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自己制御 vs 自己解放1

T. コーエン著

Introduction (はじめに)

合理的選択理論の観点から自己管理(self-management)や自己統制(self-control)
の問題を取り扱う際には、一人の人間は複数のあるいはシフトする選好を有しており、
それぞれの選好が一人の人間のコントロールを巡って競い合っている、との想定の下に
個人の行動がモデル化されることになる2。中でも影響力のあるモデルの一つにおいて
は、一人の人間は 2 人の「私」に分たれると想定される。つまりは、一人の人間は、長
期的な視野を持つ合理的な「私」と近視眼的で衝動に突き動かされる非合理的な「私」
とから構成されていると見做されるのである3。
ルール志向の「私」4は、近い将来においても自らの意志が他の「私」によって捻じ
曲げられることがないように、拘束力のある制約の使用に訴える。その行動はまるでセ

1 Tyler Cowen(1991), “Self-Constraint Versus Self-Liberation”(Ethics, Vol. 101, No. 2, pp.


360-373)
2 原注;自己制御(self-constraint)の問題を論じている文献の中でもとくに重要なものは以下

である。George Ainslie, "Specious reward: a behavioral theory of impulsiveness and impulse


control", Psychological Bulletin 82 (1975): 463-96; Jon Elster, Ulysses and the Sirens (New
York: Cambridge University Press, 1982), and "Weakness of Will and the Free-Rider
Problem," Economics and Philosophy 1 (1985): 231-65; Jon Elster, ed., The Multiple Self
(New York: Cambridge University Press,1986); Derek Parfit, Reasons and Persons (New
York: Oxford University Press, 1984); George Loewenstein, "Anticipation and the Valuation
of Delayed Consumption," Economic Journal 97 (1987): 666-84; Thomas Schelling, "The
Intimate Contest for Self-Command," Public Interest 60 (1980): 94-118, Choice and
Consequence (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1984), "Self-Command in
Practice, in Policy, and in a Theory of Rational Choice," American Economic Review 74
(1984): 1-11, and "Enforcing Rules on Oneself." Journal of Law, Economics, and
Organization 1 (1985): 357-74; Robert Strotz, "Myopia and Inconsistency in Dynamic Utility
Maximization," Review of Economic Studies 23 (1955-56): 165-80; Richard Thaler, "Towards
a Positive Theory of Consumer Behavior," Journal of Economic Behavior and Organization 1
(1980): 39-60; Richard Thaler and H. M. Shefrin, "An Economic Theory of Self-Control,"
Journal of Political Economy 89 (1981): 392-406; and Gordon Winston, "Addiction and
Backsliding: A Theory of Compulsive Consumption," Journal of Economic Behavior and
Organization 1 (1980): 295-324. 自己制御の合理的選択理論における「私」の捉え方は心理学
における行動変容(behavior modification)の理論と似ている面がある。行動変容理論につい
ては以下を参照せよ。Harry I. Kalish, From Behavioral Science to Behavioral Modification
(New York: McGraw-Hill, 1981).
3 原注;本論文を通じて、長期的な視野を持つ「私」こそが正しい「私」であるかのようなバイ

アスに陥らないために、長期的な視野を持つ合理的な「私」/近視眼的で非合理的な「私」と表
現するのではなく、ルール志向の「私」/衝動的な「私」と表現するであろう。異なる「私」を
いかにして適切に区別したらよいかという問題は以下で詳しく論じられるであろう。
4 訳者注;注 3 を参照。

1
イレーン(sirens)の歌声を聞くまいと自らを船のマストに縛り付けたユリシーズ
(Ulysses)のようである。現代のユリシーズは、喫煙への誘惑を断ち切るために煙草
を捨て、お酒への誘惑を断ち切るためにアンタブス(antabuse)を服用し、クレジット
カードは家においたままで買い物に出掛けることになる。事前的に拘束力のあるコミッ
トメントを達成する術がなくとも、一人の人間は、ルール志向の「私」の意志を覆すな
らば大きなコストを負担せざるを得ないよう取り計らうかもしれない。例えば、ダイエ
ットを考えている現代のユリシーズは、小さめのサイズの服を買うかもしれない。
経済学や合理的選択理論における『複数の「私」(multiple selves)』モデルは様々
な問題の分析に利用されている。まず第 1 には、『複数の「私」』モデルは、パターナ
リズム(温情主義)の問題を考えるために援用されている。一人の人間の中において、
ルール志向の「私」が衝動的な「私」の行動を束縛することができないようであれば、
政府が出てきてルール志向の「私」の努力を支援することができるかもしれない。例え
ば、政府が公共の場での喫煙を禁止することは、禁煙したいと思っている喫煙者5にと
っては必ずしも強制的なものとは感じられないかもしれない。政府が喫煙を禁止するこ
とは個人の選択肢の一つ6を奪うことを意味しているが、ルール志向の「私」はその選
択肢は奪われてしかるべきだと考えているかもしれない。一人の人間の中に複数の「私」
が同居しているということになると、消費者主権(consumer sovereignty)か強制
(coercion)かという点を明確に区別・定義することは困難になる7。
『複数の「私」』モデルはまた、一見すると不可解な市場制度の存在を説明するため
にも使用されている。市場は時に、例えば禁煙やダイエットのためのクリニックのよう
に、自己統制や自己規律のためのサービスを提供している。クリスマス貯蓄クラブやク
レジットユニオンは個人が予算規律を維持するための手助け8となっているが、人をし
て市場利子率以下の水準での貯蓄に向かわせるものは一体何なのだろうか? 『複数の
「私」』モデルは、減税の効果やその他の経済政策の効果を予測するにあたってもイン
プリケーションを有している。多くの人が自己制御の問題を抱えているとすれば、減税
によって増えた手元資金を貯蓄に回すことが個人的には合理的であったとしても、つい
つい消費のために使ってしまうということになるかもしれない9。
本論文は、『複数の「私」』モデルの根っこのところにメスを入れることを意図して
いる。自己管理の問題を扱う文献のほどんどは、ルール志向の「私」が衝動的な「私」
から協調を引き出すために採用している戦略に議論を集中させる傾向にある。私自身は
文献に広く見られるこの主流的な態度を「自己管理に関する command view」と呼んで

5 訳者注;しかしながら、衝動的な「私」に突き動かされてついついタバコを吸ってしまう人
6 訳者注;公共の場で自由にタバコを吸うこと
7 原注;この点に関しては、私は以下の論文でヨリ詳しく論じている。"The Scope and Limits of

Preference Sovereignty" (1990, typescript)


8 訳者注;お金の浪費・無駄遣いを予防する術
9 訳者注;減税の消費刺激効果が大きいということ

2
いる。例えば、シェリングの有名な論文のタイトル "The Intimate Quest for
Self-Command"をご覧になられたい。
この command view とは反対に、私は、本論文において、衝動的な「私」による戦略
的な行動に焦点を当て、ルール志向の「私」による過度な制御こそが自己管理における
もっとも重要な問題となるようなシナリオを論じるであろう。そのようなシナリオにお
いては、自己制御(self-constraint)ではなく、自己解放(Self-liberation)こそが
終局的な目的となるであろう。このような議論を展開するにあたっては、実験心理学
(empirical psychology)の詳細な検討によるのではなく、私の主張を支持するような
いくつかの逸話(anecdote)を援用しながら論を進めていくであろう10。
本論文は自己管理の研究における新たな方向性を提案しようとするものである。自己
管理(Self-management)というのは、自制(self-command)を求めてもがくこと11とい
うよりはむしろ、1 人の人格(personality)の発展のために異なる「私」の間で調整
を図ろうとする試みなのである。 以下で論じることになるが、自己管理の問題に新た
な視角からメスを入れることで、いくつかの経済・社会問題―リスクテイキングや中毒、
広告、市場経済が個人の人格やモラルに与える影響など―に関する新たな理解が得られ
ることになるであろう。

How do the two selves differ ? (2 人の「私」にはどのような違いがあるのか?)

本論文ではルール志向の「私」と衝動的な「私」とをそれぞれの選好の違いに基づい
て区別することにする。ルール志向の「私」は、行動に規則性(regularities)や統制
(controls)を求める選好の達成を請け負うものであり、衝動的な「私」は、自発性
(spontaneity)や予測不能性・意外性(unpredictability)を求める選好の達成を請
け負うものである。つまりは、2 人の「私」は、それぞれ特定の認知的な能力や意志の
力を有する特定の選好の表れとして特徴づけられることになるのである。一人の人間の

10 原注;衝動的な「私」が戦略的に行動する可能性については以下の論文でも認識されている
ところである。Schelling, "Self-Command in Practice"; Richard Burt, "Commentary on
Schelling's 'Enforcing Rules on Oneself,' " Journal of Law, Economics, and Organization 1
(1985): 381—83; and George Ainslie, "A Behavioral Economic Approach to the Defense
Mechanisms: Freud's Energy Theory Revisited," Social Science Information 21 (1982):
735-79. Burt は自己解放の重要性についても指摘している。他に以下も参照せよ。Elster,
Ulysses and the Sirens (e.g., p.40): and George Ainslie. "Behavioral Economics. II. Motivated
Involuntary Behavior," Social Science Information 23 (1984); 47-78. しかしながら、大勢の注
目が依然として自己制御に向けられているという点は変わらない。例えば、エルスターは
"Weakness of Will" の中で、戦略的な行動という点でいうと、ルール志向の「私」の方が衝動
的な「私」よりも有利な立場にあると主張している。また、シェリングも自己解放よりは自己制
御の方に強調を置いている。
11 訳者注;ルール志向の「私」と衝動的な「私」とが一人の人間のコントロールを巡って対立

すること

3
中に 2 人の「私」が同居するということは、ある一時点において、あるいは、時間を通
じて、一人の人間はその内部に対立する欲求を抱えているということになる。ある一人
の人間の外部に表出される選好が変化するとすれば、それは 1 人の人間の行動のコント
ロール権が一方の「私」から他方の「私」へと移った結果であると捉えることができる
であろう。
2 人の「私」はルールや自発性をそれ自体として評価している(ルールや自発性をそ
れ自体として需要している)必要はないであろう。ルールや自発性への欲求は派生需要
であるのかもしれないのである。例えば、自己統制(self-control)や自発性といった
人格的な特徴は、ヨリ内在的な価値と結び付けられているかもしれない。自己統制に励
むことで、慎慮(prudence)や平穏(moderation)といった内在的な価値の達成を目指
しているのかもしれないし、また自発性はセクシュアリティ(sexuality)の価値を評
価している結果であるのかもしれない。しかしながら、本論文においては、派生需要と
してのルールや自発性への欲求は与えられたものとして考え、ルールや自発性への欲求
を生み出しているかもしれない内在的な価値の役割については強調しないであろう。
ある瞬間においては、ルール志向の「私」と衝動的な「私」のいずれかが一人の人間
の能力(行動)のコントロール権を握っているであろう。 最もありそうなことは、ル
ール志向の「私」と衝動的な「私」とがともに入れ替わり立ち替わりコントロール権を
握り、どちらか一方の「私」が一人の人間の行動を継続してずっとコントロールするこ
とはないということになりそうである。本論文においては、衝動的な「私」は将来の結
果を評価する能力を備えているものとして扱うであろう。つまりは、衝動的な「私」の
行為は、自らの行為の直後に即座に満足をもたらすような近視眼的なものに限定される
ものではなく、衝動的な「私」の行為の中には手の込んだ戦略的な行動もまた含まれて
いるものとして扱うであろう。「戦略的に振る舞う衝動的な「私」」という特徴づけが
妥当であると考える理由に関しては以下で触れるであろう12。ルール志向の「私」によ
って課された制約を与えられたものとすれば、衝動的な「私」による戦略的な行動がた
とえ彼(=衝動的な「私」)が自らすすんで行ったものではないとしても、彼(=衝動
的な「私」)が戦略的に行動することで一人の人間の長期的な自発性が最大化されると
いうことになるかもしれない。
大抵の現実の人間は、ルールへの欲求と自発性への欲求とにとどまらないヨリ多様な
欲求を有しているので、本論文が採用する『2 人の「私」』モデルは現実の人間を極度

原注;衝動的な「私」が短期的な便益からしか満足を引き出さないとしても、もし衝動的な
12

「私」が自らが消滅した後(あるいは一人の人間のコントロール権を失った後)にも自らの望む
ことが行われるかどうかを気に掛けるようであれば―以下の本文でマートン(Merton)の例を
通じて触れるところであるが―、衝動的な「私」は戦略的な行動に乗り出すことになるかもしれ
ない。この点は自らの死後の世界を気に掛ける人間の例と関連づけることができるであろう。人
は死後に効用を得ることはないが、しかしながら自分の死後に何が起こるかを気に掛け、自らの
死後の世界においてある特定の結果が起こるように(生前のうちから)行為しておくということ
になるかもしれない。

4
に単純化したものということになるであろう。「ルール vs 自発性」というのは、人間
が経験する多くの内的な対立(intrapersonal conflicts)の一つの例に過ぎない。本
論文はまた、2 人の「私」の間でのコントロール権の内生的な移転、あるいは、どうい
った要因が、ある特定の時点において、どちらか一方の「私」に行為する権限を与える
ことになるのかといった論点については触れないであろう。今述べたような限界がある
にもかかわらず、『2 人の「私」』モデルは一人の人間の内的な葛藤を理解する手助け
となるかもしれない。『複数の「私」』モデルは、我々の考えをまとめ上げ、(一人の
人間の)内的な対立(intrapersonal conflicts)と対人的な対立(interpersonal
conflicts)との間におけるアナロジー(そしてまたディスアナロジー)を見出すにあ
たって有益な枠組みを提供しようとするものなのである。

Can the impulsive self engage in strategic behavior? (衝動的な「私」は戦略的に行動できる


のか?)

自己管理の問題を扱う文献の一般的な見方では、戦略的な行動に関しては、ルール志
向の「私」の方が衝動的な「私」よりも秀でた能力を有しているとされている。例えば、
ヤン・エルスター(Jon Elster)は以下のように指摘している。「典型的なケースとし
て、飲酒をやめたいと思っている「私」は、長期的な観点からもう一方の「私」が何を
するであろうか(どのような反応をするか)を予測することができるが、もう一方の「私」
は相手がどのように行動するかという長期的な予測に基づいて戦略的に振る舞うこと
はない。・・・このことは、飲酒したいと思っているもう一方の「私」は戦略的に振る
舞う手段を持っていないということを主張しているわけではない。しかしながら、典型
的な場合においては、飲酒したいと思っているもう一方の「私」の行為は、
(長期的な)
策略(manipulation)よりはむしろ(短期的な)欺瞞(deception)に基づいて進めら
れることになる」13。このようにしてエルスターは自己管理の問題に本質的な非対称性
を持ち込んでいるわけである。一方の「私」が戦略的に行動する能力を大いに欠いてい
るとすれば、自己管理の問題は、結局のところは、戦略的に行動できる「私」がいかに
して自らの意志をもう一方の「私」
(戦略的な行動という点では劣った能力を持つ「私」)
に課すか(あるいはなぜ自らの意志を課すことに失敗するのか)という問題に読み替え
られることになる。
本論文では、衝動的な「私」は、(自己管理の問題を扱う文献の一般的な見方とは異
なり)ルール志向の「私」と同様に戦略的に行動することができると想定する。例えば、
事前的なコミットメント(precommitment)はルール志向の「私」のみに使用が許され
た特権ではない。衝動的な「私」もまた同様に、コミットメントの使用を通じて、一人

13 原注;Elster, "Weakness of Will and the Free-Rider Problem," pp. 234-35.

5
の人間の行動を長期的に拘束することができる。衝動的な「私」がそのようなコミット
メントの使用に訴えるのは、ルール志向の「私」の好き勝手に任せていれば、彼(=ル
ール志向の「私」)が自発的な欲求充足の邪魔をしたり、打ち消したりするのではない
かと恐れるからであるのかもしれない。
衝動的な「私」による事前的なコミットメント使用の例は、ロバート・マートン(Robert
Merton)による社会的な圧力(social pressure)の研究の中に見て取ることができる。
マートンは、アメリカが第 2 次世界大戦時にラジオを通じて戦時国債購入キャンペーン
を行った事例を研究し、ラジオ聴取者らが資金協力に応じようとする意志が衝動的で束
の間のものであったことを指摘している。 ラジオの聴取者による資金協力に応じよう
との意志は、国債購入を訴えるラジオ放送の直後に一時的に盛り上がり、しばらくする
としぼんでいったのである。ラジオのキャンペーンに応じて実際に国債を購入したラジ
オ聴取者について調べたマートンは以下のように述べている。「ある例においては、ラ
ジオの聴取者は、気が変わる前に国債の購入にコミットしたいと考えて、ラジオ放送を
聴いた直後にラジオ局に電話をかけたのであった」。電話をかけてしまえば、そのラジ
オ聴取者は、衝動的な「私」によって用意されたコミットメントに従って国債を購入し
なければならなかったのである14。
事前的なコミットメントを使用することができなくとも、衝動的な「私」が戦略的に
振る舞う術は依然として残されている。例えば、衝動的な「私」は、ルール志向の「私」
が事前的なコミットメントに乗り出す際のコストを増加させるように取り計らうこと
ができる。一般的には、将来の不確実性が高まるほど、事前的に拘束力のあるコミット
メントをすることでヨリ大きなコストを負担せねばならなくなる。というのも、将来の
不確実性が高まるほど、コミットメントをすることで失われる柔軟性(flexibility)
の価値が高まる15ことになるからである。衝動的な「私」は、慎重に計画を練った上で、
ルール志向の「私」との自己管理を巡るゲームでの追加的なテコ入れの手段として16将
来の不確実性を高める手段に訴えるかもしれない。
週末に山にキャンプに出掛けることは、山にアルコールの類を持参しないのであれば、
飲酒の量を抑える効果的な方法かもしれない。しかし、衝動的な「私」は、ルール志向
の「私」によるこの事前的なコミットメントを覆す術を持っている。土曜日に職場の上
司から突然電話で仕事の呼び出しがあるかもしれないとすれば、週末に小旅行に出掛け
ることはコストを伴うものとなる。衝動的な「私」はこの点を勘案して、週末呼び出し
の声が掛かる可能性の高いプロジェクトをあらかじめ引き受けておくかもしれない。そ
のようなプロジェクトを引き受けることで、事前的なコミットメントのコストが上昇し、
おそらくはキャンプに出掛けることもなくなるだろう。

14 原注;Robert K. Merton, Mass Persuasion: The Social Psychology of a War Bond Drive
(Westport, Conn.: Greenwood, 1946), pp. 68-69.
15 訳者注;コミットメントの機会費用が高まる
16 訳者注;有利な立場に立つための手段として

6
ルール志向の「私」が部分的なコミットメントに成功したとしても、衝動的な「私」
は時に効果的な報復手段に打って出ることができる。衝動的な「私」は、報復の機会が
訪れた時にルール志向の「私」に対して強烈なかたちで報復することが可能なのである。
例えば、ルール志向の「私」が喫煙の量を控えるためにレストランでは常に禁煙席に座
るよう図っていると想定しよう。しかし、食事を終えてレストランから一度出れば、ル
ール志向の「私」はもはや禁煙席というコミットメント手段に頼ることはできない。こ
の報復の機会を利用して、衝動的な「私」は、いつも以上に高タールのタバコを吸った
り、いつも以上に吸うタバコの本数を増やしたり、いつも以上にタバコの煙をじっくり
と深く吸い込むかもしれない。ルール志向の「私」の計らいで吸うことのできるタバコ
の本数が減らされていたとしても、衝動的な「私」は吸うたばこの質を調整することで
報いることができる。衝動的な「私」は、報復手段として、この人間をニコチン中毒以
外の別の中毒に陥れることになるかもしれない17。
以上の例は、衝動的な「私」がいかにしてルール志向の「私」によるコミットメント
に対抗できるかという話題であったが、ルール志向の「私」は事前のコミットメント以
外にも自己を規律するための術を持っている。例えば、ルール志向の「私」は、自己統
制に失敗すれば懲罰を与え、自己統制に成功すれば報酬を与えるよう取り計らうことが
できる。お金の節約に成功すれば、ルール志向の「私」はご褒美としてレストランでの
豪華な食事をセッティングするかもしれないし、またダイエットに成功すれば、ルール
志向の「私」はご褒美として新しいセーターを買うかもしれない。もしある人が自分は
タフである(意志が強い)との確固たる評判(「意志が強い自分」に対する高い信頼)
を構築しているのであれば、そのような報酬や懲罰というのは自己に規律を課すための
有効な手段となるかもしれない。
しかしながら、衝動的な「私」は、時間整合性(time consistency)の問題を利用す
るかたちで、ルール志向の「私」によるこの規律手段に対抗することができる。時間整
合性の問題は、事後的な懲罰や報酬という手段にとってのアキレス腱である。実際に逸
脱行為がなされてしまった後では、予定通りに懲罰を実施することはもはや望ましくな
いかもしれない。同様に、目標が達成されていなくとも、予定されていた報酬だけはき
っちりといただくということは可能である。
衝動的な「私」はルール志向の「私」に後ろ向き帰納法(backward induction)―有
限期間の繰り返しゲームにおいては協調(今の例であれば、逸脱行為に対して懲罰で報
いること)は維持可能ではないことを示唆するところの後ろ向き帰納法―を思い出させ
ることができる。ルール志向の「私」は、ゲームの利得構造に関する情報やゲームが有

17 原注;Jeffrey A. Harris, "Taxing Tar and Nicotine," American Economic Review 70


(1980):300-311 を参照。ハリスは、この論文の中で、タバコの量に対する政府課税が喫煙者に
よるどのような調整(特に質の面での調整)をもたらすことになるかをヨリ一般的な観点から調
査している。ルール志向の「私」のコミットメントは、衝動的な「私」による喫煙行為に対して
従量税をかけているようなものであるということにでもなろうか。

7
限期間であるという情報を意図的に無視することで、後ろ向き帰納法から逃れようとす
るかもしれない。衝動的な「私」は、ルール志向の「私」によるこの無視に対抗するた
めに、ゲームの構造に関する情報を再認識すべく促すことができる。ダイエットを考え
ている彼/彼女がダイエットの最終日には彼/彼女がどんちゃん騒ぎで飲めや歌えやし
ているだろうことを具体的にイメージするようになれば、報酬や懲罰の利用を通じたダ
イエットのための規律手段は信頼に足らないものとして採用されないということにな
るかもしれない。エルスターやドナルド・デイヴィッドソン(Donald Davidson), デ
ヴィッド・ピアーズ(David Pears)によって分析されているような衝動的な「私」に
よる短期的な欺瞞に基づく戦術とは異なり、この戦術が衝動的な「私」に要求している
ことは「真実を語れ」ということだけである18。
ルール志向の「私」が自己規律を実現するために他の人間を利用する能力については
よく知られているところである。ハリー・I・カリッシュ(Harry I. Kalish)は、この
点に関連する議論として、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の例を引いている。ユ
ゴーは、原稿の執筆が終わるまで外出しようという気にならないようにするために、裸
になって原稿の執筆に取り掛かるとともに召使に対して衣服を彼(=ユゴー)の手の届
かないところに置いておくよう頼んだのである19。ダイエットや禁酒、予算管理のため
の自己規律は他者からの協力を得ることでさらにその実効性を高めることができるわ
けである。衝動的な「私」もまた他者からの協力を得ることでルール志向の「私」との
バトルにおいて有利な立場に立つことが可能となる。友人から仕事中毒だとか神経質す
ぎる("too uptight")と思われている人間は、時にリラックスの意味も込めて、お酒
に誘われたり、休暇をとるよう勧められたりする。衝動的な「私」はこのことを念頭に
おいて、他人のいる前で見せつけるかのように仕事熱心であるふりをしたり、神経質そ
うな素振りを見せたりして、他者からの協力20を得るように仕向けるかもしれない。

18原注;自己欺瞞(self-deception)については以下を参照せよ。 Donald Davidson, Essays on


Actions and Events (Oxford: Clarendon, 1980); and David Pears, Motivated Irrationality
(Oxford: Oxford University Press,1984). 後ろ向き帰納法については以下のゼルテンの論文を
参照。Reinhard Selten, "A Reexamination of the Perfectness Concept for Equilibrium Points
in Extensive Games," International Journal of Game Theory 4 (1975): 25-55. 繰り返しゲー
ムにおいて協調戦略を促すにあたって不確実性が果たす役割に関しては、以下の論文で分析され
ている。David Kreps and Robert Wilson, "Reputation and Imperfect Information," Journal of
Economic Theory 27 (1982): 253-79; and David Kreps, Paul Milgrom, John Roberts, and
Robert Wilson, "Rational Cooperation in the Finitely Repeated Prisoner's Dilemma," Journal
of Economic Theory 27 (1982): 245-52. アクセルロッド(Robert Axelrod)の著書 The
Evolution of Cooperation (New York: Basic, 1984) で有名になったしっぺ返し戦略
("tit-for-tat")に基づく協調関係の創発という議論は、ゲームの相手の行動に関して不確実性
が存在する場合にのみ妥当するものである。
19 原注;Kalish, p. 297.
20 訳者注;友人からの「お酒飲みに行こうぜ」とか「ちょっとは休みとれよ」といった言葉に

甘えて友人と酒を飲み交わし、あるいは休みをとる。

8
Can the rule-
rule-oriented self be too strong ? (ルール志向の「私」があまりにも強すぎるという
ことはあり得るのか?)

自己管理の問題を扱う文献の多くでは、ルール志向の「私」が自己管理を巡るバトル
で勝利を収めることが望ましいこととされている。ルール志向の「私」は、喫煙や飲酒
をはじめとして何らかの望ましくないとされる活動をやめたいと望んでいるものの、衝
動的な「私」からの抵抗によってなかなかその望みを遂げることができないとされるの
である。このような観点からすれば、ある一人の人間の厚生(well-being)は、ルール
志向の「私」が自己管理を巡るバトルで勝利を勝ち取る能力に依存している、というこ
とになる。
しかしながら、ルール志向の「私」が勝利を収めることが望ましいと考えることはそ
こまで自明のことではない。アルコール中毒や薬物中毒のような多くのケースでは、確
かにルール志向の「私」が勝利することが一人の人間の幸福にとって必要となるかもし
れないが、ルール志向の「私」があまりにも勝ち過ぎることは精神衛生上かえって有害
となり得るかもしれない。衝動的な「私」の欲求を絶えず抑え込んでいる人間は、満た
されない思いからイライラしたり、過度に融通がきかなくなったり、自発性を発揮する
能力を欠いたり、ということになるかもしれない。衝動的な「私」は時に無責任な行動
を見せることがあるが、我々が人生を楽しく過ごすことができるのも多くは衝動的な
「私」のおかげである。
精神的な安定を達成するためには、ルール志向の「私」が絶えず勝利を収めることよ
りはむしろ、ルール志向の「私」と衝動的な「私」のそれぞれの要求をうまくバランス
させる必要がある。あるケースでは、衝動的な「私」が勝利することが望ましいであろ
うし、別の他のケースでは、どちらか一方の「私」が勝利を収めるのではなく、ルール
志向の「私」と衝動的な「私」の要求をともに聞き入れ、両者の間で折り合いを付ける
よう試みることが望ましいであろう。もちろん、どちらの「私」ももう一方の「私」の
利益を完全には考慮に入れないかもしれないので、どちらの「私」も一人の人間にとっ
て最善の結果を望むとは限らないであろう。実際のところ、ルール志向の「私」は衝動
的な「私」に対して外部性を及ぼす(また逆も言える)ということがあり得るのである。
この外部性の問題から自己規律の行き過ぎ(overdiscipline)という事態に陥ることが
あるかもしれない21。

21原注;一人の人間内部の対内的な選好の集計(intrapersonal preference aggregation)に関


連する哲学的な問題の多くは、G.カフカ(Gregory Kavka)によって論じられている。 Gregory
Kavka, "Is Individual Choice Less Problematic Than Collective Choice?" (University of
California, Irvine, 1988, typescript). 対内的な選好の集計をアロー(Kenneth Arrow)の問題
とのアナロジーで理解するならば、選好の基数性(cardinality)を認めない限りにおいては、
独裁的な選好の存在が必要になるということになろう。本論文では、異なる「私」の利害を集計
するというこの問題を扱うことはしないが、問題の解決には、ルール志向の「私」の利害だけ
ではなく、衝動的な「私」の利害も考慮に入れる必要があるであろう。

9
もちろん自己規律の行き過ぎは外部性に基づく以外の多くの理由からも発生し得る。
どちらか一方の「私」、あるいは、どちらの「私」もともに、完全な合理性とは相容れ
ないような要素、例えば、文化的、生物学的、認知的なバイアスまたは欠点を備えてい
るかもしれない。認知的なバイアスを抱えているとなれば、ルールを用いて行動を律す
ることに伴うコストのすべてを勘案することに失敗するかもしれないし、ルールを用い
て行動を律することで達成可能となる目的に過度に注意を集中してしまうがために自
らの選択が(目的の達成を促進する以外の側面も含めて)どのような結果をもたらすこ
とになるかを見誤ってしまうことになるかもしれない。
自己規律の行き過ぎは、種としての人間に備わる生物学的・遺伝的な特徴に基づくの
かもしれない。ルールを用いて行動を律することは、種としての人間にのみ特有な現象
ではなく、問題解決に取り組むような動物には広範に見られる現象である22。人類は、
有史以来、言語を用いて分析し思考する能力を発展させてきた。この能力は、多くのケ
ースにおいて、ルールを用いて行動を律することの効果的な代用物として機能すること
になるかもしれない。しかしながら、人類は依然としてルールの使用に頼ろうとする遺
伝的な傾向を有している―たとえルールの使用が必ずしも適切ではないような状況で
あっても―。衝動的な「私」がルールの使用に頼ろうとする人類の遺伝的な傾向にもっ
と首尾よく打ち勝つことができるようであれば、一人の人間としてはヨリ幸福であるの
かもしれない。
ドイツの哲学者 I. カント(Immanuel Kant)の一生は、あまりにも強すぎるルール
志向の「私」をその内部に抱え込んでいる人間の極端な例を提供するものである。カン
トの伝記作家であるスタッケンバーグ(J. H. W. Stuckenberg)は、カントが自らの肉
体的な欲求(衝動)をいかにして律していたか(あるいは律する術を知り尽くしていた
か)を伝えている。カントは、強靭な意志の力をもって、のどの渇きや咳、寒気、頭痛
を我慢し、これらの肉体的な衝動を抑えつけていたのである23。この点以外にも、カン
トの一生は厳しく規律づけられた生活ぶりであった。カントは一度も結婚しなかったし、
スタッケンバーグはカントの一生を「厳格でありまた決して中断されることのなかった
精神的な修養(mental application)の 66 年であった」と述べている24。
カントは、講義や研究、食事、夕方の散歩、就寝といった日々のルーチンをそれぞれ
同じ時間きっちりにこなしていた。どんなに天気が悪くても夕方の散歩を欠かすことは
なく、散歩中は汗をかかないように、口呼吸をしないようにと慎重に気を使っていた―
カントは汗をかいたり口呼吸をすることは健康に悪いと考えていた―。 カントはまた、
召使に対して、厳格な軍隊の流儀で「時間です!」との号令をかけて毎朝 5 時きっちり

22 原注;以下を参照せよ。 Ronald Heiner, "Rule-governed Behavior in Evolution and Human


Society" (George Mason University, 1987, typescript).
23 原注;J. H. W. Stuckenberg, The Life of Immanuel Kant (New York: University Press of

America, 1986), pp. 102-4.


24 原注;Ibid., p. 145.

10
に起こしに来るようお願いしており、カントがどれだけ「もう少し寝かしてくれ」と強
く懇願しても 5 時を過ぎていれば決してその懇願を聞き入れないよう頼んでいた。カン
トはしばしば誇らしげに語ったそうである。「この 30 年間というもの、私の召使は一
度たりとも私を 2 度起こすという手間をとることはなかった」と。カントは「肉体面な
らびに精神面できっちりとした規則性(regularity)を保つことは重要なことであると
考えていた。カントは、健康に影響が出るのではないか、研究に支障が出るのではない
か、と恐れて、些細な変化でさえも嫌っていた。そういうわけで、カントは自分自身に
対して厳しく接し、並外れた几帳面さをもって日々を送ったのであった。カントはルー
ルに従うことに痛ましいまでに心を砕き、ついには完全に自らを統御し、自発性
(spontaneity)を締め出すことに成功したのであった。」25
カントとまではいかなくとも、ノイローゼに苦しんでいる人はたくさんいる。神経質
すぎる人、仕事中毒の人、時間に几帳面過ぎる人、潔癖症の人、権威主義的な人、ケチ
な人・・・これらは、あまりにも強すぎるルール志向の「私」を内部に抱え込んでいる
人間のいくつかの例である。自己規律の行き過ぎに伴うコストは、心理的なものにとど
まらない。例えば、仕事中毒者は、健康上の大きな問題を抱え込むことになるかもしれ
ない。
自己規律(自己統制)が行き過ぎることの危険性については、インサイトセラピスト
(insight therapists)と呼ばれる心理学の一学派の人々によって強調されている26。
インサイトセラピーにおいては、自己統制は、しばしば、人格の統合(personality
integration)と代替的な関係にあると強調される。人は、パーソナリティ障害
(personality disorder)が外部に表出することを抑えるために―パーソナリティ障害
の事実それ自体を受け入れようとはせずに―ルール志向の「私」を利用するかもしれな
い。インサイトセラピーでは、パーソナリティ障害が外部世界に表出されることを無理
にコントロールして抑制しようとするよりはむしろ、逸脱的な衝動と全人格とを調和さ
せるよう試みることを勧めている27。
逸脱的な衝動と全人格とを調和させることに失敗すると深刻な結果が待ち受けてい
るかもしれない。R. バート(Richard Burt)は、手を塞いだり、使用できなくしたり
して、顔を掻きむしりたいという欲求の抑え込みに成功した人の事例を論じている。顔
を掻く欲求が抑制された結果として、その人は代わりに自分ではコントロールのできな
い顔の引きつりを経験することとなった。単に厄介な行動パターンを抑え込むだけでは

25 原注;Ibid., pp. 160-62.


26 原注;Burt を参照せよ。
27 原注;人格統合は心理学の古典的な研究の多くでも共通して取り上げられているテーマであ

る。例えば、以下の 2 冊を参照せよ。 Carl G. Jung, The Importance of Personality Integration


(New York: Farrar & Rinehart, 1939); and Erik Erikson, Childhood and Society (New York:
Norton, 1950) . 心理学における自己統制のコストに関する研究は、フロイトから大きな影響を
受けてきている。 Sigmund Freud, Civilization and Its Discontents (1930; reprint, New York:
Norton, 1961).

11
―ある厄介な行動の抑え込みは、容易にはコントロールのできない別のノイローゼの発
生につながるだけかもしれないので―満足な結果を得るには必ずしも十分ではないの
である。
ルール志向の「私」が衝動的な「私」をコントロールして抑え込むよりもむしろ衝動
的な「私」を鼓舞することが望ましい理由というのがあるかもしれない。互いに対立す
る欲求を有しているとしても、ルール志向の「私」にとっては、衝動的な「私」を鼓舞
することは合理的な行いかもしれないのである。
ルール志向の「私」が有効に活動できるためには、衝動的な「私」による対抗的な活
動の存在が必要となるかもしれない。ルール志向の「私」があまりにも強すぎると精神
的なバランスの崩壊につながり、その結果ルール志向の「私」がその意志を課す余地が
失われてしまうがために、長期的に見るとルール志向の「私」が強すぎることは自身(=
ルール志向の「私」)にとっても得ではないということになるかもしれない。また、衝
動的な「私」は創造性やイノベーションの種を次々と生み出すことになるかもしれない
が、それが価値を生むためにはルール志向の「私」からの協力が必要となるかもしれな
い。さらには、ちょっとしたルール破りを認めることは規律の完全な放棄を防ぐために
も望ましいことかもしれない。ダイエットに臨む彼/彼女は、事前の計画に厳密に従う
ことはあまりにもフラストレーションがたまることでありとても耐えきれるものでは
なく、最悪の場合にはダイエット自体を放棄することにもつながりかねないと感じて、
ちょこちょこと計画を破って食べ物に手を出すことになるかもしれない28。つまりは、
衝動的な「私」がある程度強くて健康的であることはルール志向の「私」の利益にもな
るかもしれないのである。衝動的な「私」が自らの意志を押し通すことができないほど
弱々しいと、精神的なバランスが崩れる結果として、弱々しい衝動的な「私」をその内
部に抱える人間はノイローゼに陥ることになるかもしれず、長期的に見るとルール志向
の「私」にとっても得にならないかもしれないのである。
自己解放(self liberation)に役立つ技術はルール志向の「私」にとっても有利に
働くことになるかもしれない。例えば、ギャンブルや宝くじの購入、あるいは、その他
の衝動的なリスクテイキング活動は、異なる「私」の間の協調(interself cooperation)
を促進することになるかもしれない。リスクテイキング活動は、将来利得の不確実性を
高めるものである。定期的にリスクを引き受ける人は、(将来がどうなるかわからない
という不確実性を持ち込むことで)自らの将来は行き止りであるという感覚を避けるこ
とができるかもしれない。将来に希望を見出せない人ほどお酒や薬物にはしる誘惑に駆
られたり、自暴自棄になる可能性が高く、それゆえ将来は行き止りであるという感覚は
異なる「私」の間の協調や自己規律にとって障害となりかねない。ギャンブルや宝くじ

訳者注;ルール志向の「私」にとっては、たとえ計画通りにはすすまなくとも曲がりなりに
28

もダイエットを続けてくれる方が(イライラが募る結果として)ダイエットが途中で放棄される
よりは望ましいことである。時折衝動的な「私」に活躍の場を与えてガス抜きをすることは、ダ
イエットの成就にとって必要なことかもしれない。

12
の購入といった程度のリスクを引き受けるだけの意志を持つ(ある程度の強さを備えた)
衝動的な「私」は、間接的ながらも、ルール志向の「私」を支援していることになるか
もしれないのである。というのも、ほどほどの強さを備えた衝動的な「私」のおかげで
29
、ヨリ危険な衝動がコントロール可能な範囲や規模に抑制されることになるからであ
る。
宝くじの購入は、将来の期待所得を最大化しているのではなくむしろ、「夢を買って
いる」("buying a dream")ようなものであるとは、しばしば指摘されるところである
(1 ドルの宝くじの期待値は、大体 40~60 セントくらいである)
。宝くじの購入が将来
に対する希望を喚起し、2 人の「私」の間での協調を促進するものであるとすれば、負
の期待値を持つ宝くじを購入することは、実のところは、長期的な効用を最大化してい
るということになるのかもしれない。ギャンブルは、ルール志向の「私」と衝動的な「私」
との協調を図る広範な自己管理のためのプログラムの一構成部分であるのかもしれな
い。この見解とは対照的に、自己制御の問題を扱う伝統的な分析では、ギャンブルや宝
くじの購入は、ルール志向の「私」が制御することを欲する衝動的な活動として捉えら
れている。
これまで論じてきたリスクテイキングの役割に関する私の仮説は、 宝くじやギャン
ブルに関する我々の直観の多くとも合致するものである。ちょっと世の中を簡単に見ま
わしてみると、「将来行き止り」と感じている人ほどギャンブルに向かったり、宝くじ
を購入したりしているようである。ギャンブルは「将来行き止り」という感覚を克服す
る手助けとなり、どこか他の領域で自己制御を達成する見込みを高めることにつながっ
ているかもしれない。
行動上の気紛れ(Behavioral quirks)や特性(peculiarities)は、リスクテイキン
グ活動と似たような役割を果たすことになるかもしれない。例えば、私の内にある衝動
的な「私」が大学の今のポストをなげうってビジネスの世界に飛び込むよう促すかもし
れない。私の内にあるルール志向の「私」は大学から去ることに反対しているとしても、
職を変更する可能性があるということは、ルール志向の「私」にとって利益となるかも
しれない。私は、衝動的な「私」の唆しによって職を変更する可能性があることにより、
杜撰さ(sloppiness)や怠惰(laziness)といった性格に陥らないよう気をつけるかも
しれない。というのも、杜撰さや怠惰というのは、大学の外では特に不利になる性格だ
からである。規律を破ること30の潜在的なコストを高めることで、ここでも再び不確実
性の存在が異なる「私」の間の協調を促進することになるかもしれないのである。ここ
では衝動的な「私」が不確実性31を持ち込んでいるのであるが、衝動的な「私」それ自

29 訳者注;衝動的な「私」がギャンブルや宝くじの購入を通じてほどほどのリスクを人生に持
ち込むことで、同時に将来に対するほどほどの夢や希望も持ち込まれることになり、人が自暴自
棄的になることを防ぐかもしれない。
30 訳者注;この例では、規律を破ること=怠惰で杜撰な性格の人間になること
31 訳者注;職を変更する可能性

13
体が不確実性を生む重要な原因となり得るのである。

Is addiction always the result of weakness of will ? (中毒は常に意志の弱さの結果なのか?)

自己規律の行き過ぎを招く可能性があることに加えて、ルール志向の「私」は中毒や
有害な消費習慣を招く原因になっているかもしれない。中毒は、必ずしも意志の弱さの
結果、あるいは、衝動的な「私」が自己管理を巡るバトルで優勢に立っている結果とは
限らない。中毒は、ルール志向の「私」による慎重な決定の結果であるのかもしれない
のである。ルール志向の「私」がそのような決定をするのは、人生において衝動的で自
発的な喜びが欠けているためであるかもしれない。衝動的で自発的な喜びの欠けた人生
は、何らかの中毒を伴う生活と比べて、つまらなくて魅力のないものなのかもしれない。
例えば、北イエメン(North Yemen)では、人口の 80%近くがカート(qat)として
知られる常習性のある木の葉を噛む習慣を持っている。このカートを噛むと数時間であ
るが軽い覚醒作用が引き起こされるが、イエメン人にはカートはエネルギーの源泉であ
ると考えられている。カートへの需要は非常に広範なものであり、ある情報ソースによ
れば、イエメンの GDP に占めるカート生産の割合は 30%にのぼるということである32。
カート中毒者のうち現状に不満を感じ、カートを噛む習慣をやめたいと考えている割合
は 50 パーセント未満であり、イエメン人の大半は、カートを噛む習慣を誇らしく感じ
ているとのことである33。カートは、イエメンにはない消費財や文化的な刺激の代わり
になっているのかもしれない。実のところ、イエメンは、世界銀行によって、世界で最
も貧しい 6 つの国のうちの 1 つに数えられている。多くのケースでは、カートの常習的
な消費は、ルール志向の「私」の意志に反するかたちで行われているわけではないよう
である34。
自己制御の問題を扱う通常の分析が予測するところとは反対に、ルール志向の「私」
の力を強化してもカート中毒はそれほど減少しないかもしれない。反対に、カート中毒
は、新たな喜びや誘惑を導入することで、効果的に克服できるかもしれない。新たな喜
びや誘惑を導入することで、衝動的な「私」がカート消費に抵抗し、カート消費以外の
源泉から喜びを得ようとするインセンティブを持つようになるからである。ケネディー

32原注;John G. Kennedy, The Flower of Paradise: The Institutionalized Use of the Drug
Qat in North Yemen (Dordrecht: Reidel, 1987), p. 133.
33原注;Ibid., pp. 20, 237.
34原注;イエメンでのカート消費の実態は、ベッカー=マーフィーの「合理的な中毒」理論と
いくつかの面で共通点を持っている。Gary S. Becker and Kevin S. Murphy, "A Theory of
Rational Addiction," Journal of Political Economy 96 (1988): 675-700. ルール志向の「私」は、
将来の期待効用を最大化するように意図して中毒を選んでいるのかもしれない。しかしながら、
ベッカー=マーフィーの議論とは異なり、本論文では、ルール志向の「私」が選択を決定する際
にその利益が部分的にしか考慮されない他の異なる「私」 (例.衝動的な「私」 )の存在を認めて
いる。

14
(John G. Kennedy)は、その著書の中で、カート消費を減少させているのは中産階級
の人々であり、彼らは手元のお金を消費財の購入に使うよう動機づけられていると指摘
している35。さらには、アメリカやサウジアラビアといった海外で働いているイエメン
人は、人生の他の側面に関心を持つに至るにつれて、カート中毒から脱していくように
なるとのことである36。

Self-
Self-management and markets (自己管理と市場)

自己管理には自己解放の側面も伴うということを理解することで、多くの社会・経済
問題に関する従来の態度に変化がもたらされることになるかもしれない。例えば、従来
のように、自己管理が自己統制・自制の問題として捉えられるならば、消費者の規律を
緩めたり歪めたりしようとする企業の試み、例えば商品の購入を説得しようとする広告
活動やマーケティング活動は、消費者の自己制御を阻害する有害で非生産的なものであ
ると判断されることになる。企業による広告活動やマーケティング活動に政府規制を加
えることは、消費者の自己制御を支援することを通じて消費者厚生の向上に資すると判
断されることだろう。
消費者の規律を緩めたり歪めたりしようとする試みは市場経済に広く見られる現象
である。スーパーマーケットやデパートは、買い物客がお目当ての商品にたどり着くま
でについつい余計な商品まで手にしてしまうよう展示がなされている。高価な自動車や
家具、諸々のぜいたく品を販売している企業は、消費者に対して、支払いやすいクレジ
ット条件(easy credit terms)を提供したり、商品の試用期間を設けたりしている。何
度か繰り返し使用され、定期的に買い替えられるような商品、例えば、リップスティッ
クや防臭剤、トイレットペーパーのような商品の販売者は、消費者に贔屓にしてもらう
ために、無料のサンプル品を提供している37。この点を捉えて、N. マッケンドリック
(Neil McKendrick), J. ブレワー(John Brewer), J. H. プラン(J. H. Plumb)は、
消費者から注目を引きつけようとする企業の試みこそが、産業革命の背後にあった真の
イノベーションであると主張している38。

35 原注;Kennedy, p. 238
36 原注;Ibid., p. 191. 関連する議論として興味深いものは以下である。 Herbert Fingarette,
Heavy Drinking: The Myth of Alcoholism as a Disease (Berkeley: University of California
Press, 1988). H. フィンガレットによれば、アルコール依存症は病気というよりはむしろ、意識
的な選択の結果であるとのことである。
37 原注;一方で、ニコチンガムや健康器具の生産者は、ルール志向の「私」が一人の人間を支

配していることを望むかもしれない。同様に、銀行は、預金を預けてもらうために、自己解放よ
りは自己制御を促進しようと考えているであろう。
38 原注;Neil McKendrick, John Brewer, and J. H. Plumb, The Birth of a Consumer Society:

The Commercialization of Eighteenth Century England (London: Europa, 1982).

15
フリーサンプルや試供品といった多くのビジネス慣行は、(消費者の規律を緩めたり
歪めたりするためというよりもむしろ)消費者に対して判断のための情報を提供しよう
とする試みであると解釈できるかもしれない―情報提供機能と説得機能とを分離する
ことはしばしば困難なことではあるが―。にもかかわらず、消費者の意志の力や規律を
弱めることが多くのマーケティング活動の重要な要素であることは否定できないと思
われる。消費者の意志の力や規律を弱めることを意図した明白な例は、サブリミナル効
果を利用した広告である。商品の販売者は、広告や映画の中に隠されたイメージや映像、
メッセージを秘かに潜り込ませて、消費者の意志の力を弱めようと試みることがある。
企業による広告活動に批判的な立場に立つ論者は、伝統的に、広告の説得機能を強調
し、広告を擁護する立場の論者は、広告の情報提供機能・シグナリング機能を強調する
傾向にある39。ただ、広告の説得機能は消費者厚生に対して必ずしもマイナスとなるわ
けではない。消費者は、この消費志向の現代経済において、誘惑に身を委ねたいと考え
ているかもしれず、広告による説得は、一人の人間の中の衝動的な「私」に力を貸すこ
とになり、その結果として消費者の厚生を改善することになるかもしれない。自己制御
(自己規律)が行き過ぎており、また自己解放が過度に抑制されているとすれば、心を
かき乱すような40企業のマーケティング活動は、消費者に対して、害よりは益をもたら
すことになるかもしれない。自己規律の行き過ぎた消費者は、企業による広告活動のお
かげで、ヨリ自発的で衝動的に生きることが可能となり、厳格な自己規律の縛りから解
放されることになるかもしれない。
市場は、消費者の規律を弛緩する意図的な試み(例えば、広告)をそのうちに含むだ
けではなく、意図しないかたちで消費者規律を弛緩させる効果を有している。市場経済
の進展に伴う一連の現象―例えば、利用可能な消費財メニューの拡大、選択の自由の広
がり、富の増進、放蕩にふける( "licentious" )機会の広がり(=不道徳的な選択肢
の広がり)、社会的な紐帯の解体―は、個々人の自己解放を促進し、自己規律の行き過
ぎを抑える効果を持っているかもしれない。
サ ミ ュ エ ル ・ ブ リ タ ン ( Samuel Brittain ) は そ の 著 書 『 Capitalism and the
Permissive Society』の中で、資本主義と結びついた選択の自由は、寛容な精神
(permissive moralities)を生み出すに至るであろうと主張している41。多くの保守派
の論者は、資本主義は伝統的な価値観を破壊し、弱めることになると懸念を表明してい
るが、ブリタンは保守派のこの懸念をひっくり返して、資本主義の進展に伴う道徳律

39 原注;広告活動への批判については、ガルブレイスの以下の著書を参照せよ。 John Kenneth


Galbraith, The Affluent Society (Boston: Houghton Mifflin, 1958). 広告のシグナリング機能
については、P. ネルソンの以下の論文を参照せよ。Philip Nelson, "Advertising as
Information," Journal of Political Economy 82 (1974):729-54.
40 訳者注;衝動的な「私」に力を貸すような
41 原注;Samuel Brittain, Capitalism and the Permissive Society (London: Macmillan, 1973).

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(moral codes)の弛緩が個人の自由につながると主張しているのである42。
しかしながら、市場が人の自己規律を弛緩させる効果は、功罪相半ばするものかもし
れない。市場のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられたとしても、その結果として個
人の厚生は必ずしも高まるわけではないかもしれない。人格の健全な発展には自己規律
への欲求自体が低下する必要があるかもしれない。自己規律への欲求が低下することが
最も望ましいとしても、自己規律を欲求する態度に大した変化がないとすれば、自己規
律に完全に失敗してしまうよりはある程度成功するほうが好ましいことなのかもしれ
ない。おそらく市場は(自己規律への欲求を低下させることはなく)決して満たされる
ことのない欲求43を生み出すだけなのであろう。
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられたとし
ても、自己規律の行き過ぎは他の別の領域―それも市場の影響がそれほど及ばない領域
―において姿を変えて表すことになるだけかもしれない。例えば、チョコレートを我慢
したいと思いながらも、広告による説得やショッピングセンターで配られるサンプル品
につられてついついチョコレートを口にしてしまうとある人物を取り上げてみよう。こ
の人物が自己規律の行き過ぎの傾向を有しているとすれば、チョコレートを我慢すると
いう面での自己規律の失敗は他の領域―チョコレートのように簡単に挫折を経験しな
いであろう領域―で取り返されることになるかもしれない。例えば、この人物は綿密な
メニューを組んで懸命にエクササイズに励むことになるかもしれない。
しかしながら、ある領域で自己規律の行き過ぎを抑制することができれば、行き過ぎ
た自己規律への欲求は、別の他の領域において姿を変えて表れることはなくそのまま消
滅することになるかもしれない。人は、ある活動に成功を収めるとその活動を選好する
ようになり、またある活動に失敗するとその活動を嫌うようになる傾向がある44。さら
には、人が自らの選好に影響を及ぼすことができるとすれば、自らの選好体系のうちか
ら満たすことができないとわかっている選好は取り除こうと試みるかもしれない。市場
のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられることになれば、人は行き過ぎた自己規律へ
の欲求を取り除こうとする新たな自己管理の努力に取り組むことになるかもしれない。
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられ、自己規
律の行き過ぎが他の別の領域において姿を変えて表すことになるとしても、この別の領
域における(ルール志向の「私」が享受する)自己規律からの限界効用はヨリ低いもの

42 原注;ハーシュマン(Albert Hirschman)はその著書 Rival Views of Market Society and


Other Recent Essays (New York: Viking, 1986) の中で、市場経済が人々の道徳にいかなる影響
を与えることになるかという問題を取り上げ、この問題に対する様々な論者の見解を要約してい
る。
43 訳者注:おそらく、この「欲求」は、衝動的な「私」が有する欲求=広告等を通じて刺激さ

れる衝動的な欲求、のことを意味していると思われる。
44 原注;以下を参照せよ。Maynard W. Shelly and Tina Z. Adelberg, "The

Constraint-Reinforcement Approach to Satisfaction," in Analyses of Satisfaction, vol. 1, ed.


Maynard W. Shelly (New York: MSS Information, 1972).

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となるであろう(もしこの別の領域における自己規律からの限界効用が、市場における
広告活動等を通じて衝動的な「私」の力が強くなったために渋々ながら自己規律の適用
を諦めざるを得なくなった元の領域においてよりも高いものであれば、ルール志向の
「私」ははじめからこの別の領域で自己規律への欲求を満足させていたことだろう)。
自己規律からの限界効用が低下するとすれば、行き過ぎた自己規律への欲求は放棄され
ることになるか、あるいは、自己規律への欲求を満たすために投下される資源の量は減
少することになるであろう。
以上の議論のいくつかは、資本主義体制下における疎外(alienation)に関するマル
クスの仮説が合理的選択理論とその根を共有するものなのかもしれないことを示唆し
ている45。疎外という問題は、市場の作用が自己管理ゲームにおける異なる「私」間の
力関係のバランスを変化させることから生じてくるのかもしれない。しかしながら、経
済成長が人々の道徳に与える影響を強調したのはマルクスだけではない。富(経済成長)
が重要な道徳観念を毀損することになるという信念は、ローマ帝国の崩壊を説明する諸
理論の多くに共有されたものであった。ハーシュマンは、この点に関連して、以下のよ
うに指摘している。「古代ローマにおける、節制(sobriety)や共和国の一員としての
誇り(civic pride)、勇敢さ(bravery)といった美徳は、戦争での勝利や領土の拡張に
つながり、勝利や領土の拡張は、富裕(opulence)や贅沢(luxury)につながった。そ
してこの富裕や贅沢は、先の美徳―節制、誇り、勇敢さ―を毀損し、共和国を、そして
最終的にはローマ帝国を崩壊させるに至ったのであった」46。マルクスと対照的な市場
観は、ドイツの古典的自由主義者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm
von Humboldt)に見出すことができる。フンボルトは、自発的な関係性の発展は人格
の統合を促進すると主張していたのである47。また、J.S.ミルも同様にして、個人的な
幸福と自発性、そして政治的な自由との相互のつながりを認識していた一人である48。

Constraint and Liberation as collective goods (集合財としての「制御」と「解放」)

本論文では、自己解放が個人に与える影響だけを取り上げて論じてきた。しかしなが
ら、自己解放が個人の厚生を高める一方で社会的には弊害を生むということもあり得る
ことである。反対に、自己制御は、勤勉や貯蓄、資本形成の促進を通じて、あるいは、

45原注;この点に関しては、シトフスキーの以下の本を参照せよ。 Tibor Scitovsky, The Joyless


Economy: An Inquiry into Human Satisfaction and Consumer Dissatisfaction (New York:
Oxford University Press, 1976).
46 原注;Hirschman, p. 114.
47 原注;Wilhelm von Humboldt, The Limits of State Action (Cambridge: Cambridge

University Press, 1969).


48 原注;John Stuart Mill, On liberty (New York: Norton, 1975).

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個々人の行動の予測可能性を高めることを通じて、社会全体に対し正の外部性を生むこ
とになるかもしれない。つまり、我々は、囚人のジレンマに似た状況に直面しているの
である。自己解放を経験する個人は(そしておそらくは彼/彼女の家族や親しい友人も)
解放から便益を得ることになるが、それ以外の他人は彼/彼女が自己解放を経験するこ
とから(派生的なかたちで)便益を被ることはないのである。
自己制御の社会的便益に関しては、マックス・ウェーバーが西洋の経済発展と資本主
義の勃興の原動力として指摘した要因、つまりはプロテスタントの勤労倫理にその例を
求めることができるかもしれない49。厳格なプロテスタントの勤労倫理は、多くの個人
を心理的なノイローゼに苦しめることになったかもしれないが、個人レベルでのノイロ
ーゼの問題は、資本主義的な経済秩序が生み出す富の増大によって一部は埋め合わされ
ることになったかもしれない。経済が規模に関する収穫逓増の特徴を見せるとすれば、
人をして労働や生産活動に従事するよう促す問題はフリーライダー問題と同じ性質を
有するものであり、社会的に最適な状態を実現するためには、プロテスタントの勤労倫
理のような規範が進化し、その規範が遵守される必要があるということになるのであろ
う。
フロイトは、自己制御の社会的便益は私的な便益を上回ると主張している50。フロイ
トにしたがえば、個々人がそれぞれに厳しい心理的な制約を課すことではじめて、人類
は文明社会で生活することができるようになるのかもしれない(フロイトによれば、こ
の心理的な制約は同時に社会における多くの苦悩を生み出す原因ともなるのであるが)。
また、先に触れたカントの一生についてのエピソードもまた、自己制御の社会的便益が
私的な便益を上回る事例を提供するものであるのかもしれない。カントがその厳しく規
律づけられた生活を通じて発展させた深遠な思想は、社会に対して多大なる便益をもた
らすことになったが、カント自身はそのような生活を過ごすことで精神的な負担を強い
られることになったかもしれないのである。

Concluding remarks (結論)

本論文で論じてきたように、自己管理を扱う通常の文献では、「command」(制御)が
強調されている。
「command」の強調は、自己管理に関する合理的選択理論においてだけ
ではなく、経済学の他の分野、例えば、経営科学(management science)や計画経済の
経済学(theory of central planning)においても同様に見られる傾向である。経営科
学においては、経営者は企業内部の資源を「command」
(管理・統制)しようと試みる存

49 原注;Max Weber, The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism (New York:
Scribner,1958).
50 原注;Freud.

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在として捉えられており、計画経済の経済学においては、計画当局者は一国経済内部の
資源配分を「command」
(指揮・統率)しようと試みる存在として捉えられている。
しかしながら、最近の経営科学と計画経済の経済学とにおいては、
「command」を強調
する視点は徐々に弱まりつつあるようである。企業と一国経済はそれぞれ自己規制的な
秩序(self-regulating orders)として理解されつつあるのである。企業や計画当局の
トップは、最善の結果を得ようとチェス盤の上の駒を動かすチェスのプレイヤーとは似
ても似つかない存在である 。企業や計画当局のトップが直面している問題は、独立し
た意思を持ち、またしばしば対立する動機を有する多くの個々人がその活動を複雑で高
度なレベルで協調させるための条件をいかにして作り出したらよいかということなの
である51。
自己管理に関する合理的選択理論もこれら 2 つの分野と同様の変化を遂げるべき時
である。成功している経済や成功している企業が「command」に基礎を置いていないよ
うに、成功した自己管理もまた「command」には基礎を置かないであろう。成功した自
己管理は、2 人の「私」の間での複雑な協調を通じた人格形成(personality growth)
のプロセスを伴うものであり、またそのようなプロセスを実現するためには束縛から解
き放たれた力を必要とするものなのである。非対称的な 2 人の「私」という想定を見直
すことは、自己管理に関する新たな視角を得るための第一歩に過ぎない。
「command」に
偏した現在の『複数の「私」』モデルに比肩し得るヨリ詳細なモデルを発展させるため
にはさらなる研究が必要とされるであろう。

51原注;自己規制的な秩序について社会科学の観点から展望している文献として以下を参照せ
よ。Friedrich A. Hayek, The Fatal Conceit (London: Routledge, 1988); and Richard Nelson
and Sidney Winter, An Evolutionary Theory of Economic Change (Cambridge, Mass.:
Harvard University Press, 1982).

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