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意識の謎に挑む

金井 良太

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はじめに

世の中に脳に関する本は溢れているが、誰もが楽しめるお話としての脳科学の本ばかり
である。しかし、脳が本当に面白い理由は、そこに意識が宿るからである。そこにはま
だ人類が解決していない大きな謎がある。意識の問題は、古くはギリシャ哲学や仏教に
おいて議論されてきた歴史の古い難問である。現代の科学で、人類はどこまで「意識」
を理解しているだろうか。

科学が意識を真剣に扱うようになったのは、ここ二〇年程度のことである。意識の科学
は、まだまだ始まったばかりで非常に若い学問だ。それでも、科学的な手法を用いた意
識研究は、これまでに数多くの新しい知識や概念を生み出し、意識の問題をついに捉え
始めている。

本書での意識研究の紹介は、あくまで経過報告にすぎない。意識の研究者たちは、常に
新しい意識研究の方法や切り口を見つけることに躍起になっている。そして五年も経て
ば、さらに新しい発見や研究が報告されていくだろう。

今回、本書を書くに至った動機は、私たちの脳に意識が宿っている事実が、自然科学に
とってどれほどの難問で、脳の研究が現在どこまで意識に迫ることができているのかを、
多くの人にも知ってもらいたいからだ。意識の研究は、哲学、心理学、脳科学といった
角度から行われているが、今後は情報学やロボット学や経済学にとっても避けて通るこ
とはできない課題となってくるだろう。 また、学問としてのみならず、意識というのは、
私たちが自分自身の存在について考えるときに、もっとも根源的な現象である。なぜ、
私たちには意識などというものがあって、日々いろいろなことを感じているのだろうか。

また、もう一つの執筆の動機は、現在の意識研究の状況を紹介することで、脳や意識の
研究をしたいと思う野心的な学生や若者が日本からたくさんでてきて欲しいからである。
自分が京都大学の理学部で学部の学生だった頃、哲学的に「認識とは何か」、「意味と
は何か」という問題に興味を持っていた。哲学者が論じるこのような問に対する答えは、

脳の中にあるはずだと感じていた。しかし、一体、どこから勉強を始めていいのやらむ
りわからなかった。それどころか、どういう言葉で自分の興味を人に説明したらいいの
かさえわからなかった。

自分の興味の対象が「意識」や「クオリア」で、ニューロサイエンスの研究として取り
組むことが可能だと知ったのは、大学を卒業する直前ぐらいだった。残念ながら、当時

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の京都大学で「意識の脳科学」という分野を紹介してくれる人に出会うチャンスはなか
った。そもそもニューロサイエンスについて学べる機会も限られていた。

だからこそ、意識を科学として研究するということが、世界では活発に行われていて、
今もっともエキサイティングな研究分野となりつつある現状を紹介したい。

あくまで本書は脳研究が専門でない一般読者を想定して書いたが、不必要に単純化する
ことはあえて避け、意識研究の現状が見えるようにすることを目標とした。そのために、
必要に応じて、背景となる知識の準備にも可能な限り紙面を割いた。しかし、全てを詳
細に説明することはできないので、より深く掘り下げて学びたい人のために、参考文献
や紹介した研究の元論文のリストを巻末につけた。

本書では、意識を研究する上で特に重要なトピックを多岐にわたって紹介するが、その
多くは、お互いに関連しあっているため、書籍という過去から未来へと一直線で進んで
いく話では、順序立てて伝えにくい部分もある。随所で、他の章で紹介するアイデアと
の関連を明らかにしするようにしているが、一度最後まで読み終えてから、もう一度読
むことで理解が深まる部分も多いだろう。

意識に興味を持つようになり、意識の研究と向かい合うようになることで、人はいくつ
かの段階を経て意識の理解を深めていく。自分自身の経験からも、周りの意識研究者の
考え方の変遷を見ていても、同じような経過を辿る。

意識に興味をもつ最初のステージは「クオリアに気づくこと」だろう。クオリアという
のは、「赤の赤らしさ」などという言葉で表されるように、自分が世界での目や耳の感
覚器を通して感じるときに、私たちの体験に伴う独特な主観的質感のことである。普段
私たちが感じることというのは、あまりに身近な存在であるために、存在自体を意識し
ていない人も多い。まさに空気のような存在だ。子供の頃に、自分のまわりに無色透明
な空気があるということに気づいていただろうか。それと同じように、自分に意識があ
って、自分がクオリアを感じることで世界と対峙しているということに気づいて初めて
意識の研究が始まる。

次のステージは「ハードプロブレムに気づくこと」だ。意識が脳から生まれる仕組みを
理解しようとし始めると、最初にぶつかるのが「ハードプロブレム」である。ハードプ
ロブレムというのは哲学者デイヴィッド・チャーマーズの作った用語で、クオリアのよ
うな意識の主観的側面を、通常の科学的手法で、物理現象に還元し説明することは絶望
的に難しいということを表している。科学というものは、客観的に測定可能な事象を扱
ってきたが、意識は主観そのものである。意識の内容は、それを主観的に感じている本

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人にしか体験することはできないので、外部からの客観的測定は不可能である。このよ
うな主観的な存在物を科学はこれまで対象としてこなかった。このように、意識が科学
にとって非常に特異な存在であるために、科学的な解決は非常に難しそうだというのだ。
クオリアのような主観的な感覚は、顕微鏡や MRI などの機械で観測できる物理現象では
なく、その主観を持つ本人だけにしか観測はできない。厳密には、他人に意識があるの
かさえ証明することは不可能だ。一度ハードプロブレムに気づいてしまうと、いくら脳
の研究者があれこれ脳や神経細胞の活動を調べたとしても、究極的には意識の解明には
至らないだろうと思えてしまうことがある。意識をハードプロブレムとして考えてしま
う論理的過程には、一見隙がないように見えるために、このような悲観的な立場にとど
まってしまう人も多い。 意識に興味をもったばかりの時期では、筆者自身も世界中の脳
科学の研究者のやっていることは、ハードプロブレムを解くためには全く意味のないこ
とをやっているのではないかと批判的に考えていた頃がある。生意気にも、脳の研究者

のやっていることは、ハードプロブレムの前では殆ど無意味だとさえ思っていた。しか
し、今ではそうではない。

第3のステージは「ハードプロブレムは不可能な問題ではないことに気づくこと」だ。
ハードプロブレムを解決することが不可能だと感じているのは、一見正しい論理に翻弄

されて、思考停止状態に陥っているにすぎない。実はその先には続きがある。ハードプ
ロブレムに気づいたところで止まってしまうのはもったいない。これまでの知見を直感
と総動員して考えぬくことで、この難問をどう切り崩していこうかと考えるところに意
識研究者の醍醐味がある。そして、絶対に砕けないと思われるハードプロブレムも、ど
うにかうまく傷をつけて、その隙間から崩していく隙を見つけていくことができる。ハ
ードプロブレムを崩していくための着眼点は人それぞれだ。私自身は、ハードプロブレ
ムは最終的には、「ある条件」を認めることで溶けてなくなってしまうだろうと考えて
いる。物理学がいくつかの「事実らしいこと」を所与のこと、すなわち公理系として認
めてしまうように、意識についてもいくつかの仮定を宇宙における真実であるとして認
めてしまえば、ハードプロブレムは溶けてなくなる。そこに辿り着くためには、脳計測

技術においても理論的探求においてもイノベーションは当然必要とされる。そして、こ
れから脳を情報という観点から理解していかなければならない。

本書の前半では、まずは意識の問題とは何かについて議論し、過去20年程度の間に発
展した、神経科学による意識研究の発展と限界について紹介する。また、各章で実験に
基づいた意識研究に絡めて、現在の意識についての理論を随時紹介しながら話を進めて
いく。そこで、おおまかな科学による意識研究の手法や研究対象がどのようなものかを
紹介する。後半では、ハードプロブレムとクオリアを切り崩すために、どのようなあア

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プローチが可能なのかについてのアイデアを提案する。そして、最後に「ハードプロブ
レムは溶けてなくなる」という予想について議論したい。

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第1章:意識のハードプロブレム

世界には70億人以上の人がいる。その一人ひとりに意識があって、自分の目や耳や皮
膚からの感覚を通して、自分の存在する世界を感じている。この瞬間に、世界中にいる
人たちが(深く眠っている人を除いて)、世界を感じ、考え、行動している。きっと今
この本を手にしたあなたにも、自分の意志で身体を動かし、自分の目を通して世界を見

ているという感覚があるはずだ。当たり前のことだが、驚きである。それだけ意識が世
の中にありふれた存在だということを示している。

さらに、かつて生きていた人たちにも、現代の我々と同じように、何十年という人生の
続く間、その個人の視点から様々な体験をしたのだろう。江戸時代の人も、日本ができ
たばかりの古墳時代の人たちも、もっと昔の石器時代の人も、それぞれ自分という存在
を通して世界を体験していたはずだ。

意識があるのは人間だけではなく、動物たちも何らかの感覚を経験しているだろう。ウ
シやウマなどの 動物たちも「今日は暖かくて気持ちがいいなあ」などと、言葉には表さ
なくても、幸福感を感じて生きているのかもしれない。キンギョなども、その目をとお

してカラフルな世界を感じているのかもしれないし、もっと小さな生き物にも生きてい
る間は、痛みや快感を感じているかもしれない。トンボやチョウチョウなどの昆虫にも
意識はあるのだろうか。あるいは、アメーバや藻などにも小さな意識があるのだろうか。
木や山のように、あまり動かないものには意識はないのだろうか。意識をもつ存在と、
意識をもたない存在の境目はどこにあるのだろうか。

我々の前には、歴然とした世界があって、その入れ物である世界を、他者と共有して生
きているように感じている。同じ景色を見て、同じ料理を食べて、皆が同じように世界
の中に存在し、体験を共有していることに疑いを持たない。しかし、同じ顔を見た時に、
その時に見えている色や、顔からの印象、声の質などが同じように感じているかはわか
らない。世界は、自分の意識を通してしか感じることができない。絶対的な客観世界が
あるように見え、それは事実なのかもしれないが、我々の経験というものはどこまでい
っても主観的で個人的ある。

視覚や聴覚の刺激に対する感じ方は、かなり誰にとっても似たようなものかもしれない
が、味覚はかなり人によって違うようである。外国人に納豆を食べさせても、あの独特
の美味しさを同じようには感じてはいないようだし、セロリが食べられない人が、セロ

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リの味や香りをどのように感じているのか想像するのは難しい。そのような同じ体験を
した時の、主観的な感じ方の違いは何に由来するのだろうか。

意識というのは、空気のように、あまりに身近で気に留めることもないため、その存在
に気づくことすら難しい。しかし、我々にとって、意識こそがこの世のすべてである。
我々は意識を介してしか、世界を感じることはできないし、我々にとって存在とは、意
識があることと同義である。もし、この宇宙に意識を持った生物が生まれていなかった
ら、この宇宙は誰にも気づかれることなく生まれ、誰にも気づかれることなく消えてい
っただろう。

意識のハードプロブレム

意識にはふたつの側面がある。ひとつは「現象的意識」と呼ばれる、意識の主観的な側
面のことである。我々が世界を感じるのは、すべてこの現象的意識としてである。我々
の脳が眼球の網膜から視覚情報を受け取り、耳の内耳から聴覚情報を受け取り、それら

が意識に上ることで、我々は「経験」をする。神経細胞の電気化学的な信号は、外界の
情報を我々の脳に伝えているだけなのだが、それぞれの個別の体験には質的な側面があ
る。夕日の絶妙なオレンジ色のグラデーションのようなものは、言葉では言い表しがた

い奥深さのある体験である。そのような個別の主観的体験に伴う質をクオリアといい
「赤の赤らしさ」などという言葉で紹介される。我々の意識は、情報を情報として捉え
ているのではなく、直接的なリッチなクオリアを体験することで意味を感じている。 そ
のような、意識に伴う主観的な感覚を「現象的意識」という。

一方で、このように体験される電気化学的な神経細胞の活動には、情報としての機能が
ある。意識に上る情報の持つ機能的側面のことを「アクセス意識」という。網膜や内耳
から感覚信号が脳へと到達し、様々な情報処理を経ることで、我々は家族の顔を認識し
たり、嬉しそうな声を認識したりすることができる。外部からの情報処理の過程だけを
観測しても、それがどのような現象的意識を引き起こしているのかは推測することしか
できず、直接体感することができない。しかし、現象的意識として体験された情報には、
実質的な機能的側面がある。例えば、「明日の天気は晴れでしょう」という天気予報を
聞いて、明日の旅行の予定に反映させたのであれば、その情報は実質的な機能を果たし
ている。このように意識に上った情報が、自分の行動を変化させることが、意識のもつ
機能的側面である。また、人の声を聞いて、どうも不機嫌なようだから、別の時に話し
かけようなどというのも、情報の機能的側面である。自分が見たり聞いたり考えたこと

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が意識されることで、その情報を元に行動が生じる。直接他人の体験する意識の内容を
観測することはできないが、主観的体験の持つ情報機能としての側面が、その人の将来
の行動に影響を与えている様子は、外部からでも観測可能である。そのような意識の側
面を「アクセス意識」という。

意識には、主観的な質的な側面と、情報が持つ外界からも観測可能な機能的な側面の両
方が同時に備わっている。この意識の二面性を認識するところから、ハードプロブレム
の認識が始まる。

意識の「ハードプロブレム(難しい問題)」とは、なぜ脳内の電気信号や化学反応の連
鎖でしかない情報処理に現象的意識が伴うのだろうかという根本的な問題のことである。
意識が脳内でのニューロン(神経細胞)の活動や情報処理によって生じているのは間違
いないが、意識がなぜ細胞や電気信号の相互作用から必然的に生まれてくるのかは、未
だに解明されていない。もちろん、情報を処理するために神経細胞が複雑に信号を送り
合い、「顔の認識」のような機能を実現する過程は電気化学的な現象である。「顔の認
識」のような機能としての情報処理が神経活動としていかに実現されているかは、アク

セス意識の範疇であるから、現在の物理学で知られている現象の組み合わせの範疇で解
決可能なはずだ。脳の持つ情報処理の機能をニューロンなどの電気化学的現象として解
明することは「イージープロブレム(簡単な問題)」と呼ばれている。一方で、そのよ
うな電気化学的な情報処理から「顔が見えたという感覚」が生まれてくる過程を、物理
現象として理解するのは非常に難しいのではないかというのが「ハードプロブレム」で
ある。

この分類では、脳科学者が研究している対象のほとんどは、イージープロブレムである。
脳の機能的な側面を解明するだけでも、決して簡単なわけではないが、「イージー」か
「ハード」かという哲学的な分類では「イージー」なのである。「ハードプロブレム」
という言葉には、現代の科学にとって意識の問題が、カテゴリーとしてまったく別次元
の難しさを秘めているという考えが込められている。

ハードプロブレムには幾つかのバージョンがあり、「なぜ一部の生物は意識を持つこと

ができるのか」、「なぜクオリアが存在するのか」、「なぜ我々は哲学的ゾンビではな
いのか」などの問題も同じハードプロブレムであるとされている。現象的意識の問題を
どのように定式化するにせよ、現象的意識がそもそもなぜ存在するのかという「存在の
問題」に帰着する。しかし、存在の理由を問う問題は、そもそも難しい。意識に限らず、
なぜこの宇宙は存在するのか、なぜこの宇宙は空っぽではなく素粒子やら原子やらが存

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在するのか。科学は「存在のあり方」についての本質を見ぬくことだが、「存在」その
ものの根拠を見つけ出すには向いていない。

自然現象を理解する科学のプロセスでは、対象となる現象をより下位の現象からモデル
化し説明するという還元主義的なアプローチが用いられる。熱とはなにか、電流とはな
にか、竜巻とはなにかという問題を、原子や電子の運動などのより根源的な現象に還元
することで説明するのである。還元主義的な説明には、常に同一性の問題が付随する 。
分子の運動としてモデル化された熱という現象が、我々が日常的に熱だと思っている現
象と同一のものとなっているかという問題だ。しかし、モデルが観測される熱現象を十
分に説明できるのであれば、その同一性は自然に認められていく。

生物の存在についても、メカニズムとしての説明ができる。地球上の生命は、自己複製
機能を持った RNA のような分子が、原始地球に生じたことで、その後長い年月をかけ
て、複製と突然変異を繰り返しながら、単細胞生物を構成し、より複雑な生物へと進化
してきた。進化の理論がすばらしいのは、なぜ自然界においてより複雑な生命が生まれ
てくるのかという謎を、突然変異と自然淘汰の組み合わせというアルゴリズムによって

説明しているところである。個別の機能(例えば眼の構造)が、どのような突然変異の
繰り返しによって、世代を経るごとに構成されてきたかなどは、具体的に考える必要は
あるが、進化の理論は大枠として、生命が存在に至ったプロセスを説明する枠組みとし
て強力である。

しかし、意識の問題は、どうもこのようなアプローチが通用しなそうなのである。意識
が脳から生まれていることは間違いない。意識には物質的基盤がある。複雑なニューロ
ンのネットワークから成り立つ脳から、主観的な感覚すなわちクオリアが生じているは
ずだ。しかし、そこには全く必然性がないようにも見える。神経活動が情報の処理や複
雑な計算を実行している機能自体は物理現象として理解することができるだろうが、そ
の情報処理になぜ主観的経験が伴うのか。例え主観的経験が全く生じていないと考えて
も、物理的世界にはまったく矛盾はないはずだ。

例えば、まったく外見は私たち人間と同じで、脳の構造や細胞の一つひとつが分子レベ

ルで人間と同様だが、現象的意識を持たない仮想のゾンビを想像してみよう。これは
「哲学的ゾンビ」と呼ばれる思考実験なのだが、このゾンビは人間と同じ脳を持ち、あ
らゆる物理的側面について人間である。当然、認知機能も普通の人と同じように備えて
いるにもかかわらず、このゾンビは現象的意識を感じていないのである。もし物理学が
扱うような物質的な現象のみが、この世に存在するもののすべてであるならば、このよ
うな哲学的ゾンビは十分に想像可能である。哲学的ゾンビは、現象的意識は物理現象に

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還元できない別の現象なのではないかということを示している。しかし、実際にそのよ
うな哲学的ゾンビを創りだしたら、きっと意識やクオリアを持つに違いない。

別の思考実験では、「逆転クオリア」という状況がある。どのような状況かというと、
私に見えている赤のクオリアが、あなたが緑を見た時に感じるクオリアであったとして
も、私たちの間では確かめるすべもないし、物理世界にはなんの矛盾は生じない。この
思考実験は、特定の情報機能に、特定のクオリアが対応する必然性がないのではないか
ということを示唆している。自分の感じているクオリアが、他の人の感じているクオリ
アと同じかどうかは気になったことがある人もいるのではないだろうか。

これらの思考実験は、物理的に存在する脳が情報処理を行った際に、それに伴って生じ
ているクオリアが恣意的であるようにみえることを表している。現在の我々の物理現象
の捉え方では、なぜ情報処理に必然的に質的な感覚が伴うのか説明できないのである。
そこから、クオリアというのは何の機能も持たない単なる「随伴現象」なのではないか
という考え方が生まれてくる。しかし、我々が脳内の神経細胞の活動によって、クオリ
アを感じているのはれっきとして事実である。

何かここに我々が脳や情報というものについて、根本的に理解していないことがあるよ

うだ。ここまで当然のように「情報処理」という言葉を使っていたが、情報を処理する
とは、そもそもどういうことなのか。我々は、自然界における現象としての「情報」を
どのように理解したら良いのかわかっていない。自然界の物理現象は、それぞれの法則
にしたがって、周囲の環境に反応しているにすぎない。そのような物理的な反応を組み
合わせることで「情報」が生まれるのだろうか。「情報とは自然界において何なのか?」
という問題を考えることで、意識やクオリアを理解するヒントが得られるだろう。

ハードプロブレムに怯むな

ハードプロブレムは、現象的意識が物理現象に還元できなそうに見えるために、科学に
とっては非常に難しい問題だとされている。さらに困ったことに、意識というのは他の

物理現象と違って、外部から直接観測することができない。つまり、客観的に測定可能
な事象を対象としてきた科学にとって、意識の存在は特殊な位置にある。客観的に測定
できないから、究極的には自分以外の人間に意識があるのかどうかも確かめる方法はな
い。それこそ、自分以外のすべての人が哲学的ゾンビであっても、何一つ世界に矛盾は
なさそうである。しかし、自分の脳は、地球上の生命の進化の末にできあがった、たく
さんの人間の脳のひとつに過ぎない。一度そのことを認識すると、他の人たちも自分と

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同じように意識を持った存在に違いないということに気づく。さらに、進化的に自分の
脳と似た脳を持つ、他の動物たちも、何らかの意識があるだろうと想像できる。だから、
哲学的ゾンビはたとえ想像可能であったとしても、現実の人間には意識があるはずだ。

ハードプロブレムは確かに難しい問題だが、脳の研究として具体的にアプローチする方
法を考えることで、核心に迫れるような切り口が見つかる可能性はある。イメージとし
ては、大きなダイヤモンドのようなもので、理屈の上では傷ひとつつけることさえ不可
能なように見えるが、ところどころ急所を押さえて効果的な一撃を与えれば、大きなダ
イヤモンドの塊を切り崩すことができるのではないだろうか。意識研究の初心者は、ハ
ードプロブレムを哲学的な観点からの難しさばかりに注目しがちだが、案外手の付け所
はある。大切なのは、ハードプロブレムは難しいということを理解したときに、それで
納得して思考停止に陥らないことだ。

特に、ハードプロブレムで前提となっている意識の捉え方では、「意識の機能」という
ものがわからないために、意識を付随現象と見てしまう問題がある。つまり、何らかの
機能を果たす情報処理が行われるに伴って、物理世界に影響を持たない現象的意識が付

随して起こるが、物理世界において、そのときのクオリアには何の影響も持たないがた
めに、意識には観測可能な機能がないという見方をしている。つまり、クオリアが物質
世界において全く機能を持たないのであれば、説明の対象となる機能が存在しない。そ
う考えると、観測不可能な主観的体験を、物質世界の概念で説明することは不可能なよ
うに思えてしまう。

しかし、意識やクオリアに本当に機能がないのかは、現状ではわかっていないというの
が正直なところだ。むしろ、何か特別な機能を果たす情報処理を行った際に、意識が生
じると可能性は十分にある。この観点からは、意識があることで実現される機能は何か
を研究することには大きな意義がある。意識の機能について考えることは、意識の本質
的な意味は何かという根本的な問題に繋がるだけではなく、説明すべき対象を明らかに
することで、ハードプロブレム自体をより簡単な問題へと還元してくれる可能性がある。

哲学者はすぐにハードプロブレムを解こうとする。意識を研究している哲学者や脳科学

者や心理学者が集まる「ASSC(Association for Scientific Studies of


Consciousness)」という世界的な学会が毎年行われている。そこでの哲学者のポスタ
ー発表などを見にいくと、いきなりハードプロブレムの解決策を思弁のみで提案しよう
としていることがある。ハードプロブレムが意識の研究で最も重要なのは間違いないが、
まったく武器をもたずに立ち向かっても解決する問題ではない。本来は哲学とか科学と
いった線引きは無用で、哲学的な問題に科学的な手法で臨むのが良い。

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歴史的に見て、自然科学は人間の単純な想像力や発想を超えた世界像をもたらしてきた。
我々の脳の理解もたった100年で、全然違うレベルに進歩している。例えば、スペイ
ンの神経解剖学者ラモン・イ・カハールは、神経系は非連続の細胞が接続部を通して連
絡しあっているという「ニューロン説」を唱えたが、当時は仮説だったのである。今で
はニューロンという構成単位を前提に脳科学者は研究をしているが、ほんの100年余
り前にはこれほど基礎的なことさえわかっていなかった。次の100年でも、観察によ
って得られる脳に関する基本的な知識はまだまだ発見されるだろう。科学のもたらす知
見は、それ以前の人間には想像すらし得なかった現実を示してくれる。だから哲学者で
あろうと、意識の問題は、脳科学から生まれてくる新たな知見と常に照らしあわせて考
えなければならない。

意識の問題も、これから数十年の間にかなり理解されるようになるのは間違いないだろ
う。意識が難しいというのは、客観的データを重んじる科学が、主観性を扱うことがで
きるかという根本的な観測可能性の問題だと捉える人もいるだろう。しかし、主観性の

問題以上に、むしろ脳のようなこれまで人類が扱ったことのない複雑な現象を、十分な
時空間的解像度で計測することや、膨大な脳のデータから、脳の計算の内容と意味を情
報理論によって理解することができるのかという、実質的な問題の方が大きな問題だろ

う。現在の我々がもっている知識だけで考えた結果でてくる哲学的な意味での困難より
も、脳の計測技術や計算理論の制限の方がはるかに大きい。なにしろ、現在利用可能な
人間での非侵襲な脳活動計測では、どれほど最先端の MRI の機材を利用しても、本当に
脳の仕組みを理解するのに十分な時空間的な解像度には程遠いのである。

脳を計測するための技術的なイノベーションに加えて、ハードプロブレムを解決するた
めには、我々のもつ「情報」や「意味」といったものの理解を一層深める必要がある。
後に詳しく論じるが、情報には「内側からの視点」と「外側からの視点」というふたつ
の視点があり、私は意識に上る現象的体というのは、同じ情報を内側の視点からみたと
きに感じるものだと考えている。そして、内側から見た情報の構造は、外側からは情報
の機能として対応関係をつけることができ、情報構造を外側から記述することがきるは
ずだ。それができれば、外部から観測できる情報をもとに、内側からの視点をもつ主体
にとってどのようなクオリアが体験されているのか推測可能になるはずだ。

哲学者は現象的意識とアクセス意識と、意識のふたつの側面を区別したが、自然現象と
しては、意識という現象はひとつだと考えるべきだろう。意識を外側から観測すると機
能としてのアクセス意識だが、同じ情報構造を内側から観測する主体にとっては現象的
意識となっているだろう。このような考え方は、性質二元論(property dualism)といい、

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情報には内側と外側の二種類の見方があるという考えを「情報の二相説(double aspect
theory of information)」という。ウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニは、情報
という観点から意識の理論を提唱しているが、その詳細については第五章で紹介する。

意識研究の現状

いま、科学的手法による意識の研究は新しい局面に入ろうとしている。これまで、意識
の問題については、素人と専門家の間に、それほど大きな差はなかった。 理論物理の話
や、情報理論の話や、医学の専門的な話に関しては、十分に学問としてトレーニングを
つまなければ、正しく理解することができない。しかし、意識の話となると、素人もプ
ロの研究者も大差はないような状態が続き、誰もが基礎的な知識もなしで独自のアイデ
アを主張するような状況が続いていた。それだけ、意識の研究がたいして進歩していな
かったかということだろう。 意識についての脳科学の主な知見は、誤解を恐れずに単純
化してしまえば、「刺激が意識に上った時には脳が強い活動を示し、意識に上らなかっ
た時には、無意識のうちの弱い活動を引き起こしている」ということばかりだった。そ
れだけでは、意識の謎には一向に迫れる気がしない。

しかし、ここ20年程の間に、意識について様々な角度から研究が行われたため、意識

に関する研究はいよいよ深みを増してきた。この間に蓄積されてきた様々な知見を整理
する必要がでてきた程である。「意識学」とでも呼ぶべき、研究分野が誕生しつつある
のである。

意識というのは全ての学問と繋がっている。脳の研究者が対象としている、記憶や学習、
感情、視覚や聴覚などの感覚、意思決定などのあらゆる認知機能には、意識を伴うモー
ドと、無意識に生じているモードがある。どのような脳の機能を研究していようとも、
結局は情報が意識に上るとはどういうことなのかが、最終的には避けては通れない問題
となる。むしろ、どのような認知機能を研究していても、意識のことがわからなければ、
肝心な部分がわからないままなのである。

少し前のことだが、マウスの動物モデルを用いてうつ病やストレスをどのように軽減す
るかを研究している人と、意識について話したことがある。その人は、意識の研究は、
何を解決したいのか問題がはっきりと定義できないから、研究することができないと主
張していた。問題がそもそも明確な形で定義されていないから、科学的な研究の対象に
ならないというのだ。そこで、逆に不思議に思ったことだが、マウスで実験を行うにし
ても、うつ状態で「やる気のない落ち込んだ状態」が、どういう感覚なのかということ

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を気にせずにすむのだろうか。むしろ辛い鬱の精神状態という感覚が患者で生じている
から問題なのであって、その意識があるという前提を認めなければ、鬱の治療にそもそ
も意味がないではないか。脳のサーキットのバランスが崩れて、意欲のない状態から抜
け出すのが難しいという機能的な記述ができたとしても、なぜその状態が、うつ状態で
のやる気のない感覚として主体であるマウスやヒトが感じるのかという問題こそが本当
に重要なのではないだろうか。その部分を気にしないで脳の研究している人が、実にた
くさんいることが不思議に思える。

より社会性や道徳感情などの人間らしさと関わる高次脳機能においても、意識モードと
無意識モードがある。他人の表情を読み取ったりするのは無意識のうちに行われている
ことも多いだろう。仕事の場面でどういう行動を取るか悩んでいるときなどは、意識的
に考えを巡らすものだろう。他人に親切にする時のような社会性が試される状況でも、
意識的な判断をすることもあれば、無意識のうちの他者からの影響を受けていることも
ある。脳の中では、非常に多くの機能が無意識に働いているのだが、なぜ意識を必要と
するような機能もあるのだろうか。

社会学者も経済学者にとっても人間の意識と無意識について、無関心ではいられないだ
ろう。特に、人間の行動の動機や原因の理解が関わってくる場合には、そこには意識的
な動機もあれば、無自覚な動機もあるだろう。社会というのは、意識を持った人間たち
の集団である。

情報技術の工学的応用においても、意識研究はコアな技術を生み出す可能性を秘めてい
る。今のところ、意識を持つコンピュータというものは作られていないが、意識の成立
に核となる情報処理が何であるか理解が進めば、それを人工的に創りだすことは可能と
なるだろう。現代の情報科学では、「意味」を人間のように理解する人工知能は存在し
ないし、また「意志」をもった自律的なコンピュータも生まれていない。これらの機能
をコンピュータに持たせる方法は、未だ開発されていないのである。しかし、「意識」
をもち、自発的な行動をし、意味を理解するロボットが生まれてきたら、圧倒的な技術

革命となるだろう。意識の研究は、人類がいまだ定式化することができていない「情報
とは何か」を明らかにするだろう。そして、そのエッセンスさえ分かってしまえば、人
工的に意識をもった機械を作り、意味を理解し、意図をもって行動する主体を作ること
ができるだろう。

現代の情報科学は、主体がクオリアを通じて感じる体験の意味というものが、計算論的
にどのように実現されているかは追求していない。物体の認識や、文字テクストの処理

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などを統計的な手法で実現する方法は数多く開発されているが、意味を理解するという
ことが、どういうことなのかが解明されていないのである。

コンピュータが人間を超えるかという話題がよく議論される。その瞬間は「シンギュラ
リティ(特異点)」は呼ばれ、我々は漠然といつかその日が来るだろうと思っている。
シンギュラリティに向かって、一番クリティカルな瞬間は、最初の人工意識を作ったと
きだろう。コンピュータと脳の違いは何かといえば、脳には意識を生み出すメカニズム
が備わっているが、現在コンピュータに意識を宿らせる方法はわかっていないことであ
る。

意識の研究というのは、基礎研究のなかでも最も哲学に近く、応用分野からかけ離れて
いるように見えるかもしれない。しかし、人工意識ができた瞬間に、人類の文明は新た
な局面を迎え、世界は変わるだろう。最初は、金魚ぐらいの小さな意識しか作れないか
もしれないが、一度その段階に達してしまえば、あとは量的な問題だけで、自分の意志
をもって行動する人工物が次々に作られるだろう。このように意識研究の応用分野まで
想像すると、哲学的な根本問題を扱う意識の研究は、一部の脳科学者や哲学者だけの興

味の対象としてだけではなく、社会的にインパクトのある重要な研究分野となっていく
のではないかと思う。

  15  
第2章:意識の状態と内容の神経基盤

「意識という言葉の定義がわからないのに、研究できるはずがない」と悲観的な主張を

する人がいる。一見もっともらしい主張のように見えるし、定義というのは確かに大事
な問題ではある。しかし、物事の定義とは、その対象となる現象の理解が深まるにつれ
て、より洗練された概念へと発展していくものであって、定義にこだわってそれが研究
の足枷になっては非生産的である。

言葉の定義とは、その時代のその時点での理解を示している。例えば、自然科学の基礎
となる「空間」や「生命」や「情報」といった概念の完璧な定義など存在しない。定義
を作ろうということは、我々の知っている世界を過不足なく適切に言語的に表現しよう
という試みにすぎないからだ。

我々が既に抱いている「意識のイメージ」を単に言語化・明文化していくことで「意識
とは何か」という問題を考えることだけでは、新たなアイデアや意識の原理を発見する
ためには役に立たないだろう。意識についての新しい知識や認識を生み出すには、科学
者は心理実験での成果や、脳活動といった、自然現象の観察に注意を注ぐべきだろう。
自然科学とは、実験と観察を通して概念を再構築し、新しい考え方に到達することであ
る。

一方で、漠然としたイメージを論理的に分析し言語化する作業を通して「頭の整理」を
しておくことは意識の研究において必要なことである。意識について議論する時に、お
互いに同じ対象を指していることが確認できる程度の共通了解は必要だ。そのためには、
実際に行われた実験や、行いうる実験の具体的な状況と結びつけて、関連用語は理解さ
れなければならない。例えば、「注意」という概念は「意識」と非常に関連の深い概念

だが、後に示すように両者は認知現象としても、神経現象としても区別することができ
る。また、「注意」と一口にいっても、それは、多数の「注意と呼ばれる現象」の総体
であって、個々の実験状況や日常生活の特定の状況と結びつけて考えなければ、曖昧性
を回避することができない。現時点では、「意識」という言葉を厳密に定義するにはど
うしたら良いかと考えるよりも、私たちが意識と考えているものや、意識と関連する現
象や状況についての概念を整理することが必要だ。

意識の状態と内容

  16  
私たちが「意識」という言葉を使うとき、大きく分けて二種類の使い方をしている。ひ
とつは、「状態としての意識」である。もし、道に人が倒れていたら、「おい、意識は
あるか」などと尋ねるだろうが、その時の「意識」というのは、外からの刺激に対して、
反応したりすることのできる覚醒レベルがあるという意味での意識を指している。昏睡
状態のときや、夢を見ない深い睡眠中にも、この意味での意識がない状態である。

意識という言葉には、より具体的な対象の経験、つまり「意識の内容」を指すこともあ
る。しっかり目が覚めていて、覚醒レベルとしての意識があったとしても、関係ないこ
とを考えていたら、目の前の「赤い風船」に気が付かなかったりすることもある。考え
ごとをしていて、廊下の向こうから歩いてきた友達に気が付かなかったということもあ
るだろう。この特定の対象に対する「気付き」があるかないかという文脈でも「意識」
という言葉が用いられている。

つまり、日常的に使われている「意識」という言葉には、「覚醒」と「気付き」という
ふたつの側面があるということだ。意識の状態と内容というふたつの側面は、研究分野
としても、それぞれ異なるテーマと関係している。「意識の状態」 の研究としては、植

物状態、てんかん、麻酔、睡眠といったものが研究対象の中心で、「意識の内容」の研
究では、視覚や聴覚の感覚情報処理や、選択的注意などが研究の主なテーマである。

この「意識の状態」と「意識の内容」という二種類の意識は別物なのだろうか。ふたつ
の概念や事象が、独立であることを考える際、神経心理学では「二重乖離(ダブルディ
ソシエーション)」の状況がありうるかどうかを検討する。「二重乖離」とはどういう
ことかというと、ふたつの認知能力や現象について「A はあるが B はない」という状態
と、「A はないが B はある」というふたつの状況の例を見つけることで、「A と B は異
なる」という結論を導く方法である。

ベルギーのリエージュ大学のスティーブ・ローリーズは、「意識の状態」と「意識の内
容」は、概ね相関しているが、特殊な場合には両者の乖離が生じると主張している。両
者の関係が【図2­1】に単純化して示してある、覚醒のレベルが高いときには、主体
が意識して感じている内容も抱負である。それが、眠たい状態や、浅い眠りへと入ると、

意識の内容も減ってくる。そして、全身麻酔で意識のない状態や、昏睡の状態では意識
はなく、意識の内容もなくなってしまう。このように、概ね意識の覚醒レベルと、意識
の内容の豊富さには対応関係がある。

  17  
ローリーズのあげる乖離の例は二種類ある。一つは、覚醒のレベルは高いが、意識の内
容は乏しいと思われる状態である(【図2­1】の右下に位置する)。もう一つは、覚
醒のレベルは低いが、豊かな意識的体験内容があるという状態である。

まず、一つ目の覚醒のレベルは高いが、意識の内容は乏しい代表例として挙げられてい
るのは植物状態である。脳の損傷により植物状態に陥ってしまった患者、昏睡状態から
目を覚まして、目を明けて覚醒状態をしめす。覚醒状態にある植物状態の患者には、眼
球や頭や腕などを動かしたり、微笑んだり泣いたりといった行動を起こす。そのため、
覚醒のレベルは高いと考えられている。しかし、何か外界の状況に対して意味のある反
応しているのではなく、勝手に身体が動いてしまっているように見える。そのため、植
物状態の患者では、意識の覚醒のレベルが上ったとしても、意識の内容の方は乏しいの
ではないかと考えられている。

植物状態のような、覚醒レベルが高くとも、意識の内容が伴っていないであろうと考え
られる状態を研究することで、一体脳のどのような部位や機能が損なわれてしまうと、
十分な覚醒レベルがあっても、その時に内容の気付きを生み出すために足りていないも
のが何なのか明らかになるかもしれない。

また、夢遊病(睡眠時遊行症)も、覚醒レベルが高いが意識の内容に乏しい状態として
揚げられている。夢遊病は、いわゆる深い眠りであるである徐波睡眠中(ステージ3と
ステージ4) に起こる。夢遊病者は、ベッドから立ち上がり、トイレまであたかも目を
覚ましているかのように歩いて行ったりする。珍しいケースでは、夢遊病中に料理をし
たり、メールを書いたりしたという症例も報告されている。そして、本人は全くそのこ
とを覚えていないのである。眠っているような状態にもかかわらず、ドアの取手をしっ
かり握ってあけたりすることもできるため、それなりに意識のレベルは高いようにみえ
る。しかし、その間の記憶がまったくないことから、意識の内容は非常に低いという位
置づけになっている。

夢遊病中には、脳では一体何が起きているのだろうか。夢遊病の最中での脳活動を捉え
るというのは、なかなか至難の業だが、そのような成功例が報告されている(Bassetti

et al., 2000)。その研究では、夢遊病中では、後帯状皮質と小脳の虫部での活動が観測
されている。小脳の活動はおそらく運動の制御のためだろう。逆に、前頭葉と頭頂葉の
ネットワークの活動は、通常の睡眠と同様に低下したままであった。また、夢遊病中の
脳波でも、大きなデルタ波が観測されており、脳の活動としては眠っている状態に近い
ようである。

  18  
【図2­1】意識の内容(アウェアネス)と意識のレベル(覚醒度)の関係。Laureys et al. (2007)
を元に作成。

もう一つの乖離としては、意識の覚醒レベルが低いが、豊富な内容の意識体験が生じて
いるという状況である。このような例としては、夢をみているレム睡眠が挙げられる。

ここまで、スティーブ・ローリーズが主張している内容に沿って、意識の内容と覚醒の
レベルの具体例を説明してきた。大枠として、両者を別概念として区別することの重要
さは認める。意識のレベルが高くても、意識の内容が「無」に近い状態というのは、瞑
想中などでありうるのではないかと思う。

しかし、私自身は正直なところ、ここまで挙げてきた乖離の例に、十分な説得力がある
とは思っていない 。

まず、植物状態の人で本当に覚醒のレベルが高く、意識の内容が乏しいのか、実感とし
てわからない。ここでの意識のレベルと個々の意識の状態との対応関係は、外から見て
どれだけ人が動いているかが、意識のレベルの指標とされているのではないかと思う。
先ほどの夢遊病のような例では、脳の活動としては睡眠中に非常に近いのだから、例え
ば起き上がって活動しているとしても、脳活動の観点からは覚醒度は低いと考えるべき
ではないだろうか。

  19  
さらに、意識のレベルが低くても、意識の内容があるという状態を考えることは難しい。
ローリーズの説明では、それはレム睡眠に対応する。しかし、それでも意識の内容が存
在するというのは、それなりに意識の覚醒度レベルがレム睡眠中にも確保されているか
らで、実際のところが、レム睡眠中の意識のレベルが低いと考えること自体が間違って
いると思う。おそらく、ローリーズの分類で、レム睡眠の意識のレベルが比較的低い位
置に置かれているのは、レム睡眠が睡眠中に生じる状態で体が動いていないという理由
ではないだろうか。疲れて眠いときと比べて、果たしてレム睡眠中の覚醒のレベルが低
いといえるのだろうか。

このように、意識の内容があるかどうかと、意識のレベルを完全に乖離した状態という
のが、現実にあるのかどうか疑問の余地はある。それでも、意識のレベルと意識の内容
を、一度概念として分離して相互の関係を考えることは重要だろう。また、研究分野と
しても、どちらに焦点をあてるかによって、対象となるテーマが異なる。「意識の状態」
の研究としては、植物状態、てんかん、麻酔、睡眠といったものが研究対象の中心とな

っている。一方、「意識の内容」の研究では、視覚や聴覚の感覚情報処理や、選択的注
意の研究が主なテーマである。本章では、このふたつの異なる流れを汲んだ、意識と相
関する神経事象(NCC)の研究を紹介する。

意識と相関する神経事象̶NCC

我々が写真をみて、その写真から反射してきた光が網膜に届き、それがニューロンの電

気化学的信号へと変換され脳へと達する。そして、我々は「見えた!」と他人に伝える
ことができる。その過程で、最初に網膜で捉えられた情報は、何段階もの情報処理を経
るわけだが、どの時点で意識に到達しているのだろうか。

意識を神経科学が扱う第一歩として、フランシス・クリックとクリストフ・コッホは
「特定の意識的知覚を生み出すのに十分かつ最小限の神経活動の事象」を見つけること
を推奨し、これを「意識と相関する神経事象(Neural correlates of consciousness、
略して NCC)」と名付けた。NCC については私が長年の共同研究者である土谷尚嗣と共
に訳したクリストフ・コッホ著の『意識の探求̶神経科学からのアプローチ』に、非常
に詳しく書かれている。より専門的な理解を深めたい人には参考にしていただきたい。

NCC は特に視覚研究において活発に議論され洗練されてきた概念である。視覚情報処
理の過程で、意識と相関した神経活動を同定しようとしたら、ふたつの要素を排除しな
ければならない。一つは、意識の内容とは無関係な「視覚入力刺激と相関した神経活動

  20  
(neural correlates of stimulus、NCS)」である(【図2-2】)。例えば、網膜の
細胞は、光が当たれば反応を示すが、このような反応は被験者が麻酔を受けて何も見え
ていなくても生じるだろう。あるいは、刺激が一瞬だけ画面に呈示されて、すぐに別の
刺激が呈示された場合には、一つ目の刺激が意識に上らないことがある(これはバック
ワードマスキングと呼ばれる現象である)。このように、刺激が意識に上らなかった場
合でも、それによって刺激と関連したニューロンが発火し、脳内で処理されていること
がある。そのような脳活動は、刺激が意識に上ったかどうかとは無関係な反応であり
NCS である。意識の内容とは相関しているわけではないので、このような NCS は
NCC からは除外されなければならない。

次に、NCC を同定するために区別されなければならないのは、「行動と相関した神経
活動(neural correlates of behaviour、NCB)」という出力に近い神経活動である。
例えば、パソコンの画面上の物体が右に動いたときは、右手でボタンを押し、左側に動
いたときは、左手でボタンを押すという心理実験について考えてみよう。このような状

況では、主観的な意識の内容が「右向きの運動」であった場合に、右手を動かすという
指令をだしている運動野での神経活動が、あたかも「意識の内容」と相関しているよう
に見えてしまう。しかし、そのような NCB が意識の内容と対応していると考えるのは
間違いである。

また、意識に上らない刺激が、我々の行動に影響を及ぼすこともある。刺激が右に動い
ていたか、左向きに動いていたかが、まったく主観的には見えていないのに、無意識の
うちに脳内で処理されているために、その神経活動が運動野へと到達し、本人は勘で答
えているのだが、答えが正解になってしまうような状況がある。しかし、だからといっ
てその時の行動と相関している脳活動は、意識の内容を反映しているわけではない。こ
のように、ボタンを押すなどの行動と相関した神経活動(すなわち NCB)は、必ずしも
意識の内容を反映しているわけではないので NCC から除外しなければならない。

  21  
【図2­2】意識と相関した脳活動(NCC)を同定するために分離がするべき三種類の神経活動を示した
概念図. NCS(neural correlates of stimulus, 刺激と相関した脳活動). NCB(neural correlates
of behavior, 行動と相関した脳活動). NCC(neural correlates of consciousness, 意識と相関
した脳活動). Frith et al. (1999)にもとづいて作成。

意識の研究者たちは、NCC をそれ以外の脳活動から単離するためには、NCC、NCS、
NCB の三者のうちの少なくとも一つを固定されたまま、他の要素のみを変化させるとい
う実験状況を開発してきた。

この目的で最も重要なパラダイムは、視覚入力刺激が一定であるにもかかわらず、主観
的体験の内容のみが変化するという状況である。そのような状況を実現するために、
「双安定知覚」を引き起こす刺激が頻繁に利用されてきた。双安定知覚というのは、
【図2­3】に示した図形などのように、同じ画像が網膜には入力されているはずなの

に、図形の解釈に曖昧さがあるために、主観的には複数の見え方が生じることである。
一方の解釈が意識に上っている時には、もう一方の解釈は意識に上らず主観的には見え
ていない。そして、一方の刺激が見えていたと思ったら、脳の中で「意識の切り替え」
が起き、もう一方の解釈に勝手に変化してしまう。このように、双安定知覚は、刺激が
一定なのに、主観的な知覚だけが変化するという状況を作り出すことができる。そのた
めに、NCC を刺激自体の変化に反応する脳活動(つまり NCS)から分離するのに有効
である。

  22  
【図2­3】 双安定知覚の例. A. ネッカーの立方体。左側に示したような図形を見ていると、手前に見
えている面が右側の灰色で示した部分のどちらになるかが曖昧であるため、一つの刺激に対して複数の
主観的知覚が成立する。両者の間での知覚の反転は、自発的に生じる。B. 「老婆と婦人」というだま
し絵。斜めを向いた若い婦人か、左を向いた老婆のどちらとも解釈できる多義図形として知られている。
このような双安定知覚を引き起こす刺激条件は数多く知られている。

次に、刺激が変化しているのに、意識の内容は変化していないという状況をつくること
も NCC を見つけ出すために有効である。例えば、速いスピードで赤と緑の間で反転し
ている映像を見ると、時間的に統合された黄色が見える。つまり、主観的には高速の色
の反転による「フリッカー刺激」と、単なる黄色の刺激は、見え方としては同一である。
それでも、網膜から初期の視覚野では、素早い色の変化に対応したニューロンの反応が
みられることが知られている。そのような、主観的には見えていない刺激の変化に対応
した神経活動は NCS である。このような実験パラダイムを用いて、NCS を除外してい
くことで、NCC の候補を絞り込むことが可能となる。

そして、第三の重要な実験条件は、主観的な意識の内容が変化していないのに、行動の
みが変化するという状況である。例えば主観的には意識に上らない刺激を呈示し、それ
が行動を引き起こすような状況が考えられる。「視覚性失認」と呼ばれる特殊な症状は、
まさにこの状況の恒例といえる。「失認」というのは脳の局所的な損傷によって色や運
動や形状などの認識能力が選択的に損なわれる症状である。「物体失認」という物体の
形状の認識ができなくなった有名な患者がいる(D.F.というイニシャルで知られてい
る)。彼女は、目が見えないわけではないので、リンゴを見たら赤いというのはわかる
のだが、それがいったい何の物体なのか、色や表面のツヤなどから推測することしかで
きない。

  23  
ポストのような差込口が縦向きなのか、横向きなのか、斜めを向いているのかなども彼
女は答えることができない 。それにもかかわらず、カードをその差込口にいれるように
頼むと、彼女はいとも簡単にカードの角度を差込口に合わせて入れることができる。つ
まり、見ている差込口の形は、意識に上っておらず言語報告することができないのだが、
運動をコントロールする脳の部位には差込口の情報が届いていて、それが正しい行動を
引き起こすようなのだ。このような状況では、その運動をコントロールする脳の神経回
路は、意識とは無関係で NCB であると考えられる。また、健常者であっても、同じ課
題を行っている時に、同等の神経回路を利用しているだろうが、その回路は NCB であ
って意識の内容に対応していない可能性は高い。失認は特殊な状況ではあるが、健常者
でも意識に上らないような刺激によって行動が引き起こされる状況は数多く知られてい
る。

結局のところ、入力刺激への反応を示す NCS も、刺激を処理したことにより行動を引


き起こす NCB も、直接は意識の内容とは相関していない。つまり無意識の脳活動であ

る。これらは、通常の実験パラダイムでは、意識の内容の変化に合わせて、活動を変化
させてしまうので、NCC と混同しがちである。しかし、ここで上げた三種類の神経活
動のうち一つを固定することで、純粋な NCC をより分けていくことが可能となる。

視覚野の階層構造

このような作戦で主観的な知覚内容と対応する NCC を見つけ出そうというのが、神経

科学(ニューロサイエンス)による意識研究の第一歩であった。視覚処理系において、
どの段階で神経活動が意識の内容を反映するようになるかを議論していく上で、サルや
ヒトの視覚野がどのような階層構造を持っているかについて少し説明しておく必要があ
る。視覚処理に関わる脳の部位の同定や、それぞれの部位のニューロンのもつ反応の特
徴などは、非常に詳細に研究がなされている。

マカクザルの解剖による研究から、脳の中には数多くの視覚野があることが明らかにな
っている。それぞれの視覚野は、結合の特徴から同定される視覚的な刺激に反応する部
位がどのように組織化され、部位間での結合パターンをもっているかが明らかになって
いる。フェルマンとヴァンエッセンによって作成されたサルの視覚野の回路図(【図2
­4】)では、刺激の入力を受ける網膜が一番下に配置され、そこから順により高次な
部位になるに連れて上位に配置されている。

  24  
視覚処理の最初のステージは網膜に始まり、網膜で受け取った視覚情報が神経節細胞に
よって次の部位へと送られる。網膜の神経節細胞には、いくつか種類があり、それぞれ
異なる特徴をもっている。特にここで重要なのは、「ミジェット細胞」と「パラソル細
胞」という二種類の神経節細胞だ。網膜の時点ですでに、神経節細胞の種類によって機
能的な特化が起きている。ミジェット細胞は、細胞体が小さく、色の情報を保持し、伝
達速度は遅い。一方、パラソル細胞は、細胞体が大きく、伝達速度が早いが、色の情報
はあまり持っていない。

これらの細胞は、次の中継地点である外側膝状体(LGN)という視床の部位へ投射してい
る。パラソル細胞は、1層と2層からなる大細胞層(マグノセルラーレイヤー)へと投
射し、ミジェット細胞は、外側膝状体の3層から6層を占める小細胞層(パーボセルラ
ーレイヤー)へ投射している。外側膝状体の小細胞層は、色などを詳細に見るための機
能に優れ、大細胞層は大雑把だが素早い処理に特化している。小細胞層を経由する視覚
情報処理ルートをパーボ経路、大細胞層を経由するルートをマグノ経路という。

マグノ経路とパーボ経路からの視覚情報は、最初の大脳皮質の第一次視覚野(V1)へと

送られる。第一次視覚野(V1)は、頭の後ろにある後頭葉に位置しており、左右の大脳半
球が 向かい合う内側に位置している。大脳皮質は通常六層からなる構造をしており、下
位の脳部位から上位の脳部位への入力は第4層で受け取られる。外側膝状体から第一次
視覚野への入力も例外ではなく、V1 の第4層へと送られる。マグノ経路からの入力は、
第4層の中の4B/4Cαへ投射し、パーボ経路からの入力は4Cβへと投射し、ふたつ
の経路は V1 においても機能的な分離が保持されている。

外側膝状体のニューロンは、主に「点」に反応するような受容野の特徴を持っていたが、
V1 では、点の組み合わせによって作られる「線分の傾き」に反応するニューロンや、
その時間的組み合わせで作ることのできる「運動方向」などの情報に選択的反応を示す
ニューロンが現れる。

その後、マグノ経路の特徴を引き継いだ、V1 のニューロンは第二次視覚野(V2)の
「太い縞」と呼ばれる部位や、MT と呼ばれるより高次の部位へ投射している。V2 の太

い縞の部分も、MT も視覚的な物体の運動に敏感で、運動方向への選択的な反応を示す。
一方、パーボ経路の特徴を引き継いでいる V1 の4Cβを経由した視覚情報は、V2 の
「細い縞」へと伝達される。やはり、V2 の「細い縞」のニューロンでは、色や明るさ
の情報がコードされている。そして、色や明るさの情報は、V4 などのより高次な視覚
野へと伝わっていく。

  25  
経路のつながり方を言葉だけから追うには煩雑になってきていると思うので、【図2­
5】にここまでの説明を図としてまとめた。物体の運動を識別する運動視のためのマグ
ノ経路と、色などの詳細な情報に基づいて物体の認識をするためのパーボ経路で、異な
る種類の情報が別々に伝搬されている様子が見て取れるだろう。

V4 や MT という部位へたどり着いた後も、このマグノとパーボの二種類の視覚情報を
分離は維持され、視覚情報はさらに高次の部位へ伝えられていく。物体の運動や空間的
関係の情報を運んでいるマグノ経路からの視覚情報は、頭頂葉へと伝達される。この経
路は、頭頂葉が脳の上の方にあるため「背側経路」と呼ばれる。コーヒカップを掴んだ
り、飛んできたボールをキャッチしたりという空間的視覚情報を扱い、視覚情報から身
体運動へと素早い情報変換をしている。

一方、パーボ経路の色や詳細な形などの情報は、下側頭葉へと向かう「腹側経路」を辿
る。腹側経路に位置する高次視覚野は、色や形といった情報を元に、顔や物体の認識や
記憶と関わっている。 背側経路の視覚部位は【図2­4】の左側に、腹側経路の部位は
右側に示されている。もちろん、機能の分離は絶対的なものではなく、ふたつの経路の
間にも相互の結合が多数あることが認められている。

  26  
【図2­4】視覚野の階層構造の図。32の視覚領域を入出力の解剖的特徴から階層構造における各部
位の位置が決定されている。図中では、下にある部位ほど、入力(網膜)に近い低次の部位で、上にあ
る部位ほど高次の部位が示されている。(Felleman & Van Essen, 1991,より)

  27  
【図2­5】網膜から始まるマグノ経路とパーボ経路へと情報が流れの模式図。ここでは古典的でやや
単純化された分離のはっきりした経路図を示しているが、最近の研究では両者の間での連絡が数多く報
告されている。

  28  
ここまでを少しまとめると、脳には多数の視覚野の部位があり、それぞれが運動や奥行
き、色や形といった視覚情報の特定の側面に特化した機能を果たしている。また、入力
に近い低次視覚野から複数の処理段階を経ることでより複雑な情報を抽出する高次視覚
野への階層構造がある。視覚処理経路は大きく分けて、マグノ経路とパーボ経路という
ふたつの経路に分類できる。マグノ経路は、素早く物体や景色の動きなどの視覚情報を
処理し、身体の運動へ情報を変換する背側経路へと続く。パーボ経路は、色や形といっ
た詳細な物体の形状などの情報じっくり抽出し、物体や顔の認識や記憶に関わる腹側経
路へと続いている。

両眼視野闘争による NCC の探求

このように脳内には無数の視覚領域があるのだが、我々の意識の内容と対応する視覚情
報は一体どの視覚領域のニューロンが表現しているのだろうか。この中の特定の部位の
脳活動だけが意識の内容と対応しているのだろうか、あるいは、大脳皮質の活動は全て
意識に上るのだろうか。背側経路と腹側経路では、どちらが意識の内容を反映している
のだろうか。もしかしたら、特定の領域というよりは、意識と係る特別な種類のニュー

ロンがあるのかもしれないし、脳の部位ではなく、特定の皮質の層のニューロン活動が
意識と相関している可能性さえある。このような問題に科学的にアプローチするために
意識と相関する脳活動、すなわち NCC をめぐる探求が始まった。

NCC の探求において、特に強力な実験手法は「両眼視野闘争(Binocular Rivalry)」と

いう知覚現象である。両眼視野闘争というのは、左右の目にまったく異なる視覚刺激を
呈示すると、どちらか一方のみが知覚され、もう一方の刺激は意識に上らないという現
象である。また、どちらの刺激が意識に上るかは、数秒ごとに反転し、網膜が受け取る
視覚入力は一定であるにもかかわらず、意識の内容だけが刻々と変化していく。両眼視
野闘争は、双安定知覚を引き起こす刺激の一種であるが、多様な写真を自由に選んで視
覚刺激として利用できる点が、他の双安定知覚を引き起こす刺激と比較して優れている。

両眼視野闘争を用いて、意識の内容と相関するニューロンを探索するという先駆的な研
究は、デイヴィッド・レオポルドとニコス・ロゴセティスによって行われた。彼らはサ
ルが両眼視野闘争中に主観的に見えている内容と、その時のニューロンの活動の関係を
調べた。サルは人間のように簡単に意識の内容を実験者に伝えることができないので、
知覚している意識の内容をレバーによって報告できるようにトレーニングをしなければ

  29  
ならない。さらに、このような主観的な報告をサルにさせているため、サルがでたらめ
にレバーを押して答えているわけではないということも確認してきた。

V1 や V2 のニューロンは特定の方向に傾いた縞模様に強く反応し、また V4 のようなよ
り高次な視覚野でもそのような方向選択制を持つニューロンが多く見つかる。両眼視野
闘争の現象を利用して、そのようなニューロンの発火頻度が、意識的に見えている縞模
様に応じて変わるのか、あるいは、網膜に映しだされている刺激だけで決まるのかがわ
かるのである。具体的には、片方の目には記録をとっているニューロンを最も興奮させ
る傾きの縞模様を見せ、もう一方の目には最も反応を弱くする直交する縞模様を見せる。
そのような直交する縞模様を両眼に提示されると両眼視野闘争が生じ、その意識の内容
をサルがレバーで報告するのである。もし、意識の内容の変化に伴ってニューロンが発
火活動を変化させていたら、それは意識と相関した脳活動である。

このような意識の内容と対応した神経活動は、どの視覚野から見つかるのだろうか。レ
オポルドとロゴセティスが1996年に発表した研究では、V1 と V2 といった極めて初
期の視覚野のニューロンは、意識的知覚の内容に対応した変化はほとんどしていなかっ

た。変化しているニューロンは発見されたが記録したニューロンのうち18%程度であ
る。一方、より高次な視覚野である V4 では38%のニューロンが主観的知覚に対応し
た発火頻度の変化を示していた。また、同様の実験パラダイムで MT 野のニューロン活
動を調べた研究では、43%のニューロンが、主観的知覚に対応したニューロン活動の
変化を示した。

V4 や MT 野というのは、中間的なレベルに位置する視覚領域だが、半数以上のニュー
ロンは両眼視野闘争中に意識に上っていない刺激に対しても反応している。 また、不思
議なことに一部のニューロンは、そのニューロンが反応しやすい刺激が意識に上ってい
ないときの方が、活動を高めていると報告されている。

中間レベルの視覚野を越えて、さらに高次の視覚領野ではニューロンの活動と意識の内
容の対応はさらに強くなる。シェインバーグとロゴセティスは、 腹側経路(ヴェントラ
ル・パスウェイ)のさらに高次な領域である、下側頭皮質(IT)と上側頭溝(STS)とい

う領域から両眼視野闘争におけるニューロン活動を記録した。これらの部位は、物体認
識に関わると考えられている。このような高次視覚野では、ニューロンはより複雑な
「蛇」や「人の顔」などの画像に選択的に反応する。そのような反応選択性があるので、
今度の実験デザインでは、片方の目には「太陽の模様」のような特定の画像を見せ、も
う一方の目には様々な画像を呈示した。このような実験デザインにすることで、サルが

  30  
「太陽の模様」か「それ以外の画像」のどちらが見えているかを報告するように訓練を
施したのである。

これらの高次視覚野のニューロンのなんと90%は、サルの報告した知覚の内容に沿っ
た発火を示した。まさに、これらのニューロンの活動が、意識の内容そのものを表して
いるかのようである。

ここまでの両眼視野闘争の実験をまとめると次のようになる。もっとも初期の視覚野で
ある V1 や V2 では、主観的に刺激が見えたかどうかと関係なしに、ほとんどのニュー
ロンは発火する。つまり、V1 や V2 のニューロンの活動は直接意識に上ってはいないよ
うである。やや中間的なレベルに位置する V4 や MT 野では、40%程度のニューロン
が意識の内容と対応した反応を示す。このことから、この中間的なレベルで、両眼視野
闘争でどちらの刺激が意識に上るかの競合が起きているのかもしれないと考えられる。
そして、腹側経路のより高次な部位である下側頭皮質や上側頭溝に至る時点では、ニュ
ーロンの活動はほとんど意識の内容と対応しているようである。つまり、高次視覚野に
至るにつれて、ニューロンが表現している情報が、徐々に意識の内容に近づいているよ
うである。

人間での両眼視野闘争の研究

ヒトでの研究でも、高次視覚野の活動が、意識の内容と相関している証拠が見つかって
きた。フランク・トンが行った fMRI の実験では、「顔」画像と「家」の画像の間で両
眼視野闘争を引き起こして、脳の活動を観察した。

顔と家を視覚刺激として用いたのには理由がある。側頭葉の下部に紡錘状回という部位
があるが、そこに顔に選択的に反応する部位が見つかっており紡錘状回顔領域
(fusiform face area, FFA)と呼ばれている。また、ランドマークなどの風景写真から場
所を認識するのに関係すると思われる部位が海馬傍回に見つかっており、海馬傍回場所
領域(parahippocampal place area, PPA)と呼ばれている。これらの対象特異的な部位

は、腹側経路の高次部位に相当し、位置が空間的に離れているため、fMRI の空間解像
度で、それぞれの活動レベルを別々に追跡することができる。

刺激のカテゴリーに選択的反応を示す部位を利用して、フランク・トンたちは FFA と
PPA という脳活動が意識の内容と相関しているのかを調べたのである。その実験で、ヒ
トの場合でもこれらの対象に特異的な反応を示す高次領域では、活動のレベルが意識の

  31  
内容と対応した反応を示すことが明らかになった。顔の写真が意識に上っているときは
FFA の活動が上がり、家の写真が意識に上っているときは PPA の活動が上がっていた。

これは、先ほどのサルの下側頭皮質(IT)と上側頭溝(STS)からの記録の実験と合致す
る結果である。このように、腹側経路の高次領域の活動が意識の内容と非常に密接な対
応をしているという証拠が、ヒトでも動物でも90年代後半から2000年を過ぎた頃
までにいくつも蓄積してきていた。

低次化する NCC

1995年にフランシス・クリックとクリストフ・コッホは「V1 のニューロンは直接
意識に関与していない」という V1 仮説を提案した。その理由は、意識に刺激が到達す

ることの効能は、その刺激の情報を元に、将来の計画や行動の実行に役立てることがで
きることだと考えたからだ。そのような計画や実行という認知機能は前頭前野に位置し
ているが、V1 のニューロンは解剖学的に直接前頭前野に投射していない。だから、V1

のニューロンの活動は意識に上らないだろうと予測したのである。これを「V1 仮説」
という。

この論理に同調するかどうかは賛否両論あるだろう。脳内での情報のやりとりを考える
と、直接投射していなくても、脳の一部の情報が直接繋がっていない部位に影響をあた
えることは十分に考えられる。解剖的に直接繋がっているかどうかが意識に貢献するか
どうかを決めるなんて単純化しすぎた意味のない理屈のようにさえ思える。しかし、こ
のような具体的な検証可能な仮説は、幾つもの興味深い実験を生み出した。また、先ほ
どの両眼視野闘争の電気生理学的研究なども、V1 のニューロンの活動が意識の内容に
直接貢献していないことを示唆している。

当然、V1 を脳梗塞などによる損傷で失ってしまうと、損傷部位に対応した視野ではモ
ノが見えなくなってしまう。しかし、それは V1 の神経活動が直接意識の内容と対応し
ている証拠にはならない。これは、視覚入力によって引き起こされた信号が、意識にた

どり着く前段階で遮断されてしまうという説明がつくからである。また、V1 を失った
患者でも、夢を見るときには視覚的な体験があると報告している。夢というのは特殊な
状況ではあるが、視覚体験であることには違いない。V1 がクオリアを創りだすのに絶
対に必要というわけではないようだ。

  32  
一見 V1 仮説を支持するかのような実験報告が多々あったものの、両眼視野闘争の実験
パラダイムで「意識の内容」の NCC を探索する研究が fMRI を用いた実験で進むにつ
れて、低次な部位でも主観的な意識の内容と相関する活動が次々と報告されるようにな
ってきた。もっとも極めつけだったのが、ジョン・ディラン・ヘインズとギャラント・
リースが行った外側膝状体からのデコーディングの実験である。外側膝状体(LGN)は極
めて低次の視覚領域である。網膜の次のステージに位置し、V1 への中継地点である。
そこでの活動を、両眼視野闘争中に、fMRI で計測することで、どちらの目からの映像
が意識に上っているかを見事に当てて見せたのである。過去に動物でのニューロンのス
パイク活動を外側膝状体から記録した実験があるが、スパイクという個々のニューロン
の発火活動のレベルでは外側膝状体からは意識と相関した活動の変化は認められていな
かった。それだけに、この fMRI の実験結果は驚きである。一つの解釈としては、高次
の視覚野で意識の内容が決まり、その結果がフィードバックを介して外側膝状体の活動

に影響していたのではないかと考えられる。あるいは、外側膝状体のレベルで自然に生
じている神経活動の強弱の変化が、意識の内容に影響しているという可能性もある。

しかし、このように非常に低次の視覚野でも意識の内容と相関する脳活動が認められる
ということは、特定の部位に意識の内容をコードするニューロン群が存在するというイ
メージを大きく崩すのに十分であった。

背側経路と腹側経路

初期視覚野を抜けて、視覚情報はより高次の脳領域へとふたつの経路に分かれて伝搬さ
れる。側頭葉の前部へと向かう腹側経路は物体の認識などと関わる。 先ほどの、FFA
や PPA も腹側経路に位置する。一方、頭頂葉から体性感覚野や運動野へと伸びる背側
経路は、視覚情報から、物体に手を伸ばしたりするのに必要な、空間位置情報の抽出や
変換に寄与している。

物体認識に関わる腹側経路は、意識的な知覚に関わると考えられている。一方、背側経
路での情報処理は無意識に行われ、非常に複雑な座標変換のような計算もすばやく処理
し、脳を介した「反射運動」のようなものを実現していると考えられる。例えば、先ほ
ど紹介した「物体失認」を患う D.F.という患者は、カードの差込口の傾きが意識に上っ
ていないにもかかわらず、その差込口の方向に合わせてカードを挿入することができて
いた。彼女の形状についての意識を失ってしまったのは、腹側経路が脳の両側とも損傷
してしまったからである。それにもかかわらず、カードを正しい方向で差込口に入れる

  33  
ことができるのは、背側経路が損傷なく機能しているからである。カードを差し込むよ
うな、視覚刺激に直接的に反応する運動は、意識とは無関係な背側経路の処理によって
実現されているようである。

両眼視野闘争を用いた fMRI の実験でも、背側経路は無意識のうちに活動し、腹側経路


の活動は意識と相関しているということが示されている。「ハンマー」などの道具とし
て使うことのできる物体を視覚的に呈示されると、腹側経路の物体認識に関わる脳領域
だけではなく、背側経路の頭頂葉の領域も活動する。背側経路が「道具」反応するのは、
例えば「ハンマー」の握る柄の部分が左右のどちら側にあるかなど、物体の形状などの
情報が、手を伸ばしてハンマーを握るなどの身体の運動をコントロールするのに必要だ
からだろう。両眼視野闘争を利用して、そのような道具の画像を網膜には投影されてい
るが、意識には上っていないという状況を作ることができる。そのとき、顔と家の画像
などからも推測されるように、腹側経路の道具に対する反応はなくなってしまう。一方、
背側経路で道具に反応していた部位の活動は損なわれていなかった。つまり、この部位
が活動しているからといって、道具の画像は意識に上らないということである。

前頭葉-頭頂葉のネットワーク

しかし、逆に腹側経路の視覚野の活動があることが、意識的な知覚を引き起こすのに十
分ではないという証拠もある。

頭頂葉の損傷患者では、「空間半側無視」という機能障害が生じ、損傷と反対側の空間
での物体の存在が認識できなくなる症状が生じる。右の頭頂葉を損傷した患者で、左側
にあるものだけ気づかなくなってしまうようなのである。食事の時も、皿の左半分には
手を付けずに、右側だけを食べてしまうのである。

半側無視の一種で「消去現象」という現象が知られている。視野の左側の刺激でも、右
側の刺激でも単独で呈示された場合は認識できるのだが、両方同時に呈示されると、損
傷と反対側の刺激だけが認識できなくなるのである。

消去現象の症状を示す患者に協力してもらい、その見えなくなった左側の刺激が脳内で

どのように処理されているのか fMRI を用いて調べた研究がある。顔と家の写真を、消


去が起きる左視野に提示して、右側には別の刺激を提示することで、見えていないはず
の家や顔の写真が、紡錘状回顔領域や海馬傍回場所領域の活動を引き起こすかを調べた
のだ。

  34  
この実験から、消去現象が生じて意識に上らなかった刺激であっても、これらのカテゴ
リー特異的な高次視覚野の活動を引き起こすことがわかった。つまり、これらの領域が
活動したからといって必ずしも対応した意識の内容が生じるわけではないということだ。
むしろ、この消去現象の原因となっている、頭頂葉の部位が意識にとって重要なのでは
ないかということも考えられる。

特に消去現象を引き起こすような下頭頂葉の活動は、新しく意識の内容を作り出すのに
必要なようだ。例えば、下頭頂葉を両側とも損傷してしまうと、意識の内容がまったく
なくなってしまうわけではなく、バリント症候群という症状に陥ってしまう。バリント
症候群というのは、注意が一点に向けられてしまい、そのとき見ているものだけしか意
識に上らなくなってしまうのである。つまり、今意識に上っているものを一度止めて、
新しい対象に意識を向けるような機能が頭頂葉にはあるのだろう。

また、双安定知覚の際に、知覚の反転が起きるときには、前頭葉や頭頂葉のいくつかの
部位で活動が現れる。これらの部位は直接知覚の内容の情報は持っていないようだが、
どのような情報が意識に上るかをコントロールしているように見える。

フランスのスタン・デヘーンの研究グループなどによって、刺激が意識に上るかどうか

が確率的に生じる状況で、刺激が意識に上った時と上らなかったときで、脳の活動の違
いを調べる実験が数多く行われている。マスキングなどのパラダイムで、刺激の内容が
意識に上らなかった時には、初期視覚野などの活動は無意識に引き起こされているもの
の、そこでの活動は、前頭前野や頭頂葉や前部帯状回といった高次の領域へと伝搬せず
局所的なものである。一方、刺激が意識に上ると、これらの部位での活動が引き起こさ
れる。

つまり、感覚処理の初期段階の活動が引き起こされただけでは、その情報は意識に上ら
ないのである。その情報が意識に到達するには、前頭頭頂ネットワークの活動が伴う必
要があり、これは先ほどの半側無視や消去現象の例とも合致する。先ほどの例でも、物
体のカテゴリーの処理が脳活動としては行われているはずなのに、頭頂葉への損傷によ
って、その情報が意識に上らなくなってしまうからだ。

私は頭頂葉が初期視覚野の情報を意識へと接続するのに重要な役割を果たしているとい
う仮説を確かめるため、TMS という脳の磁気刺激装置を用いて頭頂葉の機能を一瞬だけ
阻害する実験を行ってきた。頭頂間溝と呼ばれる注意などと関係の深い部位の機能を一
時的に阻害すると、今まで意識に上って見えていたはずの図形が、意識の中からふっと

  35  
消えてしまうということを発見した。この現象も、頭頂葉が初期視覚野の情報を意識の
内に保持しておくための機能を果たしていることを示している。

では、逆に頭頂葉や前頭前野の部位で脳活動が、刺激によって引き起こされれば必ず意
識に上るのかというと、必ずしもそうではない。メタコントラストマスキングによって
意識に上らなくしたサブリミナルな刺激でも、前頭前野を活動させ行動に影響を引き起
こすことがある。この文脈では、ラウとパッシンガムの行ったプライミングの実験は興
味深い(Lau & Passingham 2007)。この実験では、被験者は画面に提示される図形に
よって、異なる課題を遂行するように指示を受けている。正方形が提示された時には、
これから提示される英単語の音節の数の判断をし、ダイヤモンド図形が提示された時に
は、英単語が具体的な物体か抽象的な意味をもつ単語かを判断するという課題である。
前者は音韻判断に関わる脳の部位での活動を引き起こすのに対して、後者は言語的な意
味の判断に関わる部位を活動させる。つまり、この2つの課題では異なる脳の部位の関
与を要求するのである。

このような実験の中で、課題を指示する図形が提示される直前に、意識に上らないよう

に正方形かダイヤモンドの図形が提示されていた。この無意識の刺激(プライムと呼ぶ)
が、実際の課題指示画像とマッチしていたときは、被験者はすばやく答える課題を遂行
し、マッチしていないときには遂行に時間がかかった。つまり、行動のレベルでは、こ
の意識に上らないプライム刺激が、課題にどれだけ素早く取り掛かれるかに影響を与え
ていたということである。この実験中の脳活動の計測結果をみると、無意識のプライム
が課題を決める図形とマッチしていない時に、すでに無意識の内に処理され、実際に遂
行指示を受けていないのに、自動的に処理が行われているようである。これらの課題に
言語や意味認識に関わる、左の下前頭回や中側頭葉といった高次の部位や、音韻処理に
関わっている腹側運動前野などが、意識に上っていない図形刺激によって活動していた
のである。このように前頭葉を含む脳領域が無意識のうちに刺激に反応し、その意味に
合わせて活動を始めているというのは、高次な認知機能は意識を必要とするという単純
な考えを否定するものである。

しかし、ここまでの話は頭頂葉とか前頭葉を非常に大雑把にとらえたものであり、今後
は前頭頭頂ネットワークのどの部分が、意識的知覚に必要なのかを厳密に確かめていく
必要がある。

意識の内容の NCC の終焉

  36  
ここまで意識の内容の NCC についてのここ20年の研究の展開を追ってきた。かつて
は、NCC は高次の視覚野に局所的に存在するという見方があったが、今では意識の内
容についての情報を持つ部位が、頭頂葉や前頭葉の部位と情報のやりとりをする、より
ダイナミックで広域的な NCC 観が生まれつつある。

意識の内容と対応する神経活動を探すというアプローチでの意識の研究では、一方で非
常に低次の初期感覚処理の段階での脳活動が意識の内容と対応する状況を見つけ出した
が、もう一方では高次の活動が引き起こされれば必ず意識が生じるというものではない
ことも明らかにした。

そもそも NCC というアプローチは非常に実践主義的(プラグマティック)な意識への


アプローチであった。そのおかげで、具体的な実験が生まれ、意識と脳の関係について
の理解は深まった。しかし、この方法が成熟することで、単純にどこかの高次の部位の
活動があれば、対応した意識があるというわけでもないし、非常に低次な部位でも意識
の内容と対応した活動を示しているという構図が浮かび上がってきた。 そこで、意識と
相関するニューロンというのは、単純に特定の脳の部位やニューロン群に限定されたも

のではないかもしれないということがはっきりしてきた。NCC という実践的なアプロ
ーチは非常に豊富な実験事実を生み出してきたことは認める。確かに、この期間の間に
意識を科学的に研究する具体的な手法や注意点が明らかになり概念が整理された。

しかし、この方法だけではこれ以上先に進めなくなってきているのは明らかだろう。
NCC というアプローチには2つの理由で行き詰まっている。ひとつは、元の NCC とい
う概念自体が一般性のある定義をされていたとしても、意識の内容と相関する脳の部位
やニューロンがあるのではないかという意識の局在性を前提とした実験によるアプロー
チが実際には多く、そのような見方では先に進むのが難しくなってきている。

今後、脳と意識の関係をさらに深く理解していくには、脳の部位間のインタラクション
や広域ネットワークとしての脳活動を介して脳の機能を理解することが重要になるだろ
う。つまり、これからの NCC の探求は、脳の部位間でのネットワークとしての特徴や、
局所的な回路内での処理といった、脳が行っている情報処理の機能と関係の深いレベル
での脳活動との対応関係を見つけていくことになる。

ここまで紹介してきた研究内容は、サルなどの動物の電気生理学やヒトでの機能脳イメ
ージングの実験だが、サルの実験のほとんどは非常に限られた数のニューロンからの記
録で、部位間でのインタラクションなどを十分に検討した実験は非常に少ない。また、
単一のニューロンの記録がとれていたとしても、それがどのようなネットワークの中で、

  37  
どのような位置にあり、どのような種類のニューロンなのかなどは、細かく同定されて
いない。ヒトでの機能脳イメージングでは、血流や BOLD 効果(脱酸化ヘモグロビンの
現象)という緩慢な信号を見ているために、非常に高速で起きている脳内での情報の伝
達を直接観測することができない。さらに、空間分解能の面でもニューロンの大きな集
団の活動を見ているために、内部で起きている計算原理が理解できるレベルでの神経活
動の観測ができていない。このように現在の神経科学の技術が、脳の微細な複雑さを十
分な分解能で捉えることができていない。このような障壁は、これまで NCC を探すと
いうアプローチを非常に限定的なものにしてきたが、これらは計測技術と解析技術とい
った技術的な問題であって、本質的な問題ではない。現在では、脳を計測する技術も解
析する技術も目覚ましい速度で発展してきているため、ニューロン間や脳部位間のダイ
ナミックな相互作用と意識の関係が今後明らかになってくるはずだ。

もう一つの NCC というアプローチの問題点は、たとえ意識の内容を反映した神経活動


が見つかったとしても、それだけでは「なぜ神経活動から意識的体験が生まれるのか」

という問いに対する原理的な説明をもたらしてくれないということである。もちろん、
実験結果に基づくデータは意識について考える上での基礎となる大切なものだ。しかし、
脳の特定の領域での活動が意識の内容と相関していることがわかっただけでは、意識的

知覚がなぜ独特のクオリアを伴うのかという問に対して回答は得られないのである。実
験データを元に「意識の説明理論」を同時に作っていかなければならない。意識の理論
的アプローチについては後の章で詳しく紹介する。

意識のレベルの NCC

意識の内容と相関する脳活動の探索と平行して、意識の状態(すなわち覚醒度)と対応
する神経活動の理解が急速に進んでいった。異なる覚醒度の意識状態において、脳のど
のような活動に違いがあるのだろうか。私たちは深く眠って夢も見ていないときには、
意識がない。また、手術のために麻酔を受けているときや、癲癇の発作が起きていると
きなど、意識を失い、また取り戻すという状況は多々ある。不幸にも脳の損傷によって、

昏睡状態に陥ってしまっても意識を失う。このような、意識のレベル(覚醒度)の違い
を引き起こす原因となる脳活動や脳構造の違いを見つけ出すことで、意識の元となる脳
機能を同定することができるのではないだろうか。

麻酔科医にとっては、意識があるかないかというのは、非常に切実な問題に違いない。
手術をするときに、確実に麻酔が効いて、意識がない状態を作らなければならないから

  38  
だ。手術の現場では、意識というものが科学的に扱うのが難しく、他者の意識を知るこ
とができないなどと、ハードプロブレムについて議論してはいられない。しかし、意識
の絶対的な指標が存在しない以上、麻酔科医たちは実践主義的に意識があるかないかと
いう判定するしかない。

麻酔がかかっていれば意識がなくなっているはずだと私たちは当然のように考えるが、
麻酔下において本当に意識が失われているのかということさえ、疑い始めたら、確信を
持つことは難しい。意識があっても、記憶に残っていないだけで、後からは意識がなか
ったように感じているだけかもしれない。また、意識があるにも関わらず、身体が麻痺
した状態で反応がでないという恐ろしい状況だってありうるし、あるいは反応する意志
のみが抑制されて、意識があるにもかかわらず刺激に対して反応していないだけという
こともありうる。意識があるにも関わらず、意識がないように見えてしまうという可能
性は無数にあるのである。

それでも、麻酔の量を増やしていけば、確実に意識が失われる瞬間がある。そして、そ
の意識の失われる瞬間に何が起きているのかは非常に意識を理解する上で興味深い。意

識が失われる前と後とで脳の活動の違いをみれば、意識を維持するために最も重要な脳
のネットワークが何であるかヒントが得られるはずだからだ。

そのような麻酔による意識の消失と相関する脳活動を調べた研究は多数行われている。
共通して報告されているのは、麻酔による意識の喪失に伴い、脳の視床という部位での
代謝と血流の著しく減少し、視床と皮質との連絡弱まっているということである。視床
というのは、大脳の中心部に位置し、脳の表面にある大脳皮質との間に神経結合のルー
プを形成している。大脳皮質からの情報は視床に投射され、またそれが視床から大脳皮
質へと送り返されるというループ構造になっている。脳と視床の間だけではなく、外部
環境からの感覚入力も、視床を中継して大脳皮質に到達する(ただし、嗅覚は例外 )。
視覚を例に取ると、外側膝状体という視床の神経核を中継して、網膜からの情報が第一
次視覚野へと連絡されている。また、この外側膝状体へも第一次視覚野からフィードバ

ックが送られループ構造の神経回路を構成している。視床と後述する頭頂葉内側部での
活動の低下は実に多種類の麻酔薬で発見されており、プロポフォール、ロラゼパム、吸
入麻酔薬のイソフルランやハロセンによる麻酔や、セボフルランなどで確認されている。

視床が意識に重要なのであれば、視床に損傷が生じると意識を失ってしまうのではない
だろうか。これは損傷実験からも知られている事実であり、特に視床髄板内核や視床網
様核というところを損傷してしまうと意識が完全に失われてしまう。動物実験では、麻
酔の代わりに視床に直接抑制性神経伝達物質である GABA を投与することで、睡眠のよ

  39  
うな状態が生じ意識が失われるということも知られている。このように、 視床は意識の
レベルを支える上で非常に重要な役割を担っている。

視床の他にもう一つ麻酔による意識の喪失と直接関係する大脳皮質の部位がある。それ
が、楔前部や後部帯状回といった頭頂葉内側部に位置する部位である(図2­6)。頭
頂葉内側部は、意識のある状態で何もしていない安静時にとりわけ活動が高いことが知
られている。そして麻酔下などで意識を失った時には、活動が極端に下る。そして、前
頭葉内側部との機能的結合が弱まり前頭葉から分離される。麻酔下のみならず、植物状
態や睡眠中で意識のレベルが低い時にも活動のレベルが減少する。また植物状態の人が
意識を取り戻すときには、まさにこの部位の活動が上昇し、前頭葉との連絡がよくなっ
てくることが知られている。

これらの頭頂葉内側部の部位は脳の中でもネットワークの中心に位置している。脳の部
位間の結合のパターンをグラフとして分析すると、あたかも脳内のネットワークのコア
であるかのように、多数の部位と結合し中心的な位置にあることがわかる。楔前部がそ
のようなネットワークの中心に位置し、おそらく情報を統合することで意識に重要なの
だろうと想像できる。

このようなネットワークのハブ(中心的な中継地点) がどのような認知機能と関連して
いるのだろうか。その機能を知ることで、意識に重要な認知機能が何かということがわ
かるのではないだろうか。頭頂葉内側部の損傷患者での実験や、機能脳イメージングの
実験から関連した機能が提案されている。ひとつは、この部位は持続的な注意に関わっ
ていると考えられている。ここに損傷がある患者では、持続的に注意を物体に向けて動
きを追うことができなくなるのである。また、過去のエピソードを 思い出したり、自分
の行動や抽象的なイメージを想像したりするときにも活動が高まる。さらに、自分自身
についての表象にも関わっているようである。自分自身の性格などについて判断をして
いる時には楔前部の活動が高まる。これも、自己と意識という関係を考えると無関係と
は思えない機能である。次章で詳しく説明するが、刺激が意識に上ったかどうかを主観
的に判断するときのメタ認知能力も、この部位との相関を示すことが知られている。

このように、頭頂葉内側部の機能は多岐にわたり、何が本質的な機能なのかはっきりし
ないところがある。しかし、このような一見意識と関係が深そうな機能がこの部位で見
つかることはただの偶然なのだろうか、それとも意識にとって特別な機能なのだろうか。
主体的に目の前の出来事ではない物事を想像することは、非常に主観的で意識的な行為
とも考えられるが、これらの認知機能だけが特に重要だと考える根拠も今のところはな
い。あるいは、これらの多様な認知機能には共通した原理があるのだろうか。もちろん、

  40  
ここであげた全ての機能が意識と直接関係しているとは限らない。さらに、頭頂葉内側
部という領域の中には、はっきりと区別できる複数の部位があり、それぞれが別のネッ
トワークを形成している。そのため、ここで挙げた注意や想像や自己といったものが、
ひとつの部位ではなく、機能的に分離可能な異なる脳の部位で処理されている可能性も
ある。頭頂葉内側部の中の部位ごとの詳細な機能と、一見多様に見える認知機能の共通
原理が何かという問題は、未だに解決していない問題である。

【図2­6】麻酔によって活動を落とす部位。(こういう図が欲しい)

では、次に睡眠中に意識がなくなるとき、いったい何が起きているのかを見ていこう。
我々は人生の三分の一を睡眠に費やしている。睡眠と一言でいっても、眠りには様々な
深さがあり、夢を見ているときなどは、意識的体験は生じている。しかし、ノンレム睡
眠中などの夢をあまり見ていないときには、意識は喪失している。そのような無意識状
態を、私達は毎日眠るたびに体験しているわけである。その意味で、睡眠は非常に身近
な無意識状態であるといえる。睡眠は、記憶の定着や整理に重要であると考えられてい
るが、睡眠の機能については分かっていないことが多い。これだけ身近な現象であるに
も関わらず、我々が何のために眠るのかは、それほど明らかになっていない。

睡眠が最も深く意識がなくなっているのは、ノンレム睡眠中のステージ3とステージ4

とよばれる状態である。これらの睡眠ステージでは、徐波(スローウェイブ)と呼ばれ
る非常に周波数の低い(0.5 ヘルツから 4 ヘルツ)脳波が見られる。そのことからステ
ージ3とステージ4を合わせて徐波睡眠ともいう。

  41  
徐波睡眠中の意識低下に伴う脳活動の変化は、麻酔下での脳活動の変化と非常に近い関
係にある。ここまで麻酔研究で見てきたように、徐波睡眠中に意識レベルの低下がおき
ると、代謝や血流の減少が大脳皮質でも皮質下の部位でも見られる。麻酔下と同様に視
床の活動の減少がみられるが、それに加えて脳幹や中脳、そして大脳基底核も徐波の発
生と相関した神経活動の減少を示す。大脳皮質での活動の減少も麻酔下と似ており、楔
前部や前部帯状回といった部位で大脳の内側面に位置する部位で、活動の減少が見られ
る 。さらに機能的連絡という面でも、徐波睡眠中に、楔前部と前頭葉内側部の機能的結
合が切れてしまう。この現象もまた、麻酔下の状況と一貫している。頭頂葉と前頭葉の
内側部のネットワークは、睡眠でも麻酔でも共通して意識のレベルの維持に関わってい
るようである。

このように意識の状態、すなわち覚醒度に注目した研究からは、視床や頭頂葉内側部な
どの非常に密なネットワークの中心となる部位が、あたかも意識のスイッチであるかの
ように振る舞っていることが見えてくる。これらの部位は、ネットワーク上の脳全体の

情報を統合するのに場所に位置している。特に脳のようなシステムが情報を統合するこ
とは、ジュリオ・トノーニが提唱する「意識の統合情報理論」という観点からも興味深
い。統合情報理論は、意識は統合された情報であり、そのシステムが持つ統合情報量が

意識のレベルそのものだと提案している。この理論を当てはめると、視床のようなハブ
となる場所が、大脳皮質にある高い情報量を統合することで、脳の中に高い統合情報量
を持つ、覚醒度の高いシステムが生まれると解釈できる。しかし、そのような部位が情
報を統合する能力を失ってしまうと、大脳皮質に存在する情報もバラバラになり統合さ
れず、意識のレベルも低くなってしまうというのである。統合情報理論については第五
章で再び立ち返り論じる。

  42  
第3章:メタ認知で探る意識

動物の進化の過程でどの時点で意識が生まれたのだろうか。自分に意識があるのだから、
きっと人類には意識があるだろう。ヒトの脳の構造は、他の霊長類とも基本構造は非常
に似通っているから、おそらく人間でない霊長類であるチンパンジーやニホンザルやゴ
リラにも意識があるだろう。きっとイヌやネコにも意識はありそうだ。哺乳類すべてに

意識があると感じるヒトもいるのではないか。もっと、下等な生物にも意識はあるだろ
うか。カエルやメダカも、脳に入ってきた信号についてクオリアを感じているのだろう
か。タコは非常に複雑な八本の脚を操り、高い学習能力があることも知られているが、
果たして意識はあるのだろうか。ハエなどの昆虫も複眼で我々には想像しがたい現象的
意識を体験しているのだろうか。

今のところ、どの動物に意識があるか明確な答えはない。人によって意見は異なるだろ
うが、多かれ少なかれ、ヒトのような高等な動物には意識があって、より原始的な種で
は意識の質が下がり、ある時点で意識があるとは言えない程度に意識の度合いが下がる
と漠然と考える人が多いのではないだろうか。

「動物には意識があるか」という単純な問いは、実はハードプロブレムである。何らか
の情報処理としての計算過程から現象的意識が必然性に生まれてくる原理がわからない
限り、他の種の動物はおろか自分以外の人間が哲学的ゾンビでないということすら識別
する方法はない。では、意識を測るということは不可能なのかというと、必ずしもそう
ではない。特に刺激に対して視覚的アウェアネス(主観的に刺激が見えたと感じること)
が生じたかどうかの判定手段は、メタ認知の文脈で発展してきており、意識を測る操作
的(オペレーショナル)な方法として利用することができる。

感覚刺激が意識に上ったかどうかの判定基準

人間の脳が、主観的には見えていない感覚入力刺激に対して、どこまで無意識の処理を
行うことができるのかを調べるために、画面に提示された刺激が脳に入っているけれど、
主観的には見えなくする為の心理物理学的手法が用いられる。そのような実験状況では、
主観的に見えたか見えなかったかを判定する必要があり、特にサブリミナルで刺激を提
示する実験では、刺激が実験参加者の意識には届いていないこと示さなければならない。

  43  
刺激が意識に届いたかどうかの判断基準は段階的にいくつかあるが、それらは「信号検
出理論」の枠組みを用いて定義されている。信号検出理論は高校で習う程度の確率の計
算なので難しいものではないが、本書では一般読者が専門的な知識を持たずに意識の研
究の大枠を知ってもらうことが目的なので、信号検出理論の詳細に立ち入らずに、概念
的な説明を試みたいと思う。

信号検出理論とは、脳のようなシステムの客観的な刺激に対する感度を評価するための
理論的枠組みのことである。ここでは例として【図3­1】のような実験状況を考えて
みよう。画面に刺激が呈示される確率が50%で、被験者が画面に刺激が呈示されたか
どうかをイエスまたはノーで答える。このような実験では各試行を次の4種類に分類す
ることができる(【表3­1】参照)。

• ヒット ̶ 刺激が呈示され、被験者の応答が「イエス」の試行
• ミス ̶ 刺激が呈示され、被験者の応答が「ノー」の試行
• コレクトリジェクション ̶ 刺激が呈示されず、被験者の応答が「ノー」の試行
• フォルスアラーム ̶ 刺激が呈示されず、被験者の応答が「イエス」の試行

ヒットとコレクトリジェクションの試行では、被験者の応答は正解で、ミスとフォルス

アラームでは不正解である。これら四種類の試行は、独立ではないために、実際のとこ
ろヒットの確率と、フォルスアラームの確率だけ分かってしまえば、残りは自動的に決
まる。

反応

あり なし

刺激 あり ヒット ミス

なし フォルスアラーム コレクトリジェクション

【表3­1】タイプ1信号検出理論の試行の分類

ヒット:刺激「あり」、反応「あり」
ミス:刺激「あり」、反応「なし」
コレクトリジェクション: 刺激「なし」、反応「なし」

  44  
フォルスアラーム: 刺激「なし」、反応「あり」

【図3­1】タイプ1信号検出理論の試行の分類

この刺激検出課題の例で、刺激が画面に提示されたかどうかを、全く感度がないのにす
べて勘で答えていたら、半分は正解するだろう。デタラメに全ての試行で「刺激があっ

た」と答えればヒット率は100%である。しかしデタラメに答えているのなら、ヒッ
ト率が100%だからといって、その人に刺激にたいする感度がないのは明らかである。
どれだけ勘で答えているかは、フォルスアラームの確率を見ればわかる。そのような勘
で答えた正解を補正して感度を計算したのがd (ディープライム)という信号検出理論
で用いられる 「感度指標」のことである。単純化してしまえばd (ディープライム)
というのは、ヒットの確率がフォルスアラームの確率よりどれだけ高いかを計算してい
るのである。客観的なd を計算するような通常の信号検出理論は「タイプ1信号検出理
論」と呼ばれ、後に紹介する主観的な「タイプ2信号検出理論」と区別される。

意識の判定基準で、一番厳密な基準は「d (ディープライム)がゼロであること」であ
る。これがゼロだというのは、刺激に対する反応が、刺激があったかなかったかを全く
区別できていないということである。ある刺激が意識に上る強度があるのかないのかを

判定する上で、d という客観的な指標がゼロであることを示せば、実験参加者にとって
は刺激が見えていないと確信を持つことができる。もし、実験の目的上、刺激が意識に
上っていないことを証明する必要があれば、客観的な感度の指標で示すのが最もコンサ
バティブで確実なアプローチである。

  45  
しかし、刺激が意識に上ったか上らなかったかを判定するという観点からは、d のよう
な客観的な指標は必ずしも主観的な見え方を反映しない。客観的な行動のパフォーマン
スと、主観的な見えたという感覚が乖離した状態が生じる場面が、数多く知られている
からだ。意識に上らなかった刺激でも、脳の関連領野に到達し処理されることで、その
情報が無意識のうちに行動に反映されることは珍しくない。刺激が主観的には全く見え
ていなくても、強制的に二者択一の選択してみたら、無意識の脳活動のお陰で刺激の弁
別ができてしまっていることがある。つまり、d で測るような入力刺激を行動が区別で
きているかどうかという指標は、主観的な感覚はと必ずしも一致しないのである。

盲視(ブラインドサイト)という視覚野の損傷に伴う症状は、まさに客観的に測られた
知覚能力と主観的な報告の乖離を示す。第一次視覚野を含む大脳皮質を損傷すると、そ
の皮質に対応した視野では視覚的アウェアネスが生じなくなってしまう。このように視
覚野の欠損により視野を失ってしまう症状を、片側視野欠損あるいは半盲という(英語
では、hemianopia)。片側視野欠損の患者の中には、見えなくなった視野に視覚刺激

を呈示し、 ⃝か☓のどちらの図形が呈示されているかを強制的に選んでもらうと、患者
にとっては見えていないにもかかわらず高い確率で正解することができる。そのような
不思議な症状を盲視(ブラインドサイト)という。

主観的報告と確信度

盲視のように客観的な弁別能力と、主観的に見えたと感じるかが乖離することがあるた
め、感覚入力が意識に上ったかどうかの判定には、客観的なd のような指標だけではな
く、主観的な報告を取り入れる必要性がある。

最も広く用いられている主観報告は「確信度(confidence)」 である。確信度とは、図
形の弁別や、刺激が呈示されたかどうかを判断する課題で、その刺激についての自分の
報告について、どれだけ正しいという自信がどれだけあるかである。つまり、客観的事
実についての報告と、自分自身の報告についての確信度というよりメタなレベルでの報
告の二段階の課題を行うのである。

確信度を何段階で評価するのが妥当かという問題に対するはっきりした答えはないが、
単に自信があるかないかの二段階の評価で実験が行われることもあるし、7段階評価な
どが使われる場合もある。刺激が意識に上るかどうかギリギリの強さで提示されている
ような状況で、はっきり刺激が意識に上り主観的に見えていると感じれば、自信をもっ
て見えたと答えるだろうが、見えなかった時は自信が持てないだろう。

  46  
確信度を答えてもらう代わりに、自分の選択の正しさにお金を賭けるという手法も提案
されている。この手法には「ポスト・ディシジョン・ウェイジャリング(Post-
Decision Wagering を略して PDW)」という名前がつけられている (Persaud et al.
2007)。自分の意思決定(ディシジョン)の後(ポスト)でお金を賭ける(ウェイジャ
リング)という意味である。PDW を最初に提案した研究は、イギリスのオックスフォ
ード大学で行われた。被験者は各トライアルでの自分の判断に、1ポンドかその半分の
50ペンスを賭けるように選択肢が与えられている。1ポンド賭けて正解したときは、
報酬として追加の1ポンドもらえ、不正解だと賭けた1ポンド失う。50ペンス賭けた
ときは、正解だと追加の50ペンスがもらえ、不正解だと50ペンス失うという単純明
快なルールだ。

PDW では、自分の回答が正しい可能性が高い時に、高い金額を掛け、間違っている可
能性があると感じた時には、低い金額を賭けようとするインセンティブが働く。確信度
という抽象的なものを尋ねられた時よりも、お金を賭けるかどうか尋ねられたほうが、

実験参加者にとっても直感的に答えやすいそうだ。さらに、確信度を正確に答えるとい
うインセンティブ自体が弱いと、あまり熟慮しないで答える人が居るかもしれないが、
実際の金銭的報酬がかかることで、正確に自分のパフォーマンスを内観によって吟味す
るというモチベーションも高まるという利点がある。

PDW は幾つかの意識研究と関係の深い実験パラダイム(人工文法課題など)で試され
ており、意識の指標としてある程度の成功は収めている。しかし、批判もある。例えば、
自分が勘で答えても偶然より高い確率で正解できるとわかっているときは、自分の判断
についての確信度にかかわらず、毎回高い金額を賭けたほうが利得の期待値を最大化で
きるという問題である。そのような問題を解消するための、賭金と配当を調節する方法
も提案されている。

PDW の面白いところは、自信の度合をお金で表現できるというところである。人が話
していることが、法螺話か、本当に確信をもった話なのか確かめるためには、自分の発

言の正しさにいくらお金を賭けるか聞いてみるのがよい。もし本当にお金を賭けていれ
ば、自信のない話というのはできなくなるだろう。もし、身の回りの人で根拠のない話
をしていたら、その人がいくら自分の主張にお金を賭けることができるか聞いてみれば
いい。そうすれば、その人が自分の主張にどこまで確信をもっているのか探ることがで
きる。

そしてもう一つの主観的な報告の 方法として、「知覚的アウェアネス尺度(PAS,
Perceptual Awareness Scale)」という指標が開発されている(Ramsøy &

  47  
Overgaard, 2004)。知覚的アウェアネス尺度は、主観的な見え具合について、「まっ
たく何も見えなかった」という状況から、「完全にはっきり見えた」という状況までの
次の4段階から構成される。

1.「全く何も見えなかった」( No experience )

2.「微かに見えた」( Brief glimpse )

3.「ほぼはっきり見えた」( Almost clear image )

4.「完全にはっきり見えた」( Absolutely clear image )

この主観的要素を取り込んだ指標は、被験者にとって報告が直感的で答えやすいという
利点がある。ただし問題点は、刺激が意識に上ったかどうかの判断基準が、人によって
異なる解釈をしていている可能性があることである。2番目の「微かに見えた」と、3
番目の「ほぼはっきり見えた」の境界などは、人によって違っているかもしれない。そ

れでも客観的なd を測るときのように強制的に二者択一で選ばせるよりも主観を反映し
た指標になっているはずである。

タイプ2信号検出理論

ここまで「確信度」、「PWD」、「知覚的アウェアネス尺度」という三種類の主観の報
告手段を紹介してきたが、これらの手法は全て、形式は違ったとしても、知覚というイ
ベントに対する「メタ認知能力」を測っている。メタ認知能力は、先ほど説明した通常
のタイプ1と呼ばれる信号検出理論を拡張した「タイプ2信号検出理論」というフレー
ムワークを用いて評価することができる。ここでは、タイプ2信号検出理論の概略を、
確信度を例にとって説明するが、基本的に同じフレームワークは他の主観報告の指標に
も応用可能である。

先ほどタイプ1信号検出理論の説明で用いた、光の刺激を検出する課題を思い出して欲
しい(【図4­1】)。タイプ2信号検出理論では、この課題でさらに自分の回答(イ
エスまたはノー)が正しかったかどうかの確信度を答えてもらう。確信度は、何段階評

価でも良いのだが、ここではシンプルに「自信がある」か「自信がない」の二択で答え
るという実験について考える。

各トライアルにおける反応が正解であったか、不正解であったか、その時に確信度が高
かったか低かったかにもとづいて、新たに【表4­2】のようなトライアルの分類表を

  48  
作成することができる。このタイプ2の表において、客観的なパフォーマンスが正解で、
且つ、確信度が高いトライアルを、タイプ2のヒットとみなし、不正解であったのに確
信度が高いトライアルを、タイプ2のフォルスアラームとみなすことができる。そのよ
うに、確信度と客観的な正誤の関係を捉えることで、自分の視覚体験についてのメタ認
知の度合い(すなわちアウェアネス)を タイプ2d として計算することができる。

確信度

高い 低い

試行 正解 ヒット ミス

不正解 フォルスアラーム コレクトリジェクション

【表3­2】:タイプ2課題での試行の分類表

タイプ2課題のヒット:試行「正解」、 確信度「あり」

タイプ2課題のミス: 試行 「正解」、 確信度「なし」


タイプ2課題のコレクトリジェクション: 試行「不正解」、 確信度「なし」
タイプ2課題のフォルスアラーム: 試行 「不正解」、 確信度「あり」

このように、タイプ2の確信度の感度を評価することで、どこまで実験参加者がある刺
激条件において、視覚的アウェアネスがあったのかを評価することができる。例えば、
本人は全て勘で答えていて、刺激は意識に上っていないのに、何故かサブリミナルな効
果で答えが正しくなってしまうような状況(つまりタイプ1d が正のとき)では、タイ
プ2のd とゼロなる。つまりタイプ2の信号検出理論を使うことで、より主観的な見え
具合を考慮した意識の判定ができるのである。

メタ認知の脳内基盤

ここまで説明してきた、タイプ2信号検出理論のフレームワークを用いることで、個人
のもつメタ認知能力を測定することができる。そして、実にメタ認知能力には大きな個
人差がある。スティーブ・フレミングは、【図3­2】のような刺激を用いて、二度の

  49  
視覚刺激呈示のうちで、一つだけコントラストの高い刺激を含んでいたのは、1 つ目か
2つ目かを選ばせる課題を行った。そしてタイプ2課題として、その答えが正しいかど
うかの確信度を報告してもらい、個人のタイプ2課題の成績を計測した。

【図3­2】フレミングの実験に使われた刺激。Fleming et al. (2010) を日本語訳のた


め一部改訂。

このような知覚体験に関するメタ認知の個人差は、脳のどのような違いが原因となって

いるのだろうか。メタ認知の個人差の神経基盤を調べるために、フレミングたちは、 脳
の構造を詳細に撮影した MRI 画像を基に、どの脳の領域が個人のメタ認知能力と相関し
ているかを解析した。この解析には VBM(Voxel-based morphometry)という手法が

用いられ、脳の灰白質の量と、メタ認知の能力が相関する部位を見つけ出した。灰白質
とは、脳の表面を覆う新皮質と呼ばれる部分で、神経細胞(ニューロン)の細胞体が収
まっている部分である。一方、白質というのは、皮質の下にあり、脳の異なる部位同士
を結ぶ神経線維の束から構成されている。この VBM という構造 MRI 画像の解析方法で、
さまざまな個人の特徴と対応する脳構造が見つかりつつあることは、私が以前書いた
『個性のわかる脳科学(岩波科学ライブラリー)』で詳しく紹介した(Kanai & Rees,
2011 の総説も参照)。

フレミングらの研究により、ブロードマンの10野の前頭極(frontal pole)と頭頂葉の内
側面に位置する楔前部(precuneus)の灰白質の量が、視覚経験に関するメタ認知の個人
の能力と相関していることが明らかになった。楔前部の機能はあまり理解されていない
が、 前章での麻酔や睡眠の文脈でも登場した意識との関係の深い部位であり、人間の脳
内で最も多岐に渡る部位と結合している。また、メタ認知において主観的体験の質を内
観によって捉えるという機能は、これまで知られていたエピソード記憶の想起や、視覚
空間のイメージを思い浮かべることなどの心の内面へと向かう認知機能とも関連が深そ
うである。

  50  
しかしながら、一般的に高次脳機能を司る特定の部位の本質的な機能が何であるのかと
いう問題は、その重要性にもかかわらず、非常に難しい。文献を調べると、同じ部位が
複数の異なる実験状況で活動している例が必ず見つかる。だからといって、その活動が
同じ機能を異なる状況で果たしているかも不確かだし、fMRI の分解能では同じ部位に
活動があるように見えていても、その中にある同じニューロン群が活動しているかどう
かはわからないのである。さらに、ある認知課題の神経基板を明らかにするため行われ
た 研究であっても、実際にはその課題を行うために数多くの脳部位が関与していうる。
つまり、その課題で狙っている機能に関わっている部位だけではなく、その課題遂行の
ために必要ではあるが、直接関係していない部位で活動が見つかることもある。このよ
うな理由で、楔前部や前頭極の機能の本質がなんであるかというのは 一言で表すことが
できないのが現状である。

このような部位の機能についての逆推論(リバースインファレンス)の限界を認めた上
で、あえて楔前部の機能を予想すると「自己の内面世界に注意を向けること」ではない

かと思う。まさに、メタ認知とは内観的に自分の知覚経験を吟味することで可能となる
わけだが、そのために楔前部が機能しているのではないかと想像している。

動物のメタ認知

冒頭で「動物に意識があるか」という疑問は、それ自体が実はハードプロブレムである
と説明した。これは、動物に限らず、人間でさえ他者に意識があるかどうかさえわから

ないからだ。自分以外のすべての人間は意識を持たない哲学者のゾンビである可能性を
否定するのは難しい。ただ、現代の我々のもつ世界観において、人間の脳は進化の結果
できあがった複雑な器官で、自分だけでなく他の人たちも、また進化的に近い種の動物
たちも、非常に似通った器官を持っている。だから、他の人たちや一部の動物にも意識
はあるだろうという推測は、自分一人だけが意識を持っているという考えよりもよっぽ
ど合理性がある。

ハードプロブレムが難しい理由は、意識があるときに実現される機能が何であるかわか
らないということだ。もし、意識の存在があったときにのみ初めて可能となる、認知機
能(あるいは計算原理)があるのなら、その機能を持つかどうかを調べることで、動物
に意識があるかどうかを決定できる。ここまで、 メタ認知が、知覚的情報処理に意識が
伴うかどうかを調べる際に、有用性のある指標であるということを議論してきた。メタ
認知機能の存在は、意識的経験の存在と同一視されるべきではないが、それでもメタ認

  51  
知は意識的体験の存在を間接的に強く示唆する認知機能である。そのようにメタ認知が
意識と近い関係にあると考える根拠は、自分自身の視覚体験に内観的にアクセスし評価
することなしではメタ認知をすることができないように思えるからだ。

メタ認知を意識の指標として動物の行動に適用したら、いったいどの動物には意識があ
るとことになるのだろうか。動物でも確信度に応じて、自らの行動を変えるようなこと
があるのだろうか。 このような疑問に応えるために、次に動物でのメタ認知研究の状況
を紹介する。

動物にメタ認知能力があるかという問題は、長い間研究されてきた。数々の実験が試み
られたが、内観によって自分のパフォーマンスを理解していることを示す実験デザイン
は、なかなか登場しなかった。ヒト以外の動物で、メタ認知の証拠を最初に示したのは、
ロバート・ハンプトンの行ったアカゲザルでのメタ記憶の実験である。

ハンプトンの行った実験のデザインを【図3­3(左)】に示した。やや複雑に思われ
るかもしれないが、図を見ながらしっかりついてきて欲しい。最初の「学習フェーズ」
で、サルは一番上のニワトリの絵のような画像を見せられ、この画像を後のテストのた
めに記憶しなければならない。そのあとに「遅延期間」がありサルはしばらく待たされ

るのだが、それが10秒程度の極めて短い場合もあれば、4分程度の長さとなることも
ある。この遅延期間が長くなればなるほど、最初に見た画像を忘れてしまいやすく課題
の難易度があがる。

遅延期間が終わると「選択フェーズ」が始まるのだが、ここには二種類の場合がある。

ひとつは、3分の 1 の試行では、必ず記憶課題を行わなければいけない条件となる。こ
のときは、画面には一つだけ画像が呈示され、サルは必ずそれを選択した後に、「テス
トフェーズ」が始まり、最初の「学習フェーズ」で見た画像を選ばなければならない。
一方、残りの3分の2の試行では、サルは 「テストフェーズ」で記憶テストを受けるか
記憶テストを受けないかを選択できる。記憶テストを受けることを選択し、見事に記憶
テストに正解すると、サルは好物のピーナッツをもらうことができる。しかし、不正解
だと何ももらえない。一方、記憶テストを受けないという選択をすると、あまり美味し

くないサル用のペレットというエサをもらえる。つまり、好物のピーナツというハイリ
スク・ハイリターンを選ぶか、確実にもらえる美味しくないサル用のペレットというロ
ーリスク・ローリターンを自分の記憶の自身に合わせて選ぶという状況になっているの
である。

  52  
この部分が人間での確信度の報告に対応する役割を果たしており、メタ認知ができてい
るかを調べる手がかりとなっている。むしろ、確信度よりも PDW の状況に似ていると
も言える。つまり、もし自分の記憶に自信があれば、選択肢を与えられた時に、ピーナ
ッツを手に入れるために、記憶テストを選択するだろう。一方、記憶が遅延期間中にあ
やふやになり、自信の持てないときは、記憶テストを選ばずに、確実にペレットを貰え
る方を選ぶ。しかし、言語でコミュニケーションを取ることができないサルが相手の場
合は、直接確信度を聞くことができないから、このようなデザインでメタ認知の能力が
あるかどうかが試されるのである。

このような動物用のメタ認知の実験デザインでは、メタ認知ができていたかの評価は、
サルが自ら望んで記憶テストを受けた時の正答率が、強制的に記憶テストを受けなけれ
ばならなかった時の正答率より高いかどうかで決まる。サルが自分の記憶が確かなとき
に限って、積極的に記憶テストを受けることを選んでいたと考えられるからだ。この実
験のデザインでは、記憶テストを受けない選択をした場合の、記憶テストの正答率を知

ることはできないが、強制的に記憶テストを受ける条件での記憶のパフォーマンスが、
記憶テストを選択した場合と選択肢なかった場合の両者の混合した成績となっている。
だから、選択肢が与えられたときの記憶課題の成績が、選択肢なしで記憶テストを受け

なければならなかったときの成績より有意に高ければ、その違いはタイプ2課題が偶然
より高い成績でできていることと同じことになる。

  53  
【図3­3】(左)サルの記憶に関するメタ認知能力を調べるための課題。(右)二頭
のサルの記憶課題における成績。黒色の棒グラフは、記憶課題に応えるかどうかの選択
肢を与えられ、自ら選んで答えた時の成績。灰色の棒グラフは、選択肢が与えられずに
必ず答えなければならなかった条件での成績。Hampton (2001) より日本語訳のため
一部改訂。

ロバート・ハンプトンの実験では、二頭のアカゲザルについてこのような実験をおこな
い、見事にサルが自ら記憶テストを受けることを選んだ場合の成績が高いということを
示した(【図3­3右】)。この実験は、人間以外の動物におけるメタ認知能力をエレ
ガントに示した、非常に影響力のある研究である。

その後、このような実験デザインで、他の動物種でもメタ認知能力が試され、霊長類以
外でもラットでもメタ認知ができるという実験的証拠が得られている(Foote & Crystal,
2007)。ラットの実験では、画像の記憶の代わりに、ホワイトノイズという雑音の音の
持続時間が、長かったか(4.42 秒から8秒の範囲)、短かったか(2 秒から 3.62 秒の範囲)
を弁別する時間知覚の課題が用いられた。この弁別課題では、3.62 秒と 4.42 秒を正し

く弁別するのは特に難しいが、2 秒と 8 秒の違いならかなり簡単に弁別できるはずだ。
このような弁別課題で、ハンプトンの実験のような、回答せずに小さな報酬をもらうと
いう選択肢が設けられており、弁別の難しいトライアルでは、テストを受けない選択肢
が頻繁に選ばれた。また、自らテストに答える選択肢を選んだ場合には、正答率が、選
択肢を与えられずに必ず答えなければならなかった条件より高いことが示された。この
正答率の違いは、ラットが自分の時間知覚の確かさに対するメタ認知能力があることを
示している。霊長類と比較すると、非常に大脳がそれほど発達していないように見える
ラットでさえも、このようなメタ認知の能力があるのは驚きである。

あらゆる動物がメタ認知能力をもっているかというと、必ずしもそうではないようだ。
特に、よく知られている例はハトである。ハトは動物の行動を調べるために非常に研究
されている動物種であり、様々な認知機能があることが知られている。しかし、メタ記

憶に関しては、どうしてもハトはできないようである(Inman & Shettleworth, 1999)。


しかし、哺乳類か鳥類かが、メタ認知のあるなしの境目ではないようである。後藤和宏
氏らの研究によれば、カラスも限定的ではあるがメタ記憶課題ができるようである。限
定的というのは、ハンプトンの実験では、記憶テストを受けるかどうかの判断を、テス
ト刺激を出す前にさせていたが、そのような判断を記憶テストの前に行う「展望的
(prospective)」な選択では、自分で記憶テストを選んだか否かで、記憶課題の成績に
違いは見られなかった。しかし、若干実験のデザインを変えた、「回顧的

  54  
(retrospective)」な判断では、自己の記憶に関するメタ認知ができているようであった。
この回顧的メタ記憶課題というのは、必ず記憶テストは強制的に受けさせられるのであ
るが、カラスは記憶テストを受けたあとで、展望的メタ記憶課題と同様にハイリスク・
ハイリターンかローリスク・ローリターンかの選択肢を与えられ、自分の記憶テストで
の答えが正解であったかどうかを報告させている。このように、課題への反応をさせた
後で、動物の「確信度」を確かめるようなデザインは、人間でよく用いられる確信度の
報告などとも非常に似たデザインである。

このカラスでのメタ記憶の実験が示すように、メタ認知機能というのは、単に「ある」
か「ない」かのどちらかではなく、動物種によっては、難しさに応じて、できる場面と
できない場面があるのかもしれない。展望的メタ記憶課題に比べて、回顧的メタ記憶課
題では、より多くの手がかりが存在する。展望的メタ記憶課題では、まったくテスト刺
激を見る前に、脳内にある記憶の「痕跡の強さ」のシグナルのみを頼りに課題を行わな
ければならない。一方、回顧的メタ記憶課題では、テスト刺激を見た時に感じる課題の

難しさに伴う感覚のようなものも手がかりになるだろうし、直接自分の脳内の信号の強
さを手がかりとして用いることができなくても、すぐに答えが出せなかったという反応
時間のような情報を利用して、メタ認知を行うことさえ可能である。

ここまで紹介した動物のメタ認知の実験から、人間以外の動物にもメタ認知能力がある
ことがわかってきた。メタ認知の存在をもって、現象的意識が存在する十分条件と結論
づけることは難しいが、それでも盲視との関係などを考慮すると、視覚経験についての
メタ認知能力は、かなり意識の存在と密接な機能であることがわかる。当然、メタ認知
は、現象的意識があったかどうかとは別のメタ認知という追加の機能であるという考え
方もある。それでも、メタ認知を意識のテストとして暫定的に捉えることで、人間以外
の動物がどの程度、自分の心理状態についての内観を利用できるかを考えるのは、意識
の機能を探すために有効なアプローチである。

サルの盲視

ここで挙げた動物のメタ認知の例は、記憶に関するもので、記憶についても当然アウェ
エアネスというものを考えることができる。しかし、視覚的アウェアネスのようなもの
の方が、明らかにクオリアが伴い意識の内容の神経基板を探るという意味でも興味深い。
つ魏に、動物の知覚判断についてのメタ認知について、特に意識と関連の深いサルの盲
視の実験を紹介したい。

  55  
盲視というのは、第一次視覚野の損傷により、対応する視野の一部が見えなくなってし
まっても、その見えない視野に呈示された視覚刺激について、客観的な指標では弁別が
できてしまうという不思議な現象である。この盲視の特徴は、自分が客観的にできてい
るかどうか内観によって判断できずに、自分の応答の確信度を適切に評価することがで
きないことである。

ここまで見てきた動物でのメタ認知の測り方を応用することで、サルなどの動物でも盲
視という状況が起きるのかどうか評価することができる。アラン・カウィとペトラ・ス
トゥリッヒは、サルの V1 を片半球だけ手術により除去した。それでも、人間の盲視と
どうように、見えなくなっているはずの場所に強い光を呈示されると、サルは強制選択
させた場合には、その場所を正しく指し示すことができた。そのような V1 欠損ザルは、
ただ単に刺激を検知する能力が下がっただけで、V1 の欠損した部位と対応する視野の
刺激も見えているかのように行動している。V1 欠損ザルでは、人間の盲視患者のよう
に、その部分が主観的には見えていないと感じているのだろうか。動物に見えているの

かと直接聞くことはできないので、行動だけ観察していても V1 欠損ザルに視覚的アウ
ェアネスがあるかどうか調べるのは難しそうである。

カウィとストゥリッヒは非常にクリエイティブな方法で、この問題を解決した(Cowey
& Stoerig, 1995)。今度は、V1 欠損ザルに、必ず呈示される刺激がどこにあったかを
強制選択させるのではなく、刺激が呈示されたか、呈示されなかったかを判別するよう
にトレーニングをした。 この課題では、刺激が呈示されなかった時には、「何もなかっ
たボタン」を押すと報酬がもらえるようにサルはトレーニングされている。その結果、
本当に何も画面に刺激が出なかったときは、「何もなかったボタン」を押し、V1 の損
傷していない視野に刺激が呈示されたときは、その場所をしっかりと指していた。そし
て、V1 が損傷した視野に、強制的に選択させた時には確実に報告ができる強度の刺激
を提示しても、サルたちは「何もなかったボタン」を押したのである。

このことは、V1 損傷ザルたちにとって、スコトーマに呈示された刺激は、「何もない」

という感覚に近いであろうということを示唆している。単に、刺激が呈示された場所を
指し示すことができるかという客観的な指標だけで、見えているか見えていないかを決
めるとすると、最初の実験からは、サルに刺激は見えているのではないかと想像しがち
である。しかし、このように刺激がない状況と比較することで、主観的には見えていな
いだろうということが推測できるのである。そして、V1 欠損が示すような、強制選択
では正解できるが、主観的には見えていないだろうという状況は、まさに人間の盲視の
患者が報告する状況とそっくりである。

  56  
メタ認知と相関する神経活動

ここまでサルなどの動物では、メタ認知能力を示す行動実験が可能であることを見てき
た。動物でのメタ認知実験が可能になったことで、メタ認知を支える神経活動を電気生
理学的な手法でニューロンの発火活動として捉えることが可能になってきている。

動物での確信度が眼窩前頭皮質(OFC, orbitofrontal cortex)のニューロン活動にもっと


直接的にコードされていることを示すアダム・ケペックスらの実験を 紹介する(Kepecs
et al. 2008)。この実験も、非常に工夫と洞察力に溢れたデザインで、動物のメタ認知
を示すような行動を引き出している。

ケペックスの実験では、ラットは二種類の匂いを嗅ぎ分ける訓練を受け、テスト刺激と
して嗅いだ匂いが、匂い A の成分と、匂い B の成分のどちらが多かったかを弁別する課
題が用いられた。弁別の難しさは、ふたつの匂いの成分の配合の具合によって調節され
ている。一番簡単な場合は、匂い A か匂い B のどちらかが純粋に100%含まれている

だけだが、難しいケースだと56%対44%の比で配合されている。ラットは、匂いが
A であったか B であったかを、右か左の場所へ移動することで報告し、正解だった時に
はそこで報酬がもらえる。

弁別課題の成績は、配合の比が半々の50%対50%に近いほど悪くなるのだが、匂い
を嗅いでいる最中に、課題が難しい条件ほど、眼窩前頭皮質のニューロンが強く発火し
ていた。また、物理的に同じ配合の刺激条件でも、ラットが間違った応答をしたトライ
アルでは、この眼窩前頭皮質のニューロンたちはより強く反応していた。この結果は、
ラットにとっての主観的な確信度の低さを反映しているのではないか思われる。ここで
重要なのは、眼窩前頭皮質のニューロンが単に、匂い A と匂い B のどちらの強さ応じて
反応しているのではなく、弁別課題の応答の難しさに応じて反応していることである。
眼窩前頭皮質のニューロンは、確信度(あるいは、主観的な不確定性)に対応した情報
を表現しているといえよう。

この研究から、確信度に非常に近い情報の表現が、眼窩前頭皮質に存在することが明ら
かになった。さらに、ケペックスらは、ラットがこのような情報を自らの行動に利用す
ることができるかを検証した。ラットでは、サルで使われているような「答えないボタ
ン」を用意して理解させることは難しそうだが、この研究では、ラットにも自然に確信
度の情報を利用した行動を起こさせるようなうまい実験デザインが使われていた【図3
­4】。今度の実験では、正解だった時に報酬が与えられるまでの時間の長さが、2秒

  57  
から8秒の間でランダムに変化させた。こうすることで、ラットが答えを選んで、正し
い答えの場所で数秒待ち続けたら報酬がもらえるわけだが、どれだけ待てばよいのかわ
からないようなデザインになっている。もし答えが間違っていたら、8秒間待って何も
もらえない結果になるため、正しく答えられた確率が低い時には、途中で諦めて新しい
トライアルを始めた方が得である。一方、もし答えに自信があれば待ち続けるべきであ
る。これは、いわば自分の時間を賭けたポスト・ディシジョン・ウェイジャリングにな
っている。

このようなデザインで、ラットが途中で諦める確率を、正しい選択をした時と誤った選
択をした時で比較すると、匂いの配合が50%に近い難しいトライアルでは、待たずに
途中で諦める頻度が上がっており、また間違った反応をしていたときにも、諦めの頻度
が高くなっている。つまり、自分の回答に自信があるときは、ラットは報酬がもらえる
までそこで待ち続け、 自信がないときは、すぐに報酬が出てこなければすぐに諦めて次
のトライアルを始めたのである。つまり、ラットが知覚経験の確信度にもとづいて行動
を最適化するというメタ認知ができていることを示している。

まだ、眼窩前頭皮質以外の領域にも確信度を表現するようなニューロンはあるかもしれ
ないが、この研究は知覚経験の確信度が直接表現されていることを実証した最初の例と
して非常に意義がある。ここでのふたつの例からも、動物でメタ認知能力があることを
示すための行動実験のパラダイムが用意されてきたことで、確信度がニューロンの活動
としてどのように表現されているかがわかってきた。

  58  
【図3­4】ラットの行動実験のデザインとデータ。

眼窩前頭皮質のニューロンの活動は、意思決定の不確かさに応じて発火頻度をあげてい
たが、直接的に知覚体験の確信度に応じて発火頻度をあげるニューロンが、産業技術総
合研究所の小村豊氏らの研究により、サルの視床枕(pulvinar)で見つかっている。視床
枕はその名の通り視床に位置する神経核で、注意などの認知機能に重要な役割を果たし
ていると考えられていた。視床枕は進化的にも特殊な位置づけにあり、霊長類において
特に発達しているが、ラットなどで存在していない。

小村氏らのサルの電気生理学的実験では、視覚刺激の判別課題が用いられるのだが、先
ほど説明したハンプトンのメタ記憶の課題のように、サルには自信がないときは判別課
題を回避するという選択肢が与えられていたのである。つまり、サルが判別課題をあえ
て選択した場合には、正解した時には高報酬、不正解の時には無報酬というハイリス
ク・ハイリターンの選択となり、判別課題を回避した時には、小さな報酬が確実に与え
られる。トライアルごとの課題の難しさは、 視覚刺激のシグナルの量を調節することで
制御されていた。

この実験下で、視床枕ニューロンの発火活動が、サルの確信度を表象していると考える

に十分な証拠がいくつか示されている。まず、判別が簡単な刺激が呈示されたトライア
ルではニューロンの発火頻度が高く、難しいトライアルでは発火頻度が低かった。これ
は視床枕ニューロンが主観的な確信度を表しているという説と一貫性のある実験結果で

あるが、これだけでは刺激自体の特徴を表しているのか区別することができない。そこ
でさらに、サルが判別課題を回避したトライアルでのニューロン活動を見てみると、同
じ刺激がでているにもかかわらず、判別課題を選択した時よりも低くなっていた。これ
は、視床枕ニューロンの活動が、サルの個体レベルでの行動に現れる主観的確信度を表
現していることを強く示唆している。

さらに決定的な証拠は、抑制性伝達物質の GABA と同様の働きをするムシモルという薬


物を視床枕に注入した実験である。視床枕ニューロンの活動を薬理的に抑制することで、
視床枕ニューロン活動と、サルの確信度に基づいた行動の因果関係を確立したのである。
視床枕でも、大脳皮質の視覚野と同様に、右の視床枕は左視野の刺激に反応し、左の視
床枕は右視野の刺激に反応するという対応関係があるのだが、右側の視床枕をムシモル
によって抑制すると、左視野に呈示された刺激に対してのみ、確信度が低いかのように
サルは行動するようになった。つまり判別課題を回避するようになるのである。しかし、

  59  
強制的に視覚の内容を判別させれば、客観的な判別能力自体はムシモル注入によっても
変化していないのである。つまり確信度のみが選択的に減少したのである。これは、も
しかしたら盲視のような状態になっているのではないかと想像させられる。この一連の
実験は、視床枕のニューロンが主観的な見え(視覚的アウェアネス)を直接的に表現し
ている可能性を強く示唆する非常に強烈な研究成果である。また、意識の状態の神経基
板について論じたところでも触れたが、視床が情報の統合という機能を通じて、意識と
深く関わっているという観点からも非常に興味深い研究成果である。

メタ表現と意識

ここまで知覚経験のメタ認知について議論するために、タイプ2信号検出理論の枠組み
を紹介してきた。意識経験が生じていたかどうかを心理実験によって確認する方法とし
て、客観的なパフォーマンスだけは盲視のような状況が存在するため不十分である。そ
のため、確信度や PAS のような主観的な報告が必要となる。特にタイプ2の信号検出
理論の枠組みを使うことで、主観的報告のバイアスも補正した形で主観的報告を評価で
きる。そのため、タイプ2信号検出理論を用いて確信度を評価することは、意識的経験
が生じているかどうかを調べるために頻繁に用いられるようになってきた。

しかし、メタ認知ができることを意識の存在と同一視するのは間違いだろう。タイプ2
課題ができていることは、意識的知覚が生じていたことの十分条件であるが、必要条件
ではない。つまり、メタ認知ができていないからといって、必ずしも意識的知覚がなか

ったとはいいきれないということだ。そのような一つの可能性として、脳のメタ認知の
モジュールが、視覚処理の領域とは独立に存在し、それだけが壊れてしまうと、視覚処
理は通常通りできていても、確信度などを正確に推定することだけができなくなること
は考えられる。実際に、経頭蓋磁気刺激法(TMS)という脳刺激の手法を用いて、メタ認
知に関わっていると思われる前頭葉背側部の一部の活動を阻害すると、タイプ2課題だ
けができなくなる。そのような状況では、意識的経験がなくなってしまったと考えるべ
きだろうか、それとも意識的経験はそのままで、メタ認知の報告能力だけが損なわれて
しまったと考えるべきだろうか。

メタ認知を意識と同一視してしまうことの問題点は、タイプ2課題などで計測される、
個体としてのメタ認知能力に必要な計算自体が非常に単純なことである。メタ認知の課
題を遂行するのに必要な計算は、情報の不確かさの評価をすることだけだが、これ自体
は、コンピュータにとって簡単なことである。入ってくる信号の統計的確率分布と、そ

  60  
の信号の強さと、意思決定の閾値となる基準値さえ決めてしまえば、正答の確率を計算
することはできてしまう。そのような人工的なメタ認知機能を付け加えただけで、意識
が作れてしまうとは考えにくい。情報の不確かさの評価は情報処理に重要であったとし
ても、それだけでは入力刺激として使われている信号の「意味」がその人工システムに
はわからないだろう。だから、メタ認知が数値計算的に実行出来るだけでは意識的経験
を引き起こすには不十分である。また、そのような計算自体は、人間の脳内でもあらゆ
る階層で無意識に行われている可能性がある。

「意識の高次理論」と呼ばれる哲学的な流れを組んだ理論では、外界状況を直接表象し
ている「一次表象」を持つだけでは意識には不十分で、自分がその一次表象を持ってい
るというより「メタ表象」を持つことが意識にとって重要だと考えられている。哲学者
のデイヴィッド・ローゼンサルなどが主な主唱者である。一次表象というのは、例えば
顔を見た時に、顔に反応するニューロンが発火することだが、高次理論ではそのような
顔の一次表象だけでは顔に対する視覚的アウェアネスが生じるには不十分で、自分がそ

の一次表象をもっているのだというメタな表象が実現して初めて意識が生じるというの
である。

何らかの情報が単に表現されているだけでは、それは情報があるということに過ぎない。
しかし、脳のようなシステム(あるいは人工知能でも良いが)が「「その情報がある」
ということ」を表現していれば、そのシステムは「その情報」について気がついている
わけで、アウェアネスがあるのではないかというのである。このようなメタなレベルで
の再表現によって意識が生じるというのが意識の高次理論の主張である。

意識の高次理論が提唱するメタ表象という概念は、高次理論の種類によってニュアンス
がことなる。メタ表象として「思考」や「概念」のようなものを想定しているとする
「高次思考理論(Higher Order Thought Theory of Consciousness)」もあれば、
「知覚」のようなものを想定した「高次知覚理論(Higher order perception theory)」
もある。さらに、ここまで確信度に基づいたメタ認知をメタ表象として想定した「高次

統計推論理論」と呼ぶべきものもある。これらをまとめて「意識の高次理論」と呼んで
いるが、その詳細に於いては「メタ表象」の概念自体は多様であり曖昧である。意識の
高次理論の諸理論において一貫しているのは、一次表象との比較において、メタな表象
が意識の内容を反映しているという主張であり、また、 一次表象自体に変化がなくとも、
メタな高次表象の内容のみが変化すれば、意識の内容が変化すると予測しているところ
である。

  61  
高次理論とは対照的に、一次表象のみで意識の内容が決定しているという仮説を、ここ
では便宜的に「一次表象理論」と呼ぶとする。 一次表象理論では、刺激が意識に上るか
どうかは、感覚野において信号が十分に強かったかどうかだけで決まる。意識の高次理
論では、感覚入力を直接表現している部位の活動が同じでも、前頭葉や頭頂葉といった
高次脳部位でメタ表象を作る活動が生じなければ刺激は意識に上らないはずである。通
常は、コントラストが高く鮮明な画像など、入力刺激が十分に強ければ、一次表象の活
動が引き起こされ、高次の機能が、その一時表象が安定し確かなものだという判定をし
ているだろう。そのため、両者の区別をつけることは難しい。しかし、先に紹介したよ
うに、TMS という脳刺激の手法で前頭葉背側部の一部の活動を阻害することで、タイプ
2課題のパフォーマンスだけを阻害することが可能である。意識の高次理論によると、
このような状況では、刺激に対する客観的な応答(タイプ1課題)ができていたとして
も、視覚刺激は意識に上らずに盲視のような状況になっていると考える。また、先ほど

の視床枕の活動を抑制した実験では、客観的な視覚刺激の判別能力は落ちておらず、一
次表象は残っていそうだが、意識の高次理論を当てはめると、視床枕内でのメタ表象が
なくなってしまうために、刺激は意識に上っていないと予想される。

意識の高次理論は、刺激が意識に上るということが、どういうことであるかを機能とし

て突き詰めていくと 辿り着く一つの結論ではある。しかし、どのようなメタ表象が意識
に重要なのかは未だに曖昧なままである。確信度に基づいたメタ認知は、もっとも概念
が計算モデルとしてもはっきりしているため、高次理論を検証する実験を進める上で効
果的である。しかし、先ほど説明したように、確信度で測るメタ認知ができていること
と、意識的知覚の存在を同一視するのは誤った考えであろう。

むしろ今後は、意識にとって重要な「メタ表象」とは何かについて考えるべきだろう。
神経活動として知覚的な情報をメタに表現しているというのがどういうことなのかとい
うのは、考え始めればなかなか難しい問題である。例えば、知覚情報の表現として、線
分の傾きを表現しているニューロン集団があったとして、それのメタ表象とはいったい
何だろうか。全く、同じニューロン群の活動をそのまま反映するコピーが脳の中にあれ
ば、それはメタ表現と言えるだろうか。ただ単にコピーがあるだけで、それがメタ表象
であるというのは馬鹿げた考えに思える。では、そのニューロン集団のコードする情報
から読み取れる線分の傾きについての確信度を表現していれば、それはメタ表現と呼べ
るのだろうか。しかし、ただ単に情報の不確かさを明示的に計算するだけのことが、他
の脳内での階層的な計算と本質的に違うと考えることも難しい。確信度を計算すること
を、線分の組み合わせから物体を認識するための計算と本質的に異なる意識を生み出す
計算と考えられるだろうか。何らかの情報を明示的に表現しているニューロン群の活動

  62  
パターンから計算の次の段階で別の情報を読み取るという計算は常に行われていること
だ。例えば線分の集合から、顔や自動車を認識するのは メタ表現をつくる再記述
(redescription)と考えるべきなのか、そうでないのか。そこのところは明確でない。あ
るいは、線分の情報を、物体の情報へと変換することは、メタではないが、 確信度とい
うのは、その対象が線分の情報自体だから特別だという風に考えることもできる。その
対象自体への主体的な態度やコメントがメタ表現だという考えもできる。そうすると、
確信度だけではなく、その線分の傾きを怖いと思うか、望ましいと思うか、おもしろい
と思うかなどの態度もまた、メタ表現なのではないかと考えることも可能だ。このよう
に考えると、刺激に対する快・不快のような脳内の報酬系や痛みの回路などこそが、進
化的に最も古い環境情報に対するメタ表現であったのではないかなどと想像されてくる。
これだけ、メタ表現とは何かというのは曖昧なままである。

意識の高次理論の特徴は、意識にはメタ表現という特別な計算が関わっているというと
ころである。第5章で説明する統合情報理論では、どのようなものでも統合された情報

が存在すれば意識は存在するという点で、汎神論、すなわち全てのものに少しは意識が
あるという立場をとる。一方、意識の高次理論では、メタ表現を実現する計算的な仕組
みが備わって始めて意識が生じると考えるため、世の中には意識を持つものと持たない
ものに別れると考える。

この点において両理論は対立しそうだが、両者が決定的に異なるものかというと、必ず
しもそうではない。統合情報理論における統合情報というのは、脳などの情報システム
が、現在の視点から自分自身について直前・直後についてどれだけ情報を持っているの
かという情報量を対象としている。システムが自分自身についてのどれだけの情報を持
っているのかという観点では、統合情報自体がメタな関係性をもっている。「メタ表現」
というものが、具体的な計算理論として何を意味しているのかがわからない現状を考え
ると、統合情報量のようなものも自己言及的な情報であるので、それこそが「メタ表現」
なのではないかと考えることもできる。ベルギーのアクセル・クレールマンスは、意識
の高次理論に近い立場から、「極端な可塑性理論(Radical Plasticity Thesis)」という理
論を提唱している。 クレールマンスの理論では、意識とは外的環境や他のエージェント
や自分自身とのインタラクションを通して、脳が自分自身の振る舞いについて学習して
モデルを持っている状態である。脳が自分自身について持っている情報が意識であると
いう点で、トノーニの統合情報理論と非常に似ているが、「極端な可塑性理論」では、
脳の中に積極的に自分自身の振る舞いについての学習が起きており、脳が自分自身につ
いてのメタなモデルを持っていることが意識には必要だと主張している。一方、統合情
報理論では、そのシステムが自分自身についてのモデルを明示的に持たなくても統合情

  63  
報は発生するので、メタなモデルを必ずしも意識に必要とはしていない。メタな表現を
必要としない代わりに、統計的情報が自然現象で起きているとする「神の視点」が必要
となる。そこの部分が両理論の違いである。ただし、 システムにメタなモデルを組み込
むことで統合情報量が極端に上昇し、結果的に意識を持つにはメタ表現が重要になれる
という可能性はある。

メタ表現が意識にとって重要そうだという直感については非常に強く共感できる考えで
ある。しかし、現状では、情報が存在することを知っているという状態の本質が曖昧で
あるため、今後は情報をメタに表現するとはどういうことかを考え。計算理論としてど
のように表現するのが適切であるかを考えていく必要がある。このあたりに、今後意識
を理解するための鍵となるブレークスルーがあるのではないだろうか。

   

  64  
第4章:現象的意識とアクセス意識

哲学者のネド・ブロックは、意識にはふたつの側面があると主張した。ひとつは、現象

的意識で、もうひとつは、アクセス意識とよばれる。現象的意識というのは、意識の主
観的な質的感覚の側面のことで、赤を見た時に伴う主観的な感覚のことである。一方、
アクセス意識というのは、意識に情報が上ることによって伴う情報機能としての側面を
指す。例えば、赤いバラの写真をみて、その視覚刺激が脳内の情報処理を経て、言語野
へと到達することで、 「この写真には赤い花が映っている」と言語報告が可能なのは、
写真の情報が意識に上ったことで実現する情報的機能に依存している。そのような意識
を伴う情報処理の機能的な側面がアクセス意識である。このような情報機能は、外部か
ら観測が可能であるが、その写真を見たときに伴う意識的感覚は、それを体験した本人
にしかわからない。

ハードプロブレムが難しいのは、結局、機能を持たない現象的意識を直接研究すること
ができず、どのような観測も、意識を持っていると思われる他者の言語報告や、ボタン
押しなどの、物理世界に何らかの結果として現れてくる意識の機能的な側面、すなわち
アクセス意識しか観察することができないからである。この意味において、あらゆる意
識の研究はアクセス意識の研究とならざるを得ないように思える。

もともとは、現象的意識とアクセス意識という用語は、意識の持つふたつの側面を表す
用語であった。だから、これらの用語は意識の二種類の形態があることを前提としてい
たわけではない 。このように意識という現象自体は一つで、それが機能という物理世界
と共通の基盤を持った性質と、その意識の体験者のみによって感じられる現象的側面が
るということである。このような考え方を「性質二元論」という。

しかし、現象的意識とアクセス意識という概念は、認知神経科学の文脈でアナロジーと
して使われるようになり、もともとのニュアンスから変化してきている。つまい、アク
セスという言葉が報告可能であることと結びつき、現象的という言葉が報告できないこ
とと結びついてきている。この変化の背景には実験心理学の影響があり、我々が他者に
報告できる意識の内容が、実際の現象的体験の豊穣さに比べて、非常に限定されたもの
ではないかという考えが広がってきたからである。

その代表作である、ジョージ・スパーリングの行った実験では、図4­1のように、1
2個のアルファベットの文字を一瞬だけ見せて、実験の参加者が、何個の文字を報告で
きるかを調べた。まず、これらの文字のうち、いくつ見えているかと主観的に答えても
らうと、ほとんどの人は全ての文字が見えていると報告する。これは、我々が日常的に

  65  
感じている主観的感覚とも一致する。今、目を開けて、自分の目の前の世界を見ている
と、よほど自分自身の経験に懐疑的な人でなければ、この目の前の全てが私たちの意識
に上っているように感じているはずだ。

【図4­1】スパーリングの実験。このような3X4の文字列を一瞬(50ミリ秒)のみ
呈示し、その後に鳴らされた音の高さに応じて、被験者はどの行の文字を答えるべきか
指示される。すべての文字について答えることはできないが、特定の行のみの部分的な
報告を求められれば正しく答えることができる。

しかし、スパーリングの実験では、被験者が実際にいくつの文字を報告することができ
るか具体的に報告してもらうと、たいていの人は4文字ぐらいを正確に答えるのが限界

である。すべての文字がはっきり見えているように感じるのに、実際には一部の数文字
しか答えることができないのである。

そこでスパーリングは、実際に我々の脳に全ての文字の情報が入ってきているのかを調
べるために次のような実験を行った。一度に全ての12文字を報告させるのではなく、
刺激を見せた後に、低・中・高の音を鳴らして、低い音がなった時は、下段の4文字を、
中くらいの高さの音が鳴った時は、中段の4文字を、高い音が鳴った時は、上段の4文
字を報告させるという実験を行った。このように、報告させる文字数を減らしてあげた
ら、音に対応した段の文字たちを正確に報告することができた。ここで重要なのは、音
が鳴ったのは、文字がすべて画面から消えた後であることだ。一瞬の刺激呈示にもかか
わらず、文字の報告に十分な視覚処理は行われており、文字が画面から消えていても何
らかの視覚情報が残っていて、それに基づいて被験者たちには文字を報告することがで
きたようなのだ。

十二個すべての文字を、後の報告のためにワーキングメモリ(一時的な作業記憶)に取
り込み保持するには、時間がかかり容量にも限界がある。その制限によって、我々が意

  66  
識的に体験しているすべて意識的経験の内容を報告できないだけのようなのだ。一度に
報告する文字が4文字だけならば、ワーキングメモリの容量に収まるため、報告するこ
とができる。このスパーリングの実験を再考することで、ワーキングメモリに入る以前
の段階の視覚情報は、報告できないとしても意識に上ってはいるのではないかという考
え方が生まれてきた。

この考えを推し進めったのが、アムステルダム大学のヴィクター・ラメである。ラメの
考えは図4­2のようにまとめることができる。まず、第一段階では、刺激が強いか弱
いかで、意識に上るかどうかが決まる。スパーリングの実験での文字は、すべて意識に
上っていると解釈される。その中で、意識に上った刺激の一部のみが、注意を受けるこ
とでワーキングメモリに移行し維持されることで、後に意識の内容として報告すること
ができる。一方、注意が向けられずにワーキングメモリに入らなかった情報は、最初の
ステージで意識に上っているにも関わらず、報告はできないということになる。

【図4­2】ヴィクター・ラメの意識と注意の関係モデル 。

しかし、もちろんこのような考え方には批判もある。報告することのできない意識とい
うものは、本当に意識に上っていたといえるのだろうか 。むしろ、音を与えたことです
べての文字を報告できるのは、音の手がかりを与えた後で初めて文字が意識に上ったの
であって、それなしでは刺激は意識に上っていなかったかもしれない可能性も十分にあ
るではないか。そう考えると、音の手がかりなしで報告できなかった刺激は、意識には
上っていなかったとも考えられる。ここには、報告できない主観的体験が存在するのか
しないのかを決定する難しさが潜んでいる。

一方で、ワーキングメモリなどの記憶の問題で、意識的体験があったけれど、その内容
を報告できないことは確かにあるだろう。スパーリングの実験や、その後に追試された
様々な実験は、非常に一瞬だけの刺激呈示をした後で、何らかの手がかりを出して、部

  67  
分的な報告をさせるという実験デザインをとっている。そのような一瞬のできごとでの、
意識的体験がどのようなものであるかは、主観的にもよくわからないことが多いが、同
じような状況はもっとゆっくりとした時間スケールでも起きている。たとえば、1秒に
一文字ずつだして、12文字を見たとしよう。それぞれの文字を見ている瞬間はもちろ
んはっきりとした意識的体験があるだろう。その都度、画面に呈示されている文字を答
えるように促されれば、いとも簡単に答えることができるだろう。しかし、全部見終わ
ったあとで、全ての文字について答えるように言われても、すべての文字を思い出すの
はなかなか難しい。この状況では、明らかに記憶容量が理由で、自分の意識体験を報告
できないという現象が起きている。過去に見ていた文字が思い出せないからといって、
その文字を一つ一つ見ていた時に意識がなかったというのは非常に不自然なことに思え
る。さらにいえば、我々は毎日たくさんの意識的体験をしているが、ほとんどのことを
自発的に誰かに報告しているわけではないし、ほとんどのことを忘れてしまう。だから、

そこまで報告できるかどうかに注目するのは、実験者の都合であって、意識の内容を報
告することで始めて意識の存在を認めるのもおかしい。

このようなスパーリングの実験に触発された研究が盛んになるにつれて、我々が意識的
体験を報告するまでに、脳の中に概念的に二種類の意識と機能が存在すると考えられる

ようになってきた。つまり、我々が視覚刺激などの入力を経て、それに反応するまでの
脳内の情報処理の過程には、現象的意識の内容自体を表現している部分と、意識の内容
を報告するために必要な注意やワーキングメモリという認知機能の2つの段階があると
区別して考えるのである。このような脳内の機能の分類は、もともと哲学用語であった
現象的意識とアクセス意識とのアナロジーで語られるが、これはあくまでアナロジーで
しかない。現象的意識とアクセス意識が意識のもつふたつの側面であるという本来の考
え方からは乖離してしまっている。しかし、いつのまにかアクセス意識の「アクセス」
は、現象的意識として存在している意識に上った情報に、高次の脳機能が注意を用いて
「アクセス」することで、ワーキングメモリに保存されるという過程を暗に示す標語と
して使われるようになっている。

意識の研究者自身あまり自覚的であるとはいえないが、ここには大きな言葉のすり替え
がある。本来、アクセス意識と現象的意識というのは、同じ意識のふたつの側面であっ
たはずだ。現象的な意識があるときには、そこに何らかの機能的側面があって、我々は
その機能的・情報的側面のみについて語ることができるという位置づけであった。しか
し、今では意識にはふたつのステージがあって、現象的意識が生じたうえで、アクセス
という機能があるというイメージを抱いて、ふたつは分離可能であるかのような扱いを
していることもある。だから、認知神経科学者がアクセスといった場合には、トップダ

  68  
ウンの注意などによって、感覚情報を報告可能なワーキングメモリなどに移動させるこ
とを指していることがある。

しかし、 このような認知機能としてのアクセスは、意識として考えるべきではないだろ
う。報告できるかどうかというのは、それは意識に上った対象を扱うための、追加の機
能であって、言語報告の機能や、ワーキングメモリの機能がなくとも、意識は生じてい
る。この結論は、先ほどのスパーリングの実験から得られた洞察と同じだが、私はその
後にアクセス意識を生むための、追加の処理があって、現象的意識とアクセス意識がべ
つべつに存在しているとは考えない。むしろ、その現象的意識が生じている状態自体が、
なんらかの情報を処理したという外部からでも観測可能な客観的な情報的な意味をもち、
それこそがアクセス意識と呼ばれるべきものだろうと思う。

つまり、意識の実体は一つで、それは情報の存在の仕方のことである。それを、外部か
ら情報の特徴として捉える限りはアクセス意識であって、その時、その情報を経験して
いる主体にとっては、なんらかの現象的意識として感じているはずである。そういう意
味では、現象的意識とアクセス意識を別の実体として考え、アクセス意識を経験の報告
に必要な認知機能と混同してしまうのは、概念カテゴリーの分類の過ちであろう。

グローバル・ワークスペース理論

「グローバル・ワークスペース」という意識の理論が、バーナード・バースや、この理
論をニューラルネットワークのモデルとして拡張したスタン・デヘーンなどによって提
唱されている。グローバル・ワークスペースは、意識を説明する理論というよりは、意
識の機能に重点をおいた定性的な記述で「意識の劇場」のメタファーで説明される。グ
ローバル・ワークスペース理論において、我々の意識体験というのは、無意識の観客が
次々にいろいろなことが起こる演劇を見ているようなもので、注意というスポットライ
トの照らした役者のセリフや動きのみが意識に上っているというのだ。そして、スポッ
トライトのあたった出来事は、意識に上らない数々の同時並行で動いている認知機能へ
とブロードキャストをされる。つまり、グローバル・ワークスペース理論では、意識に
刺激が上るというのは、その情報を数々の脳内の認知機能モジュールへと一斉に受け渡
すことだと提唱している。このグローバル・ワークスペースで、刺激が意識に上るとい
う状態は、ワーキングメモリの機能と非常に似た概念である。

このグローバル・ワークスペース理論の枠組みで、さきほどのスパーリングの実験を解
釈してみるとどうなるだろうか。まず、注意の向いていない、ワーキングメモリに入ら

  69  
ない情報というのは、スポットライトがあたっていないから、意識に上ったとは解釈さ
れない。これは意識に上る前段階の表象にすぎないとなる。

では、たくさんの文字が同時に呈示されたときの、すべての文字がみえているという感
触はどのように説明するのだろうか。それは、実は個々の文字は意識に上っていないが、
より抽象的な「文字がならんでいる」という状況は、報告できる形で意識に上っている。
我々が文字の一つ一つが何であるかと認識せずとも、なんとなく文字が並んでいるとい
う情報もまた、脳内の表現としては存在するはずである。そのような表現が報告できる
形で注意を受け、ワーキングメモリに維持されていれば、すべての文字が見えていると
いう感覚を説明するには十分である。そのような、脳内の情報表現を「パーシャル・ア
ウェアネス」という。

この理論では、現象的意識とアクセス意識はあくまでも一致するという立場をとる。つ
まり、アクセスできる状態になることで、初めて現象的意識があると考えるのである。
アクセス意識と現象的意識が同一であるという考えは、私自身非常に同調できるところ
がある。

刺激が意識に上ることで、その情報が脳全体にとって利用可能となっていることを思わ

せる脳内の現象は知られている。刺激が主観的に見えるか見えないかの閾値レベルで呈
示されるような状況では、意識に上った場合は、頭頂葉や前頭葉を含む広大なネットワ
ークが活動するが、意識に上らなかった場合には、視覚野などの初期の活動を引き起こ
していても、主観的には報告されない。つまり、刺激が存在しなかったのと同じように
感じられてしまう。頭頂葉と前頭葉での広域ネットワークの活動は、あたかもグローバ
ル・ワークスペース理論におけるブロードキャストが行われているようにも見える。

刺激が意識に上らない原因

数々の実験状況において、視覚刺激が画面に呈示され網膜に映っているにも関わらず、
意識に到達しないような状況をつくる心理物理学的方法が多数開発されている。結果的

に刺激を報告できないという意味では 「主観的盲目」を引き起こしている。しかし、そ
れぞれの手法に応じて、主観的に刺激が報告できない状況は違うようだ。刺激が主観的
に見えなかった時に、報告に必要なための注意が向けられなかったから報告ができない
だけなのか、刺激の神経信号が意識に辿り着く前に消えてしまったという可能性もある。

このように、主観的盲目の概念的に異なる原因を区別することはできるだろうか。先ほ
どのラメの考える意識の二段階モデルのようなものを考えてみても、刺激を報告できな

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い原因は、最初の意識に上るかどうかの時点での感覚信号の抑制でも生じるだろうし、
次の注意が向いていなくて報告できないということはありうる。

その二段階モデルでは、どの段階を意識と呼ぶかは難しい問題であることは先程も述べ
たが、その解釈にかかわらず、脳の中での感覚情報処理をそのような2つのステージに
機能として分けて考えることは妥当である。刺激が意識に上り、それが報告されるため
に、まず刺激に対して知覚レベルでの処理が行われ、その後、報告に必要なワーキング
メモリや言語報告の部位へ情報が伝搬し、「刺激が意識に上った」という報告がなされ
る。

この一連の過程において、知覚レベルでの処理が阻害されることで刺激が見えなかった
場合を「知覚的盲目」と呼び、知覚レベルでの処理は順調に遂行されたものの、注意が
向いていなかったため刺激が報告できないことを「不注意による盲目」と呼ぶ。刺激が
見えない原因が、このように少なくともふたつの段階で生じるということは、直感的に
は理解できる。

例えば、第3章でも紹介した 「消去現象(visual extinction)」と呼ばれる頭頂葉の損傷


患者で見られる症状では、知覚的な処理が行われているのに、その知覚の内容に注意を

向けることができずに報告できない状況がある。消去現象を示す患者は、 視野の右側で
も左側でも写真のような視覚刺激が単独で呈示された場合は、その刺激は意識に上り、
顔の写真だったか、家の写真だったかなどの区別をすることができる。しかし、左右両
方に刺激を同時に見せると、左側(損傷部位の対側)の刺激に患者は気づかずに、右側
(同側)の刺激だけが呈示されたと報告する。左側に単独で刺激を見せた場合には、顔
の写真だか家の写真だか区別がつくので、基本的な視覚処理の能力自体が損なわれてい
るわけではない。しかし、同時にふたつの刺激が呈示されると左側の刺激のみが報告で
きなくなってしまう。fMRI を用いた研究によると、消去現象が起きているときでも、
報告できない刺激に対し、顔などのカテゴリー特異的な処理を示す脳活動が認められる
ことので、感覚情報としての信号処理は行われ、脳内に表象されているのである。それ

にもかかわらず、その脳内の情報へアクセスする能力が頭頂葉の損傷により損なわれて
しまうのである(Rees et al., 2000)。消去を示す患者では、知覚的処理が十分になされ
ていても、その後の知覚内容へのアクセスが起きないことで意識の内容が報告ができな
くなっているようである。このように、 意識の内容を報告できない原因が知覚の問題な
のか、アクセスが失敗しているためなのか脳のイメージング技術を使えば、ある程度推
測はできる。

  71  
では、主観的盲目が生じている状況において、その原因が知覚の問題なのか、アクセス
の問題なのかの違いは、行動データには全く反映されないのだろうか。どちらの場合で
も、最終的に被験者にとって、刺激が見えなかったという報告が結果として出てくるこ
とには変わりなく、入力刺激を処理する途中の段階での違いは、被験者の報告には反映
されない可能性がある。この両者を区別する方法を、我々は前章で紹介したメタ認知の
計測法を発展させることで開発してきた(Kanai, Walsh & Tseng, 2010)。

前章でのタイプ2信号検出理論の説明では、確信度の高さと、客観的な課題の正解・不
正解に対応関係があるかどうかを調べるというものであった(【表3­2】参照)。し
かし、ここでの正解のトライアルというのは、実のところはタイプ1のヒットと、タイ
プ1のコレクトリジェクションを合わせたものである。不正解のトライアルは、ミスと
フォルスアラームを合わせたものである。しかし、このように性質の異なるトライアル
の種類を混合せずに、被験者がタイプ1課題で「刺激は呈示されていなかった」と答え
たトライアルのみについて、タイプ2課題の成績を計算することも可能である(【表4

­1】)。 タイプ1課題で「刺激は呈示されていなかった」と答えたトライアルという
のは、コレクトリジェクションとミスのトライアルのことだが、これらに限定してタイ
プ2の解析することことで、被験者が見えないと答えたときに、内観的な違いがあるか
どうかを探ることができる。

確信度

高い 低い

試行 タイプ1コレク ヒット ミス
トリジェクショ

タイプ1ミス フォルスアラーム コレクトリジェクション

【表4­1】:主観的に見えない刺激の弁別能力を測るための試行の分類

このような分析方法を使うことで、マスキングなどの実験パラダイムにより刺激が見え
な方ときの見え方が、刺激が本当に呈示されなかったときと内観的に区別がついている
かどうかが判別できるのである。知覚的盲目が生じて、すでに感覚信号が主観的にアク

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セス出来ない時点で消えてしまって入れば、主観的には刺激が本当に呈示されなかった
場合と区別することができない。そのような場合は、このメタ認知の感度がゼロになる
と予測される。一方、不注意による盲目で、刺激が意識に上ったと報告できない時には、
注意などの高次の機能が要因となっているため、自分が刺激を見逃したことにたいする
メタ認知ができる 。つまり、メタ認知の感度はゼロより高くなるはずである。このよう
な方法を用いて確信度を分析することで、心理実験で行われる主観的盲目を引き起こす
操作が、知覚処理のレベルでおきているのか、注意などのレベルで起きているのかを識
別できるのである。

この分析方法を実際の実験データに当てはめて検証してみると、確かにこれまで開発さ
れてきた主観的意識の内容を消してしまう実験法を知覚的盲目と不注意による盲目に分
類できることがわかってきた。具体的には、図4­3に示した6種類の代表的な実験パ
ラダイムで、ターゲットとなる視覚刺激を50%の確率で呈示し、被験者は刺激が呈示
されていたかどうかを答え、その自分の回答についての確信度を評価してもらった。そ

れぞれの心理物理的操作では、客観的な弁別課題の難しさを操作することが可能で、完
全にチャンスレベルにならずとも、十分に成績が落ちた条件でのメタ認知能力の比較を
行った。

‒‒

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【図4­3】:心理物理実験で用いられる視覚アウェアネスを抑制する実験パラダイム

o (A)低コントラスト:刺激のコントラストを低くすることで、閾値を下回ると、刺激の検知
が偶然よりは高い確率で起きていても、主観的に見えなくなる。
o (B)マスキング:閾値以上に十分にコントラストの高い刺激でも、直後にコントラストの高
いパターン刺激(マスク)を提示することで、刺激が意識に上らなくなる。
o (C)フラッシュ抑制:左右の眼に、異なる画像を呈示した場合、両方の混合した画像が意識

に上るのではなく、どちらか一方のみが意識に上る。これを両眼視野闘争というが、その両
眼視野闘争中の刺激で、どちらが意識に上るかをコントロールする方法としてフラッシュ抑
制という手法が使われている。フラッシュ抑制というのは、最初に片方の眼にだけ刺激をみ
せていて、数秒後に新しい別の刺激を反対の眼に提示すると、非常に高い確率で、新しく呈
示された刺激のみが意識に上り、最初に刺激が呈示されていた眼からの入力は意識に上らな
くなる。この現象を利用して、抑制を受けている眼に弱い刺激を呈示しても意識に上りにく

い。
o (D)二重課題:複数の課題を同時にこなすことで、注意が分散されると、各課題での成績が
落ちることが頻繁に生じる。そのような実験操作を二重課題という。ここでは、スクリーン
中央に一瞬だけ呈示される「L」の文字の中に、「T」の文字が含まれているかどうかを答え
るという非常に注意を要する課題を行いながら、周辺視野にターゲットの刺激が呈示された

かどうかを答えなければならない。中央の文字課題に必要とされる「注意の量」は、文字の
数を変えることで調節され、たくさんの文字が一度に呈示されるほど、注意を要するため、
周辺視野のターゲットを検知することは難しくなる。
o (E)注意の瞬き:一文字あたり約60ミリ秒という非常に速いペースで、文字が呈示され、
被験者は赤色で示された一つ目のターゲットの文字を同定し、その文字同定の課題に加えて、

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この高速で呈示された文字列の中に「X」が含まれていたかも答えなければならない。X が最
初のターゲット(T1 と呼ぶ)の直後数百ミリ秒の間に呈示されると、T1 の処理に注意が使
われているために、次のターゲット「X」(T2 と呼ぶ)を見逃してしまう。この時間的な注
意のボトルネックによって引き起こされる一時的な主観的盲目を「注意の瞬き(attentional
blink)」という。T1 と T2 との時間的感覚によって、T2 の検知の確率は変動し、十分に時
間間隔があれば、T2 の検知能力は再び高まる。
o (F)空間的不確かさ:刺激が呈示される場所が予め決まっている場合と、不確かな場合では、
刺激検知能力が異なる。ここでは、各トライアルの初めに、ターゲットが呈示されるとした
ら、どこに呈示されるかを示す手がかりが与えられている条件と、与えられていない条件を
比較した。手がかりがある場合には、そこに注意を向けることができるために、刺激検出の
感度が高いが、注意をどこにでるかわからない刺激について、全体的に向けている場合は、
感度が低くなり、相対的に刺激が報告できない確率が上がる。空間的注意のフォーカスの度
合いを操作した実験であると考えて良い。

̶̶̶

被験者が刺激の不在を報告した時の確信度を調べると、「低コントラスト」、「マスキ
ング」、「フラッシュ抑制」の三つの視覚的アウェアネスを著しく阻害する実験パラダ

イムではメタ認知能力がゼロになっていた。これらの操作によって刺激が見えないとき
には、主観的には刺激が呈示されていないときと区別がつかなくなっていたのである。
つまりこれらの心理物理的操作では、知覚のレベルでの初期の処理段階で阻害が起きて
いる可能性が高い。

一方、「二重課題」、「注意の瞬き」、「空間的不確かさ」といった注意を操作するこ
とで視覚的アウェアネスを阻害すると考えられている実験パラダイムではメタ認知がで
きていた。被験者は自分が見えないと感じて刺激が見えなかったと報告したときでも、

もしかしたら 刺激は出ていたかもしれないと、確信度を下げていたのである。つまり、
被験者は刺激が実験操作によって見えなくなった時に、その原因に内観的に気づいてい
るのである。

ここで上げたような視覚的アウェアネスを妨害する実験手法は、意識研究の実験では、
目的に応じて様々な使われ方をしているが、刺激が主観的に見えないことには、複数の
質的にことなる原因があるという認識は重要である。NCC を今後研究するにあたって
も、脳のどの段階の処理が影響を受けて、視覚アウェアネスの発生が阻害しているのか
を考えなければならない。

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現象的意識とアクセス意識の同一性

意識の内容を報告するために、知覚情報の処理と、その情報へのアクセスというふたつ
のステージが必要であるいう考えには、ある程度の妥当性がある。しかし、この2つの
過程を、現象的意識とアクセス意識という2つの意識のステージがあると考えるのは誤
りである。注意やワーキングメモリなどの「アクセス」という認知機能は、「アクセス
意識」とは概念的に異なるものだからだ。本来、現象的意識とアクセス意識というもの
は、どちらも同じ「意識的体験 」という現象を指しており、その2つの側面を表現して
いると考えている。

アクセス意識とは本来「意識の情報的な機能的な側面」と定義されるものであった。つ
まり、現象的意識が生じているときの脳活動が持つ、外部から観測可能な情報的機能の
ことである。すなわち、脳の中にアクセス意識と現象的意識という別々の意識に対応す
る部位があるのではなく、意識的経験が成立する情報処理が行われた時に、その情報を
意識の主体である内側から観測すると、クオリアとして現象的経験が生じ、外側からは、
その主体にとってその体験の意味というものが情報として分析可能であるということだ。

このように意識的経験は情報としての機能的側面と現象的に経験される質的側面がある

が、自然現象としては同一であると考えるのが妥当である。これが性質二元論という立
場である。

性質二元論の立場をとっても、なぜ特定の情報が特定のクオリアに対応するのかという
問題は残り、これがハードプロブレムなのだが、客観的に観測可能な情報(アクセス意
識)と、主観的体験の質(現象的意識)の対応関係を研究することで、主観的なクオリ
アの質と情報の関係を明らかにすることが可能となる。そのためにも、現代、認知科学
の分野で錯綜しているアクセスという用語を、アクセス意識としっかり区別し、現象的
意識とアクセス意識は、もともと一つの意識という現象を内側と外側という2つの視点
からみた性質のことであるとしっかり認識しておく必要がある。

現象的意識とアクセス意識の対応関係を研究する例を挙げる。例えば、生活環境におけ
る聴覚情報を効率良くコード化した脳のもつ情報構造と、視覚情報をコード化した脳の
情報構造は、それぞれ環境における音や光のもつ統計的特徴を反映している。音という
のは、音程(ピッチ)が一次元で連続的に変化するが、一方画像はより二次元的な空間
的な相関関係を持っている。 つまり、どちら感覚様相(モダリティー)も外部世界の中
に固有の情報構造があり、脳は生まれてからの経験や、遺伝子に指定された配線構造を

  76  
元に、環境の複雑な情報の関係性を学習し、その過去の経験に基づいた主観的な感覚情
報を解釈するための枠組みを作り上げる。クオリアが、独特の質的感覚を伴うのは、こ
の膨大な過去の蓄積による構造化された情報の文脈で、現在の経験の意味が解釈される
からだろう。おそらく同じ環境で育った人は、似たような環境情報の構造化を行い、同
じ刺激に対する知覚体験は、まったく同一ではなくとも、非常に似たクオリアが経験さ
れているに違いない。さらに、まったく脳や感覚器の構造違うが宇宙人が地球にやって
きたとしても、その感覚入力刺激が宇宙人の脳で処理された時、それがどのような情報
構造のなかで処理されているかを分析することで、宇宙人が視覚的なクオリアを感じて
いるのか、聴覚的なクオリアを感じているのか、あるいは味覚的なクオリアを感じてい
るのか類推することは可能になる。つまり外部から観測可能な情報処理の機能的側面
(すなわちアクセス意識)から、主観的な経験にともなうクオリアが予想できるように
なるのである。

  77  
第5章:情報の統合と意識

現在、意識の研究者たちは、情報理論から意識の謎に迫ることに挑戦している。その中

で最も注目を集めている新しい理論は「意識の統合情報理論(integrated information
theory of consciousness)」と呼ばれ、アメリカ、ウィスコンシン大学マディソン校の
神経科学者ジュリオ・トノーニによって提唱され、今も発展しつつある。

この理論を正確に説明するには、情報のエントロピーとは何かなどの情報理論の知識が

必要となるので、 一般読者を対象とした本書の形式では十分に説明し切れない。しかし、
核となるアイデアは伝えることができるはずなので、ここでは理論の概略を、数式を使
わずに説明したいと思う。ここでの説明を読んで、より専門的に学びたいと感じた読者
は、巻末に参考文献のリストを設けておいたので、そちらを参考にして欲しい。

統合情報理論は意識の研究を根本的に変えた。この理論がでてくるまでは、意識の研究
の専門家というのは世の中に存在していなかった。実際のところ、意識の研究に関して
は、脳科学者も素人も大差はなかった。脳の知識という観点からは、脳の研究者は実験
のノウハウや、それぞれの研究分野の専門知識をもっているかもしれない。しかし、殊、
意識の研究となると、素人でも脳研究の専門家でも、意識についてもっているが理論的
なツールには大差がなかったのである。まったく意識の研究に関わっていない一般の人
でも、意識というのはこういうものだというイメージを持っている。脳科学者であって
も、根本的な概念のレベルで、それ以上の高度な概念を用いて、意識を理解しているわ
けではない。せいぜい、意識と注意の関係などの概念を、特定の実験系と組み合わせて、
整理して考えることができている程度である。

物理学のような、歴史の古い学問の状況を想像してみて欲しい。理論物理の専門家が持

つことのできる世界観というのは、専門家ではない人が素人の言葉で簡単には理解しが
たい抽象度の高い内容になっていることが想像できるはずだ。もちろん、そのような知
識は全ての人に開かれているはずだから、誰もが理解できるはずであるが、理解するた
めにはそれなりの努力が必要である。数学などのたくさんの前提知識も身につけなけれ
ばならないだろう。同様に、医学を例に取ってみても、医者が身につけなければならな
い知識や経験の量は膨大で、そのような訓練を受けていない専門外の人が口を挟めるほ
ど甘くはない。

一方、意識の科学はというと、まったく前提知識を持たない人でも、誰もが何らかの意
見をもって、独自のイメージだけであれこれ語れてしまう状態である。それだけ、意識
が誰にとっても身近な現象であることもあるだろう。さらに、現在の意識研究の内容を

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理解することは、他の洗練された専門分野と比べて、さほど難しくはない。研究を行う
ために技術的なところでの専門知識は必要がだが、そこから出てくる結論は至って誰に
でもわかりやすいものだ。もちろん、脳の知識全くなしに、個別の脳研究の論文を読ん
で理解するのは難しいかもしれないが、根本的に理解するのが難しい概念などはない。

例えば、本書で紹介してきた現代の意識科学が対象としている研究内容も、本質的に理
解が難しかった箇所などないのではないだろうか。もちろん、多少ややこしかったりす
る場面はあるかもしれないが、その程度のことである。

しかし、トノー二の理論以降、意識研究は単に話を組み合わせた博物学的な研究の時代
から抜け出しつつある。だから、情報理論などの前提知識を、脳と意識の知見と照らし
あわせて吟味していかなければ、十分に理解できる内容ではなくなってきている。

意識の国際学会 ASSC(Association for Scientific Studies of Consciousness)に参加


すると、様々な分野の人が、意識について熱く議論している。もちろん、そのときにも
意識の情報統合理論が話題に上ることも頻繁にあるし、批判的な意見を述べる人もいる。

しかし、意識の研究の専門家が集まっている学会であるにも関わらず、この理論をしっ
かり理解しているひとは非常に少ない印象である。特に哲学や心理学の人たちは、なん
となくイメージや表層的な言葉だけをとらえて、情報理論的な扱いを正確に理解してい

ない。情報理論のような抽象的だが盤石な素養が必要となるため、数学や統計のトレー
ニングを受けていない人にはついてこられない理論になっているからだ。しかし、逆に
しっかり理解できれば、統合情報理論の奥深さに気づき、意識がどういうものであるか
深い洞察が得られる。

情報統合理論入門

では、ここから本題の情報統合理論の説明に入る。この理論は、現象的意識の持つ二つ
の自明とも思えるような特性をもとに構築されている。ひとつは、「現象的意識は情報
を持っている」ということ、もうひとつは、「現象的意識は統合されている」というこ
と。この理論では、意識というものは統合された情報のことで、意識的体験の質、すな

わちクオリアは、統合された要素たちの生成する情報の関係性で決まる。いきなりこの
ような説明では、わかり難いのでさらに詳しく説明する。

まず、情報とは何か。我々は普段意識しないで「情報」という言葉を使っている。「世
の中には情報が溢れている」とか、「情報が足りなくて判断できない」などと言ったり

  79  
する。情報理論という応用数学の分野では、確率の概念を用いて「情報」は定義されて
いる。情報理論における情報とは、数ある可能性の中から特定の事象が起きた時に、 物
事の状態についての不確かさが減少することである。つまり、何らかの事象について、
その状態をより正確に特定できるような出来事は、情報を持っているとみなされるので
ある。

たとえば、コインを投げて次に表がでるか裏がでるかという状況を考えてみよう。投げ
る前は、答えが分かっていないのだから、次に表がでるか裏がでるかの情報はゼロであ
る。しかし、一度コインを投げて答えが出てしまえば、今まで五分五分の確率でしか予
想できていなかったのが、一つに決まるので、情報が得られたことになる。あるいは、
コインを投げる前に、誰かがそのコインは8割の確率で表がでるコインだということを
教えてくれれば、次に表がでるか裏がでるかについて、より予測ができるようになるた
め、そこには情報があったといえる。要するに、物事の状態が不確かなときに、その可
能性を狭めることができる事象が情報である。

また、「情報量」という概念がある。情報理論において、情報量が多いというのは、そ

れだけ多種多様な可能性を排除しているということである。コインの表がでたというこ
とは、裏がでるという可能性を排除している。意識的体験に情報があるというのも、ま
さにこの意味においてである。目の前に、海辺の景色が見えていたとする。その景色が
見えているということは、そのほかの数限りなくある可能な経験の可能性を排除してい
る。目の前にある景色が山の景色である可能性も、真っ暗で何もみえていない可能性も、
電車が田んぼの中を走っている景色である可能性も、ものすごく多種多様な可能性が、
海辺の景色の経験によって同時に排除されている。海の微妙な色の違いや、夕焼けの赤
さなど、これらの微妙な違いの一つ一つが、そのときに有りうるありとあらゆる可能な
世界すべてを排除し、一意の経験となっている。だから、我々が一瞬一瞬に体験してい
る現象的経験の内容は、膨大な情報量をもっているといえる。我々の現象的意識が情報
を持っているというのは、まさにこのような意味である。

次に「意識は統合されている」とはどういうことか。先ほどの、海辺の景色が見えてい
る体験では、海の綺麗な青や、夕日の赤や、砂浜を歩く人たちの影など、すべての経験
が一度に一つの体験として、我々は経験している。個別の、海の一部の色や、空の色な
どを、バラバラに経験しているわけではない。これは現象学的な意識的体験に関する観
察であるが、このような意識の統合を、情報理論を用いて形式化するにはどうしたらよ
いか。情報が統合されているといるとは一体どういう状況だろうか。その要点を理解す

  80  
るために、統合情報理論の説明で頻繁に引き合いに出されるフォトダイオードの思考実
験を紹介する。

フォトダイオードとは、光が当たると電気信号を出力する光検出センサーである。この
フォトダイオードは光が当たったか当たらなかったか、つまり0か1かの情報だけを伝
えることができる(これは1ビットの情報量である)。もちろん、情報量という意味で
は、人間の区別している可能な視覚入力の種類の数には到底及ばない。このような1ビ
ットのフォトダイオードを100万個並べれば 、人間の網膜と同じぐらいの情報を伝達
することができる。デジタルカメラなどは基本的にそのような構造になっている。しか
し、だからといってただ単にフォトダイオードをたくさん並べたとしても、デジタルカ
メラが人間と同じようなクオリアを経験しているとは考えにくい。ただ単に情報量が多
いだけでは意識は生じないだろう。

デジタルカメラの素子は、それぞれが完全に独立であるために、それらを並列して並べ
ただけでは、質的に異なる特徴が生じてこない。デジタルカメラの素子たちを、半分に
分離しても、並び方を総入れ替えしても、システムが表現している情報の室には何も変

化が起きないのである。一方、我々の視覚体験には、上下左右などの空間的な素子間の
対応関係のようなものも含まれているし、空間的に情報を統合して初めて生じる、線分
や、複雑な形などの情報も含まれている。つまり、我々の意識的体験に含まれるパーツ
をバラバラにしようとすると、多くの意味のある情報が失われてしまうのである。

システムを分解することで失われてしまう情報があるということは、そこには統合され
た情報があったということだ。このような観点から、情報の統合をより厳密に定式化す
る方法が提案されている。そこで重要となるのは、システムを分離する「パーティショ
ン」という概念である。図6­1のような単純なシステムで、分離の仕方によって、そ
のシステムが自分自身の直前の状態についてもっていた情報の失われる量に違いがある。

強く相互作用しあっている要素間の結合を分離してしまうと、パーティション前には高
かった情報量が、パーティション後の個々の部分がもつ情報量の総和よりも小さくなっ
てしまう。すなわち、情報量が失われてしまう。そのようにシステムとして一体のもの

として見なすことで、個々の要素以上の情報量を生むことが、情報を統合したというの
である。

このように統合された情報を定量化することで、脳のような複雑なシステムにおいて、
情報の統合が密に行われているコア(核)を同定することができる。それをコンプレッ
クス(複合体)と呼ぶ。本書では統合情報量であるΦを厳密に定義しないまま、理論の

  81  
要旨のみを説明しているので、コンプレックスの厳密な定義をここで説明はしない。し
かし、直感的な理解としては次のような説明となる。

システムのなかで情報の統合が弱い繋がりを次々にそぎ落としていく。そうすると、こ
れ以上細かく分けてしまうと統合の度合い(統合情報量)が一気に崩れてしまうような
核となる部分がでてくる。それがそのシステムにおけるコンプレックスである。コンプ
レックは、ひとつのシステムの中に複数存在しうるが、その中でもっとも統合情報量の
多いコンプレックスをメインコンプレックスという。情報統合理論によると、このよう
なコンプレックスの中で統合された情報が意識であると考える。

意識を情報の統合として捉えると、 なぜ小脳のようなモジュール構造の脳部位は意識へ
貢献しないのかの説明を与えることができる。小脳には、大脳よりも多くの神経細胞が
あり、より多くの可能な状態を持つことができるので、情報量自体は大きいだろう。一
方で、大脳と比べて小脳では、各部位が独立したユニットとして機能しているため、情
報の統合の度合いは低い。そのために小脳には、大きなコンプレックスは形成されずに、
統合情報量の高い意識は存在しないことになる。実際、小脳を損傷しても意識が失われ
てしまうわけではないので、意識に関わっていないと考えられている。

情報のふたつの側面

意識の統合に関して、情報には「内在的視点」と「外在的視点」というふたつの側面が
あることを紹介したい。脳科学がこれまで扱ってきた神経活動の持つ情報は外在的視点
に基づいたものある。外在的視点というのは、外部に観測者がいて、神経活動と、外界
の事象との対応関係を特徴付けていることだ。たとえば、赤い刺激が網膜と特定の場所
に映しだされたとき、視覚野のニューロンが発火活動を示すような対応関係を考えてみ
よう。この外在的な視点をもつ実験者にとっては、このニューロンが赤の情報をコード
しているとわかる。しかし、その赤に反応しているニューロンだけを取り出してみても、
別に赤いニューロンがあるわけではないし、どうしてその神経活動自体が赤の赤らしさ
というクオリアに関与しているのかは一向に理解できない。

神経科学におけるほぼすべての実験は、実験者が外在的な視点で、脳の活動と環境との
対応関係を統計的に記述しているにすぎない。視覚入力として網膜に写っている映像と、
脳全体の活動の対応関係を理解すれば、外在的観測者は、脳の活動から、その人がどの
ような映像を体験しているのか予測したり再構築したりすることさえ可能となりつつあ

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る。このようなアプローチでは、「意識と相関した脳活動」を見つけるのには役に立つ
かもしれないが、なぜその脳活動が特有のクオリアを伴うかの説明できないのである。

一方、統合情報理論は、「システムにとっての内在的な視点からみた情報」という非常
に新しい見方を提案している。脳というシステムにとって、直接観測できる情報は、そ
のシステム自体の状態である。網膜で光の情報を神経活動に変換する入力や、筋肉を収
縮させる神経繊維のような出力を除いて、ニューロンが直接インタラクションしている
対象は他のニューロンである。つまり、脳には脳自体しか見えていない。内在的な情報
とは、脳というシステムが自分自身の一瞬前の状態についてどれだけ情報をもっている
かである。先ほど説明した「情報の統合」は、脳自身が今の状態に遷移してきた、その
直前の原因となる状態についてどれだけ情報を持っているかを定量的に計算したもので
ある。また、情報統合理論では、その内在的情報がどれほど、統合されたものであるか
が、その瞬間での意識の量と対応している。つまり、統合情報量とは、脳のようなシス
テムが自分自身について持っている情報である。

ここでは、わかりやすさのために、システム自身の直前の状態についての統合された情

報をどれだけもっているかという事例を用いて説明したが、最新の理論では過去と未来
の両方の状態を考慮した理論へと発展している。興味のある読者はトノーニの2012
年の論文を参照していただきたい。

汎心論

統合情報理論では、意識というのは単にあるかないかと二分できるものではなく、統合
情報量が増えるにつれて、段階的に増えてくるものである。先ほどのフォトダイオード
の例でも、1ビットの微小な意識があると考える。それは、人間が感じることのできる
情報量に比べたらものすごく小さなものであるが、意識が段階的だというのは、十分に
考えられることだろう。例えば、眠りかかっている時や、お酒に酔っているときなど、
意識は若干低くなっている。人間以外の単純な生物にも、より原始的な意識が宿ってい
る可能性は十分に考えられる。イヌやネコにも何らかの意識はあるだろうし、ハエなど
にだって、何らかの意識があるかもしれない。もしくは、神経系を持たなくても、情報
を統合する物理的基板さえあれば意識はそこに発生しているのではないだろうか。アメ
ーバのような単細胞生物でも、細胞内で情報の統合がなされていれば、何らかの小さな
意識が宿っているのかもしれない。

  83  
意識という現象は、この宇宙で起きている事実であり、何らかの条件がそろえば、意識
は地球外でも発生しうるだろう。また、脳をもつ生物でなくても、あらゆる自然現象は
意識を持ちうるのである。このような万物に意識が宿るという考え方を「汎心論」とい
う。ただし、動物の脳のように膨大な数の神経細胞が、複雑な関係性をもって情報を統
合しているシステムは自然界で他にはなかなか見つからないだろう。

ところで、このような汎心論を持ち出すと、非常に懐疑的になるひとも多い。どの生物
に意識があると思うかというと、人によって考え方に個人差があるようだ。割と日本人
は、「一寸の虫にも五分の魂」という考えが根付いているのか、単純な生物にも意識が
あると考える人が多いのではないだろうか。人間以外の動物でも、哺乳類ならかなり意
識がありそうに思える。いっぽう、クリスチャンは人間とその他の動物の間で、魂があ
るかないかの一線を引いているから、動物には意識(というか魂)はないと考えるはず
だ。意識の研究者でも、ハエなどには意識はないと感じている人も多い。この主観的な
線の引き方の違いが何に由来するのかはわからないが、興味深い問題である。この問題
は一見単純に見えて、根本にある問題は、ハードプロブレムと同質である。

公理から始める理論

統合情報理論のこれまでの他の意識研究のアプローチと異なるところは、現象学的観察
にもとづいて公理系を構築するところから始めているところだ。公理的方法にもとづい
て演繹的に意識の理論を構築するというアプローチは他の意識の理論にはない。

公理から理論を構築するということはどういうことか、ニュートン力学を例にとって説
明しよう。高校の物理で習ったニュートン力学は、三つの公理を元に理論が構築されて
いる。ニュートン力学において公理となっている法則は「慣性の法則」、「運動方程
式」、「作用反作用の法則」の三つである。その三つから、振り子の運動や、惑星の軌
道などの複雑な現象を説明しているのである。一方、それらの公理を破るような現象が
観測されれば公理は変更を迫られるだろうが、理論を構築するにおいては、公理は正し
いものとして扱われる。

統合情報理論も「意識は情報を持っている」ということと「意識は統合されている」と
いう自明とも思えるような公理を出発点として、数学的な形式化により意識の情報統合
理論を構築している。この点では、ニュートン力学などの公理系から始める理論化の手
続きを踏襲している。

最新のトノーニの理論では、公理系はさらに拡張され、次のようになっている。

  84  
第0公理「存在性(Existence)」:意識は存在する。

第1公理「構造性(Compositionality)」:意識には構造がある。

第2公理「情報性(Information)」:意識は特定の経験内容をもつことで、他の
多数の可能性を排除している。

第3公理「統合性(Integration)」:意識の統合されている。別々の独立したパー
ツに分解することはできない。

第4公理「排他性(Exclusion)」:意識は特定の時空間的スケールで生じている。

意識が存在するというのは、全ての前提として必要となる前提であるから第0公理とさ
れている。第二公理の「情報性」と第三公理の「統合性」は、すでに紹介したとおりで
ある。

第一公理の「構造性」とはどういうことだろうか。意識的体験には、視覚的体験や、聴
覚的体験といった、感覚モダリティがあり、視覚体験の中には、物体の色や形といった
視覚体験の種類が存在しする。また、一度に見えている物体の中にも、前後関係などの
空間的な関係性や、顔のような物体には、目や鼻といった構成要素も意識的知覚の対象
になり、階層構造が存在する。そのように、意識的体験には構造的な関係性が存在して
いることを意識の構造性と表現している。

そして第四公理の「排他性」だが、これは意識的体験には空間的には特定の粒度があり、
時間的にも流れる速度が決まっているということである。すなわち、意識には特定の時
空間的スケールに限定されているということだ。この公理がもっとも、議論の余地があ
る公理である。

このように、公理を所与のものと認めるところから始めて、理論を導き出すというアプ
ローチは非常にエレガントだ。ニュートン力学のようなものも、そもそも公理と呼ばれ
ている現象の根拠は証明せずに認めてしまうことで、そこから導き出される結論を数理
化していくというアプローチが非常に強力である。

しかし、これらの公理を認めた上でも、これらを情報理論的な形式化をするために、情

報理論的に解釈しなおすということが行われている 。それを明文化したものを「仮定
(postulates)」と呼ぶ。第0公理から第四公理までのそれぞれについて、情報理論的な
形式化を可能とする「仮定」が提案されており、それに基づいて現在の統合情報理論は
形式化されている。そして、統合情報量を示す「Φ(ファイ)」という指標を導き出す。

  85  
また、この統合された情報の持つ幾何的構造(つまり形)がクオリアの質と同一である
と提案している。

統合情報理論の未来

現在提案されているΦという指標が意識と同一であるかどうかは、論争の的となってい
る。筆者は、同一性を認めるよりは、現時点ではΦはひとつの意識のメジャー(測度)
として捉えるべきだと考えている。理由は、現在公理と呼ばれている自明とも思えるよ
うな現象学的観察から、統合情報量の定義をするまでの過程は必ずしも一つに決まらな
いのではないかと思うからだ。

公理を情報理論的に形式化する「仮定」をおいているが、そこには他の解釈の仕方も有
りうるだろう。現代の統合情報理論は、情報の統合や、クオリア空間における情報の関
係性など、意識のキーコンセプトをうまくとらえるモデルを提案している。そこから得
られる洞察も非常に豊かだ。しかし、統合情報理論自体が発展中なこと自体が示してい

るように、統合された情報量という概念を情報理論の枠組みで定義する方法は一意には
決まらないのではないかと思う。むしろ、この理論からでてくる予測を検証することで、
現在提唱されているΦが意識の状態を的確に捉えているかどうかを常に検証しなければ
ならない。

統合情報量と意識の同一性を現時点で認めるのをためらう、もう一つの理由は、理論の
反証可能性のない理論は科学的ではないと思うからだ。反証可能性とは、科学哲学者の
カール・ポパーが提唱した概念で、実験や観測で間違っている可能性を証明できる可能
性がない理論は、単に信じるかどうかだけの問題になってしまう。この観点からも、現
時点では、同一性を認めるのは難しい。

「Φ(ファイ)が意識と同一である」という仮説は、原理的には反証可能性がある。ま
ったく同一のクオリアを予測するような脳の状態であるにもかかわらず、異なるクオリ
アを被験者が報告した場合、あるいは逆に、別のクオリアを予測する脳の状態にもかか

わらず同じクオリアを被験者が報告した場合。そのどちらの条件が見つかっても、この
理論は改定を求められる。その点では原理的には反証可能性は保証されている。

しかし、現実的には、実験によって情報統合理論が正しいのかどうかの判断をする上で
困難な問題がいくつかある。ひとつは、システムにおける統合情報量を計算するには、
無数にあるパーティションの組み合わせを考慮して、それぞれについて統合情報量を評
価するといった計算をしなければならないが、システムの中のユニットが増えるに連れ

  86  
て、組み合わせが爆発的に増えるために、ものすごく単純なモデルを除いては、厳密に
統合情報量を計算するのは現時点では不可能である。また、実験系において、システム
がどのような状態遷移をするのかを全て知り尽くすには、人工的に全てのニューロンの
初期状態をランダムにして、次の瞬間にどのような活動パターンに遷移するのかといっ
た情報が必要になる。大量のニューロンにあらゆる組み合わせの刺激入力を行って、そ
の反応を見るということは現代の技術では非常に難しいため現実的ではない。だから、
何らかの観測されたデータ等から、近似的に状態遷移のパターンを推測するしか手立て
がない。このような現実的な制約のために、統合情報理論を厳密に実験によってテスト
することは非常に難しい。

一方で、大量のニューロンから同時に活動記録をとったり、選択的に特定のニューロン
を刺激したりする技術は日々進化している。それと平行して、実際の脳での統合情報量
を近似的に計算する方法も開発されてくるだろう。そうすることで、次第に統合情報理
論もより実験によって支持をうけたり、改変を迫られたりする日が来るだろう。

技術的な困難さもさることながら、クオリアの質感が統合された情報のもつ関係性と同

一のものだと厳密に証明することは難しい。しかし、間接的であっても、統合情報理論
を支持するデータが増えてくるに連れて、この同一性は社会的に受け入れられてくるの
ではないかと思う。科学における理論というものは厳密な実験による証明をつねに要求
するものと考えがちであるが、常にその時代の人が、世界のあり方がどのようなもので
あると考えているかを反映した社会的なものでもある。

自然選択と突然変異を繰り返して現代の生命が存在しているという進化論でさえも、厳
密に実証するというのは難しい。しかし、現代、私たちはダーウィンの進化論は妥当で
あったと考えている。もちろん、細部に関しては、最近では記憶が遺伝するような現象
も発見されているので、獲得形質が遺伝するような例も見つかってきている。しかし、
大枠に置いてダーウィンの自然選択説は、科学者のコミュニティーでは生命の進化とい
う自然現象を説明する理論として受け入れられている。同様のことが、統合情報理論に
ついても徐々に起きるだろう。

ハードプロブレムの終焉

いったん「意識イコール統合情報である」という同一性を認めてしまうと実は大変なこ
とがおきる。ハードプロブレムが、なし崩し的に解けたことになってしまうのである。

  87  
例えば、哲学的ゾンビの問題を考えてみよう。人間とまったく同じように、情報を処理
し行動を選択し、まったく外見的にも機能的にも普通の人間と変わらないにも関わらず、
現象的な意識をもたないゾンビというものを、哲学者は思考実験で考えだした。そのよ
うな存在を仮定しても、まったく現在我々の知っている物理法則と矛盾しないのに、な
ぜ我々人間には意識があるのだろうか、現象的意識とは単なる付随現象なのだろうかと
いう疑問を呈していたのが哲学的ゾンビである。しかし、一旦、意識と統合情報の同一
性を認めてしまうと、そのような哲学的ゾンビの仮定が成り立たないことがわかる。と
いうのは、ゾンビが意識のある人間と同じような機能をもち、脳のなかで情報の統合を
行っているのであれば、そのゾンビには必然的に意識があることになるからである。つ
まり、統合情報理論ではある種の情報処理に意識が伴うのは必然的ということになり、
なぜ意識が宿るのかという説明は、統合情報理論の公理から導き出せるようになるので
ある。

また逆転クオリアの思考実験も成立しなくなる。逆転クオリアというのも、情報の処理

と対応するクオリアが恣意的であることを強調する思考実験だが、自分がりんごを見た
ときに感じている赤色のクオリアが、別の人が同じりんごをみているときに感じる色の
クオリアと同じではないかもしれないという状況を考える。たとえば、私の赤クオリア

が、あなたの緑クオリアに対応していたとしても、それを確認する術はないし、物理世
界にまったく不都合は生じないようだというのである。しかし、このような状況も統合
情報理論の主張する同一性を受け入れると想定不可能となる。統合情報理論において、
クオリアとは、統合された情報をもつシステムの持つ情報関係性の幾何学的特徴そのも
のである。しかも、それは完全に内在的で個人的なものではなく、外部から観測される
アクセス意識を記述できれば特定できるものである。つまり、情報の統合のされ方を物
理現象の観測によって同定できれば、そのときの主観的体験も一意に決まるのである。
つまり、赤を見ているときに生じる赤のクオリアというのは、脳のもつ解剖的な結合関
係や、ニューロンの活動性などから、情報の統合のされ方の一つのパターンとして対応
するものが決まるのである。また逆に、脳ではないシステムで人工的に同等の情報統合
システムを作れば、赤のクオリアを人工的に合成することもできるはずである。

統合情報理論の同一性を認めてしまうと、このように、脳の客観的で物理的な記述と、
意識の主観的なクオリアの間の「説明のギャップ」を乗り越えることができる。統合情
報理論はそれだけ強力な理論であるし、同一性を認めるかどうかの一歩は、ハードプロ
ブレムをなくしてしまうかどうかの信念の一歩なのである。言い換えれば、この理論に
関して同一性の部分を厳密に証明することが、ハードプロブレムなのかもしれない。そ
れまでには、クオリアと脳での情報処理や情報の統合のされ方の研究でやるべきことは

  88  
たくさんある。まだ理論自体もこれからさらに発展していくはずだ。そのような過程を
経て、やがて人類はこの同一性を厳密な証明抜きで認めるような時代がくるだろう。そ
うなると、現代人がなんとなく進化論を生命の存在の説明として認めているように、未
来では、意識の問題はひとまず解決し統合情報が意識だと当然のように考えるようにな
っているかもしれない。

  89  
第6章:クオリア研究法

ここまで、動物でのニューロンからのスパイクの記録や、人間でのニューロイメージン
グなどの方法で、どのように実験的に意識の研究がなされ、それと平行してどのような
理論的枠組が提案されてきたかについてみてきた。そのような科学的研究を積み重ねる
ことで、意識の状態や内容が、脳の神経活動とどのように対応しているかについて、あ

る程度具体的な知見が蓄積してきているということが理解していただけたのではないか
と思う。また、数々提案されている意識の理論についても、統合情報理論のような発展
しつつある理論への期待も高まっている。

しかし、「現象的意識が脳の活動から、なぜ生まれてくるのか?」というハードプロブ
レムを解決するには、まだまだ遠いと感じるのる読者も多いのではないだろうか。ハー
ドプロブレムに迫るために、鍵となる概念が「クオリア」である。ここでは、クオリア
を科学的な方法で研究するには、現存する手法や今後登場する技術を、どのような問題
に焦点を当てて研究したら良いだろうか。また、「赤の赤らしさ」といった説明を元に、
クオリアという言葉を漠然と使っているが、神経科学の観点から、クオリアをどのよう
に定義することが妥当だろうか。このような問題をこの最終章では扱う。本章で扱う内
容は、共同研究者の土谷尚嗣と長年に渡る議論の末にたどり着いた、現時点での最もク
オリアに迫れるだろうと考えている方法論である。ここで紹介するアイデアの多くは、
2011年に意識の国際学会である ASSC が京都大学で行われた時に、土谷と共に行っ
た3時間のレクチャーが元になっている。一部は既に論文として出版しているが(Kanai

& Tsuchiya, 2012)、我々がこれまで考えてきたクオリア攻略法のより詳細な議論は現


在論文として発表する準備をしている。

クオリアとは何か?

クオリアというと、「赤の赤らしさ」とかいう説明で、情報の主観的側面を指す用語な
のだと、なんとなくわかったような気になってしまう。しかし、クオリアとは何を指し
ているのか、考え始めるとよくわからない。どこからどこまでがクオリアなのか。「∼
な感じ」と表現できるような独特の質感が、知覚の対象に備わっていればクオリアなの
だろうか。

  90  
まず、クオリアについて定義を始める前に、特定の知覚がクオリアかどうか、具体例を
挙げて考えてみてほしい。視覚に関していえば、色や形などの特徴をクオリアというの
は、割と納得がいくのではないだろうか。「赤の赤らしさ」というようにクオリアが説
明されている以上、青や緑の主観的体験も当然クオリアと呼ばれるべきだろうし、三角
や長細い楕円形などの形を見た時に生じる感覚もクオリアと呼んで違和感はない。

しかし、より複雑な知覚の対象について、我々が漠然とクオリアと呼んでいるものがあ
るのかどうかと考え始めると、判断が難しい例がいくつもでてくる。例えば、唐草模様
や水玉模様といったパターンも、それぞれ別のクオリアなのだろうか。また、顔はクオ
リアだろうか。知っている人の顔をみると、その人らしい顔だとか感じることができる
から、顔もクオリアなのかもしれない。顔というのは、目や鼻や口といったパーツから
構成されているが、そのパーツを見た時の印象というのも、独特のクオリアがあるとい
えるような気もする。では、クオリアを組み合わせたら、新しいクオリアが毎回できる

のか、それともただ単に部分のクオリアが集まっただけに過ぎないのか。数字の〈 〉

と〈 〉は別の数字としてすぐに判別できるから、別々のクオリアかも知れないが、そ

れを90度回転させて、〈 〉と〈 〉にしたら、見た時の印象があまり違わないか


ら、同じクオリアなのだろうか。それとも意識にとって区別がつくものは全て別のクオ
リアと考えるべきなのだろうか。

ある特定の知覚がクオリアかどうかという問題は、これまでほとんど議論されて来なか

ったが、具体的に考えてみるとクオリアという言葉がかなり漠然と使われているという
ことがわかる。哲学者ダニエル・デネットは、クオリアという言葉の意味が非常に曖昧
であるため、クオリアという用語自体に意味がないのではないかと批判している。

クオリアという言葉が、意識の主観的側面という意味で最初に使われたのは、1929
年の C.I.ルイスによるとされている。もちろん、それ以前にも同等の概念について哲学
者や物理学者などが議論しているのだが、「クオリア」という言葉が現代での意味で使
われたのはその時が最初らしい。また、クオリアという語自体もそれ以前から存在して
いたが、「どのような」という意味のラテン語のテクストにおいての話なので、192
9年以前に現れるクオリアという語は、意識や主観的体験とは無関係である。しかし、
C.I.ルイスが1929年に現代の意味でのクオリアという用語を使ったあと、クオリアは
すぐに一般的な用語とならなかった。哲学者フランク・ジャクソンの1982年の論文

『随伴現象的なクオリア(Epiphenomenal Qualia)』を発表して初めて、広く用いら
れるようになった。このことから、クオリアが、実にここ30年程度の歴史しかない、
非常に新しい言葉であることがわかる。

  91  
また、科学的な意識の研究が始まった1990年頃は、クリックとコッホは、「クオリ
アの問題は非常に難しいので、当面は置いておくのが得策だろう」と述べている。また、
科学者の間でも、クオリアの問題を実証科学で手を付けることは不可能ではないかと感
じている人が多く、ほとんど手が付けられていないのが現状である。ほんの数十年前で
さえ「意識」という言葉が神経科学者の間ではタブーとされていたのである。ましてや
「クオリア」なんてとても口にできない言葉であった。筆者の恩師である下條信輔氏が
昔、クオリアのことを「シモネタ」と表現したのを聞いて、うまいことを言うなと思っ
たのを思い出す。それくらい、科学者にとって「クオリア」というのは科学の対象にな
らないというイメージが付きまといながらも、強烈な魅力を持つ言葉なのである。

しかし、筆者はそろそろクオリアの実証科学による研究を始めることができると感じて
いる。それは、これまで紹介してきたような、意識の研究が成熟してきているという事
情もあるが、もうひとつは、科学者や哲学者がクオリア恐怖症とならなければ、意外に
もクオリアに迫る切り口はあるからと思うからである。

クオリアを神経科学として研究するには、研究を進める上での暫定的な定義を作ってお

く必要がある。本書の冒頭で述べたが、定義というのは、現時点での我々の物事の捉え
方を示しているに過ぎず、ここでもクオリアを厳密に定義することは目的とはしていな
い。ここで目指すクオリアの定義というのは、あくまでも作業仮説であって暫定的なも
のである。

クオリア研究を進めるための定義づくりに向けて、ふたつの点に注意したい。一つは、
定義が「操作的」に扱えるということである。「操作的」というのは、Operational と
いう英語を強引に日本語に訳した用語だが、何らかの客観的な手続きによって、ある知
覚的体験がクオリアであるかどうかの判定が可能でなければならない。先ほどの、どの
ような知覚をクオリアと呼ぶべきかの問題を提起した時に、顔や模様などの組み合わせ
の中で、何がクオリアで、何がクオリアでないかを判別するのは簡単なことではないと
説明した。それは、クオリアに操作的な定義が与えられていないから生じる問題である。

そして、もう一つの重要な点は、新しい定義を作った時に、その内容がこれまでのクオ
リアという言葉の使われ方を正確に捉えている必要がある。どのような主観的体験をク
オリアと呼ぶのかの判断が難しいとしても、我々はクオリアがどういうものであるかの
なんとなくのイメージをもっているはずである。

クオリアの特徴

  92  
クオリアの定義を考えていく上で、クオリアにはどのような特徴があるのかを考えるこ
とが有効である。クオリアの特徴を捉えることで、操作的な定義を与えるヒントが得ら
れるからである。これまで、哲学者や心理学者によって、クオリアの特徴が幾つか挙げ
られている。そのような特徴を元に、知覚体験がクオリアかどうかを判定する基準を作
ることはできないだろうか。

まず 、哲学の伝統では次のような4つ特徴がクオリアにはあるとされている。

1.言語によって表現できない(ineffable)

2.内在的である(intrinsic)

3.個人的な体験である(private)

4.直接的に感じられる(immediate)

これらは確かにその通りなのだが、クオリアのこれらの特徴は、科学によってクオリア
研究を進めるには、非常に扱いにくい特徴ばかりである。むしろ、これらはクオリアを
特徴づけることを難しくしているクオリアの特徴である。そのため、神経科学者が利用
でき操作的な定義を提案するためには、あまり役に立たない。それどころか、クオリア
が言葉によって表現し、他者と共有することができないことを強調しすぎている。特に、

クオリアを科学として扱うためには、何らかの機能的な性質を捉えなければならない。
哲学者のダニエル・デネットは、このようなクオリアの特徴が哲学の歴史に於いては提
案されているが、本当にこのような特徴さえあるのかは断言できず、むしろクオリアに
は特徴などないのではないかと主張している。

ここに上げたような特徴がクオリアにはあるのかないのか、デネットがクオリアには特
徴などないと主張するため使った思考実験が妥当なものなのかについては反論も多々あ
る。しかし、ここで挙げたような哲学者の見つけてきたクオリアの性質は、そもそもク
オリアには外在的な特徴と呼べるような機能的な性質はないといっているようなものだ。
言葉によって表現できず、他者とこのコミュニケーションが不可能だというクオリアの
特徴は、むしろクオリアの問題を難しくしている性質である。

ちなみに、最後のクオリアの「直接性」というのは意識の高次理論の文脈では面白い特
徴であり、意識を情報機能という側面から考える際に考察に値する。少なくともこの特

徴は、他の哲学的なクオリアの特徴と比べて、取り付く縞がある類の特徴である。直接
性とはどういうことかというと、クオリアは我々の意識で直接感じられるものであって、
その経験がもたらす情報を我々がもっているという知識のようなものではない。赤を見

  93  
ているときのその現象的体験は、赤いものがそこにあるということを知識ではなく、直
接的に我々の意識に届いている経験されることである。そのような特徴を直接性と呼ん
でいる。意識の高次理論では、そのような意識的経験が生じるためには、その情報を自
分が持っているということをメタ表現することが意識に重要だと提案しているが、その
ようなメタ表現があって始めてクオリアが生まれるのか、あるいは、それとは無関係に
クオリアが生まれるのだろうかとう観点から、興味深い問題である。しかし、ここでは
本題から逸れてしまうので深入りしない。

話をクオリアの特徴に戻すが、クオリアを研究するための作業仮説としての定義を見つ
けるためには、少しでも機能的な側面を見つけ出すことが建設的である。その目的では、
V.S.ラマチャンドランが提案した、「クオリアの四大法則」は、クオリアを機能的な側
面から特徴付けている点で建設的である。ラマチャンドランの「クオリアの四大法則」
は次の四つである。

1.撤回することができないし、疑うこともできない(irrevocable and
indubitable)

2.柔軟に自由な目的や行動に利用できる(flexible)

3.短期記憶に残るような表象を作り出す(short-term memory)

4.注意と密接な関係があり、第二項の自由な目的に利用するために注意が必要
となる(attention)

まず一つ目の、クオリアの撤回不可能性というのは、例えば赤いリンゴを見ている時に、
赤いクオリアが生じるのは自動的で、自分の意志でやっぱり緑のクオリアでりんごを見
ようなどと、自分の意志でクオリアの質を入れ替えたり、クオリアをなかったことにし
たりすることはできないという意味である。これは、ミュラー・ライアーの錯視(【図
6­1】)などを見ているときに、頭のなかで両方の棒の長さが同じだと知識を持って
いても、その知識をもって棒の長さのクオリアを書き換えることができない状況などを
思い浮かべるとわかりやすい。この法則から、クオリアは、我々が知識や思考の内容に

応じて、神経活動の表現している情報を書き換えることのできないレベルにあると推測
することができる。また、クオリアの撤回不可能性は、クオリアが我々の意志とは別に
自動的に生成されてくることも意味している。目をあけて景色を見ている時に、その景
色のクオリアを体験しようと選択してクオリアが作られるのではなく、クオリアは自動
的に主体の意志とは別に脳内で計算された結果作られるもののようである。このような

  94  
特徴は、クオリアと対応する脳活動や神経回路網の特徴を見つけ出す時に、有効な機能
的特徴であるといえる。

【図6­1】:ミュラー・ライアー錯視。上下の真ん中の線は同じ長さだが、上野線

の方が主観的には長く見えるというだまし絵。長さが同じだという知識があっても、見
え方を同じに直すことはできない。

ふたつ目の、クオリアが感じられると、その主観的体験をもとに、オープンエンドに自
由な目的にその情報を利用することができるということである。特に、ここでは、反射

行動との比較を考えるとわかりやすい。膝をポンと打って、脚が勝手に動いたりする反
射では、その行動を引き起こす刺激が意識に届かなくても、行動が自動的に引き起こさ
れる。つまり、反射行動を引き起こすだけの感覚情報処理は、意識を必要としない。ク

オリアが生じて意識に上ることで、複雑な将来への行動計画を立てたり、昔見た美しい
景色のことを思い出したり、同じクオリアは様々な使い方をすることができる。これは、
かつてクリックとコッホが V1 仮説のなかで、NCC の一部であるニューロン群は行動計
画の機能を持つ前頭葉への投射を持つべきだろうという議論と同じ論旨である。ただし、
これは知覚体験が意識に上った情報の持つ特徴であって、クオリアに限定された固有の
性質かというと疑問が残る。例えば、知識のようなものも将来への計画などに自由に使
うことができるが、それは感覚経験に伴うクオリアとはまた別のもののように思える。

みっつ目の短期記憶に残るという事だが、確かに反射のような状況では短期記憶に残る

必要はない。しかし、前章で見た、現象的意識とアクセス意識という観点からすると、
短期記憶に残らなかった知覚的表象が、現象的意識として存在していたかどうかは、議

  95  
論の続くところである。また、短期記憶に残らなくても、その時クオリアがあったとい
う立場をとると、この3つ目の法則は異論の余地が残るため、本当にクオリアの特徴と
かんがえるべきかどうかは疑わしい。

最後に注意の必要性であるが、現代では意識的知覚と注意の機能は切り離して考えるこ
とができるような実験パラダイムが準備されている。そして、後に紹介するように注意
が最小限しかないと思われる条件でも、自動的に知覚体験が生じるような例は知られて
いる。また、クオリアが生じるためにクリティカルな神経活動を同定するためには、ク
オリアによって感じたことを他者に伝えるための機能をクオリアから分離する必要があ
る。そのためこの注意が必要だというのは、クオリアの必要条件としては、現代の知見
を元に見直すと間違っている。

ラマチャンドランがこのクオリアの四大法則を提案した当時は、注意や短期記憶といっ
た意識の機能的側面と、クオリア自体の現象的意識の関係についての心理物理やニュー
ロイメージングによる研究が十分に行われていなかった。そのため、特に短期記憶と注
意という、意識の内容を報告するための認知的アクセス機能を、意識の現象的側面から

分離するという考えは、現代ほどは発達していなかった。 そのため、この三番目と四番
目の法則は、クオリア自体の特徴と言うよりは、刺激が意識に上った時に何が起きるか
というクオリアが発生した後の現象を表していているにすぎず、クオリア自体を特徴づ
ける固有の性質とは言い難い。

さらに、これらの条件に加えて「主体(セルフ)」の存在が、クオリアが存在するため
には必要だと、ラマチャンドランは主張している。クオリアというのは、何らかの情報
を内側の世界から見ている主体にとってのみ感じられるものだ。おそらく、この主体
(セルフ)が成立することと、意識のレベルが十分に上がっていることには深い関係が
ある。筆者の予想では、主体(セルフ)が成立している状態というのは、意識の情報統
合理論で見てきたような、情報が統合された意識の塊(コンプレックスとよぶ)が生じ
る必要があるのだろう。現代の情報統合理論の提案している形式化が正しいかどうかは、

わからないし、理論自体発展中ではあるが、今後、何らかの情報理論に基づいた方法で、
主体(セルフ)が成立しているとはどういうことかが見えてくるだろう。

ラマチャンドランのクオリアの4大法則の2、3、4は、クオリア自体の固有な性質な
のか疑問は残るところだが、ラマチャンドランの提案が素晴らしいのは、クオリアを機
能的な側面から特徴づけることを試みたことである。そして、第一法則の、撤回不可能
性というのは、クオリアを特徴づける機能的な性質として優れている。撤回不可能性か
ら、クオリアの脳内での表象は、自発的なトップダウンの意図や注意の影響によって変

  96  
更できないレベルにあるということが推測できるからだ。 そのような特徴は、クオリア
と対応する脳の活動や神経回路を同定する上で非常に強力な武器となる。

実験心理学の巨匠リチャード・グレゴリーも撤回不可能性と関連したクオリアの特徴を
挙げている。グレゴリーによると、クオリアというのは「現在性を表すシンボル」であ
る。「黄色いグレープフルーツ」を見ている時に生じるクオリアは、そのグレープフル
ーツが今自分の目の前に確固として存在しているという、「いまここ性」を表現してい
る。このクオリアの機能によって、昔の記憶とも、自分の想像とも 区別することができ
る。これはまた、ラマチャンドランの提案したクオリアの撤回不可能性とも近い関係に
ある。どちらも、自分の目の前にある現実として感じるのであって、クオリアが自分の
想像ではない確固たる存在を表しているということだ。このようなクオリアの特徴も、
クオリアの機能的な側面として、クオリアの実験を考える取掛かりとして利用すること
ができる。

このようにクオリアの現在性を議論すると、想像しているときに見えているものは、ク
オリアではないのかという疑問も湧いてくる。想像して見えているものも、やはりクオ

リアだと考えるべきだろう。ただし、「想像して見える赤」のクオリアは、「実際に見
えている赤」のクオリアに比べて、かなり印象が薄い。このように、クオリアには強度
があるというのも、特筆すべき特徴の一つだろう。

日常的な状況ではあまり感じることはないかもしれないが、心理物理実験で使うような、
閾値に近い一瞬だけ呈示された刺激に対するクオリアも、はっきり見えた時のクオリア
と比べて非常に薄い。見えている対象が薄いというのではなくて、想像しているものが
薄くぼんやりとしかクオリアが感じられないのと同じように、自分でも見えたかどうか
確信のもてない感覚というものがある。画面に呈示されているかもしれない刺激を必死
に見つけようとしているから、そこにないものを想像してしまったのか、本当にそこに
刺激があったのか区別がつかないのである。このような、確信度の低い状態ではクオリ
アの強度は弱い。

情報統合理論の枠組みでは、クオリアの強度は、ニューロンの表現している情報量と対

応しているのではないかと考えることができる。つまり情報量という観点からは、クオ
リアの強度は、「ありうる可能性」 についての不確かさをニューロン活動がどれだけ減
らしているかである。そう考えると、見えにくい刺激というのは、ニューロン群の活動
から可能な状態を絞り込むことができないため情報量が少ない。故に、クオリアの強度
も弱いと考えられる。また自分で想像したものは、自分の中から引き出せる情報量が、

  97  
抽象化されたものに限られているせいか、不完全で部分的であるために情報量が少ない。
そのために、クオリアが弱いと考えられる。

広義のクオリアと狭義のクオリア

クオリアという言葉の使い方は、広義のクオリアと狭義のクオリアの二種類に大きくわ
かれている。広義のクオリアは、ある一瞬に生じている、全ての主観的体験の全てをク
オリアという言葉で指す場合である。【図6­2】はエルンスト・マッハが左目だけを
開いていたときの主観的な視覚体験をスケッチしたものだが、このような視覚的体験の
すべてと、そのときに生じている全ての意識的体験の全体をもってクオリアとするとい
う定義である。一度に、見えているもの聞こえているもの、すべての現象的体験をクオ
リアというのである情報統合理論で採用しているクオリアの定義も、この広義のクオリ
アである。【図6­3】のダイヤモンド型の模式図は、ひとつのクワレ(クオリアの単
数形)の中に、視覚や聴覚、視覚の中の模様や色といった、内部構造がある様子を示し
ている。

【図6­2】エルンスト・マッハが自分の意識的経験を描いた自画像。

  98  
【図6­3】A:トノーニの広義クオリアにおけるクオリア内の構造性の概念図。B:広義
クオリアと狭義クオリアの比較。広義のクオリアの定義では、左視野に呈示された赤い
ディスクの視覚的体験は、右の視野に呈示された赤いディスクの視覚的体験とは、全体

として異なるために別のクオリアとみなされる。一方、狭義のクオリアの定義を採用す
れば、視野の異なる位置に呈示された刺激に対するクオリアを比較することが可能とな
る。

一方、狭義のクオリアとは、「赤の赤らしさ」などで、それ以上小さな要素に分解する
ことのできない現象的意識の要素のことを指している。筆者は、これまで土谷尚嗣氏と
共に、この狭義のクオリアの定義を採用したほうが、神経科学的なアプローチで実験を
するためには、良いのではないかと提案している。というのは、広義のクオリアでは、

視野の右側に呈示された赤いディスクと、左側に呈示された赤いディスクで、両者が同
じ赤の主観的体験を引き起こしていたとしても、総体として場所がちがうために、違う
クオリアとして扱うことになってしまう(【図6­3B】)。しかし、神経科学的に意味
のある問題としては、「なぜ非常に異なるニューロン群が発火しているにもかかわらず、
視野の右側の赤と左側の赤は同じ赤の体験を生み出すのか」という問題である。実際に、

  99  
右視野に呈示された視覚刺激は初期段階では左脳によって情報処理を受け、左視野の刺
激は右脳へと入る。それだけニューロン群の活動としては全く異なった反応が引き起こ
されているにもかかわらず、それらを同じ色であるとか形であると我々がクオリアとし
て比べることができるのは非常に重要な機能的特徴である。それを活かして、非常に異
なるニューロン活動から同じクオリアが立ち上がるときの共通性を調べることで、赤の
クオリアを引き起こす脳内活動の本質を探求するための実験が可能となる。しかし、広
義のクオリアでは、このような異なる空間的位置で生じたクオリアが同じかどうかとい
う問題を扱うことができない。狭義のクオリアの定義を採用する利点はまさに個々にあ
る。そして、この場合の意識体験の全体としての広義のクオリアは「現象的意識」と呼
んで区別すればよい。つまり、狭義のクオリアを採用することにより、我々の現象的意
識は、複数のこれ以上分割できないクオリアという意識経験単位に彩られたものである
という見方をするのである。

もちろん、クオリアの定義が狭義をとるべきか広義を取るべきかという問題は、単に言

葉の選択の問題にすぎない。しかし、このような部分ですら議論が行われずに漠然とク
オリアという言葉が使われてきた状況があるため、共通了解事項を確認しておくことが
必要なのである。

さらに、クオリアを意識的経験の分解することのできない、最小ユニットとして定義す
ることには、強力な意味がある。自然科学の歴史上、機能的なユニットを仮定すること
は頻繁に行われてきた。例えば、原子という概念は、古代ギリシャ時代に、デモクリト
スらが唱えた「原子論」という仮説である。原子論において、すべての物質は分割不可
能な物質の要素から構成されていると考えられた。現代では、原子よりも小さな素粒子
なども発見されているが、それでも、原子のような物質の最小のユニットを想定したこ
とが物理学の発展において重要な作業仮説であったことは間違えないだろう。また、生
物学における遺伝子もまた生物学における機能的単位で、機能をもったタンパク質をコ
ードした遺伝子を分解してしまうと、その遺伝子のもっている意味が失われてしまう。
狭義でのクオリアというのは、現象的意識における機能的単位であり、これ以上分解す
ることでクオリアとしての意味が失われてしまうようなものである。

以上の考察から、クオリアを次のように定義する。

「これ以上小さな経験の要素に分解することができない現象的意識の最小構成要素」

意識的経験の分解と統合

  100  
最初に、クオリアを定義するにあたって、機能という観点から、特定の意識的知覚が生
じた時に、それがクオリアかどうかを操作的に判別できるかどうかが必要性を述べた。
ここでのクオリアの定義では、経験が分解可能かどうかを元にクオリア判定をするのだ
が、現象的経験をより小さな経験に分解するとは、いったいどういうことかをしっかり
定めて置かなければならない。

意識的経験の分解を理解するためには、その逆の統合という過程を考えることが役に立
つ。脳の中で視覚入力のような感覚情報が統合されるには、次の三種類の可能性がある。

1.遺伝的に決まっていて、発達の過程で自動的にできあがる神経回路による情
報の結合

2.長期に渡る訓練や同じパターンの刺激を繰り返す受けることで発達する神経
回路による結合

3. 任意の特徴の組み合わせに対する、トップダウン注意による結合

脳の配線の基本的な回路はある程度、遺伝子によって決まっている。そして、生まれつ
きにほぼ決定されているような配線によっても、自動的に情報の統合が起きる。例えば、

外側膝状体では点状の受容野をもつニューロンが集まっているが、それらをフィードフ
ォワードで組み合わせて次のニューロンへ伝達するだけで、線分に対応するような受容
野を持つ V1 のニューロンを作ることができる。このような場合でも、点という個々の
要素が自動的に統合されて、線分というより複雑な要素を生み出している。

次の、訓練や経験などのトレーニングによって獲得される神経回路の例としては、文字
の認識などがある。文字を認識する視覚部位というのは、文字を読む教育を受けて、読
み書きの練習をすることによって獲得される。文字が読めるようになる前と後とで、視
覚の腹側経路に位置する領域が再構成をうけて、より文字に特化した反応を示すように
なることが知られている。また、自動車などの人工物の識別も、経験の蓄積によって特
化した神経回路が形成されると考えられる。

このような、1番目と2番目の情報の結合のメカニズムは、神経回路というハードウェ
アで実現されていて、そのために一度回路が形成されてしまえば、非常に迅速な処理が
自動で行われるようになる。

そして3つ目の情報の結合のメカニズムは、任意の組み合わせの入力に対して柔軟に対
応するための、ソフトウェア的なメカニズムである。いかに脳にたくさんのニューロン
があり、無数のシナプス結合があるといっても、世界に起こりうるすべての入力の組み

  101  
合わせに対して特別な神経回路を準備しておくことは不可能である。初めてみる外国語
の文字や、知っている物体の新しい組み合わせなどに出会ったときなど、その情報に対
して特化した回路が形成されていないような情報は、脳内のあちこちに色や形や模様な
ど、様々な側面についてバラバラに処理されている。それらの分散表現されている情報
にトップダウン注意をむけることで、統合された対象としての認識が可能となる。しか
し、これは脳のソフトウェア的な対処法で、トップダウンの注意を向けない限りは統合
が生じない。

このように第3のトップダウン注意による情報の結合においてのみ、要素の結合は不安
定であり、結合したことで生じた意識的経験は分解することができるのである。神経回
路のハードウェアで結合がなされた場合には、結合には注意は必要とされず、自動的生
じる。そのため、結合された情報を分解するというオプションは、経験の主体者には与
えられていないのである。

このような考察を元に、「これ以上小さな経験の要素に分解することができない現象的
意識の最小構成要素」というクオリアの定義に立ち戻って解釈し直すと、クオリアとい

うのは、「トップダウン注意なしで、神経回路のハードウェアによって自動的に生じる
情報処理の結果生じる感覚である」という結論に辿り着く。というのは、第三のトップ
ダウンの注意を必要とするような知覚体験は、より小さな要素へ分解可能となってしま
うからである。

クオリア実験法

このようにクオリアを捉えると、クオリアというのは意識を持った主体の意図に関わら
ず自動的に生じてくる知覚経験を指し、非常にボトムアップな処理結果を反映している
ことになる。この特徴は、先に紹介したラマチャンドランの撤回不能性やグレゴリーの
現在性といったクオリアの特徴とも合致する。

このような操作的な定義を元に、知覚の分解可能性をテストするには、その知覚がトッ

プダウン注意を必要としているかどうかを調べれば良い。トップダウン注意が知覚処理
に必要かどうかを調べるためには、「二重課題」という心理物理学的手法が使われてい
る。非常に注意を要する課題をしているときに、他の刺激を見せた時に、それに注意を
向けずとも自然と意識に上るかどうかを調べるのである。

一見、注意を全く向けないで画面に呈示されたものが何であるか報告するというのは非
常に難しい課題のように思えるかもしれない。しかし、これまで二重課題を用いた実験

  102  
が多数行われ、トップダウンの注意が向けられない状態でも、意識的に区別のできる刺
激が多数あることが示されている。また、非常に単純な刺激であっても注意がないと認
識できない刺激もある。これまで研究されてきた刺激について、トップダウン注意を必
要とする刺激とそうでない刺激とを【図6­4】に分類した。

upright

Top-down attention vs vs vs vs vs vs
not required

rotated rotated

Top-down attention vs vs vs vs vs
required

【図6­4】トップダウン注意を必要とする視覚刺激と、そうでない視覚刺激の比較。

単純な、「赤」と「緑」の刺激を区別するのは、二重課題中で注意が逸らされていても、
そうでなくても成績に違いがでてこない。このような単純な色の違いは、トップダウン

の注意なしでも自動的に情報の統合(バインディング)が生じている。つまり、 我々の
提案したクオリアの操作的定義では、このような単純な色の違いはクオリアの違いであ
ると判別される。「縦線」と「横線」の区別もまた、トップダウン注意を向けるかどう

かにかかわらずに同様に処理することができるので、線分の傾きもクオリアに分類され
る。しかし、左下の図のように、「左半分が緑で右半分が赤のディスク」と「左半分が
赤で右半分が緑のディスク」は、一見非常に単純な刺激だが、両者を区別することは、
トップダウン注意なしでは難しい。つまり、これらの刺激の特徴である、色の空間配置
というものは、トップダウンの注意なしでは正しくバインディングができず、自動的に
立ち上がってくる経験ではない。だから、これらの画像はクオリアの組み合わせとして
我々は体験していて、この固有の情報の組み合わせについてのクオリアはないと考える。

また、 まっすぐの「T」と「L」の文字を区別することは、注意を向けなくてもできる
のだが、文字が回転されている場合は、注意がなくてはできなくなってしまう。つまり、
このことは区別する画像の形だけで、注意の必要性が決まるのではなく、脳の中に特化
した神経回路が形成されているかどうかによって、注意が必要かどうか決まっているこ

  103  
とを示している。この文字がトップダウンの注意なしで同定されるのは、そのために必
要な情報のバインディングのための神経回路が 、トレーニングによって形成されて実現
されているのだろう。

さらに、風景写真の中に動物がいるかどうかという、コンピュータが画像処理によって
自動で答えを出すには難しいような課題でも、人間の脳は注意を必要とせずに、計算し
てしまう。これは、動物という視覚刺激の発見が、生存にとって非常に重要であったた
め脳内に動物を見つけるのに特化したような回路が遺伝的に備わっているからかもしれ
ない。そして、顔の男女の識別もトップダウンの注意なしでできてしまう。人間の脳は、
顔に非常に敏感にできていて、脳の中にいくつも顔に特別に反応する部位が見つかって
いる。顔のような複雑な情報であっても、脳の中に顔の情報処理に特化した部位と神経
回路があるために、瞬時に判断ができ、注意を必要としないのである。

これらの例からも、視覚刺激の処理にトップダウン注意が必要かどうかは、画像や図形
自体の複雑さよりも、脳の中にその刺激の特徴を処理するための神経回路が用意されて
いるかどうかで決まるということ予想される。このように神経回路の結合の仕方という

観点から、意識とクオリアに迫ろうという試みは、神経活動に重点を置いてきたこれま
での NCC の研究とは非常に異なる発想ではないだろうか。

またここでの考察から、脳の中に特化した神経回路が用意されていないような、任意の
刺激の組み合わせについて、固有のクオリアは生じておらず、クオリアの組み合わせと
して体験されていると考える。左右で緑と赤に塗り分けられたディスクのようなものは、
どちら側に赤と緑が配色されるかによって、固有の新たなクオリアを生成しているので
はなく、緑のクオリアと赤のクオリアが独立に経験されて、それに半分に割れた円形で
あるという形のクオリアが付け加わったようなものを我々は経験しているということだ。
つまり、この半分に割れたディスクは、それ自体のクオリアがあるのではなく、より小
さな要素に分解されている。

ただ注意していただきたいのは、全体が部分から構成されているような階層性のある知
覚が全てが、クオリアではないということではないことである。顔の例を取ると、顔は

より細かな眼や鼻や唇といったパーツから構成されているが、顔全体として男性か女性
かなどの印象をもつのは、それ自体パーツに還元できない独自のクオリアだろう。とい
うのは、二重課題の条件で、注意をそらされていても、顔から性別の区別をつけること
ができるからである。そして、おそらく、パーツである目や鼻などもそれ自体でクオリ
アだろう。実際に、二重課題で試したという実験は報告されていないが、クオリアの判

  104  
別を二重課題で行うという操作的定義を設けることで、「目はクオリアか?」などとい
う疑問にも一歩突っ込んだ研究が可能となるのである。

知覚の強制フュージョン

ここまで、二重課題によって注意をそらすことで、意識的知覚が損なわれるかどうかで
クオリアの判定をする方法を紹介してきた。その方法は、意識的体験を分解するという
ことを、特徴の結合という観点で解釈したものである。

また、クオリアは部分に分解することができないという操作的定義を設けることで、ク
オリアによって表現されている情報が、脳の中の神経活動のどのレベルでの表象と対応
しているかを調べることができる。我々がクオリアを感じているとき、それより小さな
経験に分解して経験することができないというのは、逆に言えば脳の中のあるレベルの
計算結果だけがクオリアとして意識に上って、それまでのパーツとなる部品が意識に上
らないというということだ。そのような状況は、心理物理学ではよく知られている。そ
のような状況として「知覚の強制フュージョン」という概念が重要である。

例えば、日本人は L と R の音が区別できないことで有名である。/la/と/ra/の音を聞い
た時に、どちらも同じクオリアを引き起こすのである。/la/と/ra/の音が物理的にどの
ように違うのかというと、第三フォルマントという音の構成要素が上がるか、下がるか
の違いである。第一フォルマントと第二フォルマントの間には違いはない。しかし、第
三フォルマントだけを抽出して日本人に聴かせると、それは発話に用いられる音とは感
じられなくなり、明らかに両者の違いは聞き取れるのである。聞き取れなくなるのは、
第一フォルマントと第二フォルマントと組み合わされたことで、その3つが組み合わさ
って音が発話による音だと感じられるようになった時のみである。もともと第三フォル
マントだけを聞いて弁別する能力があったにもかかわらず、自動的に発話の音としての
情報の結合が自動的かつ強制的に脳内で生じたことで、/la/と/ra/の音は弁別ができな
い同じクオリアへと統合されてしまうのである。そのため、自分の意志で/la/と/ra/を
分解して第三フォルマントだけを抽出したクオリアを作り出すということができない。
このように分解できない知覚体験は、我々の操作的定義からはクオリアと見なすことが
できる。

このような例は、もっと単純な知覚の例でも見つけることができる。平面がどれくらい
傾いているかを知覚する時、我々の視覚野は、複数の情報源を統合することで面の傾き
を推測している。例えば、面の傾きを推測するには、両眼視差の情報に基づく奥行きの

  105  
情報と、面のテクスチャ(模様)が遠くに行くほど細く見えるという特徴を、両方とも
独立に抽出し、それらの情報を統合することで、面の傾きの知覚が生じる。これを「手
がかりの統合(cue integration)」という。しかし、面の傾きとして知覚されてしまう
と、その傾きを推測するために使われた、両眼視差の情報や、テクスチャの情報といっ
た根拠となっている情報のどちらか一方のみを選んでアクセスして評価するということ
ができなくなってしまう。面の傾きという知覚処理の計算結果のみしか意識には上って
いないのである。これもまた「知覚の強制フュージョン」の例である。

また面白いことに、このような「知覚の強制フュージョン」は、発達の過程で獲得され
るもので、赤ちゃんや子供では、あまり起きていないようであることだ。先ほどの両眼
視差とテクスチャの情報の統合を例にとると、6歳の子供はまだ両者を分離して知覚す
ることができるようである(Nardini et al., 2010)。また、L と R の例でも、日本人の子
供でも、赤ちゃんの時はまだ両者の音の区別ができているが、日本語を母国語として学
び、音素のカテゴリーの表象が出来上がってくるにつれて、弁別能力が失われてくるよ

うである。このような発達心理学により明らかになった知見を考慮すると、クオリアと
いうのは経験を通して、より複雑に情報を統合するような神経回路の発達とともに作ら
れるものであるということがわかる。

もう少し、強制フュージョンのイメージを持ってもらうために、例を上げよう。図6­
5は「明るさの錯視」であるが、A で示されたマス目は黒で、B で示されたマス目は白
だと見えるだろう。このふたつのマス目の色のクオリアはぜんぜん違う。しかし、物理
的な明るさは、実は同じで、脳の中で円柱からの陰の影響が自動的に差し引かれている
から、主観的な明るさの違いが感じられるのである。このような錯視の面白いところは、
A と B の物理的な明るさが同じだということを知らされても、我々は一向に自分の感じ
ているクオリアを変えることができない。ここでも、マス目の明るさの知覚が、その周
りのコンテクストとの情報と、強制的フュージョンを起こすことで、それ以前の物理的
な明るさの情報へのアクセスができなくなっているのである。また、このような情報の
統合が自動的かつ強制的に起きてしまうことは、ラマチャンドランがクオリアの特徴と
して上げた、クオリアの撤回不可能性と対応する。

明るさの知覚だけではなく、色の知覚も同様にコンテクストの影響を強く受けて、最終
的なクオリアが決定されている。我々の環境の光の特徴は、夕方には赤くなるなど、普
段感じる以上に、物理的な光のスペクトラムとしては変化している。それでも、我々の
脳には色の恒常性を保つ機能があり、その都度の照明光の影響によらず、物体の色を計
算している。ここでもまた、我々は色がコンテクストと強制フュージョンして結果のみ

  106  
をクオリアとして感じている。その計算過程の基となる生の情報には意識的にアクセス
することができないのである。

錯視には、多かれ少なかれ、強制フュージョンの性格がある。例えば最初にあげた、ミ
ュラー・ライアーの錯視では、線分の長さが同じだという知識を与えられても、自分の
意志でコンテクストの影響を取り除いて、純粋に棒の長さ自体を知覚することができな
い。また、マクガーク効果と呼ばれる視覚情報が聴覚情報のクオリアを変えてしまう効
果が知られている。映像の中で、人が「ガ」と発話している口の動きを見ながら、「バ」
という音を聞かされると、「ダ」と言っているように聞こえてしまう面白い視聴覚の効
果だ。これもまた、一種の強制フュージョンで、マクガーク効果のことを知っていても、
「ダ」と聞こえてしまうクオリアを打ち消すことはできない。このような視聴覚間で起
こる自動的な情報の統合の例からも、強制フュージョンが、視覚や聴覚のモダリティ内
に限られたものではなく、モダリティ間でも起きるということが分かる。

【図6­5】:明るさの錯視。

  107  
クオリアのメタマー

知覚の強制フュージョンとの関連で重要なのが「メタマー」という概念である。感覚刺
激処理におけるメタマーとは、入力となる刺激が異なるにも関わらず、処理に重複性
(リダンダンシー)があるために、出力の段階では区別がつかなくなる入力刺激のこと
である。ここで、一般性を持たせるために、入力や出力というやや抽象的な言葉を用い
たが、視覚の場合では、入力は網膜に移される画像などで、出力は主体が感じるクオリ
アと考えてもらえれば良い。つまり、主観的に区別をつけることのできないが、物理的
には違いのある刺激をメタマーと呼んでいる。ニューロンの情報処理という観点からも
メタマーを考えることができ、その場合は、ニューロン群 A からニューロン群 B へ、異
なる入力があった時に、ニューロン群 B の活動のパターンから、ニューロン群 A の活動
のパターンが一意に決まらないという縮退関係(degeneracy)があれば、それも一種のメ
タマーとして考えることができる。

もともと、メタマーという概念は、網膜における三原色の処理について使われてきた概
念だ。 物理的には、光の波長は連続的なものなので、網膜に入ってくる光とは、多次元

の光スペクトラム分布のパターンである。しかし、人間の網膜には、長波長(赤色)、
中波長(黄色から緑色)、短波長(青色)に反応する三種類の錐体細胞しかないため、
それらの三つの異なる波長の組み合わせとしか、光スペクトラム分布の情報を表現する
ことができない。そのため、元々の光スペクトラム分布が異なっていても、三種類の錐
体細胞の反応の組み合わせとしては、同じ出力結果になるものが無数に存在してしまう。
このような、同じ出力結果になる光スペクトラム分布がメタマー呼ばれている。

このメタマーの概念は、網膜での光スペクトラム分布の計算だけではなく、より一般的
な感覚知覚処理に適用することができる。先ほど例に上げた、/la/と/ra/などもメタマ
ーの好例である。知覚の強制フュージョンが生じることで、元々の刺激の特徴の違いの
判別ができずに、クオリアとして感じられる段階では、神経活動としては同じ出力結果
になっている。このように L と R の音の区別がつかない人にとっては、物理的に異なる
/la/と/ra/という音刺激はお互いにメタマーの関係にある。

第二章で、NCC の研究の仕方を説明した時に、実験で NCC を見つけ出すには、「入力


刺激」、「意識的知覚」、「出力行動」の三者のうちで、少なくとも一つを固定する必
要があるという話をした。メタマーは、入力刺激を変化させて、意識の内容を固定する
という実験パラダイムに役に立つ刺激である。メタマーを実験に用いることで、意識の
内容とは無関係に刺激の違いに対応している神経活動を同定することで、クオリア成立
以前の情報の表現を区別することができるからだ。

  108  
知覚の強制フュージョンとメタマーという概念は、我々の意識的体験であるクオリアの
もっている情報が、神経活動という外部から観測可能な情報表現と、どのように対応し
ているかを調べるために、非常に有用である。また、自動的に情報が統合され、自らの
意志で分解できないような計算結果のみがクオリアとして現れてくるという性質を的確
に捉えている 。

クオリアとカテゴリー

感覚入力の多くは、連続的な値をとるのに対して、我々はそれらをカテゴリーに分類し、
抽象的なラベルをつけて理解している。色というのも連続的に変化する量であるが、こ
の連続的なものを我々はいくつかのカテゴリーに分類することで理解している。例えば、
我々が「赤」という言葉で指しているものも、ある程度の色の幅を含んだもので、赤の
中にも微妙な違いがある。カテゴリー知覚においても、無数の知覚体験が、同じカテゴ
リーへと集約されるという過程は、クオリアとメタマーの関係とも似ている。しかし、
決定的に違うのは、我々はクオリアのメタマーを意識することはできないが、カテゴリ
ーを構成しているクオリアの違いを感じることができる。クオリアの説明で「赤の赤ら

しさ」などという表現が使われる原因はここにある。「赤」というカテゴリー化された
ものへのラベルである言語では言い表せない、カテゴリー内での微妙な差異があるから、
その微妙の違いを言語で表すことができないのである。同じ「赤」という言葉で示され
ている色でも、すこしオレンジに近い赤や、茶色に近い赤など、確かに我々は違いを感
じることができ、異なるクオリアとして感じている。クオリアとは前カテゴリー的
(precategorical)なのである。

クオリアはボトムアップの神経回路によるハードウェア的な計算で自動的に立ち上がっ
てくるという主張をここまでしてきた。一方で、クオリアはもっと高次なもので、経験
が抽象化され意味を持つシンボルとなることがクオリアの質感にとって重要だという考
えも根強くある。コンセプトやカテゴリーというものを、知覚体験を元に獲得すること
で、経験についての意味が生まれ、それがクオリアという独特の主観的体験の根拠とな

っているという考えである。この考えについて、筆者はシンボルとクオリアを同一視す
ることには否定的である。というのは、クオリアは同じカテゴリー内の知覚体験の弁別
をすることができるために、カテゴリー以前の知覚体験を指していると考えるからであ
る。しかし一方で、カテゴリー化のような抽象化・モデル化の能力は「知性」の誕生と
深く関わっている。知覚経験を元にカテゴリーという抽象化された表現を獲得すること
は、自分の目の前にある状況を見て、自分の経験していることの意味を理解し、世界に

  109  
ついてのより抽象度の高い主観的なモデルを構築する上で重要である。クオリアという
目の前にあるものを超えて、それを抽象化したシンボルやコンセプトというものの獲得
があって初めて、我々はフレキシブルに目の前の現象から離れて、未来の行動計画を立
てたり、頭のなかでいろいろな状況について想像を巡らせたりすることができる。

連続的に生じうる知覚経験を、離散的なシンボルとして組織化することは、我々が日々
経験しているクオリアの「意味」の起源となっている可能性がある。次に見ていくよう
に実験パラダイムや、先ほどの L と R の関係のように、カテゴリー的な抽象化されたも
のが知覚体験の質に影響している状況は見つかっている。

カテゴリーとクオリアの関係を考える上で、カテゴリーの境界における知覚の感度の変
化は非常に示唆に富んでいる。例えば、二種類の色が同じであるかどうかを判断する時
に、そのふたつの色が同じカテゴリー(例えば微妙に色相の違う緑)に入っていると判
別は難しいが、ふたつの色が異なる色カテゴリーにまたがるとき(例えば、青に近い緑
と、緑に近い青) は、物理的に色相としての違いが同程度であったとしても、識別が簡
単になる。これは、心理物理学実験で、判別できる色相の違いの閾値を測ることで確認

することができる。色相にかぎらず、人間の知覚実験では、カテゴリーをまたぐような
違いは容易に弁別できるのに対して、同じカテゴリー内での変化の弁別は難しいといっ
たように、知覚感度のレベルで一見抽象的なカテゴリーの効果が見つかるのである。

このようなカテゴリーと基礎的な知覚能力との関係には、少なくともふたつの起源があ
ると考えられる。一つは、カテゴリーによって知覚が変わっているのではなく、人間の
知覚の特性として区別しやすい部分が、文化として違うカテゴリーとして扱われている
ようになっているという考え方である。これは、確かに納得しやすいし、当てはまる状
況も多数あるだろう。

しかし、知覚の特性だけから、カテゴリーが成立するのが難しい状況もある。例えば、
文化や言語によって色のカテゴリーのわけかたに違いがあることを説明するのは難しい。
ロシア語では、英語では「blue」となるところの色が、二種類ある。その一つの色は
goluboy という語で、日本語の「水色」のような「明るい青」に対応する。もう一つ

は、 siniy という語で、「濃い青」に対応する。ロシア語では、両者をまとめて表現す
る「青」に対応する単語がないために、必ずどちらかの単語を選ばなければならない。
つまり、ロシア語では我々が「青」とひとまとめにしているカテゴリーがさらに細分化
されていて、ふたつの異なるカテゴリーとして認識しているようである。このような、
カテゴリーレベルでの違いは、知覚的な判断に影響しているのだろうが、それとも、見
え方は同じでその後のラベルの付け方だけの問題なのだろうか。

  110  
この疑問に答える実験をしたのが、ジョナサン・ウィナワーたちの研究だ(Winawer, et
al. 2007)。この研究では、言語的な色のカテゴリーが、知覚の処理に関わっているのか
どうかを、客観的な課題で示そうとした。実験は、非常にシンプルで、三つの青い四角
を画面に呈示して、下のふたつの四角のうち、どちらが、その上に示した見本の青と同
じ色かという判断をするものである。一つの条件では、下のふたつのサンプルの色が同
じカテゴリー(goluboy か siniy のどちらか一方のみ)に属してしている場合。もう一つ
の条件では、異なるカテゴリーに属している場合(一方が goluboy で他方が必ず siniy
である場合)。このふたつの条件について、色の識別にかかる反応時間を測定し、カテ
ゴリーによる影響があるのであれば、反応時間に違いが出るはずである。この研究によ
り、ロシア語の話者でこの実験を行うと、確かにカテゴリーをまたいだ色の識別は、カ
テゴリー内での色の識別より素早くできることが見つかった。同じ実験を、英語の話者
で行うとこのようなカテゴリーによる違いは見られなかった。

このことは、言語という文化的に規定されたカテゴリーを持っているかどうかで、知覚

にも違いがあるのではないかということを支持する実験データとして非常に興味深い。
ただし、この実験は心理物理学的に閾値を測定したのではなく、反応時間のみ結論を導
いているために、被験者が本当に違うクオリアを体験しているのか、それとも反応を準

備したり判断したりする段階での、知覚以外の影響なのかをはっきり示していない。ま
た、原論文のデータを良く見ると、ロシア人の反応時間が1秒程度かかっているのに対
して、コントロール群の英語の話者の反応はそれよりも900ミリ秒程度で、カテゴリ
ーの効果よりも大きいなど、十分に実証したとは言い切れない部分もある。このような
理由で、研究自体のクオリティには問題があり、この研究の実験データだけでは十分に
カテゴリーがクオリアに影響をしていることを証明しきれていない。それでも非常に重
要な問題に取り組んだ研究であり、反応時間だけではなく閾値の測定や二重課題を用い
て研究することで、カテゴリーとクオリアの関係を追求することはできるはずである。

色カテゴリーの効果は、脳内のどのような機構によって引き起こされているのだろうか。
同じカテゴリー内での色の弁別と、カテゴリー間での色の弁別をしているときで、脳活
動がどのように違うのかを調べた fMRI の実験が報告されている(Siok, 2009)。その研
究によると、カテゴリーが異なる刺激を弁別している時には、左脳の言語野がより強く
活動していた。さらに、それだけではなく、初期視覚野である V2や V3の脳活動も、
カテゴリーの違いによって上がっていたのである。V2 と V3 での活動の情報は、ウェル
ニッケ野があると考えられている左脳の側頭葉と頭頂葉の境目の部位の活動とリンクし
ていることから、言語的なカテゴリー処理の結果が、フィードバックにより初期視覚野
での色情報の表現が影響を与えているのではないかと推測されている。また、脳活動が

  111  
あるからと言って決定的な証拠であるとはいえないが、このように V2 や V3 という初
期視覚野に置いてカテゴリーの効果が見つかることは、実際に色の見え方がカテゴリー
の認識によって影響を受ける可能性を示唆している。

色などの基本的な視覚の特徴だけではなく、顔を見て誰であると認識するのも一種のカ
テゴリー知覚である。同じ人の顔でも、見る角度によって、非常に見え方も異なるし、
人の顔を高次元のパラメター空間の点であると考えれば、人の顔のアイデンティティを
連続的に変形していって、二人の顔の平均なども考えることができる。そうすると、顔
も連続的に変化する多次元の量であり、個人の顔はその中のカテゴリーの境界線で定義
される。このような連続的に生じうる知覚経験を、離散的なシンボルとして組織化する
ことは、我々が日々経験しているクオリアの「意味」の起源となっている可能性がある。

カテゴリー学習

ここまで見てきたカテゴリー効果は、子供のことから習得している母国語における色の

カテゴリーや、音素については L と R の違いなどであった。特に色と音素は、カテゴリ
ー知覚の研究では頻繁に用いられる刺激である。

カテゴリーを学習して獲得することは、成人してからでも訓練しだいでは可能である。
学習によって人工的にカテゴリー知覚を作り出すことは、どこまでが生まれつきで決ま
っているかを決定するために重要である。例えば、色の物理的変化と知覚の弁別能の関
係をグラフにしても、どこからどこまでが、単に脳が生まれつきもっている、色空間の
性質で、どこがカテゴリーの獲得によって、歪められたのか判別するのが難しいからで
ある。しかし、カテゴリーを学習するという実験パラダイムを用いることで、カテゴリ
ー獲得前と後とで、表象されている空間がどのように変化したか、直接調べることがで
きる。

色のカテゴリー学習では、マンセル色体系での色空間の通常ならば「緑」のカテゴリー
だとされる範囲に、人為的に境界線を引き、緑色の空間の中に、カテゴリーA とカテゴ

リーB を作り出す。トレーニング中には、 カテゴリーA からランダムに抽出された色4


種類を画面の一方に、カテゴリーB からランダムに抽出された色のサンプル4種類がも
う一方に呈示されている。その真中にもう一枚の新しい、どちらかのカテゴリーからか
ランダムに抽出されて緑の刺激が呈示される。トレーニングを受けている被験者は、左
右のサンプルと見比べて、新たに真ん中に呈示された刺激がどちらに属すかを推測する。
被験者には、どのようなルールでカテゴリーが定義されているかは知らされておらず、

  112  
その都度与えられる正解か不正解かのフィードバックを手がかりとして、カテゴリーの
境界線を学んでいかなければならない。このようなトレーニングを30分ほど受けると、
ほとんど問題なくカテゴリーの境界線を学習することができる。この第一段階のトレー
ニングをクリアした人は、第二段階へと進んでもらい、そこでは、左右のサンプルなし
で、真ん中に唯一つ示した刺激だけをもとに、カテゴリーA かカテゴリーB かを判断し
てもらう。この課題では、実際に画面上の他の刺激と比較して判断することができない
ので、記憶の中の内的な基準を確立する必要がある。

このようなトレーニングを三日間ほど続けると、この人工的なカテゴリーの境界に対し
て、先ほど紹介したような、色カテゴリーの効果が生じるようになる。つまり、人工的
なカテゴリーの境界線の同じ側にあるふたつの色を弁別する時よりも、境界線をまたぐ
ふたつの色の違いに敏感になる。このようなカテゴリー学習によって、新しいクオリア
が経験できるようになることや、クオリアの質に変化が生じるのだろうか。

カテゴリーについての研究から、クオリアはカテゴリーのような抽象化された分類体系
によって影響を受けるようであるが、生の感覚としてのクオリアが抽象化されたシンボ

ルを必要としているのかは判断できる材料がない。今後、ここで紹介したカテゴリー効
果やカテゴリーを学習する実験パラダイムを、神経科学的手法と組み合わせて、クオリ
アとコンセプトとの関係を探求していくことは重要な課題である。

クオリアの動物実験

ニューロサイエンスでは、動物モデルを用いた実験を、人間での実験と並行することで、
これまで数々の発見がもたらされてきた。では、動物を使ったクオリアの実験は可能だ
ろうか。そもそも、人間同士でさえ他人にクオリアがあるのか定かでないのに、言語で
コミュニケーションをとることのできない動物でクオリアについて研究するのは不可能
だと思えるかもしれない。しかし、工夫次第で動物でもクオリアの研究は可能だという
例をここでは示したい。

マサチューセッツ工科大学のムリガンカ・サーたちは、フェレット(イタチの一種)で、
網膜から外側膝状体へと視覚刺激を送っている経路を、外科的な方法で再配線し、通常
ならば聴覚野へと信号を送っている MGN へと繋ぎ変えてしまうという驚きの実験をや
ってのけた。このような繋ぎ変えを行うと、通常ならば音に反応する聴覚野のニューロ
ンは、視覚入力に反応するようになり、それだけではなく第一次視覚野で見られるよう
な方位選択性のような特徴を獲得した。

  113  
再配線の手術を受けたフェレットは、光刺激が目から入ってきた時に、その刺激を音の
クオリアとして感じるのだろうか、それとも、光のクオリアとして感じるのだろうか。
直接、見えたと感じるのか聞こえたと感じるのかを、動物に報告してもらうことはでき
ないので、一見答えることが不可能な問題のように思えるかもしれない。しかし、動物
が感じているのが、音なのか光なのかを区別するような非常にエレガントな実験が行わ
れた(von Melchner et al., 2000)。

その実験では、視野の左側半分だけについて、聴覚野へ向かう経路へと再配線が施され
た。そして、その視野の半分だけが再配線された動物たちに、光刺激と聴覚刺激の弁別
のトレーニングを行った。右視野では再配線はされていないので、通常通りに視覚野へ
と到達する経路が維持されている。そのため、光刺激を視野のこの部分にあてることで、
光刺激と音刺激の弁別トレーニングは行われた。このトレーニングでは、光が見えたと
きは右方向に進み、音が聞こえたときは左方向に進むとエサがもらえるという関係を動
物に学ばせた。そのことにより、フェレットが右に進むか左に進むかという行動を観察
することで、その動物が光を感じたか音を感じたか推測できるようになるのである。

そのようなトレーニングによって、フェレットが確実に光と音の区別ができると確認で
きた時点で、光を再配線されている方の視野から網膜に照射した。このとき、フェレッ
トは、右に進んだだろうか、左に進んだだろうか。この実験では、再配線を受け聴覚野
を刺激している光は、光であるとフェレットは判断した。つまり聴覚野で光を受け取り、
光であると感じているようなのである。

この実験は、クオリアの質というのは、解剖学的に脳のどの部位が活動したからといっ
て決まるものではなく、過去にどのような入力が送られてきたかによって、その部位の
役割が決まってくるということを示唆している。再配線を施された聴覚野は、発達の過
程で、網膜からの刺激情報を受け続けてきている。その環境の中で、 この聴覚野のニュ
ーロンたちは、いろいろな状況で視覚刺激に対して反応して来たという履歴がある。そ
のために、これらのニューロンが他の脳の部位のニューロンたちにとっては、視覚刺激

であるという意味を持つことになる。視覚刺激であるということの意味とは何かという
と、自分が移動することで連続して空間が変化するなどの、他の脳の部位の活動に対す
る時空間的な活動パターンの変化や、眼球運動にともなって規則的に変化するという特
性や、自然画像自体がもつ線分は途中で途切れずに続く傾向があるなどの統計的な特徴
など、あらゆる場面での時空間的な統計的パターンが蓄積されている。そして、発達過
程の神経回路は、このような統計的パターンを局所的な回路や、他の部位との回路の特
徴として学習していく。また、聴覚刺激に対しても、聴覚特有の時空間的なパターンや、

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異なる周波数間の関係性の統計的パターンなどがあり、視覚刺激の持つ特徴とは非常に
異なっているはずである。これらの、感覚モダリティが持つ特徴が、膨大な過去の経験
の蓄積により脳内の回路の特性として表現されるようになる。ニューロン同士の結合の
特性やシナプスの重みのパターンとして、保存されている。いわば、クオリアは蓄積し
た大量の経験を記憶することで、神経回路として実現され、その回路の持つ情報の関係
性によって決定されるのではないかと思われる。

新しい刺激を光と感じるか、音と感じるかという判別は、このような刺激によって引き
起こされたニューロン群が、聴覚的なパターンを表現しているネットワークに埋め込ま
れたものであれば、聴覚的なクオリアを生成して、視覚的な特徴を表現しているネット
ワークに埋め込まれていれば視覚的なクオリアが生じるのではないだろうか。このアイ
デアで重要なのは、これまでの神経活動に着目した NCC を追うような研究だけでは、
特定のニューロンがどのようなネットワークの中に位置しているのかという視点がかけ
ていたが、クオリアの特徴はネットワークの特性としての解剖学的な特徴で表せるので
はないかという視点を示していることだ。

実際に、再配線を施した後の聴覚野の解剖学的特徴は、非常に示唆に富んでいる。ニュ
ーロンの反応の特徴が視覚野のニューロンに似ているというだけではなく、近傍のニュ
ーロンとの繋がり方のパターンさえも似ているのである(図6­6)。通常、第一次視
覚野では、同じ縦の線に反応しやすいなど方位選択性が似ているニューロン同士が、離
れた距離にあってもよく繋がっている。つまり、水平方向で方位ごとにネットワークが
巡らされているのである。一方、聴覚野のニューロンは、もっと局所的なネットワーク
を持ち、離れたニューロンまで軸索を伸ばしシナプスを作らない。では、再配線を施さ
れた聴覚野では、このようなニューロン間の結合の特徴はどうなっているだろうか。

これを調べた研究により、視覚刺激の入力をうけて発達した聴覚野のニューロンは、実
に視覚野のようなネットワークのパターンを持つということがわかった。もしかしたら、
聴覚野で光のクオリアを感じるというのは、このような脳の部位内での局所ネットワー

クのグラフ構造が、どのような情報の構造を取るかによって決まってくるのかもしれな
い。いまだ、主観的に報告されるクオリアの質と、解剖によりわかるネットワークの特
徴とを対応付けるような直接的な研究は行われていない。しかし、現代では詳細なニュ
ーロン同士の結合を網羅的に調べるような、コネクトームプロジェクトなどが始まって
おり、そのための技術も次々と開発されている。

  115  
【図6­6】モダリティ間での再配線による聴覚野ニューロンの空間的結合パターンの
変化。

ハーバード大学のクレイ・レイドのグループの研究では、ニューロンの機能と、神経ネ
ットワークの構造の関係を見る上で、ものすごく強力な手法が開発されている(Bock et
al., 2011)。電子顕微鏡で脳の組織を5ナノメートル以下の解像度で撮影し、40ナノ
メートルごとの切片について画像を蓄積すると、脳の組織の中の微小な構造を3次元的
に見ることができる。 このような高解像度の電子顕微鏡の画像から、ニューロンひとつ
一つの形や、どのように他のニューロンとシナプス形成しているかなどを、詳細に見る
ことができる。このような高解像度の画像を何枚も組み合わせた画像データは、小さな
体積に対しても膨大なデータ量となる。現時点では、かなり人間が目でみて手作業でネ
ットワークの詳細を決定しているようだが、その処理の大部分が画像処理で自動化され
るのは時間の問題だろう。

さらに電子顕微鏡で解剖画像を取る前に、その中にあるニューロンの活動の特徴を、カ

ルシウムイメージングという技術で網羅的に計測することができることである。例えば
V1 の一部を標的として、その立方体の中にあるニューロンすべての、方位選択性を同
定することも可能である(Ohki et al., 2005) 。そうした機能的な同定を、電子顕微鏡で
の構造画像から得られるネットワークの特性と組み合わせるという夢のような実験が既
に可能になっているのである。

このような最新の神経生物学で使われる計測方法を、先ほどの聴覚野へのニューロンの
再配線のような実験パラダイムと組み合わせることで、近い将来に、クオリアと神経回
路のトポロジカルな構造との関係の理解が一気に理解が進むだろう。トーマス・ネーゲ

  116  
ルは「コウモリであるとはどのようなことか」という問題を問うことで、物理的、客観
的なシステムの記述だけでは、クオリアという意識の主観的側面は理解することができ
ないことを主張したが、視覚のクオリアや聴覚のクオリアの基となる神経ネットワーク
のモチーフのようなものが見つかれば、コウモリが超音波を発し反響定位によって、周
囲の環境を感じているのが、人間にとっての「見る」という感覚と、「聴く」という感
覚のどちらに近いかなどを、神経回路のなかで、感覚情報がどのような構造として扱わ
れているかを評価することで、比較することさえ可能になるはずだ。 さらに、同様のア
プローチはモダリティのような大きな違いだけではなく、色や形や運動などのモダリテ
ィ内でのクオリアの種類の違いの解剖学的根拠を見つけ出すのにも応用できる。そのよ
うな研究を続けることで、外部から観測可能な物理的現象と、主観的なクオリアの質的
な部分の対応関係が見えてくるのではないだろうか。

終わりに

本書では、意識の主観的な体験について、科学が今どのように解明しようと進んでいる
のかを実験研究を中心に紹介してきた。冒頭で述べたように、意識の研究に興味を持つ

には3つの段階がある。クオリアに気づくこと、ハードプロブレムに絶望すること、そ
して意識の問題に挑むことである。読者の皆さんは、本書を最後まで読んで、どの段階
にいるだろうか。意識という現象について、これまで気にもしていなかった人も、すで
に脳の研究を行っている人も、意識に挑む醍醐味を感じて貰えたのであれば幸いである。

本書を執筆するにあたって、多様な意識研究の実験を具体的に、その目的と位置づけが
わかるように説明することを心がけた。これは、意識について考えると思弁が先行しが
ちであるが、科学者のコミュニティーで具体的な取り組みが行われており、その文脈の
中で意識の問題について考えることで、さらに一歩踏み込んだ意識の探求が可能となる
ことを知ってもらいたかったからである。意識と脳活動の関係は、ここ20年の研究で
かなり進んだ。NCC をとりあえず探すというアプローチは、意識の根本的な原理の説
明を提供しないので、これで意識のことがわかるのかという批判も当然ある。しかし、

脳のどのような活動が意識の内容やレベルと相関しているのかという知見が蓄えられた
ことは、現在の意識研究の礎となっている。自然科学とは、自然現象を観測しなければ
始まらない。意識の問題も例外ではなく、やはり脳という物理現象の観測なしでは、得
られた洞察も限られている。現代でも、脳を理解するための計測技術もデータ解析の方
法も非常に限られているが、技術は日々発展しており、これまで見ることができなかっ
た脳の詳細が、次の20年でかなり明らかになるだろう。

  117  
一方、脳科学の実験的なアプローチと平行して、理論的な意識研究も始まっている。特
に、情報理論によるアプローチが重要である。意識の問題は、情報とは何かという根本
的な問題と常に隣り合わせだからである。現時点での情報理論的なクオリアへのアプロ
ーチは統合情報理論だが、近い将来、実験研究と組み合わされることで洗練され発展し
ていくだろう。私の考えでは、将来、この方向に研究が進むことで、統合情報と意識的
体験の同一性が認められ、ハードプロブレムは結果的に溶けてなくなってしまうと予想
している。同一性が認められるのは厳密な証明によってではなく、同一性を認めるのが
妥当だという間接的証拠が蓄積することによる。その過程は決して簡単ではないだろう
が、情報の関係性を脳という物理的システムから導きだすために必要な計測技術と計算
技術の開発など、数多くのイノベーションと共に進んでいくだろう。また、実験の結果
に基づいて、理論自体も何度も変更や改善をされるに違いない。理論と実験のインタラ
クティブな関係によって、意識の理解は深まっていくのである。例えば、最後に書いた、

視覚と聴覚のクオリアの違いの原因などを情報理論の観点から捉えることなどは、その
過程における重要なステップとなるはずだ。

そして、意識の理論化が進むことで、意識を人工的に作るという研究も現実味を増して
くる。脳と情報の関係において、意識の特徴がわかってくれば、どのような情報処理が

意識にとって本質なのかという問題に仮説が生まれてくるだろう。その時点では、その
特定の計算が意識そのものであるという同一性の証明ができていなくても、意識計算を
実装した人工知能を作ることができる。それが、果たして本当に意識を持っているのか
を証明するのは難しいかもしれないが、そのような人工意識がいったいどのように振る
舞うのかが楽しみである。本書では触れることができなかったが、人間は無意識に情報
処理を行うときには、情報を統計的に扱って学習し意思決定を行う。それは、現代の機
械学習のアルゴリズムなどを使った人工知能の振る舞いと似ている。統計とビッグデー
タに頼った現代の人工知能の技術によって、スマートフォンが人間と会話をできるよう
になったとしても、そこに意味の理解や意識はないだろう。将来、意識のエッセンスが
意識研究によって明らかになれば、クオリアを感じ意味を理解するロボットやスマート

フォンのような物が作られるかもしれない。少なくとも脳という物質に意識が宿るのだ
から、十分な条件を満たせば人工物で意識が生じない理由はない。意識研究は、一見、
現実世界から最も遠い哲学的な基礎研究のようであるが、その根本を理解することで、
人類の歴史に於けるとてつもなく大きなイノベーションを引き起こす可能性を秘めてい
るのではないだろうか。

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