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(語源)信仰を告白し宗門に入る
ための聖職者の宣誓(profess)
欧米において,聖職者,法律家,
医療者といった知識ベースの専
門的職業を指す言葉(情報/知識
職業)
①体系化された排他的知識や専門
性に基づく職業であり,それらは高
等教育機関で提供される
②その仕事は個人の利益動機を超
えた社会に対する道徳的義務を含ん
でおり,公共の福祉,科学の発展,
正義の追求といった大きな目的に関
わる
③相対的な独立性や自律性を含む
①広範囲の専門知識
②専門的な実技訓練(技術)
③判断
④倫理
⑤社会的責任(パブリックサービス)
⑥言論の自由確保のための連帯
免許などの資格証明
有資格者のための専門職能団体
職業の自治性
職能維持のための倫理・行動規範
規範逸脱者に対する免許剥奪
高い報酬やステイタス
ジャーナリズムは専門的職能で
あり,それゆえに倫理的規範を
持つことが求められる。専門職
能集団として受け容れられるた
めには,ジャーナリストは医
師・法律家・学者と同様に,倫
理的基準に従って活動している
と見られなければならない
B・マクネア『ジャーナリズムの社会学』リベルタ出版,
2006年,p.112
ピュリツァーが1833年
に「NY World」紙を買
収。「金持ちの主張よ
り民衆の意見に奉仕す
る」との編集方針。
最下層の人々からも支持
を得た
鉱山王の一人息子,ウィリアム・
ハーストは1895年,『NY Journal』
紙を創刊する。『World』紙との
間で過激な販売競争を展開する。
社会諷刺漫画の主人公(イエロー
キッズ)の引き抜き合戦,米西戦
争(1898-)の報道合戦などで“イエロー・
ジャーナリズム”の総称される。ピュリツァー
はその中で「新聞は純然たるビジネスとは違う」
という教訓を得たという。
19世紀末~20世紀初頭
イエロー・ジャーナリズムの反
省から,ピュリツァーが,記者
の質的向上を図るため,「記者
大学教育論」を唱え始める
1903~1904
J.ピュリツァーによるジャーナリ
ズム教育への働きかけと,その
必要性の主張
“記者免許制”と職業倫理制度を
めぐる議論の提起
体系化された長期的な教育制度
によって学ぶ対象との認識
1912年
ジャーナリズム教育学会(AEJ)が
組織化
全米各地の大学を横断する教育プ
ログラムの認定基準(AEJMC)がで
きたのは1945年のこと
ピュリツァーの遺志
で1912年,コロムビア大学に
ジャーナリズム・スクールが開
学。「That the
People shall know」
(人々が知るべきこ
と)と刻まれる
センセーショナリズムのあおり
で,1910年代に記者免許制度賛
成論が巻き起こった
しかし,第一次世界大戦が始ま
り,政府の言論統制を体験する
につれ,賛成論は消滅した
1919年,社会党党首シェンクが
「徴兵拒否」を呼びかけるビラを
大量配布した事件に対し,「明白
かつ現存する危機」の原則を判事
が考案し,シェンクを有罪とした
(国益を損ねる犯罪)
要件をすべて充たす場合のみ,
言論の自由は制限されうる
ごく近い将来,実質的な害悪を,明ら
かに引き起こす
実質的害悪が甚大である
言論の規制が害悪を回避するための唯
一の手段である。
→ペンタゴン・ペーパーズ事件
記者は公共に奉仕するという点
ではプロフェッションだが,組
織上は言論の自由との兼ね合い
から他の職業とは異なり,免許
制度を取り入れてはならない唯
一の職業(unorganized profe-
ssion:組織に基づかない職能倫理
集団)
記者に免許試験を課すこと
教育課程を義務付けること
職能団体への所属の強制
記者には,言論の自由との兼ね
合いで,こうした条件を課すこ
とができないプロフェッション
観の構築に迫られた
1922
米国新聞編集者協会(ASNE*)が設立。
23年に倫理綱領(Cannons of
Journalism)を発表し,プロフェッ
ション制度の明文化・標準化に至
る。24年,大学でのプロフェッ
ション教育課程認定基準が制定さ
れ,制度が調う
*―American Society of Newspaper Editors
1926年には全米で53の大学が
ジャーナリズム教育を提供し,
4000人近い学生を抱えた
プライヤー博士は「言論表現の
自由の半分は記者が守り,半分
は教育者が守る」と述べた
1927年,労働組合と職能団体の
性格を併せ持つ東京記者聯盟が
形成されるが,新聞経営者や政
府からの圧力により,記者たち
の脱退も相次ぎ,戦前にジャー
ナリストの職能団体が形成され
ることはなかった
1890年,帝国議会開設に伴い
「記者クラブ」が開設。政府認
可の新聞社の記者だけが所属を
許された,「選ばれたジャーナ
リズム」にとっての独占的な情
報源となった
1942年,内閣情報局の指導下で,
言論統制団体「日本新聞会」の
資格審査に合格した記者だけが
登録できる「記者クラブ」に制
度が変更された
GHQ(連合国軍最高司令官総司
令部)は,マスメディアを例外的
に直接指導・統制する形をとる
ASNEのような自主的業界団体を作る
その団体を母体に倫理綱領を作る
ジャーナリスト養成機関として,ス
クール・オブ・ジャーナリズムを設置
し,ジャーナリスト教育を充実させる
日本のジャーナリズムがプロ
フェッション化することで日本の
民主化の原動力になることを期待
1946年,日本新聞協会設立
同年,ASNEを参考に新聞倫理綱領*を制定
慶應義塾,早稲田,日本,同志社(1948年),
関西で新聞を学ぶ学科等が次々と開設され
た
http://www.pressnet.or.jp/outline/ethics/
①その新聞企業の戦争責任を追及
②新聞製作のイニシアティヴを従
業員の手に収め
③その従業員は常に民衆の側に立
つべきことを主張する運動
プロフェッション化の契機とし
て,GHQも民主化運動を支援し
ていたが,ソ連などとの冷戦が
始まると,占領方針を「共産化
の防止」へと舵を切った。讀賣
争議,レッドパージなどを経て,
日本の新聞の“主体性”は再び失
われていく
日本のメディアは「政治権力に
妥協し,統制された自由のなか
で発展してきた」(門奈,2001)
から,日本では権力との関係性
でジャーナリズムが規定され,
プロフェッションとしての社会
的承認の議論が乏しかった
門奈直樹『ジャーナリズムの科学』有斐閣,2001年,p.50
原寿雄は日本の記者が会社の枠
内にいることを指摘し「メー
カー・生産者ジャーナリズム」
と呼ぶ。社内言論の自由の確立
と「消費者・市民のための
ジャーナリズム」への転換を提
唱している
原寿雄『ジャーナリズムの思想』岩波新書,1997年
ユネスコの1992年の調査報告で
は,日本では企業内の記者教育
制度がほとんどなく,OJTを含
む職場での厳格な徒弟制度の下
で記者は仕事を覚えるため,訓
練を施してくれた会社に対し,
生涯を貫く忠誠を誓う傾向が強
いという
企業に属さずに職業能力を深める
ための教育機関は,専門学校を除
けばほとんどない。マスメディア
企業が大学教育の有用性を認めな
いからだ。徒弟制度的訓練の閉鎖
性,“身体で憶える”職人気質,体
育会的体質など企業ジャーナリズ
ムの性格が大学を骨抜きにする
大学で職能の基礎を学ぶ
ポーター(お運びさん)
―情報を言われたとおりに確実に原稿にす
る(ストレートニュース)
リポーター
―何らかの状況判断を加えた記事を書く
ジャーナリスト
独自のスタンスからの切り込み方を社会か
らも“認知”されたリポーター
ジャーナリストは市民のために
ある。市民は個人の知る権利を
ジャーナリストに付託し,権力
の監視の代行役を期待する
市民と広告主の利害が衝突する
場合,ジャーナリストはどちら
の顔を見るべきか?
市民は直接的なクライアントで
なく,広告主がクライアントで
ある。「それでも顧客・広告主
は,この三角形において第三の
者,市民よりも下位に位置しな
ければならない」
ビル・コヴァッチ『ジャーナリズムの原則』
日本経済評論社,2002年,p.73
市民のための公開討論の場を提
供し,運用し,活性化させる役
割。有益な討論にするために,
適切な情報源の選択・提供を行
い,対話の信憑性を評価する役
割(情報の質を市民に指南する役
割)