You are on page 1of 3

近現代イタリアの政教関係

─ペッタッツォーニのイタリア共和国憲法批判を中心に─

江川 純一
(2019 年 4 月 10 日∼ 国際学部付属研究所研究員)

イタリア最初の宗教史学者であるラッファエーレ・ペッタッツォーニが 1950 年代に行った


イタリア共和国憲法批判を紹介したうえで、1984 年の国教制から公認宗教制への移行を軸に、
近現代イタリアの政教関係の歴史を検討する。

1. ペッタッツォーニのイタリア共和国憲法批判
イタリアは、半島内に教皇庁を抱えるローマ・カトリックの地であると同時に、ヨーロッパ
において最も世俗的な宗教研究が展開した場所でもある。「世俗的な宗教研究」とは、「宗教
(religione)」イコール「キリスト教(ローマ・カトリック教会)」と捉えられていた近世まで
の学問とは異なり、複数形の「諸宗教(religioni)
」を対象とする、神学とは異なる近代の学の
意である。このディシプリンは、事象への歴史的アプローチが重視されることから、イタリア
では「宗教史学(Storia delle religioni)」と呼ばれる 1。
ローマ大学に設置されたイタリア初の宗教史学講座の初代教官であるラッファエーレ・ペッ
タッツォーニ(1883-1959)は、日本宗教への関心から宗教史学の研究を開始し、キリスト教
を特権化しない宗教史叙述の礎を据えた。ペッタッツォーニの思想を以下のように要約するこ
とができるだろう。キリスト教が予め特別の位置に置かれているのならば、それは近代の学問
とはいえない。もし宗教史学がこの世に存在しなかったら、信仰者による護教論や、宗教につ
いての非学問的な中傷ばかりになってしまう。そのため、特定の宗教的立場に立たない世俗の
学が必要である。
第二次世界大戦後、ペッタッツォーニは歴史家のガエターノ・サルヴェーミニらとともに、
イタリアにおける信教の自由擁護協会の活動に従事する。これは宗教的マイノリティや棄教者
の権利擁護のための運動であり、この活動の一環としてペッタッツォーニは、イタリア共和国
憲法批判を展開した 2。
ペッタッツォーニの議論を ってみよう。1947 年 12 月 27 日のイタリア共和国憲法第 8 条に
は「すべての宗派の自由」が明記されている。「すべての宗派は法律の前に等しく自由である。
カトリック以外の宗派は、イタリアの法制度に反しない限り、自己の規約により団体を組織す
る権利を有する。カトリック以外の宗派と国家との関係は、双方の代表者との合意に基づき、
法律により規律される」3。ところが、第 8 条に反する形で第 7 条にはこう書かれている。「国家
とカトリック教会は、各自その固有の領域において、独立・最高である。両者の関係はラテラ
ノ協定により規律される。この協定の改正が両当事者により承認される場合には、憲法改正の
手続を必要としない」。「ラテラノ協定」の文字が出てきたので、聖座(教皇庁)とイタリアと

87
明治学院大学国際学部付属研究所年報 2021 年度 第 24 号

の間の 1929 年 2 月 11 日の政教条約第 1 条をみてみると、こうある。


「イタリアは、使徒伝承のロー
マのカトリック教は国家の唯一の宗教であるという、1848 年 3 月 4 日の王国憲章第 1 条が確立
した原則を承認し、再確認する」 4。「王国憲章」の文字が出てきたので、1848 年 3 月 4 日サルデー
ニャ王国の王国憲章(所謂「アルベルト憲法」)第 1 条をみてみると、こうある。「使徒伝承のロー
マ・カトリック教は国家の唯一の宗教である。現存するその他の信仰は、法に従い容認される」
5

つまり、宗教に関する条文を、憲法の記述に従って順に っていくと、ローマ・カトリック
教会の優位性が決定的に立ち現れてくるというわけである。これではまったく「すべての宗派
は法律の前に等しく自由」ではなく、ローマ・カトリック教会の優越性が明白であり、実は信
教の自由が存在しないのではないか。これがペッタッツォーニの主張であった。

2. 国教制から公認宗教制へ
王国憲章∼ラテラノ協定∼共和国憲法と受け継がれた国教制と、共和国憲法における信教の
自由とのあいだには確かに齟齬といえるものが存在した。その「調整」が 1984 年 2 月 18 日の
ヴィッラ・マダーマ協約である。第 1 条をみてみよう。「イタリア共和国と聖座は、国家とカ
トリック教会とが各自その固有の領域において独立かつ最高の存在であることを確認するとと
もに、両者の関係においてこの原則を最大限に尊重し、人の発達及び国の善のため相互に協力
することを約束する」
6
。重要なのは、この第 1 条の附属議定書 1「カトリック教がイタリア国
家の唯一の宗教であるという、ラテラノ協約で言及された原則は、爾後効力を有しないものと
みなす。」7 であり、この部分がイタリアにおける「国教制の廃止」にあたる。
加えて、同じ 1984 年に、国家と宗教団体との個別の協約「インテーサ」が動き出した。こ
れは先に触れた共和国憲法第 8 条第 3 項「カトリック以外の宗派と国家との関係は、双方の代
表者との合意に基づき、法律により規律される」に基づくもので、インテーサによって各宗教
団体は、教育機関の設立、祝祭日の設定、1000 分の 1 税の配分といった優遇措置を受けること
ができるようになる。宗教団体と国家がそれぞれ協約を結ぶという点で、ローマ・カトリック
教会と諸宗派は「形式的には」同等(複数型公認宗教制)となった 8。

3. 国家の世俗性をめぐって─むすびにかえて─
注目したいのは、ヴィッラ・マダーマ協約第 9 条において「イタリア共和国は、宗教文化の
価値を承認し及びカトリックの教義の諸原理がイタリア国民の歴史的財産の一部となっている
ことを考慮して、大学以外の各種類と各段階の国公立学校において、カトリック教の教育を学
校目的の枠内で引き続き保障する」(9) と書かれている点である。また、2002 年からの一連の
教室十字架像撤去訴訟(ラウツィ事件)における、ヴェネト州行政裁判所判決(2005 年)で
は、以下のように述べられ原告の請求が棄却された。「十字架像は、歴史及び文化の発展の象徴、
わが国民のアイデンティティの象徴としてだけではなく、さらに人間の自由、平等及び人間の
尊厳、宗教的寛容という諸価値の体系、ひいては国家の世俗性の象徴として考えられなければ
ならない」10。
「イタリア国民の歴史的財産の一部」
、「国家の世俗性の象徴」の語が示すように、ローマ・

88
近現代イタリアの政教関係 ─ペッタッツォーニのイタリア共和国憲法批判を中心に─

カトリック教会はイタリアの世俗性原理そのものの母体とされている。この状態で宗教的多元
性や宗教的自由の保護が打ち出されると、ローマ・カトリック教会の優越が黙認されることに
なる。ペッタッツォーニが 1950 年代に発した「警鐘」は今も有効であろう。イタリアの「世俗性」
はどこに行き着くのか。今後も注視し続けたい。

〈注〉
1 江川純一、 『イタリア宗教史学の誕生──ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』(勁草書房、2015 年)を参
照のこと。
2 R. Pettazzoni, Le minoranze religiose , in: Italia religiosa, Bari: Laterza, 1952, pp. 133-154.
3 『海外の宗教事情に関する調査報告書 資料編4 イタリア宗教関係法令集』、井口文男・田近肇訳、文化庁、2010 年、1 頁。
4 同、8 頁。
5 Pettazzoni, 1952, p. 141.
6 『イタリア宗教関係法令集』、26 頁。
7 同 40 頁。
8 江川純一「イタリアの新たな「世俗性」」、池澤優編、『政治化する宗教・宗教化する政治 いま宗教に向き合う・4』(岩
波書店、2018 年、117-132 頁)を参照のこと。
9 『イタリア宗教関係法令集』、34 頁。
10 Sentenza TAR Veneto, Sez. III, 17 marzo 2005 n. 1110 . 田近の解説が参考となる。「ヴェネト州行政裁判所にとって、十字
架像は『国家の世俗性の象徴』である以上、国家の世俗性原理を根拠に教室から十字架像の撤去を要求することは、世
俗性原理の形成に貢献した基本的な歴史的要素の一つを、まさにその原理の名の下に撤去するよう求める不合理な主張
ということにならざるをえない」 。田近肇「国家の世俗性原理は教室の十字架像によって表されるか ─イタリアにおけ
る教室十字架像事件─」、『岡山大學法學會雜誌』、2012 年、255 頁。

89

You might also like