失敗だらけの役人人生

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失敗 だらけの 役 人 人生 (¬ )

黒江 哲郎
プ ロロー グ
勘 当か ら始 まった役 人生 活
1980年 (昭 和 55年 )夏 、大学 の最 終 学年 だ った私 は 、着慣 れないスー ツに身を包
んで 汗 だくになりな が ら霞 が 関 の官 庁街 を歩 き回 つてい ました。当時 は 国家公務 員試
験 を受 けている学 生 の 官庁 訪 間 が許 され てお り、法律職 で受 験 していた私もい くつ か
の省 庁 を訪 問 して就職 活 動を行 つている真 っ最 中でした。
今 年 2020年 の東京オ リンピックは 思 いが けないコロナ 禍 によって延 期 されましたが 、
ちょうど 40年 前 のこの年 に予 定され てい たモスクフオリンピックは政 治的 問題 に翻 弄さ
れてい ました。前年 12月 に当時 のソ連 が親 ソ政権 を支 援 するためアフガニスタンに侵
攻 し、これ に反発 した西側 各 国 がそ の年 のモスクフオリンピックをボイコットした の で す。
我 が 国も、西側 陣営 の一 員 として他 国と足並 みをそろえて五 輪 不参加 を決定 していま
した。国家 公 務 員試 験 の最 終 関 門 の 面接試 験 では「日本 政府 のモスクワ五 輪 ボイコッ
ト政 策 をどう考 えるか 」と質 問され ました。「選 手 が無 念 の想 い を抱 くの は理 解 す るが 、
国 としてはや むを得 ない判 断 だったのでは な いか Jと い うような無 難 な答 えを返 した記
憶 があります。それ まで 米 ソ間 では核 軍縮 交 渉な どが進 み 緊 張緩 和 の雰 囲気 が支 配
的でしたが 、ソ連 のアフガン侵 攻 によって東西 関係 は一 気 に冷 え込み 、冷戦 が 再 び 激
化 しようとしていました。今 から振 り返 つてみると、ソ連 のアフガ ン侵 攻 は 実 際 には 冷戦
終結 に 向か うプ ロセスの幕 開 けだ つた のです が 、当時はそんなことなど全 く想像も出来
ませ んでした。こうした時代 背 景 の 下、私 は霞 が 関ならぬ六 本 木 にあつた防 衛 庁 (当 時 )
を何度 か 訪 問 し、何 人 かの先輩職 員 との 面接 を経 て、縁 あって内 々 定 をもらうこととな
りました。確 か 、8月 の 中頃 だ つたと思 います 。
しかし、この 頃私 は心配 事 をひ とつ 抱 えてい ました。面接試 験 が終 わ つた後 、郷 里
の 山形 に里 帰 りして家族 に官 庁訪 間 の様 子も含 めて報告 したところ、父 が私 の 防衛 庁
入 庁 に強く反 対 したの です 。大 正 15年 生まれ の 父 は 、自らの 中学・高校 時代を太 平
洋戦 争 の 中で過 ごしたいわ ゆる戦 中派 でした。父 自身 が戦 地 に赴 い たことはありませ
んでしたが 、徴 兵 され た先輩 も多 く、戦 時 中 の 自由 が制 約 された苦 しい生 活 を経 験 し
たことか ら戦争 や 旧軍 に対 して強烈な反感 を抱 いていました。
「お 前 が 自分 自身 の命 を賭
私 が 防衛 庁 に入ろうとしていることを知 った父 は激怒 し、
ける自衛 官 になろうというの なら百歩 譲 つて理 解 す るが 、文 官 になつて他 人を戦 争 に
送 り込 むような仕事 をす るの は絶 対 に許 さない 」と言 い 出しました。それ ばかりか 、私 が
防衛 庁 か ら内定をもらえそうになつてい ることを知 り、 「知 り合 いのつ てを通 じて 山形 出
身 の 防衛 庁 幹 部 に頼 んで 、お前 に内定を出さないようにしてもらう」とまで言 いました。
その 後 、父との 関係 は何 の進 展もないまま 10月 1日 を迎 え、防衛 庁から正式 の採
用 内定をもらい ました。そ の 晩 、父 から電話 があり、「お 前 とはもう一 切 関係 ない 。三 度
と実 家 の敷 居 をまたぐなJと 言 い 渡され ました。い ささか 古風 な言 い方 をすれ ば「F_J当 J
で す。当時 、私 は大学 の講 義 の 単位 もあらかた 取 り尽 くし、時 間 があつたので上 野動
物 園 の 売 店 でアル バ イトをしてい ました。父 から勘 当を言 い 渡 され た翌 日は 、売店 で
お 客 さん にジュースをこばした り、注 文 されたアイスクリー ムの盛 り付 けに失敗 したり、
散 々 だ つたことを覚 えてい ます。アル バ イトが終 わり下宿 に帰 って 自炊 の 準備 をしなが
ら、あや まって包 丁 で指 を切ってしまうというお まけもつ きました。自分 では父 の 宣告 を
冷静 に受 け止 めたつ もりだったのです が 、内心 はかなり動揺 していたのでしょう。
当時 、防衛 庁 では翌 年 の採 用 予 定者 を朝 霞駐 屯地 で行 われる 自衛 隊 中央観 閲 式
に招 待 して見学させ たり、北海 道 へ 部 隊 見学 に連れ て行 ったりしていました。翌年 4月
に確 実 に入 庁 させ るため、定期 的 に採 用 予 定者 の様 子 を把握 するという目的 があった
の でしょう。そうしたイベ ントの一 つ に防衛 庁採 用 のキャリアが 一堂 に集 まるパ ー ティが
あり、採 用 予 定者も参加 して挨 拶 させ られ ました。出身 地や 出身校 などに触 れ て簡 単
「お父 さんが
に 自己紹 介するのです が 、終 了後 に 山形 出身 だとい うキャリアの先輩 か ら
随分 心 配 しているようだな」と言 われました。私 より20年 以 上も年 次 が上で 、当時官房
の 審議 官 を務 めてお られ た大 先 輩 でした。父 が私 の入 庁 に反 対 して い るとい うことは
確 実 に彼 の ところまで伝 わ っていた訳 で す が 、それ が私 の採 用 にどう影響 したのか は
わかりませ ん。そ の後 、新社 会 人 の 生活 が始 まる直 前 の 翌 1981年 (昭 和 56年 )3月 に
自分 の 物 を持 ち出す ために一 日だ け実家 へ 帰 ることを許 され ましたが 、そ の 時も父 と
の会話 は一 切 ありませ んでした。
そもそも父 親 の頑 なな反 対 を押 し切 ってまで 防衛 庁 を選 んだのは 、自分 の「天邪 鬼 J
な性 格 のためだ ったように思 い ます 。当時 国家 公 務 員を 目指す 学 生 の 間 で 人 気 があ
ったの は 、現在 と同様 、大 蔵 省 や 通 産 省 でした。自治省 や 厚 生省 などにはそれぞれ
の 行 政 分 野 に高 い 問題 意識 を持 った学 生 が集 まつてい ました。そんな 中で 防衛 庁 は 、
お 世辞 にも人 気 官 庁 とは言 えませ んでした。終戦 か ら既 に 35年 経 つていたとは いえ
私 の 父 のような反 戦感 情 を持 つ 人 はまだ多か ったし、戦争 放 棄・戦 力不保 持 を宣言 し
た 日本 国憲 法 の 下で 自衛 隊 はまだまだ社 会 的 に微 妙 な 存在 でした。多 くの 人 たちが
内心では 国 にとって必要 な仕 事 だと認 めながらも自らはそれ にくみ しな い 、日本 社 会
にそんな雰 囲気 が 色濃 くあったような気 がします。当時 の 私 の 中 には 、格好 をつ けて
言 えば「必要 な仕 事なの に誰も進 んでや ろうとしないのなら、自分 がや つてや ろう」とい
うような気 分 がありました。こういう.l■ 格 は明らか に父親 譲 りで したが 、父 と正 面から対決
して説 得 しようとしなかつたため 、私 の選 択 につ いて父 の 理 解 を得 ることは出来ませ ん
でした。親 の反 対 を押 し切って 自分 がや りた い事 を通そうとするのであれ ば、親 を説得
するの が 責任 ある行 動 です が 、私 は父 の頑 国 さをよく知 つていた ので正 面 か ら説 得 を
試 み ても無駄 だと思 ってい ました。む しろ、父 と私 が対 立 す ることで 家 の 中がぎくしゃく
して面倒 な事 になるの は避 けたい と考 えてい ました。結 果 的 に、父 の 同意 を得 な い ま
ま私 が 防衛 庁 に入 つたことで 家庭 内 にはさらに大 きな しこりが残 ってしまったのです が 、
次 男坊だ った私 には家族 に対する甘 えがあつたのだと思 い ます 。
そ の 後 、この 勘 当状 態 は長 く続 きました。私 は役 所 に入 つて一 年 目の 春 に 高校 の
同窓生だ った家 内 と結 婚 したのです が 、父 は結 婚 式 にも出席 しません でしたし、孫 が
生 まれ ても会お うとしませ んでした。盆暮 れ に帰省 すると同じ山形 市 内 にあつた家 内 の
実 家 に滞 在 し、父 の 不在 を見 計らって私 の 実 家 に寄 って母 や祖 母 に子 供 たちの顔 を
見 せ たりしていました。この勘 当は、長 く一 緒 に暮 らしてい た祖 母 が亡 くなるまで続 きま
した。祖 母 の葬 儀 へ の参 列 を許 された のをキッカケとして勘 当状 態 は 自然 に解 消 され
ましたが 、気 が つ けば 10年 以 上の時 間 が経 ってい ました。

失敗 から得 た多くの教 訓
こうして 自分 の 父 親 の説 得 に失 敗 して始 まつた役 人生 活 でしたが 、そ の後 の事 を振
り返 つても失敗 したことや 口 とられたことばかりが 思 い 出されます。
役 所 で の 最 初 の 失 敗 は今も鮮 明 に覚 えて い ます。私 は入 庁 と同時 に中期 的な防
衛 力整 備 計画 の 策 定 を担 当す る防衛 局計 画 官 室 に配 属 され ました。この 部 署 は、庁
「56中 業 J
内で「瞬 間湯 沸 かし器 Jと して有名 だった厳 しい計画 官 (課 長 で す )の 下 で 、
とい う中期 計画 の 策 定作 業 に当たつてい ました。人 庁 して数 日後 、外線 に「56中 業 に
つ い て聞きた いことがあるの で 計 画 官 でも誰 でもいいか らつ な い でくれ Jと い う電話 が
かか ってきました。たまたまそ の電話 をとつた私 は 、深 く考 えることもなく計 画官 本 人 に
取 り次 い でしまったので す 。しかし、計 画官 が応 答 す るにお、
さわしいような 中身 ではな
かったらしく、電話 を終 えた途端 に「なんでこん な電 話 を俺 に取 り次ぐんだ っJと 激 しい
剣 幕 で怒 鳴 られ ました。当然 、先輩 の 部員 (他 省 庁 で い う課長 補佐 )か ら「そうい うわけ
のわか らん電話 がかかつてきた時 には課 長 じゃなくて俺 に回す んだ つJと 厳 しくご指 導
を頂 くことになりました。正 確 には思 い 出せ ませ んが 、マスコミ関係 者 からの電 話 だ つた
のではな いか と思 います 。そういう電話 はとりあえず保 留 にして周 囲 にいる先 輩 に対応
を聞けばよいだ けのことだ ったので す が 、入庁 直後 で 緊 張していた私 はそんな 当然 の
事 にも気 が 回 りませ んでした。私 の 防衛 庁 人 生は 、自分 の社 会 常識 の欠 如 を厳 しく指
摘 されることから女
台まりました。
56中 業 の策 定作 業 は 当初 予定され ていた昭和 56年 度 中 には終 了せ ず 、翌年 夏
までかか りました。計 画策 定作 業 が ピー クを迎 えると、役 所 に 泊 まり込 まね ばならない
ほど忙 しい 日々が続 きます 。そ の上 、防衛 局計 画官 室 の 指 導 体制 は殊 の 外厳 しく、国
の悪 い職 員 の 間 で「クレムリン」などと呼 ばれ て いました。入 庁 したてで いきなり文字 通
り怒 鳴 られ通 し、叱 られ通 しの一 年 半 を過 ごし、早 々 に「修 羅場 Jの 洗 礼 を受 けることと
なったのです。
失 敗 と叱 責 に満 ちた 一年 半 を皮切 りとして、その 後も数 限りない不 出来や 不 始 末を
積 み重 ね 、そ の都 度 反 省 し、教 計を次 の仕 事 に生 か す ということを繰 り返 してきました。
自分 としては失敗 の経 験 を糧 として職 業 人としてステップアップしてきたつ もりだ つたの
です が 、後 に触れるように、最 後 に最 大 の 失敗 をして足 掛 け 37年 の 防衛 省 生活 を終
えることとなりました。
役所 を辞 してか ら 3年 が経 ち、最後 にしでかした失敗 につ いてもある程度 自分 の 中
で整 理 をつ けられ るようになりました。これ を機 に 、役 人 人 生 の 中 で失 敗 したこと、叱ら
れたこと、うまくいか なか ったことなどを振 り返 り、そこか ら得 られた教 訓をとりまとめてみ
ることにしました。それらの教 訓 には 、仕事 の 心構 えや 、組 織 管 理 のノウハ ウ、他 人 との
コミュニケー ションの 取 り方 、あるい は明 日からでも仕 事 に生かせ るような「使 える技 」な
ど様 々なものが含 まれています 。
お節 介 かもしれ ませ んが、私 が 37年 間 の試 行錯 誤 の 末や っと身 につ けたそれ らの
心 構 えや ノウハ ウや 技 を若 い 人たちになんとか して伝 えた い と思 い 、「市ケ谷 台論 壇 」
の場 をお借 りす ることとしました。そ の 際 、私 の 失敗 を出来るだ けリアル に疑 似 体 験 し
て頂 き、対応 す る技や ノウハ ウの有用性 を実感 してもらうのが早道 だと考え、教 訓 だけ
を抽 出 してまとめるの ではな く、恥 を忍んで 失敗 談 をも詳 しく紹介 す ることにしました。
それ をどう生か す か は若 い 人たち にお 任 せ します が 、もし私 と同じような失 敗 をするこ
となくより多くの成果 を上 げ てくれるのだとしたら、これ以 上 喜 ばしいことはありませ ん。
失敗だらけの役 人 人生 (2)

事態 対処 ∼運 用課 部 員時代 ∼
「名 刺 変 えろっ」の先 制 パ ンチ
私 は 、37年 に及 ぶキャリアの 中で 自衛 隊 の運用 を担 当す る部 門に部員 、課長 そ し
て局長 として合計 5年 間勤務 しました。これ に内 閣全体 の危機 管理 を司る内 閣官房 安
全 保 障・危機 管理 室 での 2年 間 の勤務 をカロえると、合 わせ て 7年 間 にわたり北朝鮮 の
ミサイル 発 射 や 大規模 災害 、重大 事 故などの事 態対処 の仕 事 を担 当したことになりま
す。事態 対処 の部署 は 、失敗 と教コ の宝 庫 でした。
最初 に配 属 されたの は 、入 庁して 5年 目の 1986年 (昭 和 61年 )6月 、防衛 局運 用
課研 究 班 の部 員 ポストでした。「部 員 Jと いうの は 防衛 省 特 有 の名 称 で 、旧軍 の「参 謀
本部 員 」に由来するとされ てお り、他省 庁 の課 長補佐 に相 当します 。運用 課 は 自衛 隊
の部 隊運 用 に 関する政 策 を担 当 してお り、研 究 llIで は有事 対応 の在 り方や 日米共 同
対 処 の在 り方 などにつ い て研 究してい ました。当時 、ソ連 のアフガ ン侵 攻 以来再 び 冷
戦 が激 化 してい ましたが 、極 東 にお ける東 西 の 対峙構 造 はまだまだ 安 定 してお り、自
衛 隊 の 実 動 と言 えば領 空侵 犯 を防ぐため のスクランブル 待 機 。発 進 や 災害 時 の 救援
派遣 に限られ ていました。後年 、国連 PKOを 始 めとして 自衛 隊 が活動 する機 会 が増
えるにつ れ て危機 管 理 や 事 態 対処 の 業務 の 比重も増 していったの です が 、この 頃 は
まだ 目前 の危機 へ の対応 よりも将来 起こるかも知 れない 事態 へ の 対処 に関する検 討・
研 究 が運 用課 の 中心 業務 でした。
そんな運用課 に着任 してまだ 間もない 頃 、上 司 の課長 へ 担 当業務 について初 めて
説 明した時 の事 で す。おそらく自分 が 担 当 していた各 自衛 隊 の 年度 防衛 計画 につ い
ての説 明 だつたのだと思 い ます が 、内容 につい ての記 憶 はもはや 定かではありませ ん。
とにかく、私 が説 明 している途 中で急 に課長 の顔 つ きが 険 しくなったかと思うと、い きな
り「名 刺 を見せ てみろっ」と怒 鳴 られた のです 。私 が戸 惑 い ながら「防衛 庁 部員 黒 江
哲郎 」と印刷 された名 刺 を出す と、「こん な説 明 しかできない なら「防衛 庁部員 」なんて
肩 書 はや めて「内局部 員 」に変 えろつJと 叱 りつ けられ ました。何 が課 長 の気 に障 った
のか わか らず 、そ の 後 は説 明を続 けようとしても取 り付 く島もなく、ほうほ うの 体 で課 長
室から転 が り出てくるの がや っとでした。
当時 、私も含 めて内 部 部 局 のシビリアン (文 官 )の 間 では 、防衛 問題 に関 して 国会
や マスコミで 追及 されな いように 自衛 隊を厳 しく管 理 するとい う雰 囲気 が 支配 的 で 、有
事 に必 要 となる制度 を整 備 したり、現場 のニーズ を施策 化 したりす るという積極 的な意
識 は希薄 でした。一 方 で 、私 を叱 った課 長 はちょっと変 わ つていて 、内局 のキャリア文
官 であるにもかかわらず「内局 Jあ るい は「内局的な考え方 」が嫌 い とい う 「難 しい 人」で
あることが徐 々 にわか つてきました。そ の 後 、そ の課長 が 内局 のことを「仕 事 しない 局 」、
「政策 ない局」などとl15楡 す るのを頻 繁 に耳 にしました。またある時 には 、先輩 が「いま
自衛 隊 の計画 を審 査 してい ます Jと 言ったところ「何 だ 、そ の審 査 っていうの はっJと い
きなり怒 り出 した場 面 にt〉 出くわしました。そうした経験 を通して、 「名 刺を変 えろ」とい う
の は、新 米部 員 に対 して「自分 たt,が や らね ばならな い仕 事 をよく考 えろJと い う先制
パ ンチ だ った のかなと考 えるようになりました。自衛 隊 に対す るネガティヴチェックが仕
事 だ とい う小姑 の ような感 覚 は捨 てろ、課 題 に 正 面 から向き合 い 自衛 隊 のあるべ き姿
を考えて仕事す るの が 本 当の「防衛 庁部 員 Jだ 、という意 味だと理 解 しました。
しか し、この「あるべ き姿 」が難 問で した。それ が何 なのかなかなかわからず 、その 後
何 度も課 長 の 虎 の尾 を踏 む ことになりました。そ の 頃 、各幕 僚 監部 の 中 には「自衛 隊
には 有 事 の 際 に敵 と戦 うため に必 要 な権 限 が 与えられ ていな いJと か「国を挙 げて有
事 に対処 するために必要な法 制や 方針 が定められて いな いJと いうような不満 がありま
した。こうした各幕 の 考 え方に寄 り添えということかと思 つて有事 法制 の久鋏 といった問
「ないもの ねだりだ J「 不平 不満 ばかり言つていても何も変わらないJと
題 を提 起 すると、
叱 責 されました。
また 、自衛 隊 の 図 上 演習 シナリオにつ いて「自己満 足だ Jと 叱られたこともありました。
当時 は 、自衛 隊 に防衛 出動命 令 が 下されるまで の 一連 のプ ロセスが 明確 化 されてい
なかったため 、演習 は「外 国 が攻 めてきたためともか く防衛 出動 が 下令 されたJと いうと
ころから始まってい ました。課長 は、そ の 点を捉 えて「そんなの は 自己満 足で意 味 がな
いJと 言うのです 。
確 かに 、防衛 出動 下令 後 の行 動 を引練 することは部 隊 レベ ルの戦術 技 量 の 向 上 に
は有益 です。しか し、防衛省 中央 の スタッフ機 構 の演練 項 目としては物 足 りませ ん。本
来なら、他 国軍 隊 の どのような行 動 か ら侵 略 の 兆候 を察知 す るのか 、そ の情 報 をどう
や って防衛 庁長 官や 総 理 に伝 達す るのか 、防衛 庁 長官 や 総理 の 決 断 には何 が必 要
か 、国会 の承認 を得 るためには何 が必 要 か 、それ にはどの程度 の 時 間 を要するのか 、
関係 省 庁 とはどうや つて調 整 す るのか 等 々 中央 ならでは の課 題 につ いての演 練 が 必
要 なのです が 、いかん せ んそ うした手 順 はどこにも定めがありませ ん。そ こか ら法制 度
「国 が悪 い Jと 言
が整 っていない という不平 不満 につ なが るのです が 、課 長 が 言 う通 り
って思 考停 止 してい ても何 の 意 味もありませ ん。他 方で 、実 際 に法律 を整 備 す るには
実務 的 に作業 しているだけでは足 りず政 治 レベ ル の機 運 の盛 り上 がりが必 要 です が 、
いわゆる 55年 体制 の 下ではそ のような機 運 は到 底 期待 で きませ んでした。そん なこん
なでとてもフラストレー ションの溜 まる毎 日を過 ごしていたのですが 、新 中央指揮 システ
ムの仕事 に携 わるようになってか らようやくヒントを得 ることが 出来 ました。
当時 、防衛 庁 は 六 本 木 にあつた庁 舎 を市 ヶ谷 に移 転 しようと計 画 してお り、市ヶ谷
新 庁 舎 にお ける中央指揮 システムの設 計 が課 題 となってい ました。当初 、私 は漠 然 と
統 合幕 僚会議 や 各幕 が部 隊運 用を行 うためのシステムとして考 えて いたのです が 、課
長 の尾 を何度 か踏 んでいるうちに総理 大 臣や 防衛 庁長 官 の意 思決 定を支援 するため
のシステムだと考 えるようになりました。部 隊指 揮 官 のレベ ル ではなく総理や 防衛 庁長
官 が 自衛 隊 の行 動 につ いてどうや つて意 思決 定す るのか 、とい う点 こそ が課長 の 問題
意識 なのでは ないか と思 い 当たったの です 。本 人に聞 いて1)明 確な答 えは返 ってこな
かったの で私 の勝 手な解 釈 だ ったのかも知れ ませ んが 、そうした 問題意識 で仕 事 をす
るようになってか らは少なくと1)叱 られる回 数 は減 りました。
自衛 隊 の行 動 は総 理 や 防衛 庁 長官 の 命令 に基 づ くもので あり国家 の意 思を体現
するものだとい う考 え方 は 、今 でこそ 政府 内外 に広 く共 有 されています が 、30数 年 前
には防 衛 庁 内でも明確 には意識されておらず 、各幕 と共 有す るの にも長 い時 間を要 し
ました。総理や 防衛 庁長 官 が 自衛 隊を動 かす とい うイメー ジを持 つ ことす ら難 しい ほど、
軍事 に対す る忌避感 が社会 に蔓延 していたのだと思 います 。
10余 年後 に庁 舎 の市谷移 転 が 完 了 した際 には 、我 々 の議 論 を踏 まえて防衛 庁長
官や 場 合 によって は総理 大 臣も活 用 できるような新 中央 指揮 システムが 完成 しました。
しか し、施 設 は完成 しても、総 理 の意 思 決 定 を支 えるスタッフ組 織 の 充 実 、情 報機 能
の 充実強化 、統 合運用 の 強化 などは依 然 として課題 として残 され ました。平成 時代 の
30年 間を通 じて、戦略情報 を一 元的 に扱 う情 報本部 の創設 (1997年 (平 成 9年 ))、
政府 の危機 管 理 機 能を東 ねる内 閣危機 管理 監 の創 設 (1998年 (平 成 10年 ))、 事態
対 処法 制 の整備 (2003年 (平 成 15年 )∼ 2004年 (平 成 16年 ))、 三 自衛 隊 の指揮 運
用を 一元的 に補佐 する統合 幕 僚長 及 び統 合 幕僚 監部 の創 設 (2006年 (平 成 18年 ))、
防衛 省 へ の 昇格 (2007年 (平 成 19年 ))、 そ して総 理 に対す る補佐 t構 である国家安
l・

全保 障 会議 (2013年 (平 成 25年 ))。 国家安全保 障 局 (2014年 (平 成 26年 ))の 新設 、


平和安 全法制 の整備 (2015年 (平 成 27年 ))な どが逐 次行 われ 、総 理や 防衛 大 臣が
自衛 隊 の行動 につい て意思決 定するために必要な仕 組 み が整 えられ ました。
ちなみ に、2004年 (平 成 16年 )に 事態 対処 法制 (有 事 法制 )が 整備 され た 当時 、こ
の立 法 作業を担 当 した内 閣官房 副長 官補 は私 を叱 った課 長 でした。

サイドワインダ ー ミサイル の不 時発 射
ようやく運用課部 員 としての仕事 に慣 れた 1986年 (昭 和 61年 )9月 4日 の lll、 日
本海 に飛 来 した 国籍 不 明機 に対 してスクランブル 発進 しようとした 百里基 地 所 属 の F―
15戦 闘機 に搭 載 した空 対 空ミサイル のサイドワインダ ー が 発射 され 、基地 内 に着 弾 し
て破 裂 するという事故 が 発生 しました。発 生は朝 の 8時 半頃 だつた にもかかわらず 、官
邸 報告や マスコミヘ の公 表 は午 後 になってか ら、しか も地 元住 民 からの 問 い 合わせ を
受 けてようや く公 にされたという今 なら到 底許 されない ようなお っとりした対応 ぶ りでし
た。事 故 の報 告 は 午 前 中 に防衛 庁 本 庁 へ 伝 えられ 善後 策 を検討 する会議 が 開 かれ
たので す が 、事 実 関係 を確認 しない と責任 を持 って報告 や公 表 はできない という議 論
だ ったように記 憶 しています 。
「カミソリJの 異名 で知 られた 当時 の 官 房長 官 が事 案 の経 緯 につ い
そ の 日の午 後 、
て詳 しい 説 明を求 めてい るとの連 絡 が入 り、官房 長 が対応 す ることとなりました。そ の
際 、運 用課 からも誰 か一 緒 に来 い と言 われ 、たまたま手 が空 い てい た私 が 同行 す るこ
ととなりました。総理 官邸 の官房長官 室 へ 入るの は私 にとって初 めての経 験 でした。官
房長 官 は 、我 々が入室 す るなり「とにかく第 一 報 が遅す ぎるつ Jと 我 々と官房 長 官 秘書
官 を厳 しくロヒ責 され ました。冷 静な随行 者 なら後 から長 官 の 発言 を出来 る限 り克 明 に
思 い 出 して役所 に報告す るところです が 、私 はテレビでしか 見 たことがなか つた官房長

官 の顔 を初 めてナ マで 見たとい う興 奮 と緊 張で舞 い上 がってしまい 、最 初 の 言くら
いしか 覚 えてお らず 、帰 庁 してから相 当冷や かされ ました。
いま仮 にミサイル の誤 発射 という深亥」 な事故 が 起きて 同 じような対応 をしたとしたら、
「なぜ 官邸 へ の報 告 が遅 れたのか J「 なぜ公 表 まで 半 日もかか つたのか J「 事故 を隠蔽
しようとしたので はな いか J等 々、防衛 庁や 総 理 官邸 の危機 管理 体 制 の 甘 さが強 く批
判 され たことでしょう。当然 、官邸 の 防衛 庁 に対 する叱 責もず っと厳 しい もの にな って
いたもの と思われ ます 。しか し、当時 は「や はり自衛 隊は危 険な存在 Jと いった批 判 が
主で、危機 管理 面 の指摘 はほとんどありませんでした。ある意 味牧 歌的な時代 でした。
そ の後 の調 査で 、スクランブル 発進 しようとしてエ ンジンをかけたところ、機 体 とミサ
イル をつ ない で いるアンビリカル ケー ブ ル に電 流 が 流れ 、発 射 の信 号 が 送 られ てしま
つたことが 判 明 ヒ´ました。スクランブル 待機 中な のでいつでも使 えるように安 全 装置 が
外 され ていたため 、そ のままミサイル が 発 射され てしまったとい うことでした。電流 が流
れた理 由は不 明で、当時「浮遊 電 流 Jな どと称 していたように記 憶 してい ます 。ともか く、
民 間 に被 害 が及 ばなか つたの は不幸 中の幸 いでした。

史 上 初 めての信 号射 撃
翌 1987年 (昭 和 62年 )12月 9日 の午 後 、運 用課 に航 空幕 僚 監部 の作戦 室 から一
本 の 電 話がかか つてきました。空 自担 当の部員 が席 を空 けていたため 、私 がたまたま
電 話 をとったところ、受 話器 から「先 ほど沖縄 本 島 上 空 で領 空侵 犯 を行 った ソ連 軍機
に対 して警 告射 撃 を実施 しましたJと いう緊迫 した声 が飛 び込 んできました。自衛 隊 の
歴 史上初 めてソ連機 相 手 に実弾を使 用したことを告 げる電 話 だつたのです が 、聞 いた
瞬 間 は 内容 を即座 に理 解 出来ず に果 然 としたというの が正 直 なところです。我 に返 つ
た後 は事 実 関係 の確認 、関係 部 署 との 連 絡 、対外応 答 要領 の 作成 等 に忙殺 されるこ
ととなりました。当時 の運 用課 は総勢 で 10人 余 りの 小ぶ りな組 織 だ ったので 、何 か 事
態 が生じると担 当業務 に拘 わらず 全 員 が一 体 となつて対応 す るという気風 がありました。
本件も発 生 直後 から国会や マスコミで大きな議 論 となり、課員 総 出 で 対応 することにな
りました。
マスコミなどでは 、当初 、実弾 の使 用 が適 法 であつたか 、射 撃 が安 全 に行われ たか
など空 自戦闘機 側 の行 動 が適 切だ つたか という点 に 関 心が集 まりました。しかし、事 実
関係 の確認 が進 み 、領 空 を侵 犯 したソ連 軍 の電子 偵 察機 Tu 16(バ ジャー )の 行 動 が
極 めて特 異 で悪 質 だ つたことが 明らか になるにつ れ 、議論 の 焦点 は スクランブル 機 が
もっと強 い措置 をとれなかったのか という点 に移 りました。本 件 に対応 した空 自戦 闘機
は 、ソ連機 の 沖縄 本 島接 近 に対 して直ち にスクランブル 発 進 し、無線 や機 体信 号 によ
って警 告 を行 い ましたが 、ソ連機 はこれを無 視 して飛行 を続 け沖縄 本 島 上空 と沖永 良
部 島 一徳 之 島間 の領海 上空を三 度 にわたって侵 犯 しました。従 来 の領 空侵 犯 は 島嶼
部周 辺 の領海 上 空 をごく短 時 間 か す めるようなもの が大 半 でしたが 、本件 は領海 の み
ならず 沖縄本 島 に所在 す る米 軍基地や 自衛 隊基 地 の上 空 を横 切る形 で 7分 間 にわ
たつて飛行 す るとい う特 異 なものでした。空 自戦 闘機 は信 号射 撃 を三 度行 い ましたが
残 念 ながら効 果 はなくソ連機 は飛 び 去 り、政府 は速 や か に外 交 ル ー トを通 じてソ連 に
厳 重 に抗議 しました。ソ連 は悪 天 候 と計器 の 故 障 による事 故 と説 明 し、後 日搭 乗 員 を
処分 したことを公 表 しましたが 、これだけでも当時 のソ連 としては異例 の対応 でした。
もともと保 守層 の一 部 には 、自衛 隊機 がスクランブル 発 進 を繰 り返 しても領 空侵 犯
を完全 には 防 ぎ切 れ ないことや 、事 後 に外務 省 が相 手 国政府 に抗議 してもうや むや
で終 わるケー スが 多 いことに対 す る不満 がくす ぶ つてお り、ソ連機 の行 動 が特 異 で悪
質 であつたことが判 明す ると、より厳格 で効果 的な領 空侵 犯 対処 を 自衛 隊 に求 める声
が上がりました。
「ミスター 防衛 庁 Jと 呼 ばれた レジェンドでした。
当時我 々の 上 司だつた防衛 局長 は 、
「極 めて遺憾
局長 は翌 日の 国会 審議 で「我 々 にとつて は遺 憾な領 空侵 犯 事件 である」
であるJと 繰 り返 し答 弁 しました。後 で 本 人 が語 っていたところによると、武器 使 用 など
を正面から議論 してこなかつたのを防衛 庁だけのせ い にす るの は筋違 いで 、政治 の怠
慢 でもあるという意 図を込 めて「遺 憾だ」と答 えたとのことでした。一 方 、事務 方 の我 々
「住 民 に被 害を与 えない ように海 上 で射 撃 した」とか「本
は、 目手 に危 害を加 えない ように
射 撃 した 」とか とりあえず 問題 にならないような無難 な国会答 弁 を書 くことしか頭 にあり
ませ んでした。しかし、本事案 を冷 静 に考 えれ ば 、対領 空侵 犯措 置 で行 動 してい る空
自機 が不 測 事 態 に臨んで具 体 的 にどこまで武器 を使 用 できるの かを議 論 しマニュア
ル 化 する大きなチャンスだつた訳 です。政 治 レベ ル にも責任 を分担 してもらいながらそ
のチ ャンスを生 か そうという局長 のしたたかな 姿勢 は 、まだ若 手部 員 だ つた私 の 目には
とても新鮮 に映 りました。
余 談 です が 、ある時 この 局長 が 国会 答 弁 に臨む 姿勢 につ い て「特 にテ レビ入 りの
予算委員 会などは、視聴 者 の 印象 が 大事 なんだ。下 を向 いて答弁 資料 を読 み 上 げて
ばか りいたら、答 えが正 しかったとしても議論 には負 けてい るようにしか見 えない。そう
ならないためには 、気合 い負 けしないように質 問者 の顔 をクァッと院み つ けて、絶 対負
けない という気持 ちで答 えるんだ 」と語 つてお られるのを耳 にしました。後年 、自分 自身
が 政 府 参 考 人 として実 際 に答 弁す る立場 になって初 めて「気 合 い負 けしな い 」ことの
大切 さがわか りました。予 算委 員 会 のテ レビ中継 で 有名 な衆議 院 第 一 委 員 室 の答 弁
席 は 、質 問者席 の真 ん 前 で 距離 にして数 メー トル しか 離 れておらず 、思 つていた以 上
に質 問者 の表情 が 良く見 えるのです 。そんなところで 日を伏 せ て相 手を見ず に答 弁 し
ていたら勝 負 になりませ ん。2015年 (平 成 27年 )の 夏 に行 われた平和安 全法制 の衆
議 院 にお ける委 員会 審議 は第 一 委 員 室で行 われ ました。そ の 際 には 防衛 政策 局長 と
して何 度も答 弁 に立 つ ことになった ので 、私も大 先輩 の言 を実践 して 、極 力答 弁 資料
に 日を落 ときず に質 問 者 の顔 を明 みなが ら答弁 す るように努 めました。質 問者 の 中 に
は手元 のベ ー パ ー ばかり見 て私 と目を合 わせ ない 野党議員もおり、意 地 になって呪 み
つ けていたところ、日に余 ったのか 、ある時 つ い に野 党 の筆頭 理事 か ら「局長 、そんな
に呪 まないでJと 注 意され,て しまいました。でも、議論 に負 けたくなか った の で 、その答
弁 スタイル は結 局最 後 まで改 めませ んでした。

振 り返 ってみると、昭和 の末期 は 平穏 な時代 だったのだと改 めて実感 します。平成


時代 を過 ぎ令 和 の 時代 に入 つた今 、自衛 隊 の行 動 を巡 る緊張感 や スピー ド感 は様 変
わりしました。次 回以 降、課長 や 局長 としてそ うした変化 にどのように対応 してきたのか
を紹介 して行 きたいと思 います。
失敗だらけの役 人人生 (3)
黒 江 哲郎
事 態対処 ∼ 運 用課 長時代 ∼
内閣官房長 官 に叱られた玄 倉川 水難 事故
1999年 (平 成 11年 )の 7月 に運用 局運用課長 を拝命 し、部 員 時代 以 来 ほぼ 10年
ぶ りで再 び 運 用課 に勤務 す ることとなりました。自分 では「音取 つた杵柄 」で土地 勘 は
そこそこ持 つてい るつ もりだつたのです が 、10年 の 間 に内外 情勢 は激 変 し、自衛 隊 の
行 動も大きく変化 していました。
国 内では 1995年 (平 成 7年 )に 阪神 淡 路大震 災 と地 下鉄 サリン事件 を相 次 いで経
験 し、国民 の 間 に危 機 管理 意 識 が醸 成 されるとともに、自衛 隊 の組織 力・行動 力に対
す る信 頼感 と期待感 が 高 まりました。国際社 会 では ベ ル リンの壁 の崩壊 から 10年 が経
ち、湾岸 戦争 や 北朝鮮 によるミサイル 開発 、不 審船 事件 などを通 じて 、冷戦終 結 直後
に高 まった平 和 へ の期 待感 がしぼ み 、国際情 勢 の 流動 化 が 明らか となつていました。
国際社会 の安 定化 に寄与するため 、自衛 隊 が 国連 PKOな どの形 で海 外 に派遣 され
て活動 する機 会も拡 大しつ つ ありました。
こうした 中で入 庁 18年 目にして初 めて課長 ポストに補職 された私 は 、与 えられ た責
任 の 重 さを意 識 しつ つ も大 い に高 揚 していました。しか し、就 任 直 後 か ら立 て続 けに
発 生 した様 々 な事 案 の ため高揚感 はあっとい う間 にどこか へ 消 え去 り、相 次 い で発 生
する各種 の事 案 に無我 夢 中で対 処す る毎 日となりました。
課 長 に任 ぜ られてひと月も経 たない 8月 14日 の 土曜 日、神 奈川 県足柄 上 郡 玄倉
川 (く ろくらがわ )の 中州 でキャンプ 中の一 行 が増 水 した川 の水 に流されて 13名 の犠
牲者 を出す という玄倉川 水 難 事 故 が発 生 しました。前 日か ら降 り出 した大 雨 のため玄
倉川 が増水 し、上 流 のダムでや むを得 ず放 水 を開始 したところ、当局 の再 三の警 告 に
もかかわらず 中州 にとどまつてい た行 楽 客 の一 行 が増水 した川 の 中 に取 り残 され たと
いう事案 でした。現場 にはテレビ局 のクル ー が駆 けつ け、一 行 が力尽 きて流 されるまで
の一 部 始 終 の 映像 がテレビで放 映 され ました。一 行 の 中 には 、テントの支 柱 につ かま
つて濁流 に抗 しながらヘ リで の 救 出を求 めて指 を空 に向けてくるくると回す者 もいまし
た。雨雲 でほとんど視 界 が効 か ない とい う当 日の悪 天候 の 下 では 自衛 隊 のヘ リを飛 ば
す ことはできず 、休 日出勤 したオ フィスで私 はその 映像 を居 心地 の 悪 い気 分 で観 てい
ました。このテレビ報道 が 大 きな反 響 を呼んだ こともあり、後 日、警 察庁 の警備 課 長 な
どと一 緒 に内 閣官 房 長 官 に呼 ばれ 、自衛 隊や 消 防 、警 察 などの 対応 につ い て厳 しく
追及 されることとなりました。なぜ ヘ リを飛 ばさなか つたのか 、基 地 から飛 んで行 けない
なら現場 近 くまで車 で運 んで飛 ばせ ば 良か ったではないか 、農 薬 散布 ヘ リなどはそう
や つてい るの に 自衛 隊や 警 察 はなぜ 出 来ないの か 、などと問 い詰 め られ ました。さら
に 、ヘ リが無 理 なら水 陸 両用 車 は使 えなかったのか 、戦 車 は川 を渡 れるので はないか 、
とまで問われて叱 責 されました。もちろん 、ヘ リの運航 基 準や 戦 車 の性 能 などにつ いて
説 明 はした の です が 、官 房 長 官 は最 後 まで得 心 が行 か ない様 子 でした。そ の 時 は正
直「なぜ そんな無 理 を言 うの か Jと 思 い ましたが 、後 になってか ら、官 房 長 官 が 問 いた
かったのは 戦車 を使 わなか つた理 由などではなく、本 当に先入観 な しにあらゆる手段
を検討 した のか とい う点 だ つたの ではない かと気 が つ きました。確 か に 、私 自身もヘ リ
「結果 を出すために使 えるものはす べ て使 うJと いうア
以外 の選 択肢 は思 い浮 か ば ず 、
プ ロー チが 出来 ていたとは 言 えませんでした。
災害 救 助 を含 め 、危機 管 理 は結 果 が 全てです 。政治 家 は選 挙 民 か ら常 に具 体 的
な結 果 を求 められるため 、結 果 を出す ことに対 して極 めて敏 感 で す。これ に比 べ て 防
衛 庁 を含 め 中央 官 庁 の役 人 は 直接 の 現場 を持 ってお らず 、現場 で 求 められる結 果 を
イメー ジしにくい立 場 にあります。このため 、ともすれ ば役 人 は結果 よりも制度や 手続 き、
手順 を重 視す る傾 向 に陥 りがちだと言 えます。
さらに、冷戦 時代 の 防衛 庁 の 主要課 題 は「自衛 隊 の運 用 」よりも「防衛 力整備 Jだ つ
たため 、なおさら「実動 によつて結果 を出す 」という意識 が乏 しかったように思 います 。と
ころが 、阪神淡 路大震 災や 地 下鉄 サリン事件 へ の対応 、さらには PKOや 国際緊急援
助活動 など自衛 隊 の実動 の機 会 が増 え、 「防衛 力整備 から自衛 隊 の運 用 へ 」
「存在す
る自衛 隊 から働 く自衛 隊 へ 」という変化 が進 み ました。玄 倉川 水難 事故 はそうした変化
の さなか に発 生 した事案 であり、官房 長 官 か らの 叱 責 によりそれまでの 自分 に欠 けて
いたものを突き付 けられ たように感 じました。
人命 がかかった場 面 ではプ ロセスは 二の 次 で 、命 を救 うという結 果 こそが 最も重 要
「自分 はこんなに努 力 した 」とか「規則 に従 えばここまで
です。厳 しい 言 い 方 をす れ ば 、
しか 出来 なか った 」とい うのは 言 い訳 に過 ぎず 、求 められ ている結 果 を出せ なけれ ば
何もや らなかったのと一 緒 だということになります。もちろん 、当時 の 自衛 隊や警 察 、消
防 の能 力 を客観 的 に考 えれ ば 、中州 に取 り残 され た人 々 を救 出す るの は極 めて困難
だつたと言 わざるを得 ませ ん。しかし、私 自身 はこの一 件 をきつか けとして、手続 きや 手
段 などの 固定観 念 にとらわれず に「結果 を出す 」ということを意識 す るようになりました。

日本 で初 めての 臨界 事故
続 いて翌 9月 には茨城 県東海村 にお いて東海 村 JCO臨 界事故 が発 生 しました。
これ は 、核燃 料 加 工 施 設 で 安 全基 準 を守 らず にバ ケツを使 つて作 業 してい たところ、
誤 って核 分 裂連 鎖 反 応 を起 こしてしまつたとい う前 代 未 間 の 臨 界事 故 でした。我 が 国
で初 めての 臨界事 故 に直面 し、自衛 隊は臨界 を止 めることも出来るの ではないか と期
待 され て対応 を求 められ ました。確 か に、地 下鉄 サリン事 件 にお いて活 躍 した 自衛 隊
の化 学 防護 部 隊 は、残 留核 物 質や 化 学 物 質 か ら乗 員 を防護 出来 る気 密 性 の 高 い 化
学 防護 車や 汚染 され た人員・装備 を洗 い流す 除染装 備 などを保 有 していました。しか
し、これ らは全 て核 兵器 や 化 学 兵器 などが使 用 された後 の 汚 染 された環 境 下 で 安全
に行 動 す るた めの装備 で 、現 に臨 界反 応 が起 きてい て放 射 線 がどんどん放 出され て
いるような場所 へ安全に接近できるようなノウハ ウや装備 は皆無 でした。このため最終
的には、事業者 自身が臨界を止める作業を実施 し、自衛隊は東海村周辺で放射線検
知や住民の除染活動などに従事することになりました。核兵器や化学兵器を保有して
いないのですからこれは当然 の結果でしたが、これを機 に特殊災害 への備 えの重要
性 が認識され、放射線 が放出されている環境下で 自衛隊はどのような行動をすべきか
についても検討 が開始されました。核防護や化学防護と言つただけで「すわ 自衛 隊は
核兵器や化学兵器を保有 しようとしている」と批判されるような雰 囲気 に慣 れてきた身
としては正直戸惑いも感 じましたが、同時に「これはいよいよ何でもありの状況 になって
きたなJと いう強い危機感を持ちました。

毛布も運んだトルコヘのプレハブ輸送
私が運用課長を務 めていた 2年 間は、トルコとインドでの大地震 、東チモール独立
運動 の混乱などにより、国際緊急援助活動のための 自衛隊派遣 が続 いた時期 でした。
当時の 自衛隊はまだ海外派遣について経験 が浅く、その都度手探 りで対応する状態
でした。私 自身にとつても初 めての事だらけで、様 々なところで衝突したり失敗 したり叱
られたりを繰り返しながら、 「求められている結果」を目指して走り続けることとなりました。
ちょうど東海村原子力事故 が発生し陸上 自衛 隊の部隊が対応 していた頃、海 上 自
衛隊はトルコヘプレハブ住宅の部材を運ぶ準備 に忙殺されていました。この年 8月 17
日、トルコは M76の 大地震に見舞われ、1万 7000名 を超える死者を出し、60万 人が
家を失いました。日本政府は、地震で住居を失つたトルコの被災民のために阪ネ 申大震
災の際 に仮設 住宅として使われたプレハブ (通 称「神戸ハウス」)を 送ることを決定し、
これを国際緊急援助 活動として海上 自衛 隊の輸送艦 が運 ぶこととなりました。輸送準
備 に明け暮れていたところへ 、ある NGOか ら
「備蓄している毛布をトルコの被災民ヘ
送りたいのだが輸送手段 が確保 できない。ついては神 戸ハ ウスを運ぶ海 上 自衛 隊の
輸送艦 に一緒に積んで持つて行つてくれないか」という依頼 がありました。 「トルコはこ
れから冬に向かい寒さが厳 しくなるが、神戸ハウスに暖房 はついていない。ならばせ
めて毛布も一緒に配つて被災民に暖をとってはしい」というのがその NGOの 想 いでし
た。早速実行に移そうとしたところ、法令解釈担 当部署から「明確な法的根拠 がないの
ではないか」という意見が出てきたのです。法律 上 自衛隊が実施できる国際緊急援助
活動は、救援、医療、防疫等の活動と 「これらの活動に必要な人員 。
物資の輸送」に限
られています。このケースでは、現地でプレハ ブを組み 立てて被災者 に提供すること
が救援活動なので、神戸ハウスの輸送 は救援「活動 に必要な…物資 の輸送」に当たり
ます。他方、毛布がこの場合 の「必要な…物資」に当然該 当すると言えるか疑問だとい
うのが法令解釈担 当部署の見解でした。
私 自身も以前 に法令解釈を担 当した経験があつたので、その見解 はある程度理解
出来ました。自衛 隊は実力組織 であり、出動 に関す る法手続きは特に厳格に遵守す
る必要があります。まして海外での活動となれば、慎重な上にも慎重を期さなければな
りません。当時 は前年 にハ リケーンで被害を受けたホンジュラスヘ初 めての派遣 を行
つたばかりで、国際緊急援助活動 につ いては未 だ若葉 マークの段 階でした。活動経
験が乏しく万事に慎重な対応をとっていた時期なので、いきおい法律も厳格に解釈 し
ていたのです。
しかし、トルコヘ 毛布を運ぶことは、誰 かに対 して実力を行使するようなものではな
いし、誰かの権利 を制限するような行為でもありません。むしろ、私には「輸送艦 には
毛布を積 む十分なスペースがあるし、運べ ば NGOも 助かるし、何よりもト
ルコの被災民
も喜ぶだろう。誰も困らず、むしろ皆が喜ぶのだから野党からもマスコミからも批判され
るはずがないし、むしろこれを実行しない方が批判される」と感 じられました。
このため、毛布 の輸送 は輸送艦 の余つたスペ ースを活用して行うものであり法的効
果 のない事実行為であるという 「事実行為・余席活用論」や 、毛布 はプレハブ住 宅で
使う暖房用品であり神戸ハウスと一体のものであるという 「プレハブと毛布 の一体化論」
などを主張し、何とか法令解釈担 当部署を説得して実施 に漕ぎつけました。当然、どこ
からも批判はされず、毛布は無事にトルコヘ届けられました。

思わぬところで揉 めたインドヘのテント輸送
翌 2001年 (平 成 13年 )1月 に発生したインド大地震に際しては、インドヘテントを空
輸 し展張支援 を行うという国際緊急援助活動を実施 しました。通常、国際緊急援助活
動は相手国政府からの要請に基づいて計画され実行されますが、この時にはインド政
府 の要請 内容 が二転三転しなかなか固まりませんでした。発災直後 で状況が混乱 し
ていたことに加え、おそらくは他国の軍隊に自国領土内へあまり入つて来てほしくない
という意識も働 いたのだと思います。外務省を通じて先方のニーズを確認 していたとこ
ろ、当初は医療支援 の要請があったのです が、その後医療 については既 に他 国から
十分な支援を受けているので不要ということになりました。代 わつて、支援物資 がほし
いとの希望が寄せられ、最終的 には避難民用のテントを提供するということに落ち着き
ました。ちょうど成 田空港そばに 」 ICAの 援助物資としてテントが備蓄されていたので、
これを航空 自衛隊の C130輸 送機で現地まで運ぶこととなりました。単なる物資の輸
送ということでは法律解釈 が難 しいため、陸上 自衛隊の要員 が災害救援 の一環 として
テントの展張支援を行 い、テントはこれに必要な資材と位置付けて輸送することとなり
ました。
外務省や陸 自、空 自との間で事務的な調整 が整 い、大臣の了解を得るための会議
が夜 中の 10時 過ぎに開かれることとなったのですが、大急ぎの調整 だつたため出席
者全てに対して事前説明をする余裕 はなく、ほとんどぶっつけ本番 の会議となりました。
すると、会議 の席上で初 めて事情を聴 かされたある幹部が怒り出したのです。彼は、
政党の部会のノリで「医療支援 と聞いていたのになぜ変わつたのか。外務省 はインドと
何を調整 してきたのか。なぜ この会議 に外務省 が出てきて説明しないのかっ」などと怒
鳴り始 めたのですが、外務省 の人間が防衛庁内部の会議に出席しているはずもありま
せん。私は居並ぶ先輩幹部 の誰かがしかるべくとりなしてくれることを期待したのです
が、あまりの倹1幕 にみな無言で「お前、何とかしろよJと ばかりに説明者 の私 の方を振り
返るのでした。そればかりか、既 に事務的調整 が済んでいたにもかかわらず、その場
の剣呑な雰囲気に影響された出席者の 中から 「テントの荷姿がわからなければ空輸で
きると断言できないのではないか」 「テントの種類 がわからなければ展張支援 が可能と
は言えないのではないか」 などと言う声まで出る始末でした。この時には、生意気な言
い方ですが「こういう場面で他人の助 けを期待 してはいけないのだ」と1吾 りました。
この混乱をどう切り抜 けたのか、詳 しいことは覚 えていません。ともかく、四方から降
りかかつてくる火 の粉 を必死に払 いのけながら「翌朝までに会議で提起された疑間に
対する答 を詰 めて、支障がなければ実施する」という大臣の決定を取り付けた時には
真夜 中の 12時 を回つていました。それから課に戻つて、外務省と調整 したり、部下を
成 田の備蓄基地 へ派遣 したりしていたところ、さらに新たな火 の粉 が飛んできました。
先 ほどの会議 の延長戦とばかりに、ある幹部が「お前、今すぐ外務省 の担当課長を防
衛 庁に呼んで共同で記者会見やれ !」 と運用課 の部屋 に怒鳴り込んで来たのです。
一刻も早く活動 の内容を固めようと作業に没頭 していた私はさす がにムッとして「そん
なことは必要だと思えないし、やつているヒマもないのでやりません」 と言 い返したところ、
彼は怒つて出て行つてしまいました。ところが、後で冷静 になってから、怒鳴り込んでき
た幹部 が私 の人事 に強い権限を持つていたことを思い出したのです。 「先輩なのだか
らもう少 し言い方に気をつ ければ良かつた」と悔やみましたが、後の祭 りでした。しかし、
いわれのない怒りに付き合つたりせずに徹夜で作業した甲斐あつて、テントの空輸と展
張支援はなんとか無事 に実施することが出来ました。
この件があつた直後の 4月 に私は運用課長から総理官邸勤務 へと異動 になったの
です が、この人事 について数年後 に某 月刊誌 の 中央官庁人事 の噂話 コー ナ ーで
「(当 該実力派幹部に)疎 んぜられ官邸に飛ばされて冷や飯を食 わされた黒江」と紹介
されることとなりました。あくまでも無責任な噂話なので真偽を確認するすべはありませ
んが、誰かしらそのように受け止めた人はいたのでしょう。もちろん 、私 自身 は官邸勤
務が冷や飯だと思つたことは一度もありませんし、運用課長 として 自分がやった事につ
いては (先 輩 に対する強気の態度を除き)全 く後悔していません。
失敗 だらけの 役 人人生 (4)
黒 江哲郎
事 態対処 ∼ 安危 室参 事 官 時代 ∼
発 令 が遅れた海警 行 動
2004年 (平 成 16年 )8月 に私 は総理 官邸 から内閣 官房 安全保 障・危機 管 理 室 (通
称「安危 室J)に 配置 換 えとなりました。当時 は まだ 国家安 全保 障 局 が設 置 され てお ら
ず 、安 危 室 が長 期 的な安 全保 障政 策 の 策 定 と日 々の危機 管 理 業務 の 両者 を担 って
い ました。
そ の 少し前 の 2001年 (平 成 13年 )9月 に米 国 同時多発テ ロ事 件 が発 生し、直後 に
アフガン戦争 が 開始 され 、さらに二 年 後 にはイラク戦争 が始 まるなど国 際社 会 では に
わか に「テ ロとの 開 い 」がクロー ズアップされてい ました。我 が 国も、テ ロ対策 特 措 法や
イラク支援 特措 法を整備 してテロとの 闘 いを支 援 す るため 自衛 隊をインド洋 や イラクに
派 遣 しました。また 、北朝 鮮 不審船 事 案 等 を契機 として長 年 懸案 となつてい た有 事 法
制 整備 の必 要性 が認 識 され 、い わ ゆる事 態 対 処 関連 法制 が制 定され ました。こうした
安 全保 障・防衛 を巡 る環 境 の激 変を受 けて 、政府 の 内外 では 冷戦 終 結 に伴 って平成
7年 に策 定されたい わ ゆる「07大 綱 Jを 見直 して 、テロ対策 などを盛 り込んだ新 たな「16
大綱 Jを 策 定す べ きだとの声 が 高まっていました。この年 4月 には「安 全保 障と防衛 力
に関する懇 談会 」という有識 者会議 が設 置 され 、16大 綱 につい て活 発 な議論 が 開始 さ
■ました。

私 が安 危 室 に着 任 したのは 、有 識 者 会議 の 報 告 書 を取 りまとめる作 業 が 本格 化 し
た時 期 でした。安 危 室 はこの懇 談 会 の事 務 局を務 めてお り、総 括 参 事 官 の 私 は 異動
直 後 から懇 談会メンバ ー の 間 を文字通 り走 り回ることとなりました。それか らニカ月余 り
大 綱 見直 しチ ームが 夏休 みも週 末もなく奮 闘 した結 果 、10月 4日 に何 とか懇 談会 の
報 告書 をまとめることが 出来 ました。しかし、16大 綱 はその年 の 12月 に 閣議 決 定す る
ことを 目指していたの で 、報 告 書完成 直後 から体 む 間もなく政府 内調整 が始 まりました。
そんな作業 の真 最 中だった 11月 10日 未 明 、私 は防 衛 庁 からの一 本 の電話 で 叩き
起 こされました。「国籍 不 明潜 水艦 が潜 没 したまま航 行 を続 け、もうす ぐ先 島周 辺 の我
が 国領海 に侵 入す る恐 れ が ある」とい う文字 通 り寝 耳 に水 の衝 撃 的な内容 でした。中
国原 潜 による先 島諸 島領 海 内潜 没航 行 事 案 の発 生 でした。私 にとつてこの件 は迅 速
に対応 出来なかった痛恨 の失敗事例 であり、思 い 出す と未 だ に胸 が 苦 しくなります。
潜 水艦 が他 国領海 内を航 行 する際 には浮 上 して国旗 を掲 げながら航 行 しなけれ ば
ならな い 旨、国連海 洋法 条約 に明記 されてい ます。潜没 したまま他 国領海 内を航行 す
監に対 し速 や か に浮 上 し国旗 を掲
ることは明確 な条約 違 反 であり、領 域 国側 は 潜 水 月
揚す るよう呼びかけることとなります 。我 が 国 では 、潜水 艦 へ の対 処能 力 を有す る唯 一
の組 織 である自衛 隊 が 対応 任 務 を担 ってい ます 。自衛 隊 がこの任 務 を開始 す る際 に
は 、防衛 庁長 官 が内 閣総理 大 臣 の 承認 を得 て「海 上 にお ける警備 行 動 」(海 警 行 動 )
を発 令 す る必 要 が あります 。総 理 の承 認 を得 るためには本 来 なら閣議 決 定 が 必 要 で
す が 、速 やか に潜 水 艦 に 対 処 しな けれ ばならな い ため 、閣議 の 手 続 きを簡 素化 す る
旨の 申 し合 わせ が既 になされていました。
心 の 準備 もなくい きなり「もうす ぐ潜 没 したまま入 域 す るかもJと の電話 を受 けた私 は
激 しく動 揺 しました。通 話 するうちにすぐに潜 没 潜水艦 に対応 す るため の一 連 の 手 続
きを思 い 出したの です が 、その 時点で既 に政府 内調整 の 時 間はほとん どなか ったので
正 直 言つて気 が遠 くなりか けました。しかし、海 警行 動 を発 令 するしか 選 択肢 はないの
で 、ためらいながらも安 危 室 の 上 司や 総 理 官 邸 、防衛 庁などと連 絡 を取 り、ともか く発
令 に向けて調 整 を開始 しました。こん な事 案 の 発 生 を想 定 した訓練など行 った経 験も
なく、潜 没航 行 中 の潜 水 艦 と意 思 疎通 で きるのか 、浮 上 を促 す の にどの ような手段 が
あるのか などの 基礎 知識 も全 くありませ んでした。それ らの 疑 間を防衛 庁 に確 認 しつ
「誤 解 されたり反 撃 され たりす る危 険 はないの か J「 こ
つ 関係 者 に連 絡 す るの です が 、
ちらは武 器 を使 用 す ることがあり得 るの か 」などと次 々 に疑 間を突 きつ けられ て 、それ
をまた防 衛 庁 に 問 い 合 わせ るという繰 り返 しで 、時 間 ばか りがいたず いに過 ぎて行 きま
した。自宅 の布 団 で電話 を受 けて飛 び起 きてか らとるものもとりあえず 関係 先 へ の 電話
連 絡 を始 めたのです が 、状 況確 認 の 電話 t)頻 繁 に入 り、ハ ブ となっていた私 は 着 替 え
をす る日
限もほとん どありませ んでした。
こうして政府 内 の連 絡 調 整 は混 乱 を極 め 、総 理 ご 自身 に対応 案 が 報 告 され るまで
にはず い ぶん 時 間 がかかってしまい ました。報 告 を受 けた総 理 は即 断 され 、すぐに海
警行 動 が 発令 された のです が 、そ の 時 には 潜 水艦 は既 に我 が 国領 海 を通過 してしま
った後 で した。それでも命令 を受 けた 自衛 隊は直ちに対応 し、相 手 が 中国 の原 潜 であ
ることを確 認 しました。後 日、そ の成 果 をもとに中 国 に対 して外 交 ル ー トで抗 議 を行 い 、
中国は最 終的 に遺 憾 の意 を表 明す るに至 りました。

自分ひ とりで抱 え込 む悪癖


外 交 的 には一 定 の成果 はあったと言 えるかも知れ ませ んが 、自衛 隊 の行 動 とい うこ
とにつ い て言 えば 、潜 水 艦 の 領海 侵 入 時 に速 や か に海 警 行動 を発 令 す べ きところを
領海 通 過 後 に発 令す るとい う大 失 態 を演 じてしまった訳 で す。この 失敗 には 、組 織 的
な問題 と私 自身 の 対応 の 問題 という二 つ の原 因 がありました。
組織 的な面では、潜 没潜 水艦 事 案 へ の具 体 的な対応 要 領 が 関係 者 の 間 で共 有 さ
れ てい なか ったということに尽 きます 。既 に触 れ た通 り、潜 水 艦 へ の 対 処 措 置 等 に 関
す る基 本 的な確認・共 有 が全 くなされ てお らず 、訓練 t。 行 われ てい ませ んでした。さら
に 、この 事 案 ではとりあえず 内 閣官 房 の私 が 中 心 となって調 整 が 始 まった の で す が 、
本 当 の ところ内 閣官房 と防衛 庁 の どちらが発 令 のため の調 整 主 体 になるのかとい う点
す ら明確 ではありませ んでした。カロえて 、潜 水艦 の最 大 の 特徴 は 隠密行 動 であるため 、
彼 我 双 方 の 潜水 艦 の行 動 情 報 は最 高度 の 秘密 とされてお り、安 危 室 の私 に対 しても
入域 直前 まで伝 えられ ませ んでした。そ の 頃 は まだ 特 定秘密保 護 法も制 定されてお ら
ず 、機微 な情 報 へ の適切 なアクセスコントロー ルも行 われていなか ったの です。
この一 件 の 後 、内 閣官房 が 中心 となって情 報伝 達 要領 や 海 警 行 動発 令 のための
調 整 要 領 などを定 めた マニュアル を整 備 し、訓練も実施 す るようになりましたの で 、こ
のような失敗 は三 度 と起 こらない と自信 を持 って断言 します。
一 方 、私 自身 の対応 にも大 きな問題 がありました。最 大 の反省 点 は 、連絡調整 業務
を一 人 で抱 え込 んでしまつたことです 。安 危 室 と防衛 庁 の 間 の調 整 要領 が 不 明確 な
中、自分 が調 整 しようとしたこと自体 は 間違 っていなか つたと思 い ます 。しかし、この 時
に私 が連 絡をとらね ばならない相 手 は安 危 室 内 の複 数 の上 司、総 理 官 邸 の 各 秘 書官 、
さらに防衛 庁 など五か 所 以 上 ありました。冷 静 に考 えれ ば 、一 人で短 時 間 の うちにこ
れ,ら の相 手 と同時並 行 的 に連 絡 をとりな が ら方 針 を固 めてい くの は不 可能 でした。一
報 を受 けた時 ′点で 関連 す る安 危 室 の スタッフを危 機 管 理 センター に集 め 、連 絡 先 や
仕 事 の分 担 を決 めて態 勢 を整 えた上 で組 織 的 に対 処 す るべ きでした。初 めて の事 態
に動転 し、気 ばかり焦 つて必要な手 に従 った対 処 が 出来ず 、結果 的 に国 としての対
応 を遅 らせ てしまったのです。 '原

さらに反 省 しなけれ ばならないの は 、この事案 が発 生するまで 16大 綱 の策 定作 業


に気 をとられ過 ぎてい て 、危機 管 理 の行 動 手順 を身 につ けていなかつた点 です 。安危
室 の 総 括 参事 官 は大 綱 策 定 のような戦 略 的な業 務 とともに、内 閣 の 危機 管 理 業 務 の
元締 めとしての 責任も有 して い ました。しか し、当時 の私 は大 綱 の み に過 度 に集 中 し
ていた結 果 、危機 管 理 業務 をお ろそか にしてい ました。そ のため 、着 任 から既 に三 カ
月 が過 ぎていたにもかかわらず 、事態 に臨んで危 機 管 理 センター を拠 点 として使 うこと
にす ら思 いが 至 らなかったのです。
あらかじめ勉 強 し、あるい は 劃練 してお けば 自分 の頭 の 中 に対応 のイメー ジが 出来
るの で 、実 際 の 事 態 に直 面 した時 に体 は 自然 に反 応 します 。しか し、全 くの不 意 打 ち
に遭 つた時 には 、自らの反 射神 経 だけで 対応 す るしかありませ ん。正 直 に言えば 、もう
少 し早 く情 報 を伝 達 してもらつてい れ ば不 意 打 ちは避 けられ たので はない か とい う思
いもあるのです が 、与えられ た条件 の 中で仕 事 をす るしかありませ んので 、今 さらそれ
を言 つても仕 方 がありませ ん。残 念 ながら自分 は反 射神 経 だ けで勝 負 できるほど鋭 い
タイプではなか ったとい うことで す 。だ とす れ ば 過 去 例 を勉 強 したり、他 国 にお ける同
様 のケースか ら類 推 したりしながら、地道 に 自分 の 中の 引き出 しを増 や して行 くしかあ
りませ ん 。本件 の 大失 敗 の後 、苦 い思 いをか み じめながら、様 々 な危機 の 事 例を勉 強
するとともに、積極 的 に訓練 に参 カロしてイメー ジトレー ニングに励 む こととなりました。
ただ 、予想 していなか つた事 態 に直 面 した時 に反 射 的 に 自分 一 人 で処理 しようとし、
組 織 としての対応 を忘れ がちな私 の悪癖 は完 全 には治 りませ んでした。これ が最 後 に
再 び 大きな失敗 へ とつ ながるのです が 、それ はまた後 日紹介 することにします 。
失敗 だらけの 役 人人生 (5)
黒江哲 郎
事 態対 処 ∼運 用企画 局長 時代 ∼
続 発 した 中国海 軍艦艇 による FCSレ ー ダー 照射
民主党政権 末期 の 2012年 (平 成 24年 )9月 に運用 企 画局長 に任 命 され 、部 員、
課長 に次 いで 防衛 省 の運 用 部 門 にお い て三 度 目の 勤務 をすることとなりました。この
年 9月 に我 が 国政府 が 尖 閣諸 島を国有 化 した直後 から、これ に反 発 した 中国 が 同島
周 辺海 域 にお ける政 府 公 船 の 活動 を活発 化 させ ました。さらに 、11月 に習近 1■ が正
式 に最 高指導者 の座 につ くと、中国 は従 来 の「軸 光養 晦 Jと 称 される爪を隠して能 力を
蓄 える路 線 を転換 し、国際秩 序 に対 して正 面から挑 戦す る動 きを見せ るようになりまし
た。12月 13日 には 、前 日の北朝鮮 による弾道 ミサイル 発射 事件 直後 のスキを突くよう
にして 、中国海 警 局 の航 空機 が 中国機 として初 めて尖 閣諸 島周辺 の 我 が 国領海 上空
に侵 入 しました。
そうした 中、翌 2013年 (平 成 25年 )1月 30日 に東 シナ海 で 中国海 軍艦 艇 を監視 し
ていた海 上 自衛 隊 の護 衛 艦「ゆうだちJが 、相 手 の 中国艦 から FCS(火 器 管制 )レ ー ダ
ー の 照射 を受 けるとい う事 案 が発 生しました。FCSレ ー ダ ー は 、簡 単 に言 えば火 器 の
照 準を定 めるためのものであり、たとえ照 射 す る側 にそ の 気 が なくとも照射 され た偵1は
攻撃 を受 けると誤 解 す る恐 れ が 十分 にあります 。双 方 が互 いの意 図を取 り違 えれ ば 、
最 悪 の 場 合武 力衝 突 にもつ ながりか ね ませ ん 。FCSレ ー ダ ー の 照射 は、それ ほど危
険なことなのです 。
通 常 、この種 の 外 交 問題 に発展 す るような重 要な情 報 は速 や か に防 衛 大 臣・総 理
まで報 告 されます が 、本 件 はそのようには扱 われませ んでした。実 は 、これより10日 ほ
ど前 の 1月 19日 、同じく東 シナ海 で 中国海 軍艦艇 を監視 していた海 上 自衛 隊 のヘ リ
コプター が相手 の 中国艦 か ら FCSレ ー ダー を照劇 されたとの報告 が上がって来 てい
たの で す。この 情 報 は速や か に防衛 大 臣・総 理 まで 報告 され 、防衛 大 臣 が照射 の 事
実を公 表 して 中国 に抗議 す る手 はず とな ってい ました。ところが 、直 前 になって待 った
がかか りました。照射 された電 波 の 特徴 につい て電波 分析 の 専 門部 隊 が 詳 細 な解 析
を行 つたところ、FCSレ ー ダー のもの とは断言できない という結果 が出たのです。
この轍 を踏 み たくないと考 えたこともあつて 、私 は護 衛 艦 の 件 につ いては専 門部 隊
による詳細解析 の 結果 が 出てから大 臣と総 理 にIPR告 す べ きだと判 断 しました。ところが 、
東 シナ海 で行 動 していた護 衛 艦 から本 土 に所在 す る解析 専 門部 隊 までデ ー タを送 っ
て解 析 するのに思 っていた以上 の時 間 がかかり、結果 が 出たの は発 生から 6日 も経 っ
た後 の 2月 5日 となつてしまい ました。ともあれ 、解 析 の結 果 は「クロJだ つたので 、速や
か に防衛 大 臣及 び 総 理 まで報告 され 、大 臣 が事 実 関係 を公 表 し、正式 に中国 へ 抗議
しました。
ほろ苦 かつた予算委 員会 テ レビ中継 デ ビュー
中国 に抗議 したところまでは 良かったの です が 、なぜ 発 生から大 臣・総 理 へ の 報 告
まで 6日 もかかつたのか 、という点がマスコミや 国会 で 追及 されることとなつてしまい まし
た。確 証 が つ か めるまで 大 臣や 総 理 へ の 報 告 を待 つ ように指 示 した の は局長 の 私 な
の で 、私 自身 が 衆 。
参 両議 院 の 予算 委 員 会 で追 及 されることとなりました。運 の悪 い こ
とに、これ らの委員 会 は 両方 とも総理 出席 で NHKが 中継 す ることとなつてい たため 、
私 が失態 を追及 される場 面 はテレビを通 じて全 国 に流され てしまいました。
事 柄 の重 大性 にかんがみ れ ば 、詳 細 は後 日改 めて報 告 す ることとしても、とにか く
第 一 報 だ けは大 臣・総 理 の 耳 に入れ てお くべ きだった 、とい うのが追 及 のポイントでし
た。その 点 は 野 党 の 追及 。指 摘 の 通 りで全 く弁解 の 余 地 はなく、私 の 予 算 委員 会 デ ビ
ュー 戦 、テ レビ中継 デ ビュー 戦 はまことに意 気 上 が らな いもの となりました。衆 議 院 の
審議 では 、質 問 に立 った野 党議 員 が大 臣や 総 理 に対 して「(担 当局長 である私 を)叱 ら
ない とい けな い事 案 だ 」と追及 しました。この質 問 に総理 が「事 務方 の気 持 ちはわかる
わけであります が 、… (中 略 ・確認 は別 として 、まだ 未確認 とい うことで今後 は私 の とこ
)・

ろに、もちろん 防衛 大 臣 の ところに上 がってくるようにいたします 」とい う優 しい 答 弁 をし


て下さつたの がせ めてもの救 い でした。

速 報性 と付加 価 値 のバ ランスの難 しさ
最 近 特 に、政 治 主 導 でトップ ダウンの判 断 が 素 早 くなされ る事 例 が急増 してい ます 。
役 人 としてこうした政 治 のスピー ド感 につ いて行 くためには 、迅 速 な報 告 を心がける必
要 があります 。また 、最 近 のマスコミは危機 対応 の 妥 当性 を時 間 で測 ろうとする傾 向 が
あり、いつ 誰 が何 をや ったのか 、総理や 大 臣が報 告 を受 けたのは何 時何 分 だつたのか
等 々 に 関 心が集 まり、まさに本 件 のような遅 れ があるとそれ は誰 の責任 だ った のか とい
う点 が厳 しく追及 され ることとなります 。それもあって 、役 所 内ではとるものもとりあえず
上 司 へ 速 報 す るとい う風 潮 に拍 車 がかかつてい るように感 じます。速報 自体 は 緊 急事
態 へ 迅 速 に対 処 するための 基 本 です し、何 か あつた時 に 自分 の身を守るアリバ イにな
るという意 味でも大切 なことだと思 います 。
しかし、正 直 に言 えば 、私 自身 はこうした「とにか く一 報 を」とい う流 れ にそ の まま乗
ることにためらい を感 じていました。速 報 ばか りに気 をとられ て いると、情 報 の信 ぴょう
性 の確認 や 事 態 へ の 対応 策 の検討 がどうしてもお ろそか になりがちだか らです 。自分
の頭 で考 えず に情 報 を下 か ら上 へ 流す ことだけを繰 り返 していると、十 分 な材 料 を整
えず に上 司 に判 断 を丸 投 げし、上 司 の判 断 に疑 間を持 たない 、疑 間 があつても議 論 し
ない という無 責任 な態度 につ ながつていきます。
加 えて本 件 に つ い ては 、直 前 の海 自ヘ リの 件 の ような「勇 み 足 」をしたくな い とい う
意識も強く働 きました。このため 、私 は「情 報 をそ のまま上 に伝 えるのではなく、情 報 の
信 ぴょう性 を確 認 した上で報告 す べ きだ」と判 断 したのです。
残 念 ながら、本件 にお いては信 びょう′性の確 認 に予想 以 上 に時 間 がかか ったため
総 理や 防衛 大 臣 へ の報告 が遅 れてしまい 、批 判 を浴 びることとなりました。最低 でも 一
言 耳 に入 れてお くべ きだ つたとい うの はもつともなの で 、批 判 は 甘受 しなけれ ばなりま
せん。私 自身その ′
には深 く反 省 しています 。
そ の上 で 、や はり私 は付 加 価 値 の 大 事さを強 調 した い と思 い ます 。安 全保 障 や 防
衛 の 問題 につ いて は 最終 的 に政 治 の判 断 が必 要 となるの はもちろんです が 、適 切な
政 治判 断 のためには様 々 な判 断材 料 が不 可 欠です 。「言 うは 易 く行 うは難 し」とい うと
価 値 をつ けることとのバ ランスをとるように努 力
ころです が 、速 報 す ることと必 要 な付 カロ
す ることが重 要 だと思 い ます。

地獄 に仏
ところで 、この レー ダ ー 照射 事案 の 国会 審議 に 関 しては余 談 があります 。
本件 につ いて私 が 国会 に呼 ばれたの は先 に述 べ た衆 参予 算委 員会 の二 度だ けで
したが 、このほか に公 明党 の ある先 生も関 心を持 つてお られ て質 問 の 準備 をしてお ら
れました。そ の議 員 の質 問 レクに参加 した部 下 が 、担 当の秘 書 さんから「報 告を遅 らせ
る判 断をした担 当局 長 は誰 なのか ?Jと 問われ「黒 江 運用 企 画 局長 です 」と答 えたとこ
ろ、その 秘 書 さんが急 に「え ?黒 江 さん ?そ うか あ … 、黒 江 さんかあ … 、そうかあ … Jと
逢 巡しはじめ、結 局質 問を取 り下 げてくれたのだそうです 。実 はそ の秘 書 さん は 、私 が
国会担 当審議 官 だ った頃 に公 明党 の 国対 事務 局長 を務 めてお られた のです。そ のた
め 、私 は頻 繁 に彼 のもとを訪 ねて、様 々な相 談 に乗 って頂 いてい ました。
防衛 問題 等 につ いてよく御 存 知 の 方 だ った の で 、与 党 として政府 を質 す のに相 応
しい論 点 ではない と判 断 して質 問を取 りJ上 められ たのかも知 れ ませ ん。しかし私 には 、
音 のよしみから「武 士 の情 けJで 質 問を控 えて 下さつたもの と感 じられ ました。正 直「や
っちまったぁJと 海や んでいたところ、文字 通 り地獄 で仏 に出会 つたようなもので 、人脈
とは本 当にありがたいものだと痛感 させ られました。
地獄 に仏 と言 えば 、たまたま家 内が衆議 院 予算 委 員会 のテレビ中継 を見てお り、そ
「何なの 、あの 人 (質 問 した野 党議 員のこと)!?お 父 さん (私 のこ
の晩私 が帰 宅す ると
とで す )を 叱れ とか 言 って 、許 せ ない わ っ」とプンプンしてい た ので す 。追及 され るよう
なミスをした の は私 自身 なの で 、客観 的 に言 えば 家 内 の怒 りは 当を得 て い ませ ん 。し
かし、自分 の 不始 末 を国会 で追 及 され てい ささか 落 ち込んで いた私 にとつては 、適 否
はどうであれ 力 強 い励 ましとなりました。夫や親 が仕 事 で苦 労 してい る姿を間近 で 見 て
いる家族 は、どんな場合 でも無 条件 に味方 になってくれ るの だとい うことを再認 識 させ
られ た 一件 でした。
報 道 を見てい ると、最 近 の野 党 は合 同 で政府 追 及 の場 を設 けて役 人を問 い 質 し、
時 に罵声 を浴 びせ るようなパ フォー マ ンスをメデ ィアに公 開 しているようです。立 法府 と
行 政府 との 関係 はそうい うもの なのかも知 れ ませ んが 、カメラの 前 で悪 しざまにllヒ 判 さ
「選 挙 で選 ばれた 国民 の代
れれ ば本 人 の みならず 家族も耐 え難 い 気持 ちになります。
表者 なのだから役 人 には何 を言 っても許 される」と思 われ ているの なら、また本 人や そ
の家族 がどう感 じるかとい う点が忘れ られているのなら、い ささか残 念な気 がします。

事 態 対処部 門 にお ける失敗 談 につ い ては今 回 で一 区 切りとします 。事 態 対処 にお


いては一 瞬 の気 の ゆるみや 油 断 、判 断 間違 い が 重 大なダメージ につ ながります。この
ため 、常 に緊張感 を持 続 しながら仕 事 をす ることの大切 さを学びました。
なお 、ここまで色 々 な失 敗 談 に触 れ 、これからも様 々な経 験 談 をご紹 介す る予定 で
す が 、それぞれ の事例 に直接 関 わった方 々もたくさんお られると思 い ます 。それらの 出
来事 につ いて私 とは違 った 印象や 意 見をお持 ちの 方 々もお られると思 い ます が 、この
連 載 はあくまでも私 自身 の個 人 的な印象 を述 べ たもの だとい うことで御 理 解 いただ け
れ ば 幸 いです。
次 回 か らは政策 部 門で の勤務 実感 などに触 れる予 定 です が 、事 態 対処部 門とはま
た違 つた学 びがありましたので 、そのあたりをお伝 えできれ ばと思 い ます。
失敗 だらけの 役 人 人生 (6)
黒 江 哲郎
防衛 政策 ∼二つの K∼
3K職 場
防衛 省 で過 ごした 40年 近くの 間 に、少 なくとも二 つ の極 めて大きな 国際構 造 の転
換 に遭 遇 しました。一 つ 目は 1989年 (平 成 元年 )11月 のベ ル リンの壁 の崩壊 です 。物
心 つ いて以来ず つと二つ の ドイツが載 つている世 界地 図 になじんできた私 にとつて 、ド
イツの統 一・東 西 冷 戦 の終結 はまさに衝 撃 でした。これ以 後 、安 定 的な抑 止 構 造 は 姿
を消 し、世界 はポスト冷戦 の 流動期 に入 りました。二つ 目は 2001年 (平 成 13年 )9月
11日 に発 生 した米 国 同時 多発 テロです。世界 一の 軍事 力 を誇 る米 国 が 、わずか 数 人
のテ ロリストの 自爆 攻 撃 によつて 3000人 もの犠 牲者 を出した のです 。この事 件 は 、従
「テ ロとの闘 い 」が 国際社 会共通 の課題
来 の 安 全保 障や 国防 の概 念 を根 底 から覆 し、
となりました。そして三 つ 目は 2016年 に相 次 いで起きた BREXITと 米 国大統領 選 にお
けるトランプ 氏 の勝利 でした。これ により国際秩 序 の 中心 をな してきた同盟 政策 と多 国
間主義 が後退 し、間隙を突 いて権威 主 義 国家 の既 存秩 序 に対する挑 戦 が勢 い を増 し
てきました。
防衛 省 は 、こうした 国際情 勢 の 変遷 に対 して 、そ の都 度「防衛 計 画 の 大綱 」や 中期
防衛 力整備 計 画 の策 定・見 直 しなどを行 い 、自衛 隊 の任 務 を拡 大 し、戦 力組 成 を変
化 させ るなどして対応 してきました。また 、日米 同盟 の信 頼性 の維 持 向 上 、同盟 にお
ける我 が 国 の 責任 の増 大などを図 つて米 国 のコミットメント確保 に努 めるとともに、防衛
交流や安 全 保 障対 話 を通 じて多国 間主義 の 強化 に努力 してきました。
防衛 省 の 内部 部局 の仕 事 は人 事 制度 か ら防衛 施 設行 政 に至るまで 幅 広 い 分 野 に
及 んでいます が 、ここに述 べ たような基 本 政 策 のかじ取 りは 防衛 政策 部 門 が担 つてい
ます 。私 は 、係 員・部 員 として 8年 、局次長 として 3年 、局長 として 1年 の合 計約 12年
間 にわたってこうした防衛 政 策 の企 画・立 案 に参 画 してきました。
個 々 の 政策 の 意義 、目的 、趣 旨、内容 などにつ い ては 、そ の 時 々 の 防衛 白書そ の
他 に詳 しく紹 介 されています の で本稿 では触 れませ ん。ここではむ しろ、 「仕 事 の仕 方 」
とい う切 り口で 、実務 に携 わつた者 としての経 験 を述 べ ることにします。
まず 、防衛 政策 部 門は「3K職 場 」だ 、というのが私 の 実感 です。仕 事 量 は 多くて「き
つ い 」し、風 呂にも入 らず シャワー も使 わず に泊 まり込 みや 徹 夜 作 業 を続 けてい れ ば
体 は「汚 い」し、働 き過 ぎで体 を壊 す「危 険」や 仕 事 を失敗 す ることによる別 の「危 険 」 も
そこら中に転 がってい ます。 「きつい 、汚 い 、危 険 」という 3K職 場 の 要件 を十分 に満 た
していると言 えるでしょう。しかし、私 が言 いたい「3K職 場 」は 、これ とは違 います。その
「企 画す る (考 える)J、 「形 にす る(紙 にす る)J、 「(関 係 者 の )共 感 を得 る」と
「3K」 とは 、
いう二 つ の Kの ことです 。防衛 政策部 門 がそ の 典型 です が 、防衛省 の 内部部 局 はそ
れぞれ の所 掌 に従 つてそ の 時 々の課 題 へ の対応 案 を企 画 し、形 にし、関係 者 の共感
を得て実行に移すという仕事をしているのです。

「勉強」と 「経験」 ・¨第一の K


この 3Kサ イクル は、課題 に対応した適切な政策案を企画 (考 える=第 一の K)す る
ことから回り始 めます。政策を企画するのに必要な特別なコツはありません。 「勉強」と
「経験Jが 必要なだけです。防衛政策部門に勤務する職員たちは、みんなこのことを知
つているはずです。このため彼らは、担 当分野 に関係する様 々なことを勉強し、実務 に
取り組んで経験を積み重 ね 、時に徹夜も休 日出勤も厭 わず努 力しています。
一つだけ付け加えるとすれば、 「物事をありのままに見ることが大切」 だという点です。
防衛政策や安全保障政策は、生きて動 いている国際情勢を相手にする仕事です。こ
れに対応するためには、対象を冷静 かつ客観的 に観察することが必要不可欠です。
単純な事 のように聞こえます が、最初からこうした物 の見方を出来る人はそう多くない
ように思います。私 自身も先入観や希望的観測、楽観や悲観 に左右されて、 「物事を
ありのままに見る」 ことがなかなか出来ませんでした。51大 綱の見直し作業の際には冷
戦終結後 の国際構造を無理 に自分が慣れ親 しんだ予定調和的な物差 しで測ろうとし
たり、沖縄 問題 では基地周辺住民の意思を一 面的 に解釈 しようとしたり、多くの失敗を
繰 り返しました。結局、「ありのままに物事を観察するJこ との大切さがわかつたのは、現
役時代も残り少なくなつた頃でした。ここでも「勉強」と 「経験」が大切なのだと思います。

「ララバイ」 からの脱却
3Kサ イクルの起点となる第一の Kが 大事なことは当然ですが、政策 は案を企画す
るだけで実現される訳ではありません。行政機構 は複雑 で関係部署が多く、一つの政
策を作り上げ実施していくためには他 の部署 の理解 と協力が不可欠です。さらに、重
要な政策であれば、最終的に立法府 の了解を得ることも必要となります。第二の K、 つ
まり自分 が立案 した政策について関係者 の「共感を得る」ことが出来なけれ ば、いくら
良い政策 であつても実現できません。そのためには、わかりやすい紙を作ること(=第
二の K)も 大切です。これら二つの Kは 相互に深く結びついているとともに、三つ全て
が等しく重要なのです。
若い頃はこのことを全く理解 しておらず、政策作りには文字通り倒れるほど集 中する
一方で、プレゼンは「単なる言いぶ りに過ぎないJと して軽視していました。これは私だ
けでなく、当時の内部部局全体 がそんな雰囲気 だつたように思います。政策 の内容と
自分 の思考過程を淡 々と伝 えることが「説 明」だと思つていたので、私 の説明を聞く相
手はよく寝落ちしていました。日の悪い先輩から「黒江ララバイ」とからかわれたりもした
のですが、一 向に意 に介さず「自分の声 が低いので他人の副交感神経 に働きかけて
心地良くしてしまうからだ」などと冗談を言つて受け流していました。
そんな中、1993年 (平 成 5年 )の 通常国会を控 えた 1月 のある日、前年末 に閣議
決 定され たばか りの 中期 防 の修 正 につ い て 国会 の 調 査 室 に説 明するとい う仕 事 が入
りました。調 査 室 は 、国会議 員 の 立 法活 動 を補佐 す る組 織 で す。ここで の説 明 は議 員
の質 問 に直結 するので 、私 は少なか らず 緊張 し、気 合 い を入れ て説 明 に臨みました。
ところが 、話 し始 めた 直後 から、テー ブル に座 つたメンバ ー が 目の 前 で一 人 、また一 人
と眠 りに落 ちて い くの で す。決 してオ ー バ ー な表 現 ではなく、15分 ほどたつた 頃 には
10数 人 の 出席 者 の 7割 方が眠 り込んでい ました。昼食 直後 の 午後 1時 からという不 幸
な時 間帯 ではありましたが 、さす がにこの 出来事 にはショックを受 けました。
そこでようや く自分 の説 明 ぶ りに問題 があるので はな いか と思 い 当たり、説 明 内容
や使 っていた資料 などを点 検 してみ ました。そ の結 果 、自分 が 単調 でメリハ リの ない と
ても退 屈 な話 をしていたことに気 づ かされ たので す。これ 以後 、「ララバ イJか らの脱 却
を 目指 して、相 手 を眠 らせ な いようなストー リー 構 成 や 資料 の 内容 、説 明 の切 り口など
につ い て工 夫 を重 ねる日々 が始 まりました。もちろん 、思 い 立ったからと言 つてすぐに
退屈 な説 明 ぶ りが 改 まる訳もなく、思 いつ くままに数 字 を強調 したリポンチ 絵 を多用 し
たり様 々 なことを試 しました。先輩 や 同僚 が行 う説 明ぶ りに対 しても、「わかりや す さ」と
いう観 点 から関心を持 つ ようになりました。防衛 大綱 を解 説す るテ レビ番 組 の 中で演習
場 に実 際 に隊 員 を並 べ 、自衛 隊 の 充足 率 の低 さを可 視 化 しようとしたある先 輩 の試 み
には 目を引かれました。また、インド洋 に派遣 され た艦 艇 の 甲板 で 目玉 焼 きを作 り、隊
員 の 勤務環境 の厳 しさを訴 えたある後輩 のアイデ ィアなども大きな刺激 になりました。
この 30数 年 の 間 に我 が 国 を取 り巻 く安 全保 障環境 は大きく変化 し、多くの人 々 が
国防や 安全保 障 に 関 心 を有するようになりました。以 前 のように 、少 数 の専 門家 だけが
理 解 して議 論 していれ ば 良 い という時期 は過 ぎたのです。安 全保 障・防衛 政策 の立 案
に携 わる者 は 、出来 るだ け多 くの 人 々 の 理解 と共 感 を得 られ るようにわ かりや す い 説
明 に努 めていかなけれ ばならないと思 います。

必 殺「3の 字 固 め」…第 二の K
第 二 の Kで ある紙 の書 き方 につい て、試行 錯 誤 の 末 に必殺 技 (?)と して編 み 出 した
のが「3の 字 固 め」でした。
政 策 を説 明す る際 にも、何 をどのような順 序 で伝 えるか とい う説 明 の流 れ 、ストー リ
ー 展 開を考 える必要 があります 。一 般 に、文章 は「起承転 結 」でストー リー を構 成す ると
わか りや す い と言 われています 。しかし、かね がね 私 は政策 の説 明としては「起承転 結 」
の 四段 階 では冗長 だと感 じて いました。他 方 で 、政 策 を企 画す るプ ロセスを単純化 す
ると、「課 題 」を認 識 し、そ の解 決策 を「検 討 」し、最も望 ましい「結論 」を出す とい うこと
になります 。そこで「起 承 転 結 」の 四段 階 に代 えて 、この「課 題・検討 。結論 」の三 段 階
(こ れも偶 然 3Kで す !)で ストー リー を構 成す れ ば 、より簡 潔 な説 明が可能なのではな
いか と考 えました。また 、大抵 の物 事 は三 つの 異なる切 り口を示 せ ば立体 的 に表 現す
ることが 出来 ます 。このため 、説 明 ペ ー パ ー は 出来るだけ少 なく、可能 なら一 枚 紙 で 、
構成は「課題・検討 。結論」の三項 目、検討する際の論点や切 り口も二つ 、さらには結
論を絞り込む際の選択肢も両極と中間の三つの案 に集約するよう努力しました。
「3の 字固め」にこだわった理 由の一つ は、それまでの経験 上、説明を聞く側 の記憶
に残るのは三項 目くらいが限度だと感 じていたからです。そのくらいコンパクトに整理し
切れない案件は、多忙な上 司の判断を仰 いだり、国会議員 に説明したりするところま
で成熟していないのではないかとすら感 じます。
もちろん、役人 の世界で言う「詰まった」政策を作るためには、たつぷりとブレーンス
トーミング等を行 い、考え得る限りの論,点 を網羅して徹底的に検討しなければなりませ
ん。そうした基礎作業に用いるペーパーが詳細 で大部のものになるのは仕方ありませ
ん。政策の立案過程ではとことん細部まで検討 し、出来上がった政策案 については簡
潔な資料を用いて説明するというのが理想です。
また、簡潔 に説明することは、都合の悪 い論点を隠す ことでもありません。上司に判
断を求めたり部外者に理解を求めたりする際には、その政策のメリット ・デメリットをフェ
アに説明す べ きことは当然です。同様 に、簡潔な説明を心がけるとしても、相手の疑
間に対しては懇切丁寧に答える必要があります。簡潔な一枚ペーパーで説明しながら、
流れや質問に応じてデータなどのバックアップ資料を適時追力目 的に示していく、という
のが望ましいやり方だと思います。
要するに「3の 字固めJと は、膨大な思 考過程 と検討事項を「3段 階のプロセス」 「3
つの論点」「3つ の切 り口」
「3つ の選択肢」など「3」 を目安 としながら整理・集約 し、重
要な論点とその対応策を手際よく提示していくという技なのです。もちろん、 「3」 はあく
までも目安です。現実の課題 に即して、いずれかの要素が 4に なつてもペーパーが 2
枚 になっても、論点の整理・集約 と簡潔な提示が出来ていれば OKで す。

調整を放棄 した根回し資料
私 が内閣官房安危室の参事官だつた頃 に、インド洋での補給支援活動の根拠とな
つていたテロ対策特措法の期限延長法案を国会 に提 出しました。内閣官房、防衛庁、
外務省 の三者 が関係する法案だったので共通の説明資料を作つて関係議員 に根回
ししようとしたのです が、資料 がなかなか整 いません。国際情勢や派遣 の経緯 、活動
の実績などを盛り込んだ長文の詳しい説明資料を作ろうとする防衛庁と、 「3の 字固め」
で簡潔な資料を用意 しようとする私 の意見が合わなかつたからです。法案 の根回しは、
与党の部会にいつも顔を出しているような防衛問題 に詳しい先生ばかりが対象ではあ
りません。党幹部や 国対関係 の先生方などたくさんの議員 の間を短時間で回らなけれ
ばならないのです。そういつた多くの忙 しい先 生方 の間を研究論文 のような長文の説
明資料を抱えて回るということが、私 にはどうしてもイメージできませんでした。このため、
決して望ましいことではないのです が、資料の統一を放棄 して別 々の資料を用いまし
た。実際に根回しをやつてみたところ、簡潔な資料 で全く不都合は生じなかつたのでと
ても意を強くしました。

総理官邸での経験
安危室に勤務する直前の 3年 間、私は総理官邸で総理秘書官を補佐する仕事を
していました。その際、行政万般 に責任 を有する総理は当然 のことながら極めて忙しく、
個別 の省庁の案件にさける時間はごくごく僅かであるということに気づかされました。そ
んな短い時 間で総理の了解を得るためには、プレゼンテーションのやり方を相 当工夫
しなければなりません。仕事柄 、当時は関係 省 庁 の総理説明をバ ックシー トで聞く機
会が多かったのです が、防衛庁からの説明には多くの場合あまり工夫を感 じませんで
した。ここにも、政策の内容は重視するがプレゼンの工夫を軽んじるという防衛庁内部
部局の伝統的な悪弊 が表れているように感 じました。このため、総理官邸から安危室
へ異動した際 には、資料やプレゼンテーションを徹底的 に工夫 しようと固く心に決めて
いました。法案の根回し資料 について防衛庁とのすり合わせを放棄 してまで簡潔なも
のにこだわつたのには、そんな背景がありました。
事務方として総理や大臣の答弁資料を作る際にも、同じような工夫 が必要です。防
衛省 が作成する答弁資料 には憲法問題など機微な論点が多く含 まれているため、い
わゆるセットフレーズが多用されています。迂 闊に変更して「憲法解釈 の変更ではない
か」といった批判を招かないためです。自分も原局原課 に勤務していた頃は、深く考え
ず にそうしたフレーズや専門用語をふんだんに用 いて長 々としたわかりにくい答弁資
料を書いていました。しかし、そうしたお役所言葉 では国民 に対する訴求力 は生まれ
ません。総理官邸勤務時代に、早朝 の答弁 レクで憲法問題に関する伝統的な答弁を
説明していたところ、「君、こんなわかりにくい説明じゃ国民 には全く理解 できないよ」と
総理ご 自身からたしなめられたこともありました。政治家である総理や大臣の答弁は、
使 い手の立場 に立ってよくよく考え抜いて作るべきであり、事務方の独善 に基づいて
書いてはならないということを痛感させられた出来事でした。
今回は主として第一と第二の Kに ついて紹介 しました。次回は第二の Kに 話を進
めたいと思います。

【訂 正のお知らせ 】
連載第 2回「事態対処 ∼運用課部員時代 ∼」の最終 6ペ ージに平和安全法制 の
衆議院審議 の時期について「2017年 (平 成 25年 )」 と記述しましたが、単純な記載ミス
で、正しくは「2015年 (平 成 27年 )」 でした。お詫びして訂正いたします。
記述 内容については正確を期すよう努 めております が、もし事実関係 の間違 い等
に気 がつかれましたら遠慮なくお知らせください。何卒よろしくお願い 申し上げます。
失敗 だらけの 役 人 人生 (8)
黒 江哲 郎
防衛政 策 ∼コミュニケーションあれ これ ∼
直球 勝負 の 日米 協議
私 は 2009年 (平 成 21年 )か ら 2012年 (平 成 24年 )ま での三 年 間、民 主 党政権 下
で 防衛 政策 局 次長 として 日米 安保 協議 を担 当 し、普 天 間基 地 の辺 野 古移 設や オ スプ
レイの 普 天 間導入 などに携 わりました。民 主党 政権 は 、普 天 間移 設 につ い て「最低 で
も県外 Jを 主張し、自公 政権 下 で結 ばれた 日米 合 意 を事 実 上 自紙 に戻 したため 、米 411
との議 論もゼロならぬマイナ スのラインか らスター トしなけれ ばなりませ んでした。
同盟 国である米 国 との 間 では 、日常 的 に様 々な レベ ル で安 全保 障 に関する政 策 協
議 が行 われ てい ます。中 でも中 心 的 なもの が 次 長・審議 官 級 の 協議 で 、当時 は月 に
一 度 以 上 のペ ースで 開催 されていました。メンバ ー は 、日本側 が私 と外務 省 北 米局 の
審議 官 、米 国側 が 国防・国務 両省 の次官補 代 理 という四者 でした。普 天 間移設 問題も
この場 で 協議 され ましたが 、双 方が 自らの 論 理 を主 張 し合 い一 歩も引 か ない直球勝 負
となりました。既 に一 度 政府 間 で合 意 した 内容 を 日本側 がひっくり返 す とい う形 だ った
ので 、出 だ しから日本 側 が難 しい立 場 に立たされ ました。日本 側 は「地 元 の理 解 を得
て安 定 的 に基 地 を使 用す るの は 日米 共 通 の利 益 であり、既 になされ た合 意 につ い て
も検証 が必要だ」と主 張す るの に対し、米側 は「両政府 間 でなされた合 意 は有 効 であり、
見 直す 必 要 はな い。合 意 につ い て地 元 の 了解 を取 り付 けるの は 日本 政府 の 責任 だ 」
と反論 するという構 図 です。協議 が 直球 の投 げ合 い となり論 理 の応 酬 になると、議 論 は
か み合 う反 面 、雰 囲気 はどうしても刺 々 しくなります 。この 時期 の 次 長・審 議 官 級 協議
は正 にその典 型でした。
ある 日の 協議 の 冒頭 、私 が普 天 間基 地 問題 に 関す る 日本側 の最 新 の検討 状 況 を
説 明 したの に対 して 、米側 から皮 肉たっぷ りに「Thank you vew much for your veり ,

vett dsappdnthg bneing」 と言われ たシーンは未 だに脳 裏 に鮮 明に焼 き付 いていま


す。当 時 は米側 から「d」 で始 まる言葉 (dsappointing,discouradng,diSgusung等 々)を
次 か ら次 へ と投 げか けられ て不愉 快 な思 い をして いたのです が 、あまりに何 度 も言 わ
れるので 、最後 には時候 の挨拶 みたいなものだと聞き流 せ るようになつていました。
またある時 には 、新 間 に「 日本 側 は 、グー グル マ ップ に線 を引 い ただけのいい加 減
な案 を示 す だけ」というアメリカ発 の 記 事 が掲 載 され たこともありました。場 外 乱 闘を狙
つた米側 のジャブでした。この 頃 、我 々のチ ームの施 設 業務 の 専 門家 は、政権 が思 い
つ く様 々 な案 をフォロー し、不 眠不体 で 実現 可能性 を追 求してい ました。現 地調 査 の
ため、チ ームのメンバ ー が徳 之 島へ 飛 んだこともあります。いい加 減 な作 業 などしてい
ないの に 、政権幹 部 からは「米側 からこん な事を言 われるの は事務 方 の 作業 に問題 が
あるか らではないか 」と難 詰 されました。不愉 快 ではあります が 、幹部 が我 々よりも新 聞
記事 を信 じたというの は米側 のメディアエ 作 が奏功 したということだ つたのでしょう。
もちろん 、日本側 が一方 的 に押 しまくられてばかりいた 訳 ではなく、開始 前 にこちら
が席 を蹴 って協議 を決 裂 させたこともありました。一 部 には我 々役 人 が米 国 と気 脈 を通
じて移設 先 を強 引 に辺 野 古 へ 戻 したように解 説 す る向きもあります が 、我 々 は 当時 の
政 権 が指 示 す る方 向で 解 決 策 を見 つ けるべ く、米側 に対 し常 に厳 しい 議 論 を挑 んで
い ました。しか し、最 終 的 に普天 間移 設 問題 は原 案 通 り辺 野 古移 設 で決 着 し、
「最 低
でも県外 」は実現 しませ んでした。民 主党政 権 の 主 張通 りに正 面 から直球 勝負 を挑 ん
で 、米側 か ら見事 に打 ち返 された 、とい うところでしょうか 。交渉 当事 者 として、この結
果 につ いては複雑 な心境 だとしか 言 い様 がありません。
当時 の 日米協議 は いつ もギスギスしていたので 、もう少 し良 い雰 囲気 の 中で協 議 し
たかったとい うのが正 直な感 想 です。私 は 元来 口が重 く、陽気な米 国人相 手 に冗 談を
言 つた りす るの は 苦 手な ので す が 、あまりの 雰 囲気 の 重 さに耐 えかねて乾坤 一 榔 のジ
ョー クを放 つたこともありました。20■ 年 (平 成 23年 )4月 1日 のことです。この 時期 は 、
普天 間移 設 が進 展 してい なかった上 に 、東 日本 大震 災 の 直後 とい うこともあつて 日米
協議 にも停 滞感 が 漂 っていました。そんな雰 囲気 をどうにか 変 えられないかと考 えてい
たところ、協議 前 日の 3月 31日 にフランス大 統領 が来 日して 日仏 首脳 会 談 が行 われ
ました。当時 、空 自の F4戦 闘機 の 後糸
区機 選 定 が課題 となつてお り、下馬 評 では米 国
の F35が 圧倒 的 に優位 と見られ ていたのです が 、一 応 フランスの戦 闘機「ラファール J
も候ネ甫に入 つていました。そこで 、これ をネタに一 計 を案 じました。
「今 日は重 要 な報 告 が一 つ ある。昨夜 の 日仏 首脳 会談 で 、フラ
日米 協議 の 冒頭 、
ンス側 か ら水没 した F2戦 闘機 の代 替 としてラファール を供 与しても良 い との提案 があ
つた。来るべ き F4後 糸 区機 の選 定 に当たっても、この提案 は考慮 に入 れることになるだ
ろう」と切 り出 しました。松 島基 地で 津波 の被 害 に遭 った F-2の 代 替機 をフランスが供
与 してくれるので 、この好 意 に報 いるため F4後 継 機 の選 定では仏製 戦 闘機 を有 力
候 補 として扱 う、という趣 旨です。もちろん架 空 の話 なのです が 、F-2の 水 没 は事 実 だ
つたので 、私 のカウンター パ ー トは思わ ぬ ライバ ル 出現 と思 い込み「フランスは い くらで
売ると言 つているのか 」と真 顔 で 問 いてきました。私 が真 面 目な顔 で「今 後 の調 整 によ
るが 、無 償 援 助 の 可能性 もあると聞 い てい る」と答 えたところ、彼 はや や 顔 を引きつ ら
せ て「なんと気 前 の 良 いことか Jと つ ぶや きながらメモ をとつていました。気 が つ くと私 の
隣に座 っていた外務 省 の 審議 官も怪 訪 な顔 でメモをとつていたので 、頃合 い と判 断 し
て「今 日は 4月 1日 だよね 」と言 つた ところ、会議 室 は大 爆 笑 に包 まれました。エイプリ
ルフール 限定 のジョー クでしたが 、この 日の協議 は いつ になく和 や か に進 みました。

直球 が 通用 しなかつた沖縄 との協議
もう一 方 の 当事者 である地 元 沖縄 県 との協議 では 、直 球 が全 く通用 しませ んでした。
日米協議 に臨む 際 と同様 に 、沖縄 県 に対 しても必 死 に論 理 的 な説 明を試 み ましたが 、
地 元 との 協議 は全 くの別 世 界 でした。私 は 、人 口密集 地 にある普 天 間基 地 の 危 険 を
早期に除去することが最優先のはず、人 口の少ない北部に移設すれば安全性 は高ま
り騒音被害も減少する、キャンプシュワブなら埋め立てで基地面積を若千増やすだけ
で対応可能、それにより海兵隊員の数も減る、本 島南部の多くの米軍施設も返還され
経済的にも大きな恩恵がある、といつた説明を繰り返しました。この辺 野古移設案 は、
政府 が関係者 の意見を聞きながら何年もかけて練り上げたものです。今でも唯―の現
実的な解決策だという自信 がありますが、沖縄側 からは全く前 向きな反応を得られま
せんでした。そればかりか、面と向かつて「あなたの説明は理屈ではそうかも知れない
が、我 々の心に全く響かない」と言われたこともありました。
沖縄 出張の際に生卵を投げつけられたこともありました。2015年 (平 成 27年 )8月
のことでした。防衛政策局長として大臣の沖縄 出張に随行 し、那覇市内に入 つたとこ
ろで乗つていた沖縄防衛局 の車に生卵がぶつけられたのです。たまたま大臣の車列
とは別ル ー トで行動 中の出来事で、どうやつて車が特定されたのかはわかりません。も
ちろん、誰 が投げたのか、私 が標的だったのかも知る術はありません。車 に生卵を投
げつ ける遊びが流行つているのかとも思い、当時沖縄で暮らしていた娘にも尋 ねたの
です が知りませんでした。直球 ばかり投げていたので、お返しに生卵を投げてやろうと
考えた人がいたのかも知れません。
沖縄基地問題 に携 わる人たちの間では、昔から「一緒にヤギ汁を食つて、泡盛を酌
み交わさなければ本音では語り合 えない」と言われてきました。我 が国で唯一地上戦
を経験 し戦後も長らく米国の 占領下 におかれてきた沖縄県の歴史 に対する理解や 、
そうした歴史によって形作られてきた県民の「感情」に対する配慮 がなければ沖縄県
民を動かすことは出来ない、性急に理屈で説得 しようとしてもうまくいかない、という意
味なのだと思います
十分なコミュニケーションがとれずに私 の現役時代 は終わつてしまいましたが、退官
後 に当時県幹部だった方とお付き合いを深めさせて頂く中で、徐 々にわかってきたこ
とがあります。2013年 (平 成 25年 )12月 に沖縄県が辺野古の埋め立てを承認 した際、
県は政府 に対して「普天間基地の 5年 以内の運用停止 」という要望を出しました。この
翌年 に防衛政策局長 となり再 び沖縄問題 に携わることになった私 は、この要望 に大 い
に悩まされました。5年 間のうちに代替施設 の建設を完了し、普天間基 地の運用を停
止 するのはほとんど不可能だつたからです。しかし、この要望には、現実的かつ段 階
的に在沖縄米軍基地を整理・縮小していこうという思いとしたたかな戦略が込められて
いたのです (当 サイト既掲の拙文「普天間移設問題を通 して考える日米同盟と沖縄問
題」参照)。 残念ながら、現役 当時 はそのことを十分に理解 していませんでした。相 互
に理解し合い共感を得るためには、やはり時間をかけて対面で話 し合 い、信頼関係を
作らなければなりません。コロナの影響で難しい時期が続きそうですが、これからもお
付き合いを大切にしていきたいと考えています。
相 手 に恵 まれた 中国 との 防衛 対話
防衛 政 策 局 で 局長 や 次長 を務 めて い た時 には 、米 国 だ けでなく中国や 韓 国 など
様 々な 国 の 国防 当局者 と対話 や 交流 を行 う機 会 がありました。それ らは基本 的 に国益
を背 負 つてい わ ゆる直 球 勝負 で議 論 す る場だ った ので 、協議 のたび に準備 に相 当 の
時 間 を費 や し、論理 を研 ぎ澄 ませ て臨むよう努 力 しました。同時 に、これ らは人 間 同 士
の付 き合 いの 大切 さを再認 識 する機 会 ともなりました。
日中防衛 交流 。 安保 対話 は 、両国防衛 当局 間 の信 頼 関係 を構 築す ることが 出発 ′

であるため 、米 国な どとの 協議 とは 異 なり、特 定 のアジェンダ につ い てスピー ディに議
論 が進 む ことはなかなか 期 待 できませ ん。加 えて、日中の 政 治 的 関係 の 影響 を受 けて
協議 そのものが 中止 されたり、い ざ協議 が始 まっても中 国側 の公 式 見解 の連発 に悩 ま
されたりす るのが 常 でした。ところが 幸 運 なことに、私 は極 めて建 設 的な議 論 をす るカ
ウンター パ ー トに恵 まれた ので す。海 軍少 将 だ った彼 は 、海 上 にお ける日中間 の偶 発
的な衝 突 を避 けるための 枠組 み が必 要 だ とい う強 い意 識 を持 つてい ました。彼 は、協
「この 部 分 をこう修 正 したらどうか Jと
議 の 中で 日本側 と意 見 が 合 わない ような場 合 に 、
建 設 的 な妥 協案 を提 示 して くれ るの で す。自らの 主 張 に 固執 して妥 協 点 を探 ろうとし
ない従 来 の 中国側 の態度 に辟 易 して いた我 々 にとつては 、新 鮮 な驚きでした。担 当 が
彼 に替 わ つたことが 契機 となり、日中海 上 連 絡 メカニズム (当 時 )の 調 整 は劇 的 に前進
しました。野球 に例 えて言 えば 、試 合 が なか なか 始 まらない 、始 まつても一 球 ごとにベ
ンチからクレームがつ くといつた様 相 だ ったの が 、彼 が監督 になった途端 に試 合 がスム
ーズ に始 まり、好 投好 打 の応 酬 でどんどん回が進 んで行 つた 、というような感 じでした。
2012年 (平 成 24年 )6月 に北京で行 われた協議 では 、事務 レベ ル で 大筋合意 に達 し、
あとは大 臣同 士の署名 を残 す のみ というところまで漕 ぎつ けることが 出来 ました。
そ の夜 に 中国 国防部 が主 宰 してくれた 夕食会 は 、色 々な意 味で思 い 出深 いもの と
なりました。最 初 は、す っか り打ち解 けた件 の海 軍少 将 と談笑 しながら、本 場 の 中華料
理 に舌鼓 を打 つていました。ところが 、宴も半 ばを過 ぎた頃 、中国海 軍 の若 手 将校 た
ちが乾杯 攻 撃 の ため大 挙 して押 し寄 せ てきたの です 。しかも、この若 手艦 隊は いか に
も酒 に強そうな男性 士 官連 と何 人 か の女性 士 官 との混 合編成 で 、彼 女 らと乾杯 す る時
にはこちらは 二 杯 空 けね ばならない とい う特例 まで用 意 されてい ました。この攻 撃 にこ
ちらも総 力 を挙 げ て対抗 しようとしたので す が 、気 が つ くと宴 会 場 内 の 日本 側 兵 力 は
在 中国防衛 駐 在 官 の一 等海佐 と私 の二 人 だけになつていた のです 。日本 から同行 し
た課 長 以 下 の 主要メンバ ー は、別 室 で食 事もせ ず に協 定本 文 の最 後 の詰 めに に殺 さ
れ てい た の でした。兵 力 を分 断 され 二 人 だ けで大艦 隊 を迎 え撃 たざるを得 なかつた
我 々 は 、圧倒 的な兵 力差 のためあつとい う間 に撃 沈 されてしまいました。あれ ほど苦 し
か った 宵 (酔 い ?)は 安酒 を暴飲 していた学 生 時代 以来 で 、貴州 芽 台酒 の威 力を思 い
知 らされました。こうして文 字 通 り体 を張 つて進 めた協議 でしたが 、民 主 党政 権 による
尖閣国有化決 定 のため大 臣 の署名 が遠 のいてしまったのは本 当に残 念なことでした。
ところで 、この海 軍少 将 と付 き合 っているうちに 、彼 が 日本だ けでなく米 国 との 協議
も担 当してい ることがわかってきました。しかも、彼 の 米 国 のカウンター パ ー トは 、日米
安保 協議 で 私 が議 論 を戦 わせ てい た同じ国 防次 官補 代 理 だ ったので す 。そ こで 、あ
る時私 はそ の 国防次 官補 代 理 に例 の 中国海 軍少 将 の 印象 を聞 い てみ ました。す ると
「極 めて建 設 的 Jと い う私 の 印象 と寸 分 違 わ ぬ 答 えが返 つてきました。一 方 で 、中国 国
防部 の海 軍少 将 にも米 国 のカウンター パ ー トの評 を聞 いてみたところ、彼 の答もや はり
私 の 印象 と全 く同 じで「極 めてタフなネゴー シェーター で決 して yesと 言 わない 」という
ものでした。いず れ 二 人で 一 堂 に会 して 旧交を温 められ たら楽 しか ろうと思うので す が 、
今 までのところは機 会 を見 つ けられず にいます。

政 治 に翻 弄 された韓 国 との 防衛 対話
当時 、韓 国 は 同盟 国 に準 ずるほどの 関係 に位 置付 けられ 、昨今 話 題 の CSOMIA
(軍 事 情 報 包 括保 護 協 定 )の 早 期 締 結 の み ならず 、自衛 隊 と韓 国軍 との 間 の ACSA
(物 品 役務 相 互提 供 協定 )を 進 めようという機 運 さえ盛 り上がっていました。
私 が担 当 した 日韓 防衛 対話 では 、これ らの案 件 につ い て前 向きな話 し合 いを積 み
重 ねることが 出来ました。私 が訪 韓 した時 には 、ソウル と板 門店 を往 復 する車 中で カウ
ンター パ ー トと二 人 で様 々な案件 につ いて話 し合 いました。先方 が 日本 を訪 れた時 に
は 、入 間 の 空 自基 地 視 察 の 道 中をず っと同じ車で 移動 して一 対 ―で対 話 をしました。
ハ ワイで行 われた 日米韓 の三か 国協議 の 際 に 、二 人 でワイキキの 浜辺 を散歩 しながら
長 時 間 にわたって話 し込んだこともありました。話 し合 う時 間 が長 けれ ば 長 いほ ど、相
互理 解 は深まるとい うことを実感 しました。我 々 二 人 ともカラオケは好 きで したが 、酒 は
それ ほど量を嗜 む方 ではなかったこと、おかげで例 の「原爆 」や「水 爆 」をさほど撃 ち合
わず に済 んだことも良い 関係 を保 てた一 因だつたかも知 れませ ん。
しかし、こうした 良好な関係 を一 瞬 にして変 えてしまうのが韓 国政 治 の 特殊 性 です。
日前 に迫 つていた 日韓 GSOMIAの 署名 は 、韓 国 によつて一方 的 にドタキャンされてし
まい ました。私 がこのキャンセル の報 に接 した の は 、奇 しくも 日中海 上 連 絡 メカニズム
協議 を成 功 裏 に終 えて北京 の 空港 で帰 国便を待 つていた 時でした。
その後 GSOMIAは 、時が移 り日韓双 方 の政権 が交代 しても当局 間 で粘 り強く交渉
が続 けられ 、2016年 (平 成 28年 )に 署名 。
発効 に至 りました。しかし、文在 寅政権 の反
日政 策 による 日韓 関係 悪化 の影 響 を受 けて、2019年 (令 和 元年 )に は韓 国 が一 度 は
協 定破 棄 を宣言す るなど、依 然 として政治 に翻 弄 され続 けています。
冷 静 に評 価 す れ ば 、私 は 中韓 い ず れ の 防衛 当局 との 間 でも前 向きな具体 的成 果
を上 げることは出来 ませんでした。ともに政 治 の影 響 があつてや むを得なか つたとは思
います が 、成 果 を残 せ なか ったことは事 実 です し、そ のことは残 念 に思 っています 。し
かし、人 と人 との付 き合 い には 日本 人も外 国人もなく、本 音を語 り誠 実 に対応 していれ
ば相 互 理 解 は深 まるということを実感 した 貴重な経 験 でした。
前回に引き続き今回も第二の K、 すなわち相手の共感を得るためにどのような論点
や切り口から話せば良いかを中心に述べてきました。実は、第二の Kに ついては、こ
のほかに「どう話せば好感を持つて聞いてもらえるか」という大切なポイントがあるので
すが、連載後半に触れる予定の官房業務 にも深い関係 があるため、そちらで詳しく説
明することにします。
次回からは、いつたん「3K」 を離れて、別 のテーマを扱いたいと思います。
失敗 だらけの 役 人 人生 (9)
黒 江哲郎
防衛政 策 ∼仕事 はす べ て板挟 み ∼
ヤヽ
か にうまく挟 まるか
「うまく板挟 み になるんだ 」 「板挟 み になりながら自分 が 泳 ぐ余 地 を確 保 す るの が大
事なんだ J。 1981年 (昭 56年 )4月 1日 の夜 、初 めての「社会 人飲 み」に誘 ってくれた
先輩 上 司 が 、六 本 木 の とある居酒屋 で杯 を傾 けながら語 つた言 葉 でした。同 じ職 場 に
配属 された同期 生 とともに上 司 の教 えに神 妙 に耳を傾 けていたので す が 、その 日に役
人 としてのスター トを切 つたばかりの 私 には何 のことや らチ ンプンカンプンでまったく理
解 できませんでした。
既 に紹介 した通 り、私 は入庁 と同時 に防衛 局計画 官 室 という課 に配 属 され ました。
この課 は、ごく大雑把 に言 えば 、事 業 主 体 である各幕 僚 監部 と議 論 して合理性 ある適
切 な防衛 力整 備 計 画 の 案 を策 定す るとともに 、財 政 当局 との 間 でそ の 案 につ いて調
整を行 い 、関係 各方 面 がみな納得 す る内容 と金額 の 計 画を策 定することを任務 として
いました。「みんなが納 得 する」 「み んなが受 け入れるJと 言うの は容 易 です が 、実現す
るの は簡 単なことではありませ ん。
我 々 に「板挟 み Jを 教 えてくれた の は 、当時計 画官 室 の先任 部員 を務 めてお られた
経験豊 富な先輩 でした。防衛 力整備 は 、各幕 と大蔵省 (当 時 )の 双方 にそれぞれ 正 当
な動機 と主 張 がある中で 、双 方 ともに受 け入れ 可能 な線 で折 り合 いをつ けね ばならな
い とい う典型 的な「板挟 み」の仕 事 です 。間 に立 つ 人 は 、間違 っても双 方 にいい顔 をし
てはなりませ ん 。各幕 に対 して「そ の要 求 は満 額 必ず とれ る」と言 い 、大蔵省 に対 して
「その 金 額 の 中 でお さめられ る」と言 い続 け、両者 がともに過剰 な期 待 を抱 いた挙 句 、
調整 し切れ ず ご破 算 になるとい うの が最悪 の結 果 だからです 。調整者 は 、双 方 に対 し
てやや 渋 い顔 をして「あなたの 主張 は理 解 す るが完全 勝利 は無理 で すよ。どこかで妥
協 が必 要 で す よ」と説 得 す ることで 、板挟 み になりなが らも自分 が泳 げるスペ ースを作
り出さなけれ ばなりませ ん。そうや って作 つたスペ ースの範 囲内 で 、改 めて双方 に対 し
ていわ ゆる「落 としどころJの 案を打診 し、関係 者 の本 音 と許 容 可能 な (あ るい は不可能
な)ぎ りぎりのレッドラインを見極 めながら、徐 々 に両者 が納得 できる線 へ 軟着 陸を図つ
てい くので す 。最 初 は こうした仕 事 のや り方 を理 解 出来 ませ んでしたが 、防衛 力整備
部 門 での調整 を幾度 となく経験 し、徐 々 に実感 できるようになりました。
さらに、役 人人 生 の 中では 防衛 力整備 にとどまらず様 々な場 面 で 板挟 み に遭 うこと
になりました。それ らの 多 くは例 によつて苦 い 失敗 で 、いか にうまく板 に挟 まるか とい う
のが役 人 の大きな課題だと身をもつて思 い知 らされることになりました。

「都 庁 へ 机 を持 って行 けつ」
全く予想 できない形 で最低 最悪 の板挟 み に遭 つてしまったの は、運用課長 になりた
ての 頃、1999年 (平 成 11年 )の 夏 のことでした。
毎年 9月 1日 は 関東 大震 災 にちなんで 防 災 の 日とされ 、国も都 道 府 県も一 斉 に防
災訓練 を行 い ます 。特 に、阪神 淡 路大 震 災 の 際 に 自治 体 と自衛 隊 との連携 の 重要性
が脚 光 を浴 びて以来 、ほぼ全ての地 方 自治体 が 自衛 隊と合 同で 防 災訓練 を実施 する
ようになつてい ました。東京 都 とその 周 辺 の 主 要 自治 体も政府 と連 携 しながら毎年 実
動訓練 を行 い 、自衛 隊もこれ に参加 していました。
この年 4月 に新 たに就任 した都 知事 は 自衛 隊 の活 用 に極 めて熱 心で 、自衛 隊 の
大 々 的な参加 を得 て従 来よりもはるか に大 掛 かりな実動 防 災 .l練 を都 内で実施 した い
と考 えていました。同年 8月 のある晩 、都 知事 は大 勲位 の 元総理 とともに時 の 内閣総
理 大 臣と会食 した際 にこの件 を話 し合 い 、翌 2000年 (平 成 12年 )に 自衛 隊も参 加 す
る実動形 式 の 大 規模 防 災 訓練 を都 内で実施 す るとの構 想 を打 ち出 しました。報 道 各
社 は一 斉 に飛 び つ き、早 速そ の晩 に「都 内で 自衛 隊も参 加 す る大 規模 防 災訓練 実施
へ Jと い うニュースが 流 されたのです。
新 米運 用課 長 の私 は 、このニュースを聞 いて「これ は来年 に向けて忙 しくなるなあ」
と漠 然 と思 っただ けで、この件 のもう一 つ の側 面 には全 く思 いが至 りませ んでした。そ
れ は、「面 子 」という厄 介 な問題 でした。本 件 の発 案者 が 、熱 心な 自衛 隊活 用 論者 の
都 知事だ とい うことは報道 からも明らかでした。自衛 隊 の最 高指揮 官 は総 理ではありま
す が 、防 災訓練 へ の 参加 に つ いての 担 当閣僚 は防 衛 庁 長 官 で す。本 件 は 、都 知 事
が 防衛 庁 長官 の頭 越 しに勝 手 に総 理 と直談判 してマスコミに打ち上 げたとい う構 図 に
なってしまった ので す。どんな人 でも頭 越 しにいきなり上 司 との 間 で 直取 引をされたら
良 い気 持 ちはしないし、怒 り出す 人も多 いでしょう。まして大 臣 は政 治 家 なのです か ら、
推 して知るべ しです。
さらに私 にとつて具合 が悪 かったことに 、この構 想 は既 に東京 都 の 防 災担 当から運
用課 へ 内 々 に伝 達 済み だつたの です。しか し、翌年 の案件 だ ったこともあり、そ のうち
に公 表 時期などにつ いても事務 的 に事 前調整 があるのだろうと思 い込 んで いたため 、
大 臣 へ の報 告 はなされ てい ませんでした。よく考 えてみれ ば、本件 は 政治 家 である都
知事 のアイディアなのです から、事務 的調整なしに突然 公 表 される可能性 は十分 にあ
つた訳 で す。そこに思 い が至 らず に、都 からの 耳 打 ちをそ のままにしてお いた の は迂
聞 でした。このため 、報 道 の 後 にお つとり刀 で説 明 に駆 けつ けた私 は 、大 臣 から「(自
分 に説 明もしない で都 鰭Б 知事 ?)と よろしくや つているのなら)都 庁 へ 机 を持 つてい け
えっJと 厳 しく叱 責 され ました。しか し、自衛 隊 が 防 災訓練 に参加 す ること自体 は防 衛
庁 にとつても悪 い話 ではない し、三 巨頭 が 一 致 して推 している以 上 は行 政 的 にも政 治
的 にも待 つたがかかる理 由はありませ ん 。そ の意 味す るところは 、大 臣 の 面子 は 一 向
に回 復 されないまま、翌年 の 大規模 実動 訓練 に向けて準備 が進 み 始 めるとい うことで
す。ここに至って事 柄 の 重 大性 と筋 の 悪 さに気 づい て 青くなった私 は 、庁 内 の幹 部や
自民党 関係 者 などに善 後 策 を相 談 してまわ ったのです が 、相 手 が三 巨頭 とい うことも
「都 知
あつてか残 念 ながらどこか らも良 い知 恵 は得 られ ませ んで した。それ どころか 、
事 は強 烈だぞ 。お 前 、グズグズ してな いで 早く大 臣に鈴 をつ けないと大変 なことになる
ぞ」とカツを入れ られる始 末 でした。

東京都 の次 は沖縄 ?
困惑 しきつて いたところ、数 日後 、予想 もしていなか った方 向か ら事 態 を決 定 的 に
悪化 させ る追 い打ちを喰 らいました。それ は、翌 年 の 訓練 ではなく、そ の年 の 9月 1日
の 防 災訓練 に関する新 聞記 事 でした。「護 衛艦 、都 の 防 災司1練 参加 へ 」という見 出 し
がつ いた一 面 トップのそ の記 事 は 、帰 宅 困難者 の避難輸 送 のためにその年 9月 1日
の東 京都 総合 防 災 訓練 に初 めて護 衛艦 が 参加 するとい う内容 でした。記事 が 出 た朝 、
大 臣 秘 書 官 が「(大 臣が)お かんむ りだよ― 」と運用 課 の部屋 へ 飛 んで きました。東 京
都 が調整 中の 計画案を漏 らしてしまったらしく、担 当課長 の私もまだ詳 しく知 らな いよう
な内 容 で 、当然 大 臣は何 も知 らされ てい ませ んでした。論調 は レトロな 自衛 隊警 戒 論
で 、内容も細 部 が不 正 確 なヒマネタ風 の 記 事 でした。既 に世 間では 自衛 隊 の 防 災訓
練参加 を問題 視 する雰 囲気 は薄れていたので 、普通なら無視 され たかも知れ ないよう
な記 事 でしたが 、翌年 の 訓練 の件 の 直 後 だ ったのでそれ では 済み ませ んでした。呼
び つ けられた私 は 、大 臣 にこっぴ どく叱 り飛 ばされ ました。そ の後 、海 幕 と協議 して使
用 す る護 衛 艦 を差 し替 えたりした の です が 、大 臣 の怒 りは収 まらず「お前 なんか 沖縄
に飛 ばしてや るつJと も怒 鳴 りつ けられました。私 は大 臣 の怒 りの 大きさは受 け止 めたも
のの 、沖縄 云 々 につ い ては真 に受 けてお らず「東京 都 か ら沖縄 か 。一 足飛 び にず い
ぶん遠 くまで飛 ばされちゃったなあ」などと苦笑 い して済ませ ていました。ところがそ の
日の 夕方 、官房長 に呼 ばれ「大 臣と何 があつたんだ ?お 前を沖縄 に飛 ばせ つて言 うの
でとりなしてお いたけど」と言 われたのです 。官房長 と言 えば職 員 人事 の 責任者 で す。
「大 臣は本 気 で 沖縄 に飛 ばす つ もりだつたんだ 」とさす がに冷 や汗 が 出まし
この 時 は 、
た。そ の 晩帰 宅 して家 内 に話 したところ「沖縄 ?い い わね 。つ いて行 くわよ」と微 妙 に
的を外 した対応 をされ 、少 しだけショックは 和 らぎました。
そうは言 つても 9月 1日 には 防 災訓練 を実施 しないといけないので 、その後も大 臣
に対 して何度 か リカバ リー を試 みたの です が 、頑 として説 明を聞 いてもらえませ んでし
た。結局 、その年 の 防災 訓練 を実施 す るために必要な大 臣決裁 は最後 までもらえませ
んでした。一 方 、訓練 そのもの は例 年通 り実施 した ので 、誰 か に代決 してもらつたはず
なのです が 、細 かいことは思 い 出せ ませ ん。
当時私 は 40歳 を超 えたばかりでしたが 、 「面子」の機 微 は理 解 していませ んでした。
それ どころか 、自衛 隊 が実 動 の 防 災訓練 に参加 して都 内で活躍 するの は防 衛 省 にと
って望ましい事 なので 、防衛 庁長 官 を務 めている人 がよもやそれ ほど怒 るまい とタカを
くくっていました。
都 の構想 を大 臣まで事務 的 に説 明 さえしてお けば展 開 は違 ったはず です が 、物事
がここまでこじれてしまうとなかなか挽回することは出来ません。かくて私は初めての課
長ポストで、大臣に呪まれて胃が痛くなるような 8月 を過ごしました。
ルコの大地震や東海村 」
この年の 8月 と9月 にト CO事 故など内外で大規模災害
や特殊災害が頻発し、それらへの対応 に奔走しているうちに「三巨頭 vs防 衛庁長官」
事件 (?)も いつの間にかうやむやになり、そのうちに内閣改造で大臣が交替 したこと
もあって、私の首は何とかつながりました。仕事で板挟み に遭うことは珍しくありません
でしたが、この時ほど筋が悪くて苦しめられた経験 は他 にはありません。

どこにでもある板挟み
このほか、普天間移設などを始めとする沖縄米軍基地問題は、常に米軍と地元 沖
縄県 との間の板挟みでした。沖縄 に関しては、防衛大臣と米 国防省 との間で危機 一
髪の板挟みに遭つたこともありました。変わったところでは、官房文書課 の先任部員と
して庁舎 内を原則禁煙とする施策を担 当したところ、愛煙家の先輩、同僚、後輩と禁
煙派 の医師らとの間に挟まれて調整に苦労するという経験もしました。さらに、官房 に
いれば国会議員の先生方と自衛隊の部隊との間に挟まれることも多々あります。
このように、上と下、上と横 、右 と左など挟 まれる方向は色 々です が、役所の仕事 に
は多かれ少なかれ板挟みの要素が含まれています。もしかすると、役所だけではない
かも知れません。また、仕事だけでなく一般社会 における人 間関係 にも似たようなとこ
ろがあります。
板挟みに遭つた時には、単純に両者を足して二で割って間を取れば良いというもの
ではありません。自分をはさんでいる両者 の意見をよく聴 いて、その間のどこが適切な
落としどころなのかを考え抜 いて結論 を出す必要があります。両者 との間で信 頼関係
を構築し、それぞれの本音を引き出すことで、初 めて人方 円満におさまるような落とし
どころを見つけることが出来るのだと思います。
若 い人たちには、恐れずにどんどん挟まれて、スペ ースの作り方、レッドラインの見
つけ方などを実地に経験して頂きたいと思います。

次回は、私が防衛政策部 門で過 ごしたレトロな体力勝負 の 日々につ いて紹介 した


いと思います。
失敗 だらけの 役 人人生 (10)
黒 江哲郎
防衛 政策 ∼ 失敗だらけの健 康管理 (上 )∼
食 中毒 @マ ニラ
「年 を取 らない とわか らな いことなどあるは ず がない Jと 本 気 で ,思 い 込ん
若 い頃 は、
でいました。いわ ゅる若気 の 至 りとい うや つ です。私 の場 合、そ の最 たるもの が健 康 管
理 でした。若 さにまかせ て 自分 の体 力を過 信 し、健康 状 態 に無 頓着 だ つたこともあり、
様 々な体調 不 良に見舞 われ ました。
1983年 (昭 和 58年 )7月 、若 手キャリア恒 例 の 三年 日研 修 の一 環 として海 上 自衛
隊 の グアム遠 洋航 海 の艦 Irlに 同乗 させ て頂 きました。これ は海 上 自衛 隊 の部 内幹 部
候 補 生 向けの練 習航海 で 、約 1か 月か けて呉 からグアム、フィリビンを回 り、沖縄 経 由
で帰 つてくるというもので した。艦 内で の 三段 ベ ッド生活や 幹 部候 補 生 の 実習 詞練 の
見学 、海 上での ハ イラインによる別 の艦 へ の移 動や 操艦・操 1と の 実地 体験 、さらにグ
アムや フィリビンでの現 地研修 は いずれも貴重で楽しい経験 でした。
そんな 中、フィリビンのマニラに不 幸 が 待 ってい ました。寄港 直 前 には必ず 艦 内 で
現地情 勢 に関するブリー フィングが行 われ 、様 々な注意 事項 が 伝達 され ます 。フィリビ
ンに 関 しては 、食 事 の 際 に生 1)の や 生水 、海 産物 を避 けるように特 に注 意 がありました。
寄港 してすぐに乗組 員 全 員 が フィリピン海 軍 の歓 迎昼 食 レセ プションに招 かれ 、それ
が済 む といよいよ上陸 。自由行動 となり、同期 生何 人かとつ るんで「Fl内 観 光 に繰 り出 し
ました。若 くて無謀 だ った我 々は 、注 意 を無視 して市 内 のシーフー ドレストランでブイ
ヤベ ー スかなにかを食 べ 、さらに ハイアライ(賭 けの 対象 となつているスカッシュのよう
なプ ロスポーツ)を 観 戦 に行きました.私 はそこで小金まで儲 けて 、意気 揚 々 と艦 に帰
ってきた の です が 、その夜 半 か 2)激 しい腹 痛 と吐き気 に襲 われ たのです 。翌 朝 医官 の
診 察を受 け、「昨夜何 を食 べ たのか Jと 問われ 、命 が惜 しかったので正 直 に 自状 したと
ころ、「だからあれ ほど海 産物 は 食 べ るなと注意 したじゃないかっ Jと 大 日玉を食 らい ま
した。そ の 日は艦 内 のベ ンドに寝 たまま上 陸する同期生たちをうらめしげにlLめ ていた
のです が 、時 間 の経 過 とともに様子 が変 わ ってきました。練 習艦 隊は確 か三 隻 で構成
されて いたの です が 、他 の船 で1)同 じ症 状 で任1れ る実習 生が 出てきた のです 。結 局 、
艦 隊全体 で 100人 近 く食 中毒患者を出 し、原 因は我 々の軽率な行 動 ではなくお昼 の
レセプションではな いか との 疑 いも出てきました。医官 の 怒 りも少 し和 らぎましたが 、そ
れで症 状 が軽 くなるわけもなく、せつか くの三 日間 のマニラ寄港もわずか 半 日しか上 陸
できず 、賭 けで儲 けた現地通 貨を使 う機 会もなく終 わ ってしまいました。
それ にしても不思議 だ ったの は、同 じものを食 べた他 の 同期 生たちは何 と1)な く、私
だけが発 症 したことです 。私 以外 の 同期 生がみんな鉄 の 胃袋 の持 ち主だ ったのか 、あ
るい はパ ーティで私だけが意 地汚 く大 食 したのか ―.今 はす っか り面影 t)あ りませ んが 、
若 い 頃 の 私 は「痩 せ の 大 食 い 」で 、国の悪 い 同期 生から「人 間デ ィスポーザ ー Jな どと
呼 ばれていました。自覚 はありませ んが 、私だけ食 べ 過 ぎたのかも知れません。

徹 夜 の 限界
1986年 (昭 和 61年 )の 通 常 国会 に 、防衛庁 は 自衛 隊法第 95条 の改 正 と第 100条
の 5の 追加 を内容 とす る法律案 を提 出 しました。防衛 庁 が 自衛官 定数 等 の機械 的な
改 正 にとどまらず 実体 的な内容 の ある法案を提 出す るの は 、久 しぶ りのことでした。自
衛 隊に対 する世 間 の厳 しい 日を反 映 して、法案 を国会 に提 出 して1)な か なか 審議 して
もらえず 、3年 に 1度 くらいしか成 立 しない という状態 が続 いていたのです。
しか し、同年 1月 、貿易黒字解 消 のためフランス製 要人輸 送 ヘ リのスー バ ービュー
マを政府 専 用機 として輸 入す ることとなったの を契機 に 、自衛 隊 にそ の運用 権 限を与
えるため 自衛 隊法 に条文を追加 する必要 が 生 じました。さらに、これ に併 せて 、かねて
懸案 だった第 95条 の武器 等 防護 の規 定を改 正 し、艦 IIlや レー ダー等を守る際 にモ
)武
器 を使 用 し得 るよう措置することとなったのです 。
事 態 対処 法制 や 平和 安 全 法制 など数 多くの 厄 介な 立 法作 業 を経 験 してきた現在
の 防衛省 の 尺度 で 見れ ば 、この 改 正 法 案 は 多少 の 論 点 を含んでは いるものの さほど
難 しいものではありませ ん。しか し、何 年 ぶ りか の 実体 改 正だった上 、法案 審議 のノウ
ハ ウもほとんど伝 えられ ていなかったため 、当時 の担 当にとつては大 ごとで した。入庁
五 年 目で法規 課 の調整 主任 だ った私 は 、運悪 く担 当の 一 人となってしまったのでした。
私 の 記憶 では 、法案提 出の 方針 が決 まったの は前 年 の 12月 末 で 、準備期 間は ほ
とんどありませ んでした。年 が 明けてす ぐに作 業を開始 し、1月 のうちに法制 局審査 が
始 まりましたが 、久 しぶ りの 実体 改 正 とい うことで 法制 局 の 参事 官 tぅ 気 合 いが 入 ってい
ました。法制 局 の 参事 官 は別 名「一 条 三 時 間 Jと 呼 ばれ るほど詰 めが厳 しか つた ので
す が 、この 法案 は重 要部 分 が二 条 のみ だつたにもかかわらず 審 査 は 六 時 間 ではとうて
い終 わ りませ んでした。審 査 が佳境 に入 ると、朝持 ち込 んだ 資料 に 関す るや り取 りが
昼 食 と夕食 をはさんで夜 まで延 々と続 き、日が改 まる頃 に膨 大な宿題 を抱 えて防 衛 庁
に帰 り着 き、朝 までかか つて答 を用意 し、1時 間 ほど仮 眠 してまた法制 局 へ赴 くとい う
繰 り返 しでした。
そんな泊 まり込み 生活 を 1週 間 ほど続 けた末 にや つとの 思 いで帰 宅 したところ、家
内は大 層 心 配 して労 ってくれ ましたが 、私 が脱 いだ 靴 下 は 有 無を言 わさず ゴミ箱行 き
となりました。考 えてみると、そ の 間ず っと役所 では風 呂 に 入れず 着 の身着 のままで過
ごしていたのでした。そ の晩 は死んだように日 民り、翌朝 日覚 めて起 き上 がった途端 にめ
まい に襲 われ 、そ のまま倒 れ 込み ました。運悪 くそこに味噌 汁 の 入 った鍋 が乗 ったスト
ーブがあり、型、 の頭 がぶ つ か ったはず み で鍋 はひ つくり返 り、中身 は周 囲 に撒 き散 らさ
れてしまい ました。奇跡 的 に私も家 族も味 噌汁 の 直撃 は 受 けず に済 み ましたが 、気 が
見き込 んでいました。
子が倒 れた私 の上に這 い 登 つて私 の顔 を司
つ くと当時 1歳 だった 自、
自、
その 時 の子供ながらに不 安 げな′ 子 の表情 は 、今も忘 れ られません。
体 力を過信 し、と言 うよりも体 力を気 にする余 裕もなく、仕事 に追 われた挙句 に招 い
た悲喜劇 でした。誰 t,火 傷 しなか ったの は本 当にラッキーでした。

昏倒 したおか げで通 った中期 防修 正 案


防衛 局計画課 の総括班長 として勤務 していた時期 に 、医師 から「自律神 経 失調 症 J
と診 断され ました。これ は 、ストレスなどが原 因 で 交感 神 経 と副 交感 神 経 の バ ランスが
崩れ様 々な症 状 を招 く病 気 とされてい ます 。私 の場 合 には 、血管 の 急激な拡 張 による
脳 貧血 という形 で現れ ました。
1992年 (平 成 4年 )12月 、中期 防衛 力整備計画 を担 当していた時 のことでした。ち
ょうど東西 冷戦 が終 わ ったばか りで 、平和 へ の期待感 が 高 まると同時 に防 衛 予 算 へ の
世論 の風 当たりが 強くなった時 期 でした。前年 の 1月 に湾岸 戦争 に対 する資金協 力
の財 源 として防衛 予算 が約 1000億 円減額 され 、この年 に予 定されていた 中期 防 の修
正 にお いても計画総額 を数 千億 円規模 で減額 することが 見込 まれてい ました。防衛 庁
にとつては 、どの 自衛 隊 がどれだけ減額 されるのか 、どの事 業をあきらめなけれ ば い け
ないのか は大 問題 でした。計画課 は 、事 業 主 体 である各 幕 僚 監 部 の 間 の調整 に当た
りましたが 、当然 ながら一 度 配分 された経 費を減 らされることには誰 ()が 激 しく抵抗 し、
なかなか決 着 しませ んでした。各 幕や 大蔵 省 (当 時 )と の 間 で 板挟 み になりながら数 カ
月 にわたって協議 を重ね 、どうにか 関係 者 一 同反 対 はしない というギリギリの案を作成
し、次官 室 の会議 に持 ち込んだ の は閣議 予 定 日の二 日前 、12月 16日 のことでした。
前 日か ら徹 夜 で資料 を整 えて、当 日は食事 をとる暇もなく午後 の 会議 を迎 えました。
ところが 、会議 が始 まって少 ししたところで急きょ事務 次官 と防衛 局長 が与 党幹 部 に呼
ばれて席 をはずす というアクシデ ントが 発生 しました。さらに 、その 空 白を狙 つたかのよ
うに、後 方事 業を所 掌す るある局長 から「後方 重視 をうた いながら後 方事 業 費を切るこ
とには 賛成 できない Jと いう反 対論 が提 起 された のです。実を 言うと、あらかじめ各幕僚
長 からは 消極 的 ながら1)結 論 につ い て内詰 を得 ていた の です が 、い わ ば身 内である
内部 部 局 の 局 長 連 には事 前 に根 回 しをす る暇 が なか った の で す。このため 、他 の 局
長も反 対論 に同調 して議 論 は紛糾 し、取 りまとめ役 の次官 1)担 当 の 防衛 局長 も不在 の
中、結論 が 出ない ままに会議 は流 れ解 散 とな ってしまい ました。私 は「閣議 は明後 日
なの にどうすれ ば 良 いのだろうJと 途 方 に暮 れながら、次 々 に幹部 が立 ち去っていくの
を呆然 と眺 めてい ました。一 緒 にいた後輩 に促 されて バックシー トから立ち上がろうとし
た瞬 間 、立 ちくらみ の ような症 状 に襲 われ 、手 足 に 力 が人らず 次官 室 のフロアに昏倒
してしまつたの です 。視 界 がどんどん 狭 まり、次官付 の秘 書 さんが「黒 江部 員 が倒 れ ま
したっ !Jと 電話 で医務 室 に助 けを呼 んでいる声 を聞きながら意 識 が遠 ざか って行 き
ました。次 に気 が付 いた 時 には 、庁合 の 地 下にある医務 室 のベ ッドの上で 、そ の晩 は
強制 的 に家 へ 帰 され ました。翌 日職 場復 帰 してみると、一 晩 の うちに庁 内 の 合意 が 形
成 され 閣議 決 定 t)予 定通 り行 われ ることとなってい ました。後 で 聞 いたところでは 、与
党 幹部 へ の説 明を終 えて帰 庁 した事 務 次官 が 、事情 を知 って驚 き、反 対 した 局長 を
押 し切 つて我 々 の原案 を支持 して下 さつたのだそ うです。こうして 中期 防 の 修 正 は 無
事 に閣議 決 定され 、そ の 日の 昼 に課 員で簡 単な打 上 げ会 食 をしたので す が 、お店 の
トイレで食 べ た物 をみんなlllい てしまったことを覚 えてい ます。内体 的 、精神 的な疲 れ
が 溜 まつていた のでしょう。もともと誰 からも歓 迎されない計画 の減額 修 正 とい う仕 事だ
ったの で達成感 は乏しく、疲 労感 ばかりが残 りました。「防衛庁 がよく頑 張 つてくれたJと
いう総 理 のコメントが報道 されたことが唯 一 の慰 めでした。
今 思 えば 、真 面 目に悩 み過 ぎたのかも知れ ませ ん。予 算編 成 や 中期 計画 の 取 りま
とめ には締 め 切 りがあります 。締 め Lllり がある以 上 、それ が 間近 に迫 つてくれ ば必ず ど
ちらか らともなく妥 協 の動 きが 出 て来るもの で す。普 通 の 人は 、予算 や 中期 計 画 の 閣
議 決 定を流してまで 自説 にこだわることはないからで す。当時 の 私 はこの 単純 な真 理
を理 解 せ ず 、自分 で全 部 まとめなけれ ばならない 、と思 い詰 めていました。
ところで 、この件 に 関 しては 忘れ られない 出来事 があります 。閣議 が終 わ ってしばら
くして、当時カウンター パ ー トだった大 蔵省 の 防衛担 当主査から食事 に誘 われ ました。
「君 は 自分 が倒 れたために役 所 に迷 惑をか けたと思 つているかも知 れ
その席 で彼 は 、
ない けれ ど、君 が任1れ ていた 間 は他 の 人 が代 わりに仕事 をしてくれ たので支 障 はなか
つたよ。でも、君 は 家庭 の 中では夫 であり父親 なのでしょう?誰 もその 役割 を代 われる
人 は いないでしょう?だ か ら、lilれ るほど仕 事 をしたりしちゃいけないんだよ」と諭 して
下さつたので す。私 は この言 葉 に衝 撃 を受 けました。正 直 に言 うと、彼 に諭 され るまで
は 自分 が倒 れ るの と引き換 えに 中期 防 の修 正を通 したことを一 種 の武 勇 伝 として誇 ら
しく思 つているところがありました。しか し、主査 の一 言 で 、自分 の 愚 かさと家族 の 大切
さ、何 よりも家族 に対 する自分 の 責任 に改 めて気付 か され ました。彼 はそ の 後政 治 家
に転身 し、この連載 を書 いている時点で重要 閣僚を務 めておられ ます 。
計画課総括 班長 に就任 した時 に 、同 じポストを経験 したある先 輩 から「仕 事 は 7割
くらいの 力 の入れ 具合 でや るんだ。そうでない と続 か ないぞ Jと 助 言 され ていたの です
が 、はからずも身を1)つ てそ の意 味を実感 することとなってしまい ました。意識 を一 時失
うほどひ どい貧 血 に襲 われたの は この 時だけでしたが、仕 事 のストレスにより体調 不 良
をきたした経験 はこれ だけに止 まりませんでした。
次 回も引き続 き体 調管 理 の 失敗 例 を紹 介 します が 、健 康 は大 切です。幸 い大病 に
こそ見 舞 われなか ったものの 、数 多 くの 入 院や 体調 不 良を経 験 しました。若 い 人たち
には 、健 康 の 大 切さをぜ ひ真剣 に考 えてほしい と思 い ます。自分 の 体 力を過 信 せ ず 、
きちんと健康診 断を受 け、体調 管 理 に努 めるよう強くお 勧 めします。
失敗だらけの役 人人生 (11)
黒 江哲 郎
防衛 政策 ∼失敗 だらけの 健 康 管理 (下 〉∼
突然 の 呼吸 困難
防衛 政策局次長 を務 めていた 2011年 (平 成 23年 )6月 、米軍 のオスプ レイに搭乗
す るため、米 国 の ミラマ ー 海 兵 隊基 地を訪 問 しました。オ スプ レイは、回転翼機 と固定
翼機 の 両方 の長 所 を併せ 持 つ 先進 的な輸 送機 で す が 、開発段 階 で何 度も大事 故 を
起 こし多くの犠牲者 を出したため危 険な欠 陥機 とい うイメー ジが 定着 してしまいました。
米海 兵 隊 は 、沖縄 の普 天 間基 地所 属 の 老朽 化 した輸 送 ヘ リに代 えてオ スプ レイを導
入 しようと計画 していました。しかし、市街 地 の真 ん 中 に位 置す る危 険な普 天 間 基地 に
「未 亡 人製 造機 Jと 呼 ばれたオスプ レイが配 備 されるということで 、強 い反 対運動 が起 き
ました。私 の 出張は、オ スプ レイに実 際 に乗 つて安全性 を確認 することが 目的でした。
映 画「トップ・ガ ン」の舞 台 になったミラマー 基 地 は西 海 岸 の サ ンディエゴ近傍 に位
置 し、以 前 は海 軍 が戦 闘機 部 隊 の 基地 として使 用 してい ました。晴 天 が 多くて暖 かい
土地 とい うイメージがあつたの です が 、実 際 に訪 れ てみると乾燥 していて予想 よりもず
っと涼 しい所 でした。今 にして思えば 、この涼 しさが大 敵で した。
夕刻 に現 地 に到 着 し、夕食 を摂 つた 後す ぐにベ ッドに入 つた ので す が 、時差 のせ
いであまり日民れ ず 、翌朝 起きると鼻 と喉 に違 和感 がありました。典型 的な風邪 で 、鼻水
を拭 いながらブリー フィングを受 け、オスプ レイに体験搭 乗 しました。不 安 定だと指摘 さ
れ てい た ロー ター のモー ド変換 は 、機 内 にいるとロー ター ナ セル の角度 が変 わ ったの
に気 づ かないほどスムーズでした。飛 行 を終 えた後 はいつ もの弾丸 ツアーで 日本 にと
んぼ返 りし、翌 日東京 で米 国人 と会議 をし、夜 の会食 を終 えて帰 宅した頃 には喉 の痛
み が耐 え難 いほ どになっていました。それ で いつ も使 ってい たスプ レー 薬を喉 の 奥 に
吹き付 けたところ、唐 突 に喉 がふさがって呼吸 が 出来なくなりました。必 死 に咳払 い や
深 呼 吸を試 みたのです が全 く空気 を吸 い 込 めず 、一 瞬 このまま死 を迎 えるのかとい う
思 いが頭 をよぎり、パニックに襲 われました。まず は気持 ちを落 ち着 けようと四苦八苦 し
てい ると、何か の拍 子 に空 気 が肺 に入 つてきました。実際 に呼吸できなか った時 間 は
ほん の 2、 3秒 だ つたのだ と思 います が 、主観 的 にはとても長 く感 じました。すぐに中央
病 院 に直行 したところ、幸 い 酸 素 は 異 常なく体 内 に取 り込 まれているとのことでしたが 、
息苦 しさが去 らないためその週 末 は病 院 のベ ッドで過 ごしました。
この少 し前 にも、ガムを1歯 んで いた時 に突然喉 がふ さがつて息 が 出来なくなったこと
がありました。誤 つて飲 み込んだ のではなく、ただ 噛 んでいただ けなの に突然喉 がふ さ
がったので す。似 たような症 状 が続 いたので精 密検 査も受 けましたが原 因はわか らず 、
医師 からは薬物又 は香料 に対するアレル ギー を疑 われ 、そ の後 しばらくは「エ ピペ ンJ
を持 たされ ました。これ は 、アナフィラキシー 症 状 が起 きた時 に 、医師 の 手 当てを受 け
るまでの 間症 状 を緩 和させ るため 、自分 で太腿 に打 つ 注射液 です。戦 争 映画などで 、
毒 ガスを吸 つた りしてショック症 状 を起 こしか けた米 兵 が 、苦 しみながら自分 で太腿 に
打 ったりするあれ です。
仕 事 の 蓄積 疲 労 に強行 軍 の 米 国 出張 、寝 不 足 に風 邪 、飲 酒 が 重なつた のが原 因
だと思 います が 、この 出来事 以来 、ガ ムを噛む のも喉 スプ レー 薬を使 うのも怖 くなつて
や めました。幸 いそ の後 は呼 吸 困難 に陥ることはなく、エ ピペ ンの お世話 にもならず に
済 んで いるものの 、今も喉 の状態 には気 を使 いなが ら過 ごしています。

不意 打 ちのガス抜き
翌 2012年 (平 成 24年 )、 オスプ レイの 沖縄 配備 につ いて本格 的な根 回 しを始 めよう
としていた矢先 の 4月 に、モロッコで行 われていた海 兵 隊 の 割1練 中 にオスプ レイの墜
落 死 亡 事故 が発 生し、反 対運動 の火 に油 が注 がれました。事 故 は これ だけにとどまら
ず 、さらに同年 6月 、今度 は米空 軍特殊 部 隊所属 のオスプ レイがフロリダで訓練 中 に
墜落 してしまいました。最悪 のタイミングでしかもニ カ月足 らず の 間 に墜 落事故 が相 次
いだ ことからさす が に私も弱気 になり、配備 の 時期 を遅 らせ るべ きではな いかとも悩 み
ました。しか し、大 臣 は不 退 転 の決 意 で予 定通 り配備 を進 め ると明言 した上 、安 全確
認 のため我 が 国も独 自で モ ロッコとフロリダ の 事 故 の調 査 を行 うとい う方針 を示 され 、
私 が事 故調 査委 員 会 の 委員 長 に指名 されてしまったので す。普通 、米 軍 が外 国 で起
こした事 故 につ いて 、まして米 軍 が 開発 したオ スプ レイの事 故 につ いて 、同機 のメカニ
ズムに知 見 のな い防衛省 が原 因調 査 をす ることなどあり得 ませ ん。省 内では事故調 査
の現 実性 を疑 問視 する向きもありましたが 、大 臣は「政府 として説 明責任 を果 たすため
には絶 対 に必 要だ」として譲 りませ んでした。航 空 機 の専 門知識もない文官 の私 は 、こ
の時 ばか りは途 方 に暮 れました。
しかし、時 間 は待 ってくれな いの でまず はメンバ ー 選 定 に着 手 しました。各 自衛 隊
の航 空機 の専 門 家 はもとより、技術 系最 高幹 部 の技術 監などの紹 介 で 部外 の航 空 工
学 の 専 門家 にも声をかけました。技 術 監 と一 緒 に最 初 にお願 い に行 つた某 国 立大 学
教授 か らは、丁 寧 なアドヴァイスは頂 けたものの 、委員 会 参加 につ い ては大学 の理解
を得 られないか らと婉 由に断られ ました。紆余 曲折 の末 、防衛 大学校 の名 誉教授 に加
え、OBな ので 平気 だと承 諾 して下 さつた同じ国 立 大学 の名 誉教授 、さらには国土交
通 省 航 空 局 の課 長 さん の 参加 も得 てなんとか 委 員 会 が 発 足 しましたが 、未 だ に大 学
は防 衛嫌 いなのか と驚 かされました。
この 官 民混合 の事 故調 査 委員 会 で米 国 へ の調 査 出張を行 い 、シミュレー ター など
も使 い ながら米側 か ら詳 細 な説 明を受 けました。さらに夏休 み返 上で 、米 軍 内で進 め
られ てい た事故原 因調 査 の原 案 を分析 し、乏しいながらも我 々 の知識・技 術を総動員
してそれを検 証 し、数 ある疑 問点を一 つ 一つ 米軍 に問 いただしていきました。
この 時期 には、既 にオスプ レイが船 便 で 山 口県 の岩 国基地 に搬 入 され 、普 天 間基
地 へ の移 動 準備 が 開始 されてい るという文字通 り綱渡 りの状 況 でした。マスコミは こぞ
ってオ スプ レイの 危 険性 を喧伝 し、機 体 の動 向をリアル タイムで 追 いかけてい ました。
岩 国基 地 での試 運 転 の 際 に「い まオスプ レイの プ ロペ ラが回り始 めましたあ !」 と某 テ
レビのアナが絶 叫 していたのは今も忘れ られません。しかし、本 当に危 険な機 体 なら、
兵員 の 防護 に人一 倍神 経質な米海 兵 隊 が採 用す るはず はありません。報道各 社 を回
りその点も含 めて説 明に努 めましたが 、加 熱 した報道 の勢 い は止まりませ んでした。
当時 の 私 は 、普 天 間基 地 にオ スプレイが到 着す るの が先 か 、自分 の 胃 に穴が開く
の が先 か 、とい うくらい追 い詰 められた′ Ь境 でしたが 、米軍 の全 面 的な協力もあって 9
月 上 旬 には奇跡 的 に報告 書 の とりまとめを終 えることが 出来ました。
そんなある日、以 前 の上 司から沖縄 県 の 民 主 党 関係者 に事 故 報 告 書 の 内容 を説
明 してくれと頼 まれ 、オフィスで 対応 することとなりました。当時 の 民 主党政権 は既 にオ
スプ レイの 沖縄 配備 を受 け入 れていたため 、私 は軽 い気 持 ちで説 明を引き受 けました。
ところが 、訪 間 の本 当の 目的は説 明を聞くことではなく、報告書 に対する抗議 と事 故調
査 のや り直 しの 申し入れ でした。そんなことは全 く知 らされ てい なかった私 は、説 明を
遮 って抗議 したり、委 員会 に地 元 関係 者 を入れて調 査 をや り直す よう強硬 に主 張 した
りする先 方 の態度 に驚 き、気 が動転 し、面談 が物別 れ に終わ って彼 らが去 った直後 に
貧 血 で倒 れました。厳 しいストレスにさらされ続 けた挙句 、突然 予期 せ ぬプレッシャー
をかけられた結果 の 貧 血でした。それから半月ほどたつた 10月 初 旬 、私 の 胃 に穴が
開くよりも先 にオスプ レイは普 天 間基地 へ の移 動を完 了しましたが 、予備 知識を何も与
えられず にガス抜 き役 を押 し付 けられたことには 、正 直今も納得 していません。

最 後 の貧 血 … 平和安 全法 制
役 人 生 活 で最 後 の貧 血 に見舞 われたのは 、平和 安全 法 制 が 国会 で審議 され てい
た 2015年 (平 成 27年 )の 夏 でした。平和安全 法制 は同年 の 7月 に衆議 院を通過 しま
したが 、2カ 月以 上 にわたった審議 は反 対世論 の影 響もあつて難航 を極 めました。防
衛 政 策 局長 として法案 を担 当してい た私 は 、度 重なる機 微 情 報 の リー クにも悩 まされ
なが ら、肉体的・精神 的 に苦 しい 日々を過 ごしていました。そこで 、法案 が 衆議 院を通
過 したの を機 に 、膨 大な答弁 作成 業務 や 資料提 出業務 に忙 殺 され てい るスタッフの
慰 労を兼 ねて中間打上 げ の懇 親会を行 いました。ところが 、積もり積もつた疲 労 のせ い
で会 場 のレストランで貧 血 を起 こして倒 れ 、そ のまま深 夜 に 自衛 隊 中央病 院 へ 運 び込
まれ てしまったのです 。部 下 から事 情 を伝 える電話 を受 けた家 内は、最悪 の 事態 を覚
悟 して、思わず「意識 はあります か Jと 問 い返 したそ うです。
現役 生 活 の 間、覚 えてい るだけで 6回 脳 貧 血 を起 こしました。精神 的電圧 の大きな
厳 しい仕 事を続 けた末 、予想 外 のプレッシャー に直 面 して倒 れるとい うパ ターンでした。
ひ どい 貧 血 が起 きると気 が遠 くなり、同時 に視 野 がどんどん狭 くなっていきます。倒 れ
る時 には床 が 日の前 に迫 ってくるのがわかるのです が 、手足が言うことを開かないため
足を踏 ん 張 つたり受 け身をとつたりす ることがまるで 出来ないの です 。倒 れる場 所 が悪
けれ ば 間違 い なく深 亥Jな 怪 我 につ ながるし、場 合 によっては命 の危 険 す らあります。
医師 に予 防法を相 談 したこともあります が 、 「過 度 のストレスを避 けるJと いう以外 にはあ
まり方 法 がないようでした。どんな仕事 にもストレスは付き物 です 。まして 、危機 管 理 に
携 わる防衛 省 で ストレスなく仕 事をす るの は言うべ くして困難 です 。
このため 、最 低 限 の 自衛 措置 として、何 か 起 きた 時 に焦 つたリパニ ックを起 こしたり
しないように 、日頃 から良くない事態 を想 定 して備 えるよう努 力 していました。特 に 、政
府 参 考 人として 国会答弁 に立 つ ようになってか らは、国会審 議 中 に貧 血 で倒 れること
を恐れ 、答弁 前 夜 は様 々な状 況を想 定 してメンタル トレー ニングを繰 り返 していました。
なけが を負 つたり、国会審議 中 に倒 れたりせ ず に現役 を終 えることが
結 果的 には深亥」
出来ましたが、それ は 幸運 に恵 まれたからに過 ぎないと思 っています 。

生涯 初 の救急搬 送
さす がにある時期 からは 中 央病 院 で定 期 的 に 胃腸などの検 査を受 けるようになりま
したが 、仕 事 上 の 無理 は避 けられず 、次官 時代 には夏冬 問わず妙 な寝 汗 に悩 まされ
たり、原 因不明 の 咳 が止 まらず に苦 しめられ たりしてい ました。そんな無 理を重 ねた末 、
退 官直 後、つ い に救 急 車 のお 世話 になってしまいました。
私は 2017年 (平 成 29年 )7月 28日 に退 官 したのですが 、職 を辞する直前 の 1週
間 ほどは 本 当に色 々なことがあり、心 身 ともに大 きなダメージを受 けました。さらにそ の
後 の一 カ月ほどは、昼 は公 務 員宿舎 を退去 す る準備 に追われ 、夜 は慰 労会や 送別会
に参 加 するという日々が続 いていました。しかも、自分 が辞 めるに至 った経緯 に対す る
心 の整 理 がつ かず 、せっかく慰 労 してくれる人たちを相 手 に毒を吐くように愚痴 をこぼ
して雰 囲気を悪 くし、帰宅 してから自己嫌 悪 に襲 われるという悪循環 に陥 っていました,
そんな中、9月 2日 の 土曜 の夜 に次官 室チー ムのみんなと会 食 し帰 宅 した後 、急 に胃
腸 の調 子が悪 くなりました。ちょうど家 内 が 娘 と孫 を連れ て実家 に戻 つた 日で、官合 に
は私 一 人だ けでした。いつ もは少 し苦 しんだ 末 にトイレで何 度 か過 去 を清算 し、胃腸
薬 を飲 んで寝 れ ば回 復 するのです が 、そ の 日は深 夜 を過 ぎても吐き気 が収 まりませ ん
でした。それ どころか 、布 団 とトイレを往 復 しているうちに意 識 が朦朧 としてきたため 、こ
れ は いかんと思 い 未 明 に 中央病 院 の 救急 外 来 に電話 しました。ほん の数 分 の距 離 な
の に歩 いて行 く自信 が持てず 、それを伝 えると救急 車で来院するように言 われ ました。
生まれて初 めての救急搬送 で 、119番 し、指示 に従 って常用薬 を準備 して待 ってい
ると、ほどなく車椅 子を携 えた救急 隊 員 が到 着 しました。官舎 のエ レベ ー ター には スト
レッチ ャーが入 らないの で 、1階 まで車 椅 子で 降 りた後 ストレッチャー に載 せ 替 えられ
て車 内 に収 容 されましたが 、す ぐには発 車 しませ ん。まず 、意識 レベ ル の確認 をかね
)氏 名 と生年 月 日、職 業 などを問われ ました.次 に 、搬 送 先 を聞 かれ
て 、救急 隊員 か ら
たので 中央病 院 へ 連 絡 済み だ と伝 えると、隊 員 さんが念 のため病 院 へ 確 認 の電話 を
入れ ました。その 際 に、 「患者 は黒 江哲 郎 さん 、男性 、70歳 Jと 伝 えているのが 聞 こえ、
思わず体 を起 こして「まだ 59歳 です っ」と叫んでしまいました。あれも私の意識 の程度
を調 べ るため のテストだったのかどうか …。
ともあれ 、中央病 院 の 院長 先生 以 下 、医師や スタッフの 皆 さんが親 身 になって看 病
して下さつたおか げで、私 の急性 胃腸 炎 は順調 に回 復 し、1週 間 で退 院す ることが 出
来ました。人 はごく稀 に仕 事 に対す る集 中力 が極度 に高 まることがあるようです 。アスリ
ー トが「ゾー ンに入 る」の と似 たような感 覚 かも知れ ませ ん 。次官 の 最 後 の一 年 ほどは
そん な感 じでした。しかし、限度 を超 えて集 中力 が 高 まると、バ ランス上 、体 のどこか に
負 担 がかか るのだ と思 います 。咳や 寝 汗 はそ の表 れ で 、負担 の頂 点 がこの急性 胃腸
炎 による入 院 だったのではないかと感 じています。
世 田谷 の 官舎 に住 ませ てもらっていたこともあり、風 邪 、腹 痛 の類 から自律神 経 失
調 に至 るまで 自衛 隊 中央病 院 には若 い 頃か らず っとお 世 話 になりつ放 しでした。また 、
本省 の 医務 室 にも同じように 多大 のご迷 惑 をおか けしました。担 当 して頂 いた医 師 、
看護 師 の 皆さん には 、どれだけ感謝 しても足 りませ ん。

必 要不 可欠 な WLB
連 載 二 回分 にもわたつて 自分 の病歴 を紹 介 した の は 、教 訓 として「鋼 のような精神
力 と底 なしの 体力 を身 につ けよ」などと伝 えたいからでは ありませ ん 。限界を超 えて仕
事 をすることは、組 織 にも自分 にも家族 にも結 局 マイナスにしかなりません。しかし、本
省 の業務 量 は圧 倒 的 に多く、どうしても無 理 しがちになります 。しかも、私 のよう1瑚 尚貧
血 や 呼 吸 困難 などといつた代償 に悩 まされ ず に、何 とか 乗 り切 ってしまう人たちも大勢
います 。そうい う人たちの 多くは真剣 に「公益 のため には 多少 苦 しくても頑 張らなけれ
ばならない 」と考 えてお り、健 康被 害 の 深 刻 さを実感 してい ないことも手伝 つて 、つ い
自分も他 人も「もう少 し頑 張れるはず 」と思 い込 み がちです 。 「頑 張ろう」という気持 ちは
尊 いの です が 、こうした仕 事 のスタイル を続 けていては 、過 度 の 自己犠牲 を前提 とした
これまで の業務慣行 を改 めることは 出来ません。
現役 時代 には職 場環境 の改 善 のためワー ク・ライフ・バ ランス (WLB)に 力 を入 れて
自ら旗 を振 ったつ もりです が 、残 念 なが らなかなか定着 しませ んでした。しかし、これを
進 めなけれ ば 、防衛 省 のみならず 中央 官庁 はいずれ確 実 に崩 壊 します。現役 時代 の
反省 に立って改 めて考 えてみると、この課題 を本 気 で 前進 させ るためには いくつ か 必
要な事 があるように思 います 。
まず 、役 所 の幹 部 クラスが 意識 を変 えることです 。ある講 演 で「組 織 内で過 剰 な長
時 間労働 を生む最 大 の原 因」として紹 介 されたのが 、 「上 司 が 自らの保 身 のため部 下
に膨 大な手持 ち資料 を作 らせ ること」でした。指摘 され て 、自分も「念 の ため」などと言
つてそうした発 注 をして いたことに思 い 当たりました。上 司は部 下 よりも経 験 豊 富 で知
識も多 い はず ですから、自分 の 面倒 は極 力 自分で見るようにしなけれ ばなりませ ん。
次 に 、業務 の 量や ペ ースを緩 和 す るため の 具 体 的な手を打 つ ことです 。忙 しい部
署 の 人手を増や す か 、不要 不 急 の仕 事 は切り捨 てる/期 限を延 長す るか 、特 定部 署 に
集 中 している仕 事 を他 の部署 に分散 させ て量を平準化するか 、あるいは IT化 や AI活
用を大胆 に進 めて業務 の 効率化 を図るか 、いず れ にしてもそうたくさん の選択 肢 があ
る訳 ではありませ ん。策 が 限られ ている訳 ですから、思 い切 つてそれ らを実行 に移 す し
か道 はありません。
さらに 、これ まで何 度 も指摘 され てきた非 効 率 な 国会 業務 の 改善 、は っきり言 えば
質 問通告 の遅れや過 大な資料 要求・情 報公 開要求などを国会議 員側 の努 力 によって
具体 的 に是 正 して頂 く必要 があります 。マスコミもこの 点を問題 視す るようになり、最 近
は改善 の 兆 しが 見 られるとの報道も見受 けられ ます 。そオしが本 当であるならば、喜 ばし
いことだと思 い ます。
私 の場 合、過 剰 労働 の しわ 寄せ は貧血などの 形でフィジカル 面 に現れ ましたが 、人
によつてはメンタル 面 に影響 が 出て しまうこともあります 。どんな組 織 にとつても人 は 貴
重な財 産 で す。自分 が現役 の 時 には残 念 ながら果たせ ませ んでしたが 、職 員 み んな
がフィジカル 面もメンタル 而Tも 病 む ことなく、伸 び 伸 びと能 力を発揮 できるような職 場 を
何 とか 実現 してほしいと思 います 。

ここまで六 回 にわたり政 策 の プ レゼンの仕 方、政 策調 整 にお ける挟 まれ 方、さらに


は健 康 の 大 切さなどに触 れてきました。次 回 からは 、私 の愛 してや まな い官房 業務 に
移 りたい と思́います 。
失敗だらけの役 人 人生 (12)
黒江 哲郎
官房 業務 ∼ 官房 とは謝 ることと見 つ けたり∼
行 事 の運 営 は思わ ぬ 鬼 門
中央 官庁 の 官房 は、企 業 の総務 部 と同様 、人 事や 広 報 を含 め組 織 全 体 を円滑 に
運 営 してい くために必 要な様 々 な仕 事を担 当 しています 。防衛 省も例 外 ではありませ
ん 。中でも官房 文 書課 には 、文書 法令 業 務 、国会 対応 業務 、情報 公 開業務 、陳情 対
応 業務 、行事 関係 業務 などが集 中 してい ます 。
役 人生活 の 半分 近 い 16年 間 ほどを官 房 で過 ごし、中でも文 書課 では係 員 、先任
部員及 び 課 長 を経 験 しました。防衛 省 の 官房 業務 は「うまくいって 当たり前 で誰 か らも
褒 められ ず 、少 しでも失 敗 や 不 具合 が あると各 方 面 から厳 しく叱 られ る」とい う割 に合
わない仕 事 です。ネガティヴな意 味 ではありませ ん。天 邪 鬼な性格も手伝 って 、私 はこ
うい う仕 事 を決 して嫌 い で はありませ ん 。む しろ大好 きです 。組織 を支 える「縁 の 下 の
力持 ちJ的 な仕 事 は苦 労 が 多 い けれ ど、や りがいも大 い にあるからです。
とりわけ、行 事 の運 営 は 、日立たない けれ どもとても重 要な仕 事 です。防衛 省 は 、秋
の 自衛 隊記 念 日を中心 として様 々な行 事を開催 しています。特 に、各 自衛 隊が回り持
ちで主 催 する観 閲式 、観 艦 式 、航 空 観 閲 式 はよく知 られ て います 。官房 文書課 は 、こ
れ らの行 事 にお いて総理 や 防衛 大 臣 、来 賓 の 国会議 員や 民間招 待者 などの VIPヘ
の対 応 を担 当 します 。当 日まで の 間 に 開催 部 隊な どとの 間 で 綿 密 な調 整 を行 い 、細
心 の 注意 を払 つて準備 をし、予行 を経 て本 番 に臨む の です が 、それでも予 期 せ ぬ トラ
ブル が発 生 す る場合 があります 。官房 長 時代 に行 われた観 閲 式 では 、朝 霞駅 で民 間
の VIP招 待 客 に誤 つた交 通 手段 を伝 えてしまったためスムーズ に入 場 できず 、客 が怒
って式 典 に参加 せ ず に帰 つてしまったとい うことが ありました。役 所 側 が 招 待 した の に
入 場もで きなかつたとい うの では 申し開きの余 地もなく、翌 日す ぐに文 書 課 長 とともに
本 人 のもとへ 飛 んで行 つて平身低頭謝 罪 に努 めました。
また 、各 地 に所在 す る自衛 隊 の 駐 屯地や 基 地 ではそれ ぞれ の 開設 記 念 日などに
祝賀 の式 典 や行 事 が 開 かれ ます。地 元 の 人たちにたくさん 参加 してもらうために土 日
祝 日に開 催 され ることが 多 いので す が 、休 み 明 けは文 書課 の 行 事 担 当者 にとつて 要
注意 で す 。休 日に行 われ た行 事 の 接 遇 などに不 満 を感 じた 国会議 員 らか らクレーム
の電話 がかかつてくるか らです 。席 次 が低 かつた 、挨 拶 の順 序 が遅 かつた 、来 賓 として
紹 介 されなかった等 々クレームの 内容 は 多様 です。主催 者側 の配慮 不 足 が原 因 の 場
合も多 いので 、そうい う時 にはしかるべ きレベ ル か ら謝 罪 す るとともに、次 回以 降 の行
事 で 改 善を徹底 しなけれ ばなりません。

車 回 しで 出禁 となった省 移行 式 典
私 が文 書 課 長 を務 めた 時期 の 最 大 の テー マ は 、防衛 庁 か ら防衛 省 へ の移 行 でし
た。2006年 (平 成 18年 )秋 の 臨時 国会 で省 移行 法案 が審議 され 、大変 な苦 労 の 末 、
12月 15日 に野党も含 めた賛成 多数 で法 案 が 可決 され 、翌 2007年 (平 成 19年 )1月
9日 に防 衛 庁 は省 昇格 を果たしました。法案 審 議 は難 航 しましたが 、省 移行 に伴 う行
事も大変 でした。法案成 立から 1か 月足 らず の 間 に来 賓・招 待者 の確 定 、式 次 第 の確
定、式典 にお ける記念 講演 の 調 整 、来 賓 の席 次 の確 定 、案 内 の動線 の確 定などの 準
備 を大車輪で行 い 、1月 9日 に防衛 省 にお いて行 われた省移 行 式典 には 100名 を超
える与 野 党 国会 議 員 が 来 賓 として詰 めか けました。当 日は文 書課 長 の 私 が 司会 進 行
役 を務 め 、式 典 自体 は何 とか 無 事 に終 えることが 出来 ました。ところが 、一 斉 に式典 会
場 の講 堂を後 にして帰 路 につ いた 国会議 員 が庁 舎 の正 面 玄 関 に集 中 し、大 混乱 とな
ってしまい ました。混乱 を避 けるため 、あらか じめ 来賓 の 方 々をグルー プ 分け して順次
退 出 して頂 くようにアナ ウンスしてい た の です が うまく伝 わらず 、玄 関 で 大 渋滞 が生 じ
てしまつた のです 。防衛省 本省 庁 舎 にこれだけの 数 の VIPが 集 まるのも初 めてなら大
量 の 車 回 しを行 うのも初 めてで 、大 勢 の職 員 が 奮 闘 したのです がホテ ル のようにスム
ー ズ には行 か ず 、渋 滞 が解 消す るまで にかなりの 時 間 がかかつてしまい ました。それ
でも大半 の先 生 方 は 静 か に順 番 を待 つて退 庁 して 下さつたので す が 、最 後 の最 後 ま
で残 された先 生 は激 怒 しました。そ の 方 は役 所 が 事 前 に配布 して いた駐 車票 を携 行
せ ず 、なおか つ 車 が 指 定駐 車場 に 停 まつてい なかったため連 絡 に手 間取 ってしまっ
た のです が 、怒 つた 国会議 員 にはそんな弁 解 は通 用 しませ ん。私 はその場 で怒 られ 、
そ の 日の午 後 に謝 罪 に伺 った議 員会館 の事務 所 で怒 鳴 り上 げられ 、最 後 は出入 り禁
止 となりました。出入 り禁 止 は長期 にわたり、関係 修 復 には大変 に書 労 しました。
行 事 は 計画 通 りに進 む の が 当然だ と思われ てお り、問題 なく終 了 しても誰も気 づ か
ないヒ誰も褒 めてはくれ ませ ん。他 方 、何 か 不手 際 があると、迷 惑をか けた相 手 方から
´
ばか りでなく省 内幹 部 からもロ ヒ責 され ることになります 。この 事 例 のように相 手方 との ト
子事 の 運 営 は「害1に
ラブ ル が 長 引 い てしまっても、もちろん 誰 t)助 けてはくれ ませ ん 。イ
合 わない J仕 事 の典 型な ので す。

公 務 災害 (?)の ギックリ腰
文 書課 長 の後 、2007年 (平 成 19年 )か ら 2009年 (平 成 21年 )ま で の二 年 間 、国会
担 当審 議 官 を務 めました。時あたかも自民党 か ら民 主党 へ の政 権 交代 が 現 実感 をも
つて語 られ始 めた頃 でした。国会 ではいわ ゆる衆 参 ねじれ 現 象 が発 生 し、与 野 党対 立
の先鋭 化 により予算も法 案もなかなか 成 立せ ず 、各省 庁 はみんな国会 対応 に大 変 苦
労 してい ました。防衛 省 は 2007年 (平 成 19年 )1月 に省 に昇格 したばかりでしたが 、
折 悪 しくこの年 の秋 以 降 に不祥 事 が相 次 ぎました。まず 、インド洋 にお ける給 油 支援
活 動 で 米艦艇 に対 す る給 油量 を取 り違 えて報 告 し、海 幕 幹 部 が誤 りに気付 い た にも
拘 らず訂 正 しなか ったため 、記者 会 見や 国会答 弁 で誤 った説 明がなされ てしまったと
い うい わ ゆる「給 油量取 り違 え事 案 Jが 問題 となりました。同じ頃 、同年 夏 に退 任 したば
かりの前 防衛 事務 次官 が 、在任 中 に取 引先商 社 からゴルフなどの接待 を受 けていたと
して逮 捕 されるとい う7う 職 事件 が発 生 しました。さらに、年 が 明けて 2008年 (平 成 20
年 )2月 には 、野 島崎 沖 で海 上 自衛 隊 の イー ジス艦「あたご」が漁 船 と衝 突 し、漁船 の
船長親 子が行 方不 明となる事 故 が 発 生 しました。これ を
)の 事 案 は、いず れ1)衆 参 両議
院 の予 算委員 会 や所 管委 員 会 で取 り上 げられ 、厳 しく追及 され ました。国会 担 当審議
官 の 私 は 、与野 党 の 国会 対策 委 員 会 の先 生 方や 関係 す る委員会 の理 事 の先 生 方 の
間を走 り回 つて頭 を下 げ続 けました。防衛 省 へ の格 上げ法 案 は民 主 党も含 め与 野 党
多 数 の 賛 成 で成 立 したので す が 、あ まりに防衛 省 の 不祥 事 が続 くため野 党議 員 か ら
は「省 移 行 に賛成 したの は 間違 いだ った。こんな有様 ならばt)う 一 度「庁 1に 格 下 げす
べ きだ Jな どと壮ヒ判 され ました。
一 連 の 不祥 事 に対す る追及 がようや く下火 になった 5月 には 、自衛 隊体 育学校所
属 の若 い 自衛 官 が 国会 敷 地 内 に侵 入 し、議事 堂前 で切 腹 を試 み るとい う事件 が 発 生
しましたっ命 に男け 状 はなか ったためマスコミからはあまり注 目されなかつたのです が 、彼
がた またま警備 の手薄だ つた参 議 院側 か ら侵 入 したため問題 が大きくなりました」私 自
身もこの 事 件 を機 に初 めて知 りましたが 、国会 施 設 の 管 理 責 任 は衆 参 それ ぞれ の議
院運 営 委員会 が有 していた のです。ね じれ 国会 の 下、参議 院 の議 院運 営委 員長 は 多
「国会 に軍 人 が乱 入したの は 二・二 六 事 件 以来 だっJと
数 派 野党 の 民主 党 の先 生で 、
激 怒 しました。収 拾 策 を模 索す るため与 野党 の理 事 の 間を毎 日走 り回 り、ひたす ら頭
を下 げて回りました。担 当局長 が委 員会 に出席 して謝罪 し、や っとのことで事態 が収 束
した直後 のある 日、官 舎 の 浴 室 で風 呂 の 書をとろうとしてかがんだ瞬 間 に腰 に鋭 い痛
み が走 り、動 けなくなりました。典 型 的なギックリ腰 でした。整 形外 科 にかか つたものの
痛 み がひか ず 、厚 労省 のある先輩 に教 えて頂 いたカイロプラクティック医院 で診 察 して
t,ら つたところ、「太腿 の後 ろの 筋 内 、ハ ムストリングが 張 つてい ます 」とい う思 いが けな
い診 断結 果 を告 げられ ました。さらに「黒江 さん、最 近 お 辞 儀 みた い な動 きをしました
「ここ一 年 近 くず つとお 辞儀 をし続 けて来 ましたJと 状 況を説 明
か ?」 と問 われ たので 、
したところ、 「ギックリ月要の原 因 はそれ です !お 辞 儀 の動きは大腿 に負 担 がかかるので
す。太腿 の裏 が張 つて負 担 に耐 えられ なくなると、次 は腰 に来 て、最 後 はギックリ腰 に
なるのです 。労 災 の認 定 を受 けられ ると思 います よ」と真 顔 で言 われ ました。さす が に
公 務 災害 は 申請 しませ んでしたが 、今思うと申請していたらどうなつていた のか 興 味 が
あります 。ともあれ 、この 医院 に二 、三 週 間通 つた結 果 、幸 い腰 痛 は治 りました。余 談 で
す が 、最 後 の受 診 で鍼 治療 を受 けてその劇 的な効 果 に驚 かされ ました。鍼 を打たれて
15分 ほどベ ッドにうつ 伏 せ になっていただ けで 、最後 まで腰 に残 つていた鈍痛 が嘘 の
しました。
ように消えてしまったのです。東洋 医学 の 効果 を実感 し、心から感 調す

役 所 を代 表す る意識
ある時 、先輩 から「君 ぃ、頭 はこうや って使 うんだよ」と身振 り手振 り付 きで指導 された
ことがありました。要 するに、頭 を下げることを躊 躇 するな、という趣 旨でした。よく 「自分
は他 人 に頭 を下 げるの は苦 手 だ Jと か「頭 を下 げるの は 嫌 い だ 」とい う人 がいます 。自
分 に 自信 がある、プライドがある、卑 屈 に 見られ るの は嫌 だ 、他 人 のや ったことで謝 る
の は筋違 いだなど様 々な理 由があると思 い ます。しかし、不祥事 や事 故 が発 生 す れ ば 、
そ の件 の 担 当者 や 責任 者 だけでな く、官 房 長 や 国会 担 当 審議 官も政 党 の部 会 や 国
会 の理 事 会 などの場 で謝 罪 す る場 面 が 出 てきます。役 所 を代 表 して 国会 対応 を行 っ
ているからです。
「役 所 を代表 してい る」とい うことを実感 す るきつか けとなったの は 、まだ課 長 だった
頃 に 出席 した与 党 の病 院船 に 関す る会議 でした。席 上 、ある出席議 員 が「自衛 隊 が病
院船 を装 備 して運 用 す べ きだと思 うJと 発 言 しました。そ の 日の 会 議 は病 院船 の 調 達
や 管理 の在 り方 ではなく災害 時 の活 用 の仕 方 がテ ーマだったので 、調 達 の担 当 の課
長 は出席 して いませ んでした。また 、提 起 され た論 点 につ いてはそ の会 議 でも既 に議
論 され たことがあり、自衛 隊 が病 院機 能 専 門 の艦 艇 を持 つ の は 非 効 率 な ので護 衛 艦
や輸 送艦 などに医療機 能 を併せ 持 たせ るとい う方 向で既 に決 着 済 み でした。自分 の
担 当でもない し、特 にそ の 点を詰 めることもなく議 事 が進 んで行 ったので 、私 は応 答 し
ませ んで した。す ると、会議 の事務方 の党職員 が 即座 に飛 んで きて、「防衛 庁 、ちゃん
と経 緯 を説 明しなきゃ出席者 が誤解 す るだろうっ」と思 い切 り私 をどや しつ けるので す。
この時 は大事 には至 りませ んでしたが 、叱 られて初 めて「防衛 庁 関係 者 が私 一 人 しか
いないのだから、自衛 隊 関連 の 質 問 には全て私 が答 えるもの と期待 されているのだ 」と
いうごく当然 のことに気 づ かされ ました。もちろん 、間違 つた ことを答 えては い けませ ん
が、自信 がなけれ ば「正 確 な資料 を持 ち合 わせ ていないので違 っていたら後刻 改 めて
訂 正 します 」と留保 をつ けれ ば 良 いだけのことです。
それ 以 来 、部外 の会 議 に 出席 す る時 には 、自分 の所 掌 外 の質 問であつたとしても
出来 る限 り答 えようと努 力す るようになりました。特 に、文 書課 長や 国会 担 当審議 官 は
国会想 定 問答 を全 て入 手 で きるので 、日頃 か らそれ らに 目を通 して 、何 を聞かれても
一 通 りの答 が 出来 るように準 備 してい ました。こん なことを繰 り返 しているうちに、所 掌と
か 責任 とかがあまり気 にならなくなり、事 故 や 不祥 事 につ い て部外 に対 して謝罪 す るこ
とも自然 にできるようになっていきました。後輩 から「黒江 さんて本 当に 申 し訳 なさそう
に頭 を下 げます よね 」と言 われたこともありました。もしか すると、すぐに頭 を下 げる卑 屈
な奴 だと思われ ていたのかも知れませ ん が 、そ の 頃 には「防衛 省 を代 表 して謝 る」の は
ごく自然なことと思 えるようになつていたの で 、 「本 望だ Jと しか 感 じませ んでした。
笑 い話 ならい ざ知 らず 、頭 を下 げ過 ぎてギ ックリ腰 を患 うなどというの は 自慢 できる
話 ではありませ ん 。他 の人たちに「腰 を痛 めるまで頭 を下 げろ」などと言 うつ もりもありま
「防衛 省 の代 表 」と見 られ るし、
せ ん。しか し、役 所 の外 に出れ ば 自らの所 掌 に関係 なく
防衛 省 を代 表 して頭 を下 げ ざるを得 な い 場 面も出 てきます 。官 房 に勤務 していると、
仕事柄 、特 にそういう場 面 に多く出くわします 。若 い 人たちには 、過度 に 自分 の所 掌 に
「役 所 の 代 表 として 見 られ ているJと い うことをぜ ひ 意識 してほしい と
こだ わることなく、
思 い ます。
頭 を下 げなけれ ばならないの は 、防衛 省 の 官房 に限 った ことではありませ ん 。今 も
あるかも知 れ ませ んが 、当時 は各省 庁 の 総 務課 長・文 書課 長 が集 まる会 合や 各省 庁
の官房長 の懇 親 会 が定 期 的 に 開かれ ていました。そんな時 には決 まって「官房 は頭 を
下 げてなんぼ Jと い う話題 と愚痴 で盛 り上がりました。
官 房 業務 は 苦 労 が 多 くて大 変 でしたが 、仕 事 をこなす 中で コミュニ ケー ション技術
を始 めとして様 々な実用 的な スキル を身 につ けることが 出来た の は思 いが けない収 穫
でした。次 回以 降 は 、それらの技 の数 々を紹 介 したいと思 います .
失敗 だらけの 役 人人生 (13)
黒 江 哲郎
官房 業務 ∼エ レベーター トークとポジティヴ・コミュニケーション∼
与 党 国対 へ の説 明と
「エ レベ ー ター トー ク」
国会担 当の 主 要 な立ち回 り先 の一つ に、与 党 の 国会 対策委員 会 (国 対 )が あります。
与党 国 対は与党 にお ける国会 運 営 の 司令 塔 であり、予算 案 や 法律 案・条約案 などの
審議 の順 序や 採 決 の タイミングなどを野 党 と折衝 しなが ら差配 して い ます 。このため 、
各省 庁 の 国会 担 当は、与 党 国対 の先 生方 の理 解 を得 て一 日でも早 く法案な どの懸案
事項を処理 してもらおうと国対 の部屋 に 日参 します。
政 策 担 当部 局 にいた時 には 、国会 対 策 といえば与 党政調 の部 会 が真 っ先 に頭 に
浮 かび 、政務 三 役 経 験者 や 防衛 政 策 に造 詣 の深 い 先 生方 などへ の根 回 しばかり気
にしていました。その一 方 で 、与党 国対 へ の説 明は「法案 審議 に必 要な手続 きの一 つ 」
とい うくらいの 意識 しか持 ってお らず 、そ の 重要性 を十 分 理 解 していませ んでした。防
衛省 全 体 にそうい う傾 向 があつたか らかも知れ ませ んが 、事務 次 官 を務 めていた頃 、
当時 の 与 党 国対 の 先生 か ら「防衛省 はもつと国対 との付 き合 い を大切 にした方 が いい
よ」とやんわり苦言を呈 されたことがありました。政府 が法案を提 出 したら国会 で 自動 的
に審議 が進 んで行 くとい う訳 ではありませ ん 。国会 は立法 を行 う機 関 です が 、同時 に
政治 権 力 の 闘争 の場 でもあります 。その 中で 法案 を通 してい くためには 、必 要性 や ス
ケジュール につ いて与 党 国対 に認 識 を共 有 してもらい 、野党 との駆 け引きの 中でうまく
後押 ししてもらう必要 があるのです 。与 党 国対 が作 る国会運 営戦 略 の 中 に位 置付 けて
もらえなけれ ば、法律 案 や 条約 案 は 国会 を通 りませ ん。
各省庁 の 国会担 当の仕 事 は、予算案や 法案 の審議促 進 だけではありません。国会
会期 中 にお ける政 務 三 役 の 出張や 外 交 日程 なども与 党 国対 との 重 要 な調整 事 項 で
す。会期 中の 大 臣以 下政務 幹 部 の海 外 出張 につ いては、野党 は「最優 先 しなけれ ば
ならない はず の 国会 を軽 視 している」などと批判 す べ く虎視 眈 々 と狙 つています。与 党
国対も本会議 採 決などに影 響 を与えないよう議員 の動 向に神 経 質 になつているので 、
よほど「不 要不 急 ではない 」「どうしても必 要 」という理 由が つ かない 限り OKは 出ませ
ん。そんな中で 、マル チ の 国 際会議 など役 所 として是 が非 でも実 現 しなけれ ばならな
い 出張 が ある場 合 には、各方 面 の 了解 を取 り付 けるため国対や議 員 運営委員 会 の先
生方 の 間を走り回り、出張 目的や 日程 の説 明 に汗をかかなけれ ばなりませ ん。
当然 のことながら、国対 は 防衛 問題 に詳 しい議 員 ばかりで構 成 されている訳 ではあ
りませ ん。特 に幹 部 の先 生方 は、国政全 般 の 状 況 をにらみ ながら国会運 営 の 戦 略 を
組 み 立てていくので 、防衛 省 の 問題 だ けにかかわつている訳 には い きません 。仮 にア
ポが入 つた としても、説 明時 間 はそんなに長 くはとれ な いの です 。急 を要 す る案 件 の
場 合 にはアポがとれず 、国対 の部屋 の 前 の廊 下 で 出待 ち、入 り待 ちをすることもしょつ
ちゅうあります 。そんな時 には 、専 門用 語 をふんだん に使 つた論 点網 羅 型 、思考過 程
紹介型 の説明は役 に立たないので、簡潔な資料 を用いて短時 間でわかりやすく説明
する必要があります。
エレベ ーターで同乗した相手 に対 して目的階に到着するまでの短 い時間のうちに
ブリーフをして理解 を得るエレベ ーター トークという会話術 がありますが、与党国対ヘ
の説明を繰り返す 中で、私はその種 の簡潔な説明の重要性を痛感 しました。このため、
自分が説明に赴く時には、必ず事前に「何を、どういう順序で、どのような例を引きなが
ら話せば簡潔でわかりやすい説明になるか」を考え抜いて準備するように心がけました。
説明用のペーパーは原則として A4版 で 1枚 とし、内容は前に紹介した必殺「3の 字
固め」で構成することとしていました。また、政策部門で身につけた「問題を拍象化 して
考える癖 Jが 説明の引き出しを増やすことにつながり、短時間での効率的な説明に大
いに役立ちました。

第二の K… ポジティヴ。コミュニケーション
簡潔な説明を心がけるだけでなく、説明の際に使うべきでない言葉、使 つた方が良
い言葉、相手に良い印象を与える言葉使 いなども意識 しました。防衛政策の章で触れ
た第二の K、 すなわち相手の共感を得るための話し方です。政策案を説明する相手
は、必ずしもこちらの案 に賛成している人たちばかりではありません。案に興味のない
人、懸念 している人 、反対の人など様 々な相手に説明して、出来るだけ多くの人たち
の理解 と共感を得て賛成 に回つてもらわなければならないのです。そのためには、相
手の疑問点や懸念をも含 めて率直なやり取りをする必要があります。その際、ちょっと
したことで不必要 に不快感 を抱かせたり、相手を怒らせたりしないように注意す べきこ
とは当然です。望ましいのは、相手に肯定感や安心感、親近感 を抱かせ 、話 しやすい
雰囲気を作ることです。ポジティヴで友好的な雰囲気の下では 自然に会話が弾み、率
直なやり取りもしやすくなります。こうしたことを可能にする話 し方や言葉使 いを、私 は
ポジティヴ・コミュニケーションと呼んでいます。
ネットで「ポジティヴ・コミュニケーション」
を検索するといくつかの使 われ方が見つか
りますが、私は「オロ手の気持ちや相手との会話 の雰囲気を前向き、肯定的なものにす
るためのコミュニケーションの仕方」というような意味で使つています。ポジティヴ・コミュ
ニケーションは、部外者 に政策を説明する場合だけでなく、上 司として組 織を管理す
る際にも効果を発揮 しますし、私生活で円満な人間関係を作る上でも役 立ちます。以
下には、その具体的な技を紹介します。

「dこ とば」のタブー
ポジティヴ・コミュニケーションの 中で、相手 に不快感 を抱かせないための代表的な
技が「dこ とばのタブーJで す。
国会担 当審議官 は、防衛省関係 の与党の部会にはほとんど全て出席 します。そう
した場 で原 局原課 の説 明 に立ち会 い 、説 明 ぶ りや応 答 ぶ りを聴 いてい てとても気 にな
ることがありました。質 疑応 答 の 中で役 所側 が「です から」と 「だからです ね 」とい う言 葉
を使 うたび に 、確 実 に会 議 の 雰 囲気 が 冷 えてい くのです 。そんなことが 気 になってい
たある 日の 夕方 、たまたまつ けていたテレビのニュース番 組 に 目が釘付 けになりました。
タクシーの ドライバ ー が 客 に暴行 される事 案 が 多発 してい ることか ら、ドライブ レコー ダ
ーの記録 を分 析 してその原 因を究 明 しようとしたというニュース特集 でした。それ による
と、運 転 手 さん のある言葉 が 客 をイラつ かせ 、怒 りをエスカレー トさせ るの だ そうです 。
それ がまさに「だから」と 「で す から」でした。特 に、酔 客 は認 識 力 が低 下 してい るので 、
道順 を繰 り返 し確認 したりしがちで す。そ ういう客 に対 して運 転 手さんがうか つ に「だか
らJ「 ですから」を使 つて答 えると、 「これだ け言 つてもわからないのか Jと い うニ ュアンス
が伝 わり、客を怒 らせ てしまうの だそ うで す。そ の タクシー 会社 は 、暴 行 事件 を減 らす
ためにこれ らの言 葉 を使 わない ように乗 務 員 に指 導 しているということでした。偶 然 見
た番組 だ つた の です が 、日か らうろこが落 ちたような気 がしました。政 党 の部 会 などの
場 で「だか ら」 「で す か らJを 多用 す ると、質 問者 に対 して「さっきか ら説 明 してい るじや
な い ですか J「 まだわかりませ んか 」と言 つてい るのと同 じだとい うことなの です 。この二
つの 言 葉 よりもさらに悪 い 印象 を与 えるの が「だ ったら」で す。さす がに部 会で役所 側
か ら出ることはありませんが 、言うまでもなく 「だ ったら、どうしろと言うのです か ?」 という
開き直 りのニュアンスを伝 える言葉 です 。このことに気 づ いてか ら、説 明 の 際 には 出来
るだけ「だから」「です から」などの言葉 を使 わない ように意識 するようになりました。
インター ネット上 にも「D言 葉 」「dこ とば」などとして、
「でも」
「だって」「だから」 「だっ
たら」などの言 葉 は相 手 に否 定 的なニュアンスを伝 えて事態 を悪化 させ る効 果 がある
ので 、特 にトラブル に遭 った 時 は使 わない方 が 良 いとす る記事 がたくさん 出てい ます。
政 策 の 中身 は素 晴 らしいの に、些 細 な言 葉使 いで 相 手 を怒 らせたりす るの は愚 の骨
頂 です から、 「dこ とば のタブ ー 」は十分 に意識 してお くべ き技 だと思 います。

相 手を乗 せ る「さしす せ そ」
これ はあるテレビ局 の記者 さん の受 け売 りです が 、「dこ とば 」とは対 照的 に、サ行 の
言葉 には相 手 の気 分 を上 向かせ る効 果 があります。具体 的 には 、「さ」=「 さす がで す
ね J、 「し」=「 知 りませ んでしたJ、 「す 」=「 凄 いで す ね 、素 晴 らしいです ね 」、
「せ Jは 他
の 言葉 と比 べ るとや や 苦 しいので す が「センスあります ね 」、そして「そ 」=「 そうなんで
す かあ」といつたところです 。これ らの言葉 を連発 され て気 分 が 良くならない人 は稀 だと
「失礼 しました」
思 います 。さらに、 「承 知 しました」あるい は「す みませ ん 」の一 言 から会
話を始 めると、こちらの謙譲 の気持 ちが伝 わつて相 手 の気持 ちを和 らげる効果 があると
「D言 葉 」の対極 に位置 する「S言 葉」として積極 的 に
の指摘もあります 。ネット上では 、
使 用す べ きだという記 事 を見 つ けることが 出来ます。
「なんだ 、お世辞 じゃないか 」 「そんなの は単なるコイショじやないか 」と思 われる方 も
お られ るでしょう。でも、私 はお世 辞や ヨイショが恥 ず かしいことだ とは全 く考 えてい ま
せ ん。理 由は 二つ あります 。
第 一 の理 由は、お世 辞や ヨイショの本 質 は相 手 と問題 意識 を共 有 していることを伝
える点 にあるか らです 。私 が 言 うお 世辞 や ヨイショは 、心 にもな いお 追 従 を言 ったり相
手を過 剰 におだてたりす るような卑 屈 なことではありませ ん 。自分 の考 えと相 手 の 考 え
の共通 点や親 和性 のある点を見 つ け出して、自分もそ の 問題 意識 を共 有 しているとい
うことを伝 え、肯定感 を持 つてもらうとい うことなのです 。だから、私 にとつてお世 辞 とヨイ
ショの 対 象 は 先輩 や 目上 の 人 間 だけではありませ んでした。部 下や 後 輩 に対 しても、
仕事や組織 管 理 の上で必 要 があれ ばためらいなく同 じ様 に接 していました。
第 二の 理 由は 、効果 的 に場 を和ませ ることが 出来るか らで す。言葉 遣 いの工 夫 一
つ で相 手 の気持 ちが和 らい で会話 が弾み 、相 手 が 自らの考 えを話 してくれたり、こちら
の説 明をよく聞 いてくれ たりするのなら、こんな簡 単 で安 上がりな手段 はありません。
お 世辞 や ヨイショと決 めつ けず 、実際 に使 つてみれ ば必 ず 効果 を実感 できるものと
思 います 。

秘 技「オ ウム返 し」と「合 いの手上手」


相 手 に肯 定感 を与えて会話 の雰 囲気 を好転 させ るポジティヴ・コミュニケー ションの
技 には 、「オ ウム返 し」とい うものもあります 。これ は 、会 話 の 中で相 手 の 言 葉 を提 えて
「まさに今 お つしゃつた点がポイントなんですよ」 「まさにそこが難 しいところなんですよJ
「合 いの 手 上 手 」と
とオ ウム返 しに 引用 しながら話 をさらに展 開 して い くとい う技 です 。
言 つても良 いかも知れませ ん。
説 明 の 際、相 手方 は我 々のことを防衛 や 安全保 障 の 実務 専 門家 だと受 け止 めて 、
多 か れ少 なかれ 身構 えています。そんな 中で相 手 の言葉 を引用 して話 す と、こちらが
問題 意識 を共有 していることが伝 わり、相 手 の顔 も立ち 、警 戒 心 が解 かれ 安 心 感 が醸
成 され てい きます。こうして打 ち解 けた雰 囲気 が 出来 上 がれ ば 、人 は 自分 の 考 えを話
しやす くなります 。
これ に似 た手法 はカウンセ リングでも使 われ ているそうです 。カウンセラー が相 談者
の言葉 を引用 しながら会話す ると、相 談者 は 自らの話 を肯 定されたという印象 を受 け、
安 心 して心を開 い ていくのだそうです 。
また、最近 あるホテル の ウェデ ィングプラナ ー の 人たちにこのエ ピソー ドを紹 介 した
ところ、 「同 じ経験 があります 」
「会話 の 中でお 客様 の お っしゃることを引用 す ると話 が
弾 むんです 」と言 われました。プ ロのプ ランナ ー に 自分 の発 言 を引用 しながら話 される
と、迷 いや遠 慮 、ためらいなどが緩 和 され て安 心 感 、肯 定感 がもたらされ る結 果 、雰 囲
気 が和 むということだと思われます。
また、経験 上 、この 技 は 笑 い を見せ ず に 出来 るだけ真 剣 な顔 で発 動す るとより大き
な効 果 があります 。さらに、 「オウム返 し」を使 う場 合 には 、どのタイミングで発 動 す るか 、
どの話題に対して合いの手を入れるのかをよく考えなければならないので、自然に注
意深く相手の話を聴くこととなります。高い注意力と集 中力をもつて会話をすれば、そ
の内容は濃密なものとなり、結果も実り多いものとなります。

ここにあげた技は、基本的に私 自身が細かな失敗と手直しを繰り返しながら身につ
けてきたものですが、今回改めて整理する過程でネットなどに同様の手法が紹介され
ているのを見つけ意を強くしました。次回も、引き続きポジティヴ・コミュニケーションの
技の数 々について紹介します。
失敗だらけの役 人人生 (14)
黒江哲郎
官房 業務 ∼もつとポジティヴ・コミュニケーション∼
「祝婚 歌 Jの 教 え
「さしす せ そJや「オ ウム返 し」、
前回、 「合 いの 手 上 手 」などを駆使 して相 手 に肯 定
感 を持 ってもらい 、会話 の 雰 囲気 を盛 り上 げるという技 を紹 介 しました。他 方 、お 世辞
や ヨイショのような振 る舞 い に抵 抗感 を持 つ 人1)い るでしょう。どうして1)無 理 と言う人 は 、
自分 の や り方を貫 けばよい と思 い ます が 、一つ だ け注意 を要 す る点 があります 。それ
「共 感 を得 るJと いうの は 、相 手を論破 するの とは異なるとい ことで
は、 う す。
の ・ 「
私 郷里 山形 が生んだ 詩 人 の吉野 弘さんが 、 祝婚 歌 Jと いう作 品を残 しています。
結 婚 式 でよく披 露 され る素 敵な詩で 、息子 の結 婚 式 で新 婦 の 恩 師 の 先 生も朗 読 して
下さいました。虐、 子 はちょうど平和安 全法 制 の 国会審議 さなかの 2015年 (平 成 27年 )
6月 に結 婚 したのです が 、当時法案 の担 当局長 として苦労 していた私 は朗 読を聴 いて
思わず膝 を打ちました。感銘 を受けたの は 、詩 の 中の次 の一 節 でした。

「正 しいことを言うときは
少 しひかえめにす るほうがいい
正 しいことを言うときは
相 手を傷 つ けや す いものだと
気 づ いているほうがいいJ

「祝 婚 歌 Jは 、これ か ら人 生を一 緒 に歩 んで行 こうとしているカンブ ル に理 想 の 夫婦


像 を伝 えようとしたもの です 。恋 人との 関係 や 夫婦 関係 を思 い浮 か べ てみて 下さい。
彼氏や彼 女 、あるい は配 偶者 と口論 になった時 に、理 路 整然 とグウの音も出な い ほど
言 い 負 かされ たとしたら、素 直 に相 手 の 言うとお りにしようと思 うでしょうか ?人 間 は感
情 の動 物 だと言 われ る通 り、な だ ったらたとえそれ が正 しい指 摘 だつたとしてもなかな
か 素直 に従お うとい う気 にはなれません。
相 手に言う事 を聞 いてほしい時 には 、100%相 手を論破 するのではなく7害 18害 1位
まで優 勢 になったところで攻 撃 の 手 を緩 めることが大 事 で す。そ こまで行 けば相 手 は
自分 で 間違 い に気 が つ き、名 誉 を保 ったまま撤 退 す ることを考 え始 めます 。最 後 まで
相手を追 い詰 める必 要 はなく、自発 的 に撤退 してくれれ ば十 分なの です。
仕事 でも同 じです 。防衛 省 の政 策を議 員先 生 に説 明 してい る際 に 、誤 解 や 勘違 い
のために疑 間や 異論 を投 げか けられ たとします。そんな時 に 、相 手 の誤 りを理 屈 で徹
底 的 に論破 す るのが適 り」
な対応 でしょうか。理 詰 めで相 手を追 い詰めるよりも、相 手 が
自然 に誤 解 や 勘違 い に気 づ くように配慮 しながら会 話 を進 める方が望ましいので はな
いでしょうか 。ここで 求 められ ているのは論 争 して理 屈 で相 手を屈服 させ ることではなく、
我 々の真 意 を丁 寧 に説 明 して 、理 解 し共 感 し賛 同 してくオじる人を 一人 で も多く獲 得 す
ることだからで→ 。正 しいことを言い募 って相 手を追 い 詰め過 ぎると、相 手を傷 つ けて
しまい 、望 まない方 向に追 いやることになりかねませ ん。相 手 の理 解 と共感 を得 ることと
相 手 を論破 することとは 、天 と地ほども違う′)で す。
もちろん 、このような配 慮 を之、
要 としな い場 面もあります 。前 に述 べ た事 業仕 分 けの
ような場 合 には 、心 地よい 雰 囲気 を作る必要など全 くありませ ん 。 「事 業 の 必 要性 」対
「無駄 な経 費 の 削減 Jと いう理 屈 対 FIF屈 の勝 負を公 開 の場 で行 うというイベ ントです か
ら、論理 の強靭 性 が 全てです 。相 手 の立 場 を思 いや るとか 、相 手 の撤 退 をスマ ー トに
促 す とかいう配 慮 とは無 縁 の勝 負 の 場 です 。そんな場 面 では 、遠 慮なく正論 を述 べ て
反論 の余地 がないくらい に徹 底 的 に論破 す べ きだと思 い ます。

表 から言うか 、裏 から言 うか
ここまでは主として部 外 の 人たちへ の 説 明という切 り日から解説 してきましたが 、ポ
ジティヴ・コミコニケー ションは部 下 との 良好な関係 を作 り組 織 をうまく管理 する上で1)
役 に立ちます 。
例 えば 、会議 で の 発 言 や 剖∫ドとの 会 話 の 際 の 言葉 使 い で す。ある一 つの ことを伝
えるには 、必ず 二 通 りの言 い 方 があります。表 からボジテ ィヴに 言うことも出来るし、裏
力も ネガティヴに 言うことも出来 ます 。課長 時代 には「史 上最 強 の運 用 課 を 目指 そうJ
「史上最 強 の文 書課 だとい う自信 を持 とうJと 部 下を鼓舞 していましたが 、仮 に「危機 管
理 業務 に失敗 は許 されない Jと か「行 事 で の 失敗 は命取 りになりかねない J4cど と言 つ
ていたら部 下 は大 きなブ レッシャー を感 じただろうと思 い ます 。前者 は相 手 に展 望を示
して励 ます 表 現 であるのに対 し、後者 は 相 手に危機 感 を持 たせ て追 い 込 む表 現 です .
伝 える相 手や状況 によっては追 い 込 む方が効 果的な場 合1)あ ります が 、私 の 経験 から
すると、大抵 の 人は展 望を感 じさせ る前 向きな言 い 方をされる方 がや る気 も元気も出る
のではないかと感 じます 。
さらに気 をつ けなけれ′ばならな いの は 、上 司 が 部 下 の仕 事 に不 満 を感 じた時 の 言
「そんなことも出来 ないのか Jと ロ
葉使 いです。部 下 としては 、 ヒられ るよりも、 「もつとこう
出来 たらいいよね Jと 励 まされる方 が 士気 t)上 がるの ではないでしょうか。
語 順 と語 尾 を変 えるだけで 、相 手 に与える印象 はガラリと変わります 。「君 のこの仕
「君 のこの仕 事 は不十分 だ
事 は 、これこれ の詰 めが 足 りないか ら不 十分 だ Jと 言 うの と、
が 、これ これを詰めれ ば 良くなるJと 言 うの は 、伝 えている内容 はほとんど同じなの に印
象 は まったく違 い ます。言葉 には力 があります。使 い 方 次第 で 、相 手 を精神 的 に追 い
詰 めてしまうことt)あ れ ば 、相 手にやる気を起 こさせ ることも出来るのです .
「祝 婚 歌 Jに ある通 り、
「正 しいことを言 うときJ、 つ まり間違 い を指摘 したり仕 事 の や り
方を指 導 したりす る時 には 、相 手を傷 つ けない よう少 し控 えめな言 い方 をするのが 望
ましいのです。組織 を管理す る立 場 の 人 間 は 、不 Z、 要 に部 下を追 い 込む ので はなく、
前 向きな表からの 言 葉使 い をす ることで 相 手を元気 づ け、明るい展 望 を示 すよう工 夫
する必 要 があると思 い ます 。

子 どもの肩 の力 の 抜き方
部 下を指導 す る際 に、もう一 つ 重 要 なポイントがあります 。か つ て私 が 育 ったレトロ
な職 場 では 、経験 不 足 の部 下 に対 して「お 前 、馬鹿 だなあJと 平気 で言 うような人 がた
くさん いました。しか し、たとえ相 手 が部 下 だとしても「馬鹿 だなあJと 言 つて苛 立ちをぶ
つ けるの は大 変 失 礼 な振 る舞 い だし、部 下 の指 導 としては何 の意 味もありませ ん 。上
司は、たとえ苛立ちを覚 えたとしてもそれを抑 えて、部 下 に対 して具 体 的なアドヴァイス
をしてあげる必要があります 。
この点 につ いては 、息子 の少 年野 球 の 手伝 いをした経験 が参 考 になりました。息子
は小 学 4年 生 の 頃 から少年 野球チ ームに属 していて、私 はどんなに忙 しくても欠かさ
ず 週 末 の試 合や 練 習 の 手伝 い に行 って いました。試 合 になると子 供 たちは 緊 張 して
動きがぎこちなくなります 。しばしば投 手 はストライクが入 らなくなるのです が 、そんな時
コー チ の大人たちの ほぼ 9割 は「肩 の 力を抜 けえ !」 とアドヴァイスを送 ります 。私も最
初 はそうでしたが 、そ のうちに「肩 の力 を抜 け」と言 われた子 供 たちは本 当にそう出来る
の だろうか 、と疑 間 に思 うようになりました。欠 点 を指 摘 して「なお せ 」とい うだけではそ
の欠 点 は治 らな い 、治 す ため の 具体 的な アドヴァイスが必 要なので はないか と感 じた
の です 。そんな事 を考 えてい た時 、守備 位 置 に散 つた子供 たちにそ の 場 で小 刻 みな
ステップ を繰 り返させ ているチ ームに 出くわしたのです。私 は「これだ !Jと 思 いました。
そ の チ ームは 、ステ ップ を繰 り返す ことで血 行 を促 進 して子供 たちの 体をほぐし、動 き
や す くなるように仕 向け、緊 張 による失敗 を防 ごうとしていた訳 です。子 供 の 野球も役
点を指 摘す るだ けでなく、子供たちにス
所 の仕事も同 じです。上 司は、単 に部 下 の 欠 ′
テップ を踏 ませるような具体 的なアドヴァイスを送ることが大事 です。

むや み に叱らない戦術
部 下 の 気持 ちを考えながら指 導 す るということは 、おんぶ に抱 っこで 面倒 を見 てや
るということではありません。部 下 が力を発揮 できるように 、精神 的 に楽な環境 を作 った
り、能 カ アップ の ため の 道 筋 に気 づ かせ てあげたりす るとい うことです 。部 下を叱 らな
い 、怒 らない とい うことでもありませ ん。叱らない とい けない 時もあるの です が 、その タイ
ミングや 物 の言 い方 に気 を付 けなけれ ばならない ということです 。
計 画課 で 防衛 力 整備 の 総括 を担 当 していた 頃 、装備 品 の 単価 積 算 の や り方 につ
い てある部 下をか なり強 い言 い 方 で咎 めたことがありました。す ると、人 一 倍 抗 たん性
が強 くてしつか りしたタイプ の彼 が 、こちらが 焦るくらい狼狽 してしまったので す。言 い
方 が厳 し過 ぎたかと反省 したのです が 、同時 に 、普 段あまり怒 らない私 が怒 つたか らビ
ックリさせ てしまったのかも知 れない と気 づ きました。それで思 い 出 したの が 、自分 が新
人だ つた 頃 のことで す。既 に紹 介 したように、役所 に入りたての 頃 、私 はほとんど毎 日
怒 鳴 られ ながら過 ごしてい ました。す ると、そ の うちに叱 られ ることに慣 れてきて 、一 年
経 つ 頃 にはさほど怖 さを感 じなくなっていたのです 。怒 りは本 当に必要な時 のためにと
って お く方 が 、経 済 的 だし効 果 的です 。この一 件 以 来 、ここ一 番 とい う時以 外 はむや
み に叱 ったり言葉 を荒 らげたりしないよう、戦術 的 に振 舞 うことにしました。
ここで説 明 した組 織 管 理 の技 は 、いずれも部 下 の ストレスを増や さない 、む しろ軽 減
させ ることに重 点 を置 い たtぅ の です 。どんな仕 事 にもストレスは付 き物 で す か ら、上 司
の言動 で不必 要なストレスを上 乗 せ す ることは避 けなけれ ばなりませ ん ,そ の 意味 で 、
や っては い けないことの典 型 がパ ワハ ラ・セ クハ ラです。最 近 は職 場 だけでなく社会 全
体 でパ ワハ ラ・セ クハ ラに対す る意 識 が 向 上 してきてい ます が 、組 織 を管 理 す る立 場
の 者は十 三 分 に注 意を払 わなけれ ばなりません =

各幕調整 でこだわつた「自分流 」
私 が入 庁 した頃 、内局 の 文 官 の 間 には「内局 が 各幕 をコントロール してい るJと い う
強 い意識 が 存在 していました。後年 の 防衛 省 改革 会議 報 告 書 が指 摘 した「内 部 部 局
の 文 官 が (シ ビリアンコントロール の )役 目を代 行 してきたJこ とから生まれ た意識 、と言
えるかt)知 れ ませ ん。また 、これ まで何 度も触 れたように 、当時 の 内局 の 中心 的な仕事
は防衛 力整備 だ ったため 、省 全体 の 取 りまとめ役 の 内部 部 局 が事 業 要 求側 の各幕 僚
監部 よりも強 い立 場 に立ちや す い構 図がありました。これ らが相 まって 、各 幕 との 間 で
は理 屈 と説得 による丁寧 な調整 よりt)、 査 定側 の権 限を背 景 にした強気 の 手 法 が 幅を
利 かせ てい ました。さらに 、私 の 日には 、物事 を強 引 に進 めるパ ワー 系調整 llに たけ
た人が 人事 的 にも評 価 されているように映 りました。
他 方 、私 自身 はパ ワー 系 の 強気な調整 には抵 抗感 があり、内局 の 雰 囲気 に対 して
一 種 の 気後 れを感 じながら過 ごしていました。入庁か ら数 年 が経 ち部 員 になった 頃 、
ふと 「自分 のや り方 でどこまで行 けるのか 、自分 自身 と賭 けをしてみようか Jと 思 い立 t,
ました。パ ワー 系 のや り方ではなく、あくまでも相 手 と友 好 的な雰 囲気 を保 ちながら極
力説 得 によって理 解 を得 る、頭 ごなしに相 手 の考 えを否定 しない 、合 意 形成 を大事 に
する、長 幼 の序 を大 切 にしながら調 整 す るといつた 自分流 の や り方でどこまで生 き延
びられるかとことん試 してみようと考 えたのです。
始 めてみると、自分 の流 儀を貫くことは覚悟 していた以 上 に 困難 でした。私 のや り方
は信頼 関係 作 りには有用 です が 、丁寧 に議 論 する必要 があるため時 間 がかかります。
これ に対 して、パ ワー 系 の 強 引なや り方は効率 的 に素 早 く結論 にたどり着 くことが出来
ます 。とか く仕事 の速 さが 重 宝され る風潮 の 中、私 のや り方 は理解 され づ らく、部員 時
代 には 当時 の審議 官 から「君 、ふ にゃふ にゃしていて頼 りな いなあJと 面 と向か つて言
われ たことがありまヒ た。またある時 には 、お 仕 えして いた局 長 から「もつと自分 が 、自
´
分 が 、というのを出 した方が良 い Jと 言われ たこともありました。しか し、自分 の流儀 は改
めませんでした。と言うよりも、改めることが出来ませんでした。
役人人生を終えてみて、無理にパワー系調整術を真似なくて良かったというのが率
直な気持ちです。自分 の流儀を貫くのには手間暇がかかりましたが、そのお陰でポジ
ティヴ・コミュニケーションを始め様 々な技を身につけることが出来たし、何よりもその都
度カウンターパートと信頼関係を築くことが出来ました。ある自衛官からは「有事 になつ
たら最初に爆弾を落とす先は内局だ、内局は敵だと先輩から教えられたけれども、こう
やってよく話し合ってみると全然違うことが分かったJと 言われました。さらに、別の 自衛
官からは「黒江さんは我 々の主張をちゃんと問いてくれる。でも、なんだかんだ議論 し
ているうちに、何となく黒江さんの言う通りになっちゃってるんだよね」と言われたことも
ありました。もちろん、これらの言葉 には皮肉と外交辞令が混じつているものと思います
が、必要なことを言い合 える関係を作れた証と受け取れそうなので、最高の誉め言葉 と
考えるようにしています。
コミュニケーションの技 については今回で一段落とし、次回は秘書官時代 の失敗 の
数 々を紹介することにします。
失敗だらけの役 人人生 (15)
黒江 哲郎
官房 業務 ∼ 気が利 かない秘書 官 ∼
大 臣 に醤 油を浴 びせ る
官房 の 大事 な役 割 の 一 つ に 、大 臣を直接 お支 えす る補佐 業務 があ ります 。それ を
大 臣 の御側 (お そば )で 担 うのが大 臣秘 書官です 。私 は、1995年 (平 成 7年 )8月 か ら
1年 3カ 月 の 間 に二 人 の防衛 庁長 官 に秘書官 としてお仕 えしました。また、似 たような
業務 として、2001年 (平 成 13年 )4月 から約 3年 にわたり総理 官邸 で総理 秘書官 の補
佐 を務 めました。
私が大 臣秘書官 に任 ぜ られた 1995年 (平 成 7年 )は 、1月 に阪神 淡 路大震 災 が発
生し、さらに 3月 には地 下鉄サリン事 件 が起きるなど 日本社 会 に不安 が広 がっていた
時期でした。冷戦 終結後 、自衛 隊は国連 PKO等 の海外任務 を通 じて存在感 を高めま
したが 、これ ら二つ の事件 の 際 にその組 織 力 と高 い 専 門技能 を示 したことで 国民 の信
頼感 はさらに高 まりました。これを受 けて、当時 の防衛 庁 内では昭和 51年 に策 定され
た「防衛 計 画 の大綱 」(51大 綱 )の 見直 し作業 が加 速 してい ました。私 は 、秘 書官 にな
るまで の 9年 間をず つと防衛 局 (当 時 )で 勤務 し、中期 防 の 見直 し作業や 51大 綱 見直
し作業などに携 わつてい ました。
御 側 要員 たる秘 書 官 の仕 事 には 、役所 の 政策 などを大 臣 が理 解 しや す いように補
佐 す るサ ブスタンス (サ ブ )の サポー トと、大臣がスムーズ に公 務 や政 務 をこなせ るよう
に 日程 を整 理 したり、行動 を支 援 したりす るロジスティクス (ロ ジ)の サポー トの二 種類 が
あります。防衛 局勤務 が長 かつたの でサブ 面 はあまり心配 してい ませ んでしたが 、生来
の気 の利 か なさに加 え 、保 守 的で融 通 が利 かず 柔軟性 に欠 ける性 格 のため 、ロジの
サ ポー トは不 安 でした。実 は 、秘 書 官 の 内示 を受 けた時 に私 の性 格 を知 る家 内 か ら
「あなたみた い に気 が利 かない 人 が 秘 書 官 ?」 と驚 か れ たので す が 、そ の懸 念 がまさ
に現実 のもの となり、お仕 えした二 人 の大 臣には数 限りなくご迷 惑 をおかけしました。
秘書官 に任 命 された直後 の 9月 に沖縄 で駐 留海 兵 隊員 ら 3名 の米兵 が小 学 生 の
少 女 に暴行 を加 えるという大事 件 が発 生 し、俄 然 沖縄 問題 が注 目を集 め 、日米地位
協 定 の不 平等 性 などが 日米 間 の 大きな 問題 としてクローズアップ され るに至 りました。
そん な中で、駐 日米 大 使 が 防衛庁長 官を表敬 するという日程 が入 りました。ただ 、その
日は秋 の 臨 時 国会 中で大 臣が委 員 会 に 出席 す る予 定だ ったため 、昼休 み に六本 木
の庁 舎 で短 時 間 の表敬 を受 け、す ぐに国 会 ヘ トンボ返 りす るとい うスケジュー ル が 設
定され ました。昼食 は大 臣 の お好 み の 寿 司弁 当を用 意 し、時 間 の節 約 のため 国会 か
ら防衛 庁 へ 戻る車 内で召し上がっていただくという手 はず となっていたの です が 、その
車 中に悲劇 が待 ってい ました。大 臣 の 隣席 に座 つていた私 は、いつ になく気 を利 か し
たつ もりで付 属 の小 皿 に醤 油を注 いで 差 し上 げたのです が 、そ の 瞬 間 に車 がカーブ
を切 つたため 、あっと思 う間もなく醤 油 が大 臣 のズボンを直撃 してしまったの です 。揺
れる車 内でわざわざ小皿 に醤 油を注 いで 出そうとした時点でアウトでした。私 は痛 烈な
後悔 とともにパニ ックを起こし、必死 にティッシュで 大 臣 のズボンの醤 油を拭 ったりした
のです が 、綺麗 になるはずもありませ ん。しか し、大 臣は全 く動 ぜ ず に何 事もなか つた
か のようにその まま表敬 に臨まれ 、国会 へ 戻 られました。ただ 、国会議 事 堂 に到 着 して
から委員 会室 に入 る前 にトイレに寄 られて 、大 臣ご 自身 がズボンを水 で 洗 われました。
その 時も大 臣は落ち着 いておられて、 「醤 油 つて結 構匂うんだよ。大使もび つくりしたん
じゃないか な」とニコニコしながら明るく私 に言 われるのです 。人 一 倍 鈍感 な私 です が 、
この 時 はさす がに文 字通 り穴があったら入 りたい気 分 で 、秘 書官 をクビになることも覚
悟 しました。幸 い 大 臣 の優 しいご性 格 の お か げでこの件 で叱 られることは 一 切 なく、ク
ビにもされず に済み ましたが 、ただでさえ時 間 がない 時 に柄 にもないことをす べ きでは
なかつた 、と猛省 しました。

鬼 門 の沖縄 問題 …総理 直 々 の叱 責
その 後 同じ年 の 10月 に大規模 な県民大会 が 開か れるなどさらに反 基 地運 動 がエ
スカレー トし、11月 には駐 留 軍用 地特措 法 に基 づ く代理署名 を県知事 が拒否 し、国 と
沖縄 県 との全 面対 決 の様 相 を呈す るに至 りました。大 臣 は出張 の 帰 途 に空港 でこの
代 理 署名 拒否 問題 の発 生 の報 告を受 け、総 理 と対応 を協議 す るためそ のまま総理 公
邸 へ 直行 しました。協議 の最 中 に、大 臣から沖縄 県議 会 のある議員 へ 電話 をつ なぐよ
う指 示 され ました。当時携 帯電話 はさほど普及 してお らず 、総 理公 邸 の 固定電話 で 沖
縄 県議 会 へ か けようとしたのですが、ボタンが 多く複 雑 でなかなかうまくい きませ ん 。四
苦 八 苦 していると、なんと見 かねた総理 ご 自身 が懇 切丁寧 に電話 のか け方を教 えて下
さった の です 。総 理 が気 さくな方 で本 当に助 かりましたが 、日本 国 内閣 総 理 大 臣 に電
話 のか け方を直接 教 えてもらつた秘書官 はそういないのではないかと思 います 。
時期 が 時期 だ った の で 、沖縄・米 軍 問題 に 関連 して多 くの 失敗 をしで か しました。
特 に、翌 1996年 (平 成 8年 )1月 に総 理 が交替 した後 には 、新 しい総理 に一 度 ならず
三度も直接 叱られました。普通 、総理 が他 の 閣僚 の 秘書官 を直接 叱 りつ けたりすること
はないの です が 、新 総理 の 目には よほど気 が利 か ぬ 秘 書 官 が い ると映 つたのかも知
れ ませ ん。中でも最も印象 に残 つているの は 、通 常 国会 の 予算委員 会 中のことでした。
ある日の午後 、予算委 員会 中 に隣席 に座 ってい た他 省 の秘 書官 か ら「大 臣へ 」と言
つてメモ が 回 つてきました。す ぐ前 に座 つてい る大 臣 に渡 す の は簡 単 で す が 、自分 が
内容 を理 解 で きないものを報 告す る訳 にもい きませ ん。そこでまず 自分 で判読 しようと
したので す が 、メモ を渡 してくれた秘 書 官 が「早く大 臣に見 せ ろJと つつ くのです。仕 方
なく大 臣にお見 せ し、二 人 で解 読 してようや く内容 を理 解 しました。在 日米海 兵 隊 のヘ
リが 民間空港 へ 緊 急 着 陸 したという内容 でした。
米軍機 も自衛 隊機 も飛 行 中 に異 常 が発 生 す ると、たとえ些 細 な不 具合 であつても
重大事 故 を避 けるため予 防的 に近傍 の 空港 へ 着 陸 します 。緊急着 陸 自体 はさほど珍
しくないため 、民 間 に深刻 な被 害を与 えたりしない 限り速 報 され る仕組 み にはなつてお
らず 、この 時もまだ防衛庁 の指揮 系統 からは報告されてい ませ んでした。
一 方 、民 間空港 で の異 常事態 ということで 、総 理 は警 察 か ら直ちに報 告を受 け、す
ぐに防衛 庁長 官 へ 注意 喚起 しようと試 みられました。私 が受 け取 つたメモ は 、総 理 の指
示 で 総 理 秘 書官 が書 き、閣僚席 の 後 ろに居 並 ぶ 各省 庁 の秘 書官 たちの 間をリレー さ
れ て届 けられたもの だ ったのです。そうとは知 らな い私 は 大 臣 へ すぐには渡 さず 解 読
を始 めてしまい 、気 をもんだ総理 秘 書 官 が「早 く大 臣 へ 報 告 せ よ」と身振 りで示 してい
たことにも全 く気 づ きませ んでした。そこで 、見 かねた隣席 の秘 書官 がつ ついてくれた
というのが事 の真 相でした。緊急着 陸 自体 は民 間 の被 害もなかったため 、委員 会 が終
了する頃 には忘れか けてい ました。
ところが 、質疑 が終 わり大 臣 と私 が退席 しようとしていたところ、総 理 がつか つ かとや
つて来られ たかと思 うと、まっすぐに私を指 さし、委員 会 室 に残 っていた人たちが一 瞬
静 まり返 るほどの物凄 い剣 幕 で「秘 書 官 、そういう情 報 はす ぐに大 臣に上 げなきゃダメ
だつ」と怒 鳴 ってか ら立 ち去 って行かれ たの でした。あまりに突 然 のことで 、得 意 の 貧
血 で任1れ る暇もありませ んでした。二 人 でしば し茫 然 とし、先 に我 に返 られた大 臣 が
「叱 られちゃつたなあ。まあ気 にするなJと 慰 めてくださいました。
後 で 聞 いたところによると、メモ が 防衛 庁 長 官 の 手 に渡 るまでの様 子 を総 理 ご 自身
が横 目でチ ェックしてお られたのだそ うです 。防衛 庁 の感 覚 ではそれ ほど深 刻 な事案
ではなか ったこと、秘書官席 はとても狭 いため周 囲 の様 子 に気 づ くの は 困難なこと、手
書きのメモ が読み にくかったことなど弁 解 したい点 は 多 々あります が 、沖縄 問題 や在 日
米海 兵 隊問題 が取 り沙汰 されていた時 期 の振 る舞 い として緊 張感 が足 りなか ったと言
われれ ばそ の通 りです。今 は貴重な経験 だったと笑 つて振 り返 ることが 出来ます が 、大
臣 の 目の 前 で総 理 に怒 鳴 り上 げられたの は心理 的 に結 構 大 きなダメー ジがありました。
これだ けでなく、大 臣 の 沖縄 基 地 視 察 に随行 した 際 に風 邪 をひ い て使 い物 になら
なかったこともありました。辛うじて現地 まで 同行 したものの 、SPさ んから「大 臣にうつ し
たら大 変 だから一 緒 に行 動 しないでくれ 」とにべ もなく言 われ 、大 臣 が視 察 され ている
間ず つと基 地 内 の 医務 室 でベ ッドに横 になつて休 んで い ました。大 臣は優 しい 方 で 、
この 時も「秘書官 は働 き過 ぎだから」と慰 めて下さいました。

大 臣と役 所 の橋 渡 し
冒頭 に 、秘 書官 の仕 事 の うちサブ面 につい てはあまり不安 を感 じてい なか つたと書
きました。ロジ面 で数 多 く失敗 したの に比 べ れ ばサブ面 の 失敗 は少 なか ったと思 って
います が 、実は今 に至るまで心 にひ つかかつている一件 があります 。
政治家 である大 臣 が 、防衛 庁 という大組 織 の 中でどんな仕事 が進 行 しているのか を
全 て知ることは不可 能 です 。それを補 うため 、庁 内 の 出来事 に気を配 つておくことも秘
書官 の仕 事 です。ところが、沖縄 問題 に関連 して、私 はそれ に失敗 したのでした。
1996年 (平 成 8年 )4月 12日 の朝 、日経新 聞 の一 面 に「普天 間基 地 、返還 へ 」とい
う特ダネ記 事 が掲 載 され ました。米海 兵 隊 にとって普天 間基地 は極 めて重要だとず つ
と間 かされてきた私 は、記 事 を読んだ瞬 間 にあり得 ない話 だろうと思 いました。しかし、
その 日は参 議 院 の 予算委 員 会 が 予 定され ていた上 に 、金 曜 日で大 臣 の 定例 記者 会
見もあるの で 、念 の ため 防衛 政 策 課 の 担 当に電 話 を入れ て確 認 して み ました。私 が
「こん なことあるはずない ですよね ?」 と問うと、 「そん なはずな いよ」とい う答 えの 後 に
「アメリカ発 の記 事だし、… 我 々の知 らない ところで何 か や つて いるのかも知れないな」
という曖味 なコメントが加 えられました。彼 の答 に軽 い ひっかか りを覚 えながら大 臣をお
迎 えに行 き、車 中では大 臣と「なんか変 です ね J「 う― ん 、でもこんなこと出来 たら苦 労
はないね 」などと話 してい ました。
その まま答 弁 打 ち合 わせ のため 国会 内にある政府 控 室 (そ の 頃 はまだ「政府 委員
室 Jと 呼 ばれ てい ました)に 向かった ところ、部屋 の 前 に担 当局長 が 待 つてい て 、大 臣
に「 日経新 聞 の件 、なにか 総 理 がお考えかも知れ ませ ん 」と耳打ちするの です。大 臣も
私も最 初 は 半信 半疑 でした。しか し、委員会 が行 われ ている最 中に 日米合意 がなされ
るかも知 れない とい うことと委 員会終 了後 に官邸 に来 るようにとの指示 が伝 わ つて来 た
ため、これ は本 当かも知れ ないと興 奮す る一 方 、なぜ 基地 問題 の担 当閣僚である防衛
庁長 官 に伏 せ られ ていたのだろうかという疑 間 が湧 いてきました。
官邸 には防衛 庁長 官 と外 務 大 臣 が 呼 ばれてい て 、総 理 本 人 から本 件 の経 緯 につ
いて説 明 がありました。終 了後 、大 臣とともにキツネにつ ままれたような気 分 で帰 庁 しよ
うと官邸 の 玄 関 に出たところ、随行 してい た担 当局長 が「秘書 官 、悪 い けど大 臣と相 乗
りさせ てくれ 。君 は僕 の官 用 車 で役所 に戻 つてくれ 」と言 うのです 。詳 しい事 はわかりま
せ んが 、車 中で 局長 がこの件 の経緯 を詳 しく説 明したのだと思 います。
そ の 夜 、総 理 と駐 日米大使 の共 同会 見をテ レビで 見届 けた後 、退 庁 す るため正 面
玄関 へ 向か う階段 を下りながら大 臣が「(総 理 の)円 月殺 法 にや られたなあ」と淡 々 とつ
ぶ や か れたの は、船 橋洋 一 氏 の著書「同盟 漂流 」に描写 されている通 りです。
漏 れ聴 いたところでは 、総理 自らが外務省 と防衛 庁 の 限られ た事 務 方メンバ ー を使
「(洩 れたら)殺 すぞ」と
つて返還 交渉を進 める一方で 、関係者 に厳 しい籍 口令 を引き、
固く口止 めしてい たの だそうで す。秘 書 官 の私 が 情 報 を聞き込 んでくることが 出来 れ
「厳 しく口
ば 良かつたのでしょうが 、現 実 には 出来 ませ んで した。それ を悔や み つ つ 、
止 めされ ていたとしても、せ めて大 臣 にだけは教 えてくれ ても良かつたのではな いか 」
とも考えます。どうす れ ば 良かつたのか 、今 でも時 々考えます が答 は見 つ かりません。

「まつ りごと」の機 微
多くの場 合 、私 が 失敗 するのを大 臣が慰 めてくれるというとんでもない構 図 でしたが 、
大 臣ご 自身 に厳 しく叱 られ たこともあります 。小選 挙 区制 が 導 入され て初 めての 選 挙
が近 づ いていた時 期 のことでした。ある朝 、事務 次官 と官房 長 が大 臣 に報 告 したい案
件 があると言 つてこられ たので 、機 械 的 に一 般案 件 の説 明後 の 時 間帯 に入れたところ、
これ が 当時 の 野党第 一 党 か ら OB自 衛 官 が 出馬 するという情 報 の報告 だ ったのです。
このスケジュー リングにつ いては、普段 温 厚 な大 臣か ら 「なぜ 朝 一 番 で報 告させ ないの
かつ」と日から火 が 出 るほど怒 られました。当時 の私 は、政 治家 にとつて選 挙 は生 死を
賭 けた戦 いの 場 だということを本 当 の意 味では理 解 していなかったのです。「まつ りご
と」の 重要性 を思 い知 らされた一 件 でした。
本 稿 を綴 りながら「秘 書 官 時代だ けでもこん なにたくさん の失敗 をした のか 」と改 め
て呆れるとともに恥 じ入 りましたが、とにもか くにもクビにならず に任 期 を全 うさせ て頂 き
ました。細 かいことにこだわらない温厚 な大 臣 に恵 まれたとい うの が最 大 の理 由です。
他 方 で 、失敗 にめげず に気 持 ちを切 り替 えることが 大事 だと思 い ます 。一 番 良 いの は
失敗 しな いことです が 、若 い 人 たちには 仮 に失敗 してもそれ にとらわれ過 ぎず に前 を
向 いてほしい と,思 います 。
次 回 は 、官 房 業務 の最 後 のテ ー マ としてマスコミとの接 し方 につ い て触れ たいと思
います 。
失敗だらけの役 人 人生 (16)
黒江 哲郎
官房 業務 ∼マスコミとの 接 し方 ∼
両極 端 のマスコミ対応
自衛 隊創設 以 来今 日に至るまで 、一 貫 してマスコミの厳 しい批判 にさらされ て きた
防衛省 にとって、マスコミ関係 者 とどう付 き合うかというの はずっと脳ましい課題 でした。
毎 年 々 々 防衛 予 算 は細 部 に至るまで批 判 的 に検 証 され 、詞1練 中や 活 動 中の 事 故 は
もとより、隊 員 の不祥 事 のみならず 自衛 官 OBの 不祥事 に至るまで厳 しく糸11弾 され てき
ました。このような環境 の 下 、職 員 の 間 には 、マスコミの理 解 を得 るために積極 的 に政
策 などの説 明 に努 めるよりも、批判 の材 料を 与えないようZ、 要最小 限 の接触 にとどめる、
どうしても記者 の 質 問を受 けなけれ ばならない場 合 にも本 で 鼻 を括 るような対応 に終
台す るとい うような傾 11が 根 イ
女 見在もおコ ヽ
寸き、それ がモ ■ま―
てい るよう1こ 感 じらオ ■。しか し、
このような対応 では組 織 の 意 図や政 策 の 内容 が正 しく伝 わらず 、かえって不 正 確 な報
道 につ ながりかねませ ん。
一 方で 、消極 的なマスコミ対応 とは 対 照 的 に 、防衛省 に 関係 す る様 々な特ダ ネ報
道がテ レビや新 間を賑 わせ てきた歴 史があります 。構想段 階 の新規装備 の導入 ブラン、
日米 間 で調 整 中 の施 策 の 内容 、最 終決 定されていない 予算額 の数 字 、あるい は未 公
表 の 不祥 事情 報 など多種多様 です が 、それ らの 中 には 明らか に内 部 の 者 によるリー ク
と思われる例t)数 多くありました。
リー クにつ いては 、省 内 で 問題 視 され てきただけでなく、そ の 時 々の 政権 中枢 から
も「こん なに秘 密 が漏 れるようでは有 事 に敵 と戦 うことなど到底 できないJと 繰 り返 し厳 し
く叱 責 され てきました。過 去 には 、記者 会 見 の種 類・回数 が 多過 ぎるの が原 因 だから
減 らす べ きだという指摘 を受 けたこともありました。防衛省 では各省 共通 の 大 臣定例 会
見 の ほか に、幸R道 官 と四人 の幕 僚長 がそれぞれ 会 見を行 っています 。確 か に記 者会
見の機 会 は 多 いの です が 、こうした場 で突 如 秘密 が 明かされたりす ることはな いので 、
会 見 の数 を絞れ ばリー クが減 るという訳 ではありませ ん。む しろ、リー クの原 因として以
前 から囁 かれ てきたの は 、ル ール に従 わず に組 織や 政策 へ の異論 、上 司や 同僚 へ の
不満・恨 みなどを吐露 したり、仕 事 上の便 宜を図 つてもらう見返 りとして情報 を提供 した
りす るマスコミとの 不健 全 な関係 の存在 でした。リー クす る本 人は 自分 がや ったとは言
わな い し、マスコミ関係者 は「取材 源 の 秘 匿」と称 して特ダネの提 供 元 は決 して 明 かさ
ないので 、ここで は単なる噂 としか記 述 しようがありませ ん。しか しながら、リー クが存在
すること自体 は事 実 です。
素 っ気ない 木鼻 の 対応 か 、見返 りを期 待す るような不健 全 な対応 か という両極 端 の
マスコミ対応 が生まれ てしまう背景 には 、報道機 関 との付き合 い方 について組織 として
の対処 方針 が 明確 でない という問題 がある1)の と感 じます 。マスコミ対応 の基本 に関す
る「組 織 知 Jが 確 立され てお らず 、共有 t)継 承もされていないため 、職 員 は個 々の 判 断
によってマスコミに対応 せ ざるを得 ないの です。過度 の警 戒 心 による不親 切 な対応 や
利 害 の介 在 する不健 全 な関係 を減 らすためには 、望 ましいマスコミ対応 の在 り方 を整
理 し、職 員 の 間 でしつかり共有する必 要 があります。

バ ックグラウンドブリーフィングの重 要性
私 自身も、若 手 の 頃 には マスコミに対 して理 屈抜 きに強 い警 戒 心を抱 き、出来る限
り接触 を控 えようとしていました。先輩 からマスコミとの付 き合 い方 につ いて筋道 立てて
しっか り教 えてもらった経験 などはなかったし、まして報道 対応 の研 修 などは存在 して
いませ んでした。転機 が訪 れたの は 、官房 文書課 の先任 部員 を務 めていた頃 でした。
「記者 との接 触 を怖 がる必 要 はない。マスコミと付 き合 う
当時官房 長 だつた先輩 が 、
際 に大事 な点 は、記者 が知 りたいことを隠す ので はなく、知 りたいことを正 しく伝 えるこ
とだ 」と教 えてくれたの です。当時はまだ報道官 のポストも設 けられていなか ったため 、
官房長 は大 臣会見 に立ち会うだけでなく、自らも会 見を行 つていました。仕 事柄 、記者
との懇 談なども頻繁 に行 つていたことから、その経験 を教 えてくれたのでした。
「記者 クラブを見 ていると、マスコミ各社 の記者 は平均 して 1年 くらいず
彼 によれ ば 、
つ しか 在 籍 していない。役 人だ つて 、一 つ の仕 事 をきちんと身 に付 けて一 人 でこなせ
るようになるには普通 2年 くらいかか る。それと比 べ れ ば 1年 はかなり短 い。記者 たち
は 、そ の短 い期 間 のうちにもしか すると初 めて 聞くような問題 につ いても正 確 な記 事 を
書 か なけれ ばならな い。そ の 際 に、役 所 か ら抗議 を受 けるような誤 つた記事 は絶 対 に
書 きたくない。だか ら必 死 に取 材 して 、正 しい内 容 を書 こうと努 力 しているのだ 。我 々
は 、バ ックグラウンドブリーフィングとい う形 で基 礎 知識 を丁寧 に教 えてあげることで 、そ
の努 力を助 けれ ば 良 いの だ。記者 との付 き合 い につ いて特ダネを渡 して恩を売ること
だと勘違 いしている人もいるが 、そんなの は邪道 で論外 だ 」とのことでした。
たまたまこうい う指 導 をしてくれ るような上 司 に巡 り合 えたの は 、幸運 だ つたと思 い ま
す。それ 以来 、記者 の人 たちに素 つ気 ない 対応 をす るので はなく、出来 るだけ丁寧 な
バ ックグラウンドブリーフィングを行うよう心が けるようになりました。

政策も自分も鍛 えられた他 流試 合
バ ックグラウンドブ リーフィングを重視 する姿勢 が 高 じて 、次長 や 局長 、官房 長 を務
めるようになった頃 には 、「自分 たちの政策を売 り込 む 」ことを 目的 として、より積極 的 に
マスコミ各社 へ の説 明 の場 を求 めるようになってい ました。こうした事 は 、他 の 中央 官庁
にお い ては別 に珍 しい事 ではありませ ん。ある時 、親 交 のあった大手新 聞 の論説 委 員
から「先 日、財 務省 の 防衛 担 当主計 官 が「予 算 のご説 明」にや つて来 たよ」と言 われま
した。財 務 省 には財 政研 究 会 とい うれ つきとした記者 クラブがあつてマスコミ各社 の 担
当記者 が 常駐 しています し、各社 には財 政担 当の論説 委 員もいます 。しかし、財務 省
の役 人 は 、財 政 担 当だけでなく防衛 担 当 の論 説 委 員 の 所 にまで財 政 状 況 や 防衛 予
算 に対す る自分 たちの 考 え方を説 明す るために足 を運 んでいるの です 。説 明を聞 い
てそ の 内 容を正 しく理 解 すれ ば 、それを無 視 して記 事 を書 く訳 には いきませ ん。これと
同 じことは、政 界や 学 界 、財界 にも当ては まります 。要す るに 、味 方を増 や した い と思
つたら自分 たちの 考 え方 を正 確 に理 解 してもらうことが 第 一 歩 であり、か つ 最も効 果 的
だということです。そのためにも、役 人は 内弁慶 にならず に、政策 に対す る幅 広い理 解
と支持 を得 られるよう外 に 向かって説 明 の機 会を求めてい く必要があります 。
防衛 政 策 局 次長 として担 当した普 天 間移 設 問題 は 、政 権 交 代 の影 響 を受 けて混
乱 しました。当初 は米側 との 協 議 が 困難 を極 め ました。そ の後 、移 設 先 が辺 野 占に回
帰 して 日米 関係 は 落 t,着 いたものの 、今度 は 県 との 関係 が停 滞 しました。県民 の期待
値 が上 がってしまったことか ら、県 はお いそれ と埋 め立てに協 力できなくなってしまっ
たの です 。こうして辺 野 古移 設 はほとんど前 に進 まず 、多くの 報道機 関t)辺 野 占移 設
案 を批 判 的 、懐 疑 的な眼で 見 てい ました。そこで 、私 はつ てを頼 つて手 当たり次 第 に
マスコミ各社を回り、論説 委 員等 へ の 説 明を繰 り返 しました。
そんな中で 、2011年 (平 成 23年 )12月 のある日、辺野 古移 設 に特 に批判 的なある
新 聞社 の論説 委 員会議 で説 明させ てもらった経験 は忘れ られ ませ ん。今 考 えると無謀
としか 言 い様 がありませ んが 、私 は「社 論 を変 えてもらおう」とばか りに 意気 込 んで乗 り
込みました。ところが 、会場 の会議 室 へ 入 った途端 、まず 集 まっている人たちの数 の 多
さに圧 倒 され ました。出席 者 はせ いぜ い数 人くらいだろうと勝 手 に想像 していたのです
が 、論説 主幹 以 下なんと 10数 人 の論説 委 員 に加 え政 治部 の記者なども含 めて 20人
以 上の 関係 者 が集 まっていた のです。さらに 、説 明を始 めてか らは、防衛 問題 を担 当
してい ない 人たちから提 起 される質 問 の鋭 さに驚 かされ ました。法律 家 出身 の議 員 が
多 い公 明 党 の部 会 に一 人で法案説 明に行 ったような感 じ、と言 えば雰 囲気 を理 解 して
もらえるかも知 れませ ん。次 から次 へ と繰 り出さオじる厳 しい質 Pnuに 全 て一 人で答 えなが
ら、まるで一 対 多 の他流 試 合 を闘 っているような気 分を味 わ い ました。この 会議 を通 じ
て、自分 の説 明 の 中で何 が 足 りないか 、どの′
点に批判 が集 中するのか 、批 判す る側 は
何 を一 番懸 念 しているのか 等 々が 浮 き彫 りになりました。とても貴 重な経 験 でしたが 、
1)ち ろん社論 は変わりませ んでした。
これ と同じ頃 には 、辺 野 古移 設反 対 の急 先鋒 である沖縄 の新 聞社 へ 説 明 に乗 り込
もうと企 てたこともありましたが 、さす がに色 々な意 味で物 議 をかもしかね ない ということ
で上 司にきつ く止 められ て実現 しませ んでした。
このほか にも米海 兵 隊オスプ レイの普 天 間導入 問題 や 平和安全 法制 などにつ いて、
報 道機 関と調整 が つ きさえすれ ば喜んで説 明に赴 いてい ました。こうした マスコミ行脚
像を確 認 す る助 けになると同時 に 、自らの説 明 スキル の 向 上 にも大
は 、政策 に係 る論 ′
い に役 立ったと感 じます 。
マスコミ業 界 のことを詳 しく知 ってい る訳 ではありませ んが 、優 れたコラムニストの道
を歩 むような書 き手 の 人たちは 、特 ダネではなくテー マ に対 する切 り口や 洞 察 の 深 さ
で勝 負 してい ます。このため 、彼 らに説 明する際 にはバ ックグラウンドの 説 明を丁寧 に
行 うことは 当然 として 、防衛 政 策 の 章で触 れた「しかしそもそもJと いうような切 り口を積
極 的 に紹 介す るように心 が けてい ました。マスコミ各 社 の 人 たちとの議 論 を通 じてこち
らが気 づ か なか ったような切 り口が見 つ か ることもあり、自らの思考 を深 める手 助 けとも
なりました。

節 度 のある関係 造 り
現役 時代 には大 勢 の記者 と付 き合 い 、その 中の多くの 人たちとは今 でも親 交 があり
ます 。バ ックグラウンドブリーフィングに努 めていれ ば 自然 に親 しくなるし、親 しくなるほ
ど議 論も弾み 、相 手 の理 解も得 や す くなります 。世 間 一 般 の 人 たちは 新 聞や テ レビを
通 して我 々 の 政 策 に触 れることが多 いの で す か ら、記者 と良好 な 関係 を作 り、我 々 の
政 策 を正 しく理解 してもらい 、内容 を正 確 に報 じてもらえるよう丁寧 な説 明を心 がける
必要 があります 。
他 方 、いか に親 密 な関係 を作 れ たとしても、取材 す る側 の 報 道機 関 とされ る側 の
我 々 との 間 には構 造 的な緊 張 関係 があります。記者 と親 密 になり過 ぎた結 果 、この 関
係性 をうつかり忘れ て秘密 の情 報を 口に 出 してしまうような事 があつてはなりませ ん。ま
して、自分 の利 益 を図るために故意 に秘密 を漏 らす ようなことは言語 道 断 です 。マスコ
「言 えないことは 言 えない 」とけじめを持 って対処 するような節 度
ミ関係者 との 間 では 、
のある付 き合 いが必要です 。
こう書 くと、いか にも我 々役人 の側 にマスコミに報 じられては い けないような後 ろ暗 い
ことがあって 、節度 を持 って付 き合 うとい うの はそれ を隠 し通 す ことであるか の ように間
こえるかも知れ ませ ん。しか し、私 が 従 事 してきた 国 の 防衛 とい う分野 には 、事柄 の性
格 上公 表 になじまないようなものが数 多く存在 していました。
「事柄 の性 格 上公 表 になじまない Jと いうの は役 人 の 世界 でよく使 われ るセ ットフレ
ーズで す が 、大切 な の はこのフレー ズを一 つ 覚 えで 安 易 に繰 り返 す ことではありませ
ん。どういう事柄 の どうい う性 格 が公 表 で きない理 由なのか を十分 に理 解 し、それを対
外 的 にも説 明することが 重要なのです 。
例 えば 、防衛 省 は我 が 国周 辺 にお ける外 国 の軍事動 向 に常 に 目を光 らせ 、様 々な
情報 を集 めています。そ の 中 には 、一 部 を明かすだけで情報源 が特 定され、対応 策 を
講 じられてしまう結果 、以後そ の情報 をとれなくなるというようなものも含 まれています 。
あるい は 、自衛 隊 の保 有 する装備 品 の性 能 の細 部 が 明らか になれ ば 、戦場 で相 手
方 が有利 となり自衛 官 が命 を落 とす ことにつ なが りかね ませ ん。さらに 、作戦 計画 が 明
かされてしまえば 、自衛 隊 の 手 の 内 が す べ て 明らか になり国 の 防衛 が成 り立ちませ ん。
こうした 国 の 安全や 自衛 隊 の活 動 の成 否 に直結す る情報 につい ては 、特別 に慎 重
な扱 いが 必 要 です 。これ 以 外 にも、例 えば個 人 に 関す る情 報 の 中 には 慎 重 に扱 わな
けれ ばならな いものが含 まれ てい ます 。このような機 微 な内容 につ い て取材 を受 けた
場合には、それを公に出来ない理由を丁寧 に説明した上で「答えられない」としっかり
伝 えることが重要です。私の経験では、普通の感覚を持った記者は必ず理解 してくれ
ます。付き合いの長 い記者 の人たちは大勢 います が、彼 らは 口をそろえて「黒江さん
からネタもらつたことないんですよね―Jと 言います。
ここで説明したようなポイントを頭 に入れて、むやみにマスコミを怖 がることなく、取
材には適切なバ ックグラウンドブリーフィングを行い、健全で建設的な関係を築 いて行
くことが望まれます。

ここまで行事運営、国会対応、秘書官業務、そして今回のマスコミ対応 と、五 回にわ


たって官房業務 について述べてきました。連載を始 めて以来 、事態対処、防衛政策、
そして官房業務 と私が経験 した仕事 については一応全 てカバーしたことになります。
失敗だらけだった私の役人人生も終盤に近づいた訳ですが、ここから三回ほどは職業
人としての人生全般から感 じたことを述 べたいと思 います。もう少 しだけお付き合 い頂
ければ幸いです。
失敗だらけの役人人生(18)
黒江哲郎
職業人の心構え ∼後悔先に立たず ∼
何度も恥をかいた英会話
ここまで個 々の仕事 における失敗 の経験を中心に述べてきましたが、今回は役人
生活を通じて悔いが残っていることを紹介 したいと思 います。その第一 は、何と言つて
も英語の勉強です。
私がまだ若手だつた昭和末期の時代、内部部局のキャリア職員には英語研修 の機
会などが一応は与えられていました。しかし、人事院から防衛庁に割り当てられていた
留学枠が少なかったこともあり、留学経験者は 1∼ 2年 に 1人 程度しかいませんでした。
また、当時のメインストリームだった防衛力整備 に携 わる人たちの間には「自分たちの
仕事 の相手は各幕や大蔵省 であり、留学経験や英語能力など必要ない」というよう意
識がありました。自らを「ドメ派」と称 し、殊更に英語能力を軽んじる人たちもいました。
そんな雰囲気を象徴するような場面に出くわしたことがありました。部員になって二 、三
年経つた頃だつたと思います。ある先輩幹部が配下の課 に顔を出したところ、たまたま
一人の職員が米国国防省 のカウンターパー トに国際電話をかけて英語で調整 してい
ました。すると、それを聞いた幹部が大声で「嫌だね― 、ここは 日本の役所なのに英語
でしゃべっている奴がいるよ、嫌だね ―」と言つたのです。私 自身も当時は英語や海
外留学にはあまり関心を持つていなかったのですが、さすがにこの発言 には違和感を
覚えました。しかし、入庁三年 目に受けた英会話研修の成績 が冴えなかった上 、その
後も仕事で英語を使う機会が乏しかったこともあり、 「語学よりも仕事の中身だ」
などとう
そぶきながら結局真面 目に英語を勉強しないまま日々を過ごしていました。
ところが 1988年 (日 召和 63年 )3月 に、情報本部構想を具体化するため一か月の米
国調査出張を命じられ、一挙 に不勉強のつけを払わされることとなりました。役所も派
遣は命 じたものの私 の乏しい英語力 に懸念を持つたらしく、留学経験 のある陸幕 の二
佐 が同行してくれました。思えばこの調査出張は最初から波乱含みでした。成 田から
ロサンゼルス乗り継ぎの UA便 でワシントン DCへ 向かったのですが、出発が 2時 間ほ
ど遅れた結果、ロスで乗 り継ぎ便に間に合わず、スーツケースだけが DCへ 送られてし
まったのです。我 々 は文字通 り身 一つ で西海岸 に取り残 され、いわ ゆる「Red Eye
SpecialJ(深 夜便です)で 翌朝に DC入 りする羽 目になりました。初めての米国本土ヘ
の旅 の出鼻をくじかれ、先行きに暗雲が垂れ込めたのを感じました。
悪い予感は的中し、最初 の二週間は文字通りの地獄でした。ナチュラルスピードの
英語がちっとも理解できず、山ほどブリーフィングを受けても理解できるのは 3害 」 ほど
でろくに質問もできず、まして夕食会などでのソー シャルな会話には全くついていけな
いという日々が続きました。周囲がすべて紅毛碧眼の外国人という環境そのものに大
きなストレスを感じ、平常心で会話することも出来ず 、同行 してくれた二佐 の方におん
ぶに抱つこの状態でした。ところが、ちょうど渡米 二週間 目の晩、ある米国人のお宅に
招かれたことがキッカケとなつて、頭 の中の霧 が一気に晴れることとなりました。その晩
も緊張して重 い気持ちで夕食会に臨んだのです が、先方の御夫人 がとても辛抱強く
私の拙い英語 に付き合って下さつたのです。その時唐突に、日本語 の不得意な外国
人が一生懸命 日本語で話しかけて来たら、自分も同じように辛抱強く対応するだろうと
気がつきました。上手にしゃべれなくても相手が助けてくれれば会話は成立するのだ、
とわかつたのです。その晩以降は下手な英語でも会話が成立すれば十分だと開き直り、
過度 の緊張から解放されリラックスできたおかげで、聴き取りもしゃべりも格段に容易に
なりました。英語の達者な同期生がかねがね「英語なんて度胸や」と言つていたのを思
い出し、こういうことかと初めて実感することが出来ました。
一か月の米国情報機 関調査出張から何とか無事に帰国 し、情報部門に勤務し始
めると、外国人と話す機会も多くなり、頻繁に外国出張や海外研修 にも派遣されること
になりました。しかし、実は改善されたのは度胸だけで、月 十心の英語力は仕事 ができる
レベル まで底上げされていなかったため、研修や出張のたびにその現実を突き付けら
れ 自己嫌悪に陥ることの繰 り返しでした。
この頃、上 司の審議官の米国出張に同行したことがありました。前回第 17話で触れ
た私 の役人のロールモデル がこの方で、当時大蔵省から防衛庁へ審議官として出向
してこられたばかりで、情報の仕事も担 当しておられました。審議官 はドイツ駐在経験
があリドイツ語 が出来、英語も堪能だつたため同行 した私は楽をさせて頂いたのです
が、旅 の終 り頃 に茶 目つ気を発揮されて大 いに焦りました。会議 中に英語 でしゃべつ
ておられたのが突然 日本語 に切り替 えて、私に向かって「通訳 してくれ」と言われるの
です。当然のことながら結果は惨脩 たるものに終わり、審議官も論 評に困つたのか、
「黒江は耳はいいなJと 辛うじてフォロー (?)し て下さいました。

不純な動機 で始 めた英語 の勉強


そうこうするうちに国際情勢の変化に合わせて内局が米国国防省などと政策協議を
行う機会が増 え、防衛力整備 一辺倒 のスタイルが徐 々に変わって行きました。こうした
流れに対応しようという諸先輩の努力 により防衛庁の留学枠 が増え、内部部局 におけ
る国際派へのやっかみも薄れ、庁内で TOEICを 受けられるようになるなど雰囲気が変
化 して行きました。そんな中で英国国防大学 (RCDS)に 留学した先輩の経験談を聞き、
自分もそういう楽しい留学をしたいと思い立ちました。仕事 に直結 しない形で英語を勉
強し外国生活も経験し家族サービスも出来る、カリキュラムが確 立している上に「Beer
Drinkers'Course」 の別名 が示す如く内容はかなり緩くソーシャルイベントも多い、米国
ほど日本からの訪問者も多くないしイースター休みや夏休みのほか 1週 間の国内視
察や 1カ 月の海外視察まである等 々、動機 は不純でしたが、とにもかくにも自発的に
英語を勉強する気 になったのです。
とは言 え英語 学校 に通 つたりす る時 間はなか ったので 、聴 き続 けるだ けで英語能 力
が向上 するというふれこみ の教材 を買い 込み 、通勤途 中にひたす らヒアリングに没 頭 し
ました。今 となつては懐 か しいカセットテー プの ウォー クマ ンで 、教材 のみならず トム・ク
ランシーのジャック・ライアンもの とか マイケル・クライトンの「ジュラシックパ ー クJな どの
小 説 のオ ー デ ィオブ ックなども聴 きました。同期 生 が「大まか な筋 を知 ってい ると英 語
を聴 き取 りや す い し、表 現 の 勉 強 にもなる」とアドヴァイスしてくれ たので す。こん な勉
強を 5年 以 上続 けた結果 、スピー キングやライティングは依然 からつきしでしたが 、リス
ニング能 力 につ いては手応 えを感 じました。成 果 を過信 し、調 子 に乗 つて在米 日本 大
使館 勤務 を希望 しましたが 、残 念ながらこれは叶 いませんでした。
他 方 、熱 望 していた RCDSに はめでたく留学させ てもらうことが 出来ました。1998年
(平 成 10年 )の ことです。日頃米 国 との付 き合 いが 多 い 中で 、冷戦 終結 から 10年 とい
う時期 に英 国や 欧州 諸 国 、中東諸 国などの安全保 障 の 考 え方 に触 れ ることが 出来 た
の は大 きな収 穫 でした。この 留学 を通 じて 、自分 が常識 だ と思 つていたことを少 し相 対
化 して考 えられるようになりました。例 えば 、この年 の 12月 に英 国 は米 国 とともに国連
の査 察を拒否 したイラクを空爆 しましたが 、英 国 内での議 論 の争 点 は 国際紛争 に関与
す ること自体 の 是 非 ではなく、関 与 の程 度 が 妥 当か とい う点だ けでした。自衛 隊 の海
外 派遣 に対 して 、理 由は何 であれ強 い 忌避感 を示 す 日本 の 世論 とは大違 い でした。
そ の うち、英 国民 は今も大 英 帝 国的 な意識 を持 ち続 けてお り、国際社 会 の リー ダ ー と
して世 界 平和 に責任 を負 うの は 当然 だと考 えていることに気 づ きました。当たり前 の事
です が 、各 国 の 国民感 情 はそれぞれ の 固有 の歴 史 によつて形 づ くられているの であり、
我 が 国 のように敗 戦 によつて価 値観 の 大 転換 を強 い られ た 国 ばかりではない とい う事
を実感 しました。また、アジア 中東 諸 国 のメンバ ー は外 国軍 隊 の 国内駐 留 へ の反感 が
強く、在 日米 軍 の存在 を当然視 する私 の感 覚 は全く理 解 されず 、戦後 ず つと米 軍 の駐
留を受 け入れてきた我 が 国 の特殊性 を改 めて認識 させ られました。
国防大学 の コースが終わ つた後 には 、三カ月 間 ほど英 国国防省 で研 修 する機 会 に
も恵 まれ ました。この研修 では 、英 国 にお ける PFIな ど民 間活 力導入 の試 みや 、ソ連
崩壊 から10年 を経 てもロシアとの信 頼 醸成 がなかなか進 んでいない様 子など、様 々な
興 味深 い状況 を間近 に見ることが 出来 ました。が 、国防省 の某 課 で研修 していた際 に
省 内 の他 課 か らかか つてきた電話 をとつたところ、早 口で 不在者 へ の伝 言 を頼 まれた
の には往 生 しました。どう処 理 したのか は記 憶 か ら抜 け落 ちています が 、英 国 国 防省
に迷 惑をかけなかったことを祈 るしかありませ ん。

ロシアヘ 連 れ て行 かれた 中東 出張
英 国留学 から帰 つてしば らくして運 用局運用課 長 に任 ぜ られました。運 用課長 時代
の様 々 な失 敗 談 は既 にご紹 介 しましたが 、実 は海 外 出張 でもひ と悶 着 ありました。最
初 の米 本 土 出張 で 荷 物 と泣 き別 れ になって以 来 、初 めての訪 間国 は ツイてい な いの
か も知 れ ませ ん。私 の英 語 力 不 足 による失敗 か どうか は微 妙 です が 、イスラエ ル を 目
指 したの にロシアヘ 連れて行 かれたというとんでもない経験 でした。
2001年 (平 成 13年 )3月 に、ゴラン高原 の 国連 PKC)部 隊 (UNDOF)に 派遣 されて
いた 陸 自部 隊 を視 察 す るため、シリアとイスラエル を訪 問 しました。陸 自部 隊は兵 力引
き離 し地 帯をはさんでシリア倶」 のファウアー ル とイスラエル 側 のジウアニ という二か 所 の
宿 営 地 に分散配置 され ていました。我 々 は、まず シリア側 の視 察を終 えた後 、ダマスカ
スか らイスタンブール 経 由でテル ア ビブ ヘ 向かお うとして い ました。当時 、シリアから直
接 イスラエ ル ヘ 向か うことは許 され てい なか った ので す。ところが 、サウジアラビアか ら
戻 つて来 るはず の搭 乗便 が巡 ネLで 混雑 したとかで待 てど暮 らせ ど到着 しません 。待 つ
こと数 時 間、や つと目的 の 便 の用意 が 出来 てガタつ く座 席 に収 まったものの 、間 こえて
くる機 内放 送 に「MoscowJが ゃ けに頻 繁 に登場 し、
「Istanbul」 が一 向に出 てこな いこと
に気 がつ きました。もともとイスタンブール の後 にモスクワヘ 回る便だ ったので 、髭 面 の
男性 CAを 捕 まえて確認 すると、なんと
「Moscow irstlJと こともなげ に答 えるのです 。
「イスタンブール が先 だつたんじゃないのか ?Jと 詰 問 すると、 「なにか 困るのか ?」 と逆

ギレされ 、イスラエル に今 日叶Iに 到 着す る必 要 があるとは言えずあわてて誤 魔化 しまし


た。そう言 えば機 内 には ロシア 系 らしい 白人 の 姿 が 目立 った ので 、おそらく出発 が 大
幅 に遅 れ て苛 立っていた ロシア人乗 客 の機 嫌 を取るため急 きょ目的地 の 順 序 を変 え
たのだろうと思 い 当たりました。昔も今もシリアとロシアは 親 密 な関係 にあるの で す。も
しか す ると、ダマ スカスで搭 乗 す る前 に行 き先 の順 番 が 変 更 され ていた のかも知れ ま
せんが 、私だ けでなくその場 にいた駐 在 官 を含 めて誰 一 人気 づい ていなかつたので 、
私 の英語 力不足 だけが原 因 ではなかったように思 います。
さらに 、もうす ぐモ スクワに着 陸す るとのアナ ウンスが流れ ると、ロシア人たちは 一 斉

に携 帯電話 を取 り出 して (多 分 自宅 と)話 し始 めるのです 。我 々は「 u154と いう古 い ロ
シア製 の航 空機 に乗 っていたので 、無事 着 陸 できるのか 不安 でした。こうしてモスクワ
経 由でイスタンブール に到 着 したの は既 に真 夜 中過 ぎで 、予 定外 の トル コ泊 をせ ざる
を得なくなりました。空港 のインフォメー ションで探 してもらったホテル に転 がり込 み 、と
りあえず東 京 へ 連 絡 すると、電話 の 向 こうか ら「 体 どこにいるんです か 、課長 っ !?」
と焦 った声 が響 いて来 ました。テル アビブの駐 在官 は「予 定 の使 に乗 っていなか った」
と報告 したの に対 し、ダマスカスの 防衛 駐 在官 は「遅 くなつたが確 か に送 り出 したJと 答
えたため 、東京 では「運用課 長 ら行 方不 明 !Jと 大騒ぎ になっていたので す。
もつとも、深夜 にホテルの食 堂で遅 い 夕食 をとりながらトル コ人ウェイターとナッカー
観戦 で盛 り上がり、 「来年 の W杯 、トル コt,日 本 へ 行 くぞ !J「 おう、待 ってるぞ Jと 意気
投 合したり(翌 年 の 日韓 W杯 では 、その トル コに敗 れ てベ スト8を 逃 しましたが)、 思 い
がけず トプカピ官殿 を視 察 したりす ることが出来た ので 、あながちこの一 件 は失敗 とも
言 い切 れ ませ ん 。tぅ し万 万が 、搭 乗 前 に 日的地 変 更 に気 が つ くほど私 の英 語 力 が
高か つたら、こうした楽 しい経験 は出来なか ったはず です .
それ か ら数年 して防衛 政 策局次長 になると、日米 の政 策 協議 の担 当となりました。ミ
スコミュニケー ションを避 けるため 、会議 でこちらが話 す ときには通訳 の お世話 になりま
した。他 方 、尊敬す る審議 官 に励 まされたの が効 いたのか 、相 手 の話 を聴 くことだけは
何 とか 出来たように思 います 。
今 は退 職 して時 間 が 出来 たので 、これからでも遅 くな い 、英 語 を勉 強 しなけれ ばと
考えています 。もうピリピリした緊張感 に包 まれた交 渉 に臨 む必要 はないの で 、単 に外
国語 が話 せ たら格 好 いい という浅薄な理 由だけです が 、この連載 が 終 わ つたら勉 強を
始 めた いと思 います 。
動機 の 如何 に関わらず 、英語 は勉 強 すれ ばそ の分 は確 実 にうまくなります が 、勉 強
しなけれ ば 絶 対 に上 達 しませ ん。私 はそれを 自ら経 験 しました。これか ら職 業 人 の道
を歩 む 若 い人 たちには 、ぜ ひ 英語 の勉 強をお 勧 めします。

悔 い が残 る現場経 験 の乏 しさ
英 語 の ほか に悔 いが残 っているの が 、現場 経 験 の 乏 しさです。私 が 自衛 隊 の 現場
に直接 触 れることが 出来 たの は 、入 庁 直後 の一か 月 ほどの初 任研 修 、入 庁 三 年 目に
経 験 した一か 月 のグアム遠 航 と二か 月 弱 の部 隊研 修 、それ に折 々 の 出張 の 際 の部 隊
視 察くらいのものでした。人庁 三 年 目の研 修 では 陸海 空それぞれ の部 隊 に最低でも 1
週 間 ほど泊まり込 み 、演習場 で野営 しながら穴 掘 りをしたり、当時部 隊 で深 刻化 してい
たサラ金 問題 の 実態を詳 しく聞 いた り、東京で仕事 をしているだけでは想像もしていな
かつたことに触 れ ることが 出来 ました。しか し、いかん せ ん研 修 や 視 察 では基 本 的 に
「お 客 さん 」なので 、部 隊活 動 のナ マ の 実態や 隊員 の本 音 を 自分 の 皮膚 感 覚 としてと
らえるの は難 しかったような気 がします。
防衛 省 の職 員 である以 上 、多 かれ 少 なか れ 必ず 自衛 隊 に 関連 す る仕 事 をす るの
です か ら、自衛 隊 の 実態 をよく知る必 要 があります 。自分 が若 手部員 だ つた頃や 文書
課 長 を務 めていた 頃 、何度 も各 自衛 隊と内局 との人 事 交流 を主 張 したのです が 、 「そ
んなことをしたら一 つ の 自衛 隊 に取 り込 まれる」とか「もつと他 にやるべ き仕 事 がある」と
か 言 われ て反 対 され 続 けました。そこで 、自分 が 官房 長 の 時 に、若 手キャリア職 員 に
半年 か ら一 年 くらいの部 隊勤務 を経 験 させ ることにしました。単 なる研 修 ではなく、実
際 に部 隊で仕 事 をす ることで 自衛 隊 の 実 態を体感 してもらうのが 目的 です。これ か ら
育 つ 若 い人 たちには 、ぜ ひ 自衛 隊 の現場 を直接 経 験 してほしいと切 に願 つています 。
同 じような悔 いが 、自衛 隊 の海 外 活動 の 現場 につ い ても言 えます。私 は 、残念 なが
「現場事務官 Jと して国連 PKOや イラク復 興支援 活動 の 現場 に長 期 間勤務 した経験

がありませ ん。私 の現場 経 験 は、国際緊急援助 活動 を実施 す る際 の西 チ モール 現 地
調 査 と、イラク復 興 支 援 活 動 に 関連 して行 われたバスラの現 地調 査 に参 加 したことくら
いでした。バ スラでは後 か ら振 り返 つて結 構怖 い 思 いもしたの です が 、所 詮 は 一 過 性
の体験 に過 ぎませ ん。現 地 で部 隊 とともに数 力月を過 ごした後輩職 員 の 体験 談を聞く
と、やはり現場でしか経験できないものがあると感じさせられました。
さらに、施設行政の現場 についても同様の悔 いがあります。自分 はずっと中央勤務
で、地方防衛局に勤務する機会はありませんでした。引っ越 しの苦労がなく、土地勘
のある仕事ばかりやってこられたのはある意味他 の人たちからうらやましがられることだ
と思います。しかし、地元調整 の難 しさや基地所在 自治体の本音などに触れる機会 が
なかつたことは 悔やまれます。防衛政策局次長時代に沖縄問題を担 当しましたが、地
方防衛局 の勤務経験があったとしたら、仕事 に対してもつと別 のアプローチが出来た
のかも知れないと思います。
もちろん 自分のキャリアは人事当局の判断によるものなのでとやかくいう訳には行き
ませんが、英国留学以外 はす べて東京勤務だったので、これで本 当に懐 の深 いバラ
ンスのとれた仕事が出来たのかどうか、自分としては 自信 がありません。
役所 の意思決定や政策の企画立案 が現場のニーズを踏まえて行われるべきことは
当然であり、中央で長く勤務することになる人たちほど現場を良く知る必要があるはず
です。以前第 7話 で事業仕分 けの経験を紹介した際に、勝ち点 10を 稼 いだ現場主
義の先輩 に触れました。彼は内閣官房 でイラク派遣を担 当していた時に、どうしてもイ
ラクに行きたいと主張され 、私のバスラ行きを本 当に羨ましがっておられました。また、
沖縄問題を担 当された時には、就任早 々の週末に自費で沖縄 に飛 びレンタカーで米
軍基地エリアを回られたと聞き、その行動力と現場 に触れようとする熱意に驚かされま
した。若 い人たちには、自ら機会を求めて積極的に現場 での勤務を目指 してほしいと
切に願 います。
連載も残すところあと二話となりました。次回は、家族 にかけた迷惑 について紹介 し
ます。
失敗だらけの役 人 人生 (19)
黒江哲 郎
職 業人の 心 構 え ∼ 家族 にか けた迷 惑 の 数 々∼
遊 んで い て 間に合 わなかった長 女 の誕 生
前 々lFlに 職 業人 に必 要な P・ K・ ○ の一 つ として「思 いや りJを 挙 げ ましたが 、職 場 の
関係 者 だ けでなく、家族 に対 する思 いや りも大事 で す。しか し、私 は この 面でも失敗 を
重 ねてきました。
まだ 若 手 だった 昭和 末期 か ら平 成 初 期 の 頃 は 、仕 事 では 散 々こき使 われ ましたが 、
飲 み会 やカラオケ、麻 雀 にバ チ ンコなど大 い に遊 び にも興 じました。しか し、遊 び の度
が過 ぎて、家族 にとんで もない迷 惑 をか けたこともありました。
1989年 召和 61年 )3月 31日 、新年 度 の 定期 異動 を翌 日に控 え、歓 送 迎会 が集
(日

11す るタイミングでした。当時家 内は第 二 子を身 ごもつてい て、4月 8日 頃 が予 定 日で


した。当時 の 出産 予 定 日は今 と違 つてか なリアバ ウトだつた上 、長 男 の誕 生 が 予 定 日
より随分遅 れたこともあり、今 回もそんなに 早くはあるまい とタカをくくって 31日 の夜 は
遅 くまで同 僚 と遊 び 歩 いていました。ところが、遊 び終 えて 4月 1日 の未 明 に帰 宅 し、
官舎 の 自室 の ドアを開けたところ、中か ら近 所 の奥 さんが まだ幼 か った長 男を抱 っこし
て 出 てきたので す。そ の 瞬 間、私 は全 てを1吾 りました。当時は携 帯電話 t)な かったため 、
予 定よりも早 く陣痛 が始 まった家 内は 、私 に連 絡 をとるす べ もなく、や むなく官 舎 で 親
しくしていた奥 さん に二 歳 の 長 男 の お 守 りを頼 み 、近 所 の 防衛 庁 職 員 の 方 の 車 で 病
院 まで送 ってもらつたので した。当時 、我 が 家 にも自家 用 車 があったのです が 、結 果
的 に全 く役 に立 たちませ んで した。しか も悪 いことに 、この 車は長 男 が生 まれ た後 に
「次 の子 が生まれる時 には 病 院 まで送 ってあげるか らJと い う口実 で 、私 よりもはるか に
高給 取 りだ った家 内 にねだ って 買 ってもらったもの でした。夜 が 明けてか ら、長 男を連
れ て病 院 に駆 けつ けて家 内と生 まれ たばかりの 娘 に対 面 したのです が 、さす が にとて
も気 まず い 思 い をしました。この一 件 につ い ては 、家 内にも壇、
子 にも娘 にも何 も申し開
きが 出来ず 、ただただ恥 じ入 るばかりです 。

心 にこたえた我 が子 の涙
防衛 政策課 に部員 として勤務 していた 1993年 (平 成 5年 )頃 、小学 生 の′
自、子 は御
多分 に洩れず怪 獣 映画 に夢 中でした。私も子供 の 頃 にゴジラや ウル トラマ ンが大 好 き
だった の で 、夏休 みなどにはよく,自 、 子と一 緒 に怪 獣 映画 を観 に行 きました。大抵 は防
衛 庁 が撮 影 に協 力 してい るので 、エ ンドロー ル を観 ながら「お 父 さん の 役 所 が 出 てい
る と′
!」子 と二 人 で 盛 り上 がってい ました。そ の 頃 、たまた まゴジラ映 画 の エ キストラ
自、
ツアー の抽 選 に応 募 したところ幸運 にも当選 し、私 と′ 自、 す ることとなっ
子 が 二人で 参力口
たの です 。これ はゴジラ映 画 の撮 影 にエ キストラとして参力口してゴジラか ら逃 げる役 を
演 じたり(7 Eが 良けれ ば映 画 にも映るので す )、 撮 影 所 を見学 したり、怪 獣 弁 当を食 ベ
たりするというツアー で 、実 は 自、
子 ばかりでなく私 1)人 い に楽 しみ にしてい ました。
ツアー は 日曜 日の 予 定 だつたの で 、いか に超 多忙 な防衛 政策 課 だとしても参加 可
能 だろうと思 ってい た の でう が 、直 前 の 金 曜 日頃か ら雲 行 きが怪 しくなってきました。
ち ょうどその 頃行 われ ていた外務省 の組 織 改編 に 関す る法令 協 議 が難航 し始 めた の
で す。「安 全保 障 政策 Jや「軍備 管 理 Jは 外務 省 の 専管 事 項 か 防衛 庁 t)所 掌 している
「安 全 保 障政 策 Jは もともと防衛 や外 交 の総 体なの で 、どち
か 、とい うのが争 点でした。
らか一 方 が専管するなどと決 められるはずもないのです が 、当時 の役所 は 不 毛 の縄 張
り争 いが得意 でした。この二 年 後 に防衛 政 策課 に新設 され た「信 頼 醸成・軍備 管理 軍
縮企 画室 」の初代 室 長 に任 命 され 、外務省 へ 新任 の挨拶 に行 ったところ「軍備 管 理軍
縮 は 外務 省 の 専管 です か ら受 け取 れ ませ ん Jと 文字 通 り名 刺 を突 き返 されるような時
代 で した。局長 や 次 官 を務 めるようになった 頃 にはこうした悪 しき伝 統 は 姿を消 してい
ましたが 、職員 の 幸 せ の ためにも不 毛 の 問 いが復活 しないことを祈 ります 。
ともあれ 、当時 の「無 制 限 の 自己犠 牲 こそが美 しい役 人道 Jと い う風 潮 に流 され て 、
結 局私 はツアー のことを L司 に言 い 出す 覚悟 が 出来 ませ んでした。土曜 日になってt)
議 論 は決 着 せ ず 、いよいよ翌 日の 日曜 日も出勤 必 至 となリツアー 参加 は絶 望 的 となり
ました。そ の夜 、家 内 に電話 して「行 けなくなった Jと 伝 えたところ、家 内は黙 って′
自、子
に電話 を代 わりました。す ると、日頃 はとても聞き訳 の 良 い 虐、
子 が 、電話 の 向 こうで一
言も発 せ ず 声を殺 してシクシク泣き続 けるのです .正 直 、これ はこたえました。
この一 件 は 、そ の後 に 自分 がワー クライフバ ランス(WLB)や 職 場環境 の 改善 にこだ
わるようになった大 きなきっか けでした。くだらない 役 所 のメンツにこだわって 、課 全 体
が 中身 の な い仕 事 に拘 束 され 、職 員 が休 日出勤 を強 い られ るような雰 囲気 は絶 対 に
変 えなけガ Lば い けない と心 に決 めました。
結 局 、ツアー には私 の 代 わりに家 内が参加 しました。家 内 の怪 獣 に対す る理 解 度
ははるか に私 に及 ばなか ったの で 、虐、
子 には不満 が残 ったようでした。この 映 画も封
切り後 に,自 子 と二 人 で観 に行 きましたが 、残 念 ながら自、
子 と家 内は映 画 には 登場 して
い ませ んでした。
ちなみ に、ここぞという時 に子供たちを使 って私 を説 得 す るの は 、家 内 の 常 とう手段
でした。若 い 頃 の 私 は 一 日に三 箱 吸う時もあつたほどのヘ ビースモー カー だ ったので
す が 、1995年 (平 成 7年 )の 正 月休 みを機 にきっばり煙 草 をや めました。理 由は 、了供
たちに泣 か れたか らです 。私 の 喫煙 をや めさせ ようと考 えて いた家 内は 、ひそか に子
供 た らに言 い含 めてな の 前 で「お父 さん 、死ん じゃうか ら煙 草や めて― Jと 泣 かせ たの
です。おかげで私 は煙 草 と決別 し、今 は健 康 な生活 を送 れてい ます。

家族 同伴 の英 国留 学 で渾 身 のリカバ リー │

前 に述 べ た通 り、1998年 (平 成 10年 )、 キャリアのちょうど折 り返 し点 のあたりC‐ 年


間英 国 の 国防 大 学 (RCDS)に お じさん 留 学 をさせ てもらい ました。留 学 の 目安 となる
TOEICの 点数 の獲 得 に苦 労 し、当時秘 書課 で外 国留 学を担 当 していた後 輩 の 部 員
を「RCDSに 行 けな いのなら役 所 を辞 めてや るJと 脅 して散 々 困らせた末 に実 現 したも
のでした。もちろん 、最 終 的 には TOEICの 点数 は満 たしていた はずです。
私 は 家族 全 員 を連 れて英 国 へ行 くつ もりだ ったので す が 、小学 校 卒業 を 目前 に控
えていた娘 には頑 強 に抵抗 されました。「お友 達 と一 緒 に卒 業す る !Jと 泣 か れ てほと
ほと困り果 てていたところ、娘 から二 つの条件 が 出されました。条件 の一 つ めは現 地校
ではなく日本 人学校 に通 うこと、二つ めは生 後 10週 間 の 牝 の子猫 を飼 うことでした。
我 が 子 の 涙 に弱 い 私 は 二 つ 返 事 で 了解 したので す が 、二 つ 目の 猫 が 難 題 でした。
我 々 が 渡英 したの は 1997年 (平 成 9年 )12月 で 、繁殖 期 を外れていたため条件 に合
う子 猫 はすぐには 見 つ からず 、す ったもんだの 末 にや っと見 つ けたの は翌 年 6月 でし
た。現地 の獣 医さんの勘違 い で│ヒ ではなくftrだ ったの は御 愛嬌 でしたが。彼 は 帰 国 の
際 に一 緒 につ いてきてくれ て、日本 で 16年 の寿 命を全 うしました。家族 の 中で 唯 一、
ブル ー チ ーズを理解 してくれ る存在 でもありました。私 がリビングでワインとブル ー チ ー
ズを楽 しんでいると、家族 はそ の香 しさに恐れ をなして一 人またひ とりと姿 を消 して行 く
の です が 、彼 だ けは私 の腕 に肉球 をビタッと乗 せ 、ひたむきな 眼差 しでチ ー ズをせ が
む のでした。亡くなったのは 2014年 (平 成 26年 )秋 、ちょうど郷 里・山形 に 出張 し実家
で寝 てい た時でしたが 、律儀 な彼 は 山形 まで別 れ の挨 拶 に来 てくれ ました。私 は一 度
寝入 ると朝 まで 目を覚 まさない方だ ったのです が 、そ の夜 は 午前 3時 頃 に突然 目が覚
めた ので す。一 瞬理 由 がわか らずもう一 度 寝 入 ろうとしたところへ 、家 内から他 界 を知
らせるメール が着信 しました。ホー ムズという名 の温厚 な子 で した。
英 国 で 家族 と過 ごした一 年 間 、私 は必 死 で家 族 孝行 に努 めました。北 は スコットラ
ンドの ネス湖 、ピー ター ラビットの湖 水 地方 、南 はセブンシスターズの 白い崖 、西 はスト
ー ンヘ ンジと様 々 な場 所 へ 家族 連 れ でドライブしました。イー スター にはパ リヘ 旅 行 し、
夏休 み には欧州 10か 国バ スツアー に参加 しました。中学 生 になっていた息子 は 、英
国 の硬 式 野球 1)経 験 しました。また 、サッカー 日本 代 表 の記念 す べ きワール ドカップ 第
1戦 のアルゼンチ ンとの試 合 は 、フランスのトゥール ーズで′ 日、
子 と一 緒 に観 戦 しました。
家 内か らは「この一 年 がなか ったら、あなた家 族 の に居場 所 がなくな ってたわよJと
'中

言 われ ました。家族 孝行 の努 力が認 められたということかなと思 い ます 。


ともあれ 、この一 年 間 はそれ まで の 17年 間 にわたる激 務 へ の慰 労 ボー ナ スだと思
つてい たのです が 、それ は私 の勝 手な思 い込 み でした。後 になってか ら、実 はそ の後
の 19年 間 の 更なる過 酷なご奉 公 に対 す る前払 いだつたことがわかったのです 。それ
でもこの 留学 は 、家族 に対す る貴重 な恩返 しの機 会 となりました。

挽 回ならず …
2015年 (平 成 27年 )9月 19日 未 明、懸案 だった 平和 安 全法制 が 国会 で 可決 され
成 立 しました。法案 の担 当だ つた私 は 、国会 で成 立を見届 け、大 臣 と喜 びを分 かち合
った後 、午 前 4時 過 ぎにくたくたになって官舎 へ 帰 り着 きました。玄 関 の 開く音で起き
だしてきた娘 とあい さつ を交 わし、その ままベ ッドに倒 れ 込 んで 寝 入りました。娘 は既 に
結 婚 してい ましたが 、ちょうど第 一 子の 出産 のために沖縄 か ら里帰 りしていたの です。
その朝 8時 過ぎに 目が 覚 めると娘 はお らず 、家 内から「(初 孫 が)生 まれたよ」と告 げ
られ ました。無事 に初 孫 が 誕 生 したことはもちろん 嬉 しかったので す が 、同時 に「夕1誉
挽 回 │‖ 来なかったっ」との 思 い1)頭 をよぎりました。聞け ば娘 は私 が熟 睡 して いる間 に
陣痛 が始まり、家 内 に付 き添われて 中央 病 院まで 歩 いて行 ったのだそうで す。29年 前
「なんで起こしてくれ
に娘 が誕 生 した時 の 失態 を挽 回しようと密 か に狙 っていた私 は 、
「寝 ばけて事 故 なんか起こされたら
なか ったのか ?Jと 家 内に文句 を言 った の です が 、
大変 で す か らJと ドライにあしらわれ ました。そこで 、家 内と娘 に「平 和安 全 法制 が成 立
した 日に生まれた子 だか [)「 安 Jと「法 Jで 安法 (ヤ スノリ)と いう名 前 はどうかな Jと 提 案 し
たのです が 、冗 談 だと思 われ てとりあってもらえませ んでした。確 か に 、娘 が付 けた 名
前 の 方がヤスノリより何 十倍も素 敵でした。
「今度 こそ Jと 手ぐす ね 引 いて待 つてい
退職 した後 、娘 が第 二 子 を出産 した時 には 、
ました。ところが 、い ざ陣痛 が始 まりいそ い そと自家 El車 で病 院 へ 送 ろうとしたところ、
そ の 朝 に 限 ってどうや っても車 がインテリジェントキ ー に全 く反 応 しないのです 。秋 が
深 まりか けていた 頃 だ ったので 、これ は バ ッテリー が上がったか と自家 用 車をあきらめ 、
仕 方 なくたまたま私 を迎 えに来 ていた再 就職 先 の社 用 車 に乗 せ てもらうことになりまし
た,後 か ら、バ ッテリー ではなくキー の 電 池切 れ と言 う間抜 けな原 因 だ つたことが判 明
しました。度 重なる失 敗 のため面 日は丸 つ ぶれ となり、結 局未 だ に名 誉 回復 は 出来 て
いませ ん。

謝 罪 と感謝
辞職 に至る経 緯 につ いては次 国最 終 話で詳 しく触れ ます が 、辞 める直 前 の 1週 間
ほどは 、南 スー ダ ン 日報 問題 がテ レビの ワイドショーで 頻 繁 に取 り上 げられ ました。当
然批 判 的な報道 内容 なの で 、そんなもの を観 ていた ら気 が滅 入 ると思うので す が 、家
内はそれ らのワイドショー をはしごして 、私 が帰 宅すると毎 晩仔細 に報 告 してくれ ました。
ある日、 「今 日のワイドショー でデ ーモン小 暮 閣 下 があなた のことを「黒 江さんJっ てさん
づ け してたわよ !Jと うォししそ うに報告 して くオし
たのは 忘れ られ ませ ん。家 内は 、いつ も
私 を励 ます ために明るい話題 を提供 してくれ ました。
「あの まま次 官 を続 けて いたら、あなた絶 対 に体 を壊 していたわよ」と
そ の 家 内は 、
言 つて 、私 が役 所 を辞 めた の を本 心か ら喜 んで い ました。そう言 えば 、若 い 頃 に仕 事
が忙 しくて睡 眠 時 間 が極 端 に少 なかったのを心 配 して 、寝過 ごす まま放 置 され たこと
がありました。午 前 中 の会議 に到 底 間 に合 わな い 時刻 に 日が 党 めて、なぜ 起 こしてく
れ なか ったのか と文句 を言 つたところ、平然 と 「あなた今 朝 そんなllt間 に起 きて出勤 し
たら死んでたわよJと 言 い返 され ました。
息子と娘は、そんな家 内に育てられてそれぞれ独立し、私が現役 でいるうちに孫た
ちの顔まで見せてくれました。自分は家庭のことをあまり心配することなく、最後まで仕
事に集 中することができました。家族 には心配をかけ続けたことを詫びるとともに、支え
続けてくれたことにあらためて感謝しなければなりません。

この連載も、次回はいよいよ最終回です。南スーダン 日報問題 についての反省と教


訓を中心に述べたいと思います。
失敗だらけの 役 人 人生 (20)
黒 江哲郎
最 後 にして最 大 の 失 敗
南 スー ダン 日報 問題
2017年 (平 成 29年 )7月 28日 付 けで事務 次官 の職 を辞 し、足掛 け 37年 に及 んだ
私 の 防衛 省 勤務 は 終 わりました。入 庁 以来 、数 えきれない ほどの失敗 を犯 してきたこと
は既 に述 べ ました。それ らの失敗 一 つ ひ とつ から教 訓を得 て 、次 の仕 事 につ なげて来
たつ もりだ ったの です が 、役 人人生 の最 後 の最後 に最大 の失敗 をし、それ が原 因 で辞
職 することになりました。いわゆる、南 スー ダン 日報 問題 です 。
南スー ダンは 2011年 (平 成 23年 )に スー ダンか ら独 立 しました。そ の際 、国連 PKO
部 隊である国連 南 スー ダン共 和 国 ミッション (UNMISS)が 設 立され 、自衛 隊もこれ に参
加 しました。しか し、そ の 後も国 内 の 民族 間 の 派 閥争 い などにより政 情 不 安 が 続 き、
2016年 (平 成 28年 )7月 には大統 領 派 と副大統領 派 の 間 で大 規模 な武 力衝 突 が発
生 し、自衛 隊 が宿 営 してい た首都 ジュバ 1)緊 迫 した状 況 となりました。
問題 となった 日報 は 、派遣 された部 隊 が 派遣 元 の 陸 上 自衛 隊 中央即応集 団 (CRF)
に 日々の 状況 などを伝 えるために作成 した報 告 資料 です 。武 力衝 突 当時 の現地 の 状
況 につ いて()記 述 されているため、7月 の衝 突後 に開示 請 求 がなされました。い わ ゆる
南 スー ダ ン 日報 問題 は 、この 情 報 公 開請 求 に対 して不適 切 な対応 があつた 、とい うも
のでした。
本 件 は 、時系 列 的 にも内容 的 にもかなり複 雑 でや や こしい 事案 で す。多くの 人 たち
が 関 わ ってお り、一つ の事 柄 で1)関 係 者 それぞれ が 違 う方 向から見 ているため、受 け
止 め方 も異なるもの と思 い ます 。このため事 実 関係 の細部 につ いては 、防衛 監 察本 部
が 関係 者 多数 からの聴 き取 りをまとめて 2017年 (平 成 29年 )7月 27日 に公 表 した「特
「監察結 果 Jと 呼 びます )に 譲 ります。
男l防 衛 監 察 の結 果 につ いてJ(以 下、
また、本 稿 の 目的は私 自身 の反 省 です ので 、以 下 には 自分 が 関与 した場 面 につ い
て記述 します が 、事案 が 発生 してから既 に 4年 が経過 し、そ の 間 に私 自身 の 記憶も上
書 きされている恐れもあります。このため 、可能 な限り監 察結 果 の記 述 を忠 実 に 引用 し
ながら当時 の 私 の 思 考や感 情 を思 い 起 こし、何 をなぜ 間違 えたのか 、何を教 訓・反省
とす べ きか 等 につ いて整 理 してみた い と思 います 。

タイで 受 けた国際電話
2016年 (平 成 28年 )12月
、統幕 総括 官 から日報 に 関す る最初 の報 告を受 けまし
た。内容 は 、10月 に南 スー ダ ン派遣施 設 隊 の 日報 の 開示請 求 があったが 、当該 日報
は用 済 み後破 棄 の 取扱 いで あり既 に存在 しないため不 開示 とされた、これ に対 して 自
民党行 革推進 本 部等 から疑義 が呈されているので再探 索す る、というもので した。 「日
報 が 用 済 み後破 棄 ?」 と軽 い 驚 きは覚 えたものの 、ル ー ル 通 り破 棄 されてい るか 否 か
を確認 するとい うだけの 問題 だと理 解 し、深刻 な問題 とは受 け止 めませ んでした。
その後 2017年 (平 成 29年 )1月 27日 、タイのバ ンコクで開かれていた 防衛 駐 在 官
会議 に 出席 してい た時 に 、監 察結 果 に t‐ る通 り統 幕 総 括 官 か ら
,国 際 電 話 を受 け、探

索 中 の 日報 が統 幕 にあることが判 明 したところ、陸 自にも個 人デ ー タとして存在 してい


たことが確認 された、両者 の扱 いをどうす べ きか 、と相 談 がありました。
私 は 日頃 か ら役 所 の 資料 の うち興 味ある部 分 だ け差 し支 えな い範 囲 で コピー して
保 存 し、講 演 などを行 う際 の 参 考 にしてい ました。こうして作 ったファイル を「個 人 デ ー
タJだ と考 えていたので 、陸 自に存 在 す る個 人 デ ー タも様 々 な資料 の 断 片をランダ′、
に集 めた私 のファイル と同 じようなもの と受 け 止め 、 「陸 自に存在 す る 日報 は、公 表 に
耐 えられる代 物 であるか 不 明である」(監 察結 果 )と の判 断を統幕 総括 官 に伝 え、統幕
に残 っているきちんとしたデ ー タで対応 す れ ば 良 い 旨を指 示しました。

火 がつ いた 日報 問題
バ ンコクから東京 へ 戻 つてか らは、直後 の 2月 4日 に予 定され ていたマティス米 国
防長 官 の初 来 日の準備 に没頭 し、日報 のことはす つか り忘れてい ました。米 国第 一の
トランプ 政権 誕 生 直後 で 同盟 の行 く末 を心配 す る声 が上 がる中、マティス長官 は 日米
同盟 の 重 要性 と日本 の貢 献 を高 く評 価 し、我 々 の懸 念 は払 しょくされ ました。日米 防
衛 首脳 会 談 が 大成 功 に終 わり大 臣以 下 関係 者 が一 様 にホンとした直後 に、日報 問題
に火がつ きました。
統幕 で 日報 が 見 つ か つた 旨を 2月 6日 に 自民党行革 推進 本部 へ 報告 したところ、
即座 にそれ が SNSに アップされ 、マスコミが「不存在 とされていた 日報 が実は存在 して
いた」「組 織 的 隠 ぺ いか Jと センセー ショナル にフォロー し、野党 t)国 会 で 追及 を始 めま
した。それで1)、 本件 は実務 的で単純な問題 だと受 け止 めていたため 、丁寧 に説 明す
れ ばそ のうち壮ヒ判 もや むだろうと思 っていました。しかし、そ の後も問 題 は沈静 化 せ ず 、
日報 の 中で使 われ て いた「戦 闘行 為 Jと い う用語 が不適 切だ とか 、統幕 にお ける 日報
の保 管状 況 に問題 があるなどとして連 日追及 が続 き、戦線 が拡 大 して行 きました。

「理 不尽 な批 判Jに影 響 された判 断
思 いが けず 問題 が 長 引 いて 対応 が後 手 に回 り、様 々な レベ ル で断 続 的 に打 合 せ
が続 く中、2月 15日 の朝 に陸幕長 か ら「CRF司 令 部 の一 部 の端 末 に本件 日報 が保 有
され てい る状況 、2月 上旬 まで陸幕 及 び CRF司 令 部 の複数 の端 末 に本件 日報 が保
有 され て いたこと」(監 察結 果 )に つ い て報告 を受 けました。タイで 受 けた 国際 電話 で
個 人 デ ー タの件 は間 いてい た ので 、陸 白に残 っていたこと自体 に驚 きは感 じませ んで
したが 、残 つてい た 日報 の数 がず いぶん 多 いなと感 じました。
他 方 この 頃 、私 は 日報 問題 に対 す る「理 不 尽 な批判 Jに 1責 るとともに、問題 の長 期
化 に焦 りを感 じてい ました。7月 の 武 力衝 突 が相 当厳 しい様相 だつたことは既 に公 知
の事 実 となっていたことモあり、この 時 点で私 は 日報 の 意 図的 な隠蔽 の 可能性 など想

像もしてい ませ んでした。このため 、日報 に 関す る一 連 の経緯 が「破 棄 されず に残って
い たものを見 つ けて公表 し、情報 公 開法 上 の義務 を果たした の に、逆 に隠蔽 呼 ばわり
されているJと いう理 不尽 なもの に見えていたのです。
加 えて、既 に公表 から 10日 近く経 って国会 で1)議 論 が進 んでしまってお り、日報 の
保 管状況 を詳 しく調 べ 直す 時 間的余裕 があるとは思 えませ んでした。なお か つ 、当時
は主 に統 幕 が 追及 の矢 面 に立たされてお り、陸 自の 日報 保 管 状 況 はさほど大きな論
点 にはなっていませ んでしたじそんな中でわざわざ陸 自に残 つていた 日報 につ い て間
題提 起 して更 に議 論 を混乱 させ るの は避 けたい と考 えました。
このため 、 「防衛 省 として 日報 は公 表 していることか ら、情報 公 開法 上 は問題 な いJ
(監 察結 果 )と し、陸 自に残 つていた 日報 は個 人 デ ー タだ と整 理 して対外 説 明す る必
要 はない という方針 を示 しました。
そ の後も国会 で 議論 は続 きました が 、そ の うちに森 友 問題 などが浮 上 し、いったん
は追及 が 下火 になりました。ところが 、3月 15日 の夜 に突如「陸 自が 一貫 して 日報 を保
管 して いたなどとす る報 道 」(監 察 結果 )が 出ました。この 報 道 を受 けて大 臣はす ぐに
特別 防衛 監察 を実施 す ると決 断され 、監察 が 開始 され ました.
監察 の過 程 で私 自身も何 度 か 聞き取 り調 査 を受 け、監 察結 果 にお い ては「陸 自に
お ける本 件 日報 の 取扱 い の状 況 を確認 す ることにより、対 外説 明 スタンスを変 更 す る
機 会 があったにも関わらず 、陸 自にお い て本件 日報 は適 切 に取 り扱 われているとの対
外説 明スタンスを継続 した J(監 察結 果 )行 為 が職 務 遂行 義務違反 に当たると認 定 され
ました。これを受 けて四 日間 の停職 処 分 を受 け 、即 日事務 次官 の職 を辞す ることとなり
ました。事務 次 官 が停職 処 分 を受 けて辞職 したの は防衛 庁 時代 を通 じておそらく史 上
初 めてのケースだと思 い ます 。私 の役 人 人 生 は 、極 めて不 名 誉 な形 で幕 を開じました。

判 断を誤 つた原 因
懲 戒 処 分 の 直接 的な理 由は 2月 15日 朝 の判 断 間違 い でしたが 、これ には複 数 の
原 因 があつたもの と思 い ます。
第 一 に、日報を公表 した直 後 に始 まった報道 や 野党 の「隠蔽 キャンペ ーン」が 予想
外 に長 引 いたことに苛 立ちを感 じ、強く反 発 し、冷静 さを失 つたことです。事態 の収拾
を急ぐあまり、目先 の 混乱 回避 を優 先 して事 実 の解 明に 日をつ ぶるとい う誤 りを犯 した
結果 、大 臣は繰 り返 し国会 で不正 確 な答弁 をす ることとなり、最 終 的 に大 臣を辞任 に
追 い 込む こととなってしまいました。
第 二 に、「個 人デ ー タJに 関する思 い 込 み です。タイで国 際電 話 を受 けた時 点であ
れ 2月 15日 に陸幕 長 から報 告を受 けた時点 であれ 、 「個 人デ ー タ」なるものの 定義 や
内容 、さらには保 管状 況 等 の 実態 を精 査 す べ きでした。しかし、日報 がル ー ル 通 り破
棄 され ていたかどうかとい う実務 的 で 単純 な問題 だと見誤 つていた上 、 「個人デ ー タJと
い う言葉 から自分 のファイル を連想 してしまい 、明示 的 に確認 することを怠 りました。
第 二 に、タイから帰 国 した後 、間近 に迫 つた 日米 防衛 首脳 会 談 に気をとられ過 ぎて
フォロー を怠 つた上 、問題 がこじれると自分 一 人で処 理しようと抱 え込 んだことです 。官
房などの 関係 部 局を巻 き込 んで組織 的 に対応 していれ ば判 断 ミスを防 げたのかも知
れませ ん 。13年 前 、16大 綱 の 作業 に集 中し過 ぎて中国原 子 力潜水艦 に不 意 打ちさ
れた挙句 、自分 一 人 で処理 しようとして海 警行 動 の発令 が遅 れてしまったのと同様 の
過 ちでした。
第 四 に 、日報 とい う第 一 次資 料 を用 済 み 後破 棄 扱 い してい ること自体 の 問題 を十
分 に認識 しなかったことで す。12月 に報 告を受 けた段 階 で 、日報 の 取扱 い に対 して感
じた違 和感 を深 掘 りす るべ きでしたが 、問題 意識 が 十 分 でなかったためそこまで踏 み
込 むことが 出来 ませ んでした。

皮 肉だ つた監 察結果
監 察結 果 では 、7月 に行 われた別 の 開示請 求 に対 し陸 自内で 日報 を巡る「不適切
な対応 」(監 察結 果 )が あつたとい う新 たな事 実 が 明らか になりました。上 に述 べ た通 り
「防衛 省 として 日報 は公表 していることから、情報 公 開法 上 は問題 な い」(監 察結 果 )と
いう点 が私 の 大きなこだわりでした。ところが監 察結果 は 、このこだわ りこそが私 の意 に
反 して逆 に隠薇 を生んで いたという皮 肉な構 図を浮 き彫 りにしました。
どの 段 階 であれ 陸 自 に保 管 され て い た 日報 の 状 況 を冷 静 か つ 徹 底 的 に調 査 して
いれ ば早 期 に実態 が明らか になったはず なの に、感 情 的 になつてこれ を拒 んだことで 、
結果 的 には私 自身も知 らなか つた 7月 の請 求 に対 する陸 自内 での「不適切 な対応 」
(監 察結果 )を も覆 い隠す ことにつ ながっていた訳 です。
問題 を過 小 評 価 した上 に冷 静 さを失 つて判 断を誤 り、自ら問題 を大 きくした結 果 、
大 臣をは じめ多 数 の 関係 者 に多 大なご迷 惑 をお か けした上 、防衛 省 に対す る信 頼 を
も大きく損 なつてしまったことについ ては弁解 の余 地もありませ ん。
あえて一 言 で総 括 すれ ば「謙 虚 さを欠 いてい た 」ことがこの 失敗 の 最 大 の原 因 だ つ
たように思 い ます 。一 人 で抱 え込む ということは、自分 の能 力 に対す る過信 の裏 返 しで
す。また 、いつ の 頃 からか 、議 論 の 際 に相 手 の 主張 に落 ち着 い て耳を傾 けるよりも、自
分 が正 しい と考 えるところを強 く主 張す ることばか り考 えるようになつていた気 がします。
立 場 の 如何 にかかわらず 、自らの正 当性 を強 く主 張 し過 ぎれ ば独 善 に陥 ります 。さら
に、事務 次 官 になつて二 年 目とい うことで慣 れ と儒 りもあつた のかも知 れ ませ ん 。部 下
に「どんどん反 論 してくれ Jと 言 つてお られ た先輩 を 目標 としていた筈 なの に、反論 を許
さない ような独 りよがりな態度 で仕 事 をして いたのだとす れ ば 、尊敬 する先輩 とは正 反
対 の謙虚 さを忘れた未熟 な振 る舞 い をしていたことになります。
様 々 な意 味で 、大きなI晦 いの残 る失敗 でした。
エピロー グ
防衛省 での最 後 の 日
パ ソコンの 強制 終 了 のような格 好 の 悪 い辞 め方 になってしまった の で 、最後 の 日は
目立たない ように退 庁しようと考 えていました。次官 が退 任 す る際 には 、通 常 、離任 式
と栄 誉 礼 、儀 伎 につ い で 見 送 り行 事 が行 われ ます が 、当然 のことながら全 て辞 退 しま
した。自分 を支 えてくれ た多くの職 員 さんたちに挨 拶 する機 会 を失 つたことは心残 りで
したが 、停 職処 分 を受 けての 自己都 合退職 なので仕 方ない とあきらめていました。
ところが 、夕方 防衛省 本館 の 11階 か ら 1階 までエ レベ ー ター で 降 りて 、扉 が 開 いた
途端 に 目にしたの は 、大勢 の職 員 が玄 関 ロビー に並んでいる姿 でした。一 瞬何 が 起き
たのかわか りませ んでしたが 、私 を支 え続 けてきてくれ た事 務 次官 室 チ ー ムの 皆 がサ
プライズ で 見送 りを準 備 してくれていた の です。ロビー を抜 けて車 寄 せ まで歩 い てい く
わず かの 間 でしたが 、長 く一 緒 に仕 事をしてきた多くの後輩 や職 員 の 人たちに挨拶 が
出来 た上 、こん な辞 め方 にもかかわらず拍 手 で送 り出 して頂 いたことに ,よ いか ら感 動 し
ました。辞職 直前 の 1週 間 ほどは 自らの進 退を含 めて問題 の収拾 のためず っと張りつ
めた気 持 ちで過 ごしていたのです が 、み んなの顔 を見た瞬 間 に緊 張 が解 け、車 寄 せ
で秘書 さんから花 束 を受 け取 つた 時 は 、こみ 上 げるものをこらえるの に苦 労 しました。
そ の後 、車で官舎 まで 送 つて頂き玄 関 に入 ろうとしたところ、猛 スピー ドで我 々 を追
「黒 江 さん
つてきた 一 台 の 車 が ありました。 !」 と呼 びながら駆 け降 りてきた の は 、苦 し
い仕 事 を一 緒 に切 り抜 けてきた二 人 の若 い後輩 たちでした。役所 で機 会 がなか ったた
れ の挨 拶 をしに追 いか けて来 てくれた のでした。これ には感 動 のあ
め 、わざわざお男け
まり感謝 の言葉もろくに言 えませ んでした。
防衛 省 最 後 の 日をこん な素晴 らしいもの にしてくれた 数 多くの 後 輩 、職 員 さんた ち
には 、どれだけ感 謝 してもし切 れませ ん。

戦 友 、盟 友 、旧友
退 官 前 後 に少 なか らず世 の 中を騒 がせ たこともあつて 、省 内外 の 先輩 や 後 輩 、国
会議員 の先 生 、さらには 一 緒 に仕 事をしたカウンター パ ー トの人たちなどから数 えきれ
ない ほどの 心配 や 労 い 、さらには励 ましのメッセー ジを頂 きました。それ らはどれも本
当 に心温まるもので 、読 み返 し、思 い返す と今 でも 目頭 が熱 くなります 。
「御 苦 労 さ
退職 の辞令 交付 を待 ってい る時 にある防衛 大 臣経験者 が電話 を下さり、
ん。でも、俺 はお 前 が辞 めな い とい けな い とは思 つてね えからなJと ぶ っきらぼうに労 つ
て下さったの は胸 に沐 み ました。また 、ある政務 三 役 経 験者 の「あんたね 、これ は巡 り
合 わせ だから。巡 り合 わせ は 自分 じゃどうにもならないか ら。ご苦 労 さんだ ったなJと い
う独 特 の説 得 力ある慰 めは素 直 に胸 に落 ちました。
辞職 直後 に防衛 大学校 長から届 いたメール は 、読 みながら涙 が止 まりませ んでした。
救急搬 送 されて入 院 した 自衛 隊 中央病 院 では 、院長 先 生 から「サムライだと思 います 」
と労 われ て元 気 づ けられ ました。官 邸 でともに総 理 をお 支 えした秘 書官 、内 閣参 事 官
チ ームの 面 々や 秘 書官付 室 の若 手 の み んなからは 、役 所 の機 微 を知 る人たちならで
はの 温か い励 ましを頂きました。
役所 を辞して半年 間 ほど故郷 山形 で過 ごしていた際 には 、多数 の来 客 がありました。
外務 省 のある大使 は 、一 時 帰 国 の 際 に訪 ねて来 て下さつて、地元 の居 酒屋 で一 晩痛
飲 しました。か つ て安 危 室 で一 緒 に働 い た警 察庁 や 防衛 省 、外 務省 の若 手 の 人たち
も足 を運 んでくれました。そ の 中の一 人 は 、わざわざ休 暇 を取 つてパ リから駆 けつ けて
くれ ました。結婚 の報 告 の ため 、カップ ル で訪 問 してくれた後輩もい ました。彼 ら、彼 女
らは 、み んな私 の 大切な戦友 でした。
外務省 の方 々と一 緒 に仕 事 をする機 会 が多 か ったこともあり、海 外赴 任 中の 大使 の
方 々か らもメール や お 手紙 を頂 戴 しました。何 度も窮 地 を助 けて頂 い たある大 使 か ら
は、「「盟友 」と呼 ばせ て頂 きたい」とい う労 いのメール を頂 戴 し、恐縮 し、感 激 しました。
山形 で過 ごした家 内 の実家 は西 蔵 王 高原 にはど近 く、40年 ぶ りに故 郷 の美 しい 自
然 を満 喫す ることが 出来 ました。また 、私 の辞職 のい きさつ を心配 してくれて いた 旧友
たちの 細や かな気 配 りは心 に辛
きみました。帰郷 当初 は私 の方 が身構 えていましたが 、
中学や 高校 の 同窓生たちは時 間をか けて私 の 心を解 きほぐしてくれました。退 官 直後
には積 み 重なつたストレスで体 調 を崩 して入 院 す るほど心 身 ともに疲 れ 切 つてい たの
です が 、故郷 の 自然 と1日 友 たちはそんな疲 れをいつの 間 にか洗 い流 してくれました。

最 強 のチ ーム
そして、私 の最も近 くで最 後 まで 一 緒 に戦 つてくれたのが最 強 の次 官 室チ ームでし
た。この連 載 では 、原 則 として個 人名 の記 載 は避 けてきましたが 、チ ームメンバ ー だけ
は実 名 を挙 げて感 謝 させ て頂 きたい と思 い ます 。
官房 長 時代 か ら支 え続 けてくれた渡 辺 君 は 、私 の 息子 と同 い年 とい う若 さにもかか
わらず 、いつ も先 を読 んでサブもロジもパ ーフェクトにこなしてくれるスー パ ー 秘書 官 で
した。彼 なしでは仕 事 が 出来ない ほど頼 り切 つていたため 、辞 職 後 か なり長 い 間「渡 辺
君 ロス」に悩 まされ ました。南 スー ダン 日報 問題 も、一 人 で抱 え込 まず バ ランス感 覚 に
優 れた渡辺 君 に相 談 していたらあんな事 にはならなか った 、と今も悔や んでい ます 。
秘書 の 陣 内さんは 、防衛 政 策 局 次長 の 頃 から、官房長・局長 、事務 次官 と、私 の キ
ャリアの 中で最も多忙 だ った 6年 間をず つと支 え続 けてくれました。毎 晩遅くまで拘束
される日々だつたにもかかわらず 、嫌 な顔 一 つ 見 せ ず に「笑顔 とお 菓 子 は絶や さないJ
とい う申 し合 わせ 通 りいつ もにこや か に接 してくれました。最 後 の 日に花 束 を渡 してく
れた時だけは、笑顔 ではなく涙顔 でしたが。
海 上 自衛 隊 からは 、次 官副官 として二 人 の女性 自衛 官 を派遣 して頂きました。一 年
練 で海 上 に漂 う火 薬 の
目に副官 を務 めてくれた重 見 (1日 姓 )一 尉 が 、観 艦 式 の展 示 尋‖
香 りに「懐 か しい Jと つ ぶ や くの を聞 いてび つくりしました。彼 女 は武 器 の 専 門家 で 、私
に核融 合反応 のメカニズムをわかりやす く教 えてくれました。二 年 目は、特殊 言 語 に精
通 し北 朝 鮮 の ミサイル 等 の情 報 に詳 しい佐 藤 一 尉 が 副 官 でした。そ の 頃 か ら北 朝 鮮
は昼 夜 の別 なく頻 繁 にミサイル を発射 す るようになり、彼 女 は休 日にミサイル 対応 のた
め 美容 室 を途 中 にして駆 けつ けてくれた こともありました 。ご両人 とも英語 が 堪 能 で 、
完壁 に私 の 日程 を管理 し、平 日体 日をFplわ ず 国 内 出張 には必 ず 同行 してサポ ー トし
てくれ ました。式 典 の 際 、彼 女 らが海 上 自衛 隊方 式 で 磨 い てくれた ピカピカの革 靴 に
自分 の顔 が映 つた の には本 当に驚 かされ ました。
国会担 当審議 官 の 頃 からドライバ ー を務 めてくれた清 水 さんの優 しい安 全 運転 は 、
官用 車を貴重な休 膚、
の場 にしてくオしました。毎朝 夕 の 出退 庁 の車 内では 、いつ も安 心
しり」つて寝 落 ちしてい ました。東 日本 人震 災 が 発 災した瞬 間は、清水 さん の運転 す る
中:で 横 須 賀 に向か ってい ました。羽 田辺 りから引き返 し、大渋滞 の 中を 10時 間以 上か
けて市ケ谷 の本 省 まで 緒 に戻 って来 た事 は決 して忘れ られない思 い 出 です 。
このテー ムと一 緒 に仕 事 が 出来 たのは 、私 にとって最 大 の 喜 びであり誇 りです .

思 い 描 い て い たような終 わ り方 で はありませ ん で したが 、それ によつてた くさん の


方 々 に支 えられ た役 人 人 生 だ ったことに改 めて気 づ か され ました。そうした絆 の一 つ
つ が 、失 敗だらけだ った 自分 の役 人 人 生で得 られた貴重 な宝物 で す。最 後 に大 失
敗 を犯 しましたが 、父親 に211当 され ながら防衛 省 で仕 事 をしてきた の は正 しい選 択 だ
ったと感 じています 。
この場 を借 りて 、これ までご迷 惑 をおか けしてきた全 て の人 々 にお 詫 び す るとともに、
お世話 になった全ての皆様 に改 めて感 謝 の意 をお伝 えしたい と思 い ます。
また 、拙 稿 の掲載 を容認 し、協 力して下さつた市ケ谷 台論壇 の 関係 者 各位 に心より
感謝 を中し上 げるとともに、失敗 談 に最 後 までお付 き合 い 下さつた読者 の方 々 に厚 く
御 礼を申し上 げて連載 を終 了させて頂 きます。
ありがとうございました。
(完 )

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