You are on page 1of 872

婚約者は、私の妹に恋をする

はなぶさ

HinaProject Inc.
注意事項
このPDFファイルは小説家になろうグループサイトで掲載中の
作品をPDF化したものです。
このPDFファイルおよび作品の取り扱いについては、小説家に
なろう利用規約が適用されます。そのため、引用の範囲を超える形
で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止いたします。作品
の紹介や個人用途での印刷および保存にはご自由にお使いください。
︻小説タイトル︼
婚約者は、私の妹に恋をする
︻Nコード︼
N8109CQ

1
︻作者名︼
はなぶさ
︻あらすじ︼
ああ、またか。私の可愛い妹を見つめる、私の婚約者。その冷た
い目に灯る僅かな熱量を確かに見たとき、私は既視感に襲われた。
かつての人生でも、私の婚約者は私の妹に恋をした。私はただそれ
を見ていることしかできなかった。そして、そんな私は、何の因果
か、同じ時を巡る人間だった。
☆6月9日にKADOKAWA様より書籍化。☆12月9日に2巻
が刊行されます。本当に有難うございます。

好きで好きでしょうがなくて、どうしようもない。
そんな気持ちはいつしか忘れてしまった。
だけど、これだけは覚えているのだ。
かつて、そんな気持ちを抱いたことがあったのだと︱︱︱︱︱
*************************
ああ、まただ。
私の目の前で恋に落ちる彼を見て、漠然とそう思った。
無表情で憮然とした顔つきをしているので、一見して、それとは分

2
からない。
だけど、彼の薄氷に似た感情の灯らない瞳に、確かに何かが宿った
のは間違いなかった。
私にはそれが、手にとるように分かった。
だてに、十年以上にわたる長い時間を共に過ごしたわけではない。
いや、厳密に言えば、もっと、酷く、長い時間を共に過ごしてきた。
そして、何度もこのシーンを見せ付けられてきた。
かつての私は、その度に絶望して、その度に、そんなことが起こる
はずはないと自分に言い聞かせていた。
﹁初めまして、お兄様﹂
ニコリと笑む私の腹違いの妹が愛らしい声で挨拶している。
この茶会は、私の婚約者と私の妹を引き合わせる為に設けられた場
だった。
病に伏していて、正式な顔合わせ出られなかった彼女の為に作られ
た時間だった。
﹁初めまして妹君。﹃お兄様﹄はまだ早いんじゃないかな﹂
婚約者の心地よい声が耳を滑る。
いつもと同じ声。だけど、どこか違う声。
見つめ合う二人を、その横でただ見ているしかない私。
頬を染める私の可愛い妹。その姿を真摯な眼差しで受け止める私の
婚約者。

3
かつての私はそれに嫉妬して、この会を台無しにした。
喚き散らす私とは対照的に、しおらしく、いじらしく﹁ごめんなさ
いお姉さま﹂と頭を下げる妹に、﹁君が気にすることなんてないん
だよ﹂と優しく笑った婚約者の顔を今でも覚えている。
結局は、私の悋気が二人の距離を縮めるきっかけとなってしまった
のだから、何と無様なことだろう。
﹁イリア、どうしたんだい?﹂
親交を深める二人をぼんやりと眺めていた私に、婚約者が訝しげな
視線を向ける。
そうだ、いつもそうだった。
私を見る婚約者の目には、好意というものが混じっていたことがな
い。
﹁いいえ、何でもありませんわ。ただ、少し調子が悪いものですか
ら﹂
﹁何だ、またか﹂
﹁はい。ですので、先に下がらせていただいても良いでしょうか?﹂
私がそう言うと、僅かに眉根を寄せる婚約者。
少しくらい我慢できないのか、無言でそう言っている。
それを微笑でかわし、なるべくゆっくりと立ち上がった。
動揺していることを、決して、悟らせないように。
﹁ごめんなさいね、シルビア。﹃お兄様﹄をよろしくね﹂
﹁あ、は、はい・・!﹂
調子が悪い、なんて言い訳を婚約者が信じるはずもないことは分か
っていた。

4
体が弱いのは私ではなく、妹のほうなのだ。
体が弱く、華奢で儚い、私の妹。
庇護欲をそそられる妹は誰からも愛された。
﹁待て、イリア。部屋まで送ろう﹂
既に歩き出そうとしている私に背後から声がかかる。
﹁いいえ、必要には及びませんわ。せっかくのお茶会ですもの。ど
うぞ楽しんでらして﹂
彼の顔を見ないように、そっと視線を落として、だけど嫌味になら
ないよう気をつけてそう返事をする。
﹁いや、しかし﹂
なおも言い募ろうとする婚約者は、どこまでも生真面目で実直だ。
正しい婚約者であろうとしているのが分かる。
﹁護衛がおりますし、心配ご無用ですわ﹂
近くに立っていた護衛に目配せすると、空気の読める彼は、婚約者
からの視線を遮るように体をずらした。
私が早く部屋に帰りたがっているのに、聡い彼は気づいたのだろう。
だけど、そんな必要はない。視線を遮る必要もないのだ。婚約者は
もはや私など見ていないのだから。
もう既に彼の心は、妹の元にあるのだから。
さくさくと芝を踏む私の足。
広い庭園に咲き誇る薔薇の花。穏やかな風と、どこまでも広がる抜

5
けるような青空。
何度も目にしたこの情景が哀切を誘うのは、かつての私が泣いてい
るからだろうか。
婚約者が恋しいと、あの人が愛しいと、泣いているからだろうか。
また、繰り返すのだ。
終わりのないこの時間を。
*****************************
私は、何の因果か、同じ時を巡る人間だった。
ある人はそれを﹁転生﹂と言い、ある人はそれを、ただ﹁繰り返す
時間﹂と言った。
私にとって、この時間が何の意味を成すのかは分からない。
そもそも、意味があるのかどうかも分からない。
ただ、同じ時間を繰り返している。
期間はいつも同じ。
彼が私の妹に恋をして、そして私が死ぬまで、だ。
思い出すのであれば、生まれたときから前世というものを覚えてい
れば良いのに。
そうすれば、私は自分の婚約者への対処を間違ったりはしない。
けれど、思い出すのはいつも、あの茶会なのだ。
そのときは既に手遅れで、私と婚約者の間にはどうしようもない隔
たりが出来上がっていて、それを覆すことができない状態になって

6
いる。
そして、必然として、彼は私の妹に恋をする。
初めの人生で、私は、悲しいくらいに婚約者のことが好きだった。
五つを過ぎたばかりの頃に初めて引き合わされてから、ずっと彼だ
けを見つめていた。
これが例え、政略結婚であろうとも、いつかは心を通わせて温かい
家庭を築くのだと信じて疑っていなかった。
私の両親がそうだったから。
けれど、彼は侯爵家の人間で将来を嘱望されており、いかに私が婚
約者といえど軽はずみに近づくことさえ許されなかった。
我が国では爵位の中に、更に位階と呼ばれる位があり、第五位まで
分かれているそれは数が少なくなるほど立場が上になる。
彼は侯爵家第一位で、我が家は伯爵家第三位。
彼の家は数少ない侯爵家の中で最も地位が高く、私の家は複数ある
伯爵家の中の真ん中。
位階だけで言えば、八段階も離れていることになる。
我が家は財力と歴史ある伯爵家であったけれど、それでも、何かに
つけて彼とは家格が合わないと影口を叩かれていた。
そんな私と彼がなぜ婚約することになったかと言うと、単に偶然が
重なったからとしか言えない。
元々彼には別の婚約者がいたのだけれど、その少女は、婚姻を結ん
だ数ヵ月後に病に冒され鬼籍に入ってしまった。
その為、両家の父親同士にたまたま親交があり、たまたま年代の近
い私には婚約者がいなかったことからあっという間に彼の婚約者と
して祀り上げられてしまったのだ。
突然、舞い込んだ侯爵家子息の婚約者という立場は、私に大いなる

7
プレッシャーを与えた。
私は、彼に恋をしてしまったから、とにかく彼につりあうようにな
る為に必死だったけれど、それだけでは足りないことも知っていた。
たまたま私が選ばれたけれど、本当は他にも相応しい人がいるので
はないかという懸念がいつもあったのだ。
いくら努力を重ねても容姿だけはどうにもできない。例え、着飾っ
てそれなりの見栄えになったとしても素材が悪ければどうしても限
界があり、その一方で、彼の周りには、努力では到底超えることの
できない容姿端麗な女性たちが集まっていた。
だから私は、彼に近づく女性をけん制したのだ。
私は、彼の婚約者だという立場を大いに利用した。
だって、私が誇れるものは、それしかなかったから。
︱︱︱︱︱︱そう、最初の人生は、そんな風にして、彼に見限られ
てしまった。
彼の心がこちらに向いていないことは知っていた。
それでも、結婚して一緒に暮らしていくうちに、情が沸くのではな
いかと期待していたのだ。
長く、一緒の時間を過ごすつもりだった。時間をかけて愛を育むつ
もりだった。
私にはそれだけの時間があるのだと、信じてもいた。
だけど、それが全て、ただの願望に過ぎなかったのだと気づくのは、
彼と妹を引き合わせたそのときだ。
時間なんて関係ない。
たった一瞬で彼は、妹に恋をした。

8
私は、ただ、それを見ていた。

ただの恋だったはずだ。
そう、初めは、途中までそうだった。
それで間違いはなかった。
ズレはじめたのがいつからだったのかは分からない。
******************************
*****
﹁あら、ソレイル様は、またシルビア様とご一緒ですのね﹂
隣を歩いていた友人が不意に中庭を眺めながらぽつりと零す。
彼女の視線を追えば、そこに仲睦ましく寄り添う二人の姿。
また、頭の中を過ぎる既視感。

9
学院の中庭に、ぽつりと設置されたベンチに並んでいる二人の姿は
思いのほか目立つ。
分かっていてやっているのか。それとも、周囲の目など気にもなら
ないのか。
人通りはさほど多くないものの、たまたま通りがかった学生たちが
ちらちらと視線を送っている。
﹁声を掛けなくてよろしいの?﹂
豪奢な美貌が目立つ友人は金色の髪を揺らしながら問うてくる。
私はそっと首を振った。
﹁ソレイル様は、妹をとても大事にしてくださいますの﹂
自分でも白々しいと思えるほどに、感情の灯っていない言葉がする
りと出てくる。
幾度となく繰り返す人生で、殊更、私の妹を大事にする婚約者を周
囲の目から庇う為、何度もこのセリフを吐いた。
婚約者がいながら、他の女性と二人きりでいることは褒められたこ
とではないが、相手が婚約者の妹であればまた事情が違ってくる。
﹃いずれ家族になるのだから﹄という言葉が免罪符になることを知
っていた。
﹁イリア様は、寛容ですのね﹂
美貌の友人、マリアンヌが何ともいえない顔で笑っている。
私が、自分の婚約者に近づく女性をけん制していたことを知ってい

10
るからだ。
そして、彼女もそんな女性たちの一人だった。
昔、マリアンヌが、我が婚約者のソレイルに近づくために画策して
いるという噂を聞いて、さっそく一言、物申しに行ったのだ。
﹃私の婚約者に近づかないで﹄と。
今思えば、格上の相手に対してどんな身の程知らずだと思うところ
だが、当時の私はそれほどに周りが見えていなかった。
恋に狂った女、その表現が一番ぴったりくる。
それは、マリアンヌの生家から正式な抗議が入ってもおかしくない
ほどの出来事だった。
事実確認もせず、噂に惑わされて言いがかりをつけたのだから。
それがなぜ、険悪な状態にならず良好な友人関係を築いているのか
というと。
﹃私は、お二人の邪魔をする気などございません﹄
と、彼女が、夢見心地な顔をして笑ったからだった。
﹃愛し合う二人の邪魔をするほど、私は野暮な人間ではありません
わ﹄と。
﹁あの茶会﹂の後であれば、どんな嫌味だろうと想うところではあ
るが、マリアンヌとそんな言葉を交わしたのは、婚約者と妹を引き
合わせるよりもずっと前のことだった。
だから、私はその言葉を聞いて、ただ、舞い上がった。
周囲からすれば、私と婚約者は想いあっているように見えるのだと。
私の婚約者は、私のことが好きなのだと。
そんな馬鹿な幻想を抱いたから、彼女に対して好意を抱くことはあ

11
っても厭うようなことにはならなかった。
つまり、寛容なのは私ではなく、マリアンヌのほうなのだ。
ではなぜ、﹁マリアンヌがソレイルに近づこうとしている﹂などと
いう不穏な噂がたったのかというと、全ては、マリアンヌの家格と
その人目を引く美貌に理由がある。
彼女の家は伯爵家第一位で、ソレイルの家格に近く、もしも私の存
在がなければソレイルの婚約者はマリアンヌだったに違いないとま
ことしやかに囁かれていた。
それを置いても、ソレイルとマリアンヌはお似合いだと。
それを口にすれば、彼女はまた一つ笑みを落として、
﹃私は、自分の婚約者のことで頭がいっぱいですので、そんなこと
になることは一生ございません﹄と言い切った。
その目が、恋する女性そのものだったから。その当時、私が鏡に映
していた目と同じだったから、だから私はあっさりと彼女の言葉を
信用することができたのだ。
︱︱︱︱︱︱かつての人生では、私と彼女は、友人になることはな
かったのだけれど。
昔々、そのまた昔の私の人生では、私とマリアンヌは、公の場で顔
を合わせることがあっても、言葉を交わしたことさえなかった。
同じ爵位で、だけど位階の違う私たちは常にライバルのような扱い
を受けていた。
私たちが近づくことを周囲の人間が許さなかったのだ。
だけど、他の人生では私のことを目の敵にしていた彼女も、今生で
は無二の友人となった。

12
そご
そんな風に、重ねる人生では、その時々でいくつかの齟齬が生まれ
る。
理由など分からない。何せ、私にはあの茶会まで、前世の記憶がな
かったのだから。
意図的に何かをしでかしたわけではない。
もしかしたら、無意識にとる私の行動が、些細な違いを生むのかも
しれないとは思ったけれど、正確なところは分からない。
ただ、私の人生が繰り返すからと言って、全ての人間が、前回と同
じ行動をとるとは限らないのだということだけは分かっている。
マリアンヌがそうだった。
かつての人生では、マリアンヌとその婚約者は良好とは言えない関
係だった。
だけど、今生では、相思相愛といえる仲になっている。
この僅かに生まれる差異に、もしも理由づけしなければならないと
すれば、私の関与することができない何か大きな力が作用している
としか言えない。
そしてそのせいで、誰もが、私も含めて、少しずつ違う人間になっ
ている。
︱︱︱︱︱それなのに、
それなのに、何度繰り返しても、彼の妹への恋慕だけはいつだって
変わることがなかった。
それほどに、妹を、愛しているというのか。

13
﹁イリア様は本当にお優しくていらっしゃる。シルビア様を学院に
通わせるようにご両親を説得なさったとか﹂
マリアンヌが、我が婚約者ソレイルと、妹に視線を向けながら話を
続ける。
艶のある黒髪を撫で付けたソレイルは、貫禄とその威風堂々たる態
度から年上に見られることが多いが、妹は病弱なこともあり華奢で
小柄な為、幼く見られることが多い。
そんな二人の後ろ姿は体格差が大きい。
けれど、何の違和感もなく、その空間に収まっている。
まるで、初めから﹁対﹂であったかのように。
マリアンヌの視線を追うように、さらりとなびくシルビアの銀糸の
ような髪を見ながら、心の中で呟く。
優しくなど、ない。
私は、優しさで妹の進学に助力を尽くしたわけではない。
もう、どうにも耐えられなかっただけなのだ。
﹃お姉さま、ソレイル様は学院ではどんなご様子ですの?
一緒に、ランチをとったりなさるのかしら?﹄
妹の愛らしい声が、私の婚約者の動向を探る。
それに耐えられなかっただけなのだ。
自分の婚約者について、ほとんどのことを知らない自分が露見する
ことを恐れただけなのだ。
ソレイルが学院でどんな風に過ごしているかなんて、知らない。
ランチに声をかけてもらったことなど一度もない。
ソレイルと仲の良い友人のことであれば知っているが、それも名前

14
と顔くらいだ。
彼もソレイルのように家柄が良く、目立つ男性だったから女生徒の
噂の種になっていた。それを耳にしたことがあったからこそ知って
いただけだ。
人生を重ねた今であれば、その人物の人となりも、ソレイルとどれ
ほどの付き合いなのかも、瞳の色さえ思い出すことができるが、ソ
レイルから直接、その友人を紹介してもらったことはない。
いつの人生でも、彼はソレイルの傍にいたけれど、言葉を交わした
のなんて数えるほどしかなかった。
ソレイルとは、学院内で、時々すれ違うときでさえ声をかけてもら
ったことはないし、ごく稀に視線が合ったとしてもそれだけだ。
私が妹に語って聞かせることのできる内容なんて、たかが知れてい
た。
茶会の前であれば、妹を学院に通わせるなんてこと思いつきもしな
かっただろう。
ソレイルは魅力的な男性だ。それと同時に、妹も大変魅力的であっ
た。
二人が近づく可能性があるのであれば、何としてでも、妹が学院に
通うことを阻止しただろう。
実際、かつての人生では、そういう手段をとったのだ。
だけど、茶会の後で全ての記憶が蘇り、妹が我が婚約者に想いを寄
せ、婚約者もまた我が妹に想いを寄せていると知った後であれば、
私の思考はそれまでと大きく変わった。
そんなに知りたいのであれば自分で見て、自分で聞けば良いのだと、
そんな風に思ったのだ。

15
虚弱なせいで、何かあってはいけないと学院に通うことを反対され
ていた妹のために両親へ助言した。
シルビアの将来のためには学院へ通うことが必然だと。
未だに婚約者の決まっていない妹には良いチャンスになるはずだか
らだと。
体の弱い妹であれば、一刻も早く婚約者を得て庇護してくれる人間
を捜す必要がある。
もしも体調に変化があれば私が必ずフォローするからと、熱弁をふ
るった。
まるで、妹のためだと言わんばかりの言葉を並べて。
﹃嬉しい、私、学院に通えるの!お姉さま、ありがとう!﹄
妹のまろい頬に赤みが差す。
いいのよ、と笑いながら、胸の奥を走る痛みに知らないフリをした。
かつての私が、声を上げている。
︱︱︱︱︱︱︱︱何でそんなことするのよ!
︱︱︱︱︱︱︱︱妹とソレイルを近づけないで!
私だってよく分からないのだ。自分が何をしているのか、何をした
いのかさえ分からない。
あの茶会の前、私は確かにソレイルに恋をしていた。
それだけが生活の、いいえ、人生の全てだった。
たった五つで出会ったそのときに、彼の横に並ぶのにふさわしい人
間になろうと決めたそのときから、私は﹃ソレイルの婚約者﹄とし
て生きてきた。
吐きそうなほどの努力を重ねて、やっと最近、周囲に認められてき
たところだった。

16
それが全部、何もかも無駄だったと知ったときの私の絶望は、筆舌
に尽くしがたい。
ソレイルが妹を見る眼差し。妹がソレイルを見る眼差し。
周囲には決してそれと悟られないように、想いを秘めているのが分
かる。
決して表には出ないように。だけど、相手には伝わるように篭る熱
量を、蚊帳の外から見守る私。
何度も目にした光景のはずなのに、この人生では、初めて見る風景
で。
私はそれを見る度に、確かに傷ついた。
私には決して向けられることのなかった眼差しを一身に向けられる
妹の姿を見て、どうして冷静でいられようか。
初めの人生で、茶会を終えて錯乱した私を周囲の人間は責めに責め
た。
妹が可哀想だと、なぜ、妹を邪険にするのかと、両親でさえ渋面を
作った。
︱︱︱︱︱︱︱︱お前のような子が娘で恥ずかしい、と。
これが物語であれば、主人公は間違いなく妹だ。
姉の婚約者という、決して結ばれることのない男性に恋をした可哀
想な女の子。
悲劇の主人公と言えるだろう。
その物語は観客は引き付け、私はさながら、主人公の恋路を邪魔す
る悪役令嬢といったところだ。
だけど、これは物語ではないし、これは私の人生で間違いない。
だとしたら、なぜ、自分の人生を哀れむ私が責められなければなら

17
ないのか。
酷い、酷い、何で、どうして、
泣き叫ぶ、かつての私の声が今でも響いているような気がする。
︱︱︱︱︱︱︱どうして誰も、わかってくれないの。

もしも君の言っていることが本当だとしたら、どうして君だけなの
だろうね?
どうして君だけが、同じ時を繰り返すのだろうね?
******************************
****
なぜ、なぜ、なぜ
記憶が蘇った後の私は、その後の人生をこの言葉に支配される。
繰り返す度に、少しずつ、どこかが何かが違っているのに、私の婚

18
約者は必ず妹に恋をする。
そして私もまた、婚約者に恋をする。
それはどうしても変えられない。
全ての出来事がそこに起因する。
それだというのに、それだけがどうしても変えられない事実として
存在する。
自身が、何度も同じ時間を繰り返していることに気づくのは、いつ
だってあの茶会の後なのだ。
婚約者と妹が、もしも、出会っていなかったとすれば運命は違う方
向に動いたのかもしれない。
だけど、まるで、そうあることが必然であるかのように、二人はあ
の茶会で運命の出会いを果たす。
それを手引きするのが、彼に恋をしている私自身なのだから、笑い
さえ起きない。
防ごうにも、防ぎようの無い出来事なのだ。
二人は出会い、恋に落ちる。
初めは片恋だと思っていたようだけど、やがて、自分たちは相思相
愛だと気づき、誰にも悟られないようにそっと想いを伝え合う。
私は、そうやって想いを育て始める二人を、一番近くで、見つめて
いた。
いや、見せ付けられていたと言ってもいいだろう。
私がいなければ出会わなかった二人。だけど、私がいるから結ばれ
ない二人。
最初の人生では、それこそ、地獄だった。
婚約者と妹を引き合わせた茶会で失態を犯した私を見るソレイルの

19
目は、すっかり色を失っていた。
それまでも、私は、ソレイルに近づくありとあらゆる女性を厳しい
言葉でけん制していて、その度に彼は苦言を呈していたのだ。
﹃そんなことをしても私の為にはならないし、君の為にもならない
よ﹄と。
それにも関わらず、私はやめなかった。
その上での、あの、茶会だ。
﹃ソレイル様に色目を使わないで﹄﹃か弱いフリをしてなんて酷い
子なの﹄﹃私からソレイル様を奪うのね﹄
泣きながら、ほとんど喚きながら、思いつく限りの暴言を口にした。
その姿は、いっそ醜悪だと言っていいだろう。
実際、茶会でも一幕を耳にした両親は﹃何て恥ずかしいことを﹄と、
いか
私を殴りつけんばかりの勢いで怒り、ソレイルにも頭を下げた。
一瞬で妹のことを見初め、未だその熱が冷めない目をしていた彼も、
両親の謝罪を受け入れながら、妹に対して暴言の限りを尽くした私
のことを心底、厭わしいと感じたようだった。
けれど、賢い彼は、そのことを態度に出すようなことはしなかった。
なぜなら、私とソレイルの結婚はすでに決まっていたことで、くつ
がえすことがなかなか難しい状況であったからだ。
私は、ソレイルの伴侶となるべく育てられていていて、それはつま
り領地を治める為の勉強をしてきたということであった。一朝一夕
ではできない。歴史を学び、土地を学び、人を知り、経営を学ぶ。
語学を修め、数字を覚え、社会情勢に通じる。
男性でも根を上げるようなことを、家格が合わないと嘲弄を受けて
いたからこそ、必死に覚えた。

20
それこそ何年も時間をかけて、歯を食いしばってやってきたことだ
った。
侯爵家の女主人となるべく育てられた私であったからこそ、その役
目に最も適していたのは私だったのだ。
他に適任はいない。
それは、誰の目が見ても明らかだった。
それに何より、私が、ソレイルのことを好きだという事実が、この
関係の破綻を最も難しくしていた。
政略結婚に、初めから想いが伴うのは非常に稀である。私の周囲の
人間、特に私の両親とソレイルの両親は、私がソレイルを想ってい
るという事実を歓迎していた。
ソレイルがまさか、シルビアのことを想っているなどとは思いもよ
らなかったのだろう。
あの薄氷のような目は、全ての感情を覆いつくしてしまうのだ。
ソレイルだって、私のことは好ましく思っていないようだったけれ
ど、この政略結婚は受け入れているようであった。
わざわざ破談にするようなことはせず、政治的な戦略として、私を
正しく婚約者として扱った。
ソレイルは恋に落ちた普通の男だった。だけど、それと同時に領地
を治める貴族でもあったのだ。
責任と義務を果たすべく、私を妻と据えることを決めていたようで
あった。
そもそも政略結婚とは、そういうものであったから。
ソレイルが私を見てくれないことに不満を抱いてはいたが、それで
も、このときはまだ大丈夫だと思っていた。
ソレイルの婚約者としての正しい態度が、それに輪をかけたのだと

21
思う。
結婚して、生活を共にして、領地を治め、やがては子を作り、一緒
に時間を過ごしていくうちにお互いを知っていけばきっと大丈夫だ
と自分に言い聞かせてもいた。
好きだったのだ。
ただひたすらに好きだった。
幼い頃に抱いた気持ちが、まるで刷り込みのように心に染み付いて
離れない。
だから、うまくいかないかもしれないということは想像さえしたく
なかった。
そして、私とソレイルは結婚したのだった。
私が18歳、ソレイルは20歳、シルビアは17歳だった。
私が学院を卒業すると同時に結婚したのだ。
茶会で、ソレイルとシルビアが顔を合わせてから2年が経過してい
た。
ソレイルはそのとき、騎士としてやっと一人前と認められたところ
で非常に忙しくしていて領地に帰ることもなかなか難しい状況だっ
た。
そのことがまた、私の目を曇らせたのだと思う。
そのときの私とソレイルは、傍目から見れば決して険悪ではなく、
私もまたそうだと思っていた。
冷たくされたわけでもなく、言葉を交わせば、優しい言葉を掛けて
くれる。
彼はいつも、婚約者として正しくあったので、結婚した後もやはり
正しい夫であった。
妻を、妻として扱った。
疲れている様子を見せれば﹁大丈夫か?﹂と声を掛けてくれるし、
少し休めば良いと労わってくれる。

22
相談すれば親身になって考えてくれるし、悩んでいれば助言もくれ
た。
忙しさの合間に、垣間見える優しさに惑われてしまった。
良い夫だった。
まるで、絵に描いたようなごく普通の﹁夫﹂としての正しい姿を見
せていた。
そうやって、1年が過ぎ、2年が過ぎた。
その頃になると、私は段々と気づき始めていた。
彼のその目には、全く、温度がないことに。
言葉も態度も、騎士らしく紳士的で優しい夫ではあった。
まるで﹁夫﹂の見本のような。
そう、見本、だ。
いつからか﹁こうすれば妻は大人なしくしているだろう﹂﹁こう言
えば妻は黙っているだろう﹂そんな彼の態度が透けて見えるように
なった。
それが分かったのは多分、ソレイルの妹に向ける目と仕草と態度を
目の当たりにしたからだと思う。
家族というのは本当に厄介なもので。
距離を測ることはできても、縁を切ることはできない。
特に貴族に生まれていては。
表向きだけでも仲良くしていなければならない。
こうむ
不穏な噂が﹁家﹂に不利益を被るとも限らないからだ。
だから、私たちは、一度目の茶会以降も何度か顔を合わせて親交を
深めようと努力した。
いや、本当に努力が必要なのは私だけだったのだが。
私はいつも、失敗に終わった1度目の茶会の埋め合わせをするよう

23
に、半ば強制的にテーブルに座らされていた。
そうやって開かれる茶会では、私は、目と目を合わせるソレイルと
シルビアのすぐ傍にいて、彼らを見つめながらテーブルの下で両手
を握り締めていた。
絶対に、最初のときのような失態を犯してはならないと自分に言い
聞かせて。
茶会が始まる前には、ソレイルが必ず、妹を大切しておあげなさい
と優しく説いたから。
正しい夫を演じるソレイルの前で、私も、正しい妻を演じなければ
ならなかった。
そうすれば、彼の目が、こちらを向いてくれると信じていた。
そんなはずはないのに。
ソレイルの長い指が妹の触れれば崩れてしまいそうに細い銀髪に触
れる。
くすぐったそうに笑う妹。
花びらが付いていたと、白々しく、だけど優しく微笑む、その形の
良い唇。
目を、閉じてしまうことができたなら、一刻も早くそうしていた。
だけど、そうできない事情があった。
私は、ソレイルの妻だったから。
﹃妹に優しくしてくださってありがとう﹄と、笑みを作るしなかっ
た。
そうすればいつも、ソレイルは﹃あたりまえのことだよ﹄と冷たい
目をして微笑む。
﹃私たちは家族なんだから、あたりまえのことだよ﹄と。

24
そんな私たちを見て﹃お姉さまは幸せですわね。優しい旦那様がい
て﹄と、妹が無邪気な顔をして、ぽつりとこぼす。
だけど、その目に羨望と嫉妬が混じっていることを知っていた。
体が弱く、子を産むことが難しい彼女には未だに婚約者さえいなか
ったから。
彼女の目には、自分が得られないものを姉である私が全て持ってい
るように映っていたのだろう。
笑って誤魔化すことしかできない私を、妹はどんな風に思っていた
のだろうか。
侯爵家の妻という地位も名誉も財産も、騎士として頭角を表してい
た夫も持っていた私は、傍からみればさぞかし恵まれた人間に見え
ただろう。
そうだ、それらは、私が自ら望んで手にしたものだ。
だって私は、﹁侯爵家﹂に嫁いだのだから。
そうなるべく育てられたのだから。
だから、気づかなかった私が愚かだったのだろう。
私は、ソレイルに嫁いだわけではなかったのだ。
﹃お姉さまは、幸せね﹄
そう言った妹の声が、ずっと響いて離れない。
︱︱︱︱︱そして、そんな風に3年の時を過ごした頃のこと。

25
突然、妹は死んだ。
体の弱い彼女であれば、死ぬとすれば病死であろうと誰もが思って
いた。
けれど、実際は、息抜きにと街へ観劇に出た帰りに襲われたことに
よる強盗殺人だった。
その知らせが届いたとき、私とソレイルは二人きりで夕食を共にし
ていた。
それは、仕事が忙しく中々屋敷に帰れないソレイルに私が提案した
ことだった。
たまには、二人きりで食事ができるように時間をとってください、
と。
3年経つのに、子供が授かる兆しのない私に、段々周囲の目は厳し
くなっていたから、ソレイルは気を遣ったのかもしれない。
私の目を真っ直ぐ見て肯いてくれたのだ。
あまり会話のない食事だった。
だけど、私は満足していた。
愛する人の顔を見ながら食事ができる喜びをかみ締めていた。
そんな、どうともない普通の食事風景に差す、真っ黒な影。
家令がそっとソレイルに耳内する。
仕事のことだろうかと、その様子を見守っていた私に、ソレイルは
今まで見たこともない目を向けてきた。
真っ黒な、穴のような、全ての感情をそぎ落としたような、憎しみ
よりももっと深い、闇をそのまま映しこんだような眼差しだった。
﹃君か﹄

26
何が起こったわからない私に、ソレイルはこう言った。
テーブルに並べられていた夕食を片手で払いのけ、蒼白な顔をこち
らに向け、
﹃君が、やったのか﹄
静かに、だけど、はっきりとそう言った。
突然、そんなことを言われても何が何だか分からない。
肯定も否定もできずに、ただ、その向けられたまなざしにおののい
ていると、それを肯定と受け取ったのかソレイルはおもむろに食卓
のナイフを手にとった。
﹃旦那様!!!﹄
もしも、もしもあのとき、家令が止めていなければ私は確実に殺さ
れていた。
恐怖に震え、テーブルの足元に崩れ落ちた私に夫が言う。
﹃︱︱︱︱︱君が、シルビアを殺したんだな﹄
27

﹃君が、シルビアを殺したんだな﹄
地面を這うような低い声だった。今まで聞いたことのない声だった。
しっかりと私に向けられている言葉なのに、まるで別の誰かに向け
られているようでもあった。
相変わらず意味が分からずに呆然としていると、家令が淡々と妹の
死を告げる。
その事実に、一瞬、私の中をせりあがる歓喜。
これで邪魔者はいなくなった、これでソレイルは私のことを見てく
れる、心を寄せ合う二人を見なくてもすむ。
そんな甘美な幻想が頭を掠めた。

28
けれど、そんな風に喜びに震えたのはたった一瞬で、
﹃やっぱり、君か﹄
そんな声が私を現実に引き戻す。
ざっと音をたてて血の気が引いた。
私は、一体、何を考えていたというのだ。
あの子は私の妹だ。恋敵ではあったけれど、それでも、確かに私の
妹なのだ。
幼い頃、あの小さな手を握り締めて、あまりにも弱いこの子を守り
抜こうと決めた。
この子の為に、﹁姉﹂という役目を果たそうと誓った。
うまくはいかなかったけれど、あの日の誓いを反故するような結果
になったけれど、でも、それでも。
あの子は私の妹で、私はあの子の姉なのだ。
その子が、あの、シルビアが、死んだ。
口から漏れた息がひゅうひゅうと音をたてている。
引いた血の気は戻らずに、からっぽになった頭の中が助けを求める
ようにガンガンと脈打つ。
﹃やっぱり、君が、殺したんだな﹄
私の顔を見据えて、確信を得たようにソレイルがうわごとのように
繰り返す。

29
違う、そう呟いた声がソレイルに届いたかどうかは分からない。
違う、違う、何度もそう口にしたはずなのに、ソレイルは持ってい
たナイフを投げ捨てて、
﹃許さない、絶対に、許さない﹄
いつもは何も灯っていないはずの瞳にはっきりと憎悪の色を浮かべ
た。
待って、と、確かに私の唇はそう動いたはずなのに、声は一つもで
なかった。
喉が焼けるように熱くて、言葉は全て奪われたような気がした。
ソレイルはそんな私を一瞥し、払われた夕食が無残な姿を晒してい
るテーブルクロスを一気に引っ張る。その上に並んでいたもの全て
が勢いよく硬い床に叩きつけられた。
激しい音が耳を突く。
砕け散る花瓶と、そこに飾られていた色とりどりの花々。
その花は、久しぶりの二人きりの食事だからと私が手ずから用意し
たものだった。
忙しさにのあまりにソレイルの気分が沈んでいてはいけないからと、
温かい色の花をたくさん集めて、華美にならないよう、だけど質素
すぎないように気を遣いながら飾り付けたものだった。
大理石の床に散らばった夕食は、数日前から料理長と相談を重ねて
用意したものだった。
きっとソレイルは疲れているだろうからと、胃に優しく、滋養にき
くものを考えた。
一つ一つに、意味があった。

30
一つ一つ、吟味を重ねて私が選んだものだった。
記憶を辿るように視線を移していけば、どうせだからとこの機会に
新調した繊細な織りのテーブルクロスが、ワインや料理のソースを
吸い込んでどす黒く染まっているのが目に映った。
投げ捨てられたそれは、ぐしゃぐしゃに寄れて、大理石の床の上で
丸まっている。
何をどうすれば良いか分からなくて、思わず引っ張り寄せた。
新しいテーブルクロスに気づいてくれたら嬉しいと思っていた。そ
ういうことに無頓着なソレイルだから、もしも気づいてくれたら何
て返事をしようと、そこまで考えて、一人で浮かれていたのだ。
その視界を横切る、傷一つない革靴。
かかと
普段は足音さえたてずに歩くというのに、勢いよく踵を鳴らして歩
いていく。
座り込んだ私を無視して、ソレイルが今まさに部屋を出ようとして
いた。
待って、お願い、待って。
誰か、誰か彼に言って。私は何もしていない。
私がやったんじゃない、誰かそう伝えて。
全身で叫んでいる。だけど、何一つ言葉にならない。
嗚咽が酷くて、単語にさえなっていない。
だって、思ってもみなかった。
ソレイルが、私のことを、そんな風に思っているなんて。
妹を殺すような人間だと、そんな風に見ていただなんて。
がたがたと震えているのは寒いせいじゃない。

31
すがるように抱き締めたテーブルクロスは何の役にもたたず、今、
私を擁護してくれる人間は誰もいなかった。
ひくひくと痙攣するように嘆いていると誰かが腕を掴む。
両側から引き上げられて、吊るされるように立たされた。
まるで、罪人のように。
ソレイル、ソレイル、貴方にとって、私は、そんな、そんなどうし
ようもない存在だったの。
これまで積み上げてきた日々は、過ごした時間は何の意味もなかっ
たの。
弁明さえも、聞く気がないの。
言葉にできない想いが嗚咽となって口から零れていく。
追いすがるように、去っていく背中を追いかけようとして、乱暴に
腕を引かれる。
バタン!と激しく閉ざされた扉が、まさしくソレイルの拒絶を示し
ていた。
振り返ることさえなかった。
妻の叫びに、泣き声に、一度もためらうことなく立ち去った。
たもと
︱︱︱︱︱そして、私とソレイルは袂を分かったまま、二度と歩み
寄ることはなかったのだ。
それが、私の最初の人生だ。
あの後、私は自室に軟禁され、家令を通して、証拠が集まればすぐ
にでも離縁して国に引き渡すと言われた。

32
私は、無実を訴えながら、そんなことになるはずはないと思い込ん
でいて、軟禁されておも尚、ソレイルが思い直すと信じていた。
だって、私は、シルビアの死とは無関係なのだから。
けれど、おかしなことに、私はあっという間に罪人として投獄され
ることとなった。
鉄の檻に囲まれ身動きがとれなくなってから、証拠がいくつも上が
っているのだと身に覚えの無い罪状が積み重ねられていく。
会ったことも、見たことさえない強盗団の一味が、私にそそのかさ
れて伯爵家の馬車を襲ったのだと自供したと聞かされたときは、思
わず、笑いが漏れた。
そんな、荒唐無稽な話を、ソレイルは元より﹁国﹂が信じてしまう
のかと。
誰かにはめられたのだと気づいたときには、もう、どうにもならな
い状況で、私は身内殺しの罪を着せられていた。
貴族の間では、時々、こんな風に罠にはめられることがあると知っ
ていたけれど。
自分がそういう身になるとは思ってもみなかった。
だけど、よく考えるまでもなく、次代の侯爵夫人という私の身分は、
他の誰かかすれば喉から手が出るほどに欲しいものだったのだろう。
私だって、自らその身分を望んだのだ。
もっとも、私の場合は、ソレイルの妻という立場であれば何でも構
わなかったのだけれど。
そうやって考えてみれば、他の人間が、私に成り代わりたいと望ん
でもおかしくない。

33
では、そうなるにはどうすれば良いのか。
簡単なことだ。邪魔者を排除すれば良いのだ。
気をつけていたつもりだった。
だけど、考えが足りなかった。
まさか、こういう手段で、全てを奪われるとは思ってもみなかった
のだ。
自分の知らないところで﹁イリア﹂という一人の人間がどんどん貶
められていく。
投獄されてしまっては、自らの手で潔白を証明することもできない。
できるのは、ただ、祈ることだけだ。
誰かが、私の無実を証明してくれることを。
私はそうやって、最期の最期まで祈り続けていた。
そして、信じてもいた。
誰かが、ソレイルが、この牢獄から救い出してくれることを。
ひび割れた石の並ぶ地面に膝を付き、生まれてきてから一度も目に
したことがないような粗悪なベッドに両肘を付いて祈りを捧げた。
ソレイルは﹁正しい人﹂だ。
いや、正しい人間であることを望む人だ。
﹁白﹂か﹁黒﹂の二つしか知らない人だ。
今はシルビアの死に動揺してその目が曇っているだけだろう。
冷静になれば分かるはず。
揃えられた証拠が捏造されたものであると。
だから、きっと、彼は私の無実を証明してくれる。
今は駄目でも、いつの日か、自分の非を詫びて迎えに来てくれる。
そう、信じていた。

34
私が愛したのは、そういう人だったから。
なぜ、そこまで、と。
なぜ、そこまでして彼を信じるのかと、誰かに聞かれた気がする。
私にも分からない。
答えなど、ないのだと思う。
ただ、愛していたのだ。
狂いそうなほどに、いや、狂ってしまうほどに愛していた。
︱︱︱︱︱だけど、結局、そこまで信じたはずの彼は、助けにこな
かった。
私は、自分の最期を覚えていない。
処刑された覚えは無いから、きっと、あの牢獄で死んだのだと思う。
すえたカビの臭いを嗅ぐとあの場所を思い出す。
貴族の令嬢として生まれ、次代の侯爵夫人に納まった根っからの貴
人が死ぬには、あまりに酷い場所だった。
それが冤罪であれば尚更。
だからきっと、あの場所で生き抜くことができなかったのだろう。
本来なら、貴族が罪を犯した場合に収容されるのは、もっと別の場
所で、牢獄とは名ばかりの不潔さとは無縁のようなところだ。
正規の手順を踏めば私もそこに入るはずだったのだ。
だけど、私の、実の両親がそれを許さず、ソレイルもまたそれを許

35
さなかった。
ソレイルは次代の侯爵であり、侯爵家第一位というのは公爵家の次
席。
つまり、王族に次ぐ立場となる。
彼が言えば、大抵のことは叶えられる。
それが分かっているから、彼は自分を律していた。
そのソレイルが、私を、あの牢獄に入れることを望んだのだ。
私はそれほど憎まれていたということだろう。
だから、私は貴族としてではなく平民の一人として裁かれることと
なった。
この世で唯一、自分の味方でいてくれるだろうと思っていた両親に
見限られた瞬間、私の人生はきっと、本当の意味で終わったのだろ
う。
シルビアは、誰からも愛されていた。
両親でさえも、私より、シルビアを愛した。
この世界は、シルビアを中心に回っている。
だとすれば、シルビアが死んだその後は、ただのエピローグに過ぎ
ない。
物語の後付、ただの追記。
さして、重要ではない話。
だからきっと、私の死だって、この物語にはあってもなくても良い
出来事なのだろう。

36

カシャン、と耳に残る陶器がぶつかる音。
二回目の人生はそうやって始まった。
﹁どうした?イリア﹂
ソレイルがこちらを覗き込んでくる。
頭の中を駆け巡る、既に終えてしまった前の人生。
卒倒してしまいそうだ。
目の前にはあのときと同じ白いテーブル。
この日の為にと用意した茶器は、白磁に小花が散る愛らしいデザイ
ンのものだ。
妹が好みそうなものをわざわざ出入りの業者に取り寄せてもらった

37
のだ。
紅茶の茶葉はソレイルが昔から好んでいる香りのものを用意して、
焼きたてのお菓子は、甘いものを好まないソレイルの為のものと、
甘いものが大好きなシルビアの為のものを別々に数種類用意した。
侍女に任せておけば良いのだという母の言葉を無視して、自らが手
配した。
そうしなければ気がすまなかった。
この茶会の、あの瞬間まで、妹は﹁私の可愛いシルビア﹂だった。
ソレイルは紛れもない、私の婚約者で、私を大切にしてくれる唯一
の人だった。
彼らの為に、この茶会を楽しいものにしようと策を練って、事前の
準備をして、手順を組んで、二人が気分良く過ごせるように計画を
たてた。
だから、何もかも順調だと思いこんでいた。
二人を引き合わせるその瞬間まで。
品種改良した薔薇が美しく咲き誇る庭は、母の自慢で、客人を招く
度、そこで茶会を開いている。
だから今回も、そこを利用することにした。
そうすれば間違いないと知っていたから。
テーブルセットを並べてクロスを引いて、侍女にお茶とお菓子の用
意をさせる。
私はそこで、妹と婚約者を待つのだ。
一足先に現れた婚約者と談笑しながら、妹が来るのを待つ。
あの子は、今日は朝から気分が良いのだと笑っていた。
だからきっと、この茶会にも参加できるだろう。
良かった。

38
一刻も早く会わせたいと思っていた。
可愛い妹に、私の、自慢の婚約者を。
そうして、婚約者と何気ない会話をしているときに、さくりと芝を
踏む音が聞こえた。
ああ、妹が来たのだと顔を上げる。
ふと、横に座っていた婚約者に視線を向けると、彼は、どこか呆け
たような顔をしていた。
普段は一部の隙もない、引き締まった横顔をしているのに、どこか
間抜けにも思えるような奇妙な顔をしていた。
それを見て、心臓が、ひくりと引きつる。
︱︱︱︱︱︱ああ、まただ。
頭の中で、誰かがそう囁いた。
一瞬、呼吸が止まって、
︱︱︱︱︱︱今度も、そうなのね。
はっきりと、私の知っている声が、そう言った。
母が丹精込めて育てた淡いピンクの薔薇を背負うようにしてシルビ
アがこちらへとゆっくり歩いてくる。
白に近いベージュのドレスは、抜けるように肌の白い彼女によく似
合っている。
緩く纏めた銀色の髪が零れて風になびいて、彼女の姿は、教会で目
にする天使の絵画に似通っていた。
血の気が引いていくのが分かる。
視界を塞ぐように、見開いていた目を閉じれば、頭の中を流れる一
回目の人生。

39
震えていた手が、持っていたカップをソーサーにがちゃりと落とし
た。
﹁どうした?イリア﹂
気づけば、隣に座っていたはずのソレイルが立ち上がっている。
その横には、妹のシルビアが。
その姿がダブって見える。前に一度、こうやって立ち並ぶ二人の姿
を見た。
そう、前の人生で、一度。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すたび、蘇る、既に失った人生の記憶。
叫びだしそうになる唇を両手で抑えた。
それでも何とか自分を失わずにいたのは、ソレイルへの執着があっ
たからだと思う。
一回目の茶会での失態を忘れていなかったのだ。
だから、混乱する頭のどこかで、今回は絶対に失敗してはならない
と前回の私が警告してくる。
微笑まなければ。
とっさに思ったのはそれだった。
笑って、受け流さなければ。
見詰め合う二人を、許さなければ。
慌てて立ち上がれば、テーブルに足をぶつけて、その上の食器が面
白いほどに激しい音を上げた。
﹁どうしたの、君らしくないね﹂とソレイルが苦笑している。
自分の足が、ドレスの下でがくがくと震えているのが分かった。
﹁ごめんなさい﹂と笑えば、ソレイルも笑みを返して、するりと背
中を撫でてくれる。

40
その慰めるような仕草に、不覚にも、泣き出しそうになった。
私を人殺しと罵り、一生許さないと憎しみの言葉を吐いたその姿は、
今は、ここにない。
チャンスを、与えられたのだと思った。
人生をやり直すチャンスを、神様が与えてくれたのだと。
冤罪によって不幸な結末を終えた私に、神様が味方してくれたのだ
と。
﹁ソレイル様、私の妹のシルビアですわ﹂
にこりと、ごく自然な笑顔が浮かんだ。
貴族として生まれれば、その表情を簡単に顔の上に貼り付けること
ができた。
そんな私を見て、ソレイルもまた笑みを浮かべる。
私を見つめるその目には、やはり何の感情も浮かんでいない。
だけど、少なくとも、侮蔑の色はなかった。
﹁初めまして、お兄様﹂
私から、シルビアへ視線を移すソレイル。
ほんの一瞬、二人の視線が交錯する。
それを見つめながら、どくどくと脈打つ心臓を服の上から押さえ込
む。
薄氷に似た彼の目に、いつもと違う色が浮かんで消えた。それを、
確かに見た。
﹁初めまして、妹君。﹃お兄様﹄はまだ早いんじゃないかな﹂
ああ、そうか。

41
私がこんな風に、ごく冷静に茶会のホストを勤めたなら、この時間
はこんなに何事もなく進んでいくのか。
前回のときのような騒乱にも似た騒がしさは皆無で、ただひたすら
に、穏やかで柔らかな風が吹いている。
大丈夫、大丈夫、私はうまくやれている。
前回と同じ轍は踏まない。そんなことにはならないし、決して、そ
んなことは起こさない。
体があまり丈夫ではないのです、と控えめに表現して目を伏せるシ
ルビアの顔を、ソレイルがじっと見つめている。
その指先がぴくりと動いたのを見逃さなかった。
妹に、触れたいと思っているに違いない。
その儚い存在に、焦がれているに違いない。
ほんの躊躇いもなく私に触れるその指が、妹に触れることを恐れて
いる。
触れたくて、でも、触れてはならないと、自分に言い聞かせている
声が耳に響くようだった。
駄目よ、と、取り乱しては駄目よ、と前回の私が忠告してくる。
ソレイルとシルビアの何でもない会話に相打ちを入れながら、分か
っている、大丈夫だと、何度も何度も心と頭に言い聞かせる。
ソレイルに嫌われたくはない。憎まれたくは無い。
今日までの自分の素行のせいで、もう、どうしようもないところに
来ていたとしても、それならばせめて憎まれることだけは避けなけ
ればいけない。
今回なら、きっとやれる気がするのだ。
だって、私はこれから起こるはずの出来事を全て知っているのだか
ら。
間違いを正していけば良いだけだ。私が犯したありとあらゆるしく

42
じりを、訂正していけばいいだけだ。
簡単なことではないか。
今、私が、この茶会でそうしているように、きっとうまくやれる。
︱︱︱︱︱二度目の私の人生は、そうやって、一度目の人生を踏み
直す為のものとして始まった。
何を言えばソレイルが不快に思うのか、何をやれば失敗するのか、
前回の私には見えなかったことが恐ろしいほどにはっきりと見えた。
それは、前の人生を鮮明に覚えているというよりは、これから起こ
ることが明確に分かるといったほうが正しい。
何かが起こるよりも前に、これから起こるだろう出来事が、目の前
に再現される。
だから私は、自分が前回よりも幸せに生きられるだろう選択肢を選
んだ。
簡単だ。
前の人生の、正反対の道を行けば良いのだから。
だけど、それでも、どうしても私が思った通りの道を選べないこと
もあった。
それは例えば、私の知らないところで彼らが街でばったりと出くわ
してしまったり、病で臥せったシルビアをソレイルが見舞いに訪れ
たり。いつの間にか、ソレイルの友人とシルビアが知り合いになっ
ていたり。そんな風に、自分自身が関与できないところでは、思う
とおりに道を正せなかった。
そういうとき、私は、逆らうことのできない大きな流れ、すなわち
運命というものの力を信じざるを得なかった。
つまり、私には、どうしても、想い合う二人の心を止めることがで
きなかったのだ。

43
できることと言えば、せめて、ソレイルに悪感情を抱かせないこと
くらい。
私ができるのはそれだけだった。
それだけなのに。
本当は、それさえも、私が思っていたよりずっと、ずっと、苦痛を
伴うものだった。
うまくやれると思っていたのだ。
正直に言えば、人生を舐めていたとも言える。
一度、経験したことなのだからとまるで神にでもなった気分で、正
しいと思う道を選んだ。
いや、実際には、一つの道しか選べなかっただけなのに、選んだつ
もりでいたのだ。
選択肢のない人生とは、一体、どれほどの価値があるのだろう。
そんなものに、意味などあるのだろうか。
想いを伝える言葉を封印し、やりたいことをしなかった。正直さと
は無縁で、本音を胸の奥で潰した。
口に出す言葉には想いが伴わず、まるで、誰かが書いたセリフを諳
んじているような錯覚で。
時々、呼吸をしているのかさえ分からなくなった。
私は、自分の人生を生きているのだろうか。
日を重ねるごとに、年をとる度に、そんなことを思うようになった。
そして、そんな風に日々を追って、私とソレイルはやはり結婚する

44
ことになった。
一度目の人生と同じだ。
決定的に違ったのは、私とシルビアが姉妹として良い関係を築けて
いたこと。
そして、私とソレイルも、前の人生よりもずっとお互いに向き合う
ことができていたこと。
一度目よりも、うまく運んでいる人生。
だけど、どうしようもなく虚しい人生。
それは、牢獄の中で祈りを捧げていた日々によく似ていた。
出口がない。自由が無い。想いを伝える術もない。
言葉にも行動にも、何一つ、意味を見出せなかった。
45

二度目の人生で、私が失った選択肢の中に﹁安寧﹂というものがあ
った。
私はソレイルに関してだけは嫉妬深く激情に走る愚かな女に成り下
がったけれど、本来は、争い事を好む人間ではない。言葉数も少な
く、弁がたつほうでもなく、誰かの前に立つよりも、誰かの後ろに
下がって守られているほうが性に合う。
それは貴族の令嬢として生まれ育ったのであれば、当然の性質と言
えるだろう。
常に護衛が張り付き、自らが行動するよりも前に侍女が察して先手
を打つ。有事の際は他の誰よりもその命が優先され、父親なり夫な
りに守られてしかるべきだし、その大きな背はその為にあるのだと

46
信じて疑わなかった。
けれど、ソレイルは、自分の妻にそんなものは望まなかった。
あれほどにか弱い存在に恋をした為か、それとも、侯爵家夫人にそ
ういう姿を求めていたのか分からないが、私が弱い存在であること
を決して許さなかった。
結婚してからは特にそうだったと思う。
正しい夫の姿として、優しい言葉で妻を労っておきながら、例えば
私が本当に肩を貸して欲しいと言ったなら、彼は、どこか落胆した
様子を見せた。
だから私は、いつも、誰より強い女でなければならなかった。
一度目の私は、多分、ただの女だった。そこらへんの、どこにでも
いるような女だ。
次代の侯爵家夫人としての素養はあったかもしれないが、言えば、
それだけの女だったとも言える。
その他の面においては、自分でも情けないと思えるほどに普通の女
だった。
だからこそ、ソレイルに近づく女性たちに悪態を付いたりケンカ越
しに接したり、それこそ良くない手段を使って遠ざけるような真似
をしたのだ。
弱い犬ほどよく吠えるとは、まさしく私のことだった。
ソレイルの婚約者という立場に縋っていたのも、そういう理由から
だったと思う。
地味な灰色の髪、ぱっとしない相貌、だけど伯爵家の娘としての矜
持は捨てられず、ソレイルへの想いだけをよすがに、私はいつだっ
て人生という奔流の中で立ち尽くしていた。
だからこそ、それこそ血反吐を吐く思いで努力を重ねたのだ。

47
そうしなければ、ただ立っていることさえ難しかったから。
︱︱︱︱︱そんな風に、一度目の私を省みたときに思うことがある。
全ては私が、弱い人間だったからこそ起こったことなのではないか
と。
心の弱い、何も持っていない娘だからこそ、私を貶めようとする人
間に付け入る隙を与えてしまった。
そんな風だから、身内殺しの罪をきせられて牢獄の中で命を落とす
ことになったのだ。
これが二度目の人生だと知ったとき、今度こそうまくやらなければ
と、そう思った。
張りぼてでも良い。張子の虎でも何でも。
他人から見て、私がまさしく虎であれば、襲い掛かろうとする人間
はいなくなるだろう。
牢獄で命を落とすような、そんな人生にはしたくなかった。
愛する人に信じてもらえず、家族にさえ見限られ、友人だと思って
いた人たちは獄に繋がれた私を見向きもしなかった。
ただ、祈りを捧げるしかない哀れな女に言葉一つ、掛けてはくれな
かったのだ。
嘘でも良い。誰か一人でも﹁助ける﹂と言ってくれれば、私はそれ
だけで救われたのに。
そんなたった一言を、ただ、ひたすらに待っていた私は、哀れで情
けなくてどうしようもなく惨めで。何より、愚かだった。
だから、二度目の私は、ありとあらゆる策を講じ、使える手は全て
使った。
そし
誰かに卑怯だと謗られても、女のくせにと蔑まれても、絶対に妥協
せず、次代の侯爵家夫人という立場を大いに利用した。

48
婚約者時代もそうだったし、結婚してからはそれに輪をかけて、周
囲を圧倒するほどの権力で自らの地盤を固めていった。
ソレイルの婚約者として、幼少期から築いてきた人脈も、少なから
ず助けになった。
一度目の私は、馬鹿みたいに真っ直ぐで、誰かを利用することなん
て思いつきもしなかった。
だから、2度目の私は躊躇うこともしなかった。
躊躇うことなど、あってはならないことだったのだ。
彼らも、私個人の為ではなく、侯爵家の為ならと尽力を惜しまずに
手を貸してくれたし、また、必要とあれば私も手を差し出した。
︱︱︱︱︱最初の人生で見落としてきたものが、恐ろしいほどには
っきりと見えていた。
どんな言葉を選べば相手が好意を抱いてくれるか、どんな態度を取
れば相手に良い印象を与えられるか、常に一手先を読みとって、イ
リアという人間を作り上げていった。
誰かと相対するときには、さりげない仕草、口調、言葉尻、表情、
視線、まばたきの回数、眼球の揺れに至るまで、私は昆虫を描写で
もするかのように観察した。そうすれば、おのずと、誰が自分を裏
切るのか、もしくは、裏切ろうとしているのかが手に取るように分
かったから。
その中で、信頼できる人間とそうでない人間をきっちり線引きして
振り分けた。
時には、ただ疑わしいというそれだけで、誰かを断罪することもあ
った。
私には、いや、私の背景には、それを可能とする﹁力﹂が存在して
いたから。
初めの人生で、自分がされたことを、他の誰かにすることになると

49
分かっていても自分を止めることはできなかった。
油断することが、すなわち、死に繋がることが分かっていたのだ。
他人を追い詰めることに、罪悪感を抱きながら、それでも自分自身
を守り抜く必要があった。
もしも、1度目のときと同じように、私が何かの罪を負わされたな
ら、ソレイルも両親も、懇意にしていた友人だってあっさりと私を
見限るに違いないと知っていたから。
私は、そんな風にただひたすらに力を求め、ごくごく微細な疑惑を
全て刈り取り、踏み潰した。
ソレイルは、ただ、それを黙認していた。
私の成すことが、結婚前にやっていたような、嫉妬からくる幼稚な
ものではないことを知っていたのだろう。
彼だって、貴族の一員なのだ。
綺麗事だけでは﹁家﹂を支えられないことを理解していた。
その手駒として、妻に、私を選んだのだから。
﹃君は恐ろしい女だな﹄と誰かが言う。
敵には回したくないと苦笑して、その目はどこかで、そんな女を否
定している。
だけど、ソレイルだけは私の手を握って、それで良いのだと言って
くれた。
自分が不在のときも、安心して家を任せられると、
︱︱︱︱︱イリアのような女性を妻にして、良かったと、そう言っ
て微笑むのだ。
だから、私は自分に言い聞かせる。

50
これで良い。これで間違いない。これが、正しい道なのだ。
この道を行けば、そうすれば、シルビアは死なないのだと何度も何
度も自分に言い聞かせる。
シルビアを守る為に、その為に、私は今度こそ本当に最善を尽くさ
なければならない。
強くなければ。
誰からも恐れられる存在でなければ。
それがいくら、自分が本当に望む姿ではなかったとしても。
ソレイルが恋をしたあの子とは、全く違う存在になろうとも。
そして、結婚して3年目の初夏。
運命の日が再び訪れた。
2度目の人生では、あの日シルビアを襲ったはずの強盗団は既に捕
縛されていた。
そうなるように仕向けたのは私だ。
襲われるのが分かっていながらただ手をこまねいているような真似
はできなかったから、手持ちの札を全部使って、組織を壊滅に追い
込んだ。
捕縛された彼らは、まさかそんなことになるとは思いもよらなかっ
たのだろう。唖然とした顔をしていた。その顔を見るにつけ、あの
シルビア襲撃事件は、本当にただの成り行きだったことが分かる。
少なくとも、捕縛された段階では、伯爵家の馬車を襲う計画などは
たてられていなかった。
つまり、あの事件自体は、たまたま偶然あの日に発生しただけで、
もちろんシルビアが狙われたわけでもなかったのだ。
私を陥れようとした人間が、あの事件を有効活用したに過ぎない。

51
そうやって考えれば、強盗団が捕縛された以上、シルビアは死なな
い可能性が高い。
だけど、それでも安全だとは言い切れなかった。
ああいう凶事というのは何をきっかけにして発生するのか分からな
いから。
シルビアには外出しないようによくよく言い含め、秘密裏に護衛を
配備して、あの子を守る為に手を尽くした。
流れを変えなければ。
ただ、そう思った。
シルビアが殺害される未来。私が罪人として捕らわれる未来。ソレ
イルが私に背を向ける未来。
終幕に向かう大きな流れを、変えなければ。
当日は、念のためにと、ソレイルを実家に向かわせた。私が行って
も良かったのだが、何かあったとき、まともに動くこともできない
女が二人いたって邪魔になるだけだ。
シルビアに関して、信頼できる人間を一人挙げるとすればソレイル
をおいて他にはいない。
行かせたくない、シルビアとソレイルを会わせたくない。そうは思
っても、その日だけはどうしても、他の人間をあの子の元に向かわ
せることはできなかった。
最近、シルビアの体調が芳しくないから自分の代わりに傍について
いて欲しいといえば、ソレイルは何の疑いもなく肯いた。
ほんの少し、僅かに緩んだその口元には目を塞いで、妹を頼みます
と頭を下げる。
下げた視線の先、組んだ自分の両手が震えていた。
何の震えなのかわからない。

52
緊張なのか、不安なのか。
とっさに、ソレイルには気づかれないようにしなければ。そう思っ
た。
気づかれていたらどうしよう。何て言い訳しよう。
そう思って、顔を上げたのだが、
︱︱︱︱︱彼は私のことなど見てもいなかった。
私の顔を確かに映しているはずなのに、どこか遠くを見ている。
これから会いに行く、シルビアのことを考えているのだろうか。
でも、それでも良い。
だって私は間違っていない。間違っていないのだ。
両手の震えが収まらないとしても。
ソレイルがそれに、気づくことさえなくても。
あの子さえ死ななければ、それで良い。
今日は。今日のところは。今日だけは。私は寛容でいるべきなのだ。
そして、その日は、いつもと変わらない一日として平穏無事に過ぎ
去った。
シルビアは無事で、何事もなかった。
彼女は屋敷から出なかったようだし外出もしなかった。
私はとうとうやり遂げたのだ。
良かった、本当に、良かった。私のしたことは無駄ではなかった。
私は、その日の夜、一人で泣き伏した。
悲劇的に終わった自分の運命から、やっと開放されたような気分で。

53
皆無事だったのだと叫びだしたいような気分で、嗚咽を抑えること
もなく涙を零した。
夕方には戻ると言ったソレイルが、夜中になっても戻らなかったこ
とには気づかないフリをして。
︱︱︱︱︱そして、一度目の人生で失ってしまった時間は、私の元
に戻ってきた。
新しい自分になるのだと、これから本当の人生が始まるのだと、本
気でそう信じていた。
期待と希望は、これからの人生に輝きを与えてくれるのだと、そう、
思い込んでいた。
ソレイルは今もまだ私の傍に居て、夫の役目を果たしてくれている。
私はこれから先、ずっとソレイルの隣にいられるのだ。
そうだ、そろそろ子供を持つのも良いかもしれない。
私の本来の役目は後継者を生み、育てることだ。
ソレイルはきっと良い父親になるだろうし、私だって、良い母親に
なる。
そうだ、それが良い。
家族を持とう。家族になろう。
今度こそ、本当に、ソレイルと結ばれるのだ。
私は、そんな夢を、見た。
幸福な、夢を。
どうしようもない、夢を。

54
55

︱︱︱︱︱シルビアが病に倒れた。
そんな知らせが入ったのは、秋の終わりだった。
まだ半年も経過していないというのに、あの夏の日がやけに遠く感
じられるようになった頃、生家から早馬が飛んできたのだ。
駆け込んできた従僕の顔を見て、良くない知らせだというのは簡単
に想像がついた。けれど、まさかシルビアのことだとは思いもよら
なかった。
あの子は、悲劇を回避したはずだ。
だから、まさか未だに死の影があの子を取り込もうとしているだな
んて思いも寄らなかったのだ。

56
その日はソレイルも久方ぶりの休暇をとっていて、部屋でゆっくり
と朝食をとっていた。
久々の休みだからたまには二人で遠出でもしようか、なんて話をし
ていて。
前の晩から浮かれていたからこそ、かつてのあの日が蘇る。
こんな、普通の、何でもない穏やかな日に悪夢はもたらされた。
私の実家の印が刻まれた手紙には、既にシルビアは重篤であると書
かれていた。
それを呼んだソレイルの顔が、分かりやすく、さっと青冷める。
﹁様子を、見てくる﹂
憮然とした顔付きで、いつもと同じ声音で、何気ない風を装ってそ
んなことを口にする。
それでも、ガタンと音を立てて立ち上がった彼の動揺は見てとれた。
妹が今にも死にそうだという知らせが入ったにも関わらず、ソレイ
ルのそんな様子に、かっと血が上る。
﹁何で貴方が?﹂と思わず口を動かしそうになって、ひゅっと息を
飲んで耐えた。
震えた唇を内側に巻き込んで、失言が飛び出さないように只管に堪
える。口の中に血の味が広がった頃、やっと一言だけを搾り出した。
﹁・・私も参ります﹂
普段よりも意識してゆっくりと言葉を落とした。
ソレイルは執事に外出する旨を伝えながらコートに袖を通し、泊り
込むつもりなのか荷物をまとめさせている。

57
﹁私も、一緒に参ります﹂
噛み砕くようにしてもう一度、同じ言葉を繰り返す。
そうしなければソレイルに掴みかかってでも問い詰めていた。
なぜ私の妹のことなのに、私は蚊帳の外なの?と。
﹃様子を、見てくる﹄なんて、まるで、一人で行くことが当たり前
のようにそう口にした。
妹を失いそうな姉にかける言葉はないのかと叫びたくなる。
﹁いや、私は馬で行くから、君は馬車で来るといい﹂
﹁私も、馬には乗れます・・!﹂
﹁そんなに動揺していては手綱もうまく握れないだろう。頼むから
言うことを聞いてくれ﹂
その足が、つま先が、屋敷を出ようと急いている。
行く手を阻むように身を乗り出した私の肩を押さえるようにして、
自分の視界から追い出すソレイル。
﹁待ってください、﹂﹁私も一緒に、﹂﹁待って、﹂﹁待って、お
願い、﹂﹁ソレイル様、﹂
足早に玄関ホールを抜けるソレイルに縋りつくようにしては言葉や
態度で制される。
一緒に連れて行く気はないのだと。
最終的に、いつまでもソレイルにまとわり付いている私に焦れたの
か、ソレイルの専属執事が私たちの間に割り込んで静かに告げた。
﹁奥様、すぐに馬車をご用意致します﹂
かつてのあの日、妹の死を告げたのと同じ声音で、静かに、だけど
はっきりと。
まざまざと蘇るあの日の風景と、有無を言わせない彼の態度に微か

58
に怯んでいる間にソレイルの後ろ姿を見失った。
﹁どうして、﹂
ぽつりと落ちた言葉が静寂を取り戻した玄関ホールの大理石の上に
転がった。
執事がほんの一瞬だけこちらに視線を寄こしたけれど元々そんなに
興味はなかったのだろう。
﹁馬車の準備ができましたらお迎えに上がりますので自室でお待ち
ください﹂と用件だけを口にして早々にその場から離れていく。
﹁どうしてなの、﹂
沸き上がった疑念が口をついて出る。
死にかけているのは私の妹なのに、なぜ、ソレイル宛に手紙が届く
のだ。
生家からの手紙であれば当然、私宛だと思っていた。
けれど、従僕は初めからソレイルに直接手渡すつもりでここへ来た。
例え、私の実家であろうとも、格上の侯爵家嫡子に直接手紙をした
ためるなど不躾にも程がある。ソレイルに用件があるのだとしても、
血の繋がった娘がその妻であれば、ひとまず娘を通すのが筋なのだ。
どれ程の緊急事態であろうとも手順を踏むのが貴族というものであ
る。
それなのに、そんなもの無用の長物だと言わんばかりに、ソレイル
は当たり前に手紙を受け取った。
私の目の前で、自分が受け取るのが当然とばかりに。
執事もそれを諌めなかった。
まるで、ソレイルがそれを受け取るのが分かっていたみたいに。
嫌な予感が頭を掠める。

59
もしかして、手紙が届くのは初めてではないのだろうか。
これまでも、私の実家から届けられた手紙は、ソレイルの手に渡っ
ていたのだろうか。
そして、ソレイルが私にそれを告げないということは、私宛の手紙
ではないということだ。
つまり、それはつまり、両親からの手紙ではない。
私の両親こそ、爵位というものを重んじる人間だからだ。
だとすれば、両親以外で、伯爵家の名を使い手紙を出すことのでき
る人間はシルビア以外にはない。
足から力が抜けて大理石の床に膝を付く。
慌てて侍女たちが駆け寄るのが見えた。
気分が、悪い。
世界がぐるぐると回転している。
咄嗟に手の平を床に向けたけれど、ぶるぶると震える腕は自分の体
を支えることができずにあっけないほど簡単に倒れこんだ。
早く、行かなければ。妹のところへ見舞いに行かないと。
そうは思ったけれど、急く気持ちに反して視界はゆっくりと暗くな
っていく。
重篤だと言っていた。もう起き上がることさえできないのだと。
それなのに私は、妹を心配するどころか、自分の知らないところで
文を交わしていた二人に嫉妬さえ覚えている。
シルビアのところへ一刻も早く行かなければと思うのも、彼女を案
じているからではない。
﹁何てこと、何て、浅ましい﹂
頭から引いていく血の気と共にかつての人生が蘇る。

60
妹の死に一瞬でも歓喜を覚えた自分の姿がまざまざと再現される。
そうしてかつての私は、ソレイルを失ったのだ。
今度もきっと、ソレイルはシルビアを選ぶ。
それは予感ではなく、もはや確信に近かった。
現に私は独り、屋敷に留め置かれた。
後から追いかけて来いと、まるで従者にでも言うように背中を向け
た。
私の実家までは然程遠い距離ではない。私だって馬に乗れるし、ソ
レイルが言うようにそれが危険だというのであれば、私を自分の馬
に乗せて走るという手段もあったはずだ。
それなのに、一緒には行きたくないのだとそんな素振りを見せるの
は、何か隠したいことがあるからに過ぎない。
いや、そもそも隠す気さえあったのかどうか疑わしい。
あの目は、あの眼差しは、はっきりと告げていたではないか。
邪魔されたくないと。
シルビアとの時間を、私に、奪われたくないと。
結局、玄関ホールで倒れた私は、妹の元へ行くことが叶わず自室の
ベッドへ運ばれた。
数分もしない内に侯爵家の専属医師が呼ばれ、難しい顔で診察をし
た後、人払いをしてそっと告げる。
﹁ご懐妊でございます﹂
﹁何?、﹂

61
予想外のセリフに思わずベッドの上で身じろぎした。
それを見た老医師が、どうぞ安静に、と肩を優しく押して枕の上に
引き戻す。
﹁何を、言っているの?﹂
は、は、と短い息が漏れる。
それは待ちわびていた報告だった。
今生では元より、前回の生でも祈るほど待ち望んでいた。
でも、喜びよりも戸惑いのほうがずっと大きい。
﹁何で、どうして、今なの・・?﹂
この瞬間をずっと夢見ていた。
私はこの為に生まれたも同然だから。
侯爵家の嫡男を産み落とすことが、私に課せられた最大の義務だっ
たから。
そうなったときはきっと、誰からも祝福されるだろうと思っていた。
ソレイルも、今度ばかりはきっと、手離しで喜んでくれるだろうと
期待していた。
だけど、きっと、そうはならない。
せんせい
﹁医師、間違いないのですか?﹂
﹁・・恐らく﹂
せんせい
﹁医師、今、私の妹が死の淵にいるのです﹂
﹁・・聞き及んでおります﹂
せんせい
﹁医師、私は、私は、一体、﹂
どうすれば、そう口にしようとしたけれど唇が震えただけでうまく

62
言葉にならなかった。
医師は、私の手を優しく握って励ますように、きっと大丈夫ですよ
と無責任な微笑を浮かべる。
きっと全てうまくいきますよ、と。
だけど、そう言いながらも本当は気づいているのだろう。
今ここに、ソレイルの姿がない不自然さに。
シルビアが病に倒れたということを知っているのであれば、ソレイ
ルがそちらに出向いているということも聞いているのだろう。
普通に考えるなら、夫婦一緒にシルビアの元へ向かうべきなのだ。
動揺しているという私の身を案じるなら、尚一層。
一緒に馬車に乗る選択肢だってあったのだから。
﹁ソレイル様には私から告げましょう﹂
﹁いいえ、いいえ、言わないでください。今、大変なときなのです﹂
呟いた声が擦れた。
﹁妹君の事は確かにお気の毒ではありますが、貴女のことだって一
大事です。大切なお世継ぎを宿しているのですから﹂
安定期に入るまでは油断できないものですよ、だから、旦那様に支
えていただかないと。
優しい言葉で促されて肯きそうになる。
だけど、私は知っている。
ソレイルはきっと、悔いるに違いない。
何でこんなときにと、何で今なのかとそう思いながら、私と子供を
作ろうと思った自分を否定するだろう。
そして、私がたった今、そう思ったよりももっと強い気持ちで自分
の子を否定するのだ。

63
﹁・・奥様・・﹂
瞼の奥が焼けるように熱い。
﹁安定期に入ったら、私が、自分で伝えます﹂
﹁奥様、﹂
﹁だから、どうか、後生ですから、今だけは口を噤んでくださいま
せ医師﹂
胸の奥が潰れそうなほどに痛む。
﹁だって、妹は今、病床で苦しんでいるのです﹂
夫は、今、その妹の元で一緒に闘っているはずなのです。
だから、だから、一緒に居て欲しいなんて、とてもじゃないけど口
にはできないのです。
﹁奥様、﹂
﹁私は大丈夫です。今までだって、大丈夫だったのですから﹂
老医師の皺だらけの手が戸惑うように私の額を撫でる。
目を閉じるとぼろりと剥がれるように、瞳から涙が落ちた。
なぜ、ここにいるのがソレイルではないのだろう。
決まっている。それは、シルビアが死にそうになっているからだ。
なぜ、私はここにいるのだろう。
決まっている。それは、ソレイルに置いていかれたからだ。
あの夏の日を経て、私はソレイルに子供が欲しいと言った。
彼は冷たく微笑んで、跡継ぎは必要だと、それが義務だからとまる

64
で一つの仕事をこなすかのように同意した。
だけどそれでも良かったのだ。
あの時は、それで良いと思っていた。
家族が、欲しかったから。
ただ、ソレイルともっと繋がっていたかったから。
だから、彼が、結婚や子供を持つことを業務のように淡々とこなす
のを甘んじて受け入れた。
時間があると思ったから。
私は、また性懲りもなく、有りもしない未来を信じた。
︱︱︱︱︱シルビアは、死ぬ。
頭の中で誰かが呟く。
ソレイルは今回もまた、私を選ばない。
65

愛する人を失う恐怖というのは、私にだって分かる。
他の誰より、何よりも私自身がソレイルを失うことを心底恐れてい
たから。
だからこそ私は、彼に憎まれない為の努力をしてきたのだ。
﹁私、何か、間違ったの?﹂
思わず口から滑った言葉がしんと静まり返った部屋に思いの外響い
た。
﹁お嬢様?﹂

66
幼い頃から私の護衛騎士だった男が部屋の隅から声を掛けてくる。
私のことを奥様と呼ばず、未だに独身時代と同じように呼ぶのは彼
だけだ。
彼がなぜそうするのかは分からないが何度嗜めてもそう呼ぶことを
止めない。
幼い頃から共にある為に私のことを大人の女性として見れないから
かもしれないが、ソレイルの妻として認められていないようで胸が
詰まる。
いつもであれば、ただ笑って受け流せることも、今はどうしても無
理だった。
油断すれば泣き出しそうになるから、ぎゅっと瞳を閉じて堪える。
シルビア重篤の知らせが届いてから1週間。
シルビアは何とか一命を取り留めたのだと聞いた。
しかし、まだ予断を許さない状況らしく、未だに目を離すことがで
きないようだ。
必ず誰かが傍に付いていると聞く。
ソレイルはシルビアの元に行ったっきり、屋敷に戻って来ていない。
私はといえば、酷い悪阻で頭も上がらない状況だ。
玄関ホールで倒れてからそのままベッドに縛り付けられている。
無理をすると子供が流れてしまう可能性もあるので、しばらくは絶
対安静だと医師に念を押されたのだ。
すぐにでも生家に向かわなければならないというのは分かっていた
がこればかりは自分の意思ではどうにもできない。
それほどに体調が悪かった。
馬車になど乗ろうものなら私の胃はそれこそ、ひっくり返ったまま
戻らなくなるだろう。

67
それでも、シルビアのことを優先するなら、普通の姉であるなら、
私は妹のところへ向かうべきなのかもしれないと思う。
それが家族であり、姉というものだと、私の理想は語っている。
私の思い描いた理想が、そう言っている。
だけど、だけど。
日が過ぎれば過ぎるほど、どんな顔をして会いにいけば良いのか分
からなくなる。
一命をとりとめたと聞けば尚更。
意識が戻ったと聞けば尚更。
その傍らにソレイルがいるだろうことを思えば尚更。
行かなければ。そう思うのに、自分のとるべき態度が分からずに足
が動かなくなる。
意識のないシルビアに、いかにも優しい姉の顔をして会いに行くこ
とは可能だっただろう。
力ないその手を握って、どうか生きていてと祈りを捧げることもで
きただろう。
本音は全て心の内に塞いで健気な姉を演じることができただろう。
だけど、意識を取り戻したシルビアを前にして、自分がどんな行動
をとるのかが予想が付かない。
私はきっと、あの子を責めるだろう。
言葉を封じても、私は自身の目であの子に言うのだ。
なぜ、生きているのかと。

68
﹁ねぇ、ちょっとこちらへ来てくれる?﹂
扉の近くに立っている護衛を呼び寄せる。
少しだけ躊躇する様子を見せたけれど、やがて、ベッドから少し離
れたところまで近づいてくれた。
本来なら、いくら護衛といえど寝室に二人きりなのは誉められたこ
とではない。
けれど主人不在の今、ほとんどの人間が出払っていてそれを見咎め
る人間はいなかった。
﹁お願いがあるのだけれど﹂
﹁はい、何でしょうか﹂
﹁・・手を、握ってくれない?﹂
﹁え、いえ、あの・・それは・・﹂
明らかに瞠目してうろたえた護衛に苦笑する。
﹁そうよね、やっぱり駄目よね﹂
差し出した手が力なくベッドの上に落ちた。
指先が熱を失っているのが分かる。
﹁ねぇ、アル﹂
﹁・・はい﹂
﹁私、いつまで、頑張れば良い?﹂
﹁お嬢様、﹂
見上げれば、澄んだ青い目が揺れ動く。
金色の髪に優しい相貌。
私を守る唯一の盾。

69
1度目の人生で私が罪人として捕らわれたとき、護衛騎士であった
彼は共犯とみなされた。
積み上げられた罪状は、到底女一人では実行できるものではなかっ
たのだ。
当然だ。そもそもが冤罪であるのだから。
その不自然さや不可解さの帳尻を合わせるように、清廉潔白である
はずの彼が捕らわれた。
それを教えてくれたのは名前も知らない牢番だ。
親切で教えてくれたわけではない。
お前のせいで、一人の騎士が死ぬ。それを覚えておけと言われたの
だ。
だから、今生では近づきすぎないように、だけど離れすぎないよう
に慎重に距離を図ってきた。
私の人生に、彼を巻き込みたくなかったから。
﹁手を握ってくれなくても良いから、そこにいてくれる?﹂
﹁はい、もちろんです。お嬢様﹂
膝を付いた護衛が同じ目線で私を見つめる。
湖面のように澄んだ眼差しだ。
しんと静まり返った部屋の中で、ぶつかる視線が小さく軋むような
音をたてた、気がした。
﹁お嬢様﹂
﹁・・なに?﹂
﹁只の戯言と聞き流して下さって構いません﹂
﹁・・嫌な言い方ね。聞き流すなって言っているのと同じよ﹂
私が笑うと、まるで痛ましいものでも見るかのように僅かに眉根を

70
寄せる。
﹁もしもお嬢様が望むなら、私はいつだってこの手を差し出します。
本当に、望むのなら﹂
﹁っ・・﹂
﹁この手はいつだって、お嬢様の為のものなのですから﹂
言葉はどこまでも甘く優しいのに、潰すように吐き出された言葉が、
それが決して許されるはずないことを示している。
私が、ただ手を握って欲しいと言ったのとは違うニュアンス。
その言葉の、重み。
それはつまり、真実、彼は彼の手を差し出すということだ。
剣を握る、騎士の誇りを捨てるということなのだ。
今ここで彼の手をとって逃げ出すことはそう難しいことではないだ
ろう。
だけど、逃亡者の成れの果てなど想像するまでもない。
侯爵家を敵に回して、生きていける場所などどこにもないのだから。
この身に跡取りを宿しているのなら尚更、侯爵家は血眼になって私
を探し出すに違いない。
その家格から、その血筋から、国をあげての捜索になるだろうこと
は明白だ。
そういう人生に、この優しい人を巻き込むわけにはいかない。
騎士となる為に、努力を積んできた人だ。
それはまさしく、侯爵家の女主人となるべく育てられた私と同じだ
った。
ここまでの道程を、私の為だけに、捨てさせることなどできない。
﹁聞いて損した。本当に戯言だったわね﹂

71
﹁・・・﹂
私が言うと、護衛騎士は力なく笑った。
出奔をそそのかすなんて、その発言自体が罪に問われる可能性があ
る。
だからこそ、その手を差し出すと言ったその瞬間、彼は相当な覚悟
をしたはずだ。
その覚悟が分かっていて、私はその手を取ることをしない。
そして、この先もずっとその手を選ばない。
ソレイルに出会ったとき、私は彼の妻になることを決めた。
それは周囲に決められた道だったけれど、決して不本意だったわけ
ではない。
想いの伴わない政略結婚が当たり前の貴族社会で、ソレイルに好意
を抱くことのできた自分は幸運だとさえ思っていた。
幼いながらにも自分の役割をきちんと理解し、だけどそれと同時に
夢を見た。
好きな人と歩んでいく未来には落とし穴などないと信じていた。
彼もいつか私を想ってくれるだろうと、それまで待つつもりでもあ
った。
私は多分、今もその夢を見続けたままなのだろう。
どれほどに期待を裏切られても、一度胸に抱いた幸福な未来が心か
ら離れない。
それがどれほど愚かなことだと分かっていても。
﹁だから、ごめんなさい、アル﹂
半分眠りに落ちた暗闇で呟いたけれど、その声が届いたかどうか分

72
からない。
護衛騎士からの返事はなかった。
貴方の覚悟を、戯言だと本当に聞き捨ててしまった愚かな私を許し
て。
****************************
体調がだいぶ回復してから、私は一度だけ妹を見舞った。
仕事の為に屋敷へ戻ったソレイルに、シルビアに会いに行ってやっ
てくれないかと頼まれたのだ。
てっきり、なぜ会いに行ってやらないのかと詰られるかと思ってい
たので、拍子抜けしながら力なく肯いた。
返事をした後で、この会話の不自然さに気づく。
本来なら、姉である私がソレイルに懇願しなければいけない場面だ。
病に倒れた妹を元気付けてあげてと、自分の夫に頼み込む。そのほ
うがずっと健全だ。
言われなくても行くつもりだったと言えればどんなに良かっただろ
う。
だけど、言えなかった。
許されるなら、会いたくなかった。
どんな顔をして、どんな立場であの子に会えば良いのだろう。
分からなかった。何一つ、理解できなかった。
﹃一緒に行ってください﹄
その言葉が口の中で弾けるようにして消えた。

73
︱︱︱︱︱そして私は結局、ソレイルに乞われるまま妹に会いに行
ったのだ。
久方ぶりに一人で訪れた生家は、ひっそりと沈んでいた。
シルビアというたった一つの光が輝きを失っている今、屋敷の中は
まさに明かりを落としたように見えた。
シルビアは未だベッドの上ではあるけれど起き上がれるほど回復し
ていると母が頼りなげに笑う。
目の下の隈と目尻の赤みが痛々しい。
﹁何とか、話せるまでに回復したの﹂
それでも、もう、長くないのよ。と告げるその声が震えていた。
妹の部屋へ足を踏み入れれば、払うことのできない死の影がすぐそ
こに迫っているのが分かった。
以前よりもずっとやせ衰えていて、呼吸をするのさえ辛そうな妹が
私を射抜く。
元来の美貌がそう映すのか、それとも纏う影がそう見せるのか、彼
女は病床においても尚とても美しかった。
﹁お姉さま、ごめんなさい﹂
私を見るなりそう呟いた妹に、何と声を掛ければ良かったのか。
死にかけている妹に、どんな言葉を与えれば非道な人間にならずに
すむのか考えながら僅かに張り出したお腹を撫でた。
妊娠していると告げたとき、仕事で屋敷に帰ってきていたソレイル
はただ﹁そうか﹂と微笑んだ。
その顔は確かに笑っているのに、何の感慨もない、冷めた声音だっ
た。

74
喜びもしない。否定もしない。
任務を完了した部下に了承の意を示す、ただそれだけのようにも見
えた。
﹁私、ソレイル様が好きなの、﹂
シルビアが、枯れ枝のようにやせ細った指を胸の前で組んだ。
祈りを捧げているようでもあるし、懺悔しているようでもある。
痩せて色を失ってもまだ艶のある頬を一筋涙が零れた。
﹁私、もうすぐ死ぬわ﹂
だから、だからどうか、許して。
シルビアの病に伏していて尚透き通るような声音に、いつの間に﹃
お兄様﹄と呼ぶのをやめたのだろうかと、そんな場違いなことを考
えていた。
薬の臭いに混じって、ソレイルが好む紅茶の香りが漂っている気が
する。
それほどに長い時間をこの部屋で過ごしていたのだな、と少女趣味
の妹らしい部屋の装飾を眺めた。
ここで、あの無愛想なソレイルが過ごしているのかと思うと少し滑
稽であるし、こんな居心地の悪い部屋に彼を留まらせる妹が羨まし
くもある。
﹁お姉さま、私、独りが怖いの。独りで死ぬのが怖い﹂
妹の声が耳を素通りしていく。
これほど、心に響かない言葉を聞いたことがない。
死ぬと決まっていれば、何をしても許されるのだろうか。

75
もうすぐ死んでしまう人間には、許しを与えなければいけないのだ
ろうか。
私は結局、ただの一言も妹に与えることができなかった。
許すとも許さないとも、憎いとも恨んでいるとも、ただの一言も。
生きていて良かったということさえ、言えなかったのだ。
その日の夜、ソレイルは屋敷に戻ってきて私に言った。
シルビアが泣いていたと。
﹁君がシルビアの見舞いに来たと聞いた。シルビアに一体、何を言
ったんだ﹂と。
私はその冷たい相貌を見つめながら、﹁何も﹂と返した。
それ以外に言葉は見つからなかったし、それが真実だった。
すると、ソレイルは心底失望したような顔をして﹁嘘をつくな﹂と
言った。
嘘をつくなと。
君が今までしてきたことを考えれば、君の言葉など信用できない。
君はその顔とその声で多くの人間を謀ってきただろう。
もう、うんざりだ。
その子はだいたい、私の子なのか。
︱︱︱︱︱止めを刺す、というのはきっとこういうことだと思った。
物理的に刃物で刺さなくても人を殺せる。
悲鳴を上げた気がするし、結局、声を上げることもできなかった気

76
もする。
世界が色を失う。心が潰れる。
気づけば再び、ベッドの上に舞い戻っていた。
﹁このままいけば、母体を危険にさらすことになります。今ならま
だ間に合います。
お子はあきらめたほうがよろしいでしょう。﹂
老医師が悲痛とも言える顔で私の手を取った。
いつの間にか、私の手を躊躇いなく握ってくれるのはこの医師だけ
になった。
﹁・・いいえ、医師。﹂
可能性があるのなら、私はこの子をあきらめたくない。
だってきっと、ソレイルに似た子が生まれるに違いないから。
私は自分の無実を証明する為に、我が子を利用する。
ああ、そうか。
だから、ソレイルは私から離れていくのか。
ふと、何もかもが腑に落ちた。
ソレイルの言った通りだ。
私は、ソレイルへの愛を証明する為にあまりに多くの人間を踏み台
にしてきた。
何でもないような顔をして、平気で、誰かを踏みつけてきたのだ。

77
そのときは、そうすべきだと思ったから。
そうしなければ、自分の想いさえ守ることが難しかったから。
正しい道を、選んだつもりだったのだ。
︱︱︱︱︱そして私は、数ヵ月後にソレイルと同じ髪色の子を産ん
だ。
でも、瞳の色は知らない。
私は、かろうじて子供を生むことはできたけれど、この手にその子
を抱くことなくそのまま死んだ。
結局、医師の案じていた通りになったのだ。
意識が落ちるその瞬間、狭くなった視界の向こうに護衛の金色の髪
を見た気がしたけれど、それも幻かもしれない。
いつの間にか、私の護衛は彼とは別の人が担うようになっていた。
最後の最後には、私の傍には誰も残らなかったのだ。
ソレイルは妹に付き添い、赤ん坊が生まれるというその日さえ屋敷
に戻らず、妻を励ますことさえしなかった。
幻でさえ、私の傍に来てくれるのはソレイルではない。
寂しい。
悲しい。
独りで死ぬのが怖いと言ったシルビアの傍には、ソレイルが居る。
怖い。私だって、どうしようもなく怖かった。
もう嫌だ。

78
もう、二度と、こんな想いはしたくない。
もう、二度と、生まれてきたくはない。
こんな世界では、私はきっと生きてはいけない。
79

﹁︱︱︱︱︱私の子は、どこなの?﹂
夢を見ているようなぼんやりとした声音が陽だまりの中で霧散した。
﹁イリア?どうした?﹂
ソレイルの険を帯びた双眸が私を捕らえる。
約束の時間よりだいぶ遅れて現れたシルビアは、今まさに用意され
た席に落ち着くところだった。
戸惑うようにして﹁お姉さま?﹂と首を傾いでいる。
その姿を目の端に留めながら、1つ瞬きをすれば、ソレイルとシル
ビアが見つめ合いながら言葉を交わす光景が蘇る。

80
二人がそうやって目線を交わす横で、これは何かの間違いだと泣き
出しそうになっている自分がいたのを思い出す。
ソレイルがその瞳にシルビアを映して、優しく微笑んだのを、私は
ただ眺めていた。
︱︱︱︱︱これは何?一体何だって言うの?
瞼の裏に浮かぶそれを振りきるように手に持っていたカップを無造
作にソーサーの上に戻した。
陶器のぶつかる大きな音が響いて、溢れた紅茶がテーブルクロスに
広がっていく。
自分の手だというのに思う通りに動かすことができない。
大きく震えたその指が宙をかいた。
淑女としてはあるまじき行為だ。
だけど、そんなことは気にもならなかった。
﹁私の子はどこ、誰が、連れて行ったの﹂
自分の声がどこか遠くから聞こえる。
目の前に広がるのは、ソレイルとシルビアが出会ったあの茶会だ。
いや、違う。あれはもう既に終わったことだ。
私は子供を生んだ。
ソレイルとの子供を。
男の子だったのだろうか、それとも女の子?どっちだったのだろう。
だけど、確かに生んだ。
死ぬほどの痛みと苦しみに耐え抜いて、私は、私とソレイルの子供
を授かった。
﹁何を言っているんだイリア﹂

81
ソレイルが、立ち上がった私の腕を掴む。
嫌よ、痛い、離して。
今更何の用があるというの。私を独りきりにして。私に独りで子供
を生ませて。
支離滅裂の言葉を吐きながら、ソレイルの手を振り払いテーブルク
ロスを引き上げ、名も知らない自分の子供を捜す。
侍女が連れて行ったのだろうか。乳母はつけないとあれほど言った
のに、私の意見はついぞ受け入れられなかったのか。それとも義父
母が先に手を回して取り上げてしまったのか。
私はまだあの子を抱いていない。
あの子の顔さえ見ていない。
﹁返して、私の子を返して︱︱︱︱︱!!﹂
私の叫び声に、シルビアが戸惑いながら﹁お姉さま﹂と呼ぶ。
いつもの甘ったるい声で私を呼びながら、私の体に縋りつくように
して﹁どうなさったの﹂と聞いてくる。
だけど、そのあまりに華奢な腕では暴れるようにして身をよじる私
を制することはできない。
﹁離して!触らないで!﹂
それでも、振り上げた腕がシルビアの顔に当たりそうになったとき、
本能は妹を傷つけまいと作用する。
不自然に動きを止めた自分に戸惑いながらも、唇は勝手に言葉を紡
いだ。

82
﹁それとも貴女なの、貴女が私の子を奪ったの﹂
﹁何を、言っているの︱︱︱︱︱?﹂
﹁ソレイル様を奪っておきながら、私の子まで奪うのね⋮⋮!﹂
返して、返して、返して!私から奪ったものを全て返してよ!
叫びながらシルビアの細い腕を掴む。
痛みにゆがんだ妹のその顔に思わず指の力を緩めると、今度は私の
その腕をソレイルがひねり上げた。
悲鳴を上げたのはシルビアか、それとも私自身か。
﹁やめるんだイリア!﹂
君はまだ結婚もしていないし、子供も産んでいない。誰も、君から
何も奪ったりしていない。
私の顔を覗き込みながら諭すように言うソレイルの言葉が耳を素通
りしていく。
かち合った視線のその感情の灯らないはずのその瞳に、いつか侮蔑
の色が浮かぶのを私はよく知っていた。
この怜悧な眼差しが憎しみに染まった瞬間を確かに、見た。
﹁私の子を返して!私の子を、あの子は私の子よ!﹂
なりふ
形振り構わず叫びながら頭のどこかでもう一人の私がひっそりと呟
く。
イリアは死んだ。そして、もう一度始まった。
﹁︱︱︱︱︱違う!違う違う違う!!﹂
﹁⋮⋮イリア!﹂

83
強く掴まれた腕がぎしりと音をたてる。容赦のないその仕草に覚え
があった。
喚く口を押さえようと、ソレイルの大きな手が私の首を掴む。
絞められることこそなかったけれど、その乱暴な動作は私の勢いを
殺すのには十分な働きをした。
﹁⋮⋮嫌、嫌、もう嫌なの、嫌なの、誰か、誰か﹂
助けて、という言葉は声にならない。
いつかの日と同じように、嗚咽が言葉という言葉を飲み込んでいく。
いつだってそうだった。私は全身で叫んでいた。助けて、誰か助け
て。私をここから救い出して。
だけど、その声は誰にも届かなかった。
︱︱︱︱︱そうだ、そうなのだ。
だから私は死んだのだ。
私の言葉は誰にも届かなかった。
私の想いはことごとく握りつぶされた。
子供も抱けずに、名前さえ与えることもできずに、愛する人に見限
られ、独りきりで、たった独りで死んだのだ︱︱︱︱︱
ひくり、と息を飲んだ自分の声が、いつの間にか静寂を取り戻して
いた茶会の席に響く。
ソレイルは私を掴んだまま、急に動きを止めた私を観察するように
見つめている。
﹁⋮⋮ここは、一体、私は、一体、﹂
終わったはずだ。私は全てを終えたはずだ。

84
なのに、どうして。
またここに立っているのか。
空の色を覚えている。芝生の感触も、咲き誇る薔薇も、テーブルク
ロスの柄も、お茶も、用意したお菓子も。隣に並ぶソレイルの隙の
無い立ち姿も、遅れて現れる妹の可憐な姿も。
この目と記憶に焼きついている。
﹁あの茶会﹂だ。始まりの場所。そして、私の終わりを予感させる
場所。
﹁なぜ、なぜ、﹂
その記憶と寸分変わりない風景に、これはもしかしたら夢なのかも
しれないと、微かな期待が過ぎる。
死の間際に見る、夢なのかもしれないと。
だけど、どくどくと脈打つ心臓が、確かにここに生きているという
事実を突きつけてくる。
それを認識した瞬間に、急激に体温が下がった。
唇が色を失っているだろうことが自分でも分かる。
﹁⋮⋮イリア?﹂
戸惑うように私を呼ぶソレイルの声。
私の名を呼ぶ彼の声が心底愛しいと思ったのは、いつのことだった
か。
﹁⋮⋮お姉さま?﹂
私を見上げる妹の紫瞳を真っ直ぐに見られなくなったのは、いつの

85
ことだったか。
記憶と思考が意識を奪おうとしている。
ぐらりと大きく体が傾いた。
その隙に、いつからそこにいたのか音もなく現れた護衛が、失礼し
ますと私の体を抱き上げる。
一番近くに居たソレイルは私の体を支えることさえなく、あっさり
とその手を離した。
護衛は常と変わらない声音で冷静さを欠くこともなく、お嬢様は具
合が優れないようですので、と退席の断りを入れている。
その声を、まるで海の底にでももぐったような感覚で遠くから聞い
ていた。
ソレイルもシルビアも退席する私をただ眺めているだけだ。
ぼんやりと霞んだ視界で、それでも﹁私の子を返して﹂とうわ言の
ように繰り返す。
止めなきゃと思うのに、唇が勝手に言葉を紡ぐ。
背中を支える護衛の手が何度も宥めるように優しく上下した。
これはきっと現実だ。現実なのだ。
だけど認めることができない。
離れていく茶会の席で、呆然としながらも動揺するシルビアを慰め
るソレイルの姿に視界を塞ぐことができない。
ただ一つ瞬きをするだけで良いのに、瞼を下ろすだけで良いのにそ
れができない。
寄り添う二人。重なる影。何度も何度もその姿を見せ付けられて、
その度に私の目はそれを焼き付けていく。

86
﹁⋮⋮アル、貴方今までどこにいたの、﹂
目を見開いたまま呟けば、惑う様子もなく返ってくる声。
﹁⋮ずっとお傍におりましたよ﹂
﹁いいえ、いなかった。私、貴方のこと呼んだのよ﹂
﹁お嬢様がお呼びになれば世界の果てからでも駆けつけます﹂
﹁いいえ、来なかった。来なかったわ。私、寂しかった、独りで産
んだの、独りで産んだのよ﹂
﹁⋮お嬢様、﹂
﹁誰もいなかったわ。私の傍には、誰も、いなかった﹂
﹁⋮⋮お嬢様、私はいつだってお嬢様のお傍におります﹂
﹁いいえ、いいえ、﹂
護衛騎士が私の言葉に合わせて返事をしているのが分かる。
要領を得ないはずの言葉に、異を唱えることなく無視することなく
律儀に返事をしてくれる。
私の頭はきちんとそれを理解できた。だけど、唇は勝手に思考とは
違う言葉を紡ぎだす。
心と肉体が完全に分離してしまったような感覚。
ああ、私はもう狂ってしまったのだと、頭のどこか冴えた部分が結
論を出す。
﹁だけど駄目だわ、アル。貴方は私の傍にいてはいけないの﹂
﹁⋮⋮なぜですか?﹂
﹁だって、だって、﹂
私の傍にいたら貴方は死んでしまうのよ、そう口にしようとして、
過去の自分がそれを制す。
もう既に失ってしまったはずの人生の、私が。

87
それは口にしてはいけないことなのだと警告してくる。
自分が死ぬかもしれないなんてそんな不穏なことを耳にすれば、こ
の生真面目で優しい護衛騎士はきっと思い悩むに違いない。
そして、私から離れるどころか、より一層傍にいようと努めるだろ
う。
自分が危険であるなら、その主人である私はもっと危険なのかもし
れない。そんな風に考える男だ。
誰かを守る為の剣を、何より誇りに思う男だ。
だからこそ、初めの人生で否応なしに主である私の人生に巻き込ま
れた。
﹁⋮⋮お嬢様?﹂
﹁また、始まったのね。私はまた︱︱︱︱︱﹂
また、性懲りも無くあの人に恋をしている。
屋敷に向かう護衛の足は速まるばかりなのに、開けた庭には茶会の
席を塞ぐような障害物がない。
遠く離れていくのに、ソレイルの手が妹に触れようと宙を彷徨うの
がはっきりと見えた。
見慣れてしまったはずの場面なのに、私は何度でも傷つく。
﹁⋮⋮お嬢様は、きっとお疲れなのです。部屋でお休みになれば、
大丈夫ですよ﹂
アルの声が遠くなる。
﹁そうね﹂と﹁貴方が言うならきっと私は大丈夫ね﹂と、他人事の
ように返事をしながら大丈夫な瞬間なんてきっと来ないだろうこと
を知っている。
三度目なんだから今度はうまくやれるかもなんて、そんな自信はど

88
うしたって沸いて来ない。
前の人生も、その前の人生も、私を打ちのめすには十分すぎるほど
だった。
﹁だけど、もしも、もしも駄目だったら︱︱︱︱︱?﹂
ぽつりと呟いた声が芝生の上に転がる。
﹁アル﹂
﹁⋮⋮﹂
もはや返事もしたくないのか護衛の指が私の顔に掛かった髪を優し
く払う。
見上げたその顔は、はっきりと憂いを帯びていた。
﹁アル、アル、お願いよ﹂
﹁⋮⋮何ですか﹂
﹁私がもしも、もう駄目だと言ったら﹂
﹁私の心を、潰して﹂
﹁お嬢様、﹂
﹁もう二度と何も感じないくらいに﹂
もう二度と、誰にも、傷つけられないほどに。
﹁⋮できません、そんなこと﹂
できません、絶対に。そう呟いた護衛の声が掠れている。
いつかのときに、私を連れて逃げ出すと言ったときと同じように。

89


そんな風に始まった私の新しい人生は、いつだって錯乱の中にあっ
た。
茶会の席で最初の人生よりももっと酷い失態を晒した私は両親から
叱責を受け、更に自室へ軟禁された。
両親から向けられる失望の混じったその冷たい眼差しに既視感を覚
えながら、自室に篭った私は只只管に記憶を整理することに時間を
費やした。
これは現実なんだと言い聞かせながら、どこか夢でも見ているよう
な気分で1度目と2度目の人生を振り返り、成すべきことを頭に叩
き込んでいく。
そして、1週間もすればすっかり元の通りになっていた。
いや、元の自分を演じることに成功したというべきか。
表では普段通りのイリアを演じ、ソレイルの婚約者として務めシル
ビアの姉として振舞った。
﹁お茶会を台無しにしてごめんなさい。仕切りなおさせてくれると
嬉しいわ﹂
意識せずとも、そんな言葉がいともあっさりと唇から零れた。
それは多分、それまでの人生で培ってきた経験によるものだったと
思うけれど、私は実にうまくやっていた。

90
︱︱︱︱︱表では。
それは例えば、夜一人きりになったときだとか周囲からの視線が自
分から外れたときなどに、唐突にやってきた。
﹃君が、シルビアを殺したのか﹄
かつての人生が頭の中で鮮明に蘇り、交錯する。
明かりの消えた暗闇に居ては、あの狭い牢獄を思い出しぶるぶると
体を震わせながら身を竦ませた。
遠くに響く金属音は別の虜囚がたてた狂乱の声。
ここから出せと喚きながら鉄格子を揺さぶる音だ。
ふと見れば、肘から先が、無い。
叫び声を上げようとして声が出ないことに気づく。
情けなくも﹁ひぃっ﹂と飲み込んだ音さえも闇に消えた。
そうかと思えば、どこかから赤ん坊の泣き声が響く。
怒鳴り声でも叫び声でも怒号でも罵声でも何でもない赤ん坊の泣き
声は耳について離れない。
あれは多分、私の失った子供の声に違いない。
あの子はきっと元気に成長しただろう。
だけど、私が死んだ瞬間、あの子は永遠に失われた。
何度この人生を繰り返すことになろうとも、私はあの日確かに産み
落とした我が子とは永遠に会うことは叶わない。
愛しい愛しい私の子。
だけど私はその顔さえ覚えていない。
どうしようもなくその存在が愛しく尊く懐かしくとも、私はあの子
の手を握ることさえ叶わない。

91
だけど時々、夢か幻か、私は自分の子供を腕に抱いた。
或いはただ抱き真似をしていただけかもしれない。
壊れている。どこかではっきりと理解した。
だけど、どこも壊れていない。壊れているということを理解できる
くらいには正気だった。
﹁そうだね、君は正気だよ。僕に比べられば、とんでもなく正気さ﹂
︱︱︱︱︱そして、そんな風に夢と現実を行き来する私の元に、ソ
レはやってきた。
自室の窓から侵入したそれは最初、鳥の形を模していた。
黒い羽の、早朝に見かける小鳥よりも随分大きな図体の。
目を凝らしていなければ闇に溶けそうなその存在。
最初はただ暗い天上を音もなく飛び回るだけだった。
意図があるかどうかさえ分からない。ただ、いつの間にか自室へ侵
入し闇雲に飛び回る。
それがやがて地面を歩き、ある日突然、人間みたいに喋りだした。
﹁君の名前は?捕らわれのお姫様﹂
少年のような声が私に話しかけてくる。
﹁僕の名前を知っている?﹂
﹁僕はカラス﹂
小さな頭が斜めに傾いで、その黄色い目が私を見つめる。

92
﹁凶兆を知らせる鳥だよ﹂

凶兆を知らせる?
いいえ、そんなのは意味なんてないわ。
だってもう既に、凶事なら起こっているのだから。
そう言った私を見てカラスははっと目を見開くと、ゆっくりと微笑
んだ。⋮ように見えた。
表情なんてないはずのカラスの嘴が、確かにゆったりと笑って見え
たのは、そこにいる黒い鳥が幻だからだろう。
﹁⋮腕に抱えているのは君の子かな?﹂
見えるはずもないのに、カラスはなぜかそう聞いてきた。

93
私が抱えているモノをなぜ知っているのかと首を傾げば、
﹁もちろん知ってるよ。だってずっと見ていたからね﹂
と、やっぱり笑みを浮かべる。
﹁君がその子をあやすのをずっと見ていたよ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁きっと可愛いのだろうね﹂
﹁⋮⋮ええ、そうよ。とっても⋮可愛いわ﹂
不吉な言葉で接触を図ってきたにしては、何とも穏やかな会話だっ
た。
カラスと名乗ったソレから視線を移せば、暗闇の中に胸の前で円を
描いた自分の白い両腕が浮かび上がる。
この腕には確かにずっしりと重みを感じるのに、それが幻だと分か
るのは、抱いているはずの赤ん坊のその顔が見えないからだ。
明かりを落とした室内は何もかもの輪郭が曖昧で、そこに何がある
かなんてはっきりとは分からない。
だから、腕の中のその子の顔も見えない。そう信じ込もうとする。
可愛いと知っている。どうしようもなく可愛いと。
だって私の子供なのだから。
彼と私の子供なのだから。
だけど、私の腕の中に居るその子には顔が、ない。
見ることさえ叶わなかった子供の顔は、想像することさえできなか
った。
﹁あなた、一体何をしに来たの?ここには何もないわよ﹂

94
腕に、闇よりも一層暗い幻を抱いたまま問えば、カラスは室内を飛
び回りながらくすくすと意味ありげに笑った。鳥だというのにおか
しな笑い方をする。
﹁何もないからこそここに来たのだと思わないの?﹂
鏡台の上にふわりと飛び降りて、くるりと首を回して愛らしく首を
傾ぐ。
﹁どういう意味かしら﹂
﹁とにかく、僕は退屈しているってことさ!﹂
カラスはバサリとその大きな羽根を広げると一つその身を回転させ
た。と、思った瞬間、
﹁ニャア﹂
鏡台の上には一匹の黒猫がいた。
何かを払うようにぶるりと身を震わせて、観察するようにこちらを
見据えた後、
﹁⋮⋮あれ、お気に召さなかった?﹂
女性はだいたいこれでイチコロなのになぁと、長いひげを前足で整
えながら首を傾ぐ。
﹁⋮可愛いとは、思うけれど﹂
そんなに好きではないの。と言えば﹁そっかぁ残念残念﹂と全く気

95
にしていない様子で笑い声を上げた。
その姿をぼんやりと眺めていると、黒猫はおもむろに鏡台から飛び
降りた。
床に着地した途端に元の黒い鳥に姿を変える。
﹁それで?お姫様。君は一体どうしてこんなところに閉じ込められ
てるの?﹂
﹁⋮⋮私はお姫様じゃないわ﹂
﹁まぁまぁ。お姫様と言っても過言ではない程に愛らしいってこと
さ﹂
﹁⋮⋮愛らしくもないわ﹂
﹁えー、そうかな。うーん、困ったな。困った困った﹂
カラスはうんうん首を傾げながら床の上をちょんちょん飛び回る。
羽があるというのに飛ばないとは難儀なことだ。
﹁まぁいいや。で、何でこんなところに居るのか聞いてもいいかな﹂
最終的に高く高く自分の足で飛び上がったカラスは、私が腰掛けて
いるベッドに降り立った。
﹁こんなところとは言うけれど、ここは私の部屋よ﹂
﹁うん、それは知っているよ﹂
表情なんてないはずなのに、愉しげに顔を歪めているような気がす
るのはなぜなのだろう。
﹁聞きたいのはさ、君のような貴族のお姫様が何でこんな部屋に居
るのかってこと﹂
﹁だから、こんな部屋ってどういうこと⋮⋮?そんな風に言われる

96
ほど酷い部屋ではないわ﹂
﹁⋮⋮え?それ、本気で言ってるの?﹂
﹁⋮⋮?﹂
首を傾ぐとカラスはキョロキョロと世話しなく室内を見渡した。
﹁よく見てみなよ、お姫様。あの窓﹂
言われて、その黄色い目が向けるカーテンの引かれた窓に視線を移
す。
けれど、そこにはいつもと何ら変わりない薄い水色のカーテンがあ
るだけだ。
首を傾げば、隣からバサリと羽音が響いた。
﹁ほら、これ﹂
バサバサと宙を泳いで窓辺に辿り着いたカラスは、カーテンを嘴で
摘むと器用に避けた。
隙間に現れた窓ガラスが闇夜を鮮明に描写している。
﹁⋮⋮これは、鉄格子じゃない?﹂
問われて目を凝らせば、ガラスに格子状の影が映っているのが分か
る。
確かにそうだ。それは、窓の外側に張られた鉄格子に違いない。
﹁こんな牢屋みたいな部屋にどうして閉じ込められているの⋮⋮?﹂
カラスの小さな頭がこちらを再びこちらを向いた。

97
﹁⋮⋮貴方、カラスと言ったわね﹂
﹁え?ああ、うん﹂
﹁貴方、その窓から入ってこなかった?どうやって入って来たのか
しら﹂
﹁⋮⋮。え?!今気にすることはソレなの?!﹂
だって、そこに鉄格子が嵌っていること知っていたもの。
私がそう言えば、カラスはないはずの眉間に皺を寄せた。
﹁さっきはああ言ったけれど、君はやっぱりどこか狂っているんじ
ゃないの﹂
ため息なんていう人間くさいものを吐き出すと、カラスは喉の奥で
クックッと笑う。
﹁⋮⋮気に入った。気に入ったよ。うん、良いね。君はとっても良
い﹂
だから、協力してあげようか?
少年みたいだった声が一変して大人の男性のものになる。
低くて甘い、油断すれば絡み取られてしまいそうな粘着質な声だっ
た。
﹁何を協力してくれるというの?﹂
﹁君に関することなら何でも﹂
﹁⋮⋮何でも?﹂
﹁人を殺してくれというなら、そうしても良いよ。僕にはそんなの
簡単だよ﹂

98
戯言だ。ただの、戯言。
そうと分かっていても思わず﹁はい﹂と肯いてしまういそうな気分
にさせる。
思わず黙り込んでしまえば、
﹁何だ、純粋無垢なお姫様かと思えばそうでもないのか﹂
がっかりしているというよりもどこか愉しげな様子で言った。
﹁⋮⋮やっぱり冗談なのね?﹂
﹁さあ、どうだろう。君が本当に望めば手を貸すのはやぶさかでは
ないよ﹂
そして、そう答えたかと思えば黒い鳥が何の予兆もなく、文字通り
ポンと弾けた。
四方に散った黒い羽から身を守るように目を塞いでいると、
﹁⋮⋮ふふふふ﹂とさざめくように誰かが笑う。
薄く目を開ければ、部屋中に舞っている羽の向こう側に人影が見え
た。
視界を遮る羽を手で払いながらしっかりと目を開ければ、いつの間
にか、すぐ傍に一人の男が立っている。
長身ではないが小柄でもなく、しいて言えば痩身だ。けれど軟弱に
は見えない。
纏っている黒いローブが、うまくその体形を隠しているのかもしれ
なかった。
まるで、手品でも見ているような気分で、ただぼんやりと男の体格
をなぞるように眺めていた。

99
すると、浅く被ったフードの奥で男は小さく首を傾いで、茶化すよ
うに両肩をひょいと竦めた。
﹁驚かないんだねぇ﹂と小さく笑う。
﹁改めまして、お姫様。僕はカラス。⋮⋮家名はないよ﹂
どうぞよしなに。そう笑った白皙の顔は、しなやかで麗しい。
その姿が開け放たれたカーテンの向こうから差し込む月明かりを浴
びてきらきら揺らめいた。
眩しくて思わず目を眇めれば、彼は一層笑みを深める。
﹁それで?君に起こっている凶事というのは何なのかな?﹂
伸ばされた細い指先が私の頬に触れた。
温度のない手だ。まるで死人のような。
無意識にもびくりと震えた私を見て、彼は満足気に笑った。
﹁その腕の中に居る、その子?﹂
﹁それともあの窓に嵌っている鉄格子?﹂
﹁もしくは⋮⋮僕には予想もできない出来事なのかな⋮⋮?﹂
彼のソレイルよりももっと濃い色の黒髪が肩の上でさらりと揺れて、
その髪よりも尚深い闇色の目が私を見つめる。
その目に映った私は両目を瞠って間抜けな顔をしていた。
﹁⋮⋮鳥の時とは目の色が違うのね﹂
思わず呟けば、男は愉快そうに声を上げて笑った。

100
﹁⋮⋮ねぇ、お姫様。君を助けてあげるよ?﹂
距離を詰めてきた男が、いや、カラスが、息のかかるほどの距離で
囁く。
その静かな声音には悪事を唆すような響きも混じっている。
﹁⋮⋮貴方は⋮何が目的なの?﹂
﹁この期に及んでそんなことを聞くなんてね。僕はさっき言ったの
に﹂
ふふふと笑って吐き出された呼気さえ、ひんやりと冷たい。
思わず身を引けば、一瞬、もっと深い笑みを湛えたカラスが言い放
った。
﹁僕はね、とっても、退屈なんだ⋮⋮!﹂
﹁この退屈な人生に飽き飽きしてるんだよ﹂
﹁だから、君を助けてあげても良い。特別に無償で助けてあげるよ
?﹂
﹁ね?イリア、﹂
︱︱︱︱︱それが、彼との出会いだ。
厳密に言えば、もっと前から私の部屋を訪れていたわけだからその

101
日に知り合ったというわけではないのだけれど。
彼が本来の姿で現れたのはあの日が初めてだった。
前の二つの人生では出会わなかったその存在。
夢か幻かさえ定かではない。
そもそも、いくら喋るからと言って動物と当たり前のように言葉を
交わしていた時点で普通の状態ではない。
だから三度目の私は、最期の最期まで彼の存在を疑っていたように
思う。
だけど、幾度も人生を繰り返す内に知ることになるのだ。
︱︱︱︱︱彼は、確かに実在していた。
彼は確かに、そこに居て私を見ていたのだ。


﹁お嬢様は、それで、本当によろしいのですか?﹂
屋敷の書庫で歴史の本を眺めていると、背後からおずおずと声が掛
かった。
振り返れば私の護衛が眉間に皺を寄せて立っている。
窓から差し込む光を反射して、その金色の髪が小さく光を含んだ。
眩しさに目を細めれば、さり気無く立ち位置を変えてくれる。
本当に気の利く男だ。
本を閉じて護衛と向き合い、

102
﹁それで良いのか、というのはどういうこと?﹂と首を傾げる。
﹁ソレイル様は今日もシルビア様の見舞いに⋮⋮﹂
屋敷を訪れている、というのは言葉にならなかったようで言い淀ん
だまま視線を下げた。
﹁知っているわ。さっき見かけたもの﹂
そう。この書庫に来る前、シルビアの部屋の前で逡巡しているソレ
イルを確かに見た。
私の前では何かに迷う素振りなど見せたことなどない彼が、シルビ
アの部屋に入ろうかどうかを決断しきれずに視線を彷徨わせていた。
部屋まで案内して来ただろうシルビアの侍女が何とも言えない顔を
していたのが可笑しかった。
婚約者への挨拶さえせずに、その妹を見舞う。
その無神経さに呆れながら、それでも、見舞ってもらえる妹が羨ま
しいと感じる。
そんな私の思考回路はまともではない。どこかが焼き切れていると
しか思えない。
そう思ったら、目と鼻の先に居るというのに、声を掛けることさえ
できなかった。
﹁⋮⋮だから、それでよろしいのですかと聞いているのです﹂
静かだけれど、苛立ちの混じった声だ。
この護衛にしては珍しいと思う。
﹁良くないわね。ちっとも良くないわ﹂

103
﹁だったらなぜ、何も言わずこんなところで本なんか読んでいるん
です⋮⋮!﹂
﹁⋮本なんかとは、酷い言い草ね﹂
苦笑すれば、途端に﹁申し訳ありません﹂と全くそう思っていなさ
そう顔をして律儀にも頭を下げる。
そして頭を下げたまま焦燥の募る声で聞いてきた。
﹁お嬢様は、本当にこのままで良いのですか?﹂
﹁⋮⋮良くは、ないでしょうね﹂
﹁っだったら⋮⋮!﹂
弾かれるようにして顔を上げた護衛が今にも泣き出しそうに顔を歪
めていた。
不思議なことだ。当の本人であるはずの私が、もう既に涙なんて枯
らしてしまっているというのに。
﹁ねぇ、アル﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁私の部屋の窓を見た?﹂
﹁⋮⋮っ、はい⋮⋮﹂
﹁あの鉄格子を嵌めたのはね、お父様なのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ふふ、もちろん知っているわよね﹂
あの狂乱とも呼べる大失態を演じたあの日以降、私はあくまでも普
通を演じていたけれど、両親までは誤魔化すことができなかった。
というより、正気に戻ったのだという私を、両親は信じ切れなかっ
たのだ。
︱︱︱︱︱実際、その懸念は正しかった。

104
だって、私自身が自分のことを信じることができないのだから。
だから、万が一にも窓から飛び降りないようにと父が鉄格子を嵌め
たとき、私はほっとしたのだ。
その鉄格子を見て辛酸を舐めるような顔をしていたアルの横で、私
は安堵の息を吐いていた。
あれが、かつて閉じ込められていた牢屋を思い出すものだとしても、
それがそこに有るほうが良いと思ったのだ。
﹁しかし、お嬢様は、自ら死を選ぶような方ではありません﹂
﹁あら、それは⋮⋮どうかしらね。分からないわ﹂
﹁お嬢様がどう思っていようとも、そうなのです﹂
やけに自信たっぷりに言うものだから思わず笑ってしまう。
﹁⋮⋮お嬢様﹂
﹁ふふ、いいえ、いいの。ごめんなさい。アル、貴方は良い人ね﹂
﹁⋮⋮﹂
憮然とした顔つきのアルに睨まれて、それでもこの男の眼差しが決
して不快ではないことを知る。
﹁⋮⋮お父様はね、私が自害するかもしれないことを懸念したわけ
じゃないのよ﹂
﹁⋮⋮と、いうと⋮⋮?﹂
﹁私があの窓から飛び降りて、万が一にも逃げ出さないようにした
の﹂
﹁⋮⋮それは、どういう、意味ですか⋮⋮?﹂

105
﹁言葉の通りの意味だけれど﹂
アルは訝しげな顔をして、何を考えているのか黙り込んだ。
﹁ねぇ、アル。貴族の家に生まれれば、しかもそれが女児であれば
政略の為に結婚するのは当たり前のことなのよ。どの家もそんなも
のなのよ﹂
﹁⋮⋮しかし、﹂
﹁誰もがそう思いながら結婚するの。私だけじゃない、他の家もそ
うなんだって。私だけがこんな思いをしているわけではないってね。
そうやって折り合いをつけるの﹂
﹁⋮⋮折り合いをつけなければいけない何かが、あるのですか⋮⋮
?﹂
ふと、何かを思い立ったようにアルは膝を付いて、椅子に座ってい
る私の顔を見上げる。
﹁辛いことがあるのなら、我慢すべきではありません。お嬢様がこ
れまでにどれほどの時間を費やしてソレイル様との結婚に備えてき
たのかを知っています。言いたいことを口にする権利くらいあるは
ずです﹂
優しい双眸だ。その真摯な言葉が胸を突く。
だけど、言いたいことを口にしたその先に何があるかなんて嫌なほ
どに分かっている。
何を言ったって、何をやったって、ソレイルの心は既に妹の元にあ
る。
私はそれを知っている。
﹁︱︱︱︱︱お嬢様。今まではちゃんとそうしてきたではないです

106
か。ソレイル様に近づく女性には厳しく言い含めて牽制していらっ
しゃった﹂
それが正しいやり方だったとは思わない。だけど、今の状態はどう
考えても普通ではない。と、困惑の色を乗せて眉を寄せる。
﹁一体どうしてしまったというのですか﹂
そうだ。あの茶会まではそうしていたのだ。
身分が上であろうと下であろうと、婚約者であるということを傘に
着て誰彼構わず牽制してきた。
︱︱︱︱︱そうして失敗したのだ。
﹁⋮⋮今までのようにはいかないわ。だって近づいているのはソレ
イル様の方だもの﹂
﹁⋮⋮それは、確かに、そうですが⋮⋮﹂
今度の人生では、ソレイルは人目を憚ることなく堂々と妹の元を訪
れている。
婚約者の妹であれば見舞うのはおかしくないだろうと、周囲の人間
が思わず肯いてしまうような建前で。
人目を忍んでひっそりと心を通わせていた前の二回が嘘みたいだ。
視線を交わすことにさえ罪悪感を募らせていたような二人は、もう、
ここには居ない。
逢瀬を重ねる二人を許容している両親も含めて、ここに私の知って
いる人間はいないような気がする。
ひず
歪み、のようなものなのだろうか。

107
前の人生では、初めの人生をなぞるようだったのに。
今度の人生では、ソレイルもシルビアもまるで別人のような行動を
とる。
︱︱︱︱︱いや、別人、なのだろうか。
ここは全くの別世界なのだろうか。
⋮⋮だとすれば。
だとすれば、なぜ、私は私のままなのだろうか。
向かい合ったアルの、かつての人生と変わらない澄んだ眼差しを受
けながら思う。
この人は、本当に、私の知っている私の護衛なのだろうか。
それさえももう、分からない。
あの茶会までの人生は、私だけに関して言えば最初の人生とほとん
ど齟齬がない。
だからこそ、私はソレイルに恋をしたまま、ここに居る。
出会った瞬間に彼を好きになって、それほど多くないはずの交わし
た言葉や視線が想いを強くしていった。
何度となく思った。
もしも、もしも私に最初から記憶があれば。
私はソレイルに恋をしなかったのではないか。
例え恋に落ちてしまったとしても、その想いを手放せるように、そ
の想いを育てないように、ソレイルやシルビアと適度な距離を保ち
ながら生きていくことができたのではないか。

108
そして、いずれは。
ソレイルではない他の誰かに恋ができたかもしれない。
例えその恋に傷つくことがあったとしても、やがて家庭を作り、誰
かと想い想われるような夫婦になれたかもしれない。
そんな想いが過ぎる。
だけど、私は、懲りずに何度も何度も恋をする。
それもそうだ。私が私である限り、ソレイルに恋する自分を止める
ことはできないのだから。
出会った当初の私は、自分に待ち受けている運命を知らずにいる。
そして、あの茶会で二人を引き合わせるまでの私は、自分の恋が報
われるものだと信じているのだ。
︱︱︱︱︱記憶が戻れば、この想いを捨て去ることができる?
いや、そんなはずはない。
なぜなら私は、全てを覚えている人間だからだ。
彼に恋をする自分を、忘れることができない人間だからだ。
積み重ねた人生の分だけ、想いが募る。
忘れることのできない想いがこの身に重なっていく。
前の私も、その前の私も、今も、今このときが過去になったとして
も、私はこの想いを忘れることができないのだ。
109
110

﹁妹のことを守って欲しいの﹂
そう言えば、カラスはただ不思議そうな顔をして首を傾いだ。
そして、それをそのまま疑問として口にする。
﹁なんで?﹂
﹁守って欲しいから﹂と答えれば、傾いだ首をもっと深く傾ぐ。
その動きはどこか奇妙だ。
黒いローブを纏っていることもあって、奇術師か等身大の操り人形
のようにも見える。
カラスはここ最近、一日と日を置かず私の部屋へ飛んでくる。

111
無断侵入していた最初の頃とは違い、律儀にも窓ガラスを嘴で突い
て私がそこをあけるのを待っているのだが、どうやって鉄格子を抜
けるのは分からない。
ほんの一瞬、目を離した隙にいつの間にか部屋の中に居るのだ。
そして、その時には既に人型になっている。
﹁⋮⋮まぁ、良いよ。君が望むのならね﹂
ふ、と小さく笑んだカラスは妖艶だ。
表情の読めない作り物みたいな顔をしているはソレイルとどこか似
ているのだが、かと思うとどこか人間くさく、そのアンバランスさ
が得体の知れないものを思わせる。
悪く言えば、不気味とでも言うのだろうか。
﹁でも不思議だなぁ。君が何でそんなに妹を大切にするのか﹂
意味もなく部屋を歩き回り、大したものもないのに本棚や鏡台を物
色する姿は鳥のときと然程変わりない。
だからこそ、あの鳥がこの男だということを証明しているような気
がした。
﹁妹だもの。大切に思うものでしょう?﹂
そう返せば、私が座っているベッドに勢いよく乗り込んできたカラ
スが笑う。
﹁うーん、そうかな。それはさ、詭弁だと思うけど﹂
﹁詭弁?﹂
﹁そう。妹だから大切なんてさ、それって真実味に欠けるよ﹂

112
私より年上だと思う。だけど、見ようによってはだいぶ年下のよう
な気もする。
よく見れば少年のような顔立ちをしているし、そうかと思えば老成
しているような表情を浮かべる。
心底、不思議な男だと思う。
﹁君は婚約者の事が好きなんでしょ?君にとっては恋敵じゃないか﹂
ごろりと寝転んだ男が切れ長の目で見上げて言う。
﹁⋮⋮私、ソレイル様のこと貴方に話したかしら﹂
﹁いいや。でも見てれば分かるよ﹂
ふふふ、と愉快げに声を上げるカラス。
一体、どこから見ていたというのだろう。少なくとも彼の前でソレ
イルと言葉を交わしたことはない。
そもそもカラスは夜中にしか現れないし、私の部屋にしか来ないの
だから見ていたと言われても実感はない。
昼間はもしかして、別の姿をとっているのだろうか?
そうは思ったけれど、その疑問に素直に答えるような男ではないこ
とにも既に気づいていた。
﹁恋敵だからと言って、大切にしない理由にはならないわ︱︱︱︱
︱﹂
少なくとも私にとってはそうなのだ。
これから何が起こるのかを知っている私には、彼女を大切にする理
由がある。
今度だって同じだ。妹を失わない為に、すべきことをする。それだ

113
けなのだ。
だから、利用できるものは利用する。
前回と同じように。
﹁それに貴方、対価は不要だと言ったじゃない。私を助けてくれる
って﹂
﹁まぁ確かに言ったね。報酬は要らないって。それは金銭的な意味
だったんだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そんな顔しないでよ。約束は果たすから。⋮⋮君からの返事は聞
いてないけど﹂
ふいに起き上がったカラスが自分の頭を私の膝に置いて甘えるよう
な仕草をした。
﹁だけど理由は欲しいな﹂
﹁⋮⋮理由?﹂
﹁僕が動く理由だよ﹂
しんと空気が凍る。気がした。
温かくも冷たくもない、しいて言えば、真っ黒な石を埋めたような
双眸が私を射抜く。
言い逃れは許さないとでも言うように。
﹁︱︱︱︱︱一度だけ﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁一度だけ、妹に命を救われたことがあるの﹂
そうなのだ。だから、私は妹に強く出られないのだ。
負い目がある。あのか弱い妹に守られたのだという負い目が。

114
﹁幼いときに、世話をしていた馬の前足に蹴られそうになったこと
があるの﹂
世話と言っても真剣にやっていたわけではない。
きゅうしゃ
勉強の息抜きにと時々足を向けていた厩舎で、お手伝い程度に馬丁
の補助をしていただけだ。ほとんど邪魔していたと言ってもいい。
あのときもそうだった。
だから、その場に居た誰もが油断していた。
普段は大人しい馬だったし、そんなことになるとは誰も思っていな
かったのだ。
馬丁もそこに居て、馬の手綱を握っていた。だから、石に躓いて転
んだ私に驚いた馬が思わず前足を上げるなんて思ってもみなかった。
︱︱︱︱︱姉さま⋮⋮!
幼い妹の手が背中にかかったのをはっきりと覚えている。
妹は初めからその場に居たわけではなく、偶々通りかかっただけだ
った。
いつものごとく数日前まで病気で寝込んでいて、部屋に篭りきりな
のも良くないだろうと、軽い運動がてら侍女を伴って散歩に出てい
たのだ。
そこで馬に蹴られそうになっている私を見つけた。
本当に、偶々。
そして、事もあろうか私を庇おうとしたのだ。
馬のいななきと、頭上に迫る大き影。恐怖で身じろぐことさえでき
なかっ私を、小さな小さな妹が庇った。
危機一髪、事態に気づいた馬丁が手綱を引かなければ、妹は確実に
頭を蹴られていただろう。

115
きっと、無事では済まなかった。
﹁⋮⋮それだけ?﹂
私の話を聞いてカラスはあっけに取られたような顔をした。
﹁︱︱︱︱︱ええ、それだけ﹂
だけど、それだけで充分だった。
あの頃、病弱な妹はほとんど隔離されているようなものだったから、
言葉を交わしたのも数えるほどしかなかった。
母親の違う妹というだけで距離が生まれるものなのに、物理的に離
れていれば接触する機会もない。
自分に妹がいることは知っていたけれど、その存在を強く意識した
ことなんてなかった。
居ても居なくても、同じだと、思っていたのだ。
それなのに。
その子が、私を﹃姉さま﹄と呼んで、私を救おうとした。自分の身
を挺してまで。
﹁つまり絆されちゃったわけだ﹂
﹁⋮⋮そう、ね。そうかもしれないわ﹂
咄嗟に私を庇ってくれたシルビアだけれど、お互いに無事だと分か
って我に返ったときは小さく震えていた。
余りにも頼りなく細い四肢をぎゅっと縮めて、怖かったと私に縋り
付いて泣いていた。
だから私はその体を抱きしめて誓ったのだ。この小さくてか弱い妹
を守ろうと。
次に何かあったときは、私こそが彼女を守るべきだとそう思ったの

116
だ。
それなのに。
﹁︱︱︱︱︱ふふ、良いね。良いね。とっても良いよ﹂
こちらを見上げる真っ黒な双眸。
何を考えているかは分からないが、その目端は愉快げに緩んでいる。
﹁分かった、良いよ。妹ちゃんを守ってあげる﹂
そういう人間らしい感情は嫌いじゃないからね。とカラスは私の膝
の上で後頭部をぐりぐりと動かして遊んでいる。
思わずその額を撫でれば、寸の間、呆けたような顔をしたカラスは
やがて満足気に笑った。
学院を卒業するまで後僅か。
このまま何もなければ私とソレイルは結婚する。
そして、三年経てば、あの夏がまたやってくる。
シルビアが強盗に襲われて死んだあの夏だ。
今度は一体、何が起きるというのだろう。
私は、うまくやれるのだろうか。
怖い。
ただ、怖いと思う。
だけど、うまくやらなければ私は、またソレイルに断罪される。

117


私とソレイルが結婚したその日、妹は親族として式に参加していた。
式の終盤、教会の外の整えられた小さな庭に出て親族や旧友と短い
言葉を交わして祝福を受ける。
両親と一緒に私とソレイルの前に立ちおめでとうと笑う妹。お幸せ
にね、と微笑むその姿。
自分の式だというのに、妹のその姿だけが鮮明に思い起こされる。
銀色の髪を緩くまとめて、薄い紅を引いていた。白い肌にそれがよ
く映えていた。
初めて二人を引き合わせたあの茶会と同じように、白に近いベージ
ュのドレスを着て小さな微笑を浮かべた。
あまり表に出てこない小柄で華奢な妹のその儚い姿は人目を引いて、
新婦の私よりずっと目立っていた。
祝辞を述べたシルビアに、ソレイルは、ありがとうと言った。
私の横でその冷たい双眸を僅かに緩ませて。
だけど、その横顔には、隠しきれない哀切の色を乗せていた。
愛する人と一緒になれない。それを改めて実感したように。
その顔を見ていられなくて、ふと空を見上げれば、頭上で黒い鳥が
大きく旋回しているのが見えた。
まるで私を嘲笑うかのように。
﹁⋮⋮カラス﹂
呟いた私の声を耳聡く聞いていたソレイルが訝しげに首を傾ぐ。

118
何でもないと首を振れば、彼はそっとため息を噛み殺して﹁そうか﹂
と肯いた。
まるで興味もなさそうに。心底どうでも良さそうに。
そして、その視線は再び妹の元へと返っていった。
今日は人生最良の日になるはずだった。
一度目の私は、確かにそう信じていた。
何週間も掛けて今日の為のドレスを選んだ。それでもどうしても気
にいらない部分は自分で刺繍を差した。
一針入れるごとに、幸福に一歩近づくような気がして。
それを願って口元が綻ぶのを実感していた。
だけど、こうやって注意深く観察すれば、ソレイルがいかに私のこ
とを厭わしく思っているかが分かる。
誰にも悟られないように誰にも知られないように、何でもない振り
をしながら、その実、私のことを煩わしく思っているのが分かる。
こんなにも。
こんなにも、私は、ソレイルに愛されていない。
神の前で永遠の愛を誓うソレイルの冷たい横顔を見つめながら、こ
の人はこんな風に神さえも欺くのだとまざまざと思い知った。
政略の為に己の愛を封印する人間だ。
愛よりも領地や領民を守ることを選ぶ人間だ。
そんな風に、感情を抑えて理性的に行動できるということは、執政
者としては理想的な姿だと言えるかもしれない。愛によって道を見
失う人間は少なくない。だけど、彼は、きっとそうならない。
その為に私を選んだ。
そして、私が恋をしたのはそんな人だった。
彼の、冷徹とも取れるそんな姿をこの目にしようとも想いが冷める

119
ことはない。
だから私は神の前で、真実、誓いをたてた。
どんなときでも彼を愛し続けると。
彼が私を愛さないのであれば、私が二人分の愛を誓えば良い。
そうしていればいつか報われるときが来るかもしれない。
そして私はソレイルの妻となった。
︱︱︱︱︱三度目の人生は、それまでの人生に比べれば、圧倒的に
穏やかな日々だったと思う。
私はあの夏の日に備えながら、侯爵家の夫人として社交もこなし、
そつなくソレイルの妻としての役目を果たす。
全ては三年目の夏に起こるあの事件を回避する為。人脈を作り、更
にその繋がりを強化する必要があった。
根回しをする為に私は精力的に働いていた。
﹁イリアが言うから調べたけど、あんな小物の強盗団を一体どうし
たいの?﹂
カラスが不思議そうに首を傾ぐ。
だけど、曖昧に誤魔化して理由を言わない私を追及することなく彼
は協力してくれた。
﹁何をしようとしているか知らないけれど、どうせ退屈だから構わ
ないよ﹂とうっそりと笑って。
︱︱︱︱︱そして、ある日のこと。
思いも寄らない出来事が起こった。
話があるからと呼ばれたその席に、ソレイルが連れて来たのは私の

120
妹だった。
青冷めて強張るような顔をしていたのはシルビアで、ソレイルはそ
の妹を庇うようにして立っている。
何事かとその姿を見つめていれば、ソレイルは普段と何ら変わりな
い端正な顔をこちらに向けた。
﹁⋮⋮シルビアは悪くない﹂
唐突にそう切り出されて、とりあえず顔色の悪い妹を座らせるよう
に促す。
けれど、シルビアは黙って首を振った。
大きな瞳に涙を溜めて、何かを堪えるように唇を引き結んで今にも
泣き出しそうだ。
何かを予感するように、背中が小さく震えた。
﹁⋮⋮妊娠したんだ﹂
すっと息を吸ったソレイルが抑揚のない声で言った。
﹁⋮⋮誰が、です?﹂
ぽつりと呟いた声が広い客間に落ちる。
頭では分かっていたけれど、理解が追いつかず思わずそう口にして
いた。
﹁シルビアが私の子を妊娠した﹂
今度こそはっきりと告げられた言葉に、頭が真っ白になる。
そう、文字通り真っ白に。

121
あらかじめ人払いをしていた客間には私たち三人だけ。
だから、私の不規則な呼吸音がはっきりと響いた。
やっと搾り出した声は﹁どうして、﹂と大きく震える。
胸の底から石の塊を吐き出すみたいに零れた言葉が、意味もなく転
がった。
シルビアは体が弱く、子供を望むことは難しいだろうと言われてい
た。
だからこそ、彼女には婚約者がいなかった。
後継を産むことこそが役割とも言える貴族社会で、彼女は圧倒的に
不利な立場だった。
そのはずだった。今、この瞬間までは。
﹁どうして、﹂と何に対してかは分からないけれど、馬鹿みたいに
繰り返す。
それに返事をするのは﹁お姉さま、ごめんなさい﹂と消え入りそう
な声で呟くシルビアだ。
その姿を視界の隅に留めながら、私の目はソレイルのその顔に視線
を送り続ける。
今日は確か、結婚記念日だったはずだ。
二度目の、結婚記念日。
まだ二年しか経っていない。
三年目の夏に照準を合わせて手はずを整えていた私の気づかない場
所で、二人は、逢瀬を重ねていた。
この場で冷静を保っているのは恐らくソレイルだけだった。
不貞を働いたというのに﹁シルビアを愛している﹂と、罪悪感さえ
滲ませない声ははっきりと告げた。
前の人生でも、その前の人生でも、私がただの一度も得ることがで

122
きなかった言葉だった。
どれほどに尽くしても、どれほどにソレイルを愛していると言った
って一度も返ってこなかった言葉だ。
それを、妹は、ただ﹁シルビア﹂だというそれだけで得てしまうの
か。
私がこの手に抱くことさえできなかった子供を産んで、文字通り、
幸福な家庭を築くのか。
それは、本来、私が得るはずだったものだ。
大声で叫んだ。
この叫びが世界を粉々に砕いてくれるように。
そんな馬鹿なことは起こるはずないと知っていたのに。

﹁⋮⋮イリア、どうして泣いているの?﹂
床に伏せて胎児のように丸まっていると、上から降ってくる妙に甘
い声。
顔を上げれば、カラスの秀麗な顔がすぐそこにあった。
あの時、私の叫び声を聞いた護衛が部屋の中に飛び込んできた。
無意識にアルの姿を捜したけれど、結婚したその時に、アルは実家
に置いてきたのだと思い出す。
私を守るより、妹を守ってと言った私の言葉に確かに傷ついた彼の
顔が一瞬過ぎって消えた。
そして、言葉さえ交わしたことのない侯爵家の護衛が錯乱する私を
担ぎ上げて、自室に放り込んで外から鍵を掛けたのだ。
﹁⋮⋮カラス、カラス、﹂

123
言い訳をするなら、私は多分このとき限界だった。
いくつも超えた臨界点の先、本当の絶望を味わっていた私は、その
とき一番近くにいて優しい顔をしてくれたカラスに縋ったのだ。
だから、己の辿ってきた、とうてい現実とは思えない出来事を洗い
ざらい話した。
きっと、誰かに同情して欲しかったのだ。
一人でよく耐えたねと慰めて欲しかったのだ。そして、心配しなく
ても良いと言って欲しかった。
何でも良いから、過酷な現実を生き抜くための理由が欲しかった。
﹁イリア、イリア⋮⋮﹂
しゃくりあげて、ところどころ言葉に詰まりながら、それでも最後
まで話を聞いていたカラスが私の名前を呼ぶ。
こんな荒唐無稽な話を信じてもらえただろうか。だけど信じてもら
いたい。そうでなければ。
私の顎を細い指がすくう。強引に上げさせられた視界に、カラスの
顔が映りこんだ。
その仮面のような白皙の顔は何を思っているのか、表情から読み取
れる情報は皆無だ。
真っ黒な双眸に泣き腫らした自分の不安そうな顔が映っている。
﹁君が言っていることが本当だとすれば、﹂
カラスは言葉を切って私の目をじっと見つめいる。まるで心の底を
覗こうとしているみたいに。
やはり信じてもらえなかったのだろうかと沈みそうになる気持ちを、

124
次の言葉が掬い上げる。
だけど、続く言葉は同情なんて優しいものではなかった。
﹁それはまるで地獄みたいだね﹂
頬を伝う涙を舐め取って、カラスは笑った。
﹁ねぇイリア。地獄というのは、罪人が行くところでしょう?﹂
﹁罪、人﹂
﹁罪を犯した人間が死後に堕とされるところでしょう?そして、そ
こで罰を受けるんでしょう?﹂
﹁罰を、﹂
受ける︱︱︱︱︱?
﹁ここが地獄なら。君が罰を受けているというのなら。君は一体ど
んな罪を犯したんだろうね?﹂
カラスの冷たい指が、絨毯の短い毛足を引っかくように握り締めて
いる私の手を上から押さえ込む。
﹁なぜ、君だけにそんなことが起こるんだろうね?﹂
﹁なぜ、君だけが同じ時間を繰り返すんだろうね?﹂
ぶるぶると震える私の指に被さるカラスの手に、いくつも水滴が落
ちた。
これがもしも罰だというのなら。これが犯した罪の代償であるのな
ら。
私の罪はきっと、自分の幸福を願ったことだろう。
それはつまり、ソレイルやシルビアの不幸を願うことと同義だった。

125
一度目の人生で私は確かに、シルビアの死に歓喜した。
だけど、それはこれほどの地獄を生むものだったのだろうか。
﹁君ってもしかして、自分だけが、不幸なんだって思っているんじ
ゃない︱︱︱︱︱?﹂
私はカラスの問いに何て答えただろか。
今となってはもう覚えていない。
覚えているのは、一人きりで部屋の中に佇む自分の姿。
﹃お嬢様は、自ら死を選ぶような方ではありません﹄
そう断言したアルの声。
それでも、いつだって不安だった私は、結婚してからも自室に刃物
を持ち込まなかった。
それが自らの皮膚を傷つける可能性を案じたからだ。はさみもナイ
フも剃刀も、何一つ置かなかった。
だから、薄いシーツを歯で裂いて、縄を編んだ。
正気じゃなかった。
正気じゃなかったけれど、自分が何をしているのかはきちんと理解
していた。
私が一度も抱くことができなかった赤ん坊を、妹はきっとその手に
抱くのだろう。
そしてソレイルと二人、嬉しそうに微笑む顔を想像すれば、いとも
簡単に実行できた。
もう駄目だ。私はもう、駄目だ。あの子が幸せになる姿を、ソレイ
ルが別の誰かと築く未来を見ていられない。

126
これが罰なら、これが犯した罪の代償だとすれば。
ただこの現実が続いていくだけだ。
どんでん返しなんて起こらない。
首に縄を掛ける。
乗っていた椅子からつま先が滑り落ちた。
127

﹁初めてお目にかかります。私はイリア=イル=マチスと申します﹂
﹁初めまして、僕はソレイル=バン=ノルティスです﹂
初顔合わせの日、ソレイルは小さな顔を軽く傾いで口元に笑みを浮
かべた。
私に対してというよりも、私の後ろで子供たちの顔あわせを見守っ
ている両親に対してなされた挨拶は実にあっさりと交わされた。
私も、ソレイルと同じように挨拶をしたけれど爵位が下なだけに気
を抜くことができず、自然と相手の機嫌を伺うような顔つきになっ
てしまった。
けれど、ソレイルの両親の私に対する印象は然程悪くなかったよう
に思う。

128
﹃可愛らしいお嬢さんだこと﹄と夫人が微笑して、ソレイルも伏せ
ていた視線をこちらに向けた。
彼の笑みがさっと引いて、陶磁器のような美しい作りの精巧な顔が
こちらに向いたときに、私は気づいた。
この方は、傷ついている。
なぜか、それが分かった。
婚約者を亡くしたばかりだと聞いていた。
彼らは幼馴染で非常に仲が良かったとも。
亡くなったその方は、顔こそ知らないけれど噂では聞いたことがあ
った。
幼いながらも聡明でとても可愛らしい方だと。
私も、かの方のようになれと父親に言われたことがあった。淑女を
目指すのであれば年頃の近い彼女は良い見本になると。
顔も知らない人を目指せというのは無理難題ではあったけれど、私
の家庭教師を務める幾人かはやはりその彼女を教えていたようで、
皆が皆、口を揃えるように言った。
彼女は、素晴らしいと。
その人が亡くなった途端に、ソレイルの婚約者としての地位が舞い
込んできたのだから、成り代わったという点では父親の言う通りに
なったと言える。
侯爵家の庭でなされたその顔合わせは非常に穏やかに進行された。
父親同士は元々親交があり、母親同士も社交界での顔見知りであっ
たからこれと言った問題もなく話も弾んでいたようだった。
私とソレイルはと言えば、初めに言葉を交わしたきり無言ではあっ
たけれど、戸惑う私に道を示すようにソレイルがさりげなく何をす
れば良いか教えてくれる。
例えばお茶を飲むタイミングであったり、お菓子を摘むタイミング

129
であったり、疲れてきたと思えば席を外す許しを得てくれたり、目
線で、あるいは仕草で示してくれた。
だから私はその時間のほとんどを笑って過ごすだけで良かった。
ソレイルが何を考えているかなんて分からなかったけれど、視線が
ぶつかるというよりはお互いを眺めるようにして過ごすその時間は
そんなに悪くはなかった。
お互いの両親が席を外したときには、一緒に庭を散策した。
着慣れない、今回の顔合わせの為に用意したドレスは歩きやすいと
は言い難かったけれど、私の足が止まるたびに、数歩先でソレイル
は待っていてくれる。
﹁早くしろ﹂とも﹁まだなのか﹂とも言わない。
ただ待っていてくれる。
慌てて追いかければ、幼いながらも鋭さを帯びたその顔の目元をほ
んの少しだけ緩ませた。
やがて小さな指が、もっと小さな私の指先を握って言ったのだ。
﹁仲良くしよう﹂と。これから先、ずっと、ずっと、仲良くしてい
こう。と。
ソレイルは私の二つ上。まだ7歳だったけれど、その目はその先の
ずっと未来を見据えていた。
そこには当然のように私が居るはずで、私たちは仲睦ましい夫婦に
なる予定だった。
︱︱︱︱︱私は、どこで間違えたのだろう。


自分の手が紅茶の入ったカップを手離すのをはっきりと見た。

130
ガチャリと音をたててソーサーの上で二つに割れたそれは、まさし
く、私とソレイルの関係を示しているようだった。
顔を上げれば珍しくも驚いた顔をしているソレイルの顔が映る。
その横には、陶器の割れた音に怯えるように肩を竦めたシルビアが
立っていた。
今、二人は初対面を果たした。
その瞬間に、私の頭を隙間なく埋め尽くすように蘇る記憶。全身の
血が逆流してくるかのようなぞっとした感覚と共に、様々な光景が
浮かんでは消える。私の過ぎ去った人生。前の人生とその前と、そ
の前と、もっと前と、前と前。これが何回目だったか数えるのを止
めたのはいつだっただろうか。
﹁イリア、どうした⋮⋮?﹂
訝しげに顔を傾ぐソレイルの顔を見ながらこれまでの人生を思い出
していた。
私は何もかもを忘れることができない人間だった。そのはずだった。
覚えているはずの記憶に穴が空き始めたのはいつだったか。
一つ前は覚えているけれど、二つ前ははっきりと思い出せない。だ
けどその前ははっきりと思い出せて、そのもっと前は忘れている。
それほど、同じ時間を繰り返してきたということだ。
無意識に空を仰げば小さな鳥が上空を舞っているのが見えた。
だけど黒くはない。あれは、カラスではない。
﹁⋮⋮何でもありませんわ。申し訳ありません。手が滑ってしまっ
て﹂

131
近くに居たアルが侍女を呼び、割れたカップを手際よく片付けてい
くのを眺める。
この展開は初めてだと、激しく追い立てるように鳴り響く脈を感じ
ながら、きんと冷えた頭が冷静に伝えてくる。
席を外すならきっとこのタイミングだとゆっくりと立ち上がり﹁少
し気分が悪いようなので席を外してもよろしいでしょうか?﹂と問
えばソレイルがますます怪訝そうに眉をしかめる。
他の人が見れば、そうとは分からないほどの変化だけれど幼い頃か
ら彼だけを見つめてきた私にはソレイルの心情までもがはっきりと
手に取るように分かった。
もっと言えば、彼を見てきたのはこの人生だけではない。
﹁お姉さま、大丈夫?﹂
ソレイルと初めの挨拶を交わしたところで私の落としたカップが、
彼らの間に流れた穏やかな雰囲気を断ち切ったのだと気づく。妹は
まだ座ってもいなかった。
﹁ソレイル様、シルビアをお願い致します﹂
そう言えば、彼は途端に表情を緩めて妹に向き直った。
申し訳ないね、と私の代わりに頭を下げてから妹のために椅子を引
いた。
﹁いいえ、そんな、こちらこそ﹂としどろもどろになりながら頬を
染めた妹のはっとするような美しさに目を奪われながらも、アルに
目線で促せば、エスコートするように私の右手を取った。
護衛である彼が、婚約者であるソレイルの前でそんな無粋なことを
するとは思わなかったけれど、この状況ではソレイルも咎めないだ
ろう。
といよりも、もはや私のことなど気にも留めていないに違いない。
じっと妹のまろい頬を見やるソレイルを目の端に留めながら席を外
す。

132
何度も繰り返し見てきたその光景に知らず、視線が落ちた。
﹁お嬢様、﹂とアルに耳打ちされて、足が止まっていたことに気づ
く。
ぎりぎりと引き攣れるように痛む心臓をつかみ出すことができたな
ら、私はこの胸をナイフで切り裂いただろう。なぜ、私は。飽きも
せず何度も何度も傷つくのだろう。
心配そうな顔をしてこちらを見下ろしているアルの顔を見て、ふと
思い出す。
一つ前の人生で私は彼の手を取って出奔した。
初めは頑なに、その手を拒絶していたけれど、何度も何度も執拗に
追い詰められる人生にはっきりと絶望していた私は、とうとうその
手を取ったのだった。
巷を賑わせているロマンス小説で例えるならば、少女たちがこぞっ
て読みふけりそうな恋物語になりそうな話だ。
護衛との許されざる恋、そんな風な切り口で語られるだろう。
だけど、私とアルは、恋をしていたわけではない。
アルは私に同情しただけなのだ。そして、忠義を果たす人間だった
だけだ。
そう、忠義を。
ソレイルと結婚する前に実家を逃げ出さなければ、もうどうにも身
動きができなくなるのだと知っていた。
毎度の人生で、学院を卒業すると同時に結婚するのは私やソレイル
の意志ではない。
全ては侯爵家によって仕切られたことだった。
﹁イリア﹂という一人の伯爵令嬢は、自分で思っているよりもずっ
とずっと有能だったようで、在学中も散々、他家から横槍が入って

133
いた。家格が合わないということを理由に、ソレイルとの婚約を破
棄させて新たに婚姻関係を結ぼうとする家もあったくらいだ。
だから、これ以上面倒なことになる前に、さっさと自分たちの側に
取り込もうとする侯爵家側の思惑によっていっそ強引なほどに性急
に進められた式だったのだ。
だけど、私は、それに別段不満を抱いていたわけではない。
一日でも早くソレイルの妻となれるのはむしろ、喜ばしいことだっ
た。
だから、私が何もしなくともソレイルとの結婚準備は順調に進めら
れていた。
逃げるなら今しかない、と唐突に思ったのは何だったのだろうか。
ただ、逃げるべきだと思った。
﹃お嬢様、どうか望んでください。この手を取ることを選んでくだ
さい﹄
真摯な眼差しが私の頑なだった心を動かしたのか、それとも、ただ
単にその時が来ただけなのか。
アルが私のことを、この世の何よりも大事だと言うから。
その言葉を信じてみても良いと思ったのかもしれない。
もしくは、繰り返される人生に磨耗した心が正しい判断を下せなか
ったからかもしれなかった。
ソレイルの心がシルビアに傾いていく中で、私は彼らから離れるこ
とを選んだ。
そんなことは絶対にできないと思っていたのに、決めてしまえば、
後は計画を練るだけだった。
綿密に計画をたてたはずだった。けれど何事にも不測の事態という
のが発生するものだ。
私とアルに足りなかったのは、そこを見極める慧眼というやつだろ
う。
真夜中に二人で出奔して、幾人かの助けを借りて街を出ようとした

134
ところで、囲まれた。
それが、侯爵家の子飼いだと知ったときには既に身動きができない
状態だった。
彼らは実に用意周到で、私とアルの抵抗など歯牙にもかけなかった。
それも当然だろう。侯爵家のいわば諜報部隊。国家の暗部。私とア
ルを捕縛することなど、暗殺を主とする部隊にとっては赤子の首を
ひねるよりも簡単なことだっただろう。
アルは弱かったわけではない。護衛騎士を務めるほどだ。その実力
は我が伯爵家の折り紙付きだ。
けれど、人を殺すことを生業としてきた闇の人間たちと同等に戦う
ことはできなかった。
アルは当然のごとく、私の前に立った。私を守る為に。
それが護衛としての勤めだと言わんばかりに。
そして、私の目の前で斬られて死んだのだ。
﹃今更、責務を放棄してもらっては困ります﹄
自宅に戻された私を訪ねてきた侯爵家の夫人が、出会ったそのとき
と同じように静かに笑う。
﹃ここまで、貴女は一人きりで育ってきたわけではないでしょう?
貴女を侯爵家の次代の夫人として育ててきたのは、何も貴女のご実
家だけではありません。その為に我が家も力を尽くしたのですよ?
教育費のほとんどを、我が家が負担しています。それを、ご存知で
したか?﹄
淡々と事実だけを述べる侯爵家の夫人が﹃貴女の代わりはいないの
だと、しっかりと理解していただかなければなりませんね﹄とソレ
イルによく似た顔を傾いだ。
まさか、侯爵家の犬と呼ばれる暗部が私を捜索するためだけに動く
とは思ってなかった。
そこまで見越すことができなかった私は、やはり浅はかだったのだ

135
ろう。
侯爵家の花嫁が逃亡するなどということは社交界の一大スキャンダ
ルだ。貴族社会というのは最も体面を気にするものである。
そして、アルは、その逃亡に手を貸した人間というよりは、逃亡を
唆した主犯格とされたのだ。
そもそもアルの直接の雇用主は私の両親だ。私を逃がそうとしたア
ルは伯爵家に背いたことになる。
だから、彼は容赦なく斬り捨てられたのだ。
何の弁明も許されなかった。
彼のせいじゃない、私が全て悪いのだと言っても全ては遅かった。
彼はもうすでに事切れていたのだから。
﹃主を守って死んだのですから、騎士としての本望は果たしたでし
ょう﹄
侯爵家夫人はさも満足気に笑った。
彼女の言い分はある意味正しかった。だって、彼は騎士として生き
騎士として死ぬことを望んでいた。
給金は確かに我が伯爵家から捻出されていたけれど、彼は私を﹃唯
一の主﹄だと言った。他の誰に従うつもりもないと言ったのだ。
かつての人生で、私ではなく妹を護衛するように頼んだときもそう
だった。
私の命だから仕方なくシルビアを守るのだと歯噛みしたのだ。心底
悔しそうにそう言ったから、だから私はアルの好意を勘違いしたの
だと思う。
いつの間にか、彼は私の為に存在しているような気になっていたの
だ。
最初の人生で彼を失い、私はその後、彼を遠ざけるように努めてい
た。
それは多分、いつかこんな風に彼を失ってしまうことを予見してい

136
たからだろう。
かつての私はそうだった。
それなのに、私は彼を道連れにしたのだ。
﹃︱︱︱︱︱私は、アルフレッドの婚約者です。いえ、婚約者でし
た﹄
あの逃走劇から数日後、拘束されているも同然の私に訪問者があっ
た。
若い、女性だった。
服装から貴族位の女性ではなく、商家の娘だということが分かる。
流行のデザインで、街娘の好むフリルをふんだんにあしらった装飾
がされていた。けれど、そのどれもが暗い色を伴い、どこか喪服を
思い起こさせた。いや、違う。彼女は確かに喪服を纏っているのだ。
はっきりとそう分からないようにしているのは、彼女がまだ彼の婚
約者で正妻ではなかったからだろう。
つまり、家族になる予定の他人だということだ。
家人の死を悼むのとはまた違う。
﹃私のことを、ご存知ですか?﹄
愛らしい顔立ちのまだまだ年若い少女だ。アルは私より五つ上であ
るから、彼女はもしかしたら私と同じ年くらいかもしれない。17
か18と言ったところだろう。
それにしては落ち着いた雰囲気だ。深い悲しみがそうさせているの
かもしれなかった。
そばかすの浮いた小さな顔がこちらをじっと見据えている。赤みを
帯びた丸い双眸が私を非難にさらしているようだった。
自分のことを知っているかと確かに問われたはずなのに、返事を待
つことなく彼女は言う。

137
﹃私とアルフレッドは、貴女の生活が落ち着いた頃に落ち合う予定
でした。そういう約束だった﹄
それがいつになるかは分からなかったけれど何年でも待つつもりだ
ったと彼女は双眸を伏せた。
はらりと零れた涙が、膝の上で握り締めた両手の上に落ちる。
私の事情もアルの事情も何もかもを汲んで、それでも待つと決断し
た少女の決意はいかほどのものだったのだろう。貴族ではない様子
の彼女も、服装からすれば富裕層であることが分かる。
そういう家に生まれた女性は、婚姻によって家と家を結ぶ役目を負
っている。
アルと彼女はそういう結びつきの上で婚姻を結んだのだろう。
けれど、アルは私と出奔する道を選んだ。
私がそれを望んだから。唯一無二と決めた主の決断を、彼には覆す
ことができない。
だから、彼女もきっと決断したのだ。決断せざるを得なかったのだ。
彼女はアルを選び、家を捨てる予定だった。
それほどの想いを抱いていたというのに。
ああ、何てこと。
私は何てことを、したの。
私は、一体、何を。
ごめんなさい、という言葉が何の意味も持たないことを知っていた。
私はいつも奪われる側だった。だから、その言葉を与えられても救
い一つ得られないことを知っていた。
﹃君ってもしかして、自分だけが不幸なんだって思ってるんじゃな
い?﹄
こんなときに、かつてカラスが言った言葉を思い出す。

138
﹃アルフレッドが、可哀想。貴女を主にしたから、彼は死んだのね
︱︱︱︱︱﹄
はらはらと零れる涙は儚いのに、向けられたその強い眼差しが私の
胸を貫く。
知らなかった。何も知らなかった。
アルに婚約者がいたことさえ知らされていなかったのだ。
いや、違う。私は知ろうとさえしていなかった。
アルは私のことを何でも知っていたから、私たちの間に言葉はいら
ないのだと思い込んでいた。
そして、アルが与えてくれる優しい言葉に胡坐をかいて、絶対に掴
んではいけないはずのその手に縋った。
そのせいで、アルは死んだのだ。
私が、彼女からアルを奪った。
ああ、私は、何て愚かなのだろう。
︱︱︱︱︱それからのことはよく覚えていない。
ただ、一度出奔を企てた貴族女性に、社交界はさほど甘くはなかっ
た。伏せられていたはずのことなのに、いつの間にか私は針の筵で、
それ以上に、失望した様子を隠すことのなかったソレイルの態度が
私をずっと痛めつけた。
冷たい目にはもはや私の姿が映り込むことはなく、視線が合うこと
さなかった。
歩くときに手を差し伸べられることもないし、指先が触れ合うこと
さえなかった。
﹃捨てられたのは私だというのに、なぜ君が傷ついた顔をする﹄と、

139
そう言った彼の声が蘇る。
その人生では確か、ソレイルとシルビアは添い遂げたのではなかっ
たか。
でも、やはりよく思い出せない。
︱︱︱︱︱次は、次こそは、一人でやり遂げなければ。
前の人生を思い返しながらそう思う。
そして私は、再び巡ってきた人生で、出奔を企てた。
140

﹃貴女の代わりはいないのだと、理解していただかなければなりま
せん﹄そう言った侯爵夫人の言葉を思い出す。
だから私は、まず、私の代わりとなる人間を育てることから始めた。
さり気無さを装って、何でもない振りをして、甘い顔をして、優し
い姉として、シルビアに、花嫁修業と称して自分がそれまでに得た
ものを全て教示した。
婚約者さえいない彼女にそんなことをするのは酷だったかもしれな
い。傍から見れば嫌がらせをしているように見えただろうし、実際、
侍女がそんなことを口さがなく言っていた。
けれど、将来の為に必要なのだと言えば、シルビアだけは僅かに目
を瞠ってやがて心底嬉しそうに笑った。

141
﹁私、今まで、自分がもう死んでいるような気がしていたの﹂
妹は翳りを隠さない目で私を見つめる。そっと息を吐くように紡が
れる言葉はどこか疲労感を帯びていた。
脆弱な体を持て余して、できることと言えば日課の散歩くらい。お
しゃべりに興じることさえ、疲れるからという理由で禁じられてい
た。大事に大事に守られて、何もしなくて良いから生きていろと言
われ、その反面じわじわと死んでいくようだったと、シルビアは少
しだけ泣いた。
そして私の手を握って﹁ありがとう﹂と、そう言った。
ありがとう、と。
お礼を言われるようなことではない。そう返事をしてシルビアに微
笑みを向ける私は、どこまで冷静を装えていただろうか。
いつだって私の行動原理は自分自身だった。
ソレイルの傍にいたかった。彼に軽蔑と侮蔑の目を向けられるのは
耐えられなかった。一人寂しく死ぬのは耐えられなかったし、誰か
に責めを負わされるのも、いつもいつも断罪されるように終わる人
生にも辟易していた。
だからこそ、そうならないために私はシルビアを救おうとした。そ
れはいつの人生でも同じだった。
今回だってそうなのだ。彼女の為ではない。あくまでも自分自身の
ためにやるべきことをやるだけなのだ。
だけど、そこに罪悪感のようなものが滲むのは初めてだった。
喜びに頬を紅潮させる妹の顔が私を見つめるのがわかって、そんな
顔をさせたのは私だと知って、私が本当に姉らしいことをしたのは
今回が初めてかもしれないと思い至った。
この子はいつか私からソレイルを奪う。

142
私はずっとそれを知っていたから、彼女を助けるという目的のもう
一つ向こう側で、本当は、なぜ助けなければいけないのかという葛
藤のようなものを覚えていた。
それはいつしか妹と自分の間に距離を生み、実際、彼女を遠ざける
ような真似をした。
病弱だなんだと言って彼女を自室に閉じ込めたのは何も両親や使用
人たちだけではない。両親とその周辺はまさしく妹を気遣ってのこ
とだったけれど、私は違った。
単純に、シルビアが自室で大人しくしてくれていれば顔を合わせず
に済んだからだ。
いつも、妹を遠ざける為の正当な理由を探していた。
一体、いつからそんなことを思うようになったのかと考えれば、そ
れはやはりあの茶会からだろう。
あのときまで、シルビアは私の可愛いたった一人の妹だった。
私の手を握り締めるようにして、ずっと寂しかったのだと声を弱め
るシルビア。
その物憂げが横顔を見ながら、向き合うときがきたのかもしれない
と、漠然とそう感じた。
これほどに虚弱であればきっと子供は望めないだろうと言われてい
たシルビアが妊娠できることを知っている。それはつまり、彼女が
私と同じように貴族へ嫁ぐ資格を持っているということだ。
伯爵家第三位というのは、高位ではないが貴族として申し分ない家
格であるし、何よりシルビアのような儚い容姿は一般的に広く好ま
れる。
本来なら妹の将来は安泰だったはずなのだ。
シルビアのためなら喜んで婿入りする人間もいただろうし、シルビ
アが家を出たとしても後継に困ることはない。

143
私が侯爵家に嫁ぎ、シルビアが万が一にも病気で身罷った場合は、
父親の年の離れた弟がその跡を継ぐことに決まっていたのだ。
シルビアがもしも健康であったなら、彼女が不幸になる要素はどこ
にもない。
私の場合、ソレイルの実家の家格が高すぎただけなのだ。
それこそ、様々な偶然が重なって転がり込んできた地位だったから、
私は必死になってその地位にしがみついていた。
ソレイルの傍にいるためには彼の婚約者でいるしかないと知ってい
たから。
同性であればまた違ったかもしれない。ソレイルさえ望めば、只の
友人くらいにはなれただろう。
けれど私たちは異性であり、婚約者でもなければ傍にいることさえ
許されなかった。侯爵家子息というのはそれほどの地位なのだ。
だけどそれも全て、私がソレイルの婚約者だった為に起こった軋轢
なのかもしれなかった。
相手がシルビアであれば?
ソレイルはきっと身を挺してでも妹を守っただろう。
誰に何を言われても、それこそ真綿に包むように大切にして守り抜
いたに違いない。
己が王族に次ぐ地位を有するせいで、愛するシルビアを危険に巻き
込むようなことになったとしても、遠ざけるようなことはせず、い
つも傍においてどんな害悪からも守っただろう。
彼ならきっとそれができる。
私が、彼女を守らなくとも。
そういう考えに、今更ながらに至るのだ。

144
﹁私、頑張るわ。お姉さま。お姉さまが誇りに思ってくださるくら
いに⋮⋮﹂
ペンを握る妹の細い指先がノートに数式を刻んでいく。領地経営の
為には経済学は外せない。計算は苦手だと言ったシルビアだけれど、
十分すぎるほどに頑張っていた。
せめて友好国である隣国の言葉くらいは覚えて欲しいと、外国語の
先生を招けば、嬉々として新しい単語を覚えていった。
元より、家族や使用人以外とは接する機会もなかった彼女が他人か
ら教えを乞うのは精神的な負担も大きかっただろう。
だけど、シルビアはその大きな目を愉しげに輝かせて学ぶことを恐
れなかった。
夜も遅くまで、昼間に学習したことを復習し、寝不足で貧血を起こ
すことも少なくなかったけれど、悪くない兆候だと思った。
シルビアがこれほどまでに努力のできる人間だということを、それ
までの私は知らずにいた。
私が優しくすればするほどシルビアは快活になっていく。
相変わらず病床に臥せっている日もあったが、以前よりも格段に減
っていた。
伯爵家お抱えの医師が不思議そうに首をひねりながら﹁今まではき
っと、気鬱もあったのでしょう﹂と診断を下す。
あまりにも脆弱で長くは生きられないだろうと言われたシルビア。
それはもう過去のことかもしれなかった。
そして、そんな風に一見仲睦ましく寄り添う私とシルビアを、ソレ
イルはよく眺めていた。
重ねてきた人生では一度も見ることのできなかった朗らかな顔に、
柔らかく細めた双眸を乗せて。
私とシルビアがほんの少し距離を詰めるだけで、彼はその硬質な表
情を一変させた。

145
﹁二人は本当に仲が良いんだな﹂と、未来を夢見て頬を染めるシル
ビアに視線を移しながら。
心底愛しげに妹を見つめるその姿は、いつか、どこかで見た姿と同
じ。
ソレイルは妹に恋をして。
妹はソレイルと幸福を掴んで。
そして、私は。
︱︱︱︱︱私は?
変わっているようで全く変わっていない自身の人生に、溺れていく
ような感じがして息が詰まる。
この苦しみにも、確かに覚えがあった。

屋敷を抜け出したその日は、雨が降っていた。
前回と違わず、黒い外套を纏って闇に紛れるようにして逃げ出した。
数日間だけの衣服を小さなカバンに詰めて、現金に変えることので
きる宝石を実家から持ち出した。
あらかじめ用意していた金銭は下着の中に隠し持ち、日用品はどこ
かで買い揃えれば良いと、ほとんど何も持たずに手引きしてくれる
人間の元へと走った。
私が屋敷から抜け出したことには誰も気づかなかっただろう。
なぜなら、ソレイルとの結婚式が二日後に迫っており、我が屋敷も
侯爵家もその準備に追われて他のことに気を配る余裕がなかったか
らだ。

146
肩透かしなほど、実にあっさりと抜け出すことができた。
シルビアを私の代役に仕立てるには、この日に抜け出すのが一番良
いだろうと踏んでいた。
今更結婚式を取りやめにすることはできないから、伯爵家は代理を
差し出すしかなくなる。
適任は、妹のシルビアしかいない。
前回私が出奔したときは違い、彼女はしっかりと花嫁教育を済ませ
ている。
両親も胸を張って送り出すことができるだろう。
侯爵家も花嫁さえそこに居れば、私のことなど捨て置くに決まって
いる。
前回私のせいで命を落とすことになった護衛騎士のアルも、主をみ
すみす出奔させてしまったことで多少責められるかもしれないがき
っとそれだけだ。少なくとも命を奪われるようなことはない。
何しろこの計画自体を知らなかったのだから。
私は、一人きりで計画をたて、アルには初めから相談さえしなかっ
た。
私がただの十代であればきっとこんなことは考えもしなかっただろ
う。生まれも育ちも貴族である私が、逃げ出したところで市井に紛
れて生きられるとは思えなかったから。
だけど、私には記憶があった。
いくつもの人生を重ねて。同じ時間を繰り返してきて、何度も何度
も間違いを犯して、やっと決心がついたのだ。ここから逃げ出して、
ソレイルから離れる決心が。
今なら何でもできると、全てを捨てておきながらそんなことを考え
た。
羽でも生えた気分で、この数奇な運命から逃げ出すことができたよ
うな錯覚に陥った。
今度こそやり遂げられると、確信していた。

147
だから、こんなことになったのかもしれない。
階段から転がり落ちるというよりは、崖から突き落とされる感覚に
似ていた。
段差があると思って踏み出した足の先には地面がなく、落ちると実
感するよりも前に、体は奈落の底に叩きつけられる。
心だけを崖の上に置き去りしたまま、ただ落ちていった。
裏切り者が誰だったのか私は知らない。
前回出奔したときはアルが自分の伝手で協力者を捜し出した。それ
はきっと騎士仲間でもあり信頼できる友人でもあったのだろう。
けれど今回はそういう人間の手を借りるわけにはいかなかった。
騎士たちは互いの命を預けることもあるからか非常に結束が固い。
その内の誰か一人にでも協力を仰げば、アルだけでなくソレイルに
までこの計画が知られてしまう可能性があった。
だから、今回は信頼できる出入りの商人に助けを乞うた。
そもそもそれが間違いだったのか。それとも、彼が協力を仰いだ人
間の内の誰かが裏切ったのか。
ともかく、私はいつの間にか人買いに身柄を拘束されていたのだ。
身包み剥がされ誰かに引き渡され、そのときにはもう私が貴族だと
信じる人間はいなかった。
当然だ。貴族位の女性が護衛を連れずに一人で街中にいることなど
ありえないのだから。
市井に紛れる為と途中で服装を変えたのもまずかった。
宝石も金銭も当然のごとく奪われた。
逃げ出したときに降られた雨のせいで髪も体も汚れていたし、足が
つくのを恐れて身分を証明するものも持っていなかった。
全てが負の方向に作用する。
シルビアという代役をたてた今、私を捜しだそうとする人間はいな

148
かった。
転売に転売を重ねて足跡なんて残ることもなく、娼館の中でも最下
層と呼ばれるところまで墜ちていくのに歯止めとなるものは何もな
かった。
出奔したということでただでさえ実家には泥を投げつけたようなも
のなのに。
こんなことになってしまっては助けを求めることさえできない。
最初は確かに泣き叫んだと思うのに、誰かの名前を呼ぶこともでき
ずただ時間が過ぎるのを待った。
肉体を蹂躙されると共に心も全部奪われていく。
生きながら、死ぬ。
心を失うということは、そういうことだった。
私は何を考えて、何を夢見て、何を期待していたのだろう。
出奔したのは何の為だったのかさえ思い出すことができなくなって
いた。
だけど、この感覚にも覚えがあって。
ああ、また繰り返すのだと頭のどこかでそう思った。
︱︱︱︱︱コトリと陶器がぶつかる音に元々薄く漂うだけだった眠
りを妨害される。
染みだらけのシーツの向こう側に申し訳程度にぽつりと置かれたベ
ッドサイドテーブルの上で水の入ったガラスのコップが揺れている。
テーブルが傾いているのだ。
そのガラスの側面に映る、色を失った自分の顔に既視感を覚えるの
は、かつての人生で死の間際に覗き込んだ鏡に映っていた自分その

149
ものだったからだ。
どれだけの期間、ここで、こんな風に、生きてきたのかはもう分か
らない。
日を数えるものどころか、時間を数えるものさえここにはない。
時間ごとに区切られた料金を測っているのは部屋の外にいる見張り
番だ。
私たちには何一つ自由は与えられていなかった。時を知る自由さえ、
ここにはないのだ。
﹁薬﹂
身動き一つしそうにない私に焦れたのか、静かな声が行動を促して
くる。
ベッドにうつ伏せになったまま視線だけを上げれば、私を覗き込む
ようにして少年が半身をこちらに傾けていた。
年の頃は14、5といったところだろうか。
白皙の顔に黒い双眸、ソレイルと同じ黒い髪、斜めに傾いだ細い首、
そうやって彼の外見を一つ一つ確認するに従って頭に過ぎる人物。
︵カラス︶
言葉にすることのできなかった、かの人の名前が唇の内側で消えた。
こっくりと傾げた首のまま私の目をじぃっと覗き込むその仕草は、
青年期のカラスと全く同じものだ。
彼が、自身の姿を自由に変えられるとは知っていたけれど、年の頃
まで自由にできるとは知らなかった。
初めは当然、気のせいだと思った。他人の空似だと。
いくら顔が同じでも、私の知っているカラスよりは随分年若く、子
供と言って良いほどの年齢であれば本人とは思えない。親戚か何か
かと結論づける方が早い。
かつての人生で同じ時間を過ごしたカラスとは何もかもが違った。
けれど、カラスはカラスだ。

150
間違えようがない。
今生のカラスは名乗ってくれてさえいないけれど。
﹁起きられる?﹂
背中にそっと手を添えられて、やっと少しだけ体を起こすことがで
きた。
カラスがその小さな手の上に紙から解いた赤い粉薬を乗せている。
高額なはずのそれを、この少年がこっそりどこかから手に入れてく
ることを知っていた。
何も言わないのは、カラスがそれを知られることを望んでいないか
らだ。
金銭を要求されたことさえない。
私が病気になった途端にどこからともなく姿を現したこの少年は、
いつかの人生で出会ったときと同じようにどこかから私を観察して
いたのかもしれない。
私の世話係と称してこの娼館窟に現れて、当たり前のように部屋へ
居ついた。
けれど、他に彼のことを知っている人間はいないようだった。
そもそも、こんなところに世話係なんて職種が存在するはずがない。
私たちのような下級も下級の娼婦に、そんな人間を宛がうはずもな
いんだから。
だけど、カラスは誰に紹介されることもなく、いつの間にかそこに
居て私の世話を始めた。
﹁少しで良いから飲んで﹂いつまでたっても口を開かない私にカラ
スが渋面を向ける。
彼のそんな顔が珍しくて思わず笑ってしまえば、ほんの少しだけ開
いた唇の隙間にコップの淵が当たった。
何度も咳き込みながら、やっと何口かの水と薬を飲み下すことがで

151
きる。
喉が弱っている。一度咳が出るとなかなか止まらないし、胸のあた
りがぜいぜいと嫌な音をたてる。
今日もきっとお客が来る。何とか立ち上がれるまでになっておかな
ければいけない。
苦い薬の味が残る舌を口の中でもごもごと動かしていると、おもむ
ろに、カラスが私の寝台に上がってきた。
何をするのかと思えば、黙ったまま、ただ私の横に寝転がる。
そして、投げ出された私の手を掴んだ。
相変わらず温度の通っていない手が心地よく感じるのは、私の体が
熱を持っているからだろう。
薬を飲んだところで倦怠感がなくなることはなく高熱を出している
ことが分かる。
この何か分からない病が移る可能性もあるだろうに、それでもこの
部屋に訪れる客がいるのだから人間の欲望とは本当に限りないもの
である。
﹁イリア、何か、欲しいものある?﹂
人買いに浚われたときに名前を捨てるように言われた。最初はその
通りにして、いくつも名前を変えた。
そしてここに来たときに自分の本当の名前を使うようになった。
家名は捨てた。だけど、どうしても自分の名前を捨てることができ
なかったのだ。
﹁イリア﹂と幼い声が再び私を呼ぶ。
黒い双眸が私を捉えて、沈黙だけが支配する窓のない小さな小さな
部屋で、只見つめあった。
返事を促されているのは分かったけれど、本当はもう言葉を口にす
るのさえ億劫だった。
私はそれほどに弱っていて、今すぐにでも眠ってしまいたいのだ。

152
﹁ねぇ、イリア。君を助けてあげようか?﹂
まどろむ意識の中でカラスがそっと呟く。
初めて出会ったときカラスは確か、同じことを口にした。
そして、本当にその言葉通り私の手足となって様々なことに助力を
尽くしてくれた。
だけどこのカラスは、あのカラスではない。
この少年の姿をした黒い鳥に願うことなど何もない。
確か凶兆を占う鳥だとっていた。だけど、凶事だけが存在する世界
なら、それはもはや凶事ではない。
﹃なんで、なんで、私だけ、私だけがこんな目に︱︱︱︱︱﹄
両手足を拘束され、物品として馬車に積まれたあの日。
これまでの人生と、その瞬間の人生を嘆いていた私に、同じように
どこかから浚われてきた少女が言った。
﹃⋮⋮あなただけじゃない﹄
暗く淀んだ眼差しで、静かにそう告げた。
そうだ。私だけじゃない。騙されて捕らわれて売られて物と同じよ
うに扱われて、荷物として馬車に積まれて。金銭によって取引され
る。
鎖に繋がれて売られていくのは私だけじゃない。
だけど、この地獄から抜け出すことができないのは、きっと、私だ
けだ。
シルビアはきっとソレイルの庇護の下、幸福に暮らしているだろう。
強盗団に襲われることもなく、病に倒れることもなく、子供を生み

153
育て、侯爵家の夫人としての勤めを果たし。あの子は、きっと笑っ
ているだろう。
私はそのお膳立てをして、逃げ出したのだ。
ソレイルが、そんなあの子を見てほんの少しだけ頬を緩ませるのを
知っている。
知っているのだ。いつだってそうだったから。
私のいないところで、ソレイルとシルビアは幸福そうに見つめ合う
のだろう。
だから私はこのまま、この真っ暗な場所で、ずっと、このまま。
154

﹁︱︱︱︱︱︱っお嬢様!!﹂
けたたましく鳴り響いた扉の開閉音と共に、男の悲鳴のようなもの
が聞こえた。
金色の髪、それを視界の隅に留めたまま室内を見渡せば、部屋の隅
に少年が立っているのが見えた。
今は、いつ?私は、何をしていた?カラスはなぜ、あんなところに?
薬のせいで意識が混濁しているのか思考が纏まらない。
カラスと二人、ベッドで寝そべっていたのはいつのことだっただろ
う。
数時間前?数日前?それとも数ヶ月前だっただろうか。あれからど

155
れくらいの時間が経ったのだろう。
﹁ああ、ああ!何てことだ⋮⋮!何てことだ⋮!!﹂
いきなり浮遊したような感覚に胃の底が不快感を示す。
瞬時に抱き上げられたのだと理解して、抵抗しようと足を動かすけ
れど身動きできない。
ベッドシーツを体に巻きつけられたからだ。
何事かを嘆いている男が時々大きく震えるのはしゃくりあげている
からなのか、耳に響く男の拍動は急いているように早い。
﹁こんなところに居るなんて⋮⋮!!帰りましょう、お嬢様⋮!﹂
お嬢様、お嬢様、と何度も呼ばれて、私にもそんな頃があったのだ
と懐かしいような切ないような気分になる。
男の声に聞き覚えがあるのは、恐らく、気のせいではない。
﹁ア、ル⋮⋮?﹂
﹁!﹂
その名を呟いてみれば、私の体を支える太い腕が大きく揺らいだ。
﹁迎えに、参りました、お嬢様⋮っ、
こんなに遅くなって、本当に⋮申し訳ありません、申し訳ありませ
ん⋮!﹂
ぎりぎりと歯軋りさえ聞こえてきそうなほどに悔しげに何度も誤る
アルの顔を見上げながら、過ぎ去った年月のことを思う。

156
私が記憶している青年期のアルは、もうそこにはいなかった。
﹁帰りましょう、お嬢様⋮﹂
アルが掠れた声で宥めるような優しい声で囁く。
それが、さも当然のことのように。
帰る、帰ル、カエル?
到底理解することのできない単語に首を傾いだ。
私には帰る場所などどこにもない。一体、どこへ連れて行こうとい
うのか。
今更、一体、どこへ。
拘束されているような状態で、視線だけを彷徨わせれば部屋の隅で
息を潜めていたカラスの顔を捕らえた。
﹁カ︵ラス︶、﹂
名前を呼ぼうとして、言葉を飲み込む。
私はまだ、彼の名を知らない。少年は一度も自分の名を口にしなか
った。
声の代わりに掠れた空気を吐き出せば、それを知ってか知らずかカ
ラスが薄い唇に笑みを乗せて言った。
︱︱︱︱︱良かったね
それは確かに声音として響いたはずなのに、アルは気づかないまま
部屋を出ようとしている。
いや、違う。気づいていないのではなく、アルには、カラスの姿が
見えないのだ。
﹁⋮⋮ア、ル、待っ⋮待って⋮﹂
﹁大丈夫です、お嬢様何も心配ありません。お嬢様の部屋はそのま

157
まにしてあります。全て取り戻せます。何事もなかったように、前
の生活に、戻れますから﹂
﹁ち、が⋮⋮﹂
違うわ、アル。私はそんなことを言いたいんじゃない。
待って、お願い、カラスと話がしたいの。
私は、どこにも行けないの降ろして、お願い、降ろして。
病のせいでありとあらゆる器官がその機能の役目を果たしていなか
った。声帯を震わせる力さえ残っていない。声を張り上げようもの
なら、肺が破れそうだ。
だから、言葉にしたい想いを声に出すことができない。
囁いたところで激高している様子のアルには届かないだろう。
ただ遠ざかっていく薄汚い小部屋の奥でこちらを見ているカラスに
視線を送ることしかできない。
真っ暗で真っ黒な、光さえ拒むようなその眼が何かを訴えかけてく
る。
その表情から、確信を得た。
私の身元を突き止め、アルを捜し出し、私の居場所を彼に知らせた
のは、カラスだ︱︱︱︱︱。
﹁待って、アル、あの子も、カラ︵ス︶⋮っは⋮⋮はぁっ⋮あの子
も⋮あの子も⋮⋮﹂
連れて行って、その言葉を打ち消すように部屋の扉が勢いよく開く。
アルの肩越しに、置き去りにされるかのようなカラスを見ているこ
としかできない。
﹁アル⋮アル⋮⋮﹂

158
﹁大丈夫です、お嬢様。もう、大丈夫です﹂
何もかも承知しているというような顔でアルが優しく返事をする。
けれど、私の言いたいことは何一つ伝わらないし、私の言葉を待っ
てくれるような様子もない。
こんな場所からは一刻も早く立ち去りたいと思っているのだろう。
それが行動に出ている。
けたたましく扉を閉めたアルに他意はなかっただろうけど、それは
まるで、行き場を失った怒りをぶつけるような仕草だった。
閉ざされた扉の向こうにカラスがいる。
カラスが望めばこの娼館を出ることなんて容易いだろう。
だけど、カラスはきっと来ない。
追いかけて来ることはないと、分かる。
良かったね、と小さく笑みを灯したその唇が微かに震えていたのを
見た。
あれはきっと、別れの言葉だ。
身を包むシーツの拘束から零れた腕が思わず、扉に縋りつく。
カラスがやすりで短く整えてくれた爪先が、薄い扉の表面を擦った。
﹁⋮⋮助け、て欲しいなんて、言って、ない⋮⋮﹂
かろうじて言葉にしてみてもカラスにはもう届かない。
かつての私は確かにカラスに助けを求めた。
だけど、私は、今の私は。
助けなんて求めていなかった。
このままで良かったから。このまま誰にも知られずに死んだって、
それで良かったのだ。
だって、カラスは、きっと最期のそのときまで傍に居てくれるだろ
うと信じていたから。
その姿さえあれば、それだけで良かったから。

159
︱︱︱︱︱なのに、どうして。

乾いた指先がふっくらとしたシーツの波間を探る。
ほとんど役にたたなくなった眼球を巡らせて、染み一つない布地の
間に黒い髪が除くのを待っていた。
体温を持たない彼の髪はひんやりと冷え切っていて、いつまでも触
っていたいような心地にさせたから。その感触をもう一度確かめた
くて。
﹁姉さま⋮⋮?﹂
すぐ傍ではっと息を飲んで、愛らしい私の妹が伺うように私を呼ぶ。
ぼやけた視界に、白い顔と銀髪の懐かしい色彩が映りこんだ。だけ
どその表情までもを読み取ることはできない。きっと心配そうな顔
をしているのだろうと推測するだけだ。
ごめんなさい、心配かけて。そう思うのに、言葉にはならない。
乾いた唇の隙間から吐息が漏れるだけだ。
察しの良い侍女が水分を含ませた脱脂綿で唇を拭ってくれるが、そ
れもほとんど意味をなさない。
口内が焼けるように熱かった。
もう、終わりが近づいているのだと分かる。
﹁⋮⋮、﹂
﹁何?お姉さま。何て仰っているの?﹂

160
アルに娼館から連れ出されて、てっきり伯爵家にもどされるのだと
思ったのになぜか侯爵家に運ばれた。
そこにはソレイルとシルビアと、それから二人の子供がいて、私が
来るのを待ち構えていた。
私が居た娼館窟は、侯爵家や実家の伯爵家が居住を構える地域とは
天と地ほどに離れている。
あそこは、国内であることが不思議なほどの無法地帯。つまり貧民
街であった。
アルはそれこそ何年も私を捜していたようだけれど、どうしても消
息を掴むことができなかったのだと嘆いていた。侯爵家に戻される
までの道のりの間中、なぜもっと早くに見つけ出すことができなか
ったのかと飽きるほど何度も声を上げて泣いた。
全ては、私の身勝手が招いたことでアルに罪はないのだと、途切れ
途切れになりながらも何とか伝えたけれど彼にとっては何の慰めに
もならなかったようだ。
私が頭を下げれば、それだけ落ち込んでいくようにも見えた。
そんな風に数週間にも渡る旅を終えて屋敷に辿り着いたわけである
が、そのときにはもう、私自身は瀕死の状態だった。
すぐに侯爵家お抱えの医師がやってきたけれど、もう何も手の施し
ようがないと診断が下された。
数日が山でしょうと言う声を聞いた気がする。
﹁お姉さま、聞こえてる?ソレイル様が少し、話をしたいと、そう
仰っているの⋮⋮﹂
もはや指先一つうごかせず、ただ暗く沈んでいくだけの視界を動か
せば確かにソレイルと思しき人物がこちらを覗きこんでいるのが分
かる。

161
感情の見えない薄氷の瞳。私が恋したその目がすぐ傍にあった。
だけど、目を凝らしてみてもその表情まで読み取ることはできない。
弱った目では、何も判別できなかった。
﹁⋮⋮イリア、私は⋮ずっと、君を憎んでいた︱︱︱︱︱﹂
視界の端には、彼らの子供らしき小さな影が二つある。
両親が心配なのだろう。私がこの屋敷に連れ込まれたとき、最も不
快感を示したのがこの二人だった。
顔なんてほとんど見えないのに、それがはっきりと分かったのだか
らよっぽどだ。
突然現れた、得体の知れない人間に警戒心を抱くのは分かる気がす
はしため
るし、お世辞にも貴族出身とは言えないだろう端女よりもみすぼら
しい娼婦を受け入れられないのは私にも理解できる。
それが、母親の実の姉であろうとも。
シルビアとソレイル、それにアル以外に私の身分を証明できる人間
はいない。
姿かたちもすっかり変わってしまっただろう。
それでも、ソレイルとシルビアが私をイリアだと言うから受け入れ
ざるを得なかったのだ。
伯爵家が私を迎え入れなかったのはきっと、両親の怒りが解けてい
ないからに違いなく、私が出奔した時点で私は伯爵家令嬢という身
分を剥奪されたに違いなかった。
﹁君が突然いなくなって、裏切られたと思った。幼いときから傍に
居て、いずれは夫婦になろうと誓っておきながら責務を放棄し逃げ
出すなんて、酷い女だと憎しみさえ抱いた﹂
﹁シルビアに、君にはずっと好きな男がいたのだと聞かされて私が
どれほど傷ついたか分かるかい⋮⋮?

162
夫婦になると約束した身でありながら、それほどの悩みを打ち明け
ることもできないほど信頼されていなかったのかと﹂
そうだ。私はシルビアに打ち明けたことがある。
好きな人がいるのだと。彼のためなら、何でもできると。
それはソレイルのことだったのだけれど。
︱︱︱︱︱ああ、そうか。私が出奔したことは、そんなところに結
びついたのか。
﹁聡い君のことだから気づいていただろう。私が君を愛していない
ことを。
しかし、だからこそ夫婦としてうまくやっていけるのではないかと
思っていたんだ。
親愛と友愛さえあれば、仲睦ましいとまではいかなくともそれなり
の関係を築けると信じていた﹂
独白のようなソレイルの言葉が静かな室内に響いている。
﹁そういった未来への展望を全て、君の出奔が打ち砕いたのだと﹂
そう思えば思うほど、君のことが憎らしく思えた。
だから、貴族出身の君が市井に下りれば苦労するだろうことは分か
っていたけれど、あえて放っておいたのだとソレイルは言葉を切っ
た。
自業自得だと、そう言いたいのだろう。
ソレイルの言いたいことはよく理解できた。彼にとって、彼の人生
は当然この人生が最初で最後。
彼はただシルビアに恋をしただけで、私を裏切ったわけではない。

163
私を愛してくれたわけではないが、少なくとも婚約者として誠実に
向き合おうとしていた。だからこそ、時間を見つけては会いに来て
くれたのだ。
私とシルビアが勉強しているときによく姿を見せたのはその為だ。
本当は、ただシルビアに会うためだったのかもしれないけれど、そ
れでも何か不実なことをされたわけではない。
裏切り者は私の方で、憎まれているのも私の方。
重ねた人生で何度ソレイルに裏切られようと、何度シルビアに愛す
る人を奪われようと、何度非業の死を遂げようと今生の彼には関係
ないことなのだ。
彼は知らないのだから。彼の想い描いた理想が果たされることなど
ないことを。
夫婦としてうまくやっていけるなんて、ありはしないことを。
﹁それでも、今は⋮⋮君に感謝している。こうしてシルビアと家庭
を築くことができたのだから︱︱︱︱︱﹂
ソレイルの声が遠くなる。
いつかのときとは違い、私の傍にはソレイルが居て妹も居る。
赤ん坊の声を聞きながら絶望の内に一人きりで死んだあのときとは
違うし、ロープを手に自ら死を選んだときとも違う。ここは牢獄で
はなく、拷問を受けたわけでもない。染み一つない天井に見下ろさ
れて、真新しい布団に優しく包まれて、寒さに凍えているわけでも
ない。
だけど、私はあの黒い瞳に優しく見つめられていたあのときにこそ、
死ぬべきだったのだ。
こんな風に死にたくはなかった。
全て有るのに、何も無いようなこの場所では。

164
繋いだ手は冷たく、私を緩く包み込むその体にも温もりはなかった
けれど、他に必要なものなど何もなかった。あの部屋には何もなか
ったけれど、きっと、全てがそこにあった。
カラス。
カラス。
貴方はなぜ、今、ここに居てくれないの︱︱︱︱︱


﹁⋮⋮イリア様?一体どうなさったの?﹂
柔らかく心地の良い声が聞こえて振り返る。
豪奢な金髪を揺らしてマリアンヌが形の良い眉根を寄せた。
﹁⋮⋮ああ、またあのお二人ね⋮⋮﹂
学院の食堂で昼食をとっていれば、その場が小さくざわめいた。
何事かとそちらに視線を向ければ、私の婚約者と妹が寄り添うよう
にして歩いていた。
ぼんやりとその姿を追っていれば、お似合いの二人だと囁く声が耳
に入る。
ソレイル様には、イリア様よりも妹のシルビア様のほうが相応しい

165
と。
正面で一緒に昼食をとっていたマリアンヌも私の視線を追うように
してそちらを見つめた。
﹁イリア様、あれはさすがに行き過ぎではなくて?﹂
暗に、シルビアの行動が貴族の子女としては良くないことではない
かと非難めいた色を乗せて問われる。
婚約者のいる男性といかにも親しげに歩いているのだ。その行動が
褒められたことではないというのは教えられなくとも知っておかな
ければならない。
だけど。
﹁⋮⋮妹は体が弱く、あまり常識というものを身に着けてこなかっ
たものですから⋮⋮﹂
そう言ってフォローするのが私の役目だ。
私は姉なのだから。
﹁イリア様、その言い分はさすがに聞き飽きましたわ。それに、お
気づきでないようですからあえて言いますけれど⋮⋮﹂
﹁?﹂
﹁貴女、泣きそうな顔をしていましてよ﹂
テーブルの上で紅茶のカップを握り締めていた私の手を、マリアン
ヌの細い手が浚う。
﹁このままで、よろしいの?﹂

166
ソレイル様を、愛していらっしゃるのでしょう?
優しく包み込むように言われて返答に詰まる。
かつての私はソレイルを確かに愛していた。
そして今生の私も、ソレイルに出会ったそのときに彼に恋をした。
あの茶会を終えて、ソレイルがシルビアに恋をするのを目の当たり
にして恋心が潰えたかと言えばそうではない。
だけど。
だけど、何かが違う。
何かが、違うのだ。
167

くすんだ鉄の色だと、彼女は視線を落とした。
老婆の髪だと。
そんなことはない、と言おうとして口を開くが言葉が出てこない。
自分の意思に反して﹁そうだな﹂と嗤う。
それを聞いて、彼女は視線を落としたまま口元にだけ小さく笑みを
浮かべた。
もちろん喜んでいるわけではない。
しかし、悲しんでいるわけでもない気がした。
そう、それは例えるなら、諦念だ。
もう全てを、何もかもを諦めた者がする顔だ。
訂正すべきだと分かっているのにやはり気のきいた言葉が出てこな

168
い。
︱︱︱︱︱これは、何だ。
これは、こんなのは、俺ではない。
彼女を傷つけるなんて。
彼女にそんな顔をさせるなんて。
これが、俺のはずがない。
褪せた緑色の瞳は枯れる直前の葉に似ていると、両親も好ましく思
っていないようなのです。とまた一つ笑った。貴方もお好きではな
いでしょうと彼女は小さく息を吐く。
聞く人によれば、ただ単に愚痴を零しているかのような呟きである。
ともすれば聞き流してしまいそうな。
しかし、否定されることを期待しているわけではないとすぐに分か
った。
そんなものを求めているわけではないのだ。
俺に問いかけているようにみせかけて、実は答えなど必要としてい
ない。
肯定されて当然だと、そう思っているかのような素振りだった。
なぜそれ程に己を卑下する必要があるのかと、そんなことを口にし
ようとして、結局出てきたのはため息だけだった。意識してやった
わけではないが、吐き出す息を飲み込むことができなかった。
まずい、と確かに思ったのに吐き出したものを元に戻すことはでき
ない。
それをしっかりと聞いていたらしい彼女は、驚きもせずに一度だけ
強く瞼を閉じて、今度は逸らすことなく真っ直ぐにこちらを見据え
てきた。
その余すことなく光を取り込むその瞳は、彼女自身の評価を覆すに

169
足りる。
褪せた緑なんて、そんなことを思ったことは一度もない。
確かに淡い色彩ではあるが、角度を変えると僅かに琥珀が混じって
いることに気づく。
それは、他の何にも例えることのできない、この世に只一つの色だ
と思っていた。
彼女のその目に捉えられたとき、なぜか満ち足りた気分になる。ど
うしようもなく気分が良い。
そんな不思議な色を宿した瞳だとずっとそう思っていたのだ。
しかし、それをはっきりと言葉にして伝えたことはなく、今がその
ときだと思うのに、唇は空気を食むだけで声が出ない。
何か、自分に思いも寄らない力が作用している。
言わなければ。早く言葉にしなければ。
そうしなければ、彼女の心を失う。
それが分かっているのに縫い付けられたように舌が動かない。
﹁ああ、もうこんな時間ですわ。私、礼儀作法の授業がありますの。
ソレイル様はどうぞゆっくりしてらして。ほら、あの子も参ります
し﹂
彼女の視線を追えば白銀の髪を揺らした小柄な少女が微笑みを浮か
べながら近づいてくるのが見えた。
伯爵家の庭に用意された茶会の席は、向かい合わせの席が二つだけ
だ。
もしかしたら、イリアは初めからこの席に着くつもりがなかったの
かもしれない。
実際、彼女は挨拶も早々にたった数分言葉を交わしただけで立ち去
ろうとしている。

170
︱︱︱︱︱なぜだ。
この茶会は、君と婚約者たる俺のために用意された席だろう。
そう言おうとして、﹃あの子﹄と称された少女がすぐ傍まで来てい
ることに気づく。
少女の視線は自身の姉ではなく、その婚約者である俺の顔に固定さ
れていた。
その視線を受けても心は動かない。⋮はずなのに、なぜか口元に笑
みが浮かぶ。
嬉しくない。可笑しくもない。しかし、嬉しくてしょうがない。可
笑しくてしょうがない。
まるで酩酊しているかのような感覚だ。
﹁⋮⋮久しぶりだね。体調はどうだい?﹂
到底自分のものとは思えない唇が少女を気遣う言葉を吐く。
その間にもイリアとの距離は広がるばかりなのに、追いかけること
さえできない。
地面に固定されたかのように足の指一つさえ動かすことができない
のだ。
﹁今日はだいぶ気分が良いんです。熱もありませんし﹂
頬を染めた少女が恥らうように瞳を伏せて、その稀有な紫眼を隠す
ように長い睫が影を落とした。
ああ、もったいない。
なぜかそんなことを思ってしまう自分が居て、その瞳を覗き込もう
と腰を落とす。
不思議そうに瞬いた澄んだ瞳に自分の間抜けな顔が映り込んで、弾

171
かれるように身を引いた。
︱︱︱︱︱違う。この目じゃない。
この目に映りたいのではない。
﹁⋮⋮お兄様⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮言っただろう?お兄様はまだ早いんじゃないかって。だから、
さぁ﹂
名前を呼んで。
甘く囁くような声がどこか遠くから響いているような気がして頭の
芯が痛む。
これは、何だ。
俺は一体、何を言っている。
気分が悪い。
吐きそうだ。
﹁⋮⋮ソレイル様?﹂
ちらりとこちらを見上げる熱のこもった目差し。
いつかどこかで確かにその目を見たような気がして、だけど、そん
な目を向けられる理由も分からず呆然とただ立ち尽くす。
いや、そう思ったのは一瞬で、俺は躊躇いを覚えながらも少女の薄
い肩にそっと触れる。
﹁また具合が悪くなるといけないからね。座ったほうがいい﹂
己の口から、自分のものとは思えない囁くような声が零れる。

172
﹁ありがとうございます﹂と何の躊躇いもなく引いた椅子に腰を落
とすその動きを見つめながら、本来ならイリアが座るはずだったの
にと、そんなしょうもないことを思った。
追いかけることさえできなかったのに、何を考えているのかと。
その間も、イリアの妹だというその少女がさも嬉しそうに笑いなが
ら語りかけてくる。
︱︱︱︱︱シルビア。ああ、そうだ。彼女は、俺の⋮⋮俺の、俺の
⋮⋮?
﹁⋮⋮ソレイル様、いつもありがとうございます﹂
触れれば大気に溶けてしまいそうな細い髪が宙に舞う。
誰もが美しいと誉めそやすその髪。侍女が念入りに手入れしてくれ
るので、と大したことでもないかのように微笑を浮かべる。
私も自慢に思っているんです、と。
﹁何に対するお礼なのか聞いても良いかい?﹂
﹁⋮⋮私に、優しくして下さって⋮本当に、感謝しているんです。
ソレイル様がいらっしゃらなければ、こうやってお庭でお茶を飲む
ことさえ許してもらえなかったでしょうから。
両親も姉も過保護なんです。私が風に当たるだけで病気になると思
ってる⋮⋮﹂
﹁⋮⋮残念ながら、そう思っているのは君のご両親やイリアだけで
はないよ﹂
﹁ソレイル様も?﹂
﹁ああ、そうだね﹂
﹁そう、なんですか⋮⋮﹂
﹁だが、気分転換も必要だと思っているよ。君はもっと外に出たほ
うが良い。

173
空の色も土の感触も空気の臭いも、誰かと目線を合わせて言葉を交
わすことも、想像するよりもずっと素晴らしいものだから。それは
少なくとも、生きる希望になる﹂
俺の言葉を真摯な眼差しで聞いていたシルビアが﹁生きる、希望﹂
と単語をなぞるように呟く。
そして少しの間を置いてから、その揺らめく瞳で俺の顔をじっと見
つめた。
﹁⋮⋮なってくださいますか?生きる希望に﹂
﹁ん?﹂
﹁﹃誰か﹄ではなく、貴方が良いです﹂
夢見るような顔で少女が言う。
その背景を飾るように、彼女たちの母親が育てたという大輪の薔薇
が咲き誇っている。
向こう側が透けてしまいそうなほどに白い肌をうっすらと朱色に染
めて、少女が返事を待っていた。
再び、自分の意思とは関係なく言葉が勝手に紡がれていく。
﹁⋮⋮もちろんだよ、シルビア﹂
私は、君の兄になるのだから。
つい先ほどは﹁お兄様﹂なんてまだ早いと否定しておきながら、白
々しくもそう言った自分の声が僅かに高揚している。一刻も早く、
それが事実になれば良いと思った。
自分がシルビアの生きる希望になれるなんて、それ以上の幸福があ
るだろうかと、そんなことさえ思っている。
心底嬉しそうに破顔するシルビアと、それを受けて口元を緩める自
分。

174
どんな茶番なんだと思いながら、この穏やかな時間がいつまでも続
けば良いと思う。
自分はどう足掻いても彼女の﹁義兄﹂にしかなれない。
だが、彼女の、シルビアの傍に居られるのであればそれで十分だと
さえ思える。
︱︱︱︱︱いや、違う。なぜだ。そんな馬鹿なことを思うはずがな
い。
だって、俺は。
俺は、イリアの婚約者なのに。


﹁なぁソレイル。君の婚約者さん、最近良くないよ﹂
剣術の稽古中に友人が話しかけてくる。
爵位が高いせいで敬遠されがちな自分にも気さくに話しかけてくる
友人だ。
幼少期から知っているということもあり気心が知れている。
﹁⋮⋮良くないというのは?﹂
﹁君に近づくありとあらゆる女性を牽制して回っているって噂﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁あれ?知らなかったんだ。学院中の噂になってるけど。婚約者の
悋気が怖いから、君には近づかないほうが良いって﹂
友人が肩を竦めて苦笑する。女の嫉妬は怖いね、と。
それを聞くとも無しに聞きながら、噂になっているというのが到底、
自分の婚約者だとは思えない違和感に首を傾いだ。

175
噂を否定する要素はない。それほどにイリアの一挙手一投足を知っ
ているわけではないから。
だが、自分の知っているイリアは、大人しく前向きで努力を惜しま
ず、その一方で何事にも執着しない人間だったはずだ。
﹁信じられないって顔してる﹂
友人がにやにやと嫌な笑みを浮かべ﹁だけど、僕もその現場見ちゃ
ったんだよね﹂と双眸を鋭くした。
﹁あれは、醜悪だったよ﹂と、イリアを貶めるような発言をする。
カッとしたのはほんの一瞬で、やがて彼に同意するかのように口元
が奇妙に歪んだ。
恐らく、嘲笑と言った類のものだ。
︱︱︱︱︱なぜ、そんな顔をする?
己のことなのに感情を制御することができない。
彼女はそんなことをする人間ではないと否定すべきなのに、他の誰
が彼女を疑っても、自分だけは彼女を信じるべきなのに、そうでき
ない。
﹁そういえば、君の婚約者さんには妹君が居るらしいじゃないか。
伯爵家の秘匿された姫君が、とうとう社交界に顔を出したって話題
になってたよ﹂
思い通りにならない肉体と相反する想いを抱えて歯噛みしていると、
その間にも話題が転換していく。
﹁妖精のように愛らしいんだって?病弱だって言うのが惜しいけど、
控えめで人柄も良いって僕の両親は誉めそやしていたよ﹂

176
﹁僕もぜひお目にかかりたかったんだけど、挨拶も早々に、体調を
崩したとかで姿を隠してしまったとか﹂
実際にシルビアを見たわけではないようなのに、友人はどこか夢見
心地で語った。
銀色の髪に紫の瞳なんて妖精じゃなくて女神様かもしれないね!と
声高に叫ぶ友人に鷹揚に肯きながらも、それと知られないように眉
を顰める。
﹁何なに、何の話だい?﹂
友人の声に引きづられるようにして、いつの間にか周囲の視線が集
まっていた。同じ騎士課の生徒だ。
それに気分を良くしたのか、他の生徒にまでシルビアの話をしてい
る。
社交界に唐突に現れた美貌の少女がイリアの妹だということも包み
隠さず。
彼女たち姉妹の外見が、全く異なっていることも大仰に語って聞か
せている。
イリアについては己が見たそのままの印象を。シルビアについては、
彼の両親が語って聞かせたらしい社交界での彼女の印象を。両方と
も僅かばかりの誇張と夢想が含まれているばかりに、実際の彼女た
ちとは異なる姿となっている。
訂正すべきかと口を開くも、こちらに向かってくる抑えきることの
できない好奇の目が、否定しても無駄だろうということを語ってい
る。それに、口を開いたは良いが何をどう否定すれば良いのかも分
からない。
そんな心情に気づきもしない彼らは、社交界の話題をさらっている
噂の少女の話を聞きたいらしく距離を詰めようとしてくる。
結局、仕方なくその視線を避ける為に目を伏せた。

177
友人の言っていることは、正しくはないが間違いでもない。
シルビアは確かに美しい。
その輝かんばかりの髪は特に目を引き、華奢な体は言うまでもなく
庇護欲を誘う。
宝石に例えられる瞳は、この国ではほとんどお目にかかることはな
い稀有な紫だ。
それを言葉にすることは容易い。
友人に語って聞かせることもできただろう。
だが、イリアの婚約者という立場はそれを許さない。
そんなことをすれば、まるで、俺が婚約者の妹に懸想しているよう
に思われる。それは良くない。
それに、この中で唯一シルビアと接触しているであろう俺がそれを
語ってしまえば、彼女は途端に、想像の産物から血の通った人間へ
と姿を変える。
それは非常に危険なことだと思えた。
いたいけな少女に、良くない輩が接近して来ないとは言えない。
そうだ。俺はいずれ彼女の兄となるのだから。
シルビアを守らなければ。
つい先日、誰かが﹃ソレイル様はお優しくていらっしゃる﹄と口に
するのを聞いた。
﹃シルビア様が仰ってましたよ。夜会のドレスを用意してくださっ
たのはソレイル様だと。婚約者の妹君にまでドレスを用意するなん
てなかなかできたことではないでしょう。シルビア様もご両親もは
それはそれは喜んでいらっしゃいましたよ﹄と。
その含み笑いの意味を知らなかったわけではない。
やりすぎなのではないかという非難の意味が込められていたのも分

178
かっている。
だが、それで良いと思った。
シルビアが喜ぶのであれば。
俺を、生きる希望にしたいと懇願するように言った少女が笑ってく
れるのであれば。
それで良いのだと、本気で。
︱︱︱︱︱いや、違う。何を言っているのだ。
そんなはずはない。まさか、そんなことを思うなど。
どうかしているとしか思えない。
俺は、一体、どうしてしまったんだ。
﹁ほらほら止めないか皆。ソレイルを困らせるんじゃないよ﹂
明らかに拒絶しているというのに、それでも尚、シルビアについて
の情報を聞き出そうとする同級生に友人が声を掛ける。先ほどまで、
自身もその輪の中に入っていたというのに現金なものだ。
﹁ソレイルだって、可愛い可愛い妹君を隠しておきたいに決まって
いるんだから﹂
その言葉が、すっと胸の底に落ちてくる。
ああ、そうだ。俺は彼女を誰にも見せたくない。
︱︱︱︱︱久方ぶりに顔を合わせたイリアが視線を下げて笑みを灯
す。
﹁⋮⋮シルビアに、優しくしてくださってありがとうございます﹂

179
歪な笑みは、今にも泣き顔に変わりそうだった。
月に数回、特別な用事がなければ、どちらかの屋敷を訪れて親睦を
深めるというのが両家の取り決めだった。たった数時間、顔を合わ
せるだけの単調な時間だが、退屈だったわけではない。
上辺だけのお洒落な会話を楽しもうとする他の女性とは違い、頭の
良い彼女と言葉を交わすのは面白く実りある時間だった。
だから、今回もそういう時間を期待していた。
﹁シルビアにドレスをご用意してくださったとか⋮⋮私、知らずに
おりましたので⋮⋮﹂
ところが、顔を合わせたその瞬間、彼女は頭をすっと下げる。
初めて会ったときにそうだったように、不安で揺れる心情を悟らせ
まいとするかのように。
それに気づいていながら彼女を気遣うこともせずに﹁いいんだよ﹂
と首を振る。
いずれは家族になるのだからと。
そう言えば、イリアはじっと俺の顔を見上げてまた一つ笑みを落と
す。
﹁ソレイル様が婚約者で、私は、本当に幸せ者ですね﹂と、笑って
いるにも関わらず、ほんの少しも幸せそうではない顔で言った。
それを見て﹁一体、何が不満なんだ﹂と、そんな理不尽な言葉が口
から滑り落ちそうになって寸でのところで留まる。
己が今しがた何を口にしようとしていたかさえきちんと理解できな
い。
ふとこちらを見上げたイリアは、大きな目を更に大きくして、自ら
褪せた緑と評した見つめ返してくる。

180
﹁⋮⋮不満など、何も、ありません﹂その声が不自然に震えた。
留まらせたはずの言葉を知らずうちに発していたのだと気づいて息
を飲むが、もう遅い。
﹁本当に、不満など、﹂
黙っている俺の機嫌を損ねたのかと思ったのか、イリアは重ねて訂
正する。
懺悔するかのように、胸の前で組んだ彼女の指先が白く染まってい
る。
どれほどの力で握り締めればそんな色になるのだろう。
爪の先が肉に食い込んでいるのに気づいて思わずその手を掴みそう
になるのに両腕が麻痺してしまったかのようにぴくりとも動かない。
己の失言を悔いているのに、それを訂正する言葉さえ浮かばない。
﹁誤解を招いてしまったのであれば、申し訳ありません﹂
下を向いてしまった彼女がどんな顔をしているか分からない。
だが、顔を上げるように促すことさえできない。
イリアは悪くない。何も悪くないのに。
彼女に酷いことをしていると分かっているのに、何一つ思い通りに
ならない。
これは何だ、一体、何を見ているんだ。
俺は、俺は、一体。
いや、お前は一体、誰なんだ。 181

﹁いやぁ、君たちの結婚式は本当に素晴らしかったね。君の婚約者
さん⋮いや、今はもう奥方か。彼女も⋮あくの強い女だとは思って
いたけれど、口数が少なければ、それなりに見られるじゃないか﹂
遠慮のない友人の言葉に苦笑を浮かべるだけの自分が居る。
イリアは元々そんなに言葉数は多くない。だが、彼女の苛烈な面を
目にしたことがあるという友人には何を言っても無駄なのだろう。
イリアが普段から他人を口汚く罵っている人間だと思っている節が
ある。
﹁それになんと言ってもやっぱり、シルビアちゃんだね!まるで天
使のようだったじゃないか!﹂

182
興奮気味に両手を強く握り締めて、いつかの日と同じように声高に
叫ぶ友人に周囲の視線が集まる。
所属する騎士団の遠征を終え、やっと本拠地に戻ってきたところだ。
もう数週間も自宅には帰っておらず、新婚だというのに難儀なこと
だと上官は笑っていた。
手紙でも書いてやれば喜ぶだろうと言われたのだが、婚約時代から
会話らしい会話をしたことがない二人だ。街に下りて女性が喜ぶよ
うな便箋は購入したのに、そのまっさらな紙にペン先を落とした途
端に、指が硬直してしまった。
せめて、彼女の体調を気遣う言葉を書き出せば良いと思うのに、ひ
ねり出した言葉は領地の様子を案じているということと、領民はつ
つがなく過ごせているかという事務的な言葉だけだ。
まるで報告書のような文面に呆れるしかない。
元々は、そんなことを書くつもりではなかったのだ。
もっと個人的な、例えば、遠征地にはイリアの好きな白い花が群生
していてとても美しかったことや、街に下りたときに見つけた髪飾
りが彼女の髪色に映えそうだったことや、盗賊団の捕縛には骨が折
れたけれど何とか任務を果たしたことだとか、遠征は想像していた
よりもずっと過酷だったけれど友人たちに支えられたことだとか、
本当に些細なことだったけれど、彼女が知りたがっているだろうこ
とを書き連ねるつもりだったのだ。
それなのに、ペン先は勝手に違う言葉を選んで文章を紡いでいく。
やっとのことで書き上げて、便箋を折りたたんで封筒に入れたとき
には、両肩の重みが増していた。
口から漏れるのはため息ばかりだ。
遠征中は空いた時間のほとんどを、手紙を書くことに費やしていた
気がする。
面倒だと思わなかったわけではない。だが、俺は﹁良い夫﹂になり

183
たかった。
政略結婚という貴族の義務を果たした父親が、一つだけ成し得なか
ったそれを、自分には果たす責任があると理解していた。
帰りたい。早く、帰りたい。顔を合わせればきっと、自然に言葉が
生まれてくるに違いない。
物理的な距離と、心の距離が比例しているのだ。きっと、そうだ。
︱︱︱︱︱だが、心のどこかでは、このまま顔を合わせなくても済
むのであればそのほうが良いと思う自分も居る。
彼女は、俺の顔を見て、きっと視線を落とすだろう。昔からそうだ
った。だから、その姿を想像するのは容易い。
嫌がっているわけではないと知っているので、どうしたのかと聞い
たこともある。
だが、彼女は微笑みを浮かべて小さく首を振るだけだ。
﹁何でもありません﹂と。
柔らかな面差しに、何か別の意思を秘めて。
その意思の深さを、強さを、俺は知らない。
そっと窓の外を見やれば冷めた月がこちらを見下ろしていた。
自宅に戻れるのは明日の朝になりそうだ。
目を閉じれば、なぜか、ふっと浮かぶ銀色の髪。
シルビアはどうしているだろうかと、そんなことが胸を過ぎる。
妻の顔よりも、妻の存在そのものよりも、その妹のことが先に浮か
ぶその事実に少なからず動揺している自分がいるのに、遠征中、気
づけば彼女のことばかり考えていた。
そして、妻への手紙とは別にもう一通手紙をしたためていたのだ。
こんなのは間違っていると、頭の中に響く声を無視して書き続けた。
時には手紙の中に押し花を同封して、あの小さな少女の喜ぶ顔を夢

184
想する。イリアには一度もしなかったそれを、何の躊躇いもなくや
ってのける自分に寒気がする。
それなのに、やはり己を制御することができない。
あの子は俺の妹なのだから。
その身を案じるのは当然のことだと、言い訳まで用意して己の行為
を正当化する。
一人で何でもやってのけるイリアとは違い、目を合わせれば縋るよ
うな眼差しを向けてくるシルビア。
一人では立ち上がることさえ困難な彼女の姿に安堵感を覚える。
そこに存在するのは、幼少期から思い描いていた理想の自分だ。
頼られる人間になりたかった。
誰かを守って大切にする、強い人間でありたかった。
しかし、自分の隣に立つ人間は、誰かの庇護が必要となるような脆
弱な人間では駄目だった。
執政とは、それほど容易いものではない。
弱みを見せた瞬間に足元を掬われる。だからこそ、そんな弱みに成
り得る人間を伴侶とするわけにはいかなかった。
己で考え、意思を示し、自分の足で立ち、有事の際は自らが先頭に
立って指揮を出すような人間でなければ。だからこそ、イリアを選
んだのだ。
政略結婚だったからこそ、というのもあるが、理由はそれだけでは
ない。
彼女とは幼少期から婚約を結んでいたが、もしも彼女に侯爵家夫人
としての素養が足りなければ、いつでも解消できたはずの仲だった。
彼女はそれを知らなかったけれど、それでも努力を怠らなかった。
俺のことを好きだと、真摯に訴えてくるその態度が好ましく、愛は
芽生えそうになかったけれど信頼なら与えられるだろうと、そう思
ってきた。

185
実際、そうなのだ。
彼女を信頼しているし、信頼されているはずだ。
そんな風に毎日を積み重ねて、俺たちは正真正銘の夫婦になる。
そうなるべく、誓いをたてた。
愛が芽生えることはなくとも、せめて、背中を預けることのできる
戦友くらいにはなれるだろうと、そう考えていたのだ。
それなのに。
︱︱︱︱︱ガシャンッ!!
引き抜いたテーブルクロスを床に叩きつければ、それと一緒に飛散
する陶器の欠片。
呆然とこちらを見つめていたイリアは、思わずと言ったようにそれ
らを追いかけて躓いた。
彼女を助ける手はなく、面白いほどあっけなく床に倒れこむ。
無様とも言えるその姿に冷笑を浮かべる自分が居た。
シルビアが、死んだ。
その事実に、体の底から沸きあがる激情を抑えることができない。
悲しみが勝ったのはたった一瞬のことで、一つ呼吸を置けば、途端
に憎悪が支配した。
体の内側を燃やすような憎しみと怒りが渦巻いて、口を開けば呪詛
を吐いてしまいそうだ。
ふうふうと獣のように息をもらして、やっと言葉にできたのは。
﹁︱︱︱︱︱君か﹂

186
君が、シルビアを殺したのか。
そう口にする自分の声を、どこか遠い場所で聞いているようだった。
まるで他人事のように流れていく風景がそこにある。
それでも、シルビアが死んだと聞いて明らかにほっとした様子を見
せたイリアに、核心を得た。
思わず手に取ったナイフを構えて、彼女の首に突き立てるつもりで
大きく足を踏み出した。
家令が、彼女を庇うように半身を乗り出したのが見えていなければ、
確実にナイフの切っ先はその薄い皮膚を貫いていただろう。
頭が真っ白になるというのは、まさにこの状況のことだった。
﹁旦那様!﹂と、ほとんど威嚇するような声を上げた家令の声に戦
意を奪われる。
指先からナイフが滑り落ち、それと同時に全身が脱力したような虚
無感に立っていることさえままならなくなった。
かろうじて座り込まずに済んだのは貴族としての、男としての、矜
持があったからかもしれない。
妻を殺さずに済んでほっとしているのか、それとも、果たせなかっ
たことを悔いているのか分からなかった。
信頼していた。大事にしてきたつもりだった。
妻としての彼女を信用していたのだ。
そう思ったら、もう、彼女の顔さえ見たくなかった。
嗚咽交じりに何かを訴えてくる彼女の声が纏わりついてくるようで
不愉快極まりない。
吐き気さえ覚えて、こちらに伸ばされた彼女の指を視界に捉えてい
ながら、ふらつく足を叱咤するようにして部屋を出る。
シルビアに、会いに行かなければ。
もしも、あの子が本当に死んだといのなら、せめて別れの言葉くら

187
いは言いたい。
イリアを断罪するのはその後で良い。
妹を殺した、あの女を、許すつもりなどない。
︱︱︱︱︱違う、違う、違う⋮⋮!!
なぜだ。なぜ、そんな結論に至るんだ⋮⋮!
お前は、一体何を言っている。
イリアがそんなことをするはずがない。彼女は、そんなことができ
る人間ではない。
確かに、妹と心を通わせていたとは言い難いだろう。仲の良い姉妹
とは程遠かった。
だが、殺したいほど憎んでいたわけではないはずだ。
イリアは、妹を、シルビアを愛している。
そうだ、そのはずだ。
﹁イリアが犯した罪の証拠を集めるんだ。一つ残らず、全て﹂
後を追ってきた家令に命を下せば二つ返事で姿を消した。早速、仕
事に取り掛かるのだろう。
優秀な家令のことだ。仕事を終えるまでに然程時間は必要ないと見
ていい。
その間に、イリアとの離縁の準備を進めておかなければ。
身内殺しは重罪であり、貴族と言えど言い逃れはできないが、侯爵
家となれば話は別だ。
イリアが爵位に守られることがないように侯爵家から籍を抜き、実
家である伯爵家からも絶縁してもらわなければ。
︱︱︱︱︱待て、待ってくれ。

188
一体、何をしようとしているんだ。
俺を生きる希望と呼んだあの子を殺した。
その罪は、償ってもらわなければ。
︱︱︱︱︱やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ⋮⋮!!!
死よりも恐ろしい現実を、見せてやる。
︱︱︱︱︱なぜ、どうして、
﹁⋮⋮お前⋮⋮なぜ、そこまで非道になれる⋮⋮?彼女は仮にも、
お前の妻だろう﹂
所属する騎士団に休暇を願い出て屋敷に篭り、離縁を申請するため
の書類を取り纏めていれば、見舞いだと現れた友人が顔をしかめる。
久方振りに顔を合わせたその男には、いつもの陽気さが見えない。
かつて、俺の﹁妻﹂であったイリアを侮辱した男だ。
醜悪だと罵り、幻滅したと笑っていた。
お前だって、彼女がシルビアを殺したのだと聞いて激昂していたじ
ゃないか。
こうなったのは、イリアの自業自得だ。俺がそうしたわけじゃない。
﹁ソレイル、僕は⋮⋮見ていられないよ。君のことも、彼女のこと
も﹂
なぜ、許してやらないんだ。
俯いた友人がぽつりと零す。

189
許す?何を言っているんだ。許す理由がどこにある。
彼女はシルビアを、殺したんだ。
﹁君は一度でも、彼女に会いに行ったかい?
彼女はまだ信じてるよ、君が、迎えに来てくれるって﹂
友人の声が不自然に潰れる。
泣いているのかもしれないと思ったが、彼が涙を零す意味が分から
ない。
首を傾いでいれば、信じられないものを見たような顔をして右手で
顔を覆った。
﹁君は、人殺しになるつもりなのか⋮⋮?﹂
くぐもった声で問われた言葉の意味を考えるのだが、やはり分から
ない。
人殺しなのは、イリアの方だ。
なぜ、俺が責められなければならない。
俺は正しいことをやっているんだ。
正しいことを。
190
191

白いシーツに散らばる銀色の髪。
染めているのだと言っていた。確かに、あの子の髪とは似ても似
つかないが、どこかがどうしようもなく似ている。
現実とは程遠い世界で生きている俺の目には、確かに、焦がれて
止まないその色に見える。
こちらを見上げてくるその瞳は薄紫。
この国では稀有なその色も、彼女の国ではそう珍しい色ではないと
言う。
触れることさえ叶わなかったその肌を思い出しながら、あの子の、
シルビアの姿を重ねた。
妖精だの天使だのと噂されたシルビアが死んだことは、翌週には

192
社交界に知れ渡っていた。
しかも、病死などではなく強盗殺人。それを仕組んだのは彼女の実
の姉であり、次代の侯爵夫人だ。
社交界に走った動揺は凄まじいものがあった。
俺自身が騎士として家から離れることが多く、社交はイリアに任
せきりだったこともあり、彼女と懇意にしていた貴族は多かった。
それ故に、彼らは自らの潔白を証明する必要があった。もしも仮に、
イリアに手を貸したと判断されれば投獄される可能性もあった。
例えそれが事実ではなかったとしても、罪をでっち上げることな
ど容易い。
常に絶妙な力関係で均衡を保っているのが社交界だ。この機会に、
敵対勢力を潰しておこうとする動きもあった。
その為、事態の収束にあたったのは、我が家を中心とした上位貴族
だった。
元々、イリアのことをただでは許す気などなかった。
両親に助力を乞い、イリアを断罪する為に各方面へ根回しをして、
彼女が罪から逃れることができないように奔走した。
しかし、出身が伯爵家第三位という家柄がそうするのか、離縁した
とは言え侯爵家の嫁だったという立場がそうさせるのか、彼女を追
い詰めるには相当に骨が折れた。
幾人かが協力に名乗りを上げてくれたおかげで、何とか、イリア
を平民用の牢屋に押し込むことができたのだ。
全てをやり終えたときには、季節が一巡していた。
刑が執行されたとは聞かないから、彼女はまだ投獄されているの
だろう。
だが、後はもう俺の知るところではない。
おおやけ
罪状からすれば極刑は免れないだろうが、刑の執行が公になるこ
とはない。

193
沈静化した出来事を蒸し返すのは、国の中枢を担う人間が許さな
いだろう。
それが分かっているから何なのか、ともかく、この頃、酷く疲れて
いて何もする気が起きないのだ。
この喪失感を言葉にすることさえ億劫で、仕事にも身が入らず、失
態を晒した。
上官に、長期休暇とは名ばかりの謹慎を言い渡されたばかりだ。
そんな中で、耳に飛び込んできた、とある噂話。
銀髪、紫瞳の少女が春を売っている。
小柄な体躯に細い四肢、見上げる眼差しは純粋無垢で、まさに妖
精もかくやという儚い姿だという。
話を聞けば聞くほど重なるシルビアの姿。
実際に足を運んでみれば、その容貌は天地ほどの差があったけれ
ど、それでも、あの子の姿を夢想するには事足りていた。
何より、こちらを見上げる無垢な眼差しが、あの子を思い起こさ
せる。
その姿を見ていれば、それだけで満足だった。
﹁ソレイル様、私、貴方がいないと生きてはいけません⋮⋮﹂
﹃⋮⋮なってくださいますか?生きる、希望に﹄
今はもう、夢の中でさえ思い出すことのできないその声が聞こえ
た気がした。
手の平が、安いベッドの硬くて薄いマットに軽く沈む。
その様子を夢見心地でぼんやりと眺めていると、ふ、と落ちる黒い
影。

194
こちらを見上げていた少女の眼差しが逸れて、その大きな目を更に
見開いて小さく悲鳴を上げた。
その視線を追うようにして振り返れば、肩越しに、剣先が見える。
反射で体が傾いだ。少女を庇いながら転がるようしてベッドを降
りれば、肩に衝撃が走る。
痛みを理解するよりも前に背中を床に打ちつけ、革靴が俺の肩を
踏んでいることに気づいた。
﹁⋮⋮いい、ご身分だな。ソレイル殿。昼間から娼館通いか﹂
こちらを見下ろす男の背後から、薄明かりが落ちてくる。
逆行になっているせいでその表情までははっきり見えないが、き
らきらと揺らめくようなその金色の髪には覚えがあった。
なぜ、そう呟いた自分の声が静まりかえった室内に響いた。
﹁死んだかと思ったか?生憎、騎士仲間は結束が固いんでな。友
人に助けられたよ﹂
不敵に笑うその姿に違和感を覚える。
彼はこんな風に笑う男だっただろうか。こんな口調で喋る男だっ
ただろうか。こんな風に、誰かを睨みつける男だっただろうか。
俺の目よりもずっと濃い色の瞳は、澄んだ湖面のように穏やかで、
温かみのある眼差しをしていたはずだ。
喜びを感じているときでさえ冷淡だと言われる俺の目とは全く違
うと、いつも感じていた。
その目で、彼女を包み込むように守っているその姿を、いつも視界
の端におさめていた。
﹁なぁ、あの方がお前の為にどれほどの努力をしてきたか知って
いるか?

195
ああ、そうだ。知っているだろう。周囲がお前に言ったはずだから
な。お前の伴侶となる為に精一杯の努力をしていると。⋮⋮だが、
それがどれだけのものだったか、お前は見てきたわけじゃない﹂
鋭い視線には、かつての温かみなど何処にも存在していなかった。
深い慈しみを湛えていた瞳は暗い影を帯びて、今にも闇に飲まれて
しまいそうだ。
そんな目をした男が、抑揚のない声で淡々と語る。
﹁語学を修める為、もしくは領地経営を学ぶ為、あるいは淑女と
しての礼儀作法を身につける為に、寝る間も惜しんでいた。夜中に
吐いている姿を何度も見たことがある。声をかけることさえ憚られ
るその姿は、病弱だと言われていた彼女の妹よりもずっと凄惨だっ
た。繰り返す嘔吐のせいで喉が焼け、彼女はいつの間にか、その澄
んだ声を失っていたんだ﹂
彼女のもっていた辞書を見たことがあるか?行間は書き込みで真
っ黒だった。何度も読み返した後がある経営学の本はページの端が
ぼろぼろだった。
指にできたペンだこのことを知っているか?なかなか消えない目
の下の隈のことは?胃薬を常備していたことは?
お前はそれを、一つでも見たことがあるのか?と、肩に乗った足が
ぐっと重みを増した。
体を支えられず上体を斜めに反らせば、背後に隠れていた少女が
はっきりと悲鳴を上げる。
そして、何事かを喚きながら部屋から出て行った。
助けを呼びに行ったに違いない。
その姿を一瞥した男が、影の落ちた顔でもはっきりと分かるほど深
い笑みを浮かべる。

196
﹁あの方が⋮⋮朝、目覚めたときに、まず一番に気にするのは婚
約者のこと。夜眠るときには、傍に居るわけでもないのに婚約者に
おやすみを言うんだ。寂しいとは、ただの一度も口にしなかった。
迷惑をかけたくなかったんだ。決まった日にしか会いに来ない婚約
者のことを、それでも、愛していた﹂
初めから、それが、政略結婚だと分かっていながら。
返されるはずのない愛を、信じていた。
﹁侯爵婦人になるはずだった。誰からも敬われ大切にされる存在
になるはずだった。それだけのことを、あの方は、してきたのに︱
︱︱︱︱﹂
押さえ付けられていた体がふと自由になり、半身を起こせば、は
らりと舞うように水滴が落ちてきた。
﹁⋮⋮あんな場所で、あんな惨たらしい死に方をする方では、な
い︱︱︱︱︱!﹂
掠れるように搾り出された言葉に、なぜか、笑みが浮かぶ。
そうか、死んだか。と満足気に呟く声を確かに聞いた。
それは他でもない、自分自身から発せられた声だった。
﹁お前だけが、あの方を救えたのに、﹂
︱︱︱︱︱なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、俺は、お前は、笑っているんだ。
笑っている俺を見下ろすその男が﹁冤罪だと、本当は、知ってい

197
たはずだ﹂と震える唇で呟く。
その唇の端を、いくつもの水滴が滑り落ちるのを眺めていた。
振り上げられた白刃を、ただ、見つめているだけの自分が居る。
誰かが﹁止めろ!﹂と叫んだ。いつの間に現れたのか、男の背後
に幾人かの影が見える。
﹁アルフレッド⋮⋮!!こんな奴の為に、騎士の誇りを血で汚す
つもりか⋮⋮!﹂
﹁騎士の誇りなど、とうに捨てた⋮⋮!!あの方を失ったそのと
きに⋮⋮!!﹂
悲鳴だと、そう思った。はっきりと言葉を喋っているのに、喉が
裂けるような悲鳴を上げているのだと理解した。
﹁どんな死に方をしたか知っているか、あの方が、どんな風に、
死んだのかを︱︱︱︱︱!!﹂
身動き一つできずにそれを見ていることしかできない。
肩に熱が篭る。刃に貫かれたのだ。
痛みも感じず、ただ、呼吸が止まった。息が、できない。
思わず、何かにすがり付きそうになって手を伸ばしたそのときに、
それは落ちてきた。
傾ぐ体の、逆さまに揺らぐ視界の向こう側、一体いつ磨かれたの
か分からない薄汚れた床に、それは音もなく降ってきた。
重さなど感じないそれは、赤黒く染まった灰色の、切り落とされ
たのであろう長い髪。
﹃老婆のような髪でしょう?﹄

198
囁くように落とされた声が蘇る。
︱︱︱︱︱ただの一度だって言葉にはできなかった。
美しいとは、ただの一度も。
シルビアのものよりは暗い色をしていた。銀色とは言えない色だっ
た。
だが、そのおかげでいっそう映える不思議な色の瞳が好きだった。
意思を貫く強い眼差しと、他者を圧倒するほどの信念が、いつだ
って俺を支えてきた。
その瞳が俺を見つめている限り、決して道を違えることはないと信
じていた。
︱︱︱︱︱殺した。
俺が、殺した。
イリアを、殺した。
やめてくれ。もう、たくさんだ。やめてくれ。
誰か。
嘘だと、言ってくれ。
誰か。

﹁︱︱︱︱︱っっ!!!﹂

199
ひゅっと息を飲んだ自分の呼吸に驚いて弾かれるように飛び起きた。
全力疾走した後のように短く切れる息を、ぼんやりとした思考の
まま聞いている。
﹁⋮⋮ソレイル様?﹂
一人きりだと思っていた空間に、戸惑うような声が落ちる。
吐息さえ感じられそうなほどの距離で聞こえたその声に、肩が大
きく跳ね上がった。
相変わらず整うことのない呼吸に吐き気さえ覚えて、唇を覆えば、
﹁⋮⋮ソレイル様!﹂
洗顔用に準備していたと思われる洗面器を差し出された。
寸でのところで息を飲み、吐き出すのを堪えれば熱い塊が胃の底
に戻っていった。
喉の奥にひりつくような痛みを覚える。
どくどくと脈打つ心臓の音を聞きながら小さく咳をすれば、侍従が
不安そうな顔でこちらを覗きこんだ。
﹁お⋮俺は、いや、わた、わたしは⋮⋮一体、﹂
一人称を﹁俺﹂から﹁私﹂に言い換えたのは随分前のことだ。
侯爵家の嫡男であればそうしたほうが自然であると、周囲に勧め
られるままに、そうした。
普段は決して口から零れることのない﹁俺﹂という単語に、自分
でも戸惑うほどに動揺している。
﹁酷く、魘されておいででしたので⋮⋮﹂

200
侍従が控えめに声を掛けてきた。濡れタオルを渡されて、気を静
めるように促される。
受けとってから、指先が細かく震えていることに気づいた。
﹁悪夢でもご覧になったので?﹂
﹁⋮⋮悪夢、﹂
苦笑されて、悪夢に魘されて動揺するなど幼子のようだと笑いが
こみ上げる。
そうして、笑みを落とした瞬間、全身の体温が下がった。
﹁ソレイル様?﹂
悪夢?
俺は、悪夢を見たんだろうか。
⋮⋮何を、見た?何を、
﹁︱︱︱︱︱覚えていない⋮⋮﹂
魘されるほどの悪い夢を見たというのに、思い出せることが何一
つとして、ない。
忘れたというわけではなく、初めから、悪夢など見なかったかの
ように。欠片さえも記憶が残っていない。
﹁覚えていないのであれば、それだけのことだったのでしょう。
些事ですよ﹂
侍従がまた一つ笑うのを見て、安心するというよりも足元から迫
り上がってくるような不安を覚えた。
何か、とても大切なものを、失ってしまった気がするのだ。

201
そして、失ったことさえも覚えていないような、どうしようもない
不安と焦燥が襲ってくる。
両手を広げれば、いつもと同じ手の平があるだけだ。
だが、何かを掴み損ねたような大きな喪失感に息が詰まる。
﹁⋮⋮イリアは、﹂
﹁え?﹂
﹁イリアは、どうしているだろうか﹂
︱︱︱︱︱なぜか、どうしようもなく会いたくなった。
202

朝目覚めたときに必要なのは、きっちりと覚醒するまで起き上がら
ないことだ。侍女が近づいてきても、私が﹁私﹂だと、はっきり認
識できるまでは瞼を閉じたまま息を潜める。
何度も深く息を吸って、自分の名前をゆっくりと唱えた後に、やっ
と目を開く準備をするのだ。
大丈夫だと言い聞かせながら、まだ、そのときではないと祈るよう
な心地で朝を迎える。
私にはいつだって、今日を生きるという覚悟が必要だった。
あの茶会を終えて、私の中に蘇るのはいくつもの死。
同じ時間が始まったのだと認識すると共に、容赦なく、終わりが突
きつけられる。

203
だからこそ私は、自分自身を救うための算段をつけなければならか
った。
シルビアを死なせず、ソレイルに見限られず、婚約者として妻とし
て傍にあり続けようと。
それはつまり、己を守る為の選択であり、この恋心を救うための選
択であった。
だけど、それは本当に正しい選択だったのだろうか。
﹁お嬢様、侯爵家から封書が届いております﹂
やっと寝台から身を起こした私に、侍女が侯爵家の印が刻まれた手
紙を渡してきた。
封書とは珍しいこともある。さっそく封を切れば、見覚えのある硬
質な文字が簡潔に用件を伝えてきた。
二回、三回と読み直し、内容を確認する。読み終わったときには、
知らず内にため息が漏れていた。
﹁⋮⋮お嬢様?﹂
﹁ソレイル様がお見えになるようだから、昼食を用意して欲しいの﹂
﹁はい、かしこまりました﹂
﹁あと⋮⋮シルビアの具合は、どんな感じかしら?﹂
﹁⋮⋮シルビア様でございますか?﹂
﹁ええ。あの子の具合が良さそうだったら、三人分の昼食を用意し
てもらいたいの﹂
洗顔用の水を張ったボウルに両手を浸けながら言えば﹁かしこまり
ました﹂と返ってくる。

204
急すぎる訪問だが、手紙が届く日時もきちんと想定した上でのお誘
いだろう。
これほどに急であれば、断ることもできない。
お伺いをたてているようで、その実、命令しているような行動は侯
爵家という高い身分のせいか。
文末に、ぜひ妹君も一緒にと書かれていれば、それを無視すること
もできない。
学院に通うようになったシルビアと、ソレイルは着実に親交を深め
ているようだ。
騎士課の彼が普通課のシルビアと接するには、時間や場所を示し合
わせる必要がある。
校舎が離れていることもあるし、何より騎士課と普通課では授業体
系が全く違うのだ。
実戦が含まれている騎士課は、特別なカリキュラムで動いているの
で事前に連絡をとっていなければ昼食を共にすることさえ難しいだ
ろう。
だからこそ、食堂で昼食を共にする彼らが注目されるのだ。
婚約者が同じ学院に通っているにも関わらず、それを差し置いて、
その妹と一緒にいるのだから。
しかし、シルビアはそういったもろもろの事情に気付いていない可
能性が高い。
学院の仕組み自体よく分かっていないだろうし、初めて学院に通う
彼女にはまだ、友人と言えるべき人間もいない。その為、誰かに指
摘されたことさえないのだろう。
こういったときに道を示すのが姉の役目なのかもしれないが、余計
な口を挟むと厄介なことは分かっている。
ソレイルに近づく女性全てに威嚇するという、これまでの己の愚行
のせいで、実の妹にまで嫉妬して牽制したと言われる。それが、手

205
に取るように分かった。
今更、私がどれほどに足掻いたとしても、事態は良い方向には転が
らないのかもしれない。
ふと、そんなことを思って背中がぞくりと震える。
やる事成すこと、全てが無駄なのだとしたら。
私は一体何の為に、ここに居るのだろうか。
﹁お召し物はいかがなさいますか?﹂
﹁後でもう一度着替えるから⋮⋮そうね、あれで良いわ﹂
衣装部屋の一角を指差せば、優秀な侍女は全てを聞くまでもなく一
つ肯いた。
やがて、私が想像していた通りの簡素なドレスを持って現れ、着替
えを手伝ってくれる。
その間に、昼食は、応接間に準備するように指示を出した。
急すぎる来客ではあるが伯爵家の厨房にはそれなりのものが揃って
いるのでさほど問題はないだろう。
いつぞやの茶会のように、準備万端というわけではないが不備はな
いはずだ。
﹁昼食の時間までは書庫にいるわ。何かあったら呼んでちょうだい﹂
﹁かしこまりました﹂
しっかりと肯く侍女を見届けて、そのまま書庫に向かう。
学院の図書館にはもちろん及ばないが、それでも、歴代の伯爵家当
主が揃えてきた蔵書はなかなか見ごたえがある。見上げるほどに背
の高い本棚は、上の方になると脚立を使わなければ手が届かない。
そこに、隙間なくびっちりと数千冊の本が並んでいる。
歴代の家令がきちんと目録にまとめているようだが、それは当主の

206
許可がなければ閲覧できないので簡単に借り出すことはできない。
中には相当高額の書物もあり、これらは全て我が伯爵家の財産であ
る為、どこに何があるのかを書き出されている目録は厳重に保管さ
れている。
つまり、私には見ることができないのだ。
もし、その目録が手元にあったなら、事はもっと円滑に進んだだろ
う。
私はここで、カラスに関する記述を探している。
いくつか前の人生から、記憶が蘇るその都度、彼についての調査を
開始した。
カラスが普通の人間ではないことは分かっている。
妖精や精霊の類か、もしくは奇術師か魔術師か、幽霊などの実体を
持たない存在かもしれない。
あれほどの術が使えるのだから、彼が人間であっても別の種族であ
っても、それが特別な存在であることは間違いない。だからこそ、
何かの書物に記載されている可能性もある。
伝承や伝記、歴史書や創作物など様々な本に目を通した。
今のところ、それらしい記述があったことはないが、万に一つの可
能性を捨てきれないでいる。
読み終わった本を棚に戻し、新しい本を手に取り。そうやって、少
しずつ読み進めてきた。
しかし、ここだけでも何千冊あるか分からないのに、学院の図書館
も含めると一生かかっても全てを読みきることはできないだろう。
実際、時間が巻き戻る度、それぞれの人生で、分割するように本を
読み進めてきた。
今生はこちらの棚。前の人生はあちらの棚。日常生活の隙間を縫う
ようにして、彼の姿を追い求める。
﹁⋮⋮お嬢様、手が届かないのであれば誰か呼んでください﹂

207
脚立に登って本を選んでいると、誰もいないはずの書庫に声が響い
た。
いつの間にやってきたのか、護衛のアルが眉間に皺を寄せながらこ
ちらを見上げている。
気配がないのは、優秀な騎士である証だ。
﹁大丈夫よ﹂と笑えば、すかさず﹁大丈夫ではありません﹂と返さ
れる。
タイトルさえ分かっていれば部屋まで運びますよ、と渋い顔をされ
るがそれには首を振った。
そもそも、自分が何を探しているのかさえよく分からないのだ。
本を手にとったまま台を下りようとすれば、すかさずその腕を支え
られる。
エスコートされているような気分になって思わず苦笑すれば﹁滑り
落ちたりしたらどうするのです﹂とますます渋い顔をされる。
そんなときにふと過ぎるのは、これまで事故の類で死んだことはな
いということ。
だとすれば、脚立から落ちたところでせいぜい骨折するくらいだろ
う。
﹁⋮⋮お嬢様?聞いてますか?﹂
さすがに、落ちないから大丈夫とは言えず、慌ててこっくりと頷く。
本当に分かってるんですか?とため息を吐くアルを尻目に、暗い考
えに取り付かれている己を叱咤する。
朝目覚めた瞬間に終わりを意識しなければいけない人生の、どこに
幸福を見出せば良いのか。
もうだいぶ前から、分からなくなっている。
ただ、生きるためだけの毎日。それを積み重ねているだけの現在。

208
だからこそ、カラスを捜しているのかもしれない。
繰り返す時間の中で、現れる人間は大抵同じだ。
この人生を物語とするなら、登場人物はいつも同じで入れ替わるこ
となど有り得ない。
それなのに、カラスは、私の前に現れるときとそうでないときがあ
る。
私の知らないところでこちらを観察しているのだとしても、私には
彼の存在を証明することができない。
いつかの人生では、カラスを捜して街中を彷徨い歩いた。
黒髪の男性を見つけては片っ端から声を掛けていったのだ。
カラスという奇妙な名前をひたすらに呼び続ける私を、周囲の人間
は避けて歩いていった。
指を差して嘲笑する人間さえ居た。
もしも、あの場にカラスが居たのだとしたら、見て見ぬ振りなどし
なかっただろうと思う。
存在さえ不確かだというのに、その人となりなら何となく知ってい
る。
もしかしたら、あの人生には、カラスはいなかったのかもしれない。
それでも私は、カラスを捜し続けていたいのだ。
もしも姿を変えているのだとしたら、見つけ出すことは不可能かも
しれないとさえ思う。
だけど、どうしても会いたいのだ。
別に何かをして欲しいわけではない。手を貸して欲しいとか、助け
て欲しいとか、そんなことはもう望んでいない。
ただ、会いたい。
﹁⋮⋮お嬢様は、何をお調べになっているのですか?﹂

209
結局、書庫では選んだ本を読みきることができず、数冊の本をアル
に抱えてもらって自室へ戻ることにした。そろそろ昼食の時間なの
で着替えなければならない。
シルビアが一緒なのであれば、同じ色にならないようにしなければ
みすぼらしく映ってしまうだろう。
白銀の髪に、血管が透けるほどに白い肌をしたあの子は、薄い色で
も濃い色でも何でも似合う。
あの子自体に、色がないも同然だから。
だけど、私は、この老婆のような髪のせいで着る服を選ぶ。
肌の色だって白い方だけれど、特筆しているほどでもない。
特徴があるようで、何もない私。
﹁何を、調べているのかしらね﹂
﹁⋮⋮分からないのに、調べているのですか?﹂
明らかに異なる分野の統一性がない本の背表紙に視線を落としなが
ら、アルが首をひねっている。
﹁いいえ、分からないから調べているのよ﹂
﹁⋮⋮よく、分かりません﹂
静まり返った廊下の突き当たりに飾られているシルビアの肖像画に
目を移していると﹁お姉さま⋮⋮!﹂と背後から飛んでくる妹の声。
絵画から飛び出してきたかのようなタイミングだと苦笑しながら振
り返れば、妹と一緒に歩み寄ってくる婚約者の姿があった。
なぜ、と思いつつも、それを顔に出すような真似はしない。
ただ粛々と﹁ごきげんよう、ソレイル様﹂と膝を折った。
﹁ああ﹂とだけ返事をするソレイルの代わりに、シルビアが邪気の
ない笑みを浮かべて嬉しそうに語る。

210
﹁少し早めにお付きになったようなの。お姉さまのお姿が見えない
から、さっきまで一緒に客間で待っていたのだけれど⋮⋮﹂
今日は体調が良いらしい。淡く頬を染めるその姿だけ見れば、健康
そのものだ。
侍女にシルビアの体調を確認するように言ったので、ソレイルの訪
問を知っていたのだろう。
来客に備えて薄化粧を施し、普段着というには少し華美な装いをし
ている。
ソレイルの方が身分が上なので正装するのは当然のことだと言える。
だとすれば、不躾なのは私の方だ。
しかも、つい先ほどまで書庫のほこりを被っている本まで引っ張り
出していたから、ドレスの裾や袖口は埃を巻き込んで白くなってし
まった。
紺色のような暗い色を選んでしまったからこそ目立っている。
数回袖を通しただけのものなのに、白くなってしまった部分が解れ
のように見えて古着のようだ。
これでは本当に老人のようだと笑みが零れる。
﹁⋮⋮イリア?﹂
シルビアと並んで立っているソレイルが訝しげに眉を顰めた。
﹁⋮⋮何でもありませんわ、どうぞお気になさらず﹂
首を振れば、ますます不審そうな顔をする。
そんな彼を見ていれば、今にも﹁何を企んでいる﹂と糾弾されそう
な気がした。
自分がそれほどに悪人面しているとは思っていない。
だけど、彼には、そう見えているのだろう。

211
﹁昼食は応接間にご用意いたします。まだ時間がありますので、お
茶でも飲んでらしてください﹂
そう言えば、シルビアが﹁この間、新しいお茶を仕入れたんです⋮
⋮!﹂と嬉しそうに両手を合わせる。
その姿を目に映したソレイルの双眸が僅かに緩んだのを見て、ほん
の僅かに胸が軋む。
いつかどこかで見たような光景だと思いながら、だけど、これはも
しかして郷愁のようなものかもしれないと、ふとそう思った。
昔なら、彼のそんな態度にいちいち傷ついていたのだろう。
だけど今は、心が凪いでいる。
いや、必死に、揺れ動きそうになる心を押さえつけているのかもし
れない。
ソレイル様の好きそうな香りがするお茶なんです、とシルビアがこ
ちらを伺うような眼差しを向けてくる。
それに頷いて、余裕がある振りをしながら﹁ちょうど良かったわ﹂
なんて笑みさえ浮かべてみせる。
シルビアに﹁私は部屋で着替えてくるから、その間、ぜひお兄様に
お茶をお出ししてあげて﹂なんて、まだ結婚もしていないのに冗談
めいて見せる。
二人の気持ちを知っていながら、そんなことを言うのは滑稽だろう
か。
それとも、嫌味を言っていると捉えられてしまうのだろうか。
しかし、そんなことは露ほども気にしていない様子のシルビアが、
その細い指先をソレイルの腕に添えた。
触れているけれど触れていない。そんな微妙な距離感に、彼らの心
情が透けて見える。
それをただ見ているだけの私は、一体どんな風に映るのだろうか。

212
ソレイルとシルビアを引き合わせる前の私であったなら、彼らを二
人きりにさせるなんて真似事、絶対にしなかっただろうに。
﹁⋮⋮お嬢様、﹂
大声を上げていただろうか。もしくは、二人の間にこの身を滑らせ
て﹁ソレイル様に近づかないで﹂と妹のその細い腕を振り払っただ
ろうか。
﹁お嬢様、どうかなさいましたか?﹂
そのときソレイルはどんな顔をして私を見るのだろう。
︱︱︱︱︱いや、どんな顔をして、私を見ていただろうか。
﹁お嬢様⋮⋮!﹂
唐突に耳に飛び込んできた声に振り仰げば、アルが私の耳元で控え
めに声を張ったところだった。
彼の、護衛騎士という立場上、大声を上げることはできない。
思考の波を漂っていた私は、びくりと肩を震わせて現実に戻った。
しかし、咄嗟に、それを悟られまいと小さく息を詰める。
ソレイルとシルビアに気取られているのではないかと視線を移すが、
彼らは私のことなど露ほども気に留めず、先ほどよりますます距離
を狭めていた。
唇に手を添えて秘め事でも口にするかのようにソレイルに顔を寄せ
るシルビア。
漏れ聞こえる内容はただの世間話であるはずなのに、彼ら二人が並
んで立っているだけで何か眩しいものを見ているかのような気分に
なった。

213
ああ、何だか見たことのある光景だと思いつつ﹁それでは、よろし
くねシルビア﹂と声を掛ける。
﹁っはい!﹂弾かれたようにこちらに向き直った妹の頬は未だに赤
みを帯びていた。
それはまさしく、恋する女性の顔で。
何て、愛らしいのだと、ただそう思った。
﹁︱︱︱︱︱イリア?﹂
また、ぼんやりしてしまったのかソレイルが訝しげにこちらを見て
いる。
﹁ああ、それと⋮⋮シルビア、貴女がお茶を用意するのはもちろん
構わないけれど、貴女の部屋では駄目よ﹂
杞憂だとは思うが念のため声を掛ければ、シルビアは案の定、不思
議そうな顔をして首を傾いだ。
いくら今後、家族になる予定とは言え、現在のソレイルとシルビア
は赤の他人だ。
貴族の子女が、家族以外の男性と部屋で二人きりになるのは褒めら
れたことではない。
口さがない使用人がどんな噂をするか分からないからだ。
だが、シルビアにはそれがうまく伝わらない。
閉塞した鳥籠の中で大事に大事に育てられてきたシルビア。
私の可愛い、妹。
﹁⋮⋮どうして駄目なの?﹂
不安げに視線を惑わせながら懇願するような眼差しをソレイルに向
ける。

214
この場で一番強い発言権を持つのは彼だ。
ここが、私の生家であっても。
﹁この屋敷には信頼の置ける人間しかいないから、大丈夫だろう﹂
私の言わんとしていることを察しているはずなのに、何を根拠にし
ているのかそう言った。
それに、君の妹は、君を裏切る人間ではないだろう?とも。
未だに、私たちが何を言いたいのか理解できない様子のシルビアが
伺うようにしてこちらを見ているのが分かる。その目を真っ直ぐに
見返すことができない私。
悪いことをしているわけでもないのに、なぜか拭いきれない罪悪感。
ソレイルの意見を否定することもできないのに、結局、最終的な判
断は私に任される。
それは、あまりに卑怯ではないのか。
ただ部屋でお茶を飲むだけだと言われれば、そうなのだ。
それに良い顔をしない私の方が普通ではないのかもしれない。
だけど、例え、扉を開けて部屋の中を見渡せるようにしていたとし
ても、人間というのは都合の良いように真実を捻じ曲げるものだか
ら。
悪意を持った人間が、一つの部屋で仲睦ましそうにしている彼らを
目にしたとき、それをどう捉えるかは分からない。
﹁イリア、そんなに深く考える必要はないんじゃないか?﹂
ソレイルにそう言われてしまっては、是以外に答えはない。
﹁⋮⋮ええ、そうですわね。余計な気を回してしまって、﹂

215
平然を装ったつもりでも、反射のように収縮した筋肉が喉元を締め
付ける。
とりたてて何かがあったわけでもないのに、こんなことは何でもな
いことのはずなのに。
苦しい。苦しくて仕方ない。
こうやって、私は少しずつ色んなものを失くしていくのだ。
﹁︱︱︱︱︱それでは、シルビア、ソレイル様、後ほど⋮⋮﹂
膝を折って、先にその場を離れる非礼を詫び、アルを視線で促す。
どこか厳しい顔つきをしていた彼はきっちりと腰を折り、彼らの視
界を遮るようにして私の後ろに立った。
﹁イリア、ちょっと待て、﹂
そして、数歩進んだところでおもむろにソレイルが声を掛けてきた。
まだそこに居たのかと思いつつ振り替えれば、何かを言いたげに薄
く唇を開いた後、黙り込んで私をじっと見つめた。
何かあるのかと来た道を戻ろうとすれば、なぜかそれを制するよう
にアルが割り込む。
かろうじて視界を塞がれてはいないが、戻ることは許さない、とい
うような態度だ。
いつになく強気な態度だと首をひねっていれば、
﹁イリア、﹂と再び名を呼ばれる。
﹁︱︱︱︱︱君は、一体⋮⋮﹂
今度は黙り込むことなく言葉を紡いだが、やはり途中で思い直した
のか口を噤んだ。

216
その顔は、愁然としているようにも見えたし、普段と全く変わりが
ないようにも見えた。
やはり、表情の読めない人だと思う。
シルビアを前にしているとき以外は。
﹁お兄さま、早く行きましょう﹂
奇妙な沈黙に焦れたのかシルビアが甘えるように言った。
私には決してできないことを、妹は当然のようにやってのける。
長い髪がふわりと揺れて、少し離れたところに立っているというの
にその甘い臭いが漂ってくるようだ。
上半分だけ纏め上げて、残りの部分は緩やかに下に降ろしているそ
の髪型は彼女の銀糸のような美しい髪の魅力を最大限に引き出して
いる。
﹁お兄さま、﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだな﹂
やがて、止めたにも関わらず何事もなかったかのような顔をして連
れ立って歩き出す二人。
﹁お嬢様⋮⋮﹂
その後ろ姿を眺めているとアルが気遣うような声を出す。
﹁見送るのは、いつも私なのよ﹂
﹁⋮⋮お嬢様﹂
﹁置き去りにされるのは、私の方なの﹂

217
思えば初めからそうだった。
茶会で二人を引き合わせたそのときから。
心を通わせる二人の傍で、私の想いはいつも、置き去りにされてい
た。
218

﹃私の、可愛いお姫様﹄
母は、妹の髪を撫でながらよくそう言っていた。
愛しくてどうしようもないと、そんな眼差しをして。
母は、私を愛していなかったというわけではない。
︱︱︱︱︱多分、そうだと信じている。
だけど、シルビアのことを実の子供よりも慈しんで大切にしていた。
これも事実だ。
私の部屋には滅多に来ることはなかったけれど、シルビアの部屋に
は欠かさず毎日、顔を出していたことを知っている。眠る前に、そ
のまろい額に口付けを落とすことも。

219
優しい声で、子守唄を口ずさむことも知っていた。
どうしても眠れない夜に部屋を抜け出した私が、たまたま開いてい
た扉の隙間から見たのは、母と子の何気ない日常の姿だった。
﹃おやすみなさい、お母さま﹄﹃いい夢を、私の可愛いお姫様﹄
確かに聞こえたその声が、なぜか擦り切れるようにして消えていっ
た。
いいな。いいな。私も、あれが欲しい。
母の優しい口付けが欲しかった。その手で撫でられて慈しまれて、
抱きしめて、可愛いお姫様と言ってほしかった。
きっと望めば、母はその通りにしてくれただろうと思う。
ねだって、願いを言葉にすれば無視することはないだろうと分かっ
ている。
母は、私よりも妹を愛してただろうけれど酷いことをする人ではな
かった。
だから、望まれればその通りにしてくれるだろう。自ら与えること
はないとしても。
だけど、私は結局、ただの一度もそれらを受け取ったことはない。
仕方なしに与えられる愛情なら、一つも、必要だとは思わなかった
から。
私は幼い子供ではあったけれど、生まれながらに貴族だったのだと
思う。
赤ん坊の頃から﹁お嬢様﹂と呼ばれ、周囲の人間に傅かれ、そうで
あるように仕向けられた。
言葉を覚えた頃には既に、心の内に矜持というものが育っていた。
そんなくだらない傲慢さが、私から、純粋さと素直さを奪ったのか

220
もしれない。
母親にさえ手を伸ばすことを躊躇った私は、知らず内に壁を作り、
むき出しの心を悟られまいと振舞うようになった。
そうやって纏った鎧が、自身を傷つけていることさえ分からずに成
長してしまったのだ。
そのせいなのか知らないが、私はいつだって誰かに助けを求めるこ
とに怯えていた。
自分が、どうしようもなく弱い人間であることを知っているのに、
いざというときに助けを求めることができない。
ただ一言口にすれば良いだけのその言葉を実際に声にすることにど
れほどの勇気がいるのか、そうやって搾り出した声を無碍にされる
悲しみを、誰か理解できるだろうか。
伯爵家第三位の貴族令嬢。そんな分厚い被り物で武装していた私は、
それを盾にしながら、それと同時に身動きができないほどがんじが
らめに捕らわれていたのだろう。
﹃貴女は今日から、ソレイル様の婚約者となるのよ﹄
だからもう、甘えてはいけませんよ。
ただの一度も甘えたことなどない気がするのに、その人はそう言っ
て、慈愛をこめた眼差しで私を抱きしめた。これが最後だと。いか
にも、何度もそうしてきたかのように装って。
母親との初めての抱擁は、むせ返るような甘い臭いがして、どうし
てか気分が悪くなった。
抱き返しても良いのかさえ分からなかったそのとき、宙を彷徨う己
の指先を眺めながら、母とシルビアが同じ臭いを纏っていることに
気付く。
残り香というやつだろう。
幼い私はただ、不思議に思った。母と妹はなぜ、同じ臭いがするの

221
だろうかと。
自分だけ、違う臭いをまとう違和感に気付きもせずに。
母が私を見つめる眼差しは、気に入りの陶器や絵画や薔薇を眺めて
いるときによく似ていた。
そんな目をこちらに向けたまま、貴女はつまり侯爵家の預かりもの
なのだとはっきりと断言したのだ。
その言葉の意味をはっきりと理解することができずにいた私は、や
はり幼かったのだろう。
﹃貴女には幸福な未来が約束されているわ。侯爵家の夫人になるの
だから﹄
母がそれを、どんな想いで言ったのかは分からない。
︱︱︱︱︱初めの人生で投獄されたそのときに、両親は私に背を向
けた。
お前には失望したと零した父の、憎憎しげに歯を噛むその顔を時々
思い出す。
あのとき私は、ソレイルの迎えを信じながら、その一方で己の終わ
りを悟った。
だけど思えば。
両親はきっと、あの瞬間に私を見限ったのではない。
一つずつ積み上げた石が、耐え切れずにやがて崩れ落ちるように、
少しずつ段階を踏んで離れていったのだろう。
あの最初で最後の抱擁は、すなわち、一つ目の石だった。
﹁⋮⋮なぜ、﹂

222
昼食に着ていくドレスはすでに決めていたので、着替えを侍女に手
伝ってもらいながら、姿見に自分を映した。そこに居るのは、大し
て特別でも何でもない普段通りの﹁私﹂だ。
老婆のような髪をしていると思うのに、実際、その年まで生きたこ
とはない。
顔に皺を刻むよりも前に、私はこの短い命を終える。
これほどに儚いのであれば、せめて、満ち足りた人生を送りたいと
思うのは私の我侭なのだろうか。
﹁お嬢様?どうにかなさいましたか?﹂
口の中で噛み潰したはずの言葉をきっちりと拾い上げた耳聡い侍女
が首を傾ぐ。
首を振れば、何かを言いかけて口を引き結ぶ古参の侍女はどこまで
も優秀だ。
私の意志を尊重し、気になることがあっても追及するような真似は
しない。
肩に落ちた髪を払えば﹁御髪はどうなさいますか?﹂と何事もなか
ったかのように問われた。
この状況での正しい質問が何なのかを実に心得ている。
先ほど廊下で対峙した妹の美しい髪を思い出しながら、いっそのこ
と同じ髪型にしてはどうだろうかと思った。妖精もかくやという儚
い容姿の愛らしさの前に、同じ髪型の私が並ぶのだ。
それを想像すれば、
﹁⋮⋮ふふっ﹂吐息が零れるように笑みが落ちた。
同じ髪型をしたところでその容姿には天と地ほどの差がある。
偶然の一致だったとしても、私が妹を真似たと思われても仕方ない。

223
それはどれほどに滑稽な姿だろう。
人払いをした昼食会のその場には、私と妹とソレイルだけだ。
見比べることができる人間がいるとすれば、それはソレイルだけだ
ろう。
だけど彼はきっと、私とシルビアが同じ髪型をしていることにさえ
気付かない。
間抜けな自分を笑うのは、自分自身だけだ。
シルビアと比較されるのが嫌で、いつだってあの子と違うものを選
ぶようにしてきた。
違う髪形、違う口紅、違うドレス、違う靴、好きなものを選ぶとい
うよりは、シルビアとは違うものを選ぶという感覚だ。
それは幼いときからそうだったように思う。
淡い色のドレスを纏い、可愛い可愛いと誉めそやされる妹を前にし
て、私はあれを着てはいけないのだと悟った。
その数日前に、同じ色のドレスを着た私は、誰にも可愛いとは言っ
てもらえなかったのだ。
よくお似合いですね、という社交辞令に、心が篭っていないことに
気付いたのはいつだっただろうか。
﹁⋮⋮結い上げてもらえるかしら?﹂
かしこまりました、と頷いた侍女が器用な手つきで編み込んだり花
を飾ったりして美しく結い上げていく。
そうして出来上がった自分の姿を見て、ふと、思うのだ。
選んだつもりで、実のところは何も選んでいないのだということを。
﹃君って、本当は白い色が好きなんでしょう?﹄

224
気付いたのはカラスだった。
私は、種類を問わず白い花が好きなのだ。だから当然、その色が好
きだ。
考えるまでもないことなのに、周囲の人間は誰もそれに気付かなか
った。
纏う色はいつも控えめな色みで、普段着に至っては濃紺や藍色、小
豆色、深い紫など目立たない色ばかり。
あえて暗い色を選んでいるわけではない。だけど、派手な色はこの
地味な顔に似合わない。
﹃貴女は明るい色が好きではないのね﹄と苦笑したのは母だった。
私が妹のドレスに焦がれていることに、ほんの少しも気付かない。
唯一、白を纏ったのが、繰り返す人生で何度か経験したソレイルと
の結婚式だった。
結婚式という名目があるから、私は堂々と好きな色のドレスを纏う
ことができた。
妹に引け目を感じることもなく、周囲に比較されることもなく。
私だけが白を纏うことを許された日で、その日だけは、真実、何も
かもを自分自身で選び取ることができた。
ソレイルと並び立って、祝福の言葉と拍手を浴びて。
その日は、喜びに満ち溢れていた⋮⋮はずだった。
だけど、あの日の高揚感を思い出すたびに、胸の内側を爪先で引っ
かかれるような痛みと苦しみを伴う感覚に襲われるのは、ソレイル
の目がシルビアの姿ばかり追いかけていたことを忘れていないから
だろう。
結局、生地から糸まで自ら選びぬいたそのドレスを褒め称えたのは
自分だけだった。

225
﹁⋮⋮着飾っても、意味などないのに、﹂
﹁お嬢様?﹂
﹁⋮⋮いいえ、何でもないの。ありがとう、手間をかけたわね﹂
﹁いえ、そんな、とんでもないことでございます﹂
鏡に映った己の姿は、できた侍女が仕上げたからか非の打ち所がな
いように見える。
貴族令嬢らしく、上質の生地を使ったドレスは高級品そのものだ。
深い青色が光を浴びると僅かに色味を変える。
その美しさに目を細めて、だけど、そのドレスを纏っているのが自
分だという事実に思わず目を伏せる。
私が何を着ていても誰も何とも思わないだろうし、何も感じないの
だろう。
あの結婚式の日、ソレイルが私のほうをちらりと見て﹃綺麗だな﹄
と漏らした。
それをよく覚えている。
気分が高揚したのはほんの一瞬だけだった。
見上げた彼の目は遠くのシルビアを見つめていて、その瞳は切なげ
に揺れていた。
私に向けて言った振りをして、その実、妹を見つめていた横顔を忘
れたことはない。
﹁随分、時間がかかったんだな﹂
応接間で私を待ち構えていたらしいソレイルとシルビアに苦笑して

226
しまう。
本来なら、約束の30分も前なのだから責められるいわれは無い。
しかし、階級がものを言う貴族社会で上位貴族である彼を待たせて
しまったのは褒められたことではなかった。私が婚約者だとしても
関係ない。
身分というのはそういうものなのだ。
﹁申し訳ありません﹂
﹁⋮⋮﹂
殊勝に頭を下げれば沈黙が走る。
許す気はないということだろうか。
視線さえ上げることができずに俯いていれば、
﹁お姉さまの髪飾り、素敵﹂
空気を読んだのか、それとも何も考えずに発言したのか、シルビア
が席を立つ。
入口付近で立ち竦んでいる私のところまで来て、
﹁そのドレス、初めて見たわ。お姉さまにとってもお似合いだわ﹂
目元を綻ばせて、ふわりと笑った。
優しい子なのだ。邪気などなく、幼い子供のような無垢な心で私に
向き合おうとする。
他の誰も見ていないにも関わらず、妹はよく、私を見ていた。
きっとシルビアの本質は、幼い頃から何も変わらないのだろう。
厩舎で馬に蹴られそうになった私の前に、その小さな体躯で飛び出
したときと同じなのだ。

227
私が彼女の姉である限り、悪意を持たれることなどないのだろう。
その目に汚いものや醜いものを映すことがないように、両親はシル
ビアの目を優しく塞いできた。
その純粋さで、その優しさで、その美しさで、ソレイルの心を奪う
のだろう。
それは例えば、御伽噺のお姫様と同じかもしれない。
彼女たちは、捕らわれていれば誰かが助けにくるし悲惨な境遇に喘
いでいれば誰かが手を差し伸べる。
ただそこにいるだけで愛されるのだ。
私とは違う。私とは、
﹁二人とも、そろそろ座ったらどうだ﹂
私のドレスを褒め称えるシルビアに、貴女もとても可愛らしいわと
返事をしたところで、ソレイルから声がかかる。少し苛立っている
ように見えるのは、私が妹の視線を独り占めしているからなのか。
はぁい、と軽やかに返事をして身を翻すシルビアを追うようにして
歩く。
その足取りに合わせるようにふわりふわりと揺れる髪。
﹃君の髪、﹄
﹃⋮⋮え?﹄
﹃君の髪さ、雪に落ちた木立の影に似ているね﹄
﹃⋮⋮何?どういう意味?﹄
いつかの人生で、黒い双眸に私を映したカラスが小さく笑った。

228
私は、彼の前で自分の髪についての評価を口にしたことはない。
だけど、彼は、私が何を思っているのか見透かしたようにそう言っ
た。
﹃僕は、平原に降り積もった真っ白な雪そのものよりも、その雪に
落ちた木立の影のほうが美しいと思うよ﹄
どういうつもりでそう言ったのか分からない。
﹃だけど、そんな木立の影さえも含んで、雪景色と言うんだ﹄
カラスはそう言って、私の髪を優しく浚った。
﹃雪は雪だってこと﹄
﹃君がどんな髪色をしていようと、どんな目をしていようと、どん
な顔かたちだって、﹄
﹃⋮⋮どんな君でも、僕は君を、美しいと思うよ﹄
励まそうとしていたわけでも慰めようとしていたわけでもないはず
だ。
だってカラスは、私がシルビアと自分を比較して落ち込んでいるな
んてこと、知らなかったはずだから。
だけど、いつだって彼は私が望んでいる言葉を与えてくれるのだ。
﹁⋮⋮サイオン様にも言われてしまって﹂
﹁サイの言うことは気にしなくて良いだろう。アレはたちが悪いか

229
らな﹂
何も言わずとも、席に着けば前菜が運ばれてくる。
それを咀嚼しながら、談笑しているソレイルとシルビアを眺めてい
た。
先ほど廊下で顔を合わせたときの続きなのか、どうやらソレイルの
友人についての話のようだった。
昼食を共にしている二人であれば、当然、ソレイルの友人と顔を合
わせる機会もあったのだろう。
私には紹介されることさえない、その人を、シルビアはよく知って
いるようだ。
﹁お姉さま⋮⋮?どうかなさったの?﹂
お食事が進んでいないようだわ、と首を傾ぐシルビアに促されるよ
うにフォークを持ち直すけれど、なかなか口に含んだものを飲み込
むことができない。
﹁具合でも悪いのか?﹂
つ、と視線を上げれば眉間に皺を寄せているソレイルがこちらを見
つめていた。
先ほどまで、私なんて視界の隅にも入れてしなかっただろうに。
シルビアの視線の先を追ったのだろうと、嫌でもそれに気付かされ
る。
﹁⋮⋮いえ、﹂
首を振ろうとして﹁部屋に戻ったほうが良いんじゃないか﹂と、先
手を打たれた。

230
ふるりと震えた指先のせいで、ナイフの先が陶磁器を打ってガシャ
リと音をたてる。
﹁お姉さま⋮⋮!ソレイル様はお姉さまのために⋮⋮!﹂
退席を促されて怒った私が、わざとナイフで皿を叩いたのだと思っ
たのだろう。
控えめながら、非難の声を上げるシルビア。それに同調するように、
ソレイルが唇を引き結んだ。
思わず俯けば、肩が震える。
﹁イリア?﹂
声を上げて、笑ってしまいそうだ。
もしかして、初めから全て茶番だったのだろうか。
﹁⋮⋮ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お言葉に甘えて、部
屋に戻ろうかと思います﹂
ナイフとフォークを置いて、顔を上げないまま言えば、
﹁部屋まで送ろう﹂
気遣う素振りを見せるソレイル。
婚約者としては正しい反応だろう。
﹁大丈夫ですわ、そこまで酷くはありませんし。ソレイル様はどう
ぞゆっくりしてらして﹂
﹁⋮⋮お姉さま、あの、﹂

231
﹁シルビアも、気にしないで﹂
茶会でソレイルとシルビアを引き合わせた、そのときと同じような
やり取りをして立ち上がった。
きっと部屋を出れば、アルが廊下で待機しているに違いない。
時間よりもだいぶ早い退出に訝しげな顔をして、そして、大丈夫な
のかと問うだろう。
私は、大丈夫だと笑って、いつも通りに笑みを湛えて。
何事もなかった振りをして部屋に戻るのだ。
そして、扉を開ける瞬間に一つだけ呼吸を置いて覚悟を決める。
そこで黒い鳥が待っているかもしれないと期待してしまう心を静め
る為に。
﹃はじめまして、お姫様﹄
初めて会ったとき、彼がなぜ私をそんな風に呼んだのか分からない。
意味などなかったのだろうし、理由を聞いても答えなんて返ってこ
ないだろう。
だけど、希望なんて一つもないこの世界で、彼だけが私の望む言葉
を口にした。
今生の私はそれを、何度も何度も、思い出す。
232
233

白銀の髪に紫瞳を持つ、私の妹。
シルビアは、生まれたそのときから両親にとっての特別であった。
口さがない若い侍女は、望みもしないのに様々な情報を与えてくれ
たので誰かに聞くまでもなかった。
両親が持たないその色は、彼女の実の母親に由来しているらしい。
﹁⋮⋮こんなところで昼食かい?﹂
学院の裏庭に、忘れ去れたようにぽつりと放置されたベンチに腰掛
けて、屋敷の料理人が持たせてくれた軽食を広げていると、ふと静
かな声が落ちた。
見上げれば、その制服から騎士科の生徒であることが分かる。

234
ネクタイの色は上級生であることを示していたので、立ち上がって
挨拶をしようとすれば片手で制された。
その仕草から、身分の高い人間であることが察せられる。
隣に座っても良いかと聞かれたが、咄嗟に首を振った。
婚約者のいる者が異性と二人きりになるのは褒められたことではな
い。
侍従や侍女がいればそれはまた別の話だが、さっと見渡した限りで
はここには他に誰もいない。
学院内においては生徒同士とは言え、貴族ばかりなので慎重すぎる
ほどがちょうど良いのだ。
貴族ばかりということは、すなわち、その誰もが幼少期から決めら
れた相手がいる可能性が高い。
首を振っただけではうまく伝わらなかったかもしれないと、やんわ
りと断りの文句を口にしていれば、騎士科の男は訝しげな顔をして
首を傾いだ。
それは、まさか断られるとは思ってもみなかったという表情だ。
その顔を眺めていると、何となく見覚えがあることに気付く。
社交界にいれば、大抵の人間とは顔見知りになるものだ。
話したことはないけれど、遠目で、ソレイルと談笑しているのと見
かけたことがあるかもしれない。
誰かに否やを口にされることがないほどの高い身分、その身のこな
し。
数週間前に噂された、隣国からの留学生というのが恐らく彼のこと
だろう。
確か、高位貴族だったはずだ。
そうであれば、彼の申し出を断るのは得策ではない。
しかし、彼が本当にそうなのかという自信はなく、確証が得られな

235
い限り迂闊なことはするべきではないだろうとも思う。
ただでさえ、私とソレイルが不仲であるという噂が広がりつつある
のだ。
私が異性と二人きりで一緒に居たことが知れれば、恐らく責められ
るのは私の方だろう。
ソレイルがどんな振る舞いをしていようと、彼が糾弾されることは
まず、無いと言って良い。
侯爵家の子息というのはそういうものだから。
目と目が合うのを避けるように顔を伏せたまま、手にしていた果物
をバスケットにしまう。
褒められた態度でないことは重々承知しているが、この国の礼節に
従うなら彼の機嫌を伺っている場合ではない。一刻も早くこの場か
ら離れなければ、誰に目撃されるか分からないのだから。
彼が本当に隣国からの留学生だった場合、私のこの無礼な振る舞い
が問題になるかもしれないと思ったが、そこはもう知らぬ存ぜぬで
通すしかないだろう。
﹁⋮⋮君、その無表情の下で何か色々考えているでしょう﹂
どうやら、ずっと観察されていたらしい。
声音に混じる、ふっと吐き出すような息で明らかに笑われたと分か
るのに、馬鹿にしたような物言いではなかったので思わず顔を上げ
てしまう。
すると、こちらを覗きこむようにして立っていた彼と思い切り目が
合ってしまった。
軽く息を飲んで僅かに上半身を反らせれば、
﹁そんなに怯えないでよ﹂と苦笑いで返される。

236
その親しげで優しげな雰囲気は、逆に警戒心を強める。
幾度となく繰り返す人生で、私を陥れようとする人間はいつだって
優しい顔をしていた。
これまでに積み重ねた数多の経験が危険を回避するのに一役買って
きたわけであるが、それがいつだって役に立つとは限らない。
慎重に慎重を期しても、落ちるときは、落ちる。
そして、そうなってしまえば、自分で止めることができないのだ。
﹁不足ながら⋮⋮私も貴族の子女でございますので、婚約者以外の
男性と二人きりになるのは⋮⋮﹂
よくないことなのだと、声には出さなかったけれど表情で伝える。
己に婚約者がいることと、この場に留まられては困るのだというこ
とは伝わるように言葉を選んだつもりだ。よほどの鈍感でなければ
悟ることができるだろう。
しかし、その男は﹁⋮⋮そうなんだ﹂と返事をしたきり黙りこんで
しまう。
なぜか、ここから立ち去る素振りを見せないので、ここは自分が場
所を譲るべきなのかもしれないと思い立つ。
広げていた軽食を片付けて立ち上がれば、
﹁⋮⋮何だか、邪魔をしてしまったみたいだね﹂と、今度は断りも
なくベンチに腰を下ろした。
いえ、と首を振りながら﹁もうそろそろ教室に戻ろうかと思ってい
たところですので﹂と男に向き合う。
立っている私を見上げる格好になった男の藍色の瞳がこちらを見上
げた。
その明るいとは言えない色あいが懐かしさを呼び起こす。

237
陽の翳った場所で見れば、きっと黒に近い色をしているのだろう。
﹁だけど、君。全然食べていなかったじゃない﹂
思わぬ追及に、別れの挨拶の為に折りかけていた膝を伸ばした。
﹁そんなに急ぐことはないと思うよ。まだ時間もあるじゃない。
だから、もう少し僕に時間をくれないかな。
︱︱︱︱︱イリア=イル=マチス嬢﹂
さらりと自分の名前を口に出されて、少なからず動揺しながら﹃や
っぱり知っていたんだ﹄という思いも過ぎった。
彼が隣国の高位貴族であるのなら、留学先の仕来りくらいは一通り
学んできているはずだ。
だから、彼は、婚約者のいる異性と二人きりになることは望ましく
ないと知っていて、あえてそれを無視していたことになる。
伯爵家第三位という由緒正しい家柄でありながら、毒にも薬にもな
らない家系である私の名前を知っているのには違和感が伴うが、そ
れも﹁ソレイルの婚約者﹂として知っているのであれば納得がいく。
ソレイルの実家は、言わずと知れた侯爵家であるのだから。
他国の高位貴族と親交があってもおかしくない。
﹁⋮⋮あれ、驚かないんだねぇ﹂
のんびりとした声音が静まり返った裏庭に響いた。
ここは、そもそも裏庭でも奥の奥に位置しているので、めったに人
が立ち入らない場所でもある。
だからこそ、ここで昼食をとっていたのだ。
誰の目も気にせずに、誰の言葉にも惑わされずに、一人きりになる
時間が必要だと思ったから。

238
﹁十分、驚いていますが、﹂
驚きのあまりに言葉も出ないのだという素振りで小さく息を吐く。
そんな些細な動きさえ見逃すまいとしているように、藍色の目がじ
っとこちらを見据えている。
何か用事があるのなら早く言えば良いのにと思う。
﹁顔に出ない性質なんだね。僕と同じだ﹂
ふふ、と笑うその顔は、人好きのする幼さが際立つものだったけれ
ど、たった数分の会話でも、彼が額面通りの人間ではないことが分
かる。
本音の見えない相手と対峙するのは初めてではないけれど、赤の他
人とも言うべき彼と駆け引きをするつもりなどは毛頭ない。
つまり、彼がどういう人間だろうと興味がないのだ。
しかし、一度機会を逃してしまうと、立ち去るきっかけを掴むのが
難しい。
あえて、私を観察しているかのような眼差しを向けているのは、そ
の行動を気取らせることによって、私がどういう反応を示すのかを
見てみたいからだろう。
人間というものは、咄嗟の行動にその本質が表れるものだから。
﹁⋮⋮ところで、君がこんなところに一人きりで居るのは、ソレイ
ル殿が食堂で妹君と一緒にいるからかな?﹂
至極、何でもないことのようにそう言った男の双眸は探るような目
つきをしていた。

239
不意を突いたつもりなのか、意図的に作られた妙な緊張感に思わず
眉を顰めそうになって、反射的に笑みを浮かべる。
すると、相手の男は明らかに驚嘆の色を浮かべて数回瞬きを繰り返
した。
ただの小娘だと、侮っていたのだろう。
確かに、あの茶会の前までの私であれば、狼狽して声を荒げていた
かもしれない。
それどころか、ソレイルとシルビアが一緒にいることさえ否定して
いただろう。
事実と分かっていても受け入れられないことがある。
何ヶ月か前の私であれば、きっとそうしていたに違いない。
﹁ソレイル様は、妹をとても大切にしてくださいますので。私もつ
い、甘えてしまいました﹂
﹁⋮⋮甘える?﹂
﹁私もたまには一人きりになって生き抜きをしたいと思うことがあ
るのです。
けれど、妹は最近この学院に入ったばかりでございます。
不安そうにしておりますので誰かが傍についていなければなりませ
ん。
本来なら私が面倒を見るのが道理なのですが⋮あの子もソレイル様
を兄と慕っておりますし、つい、ソレイル様にお任せしてしまった
のです﹂
考える必要もなく言葉がすらすらと出てくる。
ソレイルとシルビアの仲を勘ぐって、事もあろうに婚約者である私
に探りを入れてくる人間は少なくない。
それは、単純にソレイルの不実を暴こうという正義感だったり、も
しくは私を嘲笑しようとするものだったり、あるいは、ソレイルと
シルビアの恋を成就させようというお節介からくるものだったりと

240
様々な理由からだったけれど。
その度に私は、適当な言い訳を口にしたものだった。
そして、今が、まさしくそのときだ。
すっかり慣れきった﹁作業﹂である。
﹁⋮⋮そう﹃兄﹄ね。それは、それは、﹂
私の発言にぐっと息を詰めた、他国の優美な高位貴族は、苦笑とも
落胆とも言えない微妙な顔をした。
一体、何を引き出そうとしていたのかは分からないが、期待してい
た返事とは違っていたのだろう。
しかし、少しの沈黙の後に吐き出されるのは、
﹁だけど、周囲はそう見ていないんじゃない?﹂
想像通りの言葉だった。
﹁⋮⋮さあ、どうでしょう。私には分かりかねます﹂
心底、不思議そうな顔をしてみれば、相手は腹の底から息を吐き出
した。
大仰なほどのため息は、彼ほどの立場であれば相手を萎縮させるの
に効果的だろう。
狙ってやっているのかは分からないが。
﹁何だか、君⋮⋮。僕の想像とは違ってる⋮⋮﹂
すっかり困りきった様子で私を見上げるその双眸は、学院の噂にな
るくらいには整っている。
貴族というのは元来、容姿の優れた者同士で婚姻関係を結ぶことが

241
多いので見目麗しいものだが、彼はその中でも際立っていると言っ
て良かった。
こういう人間が居るからこそ、私のような地味な容姿が目につくの
かもしれない。
﹃悪目立ちする﹄とは、まさしく私のことだった。
﹁どのような想像をされていたのかは存じませんが⋮⋮そろそろよ
ろしいでしょうか?﹂
用事がないのであればすぐにでもここを立ち去りたい。それを素直
に口にする。
すると男は両肩を竦めて﹁僕はまだ話し足りないんだけど﹂と悪び
れもなく言い放った。
何だか無意味な応酬をしているような気がしてならないのだ。
﹁⋮⋮一体、どのようなご用件で?﹂
このまま開放されることはなさそうだったので仕方なしに、話を聞
く体勢に入る。
﹁まぁ、まず。自己紹介させてよ。君、僕のこと知らないみたいだ
からさ﹂
ふふふ、と笑みを深めたその顔に、私にとって良くない方向へ話し
が進んでいることに気付く。
ここで彼の言葉を遮るのは相応しくない。だけど、できれば名前な
ど知らないままでいたかった。
お互いに名前を知ってしまえば、私たちはその瞬間から﹁知り合い﹂
に類することになってしまう。
そうなれば今後、彼と顔を合わせたときに知らない振りなどできな

242
くなる。
彼はそれをよく知っているのだろう。だから、嫌味なほどに清清し
い笑みを浮かべているのだ。
﹁改めて、お壌さま。僕の名前は、サイオン=トピアーシュ。ちょ
っと近くの国からお勉強に来てるんだ﹂
﹁ちょっと、近くの国⋮⋮?﹂
正式な場ではないからか、あきらかに略名を口にしている。
これが舞踏会などの公式な場であれば、自分の名前を省略するのは
ご法度だ。
相手を侮っているととられる。
その表情を見ていれば私を見下しているわけではないようだが、正
式名を口にしなかったのには何か意味があるのかもしれない。
それに、出身国を言わないのはなぜなのだろうか。
彼が、噂の留学生であれば調べるまでもなく簡単に判明するという
のに。
何より、その﹁サイオン﹂という名前。
聞き間違いでなければ、数日前の昼食会でソレイルとシルビアがい
かにも親しげにその名を口にしていた。
だとすれば、彼は確実に二人の知り合いだということになる。
その彼が、ソレイルの婚約者たる私にわざわざ接触してきたのだ。
たまたまこの場に居合わせたとも考えられるが、その可能性は低い
だろう。
ソレイルを介して近づいてきたほうがまだ自然である。
﹁ああ、良いね。その顔。その顔が見たかったんだよ﹂
怪訝な表情でも浮かべていたのだろう。

243
サイオンは愉快そうに半身をベンチの背もたれに預けて笑った。
⋮⋮あの不可思議な名乗りは、ただ単に挑発したかっただけなのだ
ろうか。
今更、取り繕う気もないのでただその様子を眺めていれば、
﹁我が国ではね、政略結婚は古き時代の悪習となりつつあるんだ﹂
ふ、と、こちらに向けている双眸を細めた。
第三者からすれば、いきなり何を語りだすのだろうと思うところで
はあるが、私を取り巻く現状を鑑みれば自ずと着地点が見えてくる。
﹁もちろん、貴族社会はその限りではないよ。
政略結婚によってもたらされる利益の方が大きいし、貴族としての
義務を果たすにはそれを選んだほうが良い場合もある。
だからまぁ、あくまでも一般民衆の話だね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だけど、この国よりはつまり、恋愛結婚についての理解があると
いうことだよ﹂
軽やかな声音に反して真剣な顔をしたサイオンは、ぐっと身を起こ
して伺うようにこちらを見据えた。
﹁何を仰りたいのか分かりません﹂と言った私の声が、さしたる動
揺も見せず白々しく響く。
自分の声とは思えないほど、機械的で感情の伴っていないものだ。
それを聞いたサイオンは、ここで初めて、いかにも階級の高い貴族
然とした嘲笑を浮かべた。
鼻を鳴らして﹁そうだろうね﹂と私に同意を示す。
﹁僕の言っていることが分かっていれば、こうして、そんな風に平
然とした顔をしていられるわけがない﹂

244
僅かに、侮蔑のようなものが混じっているのは気のせいではないだ
ろう。
この男が、ソレイルとシルビアを知っているのなら。
あの、一対の人形のように仕上がった二人を見たことがあるのなら。
こう思うに違いない。
﹃ソレイルは、イリアよりもシルビアと結ばれるべきだ﹄と。
この学院の、大半がそう思っているように。
﹁君はソレイルのことが好きなの?﹂
﹁⋮⋮それに答える義務はないと思いますが、﹂
﹁まぁ、そうだけどね。でも、誰もが疑っているんじゃないかな。
君はある時期から、ソレイルや周囲に対する態度が変わったらしい
から﹂
﹁⋮⋮﹂
ある時期から、というのは茶会の後を差しているに違いない。
それまでも、学院内においてソレイルと直接言葉を交わしたり、特
別親しくしていた記憶はないが、いつだってこの目は彼の姿を追っ
ていた。
彼に近づく女性皆に牽制していたくらいだし、私のソレイルに対す
る想いは明け透けなほどに分かりやすかっただろう。
だけど、茶会を終えて、シルビアが学院に通うようになり、ソレイ
ルとシルビアの距離が縮まるにつれ、私は、意図的に二人を避ける
ようになった。
ソレイルは私の婚約者であり、シルビアは私の妹だ。
だから、二人が昼食を共にするのであれば、私もそこに混じれば良
い。
それは不自然なことではないし、シルビアの為には、むしろそうす

245
るべきだったかもしれない。
だけど、私はそうしなかった。
二人を見ているのが辛い。二人の傍に居るのは苦しい。
一緒に居れば、思い出したくない過去が蘇ってくる。
だからこそ、距離を置こうとする。
だけど、捨て去ることのできない想いのせいで、完全に離れること
もできない。
﹁ねぇ、想い合う二人を引き裂くのはどんな気分?﹂
おもむろにベンチから立ち上がったサイオンが、私の横に並び立ち、
秘め事でも口にするかのように囁いた。
耳の奥に、重しのように沈んでいくその言葉。
立場が変われば見方も変わる。それは当然のことだ。
私から見れば、私とソレイルの仲を引き裂くのはシルビアで。
シルビアから見れば、シルビアとソレイルの仲を引き裂くのは私だ。
周囲の人間は、自分が味方につきたいと思う側からその関係性を見
出す。
つまり、サイオンは、私の味方ではない。
﹁解放してあげなよ﹂
ね?と、何でもないことのように言って、サイオンは踵を返した。
来た道を戻っていくその姿に、掛ける言葉は無い。
よほど私の存在が目障りだったのだろうか。
解放して欲しいのはむしろ、私のほうだというのに。
何をどうすべきなのか判断できずにいる。
一つ前の人生で、ソレイルとシルビアが結婚することができたのは、

246
そうしなければならない事情があったからだ。
結婚式を中止することができないようにあえて、式の二日前に出奔
した。
代役をたてる必要があったからこそ止むを得ずシルビアが務めを果
たすことになったのだ。
あれほどに逼迫した状況でなければ、両親は、シルビアを手放さな
かっただろう。
だとすれば、今この状況で私とソレイルが婚約を解消したところで、
シルビアが彼の相手に選ばれるとは思えない。
そもそも、次代の侯爵家夫人になれるだけの教養が今現在のシルビ
アには備わっていないのだから、いくらソレイルが彼女を望んだと
しても、侯爵家は認めないだろう。
そういう様々な事情を、サイオンは知らない。
知らないからこそ、理想と願望を追及し、希望を求める。
友人と、その愛する人が一緒になる未来を夢見ても不思議ではない。
﹁⋮⋮ねぇ!君は、いつまでそんなところにいるつもり?﹂
少し離れたところで、こちらに振り向いたサイオンが大きな声で言
った。
ただ単に、昼休みが終わることを知らせているのかもしれないし、
私の現状を知らしめようとしているのかもしれない。
だけど、本当に、
︱︱︱︱︱私は、いつまで、こんなところにいるのだろう。

247

﹁私はもう、貴方のことを好きではありません﹂
声に出してみれば、然程苦労することもなく言葉にできた。
胸の奥の引き攣れるような痛みは、幾度となく重ねてきた人生の﹁
記憶﹂という名の残骸か。
確かに苦しいと思うのに、この身にしっかりと刻まれているその痛
みには耐性ができているような気もする。
だから、気に留めないように努めれば、何とかなるかもしれないと
思った。
﹁私はもう、︱︱︱︱︱﹂

248
しんと静まり返った図書館で、どうせ誰も聞いていないのだからと
本を読んでいる振りをしてもう一度呟く。
そして、己の唇が震えていることに気付いた。
苦しくて、喘ぐように吐き出した息が喉を塞いでしまうように感じ
て、思わず両手で首元を握り締める。
それと同時に苦笑が漏れるのは、自分がどうかしていることに気付
いているから。
実際に起きてもいない出来事を想像して己の首を絞めている。その
愚かさに気付かないほど我を失っているわけではない。
﹁⋮⋮好きでは、ありません﹂
再び切れ切れに呟いた言葉が、余韻を残して空気に解けた。
しかし、音としての存在を失ったその言葉は、それでもこの身に纏
わりついて離れない。
これは、それほどの意味を持つ言葉だった。
これまでのいくつもの人生で、ソレイルの為に、妹の為に、ひいて
は自分の為に、何度も伝えようとしたのだ。
自分に嘘をつくのが一番良い方法だと知っていたし、そうすべきだ
と思っていた。
ただ一言、それさえ口にできれば、私とソレイルはもっと前向きな
関係を気付けたかもしれない。
お互いに、好きではないのなら。何の感情も抱いていないのなら。
淡白だと言われる関係でも許せたはずなのだ。
あくまでも仕事上のパートナーとして信頼関係を築けば良い。
仲の良い夫婦にはなれずとも、領地を支えるために家族という名の
集合体を作ることはできただろう。

249
それなのに、いつの人生でも、言葉にして伝えることはできなかっ
た。
理不尽に追い詰められて、生きる希望さえ奪われても息を引き取る
間際になってさえ、そんなことを思ったことはなく、それを口にで
きたこともない。
私はいつだってソレイルが好きで、ソレイルに恋をしていて、ソレ
イルを愛していた。
それだけが私を支えてきたと言ってもいい。
彼を好きになってしまったからこそ報われないのだと言える人生も、
彼のことが好きだからこそ生きている意味があると言えた。
だけど、
﹁なぜ、﹂
私はソレイルを好きになってしまうのだろう。
幾度となく繰り返してきた人生で、やはり幾度となく繰り返してき
た問いを口にする。
答えが返らないことを知っていても疑問は尽きることなく、決して
払拭されることはない。
幼少期の、あの日、あの瞬間、目が合ったそのときに訪れたその感
覚を思い出した。
何度人生を積み重ねても、どれほどの時を経ようとも薄れることは
ないその感情。
恋に落ちたというよりは、何かが降ってきたと表現するほうが正し
い。
その出来事にあえて名前をつけるなら。
この数奇な運命を神の御業とするなら。
それはまさしく、天啓というやつだったのだ。

250
誰かに恋したその瞬間を、そんな風に呼ぶ人間など居はしまい。そ
れはよく分かっている。
だけど、私の人生はまさしく、ソレイルに出会ったそのときに始ま
ったのだと言えた。
慣れない場で緊張を隠しきれていなかっただろう私に﹁大丈夫だよ﹂
と﹁心配しなくても大丈夫だよ﹂と切れ長の瞳を細く緩めたあの顔
を、差し出された小さな指を、忘れたことはない。
その声音さえ耳に蘇ってくるようだ。
あの瞬間に、私の心臓は時を刻み始めた。
柔らかく、だけど、どこか力強く握り締められたその手の感触を今
でもはっきりと思い出すことができる。今まさに、そうされている
かのように。
指を曲げれば、今でもこの手を握ってくれているような気さえする
のだ。
薄氷のような目によく似合う白い肌をしているから、なぜか冷たく
冴えた氷のような感触を想像していたけれど、その手は当然温もり
を抱いていて。
両親でさえ滅多に握ってくれることのなかったこの手を両手で包み
込んだのを覚えている。
安心させるように手の甲を滑ったあの指先を思い出す度、ソレイル
に掛けられた﹁大丈夫﹂という言葉は重みを増して特別なものに変
化していった。
侯爵家子息の婚約者というのは耐え難いほどの重責を与え、時々、
立ち竦んでしまいそうになったけれど、幼少期の彼がたった数回だ
け口にした言葉は良くも悪くも私の背中を押してきた。
﹁⋮⋮大丈夫、﹂
しんと静まり返った図書館には、数人の生徒が残っているだけだ。

251
本棚に囲まれるようにして、複数人が座れるような大きな机が規則
正しく整然と並んでいるのだが、昼中であれば誰かと共有するはず
のその机も一人きりで座るくらいの余裕がある。
だから、同じ部屋に居るにも関わらず一人一人がだいぶ離れた位置
に腰を下ろしていた。
独り言をぼそぼそと口にするくらいは許されるくらいの距離だ。
囁くような吐息が聞こえたとしても、当然、何を言っているかなん
て他人には分からないだろう。
﹁大丈夫だよ、﹂
震える両手をきつく握り締めて、かつてソレイルが私に言ってくれ
た言葉を繰り返す。
しかし、まさに物語の一説を諳んじているような感覚で、そこには
何の感情も伴わなかった。
幼い頃の私は、確かにその言葉に救われたはずなのに。
その言葉がいつだって私の背中を押してきたはずなのに。
いまや、その言葉は何の意味ももたなかった。
︱︱︱︱︱ねぇ、想い合う二人を引き裂くのはどんな気分?
ふと蘇る、サイオンの言葉。
たった数時間前のことなのに、随分と昔のことのように思えた。
一言も言い返せずに立ち竦んでいた私が、あの後、何をしたかと言
えば。
何事もなかったかのようにすました顔をして午後の授業を受け、否
応なしに入ってくるソレイルとシルビアの噂話にそ知らぬ顔をする
ことだった。
知らなければ何もなかったのと同義だと、我が婚約者の振る舞いか
ら目を背ける。

252
そんな私を見つめる学院の生徒は、馬鹿にしたような嘲弄にも似た
笑みを向けていて、食いかかってくるのを待っているようにも見え
た。
きっと私が、失態を犯すのを待っていたのだろう。
少し前までの私なら、噂話に興じる集団に乗り込んで行ったに違い
ないから。
だから私は、ただ前を見据えていた。
俯かないのが、せめてもの抵抗で。私にできたのはたったそれだけ
のことだった。
既にしでかしてしまった己の素行を正す術などどこにもない。
ソレイルに近づくありとあらゆる女性を牽制していた頃の自分が、
我が身を追い詰めようとしている。
目立つ行動を取るのは避けるべきだろうとただただ沈黙した。
目立つ二人のことだ。どうせ、彼らがどこで何をしていたかなんて
誰に聞かずとも知ることができる。
だけど、分かっていたこととは言え、彼らが当然のように一緒に居
たという話を聞けば気分は沈んだ。
数秒、数分、数時間。
時間をおうごとに増していく焦燥にも似た愁然に息がつけない。
苦しい。どうしようもなく、苦しいのだ。
同じ学院に通っているというのに、婚約者でありながら、私はただ
の一度も昼食に誘われたことがない。
お互いの屋敷を行き来する義務的な昼食会とは意味の違うそれを、
シルビアは当たり前のように享受している。そのことに、何も感じ
ないはずがない。
傷ついて、怒っていて、悲しんでいる。
かつての自分であれば⋮あの茶会の前であれば、私はシルビアに罵

253
声でも浴びせたのだろう。
責められるべきはシルビアではないはずなのに。それが分かってい
ながら矛先は妹に向かう。
なぜなら、女というものは総じてそういう生き物であるからだ。
だけど、それがどれほど愚かな行いであるかをよく知っている今は
間違ってもそんなことはできない。
それに、私がもしも拳を振り上げたなら、ソレイルがどんな反応を
示すかが手に取るようにわかった。
呆れたような、そして、どこか失望したような侮蔑の混じった眼差
しで﹃なぜ、妹のことを大事にしないんだ﹄と息を落とすのだ。
いつかの人生で、言われたことがあるのだから間違いない。
ソレイルは私に、優しい姉としての振る舞いを期待している。
﹁⋮⋮大丈夫、大丈夫だよ、﹂
いいえ、そんなの、嘘に決まっている。
﹁︱︱︱︱︱イリア様⋮⋮?﹂
ぎゅっと握り締めた手の甲に爪先が食い込んだその時、掛けられた
声にはっと思考を霧散させる。
視界の隅に金色の髪が下りてきて、しっかりと顔を確認するまでも
なくそれがマリアンヌのものだと分かった。これほどに豪奢な色を
持つ人間は二人といない。
﹁⋮⋮まだ帰っていらっしゃらなかったのね﹂
ぽつりと呟いた声は独り言だったのか、ふと私の手元に視線を落と

254
した。
﹁イリア様も、そのような本をお読みになるのね﹂
微笑ましいものでも見るかのように柔らかく目を細めたマリアンヌ
が、私の対面の椅子を引いた。
﹁彼と待ち合わせをしていますの﹂と甘く笑みを浮かべるその唇は
どこまでも幸福そうだ。
﹁⋮⋮意外、でしょうか﹂
昔から幾度となく読み返しているその本は、図書館のものではなく
私物だった。
タイトルと作者名だけが記載されている飾り気のない本ではあるが、
発行されたその年には貴族子女の話題をさらった。それほどの作品
であるから、タイトルくらいは誰でも知っているだろう。
﹁私もタイトルとあらすじくらいしか知らないのだけれど⋮隣国の
姫君と騎士が恋に堕ちるお話でしょう?﹂
﹁ええ、そうですわね﹂
﹁恋物語としては王道かしら。ですけれど、何だか夢物語のような
気もして⋮⋮現実味がないと言うか⋮⋮﹂
マリアンヌはそこまで言いかけて、首を傾げながら﹁お好きなので
したらごめんなさいね﹂と笑う。
物語を否定するような言い方だが彼女に悪気がないことは分かって
かぶり
いるし、その言い分も最もなので頭を振った。
その様子を見て、彼女はまた一つ笑みを零す。
﹁イリア様は、現実主義かと思っておりましたの﹂

255
﹁⋮⋮現実主義?﹂
﹁甘い夢など、見ない方だと﹂
大きな窓から差し込む夕日に照らされてきらきらと揺らめく彼女の
髪が目に眩しい。
私の灰色の髪では、到底、あんな風に輝くことはできないのだろう
と思う。
﹁⋮⋮私はその小説の結末を知らないのだけれど、主人公はきっと
幸せになるのでしょうね?﹂
﹁ええ、そうです﹂
私が肯けば、マリアンヌはその細い指を顎に添えて困ったような顔
をした。
﹁どうか、なさいましたか?﹂
﹁隣国の騎士と恋に堕ちた姫君が幸福になるというのは、好きな方
と結ばれるということでしょう?
けれど⋮ねぇ。姫君と一介の騎士が結ばれたとして、それは本当に、
幸福な結末なのかしら⋮⋮と思って﹂
私よりもずっと現実主義と思しき、中位貴族の令嬢が呆れの混じっ
た笑みで息をつく。
位階で言えば、彼女は私よりもずっと高位貴族に近い家の出である。
家に縛られているのも、政略によって結婚するのも、逃げ出すこと
ができないのも、何もかも同じだ。
だけど、彼女と私の決定的な違いは、彼女が婚約者に愛されている
という一点に尽きる。
私にとっては、それこそが夢物語のように思えた。

256
﹁姫君にも⋮⋮いいえ、もしかしたら⋮⋮その騎士にも婚約者が居
たのかもしれませんわね﹂
その小説には、そんな人物が出てくるのかしら。とマリアンヌはそ
の麗しい相貌に憂いを乗せる。
物語の主軸は、母国で起こった内乱の為に亡命してきた姫君と、王
命により彼女を護衛することになった騎士との恋愛だ。彼らには様
々な障害が立ちはだかるが、最後は落ち着くところに落ち着いてご
くごく平和的に解決される。
不幸な人間などあってはならないのだと、一種、脅迫概念のような
ものさえ感じられる展開ではあるが、そこが貴族子女の心を捉えた。
だからこそ、当然、この物語には姫君にも当然居たはずの婚約者な
ど出てこない。
サイオンだって口にしてた。いくら平民で恋愛結婚が主流になろう
とも貴族ではそうもいかないのだと。
王族であれば尚更だ。
現実と照らし合わせれば、姫君にも騎士にも婚約者がいないのは不
自然だと言えた。
けれど、これはあくまでも小説なのだ。
﹁⋮⋮あら、もうこんな時間だわ。私はもう行かなくてはなりませ
ん﹂
するりと音もなく立ち上がったマリアンヌの洗練された仕草に思わ
ず視線を落とす。
いつかの人生で常に対極の存在とされていた彼女は今、私の友人と
なった。
そうなってから改めて彼女を観察していれば、自分がどれほど彼女
に劣っているのか思い知らされる。

257
指先から髪の先まで、貴族に生まれてくることが定められていたか
のような美しさを誇る彼女を前に、ライバルだなどと言ってのけた
己を、心底、恥ずかしいと思った。
﹁ねぇ、イリア様﹂
私の横を通り抜けようとしていたマリアンヌがふと立ち止まる。
﹁私、こう見えて幼い頃はとてもお転婆でしたのよ﹂
ふふふ、と品良く笑う彼女から到底想像できない姿だ。困惑しつつ
もその顔を見上げていれば、
﹁自分の知らないところで婚約が決まって、癇癪を起こしたもので
す﹂と、私の顔をじっと見据える。
﹁顔も知らない方のところに嫁ぐなんて有り得ないと言って﹂
顔を合わせたところで、彼のことを好きだとは思えませんでしたわ。
と可笑しそうに言った。
﹁彼にも随分と、酷いことを言ったものです。彼の家が私の家より
も下位なことを盾にして﹂
だけど、と口を噤んだマリアンヌがやがてそっと吐き出したのは信
じ難い事実だった。
﹁母に、貴女のことを聞いたのです。イリア様﹂
﹁私の⋮⋮?﹂
﹁ええ。ご存知ないかもしれませんが、イリア様の母君が主催され
たお茶会に私の母も何度か参加させていただいておりますの﹂

258
﹁⋮⋮お茶会⋮⋮﹂
﹁そうですわ。そのときに、イリア様のお姿を何度か見かけたのだ
と言っておりました﹂
深く肯いた彼女はどこか遠くを見るようにして、
﹁侯爵家のご子息の婚約者というのは⋮⋮大変なことですわ⋮⋮私
にも、それはよく分かります。だって私も貴族なのですから﹂
そう言った後、その身を屈めて私の手を掴んだ。
そっと優しく、包み込むように柔らかく。
拒絶するかのようにぴくりと動いた私の手を、それでも、離さない。
﹁母は私に言ったのです。婚約者であることに胡坐をかいていては
いけませんと。そうあるために、努力を重ねることが必要なのです
と﹂
だから私は、婚約者から目を背けることを止めたのです。とその強
い眼差しで私を射抜く。
それからは婚約者一筋ですの、と笑みを一つ落とした。
﹁⋮⋮マリアンヌ様﹂
たまらず呼びかけたけれど、言葉が続かない。
何を言えば良いのか分からなかった。
私の知らないところで、私のことを、誰かが見ていた。その事実に、
ただ言葉を失っていたのだ。
﹁⋮⋮貴女がどれほどの努力をされてきたのか、本当のところは、
私には分かりませんわ。けれど、貴女の存在そのものをないがしろ
にされているようなこの状況は、許せません﹂
強く掴まれたその白い指に視線を落とせば、ふっと力を失う。

259
﹁⋮⋮私に何かできるのであれば、どうぞ遠慮なく言ってください
ませ﹂
懇願するような眼差しを受けて、一瞬、その手に縋りつきそうにな
った。
だけど、縋ったところで、この大きな流れが変わるはずがないこと
も、変えようがないこともよく分かっていた。
これが例えば一度目なら。いや、二度目、三度目なら。
私はこの手を取って、ソレイルの心がこちらを向くように最大限の
努力をしたに違いない。
実際に行動を起こして、もしかするとシルビアを遠ざける為に画策
することもあっただろう。
だけど、私は、シルビアをこの学院に入れることを決めたときに、
こうなる未来を予想していたのだ。
ソレイルが私よりもシルビアを優先するだろうことを、シルビアが
以前よりもずっと健康的な肉体を手に入れるだろうことを。そして、
二人が寄り添うようにして学院生活を送るだろうことを。
全て、予想できたことだった。
これまでの人生を鑑みれば、予測するのは難しくなかった。
それでも、あの子を学院に入れたのは。
万に一つでも、ソレイルが私のことを優先してくれるだろうことを
期待したからかもしれない。
あの子よりも私の方が大事だと、そう言ってくれる瞬間を性懲りも
なく期待した。
シルビアを学院に入れることによってソレイルを遠ざけるような真
似をしながら、それでも私はいつだって彼の手を待っているのだ。
本当に、愚かなことに。

260
﹁⋮⋮、いいえ、マリアンヌ様。私は大丈夫です﹂
大丈夫、大丈夫だよ。
幼い声が耳に響いて、私に言い聞かせる。大丈夫だと、信じ続けな
ければならないのだと。
そうでなければ、いつかの私のように、己の首に縄をかけるような
事態になってしまう。
だけど、私はもう気付いているのだ。逃げ場さえ、とっくの昔に失
くしてしまったのだと。
﹁大丈夫です﹂と繰り返した声は微かに震えを帯びていて、誰の耳
にも、その言葉が信用ならないものだと分かっただろう。だけど、
マリアンヌは小さく頭を振っただけで何も言わなかった。
ただ、その澄んだ瞳を僅かに滲ませて﹁イリア様は本当に、お優し
くていらっしゃる﹂と、シルビアが学院に入ったばかりの頃に私へ
と向けた言葉を繰り返した。
だから、私は今度こそはっきりと否定しなければならなかった。
間違ってもシルビアを悪者にしない為に。
シルビアは何も悪くない。あの子はただソレイルに恋をしただけで、
私から彼を奪おうと思って行動しているわけではない。悪気がある
わけでも私を憎んでいるわけでもないに決まっている。
妬んでいるかもしれない、羨んでいるかもしれない、だけど、私を
陥れようとしているわけではない。
あの子は私の可愛い、妹なのです。と。
だけど、唇からはただ吐息が漏れるだけで言葉にはならなかった。

261
心臓が千切れそうなのだ。息が止まりそうで、耐え難い。
﹁イリア様、人というのは自制がきかないものですわね。
けれど、誰か大切な人の為なら、どこまでも、いつまでも、耐える
ことができる生き物だと思います﹂
現実はいつでも私を追い落とす為の準備をしている。
だから私は、その現実から隠れる為に息を潜めて、この瞼を強く閉
ざすのだ。
今度こそ上手くやらなければと思う時は過ぎた。
もう私には、何も、残ってはいない。
︱︱︱︱︱貴女は、誰の為に、そこにそうしていらっしゃるの?
マリアンヌの声が淡く滲んで消えた。
262

それは例えば一枚の絵画であり、一つの宝石だった。
絵画の方は屋敷で一番目立つ場所に掲げられており、宝石の方は鏡
台の引き出しに隠された。
対照的な末路を辿ったとも言える二つのものは、我が父から私たち
姉妹にそれぞれ一つずつ与えられたものだ。美しさではどちらも負
けていない。しかし、その価値には天と地ほどの差があった。
素人の描いた絵画と、この世で二つとない希少な宝石。
稀有で値段がつけられないという点では同義であったが、そこに込
められた想いは同等とは言えなかった。
宝石を手に入れたのは私の方で、第三者から見れば間違いなく私の
方が幸運なように見えただろう。
だけど、そうではなかった。

263
だからこそ私は、その宝石を入れた四角い箱を、鏡台の一番上の引
き出しに隠した。
自ら望んで手に入れたものではない。欲しくはなかった。こんなも
の。


私の胸元を飾る首飾りをじっと見つめて、﹁いいなぁ、お姉さま﹂
とシルビアは言った。
心底羨ましそうに唇を尖らせた彼女に、私は苦笑するしかない。
単に何と言って良いか分からなかったのだ。
﹁お父様の絵では不満だというのかい?﹂
シルビアの声をすぐ傍で聞いていた父親が、彼女の細い髪を指で撫
でながら優しく言った。指を滑るさらさらとした感触を楽しむかの
ように何度もその動作を繰り返す。シルビアはそんな父親に特別な
反応を示すこともなく、当たり前のように受け入れていた。年頃の
娘であれば、父親の過度な接触を厭う傾向にあるものだが妹に限っ
てそんなことはなかった。
仲睦ましい家族なのだろう。世間はきっと、そう見るに違いない。
実際、そうだった。
︱︱︱︱︱だけど、私だけはそれに含まれない。
父親とそれほどに密着したことはないし、覚えている限り、髪を撫
でられたことなど一度もない。
私と父親は昔からそれほどに疎遠だった。
﹁せっかくお前の為に為に描いたのになぁ⋮⋮﹂
落ち込んだ素振りでそう言った父に、シルビアが慌てて首を振った。
﹁あ、いえ、そうじゃないの⋮⋮!ごめんなさい、お父様⋮⋮﹂
ベッドの上に半身だけを起こした状態で父親に縋りつくその姿は、

264
恋人同士に見えなくも無い。四十代も後半に差し掛かろうとする年
齢だというのにいつまでも若々しい父の精悍な容貌は、見目麗しい
貴族社会でも口の端に登るくらいには有名だ。
シルビアの慌てた様子さえも愛おしそうに眺めていた父親が大仰に
肩を竦める。
﹁ふふ、まぁお前がそう言うのも仕方ない。確かにイリアにあげた
石は高価なものだから﹂
こちらに視線を流しながら私の名を口にするのに、目が合うことは
ない。
シルビアが私のことを口にしたから、仕方なくこちらに顔を向けた
で意味などないのだ。
再び妹に視線を戻した父の横顔は、シルビアのことが愛しくてたま
らないのだと雄弁に語っている。
それを少し離れたところから見ている私は、舞台でも眺めているよ
うな心地で観客に徹していた。
私は、この物語の登場人物ではない。脇役でもないし、傍観者でも
ない。ただの読者だ。そんな気分で二人が寄り添うのを見ていた。
﹁⋮⋮だけど、お姉さまの首飾りは本当に素敵。お姉さまの目の色
と同じなのね﹂
伯爵家第三位と言えど屋敷はそれなりの広さを誇っているので、妹
の部屋だって決して狭くは無い。
シルビアのベッドとは離れているので、声を張り上げなければ意思
の疎通が図れない。
しかし、私はすでに淑女教育を受けている身で。そんなはしたない
ことはできないと思う。
特に父が居る前では。
だけど、なぜか、声を張り上げている様子もない妹のうっとりと潤
んだ声は良く聞こえた。

265
空気を入れ替える為に少しだけ開かれた窓の隙間から入り込んでく
る柔らかな風が、彼女の声を運んでくるのだろうか。
決して近づくことのできない、天蓋の向こう側。
ベッドに腰掛けた父に甘えるように半身を預けた妹の姿が見えてい
る。
何度も﹁いいな﹂を繰り返すシルビアに、
﹁イリアには社交界デビューの記念に贈ったものだからね﹂と父が
優しく諭す。
舞踏会に呼ばれたわけでもないのに、地味な普段着に豪奢な首飾り
をつけているのは少し滑稽でもあるが、シルビアが見たいと言えば
そうせざるを得なかった。
箱に入れたまま、ただ見せるだけでは駄目なのかという私に﹁お姉
さまが付けていないと意味がないのよ﹂と拗ねた表情をする可愛い
妹を無視することができなかった。
私が社交界デビューしたその日、妹は例に漏れず寝込んでおり、こ
の首飾りを見ることが叶わなかったのだ。だからこそ、そんなこと
を言い出したのだろう。
﹁社交界デビューかぁ、じゃぁ私は今年ね!﹂
嬉しそうに頬を染めるシルビアを、父親は微笑ましくも哀切の混じ
る眼差しで見つめていた。
シルビアは気付いていない様子だけれど、もしかしたら社交界デビ
ューさえ危ういのではないかと思う。
一日の大半を寝て過ごしているような彼女には淑女教育を受ける時
間もないし、何より勉強が追いついていない。いかに自分が他人よ
りも優れているのかを競い合う場に無垢で無知であるあの子が出て
行くのは非常に怖いことだ。
まだ十代とは言え、伯爵家の名を背負って出るようなパーティーな
のだから、粗相はまず許されない。
それに、舞踏会に参加することを考えるだけで興奮するような子だ。
当日になって熱を出す可能性も高い。

266
学院へ入ることを許された彼女が、その当日に寝込んだのは記憶に
新しかった。
父の反応を見ても私の考えは間違っていないような気がする。
だけど、わざわざそれを口にして妹を悲しませるような愚かもので
はない。
父がどれほどにシルビアを大切にして、慈しんでいるかは十分すぎ
るほどに理解していたから。
確かに私の首元を飾る宝石は美しく華やかで、地味な私には分不相
応なほどだった。
社交界デビューする娘を愛するが故にそれほどの物を買い与える親
は少なくない。何よりも矜持を大事にする貴族なれば、娘が恥をか
かないように最高級品を用意して当然だろう。
当然、当家もそうであった。
しかし、それが愛情によって与えられたものではないことを知って
いる。
凝った金細工が最高級品だということを示しているし、真ん中に配
置された黄緑色の宝石は貴族の持ち物に相応しい存在感を醸し出し
ている。持ち主が私でなければ、貴人を飾るに十分すぎるほどの品
物だ。
それをシルビアが羨ましがる気持ちも分からなくはない。
自室からほとんど出ることが叶わず、童話の中のお姫様に憧れてい
るような妹だ。貴族女性というものに尊敬と畏敬と憧憬を抱いてい
ても仕方が無い。だからこそ、貴族の子女が持つようなものを欲し
がるのだ。
だけど、それは、あくまでもそれが与えられた経緯を知らないから
こそ言えることだと思う。
﹃これの目の色と同じ宝石を一つ頼もう﹄

267
ある日突然、父親に書斎に呼び出され、何用かと問う前に聞かされ
たのはその言葉だった。
呼び出した理由も、久しぶりに対面した娘に掛ける言葉もなかった。
私が部屋に入るよりも前からその場に居た商人に、ただそれだけを
口にした。
注文を受けた商人は恭しく了解の意を唱え、手品のように胸元から
白い紙を取り出すとささっと首飾りの絵を書き上げた。
そして、﹃⋮⋮これでよろしいでしょうか?﹄と舌なめずりでもし
そうな顔で言った。
それに気付いているはずの父親は一瞬、不快そうな顔をしたがそれ
だけだ。
いつものことなのかもしれない。
商人は、それがどれほどの値打ちになるのか饒舌に語りながら、年
若い子女が持つには十分すぎるほどの代物ですと唇の端を吊り上げ
る。
父はそれにさして興味も示さず一つだけ頷くと、請求書を家令に渡
すように言い置いて部屋を去った。
私の方には一度も視線を向けることなく、退出の許可さえ与えず部
屋に置き去りにした。
取り残された私に商人が困った顔をする。何か希望はないかと、ど
こか気の毒そうな顔で聞いてきた。
同情されているのが分かった。父親に見向きもされず、ただ宝石だ
けを与えられた哀れな少女だと。
様々な名家を出入りしているはずの商人だ。彼が何を思ったのかは
分からないが、他の家では見られないような光景だったのかもしれ
ない。
父親は、ただ義務的に、宝石を買い与えたに過ぎなかった。
社交界にデビューする私が、伯爵家第三位の名を穢すことのないよ
うに。
宝石も買えないような家だと侮られないように。

268
﹁だけど、宝石よりもお父様の絵のほうが素敵よ!﹂
俯けば嫌でも視界に入る首飾りを見るともなしに眺めていれば、耳
に飛び込む妹の声。
無邪気に笑うその言葉が何よりも、私の気分を沈ませる。
ベッドの脇に置かれた父が描いたシルビアの肖像は本当によくでき
ていた。
大きなカンバスにいくつもの色を乗せて。シルビアの儚い容姿をう
まく表現している。それと同時に溢れんばかりの愛情を感じた。見
ている者の心を惹き寄せる魅力がある。
時間をかけて丁寧に描かれたのが良く分かる絵だった。
それを描いたのは、他ならぬ父である。
私に首飾りを与えた同じ年、父はその絵を贈った。
﹁ね、お姉さまもそう思うでしょう?﹂
唐突に話題を振られて首を傾げば、シルビアは唇を尖らせた。
ちゃんと話を聞いていてよ、なんて拗ねた振りをしてみせる。
﹁それに、どうしてそんなところに居るの?﹂と今更なことを聞か
れて困惑するしかない。
体調を崩しているシルビアとの接触は、最低限に控えること。
これが、遠い昔に母親と交わした約束だった。
だから、つい先日まで体調を崩していて未だに本調子とは言えない
シルビアから距離を取るのは、私にとっては当然のことだったのだ。
しかし、シルビアは﹁そんなに離れなくても、私の病は移ったりし
ないわ﹂と悲しそうな顔する。
母親が命じたことだと思ってもいない様子だった。
そして、そんなシルビアを慰めるように声を掛けている父親は、隠
すこともなく私に非難の目を向けてきた。全て知っているはずなの

269
に、私を庇ってくれる気はないようだ。
たった一言、﹁お前の母親が命じたことなんだよ﹂と言ってくれれ
ばいいだけなのに、それをしない。
万が一にでも、シルビアが母親を責めることがないように、接近禁
止を言い渡したのが己の妻であることは隠しておくことにしたのだ
ろう。
﹁⋮⋮酷い、姉さんだね﹂とそっと囁く父親の声が遠くから聞こえ
る。
酷い言い草だとは思うが、何をしても無駄だということは分かって
いた。
なぜなら、この家はシルビアを中心に動いているからだ。
この家の当主である父親がそうであり、その伴侶たる母親がそうで
あるから、使用人もそれに習っている。
シルビアの具合が悪いから、シルビアが体調を崩しているから、シ
ルビアが可哀想だから、シルビアが寂しがっているから、シルビア
が、シルビアが︱︱︱︱︱
それを悲しく思っていたのはいつまでだっただろうか。
唯一の例外は他でもない私で。私だけは私を優先することができた。
使用人も含めて、皆が皆シルビアの名を口にするその間、私は机に
かじりついてペンを握っていた。
未来の侯爵夫人である私にだけは、そうすることが許されていたの
だ。
両親だって、それをさも当然のことのように受け止めて気に留める
ことはなかった。
夕食のときに顔を合わせる母は﹃貴女は一人でも大丈夫だから、安
心だわ﹄と微笑を浮かべ、父親は黙ったまま見向きもしなかった。
幼い頃はそれを、信頼されている証だと思っていた。
だけど、そんなはずもなく。ただ単に放置されているだけなのだと
知ったのはいつだったか。

270
一人でよくやっていると褒めるわけでもなく、一人でも大丈夫かと
聞くわけでもなく。一人にしても大丈夫だから安心だと、そんな風
に断言して目を逸らされた。
何かを強制しているわけではない。一人で頑張るべきだと言われた
わけでもない。だけど有無を言わせない卑怯な物言いだった。
だから、私はそれに淑女の微笑みを返した。
感情を見せない為の完璧な武装。貴族たるもの、そうすべきが最善
だと思ったのだ。
そして、私は再びペンを握って机に向かう。
これだけが私を支えるものだと知っていた。知識と知恵と教養だけ
が私を形づくる。
だから、もっともっと努力する必要があった。
何度、人生を繰り返しても、それだけは同じだった。

侯爵家嫡男の婚約者と決まってソレイルに出会ってから、私の時間
のほとんどはその為の勉強に費やされた。元々は出来の良いほうで
はない。物覚えだって人並みだし社交性があったわけでもない。
そうなるべく研鑽を積んできたに過ぎない。
屋敷の書庫に篭って、それこそ朝から晩までペンを握った。
諸外国と交流がある侯爵家であるから、外国語はひとつでも多く覚
えた方が良いと思ったし、それに合わせて世界の歴史も知っておく
必要があった。そういった些細なことが外交において有利に働くこ
ともあるだろうと期待していたから。
時には教師に付いてもらい、時には一人きりで。私はただ只管、ソ
レイルの婚約者として恥ずかしくないように努力してきたつもりだ。
机の上に積んだいくつもの蔵書。それが私の強みになると思ってい

271
た。
音のない空間に紙の上を滑るペンの音だけが響く。息抜きにと用意
した紅茶も冷え切っているが侍女がここに入ることはまずない。時
々、アルが様子を見に姿を見せるが話しかけることもなく出て行く。
集中している私を気遣っているのだろう。
何時間も同じ格好で座っているので腰が痛む。ぐっと背伸びをして
息をついたそのとき、静寂を切り裂く微かな笑い声が響いた。
書庫に居るのは私一人きりなので、当然、室内から聞こえたもので
はない。
再び聞こえた少女特有の高い笑い声に誘われるようにして窓の外に
視線を向ける。
書庫の赤絨毯の上に差し込む陽の光が眩しい。思わず眇めた視界の
向こうにシルビアと侍女の姿が見える。芝生に落ちた陽の中を弾む
ように進んでいく。楽しそうに声を上げて今にも走り出そうとして
いるその姿を侍女が慌てて引きとめた。
何気ない日常の、何気ない一こまだ。別段、珍しくもない。
一つ違っていたのが、その後ろを歩くのが我が家の当主であり父親
であるその人だということ。
そしてその更に後ろを母が歩いている。
今日は何か特別な日だっただろうかと首を傾いで、広大な敷地を誇
る庭にいくつも落ちた陽だまりの中を進んでいく妹と両親の姿を上
から見下ろしていた。
2階にある書庫からは、その姿が本当によく見えた。
楽しそうだな、と純粋にそう思って、日差しを避ける為に影の中に
潜んだ自分の姿を省みる。暗い色のドレスが何だか不気味に思えた。
風に揺れる妹のドレスは淡い色で、陽の光を全部取り込んでいるよ
うに見える。脆弱で部屋から出られないことも多いというのに、彼
女には明るい場所がよく似合っていた。
やがて両親と妹は、実に仲睦ましそうに一つのところに留まって昼

272
食を広げ始める。
よくできた侍女が屋敷から既にテーブルを運び出していた。
窓のガラス越しに指で辿れば、そんな家族団らんさえ指で触れるよ
うな気がして何だか苦しくなる。
この書庫は私の居場所でここで頭に知識を叩き込むのが私の仕事だ
った。それに関しては誰も何も言わなかったし、母は非常に満足そ
うな顔をしていたからそれで良いのだと思っていたし、今だってそ
の気持ちは揺るがない。
だけど、両親との交流と言えば、夕食時くらいで。父親に関しては
ろくに会話をした記憶さえない。
領地経営に関しての学習でどうしても父の意見が聞きたく、また教
えを乞いたかったときに従僕に話しを通してもらったのだが、忙し
いという一言で面会の申請は却下された。ほんの僅か、たった数分
でも自由になる時間はないとのたまう。
その人がシルビアに微笑みを向けて、あろうことか庭先にカンバス
を置いた。
立ち位置からして、父が絵を描き、妹がそのモデルになることが分
かる。母はそれを見届ける役なのか。少し離れて二人の姿を見守っ
ていた。
時々交わされているのであろう会話に笑い声が混じり、私の居る場
所までご丁寧にもその音を届けてくるのだ。こんなにも離れている
というのに、不思議なことだった。
穏やかな昼間。賑やかに流れる家族の時間。それを離れた場所から
眺めている私。ふと、机の上に重ねた語学の本に視線が落ちる。
今すぐにでも本を広げて言葉を学ばなければ。そうしなければ、同
世代の他の女性たちに負けてしまう。
こんな風に、両親と妹の姿を眺めている場合ではないと思う。
だけど、だけど。
どうしても剥がすことのできない視線を振り切る為に、一歩後ろへ
下げると途端に力が抜けた。

273
体の重みを支えることができない。咄嗟に伸ばした右手が、積み上
げていた本を机の上から払いのけてしまった。あ、と思ったときに
は、本が崩れたのと同時にインク瓶が倒れていた。
机の上に広がる紺色の液体は次から次へと机の端から零れて、床に
落ちた本を容赦なく汚していく。
突然のことに混乱していた私は、思わず、机から落ちるインクを受
け止めようとして手を伸ばしていた。
指先から手首を伝って真っ黒に染めていくそれが何を表していたの
か分からないけれど、本当の私は、こんな風にどこもかしこも汚れ
ているのかもしれないと思った。
何度も繰り返してきた人生で、私は私を守る為に何だってやったの
だ。娼婦に落とされたときだって、私は己の肉体を差し出すことで
この命を守った。
﹁今日﹂という日を、一日でも多く重ねること。
それが私の目標であり、たったそれだけが、私の人生となった。
そう思ったらどうしようもなく泣きたくなって、だけど、どうして
も泣きたくなくて強く目を閉じた。
噛んだ奥歯がぎりりと嫌な音をたてる。それでも、唇を緩めたくな
かった。
少しでも力を抜けば嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
何度も瞬きを繰り返して、涙が霧散するのを待つ。
黒く染まった両手をそのままに、服の上から心臓を抑えた。
︱︱︱︱︱社交界デビューしたその日、会場で挨拶回りをする私の
手を取っていたのは、婚約者であるソレイルだった。彼は私の首元
を飾る宝石を見て、素晴らしい石だと評した。父君の、君への愛情
が透けて見えると。
着飾った私を﹁美しい﹂と、全く感情の伴わない声音で賞賛した後、
そう続けた。
彼は、正しかった。大きな石は私と同じ枯れ葉の色を映していて、

274
二つとない希少価値の高いものだったから。素晴らしいというのは
間違っていない。
父の愛情が透けて見える、というのもまた、間違っていなかった。
私を、さして、愛していないというのが透けて見えただろう。
だけど、そのときはそれで良かった。
だって、ソレイルが居てくれたから。この手を取って、新調したば
かりの慣れない靴に倒れそうな体を支えてくれたから。
その、冷たく凍えた眼差しさえ愛しく思えた。
この人がいつか私の夫になるのだと、そう思うだけで心が満たされ
た。
きっと他の誰にも分からないだろう。
母親からの抱擁に戸惑いを感じるほど、他人の温もりに飢えていた
私の気持ちなど。
世間的には何の価値もないはずの素人が描いた絵を、どんな宝石よ
りも美しいと感じていた私の気持ちなど。
愛されていないわけじゃないと、己に言い聞かせながら生きてきた
私がどれほど惨めだったかなんて。
だから私は、夫となるその人を無条件で愛したのだ。
﹃︱︱︱︱︱なぜ、愛されないのか、考えてみたことはある?﹄
いつの人生だったか、この場所でそんなことを言った人がいる。
真っ黒なローブに日の光が落ちると、それがほんの少しだけ青みを
帯びていることに気付いた。
不穏な会話だというのに、その黒い眼差しはどこまでも凪いでいる。
﹃人を愛することに理由がないのと同じように、愛されないのにも

275
また、理由がないのかもしれないと思ったことはない?﹄
陶器を焼いたような人間味のない顔だと思うのに、哀しみを貼り付
けたような顔をしているような気もした。かと言って、芝居がかっ
ているようには見えない。ただ、世界中の全てを疑ってみているよ
うな、そんな目をしていた。
私はいつものように机に向かってペンを握っているけれど、ノート
には何も書き込んでいない。
その手元に視線を落としたカラスが、また一つ笑った。
﹁どうして、﹂
落ちた疑問が、相変わらず外からの笑い声を拾う書庫に響いた。
﹁どうして、カラスが、﹂
大げさなくらいに声が震えた。どくどくと脈打つ心臓が耳の奥で激
しさを増していく。
﹃⋮⋮愛に理由がないのだとしたら、君のやっていることは無意味
なのかもしれないよ﹄
霞んだ視界の向こうに、困ったように笑う白い顔が見える。そんな
人間くさい顔をするなんて、カラスらしくないと私は笑った。カラ
スは、そんな私を見て﹃僕だって笑うさ、﹄と窓の外に視線を落と
す。
無意味だって分かってるのよ、と呟いた私の声が聞こえなかったの
か彼からの返事はなかった︱︱︱︱︱
﹁なぜ、ここに、﹂

276
指先が冷えていく。記憶の中の私とカラスは、確かにこの書庫で言
葉を交わしている。
だけど、今の今まで、それを思い出しもしなかった。
いや、というよりはむしろ︱︱︱︱︱
記憶にさえなかった。
かつては、全てを忘れない人間だった。だからこそ、この恋心を捨
てられないのだと思っていたのだ。
しかし、人生を重ねるごとに記憶は混濁していった。
思い出せることもあるし、それ以上に思い出せないこともある。き
っと、そうだ。
︱︱︱︱︱何か、大事なことを、忘れているのかもしれない。
277

﹁お嬢様⋮⋮!一体、どうなさったのです!﹂
インクに塗れて座り込んでいた私を見つけたのは古参の侍女だった。
普段、書庫には顔さえ出さないというのに何の気まぐれかと目を瞠
る。
彼女は、﹁そろそろ休憩を⋮⋮﹂と言いかけて小さく息を呑み﹁何
てこと⋮!﹂と声を上げた。
そして、慌てて踵を返し、扉に鍵を掛ける。
両親が屋外に居る限り、この書庫に出入りできるような人間は他に
いない。
だけど万が一、誰かが扉を開けた場合に、私の姿が人目に触れない
ように気遣ってくれたのだろう。

278
確かにこんな姿を使用人に見られるのはよくない。一体何があった
のかと余計な詮索をされるのが落ちだからだ。年若い使用人は、忠
誠心が薄いからか口が軽い。年を経ていても、何かの拍子にうっか
り口を滑らせることはあるだろう。
そうなれば、あっという間に良くない噂が広がってしまう。
インクをぶちまけて体を汚すなんて事態は、幼児でもなかなか経験
することがない。
貴族であれば、幼少期から必ず誰かが傍に居るからだ。インクを零
して体を汚すことがあったとしたら、それは傍に付いている人間の
失態で本人のせいではない。
貴族に生まれるということは、そういうことなのだ。
誰かに庇護されることが当然で、守られて、大事にされて、尽くさ
れることは特別なことではない。
当たり前のことであり、それが日常なのだ。
﹁⋮⋮アルは?﹂
頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、﹁⋮⋮アルフレッド
様は所用で屋敷を出ておいでです﹂と申し訳なさそうな顔をされる。
︱︱︱︱︱失敗した。
こういう事態のときに、異性を呼ぶのは好ましくない。
正しい反応をしなければ。貴族として相応しい態度をとらなければ。
そう思い直して首を振る。
﹁いいえ、そうじゃないの、⋮⋮貴女で良かった﹂
貴女が来てくれてよかった、と言えば、侍女は眉を下げて小さく笑

279
みを灯した。
どんな顔をすればいいのか分からなかったのだろう。
こんな場所にたった一人きり。貴族の子女であるのに、インクに塗
れたこの姿は惨めなものでしかない。
もしもこの場に、私を貶めようとする人間が居たなら。
指を指して笑っていたことだろう。
﹁何か拭うものは⋮⋮﹂
座り込んでいる私に手を差し出して、自分が汚れるのも構わずに抱
き起こしてくれた彼女が室内に視線を滑らせる。
﹁いいえ、大丈夫よ﹂
ふらつく足を叱咤して立ち上がれば、心配そうにこちらを見つめる
茶色の瞳と視線がぶつかる。
﹁⋮⋮お顔が真っ青です、お嬢様。気分が悪いのですか?﹂
優しく労わるように背中を撫でられて、ぐらぐらと揺れていた心が
一層傾いた気がした。
彼女は古参の侍女であると同時に、シルビアの世話を一任されてい
る女性だ。
元々、その役目はシルビアの乳母が負うはずだった。しかし、体調
を崩して故郷へと帰ってしまったのだ。
そのため、数名在籍している侍女の中でも勤続年数の長い彼女が代
わりを務めることになった。
両親もそれほどの信頼を置いており、今ではすっかりシルビアの専
属のような扱いである。
だけど彼女は元々、私の専属だった。
いつかは侯爵夫人となる私の為に一流の侍女を雇うべく、母が数多
の候補から選び抜いた人だった。
だから、ソレイルの婚約者となってからはずっと私の傍に居てくれ

280
た。
それなのに、何の断りもなかった。
いつからそうだったのかも分からないほど、少しずつ少しずつ、私
の元から離れていったのだ。
父か母がそうするように指示を出したのかもしれない。理由は知ら
ないし、聞く気もない。
今更どうにもならないことだと知っているから。
だけど、それに気付いたときの私は少なからず衝撃を受けた。
勉強の合間にふと顔を上げてみれば、いつもそこに居たはずの彼女
が居なくなっている。
何か所用でもあるのかと気にせずにいれば、いつもまでも戻ってこ
ない。
そういう日々を何日か過ごして、さすがに無視することができなく
なり、彼女を捜すことにした。
ほかの誰かに彼女の行方を聞かなかったのは、私が彼女の主だとい
う自負があったからだ。
主である私が知らずして、ほかの誰が知っているというのだ。⋮⋮
そういう想いがあった。
それはがただの勘違いだったことに気付くのは、そのすぐ後だった
けれど。
シルビアの部屋から出てきた侍女と、廊下で再会を果たしたのだ。
彼女は、ほんの少しだけ罪悪感を滲ませて、それを誤魔化すように
笑みを浮かべた。
﹃シルビア様に何かご用ですか?﹄と。
今、シルビア様は伏せっておいでです、と。
ごくごく当たり前にそう言った。
だから、彼女はもう、私のものではないのだと理解できたのだ。
それでもどうしても納得できず、母にさり気無く訴えてみれば、﹁
シルビアの為を想うなら、貴女が身を引いてちょうだい﹂と優しく

281
諭された。
貴女には、他の侍女を雇うから。と。
怒っているわけでも、苦言を呈すというわけでもなく、幼子に言い
聞かせるような口調と眼差しをされてしまった。
駄目な子を見るような、馬鹿な子を見るような、そんな顔をされて
は二の句が告げない。
侍女を失わないように動いたことが、わがままだと取られてしまっ
たのだ。
貴女もシルビアが大切でしょう?と肯定しか許さない問いを投げか
けられては。
私に言えることは何もなかった。
繰り返す人生で、いくつもの齟齬が生まれるというのに。
シルビアとソレイルが出会った茶会の時点では既に、私は彼女を失
っている。
﹁このままお湯に浸かろうかしら。悪いのだけれど浴槽にお湯を溜
めてもらえる?﹂
蔵書の埃を落とすために持ってきていた雑巾で軽く手を拭う。
見かねた侍女は﹁お嬢様!そんな布で手を拭いてはなりません⋮!﹂
と声を潜めつつ非難した。
いいのよ、大丈夫。とおざなりに返事をして、スカートを整える振
りをしてインクを払う。
まだ乾ききっていない墨が床に新たな染みを作った。
﹁汚してしまってごめんなさいね。お掃除が大変だわ﹂
苦笑すれば、侍女が眉間に皺を寄せる。
﹁お嬢様が謝る必要など⋮⋮どこにもございません﹂
いつ何時でも冷静さを失わない彼女にしては珍しいことだ。
少し強めの口調で言われてしまったことに苦笑がもれる。

282
それほどに私の行為が目に余るのだろう。
わざとやったわけではない。だけど、磨きぬかれた床がなぜか目に
付いて仕方なかった。
使用人を困らせるような行いをしてはいけないし、ましては侍女の
前でそういう態度をとってはいけない。
私はそんな人間ではないし、そんな女性になっていはいけないのだ。
いつだって冷静で、いつだって我を失わず、いつだって微笑を携え
ていなければならない。
﹁ほかにも⋮⋮何か拭くものがあればいいのだけれど⋮⋮﹂
持っていた雑巾は既に紺色に染まっている。
しかし、侍女は小さく頭を振って﹁⋮⋮そんなことは、どうでもい
いのです﹂と呟いた。
口の端を噛んで俯いた彼女が何を考えているのか分からない。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
声を掛ければ、はっとしたように顔を上げ﹁も、申し訳ありません、
﹂と何とも歯切れ悪く謝罪を述べる。
﹁お湯を沸かして参ります⋮⋮﹂
なぜか急に意気消沈した様子で肩を下げてしまった。
﹁お嬢様はこのままお待ちください﹂と言われるが、彼女をそのま
ま行かせるのは忍びない。
思わず﹁⋮⋮マージ﹂と、その名を呼んで止めてしまった。
ぴくりと肩を震わせて振り向いた侍女は、信じられないものを見た
かのように双眸を見開いている。
﹁?﹂
一体何事かと首を傾げば﹁覚えていてくださったのですね﹂と、ぽ
つりと口にした。
﹁⋮⋮何のこと?﹂
首を振りつつ、戸惑うような色を乗せたまま数歩下がったマージは
にこりと笑んだ。
﹁いいえ、何でもありません﹂と、本当に何事もなかったかのよう

283
な顔をする。
﹁⋮⋮誤魔化さないで、マージ﹂
いつもの私であれば気に留めなかったかもしれない。
もしくは、一度目の私なら。彼女の言葉を信じただろう。
だけど、何でもないと口にするときほど、何かあるものだというこ
とを知っている。
本当に何もないのであれば、わざわざそれを口にする必要などない
のだから。
しばらくの間見詰め合っていたけれど、やがて小さく息を吐き出し
たマージは﹁もう、私の名前など忘れてしまったかと⋮⋮﹂と言っ
た。
最後まではっきりと言葉にしなかったのは、それが一介の侍女には
過ぎたことだと気付いたからだろう。
主が自分の名前を覚えているかどうかを確認する使用人はいない。
そんなことは気にすべきではないし、使用人の名前を覚えようが覚
えまいが主の自由だ。
主従関係というのはそういうものである。
しかし、彼女と共に過ごした時間はそれほど希薄だったわけではな
い。
はじめはそれこそ付きっ切りで多くのことを教えてくれたものだ。
ソレイルの婚約者に決まった頃、私は幼すぎたから。本当に、何も
知らず何もできなかった。
ただ椅子に座っているそのときでさえ、気を抜いてはならないのだ
と教えてくれたのは他でもない彼女だ。
﹁覚えているわ、当たり前じゃない﹂
なるべく感情を乗せないように答えたはずの自分の声が妙に冷たく
聞こえた。
そこまで信用されていなかったのかと自嘲のような笑みまで零れる。

284
名前も覚えてもらっていないと思っていたのか。ずっとそう思いな
がら、私の傍に居たのか。
そうであれば、彼女がシルビアの下へ行ってしまったのは父や母の
せいではない。
彼女はきっと、自ら見切りをつけたのだ。それくらいは私にも分か
る。
誰のせいかと言えば、やはり私のせいなのだろう。
﹁⋮⋮お嬢様、﹂
微かに震えた声が私を呼ぶ。
﹁貴女はとても良くしてくれたわ。だから、とても感謝しているの
よ﹂
有難うと笑う私の唇は、いつもと変わりなく弧を描く。
一枚の紙に墨で描かれた目と鼻と口が、私の顔に張り付いた気がす
る。
仮面よりもずっと薄っぺらい。だけど、仮面よりも、ずっと息苦し
い。
あまりに慣れた感触に、私は一層笑みを深めた。
そんな私の顔をじっと見つめたマージは一瞬だけ目元を歪ませたけ
れど、何も言わずに頭を下げる。
そして、逃げ去るように小走りで書庫を出た。
何か言いたいことがあったに違いない。だけど、結局何も言わなか
った。
それくらいの信頼関係なのだと思い知らされるようで虚しい。
︱︱︱︱︱今も昔も、彼女がシルビアの散歩に付き合っている姿を

285
よく見かけた。
淑女教育をまともに受けていないシルビアだから、そこに主従関係
の垣根はない。
友人と過ごしているような感覚なのだろう。よく笑い、会話も弾ん
でいるようだった。
﹃もしも、メイドが間者であったなら⋮⋮どうするおつもりですか
?﹄
私がまだ幼かった頃、マージは言った。
ちょうどその頃、私には親しくしているメイドが居たのだ。
屋敷に勤める全員から距離を置かれているような私に対しても、親
しげに話しかけてくる極めて稀な存在だった。まだ少女と言って差
し障り無い年齢だったので主従関係がよく分かっていなかったとも
言える。
だけどその気安さから、私は自分に姉でも出来た気分で彼女に色ん
なことを話した。
それこそ、何の本を読んだか、家庭教師から何を学んだか、その日
見た夢の内容まで。
彼女は聞き上手で、私から話を聞きだすのも上手かった。
同じ年頃の友人がいなかった私は、意気揚々と屋敷のどこにどんな
部屋があるのか語って聞かせた。
それを話すと、彼女が喜ぶから。嬉しそうな顔をするから。
そんな私を見て、マージは苦言を呈したのだ。
﹃彼女が間者ではないにしろ、彼女の友人か家族か親戚に、そんな
人間が居たら?﹄
疑問を呈しただけのその言葉が、耳につく。
自分で理解して対処しなければならないのだと、そう言っているよ
うに聴こえた。

286
答えも教えてくれなかったのに、私はちゃんと理解した。
親しくしては、いけなかったのだと。
そのメイドが職を辞して屋敷を出たのは、マージからの指摘を受け
てからたった数日後のことだった。
悲しくなかったといえば、嘘になる。
彼女を見送った後、私は自室で泣いた。誰にも見つからないように、
こっそりと。声を抑えて泣いたのだ。
彼女が居なくなって傷ついているということを、他の誰にも知られ
たくなかった。
あのメイドが本当に悪い人間だったかどうかも分からない。
だけど、﹃お嬢様、どうか、お元気で﹄と泣き出しそうな顔をした
彼女のことは覚えている。
彼女には年の離れた弟が居るのだと言っていた。長年病を患ってい
て立ち上がることさえできないのだと。
だから、お金が必要なのだと至極、正直に身の上話をしていた。
それが事実かどうかも分からないけれど、﹃私とお嬢様は似ている
かもしれません﹄と苦笑したその存在に安堵していた。
家族が居るというのに、この世に一人きりというわけでもないのに、
拭いきれない孤独感。
それを理解してくれる人が居て、私は多少なりとも救われていたの
だ。それが偽りだったとしても。
しかし結局、ここで重要なのは彼女が正直者か嘘つきなのかではな
い。
周囲から、どのように見えるかなのだ。
彼女が真実を話していて、信頼に値する人間だったとしても。

287
そんなことは関係ない。
彼女がまだ、周囲の信頼を得るほどの働きをしていなかったという
のが問題だったのだ。
もしも彼女がメイドではなく、また新参者ではなかったなら、事情
は違ったかもしれない。
だけど、そうではなかった。


半時ほどして、湯が沸いたことを知らせにきたマージとは別の侍女
にタオルケットを渡された。
既に乾ききっているインクは拭うこともできないので、それを背中
から被るようにして全身を隠す。
そして、人目に触れないよう素早く浴室へと移動した。
大したことはしていないのに、肉体は疲弊している。考え事という
のは存外、体力を使うものなのだ。
ぼんやりと思考を巡らせたまま、侍女に汚れた服を脱がせてもらう。
普段着とは言え、貴族の洋服は留め具が複雑で一人で脱ぎ着するの
は時間が掛かる。さっさと脱いで、入浴まで手伝おうとする侍女を
制して浴室に入った。
浴室自体は広いけれど、浴槽はかろうじて二人が入れるほどの大き
さしかない。
そこに溢れんばかりのお湯が入っている。
何度か掛け湯をして体を軽く洗い流した後、つま先から浴槽に入っ
た。
熱いというわけではないが、ぬるいというわけでもない。ちょうど
いい湯加減だ。
肩まで浸かって、そこから更に沈んでいく。ほんの僅かに濁りを帯
びたのは、ぱっと見ては分からないところにもインクがついてたか

288
らだろう。
何だか、ひどく疲れていた。
口元までお湯に浸かると、天井からぽたりと水滴が落ちてくる。
湯船に沈んだ水滴がぽかりと浮いてくる様子をぼんやりと眺めてい
れば、視界を横切るようにぱたぱたと続けて水滴が落ちた。
まるで、雨粒のようだ。
瞬きをする度に、落ちてくる水滴の量が増えてくるように感じた。
水面で跳ね返る水滴が薄く開いた両目に飛び込んでくる。
その感触に、なぜか覚えがあった。
思い出そうと首をひねりながら瞳を閉じれば、右の頬がゆっくりと
お湯に沈んでいく。
このままでは駄目だと思うのに、暗闇が、現実を遮断した。
ポタポタ、バタバタ、ボタボタ、ジャバジャバ、ザーザー、ザーザ
ー⋮⋮
ふ、と上昇した意識の向こう側。
投げ出された自分の腕が見えた。手の平を上に向けているので、伸
びた爪が空気に触れる。
⋮⋮爪が、伸びている?
そんな些細なことに伴う違和感。貴族の子女は爪を伸ばしたりしな
い。
教養の一つとして楽器を演奏するからだ。弦楽器でも鍵盤楽器でも
管楽器でさえ、大抵の楽器は演奏する際に爪を短く切りそろえてお
く必要がある。
私も幼少期からピアノを習っていた。だから、ただの一度も爪を伸
ばしたことはない。
だけど、今、私の目線の先に投げ出されているこの手の爪は伸びて

289
いる。
というより、手入れをされていない。
ところどころ欠けているし、形もいびつだ。
そこまで認識したところで、自分の体がうまく動かないことに気付
く。
それどころか、目も、よく見えない。
視力が落ちているのか、それとも物理的に何かが邪魔しているのか。
恐らく、両方だ。
何度も瞬きを繰り返しているうちに、自分が、地面の上に転がって
いることを認識した。
周囲がよく見えないのは、かなり強い雨が降っているからであり、
街灯に明かりが灯っていないからだ。
きちんと舗装もされていないような剥きだしの地面に大きな雨粒が
叩きつけられて弾ける。
跳ね返った水が頬に当たった。
全身を溺れさせるほどに強い雨に、戸惑うこともなく、ただ過ぎる
時間を享受している。
︱︱︱︱︱ああ、私は、また⋮⋮死ぬのね。
何があったのかははっきりと覚えていない。
こんな風に路地裏に転がることになって忘れたのかもしれないし、
それよりもずっと前から記憶が混濁しているのかもしれなかった。
病気なのだろうか。それとも怪我?誰かに襲われたりしたのだろう
か。それとも自分でやったのか。
何も分からないけれど、今にも事切れそうなのは分かる。
瞼を一つ閉じるたびに、残り時間が減っていく。
唇に落ちた水滴が、容赦なく口の中に流れ込んでいるので息ができ
なくて苦しい。

290
だけど、動くのを止めてしまった舌は、それを吐き出すことも拒む
こともできなかった。
一体、何度目の人生なのだろう。それさえも、曖昧だった。
楽になりたい。傷む肉体を捨てて、どこかに行きたい。
そして、もう二度とここには帰ってきたくない。
そう、思うのに。
私はきっとまた、ここに、この世界に戻ってくるのだろう。
﹁⋮⋮たすけ、て﹂
もう何度繰り返したか分からない言葉を口にする。
誰も聞いていないと知っていながら、もしも、神が居るのなら聞き
届けてくれることを願って。
ぎゅっと目を瞑って、そのときを待った。
﹁︱︱︱︱︱いいよ﹂
突然響いた誰かの声に、心臓が激しく音を刻む。
重たい瞼をこじ開ければ、目と鼻の先に黒いつま先が見えた。
一瞬、女性かと思ったのはその人が纏っている洋服がスカートに見
えたからだ。
でも、聴こえた声は確かに男性で。それに、ひどく聞き覚えのある
ものだった。
彼が着ているのはスカートではなく、黒いローブだ。
見覚えのあるそれ。
地面すれすれで揺れているローブの裾は、雨が降っているにも関わ
らず濡れている様子もない。
少しだけ見えているつま先にも泥はね一つついていなかった。

291
もう既に力を失っているので顔を動かすことができず、誰なのか顔
を見て確認することはできない。
だけど、私は既に確信を得ていた。
懐かしい声だと思う。一言だけ﹁いいよ﹂と、雨音に紛れるように
落とされた言葉がひどく、切なかった。
ずっと、待っていた。彼が現れるのをずっと、待っていたのだ。
こんな、最期の最期になって現れるなんて。
おもむろにしゃがみこんだ彼が私の顔を覗き込んだ。大きなフード
を被っているので口元しか見えない。
色の薄い、形のいい唇に、彼と過ごした日々が甦る。
私の秘密を、彼に明かしたのはいつのことだっただろうか。
それを否定されて、受け入れてもらえず、己の人生に見切りをつけ
たのはいつだっただろうか。
﹁⋮⋮やっと、﹂
そう呟いたのはどちらだったのだろうか。
地面を打ち付ける雨音にかき消されて、その後に続くはずだった言
葉が消えた。
ほんの少しも動かすことができない私の体を、カラスが、抱き上げ
る。
そして、耳元で何かをそっと呟いた。
意味のある言葉だったのか、それとも、何の意味もない言葉だった
のか私には分からない。
今生では初めて会うというのに、まるで旧知の仲のような素振りを
見せる彼に、驚いてはいたけれど。
それも最早、どうでもいいことだった。
伝えたいことがあった。

292
カラスはきっと、知りたくもないだろうけれど。
何だか、とても伝えたかったのだ。
﹁意味が、あったのよ、﹂
もうとっくに声など出ないと思っていたのに、干からびた舌が言葉
を紡ぐ。
なぜか、その声ははっきりと聞こえた。
﹁愛されないの、に、も﹂
理由があったのだ。
︱︱︱︱︱いつかの人生で、いつかのときに、カラスは言った。
愛されるのに理由がないように、愛されないのにもまた理由がない
のではないかと。
もしもそうであれば、何をしても無意味なのではないかと。
理由もなく、意味もなく、愛されないのであれば。
愛される余地などないから。
だけど、私は知っていた。愛されない理由を。
両親が、私を愛さずに、シルビアだけを愛する理由を。
本当は、知っていたのだ。
それを伝えようと唇を開いたけれど、もう余力は残っていないよう
で。
無意味に開閉を繰り返すだけだった。
彼の背に縋りつこうにも両腕が上がらない。
苦しくてひゅうひゅうと鳴る胸を労わるように、カラスが背中を優
しく撫でてくれる。

293
﹁もう、いいよ﹂と優しく宥めてくれるから。
唐突に、何もかも、どうでもいいような気がした。
もういいよ、大丈夫。
繰り返される言葉が、心に響く。
言って欲しかった。誰かに、ずっと。そう、言って欲しかったのだ。
そうか、もういいのか。そう思えば、急速に意識が遠のいていった。
耳の底に響く雨音はそのままに。
私は︱︱︱︱︱、
294

ごぼり、と吐いた息が大きな気泡となって上昇していく。
苦しい。息ができない。
そう思って大きく口を開けば、また一つ、気泡が上がった。
空気を吸い込もうと喉の奥が大きく開く。だけど、肺が膨らむこと
はなく、むしろ圧迫されているような重みに嘔吐感さえ覚えた。
自分では咳をしたつもりなのに、次々と気泡がもれるだけで息苦し
さは変わらない。
というより、息ができなかった。
ごぼごぼと、嫌な音がして顔を覆うように気泡が広がる。
あまりの苦しみに腕を伸ばせば、体に纏わりついていた何かが大き
く揺れて遠ざかった。
しかし、すぐに元の位置に戻って私の体を拘束する。

295
上に向けて伸ばした指先が何かを突き破って空気に触れた。遠くで
﹁ぱしゃり﹂と水音が響く。
そのときになってやっと、自分がどこに居るのか気付いた。
沈んでいるのだ。
水の中に沈んでいる。つまり、溺れていた。
この瞬間まで気付かなかったのは、意識を消失していたからにほか
ならない。
唐突に覚醒したのは、肉体が警告を発したからだろう。このままで
は死んでしまうと。
さっきまで入浴していたことを思い出せば、自ずと、ここが浴槽の
中であると理解できる。
体勢を整えようと、伸ばしたほうとは逆の手で体を支えようとする
のだが上手くいかない。底についたはずの手の平はつるつると滑る
ばかりだ。
ついには行き場を失った片足が、水面を突き抜けて大きな音をたて
る。
それを追うように、もう片方の足が先ほどよりももっと大きな音を
たてて沈んだ。
そうやってもがいていれば、相変わらず上半身は完全に沈み込んで
いるというのに、苦しみからは遠ざかっていく気がした。
意識が朦朧としているのかもしれない、と思うけれどそれを確認す
る術はない。そもそもが水中なので、すべての境界線が曖昧なのだ。
溺れている自分さえ、現実かどうか分からない。
﹁︱︱︱︱︱っ!⋮⋮じょうさまっ!⋮⋮あ、さま︱︱︱︱︱!!
おじょうさま!!﹂
揺らぐ水面の向こう側に誰かの顔が見える。ぼんやりと滲んでいる
ので特定できないが、格好からして侍女だろう。

296
物音に気付いたのか、それともあまりに時間がかかるので様子を見
にきたのか。
お嬢様、お嬢様と何度も私を呼びながら、浴槽の中に腕を突っ込ん
で持ち上げようとしてくれる。
しかし、女性一人で、同じような体格の人間を持ち上げるのには無
理があった。
一層、水底に沈んでいくように体が落ちる。
ごくりと息を呑んだつもりだったが、大量の水が喉を通っていった。
視界が暗くなっていく気がする。
﹁︱︱︱︱︱っだれか!だれか!!﹂
くぐもった音で、彼女がほかの人間を呼び寄せているのが聴こえる。
まだ耳は死んでいないらしい。
やがて、盛大な物音と共に侍女と幾人かのメイドが現れ、私はやっ
と浴槽の中から救出された。
と言っても、上半身が水面を出た程度である。
げほげほと盛大に咳き込みながら縋りつくように侍女の腕をとれば、
相手が震えていることに気付いた。
青褪めた顔で私の顔を覗き込んでいるのはマージだ。痛ましげに歪
められた眼差しが、胸に突き刺さる。
なかなか整わない呼吸に何度も咳を繰り返しながら、それと同時に
すっと冷めていく頭で考えた。
こんな失態は、有り得ない。
一人で入浴したことも褒められたことではないし、浴槽で溺れたこ
とも笑い事では済まされない。
私はもう幼子ではないのだから、責任はすべて己にある。
貴族の子女らしく、侍女の手を借りて入浴すべきだったのだ。
せめて、浴室内に誰か置いておくべきだったと思う。
私は、次代の侯爵夫人なのだから。己の身を守ることさえ﹁義務﹂

297
として課せられた使命なのだ。
それはつまり、己の身を守る為に最善を尽くさなければならないと
いうことである。
知っていたはずなのに。
﹁⋮⋮っふ、﹂
苦しさから逃れる為に息を吐き出したのか、それとも、己の馬鹿さ
加減に嘲笑が漏れたのか。
それさえも、もう分からない。
やがて別の侍女が背中から包み込むようにしてタオルを掛けてくれ
た。
冷え切った肩を温めてくれるのにはちょうどいいのだが、半分くら
いが湯船に沈んでいるために酷く重い。
自分で立ち上がることもできずに呆然としてしまう。
浴槽の両端から二人がかりで私を引っ張り上げようとするのだがな
かなかうまくいかず、せっかく掬い上げてくれた体が再び沈んだ。
骨を失ったかのようなぐずぐずの体は全く言う事をきいてくれない。
知らぬ間に溜息が漏れて唇が半分ほど湯に沈んだそのとき、
︱︱︱︱︱バンッ!
閉められていたはずの扉が大きく開かれて金髪の男が飛び込んでき
た。
額に汗が浮いているような気がするのは気のせいではないだろう。
﹁アルフレッド様!﹂
声を上げたのは、力が入らない私を支えているマージだ。
私に巻きつけているタオルの数を増やし、アルの目から隠そうとし
ている。

298
しかし、アルは少しも動じることなく浴室の中に入ってくるとマー
ジを押しのけた。
再び、アルフレッド様!と悲鳴のような声を上げる彼女にも構わず
に、私を浴槽の中から掬い上げてくれる。
いくら護衛といえど異性に肌をさらすのはよくないことだと私も重
々承知しているが、ほっと力が抜けたのもまた事実だった。足先は
とうにふやけていて感覚も鈍くなっている。
﹁⋮⋮なぜ、一人で入らせたんだ﹂
ちら、とマージに視線を移したアルが低い声で唸った。
﹁⋮⋮そ、それは、﹂途端に歯切れの悪くなったマージが視線を彷
徨わせる。
﹁⋮⋮私が一人で入りたいと、言ったのよ﹂
それにマージはさっきまで居なかったと、軽く咳き込みながら口を
挟めば、アルは眉を寄せて首を振った。
﹁優秀な侍女と聞いていましたが、そうではないようですね﹂と、
いつになく淡々とした口調で言う。
﹁主の言うことを何でも聞くのが優秀な侍女のやることとは思えま
せん﹂
声音に熱が篭っているようには思えない。
けれど、怒気を纏っているのが分かる。
﹁⋮⋮ごめんなさい、アル。私が悪いの﹂
アルの鋭い視線を向けられた侍女はすっかり萎縮していた。だから、
返事ができずにいる彼女の代わりに努めて明るく言ったつもりだっ
た。けれど、上手くいかずに語尾が震える。
死ぬところだったのだから当然だ。
それを知ってか知らずか、アルは感情の乗らない声でぴしゃりとは
ねつけた。

299
﹁お嬢様が謝る必要などありません﹂
先ほど侍女たちが四苦八苦していたのが嘘のように、彼は軽々と私
を抱き上げた。
そして危なげない動作で運び出す。
異性であるアルが浴室に入ってきたことにいい顔をしていなかった
侍女やメイドたちも、男手が必要なことを理解したのか黙って見守
っていた。
元々、自室に備え付けてある浴室に入っていたので、脱衣室を抜け
ればそこはもう私の寝室だ。
ほかの誰にも会うことはない。先に浴室から出ていた侍女が、アル
の腕に抱かれている私にガウンを被せた。
タオルだけでは心許ないと思ったのだろう。
アルは、私をそっとベッドの上に乗せると、﹁後ほど参ります﹂と
言い置いて退出した。
服を着る時間を与えてくれたのだ。
力の抜けていた体を叱咤して上半身を起こせば、ガウンを剥がされ
て、今度は夜着を渡される。
渡してくれたのが誰なのかも確認せずに、袖に腕を通していれば震
える声が告げた。
﹁お嬢様、申し訳ありません⋮⋮﹂
私の顔を見ることもなく深く頭を下げているのはマージだ。
この場に居合わせた侍女の中で一番年嵩であるが為に、代表して謝
罪しているのだろう。
﹁さっきも言ったけれど、貴女が気にすることはないのよ。私が言
い出したことなのだから﹂
ぼんやりとしていた意識も戻ってきている。指先は震えることなく、
唇もきちんと言葉を発することができた。そのことに、どうしよう
もなく安堵する。

300
死ななかった。
︱︱︱︱︱私はまだ、生きている。
﹁ごめんなさいね﹂と、重苦しくならないように軽い口調で言いな
がら、マージの肩に触れた。
すると、弾かれるように顔を上げた彼女は﹁おやめください⋮⋮っ
!﹂と声を上げる。
そして、私の手から逃れるようにニ、三歩後退した。
ほんの少し離れただけなのに、たったそれだけで、私と彼女は触れ
合うことができなくなる。
近くに居るはずなのに、なぜか遠く離れている気がした。
いつの間にか他の侍女は退室して、部屋にはマージと二人きりだ。
しんと静まり返った部屋に、平静を取り戻した彼女の声が響く。
﹁⋮⋮謝罪など必要ありません。私が、侍女として至らなかっただ
けなのですから﹂
その様子を見れば、彼女が本当に悔いているのが分かる。
だけど、私の頭を支配するのは、浴槽の中で水に呑まれたそのとき
に見ていた夢のことだ。
自分が死ぬ瞬間の、全てを喪失していく感覚。その衝撃。
飽きるほど何度も経験したというのに、慣れることはない。
苦しくて痛くて悲しくてどうしようもない。言葉で表すことなどで
きるはずもない。
死の間際にあれほどの苦痛を与えるのは、なぜなのだろう。
せめて穏やかな死を迎えることができたなら、と何度も願った。
死に逝くときには、いつもそれを考えた。

301
ぼんやりと思考を彷徨わせたまま﹁だけど、私が悪いのよ﹂と呟く。
今回のことだけじゃない。いつだって、私は自身で不幸を呼び寄せ
る。
これほどの人生を重ねて、何度も繰り返し、もしかしたら修正のき
くかもしれない人生を送っているというのに。
︱︱︱︱︱私は、上手く、生きられない。
﹁インクを零したり、浴槽で溺れたり⋮⋮私ったら、本当にどうし
ようもない﹂
自分を卑下して笑わせるつもりが、予想外に深刻な声になってしま
う。
頭を下げたままのマージの肩が小さく揺れて、はっと顔を上げた。
その手は胸元を強く抑えていた。
まるで苦しんでいるかのように。
普段は美しく調えられている襟元が、彼女の手の平にぐしゃりと潰
されている。
﹁⋮⋮マージ?﹂
﹁なぜ、なぜお嬢様は⋮⋮そんなにお優しいのですか。私は叱責さ
れてもおかしくないことをしました。他の侍女に任せるのではなく、
私自身がお嬢様の傍に着いているべきだったのに⋮⋮!﹂
こた
アルに責められたことがよっぽど堪えたのか、マージは今にも泣き
出しそうな顔をした。
いつも冷静な彼女にしては本当に珍しい。
幼い頃、同じ時間を共有していたときの彼女は、いつも凪いだ目を
していた。
普段はシルビアに付きっ切りの彼女と二人きりという、滅多にない
出来事に、何と言って彼女を励ませばいいのか分からない。
思わず、﹁貴女はシルビアの侍女なのだから、気にすることはない

302
のよ﹂と言いそうになる。
けれど、吐き出すつもりだった言葉は喉の奥に詰まったまま外に出
て行く様子はない。
それを今ここで口にしてしまえば嫌味と捉われるに決まっている。
それが分かったから、どうしても声に出すことができなかったのだ。
彼女が私に責められることを望んでいるのだとしても。そんなこと
は言いたくなかった。
マリアンヌが、そしてたった今マージが私のことを形容したように、
寛容な人間でいたかったのだ。
全てを許し、全てを慈しみ、全てに優しさを与える。
私は、ずっと、そういう人間になりたかった。


結局、ひたすらに謝罪を繰り返すマージに掛けることのできた言葉
は﹁有難う﹂だけだった。
その心遣いが嬉しいと笑みを浮かべて礼を言う。そうすれば全てが
丸く収まることを知っていた。
誰かと会話をしている最中に、相手と上手く意思の疎通が図れない
ときは、とりあえずお礼を言って会話を打ち切るのだ。
そうすれば大抵の場合、お互いに不快な思いをせずに済む。
けれど、私が笑みを浮かべてもマージを納得させることはできなか
った。
幼少期、彼女が私に教えこんだことであるというのに。
﹁いつ何時も、淑女であれ﹂

303
それはつまり、どんなときでも淑女は姿勢を正し微笑みを湛えてい
るべきだと、そういうことだったはず。
︱︱︱︱︱私は、ちゃんとやっているでしょう?
思わず、そう口にしようとしてやはり言葉を飲み込んだ。
マージはしばらく私の顔を見つめていたが、小さく息を落として深
く頭を下げた。
そしてそのまま、私の視線を振り切るようにして部屋を出て行く。
私に背を向ける前に一瞬だけ見せたその顔は、はっきりと傷ついて
いた。
待って、と声を掛けそうになる。行かないでと。
そうだ、置き去りにするのは私ではない。
私を捨てたのは、マージのほうなのに。
まるで、見捨てられたような顔をするなんて、ずるい。
ベッドに横になって大きく大きく息を吸って、瞳を閉じる。
私は伯爵家第三位の貴族の子女で、侯爵家嫡男であるソレイルの婚
約者だ。
だから、こんなことで動揺すべきではない。
冷静でいなければ。揺らぐ精神を、誰にも悟られないように。
何事にも動じず、むしろ、相手に威圧を与えるような強さを誇らな
ければ。
そうなるべく、育てられてきたのだから。
だけど、どうして。
悲しみを抑えられないの。
﹁⋮⋮貴女が浴槽で溺れたと報告があったのよ﹂
マージが私の部屋を去った僅か数分後、部屋へ現れたのは母だった。

304
母は、心配しているというよりは何かを考え込んでいるかのような
難しい顔をしていた。
起き上がろうとしたのだけれどそのままでいいと言われたので、ベ
ッド脇に腰掛けた母を見上げる格好になっている。
ふと視線を感じて部屋の隅を見れば、そこに私の護衛騎士が見えた。
母と一緒に入室したのだろう。
彼は眉間に皺を寄せているものの、怒っているわけではない。
私を案じているのだろう。長い時間を共にしてきたからこそ、彼の
優しさが手に取るように分かる。
かつては、その想いを読み違えて彼を失うことになってしまったけ
れど。
﹁体調が悪いわけではないのね?﹂
母に問われて肯けば、その人は大きく息を吐き出して額を押さえた。
﹁⋮⋮お母様?﹂
﹁心配させないで﹂
下を向いたまま呟いた母の悲愴な様子に、何だか胸が熱くなる。
いつもは私のことなど気にもかけないというのに、どうやら心配し
てくれたらしいと知って心が解れていく。
不謹慎だとは思うが笑みまで零れそうになって、
﹁心配はあの子だけで充分﹂
という母の声を、この耳はしっかりと聞き取った。
浮かびそうになっていた笑みが、一瞬で壊される。それでも唇は何
とか柔和な線を描こうと小さく動いた。
寒さに震えているかのようにがちりと歯がぶつかる。

305
私の動揺を悟られたかもしれないと顔を上げるけれど、母は相変わ
らず難しい顔をしたままで。
もしかしたら、先ほど聞いた言葉は幻聴かもしれないという想いさ
え過ぎる。だけど、
﹁困るのよ﹂
貴女まで、そんな風では困るのよ。と、そんな言葉が吐き出されて
私の顔に降ってきた。
生ぬるいはずの吐息はなぜか、ひどく冷たくて。
頬を滑る言葉の刃が、氷のようにざくざくと皮膚を切りつけていく。
そんなのただの幻だと分かっていても、その痛みに唇の端が歪む。
この痛みが幻だったとしても母の唇から落ちてきた言葉は事実だと
分かっていた。
咄嗟に耳を塞ぎたくなって両腕を持ち上げようとする。
だけど、疲れ切った私の腕はほんの僅かに動かすことができただけ
で、ずしりとシーツに沈んだ。
鉛のように重い。
抵抗するかのように動いた指先が、意味もなく布地に爪をたてた。
﹁シルビアもなんだか調子が悪いって言っているの⋮⋮﹂
あの子は体調が良くなったと思えば悪くなったりするから油断でき
ないのよ。と眉を下げる。
その顔を見ているのが何だか辛くて、一つ瞬きをすれば、先ほど書
庫で見た光景が目前に広がった。
優しい陽だまりの中で、楽しそうにはしゃぐあの子。
そんなあの子を追いかける両親の姿。
きっと、長い時間日差しを浴びたのが原因なのだろう。もしかした
ら、普通であれば気持ちよく感じる柔らかな風さえシルビアにとっ

306
ては毒なのかもしれなかった。
母は、あのとき。
絵に描いたような幸福の中に居たあのとき、私がどこに居るかなん
て気にも留めなかったのだろう。
いつ、どんなときも、シルビアの居場所を把握している母。
例えば、シルビアの姿が自室から消えたなら、それこそ屋敷中がひ
っくり返るほどの大事件になるに違いない。母はそれこそ半狂乱に
なるに決まっている。
だけど、私が消えたところで騒ぎになったりはしない。
この屋敷での私の存在価値などその程度のものなのだ。
何せ私は、侯爵家からの預かりモノであるそうだから。
ソレイルの婚約者になるというのは、そういうことだったのだ。
母は、悲しそうに﹁あの子は、本当に弱い子だから﹂と告げた。
私はそれにただ﹁⋮⋮ええ、本当に﹂と、肯くことしかできない。
掠れた声がやけに弱々しく聞こえたけれど、そう思ったのは私だけ
のようだった。
﹁浴室で溺れるなんて⋮⋮貴女、どうしたの?﹂
問われて答えに窮する。
眉を寄せたその顔は、はっきりと私を非難していた。貴女は曲がり
なりにも侯爵家嫡男の婚約者なのですよ。と分かりきったことまで
口にされる。
暗に、浴槽で溺れるなんて恥ずかしいことは止めてくれ。とそう言
っているように聞こえた。
﹃もう、甘えてはいけませんよ﹄
幼少期に、母から与えられた拒絶の言葉が甦る。
苦しくて細く細く息を吐き出す。上手く息を吸うことができなくて、
何かが胸を塞いでいる気がした。

307
水に溺れているわけでもないのに、どこまでも沈んでいく感覚がす
るのだ。
﹁足が滑ってしまって﹂と、笑ってみせれば本当に可笑しい気がし
て。
喉の奥が何度か鳴った。本当に、笑っているみたいに。
母は﹁しょうがない子ね﹂と、小さく息を吐く。
そして、僅かに苦笑する。
顔と顔を合わせて、目と目を見つめあい、お互いに笑みを浮かべて
いるというのに、心はどこか遠くに追いやられている。
だけど、私はきっと母の望むとおりの反応を示すことができたのだ
ろう。
母はそれ以上、私を責めなかった。
ああ、私は間違えなかったのだと、誰にも知られないようにそっと
胸を撫で下ろす。
﹁⋮⋮奥様、そろそろお時間です﹂
私の母の間に下りた静寂を破ったのは部屋の隅で事の成り行きを見
守っていた私の護衛だった。
きっと、気を遣ってくれたのだろう。
母と私の間に流れる空気はいつだって、穏やかなものとは言えない。
彼がそれに気付かないはずはないのだ。
母はすっと私から視線を逸らして、アルに﹁そうね﹂と優しげな笑
みを浮かべた。
そして、ゆったりと腰を上げる。
それからは、一度も私の方を振り返ることもなく扉を開ける。
まさか、その背中を見つめられているなんて想像もしていないのだ
ろう。

308
いや、もしかしたら。
知っていて振り返らないのかもしれなかった。
縋るような眼差しをして、まるで幼子のように母親の温もりを求め
ている自分が、どうしようもなく憐れで惨めだった。
﹁お嬢様、申し訳ありません﹂
扉の向こうで待ち構えていた侍女と共に母が去った後、部屋に残さ
れたアルがおもむろに頭を下げた。
﹁⋮⋮何に対する謝罪なの?﹂
純粋な疑問だったのだが、アルにとっては違うように聞こえたらし
い。
私の問いに答えることもなく﹁⋮⋮申し訳ありません﹂と再び、頭
を下げる。
﹁貴方たちは、謝ってばかりね。そんなに、私に悪いと思っている
のかしら﹂
ふ、と笑みが零れて、なぜか涙が滲んだ。
アルは黙って私の顔を見つめている。
﹁母を呼んだのは、貴方なの?﹂
何となくそんな気がして問うてみれば、アルは﹁いいえ﹂と首を振
る。
﹁じゃぁ、マージね﹂導き出した答えに溜息が混じった。
﹁止めるべきでした﹂と、搾り出すように言ったアルが溜息を呑み
込むように唇を引き結ぶ。

309
つまり、先ほどの謝罪には意味があったということだ。
けれど、マージの行いが優しさからきたものだというのは何となく
理解できた。
母親であれば、きっと何らかの手助けをするだろうとそう考えたに
違いない。
娘の為に、最高の侍女を雇うべく行動した人だ。
いつだって、家族のために最善を尽くす。
母は素晴らしい人だ。
だって、母は、家族を愛している。
母のその姿は、何者にも形容できない。
﹁母親﹂だ。ただの、母親。それ以上でも以下でもない。
﹃貴女は今日から、ソレイル様の婚約者となるのよ﹄
﹃貴女には、幸福な未来が約束されているわ。侯爵家の夫人になる
のだから﹄
﹃だから、今日から貴女は伯爵家の娘ではなく、侯爵家嫡子の婚約
者となるのですよ﹄
ソレイルの婚約者と決まったとき、母はそう言った。
冷たくされたわけではない。酷い言葉を言われたわけでもない。
母は、間違っていない。
だけど。
﹁アル、﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁アル、﹂
﹁はい﹂

310
主とは言え、未婚女性の寝室に居るからだろう。
気を遣って、離れた場所から様子を窺っている護衛に苦笑が漏れる。
かつての人生と同じだ。伸ばした手は、繋がれることさえなかった
けれど。
私はこちらに来て欲しいと望めば、逆らうことはない。
﹁⋮⋮手を、握ってくれない?﹂
声が、醜く歪んだ。
頼りなく震えた吐息は、視界を揺らす。
覚えのある光景に、どうしようもなく泣き出しそうだった。
いつかの人生と同じだ。
いつかのときも、やはりこんな風に二人で向き合っていた。
あのときと同じように、ベッドから数歩離れたところで立ち止まっ
た彼が手を差し出すことはない。
今、そんなことをすればただの主と従者ではいられなくなると互い
に理解しているからだ。
﹁いいえ、違うの、言ってみただけよ﹂
﹁⋮⋮はい、分かっております﹂
苦しくて悲しくて、どうしようもない。
そんな想いに胸が潰れそうになったことなんて数え切れないほどだ
というのに。
耐性が付くことはなく、同じように何度も傷ついて、同じ深さで痛
みを負うのだ。
心など、捨ててしまえればどれ程楽だっただろうか。
自分は、誰にも愛されないのだと諦めてしまえれば。
そうすれば全てはもっと円滑に進んでいくのだろう。

311
﹁⋮⋮アル、私の話を聞いてくれる?﹂
﹁はい、もちろんです﹂
﹁私と、シルビアと⋮⋮両親の話よ﹂
︱︱︱︱︱生まれたそのときから、愛とは無縁のところに居た私の
話よ。
そう口にすると、心臓が収縮するような嫌な感じに襲われた。
誰かに聞いてほしかった。だけど、誰にも聞いてほしくなかった。
誰かに理解してほしくて、だけど、誰にも分かってほしくなかった。
愛されているはずだと自分に言い聞かせながら生きてきた私の、惨
めな人生を。
軽々しく、理解できるなんて言ってほしくなかったのだ。
理解してほしかったのは、たった一人。
あの黒い瞳は、いつだって全てを見抜いていたから。
﹁シルビアはお姫様なの﹂
﹁ええ﹂そうでしょうとも、と彼は深く肯く。
屋敷内でシルビアはまさしく、そんな風に扱われていた。両親から
も使用人からも。
掌中の珠のように大切にされてきたから、まさしくそういう存在だ
ったのだ。
だけど、それとは意味が違う。
﹁いいえ、アル。これは比喩なんかじゃないのよ﹂
シルビアは、正真正銘﹁お姫様﹂なの。

312
そして、物語の主人公なのよ。
アルの目が、驚きに満ちて私の顔を捉える。
そこに交じるほんの僅かな恐れと慄き。
知ってはならない真実に触れてしまったとき、大抵の人間が彼のよ
うな反応を示すのだろう。
﹁そして私は、正真正銘、物語の脇役なの﹂
313

﹁物語﹂というものには、常に主題というものが存在する。
この奇妙な人生を物語に例えるなら、主題は一体何なのだろうか。
そして、それにはどんな教訓が含まれるのだろうか。
﹁アル、貴方はこの本のことを知っていて?﹂
枕の下からそっと取り出した小説を見せれば、アルは片方の眉を器
用に動かして首を傾いだ。
厚くも薄くもないその本は、貴族の子女が読むには少し物足りない
かもしれないと思う。
だけどその読みやすさが、社交界はもちろんのこと貴賎を問わず人
気を博した理由の一つなのかもしれなかった。

314
登場人物はさほど多くなくので人間関係も複雑ではない。
ただ単に、隣国の姫君と騎士の恋物語が展開されているだけだ。
﹁もちろん、知っていますが⋮⋮﹂
それが一体何なのかと、生真面目な顔に疑問を浮かべたアルが私の
持っている本を覗き込む。
一時期は貴族の間で話題をさらったのだから、下位貴族出身である
彼が知っていてもおかしくない。
私たちの間で話題にしたことはないが、タイトルくらいは耳にした
ことがあったのだろう。
﹁この本がどうかしましたか?﹂
手が届くようで届かない位置に居たアルが、一歩前に歩み出て、私
の差し出した小説を眺める。
受け取っていいのか迷っているのだろう。彼の右手が少しだけ宙を
きって、何も取らずに元の位置へ戻った。
﹁アルはこの本、読んだことあるのかしら?﹂
問えば、予想していた通り首を横に振る。
簡単に概要を教えれば、﹁そんな話だったのですか⋮⋮﹂とさして
興味のなさそうな顔で頷かれた。
社交界で話題になったとは言え、マリアンヌもそうであったが、ア
ルのような反応を示す人間だって少なくない。
﹁それで、この本が一体何なのですか?﹂
隣国の姫君と一介の騎士という、普通なら決して結ばれることのな
い主人公二人が物語を壮大なものにしているが、内容としてはどこ
にでも転がっているような恋愛話だ。
過酷な運命に翻弄される二人ではあるが、この国にだって、階級の

315
違いゆえに結ばれることのなかった貴族は溢れるほど存在している。
その一つ一つを拾い上げれば、もっと劇的な話はあるだろう。
だからこそアルは、小説の内容には興味を抱くことができないのだ。
むしろ、この本自体に何か仕掛けがあるのではないかと訝しんでい
る様子である。彼の青い目が、熱心に本の表と裏を見つめていた。
しかし、この本は特別でも何でもない。
一般に書店で購入できるものと何ら変わりなく、出入りの業者に依
頼すれば翌日には手に入れることができる代物だ。
あえて言うなら、ロマンス小説にしては表紙が地味だということく
らいか。
﹁⋮⋮この本は、お父様のものなのよ﹂
声が震えないように努める。けれど、それが上手く言ったとは思え
なかった。
想像以上の揺れを帯びた言葉が、静まり返った室内に余韻を残して
消える。
平静を装っているつもりだったのに、唐突に、指先が力を失った。
ばさりと音をたてて絨毯に落ちた本が、風もないのにページをめく
る。アルは、思わず体を起こそうとした私を目線で制すると、流れ
るような動作で本を拾い上げた。
彼の手の平に納まった本を、ベッドに横たわったまま、ただじっと
眺める。
自分の手が震えていることに気付いたのはそのときだ。
知らない内に詰めていた息を吐き出す。落ち着いていたはずの心臓
がほんの僅かに脈動を強めた。
このまま真実を語っていいものなのか、急に怖気づいて口を噤む。
﹁旦那様に?﹂

316
アルの声が不信感を帯びているのは、あの人が私にこんなものを与
える人間ではないということを知っているからだろう。
繰り返す人生の、長いとはいえない生涯で、私が父から与えられた
ものはそう多くない。
思えば、はっきりと父からもらったと断言できるのは、社交界デビ
ューの年にもらった首飾りくらいなものだ。他のもの︱︱︱︱︱例
えば、淑女教育に必要な蔵書の類、或いは他家に招かれたときのド
レス、装飾品などは母を介して渡されたし、そもそも父がそれに関
与していたとは思えない。
母は﹁旦那様から貴女に﹂と言って手渡してくれたものだが、本当
は違っていたのだろう。
何一つ与えられない私を憐れんで、そう言ったのだ。
だから、こんな恋愛小説なるものを、母ならいざ知らず父が与えて
くれるはずなどない。
アルにもそれが分かっている。
私の護衛として、父とも浅からぬ関係を築いているからこそ、その
不自然さに気付いたのだ。
眉間に皺を寄せているアルに﹁盗んだのよ﹂と声を潜めれば、彼は
面白いほどに目を大きくした。
その顔があまりにも普段の彼と違っていたから、思わず吹き出して、
はしたなくも喉の奥で笑う。
﹁⋮⋮お嬢様﹂
そんな私の様子を見て、からかわれたと判断したのだろう。声音に
抗議の色を交じらせて、私の顔を覗き込んだ。
﹁︱︱︱︱︱本当よ﹂
本当に盗んだの、と言いつつ、今度こそきちんと体を起こした。
先ほどよりもだいぶ倦怠感が抜けているような気がする。
もはや笑って誤魔化すこともできないほどの事実に、アルが静かに

317
息を呑んだ。
父親のものを盗むなんてあってはならないことだし、他の家ならと
もかく、我が家では許されないことでもある。
ましてや、罪を犯したのがシルビアではなく私なのだから。
父に知れれば釈明の余地なく断罪されるだろう。
いや、断罪とは言いすぎか。けれど、冷淡な言葉で罵られ、そんな
娘に育てた覚えはないと自室に軟禁されることも有り得る。あくま
でも外部には知られないように、ひっそりと罰を与えられるはずだ。
けれど、もしもシルビアが相手であれば、仕方のない子だと笑って
許すに違いない。
いたずらも程々にしなさいと嗜めるくらいだろう。
あの子のことをそれ程に信頼しているのか、それともただ単に、私
がこの家に害を及ぼす存在だと疑われているのか。
想像したところで何も分からないけれど。
﹁お嬢様⋮⋮理由を伺っても?﹂
盗んだという事実にはあえて触れず、アルは本を眺める。
しきりに首を傾いでいるのは、あると思っていた仕掛けがどこにも
ないからだろう。中身をくり抜いて大事なものでも隠していると思
っていたのか。けれど、そんな古典的とも言える手法を用いる人間
は少ない。
﹁仕掛けなんてないわ﹂と再び笑みを落とせば、アルがこちらに観
察するような視線を向けた。
自分が投げかけた問いに対する答えが欲しいのだろう。
﹁⋮⋮理由、理由ね﹂
だけど、﹁なぜ﹂と聞かれたところでその答えを持っているわけで
はなかった。

318
その本を見つけたのは、ただの偶然だったと言えるし、何かに導か
れたとも言えるかもしれない。
大きな力に導かれて﹁見つけざるを得ない﹂状況に追い込まれたの
だというほうがしっくりくる気がした。
答えはきっと、誰も知らない。
知っているとすれば、それは、神と呼ばれるものだけだ。
﹁ごめんなさい、アル。それは言えないのよ。だから聞かないでく
れると嬉しいわ﹂
私が首を振れば、彼はその深海に似た色の瞳を細めた。
遠くにある何かを見極めようとしているような仕草だった。
﹁⋮⋮いえ、私こそ差し出がましいことを申しました﹂
頭を下げる護衛のいささか落ち込んだ様子に苦笑する。
彼は本当に﹁差し出がましいことをした﹂と認識しているのだろう。
悪いのはアルではないけれど、今ここで全てを語ることもできない。
だから﹁いいのよ、私こそごめんなさいね﹂と笑って誤魔化す。
アルは相変わらず、箱の底を覗き込むような眼差しをしたまま﹁お
嬢様が謝る必要など、ありません﹂と言った。彼もいい加減うんざ
りしているだろうに、私が謝罪を口にする度に、同じ言葉を繰り返
す。
彼は昔から、変わらない。ずっとずっと前から、変わることなく私
の護衛騎士であろうとするのだ。
初めにこの本を見つけたのは、いくつか前の人生で、そのときは本
当に偶然だった。
既にソレイルと結婚していた私は、領地経営のことで父の助言を得
るべく生家に訪れていたのだ。

319
しかし、事前にお伺いをたてていたにも関わらず、父は不在であっ
た。
家令に聞けば、何の悪びれもなく、虚弱なシルビアを療養させる為
に母と三人で郊外の別荘に向かっているのだと説明される。
私が来ることを知らなかったのかと問えば、知っていたと思います
と困ったような顔をして笑われた。
お急ぎだったようで、と取ってつけたように頭を下げる。
つまり、連絡する暇もなかったのだと弁明しているのだと思った。
私は、一瞬、喉元までこみ上げた熱の塊を必死に飲み込んだ。
そして、﹁シルビアの為なら仕方ないわね﹂といかにも寛大である
かのように振舞う。
自分はもう貴族の小娘ではないのだと言い聞かせて。これは政治と
一緒なのだと、仕事の一環なのだと自分自身に言い聞かせる。
家族間でのやり取りでないのなら、さほど傷つくこともない。
仕事の約束を反故されたのだと思えばいい。
だから、笑みを作ることなど造作もないのだ。
てっきり怒り出すと思っていたらしい家令は﹁お嬢様も寛大になら
れましたね﹂と、微笑んだ。
嫌味だったのか、本音だったのか分からないけれど、有難うと言え
るくらいの余裕はあった。
私はそれほどに、多くの経験を積んでいた。
何も知らなかった頃の自分ではない。己を守る為に何をすべきかよ
く理解していたのだ。
父の行動だって予測できたのに、確認を怠ったのは自分だと、無理
やり己を納得させた。
家令がその場から去って、たった一人廊下に残された私は溜息を吐
きながら考える。
なぜ、いつもこうなってしまうのかと。
窓の無い廊下には、壁掛け花瓶が静かな陰影を落とすだけで他には

320
何もない。
それだって目を凝らさなければ見えないほどで、私の影なんて無い
も同じだった。
私の人生というのは、こんなものかもしれないと天井を仰ぐ。
そこに黒い鳥が潜んでいるのではないかと期待して、等間隔で並ぶ
華美な装いの照明に視線を滑らせる。
そして、ほとんど無意識に、父親の書斎のドアノブを掴んでいた。
普段の自分からは考えも及ばない行動だったけれど、なぜだかそう
しなければいけない気がしたのだ。
実際、鍵が掛かっているはずのその扉はいとも容易く内側に開いた。
それまでは確かに重いと感じていたはずの厚みのある扉が、そのと
きばかりは羽のように軽く感じられたのを覚えている。
父の許可なくして立ち入ることの許されない書斎への出入りは、露
見してしまえば只ではすまないと分かっていた。
だけど、まるで自我が芽生えてしまったかのように、足が意志を持
って勝手に動く。
忍び込んだというよりは、ただ﹁中に入った﹂という感覚で、あま
り罪悪感はなかった。
あれほどに抜け目のない父が、よりにもよって書斎の鍵を掛け忘れ
ることなどありはしない。
だから、施錠されていないという点で、これはあくまでも偶発的な
出来事なのだと論が立つ。
責められるべきは私ではなく使用人だという意識があったのかもし
れない。
私が、この小説を手にしたのはそのときだった。
見上げるほどに背の高い本棚の、一番上の右端。意図して取り出そ

321
うとしなければ、存在さえ忘れてしまうようなところにその本はし
まわれていた。
つまり、脚立などを用意しなければ見えない位置にあるということ
だ。
自分自身、なぜそんなところに目をつけたのか分からない。
だけど、そこに何かあるような気がしたから、隅に置かれていた来
客用の椅子を引っ張り出してそこに乗り上げた。別荘に行っている
というのであれば父が突然現れることもない。既に緊張感さえなく
なっていた。
︱︱︱︱︱なぜ父が、恋愛小説など。
初めに抱いた感想はこれだった。
他人の恋愛話に興味を抱く人間ではないし、ましてや創作物であれ
ば、目に留まることもないだろう。
私の父親は、そういう人間だった。
私自身、己の数奇な運命に立ち向かうことが最優先で、社交界を賑
わせている小説のことは知っていても読もうとは思わなかった。ど
こにでもあるような身分違いの恋の話だと、耳にしたことがあった
から。
だからこそ、父の書斎にそんなものが置かれている違和感に、首を
傾げながら何となくページをめくる。
そこに、重大な秘密が隠されているとも知らずに。
﹁アル、その本の一番最後を開いてくれる?﹂
何も語らず、突然そう言った私にアルは戸惑いつつも長い指を背表
紙に滑らせた。
僅かに首を傾げながら、けれど、特に反抗する様子もなく従う。
背表紙を開くだけの動作だから時間もかからなかった。そして、ほ

322
んの一瞬の沈黙の後、
﹁︱︱︱︱シルビア、様⋮⋮?﹂と、搾り出すように私の妹の名を
口にした。
父の書斎でこの本を見つけた私は、さらりと内容を確認して、やは
り自分が知っているものと同じものだったとほっと息を吐いた。そ
れが安堵によるものなのか、もしくは落胆によるものなのかは分か
らない。
とにかく、自分の人生を左右するような出来事は何も記載されてい
なかったと肩の力を抜いた。
そしてそのとき、ソレを見つけたのだ。
﹁これは似顔絵?いや、肖像画⋮⋮ですか?﹂
アルの問いにそっと頷く。
そうだ。それは、その小説の一番最後のページ、白紙のところに描
かれていた。
﹁落書き﹂と言っていいほどに乱雑なペン筋で描かれた絵。
だけど、どこか哀切を伴うような儚く淡い絵でもあった。
私もアルが感じたのと同じようにシルビアの絵だと思い、それほど
までに溺愛されているあの子が羨ましくもあり、少し怖くも感じて
本を閉じたのだ。
母親が違うとは言え、私もシルビアも父にとっての娘であることに
変わりはない。
⋮⋮そのはずである。それなのに、こういった本当に小さなことで
愛情の差を見せ付けられているようで心が軋む。
本の背表紙をなぞった自分の指先が僅かな震えを呼んで、最初の人
生で両親に見限られた自分を心底哀れだと感じた。
幾つか深呼吸を繰り返して平静を装いつつ、取り出した本を元に戻

323
そうとしたあのとき。
ふと過ぎった違和感は何だったのか。
何かは分からないけれど﹁何か﹂が違うと感じた。
﹁それはね、アル。シルビアではないのよ﹂
もう一度、本の背表紙を開いて隅から隅までをじっと見つめればお
のずと答えが導かれる。
刻まれた父の名と年号と、日付。
父の描く絵には全て署名と日付が入っているから、習慣で書き記し
たとしか思えないが、それが全てを証明していたのだ。
そこに記されていたのは、シルビアが生まれるよりも、ずっとずっ
と前の日付だった。
﹁シルビア様ではない⋮⋮のですか?いや、でも⋮⋮お顔が⋮⋮よ
く似ていらっしゃる﹂
まるでシルビアであるかのような顔をして、一枚の紙に収まってい
る一人の女性。
色をつけていないからこそ、それが別人であることを証明できない。
シルビアのように繊細が銀色をした髪を持つ人間は、この国ではと
ても稀な存在なのだ。
もしも、絵に描かれた女性が金髪であれば、見るからに別人だと分
かっただろう。
しかし、黒いインクだけで描かれた女性は、窓の外でも眺めるよう
な仕草で朗らかな笑みを乗せているだけだ。
﹁それは、シルビアの実の⋮⋮お母様よ﹂
シルビアが生まれるよりも前の日付。シルビアによく似た顔。父が

324
描いたという事実。
そこから答えを導き出すのは、そう難しくない。
﹁⋮⋮シルビア様の、母君?﹂
疑問なのは、なぜ﹁この本﹂に描いたのかということだ。
この本を見つけ出したいつかの人生の﹁私﹂は、父の書斎からそれ
を持ち出し、ソレイルと暮らす屋敷に持ち帰った。そして、自室の
鏡台に隠したのだった。
自分の中に湧き上がった疑問を払拭すべく動き始めたのは、そのす
ぐ後のことである。
作者に会わなければ、会って、話を聞かなければ。
誰に脅されているというわけでもないのに、ほとんど脅迫されるよ
うな心持ちだったと思う。
既に﹁次代の侯爵夫人﹂であった私には幾つかの伝手があり、この
国のどこかに居るであろう作者を捜しだすことはさほど難しいこと
とは思えなかった。そしてまた、その通りでもあったのだ。
曇り空に掲げた手の平に、ぽつりと雨粒が落ちてくるように。
想像していた通りの結末が待ち構えていた。
﹁きれいな方でしょう?シルビアにそっくりだわ⋮⋮﹂
﹁この方が⋮⋮﹂
感心したような息を吐いてアルが、じっと肖像画の女性を見つめる。
その青い瞳が、はっきりと分かるほどの好奇心を滲ませた。けれど、
それ以上の感情は読み取れない。
そのことに、安堵する。
もしもソレイルがこの絵を見たなら、きっと、墨で描かれた女性の

325
中にシルビアの面影を探すのだろう。
そして、あの薄氷のような瞳を微かに綻ばせて、指先で優しくイン
クの線をなぞるのだ。
まるでシルビアに触れるみたいに、そっと。
その場面を当たり前のように想像できるのだから、私もどうかして
いる。
それとも、失ってしまった人生のどれかでそういう場面を見たこと
があるのだろうか。
﹁それにしても、不思議なものですね﹂
シルビアの母親から視線を外して、私を見つめるアルが苦笑した。
それに首を傾げれば、
﹁シルビア様の母君が実在していたとは⋮⋮いや、当たり前と言え
ば当たり前なのですが﹂
何だか信じ難いです、と口にしたアルに他意はない。ただ、事実を
言葉にしただけなのだろう。
病弱なこともあり、その存在自体が淡く儚いシルビアは、本当は実
在の人物ではないのだと言われても納得してしまいそうなところが
ある。
花の種から生まれたのだと言われても驚かないかもしれない。
そんなシルビアを産んだ女性が居るというのは、確かにどこか不思
議な感じがした。
最初にこの事実に直面した﹁かつての私﹂も、アルと同じようなこ
とを思ったのだ。
だからこそ、誰にも知られないようにそっと想像してみた。
シルビアの母親なるその人の髪色を。その目を、その声を。
どんな風に話すのだろうか、どんな仕草をするのだろうか、どんな
表情でシルビアを抱き上げたのだろうか。⋮⋮シルビアが病弱なの

326
は、血筋からくるのだろうか。
聞きたいことも、知りたいこともたくさんあった。
けれど、その答えを得ることはない。
私がとシルビアの母親が会うことはないのだから。
その一方、調べずとも分かることがあった。
この本は﹁父の本﹂であるが、それは所有者が誰なのかを示してい
るのではない。
文字通り、言葉通りの意味でもあったのだ。
本の中に描かれている、とある騎士。隣国の姫君と恋に堕ちた中位
貴族の男性⋮⋮彼女の護衛騎士。
それこそがまさしく︱︱︱︱︱、
父だったのだ。
その事実に行き着いたとき、私の身の内に走ったのは衝撃ではなく、
諦念であったかもしれない。
ああ、そうか。と、ただ納得したのだった。
世間的に言えば、どこかありふれている身分違いの恋。だけど、本
人たちにとっては世紀の大恋愛。
それこそ本になるほどの、劇的な話でもあった。
あくまでも﹁作り話﹂として描かれた世界ではあったが、その登場
人物たちは完全なる虚構ではなかったというわけだ。
けれど、私の母は隣国の姫君などではない。
それは実の娘である私自身がよく分かっている。そしてそうである
なら、この本の主人公は母ではない。
けれど、母が、この国の生まれではないこともまた事実だった。

327
﹁⋮⋮お嬢様?﹂
すっかり考え込んでいた私に、アルが躊躇いがちに声を掛けてくる。
彼の顔を見つめながら思う。
全てを話すのなら、今しかないと。
だけど、それを口にすることによってこの先の道が大きく逸れる可
能性もある。
﹃アルフレッドが可哀想。貴女を主にしたから、彼は死んだのね﹄
いつかの人生で、聞いた言葉が甦る。
何を言うべきか逡巡しながら、ゆっくりと口を開いたそのとき、
︱︱︱︱︱コン、コン
誰かが部屋の扉を叩いた。
328

カツカツと何度か響く乾いた音に、反応を示したのはアルだった。
扉がノックされるよりも前に誰かの気配を感じていたのだろう。
どうするのか、と問われるように見据えられて頷くしかない。誰か
分からないが、部屋の中に私が居ると知っていて尋ねてきたのだろ
うから。
けれど、アルはしばらくその場から動かなかった。
侍女の居ない今、扉を開けるのは彼しかいない。
何か言いたげに歪められた唇は小さな吐息を吐き出して、﹁続きは
後ほど﹂と声を潜める。
扉の外に声が漏れないように気遣ったのだろう。
そして、ぱたりと本を閉じて私の手にそっと返してきた。
﹁いいですね?﹂と念を押す彼に返事をすることができない。その

329
代わり、扉に視線を走らせて客人を招き入れるように促す。
一瞬、視線を尖らせたアルだったけれど、何も言わずに指示に従っ
た。
﹁お待ちください﹂と扉の向こうに声を掛ける彼の背中を見送る。
恐らく、この件についての話をすることはもうないだろうと分かっ
ていた。
たった一度だけ勇気を振り絞るなら、この瞬間だったと言える。だ
けど私は、そうしなかった。
誰かの手を借りるなら、それはきっとアルなのだろう。カラスとい
う絶対的な存在を失ってしまった今、心の底から頼りにできる人間
と言えば、それはこの護衛だけなのだ。
だからこそ、大切にしなければならないと知っている。
ぐらぐらと傾く心が、今にも転がりだしてアルの足元に落ちようと
しているのを寸でで食い止めた。
﹁︱︱︱︱︱お姉さま⋮⋮﹂
思考の波を彷徨う私を、呼び戻したのは愛らしい妹の声だ。
扉を開けたアルの向こう側からおずおずと顔を出す彼女の頬は僅か
に赤く染まっている。
熱があるだろうことがすぐに分かった。
ふわふわと頼りなく歩くシルビアは室内に入ると大きく息を吐き出
した。
自分の部屋から、私の部屋に来るまでの短い距離で呼吸が上がって
しまったのだ。
﹁シルビア、寝ていなくちゃダメでしょう?﹂

330
声を掛けながら立ち上がろうとすれば、﹁お姉さまこそ、浴室で溺
れてしまったんだって⋮⋮﹂と言葉を濁したシルビアがちらりとア
ルを見上げた。
そしてはっとしたように口を噤んだ。
この場でそんな話をしていいものかと逡巡しているようだ。浴室で
溺れたのは私の単なる失態であるから、発言する機会を違えば不利
益を被ることになる。
こういう部分だけ見れば、この子もきちんと成長しているのだと思
えた。
﹁アルは知っているから大丈夫よ﹂と私が笑えば、シルビアもほっ
と息を吐くように笑みを零す。
壊れそうに儚いその顔に、何だか胸が迫る。
本当に私のことを心配しているのだ。
シルビアはとても優しい。体調不良を押して、姉を見舞うほどには。
﹁あの、これ良かったら⋮⋮﹂
私のベッドに辿り着く前にぐらりと体を傾けたシルビアを、アルが
支える。
僅かに頬を染めて﹁ごめんなさい﹂と俯く妹は、身内の贔屓目なし
に愛らしく庇護欲をそそった。
そんな彼女を導くように手を引く護衛の姿は、ごくごく自然で何の
違和感もない。
だけど、ただ何となく﹁違う﹂と感じて首を傾げる。
この二人ではない、と何かがそう訴えかけてくるのだ。この組み合
わせは違うのではないかと。
それは多分、シルビアの隣に居るのがソレイルではないからだろう。
そしてそんなことを思った自分に驚き、思わず詰めていた息を吐き

331
出す。
静けさを取り戻した室内に響いた呼吸音に、自分の吐き出した息だ
というのにびくりと肩を竦ませた。
苦しいような気がするのは気のせいではない。
﹁お姉さま、大丈夫?﹂
いつの間にか手の届く距離まで近づいていた妹が私の手を取った。
その優しい仕草に眩暈さえ覚える。どこまでも臆病な私は、その手
を握り返すこともできない。
﹁大丈夫よ、心配いらないわ﹂
首を振りながら答えるけれど、自分の声だというのに他人のものみ
たいに聞こえる。
感情の伴わない声だと思った。
だけど、シルビアは気にした様子もなくふわりと笑みを浮かべる。
﹁⋮⋮これ、お母さまが私に煎じてくれたの﹂
そっと差し出された小瓶を、宝物でも差し出すみたいにもったいぶ
って私の手に握らせた。
ガラスの瓶に申し訳程度に詰められた茶色の葉っぱ。
﹁あまり⋮⋮美味しくないの﹂
ふふ、といたずらっ子のように笑みを落として﹁お母さまには内緒
よ﹂と唇に人差し指を立てる。
﹁体を温める効果があるんですって﹂と、その効能を説明しながら
私の腕を優しくなぞった。
指先で触れるか触れないか、羽でなぞるみたいにそっと。
﹁シルビア?﹂
己の指先に視線を落としていた妹がはっと顔を上げる。
﹁ご、ごめんなさい。何だか寒そうだったから﹂と弾かれるように

332
して手を離した。
あまりにも突然に温もりを失ってしまい、ほとんど意識せずその指
を追う。
何の打算もなく差し出された優しさを失いたくなかったのかもしれ
ない。
僅かに目を瞠ったシルビアは何の疑いもなく、手を握り返してくれ
た。
この手が私から全てを奪うのだと知っている。
だけどそれと同時に、かつて、同じ手が私の命を救ってくれたこと
を覚えている。
︱︱︱︱︱それだけ?
カラスが笑っているような気がした。
たったそれだけで、全てを許すのかと。


翌日、学院の廊下でソレイルと出くわしたのは、何かの予兆だった
のだろうか。
﹁⋮⋮たまには、一緒に食べないか﹂
硬い表情を少しも崩すことなく誘われても、周囲の目があるから断
ることはできない。
彼は侯爵家の嫡男であるから、婚約者と言えど﹁否や﹂はないのだ。
二人きりであるなら彼に恥をかかせることはないが、何せここは学
院の廊下である。

333
偶々通りかかった複数の生徒が、私の言葉に聞き耳をたてていた。
そして何より。ソレイルの少し後ろに立っている男が、じっと私を
見ているから、迂闊なことはできなかったのだ。
いつもソレイルと行動を共にしている友人ではない。珍しいことも
あると、すれ違いざまに顔を向けたのがいけなかった。
偶々私を見ていたらしいソレイルと目が合ってしまったのだ。
いつもであれば視線を下げて、彼に見つからないように息を潜めて
いるところなのに、今日はなぜか彼を見てしまった。
そしてそんな私に気付いたのはソレイルだけではなかった。
﹁⋮⋮彼女が噂の婚約者かい?﹂
人好きのする笑みを浮かべて一歩前に出てきたのは、サイオンだ。
まるで初対面のような振りをして、あざとく顔を斜めに傾いでいる。
その色の濃い瞳にたくさんの光を取り込んで、興味津々とでも言わ
んばかりに私たち二人の顔を見比べた。
第三者の目には、私とサイオンの間でどんな会話が交わされたのか
など分からない。ましてや、私たちが既に知り合いであることなど、
誰が分かるだろう。
ここで初めて会ったのなら私は貴族の子女なら誰でもするように、
笑顔を貼り付けて挨拶をしなければならない。それがどれ程に苦痛
でも。
軽く足を折れば、誰にも分からないほどに眉を上げたサイオンが面
白そうに口元を歪める。
笑い出そうとしてそれを堪えているような表情だった。
わたくし
﹁はじめまして。私は、イリア=イル=マチスと申します。以後お
見知りおきを﹂
侯爵家嫡男であるソレイルの婚約者という立場からは、初対面の人

334
間にあまり下手に出るのは相応しくない。先に名乗ることで下位と
いうことを示しているが、それ以上に遜る必要はないのだ。
ソレイルの家名を侮られないように最新の注意を払う。
たったこれだけのことで、今後の私自身の立ち位置が変わってくる。
サイオンが他国の高位貴族だろうということは既に察しがついてい
るので、特に気をつけたつもりだ。
一方、ソレイルは黙って私のすることを見守っているだけで、サイ
オンの﹁婚約者か﹂という問いに答えることもなく、婚約者だと名
乗らなかった私に言葉に補足することもなかった。
婚約者として紹介するつもりはないということだろう。
それとも周知の事実であるから、わざわざここで説明しなくてもい
いと思っているのか。
﹁はじめまして、お嬢さん。僕の名前はサイオン=トピアーシュと
言います﹂
にこりと笑ったその顔に悪意はないが、﹃お嬢さん﹄とは無粋な物
言いである。
見下していると言ってもいい。
それは壮年の男性が年若い少女に対する言葉遣いで、それはつまり
年の近い男女で交わされる挨拶ではないのだ。これが夜会であれば、
舐められていると考えるべき事象だった。
けれど、彼は国外の人間である。
まだ言葉の遣い方に不慣れなのかもしれない。⋮⋮そう考えたほう
がいいだろう。
この場でそのことについて触れたわけではないが、それは彼自身が
明かした事実だ。
こういう場合、私はどういう態度をとるのが正解なのだろうか。
けれどそのとき、突き刺さるような視線が向けられていることに気

335
付く。
﹁⋮⋮ソレイル様?﹂
思わず呟いてしまってから、はっと息を呑んだ。
サイオンの向こう側からこちらを見ていたソレイルも、きっと私と
同じような顔をしている。
互いに驚いているのが何だか滑稽だが、私はきっと、彼の視線に気
付いてはならなかったのだ。
サイオンが何事かと振り仰いだけれど、ソレイルは既に平静を取り
戻していて、相変わらず感情の読めない顔で首を振った。
その薄氷のような瞳には何も浮かんでいない。
まあ、いいか。とサイオンは軽やかに笑ってから﹁じゃぁ、行こう
か﹂と自分も同席するつもりなのだろう。先立って歩き出した。
取り残された私とソレイルを、周囲の人間が隠れることもなくじっ
と見つめている。
何とも心地の悪い視線にさらされながら、並び立とうとするソレイ
ルを見上げた。
すると、やはりこちらを見ていた様子のソレイルが何も言わずにた
だ視線をすっと逸らす。サイオンを追うような視線に促されるよう
に歩き出したけれど、本当は、着いていくべきなのか迷いもあった。
食事を共にしようと提案してくれたソレイルには、返事さえしてい
ない。
ほんの数歩だけ前を歩く彼の背を見つめる。
彼は、私の返事を待ったりしないのだ。
﹃ゆっくりでいいから、言ってごらん?﹄
優しい眼差しで、囁くような声で、妹にソレイルがそう言っていた。

336
それを確かに聞いていたけれど、それがいつのことだったか思い出
せない。茶会のときだったかもしれないし、それ以外のときだった
かもしれない。けれど、それは多分重要ではなかった。
何か言いたげにして頬を染めるシルビアと、それを優しい眼差しで
見つめるソレイル。
妹の控えめな態度がどうしようもなく好ましいのだと、そう言って
いるようだった。
そんな彼らの視界から外れた場所で、だけど、決して遠くはない距
離に居た私はただ息を潜めていた。
二人の邪魔をしてはいけないのだと、そのときにはもう知っていた
のだ。
婚約者として引き合わされたその日、庭先で私が追いつくのを待っ
ていたソレイル。
決して急かすようなことはせず、ただ待ってくれていた彼の残像が
瞼の裏に甦る。
やっと追いついたときに、そっと目元を緩ませた彼はもう、どこに
もいない。
﹁そういえば、君の姿をあまり見かけたことがないのだけれど、普
段はどこで昼食を?﹂
4人掛けのテーブルを陣取って、私とソレイルは向かい合って座る。
サイオンはソレイルの隣だ。
この並びが正しいのかどうか分からない。シルビアだったらどこに
座るのだろうと詮無いことを考える。
﹁⋮⋮食堂以外で昼食をとるような場所があるのかな?﹂
分かっているくせにそんな意地の悪い質問をしたサイオンは、心底

337
不思議そうな顔をしている。
これほどまでにあっさりと周囲を欺く人間が、ソレイルの友人なの
か。
それは頼もしいことであり、恐ろしいことである気もする。
﹁いつもは中庭で⋮⋮﹂
答えながら曖昧な笑みを浮かべた。察しのいい人間であれば、ここ
でこの話題は打ち切るはずなのだが、空気を呼んでいるのかそうで
ないのかサイオンは、﹁誰かご友人と一緒なのかな?﹂と話を続け
る。
知っているはずのことをわざわざ聞くことに、意味はあるのだろう
か。
彼の目的も何も分からないまま、問われるままに答えを返す。
﹁いいえ、いつもは一人ですわ﹂
大したことではないのだと、そんなつもりで言ったのに、
﹁︱︱︱︱︱1人なのか?﹂
反応を示したのはソレイルだった。
﹁え、ええ、そうです﹂自分でも分かるほどに面食らっている。両
目が乾くほどに瞼を開いた。
ソレイルが私に興味を示しているようだったから。体温が僅かに上
昇する。たったこれだけのことで動揺している自分が可笑しかった。
そんな私をサイオンが食い入るように見つめていることも知ってい
た。
だけど、取り繕うこともできないほどに心が浮き立ってどうしよう
もない。
馬鹿みたいだと思うのに、自然と笑みが零れた。

338
﹁⋮⋮それなら、時間が合うときは一緒に食べるようにしよう﹂
ざわざわと話し声の響く食堂に、ソレイルの声がぽつりと落ちる。
聞き間違いかと首を傾げそうになってから、二度は言ってくれない
だろうと思い直した。だから、ただじっとソレイルの顔を見るに留
まる。
言い間違いだと訂正されるのではないかと思ったのだ。
けれど彼は、その瞳に私の顔を映すだけで他には何も言わなかった。

まるで、返事を待っているかのようなその間に、少しだけ唾を飲み
込む。
何かとんでもない要求をされたかのように、あるいは、何かの取引
を持ちかけられたかのように、背中がぴんと張り詰めた。
そんな雰囲気を、忍ぶつもりもない笑い声で一瞬にして壊したのは
サイオンだ。
﹁君たちは婚約者だというのに、何だか変だね﹂
そんなに緊張しているなんて変だよ、と続ける。そして、堪え切れ
なかったようにまた笑った。
﹁まるで他人みたいだ﹂
その声だけが笑みを含まずに、淡々と事実だけを告げる。
そして、その言葉を否定することもできずに、思わず肯きそうにな
った。
私たちの距離感というのは、出会ったその日からちっとも狭まって
いないのだろう。
彼の小さな背中を追いかけていたあの日、いつか隣に並んで同じ景
色を眺めるのだと信じて疑わなかった。
だけど、現実はそんな甘いものではなく。
同じ方向に顔を向けたこともなければ、同じ景色を見ることも叶わ
なかった。

339
彼が、自分以外の女性を見つめる日がくるなんてことを、どうして
予想できようか。
﹁お前は黙っていろ、サイオン﹂
ちらりと隣に視線を移したソレイルが冷たい声で言い放つ。びくり
と肩を揺らしたのは私だけだった。
サイオンは特に気にすることもなく﹁はいはい﹂と両手を広げて、
降参した振りをする。
友人同士の何でもない会話なのだろう。
慣れていないのは、私だけだ。
﹁⋮⋮イリア﹂
答えを促されるように名を呼ばれれば、﹁そう、ですわね﹂と肯く
しかない。
あくまでも、﹁時間が合えば﹂ではあるが昼食を共にすることに異
論はないのだ。
それこそが正しい婚約者同士の姿だと思う。そこに、妹がいなけれ
ば。
﹁じゃあ、シルビアちゃんも誘わなきゃねぇ﹂
にこにこと笑みを浮かべながら私たちの間に割り込んできたサイオ
ンには邪気など見えない。
⋮⋮見えないように、装っている。
私とソレイルの間に向かって投げられたようなサイオンの問いかけ
が宙を彷徨っている気がした。
受け取るのはきっと、ソレイルだろう。
私だって、ここで否を唱えるのが得策ではないことくらい分かって
いる。
もしも私が、シルビアにとっての﹁良い姉﹂であるなら、サイオン

340
の提案を受け入れるべきなのだ。
サイオンの視線を全身に受けながら、それでも何も言えずに居る私
を見かねたのかソレイルが小さく息を吐く。そして、﹁ああ、そう
だな﹂と、実に何でもないことのように受け入れた。
そんな彼の声を他人事のように聞いている私は、周囲の人間にどう
映っているのだろうか。
ふと視線を上げた先に、両目を眇めるサイオンがいる。
微笑んでいるように見えるし、何かを見極めようとしているかのよ
うにも見える。
それは社交界ではよく目にする表情だった。
だからこそ、私もただ微笑むだけに留まる。
﹁⋮⋮ところでサイオン、少しいいか﹂
実にさり気無く話題の向きを変えたのはソレイルだ。
僅かに声を落とし、隣のサイオンにぼそぼそと話しかけている。そ
れでも時々、笑みを浮かべるような瞬間もあってさほど深刻な話を
しているわけではないようだった。
かろうじて聞こえる単語から推察するに、恐らく騎士科の内情につ
いてだろう。
腹の探りあいをしているかのような昼食でも、彼らが軽口を叩きな
がら話し合うのは素直に好感が持てる。
爵位の高い二人だからこそ、学院内においても同じ科の人間を従え
る立場にあるのだ。
注文しなくても席に着けば運ばれてくる食事に目を奪われる。
貴族のための豪勢な食事だ。思えば、ソレイルと食堂で食事を共に
するのは初めてのことだった。
何度も重ねてきた人生で、繰り返してきた時間で、食事に誘われた
のも次の約束をしたのも何もかも初めてのできごとだったのだ。

341
背中が震えたのは、きっと悪寒だろう。
こうして、ただ普通に過ごしている間も誰かに追いかけられている
ような焦燥に駆られる。
幾つもの真っ黒な手が私の背中を掴もうと蠢いている気がした。
逃げて、逃げて、逃げて、それでも逃れられない運命がある。
﹁⋮⋮ソレイル様?﹂
図ったように妹が現れるのも、大きな流れの一つの小さな出来事で。
私はやっぱり、それを見ているしかない。
はっと顔を上げたソレイルの顔がそれまでとは違う色を浮かべる。
その薄い色の瞳が一瞬だけ色を蕩けさせ、強い感情を見せた。
そうだ、いつもそうなのだ。
それを誰かに見られているとは思ってもいない。
一つ瞬きをして再び注視すれば、まるで勘違いだったかのように無
感動な表情をしている。
咄嗟に彼の名を呼ぼうとして声を呑み込む。
呼びかけたところで何を言えばいいのか分からなかった。
342
10
結局私は、妹の登場をただ眺めているだけだった。
遠い世界の出来事のように、ただ見ているだけ。言葉を挟むことも
なく相槌さえ打つこともなく、置物のようにそこに﹁有る﹂だけだ
った。
これが舞台であるなら、主役の登場に拍手でも送っているところで
あるが、これは生憎現実であったから。
出来すぎた物語が進行していくのを見ているしかない。
私が見ていることに気付いている人間などどこにも居ないだろう。
私は多分、どこまでも脇役で。
だけどもしかしたら、物語の登場人物ではなく、傍観者ですらない
のかもしれない。

343
﹁ソレイル様が、どなたかと食事をなさっていると聞いて﹂
突然食堂に姿を現したシルビアはそう言って、恥ずかしげに目を伏
せた。そんな彼女を優しく見守るソレイルとサイオン。
﹁ああ、なるほど!ソレイルがどこぞの誰かと食事をしていると聞
いて、その女の顔を見にきたというわけだね!!﹂
明るい声は若干、芝居がかっていたように思う。
よく通るサイオンの声が食堂に響いて衆目を集めた。
言っている内容はシルビアとさして変わらないにも関わらず、言い
方ひとつでこうも違う印象を受けるのか。そのもの言いだけだと嫌
味にとられてしまいそうだが、表情を窺えばそんなことはなく、か
らかっているだけだということが分かる。
それを言われた対象がシルビアだということもあって、それはひど
く微笑ましい光景に映った。
﹁⋮⋮ち、違います、私は⋮⋮﹂
サイオンの言葉を否定して俯くシルビアの頬は赤く染まっている。
どこかから﹁何て、可愛らしい﹂と溜息混じりの声が漏れた。
実際、妹はとても愛らしかった。それはいっそ、同性でさえも惹き
つけそうなほどに。
シルビアの様子を見て、周囲の人間は誰もが頬を緩ませるのだ。知
り合いでも、そうでなくても。
見守りたいと思わせる何かが、彼女にはある。
シルビアが現れたその瞬間から、私と﹁この世界﹂は分断されてし

344
まった。
シルビアとソレイル、それにサイオンが存在する世界はガラスを一
枚隔てた向こう側に霞むのだ。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、指先を握り締める。
拳を振り上げれば、きっと、ガラスを砕くこともできるだろう。強
引に、ガラスの内側に入ることだって難しくない。
だけど、砕けたガラス片で怪我をするのは私だけだ。
彼らは私を非難するだろう。自分たちの安息を、愉しみを、邪魔し
たと。
その心無い言葉に傷つくのは私だけで、彼らは私を傷つけたことに
も気付かない。
思わず弧を描きそうになった唇を押さえて、何事もなかったかのよ
うに彼らを見つめる。
私の視線に気づきもしない三人は、この出来事がさもおかしなこと
のように笑い合っていた。
そもそもソレイルがどこの馬の骨とも知れない女性と食事をするな
んて有り得ないと。
﹁⋮⋮だけど、本当に良かった。お姉さまと一緒だったのですね﹂
私が座っている椅子の横まで回り込んで、覗き込むように身を屈め
たシルビアが目を細める。
ソレイルの対面に座っているのが私であることに気付いていたよう
なのに、わざわざ顔を確認するのには何か意味があるのだろうか。
シルビアの吐き出した冷たい呼気が私の頬を掠める。
心底、安堵しているかのような彼女の様子に、笑みを浮かべながら
さり気無く視線を外した。
ソレイルがほかの誰かと食事をしていたからといって、シルビアが
案ずるのは私のことではない。

345
きっとそうだ。
私で良かったというのは、その言葉通りの意味しか持たない。
ソレイルがもしも、ほかの女性と食事をしていたなら傷つくのはシ
ルビアだから。
だから、ソレイルの相手が私で良かったとそんな風に思っているの
だろう。
本来なら、傷つくのはソレイルの婚約者である私のはずなのに。
シルビアは私を心配していたわけではない。
ソレイルが知らない女性と食事をしている場面を想像して、無用な
心配をしていただけに過ぎない。
この学院で、男性が婚約者でもない女性と食事を共にする意味を、
シルビアもやっと、理解し始めている。
ソレイルと一緒に食事をしている異性が私だと分かったとき、シル
ビアは安堵した。
それが全てを物語っているのだ。
私のことを、警戒するほどの人間ではないと思っている。本能的に
それを悟っているのだろう。
警戒するにも値しない人間だと。
ソレイルの気持ちがどこにあるのかは気づいていないのかもしれな
い。
だけど、私に向いていないことくらいは知っている。
︱︱︱︱︱ああ、どうして。
私はこんなにもシルビアの気持ちが分かるのに。
私たちは決して、寄り添うことがない。共に人生を歩む未来は、な
い。
﹁⋮⋮君も一緒に座ったらどうだ﹂

346
ほんの僅かな沈黙を埋めるようにソレイルが静かな声を発する。
心地のいい、優しい声音だ。他の人間には、いつもと変わらない声
に聞こえるだろう。
だけど、この場で私だけが、彼がいつもと違うことに気付いている。
いつもと変わらない様子の、いつもとは違う彼。
フォークを握った指先が微かに震えたけれど、そうと悟られないよ
うに指を揃える。
いつかのように、食事中に物音をたてて怒っていると勘違いされて
はたまらないと思ったから。
サイオンという第三者が居るから何なのか、普段よりもずっと冷静
に対処できている。
他人の目というのはいつも、私に己の使命を思い出させるのだ。
侯爵家嫡男の婚約者としての﹁立場﹂は、いつだって私に﹁演じる﹂
ことを強要してきた。
余裕がなくとも余裕がある表情で、動揺していても平静が振る舞い
で、悲嘆に暮れていてもそうとは見せずに、貴族の令嬢として正し
い行いをするように。
重ねた人生で、何度も何度も演じてきた役目だから難しいことでは
ない。
だから私は、誰にも心情を悟られないような笑みを浮かべることに
成功しているはずだ。
﹁お誘い、ありがとうございます﹂と、心底嬉しそうに笑うシルビ
アに、私も微笑みを返す。
恥ずかしそうに視線を下げている妹に声を掛ける余裕さえあった。
﹁体調はもう大丈夫なの?﹂と。

347
だけど、選んだ言葉はきっと間違っていた。
私がそう言ったから、シルビアも﹁⋮⋮ええ、あの、お姉さまも⋮
⋮﹂と肯きながら何かを言いかける。
きっと昨晩のことを気にかけているのだろう。
しかし、私が浴槽で溺れたことは内々に納めるはずのことだった。
だから、シルビアもすぐさま己の失言に気付き、﹁あっ﹂と慌てて
首を振る。
そして、申し訳なさそうに﹁ごめんなさい﹂と蚊のなくような声で
呟いた。
その身を縮めた姿がどこか哀れで、ソレイルがほんの一瞬だけ渋い
表情をする。
すっと私の顔に移った彼の目が、事情も知らないのに、無言で責め
たててくる気がした。
その視線に気付かなかった振りをして、﹁いいのよ、シルビア。気
にしないで﹂と言ったところでテーブルの上に落ちた嫌な気配をか
き消すことはできない。
﹁何なに、どうしたの?﹂嬉々として食いついてきたのは、やはり
サイオンだった。
気まずそうに顔を上げたシルビアが﹁いいえ、何でもないんです﹂
と困ったように笑う。
﹁そんなこと言われるとますます気になっちゃうなぁ﹂
サイオンは﹁ねぇ﹂とソレイルに同意を求めて、意味ありげに唇の
端を歪めた。
﹁⋮⋮本当に何でもありませんから﹂とシルビアを援護するつもり
で語気を強めれば、なぜか反応を示したのは当の本人で。﹁ごめん
なさい、お姉さま﹂と、華奢な体をますます小さくする。
意地悪をしているわけではないのに、なぜ、そんな顔をするのだろ
う。

348
ただただ不思議で、その小さな顔を眺めていれば﹁まぁまぁそんな
顔しないで﹂とサイオンに窘められる。
明らかに私へ向けられた言葉だと分かっていたけれど、諌められる
ような顔をしていた覚えはない。
睨んでいるように見えたのだろうか。けれど、当然、そんなつもり
はない。
だから、少し前までの私であれば、かっとなって反論の一つでもし
ていたところだろう。
何もしていないのに責められるのは余りに理不尽だ。
だけど、そんなことをして不利益を被るのは自分だと、今なら分か
る。
胃の底に溜まった熱を吐き出すように小さく呼吸を繰り返し、視線
を落とす。
周囲の視線から逃れるにはそうするしかないと思った。
ソレイルは視界の隅で、優雅にナイフとフォークを動かしている。
私たちの会話には興味も示さない。
いや、違う。﹁私﹂に興味がないのだろう。
﹁ほらほら、ソレイルも気になってるんじゃないの﹂
明るく振舞っているサイオンに﹁いい加減にしないか﹂と静かな声
を発し、﹁お前がそんな風だと、シルビアが食事できないだろう﹂
と息を吐く。
あくまでもシルビア主体な言葉に、今度こそ笑いを堪えることがで
きなかった。
ふっと吐き出した息に気付いたのは、ソレイルだ。
こんなときだけ目敏いらしい。
﹁イリア?﹂

349
彼が私の名前を呼ぶたびに、心臓がぎゅっと小さくなる。
いつかの人生では、名前さえ呼んでくれなくなった。
私のことを﹁憎い﹂といい、﹁決して赦さない﹂と罵声を浴びせ、
鋭い視線で心を砕いた。
その姿をよく覚えている。
思い出せなくなったことも多いのに、ソレイルが私を拒絶する様子
だけははっきりと覚えているのだ。
思い出したくなくても、忘れたくても、どうしようもなく覚えてい
る。
こみ上げた笑いと、どうしようもない切なさが混在して泣き笑いの
ような顔になった。
顔を上げれば、こちらを見ていたソレイルと目が合う。
その刹那、目を瞠った彼はすぐさま視線を逸らした。
まるで、何事もなかったかのように。
正しい反応だと思う。これが彼のいつもの姿だ。
シルビアに相対しているときとは違って、普段と何ら変わりない。
そんな彼を見て、酷い言葉を投げつけられることがない分マシだと
思っている私はきっと、普通ではない。
﹁それでそれで?一体何があったの?﹂
まだ諦めていなかったのか、上半身を乗り出すようにしてシルビア
の顔を覗き込んだサイオンに﹁あまり、この子を困らせないでくだ
さい﹂と声を掛ける。
それはほとんど無意識の行動だった。
何かを考えていたわけではない。
ただ、シルビアがほんの少しだけ眉をひそめたように見えたから。
その、どうにも庇護欲をそそる顔に反応を示してしまったのだ。
けれど反応を示したのは隣のテーブルに座った学院生だった。

350
一体いつから聞いていたのか、どうやら私たちの会話に聞き耳をた
てていたようだ。
﹁⋮⋮噂通り、きつい女﹂
思わず口に出してしまったという感じの声だった。
だからこそ、それが本音だということが分かる。
誰かに言ったわけでもなさそうな、ただの独り言と思えるその声は、
ざわつく食堂の中に霧散して消えた。だけど、私の耳にだけははっ
きりと響いた。
それが自分に向けられた言葉だということが分かっていたからだ。
己に向けられた悪意には誰だって敏感になる。
ほかの人間に気付かれてはいないかと、ソレイルやサイオン、シル
ビアの顔を窺うが彼らの興味は既に別のところへと移っていた。
そんな何気ない態度が、私のことなどどうでもいいと言われている
ようで。
再び、世界が二つに引き裂かれていく。
﹁⋮⋮イリア?﹂
ソレイルが私の異変に気付いたのは、昼休みが終わる5分ほど前の
ことだった。
それまで黙りこくっていた私には意識さえ向けなかったのに、気ま
ぐれに寄こした視線の先で俯く婚約者に声を掛けずにはいられなか
ったのだろう。
だってそうだ。彼は昔からそうだった。いつだって、私の﹁正しい
婚約者﹂であり続ける。
﹁いいえ、何でもありませんわ⋮⋮﹂
そして私も、彼にとって都合のいい婚約者であり続けるのだ。

351
何の救いもない、虚しい関係だと知りつつも。
何かを変える気力さえ削がれてしまって、ただただ現実を受け入れ
るしかない。
一つ前の私は一体何を成し遂げただろう。その前の私は?そのもっ
と前はどうだっただろう。
私は、いつかの人生で、何かをやり遂げたことなどあったのだろう
か。
ソレイルの傍に居るために、あるいは、己が理不尽な最期を迎えな
いために生きてきたけれど。
それには一体、何の意味があったのだろうか。
何をどうしたところで、ソレイルの心を手に入れることなどできな
いと。
とっくの昔に気付いているのに。
差し伸べられた小さな手を忘れることができない。
ソレイルの手はきっと、葦であり草であり小枝であり、木の根であ
ったのだ。
水に浮かぶそれを、必死の想いで掴み取った。水底に溺れていく私
は、そんなものに縋るしかなかったと言える。掴んだところで、水
面から顔を出せるわけでもないのに。
その先に、私を掬い上げてくれるものがあったわけでもないのに。
それでも、もがき続ける私は、何かを掴まずにはいられなかったの
だ。
助かりたいと思っていたかどうかも分からない。ただ、一人で沈ん
でいくのはひどく恐ろしかったから。
胸に抱いた小さな小さな草の葉を、大事に両手で包み込んだ。
ぶくぶくと沈み込んでいく水面の向こうに、何か大事なものが映り
こんでいる気がするのに。

352
それが何か判断できないままに、私は意識を消失する。
だって、そのほうが良かったから。
何も知らないほうが⋮⋮その方が、良かったのだ。
353
11
食堂で、ソレイルやサイオンに別れを告げてシルビアと連れ立って
歩く。
私たち二人が一緒に居ること自体が珍しいのだろう。広くもない廊
下で、すれ違った生徒たちが私たちの顔を確認する為にわざわざ振
り返るほどだ。
その度に何度、﹁似てない﹂という言葉を耳にしただろうか。
半歩後ろを歩くシルビアの、こちらを窺うような視線が周囲の好奇
心を誘うのだろう。
﹁呼び出し?﹂なんて言葉を聞こえるのだから、もはや笑うしかな
い。
学院内で妹を呼び出す意味が分からない。言いたいことがあれば、
人気のないところで話をするに決まっている。それにうってつけな

354
のは、屋敷に他ならない。
学院内で、シルビアを呼び出して叱責するほど馬鹿な人間ではない
と、どうして誰も気付いてくれないのだろう。
いや、違う。
確かにこれまでの私は、そういう人間だった。嫉妬深く醜い、甲高
い声で周囲を牽制する嫌な女だったのだ。
そう、あの日。
屋敷の庭でお茶会を開いたあの日までは︱︱︱︱−。
﹁あ、あの。お姉さま、ごめんなさい﹂
ひっそりと呟くシルビアの謝罪に﹁⋮⋮何に対する謝罪なの?﹂と
問う。それでも足は止めなかった。
﹁勝手に、食堂に行ったりして⋮⋮﹂
その言葉に、噴出すのを堪える。
今まで散々、ソレイルと一緒に昼食を共にしていながら、何を言っ
ているのだろうか。
﹁気にしないでシルビア。私も、気にしてないわ﹂
誰の目から見ても、優しい姉に映ればいいと思った。だから、慎重
にゆっくりと笑みを浮かべる。
口元は朗らかに、目線は剣を含まず、声音は少し低く落として。口
調は抑揚と余韻を忘れずに。
指先に熱を込めて、妹の髪に触れる。﹁本当よ?﹂と、幼い子に言
い聞かせるようにゆっくりと頭を撫でる。愛しいのだ。きっと、そ
うだ。私は妹を愛している。
ほっと息を吐いて小さく微笑むシルビアに、なぜか胸が絞られるよ

355
うな哀切が過ぎった。
私のことを信頼しきっている。そう見えるのは気のせいではないだ
ろう。
それならばなぜ、それほどに信頼しているはずの姉を裏切るのか。
まだ、訪れてもいない未来に、憎しみさえ覚える。
そうだ。そもそも私は、そういう人間だった。憎しみや恨みを隠す
ことの出来ない醜い人間だったのだ。
銀色の髪が指に纏わりつく気がして、そっと払った。
シルビアはそっと瞼を伏せたまま、嬉しそうに笑みを浮かべている。
そんな妹を見下ろす私は、どんな顔をしているのだろうか。
うまく演じられているといい。優しい姉を。完璧な淑女を。
嫉妬に溺れることもなく聖母のような微笑を湛えて、妹を、家族を
愛するような人間になれたなら。
﹁さぁ、シルビア。もうすぐ授業が始まるわ。ここでお別れね﹂
廊下を曲がってすぐのところでそう言えば﹁はい﹂と肯いたシルビ
アがきれいに礼をとって私の顔を見上げた。誇らしげに胸を張って
いるようにも見えるその姿に笑みを返す。
シルビアは、数ヶ月前とは比べ物にならないほど﹁貴族の子女らし
さ﹂というものを身に着けている。
華奢な背中がリズムを踏むように去っていくのを見送って、ほんの
少しだけ目を閉じた。
胸の内側に渦巻くどろどろとした感情を、ここで捨て去ってしまえ
たらいいのに。
かつての人生で、出奔する為に妹を教育した日々を思い出す。
﹃私、今まで、自分がもう死んでいるような気がしていたの﹄そう

356
言って儚く笑った私の妹。
学ぶことができて嬉しいと言っていた。その言葉通り、教えたこと
を全て吸収して貪欲に知識を得ていったのを覚えている。
隣に並んで、分厚い蔵書をなぞりながら微笑みあったあの日々が、
ふと甦った。
幾つもの人生で、初めてシルビアと寄り添ったと言える。
幸せで、だけど、どうしようもなく苦しい日々だった。
私が捨てなければならない全てのものを、妹に分け与えなければな
らない虚しさを。
どうやって言葉にすればいいだろう。
血の滲むほどの努力をしてきたと言えるのに、その全てが、何の役
にもたたなかった。
ただ、妹に与えるためだけの知識となったのだ。
知識と教養だけが自分を支える全てになると知っていて、ただひた
すらに己を磨いてきたのに、その一つさえ生かすことができなかっ
た。
外交のためにと学んだ外国語をシルビアに教えながら、諸外国の貴
人と対等に渡り歩く自分を夢見ていたことを思い出す。
ソレイルの妻として、決してでしゃばらず。だけど、守られるだけ
の存在にはなってはならないと言い聞かせて。せめて彼の手助けに
なればいいと考えていた。
強い女性を妻へと望む彼のために、そういう人間にならなければと
努力してきたのだ。
そんな風に、積み上げてきた毎日の全てを⋮⋮妹に捧げた。
その虚しさを、その悔しさを、その憤りを、どんな風に表現すれば
いいのか分からない。
費やした時間の全てが無駄だとは思いたくなかった。

357
だから、その為にも妹へ何もかもを譲ったのだ。
﹃君は、馬鹿だね。本当に愚かだ﹄
階段を降りようと足を踏み出したとき、ふと耳の奥に甦る声。
聞き覚えのない声だ。
いつ、誰が、何の為に言った言葉なのか。今生ではない。それは分
かる。
そんな風に意識を巡らせたからか、爪先が階段の滑り止めに引っ掛
かった。
あっ、と思ったときは既に遅く、
︱︱︱︱︱落ちる!
体を支えるために伸ばした左手が手すりを掴めずに宙をかいた。
心臓が一つだけ大きな音をたてて停止する。
しかし、そのとき。
﹁危ない!﹂
誰かが後ろから腕を掴んだ。
上半身を背後の誰かに預けるような格好で、階段の中腹で留まる。
足を半分投げ出したような、無様な格好だ。
﹁⋮⋮も、申し訳、ありません﹂
どくどくと激しく音をたてる心臓を服の上から押さえつける。
けれど今は、安堵している場合でもない。
先ほどの声音から、私を支えてくれた相手が男性だと分かっていた
ので、素早く周囲を見回す。
誰にも見られていなかったことにほっと息を吐きながら、お腹のあ
たりに回されている腕に手を添えた。

358
﹁⋮⋮もう、大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません﹂
失礼だとは承知しているがこんな体勢を誰かに見られるのは良くな
い。身を捩るようにしてそっと離れる。
二段ほどゆっくり階段を降りた後、改めて礼を言うために振り返れ
ば、そこには意外な人物が居た。
﹁あれ⋮⋮、君はソレイルの﹂
頭を下げる途中で固まってしまった私に、彼は驚きを隠すこともな
く呟く。
見覚えのある赤銅色の髪。
ソレイルとは旧知の仲であるはずだ。⋮⋮そうだ、私はこの顔をよ
く知っている。
学院内ではいつもソレイルの隣に居た。卒業した後も、彼と一緒の
騎士団に所属して同僚となるはずの人物だ。
婚約者である私とも、妻となった私とも何度か顔を合わせたけれど
記憶に残るほどの会話をした覚えはない。
彼はいつも、私を観察するように眺めていた。
決して好意的ではない眼差しで、何か言いたげに。だけど、一度も
言葉にすることはなかったはずだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
互いに無言のまま見つめあう。幸い、授業が始まってしまったよう
で、他に人気はないし誰かが来る様子もなかった。
ふわりと揺れる赤い髪がなぜか懐かしさに直結していて、既に終え
てしまった幾つもの人生を思い出す。

359
今、触れることのできる距離に居るこの人とは、さほど関わりを持
ったことがなかった。
これまでの、どの人生でもそうだ。
それはきっと、彼自身が私と関わることを良しとしなかったからだ
ろう。
けれど、いつのときもシルビアとは親交を深めていたように思う。
あくまでもソレイルの友人として。
︱︱︱︱︱ああ、そうだ。
あれは私とソレイルの結婚式の日。
私には褒め言葉一つくれなかったのに、シルビアに賛辞を与えたの
はこの人だった。
花嫁の手前、シルビアを褒めることのできなかったソレイルの代わ
りに、そうしたのだと思った。
銀色の髪に花飾りをつけたあの子に﹃まるでお姫様みたいだ﹄と。
私の目の前で、何の悪びれもなく言ってのけたのだ。
きっと、私を傷つけたという認識さえなかっただろう。彼にとって
はその程度のことだったのだ。
﹁⋮⋮助けてくださって、本当に、有難うございます﹂
ただ只管に見詰め合っていたところで、何か進展があるわけでもな
い。
薄く笑みを浮かべたまま視線を下げる。恥らっているように見えれ
ばいいと思った。
何かを言われる前にと、そのまま踵を返そうとすれば﹁ちょ、ちょ
っと待って﹂と声がかかる。
たった二人きりの踊り場に声が響く。そうなればさすがに聞こえな
かった振りはできない。
躊躇う心を叱咤して振り返れば、

360
﹁どこか体調が悪いんじゃない?﹂
と、予想もしていなかった言葉を掛けられる。
その表情は、本当に私のことを案じているように見えた。⋮⋮そん
なはずはないのに。
﹁いいえ、大丈夫です﹂
首を振りつつ否定してみたものの、他人に指摘されれば本当に気分
が悪いように思えてくる。
吐き出した息が熱を持っているように思えた。
どことなく視界の隅からかすみ始めて、双眸を細めれば途端に世界
が色を失っていく。
帳が落ちていくように、ゆっくりと暗闇が訪れた。
﹃可哀想に、こんな姿になってまで、ソレイルを信じているんだね﹄
幻覚を見ている。
それが分かっているのでぱちぱちと瞬きを繰り返せば、闇を払うど
ころか、等間隔で縦に並ぶ鉄の棒が見えた。途端に、湿った空気が
周囲を覆う。重い空気が喉を塞いだ。
ひび割れた石の壁、カビとヘドロのこべりついた床、何か分からな
い悪臭。
遠くで誰かが呻き声をあげ、一体何を打っているのかカンカンと耳
につく金属音。
次々に甦る風景と臭い。その全てに覚えがあった。
ああ、そうだ。これは牢獄だ。
ぼんやりとした意識のまま見るともなしに視線を上げれば、鉄格子
の向こう側に、私を見下ろす誰かが立っていた。

361
その男は、倒れこんでいる私を見下すように、じっとこちらを見据
えている。
﹃アイツは来ないよ。残念だけど、本当に、来ないんだ﹄
︱︱︱︱︱これは、最初の人生の記憶だ。
﹃可哀想だけど、これが現実だよ﹄
言い聞かせるように放たれた言葉が、つぶてのように降って来る。
痛い、痛い、痛い。
皮膚が裂けるように痛む。
わざわざ手を下すこともなく、私はもう死ぬ。それほどの痛手を負
っている。
それなのに、なぜ、わざわざ止めを刺そうとするのか。
﹃馬鹿だね。君は本当に愚かだ。⋮⋮どんなに抗ったところで、運
命には逆らえるはずもないのに﹄
光の届かない牢獄で、いつもはよく磨いた硬貨のように輝いていた
はずの彼の髪が鈍くくすんで見える。
その目に、どんな感情が宿っているのか、私にはもう何も分からな
かった。
声を出すこともできないし、意識も混濁している。
終わりが近づいているのだと自分でもよく分かっていた。
だからこそ、最期の最期に顔を合わせるのは﹁彼﹂であって欲しか
ったのに。
彼は⋮⋮ソレイルは私に背を向けたまま、一度もこちらを振り返ら
なかった。
叫ぶ妻の声を、無視し続けたのだ。

362
その背中を覚えている。
伸ばした指が届かなかったことも。
﹃彼と、彼女は、お互いに運命と出会ったんだよ。いや、出会って
しまったんだよ。
それは、己の意志とは関係ない。決して抗うことができないからこ
その﹁運命﹂なのだから﹄
だから、君がやったことは全て⋮⋮何もかも無駄なんだ。
そう告げた声音には、どこか慈悲のようなものが溢れていたかもし
れない。
大して顔を合わせたこともなかったと思っているのに、こうやって、
わざわざ獄に繋がれた私に会いに来たのだ。それに、何か意味を見
出そうとするのは、やはり私が愚かだからなのだろうか。
﹃諦めて、死んだほうがいい﹄
ぼそりと投げつけられた言葉に首を傾げる間もなく、私の意識は分
断された。
ただ単に気絶したのか、それとも、
彼の言葉通り、死んだのだろうか︱︱︱︱︱?
﹁⋮⋮イリア嬢?﹂
いつの間にか、息の届くほどの距離まで近づいていた少年に顔を覗
き込まれる。
今はそう。あの牢獄ではない。
成人に達していた彼は、ここには居ないのだ。
わななく唇が何かを言葉にしようとしたけれど、喉が塞がれてしま
ったように浅い息が続くだけだ。

363
力を抜けば崩れ落ちてしまいそうで、全身から血液が抜けていくよ
うな感覚に陥る。
怖い。
はっきりとそれを自覚した。
なぜ今になって、彼が私の目の前に現れるのか。
それは、前の人生でも前の前の人生でも良かったはずだ。だけど、
彼は一度として私と関わりを持とうとはしなかった。例外はただ一
度きり。
牢獄での邂逅だけだ。それも、初めの人生でのことだった。
己の最期を覚えていなかった。そのはずだったのに、今この瞬間に
はっきりと思い出すことも酷く恐ろしいことのように思えた。
何かが変わり始めている。
そんな気がした。
向かい合っている私たちの視線が絡み合う。
﹁本当に君、大丈夫?顔が真っ青だ⋮⋮﹂
優しく伸ばされた指が頬に触れる寸前で、一歩、二歩と後退した。
これまでの人生で、ただの一度もこんな接触はなかったのだ。
ふらりと揺らいだ右足の踵が滑る。
あのとき、﹃諦めて、死んだ方がいい﹄
そう言ったこの人は、笑っていた。
﹁イリア嬢?﹂
倒れそうになったけれど、かろうじて転倒することもなく。
私は彼の顔をまともに見ることもできないまま、その場を去った。

364
拭い去ることのできない悪寒に全身を震わせたまま、現実世界の向
こう側に忘れ去りたい過去が広がる。
彼は、微笑を浮かべたまま泣いていた。そして、言ったのだ。
﹃ごめんね﹄と、そう言ったのだ。
12
ソレイルの友人が﹁あのとき﹂本当は何を伝えようとしていたのか
今生の私には知りようがない。
きっとこの先も知ることはないのだろう。そう、願う。
あのときのようなことはもう、こりごりなのだ。
それに恐らく、あのときと同じような状況にならなければ、彼だっ
てあんな顔をすることはないのだろう。
友人の婚約者が投獄される。
それはとても身近な出来事のように思えるが、実際は他人事に過ぎ
ない。
友人の悲しみを図ることができたとしても、口も聞いたことのない

365
ような婚約者が投獄されたところで同情の余地はないだろう。むし
ろ、憎むかもしれない。友人を悲しませた罪人を。
それでも彼は、あの場所にやってきた。
ただの顔見知り程度の仲だったにも関わらず。
もしくは、本当に憎悪しか抱いておらず、その無様な死に様を見に
来ただけかもしれないけれど。
そうだ、私は確かにそう思っていた。
彼は私を嗤いに来たのだと。
だけど、多分、違った。
なぜなら、彼自身が貴族であるからだ。
貴族というのはそもそも、牢獄のような場所とは無縁の存在である。
身内ならいざ知らず、赤の他人がただの酔狂で来れるような場所で
はない。
周囲の人間は、それこそ必死になって止めるだろう。清潔とは言い
難く、どんな病が蔓延しているかも分からない場所に貴人が行くと
いうのはそれほどのことなのだ。
それに、囚人というのは凶暴で攻撃的だ。護衛が居たとしても何が
起こるか分からない。
だからこそ、そんな場所に貴族を送り込もうとする人間など居はい
ない。
そうであるなら、彼は自ら望んであの牢獄へ来たことになる。
もしかしたら、その為にいくらかのお金を渡したのではないだろう
か。
貴族をあんな場所に立ち入らせたとなれば、牢獄の番人たちも無事
では済まされないのだから、何らかの報酬を要求しただろう。
そうまでして私に会いに来た。そして、泣きながら謝ったのだ。
その言葉の真意は分からないけれど、私が死ぬことを嘆いているよ

366
うだった。
そして、助けられないことを悔いているような、そんな感じがした。
︱︱︱︱︱だとすれば、
﹁私が、冤罪だということを知っていた⋮⋮?﹂
そんな考えまで行き着いて、だったら何だと言うのかと頭を振る。
今更だ。そう、全ては﹁今更﹂なのだ。
私の冤罪は、シルビアが死んだことにより初めて成立するものであ
る。私の存在を邪魔だと感じた誰かが、シルビアの死に乗じて罪を
被せたのだ。つまり、全てのきっかけはシルビアの死であり、シル
ビアが生きている限りは成立しないことなのである。
シルビアを生かすことが、私の命題になるのはそれが理由だ。
いつかの人生では、私は茶会のすぐ後にシルビアを守る為に動き出
していた。
図々しくも侯爵家夫人にシルビアの護衛を頼んだことだってある。
その裏側で強盗団の特定に動いた。
今はまだ学院生であるから力が足りないけれど、ソレイルと結婚す
ることが決まっている私には、少なくとも侯爵家の後ろ盾がある。
だからその内、私の背後にある力を利用しようとする人間が徐々に
集まってくるのだ。
それを、知っている。
ソレイルは生まれながらの高位貴族で非常に警戒心が強く、本当に
信頼している人間しか傍に置かない。信頼の置ける人間からの紹介
でなければ親交を深めることもないというのは周知の事実だ。
そのせいか、私の周りには身元のしっかりした人間だけでなく、素
性の怪しい人間も集まってくる。
ソレイルに近づけないのであれば、その婚約者に。というのは当然
の心理だ。
本来なら、そういう人間を遠ざけることは難しいことではない。そ

367
れこそ、国家の暗部を牛耳っていると言われる侯爵家の力を利用す
れば、簡単に離れていくのだから。
しかし、ソレイルの母親は涼しい顔をして言うのだ。
﹃どうせ誰かに利用されるのであれば、防御に回るだけでなく、己
も他人を利用すべき﹄だと。
利用される人間ではなく、利用する人間になれと微笑する。
そして私はかつて、彼女の示す道をただ歩いた。
﹁⋮⋮堂々巡りね﹂
呟いて、誰もいない廊下を歩く。
窓ガラスの向こう側には中庭が広がっている。咲き誇っていた白い
薔薇も散ってしまったけれど、いつの日か、ソレイルとシルビアが
寄り添っていたベンチも見えた。
確かに何事かが変わっている気がするのに、自分の望む方向には進
むことができない。
見えない強制力が働いているかのように。私はいつだって、全てを
奪われる。
それを知っているから、先の見えている人生だからこそ、望むとお
りにする為に少しずつ修正を加えて。
最終的にはどうにもならないところまで堕ちていくのだ。
例えば、私が何も知らない人間であれば。本当はもっと、いい人生
を歩めるのではないか。
先が見えないというのは、行く末が何も分からないというのは、本
当は希望に満ちた人生のことを言うのではないだろうか。
苦しみも悲しみも、あるいは喜びも愉しみも、この手で選択できる
﹁可能性﹂がある。
それだけで、本当は恵まれた人生なのではないだろうか。

368
私は本当に、何かを選んでいると言えるのか。
自分の、大きいとは言えない両手に視線を落とす。
私がこの手に抱えているのは、いつだって虚しさと過去の幻影であ
る。全てを投げ捨てて、ここではない何処かへ行こうとしたのはい
つの日だったか。


﹁⋮⋮お嬢様?いかがなさったのです?﹂
父の仕事を手伝っているアルは、いつも私の傍に居るわけではない。
私の護衛であるにも関わらず、常に傍に居ないというのはおかしな
ことと言えるが、それはあくまでも一般的な考えである。
護衛はいつも護衛対象の傍にいるべきという常識は、全ての貴族に
あてはまるわけではないのだ。
そもそもただの学院生でしかない私が、危険な場所へ赴くことは、
まず、ないと言える。
屋敷から出るときは侍女や侍従を伴っているし、少なくとも一人き
りになることはないので、護衛が居なければ身動き一つできないと
いうことでもない。
更に言えば、学院内の安全対策は万全であるから専属の護衛を伴う
必要はないのだ。
学院騎士と呼ばれる予備騎士隊が持ち回りで任についている。
つまり、屋敷と学院内しか行き来しない私のような人間には、本来
なら護衛は必要ないのだ。
アルが私の護衛を務めているのは、あくまでも私がソレイルの婚約
者だからである。

369
彼を雇い入れたのは我が家ではあるが、彼への給与はその一部を侯
爵家も負担している。
つまり、いつかの人生で、アルの護衛対象が私からシルビアに変わ
ったのは、そこに侯爵家の意向があったからとも言える。
私の両親からの強い主張もあっただろう。だけど、侯爵家は最終的
にそれを認めた。
私はそのとき既に、両親にも侯爵家にも見限られていたということ
だ。
侯爵家を取り仕切っていたのはソレイルの両親であったけれど、私
個人に関する裁量権はソレイルにあったはず︱︱︱︱︱。
ソレイルは、全て承知で私よりもシルビアを選んだのだ。
﹁お嬢様?﹂
﹁⋮⋮ああ、アル。ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてしまって﹂
﹁⋮⋮お帰りが早いようですが、どこかお具合でも⋮⋮?﹂
ソレイルの友人と話をして、すっかり気が動転してしまった私はそ
のまま学院の外に出た。
授業中に学院外へ出るのは当然禁じられており、止むを得ない場合
には事前に許可を得る必要がある。しかし、何事にも例外というも
ので、緊急時はその限りではない。
つまり、家族や親戚に何かあった場合や、病を患ったり怪我を負っ
た場合のことである。
そういった場合に限っては学外に出る際に申請書を一枚提出するだ
けで、学院の敷地から外へ出ることができる。
それは普段の素行も加味されてのことではあるけれど。
そして、家の馬車を待つこともなく、辻馬車を拾って帰ってきたの
だ。

370
﹁そうね、ちょっと体調が悪いのよ。少し休もうかと思って⋮⋮﹂
私がそう言えば、想像以上に心配そうな顔をしたアルが、﹁お嬢様
は普段から頑張りすぎなのです﹂と息を落とす。
﹁早くおやすみになって下さい﹂と、背中を押されるように自室へ
誘導される。
﹁貴方、お仕事は?﹂と問えば、﹁お気遣いは有り難いですが俺の
ことなどどうでもいいのです﹂と、こちらを振り向きもせずに返さ
れた。
案じてくれているのだと、よく分かっている。
だけど、その優しさが何だか痛いような気がした。
彼の言う通り、私は今まで、自分でもどうかと思うくらい頑張り続
けてきたのだ。そうしなければ、決して越えることのできない壁が
あったから。
だからこそ、今になってその努力を無に帰すような行いをした自分
を恥じている。
もしかしたら、こんなことは初めてかもしれないと思う。
﹁お休みになる前に何か飲まれますか?﹂
廊下を歩きながら問われたので、肯けば、気配だけでそれを察した
優秀な護衛は少し微笑んだようだった。
﹁お母様は?﹂
﹁自室で編み物を﹂
簡潔な問いに首を傾ぐ。
﹁休憩なさってるの?﹂

371
普段は、父の書斎に篭っていることのほうが多い。領地経営に関す
る書類の一部は、母が一人で裁量することもあるのだ。だからこそ、
貴族の妻は無学であってはならない。
﹁⋮⋮最近は、ゆっくりなさっておいでのご様子です﹂
歯に物が挟まったような物言いに足が止まる。振り返れば、斜め後
ろに立っていた護衛も距離を詰めることなく立ち止まる。私の足が
止まることをあらかじめ予測していたようだ。
﹁どういうこと?﹂
﹁そのままの意味です﹂
確かにそのままの意味なのだろう。だけど、そうだとすればそれは
少し問題である。
母の請け負っている仕事が、ある日突然、減るということはないの
だから。
シルビアが病で伏せれば看病をすることもあるが、それでも、母は
己に与えられた仕事に励んでいたはずだ。少しでも父の負担が減る
のであればと、夜も遅くまで書類と向き合っていたのを知っている。
シルビアは今日、学院であるから、当然病を得ているわけでもない。
つまり、母は現在、自分の仕事をしているはずの時間だ。
﹁⋮⋮お父様は何か、仰っておいでなの?﹂
﹁いいえ﹂
これもまた、簡潔な答えだ。
父が何も言わないということは、全て承知の上で放置していると考
えていい。もしも何か気にかかることがあれば家令なり侍従なりを
使って事態の収束に当たるはずだからだ。

372
﹁⋮⋮それなら、私が何かすべきことはないわね﹂
むしろ余計なことをして父の怒りを買う可能性がある。
母のことは父に任せるのが、一番良いのだ。
﹁お母様はお疲れなのかしら﹂
﹁ええ、恐らくそうでしょう﹂
今度は、特に違和感のない答え方だった。
実際、母の仕事は片手間でできるようなものではないのだ。判断を
間違えれば、途端に領民が苦境に立たされることになる。
大きな決断を任されることはないが、それでも、塵も積もれば⋮⋮
というやつだ。
﹁後で顔を見せたほうがいい?﹂
﹁⋮⋮それは、どうでしょう。しばらく一人になりたいと言ってお
いででした﹂
﹁そう⋮⋮﹂
母がそう言うなら従ったほうがいい。多分そうだと己に言い聞かせ
て、
﹁そうだわ、お茶だったわね。飲みたいから誰かに言ってもらえる
?﹂と、陽気に振舞う。
僅かに目を瞠ったアルだったけれど、一つ頷いてから返事をした。
﹁かしこまりました﹂
﹁ああ、そうだ。シルビアに分けてもらったお茶にしようかしら﹂
母が自ら煎じたという茶葉。だけど私は、ただの一度も分けてもら

373
ったことがない。
母がいつも我が家の専属庭師と熱心に話しこんでいたのは、母の煎
じた茶葉には香草や薬草の類が混じっているからだろう。シルビア
が少しでも健康になるようにと選び抜いたのであろう。
だから、母がシルビアのために煎じたのは、ただのお茶ではない。
﹁どんな味なのかしらね⋮⋮?﹂
思わず零れた本音は、恨みがましく聞こえなかっただろうか。
実の娘である私は、健康体そのもので。食べ物や飲み物に気を配る
必要はない。
だから、母が私の為に茶葉を煎じることはないのだろう。これまで
も、これからも。
﹁⋮⋮アル、そんな顔をしなくても大丈夫なのよ?﹂
眉間に皺を寄せた私の護衛が、何か言いたげにこちらを見ている。
けれど、何かを言いかけて口を閉ざした。
そして、﹁⋮⋮我が家の懇意にしている商人が珍しい茶葉を手に入
れたと言っていました。今度、お持ちしましょう﹂と言って小さく
微笑む。
﹃我が家﹄というのは、彼の実家のことだろう。
﹁そうね、それは嬉しいわ﹂
いくらその茶葉が珍しいものであっても、私が直接購入することは
難しくない。
出入りの商人に頼めば、二つ返事で用意することだろう。
だけど、それでは意味がないことを彼もよく知っている。
誰かに贈り物として渡されるからこそ、意味があるのだ。

374
母の煎じた茶葉を、苦いと言って不満そうに唇を尖らせたシルビア。
母親のすることに文句をつけることができるのは、娘の特権でもあ
る。だから、あの子の態度は決しておかしいものではないし、責め
られるようなことではない。
ある意味正しい態度でもある。娘というのは時々、母親に反抗する
ものだから。
それにあれは、ただの茶葉であるし、素人の作ったものであるから
一般的には無価値なものである。
だけど、私にとってはただの茶葉ではないし、無価値でもない。
だから、シルビアから母が煎じたという茶葉を手渡されたとき、私
は﹃いいなぁ﹄という言葉を飲み込まなければなかった。
私の為に専属の侍女を選んでくれることはあっても、私の為に汗を
流すことなどない母が。
シルビアの為になら面倒も厭わない。多忙であるにも関わらず、そ
の隙間をぬって茶葉を煎じるのだから。
それを羨ましいと感じるのは、あまりに幼稚だろうか。
その感覚は、﹃私の可愛いお姫様﹄と抱きしめられるあの子を羨ん
だそのときと、全く変わりない。
自分でも進歩がないと情けなくなく思うから、平気な顔をするしか
ないのだ。
﹁すぐに用意させますから、お部屋でお待ちください﹂
自室の扉を開けるアルに肯く。恐らく侍女を呼びつけるのだろう。
そっと閉ざされた扉を眺めたまま息を吐いた。一人きりになった途
端、疲労感に襲われる。
鏡台の椅子に座り込んでぼんやりと自分の顔を眺めた。

375
もしもこの目が紫だったら。もしもこの髪が銀色だったら。もしも
この顔がシルビアだったら。
私も誰かに愛されたのだろうかと、そんなどうしようもない考えが
過ぎる。
私が私でなければ生きている意味などないと思うのに、それと同時
に、私が私であるからこそ生きていられないのではないかとも思う。
ふう、と息をつけば、シルビアに渡された小瓶が目に入った。
室内の淡い光を反射してきらきらと輝いて見える。この小瓶も母が
用意したものなのだろうか。
安物の瓶に、ただ茶葉を詰めただというわけではなさそうに見えた。
七色に光るガラスが、いかにも特別に用意されたものだということ
を示している。
手に取れば、それが案外重たいものだということに気付いた。
赤いリボンが巻かれているのは、シルビアが飾りとしてつけたもの
だろう。私に贈るために巻きつけたのだと思うと、切ないような気
分になった。
﹁シルビアは、悪くない﹂
そう、あの子は悪くない。呪文のように言い聞かせる言葉を、再び
口にする。
妹は悪くないと言い聞かせる必要があったのだ。そうしなければ︱
︱︱︱︱。
ガラスの瓶を持ち上げて、何となくふたを外す。ふんわりと漂うの
は、茶葉に交じっている花びらだろうか。何の花なのだろうと鼻を
近づける。
少し酸っぱいような優しい香りだ。喉を通った香りが肺全体を洗う
ような爽快感に満ちている。
それはどこか懐かしいような気分にさせた。

376
⋮⋮と、感じたところで。
僅かに交じる奇妙な予感に、思わず小瓶を遠ざけていた。
こほん、と勝手に咳が出る。そのまま続けて二度ほど咳が飛び出し
た。
寝ているときに出る咳のようだ。他人が咳をしているかのように感
じる、それである。
﹁?﹂
意味もなく周囲を見渡した。咳が出る要因があったかもしれないと、
ほこりが舞っているのではないかと空中を眺めてみる。もしくは、
窓が開いていて砂埃でも入ってきたのかもしれないと視線を巡らせ
た。
だけど、普段と変わらず静まり返った部屋がそこにあるだけだ。
首を傾げながら、もう一度小瓶を眺める。それは何の変哲もない、
妹からの可愛らしい贈り物だ。
ふたをして、鏡台の上に戻し息を吐く。もうすぐ、侍女がティーワ
ゴンを運んでくるだろう。
時計がカチカチを時を刻む音と、己の呼吸音だけが響いている。そ
の音だけに耳を澄ましていれば、この世界に私一人だけが存在して
いるような気分になった。
それは、私以外に誰も存在しない世界だ。
もしかしたら、その方がずっと良かったのかもしれない。
誰かに傷つけられることもなく、そして、誰も傷つけることのない
世界。
﹁⋮⋮誰も、いない場所か﹂
それはつまり、かつての人生で過ごした娼館窟の小部屋のようなも
のかもしれない。
自分の指先に視線を移して、あのとき、カラスと手を握り合って眠
ったことを思い出す。

377
ああ、そうだ。だけど、私は一人ではなかったのだと思い出し、
﹁あのときの、薬﹂
全身が粟立った。
無意識に、大きく飲み込んだ息が﹁ひっ﹂と音をたてる。まるで何
かに怯えているようだった。
違う違う、と自分に言い聞かせながらもう一度小瓶を手に取る。
なぜか、さっきよりも重みを増しているような気がした。
娼館に居たとき、私は長いこと空咳に悩まされていた。それをただ
の風邪だと思って放置していたから重症化してしまったのだ。高熱
が出てからはあっという間で、1ヶ月も経過した頃には手の施しよ
うもないほどに悪化していた。そして、そのときには治療らしい治
療を受けることもできなくなっていたというわけだ。そもそも、医
師にかかるお金もなかったから仕方のないことなのだけれど。
その為、できることと言えば、痛みを抑えることだけだった。
カラスが持ってきてくれたのは、そういう薬だ。
けれど、痛みを抑える代わりに意識も朦朧としていくような強い薬
だった。
﹃間違っても、この病に冒されていない人間に飲ませるんじゃない
よ﹄というのは、余命を確認する為だけに娼館の主が招いた闇医者
だ。正しい診断をくだされたのかどうかさえ分からないけれど、死
期が迫っているのは自分でも良く分かっていたので、それもどうで
もいいことだった。
その医師に、﹃病に冒されている人間にとっては良薬だがね、あま
りに強い薬だから、病に冒されていない人間が飲むと激しい眩暈や
痙攣発作などの拒絶反応を起こして大変なことになる﹄と言われた。
何の成分がどのように作用するのか説明しなかったのは、私が娼婦
であり、まさに意識が混濁していたからだった。簡単な言葉で、分

378
かりやすく説明してくれたようだ。
死の間際にあってさえ尚、幾人かのご贔屓客は私の元へ通うのを止
めなかった。だからこそ、恐らく念ために忠告しておいたのだろう。
赤い粉薬。あれは、独特の臭いを発する薬だった。
いかにも薬草のようなつんとした臭いに、少しだけ甘い香りがして
いたのを思い出す。
いや、元々忘れていなかったのかもしれない。これほど、はっきり
と分かるのだから。
379
13
震える指で小瓶を抱えたまま、どうすべきか逡巡する。
浅くなった呼吸を戻すために、鼻で大きく息を吸い込んだ。そして
何度かそれを繰り返す。
﹃私の可愛い、お姫様﹄
シルビアのことが可愛くてしょうがいないと、そんな顔をしていた
私の母。
彼女の細い腕が妹を抱き上げる姿を、よく見ていた。
私とシルビアの生まれ月はたった数ヶ月しか違わない。母親が違え
ば、当然、そういうことも起こる。
私たちを姉妹と位置づけるのは、そのたった数ヶ月の期間だけだ。

380
幼い頃はよく考えていた。もしも、私とシルビアが逆だったなら。
私もシルビア同様に、頭を撫でられて、抱きしめられて、愛しくて
仕方ないと言ってもらえただろうかと。
﹃シルビアはお母様の宝物よ﹄
まさか自分の産んだ子供が扉の向こうにいるとは知らなかっただろ
う。その扉が少しだけ開いていて、発した声が筒抜けだったことも。
だけど、どうしても母親が恋しくて自分の部屋を抜け出した私は、
その声をきちんと聞き取った。
妹よりも言葉を覚えるのが遅くて、いつまでも覚束ない喋り方をし
ていた私。
そのことで両親を幻滅させてしまったことは知っている。
だけど、言葉を理解していなかったわけではなかった。
︱︱︱︱︱わたしは?
母を前にしたとき、私はいつも同じことを思う。
シルビアが母にとってのお姫様であり、宝物であるなら、私は一体
﹁何﹂であるのかと。
誰もいない廊下で身動きもできずに、母の腕に抱かれる妹の姿を見
つめていた。
今夜もシルビアは熱を出していると聞いていたから、母はきっとそ
の看病をしていたのだろう。
時刻は夜半過ぎだった。屋敷はしんと静まり返り、私もベッドの中
で一度は夢の入口に立ったのだけれど、突然目が覚めてしまったの
だ。
冬ではなかっと記憶している。

381
だけど妙に寒くて、誰も居ない真っ暗な部屋は寂しさをますます助
長させた。
こちこちと時を刻む音だけが響いて、それが何だか恐ろしい。
夜中に部屋を抜け出してはならぬと厳しくいわれていたけれど、ど
うしても誰かに傍に居てほしかった。
掛け布から足を出すと、風なんて吹いていないはずなのにつま先が
ひんやりと冷える。
それなのに裸足のまま自室を抜け出した。
いくら夜も深いとは言え、防犯の為もあり屋敷が完全に眠りにつく
ことはない。
廊下に灯るぽつぽつとした小さな明かりを頼りに、前へ進む。
怖かった。
幼い私にとってその廊下は、ただ真っ暗な闇の中へ続いている夜道
と同じだったのだ。
そうして辿り着いた先に見えた一筋の強い光。
それが、シルビアの部屋だと気付いたのは母の声が聞こえたからだ
った。
囁くような声がひどく優しくて。その声はきっと私をこのどうしよ
うもない寂しさから救ってくれるものと信じていた。
﹁⋮⋮お嬢様、あの﹂
突然、近くから聞こえた声に身をすくませれば、扉を半分だけ開け
た向こう側にティーワゴンを持ってきた侍女の姿が見える。顔だけ
出してこちらを窺っているのは、呼びかけたのに返事がなかったか
らだろう。
﹁アルフレッド様からお嬢様はお戻りだとお聞きしていたのですが、

382
扉を叩いてもお返事がなく⋮⋮。
具合が悪いとお聞きしていたので、もしかしたら何かあったのかと
⋮⋮失礼ながら、扉を開けさせていただきました﹂
﹁いえ、いいのよ。有難う﹂
私がそう言えば、侍女はほっとしたように息を落とした。緊急と判
断したからこそ扉を開けたのだろうが、場合によっては見過ごすこ
とのできない行いである。執事からは当然、叱責を受けるであろう
し、もしこれが当主の部屋であれば解雇されるほどの事態だ。
﹁それよりもお願いがあるのだけれど﹂
﹁はい、何でございますか?﹂
﹁掃除係を呼んでくれない? 鍵を管理している人がいいわ﹂
﹁鍵、でございますか?﹂
﹁ええ﹂
訝し気な顔をしながらも、主の命には逆らえない。
侍女は戸惑いつつも部屋を後にした。
震える指は未だに小瓶を握り締める。それをスカートのポケットに
突っ込んだ。
私の懸念が間違いであればいい。そうだ、これはただの気のせいに
違いない。
だけど、妹は先週、確かに熱を出していた。
そして、その少し前には、眩暈を起こして倒れている。
そのときは意識を消失するほど重篤なものではなかったし、診察し
た医師も大事無いと判断したのでそこまで大きな騒ぎにはならなか
ったのだけれど。
﹃⋮⋮時々、変なの﹄と、ぽつりと零したシルビアの言葉を思い出

383
す。
不安そうにしていたけれど、元々虚弱なので、こういうことは初め
てではない。
さっきまで元気そうにしていたのに、ものの数秒で急に顔色を悪く
することが昔からよくあったのだ。
耳鳴りや眩暈の類は貧血からきているようだと聞いたことがある。
あくまでも軽度なものであるから食事にさえ気を配れば、症状はだ
いぶ改善されるだろうという話しだった。
だから今回も、それと同じようなことだと思っていたのだ。
高熱を出したわけでも咳が出たわけでもなく発疹が出ている様子も
ない。病が重症化する前の、それらしき症状は何も出ていなかった
から、そんなに心配する必要はないと思った。
実際、それ以上悪くなることはなく、慣れない学院生活で疲れが出
たのだろうと苦笑した老医師の言葉によって事態は収束したのだ。
妹は、良かったと笑った。
変な病気じゃなくて良かったと。そのガラスのように繊細な作りの
顔がふにゃりと崩れて愛らしかった。
それだけが印象に残っている。
あのとき母は、どんな顔をしていただろう。
﹁︱︱︱︱︱お嬢様、掃除係が参りました﹂
控えめなノックと共に顔を出す侍女の後ろで、あきらかにうろたえ
ている様子の少女が視線を落とす。
鍵を管理している人間というのはもっと年長者であるはずなのだが。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
﹁只今、責任者は外せない用件があるとかで、こちらには来られま

384
せんでした﹂
侍女がそう言いながらメイドの背中を押す。
﹁わ、わたしが鍵を預かって参りました。お嬢様に必ず手渡しする
ように言付かっております﹂
普段は廊下ですれ違うくらいの接触しかないメイドだ。けれど、本
当はそれさえも珍しい。
彼女たちは、主の居ない時にこそ本領を発揮する。だから、彼らの
勤務時間は必然的に早朝と両親が執務室に篭っている日中になる。
昼間は私も学院に行っているので、顔を合わせること自体が少ない。
それに、例え顔を合わせる機会が多かったとしても親しく接するこ
とはなかっただろう。
昔、仲良くしていたメイドを解雇されて以来、ずっとそうだった。
けれど、この屋敷で長いこと療養生活を送っていたシルビアは、私
と違う。
体を動かすことを目的に屋敷内を歩き回ることもあったから、彼ら
とは顔を合わせる機会も多く、それなりに仲良くしていたようだ。
そしてそれは未だに変わらない。
時々、シルビアとメイドが笑みを交わしているのを見かけることが
ある。
その姿に、幼い頃の自分を重ねることがあった。姉のように優しく
接してくれた人のことを覚えている。だけど彼女は、今ここにいな
い。
使用人と必要以上に親しく接してはならぬと教え込まれた私と、そ
うではないシルビア。
その境界は何なのだろうと、考えたりする。
﹁あの、お嬢様⋮⋮﹂

385
掃除係から鍵を受け取るために手の平を差し出したところで、侍女
が申し訳なさそうに声を掛けてくる。
﹁何?﹂
﹁このことは⋮⋮旦那様に報告しなければなりません﹂
﹁⋮⋮﹂
私が何事かをしでかすと思っているからこそ、釘を刺す為にこんな
ことを言ってくるのだ。
そして彼女がわざわざ口に出してそんなことを言うからには、家令
は既に承知しているということだろう。
﹁構わないわ﹂
束になった鍵を握り締めて、はっきりと顔を上げる。
鍵の中には執務室や書庫、宝物庫など、父の許可がなければ入れな
い部屋のものは含まれていない。
普段使っていない場所には施錠してあるため、掃除係が鍵を管理し
ているのだが、誰でも持つことができるわけではない。
けれど、この鍵さえあれば大抵の部屋へ侵入することができるのも
事実だった。
悪事に利用しようと思えば、いくらでもその用途が思い浮かぶ。家
令もそれを案じたのだろう。
つまり、私は信用されていないということだ。
﹁これから私がすることは全て、貴女の上司に報告して構わないわ﹂
そう言い置いてから、明らかに動揺している様子の侍女の横をすり
抜ける。
﹁お嬢様⋮⋮?﹂不信感を隠すことのできない小さな声が追いかけ

386
てくるのも構わずに、部屋から出た。
﹁お嬢様、お待ちください⋮⋮!﹂
私の表情や行動から、鍵を必要とする理由を読み取ろうとする侍女
を振り切る。
言葉に出してはっきりと聞かないのは、あくまでも私が主の娘だか
らだろう。けれど、もしも鍵を差し出さないようであれば命令すれ
ばいいだけだ。
背後に追いかけて来る侍女とメイドの気配を感じながら廊下を進む。
足を一歩踏み出す度に心臓が震えた。
視界がぼやけているのは涙が滲んでいるからではなく、疲れている
からに違いない。恐らく、そうだ。
だけど、心と体が剥離していくような感覚に何度か足がもつれた。
これがもしも、夢だったなら。
目覚めた私は笑っているかもしれない。こんな馬鹿なことが現実に
起こるはずなどないと。
日が暮れているわけでもないのに、長い長い直線の廊下が薄暗く見
える。幼い頃、夜中に一人きりで歩いたときよりは明るい。だけど、
あのときの風景によく似ていた。
同じ場所なのだから当然かもしれない。
胸の前で両手を握り締め、右に左にと視線を動かし、何かから逃げ
出すようにこの廊下を進んだことを鮮明に思い出す。
指が震えていた。小さく灯された明かりに映し出される己の影にび
くりと肩を震わせて。それでも懸命に前へと進んだのだ。
行き着いた先にあったのは救いなどではなかったけれど、いつもと
変わらない光景に安堵したのもまた事実だった。
シルビアと母は、いつだって変わらない。
私に何が起こっても、世界がどんな風に変わろうとも、彼らは動じ
ることもなく昨日と何ら変わりない日常を送っている。

387
部屋の中に飛び込まなかったのは、自分の存在が、日常を﹁非日常﹂
に変えてしまうことを恐れたからだ。
私は、いつだって﹁私﹂でなければならないと知っていた。
背中を伸ばし、誰に怯えることもなく、何事にも動じず、いつだっ
て毅然とした態度で臨まなければ。
母の手に縋りつくことなどあってはならないのだ。
﹁お、お嬢様!シルビア様はご不在です!﹂
シルビアの部屋の前で鍵束を掲げる私に侍女が小さく声を上げる。
私が何をしようとしているのか気付いていながら、それでもはっき
りと抗議できないのは、彼女が雇われ人だからだ。従者である彼女
は、私の手から鍵を奪い取ることができない。
怯えたような呼吸を繰り返す侍女の顔を一度だけ、しっかりと見据
えた。
シルビアがいないことなど、百も承知なのだから。
﹁このままここに居ては、貴女も叱責されるだけではすまないわ。
だから、﹂
この場から離れなさいと、私たちよりも更に数歩下がった場所にい
るメイドにも視線を移す。
﹁⋮⋮い、いえ、私は⋮⋮﹂必死に首を振る彼女は、きっと私を監
視するように言い渡されているのだろう。
シルビアよりもまだ若そうな彼女に拒否権などない。
ましてや主の娘が何をしようと、彼女には止めることなどできない
のだ。
それを全て承知で、わざわざ年若いメイドを選んで寄こしたのは他
に人がいなかったからではない。
いざというときの捨て駒にするためだ。年齢や、あまり知っている

388
顔ではないことからも、彼女がごく最近雇われた人間であることを
示している。つまり、責任のある仕事を任されているとは思えない。
だから、例えば﹁何かがあって﹂彼女が、この屋敷から居なくなっ
たとしても何の痛手にもならないのだ。
私がもしも何かとんでもないことをしでかしたなら、それを報告さ
せた後で、その口を封じるのだろう。
彼女は当然、そんなことには気付いていない。
だけど、私も彼女も、そういう世界に住んでいるのだ。
戸惑いを隠すことなくこちらを見つめているメイドから顔を逸らす。
いつもだったら、ここで手を引いて部屋に帰っているところだ。
何事もなかったかのような顔をして鍵を返し、家令には適当な言い
訳を並べて﹁手間をかけたわね﹂と一言そう口にすればいい。何事
もなかったのだから理由を追及されることもないだろう。
それが分かっているのに。
﹁お嬢様⋮⋮!﹂
非難するような侍女の声を確かに聞いた。それでも構わずに扉を開
ける。
﹁シルビアがお母様からもらったお茶はどこに保管しているの?﹂
この場から去ってもいいと言いながら、侍女にそう問えば、彼女は
躊躇いながらも私の後に続く。
そして僅かに逡巡したあとベッドサイドを見やった。
そこには、凝った彫刻の施された大きめのチェストがあり、その上
には大小さまざまなぬいぐるみとお人形が並んでいる。これらは全
て、両親がシルビアの為に買い与えたものだ。

389
ベッドから起き上がれない日が多かったあの子が寂しくないように、
抱きしめられるサイズのものから、ただ鑑賞するだけのものまで、
それこそ数え切れないほど集めたらしかった。
そしてこれらは全て、父や母からシルビアへ直接渡されたのだった。
私だって、同じものを幾つか持っていた。
だけど、渡された経緯はシルビアとは異なっている。
我が家に出入りしている商人が、﹁母君に頼まれたんですよ﹂と本
当かどうかも分からないことを言い添えて、丁寧に包装されたぬい
ぐるみを置いていってくれたのだ。
今は自室の奥の納戸にしまわれている可哀想なお人形たち。
あまりにも恨めしそうな目で私の顔を見つめるから、一度も、抱き
しめることができなかった。
﹁あ、お、お嬢様!﹂
ためらうことなく、人形が並んだチェストの引き出しを開ければ、
四角い箱の中に規則正しく並んだガラスの小瓶が目に入った。
茶葉を自室の引き出しにしまっているのは、シルビアがこれらを眺
めて過ごしていたからだろう。
少しずつ微妙に色を変えているガラスが宝石みたいに輝いている。
一つだけ取り出せば、その冷たい感触に手の平が小さく震えた。
何の飾りもない小瓶に、シルビアが私にくれたものはやはり、わざ
わざリボンを巻いてくれたのだと確信する。
ふたを開ければ、ふわりと漂う甘い香り。
﹁︱︱︱︱︱ああ、どうして⋮⋮﹂
呟いた声はきっと誰にも聞こえなかっただろう。
小さな箱に収まっている八つの小瓶を全部取り出して、一つずつ確

390
かめる。茶葉に交じっている薬草は少しずつ違うもののようだ。け
れど、鼻腔に残る臭いはどれも同じだった。
先ほどから指の震えが止まらない。
﹁⋮⋮お嬢様?﹂
只ならぬ様子の私に気付いたのだろう。
侍女が不審そうにこちらを見ている。
瞬きをする度に思い出すのは、母に抱きしめられている妹の顔だ。
頬を摺り寄せるあの子の顔はいつだって幸福そうだった。誰かに恨
まれることや、憎まれることなど想像したこともないだろうその姿。
﹁⋮⋮何で?﹂
その小さな腕が母の首をきつく抱きしめる。幼いからこそ力の加減
を知らないのかもしれなかった。
だけど母は何も言わず、むしろ嬉しそうに口元を綻ばせた。
﹁お母様、だいすき﹂と笑う、妹の声が聞こえる。
﹁⋮⋮どうして、どうして、⋮⋮何で︱︱︱︱︱︱!﹂
唇がわななく。がちりと奥歯が音をたてたのは、全身が震えている
からだ。
何が悲しいのか、何が辛いのか、どうしてこんなにも苦しいのか分
からない。
だけど私は、どうしようもなく泣き叫びたかった。
意味もなく何度も何度も繰り返す時間の中で、無条件に信じられる
ものなど何もなかったけれど、母がシルビアに向ける愛情を疑った
ことなど一度もない。
羨ましかった。どうしようもなく焦がれていた。

391
策略も計略もなく、見返りさえも求めない、あれほどにひたむきで
純粋な愛情を他に知らなかったのだ。
この真っ暗な世界にも、そんなものが一つだけある。
それは両目を焼くほどの強い光で、目を閉じたところで決して失わ
れることのない深い愛情だった。
だから、それが、どうしても欲しかった。
﹁お嬢様!イリア様!なりません⋮⋮!﹂
ここにきてやっと事の重大性に気付いたらしい侍女が大きく声を上
げる。
私の腕を掴もうと動く手を勢いよく振り払い、シルビアのベッドか
らシーツを剥ぎ取る。
そして、大きく広げたそれに小瓶を全部投げ込んだ。
引き出しから小瓶を納めている箱ごと取り出し、シーツの上で逆さ
まにしたから、転がり落ちたガラス同士がぶつかって予想外に大き
な音をたてる。
部屋の中に優しく広がっていた甘い香りが濃度を増した。
もしかしたらヒビでも入ったのではないかと思う。
﹁お、お嬢様!一体何をなさっているのです!それは、それは、シ
ルビア様のものです!﹂
小瓶をシーツで包んで抱え込んだ私の行く手を阻むように身を滑ら
せてきた侍女を押しのける。
その先に立っていた掃除係のメイドが、涙目になりつつも私を部屋
から出すまいと体を翻すのが見えた。
そんな彼女によって、バタン、と激しい音をたてて閉ざされた扉の
前。

392
一瞬だけ立ち竦んだ私は、両腕に抱え込んだ小瓶を一層強く胸に押
さえつける。
一度だけきつく両目を閉じれば、眦からすっと何かが零れていった。
この部屋を出てしまえば、もう後には戻れない。
真っ暗な視界の中に映し出されるのは、母の細い指とシルビアの銀
髪だ。
幼い頃は今よりももっと色素が薄く、白に近い色をしていた妹の髪。
私の好きな色を持つあの子を、母が優しく撫でていた。何度も、何
度も。愛しくて、可愛くて仕方ないとそう言っているみたいに。
その姿に自分を重ねたのは一度や二度ではない。
あれがもしも私だったら⋮⋮嬉しくて幸せで、どうにかなってしま
うだろうと思っていた。
﹁そこを、退きなさい﹂
﹁お、お嬢様、﹂
﹁二度も同じことを言わせるの?﹂
﹁お嬢様、でも︱︱︱︱︱、﹂
﹁いいから、そこを退きなさい!!﹂
声を張り上げれば、それに呼応するかのように心臓が脈打つ。
これほどに大きな声を上げたことはなかったかもしれない。
瞳をこじ開ければ、瞠目している侍女と不安そうに体を震わせるメ
イドが映り込んだ。
睨みつけるようにして対峙すれば僅かに怯んだ彼女たちに隙ができ
る。その決して太くは無い体を突き飛ばして部屋を出た。
これでは押し込み強盗か何かと一緒だと、廊下に出てから息を吐き

393
出す。誰も居ないのに、誰にも知られないように吐き出した息が、
泣き声のように大きく震えていた。
二人が付いてくる様子はない。きっと家令の元へ報告へ走ったのだ
ろう。
その間に少しでもシルビアの部屋から離れておかなければ。
足を速めると、その分だけ息が上がる。無意識に喉元を押さえたの
は何のためだったか。
苦しさは増していくなかりで、楽になることはない。
絨毯の敷かれた直線の廊下が迷宮のようにぐちゃぐちゃに入り組ん
でいるように思えた。足を踏み出すたびに、体の重みで底が抜けて
いくような錯覚に陥る。
︱︱︱︱︱怖い。怖い。誰か、誰か、
やっと辿り着いた目的地でたった二つだけ呼吸を繰り返した。
ノックもせずに開いた扉の奥に、揺り椅子に腰掛けている細い背中
が見える。
こちらに背を向けているというのに、かちゃりと響いただけの扉の
音にも彼女はしっかりと気付いたようだ。首を傾げならが少しだけ
肩を揺らして、ゆっくりと振り返る。
﹁︱︱︱︱︱イリア?﹂
目が合った途端に怪訝な表情を浮かべるその姿に、訳もなく両腕が
震えた。
抱えていたシーツを落としてしまい、中から幾つかの小瓶が転がり
出る。
ころころと転がったそれが、いつの間にか立ち上がっていた母の足
元で勢いを失い、窓から差し込む陽の光を反射した。

394
眩しさに目を眇めている間に衣擦れの音が響く。
母の細い指が小瓶を拾い上げる様子をただ見ていた。
何かを確かめるように、手の平で茶葉の入った瓶を何度か転がし、
母は顔を上げてじっと私を見据える。
そして上から下へ、輪郭をなぞるように視線を動かし、足元に落ち
ている他の小瓶も認識したようだった。
その口元にはなぜか、小さな笑みが浮かんでいる。
動揺しているわけでもないし、驚嘆しているわけでも、怒っている
わけでもない。
何の感情も読めない微笑だった。
私は、その顔をよく知っている。
395
14︵前書き︶
※※R15 血の表現などがあります。
396
14
全てを諦めた人間はね、笑うのが上手くなるんだよ。
カラスはそう言った。
喜びも悲しみも、あるいは憎しみも、全ての感情を心の奥底に封印
したとき、その顔は表情を失くすんじゃない。
︱︱︱︱︱笑うんだ。
﹃人間はどうしようもなくなったとき、全てを﹁諦めて﹂笑うんだ
よ﹄
太陽が翳り始めている。赤く染まった窓の縁を背に、母は一歩、二
歩と私の方へと歩み寄って来た。
淑女らしく足音のしない歩き方だ。こんなときでも、母は貴族とし

397
ての振る舞いを忘れることがないのだと、妙なところで感心してし
まう。
派手ではないけれど整っている顔立ちや、真っ直ぐに伸びた背筋、
女性らしい仕草で動く指先に視線を奪われる。息を呑むほどの麗人
ではないけれど、洗練された振る舞いは人目を引くだろう。
けれどそれは、貴族の女性であれば、大抵がそうなのかもしれなか
った。
高価なものを身に着けている人間というのは、何となく所作や態度、
言葉遣いが他とは違うものだ。それに、貴族というのは幼少期から
一般民衆とは違う教育を受けているから、そもそもの基盤が違う。
それは多分、人によっては些細な違いではあるが、しかし大きな違
いでもある。
つまり、貴族というのは元々、何をしていなくても目立つ生き物な
のだ。
私だって、きっとそうに違いない。
地味ではあるが、いかにも貴族然とした格好をしているので、街中
を歩いていれば目立つはずだ。ドレスの素材も織りも縫い目も、職
人が端正込めて作り上げたものなのだから、当然安物とは違う。そ
ういったものを見分ける目を持つ人間は案外多い。
それに、ほとんどの場合において、侍女か侍従を連れているから、
それだけでも衆目を集めたりする。
だけどそれは、あくまでも市井に下りた場合限定であるし、自分自
身が評価されているわけではないということもきちんと理解してい
る。
いつかの人生で人買いにこの身を売られたときは、貴族だとは信じ
てもらえなかった。
着ているものや髪型、置かれている環境が違えば、あっという間に
貴人という枠から外れてしまうのだ。

398
私はその程度の人間で、周囲に貴族が集まっていれば埋没してしま
うどころか、本当は誰の目にも留まらないのだということを実証し
ているようだった。
そういう意味で言えば、母と私はやはり似ているのかもしれない。
けれど、それと同時に圧倒的な違いがあるのもまた事実である。
私と母が並んだなら美しいと表現されるのは母だけだろう。
血の繋がりがあるのだからどことなく顔立ちは似ているはずなのに、
私はあくまでも凡庸な人間であり、母はやはり麗しいのだ。
それに醸し出す雰囲気自体が大きく異なっている。
母は、ただひたすらに朗らかで、穏やかで、さらに悠然としている
のだ。
その誰をも包み込んでしまうようなゆったりとした雰囲気はやはり、
貴族ならではと言えるかもしれない。
誰もがそう評するし、私もずっとそう思っていた。
今だって、あまりに泰然としているから、全く動揺しているように
は思えない。
﹁イリア、貴女、これをどうしたの?﹂
むしろ、普段よりもずっと落ち着いた声をしている。
とっさに視線を逸らしたのは罪悪感からではない。母があまりにも
真っ直ぐに私の顔を見据えるから、その眼差しの強さにたじろいだ
だけだ。
母はこれほどに、何かを訴えかけてくるような目をしていただろう
か。
﹁シルビアの、部屋から⋮⋮﹂

399
﹁盗ってきたのね?﹂
言い淀んだ私の代わりに、さらりと言いのけたのは母だ。
﹁駄目じゃない﹂
そんなことをしてはいけませんよ、とまるで子供に言い聞かせるよ
うに困った顔をする。
責めているわけでも怒っているわけでもなく、ただ優しく嗜めるよ
うな物言いに、なぜか心臓が小さく震えた。幼い頃でさえ、そんな
言い方をされたことはない。
ソレイルの婚約者となってから、私を導くのは侍女の役目だったか
ら。
こんな風に直接的に、何かを注意されたことなどなかった。
これではまるで、普通の母と子のようだ。
﹁これは、あの子が大切にしまっておいたはずだわ﹂
室内に並んでいる調度品は伯爵家の夫人に相応しい華美な風合いだ
けれど、置かれている物の数はさほど多くない。夜会に招かれたと
きは着飾るけれど、普段は質素な装いを好む母らしい部屋だ。
絨毯の上に転がっている幾つかの小瓶さえなければ、ご機嫌伺いに
現れた娘とそれを歓迎する母親の何でもない日常の一つに過ぎない
のに。けれど、私たちはそんな間柄ではなかったことを思い出す。
何でもない時間を、一緒に過ごしたことなど一度もなかった。
﹁お母様、これは一体何なのですか⋮⋮?﹂
震えた声が静かな室内に散っていく。
あまりに頼りない声音だったから、自分の耳にさえも遠くから響い
ているようだった。
けれど、目の前のその人にはしっかりと聞こえたようで、浮かべて

400
いる微笑をそのままに小さく首を傾いだ。優しい眼差しであるにも
関わらず、観察されているような居心地の悪さを感じる。
その目に見つめられているとき、私はいつだって身を硬くして、何
を言われるのか覚悟を決める必要があった。
なぜなら、私にとって﹁母﹂というのは完全なる味方ではなかった
から。
1つ目の人生を終えたそのときから、両親と私の間には見えない壁
が立ち塞がっていた。
いや、そう感じていたのは私だけだったかもしれないけれど。
だけど、それは決して間違いではなかった。
鎖に繋がれた娘をあれほどあっけなく見離すのだから、その愛を信
じ切れなかったとしても無理は無い。己のことながら、そう思う。
もしかしたら、愛情どころか、何の情もなかったのではないかと疑
っているくらいだ。
役人に罪状を読み上げられているそのときでさえ、私は1人きりだ
った。
形式的ではあるけれど、何か異論があるかと問われたので、これは
冤罪だと叫んだのを覚えている。
誰も味方の居ない場所で、思えば、ただひたすらにそれだけを繰り
返した。
父には当の昔に見切りをつけられていたのだ。
母は、ただの一度だけ私の顔を見に来たと記憶している。
だけどそれは、娘の冤罪を嘆いたり、あるいは本当は無罪なのだと
擁護してくれるためのものではなく、ただ単に決別するためだけの
対面だった。
刑が確定し、投獄されることとなったその日。
荷台が鉄の檻と化している馬車に入れられた私は、罪人の中でも最

401
も罪の重い人間が投獄される地下牢へ運ばれようとしていた。
そこへ、供も連れずに一人きりで現れた母。
見せしめの意味もあったから、私が投獄されるその日は多くの一般
民衆が集まっていた。
興奮状態の彼らは、そこに貴族の女性が居ることにも気付いていな
い。彼女はそんな野次馬に紛れて、私を見ていたのだ。
目が合ったと思ったから、もしかしたら私を助けに来てくれたので
はないかと鉄格子の間から腕を伸ばした。鎖に繋がれた足が酷く痛
んだけれど、それすら気にならない。無実を訴え、泣き叫んで、悲
鳴を上げたのだ。
だけど、母はあっさりと背を向けてその場を去った。
いつもと変わらない毅然としたその背中に、見捨てられたことをは
っきりと悟る。
落ち込むでもなく、悲しむでもなく、何の表情もないままにあっさ
りと私を見捨てた。
頑丈な鉄格子を握り締め、行かないでと叫び続けた娘を置き去りに
したとき、母はどんな気分だったのだろうか。
﹁何って、ただの薬茶よ﹂
ふわりと笑みを深めた母の異常を見分けられないほど、愚かではな
い。
まるで、隠していた大切な玩具や宝物を取り上げられた幼い子供の
ような顔をしていた。けれど、そこにあったのは悲しみや怒りでは
ない。喜色と戸惑いの入り混じった何とも奇妙な顔をしていた。
母にしては、やけに感情があけすけだと思う。
彼女はいつだって完璧な淑女だったから。
﹁⋮⋮⋮これに何が入っているか、ご存知なんですね?﹂

402
足元に落ちた小瓶を拾い上げれば、母が溜息を落とすようにそっと
呟く。
﹁どうして、知らないと思うのかしら? だって、それは私が作っ
たのよ?﹂
心底不思議そうなその声音に、足首をさっと撫でるような悪寒が走
った。
完全に光を奪われる前に、太陽が泣き声を上げている。なぜかそん
な気がして、窓の外に視線を滑らせた。
屋敷の中でも高い位置にある母の部屋は日当たりが良いので、太陽
が傾く時刻になってもまだ明るい。
足元に落ちた自分の影を見つめれば、そのすぐ先にあるもう1つの
影がゆらりと近づく。
﹁馬鹿な子ね、イリア﹂
ソレイルの婚約者となってからはずっと、私は多分、彼女にとって
他人だったのだと思う。
だから、こんな風に憎まれ口を叩かれたことさえなかった。
互いの間に存在する遠慮という距離感が、それを許さなかったのだ。
思わず顔を上げて、母が﹁本当に、馬鹿な子﹂と囁くのを見ていた。
その顔には、優しく朗らかな笑みが浮いている。慈愛に満ちたいつ
もと変わらない姿だとも言えた。
︱︱︱︱︱他の人間からすれば、そう見えたはずだ。
﹁⋮⋮どうして?﹂
はっきりと問うべきなのに、空気を含んだ声が儚く揺れる。聞くべ
きじゃないと未だに迷ってしまうのは信じたくないからだ。

403
母が、私の母が、
﹁シルビアに、一体、何を⋮⋮?﹂
言葉を吐き出す度に酸素が足りなくなっていく気がする。苦しさに
喘ぐように吸い上げた息がひゅっと音をたてた。
違う、違う、違う。
こんなことを聞くべきではない。
そんなはずはないと、頭の中で誰かが悲鳴をあげる。
﹁もう分かっているんでしょう? イリア。私が何をしたのか﹂
知っているんでしょう?
あくまでも冷静に、凪いだ目をしている母が己の罪を理解している
とは思えない。
それに、母が⋮⋮私のたった一人の聡明な母が、自ら進んで過ちを
犯したとは考えにくい。
圧倒的な沈黙が皮膚に纏わりついて、ゆっくりと押し潰されていく
ようだった。
傾きそうになる体を必死に支えている足が踏んでいるのは、柔らか
な絨毯ではなく、ざらざらと波打つ砂の塊だ。一歩足を踏み出せば、
きっと倒れる。
﹁⋮⋮勘違いしないでちょうだいね、イリア。私はあの子を愛して
いないわけではないのよ﹂
優しい声だった。震えることもなく、ふわりと包み込むような淡い
声色だ。
ずっと昔、母が口ずさんでいた子守唄を思い出させる。あまりにそ
っと囁くから、その唇から零れた言葉は、あっという間に解けて消

404
えていった。
私を見据えるその瞳は、濁りのない新緑の色で。
かつてどうしようもなく焦がれた色だった。
母の目は、真夏の太陽に下で輝く、活力に溢れた青葉に似ていると
⋮⋮ずっとそう思っていたから。
こんな地面に落ちる寸前の枯葉色ではなく、母のような濁りのない
新緑色の目であれば。
私は自分の両目を誇らしく思えただろう。
だけど、言えば、この美しいとは言えないこの瞳だけが私と母の親
子関係を証明するものだった。
私の褪せた緑と、母の濃い緑。母親の違うシルビアにはない色だ。
私だけが受け継いだ母の色。そこに滲む琥珀は、父の色でもある。
そう、私だけが、両親の色を両方受け継いでいるというのに︱︱︱
︱︱。
﹁本当に愛しているというのなら、どうしてこんな真似を? これ
に混ぜたのは一体何なのですか? これは、この茶葉は、普通とは
違うでしょう? 何か、シルビアにとっては良くないものを混ぜて
いるでしょう?﹂
早く決着をつけなければシルビアが帰って来る。ふと我に返って母
親に詰め寄った。
そういえば、家令の元へ報告に走ったはずの侍女とメイドはどうし
ただろう。もしも既に家令がこの事態を知っているのであれば、父
の耳に入るのも時間の問題である。
︱︱︱︱︱けれど、母がシルビアに渡した茶葉へ何かを混入させて
いるということはまだ誰も知らない。
だから今ここで懸念されるのは、そういうことではない。
問題なのは、私が、シルビアの部屋から物を盗み出したということ

405
だ。
妹を溺愛している父が、それを見逃すはずはない。
﹁シルビアは元々虚弱です。そこに⋮⋮、こんな、何かよく分から
ないものを混ぜるなんて、﹂
私が娼館に居たときに飲んでいた薬は、病を制圧する為に、肉体そ
のものに負荷をかけるものだった。特効薬はまだ研究段階で市井に
は出回っていなかったはずだ。高額だけれど、それでも手に入れる
ことができた薬は、病だけに攻撃を与えるようなものではなく、健
康な臓器にまで影響を与えるものだった。
それでも、すぐに命を落とすようなことは避けられたから、その薬
に縋ったのだ。
母がシルビアに煎じた茶葉に、あの薬が入っていたかどうか⋮⋮確
信しているわけではない。
だからもしかしたら、臭いの似ている別の何かかもしれないのだ。
﹁お母様、お母様は、一体、﹂
一体何を考えているのです、そう続くはずだった言葉が母の微笑に
よって阻まれる。
︱︱︱︱︱否定して欲しいと、願うのに。母の反応は、ことごとく
それを覆す。
﹁毒薬ではないわ﹂
それでは一体何なのかと叫びそうになる代わりに、ごくりと、喉が
鳴った。
﹁だから、死んだりしない。貴女が心配しているのはそういうこと

406
でしょう?﹂
と、ふと鏡台の方へ歩み寄る。
鏡を覗き込むような仕草をしながら、母は優しい声音のまま﹁⋮⋮
だけど、あの子は⋮⋮﹂と呟いた。
鏡越しに視線がぶつかる。そこに並んでいる母と私の顔は、遠目で
見れば全くの別人だった。
似ていると思っていたのは、しょせん勘違いなのかもしれない。
私の願望が生み出した幻なのかもしれないと、意味もなく、口元が
震える。
﹁あの子は私の大事な大事なお姫様なのよ、イリア﹂
問われているわけでもないのに、その発言を肯定するためにただ肯
いた。それを見ていた様子の母が﹁知っているなら、どうして?﹂
と、よく分からないことを聞いてくる。
支離滅裂だと思うのに、その言葉の1つ1つがどこか同じ場所へ向
かっている気がしてならない。
﹁学院に通わせるべきではなかったの、イリア。あの子は、駄目な
のよ﹂
﹁⋮⋮駄目?﹂
﹁あの子は、駄目な子なの﹂
﹁⋮⋮っ、いいえ⋮⋮! そんなことはありません。そんなことは
決して! シルビアは、とてもよく頑張っています﹂
想像すらできないほどの低評価に思わず声を上げる。まさか母がそ
んなことを言うなんて。
けれど母は変わらず鏡の方を向いたまま首を振った。
数分前よりも陽が落ちているので、窓から差し込む光が弱くなって

407
いる。そのせいで、室内は先ほどとは比べものにならないほどに薄
暗くなっていた。
そのせいで、視線を落とした彼女の表情を読み取ることができない。
﹁そういうことじゃないのよ、イリア。違うの、そうじゃない﹂
すっと姿勢を正した母が振り返る。
﹁果たさなければならない、約束があるの。それを、旦那様は、あ
の子可愛さに⋮⋮、﹂
はらり、と。花びらが舞うように、母の瞳から涙が零れた。
﹁貴女がシルビアを学院に通わせた方がいいと言い出したとき、私
はもっと強く止めるべきだった。だけどそうしなかったのは、旦那
様が⋮⋮きっとお許しにならないだろうと、そう思っていたからな
の。それなのに、あの子が、シルビアがあまりにも一生懸命に強請
るから⋮⋮、旦那様も絆されてしまったのかもしれないわ﹂
許されることじゃないのに、と母の唇が吐息を漏らす。
﹁何を、仰っているのですか?﹂
母の双眸がゆらゆらと揺れて、私の顔を見ているはずなのに、どこ
か遠くを見ていることに気付いた。
ぼんやりとした眼差しが危うい。
﹁−︱︱︱︱こんなことをするつもりじゃなかったとは、言わない
わ。私は、はっきりと自覚しているもの。自分が何をしたのか、そ
して、何をすべきか。けれど、﹂

408
﹁お、お母さま⋮⋮?﹂
﹁旦那様はお許しにならないわね。だって、私たちのお姫様にあん
なものを飲ませてしまったのだから﹂
﹁お母様、﹂
それはほとんど独り言で、言葉だけを聞いていれば懺悔しているか
のようにも受け取れる。だけど、その顔は後悔の念を映し出してい
るわけではない。しいて言うなら、全てを成し終えた後の、虚無感
に近いものがあるかもしれなかった。
﹁学院に通い始めてから、あの子は元気になった。そう、前よりも
ずっと、元気に﹂
それはいいことではないのか。
確かにシルビアは前に比べて、ずっと活動的になった。未だに体調
を崩すことはあるけれど、それが、母の用意した茶葉によるもので
あれば⋮⋮本当に、元気になったのかもしれない。そう思えるほど
に、あの子は頑張って学院に通い続けている。
﹁だけど駄目なのよ、それでは。それでは、駄目な子なの。そうな
っては、いけないのよ﹂
ぼそりと囁くような声でそう言った後、母はおもむろに右手で宙を
かいた。
突然のことに身構えたのはほんの一瞬で、視界の端から端を掠めた
銀色に成す術も無く立ち尽くしていた。
駄目とか、待ってとか、唇は確かに何かを発しようと動いたのに声
にはならない。口内で行き場を失った言葉が立ち往生して、喉を詰
まらせた。
1つだけ瞬きをすると、その隙を突くように物凄い勢いで黒い塊が

409
走る。
それを追うように眼球が動くけれど、あまりの速さに後を追うこと
ができなかった。
頬に、ぽつぽつと何かが、かかる。
ハエか何かが飛んできたのかと思った。
反射的に右手で叩こうとして、指先に何かが触れる。
ぬるりとした感触に眉を顰めながら、一体何なのか確認する為に落
とした視線の向こう側で、どさりと落ちる母の華奢な体。
ああ、そうだ。そういえば、母は一体、どうしたのだった︱︱︱︱
︱?
何が起こったのか全く理解できない。確かに私の目は、全ての出来
事を見ていたはずなのに。
一度、崩れ落ちた母に視線を移して、それから再び、自分の手を見
る。
赤く染まった指先と、動かない母の姿を交互に眺めながら、足を踏
み出した。
けれど、足の裏に伝わるはずの感触がない。まるで地面が抜け落ち
た感覚に陥り、一瞬、己の居場所を見失う。
大きく、激しくぶれた視界に、屋敷が崩壊してしまったのかと思っ
た。
そんなはずはないと自分に言い聞かせながら、強く目を閉じて、再
び開く。
そして周囲を見回して壁や天井を確認し、屋敷そのものに何かが起
こったのではないと気付いた。
己が倒れこんでいることを理解したのは、そのすぐ後だ。
怪我をしているわけでもないのに、何だか、おかしい。

410
﹁⋮⋮お、かあさま⋮⋮?﹂
両手で体を支えながら、這うようにして、豪華な織りの絨毯に伏し
ている母の元へと近づいた。
濃い赤と薄い橙を基調として、その上に咲き誇る大小の花々。貴人
の足元を飾るのに相応しい、複雑な織りをしている。
その全てを染め抜く、母の、血液。
﹁お、かあ、さま﹂
呼吸が上がって、うまく息が吸えない。
だから、当然きちんと吐き出すこともできずに乾いた声が口の端か
ら漏れていった。
こんなときにどうして、と思うけれど、腰が抜けて立ち上がること
すらできない。絨毯に肘をついて前へ進む。重く纏わりつく袖が、
ひどく邪魔で、鉛のように硬くなった体は思う通りに進まない。
ただただ気だけが急いていく。
﹁⋮⋮な、なんで、どうして⋮⋮どうしてなの、お母様⋮⋮﹂
己の首を掻き切ったナイフを握り締めたままの母が暗い眼差しで私
を見据える。
意識があるのかどうかも分からない。
彼女の首からは、留まることなく、どくどくと血が流れ続けていた。
必死になって辿りついた先で母の首を押さえる。けれど、私の手で
は止血することができず、指の間から赤い液体が零れていく。
すると、力なく動いた母の細い指が私の手首を掴んだ。
ただ添えているだけだと思うのに、力強く押さえつけられているよ
うな感覚に陥る。ほんの一瞬怯んだそのとき、

411
﹁ごめんな、さい、イリア⋮⋮﹂
影の落ちた深い碧が、私の顔を捉えた。
﹁⋮⋮ごめん、ね、イリア︱︱︱︱︱﹂
まるで、友人に語りかけるような気安さでそう言った後、私の手首
を強く握り締める。
﹁しっかりして、お母様、大丈夫だから﹂
幼い頃にしていたように、大丈夫、大丈夫、とうわ言みたいに繰り
返す。
﹁お母様、お母様、大丈夫、大丈夫、だから、﹂
ほんの少しも大丈夫ではないと知っていたのに、それでも、そんな
言葉しか口にできなかった。
縋るようにその顔を見つめていると、母は、はっと双眸を見開く。
そして、驚いたような表情をしたまま、1つだけ大きく息を吸った。
﹁お母様?﹂
光がぱっと散るみたいに、瞳孔が開く。
﹁⋮⋮お母様、お母様、⋮⋮お母さま、おかあさま、﹂
嫌、止めて、何で、どうして、
﹁いや、いやっ、いや⋮⋮っ、こんなの、こんなのは、嫌⋮⋮、誰
か、﹂
私の腕を握る母の手がはたりと絨毯の上に落ちる。

412
自由になった手で、さっきよりも一層強く傷口を押さえつけるけれ
ど、何の役にも立たない。
何か布地で圧迫しなければと思うのに、近くには何もなく、両手を
緩めるわけにもいかなかった。
﹁誰か、誰か、来て、誰か、﹂
声を張り上げているつもりなのに、呼吸もままならなくて言葉にな
らなかった。
役立たずだ。どうしようもない。こんなときまで、何もできず、声
を上げることさえできないなんて。
﹁お母様、お母様、﹂
呼びかけるけれど、既に反応はなく。完全に光を失った虚ろな双眸
には、何も映っていなかった。
﹁︱︱︱︱︱おいて、いかないで⋮⋮っ、お願いよ⋮⋮、お母様⋮
⋮! また⋮⋮っ、また私を、置き去りにするの⋮⋮、﹂
嫌、こんな場所に、置いていかないで、
喘ぐ呼吸の合間に、懇願するけれど、母はもう私を見ていない。
彼女はいつだって、振り返ったりはしないのだ。
413
15
頬に走る衝撃をただ甘んじて受け入れる。
霞がかった思考ではまともなことなど何1つ考えることができない。
呆然としたまま顔を上げれば、険しい顔をした父が立っていた。平
手打ちをされたと分かっているのに、驚くことすらできなかった。
この現実に、感情が追いついていない。

完全に呼吸を停止した母の体を抱きしめたまま、ひたすらに声を上
げ続け、一番最初に駆け込んできたのは家令だった。そして、室内
の惨事に一瞬言葉を失った後、他に人間を呼びつけたのだ。
そのあまりに大きな声が、静まり返った室内の空気を震わせる。

414
いつも冷静沈着で、何を考えているかよく分からない老年の家令が
そんな風に動揺をしているのを見るのは初めてで。だけど、そんな
様子さえ、どこか他人事のように眺めている自分がいた。
その間にも流れ続ける母の血を両手で強く抑え付ける。
確かに手の平は、母の柔らかい首を掴んでいると分かるのに、血が
止まらない。
この手から少しずつ命が零れていくのに、私にはそれを食い止める
ことができない。
どうやったって止まらないのだ。既に母の呼吸は止まっているし、
きっともう瞬きをすることもない。
それなのになぜ、これ以上、血を奪う必要があるのか。
神様、神様、神様、どうして、どうしてなの。
両膝を何かが這い上がってくるような不快な感触に思わず視線を落
とせば、己が血だまりの中に座り込んでいることに気付く。両手の
指先から、つま先から、裾から袖から、じわじわと母の赤に染め抜
かれていくようだった。
やがて全身ががたがたと震え始めて、腕に力が入らなくなる。
何かを言葉にしたような気もしたし、言葉すら口にできなかったよ
うな気もした。
記憶の中の私は、確かに喉が裂けるほどの大声で泣き叫んでいるの
に。実際は、声すら出ていなかったのかもしれないと思う。
血に染まった両腕と、衣服が、先ほどまでの出来事を現実だと証明
しているのに、全てが曖昧だ。ぼやけた視界は元に戻らないし、ま
るで悪夢でも見ているような心地になる。
だけど、ぴくりとも動かない母の体に縋っていた私の腕を誰かが掴

415
んだことは覚えていた。
もう、死んでいる、と諭すような優しい声が聞こえた。もう、いい
んですよ、と。
意味も分からず首を振り続ける私に、今度は、﹁まだ死んでいない﹂
と叫び声が響く。
︱︱︱︱︱いや、違う。それを口にしたのは、私だったかもしれな
い。
強制的に母から引き剥がされて、あるいは引き摺られるように離さ
れて、絨毯の上に転がった。
私を掴んだその人が、わざとそうしたわけではないと分かっている。
私がうまく立てなかっただけだ。受身を取る余裕などなかったとも
言える。
震える足を叱咤して立ち上がれば、横たわる母の体を囲む侍従の姿
が見えた。
それはさながら、眠る聖母を囲む、聖騎士の図のようである。
その姿はまるで、私から、母を守ろうとしているかのようだった。
そしてそのまま、部屋から追い出されたのだ。
母の部屋の前に仁王立ちして、誰も中に入ることができないように
門番のような役目を果たしているのは家令である。いや、もしかし
たら、廊下に立ち尽くしていた私を見張っていたのかもしれない。
そこから動いてはいけません、とはっきり言われて、そもそも動く
気力もなかった私はふらりと壁に背中をつけた。そうしなければ、
すぐにでも倒れてしまいそうだったから。
いっそのこと気絶でもできたなら、その方が良かったかもしれない。
両足や両手は震え続け、歯の根は噛み合わず、極寒の地に放り出さ

416
れたような不安と孤独に苛まれる。
瞬きをする度に訪れる暗闇の向こう側に見えるのは、私を食い入る
ように見つめたまま息を止めた母の顔だ。そして、そこに響くのは、
彼女の呼吸音。
すうっと、何かを叫ぶ前のように大きく息を吸い込んだ。
知らない内に耳を澄ましている自分がいた。何事かを告げるのでは
ないかと。
だけど、それだけだった。そのまま、何もかもを呑み込んだまま、
生きることを止めたのだ。
﹁⋮⋮何で、どうして⋮⋮?、どうして、何、で⋮⋮﹂
どのくらい時間が経ったのか。
どうやら仕事を切り上げて帰ってきたらしい父が私の前を素通りし
た。
そして一度母の部屋に入り、数分もしない内に出て来る。
入るときは、貴族らしく従僕が扉を開けたというのに、自ら勢いよ
く扉を開けて出てきたその人は、私を見るなり右手を振り上げた。
理由さえ、問われることもなく。
ただ、殴られたのだ。
元々、さほどしっかりと立っていたわけではなかったので簡単に傾
いた体は硬い床に打ち付けられる。けれど、痛いという感情さえ湧
いてこなかった。
立ち上がろうとして両手をついたけれど、上半身が持ち上がらない。
凝り固まってしまったかのような関節は、ぎしりと頼りない音をた
てただけだった。
視界が滲んでいるのは涙が零れているわけではなく、母の返り血が
瞼にこべりついているからだろう。
顔に触れてみたけれど、いつもとは違う感触がする。かさついたそ
れは、飛び散った母の血が乾いてきた証に違いない。思わず手を握

417
り締めて、拳で頬を擦り上げる。
取れない、取れない、取ることが、できない。
私の顔に、母の血が、貼り付いている。
﹁何を、した。お前は、母親に、何をしたんだ﹂
久しぶりに聞く声だと思った。前に聞いたのがいつだったか思い出
せないほどに。懐かしいような哀切を伴うのに、初めて聞くような
不思議な声だった。
父は、娘を殴りつけたというのに激怒しているわけではなかった。
もしくは、怒りを押し殺しているのかもしれないが、その顔に滲ん
でいる感情が一体何なのか推し量ることはできない。
微かに違和感を生じ始めた頬に、その人が加減をしていたのだと知
る。
怪我をしてその任を解かれたようだが、元は近衛騎士としてその力
量をいかんなく発揮していた人だ。
全力で殴られていたなら、この程度で済むはずはない。
娘だからそうしたのか、単純に、異性だから加減したのか。恐らく
後者であると分かる。娘だからといって特別扱いはしない人だ。そ
れを、とっくの昔から知っていた。
﹁何も、私は⋮⋮何も、していません﹂
かろうじてそれだけを搾り出すが、自分でも、今まで何をしていた
のかはっきりと思い出すことができない。己が本当に、何もしてい
ないのかどうかさえ分からなかった。
確かに自分がやったのだと自信を持って言えるのは、母に問いかけ
たことだけ。
母に、シルビアのお茶に一体何を混ぜたのかと聞いたことだけだ。
結局、その答えすら得ることができなかった。

418
母は、私からその言葉を聞いたとき、一体何を思ったのだろうか。
意味の通らない言葉の羅列だった。言い訳めいて聴こえたけれど、
罪を告白しているかのようにも感じた。
そして、その全ての結末が、あれだ。
鋭く双眸を細めた父が、私の中に何らかの感情を見出そうとしてい
る。
この目は⋮⋮。
そうだ。妹を殺したと、ソレイルが責め立てたときのものとよく似
ている。
弁明しようと口を開くが、それらしき言葉が出てこない。そもそも、
何から説明すればいいかも分からなかった。混乱して動揺し、また
平静を装うことなどできそうもない。
このままでは、身の潔白を証明することもできないというのに。
己の立場を危ういものにしていると分かっているというのに。
弁明する為の言葉が浮かんでこない。
ソレイルに背を向けられたあのときと、重なる。
思わず手の平に視線を落とすけれど、感覚を失っているはずの指先
が震え続けていることさえ、同じだった。
唯一違うのは、この指も、手の平も、手首も、赤く染まっているこ
とで。
乾き始めたその液体が絡み合い、指と指を縛りつけている。まるで
それこそが、罪人の証であるかのように。だからこそ、両腕を縛ら
れ、牢に入れられた日のことを思い出す。
﹁⋮⋮手を、洗わせてください、﹂
思わず滑り落ちた言葉に、座り込んだ私を見下ろしていた父の目が
鋭さを増した。

419
再び、その拳が振りあがるのを、眺めているしかない。
こうして私は、どこかに堕ちていくのだろう。
﹁お待ちください! 旦那様!!﹂
声を張り上げてはいるものの、怯えと恐慌の混じる声だった。
その声に助けられたのだと知る。振り仰げば、その顔を真っ青にし
たマージが立っていた。
いつの間にここへ来たのか、それとも、家令が駆けつけたときに一
緒に居たのだろうか。
私と父の間に割って入るような格好をしている。
一介の侍女が、許しも得ずに声を発するのは不敬どころの騒ぎでは
ない。しかも、こういう只ならぬ状況で、その言動を制するなど。
少なくとも家令であれば、ある程度の権限は与えられているから、
罪に問われることはないだろう。けれど、その家令はただ黙って廊
下の隅に控えているだけだ。発言権があるからこそ、何も発しない。
何よりも主の意思を重んじるから。
﹁︱︱︱︱︱なんだ﹂
父は振り上げた手を下ろし、マージを見据えた。
てっきり激高するか、マージを押し退けるだろうと思っていたのに、
父は暗い眼差しで威圧するだけだった。年若い使用人であれば、そ
れだけで震え上がっただろうけれど、相手は古参の侍女だ。顔色を
失くしていても、その表情は凜と澄んでいる。不測の事態にも対処
できるほどに経験が豊富なのだ。
だからこそ、私の教育係となったのである。今はもう、シルビア付
きではあるけれど。
﹁お嬢様は関係、ございません﹂

420
震える声を呑み込むような、喉の奥から搾り出しただろう低い声だ
った。
﹁関係ないだと?﹂
それよりも一層、低い声を放つのが私の父だ。怒りを抑えているの
か、暴発してしまう寸前の不安定さが伴う。そんな父が一歩足を踏
み出したので、マージは自然と退行する格好になった。それだけで、
マージと私がいかに不利な状況かが分かる。
真実がどうであれ、伯爵である父がこの場で私を黒と断定したので
あれば、それは事実となるのだ。
けれど、マージは再び、前へと一歩踏み出した。
彼らは鼻と鼻を付き合わせるように対峙している。
﹁お前は何か見ていたのか﹂
父の低い声が問えば、マージは﹁いいえ、何も見ておりません﹂と
正直に答えた。
その返事に、恐らく問い詰めようとしただろう父が大きく息を吸う
音が響く。もしかしたら、怒鳴り声を上げるところだったのかもし
れない。けれど、それを許さないほどの気迫で、古参の侍女が声を
張り上げる。
﹁お嬢様は、誰かを傷つけるような方ではありません!﹂
予想外の言葉に、目を瞠った。
私を庇ってくれるような人間が居たことにも驚いているが、それが
彼女だったことも信じ難い。
これまでの、何度も繰り返してきた人生でも、さほど関わりがあっ

421
たとは言えない人間だ。幼少期は確かに教育係として傍に居てくれ
たが、親密だったかと言えばそれも違う。
今生だってそれは同じだ。
彼女はもはや妹の侍女で、私の侍女ではない。
家族でもないし、友人ですらなく、知人と呼んでいいのか迷うほど
の間柄でしかないのだ。
だからこそ、いくら私を庇ってくれたからと言って、単純に安堵で
きるはずもなかった。
彼女を信じたところで、裏切られる未来が簡単に想像できる。
それなのに︱︱︱︱︱。
指先の震えが、少しだけ、収まっていた。
﹁⋮⋮旦那様、差し出がましいことを申し上げるようですが、﹂
﹁何だ﹂
マージの言葉を繋ぐように声を上げたのは、この状況を静観してい
た家令だ。
父も、彼の言葉には耳を傾ける用意があるらしい。
﹁この状況を、もっと多角的に⋮⋮あるいは多面的に検分する必要
があるかと﹂
﹁⋮⋮﹂
それはつまり、この場で結論を出すのは時期尚早だということであ
る。
けれど家令は決して私を庇ったわけではない。そうするなら、もっ
と早くに声を掛けても良かったはずだ。
だからきっと、その言葉がマージのためだと分かる。
ある意味、主にたてついたといえる彼女の身を案じているのだろう。
家令が彼女の味方につけば、悪いことにはならないはずだ。

422
﹁お嬢様は動揺しておられるようですし、少し時間を置かれては?﹂
そう付け加えた家令の言葉に、父は黙り込んだ。そして、眉間に皺
を寄せ目を閉じる。
よく見れば、父の着ている上着の袖が黒く汚れている。恐らく、母
の血だろう。
この人も、母を抱きしめたりしたのだろうかと。ふと、そんなこと
を思った。
愛する妻の閉ざされた人生を嘆き、鼓動を止めた心臓に、それでも
耳を澄まして声を上げて泣いたりしたのだろか。
父の、年齢よりも若く見えるその顔を見つめながら想像してみるけ
れど、上手くいかない。
私を平手打ちにしたことは別として、妻を失った人間にしては、未
だに平静を保ったままにも見える。
1度目の人生で、シルビアが死んだと聞かされたときのソレイルの
反応をよく覚えているからこそ、そう思うのだ。
彼はあのとき、ありとあらゆる喜びや楽しみを断ち切られたかのよ
うな顔をしていた。
その瞳が暗闇の底に沈む憎悪に染まるのを目の当たりにしたのを、
昨日のことのようにはっきりと思い出す。だからこそ、父とソレイ
ルの違いが、こうもはっきりと分かるのだ。
父はまだ、絶望しているわけではない。
そのとき、沈黙の落ちた廊下に幾人かの足音と金属音が響いた。
振り返れば、父の護衛とアルが血相を変えて駆け込んでくる。
青褪めた私の護衛を見つめると、当たり前のように視線がぶつかっ
た。まだこの状況を把握していないだろう彼は驚愕に目を見開いた
まま、何か言いたげな顔をする。しかし、瞬時に唇を引き結んだ。
その様子に、彼が言葉を呑み込んだのがよく分かる。

423
父が居るこの場で、私を問い詰めるような馬鹿な真似はしない。
﹁⋮⋮旦那様、﹂とそっと声を掛けたのは父の護衛だ。
彼が父に耳打ちするのを、見守る。恐らく、火急の用件なのだろう。
父がはっと顔色を変えた。
﹁そうか、分かった﹂と肯き、家令に何事かを告げている。
はっきりとは分からなかったけれど、途中で切り上げてきた仕事に
関して何かあったようだった。
私の護衛ももしかしたら、この数時間は父の仕事を手伝っていたの
かもしれない。
それは、決して特別なことではなく、むしろいつもと変わらない日
常のはずだったのに。
このたった数時間で、ありとあらゆることが変わってしまった。
私はもう、元の場所に戻れない。
﹁︱︱︱︱︱お前は、部屋に戻れ﹂
やがて、仕事に戻らなければならなくなっただろう父が私にそう告
げた。
そしてすぐに踵を返す。返事をすることもできずにその様子を見守
っていると、﹁アル﹂と、父の護衛が振り返る。
私の護衛は、未だ廊下に佇んだまま私を見ていた。
﹁⋮⋮アル!﹂
焦れた様子の父の護衛が強い口調で、呼び寄せようとしている。
父はもう随分先を歩いていた。
﹁行って、アル﹂
﹁お嬢様、﹂
﹁行きなさい﹂
﹁しかし、﹂

424
﹁いいから行きなさい!﹂
そう声を上げた後、お願いよ、と頼りない声が漏れた。噛み締めた
唇が震える。威厳も何もあったものではなかった。だけど、このま
まこの場に留まることが、彼にとって良い結果を導くことなどはな
いはずだ。
アルがどこまでこの事態を把握しているのか分からないが、母のこ
とはまだ知らないだろう。
屋敷の中で何かが起こったことは耳にしていても、女主人が命を断
ったことは聞かされていないと思う。
ただ、ここに、血に塗れた私がいるだけだ。
けれど医師の診察を受けているわけではないから、私自身が怪我を
しているわけではないことにはもう気付いているはず。あれだけの
人数が居て、怪我をした伯爵令嬢を放置するはずないと、アルでな
くとも誰でも理解できる。
だからこそ、異常なことが起こっているように見えるはずだった。
アルは私の顔を見つめて、しばらく逡巡していた。
そして、何度も何かを言いかける。だから、それに対して私は繰り
返し首を振った。
彼が口にした言葉を、誰がどんな風に解釈するか分からない。それ
は多分、私たちにとって悪いことにしかならないはずだ。これまで
の経験上、必ずそうなると知っている。
﹁行きなさい﹂と、もう一度口にすれば、私の意志を汲んだのか彼
は振り切るように背を向けた。
これが、最後にならないように両手を強く握り締める。
願いなど叶うはずもないと知っているのに、それでも祈らずにはい
られなかったのだ。

425

﹁お嬢様、お湯を沸かしましょう﹂
許しが出るまで自室で待機しているというのは、事実上、軟禁され
たも同然だ。
部屋までの同行を担ったのはマージだった。
血に濡れたドレスのまま、震えの収まった指先を見つめる。爪の中
にまで、母の血が入り込んでいた。
閉ざされた扉の前で立ち竦んでいる私の前に、古参の侍女が立つ。
どういう指示が出ているのか、部屋の中には私と彼女だけだった。
﹁⋮⋮マージ、有難う、本当に⋮⋮﹂
指先を見つめたまま半ば呆然としたまま声を掛ければ、視界に彼女
の両手が映りこむ。
包み込むように手を握られて顔を上げれば、
﹁お嬢様﹂
思いつめた表情で呼ばれた。
初めて出会った日から、一体どれだけの年月が経過しているのだろ
う。彼女はいつの間にか年を取って、その相貌に薄い皺を刻んでい
る。だけど、それは彼女の魅力を損なうものではない。目尻や口元
の笑い皺も、いい年の取りかたをしてきたのだと分かる。
﹁私はお礼を言っていただけるほどのことをしたわけではございま
せん。本当のことを言ったまでです﹂
ぎゅっと力を込めて握られた指先が痛い。麻痺していたような手に

426
感覚が戻ってきている。冷えた皮膚に彼女の温もりが心地いい。
﹁それに、﹂
私より少しだけ背の高い彼女を見上げれば、頬に落ちた睫の影が震
えた。
﹁奥様から、伝言を、﹂
1つずつ息を呑むように言葉を切るマージが、こくりと唾液を嚥下
する。
は、と落とした彼女の息が前髪を揺らした。
﹁⋮⋮伝言?﹂
互いに声を潜めてしまうのは、誰にも聞かれてはならない話だと本
能で理解していたからに他ならない。
彼女のただならない雰囲気もそれを助長させた。
血に汚れた私の手を、何の躊躇いもなく握っている妹の侍女。
手を繋いでいるにも関わらず、本来の私たちはこれほどに近しい仲
ではない。
普段と何の変わりも無い室内で、私と彼女の存在だけが異質だった。
﹁いえ、でも先に、血を、流さなければ⋮⋮﹂
突然手を離そうとしたマージの指先を追いかけて、手首を掴んだ。
このまま有耶無耶にされるような気がしたからだ。それに、今この
瞬間を逃せば、彼女と2人きりになれる時間が巡ってこないかもし
れない。
きっと既に、扉の外には見張りが立っているはずだ。

427
ここまでついてきてくれた彼女だけれど、一度部屋を出てしまえば、
戻ってこれるかどうかも分からない。
﹁何か言われたの? 母から、何か、﹂
﹁⋮⋮﹂
血塗れのまま縋りつくような格好になってしまう。ここに他の人間
が居たなら、異様で、それでいて奇妙な姿に映るだろう。けれど、
自分を取り繕っている暇などなかった。
マージは私の顔から視線を逸らし、﹁お力になれず申し訳ありませ
ん﹂と力なく呟く。衣擦れの音が耳に響くほど静まり返っていると
いうのに、掠れて消えてしまいそうな声だった。
何に対しての謝罪なのかも分からないし、そもそも答えになってい
ない。
﹁もしも、奥様の身に何かがあったなら、これを渡すようにと申し
付かっておりました﹂
おもむろに、自身の襟元を寛げた彼女は、そこに指を差し込んだ。
﹁他の誰にも知られないように、隠し持っておくようにと、奥様は
そう仰っていました。そして、これを渡す相手は、時がくれば必ず
分かるからと⋮⋮﹂
いつから持ち歩いていたのか、彼女が胸元から取り出した封筒は端
がよれていた。
乱雑に扱っていたわけではないだろうが、しわも寄っている。
﹁お嬢様に渡すべきだと、今、はっきりと分かりました﹂
マージはそう言って、私の手に封筒を握らせた。
白い封筒に、赤く汚れた己の手がひどく目立つ。

428
母が何のつもりでこの手紙をマージに預けたのか分からない。だけ
どそれは、こういう日がくることを予見していたかのような行いだ
った。
いや、もしくは。
己の人生に見切りをつけるこの日を待っていたかのような、そんな
用意周到さである。
﹁けれど私は、内容を知っているわけではありません。もちろん、
この封筒の中身を見たわけでもございません﹂と、そう言い切った
彼女の言葉に嘘はないと思う。
信用しているわけではなく、ただ、彼女がそういう人間だというこ
とを知っているだけだ。
母が捜し出した有能な侍女であり、だからこそ母のことを裏切るよ
うなことはしないと。
﹁︱︱︱︱︱これは遺言なの?﹂
両手で挟み込めば、そこに温もりを感じる。それはただマージの体
温が移っただけなのだと分かっていた。
だけどそこに、母の存在を見出そうとする。⋮⋮見出そうと、して
しまう。
﹁分かりません﹂と、マージは小さく首を振った。
﹁私がその手紙を預かったのは、もう随分と前のことになりますか
ら⋮⋮どういう意図があったのか、分かりかねます﹂と。
だけど彼女は、それほど前に預かった手紙を、肌身離さず持ち歩く
ほど大事にしていたのだ。
﹁湯浴みの準備をいたします﹂と背を向けたその肩が小さく震えて
いる。

429
16
いつかの人生で、父の書斎から盗み出した一冊の小説。
それは、父とシルビアの母が題材になっていると思しき物語だった。
あの本の登場人物はさほど多くない。
隣国のお姫様と、彼女の護衛に選ばれた騎士。
︱︱︱︱︱そして、お姫様が母国から連れて来た侍女。
当然、三人だけで成立する物語ではないが、私の記憶に強烈な印象
を残したのは彼らだけである。
けれど、主役の2人が記憶に残るのは当然のこととして、脇役であ
り名前も出てこないような侍女のことを忘れることができないのは
不思議なことでもあった。
その容姿さえ語られることのなかった、凡庸な侍女である。
物語の中で彼女が成し遂げたことはそう多くも無い。そもそも彼女

430
がどのような役割を担っていたのかもよく分からないのだ。
ただはっきりしているのは、姫君が自ら選んで自国から連れ出した
人間だということだけだ。
﹃あの侍女さんは、可哀想だったけれど⋮⋮元気でやっているかし
らね﹄
遠くに視線を投げたままそう呟いたのは、この物語の作者である。
作者から聞きだした小説についての真実は、おおかた自分の予想通
りだった。そこに書き出されている騎士が父で、隣国の姫君がシル
ビアの母。本当は﹁隣国﹂ではなく、もっと遠い国だったようだけ
れど。
ともかく彼らは、許されざる恋に身も心も全て捧げたのだ。
それは運命的で、悲劇的であり、感動的でもあった。
そう。だから、彼らの恋愛が物語として成立するのだろう。読者は
彼らに夢を見ることができる。
本の中の彼らは紆余曲折を経たものの、結ばれて、永遠を誓う。そ
の先にはきっと幸福しか待っていないだろうと思わせるような結末
だった。
︱︱︱︱けれど、物語とは違い、現実世界で父と姫君が結ばれるこ
とはなかった。
姫君は、母国に帰ったのだから。
﹃そもそも母国で起こった内乱から逃げ出してきたわけだから、そ
れがうまく収まったら国に帰るとこは初めから決まっていたの。彼
女はただの少女だったけれど、紛れもない王族で、産まれたその瞬
間から王家の血を引く者としての責務を負ってる。それからは決し
て逃れることができない。国に戻れば王族としての公務が待ってる﹄

431
騎士と姫君は身分の差故に結ばれることはなかった。端的に言えば
そうなのだけれど、事態はきっともっと複雑だったのだろう。
﹃だけど、それは仕方ないことだしね﹄と、作者は息を落とす。
問題はその後に起こった出来事なのだと。
﹃国へ戻ることになったお姫様は、自分の愛した男が他の女と結ば
れることを許さなかったのよ﹄
鼻を鳴らして嘲笑うように吐き捨てた女性は、不審なほどに彼らの
ことをよく知っていた。そんな私の心情を察したのか、物書きには
物書きのための、社交場のようなものがあると言っていたのを覚え
ている。そこで様々な情報を得るのだと。
本当にそんな場所があるのか知らないし、もしかしたらでまかせな
のかもしれないとも思う。
ただの噂話や他人から得た情報を元に書いたにしては、やけに詳細
だ。いっそのこと元関係者だと名乗ってくれたほうがすっきりする。
けれど、身元を明かしたくないらしい彼女の意思を尊重することに
した。重要なのは彼女が何者なのかではなく、彼女の書き出した物
語が一体何を意味するのかということなのだから。
﹃お姫様はね、こう考えたの。愛する騎士様を、名前も顔も知らな
いような女に奪われるくらいなら⋮⋮いっそのこと自分の身代わり
と結婚させたほうがいいってね﹄
彼女は饒舌に語った。これはあくまでも想像の話で、決して真実で
はないのだと免責を打って。
けれど、姫君の身代わりとして騎士に嫁いだ女性は、他にも役目を
負っていたのかもしれないと続ける。
もしかしたら、そのもう1つの役目のほうが重要だったのかもしれ

432
ないと。
﹃監視だったのよ、きっと﹄
それは、話しの流れから既に想像していた答えだった。
私自身、伊達に貴族の令嬢として生きてきたわけではない。彼らの
置かれた立場がどれほどに難しいものであったのか、また、その周
囲に居た人間がどのような思惑で動いていたのか理解できないわけ
ではなかったのだ。
小説に書き出されることのなかった姫君と騎士の、真の行く末は、
幸福とはほど遠い場所にあった。
ここで耳を伏せてしまえば、夢見たとおりの結末で終えることがで
きる。真実の愛には身分など関係ないのだと大声で叫ぶことだって
できただろう。
だけど、現実はいつだってそう甘くはない。
﹃騎士が道を違えることのないように監視する人間が必要だったの
よ。それは多分、お姫様自身が望んだことではないでしょうけれど。
彼らの事情をよく知る人間は、騎士が、間違っても国を越えること
がないようにしたのね﹄
﹃⋮⋮国を越える?﹄
﹃姫君と出奔するために、もしくは姫君を浚うために、彼が国を越
えることだって有り得るでしょう? だってそれほどの恋だったの
だから﹄
何もかもを捨ててもいいと思えるほどの、そんな想いを抱いてしま
った人間は何をしでかすか分からない。だからこそ、楔が必要だっ
たのだろうと、彼女は言った。
つまり、父が簡単に身動きできないようにするための﹁何か﹂が必
要だったのだろう。

433
己の身代わりとして別の女性を差し出すという、姫君の身勝手極ま
りない願いが叶ったのもそういう理由からだった。
けれどそれは父と姫君の二人にとっても悪い話ではなかったはずだ。
身代わりに選ばれた女性が姫君と縁のある人間であれば、その女性
を通して、秘密裏に互いの近況を知ることができる。
そんな風に姫君が自分の身代わりとして騎士に与えた一人の女性。
それこそが姫君の侍女であり、︱︱︱︱︱私の母だったのだ。
姫君を愛してしまった騎士の監視人として、たった一人異国の地に
残された母。もう二度と故郷の土は踏めないだろうといい含まれて
の結婚だったようだ。政略結婚という名に相応しく、責任と義務だ
けを負わされたかわいそうな人。政治的な戦略の駒となってしまっ
たその人は、生涯を姫君と騎士に捧げることとなった。
だけどもしも、話しがそこまでで終わっていたなら。
母にも微かな希望が生まれたかもしれない。
実際、私は今の今まで、父と母は相思相愛だと思っていたくらいだ。
初めは貴族同士によくある政略による結婚だったとしても、長年一
緒に過ごす間に、親愛という情が生まれたのだと信じて疑わなかっ
た。それほどに、彼らは仲睦ましい夫婦を演じきっていたのだと言
える。
誰もが羨むような、仲の良い夫婦を。
父は母を慈しみ、母は父を敬愛する。恋に始まった関係ではないけ
れど、愛に終わる2人だと、思い込んでいた。

薄い墨を塗りたくったようなどんよりとした暗い空に、鐘の音が響
き渡る。
その場に居た、幾人かの人間が従者に持たせていた傘を避けて顔を

434
上げた。音階があるわけでもないのに、目を細めて感じ入っている
ようだ。
けれど私は、低く持っていた傘をいっそう下げて、顔を伏せる。
彼らのように感慨にふけるようなことはできなかった。
﹁鎮魂の音ね﹂
誰かがそっと呟く。
広大な伯爵家の庭の隅に運び出されたのは黒い棺だった。装飾を施
した特別な棺を用意してもらうこともできただろうに、父はそうし
なかったようだ。
艶のある棺の上を滑るように鐘の音が鳴り続ける。
けれどそれは当然、母のために鳴らした鐘ではない。毎日同じ時間
に鳴っている鐘であり、金銭的な問題から時計を持つことのできな
い人のために鳴らしているものである。
普段は聞き流している音なのに、今日だけは、やけに耳についた。
優しい音だと思っていたそれが、ガラスを叩きつけるような音に聞
こえる。
カンカンと音が響くたびに、何度も割れて粉々に砕かれるガラスの
様子が目に浮かぶようだった。
尖った破片があちこちに突き刺さっているようだ。腕にも足にも、
顔にも。だから私の目には、両手が赤く染まって見えるのだろう。
﹁⋮⋮お姉さま﹂
地面に落ちる雨粒が足元の泥を跳ね上げる。つま先が汚れていくの
を一心に眺めていれば、視界に影が落ちた。
顔を上げれば、陽射しもないのに輝いて見える銀色の髪が視界に入
り込む。
従者が傾けた傘の下で、妹はじっと私を見つめていた。

435
私たちの前には、母の納められた棺がある。既にふたは閉ざされ、
その上に母の愛した薔薇が飾られていた。その上にも容赦なく雨粒
が降り注いでは地面に落ちていく。
その向こう側には父が居て、弔問客の対応をしていた。
公には病による急死となっているので、訪れる人達もそれを信じて
いるようだ。そもそもそれを疑う理由もない。他人による母の評価
はつまり、面倒事に巻き込まれて誰かに害されるような人間でもな
ければ、自ら死を選ぶような人間でもないのだ。
あくまでも静かな葬儀を望んだ父のために限られた人間だけが顔を
出している。けれどこれぞ母の人望というのか、少ないとは言えな
い人数が集まった。入れ替わり立ち替わり父の前に立ち、憐れみと
慰めの言葉を掛けている。
雨音に混じった囁き声が耳を掠めたけれど、内容は聞き取れない。
すぐ近くに居るというのに不思議なことだと首を傾げつつ、いつの
間にか鐘の音が止んでいることに気付く。
けれど多分、そんなことを気にしているのは私だけだ。
朝から小雨が降り続けているので視界がけぶり、白く霞んだ景色の
せいで、どこか遠くの出来事のように思える。
﹁本当なの⋮⋮? お姉さま﹂
真っ直ぐに私を見つめるその紫眼を覆う銀の睫に水滴が乗っていた。
つい先ほどまで泣いていたのだろう。今は、目尻を赤く滲ませるだ
けで、何とか堪えようとしているのが分かる。
はっきりと私を責め立てる眼差しをして、﹁本当なの?﹂ともう一
度口にした。
普段は、いつまでもその余韻が残るような愛らしい声をしているの
に、今日は少し印象が違う。
乾いたような、何か足りないような⋮⋮、もしもその声に温度があ
るのなら、きっと冷たいのだろうと思わせた。青褪めた唇が、まさ

436
しくそれを証明している。
﹁私の部屋から、お母様が煎じてくれた茶葉を持ち出したの?﹂
未だに夢の中で彷徨っているような心地だというのに、シルビアの
言葉はきちんと理解できた。
決して覚めることのない悪夢の中に居て、妹の声だけは、現実のも
のだと認識できる。
﹁お姉さまは、そんなこと⋮⋮しないわよね?﹂
この屋敷ではもはや隠し事すらできないのかと嘆息しそうになった。
父が話したのか、もしくはあの場に居合わせた侍女か侍従が口を滑
らせたのか。使用人が、明らかに口外すべきではない一大事をぺら
ぺらと喋るのは決して許されることではないが、相手がシルビアで
あればその限りではない。
なぜなら、この家の最優先事項はシルビアだからだ。
きっと良かれと思って、誰かが妹に話したのだろう。
貴女の姉は、盗人なのだと。
﹁︱︱︱︱︱どうして?﹂
不安げに揺らぐ目で私の顔を見つめているシルビアに問う。
どうして、と。
まさか問い返されるとは思わなかったのだろう。呆気に取られたよ
うな顔をした妹は﹁⋮⋮え?﹂と言ったまま固まった。
行き場を失った妹の指が宙を彷徨う。
﹁どうして、そう思うの? 私がお茶を盗んでいないって。どうし
て、私を信じられるの?﹂

437
誰から聞いたか分からないけれど、その人の言うとおりかもしれな
いわよ。と続ければ、弾かれたように目を見開いたシルビアがくし
ゃりとその相貌を歪める。
一流の職人が丹精込めて作り出したような美しい顔。その顔は、彼
女の母親にひどく似ている。
﹁だって、お姉さまはそんなことしないわ。絶対に、絶対に、そん
なことしたりしない。お姉さまが、お母様に何かしたかもしれない
って、皆、皆、そう言うけど、﹂
最後は声にならずに潰れて雨音の中に消えた。
やはり、父はともかくとして屋敷中の人間が、私を疑っているのだ。
自室からの軟禁が解かれたのも、母の葬儀が行われる今日一日だけ
であるし、明日からどうなるのかも分からない。父とは、母の部屋
の前で対面したきりで、それ以降顔も見ていなかった。
てっきり家令か、もしくは他の誰かに、母が死んだときの詳細を聞
かれると思っていたのに。それすらなかった。
もう既に何らかの結論が出ているのかもしれないと思う。
﹁お姉さまは、本当は、優しい人だって知ってるもの⋮⋮っ﹂
華奢な体躯のシルビアを守る傘は他の人が持つものよりも大きく見
える。
そのせいか、シルビアの控えめな泣き声に気付いた人間はあまり多
くなかった。目敏い父は愛娘の異変に気付いているが、弔問客を対
応している最中なのでこちらに来ることはできない。
ただ、私に鋭い眼差しを向けてくるだけだ。
しかしここは葬儀の場であるから、悲しむシルビアの姿に過剰な反
応を示すのはおかしなことである。母の死を嘆き悲しんでいるよう

438
なその様子は、むしろ自然なことだと言っていい。
それなのに、シルビアの前に立っているのが﹁私﹂だというだけで、
父は警戒心を抱くようだ。
私だって、父の娘であることには変わりないのに。
彼の頭の中ではきっと、辛らつな姉にひどいことを言われている妹、
という構図が出来上がっているのだろう。
一体いつからこうなってしまったのか。
いや、もしかしたら、初めからこうだったのかもしれない。
私たちは、生まれたそのときから、寄り添って生きることが許され
ない姉妹だった。
﹁︱︱︱︱︱どうした?﹂
いつからそこに居たのか、シルビアを覗き込むような体勢で立って
いるのはソレイルだ。傘を差すこともなく、傍に侍従を置いている
わけでもない。少しでもシルビアとの距離を詰めるためなのかもし
れないと、寄り添うように立つ2人を見て思う。傘を差していた侍
従が気を利かせて、僅かにソレイルの方へ傘を傾けたから彼らは肩
が触れるほど近くなる。
先ほどまで弔問客に混じって父と話しをしていたはずの彼がここに
いるということは、父から何か言われたのだろう。シルビアの傍に
いてほしいと、頼まれたのかもしれない。
こんなときだというのに、母の葬儀だと、分かっているのに。
ソレイルの存在は、私の心臓を緩く締め付ける。
﹁⋮⋮イリア?﹂
名前を呼ばれたけれど、下がってしまった視線を元に戻すことがで
きなかった。

439
今日、今このときだけは2人の姿を見ていたくなかったのだ。
シルビアを庇うように少しだけ前に出て私を見つめているその視線
を受け流すだけの気力がない。
母の死を、悲しみたい。
母の死を、悼み、嘆きたいのに。
そうできない自分がいる。そして、そんな自分を持て余しているか
らこそ、彼らの前で平静を装う自信がなかった。
﹃ごめんね、イリア﹄
唇から血を零しながら、それでも私に謝罪の言葉を述べながら絶命
した母。
その声が何度も甦る。
人身御供同然にこの国に嫁いだ母だけれど、貴族の責務を果たすべ
く父の子を産んだ。そこには当然、選択肢などない。彼女に課せら
れた義務の1つだったのだろう。
それは貴族に嫁いだ女性なら誰でも果たさなければならない仕事で
もある。
敬愛する姫君の身代わりとして父に尽くし、子までなした母の心情
は、他の誰にも図りえない。
あの悠然たる笑みの下に、全ての感情をしまいこんでいたのだと簡
単に推察できる。かつてカラスが言った通り、全てを諦めた人間に
残されたのは笑うことだけなのだと、私にも理解できた。
事実、彼女の残した手紙には短く、こう記されていたのだ。
﹃子供を身籠ったときの不安と動揺を、どう表現していいのか分か
らない。喜ぶべきだと分かっているのに、心は既に疲弊していた。
けれど、産まないわけにはいかなかったのだ﹄

440
生まれ故郷を捨てざるを得なかった母のその孤独や不安が、どうし
ようもなく理解できる。現実を受け入れるのに精一杯な状況の中で、
更に妊娠したとなれば、追い詰められたような心境になるのも当然
だ。
私がただの貴族令嬢であればきっと分からなかっただろう。この国
で生まれ育ち、家族も傍にいる。故郷を捨てざるを得ない状況に立
たされたこともなく、順調にいけば、初恋の男性に嫁ぐことができ
たはずなのだから。
だけど、何度も同じ時間を繰り返して。
他の誰にも本音を打ち明けることもできずに、助けを求めたはずの
手は何も掴めず、呼吸をすることさえできなくなりそうな辛い現実
に打ちのめされてきたからこそ。
だから、母がその身に血を分けた子供を宿したときの気持ちが、よ
く分かる。
純粋に喜びだけを抱くには、現実が、あまりにも過酷で。
﹃生まれてきた赤ん坊の顔を見て、喜びよりも安堵の方が勝った。
けれど、それで良かったのだと思う。私は私なりに、現実を受け止
める覚悟を決めたのだから﹄
母はそう語っている。そして、この子を守って、夫を支えて生きて
いこうと誓ったのだと。
けれど、運命はどうしようもなく残酷だった。
母の手紙には、小説の作者でさえ知ることのできなかった事実がし
たためられていたのだ。
それは多分、母でなくとも受け入れ難い現実だったと思う。
彼女にとってはまさしく青天の霹靂と言ったところだったろう。何
せ、表向きには父との決別を誓ったはずの姫君が、再びこの国に足
を踏み入れたのだから。

441
今度は亡命などではない。ただ父に会うためだけに、国を越えてき
た。
その後に起こった出来事を想像すると、必然的に己の過去を思い出
す。
ソレイルの子供を身籠ったことや、シルビアが妊娠したと告げられ
たときのこと、産み落とした子供を抱くことができずに息を引き取
った瞬間のことや、そういった様々な出来事を。
つまり、姫君がその身に父の子を宿したのだ。
シルビアという至宝を。
﹁私が盗んだのよ、シルビア。私が貴女から盗んだの﹂
﹁⋮⋮どうしてっ、﹂
﹁だって、貴女だって、盗んだじゃない﹂
嗚咽を漏らしたのは、多分、私だ。
だけど泣いているのはシルビアの方で。私は何もしていないし、お
姉さまだってそんなことしない、と言い続ける。
﹁全部、全部、貴女が盗んでいった﹂
﹁いいえっ、お姉さま、私は何も⋮⋮っ、何も盗んだりしていない
わ⋮⋮!﹂
たった数ヶ月違いで生まれた私の妹。その誕生を、父がどれだけ喜
んだのか想像するまでもない。
現在の献身ぶりからしても、それが手に取るように分かる。妻の子
ではないだけに、盛大に祝うことはできなかっただろう。だけども
しかしたら、屋敷の中では違ったのかもしれない。

442
﹃市井の女性が身籠ったことにして、姫様はひっそりと旦那様の子
を産んだ。けれど、旦那様は決してシルビアの存在を隠すことなど
なかったし、その両腕に抱き上げて慈しんでいた。それを見守る姫
様の顔も、この世の幸福を全てそこに集めたのではないかと思える
ほどに満ち足りた様子で笑う彼らの姿も、よく覚えている﹄
真っ白な便箋に並ぶ美しい文字が、少しだけ歪んでいた。
母は、父に寄り添う姫君と、その2人が大切に抱く小さな赤ん坊を
すぐ傍で見ていたのだ。
その腕にはもしかしたら、生まれたばかりの私が居たのかもしれな
い。
﹁シルビア、貴女が、私から全部、何もかも⋮⋮っ、奪っていった
の。盗んだの。そして、これからも⋮⋮私から全部奪うのよ⋮⋮!﹂
長女である私が、初めから外に出されることが決まっていたのは、
病弱なシルビアのためだった。
家を継ぐのはシルビアの夫となる男性で、もしもシルビアに何かあ
った場合は父の弟が家督を譲り受けることになっている。けれど、
それが全て建前であることにも気付いていた。
父はただ単に、シルビアを手元に置いておきたかっただけだ。シル
ビアをこの屋敷に留め置くために、私をどこかへ嫁がせることにし
たのだろう。
それは例えばシルビアが今、学院で誰かに見初められたとしても状
況が変わるわけではない。
相手の男性が婿としてこの家に入り、家督を継ぐだけだ。
父と母の間に生まれ、貴族の子女として育ち、何不自由なく育って
きたけれど。
そんな風に、誰もが羨むような生活を送ってきたに違いないけれど、
本当は、何も持っていなかった。

443
﹁イリア⋮⋮、一体、どうしたんだ⋮⋮!﹂
ソレイルの指が伸びる。私の腕を掴もうと、傘を持つ侍従を押し退
けてこちらに向かってきた。
﹁触らないで!!﹂
そんな手で、触らないで。
そんな美しい手で、母の血を浴びたこの体に触れないで。
﹁私に、触らないで⋮⋮!!﹂
身を翻して、2人から距離をとる。
右手から滑り落ちた傘が地面に転がって、境界線を引くように私と
ソレイルを隔てた。
僅かに勢いを増した雨の中、ソレイルは未だに私の方へ歩み寄ろう
としている。
けれど、その背後から伸びてきた細い腕がそれを許さない。
涙に濡れた顔でソレイルを制したのは、妹だ。彼が私に近づくのを
止めようとしている。
﹁お兄様、﹂
地面を打ち付ける雨音の中でも、そう呟いたシルビアの声がはっき
りと聞こえた。頼りなくて、甘く、ふわりと纏わりつくような声だ。
誰もがきっと、振り返る。
泥に足を取られてよろめいた妹の気配に誰よりも早く気付いたのは
やはりソレイルで。
片手で妹を抱きとめる彼の横顔を見つめるしかない。
その手が、私を抱きしめる為にあるわけではないと知っている。

444
そして、その手が、私を守るためにあるわけではないこともよく分
かっていた。
その手はいつか、穢れを知らずに育った私の美しい妹を選ぶのだ。
﹃この先、ずっと仲良くしていこう﹄と、いつかのときに約束して
くれたその手が、離れていくのを、止める術はないのだから。
﹁私は、私は、一体、どうすればよかったの⋮⋮っ、どんな風に生
きれば、何をすれば、良かったの⋮⋮、何で、誰も、傍に居てくれ
ないの⋮⋮?﹂
空が一瞬、白く染まって視界がぶれる。
数秒遅れて雷鳴が鳴り響いた。雨足が強くなり、ずぶぬれの棺が視
界の隅に映り込む。
もう苦しむことなどないはずの母が、大声で泣き叫んでいるようだ
った。
おおらかな笑みで、あらゆる感情を飲み込んで生きてきたはずの母
は、最期の最期に本音を吐き出した。
﹃ごめんね、イリア﹄
﹃⋮⋮私、一度も、貴女を、﹄
苦しくて苦しくて、どうしようもなくて、吐き出してしまわなけれ
ば目を閉じることもできないと言っているように。私の顔を一心に
見つめて、鉛でも吐き出すかのように咳き込んだ。
﹃⋮⋮私、一度も、貴女を愛せなかった︱︱︱︱︱﹄

445
だから私は、母が息を引き取るその瞬間まで目を離すことができな
かったのだ。
もしかしたら、その言葉を訂正してくれるのではないかと、期待し
てしまったから。最期に一つだけ大きく息を吸い込んだ母が﹁冗談
よ﹂と笑ってくれるかもしれないと思ったから。
本当はとても愛しているのだと、最期くらいはそう口にしてくれる
かもしれないと。
だけど母は、そのまま呼吸を止めた。
﹁本当は、最初から、何も持ってなかったのに。それでも、全てを
持っていると思い込んで、愛されているんだって信じ続けなければ
いけなかった私の気持ちが、分かる?﹂
﹁お姉さま、﹂
﹁愛されていないと知っていたのに、愛されているはずだって、そ
う、言い聞かせて生きてきた⋮⋮、私の気持ちが、貴女に分かる⋮
⋮?﹂
両腕で自分の体を抱きしめる。
自分以外に、私を抱きしめてくれる人間はいない。
ソレイルに縋りついたままの格好で私の顔を見つめているシルビア
が、いっそう顔を歪めて、わなわなと唇を震わせている。
だけど、その子は、私の婚約者の背に隠れていた。
﹁︱︱︱︱︱イリア!!﹂
弔問客から離れて、怒鳴り声を上げた父の声が聞こえる。妹を泣か
せていると、そう思っているのだろう。
そしてそれは間違いではない。
だけど、私だって、泣いているのに。

446
足早にこちらへ向かってくる父と、それを追いかけるように走るア
ルに顔を向けたそのとき、再び空が真っ白に染まった。
地面が震えるほどの轟音が鳴り響く。
空が割れてしまったのかと思えるほどの音に顔を上げれば、ひらり
と黒い羽根が落ちてきた。
瞬きもできずに、ひらひらと踊るように舞うその羽根を目で追う。
﹁⋮⋮カラス、っ﹂
その名を呼んだ途端に、いくつもの羽根が落ちてきて、視界を真っ
黒に染めていく。
そうだ、それでいい。もう、こんな世界終わってしまえば。
﹁ねぇ、カラス⋮⋮っ、どこに、いるの﹂
閉ざされた視界の向こう側に、声が聞こえる。
﹃複雑に絡み合って解くこともできそうもない糸を真っ直ぐに伸ば
すには、はさみで切って、結びなおすしかないんだよ﹄
447
17
ばちん、と何かが千切れる音がした。
それはまさしく、何かをはさみで切断するような音だったと思う。
咄嗟に音の発生源を探そうとするけれど、視界を塞いでいる黒い羽
根が暗闇を呼び、何も見えない。
目を閉じているのか、開いているのかも分からなかった。
叫び声を上げそうになったけれど、優しい声に制される。歌ってい
るような、囁いているような声だ。
﹁あの子は私の大事な大事なお姫様なのよ、イリア﹂
もしくは、諭すような威厳のある声でもあった。
母の声だと、わざわざ確認するまでもなく分かる。

448
あのとき、私は鏡越しに母の顔を見ていたはずで、彼女もまた私の
顔を見ていたはずだ。
けれど、その表情をはっきりと思い出すことができない。
笑っていた? 憂いを帯びていた? それとも、いつもと同じく慈
愛に満ちた顔をしていただろうか。
﹁おかあさま﹂
今度は、幼子のように心許ない声が聞こえた。思わず手を伸ばして
抱き上げたくなるような切なくて悲しい声だ。
真っ黒に沈む闇の中に伸びる小さな手。
何かを探すように、あるいは何かに別れを告げるように、右へ左へ
と動いている。もがいているように見えるのは気のせいに違いない
が、溺れていると感じたのはあながち間違いではないだろう。
誰かが、その手を掴んでくれることを祈った。
私にできることはそれくらいしかないから。
可哀想なあの子の小さな手を、誰か掴んであげて。
﹁︱︱︱︱︱毒薬ではないわ﹂
何? 今、何て言ったの? よく聞こえない。
拳で机を殴りつけるような、ガン、ガン、という音が響く。
耳を塞いでしまいたい衝動にかられるけれど、それが、己の内側か
ら聞こえていることに気付いた。
規則正しく響くその音に合わせて、体が震えている。心臓の拍動が
響いているのだと、分かった。
このままでは心臓が潰れてしまう。そう思うのに、引き攣れるよう
な痛みに成す術もなく耐えるしかない。

449
はくはくと喘ぐように唇を動かせば、ごくりと唾液を嚥下する音が
響いた。
﹁だから、死んだりしない。貴女が心配しているのはそういうこと
でしょう?﹂
鏡台へ歩み寄る母の後ろ姿が見える。
はっと大きく息を呑んだ音が糸くずの1つも落ちていない絨毯に吸
い込まれていった。
鏡に映るのは、母と、その背中を見つめる己の姿だ。その揺れる眼
差しには覚えがある。不安そうで寂しそうで、悲しい。自分の顔だ
というのに、他人のそれを見ている気分だった。
私はこの光景を見たことがある。
あのとき私は鏡越しに母の顔を見ていた。似ているようで、似てい
ない。だけど、どうしようもなく似ている。そんな気がして。
だから見落としたに違いない。
引き出しをほんの少しだけ引っ張って、指先が入るほどの細い隙間
から﹁何か﹂取り出したのを。
同じ場面を二度見ているからこそ、その些細な仕草がどれほど重要
な意味を示すのかが分かる。
先ほどから強く脈打っている心臓が、一層大きな音をたてた。
ぐらぐらと揺れ続けていた視界が静寂を取り戻し、絨毯を踏み締め
ている足裏の感覚が戻る。
吐き出した息が、確かに空気を震わせて、自分が今ここに存在して
いることを実感した。
︱︱︱︱︱時間が、戻った。
何か証拠があってそう思うわけではないし、長い夢を見ていたとも
考えられるが、決してそうではないと理解できる。だって私は、こ

450
の感覚を何度も経験してきたのだから。
瞬きを繰り返す度に、己の肉体に五感が宿る。それはまさしく、赤
ん坊が母親の胎内から取り出されたときと同じ感覚かもしれなかっ
た。覚えているはずもないのに、そう思う。
風もないのに、皮膚が空気に触れたことが分かった。ぼやけていた
視界がはっきりと陰影を刻み、水面から顔を出したその瞬間のよう
に、ふっと聴覚が戻る。
﹁学院に通い始めてから、あの子は元気になった。そう、前よりも
ずっと、元気に﹂
聞き覚えのあるセリフだ。それも当然である。﹁前﹂に1度、聞い
ているのだから。
髪型も服装も、立ち姿すら忘れることができず、この目に焼きつい
て離れない。傾いた夕日がその役目を終えようとしていたまさにそ
のとき、彼女は己の首を掻き切った。
その、永遠に失ってしまったはずの人が今、目の前に居る。手が届
くほどの距離に立っていた。
1度目の私はこのとき考え事をしていて、禍事への予兆を見逃した
のだ。
既に正気を失い、私の顔をぼんやりと見つめている母の右腕が僅か
に強張る。ぴくりと震えた肩が、それを証明していた。
それは恐らく、右手に握り締めた﹁何か﹂を振り上げる前の予備動
作だったのだろう。
今ならそれがよく分かるし、だからこそ、ほんの一瞬でも躊躇うこ
とは許されない。
その﹁何か﹂は夕暮れの薄闇にひっそりと浮かぶ、白い月に似てい
た。ゆらりと震えるように光を反射し、夜を切り裂く。
﹁おかあさま﹂

451
暗闇の中で聞いた幼い声が、母を呼んだ。
幻聴なのか、それとも己が発した言葉なのか判断はつかなかった。
﹁だけど駄目なのよ、それでは。それでは、駄目な子なの。そうな
っては、いけないのよ﹂
その言葉が合図だったような気がする。
金縛りが解けるように、硬直していた体が自由になった。
ほとんど体当たりするように母の右腕を掴む。元々華奢だったけれ
ど、そこには弾力がなく、骨をそのまま掴んでいるかのような感触
だった。
いつの間に、こんなに痩せていたのか。
すぐ傍でうめき声をあげたのは私か、母か。
とにかく、母が右手で己の首を掻き切るのを防ぐことには成功した。
きっと、私がそんなことをするとは思いもしなかったのだろう。案
外あっさりとその腕を拘束することができたのだ。
︱︱︱︱︱あれほど、凄惨な死を遂げたというのに。
本当は、これほど容易に防ぐことができた。
﹁⋮⋮っ、お母様、﹂
思わずその名を口にしたけれど、何を言葉にすればいいか分からな
い。
抱え込んだ細い体ともつれ合うようにして絨毯の上に倒れ込んだ。
投げ出された母の右手がナイフを落とす。絨毯の上に転がったそれ
を腕で払い、母の手が触れない所まで遠ざけた。
そして、母の体に乗り上げるようにして、彼女を拘束する。
確かにほんの少しは抵抗されたのだけれど、暴れるほどではなく、
やがて母の背中が脱力したのが分かった。その体を強く強く抱きし

452
めながら、嗚咽を零しそうになって唇を噛み締める。
こんなにあっけなく、こんなに何事もなく、こんなに簡単に、止め
られたのに。
あのとき、私の母は死んでしまったのだ。
﹁どうして⋮⋮っ、どうしてなの⋮⋮?﹂
震える喉が上手く空気を吸い込めずに、結局しゃくりあげてしまう。
子供みたいな、幼稚な泣き方だ。こんな風に泣きたくはないのに、
抑えることができない。
﹁どうして、﹂死んだりしたのかと、問いただしそうになる。
今ここに居る母は、生きて、呼吸をしているというのに。
﹁貴女が、それを言うの?﹂
先ほど自害を試みた人間とは思えないほど冷静な声が、私に問いか
ける。
思わず両手を緩めれば、母が私の下で身を捩り﹁⋮⋮貴女が⋮⋮、
それを言うの⋮⋮、﹂とうわ言のように繰り返した。
頬と頬が触れ合うほどの至近距離で見つめ合う。
﹁貴女がシルビアをこの家から出したのよ﹂
﹁⋮⋮な、に?﹂
一体、何を言っているのかと問おうとして失敗する。言葉が上手く
吐き出せなかった。
﹁貴女がそうなるように仕向けたんじゃない。貴女がシルビアのた
めだと熱弁を奮った日のことを忘れたことはないわ。﹁あの﹂旦那

453
様だって感銘を受けていたもの。他の誰にも心を動かされたりしな
いはずなのに、貴女がそれほど言うのならと、シルビアが学院に通
うことを了承した。だけど、貴女は知っていたのよ。旦那様を、ど
うすれば意のままに操られるのか。
⋮⋮そう、貴女は誘導したの。旦那様を。そうでしょう?﹂
私の﹁どうして、死んだりしたのか﹂という問いに対する答えを母
は、持っていない。
当然だ。彼女は、死んだりしていないのだから。
それは、良い事だ。︱︱︱︱︱良い事のはずなのに、拭い去ること
のできない不安に喉元を塞がれているような心地になる。
何度も何度も繰り返してきた人生の中で、思い通りにできたことな
んて、ほとんどない。
何かを望めば望むほど道は逸れ、折れ曲がり、落下していく。そし
て軌道修正することなど叶わなくなっていくのだ。
けれど私は今、母を助けるという望みを果たし、己の望むとおりに
﹁過去﹂を修正することができた。
初めて、何かをやり遂げたと言えるかもしれない。
﹁貴女は本当に、上手くやったわ﹂
その言葉だけを切り取れば、褒められていると勘違いしそうになる
けれど。
新緑の瞳に浮かんでいるのは、非難の色だ。
私は、また、何かを間違ったのではないだろうか。
﹁旦那様は⋮⋮シルビアのことを愛しているの。いいえ、シルビア
の母君を。姫様を⋮⋮。だからいつだって、あの方の望むとおりに
なさるのよ﹂

454
けれど、1つ瞬きをして開かれたその瞳は、陶酔しているような色
を浮かべていると、思った。
父が異国の姫君を愛するように、この母もまた、主君である姫君に
心酔しているのだ。
そもそもその方の為に故郷を捨てる羽目になったというのに、母は
もしかしたら、未だに姫君の侍女であるかもしれない。
﹁シルビアが学院に通いたいと言ったのです、お母様。だから私は、

﹁いいえ、いいえ、違うわ。だってあの子は諦めていたもの。この
屋敷から出ることを﹂
私の顔を見上げる碧の目に、暗い影が差す。
光の滲んだ瞳が朝露を浴びた新緑のようだと、母の友人がそう褒め
そやしていたのを聞いたことがあった。
母はいわゆる﹁社交界の華﹂ではなかったけれど、そう呼ばれる人
の横に立っていても劣るということはなかったと思う。特に秀でて
いたわけではない。だけど、特別な人なのだ。
その人の瞳が、暗く淀んで、濁っていく。
︱︱︱︱︱私、今まで、自分がもう死んでいるような気がしていた
の。
いつかの人生で聞いた妹の言葉を思い出した。
翳りを帯びた眼差しで、今にも泣き出しそうな顔をして呟いた。そ
の姿を覚えている。
脆弱なために、何もさせてもらえず、できることと言えば日課の散
歩ぐらいで。誰かとお喋りに興じることさえいい顔をされなかった
と。

455
皆が望む通りに﹁生きてきた﹂けれど、呼吸すること以外は何1つ
許されなかったのだと儚く笑ったその姿が鮮明に呼び起こされた。
﹁⋮⋮知っていたのですか? シルビアが、そんな風に思っている
と。全てを諦めて、生きているのだと⋮⋮それを知っていながら、
閉じ込めていたのですか?﹂
言葉を吐き出すたびに気道が狭まり、息苦しくなっていった。喉が
絞まっていくような感覚に襲われる。
母は背中を床につけたまま私の顔を見上げ、子供ように無垢な瞳の
まま心底不思議そうに顔を傾ける。
﹁だってそれが一番安全でしょう?﹂
あの子を守るにはそれしかないでしょう? と秘め事でも口にする
かのように囁いた。
﹁私は誓ったの。あの子を守り抜くと。我が子よりも大事にしてみ
せると、殿下に約束したのよ﹂
もはや返事をすることもできずに、どこか狂気じみている母を見つ
め続ける。そんな私の心情などお構いなく、彼女は微笑さえ浮かべ
て、だってあの子は正真正銘お姫様なのだからと告げた。
﹁⋮⋮それなのに、紅茶に薬を混ぜたのですか?﹂
﹁だってそうするしかないじゃない。あの子をこの屋敷に留め置く
には﹂
﹁では⋮⋮、シルビアを外に出さないようにするために⋮⋮?﹂
たったそれだけの為に、妹はあんなものを飲まされていたというの
か。

456
﹁シルビアは元々、表に出してはならない子だったのよ。体が弱い
というのは事実だけれど、いい口実でもあったの﹂
﹁お母様、だけど、シルビアは⋮⋮元気になりたいって⋮⋮、健康
な人が羨ましいって⋮⋮、﹂
そう言っていたんです。という言葉まで続かなかった。視界がぼや
けて、声が出なくなる。
生と死の狭間を生きているような妹。病に冒されて、命を落として
しまったのはいつのことだっただろうか。死の間際、たった一度だ
け見舞いに行った私に、枯れ枝のようにやせ細ったあの子が、小さ
く呟いた。
﹃お姉さまが、羨ましい。私、もっと元気だったら良かった﹄
返事はしなかったし、あの子もそんなものは期待していなかったか
もしれない。ただの独り言だったはずだ。それなのになぜ、こんな
にもはっきりと記憶に残っているのだろう。
﹁だけど、私はあの子を愛しているの。とても、とても、大切に想
っているの﹂
﹁⋮⋮大切?﹂
﹁そうよ。あの子はずっと、私の可愛いお姫様なの。この世でたっ
た1人の大事な大事な娘よ。だから、ごめんなさい、イリア﹂
ああ、待って。その続きは聞きたくない。
干からびた唇が、乾いた呼気を吐き出す。自分が言葉を発したかど
うか、それとも声にならなかったのかどうかすら分からなかったけ
れど、母の細い指が私の頬を優しく撫で上げた。
子供の頃、欲しくてたまらなかった温もりが今ここにあるというの
に。
つぶて
心臓の奥の方に、砂の礫を投げつけられているかのようだ。鈍く痛
んで、どうしようもない。

457
﹁い、言わないで、お母様。お願いよ﹂
﹁だから私は、貴女のことを︱︱︱︱︱﹂
咄嗟に、その柔らかな唇を手の平で覆った。それでも、くぐもった
声が言葉を紡ごうと抵抗してくる。
だから一層、強い力で、その人の顔を押さえつけた。
信じていたものが全て、なくなっていく。
﹁言わないで、お母様。言わないで、言わないで、い、いわないで
︱︱︱︱︱﹂
私のことを愛していない、なんて、嘘でも言わないで。
ただの1度も愛せなかったなんて。
本当はこの世界の誰にも愛されていなかったなんて、そんなことは
知りたくない。
いいえ、本当はもうとっくに分かっていたけれど、それでも知らな
い振りをしていたかったのだ。
﹁私の、お母様。私の、私だけの、お母様﹂
そうだ。本当は、私だけの母であるはずだった。
シルビアがこの世に生まれたその日その瞬間までは。
﹁一度でいい、一度でいいから、嘘をついて。私を、愛していると
⋮⋮っ、言って、﹂
手の平に感じる母の吐息とうめき声。それを聞いていたけれど、そ
の場から動くことも両手を離すこともできない。ただ、封じなけれ
ばと思っただけだ。

458
私を拒絶するその声が、世界の終わりを告げる合図のように聞こえ
たから。
﹁お母様、お母様、私を、愛してる︱︱︱︱︱?﹂
大きく見開かれた緑色の目に、くしゃりと泣き崩れた子供の顔が見
える。
灰色の髪に、褪せた落ち葉に似た瞳。ひどく見覚えのあるその顔。
泣き続けるその姿が可哀想で、悲しくて、胸が痛む。
﹁︱︱︱︱︱お嬢様!!!!﹂
だから、誰かあの子を助けて。
この絶望から、誰か、
459
18
殺そうとしたのかと問われれば、自信を持って言える。﹁否﹂と。
だけど、それなら何をしようとしていたのかと問われれば、返事に
窮する。
私はあのとき、母の存在そのものを消そうとしていたのだから。そ
れは、生を奪うこととは少し違う気がしたけれど、上手く説明でき
ない。
﹁そんなことが言い訳になるとでも思っているのか﹂
高圧的な父の声を遠くで聞いている。
現実味がないのはいつだって同じだ。ここは夢の中ではないと知っ
ているのに、まるで物語に登場する空想の人物みたいだと思う。生

460
きているという実感が、あまり湧いてこない。
﹁聞いているのか、イリア﹂
ベッドに横たわる母は静かに呼吸を繰り返しているが、眠っている
わけではなかった。
ただこちらをじっと見つめているだけだ。
私と父はベッドの脇に立っていて、父のすぐ後ろには家令が、部屋
の隅には侍女が2人並んで控えていた。その内の1人は、マージだ。
︱︱︱︱︱もしもあのとき、マージが部屋に飛び込んでこなければ、
私は確実に母の息の根を止めていたと思う。
シルビアの部屋から茶葉の入った小瓶を持ち出した際、その場に居
合わせた侍女は、家令に報告すると言っていた。その宣言通り、私
が妹の部屋から出た後すぐに、家令の元へ走ったのだろう。そして、
事の次第を打ち明けられた家令は、侍女暦の長いマージに、様子を
見てくるよう指示を出したのだ。
経験の浅い年若い侍女では対応できないと判断したに違いない。
本来、母の自室へ許可もなく立ち入ることができるのは父だけであ
る。
しかし、不測の事態が起こった場合は、その限りではない。
当主が不在であれば、その権限は家令に移行するのだ。だから、女
主人の部屋であろうと、家令の許可があれば立ち入ることができる。
マージが、誰の許可も得ずに母の部屋へ飛び込んできたのには、そ
ういう理由があった。
室内で何が起こっているのか知っているわけではなかったと思うが、
その異様な雰囲気を察したのかもしれない。

461
だからこそ、最悪の事態を防ぐことができたのだと言えた。
﹁お母様に危害を加えようとしたわけではありません。ただ、少し、
混乱してしまって⋮⋮本当に、申し訳ありません⋮⋮﹂
深く頭を下げると、そのまま倒れこんでしまいそうになる。少しだ
けふらついたけれど、必死に体勢を保った。このままここで意識を
失ってしまう事態だけは、避けなければならない。
何もかもをあやふやにしたままでは、自室に軟禁されることになる。
何としてでも、己が正気だということを証明しなければならないの
だ。
本当は、どこか壊れているのだと理解していても。
﹁お前は、本当にそう思っているのか? 母親の首に手をかけてお
いて。危害を加えるつもりがなかっただと︱︱︱︱︱?﹂
父が腕を大きく振りかぶったのを視界の隅に収める。絨毯に落ちて
いる自分の影が、室内を照らすランプの明かりに揺れた。まるで、
父の手から逃れようとしているかのように。
はたかれたのか、殴られたのか、耳鳴りがして。
今度こそ絨毯の上に倒れこんだ。
思わず父の顔を見上げれば、こちらを睨みつけるその目と視線がぶ
つかる。
獣のような琥珀の瞳だ。獲物を仕留めようとしているかのような獰
猛な眼差しに、怯えることしかできない。間違いなくこの人の血を
引いているというのに、もはや、他人のようだ。
憎悪の滲んだその目には、娘に対する慈愛など、微塵も感じられな
かった。
己の顎を滑った生ぬるい何かが滑っていったので、思わず指で押さ
えつければ、それが血液だと分かる。

462
口の中を切ったのだろう。
絨毯の上に倒れこんだまま、ふと、視線を落とせば、袖口も赤く染
まっている。
さすがにそれほどの出血量はおかしいと訝しみながら首を傾いでい
れば、
﹁⋮⋮旦那様、恐れ入ります﹂
マージが壁際から一歩だけ前に出て、そっと口を挟んでくる。
父は私に視線を落としたまま﹁何だ﹂と答えた。その眼差しは、犯
罪者を前にした役人のようでもある。
目を離せば、私が何かしでかすとでも思っているのだろうか。
その鋭い視線に、油断もしないし、隙も与えないと言われているよ
うだった。
﹁お嬢様は、どこか⋮⋮お怪我を⋮⋮されているようです﹂
遠慮がちに示された事実にたじろいだのは私の方だ。
怪我? 一体いつの間にそんなことになったのだろうか。
だけど言われてみれば、腕がじんじんと痛む気がした。いつものご
とく、色の濃いドレスを着ているからそうとは気付かなかったけれ
ど、袖が皮膚に纏わりついているような気がするのは、水分を含ん
でいるからだ。
そういえば母からナイフを奪ったとき⋮⋮いや、正確には、ナイフ
を奪おうとしてもみ合った際に、腕を掠めたような気もする。けれ
どそのときは、痛みなどなかった。それどころではなかったとも言
うべきか。
視線を感じて父の様子を窺えば、私の手を見ていた。

463
その強すぎる眼差しが突き刺さっているかのように、右手の指先か
ら液体がぽつりと流れ落ちる。
﹁旦那様、室内に、これが﹂
父の後ろに立っていた年老いた家令が、おずおずと声を掛けた。そ
して、おもむろに私と父の間に立ち塞がる。私からは家令の背中し
か見えないけれど、彼がその手にハンカチを敷いて、そこにナイフ
を置いているのが分かった。
まるで家宝でも抱いているかのように、恭しく頭を下げながら父の
前に差し出した。
﹁これは何だ﹂
誰に問うているのか分からない。
地を這うようなその声に身を竦ませたのは、反射というやつだった。
父の声はいつだって私を追い詰めるから。
どくどくと心臓が脈打つ。その音が皆に聞こえてしまうのではない
かと怖くなった。
それほど、室内が静まり返っていたのだ。
全員の視線が何となく交差したそのとき、
わたくし
﹁私のですわ﹂
凜とした声が響いた。
先ほどから、事の成り行きをただ見守っていただけの母が、言った
のだ。
声を張り上げたわけでもないのに、静寂を破るほどの威力がある。
﹁⋮⋮何?﹂

464
掠れた父の声を聞きながら立ち上がれば、ぽつぽつと絨毯の上に血
が落ちた。かすり傷かと思っていたがそうでもないのだろう。案外、
深いのかもしれない。
︱︱︱︱︱傷跡が残るくらいには。
右手を押さえれば、﹁誰か治療ができる者を呼んできて下さらない
?﹂と、母が言う。
彼女自身も半身を起こしたのだが、そのどこか空ろな眼は家令を捉
えていた。
母の決して正気とは言えない顔を向けられても動じることなく﹁か
しこまりました﹂とナイフを懐にしまった家令は、軽く頭を下げて
部屋を辞する。
その一連の動作に声を掛ける人間はいなかった。父も黙ってそれを
見送る。
再び落ちた沈黙の中を、﹁イリアは、椅子に座らせた方がいいので
はないかしら。血が、たくさん出ているわ﹂と抑揚のない声が滑っ
ていった。
娘が怪我をしているというのに焦った様子はない。それに、今の今
まで話題に上っていたのは己のことだというのに、それさえも関心
がないようだった。
少なくとも、誰かに殺されそうになったなら、もう少し何か反応を
見せるものではないのか。
﹁ナイフは、お前のものだといったな?﹂
父が、母に問う。
その声音は、私に対するものよりもずっと柔らかい。
﹁はい、そうですわ﹂

465
﹁一体、何に使うつもりだった?﹂
しかし、普段、父が母に向けて発する言葉よりも幾分、緊張感を孕
んでいるような気がした。
まさか、母がそんなものを持っていたとは、ほんの少しも考えてい
なかったのだろう。
実際、常に温和な雰囲気を保っている母が、ナイフを手にする姿な
ど想像もできなかった。
﹁ナイフの用途は様々ですわ﹂
母はふわりと笑う。それは完璧な仮面だったから、これまでの私で
あれば気付かなかった。
何の穢れもなく、何の苦しみも感じず、ほんの少しの痛みすら与え
られなかったかのように、母は微笑を貼り付けるのだ。
これほどに上手く、感情を隠して生きてきたのか。
﹁︱︱︱︱︱お母様は、﹂
その顔を見ていたら、勝手に、言葉が滑り落ちていた。
﹁⋮⋮イリア﹂
静かな声が、私の名を呼ぶ。思わずそちらに視線を向ければ、母は
微笑を浮かべたまま首を振った。
それが何を意味するのか、考えるまでもなく分かる。
優しい顔をして朗らかなに笑いながら、そうやって、私の言葉を潰
そうとするのだ。
だから、私も小さく首を振った。
﹁イリア、﹂もう1度、名を呼ばれたけれど、今度はその顔を確認

466
することもなく父に向き直る。
﹁お母様は、﹂
﹁⋮⋮イリア!﹂
甲高い声が、私の声を掻き消そうと、空気を奮わせた。
けれど、焦燥が滲むその声は室内に反響した後、張り詰めるような
沈黙を落とす。
﹁お母様は、自害しようと、なさったのです﹂
しっかり伝える必要があったから、普段よりもずっと大きな声で言
ったつもりだ。
けれど、己の発した言葉に怯んでしまう。
未だに、母が自ら命を絶とうとしたことが信じられなかった。
実際にその瞬間を目の当たりにしても、血塗れの肉体をこの手に抱
いても、その目が光を失う瞬間を目の当たりにしても︱︱︱︱︱葬
儀に参列しても、全て幻だったと言われれば、それを信じたかもし
れない。
﹁⋮⋮イリア!!﹂
母は何度も私の名を呼んだ。まるで助けを求めるかのように。
だけど、その悲鳴のような声音は、私の言葉を肯定しているも同然
だったと思う。
だからこそ、父は眉根を寄せて﹁⋮⋮どういうことだ﹂と、私へ向
けていた視線を母に移した。
﹁何てこと、貴女、何てことを⋮⋮、イリア、﹂
わざわざ確認する必要などない。母が、責めるような目で私を見て
いることが分かる。

467
その唇は色を失い、紙のように白くなった顔を向けているに違いな
かった。
いつもなら⋮⋮いや、昨日までの私なら、母の望む通りのことをや
ってのけただろう。
だけど、私にはもう、誰も助けることなどできない。
︱︱︱︱︱救ったはずの命を、この手で消そうとしたのだから。
震える指を握り締め、1つだけ瞬きをして、母の顔を見据える。
母はやはり、わなわなと唇を震わせていた。その顔は、悲愴に染め
抜かれ、被害者以外の何者でもない。
誰もが手を差し伸べようとするその哀れな姿が、シルビアと重なる。
﹁お母様、私は、私を守ってもいいでしょう?﹂
苦しさに喘ぐような息が漏れた。
泣きたくはないと思うのに、︱︱︱︱︱できない。
口元が歪んで、癇癪を起こす前の幼子のような顔をしていることだ
ろう。
﹁⋮⋮だって、お母様は、私を、愛して⋮⋮っ、愛しては、いない
のでしょう?﹂
自分の言葉に、心臓を深く抉られるようだ。切り裂かれた胸の中心
から血が噴き出して、目に映る全てのものを赤く濡らしていく。そ
の証拠に、目を瞠り、私を食い入るように見つめている母の顔がぼ
やけて、ゆらゆらと揺れた。
時間が戻った後、母は、私を﹁愛していない﹂とは言っていない。
それはもう、失われた過去のことだ。
だけど、もう、聞かなくとも分かる。
私はその事実を、知ってしまったのだから。母が覚えていなくても、

468
私は忘れることなどできない。
そうであるなら、私は私自身を守りぬかなければ。
母の心境を想えば、このまま何もなかったことにして、口を噤むべ
きだというのは分かっている。
シルビアのお茶に薬物を混ぜていたことだって、胸の内に閉まった
まま、なかったことにするのが一番いいのだ。
そんなことをすれば、私は妹から茶葉を盗み出したただの盗人にな
るけれど。盗みを働いたことを母に叱責されて思わず襲い掛かって
しまったと話せば、全員が納得することだろう。
自死しようとした母を止めようとしたのだという事実よりも、ずっ
と真実味がある。
それに、今回の件を丸く治めるにはそうするしかないと知っていた。
父から、どのような沙汰が下されるか分からないが、もしかしたら
母が何か口添えしてくれて、それほど大事にはならないかもしれな
い。
だけど、それはあくまでも私の願望で。
母が実際にどういう行動をとるのか分からない。
このまま、淑女としての仮面をかぶり続けて、父と一緒になって私
を断罪する可能性だってある。
だって母は、私を殴りつけた父を、ただ静観していたのだから。
拳を振り上げた父を止めることも、声を発することさえなかった。
﹁お母様が、私を、守ってくれないのならば⋮⋮、私が、私を守ら
なければ⋮⋮っ、﹂
絨毯にぽつぽつと小さな水溜りを作っているのが、腕から落ちた血

469
液なのか、それとも痛む頬を滑り落ちていく涙なのか判断できない。
だけど、色の濃い絨毯に、黒く染み込んでいくそれは、間違いなく
私のものだった。
幾つもの人生で、清廉さとは無縁のところにいた。
だからもしかしたら、この涙さえ黒く濁っているのかもしれない。
﹁⋮⋮イリア、お前は一体何を言っているんだ﹂
黙り込んでしまった母に代わり、父が、珍しく困惑しているような
声で言う。
﹁⋮⋮お父様、﹂
﹁⋮⋮何だ﹂
﹁お父様は、考えたことがありますか? ご自分が、誰かを苦しめ
ているかもしれないと﹂
﹁何?﹂
﹁お父様は、お母様が、何に、苦しんでいるのか、ご存知のはずで
す﹂
﹁⋮⋮一体、何を言っている⋮⋮?﹂
聞こえているはずなのに、あえて、意味が分からない振りをしてい
るのか。
険を含んだ目で睨みつけられて、一瞬、言葉に詰まる。
﹁イリア、やめてちょうだい﹂
そのとき、母の泣き出しそうな声が響いた。
﹁貴女は、何も知らないじゃない⋮⋮!﹂

470
そうだ。母は、己が侍女に預けた手紙を私が読んだことを知らない。
当然、そうだろう。私が母の手紙を読んだのは、彼女が亡くなった
後なのだから。
自害しようとした母は当たり前のように﹁姫様﹂と口にしていたけ
れど、そんなことにすら気付かないほど、錯乱していたのか。
だけど、この状況ではもはや、そんなことも些事なのだろう。
全員の視線が、頼りなく震える母の元へと集中する。胸の前で両手
を組んだその姿が、シルビアに似ていた。
母とシルビアには、血の繋がりがない。
だけど、共に過ごした時間の長さがそうさせるのか、仕草や表情が
とても似ている。
そう感じて、また、視界が滲んでいった。
些細な仕草に、はっきりと愛情を感じる。血の繋がりなどなくとも
家族になれると、思い知らされるようだった。
﹁マージ﹂
呼びかければ、部屋の隅から﹁は、はい﹂と明らかに動揺している
声が返ってくる。
﹁お母様から、預かっているものがあるわね?﹂
マージの顔を見れば、大きく息を呑んで、胸元を押さえた。
母の﹁手紙﹂は、いつもそこに隠していたのかもしれない。
﹁マージ﹂
急かすように名を呼べば、彼女は素早く母へと視線を移した。口を
噤んでいても、それが答えであると示している。
母は少し呆けたような表情で私を見ていた。

471
なぜ、知っているのかと思っているのだろう。
これは多分、母とマージの2人だけの間で交わされた盟約であるは
ずだった。
だけど思えば、マージは事情を知らなかったにしろ、2人がこのこ
とを秘匿してしまったからこそ、あの悲劇が起こったのかもしれな
い。
︱︱︱︱︱悲劇。そうだ、あれはまさしく悲劇だった。
今回は、悲劇を回避することができたと言えるかもしれない。
母の命を救い、私もまた、生き抜くことができたのだから。
けれど、次回も同じようにいくとは限らなかった。
何度も重ねてきた人生に、法則があるのなら︱︱︱︱︱。
今回のような出来事では、母か、もしくは私やシルビアが、命を落
としていてもおかしくなかったと思う。
﹁お父様、お母様はマージに手紙を預けているのです。そこに全て
書かれていますわ﹂
﹁⋮⋮本当か?﹂
今度は父に厳しい目を向けられて、母の腹心であるだろう侍女は見
た目に分かるほど、震えていた。
母が自ら命を絶ったとき、私を庇うような発言をしてくれた彼女だ
けれど、それはきっと母からの手紙が頭にあったからだ。もしかし
たら、その内容全部は知りえなくとも、一部なら、知っていたのか
もしれない。
シルビアは、母の言葉通り﹃正真正銘のお姫様﹄で、異国の王女の
血を引いている王族なのだ。
だからこそ、あれほどシルビアに尽くしていたのだとすれば⋮⋮何
となく、マージの行動原理も理解できる。

472
それに、そうでなければ、あれほど簡単に、私の侍女を辞めた理由
を見つけられない。
もしも、心情的にただ私よりもシルビアの方が可愛いと思っていた
なら。
その気持ちを優先させて、マージ自らが、どうしてもあの子を教え
たいと母に乞うていたのなら。
形振り構わず、只管に努力するしかなかった﹁幼い頃の私﹂が、あ
まりに救われないではないか。
﹁⋮⋮イリア! 一体何だというの! 一体、何の権利があって、
そんなことを言うの!!﹂
ベッドの上で、声を張り上げた母。怒鳴るこなど滅多にない人だか
ら、喉が裂けたのか、語尾が濁って掠れた。
﹁︱︱︱︱︱権利? だって、私は、﹃貴女﹄の娘でしょう?﹂
だけど、お母様は私を助けてくれないのでしょう? と、言いたく
て、だけど言葉にならない。
﹁それとも、私は、お母様の娘では、ないと、そう言うおつもりで
すか、﹂
もう、駄目かもしれないと、そんな気がして。
悲しみで人は死んだりしないと知っているけれど、これほどに苦し
いのであれば、もしかしたら呼吸が止まるのではないかと考えたり
する。
瞼を閉じれば、次から次に、涙が零れ落ちていった。

473
﹁私は、貴女の娘です。そして、お父様⋮⋮、貴女の娘でもありま
す。それなのに︱︱︱︱︱、﹂
大きく息を吸い込めば、喉の奥が痛む。
しゃくりあげながら、叫んだ。
﹁どうして⋮⋮! どうして、愛してくれないの︱︱︱︱︱!!﹂
474
19
胸が裂けたのではないかと思うほどの痛みに、立っていることもま
まならず、蹲った。
私の嗚咽だけが響いて、他には何も聞こえない。何1つ。誰かの呼
吸音や、衣擦れの音さえしなかった。
﹁⋮⋮お姉さま?﹂
そんな無音の世界に、ぽつりと浮かび上がるように落とされた声。
初めは気のせいかと思ったけれど、﹁お姉さま﹂と、確かにその愛
らしい声が聞こえる。
顔を上げれば、いつからそこに居たのか、開け放った扉の向こうに
シルビアが立っていた。

475
﹁お姉さま、どうしたの﹂
許可も得ずに勝手に扉を開けたのか、それとも、誰かの気配に気付
いた侍女が廊下を確認しようとしたのか。
ともかく、いつの間にか、妹はそこに居て今にも部屋の中に入ろう
としている。
﹁シルビア、中へ入るんじゃない。部屋に戻っていなさい﹂
父が、恐らくシルビアには一度も見せたことのないような厳しい表
情で告げた。
きっとシルビアは怯えるだろうと思ったけれど、そんなことはなく、
ただ不思議そうに首を傾いで私を見ている。両親から、叱責などさ
れたことはないだろうし、何をしてもせいぜいが苦言を呈されるく
らいだったろう彼女は、まさか自分が怒りの対象になるとは微塵も
思っていない様子だった。
そして父の言葉を無視して、惑うこともなく部屋の中へ入ってくる。
父とは言え伯爵家当主であるその人の言葉を気にも留めることなく、
当たり前のように聞き流した。
貴族の子女には有り得ないことだが、シルビアに限っては、そうで
はないらしい。
﹁シルビア、いけませんよ﹂という母の言葉も大した効果はなかっ
た。
シルビアは、他には目もくれず、真っ直ぐ私に向かって歩いてくる。
広い部屋の窓側に座り込んでいる私を見下ろしていた。
既に陽は落ちて、外から入り込んでくるのは月と星の弱々しい光だ
けだ。こんな日ではあるが、夜空は澄み切るほどに晴れ渡り、雲ひ

476
とつない。
﹁︱︱︱︱︱近づくんじゃない﹂
先ほどまでよりも低い声で命を下す父は、シルビアではなく、私を
見ている。
近づいてくるのはシルビアの方だというのに、その言葉はあの子に
向けられたものではない。
美しくて儚く、触れれば壊れる。
だから、私のような人間が、近づくのは許されないとでも言ってい
るのだろうか。
ひくりと音をたてた喉元が、何度も同じような音をたてて、どうに
かなってしまったのかと両手で己の首を強く握り締める。
それが、嗚咽というものだと、気付いた。
どうしてそんなことを言うの、と訊きたかったけれど、言葉になら
ない。
すると、
﹁どうして?﹂
シルビアがしゃがみこんで、父を見上げた。
私の目の前に座り込んだから、結い上げていない銀色の髪が目の前
で柔らかく揺れている。
﹁どうして、いけないの? お父様。だって、お姉さま、泣いてる
じゃない﹂
﹁シルビア、いいから離れなさい。だいたい、どうしてこの部屋に
来たんだ﹂

477
﹁今日はお医者様の診察の日よ。忘れてしまったの? 部屋で看て
せんせい
もらっていたのだけど、モリスが医師を呼びに来たの。ご病気かと
思ったんだけど、怪我をしたって言っていたから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうか、分かった。様子を見に来たのか﹂
﹁ええ、そうよ﹂
﹁お前は優しい子だな﹂
﹁でも、どうして?﹂
﹁何がだ﹂
﹁どうして、お姉さまを早く診せないの? 医師、さっきからずっ
と廊下で待っているのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁本当は、私よりも先に診せてあげるべきだったわ。ねえ、どうし
てなの? お父様﹂
﹁シルビア、﹂
膝を折ったまま、にじり寄るように私との距離を詰める妹が、おも
むろに手を伸ばす。
﹁触るな!﹂﹁触らないで⋮⋮!﹂
父と私は、ほとんど同時に声を張り上げていた。
だけどシルビアはやっぱり、少しも躊躇う様子なく、私の肩に腕を
回す。
身をよじるけれど、脆弱とは思えないほどの力で上半身を拘束され
た。
優しくて、だけど抵抗を許さないほどの、強さだ。
怪我を負った腕に力が入らなくなっているのだと気付く。
﹁どうして? どうしてなの? お父様。
お母様も、どうして? どうして、何もしないの? だって、お姉

478
さま泣いてるじゃない。それに、怪我してる。血が、いっぱい出て
るわ。どうして? 何でこのままにしておくの? どうして、こん
なところに座らせているの?﹂
どうして、どうしてと子供のように繰り返しているけれど、不審の
色が混じっている。
﹁唇からも血が⋮⋮、もしかして、誰かに殴られたの? ねぇ、お
姉さま。一体、どうしたの?﹂
父も母も返事をしない。難しい顔で黙り込んだまま、シルビアを見
つめている。
そんな彼らに、埒が明かないと思ったのだろう。今度は私の顔を覗
き込むようにして、妹は首を傾げた。
﹁シルビア、﹂
﹁⋮⋮なぁに?﹂
名を呼べば、紫色の目を柔らかく細める。猫の子でも眺めているよ
うな、朗らかな目だ。私を安心させるように、あえてそんな顔をし
ているのかもしれない。
けれど、それがシルビアの元々の気質でもあった。
愛され、守られ、大事に育てられてきたからこそ、同じように、愛
し、守り、大事にすることができるのかもしれない。
何の打算もなく、何の報いも期待せず。
いつだって、この妹は何の迷いもなく手を伸ばすのだ。繰り返し、
重ねてきた人生で、シルビアは何度もそうしてきた。
初めは、そう。厩舎での出来事だった。
あのたった一瞬の出来事が、私のその後を決めたと言っていい。
妹を大切にしたいと決意した日でもあった。

479
あのとき︱︱︱︱︱、馬の脚が目前に迫ったとき、私の傍には侍女
が居て、その後ろには侍従も居たと記憶している。彼らは、通りか
かったシルビアよりもずっと近い位置に居た。
だけど、躓いた私に驚いた馬が嘶き脚を上げたその時、助けようと
動いたのはシルビアだけだったのだ。
私に何かあれば、侍女も侍従もただでは済まない。それは、貴族に
仕えている者全てが覚悟をしているはずのことである。
そうと知っていても、あの瞬間、彼らは咄嗟に判断を下したのだ。
︱︱︱︱︱私のことは助けられないと。
ある程度の経験を積んだ者であれば、同じ決断をするかもしれない。
己が巻き込まれる可能性があるのなら、それを回避しようとするの
は不思議なことではない。
そしてそれは間違っていないと、私にだって分かっている。
シルビアがあのとき、何の迷いもなく前へ進み出たのは、ただ単に
幼かったからで、正しい状況判断ができなかったからだ。
実際、馬丁が手綱を引いたから助かったのであって、シルビアが私
を助け出したわけではない。
それでも、この子はいつだって、手を伸ばすことを止めないのだ。
いつかの人生で、娼館に入れられた私を捜しだそうとしていた妹。
屋敷から出奔して、何年もの時が過ぎていた。その間ずっと、私の
ことを捜しだそうとしていたのだと、アルに聞かされた。
侯爵家に引き取られてからも、その献身には目を瞠るものがあった
と思う。
既に死に掛けていた私にはもう、正常な判断は下せず、その優しさ
すら無用なものと感じていたけれど。
時々、妹の優しい手の平を思い出すことがあるのだ。
夜中にふと目覚めたとき、妹はベッドの傍に居て、編み物をしてい
た。目が合えば、微笑み、熱が高いから心配でと囁くように言う。
優しい声音が、母親の姿と重なった。

480
私には、そんな風に声を掛ける人ではなかったというのに、そこに
母が座っているような気がしたのだ。当の本人は最期の最期まで会
いに来ることすらなかったというのに。
血を分けた父と母は、いつだって早々に私を見限り、見捨てる。
それなのに、半分だけ血の繋がっている妹は、私を諦めたりはしな
いのだ。
娼婦に落とされた私のみすぼらしい姿にも、眉を顰めなかったのは
妹だけで。
迷うことなく手を伸ばそうとしたあの子を制したのは、ソレイルだ
った。
﹁シルビア、シルビア、私⋮⋮っ、貴女が大切よ﹂
﹁ええ、知っているわ﹂
恋敵だからと言って、大切にしない理由にはならないとカラスに説
明したことがある。
今でもその気持ちは変わっていない。
﹁だけど私、貴女の大切にしていた茶葉の入った瓶を、持ち出した
の﹂
﹁⋮⋮そう、なの?﹂
私を抱きしめるように座り込んでいる妹の手が、私の背中を撫で
る。優しく、優しく、何度も、繰り返し。
﹁どうして?﹂というシルビアの声に、非難の色はない。
単純に、ただ疑問に思っているようだ。
母の葬儀で、私はそんなことをする人間じゃないと声を上げた妹。
全身を震わせて叫んでいた。青褪めた唇が紡ぐのは、私を信じると

481
いう言葉だけで。本気で、私の無実を信じているようだった。
﹁イリア、止めなさい﹂
しゃくりあげる私の告白に待ったをかけたのは、母だ。
妹の肩越しに、ベッドから抜け出そうとして、掛け布を横に払って
いる姿が見える。
こちらへ来ようとしているのだろうか。そんな母に手を貸しながら、
父が﹁イリア、シルビアから離れるんだ﹂と強い口調で言った。
私が妹の部屋から茶葉を持ち出したことも、知っているのかもしれ
ない。
言葉もなく、両親が手を取り合う姿を呆然と眺める。
彼らの間にあるものが何なのか、今の私にはよく分からない。母が
命を絶つまでは、愛情によって結ばれた2人なのだと信じて疑わな
かった。
そして私も、きっとこんな2人になるのだと、夢想していたのだ。
﹁お姉さま、どうして? どうして、私のものを持ち出したの?﹂
両親のことは気にも留めずに、シルビアが問う。母が言葉にもなら
ない声を上げた。
﹁︱︱︱︱︱だって、ずるい﹂
己でも全く予期していなかった言葉が漏れる。
﹁だって、どうして? どうして、どうして⋮⋮っ、シルビアなの
? どうしていつも、シルビアだけなの?﹂
両親に愛されるのも、ソレイルに選ばれるのも、幸福を掴むことが
できるのも。

482
どうしていつも、シルビアだけなのか。
そして、
﹁お姉さま?﹂
最後の最後まで、私のことを諦めないのもまた、この妹だけなのだ。
自分自身ですら、諦めを覚える人生だというのに。妹はいつだって、
その純粋さと神聖さすら伴う心で、私を救い上げようとする。
確かに裏切られたこともあった。ソレイルの子を身籠り、顔色を失
くしていたシルビア。その姿だって忘れていない。
だけど、それ以上に、私に手を伸ばし続ける妹。
何度も繰り返し、同じ時間を重ねて、その度に、手を伸ばそうとす
る。
そして私は、そんな妹を何度も繰り返し、失ってきたのだ。
﹃私、お姉さまの妹で良かった﹄と、そう言われたのはもうずっと
遠い昔のことで。
それを口にしたのは、今目の前に居るこの子じゃない。
﹁いい加減にしてちょうだい! イリア!﹂
声を張り上げた母が、私の腕を掴む。
だけど、それを﹁いい加減にするのは、お母様だわ!﹂と、シルビ
アが制した。
その激しい物言いに、母が怯む。きっと、シルビアに抵抗されたこ
とさえ初めてだっただろう。
﹁お姉さま、泣いてるじゃない⋮⋮っ、﹂
その顔を見れば、シルビアも涙を零していた。

483
﹁どうして、誰も助けてあげないの⋮⋮っ!!﹂
優しいシルビア。私の可愛い妹。
それなのに、この子は私の一番大切なものを奪っていく。
愛したい。愛したい。私は、この子を愛するべきだと分かっている。
だって、たった1人の妹なのだ。
手に手を取り合うことができたなら、きっと、素晴らしい人生にな
っただろう。
母が、震える指を引き剥がすようにして、そっと私の腕を離した。
﹁⋮⋮シルビア、私、貴女を大切にするつもりだったわ﹂
﹁姉さま?﹂
﹁ずっと、そうするつもりだった﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁だけど、できない﹂
シルビアの小さな顔に両手を添える。血に濡れた右手が、妹の顔を
赤く汚した。
﹁私、⋮⋮っ、貴女を、愛せない﹂
母が死の間際に吐き出した本音を思い出す。私をただの1度も愛せ
なかったと言いながら、そのことがまるで大罪であるかのように血
を吐き出した。
愛すべき娘を前にして、愛することのできなかった母のことを思う。
抱きしめるべき娘を前にして、手を伸ばすことのできなかった母を、

484
思う︱︱︱︱︱。
多分、私も同じなのだ。
﹁ごめんなさい、シルビア⋮⋮っ、ごめんなさい、私、貴女を、愛
せない﹂
喉が、ひくりと大きく音をたてる。
﹁私⋮⋮っ、貴女を、愛せない︱︱︱︱︱っ﹂
目と目を合わせて、その言葉を吐き出したそのとき、喉の奥を血の
塊に塞がれたような気がした。
私に親愛を与えようとして、全て奪っていく貴女。
シルビアの紫色の瞳に浮かんだ光の粒が、はらはらと頬を滑る。い
つだって美しいその瞳が、悲しそうに揺らいだ。引き結んだ唇が、
小さく震えている。
自分の頬に添えられた私の手を、上からその小さな手で包み込み、
そっと呟く。
空気に溶けてしまいそうなほど、頼りない声音で。
﹁知ってるわ﹂
ずっと前から、知っているわ。と。
485
20
私は、全部分かっているから。だから、大丈夫。
シルビアは、私の両手を優しく握り締めて囁いた。
どんな人間にも許しを与えようとするその顔は、半分ほどが赤く染
まっている。私の血だ。
﹁⋮⋮汚れているわ﹂と、何の脈絡もなく呟いた私に﹁分かってる﹂
と肯きながら微笑する妹。
白い頬を染めている穢れを、彼女自身の涙が洗い流していく。その
姿は、壮絶なほどに可憐で、それでいて痛ましかった。
﹁大丈夫、お姉さま。私は全部分かっているから、大丈夫よ﹂

486
未だに震えている私の頬に、そっと顔を寄せてくるシルビアは、私
と同じように震えている。
くすぐ
柔らかな声音は耳朶を擽り、聖母のような慈愛を滲ませているけれ
ど、胸を締め付けるような苦しみを伴っていた。
こういうとき、何が怖いのかと声を掛けて抱きしめるのは、シルビ
アではなく私の方だ。
私は姉であり、彼女は妹だから。いつだって、そうしてきた。
だから、励ますように肩を撫でられると、ひどく居心地が悪くなる。
守るべき存在であるこの子を、傷つけた。
頭ではきちんと理解しているからこそ、傍に居たくない。そんな無
神経な人間ではないはずと、妹から離れようと思うのに。
力の入らない体では身を捩ることすらできなかった。
頬を転がって落ちていく涙がシルビアの肩を濡らし、淡い色のドレ
スを少しだけ濃く染め抜いていく。
それを視界の隅に収めながら、何度も瞬きを繰り返した。
もう1度﹁ごめんね﹂と唇を動かすけれど、言葉にはならない。痙
攣するように震えた喉が、呻き声のようなものを漏らしただけだっ
た。
それなのに、シルビアは﹁分かっているわ﹂と答える。
︱︱︱︱︱一体、何を、分かっているというのか。
その言葉の真意を問い正そうとしたのだけれど、
﹁そのままでは、命にかかわりますよ﹂という低い声に遮られた。
弾かれるように顔を上げれば、廊下で待機していたはずの険しい顔
をしながら近づいてくる。
そして、両親と私たちの間に割り込み、おもむろに腰を落とした。

487
そして、私とシルビアの顔を覗き込んでくる。
﹁込み入った話をしていたようですので、廊下におりましたが⋮⋮﹂
老医師のかさついた手に肩を押されるようにしてシルビアから引き
離された。
貴族に対して何事かと責められるような態度だが、彼にそんなこと
を言う人間はいない。
彼は、私の祖父の代からもう何十年も我が家に仕えているし、その
ことは別としても、医術を扱える人間というのは大切に扱われるも
のなのだ。なぜなら、その人数に限りがあるから。
それに、﹁私がついていながら、出血多量で死なせるなんて避けた
い事象ですな﹂と、実におっとりとした口調で窘められれば尚更で
ある。
﹁早く治療をしなければ大変なことになりますよ﹂
ある意味、喧騒に満ちていたとも言える室内も、突然の闖入者に気
がそがれたのか静まり返っていた。
隅で控えている侍女も、両親すら、医師の動向を見守っている。
誰もが物音をたてないように息を潜めているような気がした。吐息
の音さえうるさいと感じるほどに空気が張り詰めている。そんな中
に響いた老医師の低い声には妙な迫力があった。
そんな彼に﹁さぁさぁお早く﹂と急かされて、ふらつきながら立ち
上がれば、私の体を支えるようにしてシルビアが横に並び立つ。
近過ぎるほどの距離感に戸惑いつつも、息遣いが聞こえるほど近く
に居る妹の横顔を覗き見た。
すると、淡い光を含んだ紫色の瞳と視線がぶつかる。目が合うとは
思っていなかったので、たじろいでしまった。

488
優しくて柔らかな眼差しを向けられているというのに、そこから得
られるのは安心感ではない。
この胸に渦巻くのは言い知れぬ不安であり、足元に広がっているの
はガラスの地面だ。
シルビアに悪意がないことはよくよく理解している。
ぼうりゃく
彼女の性質上、そういった謀略とは無縁だろう。
だけど、妹の隣が安全地帯ではないこともよく知っていた。
少なくとも、私にとっては、そうなのだ。
だから、どうにも耐え切れなくなって思わず1歩後ろに下がる。そ
んな私の背を追いかけるようにして柔らかな指先が撫でた。
何の含みも企みもない、見返りすら期待していない仕草だ。
指先が触れた部分に、ふわりと何かが広がるような気がする。
︱︱︱︱︱そんな風に与えられるものの名前を、何と呼ぶのか私に
はよく分からない。
通常、貴族間においては、何の見返りも期待しない優しさなど存在
しないと言われている。
だからこそ優しくすることにも、優しくされることにも意味がある
のだと⋮⋮そう教えられた。
﹁お姉さま、お部屋に戻りましょう﹂
距離を置こうとしているのに、そんなことには関心を寄せず、相変
わらず手を差し伸べようとするシルビア。
貴女のことを愛せないと言ったのに、はっきりとそう伝えたはずな
のに。
あどけない顔をこちらに向けている彼女は、何事もなかったかのよ
うな顔をしている。ただ、その長い睫に残っている雫だけが、先ほ
どの騒乱が嘘じゃなかったことを証明していた。

489
私から愛されていないことなど、まるで、大したことでもないかの
ように。そんなことは意にも留めないという顔で、ひたむきな思い
やりを捧げようとする。
﹁シルビア、待ちなさい﹂
先立って部屋を出ようとしている医師の後に続こうとすれば、背後
から声がかかった。
虚ろな眼差しをしている母を抱えるように立っている父が、シルビ
アだけを見つめている。
けれど、妹は振り返らず﹁行きましょう、お姉さま﹂と私を促した。
﹁シルビア、お前はここに残りなさい。行っても診察の邪魔になる﹂
心なしか早口でそう述べた父は、ふと、私に視線を移す。
その唇は確かに﹁シルビア﹂と妹の名を呼んでいた。それなのに私
を見ている理由はただ1つ。
︱︱︱︱︱威圧しているのだ。
そうすれば、娘を意のままに操れると知っている。これまでもそう
だったから。
﹁それに、もう十分だろう﹂
その言葉を聞いて、はっとシルビアが振り向く。名前を呼ばれたか
ら、当然、自分に向けられた言葉だと思ったのだろう。
けれど、そうではない。
妹に﹁愛していない﹂と暴言を吐いた、私に対する言葉だと分かる。
もう十分だろう。
もう気は済んだだろう。

490
これ以上、妹に何を望むのか。
せんせい
﹁⋮⋮シルビア、お父様の言う通りだわ。医師の邪魔をしては、い
けないと思うの﹂
﹁⋮⋮お姉さま?﹂
﹁貴女は、お父様と一緒に、お母様についていて﹂
﹁⋮⋮どうして? どうして、そんなこと言うの?﹂
シルビアの細い指を掴む。向き合った妹は先ほどと同じく﹁どうし
て﹂を繰り返した。
幼さの残る顔は血の気が足りず、健康的とは言えないだろう。昔よ
りはずっとマシだけれど、身長も体重も、平均からはほど遠い。
小さな体躯に、幼い顔つき。
思えば、この子はずっと屋敷の中で過ごしてきたから、外の世界を
知ったのはつい最近のことなのだ。
いつも付き添っている侍女の居ない、学院内での生活はどれ程心細
かっただろう。
彼女自身も望んだことではあったけれど、新しい生活は想像してい
たよりもずっと大変なことだったに違いない。
屋敷の外に一人ぼっちで放り出された上に、友人もおらず、頼りに
していいと言ってくれたはずの姉は寄ってもこない。
右も左も分からず、恐怖心だってあっただろう。
だから、ソレイルに頼ったのだろうか。
知らない人間ばかりの学院内で唯一、知り合いと言える顔を見つけ
て、心底安堵する妹の姿が見えるような気がした。
﹁︱︱︱︱︱もう、いいの﹂
そうだ。もう十分だ。

491
シルビアは、私の味方をしてくれた。それどころか、手を差し出し
て﹁大丈夫﹂と言ってくれた。
それだけで十分なはずだ。
﹁もう、十分よ。シルビア。私は1人で行けるわ﹂
私はシルビアと違って、初めから1人きりだったから。
﹁貴女に頼らなくても、歩けるわ﹂と、笑う。
すると、シルビアは少しだけ双眸を見開いて。
もう1度﹁どうして、﹂と呟いた。
儚く消えるその声に被さるのは、
﹁こちらにいらっしゃい、シルビア﹂
母の声だ。
優しいけれど、不安に揺れる心情をそのまま映し出すかのような弱
々しい声は、シルビアの意識を逸らすのに十分な役割を果たした。
ちらりと母の方へ視線を向けた妹の横をすり抜ける。
そして、そのまま、既に部屋を出ようとしている医師の後を追いか
けた。
膝が震えて、1歩足を踏み出すだけでも全身に力を入れなければな
らなかったけれど、それでも前に進むことはできる。
数歩進んだ先には、マージが居て、思案げな眼差しを向けてきたか
ら﹁お願いね﹂と、呟いた。
それだけできっと、彼女には私の意志が伝わったはずだ。
彼女は、色を失った顔でしっかりと肯き、胸元を握り締めた。

492


子供の頃、屋敷の一室を勉強部屋として使っていたことがある。
自室と書庫の往復だけではどうしても気が滅入る。だから、気分を
変えたくて、母の育てた薔薇が見える部屋を自由に使えないかと父
にお伺いをたてたのだ。
家令を通してのお願いだったけれど、案外あっさりと通った。
長年使われていなかった小部屋が宛がわれ、侍女侍従の手を煩わせ
ないことを条件に、自由に使っても良いという許可を得たのだった。
自立を促す意味合いもあったのだろう。
けれど、1人で過ごすには十分な広さだったし、元々机と椅子くら
いしか置かれていなかったその部屋には好きなだけ書物を持ち込む
こともできたから不満はなかったと記憶している。
新しい環境というのは、気鬱を吹き飛ばすほどの威力を持っていて。
ソレイルの婚約者となってから、気の休まる時間などなかった私は、
久方ぶりに開放感というものを味わっていた。
窓際に机を移動して、隅に花瓶を置き、新しいカーテンを引く。
一階の隅に位置する部屋だったから、窓から外を覗けば、母の手入
れした薔薇が見えた。
自分以外の人間が部屋の中に入ってくることはないから、時間を忘
れて本を読むことができる。
家庭教師が来るときはさすがに自室へ戻らなければいけなかったけ
れど、それ以外の時間は、ほとんどをその部屋で過ごした。
いつもであれば人目を気にして読むことのできない、幼児向けの童
話をいくつも読んだ。
淑女教育が始まってからは、不要なものとして処分されてしまった

493
から。屋敷の書庫に、あくまでも資料として揃えられているものを
持ち出したのだった。
世間一般の子供たちが当たり前に知っている童話を、初めて目にし
て。読み込んで。その、愉快で不思議な世界に魅了された。
そんな摩訶不思議な世界に生きる主人公たちは、極貧の中に居ても、
醜くても、いじめられていても、最後は幸せになる。
そんな話に焦がれたのだ。
︱︱︱︱︱だけど、そんな日々も長くは続かなかった。
ある日、本を読んでいると窓ガラスの向こうから話し声が聞こえて
きた。顔を上げれば、そこに母とシルビアが居る。滅多に顔を合わ
せることのない義妹の姿に少し驚きながら、彼らの姿を眺めていた。
母の育てた薔薇の向こう側に居る二人と、私の間には窓ガラスがあ
ったけれど、そんなには離れていない。
耳を澄ませば、会話を聞き取ることもできた。
相変わらず、美しい妹だと。
感嘆するような気分で見つめていれば、ふと、その小さな顔がこち
らを向く。
そして、にこりと笑んだ。
咄嗟に、椅子からすべり落ち、机の下に隠れた私は両膝を抱えて蹲
る。
誰にも見つかりたくなかったのだ。
だってそこは私の部屋で。﹁私だけ﹂の部屋で︱︱︱︱︱、秘密の
部屋でもあったから。
どくどくと脈打つ心臓を抑えつけ、息を潜めていると、
﹃どうしたの? シルビア﹄

494
母の声が聞こえた。
﹃いま、そこにだれかいたの﹄
﹃⋮⋮誰か?﹄
﹃うん﹄
﹃まぁ、そんなはずはないわ。だってあそこは空き部屋よ。誰も居
るはずがないわ﹄
﹃そうなの?﹄
﹃ええ。もう長いこと使っていないのよ﹄
﹃ふうん﹄
﹁へんなの﹂と、いかにも唇を尖らせているかのような声が響く。
そうね、変ね。と答える母の声は笑みを含んでいた。
私からもう、その姿を確認することはできないというのに。
笑い合う2人の姿が想像できた。
見つからなくて良かったと思った。
だけど、どうして見つけてくれないのだろうとも、思った。
見つかりたくはなかったけれど、見つけてほしかった。
︱︱︱︱︱多分、そうだ。
﹁お加減は、いかがなのですか?﹂
見上げれば、柳眉を少しだけ歪めたマリアンヌが首を傾げていた。
熱を出して数日寝込んでいたので、体が重い。しかも、右腕を何針
か縫っているので、ベッドから上半身を起こすのさえ苦労した。
今も、背中の後ろに幾つか枕を並べているから身を起こすことがで

495
きるのであって、自分だけの力では、ただ座っているだけでも体力
を使う。
﹁だいぶ、良いのですが⋮⋮まだ数日はお休みをいただこうかと思
っております﹂
私がそう言うと、ベッド脇に置かれた椅子に腰掛けた彼女は小さく
息を吐いた。
憂いを帯びている様子のマリアンヌは、今日も今日とて、豪奢な美
貌を惜しげもなくさらしている。
金粉を塗したような髪が、室内の淡い光を反射して、後光が差して
いるにも見えた。
真っ白な壁紙さえ褪せて見えるのは、彼女の存在そのものが眩しい
からかもしれない。
﹁怪我をなさったとはお聞きしましたが、まさか⋮⋮こんな状態と
は、﹂
言葉を濁すことで、その心情をはっきりと伝えてくるマリアンヌは
根っからの貴族である。
彼女いわく﹁こんな状態﹂である私は、
﹁傷は大したことありませんのよ。ただ、高熱が出てしまったもの
ですから。大事をとっているだけですわ。熱ももう下がっておりま
すし﹂と、笑うしかない。
そんな私を、何とも言えない顔で見つめていたマリアンヌは再び息
を落とした。
そして、そっと怪我をした右手に触れてくる。
縫合の痛みに絶叫した私ではあるが、深いとも浅いとも言えない程
せんせい
度の傷で暴れる患者も珍しくないらしく、医師には﹁よく頑張った﹂

496
とお褒めの言葉をいただいた。
更に、これほどの傷を負う貴族の子女は珍しいと憐れむように首を
振る。痛みに慣れていない人間であれば、とっくの昔に気を失って
いるだろうとも。
﹁昔、どこかで大怪我でもしたのですかな?﹂と、訝しむわけでも
なく、心底不思議そうに言われてはうなだれるしかなかった。
今生では一度も、こんな怪我を負ったことはない。
だけど、繰り返してきた人生のどこかでは、怪我を負ったこともあ
る。出産の痛みに耐えたことも。そして、あらゆる痛みを与えられ
絶命したこともあった。
﹁⋮⋮傷は、残るのですか?﹂
舌にそっと乗せるように吐き出された言葉は、もしかしたら彼女の
一番訊きたいことだったのかもしれない。
﹁そうですわね⋮⋮、恐らくそうなるだろうと医師も仰っておりま
した。傷の深さはともかく、刃物による傷は跡に残ることが多いそ
うですから﹂
﹁⋮⋮刃物⋮⋮、ですか?﹂
質問に対する答えを返したというのに、彼女は、傷跡が残るかどう
かよりも﹁何﹂によって傷を負ったのかの方にひっかかりを覚えた
ようだ。
﹁詳細はあまり⋮⋮申し上げられないのですが⋮⋮﹂
けれど、私がそう言うと、追及するつもりはないのか困ったような

497
顔で微笑を浮かべる。
﹁イリア様、﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮私が言うことではないと思いますが、刃傷沙汰というのは社
交界では忌避される傾向にあります﹂
私と母の、あの行いが、刃傷沙汰と呼ばれるものだったかどうかは
分からない。しかし、実際にどうだったのかということと、他人が
どう感じるかは別の問題だ。
争い事とは無縁なはずの貴族女性がそんな傷を負ったとなれば、考
えられる要因はそう多くない。
誰もがこう思うだろう。何か、揉め事に巻き込まれたのだと。もし
くは、その揉め事の当事者であると。
実際、腕の傷は刃物によるものであるし、事故とは言え、他者に負
わされた傷だ。
これを揉め事といわずして、何と呼ぶのか私にも分からない。
﹁ソレイル様は何と?﹂
私の沈黙を何と捉えたのかマリアンヌが身を乗り出してきた。
﹁怪我をしたことはお伝えしております﹂
﹁それで、何か仰っているのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮手紙で、お伝えしただけですから。お返事はまだ⋮⋮﹂
﹁そうですか﹂
﹁けれど、この後、お会いすることになっておりますので﹂
自分でも馬鹿みたいだと思うけれど、その時を想像すると指が震え

498
るような気がした。
婚約破棄されることは、ないだろうと思う。
それほど簡単に代替のきく立場であれば、これほど複雑な状況には
陥っていない。
それに、傷跡は長袖を着れば隠せる程度のものであるし、貴族とい
うのはそもそも肌を露出しないので、例え真夏に長袖を着ていたと
しても追及されるようなことはないだろう。舞踏会などの催しもの
ではそうもいかないけれど、手袋をすればいいだけだ。
つまり、隠す方法ならいくらでもある。
また、余計な詮索をしてくる人間にはただ口を噤んで微笑するだけ
で良い。
私はソレイルの婚約者であり、やがては侯爵家には入る人間だから。
それだけである程度に牽制になっているはずだ。
しかし、絶対と言えないのもまた事実である。
ずっとずっと前から、それこそ今生だけでなく、いつの人生でも執
着して離さなかった立場であるのに。
たったこれだけのことで、失うことになるかもしれない。
そうだ。﹁これだけのこと﹂だ。私が今までやってきたことに比べ
れば、腕に怪我をしたことなど大したことではない。
それなのに、
﹁イリア様⋮⋮、﹂
マリアンヌは悲しそうな顔をしている。
そっと添えられていただけの彼女の手が慰めるように右へ左へと動
いた。包帯の上からなので分かりにくいが、撫でられているのだと
悟る。
医師の診療を受けてから、そんなことをしてくれたのは、彼女だけ
だ。

499
父も母も、あの日以降、顔を見ていない。
シルビアは何度かこの部屋に来たけれど、何せ高熱で朦朧としてい
たため、会話らしい会話をした記憶がなかった。熱が下がった後は
といえば、遠慮しているのか、もしくは両親に止められているのか、
今度は顔を見せなくなったのだった。
差し伸べられた手を払ったのは己だというのに、そんな妹の態度に、
どうしてか苦しくなる。
﹁マリアンヌ様、私は、﹂平気です。と続けようと思ったのに、言
葉が出ない。
彼女の名前を呼んだまま、不自然に止まる声。私たちはしばらくの
間、互いの顔を眺めていた。
何か言わなければと思えば思うほど、何も出てこない。だから、何
度も口を開いては閉じる。そんな馬鹿みたいな動作を繰り返した。
すると彼女は、つと真剣は顔をして、私の顔に唇を寄せてくる。
﹁ここには誰もおりませんから、内緒話をするなら今しかありませ
んわ﹂と。
吐息の交じる囁き声でそう言った後、今度は己の耳をこちらに傾け
てきた。
どんな小さな声さえも聞き逃さないと言っているかのような態度に、
すっと肩から力が抜ける。
﹁⋮⋮マリアンヌ様、いつの日か、学院の図書室で言ってくださっ
たこと覚えておりますか?﹂
何1つ、言葉など出てこないと思っていたのに、自分でも意識しな
い内にするりと零れたのはそんな問いだった。
彼女は金色の睫に縁取られた魅惑的な瞳を1つだけ瞬く。
そして、﹁もちろんですわ﹂と深く肯いた。

500
﹁あのときの気持ちは今でも変わっておりません。イリア様﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁何かできることがあれば、いつでも言ってください。何でもいた
しますわ﹂
にこりと微笑むその姿には何の迷いもない。
伯爵家第一位の家柄である彼女の出自からすれば、よっぽど荒唐無
稽な話でもなければ、大抵のことは叶えられるだろう。だからこそ、
﹁理由は、聞かないのですか? マリアンヌ様の、その手を借りる
ことになるかもしれない理由を、﹂
確認せずにはいられなかった。
彼女はほんの少しだけ視線を彷徨わせて、逡巡する。けれど、それ
も一瞬のことだった。私の方に寄せていた体勢を元に戻し、背中を
伸ばすと﹁必要ございませんわ﹂と言い切る。
﹁私、こう思っておりますの。人生にただの1度くらいは、友人の
ために尽くしてみてもいいのではないかと﹂
さすがに、命までは差し出せませんけれど。と、優雅に破顔した。
その言葉に、はっと息を呑む。
人生を、何度繰り返しても、そんな風に言ってくれる友人は現れな
かった。
私はいつだって1人きりで、立ち竦んでいたのだ。
﹁⋮⋮そこまで言ってくださるほどの何かをした覚えがございませ
ん⋮⋮﹂

501
喜びよりも、嬉しさよりも、戸惑いの方が勝る。はっきりと、困惑
していた。
﹁イリア様。私も友情というものがどういうものかいまいちよく分
かっていませんの。⋮⋮貴族社会に生きてきた身でございますから、
そもそもそういうものが存在するのかどうかも疑わしいと思ってお
ります﹂
﹁⋮⋮そう、ですね﹂
﹁けれど、私、愛についてであれば分かる気がしております﹂
﹁⋮⋮愛?﹂
﹁ええ。私は、愛の存在を信じておりますから。友人のために捧げ
る愛もあると思っておりますのよ。そして、愛に理由など必要ない
のですわ﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁だから、イリア様。私は貴女に、友愛を、捧げたいと思うのです﹂
暗い場所なんか、見たことないと言っているかのように。
柔らかな陽射しの中で生きてくただろう彼女の言葉は、輝きを放っ
て、私の胸に落ちてくる。
不覚にも泣き出しそうになって、必死に堪えた。干からびて蒸発し
そうになっている精神に、ぽつりと水滴が落ちて広がる。
寂しくて、苦しくて、悲しい。だけど、今は、この刹那だけは、そ
れだけではないような気がした。
滲む視界を払うために強く目を閉じる。
しばらくそうした後に再び目を開ければ、そんな私を可笑しそうに
見つめる彼女が居た。そして、
いとま
﹁︱︱︱︱︱それでは、私はそろそろお暇いたします﹂と、立ち上

502
がる。
﹁⋮⋮もう、ですか?﹂
なるべく何でもないかのように装ったけれどうまくいったかどうか
分からない。彼女は少し首を傾いで、微苦笑を浮かべた。
﹁ソレイル様も、お越しになるということですし。今日は、イリア
様のお顔を見に来ただけですので﹂
そう言いながらも今にも立ち去ろうとしているマリアンヌを見送る
ために立ち上がろうとしたのだが、左手が頼りなくシーツの上を滑
る。それでも体勢を変えようとすれば、彼女は慌てて﹁どうぞ、そ
のままで﹂と、そっと私の肩を押さえた。
本当は上半身を起こしているのも辛い状況だったので、申し訳ない
とは思ったが、その言葉に甘えることにする。
私のそんな態度に満足げに肯いた彼女が、私のベッドから離れた。
その様子を見守っていると、背中を向けていた彼女が、ふと、振り
返る。
﹁イリア様。人生には時々、自分の力ではどうしようもないような
出来事が起こるものですわね﹂
﹁⋮⋮え、あ、はい⋮⋮そう、ですね﹂
何を指しているのか真意が見えない。マリアンヌは、どこかぼんや
りとした眼差しをしていた。
遠くを見ているのか、あるいは、遠くに﹁何か﹂が見えているのか。
とにかく、視線は私の顔に向けられていたけれど、私自身を見てい
るわけではないようだった。

503
﹁運命は変えられると言う人もおりますけれど、変えようとして変
えられないもののことを運命と言うのでしょう。変えてしまえるの
ならば、それは既に運命ではないのですわ。そして、﹂
﹁⋮⋮そして?﹂
﹁絶対に回避できないもののことを宿命と、呼ぶのだと、思います﹂
﹁⋮⋮宿命⋮⋮、﹂
﹁いえ、違いますわね。回避できないのではなく、回避しては、な
らないのです﹂
︱︱︱︱︱回避してはならない。
﹁絶対に避けてはならないことだからこその、定めなのかもしれま
せん﹂
言葉を置くようにゆっくりと話す彼女は、もはや微笑も浮かべては
いない。
感情の見えない顔と、ぴくりとも動かない指先が、人形のように見
える。それはまるで、﹁何か﹂に操られているかのようだった。
無機質で、無感動で、無気力。
背中に、ぞっと寒気が走る。
﹁⋮⋮あら、珍しい﹂
しかし、そんな私のことなどお構いなしに、マリアンヌは間の抜け
たのような声を上げる。今度は、その顔にはっきりと驚きの色を浮
かべた。今しがた語っていたことなど、忘れたかのように。
その視線は私を追い越して、部屋の入口から一番遠い場所にある窓
に向けられている。
﹁黒い鳥だわ﹂

504
はっと息を呑んだのは、私だったのか、彼女だったのか。
振り返れば、確かに窓の外についている柵に、黒壇で塗り固めたか
のような鳥が留まっている。
カラスだと、指を伸ばしそうになって、その目が羽根と同じ色だと
気付いた。
鳥を模しているときのカラスは、黄色の目をしていたから、彼とは
別物だと分かる。
だけど、だけど。
﹁⋮⋮マリアンヌ様は、あの鳥の名前をご存知ですか?﹂
﹁いいえ。私、あのような鳥は見たことがございませんわ。真っ黒
な鳥なんて⋮⋮﹂
私たちがそんな会話をしている間に、黒い鳥は羽ばたいていった。
﹁いいえ、違いますわね。イリア様、やっぱり私の見間違いかもし
れませんわ。黒い鳥なんて存在するはずがありませんもの。きっと、
濃い灰色をしていたのでしょう。もしくは、海の底のような深い深
い青色だったかもしれませんわ﹂
ふふ、と笑みを零すマリアンヌの声が遠のいていく。
カラスは初めて会ったとき、こう言っていた。
﹃僕の名前を知っている?﹄
﹃僕はカラス﹄

505
︱︱︱︱︱凶兆を知らせる鳥だよ。
506
21
凶事なら既に起こっていると答えたのは、今よりもずっと前の人生
だ。
だけど、その﹁凶事﹂に関しての始まりがいつだったのか、実は自
分でもよく分かっていない。
繰り返す人生の始まりはいつだって、ソレイルとシルビアを引き合
わせた茶会だった。
だから私は、こう思っていた。
全ての始まりは、あの茶会なのだと。
それこそ、マリアンヌの言葉通り、人生に避けようのない出来事が
発生するのだとすれば、あの茶会はその1つに数えられるだろう。

507
茶会を開いた時点で、己が同じ時間を何度も繰り返す特異な人間だ
と知らない私は、どうしても彼らを引き合わせてしまうのだから。
つまり、2人の出会いは必然であり、それこそ運命だったのだと言
える。
運命は変えられないということを、思い知った瞬間でもあった。
﹁︱︱︱︱︱イリア様?﹂
今にも部屋から出ようとしていたマリアンヌがこちらへ戻って来る。
扉を開けていたので、その向こうから我が家の侍女も顔を出してい
た。マリアンヌが連れて来たと思われる従僕の姿も見える。
﹁⋮⋮あ、いいえ、いいえ、大丈夫です﹂
ただ名前を呼ばれただけだけれど、彼女の顔を見れば心配されてい
るのがよく分かる。
首を振りつつも、既にベッドから片足が出ている状態だった。﹃行
かなければ﹄という焦燥に促された上での行いだ。
﹁⋮⋮一体、どうなさったのです?﹂と問われるけれど、だんだん
と早くなっていく鼓動に平静を失う。
うわ言のように大丈夫と繰り返し、転がるようにしてベッドから落
ちた。
﹁お嬢様!﹂
助けようとするマリアンヌよりも早く、侍女が慌てた様子で部屋の
中に入ってくる。
膝をつき、助け起こしてくれる彼女に縋りながら﹁⋮⋮シルビアは
?﹂と、口にしていた。
私付きの侍女ではあるけれど、必要以上の会話をしたことがない。
だからこそ、まるで私が意味不明の言語を口にしたかのような顔を

508
している。妹の居場所を聞いているだけだと言うのに、ただその名
を口にしただけでは意図が伝わらないのだ。
もう1度、同じ質問を繰り返そうとして、口の中がからからに干か
らびていることに気付く。
﹃ここが地獄なら。君が罰を受けているというのなら。君は一体ど
んな罪を犯したんだろうね?﹄
頭の中にカラスの声が響いた。
繰り返したところで上手くいかない人生に、もしかしたら、時間が
戻ることには何の意味もないのではないかと結論付けていた私。そ
んな考えに一石を投じたのは彼だった。
そして、あのときの私はこう思っていたのだ。
︱︱︱︱︱幸せになりたかった。愛する人と共に過ごす人生を夢見
た。それはつまり、運命によって引き合わされた2人を引き裂くこ
とと同義だった。
誰かの不幸を願ったこと。それこそが、この地獄の始まりではない
かと、思い込んだ。
しかしそれは、繰り返す人生に絶望し、混乱した頭で、自分なりに
推測したに過ぎない。
﹃なぜ、君だけにそんなことが起こるんだろうね?﹄
﹃なぜ、君だけが同じ時間を繰り返すんだろうね?﹄
重なるように響く、幻の声に追い詰められていく。
﹁シルビアは、今、どこに居るの?﹂

509
ここ数日、ずっとベッドから出られなかったので、足に上手く力が
入らない。
﹁⋮⋮シルビア様ですか?﹂至近距離で見上げた若い侍女は、はっ
きりと眉を顰めた。
わたくし
続けて、﹁私は何も存じ上げません﹂と首を振るその肩が、少し強
張る。
もしかしたら、私とシルビアが接触しないように、何か言い含めら
れているのかもしれない。握り締めた彼女の腕は明らかに緊張して
いるようだった。
﹁イリア様、本当に、大丈夫ですの?﹂
侍女に支えられてようやく真っ直ぐに立つことができた私の顔を、
マリアンヌが覗き込んでくる。
動揺を悟られまいと、反射的に顔を背けるけれど、そうした方がず
っと不自然であることに気付いた。
平静を取り繕うことすら難しい。
﹁⋮⋮マリアンヌ様、﹂
﹁?﹂
﹁回避することのできない⋮⋮いいえ、回避してはならない運命を、
回避してしまったならば。一体、どうなるのでしょうか?﹂
答えが帰って来ることを期待していたわけではない。実際、マリア
ンヌは訳が分からないというような顔をして首を傾いでいた。つい
さっき﹁宿命﹂というものの本質を語ったというのに、彼女の中で
は、なかったことになっている。それは、人智を超えた、私たちの
ような只人には理解できないような存在の思惑があったのかもしれ
ない。

510
そういう存在のことを人はきっと、神と呼ぶのだろう。
だとすれば、私は恐らく、神の意思に背いたのだ。
ああ、そうだ。だからこそ地獄に堕とされたのかもしれない。
運命をねじ曲げた。その代償を負っているのだとすれば。
﹁⋮⋮申し訳ありません、マリアンヌ様。私、行かなければ、﹂
非礼と承知の上で、マリアンヌの体をそっと押し退ける。
﹁⋮⋮イリア様?﹂
私を追いかけるように半歩だけ前へ進み出た彼女だったけれど、只
事ではない雰囲気に呑まれてしまったのかその場で立ち止まった。
事情を話すことができないせいで、彼女の不審を煽っている。そう
と分かっているのに、私の名を呼んでくれるその声に振り返ること
はできない。
歯を食いしばらなければ崩れ落ちそうになる。
だけど、1歩、2歩と、足の裏で絨毯の感触を確かめるごとに、し
っかりと歩くことができるようになった。
奮起しているからなのか、もしくは、私の意志など関係ないのかも
しれない。
入口のところで待機していたマリアンヌの侍従に声をかけ、彼と入
れ替わるようにして部屋を出る。送りの馬車の用意ができたら、彼
らには我が家の使用人が声を掛けるだろう。
扉が閉まる刹那、もう1度私の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれ
ど、やはり振り返らなかった。
﹁⋮⋮シルビアは、外出しているのね?﹂
私と一緒に廊下へ出て来た侍女に問えば、彼女は、ほんの一瞬だけ

511
私から視線を外す。恐らく、何と言い訳するか考えていたのだろう。
けれど結局、その何気ない仕草が、私に答えを与えてくれることと
なった。
何度も経験していることではあるが、血の気が引く感覚というのは、
慣れるものではない。
指先が、すっと体温を失い、心臓が脈を打つ速度を上げる。肉体が
おかしなことになっていると分かるのに、成す術もなく、どうしよ
う、どうしようと思っている内に後頭部がざっと音をたてるのだ。
﹁お嬢様?﹂
訝しげな侍女はそのままに、廊下を進む。
今日はそもそも来客があると分かっていたので、部屋着とは言え、
見苦しくはないはずだ。
外出するときに着るものとは明らかに質が違うけれど、それでも、
貴族の子女が纏うものであるから、それなりに値の張るものである
ことには変わりない。
こういうときは、己の平凡な顔が役に立つ。
マリアンヌのような派手な顔つきで、いかにも貴族と分かる女性で
あれば、この服が外出用でないことは一目瞭然だ。だから、人目に
つくことになる。
だけど、私の場合は違う。
例えこのまま街中に出たとしても、服装について指をさされること
などない。
この服は、地味だけれど外出着として十分な役割を果たしてくれる
だろう。
煌びやかな世界に身を置いているのにも関わらず、ぱっとしない相
貌がいつだって劣等感を刺激してきたけれど。
今だけは、それも悪くないと思える。
息を吐き出せば、引き摺られるように自嘲交じりの笑みも零れた。

512
﹁お嬢様、どちらへ行かれるのですか?﹂
﹁⋮⋮シルビアのところよ﹂
﹁シルビア様、の?﹂
﹁ええ﹂
追わなければ、という想いだけが、私を突き動かしていた。
行き先なら、多分、知っている。あの子がどこに居るのか、私はも
う、分かっている。
﹁⋮⋮お嬢様!﹂
ただ只管に前だけ見据えて廊下を進む私の後ろを歩く侍女が声を上
げた。無視することもできたけれど、切羽詰ったような声音が気に
なって、思わず振り返る。
階段を降りようとしていたので、不自然な体勢のまま後ろに立って
いる彼女を見やれば、その後ろから侍従が現れた。
息が上がっているところを見れば、走って追いかけてきたのだろう。
侍女の顔が、少年と呼ぶに相応しい幼げな顔つきの侍従に向いてい
るので、私もそちらに視線を移す。
発言の許可を得たと判断したらしい侍従が、ぐっと息を呑んで声を
発した。
恐らく、穏やかとは言えない表情をしているだろう私に、怯んでい
るのかもしれない。
﹁お、お嬢様、ソレイル様がお見えです。随分前から、客間でお待
ちでした﹂
事前に知らされていた時間よりも、ずっと早い。
しかし、侯爵子息であり、私の婚約者である彼は別室で待機する必

513
要などないはずだ。マリアンヌが来ていることを知っていたのか、
単に、来客があるからと遠慮していたのか。
ともかく、私に気を遣ってくれたのは確かだ。
来客中であろうとも、彼なら、入室しても誰かに咎められることな
どない。
﹁いかがなさいますか?﹂と問われるが、返事をする前に、足が勝
手に動き出す。
︱︱︱︱︱舞台は整った。
けれど、光の当たる場所に立つことができるのは選ばれた人間だけ
だ。
彼らはそれぞれに役目を負い、物語を終焉へと導かなければならな
い。
私は、そんな彼らを、舞台の上に立たせる役を与えられたのだ。だ
からこそ、演者になることはできないのだろう。
﹁ソレイル様は、剣を、お持ちかしら﹂
玄関ホールへと続く階段を降りるのを止め踵を返した私の後を、侍
女と侍従が戸惑いながらも着いてくる。
ぽつりと呟いた声を拾った人間はいなかった。


﹁説明して欲しいのだが、﹂
水に浮かんだ氷に青空を映したなら、こういう色をしているのかも
しれない。

514
ソレイルの目を見て、ふとそんなことを思った。
狭い空間にたった2人きりだからこそ、そんな詮無いことを考えて
しまうのかもしれない。
こうなるように仕向けたのは自分だというのに、完全に戸惑ってい
る。
がくん、と視界がぶれて、私たちを乗せた馬車がやっと進みだした
ことを知った。
﹁君はまだ病み上がりだろう。外出なんかして大丈夫なのか?﹂
問われて、そっと肯く。大丈夫とは言い難かったけれど、大丈夫で
はないともまた、言い辛かった。
それを察したかのように、彼は﹁大丈夫には見えないが、﹂と眉を
寄せる。
思わず視線を逸らしてしまったのは、彼の眼差しを受け止める余裕
がなかったからだ。つまり、彼の言葉を肯定したわけでも、否定し
たわけでもない。
こういう状況だからなのか、それとも元々の性質なのか、ひどく曖
昧な返事になってしまったと思う。
己の心境を他人に伝えるというのは、ひどく難しい。
私の場合は、特にそうだった。
これまでずっと、感情の起伏を悟られまいと、波立つ心を磨り潰し
てきたのだ。でこぼこの土を、足で踏みつけて均すみたいに。
それでも、今現在の私たちは、互いの困惑をしっかりと読み取って
いた。
彼はもしかしたら私以上に戸惑っているかもしれない。
事の次第を理解している私でさえ、これほどに動揺しているのだか

515
ら。
﹁先ほども申し上げましたが、どうしても行かなければならない場
所があるのです。ソレイル様には、せっかく屋敷まで足を運んでい
ただいたのに、申し訳ないことですが⋮⋮、﹂
﹁⋮⋮いや、﹂
それは構わないと首を振ったソレイルは、一瞬も逸らすことなく私
の顔を見ていた。
私の心の底を覗き込もうとするかのように。
進みだしたのはつい先ほどだというのに、もはや暴走していると思
えるほどの速度で走る馬車の中、私たちは横並びに座っている。
車輪が、がらがらと激しい音をたてているので、互いに声を張らな
ければ何を言っているのか分からない。
そのため、必然的に顔を寄せて話しをすることになった。
これほどに近い距離で話しをするのは、幼い頃以来かもしれないと
思う。
あの頃だって、互いに口数が多いとはいえなかったけれど、それで
も笑い合うことだってあったのだ。
今はもう遠い昔のことである。
茶会以降の時間を何度も繰り返しているからこそ、尚更に遠い。
﹁熱があるんじゃないか? 顔色が悪いし、震えている﹂
ソレイルは、そっと私の肩を撫でた。壊れ物でも触るかのような優
しい仕草だ。
近過ぎる距離のため、顔のパーツはよく見える。通常は、遠めに見
ているよりも表情は読み取りにくいはずだ。それでも、彼の感情が
分かりすぎるほどに分かるのは、一緒に過ごしてきた時間の長さの

516
せいか。
第三者からすれば、彼はやはり、何を考えているか分からない人間
に見えるのだろう。
﹁⋮⋮ソレイル様、私のお願いを聞いていただきたいのです﹂
彼の手は私の肩を滑り、背中を撫でる。まるで、いつもそうしてい
るかのように少しの躊躇いもない。
﹁君はさっきからそればっかりだな。しかし、何をして欲しいのか
明確には話さない。
それでは、私も何をすればいいのか分からないし、君の願いを聞き
入れることが正しいのかも判断できない﹂
はっきりとした物言いではあったけれど、拒絶されているわけでは
ないと感じる。
その目が、私だけを見つめて。その耳が、私の声を聞き逃すまいと
している。斜めに傾けた顔からは、優しささえ滲み出ているようだ
った。
見詰め合っていれば、心が通じているのだと勘違いしそうになる。
実際、思い上がりも甚だしいと言ったところか。重ねてきた人生の、
幾人もの﹁自分﹂が警告を発しているのだから。
けれど、何度人生を重ねたところで、人間の本質は変わらないよう
だ。
私はいつも、彼を信じようとする。
それがどれ程に愚かなことなのか、既に思い知っているというのに、
同じ過ちを繰り返す。
﹁⋮⋮イリア⋮⋮?﹂
﹁ソレイル様は、ただ1つのことだけ守ってくだされば、それでい

517
いのです﹂
﹁⋮⋮1つのこと?﹂
﹁はい﹂
背中に回されていた彼の手を取り、握り締める。ごつごつとしてい
る手の平から、騎士になるために、彼がどれほどの鍛錬をしてきた
のかを伺い知ることができる。
何も今初めて彼と手を繋いだわけではない。舞踏会ではいつも彼の
婚約者として出席していたから、手と手を合わせて踊ったこともあ
る。
それなのに、私は、彼の手の平をよく知らなかった。
彼だって何の努力もせずにいたわけではない。未来の侯爵家を背負
うため、私と同じく研鑽を積んできたのだと改めて思い知る。
今更になって、そう実感するのは、私がいつも自分のことしか考え
ていなかったからだ。
彼の横に並び立つ私は、いつだって気を張っていた。だって、考え
る必要があったのだ。
彼の隣に相応しい人間であるか、私は他人からどう見えているのか、
淑女として立ち振る舞いに問題はないか。
︱︱︱︱︱私は、いつも、自分のことしか考えていなかった。
﹁これから、何が起こったとしても、必ず、私の妹を守ってくださ
いませ﹂
﹁⋮⋮妹? シルビアを、か?﹂
大きな手の平を全部包み込むことができないから、指先だけを握り
締める格好になる。
いつにない私の行いに驚きの色を見せつつも、反射なのか何なのか、

518
彼は私の手を握り返してくれた。
﹁一体、何が起きるというんだ。君は、一体、何をしようとしてい
る?﹂
馬車が一層、大きく揺れて、2人の体がふわりと座席から飛び上が
る。体を支えきれずに、椅子から滑り落ちそうになった私を、彼が
その腕で受け止めてくれた。﹁危ないな﹂という彼の声が頬にかか
る。
余りに近い距離に、触れ合った皮膚がじりじりと痛む気がした。
かつては夫婦として共に生活をしたこともある。子供を授かったこ
とだってあった。
だけど、物理的な距離と、心の距離はまた別のものである。肉体が
傍にあるからといって、その心まで近づくわけではない。
今だって同じようなものだけれど︱︱︱︱︱。
けれど、いつもよりは少しだけ、心が近づいたような気がしている。
今日、見舞いと称して我が家に訪れた彼は、花束を用意していた。
それだけなら、型どおりの行いだと気にも留めなかったかもしれな
い。見舞いに花を用意するのは珍しいことではないし、むしろ、手
ぶらでは非礼に当たる。彼も、礼に倣っただけなのだろうと深く考
えなかったはずだ。彼は紳士であるから、好意など抱いていなくと
も、礼儀を欠くことはないのだと。
だけど、彼が選んだのは、白い花だった。
大小、種類の違う様々な花を寄り集めたような花束だったけれど、
花屋で購入したのか、いかにも値の張る花弁の大きなものも交じっ
ていた。

519
それはまるで、彩り鮮やかな花々の中から、白い花だけを抜き取っ
てかき集めたようだった。
本来なら、故人に捧げるような花だ。
縁起がいいとは言えない。それこそ無礼だと罵られても文句は言え
なかっただろう。
けれど、相手が私であるなら別である。
ただの1度も口にしたことはないのに、彼はきちんと知っていたの
だ。
私の好きな色を⋮⋮、好きな、花を。
﹁︱︱︱︱︱ソレイル様は、本日、我が家へ何しにいらっしゃった
のですか?﹂
﹁⋮⋮何?、あ、いや、君の見舞いだが⋮⋮?﹂
突然話しを変えたにも関わらず、彼は律儀に返事をしてくれる。
﹁ええ、そうですね。それは分かっております。それに⋮⋮、大変
有り難いことだとも、思っております。けれど、それだけではない
のでは?﹂
﹁⋮⋮、﹂
怪我をしたと手紙を出した。しばらく学院を休むとも伝えた。場合
によっては、婚姻破棄もあり得るのだろうと、遠回しではあったけ
れど彼には分かるように伝えたつもりだ。
だけど、返事はなかった。彼は、何も言ってはくれなかったのだ。
それが急に、見舞いに来るという。
それはつまり、手紙にしたためるよりも、直接伝えなければならな
い何かがあったからではないだろうか。
ただ単に、顔を見に来たのだというのは、説得力に欠ける。

520
﹁⋮⋮何も、心配する必要はないと、﹂
再び、大きく揺れた馬車の中で、彼の声はひどく聞き取りにくかっ
た。彼もそれを察したのだろう。
1つだけ呼吸を置いて、
﹁何も案ずる必要はないと、君に伝えたかった﹂と告げた。
﹁君は、怪我をした理由も、何をそんなに案じているのかも手紙の
中では何1つ語ってはいなかったが⋮⋮、最近の君を見ていれば、
何か悩んでいたのは分かっていた。だからこそ、きちんと顔を見て
伝えたかったんだ﹂
一言一言、言葉を置くように、あるいは噛み締めるように語った。
﹁︱︱︱︱︱っ、﹂
心が震えるというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
心臓の奥の、本来なら何もない場所にある、目にすることのできな
い何かが音をたてて揺れる。
﹁⋮⋮君の怪我は、何か深い事情があるんだろう。それは君が、話
しても良いと思えるときに教えてくれたらいい。急かしたりはした
くない。それに、﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁時間なら、この先、いくらでもあるのだから﹂
滲んでいく視界の向こう側にソレイルの顔が見えた。

521
目を閉じなければ、泣いてしまう。そう思うのに、瞬きをすること
さえできない。
その言葉を、彼が口にするとは思わなかった。それは、私自身が、
何度も言い聞かせてきたものだ。
﹃これから先、いくらでも時間はある。だから、大丈夫。私たちは、
いつか、寄り添って生きていけるようになる﹄
何度も、何度も、呟いた。それを、覚えている。
﹁その言葉が、聞けただけで、﹂
十分です、というのは声にならなかったけれど、何を言ったのか彼
には分かったはずだ。
はっと、目を見開いたソレイルは﹁どうして、そんなことを言うん
だ﹂と呟いた。
﹁⋮⋮まるで、これが最後みたいだ。そんな風に聞こえる﹂
たった1つの出来事で、何もかもを帳消しにできるわけではない。
私は、彼の知らない人生を生きてきた。その度に、絶望を味わった。
それらを全て帳消しにすることなどできない。だって、そういった
経験の積み重ねが﹁現在の私﹂を形作っているのだから。
だからこそ、私は、もう﹁私﹂を否定したくない。
﹁ソレイル様、私のことを少しでも大切だと思ってくださるのなら、
私の願いを叶えては下さいませんか﹂
﹁イリア、﹂
﹁これは、シルビアの為に用意された舞台なのです。だから、私は

522
大丈夫。大丈夫、です。けれど、あの子には貴方様が必要なのです
わ。あの子には、ソレイル様、貴方しかいないのです。だから、ど
うか、どうかお願いです。あの子を、救ってあげてくださいません
か﹂
﹁イリア、君は一体何を言っているんだ。それでは、何も分からな
い。私は、何1つ理解できていない。こんな状態で、ただ君の望む
通りに動くことなど不可能だ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮いいえ。いいえ、大丈夫です。ソレイル様は分かっているは
ずです。何をすべきか、﹂
彼の胸の真ん中に人差し指を当てる。
﹁貴方様の、その魂が、知っているはずなのです﹂
虚をつかれたような顔をしたソレイルが何度か瞬きを繰り返し、私
の指を払った。そして、すぐさま、腕を掴まれる。
﹁どういうことなんだ、イリア。君は一体、何をしようとしている
⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮ソレイル様﹂
どうか約束して下さいと繰り返した言葉が、車輪の騒音に紛れて消
えた。
﹁どうかしている! 君の言っていることは何か、おかしい。君が、
君ではないように思える。イリア、君は一体、どうしてしまったん
だ﹂
強く掴まれた腕に鋭い痛みが走る。そういえば、傷を負っていたの

523
だった。
思わず彼の手を払い、痛みを逃すために相貌をくしゃりと歪める。
そうしていれば、痛みに耐えられるような気がしたのだ。
本当は、この手を掴んでいてほしかった。
暴れても罵声を浴びせても、絶対に離さないと誓ってほしかった。
この身がどれほどに穢れていようとも、抱き締めてくれるその手さ
えあれば、それだけで良かったのだから。
﹁私は、イリア=イル=マチスです﹂
人格いうものが、生まれ持ったものと、その後の経験の蓄積により
形成されるのならば。
私はきっと、彼の知っている﹁イリア﹂ではないのだろう。
彼だけを見てきた。彼だけがほしかった。彼以外には、何も必要な
かった。本当はそうなのに、かつての私は色んなものを欲しがった。
両親からの愛情も、その内の1つなのかもしれない。
それに、侯爵家の人間として相応しい自分になれるように努力して
きたのは、社交界認められたかったからだ。ソレイルの両親にだっ
て気に入られたかったし、この婚約に異議を唱える人間を見返した
いという想いもあったのだ。
﹁イリアは、そんな目で私を見たりしない﹂
閉じていた目を開けば、ソレイルは﹁彼女を、どこにやったんだ﹂
と言った。
震える声に、確かに哀切のようなものが滲んでいて。私は寸の間、
声を失った。

524
それではまるで、ソレイルが、私のことを捜しているように思える。
もうここには存在していないはずの私を。同じ時間を繰り返す前ま
での私を。つまり︱︱︱︱︱、
茶会の前までの、私を。
咄嗟に、﹁私は、私でしかありませんし、私は初めからここに居ま
す﹂と答えるけれど、彼は懐疑的な眼差しを向けたままだった。
だから、彼の手を再び握り締める。ぴくりと震えた彼は、それでも
私の手を払ったりはしなかった。
そして、囁くように呟く。
﹁さっき君は言ったね?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁私が、君のことを少しでも大切に思っているなら願いをかなえて
欲しいと⋮⋮﹂
﹁はい﹂
﹁大切に、決まっているだろう。君は、私の婚約者だ﹂
﹁⋮⋮ええ、そうです。⋮⋮そうですわね﹂
それは、願いを叶えてくれるということなのだろうか。
はぁ、と息を吐き出して、逸る気持ちを落ち着かせようと呼吸を置
く。
相変わらず、車輪の音と馬が土を蹴る音が響いているというのに、
静まり返っているような錯覚に陥る。
﹁イリア?﹂私の名を呼んだ、彼の声音とその雰囲気から、不安を
察することができた。
﹁シルビアのことで、ソレイル様に話さなければならないことがあ
ります﹂

525
他には誰も居ないというのに声を潜める。上手く聞き取れなかった
のか、ソレイルは顔を寄せてきた。
だから、彼の肩に顔を埋めるようにして話しをする。
﹁⋮⋮シルビアのこと?﹂
﹁ええ。あの子の生まれと、あの子の両親についてですわ﹂
﹁何?﹂
いきなり何を言い出すのかと、存外に告げられているようなソレイ
ルの声を耳にする。
自分のやっていることが正しいことかはわからない。だけど、間違
ってもいないと思っている。
それでも気分が塞いでいくのは、他人の秘密を暴露するということ
には罪悪感が伴うものだからだろう。
いたたまれないような気分になって、そっと、窓から外の様子を伺
う。
見慣れない景色に、街からは、随分離れたところまで来たのが分か
った。
御者に行き先を告げたのは、当然、私である。
とにかく最速で向かうように厳命すれば、馬の手綱を握っていたそ
の人物は、僅かに目を瞠った。
そして、目的地までの道順を言葉少なに説明してくれたのだった。
距離的には街の中を通った方が近い。けれど、街の中で馬車を暴走
させるわけにはいかない。だから、安全な速度で街を通るよりも、
迂回して、馬の脚を速めた方がいいだろうと。

526
その言葉だけを聞いていれば、仕事熱心な御者だと関心したかもし
れない。
けれど彼は、帽子の下の相貌に僅かな好奇心を滲ませていた。
口にはしなかったが、﹁一体、何の用事でそんな場所に﹂と訊きた
くてたまらなかったことだろう。
私たちは、そんな場所に向かっている。
﹁⋮⋮どういう意味なんだ﹂
ソレイルの低い声が耳朶を打った。
窓の外から視線を戻せば、彼の射抜くような眼差しにぶつかる。
﹁︱︱︱︱︱シルビアは、命を狙われているのです﹂
結論としては、そうだ。
あの子は何者かに命を狙われている。それは、茶葉に薬を混ぜてい
た母のことではない。あれは、全くの個人的感情からくるものだっ
たと思う。
マリアンヌが言っていた運命論を信じるのであれば。
私がこれまでの人生で回避してしまった﹁宿命﹂というのは、つま
り。
最初の人生で、シルビアが遭遇した悲劇のことではないだろうか。
2度目以降の人生では、私は、シルビアはあの悲劇で命を落とさな
いようにするために立ち回っていた。結果として、あの子は無事に
その後の生を歩むことになったのだけれど。
結局は、病に冒されることとなった。
それ以降の人生では、どうだろうか。

527
いつの間にか、私が手を尽くさなくとも、あの子が強盗に襲われる
ような事態は発生しなくなっていた。
全ては茶会の日に始まった︱︱︱︱︱?
いいえ、違う。繰り返しの始まる時点がそこだっただけだ。だから、
私は勘違いをしたのだ。
この繰り返しの起点は、あの穏やかな昼下がりではない。
全ての始まりは。
あの夏、あの﹁運命の日﹂
シルビアが強盗に襲われて、死んでしまった日なのではないだろう
か。
運命は、導く。
全ては、あの日に還る。
シルビアが、初めて死んでしまった、あの日に。
528
22
︱︱︱︱︱思い出すのは、血に汚れたリボンだ。
シルビアがあの日、観劇に出たのは息抜きのためだった。元々決ま
っていた予定などではなく、その日、突然思い立って行動したのだ
と聞いている。
だけど、それはあくまでもシルビアの視点からの話で。
他の誰かにとっては、想定外の出来事ではなく、あくまでも想定内
のことだったかもしれない。
例えばあのとき、﹁たまには息抜きに、お屋敷から出られては?﹂
こう言った人物が居たならどうだろう。その数日前までは病で臥せ
っていたと聞くから、妹は、その助言に喜んで従ったのかもしれな
い。

529
体に障るからと、いつだって室内で大人しく過ごしていたシルビア。
本人も言っていたけれど、あの子に許されていたのは散歩と読書く
らいだった。
使用人は、主の前では必要以上に口を開かないものだし、何よりも
仕事がある。いくらシルビア優先とはいえ、一日中あの子に構って
いることはできない。
散歩するとしても、屋敷の中を歩き回ったり、庭を散策するくらい
で。それも幼少期からの習慣であれば、見慣れた風景に飽き飽きし
ていたに違いないと推察できる。
周囲の人間も、寝入っていることの多い彼女が街へ行きたいと言っ
たとき、強く止めることはしなかったのだろう。たまになら問題な
いと、それくらいはさせてあげるべきだと、そんな風に思ったのか
もしれない。
だけど、それも﹁強盗による殺人﹂という悲劇を演出した人間の手
の内だったのではないだろうか。
2度目の私は、シルビアの生まれや境遇まではまだ知らなかった。
それでもやはり、誰かの陰謀を疑った。
けれど、当時の私は、あの悲劇がそれはシルビアを害するためでは
なく、あくまでもソレイルの婚約者としての私を貶めるための策略
だったのではないかと考えていたのだ。
実際、それも間違いではなかったと思っている。
私を邪魔に思っていた誰かにとっては、またとない機会だっただろ
う。
シルビアの死を利用して、私を、ソレイルの婚約者から罪人へと引
き摺り落とすことができたのだから。

530
︱︱︱︱︱けれど、そもそもの論点はそこではなかった。
私は、自分を中心にしか物事を考えてこなかったから、正しい答え
を導くことができなかったのだといえる。
己のことを物語の脇役にもなれない人間だと結論付けていたにも関
わらず、自分が、この出来事の重要人物だと捉えていた。
﹁⋮⋮シルビアに、何が起こると言うんだ﹂
先に馬車を降りたソレイルが当然のように、手を差し出す。
こういう状況でなければ、たったそれだけの行為に、私はきっと顔
を緩ませていた。そういう自分を、簡単に想像できる。
彼の手の平に指を重ねれば、掬われるようにそっと掴まれた。
ソレイルにとっては、相手が女性であれば何の気負いもなく行う、
紳士としての振る舞いである。
だから、彼は既に私から視線を外して、周囲を窺っていた。
シルビアの生い立ちについて話をした後だからか、警戒しているの
だろう。
鬱蒼とした広葉樹の生い茂る森の中に視線を滑らせて、ついでに、
空の色まで確認している。
いつかの人生で、結婚した当初から騎士として頭角を表していた彼
のことを思い出した。所属する騎士団が遠征した際に送られてきた
手紙のことも。
そっけない手紙だった。何の感情も見てとれない、淡々とした文章
だった。
そんな手紙を、宝物みたいに大事にしていたことまで甦る。
﹁それに、なぜ、シルビアが狙われていると分かる?﹂

531
ふとこちらに振り返ったソレイルの眼差しが鋭い。怒りを内包して
いるかのような眼差しだが、気が立っているだけだ。
彼にとっては、まさに寝耳に水の事態であるはずだから。
なかなか表情の読みにくい顔立ちの彼ではあるが、内心は動揺して
いるのかもしれない。いや、恐らくそうだろう。彼はまだ学院生で、
いわゆる騎士見習いと呼ばれる訓練生でしかない。幼少期から剣を
習っていたはずだが、当然、実戦を経験したことはないはずだ。
更に、あえて指摘するならば、騎士になるために体を作りこんでい
る最中であるからこそ屈強だとは言えない。
騎士を目指す者であるから、弱々しくはない。だけど、きっと頑強
なわけでもない。
そもそも私たちの年齢は、たった2つしか違わないのだ。
子供の頃は、そのたった2つの年齢差を巨大な壁のように感じてい
たけれど。
年齢を重ね、そして、人生を重ね続けた今。
目の前に居る彼はもう子供とは言えないけれど、それでもまだ、大
人の入口に差し掛かった年齢になったばかりだと気づく。
周囲を警戒しながら、私をその背に庇おうとしているその姿は、確
かに頼もしくはある。
しかし、彼だって、私と同じく誰かに守られるべき貴人であること
に変わりはない。庇護されることに、慣れているとも言える。
そうであるにも関わらず、先ほどから一切崩すことのない紳士的な
振る舞いにはいっそ舌を巻くほどだ。
これが幼少期から行われてきた教育の賜物であるなら。
私たちが、いかに﹁作られてきた﹂ものであるかが分かる。

532
だからこそ、彼はシルビアに惹かれたのだろうか。
﹁私には、ただ﹃知っている﹄としか申し上げられないのです﹂
頬を柔らかな風が撫でて、木々たちがざわりと音をたてた。擦れ合
う無数の葉が、不穏な噂話に興じているかのように思える。
見上げれば、未だに高い位置で燦然と輝く太陽の下を無数の鳥が飛
んでいった。
普段であれば、さして珍しくもない光景だと言えるのに。その黒い
影が不吉さを助長させている。
﹁まるで占い師のようなことを言うんだな﹂
繋がれた手はそのままに、行き先を知らないソレイルは後ろを歩く
私を何度も振り返る。私が前を歩けば何も問題はないだろうに、彼
はそれを良しとしなかった。
その腰には剣を下げている。
本来なら、いくら騎士科といえど学院生が街中で帯剣することはほ
とんどない。そもそも、学院に通うのは貴族であるから、その必要
がないのだ。例えば、強盗や暴漢に遭遇したとしても、従者や護衛
を傍に置いておけば問題ない。
だからこそ、この状況がいかに異常なことなのかを私もソレイルも
しっかりと理解できる。
屋敷で、緊急事態であるから手を貸して欲しいと告げたとき、彼は
あっけにとられている様子だった。
けれど、私の様子を見て何か察したのだろう。
剣を持っているかと問うた私に、彼は僅かに首を傾げた後、小さく
頷いた。
その後、彼を連れて屋敷から抜け出し、辻馬車を拾ったのだった。

533
我が家の馬車は出払っているし、ソレイルの家の馬車は走っている
だけで目立つ。何せ侯爵家の馬車だ。豪奢な外観は素朴とは言えな
い。今はなるべく、人目につくような行いは避けたかった。
誰がこの件に関わっているのか分からない以上、騒ぎ立てれば、そ
れだけシルビアの身に危険が迫る。
従僕を伴わなかった理由もそれだ。
どこで誰が聞き耳をたてているか分からないし、使用人を連れ出す
には、家令へ報告しなければならない。たったそれだけのことだけ
れど、それがひどく目立つ行為と言える。
だから、侍女にアルフレッドへの伝言を預けることにして、誰も連
れてこなかったのだ。
正直、ソレイルが私の指示に従ってくれるかどうかは賭けに近いも
のがあったのだけれど。
彼は、多くを訊かなかった。従僕を伴わなかった理由さえも。
ソレイルの近くに居るというだけで身構えてしまう私にとっては、
そんな彼の態度こそ意外なもので。
今、私の手を引いてくれている彼が、繰り返してきた人生の﹁彼﹂
と同一人物だというのが不思議な気がした。
﹁けれど、シルビアが⋮⋮何者かに狙われているというのは事実で
す﹂
ソレイルが占いなどの類を信じているとは思えない。だから、私の
声音も必然的に囁くような弱々しいものになる。
﹁君の言葉を疑っているわけではない﹂
ちらりとこちらに視線を流したソレイルは極めて真剣な顔をしてい

534
たが、一瞬だけ、その口元に薄く笑みを刷いた。あまり表情の変わ
らない彼だから、非常に分かりにくい。だけど、もしかしたら私を
安心させようとしたのかもしれないと思う。
馬車の中では、当然、私が同じ時間を繰り返していることなどは話
していない。
それでも、シルビアの両親については包み隠さず全て話した。彼は
知らないだろうが、社交界で流行っている小説が、実はどういうも
のなのかも教えた。
私にとっては筋の通ることでも、彼には、何の信憑性もない話だっ
ただろう。
﹁妄想だ﹂と一蹴されても文句は言えなかった。
﹁それで、私は何をすればいいんだ?﹂
﹁⋮⋮先ほども、申し上げました通り、ただシルビアを守ってくだ
されば⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
﹁え?﹂
﹁私が君の言う通りにしたとして、それで君はどうするんだ?﹂
生い茂る草を掻き分けるようにして前へ進む。行くべき場所はもう
分かっていた。
あのとき、︱︱︱︱︱妹が死んだと聞かされた後、私はすぐに拘束
されてしまったから、事件の詳細を知っているわけではない。ただ、
牢屋番が暇つぶしにぼそぼそと語っているのを聞いていただけだ。
そして、私自身が牢に捕われたまま絶命していることから、あの事
件はそのまま闇に葬られてしまった。
主犯とされた私が死んだのだから、それも仕方ないことかもしれな
い。そもそも、世間は姉妹間の骨肉の争いという部分だけに注目し
愉しんでいただけに過ぎないのだから。

535
真相など気にする人間はいなかったのだろう。
ソレイルさえも、もしかしたらその内の1人で。
私が、妹を妬み、嫉み、憎んで凶行に走ったのだと信じていたよう
だった。
だからこそ、私を断罪し、極刑を望んだ。それは多分、間違いない。
彼は唯一、真相を明らかにすることができる人間だったかもしれな
いというのに。
妹への恋慕が、私への憎悪が、彼の目を曇らせた。
2度目の人生以降では、あの事件自体が起こらないように尽力して
いたから。
結局、同じ出来事は起こらず、シルビアが死んだ当日に何があった
のかを知ることはできなかったというわけである。
けれど、妹が発見された場所なら知っていた。
街で観劇したはずのあの子は、屋敷までの帰りには絶対に通らない
場所で見つかったのだ。
︱︱︱︱︱そう、この森の中である。
妹を乗せていた我が家の馬車は、ここからは少し離れた場所で横転
していたのだと聞く。同行していた侍女はその中で絶命しており、
荷物は全て持ち出されていた。だから、強盗の手によるものだと判
断されたのだ。
けれど、妹は、その場で見つかったわけではない。
強盗団は、あの子だけをわざわざその場から連れ出したのだ。そし
て、森の奥深くで、その命を奪った。
﹁⋮⋮ソレイル様、危ない目にあっているのはシルビアです。私で

536
はございません。だから、﹂
先ほどから繰り返している﹁大丈夫﹂をもう1度口にしようとして、
強く握られた手に、言葉を封じられた。﹁大丈夫だとは思えない﹂
そう呟いた彼は、前を向いたままだ。
どんな顔をしてそんなことを言うのかと。形の良い後頭部を見つめ
るけれど、振り返ることもない。
シルビアを追っているのに、まるで私たちが誰かに追われているよ
うに感じる。
この森は、案外、人間の出入りがあるようで。道なき道を歩いてい
るわけでもない。周囲は背の高い木々が立ち並んでいるが、その間
を縫うように獣道が通っている。踏み均されているところを見れば、
複数の人間がここを行き来しているのが分かる。
﹁⋮⋮この先に、何があるんだ﹂
森に入ってからはさほど時間が経過しているわけではない。それな
のに、随分と歩いているような気がする。それは、ただ只管に気が
急いているからだ。それではなぜ、徒歩なのかというと。
馬車から降りたのはもちろん、森の中まで入ることができないから
であり、馬に乗らなかったのは地鳴りのような脚音が響くからだ。
﹁君は、知っているのか?﹂
彼は突然立ち止まり、振り返った。陽射しが眩しいのか、眇めた双
眸が、私の表情から何かを読み取ろうとしているのが分かる。けれ
ど、上手くいかなかったのか、ふっと小さく息を吐く。
互いに見詰め合ったまま、その場に留まっていると、まるで世界に
たった2人取り残されてしまったかのような感覚になった。こんな

537
ことをしている場合ではないと分かるのに、この時間が惜しいとも
思う。
木々のざわめきと、雑草が波打つ音と、空気が吹きぬける感触と。
たったそれだけしかない場所に、2人きり。何だか、それがどうし
ようもなく狂おしい。
ソレイルと初めて顔を合わせたその日、2人で侯爵家の庭を歩いた。
ちょうど今と同じように、先を行く彼の背中を追いかけて。
近づいては遠ざかり、遠ざかっては近づくのが、もどかしくてどう
しようもなかった。
あのときと違うのは、私たちが今、手を繋いでいるということだ。
私はやっと、こうして彼と同じ歩幅で歩くことを許されたのかもし
れない。
手に入れたくて仕方なかったものがここにある。だけど、今それに
手を伸ばすのは間違いだと承知していた。
それを証明するかのように、遠くで引き攣れたような悲鳴が響く。
この場所に足を踏み入れたのは初めてだというのに、あの子の居場
所が分かるのは。
うねるように続く獣道が、私たちを目的地まで導いているからに他
ならない。
﹁︱︱︱︱︱ソレイル様、﹂
わざわざ呼びかけるまでもなく、彼は既に戦いに赴く者の目をして
いた。

538

木漏れ日を踏みつけるように足を進める。物音がどうとうか言って
いる場合ではなかった。
ふくらはぎの高さまで育っている雑草を掻き分け、幾分も進まない
うちに、突然視界が開ける。
競うように大きく伸びた木々がその数を減らし、ぽっかりと穴が空
いているかのように青空が広がった。今まで通ってきた道に比べれ
ば、随分と歩きやすそうなところだった。比較的平らな地面には背
の低い雑草が生い茂っている。
﹁⋮⋮だれかっ、だれか、たすけて⋮⋮!!﹂
恐怖のあまりに声が出ないのだろう。叫んでいるつもりかもしれな
いけれど、あまりに頼りない悲鳴だった。
﹁︱︱︱︱︱シルビアっ!﹂
声を掛けてしまってから、はっと息を呑む。焦りの余り、考えるよ
りも先に妹の名を呼んでしまった。
冒してしまった失態に唇を噛む。自分が何をしてしまったのかは、
時を数えるまでもなく分かった。
妹を連れ去ろうとしている人間の目が、こちらに向いたからだ。
﹁イリア⋮⋮っ、後ろに下がるんだ!﹂
ソレイルは素早く剣を抜き、私の斜め前に立つ。
そこに居たのは3人の男で、その内の1人が妹を荷物のように肩に
担いでいた。
手が届くほどの距離とは言えないが、顔が認識できるほどには近い。

539
声を張り上げれば、互いの言葉もしっかり聞き取ることができるだ
ろう。
﹁⋮⋮ああ、残念。間に合っちゃったか﹂
一種、緊迫した状況とも言えるのに。
間の抜けた声を出したのは、先方だった。一番先頭を歩いていた男
が、首を傾いで、にこりと笑みを作る。
その見覚えのある顔に、頭を殴られたような衝撃を受けたのは私だ
けではなかったはずだ。
いや、むしろ。私よりもずっと、ソレイルのほうがずっと狼狽して
いるかもしれない。
﹁︱︱︱︱︱なぜ、﹂
後ろにいても、ソレイルの心音が聞こえるようだった。
どくどくと爆ぜるような音をたてて、早鐘を打っているに違いない。
背中が震えたように思うのは気のせいではないだろう。
﹁なぜだ、︱︱︱︱︱﹂
頭上で、ピチチと鳴く小鳥。その暢気な鳴き声があまりにも場違い
で。
﹁サイ、﹂
彼の名前を呼ぶソレイル。その声が耳の中で共鳴して耳鳴りがする。
瞬きをすることさえ忘れて、その人物の顔を見据えた。
初めて、学院の裏庭で顔を合わせたときと同じように、ひどく柔和
な顔つきだ。それと同時に胡散臭いとも言える笑みを貼り付けてい

540
る。食堂で顔を合わせたときも、同じ。彼はいつだって愉しげで、
陽気な雰囲気を纏っていた。それでいて、その人好きのする空気は
崩さないままに辛らつな言葉を吐くのだ。
サイオン=トピアーシュ
藍色の目をした彼は初めて会ったとき、そう名乗った。
﹁⋮⋮なぜ、か。その理由を語るには一言では到底足りないんだ。
しいて1つだけ上げるなら、僕にも守りたいものがあるってことだ
ね﹂
シルビアが乗ってきたはずの馬車は、かつてと同じように、森の近
くで横転しているのだろうか。
そして、妹に同行していたはずの侍女がここにいないということは。
既に、1人の命が失われていることになる。
その事実に、皮膚が粟立ち、首元の太い血管がどくどくと音をたて
た。
サイオンのすぐ後ろにいる一番大柄な男が、シルビアを担いでいる。
標準よりも華奢な体躯とは言え、人間1人を抱え上げるのにはかな
りの労力を必要とするはずだ。しかし、その体は揺らぐことなく、
また疲労を覚えているようにも見えない。
そして、こういう状況だというのに、暢気にあくびをしているでは
ないか。
追い詰められているという感覚などないのだろう。
﹁お屋敷でずっと、死ぬまで大人しくしてくれていればよかったの
に。そうすれば、僕だってこんなことをしなくてもすんだのにね﹂

541
眉を下げて、本当に困っているかのような顔で話す彼を見ていると、
まるでこちらが悪いことをしているような気分になる。
﹁⋮⋮それは、シルビアのことですか?﹂
訊ねれば、彼はこっくりと肯いた。
﹁君たちがどこまで、シルビアちゃんの事情を知っているのか分か
らないけど⋮⋮いや、その顔は、もう全部分かっているのかな?﹂
ふふと、小さく笑った後、息を落とす。その音が、耳元で響くよう
だった。
﹁僕の国は今、とても危ない状況なんだ。先日、女王陛下が崩御な
されて⋮⋮お子に恵まれなかったから、王室では後継者問題が発生
してね。⋮⋮色々あったんだけど⋮⋮、ともかく。
王政廃止派と王政存続派で、国が二分しているんだよ。
そんな状況で⋮⋮、彼女が、シルビアちゃんが表に出てくるってい
うのは。︱︱︱︱︱それはね、困るんだ﹂
とっても困るんだよ。と続ける彼の声を遮るように、﹁お姉さま!
! ソレイル様!! 助けて⋮⋮!﹂と妹が声を上げる。
先ほどよりも、ずっとしっかりした声音だった。
抱え上げられたままの妹は顔を上げることができず、しかし、私と
ソレイルの声をしっかりと聞き取ったようだ。
﹁シルビアちゃん。君の声はとっても愛らしいけど、今はちょっと
黙っててね﹂

542
しーっ、と宥めるように言う。その態度には、悪事を働いている人
間特有の陰惨さのようなものがない。
サイオンは﹁下してあげて﹂と、普段よりもずっと低い声で同胞ら
しき人物に指示を出している。
つまり、彼がこの事件の首謀者なのだろうか。
﹁女王陛下には妹君がいてね。もう随分前に亡くなったんだけど。
⋮⋮うん、そう。それが、シルビアちゃんの母君だよ﹂
僕が、困るって言った意味、分かる? と彼は問う。
﹁そもそも、彼女には生きていてもらっては困るんだ﹂
薄く笑う彼の目に、日の光が反射する。
光の加減では黒く見える瞳だと、そう思った。だけど、強い日差し
の下では、藍色だと思っていたその双眸が鈍い紫色に見えた。
その色が指し示すものは。
﹁︱︱︱︱︱シルビアちゃんには難儀なことだけれど。君は、存在
するだけで、僕たちの国を脅かす﹂
呆然と立ち尽くしていたシルビアの顔が、さっと青褪める。
己の出自について、あの子は何も知らなかったはずだ。けれど、サ
イオンから聞かされた可能性はある。
自分がどれ程に、危うい立場なのか。知ってしまったのだろうか。
そんな妹の顔をみたサイオンの目は、何の感情も映していない。
陽が翳ったわけでもないのに、光を取り込むのを止めてしまったよ

543
うだった。
﹁だから、消えてもらおうと思って﹂と、口元だけに笑みを浮かべ
る。
その言葉を合図に、サイオンの隣に立つ男がシルビアの首元に腕を
回して拘束し、更にその横に立つ男が剣を構えた。
穏やかに流れていたはずの空気が硬く凝縮されたような気がして、
息が上がる。
それは彼らの放つ、殺気によるものかもしれなかった。
﹁ああ、それと。僕たちは、3人じゃないからね﹂
そろそろ顔を見せてあげたら? というサイオンの声と共に、彼ら
の背後に立ち並ぶ木々の隙間に人影が現れた。
少しずつ太陽が傾き始めていると気付いたのはそのときだ。
足元に落ちる影が少しだけ薄くなっている。光と闇が同化を始めて、
その境界を曖昧にしていく。
﹁ねぇ、どんな気分? ソレイル。教えてくれないかな﹂
嘲笑うような声に抑揚をつけて。彼は、一流の舞台役者のようだっ
た。
﹁友人に、裏切られるのは﹂
今まで隠れていたのか、それともどこかから戻ってきたのか。
闇に同化していた人影は輪郭を取り戻し、私たちの前にその全貌を
現す。
印象的な赤い髪を、よく知っていた。

544
彼は、いつも、ソレイルの隣に並んでいた。
それはいつの人生でも変わらなかった。
彼らは互いのことを生涯の友と呼んでいたはずだ。そして、その言
葉通り。彼らはこの先もずっと友人関係であり続けるのだと知って
いる。
私とソレイルが結婚した後もその関係は変わらず、続いていくのだ。
⋮⋮そのはずである。
だけど、思い出す。
カビ臭い牢獄で、彼は言っていた。
﹃馬鹿だね。君は本当に愚かだ。⋮⋮どんなに抗ったところで、運
命には逆らえるはずもないのに﹄
545
23
地下牢で最期を迎えた、1度目の私。
息絶えたその瞬間を思い出すことは難しい。私は、痛みと苦しみと
絶望にのた打ち回り、そして力尽きたのだ。記憶が曖昧になってし
まうのも無理はないと思う。
だから、あんな場所にわざわざ足を運んだソレイルの友人について
も、はっきりと詳細を思い出すことはできない。︱︱︱︱︱はず、
だった。
もや
ふっと何かが閃くように、頭の中にかかっていた靄が晴れる。
1つだけ思い出したのだ。
あのとき彼は、シルビアのリボンを持ってきたと言った。

546
地面に倒れこみ、もはや呼吸をすることすら痛みが伴う私に﹃諦め
て、死んだ方がいい﹄と言った彼。
その言葉は余りに冷淡であったけれど、涙を滲ませて﹃ごめんね﹄
と呟いた彼からすれば、それは私に与えた慈悲だったのかもしれな
い。
もう、死んでもいいのだと。そう言ってくれたのかもしれなかった。
そして、そんな彼は、鉄格子から腕を伸ばして私にシルビアのリボ
ンを渡してきたのである。
﹃⋮⋮君はいらないと言うかもしれないけど、独りで逝くのは寂し
いでしょう? 君がこれから行く場所では、妹さんが待ってるよ。
だから、安心するといい﹄
僕は多分、そこには行けないけれど。と、彼は言って、血で汚れた
リボンを強引に握らせたのだ。
見覚えのないそれが妹のものだったと聞かされても、実感は湧かな
かった。
それに、彼がなぜ、妹の遺品とも呼べるべきものを持っていたのか。
ソレイルや、もしくは私の両親から預かったのかもしれないと頭を
掠めたけれど。思考はまとまらなかった。
だけどもしも、妹が強盗団に襲われたときに彼がその場にいたのだ
とすれば、説明がつく。
現在のこの状況と同じように。
﹁なぜ、お前が。ここにいる?﹂
ソレイルに問われた赤い髪の男︱︱︱︱︱エドワルドが首を傾げた。
そして、困ったように力なく微笑して﹁もう分かっているんじゃな

547
い?﹂と答える。
裏切ったのか? と囁くような声で呟く私の婚約者。その背中が明
らかな動揺を示していた。
そもそもこんな状況で、平常心を保つことのできる人間などいない
だろう。
﹁ソレイル。君だって覚えがあると思うけど、人間はね、何か1つ
大切なもののためならどんなことでもできるんだよ﹂
炎の揺らめきにも似た髪を風に靡かせながら、彼は言う。
意味深だ。けれど、エドワルドはそのまま黙り込んで、サイオンの
方を見つめる。
﹁エドの言う通り。人間はいつだって何かを選択しながら生きてい
る。取捨択一というやつだ。何かを選び、それ以外を捨てる﹂
エドワルドの言葉を引き継いだサイオンが肩を竦めて大仰に語った。
大切なものを守るために、それ以外のものを切り捨てるのは悪いこ
とではない。と、深い紫色の瞳を瞬かせる。
柔らかく細めたその目元が、シルビアに似ている気がするから不思
議なものだ。
彼らの間に血の繋がりがあるかどうかも分からないのに。
﹁⋮⋮何の話をしているの? 私を、どうするの? ねえ、サイオ
ン様⋮⋮﹂
大柄な男にその身を拘束されたままのシルビアが小さく声を上げる。
ゆっくりと翳っていく陽射しの中で、それでも柔らかな光を纏って
いるかのような妹の姿。ここが舞台であるなら、主演の彼女はスポ
ットライトを浴びているところだろう。

548
紫水晶に似ているその瞳から零れ落ちる涙が、きらきらと輝いて胸
を打つ。
﹁色々あったんだって、さっきいったでしょう?﹂
﹁⋮⋮サイオン、さま、どうして⋮⋮。どうしてですか?﹂
憐れみを誘う泣き声に絆されたのか、サイオンが﹁ああ、もう!﹂
と苛立ったように声を上げた。
﹁⋮⋮まぁいいよ。あまり時間もないから答えてあげようか。先ほ
ども言ったけれど、亡くなった女王陛下はお子に恵まれなかった。
現在は、後継者問題が勃発しているわけだけど。︱︱︱︱︱それは
つまり、後継者がいないというわけじゃない。当然だよね。王室が、
陛下に何かあった場合の策を講じていないはずがないでしょう?﹂
幾人もの後継者候補が、その後釜を狙って対立しているというわけ
である。
サイオンの話しはそういうことだった。
﹁どの後継者候補も、女王陛下の直系というわけじゃない。誰もか
れもが、王冠からはそれなりに遠い場所で生きてきた。それなのに
⋮⋮どういうことだろうね。彼らは選ばれた。そして、僕の義理の
兄がね。運良く⋮⋮いや、運悪く、かな? 後継者候補の1人にな
った﹂
はは、と乾いた笑みを残して彼は視線を落とす。
﹁そんな彼の、今後の行く末が分かる人間はいるかな?﹂
ふう、と息を吐き出した彼の声が少しだけ弱くなった気がした。

549
彼の問いに答える人間はいない。だって、知らないからだ。今、初
めて聞かされた話に対する考えを述べるには圧倒的に時間が足りな
い。たった二、三秒で答えられるような軽い話題でもなかった。
サイオンもそれが分かっているのか﹁君たちには想像もできない問
題だろうね﹂と言う。
﹁現在、荒れに荒れて、揺れまくっている王室だけれど。ここで新
たなる問題が発生したわけ。何と、王政廃止を訴える輩が出て来た
んだ。彼らはね、民意に押されて勢いづいている。そして、後継者
問題で揺らいでいる王室を、一気に叩き潰そうって魂胆なんだ﹂
そこまで、まくし立てるように話したサイオンがおもむろに、剣を
抜いた。
﹁もしも僕の義兄以外が王になった場合、邪魔者は全て消される。
そして、王政廃止派が勝利した場合も、王室の関係者は全て粛清さ
れる。つまりね、僕の義兄には、王陛下になる以外の道は残されて
いないんだ﹂
そういう国に生まれついてしまった人間の気持ちが、君たちには分
かるだろうか? とサイオンは、剣を構える。
彼の動きにあわせるかのように、他2人の男と、エドワルドも戦闘
態勢に入った。
大柄の男が突き飛ばすようにしてシルビアを解放する。拘束から解
かれて自由になった妹は、ふらりとこちらに近づこうとするけれど、
﹁動いたら、殺すよ﹂とサイオンが制止する。
びくりと肩を震わせて、その場に留まるシルビア。前に出たエドワ
ルドの背中に隠れる格好となった。
多勢に無勢とはまさにこのことだ。ソレイル1人ではあまりに分が
悪い。

550
︱︱︱︱︱屋敷に残してきた侍女が、アルに伝言を伝えてくれたな
ら。彼がここに来てくれる可能性はある。
しかし、未だにその姿は見えないし、今のこの状況ではいくら時間
を稼いだとしても、勝負は見えている。
﹁そして、問題はそれだけじゃない。そう、シルビアちゃんのこと
だ﹂
私の妹が、遠くにいる。揺れる瞳が私を見つめていた。
その目が﹁助けて﹂と言っている。
﹁彼女の存在が明るみになったら⋮⋮、血筋から言えば、彼女が後
継者の最有力候補となる。それじゃぁ困るんだ。今更、出てきても
らっては困るんだよ!﹂
ざあぁ、と雑草が風に流される音が響いて、それが合図となった。
先に動いたのは、やはりサイオンだ。白刃が煌き、一瞬、視界を白
く染める。
﹁だからと言って、こんなことが許されるはずはない!﹂
剣を構えたソレイルが声を上げた。
激しくぶつかる金属音が、鼓膜を奮わせる。
サイオンは自国で何らかの諜報活動に関わっていた可能性があるの
で、もしかしたら真剣での対戦に慣れているのかもしれない。しか
し、ソレイルは学院生だ。真剣での実戦経験が多いとは言えないだ
ろう。
どちらが有利なのかは、素人の私でも分かる。
それに、ソレイルは未だに現状を理解しきれていないのだろう。防

551
戦に徹しているようだ。
食堂で顔を寄せ合って談笑していた2人。サイオンはこんな未来を
予想していたのだろうか。
いや、もしかしたらソレイルと対峙することは考えていなかったの
かもしれない。
私がこの場に彼を連れてこなかったら、サイオンとソレイルは剣を
交えることもなかったはずだ。
﹁ソレイル、君は本当に甘いよね。︱︱︱︱︱僕はね、君にもきち
んと道を示していたんだよ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁君には何度もシルビアちゃんを勧めたよね。イリア嬢よりも、シ
ルビアちゃんの方が君には相応しいって。何度も、何度も言った。
その方が平和的に解決できるって知ってたからだ﹂
﹁何の話をしている⋮⋮?﹂
﹁もしもシルビアちゃんが、侯爵家に入っていたなら。この事態は
もっと別の方向へ動いていた。彼女が侯爵家の一員に名を連ねると
いうことは、この国に忠誠を誓うのと同義だ﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁君の家は他国にもその名が知れ渡っているからね。シルビアちゃ
んは、名実共にこの国の人間となる。そうなれば、完全に我が国と
は決別することができただろう。その場合は、そうだね。交渉の余
地はあったかもしれない。シルビアちゃんを、見逃すこともできた
んだ﹂
ソレイルは最早言葉を失い、サイオンの剣を受け流しながらもその
言葉に聞き入っていた。
﹁最も避けたいのは、シルビアちゃんが伯爵家の﹃無知なお嬢様﹄

552
として存在し続けることだった。いや、それでも屋敷に篭ったまま、
深窓の令嬢として、誰にも知られることなく生きてくれるならそれ
で良かった。それなのに⋮⋮、あろうことか学院に通い始めたんだ﹂
やれやれ、と首を振ったサイオンが息を吐く。
﹁我が国の人間が、シルビアちゃんを利用しようって虎視眈々と狙
っているのに⋮⋮。彼女は、のほほんと学院に通い続けていたんだ
から本当に笑える。だけど僕だって、無用な殺生は避けたいと思っ
てた﹂
だから、せっかく選択肢を与えたのに。とサイオンは、大きく剣を
振りぬいた。
呻き声を上げたのは、ソレイルで。袖が裂けて、血が流れている。
思わず、息を呑めば、
﹁イリア嬢︱︱︱︱︱!﹂
唐突に名を呼ばれた。
サイオンは剣に着いた血液を振り払い、私を見ている。
﹁だけど、ソレイルは言ったんだ。︱︱︱︱︱君じゃなきゃ⋮⋮、
イリアじゃなきゃ駄目だってね﹂
その言葉に、目を瞠った。返事をすることさえできない。
ソレイルがまさか、そんなことを言ってくれるなんて思いもよらな
かったのだ。
﹁僕の入り込む余地なんかなかったんだよ。だから、君は少しも案
じる必要などなかったのに﹂

553
私を庇うような動きで足を踏み出したソレイルが、再びサイオンに
向き直る。
そのとき、﹁貴様っ、裏切るのか!﹂そんな声が響いた。
思わずそちらの方を見やれば、エドワルドが、先ほどまで横に並ん
でいたはずの大柄な男に向かって剣を向けている。きつい眼差しで
互いの顔を睨みつけている彼らは、到底、同士には見えない。
﹁残念だけど、僕は初めから君たちの側についたつもりはないから。
裏切るというのは語弊があるね﹂
今まで、ほとんど口を挟むことのなかったエドワルドが、愉しげに、
にやりと唇を歪めた。
﹁⋮⋮家族がどうなってもいいのか?﹂
静かな声音で問うたのはサイオンだ。彼はソレイルに向き合ったま
まだったが、それがエドワルドに対する問いかけだというのは分か
る。
エドワルドが言っていた﹃守らなければならないたった1つのもの﹄
というのが、一体何だったのか。
教えられるまでもなく、この場に居た全員が理解できただろう。き
っと、ソレイルにも伝わったはずだ。
彼は﹁エド、﹂と何か言いかけて、結局、唇を引き結んだ。
この状況で、エドワルドがこちら側に寝返った意味。その覚悟に気
圧されるものがあったのかもしれない。
﹁⋮⋮迷いはあるよ。もちろん、自分の家族がどうなってもいいと
は言えない。だけど、僕の家族は僕を愛しているからね。あの人達
は、僕が裏切り者と謗られるような事態を許さない﹂

554
だから僕は、友人を裏切ったりはしない! と、はっきり断言する
ソレイルの親友。
サイオンはそれを聞いて、ふっと嘲笑を浮かべた。
﹁それはそれは⋮⋮、素晴らしい友情だ。だけど、それはつまりエ
ド。君は死ぬ覚悟があるということだね?﹂
愚かで、幼稚だ。と続ける。
義兄の為に国を渡り、ソレイルとの間にあったはずの友情すら無為
にする男だ。
サイオンには、エドワルドの考えていることなど理解できないのだ
ろう。
﹁︱︱︱︱︱それじゃ、ま。お遊びはここまでということで﹂
ぱんぱん、と手を叩いたのは、サイオンとソレイルの攻防を眺めて
いた細身の男だ。
サイオンに加勢するつもりなのだろう。彼の斜め後ろに立ち、ソレ
イルに向き合う。
一方では、エドワルドと大柄な男が再び、剣を構えている。
彼らは互いを牽制し合っているので、会話をしながらも、視線だけ
は対峙している相手から逸らすことはない。
それでも、僅かに体勢を変えたエドワルドは、近くにいるシルビア
を守るような素振りを見せた。
﹁分かり合えなくて、残念だよ﹂
そう言ったのは、誰だったか。
死の宣告にも思える言葉に、知らず内に両手が震えた。

555
目の前で、生きるか死ぬかの駆け引きがなされているというのに、
私には何もできない。
﹁悪いけど、死ぬつもりはないから!﹂
エドワルドの声は明るかった。強気に振舞っているのか、心の底か
らそう思っているのか。
彼は、大柄の男に向かって突進していった。
揺れる赤い髪に同調するかのように、鮮血が舞う。力の差は歴然と
していた。
従騎士にすらなれていない彼が、明らかに玄人である相手と同等に
戦うのには無理がある。
それでも彼は剣を握り締めていた。血を流しながらも、1歩も引く
素振りを見せない。
﹁⋮⋮もしも生まれた国が違ったなら、僕たちは友人になれたかも
しれないね。だけど、これも1つの運命だ﹂
サイオンが剣を振り上げれば、ソレイルもそれに対抗する。素人目
にはよく分からないが、彼らは体格が似ているから、その力も拮抗
しているように思えた。
しかし現在、ソレイルが相手にしなければならないのは2人だ。
サイオンが連れているのは恐らく諜報部隊の精鋭だろう。年齢から
見て、到底学院生には見えないし、実戦に慣れている感じがする。
﹁そして、運命には逆らえない﹂
サイオンは、笑っているような、嘆いているような、何とも言い難
い顔をしていた。
義理の兄君のためとはいえ留学生を装い、間者として他国に渡った

556
彼。年頃は私たちと同じだというのに、守るべきものを守るために
その手を汚す覚悟をしている。
﹁ちょうど良かったよ! 君たちの複雑な関係を利用すれば。この
事態も上手く隠蔽できるはずだからね﹂
サイオンと中庭で話しをしたとき、彼は自国のことを話していた。
恋愛結婚が主流になりつつあると。
彼の国は今、大きな変革のときにあるのだろう。
それも多分、一般民衆が主体となって。
だからこそ、彼や彼の義兄の立場は非常に危ういのだ。
彼の言葉を信じるなら、シルビアの母が我が国へ亡命してきたとき
も、かの国は混乱の最中にあったと言える。そんな風に、何度も紛
争を繰り返してきた国なのだ。
だからこそ、彼は暗い眼差しで語るのかもしれない。平和への羨望
を。
その気持ちが分かるとは言い難いが、大事なものの為に身をはるそ
の献身的な想いには覚えがあった。
﹁ソレイル様!!﹂
陽が傾いて、辺りを赤く染め抜き、飛び散った血痕をかき消してい
く。
叫んだのは、シルビアだった。
細身の男が持つ剣が、ソレイルの肩を貫く。彼の呻き声に叫びそう
になったけれど、必死に押さえた。
彼の邪魔をしたくない。
ただシルビアが叫び続けるのを聞いていた。
負けると思った。このままでは、ソレイルが死んでしまうと。

557
ど、ど、と心臓が嫌な音をたてる。握り締めた手の平には汗が浮い
ていた。
怖いと思うのと同時に、背中をせり上がって来る予感に眩暈がする。
自室の窓辺からこちらを窺っていた、名もなき黒い鳥。
あの鳥は、凶事を呼ぶのだとカラスが言っていた。
﹁待って、まだ、待って﹂
まだ、覚悟ができていない。何をすれば、この事態を良い方向に導
くことができるのか分からないのだ。
視線だけを右へ、左へと彷徨わせて。喘ぐ呼吸を整えようと深呼吸
を繰り返した。
整理できずにいる心境はそのままに、ただ妹の下へと急ぐ。何かが
起こるのは、分かっていた。
その間にも、﹁⋮⋮ソレイル様!!﹂と、再びシルビアの声が響く。
︱︱︱︱︱しかし、ソレイルは追い詰められたわけではなかった。
やがて細身の男を切り伏せ、そして、素早く身を翻す。顔の前に掲
げた剣が、サイオンの攻撃も防いだ。
﹁⋮⋮ああ、﹂と、無意識にも感嘆の声を漏らす。それを遠くで聞
いていた。
目の前で剣を奮う彼らの動きが鈍くなったように思える。全ての出
来事が、速度を落としたまま進んでいった。目視では追うこともで
きなかったはずの剣筋がよく見える。
やがて、ソレイルの剣がサイオンの腹部を貫いた。
口から血を吐き出し、叫び声を上げる姿はいっそおぞましいほどで。
怖くてたまらなかった。
でも、だからこそ、ソレイルの勝利を確信したのだ。

558
ただ、安心することができなかったのは、その後に起こる出来事が
推測できたからかもしれない。
勝ったと思ったのはほんの一瞬だった。
サイオンの目は戦意を喪失するどころか、より一層、強い意思を宿
す。
鈍く光ったその双眸が、鋭く尖り、シルビアに向けられたのを見た。
そのことに気付いていた人間はいただろうか。
彼を貫いた剣を握り締めるソレイルさえ、サイオンの思惑を知るこ
とはできなかっただろう。
何を犠牲にしても、大切なものを守り抜くという意志。
誰にも邪魔をされるわけにはいかないという確固たる信念。
理想を貫くためには、自分の命さえ差し出す。
私も、かつてはそうだったから。
サイオンがその肉体でソレイルの剣を封じ、目的を果たすために動
いたのが分かった。
自分の剣を投げ捨て、袖に仕込んだ短剣をシルビアに向かって投げ
たのだ。
間に合わないと思ったけれど、間に合わせるという脅迫観念にも似
た想いが私の足を動かす。
考えるよりも先に、体が動いていた。
胸の下辺りに強い衝撃を受けた後、何が起こったのかを正確に理解
する。
痛みは感じなかった。それよりも先に、激しい苦しみに襲われたか
らだ。鼻と口を同時に塞がれたかのように呼吸ができなくなる。
しゃっくりのような音は、息を吸うのに失敗したからだろうと、頭
のどこかで思った。
背後で、妹が小さく息を呑む。その音が、耳に響く。

559
﹁⋮⋮はは、はははははっ!! 滑稽だ。とても、こっけい、だ﹂
笑いながら倒れこむサイオンの姿が、視界から消えた。
いや、違う。彼を視界に納めることができなくなったのだ。私はも
う、立っていることができなかった。
自分の胸から、生えるように突き出ているナイフの柄に触れる。
﹁君が、どれほど妹を守ろうとしても意味はない! 彼女はこの先
もずっと命を狙われるんだ⋮⋮!﹂
絶叫したサイオンの声を遠くに聞きながら考える。彼の言うことは
一理ある。
サイオンの母国が安寧を取り戻すまでは、シルビアはきっと、狙わ
れ続けるだろう。
︱︱︱︱︱だったら、尚更、あの子はソレイルの下にいた方がいい。
侯爵家の圧倒的な権力が、シルビアを守る盾になる。
﹁お姉さま、お姉さま⋮⋮っ、﹂
数秒か、数分か、意識が飛んでいたような気がした。私を現実に呼
び戻したのはシルビアの声だ。
いつの間にか辺りは静寂を取り戻している。
霞む視界がもどかしく、何度も瞬きを繰り返した。やがて視界に映
り込んだのは、黒髪と青い目である。
ソレイルが私の顔を覗き込んでいた。ということはすなわち、決着
がついたのかもしれない。
そして、彼がここにいるということは。
エドワルドの戦いもまた、終わったのだろう。

560
﹁イリア﹂と小さく私の名を呼ぶ婚約者の顔を見つめながら、近く
にいるはずの人物に声を掛ける。
﹁⋮⋮エドワルド様、シルビアを、向こうに連れていってくださら
ない?﹂
息ができないと思うほどに苦しかったはずなのに、案外、しっかり
と話すことができた。
﹁ソレイル様と、話が、したいのです﹂
思えば、痛みがない。ずくずくと脈が膿んでいるような、奇妙な感
覚があるだけだ。
﹁お姉さま⋮⋮っ、﹂
地面に倒れている私にしがみ付こうとする妹を、エドワルドが引き
離した。彼もやはり、敵を制圧したのだ。
怪我をしているようだが、命に関わるほどではないと分かる。血を
流しつつも、私の希望を叶えてくれた。その顔が歪んでいるのは、
振りだったとはいえ友人を裏切るような真似をした自責の念か。
﹁ソレイル、さま﹂
私の上半身を抱え上げたソレイルが﹁ああ、﹂と肯く。
優しい声だと思った。なぜか、そんな気がした。
﹁すぐに医師の下に連れて行くから﹂
彼は私を抱え上げようとして、だけど上手くいかずに、私の上半身
は再び地面の上に落ちる。
﹁くそっ﹂普段の彼らしくない舌打ちに苦笑が漏れた。

561
彼の腕は、相当深く傷つけられているようだ。恐らく、力が入らな
いに違いない。
それでも彼は、私の体を抱えようと悪戦苦闘している。
﹁ソレイルさま、ソレイルさま⋮⋮。私を、おいていって下さい。
サイオン様の仲間が、他にもいるかもしれません。この場から、離
れて﹂
﹁ああ、分かってる。だが、君を置いていくはずがないだろう﹂
﹁⋮⋮無理ですわ。今の貴方さまには、私を連れていくことは、で
きません﹂
痛みを感じない。それに、寒さも暑さも、何も感じない。それなの
に、息が切れる。
﹁シルビアを、ここから、遠く離れたところまで連れていって下さ
い。エ、エドワルド様、と2人で、あの子を守って。私とは、⋮⋮
ここでお別れです﹂
﹁︱︱︱︱︱っ、そんなこと! そんなことできるわけないだろう
!﹂
﹁いいえ、できます。⋮⋮っ、そうしなければならないのです﹂
﹁できない! できない! 君を⋮⋮っ、置いていくなんて⋮⋮!﹂
ソレイルの両腕が、私の背中に回る。そこから抱え上げようとする
のだが、できなかった。
何せ、死闘を繰り広げた後だ。満身創痍とはこのことで。
ソレイルだけでなく、エドワルドもまた同じ状態だと言えた。
彼らにはもう余力などないはずだ。それでも、サイオンの仲間がい
つ現れるか分からない。
一刻も早く、この場から立ち去るべきだ。
誰もが理解しているはずなのに、動けずにいるのは、私のせいだろ

562
う。
﹁ソレイル様、私を見て⋮⋮、私を見てください﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁私は、もう駄目です。⋮⋮っ、そうでしょう?﹂
私を抱きしめるようにして蹲っている彼の頬に触れる。青褪めたそ
の頬には、温度がない。
いや、違う。私の指が、感覚を失っているのだ。だから、彼の体温
を感じることができない。
﹁正しい状況判断を、しなければ、なりません。貴方は、いずれ、
侯爵となるのですから。大切にしなければならないものや、大事に
すべきものを見極めて⋮⋮、何をすべきか、判断を、下さなければ、

﹁できない、そんなことは、できるはずがないだろう︱︱︱︱︱っ﹂
﹃できない﹄と繰り返すソレイルが、子供のように見える。
切れ長の眦が赤く染まって、その縁に涙が浮いているのは気のせい
だろうか。視界がぼやけて、その顔がはっきり見えないけれど。死
に行く婚約者を惜しんでくれているのだろうか。
﹁⋮⋮ソレイル様、もういいのです。だって、貴方は、私を愛して
いないでしょう?﹂
﹁⋮⋮イリア﹂
﹁大切だと、言って下さいましたね。だけど、貴方は私を、愛して
いないし、私も、私も⋮⋮、そうです﹂
﹁⋮⋮っ、﹂

563
﹁私は、貴方を、愛しておりません﹂
絶対に言えないと思った言葉が、吐息と共にするりと零れる。嘘で
も言えないと思っていたのに。
自分のためではなく、彼のためなら言葉にできる。これは、彼に決
意させるための言葉だ。
﹁⋮⋮嘘だ、﹂そう呟いたソレイルが、私の肩を抱き寄せる。何か
を見極めようとしているのか、睫が触れるほどの距離で私の顔を見
つめていた。
母が死んだときの、私と同じように。
そして私はまさしく、あのときの母と同じような状態だった。
私の目の前で1度死んでしまった母が、最期の最期まで目を見開い
ていたことを思い出す。
彼女は、新緑に似た双眸で、じっと私を見つめていた。
瞼を閉じることができないと、そう言っているかのように。
私も、そうだ。
ソレイルの顔から、ほんの少しも目を逸らしたくない。
愛しいその顔が、たった一瞬でも視界から消えてしまうことを恐れ
ている。
これが最期なら、彼の顔をこの目に刻み付けたい。命が尽きても、
忘れることのないように。
だから、瞬きすらできない。
︱︱︱︱︱母も、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。
それならば。母の遺した言葉には矛盾が生じる。
母が、私のことを本当に愛していなかったのであれば、早く目を閉

564
じれば良かったのに。
彼女はそうしなかった。食い入るように私を見つめていた。
そこに込められた真意を読み取ることができなかったのは、私がそ
れほどに動揺していたからなのか。
あのとき、私を拒絶するかのように吐き出された言葉の、本当の意
味は。
ああ、何だ、そうか。やっと、理解できた。
母はきっと、こう言ったのだ。
﹃ごめんね、イリア。私、一度も貴女を、﹄
﹃上手く、﹄
﹃愛せなかった︱︱︱︱︱﹄
それはつまり、﹁愛している﹂の代わりで。
母の死を見届けなければならなかった私に、救いを与えようとした
のかもしれない。
だから私も、母を見習って。為すべきことをなす。
﹁ソレイル様。行って下さい⋮⋮、行って⋮⋮っ、私を大切だと言
って下さいましたね、約束を、守ると、﹂
﹁イリア、﹂
﹁手を、離さないで。あの子の手を、握ってあげて︱︱︱︱︱、守
って、﹂
ひゅーひゅーと、喉が鳴る。もう声にはならなかった。

565
私の瞳を覗き込んだソレイルが、きつく両目を閉じて。それから私
の後頭部や肩に触れ、1つだけ嗚咽を漏らした。そして、私の体を
ゆっくりと離す。
﹁⋮⋮お姉さま! お姉さまぁっ、﹂
エドワルドに掴まれて身動きができないだろうシルビアが私を呼ん
だ。
﹁私⋮⋮っ、私、知っているわっ、全部、分かってる⋮⋮!﹂
暗くなっていく視界の向こうで、私に手を伸ばした妹が声を上げる。
エドワルドがその小さな体を抱きとめて、連れて行こうとしている
のが分かった。
それでいい、そう言おうとして声が出ないことに気付く。
﹁私、ずっと知っていたわ! お姉さまが、私を、本当は愛してい
るんだってこと!﹂
視界が、闇に喰われていくようだった。ぽつぽつと穴が空くように、
見上げている夕闇が黒く染まっていく。いつの間に、陽が沈んだの
だろうか。
﹁だって、そうじゃなきゃ、⋮⋮っ、そうじゃなきゃ、これを、何
と呼ぶの⋮⋮っ! 愛しているからでしょう? だから庇ってくれ
たんだわ⋮⋮っ、﹂
声が、遠ざかっていく。
﹁私、これが、愛だってことを知ってる! お姉さまは、私を、愛

566
してる!! だから、だから⋮⋮っ、私もお姉さまを、愛したの⋮
⋮っ﹂
泣き叫ぶ妹。私の、可愛い、妹。
これが愛だったら、いい。こんな自己満足を、愛と呼んでくれるな
ら。
傍にいて、抱きしめて、手を握って。それだけが愛ではないのだと、
教えてくれる。
︱︱︱︱︱牢獄でエドワルドに渡されたリボン。あのときは見覚え
がないと思ったけれど。
﹁今﹂の私になら、あのリボンが何なのか分かる。
浴槽で溺れて寝付いてしまった私に、あの子が持ってきてくれた茶
葉。それを詰めたガラス瓶には赤いリボンが巻かれていた。きっと、
妹が飾り付けてくれたのだと思う。︱︱︱︱︱牢獄に持ち込まれた
シルビアの遺品は、あのリボンによく似ていた。
1度目の人生で殺されてしまったシルビアは。
観劇の行きか、もしくは帰りに、リボンを購入したのだろう。
もしかして、私のために選んでくれたのかもしれない。
今となっては何も分からないけれど。
伝わるように示すことだけが、愛ではない。
シルビア、⋮⋮ごめんね。そう言いたかったけれど。
もう真っ暗で。何も見えなかった。本当の終わりが近づいている。
両親に愛される人間になりたかった。妹のようになりたかった。ソ
レイルの婚約者として相応しい女性になりたかった。結婚したなら、

567
ソレイルの妻として正しくありたかったし、正義を貫き、己の信念
を曲げずに生きていたかった。
なりたい自分には、ただの1度もなれなかったけれど。
悪くない。こんな人生なら、きっと、悪くはない。
そう思って、これが最期だろうと大きく息を吸い込んだそのとき。
頭上から、ぽつりと声が降ってきた。
﹁やっと、見つけた﹂
﹁僕の、お姫様﹂
568

産まれたときのことを覚えている?
僕は当然、覚えていない。だが、死んだ日のことなら覚えている。

僕は、魔力や魔術がある世界を生きていた。けれど、全員が全員魔
力を持っていたわけではない。
それは多分、ある種の才能のようなもので。
上手な絵を描けたり、足が速かったり、あるいは手先が器用だった
りすることと同義だった。
逆を言えば、そういうことが得意ではない人間も少なからず存在し
ていたということである。

569
つまり、魔力が少なかったり、あるいは魔術を苦手とする人間も当
たり前に存在していたのだ。
おおごと
すなわち、不得手なことが問題視されることはなく、大事になるわ
けでもない。
単に、魔力があったほうが得だというだけで。ただ、それだけのこ
とだった。
僕は、そんな不思議な世界で生きていたのである。
そしてそこでは、保有している魔力の大きさで職業を選ぶことがで
きた。
力の強い人間が農夫に向いているように。あるいは、頭の良い人間
が学者や教師になるように。もしくは、絵の上手い人間が芸術家に
なるように。
保有している魔力が大きい人間にも、それにふさわしい職業があり、
自由に選ぶことができた。
長所を伸ばして職業とするのと、何ら変わりはなかったのである。
僕の父もその1人であり、膨大な魔力を必要とする特別な職業に就
いていた。︱︱︱︱︱いわゆる、魔術師というやつだ。
有能な魔術師の1人として、必ず、その名が上げられるほどの人物。
それが父だった。
運が良かったからなのか、膨大とも言える魔力を持って生まれ、そ
れを扱う才能にも恵まれていたらしい。
国からの依頼を請け負うこともあったようで、国王から直々に命を
受けることも珍しくなかったようだ。
軍属ではなかったけれど、攻撃魔法が得意だったために、軍人に似
た扱いを受けていたと聞く。
もしも他国に攻め入られることがあれば、魔術によって、侵略者を
駆逐し、殲滅する。あるいは、他国に渡って戦争に参加する。⋮⋮

570
詳しくはしらないが、そういうこともあったらしい。
また、父は、魔術の研究においてもその名を広く知らしめるほどで。
とにかく、才気溢れる人物だったと記憶している。
そんな男の長子として誕生した僕。
母は、多少魔力がある程度のごくごく普通の女性だ。けれど、尊い
血筋の人でもあった。
﹁貴族﹂というやつである。
父が、国王に重用されるほどの魔術師だったのだから、母が貴族で
あることにも違和感はない。
要するに、母は、父に与えられた報奨の1つだったのかもしれない
と考えている。
魔術師として頭角を表し、国に貢献していた父だったけれど、爵位
は持たなかった。すなわち、足りないものを補うために母が、⋮⋮
というよりも﹁母の血統﹂が、あてがわれたのだ。
政略結婚と言ってしまえばいいのか、それとも単なる契約結婚のよ
うなものだったのか、僕にはよく分からない。
しかし、両親はそれなりに上手くやっていたようだ。
残念ながら、母は僕がまだ言葉を話し出すよりも前に亡くなってい
るので確認する術はないのだけれど。
生まれ育った屋敷のあちこちに残る母の面影がそれを証明していた。
大きな出窓に掛かったカーテンの柄は、いかにも女性が好むような
大振りの花柄で。
無粋な父が選んだにしてはやけに華やかだったのでよく覚えている。
父に直接確認したことはないが、母の趣味だというのは間違いない
だろう。
時計1つとってもそうだ。中のからくりが見える透かしの入った時
計は、やはり父が好むようなものとは違っていた。
気に入らないものは傍に置かない主義の父が。それらを懐かしむよ

571
うに見ていたのを知っている。
だからきっと、母自身のことも大切に思っていたのだろうと、そう
信じている。
実際、その認識は正しかったはずだ。
ただ、1つだけ僕が思い違いをしていたのは。
父が母を愛していたからと言って、息子を愛していたとは限らない。
ということである。
そこには何の関連性も、因果関係もない。
愚かなことに、僕は、それを知らずにいた。
︱︱︱︱︱それは本当に突然のことで。何の前振りもなかった。
いや、そうではなく。僕があまりに幼かったので、気付かなかった
だけなのか。
ふと空を見上げると、雲1つない青空が割れて、そこから土砂が降
ってくる。そんな出来事が起こった。
確か、5歳の誕生日を迎えた年のことだ。僕が、父と一緒に、魔術
師団の本部を訪れたのは。
休日だからか、普段は人という人で溢れているだろう建物内は閑散
としている。耳鳴りがするほどの静けさに息が詰まる思いがして、
意味もなく周囲を見回した。
自分がどこに居るのかもよく分からないほどに、広い建物だ。何だ
か意味もなく、物悲しい気分になる。
しかし、国王から﹁魔術師団長﹂という立派な職を与えられていた
父は、特に気にした様子もなく悠然とした足取りで歩いていた。
もしかしたら、休日はいつもこんな感じなのかもしれない。
そんなことを思いながら見上げた先の横顔は、何となく上機嫌に見

572
える。
気難しい顔にうっすらと浮かんでいるのは、微笑だ。
普段はそんなことをしないのに、僕の手を握った父。
手の平がざらざらとしていた。何となくその感触を指先で追ってい
れば、魔術の実験をしているときに傷つけてしまったのだと説明し
てくれる。
いつもより、少しだけ優しい気がした。
特別でも何でもない日なのに、どこか違う。だからだろうか。この
ときのことを鮮明に覚えているのは。
父に導かれて歩いた長い廊下。窓から見えた、雲1つない青空。灰
色の床材を叩く、二人分の足音。視界に映った景色、耳に響いた音、
肌に触れた空気の温度。
どうでもいいことのようなのに、一つ一つがこの目に刻まれている
ようだ。
太陽がちょうど真上に位置する時間帯で、僕は終始、目を眇めてい
た。何もかもが眩しく思えたのだ。
不吉な予感がしたわけではない。むしろ、その日はひどく穏やかな
気候で。
ああいうのをもしかしたら、嵐の前の静けさと言うのかもしれない。
たった数分で、︱︱︱︱︱いや、もしかしたら数秒で。世界が変わ
る。
﹁あれが死ぬ前に研究の成果が出ればよかったのだが。なかなか上
手くいかないものだ﹂
父は、僕よりもほんの少しだけ前を歩きながらそんなことを口にし
た。
首を傾げながら見つめた父の横顔は、先ほどよりも少し強張ってい

573
るような気がする。
意味の分からない呟きに、独り言だったのかと得心した。それとも、
これから何かを話しだすのだろうか。
息を呑んでしばらく黙っていたけれど、辺りには2人分の足音が響
くだけだった。
﹁父上?﹂
思い切って呼びかけてみたけれど、返事はない。袖を引いても、や
はり反応はなかった。
︱︱︱︱︱︱呼んでいるのに、なぜ、気付かないのだろう。
首を痛めるほどに仰け反って父の顔を覗き込む。だけど、その瞳が
僕を映すことはない。
僕と同じ黒い双眸は、前を向いたままだ。
平均よりも随分、背が高い父。
そんな父の際立った容姿は、いつも注目の的だった。街中を歩いて
いてもそうだし、何か分からないパーティーに呼ばれたときもそう
だ。
父が魔術師として名を馳せることができたのは、その際立った容貌
のおかげであると噂されたほどである。しかし、一緒に仕事をした
ことのある人間には、それが単なる噂だと理解できただろう。
父の魔術を目にしたことがあれば、冗談でもそんなことは口にでき
ない。
それでも、そんな噂が流れたのは。父と関わることのできる人間は、
一部に限られていたからだ。
よほど優秀な魔術師でなければ、父の顔すら拝めないことを、幼い
僕でも知っていた。
だからこそ、憶測でものを言う人間が多かったのだろう。
そういう無責任な発言のほとんどがやっかみだと分かっている。
そもそも父は、そういう悪感情を気にも留めていなかったようだけ

574
れど。
﹁⋮⋮父上、一体何をするのですか?﹂
ゆったりと前を歩く父は、とても大柄で、その体格にあった歩幅で
進んでいく。手を引かれているものの、置いていかれるような気分
になった。
僕の声が聞こえているのかいないのか、父は相変わらず口元に笑み
を刷いたまま何も言わない。
異様な雰囲気だと思った。何が、とは具体的に答えることはできな
いが、しいて言うなら、肌に触れる空気がいつもとは違っていた。
ぞくりと震えたのは悪寒なのか。それとも、何かの前触れなのか。
ともかく、僕は怯えていた。
﹁いいことをするんだよ﹂
やがて、1つの部屋の前に立った父が短く告げる。
彼の黒い双眸に灯った、黒い光。それをはっきりと見た。
咄嗟に逃げ出そうとした僕の腕を強く掴んだ父が、勢いよく扉を開
けて僕の小さな体を室内に放り込む。
暗い色のカーテンが引かれた室内は薄暗く、何の部屋かは分からな
かった。けれど、鼻についたカビの臭いに、普段は物置か何かに使
われていたのかもしれないと思い至る。
その瞬間までだ。
僕が、きちんと物事を考えることができたのは。
それから、恐らく1つか2つ瞬きを繰り返すくらいの間に、背後で
扉の閉まる音がした。
振り返ったけれど父の姿はなく、僕は己が部屋の中に閉じ込められ
たのだと気付く。
戻ろうと踏鞴を踏んだそのとき。扉の向こう側から、ぼそぼそと紡

575
がれる呪文が聞こえたのだった。
﹁⋮⋮父上! 父上!!﹂
足元から恐怖が迫ってくる。よく見れば、机の1つも置かれていな
い室内には、隙間なく文字や記号らしきものが並んでいた。床にも、
壁にも、天井にも。
空洞のような、何もない部屋の中を埋め尽くす、文字という文字。
そして、一部の空白さえ許さないというように刻まれた奇妙な記号。
明かりも灯っていないのに、それらの文字が浮かび上がるように見
えていた。
︱︱︱︱︱魔法陣だ。
僕は父が研究室に篭って一体何を調べているのか知らなかった。ず
っと知らされずに生きてきたのだ。
きっと母も知らなかっただろうと思う。
だって、父は確かに口にした。
﹁あれ﹂が死ぬ前に研究を完成させておけば良かった、と。
その言葉に滲んだ後悔の念と、隠すことのできない深い慈しみのよ
うな感情。
もしも、﹁あれ﹂というのが母のことを指しているなら。
母が生きていた頃には為しえなかったということである。
﹁父上! ここから出してください! 父上!﹂
これまでの人生で、叫び声を上げるような出来事に直面したことは
ない。
どちらかと言えば恵まれた環境で育ってきたので、幼い頃から、気
に入らないことがあったとしても癇癪を起こすような事態にはなら

576
なかった。
なぜなら、泣き出す前に対処してくれる人間がいたからである。
それは父であり、使用人であり、もしくは近所の知人であったりし
た。
お菓子や玩具を強請る必要もなく、黙っていても与えてくれる人が
いたのだ。
僕は、自己主張をする必要すらなかったのである。大声を上げるこ
となど皆無だった。
だから。
この状況に頭がついていかない。
扉の外から聞こえる父の声は、途切れることなく続いている。
いくら叫んでも、僕の声は父に届かない。
もしくは、聞こえているのに無視されているのか。
何度も何度も父の名を呼んだ。だけど、そんなのは何の意味もなか
った。
ごおっと、背後で突風が巻き起こる。
窓は開いていなかったはずなのに、どこかから強風が吹き込んでき
た。まるで、見えない手に足首を掴まれているかのような感覚に、
心臓がひりつく。
あまりに突然の出来事に、小さく悲鳴を上げたのも束の間。
足を掬われて転倒した。
背中に何かが圧し掛かるような感覚に息が止まる。潰された蛙のよ
うに、床の上に磔にされた。
頭を上げようとすれば、ぐっ、ぐっ、と等間隔で何かが僕を押さえ
つける。段々と増していく圧力に、四肢を潰されて、千切られるの
ではないかと思った。

577
慄きながら、呻き声を上げていると、強い風が突然勢いを失う。
はあはあ、と短い息を繰り返しながら周囲を見回すが、床に寝転ん
だまま身動きすることができない。
﹁ち、ちちうえ﹂
唇から漏れた声が泣き声のようになって響いた。扉の外から聞こえ
ていたはずの父の声は聞こえない。
置き去りにされたのだろうか。そう思って、両腕を必死に動かす。
しかし、かろうじて指先がぴくりと痙攣しただけで上手くはいかな
かった。
﹁ちちうえ︱︱︱︱︱︱!﹂
助けて、という言葉は声にならずに喉の奥で消える。
ほんの僅かに、父の声が聞こえたような気がしたからだ。だから、
必死に耳を澄ます。
そのときである。︱︱︱︱︱室内に刻まれた魔法陣が、発光し始め
たのは。
何か分からない魔法が、発動しようとしている。
怖い、と思ったのはもはや本能で。僕は必死に顔を背けようとした。
だけど、身動きのできない体ではどうしようもない。
全身を、無数の針で刺されたような、痛みが走った。
叫んだはずなのに、自分の声が聞こえない。両目を焼くほどの強い
光と、全身に走る激痛。
父親が何をしたのか分からなかったけれど、これはきっと良くない
ことなのだとはっきりと理解した。
頭を埋め尽くすのは﹁怖い﹂と﹁助けて﹂と﹁父上﹂それだけで。
最後には﹁誰か、助けて﹂という嘆きに変わったのである。
けれどそれも、ほんの一瞬のことだったかもしれない。結局僕は、
そのまま意識を失った。
激しい痛みに肉体が耐え切れなくなったのか、もしくは、精神的に

578
追い詰められてしまったのか。
ともかく、失神することができて良かったと言える。
あのまま意識を保っていたとしたなら、僕は本当に壊れていたかも
しれない。
あんなに助けを求めたというのに、父は、僕の様子を見に来ること
さえしなかった。
︱︱︱︱︱扉一枚だ。
たった扉一枚向こう側に居たというのに、父は息子の叫び声を聞き
ながら、呪文を唱え続けていた。
その事実に、僕はどうしようもなく打ちのめされたのだった。
﹁だれか﹂
闇に染まった視界で、自分の声を聞いたのが最後だ。
目覚めたときには、僕は屋敷に帰っていた。どうやって戻ってきた
のか分からない。
いつもと何ら変わりない自室のベッドに寝かされていた。
もしかしたら夢を見ていたのではないか。
そもそも僕は、1歩たりとも部屋から出ていないのではないかと、
そんな期待さえ抱く。
しかし、全身に残った倦怠感と、いまだに背中を押さえつけられて
いるような圧迫感が現実を物語る。
起き上がろうとして上半身を動かすけれど、両腕に力が入らなかっ
た。
何事かと、身を捩れば︱︱︱︱︱両腕に奇妙なアザが浮いている。
そんなものは今まで存在していなかったと、必死に頭を動かして掛
け布の中を覗き込めば。

579
寝巻きから覗く両足にも、文字のような、奇妙な模様が刻まれてい
た。
息が止まったような気がしたし、あるいは、何度も繰り返し短い息
を吐き出したような気もする。
叫びださなかったのが不思議だ。
全身から汗が噴出して、己が不治の病にでも冒されたような気分だ
った。今まさに、死の宣告をされたような。
何かが起こっていると分かるのに、為す術もなく、ただ懊悩するし
かない。
父を呼ぼうと思った。こういうときに頼れるのは親だけだと、本能
が声を上げる。
けれど、口を開いて、1つだけ音を刻んだところで喉が絞まった。
確かに﹁ち﹂と声を上げたはずなのに、後は言葉にならなかったの
だ。なぜなら、助けを呼んでも無駄だというのを痛いほど理解して
いたから。
﹁だれか﹂
暗闇の中で聞いた自分の声を再現するみたいに頼りなく零れた声。
きっと誰の耳にも届かなかっただろう。
僕は、あの小さな部屋の中に閉じ込められたときと同じように、名
前すら呼ぶこともできない不確かな存在に縋るしかできなかった。
ここには誰も居ないと知っているのに。
もっと声を張り上げなければ誰にも聞こえないと分かっているのに。
ただ、そっと呟くことしかできない。
﹁だれか、助けて﹂
本来なら、絶対的な味方であるはずの父には助けてもらえない。

580
だから、誰でもいいから手を差し伸べて欲しかった。
しかし、傍には誰もいない。
結局、部屋に使用人が顔を出したのは、それから数時間後のことだ
った。
その時まで僕は、身動きもできないままに天井を見上げていたので
ある。
それがどれ程に恐ろしかったか。誰か、分かるだろうか。
もしかしたら、このまま一生、ベッドの上で生活することになるか
もしれない。
その考えが僕にもたらしたものは、底なしの恐怖であった。動かな
いはずの体ががたがたと震えて、奥歯が鳴る。
それなのに、何時間も、放置されていた。
﹁大丈夫ですよ。数日もすれば起き上がることができるようになる
はずです﹂
かろうじて指先を動かすことができるようになった頃、父に呼ばれ
たという医師が僕を診察しに来た。
二十代にさしかかったばかりのように見える彼は、父の助手を務め
ることもあるのだと胸を張る。
魔術にも詳しい医師なのだと、微笑した。
恐らく不安げな顔をしていた僕を安心させるためにそんなことを言
ったのだろう。
けれど、その言葉は何の救いにもならなかった。
無駄だと理解しているのにも関わらず、僕は、ひたすら父が来るの
を待っていたのだ。
医師を呼び出す手間は惜しまないのに、なぜ、顔も見せないのかと。
そんなことを思っていた。
そんな僕を見透かすように、若い医師は続ける。

581
君の父君は今、手の離せない案件にかかりっきりで、君の様子を見
に来ることができないのだと。
耳の奥で反響する、父は来ないという言葉。
失望すればいいのか。
父の助手であり、医師だと名乗る男に暴言を吐けばいいのか。
あるいは、本人がそこにいなくとも、何であんなことをしたのかと
泣き叫べばいいのか。︱︱︱︱︱でも、何をすればいいのか選べな
い。
ただ呆然と﹁そうですか﹂と呟いた僕に、赤の他人である医師は何
を思っただろうか。
ともかく、父とは、それっきりだったということである。
父は、ついぞ僕に顔を見せることなく、他国で命を落とした。
医師の見立てどおりに、体が少しずつ動くようになると、全身に浮
かび上がっていた模様のようなものも薄くなっていく。そして、そ
れが完全に消えて、やっとベッドから抜け出すことができたその日。
我が家に現れた軍人が、淡々と、父の死を告げたのだ。
最後の最後まで、僕に弁明の1つもしなかった父。
せめて一言でも﹁苦しみを与えてすまなかった﹂と言ってくれたな
ら、僕は多分、父を許しただろう。
あんなことをした理由さえ、問い詰めることはなかったに違いない。
なぜなら、僕にとって彼は唯一の肉親であり﹁父親﹂であるからだ。
それだけで、己に痛みを与えた人間を許すことができた。
だって僕は、間違いなく、父を愛していたから。
しかし父は、何の説明もしなかった。

582

﹃ライア﹄
僕のことをそんな風に呼ぶ人間が、1人だけいた。なぜ、そんな呼
び方になかったのか知らない。
彼女にはそれを聞かなかったし、彼女自身もまた、話すことはなか
った。
たいした理由などないのかもしれないと、思う。だけど、聞いてみ
れば良かった。
︱︱︱︱︱出逢いは、突然で。
劇的でもあり、普通でもあった。
つまり、僕にとっては大変な出来事で、世間的にはどうでもいい出

583
来事の1つだったということである。
道端で行き倒れていた彼女を、僕が、拾った。
それは、馬車に乗って、少し遠くの町まで買い物に出かけた帰りの
こと。
林道を突っ切っている最中、雑草の中に埋もれるようにして横たわ
っている彼女を発見したのだ。
薄闇の中、小さく丸まった彼女を見つけることができたのは、単に
運が良かったからに過ぎない。
意識のなかった彼女は、身動き1つしなかったのだから。
人によっては、そんな出逢いを運命と呼ぶのだろう。
しかし、当時の僕は、そんな風に思わなかった。もしかしたら、大
抵の人間がそうなのかもしれないけれど、﹁運命﹂というのは後か
ら実感するものなのだと思う。
実際、彼女を拾ったときの僕の心境を言葉にするなら。
﹃道端に倒れている、意識のない人間を放っておくのは人道に反す
る﹄この一点に過ぎない。
だから、僕も人として当然の行いをした。それだけのことだ。
屋敷に連れ帰り、こんこんと眠り続ける彼女を世話したのも、そう
である。特別な意味などなかった⋮⋮はずで。相手が誰でもあって
も、そうするつもりだった。
いや、そもそも面倒を見ていたのは、僕ではなく屋敷の使用人だが。
それでも、彼女はしきりに、僕への感謝を口にした。
﹁⋮⋮母と一緒に故郷を出て、王都を目指していたんだけど、母が
⋮⋮病で亡くなってしまって﹂

584
昏睡と覚醒を繰り返しながら、やがてはっきりと目覚めた彼女が語
った事情。それは、当時の世相をよく反映していて、さして珍しい
ことでもなかった。
王都は栄華を極めていたけれど、その一方で、各地に点在していた
農村は貧困に喘いでいたのだ。
仕方なく故郷を捨てて新天地で仕事を探すことになるのだが、上手
くいくとは限らない。
彼女のように、よりよい土地を探している途中で路銀が尽き、行き
倒れるのはよくあることだった。
そういった境遇を口にする彼女自身も、そういうことをよく理解し
ていたのだろう。
母の死を悲しんだり、悔いているというよりも、自分だけが運良く
生き延びてしまったことに対する諦念のようなものが感じられた。
彼女の顔が、蒼白を通り越して、土色だったのをよく覚えている。
いわゆる﹁瀕死の人間﹂というのを見たのが初めてだったから、こ
の目に焼きついたのかもしれない。
そして、彼女のその手が。
傷だらけだったこともまた、衝撃的だった。ひび割れた爪が、その
過酷な人生を物語っている。
恐らく、まだ十代にさしかかったばかりだというのに、老人のよう
に疲れきった目が僕の顔を映しこんだ。
思わず目を逸らしてしまったのは、何だったのか。
己の、真っ白な指先に視線を落として、思わず嘆息した。
何の苦労も見て取れない僕の手。
彼女とはあまりに違う。その落差は、僕たちの境遇そのものだった。
互いに両親を亡くしているのは同じだったけれど、その他に共通点
らしきものはない。しいて上げるなら年齢が同じくらいだというこ
とだけ。

585
道端で行き倒れていた彼女とは違い、当時の僕は、誰もが羨むよう
な生活をしていたのだ。
母と結婚したおかげで爵位持ちとなった父が亡くなり、必然的に、
僕はその跡目を継ぐこととなった。
しかし、子供である僕にできることは少なく、実際に領地経営など
の実務を行っていたのは母の弟である。
彼いわく、父が健在だった頃から己がやっていたことなので気にし
ないでほしい。ということだった。
つまり父は、母と結婚することによって爵位を得たけれど、それ以
外のものは何1つ得られなかったということだ。血統がものを言う
階級社会では、それも珍しくないことだったのだと分かる。
領地も領民も、そこから上がる利益も、何もかもが母の実家のもの
であり、父に与えられたのは貴族の階級だけ。それだけだったとい
うことである。
だから、その後継者たる僕も、同じようなもので。
爵位は継いだけれど、あくまでも書面上、貴族の末端に名を連ねた
だけのことだった。
それでも、僕が生活に困ることがなかったのは、父の残してくれた
遺産のおかげだ。
それらはすべて、魔術師としての父が一代で築いたものだった。
更に、それ以外でも、父の研究のおかげで発展したと言われる、あ
りとあらゆるあらゆる魔術に対する報奨を受け取ることもできた。
与えてくれるのは、国だったり、個人の資産家だったり、あるいは
軍だったりした。
天涯孤独の身となった僕が、何不自由することなく生活することが
できたのは、そういう訳だ。
両親は既に亡くなっていたけれど、それでも、食べるものに困った

586
こともなく、住む家を失ったこともない。それがどれだけ、恵まれ
たことなのか。自分自身、よく分かっていた。
もしも、僕が普通の子供だったなら、行き倒れの人間を見つけても
助けられなかっただろう。
手を差し伸べることはできたかもしれないが、それだけだ。彼女を
助けられるような人間を捜して、それで終わり。なぜなら、普通の
子供には、そうすることしかできないからだ。
けれど、僕には有り余るほどの資産があった。
彼女のような同年代の子供を拾っても、さして苦労することなく生
活することができたのだ。
そもそも、その確信がなければ、今にも死にそうな人間を屋敷に連
れ帰ったりはしない。
幸いなことに、病人を世話する人間なら大勢いたので、迷いもなか
った。
当時、僕の屋敷には、数え切れないほどの使用人がいたのである。
彼らは、父の死後に雇い入れた人達で。この件に関しては、父の元
同僚が本当に良くしてくれた。人集めから、人選まで請け負い、信
頼に足る人間を手配してくれたのだ。
そんな風に雇用した使用人たちだったけれど、彼らの人格や性質を
評するなら。
実直で誠実であり、国民性というやつなのか、手を抜くことを嫌い、
身を粉にして働く。
僕に対して苦言を呈すことはあっても、真っ向から否定することは
ない。それに何より、主従関係を重んじていたので、最終的にはい
つも僕の決定に従った。
まだ﹁少年﹂としか言いようがない年齢だった僕が途方に暮れるよ
うな事態にもならなかったのは、そんな彼らがいてくれたからこそ
である。

587
そういう人たちにめぐり合うことができた僕は、とても、運が良か
ったのだろう。
だけど、彼らとの間に生ずるのは雇用主と被雇用者という繋がりだ。
その為か、互いに想い入れも少なかった。しいてあげるなら金銭に
よって結ばれた信用があるだけだ。
はっきりと﹁与える者﹂と﹁与えられる者﹂に分かれる関係には、
﹁与えて当然﹂﹁与えられて当然﹂という認識が生まれる。
互いに、どれほど尽くしても、その枠を超えることができない。
そこに何とも形容し難いもどかしさが生まれる。不満があるわけで
はないが、満足しているわけでもなく。
何かが足りないと思うのに、何が足りないのか分からない。
そんな鬱屈とした想いを抱えていたときだった。︱︱︱︱︱彼女を
拾ったのは。
﹁私、貴方に助けてもらえてよかった﹂
控えめに笑うエマは、言葉を惜しむことなく、僕に感謝の気持ちを
伝えてくる。
それが少し新鮮だった。なぜなら、僕の周りには傅く人間しかいな
かったからだ。使用人というのは、そういうものである。
過剰なほどの感謝を述べられることはあったけれど、慇懃無礼なほ
どの回りくどい言い方では、伝わるものも伝わらない。感謝されて
いるのは分かるが、その気持ちを真っ直ぐに受け取ることはできな
かった。
ただ単に﹁ありがとう﹂と言われることなど、ほとんどなく。
その言葉に、どれほどの意味があるのか知るよしもなかった。
何度も﹁⋮⋮私を拾ってくれてありがとう﹂と言いながら涙を滲ま
せる彼女に、何だか胸が締め付けられる。

588
嬉しいというよりも、戸惑いの方が大きい。けれど、嫌な感じはし
なかった。
胸の底にじわじわと広がっていくのは、名づけることのできない感
情だ。
僕はそれまで、そんな気持ちを知らなかった。
冷え切っていた体の奥底に、火が灯る。
指先まで温められていくような感覚に、ただ何も言えず、彼女の小
さな顔を見つめ返すことしかできない。
そんな僕に、もう1度﹁ありがとう﹂と微笑む彼女。
言葉とは、これほどに感情を揺り動かすものなのだと、そのときに
初めて知った。
僕には、何の利害関係も生み出さない人間が必要だったのかもしれ
ない。
金銭関係で結ばれた関係というのは、強くもあり、脆くもあるから。
今は真摯に尽くしてくれている使用人も、僕が一文無しになったな
ら、離れていくだろう。
理解していても、虚しいものがある。
﹁ところで、⋮⋮私の名前を訊かないの?﹂
色を失ったままの唇で、どこか怪訝そうな表情を浮かべて訊いた彼
女。
そんなに重要なことを口にしているとは思えないのに、まるで、と
んでもないことを訊いているような顔をした彼女に首を傾げる。
屋敷の中で、限られた人間とだけ接触していたからなのか。もしく
は、無意識にも、誰かと深く関わることを恐れていたからなのか。
僕には、彼女がなぜ、思いつめたような顔をしているのか理解でき
ない。

589
そんな僕に、彼女は優しく説いた。
人間関係というのは、互いの顔と名前が一致しなければ始まらない
のだということを。
名前を呼ぶことには、意味があるのだと。
﹁普通は、最初に訊くものなのよ﹂と、彼女は笑う。だけど、私も
聞かなかったしお互い様ね。と。
﹁貴方は私に興味がないのだと思ってた。だけど、違ったのね。貴
方は知らないだけだった。︱︱︱︱︱相手のことを知りたいと思う
なら、まず、名前を聞かなきゃ﹂
苦笑にも似た顔で少女が僕の顔を覗き込む。
僕は己がなくしてしまったものの大きさを見たような気がして、言
葉を失っていた。
﹁私の名前は、エマよ﹂
貴方の名前は? と訊かれたけれど、咄嗟に言葉が出てこない。
僕は﹁ご主人様﹂であり、あるいは﹁坊ちゃま﹂であり、もしくは
﹁あの方の息子﹂であったから。
﹁⋮⋮カリアライア=イグニス﹂
数年ぶりに口にした己の名前は、干からびているような気がした。
普段、それほど口にしない言葉だったのだ。しかし︱︱︱︱︱、
﹁じゃぁ、ライアね﹂と、心底嬉しそうに笑う顔があったから。
僕の名前は、その瞬間に初めて、意味を持ったのだ。
そういえば父は、あまり僕の名を呼ばなかったと、気付く。

590
だけど、それももはやどうでもいいことだと思った。⋮⋮そんなこ
とは、大したことではないと。
﹁ライアって、響きが何だか可愛い気がする﹂と、双眸を細めた彼
女を前では、父との間に生じた軋轢など些事だった。
﹁改めてよろしくね。ライア﹂
僕らはそうして、少しずつ、距離を縮めていくことになる。
名前を知り、会話をして、互いに理解を深める。使用人ではない人
間と生活を共にするというのは、そういうことだった。
相手が何を求めているのか、何がしたいのか、知る努力をする。
気苦労は耐えなかったけれど、楽しくもあった。
︱︱︱︱︱そして、一緒に暮らすようになって数年が経過した頃の
こと。
エマは、意を決したように、学院で勉強をしたいと言って来た。
お金はいつか返すから、どうか、入学させて欲しいと。
残念ながら、平均よりもずっと少ない魔力しか持たない彼女。せめ
て学力を上げたいと訴えてくる眼差しには切羽詰ったものがあった。
なぜそれほどに必死なのか不思議に思っていると、
﹁私、貴方の役に立ちたいのよ﹂と、彼女はどこか物憂げに視線を
落とした。
それまで僕は、エマのことを理解するために、心を砕いてきたと思
う。
だからと言って、その心が読めるわけではない。
何となく、思い当たるふしがあるだけで。
本当のところは分からないけれど、彼女は、屋敷に住む使用人たち

591
に対して思うところがあったようだ。
それは多分、間違いではなかっただろう。
使用人たちはエマのことを、何もできない子だと思っているようだ
った。決して馬鹿にしているわけではないが、幼い子供を相手にし
ているような態度で接することが、ままあった。
エマが、1度、死の淵をさ迷った人間だということも大きかったか
もしれない。周囲の人間が過保護になるのもまた、不思議なことで
はなかった。
しかし、エマは、それを受け入れることができなかったのだろう。
僕は、そんな彼女を、好ましく思った。
屋敷に来た当初は、運良く生き残ったから﹁仕方なく﹂呼吸してい
る。そんな風に見えた彼女が。
己に足りないものがあることを恥じている。それが、成長しようと
している証に見えた。
︱︱︱︱︱彼女は、未来を見つめている。
そのことに安堵したのだ。
﹁せっかくだから、僕も一緒に学院へ通うよ﹂
﹁⋮⋮え? 貴方も? けど、貴方はもう学院に行く必要はないん
でしょう?﹂
﹁行かなくてもいいってことは、行きたくないってことと同じじゃ
ないよ。僕は、君と一緒に学院へ通いたいんだ﹂
僕はどうやら父に似たようで、膨大な魔力を保有している。
もしかしたら、天才の名を欲しいままにしていた父を凌ぐのではな
いかと言われていたほどだ。
だから、僕は当然、父と同じ魔術師になるつもりだった。
そのために、幾人もの家庭教師から教えを乞い、本来なら学院に通

592
う必要などなかったのだけれど。
正式に魔術師となるには、国の定めた試験を受ける必要がある。そ
れには年齢制限があり、僕が認定を受けられるのは、数年先だった。
だから、それまでの繋ぎとしても、悪くない。
それに、ただ単純に、彼女と学院に通うのは楽しそうだと思ったの
だ。
学院に通うための入学金や学費を納めるのも何ら問題なく、屋敷に
篭る生活に飽き飽きしていたところだったのでちょうど良かった。
﹁貴方、変わってるわね。でも、そうね。きっと、楽しいわ﹂
エマは、軽やかな声で笑った。そんな僕たちを遠目で見ていた使用
人たちも微笑んでいる。
父と暮らしていた頃には見られなかった光景だ。
エマという1人の少女が屋敷に居るだけで、僕と使用人たちの関係
も変化していくような気がした。
︱︱︱︱︱あの頃のことを言葉にするなら、僕らはきっと﹁幸福﹂
という光の中に居たのだと思う。
将来に対する不安を抱いたことはなく、もしろ期待や希望の方が大
きかった。
そして、思い描いた理想を実現できると信じて疑わなかったのだ。

593
学院生活は、もちろん楽しいことばかりではなかった。
それまで同世代の人間と接することがなかった僕にとっては、特に。
学院というのは、当然学び舎としての役割を果たしていたが、それ
と同時に貴族の子息や子女が親交を深める場でもあった。
そもそも、莫大な入学金を納める必要のある学院には中流階級以上
の人間しか通うことができない。
そのほとんどが貴族であったから、学院内も、必然的に階級が生ま
れる。
そういった複雑な人間関係を覚えるのには大変な労力を要した。
しかし、僕の母が貴族であり、僕自身もまたその血を受け継いでい
たからこそ、大事には至らなかったのだろう。
恐らく、自分よりも上位の貴族に対して不敬な態度を取ったことも
あったはずだ。それなのに問題になることもなく、許されていた。
父が﹁英雄﹂と呼ばれるほどの魔術師だったことも大きく影響して
いたはずだ。彼が、国王から一目置かれる人物だったことも。
学院内での、僕の序列はかなり上位に食い込んでいたと考えられる。
その点で言えば、平民であるエマは、僕なんか比べ物にならないほ
どに大変な思いをしたに違いない。
よく知らないのは、彼女がそのことを巧みに隠していたからだ。
なぜ、そんなことをしたのかはっきりと訊いたことはないけれど。
同年代でありながら、彼女の保護者のような顔をしていた僕に、何
かしら感じることがあったのかもしれない。
今、思えば。
エマは、僕と、同じ位置に並びたかったのではないだろうか。
そんな風に、紆余曲折の学院生活を送って。
僕らはやがて、学院を卒業した。相変わらず、同じ屋敷で暮らして
いたけれど、それぞれに職を得ることができた。

594
僕は念願の魔術師になり、彼女は人形師となったのだ。
﹁人形師﹂というのは、人形を作ることを生業とするわけだが、も
ちろん扱うのはただの人形ではない。
彼女の保有している微力な魔力の一部を流しこむことにより、まさ
しく生きた人形のように動くことができるのだ。
しかし、意志を持っているわけではないので決まった動きしかでき
ない。
例えば、立ち上がったり、座ったり、お辞儀をしたりと、幾つかの
簡単な動作ならできる。持ち主の声に反応するので、からくり人形
のようなものだ。ただ、人形を動かしているのが、からくりではな
く魔力というだけで。
せっかく学院を卒業したのに、そこで得た知識が何の役にも立たな
いと嘲笑う人間もいただけれど、それこそ彼女は気にも留めていな
かった。
﹁学院に入ったのは、選択肢を広げるためだし、生きていくために
はあらゆる知識が必要だわ。学院には生きる術を学ぶために通った
のよ﹂と笑う。何だか、達観して見えた。
確かに学院で学んだことは多く、社会の縮図であるような場所だっ
たからこそ、得るものは多かったように思う。僕自身、魔術師とな
るには、魔力があるだけでは駄目なのだということを痛感したのだ
から。
仕事をして金銭を得るには、顧客を獲得しなければならない。その
為には、人脈を広げる必要がある。
屋敷に篭っていてはできないことだ。
エマは、職を得たことで自信がついたのか、屋敷内の使用人たちと
も積極的に関わっていくようになった。
その内に、我が家の内向きの仕事の一部⋮⋮つまり資産管理やそれ
に付随して発生する事務仕事などは彼女が担うことになる。
彼女は、まるで﹁女主人﹂そのものだった。

595
だから、僕らが結婚するのは当然の流れだったと言える。
誰一人として反対する者はいなかった。当たり前のように受け入れ
てくれて、僕らもまた、互いの伴侶となることに違和感を覚えるこ
ともなく。
﹁幸せになろうね﹂と笑った彼女を見て、そんな願望を抱くことす
ら馬鹿らしく思えた。
だって僕は、既に幸せだったのだ。︱︱︱︱︱この上なく。
もしも時間を戻すことができるなら、彼女と過ごした日々の、どこ
でもいい。いつの時点でもいいから、何の迷いもなく時間を戻す。
一日でもいい。
いや、一時間でも、いいだろう。彼女と笑い合っていた時間に戻れ
るなら、何でもする。
だけど、時間を戻すことだけはできないと、僕は知っている。
痛いほどに、よく理解しているのだ。
596

﹁貴方はいつまで経っても変わらないわねぇ。まるで子供のような
顔をして﹂
異変に気付くきっかけは、本当に些細なことだった。
果物が食べたいと言っていたエマのために、市場へ寄ったときのこ
と。露店の女主人が顔をしかめながら、そんなこを言って来たのだ。
﹁⋮⋮そうですか?﹂と首を傾げれば﹁そうよ、そうよ﹂と、1人
でしきりに肯いている。
そこは、僕が普段からよく足を運ぶところで。いつの間にか、常連
と呼ばれるようになっていたほどには、通っていた自覚がある。
初めは、見るからに貴族である僕に遠慮がちだった彼らも、何度も
顔を合わせている内に慣れしまったらしい。気まずかった頃が嘘の

597
ように、笑顔を見せる。
今や、露店の商人たちとは大抵が顔見知りで、用事がなくとも一言
二言くらいは軽口を交わす仲だ。
そんな日常に落とされた、悪気のない言葉が、僕の目を開かせるき
っかけとなった。
﹁何年も前から同じ顔してるわよ﹂と笑った店主。
僕の顔は、あまりに童顔すぎると指で頬をつついてきた。そして、
そんな容貌だと奥様が大変でしょう? とからかうように言う。
女はいつまでも若くいたいものなのに、旦那様がそんなにお若いん
じゃね。と。
﹁奥様も随分可愛らしいお人だけど、貴方には負けるわねぇ﹂
笑い声の滲んだ言葉が、耳の奥で大きく反響した。そして、全身が
1度だけ、大きく震える。
いつもと同じ軽口のはずなのに。どこか違うように聞こえたのは、
気のせいだろうか。
﹁⋮⋮ちょっと、どうしたの急に。顔色が悪いわ﹂
僕の顔を覗きこんできた店主が心配そうに眉を寄せる。その視線を
かわすように顔を逸らして、だけど、声だけは平静を装った。
どくどくと脈を刻む胸を押さえて、必死に笑みを作る。自分がどん
な言葉を口にしたのか、相手が何と答えたのかすら覚えていない。
それでも、何とか別れの挨拶を口にして、その場を離れた。
ふらつく体を支えるために、地面を踏みしめるように1歩ずつ慎重
に歩く。けれど、その内に耐えられなくなって駆け出した。

598
市場の近くに停めていた馬車に乗り込み、勢いを増していく心臓の
音に、何度も深呼吸を繰り返す。
貴方はいつまで経っても変わらないという言葉が、頭の中で何度も
甦った。
﹁⋮⋮そんな馬鹿なことがあるはずない﹂
自分に言い聞かせるように呟いた声が頼りなく震える。指先は色を
失い、冬でもないのにかじかんでいるような気がした。座席に深く
腰を落として背中を丸め、自分の体を抱きしめる。そうしなければ、
今にも倒れこんでしまいそうだった。
馬車を動かしてもいいのかと確認する御者の声が聞こえていたけれ
ど、返事もできない。
頭の中に甦る幼少期の記憶。
そう。父に何だか分からない魔法をかけられた日のことだ。
硬く閉ざされた部屋の中にびっちりと書き込まれた魔術を発動する
ための呪文と記号。その一部が、今でも目に焼きついている。
忘れようとしても忘れられなかったそれ。
父との間に起こった忌々しい出来事だったから、一刻も早く忘れた
かったのだけれど。
ずっと、忘れることができずにいた。
ゆえに、ここ数年は。
父の発動させようとしていた魔術が、一体何だったのかを突き止め
ることに時間を費やしていた。
研究に没頭する僕を、エマは案じていたはずだ。何十冊も蔵書を持
ち込んで、自室に篭る僕に、いい顔はしなかった。それでも、研究
を止めるように言わなかったのは、気遣ってくれたからかもしれな

599
い。
自分で言うのも何だが、鬼気迫るものがあったのだろう。
日を追うごとに解明されていく、父の魔法陣。︱︱︱︱︱不吉な予
感に、僕は震えた。
それでも安心していられたのは、父の魔術は、失敗したという確信
があったからだ。
父の魔法を受けたはずの僕自身に、何の変化も見られない。それこ
そが、失敗の証明だと思っていた。
魔法を受けた当初は、確かに身動きできず、肉体に奇妙な模様が浮
いていたけれど。その後、一度もそいうことは起こっていない。む
しろ、風邪を引くことすらなく。健康そのものだった。
︱︱︱︱︱だが、市場で受け取ったたった一言が。
僕の確信を、揺らがせる。
成功していたのだろうか⋮⋮。その疑問が、頭の中を支配していく。
人よりも幼い容姿。本当はもっと伸びていいはずの身長も、低いま
まだった。体格や身長は遺伝によるところが大きいから、両親や祖
父母のことを考えれば、僕だけが異質だと言える。
そのことを冷静に考えれば。
父の魔術を受けた僕の身体には、確実に、変化が起きていることに
なる。
何も変化しないという、変化⋮⋮。
思えば、父ほどの魔術師であれば、成功する確立の方が高いのでは
ないか。
だとすれば、僕は。
﹁⋮⋮何て、ことだ。何て、何て、何てことを、してくれたんだ⋮
⋮っ﹂

600
叫びだしたい衝動を必死に押さえ込む。吐き出したい言葉を、必死
に呑み込んだ。
口から吐き出されることのなかった言葉の塊が、大きな鉛となって
喉を塞いだように思えて苦しい。
がくがくと唇を震わせながら、強く目を閉じる。そうすると、否応
なしに父の魔法陣が思い起こされた。
父が、あのとき発動させようとしていたのは︱︱︱︱︱、﹁不老不
死﹂の魔法だ。
はっきりとした確証を得たのは、そんなに前のことではない。
とある著名な魔術師の研究を手伝ったときに、たまたま、国が保管
する蔵書を目にする機会があった。
そこには、あまりに複雑すぎるゆえに未完となってしまった魔術や、
手を出してはならないと言われる禁術などが記載されていた。
常人には目にすることさえないだろう機密扱いの蔵書に記されてい
た呪文の一部。
未完であるからこそ、一部しか書かれていないわけだが。
その呪文を、記号を、僕は知っていた。
脳裏に刻まれた、父の魔法陣。そこに描かれていた呪文と同じだっ
たのだ。
数年に渡る自分自身の研究と、父が使っていた書斎に残されていた
書物、そして、機密扱いの蔵書に描かれていた記号。
それらから複合的に判断して、父が﹁不老不死﹂に関する魔術を完
成させようとしていたのは間違いない。
机上の空論と呼ばれていた不死の魔術。そして、実現可能ではある
が禁術扱いだった不老の魔術。それらを掛け合わせ、不可能と言わ

601
れていた魔術を完成させたのだ。
そして、息子を実験台にしたのだという事実に辿り着く。
それが分かったとき、初めは、鼻で笑った。稀代の魔術師とは言え、
馬鹿なこをすると。余裕綽々に嘲笑うことだってできたのだ。︱︱
︱︱︱息子を実験台にしてまで成し遂げたい研究だったのに、失敗
したのだと。声を上げて笑うことすら、できたのに。
﹁父上、貴方は、﹂
本当に、僕を愛していなかったのですね。と、搾り出すように呟い
た声が、走り始めた馬車の騒音に紛れて消えた。

﹁おかえりなさい﹂
屋敷に戻ると、エマが笑顔で出迎えてくれる。
いつもと変わらず、優しげに細められた目尻。柔らかな弧を描く唇。
小ぶりだけれど低すぎない鼻筋。
その顔をしっかりと見つめて、そっと息を吐き出した。
彼女の灰茶の瞳が、僕の顔を映しこんでいる。たったそれだけのこ
とに安堵したのだ。
当然ながら、彼女の様子はいつもと変わりなく。
頬に唇を寄せれば、くすぐったそうに小さく笑い声を上げる。
父と暮らしていた頃、屋敷の中は何となく薄暗いものだと感じてい
たけれど、彼女が来てからは、その雰囲気さえも一変した。
幼く孤独な少女のためにと、使用人たちが屋敷の中に花を飾るよう
になったのである。それに気付いたエマは、成長すると自分で花を

602
選ぶようになり、花瓶なども拘って揃えるようになった。
些細な変化だが、意外にも全体に与える影響は大きい。室内に花が
飾ってあるだけで、明かりが1つ増えたような気がした。
もしかしたら、彼女の存在そのものが、明かりの1つだったのかも
しれない。
そして、僕とエマが結婚してからはまた、少しだけ変化があった。
屋敷のそこここで笑い声が響くようになったのだ。
普段は口を閉ざして職務に従事している使用人たちも、エマと何事
かを楽しそうに話しこんでいることがある。学院に入る前にあった、
どこか気の張った関係も、いつの間にか払拭されていたのだった。
結婚したからと言って、何か特別なことをしたわけではない。間取
りを変えたわけでもないし、新しい家具を揃えたわけでもない。
それなのに、廊下を風が吹き抜けるような爽やかさに包まれて。
住んでいる人間が、建物に影響を与えるなど。そんなことあるはず
がないと分かるのに、そう思えてしまうから不思議だった。
﹁ライア? どうしたの?﹂
上手く取り繕えていたか分からないけれど、普段と変わらない自分
を装う。
彼女に﹁ただいま﹂を言って、彼女と向かい合って食事を取り、一
日の出来事を報告し合い、時々声を上げて笑う。会話が途切れると
それぞれに入浴を済ませた。そして、再びしばらくの間談笑して、
寝室に入る。
いつもと何ら変わらない流れだった。
﹁ライア?﹂
ベッドに腰掛けて、部屋の入口付近に立ち竦んでいる僕を心配そう
に見上げるエマ。

603
彼女が屋敷に来た頃は、僕の方が体格も大きく、身長も高かったこ
とを思い出す。特に彼女は、同世代の子供たちよりもだいぶ小柄だ
ったから、僕とはだいぶ体格差があった。
﹁ライア?﹂怪訝そうに首を傾げる彼女に1歩、2歩と近づいて、
その頬に触れる。
座ったままの彼女は、僕を見上げるような格好になった。
室内のぼんやりとした明かりを取り込んできらきらと輝く目が美し
い。
﹁君は、昔よりもだいぶ大きくなったね﹂
今では彼女の方が若干身長が高い。
だから必然的に、彼女が僕を見上げる場面は少なくなった。
けれど、彼女は特別大柄なわけではない。むしろ、平均よりも小柄
なほどだ。そんな女性の平均値の更に下をいく僕。
これまでは笑っていられた。からかわれても、いつかは大きくなる
と冗談でかわせるくらいに。
﹁そう、ね? ⋮⋮なぁに? 今更﹂
ふふ、と吐息を零すように笑う彼女が、僕の腕を掴んだ。互いに両
手を差し出して握り合う。
エマの手の平から伝わってくる体温に、細く息を吐き出した。
いつもなら、彼女と手を繋ぐだけで、不安なんかどこかへいってし
まう。⋮⋮そのはずなのに。
﹁エマ、僕はね、家族が欲しいんだ﹂
握り込んだ彼女の指先が、ぴくりと動く。はっと目を見開いた表情
のままエマは﹁ええ﹂と肯き、そして、至極嬉しそうな顔をした。

604
﹁そんなこと、ずっと前から知っているわ﹂と。
確かに僕たちは誓い合った。子供がたくさんいる、賑やかな家庭を
作ろうと。
自分たち自身が、家族を失っているからかもしれない。家庭を築き、
子供を育て、楽しく暮らす。そんな当たり前の未来を誓っただけな
のに、まるで渇望しているような飢えを感じた。
幸福というものを形にするなら、きっと、彼女と過ごしてきた日々
そのもののことを言うのだろう。
これから先、何年経っても色褪せることはない。いつか忘れてしま
うような何でもないような出来事すら、愛しく思える。
︱︱︱︱︱だから、握り締めたこの手を離すことなんてできない。
﹁ライア。私たちはきっと、素晴らしい家庭を築くことができるわ﹂
はにかんだように笑う彼女を抱き寄せる。
心臓が、妙な動きをしていることを悟られたくはなかったけれど、
そうせずにはいられなかった。﹁どうして、緊張しているの?﹂と
囁くエマ。少し笑っているような優しい声。いつだって、僕を支え
てきてくれた声である。
それなのに今は、どうしようもなく心が揺れて、足元から崩れ落ち
てしまいそうだった。
震える指で彼女の肩を撫でる。この不安に、気付かれたくなかった。
だけど、その一方で、もしも気付いてくれたなら正直に全てを打ち
明けようとも思っていたのだ。
﹁疲れてるのね﹂
僕を労わるような優しい声に、言葉を返すことができない。どこま
でも意気地なしの僕は、ただ小さく息を呑んで、強く瞳を閉ざした

605
のである。
今、口を開けば、きっと泣いてしまうだろうという確信があった。
僕は多分、分かっていたのだ。
神はきっと、僕たちに子供を授けては下さらないだろう。
人間が子供を産み育てることの理由が、子孫繁栄のためなら。この
血を絶やさず、受け継がせ、残していくことに意味があるのなら。
僕には、そんなこと必要ないはずだから。
だって、僕の推論が正しいなら。
この血が絶えることはない。僕は、死なない。不老不死というのは、
多分、そういうことなのだ。
﹁⋮⋮もう、眠った方がいいわ﹂という妻の声を聞きながら、2人
でベッドに入った。繋いだ指先はそのままに、しばらく何も言わな
いままに見つめあって。互いに言葉を探しているのだということが
分かる。
普段とは違う僕の様子に、彼女は戸惑っているようだったけれど、
結局、見守ることに決めたようだ。
これがいわゆる母性というものなのか。
子供のとき、僕は彼女の父であり兄であり、或いは人生の先輩でも
あったけれど。成長と共に、精神年齢が逆転してしまったのだろう
か。
もしくは、僕なら何があっても大丈夫だと、そう思ってくれている
のだろうか。
実際、今まではいつだってそうだったから。大抵のことは何とでも
なった。
これが常であれば、僕だって彼女と同じことを思っただろう。︱︱
︱︱︱きっと、大丈夫だと。
うぬぼれはなく事実として、僕にはそれだけの地位と財力と、才能

606
があったのだ。
けれど、僕らの想像を超えて。解決することのできない問題という
のが、この世には存在するらしい。
その1つが、僕という存在なのかもしれない。
父の魔法陣はとうの昔に消え失せ、僕の身に刻まれた呪文は血肉に
解けた。つまり、父の描いた﹁正しい魔法陣﹂を描くことができな
い。だから、この魔法を解く方法はない。
反問の呪文を、僕は知らないのだ。それに、父の魔法を打ち破るこ
とのできる魔術師は、そうそういない。
つまり、皮肉にも。この魔法は、父の死によって完成したのだ。
彼の死によって、この魔法を解く鍵は永久に闇の中へと葬られた。
要するに、この魔法は永遠となったわけである。それこそが、父の
目指していたものではないか。
永遠の生。終わらない、命。
﹁子守唄でも、歌ってあげようか?﹂
一向に眠ろうとしない僕に痺れを切らしたのか、ひっそりとした声
音で彼女が問う。きっと、冗談のつもりだったのだろう。
だけど僕が肯いたから、エマは少しだけ驚いたような顔をして。ほ
んの数秒だけ苦笑を浮かべると、僕の背中に腕を回して歌い始めた。
あまり聴き覚えのない旋律だ。
何度か彼女に歌ってもらったことはあるけれど、この国で昔から歌
い継がれている子守唄とは少し違う。
それでも、懐かしいような気がするから不思議だった。
どこか遠い場所から、この地へ辿り着いたエマ。彼女の生い立ちに
ついて、根掘り葉掘り訊いたことはないけれど。もしかしたら、僕
が想像しているよりも、ずっと遠くから来たのかもしれない。

607
明日起きたら訊いてみようか。でも、今更かもしれないと、いつの
間にか途切れていた歌声に目を開ける。鼻先が触れるほどの距離に
居る彼女は、小さく寝息をたてていた。
穏やかなその顔に、切なさのようなものを覚えて。吐き出した息が、
震えて消えた。
彼女はいつか、僕を置いて死んでしまうのだろうか。
そして、僕はたった一人、残されるのだろうか。
耐えられない。そんなの、絶対に。

不老不死になってしまったかもしれないという懸念は、今にも僕を
暗闇の中に引きずり込もうとしていた。
危ない兆候だと感じつつも、塞ぎこむ日々が続く。
そんな僕を、エマはひどく案じているようだった。けれど、何も訊
き出せないことが分かっていたのか、ただ見守ることに徹していた
ようだ。
﹁︱︱︱︱︱父君のことは残念だったとは思うけどね。俺に話せる
ことは、そう多くないよ﹂
そんなどうしようもない日々に終止符を打つべく僕が訪ねたのは、
かつて父の死を知らせに来た軍人のところだった。

608
下位貴族の次男だという彼は、爵位を継ぐ必要がなかったので軍属
となったのだと言う。
しかし、軍人として生きる覚悟を決めていたわけではなく、他に選
択肢がなかったから、そうなってしまっただけだと笑った。
いずれは戦地に向かうことがあっても、命を落とすようなことには
ならないだろうと高をくくっていたのだと。
ひどく楽観的だとは思ったが、そういう人間もいるのかもしれない
と、妙に納得するものがあった。
そんな僕の心情を察したのか、彼は皺の刻まれた目元を和ませる。
﹁何も考えていないとは、よく言われる﹂と。
実際、そうなのかもしれない。事前の連絡もなく突然現れた僕を、
あの人の息子だというだけで歓迎してくれたのだから。
﹁大きくなったなぁ﹂なんて、どこか懐かしむような顔をして室内
へと招いてくれたのが、ひどく印象的だった。
僕が成長した分、彼自身も最後に会ったときより随分、年老いた気
がする。
足を負傷して退役したのだというその人は、歩くくらいだったら杖
は必要ないのだと言いつつ、ゆっくりとした動作で椅子に腰かけた。
見るからに、いかにも頑丈そうな彼。座っていると健康そのものに
しか見えない。
ぼんやりと、彼の仕草を追っていると﹁⋮⋮いかんいかん。すぐに
話しが逸れてしまうな﹂と、息を吐く。
﹁実はね。誰にも言っていないこともあるんだ﹂
男は1人暮らしなのか、家の中はしんと静まり返っていた。
僕が招かれた客間のようなところ以外にも幾つか部屋があるようだ
けれど、物音はしない。人影もなく、1人で暮らすには十分すぎる
ほどの広さの家は、どこかひっそりとしていた。

609
室内を見回していた僕に、男は﹁報奨だよ﹂と笑う。長く従軍する
と、家を与えられることもあるそうだ。
﹁それでね、ご父君⋮⋮いや、お父さんのことだけど﹂
なぜ、言い直したのか分からない。だけど、特に意味はないのかも
しれなかった。
﹁⋮⋮は、い﹂
ぎこちなく肯いた僕をさして気に留めることもなく、男は語る。
父の最期については分からないことも多いのだと。
﹁戦死というのは、ちょっと違うんだ﹂
﹁︱︱︱︱︱え?﹂
突然の告白に面食らい、言葉を失う。
男の顔をまじまじと見つめれば、﹁すまない﹂と頭を下げられた。
何に対する謝罪なのか、真意が掴めず黙り込む。すると﹁戦死した、
と嘘を吐いたから﹂と続けた。
﹁君にお父さんの死を知らせたとき⋮⋮、俺は、嘘を吐きたかった
わけじゃない。だが、本当の死因については、いわゆる国家機密の
ようなものかもしれなかったから、あえて口にはしなかった﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙の落ちた室内に、男の深い溜息が響く。
﹁お父さんは⋮⋮。国からの依頼で、何かの研究をしていたような
んだ。その内容までは知らないがね。戦場にまで分厚い魔術書を持
ち歩いて。難しい顔をして、ペンを握っていた﹂

610
﹁⋮⋮そう、なんですか⋮⋮﹂
父が研究熱心だったというのは周囲の人間から聞いていたので、そ
ういうこともあるだろうと感じた。
ただ、戦場ですら、ペンを置かなかったという父の姿を想像するに
は至らない。
まるで、御伽噺でも聞いているような、現実味のない話のようにも
思えた。
それほどに、父の存在が、遠かったのだ。
﹁あれは確か⋮⋮、君のお父さんが亡くなる前日だったかな。話し
があると言われた﹂
男は、何度か瞬きを繰り返して、ふと、1つだけ呼吸を置いた。
窓の外に走らせた視線が、どこか遠くを見ているような気がする。
当時のことを思い出しているのだろうか。
﹁今まで人間が成し遂げることのできなかった、未知の領域に足を
踏み入れるのだと、そんなことを話していたのを覚えている。俺に
は、その言葉の意味すら分からなかったが。ひどく嬉しそうだった
よ﹂
戦場の片隅で、ひっそりと耳打ちされたのだと語った。
父はよほど彼のことを信頼していたのだろうか。研究の内容こそ話
さなかったようだが、その心情はあけすけだったらしい。
表情の乏しい父から喜びの感情を読み取るのは、なかなか難しいこ
とだと思う。
﹁︱︱︱︱︱君は、お父さんが、何の魔術を研究していたのか知っ
ているのか?﹂

611
窺うようにこちらへ戻された視線。いかつい表情をしているが、切
れ長の目を縁取る睫は案外長い。
﹁⋮⋮予想は、ついています。だけど、確信が持てなくて﹂
﹁そうか。だから、ここに来たのか﹂
肯いた彼は、再び、僕の顔から視線を外した。
てっきり、父の研究について追及されるかと思ったのに、それ以上、
何も訊かれることはなく。
そして、しばらくの沈黙の後に彼は言った。
﹁君に⋮⋮、君のお父さんの死を知らせたときのことを忘れること
ができなかったよ﹂
静かな声だ。だけど、どこか震えているような寂しげな声で。思わ
ず、胸を辺りを押さえてしまう。
自分の胸が痛んだわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
眉間に皺を寄せた彼が、苦しそうだったから。つられてしまったの
かもしれない。
﹁誰かの死を、家族に知らせるのは初めてだったんだ。軍人だった
ら、そういうことは何度か経験するものだがね。ああいうのは⋮⋮、
誰でもそうだとは思うが、苦手でね﹂
﹁⋮⋮ええ、そうでしょうね﹂
﹁ああ﹂
彼と同じような経験はないが、言っていることは理解できるような
気がした。
誰かの絶望を目の当たりにして平然としていられる人間は少ない。

612
﹁だが、君には俺が知らせるべきだと思っていた。それが、俺に課
せられた責任だったからだ﹂
﹁責任?﹂
﹁ああ。彼の死を見届けた人間としての責任だ﹂
ぴくりと、指先が震える。心構えをしてきたつもりだったけれど、
冷静でいるのは難しい。
対面で座っている彼にも、恐らく僕の緊張が伝わっているのだろう。
2人の間に流れていた空気が密度を濃くして、酸素を奪う。互いに、
少しだけ息が上がっているようだ。
僕が最も知りたかったことの、核心に迫っている。漠然とそう思っ
た。
﹁あの日は、朝から雨が降っていた。俺たちがいたのは激戦区では
なかったが、それでも、平穏無事に過ごしていられるような場所で
はなかったんだ。目を閉じると、敵の陣営から飛んでくる火の玉を
思い出すよ。
雨なんて物ともせずに、地面を赤く染めていた。
あれも魔術の1つだったんだろうけど⋮⋮空中を泳いでいるように
見える不思議な火だった﹂
まぁ、今はそんな話し、どうでもいいか。と、彼は咳払いをする。
﹁軍の本拠地は別のところに構えていて、俺たちは野営をしていた
んだ。何日も外で寝泊りして、あのときが一番、疲れていたかな。
何人かの見張りを残して、俺たちは疲れを取るために仮眠をとって
いた。︱︱︱︱︱そこに、君のお父さんが現れたんだ﹂

613
1人だけ呼び出されて、野営地から少し離れた場所まで連れて行か
れた。鬱蒼とした深い森の奥には明かりの1つさえ灯っておらず、
手探りで歩かなければならないほどだったと静かに語る。
そして、案内されたのは﹁洞窟だったんだ﹂と、彼は囁いた。
今まさに、父が、彼の前を歩いているかのような。そんな臨場感が
ある。
粟立った皮膚を擦りつけながら、男の顔を見上げた。同じように座
っているというのに、彼の目線は、僕よりもずっと高い位置にある。
﹁暗闇に浮かび上がるように、びっしりと刻まれた魔法陣が異様だ
った。俺には、あれが何の意味を持つのかさえ分からないし、この
先もきっと理解できないだろう。一体、いつの間にあんなものを用
意していたのか⋮⋮、﹂
美しかったよ。と、ぽつりと零された本音。
そうだ。確かに、彼の言う通り。父の魔法陣は、大胆で豪華な絵画
のようだった。僕がもしも、父の魔法陣を遠くから眺めることがあ
ったなら、同じことを思ったのだろう。数学者が、数式に魅入られ
るように。魔術師だって、完成された魔法陣に心を奪われるものな
のだ。
﹁完成した魔法を見届けて欲しいといわれた。証人が必要だからと。
ペテンなどではないと、誰かに証言してもらわなければならないと
言っていた。それほどに、とんでもない魔法だと﹂
言葉を切った男は、小さく息を呑んだようだった。男らしい喉仏が
上下するのを見届ける。
﹁長い、長い、呪文だった。俺はそれを、少し離れたところから見
ていたんだ。決して、陣の上に乗ってはならないと言われたから﹂

614
1つ瞬きをすれば、床に描かれた魔法陣の上に投げ飛ばされたその
ときを思い出す。
僕には、逃げ出すという選択肢などなかった。無理やり押し込まれ
た部屋の中、恐怖に震えて叫び声を上げたのだ。
泣き叫んだところで扉は開かず。その向こう側から響く呪文が、ま
さしく呪いのように響いていた。
あのときのことを思い出す度、指が、震える。
﹁強い光の向こう側に、君の父君を見たのが最後だった。俺は思わ
ず、彼の手を掴もうとして⋮⋮。恐らく、彼も俺の方に手を伸ばし
ていたんだと思う﹂
﹁手を、﹂
﹁ああ。⋮⋮まるで、助けを求めたように見えた﹂
﹁⋮⋮助けを⋮⋮?﹂
掠れた声で相槌を打つ僕に、いちいち律儀に答えてくれる男は、ま
るで痛ましいものでも見るかのような顔をしていた。
﹁きっと、彼にとっても予想外のことが起きたんだろう。俺はあの
とき思ったよ。︱︱︱︱︱魔法は、失敗したんだと︱︱︱︱︱﹂
全ての音が消えてしまったかと思うほどの静寂が訪れる。
目の前で、当時の出来事を語る男の唇は、きちんと音を紡いでいる
ようだった。ただ、僕の耳がきちんと音を聞き取ることができない
だけで。
脳がきちんと機能していない。そんな感覚だった。男の発する言葉
を理解するのに、ひどく時間を要する。
ごくりと唾を飲み込んだ音が、やけに大きく聞こえた。

615
﹁君のお父さんは、砂になって消えた﹂
最後の最後に、指先が触れたのだと彼は言う。ざらりと、砂の塊を
掴んだような感触がしたと。
﹁⋮⋮どこかに、⋮⋮どこかに、転移したのでは⋮⋮?﹂
自分の唇が情けないほどに震えていると、分かる。それどころか、
きっと、色を失って青褪めているはずだ。ふと視線を落とせば、膝
の上で拳を作っている手は、抑えることもできないほどに震えてい
た。
喉がしまって、声を発するのに苦労する。
﹁違うよ。それは、違うと、核心している。それは恐らく、彼の最
期を目にした人間にしか分からないだろうと思うけど。⋮⋮君のお
父さんは、確かに、俺の目の前で死んだ﹂
砂になって、溶けて、消えたんだ。
そう言った男の声が、掠れて潰れる。まるで、苦しくてたまらない
とでも言うかのように。
そして、﹁助け、られなかった⋮⋮﹂と、ぽつりと零した。
その声には、どこか重みのようなものが感じられて。
彼は、そのことをずっと気に病んでいたのだろうかと思った。
思わず﹁貴方は何も、悪くありません﹂と告げれば、男は何度か瞬
きを繰り返し、静かに頭を垂れる。
﹁誰かの死を、見届けるのは、初めてではなかった。あの後も、仲
間が何人も死んだ。⋮⋮だが、遺品の1つも持ち帰ることができな
かったのは、君のお父さんだけだ﹂

616
せめて、遺骨だけでも家に返してやりたかった。と続ける彼に、い
っそ大げさなほどに首を振る。
そして、何かを言いかけて。だけど、頭の中が真っ白で、言葉が浮
かんでこない。
そんな僕の心情を、察しているのか、そうでないのか。
父の最期を看取ったという男は、つと顔を上げて、僕の顔を見つめ
る。
そして﹁お父さんに、似ているな﹂と、弱々しく微笑したのだった。
厳つい顔には、似合わない表情だ。
もしかしたら、父を懐かしんでいるのかもしれない。
父と僕が似ているだなんて、そんなの気のせいだ。髪と目の色こそ
同じだけれど、顔立ちそのものは別物である。それでも、彼は、僕
の中に父の姿を見たのだろう。
ならば、教えてほしい。
僕の中に存在する父は、何か語ってはいないだろうか。
僕に何か伝えようとしてはいないだろうか。
教えてほしい。
僕は、どうすればいいのか。


それから僕が、何をしたかというと。︱︱︱︱︱端的に言えば、何
もしていない。
いかにも平然とした顔を装って、これまでと変わらない生活を送っ
ていただけだ。

617
自分は魔術師としての仕事を請け負い、エマも人形師としての依頼
を受けて。それぞれに仕事をこなし、一緒に食事をして、どうとい
うこともない話しに笑い合い、一緒に眠る。
傍からみれば、どこにでもいるありふれた夫婦に見えただろう。
それは、ささやかな幸福に追い縋るような毎日だった。
そういう何でもない日々を、失いたくなくて。怖くて、恐ろしくて。
僕は、とても重要な問題を棚上げしてしまった。
エマに全てを話すべきだと、頭の中で警鐘が鳴っていたにも関わら
ず。
︱︱︱︱︱けれど、変化は、ある日突然訪れる。僕の意志など関係
なく。
久しぶりに公園でも散歩しようと、2人で屋敷を出たその日。穏や
かな昼下がりにそれは起こったのだ。
僕たちが2人で向かった公園は屋敷のすぐ傍にあり、貴賎なく利用
できる憩いの場でもあった。その為、普段から多くの人で賑わって
いる。
小さな子供がはしゃぎ声を上げても気にする人間はいないし、それ
どころか走り回っても何ら問題がないので、大抵が家族連れだ。他
にも、恋人同士らしき男女が寄り添うようにして歩いていたり、友
人同士が数人で談笑している姿も見受けられる。
何となしに眺めていても、心が凪いでいくような光景だった。
視線を移せば、誰が手入れしているのか知らないが、大きな噴水を
囲むように美しく整えられた広い庭園が広がっている。それは、い
つまで見ていても飽きることがない。
季節の花々が、その時々で色とりどりに咲き誇るその姿は、圧倒さ
れるものがあった。
その中を、僕たちは並んで歩く。
園内をゆっくりと回り、ぽつりぽつりと何でもない言葉を交わした。

618
陽射しは強すぎず、また、弱すぎず。僕たちを包み込むような柔ら
かな光が心地良い。
軽く絡めた2人の指先は、それでもどこか力強くて、ちょっとやそ
っとでは離れないような気がした。
﹁ライア?﹂
時々、何でもないのに僕を呼ぶエマの声。首を傾げれば、彼女は、
ただ微笑を浮かべる。何か言いたいことがあるのか、そうではない
のか。僕には判断できない。
それでも、エマの横顔は、何だか穏やかだった。
いつだったか、寝室で落ち込んでいるような態度をとってしまった
僕のことを彼女も覚えているのだろう。
エマはあれから、注意深く、僕を観察しているようだった。その目
は、どこか突き刺すような鋭さを伴っていて。何だか居心地が悪か
った。
心配してくれているのだと、気づいているけれど。自分の置かれて
いる状況について上手く説明できる自信がない。
やがて、近くの教会から昼時を知らせる鐘の音が鳴り響いた。
﹁少し休憩しましょうか﹂という彼女に肯き、近くのベンチに並ん
で腰掛ける。エマは、手に提げていた籠の中から、使用人が用意し
てくれた軽食を取り出した。
果物や、薄い肉を挟んだパンや、飲み物だ。
その様子を眺めていると、彼女は柔らかく笑んで果物を掴む。そし
て、その白い指先でナイフを器用に扱い、果物の皮を剥いていった。
人形師という仕事がら、彼女は手先が器用だ。それでも、果物の皮
を剥く為に練習していたことを知っている。
最近の彼女の口癖は﹁もっと小さな家に住みたい﹂というもので。
いつか一緒に屋敷を出ようと、そんなことを言う。そこでは使用人
など雇わずに、家族だけで暮らすのだと。
貴族位である僕たちがそんな風に暮らすのは、体面的な問題もあり、

619
難しいかもしれないが。
僕自身は、そもそも貴族としての矜持など持ち合わせていなかった
ので、彼女の提案は悪くないかもしれないと思うようになった。
そんな僕を後押しするように、彼女は今、料理を覚えようとしてい
る。
自ら進んで屋敷の厨房に入り、料理人に教えを乞うた。
いつか2人きりで暮らすなら、何でも自分たちでしなくてはならな
いのだと真剣な眼差しをして。
幸せだった。本当に、どうしようもなく、幸せだった。
だから、全てを話すなら今だと思った。今を逃せば、次はないと覚
悟を決めて口を開く。
その瞬間だった。
﹁︱︱︱︱︱ライア、﹂
彼女が、奇妙な声音で僕を呼ぶ。
息を呑みこみながら、言葉を吐き出したかのような。どこか息苦し
そうな声だったと思う。
﹁⋮⋮ライア! ライア!!﹂
叫び声が、すぐ傍から聞こえる。一体、何事かとエマの方を見て、
その唇がわなわなと震えていることに気付いた。そして、彼女の視
線が見据えるものに、僕もはっと息を呑んだ。
﹁⋮⋮これは、⋮⋮なに、なんで、﹂
呟いたのが自分だと分からないほどに動揺していた。叫びださなか
ったのが不思議なくらいだ。

620
︱︱︱︱︱右手の指先が、ぱらぱらと崩れていく。
エマが、僕の右ひじ辺りを掴んだ。そして、もう一方の手で、僕の
崩れゆく指をつなぎとめようと宙を掴んでいる。その細い指から、
さらさらと零れていく砂のようなもの。
それが、僕の指を形作っていた﹁何か﹂だと気付くのに時間はかか
らなかった。
﹁嫌⋮⋮、嫌、一体何なの、何なの⋮⋮!﹂
混乱しているのは、エマも僕も同じだ。半ば呆然としている僕とは
違って、彼女は、咄嗟に僕の欠片を拾い集めようとしている。それ
が何なのかも、よく分からずに。
やがて、右の手の平が、ざらりと砕けて。腕が、ばきんと音をたて
た。
そのとき、殊更大きな音で息を呑んだエマが、口を大きく開く。
多分、叫ぶのだと思った。
周囲には、たくさんの人がいて。彼らは誰も、僕の身に起こった出
来事に気付いていない。密着する僕とエマは、見ようによっては、
品のない恋人同士そのものだっただろう。
思わず、左手で彼女の口を押さえていた。彼女の方が身長は高いけ
れど、性別のせいか、手は僕の方が大きい。彼女の唇を塞ぐには、
片手で十分だ。
大きく目を見開いたエマが、僕の顔を見る。驚愕と混乱と、恐怖と。
色んな感情がないまぜになった目をしていた。
﹁さけばないで、﹂
幼い子供のように頼りない声が漏れる。

621
瞬きすら忘れてしまったのか、乾いた彼女の目。その虹彩に、僕の
顔が映りこんでいた。
﹁お願い、さけばないで﹂
震えた声が、穏やかな空気に霧散する。エマの顔は、だんだん色を
失い、小刻みに震えているのが分かった。押さえつけた唇が、もが
くように小さく動いている。
いや、違う。震えているのは、己だ。柔らかな木漏れ日が降り注い
でいるというのに、どうしようもなく寒い。
もしかしたら、失った右腕から血が流れているのかもしれないと思
った。
けれど、そうではないことは自分自身が、よく理解していた。
突然、右腕を失ったというのに。
痛みがない。というよりも、そもそも痛覚なんてものがあったのか
疑わしいと思えるほどに、何も感じないのだ。麻痺しているという
よりも、初めから、右腕なんてなかったかのように感じる。
それほどに、腕を失ったことに、︱︱︱︱︱違和感がない。
﹁⋮⋮っ﹂
エマの口元を押さえたまま、彼女と睫が触れるほどの距離感で見つ
め合う。すると、彼女の喉が大きく痙攣するのが分かった。あまり
に強く押さえつけていたために、呼吸ができなくなっているのだ。
慌てて、手を離せば、彼女はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら息を
吸った。それでもなかなか呼吸が整わないようで、咳き込みながら
胸を押さえている。
﹁ご、ごめん、エマ⋮⋮!﹂

622
ベンチに倒れこみそうになっている彼女を支えようと手を伸ばして、
はっと息を呑んだ。
そこに、彼女を支えるはずの腕がない。
思わず、左手で己の右袖を掴んだ。意識していたわけではないが、
その動作は、自分の腕がどこまで失くなってしまったのか確認する
ためのものだった。
苦しそうに何度も呼吸を繰り返す彼女を前にして、僕は、失った右
腕に気を取られていたのである。
もう少しで、彼女の息の根を止めてしまうところだったかもしれな
いのに。
﹁︱︱︱︱︱なん、で?﹂
そう口にしたのは、僕とエマの、どちらだっただろうか。
やがて、彼女は顔を上げて、ぼろりと涙を零した。咳き込んだこと
による、生理的な涙なのか。それとも、感情が高ぶっているのか。
もしくは、両方なのかもしれない。
エマは、真っ白な顔を大きく歪めて﹁どうして?﹂と呟いた。
﹃どうして、こんなことをするのか﹄﹃どうして、こんなことにな
ったのか﹄﹃どうして﹄﹃どうして﹄
そんな声が聞こえてくるようだ。
ぐらぐらと揺れる眼差しが、何かを見極めようと、僕を見つめてい
る。
そして彼女は、震える指で僕の頬をなぞった。かさついた指先は、
誤魔化すこともできないほどに震えている。思わず、その手を掴も
うとして。
また、右手がないことを思い知らされる。
﹁どこにいっちゃったの⋮⋮?貴方の右手は、どこ?﹂と、身じろ
ぎした僕の右袖を掴んだエマ。

623
だけど、そこにあるはずのものは、無い。
﹁何かの魔術? 私を驚かそうとしているの? からかっているだ
けなのよね?﹂
揺れる瞳孔が、涙に滲む。そうでしょう? と同意を求める声は、
もう既に答えを知っているかのようで。
僕を見つめるその顔には、はっきりと恐怖の色が滲んでいた。
目の前で、誰かの腕が消えてしまえば、動揺するのも当然だろう。
ましてや、それが夫であれば。平然としていられる人間などいない
はずだ。
﹁ライア⋮⋮っ﹂
呟くように囁かれた声には戸惑いと、恐怖と、縋るような切迫感が
あった。
そして次の瞬間には、勢い良く立ち上がり﹁だ、だれか⋮⋮っ﹂と、
助けを求めようとする。そんな彼女に飛びつくように抱きついた。
左腕を、彼女の腹部らへんに巻き付けて。
ほとんど力づくで、彼女をベンチに引き戻す。
それでも抵抗しようともがく彼女を、強く、強く抱きしめた。
失った右腕の代わりに上半身を強く押し付けて、自分と同じくらい
の体格である女性の動きを封じる。
誰に、どんな助けを求めようとしているのか。
そうやって助けを求められた人間は、僕を、一体どのような目で見
つめるのか。
単純に、怖いと思った。腕を失っても、血液さえ流れない僕が、他
の人間にどのように映るのかを想像して。

624
半ば、倒れこんだような格好になったエマが、至近距離で僕の顔を
見つめる。
信じられないものを見るかのようなその顔に、今の僕を見れば、大
抵の人が同じような表情をするだろうと思った。僕だって、自分自
身に起こった出来事を信じることができないでいる。
耳の後ろがどくどくと音をたててうるさい。何の音かと、確かめよ
うとして、それが拍動の音だと気付く。
﹁︱︱︱︱︱何か、知っているの?﹂
エマがそう訊いて来たのは、どれくらい時間が経過した頃だっただ
ろうか。
﹁ねぇ、ライア。どうしてそうなったのか、何か、知っているの?﹂
いくらか自分を取り戻した様子の彼女が、先ほどまでとは違った声
音で問いを重ねる。
ふと、足元に転がった果物の残骸が目に飛び込んできた。僕かエマ
のどちらかが踏み潰したのだろう。
赤い果肉が、飛び散っている。
耳の奥で、かの退役軍人の言葉が甦った。
﹃君の父君は、砂になって消えた﹄
︱︱︱︱︱砂になって、溶けて、消えたんだ。
625

しかばね
﹁屍ですねぇ⋮⋮いや、違いますね。屍のようなモノ⋮⋮と言うべ
きしょうか?﹂
出会った当初もそう思ったが、時を経て、こんな風に再会しても尚。
同じことを感じた。
威厳のある職に就き、物腰は柔らかで口調も丁寧だけれど、何処か
軽薄で信用ならない人物に見える。
初めて会ったとき、この男は既に二十代だったはずだ。それから軽
く十五年は経過しているので、現在は三十代の半ばを越えていても
おかしくない。それなのに、彼の相貌はとても若々しく映る。
思わず、まじまじと見つめていれば、彼は﹁聞いてますか?﹂と軽

626
く首を傾いだ。
﹁⋮⋮聞いてます。⋮⋮だけど、どういう、意味ですか?﹂
きちんと考えれば、男の言葉を理解することができたのかもしれな
いと思う。
けれど、頭が上手く働かなかった。
震えを抑えようとして歪んだ声には力がなく、まるで怯えているよ
うに聞こえただろう。
実際、僕はどうしようもなく怖かった。
﹁君のその体⋮⋮。生きているというよりは死んでいる。だけど、
本当に死んでいるわけではなくて、⋮⋮生きているといえば生きて
いるっていうことですね﹂
支離滅裂なことを聞かされている。一瞬、彼の胸元を掴み、適当な
ことを言うなと罵声を浴びせる己を想像した。
でも、そこではっと息を呑む。
僕には右腕がないからだ。現実の僕は声を上げるどころか、椅子に
座ったまま、ぴくりと左手を震わせただけだった。
喉を締め付けられたような感覚に、ただ何度も深呼吸繰り返す。
何か飲み物を用意しようかと言う彼に首を振り、震えを誤魔化すよ
うに左手をぎゅっと握り締める。
そして、相対する男の、観察するような眼差しから逃れるために診
療所の天井を仰いだ。
染みの浮いた天井は古びている。けれど、きちんと清掃しているの
が分かった。くもの巣が張っている様子はなく、埃も見えない。
この医師は案外、綺麗好きなのかもしれない。

627
それから、意味もなく室内を見渡した。
決して広くはない診察室の隅には、小さな本棚が置かれている。並
んでいるのは魔術の指南書だ。
昔、彼が自分のことを﹁魔術にも詳しい医師﹂だと言っていたのを
思い出す。
﹁ねぇ、君。大丈夫ですか? 私の声は聞こえていますか?﹂
だから、ここに来ることを選んだ自分は、間違っていない。そのは
ずである。
﹁⋮⋮聞こえています﹂
しかし、当然ながら彼の言っていることを、額面通りに受け取るこ
とはできない。
︱︱︱︱︱もしかしたら、聞き間違いなのだろうか。
そうだ。何かの間違いだ。やはり彼は、おかしなことを言っている。
もう1度聞き直すべきかもしれない。
それなのに。
﹁どうしてですか、﹂
口から零れたのは、自分でも思いも寄らない言葉だった。無意識だ
ったけれど、声音には非難の色が滲んでいる。
﹁異常はないと、あのとき⋮⋮言ったではありませんか﹂
男はほんの一瞬だけ目を見開き﹁そうだね﹂と、深く肯いた。
さらりと零れ落ちた前髪と柔和な表情に、既視感を覚えて息を呑む。
それもそのはずである。

628
父の魔法陣に放り込まれた幼い僕を診察した彼は︱︱︱︱︱やはり
今と同じような表情をしていた。
どんなに緊迫した状況でも、焦りを感じさせない男だ。
医師という職業柄、そういった度量というのは必要だろう。
﹁嘘を、ついたのですか﹂
言葉を発するたびに、体温を失っていく。そんな気がして、首の後
ろに氷水をかけられたかのような寒気に、嘔吐感さえ覚える。
だというのに、案外しっかりと話すことができる自分に感心してい
た。
﹁それは違います。あのときは確かに、何の異常もありませんでし
た。少なくとも、私にはそう見えたのです。下した決断にも間違い
はなかった、はずです﹂
かつてこの男は、父の助手を務めたこともあると自慢げに語ってい
た。
本当にそうなら、父が僕に何をしたのか知っていたのだろうか。
それならばなぜ、何も教えてくれなかったのかという恨み言を口に
しようとして。今更、何を言ったところで無駄だと悟る。
実際、僕の肉体は、どうしようもない状況に陥っていて。父の施し
た魔術の結果が、覆ることはない。
﹁︱︱︱︱︱ただ、その後、定期的に君を診察していたわけではあ
りませんから⋮⋮。あれから今までの間に、君の体がどんな風に変
化したのか私には分からないのです﹂
申し訳ありません、と頭を下げる彼には事の重大さが理解できてい
ないような気がした。

629
いや、違う。もしかしたら、深刻すぎる問題に、彼自身戸惑ってい
るのかもしれなかった。
向き合っていると、彼の眼差しが揺れていることに気付く。
﹁推測だけでものを言うなら⋮⋮。君の肉体は、とっくの昔に限界
を迎えているということです﹂
無理やり年を重ねてきた。という方がしっくりくるかもしれない。
と、医師は僕の頬に触れた。
﹁成長しないのは、成長することができないからでしょう﹂
思わずその手から逃れようとしたけれど、﹁じっとして﹂と力強い
指先が動きを制する。
何を見ているのか分からないが、僕の顔を右に、左に動かして、彼
はふっと息を吐いた。
﹁未だに君が何の問題もなく動くことができるのは、その膨大な魔
力のおかげだと思います﹂
そして、医師は僕の右肩にそっと触れた。壊れ物に触れるような慎
重な仕草だ。
するりと手を滑らせて二の腕を軽く掴み、肘から先に何もないこと
を確認してから眉を寄せる。
右腕を喪失したことは、この診療所を訪れたときに、あらかじめ説
明していたことだったけれど。彼も、自分自身で確認する必要があ
ったのだろう。
中身がないから、ちょっとした動きで頼りなく揺れる僕の右袖。そ
れをゆっくりと捲り上げ、目視して。
彼は痛ましげに目を伏せた。
僕に同情しているらしい彼は、何度か口を開いたけれど。

630
結局、言葉が見つからないのか黙り込んでしまう。
何か解決策はないのかと口にできたのは、長い長い沈黙が続いた後
だった。
とっくに、そんなものがあるはずないと分かっていたのに。それで
も訊かずにはいられなかったのだ。
案の定、彼は、ぐっと言葉を詰めた後。
ぽつりと﹁ごめんね﹂と言った。
苦しそうに吐き出された声音。くだけた口調なのに、先ほどの謝罪
とは違って、重々しく響いた。だから、それが全てなのだと悟る。
思わず胸元を押さえて、己の心音を確かめた。手の平から伝わる拍
動に、ほっと息を吐く。
少なくとも、今ここに居る自分は生きている。それだけは間違いな
い。︱︱︱︱︱そう、思っていたかった。
だから、あえて明るい声音を意識して﹁心臓は、動いていますよ﹂
と言ってのける。
すると医師は、どこか戸惑いを隠せない様子で﹁ふふ、﹂と乾いた
笑みを零した。
そして、﹁本当に?﹂と問う。
一瞬、ふざけているのかと思った。だから反論しようとしたけれど、
視線の先にあったのは思いも寄らぬほど真剣な顔つきで。
僕は口を開いたまま、息を詰めた。
﹁それは全部、君の魔力が見せている夢なのかもしれませんよ﹂
本当の本当は。既に鼓動は止まり、脈もふれず、吸い込む息さえ幻
聴であり幻覚であり⋮⋮、君はもう死んでいるのかもしれません。
と告げる医師。
﹁さっきも言いましたけどね。君は、生きているようで死んでいる

631
んです。︱︱︱︱︱でも、完全に死んでいるわけではなく、生きて
いると言えば生きている⋮⋮かもしれません﹂
まるで僕の存在そのものが、夢、幻であるかのように語る。
あまりにも冷徹な言葉であるが、それが真実のような気さえして。
この体が既に、生物としての役目を終えているのなら。ここにある
のは、ただの肉の塊でしかない。
動揺を鎮めるために、深呼吸を繰り返して。
もしかして、そんなことをしても意味がないかもしれないと気付く。
﹁生きる為﹂の行い全てが、無駄だということなら、呼吸なんて必
要ない。
こんなに苦しいのに。こんなに息が上がるのに。喘ぐ呼吸は、生き
ている人間そのものだというのに。
全部、気のせいかもしれないということなのか。
生きているのに、死んでいる。死んでいるのに、生きている。
﹁⋮⋮っ、どうすれば、僕は、一体、どうすれば、いいんですか⋮
⋮っ﹂
情けないほどにぶるぶると震える体。これを生きているといわずし
て、他に何と言うのか。
そう思うのに、目の前の医師は、ただ首を振る。
﹁⋮⋮申し訳ないけれど、医師という職業柄。僕は生きている人間
しか治療することができないんです﹂
ひどい言い草だ。だけど、ここで中途半端に優しくすることの残酷
さを、彼はよく知っているのだろう。無駄な希望を抱かせないため
に、はっきりと事実だけを告げる。
よくできた医師は、そうするものなのかと納得するものがあった。

632
既に気力を失っていた僕には、それ以上追及することもできず。
本当は訊きたいことがたくさんあったはずなのに、形にできないま
ま、消えていく。
やがて立ち上がった僕を、視線が追いかけてくる。辛らつな言葉を
吐いた後だというのに、僕を案じているのが分かった。
﹃力になる﹄という言葉さえ口にしなかった彼。
力になれないことを、知っているのだろう。


己がもしも不老不死だったら。
そう思ったとき、まず、頭を過ぎったのはエマのことだった。
自分が、永遠に生きながらえるとすれば。
もしもそうなったならば、彼女は、必ず自分よりも先にこの世を去
る。この世にたった一人取り残される自分を想像して、恐怖に震え
た。
︱︱︱︱︱そんな自分がまさか、彼女よりも先に逝くかもしれない
なんて。想像すらしていなかった。
﹁⋮⋮それじゃぁあなたは、ライア。突然、き、消えてしまうかも、
しれないって、こと?﹂
詳細は説明せず、医師に診察してもらうとだけ告げて家を出たとき。
エマは、自分も着いて行くと言ってきかなかった。それを何とか言
いくるめて、彼女に留守を頼んだのだった。

633
そして、診療所から帰った僕が玄関の戸を開けると、彼女はそこに
居て。
不安そうに僕を見つめていた。
見るからに疲労の溜まっている様子の彼女に、もしかして何時間も
そこで待っていたのかもしれないと思った。
使用人は部屋へ引き上げているのか、傍には誰もおらず、広い玄関
ホールにぽつりと佇んでいる。
しばらくは言葉もなく、向き合ったままで。随分と長い間、黙り込
んでいた。
静寂の支配する空間で、この世にはたった2人きりしか存在してい
ないような感覚に陥る。
恐らく、それこそが、僕たち2人で築いてきたものなのだ。
どれだけ大勢の使用人と暮らしていようと、どれだけ多くの人と出
会おうと、僕たちは他者を受け入れることができない。
お互いの存在だけが、全てだと、自信を持って言える。だからこそ
︱︱︱︱︱、覚悟が必要だ。
﹁エマ、ごめんね﹂
何度も深呼吸を繰り返した僕は、そうしてやっと、真実を告げた。
父の非道な行いから全て、包み隠さずに語って聞かせる。
なるべく分かりやすく話そうと努めた結果、意図せず、幼い子供に
語りかけるような口調になった。
彼女は肯いたり、あるいは首を振ったり、理解しているのかそうで
ないのか分からなかったけれど、ともかく余計な口を挟むことなく
最後まで僕の話しを聞いていた。
そして、全てを聞き終わった後。彼女は、はっきりとその目に絶望
を映し込んだのだった。

634
話している途中で何度も言葉に詰まり、彼女には何も聞かせるべき
ではないのではないかという思いも過ぎった。
腕を失う前と同じく、このまま何も知らずにいれば、やがてはこれ
までと変わらない日常に戻っていくことができるのではないかと。
しかし、そんな身勝手なことが許されるわけないと、自分でもよく
分かっていた。
彼女には知る権利があり、そして僕には、話す義務がある。
そうしなければ、お互いに﹁覚悟﹂できない。来るべき日に備える
覚悟が。
﹁そんな、そんなの、いやよ﹂
震える声が、ぼんやりと霞んで消える。悲しみに支配されていく彼
女に、為す術はない。
丸い輪郭を描く頬に、いくつもの筋ができる。それが涙だと気付く
のに少し時間がかかったのは、彼女があまりにも静かに泣くからだ
った。
しゃくりあげることも、嗚咽をもらすこともなく、涙だけが次々に
零れて落ちていく。
助かる方法は? と問う彼女に首を振る僕。これはどうにもならな
いことなのだと、言い含める。
ずくずくと痛みを覚える胸に、己の言葉が、自分自身を痛めつけて
いるのだと理解した。
思わず、左手で自分の胸元を押さえてから、これもただの錯覚なの
だろうかと。嫌なことを考える。
だけど、たとえ肉体が、既に死を迎えていたとしても。
心はまだここにあって、痛みを訴えている。それは紛れもない事実
だ。

635
﹁私、耐えられない。そんなの、絶対に、耐えられない。ライア、
ライア。私、貴方がいないと生きてはいけないの⋮⋮、生きては、
いけない⋮⋮っ、﹂
僕の胸元を、小さな手で握り締めた彼女が、とうとうしゃくり上げ
た。その嘆きが、空気を震わせる。
﹁ライア、ライア﹂と何度も僕の名を呼ぶ彼女が、苦しそうでたま
らない。
彼女の背を優しく撫でて、ただひたすらに﹁ごめん﹂と繰り返すこ
としかできなかった僕は。慰めの言葉すら、持っていなかった。
︱︱︱︱︱それから、どれほどの歳月を一緒に過ごしただろうか。
彼女は毎朝、毎晩怯えていた。
せめて、余命宣告を受けていれば、互いに気持ちの整理ができたか
もしれないが。
いつその日が来るのか、予想すらできなかった。
だからこそエマは、﹁まばたきをした瞬間に、貴方がいなくなって
しまうかもしれないと思うと、目を閉じることができない﹂と言っ
て、夜が来ることを怖がった。
そして、﹁目覚めたときに、貴方がいなくなっているかもしれない
と思うと、目を開くことができない﹂そう言って、朝を恐れたのだ。
昼間は昼間で、自分の仕事にはほとんど手をつけず、何度も僕の様
子を確認しに来る。
僕はなるべく、日常に戻ることを望んだけれど。そもそも、そんな
ことができるはずもなかった。
僕と彼女の立場が逆でも、僕はきっと、彼女と同じようなことをし

636
たに違いない。
いつだって、互いの姿を確認できるくらいの距離に居て、時々は手
を握り合い。時間の許す限り、ただ傍に居て何もせずに過ごした。
このままでは良くないと思うのに。
それ以外に、何をすべきか分からなかった。
幸いにも、僕たちには資産だけはたくさんあって。何もせずとも暮
らしていけるだけの余裕があった。
あまりにも怠惰な生活に使用人たちは良い顔をしなかったけれど。
様子を見ることにしたのか、それともただ単に戸惑っていたのか、
物申すような人間はいなかった。
僕とエマは、陽だまりの中でまどろむような日々を過ごしていたに
も関わらず、心だけは、そんな穏やかさとは無縁だったように思う。
夜、ベッドに入ると彼女は僕の体を抱きしめて、震えていた。僕自
身も、彼女の背中に手を回して、強く、強く抱きしめるのに、震え
はいつまでも止まらず。
怖い、と呟く彼女に、何も言ってやれなかった。
そうして僕は、ある日、彼女の目の前で砂になったのだ。
ソファに並んで座っているときだった。そこには、時間をかけて、
ほんの少しだけ冷静さを取り戻した彼女がいて。そろそろ仕事を再
開しようかしらと微笑した。
僕は、純粋に嬉しく思った。だから、そうだね。それはいいことだ
ねと肯く。
互いに微笑みを浮かべたまま、お茶でも飲もうかと立ち上がろうと
したそのとき。
視界ががくんと、ぶれた。
﹁︱︱︱︱︱ライアっ、﹂

637
僕を見つめる彼女の瞳が、これ以上ないくらいに大きく見開く。
﹁ぃや、いや⋮⋮っ、ライア! ライア!!﹂
どうしたの、と声に出そうとして、言葉にならないことに気づいた。
それどころか、叫んで青褪める彼女を宥める腕すら、ない。指先が、
ざらりとした何かに触れた気がして視線を下げれば、砕けて砂礫に
なる左腕が見えた。
ひゅっと息を呑んだのは、僕だったか。それとも、エマだっただろ
うか。
﹁待って⋮⋮っ、待って、いやっ、いやぁっ、﹂
ああ。何ということだ。
そう思った気がしたけれど、思考は纏まらない。
僕の名前を呼び続けるエマが、砂になっていく僕を抱きとめようと
して、上手くいかずにまた声を上げる。
ソファや、磨きぬかれた床に散る、僕の欠片。
それらは、風に舞いながら四方に飛び散っていった。絶叫しながら
も、何が起こったのか正しく理解できていない様子のエマが、両手
を伸ばす。
バラバラになった僕を集めようとしているのだ。
はらりと落ちた僕のシャツとズボンを掻き抱き、その周辺に散って
いる砂礫を両手で掻き集める。そうすれば、再び、元の姿に戻せる
と思っているかのように。ソファから滑り落ち、両膝をついたまま。
何度も、何度も、両手を動かして、かつては僕だったものを集めて
いた。
その仕草は、幼い子が砂遊びをする姿によく似ている。

638
﹁ライア、ライア、どうして⋮⋮っ、なんで、なんで、どうして⋮
⋮っ、﹂
やがて、砂を集めても無駄だと気付いた彼女は、僕の衣服を抱えた
まま立ち上がる。
その時には、使用人が何事かと部屋に集まりだしていて。
室内に飛び散った砂と、泣き喚く女主人に、明らかに訝しげな視線
を送っていた。
誰かが﹁奥様! 一体、何事ですか⋮⋮!﹂と、声をかけたけれど。
エマはひたすらに僕の名前を呼ぶばかりだ。
奥様、奥様、と使用人が声を掛けるのに、彼女には聞こえていない
ようだった。そして、ただ意味不明の言葉を羅列するだけだ。
﹁⋮⋮ライア、ライア、どこ⋮⋮っ、どこに、いるの⋮⋮っ、私を
騙そうとしているんでしょう?﹂
そうなんでしょう? と、双眸を赤くしておもむろに左右を振り仰
ぐ。
﹁どこなの!! どこに居るの!! ライア⋮⋮っ!! ライア︱
︱︱︱︱!!﹂
喉がちぎれるのではないかと思うほどの絶叫だった。
彼女に、そんな大声が出せるなんて思ってもみなかった。それほど
の声音で、僕を呼んだ。
胸を掻き毟りながら、そうしなければ苦しくてたまらないとでも言
うかのように。
エマは何度も、何度も、何度も何度も僕の名前を呼んで。視線を彷
徨わせて。本当に、僕を捜していた。

639
目の前で砕け散った己の夫を、それでも、捜していたのだ。
そして僕は、肉体を失ったにも関わらず。彼女を﹁見て﹂いた。
そう。ただ、彼女を見ていたのだ。
顔を真っ赤にして、赤ん坊みたいに大声を上げて泣いている妻に、
手を差し伸べることもなく。
再び、がくりと膝から崩れ落ちるようにしゃがみこんだ彼女は、木
製の床を掻き毟るようにしながら砂を集めていた。
エマ、エマ。止めて。止めて。
そう思うのに、やはり声を出すことができない。声帯がないのだか
ら当然だ。
﹁ライア! ライア!﹂
僕を呼び続けるエマは、爪が折れて、指先に血が滲んでも止めなか
った。床板の隙間に詰まってしまった砂の一粒さえも見逃さないと、
そんな鬼気迫る表情で。
明らかに錯乱しているその姿は、普段の思慮深い彼女とは全く異な
っていた。
見ていられなかった。こんなのは彼女じゃない。彼女は我を失って
いる。助けてあげなくちゃ。
そう思うのに、止めることもできずに見ていることしかできなかっ
た。
目も耳も失ったはずなのに、僕のこの目は愛する人の絶望を目の当
たりにして。その悲鳴を、耳に刻んだ。
本当の人でなしというのは、こんな風に、苦しむ人間を前にして何
もしない人間のことを言うのだろう。

640

激しく泣き叫ぶエマは、そのまま悲しみに呑まれて呼吸を止めてし
まいそうだった。
実際、そうしてしまった方が楽なのではないかと思うほどに、ぜえ
ぜえと胸を鳴らして泣いている。
もしも今、僕に彼女を抱きしめることのできる両手があったなら。
強く強く抱きしめて、そのまま息の根を止めていただろう。
馬鹿なことを考えていると分かっているけれど。
彼女を救うことができるなら、それも悪くないと思っている自分が
いる。
︱︱︱︱︱そうか。これが﹁死﹂というものなのか。

641
それは、あまりにも漠然とした感覚だった。
普通の状態であれば思いも寄らない考えに至るのは、自分自身が死
者であり、死というものを実感したからかもしれない。
これまでのような、生きているか死んでいるか分からないような曖
昧な感じではなく。
しっかりと、⋮⋮という言い方はおかしいかもしればいが、そう。
ちゃんと、死んだのが分かる。
魂というものがこの世に存在するのなら、今の自分はそれに近いモ
ノなのだろうか。
だとすれば、いわゆる霊感というものを持つ人間であれば、僕のこ
とが分かるかもしれない。
ふと、そんな考えに至り、もはや茫然自失という感じの彼女に声を
掛けようと試みた。
しかし、その刹那。自分には、己の存在を証明するための﹁手段﹂
がないことに気付く。
泣き叫ぶあまりに声を枯らしてしまった彼女。その姿が、僕にはは
っきりと見えているというのに。
背中をさすって、大丈夫だと伝えることもできない。
僕はまだここにいるのだと、教えてあげたいのに。
彼女を支える為の腕も、彼女に駆け寄る為の足も、彼女を励ますた
めの声も、何もない。
﹁ライア⋮⋮っ! ああ⋮⋮っそうね、そうね、ここじゃないのね
⋮⋮!﹂
一瞬、空気が止まったかのような違和感が流れた。彼女が突然そう
言って、笑ったのだ。

642
恐怖を煽るような、すごく歪な笑みだった。
そして彼女は、僕の衣服を抱いたまま部屋から飛び出す。
思いもよらない出来事に、エマを取り囲んでいた使用人の誰1人と
して上手く反応ができなかった。
やがて、はっと我に返った様子の彼らは慌てて後を追ったけれど、
時は既に遅く。
エマは屋敷の門から市場へと続く道に出て、うわ言のように僕の名
を呼びながら、どこかへと駆けて行った。
その間、道端で顔見知りの商人ともすれ違ったけれど。
普段のたおやかさからは結びつかない彼女の行動に、あんぐりと口
を開けるだけだ。
だから、エマが通りすがりの人間に声をかけるようになるまでには、
さほど時間を必要としなかった。
﹁黒髪に黒目の、少年みたいな、男の子を⋮⋮、知りませんか⋮⋮
っライアと、カリアライア、イグニスと、言う、男の子を、﹂
ついさっきまで号泣していたので、未だに呼吸が整っていない。
掠れた声を必死に絞り出して、時々ひくひくとしゃくりあげながら、
彼女はそう言った。
声を掛けられた人間は戸惑いながらも首を振るだけだ。
それでもエマは、諦めなかった。
顔面を蒼白にして、足元はおぼつかず、髪を振り乱して。彼女は声
を上げ続けた。
やがて辿りついた市場は、僕が仕事帰りによく立ち寄っていた場所
で。エマのために、果物を選んだところでもあった。
﹁奥様! 奥様! お止めください⋮⋮!﹂
やっとエマに追いついた使用人が悲鳴のような声を上げて、彼女を

643
止めようとする。
それもそうだ。明らかに貴族と分かる衣服を纏っている女性が、誰
彼構わず声を掛けて、縋りつくような格好をしているのだから。
けれど彼女は、止めない。
形振り構わず、体裁など気にも留めず、外聞も何もかも捨て去って。
僕を、僕の名を、呼び続けたのである。
まさか、と思いながら、彼女を見つめ続ける。
このときを覚悟していたつもりだった。己の命が失われる瞬間を。
しかし思えば、僕に必要だったのは、自分が死んでしまうそのとき
を覚悟するのではなく。
彼女に﹁覚悟させる﹂ことだったのではないだろうか。
夫が死ぬ未来を、受け入れさせるべきだったのに。僕は自分のこと
ばかりで、彼女の僕に向ける想いを軽んじたのである。
﹁どこかにいるはずなんですっ! 誰か、誰か⋮⋮! 見ていませ
んか⋮⋮!!﹂
このままでは彼女は、おかしくなってしまう。
どうにかしなければ。だって、僕しか彼女を助けられない。
誰か。誰か。僕の声を聞いて。彼女を助けて︱︱︱︱︱。
そんな風に、強く、強く念じたそのとき。僕の意識が、ぐんっと何
かに引っ張られた。
エマの傍に立っているような感覚で、その周辺の風景を眺めていた
のに、景色がぐるりと反転する。
突風に呑み込まれたような激しさだ。
抵抗しようにも何もできない。どこかに連れて行かれる。
そんな気がして、ひたすらにエマの名前を呼び続けていると。

644
﹁⋮⋮かわいそうに。そんな姿になってしまって﹂
ふと、そんな声が聞こえた。﹁見回せば﹂覚えのある室内に﹁立っ
ている﹂ことに気付いて。
思わず声を上げそうになったけれど、やっぱり、音を発することは
できない。
立っていると思ったのは気のせいで、僕は、あくまでも意識だけで
宙を漂っている状態なのだろう。
﹁肉体を失って、魔力だけが残ったんですね。そこに、意識が植え
付けてある⋮⋮? いや、何でしょう。こんな不可思議な現象は初
めて見ました﹂
ぽつり、ぽつりと、雨粒が落ちるような静けさで医師は語る。
ああ、そうだ。ここは、前に訪れた診療所だと、理解した。
﹁だけど、私とは波長が合うようですね。君が何を言わんとしてい
るのか、何となく意志のようなものを感じます。︱︱︱︱︱だから、
そうですね⋮⋮うん、﹂
医師は、その柔らかな面差しを少しだけ鋭くして、宙を見つめてい
る。
魔力というのは普通、目に映るものではない。あくまでも﹁感じる﹂
ものなのだ。
だから、どうやら魔力の塊に成り果ててしまった僕と彼の視線が合
っているというのもおかしな話ではあるのだが、それでも、見つめ
合っているような気がしてならなかった。
﹁実体をもたせることはできないけど⋮⋮、幻覚を見せることなら

645
できるかもしれないな⋮⋮﹂
椅子に座ってなにやら書付けをしていた様子の彼が、手を止めて、
おもむろに立ち上がる。
そして、本棚に並んだ蔵書の中から数冊を選び出し﹁私は、こうい
う魔術の専門じゃないから⋮⋮うまくいかないかもしれないけど﹂
と言った。
その視線は、やはり宙を彷徨い、だけど確実に﹁こちら﹂を見てい
る。
﹁時間がかかりますよ。専門家にも相談してみなくちゃいけないか
ら﹂と、不敵に笑う彼に同意した。
それが、どういう意味かもよく分からずに。
藁にも縋る思い、というのはこういうことを言うのだろう。
他に頼れる人はいなかったし、彼なら何とかしてくれるような気も
した。
だからこそ、僕の思念は無意識にもこの場所へ飛んできたのだろう。
﹁きっと、私の前に現れたというのが、答えなんでしょう。運命と
いうものがあるのなら、私たちは互いに導かれたのかもしれません﹂
医師は独り言のように呟いて、椅子に座ると、分厚い蔵書を開いた。
そこにいてもいいけど、時間がかかるよ。と再び、先ほどと同じよ
うなことを口にする。まぁ、君には時間なんて関係ないかもしれな
いけど、と。
僕はこのとき。彼の言葉に微かな希望を見出していて。
﹁希望﹂というのはその名の通り、これからの人生を明るく照らし
出してくれるものだと信じていた。

646
これで、彼女にも僕の存在を分かってもらえる。彼女と再び、一緒
に生きていくことができる。
彼女を、あるいは自分自身を救うことができると、浅はかにもそん
なことを考えていたのだ。

魔法が完成するのに、どのくらいの時間がかかったのか、僕には分
からなかった。
医師があらかじめ断言していた通りに、長い時間がかかったのか。
もしくは、想像よりも短かったのか。
確かなのは、ある程度の時間が過ぎ去っていたということで。
医師は相変わらず若々しい外見を保っていたけれど、それでもやは
りどこか年を重ねたことが分かる顔つきになっていた。
そして僕は、幻術によって﹁他人に見える﹂存在になったのである。
﹁あくまでも幻術ですよ。だから、君から他人に触れることはでき
ないし、また逆もしかり。君の魔力に﹃形状﹄を与えたまでのこと
です。だから、魔力の弱い人間には﹁形﹂として見えません。そも
そも、君の存在自体が目に映らないでしょう﹂
医師いわく、何となく意志を伝えることはできるが、話すことはで
きないということだった。なぜなら、声を発するための声帯がない
からだ。
その一方で、僕が他人の声を聞くことができるのは、耳が機能して
いるわけではなく、ただ単に相手から発せられる﹁波長﹂を感じて
いるだけなのだろうという見解だった。
しかし、正確なことはわからないとも続ける。
矛盾が生じるのは、君が魔力の塊であり、霊魂でもあるからなのだ

647
と。
霊魂である部分は、まさしく神の領域なので説明することはできな
いということだった。
だけど、それでも十分だと思った。
何でも良かったのだ。
これまでの、誰にも認識されない状態よりはマシだ。
肉体を取り戻すことはできずとも、エマに﹁見て﹂もらえる。それ
以上に何を望むのか、という想いもあった。
見下ろせば、自分の両腕が見える。指を折ることができたし、手を
振ることも可能だ。
幻覚だと分かっていても、まるで生き返ったような錯覚を覚えた。
﹁君が一体、何のためにこの魔法を望むのか。私なりに考えてみま
した。⋮⋮まぁ考えるまでもなく、君の奥さんの為だろうというの
は察しがつきます。だから、この幻術はあくまでも君の奥さんのた
めの魔法になります。つまり、彼女には問題なく君が見えるだろう
ということです﹂
僕の身上調査でもしたのか。
医師は、僕個人のことをとてもよく知っているように見受けられた。
それも、この魔法には必要なことなのかもしれない。
医師は、少しだけ呼吸を置いて﹁覚悟はいいですか?﹂と訊いてき
た。
今度は一体、何の覚悟だろうかと首を傾げるけれど﹁⋮⋮君にとっ
て、時間は無限のものかもしれません。だけど私たちにとって、時
間というのはあまりに短いのです﹂と、言い含めるように告げる。
その真意を読み取ろうと、ないはずの﹁目﹂を凝らしてみるが。何
も伺い知ることはできない。
だから、彼がそのとき、僕と﹁私たち﹂をはっきり線引きしていた

648
ことに、気付かなかった。
僕はただただエマのことだけを考えていたのだ。
彼女は今、何をしているだろうか。また僕を、捜しているのではな
いだろうか。あの広い屋敷で暮らすのは寂しいのではないか。
彼女と再会したとして、僕は話すことができないけれど、話しを聞
くことはできる。
もしかしたら、それだけで十分かもしれない。
大切なのは、互いの顔が見えることだ。
きっと、そうだ。
そんな風に、必死に自分を納得させて。彼女に会いに行けば、
﹁⋮⋮なんで、﹂と、搾り出すような声でそう言われた。
見慣れた玄関ホールに佇む彼女は、かつて纏っていたドレスよりも
随分と地味で簡素なものを着ている。
そのせいか、ひどく顔色が悪く見えた。
しんと静まり返っているので、他に使用人はいないのかと見渡せば、
絵画や空の花瓶に布がかけられている。よくよく見れば、天井から
釣り下がったシャンデリアにはほこりが被っていた。
おかしな雰囲気だと首を傾げていれば、﹁どういうことなの⋮⋮?﹂
と、放心していたエマが呟く。
帰ってきたんだよ、と伝えようとしたけれど、当然、声は出ない。
身振り手振りで伝えようにも、どのような仕草をすれば彼女に理解
してもらえるのか検討もつかなかった。
もっと、事前に準備してから会いに来れば良かったと後悔しても遅
い。
あきらかに戸惑い、動揺して混乱している様子の彼女が、僕に手を

649
伸ばして。
けれど、その指先はあっさりと僕の体をすり抜けた。
そのとき彼女は両目を見開き、小さな顔いっぱいに驚愕の色を浮か
べ。そして、唇をわなわなと震わせて、悲鳴を上げたのだ。
つんざ
耳を劈くような声というよりも、もっと悲壮感の漂うものだった。
そう、例えば。今目の前で、誰かを失ったかのような。苦しみのあ
まりに声を上げる、というような感じだったかもしれない。
屋敷全体に響き渡るような声だったと思う。
違和感に気付いたのはこのときで。
屋敷の女主人が悲鳴を上げているというのに、誰1人として確認に
来ない。
執事のような役割を果たしていた古株の使用人すら、顔を見せなか
った。
もしかしたら、本当に誰もいないのだろうか。いや、それどころか。
この屋敷自体が、廃墟のような雰囲気を醸し出している。
エマと2人で、生活の基盤を築いたこの屋敷。あちこちに生けられ
ていた花は、どこにもない。
﹁⋮⋮エマっ! 一体、どうしたんだ⋮⋮!﹂
一瞬、自分自身が声を上げたのかと思った。けれど、そんなはずは
ない。
一体、どこから現れたのか、一人の男性が僕たちの間に割って入っ
た。
けれど、その動作から、彼が僕のことを認識していないことに気付
く。︱︱︱︱︱彼には僕の姿が見えないのだ。
エマは震える声で﹁あそこに彼が、﹂と言った。
男は振り返り、彼女が指差した方向をじっと見つめるけれど﹁⋮⋮

650
何? あそこに何があるの?﹂と訝しげに首を傾げるだけだ。
﹁見えないの? 貴方には、見えないの⋮⋮?﹂と、うわ言のよう
に繰り返すエマの華奢な体を、男はそっと抱き寄せた。体格のいい
彼の背に、彼女の体がすっぽりと隠れてしまう。
低い声﹁大丈夫だよ﹂と囁く声音で言ったのを、遠くで聞いていた。
僕が立っている場所からはよく見えないけれど、彼の手はきっと、
彼女の背中を摩っているのだろう。
その慈しむような仕草に、胸の真ん中あたりが苦しくなる。
ここにはないはずの心臓が、悲鳴を上げている。
﹁私、きっとおかしくなっちゃったのよ。だって、だって、彼がそ
こに居るような気がするんだもの﹂
何が起こっているのか、分からない。
﹁彼が﹂﹁彼が﹂とぼそぼそ呟く彼女に、男が繰り返す。
﹁⋮⋮違うよ。あそこには誰もいない。君はただ幻を見ているだけ
なんだ﹂と。
だって、彼は死んだじゃないかと。
そうね。そうよねと何度も肯いている様子の彼女が、その細い指を
彼の背中に回す。
僕はやはり、それを見ていることしかできなかった。
縋りつくような、エマの細い指。砂になった僕をかき集めて、床を
掻き毟っていた指先はすっかり癒えている。かつて、そんなことが
あったなんてうそみたいに。
﹁私、おかしくなっちゃったのかもしれないわ﹂と、ぽつりと落と
された声が響く。

651
存在しないはずの鼓膜を震わせて、脳髄に杭を刺すように。
﹁早くこの屋敷を売り払って、新しい生活を始めよう。そうしたな
ら、きっと、元の君を取り戻せるから。だから、大丈夫だよ﹂
優しい優しい声が、彼女に告げる。何の威力もないはずの言葉なの
に。僕の心に深く抉っていく。
僕のことを視界から消し去ろうとするみたいに、彼の胸に顔を埋め
たエマ。
﹁もういいじゃないか。君はもう十分苦しんだし、彼も君のこんな
姿を見るのは辛いと思う。⋮⋮だから、いい加減前に進むべきだ。
僕もできる限りのことをするし、いつも、傍にいるから⋮⋮﹂
僕は立ち竦んだまま。1歩もその場から動けずに、だからどうか彼
のことを忘れてほしいと、懇願するかのように囁いた男の声を聞い
ていた。
そして続けられた﹁君の夫はもう何年も前に亡くなったんだよ﹂と
いう言葉に。
僕はやっと現実を思い知ったのだ。
彼女の中ではもう、とっくに僕は。
︱︱︱︱︱死んでいたのである。
﹁そうね。死んだのよね。ライアは、死んだ。私の夫は、死んだの
ね﹂
エマの、自分自身に言い聞かせるかのように繰り返される言葉が。

652
僕から、全てを、奪っていくような気がした。

﹁⋮⋮消えて! 消えて! 消えて消えて消えて! いなくなって
! いなくなってよぉっ﹂
泣きながら、そう叫んだ彼女を見て、僕はやっと理解した。
自分が、とんでもない勘違いをしていたことを。
初めはいくら僕のことを拒絶していても、その内にきっと、僕の存
在を認めてくれるものだと信じていた。
そしていつかは、言葉はなくとも意志の疎通ができるようになるの
ではないかと期待していたのだ。
幼い頃から共にあった僕らの間には、それほどの絆があると思い込
んでいた。

653
けれど、それは結局、僕の独りよがりな思い込みで。
エマはずっと、僕の存在を否定し続けた。
それでも、彼女の傍に居続けたのは、ほとんど意地だったのかもし
れない。
大丈夫、きっと、大丈夫。彼女は僕をちゃんと認めてくれる。そう
言い聞かせることで己を鼓舞していた。
できるだけ彼女の視界に入るところに居て、時々は手を伸ばしてみ
る。
触れられないと知っていたけれど、そうした。
もしかしたら、彼女も僕と同じように手を伸ばしてくれるのではな
いかと思ったから。
すると、何度目かに手を伸ばしたとき、それまで僕を無視し続けて
いた彼女が、突然大声を出した。
僕に向かって﹁消えて!﹂と叫んだ。声が枯れるまで繰り返し、何
度も、何度も。
いっそ凶悪とも言えるほどの相貌で叫び続けた彼女は、間違いなく
僕を憎んでいた。
強い眼差しが、僕をばらばらに砕いてしまうのではないかと思うほ
どに。
そして、それ以降は、僕に視線を向けることがなくなった。ただの、
1度も。
僕のことなんてまるで見えないかのように振舞うその姿には、さす
がに堪えた。
とうに肉体など失っていたというのに、再び、指先から消えていく
ようだった。
実際、僕は、存在していないも同然で。

654
何を夢見ていたのだろうと、口元が歪んだ。⋮⋮なぜか、笑えて仕
方なかった。
だから、彼女がとうとう、僕と暮らした屋敷を売り払ったときは、
失望することさえなかったように思う。
そもそも売却する手配をしていることは既に知っていたので、驚く
こともなかった。
ただ、本当に彼女は僕たちの思い出を手放してしまうのだなと、改
めてそう感じただけだ。
屋敷を売り払い、家財は1つも持ち出さずに馬車に乗り込んだ彼女
は、ただの1度も振り返らず。
未練がましい目をすることもなく、しっかりと前を見据えていた。
その姿には、新しい生活を始めるのだという強い意志が見て取れる。
それはあまりにも冷静で、どこか冷淡でもあった。
僕の知らない彼女を目の当たりにして、知らない間に過ぎ去ってし
まった年月のことを考えさせられる。
彼女はこれまで、僕の居ない人生を﹁きちんと﹂生きてきたのだろ
う。
だから、その後エマが、僕の知らない男性と暮らし始めたときも、
ただ受け入れることしかできなかった。
そもそも彼女が彼と、どこで出会ったのかさえ、僕は知らない。
僕の知らない時間を、僕の知らない人間と過ごしてきた僕の、妻。
使用人のいない静かな暮らしをしてみたいと、家族だけで生活の基
盤を築いていくのだと目を輝かせていた遠い日。
実現することなく消えてしまった泡沫の夢だった︱︱︱︱︱、その
はずだったのに。

655
彼女は、別の男性と実現してしまった。
これからもきっと、エマは、僕の居ない人生を生き抜いていくのだ
ろう。
彼女と﹁彼﹂の間には、確かな絆が存在していて、他の誰にも入り
込む余地などないと感じた。
見ない振りをしていても僕の存在が不安を煽るのか、時々、幼子の
ように心許ない顔をするエマ。そんな彼女を、彼が優しく抱きしめ
る。
彼らは、毎分、毎秒ごとに絆を深めていくようだった。
エマのことが大切だといわんばかりの仕草で両手を広げる彼の姿を
見て、僕にできることは何もないと悟る。
彼らがいつか本当の夫婦になり、子供を産み、育て、家族を作って
いく姿がはっきりと見えた。
だから僕は、自分が不要な存在と成り果ててしまったのだと思い知
ったのだ。
そうして、エマから離れる決心をした。
︱︱︱︱︱彼女の願い通り、彼女の前から消えた。
僕がいなくなってほっとしただろう彼女の顔が目に浮かぶ。
あの灰茶の瞳を安堵で揺らして、そして小さく小さく息を吐き出す
のだろう。
いなくなってくれて良かったと、そんな風に言うかもしれない。
だから、どうしようもなく泣きたくなったけれど、涙が零れること
もなく。叫びだしたくなったけど、絶叫などできるはずもなく。

656
実体を持たない身軽な体で、まず、国を出た。
1度だけ、僕に魔術をかけてくれた医師の下を訪ねてみたけれど、
診療所は既にもぬけの殻で。
どうやら数年前から重病を患っていたらしいことを噂で聞いた。も
しかしたら、もう既に亡くなっているかもしれないということも。
僕に魔術をかけるために尽力を尽くしてくれた彼。
僕は彼に、別れの言葉を言うこともできなかった。


そして、あちこちへと移って、途方もなく長い時間を独りきりで過
ごすこととなった。
実体を持たないのでどこかに住居を構える必要もなく、生活費もい
らない。食事も取らなくていいので、本当にただ彷徨っているだけ
だった。
色んな国を訪ねて、様々な街を彷徨い、大勢の人間とすれ違った。
その中には、僕を見て反応を示す人間もいたけれど。一様に、幽霊
でも見たかのような顔をしていた。
あからさまに、僕のことを幽霊と呼んだ人もいて、要するに、僕の
姿は誰の目にもはっきりと見えなかったようだ。
医師の魔術が失敗しかのか。それとも、そもそもそういう魔術だっ
たのか。
答えを得る術はないけれど、いつしかそういったことも気にならな
くなった。
それほど、僕の姿が誰の目にも留まらなくなったのだ。
年月を重ねる毎に、僕を﹁見る﹂人間が減っていく。

657
それは単純に、魔力を持つ人間の数が減ったことを示していた。
僕や、あるいは父のように膨大な魔力を持つ人間というのはほとん
ど存在しなくなり。
いつの間にか、魔術師という職業も廃れつつあった。しかし、だか
らと言って完全に無くなることもなく。
魔術師は専門職として存在し続け、ごくごく限られた特別な人間に
だけ許されたものになった。
その内に、僕の姿は誰にも見えなくなるのだろうかと。
諦念にも似た考えに支配されながら、それと同時に郷愁の念に駆ら
れたのはいつだったか。
頭の中を過ぎるのは、幼い頃の記憶。
エマと過ごした日々のことだった。
もう父親の顔も思い出せなくなって、生まれ育った屋敷のカーテン
の色さえ曖昧だというのに。
彼女が飾った、名前も知らない花々の凜とした姿が思い起こされた。
会いたかった。どうしようもなく。
また拒絶されるかもしれないし、もう彼女には、僕の姿が見えない
かもしれない。
それでも、どうしても顔を見て。
声を掛けたかった。
一言。たった一言でいいから、伝えたいことがあったのだ。
言葉にできないから、当然伝わらないはずだけれど。それでも、言
いたいことがあった。
﹁⋮⋮ああ、来て、くれたのね﹂

658
風に乗って、飛ばされて。そして辿り着いたのは、彼女が﹁彼﹂と
暮らしているはずの家だった。
今でも変わらず、そこに住んでいるんだな。と何とも言えない想い
がこみ上げる。
当時、見たときよりも随分古びて、嗅覚があるわけでもないのに﹁
家族﹂の臭いがした。
それはつまり、彼らがそこで生活を営んできた証だ。
家の中を歩き回って観察してみれば、幾つかある部屋のひとつは子
供部屋だったらしく、けれど既にその役目を終えているのが分かっ
た。放り出されたおもちゃや、本棚の童話集には使い込んだ跡が見
える。
せきばく
静まり返った室内は、寂寞よりも安らぎを呼ぶ。
いかにも老夫婦が、ゆったりと暮らしていることが分かる様相だっ
た。
彼女は、寝室に居て。
広いベッドの上で、ゆるゆるとうたた寝をしていた。
﹁彼﹂は買い物にでも出ているのか、彼女は1人きりだった。
ベッドの脇に立って見下ろせば、彼女がふと目を開く。
皺だらけの顔に、下がった瞼の奥の瞳が少しだけ光を灯した。僕の
愛した灰茶の瞳だ。
ベッドサイドのテーブルには、彼女の常備薬らしきものが置かれて
いる。
何かの病を患っているようだった。
︱︱︱︱︱重い病なのだろうかと。そんな不安が過ぎって呆然とし
ていれば、彼女は、ふわりと笑んだ。
﹁ライア。貴方、どこに行ってたの?﹂と。

659
その、あまりにも自然な様子に一瞬、混乱する。話しかけても意味
などないと分かっているのに、唇が彼女の名前を呼ぶ。
﹃エマ﹄
すると、彼女は心底嬉しそうに微笑んで。
﹁おかえりなさい﹂と、言った。そして、
﹁貴方にどうしても、言いたいことがあって。だから、神様にお願
いしたのよ。貴方を、連れてきてくださいって。もしかしたら、間
に合わないかもしれないと思ったのだけれど。願いを聞き入れてく
ださったのね﹂と、こちらに手を伸ばしてくる。
僕は、彼女の手を握り返すこともできないのに、1歩だけ距離を詰
めた。
触れることのかなわない2つの手が、宙に彷徨う。
それでも彼女はお構いなしだった。まるで、僕の手に触れているか
のような仕草で、そっと指先を丸める。
﹁ねぇ、覚えてる? 私たちが結婚したときのこと。⋮⋮結婚式な
んて性に合わないからって、屋敷のお庭で小さなパーティーを開い
たの﹂
懐かしそうに目を細める彼女に、ただ肯いた。それを見て満足そう
に吐息を漏らした彼女が続ける。
あの日は確か、とても天気が良かったと。青い紗幕を引いたような、
薄い色の空を覚えていると。
春先の空は、こんなにも心地がいいものだと、あのとき初めて知っ
たと笑う。

660
招待客はあまり多くなかった。
学院に通っていたときの友人と、社交界での付き合いがある貴族が
数名。それもあまり高位の貴族ではなかったから、気を遣う必要も
なかった。
だから僕たちは、ただ昼食を共にするかのような心持ちで時を過ご
すことができたと思う。
あの日は、どの瞬間を切り取っても幸福だったと、自信を持って言
える。
﹁そうだ。あの日、私たち変な贈り物をもらったわね﹂
エマは双眸を細めて遠くを見た。
学院時代の友人が、小さな箱を持ってきてエマに手渡したのだ。
﹁中には、黒檀でできた鳥が入っていたわ。⋮⋮そう、黒い鳥ね﹂
僕の育った国では黒い鳥は、不幸を呼ぶと言われている。だけど、
結婚式の贈り物にそれを選ぶ人間は多い。結婚式のときに手渡され
る黒い鳥だけは、違う意味を持つからだ。
昔は、鳥籠に入れられた本物の鳥を渡していたようだが、黒い鳥が
絶滅してしまったので、いつしか作り物の鳥を渡すようになった。
﹁小さな不幸を呼ぶことで、大きな不幸を避ける。そういう意味を
持つんだって、貴方が教えてくれた。⋮⋮ふふっ、そういうことに
は疎そうなのに。一体、どこで聞いたのかしら﹂
聞いたのではなく、自分で調べたのだ。
普通の結婚式というのは、どういうものなのだろうかと。彼女にも、
そういう﹁普通﹂を体験してほしいと願って文献を漁ったりした。

661
今思えば、調べたりせずとも誰かに聞けばよかったのだ。その方が
ずっと楽だったのに、僕は自分で調べることに意義を感じていた。
彼女のために何かをすることが、嬉しかっただけで。ただの自己満
足に過ぎない。
﹁この国の風習は、変わっているわねぇ﹂
エマはもう1度小さな笑みを落として、
﹁それに、当たらなかったわ。小さな不幸はやってこなかった。私
は結婚するよりも前から、ただ幸せなだけで。小さな不幸なんか、
何1つなかったわ。⋮⋮だからなのかしらね⋮⋮、貴方を、失うこ
とになったのは⋮⋮﹂
はぁと、息を零した彼女はどこか苦しそうだった。
僕に伸ばした手とは反対の手で、掛け布の上から自分の胸を押さえ
ている。
﹁ね、ライア﹂
枕に頭を預けたままの彼女が、じっと僕を見上げた。
その顔を覗き込めば、瞳の中に僕の顔が見える。それほどに強い眼
差しで、こちらを見つめてくる。
﹁私の生まれたところではね、黒い鳥は、幸福と不幸を同時に運ん
でくると言われているのよ﹂
黒い鳥は、ある日突然、窓辺に現れるのだという。
そして、人間のように言葉を話し、1つだけ質問をするらしい。そ
の上で、正しい答えを口にした者には幸福を。そうでない者には不

662
幸を運んでくるのだと、彼女は語った。
﹁ライア。私を拾ってくれたときのことを覚えているでしょう?
貴方は私に聞いてきたのよ﹂
﹃⋮⋮、﹄
﹁これから一緒に暮らす?って﹂
私はそれに、はいと答えた。⋮⋮きっと、正しい答えを口にしたの
よ。
エマは囁くように言って、ぽつりと一粒だけ涙を落とす。
﹁⋮⋮ライア。私の、黒い鳥﹂
﹁貴方は私に、幸せを運んできたの﹂
そして、静かに目を閉じた。
﹁私、幸せだった⋮⋮。貴方を失って、生きてはいけないと思った
けれど。だけど、貴方は私に幸福を運んできてくれたから。⋮⋮そ
の幸福は消えることなく、ずっとずっと私と共にあった﹂
﹃エマ、﹄
﹁だから、だから⋮⋮、ごめんなさい﹂
﹃エマ、﹄
﹁私、幸せだったの。貴方を失っても、幸せに生きることが、でき
た﹂
﹁妻になり、母になり、家族を得て、独りではなくなった。⋮⋮貴
方のいない人生を、幸福に生きてきた。ごめんなさい、ライア﹂

663
﹁私、とても幸せだった︱︱︱︱︱﹂
もう一度瞼を開いて、僕の顔を覗きこむように、うるんだ目をこち
らに向けた後。
彼女は何度か瞬きを繰り返して、再び、静かに瞼を閉じた。
沈黙と静寂を、顔の上に載せたみたいな。そんな、これ以上ないほ
どに、穏やかな表情をしていた。
幸福そうな顔が、これまでの彼女の人生を物語っているようだった。
幸せで、幸せで、だから思い残すことは何もない。これで満足だと、
ここで人生を終えても何の悔いもないと、そう言っているかのよう
に小さく小さく吐息を零して。
息を、止めた。
僕は彼女を見下ろして、突っ立ったまま何の反応もできずに。ただ、
見ていた。
この何十年もの間、会いたくて会いたくて仕方なかったはずの人な
のに。
僕は、ここに来たことを後悔し始めていた。
運良く、愛する人の最期を看取ることができて。2人きりの時間を
過ごすことができたというのに。
それさえも、まるで悪夢でも見ているかのように思えて。
﹃⋮⋮寂しかった﹄
もう聞こえていないはずなのに、両手で口元を抑える。罪を告白し
ているかのような気分だった。
彼女に、どうしても伝えたかったのは。
独りで生きていても意味などないということ。今でも、エマを大切

664
に想っているということ。
それなのに、言いたいことは1つも伝えられなかった。
﹃僕は、とても、寂しかった﹄
エマのいない人生を送ることになろうとは、少しも想像していなか
った。当たり前のように傍に居て、当たり前のように一緒に生きて
いくのだとうと思っていた。そんな風に感じていた頃のことをよく
思い出した。
そして、手に入れることのできなかった幸福な人生のことを考えて
は、なぜこんなことになったのだろうかと、何もかもを憎んだ。
どうにもできないのに、どうにかしたくて。だけど、何の方法もな
くて。
﹃君のいない人生に、何の意味もない。君がいなければ、僕は、ち
っとも、幸せじゃない﹄
僕のいない人生を幸せに生きてしまったと、罪悪感を抱いたらしい
彼女。
きっと僕に、許しを求めていた。
それなのに、何の言葉も与えられなかった。
彼女も、僕と同じだったらいいと、どこかでそう思ってしまった自
分に失望する。
僕がいなくて寂しかったと、そう言って欲しかった。貴方がいなけ
れば、幸せじゃないと。
彼女の不幸を願ったことはない。
それでも、彼女に、君が幸せでよかったとは言えなかった。︱︱︱
︱︱どうしても。

665
﹃エマ﹄
﹃いかないで﹄
﹃いかないで﹄
置いて、いかないで。
666

エマを失ってからの人生は、それこそ抜け殻のような毎日で。
と、言っても、もはや時間の感覚さえ薄れていたので、どのくらい
の時を独りで過ごしてきたのか分からない。
気付けばいつの間にか、僕のことを﹁見る﹂ことのできる人間が、
完全にいなくなっていた。
これまでは、数こそ少ないものの通りすがりの人間と目が合うこと
もあったのだけれど。
いつしか、そんなことも無くなっていたのだ。それはつまり、魔力
を有する人間自体の消失を意味していたように思う。
魔法を使える人間も、もうどこにもいないのかもしれない。
魔術師という職業もかろうじて現存してはいたものの、奇術師と変

667
わりない扱いになっていた。魔法が使えるなどと口にするのは、夢
見がちな子供だけ。大人が口にしようものなら鼻で笑われる。
世界は、そういう風に変化していた。
時代は移り変わり、魔力の塊である僕と﹁世界﹂の間に大きな隔た
りができていく。
僕自身はもう、どこにも存在していないのかもしれないと。そんな
気すら起こる。
僕が見ている風景も、聞いている音も、本当は何もかもが幻で、長
い長い夢を見ているのかもしれない。きっと、そうだ。
そうでなければ、僕は一体﹁何﹂になってしまったのだろう。
︱︱︱︱︱そんなことを考えていたときだ。
﹁それ﹂を見つけたのは。
とある国の、とある大都市で、雑踏の中をふらふら風に乗って揺れ
ていたとき、何となく呼ばれた気がして裏路地に入った。
誰かに呼ばれるなんて、そんなことあるはずがないと分かっていた
のだが、それでも、確かめてみるのも悪くないと思った。そのくら
いの時間はあったから。
薄暗い路地は、ゴミが散乱していて、清潔さとは無縁のような場所
だった。
暗がりに目を凝らせば、そこは爛々と輝く2つの目がある。
黄色い双眸を見つめていれば、小さく﹁みゃあ﹂と鳴いた。
長いしっぽをゆらゆらと揺らし、まるで着いて来いと言わんばかり
の仕草に、思わず後を追う。
人間には僕のことが認識できないというのに、動物はやはり五感が
優れているらしい。
前々から、犬や猫なんかは僕を視認しているような素振りを見せる

668
ことがあった。魔力を持っているわけではなさそうなので、ただ単
に気配に敏感なだけかもしれない。
そもそも僕のことを﹁人間﹂として認識しているかどうかも怪しい。
もしかしたら、彼らの目には、ただ奇怪な光のようなものと映って
いるのかも。
多分、後者なのだろうと何となく思った。
健康的とは言えない痩せた猫の後を追いながら、どこかへ導かれて
いるのだと感じる。
何度も振り返りながら、僕がちゃんとついてきているか確認するの
には、きっと何か意味があるはずだ。
やがて辿り着いたのは、古びた扉の前で。
来た道を数歩だけ戻って、その建物の全貌を確認すると、扉の横に
小さな立て看板があることに気付く。
ペイントされた文字は、すっかり風化してしまい読み取ることがで
きない。
看板を立てている意味などないのではないかと思うほどに、ぼろぼ
ろで、触れれば崩れてしまうのではないかというほどだった。
その看板の前で立ち尽くしていると、ぎいっと蝶番の軋む音が響く。
そちらに視線を向ければ、開かれた扉から、老婆が半分だけ顔を出
していた。
﹁⋮⋮客かね﹂
しわがれた声が、光の差し込まない湿った路地に響く。
肯くことができなかったのは、そこが何かの店だというのは分かる
のに、何が売られているのか全く分からなかったからだ。老朽化し
て、今にも倒壊しそうな建物からは何も判別できない。
ふと、ここまで導いてくれた猫のことが気になって視線を彷徨わせ

669
るも、どこかへ行ってしまったようで影も形もなかった。
﹁ああ、またあいつか。あれにも困ったもんだねぇ。誰でも彼でも
連れてきて﹂
やれやれと首を振った老婦人は大仰に息を吐いた。
そして﹁せっかくだから、中でも覗いていったらどうだね? しが
ない人形店だけど⋮⋮、興味はないかい?﹂と問う。
そこで初めて、彼女が、僕のことを﹁見ている﹂ことに気付いた。
僕が呼吸をしていたなら、はっと息を呑む音が響いただろう。それ
ほどに衝撃を受けていたのだ。
しかし、目線で返事を促してくる老婆は﹁そんな間抜け面してどう
したんだい?﹂と首を傾げるだけだ。
声を発することのできない僕は、まさしく返事に窮している状態だ
ったけれど。
彼女は不思議そうな顔をしながらも、﹁まぁ、いいか。さあさあ入
った入った﹂と続けながら、僕が店の中に入れるように扉を大きく
開く。
彼女が、自身の有する魔力に気付いているのか分からない。
そもそも彼女の目に、僕はどのように映っているのか。
疑問に思いつつも、やはり魔力を保有する人間はまだいたのだとど
こかほっとするような心地になったのも事実だ。
﹁興味のない人間にはつまらないものかもしれないけどねぇ﹂
一方、この店の主人らしきご婦人は何の戸惑いもなく、当たり前の
ように話しかけてくる。
その様子から、もしかしたら僕のことが普通の人間みたいにはっき
りと見ているのかもしれないと思った。幽霊のようなぼんやりとし
たものではなく。
気になったけれど、それを確認する術を持たなかった。

670
ただ。感覚もないのに、己の唇が何かを伝えようと、はくはくと空
気を噛む。
老婦人のことなど気にせずに、そのまま立ち去ることもできたのだ
けれど。なぜかそんな気分にもなれず、誘われるがままに、店の中
に入った。
魔力を持つ人間に出会ったのが久しぶりだったからかもしれない。
自分で思っていたよりも、他人との交流に飢えていたのだ。
それに、彼女が販売しているものに俄然、興味が湧いた。
薄暗い店内は、外観と同じように清潔感があるとは言い難く。
板張りの床には、ところどころに穴が空いている。
小さな子供ならまだしも、成人男性ほどの体格だと慎重に歩かなけ
れば、きっと床が抜けてしまうだろう。
でも、この店主くらいなら大丈夫かもしれない。
己には重さがないので関係のないことなのだけれど、思えば、こう
いう風に考え事をすること自体があまりに久々で。
少しずつ、霞がかっていた頭の中がすっきりと整理されていくよう
な感覚だった。
﹁新しいものはあまり置いていないんだよ﹂
狭い店内を先に歩く老婆が、つと振り返る。
どうやら陶器人形を専門に扱う店らしく、大小様々な大きさの人形
が、棚や椅子の上に無造作に置かれていた。
それでも、値が張りそうなものは、個別のケースに納められて大切
に扱われているのが分かる。
ガラスで作られたケースは、どこから光を集めているのか、鈍い輝
きを放っていた。
中には、等身大のものまであって、よくよく観察しなければ本物の

671
人間が飾られていると勘違いしてしまいそうだ。それほどに精巧に
作られている。
髪や目の色も、一つとして同じものはなく。どれも、少しずつ表情
が違っている。⋮⋮ような気がして。
ずっと眺めていれば話しだすのではないかと、命を持たない無機物
に魅了されそうになったときに、
︱︱︱︱︱それが、目に入った。
部屋の中心にたった一つだけともされたランプの淡い光が、白い肌
を赤く照らし出す。まるで上気しているようにも見えた。生気のな
い顔に、幽霊でも立っているのかと怯んだのはほんの一瞬で。
近づけば、それが人形であることが分かる。
瞼に生え揃った黒い睫と、その奥に見える黒い虹彩。
真っ直ぐに通った鼻筋と、健康的とは言えないくすんだ色をした唇。
風もないのに、前髪がはらりと揺れた。ガラスケースの向こう側で、
呼吸でもしているかのように﹁彼﹂は淡く微笑んでいる。
その顔に既視感を覚えて、ぐらりと世界が歪む。⋮⋮その人形は、
僕に、それほどの打撃を与えた。
ああ、知っている。確かにこの顔を、知っている。
当然だ。
かつて、鏡を覗き込めば当たり前のようにそこに存在していた、︱
︱︱︱︱己の顔なのだから。
﹁ああ、それか。とても美しい人形だろう。本当はからくり人形ら
しいんだけどねぇ、とっくの昔に壊れちまったみたいだ。修理すれ
ばいいんだろうけど、こんなに繊細そうな人形を分解するわけにも
いかないしねぇ、そのままにしてるんだけど﹂

672
僕の視線を追ったのか、老婆が静かな声で語りかけてくる。当然、
返事はできない。
だけど、そのしわがれた声は、どこかへ飛んでいってしまいそうな
僕の思考を現実に戻してくれた。
ガラスには、背後に立っている老人のしわくちゃな顔は映っている。
けれど、僕の姿は映してくれない。代わりに、埃で白く濁ったガラ
スの向こうから僕を見つめ返すのは、黒髪の人形だ。
自分が記憶している顔よりも、幾つか年を重ねているような気がす
る。
﹁作者も不明なんだけれどねぇ。丁寧な﹃手﹄だろう。作り手が丹
精こめて作ったのがよく分かる﹂
黙り込んでいる僕を不審には思わないのか、それでも店主は感嘆の
息を漏らして続けた。
﹁普通、こういう人形には名前がついているものなんだけれどね。
この人形には名前がないんだ。ただ、ほら、そこに刺繍があるのが
見えるかい?﹂
店主が指差した方向に目を向けると、人形が着ている黒い服に金色
の糸で何かの文字が刻まれているのが分かった。本当は服の内側に
施されている刺繍なのだけれど、それが見えるように、裾を少しだ
け捲ってピンで留めているようだ。
﹁年代ものだからねぇ。糸がところどころ切れてしまって。かろう
じて幾つかの文字が読み取れるだけなんだ。しかもこの文字はねぇ、
今よりもずぅっと昔に使っていた表記だものだから、読めるのが私
みたいな老人だけなのさ﹂

673
仕方なく、見えている文字だけを繋いでこう呼んでいるのだと言っ
た。
﹁カ⋮⋮、ラ、ス。ね? そう読めるだろう? いや、あんたみた
いにお若い人には分からないか﹂
ひひっ、と奇妙な笑い方をした老人の声に、また、頭を殴られたよ
うな衝撃を受ける。
僕に声が出せたなら、きっと声を上げて泣いていただろう。
人形が纏っていたのは、僕の、仕事着で。
つまり、魔術師として仕事をしていた頃の、僕のローブだったのだ。
かつてはしっかりと﹁カリアライア=イグニス﹂という刺繍が施さ
れていたのを覚えている。
だからこれは、僕のもので間違いない。
だとすれば、これは⋮⋮、この人形の作家は、エマだ。
他の誰かが、わざわざ僕のローブを人形に着せるとは考えにくい。
そもそも、ローブが入っている棚の場所はエマしか知らなかったの
だから。
彼女は、僕たちの暮らした屋敷からは何も持ち出していない。⋮⋮
そのはずだった。
旅立つ日の彼女の手荷物は恐ろしいほどに少なくて。まるで2、3
日旅行にでも出かけるような身軽さだったのを覚えている。
実際、彼女があのとき持っていたのは数日分だけの衣類だったに違
いない。
それと一緒に、僕のローブを持ち出したのか。
そして、それを、僕に似せた人形に着せたのか。

674
﹁そういや、あんたに似てるね。そうだ。これも何かの縁だろう。
持って行くかい?﹂
突然そう問われて、思わず振り返って店主の顔を見つめると。
﹁ああ。お代のことなら気にする必要はない。⋮⋮こういうことは、
頻繁ではないんだが。ときどきあるんだよ﹂
﹁人形が、持ち主を選ぶんだ﹂
と、まるで少女のようにふわりと笑んだ。優しい優しい顔つきだっ
た。
返事もしない僕に、同意を得たと思ったのだろう。
﹁けど、これほど大きいものを運ぶには荷台が必要だね。ちょっと
待ってな﹂と、店の奥に消える。
その丸まった、小さな背を見送っていれば、本当に人形が僕を呼ん
だような気がして。
もう1度、僕によく似た人形に向き直った。
僕を模して作られたはずの人形なのに、当時、エマと一緒に過ごし
ていた頃より少しだけ年嵩に見える。
それは彼女が、大人になった僕を想像しようとして、上手くいかな
かったからではないかと考えられた。
奇しくも永遠の時を得てしまった僕は、年を取らないから。
彼女にも、二十歳前後の僕しか、思い描けなかったのだろう。
青年というよりは、少年時代を抜け出せずにいる子供のような顔つ
きをしていて、あどけなさが残る目元は一層幼く。彼女の目に映っ
た僕は、こんな顔をしていたのかと、妙に納得するものがあった。
指を伸ばせば、ガラス越しの﹁僕﹂が瞬きをしたような気がして。

675
あっ、と思った瞬間。
あまりにも強い力に、引き寄せられる。
人形の方に引っ張られたので思わず身構えたのは、ガラスにぶつか
ると思ったからだ。条件反射というやつである。けれど、実体を持
たないのでぶつかるはずもない。
人形を覆っているケースをするりとすり抜けて、もう一つの自分の
顔が目前に迫った。
そして次の瞬間には、僕は、瞬きをしていた。
そう、瞬きを。
手の平をかざせば、何かにぶち当たる。それが、今まで目の前にあ
ったガラスの壁だと分かる。
一つ違うのは、ガラスの外側にいるのではなく、ガラスの内側にい
るということで。
要するに僕は、人形の中に吸い込まれてしまったようだった。
店主は、この人形のことを壊れたからくり人形だと言っていたが、
本当は違う。
魔力を持つ人間が少なくなっているからか、こういう人形に関する
情報を得る機会もなかったのだろう。
エマの作り出す人形の動力は、彼女の﹁魔力﹂だ。
もう、彼女の魔力は消失しているようだけれど。
魔力の塊であるらしい僕は、この人形の動力と成り得る。
ガラスに伸ばした己の指はつまり、間違いなく人形のものであるは
ずなのに、人間のものと寸分違わない。
関節が球体になっているわけでもない。人間の指、そのものだ。

676
指を曲げれば、小さく関節が鳴り、覚えのある感覚に息を呑む。
その刹那、自分の呼吸音がガラスケースの中で響いていることに気
付き、こくりと喉が鳴った。
胸に手を当てれば、そこから伝わってくる鼓動。どくどくと脈打っ
ているのは血管ではない。人形の体を動かす為の仕掛けだ。
人形師だけに伝承されるという人形作りの秘術は、決して口外され
ることがなかったので、僕もこの人形がどのように作られているか
は知らない。
しかし、この人形が︱︱︱︱︱、人智を超えたものであることくら
いは分かる。
エマがこういう事態を想定していたのかどうかも判断できないし、
彼女はただ僕に似せた人形を作り出しただけなのかもしれない。
それでも、彼女が僕のために、この人形を遺したのは間違いないよ
うな気がした。
彼女はやはり、肉体を消失した僕が、この世界のどこかにいるので
はないかと信じていたのだ。
砂礫となった僕を捜しだそうと、街中を駆けずり回っていた彼女の
姿が鮮明に思い起こされた。
あの後、この人形を製作したのだろうか。
﹁エマ、﹂
唇から零れ落ちた声は、少しだけかすれてたけれど。それでも、あ
まりに馴染みのある音で。
自分が、その音を覚えていたことが不思議だった。
﹁エマ﹂

677
何を言うべきかよく分からず、ただ何度も、かつて己の妻だった人
の名を呼ぶ。
彼女が今、ここにいないことが寂しい。はっきりとそう感じた。も
しもエマがここにいるなら、何を言葉にすべきか分かるのに。
そうして僕は、ガラスケースの扉を押し開いて。
新たな肉体と共に、世界へ踏み出したのだった。
1歩目は感覚が掴めず転倒しそうになったけれど、何とか持ち直し
て、2歩目ではしっかりと地面を踏んだ。3歩、4歩と前に進み、
仮初めでしかないはずのこの体が、ちゃんと肉体としての機能を果
たしていることにほっと息が漏れる。
油断すると足首に絡もうとする長いローブをつま先で払いながら、
僕は歩いた。
人形をくれると言った店主の厚意に甘えることにして、黙って店を
出る。
彼女はいなくなった客に驚き、礼を欠いた奴だと罵るかもしれない。
それでも結局は、﹁やれやれ﹂と笑うような気がした。
だって、人形が持ち主を選んだのだから。それも、仕方ないと。


素材があれば、それを魔術で変容させることは容易い。
だから僕は、人形の体を動物に変化させたり、あるいは子供のよう
な風貌にして遊んでいた。
魔力のほとんどは、体を動かす為に使われるらしく、使える魔術が
それくらいだったからかもしれない。

678
大きな魔力を必要とする攻撃魔法の類は使えなくなっていたのであ
る。
しかし、そんなことは些事でしかなく。
長い間、他人に認識されない存在としてこの世にのさばっていた僕
は、普通の人間と同様の存在に成り得たことに、ある意味、とても
満足していた。
自由に動かすことのできる体があるというのは、それだけで充足感
をもたらしたのだ。
あまりにも長い時間失っていたものを得たからこそ、その感動はひ
としおで。
頬が風を切る感触は、きっと経験した者にしか分からないだろう。
目に見えないものだというのに、確かに触れることができる。
誰もがきっと、生まれながらに知っているだろう風の﹁触り心地﹂
それを忘れていたことに気付かされて。そして、改めて心を震わせ
る。
僕はまるで、この世に生まれたばかりの赤ん坊だった。
目に見えるもの、耳に響くもの、指先で触れるもの、何もかもが新
しく。僕の世界はつまり、一新されたのだ。︱︱︱︱︱そう思った。
エマがくれたこの体で、何でもできる。
胸に抱いたものは﹁希望﹂と呼ばれるものだった。それと共に湧き
上がる高揚感は、僕を少し、おかしくする。笑えて仕方なかった。
何もかもを失ったというのに、たった1つ得ただけで、人生はこう
も変わるのかと。
そんな頃だ。彼女に、出会ったのは。
僕は間違いなく驕っていたし、己の境遇に酔ってもいた。他の人間

679
とは違う存在なのだと、思い上がっていたのかもしれない。
窓に嵌められた格子の向こうから、鳥の姿を模した僕を見上げたそ
の姿に言い知れない喜悦を感じた。
彼女が、僕に、助けを求めているのだと思い込んだのだ。
だからこそ、彼女よりも一段上のところから、彼女を見下げ、手を
差し伸べようとした。
﹃助けてやってもいい﹄という感覚で。
今となっては、彼女が何を求め、何を果たそうとしていたのか分か
らない。僕が手を貸して良かったのかどうかも。
それでも、あの頃の僕は本当に、彼女の助けになるつもりだった。
だから、言ったのだ。
﹁︱︱︱︱︱君を、助けてあげるよ?﹂
あまりに長い人生に、退屈していたというのもある。
何の目的もなく、ただ生かされているだけの人生に、意味を持たせ
たかったのかもしれない。
暇つぶしもかねていたと思う。
だけど、あの言葉に嘘はなかった。
﹁ねぇ、お姫様。君を助けてあげるよ?﹂
僕は、彼女に誓った。
誓ったのに。

680
681

彼女を見つけたその日。
へんげ
黒い鳥に変化して空を飛んでいた僕の耳に、聴き覚えのある旋律が
届いた。
音がする方向へと舵をきったのは、ほぼ条件反射だったと言える。
どこかで聴いたことのある旋律だと首を傾げるけれど、はっきりと
は思い出せなかった。
でも、上空で何度も旋回を繰り返しながら、ひたすらに耳を澄まし
ていると、やがて記憶が甦ってくる。
それと同時に、胸の奥がずしりと重くなった。
︱︱︱︱︱エマの歌っていた子守唄に、よく似ている。

682
もう、随分長いこと耳にすることがなかった歌だ。
時代の流れというのは、ありとあらゆるものを変えていくけれど、
その中で失われて行くものも多い。
エマの口ずさんでいた子守唄も、その一つだった。
長く生きていれば、どこかでもう一度、耳にする機会があるだろう
と踏んでいたのだけれど、未だにその機会が訪れたことはない。
それゆえ、結局、どの辺りで受け継がれてきたものなのか知ること
はできなかった。
僕自身が、積極的に彼女の故郷を探そうとしなかったのも関係して
いるかもしれない。
この世にいない人間を想い続けることが、ただただ虚しくて。だか
ら、意識的に彼女のことを思い出さないようにしていたのだと思う。
そしてその内、彼女が口ずさんでいた子守唄のことも忘れていた。
⋮⋮そのはずだったのに。
こうして、あの優しい歌を耳にすれば、エマのことをはっきりと思
い出す。
だからなのか。
ああ、僕を呼んでいる。
そんな気がした。


﹁貴方、変だわ﹂と、彼女は笑う。
僕からすれば、君の方がずっとずっと変わり者だよ。と鼻を鳴らし
た。半分冗談で、半分本気だ。
すると彼女︱︱︱︱︱、イリアは、小さく息を呑む。そして、少し

683
奇妙な形に唇を歪めた。
それは何とも言えない表情で、だから、彼女の気持ちを正確に表す
ことはできない。
やがてイリアは、反論することもなく﹁そうね﹂と呟く。﹁私は、
やっぱり変なのね﹂と。
真夜中の室内は、窓も開けていないというのに寒々しい空気に包ま
れていた。季節の変わり目というのはいつだって肌が粟立つような
感触を伴う。
気を抜くと、全身がぶるぶると震えそうだ。
最近、僕の体は、まるで﹁生き物﹂であるかのような反応を示す。
五感が発達し、髪の毛が揺れるときには風を感じ取ることができる
し、暑い、寒い、あるいは心地いいというような繊細な感覚さえ取
り戻しつつあった。
僕の魔力と、エマの作り出した人形が完全に同化してしまったのか
もしれない。
もはや、この﹁体﹂を脱ぐことはできないだろう。
﹁やっぱり、というのはどういうこと?﹂
黒い鳥から人型に姿を変えて、彼女が腰掛けているベッドの脇に立
つ。
小さく明かりを灯しただけの室内はいつだって薄暗いけれど、それ
でも見えないということはない。
ぼんやりとした輪郭の彼女が僕を見上げて微笑んだ。薄い緑色の虹
彩が、オレンジ色の光を含んで美しい。
瞬きをする度に、瞳の表面で淡い光が飛び散るようだ。
宝石というよりは鉱物に近いかもしれない。磨きぬかれる前のそれ
は、ただ置いてあるだけだとさして人の目を引かないのに、光を反
射する角度によっては、とんでもない煌きを放つ。

684
﹁もう分かっているんでしょう? 私には、他の人が見えないもの
が見えているのよ﹂
﹁⋮⋮それって、君が以前、腕に抱いていた赤ん坊のこと?﹂
訊けば、イリアはほんの少しだけ目を瞠って﹁それもあるわね﹂と、
また一つ苦く笑う。
可笑しくもないのに微笑むなんて、それこそ可笑しなことだ。
僕はそれが気に入らなくて、ひっそりと眉を顰めた。彼女はそれに
気付いているのかいないのか、薄い唇に微笑を貼り付けたまま﹁他
にもあるのよ﹂と告げる。
﹁私には、未来が見えるの。︱︱︱︱︱変わっているでしょう?﹂
冗談でも言っているのかと、真意を見極める為に彼女の顔を凝視す
るけれど。
ふと逸らされた眼差しからは、何も感じ取れなかった。
視線の先には、格子の嵌った窓がある。磨きぬかれたガラスの向こ
う側には、規則正しく並んだ鉄の棒と、そこから垣間見える四角い
空があるだけだ。
他には何も、ない。
﹁⋮⋮君は、妹を守って欲しいと言ったね。昔、妹に命を救われた
からだと﹂
﹁ええ、そうね﹂
﹁でも、本当はそれだけではないってこと? これから何か起こる
可能性があるって?﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁まぁ、君の言っていることを信じるならって話だけど﹂

685
彼女は相変わらず、暗闇を見つめているだけで唇を開くことはなか
った。
けれど、その横顔は、小さな部屋に閉じ込められている現状を憂い
ているわけでも、あるいは悲しんでいるわけでもないように見える。
むしろ、確固たる決意を秘めているような。そんな強い眼差しをし
ていた。
暗闇の中に、一体、何を見ているのか。僕には知る由もなかったけ
れど。
﹁まぁ、いいや。僕は君の望みを叶えるだけだしね。そういう約束
だし﹂
︱︱︱︱︱けれど、イリアを初めて見かけた日は、彼女とこれほど
距離を縮めることになろうとは思ってもいなかった。
僕にだって警戒心くらいはある。
エマが歌っていたのと似ている子守唄を口ずさんでいたからと言っ
て、迂闊に近づくことはしなかった。
彼女がどういう人間なのか見極めたかったからだ。そもそも、格子
の嵌った窓から外を眺めているような人物が普通ではないことくら
い、よく理解していた。
だから、彼女と言葉を交わすまでには数日を要した。
だけど、毎日毎日、彼女を見つめていると。
普通ではないのが、彼女自身ではなく、環境の方だということに気
付く。
彼女は確かに、現実と空想を混同しているような部分がある。だけ
どそれは、あくまでも軽度なもので。周囲を混乱に陥れるほどでは
ない。
それは、彼女自身がしっかりと自己管理をして、感情を抑制してい
るからかもしれなかった。

686
少し前は確かに、幻と思しき赤ん坊と会話をしているようなところ
があったけれど、現在では落ち着いたものである。
昼間の彼女を見れば、彼女が自身に問題を抱えていると気付く人間
はいないだろう。
イリアは、ただただひたむきに婚約者のことを想い続け、彼にふさ
わしい人間になれるように努力をしている。そのあまりに必死な様
子は、胸を打つ。
理解に苦しむのは、そんな彼女が、いつも独りきりだということだ。
他に、誰の手助けもない。
婚約者たるソレイルですら、イリアとは、どこか距離を置いている
ように見えるのだ。
﹁君はどうしてそんなに婚約者殿のことが好きなの?﹂
たまらずにそう問えば、彼女は小さな笑みを灯す。
そうだ。やっぱり、彼女はいつだって﹁笑う﹂という選択をする。
どんなときだって、いつだって。
誰かに、そうしなさいと言われたかのように。
﹁幼い頃の私は、今よりもずっと、何もできない子だった。ソレイ
ル様と出会った頃、普通の令嬢だったなら、ある程度の教養は身に
つけているものなのに、私は全然駄目だったの。だけどあの方は⋮
⋮ソレイル様は、それを責めなかった。それどころか、待っていて
くださったのよ﹂
﹁いつだって、何も言わずに、ただ私を、待っていて下さるの﹂
一つ一つ言葉を置くようにそう語る彼女の顔は、一見、幸福そうで。
何もかも満たされているかのような顔をしていた。
だというのに、なぜか、泣いているような気がして。

687
僕は、言葉を失った。
いつもそうだ。本当は、
彼はもう、君を待ってはいないと思うよ。
そう言ってあげるべきだと分かっているのに、それがどれほど残酷
なことかを理解していたから、無慈悲なことを口にしないようにと
奥歯を噛み締めるしかない。
そんな僕を見て彼女は首を傾げ﹁貴方、変だわ﹂と繰り返す。
含み笑いを隠すように、唇を抑えた細い指にはインクが染み付いて
いた。幼い頃から、毎日何時間もペンを握ってきた証である。
経済学の本は、もはや暗唱できるほど繰り返し読み込んでいるし、
ページの端は千切れて表紙はぼろぼろだ。余白は、イリアが書き込
んだ文字で埋まっている。そこに、彼女の努力の跡が見て取れた。
だけど、覚えるだけでは何の役にも立たないと息を吐いて、今度は
政治学や諸外国の歴史の本を手に取る。
それだけではなく、ダンスの練習も欠かさない。いずれは高位貴族
となる身なれば、他の女性よりも上手く踊れなければならないと。
足の指に血が滲んだって、構いもしない。
他にも、ピアノだって歌だって、貴族の子女としてある程度はでき
なければならないと、何時間だって練習する。それこそ、一人きり
で。
本を読みたくない日もあるだろう。ペンを握りたくない日も。踊り
たくない日も、楽器なんて見たくもない日だってあるはずだ。時々
は丸一日、休みを取りたいときだってあるはずなのに。
彼女はそうしない。
その姿は、単純に、ひたすらに、苦しそうだった。
誰の目から見ても、やりすぎだと分かる。

688
それなのに、誰一人として彼女を止めない。休んでもいいとは、言
ってあげない。
むしろ、もっと頑張らなければならないと叱咤するような素振りを
見せる。
彼女の両親⋮⋮、特に母親はそうだった。
激励の言葉をはっきり口にするわけではないけれど、さりげなく苦
言を呈し、追い詰めるような真似をする。
﹁次代の侯爵夫人たるもの、甘えなど許されません。他の誰にも、
追随を許してはなりません﹂
ただの一度も、親に甘えたこともないような少女に、あまりにも辛
らつなことを言う。
だけど、イリアの周りに居る人間は、誰もが母親の言うことを肯定
した。
唯一違っているのは、イリアの護衛騎士だけだろうか。しかし、彼
には主であるイリアの行動を制限することはできない。ましてや雇
い主である伯爵夫妻にものを申せるはずもなかった。
だから僕は、甘い言葉で彼女を誘惑する。助けてあげようか? と。
それなのに、彼女はいつだって肯かない。
ただ、﹁貴方にお願いしたいのは、ただ一つ。妹を守ることだけよ﹂
と言う。
全く、質問の答えになっていない。
困惑する僕を置き去りに、イリアは何もかもを見通しているかのよ
うな双眸を向ける。
私のことなんか気にしなくてもいいのよと。

689
そして、何の脈絡もなく事あるごとにとある強盗団のことを口にし
た。とても危険な集団なのだと。
あまりにも何度もそう言うから、自分でも調べてみたけれど、名前
も知られていないような極小の強盗団だった。街の治安を脅かすよ
うな影響力のある存在でもない。微罪を繰り返すことで小金を稼ぎ、
大それたことは仕出かしそうにない。
そんな彼らの何が気になるのか、僕には全く理解できなかった。
それでも、彼女はそんな小物の強盗団を気にして、彼らが捕縛され
ることを願う。だから僕は、協力するしかなかった。
なぜなら、それくらいの時間はあったから。単純に暇だったのだ。
長い長い人生の、たった一瞬だけなら、彼女に捧げてもいいと思っ
た。
きっと、イリアと過ごす日々だって、瞬きのように過ぎて行く。そ
のはずだったから。
彼女にとっての﹁僕﹂がどういう存在だったのかは分からない。
本当は、僕のことを疑っていたのかもしれない。いつ、裏切るか知
れないと。
彼女は多分、心の奥底では誰のことも信用していなかったのだろう。
だけど、考える。もしも、僕がもっと心の機微に聡い人間だったな
ら。
これから先に起こる、全ての出来事を覆すことができたかもしれな
いと。
そう例えば、彼女が婚約者殿と予定通りに結婚したことも、その一
つだ。
彼女の結婚式のことをよく覚えている。穏やかな日和の、柔らかい

690
風が舞う日中に行われた。
その日の為に、彼女が自身で用意したドレスは眩いほどに美しく、
直視するのが躊躇われるほどだった。
それほどに輝いて見えたのは、そのドレスの刺繍を施したのが彼女
自身だったからかもしれない。
針を刺すたびに、思い描いていた通りの模様になっていく。その様
は圧巻でもあり、時間がかかる分、もどかしくもあった。
それでも、彼女は唇を緩ませて。
この日の為に、生きてきたのだと言わんばかりだった。
存在を周囲に認知されていない僕は当然、式に参列することはなく。
いつもと同じく、鳥の姿に化して式の行われている教会の上空を旋
回していた。
教会の中で誓いの言葉を口にしただろう若い夫婦と、参列者が庭に
出てくるのが見える。
懇親会でもするのだろうか。
遠い空から、そんな彼らを見下ろしていると、たった今﹁妻﹂とい
う肩書きを与えられた女性が顔を上げた。何となく、僕を見ている
のだろうと察する。
けれど、隣に並び立つ夫に何か言われたのか、すぐに視線を戻して
しまった。
いずれ侯爵夫人になるのだからと、死ぬほどの努力を重ねていた彼
女の横顔が、頭を過ぎる。
領地経営は領主である夫の仕事になるのだから、君は適度に手を抜
けばいいと言った僕に、首を振ったイリア。それならば尚のこと、
ソレイル様の助けになるように励まなければと、自分を追い込んだ。
ソレイルに必要とされないことこそが、彼女の最も恐れていること
なのだと知る。

691
彼女にとっての﹁人生﹂とは、ソレイルに全てを捧げることなのか
もしれない。
だからこそ。
だからこそ、結婚式のために用意したドレスを手に取るときだけは、
どこか嬉しそうな顔をしていた。
その彼女が。
今はもう﹁夫﹂だと言える人物の隣で、﹁いつもと変わらない﹂笑
みを、浮かべている。
まさか、結婚式でその顔を見ることになるとは思っていなかった僕
は、思わず呟いていた。
﹁何で、﹂と。
何で、こんなときまで笑っているのかと。
いや、違う。普通なら笑っていてもおかしくない場面だ。むしろ、
笑っていないとおかしい。
今日は、そういう日なのだから。人生で最も輝かしい日のはずだ。
それなのに、彼女の笑みに違和感が伴うのは。
僕が、この結婚式を茶番だと感じているからもしれない。
この日を、心底待ち望んでいたイリアにとってはあまりに酷い言い
草だと分かっているけど。これは茶番以外の何でもない。
僕の視線の先には、結婚の誓いを口にしたはずなのに、自分の妻で
はなく、その妹を見つめる男がいて。
そんな男の横で、さも幸せそうな自分を演じているイリアがいて。
馬鹿みたいだと思った。あまりに馬鹿馬鹿しいと。
だけど、それを笑うだけの余裕は僕にもなかった。

692
胸が締め付けられるような痛みを、覚える。
微笑を浮かべてはいるものの、まるで凍り付いてしまったかのよう
にそのまま表情を動かさないイリア。
その小さな相貌にしっかりと張り付いた仮面は、よっぽどのことが
なければ剥がれないだろう。
彼女は、人生の門出とも言える祝いの日に、その仮面を被ることを
選んだのだ。
つまり、彼女は、諦めてしまった。
夫を愛すると誓った、その一方で。自分が﹁愛されること﹂を、諦
めてしまった。
本当は、今日という日にかけていたはずだ。
幼少期からの婚約者であったソレイルという人間が、もしかしたら、
今日くらいは自分を見てくれるのではないかと。多分、期待してい
ただろう。
そんな、ほんの僅かな希望さえも打ち砕かれて。
イリアは、微笑んだまま、誰にも知られずにひっそりと絶望してい
た。

それでもソレイルの妻となった彼女は、何事もなかったかのように
侯爵家の一員としての務めを果たす。
ソレイルの妻としての責務を果たすことだけが、生きている意味な
のだと、言っているかのように。
侯爵家の一員として恥ずかしくないように。次代の侯爵夫人として
一目置かれるために。騎士として忙しくしている夫の代わりに社交

693
をこなし、人脈を広げ、時には一人きりで外交の場にも顔を出す。
かつて、心に何か問題があるのではないかと疑われたことがあるな
んて、誰も思わなかっただろう。
学院に通っていた頃は、ソレイルに執心し、周囲の人間を困らせる
こともあったようだけれど。
そんな姿もなりを潜めて。貞淑で、高潔で、潔癖で、多才で。
社交界でも、彼女が侯爵家に相応しい人間だと認識されるまでに、
それほど時間はかからなかった。
順調だと思っていた。何もかもが、上手くいっていると。
この頃にはもう、イリアの気にしていた強盗団は弱体化を極めてい
て、その内に消滅するだろうと思われていた。彼女が何かしたのか、
それともただ単に自滅したのか。分からないけれど、そんなことは
どうでもいい。
多分、その後に起こる出来事にはきっと、何の関係もないだろうか
ら。
あの日は、夕空がとても綺麗で。
季節の変わり目にしか見ることのできない七色の空に感嘆の息を漏
らしながら、僕は陽が落ちる間際まで、空を飛んでいた。
普通の人間だったなら、もっと遠い場所からこの空を眺めていたの
だと思えば。
こんな体になったのも悪くないかもしれないと、どこか前向きな気
分になっていた。
考えてみれば、そんな風に思えたのは、自身の体が消滅してから初
めてのことだった。
いつも必死になって﹁今﹂を生き抜こうとしているイリアに触発さ
れたのかもしれない。
これから先、どれほどの時間が続こうと、ただ﹁今﹂だけを見据え

694
て生きることができたなら。もっと楽に息ができるかもしれないと。
彼女のように、ひたむきに生きるべきだと。
だからかもしれない。その日の夜、錯乱した様子のイリアを目の当
たりにして、平静でいられなくなったのは。
︱︱︱︱︱彼女は泣きながら、自分の妹が妊娠したと告げた。そし
て、子供の父親が自分の夫だということも。
その言葉を聞いたときは、何て励ませばいいのかと逡巡しつつ言葉
を探した。
いつかこういうことになるのではないかと案じてはいたけれど、こ
れほどに早いとは思わなかった。
まるで幼子のようにしゃくりあげて泣き続ける彼女は本当に哀れだ
った。これまで、必死に築き上げてきたものが無為に帰したのだか
ら、当然だ。
けれど、思わず、その小さな背に手を伸ばしたとき。
彼女はとんでもないことを言い出した。
自分は、何度も、過去を繰り返しているのだと。
同じ時間を、何度も何度も、繰り返していると。だからこそ、上手
く立ち回ってきたはずなのに、何の意味もなかったと声を上げて、
一層激しく泣いた。
立っていられなかったのか、膝を付いたまま座り込み、ぼろぼろと
涙を零す。よくもそんなに水分を溜め込んでいたものだと関心する
ほどだった。
僕は、上手く回らない思考で、支離滅裂な言葉を並べたてるイリア
を見下ろす。
そんな僕を見つめる彼女。

695
こちらを見上げる瞳には、はっきりと焦燥が浮かんでいた。
どうか、分かって欲しいと。理解して欲しいと。疑わないで欲しい
と。
だけど。
過去をやり直すなんて、有り得ない。
初めに抱いた感想はそれだ。
何せ﹁過去に戻ることのできる魔法﹂というものを、心の底から欲
し、探し続けていたのは僕自身だったからだ。
今よりももっと昔。エマを失ったばかりの頃は、よく考えていた。
もしも過去に戻れたなら。
エマとの出逢いをやり直そうか。もしくは、もっと前まで戻って、
息子に魔法をかけようとする父を止めようか。あるいは、エマとの
結婚生活を飽きるまで何度も繰り返そうか。
時間を戻すことができたなら、どれ程いいかと、それこそ研究に研
究を重ねて。
世界のどこにもそんな魔法が存在しないとしたなら、自分自身で、
そういう魔法を作り出すことができやしないかと、昼夜を問わず考
え抜いて。
それでもできなかった。
そして結局、時間を操ることができるのは神だけなのかもしれない
という結論に至ったのである。
だからこそ、思う。
願いは叶わず、望まない人生を生きなければならないのは︱︱︱︱
︱、
﹁まるで地獄みたいだね﹂

696
そうだ。ここは地獄のようだ。
だとすれば、これは一体、何の罰なのか。僕が、一体、何をしたと
いうのか。
忘れかけていた疑問が頭の中に渦を巻く。
﹁ねぇ、そうだと思わない?﹂
そう問うた僕の声に、イリアは素早く反応した。
まさか、そんなことを言われるとは微塵も考えていなかったのか、
少し、間抜けな顔をしていたかもしれない。そんな顔をするなんて、
滅多にないことだ。少し笑ってしまったのは不謹慎だったかもしれ
ない。
﹁でも、ここが地獄なら。君が罰を受けているというのなら。君は
一体どんな罪を犯したんだろうね?﹂
父に魔術をかけられた当初、僕は、ほんの小さな子供だった。
そんな僕が、一体どんな罪を犯せば、こんな地獄に堕とされるのか。
もしくはこれが、生まれ持った因縁というやつならば。
どんな業を背負って、この世に生まれ堕ちたのか。
﹁なぜ、君だけにそんなことが起こるんだろうね?﹂
︱︱︱︱︱なぜ、僕にだけ、こんなことが起こったのか。
イリアに問いかけながら、自分自身にも同じことを、問う。答えな
どないと、知りながら。
僕だけがなぜ、こんな想いをしなければならないのかと。
この世界には、こんなにも大勢の人間がいるのに。他の誰でもなく、

697
なぜ僕なのか。
彼女は半ば呆然とした顔をしたまま、
﹁⋮⋮私、幸せに、幸せになりたかった⋮⋮、﹂
ぽつりと言った。
﹁ただ、幸せに、なりたかった、だけ﹂
震える唇が、慎重に言葉を吐き出し。
そして、今まさに、何か重大な罪を犯したかのような顔を白くして。
﹁だからなのね﹂と続けた。
﹁だから、こうなってしまったのね﹂と。
僕には、その言葉の意味を、理解することはできなかった。
けれど、己がとんでもない過ちを犯したことに気付く。
僕は、助けを求めて手を伸ばしてきた一人の少女を、打ちのめして
しまったのだ。
はた
初めて誰かの助けを求めただろう小さな手を、容赦なく叩いて。
防御することもできない無垢な心を、潰した。 698
10
﹁目に、焼きつく﹂というのは、まさに、こういうことなのかと思
う。
瞼を閉じて記憶を探る必要もない。輪郭を描くまでもなく、その相
貌が甦る。大した苦労もせずに、いつだって当たり前のように、彼
女を思い出すことができた。
それは多分、文字通り、この瞳に彼女の顔が焼き付いているからな
のだろう。
︱︱︱︱︱あの日の僕は、何から何まで間違っていた。
イリアに酷い言葉を浴びせた僕は、冷や水を浴びたように、はっと
我に返った。そして、まとまらない思考のまま、取り繕うこともせ

699
ずに、彼女の傍から離れてしまったのである。
単純に、少し時間を置いた方がいいと思った。それだけしか考えら
れなかったとも言える。
僕も彼女も、互いに興奮していて、冷静な話し合いができるような
状況ではない。
彼女も﹁一人になりたい﹂と言ったきり、うわの空で。話しかけた
ところで僕の声が聞こえているのかどうかもあやしかった。
だから結局、﹁また明日来るね﹂と言い置いて、その場を離れるこ
とにしたのだ。返事も、聞かずに。
それが、どういう事態をもたらすのかも分からなかった僕は、あま
りに浅はかだったと思う。
後ろ髪を引かれる思いだったけれど、来たときと同じように、窓か
ら外へ飛び出て。
月も星も出ていない暗闇を、鳥の姿で飛びまわった。
真っ黒な波が蠢く大海原に一人、放り出されたような感覚に心許な
くなる。けれど、それと同時に、荒れていた心が静まっていくよう
な気もした。
どのくらいの間飛び続けていたのか分からない。が、やがて地上に、
ぽかりと浮かび上がる白い光を見つけた。
よくよく目を凝らせば、小さな花が肩を寄せ合うようにして咲いて
いるのが分かる。小高い丘だ。
一瞬、星屑が地面に散らばっているのかと思った。
そんなことを考えた自分が可笑しくて、苦笑しながら降り立てば、
その勢いで花びらが舞う。
いっそ幻影的とも言える光景に瞬きすら忘れて見惚れていると、ふ
と思い出した。

700
彼女の好きな、白い花。
名前も知らないけれど、素朴で、だけどどこか目を惹く愛らしい花
だ。何となくイリアに似ている。
そんなことを考えながら、何気なく、足元の花を手折った。可哀想
な気もしたけれど、この花を集めてイリアに渡したらどんな顔をす
るだろうと想像してみれば、自然と口元が緩んだ。
そうだ。この花を持って、明日の朝、改めて会いに行こう。
酷いことを言ってごめんと謝って、彼女にもう一度話しを聞くのだ。
過去を何度もやり直すことができるなんて有り得ない。だけど、彼
女が何か勘違いしている可能性もある。
もっとちゃんと話しを聞けば、事実は全く違うのかもしれない。
例えば、彼女は、いわゆる前世と呼ばれるものを記憶しているだけ
で、過去に戻っているわけではないとか。
だって、そう考えた方が、ずっと信憑性が高い。
そもそも、全てがただの幻想だということも考えられるけれど。
とにかく、もう一度話しを聞かなければ。
そう思いながら、両手いっぱいになるほど花を摘んだ。
野花だけでは寂しいから、朝になって花屋が開いたら、もっと花を
たくさん買い足そう。
彼女は怒っているかもしれないけれど、真摯に頭を下げればきっと
許してくれる。
許してくれなかったとしても、それなら、何度でも謝ればいい。
朝日が昇り始めると街へ移動して、抱えきれないほどにたくさんの
花を買った。

701
ついでに、ふらりと街の中を彷徨う。
まだまだ早い時間だというのに、街は既に動き出していて、多くの
店が商いを始めていた。
人の姿で、これほどたくさんの人の中を歩くのは本当に久方ぶりの
ことで、なかなかに緊張したけれど。
すれ違う人々は、時々僕の黒いローブに目をやる程度で、特に何か
を言われることもなかった。
どうやら上手く、溶け込んでいるらしい。
今日くらいは、窓からではなく正面玄関から訪ねよう。
そう意気込んでから、少し笑った。
ただ誰かに会いに行くだけなのに、気合いが必要とは。しかし、訪
ねる先が貴族の屋敷なので、気を抜くわけにもいかない。
イリアを名指しで訪ねてくる人間はそう多くないはずだから、使用
人は訝しげな顔をするだろうけれど、僕にはイリアからもらった書
簡がある。
﹁貴方もたまには、玄関から来ればいいのに﹂と苦笑していた彼女
の顔が過ぎった。
さらさらと一筆したためながら﹁そもそもカラスは、他の人に見え
るのかしら⋮⋮?﹂と、独り言のように呟いたイリア。
返事もしない僕を気にも留めずに﹁私の名前を書いておくから、こ
れさえ持っていれば安心よ﹂と彼女は微笑んだ。
貴族というのは、実に、手順や仕来りに重きを置く生き物なのだ。
かつては己もそういう世界で生きていたからこそ分かる。
貴族の屋敷を訪ねるときは、知り合いだからといきなり門を叩いた
ところで中には入れてもらえない。
不審者として追い返されれば良いほうで、場合によっては拘束され
ることもある。
だからこそ、事前に話しを通しておくか、火急のときはしかるべき

702
人間からの口添えが必要なのである。
﹁私の、学院時代の友人ってことにしておくわね﹂
イリアは、どこか楽しそうだった。その顔があまりに無邪気だった
のでよく覚えている。
その書状が今、ここにあった。多分、これを使う機会は来ないだろ
うと思っていたけれど。
だけど、今日だけは、彼女の﹁友人﹂として屋敷の門を叩きたかっ
た。
周囲の人間に見せ付けたかったのだ。イリアには味方がいるのだと。
彼女は孤独などではなく、心から信頼できる人間がいて、そして彼
女自身も誰かに頼りにされる人間なのだということを。
妹に全てを奪われた人間のままでいてほしくなかった。
でも、それでも。
それでも、イリアを救えないのなら。
いっそのこと、彼女を連れて街を出ようか。
本当は、僕のような﹁人の世の理﹂から外れた者がでしゃばるのは
よくないし、彼女の人生に関わり過ぎるのも問題があるはずだ。誰
かに指摘されたわけではないけれど、多分そうだ。
けれど、もう、見て見ぬ振りをするべきじゃない。
﹁⋮⋮奥様の、ご友人、ですか⋮⋮?﹂
屋敷を訪ねた僕を初めに対応したのは、ソレイルの専属執事だった。
遠くから見かけたことはあったけれど、会話をするのはもちろん、
これほど近い距離で対面するのは初めてだ。思っていたよりもずっ
と若々しい。
彼はあからさまに不審そうな顔をしつつ、差し出した書状を確認す

703
る。
すると、少しだけ驚いたような顔をして、そこで待てと告げるなり
屋敷の奥へと姿を消した。
玄関ホールに取り残されて、どれくらい待っただろうか。
﹁お姉さまのご友人というのは、貴方?﹂
次ぎに現れたのは、イリアの妹だった。
内心、なぜここに? とは思ったのだが、瞬時にイリアが言ってい
たことを思い出す。
そうだ。彼女は、ソレイルとの子供を授かっているのだった。故に、
自分の屋敷には戻らず、この屋敷に留まっているのだろう。
妊娠しているのが妄言ではないことを示すかのように、イリアより
も若干小柄な少女は自分の腹をそっと撫でる。
恐らく無意識の行動だったのだろうが、何となく鼻についた。
何気ない仕草ではあるが、もしもイリアが見ていたならと考えると、
切ない気分になる。
﹁お疑いですか?﹂
思わず、そう口にしていた僕の顔を、少女はまじまじと見つめた。
幼少期から寝付いていることが多かったと聞くけれど、赤の他人か
らすれば、標準よりも華奢なくらいでやせ細っているというわけで
はない。
これならむしろ、街で貧しい暮らしを強いられている人間の方がよ
っぽど衰えているように見えるだろう。
﹁いいえ。先ほど、お姉さまが書いたという書簡を拝見しました。
確かに姉の筆跡ですわ﹂

704
姉は自室におりますので、ご案内致します。と、まるでこの屋敷の
人間であるかのように振舞う彼女。
そもそも、この屋敷の主でもなければ使用人でもない彼女が客人を
招き入れるという違和感に首を捻る。
彼女自身は、その不自然さに気付いてもいないけれど。
前を歩く彼女の背中はあまりに堂々としすぎていて、他人の屋敷に
居るという感覚はないようだった。
﹁⋮⋮そのお花、お姉さまの為に?﹂
次代の侯爵のために建てられた屋敷は、広すぎるほどに広い。僕が
かつて暮らしていた屋敷とは比べ物にならない。一度訪ねたくらい
では、どこに何があるのか覚えることはできないだろう。
歩きながら周囲を観察していると、前方から遠慮がちな声がかかる。
﹁ええ。少し⋮⋮、そうですね。彼女と言い争いをしてしまって﹂
どうして正直に話そうと思ったのか分からない。けれど、咄嗟に口
から零れたのはただの真実だった。言いつくろうことさえできなか
った。僕の言葉を聞いて何を思ったのか、前を歩く少女がぴくりと
肩を竦ませる。
﹁⋮⋮そう、なんですね﹂
囁くような声は、細く頼りなく、震えていた。
﹁私、お姉さまと喧嘩なんかしたこと、ないんです。お姉さまはい
つだって私に、優しい︱︱︱︱︱﹂

705
その優しさに乗じて、姉の夫と関係を持ったのかと、思わず声を荒
げようとして。
﹁⋮⋮けれど、きっとそれは⋮⋮お姉さまが、ただ我慢をしていた
だけ⋮⋮﹂
お姉さまはいつも、そう。と、シルビアは何かを言いかけて言葉を
呑み込んだ。
青褪めて見える横顔は、それでも、己の行いを恥じているようには
見えなかった。労わるように両手でお腹を抱える仕草をする彼女に
は既に、母親としての自覚が生まれているのかもしれない。
自分の子供を、過ちの末に生まれた存在にはしたくないのだろう。
けれど。
そんなのは、あまりに身勝手だ。それに、残酷でもある。
イリアはいつだって、良い姉であり、良い妻であり、良い人間にな
ろうとして、その心を削いでいたというのに。何一つ報われず。何
一つ、思い通りにならない。
そんな人生は、あまりに。
﹁かわいそうだ﹂
︱︱︱︱︱あれほど、愛情に飢えているというのに。あれほど、愛
されたがっているというのに。
一番欲しいものが、何をしても手に入らない。
﹁⋮⋮今、何か仰いましたか?﹂
﹁⋮⋮﹂

706
﹁?﹂
駄目だ。こんなのは、駄目だ。
あの子が嫌がったとしても、その手を引いて、ここから連れ出そう。
﹁⋮⋮あの、ここです。お姉さまのお部屋は⋮⋮﹂
やがて辿り着いたのは、頑丈な外鍵が鈍い光を放つ扉の前で。
初めて、彼女の部屋の扉を見た僕は、ぶるりとその背を震わせた。
扉の外側に鍵をつける意図は、誰かを部屋の中に閉じ込めたいから
で。その対象は、この部屋の主であるイリアただ一人だ。
窓から出入りしていた僕は、暢気にも、この鍵の存在を知らずにい
た。
そういえば、イリアの生家にも同じようなものがついていなかった
か。
言葉を失った僕に、シルビアは気まずそうに視線を彷徨わせる。
﹁昨晩は⋮⋮、酷く、取り乱していらっしゃったようで⋮⋮﹂
でも、もう鍵は外してあるんです。と言う。
夜中は、何があるか分からないので念のために施錠していたようだ
が、明け方近くには鍵は外していたはずだと。
実際、扉の高い位置に取り付けられている南京錠は現在、外鍵とし
ての機能を果たしておらず、ただ扉にぶら下がっているだけだった。
その扉の前に立ったシルビアが、慎重に扉を叩く。
カツカツという頼りない音が、静かな廊下に響いた。
﹁︱︱︱︱︱お姉さま? お客様がお見えなのだけれど⋮⋮﹂
控えめに声を掛けるが、聞こえていないのか返事はない。

707
昨晩は随分遅い時間まで2人で話していたから、まだ眠っているの
かもしれない。だとすれば、いきなり客人が来たと言われても戸惑
うだろう。着替えだってまだかもしれない。
そう思ってシルビアに声を掛けようとしたのだけれど、彼女はそう
いうことには一切頓着しない性格らしい。気付けば既に、ドアノブ
に手を伸ばしているところだった。
扉は、あっけないほど簡単に開く。
だけど僕の目には、その扉の動きがやけに鈍く映っていた。
僕の少し前に立っていたシルビアが短い悲鳴を上げて、それに呼応
するかのように地面が揺れる。
何事かと思わず足元を見て、己が、先ほどまで胸に抱えていた花束
を落としてしまったことに気付いた。
けれど、ただの草花が地面を揺らすはずもない。己が、ふらついて
しまっただけだと分かる。
やがて、シルビアが長い、長い、悲鳴を上げて。
再び視線を上げると、開かれた扉の向こう側にイリアを見つけた。
彼女は、こちらに淀んだ眼差しを向けている。白い顔に、長い髪が
一房、影を落としていた。
その髪がゆらりと揺れて、僕は初めて、彼女の﹁宙に浮いた﹂つま
先を見たのだった。
﹁⋮⋮いやっ、いやあぁ、お姉さま、お姉さまっ、!!﹂
腰を抜かしたのか、座り込んで声を上げ続けるシルビアを追い越し、
室内に入る。
背後で、人が集まる気配がしていたけれど、そんなことに構ってる

708
暇はない。
イリアを、助けてあげたかった。
苦しそうだ。白い唇は半開きで、今にも何かを訴えかけようとして
いるのに、このままでは声が出せない。⋮⋮だって、首が、締まっ
ている。息もできないに違いない。
イリアの首から伸びた長い紐は、天井から下がった照明の鎖に巻き
つけられていた。
元々、やけに低い位置に設置された照明だとは思っていたけれど、
まさか、こんな風に使われるとは。
誰か予見できただろうか。
早く彼女を下さなければ、照明の装飾が破損するか、彼女の首に巻
きついている紐が千切れてしまう。そうなったら、イリアの体は床
に落ちて、怪我をするかもしれない。
だから、早く。早く、彼女を助けないと。
急く気持ちに突き動かされるように、イリアに近づく。
それなのに、誰も僕の後に続かない。
一体何をしているのかと振り向けば、座り込んだシルビアの足元に、
赤い染みが広がっていて。使用人たちは彼女を取り囲むようにして
何事かを叫びながら右往左往している。
医師を呼べ、とか。ソレイル様に伝令を、とか。口々に色んなこと
を言っているので、はっきりとは聞き取れない。
彼らには、他のことは何一つ目に入らないようだった。
一方シルビアは、顔色を失ったまま自分のお腹を抱えるようにして、
ゆっくりと前のめりに倒れこんでいく。
痛みのせいか、もしくは精神的なものからくるのか、意識を保つの
が難しいのかもしれない。

709
囁くように﹁⋮⋮おねえさま、おねえさま、﹂と何度も繰り返され
る声。
泣いているようにも聞こえたけれど、そんな声さえも周囲の騒音に
紛れて消える。
使用人たちに蹴散らされた、白い花の残骸が、虚しく宙に舞った。
あの花を摘んでいるとき、僕は何を考えていただろうか。
彼女はきっと、戸惑いながらも喜ぶと。そんな期待をして。
その間にも、イリアは首を括る準備をしていたのだろうか。
﹁シルビア様っ、どうかお気を確かに!﹂
とうとう意識を失ったのか、彼女は幾人かの使用人に抱えられてそ
の場から離れる。
その後を追うように、他の侍女、侍従もいなくなって。
イリアと僕だけが取り残された。
大きな窓から入り込んだ朝日を浴びて、彼女の細い肢体が室内に影
を落とす。
誰も、イリアに気付かなかったのだろうか。
いや、気付いていなかったはずはないから。⋮⋮気付いていて、後
回しにされたのだ。
侯爵家の嫡男であるソレイルの子供を宿しているのは他でもないシ
ルビアだ。彼女が優先されるのは、至極、当然と言えた。世間的に
見れば。
だけど、だけど。
﹁イリア﹂

710
何度も同じ人生を繰り返していると言った彼女。不幸な末路しか辿
れないと嘆いていた。そんな彼女に僕は言った。それはどんな地獄
だろうと。イリアは何も答えなかったけれど。
事実、これほどの地獄が、存在する。
手を伸ばすと、宙に浮いたイリアの足に触れることができた。
どうやって彼女を下そうかと考えていたとき、ちょうど、シャンデ
リアの鎖が派手な音をたてて千切れる。しっかりとした重さを伴っ
て、僕の両腕の中に落ちてきた、イリア。
彼女は、目を開いていて。その姿は、何かに驚いているようでもあ
ったし、或いは何かを見極めようと目を凝らしているかのようにも
見えた。
瞳を覗き込めば、僕の顔が映りこむ。
濁った目に、淀んだ顔をした僕の顔が。
﹁イリア。⋮⋮もう、誰もいないよ。だから、もう、目を閉じても、
大丈夫﹂
もう、何も見なくてもいいのだと、そう言おうとしたのに喉が震え
て、声が上手く出なかった。
イリアは当然、返事をしないし、確かに僕を見ているはずなのに、
本当は何も見ていなくて。
誰の目から見ても、彼女が事切れているのは分かっただろう。
それでも、もしかしたら息を吹き返すのではないかという期待をし
てしまう。
名前を呼び続けていれば、彼女はやがて瞬きをしてふっと小さく笑
うかもしれないと。
そんなに呼ばなくても、聞こえているわよ。と。

711
だけど、何度呼んでも、彼女が返事をすることはなかった。
だから僕は、当初の予定通り、彼女を連れ出すことにしたのだった。
やせ細った華奢な体をシーツに包んで背負い、屋敷を出る。
正面玄関から堂々と外に出たのに、誰からも声を掛けられなかった
のは、笑うところだろうか。
確かに何人かの使用人と擦れ違ったのだが、その誰もが忙しそうに
していて、僕に視線をやることさえなかった。
倒れてしまったシルビアのことで頭がいっぱいなのだろう。
僕は、イリアを背負ったまま歩き続け、先ほど通ったばかりの市街
地を抜けた。
やがて、山の中に入り、ひたすらに歩き続ける。
女性を一人背負っているとは思えないほどの身軽さで。足が重くな
るようなこともなく、疲労感は皆無だった。
その内に陽が傾き、闇が全てを呑み込んで。ちらちらと星が輝きだ
し、月が僕らを包み込んだとき。
ふいに、泣きそうになって。
でも、どうしても泣けなくて。もどかしい思いに、震える息を呑み
込んだ。
﹁イリア。見て、そろそろ夜明けだ﹂
どれほど歩いたのか、紺色の空がゆっくりと白み始める。
山の主であるかのように聳える大木の根元に腰を下ろし、彼女を寝
かせた。
未だ、ぼんやりと宙を仰いでいる彼女の瞳に、少しだけ顔を出した
朝日が映り込んだ。
イリアの横に寝転んで、冷たい彼女の手を握り、その体を抱きしめ
る。

712
なぜ、そうしたのか分からなかったけれど。
イリアが、寒そうに見えたのかもしれない。
だけど、体温を持たない僕の手では彼女を温めることなどできるは
ずがなかった。
﹁イリア﹂
また、意味もなく名前を呼んで。少しだけ待つ。返事が聞こえたよ
うな気がしたから、もう一度名前を呼んで。無意味なことを繰り返
してから、彼女の瞼を閉じた。
柔らかな睫が指先に触れた瞬間、ぽつりと彼女の頬に水滴が落ちる。
雨粒かと、空を確認するけれど、先ほどと変わりなく雲1つない。
自分が涙を流していると気付いたのはそのときだった。
まるで人間みたいだと笑って、そしたら、涙が止まらなくなった。
大抵の人間が、人生で一度くらいは、目を覆いたくなるような、あ
るいは絶叫を呼ぶような壮絶な苦しみというものを体験する。明日
など見えないと、光などどこにもないと思うような経験だ。
それでも、明日はやってくるし、陽は昇る。
生きていれば。
﹁⋮⋮イリア、もうすぐ、朝が、くるよ⋮⋮、﹂
僕は人形だから、本当は息をしていない。そのはずなのに、息が、
できない。
﹃ライア。私の、黒い鳥﹄

713
耳に奥に、エマの声が甦る。
﹃貴方は私に、幸せを運んできたの﹄
とても穏やかな顔をして生涯を終えた、その人の声だ。
苦しみばかりを与えられたようなイリアもきっと、いつかはエマの
ように﹁幸せだった﹂と笑って、僕を置いていくのだだろうと思っ
ていた。
そうなることを、願っていたのだ。
こんな結末を、誰が望むだろうか。
イリアの部屋には鍵がかかっていなかったのだ。自ら命を絶とうと
していたのに、既に外されていた外鍵は言うまでもなく、部屋の内
側にすら鍵をかけていなかった。
つまりあの扉は、いつでも、誰でも開けられた。
誰にでも、彼女を助けられたのに。
誰にも、彼女を助けられなかった。
誰も、彼女を、助けなかった。
﹃貴方は、私に、幸せを︱︱︱︱︱﹄
﹁嘘つき⋮⋮、君は嘘つきだ。エマ⋮⋮﹂
僕が幸せを運んできたなんて、そんなのはただの戯言だ。
僕はやっぱり、凶兆を占う鳥で。凶事を呼ぶ、不幸の鳥でしかない。

714
﹁だって、死んでしまった。⋮⋮イリアは、死んでしまった⋮⋮っ﹂
誰かに罵ってほしかった。お前のせいでイリアは死んだのだと。不
幸を呼ぶ鳥など、消えてしまえばいいと。
だけど、明るさを取り戻しつつある空の下。僕たちを見ているのは、
光を奪われ、力を失った暗い星たちだけだ。
他に見ている者がいるとすれば、それは神だけだろう。
懸命に生きている人間を見捨てるだけの神だ。
長い、長い人生を生きてきて。
これほどに強く、神を憎んだのは初めてだった。

こんな風に、彼女と僕は終わった。
︱︱︱︱︱終わったはずだ。
けれど、本当は、この出来事はただの始まりでしかなかったのかも
しれない。
715
11
︱︱︱︱︱運命というのは、初めから決まっていることであるのに
も関わらず、予見することができない。
イリアを失ってから、たった数日後のことである。
街中をふらふらと彷徨っていた僕の視界に、見覚えのある横顔が映
り込んだ。
距離にして、腕を伸ばせば届くほど近いところを﹁彼﹂は横切った。
息を呑む。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。思わず周囲を見回したの
は条件反射というやつか。

716
けれど、相変わらずの喧騒があるだけで、変わっているところなど
何もない。忙しく足早に通り過ぎる商人や、立ち話をするご婦人、
走り回る小さな子供。
つい何日か前、花を買うためにこの道を通ったときと全く同じ光景
が広がっているだけだった。
再び前を向けば、まるでタイミングを計ったかのように﹁彼﹂が振
り向く。
その目元が柔らかく笑んだのを見て、確信した。
やはり、知っている顔だ。年相応とは言えない、あまりに若い印象
を残す相貌や、軽薄そうな笑みを覚えている。
でも、なぜ。
僕は必死に駆け寄って、その人物の腕を掴んだ。⋮⋮いや、掴もう
としたのだけれど上手くはいかなかった。
思わず﹁待って、﹂と口走る。しかし、彼は歩みを止めることなく、
ただこちらに視線を向けるだけだ。
そんな彼の前を、小さな子供が勢い良く走り抜ける。
てっきり、ぶつかってしまうと思ったのに、彼はやはり立ち止まる
ことなくずんずんと歩いて行った。
僕がその背を見失いそうになる度、彼の目がこちらを向くのが不思
議だ。語りかけてくることはないが、まるで、着いて来いと言わん
ばかりだった。
たくさんの人間が行き交う街中で、余所見をしている彼。だという
のに、誰にもぶつからない。
するするとした足取りには重みすら感じられず、瞬きをしている間
に消えてしまいそうなほどの薄い存在感はまるで、夢か幻のようだ。
導かれるようにしばらく歩き続けていると、やがて小さな教会の前

717
に辿り着いた。
彼は、中に入ることなく扉の前に立ち、ややあって振り返る。
﹁⋮⋮どうして、﹂
彼を追いかけている間、たくさんの疑問が頭をもたげたけれど、上
手く言葉にはできなかった。
纏わりつくような沈黙が重くのしかかる。
こちらに向けられている視線は、決して鋭いものではなかったけれ
ど、ひどく居心地が悪い。
﹁どうして、か。私は、その質問に対する答えを持っていません﹂
言葉を詰まらせた僕とは違い、彼はにこりと笑んで首を傾いだ。余
裕すら感じさせる、あまりに﹁普通﹂な様子は、逆に違和感を呼ぶ。
何年も、いや何十年、あるいはもっと長い間、顔も見ていなかった
というのに。
まるで、昨日別れた友人のような気安さだ。
せんせい
﹁医師。貴方は⋮⋮、なぜ、ここに? というより、なぜ、まだ、
生きて、﹂
明らかに混乱して、まともに話すことができない。そんな僕を見て、
愉快そうに目を瞠るその人。
愛嬌すら感じさせる表情は、どこか滑稽でもある。
実際、この邂逅は、笑い出したくなるほどに奇妙なものだった。
なぜなら、今こうして向き合っている人物は、当にこの世には存在
しないはずだからだ。
初めて出会ったのは、僕が父の魔術を受けてすぐのこと。

718
ベッドに臥せっていた僕を診察してくれた。
あれから一体、どれだけの歳月が経過しているのか。考えても、す
ぐには分からない。
﹁⋮⋮その質問に対する答えを、私は持ち合わせてはいないのだけ
れど⋮⋮、それでは逆に、私の方から君に1つ質問しましょう﹂
﹁え?﹂
あまりに唐突な展開だ。問いかけたのは僕だったはずなのに、いつ
の間にか立場が逆転している。
﹁ちょ、ちょっと待って、待ってください﹂
一旦、会話を打ち切ろうと声を上げるけれど、彼は相変わらず穏や
かな笑みを浮かべたまま言った。
﹁︱︱︱︱︱君は、神を、信じていますか?﹂
一瞬、世界中から音が消えてしまったような沈黙が走る。
男が何を言ったのか、全く理解できなかったのだ。
けれど、1つだけ息を呑み込んだ後には、胸の真ん中あたりからこ
み上げてくる怒りのような感情に支配された。この期に及んで一体
何を聞いてくるのかと、大声で喚きたくなる。
それこそ、僕の身に何が起こったのか、何もかもを知っているはず
なのに。
こんな所業は、神でなければ為せぬはず。
かつて、そんなことを口にしたのは彼自身だった。
だからこそ、これほどに感情を揺さぶられる。
﹁⋮⋮、﹂

719
すぐにでも返事をしようと思った。
けれど、浅く開いた唇から漏れたのは小さな吐息だけだった。
神を信じているからこそ、神を憎んでいる。その強烈な感情に支配
されたのは、たった数日前のことだ。
そうであるにも関わらず、どこかで神の存在を否定しようとする自
分も居る。
神とは、これほどに無慈悲なのか。非道で、残酷で、残虐で、ほん
の少しの優しさも見せてはくれない。
そんな存在を、神と呼ばなければならないのか。
思わず罵声を口にしようとして、吐き出しそうになった言葉を呑み
こんだ。
おり
音にならなかった声は、喉の奥で黒い靄となる。体の中に、澱が溜
まっていくようだった。
そんな僕を見つめる男の双眸は、どこまでも凪いでいる。
﹁この世界を作り上げたのが神であるなら。私は思うのです。神と
いう万能の存在であるはずの﹁それ﹂が、果たして世界を1つしか
作らなかった、などということがあるのだろうかと﹂
やけに回りくどい言い草だ。すぐには頭がついていかない。
けれど彼は、僕の答えなど初めから必要としていなかったのか、す
っと視線を逸らす。
その眼差しを追えば、そこには、雲1つない青空が広がっているだ
けだ。
﹁世界は、1つではありません﹂

720
︱︱︱︱︱1つでは、ない⋮⋮?
やはり、意味不明だ。真意を探ろうと、再びその柔和な顔を見やれ
ば、彼は笑みを深くして。
それと同時に、ごおっと突風に襲われる。足を掬われるような激し
い風の勢いに、声を奪われた。
砂埃が入ってくるので、僅かにも唇を緩めることができない。
やがて、少しだけ風が止んだ隙に瞼をこじ開けたけれど。
狭い視界の向こう側にはもう︱︱︱︱︱誰もいなかった。
ただ、たくさんの白い羽が舞うだけだ。
幻想的で美しいとも思えるが、この羽がどこから飛んできたのかと
考えればいっそ不気味でもあり、異様でもあった。
無意識に、背中を小さく震わせる。
きょろきょろと視線を彷徨わせていれば、まるで狙ったかのように
教会の鐘が鳴り出した。
面白いほどにびくりと肩が竦む。すると扉が開き、教会の中に居た
らしい信徒たちがぞろぞろと出てきた。
その誰もが、扉のすぐ前に居る僕に訝しむような視線を向ける。
警戒しているのか、それでも僕に声を掛けてくる人間はいない。
子供たちが、真横をすり抜けていって。
耳障りのいい、その無邪気な声に、覚醒を促された気がした。
僕は、白昼夢でも見ていたのだろうか。
そもそも、普通に考えて﹁彼﹂が今も生きているなんてことは有り
得ない。
僕と同じような存在なのだろうか。でも、どこか違う気もする。

721
だとすれば、アレは一体、何なのか。
﹁⋮⋮いや、違う﹂
重要なのは、彼が﹁何﹂なのかではなく。彼が発した言葉の方だ。
大事なことを見誤ってはいけない。ここで間違えば、僕はまた大切
なものを失うことになる。
考えろ。考えろ。考えろ。
﹁世界は、1つではない﹂
まるで記憶に刻まれるような、強い印象を残す言葉を繰り返す。
医師の姿をした﹁アレ﹂は多分、それを伝えたかったに違いない。
そしてそれは、僕にとってとても重要な意味を持つのだ。
いつの間にか、誰もいなくなった教会の前で目を閉じる。
空気を震わせるように鐘を鳴らしていた教会も、既に静けさを取り
戻していた。
1つ、2つと、息を吸っては吐き出し、普通の人間みたいに深呼吸
を繰り返す。
そうしている内に、頭の中が冴え渡り、ある考えが浮かんだ。
もしも。もしも、だ。彼の言っていることが真実であり、そして、
真理だとすれば。
同時に、複数の世界が存在していて、それぞれに﹁自分と似た﹂あ
るいは﹁自分と同じような﹂人間が存在しているなら。
例えば、こういうのはどうだろうか。
イリアは何度も同じ過去を繰り返していると言っていたけれど、も
しかして彼女は、過去に戻っているのではなく、異なる世界を渡り

722
歩いているだけなのではないか。
思念だけか、あるいは﹁魂﹂と呼ばれるものが、違う世界に飛ばさ
れているとしたら?
もしくは、異なる世界に存在する自分と、意識を共有しているとし
たら?
そう考えた方が辻褄が合うような気がした。
普通に考えれば。
人生をやり直す度に不幸な結末を辿るというのは、おかしなことで
ある。
なぜなら、同じ過去を繰り返しているということはすなわち、未来
を予見できるも同然だからだ。
だとすれば、彼女は不幸になるはずがない。
もともと彼女には、自分を救うだけの高い能力がある。
顔色から他人の心情を読むのが得意で、ソレイルの婚約者として培
った貴族としての教養や知識は、自身を助けるのに一役買ったはず
だ。︱︱︱︱︱本来ならば。
けれど、イリアはいつも、失敗する。
それはつまり、彼女の周囲に居る人間が、過去に存在していた人達
と違うからではないか。
あくまでも同じ顔をしているだけで、中身が別人なら、彼らの行動
を予測することはできない。
だから、これから何が起こるのか予見することができなくて当然だ。
世界が違うというのはつまり、そういうことなのではないか。
周囲の人間が﹁まるで別人のように振舞っている﹂のではなく、真
実、別人なのだとすれば。

723
︱︱︱︱︱そう考えたら?
あまりに突拍子もない考えであるし、単なる仮説に過ぎない。そも
そも、先ほど聞いた言葉を、僕が正しく理解できているかどうかも
怪しい。
しかし。
過去に戻ることはできなくとも、もしかしたら、世界を越えること
はできるのではないか。
そんな考えが頭を過ぎった。
**
とにもかくにも、無謀なことをやり遂げるのに必要なのは忍耐だろ
う。
考えをまとめるのにも、計画を練るのにも、それを実行に移すのに
も、とにかく時間が必要だ。
けれど、この点において、僕は生まれて初めて己の境遇に感謝した。
なぜなら、時間なら、有り余るほどにあったのだから。
すなわち、常人には考えられないほどの時間を消費して、世界を越
えるための術を編み出したのだった。
そして、思考に費やした時間に反して、自分でも戸惑うほどにあっ
さりと魔術は発動したのである。
あっけないと言えば、僕は、あっけないほど簡単に﹁世界﹂と﹁世
界﹂の壁を踏み越えた。

724
気づけば、空を飛んでいて。
戸惑っていると、視界が大きく傾いた。慌てて両手を動かせば、変
わりに羽音が響く。
術が成功したと分かったのは、その瞬間だった。
確かに、世界を越える前は人の姿を取っていたはずだけれど。それ
が、どうだ。今は、鳥になっている。
意識もしないまま、己の姿が変わっていることに多少なりとも動揺
していた。
それと同時に、風の感触と、目に映る広い青空と、遠くから聴こえ
る淡い旋律が、僕の心を揺さぶる。
寂しそうな子守唄は、紛れもなくイリアの声だった。
僕の目と、耳が、記憶を呼び覚ます。
彼女と出会った﹁あの日﹂だと、誰に確かめるまでもなく理解でき
た。
けれど、ここは別世界であり、似て非なる世界であることに間違い
はない。
なぜなら、僕が作った魔術は世界を越えることができても、時間を
戻すことはできないからだ。
ゆえに、僕はとても慎重だった。
失敗することなど許されないと知っていたから。
大幅に何かを変えれば、その後に発生する出来事への影響も大きく
なる。⋮⋮それが怖かった。
﹁貴方、変だわ﹂
そう言って微笑む彼女。

725
新しい世界で、イリアと顔を合わせてから数ヶ月。
﹁この世界のイリア﹂が僕のことを知っているのではないかと期待
したりもしたけれど、彼女は当然、僕を知らなかった。
確かに、無数に存在する世界のどこかには、僕を知っているイリア
も存在しているかもしれない。
だけど、﹁僕を知らないイリア﹂が存在する確率の方が高いだろう。
だから、今目の前で微笑んでいる彼女だって、僕にとっては知らな
い人も同然だ。
それなのに。
﹁僕からすれば、君の方がずっとずっと変わり者だよ﹂そう言って、
ふんと鼻を鳴らせば、彼女は少しだけ目を瞠って沈黙する。その後
﹁そうね。私はやっぱり変なのね﹂とどこかで聞いたような言葉を
口にした。
何もかもが同じだった。
彼女も、僕も、ソレイルやシルビアだって姿かたちが同じであり、
取り巻く環境も何もかもかつてと何1つ変わらない。彼女が、僕を
知らないことを除いて。
彼女と過ごした時間は全て塵となって消え失せたのだと思い知らさ
れる。
思い出の欠片さえも、彼女の中には残っていない。
ただ︱︱︱︱︱、イリアが息をして、笑って、生きている。
それだけが全てで。
救いたかった。絶対に。世界が違ったとしても、彼女が、僕の知っ
ている人ではないとしても。
イリアという人間を、今度こそ救いたかったのだ。

726
本当は、人浚い同然に、彼女をここから連れ出せばいいと分かって
いた。けれどそれでは、彼女を救ったことにならない。
重要なのは、暗闇に沈む彼女の心を、掬い上げることだ。
﹁︱︱︱︱︱なぜ、愛されないのか、考えてみたことはある?﹂
彼女が1人きりになったときを狙って、そんなことを訊いてみる。
昼間だというのに、薄暗い書庫の片隅で。他に誰もいないことを確
認してから、そっと声をかけた。
分厚い蔵書に視線を落としていた彼女は、僕が書庫に入ったことす
ら気付かなかったのだろう。
はっと、身を引くように顔を上げて、僕の姿を認めると共に大きく
息を吐き出した。
﹁⋮⋮急に、どうしたの?﹂
イリアは、眉を寄せて、困ったように笑った。愛嬌の感じられる表
情だ。
普通なら、不躾になんていうことを訊くのかと激高するところかも
しれない。
彼女がそうしなかったのは、僕の言葉に少なからず同意する部分が
あったからだろう。
それに、思ったよりも彼女は、僕のことを受け入れているのかもし
れないと感じた。警戒している相手と込み入った話しをする人間は
あまり多くない。
﹁人を愛することに理由がないのと同じように、愛されないのにも
また、理由がないのかもしれないと思ったことはない?﹂
返事がないのを良いことに、たたみ掛けるように問う。

727
イリアは視線を逸らすように、インクで黒く染まった爪先を見つめ
た。
普段はそれこそ、ペン先が紙を引っ掻くがりがりという音が止むこ
とはない。けれど、今日は沈黙している時間の方が長いようだ。
きっと、疲れているのだと、見ているだけの僕にも分かる。
あるいは、信念というものが揺らぎ始めているのかもしれない。
努力すれば、足掻き続ければ、手に入ると信じていたものは、どう
やっても手に入らないのだと。
何を考えているのか、ぼんやりと指先を見つめたままの彼女。
﹁⋮⋮愛に理由がないのだとしたら、君のやっていることは無意味
なのかもしれないよ﹂
だから、もう何もかも手離して。
口にはしなかったけれど、ほとんど懇願するような想いだった。
誰かに奪われるのではなく、自ら何もかもを手放すのは、似ている
ようで、全く違う。
果たしてそれが、彼女に伝わったかどうかは分からないけれど。
ふと顔を上げたイリアは、微笑むように、すっと口角を上げた。そ
して、﹁そんな顔をするなんて貴方らしくない﹂と、指先で僕の頬
を突いた。
おどけるような仕草だ。でも、その顔に浮かんだ微笑が偽者だと知
っている。
﹁無意味だって分かってるのよ﹂
独り言のように呟いた声が、他に誰もいない静まり返った書庫に響
いた。
だったらもう止めればいい、と続けようとして止める。

728
﹁その顔、やめてくれない? くじけそうになるわ﹂と、冗談とも
本気とも取れるようなことを口にした彼女は、気が抜けたように表
情を緩めた。
その子供みたいなあどけない顔に、たまらなくなる。
だから、思わず口にしていた。
﹁僕と一緒に行く?﹂
深刻さなんてどこにもない、軽口でも叩くような僕の声音。意識し
てそうしたわけではない。でも、それで良かったと思う。
彼女は﹁どこへ?﹂とは訊かなかった。
多分、行き先など決まっていないと知っていたのだろう。
しばらく逡巡したものの、結局、僕の言葉なんて無かったかのよう
に、彼女は再び手元に視線を落とした。
そして、何も言わないままペンを動かす。
真っ白な紙が、黒く染まっていく様は、いっそ圧巻なほどで。
苦しみ、もがいているようにも見えた。あくまでも、僕の独りよが
りな想像だ。
尖ったペン先が傷つけたのは、紙だったのか、あるいは彼女の心だ
ったのか。
このときの彼女が何を考えていたかなんて、僕には知りようがない。
ともかく、失敗に終わったかのように見えた僕らの対話は失敗に終
わったようだった。
だけど彼女自身、何か思うことがあったのだろう。
この、わずか数日後のこと。
﹁⋮⋮私、貴方と一緒に、どこか遠くへ行きたい﹂と、彼女は言っ

729
た。まさに、虚をつかれた思いがした。
何の脈絡もなく、いつもどおり深夜の密会をしているときのことだ。
恐らく面食らったかのような顔をしていただろう僕に﹁でも、いき
なり全部を投げ出すわけにはいかないから、少しだけ待って﹂と笑
う。
そして、ベッドに腰掛けていた僕の前に立った。
見下ろされる形になって、彼女の顔には暗い影が落ちる。
﹁黒い鳥が凶事を呼ぶなんて、そんなの嘘に決まってる﹂と告げた
彼女が、どんな顔をしていたのか、僕は知らない。だけど、
﹁だって、私はこれから幸せになるんだもの﹂と続けられた言葉に
は悲壮感などどこにもなかった。
胸の真ん中が、ぎゅっと傷んだ。
そこにはかつて、心臓と呼ばれるものがあったと思い出す。
小さな明かりが灯された薄暗い部屋の中、僕は返事をすることも忘
れて、彼女を見つめた。
﹁ね、そうでしょ? カラス﹂
問われて僕は、確かに肯いた。⋮⋮そのはずだ。
はっきりと覚えていないのは、イリアがその翌日。
︱︱︱︱︱死んだからだ。
﹁少し買い物に行くだけなの。だから、その間だけ妹のことを見て

730
いてくれるかしら﹂
彼女は実に、軽やかだった。羽でも生えているかのような足取りで、
楽しそうにそう告げた。
シルビアのことを見ているように言われたのは初めてではなかった
けれど、改めてそう言われると何だか歯向かいたくなる。シルビア
には侍女や侍従が付いているし、屋敷の中で何か物騒なことが起こ
るとは思えなかったからだ。
首を振れば、途端に彼女は、縋りつくような眼差しをした。
﹁あの子に何かあれば、私は生きてはいけないの﹂
まるで母親のようなセリフではないか。笑えばいいのか、あるいは
憐れめばいいのか。
母親でもないのに、母親のような慈悲深さと愛情を見せる。
もしも僕がこのとき、その言葉の本当に意味を知っていたなら、変
えられただろうか。
彼女が﹁死ぬ﹂という運命を。
僕は要するに、また、選択を誤った。
街で買い物をしている最中に、彼女が立っていた場所に暴走した荷
馬車が突っ込んできたらしい。数人が巻き込まれ、亡くなったのは
イリアだけだったようだ。
彼女の両親が、シルビアにそう、告げていた。
僕はそうやって、間接的にイリアの死を知らされたのである。
劈くような悲鳴は、紛れもなくシルビアのもので。
それなのに、皮肉にもその声はどこか、イリアのものに似ていた。

731
12
また、だ。
また、彼女を独りで死なせた。
事故だったのだから仕方ない? いや、そんなはずはない。もしも、
僕が彼女と一緒に居たなら、助けられたはずだから。
それとも、例え僕が傍に居たとしても、やはり避けられないことだ
ったのか。
考えてみても答えは出ない。
彼女は既に、亡くなっているのだから。
絶望するには十分すぎるほどの出来事だった。
泣き叫んで、全身を掻き毟って、のたうち回るほどの、痛みと苦し

732
みに襲われる。
目の前に闇が落ちてきて、世界中から全ての音が消え去り、心も体
もばらばらに崩れていく。そう。まさに、そういう感覚だった。
だけど、だからと言って、簡単に絶望するわけにはいかなかった。
一度、自暴自棄になると、そこから立ち直るのは難しい。それを、
嫌というほど知っていた。
暗闇の中に居て今にも崩壊しそうな精神を、必死になって繋ぎ止め
る。
イリアを救うという目的の為には、狂うわけにはいかなかったのだ。
別の世界にいるだろう、イリアを捜さなければ。そして、今度こそ
絶対に救わなければ。
今更、何を言っているのだろうと自分自身を嘲笑いながらも。
次の世界で彼女に出逢ったなら、こうしようああしようと思案して
いた。
そういう意味ではもう、僕はどこかおかしくなっていたのかもしれ
ない。
人生に、やり直しなどきかないということを既に知っていたという
のに、それでも自分を止められなかったのだから。
泣く暇も、叫ぶ暇も、打ちひしがれる暇も惜しんで、次の世界へ飛
ぶための準備を進める。ひたすらに魔力量を増やすことに時間を費
やした。
そんな自分を、どこか空恐ろしく感じる。
本来なら、イリアの死を嘆き、悲しみに沈んで、打ちひしがれてい
てもおかしくないというのに。それどころか、新たに目標を掲げ、
邁進している。
いい意味で言えば前向きであるが、その反面、非情で冷酷なような
気もした。

733
だけど。
誰にどんな人間だと思われても、僕はもう一度世界を渡らなければ
ならなかったのだ。
**
彼女の死後、彼女の境遇や家庭環境、人間関係や貴族としての立ち
位置、様々な視点から﹁イリア﹂という人間を考察してみた。ソレ
イルやシルビアのことも含めて、彼女がなぜあれほどの婚約者とし
ての立場に執着していたのか。なぜ、妹を守ろうとしていたのか。
検討をつけようとした。
分からないことのほうが圧倒的に多かったけれど、いくつか分かっ
たこともあったし、元々知っていたこともある。
だから、次の世界でイリアに会ったときは、もっと上手くやれるだ
ろうと思っていた。
それなのに。
事は、そう簡単には運ばなかった。
僕は浅はかにも、世界を渡れば、イリアと出逢ったその時点から全
てをやり直せると思っていた。
愚の骨頂である。
︱︱︱︱︱次の世界に渡った瞬間、僕は、違和感を覚えた。
まず、自分が鳥の姿ではなく、そもそも空を飛んでいないことに気
付く。
聴こえてくるはずの歌声も聴こえない。ただ、乾いた風がいつも羽
織っている黒いマントの裾を浚って、砂埃が舞うだけだ。
視界を奪う粉塵に目を細めながら周囲を見渡せば、足元の砂礫が、
ざりっと小さく音をたてた。

734
右を見ても左を見ても、砂、砂、砂。
植物は生えておらず、生き物の姿形も見えない。雲1つない青空が
広がっているだけだ。
﹃前と、違う﹄
頭の中を、そんな言葉が過ぎる。
次に﹃なんで﹄と思った。でも、答えをくれる人間などいない。
僕は結局、その後、何日も砂の世界を彷徨い歩いた。やがて、どこ
かの国に流れ着くことになるのだが。
そのときにはもう、僕の転移した世界が﹁前﹂とは違うことを理解
していた。
﹁この世界﹂に、イリアがいないことも。
いや、居なかったというよりも、そもそも存在していなかったのだ。
僕が渡った世界は、イリアが生きていた時代とは違ったのである。
けれど僕は、なかなかそのことを理解することができなかった。
まさかイリアが存在していないなんて︱︱︱︱︱、そんなことある
はずがない。そう考えていたから。
次の世界に渡ることを躊躇った理由もそれだ。
万が一にも、イリアが﹁この世界﹂のどこかに居るなら。彼女は、
過酷な境遇に喘ぎ、苦しみ、誰かに助けを求めているかもしれない。
だとすれば、僕以外の誰が、彼女に手を差し伸べることができるの
か。
それこそ、世界中を捜し回った。
彼女の居ない世界で、それでも、彼女を捜し続けたのだ。
時間を無駄にしていることなんて百も承知だったけれど。

735
それでも、諦め切れなかった。
もはや、常軌を逸していたのかもしれない。
例えるなら、死んだ人間を捜しだそうとする行いに似ている。霊魂
の存在を信じて、やみくもにその後を追っているような。目に見え
ない不確かなものを、探し続けているのと同じだった。
本当はどこにもいないと知っているのに、何年も⋮⋮あるいは何十
年もの間、彼女を捜し続けて。
やっと見切りをつけることができたのは、いつのことだったか。
後ろ髪を引かれる想いだったけれど、全てを振り切るようにして、
再び、世界を越えた。
しかし﹁今度こそ﹂という僕の想いは、再び、あっけないほど簡単
に裏切られることになる。
つまり、転移した先の世界にも、イリアはいなかったのだ。
今度は、時代が違っていたわけではなく、ただ﹁彼女だけ﹂が存在
しない世界だった。
シルビアも、ソレイルも、彼らの両親も確かに存在していて。見覚
えのある侍女、侍従も居た。
なのに、イリアだけがどこにもいない。
色々探ってはみたけれど、彼女がこの世に誕生したという証は何も
なく、要するに、彼女は母親の腹に宿ることさえなかったのだと知
る。
そんなことが有りえるのだろうか。
訳が分からず、今にも悲鳴を上げそうだった。
いい加減にしてくれと泣き叫んで、のた打ち回り、世界の全てを呪
ってしまえれば。僕も少しは気が済んだかもしれない。

736
でも、そういう負の感情と同時に、苦しみや悲しみ、怒りすらどう
でもいいと思えるほどの焦燥感が僕を駆り立てる。
時間なら幾らでもあると思い込んでいた頃も、もはや遠い。
︱︱︱︱︱次の世界に飛ばなければ。
早く、早く、早く。
いつからか、耳の奥で、イリアの嗚咽が響く。
苦しくて仕方ないと、泣いている。
もはや1つの世界で足踏みしている場合ではない。悲しむ時間すら
惜しんで、幾つかの世界を巡った。
そしてやっと︱︱︱︱︱、彼女を見つけたのだけれど。
結論から先に言えば、僕は彼女に何もしてあげられなかったという
ことだ。
なぜなら彼女は、既に、死にかけていたから。
とある娼館窟の一室に、彼女は居て。ただ﹁死﹂を待っているだけ
の状態だった。
古びたベッドの上で酷い咳を繰り返していた彼女はすっかりやせ細
って、意識も朦朧としていたようだ。痛みや苦しみから逃れるため
なのか、一日のほとんどを眠って過ごし、夢と現を行ったり来たり。
それでも客を取らされることもあったみたいだから、人間というの
は本当にどうしようもない。相手がどういう状態でも関係なく、欲
を満たそうとする生き物なのだと、吐き気を催す。
そんな現実の中で、ただ搾取されるだけの彼女。
救いの手さえ求めることのできないその姿で、生きる気力すら失っ
ているように見えた。

737
﹁イリア、何か、欲しいものある?﹂
乾いた唇を、湿らせたタオルで優しく拭う。今の僕は、彼女の世話
係だ。
彼女はベッドに横たわったまま、ぼんやりとした目で僕の顔を眺め
る。
そして、小さく首を振って、耳を澄ましていなければ分からないほ
どの微かな吐息を漏らした。まどろんでいるような顔に、ただ、今
日はいつもより調子がいいのかもしれないと思った。
このまま眠らせてあげようと、そっと身を引く。
すると彼女は﹁⋮⋮貴方が、いれば⋮⋮何も、﹂と唇を緩ませた。
うっとりしているかのような、声音。
それが、僕に対しての言葉だったら、どれほど嬉しかっただろう。
でも、そうじゃない。
思わず沈黙したのは、その後に彼女が何と続けるか分かっていたか
らだ。
﹁⋮⋮ソレイル、さま、﹂
愛する人の名前を呼ぶとき、人はきっと幸福感に包まれるに違いな
い。
だって、今の彼女が、まさにそういう顔をしている。
彼女の小さな唇から零れ落ちた声が、どこかにころころと転がって
いくようだった。
ガラス玉のように儚い、言葉の欠片。煌いているのに、刃のような
鋭さを伴う。
その切ない声音を指で拾うことができたなら、どこかに隠しておい
たのに。

738
イリアに見えないように。イリアが、見つけられないように。
聞かなかったことにできたなら、どれ程、良かっただろう。
苦しいと、思った。
ただ、苦しいと。
﹁⋮⋮僕は、君を捜していたんだよ。ずっと、ずっと、捜して⋮⋮
だけど、どこにも居なくて﹂
眠り込んでしまった様子のイリアには、僕の声など聞こえていない
はずだ。
それでも、彼女の痩せた顔から視線を剥がすことができず、語りか
けてしまう。
﹁君の居ない世界を、君を、捜して⋮⋮、﹂
だからどうした、と問われれば、返す言葉もなかった。
外界から分断された、この小さな部屋で。病に冒されながらも、夢
に見るのは﹁彼﹂のこと。
イリアが、ここで誰を待っているかなんて、考えなくても分かる。
なのに、胸の真ん中が痛くて。
内側から締め付けられるような感覚に顔が、醜く歪んでいく。
今にも泣いてしまいそうだった。
﹁君を見つけたのに⋮⋮、やっと見つけたのに、君は、どこにもい
ない⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どこに、いるの⋮⋮?﹂
僕の知っているイリアは、僕を知っているイリアは、ずっとずっと

739
昔に自ら命を絶った。
細い首にかけられた、布の感触を覚えている。
シーツを裂いて細くしただけの、どうにかすれば破れてしまいそう
に脆いものだった。
彼女が急いで、死ぬ準備をしたのだと分かる。いつだって用意周到
だった彼女が。あのときだけは、急いでいたのだ。
どうしても、生きられなかったから。
そんな彼女を救う為に、様々な世界を渡り歩き、彼女を捜し続けて
きたわけだけれど。
もうとっくに理解している。
救いが必要なのは、イリアじゃなくて、僕の方だ。
あのとき、イリアを死なせてしまった自分を、どうにかして救い上
げたかった。
こんな僕を知ったなら、イリアは何と言うだろう。失望するだろう
か。
訊いてみたいけれど、彼女は僕のことを何も知らないのだから意味
がない。
前の世界から転移した僕は、なぜか娼館窟の近くに降り立った。
初めは、どういうことなのか意味が分からず、立ち竦んでいたけれ
ど。誰かに呼ばれたような気がして、とりあえず娼館に忍び込んだ。
鳥の姿であれば人目を避けることができる。
広いとは言えない娼館窟を飛び回り、やがてイリアの部屋を見つけ
た。
ベッドでうたた寝をしていた彼女の姿を見るなり、人型になったの
は、性懲りも無く期待したからだ。
物音で、はっと目を覚ました彼女が、僕の名を呼んでくれると。

740
どうか、僕のことを知っていて。切望するように、彼女を見つめた。
けれど、薄緑の美しい彼女の双眸は、みるみる内に恐怖の色を浮か
べて。
次に、穴が空いたみたいにぽっかりと口を開いたイリアは、引き攣
れるような悲鳴を上げた。
それどころか﹁もう嫌だ﹂と首を振り、病気で痩せ衰えた体を転が
すようにして、逃げようとする。
思わず伸ばした手も、勢いよく振り払われてしまった。
嗚咽の間に交じる単語をつなぎ合わせてみれば、僕のことを、客だ
と勘違いしているようだった。
とりあえず少年の姿を取ったのは彼女に証明するためだ。
僕は客ではないと。カラスだと。
君の、カラスだよ、と。
ただひたすらに何度も、呪文のように繰り返した。
だけど、彼女には理解することができなかったのだ。カラスという
のが、僕の名前だということを。
錯乱しているからか、あるいは、病のせいなのか。もしくは﹁この
世界﹂を動かす何かが邪魔をしているのか。ともかく、
眠っているときにすら、彼女は、ここにはいない人間の名前を呼ぶ
というのに。
目の前にいる僕の名前は、呼んだことがない。ただの、1度も。
幾つもの世界を巡って、やっと、この場所に辿り着いたけれど。
まるで、ここは僕の居場所ではないと言われているようだった。

741
﹁ソレイルさま、﹂
満足に明かりさえ灯すことのできない、穴ぐらのような暗い部屋に
イリアの声が響く。
幼い子供みたいに頼りない声だった。他に頼るものなど何もないと
言っているかのような。
彼女を追い詰めたのは間違いなく彼だというのに、それでも、最期
の最期までその名を呼び続ける。
その名前しか、知らないみたいに。
馬鹿みたいだ。それに、あまりに愚かだ。
﹁イリア。大丈夫だよ。傍にいる。傍に、いるからね⋮⋮﹂
⋮⋮そう。愚かだけれど。
ああ、そうだ。知っている。
真実、愚かなのは。情けないのは、悲しいのは、寂しいのは、イリ
アじゃなく、僕自身だと。
この世界でただ一人、誰にも必要とされていない人間は、僕だけだ。
﹁イリア、﹂
自分の声が震えていることに気付いて、声をかけるのを止めた。
小さな寝息をたてる彼女の眠りを妨げてはいけないと、そう言い聞
かせて。
目を閉じれば、眦が熱くなる。
泣きたい。けど、泣きたくない。泣くわけにはいかないし、そんな
の許されない。
かつて、彼女を殺したのは僕なのだから。
全ての発端は、あの日、彼女が死んでしまったことによる。
だから、未だにソレイルの名を呼び続ける彼女を前にして、寂しい

742
と思うのは間違っている。
間違っているけど、
﹁寂しい、﹂
喉が、ひくりと震えた。
触れれば壊れてしまいそうなほどに細いイリアの指先にそっと触れ
る。これほど近くに居るのに、随分と遠い。
同じ世界にいるはずなのに、僕たちは違う世界を生きている。
﹁︱︱︱︱︱お嬢様⋮⋮!!﹂
イリアの世話をしながら、かつて彼女の護衛を勤めていた男を捜し
出したのは、ただ単に会わせてあげたかったからだ。
彼女の人生において唯一、本気で信頼を寄せていたはずの騎士だか
らこそ。
互いの顔を見せてあげたかった。
彼らの間にどのような感情があったかどうか定かではないが、時に
親愛と呼ぶものが、恋愛感情さえも凌ぐことを知っている。
それに、死に行く彼女が、本当に会いたいと思っているだろう人物
︱︱︱︱︱、つまりソレイルへの繋ぎとしても必要な人間だとも思
った。
現在は、侯爵となっているだろうその男。元貴族といえど、まさか、
娼婦に落ちた人間がそうそう簡単に顔を会わせることにできる人間
ではない。

743
前の世界から、いきなり娼館窟の前に転移してきた僕には、地理的
な情報が何もなかったので、イリアの生家を探し出すのも簡単では
なかったけれど。
鳥に化身できる、己の特性を生かした。上空から貴族が住まう地域
を特定したのである。
それから僕がやったことは少ない。
騎士としてそれなりの地位を築いていたらしい金髪の男の居所は、
簡単に掴むことができた。
その男に、イリアの居場所を知らせた。もちろん、話したわけでは
ない。
鳥の姿で、足首にイリアの髪を巻き付けて、彼の頭上を飛び回った
のだ。
男には、栄養が足りずに褪せて細くなった髪でも、それが誰のもの
か察しがついたらしい。
何度も旋回を繰り返す僕の後を、何の疑いも抱かずに追いかけてき
た。
そうしてくれるだろうとは思っていたけれど、必死な形相で僕を追
いかける騎士の姿は、控えめに言って紳士とはほど遠く。それほど
に待ち望んだ知らせだったのだろう。
僕の知っている彼よりも、随分年を重ねているように見えた。
主が出奔してからは、相当な苦労があったと推察できる。
それでも、その眼差しに残る一筋の光のようなものは、希望を失っ
てはいない。
今でも、ただ一人と決めた主に心を捧げているからだろう。
何となく、そう感じた。だからこそ、僕は心を決めたのだ。

744
帰してあげよう。
彼女を、家に。
彼の元に。
帰してあげよう。
﹁ああ、ああ!何てことだ⋮⋮!何てことだ⋮!!﹂
男の悲鳴のような声に、はっと我に返る。
僕はただ息を潜めて⋮⋮というよりも、気配を殺して部屋の隅に立
ち、イリアが男に抱え上げられるのを見ていた。
彼女のあまりにやせ細った体を薄汚れたシーツが包み込んでいる。
そのせいで、僕が立っている場所からは、彼女がどんな顔をしてい
るのか窺うことはできない。
けれど、
﹁⋮⋮ア、ル⋮⋮?﹂
確かに、そんな声が響いた。
何度も頷く騎士が、迎えに参りましたと返事をするのが聞こえる。
そのときにはもう既に、彼らは部屋を出ようとしていて。僕は、そ
んな2人を見守ることしかできなかった。
しかし、イリアを腕に抱いた騎士が、部屋を出ようとしたその瞬間。
はらりと解けたシーツの奥から彼女が顔を出す。
目が、合ったような気がした。
だから僕は、声もなく呟く。

745
︱︱︱︱︱良かったね。
本当に、良かったと思っていたから。彼女が、こんな狭い場所で最
期を迎えなくて済んで良かったと。
きっと、騎士が彼女を連れて行く先は、当たり前に暖が取れて、薄
いからだを縮こまらせる必要もなく、体の節々が痛むようなベッド
で横になることもない。
ここにはないものが、何もかも用意されている。
彼女が本来、居るべきなのは、そういうところだ。
﹁⋮⋮良かった﹂
イリアと騎士が去って。完全に閉ざされた扉を見つめながら、もう
一度、今度ははっきりと言葉にする。
良かったと、心底そう思うのに。なぜかまた、僕の胸は痛んで。
指先が勝手に、彼女の温もりを思い出して震えた。
力を込めれば潰れてしまいそうなほどに薄い手の平。ひび割れた爪
と、水分を失った皮膚。
貴族だった頃は、きちんと手入れをしていただろうその手。
かつて彼女のものであったはずの美しい指先は、ピアノの鍵盤を叩
く為のもので、あるいはダンスのときに誰かの手を取る為のもので、
もしくは優雅に食事を取る為のものだったかもしれない。
ガラス細工のように繊細な指先と共に、失ったものはたくさんある。
もう2度と元に戻ることはないだろう。
それなのに彼女は、
﹃私の手、おばあさんみたいね﹄と、子供みたいに笑っていた。
僕の手に重ねた自分の手を見て、それから、﹃貴方の手は、小さい﹄
と目尻を緩ませて⋮⋮。
ああ、どうして。

746
どうして、悲しいのだろう。
これで良かったと思うのに。
︱︱︱︱︱それから彼女は、一月もしない内に息を引き取った。
ソレイルやシルビア、それと彼らの子供たちに見守られながら、実
に静かな最期を遂げたと思う。
僕はそれを、窓の外から眺めていた。
娼館窟のような、人間の尊厳など皆無だと言える場所で最期を迎え
ることにならずに済んだ。それだけが救いだった。
あんな場所で、たった独りで死ぬなんて。
そんなこと、あってはならない。
あってはならないのに。
狭くて、汚くて、ベッド以外に何もないようなあの部屋のことを思
い出す。
何度も。
何度も。
繰り返し。
繰り返し。
747
13
それから僕は、すぐに次の世界へ渡った。
魔法陣が、不可思議な模様を描いたまま光の粒となり、弾けて消え
る。暗闇の中で、その様がはっきりと見えた。目を閉じているのに
も関わらず、不思議なことだ。
そんなことを考えていたら、足元に何かが落ちてくる。
ぱた、ぱた、ぱた。
ゆっくりと瞼を上げれば、つま先が水溜りを踏んでいるのが分かっ
た。
頭上から落ちてくる無数の水滴が、水面で潰れては消えていく。
雨が降っているのか。

748
知らず内に落胆している自分に気付いて、溜息が漏れた。
イリアと出会った﹁あの日﹂ではない。
もしもあの日だったら、僕は鳥の姿をしているはずだし、空を飛ん
でいなければならない。それに、どこかから歌声が聴こえてくるは
ずだ。
でも、どれ1つとして該当しない。
ここはどうやら路地裏のようであるし、初めて見た場所だ。
近くに食事のできる店でもあるのか、残飯が散乱しているし、異臭
も鼻をつく。
雨が降っていることもあって野犬や野良猫はいないようだが、手足
のない奇妙な虫が地面を這いまわっていた。
今度も、イリアが存在しない世界なのだろうか。
ふと頭を過ぎった考えに、足を踏み出すことができなくなる。身動
きすら拒んでいるような情けない心情が、どうしようもなく嗤えた。
どうにかしてイリアを捜し出したいと思うのに。
胸の底に巣食う不安が僕を、臆病にする。
また、彼女がいなかったらどうしよう。また、彼女を失ったらどう
しよう。
また、たった独り、取り残されたなら︱︱︱︱︱?
起きてもいないことを考えてたじろいでしまうのは馬鹿みたいだけ
ど、有り得ないことではない。
だから、何度も深呼吸を繰り返して、平静を装った。そうやって己
に暗示をかけるのだ。
きっと、大丈夫。今度こそ、大丈夫。大丈夫。大丈夫。
僕は、大丈夫。

749
震える足を叱咤して、やっと一歩踏み出した。
するとそのとき、視界の端に奇妙なものが映り込んだ。
真っ黒な塊である。
とうとう僕にも、この世のものではない何かが見えるようになった
のか。
驚嘆するというよりも、変に納得するものがあって目を離すことが
できなくなった。
じっと見つめていれば、その黒い塊から妙な音が響く。
﹁⋮⋮う、﹂
呻き声だと気付くのに、時間は必要なかった。
雨足が強くなり、よくよく耳を澄ましていないと聴こえないほどの
小さな声だが、はっきりと人間が発したものだと分かる。
近づいてみれば、地面に投げ出された両腕も見えた。
思わず周囲を観察してみたけれど、他には誰もいない。
そもそも今は一体、何時頃なのだろうか。
雨が降っているせいで薄暗い。しかし、完全な暗闇というわけでは
ないので、夜ではないのかもしれない。
ともかく、路地裏とはいえ、静寂に支配されているところをみれば、
人間が活動するような時間帯でないのは確かだ。
﹁︱︱︱︱︱、て﹂
そんな時間に、こんな場所で転がっている人間など普通ではない。
自分でそうしたとは思えないので、誰かに捨て置かれたのだろう。
よほどの事情があるのだろうと踏んだ。
一体、何があったのかと、近づきかけて。
呻き声が、明瞭な言葉となって僕の耳に響く。

750
﹁た、すけて、﹂
単純に、知っている声だと思った。
顔なんて確認するまでもない。たった一言が、僕の胸を打つ。まる
で、心臓を金槌で叩かれたみたいに。
途端に、はくはくと唇が宙を噛んで、舌が絡まる。上手く言葉が出
てこなかった。
沈黙の隙間を縫うように雨音が響いて、僕の鼓膜を震わせる。
どのくらいの時間だったか分からないけれど、たった一言を口にす
るのが、ひどく難しかった。
﹁︱︱︱︱︱いいよ﹂
やがて、己の唇から零れ落ちた言葉はあまりにも簡潔で。
心が追いつくよりも先に、声が出てしまった感じだった。
それでも、足が、腕が、指先が勝手に動いて、彼女の丸まった背中
を抱きしめる。
びくりと震えた肩がどこか懐かしくて。何があったのか、あざの浮
いた細い首筋に息が詰まった。
痩せすぎて細くなった顎とひび割れた唇。暗いまなざしはどこを見
ているのか、ゆらぐように宙を彷徨う。
既視感を覚えたのは、娼館で共に過ごした彼女とあまりに似通って
いたからかもしれない。
けれど﹁あの彼女﹂はもう既に、この世の人ではなく。
そもそも﹁この世界﹂に﹁あの彼女﹂は存在しない。
悲しいのか、もしくは﹁彼女と同じ顔をした、別の彼女﹂との再会
に胸を震わせればいいのか。

751
﹁⋮⋮カ、ラス⋮⋮?﹂
一瞬、聞き間違いかと思うほどの小さな声。
そんな儚い声が、世界を一変させる。
どこまでも続く深遠の闇に、ぽつりと明かりが灯ったようだった。
目を凝らしていても見失いそうなほどに、小さな光だけれど、世界
中を照らし出すような威力を伴う。
ただ、名前を呼ばれただけ。たった、それだけなのに。
﹁カラス、﹂
聴こえなかったと思ったのか、今度は、はっきりと名を呼ばれて。
不思議な色を湛えた瞳が、じっと僕の顔を見据えた。
自分を抱えているのが誰なのか、はっきりと理解しているように思
える。
﹁⋮⋮やっと、見つけた、﹂
やがて、そんなことを口にしたのは、一体、どちらだっただろうか。
僕が言ったのか。彼女が、そう言ったのか。捜していたのは誰で、
見つけたのは誰だったのだろう。
今にも折れてしまいそうな肢体を、強く抱きしめる。潰してしまわ
ないように気をつけたつもりだったけれど、案の定、苦しそうな声
を出したイリアは、吐息共に﹁⋮⋮私を、さがした⋮⋮?﹂と訊い
てきた。
僕はただ肯いて、彼女の様子を観察する。
落ち窪んだ目の淵が、異常なほどに黒く染まっていた。
それを何と呼ぶのか知っている。
︱︱︱︱︱どうして。

752
それは、死に際の人間が見せる特有の色で。いわゆる、死相と呼ば
れるものだった。
イリアは既に、死の淵に立っている。
さすがに、どこがどう悪いという診断を下すことはできないけれど。
僕の鼻は、あまりにも敏感に死の臭いを嗅ぎ取り、この目は、鮮明
に死の色を映し出す。
﹁私は、貴方を捜した⋮⋮﹂
僕が返事をしないことに焦れたのか、彼女は懸命に話し出した。
﹁捜して、捜して、それでも駄目で⋮⋮いつも、貴方はどこにもい
なくて⋮⋮それで、捜すのをやめたの⋮⋮。だって、寂しくて、怖
くて、悲しくて⋮⋮どうしようも、なかったから、﹂
ぜえぜえと異音の混じる声が、僕を詰るように告げる。
彼女の気持ちが、痛いほどに分かった。僕もそうだったから。
本当は何処にも存在しないというのに、世界中を捜し回って、イリ
アの幻影を追いかけた。
その苦しみを、その悲しみを、他の誰が理解できるというのか。
いっそのこと、捜すのを止めてしまえれば、どれほどに良かっただ
ろう。
﹁でも、貴方は見つけたのね⋮⋮。私を、見つけた﹂
うん、うん、と相槌を打つ。
声を出してしまえば、言葉ではなく嗚咽が漏れてしまう。
泣いているわけでもないのに、なぜか、そう思った。

753
﹁ねぇ⋮⋮カラス﹂
知っている? と彼女が耳元で問う。
瀕死の状態で息も絶え絶えだというのに、その指が、僕のローブを
強く握った。
血の滲んだ指先。伸びた爪はがたがたで、手入れができるような環
境にいなかったことを物語っている。
﹁意味が、あったのよ。愛されないの、に、も⋮⋮﹂
何を言わんとしているか分からない。唐突に切り出された話には、
何の脈絡もなかった。
けれど彼女は、いかにも今の今まで僕たちが愛について語り合って
いたかのように言葉を紡ぐ。
﹁だから、私は、誰にも愛されたことが、ない⋮⋮。愛されない、
理由が、あるから⋮⋮﹂
﹁これから先も、きっと、そうだって⋮⋮思ってた⋮⋮﹂
違う。と否定しようとして口を開いたのに、それを制するように彼
女は双眸を細めた。
太陽なんて見えないのに、眩しそうな顔をして続ける。
﹁でも、もういい、﹂
と、彼女は1つだけ呼吸を置いて、僕の顔を見つめた。
その大きな瞳に雨粒が落ちて、水底に沈んだ宝石のように柔く光を
放つ。

754
﹁だって、貴方﹂
﹁私を、﹂
﹁愛しているのね﹂
雨足が強くなって、地面を打つ音が激しさを増した。
空は先ほどまでよりも一層暗くなり、僕らの間に深い影を落とす。
よくよく顔を見なければ互いの表情すら読み取ることができない。
そっと顔を寄せてみれば、頬に吐息がかかった。
イリアは人相が変わってしまうほどに せこけているというのに、
どこも変わっていないように見える。
尊厳を踏みにじられてもなお、誰にも奪うことのできない美しさが、
そこにはあったのだ。
﹁まって、イリア⋮⋮、﹂
今、この瞬間なら。この目がただのガラス玉に戻ったとしても構わ
ない。
完全に光を奪われても笑っていられるだろう。
他には何も覚えていたくないから、イリアの顔だけをこの目に刻ん
で。これから先、彼女だけを思い出すのだ。
とき
そうできたなら、永遠に続いていく時間の中、僕はいつでも夢を見
られる。

755
昼間でも君の夢を見るから。
僕はもう、君を、捜さなくて済む。
﹁⋮⋮まって⋮⋮、待って、待って、﹂
﹁カラ、ス⋮⋮﹂
﹁まだ、まだ待って⋮⋮、待って⋮っ、イリア、イリア⋮⋮っ﹂
あと数分、いや、数秒だけでも良い。もう少し、もう少しだけ、生
きていて。
そう願うのに、彼女は死んでいく。
﹁ごめんなさい、カラス⋮⋮﹂
彼女は僕の耳元で深く、深く息を吸い込んだ。
終わりが近づいているのだと、分かる。
それなのに僕は、馬鹿みたいに﹁まって﹂と繰り返した。もはや、
叶いもしない願いだと分かっているのに。
﹁くす、り⋮⋮せっかく、もってきてくれたのに、わた、し、⋮⋮
もう、だめみたい⋮⋮﹂
﹁な、に⋮⋮?﹂
﹁でも、わたし、あなたがいればよかったの⋮⋮ほんとうよ、︱︱
︱︱︱カラ、ス⋮⋮﹂
ぼろりと、瞳から剥がれ落ちるように涙が零れた。重力に逆らうこ
とができず、次から次へと落ちていく。
いや、もしくは。頬を滑る、ただの雨粒だったかもしれない。
イリアの命が失われていくと同時に、雨の量も増えていくようだっ

756
た。
ぱしん、と世界が割れるような閃光の後、遠くの方で雷鳴が響く。
﹁イリア、﹂
聞き間違いかと思った。
だから、僕は泣きながらもあっけに取られたような顔をして、彼女
の次の言葉を待った。
何を、言った?
今、何を。
聞き出そうとして口を開いた。
けれど、イリアはいつの間にか、息を止めていたのだ。
僕を見つめる視線はそのまま、今にも何か話しだしそうな顔をして。
光を失った双眸には、深い闇が映り込んでいる。
﹁イリア、今、何て言ったの?﹂
︱︱︱︱︱くすり⋮⋮? 薬というのはつまり⋮⋮。
﹁覚えていたの?﹂
あの閉ざされた小さな世界のことを。娼館で過ごした、あまりにも
短い時間のことを。
もう手の施しようがないほどに弱っていた彼女に、何度か薬を飲ま
せたことを覚えている。
高額な薬は、手に入れるのに苦労した。命を延ばすことができるわ
けでもないのに、イリアが少しでもよく眠れるといいと思って。

757
あのときの彼女とは別人であるはずなのに。
今わの際に、夢でも見ていたのだろうか。
それにしても。
﹁ひどい﹂
酷い。今更になってそんなことを言うなんて。
僕に、返事をさせることなく逝ってしまうなんて。
また、僕を置き去りにして。
﹁ころして、﹂
もう、いっそのこと、誰か終わらせて。首を刎ねてくれていいし、
心臓に剣を突き立ててくれてもいい。
そうしてくれれば楽になるはずだ。けれど、
﹁⋮⋮死にたくない⋮⋮、﹂
ひっ、と無様に漏れた嗚咽を、都合よく雷鳴がかき消してくれる。
だって、もしも本当に死んでしまったなら、もう2度とイリアを捜
し出すことはできない。
だから、どうしても死ぬわけにはいかない。
死ぬことができないから、生きるしかない。
それなのに、生きていくのが、怖い。
力を失ったイリアを抱えなおす。その痩せた肢体から体温が失われ
ていくのを見ているしかない。
やっと見つけたのに。それなのに。彼女は死んだ。

758
﹁どうしたら、君を助けられる⋮⋮? どうしたら君は、生きてい
てくれるんだ⋮⋮﹂
子供みたいにしゃくり上げて、自分が、声を上げて泣いていること
に気付く。
冷え切ったイリアの手を、己の頬に重ねる。
その体を抱えているのは僕のはずなのに、なぜか、抱きしめられて
いる気がした。
︱︱︱︱︱貴方、私を、愛しているのね。
あれほど、愛情に飢えて、誰かに愛されることを切望していたイリ
アが。誰も信じられず、猜疑心と警戒心に満ちていた彼女が。そう
告げたときは、自分が愛されていると、確信していた。
けれど、僕がイリアに向ける感情は、そんな美しい言葉では片付け
られるものではないと知っている。
この執着はきっと、醜くて目を背けたくなるほどにおぞましく、狂
おしいもので、穏やかさとは無縁だ。
助けると言っておきながら、与えられるものは無いに等しく。
それどころか、本当に助けが必要なのは僕の方で。
むしろ、望みだけは増えていく。
死なないで。
生きていて。
傍にいて。
離れていかないで。
泣かないで、笑っていて、幸せでいて。

759
君は僕に、何も望んだりはしないのに。
14
失意の中、それでも数年かけて魔力を溜め込み、魔法陣を描いて次
の世界に飛ぶ。
いつもと同じ作業であり、他に変わったところは何もない⋮⋮はず
だった。
バチンと激しい音をたてて、足元の魔法陣から無数の光が生まれる。
四方に散った光の粒は生き物のように蠢きながら、やがて僕自身を
呑みこんだ。ここまでは、前回、前々回、それよりも前と同じであ
る。
問題は、その後、だ。これまでとは違うことが起こった。
突然、全ての光が消え去ったのだ。何が起こったのか分からず、た
だ様子を窺っていると、発動中の魔術が停止していることに気付く。

760
そうかと思えば、頭上から闇が舞い降りて、視界が黒く染まった。
足元から崩れ落ちていくような感覚に、背中がゾワリと粟立つ。比
喩的な表現ではなく、事実として、僕は﹁落ちて﹂いった。
魔法陣の中に取り込まれた、とでも言うべきか。
単純に、魔術が失敗したのだと思った。これでは、次の世界に転移
できない。
いつかそうなるかもしれないという覚悟はあったけれど、なぜ、今
なんだろう。もっと先でも、あるいはもっと前でも良かったのに。
これで何もかも終わりかと、諦念にも似た感情に支配された刹那︱
︱︱︱︱、
今度は、エマの声が聞こえてきた。
﹃私の生まれたところではね、黒い鳥は、幸福と不幸を同時に運ん
でくると言われているのよ﹄
﹁思い出した﹂という感覚ではなく、まさに今、耳元で囁かれたか
のような生々しさに喉が詰まる。
彼女の吐息が、僕の耳を掠めて、襟足を擽った。
こんなところにいるはずもないと分かっている。それなのに、身を
捩って、その姿を捜す。
当然、視線の先には無限の闇が広がるだけだったけれど。
︱︱︱︱︱これは、どういうことなのか。
次々と展開する﹁何か﹂に、心が追いつかない。なす術もなく周囲
を窺っていると、何かが、すっと目の前を通り過ぎる。
思わず振り仰げば、それが合図だったかのように視界が開けた。

761
真っ黒な紙に、白い塗料をぶちまけたような、不思議な光景だ。
黒が、白へと塗り替えられていく。
ちょうど夜が明けるのと同じように、闇が晴れていった。
けれど、太陽に照らされているわけではない。照明などもなく、光
源となるようなものは何もなかった。
自然の摂理や、人間が構築した理論など及ばない世界のようである。
明るいというよりも、ただ、白い。
上も下も右も左も、白、白、白。迫り来る純白の世界に、気が遠く
なる。
辺りを見回している内に、己の輪郭すらぼやけてきそうだった。僕
もやがて、この真っ白な世界の一部となるのだろうか。
そんな考えが頭を過ぎったのも束の間、視界の端に、ふと﹁黒い点﹂
が映り込んだ。
単なる染みのようにも思えたが、よく見れば、動いている。ゆっく
りと、遠ざかっていくようだ。
もしかして、先ほど、僕の鼻先を掠めていったのはあれか。
手足を動かしてみれば、水の中を泳いでいるような抵抗を感じた。
が、動けないわけではなかったので、吸い寄せられるように、その
﹁黒い何か﹂を追いかける。
だんだんと距離が狭まると共に、黒い点だったものは横長になり、
やがて輪郭を得ていく。それが一体何なのか判別できるようになる
まで、さほど時間はかからなかった。
比例して、胸の内側がどっどっと音をたて始め、治まらなくなる。
翼だ。

762
横長に見えたのは﹁それ﹂が翼を広げていたからだ。
つまり、﹁黒い鳥﹂である。
動揺している僕の心情など理解し得ないだろう黒い鳥は、懸命に翼
を動かし、どこかを目指していた。
端などないように思える、無限の世界で、どこへ行こうというのか。
声を掛けてみようかと口を開いたら、おもむろに、黒い鳥が旋回を
始め、こちらに向かってきた。
黒い翼に、黒い目。嘴まで真っ黒だ。
目の色こそ違うけれど、己が鳥に変化したときとあまりに似通って
いた。
まるで、自分自身と対峙しているような気分になる。
しばらくの間、ただ見つめ合っていると、いきなり、その尖った嘴
がぱかっと開いた。
唖然としたまま動けずにいる僕に、
﹁︱︱︱︱︱望みは?﹂と問う。
当然のように人語を操っているが、違和感はない。
望みならたくさんある。だから、返事をしようと思ったのに、いざ
となると言葉が出てこなかった。
代わりに、エマが今わの際で語った御伽噺が、甦ってくる。
﹃黒い鳥は、ある日突然、窓辺に現れて⋮⋮﹄
まるで人間のように言葉を話し、1つだけ質問をするのだと。その
上で、正しい答えを口にした者には幸福を。そうでない者には不幸
を運んでくるのだと、彼女は語っていた。
ただの物語ではあるけれど、黒い鳥はつまり、僕が思うような凶事
を占う不吉な存在ではない。

763
もっと崇高で、もっと大きな力を持つもの。すなわち、神の遣いだ。
この黒い鳥が、そうなのだろうか。
いや、でも。
エマは⋮⋮、彼女は、あくまでも﹁僕のこと﹂を黒い鳥を呼んでい
た。
﹃ライア。私の、黒い鳥﹄と。
だとすれば、今、目の前に居るモノはただの紛い物でしかない。そ
して、僕は自分でも知らない内に、神の遣いなるものになっていた、
ということか。
まさかそんなことが有り得るだろうか。
あまりの極論に、己でも笑いがこみ上げてくる。冗談でも、自分が
そんなものになれるとは思っていない。
それでも。
それでも、だ。ただ純粋にエマの言葉を信じるなら。
僕はまさしく窓辺に降り立ち、︱︱︱︱︱イリアの前に姿を見せた
のだ。
人の言葉を話し、彼女に問いかけた。
﹃助けてあげようか?﹄と。
まるで、エマの語った御伽噺のように。
思い返せば、僕はイリアに対して、これまで何度も同じような問い
を口にしてきた。
でも、彼女はいつだってはっきりとした返事をしなかったように思
う。
僕たちが初めて会ったときもそうだ。助けてあげると言ったのに、

764
彼女は話題を変えることで返答することを避けた。その後、随分時
間を置いてから、ただ﹁妹を守って欲しい﹂と口にしたのだ。
まるで返事になっていない。
多分、そんな曖昧なやり取りでは駄目なのだろう。
神の遣いと、運命の選択を迫る問い、それに答える者、正しい回答。
要するに、必要な条件が全て揃ったときにだけ欲しいものを得られ
る。そういうことではないだろうか。
とは言え、そもそも僕の﹁問い﹂は正しかったのだろうか。それに、
彼女の回答は?
僕は彼女に、何を訊くべきだったのだろう。そして、彼女は、何と
答えるべきだったのだろう。
ぐるぐると考えを巡らせている間にも時間だけが過ぎて行く。
はっと気付いたときには︱︱︱︱︱、辺りには何の気配もなかった。
黒い鳥はどこかへ去ってしまい、たった独り、取り残されてしまっ
たようだ。
僕は返事をしそこなかったのか。それとも、初めから僕の返事など
必要なかったのか。
何かが掴めたような気がするのに、何も掴めていないような気もし
て。
もどかしさに、叫びだしそうになる。僕はいつまで﹁ここ﹂に居れ
ばいいのだろう。
するとそのとき、劈くような悲鳴が聴こえてきた。
﹃カ⋮⋮、ラス!! ⋮⋮カラス!!!! 一体、どこにいるの⋮
⋮!!!﹄

765
あまりに悲痛な声だ。
苦しみに満ちた耳に突き刺さるような声を、僕は確かに知っていた。
﹁イリア!!﹂
自分が声を上げたことに驚いて、ひゅっと息を呑む。その刹那、視
界が真っ二つに割れた。
白い壁を、ナイフで引き裂いたかのような。
まさに、世界が二つに分断されてしまったような感覚だ。
﹁イリア!!!﹂
しかし、そんなことに構ってはいられない。世界が裂けようが、あ
るいは滅びようとも、僕は彼女のところに行かなければ。
未だに余韻を残すイリアの叫び声が、僕の名を呼び続けている。そ
の声を追えば、やがて辿り着くと分かっていた。
僕にはもう、道しるべたる黒い鳥は必要ない。
﹁イリア、君を、助けてあげたい﹂
吐き出した言葉が、どこかへ落ちて行く。
﹁君を、守ってあげたいし、君を大切にしたい。君とずっと一緒に
いたい。君と生きていきたい﹂
﹁だから君も、傍にいて。これからずっと、ずっと、傍にいて﹂

766
約束してくれる? そう呟いた声が、どうしようもなく震えた。
己ながら何とも頼りない。だけど、それ以上に伝えるべき言葉も見
つからないような気がした。
固唾を呑んで、返答を待つ。
静寂よりも、もっと深い沈黙に、心を引き裂かれるようだった。ど
れ程の時間が経ったか分からないけれど、やがてぽつりと。
﹁︱︱︱︱︱私、貴方と一緒に生きたい﹂
そんな声がして。
唐突に、ガランガランと激しく鳴り響く、鐘の音が聴こえた。そう
かと思えば、二つに割れた世界の、ちょうど真ん中に位置する暗闇
に、ぽつんと誰かの姿が浮かび上がる。
身に纏っている真っ黒なドレスには装飾の一つも施されていない。
きつく結い上げられた髪は、鈍い銀色だ。
ふと、こちらを見上げた瞳から、ほろりと涙が落ちる。
その人がまた、﹃⋮⋮カラス!﹄と叫んだ。
嗚咽を漏らしながら、吐き出すように叫ぶ彼女。
よく見れば、そんな彼女と対峙するようにソレイルとシルビアが立
っている。二人は、そうすることが当たり前のように寄り添ってい
た。そんな彼らを前にして、イリアは、僕の名を呼んで泣いている。
背後に見えるのは、誰かの棺だろうか。
一体、どういう状況なのかがよく分からない。
分かるのは、彼女が悲しんでいることだけだ。
だから手を伸ばそうとしたのに、途端に、彼らの姿は消えてしまっ
た。

767
﹁待って、待ってくれ、イリア!!﹂
叫びつつも、もしかしたら今のは、僕がまだ行ったことのない世界
に存在するイリアかもしれないと考える。だとずれば、この空間は、
まさに神の領域なのかもしれない。
世界と世界が、重なる場所なのだ。
﹁イリア!!!﹂
返事をして。そんな思いで吼えるように名を叫ぶと、僕の声に反応
するように空気が揺れる。
ヒビ割れの起こっていた世界が、再び一つに戻ろうとしていた。
閉じ込められてしまう予感がして、僕は思わず、世界と世界の隙間
に飛び込んだ。
そこは、まさに﹁混沌﹂と呼ぶに相応しい有り様だった。
ごうごうと吹きすさぶ強い風。雷鳴のような轟音が鳴り響き、それ
と共に叫び声のようなものも聴こえる。強い圧力のようなものもあ
って、今にも四肢が千切れてしまいそうだ。
無意識にもがいていると、何の前触れもなく、闇の中に銀色の光が
見えた。
もしかしたら、別世界への入口かもしれない。必死に腕を伸ばせば、
指先がその光に触れて、皮膚が痛みを覚える。と、同時に視界がぐ
にゃりと歪んだ。
そして、
﹁⋮⋮え、﹂
僕は、そこに跪いていた。
森の中だ。鬱蒼と茂る木々が、観察するように僕を見下ろしている。
柔らかな風の吹く大地には、雑草と背の高い広葉樹が混在し、湿っ

768
た臭いを漂わせていた。空には星たちが瞬いているが、夜明けが近
いのか、今にも消え入りそうだ。
全てのものの輪郭が曖昧なような気がして、現実なのか、夢を見て
いるのか分からなくなる。
けれど、何度か瞬きを繰り返している内に、この世界が急に現実味
を帯びてきた。
己が見下ろしているものを、やっと、認識することができたからだ。
月明かりに照らされた﹁彼女﹂は、音もなく静かに横たわっている。
曲線を描く白い頬。けれど、生気はなく落ち窪んだ目と、色を失っ
た唇。あまりにも見覚えのある、その顔。
わざわざ脈を確認しなくとも、既に息をしていないことが分かる。
つまり、もう生きてはいないと。
でも、どこかに違和感もあって。
名前を呼びかけて、自身の右手が彼女の胸の真ん中辺りで、何かを
握っていることに気付いた。
触れているのは、冷たく硬い何かだ。
正確には、それを掴んでいる。
﹁な、に⋮⋮?﹂
息を呑んだのは、僕の右手の辺りが赤く染まっていたからだ。
それどころか、彼女が横たわっている周辺には大きな血溜まりがで
きている。
﹁イリア、﹂
僕が握っているのは、明らかにナイフの柄だった。

769
﹁なぜ、どうして、⋮⋮また、﹂君は死んでいるのか。そう問おう
とした瞬間、バキンッと音をたてて手の平の中のものが砕けた。思
わず、身を引けば。
手の平には、銀色の砂礫と、砕けた木片が載っていた。
何が起こったのか分からず、あっけに取られていれば、ふわりと優
しい風が吹く。
きらきらと光を放ちながら、天に上っていく銀の砂。
あまりに幻想的な光景に目を瞠っていれば、ひゅうっと大きく息を
吸い込む音が聴こえた。
︱︱︱︱︱慌ててそちらを見れば、
﹁⋮⋮うっ、﹂という呻き声と共に、突き上げられたように、イリ
アの細い肢体が大きく上下する。
そして、﹁⋮⋮ごほっ!、ごほごほっ、げほっ﹂と、何度も咳き込
んで、ぜえぜえと胸を鳴らす。
何が起こったのか、事態を把握できなかったのはたった一瞬だけだ。
イリアが、息をしている。
ほどなく、彼女の双眸がはっと大きく見開かれた。瞼の向こうから
現れた淡い緑色に、光が灯る。
数秒前まで死の底を覗きこんでいただろう目に生気が戻ったのだ。
瞳に反射するように映り込んだ無数の星たちが明滅している。
﹁、イリア﹂
起き上がろうとする彼女の背に手を添えれば、幻なんかではなく、
確かに存在しているのが分かる。

770
﹁僕の、お姫様﹂
振り絞った声が、頼りなく消えた。
はっと息を呑んで反応を示したイリアは、何度か瞬きを繰り返す。
そして、きちんと僕に向き合い﹁どうして?﹂と問うた。
﹁どうして泣いているの?﹂と。
小さく首を傾げる何気ない仕草ですら、ひどく懐かしかった。彼女
の頬にこべりついた、恐らく血だろうと思われる汚れを指で拭えば、
皮膚の柔らかい感触がした。
前の世界で彼女と別れてから、たった数年しか離れていなかったの
に。何十年も、あるいは何百年も会えなかったかのような感覚に陥
る。実際、それは間違いではないような気がした。
﹁⋮⋮カラス?﹂
その言葉が合図だったみたいに、胸が潰れてしまうような痛みを覚
える。
悲しいわけじゃない。傷ついたわけでもない。だけど、この痛みは
それによく似ていた。
長い長い生の中、どれ程にこの瞬間を待ち望んでいたことだろう。
腕の中に、イリアがいて。彼女が、僕を呼ぶ。
﹁⋮⋮私、どうしたの⋮⋮? さっき、私⋮⋮死んでしまったかと
思ったのに﹂
そっと抱きしめれば、耳元に響く声。戸惑っているのがよく分かる。

771
僕だって、そうだ。でも、
﹁やっと﹂
﹁やっと、見つけた。僕の、お姫様﹂
頬を伝う涙が、熱い。その感触に、やっと、自分が泣いているのだ
と実感できた。
﹁さっき、貴方の声を聞いた気がしたわ。やっぱり、そう言ってた。
僕のお姫様って。⋮⋮でも、どうして? 私は一度だってお姫様だ
ったことはない。私はいつだって⋮⋮、﹂
物語の脇役だったもの、と続けた彼女の顔を両手で包み込む。小さ
な顔に、意志の強い大きな瞳。
﹁︱︱︱︱そうだね。でも、僕だってそうだ。僕の人生の主役は、
僕じゃなかった。僕は自分の人生を生きてきたけど⋮⋮、それでも
僕の人生の主役は僕自身じゃなかった⋮⋮﹂
﹁どういう意味?﹂
﹁僕の人生の主役はいつだって、
︱︱︱︱︱君だった﹂
エマがよく歌っていた子守唄を思い出す。
思えば、あの歌は彼女が語っていた黒い鳥の伝承によく似ていた。
まるで昔話の一説に音をはめたような、不思議な旋律の子守唄だっ
た。
ある国の姫君が、お城の窓からただひたすらに空を見上げているだ

772
けの、奇妙で独特な歌。
そんな少女の下に、ある日、一羽の小鳥が現れる。嘴に、白い花を
一輪だけ咥えて。
少女は喜んで花を受け取るが、名前も知らない花の長い茎には棘が
生えており、その先端は鋭く尖っていた。
そして、彼女は選択を迫られるのだ。
花を、どうするのか。
けれど、歌はここで終わっている。
物語としては未完で、しかし、子守唄としては完成している。意味
があるようで、特に意味がない。
初めて聴かされたときは、美しく物悲しい旋律に感心しただけだっ
たが。
今なら、この歌も違うものに聴こえる。
これは多分、僕とイリアの歌だったのだ。
僕の役目は、彼女に花を渡すこと。ただ、それだけの存在。
﹁僕は主役じゃない。だから、いつも君を救えなかった。いつも、
いつも、君を、﹂
助けられなかったと言えば、イリアは首を振った。
﹁⋮⋮いいえ、違う。それは絶対に違うわ。だって、貴方が私の前
に現れるとき、私はいつだって救われるのよ。いつだって、何度で
も﹂
﹁そんな馬鹿な、﹂

773
﹁今だって、そう﹂
﹁⋮⋮今?﹂
﹁死に掛けていた私を、貴方が呼び戻した﹂
﹁いや、違う、違うよ。君は死に掛けていたんじゃない。君は確か
に、死んでいた。けど、﹂
﹁ただ?﹂
﹁奇跡が起こった﹂
言葉にすればそういうことだろう。しかし、運が良かったからでも、
たまたま与えられたわけでもない。
彼女がここまでくるのには、あまりにも多くの試練を乗り越えなけ
ればならなかった。
他の人間よりも圧倒的に大きな壁に視界を阻まれて、前を見ること
もできずに、立ち上がることさえ許されず。地面に這いつくばって、
それでも、生きてきた。
果ての無い絶望を繰り返し、生き地獄の中、幾つもの世界を生き抜
いてきたからこそ。
奇跡は起こったのだと言える。
それぞれの世界に存在する﹁それぞれのイリア﹂が成し遂げてきた
ことが、﹁世界そのもの﹂に影響を与えたのだろう。世界と世界は、
互いに影響を与え、干渉し合っているのだから。
そうして、無限に存在する世界の中、僕とイリアは出会うことがで
きた。
﹁⋮⋮そう⋮なの、かしら⋮⋮?﹂

774
納得のいっていない様子のイリアがおもむろに、僕の頬に触れる。
相変わらず、冷たいのねと苦笑しながら。﹁カラスの言う通り、奇
跡が起こったのだとしたら⋮⋮、﹂と、少し息を置く。
﹁うん?﹂
﹁その奇跡を起こしたのは、神様なんかじゃない﹂
﹁⋮⋮え?﹂
今度は僕が訝しむ番だ。けれど彼女は、少しも怯むことなく言った。
﹁貴方よ﹂と。
貴方以外の誰が、私に奇跡を起こしてくれるというの? と、ほん
の少しだけ笑みを浮かべる。
控えめな微笑に、胸を締め付けられるようだった。
昔から、何1つ変わらない笑い方だ。
優しくて、悲しくて、儚い。絶対に失いたくないと思っていた、彼
女の笑み。それなのに、何度も失って。
そして今度は、失わずに済んだ。
﹁苦しくて、辛くて、悲しくて、立ち直れそうにないことばかり起
こって、生きる意味なんてとうの昔に失っていたのに⋮⋮、それで
もしがみ付いてきた﹂
﹁うん、知ってるよ﹂
﹁どうしてなんだろうって思っていたけれど、私、分かったわ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁きっと、この瞬間の為だったのね﹂

775
イリアの浅い緑色の瞳に、朝日が差し込んで、金色の粒が浮かんで
は消える。世界の全てをそこに閉じ込めたかのような双眸だ。
彼女の中に、僕の世界が、存在する。
その瞳が、ゆったりと柔らかく僕を見つめた。
﹁私、貴方と、生きていく﹂
決意というよりも、既に定められたことであるかのようにはっきり
と口にしたイリアは、僕の背中に腕を回した。
﹁私も、貴方も、幸せになるのよ﹂
確信に満ちた、だけど優しい声が、僕の心を掬い上げる。
いつだって、何度でも、君が僕を見つける度。その手が僕に触れる
とき、君は僕を救うのだ。
﹁だからもう、どこへも戻らない﹂
776

確かに、カラスの声を聞いたような気がしたのに。
私はどこか、真っ暗な場所へ落ちていった。今度こそ﹁終わり﹂な
のかと安堵するも、意識が途切れることはない。明らかに、これま
で何度も経験したような﹁死ぬ﹂という感覚ではなかった。
不思議に思って、逆らうことのできない﹁何らかの意思﹂に身を任
せていると、やがて、それが始まる。
まるで﹁彼﹂の人生を追体験しているかのようだった。
始まりは、あの日。私が、自ら命を絶った日である。
自分自身は、己の首に紐を巻き付けて、椅子から飛び降りたところ
までしか覚えていない。

777
一瞬白く染まった世界が暗転して、終わり。死んでしまったのだか
ら、当然だ。
けれど、私がいなくなったところで、世界そのものが消滅するわけ
ではない。他の人間の人生は続いていくし、時間が止まることもな
い。
それは、ごく当たり前のことである。が、これまでの私は、自分が
死んだ後に何が起こったかなんて深く考えたことはなかった。ソレ
イルとシルビアの行く末だって、あくまでも自分が想像できる範囲
で、空想していたに過ぎない。きっと幸福に暮らすのだろうと思っ
ていたし、実際、そうだったに違いない。
だからだろうか。彼ら以外のことについては、想像さえしなかった。
例えば、すでに呼吸を止めていた私の遺体を見つけたのは、誰なの
か︱︱︱︱︱。
もしも、誰かが見つけてくれたとすれば、使用人だろうというのは
考えるまでもなく検討がつく。私の部屋を訪れる人間なんて、それ
くらいだからだ。
けれど、私の予想はいともあっさりと覆された。
つまり、私の遺体を見つけたのは、予想だにしない人物だったので
ある。
カラス、だ。
厳密にいえば、シルビアもその場に居合わせていたけれど。彼女は
悲鳴を上げるばかりで、私の顔をはっきりと確認したわけではない。
ただ、そこが姉の部屋であるという事実と、その前の晩に揉め事が
あったという状況から、死んでいるのは姉に違いないと判断したの
だ。

778
両目を強く閉ざして、大きな声で喚く妹。
原因が自分にあると知っているからこそ、直視できなかったのか。
何事かと集まってきた使用人たちも、錯乱している様子のシルビア
に気を取られて、私のことなんて目に入っていないようだった。
死して尚。誰にも顧みられない。
もう随分前の出来事だというのに、この虚しさを、どうしても拭い
去ることができない。
結局、喧噪の中で私を救おうと動いてくれたのは、カラスだけだっ
た。もっとも、私は既に息絶えていたし、彼自身もそれに気づいて
いたはずだけれど。
それでも、その人は、首を括っていた私に手を伸ばした。
﹁イリア﹂と確かに、でも消え入りそうなほどに儚く、私の名を呼
んだカラス。苦しそうで、やっと吐き出すことができたとでもいわ
んばかりの声に、切なさが灯る。
もう手遅れだと分かっているのに、焦燥感さえ滲んでいたかもしれ
ない。
とても辛そうに見えた。
でも、彼がそんな風に私を呼ぶなんて、不思議で仕方なかった。
いつの間にか、室内はしんと静まり、私とカラスだけが取り残され
ている。要するに、使用人たちは皆、自死した人間などもはや尊ぶ
べき存在ではないと判断したらしい。死んだとはいえ、未だ女主人
であるはずの私を放置して、シルビアのお腹の子を守ることを優先
したのだから。
もしも、カラスがここに来ていなければ。
私はずっと、吊るされたままだったのだろうかと、詮無いことを考
える。

779
やがて、カラスの腕の中に下ろされた己の肢体は。手の平まで血の
気を失い、頬には赤黒い血管が浮いていた。どう見ても、生きては
いない。生気を失った双眸が、宙を仰いでいる。
その様は、どこまでも奇妙だった。
生気なくだらりと横たわる、人形にそっくりな自分の死体を、外側
から眺めているのも妙だったし、そもそも、自分を抱えているのが
カラスだというのが、異様だとしか思えなかった。
そのカラスは、腕の中の私をじっと見据えて、何度も瞬きを繰り返
す。
黒く長い睫毛には涙が滲み、口元は頼りなく震えていた。大きく歪
んだ表情は、癇癪を起す前の幼子のように、怒りと戸惑いと、悲し
みと苦しみと、様々な感情に揺れている。
馬鹿な私にも、彼が本当に嘆いているのだと分かった。ごく当たり
前のことのように、私の死を悲しんでいる。
とはいえ、彼が、私の死を嘆くなんて。
だってカラスは、私が命を絶つ直前、言い放ったのだ。
どのような罪を犯せば、こんな地獄に堕とされるのかと。
ここが地獄なら、君は一体どんな罪を犯したんだろうねと。
記憶に刻まれた、その言葉。
カラスの、冷たく、淡々とした言葉に、打ちのめされたのは言うま
でもない。
永遠に続くかと思われる窮愁に行き場を失っていた私は、反論する
こともできず、その言葉を受け入れるしかなかった。もはや、正気
を失っていたのかもしれない。
だけど、己の首に縄を巻き付けてもなお、冷静なつもりだったし、
椅子から飛び降りた瞬間ですら、間違ったことをしたとは思ってい

780
なかった。
カラスの言う通り、何らかの罪によって罰を受けているのだとすれ
ば、救われることなどない。
そして、そういう人生しか選べない私にはもう、生きている価値な
どないと感じた。
けれど。
本当にそうだったのだろうか。
どんな罪だったとしても、こんな風に死ななければならないほどの
ものだったのだろうか。
それに結局、この先に待っていたのも地獄でしかなかったではない
か。
﹁⋮⋮イリア、﹂
︱︱︱︱︱どのくらい、部屋の中に留まっていたのか。カラスは、
ぽつりと私の名を呼んだ。
遺体に、声をかけたらしい。もちろん、返事はない。
静けさが、より深まる。
いつまで経っても誰かが来る様子はなく、やがてカラスは、私の遺
体をシーツに包み、大切そうに背負った。そして、そのまま部屋か
ら出る。
そのとき、カラスの足元に、白い花が散らばっていることにに気づ
いた。大小、さまざまな種類の花々。その中には、私が気に入って
いた野花もあった。
そういえば、彼がこの部屋を訪れたとき、両腕に花束を抱えていた
ような。
使用人や、ましてソレイルが用意してくれたはずはないので、カラ

781
スが持ってきてくれたものなのだろう。窓からではなく、きっと正
面玄関から、客人として屋敷を訪れたはずの彼。
手土産が必要だとでも思ったのだろうか。
だとすれば、こんな状況だというのに、くすぐったいような、微笑
ましいような想いがする。
あるいは、深読みするなら。謝罪の意味もあったのだろうか。
昨晩、穏やかとは言い難い別れをした私たちだから、仲直りしよう
と思ってくれたのかもしれない。
彼は、間に合うことなく、私もこの大きな花束を受け取ることがで
きなかったけれど。
あの花を受け取っていたら、何かが違っていたのだろうか。
﹁行こう、イリア。もう、君は自由だ⋮⋮﹂
カラスはそのまま、誰にも見咎められることなく屋敷を出た。歩み
を止めず、ひたすら前を見て足を動かし続ける。
行き場などないはずなのに、一体どこへ行くのだろう。
カラスはともかく、ただの死体でしかない私には、もう居場所など
ないというのに。
あるとすれば棺桶の中だけだ。
わかっているはずなのに、彼はそれでも、私を背負ったまま歩き続
けた。
そうして、市街地を抜け、山の中に入り。長く長く、歩いて。
薄闇を飾るように小さな星々が輝き始めた頃、彼は、ゆっくりとし
た動作で私を下した。
人間を一人、背負って歩き続けてきたとは思えないほど、軽々しく

782
やってのける。
﹁イリア。見て、そろそろ夜明けだ﹂
物言わぬ、白い顔をした女に、優しく語り掛ける様は滑稽であり、
あまりに狂気じみていた。
だからなのか。
ただ、悲しい。
その内にカラスは、頬を濡らして泣き始め。最後は何と言っている
か分からないほどに支離滅裂なことを口にしながら、小さな子供の
ように声を上げた。
私を助けることができなかったと悔やんでいるようだった。
その、ばらばらに砕けた悲鳴の中に﹁一緒に、いきたい﹂という言
葉を確かに聞いて。
どうしてそこまで、と。私まで、声を上げて泣きたくなる。
カラス。
カラス。
貴方は悪くないのだ。何一つ、悪くない。私が自分で決めたことな
のだから。
貴方にはどうせ、私を助けることなどできやしなかった。卑屈にな
っているのではなく、それが、私の定めだったと知っている。だか
らどうか、泣かないで。
そんな風に声をかけてあげたかったのだけれど、私の言葉など届か
ない。
その内に、彼の声が枯れてきて。なのに、今度は声もなくはらはら
と涙をこぼし続ける。自分でも、泣いているとは思っていないのか
もしれない。私の、冷え切った体を抱きしめて、温めることができ

783
ないかと苦心しているように⋮⋮見えた。
なんて悲しい。なんて、寂しい。でもそれは、私じゃない。私は既
に終わったから。
カラス。貴方はどうしてそんなに悲しむの。どうして、私なんかの
ために涙を零すの。
カラス、カラス。もう、やめて。
やめて。
私はもう、死んだのだから。
**
正直言えば、彼はすぐに諦めると思った。
誰もがそうであるように、例えば大切な人を亡くしたとしてもやが
ては立ち直り、新しい人生を歩いていくのだと。カラスが、もしも
人間ではないとしても。
けれど、そうではなかった。
彼はこの後も、ずっと、ずっと長い間、私を捜し続けたのだ。
そのあまりにも長すぎる人生を語るには、とても一言では足りない。
元々彼は、常人では考えられないほどの果てしなく長い時間を独り
で生きてきたようである。
まるで、私自身のようだった。
しかし、根本的に違っているのも、よく理解している。

784
何度も何度も繰り返し、同じ時間を送ってきた私と。
長い長い時間を、生きてきた彼。
そんな彼は、私と最後に言葉を交わしたとき、こんなことを言って
いた。
﹃君ってもしかして、自分だけが、不幸なんだって思っているんじ
ゃない︱︱︱︱︱?﹄
あのときは、ただ理不尽に責められているような気がしたし、実際、
これほどの不幸を負っているのは自分だけだと思っていた。
だけど。
あの言葉の真意は、まさに彼が口にした言葉の通りだったのだ。
私の地獄は、私だけのものだけれど。彼もまた、彼だけの地獄に居
た。そういうことだ。
そんな彼の数奇な人生を、私はただ、見続ける。あたかも夢を見て
いるかのように、私を捜し続けるカラスの人生を、傍観者のように
眺めてきたのだ。
時を変え、場所を変え。世界を越えて、私という人間だけを追い求
める彼を。
私は、言うなれば、創造した物語を紙に書きだす作者のようでもあ
った。
文章を読み込むかのように、﹁イリア﹂を失ってからの彼の人生を、
知る。
それは多分、孤独との闘いでもあったかもしれない。
死んだ人間の姿を捜し続けるその姿は、もはや正気の沙汰ではない
と言えた。けれど、ある意味、とても正気だとも感じた。
なぜなら、人は、孤独には耐えられないものだから。

785
そうして。
いくつも重なり、複雑に絡み合った世界線の先に、
︱︱︱︱︱あの雨の日が、あった。
路地裏に転がる、屍のような私。
投げ出された手の平に、雨粒が落ちてくる。その冷たい感触が心地
良いのは体が熱を持っているからだろう。
黒く濁った空と、激しい雨に遮られる視界。ひどく覚えのある光景
に、懐かしささえ過る。
そうだ。私は、一度、これと全く同じ光景を見た。浴槽で、溺れた
あのときである。
当時は、記憶が曖昧で何が起こったのかはっきりと思い出せなかっ
たけれど。今なら、分かる。
カラスはこのときやっと、私を見つけたのだ。
ずっとずっと長い間、探し続けてきた﹁イリア﹂を。
だから彼はこう言った。私の耳元で、
﹃やっと、見つけた﹄と。
喜びよりもずっと、悲しみが増さる哀切の滲む声に胸が震える。暗
闇の中で、カラスの表情がよく見えなかったし、何よりも意識が朦
朧としていたので、彼の顔がずっと思い出せなかった。
今までは。
﹁やっと、﹂と噛み締めるようにもう一度、呟いた彼。
この人は、こんな顔で、こんな声で、こんな風に私を見つめていた
のだ。

786
そしてカラスは、道端に放り出されていた私を抱き上げて、いかに
も大切そうに、腕で包み込んだ。
生まれたばかりの赤ん坊を抱えるみたいに、慎重に。宝物をそっと、
指で拾い上げるように。
優しい仕草に、何とも言い難い感情に支配される。
その瞬間、私は確かに﹁自分の体﹂に呼ばれた。
大気に溶け込んでいた意識が、魂となり、路上に転がっていたかつ
ての自分へと引き込まれる。
するりと、生身の肉体に入り込む感触がして。
見上げれば、泣き出しそうなカラスの顔がすぐそばにあった。瞬き
をすれば、視線がぶつかる。
私を見つめる黒い瞳が、惑うようにゆらゆらと揺れた。
己は、久しく感じていなかった死の予感と共にあり、今にも消え入
りそうな命を、必死でつなぎ留める。伝えなければならないことが
あるから。
﹁⋮⋮私を、さがした⋮⋮?﹂
と、声にすれば、カラスは少しだけ目を瞠って、ただ深く頷く。本
当は、聞くまでもなく、彼が私を捜し続けてきたことを知っていた。
その執着を、その執念を、その深すぎる想いを、何と呼ぶのか分か
らない。
私だって、かつてはカラスのことを捜していたことがあったけれど、
どうしても見つけられずに、いつしか諦めてしまった。捜して、捜
して、捜し続けて、それでもどこにも居ないと知ったとき、途端に
襲う孤独感に耐えられなかったのだ。
何よりも、ソレイル以外の人間に心を寄せることを、恐れていたの
かもしれない。

787
﹁でも、貴方は見つけたのね⋮⋮。私を、見つけた﹂
私と違って、カラスは諦めなかった。それは彼が強かったからでは
ない。そのくらいもう気づいている。寂しくて、悲しくて、苦しく
て、どうしようもなくて。耐えられなくて、求めずにいられなかっ
たのだと。人というのは、もともとそんな風に作られているのかも
しれない。
私を見つめるカラスの黒い瞳が、月の光を取り込んだ雨粒を映し出
す。うるうると輝いて、今にも落ちてきそうだ。儚くて、美しい。
﹁⋮⋮ねぇ、カラス。知っている? 意味があったのよ。⋮⋮愛さ
れないのにも意味があった﹂
幼い頃、両親はなぜ、私を抱きしめてくれないのだろうと思ってい
た。妹だけが大切にされることを不思議に思っていたし、ただただ
悲しかった。唯一、自分のものだと胸を張って言えるのが婚約者だ
ったけれど、その人は、私に見向きもしなかった。
ずっと長い間、理由を知ることができなかったから、苦しくて仕方
なかった。
けれど。
母ではない人を想い続ける父、敬愛すべき姫君の娘に心を捧げた母、
婚約者の妹に恋をしたソレイル。
愛されない理由を当てはめてみると、何となく彼らの気持ちも分か
る。⋮⋮ような気がした。
﹁でも、もういい﹂

788
そんなことはもう、いい。そう、いいのだ。だって。
﹁だって、貴方﹂
﹁私を、﹂
﹁愛しているのね﹂
そう言って、微笑もうとしたけれど、失敗した。抑えきれないほど
の胸の痛みに、くしゃりと顔がゆがむ。想いを返されることがない
と知りながら、それでも私を捜し続けたカラス。
いつだって彼は、そうだった。
︱︱︱︱︱いつかのときは、娼館で死にかけていた私を世話し、薬
を飲ませてくれたことがあった。高額なはずの薬を何度も持ってき
てくれて。だけど、何の見返りも求めず。ついに、アルフレッドを
連れてきたのだ。
結局、助かることはなかったし、あのときも温かさとは無縁の場所
で息絶えたけれど。
本当は、独りなどではなかったことを、知っている。
カラスはずっと傍にいて、私を見ていたのだ。
窓ガラスの向こう側から、そっと。
﹁イリア⋮⋮っ、イリアっ、﹂
だから、それで良かった。カラスが傍にいるなら、それだけで、他
には何もいらなかったのだから。

789
﹁⋮⋮イリア、⋮⋮待って﹂
私を抱きしめるカラスの指が、皮膚に食い込む。肉体から離れよう
としている魂を逃すまいと、縋り付いてくる。けれど、もう終わり
が近づいていると分かる。
貴方を抱きしめてあげたい。でも、もう力が出ない。
眠りに落ちる瞬間と同じように、ふっと、どこかへ落ちていく感覚
がして。
命を終えたのだと、分かった。
それなのに、私の意識は消えることなく、再び、辺りの空気と混ざ
り合う。
そして、これまでと同じく、カラスを﹁見て﹂いた。
﹁どうしたら、君を助けられる⋮⋮?﹂
激しさを増した雨音にかき消されてしまうほどに小さな声だった。
ほとんどうめき声に近かったかもしれない。だというのに、絶叫し
ているようにも聞こえた。そのくらい、苦痛に満ちていたのだ。
﹁どうしたら君は、生きていてくれるんだ⋮⋮﹂
事実、彼は泣いていた。私の体を抱きしめて、ぶるぶると全身を震
わせながら。
﹁⋮⋮イリア、僕はどうすればいい? どうすれば、君を助けられ
る⋮⋮? 教えてくれ、﹂
﹁どうか、僕を、助けて﹂

790
﹁、君を、助けられるように﹂
震える声は、耳を澄まさなければ聞こえないほどに心もとないとい
うのに、確かに、叫んでいる。
でも、違う。カラス。⋮⋮それは、違う。
私はもう、誰かに助けてもらいたいとは思わない。救いが欲しいわ
けでもない。
それは、諦めてしまったからではない。私は、知ったのだ。これで
いいと、理解した。
カラスの、あまりに長すぎる生を見てきて、やっと理解したのだ。
私はもうずっと前から、救われていた。
それに。
私は漸く、ソレイルの手を離すことを選ぶことができたのだ。シル
ビアを彼に託し、彼らが共に生きる未来を望んだ。
引き裂かれるような痛みはあったけれど、その選択は正しかったと
胸を張って言える。
いや、仮に間違っていたとしても、私はやはり同じ道を選ぶに違い
ない。
もしも再び、あの茶会の日に戻されるとしても。私はもうソレイル
の傍にいることを望まないし、彼とシルビアの幸福を願う。⋮⋮強
がりなんかではなく、真実、そう思っている。
何度も、何度も、同じ時間を繰り返してきたからこそ。そう、思え
るのだ。

791
だから。
今度は、私が、カラスを助ける。貴方がそれを望むのなら。
そして、次があるとすれば、そういう人生を送りたい。与えられる
から、与えるのではなく。
ただ、与えることのできる人間になりたい。
カラス。私の、黒い鳥︱︱︱︱︱。
私、貴方と一緒に生きたい。
一緒に、生きてみたい。
792

永遠とも、一瞬とも思える奇妙な沈黙の後。
﹁⋮⋮、っ、﹂
息を吐きだす音が、耳に響いた。まさに、深い眠りから覚める瞬間
のように。
真っ黒な汚泥から引っ張り出されるかのごとく、ずるりと意識が浮
上する。鼻の奥を冷たい空気が通り抜けて、肺が大きく膨らみゆっ
くりと萎んだ。それを合図に、視界が白く塗り替わる。
眩しいと感じる間もなく、今度は、ちかちかと星が瞬くように目の
前が明滅した。
思わず両目を擦りたくなるような衝動に、瞬きをしているのだと理

793
解する。
﹁︱︱︱︱︱イリア、﹂
ぼやけた視界がじわりと輪郭を描き、解けるように晴れていく。
やがて、完全に開けた視界の向こうに、夜にしては明るく、朝にし
ては薄暗い空が広がった。真上は炭のように濃いけれども、端に向
かって段々と淡く薄くなっていき、思い出したように黄色や紫が混
じり合う。
あさぎ
その幻想的ともいえる浅葱を割るように、背の高い木々たちが思い
思いに枝を伸ばしていた。重なり合う樹冠が白く縁取られたように
眩く見えるのは、遠くにあっても存在を主張してくる淡い月のせい
なのか。
今にも消え入りそうなのに、仄かな光を地上に届けようと足掻いて
いる。
やはり、未だ夢の中にいるのだろうか。
だって、声を失うほど美しい払暁を背負うように、⋮⋮彼がいる。
さらりと揺れる黒髪と、白磁で作られたかのような染み一つない顔、
たが
鈍く光る黒曜石の瞳。どれをとっても違えようがない。
あまりにも、どうしようもなく懐かしい。
そして、胸に去来する強烈なほどの既視感に、心臓が大きく音をた
てて耳を塞ぐ。金属が震えるような耳鳴りから逃れるように、はっ
と息を吐けば、目前に汚泥の中で息絶えたときの光景が蘇る。
そう、まさに今。私はあのときと全く同じような状況に居た。
横たわったまま力なく彼を見上げている私と、跪いて私の顔を覗き
込んでいる彼。また、懲りもせずいつかの日を繰り返しているのか

794
と勘違いしそうなほどには、全てが似通っている。
違うことと言えば、雨が降っていないことくらいかもしれない。
茫然とただ見つめていれば、震える唇がそっと言葉を紡いだ。
﹁僕の、お姫様﹂
お姫様なんて、あまりにも慣れない呼び名だというのに否定もでき
ず、ただ、そっと息を呑んだのは。彼の冴えた輪郭をなぞるように、
はらりと水滴が落ちたからである。どこから拾った光なのか、きら
りと揺らめきながら零れた一粒は、空中で弾けて消えた。
ともすれば見逃してしまいそうだったけれど。
﹁どうして?﹂
﹁どうして泣いているの?﹂
続けて名を呼ぼうとして、あえなく失敗する。
私自身も、ひどく動揺していたのだ。言葉にできなかった名前の代
わりに、擦り切れるような吐息が漏れた。
まさしく息のかかる程の距離にいるその人の返事を待ったけれど、
彼はそもそも、自分が泣いていることにすら気づいていないようだ。
黙ったまま、恐々と私の頬に触れる。
相変わらず指先が冷たくて、心地いい。
かつて、この指に、縋ったことがある。
﹁⋮⋮カラス?﹂
今度こそ、と覚悟して呼んだつもりなのに、思ったよりも弱弱しい
声になった。聞こえなかったかもしれないと再び口を開くも、小さ

795
く揺らぐ黒い双眸がひたすらに私を見つめていて。どうやら彼の耳
にはしっかり届いていたようだと知る。
言葉はなかった。でも、いっそ雄弁とも言えるほど、声なき声で語
るカラスがそこに居る。
それもまた、あの雨の日の再現のようだった。
大声で泣き出す一歩手前。泣きたくないと我慢していような、くし
ゃりと歪んだ表情が胸を突く。
とはいえ、穿った見方をするなら、過ぎる喜びを受け止めきれない
ようでもあった。
そんなカラスの様子に引きずられるように、首元を締め付けられて
いるような感覚になる。心が共鳴しているみたいに、切なくて、苦
しくて、痛い。
至って馴染みのある苦い感情だった。何度も何度も飽きるほどに経
験した。もはや知り尽くしていると言っても過言ではない。
私にとって、生きるということはまさに苦しむことと同義だったの
だから。改めて実感すると共に、突然、思い至る。
生きている、と。
はっと閃くかのごとく、麻痺していたように動かなかった指先がぴ
くりと跳ねた。地面に触れていた中指がざらついた砂の感触を拾う。
まさに、五感が蘇るかのようだった。
ふと、胸元に違和感を覚えて確かめれば、雨も降っていないのにド
レスがじっとりと濡れている。
生地がもともと暗色だから分かりにくいが、どす黒い染みが広がり、
ところどころ赤い。
︱︱︱︱︱そうだ。
私は確か、⋮⋮死んだはずだ。サイオンの投げた短剣が肉を切り裂

796
き、為す術もなく地面に倒れた。
シルビアの慟哭と、私を助けようとしたソレイルの顔。命の終わり
を予感したその刹那を鮮明に思い出す。迫りくる死に視界を奪われ、
そうして鼓動を止めた。忘れるはずがない。
何度も繰り返してきた死であり、幾度めかの死でもあった。
終わったはずだ。そのはずなのに、なぜ。
﹁⋮⋮私、どうしたの⋮⋮? さっき、私⋮⋮死んでしまったかと
思ったのに﹂
戸惑いがそのまま言葉になる。身じろげば、肩に添えられた手の平
が慰めるようにゆっくりと動いた。いつの間にそうなったのか、中
途半端に体を起こしていた私を、彼が支えてくれている。
守られるように、慈しまれるように抱き込まれていた。
﹁やっと﹂
﹁やっと、見つけた。僕の、お姫様﹂
私の声が聞こえているのか、いないのか。彼は震える唇で、言葉を
切りながら慎重に告げた。
慈しむような、あるいは切なさの籠る声だ。温度すら感じそうな声
音に耳を震わせて、かつてはもっとひんやりとした声だったはずと、
些末なことを思い出す。
鍵のかかった、牢獄にも似た豪華な部屋で﹁捕らわれのお姫様﹂と
呼ばれたあの日。
いないはずの赤ん坊を腕に抱き、部屋の中をうろうろと歩き回って
いた私は、現実と悲痛な夢の狭間で藻掻いていた。気休めに口ずさ

797
んだ子守唄に、不安定な精神がますます落ち込んでいくなんて誰が
思うだろう。
我が子という名の闇をかき抱くその姿は、きっと滑稽だったはずだ。
狂気の中にいながら、それでも正気を失わずにいた私を見て、カラ
スはいかにも愉快そうに嗤っていた。
私のことをお姫様と呼んだのは嫌味だったのか、単なる軽口の一つ
だったのかもしれない。もしかしたら、深い意味などなかった。
あのときの彼にとって、私の存在など﹁そんなもの﹂だったに違い
ない。
取るに足らない存在。
それなのに。
﹁さっき、貴方の声を聞いた気がしたわ。やっぱり、そう言ってた。
僕のお姫様って。⋮⋮でも、どうして? 私は一度だってお姫様だ
ったことはない。私はいつだって⋮⋮、﹂
物語の脇役だった。だから、何度人生を繰り返したところで、結末
を変えることができなかった。
主役のための筋書きが、端役のために書き換えられるなんて、まず
起こり得ない。物語はあくまでも、﹁主人公にとって﹂の大団円に
向かって突き進むのだから。
初めからそうだった。
知っていたのに、それでもずっと夢を見ていた。
シルビアのようなお姫様であれば。あの子のような存在になれたな
ら。もしかしたら幸福な未来がやってくるかもしれないと。
けれど結局、私は私で。
何度繰り返そうと、私は私であり続けたし、他の誰かになんてなれ
やしなかった。

798
そんなことを支離滅裂に、何度も息を吐きだしながら溺れるように
いびつ
告げると、カラスが歪に笑う。
自分もそうだと。
﹁僕の人生の主役は、僕じゃなかった。僕は自分の人生を生きてき
たけど⋮⋮、それでも僕の人生の主役は僕自身じゃなかった⋮⋮﹂
分かるような分からないような、真意を計りかねる言葉に首を傾げ
れば、
﹁僕の人生の主役はいつだって、︱︱︱︱︱君だった﹂と、思いも
よらないことを口にする。
自分は主役じゃないから、君を助けられなかったと。
インクを薄めたような儚い笑みの、瞳の奥にだけはっきりと本心を
映し出す。
深い、絶望だ。
﹁いつも、いつも、君を助けられなかった﹂
最後の方は声が潰れて、耳を澄まさないと聞こえないほどだった。
苦しいという言葉だけでは足りない。
悲しいという言葉だけでは表せない。
報われない想いというのは、どうしてこれほどに痛いのだろう。
私もよく、知っている。
記憶に残るのは、苦しみばかり。それでも、
﹁違う。それは絶対に違うわ。だって、貴方が私の前に現れるとき、

799
私はいつだって救われるのよ。いつだって、何度でも﹂
ずっと、知らなかっただけだ。私を救う為に命をかけて尽くしてく
れた人がいたことを。
最後の最後にはとうとう諦めて人生に見切りをつけた私とは違い、
この人は諦めなかった。ただの一度も。そのおかげで私はここにい
る。
死んでしまったにも関わらず、呼び戻された。
今度は、時間が戻ったわけでも、人生をやり直すわけでもない。
続きを、始める。
カラスによれば、それは奇跡というものらしい。
言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。死という、人間に
は絶対に避けることのできないはずのものが覆ったのだから。それ
を奇跡と呼ばずして何と呼べばいいのか。
しかし、奇跡を起こすのは神ではない。
強い想いが、運命を最善へと引き寄せるのだ。
閉ざされた世界で、もがき苦しみながらそれでも生きてきたのは、
きっとこの瞬間の為だった。
ここが本当の、終幕である。
この一瞬の為に、生きてきた。
﹁イリア、﹂

800
視線の先にはやはりこちらを見つめている黒い虹彩がある。零れ落
ちるような柔らかい眼差しに、心ごと全身を包み込まれるようだっ
た。
その温もりに遠慮なく甘えることができる。許されている。
もう誰にも責められることはない。みっともないと咎められること
も、恥ずべきことだと罵られることも。今の私はソレイルの婚約者
でも、シルビアの姉でも、伯爵家の令嬢でもないのだから。
淑女でいなければならない理由はなく、矜持などもはや意味を持た
ない。生身の﹁イリア﹂という人間がいるだけだ。
何も、ない。
でも、温かい。
そうして、これまでずっと震えるほどに寒かったのだと気付く。
温もりを知り、寒さを覚える。
貴族の令嬢がゆえに、生まれながらに恵まれた環境にあり、あらゆ
るものを与えられてきたけれど。私が真に求めていたのはこれだっ
たのだ。
欲しいものは﹁ここ﹂にあった。
すべて失くしてしまったけれど、私は、やり遂げたのだろう。
だから。
﹁私、貴方と、生きていく﹂
さわ
腕を伸ばせば、覗き込むように私を抱きしめるカラスの背中に触れ
る。
幻でも、夢でもない。私達は現実を、生きている。

801
﹁私も、貴方も、幸せになるのよ。⋮⋮私は貴方を幸せにして、貴
方は私を幸せにする﹂
カラスの双眸から、塊のような水滴がぼろりと落ちて、私の顔に降
ってくる。
雨粒みたいに、次から次へと。
まるで、あの雨の日みたいに。
﹁⋮⋮だって、カラス。貴方は、
私を、愛しているんでしょう⋮⋮?﹂
信じがたいものを見ているかのように大きく見開かれた目。それす
ら既視感があった。
けれど、決定的に違うのは、これは悲劇ではないということ。あの
雨の日のように、終わりゆく命を繋ぎとめようと必死になっている
わけでも、繰り返される別れに慟哭しているわけでもない。
私は、まさにこの指で希望に触れている。
一度、カラスの腕から抜け出して体勢を整え、膝をついたまま正面
から彼を見据える。子供のようにあどけない顔をしているその人は
身動き一つしなかった。手の平でその冷たい頬を包み込めば、零れ
る涙が皮膚を濡らす。温かいような気がして、何だかとても不思議
だった。
現実世界に居て、なのに、現実と幻想の堺に存在しているかのよう
なカラス。
けれども、ここにいる。ぎゅうっと強く抱きしめれば、一層、彼の
存在を強く感じることができた。
どこか茫然とした様子の彼は、おずおずと私の背中に腕を回し、確

802
かめるように私の名を呼んだ。
﹁⋮⋮違うよ、イリア﹂
﹁え?﹂
﹁愛しているなんて⋮⋮。それは、多分違う﹂
﹁、﹂
身動きできないほどにぴったりと隙間なく重ねられていた体を、更
に強く抱き寄せられて。
﹁愛なんて短い言葉じゃ縛れない。声に出して表現することなんか
叶わない。僕が君に、どれほどの想いを抱いているかなんて誰にも
分からないはずだ。きっと、想像すらできない﹂
こんな気持ちは、世界中で僕だけが知っているとカラスは続ける。
愛よりももっと深く、愛よりももっと強く、愛よりももっと苦しい。
そんな気持ちを人はまだ知らないんだろうと。あまりにも長すぎる
年月の中で抱いた感情は、とても一言では表現できないと。
﹁この世界で僕だけが知っている。⋮⋮僕だけが、君だけに、抱い
てる﹂
﹁でも、何て言えばいいか分からない。言葉を尽くしたって伝えら
れる気がしない。何て言えばいい、何て言えば伝えられる⋮⋮?﹂
苦しそうに、嗚咽を挟みながら肩を震わせている。
そして、大きな塊となった涙がいくつも零れ落ちた。
﹁愛しているという言葉以外に、ない。見つけられない。他に、な
にが、ある⋮⋮?﹂
どんな告白よりも、どんな愛の言葉よりも、胸を打つのに。これは

803
愛じゃないという。
端的に、愛という言葉で理由付けできた感情なら、どれほど良かっ
ただろう。
だって、これが本当に愛と呼ばれるものなら。誰もが知っているは
ずの﹁愛﹂なら。これほどの執着にも、愛なら仕方ないと折り合い
がつけられたはずだ。もしくは、破滅に導くほどに強い感情との向
き合い方を、誰かに教えてもらえたかもしれない。
けれど、この想いは自分だけのもので。他の誰にも理解できないと、
もう分かっている。
仕方がないから、愛と名付けるよりほかにない。
この世界のまだ誰も知らない想いを、私も、知っている。
そしてきっと、こういう想いを、誰もが知っている。


血に染まったドレスを隠す為に着せられたカラスのローブからは、
懐かしい香りがした。
記憶の一番深いところまで侵食するという﹁におい﹂
他のすべてを忘れても、においだけは記憶に残るのだという。
だからだろうか。呼び起こされるように、彼と共に過ごした日々の、
何気ない思い出が蘇る。

804
﹁もっと僕の方に寄りかかって。傷は消えているようだけど、失っ
た血が戻ったかどうかは分からない。⋮⋮気分は、悪くない?﹂
とりあえず安全な場所に避難しようと拾った辻馬車は決して乗り心
地が良いとは言えなかった。車輪が土を踏むと大きく揺れて体を突
き上げる。痛みに顔を歪めていると、カラスに肩を抱かれた。
素朴な馬車には装飾の類は一切なく、通常貴族が乗るものとは違っ
て人が乗る部分は箱型ではない。雨を防ぐ程度の屋根がついている
だけだ。座席部分はむき出しである。
吹き抜ける風が心地よいといえばそうなのだが、体調が万全とは言
えない今、どうしても皮膚が粟立つ。
それでもどこかほっとしているのは、生き返ったとはいえ、一度死
んだ場所から逃れることができたからに他ならない。
かつて、あそこには、シルビアの遺体があったはずだ。
何度も繰り返してきた人生の、始まりの場所でもあった。
いつまでも居たいとは思えない。
二人座ればそれだけでいっぱいになる椅子でカラスと身を寄せ合う
ようにして暖を取る。けれど、そもそも体温を持たないような人と
温め合おうとしたところで、意味がないのかもしれない。
それが何だか可笑しかった。
﹁⋮⋮イリア? 大丈夫?﹂
顔を見るまでもなく声音だけで、彼が私のことを案じているのがよ
く分かる。
﹁大丈夫﹂と返しながら、光を増していく空と、まだ誰も起きだし
ていない街並みを眺めた。あまりの静けさに、これまでもことがす

805
べて夢だったのではないかと思えてくる。
そもそも、昨日まではソレイルとサイオンが死闘を繰り広げるなん
て想像したことさえなかったのだ。
実際、さっき息を吹き返した後、しっかりと立ち上がって周囲を見
回してみたけれど、そこには﹁何も﹂なかった。
それどころか、確かに地面に倒れたはずのサイオンも、その仲間た
ちの姿もなかったのである。
誰かは分からないが、きれいに後始末をしたのだろう。
死んだと思われていたはずの私はそのまま捨て置かれていたので、
要するに、後処理をした人間は﹁あちら側﹂の人間だというのが推
察される。
回収する必要がないから、置いていかれたのだ。
一体、どこからどこまで仕組まれていて。どこからどこまでサイオ
ンが関わっているのか。
それすらよく分からない。
けれども、ともかく。私にはまだやるべきことが残っている。
決意新たに顔を上げれば、ふと、﹁髪の毛。せっかくきれいなのに
⋮⋮、汚れちゃったね﹂と、カラスが言った。
結構な速さで進む馬車の、転がる車輪音に消されてしまいそうな音
量だった。
それでも、その言葉が妙にはっきりと耳に届いた。
﹃君がどんな髪色をしていようと、どんな目をしていようと、どん
な顔かたちだって、⋮⋮どんな君でも、僕は君を、美しいと思うよ﹄
昔、聞いた耳障りの良い声が蘇って、胸が痛い。あのときの彼と、
今ここにいるカラスは同じ人間なのだろうか。⋮⋮いや。きっと、
そうなのだろう。

806
だって、同じ﹁瞳﹂をしている。
﹁カラス﹂
﹁ん?﹂
冷たい顔に、静謐をそのまま浮かべたような眼差し。そこに、戸惑
うほどの優しさを滲ませている。
きっと、私が何をしても、何を言っても、許すのだろう。許されて、
しまうのだろう。
﹁︱︱︱︱︱私、今から死ぬわ﹂
ひゅっと息を呑んだ彼が勢いよく私の体を引きはがす。両肩を強く
握られて、痛みに顔が歪んだ。
それでも彼は私を離さない。真意を探ろうとしているのか、怪訝そ
うでありながらとても真剣な顔つきだった。
けれどやがて、小さく息を吐いて﹁⋮⋮、本当に、死ぬわけじゃな
いんだね?﹂と、感情をねじ伏せるようにそっと口にする。
その言葉はまさに核心をついていた。
多くを語らずとも、何となく思っていることが互いに伝わる。だか
らと言って言葉を惜しんでいいわけではないけれど、人に誤解され
てばかりだった己の人生を思えば。私のことを理解しようと努めて
くれる存在はとても貴重だった。
繰り返してきた私の人生と、あまりに長すぎる彼の人生で、ほんの
一瞬しか交わらなかった私達の時間。それでも、なかったわけでは
なく、意味があった。
短くとも共有してきた時間が、私たちを﹁ここ﹂に導いたのだ。

807
﹁でも、今から協力者を捜すには時間がかかりすぎる﹂
頭の中に、知りうる限りの顔が現れては消える。巻き込むわけには
いかないと思うのに、巻き込まなければどうにもできない事情があ
る。けれど、誰かを危険に晒してまで生き延びることに、やはり罪
悪感を覚えるのだ。︱︱︱︱︱この期に及んでまで。
すると、
﹁それなら僕に、心当たりがある﹂と、カラスが言う。
思わず﹁貴方に?﹂と聞き返したのは、彼が私以外の誰かと繋がり
を持っているなんて考えられなかったからだ。
﹁僕だって、ただ何となく長い間を生きてきたわけではないんだよ。
特に﹃一度﹄君を失ってからは﹂と、自嘲気味に、だけどどこか得
意げに笑った。
そして少しの間をおいて、ぽつりと告げる。
﹁見て、イリア︱︱︱︱︱﹂
﹁夜が、明けた﹂
808
2︵後書き︶
︵あの日。君を抱きしめて、たった一人で見上げた︱︱︱︱︱、︶
809

初めは粗末な馬車だと思ったけれど、乗り慣れてくれば見晴らしの
良さに少しだけ気分が上がったのが分かる。先ほどまでの悪寒が嘘
のように、今度は、自覚するほど頬が熱い。
緋色に濃紺、紫に薄紅色と様々な色が溶け合っている朝焼けにはう
っすらと帯状の雲が浮いている。単純に美しく、目が醒めるような
心地になった。きっとこれは、私たちの行く末を暗示しているのだ
と、知らず内に唇が緩やかな半円を描く。
﹁前を向く﹂というのは、こういうことなのだろう。
向かう先に希望があると信じられるから、顔を上げることができる。
そしてそれは、こんなにも眩い。

810
天上から降り注ぐ容赦ない光が街全体を明るく染め抜き、それが合
図だとでもいうように、あちらの家、こちらの家の窓が勢いよく開
け放たれていく。そこから顔を出した住人たちは互いの目があえば、
それとなく会釈をしたり、挨拶を交わしている様子だ。室内の空気
を入れ替えるついでに交流を図っているらしい。
そのまま、後ろに向かって流れていく景色を見るともなしに眺めて
いると、やがて市場に差しかかった。果物や野菜、日用雑貨などを
品出ししている様子の商人たちが忙しなく動き回り、何があったの
か時々、大声で笑い合っている。
いつの間にか、街全体が朝を迎え、目覚めていた。
いかにも喧噪に満ちた賑やかそうな空間で、活気あふれた雰囲気だ。
常に静寂と共にある伯爵邸との、あまりの違いに面喰う。日常生活
では音をたてないことがマナーで、声をたてて笑わないことが決ま
りだ。足音をたてずに歩き、動作はなるべくゆっくりと指先まで意
識して、あくまでも品良く。そういう風に生きてきた。
けれどだからといって、どちらが良いのか優劣をつけるつもりはな
いし、そもそも比べる必要もない。
ただ﹁違うだけ﹂なのだから。
誰もが皆、己の世界で必死に生きている。
不安に苛まれ、この世の悲壮を全て背負っているかのような苦痛と
共にあった人生で、初めてそう思う。
土砂降りの中で逃げ惑った夜、人攫いに腕を掴まれたあの日。売り
払われ、光の届かない場所で足掻き、もがいて、もうどうしようも
ないと悟った瞬間。いつでも死を覚悟しながら、それでも簡単に終
わらせることはできなくて。
﹃どうして、私だけ﹄︱︱︱︱︱何度も繰り返し、頭の中を過った

811
言葉だけれど。
あの日々が今は、随分、遠い。
﹁⋮⋮イリア?﹂
優しい声に顔を上げれば、握っていたカラスの手が少しだけ強張る。
心配されているのだと分かって、何でもないと首を振った。
﹁そんな顔をして、大丈夫なんて説得力がないってことに気づいて
る?﹂
微苦笑を浮かべた彼の細い指が私の顔を撫でる。輪郭を確かめるよ
うに触れた後、さっきまではどことなく楽しそうだったのに、と言
われてしまっては、カラスには隠し事もできないような気がした。
﹁まぁ、いいか。時間ならある。分かり合うのに十分すぎるほどの
時間を、僕たちは一緒に過ごすんだよ﹂
楽しそうに笑うその姿に既視感以上の何かを覚えるのは、過去に出
会ったいつかのカラスと重ね合わせているからだろうか。
﹁ふふ、また⋮⋮そんな顔をして⋮⋮﹂
それはきっと、鼻先が触れそうなほどの距離で私の目を覗き込むこ
の人も同じで。眦を細めて穏やかな雰囲気を醸し出しているが、う
まく言い表せない哀切も滲ませている。
私の中に、私の知らない﹁私﹂を見ているのだ。
この感覚は私達だけが共有できるもので、この先ずっと抱えていく
ものでもある。
過ぎ去ってしまった時間や、失ったものを再び取り戻すなんて術な
んて、本当はどこにもない。だから、振り払うことができない感情
を持て余したまま、生きていくしかない。
できるのは、新しく積み重ねていくことだけ。

812
﹁⋮⋮ところで、この馬車はどこに向かっているの?﹂
御者に行先を告げたのはカラスだったけれど、どこへ向かっている
のか教えてくれなかった。﹃僕に任せて﹄とやけに自信たっぷりに
言うものだからついお任せしてしまった。
﹁まぁ⋮⋮、行けば分かるよ﹂
そもそも、カラスはどこからどこまで理解しているのだろうか。
私の人生について、いや、私とシルビアの生い立ちや両親との複雑
な関係まで把握しているのだろうか。きちんと説明すべきなのかと
逡巡していれば、
﹁大丈夫だよ﹂と声がかかる。そんなに緊張しなくてもと朗らかに
笑う顔に首を傾ぐ。いつもと同じ笑み、でも決定的に何かが違う笑
み。
︱︱︱︱︱彼は、こんなに感情豊かだっただろうか。
温度の感じられない皮膚と、柔和な笑みを張り付けたかのような顔
は相変わらず人形じみている。その存在自体の印象は薄く、恐らく
ほとんどの人間は彼がここにいることに気づいていない。
だけれど、先ほどは確かに、御者と言葉を交わし﹁会話﹂をしてい
た。
どこまでも不可思議だ。
鳥になったり猫になったり、あるいは少年だったり。到底、人とは
思えないし、人ではないと断言できる。一方でひどく人間じみてい
る。
﹁イリア、あのね。⋮⋮頑張れば何でもできるわけじゃない。だか
ら、いくら頑張ったところで一途な想いが通じるわけじゃない。努
力すれば必ず夢がかなうというわけでもない。現実は、もっと厳し

813
くて残酷だから﹂
﹁⋮⋮ええ、そうね﹂
十分すぎるほどに、思い知らされた。
﹁でもだからこそ、誰のことも気にかけず、誰にも気にかけてもら
えない⋮⋮なんてことがあれば生きてはいけない。必要なんだよ。
生きるっていうのは、そういうことなんだ﹂
誰かを気にして、誰かに気にされて、夢を見て、希望を抱き。そう
して現実を乗り越えていく。
﹁誰かを気にして、⋮⋮気にされて⋮⋮﹂
心臓をぎゅっと掴まれた感覚に呼吸が浅くなる。
そうか、私は誰にも気にされなかったから生きてこられなかったの
か。
﹁違うよ?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁気づけなかっただけなんだ﹂
﹁え、﹂
﹁知らなかっただけなんだ﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁きっとそれだけなんだ。でも、それはとても重要なことだったん
だろうね﹂
﹁イリア。僕以外にも、いたんだよ﹂

814
﹁君を気にかけていた人は、いたんだ﹂
**
それまで揚々と街中を駆けていた二頭の馬はやがて、ある場所で脚
を止めた。街とは違い、寂然としているそこはどこか空気が張り詰
めている。あまりにも覚えがある。
あれほど馬車を走らせたというのに︱︱︱︱︱、
﹁どうして?﹂
己の唇が震えているのは、知らされずとも分かった。
いつの間にか、マチス伯爵邸のすぐ側に来ていたのだ。伯爵邸の目
の前というわけではなく、あくまでも近すぎず、遠すぎない位置で
はあるが。間違えるはずなどない。
貴族の屋敷らしく荘厳すぎるほどに立派な外観は目に痛いほどの白
亜。等間隔に並んだ窓のガラスは磨き抜かれていて、陽の光を余す
ことなく集めている。これぞ貴族の屋敷だという存在感には圧倒さ
れそうだ。
普段、遠出などしないし、乗り慣れている箱型の馬車からは外の様
子がよく見えない。それに、学園に通う以外でどこかへ出かけたこ
となんて数えるほどしかなかった。そのせいで、己の生家だという
のに、こんなに近づくまで気づけなかったのだろう。
何度も繰り返し、人生をやり直してきたというのに。
こんな風に、私はこれまでも、あまりに多くのことを見逃してきた
に違いない。
﹁そんなに深刻そうな顔をしなくても大丈夫だよ、イリア﹂
何度も何度も、言い聞かせるように﹃大丈夫﹄を繰り返すカラスの
顔を見る。
柔らかく細められた眦にそっと息を吐いた。

815
あくまでも静かに辻馬車から降りて、意味などないけれど、まるで
どこかの間者のように息を潜める。
さすがに表門のほうに近づけばさすがに誰かに気づかれる可能性が
あると踏んだのか、そちらは避けて、厩舎が置かれている方︱︱︱
︱︱屋敷の裏側に向かう。
﹁辻馬車だとさすがにここまで来るのはまずいかなって思ったんだ
けど、使用人たちも使うことがあるし、恐らく今は、屋敷の中がば
たばたしているだろうから誰にも見られていないよ。だから安心し
て﹂
﹁⋮⋮いいえ、そうではなく﹂
誰も見ていないとはいえ声を張ることはできないし、足音をたてな
いように慎重に歩く。
﹁私はここにはもう二度と帰ってこないつもりだったわ﹂
﹁だろうね。もちろん分かっていたよ﹂
﹁⋮⋮なら、なぜ﹂
﹁必要なことだからだよ﹂
くるりと体を反転させて、猫に変化したカラスがちょっとここで待
っていてと示したのは、我が家の敷地を囲む鉄柵の外側だった。黒
い毛に覆われた小さな体を滑らせて、柵の下にできた細い隙間から
敷地内に侵入するカラス。その後ろ姿を見送る。
柵に沿って、背の低い木が等間隔に植えられているので裏庭の全貌
を把握することはできないが、目測するには難しいほどに広大であ
ることは分かる。遠くに見える噴水のところでカラスの姿は完全に
見えなくなり、取り残されたような気分になった。
昨日まで柵の向こう側にいたことを思うと、どこか奇妙でもある。

816
しゃがみ込んで、なるべく体を小さくすれば、おのずと思い起こさ
れるのは幼き頃のこと。
目の前に生い茂る緑の間に映り込むのは、私がシルビアに命を救わ
れた厩舎で。あの瞬間の出来事が、遠い日に見た夢のように淡く滲
んで消えていく。
この伯爵邸の敷地内が、人生の全てだった。とても広くて、とても
狭い。
瞬きをする度に、これまでに経験してきたあらゆる場面が瞼の裏に
映し出される。その一つ一つが、昇華されていくようで。
人間というのは、こんな風に過去の出来事を忘れ去って、新しく思
い出を重ねていく生き物なのだ。
私もきっと、そうなる。けど、
﹁⋮⋮、忘れられるのかしら⋮⋮?﹂
息もできないほどの苦しみを。
洋服にローブを重ねているからかひどく熱い。何となく額を拭えば、
汗が浮いていた。もしかしたら熱が出ているのかもしれない。
そんなことを思いながら立ち上がれば、じゃり、と砂を踏む足音と
猫の甲高い泣き声が響いた。
﹁⋮⋮お嬢様、﹂
よく知った声が耳に届く。低く掠れた、しわがれた聞き馴染んだ声
だ。
まさか、と刮目したまま後ずさりする。
︱︱︱︱︱見つかった!

817
逃げなければと踵を返そうとすれば﹁にゃおん﹂という愛らしい鳴
き声が。呼び止められたのだと分かって、声の主を見れば、首を傾
いだ小さな猫がお座りしてこちらを見ている。
思慮深い眼差しを注がれて、焦る心が凪いでいった。
カラスがここにいるということは、これは決して不測の事態ではな
いということだ。
意を決して、ほんの数歩先でこちらに近づくのを止めて留まってい
る人物に視線を向ける。目があえば、その人は唇を戦慄かせた。
細く息を吐き出すように口にした﹁本当に? 生きて⋮⋮、﹂いた
のかという言葉は最後まで続かない。普段からはっきりと物を言う
この人にしては珍しかった。そんな私の心情を知ってか知らずか、
年老いた家令の落ちくぼんだ目が小さく光を灯す。その光が何と呼
ばれるものか見極めようとしたけれど、一度強く閉ざされた瞼の向
こうから再び現れた双眸には、いつものごとく深い影が落ちるだけ
だった。
私を見て、安堵したのか。それとも不信感を募らせたのか。推し量
ることなどできるはずもなく。
ともかく、わざわざ声に出して私が生きていることを確認するとい
うのは、既にシルビアが屋敷に戻っていることを示している。何が
あったのか聞かされたはずだ。
ソレイルも一緒だろうか?︱︱︱︱︱きっと、一緒だろう。
﹁⋮⋮この猫が、屋敷の中に侵入してきて⋮⋮。私の足に纏わりつ
くのです。追い出そうとしましたし、何度もお前に構っている暇は
ないと言ったのですが。私の目を真っすぐに見上げる、この小さな
顔を見ていると⋮⋮、無視していい存在ではないような気がして⋮
⋮﹂

818
悪いことをしているわけでもないだろうに声を潜めたモリスは、言
い訳じみた口調でこちらを窺う。
ひどく、変な気分だ。
父の後ろに付き従うこの家令は、いつもどこか冷徹な眼差しをして
いた。抑揚のない声で指示を出し、大勢の使用人たちを纏め上げる
姿は、カラスよりもずっと機械人形じみていたと思う。
冴えた雰囲気は他人を拒絶しているようであり、気軽に声を掛ける
ことなどできやしない。

実際、屋敷の中を忙しなく動き回る彼には息を吐く暇もなかったこ
とだろう。
わたくし
﹁私は他人よりも直感に優れているほうだと自負しております。だ
から、ここに来られた。そして、貴女様を見つけることができまし
た﹂
惑うように差し出された右手が、足元に向かって広がったローブに
触れそうになる。思わず後退したのは、自己防衛だったかもしれな
い。
﹁⋮⋮わたし、私、は、⋮⋮死んだのよ。貴方が見ているのは、亡
霊だわ﹂
胸を刺されて、死んだのよ。言葉にすれば、その事実が重くのしか
かる。私はもう、この世にいない。
イリア=イル=マチスは死んだ。
まばらに生えた草の上に置き去りにされた哀れな死体。それが私だ。
何処にいたのか、植木の一つから小鳥が、チチと小さく鳴いて飛び
立つ。柔らかく吹き抜ける風の音が耳に痛かった。家令の足元に座
り込んだカラスはただ、そのガラス玉のような澄んだ瞳で事の成り
行きを見守っているだけだ。私の視線を追うように黒猫に視線を落

819
とした男が、深く息を吐く。
かつて何度も耳にした音に反応して、勝手に身が竦んだ。
父や母、あるいは侍女や侍従が、呑み込むこともできずに吐き出し
た溜息とよく似ている。
やがて顔を上げたモリスは、私の全身を観察するような鋭い眼差し
で見つめた後、右手で自分の片眼鏡に触れた。少しだけ角度を調整
したのか、眼鏡にはめ込まれたガラスが太陽の光を反射する。
﹁すっかり目の悪くなった私に旦那様がくださったものです。⋮⋮
しかし、目が悪くとも真実を見抜くことはできます。ここで﹂
皺ひとつない黒い上着の胸元を差し、心なしか姿勢を正した老齢の
男は、ふと空を見上げた。
その目が、遠ざかっていく小鳥の黒い影を追っている。
﹁私にとってもっとも大切なのは、マチス伯爵です。先代からそう
であり、代替わりしようと、私の信念が変わることはありません。
だから、ずっと旦那様の心情を慮って参りました。あの方の意思が、
私の意思でもあるからです﹂
聡明なこの人は、私が一体、何をしようとしているのかよく理解し
ているのだろう。
胸の奥に秘めたもう一つの眼で、他人とは違う視点で物事を見つめ
ている。
そうだ。あのときもそうだった。︱︱︱︱︱母が自らの首に刃を突
き立てたとき。母に危害を加えたのが私だと信じて疑わない父が振
り上げた拳を止めてくれたのが、マージであり、そしてこの家令だ
った。
時間が戻る前のことである。だからこの人は当然、あんなことがあ
ったとは知らない。母は今も、生きている。
﹁イリア様の婚約が、我が家にもたらすものの大きさは、一言で説

820
明できるようなものではありません﹂
身分違いともいえるほど、爵位に大きな隔たりのある侯爵家との婚
約だ。良くも悪くも、我が家にもたらされるものは大きい。何度も
やり直してきた人生の中で、嫌と言うほど思い知らされた。
﹁旦那様とて、両手話でこの婚約を喜んだわけではないのです。決
して、こちらからは断ることのできない婚約の打診に⋮⋮、あの方
とて、多少は動揺しておられた﹂
﹁⋮⋮、﹂
思い出話に花を咲かせるように目を細めた家令が再び、私の顔を捉
えた。
﹁しかし、幼い貴女にはさぞ、残酷なことだったでしょう﹂
﹁⋮⋮え、﹂
慈しむような眼差しを向けられて瞠目する。そんな顔は、今まで一
度も見たことがない。
﹁その苦しみを理解していながら、私は貴方を救わなかった。手を
差し伸べることもしなかった。助けるべきではないと信じていたの
です。貴女が一人でやり遂げることに意味があると、そう思ってい
た﹂
何の話をしているのか、もはや理解の範疇を越えている。言葉を失
うと共に、呼吸を忘れていたのをカラスの﹁にあ﹂という鳴き声が
教えてくれた。
﹁結論から述べると、私にはきっと、貴女を助けることができたで
しょう。何事もシルビア様を優先されるご両親のせいで孤独だった
貴女に、優しく声を掛ける機会はいくらでもあったのです。それで
も私は、私自身の意思で、助けなかった。それが正しいと信じてい
たから﹂
﹁だから、私は⋮⋮、そう。じいは今、貴女という人を失くしまし

821
た⋮⋮﹂
幻なら、何を語っても構わないでしょうと、モリスは小さく微笑む。
歪んだ唇が、泣くのをこらえているようだった。けれど、
そんなの意味ないわ⋮⋮!
幼い頃の私が、頭の中で叫んでいる。
落ちた涙の跡で文字が滲んでしまった語学の書物を、暖炉に放り込
んだあの頃。ぱちぱちと音をたてて燃え上がる炎に安堵した。
どんなときも毅然と顔を上げ、微笑む。それが貴族の子女としての
あるべき姿だから。そう教えこまれては、できないことに苦しむ姿
など誰にも見られたくはなかった。
そもそも、侯爵家嫡男の婚約者になってしまえば﹁できない﹂なん
てことはあってはならない。
いっそのこと癇癪を起して泣き叫ぶことができたなら少しは気分が
晴れたのだろうけど、多分それは、悲鳴を聞いてくれる人がいてこ
そ成り立つもので。
誰もいない場所で、いくら泣いたって救ってくれる人などいやしな
い。
立ち竦んだまま、燃やした蔵書を再び手に入れるための算段をして
いる己がどうしようもなく滑稽だった。
他には誰もいない部屋。何時間籠っていても、誰一人として様子を
見に来ない。孤独というのが何なのか、きっと誰よりも早く知って
いた。
︱︱︱︱︱だけど、それはもう過去のこと。あの頃の私を救うこと
などもう、できない。

822
﹁ソレイル様は大怪我をしておられますが、貴女を置き去りにして
きたと悔やんでおいでです。アルフレッドが、すぐにでも貴女を迎
えに行こうとしていましたが⋮⋮、状況が状況です。国が関わって
いる以上、下手に動くべきではないとの旦那様からのお達しがござ
いました。貴女はもう、死んだものと⋮⋮思えと⋮⋮。そう、判断
なされたようです﹂
遺体を確認することもなく捨て置かれた事実に、胸が痛まないわけ
ではない。しかし、私がもし父の立場であったならきっと、同じ判
断を下しただろう。生きているか死んでいるか分からない人間の為
に、他の人間を危険に晒すことはできない。かの地を踏んだ途端、
急襲される可能性だってある。
﹁けれど、アルフレッドならば、いつかきっと貴女を捜し出すでし
ょう。義理堅い男です。貴女に忠誠を誓っている。貴女の遺体をそ
の手で葬るまで、死んだとは思わないでしょう。︱︱︱︱︱だから
くさび
こそ、楔となる人間が必要だ。あの男が、間違っても、真実に触れ
ることのないように見張る人間が﹂
こう見えても、私は、やり手なのです。貴女の死を、間違いのない
ものにしてみせましょう。
﹁アルフレッドだけでなく、旦那様や奥様、シルビア様⋮⋮、侯爵
家の方々も含めて。貴女が死んだと信じるように⋮⋮、私が責任を
もって手配いたしましょう﹂
目尻をそっと細めて、彼が胸元から差し出したのは懐中時計だった。
昔、私がソレイルの婚約者と定められるよりもずっと前。彼のこと
を﹁じい﹂と呼んでいた頃。
秘密を打ち明けるようにそっと、懐中時計の秘密を教えてくれた。

823
早くに亡くした父親から受け継いだものだと。
﹁どうぞ、これをお持ちください。本当は金銭を工面できればいい
のですが⋮⋮、私には自由にできるお金がありません。この時計さ
ほど高額ではありませんが、安くもありません。売れば、数日の宿
代くらいにはなるでしょう﹂
首を振る私の手を取り﹁なりません。貴女は今、遠慮などしてはな
らないのです。死者ならば、今はそれらしく振る舞って、口を閉ざ
してください。お願いです⋮⋮﹂囁くように、まるで正論を口にし
ているかのような強さで呟く。
﹁私にできるのはもう、これくらいしか、⋮⋮、⋮⋮、﹂
モリスは言葉を失くしたのか何度も唇を開いては閉じ、結局、祈る
ようにこう続けた。
﹁︱︱︱︱︱イリア様。お嬢様﹂
わたくし
﹁⋮⋮私の姫様。どうか、﹂
﹁⋮⋮、どうか、お幸せに﹂ 824
3︵後書き︶
もう二度と会えないから。
許されなくてもいい。
どうかその幸せだけは、祈らせてください。
どうか。
どうか。
825

近くに待機させていた辻馬車に乗り込んで大きく息を吐き出す。唇
が震えたのは気のせいではない。
瞼を閉じれば否応なしに色んなことを思い出す。忘れようと思えば
思うほど、そうなる。
そして、たった今、別れを告げたばかりのモリスを考えてしまうの
もまた仕方のないことだった。
繰り返す人生のあまりに残酷な記憶。その中で、家令の印象が強く
残っているかと言えば、そうでない。
︱︱︱︱︱けれど。
よくよく思い返せば、彼が本当はそれとなく私の味方をしてくれて
いたのが分かる。

826
はっきりと示すことはなかったけれど、何かが起こったときは、あ
くまでも両親の肩を持つようなふりをして、私に責めがいかないよ
うにしていた⋮⋮、のではないだろうか。
例えばそう。今生で、母の自害を止めようとした私がまるで予定調
和のように父から責められていたとき。己の首をかき切ろうとした
母のナイフを拾い、父に見せたのは確かに家令で。
それに、そうだ。あの場にシルビアを連れてきたのも彼だった。
怪我をした私を診せる為という理由で、シルビアの診察をしていた
医師を呼んだモリス。シルビアはそのとき、呼ばれた医師に勝手に
着いてきたということだったけれど。
もしかしてモリスはあえて、あの子も一緒に連れてきたのではない
だろうか。
あのとき、いわゆる錯乱状態にあった私は、激情に任せてそれまで
胸のずっと奥の方にしまい込んでいた本音を叫んだ。どうして誰も
愛してくれないのかと。
あまりに感情が高ぶっていたので、あのままだったら、他に何を口
走っていたか分からない。
両親への恨みつらみだけでなく、もしかしたら耳を塞ぎたくなるよ
うな暴言を吐いていたかも。
でもそれは、自分自身を裏切る行為だ。淑女になる為にとただひた
すら努力してきた自分を、︱︱︱︱︱これまでの人生を否定してし
まうようなものである。
あるいは、父や母が、再び私を追い詰めるようなことを言っていた
可能性だって否定できない。全て想像でしかないけれど、要するに

827
あの場では誰が何を言ってもおかしくなかったということだ。
そこに現れたのが、シルビアである。
空気を読んでいないかのようなあの子の声。ふんわりと空気を漂う
みたいに現れた妹のおかげで、父は多少なりとも落ち着きを取り戻
した。
その優しい口調が耳に残っている。
私にとってそれは、とても悲しいことだったけれど。
興奮状態にあったあの場の熱が、妹の登場により霧散したのは事実
だ。
もしも。モリスが私のことを少しでも大切に想っていてくれたなら。
私の為に、シルビアを連れてきてくれたのかもしれないとも思う。
つい、そんな風に考えてしまう。
﹁⋮⋮、いいえ、そんなはずないわね。馬鹿馬鹿しい⋮⋮﹂
何もかもが推測の域を出ない。空想だ。﹃もしもそうだったらいい
な﹄という願望を詰め込んだ、空しい絵空事。
他人の心なんて誰にも読めない。
﹁イリア? どうしたの?﹂
声を掛けられて、いつの間にかマチス伯爵家からは随分、離れてい
ることに気づいた。
﹁具合が悪い?﹂
カラスが心配そうに私の顔を覗き込む。馬車に乗る直前で人型を取
り、御者に行先を告げたようだったが、またもや私は蚊帳の外だっ
た。
﹁⋮⋮モリスのこと。どう折り合いをつければいいか分からなくて
⋮⋮﹂

828
﹁ああ、あの家令ね﹂うんうんと訳知り顔で頷くカラスがその幼げ
な相貌で言う。
﹁いいじゃんない? もう忘れたら。だって、もう二度と関わるこ
とはないんだよ?﹂
あまりに無邪気だ。
﹁そう、そうよね。確かにそうだわ﹂
けれど、どこか腑に落ちない。もう考えるのはよそうと思っても、
何となく気になる。
そんな私とはどこまでも対照的なカラス。
﹁⋮⋮あ! そういえば、さっき時計をもらってたでしょ? 見せ
てくれない?﹂
彫刻がとってもきれいだったよね、とモリスが私に懐中時計を手渡
した一瞬でそこまで見ていたのかと感心を覚えつつ、傷どころか指
紋すらなさそうな手の平に銀色の時計を載せる。
多少の傷はあるけれど丁寧に磨かれているのがよく分かった。
長い鎖のついた何の変哲もない、ごくごく普通の懐中時計だ。
﹁これ、壊れてるね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
文字盤を見せられて、初めて気づく。秒針が同じところをいったり
きたりしている。つまり、進んでいないのだ。時を刻むのを止めた
ような奇妙な動きをしていると思った。
﹁でも、そんなはずないわ。モリスはよくこの時計を見て時間を確
認していたもの﹂
﹁じゃぁ、最近壊れたのか。もしくは、壊れた時計を見ていたのか﹂
﹁⋮⋮壊れた時計を見るなんて、そんなわけないじゃない。新しい
ものを買えばいい﹂
最近は手ごろな価格で懐中時計が出回っている。
使用人でも購入するのは難しくないだろう。
﹁壊れた時計を換金しろなんて、どういう冗談だろうね﹂

829
ふふ、と笑ったカラスの顔を見る。表情から読める情報はない。彼
はただ微笑を浮かべているだけだ。
﹁⋮⋮いいの。最初から売るつもりはないわ﹂
壊れていては二束三文どころか、売れるかどうかすら怪しい。
﹁どうして? だってこのまま旅に出るなら現金は必要だよ? 泊
まるところすら確保できない。野宿でもする? それも楽しそうだ
けど﹂
答えようとしたところで、馬車がガクンと揺れる。舌を噛みそうに
なって、思わず口を閉じた。
﹁⋮⋮というのは冗談で。本当は当てがあるから大丈夫﹂
私の顔を覗き込むようにして、カラスが髪に触れてくる。
再会してから、やけに距離が近い。他人とここまで近づくことは滅
多にないし、ましてや異性だ。いつだって適切な距離感というもの
があり、それが礼儀でもあった。
唯一、夜会のときはソレイルとダンスを踊るので、限りなく距離を
詰めるけれど。できる限り体が接触しないように気を付けていた。
彼が、嫌がると思っていたから。
﹁それにねぇ、この時計。壊れてるけど⋮⋮、それは問題じゃない
んだよね﹂
じっと文字盤を眺めていたカラスが、指で表面のガラスを叩く。そ
して、耳元に近づけて時計を軽く振った。
﹁⋮⋮やっぱりね﹂
一人でうんうん頷いた後、手の平に載せてこちらに寄せてくる。カ
ラスの視線を追って手の平にちょうど収まるくらいの懐中時計を見
れば、彼はいとも簡単にリューズを引き抜き、文字盤を覆っている
ガラスを外した。
﹁えっ﹂

830
留め具が甘くなっていたのか、どういう仕組みなのかよく分からな
いが、文字盤と時を示す針がむき出しになる。カラスはそのまま文
字盤を指で押した。
馬車はいつの間にか舗装されていない道を走っている。そのせいで
ひどく揺れた。
肩を支えてくれるカラスに倒れ込むようにして分解された時計を覗
き込めば、外れた文字盤の下から時を刻むためのカラクリが現れる。
そこに。
複雑に組み込まれた小さな部品の隙間に、色鮮やかな石がはめ込ま
れていた。
﹁⋮⋮何? 何なの?﹂
口から零れたのはそんな言葉だったけれど、本当は察しがついてい
る。
﹁宝石だね﹂
さらりと告げられた事実に心臓がはねた。
﹁落としたら大変だから元に戻そう﹂カラスは軽い微笑を浮かべた
まま、細い指で器用に懐中時計を組み立てていく。
懐中時計の小さな部品の間に納まるような、小さな石だ。それでも、
本物を目にしてきたから分かる。
﹁大金にはならないね。でも、価値がある。換金すればそれこそし
ばらくは食うに困らない﹂
ね? と同意を求められて思わず頷いた。
けれどすぐに、はっと我に返る。
﹁⋮⋮こんなのは駄目だわ!﹂
叫んだつもりだったけれど、喉元が締め付けられたようになる。語
尾が不安定に消えた。

831
そうだ。こんなことは良くない。決して、良くない。
﹁そうかな? これはきっと、彼が示すことのできた最大限の愛情
の形だと思うけど?﹂
愛を宝石に換算するなんて認めない人間もいるだろうけど、誰が何
と思おうと関係ないよね?とカラスは片方の眉を寄せてどこまでも
意味深な顔をする。
﹁家令とは言え、使用人。自由にできるお金なんてほとんどない。
貴族に仕えているとは言え、給金はきっと相場だろうね。だとすれ
ば、彼は与えられた金銭のほとんどをこうやって宝石に変えたこと
になる﹂
ここにあるのは、それくらいの額の石だよ。と続けて、懐中時計を
握らせてくる。
﹁重いよね? 彼はきっと、それくらいの覚悟で君を送り出したん
だ。自分がこれまでに得たものを、文字通り全部、差し出したんだ
よ﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁もちろん、彼のやったことを全て肯定しているわけではないけど。
彼が言っていた通り、あの人は君を助けなかった。一度だって、手
を差し伸べなかったんだから。僕にとって彼は、︱︱︱︱︱モリス
という人間は許しがたい存在だ﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁でも、誰にだって経験があると思うんだよね。伝えたいことが、
伝えられなかったこと﹂
僕だってそうだし、君だってそうでしょう?と言われてしまえば、
反論できない。
たくさんの言葉を呑み込んで生きてきた。それでいいと思っていた
し、そうすべきだと自分に言い聞かせて。

832
﹁許す必要なんてないよ。ただ、受け取るだけでいい。彼の思いを
捨てるのは君の自由だけれど、持っていたって何も困らないでしょ
? モリスの想いがあまりに重たくて君を苦しめるっていうなら別
だけど﹂
よしよしと慰めるみたいに頭を撫でられる。小さな子供みたいで恥
ずかしい。
手の平に返された懐中時計はひんやりとしていた。
文字盤の下に宝石を隠して、時を知らせる役目さえ放棄した小さな
時計。
壊れた振りをして、本当に大切なものを仕舞っている。
それがどこまでもモリスを思い起こさせた。
冷然とした眼差しと一度も笑ったことなどないかのような凝り固ま
った表情。だけど、胸の奥に大切なものをしまい込んで、隠してい
る人。
﹁⋮⋮イリア、﹂
懐中時計の繊細な彫りの上に、ぽつりと水滴が落ちる。雨かと思っ
て見上げれば、つんと鼻の奥に痛みが走った。
﹁どうして泣いてるの?﹂
﹁⋮⋮分からないわ、私にも﹂
﹁そう﹂
指で頬を拭えば、確かに泣いている。悲しいわけでもないのに不思
議なことだった。
﹁変だね。僕も、泣きそうだ﹂
そう言った刹那、カラスは一度だけ強く目を閉ざす。泣くのを堪え

833
ているのだと分かった。
﹁僕たち、泣き虫になったんじゃないの?﹂と揶揄うような口調で
潤んだ瞳を向けてくるから、思わず笑ってしまう。
勢いよく駆け抜ける馬車の上で、二人分の笑い声が騒音に紛れて消
えた。
**
どのくらい馬車を走らせたのか、そろそろ休憩を入れないと体も限
界だとカラスを見れば﹁もうちょっとで着くから﹂とまた、意味深
な笑みを浮かべる。
そうして数分後にたどり着いたのは小綺麗な宿屋だった。
泊まるお金がないと言えば、彼は少し驚いたような顔をした後﹁大
丈夫﹂と頷く。
﹁イリアは協力者が必要だって言っていたけど、協力者ならもうい
るんだ﹂
﹁⋮⋮そう、ね。貴方、確かにそんなことを言っていたわ。心当た
りがあるって﹂
﹁うん﹂
ついさっき、辻馬車の御者にお礼を述べた後、カラスが胸元から金
貨を出したときはさすがに驚いた。金貨に刻まれた見覚えのない印
字に首を傾げていると、外国から出稼ぎに来ていたらしい御者が﹁
あっ﹂と声を上げる。聞いたところによると、とても価値のあるも
のらしい。
本物かどうか訝しがる男だったが、偽物でもこれだけ繊細な刻印が
施されているのであればそれなりに価値はあるだろうとカラスが告
げれば、一転、喜色の表情を浮かべて金貨を受け取っていた。

834
﹁あの金貨、誰かにもらったの?﹂
﹁⋮⋮ああ、あれ? あれは僕のものだよ。ずっと昔に手に入れた
ものだし、世界を渡るときになくなってしまうかと思ったんだけど、
大丈夫だったみたいだね﹂
何かあったときの為に、服の中に金貨や銀貨、銅貨を隠しているの
だと言う。
﹁手品師みたいだわ﹂
呟けば﹁奇術師のほうがいいかも⋮⋮﹂と予想外に生真面目な顔を
して返される。
﹁似たようなものじゃない﹂
馬車の上でカラスは、胸元から取り出した小さな紙で蝶を折り、飛
ばした。
投げられるようにして風に乗った蝶が、翅を動かしたのにはさすが
に驚いて声も出なかった。
﹁︱︱︱︱︱ところで、貴方ってどういう存在なのかしら﹂
誰にも見えていないのかもしれないと思ったこともあったが、実際
はそうではないらしい。
確かに、重ねてきた人生のいくつかの場面で共にあったカラスは、
夢か幻のような儚い存在だった。
事実として﹁見えずらい﹂存在であるのは間違いないだろう。
一方で、私がかつて自ら命を絶った後、カラスが妹と話をしていた
ことを考えれば。
誰にも見えないというわけでもない。
今だって、御者も宿の受付にいた人も、当たり前にカラスと言葉を
交わしている。
首を傾げていれば、自身も考え込むような素振りをした後﹁そうだ
ね﹂と一人で頷いた彼が言う。
﹁僕っていわば、人形と同じだからね。要するにこれまでは単に人

835
形扱いされてただけなんじゃないかな?﹂
﹁⋮⋮ちょっと、意味が分からないわ﹂
﹁うーん。例えば、君が今腕に人形を抱えているとする。その場合、
僕は君に話しかけることはあっても、人形に直接﹃元気?﹄なんて
声を掛けることはないじゃない? 人形が視界に入っていても、そ
れと会話をしようなんて思わない。人の形をしていたって、あくま
でもただの人形だからね﹂
﹁そう、ね。そうかもしれないわ﹂
﹁中には人形に声を掛ける人もいるかもしれないけれど。⋮⋮まぁ、
これまでにもそういう人がいなかったわけじゃないし。あまり多く
はなけれど﹂
君だってその内の一人だね。
﹁⋮⋮今はもう、ただの人形ではないってことかしら﹂
﹁さぁね。それはまさに神のみぞ知るって話だろうけど﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁ただの人形だろうと、人間だろうと、どちらにしろずっと君と一
緒にいるよ﹂
約束できるのはそれくらいだと言って、私の手を握るカラス。
温度のない指先にももはや慣れてしまった。だけど、それを寂しい
とは思わない。
﹁それとも、こんな得たいの知れない奴が傍にいるのは嫌?﹂
卑屈になっている様子ではなく、どこか面白がるような声音で訊い
てきたカラスは、子供がするように繋いだ手を軽く揺らした。
じっとこちらを見つめる黒い双眸に、慌てて首を振る。
﹁まぁ、嫌だって言われても離れていったりしないけど﹂
そっちの方が怖いかな?と、今度は何を考えているか分からない眼
差しをした。
私を見ているようで、見ていない目だ。

836
﹁カラス﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁ずっと、傍にいてほしいわ。そして、ずっと私を見ていてほしい。
目を逸らさないで﹂
すると、一つだけ瞬きをした少年が﹁ふふ、﹂と吐息を漏らすよう
に笑う。
黒曜石のような目にいくつもの光が宿った。
﹁君が望みを口にすると、僕はどうしてこんなに嬉しいんだろう﹂
﹁そんなことを言うと、私は我儘ばっかりになってしまうわ﹂
﹁⋮⋮いいよ。もちろんいいに決まってる﹂
カラスがあまりに晴れ晴れと笑うから、本当に何もかも許されてい
るのだと実感する。
私はずっと、ソレイルの婚約者としてしか生きてこなかった。自制
こそが美徳であり、いずれは侯爵となるはずの彼を支えることが人
生そのものとなるはずだったのだ。
けれどもう、何者も目指す必要がない。心許ないと思うのも仕方の
ないことだけれど。
今日からは、新しい自分として生きる。
ソレイルの婚約者としてのイリアは死んだ。覆すことのできない事
実であり、真実となる。
﹁とりあえず、何か食べたいものがあれば言ってほしいな。まずは
そこからでしょ﹂
借りた部屋は広くはなかったけれどベッドが二つあり、浴室まで完
備されていた。庶民にはなかなか泊まることのできない部屋だ。

837
初めて利用するはずなのに、どこか慣れた様子のカラスは、後で必
要なものを買いに行こうと言いながら、服の中に隠し持っていたら
しい銀貨をテーブルに並べる。どこにそんな枚数を入れていたのか。
そして、ちょっと待っていてと部屋を出ると、すぐに戻ってきて何
の飾り気もない衣服を手渡された。
いわゆる市井の女性が当たり前に着ている服である。
﹁宿の人に交渉して譲ってもらった。古着で悪いんだけど、市井に
紛れるにはこういう服のほうがいいから。後、⋮⋮ちょっと、血の
染みを見てるのが僕も辛いから﹂と。
借りていたローブを脱いで腕に抱えていた私に、気まずそうな視線
を向ける。
宿の人が浴槽にお湯を貯めてくれるそうだから汚れを落として、こ
の服を着て。その後は仮眠をとって、目が覚めたら食事をして買い
物だねと、実に手際よく予定をたてていく様子を眺めていると、ど
うしても娼館にいた頃のことが頭を過る。
あれはすでに失くした人生であるが、私という人間の一部であるこ
とには違いない。
﹁⋮⋮一緒に眠ってくれる?﹂
﹁ふふ、寂しいの?﹂
﹁ええ、きっと⋮⋮そうだわ﹂
考える間もなく口から零れた言葉だった。つと、微笑を消したカラ
スが﹁子守唄でも歌ってあげようか?﹂と首を傾ぐ。
どこかで聞いたようなセリフだと思いながら頷けば、沈黙が下りる。
じっと、その白皙の顔を眺めていると黒い瞳が潤んでいるような気
がした。
﹁カラス?﹂

838
見られたくなかったのか、顔を背けた少年は﹁君は本当に、ここに
いるんだね﹂と呟く。耳を澄ましていなければ聞こえないような声
音だった。
思わず本音を漏らしてしまったみたいな。
﹁貴方こそ、本当にここにいるのね?﹂
訊いていながら、そうであってほしいと願うような口調になってし
まって。慌てて口を閉じる。
どうしても現実味がないのは、互いに同じなのかもしれない。
﹁これから、少しずつ理解していけばいいと思う。僕たちにはきっ
と時間が必要だから﹂
そっと手を重ねて互いの顔を見合う。己を人形と称した彼の顔には、
少しの疲れも見えない。長い睫毛の頬に落ちた影が揺れるだけだ。
不確かな存在。今でもすぐに消えてしまいそうだと感じる。
それでも、彼は私の傍にいると言った。離れてはいかないと。
﹁毎分、毎秒、証明するよ。僕はここにいるって。だから君もちゃ
んと証明してほしい。ずっと、傍にいるってことを﹂
とりあえず今は湯あみが先だね。受付に言ってくるよと、部屋を出
るカラスの後ろ姿に思わず追いすがって。腕を伸ばしたときに気づ
く。
︱︱︱︱︱痛くない。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁腕が、痛くないわ﹂

839
﹁? どういう意味? もしかして怪我してるの?﹂
慌てた様子で室内に戻るカラスに、袖を巻くって腕を見せる。少し
緩んだ包帯には血が滲んでいた。
そこには、母が持っていたナイフでできた切り傷があるはずだった
けれど。
カラスに包帯を解いてもらえば、そこにあったはずの傷がなくなっ
ていた。縫合の跡もなければ、血が流れた様子もなく、瘡蓋すら見
当たらない。
﹁全部、何も、なかったみたい﹂
胸に空いていた穴と共に、腕の傷も消えてしまったようだ。
サイオンの手から放たれたナイフに刺されて倒れたことも、母の自
害を止めたことも覚えているのに。
﹁⋮⋮何だか、怖いわ﹂
呟けば、眉を寄せて何とも言い難い表情をしたカラスが私の手を握
る。
﹁怖いことじゃないよ。これは、絶対に﹂
﹁どうして分かるの?﹂
﹁だって、君は生きてるじゃない﹂
言われて、己の心音を意識してみる。拍動が聞こえるというよりも、
胸の奥で臓器が動いているのをはっきりと感じた。
﹁死んだつもりだったとしても、君は確かにここにいて生きてる。
︱︱︱︱︱僕も、そう。僕たちは今、生きてる。それはとても幸せ
なことだよ。怖いことなんて一つもない﹂
﹁そう、かしら﹂

840
生きていることが、すなわち幸福なのだとは思っていない。でも、
何度も死んで蘇った身としては、生きていることがどれだけ幸せな
ことなのかというのは理解できる。
﹁それに、傷が消えたって何もなかったことになるわけじゃないで
しょ? 心に刻まれた記憶は消えないよ。苦しいことも悲しいこと
も、経験したもの全部ひっくるめて君なんだ﹂
﹁⋮⋮ええ、そうね﹂
﹁それに、忘れたいほどのことでも、どうせ忘れられないと思う﹂
﹁⋮⋮、﹂
﹁忘れたいことほど忘れられないものだし﹂
嬉しいことや楽しいことだけ覚えていることができれば、それが一
番かもしれないけど。
でも、僕はそれを望まないよ、とその人は言った。
﹁かつての苦しみや、悲しみ、怒りをはっきりと覚えているほど今
の自分を肯定できる気がするから﹂
841
842

宿の人が用意してくれた湯舟は、とても心地の好いものだった。
柔らかなお湯に包まれていると、こびりついていた血や泥と一緒に、
溜まっていた疲労まで溶け出していくようだ。
全身が重く、ぼんやりとしていたらそのまま眠ってしまいそうにな
る。これではかつての二の舞だと早々に浴槽を出てカラスが用意し
てくれた服を着た。
古着ではあるが汚れはなく、むしろ洗いたての匂いがする。仕立て
がいいとは言えないが、長く着られるように、あくまでも丁寧に縫
製されているのが分かった。ごわごわとした感触なのは厚めで頑丈
な生地だからだろう。これも市井ならではのような気がする。
いつも身に纏っていたドレスは当然オーダーメードであるから、身

843
体と衣服の間にはほとんど隙間がなかった。侍女の手伝いがなけれ
ば着脱も難しいほどなのだが、貴族女性の纏う服というのはだいた
いそのように作られている。足に絡みつくように翻る丈の長い裾と、
華奢であることを誇るような細いウエストの華美なドレスは、私自
身を貴族に縛り付けるものでもあった。
だから、今はすごく楽だ。息がしやすい。
譲り受けたものであるからサイズが合わないせいもあるが、気分的
な問題でもある。
血に塗れたドレスは捨ててしまおう。そう思いながら浴室を出た。
﹁⋮⋮何だか、顔が赤いね﹂
ベッドの上に座り込んでいたカラスが首を傾ぐ。白いシャツに黒い
ズボンという、飾り気のない恰好であるが、足を投げ出していても
どこか品がいい。
﹁イリア?﹂
﹁⋮⋮あ、いいえ。何でもないわ﹂
﹁そんなことないでしょう? 何か、変﹂
首を傾げるカラスの白い頬に踊る黒い髪。馬車の上でさんざん風を
浴びたというのに、砂埃を被った様子はない。
じっと眺めていると、ふと、先ほどまで借りていた彼のローブが壁
にかけてあるのに気づく。
血がついてしまったのではないだろうか。生地が黒いせいでよく分
からない。
私の視線を追ったカラスが、ふんわりと笑った。
﹁あとでちゃんと洗うよ。それよりも君、﹂
手招きをされて、ベッドのほうに寄る。
﹁そうね。貴方の言うとおり、お湯に浸かっていたからちょっと熱
いかもしれないわ﹂
濡れた髪をタオルで押さえた。水滴がぽつりと、木製の床を濡らす。

844
元々そんなに離れていないのにわざわざ呼び寄せるなんて何かある
のかと訝しめば﹁ふふ、﹂と堪えきれなかったように吐息を漏らし
た少年が言う。
﹁乾かしてあげるから、おいで﹂
でも風を起こす魔法はまだ使えないから、拭いてあげるだけになっ
ちゃうけど。と、理解の範疇を越えるようなことをさらりと口にし
た。
﹃まだ﹄使えないということは、その内、風すらも自由に扱うこと
ができるようになるのだろうか。
﹁後で髪に塗れるようなオイルも買おうね。せっかくきれいな髪を
しているんだから大事にしないと﹂
カラスに背を向ける格好でベッドに腰かければ、渡したタオルで首
筋から耳の後ろを優しく拭われる。
ついでに緊張しっぱなしだった筋肉をほぐしてくれた。肩のあたり
をぐいぐいと押されて笑みが零れる。
ずっと遠い昔。
ベッドに腰かけた私の膝に頭を載せて寝転がっていたカラス。
いくつもたわいない話をした。
妹を、︱︱︱︱シルビアを助けてほしいと頼んだあの夜。
もしもあのあと、何の問題もなく人生が続いていたなら。私とカラ
スはどんな結末を迎えていたのだろう。
少なくとも、今生で再び巡り合うことはなかった気がする。
﹁少し、休んだら?﹂
﹁⋮⋮そう、ね。そうするわ﹂
うとうとと微睡むような睡魔が襲ってきた。いっぺんに色んなこと
が起こって、頭が情報を処理しきれないのかもしれない。そのまま

845
ベッドに横たわる。
体が熱いからか、生乾きの髪が少し冷たい。
﹁約束通り、子守唄を歌ってあげる﹂
優しい声がして、ほんの僅かにベッドが軋む。うっすらを目を空け
れば、私と同じように横になっているカラスが、こちらを見ていた。
狭いベッドに二人きり。いつかの再現のようで心臓がひりつく。幼
い顔をしたカラスが薬を飲ませてくれた。弱り切った体で寝返りさ
えろくに打てない私の横に並んで。その冷たい手がそっと、私の手
を握った。
本当は今もまだ、あの古びたベッドの上にいるのだろうか。
全てやり遂げたというのは、現実ではなく、夢の中の話で。
だとすれば、私は一体、どこにいるのだろう︱︱︱︱︱、


﹁⋮⋮きっと生き延びて⋮⋮、幸せになるのよ。そして、もしも⋮
⋮、﹂
﹁もしも、⋮⋮黒い鳥が現れたなら選択を誤らないように﹂
それが母の最期の言葉だ。頬の肉を失ったやせ細った顔に優しい笑
みを浮かべていた。
死を目前にして、あれほど穏やかだったのはなぜだろう。
あまりに過酷な旅路で疲れ切っていた母。本当は村を出たそのとき
から体のどこかを悪くしていたようなのに、幼い私の為に不調を隠
していた。だから、旅の間も医師の診察を受けたことはない。ゆえ

846
に薬を飲んだこともなく、だからといって栄養のあるものを食べら
れたわけでもない。
時々、思い出したように襲う腰の痛みに呻く姿を何度か見かけたの
で、大丈夫かと問えば﹁私も年かしら﹂と儚く笑う。その姿に嫌な
予感がしたのに。
一刻も早く王都へと、旅路を急ぐ母を止める術はなかった。
ひとつき
そうして、故郷から離れて一月が経過した頃、歩くことすらできな
くなったのだ。
とうとう道端に倒れこんだのはその後で。巻き込まれる形で下敷き
になってしまい、圧し潰されそうになった。息ができない。小さな
体ではどうすることもできずにもがいていると、
﹁大丈夫?!﹂︱︱︱︱︱誰かが手を差し伸べてくれた。
たまたまその場に居合わせた若い女性である。
危なげない手つきで助け起こしてくれたその人は、弱り切った様子
の母を案じて、自分が働いている宿屋で休んでいけばいいと提案し
てくれた。さらに、格安で部屋を提供してくれるという。両親が経
営している宿だから融通が利くのだと。
もしかしたら、善人の振りをして近づいてくる人攫いの類かもしれ
ない。そんな懸念はあったけれど、もはや形振り構わず助けを呼び
たいくらいには切羽詰まった状況だったので、ためらいつつも伸ば
された手を掴んだ。
よく知りもしない赤の他人に助けを求めるなんて愚かなのは分かっ
ていたけれど、だからと言って代替案も浮かばない。
危機的状況において打開策を練られるほど、知識があるわけでもな
かった。
︱︱︱︱︱結果的にいえば。
彼女を信じようと思った私の直感は正しかったのだけれど。
こうして出会ったのも何かの縁だからと、医者まで呼んでくれたの

847
にはさすがに驚く。診察代も不要だということで、神様のような人
もいるのだと思ったものだ。
でも、だからといって﹁現実﹂は優しさなど見せてくれない。
宿に入ってから数刻もせず現れた老医師から宣告された母の病状は、
とても笑えるようなものではなかった。
幼くとも言葉を失うことがある。がくがく震える唇を両手で押さえ
た。
ここまで歩いてこれたのが不思議なほどだと、感心するようにため
息をついた医師が私の頭を優しく撫でる。
﹁こんなに小さい子がいるのに⋮⋮、可哀相だけれど﹂
仕方ない。という言葉が刃物になって突き刺さった。しがみつくよ
うにベッドに手を伸ばせば、母の細い指が私の目元を拭う。
掠れて消えた﹁ごめんね﹂という声。口を開けば﹁どうして置いて
いくの﹂と責めるようなことを言ってしまいそうで、ただ唇を嚙ん
だ。
﹁数日ももたないだろう﹂という医師の言葉通り、母がそっと息を
引き取ったのは、その翌々日のこと。
亡くなる前、思い出したように黒い鳥の話をしたことが気になるが、
確認しようにも、もう訊くことはできない。
こんなことになるくらいなら村を出るべきじゃなかったと後悔した
ところで、全てを失っては何の意味もなかった。
たった一人、取り残された形となった私はただ茫然とするしかなく、
今後のことなど考えることもできない。
困り果てた宿の従業員が、街の葬儀屋に頼んで母の遺体を荼毘にふ
してくれた。そして、私を施設に入れるための手筈を整えてくれた
のである。しかし、ここで異を唱える人間が現れた。
どこの馬の骨とも分からない子供を、街の有力者の寄付で運営する

848
施設に入れるのはいかがなものかと。
つまりこの街の生まれでもないのに面倒を見る筋合いはないという
ことだ。
それはそれはすごい剣幕でまくしたてられたので、嫌でも己の置か
れている状況を実感する。完全に厄介者だった。
その内、親切の限りを尽くしてくれた宿の人まで白い目で見られる
ようになったので、街に居座ることもできず。一人で王都を目指す
ことになった。
もともと持っていた路銀は既に底を尽き、日銭を稼ごうにも、子供
の身では使い勝手が悪いようで仕事がない。娼館に入って見習いか
ら勤めればと、親切なのか何なのか助言を与えてくれる人もいたけ
れど、借金があるわけでもないのにそんな所に入ればさすがに母が
悲しむだろうと思った。
街を出るときに餞別だと二枚の銅貨を渡されて頭を下げれば﹁引き
取ってあげられなくてごめんね﹂と宿の老夫婦が泣く。私と母を助
けてくれた女性は、彼らの一人娘らしい。親子揃って、本当に人が
いい。
だけれども、思いやりだけではどうにもできないことだってある。
﹁大丈夫﹂だと笑ってみせることが、礼を述べることよりも重要だ
った。
本当は、とても怖かったのに。
あれほど必死に王都を目指していたけれど、母がいなければ何のた
めに向かっているのかもわからない。元々、母の親戚を頼っての出
京だったのだが、さほど親しい仲でもなかったらしく村を出る前に
一度だけ手紙のやり取りをしただけだ。それでもその人を頼らざる
を得なかった。
それほどに村は、困窮していたのである。

849
長期間、雨の降らない日が続き、農作物は枯れ、蓄えていた僅かな
乾物も数えるほどしかない。
やがて村の男たちが遠出して狩りをするようになったが、別の集落
と諍いになり、獲物を得るどころの話ではなくなってしまったよう
だ。
このまま死ぬくらいならせめて王都まで出てみようという人間が出
始めたのは、必然だったのだろう。馬車を使ったとしても何週間も
かかる道のりを、徒歩で行く。決して楽な旅ではないが、無事にた
どり着けたなら仕事を得ることもできるだろうと期待した。
父もその内の一人だ。
都で仕事を得て、必ず仕送りをする。それまで辛抱してくれないか
と、出ていった。
﹁手紙を送るから﹂﹁いつか帰ってくるから﹂﹁いい子にして待っ
ているんだよ﹂なんて優しい言葉を言い置いて。実際には王都に着
いたという連絡すらこなかった。
妻と娘のことなど忘れてしまったのか、あるいはどこかで命を落と
したか。
どちらが真実なのか私には分からなかったけれど、ともかく父は私
達の元には戻ってこないのだと心得て、私と母も村を出ることにし
たのだ。
旅に慣れていなかった私と母にとってその道は、ともかく過酷だっ
た。
旅姿とはよく言ったもので、それすらまともに用意することができ
なかったのだから、私達の旅には初めから暗雲が立ち込めていたの
だといえる。
現に、母が命を落とすことになった。
私がもっと大人だったなら、もっと早い段階で宿を取っていただろ
うし医者にも見せていたはずだ。何より、旅を止めることだって検
討していたに違いない。

850
王都にまで行かずとも、途中で立ち寄った大きな街でなら母も何ら
かの職を得ることができたのではないか。少なくとも、碌な治療も
受けられずに死ぬようなはめにはならなかったのではないか。
⋮⋮なんて、いくら考えたところで後の祭りでしかない。
今まさに、私自身が窮地に立たされている。
善意で差し出された銅貨をいつ使うか、それはとても重要な問題だ
った。王都への方角だけを聞いて、あとは着の身着のまま歩くだけ。
⋮⋮そんな状況ではいつ死んでもおかしくない。
野盗に襲われずに済んだのはただ単に運が良かっただけで、人攫い
に合わずに済んだのも偶然そうなったに過ぎない。二日ほど歩き続
けてふと空腹に気付き、鞄の中から宿の人がくれたパンを取り出し
てみるもカビだからけで、とても口にできるものではなかった。
無心に歩いていればいつか王都に辿りつくだろうという安易な考え
が食べ物を無駄にしたのだ。
私は容赦ないほどに無知な子供だった。
やがて飲み物すら底を尽き、食べ物を手に入れようにもどこにも商
店がないことに気づいたのは五日ほど歩いた後だった。精神的な限
界もきていたのか。一歩足を進めるごとに命を削られているような
くずお
感覚に陥る。ふらりふらりと数歩進んで膝から頽れた。
倒れ込んだときに一瞬だけ視界を掠めた足元。履いていた靴のつま
先に穴が空いていたことに気づいて嗤う。
きっと限界だったのだ、何もかも。
この世界に独りきり。差し伸べてくれる手はない。
だけど、昔は違った。
村が今よりもずっと豊かだった頃、肩車をして畑の中を歩いてくれ

851
た父。育った稲穂が風に揺れて、かさかさと音をたてる姿が雄大で。
笑い声みたいだと言ったら、父が﹁笑っているのかもしれないね﹂
と答えた。
豊かな大地に根を張って、太陽の光をめいっぱい浴びて、頭が重く
なるほどの実をつけて。
﹁幸せそうだね﹂と、言ったのだ。
﹁⋮⋮笑ってるの? 起きてる? 寝てるのかな⋮⋮﹂
ふと誰かに問われたような気がしたけれど。返事をする気力はない。
それでも微かに目を開けることができたのは自分でも驚きだった。
霞んだ視界の向こう側に黒い靴が見える。黒光りしているのは高級
品だからだろう。
村でも、母を看取った街でも、こんな靴を履いている子供はいなか
った。
︱︱︱︱︱そう。子供、だ。
﹁坊ちゃま、危のうございます﹂
﹁⋮⋮どこが? だって、意識がないみたいだけど﹂
﹁それでもでございます。不用意に近づいてはなりません﹂
﹁そうなの? だって、この子。僕が助けないと死んじゃうんじゃ
ないかって思うけど。それはいいの?﹂
﹁⋮⋮よくは、ございません⋮⋮が、﹂
﹁でしょ?﹂
誰かこの子を運んであげて。そんな声と共に、体がふわりと浮き上
がる。ゆらゆらと揺蕩うような揺れに身を任せていると、あまりに
心地よくて。もうこのまま死んでも後悔はないと思った。でも、

852
﹁頑張って﹂
何度も、優しい声に励まされた。
その後、眠りと覚醒を繰り返しながら、それでも何とか生き延びる
ことができたのは全て、この人のおかげだ。
あくまでも、看病してくれたのは屋敷の使用人だということはよく
分かっているし、少年はベッドの脇に置かれた椅子に座っていただ
けで、濡れタオルの絞り方すら知らなかったのだけれど。
目覚める度に顔を覗き込んでくるその子の、あまりにも心配そうな
顔に、高熱で苦しくても何とか自分を保っていられた。
名前も知らないけれど、彼が傍にいてくれたから。
私はまだ、生きていてもいいのだと思えたのだ。
﹁⋮⋮母と一緒に故郷を出て、王都を目指していたんだけど、母が
⋮⋮病で亡くなってしまって﹂
やがて、はっきりと覚醒してからこれまでのことを簡単に説明する。
ここに来る前に居た街の話は省略した。語ってもどうしようもない
ことだと思ったから。生まれ育った村のこともほとんど話さなかっ
た。
いや、話さなかったのではなく、話せなかったのかもしれない。罪
悪感があったから。
本当はずっと夢見ていたのだ。
王都に出て稼ぎを得たら、救世主になれると。大金を稼ぐことはで
きなくても、お給金の一部を村に送れば、幼い子たちが一日、二日
食べることはできる。
村人全員を救うことはできないだろう。それでも、助けることので
きる命がある。そう、信じた。
母もきっとそう思っていたはずで。
だというのに、命を落とす結果となった。

853
結局分かったのは、己を食わすことさえできないのに、他人を救う
ことなどできやしないということ。
﹁そんな悲しい顔をしないで。⋮⋮せっかく生き延びたんだから﹂
﹁こうして、今、生きてるんだから﹂
少年の黒い瞳が翳る。彼にはどうやら家族がいないらしい。説明さ
れなくとも、何となく察することができたのは、使用人以外に大人
の気配がないからだった。特に夜は、あまりにも静かで耳鳴りがす
るほどだ。
屋敷が広すぎることもあるけれど、きっとそれだけが理由ではない。
この一種、独特の寂寞には覚えがある。母を亡くした後、確かに感
じたものが、この屋敷全体に漂っているような気がした。
﹁そう、ね⋮⋮。貴方の言う通りだわ。私を、助けてくれてありが
とう﹂
屋敷の小さな主に頭を下げる。
だいぶ具合は良くなったけれど、急に歩き回れるわけでもなく、相
変わらずベッドの上にいる私は半身だけ起こして少年と話しをして
いた。
﹁顔を上げて﹂
ふと、両手が温かくなる。目の前で、艶のある黒い髪が揺れていた。
掛布の上で重ねていた己の両手に、少年の手が重なる。
ぼろぼろの指先を労わるように撫でられた。優しい感覚に、母を思
い出す。そのとき、彼女の最期の言葉を思い出したのだった。
︱︱︱︱︱黒い、鳥。

854
﹁ねぇ、君さえよければ一緒に暮らす? 独りぼっち同士、肩を寄
せ合って生きていくのも悪くないと思うよ﹂
冗談でも口にするかのような物言いで。だけど、その真摯なまなざ
しが胸を打った。
私にはこの人が必要だ。︱︱︱︱︱けれど、彼にも私が必要なのだ
と思った。
出会ったばかりなのに、なぜかそう感じる。
﹁⋮⋮ええ、貴方さえよければ⋮⋮。一緒に暮らしたいわ﹂
握り返したその指が、縋りつくような気がしたのは間違いじゃない。
私たちは、とても孤独だった。
﹁ところで、⋮⋮私の名前を訊かないの?﹂
﹁私の名前は、﹂
﹁エマよ﹂
855
5︵後書き︶
貴方の名前は?
856

﹁︱︱︱︱︱、﹂
﹁⋮⋮イリア?﹂
自分が何かを口にした気がして、はっと覚醒する。
眠っていたのだと気づき、体を起こそうとしたけれど妙に体が重く
てうまくいかない。右手に力を入れたはずなのに、手の平が少し湿
った感触の布の上を力なく滑った。
﹁ああ、良かった。気が付いたんだね﹂
﹁⋮⋮私、一体どうしたのかしら﹂
﹁覚えてない?﹂
﹁ええ、﹂

857
頷けば、ベッドサイドに腰かけたカラスが眉根を寄せる。
彼によると、私は何時間も眠り込んだまま一度も起きなかったらし
い。
﹁お腹空いてるんじゃない? 今、温かいスープを用意してもらっ
ているから﹂
でも、本当に良かったと微笑する。
﹁⋮⋮昨晩は熱が上がって⋮⋮、どうなることかと思ったけど﹂
﹁⋮⋮え? 昨晩⋮⋮?﹂
思わず、窓の外を確認すれば、カーテンの隙間から柔らかな光が差
し込んで眩しい。チチ、と耳に心地よい響きで鳴く小鳥と、どこか
らか吹き込む清々しいそよ風が早朝だということを教えてくれる。
そんなに時間が経っているのか。
生家を離れてから既に一晩が過ぎ去ってしまったようだ。
何となく視線だけを動かして室内をぐるりと見渡せば、特に変わり
はないようだったが、一つだけ違うところがあった。ベッドサイド
テーブルの上の洗面器である。
ベッドに入る前は、そんなものはなかったはず。
なるほど。額が重いのは、熱を吸収した生ぬるい濡れタオルのせい
なのか。
カラスがどこかほっとした様子で﹁もう、必要ないかな?﹂と言い
つつも、新しく絞った冷たいタオルに交換してくれる。ひんやりと
した感触に吐息が漏れた。
そのまま、乾いたもう一枚のタオルで顔と首を拭われる。
相変わらず手際がいいと関心しながら、ぼんやりとまた、いつかの
ことを思い出していいた。
﹁熱はもう下がったみたいだけど、疲れがたまってたんだね。当然

858
だ。⋮⋮本当はもっとゆっくり休んでいきたいところなんだけど﹂
追手が来ないとも限らないから場所を移したいんだ。とカラスは難
しい顔をした。昼前にはここを出たいという。そんな彼の視線を追
えば、部屋の隅に置かれた小さな旅行鞄が目に留まった。
﹁あれは主に君の服なんだけど数日は大丈夫だと思う。⋮⋮あ、僕
が用意したんじゃないよ。宿の人に、女性が二、三日旅行に行くと
きに必要だと思うものを詰めてくれるように頼んだんだ﹂
﹁⋮⋮ふふ、そんなことまでしてくれるのね﹂
横になったまま答えるとカラスも絶妙に苦い顔をして笑った。
﹁お金さえあればってところだね﹂
何たって小金持ちだからと茶化すように言うけれど、やはり申し訳
ないような気分になる。カラスに再会してからというものお世話に
なりっぱなしだ。
﹁そんな顔しないで﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁僕に頼ることを躊躇ったりしないで。だって生きるってそういう
ことでしょう? 誰かに頼って、頼られて。支えあって生きていく
ものだよね? 少なくとも僕はそう思っているよ﹂
﹁そう、ね⋮⋮﹂
確かにそうだ。
﹃この世界に一人きり﹄そう思っていたけれど、もう、違うと知っ
ている。
私の顔を見て何かを悟ったらしいカラスが満足気に微笑む。少し幼
いように見える表情は、あどけない。
﹁体調が万全じゃない今、移動するのは君の負担になるとは思うけ
ど⋮⋮、﹂
ここから先、何が起こるのか正確に把握できていないから一つの所
に留まるのはなるべく避けたいんだ。と続けた。
﹁何となくなら分かっているの? ⋮⋮これから起こることが?﹂

859
天秤が揺れるがごとく、思考が右へ左へと傾いて忙しい。しっかり
と眠気を払うこともできず、半ばぼんやりとしたまま問えば、少年
は是も否も返さず小さく首を傾げた。
﹁⋮⋮さぁ、どうだろうね﹂
僕には未来が見えないから、と千里眼のようにどこまでも見通すこ
とができそうな黒い目を細める。
それから、宿の人が部屋まで運んできてくれた温かいスープで空っ
ぽの胃を満たした。
細かく刻んだ野菜がたっぷりと入っていてとても美味しい。屋敷で
口にしていたものとは明らかに違い、繊細な味とは言えない。大味、
というのがぴったりだ。でも、なぜか実に優しい味で自然と口元が
綻ぶ。
そんな風に感心していると、どこからかカタカタと何かが震える音
がした。
音の発生源を探していると、カラスが腰かけていたベッドから立ち
上がり、窓の外を見る。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
名を呼べば、ちらとこちらに視線を向けるのに返事はない。再び窓
のほうを向いた彼の横顔を目で追った。すると、曇った窓ガラスの
向こう側に黒い影が映り込む。
影絵かと見紛うほど優雅にひらひらと舞うそれは、落ち葉のようで
あり、花びらのようである。目を眇めてよく見れば数頭の小さな蝶
々だった。
さすがに昆虫が窓を叩くことはないだろう。そう思ったのもつかの
間、一頭の蝶が窓ガラスに体当たりしてきた。羽のように軽い体で
は音をたてることなどできるはずもないのに、翅がぶつかる度にカ
タカタと音がする。
早く開けろと言わんばかりだ。

860
﹁⋮⋮はいはい、待って待って﹂と、まるで言い聞かせるように苦
笑しているカラスは、この出来事を特別なこととは思っていない。
︱︱︱︱︱昆虫が意志を持つなんて。
﹁そんなに急かさないでよ﹂
いかにも建付けの悪い窓をガタガタと動かして、若干苦労しながら
開けた途端。吹き込む風と一緒に、待ってましたと言わんばかりに
室内に飛び込んでくる蝶々。
何事かと、宙を舞う小さな虫たちを注視していれば、まるで視線に
射貫かれたかのように唐突に羽ばたくのを止めたそれらが、ぽとぽ
とと床に落ちた。
﹁え、﹂
翅も動かさずに微動だにしない蝶々。息絶えたようにしか見えない。
思わず、身を乗りだそうとすれば、
﹁大丈夫大丈夫、これはただの作り物だよ﹂とカラスが肩を揺らし
て笑う。
そして、拾い上げた蝶を手の平に載せてこちらに向けた。そこにあ
ったのは確かに紙で作った蝶々だ。
見覚えがあるような気がして首をひねる。
﹁あ、それ⋮⋮。馬車の上で飛ばした蝶々⋮⋮?﹂
問えば、精工な陶器人形のような顔をした少年が﹁そう﹂とこっく
り頷いた。
﹁戻って、きたの?﹂
戸惑いながら重ねて訊くけれど、明確な返事はない。口角の上がっ
た曖昧な微笑は彼のデフォルトでもあるから、そこからただ推測す
るしかなかった。
﹁お利口さんだよね。昔々はね、魔術師たちがこうやって連絡を取
り合っていたんだ。もう誰も使っていない手法だと思うけど﹂
おもむろに蝶の翅を引っ張ったカラスが、そのまま折り目を伸ばし

861
ていく。やがて、真四角になった紙には何か書いてあるようだった。
小さくうんうん頷いているところを見れば、彼あての手紙なのだろ
う。
覗き込んでみたが、不思議な形をした文字はこの国の言語ではなく、
一文字も読めない。
語学は特に力を入れて学んできたというのに、私の知っている外国
語のどれとも一致しなかった。
狼狽える私を知ってか知らずか、少年は﹁⋮⋮なるほど﹂と床に落
ちたすべての蝶々を拾い、中を確認していく。
﹁あまり時間がないな﹂
ごめんね、イリア。もう出なくちゃならない。と、カラスは申し訳
なさそうに肩を竦めた。
会計などはすでに済ませていたらしく、身支度を整えて外に出ると、
事前に手配していたのか宿の前に箱馬車が停まっていた。荷物を載
せて早々に乗り込み、馬を走らせる。
がたがたと揺れるのは相変わらずで、革張りの座席は硬め。それで
も辻馬車よりは座り心地が良い。
値の張る移動手段なのかもしれないと、これまでは考えもしなかっ
たことを思う。
いら
どこへ行くのかと問えば、少し離れた場所にある宿だと短く応えが
あった。でも、長期で留まるわけではなく、すぐに場所を移すのだ
と、カラスはどこか緊張感のある横顔で、再び蝶々を飛ばす。
風に乗っただけなのか、あるいは自らの意志で羽ばたいたのか、ど
こかへと飛んでいく小さな影を見送った後、
﹁⋮⋮相手は誰なの?﹂
本当はずっと訊きたかったことをやっと言葉にした。
躊躇ったのは、確認してもいいことなのか測りかねたからだ。秘密
主義なのか、あるいは何か事情があって詳細を語れないのか、彼は

862
口が重い。それは、今生で再会するよりも前からそうだった。
肝心要なことだけは言葉にして。それ以外は、黙っている。それが、
カラスという人だ。
﹁⋮⋮もうすぐ分かるよ。僕から教えるわけにはいかないけど﹂
君には、分かる。と、なぜか確信をもって告げる彼。
想像してみるけれど、誰だか少しも分からない。
一瞬、︱︱︱︱︱ほんの一瞬だけ、アルの姿が浮かんだ。
あまりにも都合のいい想像で。あまりにも自分勝手な望みで、自分
でも呆れてしまって。なぜだか笑みすら零れる。
会いたいわけではない。ただ、思い出しただけ。
その後、それまでとは比較にならないほど長い距離を馬車で移動し、
一晩、安宿に泊まった。そのあと、宣言通り移動して。何度か、そ
ういったことを繰り返す。
日にちを数えるのすら億劫になった頃。
やがて私たちが辿りついたのは、国の端も端、けれど国境の街で貿
易の盛んな大きな都市だった。それでも人目につかずに済んだのは
箱馬車だったのと、街についたのが深夜だったからである。
馬車から降りて、街灯がぽつぽつと灯る街を二人並んで歩く。
石畳みの地面に足を取られながら、若干もつれるように歩いている
と、転んだら危ないからとカラスが肩を抱いて支えてくれた。体温
のない彼が温めてくれるわけではないけれど、風を避けてくれるだ
けで随分違う。
寒さはなぜか、寂寞を呼ぶようで。ふるふると震える体に呼応する
かのごとく、心が揺れる。
ここまで、来た。

863
地図では何度も目にしていた地名、活気にあふれた街だと大人たち
が話していたのを耳にしたこともある。幼い頃、ソレイルとこの地
について話したこともあった。
我が国の貿易の、重要な拠点であるから侯爵の名を継いだならきっ
と訪れることもあるだろう。そのときは君も一緒に行こうと、言っ
てくれたのだ。
彼の、ぱっと華やいだような表情を今でも覚えている。
だから私は、この地にやってくる隣国の商人たちと会話ができるよ
う、より一層外国語の勉強に励んだ。
日常会話なら困らないほどに覚えたその言葉を、今後使うことがあ
るのだろうかと。
そんな風に思っていたけれど。
﹁⋮⋮、もしかしてこのまま国を出るの?﹂
念のためと、街灯の明かりを避けるように歩くカラスにそっと問う。
﹁︱︱︱︱︱答えはもう、出てると思うけど﹂
ふふ、と吐息をこぼすように笑う彼に眉を寄せた。
﹁⋮⋮けど、身分を証明するようなものを持っていないし、旅券も
ないわ﹂
船には乗れないし、そもそも正当な理由もなく国を出ることはでき
ない。いわゆる、国の所有物とされる貴族ならなおさら、そのよう
な勝手なことは許されないのだ。
﹁大丈夫だよ﹂
あくまでも軽い口調のカラスが﹁いまから路地に入るから暗くなる。
だから、しっかり握っていて﹂と、今度は手を握ってくる。
うろたえながらも言われるがままにしていると、ひゅんっと鼻先を
白いものが掠めた。半身をのけぞる。どきどきと脈打つ心臓を整え
るために深く息を吸い込めば、
﹁案内してくれるらしいよ﹂と、カラスが長い人差し指で行き先を

864
示す。
そこにいたのは、一頭の蝶々だった。先導するように、真っ暗な細
い路地の向こうに飛んでいく。その小さな虫が発光しているのは気
のせいじゃない。
半歩だけ先をいくカラスに引っ張られるように前に進み、やがて数
歩先すら見えなくなるほどの暗い道に入った。怖さや不安は確かに
ある。だけどそれよりも、カラスが傍にいることの安心感ほうが大
きい気がした。
どのくらい進んだのか、道の先で待っていた蝶がふっと姿を消す。
﹁?﹂その姿を探していると、﹁こっち﹂と促された先に薄明かり
の漏れる扉があった。周辺も少し明るい。
背の高い建物に等間隔に並んだ窓から淡い光が落ちてくる。
﹁ここは酒場なんだよ。まだ営業しているのかな?﹂
裏路地を進んできたので、ここは表通りではなく近くに目立った看
板などもない。お店の裏側なのだ。
﹁どうしてここが酒場だと知っているの?﹂
初めて訪れる場所なはずだ。それとも、私の知らない人生を歩んで
きたはずの彼には覚えのあるところなのだろうか。
﹁︱︱︱︱︱覚えてないんだね﹂
笑ったように思えた。でも、どこかがっかりしているようにも感じ
た。だから真意を確かめようとその顔を覗き込む。
そのとき、ぽつりと頬に冷たいものが落ちてきた。見上げると、蜘
蛛の巣を柔らかくほどいたような細い糸が下りてきて、額に、頬に
絡みつく。けれども、不快ではない。金色に輝いて見えるのは、窓
から零れた明かりをあますことなく受け取っている。
﹁⋮⋮雨、﹂特に何も考えず、感じたままを口にすれば。

865
﹃⋮⋮やっと、見つけた、﹄
誰かの声がした。辺りを見やれば、暗闇のもっとも深い闇の向こう
に黒い塊が見える。近くの店が外にだしたごみ箱が転がっているの
か。近くを飛び回っているのは﹁それ﹂に集まった羽虫だ。
けれど、目を凝らせば、もぞりと震えるように動いた塊が、少しだ
けこちらに﹁顔﹂を向ける。
﹁!﹂
蒼褪めた皮膚に落ち窪んだ両目。乾いた唇に、薄汚れた銀細工のよ
うな髪がひと房落ちている。
ひび割れた唇がかくかくと機械的に動き、
﹃た、すけて、﹄
掠れた声が、私に、そう言った。
﹁︱︱︱︱︱リア、⋮⋮イリア!﹂
はっと、覚醒するように息を呑む。
﹁どうしたの?﹂と眉を寄せたカラスが、私の顔に触れる。﹁具合
が悪い?﹂親指で、目の下を擦られてやっと正気を取り戻した。
そして、今しがた目撃したものを知らせようと暗闇に指を差したけ
れど、︱︱︱︱︱そこには何もなかった。
靄のように舞う雨の紗幕が、暗闇を包み込んでいるだけだ。
夢でも見ていたのだろうか。
﹁⋮⋮だ、大丈夫。ごめんなさい、何だかぼうっとしてしまって﹂
﹁本当? 本当に大丈夫?﹂
﹁ええ、本当よ﹂
安心させようと僅かに声を張れば、唇に細い人差し指が触れる。
﹁しーっ﹂
とりあえず中に入ろうと促されて、少しだけ開いていた扉から覗き

866
込んで室内を探った。
どうやら私たちがいるのは厨房の裏口で、先ほどカラスが﹁酒場﹂
だと説明していた通り、建物の中では食事やお酒が提供されている
ようだった。ちょうど厨房の向こう側にカウンターがあり、そこで
は血気盛んな若者たちが飲めや歌えの大騒ぎをしている。
肩を組んだ男性たちが陽気にグラスを掲げ、女性たちが食事を運ん
でいるようだ。
﹁入ろう﹂と、優しく背中を押されてそっと足を踏み入れる。
幾人かの料理人はちらとこちらを見たものの声をかけてくる様子は
なかった。
カラスとも特に挨拶を交わすことなく、興味もないようなので旧知
の仲というわけではないらしい。けれど、この扉から誰かが入って
くるのは事前に知らされていたのかもしれない。
厨房を横切り、テーブルを囲んで騒いでいる男女の間を通り抜けて
も声をかけられることはなかった。
カラス
そのまま店の端にある階段を登る。勝手知ったる様子の少年が、二
階は宿屋なのだと教えてくれた。
旅人が足を休めるために利用することが多く、特に身分を証明する
ようなものがなくても部屋を借りることができるのだと。
﹁ただお金を払えばそれでいいんだよ。この街にはいくつもこうい
う酒場兼宿屋があるんだ。なんていったって貿易都市だからね﹂
一階とは違って静まり返っている廊下を進みながら、心なしか声を
潜めている。
その背を眺めていると、今日何度目かの﹃なぜそんなことを知って
いるのだろう﹄という問いが頭を掠めた。
このカラスは、一体いつの⋮⋮、私の人生においての何週目のカラ
スなのだろう。

867
﹁さぁ、ついた﹂
等間隔に並ぶ、同じ形、同じ大きさの扉の前をいくつか通り過ぎ、
一番奥の扉の前に立った彼が、私を見る。そして、
﹁驚いても大声をあげないで﹂そう告げた。あくまでも真剣な眼差
しだ。
張りつめた空気に黙ったままこくりと頷けば、ふっと笑ったその人
が木製の扉を叩く。あらかじめ決めてあった合図なのか、規則的に
ニ、三、二と分けて、手の甲で音を鳴らした。
反応を伺っていると、内側で鍵を開ける音がして、ゆっくりと扉が
開く。
向こうもこちらを警戒しているのか、隙間から現れた二つの目が、
並んで立つカラスと私を交互に見やる。明らかに見下ろされている。
背が高く、体格もいい。フードを被っているので髪の毛は見えず、
口元も布で覆っていた。
私たちの顔を確認すると、後ろを振り返り、部屋の奥にいるらしい
誰かから了承を得た後、扉を大きく開く。
﹁どうぞ﹂という声はくぐもっていて聞き取りにくかったけれど男
性のものだ。
警戒しながら中に入って、まず思ったのは﹁薄暗い﹂ということ。
部屋は狭く、ベッドは一つだけ。宿泊が可能ということだが、ただ
寝るだけといった感じで、テーブルすらない。ほんのつかの間、足
を休めるだけの場所なのだろう。
部屋の窓辺にはランプが一つだけ置かれている。光源はそれだけな
ので、部屋の隅は一生懸命に目を凝らしたところで何も見えない。
たとえそこに、得体の知れないものが潜んでいたとしても気づけな
い。
危なくはないだろうか。
﹁⋮⋮イリア?﹂

868
部屋を観察していた私の前に立っていたカラスがそっと体を避ける。
途端に、視界が開けた。
その刹那、相手側にも私の姿が見えたのだろう。ひゅっと息を呑む
音が聞こえた。
ベッドに腰かけていた人物が発したものだ。その人は、室内だとい
うのに外套を纏い、顔が隠れるほどに深くフードを被っている。か
ろうじて顎先から口元が見えるくらいだった。
一方、先ほど扉を開けてくれた男は壁際に立ち、じっとこちらの様
子を窺っている。恐らく、背筋を真っ直ぐ伸ばして座っているその
人の、護衛なのだ。室内をつぶさに見渡せる位置にいるのには意味
がある。
︱︱︱︱︱ガタッ!
にわかに立ち上がった人物がフードを外した。
﹁イリア様、﹂
よく知っている声。あまりにも馴染みのある顔。
いつもは麗しい笑みを浮かべているその顔が、ほっそりと痩せてい
る。
零れ落ちた金色の髪が、室内の淡い光を浴びてほのかに輝く。はっ
と胸を打つほどに美しい︱︱︱︱、
﹁⋮⋮もう、お会いできないかと⋮⋮!﹂
不安定に震える声が響いた後、力強く抱きしめられる。さほど広く
ない室内で、距離を詰めるのはあまりにも簡単だった。華奢な体の
どこにそんな力があったのか。存在を確かめるかのように息ができ
ないほどに強く、強く抱きしめられて息が詰まる。
いまだに状況が整理できていない。
﹁本当に、本当に生きていらっしゃる⋮⋮! 良かった!﹂
耳元に響く、玉のごとき声。

869
心臓が、壊れてしまったかのように妙な動きをして、もはや止まっ
てしまいそうだった。それほどの衝撃だった。まさかここに、
﹁力を緩めてあげてくれませんか? このままではイリアが死んで
しまいます﹂
まさか、
﹁︱︱︱︱︱マリアンヌ﹂
870
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
https://ncode.syosetu.com/n8109cq/

婚約者は、私の妹に恋をする
2023年8月15日01時45分発行

871

You might also like