機会は滅多にない。伏せた睫毛が長くて、うつむきがち
のきれいな鼻筋や、傷ついてても完璧に形のいい唇に見とれた。
ときどき、心の底から不思議になる。こんな外見で、ギターも上手くて女の子にキャーキャー騒がれ
て、おまけに家は金持ちで、何でも持ってるのに、なんでこいつは俺を好きなんだろう。何かの間違い
48

じゃないかって思うのに、俺を好きだという眼に曇りはない。
サラワットの体温が心地よくて、いつまでもこうしていたい気分になりそうだったから、サラワット
のほうから口を開いたのには助かった。
「今夜は俺の部屋に泊まれないか? 連れて帰って」
「お前、三歳児かよ?」
日頃の大人びた言動との落差が激しくて、ほほえましいなんて思ったのが間違いだった。
「泊まる用意なんかしてないし」
「うちに何でも揃ってる」
冗談かと思いきやサラワットはしつこくて、もう行くぞって促しても、抱きつくみたいに腕を絡めて
きて、俺を思いとどまらせようとする。
「俺と帰ろう」
「何の用意もないって言っただろ」
「俺のを使えばいい、気にしないから」
「俺が気にするの!」
なんで俺が悪いみたいにため息ついてんだよ、この。
「ちゃんと怪我冷やせよ」
「わかってる」
俺は話を終わらせたつもりだったのに、押し問答は続いた。
「俺の部屋に行こう」
「俺は家に帰る、お前は自分の家に帰れ」
「俺は家に帰る、お前は俺の家に帰る」
「お前はお前の家、俺は俺の家」
駄々っ子みたいだな。甘えたり拗ねたり、変わり身が早い。今までにないサラワットの一面で、みん
な知らないだろうなって思う。
「今度の試合、俺のユニフォームを着て応援に来てくれないか」
「なんで俺が」
お泊まりが駄目ならこれかってあきれたけど、そんなふうに頼まれるのはくすぐったくて、満更でも
なかった。もしかしたらこういう感じを、かわいいとか、いとおしいとか言うのかな。つけこまれてる
ってわかってても、サラワットの頼みを聞いてやりたくなる。
どうしよう、俺はサラワットを好きかもしれない。
サッカーの試合当日まで迷ってたけど、内心ではもう決めてたような気がする。
例の女の子達と約束した勉強会は、フォング達も一緒のつもりだったのにワンと二人きりってことに
なったらしく、結果的にすっぽかしてしまって、悪かったと思う。サラワットのユニフォームを身に着
けるのは、けっこう勇気がいった。
「あ~もうっ」
先に観戦してるあいつらに何言われるかって気が重かったけど、サラワットが喜ぶならもういいかっ
て思ってしまった。
試合は残念ながら、ファウル判定によるゴール無効で、サラワット達の政治学部が負けた。もし勝っ
てたら、なぜか俺がサラワットに投稿告白することになってたから、俺にとっては好都合のはずだ。
「負けたらお前は俺に関わるなって話だったけど、俺がお前に関わるなって意味じゃない」
負け試合の後のサラワットは、さすがに元気がなくて、口数も少なかった。
「落ち込んだときはいつも、 Scrubb
の曲に慰めてもらうんだ。ほら、聴けって」
スマホのイヤホンを片方サラワットの耳に挿して、一緒に Scrubb
の曲を聴 いた。二人で長 い旅をす
る歌で、顔を上げたサラワットがギターを抱えて口ずさむのが、ひどく心地よかった。
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サラワットに変に見つめられると、相変わらずそわそわするけど。
「あのさ、動画で確認したけどファウルじゃなかったよ。判定ミスだから、この試合はカウントしない」
こんなこと言い出したって俺が得することなんかないはずなのに、サラワットを励ましたいって思う。
「あと一試合あるだろ」
サラワットがうれしそうに笑うから、もう何でもいいかって気になるんだ。
ただ味を占めたみたいにサラワットが甘えてくるのには参った。帰りの夜道でいきなり肩に腕を回し
てもたれてきて、重くてまっすぐ歩けない。
「目眩がする。家まで送ってくれ」
「赤ちゃんかよ」
どうせ仮病だろって見え見えだったけど、そんなに俺といたいのかって悪い気はしなかったし、多分、
俺もそうだったんだろう。
サラワットと一緒にいるのは楽しい。
万事上手くいってるって、勝手に思ってた。そこへ青天の霹靂みたいに暴力が降ってきたから、もの
すごくショックだったんだ。
「おい、お前ら何やってんだ!」
ほんの数分、たかが忘れ物を取りに戻った隙に、サラワットは黒マスクの集団に襲われてて、武器を
持ってる奴までいてよってたかってサラワットを取り囲んで、あれじゃ逃げ場なんかない。
違う ――
問題がなかったわけじゃない。俺は前からサラワットが妙な輩に絡まれてるのを知ってた、
なのにどう対処するかなんて考えてなかった。
「気をつけろっ」
サラワットの声が聞こえたけど、頭に血が上って連中のなかに割って入って、正面からいきなり殴ら
れたのは覚えてる。六、七人はいたから止めるどころじゃなくて、立て続けに何発かくらって意識が遠
のいた。
「大丈夫か?」
気がついたら奴らはもういなくて、サラワットが不安げに俺を覗き込んでた。自分だって怪我してる
のに俺の心配ばっかりして、ちょっと泣きそうな顔してた。
サラワットの部屋で手当てするときだってそうだ。
「二度と俺の大切な人に手出しさせない」
自分のことは後回しで、俺の怪我の具合を気にして譲らない。
「俺の顔、ひどい? チアの部長に怒られるだろうな」
「お前って奴は ……殴られた後だっていうのに見た目の心配かよ」
あきれてるわりに、サラワットの手つきは行き過ぎなくらい慎重で、消毒液を含ませた脱脂綿を俺の
傷にそっとあてるとき、自分のほうが痛そうだった。
「ごめんな ――ごめん」
しきりと謝りながら、サラワットは壊れ物を扱うように俺にふれた。やさしいを通り越してこわがっ
てるみたいで痛々しくて、俺よりよっぽど傷ついてるように見えた。
「今夜は俺と一緒にいて」
「前に言っただろ、何も持ってきてないって」
文句を言いつつうなずいてしまったのは、だからだろう。
「必要な物は全部買ってある」
説得されてサラワットの部屋に泊まるのはまだしも、窮屈なソファで一緒に眠る羽目になったのはな
んでだ。ベッドがあるのに意味不明すぎる。
「お前がソファで寝たいって言ったんだろ」
どんな理屈だよ。
「俺は一人でソファで寝たいって言ったんだ」
「『一人で』とは言ってなかった」
52

サラワットは早くも同じ布団にもぐりこんでいて、俺を背もたれ側に押しやるように体を寄せてくる。
「お前をあたためてやる」
頼んでないだろって、反論する気力も起きなくて、もう面倒になって瞼を閉じた。けれど何となく落
ち着かず、視線を感じて眼を開ければ、思ったより近くにサラワットの顔があってたじろぐ。
同じ枕に頭をのせてるんだから仕方ないにしても、サラワットはこっちに首を傾けて、俺のことを横
目に見ていて、悪趣味な奴だ。変な寝顔見られたらいやだな。
「何見てんの。変なこと考えてないだろうな」
結局サラワットは、俺が寝つくまで鼻先の距離で俺の顔を眺めていた。
「おやすみ」
サラワットの声がやさしくて、気恥ずかしくなったのは内緒だ。そういえば別れ際に「本物の恋人同
士だったらどうするんだ」って、訊かれたことあったな。
ぬくもりが心地よくて自然に瞼が重くなって、最初はちょっとドキドキしたけど手足がすぐにあった
かくなって、眠りに落ちた。サラワットの体温や吐息を肌で感じて、不思議と安らかな気分だった。
あの連中の目的が何なのか気がかりだったけど、二人でいれば大丈夫だって思った。
でもそんなふうに思えたのは、サラワットが一緒だったからみたいだ。俺は自分で思ってたより繊細だ
ったらしい。
あの一件以来、よく眠れなくなった。傷はじきに治るし、気にしてるつもりなんかないのに、ベッド
で眼をつぶると連中に殴られたときの情景がよみがえって、なかなか寝付けないし眠りも浅いし、いや
な汗をかいて目が覚めた。
「建築学部の先輩だった気がする」
サラワットは、首謀者をミル先輩かもしれないと思ってる。いやサッカー部の確執もあって、先走っ
たマンがそう決めつけてるだけか。
俺は ――よくわからない。ミル先輩からは、顔を隠して集団で襲ってきた奴らみたいな、いやなもの
は感じなかった。でもそれは、サラワットが狙われたのは自分が原因だって思いたくないからなんだろ
うか。
殴られたこと自体はもういいんだ、ショックだったけど事故と変わらない。暴力よりも、面と向かっ
てぶつけられる悪意に怯えた。
「いつもの連中だ。クソくだらない」
あの口ぶりだと、今に始まったことじゃないのかもしれない。サラワットはもしかしたら、大学に入
る前から妬まれて理不尽な目に遭ってきたんじゃないか。やり返すと余計に面倒だからって受け流して
たのは、おそらく過去にそうだったからだ。
「俺の大事な人に手出しはさせない」
まわりに危害が及ぶかもって状況があったのかな、友達とか家族とか。
サラワットはみんながあこがれるような特別な奴で、あんなふうになれたらいいことばっかりだと思
ってた。だけどそう単純じゃないんだ、賞賛のついでに悪意もついてくるんだな。
俺だって誰からも好かれてるなんて思ってないし、陰で何か言われてんだろうなってこともあったけ
ど、あんな どす黒くて粘ついた、悪寒がするような感情を投げつけられるのか。
――
「気持ち悪い …… 」
深刻に悩むなんて俺らしくないって思っても、夢見は悪いし食欲はないしで、あれから二週間も経っ
てるっていうのに、チア部の集合時間に遅れた。
「すみません、寝坊しました」
幸いメイク担当の先輩の手が空いていて、すぐに化粧にとりかかってもらえたが、なぜか控え室にや
ってきたサラワットに邪魔された。
「俺にはそれが必要だとは思えない」
まごうことなき部外者のくせに、先輩も部長もサラワットのファンなもんだから同意してしまって、
54

俺はぼぼノーメイクってことになる。
「何なんだよ?」
「そのままで十分かわいいだろ。もっとかわいくなっていろんな奴の気を引きたいのか」
だからこれまでも俺が化粧すると機嫌悪かったのか。
「何言ってるんだ」
恋は盲目って言うけど、こいつには俺が道行く人が振り向くくらいかわいく見えてるんだろうか。そ
れって重症だよな。
「着替えてくる」
俺のこと、本当に好きなんだな。
「待って、今日何も食べてないだろ」
なんで知ってるんだって、訊くより先にサラワットがサンドイッチをくれて、答えも予想がついた。
「見ればわかる」って言うんだろ、きっと。
サラワットは俺を、いつも見ててくれる。
「ありがとう」
だから、体調が悪い理由をサラワットに気取られちゃ駄目だって思った。責任感じるだろうし、これ
までよりもっと心配する。サラワットがタチの悪い輩達に因縁つけられてることを俺に言わなかったの
も、そういうことなんだろう。
それでも俺は、もしまたサラワットがおかしな連中に絡まれることがあるなら、俺が一緒のときがい
いって思う。同じ悩むにしても痛い思いをするにしても、二人のほうがいい。二人なら、楽しいことは
もっと楽しく、つらいときは癒し合って、 Scrubb
の曲を聴いてるときみたいに。
「今日はプレイするなよ」
そしてサッカーとなると俺はフィールドには立ち入れなくて、サラワットを止めるしかない。
「プレイする。今日俺が勝ったらお前は愛の告白を投稿するって、約束しただろ」
「笑いごとじゃないんだ」
サラワットは渋ってたものの、最後にはわかったって言ってくれて、これで安心して応援に専念でき
る。約束どおりサラワットは、試合開始をベンチで見守った。
けれどマンがミル先輩に強くぶつけられたあたりから、雲行きがあやしくなった。ミル先輩のラフプ
レイはその後も続いて、膝を傷めたボスに代わってサラワットが出場せざるを得なくなる。
サラワットのファンは歓声を上げたけど、俺は気が気じゃなくて、チアリーダーの振りを間違えそう
になる。そうでなくても寝不足で体が重くて、衣装のジャケットは厚手で蒸れるし、動くとなおさら体
温が上がる。そのわりに今日は汗があまり出ない。
「タイン、大丈夫?」
部長に心配されるくらい顔色が悪いなんて、やっぱ化粧してもらえばよかった。
「朝起きるのが遅くて、朝食を摂り損ねました」
「何か食べる物を探してくるから」
「サンドイッチ持ってます」
せっかくサラワットにもらったのに、喉を通らなくてまだ手付かずだった。
「じゃあ、少し休憩して」
気遣うみたいに肩にのせられた部長の手に押されて、前のめりになった瞬間だった。ザーッと体中の
血が下がって膝から力が抜けて、幕がかかったみたいに目の前が暗くなる。暑いのに鳥肌が立って吐き
気もして、体を支えていられない。
糸が切れたように倒れてしまい、部長が悲鳴みたいな声を上げた直後、別方向からサラワットがタッ
クルされたって聞こえて、だから言ったのにって思う。瞼が重くて眼を開けられず、部長に処置しても
らってたらすぐ横でミル先輩の声もして、どんな状況だ、これ。
「離れろ!」
なんでかサラワットまで来てミル先輩に怒鳴ってて、試合はどうしたんだ。お前、また怪我したんじ
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ゃないだろうな、俺に構ってる場合かよ。
「行けよっ」
「このクソ野郎 ――」
こんなとこで揉めるなよって言いたくても、声にならない。
「あんた達、喧嘩ならよそでやって!」
そしたら部長が一喝して黙らせてくれて、サラワットにあれほどキャーキャー言ってたくせにいざっ
てときはかっこいいな、惚れちゃいそうだな、なんて思う。
「タイン、タイン」
サラワットが俺の手を握りながら覗き込んでくる気配がして、また悲愴な顔してるんだろうな。
「大丈夫だって」
安心させるつもりで呟いたら、逆にサラワットが押し殺した声を洩らして、どうにかもたげた瞼の隙
間から腫れ上がった膝が見えた。
「おい、お前の脚」
「気にするな、俺のことはいい」
お前がよくても俺がよくないんだよ。
「自分の心配しろ」
だからそれはお前だろ。俺のはただの立ちくらみか脱水症状、せいぜい貧血だけど、お前の脚は重傷
だ。
サラワットに手を貸したいのに、こんなときに倒れてる自分が不甲斐なかった。
試合はサラワットの政治学部が勝ったらしいけど、朗報はそれくらいで、予想どおりサラワットの脚は
重傷だった。靭帯を傷めてるし打撲で腫れてるし、一ヶ月は松葉杖だそうで、足首から太腿まで医療用
サポーターでがっちり固定されていて、手術せずに済んだだけよかったんだろう。
サラワットはいい奴だって、フォングは言う。
「あいつはお前のことを本当に大事に思ってる」
痛いくらいわかってたけど、「あれだけ想われれば惚れもする」ってほのめかされてる気がして、口
には出せなかった。そんなこと認めたら、みんなして俺を一日中からかうに決まってる。
それに「大事にされすぎてる」っていうのが俺にはとっては問題で、俺だってサラワットの力になり
たいのに、一方的に助けられてばっかっておかしくないか。
「後悔したくなかったら、大切なものはしっかり握って離すなよ」
フォングは多分、俺の背中を押そうとしてるんだと思う。俺は ――
いい加減、覚悟を決めないといけ
ないのかもしれない。
当のサラワットはあれだけの怪我だっていうのに、早々に退院して大学に出てきた。来週のコンテス
トでバンドの宣伝をしなきゃいけない、らしい。
「俺が休んだらリハーサルはどうするんだ」
けれど部の権限を持つディム先輩の判断は違った。
「この状態でお前を出すわけにはいかない」
「もう大丈夫です、怪我も問題ない」
「駄目だ」
サラワットが訴えても、怪我が脚だけじゃないのを知ってるディム部長は譲らず、でも同じバンドの
アーンは代役は認めないって言い出して、このままだと許可するしかないかって雰囲気になった。それ
を見てられなくて、無茶な申し出が口をついて出る。
「俺じゃ Ctrl の
S 代役になれませんか」
「何考えてんだ?」
真っ先に反対したのは外でもないサラワットだったけど、同じ初心者上がりのグリーンやプレーが名
乗りを上げてくれて、エア先輩の後押しもあり、これまでの「選りすぐりの精鋭」じゃなくて「意欲が
あれば誰でも」って感じのイベントに変わった。
58

「わかってるだろうが、ステージに上がったら、お前達が部の評判を背負うんだぞ」
ディム部長の申し渡しは厳しい反面、激励でもあるんだろう。
俺はまだまだギター初心者の域を出ないけど、サラワットや部のために出来ることをしたい。ギター
が上手くて知識豊富なアーンを羨ましいと思ったし、引け目を感じたこともあった。今じゃなくていい、
何なら音楽じゃなくてもいい、いつかサラワットと同じ高さで同じ目線で、立てるようになりたい。
「タイン」
グリーンやプレーとどの曲にしようかって、相談してたらだんだん楽しくなって、盛り上がってると
ころになぜか、フォングが背後からやってきて俺の肩に腕を回した。部室棟まで来て何の用があるのか
と思えば、意味深な笑みで耳打ちしてくる。
「お前の彼氏は過保護だな」
「もう彼氏じゃないって」
彼氏のふりはとっくに終わったって反論したのに、フォングは物言いたげに俺を見返す。
「それを言うなら『まだ』だろ」
じきに本当に付き合うんだろって決めてかかってて、俺が口を挟む前に、うんうんとうなずいた。
「イベント出るんだって? 練習、死ぬほどがんばれよ」
フォングは言いたいことだけ言って立ち去ってしまい、結局あいつ、何しに来たんだ。
サラワットは両手が松葉杖でふさがってるから、帰りは俺が荷物持ちを兼ねて家まで送った。ゆっく
りしていく気なんかなくて、すぐにギターの練習に行こうとしたものの、サラワットに心外そうに引き
止められる。
「ここで練習していけよ。俺が教えてやる」
「 ……
わかった」
またサラワットを頼るかって、少し迷ったけど、効率を考えたらそれが一番いい。
「 Scrubb
の曲をやるのか?」
楽譜を見たサラワットが苦い表情になって、俺には早いって思ってるんだろうか。
「初めて彼女ができたときも初めて失恋したときも、初めて MV を撮ったときも、全部 Scrubb
の曲だ
ったんだ」
他のバンドなんてありえないって主張したら、サラワットがどこか寂しそうに洩らした。
「 Scrubb
が羨ましい、お前のいろんな初めてに一緒にいられて」
冗談でも「お前は女の子に近づくダシにされて怒った俺の初めての人だよ」とか言える雰囲気じゃな
い。
「 Scrubb
になりたいよ」
「なんで?」
比べるようなもんじゃなし、おかしなこと言うな。
「お前がうれしいときも悲しいときも、一緒にいられるだろ」
「 ……」
俺も同じようなこと考えてるって言ったらどんな顔するだろうって思ったけど、
「俺は Scrubb
になりたい」
「陳腐だな」
気恥ずかしくて自分ごと笑い飛ばした。
けれどいざ練習を始めたら、サラワットは態度を豹変させる。
「違う。強く押さえて ―― 違う、もっと強く」
「十分やってるって」
「しっかり押さえたらそんな変な音にはならない」
忘れてたよ、こいつはギターのこととなると鬼教官なんだった。
「違う、もっと強く ―― ここだ」
でも見かねて俺の指を上から押さえて導く、サラワットの手はあたたかい。
60

「弾いてみて」
言われたとおりにすればちゃんと正しい音がして、教え方は適切なのだ。ついでに俺はピックの持ち
方もおかしいらしくて、サラワットに手を取られて、新たにピック講座が始まった。
「人差し指にピックをのせて、エッジを残して親指で押さえて」
サラワットは両手で包むみたいに俺にピックを握らせていて、丁重というか、大事なものを扱うみた
いだな。ギターを教えるときも、いつも手つきだけはやさしいんだ。
「タイン」
ひそかに感じ入ってる俺に、サラワットが思い立ったみたいに言う。
「結婚してくれる?」
突拍子もなくて、すぐに声にならなかったのが悔しい。
「何言ってるんだ」
サラワットの手を振り払って、ふざけた奴だって思う。
「教えてるのはピックの持ち方で、これは結婚指輪じゃない」
サラワットは満足げに笑ってるけど、別に照れ隠しで言ったんじゃないからな。
まあサラワットのおかげで正しくコードを弾けるようになったから、感謝はする。ギターの練習はい
い調子で、たださっきやたら力んで弦を押さえたのもあって、左手の指の腹が痛み始めた。
「指が痛むのか?」
俺がちょっと手を止めただけで、サラワットはそれに気づく。なんでそんなに目敏いんだよ。
「見せてみろ」
自分から差し出す前にサラワットに左手を掴まれて、やさしいのに強引なんだよな。
「ちょっと休もう。練習しすぎて指を傷めたら、どっちにしろ演奏できなくなる」
チア部が忙しくてギターにさわれなかったせいで、硬くなりかけてた指の皮は、元の薄さに戻って赤
くなっていた。このまま続けたらすり剥けそうだ。
そんな俺の指に、サラワットは絆創膏を貼ってくれた。
「やさしくしようとしてるけど、難しいな」
痛む指の腹に直接ふれないよう、サラワットはそっと絆創膏のガーゼ面をあてて、慎重にテープを巻
く。そこまで気を遣わなくていいって思っても、俺が痛みに息を洩らしただけで、自分が悪いわけでも
ないのに謝るんだ。
「ごめん」
「なあ、知ってる?」
サラワットの仕草や言葉の一つ一つが、静かに俺の胸を打つ。
「お前が初めてなんだよ、俺に絆創膏を貼ってくれたの」
多分、俺は気づかなかっただけで、お前で初めてをいくつも経験してる。必死になって相手を追いか
けたりとか、胸が痛くて泣きたくなったりとか、夜も眠れなくなるくらい悩んだりとか。
全然そんなつもりじゃなかったのにキスされて、いやじゃなかったことも。
「で、お前は俺が誰にでもやってると思うか?」
俺の初めてにこだわってたわりに、サラワットは特に気を良くしたふうでもなくて、むしろ俺のほう
が鼓動がはずんだ。
サラワットは全部の指に絆創膏を貼ってくれた後も、なぜか俺の手を離さない。誓うみたいに俺の手
を取ったまま、せつなげに俺を見つめて言う。
「結婚しよ」
もう怒る気になんかなれなくて、笑みがこぼれた。
「またかよ、やめろって」
冗談だってわかってるし、バカだなって思うのに、なんでうれしいんだろ。サラワットも俺もバカだ
なって。
治るまでギターは弾くなって言われたけど、早く練習したくてたまらなかった。イベントでちゃんと
62

演奏できたら、自信を持ってサラワットに好きだって言える気がした。俺も好きだって、言おうと思っ
てた。
結論から言うと、タインは上手くやれなかったってことになるんだろう。俺は膝の検査があって途中か
らしか見られなかったけど、聞いた話からおおよそ想像はつく。
実際に立ってみると、ステージは思った以上に高い。数十 cmしかなくても高い。会場全体が見渡せ
るし、観客の顔もその眼がこちらに向けられているのもわかる。初ステージなら注目されて委縮しても
無理はない。慣れるまでこわいんだ、あれは。
「皆さん、こんにちは。タインです ……

初々しい出演者に観客が笑みを洩らした程度でも、嗤われたって思ったかもしれない。
ましてやタインはソロで、すべての視線が自分に集中するし、演奏ミスもごまかしが利かない。緊張
で頭が真っ白になってコードや歌詞を度忘れして、引きつったみたいに指が動かなくて ――わかるよ、
最初はみんなそんなもんだ。仲間の応援がかえってプレッシャーになることもあるから、立て直しただ
け立派だ。
病院から直行して会場に着いたとき、タインは演奏の最中で、俺を見て安心したように小さく笑った。
うれしかった。
〈君がいるかぎり 僕は君を求め続けるよ ただ君だけを ――〉
一人でステージにいるタインはどこか心許なくて、一緒に歌詞を口ずさんでいた。あのままだったら、
何事もなく終わってたと思う。
「俺はタインの彼氏になりたい~」
大声の替え歌で割り込んだマンに悪気はなくて、盛り上げてるつもりだったんだろう。でも緊張して
いたタインには致命的で、完全に崩れた。
俺のためだってわかってても、俺はマンを諌めて止めるべきだった。でも観客含めてそんな雰囲気じ
ゃなかったし、いい機会かもしれないって、心のどこかで思ってしまった。
「タイン、俺の彼氏になってくれる?」
ステージ上のタインに何度目かも覚えていない告白をしたら、会場中で歓声が上がって ――
もう演奏
を続けられないよな。
「軽音部からのサプライズショーでした。舞台裏で休憩になります」
見かねたディム部長が、暗にステージを降りるようタインを促して場を収める。
「あれはショーの一部だよな?」
舞台裏で二人きりになってタインがそう言い出したとき、俺はうなずくしかなかった。タインはそう
いうことにしたいんだって思ったから。
「ああ」
「それ聞いて安心した」
タインはこわばったような無表情で、らしくなく声も平板で、無造作に俺を斬りつける。
「本気じゃなくてよかったって、本当に思ってるのか?」
「うん。本気だったら、本当にいやだっただろうな」
淡々としたその物言いは容赦がなくて、喉を絞め上げられたみたいに息がつまった。ここ最近は前よ
りもタインを近くに感じてたから、もしかしたらって、ひそかにうぬぼれてたんだ。
けれどタインは、俺を拒絶したいわけでも、傷つけたいわけでもなかった。
「俺は、これだけはお前のためにできるって思ってた。でも俺は完全に失敗した」
そんなことないだろって言いたかった。
大成功じゃなかったにしても、失敗ってほどじゃない。ギターは短期間でかなり上達したし、演奏自
体も中断するまでは悪くなかった。
「あんなに必死で練習したのに」
でもお前は、完璧にやりとげたかったんだな。マンが飛び入りする余地なんかないくらい、誰の手助
けも必要とせずに。
64

タインはもう平気なふりなんかできなくて、涙声で眼も真っ赤で、泣くほど悔しかったんだろう。そ
の姿に胸が痛むのに、初めて見る泣き顔に目を奪われて、きれいな涙だなって思ってしまう。あの涙に
キスしたい、勿論、他のところにも。
「多分、俺はお前の映画の主人公じゃない」
昨日、俺が「映画の主人公になったつもりでやれ」なんて言ったから、今となってはそんなふうに悲
観してるんだろうが、タインは俺の目の前に現れた日からずっと、俺の心の中心にいる。
「あのシーンで終わらなくたっていいだろ。まだハッピーエンドにできるはずだ」
「どうやって?」
「これが俺達の映画なら、このまま悲劇で終わらせるか、それともハッピーエンドにするか選べる」
タインはこれから何度だってステージに立てるし、俺も告白を冗談にしたりしない。
「俺の彼氏になってくれる?」
「それはさっき聞いた」
タインは半分くらい泣きやんでいて、またかって顔をするけど、俺はこれまでずっと本気だったし、
今だってそうだ。
「本気で言ってるんだ」
何回言えばお前に伝わるんだろう。
「お前ならなんて答える? どっちを選ぶ?」
ものわかりよく尋ねるふりで、内心では俺を選べよって、切実に思う。こんなところで終わらせるな、
俺を選んでくれ。
「 ……

タインは視線をただよわせた後、口をつぐんだまま、テーブルのペットボトルを手に取った。どっち
なんだって、困惑する俺にかまわずペンを走らせて、じらされてる気になる。
「何してんだよ、タイン」
「俺はバッドエンドの映画は嫌いなんだ」
そう前置きした上で、タインは俺にペットボトルを手渡した。
「いいよ」
「いいよ?」
それだけ言われたって何のことだか、上目に問いつつも、このやりとりには覚えがある。いや、あの
ときは立場が逆だったか。
「いいよ。今から俺はお前の彼氏だ」
すぐにはのみこめなくてペットボトルを見たら、貼られた付箋に〈サラワットには彼氏がいる。彼の
名前はタイン〉と書かれていた。
「お前 ――…」
何か言いたかったけど言葉にならなくて、松葉杖でもどかしくタインに近づいて、抱きつく代わりに、
その肩に顎をのせるように顔を寄せた。
「メッチャかわいいな」
両腕が空いてたら力いっぱい抱きしめて壁際まで追い込んでたとこで、高鳴る鼓動で胸が熱くて、タ
インの満面の笑みがまぶしい。泣き顔もかわいかったけど、やっぱり俺は笑ってるタインが最高に好き
だ。
信じられないくらい幸せだった。これ以上の瞬間なんか今後ないんじゃないかって、今日のことを一
生忘れないだろうって思った。
学期末試験が終わるころには膝も完治して、俺は内見済みの部屋にタインを誘った。タインは広くてき
れいな部屋に興奮した様子で、俺の問いにも即答した。
「気に入ったっ」
だから俺は、二人で住まないかって切り出したんだ。
「眼を閉じて眠る直前までお前を見ていたいし、目を覚まして最初に見るのはお前がいい」
66

いきなり俺に語られたからか、タインは面食らったみたいに目を丸くして、閉じきれない唇の隙間か
ら白い歯を覗かせている。表情が幼くなって、いつにも増してかわいい。いつもかわいいけど。
「俺と一緒に引っ越さないか?」
タインは一瞬、目線が遠くなって、驚くというより思い返すみたいな間が何秒かあり、でも迷うこと
なく笑みを浮かべて言った。
「わかったよ」
うれしかった。夢だったものを確実に手に入れている気がした。
「よし、俺達の愛の巣だな」
冗談めかしたけど本心だったし、タインも笑ってたから、同じ気持ちなんだってわかった。
同居してからはいいことばっかりで、朝起きて、洗面台の前で場所を奪い合いながら歯を磨いたり、
お互いの服がまざって目当てのシャツが見つからなくて大騒ぎしたり、遅刻寸前で家を出て、タインに
文句を言われるのだって楽しかった。
ゴミをまとめたり洗濯物をたたんだり、買いすぎた食料をぶつぶつ言いながら冷蔵庫にしまったり、
タインと一緒ならすべてが喜びに変わった。
「じゃ、後で」
それぞれの校舎の前で別れても、家に帰ればタインがいる。二人で料理をして食事をして片付けをし
て、入浴をして、同じシャンプーの匂いがするタインとベッドに入り、そのぬくもりを感じながら眠る。
ときどき、信じられなくて隣にいるタインの手を握った。
「何だよ?」
タインは現実で、俺と一緒に暮らしてて、さわれるし抱きしめられるし、キスだってできる。俺の手
を振りほどいたりしない。
「タイン、俺を好き?」
尋ねるたびにタインは、またかって苦笑して、それでも俺の望む答えをくれた。
「好きだよ」
こんなに幸せなんだからラブソングなんかすぐに完成するんじゃないかって思ったのに、意外とそう
でもなくて、曲はまだしも詞が特に難航してる。好きだって思いが強すぎると、言葉が気持ちに追いつ
かなくて、何が足りないんだろう。贅沢な悩みだけど。
引っ越して間もないころ、タインにブレスレットを渡した。タインが真っ二つにしたピックをパーツ
として使い、革紐を組んで作ったペアのブレスレットだ。当然、それぞれのピックは切れ目で合わせる
と、元どおり一つになる。
「一緒に引っ越してくれてありがとう」
タインは受け取ってから、ピックのことに気づいた。
「これって俺が半分に切ったピックだよな? まだ持ってたのかよ」
「お前に関する物は全部持ってる」
お前って実はストーカー気質だったんだな、とマンに言われたことがあるくらいだ。ことタインに関
しては、俺は自分に恥じない。
「出来るならお前もあそこに閉じ込めておきたい。そしたら俺達はずっと一緒にいられる」
冗談だと思ったのか、タインはあきれたみたいに笑ったけど、俺は本気だ。お前が離れていかないよ
うに、俺から逃げ出さないように、お前をつなぎとめるために一生を費やすんだ。
タインの手首にブレスレットを着けたとき、結婚指輪みたいだって、そうなればいいって思った。さ
すがに今回は「結婚して」はやめておいた。それはいつか、本当になるときに言いたかった。
ところが俺達の新居に、タインの兄であるタイプが現れた。
「兄さんは俺達が付き合ってること知らないんだ」
タイプの前では、タインは俺を友達だって言う。厳格な兄に心配かけたくないからって。
「俺達は ……友達です」
タインの頼みとはいえ、自分の口から友達だって名乗るのはおもしろくなかった。
68

おまけにタイプは一週間ここに泊まるって言い出して、タインとイチャつくどころか、自由な会話も
ままならないしろくにさわれないし、ベッドから追い出されるしで、一つ一つは些細でも、恋人から友
達に逆戻りしたみたいで気に入らない。
「タイン、ここにいなさい」
タイプはいかにもタインは自分のものだって態度で、生まれたときからタインを知ってるのは事実で、
あーくっそ、イライラする。
「兄さんの機嫌がいいときを見計らって話すよ」
いつだよ、それは。いつ機嫌がいいんだ、そんなときあるのかって、いくらタインのためだって、限
界が近づきつつあった。
タイプが常にカリカリしてるのは、マンにも原因の一端がある。どうやらタイプはマンがここしばら
く懸想していた「名も知らぬあこがれの君」なんだそうだ。まあおとなしく坐ってればタインの兄貴だ
し見かけはいいが、口開いたらまんま小姑だぞ。
そしていくら兄弟仲がよくても、タイン自身も不満だったらしい。
「自分だけ我慢させられてるって、思ってるんだろ」
この機会を利用して、飲み会でタインに嫉妬させたいなんて俺の思惑は、わりと簡単に見透かされ、
八つ当たりみたいに責められた。
「俺だってお前と同じで我慢してるんだよ」
じゃあ俺にどうしろって言うんだ。何なんだよ、これ。
俺は友達のふりさせられてムカついてるし、タインは兄貴の顔色うかがってばっかだし、当のタイプ
も弟を見張るためっていったって、人の家で素行に目を光らせてしじゅう小言を口にして、マンにも口
説かれて、この状況、誰が得するんだよ。
「 俺が お 前 の彼 氏 だ って 言 っ てほ し い のか ? 嫉 妬し た っ て言 え ば いい の か ? そ れと も お 前は た だ
の友達じゃないって、兄さんに面と向かって言えばいいのか 」
!?
そのくせタインの口から「嫉妬した」なんて言われて、顔がゆるみそうになる。タインが悩んでるっ
ていうのに、自分がそうさせておいて、それでもうれしいんだ、俺は。
「今なんて言った?」
しかもその会話をタイプに聞かれてしまい、瞬時にタインが青ざめた。
「なんて言ったって訊いてるんだ。『彼氏』って言葉が聞こえたけど」
束の間、かわいそうにな、と思ってしまった。
もし俺に一目惚れなんかされなければ、タインは好きな女の子を見つけて彼女を作って、誰に恥じる
ことなく大学生活を送っていただろう。家族にだって気軽に恋人として紹介できて、後ろめたい思いも
せずに済んだはずだ。
タインの苦境は俺が招いたことで、わかってるなら今からでも身を引くべきなのか。タインのためを
思うなら。
「 ……
っ」
気の迷いだって思っても、タインの怯えたような顔を見ていると、自責が胸に押し寄せる。
「最後にもう一度訊くけど、二人は付き合ってるの?」
「俺達はただの ……友達です」
改めて口にしたら、声が変に震えて眼の奥が熱くて、俺もしかして泣きそうになってるのか。友達っ
ていう言葉の絶望的な響きに、一人で傷ついている。
するとタインが、耐えかねたみたいに吐き出した。
「俺の彼氏だよ」
その発言に驚いたのは、タイプより俺のほうだったかもしれない。
「俺を悪く言う分にはいくらでも言っていいよ、でもこいつのことはそっとしといて。俺が内緒にしと
くよう頼んだんだ」
俺は今までずっと、自分ばかりがタインを好きで、タインはそれに応えてくれてるだけだって思って
70

た。俺を好きになってくれたのも、押し負けたみたいなものなんじゃないかって。俺にはそれで十分だ
ったし、タインといられれば何でもいいってところはある。
けどそれだけじゃなくて、タインも俺のことを見てくれてるんだって、俺を想ってくれてるんだって
感じて、胸が熱くなる。
「ごめん ――受け入れてくれないんじゃないかって、こわかったんだ」
それでも言ってくれたんだな、俺のために。
「僕は兄だ。お前のことなら何であろうと受け入れる」
兄だけあってタイプは、タインが一番ほしい答えを知っている。タインに救いを与えてくれるなら、
俺はどう思われたってかまわない。
「君のことはまだ信用できない」
「俺を信じてほしいとは言いません。でも、いずれあなたに証明してみせます」
タイプだけじゃなく、俺自身にも誓った。
これから先、俺と付き合ってることでまたタインが困った立場になったり不自由な思いをしたりして
も、俺が何とかしてみせる。絶対に後悔なんかさせない。俺と一緒にいてよかったって、思えるくらい
幸せにする。
その夜はマンがタイプをお持ち帰りしたおかげで、数日ぶりに俺はタインとベッドで眠った。照明を
落とした後も眼を開いたまま、寝息に変わる寸前のタインの呼吸を感じて、いつもの問いが口をつく。
「タイン、俺を ――」
「好きだよ」
けれど肝心な言葉の前に、タインがわかってるって遮って、同じ枕に頭をのせるみたいに身を寄せて
きて、やさしい声で言う。
「俺はお前が好きだ、サラワット」
笑みを浮かべたタインは薄暗がりで目を凝らすように、黒い瞳で俺を見ていた。幸せだった。ここが
ゴールなんだって思ってた。
サラワットに同居を持ちかけられたとき、それまでに何度もごねられたことを思い出した。一晩中一緒
にいたいとか、泊まってほしいとか言われて、寝顔を見られたのはちょっと決まり悪くて、全部がそこ
に行き着くんだと思ったら、胸が甘く締めつけられた。
「わかったよ」
サラワットが喜ぶならいいかって思ったんだ。サラワットがうれしいなら、俺もうれしい。
サラワットに引けを取らないようになってからって気持ちは、頭のどこかにあったけど、付き合うう
ちに成長できればいい。サラワットといれば、二人ならそうなれるって思えた。
〈俺はサラワットが好き〉
新居に引っ越した当日、俺はそれなりに決心してインスタに投稿した。
「俺が勝ったらお前は愛の告白を投稿するって、約束しただろ」
サラワットは随分こだわってたから、よっぽどなんだろうと思った。そうでなくてもサラワット自身
が、インスタで意思表示したり、人前で告白したりする傾向にある。
つい何ヶ月か前まで SNS
嫌いだった のに何なんだろう って、事前の相談 ついでにあいつらに 訊いて
みたんだ。
「虫よけじゃないか」
プアックにこともなげに言われて、虫の話なんかしてないだろって首をかしげたら、フォングが笑い
まじりに説明してくれた。
「他の奴への牽制って意味だよ、お前に手を出すなって」
残念ながら俺は心配されるほどモテないし、サラワットは欲目で判断が狂ってる。自分が年中言い寄
られてるからって、人もそうだと思うなよ。
その投稿がタイプ兄さんに見つかって面倒なことになったけど、最後にはサラワットのことを正直に
話せたし、半分くらい認めてもらえたから、結果的にはよかったんだろう。
72

総じて順調に運ぶなか、最初に暗雲の兆しを感じたのは、ある動画を目にしたときだった。『 Your
』というタイトルの、サラワット自作の短い MV
Smile だ、軽音部の課題でよくあるようなやつ。
「 ――… 」
サラワットのスマホのフォルダで、その動画を見つけたのは偶然だった。プライベートだって一目で
わかった。サラワットが俺に聴かせようとしたのはインディーズバンドの曲で、これは違うってわかっ
てても、再生するのを止められなかった。
「もう録音してる? これ気に入ってもらえるかな?」
いつの動画なんだか、サラワットの声は緊張ぎみで、それだけで特別なものなんだって察しがついた。
「聴きたいなら聴きたいって認めろよ」
トイレから戻ってきたサラワットにスマホを取り上げられて、俺が確認できたのは十数秒だったけど、
大事な人のために作ったんだろうって理解するには十分だ。それを俺に隠したがってるってことまで伝
わってきて、胸が重くなった。
気になったのは好奇心ってだけじゃなくて、漠然とした不安もあったんだと思う。
「ラブソングを書いたことあるって言ってたよね、なんて曲?」
「まだ名前はつけてない」
俺はサラワットを酔わせて、ゲームにかこつけてあれこれ聞き出そうとした。
「一度も彼女いたことないって言ってたけど、誰かを好きになったりとかは?」
「あるよ」
サラワットがあっさり認めたのには拍子抜けした。
「高校の友達。ずっと前の話だって」
いや、去年のことだろ。一年やそこらしか経ってない。
「その子に告白した?」
「してない」
「なんで?」
「さあな ――頭くらくらする」
続けざまに飲ませたのが災いし、サラワットはそこで酔いつぶれてしまって、その子にラブソングを
書いたのかって、肝心のことを訊けなかった。
「あの『 Your Smile
』はその子のための曲?」
中途半端に情報入れたせいで、余計もやもやする。
すっきりしないまま、サラワットと軽音部の植樹合宿に参加した。貸切バスに乗り込むと、なぜかミ
ル先輩がいて、バンドやってるんだから部と関わりがあってもおかしくはないものの、明らかに浮いて
いる。
「席決まってるのか? 俺の隣に坐れば」
サラワットが一緒なんだから俺が応じるわけないってわかってるだろうに、その上で声をかけてくる
って相当だ。この人、俺に興味があるっていうより、サラワットにあてつけたいだけなんじゃないか。
「こっちに坐ろう、タイン」
サラワットは早々に機嫌を損ねてしまって、相性が悪いんだろうな。
でも俺は、やっぱりミル先輩はあの暴力集団とは違う気がする。正面から堂々と仕掛けてくる人は、
裏工作しない。言い訳もしない。敵を作るってわかってても、自分のやりたいように自由に振る舞う。
卑怯な奴は何食わぬ顔をして、バレないようにいやがらせするもんだ。
移動中のバスでは、サラワットが寝てる間にスマホを借りた。
「昨日、自分の充電し忘れちゃって。音楽聴きたい」
嘘をついた罪悪感はあったし、人のスマホを探るのはいやな気分だった。それでも知りたい気持ちが
勝って、動画のフォルダをスクロールして全部調べたけれど、『 Your Smile
』を見つけられずに時間切
れになる。
現地はあいにくの雨模様で、期待していた星空はおあずけになったものの、一夜明けた翌日、薄曇り
74

の空は晴れつつあった。もっともサラワットとミル先輩は例によってギスギスしてて、ミル先輩を迷惑
とは言わないまでも、サラワットを刺激するのはやめてほしい。
合宿の目的である植樹は、サラワットと二人で作業した。俺が苗木の黒いポリポットを剥くのを、サ
ラワットは笑って眺めながら、立て札に名前を書いた。苗木を植えた隣に『厄介者の木』の札を刺して、
何の疑問もなく言う。
「どれが俺達の木か、十年後もわかるように」
サラワットが当たり前のように言うもんだからあきれてしまい、それがそのまま声になってこぼれた。
「本気で十年も続くって思ってる?」
「 ――

サラワットは一瞬息をのみ、まばたきを忘れたように眼を見開いて俺を見た。うつむいたサラワット
の、伏せた睫毛が影を落とした。傷つけたって思った。
思えばこのころからもう、無意識の不安が少しずつ浮き彫りになっていたのかもしれない。
「いや、違うな」
けれどサラワットは、俺が何か言うより早く、顔を上げて笑った。
「それよりもっと長く、お前と一緒にいたい」
サラワットのその言葉が、俺はうれしかった。自分が先に否定するようなこと言ったくせに、絵空事
みたいだってわかってても、本当になればいいって思った。
でもよかったのはそこまでで、サラワットに指摘されて、いつの間にかブレスレットを失くしていた
ことに気づいた。
「お前、ブレスレットどうした?」
今朝、宿を出たときはあった。サラワットに日焼け止めを借りたときも、手首に着けてたのは確かだ。
植樹をするまでの何十分かの間に、どこかで落としたらしい。
「さっきまであったのに」
「新しいのを作ってやるから」
青くなって探し回る俺に、サラワットは怒りもせずに言ってくれたけど、それじゃ意味がない。
「でも、俺はあれがいいんだ」
あれじゃないと駄目だって思う。一つのピックを分け合った、俺の失敗をサラワットが記念に変えて
くれたもの。
「ごめん ……」
「落ち込むなよ、ただのブレスレットだ」
サラワットだっていい気分はしないだろうに、俺を慰めるんだよな。
「最近の俺達、災難続きだって言ったら言いすぎかな」
「気にするな」
サラワットはなだめるみたいに俺の頭を撫でた。
「すぐによくなる」
だけどサラワットともう一度あたりを探しても、やっぱりブレスレットは見つからなかった。落ち込
むなって言われても落ち込んだ。
サラワットが気を遣うから元気出さなきゃって思ったのに、その夜、俺はまたもやらかす。クジ引き
で揉めてサラワットと組めなかったことは残念だけどもういい、ミル先輩と話もできたし。
「君を傷つけた奴らは俺の友人だ。でも二度とあんな真似はさせない」
俺が巻き込まれる可能性があるんだから、それはサラワットに対してもって、思っていいんだろう。
問題はその後で、お参りすべき精霊の祠を燃やしてしまい、気になってよく眠れず、夜中にロッジを
抜け出した。スマホのライトを頼りに、焼けた祠を形ばかり整えながら、ここ最近の不運が象徴されて
るような気がした。
帰る途中で間が悪くスマホのバッテリーが切れて、夜の森は冷える上に目印もなく、気づいたときに
は暗闇で迷子になっていた。評判の星空どころか、さらに雨まで降ってきて、体温は下がるし、濡れた
76

草に靴裏が滑って足首を捻るしで、その場に坐り込んでしまう。
「あーもう ……!」
痛いし寒いし疲れたし、もう歩きたくない。どんどん自分が駄目な奴に思えて気が滅入ってくる。自
分で自分に嫌気が差す。
せっかくサラワットが「おやすみ」って言ってくれたのにな。あれでおとなしく眠ってればよかった
のに、こっそり挽回したいなんて余計な考え起こすから、こんなことになるんだ。
「タイン!」
サラワットが見つけてくれて安心した反面、ああまたかって思った。またサラワットに迷惑かけて助
けられて、何一つ進歩してない。
「大丈夫か? ゆっくり立って」
サラワットに支えられて立ち上がり、その肩を借りて歩き出したものの、雨脚は強くなる一方で、土
砂降りに震えるなか、打ち捨てられた廃バスを見つけた。
「雨がやむまで待とう」
放置されて何年経つのか、廃バスのなかは埃っぽくて黴臭かったけど、シートはそう傷んでなかった
から、抵抗なく坐れた。
「ごめん ……最近、悪いことばかりだったから、これ以上悪化させたくなかったんだ」
なのにまた俺が面倒起こすしって、謝りながらも合わせる顔がない。
ところがサラワットの口から、あの祠は偽物で、一連の儀式もディム先輩の悪戯だと知らされた。
「悪いことがあったって言うなら、俺のせいかもしれない」
けれどそれよりも、サラワットの言葉に戸惑った。
「なんで?」
「願掛けしたんだ」
肝試し程度の仕込みに引っかかってバカみたいだって思ったのに、サラワットのほうこそ迷信深いこ
とを言い出した。
「でも願いがかなった代償を、俺はまだ払ってない」
「どんなお願いだよ?」
「それは ―― 」
サラワットはためらうように眼を伏せると、自嘲ぎみに顔を上げて俺を見た。
「もしまたお前に会えたら、俺が作った動画を見せるって」
そこでここ最近の、俺の疑念につながった。
「お前が気にしてる『 Your Smile 』の動画だよ」
名前変えたから見つけられなかっただろって言いながら、サラワットは動画を再生したスマホを差し
出した。
「やあ … 僕はサラワットです。今日、 Scrubb のライブで君を見かけました。それで、君の笑顔を見たら
この曲を弾きたくなったんだ」
動画のなかのサラワットは高校の制服姿で、照れくさそうな表情がいつもより幼くて、うれしさを隠
しきれないみたいに顔がほころんでいた。どこか緊張ぎみに歌い始めて奏でるギターの音が、軽やかに
はずんだ。
〈 君 の微 笑 み だ け で す べ て忘 れ て し ま うよ 何 が 大切 か を 僕 に 気づ か せ て す べ てを 塗 り 替 え る
――〉
スマホを握るサラワットは決まり悪いのか、薄暗いバスのシートでうつむいてたけど、俺は冷やかす
つもりなんかなくて、ものすごく得がたいものにふれている気がして動画に見入っていた。
〈君の声一つで 天にも昇る心地になる 僕は知らなかったし 言葉にもできない ―― 〉
歌声にも喜びがにじんでいて、サラワットは少し恥ずかしそうに笑っていた。幸せな恋をしてるのが、
画面ごしにも伝わってきた。相手が俺じゃなかったとしても、いい恋だなって感じたと思う。
〈 今眼 を 閉 じれ ば 君 をま た 思 い出 す あ の瞬 間 で 時間 を 止 めら れ た らい い の に 簡 単じ ゃ な いけ ど
78

僕の願いはそれだけ ―― 〉
そしてあの後、あらゆる Scrubb のライブに行ったことまで教えられた。
「お前を探しに ―― でも見つけられなかった」
すごい行動力だなって、ちょっと口元がゆるんだ。
「それで、マンが神様にお祈りしろって言ったんだ。またお前に会えたら、この動画を見せるって約束
して」
ここまで明かしてもまだ居直れないみたいで、いつもまっすぐに見つめてくるサラワットにしては、
あまり眼を合わせようとしない。
「そういう話。でも恥ずかしくて見せられなかった」
サラワットがまたスマホの画面をこちらに向けて、どうやら歌い終えた後にも動画には続きがあった
らしい。
「実は、君に伝えたいことがあるんだ。もしかしたら一生この動画のなかだけの話になるかもしれない
けど」
改まったふうに言葉を切った後、一年前のサラワットが、照れたように笑って言う。
「君が好きだ」
「うん …… わかってる」
代わりみたいに目の前のサラワットに答えながら、束の間、胸が締めつけられたみたいに苦しくなっ
た。うれしいはずなのに、せつなくて泣きたいような気持ちに、なる。
理由なんてないけどわかったんだ ―― こんなに俺を好きになってくれる人は、もう二度と現れないだ
ろうな。これ以上の愛情を、俺が知ることはないんだろうって。
「俺もお前が好きだ」
噛みしめるみたいに、サラワットに告げた。伝わればいいって思った。
俺は多分、お前が思ってるよりずっとお前が好きだよ。それに自分が思ってたよりも。
「願掛けしてくれありがとう。だから今日こうして一緒にいるんだよ、俺達」
「俺が願ったのは、またどこかでお前と会いたいってことだけだ」
サラワットは確信を持って、励ますみたいに言う。
「俺達が今一緒にいられるのは、別に理由があるんだよ」
再会してからずっと、サラワットは友達や先輩の手を借りて、俺に近づこうとしていたらしい。メー
ルであしらわれこととかインスタのアカウント名とか、入部テストとかその他いろいろ、順を追って説
明されても、多すぎて頭が追いつかない。
「わかっただろ? 俺達が一緒にいるのは偶然じゃないんだ」
俺達は、理由があってここにいる。こうして二人一緒に、これまで築いてきた確かなつながりで。
「考えすぎるなよ」
そう言い聞かせて、サラワットはいつもみたいに俺の頭を撫でた。いつもみたいに、その手はあたた
かかった。
「雨、やんだな」
それから二人でバスを出て、まだ肌寒い、雨上がりの夜空を仰いだ。雨音のない夜は森閑として、冷
めた空気があたりにただよい、星がまたたく音が聞こえてきそうだった。雲が晴れた空に、かぼそい三
日月が頼りなげに浮かんでいた。深く澄んだ藍色の夜が、森を静かに包んでいた。
この日の夜空を、この瞬間を、きっと何度も何度も思い出す。明日も明後日も来年も、十年後も、繰
り返し振り返って感謝する。サラワットに出会えたことと、今こうして一緒にいられることに。
この先どうなろうとも、俺はサラワットの好意に報いたい。サラワットを幸せにしたいって思う。
「もう悪いことなんて起きないよ」
サラワットの言うとおりだったらいいなって、その言葉を信じたかった。
俺はいつまでサラワットと一緒にいられるんだろう。
――
何事も気の持ちようだって、考えるようにした。兄さんにバレたときも『 Your Smile
』の動画にしても、
80

紆余曲折があったって結局はいいところに辿り着く。
失くしたブレスレットも、サラワットの手から返ってきた。
「見つかったの? どこで?」
「どこだっていいだろ」
「一片の曇りもなくすっきりした」なんてありえないんだって、もうわかってたけど、同じくらい最
悪のこともないんだって思った。
サラワットはこのところ、バンドの練習で忙しい。次のコンテストは強豪揃いで、去年の優勝バンド
は特に手ごわく、その上サラワットのお気に入りらしい。
「誰?」
「ミル先輩のバンドだよ」
あんなにミル先輩を毛嫌いしてたっていうか、敵視してたのに、わからないもんだな。こういうのを
「一目置いてる」って言うんだろうか。
そんなわけでサラワットはスタジオにこもってることが多く、俺はちょっと退屈してて、例のごとく
疎外感もあったりするけど、音楽に関しては素人同然だから仕方ない。バンドのメンバーみたいに、サ
ラワットと対等にやりあえたらなって、あこがれは常にある。
「ゆっくり出来るようになればいい」
部活で練習するくらいじゃ魔法みたいに上達するわけはなくて、サラワットはあせる必要はないって
言う。でも気休めみたいで俺は安心できなくて、いい加減何とかしないとって、心のどこかで思い始め
てた。
急がないと、不運に追いつかれる。
そして予感どおり、不吉な影は、ものすごくきれいで華やかな存在として現れた。
「彼女はパム、高校のときからの友達だ」
サラワットと並んだパムの姿を目の当たりにして、重苦しく息がつまった。サラワットと同じ種類の
人だって、すぐにわかったからだ。美人であでやかで賢そうで、でもそれだけじゃない、普通の人には
ない輝きみたいなものがあって、サラワットの隣にいると完璧に絵になった。
パムはうちの大学の音楽学部に入るために、サラワットにギターを習いに来たらしい。医学部をやめ
てまで。
「パム、俺はすごく忙しいんだ。時間がない」
「このために来たのよ。お願い、手伝って」
サラワットの腕を掴んでねだるパムの様子から、二人の親密さがうかがえた。あのサラワットに無理
を聞かせられるような関係なんだって。
「ねぇ、お願い。入学できるかはあなたにかかってるの。お願いだから助けて」
腕にすがって何度もせがまれて、サラワットは困ってはいたものの振り払ったりせず、つまりそれが
答えだった。
胸がざわざわして落ち着かなくて、帰宅してからこっそりパムのインスタを覗いた。サラワットに知
られたくなかったってことは、何か探りたいって、やましい理由があったからだろう。
「そんなに忙しいのに、パムにギターを教える時間はあるんだな」
それにサラワットを追いつめるって知ってて、わざと厭味を口にした。こんなこと言いたくないって
思うのに、止められなかった。
「彼女は入学試験があるんだ。断るわけにはいかないだろ?」
わかってる、サラワットはそういう奴だ。パムじゃなくても、俺とか、マンやボスだったとしても、
同じように助けてくれたはずだ。
わかってても、いやな気分だった。
サラワットがパムのレッスンに出かけてからもう一度、彼女のインスタを開いた。ギターを抱えた写
真の左下に、ピックをチャームにしたブレスレットを見つけた。今俺が着けてるブレスレットに使われ
てるのとそっくりなピックだった。
82

「 ……

初恋は忘れられないものだって、フォングは言う。
「俺達は無意識に、初恋の人に似た相手を選んでしまう」
「タインの彼女も、初恋の子に似たお姫様タイプばっかりだ」
パムのインスタを見直した際、彼女が Scrubb
が好きで 、去年の学祭ラ イブに来てたの にも気づいて
た。
パムと共通点があるから、サラワットは俺を好きになったんだろうか。
「そういや今日、サラワットが女連れで歩いてるの見たぞ」
「高校のときの元カノだろ、 SNS
でチーム妻達が騒いでた」
パムはきれいで目立つから早速、噂になっているようで、プアックとオームも何の気なしに話題にす
る。
「彼女、メチャメチャ美人でゴージャスだな」
きっと俺のときとは騒がれ方も違うんだろうな。俺が相手だと「なんであんな」って感じだったけど、
パムなら「悔しいけどかなわない」って言われてるんだろう。
「元カノじゃないって」
一応、訂正だけはしておいた。元じゃなくて新じゃないかって。
サラワットから以前聞き出した、かなわなかった初恋の人はパムで、今でも引きずってて、もしかし
たらこれから恋人になるのかもしれない。
そこまでわかってて、どうして俺は大学に足を運んでしまうんだろう。サラワットがパムと仲良くし
てるところなんか見たくないのに、知らないままいるのもこわくて、そういえば俺は、カサブタを剥が
して傷を悪化させる子供だった。
「この弦に薬指があたらないようにして、覚えた?」
遠目にも、サラワットの教え方は丁寧だった。隣に坐って正しい弦を押さえるよう直してくれて、手
を重ねるみたいに指にふれる。俺のときもそうだったって、既視感しかない。
「 ――…

声はかけなかった。こっちにも気づかれたくなくて、見つかる前に踵を返して部室棟を後にした。
やっぱりなって思った。わかってたって、強がって安心したかった。確かめに行っただけだから、俺
は傷ついたりしてない。
その夜、風呂上がりにベッドでぼんやりしていたら、サラワットが俺の額に手をあててきた。
「具合悪い?」
「別に平気。昼間、プアックに店四軒連れ回されて、ちょっと胃がやられてるだけ」
嘘じゃなかった。胃の底がじわじわ焼けるみたいに疼いた。あのまずいお粥とか、他にもいろいろ食
べすぎたせいだ、きっと。
「わかった、待ってて」
サラワットはわざわざ胃薬と水を持ってきてくれて、相変わらず面倒見がいい。俺の頭を撫でる掌の
ぬくもりも、昨日までと同じ。
「久しぶりに今日、一緒にギターの動画を撮らないか?」
ふと思い立って、提案してみた。サラワットの関心を俺に向けたくて、試したんだと思う。
「もう遅いし、お前も調子よくないんだろ。また今度にしよう」
そう言うだろうなって予想はしてた。それにサラワットも、バンドの練習やパムのレッスンで疲れて
るだろうし、本当はお互いそのほうがいい。
「ちゃんと寝ろよ、おやすみ」
サラワットの「おやすみ」が、こんなに空虚に響いたことはない。
わかりやすいなって、半笑いみたいな気分になった。サラワットは案外わかりやすい奴だ。あえて口
に出さなくたって、俺を好きだっていう気持ちがあふれてて、浴びるように好意を肌で感じてた。でも
今はそれがない、感情がこわばっている。
84

それでも、これまでのように親切だ。パムにも俺にも等しくやさしい。きっと、好きじゃなくなった
相手にもやさしいんだろう。
照明を落とした部屋で薄闇を眺めていると、頭が冴えて冷静になっていく。
「お前に会ってあいつは変わった」
マンは俺にそう言ったし、何かの折に「高校では気難し屋って呼んでる奴もいた」って聞いた。あの
ときは気にも留めなかったけど、インスタのコメントでわかった、それはパムだ。パムだけのサラワッ
トの呼び名。
「今じゃ、皆と同じように笑ってる」
でもサラワットは、パムと再会してから俺の前で笑ってないよ。俺と一緒にいても全然楽しそうじゃ
ない。隣にいるのに心がここにない。
もう、答えは出ている気がした。
俺に背を向けて眠るサラワットの横で、 Scrubb を聴いた。壁にもたれてイヤホンを着けて、スマホで
ループ再生にして、何も考えずに歌詞だけを追った。
〈記憶のなかで 僕はその言葉とともにある 心に残るその言葉 ―― 〉
けれど自分のと見比べたパムのインスタが脳裏に浮かんで、 Scrubb の曲に集中できない。
俺の好きなブルーハワイを飲みながら、パムはサラワットとデートを楽しんでいる。肩を抱くように
ギターを教えるサラワットに寄り添って、どう見ても仲のいい恋人同士だ。あのブレスレットはサラワ
ットに着けてもらったんだろうか。
「 ……

実際にあったかどうかもわからない、ただの俺の空想だ。
〈僕のすべての痛み 僕は逃げている 僕を傷つける現実を置き去りにして ―― 〉
おかしいな、 Scrubb
が効かない。 Scrubb
の 曲を 聴け ば、 いつ だ って 悲し い気 持 ちが 薄ら ぐは ずな の
に。なんでだろう、俺の調子が悪いからかな。多分そうだ。
サラワットが強く願ったから、俺はサラワットと出会ってサラワットを好きになってここにいる。じ
ゃあもしサラワットが俺にあきたら、この関係も終わるんだろうか。
そうなんだろうな。
……
空が白むまで Scrubb
を聴いても、心は晴れないままだった。何も変わらないんだ、何も。
朝になったら劇的に事態が好転してるなんて、夢みたいなことはなくて、せめて体調くらいマシにな
ればいいのに、胃の痛みはかえって増してるし、吐き気もするし、これは吐いたほうが楽になるかとト
イレに行っても、胃液くらいしか出ない。
「まだ胃が痛むのか?」
トイレから出たらサラワットが起きていて、こういうときは察しがいい。
「ちょっと気持ち悪いだけ」
「今日は休んだらどうだ? 昨夜ろくに寝てないだろ」
「なんで知ってるの?」
サラワットを起こしたくなかったから、音はたててないし身じろぎだってほとんどしてない。
「ずっと音楽聴いてたのも知ってる」
できれば知られたくなかったって思った。気にかけてもらえるって、場合によっては厄介だ。
「今日はサボってお前の面倒を見る」
「大したことないよ。ほら行けって」
世話焼きなのはわかってたけど、今日ばかりは一人でいたかった。一人で考えて、サラワットの眼を
気にせず休みたい。
「でも俺は心配だ」
「大丈夫だって」
「本当に?」
「ほんと」
86

その程度のやりとりにも消耗して、胃が絞られるように痛む。心のほうが重症だ。
サラワットを大学に送り出して横になっても、眠りは浅く短かった。食欲はなかったけど「胃液って
塩酸だぞ」ってフォングに脅されたことがあるから、何か胃に入れないとって、薄いお粥を啜った。
「直接訊いてみたらどうだ?」
昨日それとなく相談したとき、他人事だからか、仲間達は気軽に俺を焚きつけようとした。
「訊いてみて何もなかったらバカみたいじゃないか」
「もし心変わりしてたら、訊こうが訊くまいが相手は離れていくだろ」
圧倒的な正論だ、フォングはいつも正しい。
その理屈に従ってスマホを手に取るってことは、俺は薄々答えを知ってるんだろうな。「何もないの
に騒いだバカ」にはならないって思ってる。
ところがサラワットに電話をかけたら、すぐ近くで呼び出し音が鳴った。
「なんで俺に電話したんだ?」
生声とともにサラワットが二階に上がってきて、話はしたかったものの、面と向かっては心の準備が
できてない。
「なんでこんなに帰ってくるの早いんだ?」
「リハーサルをサボった、お前が心配で」
こういうことを無自覚でやるから困る。変に期待しそうになるし、いやでも気持ちが傾く。
サラワットがどう思ってようと、俺はサラワットが好きだ。
「どうした?」
気遣うような、訝しむようなサラワットに、心のおもくむままに身を寄せた。その背に腕を回して胸
を重ねると、サラワットの体温と鼓動が伝わってきた。
抱き返してくるサラワットの掌が、なだめるように俺の背中を撫でていて、その肩口に顔をうずめ、
お互いの眼は合わせずに、もう決まったことみたいに尋ねる。
「パムは初恋の人なんだろ?」
サラワットのほうもわかってたみたいに息をのむ気配がして、俺の肩から顔を起こした。俺の両腕を
掴んで体を離し、あの揺らぎのない眼で俺を見つめて、ゆっくりとまばたきして言う。
「そうだ。パムが俺の初恋」
よかったって思った。もし否定されたら、嘘をつかれたってショックだっただろうから。
ただしパムとは友人の域を出ず、告白もしなかったそうだ。
「なんで?」
「パムにはお前とライブで会ったときみたいな、何かを感じなかった」
俺に一目惚れしたっていう、サラワットにとっての特別な何か。そんなものが俺にあるなんて、全然
実感ないけど。
「友人関係を壊したくなかっただけじゃないのか」
だから俺はまた、そんな言い方をしてしまう。
「それに俺は、彼女の影みたいだ」
「なんでそう思うんだ?」
インスタを見ただけでも、パムと俺にはいくつも共通点がある。ブルーハワイが好きでギターを弾く
のが好きで、 Scrubb
が好きで ――
ブレスレットのことは訊けなかった。
「お前達は似てないよ。パムはコーヒーが売り切れてたからブルーハワイにしただけだし、逆にお前は
最初、俺に近づくためにギターを始めただろ」
サラワットは俺の疑念を一つずつ晴らしていく。
「彼女はどのバンドも好きだ。あのライブにいたのはマンに連れて行かれたからだよ」
半ば感心した口調で言う。
「一つのバンドに操を捧げてるのはお前くらいだ」
考えすぎだって、サラワットは俺の頭を撫でた。いつもみたいに、あたたかくてやさしい手で。
88

サラワットの言うとおりかもしれないって思った。思うことにした。思いたかった。
「ごめん、ちょっとおかしくなってた」
「パムとお前の決定的な違いを教えてやろうか」
安心したのかサラワットは、ちょっと得意げな表情になる。
「パムはいつか誰かのものになるけど、でもお前は」
そこで言葉を切って、サラワットは両腕でゆっくりと、大事なものみたいに俺を抱きしめた。
「俺の ――
俺だけのものだろ」
耳元の囁くような声音は少しかすれて、いつもより低くて、心に刻み込むみたいだった。サラワット
は今でも俺を好きなんだって、感じられてうれしかった。
今からでもリハーサルには間に合うのに、サラワットが今日は俺と一緒にいるって言い張るから、俺
もついていくことにした。サラワットと出かける準備をしながら、これまでの日常が帰ってきたみたい
だって思う。
けれどなんでか俺は、出かける間際に手書きのコードを見つけてしまうんだ。
「お前が書いた曲のコード?」
「これはテンプの」
あわてて奪い取られたから、床から拾い上げた一瞬しか見えなかったけど、訂正のあるコードの羅列
はおそらく未完成で、サラワットの字だった。
「間違えて持ってきてた」
問い詰める気も起きないくらい見え透いた嘘で、すっと体温が下がった。おまけに大学に行ったら部
室棟の前でパムが待ち構えていて、引き戻されるように気分が沈む。
「レッスンは明日だろ。今日はずっと練習がある」
「でももう来ちゃったし。試験の曲について少しだけ話し合わない?」
どんな事情があるにせよ、俺にはパムのワガママに思えたけど、サラワットは断れないようだったし、
俺のことを気にしてるのもわかった。
「先に彼女と話せよ、練習まで三十分はあるし」
気を利かせたふりでサラワットの荷物をあずかって、一足先にスタジオに向かった。階段を上る背中
ごしに、パムのはずんだ声が聞こえた。
「私のために書いた曲を聴かせて」
幸いって言っていいかはわからない、早めに着いたスタジオは無人だった。俺は何秒か迷っただけで、
サラワットの鞄を無断であさってあの手書きのコードを取り出す。ためらいつつも二つ折りの紙を開い
て、初心者なりに一つずつ、ギターでコードを弾いてみた。
何やってるんだろうって、無責任な他人事みたいで不思議だった。罪悪感がついてこない。
「 ……

俺ってこんなだったかな。昔は普通に自分のこと好きだった気がするよ。大して自慢できるようなこ
とはないけど恥じることもなくて、彼女がいたりいなかったりしてもいい友達に恵まれて、のびのび生
きてたと思う。自己嫌悪とか自責とか、そういうこととは無縁だったし、自分を卑下したりもなかった。
少なくとも、サラワットと知り合う前は。
「恋をしたことのない人間が、ラブソングを書けると思うか」
知り合って間もないころの、サラワットとの会話を思い出す。
「歌を書くための経験が必要だから、俺と付き合うことにしたんだろ」
「そう思うのか?」
「正解だろ」
私のための曲、とパムは言った。サラワットは高校のころからラブソングを書いていて、それはパム
を想ってる歌で、でもなかなか完成しないからサラワットは恋についてもっと知りたくて、その相手が
俺で ――。
手直しした跡が残るこのコードは、あの日、チア部の練習場でサラワットが弾いたものと同じだった。
90

全部が腑に落ちた。
「俺はお前にラブソングを弾いたんだ」
俺との恋は、パムへの曲を書く参考になったかな?
そんな皮肉が頭に浮かんで、いやだな、本当にいやだ。このままだとみじめで自分が嫌いになりそう
だ。俺はサラワットが好きで、一緒にいられてうれしいはずのに、なんでこんなにつらくなるだろう。
ここにいたくない、どこかに逃げ出したい。
こみ上げるものを押しとどめるように強く眼をつぶってから、奥歯を噛みしめて、荷物を全部放って
スタジオを出た。
「私達、昔みたいに戻れない?」
ドアを開けて一歩足を踏み出した時点でもう、二人の姿が見えた。サラワットにすがりつくみたいに、
その背中に両腕を回して胸に顔をうずめたパムと、振りほどけずに立ちつくすサラワットは、悲恋物の
恋人同士みたいだった。
「愛してるの」
決定的だった。いつの間にか突きつけられていた刃物が、すっと胸に入った。
「あなたも同じ気持ちだってわかってる」
顔を上げたサラワットと眼が合って、俺が立ち聞きしてしまったことにも気づいたのに、サラワット
は何も言わなかった。ただ人目を気にするみたいにパムの腕を取ろうとして ――
俺が知ってるのはそこ
までだ。
それ以上見ていられず、うつむいてその場から立ち去った。走り出したいのに早足で我慢したのは、
見栄があったんだろうな。二人の前で、みっともなく取り乱したくなかった。
でも人気のない階段まで来たらもう駄目だった。
「なんでだよ ……!」
口に出した言葉は既に涙声で、自分で思ってたより前から泣いてたのかもしれない。決壊したみたい
に涙があふれて嗚咽が喉につかえて、苦しくて全身が悲鳴を上げている。両手を壁に打ちつけても感情
のやり場がなく、胃が焼き切れたみたいに熱くて、心臓から出血してるんじゃないかと思う。爪を突き
立てられたみたいに胸が痛い。
息ができなかった。
涙を止められないまま、ふらふらと校舎から外に出た。いい歳して泣き顔なんてって気にする余裕もな
く、胃は痛いし息は苦しいし、恥とかどうでもよかった。夜道は暗いし、どうせ人は俺のことなんか見
てない。
一刻も早くサラワット達から離れたくて、ヤケみたいな早足で歩いていたら、後ろを気にして振り返
った瞬間、勢いよく人とぶつかった。
「大丈夫か?」
その衝撃で胃がはずんで、思わず前かがみに体を折った。これまでの刺すような痛みとは違う、胃が
捻じれるような感覚に、胃液がせり上がって口からこぼれる。
「タイン?」
支えてくれたのは偶然にもミル先輩で、誰にも会いたくなんかなかったのに、知ってる顔を見たら力
が抜けた。助けを求めるようにミル先輩の手を掴んだまま、胃をかばうように押さえながらへたりこん
で倒れる。横たわるとちょっとは楽で、地べたの硬さを実感して息をついたら、ミル先輩とその友達に
あわてて抱え起こされた。
肩を借りて、二人がかりで車まで運んでもらったときだった。
「そいつをどこに連れて行く気だ 」
!?
背後でサラワットの声がした途端、胃に引き絞られるような痛みが走った。
「邪魔するな。病院に連れてくんだよ」
「引っ込んでろ! 俺が連れて行く」
サラワットは俺を抱え寄せようとしたけど、ふれ合っただけで体がこわばった。
92

「お前こそ引っ込んでろっ」
「俺が連れて行くって言ってんだろ」
サラワットはあからさまに喧嘩腰で、ミル先輩は何も悪くないのに、怒鳴り声が耳障りで気持ちが悪
い。睨み合う二人に挟まれて、止めないとって思っても顔を上げられず、口を開いたらまた吐きそうだ。
「お前、今までどこにいたんだよ。彼氏のことも気遣えないくせに」
ミル先輩は口調こそ抑えめでも声に怒りがにじんでいて、その言い分を含め、サラワットを黙らせる
には十分だったようだ。
「どうこう言える立場だと思ってるのか?」
サラワットは言葉がないように息をのみ、眉を寄せて物言いたげに俺を見ていたが、また吐き気がこ
み上げてそれどころじゃない。胃液で喉が焼ける。
「タイン ……

俺はうつむいたまま目線も上げず、サラワットのほうは一度も見なかった。それで察したんだと思う。
俺がミル先輩の車に乗せられるのを、サラワットはもう手出しもせず、力なく眺めていた。走り出す
車からサラワットが遠ざかり、バックミラーにも見えなくなって、正直、ほっとした。
病院に運ばれてベッドで眠っている間、夢を見た。バカみたいな夢だ。
「パムと俺の間に、お前の考えてるようなことはないよ」
サラワットが病床に駆けつけて、いとおしげに俺を見下ろして言い聞かせるんだ。パムと抱き合って
たのは、あくまで別れのハグだって。
「パムは彼氏と海外留学するんだ」
「誤解させてごめんなさい」
いつの間にかパムもいて、サラワットの言葉にうなずいて俺を安心させる。だから心配するなって、
サラワットがやさしい手で俺の頭を撫でた。
「俺を信じて」
信じたかった。目が覚めてから、これが俺の願望なんだなって思った。サラワットがパムを好きだっ
ていうのは誤解で、パムには彼氏がいて、遠くに行って俺達の前から消えてなくなってほしいんだ。俺
にだけ都合がいい、自分勝手な夢。
実際に病院でついててくれたのはミル先輩で、俺が一方的に思いを吐き出すのを、黙って聞いていた。
「サラワットは俺に嘘をついてたんです。俺のために書かれた曲だって思ってたのは間違いで、実はパ
ムに向けられたものだった」
パムはサラワットの初恋の人だって、ミル先輩には関係ない説明まで挟んだ。
「自分がバカみたいで ――
嘘つきは嫌いだ。付き合ってるなら、俺は恋人を心から信頼する。でもあい
つは俺をバカだって思ってたんだ、ずっと嘘をついてた」
口にする言葉のすべてが、自分に突き刺さった。
「あいつの何が本当で何が嘘か、もう俺にはわからない」
嘘をつかれたら傷つくし、それが信頼していた相手なら、なおさらつらい。
俺は単純ですぐ人を信じて、好きになって ――
簡単だっただろうなって思ったら、悔しくて情けなく
て泣けた。慰めるようにふれるミル先輩の手は丁重で、親切だった。
「そんなにつらいなら、距離を置いたらどうだ」
いつもは押しが強いのに、今日は随分控えめで、声も手つきもひどくやさしかった。
「信用していいよ」
ああ ――
やさしくされたいな。誰かに大切にされて、自分を価値のある人間だと思いたい。すぐ騙さ
れるつまらない奴なんかじゃなくて、人から愛されて望まれている存在だと実感したい。
ミル先輩に手を握られて抱き寄せられても、いやじゃなかった。むしろ救いのように感じた。また涙
が出て、その背にすがるように腕を回した。指で涙を拭われるのも心地よかった。
切実にやさしくされたかった。
翌日、退院するときもミル先輩が付き添ってくれて、車で送ってもらうことになった。けれど俺が助
94

手席に乗り込んだところでまた、サラワットが現れる。
「なんでお前がここにいる?」
ミル先輩の問いを無視して、サラワットはまっすぐ俺に向かって歩いてきた。
「タイン、出てきて俺と話をしてくれ」
サラワットは助手席のドア叩いてそのまま開けようとしたから、ロックした後でよかった。
「タイン」
サラワットが窓を覗き込んでガラスを叩いて、何度も俺の名前を呼ぶのを、ミル先輩が苦い表情で眺
めていた。
「タイン、俺と話をしてくれ」
サラワットの必死な訴えに、耳をふさぎたかった。
だって話を聞いたら信じたくなる。サラワットは俺を好きなんだって思いたい。そしてまた裏切られ
て傷ついて ――俺はバカだから、同じ間違いを繰り返す。
「お願いだ」
聞こえないふりをして眼も向けなかったけど、懇願めいたその呼びかけに根負けして、俺は車のドア
を開ける。
「昨日のことは何でもないんだ、俺とパムの間には何もない」
「もういいよ」
サラワットが何を言おうとどうでもよくて、俺が車から降りたのはそうしないと諦めないと思ったか
らだ。
「どんな言い訳も聞きたくない。もうお前のことは信じられない」
それだけを伝えてサラワットを黙らせて、また車の助手席に戻って、これ以上の話し合いを拒絶する。
「俺はクズかもしれないが、好きな人には絶対にそんな真似はしない」
ミル先輩の言葉はサラワットに向けられたものなのに、俺にまで響いた。
「その程度の気遣いもできないなら、もう放してやれ」
サラワットを駐車場に残して、ミル先輩は車を出した。向かった先は俺がサラワットと住んでいるあ
の家で、無人の間に荷物を引き上げるためだ。サラワットがこの時間、バンドのリハーサルで帰ってこ
ないのはわかっていた。
ミル先輩にかばってもらって、助けてもらって、やさしくされるのは気持ちよかった。
あんまり考えたことなかったけど、この人もけっこう特異な部類だ。サラワットと渡り合うだけある。
芯にあるものが強すぎて、人を引きつけたり拒否されたりが激しい。本人はそういうの関心ないどころ
か、鬱陶しく思ってそうだけど。
「もし行くあてがないなら、俺のとこに来いよ」
そこまで言ってくれるミル先輩が、ありがたいのと同じくらい不思議だった。
なんでこの人は俺を好きになってくれたんだろう。俺の何がよくて好きなんだろう、俺に好かれる要
素なんてあるのか。もしこの人を好きになったら、サラワットといたときみたいに幸せな気分になれる
んだろうか。
「ありがとうございます」
俺は簡単に人を好きになるから、ミル先輩のことも好きになれる。きっと好きになってもらった分だ
け好きになる。だから俺は ――

「でも、友達が泊めてくれることになってるので」
だから俺は、あんなにもサラワットを好きだったんだろう。
雨宿りした廃バスで、サラワットがどれほど俺を好きでいてくれたかを知って、うれしくて泣きそう
になった。自分が特別な、誰かからそんなふうに好きになってもらえる人間なんだって感じた。
でも違った、「誰か」じゃなかった。
誰かの大切な存在でありたい、なんて嘘だ。やさしくされていい気になってるのも一過性だ。俺は、
自分がサラワットに愛されるに値する人間だと思いたかったんだ。あのときも、今も。
96

「荷物は? これで全部?」
「はい、多分」
持っていく物は意外と少なかった。 Scrubb
の CD
と、洋服とか靴とか身のまわりの類、小物がいくつ
か。もともとが寮暮らしだったのもあり、鞄三つに収まった。気軽に戻って来られないから、忘れ物が
ないか机の引き出しを確認していて、手が止まった。
〈こいつは俺のもの サラワット〉
彼氏のふりを了承してもらったときに書かれた付箋だった。達成感がすごくて浮かれて、後から取り
消されないようにって証拠も兼ねて持ってたけど、あの時点で俺はもう、サラワットを好きだったのか
もしれない。
あれから数ヶ月しか経ってないのに、随分離れてしまった気がする。あのときの喜びを、感覚として
思い出せない。過去の自分が遠い。
「 ……

付箋の横にあった、インスタントカメラの小さな写真もだ。俺がカツラや鼻眼鏡着けさせられてるや
つ。引っ越したばかりのころに見つけて捨てろって言ったのに、サラワットが「宝物だから駄目だ」っ
て言い張った。
俺達、二人ともバカみたいだな。こんなところだけ似てて ―― 結婚とか十年後とか、夢見がちなこと
言って、でも現実は上手くやれなくて。
写真を戻して引き出しを閉めて、せがまれて着たユニフォームのことも忘れて、この家を引き払う準
備を整えた。
「行くか」
ミル先輩に促され、続いて階段を降りようとして足を止める。ペアのブレスレットは同居を始めた記
念にサラワットがくれたものだったから、手首から外して、未練ごと机の上に置いた。半分に切られた
ピックは、片割れを失って寂しそうに見えた。
このピックにしても、最初は弁償するつもりだったんだ。けど近くの楽器屋には同じ物がなくて、ど
れを買ったらいいかわからなくて迷ってたら、フォング達に「あいつ金持ちだから、ピック一個くらい
別にいいだろ」って言われて、それもそうかって有耶無耶になった。
俺はサラワットに対して薄情だったし、反省も足りなかったし、甘えてばかりだった。そして今も、
自分だけかわいそうって、一片の非もないみたいな顔をしてる。
「思ったんだけど、俺達の部屋にしないか」
そう言ってサラワットは、一緒に暮らそうって俺を誘った。
「眼を閉じて眠る直前までお前を見ていたいし、目を覚まして最初に見るのはお前がいい」
なんだかものすごく遠い昔のことみたいだ、ほんの何日か前まで平穏で、毎日が楽しくて、このまま
同じような日々が続くんだと思ってた。終わるときはこんなにもあっけない。
「一緒に引っ越してくれてありがとう」
俺もサラワットに、今までありがとうって言えればよかったな。まだ無理だけど、いつかそんな日が
来るんだろうか。
そうやって、俺は一人になった。
一年前の俺が作った動画をタインが気にしてるのを知っても、俺はすぐには見せられなかった。タイ
トルは『 Your Smile
』だし緊張しまくりだし、タインに一目惚れしてのぼせ上がったままのテンション
で撮ったから、自分では恥ずかしくて見返せない代物だったんだ。
「いい歌じゃないか、黒歴史にするにはもったいない」
マンにニヤニヤからかわれたのにもムカついた。あいつは悪い奴じゃないしタインのことにも協力的
で、感謝はしてるが、たまに絞め殺したくなるときがある。タインの兄貴も大変だろう。
動画を見たタインは笑ったりせず、勿論そんな奴じゃないってわかってたし、想像以上に喜んでくれ
て、でもなぜか思いつめたような笑みだった。
「願掛けしてくれありがとう」
98

これで俺は晴れて、秘密は何もなくなった。
恥ずかしいとかバツが悪いとか言ってないで、もっと早くに見せればよかった。自分の体面にこだわ
ってタインを悩ませた。もう隠しごとはしない、タインには正直でいたい。
タインは明るくて屈託がなくて楽天的なわり、一つつまずくと思考が地滑りするみたいだ。ほっとく
と考えすぎて勘繰って、激しい思い込みで誤解が雪崩を起こしかねない。
「もう悪いことなんて起きないよ」
タインにも自分にも、信じたいように言い聞かせた。
タインと一緒に住むことに慣れた今でも、朝起きて隣にその姿がないとビクつくことがある。シーツ
に手をあてて、体温の名残を探した。
「ワット、起きた?」
そんなときタインは大抵、一足先にバスルームにいて、歯ブラシをくわえたまま顔を覗かせた。
「おはよ、朝ごはんどうする?」
引きつってた心臓がほどけて、血が流れ込むのが感じられた。安心して全身がじわりとあたたかくな
った。毎朝タインの顔を見るたび、夢みたいだって思う。
一年前は名前も知らない彼を探して駆けずり回ってたのに、今のタインは俺の恋人で、キスして抱き
合って同じベッドで眠ってる。「俺を好きか」って尋ねれば、「好きだ」って言ってくれる。
「前に『変わった奴が好き』って言ってたけど、本当だったんだな。いや、俺が変わってるんじゃなく
て、お前の好きになり方が」
あの動画を見た後、タインはしきりと首をかしげていたが、タインにはわからないだろう。
去年の今ごろ、俺は何となく勉強して何となくサッカーして、この先はレベルに合った大学に入って、
それなりのとこに就職するんだろうなって思ってた。サッカーは好きだしギターはもっと大事だったけ
ど、あって当たり前って感じで、日常の倦怠に同化しかけてた。
浮いた話といえば仲のいい女友達のことくらいで、彼女とは話が合うし似た者同士だし、お互い意思
表示はしてないものの脈はありそうで、もし彼女が他の男とくっついて前みたいに遊べなくなったら寂
しいだろうから、これが恋なんだって思ってた。
マンに誘われた Scrubb
のライブでタインに出会ったのは、そんなときだった。
「こんなに楽しそうに音楽を聴く人を、今まで見たことがない」
音楽だけじゃなくて、生きること自体を楽しんでいるっていうか、 Scrubb
が好きで歌うのも踊るのも
好きで、一緒にいる友達が好きで、ライブの空気が好きで世界一楽しそうで、その眼には輝かしい景色
が映ってるんだろうと思った。幸福を呼吸してるって感じた。
「 ――…
っ」
同じ場所にいてお互い高校生なのに、なんて違うんだろうって、心臓を射抜かれたみたいだった。気
づかないうちに少しずつ層を成していた分厚い黒雲が一気に晴れて、あざやかな新しい世界が開けた。
これほんとに現実かって、確かめるように彼に手を伸ばしかけて、かろうじて抑えた。でも片時も眼
が離せなくて、ふれたくて仕方なかった。
そして彼のおそらくは無自覚の、無垢な善意を目にした。
「他にあんだけファンいんだから、自分だけ我慢したって意味ないだろ」
「写真もサインも一分もかからないんだから、並べばいいのにな」
マンやボスからすると納得できないようだったけれど、言わせたままにはできなかった。
「意味はあるよ」
たとえば百人を相手にファンサービスするところが、九十九人になる。そういう些細な積み重ねで救
われることだってあるんだ。
一途だなって思った。 Scrubb
に対して健気で一途で、無私だなって。本人達がその気遣いを知ること
は決してないのに、一生の思い出と引き換えに、彼らにささやかな休息を与えた事実で満たされている。
あんなふうに想われたら幸せだろうって、羨ましかった。
「俺は Scrubb
になりたい」
100

「また言ってるよ」
タインが Scrubb
への愛を語るたびに言うもんだから、笑って受け流されてるけど、けっこう本気だ。
毎日が幸せで、ときどき現実感を失いそうになる。こんなに上手くいっていいのかってこわくなる。
大きな落とし穴があるんじゃないかって、俺は何を疑ってるんだろう。
そこへ来たのがパムだ。俺のインスタにコメントはしていたものの、ほぼ何の前置きもなく大学にや
ってきたのには驚いたし、困惑した。
「前もって連絡しても断らなかった?」
医学部を退学してきた、うちの音楽学部に入りたいって、いきなり言われてギターを教えるよう頼ま
れて、途方に暮れた。パムの言うとおり、事前に訊かれてたら間違いなく断ってた。
パムはマンやボスと同様、高校のときからの友達だ。きれいで頭がよくて気まぐれで、そこが魅力で
もあった。いずれ付き合うことになるのかって、母親に「彼女はまだできないの」ってせっつかれるた
び、それはパムなんだろうって思ってた。
「私には忍耐強い先生じゃないと。ね、サラワット先生?」
パムはいい友達だったから、再会したこと自体はかまわない、でも挙動がおかしかった。そしてタイ
ンが即座にそれに気づいた。
「待てよ、前にもギターを教えたことがあるのか?」
「ああ。ずっと前にな」
以前のパムは強引なところもあったけど、こっちの都合にかまわず無茶を押し通したりはなかったし、
あんなにわかりやすく甘えるような言動をとるのも、彼女らしくない。
「パム、俺はすごく忙しいんだ。時間がない」
「このために来たのよ。ねぇ、お願い。入学できるかはあなたにかかってるの。お願いだから助けて」
パムの目的がギターのレッスンだけじゃないって、タインも察したんだろう。瞬時に表情が翳って、
すっと顔をそむけた。
「忙しくても、パムにギターを教える時間はあるんだな」
俺がパムと一緒にいるのを、タインがよく思ってないのはわかってた。正直に言えば、俺だって迷惑
に感じてた。でもパムが医学部を辞めたのは事実で、そこまでして音楽学部に入り直すっていうなら、
手を貸すしかない。
友人としてのパムには。
「お前もレッスンに来るか?」
タインを誘ったのは、見られても何もやましいことなんかないって、言いたかったからだ。
「やめとく。プアックの食レポを手伝うから」
タインの瞳は不安定で、あまり眼を合わせようとせず、それだけが理由じゃないように思えた。
「ほんとに?」
「うん、なんで?」
タインはこう見えて、はぐらかすのが上手い。不思議そうに首をかしげて、何でもないふりをする。
「様子が変だ。言いたいことがあるなら言ってくれ」
タインは目線をただよわせ、その横顔はやけに白くて、声にも感情がない。
「気にしすぎだろ。もう行けば?」
それ以上、食い下がるわけにもいかず、タインを置いて出かけるしかなかった。
幸いパムは要領がいいから、ギターの上達も早いだろう。今すぐ上手くなって、俺を必要としなくな
ってくれ。
けれどパムは、ますます事態を悪化させる。
「私のために曲を書いてくれるって言ったでしょ」
入学テストでその曲を弾くからって、俺に約束を果たすよう迫った。
確かに言った、あのころはパムが女の子だってだけで、恋だと思ってたから。でもタインに出会って
タインのことしか考えられなくなって、曲を書こうにもタインへの想いしか浮かばなかった。高校を卒
102

業して進路が分かれてからもそれは変わらず、俺はまだタインへのラブソングを書いている。
レッスンを終えて帰宅しても、タインはふるわない様子で、口数も少なかった。表情がないせいか、
風呂上がりなのに血の気に乏しく、視線も定まらなくて、もしかして本当に熱でもあるのかって、その
額に手を伸ばす。
「何してんの」
「ぼーっとしてるから、具合悪いのかと思って」
額にさわった感じだと、特に熱はなかったから、やっぱり原因は俺ってことになるんだろうか。
「別に平気」
「ほんとに?」
タインは無表情どころか、声にも一切感情がなくて、余計に心配になった。不機嫌になる気力もない
のか、俺から距離をとろうとしてるみたいで、不穏に胸が騒ぐ。
「昼間、プアックに店四軒連れ回されて、ちょっと胃がやられてるだけ」
タインはかまわれたくないみたいに、説明するときだけわずかに口調に温度が戻る。さっきから無意
識にお腹に手をあてているようで、嘘じゃないんだろう。
「わかった、待ってて」
それでも胃薬を渡したら普通に飲んでくれて、ほっとした。胃痛が本当に食べすぎのせいなのかは、
あやしいところだが。
「次からはちゃんと言ってくれよ」
早くよくなってほしくて、タインの頭を撫でた。よそよそしい態度をとられてたから、こうしてタイ
ンにさわって体温を実感すると安心する。
「最近、一緒にギターの動画撮ってないよね」
ところが明かりを消そうってときに、唐突にタインが切り出した。
「俺達で今やらない?」
せっかくのタインからの誘いなのに、気が進まなかった。パムのレッスンをタインが快く思ってない
のはわかってたから、タインにそんなつもりはなくても、遠回しに責められてる心地がした。
こんな状態でやったって、顔色の悪いタインと無理に合わせてる俺の、最悪の動画が残るだけだ。
「もう遅いし、お前も調子よくないんだろ。また今度にしよう」
後になって振り返ればわかる、俺はそうやって問題を先送りにして、タインの気持ちを思いやらなか
った。心に余裕がなかった。
そういう小さなことが重なって結果につながるって、知ってたのに。
「 ……

タインは失望したみたいに眼を伏せて、何も言わなかった。そんな顔は見たくなくて、俺は明かりを
落として布団にもぐりこみ、タインに背を向けた。
「ちゃんと寝ろよ、おやすみ」
当然のように返事はなかった。
翌朝、起きるとベッドにタインの姿がなくて、いつものことだって思っても、なぜか心臓がひどく収縮
して指先が冷えた。眠い眼をこすっても落ち着かず、心当たりがあるんだろって言わんばかりに、不吉
に鼓動が速まる。
勿論タインはこの家にいて、バスルームから当たり前に出てきたけど、下手すると昨日より体調が悪
そうで、安心なんかできない。
「今日は休んだらどうだ? 昨夜ろくに寝てないだろ」
「なんで知ってるの?」
昨夜、タインはなかなか横になる気配がなく、石像にでもなったみたいに、壁に背をあずけて身動き
もしなかった。
「ずっと音楽聴いてたのも知ってる」
知ってたのに、声をかけなかった。かける言葉がなかった。タインの憂鬱を晴らすにはパムを拒絶す
104

るしかなくて、俺にはできない相談だったから。
「大丈夫だって。それよりシャワー浴びろよ、遅れるぞ」
「今日はサボってお前の面倒を見る」
俺が申し出ても、タインはまともに相手にしないって感じで、平気だって言い張った。
「大したことないよ。ほら行けって」
遠慮してるんじゃないのはわかってたけど、俺自身がタインから目を離したくなかった。
「でも俺は心配だ」
「大丈夫だって」
「本当に?」
「ほんと」
しつこいって言われそうで引き下がったが、本意じゃない。実際、タインに追い立てられるように家
を出たって気が休まらず、講義に集中できないし、この分じゃリハーサルでも使い物にならないだろ。
タインに関してこらえ性のない俺は、昼過ぎにはタインの様子を確かめに帰宅していた。寝てるかも
しれないタインを起こさないよう、物音をたてずに家に入り、途中で買ったお粥を提げて二階に上がろ
うとしたところで、スマホの着信音が鳴った。
「なんで俺に電話したんだ?」
液晶に表示されたタインの名前を見て、電話に出る代わりに、直接本人に声をかけた。俺に用があっ
たんだろうに、タインは予想もしてなかったらしく、戸惑いぎみに尋ねる。
「なんでこんなに帰ってくるの早いんだ?」
「リハーサルをサボった、お前が心配で」
眼を見開くタインが何か言う前に、続けて反論を封じる。
「お粥買ってきた。バンドのほうは問題ない、あいつらは大丈夫だ」
一日二日の遅れくらい、すぐ取り戻せる。
何か軽く食べたような痕跡はあったから、お粥は後でいいかって机に置いて、タインに向き直った。
「どうした?」
出かけてるはずの俺に電話するくらいだから、よほどのことなんだろうと思ったのに、タインは口を
つぐんだまま、でも物言いたげに俺を見つめた。ゆっくりと近づいてきて、顔をすれ違わせるみたいに、
体を重ねて俺の背中に腕を回してくる。
「 ……

タインのほうから抱きついてくることなんか滅多になくて、それどころかほとんど初めてだったんじ
ゃないか。
タインが心配なのは本当なのに、こんなことくらいで鼓動が高鳴って、確かめるようにタインの背中
に掌を這わせた。思いきり抱きしめたかったけど、まだ顔色がよくないみたいだから我慢して、でもう
れしくて顔がほころんだ。腕のなかにいるタインの、ぬくもりがしみ渡るみたいだ。
「パムは初恋の人なんだろ?」
喜びにひたってたら、浮かれ気分を払いのけるみたいに訊かれて、束の間、息がつまった。名残惜し
かったけど身を起こして、お互いの顔を合わせ、タインの眼をまっすぐに見て答えた。
「そうだ。パムが俺の初恋」
嘘をつく理由も、後ろ暗いこともない。タインが話題にするのがいやでなければ、いくらだって正直
に話せる。
「始まりは友達としてだったし、俺の気持ちは伝えなかった」
「なんで?」
「パムにはお前とライブで会ったときみたいな、何かを感じなかった」
恋かもしれない、なんて淡い感情が吹っ飛ぶ衝撃だったんだ、あれは。どれだけ説明したって、お前
には伝わらないだろうけど。
「友人関係を壊したくなかっただけじゃないのか」
106

案の定、タインには理解できないようで、口調も皮肉めいている。お前にも見せたいよって、思って
しまう。
あのとき俺の眼に映っていたものを見せられたら、言葉なんかいらないのにな。すぐにわかる、どう
して俺が恋に落ちたのか。
「それに俺は、彼女の影みたいだ」
「どこかだよ?」
どうやらタインは、自分がパムの代用品だとでも思っているらしい。
「誰がそんなおかしな考えをお前の頭に植えつけたんだ?」
「彼女と俺にはたくさん共通点がある」
タインの言い分があまりに想定外で、驚くというよりあきれた。
「お前と彼女に?」
パムが聞いたら怒るんじゃないか。ものすごく優秀なんだぞ、彼女は。いや笑うか、笑うかな。本来
のパムはそういう性格だ。
「お前達は似てない」
疑惑を晴らしたいとか弁明とかではなく、我ながら万感こもっていた。
むしろ対極だろう。まあ俺だってお前と知り合うまでは、自分の想い人はもう少し理知的なタイプだ
と思ってたんだが。
「彼女のインスタを見たんだ。彼女はブルーハワイが好きだ」
「彼女はコーヒーが好きだ。コーヒーが売り切れてたから、たまたまブルーハワイを買ったんだ」
タインには悪いが、思わず笑いが洩れた。
「彼女はギターを弾くのが好きだ」
タインは強情な口調で理由を並べ立てるものの、それこそ的外れだ。
「確かに彼女はギターが好きだ。でもお前は最初、俺に近づくためにギターを始めただろ」
あれは実のところちょっと複雑だった。お前が俺に興味を示すのは歓迎すべきなんだろうけど、ギタ
ーを軽く扱われるみたいで、素直に喜べなかった。お前が自分の意志で、今でもギターを弾いてるのは
純粋にうれしい。
「彼女は Scrubb
が好きだ」
「彼女はどのバンドも好きだ。あのライブにいたのはマンに連れて行かれたからだよ」
よくそこまで勘違いできるもんだ、感心するよ。
「一つのバンドに操を捧げてるのはお前くらいだ」
だから俺は、取り返しがつかないくらいお前を好きになったんだ。あんなふうに一途に愛されて、お
前の幸せのなかに入りたいって思った。
「もっと言うならパムは普通だ、でもお前は暴走してる。考えすぎなんだよ」
ここまで説いてやっと、こわばっていたタインの表情がゆるんで、笑みらしきものが浮かんだ。俺が
髪を撫でても身構えたりせず、気が抜けたみたいにやわらかく俺を見返す。
「ごめん、ちょっとおかしくなってた」
「パムとお前の決定的な違いを教えてやろうか」
タインの返事は待たず、俺が言いたいだけで、タインにも身をもってわからせたい。
「パムはいつか誰かのものになるけど、でもお前は」
タインが俺を受け入れてくれることに笑みをにじませながら、確かめるように両腕でタインを抱きし
めた。胸のなかに閉じ込めるように腕に力をこめて、タインの耳元で言う。
「俺の ――
俺だけのものだろ」
タインも俺の背中に腕を回してきて、否定しないんだなって、胸が熱くなる。
「一晩中眠れなかったんだぞ」
俺に抱きついたままタインが口にする愚痴は、恨みがましくてもかわいい。
「俺の流した涙を返せ」
108

冗談めかしてるけど多分、タインが泣いたのは本当なんだろう。泣かせた罪悪感と、俺のことで泣く
のかっていううれしさとで、心が揺れる。
「泣いたのか」
最終的にはうれしさのほうが勝って、俺は意味深に笑い、この機会に乗じてタインを誘った。
「今すぐ俺が、もっと泣かせるっていうのはどう?」
「ふざけるな」
せっかく顔を近づけて迫ったのに、眉をひそめたタインに押しのけられた。
「エロいことしか考えてないのかよ」
半分くらいは事実なので、反論はしない。お前が応じてくれるなら、このまましたかったのは本当だ
し。
タインには例によってため息で受け流されてしまったのが、返すがえすも残念だ。
「リハーサルはどうしたんだ?」
「あっちはテンプや仲間に任せた」
本番はまだ先だから、そこまで急を要する話じゃない。
「俺はお前と一緒にいるほうがいい」
リハーサルよりもっといいことがしたい。お前の顔見てるだけでもいいけど。
「俺は元気だって。練習に戻っていいよ。それか、一緒についていこうかな」
「本気で言ってる?」
その提案は悪くない。いつもみたいにタインがスタジオで眼の届くところにいるなら、練習にも集中
できる。
「いいな」
俺も納得して、万事解決だって出かける準備にとりかかり、タインの分もまとめてギターを運ぼうと
した。そこでタインが、俺も見過ごしていたコードの進行表を床の上に見つけた。
「お前が書いた曲のコード?」
タインが何気なく拾い上げた薄い紙束を、ひったくるように取り返した。
「これはテンプの」
反射的にごまかそうと口にして、しまったって思う。決まり悪いっていうか、煮え切らない内容で、
今はまだタインには見せたくなかったんだ。
「間違えて持ってきてた」
手書きのコードが見えないよう、雑に折って鞄に押し込んだ。些細でも嘘をついてしまい、今だけは
タインの顔を正視できない。
これは秘密じゃないって、自分に言い訳した。ラブソングを書いてることは、タインにも前から話し
てた。でもちっとも歌詞がまとまらなくて、曲だけ修正してるうちに時間が経って、完成の目途は立っ
てない。
そしてパムにも曲をせがまれて、約束したと言われればそのとおりだし、誰かのために曲を書こうっ
て思ったのはパムへのほうが先だった。だからって義務感じゃ何も浮かばなくて、俺の頭はタインのこ
とでいっぱいで、他が入る隙がない。
「行こう。遅刻するとまずい」
あやしんでいるタインを急かして、早めに家を出た。タインのための曲を書き上げたら、実はって今
日のことをバラして、笑い話にできると思った。
ところがタインと肩を並べて大学に戻ると、部室棟の前でパムが待ち構えていた。
「パム、どうしてここにいるんだ?」
パムは大事な友達のはずなのに、息苦しい気分になる。
「ギターのレッスンをしてもらう予定でしょ」
「レッスンは明日だろ。今日はずっと練習がある」
パムは自己管理に長けている、日付を間違えるはずがない。
110

「でももう来ちゃったし。試験の曲について少しだけ話し合わない?」
やっぱりその件か、と思った。できないって、どれだけ説明してもわかってもらえる気がしなくて、
パムへの曲の代わりに、俺の正直な思いを USB
メモリに録音して用意してある。
早く決着をつけたいって気持ちがあったけど、タインの様子も心配で、うかがうような横目で隣を見
やる。そして俺は、察してくれるタインに甘えた。
「先に彼女と話せよ、練習まで三十分はあるし」
「ありがとう」
先にスタジオに行ってるっていうタインに、ギターと鞄をあずけると、上機嫌のパムが待ちかねたよ
うに言った。まるで遠ざかるタインに聞かせたいみたいに。
「すっごく楽しみ。私のために書いた曲を聴かせて」
タインを悩ませるのも、パムとの約束を反故にするのも気が重かった。スタジオへ足を向けながら、
着くまでに話が終わればいいって思う。
「曲を書くのって大変?」
「まだ歌詞が全然できない」
曲だけなら、定番のコード進行を組み合わせていじればどうとでもなるんだ。質は二の次だし、それ
はもうパムへの曲じゃなくて急場しのぎのやっつけになるけど。
でも、お前がほしいのはそんなんじゃないんだろ。
「わかってる、曲を書くのが簡単じゃないことくらい」
パムはそう言いながらも諦める気配はなく、足を止めて俺を見上げ、本題のように切り出した。
「こんなコンセプトがいいなって、思ってるのがあるんだけど」
二人の友人同士の恋愛を書いたラブソングがいい、とパムは言った。仲のいい友達だった片方に新た
な親友ができて、前みたいに一緒にいられなくなって、彼女はその友達を愛していたことに気づき、取
り戻そうとする。
遠回しでもほのめかしでもない、そのまんまだ。
「曲の話をしてるんじゃなくて、俺達のことを話してるんだろ?」
俺が正面から指摘するとは思ってなかったのか、パムは眼を見開いて口をつぐみ、目線を揺らした後、
不本意そうな小声で認めた。
「そうよ」
眉をひそめる俺に、パムは一番おそれていたことを口にした。
「愛してるの」
高校のころはパムを好きだと思ってたから、俺は気を持たせるような態度をとってたんだろう。
ただ負い目があるのはそのせいだけじゃなくて、一人だけパムといた場所から抜け出した、罪の意識
がどこかにあるからだ。
「あなたも同じ気持ちだってわかってる。まだ昔みたいに戻れるでしょ?」
そうだな、あのころの俺達は同じだった。それこそ俺とパムは似てた。ちょっとやれば大抵のことは
人並以上にできて、大してほしくないものも手に入る。必死になってる奴を小馬鹿にしてたつもりはな
いけど、どこか冷めた眼で見てた気がする。
パム、お前もそうだろ?
「すまない、パム」
「どうして? 私のほうが先だった。どうしてあのときデートに誘ってくれなかったの?」
半ば予想していたのか、パムの訴えは悲痛な叫びのように響いた。苦々しくて、舌打ちしそうになる。
「どうして ……どうしてタインなの? ねぇどうして? 教えてよ」
どうしてタインなのかって、そんなの俺のほうが訊きたいし、言葉にならない答えも知ってる。
いつか、本当に欲しいものに出会ったらわかる。人目なんかどうでもいいんだ、なりふりかまわず獲
りに行くしかない。今までどこか滑稽だって思ってた、人の一生懸命な姿に感動したりするんだ。
「答えて! どうして私じゃないの?」
112

気が昂っているパムは、どんどん悲鳴じみた声になっていく。
お前が俺を取り戻したいっていうのは、それとは違うよな? 俺に、そっち側に戻ってこいって
……
言ってるんだろ。一人で置いていかれて寂しいんだよな。
「答えてよ、何でタインなの?」
無言で見返す俺を、パムはシャツを掴んで揺さぶると、半泣きになって抱きついてきた。
とっさに振り払えなかったのは俺の落ち度だ。でも俺はこれからパムにもっと残酷なことを告げるん
だろうって思ったら、とても拒めなかった。俺の胸に顔を伏せて泣きじゃくるパムをそのままに、力な
く両腕を下ろして立ちつくしていた。
「 ……
っ」
最悪のタイミングでスタジオから出てきたタインが、俺達に気づいて束の間、眼が合った。あわてて
パムの肩を掴んで押しやろうとしたけれど、パムはいっそう強くしがみついてきて、その間にタインは
うつむいて歩き去ってしまう。
タインの顔に浮かんでいたのは失望とか悲嘆とか、俺の胸をえぐるような青灰色の感情で、また誤解
されたって確信があった。
「サラワット、ちゃんと答えて」
どうにか身を離しても、パムは俺の腕を掴んで引き止める。でも俺はタインを眼で追うのに手一杯で、
パムを突き飛ばしてでもって衝動を、紙一重で押し殺す。
「言ってよ!」
「パム」
パムは涙ながらにまた俺に抱きついたけど、それどころじゃなくて、あのタインの様子はただごとで
はなく、俺だって泣きたい。いや、手遅れになったら泣くだけじゃ済まない。
パム ――もう無理なんだ、一度知ってしまったら引き返せない。まばゆいほどあざやかな、新しい世
界が開けた。自分のなかにこんなものがあったのかって驚くような、恋に落ちるときの熱量や天にも昇
る高揚感、胸をえぐられるような痛みや息ができなくなる瞬間を、なかったことになんかできない。タ
インとの記憶はいいことも悪いことも、一つ残らず俺のなかに刻まれて残る。
こんな状況だっていうのに俺は、「くすんだ景色が晴れ渡る」って詞があったなって、 Scrubb
の歌を
思い出している。タインと一緒に今年のライブで一曲だけ聴いた『 Deep
』だ。
「すまない」
いくら謝ったってパムを傷つけることには変わりないけど、他に言葉がなかった。俺の胸からパムの
顔を起こして、背をかがめてその眼を覗き込む。
タインを初めて眼にした、その存在を知った幸福感に、俺は今も酔いしれている。死ぬまで好きだと
か何をしてでも手に入れたいとか、運命の恋とか、息もできないくらい、絶対的なものがこの世にはあ
るんだって ――
いつかお前にもわかるときが来る、きっと見つけられる。
でもそれは俺じゃないんだ。
「パム」
パムの腕をとってその瞳を見つめ、俺に伝えられるすべてで、俺の精一杯の誠意でパムに告げた。
「俺はお前を愛せない」
部室棟のどこを探してもタインの姿はなく、逸る気持ちを抑えて校舎から出た。どこ行ったんだって、
構内を小走りで見回しながら正門に行き着いてしまって、あせりがつのる。暗いし見落としたのかもし
れず、校舎に戻って確かめたくなったけれど、もしタインが先に帰ったんだとしたら、完全に見失って
しまう。
ようやくタインを見つけたのは、路駐している車に二人がかりで乗せられようってときだった。
「そいつをどこに連れて行く気だ 」
!?
タインを抱えているのがミル先輩とその友人だと、夜目にもわかった。不吉に速まっていた鼓動が、
ひときわはね上がった。
「邪魔するな。病院に連れてくんだよ」
114

ミルが急ぐのも無理ないくらい、うつむいたタインの顔は青白く、額はうっすら汗ばんでいる。
「引っ込んでろ! 俺が連れて行く」
他の奴がタインにさわるのは耐えられなくて、タインを抱きかかえようと手を伸ばしたら、掌の下で
ビクリと、その背中が引きつった。
俺にさわられるのもいやなのかって、不整脈みたいに血がざわめいて息がつまった。
「お前こそ引っ込んでろっ」
その拒絶を察したみたいに、ミルに押されてタインから引き剥がされた。タインの何でもないくせに、
ミルは当然の権利みたいに立ちはだかって、怒りに滾る眼で俺を見据える。
「俺が連れて行くって言ってんだろ」
これまでの鬱屈込みで吐き捨てて睨み合っていると、見かねたミルの友人に落ち着けと諌められたが、
当のミルが黙っていない。
「お前、今までどこにいたんだよ」
怒気もあらわに責め立てられて、返す言葉がなかった。
「お前を愛せない」という俺の通告に、パムの手から力が抜けた。俺のシャツを掴んでいた指もほど
けて、やっと自由になれたのに、すぐにもタインを追わなかったのは、明らかにパムの様子がまずかっ
たからだ。
まばたきも忘れたみたいに大きな眼を見開いて、その顔からはあらゆる感情が剥げ落ちて、能面みた
いだった。何を言っても聞こえないみたいに凍りついていた。かといっていつまでもパムについている
わけにもいかず、多少なりとも落ち着かせて、用意してきた USB メモリを渡した。
「約束を果たせなくて悪かった」
を握 らせ たパム の手 にぎゅ っと 力がこ もっ て、そ れで 大丈夫 かと 、彼女 を置 いてそ の場 を後に
USB
したんだ。
「彼氏のことも気遣えないくせに」
そんなことしてる間にタインはミルに捕まって、俺は罵られる羽目になっている。反論の余地がなく、
自分にもミルにも腹が立って、こめかみで血が沸く。なんでよりによってこの男なんだ。
先輩だろうが何だろうが、もっと雑魚みたいな奴だったらいくらでも蹴散らしてやるのに。
「どうこう言える立場だと思ってるのか?」
お前に言われる筋合いじゃないって憤りより、とにかくタインが心配だった。ミルの友人に支えられ
たタインは憔悴しきって肌に血の気がなく、横顔は紙のように白い。俺達の言い争いにあてられたのか、
前のめりにうっと喉を鳴らし、胃液まじりの唾を吐く。
「タイン ……

俺が追いついてから一度も、タインは俺を見なかった。顔をそむけるようにうつむいて、視線が虚ろ
にただよっていた。俺が近寄るだけで身をすくめたし、吐き気もひどくなるようだ。
だから俺はもう手が出せなくて、タインがミルの車に乗せられるのを、指をくわえて眺めているしか
なかった。ミルが物言いたげに俺を睨んでたけどどうでもよく、助手席の窓ごしにタインだけを見つめ
ていた。俺なんかいないみたいに、目線すらよこさないタインを。
「 ……
っ」
石でものまされたみたいに息が苦しくて、やりきれない激情がせり上がって、眼の奥が熱くなった。
走り去るミルの車を棒立ちで見送って、タインとのつながりを断ち切られたように感じた。
「ちくしょう ……
!」
頭を抱えて罵声を吐いたところで、微塵も楽にならない。動悸がして息が上がって、やり場のない怒
りを処理できない。いや、怒りよりも痛みのほうがひどく、心臓を鷲掴みにされて、このまま握りつぶ
されるんじゃないかと思う。
涙が出そうで眼をつぶり、瞼の上から両手で押さえた。そうでもしないと悲しみや絶望が噴き出す。
叫び出したいのを懸命にこらえ、荒い息をついて涙を押し戻す。
子供みたいに泣きたかったけど、一度でも泣いたら終わりだと思った。歯止めが利かなくなる。俺は
116

まだ、タインを諦めたわけじゃない。
「タイン ――

このときはまだ、立て直せるんじゃないかと思ってた。パムの告白を見て動揺してるだけじゃないか
って。全部説明できる、パムが俺をどう思っていようと、俺が好きなのはタインだけだ。実際、一度は
納得してもらえた。言葉を尽くせばタインにわかってもらえるって ――甘かった。
こんな状態で眠れるわけなくて、タインのいないベッドで何度も寝返りを打ち、天井を睨んですごし
た。一晩中、動悸のように鼓動が大きく脈打っていた。眠ってないのに寝汗がひどくて、朝のシャワー
の後で覗いた鏡には、土気色の顔が映っていた。
半日経てばタインの容態も落ち着いて、話を聞いてくれるんじゃないかと思った。タインが運ばれた
先は調べがついていたから、面会時間になるのを待って病院に行ったところ、受付でもう退院したと告
げられる。
「ついさっきだから、急げば追いつくんじゃないですか。お友達の方が迎えに見えてましたよ」
あわてて病院を出て駐車場に向かうと、案の定、ミルに背を抱かれるようにしてタインが、車に乗り
込むのが見えた。その情景がいまいましくて、アスファルトを蹴る足取りが荒くなる。
「なんでお前がここにいる?」
ミルは俺を見咎めて、タインのいる助手席をかばうように立ちふさがる。お前こそ、いるのが当たり
前みたいな顔して何様だって、本来は噛みつくところだが、今はまずタインだ。こいつはどうでもいい。
「タイン、出てきて俺と話をしてくれ」
邪魔だと、ミルを押しのけて、俺は助手席に張りついた。声をかけても反応がなく、ドアを開けよう
と手をかけたらロックされていて、タインの強固な意志を感じた。
タインが、俺を自分のなかから閉め出したんだって。
「タイン」
説明すればわかってもらえるなんて考えは霧散して、全身に鳥肌が立った。スモークガラスの窓は覗
き込んでもタインの表情が読めなくて、なんでミルはこんな車乗ってんだって苛立つ。
「タイン、俺と話をしてくれ」
俺の声は聞こえてるはずなのに、窓を叩いても一瞥もなくて、タインの横顔は人形のように微動だに
しなかった。温度のない拒絶に、絶望で背筋が震えた。
「お願いだ」
懇願どころか哀願だし、まるで泣き落としだ。声も息も不安に上ずって、動悸で心臓が痛い。
カチッと音がしてドアが開かなければ、本気で泣いてたかもしれない。ゆっくりと助手席から降りて
きたタインは、まだ血色が悪くて病人みたいだった。大丈夫かって心配するより先に、潔白を訴える言
葉が口をつく。
「昨日のことは何でもないんだ、俺とパムの間には何もない」
「もういいよ」
後から事情を説明すると何を言っても弁解じみていて、タインの耳にもそう聞こえたんだろう。愛想
が尽きたと言いたげに、タインは眉を曇らせて、俺の言い分を退ける。
「どんな言い訳も聞きたくない」
続けざまに斬りつけられたみたいだった。心臓が縮み上がって息ができなくて、何か言おうにも声が
喉につかえた。
「もうお前のことは信じられない」
「タイン」
かろうじて俺にできたのはタインを呼ぶことだけで、それすらも聞こえないみたいにタインは俺に背
を向けて、再び車に乗り込むとドアを閉めた。引き止められなかった。
「俺はクズかもしれないが、好きな人には絶対にそんな真似はしない」
まさかミルにクズ以下認定されるとは思わなかった。お前の御託なんか知るかって、言い返す気力も
ない。
118

俺は、そこまでひどいことをしたのか?
「その程度の気遣いもできないなら、もう放してやれ」
つまりタインと別れろって? 本気で言ってるのか。タインがそう望んでて、こいつが代弁してるっ
て?
これで終わりなのかって、信じられなくて何もできなかった。なす術もなく、タインがミルとともに
走り去るのを茫然と眺めていた。嘘だろって、いっそ笑いたいのに笑えるわけがなくて、ミルの車が遠
ざかって見えなくなっても、駐車場に立ちすくんでいた。
「ぁ ――

どれだけそこでアホ面下げて突っ立ってたかはわからない。いつの間にか俺はスタジオにいて、バン
ドのメンバーとリハーサルに臨んでた。無意識の義務感に駆られて、気がついたら惰性みたいにギター
を弾いてる。
ただ単に他に行き場がなかったのかもしれない。タインのいない家に帰りたくなかった。かといって
やる気なんか湧くわけがなく、椅子に坐ったまま、曲に合わせて単調に手を動かしてるだけだ。
あんなに時間をかけてタインに近づいて、寄り添って、ようやく手に入れたと思ったのに、失うとき
は一瞬だ。たったあれだけで ――
パムに抱きつかれて告白されたってだけで? 俺はパムを抱きしめて
ないし、好きだとも言ってない。
「パムは俺の初恋だけど、初めてお前を見たときみたいな特別なものは感じなかった」
本心からそう伝えたし、タインだってわかってくれたはずだった。
それなのになんで俺はミルなんかに、目の前でタインをかっさらわれてんだ? あいつ、弱ってるタ
インにつけこんだらタダじゃ済まさない。タインはやさしいから、ミルを拒否できないんじゃないか。
親切にされて恩を感じてたらなおさら。
「いや ――」
そうはならないって、確信はあった。タインに言い寄るからムカついてるだけで、ミル先輩が悪い人
じゃないのはわかってる。合宿のときになくしたブレスレットの件だってそうだ、タインに直接返した
ほうが感謝されただろうし、好印象も与えられた。でもそれを良しとせず、あえて俺に渡してきた。
人間性はいやでも言動ににじみ出る。表情や文章や、音楽だってそうだ。俺が反感を抱きながらもあ
の人のバンドを好きなのは、そういうことなんだろう。ミル先輩は明晰で、根は善人で ――
タインはあ
の人を好きになるかもしれない。
「 ――
っ」
ギリッと、噛みしめた奥歯がきしんで、削れたような音をたてた。ネックを握り込んでしまって弦が
指にくいこみ、ピックが滑って不自然に音が乱れたが、知るかって、そのまま弾き続けた。
俺はタインが誰を想っていようとタインが好きで、いつだって一緒にいたいけど、タインは違うんだ
って思い知った。俺が他の人を好きかもしれないって疑ったら、すぐ俺から逃げようとする。パムのと
きもアーンのときも、多分これからも。
これから? これからって何だ、タインはもういないのに。
俺は再会してからもタインに好きだって言えなくて、いろいろ隠してたし嘘もついた。だから信じて
もらえないのか。
「く ……っ」
この胸を切り開いて心臓の内側までさらして、俺がどれだけタインを好きかわからせたい。できるも
のなら。
信じてもらえないのは、俺に非があるからか。俺はそんな悪いことをしたのか? それとも、いいと
か悪いとかそういう問題じゃないのか。善悪と好き嫌いは、似通ってても明確に違う。タインは欠点も
あるけど、そこも含めて好きだ。
タインを好きだって気持ちは自分ではどうにもならない。タインが他の奴を好きでも、俺を嫌いでも、
俺の前から消えてなくなっても、俺はタインを好きなままだし、永遠に逃れられない。何だこれ、呪い
か?
120

イライラ考えながらギターを弾いていると、どんどん眉根が寄って顔が険しくなるし、運指もピッキ
ングも雑になる。まわりの音も耳に入らなくて、速弾きになりそうなのを深呼吸して抑えた。
「 …… 」
俺はどうしたらよかったんだろう。
パムと再会した初日に、迷惑だから来ないでくれって言えばよかったのか。危険な兆候を察してすぐ、
告白される前に「俺が好きなのはタインだけだ」って先手を打つべきだったのか。友達であるパムを邪
険にして、タイン以外は全部捨てて、タインのためだけに行動するのが最善だったって?
でも俺は、タインに一目惚れした瞬間に生まれたわけじゃない。それまで家族や友達とすごした時間
があって積み上げたものがあっての自分で、タインに恋をした。関わった人すべて含めて俺だ、それを
切り捨てたら俺じゃなくなる。タインを好きになった俺とも違う人間になる。
答えの出ない自問自答を繰り返して、思考が空回りしている。内省が深みにはまって意味をなさない。
ライブで初めて見たタインがあんなにも輝かしくまぶしかったのは、俺にとって太陽や星みたいなも
のだったからなんだろうか。遠くから眺めるだけで満足すべきだったのに、手に入れようとしたからバ
チが当たったのか。
「 んな
… ――」
そんなバカな話があるか。じゃあなんで見せたんだ。あんな ――幸せで善良で純粋で、あふれるほど
美しいものを抱えた人がいるって、なんで俺に教えた。欲しくなるに決まってるだろ!
「 ――… ッ」
もう限界で、やってられるかって、立ち上がると同時にギターを床に置いてスタジオを出た。他の楽
器の音もボーカルもやんで、呆気にとられた仲間の視線を感じたが、どうでもよかった。コンテストも
バンドもどうでもいい。
何も考えたくなかった。
サラワットと住むために寮から引っ越したとき、フォングが荷造りを手伝いながら言ってくれた。
「サラワットと喧嘩したらいつでも来いよ」
「そんな心配いらないよ」
本気でそう思ってたんだ。実際、一日中一緒にいても揉めることなんかなかったし。
「まあ、あいつはお前に甘いからな」
うん、そうだな。サラワットは俺を好きで、気を回しすぎだって思ってたくらいだ。
でも結局、俺はフォングの部屋に転がり込んでいる。一人用の個室は俺とその荷物で埋まって、文字
どおり足の踏み場もないのに、フォングは文句の一つもなく、遠慮はいらないって言ってくれた。
「ギター弾いてもいいぞ」
フォングの部屋に持ち込んだ物のなかで、何より場所をとっているのがギターケースだった。サラワ
ットが俺にくれたギター、今以上の初心者だったころに。
「せっかく持ってきたんだろ」
ギターを置いていくべきか、あの家を出るときにすごく迷った。本来はサラワットのものだし、俺は
同居をしてる間はほとんど、自宅でギターを弾かなかった。
エア先輩に「いずれは弾き語りできるようになりたいです」って言ったのは、急場しのぎの嘘じゃな
かった。 Scrubb
の曲を弾けたらいいなって思ったし。初めてのステージで失敗して、泣くほど悔しくて、
「もっともっと練習しよう、どんなに緊張しても手が覚えてるくらい上手くなろう」って決心したのも
本当だ。
それなのに喉元過ぎればってやつで、目先の目標がないから俺は、部活以外でギターの練習をしなく
なった。
「今はやめとく」
フォングに断って、ギターケースはベッドの向こうに置いて眼につかないようにした。
だって Scrubbの曲が聴 きたかったらサ ラワットが弾い てくれたし、ど うしたってサラ ワットのほう
が上手いし。それに俺はサラワットのギターが好きだから、俺のために弾いてもらえるのがうれしかっ
122

た。そのくせバンドのメンバーが羨ましくて、スタジオはちょっと居心地が悪くて、でも腕が違いすぎ
るって追いつく努力もしなくて ―― ちっとも成長してない。
「大切なものはしっかり握って手離すな」
フォングの言葉が頭に浮かんでギターを持ってきてしまったけれど、俺には過ぎたものだったのかも
しれない。ギターが手元にあってもサラワットはいない。
サラワットは俺を好きなんだって、何があっても大丈夫だって安心しきってた。
「ちょうど去年の今日、あの Scrubbのライブがあったんだな」
初めて Scrubb
のライブ に行った記念す べき日だってい うのに、フォン グに言われるま で覚えてなく
て、何もこんな日にって思ってしまった。あれからまだ一年しか経ってないなんてな。
感じたのはなつかしさだけじゃなくて、次の日、去年ライブがあった大学の広場に行ってみた。あの
日は仮設ステージを前に人があふれて、俺は観客の熱気にも興奮して跳びはねっぱなしだった。 Scrubb
のライブっていう念願がかなってうれしくて、ただ楽しくて、人にぶつかっても大して気にしてなかっ
た。
「 ……

あのとき、いたんだな。俺が知らないうちにもう始まってた。振り返ったらサラワットに会えた。何
がよかったんだか、俺を一目で好きになったっていう、高校生のサラワット。今より少しだけ幼くて、
まっすぐで、夢見るようにたたずんでいたんだろう。
会いたかったな、会えたらよかったな。もっと早く出会えてたら、何かが変わったんだろうか。
ライブを思い返すにつけ、閑散とした広場が寂しくて、校舎に足を踏み入れた。入ってすぐの掲示板
に、学祭当日は Scrubb
のポスターが貼ってあって、フォングに写真を撮ってもらったんだった。
「かっこよく撮れよ」
ポスターを前に浮かれてポーズをとって、傍から見たらバカみたいだってわかってたけど、俺は楽し
かったし、満足だった。そんな俺を、サラワットは好きになってくれた。
あの日はパムも一緒にいたのになって、思いながら背後を振り返ったら、そこには本物のパムが立っ
ていた。視線がぶつかった。お互い無言のまま、時間が流れた。
「彼の眼ね、サラワットがあなたを知る前の ――私はずっと彼が好きで、彼も同じ気持ちだって思って
た」
どちらともなく連れ立って、エントランス前の階段に腰を下ろして話をした。あんなに見たくなかっ
た、サラワットを奪っていくこわい人だったのに、今はもう心が波立たない。
いつだって失う前が一番こわいんだ。一度なくしてしまえばもう、怯えなくて済む。
「彼が告白してくれるのを待ってた。でもあの日、タイン、ライブであなたに会って ――もう眼が違っ
てた」
本当はずっと前からわかってたって、パムは言う。だからサラワットを忘れようと別の大学に行った。
けれどサラワットがインスタに俺の写真を載せてるのを見て、告白まがいのことも知って、パムは戻っ
てきた。
「今度は何かが変わるんじゃないかって思って ……でも駄目だった」
「どうしてわかるんだ? サラワットはまだ君のことを好きだと思う」
一時は俺に目移りしたかもしれないけど。
「サラワットは隠そうとしたけど、君へのラブソングを書いてたんだ」
パムの告白を断ったんだとしたら、俺への罪悪感からだろう。
「その曲ね」
パムはかすかに自嘲げに息をついて、バッグから USBメモリを取り出した。
「あげるから聴いてみて」
「なんで俺が?」
受け取ろうとしない俺の手に、パムは USB
を押しつける。
「聴けばわかるから」
124

パムは詳しいことは語らず、そう言い残して帰っていった。浮かないながらもどこかすっきりした様
子で、やっぱりきれいな人だなって思う。きれいで物怖じしなくて自信に満ちてて、まぶしかった。
そして胸にすとんと落ちるみたいに、わかったんだ。
俺は、サラワットにふさわしい相手になれなかった。すぐ疑ってかかるのは自信がないからで、自信
が持てないのは誇れることがないからだ。時間はあったのに、何もものにしなかった。
「俺が 」
――
俺が自信を持って言えるのは、 Scrubb
を好きだってことくらいだな。
気持ちが落ち着いたらギターを弾こうって思った。ギターじゃなくてもいいけど、せっかくサラワッ
トから教えてもらったし、それに入部テストに受かったときの充実感すごかった。アプリで一夜漬けし
たからって、最初にズルなんかしなきゃよかった。初ステージが成功してたら、あれ以上の興奮を味わ
えてたのかな。
いくら練習したって、俺がサラワットみたいに弾けることはないんだろう。でも俺はサラワットにな
りたいわけじゃない、 Scrubb
ですら自分がなりたいわけじゃない。上手いとか下手とかじゃなく、自分
で納得できるくらい、欲を言えば Scrubb
の曲をちゃんと歌えるくらい弾ければいいんだ。
「俺は になりたいよ」
Scrubb
サラワットは寂しそうに言ったけど、気づいてたか? お前はいつの間にか、 Scrubb
より俺を喜ばせ
たり舞い上がらせたりする存在になってたよ。 Scrubb
でも癒せない傷を負わされたりもした。
「お前は絶対に、俺達が出会う前の生活に戻りたいって思うだろ!」
そうだよ、お前の予言は当たってた。パムと抱き合ってるお前を見た瞬間から、何度そう考えたかわ
からない。心臓を掴みつぶされたみたいに胸が痛くて、息するたびに全身がきしんで、忘れたいって願
った。お前と知り合わなければ、こんな思いせずにすんだのにって。
それでも、記憶に残ってるんだ。楽しかったこともドキドキしたこともせつなかったことも、泣きた
いくらいうれしかったことも、全部。
一時期でもギターをがんばったおかげで、サラワットに彼氏のふりをしてもらった。それから変に口
説かれて、混乱して嫉妬して、俺も好きだって気づいて、一緒に住み始めて ――
いろいろ悩んだし、最
後はつらいばっかだったけど、でも楽しかったな。
「楽しかったな ……

呟いてみても学内の広場にはもう人気がなくて、空は雲に覆われ、すさんだ灰色に変わっていた。生
ぬるく湿った風が吹くばかりで、一年前のライブが夢みたいに遠かった。
楽しいこともいっぱいあったのになって、どうしようもなく寂しくなった。
家に帰ったらタインはいないし荷物もなくて、予想はしていたものの、現実を目の当たりにして血の気
が引いた。低温火傷したみたいに胃が冷たく焼けて、鼓動が乱れて喉に息がつかえた。
確かめるのを少しでも遅らせたくて、帰宅したのが夜だったのも追い討ちをかけた。人気のない部屋
は静まり返り、照明をつけても生ぬるい空気が重たく沈んで、印象だけが寒々しい。
「は ……」
やら服やら、タインの物があった場所がぽっかりと空いていて、何より机の上にあのブレスレッ
CD
トが置いてあった。タインの明確な意思表示に思えた。
つらいのに、傷が深すぎて痛みも感じられなくなってきた。ただ自分のまわりから徐々に空気が薄く
なっていくようで、現実感も生きている感覚も遠ざかって、ひたすら苦しい。
タインに贈ったギターケースがなくなっていたことだけが、唯一の救いだった。ギター好きなんだな、
一人になっても弾くのか。そうだったらいい、俺はギターもお前も好きだ。
タインと一緒に眠るためのベッドは広すぎて、毎晩、横になるたびに爪先が凍えた。浮かれてこんな
もん買った自分を恨んだ。
「なんで ――」
夜中に空っぽの天井を見上げ、両腕で顔を覆って、呻くみたいに声が洩れた。
大事にするって思ったんだ。タインに想いが通じる前、気の置けない友達連中と一緒にいるところを
126

何度も見かけた。俺には向けたことがない満面の笑みで、喜びがはじけるみたいで、あこがれで胸が締
めつけられた。
もし俺のものになるなら、誰よりも何よりも大切にする。世界一大事にするのに。
「タイン ……

それなのに俺はタインを泣かせて、あんな冷ややかに閉じた顔をさせて、傷つけた。俺が悪いのかっ
て思っても、何が悪かったのかわからない。
軽音部のスタジオには、あれ以来行ってない。バンドには何の非もないってわかってても、あの日リ
ハーサルに行かなければ事態は違ったんじゃないかって、逃避で考えたら耐えられなくて、日に日に足
が遠のいた。アーンを代表としてバンドのメンバーから送られてくるメッセージは、無責任な俺を気遣
う内容がほとんどで、情けなかった。
「お前ら、二人とも死相が出てるぞ」
最低限とはいえ大学の講義に出席できたのは、無理矢理引きずり出してくれたボスのおかげだった。
マンもタイプのインターン先まで押しかけた挙げ句、派手に散ったそうで、日頃むやみやたらと態度の
デカい奴が、魂抜けたみたいに生気がない。肌がくすんで瞼が重い半眼で、唇は乾いてるし、すさみき
っている。
きっと俺も同じ顔だろう。
「揃ってあの兄弟にふられたんだな」
さもおかしそうにボスに笑われて、一緒にするなって腹が立つ。マンにかぎっては、上手くいくと思
うほうがおかしいだろ。
それにしたってボスは一人だけ晴れ晴れとしてて、ムカつくことこの上ない。いつかお前に好きな人
ができたら地獄に引きずり込んでやるからな。
「何だよ、その恨みがましい眼は。死んだ魚類の目ん玉みたいになってんぞ。いいこと教えてやるから
元気出せって」
今の俺にいいことなんかあるかって、バンバン背中を叩かれても無視してたら、鼻先数 mm
の距離で
ボスの変顔に覗き込まれて鳥肌立った。
「タインの奴、フォングのとこにいるらしいぜ」
おそらくそうだろうと予想してはいたものの、半分くらいは別の可能性を疑ってたから、心底ほっと
した。
俺の頼みで引っ越したとき、タインは寮を引き払ってたから、出て行くにしてもすぐに住むところが
ないはずだ。病院の駐車場で、抱きかかえられるみたいにミル先輩に身をあずけていた姿が脳裏にチラ
ついて、まさかって思っても、こわくて確かめられなかった。
もしそうだったら、今すぐ奴の家に飛んで行って、ドア蹴破ってでもタインを連れ戻す。だけどタイ
ンはミルのほうがいいって離れようとしなくて、俺はこっぴどく拒絶されて粉々にすりつぶされて、完
膚なきまでにふられて ――
死ぬだろ。
比喩じゃなくて死にたすぎて心臓も呼吸も止まる。てか、もう今死ぬ。想像しただけで心が死にかけ
てる。手が震えてるし吐きそうだ。タインのいない世界に生きてる残酷さに目眩がする。
「ワット、お前なんで灰色のサイみたいな顔になってんだ?」
「少しは安心しろよ。それともフォングにまで妬いてんのか」
マンにまでいじられて、そんなわけあるかって言いかけたけど、あの寮の個室は一人用ベッドしかな
くて、一緒に寝てるんじゃないだろうなって考えて、こめかみがズキズキ脈打った。あのベッドの大き
さで男二人並んだら、くっつくしかない。
タインのそばにいようがいまいが、俺は寝ても覚めてもタインのことばかりで、タインに会う前の自
分がどんなふうだったか、もう思い出せない。ゼロに戻っただけだ、タインと一緒にすごした時間は記
憶として残ってるからむしろプラスだって思っても、何の慰めにもならないし、息をするのもつらい。
タインを失ったんだって、一秒ごとに痛感させられる。
「あいつは自分が、お前と一緒にいても大丈夫だって、証明したいのかもな」
128

タインが俺のバンドの代理でイベントに出るって言い出したとき、止めてほしい俺とは対照的に、フ
ォングは理解を示した。脈ありみたいに匂わされて浮かれた反面、初心者なのにソロで初ステージなん
か無茶だって思ったし、続く言葉で奈落の底まで落とされた。
「もし今回失敗したら、あいつは自信をなくしてお前から永遠に身を引くかもしれない」
タインをよく知るフォングに大げさでもそんなことを言われたから、危機感があったんだろうな。タ
インをつなぎとめたいって想いが、言葉になってあふれた。
「俺と結婚して」
いい加減にしろってタインは笑ったけど、本気だった。何物にも邪魔されず、一緒にいられる手段が
ほしかった。
けれどプロポーズは魔法の言葉じゃないし、俺達は結婚したわけでもなくて、タインは俺のもとから
去っていった。フォングにああ言われたのに、なんでちゃんと捕まえておかなかったんだろう。俺のも
のになったって安心してた。
タインが俺を疑ったのは、俺が信頼に足る存在じゃなかったからだ。タインを好きだって、伝えるだ
けじゃ駄目だった。
「で、サラワットは何にすんだ?」
「え …
っあ、何が」
肩を小突かれて我に返ると、俺は教室じゃなくカフェテリアにいて、どうやら既に講義は終わり、ボ
スに連れられて移動してきたらしい。最近、考えごとをしてるとよく意識が途切れるが、だんだん気に
ならなくなってきた。
「あ~もう俺と一緒でいいな、マンも」
テーブルに着かされて目の前にパッタイの皿を置かれたけど、何食ってもろくに味なんかしない。砂
を噛むって感覚そのものだ。
「俺は ……
タインに信用されてなかったんだな」
こいつらに言ったって仕方ないのに、今更気づいた事実は容赦がなくて、つい泣き言を洩らす。する
とボスが頬いっぱいに麺を詰め込んだハムスターみたいな顔で、箸で俺を指して言う。
「お前だってタインのこと信用してなかったじゃないか」
「俺がタインを疑ってたって言うのか」
俺はタインがミルに言い寄られてるのを見たって、タインの本意じゃないって知ってたから、タイン
を責めたりしなかった。
「だってお前、軽音部が入部テストやるってなったとき、タインを合格させるよう部長に頼んだろ」
ところがボスが指摘したのは、予想外の件だった。他意のない口調で不思議そうに、おあいこじゃな
いかと言いたげだ。
「自力じゃ合格できないって思ってたんだよな? 出来ない奴だって」
「俺は ――

ただタインが心配だっただけだって、実際、小細工でインチキしようとしただろって、言おうとした
けど結果論で、反論になってない。
そうだ、俺はタインが実力じゃ受からないって思ってた。あいつは俺に彼氏のふりをさせたいだけで、
ギターに興味がないって知ってたから。真剣じゃないから大した努力もしないだろうって見くびってた。
なんだかんだでタインはちゃんと課題曲を最後まで弾いたのに。
「タインは一生懸命、練習してました。もう一度チャンスをあげるべきです」
俺なんかより、エア先輩のほうがタインをよく見てた。だから俺のバンドの代わりに出たいって言っ
たときも賛成したんだ。一方、俺が真っ先に考えたのは、タインを失敗させたくないってことだった。
マンのお門違いな擁護にも、追い討ちをかけられる。
「恋で目がくらんでたんだ、許してやれよ」
その理屈が通るなら、他の部員候補だった女の子達はどうなる。俺を好きだって部に来た子は追い払
って、俺が好きな人だけ囲い込んで。タインだけは不正してでも部員にしてほしいって、俺の私情で、
130

俺の恋は特別だからその価値があるって思い上がってた。
「あいつは自分が、お前と一緒にいても大丈夫だって、証明したいのかもな」
フォングの言葉を思い返して、あれはタインにとって重要なことだったんじゃないかって気づかされ
る。
初ステージで失敗したって泣くタインを、俺なりに慰めたつもりだったけど、全然足りてなかった。
これからのことを話す前に、「お前が思ってるほど悪くなかった。上達してるし、中断するまではちゃ
んと出来てた」って、納得するまで言って聞かせればよかった。泣きやんだ後でだって時間はあったの
に、しなかった。
タインが俺を受け入れてくれて、俺のものになったんだって、有頂天になってたからだ。タインの心
情まで思いやれなかった。傷ついたタインの自尊心より、自分の恋の成就が優先された。
「俺は ……
っ」
釈明したくて箸をテーブルに叩きつけて腰を浮かせたが、ボスやマンに言ったところで無意味だし、
肝心のタインはここにいない。
タインのできないところは俺がやればいいって思ってたんだ。手を貸したり教えたりすんじゃなくて、
俺が代わりにやればいい、タインのためなら何でもしてやるって、それが愛情だって信じ込んでた。タ
イン自身は自分だけの力で立っていたかったかもしれないのに。
俺は、タインの保護者にでもなったつもりだったんだろうか。タインに頼られるのがうれしかったの
もある、心のどこかで俺に依存してほしいって思ってた。そうすることで結びつきが深まるって錯覚し
てた。
「愛について何も知らないんだな」
かつてタインが口にした、無邪気な言葉がよみがえって俺を刺す。
俺は愛について何も知らなかったし、多分今もそうだ。
タインとの関係が駄目になって以来、間が悪かったんだって思おうとしてきた。パムのせいにはしたく
なかったし、自分に非があるにしてもそれが何なのかわからなったから。噛み合わせが狂っただけで一
瞬で壊れるのかって、茫然としてた。
でも違った、突然なんかじゃなかった。タインを庇護すべき弱い存在みたいに扱うたび、俺は少しず
つタインを失い続けてきたんだろう。フォングの助言とかタインの涙とか、予兆はあったのに気づけな
かった。
だからってどうすればいいのか、タインに謝ろうにも誤解を解かせてすらくれず、俺の顔を見るのも
不快って様子だった。これ以上タインを傷つけたくなかったし、本音を言えば、それを見て自分が傷つ
くのもいやだった。
「パスよこせっ」
それで俺は、バンドだけでなくサッカー部にも顔を出さず、近所のグラウンドに来ては、高校生に混
ざってボールを蹴ってる。強引にパスをもらってゴールを決めて、年下の奴らにどう思われてるかも知
ってる。
「ところであいつ誰? 毎日来てるよな」
「知らね、友達いないんだろ」
何を言われようが、事情を知らない相手は気が楽だし、体を動かしていれば気もまぎれる。
「こんなとこで何してんだ」
なのにその気晴らしですら、ミルが現れて邪魔をする。その姿を一目見て、よりによってこいつかっ
て、ますます気分がふさいだ。
「コンテスト前だろ、なんで練習しない?」
「お前こそなんで気にするんだ? 関係ないだろ」
タインを連れてった奴の顔なんて、一番見たくない。
ムカついて睨んでやったら、ミルは正面から俺の視線を受けとめて、かすかにうなずいた。
「いいだろ。俺が遊んでやるよ」
132

どういうつもりなのかわからなかった。タインのことだけじゃなく、お遊びのサッカーでも俺を負か
していい気になりたいのか。仕上げがバンドのコンテストで?
ミルのプレイは荒っぽいがボールあしらいが巧みでフェイントも上手く、ボールを取りに行っても体
でガードされてはね飛ばされる。勿論、他の高校生なんか手も足も出なくて、俺が倒れてる間にあっさ
りゴールを奪われた。
「 ……
っ」
そう、上手いんだ、サッカーだけじゃなくバンドのほうも。小手先だけじゃなくきっちり基礎ができ
てて、普段の練習もおろそかにしてない。その上でやりたい放題やりやがるから腹が立つ。
「これで二回だ」
坐り込んでる俺を見下ろして、ミルが言った。
「何が二回だ、まだ最初のゴールだろ」
「お前が俺に負けたのは二度目だ」
高い目線から、ミルはあの抑えた口調で宣言する。
「一つはサッカーの試合、もう一つはタイン」
タインの名前を出されては聞き捨てならず、俺は立ち上がってミルを見据え、苛立ちもあらわに吐い
た。
「俺がいつタインのことでお前に負けたって?」
だが喧嘩腰の俺に対し、ミルはどこか憐れむような眼で、俺に指を突きつけた。
「今の自分を見ろよ」
言われなくたって、自分がどんなひどいありさまかわかってる。タインにふられてバンドも放り出し
て、自分にうんざりしてるのに、どうすることもできない。情けない腑抜けだ。
「もし俺のバンドが今年のコンテストで勝ったら、俺はタインを誘う」
バンドとタインは関係ないだろって言いたかったけど、もう俺には口を出す権利がない。
「異存があるなら、コンテストには顔を出すな」
ミルは相変わらず強気で偉そうで、弱ってる相手にも手加減しない。
「忠告したからな」
もっとも本人がそう言うからには、これでも親切なほうなんだろう。ミルが立ち去った後のピッチで、
俺はその言葉の意味を考えている。
ああ言うってことはつまり、ミルはまだタインを口説いてないんだな。それにもし自分のバンドが負
けるようなら、タインを諦めてもいいって言ってる。単に絶対勝つ自信があるだけかもしれないが。
「 ……

わかってる ――
ミル先輩は、タインが本当にいやがることはしない。だから未だにタインをそっとし
ておいてる。同時に俺にもチャンスを与えようとしてる? タインがそう望んでるから?
いや、それはいくらなんでも願望で解釈しすぎだ。でもミル先輩は、まだ俺にも可能性はあるって思
ってる、多分。手応えのない相手を負かしてもつまらないってだけで、タインの件を持ち出すような人
じゃない。
バンドのメンバーに合わせる顔がなかったものの、久しぶりにスタジオに足を踏み入れた俺を、誰も
責めなかった。
「悪い、遅くなった」
「早くしろよ。お前のギター、準備しといてやったから」
それだけの会話で、長く間を空けていたリハーサルを再開した。ごく自然に呼吸と音が重なる感覚が
心地よかった。
そうやって俺は、徐々に日常を取り戻していく。タインがいなくても、タインがいないまま。
バンドの練習と同時進行で、ラブソングの続きも書いている。もう日はないが、コンテストまでに完
成させたかった。曲はほぼできてるから肝心なのは詞で、さんざん悩まされたけど、今なら書ける気が
した。
134

「お前さ」
書き上げたらコンテストで歌いたいって無茶な頼みにも、バンドの奴らは異論を唱えなかった。とい
うか、テンプに至っては感心された。
「滅茶苦茶モテるのに人生に全然活かせてないの、ほんとすごいよな」
余計なお世話だ、俺はタイン以外興味ない。
多少なりとも頭が冷えてくると、自分がどうしたらよかったのか、考えられるようになった。
俺がタインにやるべきは、頼まれてもない世話を焼いたり手を出したりすることじゃなくて、タイン
が自分でできるよう見守って、タインを支えることだった。恋人としてのタインを、同等の人間として
扱うべきだった。
俺は無自覚に、タインが俺を必要とするよう仕向けてたんだろう。先回りして、タインが自分で動く
芽を摘んでた。
「それが ――

タインに告白してから、俺は自分にできることは何でもした。それが誠意で、愛だって思ってたんだ。
ただのエゴや自己満足なのに。相手を甘やかすことと、相手を尊重することは違う。
タインはやさしいから、そんな俺のお節介を素直に受けとめて、ありがとうって言うだけだった。そ
して少しずつタインを追い込んだ。
俺の愛情は独りよがりだった。
「思ったんだけど、俺達の部屋にしないか」
一人には広すぎる家にいると、相談もなく新居を決めたのだってタインの負担だったんじゃないかっ
て、あの日のことを何度も思い返した。でもあの状況じゃしょうがないだろ、タインがうなずくだけの
段階まで持っていかないと、一緒に住もうなんて言っても「そうだな、そのうちな」なんて、笑って受
け流された自信がある。この件は許してほしいって思ってしまう。
冷静になったわりに悩んでばかりだからか、作詞は遅々として進まない。その間に何の奇跡が起きた
んだか、マンはタイプをものにした、らしい。
「俺は最初からそのつもりなんだけどな? それでも『毎日会いに来て』とか『家まで送って』とかね
だられて、こういうのなんて言うんだ、天国?」
昨日までとは別人みたいにデレデレにとろけきって、マンの奴は言ってることも満開のお花畑だ。そ
れだけならまだいいが、俺にチラッと目線をくれ、この世の春みたいな顔しやがって、口先だけは申し
訳なさそうに言う。
「俺だけ幸せになって悪いな、兄弟」
ヤバい、こいつ殺したい。
タイプも何考えてんだ、どうしてこうなった? あんだけ邪険にされてて口説き落とすって魔法か、
絶対おかしいだろ!
マンの舞い上がりようが腹立たしくはあるものの、まあ、めでたいことは確かだ。誰も彼も失恋ばか
りじゃ浮かばれない。どんな悲惨な片想いに見えてても、成就する見込みはあるってことだ。全人類の
救いだな。
「一生分の幸運使い切ったな」
「別にそれでかまわないね」
嫌味も通じないと思ったけど、本音なんだろう。俺だってタインを取り戻せるなら同じことを言う。
俺だけが辛気臭い顔してベンチでぐだぐだやってるところに、背後からフォングがやってきて俺の肩
を叩いた。
「最近、俺の部屋狭いんだよな~誰かさんのギターとかまであるし」
いきなり何だって、普通なら思うところだろうが、わざわざタインの存在をほのめかすってことは、
フォングは俺を敵視してはいないらしい。とはいえ、じゃあってのこのこタインに会いに行ったところ
で歓迎されないのは目に見えている。
俺が何も答えられないでいると、フォングは苦笑いみたいな伏し目で言った。
136

「お前、軽音部の入部テストのとき、タインを合格させるよう前もって根回ししてたんだって?」
誰に聞いたって、顔を向けた途端にボスが眼をそらして、まったく友人関係をまぜると情報が筒抜け
だ。
「あいつ、前日ほとんど徹夜で練習してたんだぞ」
遠回しに責められてるような気分になって、というか責められてるんだろう。あのときの俺は無意識
にタインを侮ってたし、あの後も自己満足でギターを渡して何かした気になってた。
「反省してるなら態度で示せよ」
一言も返せないまま、フォングは激励みたいに俺の肩に手を置いて帰っていった。
そのおかげってわけじゃないが、俺は作詞の方向性を変えた。自分の心情を遡って、突き詰めて、見
ないふりをしてきた事実に向き合った。
俺がタインを好きなのは大前提として、これまで俺は、タインが俺を好きでうれしい、一緒いられて
よかったって、そんな想いを歌にしようとしてた。それ自体は嘘じゃない、タインのことを考えるだけ
で幸せになるのも本当だ。
でも俺は心のすみで常に、話が上手すぎるっておそれてた。俺の片想いにタインを引き込んだだけじ
ゃないかって、薄々気づいてたんだ。
「俺の彼氏だよ」
タイプに交際を明かしたことで、俺はタインに想われてるって勘違いしたけど、目の前で傷ついてる
人を見てられなかっただけかもしれない。
「俺を悪く言う分にはいくらでも言っていいよ、でもこいつのことはそっとしといて」
現にあれだけ苦労させられたグリーンだって、強く突き放せなかったじゃないか。タインは誰にでも
やさしい奴で、俺は特別なんかじゃなかった。
「どんな言い訳も聞きたくない、もうお前のことは信じられない」
そのタインに、俺は刃みたいな言葉を言わせた。きっとタイン自身も傷ついただろう。
「ごめん ……」
心からの謝罪と悔恨が、唇からこぼれた。
タインへのラブソングは、コンテストの前日に完成した。おおよその曲だけは前もってバンドの連中
に渡していたとはいえ、合わせる時間もギリギリで、何やら言いたそうなテンプの盛大なため息が、全
員の気持ちを代弁していた。
「ほんっとお前さぁ ……

それから俺は、寮にあるフォングの部屋を訪ねた。明日、演奏するラブソングをタインに聴きに来て
ほしかったからだが、用件は他にもある。
「タインはいるか?」
俺の顔を見てフォングはちょっと意外そうな顔をした後、在室していたタインを促してくれた。その
何秒かの隙に、床に敷いてあるマット一式を見て、一緒に寝てるわけじゃないんだって、この期に及ん
で安心してしまう。
「何の用だ?」
顔を出してはくれたものの、タインの表情は硬く、声も冷たくて、覚悟はしててもきつくて心臓がす
くんだ。
「あー …」
お前が聞きたくないっていう言い訳をするつもりはないって、それすらも弁解がましくて、タインの
顔を正視できず、考えあぐねた末に前置きなく本題を切り出す。
「ギターを返してもらえないか」
口にした瞬間、しまったって思った。緊張で言葉の選択を誤った、貸してくれって言うつもりだった
のに。
あのギターのほうが俺よりよっぽどタインと一緒にいて、その努力を見てきたんだって思ったら、タ
インへのラブソングをそれで弾きたくなったんだ。
138

「ごめん、ずっと持ってるつもりじゃなかった」
タインはギターを取りに戻ると、部屋から出ずにギターケースだけを差し出した。
「返そうと思ってたんだ」
「いいよ、コンテストのために借りたいだけだから」
逆にもういらないって言われるほうがダメージくらう。明日に差し支える。
「また返すよ」
タインが何も言わないのは了承の印だって受け取って、俺は自分を勇気づけるようにうなずき、改め
てタインをまっすぐに見た。
「俺を応援に来てくれないか」
タインは驚いたように声もなく、眼を見開いて俺を凝視した。どの面下げてって、あきれたのかもし
れない。
「俺は ―― 」
「待ってる」
断られたくなかったから、返事を聞く前にギターケースを持って退散した。タインがコンテストに来
てくれるかどうか、自信なんかなかったけど、俺は俺にできることをやるだけだ。明日も、その先も。
フォングの部屋はあくまで単身者用で、床にマットを敷いて寝る生活は窮屈だったものの、フォングが
迷惑がらないのをいいことに、俺は完全に居着いてしまっていた。新しく住むとこ探さないとって思っ
ても気が重くて、ずるずる居候を続けていて、サラワットが訪ねてきたのはそんなときだった。
「何の用だ?」
顔を合わせづらいどころじゃなくて、本当だったら応対に出たくなかったけど、フォングが困るから
ドア口で相手をした。
「あー …」
サラワットも気まずいのか、目線が安定しなくて、口ごもりつつ用件を切り出す。
「ギターを返してもらえないか」
それもかって思った。これで全部なくすんだな、仕方ないけど。
ショック受けるのに慣れたせいか、諦めしかなくて、ただ氷をのんだみたいに心が冷えた。
知り合うきっかけも含めて、ギターが俺とサラワットをつないでくれた。返せばその役目が終わる。
「ごめん、ずっと持ってるつもりじゃなかった」
もっと早くに返せばよかった、そもそも持ってくるべきじゃなかった。せっかくサラワットがくれた
ギターを、俺はろくに活かせなかったから。別れてから思い直したって遅い。
「返そうと思ってたんだ」
ギターを手渡しながら謝っても、我ながら言い訳にしか聞こえなくて、最後まで締まらないなって思
う。俺はいつもこうだ。
「いいよ、コンテストのために借りたいだけだから」
明日はサラワットがリハーサルを重ねてきたコンテストだ。
「また返すよ」
その言葉にほっとしてしまうのは、どういう心理だろう。「サラワットと俺はもう関係ない」なんて
言いながら、思い切れてない。
サラワットはためらいがちに眼を伏せた後、慎重に言葉を選ぶように言った。
「俺を応援に来てくれないか」
すぐには答えられなかった。
「俺は ――

「待ってる」
それだけ言うと、サラワットはギターを手に帰っていった。俺は声もかけられず、ドアを開け放した
まま、困惑してその場に立ちつくす。
「お前ら二人、終わってるようには見えないな」
140

冷やかすような物言いでも、フォングなりに励ましてくれてるんだろう。けれど俺は素直に喜べない
し、軽率な自分を知ってるから、逆に不安になる。
サラワットを信じられないのは俺の弱さだ。俺は単純で騙されやすくて、何の取り柄もなくて、そう
いう扱いをされるような奴だって、心のどこかで思ってる。
もう傷つきたくなかった。そのくせサラワットの顔を見たら期待したくなって、そんな自分がいやで、
一晩経ってもどうするか決められずにいた。
「俺はサラワットにもう一度チャンスをやるべきだと思う。絶対後悔してるって」
「行かなくていいだろ。コップだって一度壊れたら元には戻らない」
プアックとオームの意見は割れていて、まあ友達がどう言おうと俺が選ばないといけないんだけど。
「そのへんにしとけよ。こいつはもう行かないことにしたみたいだから、俺達だけで行こう」
フォングに仲裁ついでに決めつけられても、反論する気は起きなくて、フォングの部屋で一人になっ
てもまだ迷ってた。やたら時計が気になって、時間が過ぎるのが遅く感じたり間に合わなくなるってあ
せったり、じっとしてられずに無駄に掃除なんか始めたりして。
そわそわして、余計なことを考えてしまう。たとえば二、三日前に、学内のカフェテリアでマンに言
われたこととか。
「恋ってのはいいもんだな」
マンはドリンク片手に俺のテーブルにやってきて、挨拶もなく勝手に隣に腰を下ろした。
「間違えても失敗しても、何度だってやり直せばいいんだ。お互いを許し合える」
自分がタイプ兄さんと上手くいったからって浮かれやがって、腹の立つ奴だ。そっぽ向いて聞こえな
いふりをしたけど、横顔に刺さる視線がしつこくて、うんざりと口を開いた。
「失敗するってわかってるのに、俺は挑戦したくなんかないけどな」
「お前は目の前に好物があっても、どうせまた腹が減るからって食うのやめるのか」
そういう問題じゃないって、これ見よがしにため息をついてやった。
「同じ落とし穴に何度も落ちる奴がいたらバカだよ」
そしたらマンは目を丸くして、こともなげに言ってのけた。
「それは間抜けなだけだが、食い物はおいしいし、食べてる間も幸せだろ」
ああ ……俺も知ってるよ。恋は楽しいし素敵だ、誰かを好きになるのも好きになってもらうのも、一
緒にいられるのも幸せだ。失ったら身を切られるようにつらいけど、思い出だけはいつまでも残る。
「人生において、愛より大事なものなんかそうそうないぞ」
したり顔のマンに、そんな手垢のついたような言い回しで語られてもってげんなりする反面、俺も大
して変わらないんじゃないかって思った。
「愛について何も知らないんだな」
ラブソングを書こうとしてたサラワットに、俺だって偉そうに言った。だけど俺は、愛の何を知って
たっていうんだろう。
俺は、愛は一緒にいることだと思ってた。それ以上のことなんかないって。好きな人と一緒に、二人
で同じように幸せになること。でもそれだけじゃ足りないのかもしれない、だからサラワットから離れ
てしまった。
「愛って何だと思う?」
自分でも何言ってんだろって思ったけど、疑問がぽろりとこぼれた。ようやく俺がまともに口を利い
たからか、マンは意外そうにまばたきをして、
「サラワットは、善意を持つことだって言ってたな」
本題みたいにその名前を出した。
「相手に対して誠実で、一緒に悲しんだり幸せになったりすることだって」
難しいことはさておき、俺とそんなに違わない気がした。じゃあなんで、俺達は上手くいかなかった
んだろう。
「お前は? マンは兄さんにどう思ってる?」
142

俺が尋ねると、マンは何秒か真顔になって、寂しげに笑った。
「俺は ――
愛は、相手の幸せを祈る気持ちだと思う」
「祈るだけ? 一緒に幸せにならなくていいのか」
驚く俺に、マンは自分に言い聞かせるみたいに何度もうなずいた。
「相手に選んでもらえるならそれが一番だけどな、そうならなくたっていいんだよ」
愛なんて人それぞれだ、確かな答えなんかない。
でも俺は、サラワットがパムに告白されてるのを見たとき、一瞬だってそんな気持ちにならなかった。
初恋が実ってよかったなって、嘘でも建前でも思いつかなかった。悲しいとか傷ついたとか、自分のこ
とばっかりで。
俺はサラワットの何を好きになったんだろう。サラワットに好きだって言われて、世話を焼かれてや
さしくされて ――俺はただ、自分の居心地のいい状態に酔ってただけじゃないのか。
「 …
ッ違う ――」
思わず呟いた声が、誰もいない部屋に響いた。マンから聞いた直後はちゃんとのみこめなかったけど、
でも違うんだ。サラワットを好きになった初めは仮にそうだったとしても、今は違う。
あの廃バスで去年撮ったっていう動画を見せられて、感じたのは圧倒的な感謝と敬意だった。自分の
なかからあふれるみたいだった。
「君が好きだ」
「うん ……
わかってる」
すごいなって思ったんだ、他人事みたいに。想われてるのが俺じゃなくたってよかった。あんなにも
強く熱く、ひたむきに揺るぎなく、捨て身なまでに人を好きになれるサラワットに感動したんだ。そん
なふうに一途に好きになってもらえた事実にも。
あれは多分、人生で一番幸せな瞬間なんだと思う。たとえサラワットがその後で心変わりしたんだと
しても、あのとき俺を好きだっていう気持ちは嘘じゃなかった。
上の空でフォングの机を片付けて、見ないふりをしていた USB メモリを手に取った。パムに託され
た USB
に何が入ってるのか、知るのはこわかったけど、今ならパムへのラブソングを聴いても耐えら
れる気がした。
「実は 約束どおりお前への曲にすべきなんだろうけど、パム」
……
フォングのノート PCに USB
を 挿し て音 声フ ァイ ルを 開く と、 流れ たの はギ ター 曲じ ゃな くて 、サ
ラワットの声だった。
「でもどうしても、お前のためには書けないんだ。どうがんばっても歌詞が浮かばない。なぜだかわか
らないけど ――」
サラワットの声はいつもより低くてカサついてて、疲れがにじんでいた。憔悴した顔が目に浮かぶみ
たいだった。
「わかってるのは、俺が曲を書きたいと思うのはタインだけだってことだ。あいつが今更聴きたくない
って思ってても」
「 ……」
結局のところ俺の早合点で、サラワットがパムのためにラブソングを書いてるっていうのは、俺の思
い込みだった。でもすべての問題解決にはならなくて、だってサラワットは最初からパムとは何もない
って言ってたのに、耳をふさいで信じなかったのは俺だ。騙されて後になって捨てられるより、そのほ
うが楽だから。サラワットの気持ちなんか考えず、自分だけ逃げ出した。
正直、今だってまだこわい。今回は何もなかったけど、いずれサラワットは他の誰かを好きになるか
もしれないし、俺もまた疑ってしまう。そうなって傷つくのは俺だけど ―― 。
「相手の幸せを祈る気持ちが愛だと思う、たとえ一緒にいるのが俺じゃなかったとしても」
わかるよ、マン。少しだけわかった。俺はサラワットに幸せになってほしいし、その望みをかなえた
い。
「俺、は ―― 」
144

俺がライブ会場に着いたのは、トリであるサラワットのバンドがステージ上にいて、ちょうど最後の
曲を演奏し始めたときだった。曲名は『タイン』だってサラワットは言った。俺のために前から書いて
たっていう、例のラブソングだ。
〈 お前 が 誰 にで も や さし い の は普 通 の こと で 俺 は特 別 な んか じ ゃ なか っ た 都 合よ く 考 えて た な ん
ておかしいよな きっとお前は迷惑だっただろ ―― 〉
ラブソングだけど、それは片想いの歌だった。
〈勘違いしてて悪かった 頼むから俺のこの問いに答えてくれないか ―― 〉
俺と知り合う前から曲を書いてたにしろ、俺達は恋人になったし、同じ家に住んでた。それなのにな
んで、こんなに自嘲的でせつない歌詞なんだろう。
多分、サラワットも俺を信じきれてなかったんだ。
「タイン、俺を好きか?」
「好きだよ」
サラワットは何かにつけて、俺に好きだと言わせたがった。普段、自信満々だからおかしくて、かわ
いいなって思ってた。でもサラワットなりに不安があったんだろう。俺はサラワットを軽んじたつもり
なんかなかったけど、確かめずにはいられない気持ちにさせてた。俺は気づかなかったし、気づこうと
しなかった。
〈 これ ま で のこ と は すべ て 俺 の空 想 だ った の か 全 部俺 の 思 い込 み だ った の か 俺 達は 愛 し 合っ て る
と思ってた ―― 〉
抱き合ってるパムとサラワットを見て、足元から崩れ落ちるくらいショックだった。世界が突然、壊
れたみたいだった。でも実際はそこここに小さな予兆があって、不安の芽が育ってるのに、気づかない
ふりをしてた。
きっとサラワットもそうだったんだろう。俺に拒絶されて世界が揺らいで、同じようにつらかった。
〈 全部 俺 の 思い 込 み だっ た の か 言 って く れ 喜 んで 受 け 入れ る か ら 俺 を愛 し て ない っ て 言っ て く
れ ――〉
歌い終えたサラワットが俺に気づいて、眼が合った。俺がゆっくりステージに近づいていくと、サラ
ワットは片膝をつくように腰を落として、同じ目線の高さで俺を見つめた。
サラワットの瞳はかすかに震えて、どこか怯えてるみたいだったけど、まばたきも惜しいように見開
いた眼で言う。
「もう一度、俺を信じてくれないか」
俺が ―― 俺達が生きてるのは現実で、ときには残酷で辛辣で厳しくて、一生とか絶対とか、確かなも
のなんてないって思い知った。恋は楽しいだけじゃなくて、あの痛みを思い出すと身がすくむけど、俺
はお前の望みをかなえたい。お前を幸せにしたい。
「お願いだから」
だから、お前が信じてほしいって言うなら信じる。
「信じてなかったら、俺がここにいるわけないだろ」
そしてこわがらなくて済むように、これから少しずつでも、お前にふさわしい人間になりたい。そう
だな一年後には、ギターもちょっとくらい上達してるといいな。
「 ……っ」
緊張してたらしいサラワットの全身からこわばりがとけて、噛みしめるように笑みが広がった。花が
開いたみたいな、光が射したみたいな笑顔で、ああ好きだなって思う。
いつも持ってたのか、サラワットがポケットからあのペアのブレスレットを取り出したから、俺も左
手を掲げた。革の環に手首を通して、サラワットがゆるく締めるのを見守る。
「もう絶対外すなよ」
サラワットの言葉には笑みで応えた。
俺はサラワットには、誰よりも幸せになってほしいって願ってる。その隣にいるのは俺がいいけど、
そうじゃなくたっていいんだ。
146

でもそれまでは ――
一緒にいられる間は、俺がお前を幸せにする。俺のこと好きになってよかったっ
て思わせる。
「サラワット」
ステージに戻るサラワットを、声に出さずに呼んだ。想いが澄んだ水になって、静かに胸に満ちてい
くみたいだった。ひそかに自分に誓いを立てた。
だからお前が俺を好きでいてくれるかぎり、ずっと一緒にいよう。
コンテスト当日、悪友どもが控え室に激励にやってきた。のはいいんだが、マンが彼氏連れっていうの
はどういう料簡だ。見せつけたいのか、この状態の俺に。ボスも止めろよ。
「ワット、調子はどうだ?」
「俺達がトリだ。待たせるな」
一応、形だけ詫びのつもりだったのに、マンはやたらと上機嫌で、好都合だと言わんばかりだ。
「大丈夫、ついでに俺の彼氏を見せに来たんだ」
マンは親しげにタイプを肘で小突いたり、諌めるように軽く叩かれたり、俺はなんでこんなもんを見
せられてるんだ、くっそ。
「タインは?」
気にかけてくれる分、ボスのほうがまともだ。ボスをまともに感じるって相当だが。
「来るのか? 電話してやろうか?」
「いや、来るよ」
強気で言ったわりに確信なんかなくて、ここまで来たらもう、信じてやるだけだ。それとも、兄のタ
イプならタインがどうしたいか、わかってるんだろうか。
「タインがどこにいるか知ってますか?」
するとタイプはやや不本意そうに、例の高圧的な口ぶりで言った。
「タインの恋人は君だろ」
これはつまり、タイプに認めてもらえたってことなんだろうか。俺がまだふられたままだっていうの
は皮肉だが、支持してくれる人が増えるのは心強い。
「 ……」
ありがとうって言うのも違う気がして、タイプに何とも答えられなかったけど、伝わってるだろう。
コンテストは問題なく進み、トリである俺達の出番でも順調にライブをこなした。最後の曲は予定ど
おり、俺がタインに捧げるあのラブソングで、エレキをタインから借りたアコースティックに持ち替え、
ヴォーカルもテンプと交代する。
ただ、ステージ上から見渡しても、どれだけ探しても、観客のなかにタインの姿はなかった。来てな
いのか、俺の眼の届かない場所にいるのかはわからない。でももう決めた、タインがいてもいなくても、
俺は俺のすべきことをやる。
「タイン ――
お前が聞いてるかどうかわからないけど、これだけは知っておいてほしい」
マイクの前に立って、スピーカーを通して、タインに呼びかけた。タインに届くよう、それだけを願
って。
静まり返った聴衆の反応は、この際どうでもいい。
「お前に出会ってから、この曲が頭から離れない。それはときには心地よく、ときには不可解に響いた。
でもこの曲は本当に、俺を幸せにしてくれるんだ」
タインの ――名前も知らない彼に贈るラブソングを作ろうって決意する前から、この曲は俺の頭のな
かにあった。多分、彼を見てその幸福を感じた瞬間に、俺のなかから湧き出した。形にするのには、随
分時間がかかってしまったけど。
この段階でもまだタインを見つけられないまま、俺はタインに語りかけていた。
「知ってるか? 俺はパムに告白してない。お前に会って俺は、愛が何なのか知ったからだ」
俺はお前が好きで、お前の笑顔が好きで、お前の幸せが好きで ――お前には幸せでいてほしいし、お
前の幸せを守りたい。そしてかなうなら、お前が幸せなときもそうでないときも、お前のそばにいたい
148

んだ。
「曲名は『タイン』です」
囃し立てるような観客の声がやんでから、曲名を告げてギターをアンプにつないだ。相変わらずタイ
ンが聴いているかわからないけれど、俺はラブソングを歌い始める。ひどく個人的なラブソングを、タ
インを想いながら、あの幸福とせつなさを思い出して。
タインに贈ったギターを弾いていると、少しだけタインを身近に感じた。
〈 お前 が 誰 にで も や さし い の は普 通 の こと で 俺 は特 別 な んか じ ゃ なか っ た 都 合よ く 考 えて た な ん
ておかしいよな きっとお前は迷惑だっただろ ―― 〉
自虐的な言葉が胸に刺さるのに、どこか心地いいのは自戒だからだろうか。でも俺は、タインが俺を
好きだって信じ込んでる間は、バカみたいに幸せだったんだ。
〈勘違いしてて悪かった 頼むから一つだけ答えてくれないか ―― 〉
俺は全然完璧なんかじゃなくて、独りよがりな普通の男で、これからもきっと間違えるし、お前を困
らせることもあるかもしれない。
〈 これ ま で のこ と は すべ て 俺 の空 想 だ った の か 全 部俺 の 思 い込 み だ った の か 俺 達は 愛 し 合っ て る
と思ってた ―― 〉
でも誓うよ、同じ間違いはしないよう気をつけるし、一人で先走らずにお前の意見を聞くし、お前を
尊重する。今度こそ大事にする。二度と泣かせたりしない。
お前がいてくれたら俺は、何だってできる。
〈 全部 俺 の 思い 込 み だっ た の か 言 って く れ 喜 んで 受 け 入れ る か ら 俺 を愛 し て ない っ て 言っ て く
れ ――〉
歌い終えると会場のすみにタインが立っていて、引き込まれるように眼が合った。もうそれだけでこ
み上げるものがあり、眼の奥が熱くなって、まだ早いって思う。ステージ沿いにタインが歩み寄ってき
て、俺の前で立ち止まる。
ギターを脇に回して腰を落とし、真正面からタインを見つめた。黒い瞳が純粋なくらい澄んで、鏡み
たいに俺を映していた。これが俺に残された唯一のチャンスだって、期待と不安で情けなく震える。
「もう一度、俺を信じてくれないか」
お前といると俺は、弱くもなるし強くもなれる。何だってできるって思うのに、ひたすら無力で、お
前には手も足も出なかったりする。俺はお前がいないと駄目なんだ。
だから、俺を愛してくれないか。
「お願いだから」
俺の懇願めいた言葉を、タインは黙って聞いていた。何かを思い出すように、夜の水面みたいな瞳が
揺れた。今日はやけに空が高いなって、緊張しすぎて意識があさってに向かう。
「信じてなかったら、俺がここにいるわけないだろ」
あきれたみたいにタインが言って、やわらかく笑みが広がった。俺がその答えを噛みしめるようにう
つむくと、タインがおかしそうに笑ってて、多分俺は今、最高にゆるみきった顔をしてるんだろう。
久しぶりのタインの笑顔がまぶしくて、眼に痛いほどで、うれしくて泣きたい。喜びに鼓動が高鳴っ
て、涙の代わりに笑みがこぼれて、タインがここにいるって実感する。
そうなるともう、一秒だって一人にはしておけなくて、ジャケットの胸ポケットから例のブレスレッ
トを取り出した。タインが置いていったあの日から、未練がましく常に持ち歩いていたペアの片割れで、
俺は革の環を広げて促し、タインの手首に通して締めた。
「もう絶対外すなよ」
でないと俺がどうにかなる。
わかってるってタインが、答えるみたいに笑う。その笑顔を見てるだけで俺は、幸福感に胸がつまっ
て息もできなくて、好きだって想いだけが降り積もる。タインが俺をどう思っていようと、俺のそばに
いてくれるだけでいい。
俺はタインを一生好きだし、タインは俺がタインを好きでいるかぎり ――俺がそう信じさせている間
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は一緒にいてくれる。だから俺は、一生をかけてタインを好きだって証明し続ける。
わかるか? お前が俺を信じてくれるなら、俺達はずっと一緒にいられるんだ。
「タイン」
タインの名前を呟くだけで、いとおしさとせつなさで胸が締めつけられる。鼓動の一つ一つが、幸せ
で満たされていく。
タインと再会する前、彼を好きだってだけで幸せな気持ちになれた。タインを好きでいることなんか、
息するくらい簡単だ。二度と離さない。
俺は全身全霊でタインを好きでい続ける、一生。ずっと。永遠に。
END
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元サイト

不完全な世界
著者名 つやこ
発行日 2020 年 12 月 24 日
印刷 kanami
文献 pixiv

この本は pixiv にて公開されたものを書籍化したものです。二


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