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H36

分类号:____________ 密 公开
级:______________
UDC:____________ 11646
单位代码:______________

硕士学位论文
论文题目:中日灶神信仰的比较研究

学 1211051035
号:_________________________
姓 王 静
名:_________________________
日语语言文学
专 业 名 称:_________________________
学 外语学院
院:_________________________
张正军
指 导 教 师:_________________________

论文提交日期:2015 年 1 月 14 日
A Thesis Submitted to Ningbo University for the Master’s Degree

A Comparative Research on the Belief of Kitchen God in


China and Japan

Candidate: Wang jing

Supervisors:Professor Zhang zheng-jun

Faculty of Foreign Languages


Ningbo University
Ningbo 315211, Zhejiang P.R.CHINA

January 14th, 2015


独 创 性 声 明

本人郑重声明:所呈交的论文是我个人在导师指导下进行的研究工
作及取得研究成果。尽我所知,除了文中特别加以标注和致谢的地方
外,论文中不包含其他人已经发表或撰写的研究成果,也不包含为获得
宁波大学或其他教育机构的学位或证书所使用过的材料。与我一同工作
的同志对本研究所做的任何贡献均已在论文中做了明确的说明并表示了
谢意。
若有不实之处,本人愿意承担相关法律责任。

签名:___________ 日期:____________

关于论文使用授权的声明

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有权保留送交论文的复印件,允许论文被查阅和借阅;学校可以公布论
文的全部或部分内容,可以采用影印、缩印或其他复制手段保存论文。
(保密的论文在解密后应遵循此规定)

签名:___________ 导师签名:___________ 日期:____________


宁波大学硕士学位论文 

目 次

1.はじめに..........................................................1
1.1 研究目的.....................................................1
1.2 先行研究.....................................................2
1.3 本論文の位置づけ.............................................4
2.中日における竈神の起源............................................6
2.1 中日竈神の前身...............................................6
2.1.1 中国における竈神の前身 .................................6
2.1.2 日本における竈神の前身 .................................8
2.2 火神から竈神への変身.........................................9
2.3 まとめ......................................................10
3.中日における竈神のイメージ.......................................11
3.1 道教における竈神............................................11
3.2 神道における竈神............................................13
3.3 仏教における竈神............................................15
3.4 陰陽道における竈神..........................................17
3.5 まとめ......................................................18
4.中日における竈神の機能..........................................19
4.1 万能の竈神..................................................19
4.2 イエの守護..................................................21
4.3 火伏せ......................................................22
4.4 農作物の保護................................................23
4.5 まとめ......................................................24
5.中日における竈神信仰に関する行事.................................25
5.1 竈神への祭祀................................................25
5.1.1 祭祀の日時 ............................................25
5.1.2 祭祀の場所と司祭者 ....................................26
5.1.3 祭祀の供え物と祭文 ....................................27
5.1.4 祭祀の儀式 ............................................29
5.2 竈神への禁忌................................................30
5.3 まとめ......................................................32
6.中日における竈神信仰の異同.......................................34

III 
中日灶神信仰的比较研究 

6.1 中日における竈神信仰の類似点................................34
6.2 中日における竈神信仰の相違点................................35
6.3 中日における竈神信仰異同の原因..............................38
6.3.1 中日竈神信仰の伝承 ....................................38
6.3.2 中国から日本に伝わった竈神信仰の変容 ..................39
7.おわりに.........................................................41
7.1 本論文のまとめ..............................................41
7.2 本論文の展望と評価..........................................43
参考文献...........................................................44
在 学 研 究 成 果................................................. 48
謝 辞.......................................................... 49

IV 
宁波大学硕士学位论文 

1.はじめに

竈神信仰は祖先崇拝と並べて、中国では二つの大きな民間信仰としてよく周知され
ている。同じことは他にもあるように、日本では竈神にかかわる信仰も古代から伝承
してきたのである。
両国の竈神信仰は淵源が長くて、竈が出る前にすでに存在していたと言われている。
古代では、中国の竈神信仰が陰陽五行思想と道教の影響を受け、そしてさまざまな祭
祀と民俗文化をとけ込んだため、多元的な民俗信仰と発展してきたのである。それに
対し、日本の竈神信仰は神道の影響ばかりではなく、中国などの外来文化の影響も受
けたのである。言い換えれば、中日両国には各々の竈神信仰があるが、お互いに多か
れ少なかれ繋がっているところがあると考えられるであろう。
本稿においては、中日における竈神の起源、イメージ、機能、竈神に関する行事、
竈神信仰の異同という五つの面から、中日の竈神とその信仰を研究しようと考えてい
る。 
本論に入る前に、まず本論文の研究目的、先行研究、そして本論の位置づけについ
て述べておきたい。 
 

1.1 研究目的
前に述べたように、中国では、竈神信仰は主な民間信仰の一つとして多くの地域に
分布されている。しかしながら、地域により、各地の竈神信仰の形式や祭祀の日時な
どは異なっている場合もあるのは見逃してはならない。それに対し、日本の竈神は日
本の宗教との繋がりが強くて、日本的な信仰であると考えられる。そして、地方に限
り、その祭祀の行い方や竈神のイメージも違っている。 
自分を認識しようと思うなら、他人と比べて見ればすぐ分かるというように、中日
各国の竈神信仰の起源、変化などはいかなる特徴があるか、さらにそれぞれの民俗文
化は現代社会でこれからどのように発展すれば、相続できるかなどの疑問を解けよう
とするため、中日両国の竈神信仰を比較しながら研究することにした。それは本論文
の研究目的である。 
本論文は主に比較研究法で、両国の竈神信仰を研究しようと思う。そして下記のと
おりにいくつかの問題を検討しようと思う。 
第一は中日両国の竈神の起源を究明しておきたい。特に、竈神と火、火の神との繋
がりを明らかにしてみたい。第二は道教、神道、仏教、陰陽道におき、中日竈神はど
のような正体をもつかを考察したうえに、それぞれの特徴を分析することである。第

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中日灶神信仰的比较研究 

三は中日における竈神はいかなる機能があるかを、資料をまとめてから、究明しよう
と思う。第四は中国民俗文化学の民俗文化機能という視点から、中日における竈神へ
の祭祀と禁忌という二つの面をめぐり、中日の竈神信仰は別々にどのような特徴をも
っているかを、研究したい。
最後に、中日における竈神信仰の異同とその原因をあきらかにするのも本論文の意
図である

1.2 先行研究
中国と日本には、自国の竈神を研究している民俗学者が何人かいる。その中で、中
国の郝鉄川、劉錫誠、楊福泉、袁珂などは有名で代表的な学者である。一方、日本側
の柳田国男、飯島吉晴、狩野敏次、窪徳忠、内藤正敏、水野正好、松前健、高取正男
もさまざまな視点より日本の竈神信仰を研究してきた学者で、多数の論文や著作を書
いたのである。
さて、中国の竈神研究者は主に中国の竈神の起源や、イメージ、発展、そして祭祀
などをめぐり、究明してきたのである。一方、日本の民俗学者は中国のように、竈神
の起源や変遷などの面に対する研究は多くない。が、竈神がもつ象徴的な意味という
面からの研究が多いと言える。
李現紅(2012)によると、先秦から明清時代、竈神についての祭祀時間が毎年夏、
冬から旧暦の 12 月 23 日に変遷した。そして毎年の祭祀回数も数度から毎年一度だけ
になってしまった。漢晋以前、祭祀の時間が随意であり、毎年に数度の祭祀を行うこ
とが普通であった。しかも、晋以降、竈神の祭祀を旧暦の 12 月 23、24 日に変わった
のである。現代では国によって主催される竈神祭りはすでに絶滅したが、民衆の間に
そのような行為が減っていても、伝承されてきた習慣のとおりに祭祀する地域や家族
も存在しているという。
金銀(2012)によると、中国伝統的な民俗文化の角度から理解すれば、竈神が玉皇
大帝を代表し、人間世界を監察する神と見なされる。竈神は一家の言うことなすこと、
一挙一動を非常に知っているために、玉皇大帝の信頼を勝ち取れる。勿論、神様の賞
罰が絶対に世俗の人間の目で見えることではない。それは言葉で言えない、ただ心で
悟られる神秘的なことである。そのため、その時代の人間は竈神の存在を疑わず、逆
によく尊敬していた。竈神の地位とイメージの変遷は、中国古代社会における人間の
自然変化と発展に密接に関わるという。
飯島吉晴(2010)によると、日本の竈神は住居空間の中の暗い領域にまつられ、私
的な神で、多様で具体的な機能を持ち、庶民にとって非常に親しみ深い神であると思

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宁波大学硕士学位论文 

われる。その竈神を神というより、精霊的な性格を濃く残しており、土着の家付き神
とされたほうがもっと妥当であると思われる。飯島吉晴は日本の竈神を中心に、竈神
の信仰と受け継ぎを民俗文化空間論の角度から詳しく論述してきた。
川口幸大(2010)によると、家屋に祀られた祭祀対象のあり方は、家屋の形態の変
化と無縁だったわけではないが、むしろ共産党による政策からより大きな影響を受け
てきた。近年の傾向として、マンションを購入して移り住んだ人々も、いくつかの神々
を「組み込み」式で祀り、また天官もベランダに祀っている。しかし、今後より多く
の人々がマンションへと移り住むとすれば、村落というコミュニティを基盤とした生
活スタイルは大きな変更を余儀なくされるだろう。祭祀空間としての家屋と、そこで
の祭祀の行われ方がどういった変化をたどるのか、あるいは依然として持続性が保た
れるのか、引き続き注視していかなければならないという。
伊藤清司(2007)によると、日本竈神についての炭焼き長者の再婚型は初婚型の変
化、発展した話なのか、それとも本来別の話なのか、あるいは両型は本来入れ籠の関
係にあるのか。この点は日本では話題にされていない状態である。最近、日本だけで
はなく、日本と隣接する諸国でも民間説話の採録と研究が流行っていた。中国の民間
故事集の中に、炭焼き長者説話の比較研究上、見すぎできない資料がたくさんあると
いう。
劉瑞明(2003)によると、自然神、黄帝、炎帝、祝融の時代には、火の神と竈神の
存在が極小さくて取るに足りなかった。それらは公衆の神と見なされていた。私有制
と家庭の現れに連れて、竈神が火の神から分離し、人間との繋がりがより密接になっ
た。人間が竈神を老婆として祀るのは、竈神信仰が世俗化と功利化へ変遷する始まり
である。民衆が神様をつくることによって、自分自身の望みや、文学才能を表してい
た。このような文学上の神様は神信仰の迷信がかりを薄めた。迷信思想のない人間た
ちはそういう神様についての神話を楽しく伝えるという。
柿山隆(2000)によると、火は家族の炊事には不可欠であることから、竈や囲炉裏
のある場所は神聖視され、家の中心と見なされた。このような場所に祀られる火の神
が竈神である。多くの場合は、竈の近くに神棚を設け幣束や神札を納めて祀る。近畿
地方では竈神のことを荒神と呼んでいる。東北地方では、カマジン、カマオトコ、ヒ
オトコなどと呼んで、木製の醜い面を竈近くの柱にかけて祀る。陰陽道の影響を受け
た地方では、竈神は土公神とされ、ドックサン、フゲンサマなどと呼ばれて祀るとこ
ろもある。火は穢れやすいとの信仰もあって、火を使う場所自体を清める竈祓いなど
の儀式も行われたという。
林継富(1997)によると、少数民族の社会発展が遅いため、彼らが信仰している宗
教の多数は原始的な多神教である。自然物と動物を基盤とした竈神の神力は実質的に
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中日灶神信仰的比较研究 

自然物と動物自身の能力であると思われる。それらを祀る際に、少数民族の民衆たち
があまりに飾らない。神霊思想を持つ少数民族が神様を祀る時、竈神や、山の神、石
の神、生殖神、祖先神などの神を並んで祀るのは普通である。つまり、少数民族の竈
神信仰は民族神霊の総合信仰の文化要素を備えている。総じて言えば、漢族と少数民
族との竈神信仰が多面で違っているという。
窪徳忠(1977)によると、土地公の信仰を中国から伝えたのは、第一にあげなけれ
ばならないのは、中国から沖縄県に移住した人々であろう。おそらくその影響と考え
られる信仰や習俗が多く見出されるためである。第二には中国に留学した人々があげ
られなければなるまい。中国と往来した航海に従事した人たちもその中に含まれるに
相違ない。従って、土地公の信仰はまず首里那覇地域、特に中国から移住した人たち
の系統に属する人々の多くが住んでいた、いわゆる久米村、唐栄、唐営などと呼ばれ
た那覇の一地域に受け容れられたと考えられる。それから県内に流布してきたという。
上記の先行研究から見れば、中日両国の学者は竈神信仰に関する研究をずっと前か
ら続けていることが分かった。しかも、竈神のイメージや竈神に関わる神話や祭祀な
どの視点より竈神信仰についての研究を続けてきたことも分かった。詳しく言えば、
中日両国の竈神信仰の研究は主に自国の竈神信仰を中心に、論述する例が多数である。
たとえば、中国の文献では、竈神信仰変遷の特徴とその原因を描くものはあるのはあ
るが、その多くは徹底的に研究してから出来た結論とは思われないであろう。そのよ
うに、竈神信仰についての異国民俗文化との比較研究の論文が稀であることは分かっ
た。
 

1.3 本論文の位置づけ
ご存知のように、物事の本質や自国の文化とその特徴をよりよくとらえるには比較
研究は一つの有効的な方法である。つまり、比較研究で新しい発見を取得できる。
本論文は、比較民俗学の研究方法で最初に中日両国の竈神信仰に関する竈神起源、
イメージ、機能、行事という四つの角度から分析し、中国竈神信仰が日本竈神信仰へ
の影響を考察し、そして両国の相違点を指摘したうえで、民俗文化学の理論をもとに、
その原因を研究して論述しようと思う。
本論文には、主に以下述べたような意義があると思う。
第一には、中日の竈神が非常に地位の高い神であり、民俗研究には重要な課題と思
われている。竈神信仰の源流と変遷プロセスを分析し、そしてその民俗文化機能を明
らかに究明することは大変意味のあることである。どうしてであるかというと、それ
は民俗文化の内包の研究と、発展法則の把握には大切な役割を果てるからである。

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第二には、異国文化を比較し研究することは、自国のドアを開け、全世界や人間の
生活状況などを窺えることに役に立てると思う。それは中日各国の今後の民俗文化の
変遷と経済、物質生活の向上にはかなり参考価値があると言われる。
ところで、ここで強調しておきたいのは本論文で特に中日のある地域の竈神を対象
にし、研究するのではなく、一般的に認識されている両国の竈神を中心に研究するの
である。

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中日灶神信仰的比较研究 

2.中日における竈神の起源

何星亮(1992)は世界各民族の歴史上に全体的に広まっていた宗教形式の一つは自
然崇拝であると述べていた。確かに、例としては、世界各国の神話を参考にすると明
らかに分かる。中国では、一番最初に太陽や月を中心にした自然崇拝神話は『山海経』
であると考えられている。その著作は神話や伝説に基づいて書かれた中国古代の地理
書とされている。それに対し、日本の歴史書とされる『古事記』の上巻に描かれた天
照大御神は日本の太陽崇拝の代表であると思われるであろう。
つまり、自然崇拝は人類の原始時代から現在まで流れてきた。大空、大地、山、海、
そして太陽、月、星などの星辰、また雷、雨、風などの気象、及び動物、木、水、岩
石、火などは自然崇拝の対象として認められてきた。そのうちの特徴は複数のものが
一体として神格化され、崇拝されることである。火炎崇拝もその一つであろう。それ
は火炎を神格化し、崇拝の対象とされるのである。崇拝される神は火神と呼ばれる。
本章では、中日における竈神が火神との関係を究明しておきたい。

2.1 中日竈神の前身
人間の祖先は火を認知してきた後、山の火事から身を守ることができ、食べ物を火
で焼いた後食べる習慣も身につけた。すなわち、火は人間進化の長い歴史の流れに非
常に重要な役目を演じていた。火が人間の生活に便利さを齎したゆえに、人間は火に
対する感謝と恐れの気持ちは世界範囲では同じであると思われるであろう。人間は火
の無窮な力を体得し、それは人が及ばない神の力であると悟った後、火を神と見なし
始めた。ここでは主に中日における竈神の前身を論じてみたい。

2.1.1 中国における竈神の前身
何星亮(1992)は中国古代漢族地域の竈神の前身は火神であり、竈を祭祀するのは
火神を祭祀するのであると述べた。つまり、古代の人間にとって、竈はただの照明を
あて、暖を取り、煮炊きをする場所ばかりではなく、一番大切な火種を守る場所でも
ある。火神はその後の竈神で、人間の生活と深く繋がっていたと思われるであろう。
たとえば、中国浙江省北部と杭州湾南岸の蕭紹地域には、「倒竈」というけなす意
味を含む言葉がある。これはだめになる、落ちぶれるなどの意味を表す。このように、
火は人間の日常生活にあまりに欠かせないもので、もし火種を消してしまえば、莫大
な災難が出ると考えられる。
中国の火神はさまざまな神職が与えられた。例えば、中国古代の少数民族である突

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厥、モンゴル、カザフ族などの民族は火神が照明をあて、魔除けをし、穢れを除ける
光明で清潔な神であるとされていた。一方、古代漢族、突厥、カザフ族、エヴェンキ
などの民族は火神が家庭を守護する神と信じていた。すなわち、火神がこの家の主人
とされていた。火神が人間に幸福と財産を与え、家族全員の安全を守ってくれると強
く信じられたのであろう。
しかしながら、他の神と同じように、火神も自然の神から人格化の神へ発展してき
たのである。地域の限りと民俗文化の変遷で、漢族古代歴史に記録された火神と他の
少数民族のは大きな違いがある。従来から多数の研究者たちが夢中に火神崇拝の由来
について研究したが、今でも統一的な結論はまだ出て来ていないようである。先行研
究から見ると、一番早く人格化された火神は神話の人物である燧人氏という人である。
その後、炎帝と祝融は火神や竈神とされたのである。また、火神と竈神信仰が徹底的
に伝播されなかったことから、ある民族や地域では、名高い祖先を火神や竈神とされ
たこともある。紙幅の限りで、少数民族の火神を今後の研究課題にし、以下は漢族で
の人格化された火神だけを論述することにする。
確かに、燧人氏は木を擦り合わせて火種を取るという技術の発明者であると思われ
る。けれども、歴史では、祝融を火神とされるのは一般的な認識である。というのは、
祝融の事績からすぐ分かるからである。祝融が伏羲、女媧、共公と同じように、自然
を崇拝する一柱の氏神であるといわれる。祝融が火、伏羲が太陽、女媧が月、共公が
水をあがめる。
『山海経』に記録されたように、祝融は中国の火神の一人である。
「祝
融」という言葉はもともと火を代表するのである。
祝融は氏族社会で生まれ、氏族首領の息子であると言われる。本名は黎である。そ
の時代の人間はもう木を擦り合わせて火種を取る技術を身につけた。だが、その火種
をどのようにうまく使うか、そして保存するかについて、全然分からなかったようで
ある。氏族の移動を契機に、祝融は火種を取る石だけを持って、移動の旅に出た。だ
が、夜に火を使おうとする時に、なかなか火が取れなかった。仕方がなく、激しく怒
った祝融は火種を取る石を石の山の上に落下した。石が落ちた瞬間にまぶしい火花が
出てきたのである。その場面を目撃した祝融はとっさに火種を取る妙案を思いついた。
その後、火種の取り方と保存方法はもはや困らせることではなくなった。つまり、祝
融は木を擦り合わせて火種を取る上に、石で火種を取る方法を発見したのである。し
たがって、祝融が有名になってきた。
その噂を聞いた黄帝が驚いたので、祝融に火を掌る職に封じた。それゆえ、祝融が
「火正宮」と呼ばれる。職と共に、「祝融」という名前も与えたのである。延々に人間
に光明をもたらすようにという意味である。
すなわち、祝融は火を掌るのに得意であるので、容易に火種を取る方法と火で戦う
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中日灶神信仰的比较研究 

方法を発明した。だが、そればかりではなく、祝融はまた火で食べ物を焼いた後食う
こと、火で暖を取ったり照明したりすること、病気にならないように湿った空気と蚊
や虫を駆除することなどの遣り方を人間に教えたのであると言われた。そういうわけ
で、人間は祝融のことを非常に尊敬し、「赤帝」という名をつけ、毎年立秋の後に祭
祀するのである。さらに、後世の人間は祝融が妻を娶った、子孫を育った竈神とされ
たのである。
科学技術が立ち遅れた古代では、火に対する認識が貧乏な人間は火が神秘的なもの
であると思ったのであろう。それゆえに、火をつかさどる者は神であると考えたのも
当然である。

2.1.2 日本における竈神の前身
柿山隆(2000)は火神は水神と同じように、自然現象の神であると述べた。日本で
は、火神の祖神とされる神はカグツチである。またはこの神がときどき火産霊神と呼
ばれる。祝融の名前と同様に、「カグツチ」という名も特別な意味を含めている。日
本では、
「カグ」は「ものが燃えているにおいがする」といった意味とする説がある。
「ツ」は古語で、日本現代語の「の」と同じである。そして、最後の「チ」は超自然
的な物を表現する時に、よく使われる言葉である。特に神聖的な神様のことを表す時
に用いる。それで、総じて言えば、カグツチの名前は「燃えているにおいがする火神」
という意味を表すと考えられる。
カグツチは『古事記』と『日本書紀』に描かれた神である。この火神は伊耶那岐と
伊耶那美との間に生まれた子である。詳しいことは、『古事記』の中にこのように述
べている。

次に火之夜芸速男神を産みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神と謂
ふ。此の子を生みしに因りて、みほと炙かえて病み臥せり。(中略)
伊耶那美神は、火の神を生みしに因りて遂に神避り坐しき。(中略)
是に伊耶那岐命、御佩せる十拳剣を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまひき。

このように、生まれたばかりのカグツチは、妻をなくした悲しい父親自らに殺され
たのである。殺されたカグツチの血から、次々に石鎚、火の動き、水を掌る八柱の神々
が生まれた。さらに、死骸からもまた山や樹木などを掌る八柱の神々が生まれたので
ある。
日本の火神のことを一見から見れば、分からないことがある。それはそのカグツチ
は一体どのような神秘的な超能力を持つのか、そして人間はどうして生まれたばかり
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ですぐ殺されたカグツチを火神と強く信じているのかという疑問が出てきた。
実は、祝融と同じように、神話の人物であるカグツチは確かに火が燃えることのほ
かに、別に特別はっきりと見て取れる能力がない。だが、カグツチは死後、多くの神
を生み出してくることから、火はさまざまな物を生み出すことが明らかにされたので
はないであろうか。つまり、火が物を生み出す能力があると日本人がそのように強く
信じ、火神を大切にするのであると推測できる。
それから、日本の神道では、カグツチはオキツヒコ、オキツヒメと共に、竈三柱神
とされている。人間の生活を守護し、富を与えてくれたりするので、普通、竈神と呼
ばれるのである。

2.2 火神から竈神への変身
長い間、火で煮炊きするため、火を焚く装置が出現した。それは「竈」というもの
である。竈の歴史については、さかのぼって見ると、竈のもともとの姿は原始人が野
外で燃やして、どうしても消えない「長明火」というものであると思われる。
詹石窓、張秀芳(1994)は最初に火種を保存する竈は火神が住むところとされたの
であると述べた。また、竈神が火神との繋がりが深い、竈神はそのまま火神から変身
したとも言えると分析した。すなわち、最初に現れた竈が火の居場所で、両者には離
れない関わりがあると考えられる。その時の火神が竈の神と見なされ、因みに竈も神
格化されたのである。しかしながら、原始人が固定的な住居に住むにつれ、竈も野外
から部屋の内へ移された。したがって、火神は外の火を掌る専門神とされ、竈神は火
神から分離され、主に竈や室内の火を掌る独立の神となったのである。
詳しく言えば、原始時代の火神はたくさんの肩書きを持ち、「竈神」は唯その中の
一つであった。火神は自然の火をつかさどる以外に、氏族を守ってくれるのであった。
だが、社会の発展に従い、分業も出現したのである。そればかりではなく、一つ一つ
の家庭がつくり上げられたため、竈の数も増えてきたのである。竈は徐々に家庭の隆
盛を代表するものとなった。
それゆえ、中国では、火神と違い、家を守ってくれる竈神が公式的に登場したと思
われる。人間はこの生活に強く繋がっている神をもっと敬けんで誠実に尊敬し慕って
きたのである。中国の竈神は「竈王」、「竈君」、「竈王爺」、「竈王菩薩」、「東厨司命」
などの別称を持っている。地方によっては、旧暦 12 月 23、24 日の夜に、天に昇り、
その一年間に監察してきた一家の人々の行為の善悪を玉皇大帝に報告する。それから、
大晦日の夜更けに、人間の家に下すべき吉凶禍福を携えて再び台所に降り、またこれ
からの一年に一家を監察する。というのは、われわれが竈神への一般的な印象である。

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中日灶神信仰的比较研究 

それに対し、現在では竈神を、日本の中国地方より西や関東地方で「荒神様」、東
北地方では「ひょっとこ」、「火男」、「カマジン」などと呼ばれる。「荒神」と呼ばれ
る地方では、普段火と水の神として台所に白い幣を竹串に挿したものを三本捧げて祀
られる。そして地方によって、赤青黄という三色の幣のところもあると言われる。さ
て、「ひょっとこ」などと呼ばれる地方では、竈神を異形の男と思われ、醜い顔の面
を竈の柱に吊り下げておくのは普通である。つまり、日本では、「竈神」のほかに、
それと同じような呼び方もいくつかあるのである。

2.3 まとめ
このように、最も古い竈と言えば、原始人が体の温め、獣の追い払い、物の加工な
どの用途で燃やした火に遡られるのである。火をつける場所が家の外から内に移動し
た後、本式の竈が現れたのである。しかしながら、その時の竈は相変わらず火の神と
深く関連していた。人間の歴史の変遷に伴い、竈が社会生活と道徳理念と徐々に結び
始めてきた。そういうわけで、祭祀対象は火の神から人間日常生活に緊密に関わる竈
神へ移してきたのである。
また、火神は自然の火をつかさどる神で、物性と人間性の性質を持ち、火の化生で
あると思われる。一方、竈神は人工の火をつかさどる神で、人に神格化され、人格神
の傾向が強いと思われる。この点について、中国の火神と竈神の関係を見たら、その
区別がはっきり見える。
一方、日本人はよく自然を感じるため、主体の人間を自然の一部になるように、客
体の自然と融合する習慣がある。すなわち、日本人の考えでは、人間は自然を征服、
勝つのではなく、逆に自然と友達になり、自然に従うのである。それは中国人の自然
に対する観念と大きく違っている。そういうわけで、日本の火神から竈神への変身は
中国のように、はっきり見えるプロセスがあるのではない。たとえば、現在の日本で
も、竈神が変身される前にその呼び方がまだ呼ばれているところもある。

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3.中日における竈神のイメージ
中国と日本の竈神イメージについて、それは両国の文化、宗教と深く関係するため、
イメージを研究しようと思えば、両国の宗教をもとにして論じたほうが妥当であると
思われる。
言うまでもなく、中国では、竈神が道教における神である。林継富(1996)による
と、この神のイメージについて、従来から今まで、動物の蝉、ゴキブリ、猟犬から、
女性である「火母親」、男性である「張郎」まで、次々にさまざまな異なる姿が現れ
たことがある。それらのイメージは社会の発展、民間信仰の変容、道教の形成と発展
に伴い、次から次へと変遷されたと考えられる。
それに対し、日本側の竈神のイメージは中国の道教ばかりではなく、仏教、神道、
陰陽道などの影響を受けたために、さまざまな姿が現れたのである。たとえば、仏教
における竈神は三宝荒神と呼ばれ、祖先神の性格を持つ。神道における竈神を竈三柱
神として祀られるのである。さらに、陰陽道では、陰陽道の神である土公神が竈神と
されて祭祀されている。
では、異なる宗教の下に竈神のイメージはどのような特徴があるか、それにお互い
のイメージにはどのようなつながりがあるか、という問いを明らかにするのは本章の
意図である。

3.1 道教における竈神
潘雨廷(2012)によると、中国の土地で生まれ育った制度化的な宗教である道教は
ほとんど後漢の後期につくりあげられたのである。李遠国、劉仲宇、許尚枢(2011)
によると、道教は中国古代の民間に始まり、黄帝と老子の思想、方術などと繋がる。
後漢における民間のシャーマニズムをもとに、道教の思想が民衆を影響し、道教が幅
広く広がっていたのである。道教が勢い良く発展している時代は唐、宋、元、明の時
代だと考えられる。張良の第八代目の孫である張陵は道教の創始者と思われる。道教
は、儒家の道徳基準の一つである「三綱と五常」、仏教の「輪廻」という説を取り入
れたのである。道教は符籙で霊魂と神霊を呼び出すこと、災いを払い幸福を求めるこ
と、丹薬を練ること、また修行することで「道」と融合し、神仙になれるという理念
を宣伝しているのである。
『道蔵』という書物は道教経書の一切経である。郝鉄川(2003)によると、現行の
明代に編集された『正統道蔵』には竈神についての内容が載っているという。その経
書はよく『竈王経』と言われる。道教経書に描かれた竈神の本体は「種火老母元君」
と呼び、全宇宙にその神の従属である竈神が分布する。さらに、人間社会にも五代の
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中日灶神信仰的比较研究 

竈神家族が存在すると書かれたのである。その五代の竈神の中に、男性の竈神と女性
の竈神を含めている。それに、それらの竈神の周りに大勢の用心棒、下女がいる。
よく考えて見れば、以上述べた竈神のシステムは先秦の前から竈神の変遷と大体類
似している。中国の竈神のイメージについて、原始社会以降の長い間にもオリジナル
のイメージに従っていたのである。民間信仰に属した竈神は、後漢に現れて盛んにな
った道教の発展につれ、道教神の行列に入れたことがよく考えられる。
オリジナルの竈神イメージとしては、袁珂(1998)によると、それは竈の上や周り
によく見られる蝉のことを指すのが分かった。蝉のような動物を竈神にする例が少な
くないのである。また、現在のチベットにおける少数民族のロッバやメンパ族にはイ
ヌを竈神にしているのは祖先から伝承してきた文化である。ほかに、唐と宋時代には、
竈神をゴキブリとされたこともある。さらに、シャーマニズムを信仰している少数民
族の間に竈神を女性の神とされる例もまだ存在している。普通「火婆婆」などと呼ば
れる。例えば、雲南省のナシ族では竈神を祭祀する際に主婦によって行われるのは通
例である。さて、祖先崇拝の現われと発展に従い、竈神のイメージは動物や女性から
炎帝や黄帝を初めとする男性の竈神に変遷されてきたのである。
原始社会の人間生活の環境と状況を考えて見れば、以上述べたとおりに、オリジナ
ルの竈神イメージはその時の各時期の社会に対応することは見逃されないであろう。
詳しく言えば、原始時代では動物は人間の友達であり、対敵でもあった。人間はそれ
らを慕いながら危惧していたために、動物を竈神にするのは理解しやすくなるであろ
う。
次に、黄永鋒(2006)によると、女性を竈神にするのは、当時の女性の社会と家庭
の地位と強く関わっていた。確かに、母系氏族社会の女性たちは社会生産の主力で、
特に食物を探すのには得意で、主導的な地位と支配権を握り、尊敬されていたのであ
る。それなら、当時の人間が女性を竈神のイメージにするのも当たり前のことであろ
う。さらに、男系氏族社会では、血縁集団に男性の地位が絶対で、原始時代の人間は
亡くなった祖先から氏族の子孫を守ってくれるようにと祈り、男性である祖先を崇拝
していた。男性の竈神のイメージもそのように考えればよいと思われるであろう。
原始時代の竈神のイメージに対し、道教に現れた竈神は、本章のはじめで述べたよ
うに、完全な神統記を持っている。原始時代の竈神を参考しながら、五行思想と中国
古代の家庭理念で、さまざまなイメージが派生されてきたのである。しかしながら、
どうして男女の竈神が同時に存在しているのか、という疑問を明らかにしなければな
らない。
つまり、全国に男性の竈神がいるのに対し、ある地域には、女性の竈神も存在して
いる。実は、これは道教の宗派の主旨と関わっている。周知のように、宋代の江南地
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域と河北地域から引き継がれてきた正一教と全真教は国家の制度に組み入れ、道教の
本流となっているのはいうまでもない。全真教は出家した道士をきびしく要求する。
一方、自己修養はあまりに重視していない正一教には結婚不可の戒律は別に強調して
いないため、竈神のような大家族の神統記の塑像は正一教に作られたのが納得できる
であろう。
このように、民間で伝承されてきたあらゆる神の信仰を統合し、纏めようという道
教の理念の下に、民間信仰とオリジナル宗教での竈神信仰は道教に受け入れられ、道
教思想の影響を受けながら、現在のような新しい竈神イメージが現れたのである。オ
リジナル時代の竈神は何でもできる神と考えられ、この神は人間の飲み食いばかりで
はなく、氏族や部落のことまでも守られると思われたのである。けれども、道教が竈
神信仰を宗教の規範に合わせたのであると思われるように、道教の竈神は地位が高い、
一家の善悪を監察する。そしてその功過表を携えて昇天し、玉皇大帝に上奏する「東
廚司命大帝」であると思われている。しかも、唐京京(2009)によると、中国の竈神
が縁起のいい神と看做されたこともある。
しかしながら、譚暁娟(2007)が述べたように、「張郎休妻」というようなマイナ
スな伝説で、竈神の地位が低めたのである。すなわち、マイナスな伝説のため、竈神
の出身が低く評価されてしまった。それで、竈神が徐々に軽く見られてしまうのであ
る。たぶん、それは現在竈神信仰の衰退を納得できる重要な原因の一つであろう。

3.2 神道における竈神
「神道」という言葉はもともと日本在来の言葉ではなく、逆に、中国の『易経』に
載せた言葉である。元来の意味は稲作のような自然の理法と説明される。つまり、自
然の道理に適った法則ということを指す。では、中国の熟語である「神道」はいつか
ら日本まで伝えられて行ったのであろうか。
三橋健(1995)によると、それは日本の奈良時代に中国から日本へ伝わったという
のである。さらに日本の文献に初見するのは、712 年に成立した『古事記』ではなく、
720 年に編集された『日本書紀』の中であるということも分かった。紙面の限り、こ
こでは詳しいことを省略することにする。
中国の道教と同じように、神道は日本に生まれ育った宗教である。神道は自然宗教
と厚く関わっている。例えば、自然の中によく見られる岩や、川、それに落雷のよう
な自然現象は神道が敬う対象である。すなわち、それは日本自国の自然信仰や民俗信
仰をもとに成立された宗教である。閉鎖的な信仰を拡大するために、日本の奈良時代
に日本土着の神道は一時期に伝わって行った仏教と習合したことがあるのである。歴

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中日灶神信仰的比较研究 

史では、それを「神仏習合」と呼ばれる。そういうわけで、日本の平安時代には、神
前読経などの行為が非常に広まったのである。神仏習合のような信仰形態は世界に類
のないことであろう。しかし、明治政府は、祭祀と政治を一致するために、明治元年
4 月に神仏分離の政策を公布したのである。道教と同じではなく、確認された神道の
創始者はいない。したがって、
『道蔵』のような経書もないのは言わなくても分かる。
神道は普通、皇室神道、神社神道、民俗神道、教派神道、原始神道、国家神道とい
うように分類される。神道の竈神は民俗神道に属する。民俗神道の中心は儀礼であり、
民間で行われてきた信仰行事を民俗神道と言われるのである。村上重良(1984)が論
述したように、民俗神道は仏教、密教、道教などの宗教思想と融合する例も多数であ
る。さらに、伊耶那岐流の影響もあるようである。
民俗神道では、竈神のことを竈三柱神とされ、祭祀するのである。この三神のこと
はオキツヒコ、オキツヒメ、それにカグツチを指す。ご周知のように、それらの神は
『古事記』に描かれた神である。けれども、オキツヒコとオキツヒメはスサノヲノ命
の御子である大歳の神の御子であり、竈を掌る神とされている。竈を使っていた以前
の台所にそれらの札を貼られていたのである。それに、本論の第二章で述べたように、
カグツチは火を掌る神とされている。
では、どうして神道には、竈神はただ一神だけではなくて三神があるのであろうか。
これは中国の道教の竈神体系と繋がりがあるのであろうか。それらの疑問を考えなが
ら、竈三柱神の歴史を見てみよう。スサノヲノ命は伊耶那岐が黄泉国から逃げ出し、
川の中で鼻を洗った時に生まれた子である。たが、カグツチは伊耶那岐と伊耶那美と
共に、最後に生んだ子である。それから、オキツヒコとオキツヒメは兄妹の関係であ
る。このように、オキツヒコ、オキツヒメ、カグツチの間には、特別な近い関係がな
いながら、三神を一緒に竈神にされるということが明らかにした。
一般的に、日本の神は自然神のような性格をもつが、竈三柱神のような、
『古事記』
の神話からきた神たちは遥かに人格神の性格を併せ持つのである。三橋健(1995)は、
そういう人格的な性格を持つ神の現象を日本人の神観念であると述べた。すなわち、
日本人は自然の中に、特別な存在で徳のある恐ろしい物事を神と見なす。三橋健の考
えが正しいのはいうまでもない。
けれども、石田一良(1984)によると、日本の神道自身は豊かな思想や内容を持っ
ていない。それで、社会の変化に対応するために、社会や時代が変化するたびに、神
道はその時の中心となる思想と結びつくというような特徴がある。神道の神観念の変
遷という角度から見れば、竈三柱神は道教の竈神の体系とそっくりであると思わない
であろうか。神道は道教や仏教などの影響で、自然神や観念神などのような神観念は
豊富多彩になり、神格化された人格神も現れたのである。このように、道教では、竈
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神が単一の神ではなくて、種火老母元君をはじめとする上下五代、男性ばかりではな
く、女性の竈神もそろっている家族である。日本の神道は道教の思想を取り入れた後、
道教の竈神体系を真似、男女がいる何代の竈三柱神を組み合わせたのであろうかとわ
たしがそのように推測した。
つまり、この竈神はもともと火を掌る火神とされて祀ったのが、次第に、さまざま
な性格が与えられ、複雑の神になっている。

3.3 仏教における竈神
日本の仏教は六世紀の中頃から、朝鮮半島を経由し、中国から伝えられていったと
いわれる。日本人と日本の社会に想像できない影響を与えていた。さて、橋本峰雄
(1998)によると、日本古代の神は恐ろしくて祟りやすい性格をもつのは一般的であ
った。けれども、日本へ伝わっていった仏教は多くの民族の異文化を取り込んだため、
仏教の影響でそのような神々は人間を保護するというような良い面が現れたのであ
る。また、若月正吾(1971)は日本の仏教における神々は、都市と村落の日常生活の
発展に沿い、あるいは人間の要望によると重編されたり、分裂されたりする特徴があ
ると述べた。このように、仏教における竈神は複雑で多様であるのではあるまいか。
笹田黙介(1908)によると、荒神は「貪欲神」、
「障碍神」、
「飢渇神」という三悪神
の「三毒」を受け入れ、祟りやすい神であると思われる。人間は荒神の「三毒」を「三
宝」へ転換させるため、祭りを介し、祈る風習が形成されたのである。
さて、日本の仏教に、現れた竈神のイメージは竈三柱神ではなく、三宝荒神である。
和田徹城(1918)によると、「荒神」という名前はもともと日本の在来神の名前であ
るか、あるいは宋代末に中国から伝えていったのか、それを証明できる証拠はまだな
い。けれども、それはインドの障碍神と強く関わっていたのは確かである。
仏教では、荒神は憤怒相の守護神である。荒神は九万八千の眷属を統率し、世界中
を遊行すると思われる。日本の荒神はインド仏教からの神ではない。なぜかというと、
仏教は六世紀ごろ、朝鮮半島を経て中国から伝えられた外来宗教である。それで、日
本の仏教を述べる前に、必ず中国に伝わった仏教を見なければいけない。紀元一世紀
に、仏教が遠路遥遥インドから中国に伝来した。その際に、中国にはもはや高度に発
達した文字や文学などの文化が存在していた。そういうわけで、インドの仏教思想な
どを全部そのまま受け入れたことなく、まずそれを変容してから採用するのは通例で
あった。それで、日本に伝わった仏教の内容は概念的なもので、荒神はインドの神と
異なっているということである。
荒神はインドの障碍神である夜叉の形態を日本在来の荒ぶる魂に引き入れられた

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うえに、神道をはじめ、密教、山岳信仰、または陰陽道などからいろいろな元素を取
り入れ、形成されてきた神である。つまり、荒神は日本の仏教で形成された神である
と考えられる。この荒神は主に屋内荒神と屋外荒神というような二種類がある。
三宝荒神は屋内荒神の代表的な神である。三宝と言えば、仏教の「仏」、
「法」と「僧」
のことを指す。つまり、仏は真理を悟り、生きとし生けるものを教え導く役目がある。
法は仏が悟った真理のことをいう。そして、僧は仏教の開祖である釈迦が教えてくれ
たものを守る信者たちである。その三つのものは仏教におき、宝のような物で、三宝
と思われるのである。屋内荒神は家の陰でこの家を守護する。さて、屋内荒神はその
まま荒神から分流されてきた神の種類ではない。それは、日本神仏習合の影響で、陰
陽師などにより、日本にいた火神や竈神に関わる荒神信仰と仏教の三宝荒神を繋げて
出来た神である。
それゆえ、三宝荒神の力が非常にすさまじくて、家を守護する神とされ、普通、日
本の竈や台所に祭られる。その姿について大別にすると、三つの頭と六本の腕、また
八つの頭と六本の腕、という二種類がある。前も述べたように、三宝荒神は憤怒相で、
それは密教の明王像と通じているそうである。つまり、その髪の毛が逆さに立て、目
を上方に引き上げて怒る表情である。憤怒の三宝荒神は暴悪を処罰し、人間を災いか
ら守るために、もしこの神を祭祀する信者を攻撃すれば、恐ろしい罰を下すと思われ
ている。
しかも、三宝荒神を台所や竈に祭るのは、この神が不浄が嫌い、火を好んでいるの
で、家のもっとも清浄な所である台所や竈に祭られるということである。それこそ、
日本の近世以降から三宝荒神を火神や竈神として、日本の関西を中心に、全日本へ広
まっていたのである。
三宝荒神は三つの身体があるという「無障碍経」からの説について、もともと如来、
麁乱、忿怒荒神のことを指すが、和田徹城(1918)によると、その経は中国で作られ
たもので、純粋な釈迦の教理とはあまりに言えない。けれども、中国の仏教に深く影
響され、それを深く信じる信者が多くいるのは事実であろう。
よく考えて見れば、日本人が疑わずに三宝荒神を竈神とする由来は一体いかなる理
由であろうか。この疑問について、和田徹城(1918)が取り上げた二つの理由で説明
すればよい。一つは三宝荒神の具体的な由来を証明できる文献は存在しない。それに
火神のカグツチは本当の竈神であるかどうか、それも分からない。そういうわけで、
日本人は荒神が災いを除去する能力があるので、荒神を火災を除ける神として祭られ
た。
また、荒神が火と縁があるため、あっさり竈神とされたのである。一方、もう一つ
の原因は、日本古代の人たちは竈と荒の字音を間違えてしまったので、竈神を荒神と
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信じたのである。すなわち、「竈」の字音はソーであり、漢文の読み書きに通じた学
僧のように字音を厳しく読めない当時の俗人たちは「竈」の読み方が分からないので、
初めからそれを「荒」の字音であるコーと混同してしまい、竈神を荒神としたのであ
ると考えられる。

3.4 陰陽道における竈神
周知のように、日本の陰陽道の源流は中国の陰陽五行説と、陰陽五行説をもとにす
る道教のさまざまな方術である。中国の陰陽五行説の歴史を遡ってみると、それは陰
陽家と五行説という二つの面から発展してきたのである。
陰陽は自然世界のすべてが陰と陽の二気により、現れるという陰陽思想である。一
方、五行説は世界のすべてが水、火、木、金、土から構成する思想である。さらに、
道教の方術とは仙になれることを目指し、焼丹や金丹、禁呪、そして祈祷などの術を
身につけるということである。
高尾義政(1993)によると、六世紀の初期に、陰陽道が中国から日本に伝わったそう
である。七世紀末頃、初めて陰陽師が現れた。それから、陰陽寮で陰陽道が吉凶を判
断する専門とされたのである。しかも、賀茂家と安部家を初めとする陰陽道の研究家
により、陰陽道は、神道、仏教、それに道教などの宗教と融合しながら、徐々に日本
の自然科学と呪術のシステムとなった。
土公神は日本の陰陽道における地方の土地を掌る神である。言うまでもなく、この
神は中国の道教の土地神から変遷してきたのである。つまり、中国の土地神が日本に
伝わってから、日本の陰陽師によって民間で祭られる土公神となった。その呼び方は
五行説の土地を掌るという点から付けられたと思われる。地域によって、ドックサン、
ドクウサン、ロックサン、ロックウサン、オドクウ様などと呼ばれる場合もある。
日本の陰陽道では土公神を、土地の守り神、移動する神などと位置づけられている。
『民俗学辞典』には、竈神の解釈について、もし陰陽師が入り込んだところでは竈神
を土公神とされる習慣があると載っている。それに、日本の中国地方や四国では、土
公神は竈神の仲間とされ、篤く信仰されているのである。この神が移動する神とされ
る説は、春に竈、夏に門、秋に井戸、冬に庭というように、四季に土中から東西南北
の各面に移動するということである。
土公神を竈神とされる原因は二つの面から理解できると思われる。
第一には、先に述べたように、土公神の名前は五行説から出来たのである。だが、
五行説には土で竈を築き、金のなべに水を入れ、木を燃やし、火でご飯を作ってたべ
るという解釈がある。つまり、この神は竈とのかかわりがある。日本の中国地方では

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土公神を竈の守る火神として祭る風習があるように、民衆たちはいっそう竈と縁のあ
るこの神を竈神と信じたのではあるまいか。
第二には、三宝荒神と同じように、土公神は竈と縁があり、不浄が嫌いで、さらに
一家のことを守護すると思われるので、それを清浄なところである竈に祭り、徐々に
竈神とされたと考えられる。

3.5 まとめ
この章は、両国の宗教文化の特徴とお互いの文化交流に基づき、中国と日本におけ
る竈神の様々なイメージの由来、変遷と今の現状について、論述した。
中国の竈神は原始社会では、次々に人間の自然崇拝、動物崇拝、女性崇拝、それに
祖先崇拝とつながっていた。後漢に道教の創立に従い、民間信仰の竈神が道教に受け
入れられ、複数の神から竈神の家族となっているのである。しかも、竈神は「力」の
強い民間の神から、道教新譜の中の小さな民間神へとなってしまった。いずれにせよ、
中国の竈神は民間に生まれ、道教に育った神と考えられるであろう。
一方、日本側の竈神のイメージは中国より少し複雑である。宗教によって竈神のイ
メージが違う。たとえば、伊耶那岐流などの思想の影響で、民俗神道に属する竈神の
イメージは、竈の神であるオキツヒコとオキツヒメ、火の神であるカグツチという竈
三柱神であると思われる。だが、日本の仏教におき、三宝荒神が竈神のイメージであ
る。前に論述したように、このイメージの形成は仏教の変遷と緊密に関わる。それか
ら、中国の陰陽五行説と道教の方術を参考しながら、六世紀から発展してきた日本の
陰陽道には、移動する神と言われる土公神は竈神であると思われる地域もある。土公
神が中国の土地神の異変であると考えられるが、日本本土思想の影響で特有の神とな
った。

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4.中日における竈神の機能
何星亮(1992)が述べたように、自然の神々は自分特有の性格と職能がある。した
がって、最初の職能は必ず自分が掌るものに関係する。例えば、火の神が火を、雷の
神が雷を、風の神が風を、土地の神が土地を掌る。それは各神一番最初の機能である
と思われる。だが、生産力の向上と社会の発展に従い、人間の生活が豊かになってし
まい、手に入れたいものが多くなるのは人間性というものである。しかしながら、自
然への認識が不十分で、途方に暮れた人間たちは、自分の望みをある自然の神に託す
しか、ほかには方法はなかった。それで、自然的にこのような神たちが自分本来の機
能の以外に、新しい機能が増加されてきたのである。
このように、神の機能が複雑になり、一神が複数の機能をもつような場合も現れて
きた。たとえば、チベットのある地域における牧畜民たちが山の神を信仰している。
そこの人から見れば、山の神はただ山を掌るのではなく、風を起し、雨を降らせるほ
どの大自然を支配し、超能力を持っている神であると考えられる。
中日における竈神は、上に言及した神と同じように、その機能がもともと単一から、
現在の複雑さに変遷されてきたのである。この章は、中国と日本側の竈神の機能につ
いて論述しておきたい。論文の章立ての都合で、本章の 4.1 は中国における竈神の機
能で、4.2 から 4.4 までは日本側の竈神の機能であるというように論述しようと思う。

4.1 万能の竈神
中国の竈神は社会の発展と古代王朝の入れ替わりにつれ、絶えずに変わっていた。
が、その機能も本来に一家の飲食をつかさどることから何でもできる腕前へと変遷さ
れてきた。以下は中国の歴史をもとにし、竈神の機能の変化を見てみよう。
先秦以前、竈神の機能は一家の飲食をつかさどるということであった。その時、わ
れわれの祖先が非常に時代遅れの社会に暮らしていた。彼らは主に自然現象を神とし、
信仰していた。だが、奴隷社会に入れ替わったことにつれ、社会では私有制と階級も
現れたのである。さらに、専制支配者の出現に影響され、宗教の中にも階級が出てき
たということである。竈神が天神系統に対し、地祇系統に属した神であった。地祇系
統には「社稷」をはじめ、さまざまな分類がある。竈神がほかの門神、井神、戸神、
そして中溜神(家屋を守る土地神)とともに、「五祀」の派別に属した。その時の竈
神はただ炊事のことだけを管理したのである。
さて、漢代に入ると、竈神の機能が人間の長寿、金運、官職までつかさどるように
増えてきたのである。漢武帝が絶えずに不老長寿を求めていたので、当時の方士たち
は皇帝を喜ばせるために、その好みに合わせ、いかなる極端な手段を選んで用いたの
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である。不思議なことに、漢武帝は、竈神を祭祀すれば、辰砂が黄金に変わるのであ
り、その変わってきた黄金で食器に作り、それでご飯を食べたり、水を飲んだりすれ
ば、命が延ばせるというような方士から聞いた何の根拠もないでたらめの話を強く信
じたのである。
そういうわけで、漢武帝を代表とする官位が高くて高貴な人たちの中に、竈神を祀
るブームが盛り上がってきたのである。竈神が人間の崇拝によりその地位も以前より
大きく向上したのである。当然のことながら、機能も多様と増えたのである。
晋の時代では、竈神の機能はまた、人間の寿命を減らす、罪を記録する、定期的に
天帝に報告するといったことを増加したのである。それは道教の出現を契機としたの
はいわなくてもはっきりとするであろう。民間の神とされた竈神が道教の霊魂と神霊
システムに組み入れたとともに、その機能も適切に調整されたのである。竈神は人間
界におき、人間の罪を記録し、そして定期的に天に昇って天帝に報告するという形で
あった。天帝が竈神から報告した内容により、適当な処罰を伝えるのである。竈神は、
大きな罪を犯した人間に 300 日の寿命を減らす、小さい罪を犯した人間に百日の寿命
を減らすというような処罰をする権利を持っている。
それから、唐代から明代にかけ、災いの払い、家族の序列と打ち解け、つき合うこ
と、家族の安全を守るというようなことは竈神の新しい機能である。それは道教が当
時に勢い良く発展していたことに関係していたのである。その時代の竈神が「東厨司
命」と呼ばれた。ここで説明しなければならないのは、先秦以前、「司命」とは竈神
と異なり、天神系統に属する神であった。その機能は普段人間界におり、人間の過ち
などを監査し、それに定期的に玉皇大帝に告訴するというようなことであった。つま
り、本来の司命が竈神と違い、別々の機能を管掌していた。 
しかしながら、宋代に入ったら、いつの間にか、天の神である司命と地祇の神であ
る竈神という二者が合体して一柱の神となった。合体についての原因は「三尸」(人
の腹にすむ三匹の虫という道教の説)と関係があるのであろうかと思われる。郝鉄川
(2003)によると、晋代では、司命が人間界を離れ、天の上に行ったのである。それ
で、司命のかわりに、三尸が庚申の夜に、人が寝ている間に天に昇って司命にその罪
過を密告する。 
こうすれば、三尸と竈神の機能が挟んでしまったのであろう。それゆえに、道士た
ちがあっさりと司命と竈神を合体し、司命を竈神としたのであると考えられる。竈神
がどうして監督のような機能をもつかについては、奈良行博(2007)がこう説明した。
つまり、人間が自分の感情や欲望などを抑えたり、一人になった時、常識から非常に
外れる行為に走ることを注意したりするため、そのような機能を与えたのであると考
えればよい。 
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最後に、清の時代には、竈神が何でも掌る、何でもわかる、何でもできる神となっ
た。総じていえば、この時期の機能について、郝鉄川(2003)がそれを四種類に分け
たのである。簡単に言えば、つまり、①自然界に生きているものを守護すること。②
家族倫理を違反するかどうかの監査。③人間関係のルールを破るかどうかの監督。④
国家の政治や役人の利益を脅かすかどうかの監査、ということである。以上の機能を
見たら、思わずに竈神の厳しさが感じられるであろう。竈神の機能がこのように変遷
されてきたのは、必ず当時の社会生活や支配階級の管理ときわめて密接な関係がある
と考えられるであろう。 
さらに、道士たちは竈神が吉凶を占う、病気を診察するまでの機能をもつと言いふ
らし、竈神専用のおみくじも作り出したのである。殷登国(2011)が述べたように、
人間が竈神の前で吉凶を占うという行為は「祝竈」と呼ばれる。このように、道士の
お節介により、中国の竈神の機能が増え、竈神が徐々になんでもできる、腕前が優れ
た神とされた。そういうわけで、多くの神の中で、人間に一番影響深いのは竈神であ
る。人間は竈神の力を恐れ、縛られるので、皇帝から庶民まで、皆は竈神を崇拝し、
用心に用心を重ねて祭るのではないであろうか。 
 

4.2 イエの守護
いろいろな先行研究と参考文献を読んでから、日本の竈神の機能が分かるようにな
った。その機能を総括して見れば、大体イエの守護、火伏せ、農作物の保護などと大
別できると思う。本章から 4.4 章まで、日本竈神の主な機能について、論述しようと
思う。
柿山隆(2000)は日本の竈神を共同体の神としたのである。共同体に属する神が大
体何種類に分けられる。つまり、イエの神、同族神、道祖神、土を鎮めたり守ったり
する鎮守神、それに生まれた土地の産土神ということである。柿山隆は竈神をイエの
神に区別した。わざわざ詳しく説明しなくても誰でもわかるように、イエの神とは一
家を守り、家族の繁栄とお守りというような神であろう。この竈神はそういう神なの
である。
たとえば、日本の東北地方では、竈神の由来についての伝説が伝わっていた。それ
は村に住んでいたある貧乏の老人夫婦のことであった。男は仕事が終わり、家に帰る
途中で会った泣き子供を家まで負っていた。帰ってよく見てみると、餓鬼のような、
めちゃくちゃ醜い子であった。それにしても、男はいつもその子の面倒を見ていたの
である。さて、子供は何時になってもずっと炉辺に座り、自分の腹をあぶっていたば
かりである。ある日不満を伝えようとした男は偶然に子供の臍を触ったところ、一枚

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中日灶神信仰的比较研究 

の小判が臍から出てきた。それは子供から夫婦への恩返しであった。その後の毎日に
一枚の小判が臍から出たのである。それで、夫婦の家がだんだん豊かになってきた。
けれども、欲が深く、飽くことを知らない女は一回に多くの小判を貰うために、火箸
で子供の臍をつついたが、お金が出ずに子供が死んでしまったのである。夫婦は子供
のいかめしい顔を面に作り、土間の竈の辺りに、それを家神である竈神とし、祭って
きたのである。今でも、村にはそういう習慣が広がっているのである。
この話から見れば、顔立ちの醜い竈神が貧乏なお爺さんとお婆さんの家に入ってか
ら、この家に幸運を持ちつつ、老夫婦の生活が貧しさから豊かな生活へ変わった。こ
のように、狩野敏次(2004)は竈神は一家を守護する神であるこそ、家の経済や財政
を掌るのであると述べたように、日本東北地方の竈神が一家の繁衰に深く関わってい
ることははっきり見える、と思われるであろう。
このように、竈神は一家の人口繁栄、無病息災、厄除け、家内繁盛といった家の盛
衰に関係するようなことを掌っていることが分かった。

4.3 火伏せ
日本の竈神のもう一つの機能は火伏せである。火伏せとは火災を防ぐということで
ある。竈神が火の守護神とされ、火災とそのほかの災難を除けると思われる。
飯島吉晴(2010)によると、火が光明と燃焼、創造と破壊、精神と物質、結合と分
離を意味する。つまり、火が良い面と悪い面という相対的な特徴を持つのである。こ
の二重性格を持つ恐ろしいものであるこそ、人間の生活に欠くことが出来ない役割を
果たしているのである。
藤井正雄(1993)は、荒神は火伏せの神であり、竈神は竈の神として両者を区別す
ると述べたことがある。けれども、前章で述べた日本仏教における竈神、いわゆる三
宝荒神が従来から火の管理者とされているのである。三宝荒神は部落神、屋敷神、ま
た同族神などの性格を持つ土地荒神のことを融合しながら、徐々に火の神や火伏せの
神のような性格を身につけてきたのである。
さて、日本の沖縄地方での民衆たちは古来から火神と竈神を同視する傾向があるの
で、竈神は火災を除け、無病無災の加護ができる神とされているのである。火がわれ
われの人間の生活に便利さをもたらすので、火が想像できない力をもつと思われる。
その火のメリットをうまく利用できれば、物質だけではなく精神的なものをもたらせ
るが、逆に、火を適当に扱わなければ、人間に死ぬまでのひどい災害を引き起こす可
能性もあるのである。
つまり、火が生命力と死を象徴できる。火は食べ物を煮ることの媒介として、いつ

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宁波大学硕士学位论文 

も竈の中に住んでいる。人間は火が狂わないように、というような願いを竈や火を掌
る竈神に託す。そういうわけで、竈神が火伏せの機能を持つのは理解しにくいことで
はないであろう。

4.4 農作物の保護
『民俗学辞典』を引き、竈神についての内容を見ると、予想を超えたのは、竈神
が田の神のように、農作業の始まりと終わりに、山と村との間を往来すると思われる
ことである。そうしたら、竈神がただイエの守護と火伏せの限りではなく、農作のこ
とまでも掌るのは確かに日本らしい民俗と思われる。
竈神が農作物との縁は二つの面から理解すれば、はっきり分かる。一つは柿山隆
(2000)が論述したように、竈神がわれわれ毎日取り入れ煮炊きする農作物と密接に
関わっているのである。この点は中国のロッバ族における竈神と狩りのことに類似し
ていると思われる。ロッバ族は中国のチベット系少数民族である。歴史をのぼって見
ると、生活環境のクローズで、農業生産用の道具が簡単で粗雑である。それで主に焼
畑農業の方式で暮らしてきたのである。食料不足の問題を解決するため、狩猟はロッ
バ族の生活で一つ重要な経済活動となる。狩猟の収穫が竈神に掌られると信じるため、
狩猟の前、途中、後という三つの時期にきちんと竈神を祀る習慣があるのである。し
かも、実は、日本の関東地方では、稲や麦の刈りと田植えの後に、別々に稲、麦、苗
を竈神にそなえる習俗が広がっている。
このように、日本の竈神にしても、ロッバ族の竈神にしても、両方とも人間の食と
緊密に繋がっていることは見逃せない。農業の作物が主な生活の出どころとされる村
では、一年中に五穀豊穣の願いを竈神に託しようと思うのであろう。それで、竈神が
農業の神との性格も合わせて持つのではないであろうか。
一方、狩野敏次(2004)は竈神の起源を論述する時、日本の岩手県を代表とする地
域では、竈神が水界からきたのであると述べた。つまり、岩手県のあたり、竈神の出
自の伝説に描いた竈神は竜宮の童子であると思われる。さらに、岩手や秋葉地方に、
河童を竈神とされるところもある。竜宮の童子や河童は両方とも、水や泉と密接にか
かわるのが共通である、ということは見逃せないのであろう。水はわれわれ人間にと
って、欠けると生命を脅かすほどの重要な資源である。さらに、農作物は水不足とす
れば、その収穫に深刻化に影響するのは何より厳しいことであろう。そういうわけで、
人間はまた、気候が順調に進めるようにと守ってくれるというような望みをこの水界
から出自した竈神に託したのであろう。
以上には、竈神と食という面、また竈神と水という面から、竈神の農作加護につい

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中日灶神信仰的比较研究 

ての機能を述べたのである。総じていえば、食料は人間の生活で何よりの大切なもの
である。従来から煮炊きする食事はわれわれの生活習慣となった。そのように、一定
的に言えば、食料が竈と親密で、切っても切れない関係をもつため、竈神が農作の豊
穣を加護する神とされるのはまったく人の理にかなっているのではないであろうか。

4.5 まとめ
以上の通りに、中国の竈神の機能は歴史の流れにつれ、広く広がるのである。原始
時代から封建制度の現れにかけ、竈神がただ一家族の飲食を管掌するのである。漢代
に入り、皇帝が不老長寿を求めるため、一時に神仙方術が朝廷をはじめに、全国まで
広く流行していたのである。それを契機に、竈神は人間に栄華と富貴をもたらせると
思われてきた。
しかも、晋代道教の出現で、民間信仰の竈神が道教に取り入れ、天に昇って人間の
罪悪を玉帝に密告する位の低い神とされたのである。その後、竈神の機能がもっと複
雑に変遷され、一家の守護神となった。さらに、清代に人間は竈神の神力にもっと頼
るので、前の機能を踏まえ、竈神は占うことから病気を診察することまでの何でもで
きる神であると思われる。
それに対し、日本側の竈神の機能は中国のように、複雑ではない。主な機能はイエ
の守護、火事の予知、五穀豊穣の加護というように考えられるが、それ以外に、竈神
は眼病を治し、盗人を除けるなどといった機能も持っているのである。それは特に日
本の東北地方でよく流行る説である。
このように、中日の竈神の機能がどれぐらいであるか、本章を通じてよく分かって
きた。中国人は竈神がずっと一家のことを監督し、自分の罪を密告すると強く信じて
いる。日本の人々は竈神がさまざまの神の性格を併せ持って、イエから畑まで、事々
を掌るからこそ、祟りやすい神とされる。そういうわけで、竈神の恩恵を感謝するた
め、中国ばかりではなく、日本では竈神に対する祭祀が豊富多彩である。だが、その
力が恐ろしいので、竈神に関するタブーが多い。

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5.中日における竈神信仰に関する行事
沈利華(2005)は中国の民間信仰における竈神信仰が約二千六百年前にすでに存在
していると述べたように、竈神は従来から中国の神族の一人として重要な役割を演じ
ているのである。もちろん、日本の竈神信仰のブームは中国のより、ずっと遅いかも
しれないが、日本人は荒神としての竈神をきちんと尊敬し、特に農家で大切に取り扱
っているのは確かに事実である。中日の竈神信仰が自国のさまざまな伝統的な文化に
関わるため、すでに自国の民俗信仰の一つとなった。それなら、これから中日両国の
竈神信仰についての奥深くの文化を見ながら、その信仰の特徴をもっと体得しよう。
中国と日本では、竈神が力の強い神とされ、非常に崇め敬ったら、きっとそれにか
かわる祭祀や禁忌があるのであろうか。それでは、中日竈神信仰に関係する祭祀と禁
忌を見ておきたい。

5.1 竈神への祭祀
仲富蘭(2007)によると、人類の宗教信仰がほぼ旧石器時代の後期に形成してきた
のである。且つ、新石器時代の母系氏族社会では社会分業で、女性が家を出て漁労と
狩猟をする必要はなかったため、女性たちは歴史上に一番最初に祭祀を行う人であっ
たといわれる。宮家準(2008)は人間が祭祀を実行する原因、特に日本の祭祀構造を
はっきり論述したのである。つまり、人間は祭祀を通し、自分の祈願や願いを神に訴
え、それをかなうようにと祈る心理を持っている。たとえば、江新興(2006)による
と、日本の伝統的な農家には、よく血縁と地縁を中心に、いろいろな祭祀を行う習慣
があるのである。そして、祖先祭祀とあまり関係がなくても、一般的に認められた宗
教信仰の荒神と竈神を農家で祀るのは珍しくないのである。
以下では、中日竈神についての祭祀の日時、場所、司祭者、供え物、祭文、儀式な
どを明らかに論述してみよう。

5.1.1 祭祀の日時
祭祀の日時は祭祀の中で一番大切な構成要素であるといわれる。中国側の祭祀日時
については、現在まで、説得力のある先行研究はまだ少ないが、郝鉄川と李現紅の研
究成果が参考できると思われる。郝鉄川(2003)は中国の歴史時間帯をもとに、先秦、
漢代、晋代、南北王朝時代、唐宋時代、元から現代に至るまで、という六つの時間帯
における祭祀日時の特徴をはっきり述べたのである。
つまり、先秦における竈神の祭祀は全部夏の季節に行われた。漢代には夏だけでは
なく、歳暮の際にも祭られたのである。晋代なら、時間が毎年の 4 月と毎月の一番最
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中日灶神信仰的比较研究 

後の日に変遷されたのである。南北王朝時代は農暦の 12 月 8 日であった。唐宋時代
に入ったら、急に複雑になってきたのである。農暦の 8 月 3 日や毎月の最後の日、ま
たは 12 月 8 日で祭祀を実行していたのである。しかも、元代から現在にかけては、
祭祀の日時が変遷しつつあったにもかかわらず、概ねに纏めてみれば、南北地方での
祭祀は一日の差があり、北のほうが旧暦の 12 月 23 日で、南のほうが 24 日で祭った
のは多いと思われる。
このように、古代から現在にかけて、竈神の祭祀日時が社会の発展に従い、簡単か
ら複雑へと、複雑から同一へとなってきた。
それから、李現紅(2012)は古代の貴族と庶民という二つの面より祭祀の日時を論
述したのである。つまり、先秦から清代にかけて、五祀の一つである竈神祭りは厳か
で、朝廷によって行われていた回数が多かった。だが、その後、竈神祭りが次第に民
間の春節活動となり、毎年一回だけで行われるように変遷してきたという。
一方、日本側の竈神にかかわる祭祀日時は中国のように、複雑な変遷歴史を持って
いない。それどころか、飯島吉晴(2010)によると、土間に祭られている竈神は本物
の神より精霊に近くて定期的な祭日もないのである。それにしても、安原清輔(1919)
は少なくとも年に一回の竈神祭祀を行うべきであると述べた。実は、日本の祭祀日時
を纏めると、以下のとおりに述べられる。
第一、荒神を竈神とされる地方では、よく毎月の最後の日に祭られる。
第二、中国の竈神信仰の影響を受けた日本の沖縄地方の大部分地域では、旧暦の 12
月 24 日は竈神の上天する日と思われ、その日に祭るのは習俗となった。しかも、上
江洲敏夫(1976)によると、沖縄諸島では火神を竈神とされ、定期的に毎月の 1 日、
15 日に祭るのである。
第三、竈神の機能に関わるために、人間は、結婚の際に、旅立ちの際に、農耕儀礼
や出漁の出発前に、赤ちゃんや家畜が生まれた際などの時期、必ず竈神を祭祀する習
慣があると思われる。たとえば、服部純子(1999)によると、日本では田の神と農神
の信仰が広く広がっている。「さ上り」という祭祀がそれに関わる代表的な祭りであ
ると思われる。つまり、それは田植えが終わった後、田の神を送る儀礼である。その
際、必ず竈神を祭る風習がある。

5.1.2 祭祀の場所と司祭者
中国の漢代以前は貴族と庶民の身分制が厳しかったので、天子と諸侯たちは宗廟の
付近(普通は宗廟外の東における小屋)で竈神をまつるのである。それに対し、庶民
たちは身分の限りで自家の屋内で行うのが多いと郝鉄川(2003)が述べた。しかも、
漢代から清代まで、祭祀の場所が宗廟の外から中に移され、皇帝や皇帝の代行により、
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宁波大学硕士学位论文 

祖先を祭るついでに、竈神を祭祀するようになったのである。庶民が相変わらず、自
家の台所で竈神を供養するのである。
さらに、唐代以降、道教の道士たちが毎年の旧暦 8 月 3 日に、場所を選んで竈神を
特別にまつるという宗教的な祭祀は始まったのである。その後、清代以降、封建社会
の滅亡で皇帝や貴族がいなくなってしまったので、貴族の祭祀もそれに従って消えて
しまったのである。庶民と道教が竈神に対する祭祀だけを残したのである。
このように、皇帝や貴族の祭祀が男性だけにより行われるのはいうまでもない。け
れども、民間では、中流以下の家庭は主に女性に家事を任せるため、女性が司祭者と
される家庭が多いと考えられる。何といっても、母系氏族社会に竈神が女性であると
思われるので、女性により祭るのは通例である。中国が階級社会に入った後でも、そ
ういう習俗を持つ民族や地域がまだ多い。
しかし、男性支配者の出現で、時代に応ずるため、竈神が女から男や男女夫婦に変
えられ、司祭者も女性から男性に変化したのである。唐宋代では、竈神祭祀には女性
禁止というルールが明確に定められた。けれども、現実的には、女性が家庭主婦であ
り、特に一家の飲食を管理するため、竈神の祭祀も自然に女性が行うという家庭がか
なりある。
日本の家では表座敷の神と裏座敷の神が別々に供養されている。服部純子(2002)
が農村と漁村での家の神に対する祭祀を調べた結果は、裏座敷の竈神が主婦を司祭者
とするのは通例であるということである。だが、女性により台所で竈神を祭祀するの
は日本従来からそのまま限られてきたのかどうか、それを論述できる根拠はまだ存在
しないようである。けれども、君島久子(1989)は女性は火種を管理する役目を持つ
と述べたように、日本では、従来から台所が女性の領地である。それゆえ、女性によ
り竈神を祭祀するのはもっともであろうと考えられる。

5.1.3 祭祀の供え物と祭文
先秦時代の供え物はキビで加工されたお酒を初め、牛や羊、さらに人体の内臓など
が生贄とされ、竈神に捧げる習慣がある。郝鉄川(2003)によると、それはその時代
の宗教と深く関わっているのである。すなわち、その時期の竈神が地祇系統に属し、
世間のものすべてを味わうべきであるという説があった。あるいは、前漢の陰子方と
いう人がモウコガゼルを供え物として竈神を祭祀した後、出世できたため、その後、
人々は繁栄発展を祈るために、彼のやり方を模倣し、モウコガゼルで祭り始めてきた
のである。そのほか、鶏やキジ、羊なども供え物とされたのである。
晋代から宋代にかけ、豚とお酒が主な祭礼となった。それに、唐宋代以降、竈神に
供え物を並べるばかりではなく、仏教や道教の祭文も唱え始めたのである。例えば、
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中日灶神信仰的比较研究 

道士たちが人間の頼みでその家で竈神に関わる「竈王経」と「安竈経」を唱えるので
ある。前のお経は竈神の由来や機能を述べながら、禁忌と処罰、そして禁忌違反の救
い方などを伝えるのである。一方、「安竈経」は霊魂と神霊の世界を描き、勅命の口
先で竈神の機能、それに関わる禁忌、祭祀マナーなどを説明する祭文である。元代の
全真教の思想の影響で、元代以降、民間での供え物は肉食やお酒から果物やあめなど
の素食へ変わった。
現在の漢族の家がそういう習慣を受け継いできたことがよく見られるであろう。そ
して、ある地域では、竈神が上天する時に馬に乗ると信じるため、伝統的な家はあめ、
餅の以外に、乗り物の馬にもまぐさ(普通は木やコーリャンの幹で作ったもの)と水
を用意する習慣がある。さらに、ある地域では、竈神が馬に乗ることなく、梯子で上
天すると思われ、紙で作ったいわゆる「千張」を供え物の一部とすることがある。こ
のように、中国人は竈神にいろいろと考えたようである。
また、日本側の竈神祭祀が中国のように、定期的な日時がほとんど特にないことで、
人々が竈神に祈祷したいことがあれば、供え物が祈祷の内容によって変わることがあ
るのである。つまり、日本人は竈神を祭祀する際に、同時に供え物を用意するのであ
る。たとえば、日本の小正月には農民たちは作物が豊作になるように、竈神を祭祀す
る風習がある。その日には竈神に美味しい繭玉(繭の形に丸めた餅や米の粉の団子を
指す)を捧げるのである。また、9 月 30 日に竈神が里から山へ行ったら、一家の罪を
密告すると信じるため、人間はその日に、竈神が密告できないようにわざわざと牡丹
餅を作って食べさせることもある。そして、日本の沖縄地方では、餅や洗米で供える
のは普通でありながら、毎月の祭祀では、ただ水やお茶だけを捧げるのである。
さらには、飯島吉晴(2010)によると、竈神に馬の沓である蹄鉄を供える地域もあ
ることが分かった。すなわち、日本の竈神も乗り物があり、それによって上天するの
である。その点については、飯島吉晴は、日本における異界とこの世の往来する神を
祭る際に、よく馬の道具を供えると主張したのである。それから、田植えの時に、竈
神に三束の苗を供えるような例も多い。このように、日本人が竈神に供える物の豊富
さに驚かされたであろう。
一方、皇典講究所(1918)が著作した『近世名家諄辞集:評釈』に竈神を祭祀する
際に唱える祝詞の祭文が載っていることを見つけた。それは「竈神祭祝詞」と呼ばれ、
竈神の恩徳を感謝するために、祭祀を行い、祭文を唱えるものである。内容としては、
竈神のこととその機能、祭祀、そしてこれからの保護を祈祷するというようなことが
書かれたのである。この祭文から見れば、それは日本の神道の祝詞に相違がない。祭
文を唱えることにより、竈神からもたらした恩徳を感謝しながら、竈神への敬意を表
すことは文の内容からはっきり見える。
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5.1.4 祭祀の儀式
中国では明代以前の儀式は、日時、場所、司祭者、供え物、祭文を唱えるかどうか
ということによって違っていたのである。だが、清代以降、竈神に関わる儀式は従来
の習俗を受け継ぎながら、内容と特徴としては全国的にほぼ同じであると思われるが、
具体的なやり方や形式が地域と民俗によって異なっていると言える。
中日両国では、一体どのような儀式を行い、竈神に敬意を表すのかを明らかにする
ため、以下は代表的な北京の儀式と日本沖縄地方の儀式を例として、簡略に述べてお
きたいと思う。
北京は北にあるため、農暦の 12 月 23 日に竈神の祭祀儀式を行うのである。竈の前
に正方形のテーブルを置き、その上に「関東糖」(もち米で作った白くて固いあめで
あり、地域により、竈糖などとも呼ばれる)、水とまぐさが並ぶ。並んだ後、線香を
点してから、竈神が悪口を密告しないように、火で溶けた関東糖を竈神の口の周りに
(一般の家庭では竈神の神像を竈の上に貼ってある場合が多い)塗るのである。そし
て塗りながら、悪口を言わずに良いことだけを報告するというような話を小声で竈神
に言い聞かせるのである。その後、その古い神像とまぐさを竈の焚口で点して燃えて
から、その上に水を撒く。そのように、竈神が馬に乗って上天したと思われ、一家の
人が頭を地につけて礼をするのである。わたしの故郷である甘粛省天水市では、以上
の儀式が「送竈爺」と呼ばれる。
そして、天界から戻ってくる竈神を迎えるために、30 日に竈神を迎える儀式を行う
のである。専用のテーブルを庭に置き、上に全ての神を代表できる「百份」という神
像の画いた紙を置き、その前に餃子、果物、もち米などを供えてから、赤い蝋燭に火
を点す。深夜になると、竈神を迎えるため、正門を開け、爆竹を鳴らし、一家の主人
が線香を点し、「百份」を焚く。しかも、台所にすでに新しい竈神の神像を貼り付け
たので、人間は竈神を庭から台所へ案内し、そこで辞儀をした後、祖先たちを祭祀す
るのである。今回の儀式は前の「送竈爺」と類似で、「接竈爺」と呼ばれる。
このように、北京の儀式を例として述べてきた。けれども、現在の社会では、そう
いう儀式を行うどころか、都市に住む若い人たちは、ほとんど竈を築かず、ガスや電
子レンジなどの現代化の電子道具を使うため、多分竈神の存在までも知らないであろ
う。
さて、徐方宇(2006)が述べたように、漢族の竈神の祭祀から、人間の功利的な個
性がはっきり見える。つまり、自家の悪口を告げないように祈るのは竈神祭祀の目的
であると思われる。人間は階級社会の役人生活を竈神信仰に融合した。それで、竈神
が徐々に腐敗の役人を象徴してきた。人間は竈神に機嫌を取るために、わざわざそう
いう祭祀を行うのであると考えられる。
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中日灶神信仰的比较研究 

一方、平野仁啓(1998)によると、『古事記』に日本の竈神を祭祀することが書い
てあるそうである。すなわち、大国主神を祝う際に、必ず火を焚くのである。その火
は別の用ではなく、新築の家を祝うため、焚く火である。そして、その火は竈神と深
く繋がると思われ、いっそう竈神の祭祀とされるのである。やはり、それは竈神が一
家の繁栄発展を保護するという機能に関わると思われるであろう。
実は、日本では、火の神を竈神として崇拝する地域が多い。けれども、全ての火に
関わる儀式は竈神に関係あるとは言えない。例えば、服部純子(2001)の調査では、
日本の京都を中心とする農民たちが農暦の 11 月に「お火焚き」という祭りを行う習
慣があるそうである。つまり、神社の前に大きい火を点し、神の前にお酒や神饌を並
べ、神楽を唱えるというような儀式を通じ、今年農事の祝いや、翌年の豊作を祈願す
るのである。それは竈神の祭祀ではないことははっきり見られるであろう。
また、中国のように、日本の竈神の神像を竈に貼るのではなく、竈の近くの柱や棚
に神札や幣束を置き祭る所がある。そして、土や木で作った醜い面を竈に近い柱に掛
けて祭祀する所もある。さらに、木製の人形を竈神の神体とされる地域もある。
窪徳忠(1969)によると、日本の沖縄地方では、三つの石を並べて竈神の神体とさ
れるのである。農暦の 12 月 24 日に一家の主婦が餅や洗米などを供え、竈神を祭祀す
る。竈神が竈から出てきた煙に乗って上天すると思われるのである。注目すべきなの
は、この竈神が正月の 4 日に下界に降りると思われることである。それは中国華南地
域の影響を受けた結果であると窪徳忠(1970)が指摘した。しかしながら、狩野敏次
(2004)は日本の東北地方の竈神が常住の神と言ったように、そこの竈神が他の神の
ように、毎年の 10 月に出曇へ行くのではなく、一年中にずっと家に留まるので、上
天する儀式や下天する儀式などを行わないのである。狭い日本に様々な竈神の儀式が
あるのは偶然とは思われないであろう。

5.2 竈神への禁忌
仲富蘭(2007)は、邪魔を除け、いい縁起を求めるのは人間の本能であると言った。
そういうわけで、世間に禁忌などの習俗が派生された。禁忌は人間の行為に対する束
縛であり、その上に人間の感情と精神とのバランスをコントロールできるものと思わ
れるであろう。また、仲富蘭は全世界の禁忌の由来を四つの面から述べたのである。
つまり、超自然の力に対する崇拝や恐怖、欲望への抑えと制限、儀式への守りと従い、
教訓の総括と汲み取りというような面から、様々な禁忌が我々の生活に現れたのであ
る。それに対し、岡部朗一、久米昭元、平井一弘(1991)は神への恐怖と畏敬、人間
の感情の細やかさ、社会生活に即する作法という三つの角度から、禁忌の起源を述べ

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た。さて、いろいろな自然神への禁忌には、特に雷神と火神への禁忌が多いと言われ
る。では、中日竈神への禁忌は両国では一体にどのように人間の生活に影響を与える
のか、以下の内容を見てみよう。
中国では、竈神への禁忌が原始社会に生まれたのであると考えられる。社会生産力
が非常に低下の原始社会では、人間の生活が貧乏で、自分の運命はマスターできない
のである。そのような社会環境で、禁忌をきちんと守ることは悪い環境を改善し、邪
魔を除ける有効的な手段と思われるのである。
中国の少数民族では、原始社会の竈神に関わる禁忌がまだたくさん存在していると
言われる。例えば、オロチョン族では、穢れのものを火に入れること、鉄器や棍棒で
火を突くこと、火が飛び散っている薪で火をおこすというようなことを禁忌するので
ある。また、モンゴル族では斧で火の傍にものを切ることは竈神の頭を切ることと同
じであると思われ、そういう行為を禁忌しているのである。そして、雲南のプーラン
族では、炉をまたがり、その上にズボンや靴や靴下などを置いてはいけないという禁
忌がある。さらに、三つの石で作った竈を自由に移動してはいけない(リー族)。炉
の傍に喧嘩をしてはいけない(ロッバ族)。竈を築く際に、若者や妊婦を近くに寄っ
てはいけない(広西のマオナン族)。
「竈王経」と「安竈経」は竈神の禁忌に関わる最初の書籍と思われる。その中に階
級社会における竈神への禁忌の四条が書いてある。しかも、「敬竈全書」は前の禁忌
を踏まえ、四条から二十五条に増えたのである。しかるに、人間が竈神に恐怖すると
いう心理を利用し、人間に守ってほしいことを竈神の性格に注ぎ込んだ証拠が多いと
思われる。例えば、書類を竈の焚口に入れたり、台所で農作物を踏みつけたり、焚口
の前で足を洗ったりしてはいけないというような禁忌は、実は書籍や農作物を大切に
することと衛生に気を配るというようなことをしっかり心に銘記するように、作り出
した禁忌であろう。別に竈神とちっとも関わらないのではないであろうか。
さて、福田アジオと宮田登(1983)によると、日本では禁忌を物忌と忌に分けるの
は普通であることが分かった。物忌が祭りのためにすすんで行う禁忌で、積極的な禁
忌と思われる。一方、忌が祭り以外の日常生活全般にわたって認められる禁忌で、消
極的な存在とされるのである。しかも、その禁忌が「~すると~になる」とか、「~
になるので、~してはいけない」というような形で現れるのは多いそうである。では、
日本の竈神に関する禁忌がどのような姿であろうか。
例えば、荒神を大事にしないと、泥棒が入る。竈の前に鼻水をすると、罰を受ける。
眼病になるので、竈を濡らしてはいけない。生理期の女性が竈に近づいてはいけない。
竈神を喜ばせるために、女性の陰部を竈神に見せる。風邪を早く治すために、雄の鶏
の絵を竈に貼りつける。荒神に供えた餅を食べると縁が遠くなるので、娘がそれを食
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中日灶神信仰的比较研究 

べてはいけない。生まれた赤ちゃんの額に竈の灰を塗ったら、邪気を追い払える。
そして、金孝敬(1935)によると、日本の神奈川県相模地方では、もし火が跳ねる
と、親指を人差し指と中指の間に置き、そのままこぶしを握り、火に近寄り、「山で
のことを忘れたか」というような話を話せば、跳ねる火が静かになるといわれている
そうである。また、東京では、二本の指で豆をこしらえると、煮ている物が早く煮え
ると信じるのである。そして、九州地方における佐賀では、「土」の日に生まれた子
の寿命が長くないので、その子供を竈の焚口から上の口へ潜らす習慣があるのである。
よく考えてみれば、そのような細かくちぎれた禁忌がどんな意味を表すのか全然分
からないであろう。確かに、福田アジオと宮田登が述べたように、超自然的な観念の
希薄化、集団意識の緩み、様々な価値観の存在というような原因で、日本の禁忌はい
つも意味不明で細かくちぎれた習俗とされ、日本人の日常生活で現れているといった
ら、非常に妥当的な表現であろう。

5.3 まとめ
本章では、中日における竈神への祭祀と禁忌を述べてきた。中国は農業大国で、現
代社会科学技術が飛躍的に進歩しているにもかかわらず、多くの村での生活と、農耕
を中心とする生産方式がほとんど相変わらないであろう。それで、そのような農村で
は従来から引き継いだ祖先崇拝、霊魂と神霊の信仰の一部はまだ残っている。
例えば、現在にしても、わたしの故郷である甘粛省の天水市に属する舒家埧という
農村では、キリスト教徒の家を除き、毎年の 12 月 23 日に家々が必ず竈神を祭祀する
のである。竈神信仰が全国の多数の農村には存在し、それに関わる習俗が人々を影響
しているといえる。このように、我々の生産と生活方式が変わらなければ、それに伴
う竈神の宗教理念も変わらないであろう。
一方、日本の農村が戦前までは自給自足の村落からなっているので、竈神信仰が広
く広がっているのである。だが、社会の発展に伴い、社会の構造も大きく変化したの
で、従来の伝統的な宗教信仰が日常の生活に姿が消えてしまっている。磯岡哲也(1996、
1998)は日本千葉県佐原市の仁井宿地域における農村の 258 の家族を対象とし、それ
らの祭祀現状を調査してきたのである。
258 の家族の中に唯 48 家が竈神や荒神を祭るのである。すなわち、その農村では約
18.6%の人間が竈神信仰を続けていることが分かった。しかも、中高年者の司祭者が
多数であり、若い人の間にあまりに竈神を祭らない。だが、竈神を祭祀する由来につ
いては不明確で、祭祀というより、たまに簡単な供え物や水を捧げるようなことだけ
をするのである、と磯岡哲也(1998)が指摘した。つまり、竈神への信仰が千葉県の

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宁波大学硕士学位论文 

仁井宿地域では次第に希薄化となり、竈神の機能も消えているのである
中日竈神への禁忌は自我の保護、感情の麻痺、社会の組み立てというような機能が
なくなれば、その居場所も消えてしまうのであろう。つまり、現在社会の科学技術の
進歩と人間の認識レベルの向上で、竈神への禁忌が軽視されているのである。わたし
は小さい時に、炉に靴下を掛けてはいけないとお婆さんに注意されたことをまだ覚え
ているが、その行為が竈神への不敬と見なされたからである。けれども、現在では、
衛生のことを抜きにすれば、靴下や靴など汚いものを炉に掛ける人が多い。すなわち、
以前の禁忌が現代人から見れば、笑い話のように、あまりに注意を払わないであろう。

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中日灶神信仰的比较研究 

6.中日における竈神信仰の異同
中日においては、それぞれの竈神信仰が、自国の文化と民族特徴をもとに、民間
の間で、特に農村で流行っている。本論文は、竈神の起源、イメージ、機能、または
竈神信仰に関わる行事というようないくつかの面から中国と日本の竈神信仰を論述
したうえに、その異同を比較しておきたいということが目的であるため、これまでは
中日における竈神の起源、イメージ、機能、竈神への祭祀と禁忌を述べてきた。本章
では、前章の内容を踏みながら、中日における竈神信仰の異同とその原因について明
らかにしようと思う。

6.1 中日における竈神信仰の類似点
中日における竈神の起源が火神と深く繋がるのであると考えられる。中国の火神は
祝融や炎帝や回禄などであるというような説がある。けれども、一般的に祝融を火神
とされるのは圧倒的である。人間は火の発明者と管理者である祝融を偉い神とし、尊
敬するのである。後世で祝融は竈神とされ、蘇吉利という名前を付けたのである。袁
珂(1998)と劉瑞明(2003)の研究によると、実は蘇吉利はゴキブリであることが分
かった。日本では、最初にされた火神がカグツチである。生まれたばかりのこの可哀
想な神が妻を亡くした悲しい父親である伊耶那岐に殺されたにもかかわらず、その死
で多くの神が生まれたゆえに、火神とされて祀られるのである。また、日本の神道に
カグツチとオキツヒコ、オキツヒメと共に、竈三柱神とされるのである。
さて、祝融であっても、カグツチであっても、どちらもただ人間に想像して作り出
された英雄ではないか。つまり、二柱の神は全部自国の神話から神格を作られたので
ある。やはり、中国にしても、日本にしても、自国の遥かな歴史を明確にする手段は
伝承してきた神話や伝説で推理するというようなことであろう。
中日竈神の機能について、一見すれば、重ねるところがないが、中国少数民族の竈
神の機能に関する資料を詳しく調べてから、類似的なものがあることに驚かされたの
である。たとえば、日本の竈神は相反する二つの性格と、境界性がある故に、絶えず
に新しいものと古いもの、生きることと死ぬことを転換する、というような機能をも
つ。中国の雲南省に居住するプミ族では、竈神が古いものに新しいものを接し、年寄
りのことを若い人から受け継ぐというような機能がある。
それから、日本の竈神がイエの守護という機能をもつため、子豚が生まれたら、必
ず竈神を祭祀する習俗がある。それは一家の新成員を竈神に報告してから、そのこと
を見守ってくれるという信念である。だが、中国の広東の南側においては、同じよう
な習俗がある。一家に子豚を買って飼育する際に、竈神に線香を点さなければいけな
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宁波大学硕士学位论文 

い。なぜかというと、それは、もし豚は行方がわからなくなるなら、竈神に頼んで探
してくれると信じるからである。このように、中日の竈神は新旧を転換する、家族と
家畜全員を保護するという類似的な機能があると考えられる。
ところで、中日における竈神への祭祀について、どのような類似点があるのであろ
うか。前章で述べたように、現在の中国では、北の方が農暦の 12 月 23 日、南の方が
24 日に定期的に竈神を祭祀する。だが、沖縄地方の久米島などでも、農暦の 12 月 24
日に煤払いという活動を行う習俗がある。それは中国華南地方の習俗と関わっている
のはいうまでもないであろう。
その後、竈神は赤不浄が嫌いで、中日においては、同じぐらいの禁忌があるのであ
る。例えば、日本の広島県東部に当たる村では、生理期の女性が竈に近づくことを禁
忌するのである。実はわたしの故郷でも同じような禁忌がある。わたしの両親は毎日
竈神と他の神を祭祀する習慣がある。母が生理期の際に、必ず神に線香を点してはい
けない。それで、その時、母の代わりに、父や他の家族の人が儀式を行うのである。
他には、中国では竈神が一家の主と思われ、家の運命をマスターしていると考えら
れている。そういうわけで、竈神が家族を組み立てることを象徴できると言われる。
つまり、家族全員が竈で料理を作ったり、一緒に食べたりするので、竈を分けるのは
竈神を分割することに通じる。それで、分家するということを意味する。その場合は
「分竈」や「析煙」などと呼ばれる。だが、直江広治(1991)によると、日本ではそ
ういう説もあることが分かった。つまり、竈神が一家の中心で、竈を分割することに
より、竈神を分霊してもらうことが出来る、と日本人もそのように考えているようで
ある。ところが、日本では「析煙」とは言わなく、「分竈」、「立竈」と呼ばれるのが
多い。その類似について、それは古代の人間の観念が通じていた証拠であると直江広
治が言ったが、そう簡単に結論を出せるであろうか。
このように、中国と日本側の竈神に関する類似点を指摘してきた。けれども、異な
る民族の間に、竈神に関する類似点がたくさん存在しているのは必ずしも偶然とはい
えないであろう。類似の裏にはきっと何か繋がっていることがあるのであろう。それ
については、これからの節で論述することにしよう。

6.2 中日における竈神信仰の相違点
国が違うと必ずその国ならではの文化を持っているため、同じような竈神でもそれ
ぞれの相違点があるに違いない。以下は、中日における竈神のイメージ、機能と祭祀、
禁忌などの面から、その相違点を論述しておきたい。
中国の竈神のイメージについては、自然崇拝を中心とする原始社会では、人間の祖

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中日灶神信仰的比较研究 

先たちが火の強い作用に驚かされ、それを竈神としたのである。現在の漢族と違い、
たくさんの少数民族の間にも、まだそういう古い竈神信仰が残っている。人間は、生
活と深く関わり、命を脅かせる動物をさまざまな神として祭ったのである。従って、
この時代の竈神は動物のイメージがあると思われる。しかも、民族と地域によってそ
のイメージが違う。
それから、母系氏族社会では、女性が敬慕されたので、人間は女性の強さを慕うた
め、竈神を女性のイメージにした。今の道教では竈神が女性の姿であるのはやはり原
始宗教の影響を受けた結果であろう。次に、人間社会が母系氏族社会から父系氏族社
会へ変遷し、注目の焦点が女性から男性へ移された。
それで、竈神が男性のイメージに変わった。このように、中国の竈神のイメージが
概ねに四つの変遷段階を経たのである。だが、竈神が主に善良な神とされるが、最初
に気立てが悪いというようなイメージの竈神の場合には、きっと何かに感化され、最
後に心地良い神となる。これは中国の神の特徴であろう。つまり、祟りやすい神が必
ずしも多くの人に敬幕されない。人気のある神になりたいなら、まず悪行を改め、善
行をしなければならない。
ところが、日本の竈神のイメージは中国のように、当時の社会に応じて形成するの
は容易に言えない。さらに、日本での竈神イメージについての研究が稀であり、その
変遷の歴史は一体にどのように発展してきたのか、まだ分からない。いままでの研究
を考えながら、総じて見れば、日本における竈神のイメージが日本の宗教と緊密に関
連する。神道をはじめ、仏教、陰陽道の宗教では、めいめいの竈神イメージが様々な
特徴を持っている。地域によって信仰の対象が異なっている。飯島吉晴(2010)が述
べたように、日本の神が表の神と裏の神という区別がある。裏の神が裏にいるため、
地位の低い神とされ、良くないイメージを与えるのは普通である。このように、中国
と日本の竈神イメージが相違であることが分かった。やはり、イメージの形成は自国
の文化と社会生活と強く関わっているであろう。
次に、竈神の機能と祭祀から見れば、その相違点が著しい。中国では、竈神がこの
土地で生まれ育ちの神であり、従来から竈神に縛られる人が大勢であろう。人々は竈
神が一家の主であると信じ、その力に屈服されるので、貴族や皇帝から庶民まで、敬
虔に竈神を供養するのである。竈神の祭祀を行うのは単純に竈神に恩返しとは考えら
れなく、それは人間の功利的な民俗心理と関連するのであろう。無病息災、人口繁栄、
寿命百歳という理念が我々の祖先から引き継いだのである。現在では、祭祀の形式が
簡単になっているにもかかわらず、その理念が相変わらず我々の心に残っているので
はないであろうか。
一方、日本の竈神は中国の竈神のように、何でもできる神ではなく、勧善懲悪はそ
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宁波大学硕士学位论文 

の神の主な作用とは簡単に思われない。日本の竈神は一家の人間や家畜などを守護し
たり、火難を除けたり、農作の豊作を守ったりすることが機能である。つまり、イメ
ージが良くないその竈神は人間の生活全般に様々な恩を与えるというような良い面
もある。やはり、この祟りやすい神が力こそ強いので、人間はその神に保護できると
信じながら、それを危惧し、信仰するのであろう。日本の竈神のように、良い面と悪
い面を併せ持つ竈神が中国で安心立脚の地を探すのはなかなか順調に進められない
であろう。
その他、中国の竈神が年末に上天し、人間の善悪を密告する機能があるのに対し、
日本の竈神(ここは外国から伝わっていった文化に影響された竈神信仰を除く)が他
の神のように 10 月に出雲へ行くのではなく、一年中に一家に居るといわれる説があ
る。また、竈神への供え物からみれば、両国の竈神が両方とも乗り物がいるのにして
も、中国ではまぐさや水などを馬へ供えるのは普通である。たが、日本ではそれでは
なく、馬の沓をかけて供えるのである。
その後、竈神への禁忌について、独特なタブーが中日両国の日常生活に別々に定着
した風習となった。しかしながら、両国の禁忌を詳しく較べてみれば、その裏にあら
わす意味と特徴の違いが大きいということがはっきり見られる。すなわち、正直に言
えば、両国における竈神への禁忌が特に科学的なものとは言いにくい。だが、そのよ
うな極めて迷信の傾向をもつ禁忌から反映してきた中日両国の人間心理がほぼ異な
っていると考えられる。
例えば、中国の多くの少数民族における竈神信仰への禁忌から見れば、人間が竈神
に対する崇敬の感情がよく分かるであろう。竈でいろいろなおいしい飲食を料理でき
るために、自然に竈神が頼りできる神と思われるが、逆に、火に気を緩めると、大き
な災難を引き起こすきらいがある。また、漢族を代表とする民族における竈神への禁
忌がそういう意味ばかりではない。より正確に言えば、古代支配階級の理念や人々の
間の世渡りなどの態度が、竈神への尊敬感情よりもっと強く反映されていることは見
逃してはならない。
一方、新谷尚紀(2007)によると、日本の禁忌が民俗に存在する限りではなく、ど
こにもあるので、それをひたすらに消極的なものとは言えない。高文漢(2010)が日
本の禁忌がきっと日本の文化と日本人の心理と深く関わると結論した。このように、
伝わっていった文化より起こった禁忌を抜きに、日本竈神への禁忌は日本自国の生活
習慣の引継ぎや集団意識の固めのために、定着した風習である。そして、それは日本
人の細やかな心理と繋がるのである。
以上は中日における竈神のイメージや機能、祭祀と禁忌などの面から、両国竈神信
仰の相違点を論述してきた。異なる部分は必ず両国の人文地理の特徴と関連するのは
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中日灶神信仰的比较研究 

はっきり見られるであろう。では、相違点があるのはただ国が違っているという簡単
な原因だけであろうか。

6.3 中日における竈神信仰異同の原因
竈神信仰が中日両国の歴史では、人間の日常生活にてよく崇拝される信仰と考えら
れる。前にはいくつかの面より中日両国における竈神信仰を論述してきた。そして、
それぞれの信仰にどのような異同があるかということも研究した。これから、その異
同の原因について分析しておきたい。

6.3.1 中日竈神信仰の伝承
特別な文化形態である民俗文化については、仲富蘭(1992)はその特別さを論述し
たのである。仲富蘭の結論から、民俗文化は、地域と自然の条件、各国民族の風俗や
境遇と社会生産能力、また民俗文化の伝承というようないくつかの面と強く繋がって
いることは分かった。やはり、民族的な文化こそ、世界の文化といえる。すなわち、
民族的なものは必ず唯一無二な特色がある。それこそ、特別な存在で世界に認識され
るのではないであろうか。日本の竈神信仰が中国のそれと類似するため、疑いなく中
国から伝わった民俗とは簡単に結論が出せないであろう。
もちろん、中国の竈神信仰がこの土地で生まれ育ちの文化である。その出現が人間
の歴史より多分長いかもしれない。竈神信仰が長い時間を経て何回の変遷を経験した
ため、現在では、さまざまな存在となっている。しかし、日本の竈神信仰が中国ばか
りなく、その他の国の文化を融合する一方、自国的な信仰が形式されてきたのである。
中日竈神信仰の相違点には大部分は各国の社会発展とともに、独特な信仰と変遷して
きたと考えられる。
両国が古代に形成された竈神を各国の祖先から伝承してきた。だが、相変わらずそ
のまま全部伝承して来なかったのは当然である。却って、歴史の発展、時代の移り変
わり、そして異なる地域でのばら蒔きなどにより、竈神信仰が外観から内包まで変遷
されたことが前章から見たら、よくわかるであろう。
さて、竈神信仰の形成は論理的なプロセスとは絶対にいえない。それは人間の生活
でできた意識である。その意識は次第に根強く揺ぎない人間の心理となる。そして、
時間の流れとともに、その心理が動かしがたい形勢と変わった。それで、竈神が崇拝
される対象となり、その信仰が民衆に受けられ、伝承されるのである。竈神信仰の伝
承が主に人間の主観的な能動性や社会の発展状況などにより進むのである。つまり、
原始社会、農業社会、工業社会では、人間は自分の主観的な能動性への認識、当時社

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宁波大学硕士学位论文 

会の生産力が全然違うので、竈神信仰の伝承は本質的な相違がある。原始社会から工
業社会まで、人間の認識と社会生産力が徐々に強くなってくる。そういうわけで、却
って、人間は竈神への依頼が少なくなる。竈神信仰への意識が従来より薄くなる。
このように、両国の竈神信仰が伝承される過程に漸次的に衰退するのである。たと
えば、現在では、中国の大都市に住む家庭はあまり竈神を祭らない。日本の農村でも、
僅かな人がまだ竈神を祭祀するのである。なお、祭祀というより、ただ簡単な扱いと
いったほうが妥当である。さらに、竈神信仰の存在さえも知らない若い人が多数であ
ろう。
民俗がどのように変遷しても、最初にその民俗を形成する本質が変わらない。中日
両国の歴史、社会の発展、人間の心理は同じとはいえないため、中日竈神信仰の本質
が全然相違であると思われる。それで、両国の竈神信仰に相違点があるのは当たり前
なことであろう。

6.3.2 中国から日本に伝わった竈神信仰の変容
王建民(2012)によると、日本の縄文時代にすでに水稲耕作があった。だが、現代
の発掘調査から見れば、水稲耕作の技術が中国から朝鮮半島を経て日本へ伝えたとい
われている。やはり、中国と日本は一衣帯水の隣国で、ずっと昔から両国の交流が続
いている。さて、日本の竈神信仰が宗教と地域の差によって相違で複雑である。けれ
ども、纏めて見れば、日本の竈神信仰には中国のと類似的な部分がよく見られる。そ
の類似点については前に詳しく述べた故に、ここでは再び言わない。
その類似点は必ずしも偶然とは考えられない。たとえば、伊藤清司(2007)による
と、中国の竈神信仰に関わる伝説が日本まで伝わったのである。さらに、張正軍(2009)
は中国西南少数民族における神話や物語は日本多くの神話や民間伝説のモデルとな
ると述べた。つまり、中国の竈神信仰が多かれ少なかれ日本の竈神信仰を影響してい
たことが見逃せないであろう。そのような影響で、竈神にかかわる伝説や、機能、祭
祀、禁忌などの面に類似点が存在するのも納得できると思わないか。
しかしながら、どのような国でも、異文化をそのまま一切に受け入れ、伝承するの
ではない。たとえば、姜淼(2009)は日本へ伝わった外来文化が必ず作り直され、止
掦され、新たに作り直されるというようなプロセスを経由すると指摘した。つまり、
外来文化がしばらくでは本来の姿で存在し、日本の民衆に接触され、認識される。次
に、外来文化が次第に日本の風土と習慣に結びつけ、日本人の日常生活とふさわしい
風習と変遷されるというのは外来文化の一般的な融合過程であると考えられる。 
窪徳忠(2005)によると、十五世紀の中ごろ、竈神信仰が中国福建省の人に日本の
沖縄へ伝えられた。同じように、伝わったばかりの竈神信仰は中国のそれと一致であ
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中日灶神信仰的比较研究 

ったが、異文化の受容で、竈神信仰が次第に土着化されたのである、と考えなくても
分かるであろう。 
このように、初めに日本に伝わった中国の部分的な竈神信仰は日本文化と日本人の
生活習慣によって変化され、土着化されたのである。土着された外来文化は蛹が蝶へ
変わるように、本来の容貌がなくなり、日本的なものとなる。例を挙げてみると、は
っきり見られる。 
例えば、日本の竈神信仰には竈神が一年中に一家の家に留まり、他の神のように 10
月に出雲に出ないという説がある。しかし、竈神が窓より出入りするという説も同時
に存在する。詳しいことはすでに前の「祭祀の供え物と祭文」という部分で述べた。
その点については、日本の文化学者である狩野敏次までもその不思議さへ自分の疑い
を表したのである。 
また、中国では神が天の上に住んでいると思われ、竈神が世間で一家を監督し、年
末に上天し、人間の善悪を密告すると信じられる。だが、日本では、出雲は神様が集
会する所であると思われ、集会する際に、神様が出雲へ行くのは一般的な考えである。
やはり、そのような相違点については、外来文化の変容であると理解すれば、そのよ
うに不思議とは考えられないであろう。 
このように、中国より伝わった竈神信仰が変容され、日本の竈神信仰の一部となっ
た。その部分は類似点と相違点を区別する盲点であると考えられる。 
以上は中日竈神信仰の異同について論述した。中日における竈神信仰に多数の異同
が存在する。その類似点はただ偶然に現したのではなく、両国の文化交流のしるしで
あると思われる。さらに、その相違点は両国の文化や地域が違うという唯一の理由だ
けとは言いにくい。外来文化の変容ももう一つの重要な根拠である。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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宁波大学硕士学位论文 

7.おわりに
いままで、中日における竈神信仰の比較研究という課題を、研究する目的から、中
日における竈神信仰異同の原因を分析するまで、論述してきた。本章では、本論文に
ついての総括や本論文に関する展望と評価を述べておきたい。 
 

7.1 本論文のまとめ
本論文ではいくつかの面から中日竈神信仰を比較しながら、その異同を研究してき
た。中日両国では、竈神信仰がそれぞれの特色で存在している。特に、中国の竈神信
仰が五祀の一つとしては先秦時代より流行るのである。
竈神の最初の由来については、中国での漢代以前には二つの説がある。つまり、火
を掌る古代神話の人物である祝融と炎帝が竈神とされる。一方、歴史では一番初めに
炊事をしてくれた老婦人が竈神とされる。一見すれば、どちらもキャリアが乏しくな
い。だが、火の歴史が竈より長いので、竈神が火の神から変身したという推理がもっ
と妥当であると思う。
それから、日本竈神の前身については、参考できる文献や先行研究が少ないため、
わたしは自然崇拝が動物崇拝や祖先崇拝よりずっと早いという手掛かりで、日本の火
神が竈神の前身ではないかと推測しながら研究した。予想通りに、日本の火神はカグ
ツチであり、日本神道における竈三柱神の一神である。日本では神道の歴史が他の宗
教より早いので、カグツチは日本竈神の前身と考えられるのではあるまいか。
次に、本論文は中日自然崇拝以後の竈神のイメージについて研究してきた。総じて
いえば、中国側は竈神は自然崇拝、動物崇拝、女性崇拝、祖先崇拝という四つの段階
では、そのイメージが違うのである。なお、それは社会生産力と人間の認識能力と関
わるのはいうまでもない。それに対し、日本の竈神のイメージが中国のように、その
ような発展プロセスははっきり見えない。だが、日本の宗教を研究して見たら、神道、
仏教、陰陽道における竈神のイメージが千差万別であると思われる。やはり、日本の
宗教が多様になるに従い、日本竈神のイメージが豊かになると考えられるであろう。
ところで、柳田国男(2012)が日本竈神の起源に関する日本の昔話を書いた。だが、
その昔話は再婚型の竈神説話である。実は、伊藤清司はそのタイプの説話が中国から
伝わったのであると指摘した。そして、確かに覃金福(2013)によると、中国のトゥ
チャ族ではそれと同じような昔話が広がっている。それゆえ、わたしは中国竈神のイ
メージと類似のような日本竈神のイメージをわざわざ論述しなかった。
その後、中日竈神の機能について述べた。簡単に言うと、中国の竈神が主に一家を
監督し、人間の善悪を適切に賞罰するというのは機能である。それは社会階級の理念
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中日灶神信仰的比较研究 

に影響された結果である。そのため、竈神の機能が功利的な特色がある。却って、日
本竈神の機能は主に一家を保護するということである。日本竈神の機能から見れば、
日本人が祖霊に非常に依頼する特徴がはっきり見える。また、日本竈神の機能が中国
におけるオリジナル時代での何でもできる竈神の機能と類似する部分があると考え
られる。
だが、中国の竈神信仰は、来世の思想や、極楽浄土に往生する願いや、または地獄
の処罰からのまぬがれといったことと強く繋がる。それに対し、日本の竈神信仰には、
竈神は人間の功利性とあまり関わらず、ただ単純に自分の機能を表し出し、人間を保
護するのである。このように、中日竈神の機能から表した内包は全然異なるのである。
さらに、本論文では、中日両国における竈神への祭祀と禁忌を究明してきた。中国
から日本へ伝わった信仰を抜きにしたら、両国では、竈神への祭祀日時、場所、司祭
者、供え物、祭文、儀式などは殆ど異なっている。それでも、両国での部分的な民俗
祭祀が徐々に簡単化され、ビジネス化されてしまったのと同じように、中日における
竈神への祭祀が次第に消えているのは深刻化である。
一方、中日両国では、竈神への禁忌が相違である。中国の禁忌には古代支配階級の
管理痕跡がはっきり見える。そして日本の禁忌が意味不明で細かくちぎれたものと思
われる。だが、それにしても、自我の保護、感情の麻痺、社会の組み立てなどという
ような機能が両国の禁忌にはよく見られる。
最後に、本論文は中日における竈神信仰の類似点と相違点を指摘し、その異同の原
因について分析した。日本が中国の竈神信仰の影響を受けたことは事実であると言え
るであろう。しかし、なんと言っても中国と日本は別の国で、両国の人文地理が異な
るのである。違う土地で育んだ文化は各国の特徴があるので、相違点があるのは当然
なことである。其の他、中国であれ日本であれ、竈神信仰が漸次的に衰退しているの
は見逃してはならない。
ところが、両国文化の特徴については、総括してみれば、中国の文化は 56 の民族
文化からなっている。もともと根が深くて、内包が豊富多彩であるため、適切に発展
すれば、その未来が明るいと考えられるであろう。それに対し、日本の文化は根が浅
くて、複合で、いろいろな外来文化と交錯し、形成されたため、合併を通じながら、
自国の文化を進む方法より、ほかには仕方がないと思われる。なぜかというと、日本
文化の特徴を見たら、すぐ分かるからである。
たとえば、日本の七福神信仰の由来から見れば、一目瞭然であろう。日本の室町時
代に、インド、中国と日本の神々が混合され、七福神と呼ばれる七神のグループが結
成されたのである。その七神にはただ一神が日本本土の神で、他の六神が全部外来神
である。そこから、日本文化の複合性がはっきり見える。
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宁波大学硕士学位论文 

このように、中国の竈神信仰が確かに日本のより、その基礎や内包がいっそう深く
て豊かであると考えられる。したがって、中日両国における従来の竈神を現代社会と
同調させるには、それぞれの特徴に合わせる手段を選ばなければならない。すなわち、
中国の竈神信仰に新しいエレメントを注ぎ込み、適切に現代化に転換させるのは有効
的なやり方であると考えられるであろう。一方、日本の竈神信仰が相変わらず異文化
と合併し、現在の苦境を乗り越えるのは日本文化に相応しく、日本らしい方法であろ
う。

7.2 本論文の展望と評価
我々の偏見と竈神信仰に関わる研究の不十分で、竈神信仰がよく落ちぶれた文化と
見なされるきらいがある。すなわち、没落した竈神信仰が農民や、時代に遅れた人間
にしか目が立てないと思われやすい。また、現代社会の運行と発展には何の役も立た
ないものであるというように考える人数が少なくないであろう。しかし、民俗とは、
人間にかかわる「俗」である。人間の現れに伴い、民俗が出現したので、誰でも民俗
文化から離れることは出来ない。どんな国では、民俗が必ず自国の民族文化に相応す
るのである。
本論文は中日両国の竈神信仰を中心に、いくつかの面から比較しながら研究してき
た。中日両国の文化をお互いに理解しながら研究するという立場から、日本の竈神信
仰への研究を通じ、中国竈神信仰は、歴史が悠久であり、深い学識や考えを備えると
いうようなメリットが明らかに見られた。中日両国における竈神信仰が日増しに我々
の日常生活に消えてしまっている。昔の人間の知恵と民族の精神を注ぎ込んだ竈神信
仰をそのまま放置し、姿を消えてしまえば、もったいないことであろう。現代社会と
人間の思想や理念に応じるために、中日両国はどのように各国の竈神信仰のディメリ
ットを取り除きながら、正確な価値観の持つ部分を改善して伝播するのはこれからの
課題である。
竈神信仰に関わる神話という視点から、中日における竈神信仰を研究できなかった
ことは残念なことである。これから、研究を諦めずに、フィールド調査法などの手段
で中日における現在の竈神信仰を研究するというような新たな視点から、両国の竈神
信仰に関する比較研究を一層深く進めることを目指し、頑張りたいと思う。

本论文属于国家级研究课题。课题名称:
《中国民俗文化在琉球的传播与演变研究》
(2013-2016
年),编号:13BSS021。课题负责人:张正军。
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中日灶神信仰的比较研究 

参考文献

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其の他(著作名の五十音順)
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中日灶神信仰的比较研究 

在 学 研 究 成 果

一、在学期间取得的科研成果

二、在学期间所获的奖励
1. 荣获“2013-2014 学年科研优秀奖学金”

三、在学期间发表的论文
1. 王静.汉语“约束”与日语“約束”[J].现代语文(语言研究),2013(6)
:159-160.
2. 王静,张正军.汉字四字格成语的日译研究[J].现代语文(语言研究),2014(1):
142-143.

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宁波大学硕士学位论文 

謝 辞

いよいよ本論文が最終的な段階に近づいてきました。本論文が出来上がった後、修
士の幕も閉じます。今まで二年半の修士生活を振り替えして見ると、身近な先生とク
ラスメートたちにいろいろな迷惑を掛けました。そのため、さまざまな形で暖かいご
支援とお励ましをいただいた数多くの方々に心より感謝の意を申し上げなければな
りません。
まず、私の指導教官の張正軍教授に厚くお礼を申し上げます。最初に研究テーマの
選びから最終に論文の出来上がりにかけて、先生は始終適切な助言を賜り、貴重な時
間を費やし、親切で丁寧にご指導をくださいました。先生のおかげで、未熟な私は順
調に修士の卒業論文を書き上げました。
また、本論文の作成には最初に纏まった参考資料は少なかったので、先生方とクラ
スメートより多くの応援をいただきました。本当に大変助かりました。ここで、惜し
まずに貴重な参考文献を賜った張正軍先生、李広志先生、楊建華先生及びに龔海霞さ
んに衷心より感謝いたしております。
最後に、卒業論文の審査にあたり、的を射ったご意見をくださった寧波大学外国語
大学院日本語科の張正軍先生、楊建華先生、李広志先生、劉永嵐先生及び日本語科の
ほかの先生方に深謝いたします。

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文 件 名:L1211051035.doc
论文题目:中日灶神信仰的比较研究
作者简介:王静,女,1988 年出生,2012 年从师于张正军教授,于 2015 年 3 月毕业于宁波大学日语语
言文学专业,并获文学硕士学位。
论文摘要:
本论文主要以民俗学、考古学、历史学等理论为基础,运用比较研究法、逻辑推理法
等研究手段,对中日灶神信仰进行了比较研究。
本论文的内容主要由中日灶神的起源、灶神的形象、灶神的职能、灶神信仰相关的活
动以及中日灶神信仰的异同这五个部分组成。其结论可概括如下:
首先,我们认为中日两国的灶神是由各国的火神演变而来的。其中,中国的火神是祝
融,日本的火神是“迦具土神”。由于中日文化的不同,两国的灶神形象也是千差万别
的。随着历史的发展及时代的变迁,中国的灶神在不同的阶段各具特点。而日本灶神的形
象却与日本宗教密切相关。以神道为首,在佛教、阴阳道中的灶神形象各有千秋。此外,
在以日本冲绳地区为代表的民间所流传的一些灶神形象与我国某些少数民族中的灶神形象
如出一辙。
其次,通过研究中日灶神的职能,我们发现中国的灶神职能是随着时代的变迁而逐渐
变得复杂多样,具有功利性的特点。与此相对应,日本的灶神职能所表现出来的含义却极
其简单,保护日本民众便是它的出发点。
再次,通过分析与灶神相关的祭祀、禁忌,本论文认为,总体来看,两国的祭祀及禁
忌不同点较多。但因为两国文化交流密切,所以我们也可以看到一些相似的地方。
最后,本文研究了中日灶神信仰的异同及其原因。我们可以看到其不同点主要与两国
灶神信仰的传承相关。而日本的灶神信仰来自中国,这是导致相似点出现的一个重要原
因。
通过研究,我们可以发现中日灶神信仰都在逐渐衰变。关于灶神信仰今后的发展,我
们应该以中日两国流传下来的灶神信仰为基点,结合两国的文化特点,找出有效的发展方
法。

关键字:中日灶神;灶神信仰;比较研究;民俗
File Name:Y1211051035.doc
Title of Thesis:中日竈神信仰の比較研究
Vita of Author:Wang Jing,female,born in 1988, had studied in the subject of Japanese language and
literature,under Professor Zhang Zhengjun's supervision since 2012,and gained a Master's Degree in the
Ningbo University, in 3,2015.
Abstract of Thesis:
本論文では主に、民俗学、考古学、歴史学などの理論をふまえ、比較研究法、論理的推論法な
どの研究手段で中日における竈神信仰を比較研究してきたのである。
本論文の内容としては、中日における竈神の起源、竈神のイメージ、竈神の機能、竈神信仰に
関わる行事、竈神信仰の異同という五つの部分からなっている。その結論は以下のとおりに纏め
られる。
まず、中日におけるそれぞれの火神は竈神の前身であると思われる。中国の火神は祝融であり、
日本の火神はカグツチであると考えられる。中日竈神のイメージは両国文化の相違で、異なって
いる。中国の竈神は歴史の流れと時代の移り変わりにより各段階のイメージがそれなりの特徴を
持っている。日本竈神のイメージは日本宗教と強く繋がっている。神道をはじめ、仏教、陰陽道
での竈神イメージがそれぞれに特徴がある。だが、日本の沖縄地方を代表とする民間で伝わって
いる竈神のイメージは中国のある少数民族での竈神イメージとそっくりである。
次に、竈神の機能については、中国のは時代の変わりに従い、徐々に複雑になり、功利的な特
徴を持っている。それに対し、日本のはただ人間を保護するという単純なことだけである。
それから、竈神への祭祀、禁忌という二つの視点から中日竈神信仰に関する行事を述べた。全
体的にすれば、両国での祭祀や禁忌は違っている。が、異文化のコミュニケーションで類似的な
部分も見える。
最後に、中日竈神信仰の異同とその原因を指摘した。相違点は主に両国竈神信仰の伝承と関わ
る。類似の原因は日本が中国から伝わった竈神信仰の受容にあると思う。
以上の結論から見れば、中日における竈神信仰が漸次的衰えながら変容しているといえよう。
竈神信仰のこれからの発展については、従来から伝承してきた竈神信仰をもとに、両国文化の特
徴に合わせ、有効的な方法を探し出すべきである。

Key words:中日竈神;竈神信仰;比較研究;民俗

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