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ノストラダムス
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曖昧さ回避 この項目では、ルネサンス期フランスの人物について説明しています。その他の用法について
は「ノストラダムス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ミシェル・ド・ノートルダム
Michel de Nostredame
Nostradamus by Cesar.jpg
ノストラダムスの肖像画(1614 年頃)
ペンネーム ノストラダムス
Nostradamus
誕生 1503 年 12 月 14 日
サン=レミ=ド=プロヴァンス
死没 1566 年 7 月 2 日(62 歳没)
サロン=ド=プロヴァンス
職業 医師
占星術師
詩人
料理研究家
国籍 フランス
ジャンル 詩
予言
配偶者 アンリエット・ダンコス
アンヌ・ポンサルド
子供 マドレーヌ・ド・ノートルダム
セザール・ド・ノートルダム
シャルル・ド・ノートルダム
アンドレ・ド・ノートルダム
アンヌ・ド・ノートルダム
ディアーヌ・ド・ノートルダム
親族 レニエール(ルネ)・ド・サン=レミ
ジョーム・ド・ノートルダム
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ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus、1503 年 12 月 14 日 - 1566 年 7 月 2 日[1])は、ルネ
サンス期フランスの医師、占星術師[注釈 1]、詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラ
ダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、
様々な論争を引き起こしている。

本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、これはフランス語による。

よく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノス
トラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。

目次
1 概要
2 出自
3 生涯
3.1 少年時代および遊学期
3.2 モンペリエとアジャンでの日々
3.3 医師としての活動
3.4 予言者としての成功
3.5 晩年
3.6 墓
4 著作
4.1 著作閲覧
4.2 筆名について
5 学術的な検証
6 予言の典拠
6.1 占星術について
6.2 歴史関連の参考文献
6.3 予言関連の参考文献
6.4 他の参考文献
7 ノストラダムスの肖像
8 関連年表
8.1 ノストラダムスの存命中の関連年表
8.2 没後の関連年表
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 参考文献
11 関連書籍
12 関連項目
13 外部リンク
概要
ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503 年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教
養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、
後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。

他方で、1550 年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』な
どを著し、当時大いにもてはやされた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予
言を賛嘆する者が現れ、1564 年には、国王シャルル 9 世より「常任侍医兼顧問」に任命された。その 2 年後、
病気により 62 歳で没した。

彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という
名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩形式の予言は非常に難解であったた
め、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多
くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げ
られることとなった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。
長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、
彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとな
りつつある。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形
成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。

出自
詳細は「ノストラダムス一族」を参照
ノストラダムスの父方の先祖は、14 世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父が善良王ルネ
に仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張であり、父方の祖
父も実際には商人であった。ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる 18 世紀の伝記などでは、ノストラダムス
の先祖を更に遡れば、失われた十支族のイッサカル族に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない
[2]。

父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15 世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。
改宗後、クレカはピエール・ド・ノートルダムと改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリ
ーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓を
より多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。

ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンの商人で
あったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した
後、サン=レミに居を移した[注釈 2]。

ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、
父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である[3]。

母方については不明な点も多いが、曾祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリス
ト教徒であったと推測されているので[4]、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。

一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと
主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを
持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派カトリック信徒の姿勢を示してお
り、著書の一つである『1562 年向けの暦』もピウス 4 世に捧げられたものである[5]。また、秘書を務めたこ
ともあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも、ノストラダムスは生前熱心なカトリック信徒で、それと異なる
信仰を強く非難していたと述べていた[6]。

他方で、ルター派の顧客などと交わしていた私信の中では、プロテスタントに好意的な姿勢を示していたこと
も明らかになっている。ジェイムズ・ランディのように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なも
ので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが[7]、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けて
いた可能性を指摘する者もいる[8]。また、かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異
端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆していた[9]。

生涯
下掲の関連年表も参照。

サン=レミのノストラダムスが生まれたとされる一角
少年時代および遊学期
ノストラダムスは、1503 年 12 月 14 日[注釈 3]木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかった
プロヴァンス地方のサン=レミで生まれた[注釈 4]。幼少期には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育
係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラ
などを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは 1504 年頃に没していた可能性が高いた
め[13][注釈 5]、彼が直接教育を施したとは考えられない[2]。父方ないし母方の祖父が教育係とされること
もあるが、どちらも 15 世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のとこ
ろ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。
ノストラダムスは、15 歳前後(1518 年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようで
ある。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの[15]、史料的な裏付けはなく、入学時期
もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を 20 年
以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたと
する「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と
対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている[2]。

このアヴィニョン大学在学は、1520 年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、
アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである[16]。このことは、1521 年か
ら 1529 年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾
しない[17]。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したと
する説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている[2]。この説は、後にノストラダムスの秘書と
なったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが[18]、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身
が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を 1521 年頃から起算していることとも整合していない[19]ためで
ある。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。

モンペリエとアジャンでの日々

現在のモンペリエ大学医学部
1521 年からの約 8 年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは 1529 年 10 月 23 日にモンペリエ大学医学部に入
学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したと
される。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した
形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある [20]。この点、は
っきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる[21][2]。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条
件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られな
いことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる[22]。

この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先
取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか 1
年で辞職したというものがある。しかし、それは 17 世紀以降に言われるようになったに過ぎず[13]、それを
裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない
[2]。

従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、ア
ジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住し
た[注釈 6]。彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。ま
た 1531 年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990 年代に発見された結
婚契約書から窺える[24]。この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが[注釈 7]、
慎重な見方をする論者もいる[26]。実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで 3
年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。

結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供[注釈 8]をもう
けたことは、確実視されている。しかし、1534 年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペスト
が有力視されているが、実際のところは不明である[注釈 9]。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟
を起こされたという話もあるが、これも定かではない[27]。

同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった[注釈 10]。さらには、
1538 年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである[注釈 11]。その理由は「聖人を冒涜し
た」事を問題視されたという程度にしか分かっていない[31]。怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、
そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしま
ったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが 19 世紀になって言い出した話のようである[32]。
このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が
及んだとする説もある[33]。
こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる
史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に
出たらしいことは確実視されている。実際、1530 年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える[注釈 12]。
この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、
19 世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資
料的な裏付けを持たない[2][37]。

医師としての活動

当時の医師たちのペスト治療時の服装。ノストラダムスがこのような格好をしていたかは定かではないが、可
能性は指摘されている[38][39]。

ノストラダムスが晩年を過ごした家

星を見るノストラダムス

アンリ 2 世の死と結びつけられる百詩篇第 1 巻 35 番(1656 年版)。解釈に都合良く原文が改竄されている。


長い放浪を続けたノストラダムスは、1544 年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ[40]、翌年
には 3 人の囚人の診察をした記録がある[注釈 13]。

そして、1546 年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これにつ
いてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。
そして、エクスの古文書館には、1546 年 6 月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス
市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている[43]。

伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。ま
た、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や
熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる[注釈
14]。

しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子[44]に、当時の医学知
識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある[45][38]。患者の隔離をはじめとする
初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていた
ことで、決してノストラダムスに固有のものではない[45][39]。

『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨
り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている[45][46][38]。また、それらの
原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている[13]。結局のところ、彼の医療活動と
ペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾
向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効
性を評価しうるだけの材料には乏しい。なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわ
らず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている
[47]。

その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロ
ン」と略記)に落ち着き、1547 年 11 月 11 日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダ
ムスは終生この街で過ごすことになるが、1 年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再
婚後間もない頃のイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回っ
たらしいことが窺える[48]。

この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道
士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で、その相手が将来ローマ教皇となるこ
とを示唆したために、周囲の失笑を買った。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダム
スの死から 20 年程のちにシクストゥス 5 世として即位し、ようやく彼の予言の正しさが証明されたのだという。
この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており[2]、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二
番煎じという指摘もある[49]。

予言者としての成功
1550 年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の
開削事業に出資したりするようになる[50]。こうした活動と並行して、翌 1 年間を予言した暦書(アルマナッ
ク)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラ
ダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する[注釈 15]。1555 年 5 月に初版が出
された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4 巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全 10
巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている[51]。

そのわずか 2 か月ほど後に当たる 1555 年 7 月[注釈 16]に、国王アンリ 2 世とカトリーヌ・ド・メディシスか


らの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが[注釈 17]、暦書の評
判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある[55][2]。

翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムス
が書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘も
ある[56]。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたと
され、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れ
たが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフラン
ス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大
使ジョヴァンニ・ミキエリが 1561 年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな
王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない
[57]。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の
内容を伝える史料は存在していない。

1557 年には『ガレノスの釈義』(後述)を出版した。ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたよう
だが[58]、1559 年の処方箋も現存している[59]。

1559 年 6 月 30 日、アンリ 2 世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して


行われた馬上槍試合で、アンリ 2 世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7 月 10 日
に没した。現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされる
が、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には 17 世紀に入ってからのことであった[60]。
なお、ノストラダムスは、1556 年 1 月 13 日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、1557 年向けの
暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559 年を「世界的な平和(la paix
universelle)」の年と予言していた[注釈 18]。

晩年
アンリ 2 世亡き後に王位に就いたフランソワ 2 世は病弱で、早くも 1560 年後半の宮廷では、ノストラダムスの
予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ 2 世はこの年のうちに没し、
ノストラダムスの名声は更に高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャー
ノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる
[62]。ただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある[63]。

なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたこと
が、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564 年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マク
シミリアン 2 世の子ルドルフのホロスコープも現存している。

こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。彼女の場合、ノストラダム
スを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その
心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる[64]。しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡
の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになって
いる[65]。

ときに、フランソワ 2 世の後を継いだ弟の国王シャルル 9 世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、


1564 年 10 月 17 日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。

現在のランペリ城
ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城(フランス語版)で会見をした。カトリーヌがモンモランシ
ー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。それによればノスト
ラダムスは、モンモランシー公が 90 歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言した
という(前者は 3 年後に公が 75 歳で没したことで外れ、後者はシャルルが 10 年後に 23 歳で没したことで外れ
た)[注釈 20]。他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のい
ないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。
この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ 4 世としてフランス王位に就くことになった。このエピソー
ドが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589 年)にも見出すことができ
る[66]。

さて、大巡幸中のシャルル 9 世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医
兼顧問」の称号を下賜したようである[注釈 22]。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷
に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラ
ダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ 2 世、フランソワ 2 世、シャルル 9
世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕してい
たかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。

ノストラダムスの墓があるサン=ローラン参事会管理聖堂
その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565 年
12 月 13 日付の私信では、リウマチの症状のせいで 21 日も眠れないと述べている[68]。ただし、後述する
『王太后への書簡』が 1565 年 12 月 22 日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改
善していたと推測されている[69]。

そして 1566 年 6 月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7 月 1 日夜には秘書シャヴィニ


ーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる[70]。ノストラダムスは予兆詩で、
自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているの
を発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャ
ヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確
認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない[71]。そもそも、当該の予兆詩は出版当時の文
献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている
可能性まで指摘されている[72]。


ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁
面に葬られることを希望した[73]。1582 年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。当
時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙
譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている[74]。当時、ノストラダムスは立
った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認で
きる根拠からそれを裏付けることは出来ない[2][注釈 23]。

その後、フランス革命最中の 1793 年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダム


スの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しよう
としたのだという[76]。伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛け
られていたなどと言われるが、史実としての裏付はない[2]。この種の伝説の原型は、17 世紀には既に登場し
ていたという指摘もある[77]。また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込ま
れ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが[78][注釈 24]、実態は不明である。

その後、19 世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、
あまり多くは集められなかったらしい[76]。その後遺骨は市内のサン=ローラン参事会管理聖堂 (La
Collégiale Saint-Laurent) の聖処女礼拝堂に改葬された[76]。なお、ノストラダムスの遺言書でフラ
ンシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム
礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった[79]。

現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが[80]、それが本
当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある[81][注釈 25]。

著作

化粧品とジャム論

1555 年向けの占筮

現存最古の『予言集』完全版
ノストラダムスは私信をラテン語で執筆しているので、当然ラテン語に通じていたはずだが[注釈 26]、ドイ
ツ語訳された瓦版を除けば著作は全てフランス語であり、ラテン語で執筆したものはない。

『オルス・アポロ』
ホラポロのヒエログリフに関する著書を翻訳した 1540 年代の手稿。1967 年に再発見され、翌年公刊された。
当時数多く作成されたホラポロの訳書の一つだが、韻文形式で訳すという他に例のない手法を取り入れている
ため、ホラポロの研究者からも注目されたことがある[83]。
暦書類
1550 年向けの本から 1567 年向けの本まで、1551 年向けを除き 1567 年まで毎年刊行された著作で翌年の 1 年
間を予測した著書。韜晦的な内容ではあったが、非常によく売れたようであり、英語版やイタリア語版、偽版
やその外国語訳版なども出版された。占星術師ノストラダムスの存命中の名声は主としてこの一連の著作によ
って確立され、アントワーヌ・クイヤール、ローラン・ヴィデルといった同時代者の批判者たちも主著『予言
集』よりも、こちらに対して主たる攻撃の矛先を向けた。
また、ノストラダムスには弟子を名乗る偽者や同姓を名乗る偽者たちも現れたが、彼らが主に出版したのも、
暦書の便乗・模倣本であった。
『3 月 10 日の 7 時から 8 時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554
年)
1554 年 3 月 10 日に目撃された天体現象(彗星もしくは流星)について、プロヴァンス総督のタンド伯クロー
ド・ド・サヴォワに報告した書簡である(1554 年 3 月 19 日付)。ドイツの出版業者ヨアヒム・ヘラーによっ
てドイツ語訳された片面 1 枚刷りの瓦版で、1921 年にグスタフ・ヘルマンという人物が近代以降では初めて言
及した[84]。オリジナルのフランス語またはラテン語の書簡は未発見だが、特に偽作を疑われてはいない
[85]。1555 年頃に出版されたが現存していない『1555 年向けの暦』などにオリジナルが収録されていて、そ
れがドイツ語訳されたのではないかという仮説もある[84]。
その内容は、銀色の火花を散らして空を突っ切っていったという松明のような炎(これは彗星の類と考えられ
ている[86])について、エクス=アン=プロヴァンスやサン=シャマで取材を行なった結果も踏まえて分析し、
プロヴァンス地方に襲い掛かる災厄の凶兆を見出すものとなっている[84]。
『化粧品とジャム論』(初版 1555 年)
医師・料理研究家としての著作。2 部構成になっており、前半で様々な薬品類の処方を説明し、後半で菓子類の
レシピを紹介している。後半はフランス人による最初のジャムの製法指南書とされる。第一部の媚薬の製法は
早々と削除されたものの、1572 年までに少なくとも 7 版を数え、他にドイツ語訳版も 3 版刊行される人気作と
なった。
第 8 章はノストラダムスがエクスでペストの治療に当たったときの記録であり、治療に使ったという丸薬の処
方なども掲載されているが、前述の通りその効用は疑問視されている。
『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(初版 1555 年)
3797 年までの予言を収めたと称する[87]、ノストラダムスの主著。現在「ノストラダムスの予言」として引
用される詩句・散文は、基本的にこの著作のものであり、有名な「恐怖の大王」もこの作品に登場する。本来
は「百詩篇集」と呼ばれる四行詩と散文体の序文からなる著書であり、死後 2 年目までに全 10 巻が揃った。生
前の版が確認されていない第 8 巻以降には、偽作説も唱えられている[注釈 27]。
17 世紀に「予兆詩集」「六行詩集」が追加されたが、前者は本来暦書類に収録されていた別系統の詩群であり、
後者は偽作の疑いが強く[注釈 28]、信奉者にすら扱いに慎重な者たちがいる[89]。
『ガレノスの釈義』(初版 1557 年)
正確には『メノドトゥスによる人文科学研究ならびに医学研究への勧告に関する C. ガレノスの釈義』
(Paraphrase de C. Galen, sur L'exhortation de Menodote, aux études des bonnes Arts,
mêmement Médicine)。ガレノスの著書をギリシア語原典を参照しつつラテン語版から忠実にフランス語訳し
たと主張している文献だが、実際にはかなり自由な訳になっている[90]。この文献はデジデリウス・エラスム
スが 1526 年に忠実なラテン語訳を刊行しているが[91]、それと比べると優雅さや正確性の点で劣るとされて
いる[92]。
これも医師としての著作と言えるが、内容的には、医学的というより哲学的であるとも指摘されている[93]。
リヨンの出版業者アントワーヌ・デュ・ローヌによって 1557 年に出版され、1558 年に再版された。
『プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡』(1566 年)
王太后(国王の母后)、すなわちカトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた 1565 年 12 月 22 日付の書簡であ
る。八つ折版で 8 ページからなるが、うち 1 ページは扉、2 ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章
の図版があるだけなので、本文は実質的に 4 ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、
内容的にはかなり薄く、単著として刊行されたとはいえ、分量的には暦書類に掲載されていた有力者への献辞
と大差がない。
内容は前半で、近く開かれる会議についての見通しが語られ、紆余曲折はあっても最終的には誰もが納得する
形で、フランスの平和につながると請け合っている。後半では、国王(シャルル 9 世)が 17 歳になる年に幸運
な出来事が起こりそうなので、その正確な予言のために星位図を送って欲しいという依頼である。ピエール・
ブランダムールはこれについて、1566 年 6 月 27 日の国王誕生日を見据えたものだとした[94]。
この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は 19 世紀にまと
めて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである[95]。
文面からは王家の幸福を願うノストラダムスの真摯な姿勢が読み取れるとする評価もある[96]。
『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(執筆時期未詳)
シャヴィニーが言及しているほか[97]、ノストラダムス自身が私信の中でその要約版の手稿について言及して
いる[98]。ただし、現存していないため、具体的な内容は不明である。
『息子セザールに宛てた未来のキリストの代理者に関するミシェル・ノストラダムスの予言』
「ノストラダムスの予言絵画」「ノストラダムスの失われた書」などと呼ばれる画集で、20 世紀の終わりごろ
に発見されて話題になった。しかし、その内容の多くは中世から近世にかけて流布した教皇預言書の焼き直し
にすぎず、実証的に見た場合、本物の可能性は全くない[2][99]。
著作閲覧
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ノストラダムス
英語版ウィキソースにノストラダムス著の原文があります。
スペイン語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ノストラダムス
Nostradamus, Michel (1555) (French), Excellent & Moult Utile Opuscule à tous
necessaire..., Antoine Volant.(『若干の魅力的な処方についての知識を得たいと思う全ての人々に
とって優良かつ大変有益な二部構成の小論集』 通称:化粧品とジャム論)
Nostradamus, Michel (1555) (French), Les Propheties de M. Michel Nostradamus, Macé
Bohnomme. 1555, 1557, 1568 他(ミシェル・ノストラダムス師の予言集),
筆名について
ミシェル・ド・ノートルダムが本格的な著述活動に入るのは 1550 年頃からであり、ミシェル・ノストラダムス
というラテン語風の表記をまじえた筆名を用いるのはこの頃以降のことであったとみなされている。公刊され
たものとして現在確認できる最古のものは、1555 年向けの暦書の表紙に書かれているものである(公刊された
ものに限らなければ、現存最古は手稿『オルス・アポロ』に書かれた署名である)。

入学宣誓書に見るノストラダムスの署名
日本語文献の中には学生時代から用いていたとするものもあるが、史料的に裏付けることができない[注釈
29]。学生時代の自署としては、モンペリエ大学入学時の入学宣誓書が現存するが、そこでは、ミカレトゥス・
デ・ノストラ・ドミナ (Michaletus de Nostra Domina) という正式なラテン語表記が採られている(た
だし、このミカレトゥスは、ミシェルを愛称化した上でラテン語表記したものである)。
また、日本では、ミ(ッ)シェル・ド・ノストラダムスという表記もしばしば見られるが、「ノストラダム
ス」の前に「ド」を付けるこのような表記は、ノストラダムス本人の著作には見られない。本来これは、同時
代の偽者の一人であるノストラダムス 2 世が用いたものであった。ゆえに、不正確な表記ではあるのだが、同
時代人にとっても紛らわしいものであったらしく、ノストラダムスの実弟ジャンの著書(1575 年)や秘書シャ
ヴィニーの著書(1596 年)でも、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と書かれてしまっている(この種の誤用
の現在確認できる最古のものは、1556 年 10 月 14 日付で暦書に与えられた特認の文面である)。

学術的な検証
ノストラダムスを大予言者と位置づける立場からの「ノストラダムス現象」の広まりに比べて、歴史学、文学、
書誌学といった領域からの研究は長い間非常に限定的なものでしかなかった。しかし、20 世紀半ば以降、主と
して英語文献と仏語文献では、専門的な研究も着実に蓄積されてきている[注釈 30]。

グラヌムの死者記念塔。ノストラダムスの詩にも何度か登場する。
ノストラダムス本人や先祖の伝記については、20 世紀半ばにエドガール・ルロワやウジェーヌ・レーが古記録
を丹念に調査し、実証度を飛躍的に高めた[100]。この結果、伝説的な要素はかなりの程度排除できるように
なった。レーはノストラダムスの往復書簡についても抄録の形ながら紹介を行い、この面でも実証的な伝記の
形成に貢献した[注釈 31]。また、ルロワも古文書での実証だけでなく、地元サン=レミの精神科医という利
点を活かし、ノストラダムスの詩篇には、幼年期の記憶、すなわちサン=レミの景色や近隣のグラヌムの遺跡
と一致するモチーフが存在することを初めて指摘した。

書誌研究の分野では、ミシェル・ショマラとロベール・ブナズラが、1989 年と 1990 年に相次いで記念碑的な


書誌研究を発表している[102]。前者の研究対象は 18 世紀までの文献ではあるが、フランス語文献に留まらず
英語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語などの文献も幅広く網羅した労作である。後者の研究は基本的にフ
ランス語文献に限定されたものであるが、対象時期は 1989 年までと幅広く、また重要な文献については詳細な
分析を付加している。いずれも書誌研究として高く評価されている[103]。

『予言集』の原文校訂および分析に関しては、多少粗い形とはいえ包括的な分析を行ったエドガー・レオニの
先駆的研究(1961 年)[104]のほか、『予言集』初版収録分を主たる対象とするものであるが、ピエール・ブ
ランダムール(1993 年、1996 年)、アンナ・カールステット(2005 年)などの研究がある[105]。ブランダ
ムールは、予言詩のモチーフに、ルーサや『ミラビリス・リベル』といった同時代の予言的言説や様々な西洋
古典からの借用が含まれていることを指摘したほか、同時代の事件や風聞に題材を採ったと思われる詩がある
ことを示すなど[注釈 32]、16 世紀フランス史の文脈から手堅い研究を展開した(後述)。他方、カールステ
ットは、モチーフの分析もさることながら、モーリス・セーヴら同時代の詩人との文体の比較を丁寧に行うこ
とで、内容分析に比べて十分な蓄積がなされてこなかった文体論研究の分野にも貢献している。

予言の典拠
ここでは、彼が『予言集』、暦書類、顧客への私信などで予言を行う際に、何に基づいていたのかを、現在ま
での研究で明らかになっている範囲で扱う。なお、暦書類や私信よりも『予言集』の方が研究の蓄積が大きい
ため、例示は『予言集』のものが多くなる。この点については有名な予言詩の例も参照のこと。

占星術について
ノストラダムスは、『予言集』や暦書類での予言の基礎を、判断占星術(Astrologie judiciaire, 星位を
もとにして未来を占うこと)に置いていると主張していた[注釈 33]。しかし、彼の占星術は、ローラン・ヴ
ィデルのような同時代の占星術師からは、星位図の作成に誤りがいくつもあることなどを、強く批判された
[106]。

また、彼の占星術のオリジナリティには疑問が呈されている。少なくとも、リシャール・ルーサの『諸時代の
状態と変転の書』(1550 年)が主要な参照元であったことは確実である。これは、同書からほとんどそのまま
引用している箇所が少なくないことからも明らかである[107]。さらに、彼が顧客向けに手ずから作成した出
生星位図にしても、既に公刊されていた他の占星術師の星位図などを下敷きにしたものであり、自身で全ての
星位の計算を行っていたわけではないらしい[108]。同様の例は『予言集』第二序文でも指摘されており、キ
ュプリアヌス・レオウィティウスの星位計算をそのまま転用している箇所が指摘されている[109]。

なお、文献の性質上、暦書については星位やその影響に関する叙述が多いものの、『予言集』では、占星術的
な言及はそれほど多くない。正編とされる「百詩篇集」942 篇の四行詩の中では、およそ 41 回言及されている
に過ぎない[110]。

歴史関連の参考文献
実証的な研究の蓄積は、『予言集』や暦書類といった彼の予言作品が、古代の終末論的預言(主たる基盤は聖
書)を敷衍したものであると示唆している。彼は、これに、前兆に関する記録や過去の歴史的事件などを加味
した上で、星位の比較も一助として、未来を投影したのである。

例えば、彼の予言には「空での戦闘」や「太陽が 2 つ現れる」といった記述がある。信奉者は、それらを現代
ないし近未来の戦争や核爆発の描写と解釈するが、こうした現象は、当時の「驚異」(prodige) としてはあ
りふれた言説であった(当時の人々がそれらをありうる、または実際に見聞したと認識していたことと、実際
にそれらが起こったかは当然別問題である)。当時の人々はそうした「驚異」を何らかの変事の前兆と捉えて
いたのであり、ノストラダムスの予言には、当時の風聞やユリウス・オブセクエンスの『驚異の書』に基づく
形で、そうした「驚異」が多く反映されている[111][112]。

また、彼の予言に反映されている歴史的題材の分かりやすい例としては、スッラ、マリウス、ネロ、ハンニバ
ルといった古代の人名が織り込まれている詩や散文の存在を挙げることができる。こうした歴史関係の叙述に
あたっては、ティトゥス・リウィウス、スエトニウス、プルタルコスら古代の歴史家たち、及びヴィルアルド
ゥアンやフロワサールら中世の年代記作家たちの作品が参照されている。このことは、それらからの引用句を
容易に同定できることから明らかである[112]。

予言関連の参考文献

『ミラビリス・リベル』の再版の 1 つ(パリ、1520 年代)


ノストラダムスの予言は、独自に組み上げられたものだけではなく、先行する予言関連の著書からの借用も含
まれていることが指摘されている。そうした彼の予言的な参考文献の中で最も重要なものは、疑いなく『ミラ
ビリス・リベル』(1522 年に出された編者不明の予言集)である。同書にはジロラモ・サヴォナローラの『天
啓大要』の抜粋が含まれており、『予言集』第一序文には、そこからの引用が少なくない[注釈 34]。

『ミラビリス・リベル』は 1520 年代に 6 版を重ねたが、その影響は持続しなかった。一因としては、ラテン語


で書かれた第一部の分量が多く、かつ読み辛い古書体で印刷されていたことや、難解な省略が多かったことな
どが挙げられる。ノストラダムスは、この書を最初にフランス語で敷衍した一人と言うことができ、一説には
『ミラビリス・リベル』を出典とするノストラダムスの四行詩は 137 篇に上るとも言われている[112][注釈
35]。

『百詩篇集』第 1 巻 1 番(マセ・ボノム、1555 年)
さらに異なる引用元として、クリニトゥスの『栄えある学識について』を挙げることができる[112]。ここに
は、ミカエル・プセルロスの『悪魔論』や、4 世紀の新プラトン主義者イアンブリコスがカルデアやアッシリア
の魔術について纏めた『エジプト秘儀論』からの抜粋を含んでいる。『栄えある学識について』をそのままフ
ランス語に訳して転用した箇所や、ノストラダムスなりに敷衍した箇所は、第一序文の中でいくつも指摘する
ことができる[113]。また、「百詩篇集」の最初の 2 篇が、『エジプト秘儀論』の翻案と言うことはつとに知
られていた[114]。かつてはマルシリオ・フィチーノ訳の『エジプト秘儀論』などから直接借用したとされて
いたが、現在では否定されている[115]。

他の参考文献

アルカビティウスの占星術書
ノストラダムスは、第一序文で、自身の神秘学系の蔵書を焼却したと語っている[116]。これが事実だとして
も、火にくべられた書物が何であったかは特定されていない。とはいえ、彼の蔵書の追跡調査も、1980 年代以
降行われており、その結果、彼の蔵書には、スコットランドの神学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス、イス
ラム世界の占星術師アルカビティウス、パドヴァ大学の医学者コンファロニエリらの著書や、トマス・モアの
『ユートピア』が含まれていたことが明らかになっている[注釈 36]。

こうした出典の研究が進んだことで、かつて言われていたように、ノストラダムスが予言の際に何らかの魔術
的な儀式を行ったり、トランス状態に陥ったりしたかどうかは疑問視されている。「百詩篇集」の最初の 2 篇
には儀式的なことが書かれているが、既に見たように、これは他の文献からの翻案であり、本人の行動と一致
するとは限らない。また、顧客向けの私信に儀式を行ったように書いているものもあるが[118]、顧客に対し
て説得力を増すために誇張した可能性もある[119]。

他方で、それをもって彼の詩が「予言詩」(「預言詩」)でない、と言い切ることには慎重さが求められる。
当時の詩人にとって「詩を作ること」と「預言をすること」とが近しいものと捉えられていた点には、留意が
必要だからである[120]。そして、カールステットはまさにこの点において、ノストラダムスがプレイヤード
派に影響を及ぼした可能性をも示唆している[121]。

ノストラダムスの肖像
ノストラダムスの肖像は、冒頭にも掲げた息子セザールによる肖像画をはじめ、絵画、版画、『予言集』の挿
し絵などで数多く描かれており、彫像なども複数存在している。しかし、同時代の肖像画として知られている
のは、後述するピエール・ヴェリオのものが唯一である。

文章による風貌の証言としては、秘書だったシャヴィニーのものがある。

彼の身長は平均よりも少し低かったが、身体は頑強にして壮健で、逞しかった。大きく開けた額、真っ直ぐで
一様な鼻、灰色の瞳をそなえており、眼差しは穏やかだったが、怒ったときには燃えているようだった。厳格
だが陽気な風貌だったので、厳格さの中に深い人間味が込められているようだった。老齢になってまでも頬の
血色は良く、あごひげは濃くて長かった。晩年を除くならば、健康状態は良好で快活だったし、諸感覚はすべ
て鋭敏で欠陥がなかった。
精神に関しては、活発で良質なものを持っており、彼が望むことは全て軽々と理解できた。判断は緻密で、記
憶力には驚くほど恵まれていた。無口な性格のため、熟慮しつつもほとんど口を開かなかったが、時と場合に
応じて良く喋った。残りの点としては、彼は用心深く、迅速・性急で、怒りやすかったが、仕事には忍耐強か
った。彼は 4、5 時間しか眠らなかった。言論の自由を愛して称賛し、陽気な性格で冗談が好きだったので、笑
いながら辛辣なことも言った[122][注釈 37]。

以下にノストラダムスをかたどった主な絵画、彫刻などとその概説を掲げる。

肖像 解説
Nostradamus1562.jpg ピエール・ヴェリオ(フランス語版)が 1562 年に描いたノストラダムス 58 歳
の肖像画で、直径 12 cm の版画である[123]。ノストラダムス本人が生きているうちに描かれた肖像画は、ほ
かに確認されていない。ヴェリオはリヨンに住んでいたことがあるため、ノストラダムスと面識があったので
はないかと推測する者もいる[124]。
Nostradamus Gaultier.jpg フランスの版画家レオナール・ゴーチエ (Léonard Gaultier,
ca1561 - ca1630) が描いた肖像画で、ガブリエル・ミシェル・ド・ラ・ロシュマイエ『1500 年から現在ま
でにフランスで活躍した多くの著名人たちの肖像画集』 (Gabriel Michel de la Rochemaillet,
Pourtraictz de plusieurs hommes illustres qui ont flery en France depuis l'an 1500
jusques à present, Paris, J. le Clerc, ca1600) に収録された。この文献は 144 人の官吏、学者、
芸術家などの肖像を並べたもので、画像に「129」とあるように、ノストラダムスはその 129 番目に収録され
ている。オリジナルのサイズは 3.5 x 3 cm である[125]。
Nostradamus by Cesar.jpg 息子セザールが 1614 年頃に描いた肖像画である。銅板に油彩で描かれ
ており、そのサイズは 18 x 16 cm である[126]。メジャヌ図書館所蔵(エクス=アン=プロヴァンス)。
Nostradamus 1846.jpg 上記のセザールの肖像画を複製したものである。ルイ=フィリップがヴェルサ
イユ宮殿に飾る絵としてフランソワ・グラネに依頼したもので、1846 年頃に彼かその工房によって作成された
ものらしい[127]。サイズは 18 x 13 cm で、画布に描かれた油彩画である[127]。現在はヴェルサイユ・ト
リアノン国立美術館に所蔵されている[127]。
Nostradamus.png 息子セザールが描いた望遠鏡を携えるノストラダムス(部分)。オリジナルはサロン=
ド=プロヴァンス市庁舎の「結婚の間」に飾られている[128]。望遠鏡の発明はノストラダムスの死後のこと
だが、セザールは学者としてのノストラダムスの姿を強調しようとしたと考えられている[129]。
Nostradamus Amsterdam 1668.jpg 1668 年アムステルダム版『予言集』の口絵。書斎に腰掛ける
ノストラダムスで肖像画の下には、
私は真理を語り、虚言を語らない。それは天からの賜りものゆえ、
語り手は神であって、私ことノストラダムスではないのだ。
Vera loquor, nac falsa loquor, sed munere coeli
Qui loquitur DEUS est, non ego NOSTRADAMUS
と書かれている。この二行詩はもともと匿名[注釈 38]の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩
集の解明』(1656 年)に掲載されていたもので、その著者は二行詩が自作のものであると示していた[131]。
この版画は、1668 年パリ版をはじめ、17 世紀から 18 世紀初頭の複数の『予言集』の版で模倣された。

Nostradamus portrait ca1690.jpg 1691 年頃にリヨンの出版業者アントワーヌ・ベソンによって


出版された『予言集』の口絵。肖像画の下には四行詩が添えられている。
ここで神は我が口をお使いになる、
汝に真実を告げるために。
もしも我が予言が汝の心を動かすなら、
神へと感謝なさるがよい。
この四行詩は、上記の 1668 年版に掲載されていたラテン語のフレーズに触発されたものという説もある
[132]。四行詩の上には小さくドーデ (Daudet) と署名があり、この版画の作者と考えられている[133]。
この肖像画は同時代のバルタザール・ギノーの解釈書などに転用された。

Nostradamus estampe.gif パリでオデューヴル (Odieuvre) が 1742 年頃に作成した銅版画である。サ


イズは 18 x 11.1 cm で、ジャン・ブーランジェ(英語版)(1608 年 - 1680 年) による肖像画を模倣し
ている[134]。
Nostradamus 1754.jpg ノストラダムスの若い頃を描いた版画。ただし、1754 年にオール・ビレット
(Aure Billette) が描き、パリのドヴォー (Deveau) という出版業者が刊行したものであって、後の時代
の想像図にすぎない[135]。この肖像画は、パリの他の業者が即座に模倣したため、肖像画の周りがメダイユ
で囲まれたバージョンも存在している[135]。
Michelnostradamus.jpg レ・ザルピーユ・ピエール=ド=ブラン博物館(サン=レミ・ド・プロヴァン
ス)等に所蔵されている版画である[136]。
Nostradamus by Lemud.jpg ウジェーヌ・バレストの著書『ノストラダムス』(1840 年)に収録さ
れた肖像画。エメ・ド・ルミュ筆。
Saint-Remy-de-Provence 20111016 22 cropped.JPG サン=レミに残る「ノストラダムスの泉」の彫
像(拡大)。1859 年に彫刻家アンブロワーズ・リオタール (Ambroise Liotard, 1810-1876) が製作し
た。この時期にはサロンでもノストラダムスの彫像が築かれたが、その背景には、アンリ・トルネ=シャヴィ
ニーの一連の解釈書が話題となる中で、町の注目度を上げようとしたことがあったという[137]。
Centrum-salon.jpg サロン=ド=プロヴァンスの百詩篇広場近くの建物に描かれたノストラダムス。ミアミ
・グループ (le groupe Miami) によって、1998 年に作成された[138]。元になった絵は 18 世紀の
C.G.E.ディートリヒ (C.G.E.Dietrich) が描いたと推測されている肖像画である[139]。
Salon-de-Provence 15.JPG フランソワ・ブーシェによる、ノストラダムスをイメージした抽象的な
彫像。1964 年に製作されたが、サロン=ド=プロヴァンスに現在飾られているものは 1999 年に復元されたも
のである[140]。
関連年表
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出典検索?: "ノストラダムス" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp
· ジャパンサーチ · TWL(2021 年 7 月)
以下では、裏付けの取れるものを中心にとりあげた。『予言集』関連の詳細はミシェル・ノストラダムス師の
予言集などを参照のこと。ノストラダムス・ブームなどの詳細はノストラダムス現象を参照のこと。

ノストラダムスの存命中の関連年表
1503 年 12 月 14 日(木曜日) - 誕生。
1518 年頃 ? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる。
1520 年 - 学業を中断したと推測されている。
1521 年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529 年)。
1529 年 10 月 23 日 - モンペリエ大学医学部に入学。
1531 年 - アジャンでアンリエット・ダンコス(Henriette d'Encosse)と最初の結婚。
1530 年代後半 ? - 最初の妻と子どもをペストで失う。以降放浪したとされる。
1545 年前後 ? - 手稿『オルス・アポロ』を執筆。
1546 年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。
1547 年 - サロン・ド・クローに転居。以降、定住。
1547 年 11 月 11 日 - アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde)と再婚。
1549 年頃 - 1550 年向けの暦書類を刊行する。以降、1551 年向けを除き、1567 年向けまで毎年刊行される。
この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。
1551 年頃 - 長女マドレーヌ誕生。
1553 年 11 月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者とトラブルになる[141]。
1553 年 12 月 18 日 - 長男セザール誕生。
1554 年 - 『3 月 10 日の 7 時から 8 時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光
景』がニュルンベルクで出版される。
1555 年 - 『化粧品とジャム論』の初版を刊行する。
1555 年 5 月 4 日 - 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版を刊行する。
1555 年 8 月 - 国王アンリ 2 世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスに謁見。
1556 年頃 - 次男シャルル誕生。
1556 年 - アントワーヌ・クイヤールが『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言
集』のパロディであり、最初の風刺文書である。
1557 年 - 『ガレノスの釈義』初版を刊行する(翌年には再版される)。
1557 年 9 月 6 日 - 『予言集』の増補版を刊行する。
1557 年 11 月 3 日 - 三男アンドレ誕生。
1557 年 11 月 3 日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。
1557 年頃 - イタリア語訳版の暦書が刊行される。初のイタリア語訳版。
1557 年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃
からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。
1558 年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もある。

ノストラダムスへの批判書の一つ(1558 年)
1558 年 - 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムス
に対する」になる)。同じ年にジャン・ド・ラ・ダグニエール、ローラン・ヴィデルらも中傷文書を刊行した。

1559 年 - 英訳版の暦書類が刊行される。初の英訳版。
1559 年 7 月 10 日 - アンリ 2 世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧
伝されていた詩(百詩篇第 3 巻 55 番)は、現在結び付けられている詩(百詩篇第 1 巻 35 番)とは別の詩であ
る。
1559 年 12 月 15 日 - 次女アンヌ誕生。
1560 年 - ロンサールが『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込
む。
1561 年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちのジャン=エメ・ド・シャヴィニー)を秘書として雇う。

1561 年 - 三女ディアーヌ誕生。
1561 年頃 - パリで『予言集』の海賊版が刊行される。この版を刊行した業者バルブ・ルニョーは、前後する
時期に、暦書の偽版 2 種類と海賊版と思しき版 1 種類も刊行している。
1563 年頃 - この頃から「ミシェル・ド・ノストラダムス (Michel de Nostrdamus, Mi. de
Nostradamus)」と名乗る偽者が著作を発表し始める。
1564 年 10 月 17 日 - フランス全土を巡幸していた国王シャルル 9 世と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサ
ロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスはアルルで、「常任侍医兼顧問」(Conseiller et
Medecin ordinaire au Roy) の称号を受けたとされる。
1566 年 - 『王太后への書簡』を刊行する。
1566 年 - オランダ語訳版の暦書が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳版。
1566 年 6 月 17 日 - 公証人を呼んで遺言書を口述(6 月 30 日に追補)。
1566 年 7 月 1 日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたと
される。
1566 年 7 月 2 日未明 - 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。
没後の関連年表

シャヴィニーによる最初の伝記(1594 年)

『予言集』偽 1568 年版(1649 年頃)

ノストラダムスの泉

現存するノストラダムスの墓碑(1813 年)
1568 年 - 現存最古の『予言集』完全版が刊行される。
1570 年頃 - この頃から偽者アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムスが著作を発表し始める。
1572 年 - ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行される。この版は 1573 年と 1589 年にも再版された。

1589 年 - シャヴィニーが手稿『ミシェル・ド・ノートルダム師の散文体の予兆集成』を作成。これにより、
暦書類の内容がかなりの程度保存された。
1590 年 - アントウェルペンで『予言集』が出版される。フランス以外で刊行された初めての版(対訳等はな
し)。
1594 年 - シャヴィニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。これは、ノストラダムス予言の最初
の解釈本に当たる。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤りが少なくない。
1605 年 - 1605 年版『予言集』が刊行される。「予兆集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。
1614 年 - 長男セザールが『プロヴァンスの歴史と年代記』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており
伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。
1649 年頃 - フロンドの乱の影響で、ジュール・マザランを貶めるための偽の詩篇を加えた偽「1568 年リヨ
ン版」『予言集』が刊行される。この時期は、ノストラダムスを主題とするマザリナードも多く刊行された。
1672 年 - テオフィル・ド・ガランシエールによる英訳と解釈が収録された『予言集』が出版される。初の翻
訳された版。
1789 年 - フランス革命が始まる。それから 10 年ほどの間に 10 種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パ
ンフレットが刊行された。なお、『予言集』の中には 10 篇ほどの詩を偽の詩に差し替えた版もあった。
1791 年 - ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、遺骨の一部が集められ、サロン市のサン=ローラン参
事会聖堂聖処女礼拝堂の壁の中に安置し直された。
1813 年 7 月 - 新たな墓所に墓碑が飾られる。現存する墓碑はこの時のものである。
1859 年 - サン=レミに現存する「ノストラダムスの泉」が作られる。手がけたのは彫刻家アンブロワーズ・
リオタールである。
1939 年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布し
た。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという[142]。このほか、特にアメリカで
は、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。
1966 年 12 月 - パリのオークションに『1562 年向けの暦書』の異本の手稿が現れる(暦書類で存在が知られ
ている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。
1967 年 - フランス国立図書館で手稿『オルス・アポロ』が発見される。
1973 年 11 月 - 五島勉の『ノストラダムスの大予言』が刊行される。刊行から 3 か月余りで公称 100 万部を
突破するベストセラーとなり、日本における最初のノストラダムスブームが起きる。
1980 年 - フランスでジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌが『歴史家にして予言者ノストラダムス』を刊
行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も相次いで出版された。
1982 年 9 月 - ウィーンのオーストリア国立図書館で『予言集』初版が発見される。初版本は 1931 年 6 月 17
日のオークションで現れたのを最後に所在不明となっていた。
1983 年 - フランスでノストラダムス協会が創設される。
1983 年 6 月 - ブダペストの国立セーチェーニ図書館に『予言集』1557 年 11 月 3 日版が所蔵されていたこと
が確認される。
1983 年 7 月 - アルビ市立図書館でも『予言集』初版が発見される。
1991 年 - 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに
登場するものも出た。
1992 年 - サロン市にノストラダムス記念館 (Le Musée de "La Maison de Nostradamus") が開設さ
れる。これは、彼が晩年を過ごした家を改築したものである(ただし、建物自体は 1909 年の地震 (南フラン
ス)(フランス語版)で大きな被害を受けたため、当時の建物そのままではない)。設立当初は私設だったが、
1997 年からは公立博物館となっている。
1996 年 - オランダのユトレヒト大学図書館で 1557 年版の『予言集』が確認される(2006 年現在で現存はこ
の一例のみである)。
1999 年 - 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売され
た。ただし、1999 年を境に日本のノストラダムス関連書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001 年を
除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと比べて落差が最も顕著である。
2001 年 - アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フランス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出さ
れた。また、インターネット上でノストラダムスの詩と称する偽物が出回った。
2003 年 - ノストラダムスの生誕 500 周年。サロン=ド=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これ
に合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタログが出版された。
2010 年 9 月 - パリのオークションに 1561 年ニコラ・ビュフェ未亡人版『予言集』が現れる[143]。従来は
存在そのものが想定されていなかった版であり、現時点で確認されている範囲では、海賊版の流れを汲む最古
の版である。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ ノストラダムス本人は、「占星術師」(Astrologue) ではなく「愛星家」(Astrophile) という肩書きを
名乗ることが度々あった。
^ 以上、出自に関しては主に Leroy (1993)、Lhez (1968)に拠っている。
^ なお、この日(グレゴリオ暦値 1503 年 12 月 24 日)には太陽・水星・金星・地球・火星・木星・土星が過
去 6000 年間にもっとも直列に並ぶ現象(惑星直列)が発生しているが、地動説を前提とすることで理解できる
この現象の発生を天動説が支配していた当時においては理解されていたとは考えられず(実際、この事実が判
明したのは後世の古天文学の研究による成果である)、彼の生涯と惑星直列を結びつける主張は成り立つこと
はない[10]。
^ この点は、墓碑銘と私信(12 月 12 日を誕生日の 2 日前と語っている私信がある)などが裏付けになってい
る[11]。出生そのものや洗礼の記録は確認されていない。なお、2006 年になって、墓碑銘の再検討などから
正しい誕生日を 12 月 21 日とする説が登場した[12]。
^ 曾祖父は地元の名士であるがゆえに記録に頻出するが、1504 年を境に記録から完全に姿を消しているため、
恐らくこの年に没したと推測されている[14]。
^ 実際、本人は、トゥールーズ、ボルドー、カルカソンヌのほか、アジャン周辺にいたことがあると後年語り、
スカリジェのことも高く評価している[23]。
^ 妻の名前をアドリエット・ド・ルーブジャックと紹介している文献もあるが、これはスカリジェの妻アンデ
ィエット・ド・ラ・ロック・ルーブジャック(オーディエット・ラ・ロック・ローベジャック)と混同された
誤伝のようである[25]。
^ シャヴィニーの伝記では、子は男児と女児が 1 人ずつとされている[18]。しかし、これも実証されてはおら
ず、はっきりしたことは分かっていない。
^ ノストラダムスの最初の結婚について語っている同時代の証言はシャヴィニーの伝記しかないが、彼は家族
の死因については何も語っていない。これに関する実証と伝説の開きについては、Wilson (2003, pp. 58-
59)なども参照のこと。
^ これを伝える最古の記録は 17 世紀の歴史書であるが[28]、スカリジェの遺作となった詩集にノストラダム
スを悪罵する詩が複数収録されていることも傍証になる[29]。
^ 19 世紀に編纂されたアジャンの古文書集に記録されているようである[30]。
^ 例外的に、1539 年にボルドーの薬剤師レオナール・バンドンの薬房を訪れたと、後にノストラダムス自身が
語っている[34]。これについては、信憑性を疑問視する見解[35]と、特に問題視しない見解とがある[36]。
^ ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカタログ[41]に、この記録の写真が載っているという
[42]。
^ こうした伝説に基づく紹介として、五島勉 (1998) 『ノストラダムスの大予言 最終解答編』 祥伝社〈ノ
ンブック〉、pp.106-109 など。
^ ノストラダムスが『予言集』をどのような意図で出版したのかははっきりしていないが、この点を考える一
助として、後段の予言の典拠も参照。
^ これを 1556 年 7 月としている文献も多い。その元祖はシャヴィニーだが[52]、実証的には否定されている。
理由として挙げられるのは、1556 年 2 月 1 日付のガブリエル・シメオニ(フランス語版)からノストラダムス
に送られた書簡に、ノストラダムスが宮中で成功したことに触れた件があることや[53]、同時代のリヨンの商
人の書いた年代記に、宮廷に参上途中のノストラダムスが、1555 年 7 月にリヨンを通ったと書かれていること
[54]などである。
^ これを最初に述べたのはシャヴィニーである[52]。ただし、シャヴィニーは前述の通り、招待の時期自体を
誤っていた。
^ この予言は同じ年のカトー・カンブレジ条約になら当てはまるように見えるとする指摘もある[61]。
^ ただし、それらの記録は 18 世紀から 19 世紀に再編集されたものである。
^ 以上の大巡幸の様子については Leroy (1993, pp. 97-100), Brind'Amour (1993, pp. 48-50)
などによる。
^ レトワルの日記は生前公刊されることがなく、版によって異同があるが、ここで問題になっている記述は
1719 年版で付け加えられたものである。
^ この時期は確定できていないが、息子セザールの証言通りアルルでのことだったのなら、1564 年 11 月 16
日から 12 月 17 日の間だったことになる[67]。
^ この修道院付属聖堂は現在ではレストランとなっており、ノストラダムスが葬られていたとされる壁は残さ
れているが、姿勢を推察できるような痕跡は失われている[75]。
^ 竹下 (1998, p. 138)では、宿舎での窃盗容疑で銃殺されたという話が紹介されている。
^ また、Wilson (2003, p. 368)でもノストラダムスの骨かどうかは、断定が避けられている。
^ ノストラダムスのラテン語力については、あまり熟達したものではなかったと推測する者もいる[82]。
^ 特殊な偽作説を唱えるジャック・アルブロンは、第 1 巻から第 10 巻までが全て死後の偽作という立場をとっ
ている[88]。
^ Leoni (1961)では偽作と断定されている。
^ 一応、『1525 年にエクス=アン=プロヴァンスで出版されたミシェル・ノストラダムスの四行詩』と題する
17 世紀末頃の瓦版は現存するが、このオリジナルが 1525 年に刊行されたと見なせる史料的裏付けはない。
^ 英仏語以外でも、数は少ないが、優れた研究として評価されているものはある。例として Elmar Gruber
(2003), Nostradamus: sein Leben, sein Werk und die wahre Bedeutung seiner
Prophezeiungen, Scherz など。
^ Lhez (1961)の紹介は、重要な書簡の全訳と他の書簡の要約から成っていたが、後にジャン・デュペーブが
全ての書簡の紹介と分析を行っている[101]。
^ ノストラダムスの予言の中に、『予言集』刊行当時から見て、過去に属する事柄が含まれている、とする指
摘自体は、18 世紀には出されていた(1724 年の『メルキュール・ド・フランス』紙に 2 度に渡り掲載された
匿名の書簡で、こうした視角からの分析が行われている)。
^ 日本では、ノストラダムスがラテン語の詩で占星術師を批判していることなどを以て、彼は占星術全般に否
定的だったと主張する者[誰?]がいる。しかし、第一序文では、判断占星術とその他の占星術を区別した上で前
者を評価しているため、日本以外では、立場に関わらずそうした主張は殆ど見られない。
^ ちなみに、第一序文には、聖書からの引用句が 24 あるが、2 つを除いてサヴォナローラの引用と重複してい
る[113]。
^ 『予言集』と『ミラビリス・リベル』との対照については、Lemesurier (2003)で展開された各解釈で詳
述されている。ただし、その解釈には Lemesurier (2010)で修正されたものが含まれている。Lemesurier
(2010)の解釈は、Lemesurier (2003)のものに比べると、いずれも簡略なものである。
^ いずれもミシェル・ショマラによる。彼はノストラダムス自身の署名がある現存する文献や、息子セザール
の私信を基に、ノストラダムスの蔵書 12 点を特定している(うち推測が 4 点)。本文で例示したものは、いず
れも署名つきで現存する文献[117]。
^ ここでは原文から直接訳出したが、既存の日本語訳としてはラメジャラー, 田口 & 目羅 訳 (1998, p.
72)などがある。
^ 著者はアミアンの医師とされるエチエンヌ・ジョベールと、ドミニコ会修道院長ジャン・ジフル・ド・レシ
ャクとする 2 つの説がある[130]。
出典
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^ ブランダムール, 高田 & 伊藤 編訳 1999, pp. 22-24、ランディ & 皆神 1999, p. 111, (日本語版
監修者皆神龍太郎のコメント)
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^ Patrice Guinard, Biblio-iconographie du Corpus Nostradamus
参考文献
本記事作成にあたり参照された文献。ノストラダムスを主題としておらず、参照頻度も少ない文献は、注記の
中で書名も表示してある。
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関連書籍
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関連項目
フランス・ルネサンスの文学
西洋占星術
ノストラダムス (映画) - 1994 年制作の映画。チェッキー・カリョがノストラダムスを演じた。
アンリ 2 世 (フランス王)
カトリーヌ・ド・メディシス
シャルル 9 世 (フランス王)
外部リンク
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Le C.U.R.A. (Centre Universitaire de Recherche en Astrologie)
Corpus Nostradamus
Prophecies on Line
Espace Nostradamus
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表話編歴
ノストラダムス(ノストラダムス現象)
人物
一族関連人物偽者
著作
オルス・アポロ暦書化粧品とジャム論ミシェル・ノストラダムス師の予言集
予言集
1555 年の版 1557 年の版 1568 年の版アンゴルモア恐怖の大王
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カテゴリ: ノストラダムスフランスの占星術師フランスの詩人フランスの医師フランスルネサンスヴァロワ朝
の人物墓を暴かれた人物ユダヤ系フランス人プロヴァンスの歴史 1503 年生 1566 年没カトリーヌ・ド・メディ
シスフランスのカトリック教会の信者 16 世紀フランスの著作家
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