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道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較

田阪 正則

<目
次>
はじめに 相思蛇說話の場合
相思蛇說話 戀の恨みをかった男たち
道成寺說話にて女が蛇になる時 おわりに
道成寺說話、 相思蛇 상사뱀

はじめに

なぜ、女は蛇になるのだろうか。熊野詣での若い僧に愛欲を抱いた寡婦が
蛇となって、道成寺に逃げ込み鐘の中に隱れた僧を鐘ごと丸燒きにしたとい
う、道成寺說話に代表される一連の仏敎說話に接したとき、誰でも抱く素朴
な疑問であろう。
道成寺說話は、 大日本國法華経驗記 卷下第一二九話 紀伊國牟婁郡惡
女 、 今昔物語集 卷十四 紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三 、さらに
元享釋書 道成寺緣起 などの多樣な文獻に伝わるばかりでなく、淨瑠
璃や能、歌舞伎といった舞台芸能となり、安珍淸姬物語とも呼ばれ、現在ま
で多樣な形で伝えられている。
またここに相思蛇說話という韓國口承說話がある。その名のごとく、相思
病 によって死んだ者が蛇となるというモチーフをもつ說話である。道成寺說
話と同じく女の蛇となることを話の核にもつのが、相思蛇說話である。相思
蛇說話に關しては、日本において論及したものはなく、韓國においても、金
容德 淸平寺緣起說話考 および姜秦玉

慶熙大學校 外國語大學 日本語學科 助敎授


ハングルでは 。 戀煩い。 戀情にかられてなる病氣のことを言う。
相思蛇說話の 変身 を通してみる欲望と規範の問題
が全てである。
本稿は、韓日說話文學に現れた、それぞれの意識の相違を考察することを
目指すものであり、同じ女の蛇となるモチーフを核にもつ道成寺說話と相思
蛇說話 韓國口碑文學大系 收錄 話 との比較硏究である。もちろん、文
獻說話であり、かつ仏敎說話である道成寺說話と、特定の思想的背景を特に
もたない口承說話である相思蛇說話とを同じレベルで比較することはできな
いが、女の蛇となるとはどういうことなのか、またその時、男はどのような
言動をとるものと描くのであろうかという点に絞って二つの說話を比較する
ことにより、そこから讀み取れるそれぞれの意識の相違を考えることはでき
るものと考える。

相思蛇說話

金容德 淸平寺緣起說話考 は、文獻記錄として 編を擧げているが、こ


れらは口承されていたものを 年代に入って記錄したものである。金容德
は、相思蛇說話を次のようにまとめている。

男または女が蛇になる二つの類型の說話にて共通する特徵は、男が蛇になる場
合、片想いの末、死んで蛇になり女の体にとりつき悲劇的な結末を描く。一方、女
が死んで蛇になる場合、具体的人物の登場する人物說話と結び付き、その結末は必
ずしも悲劇的ではなく、男を助け想いを遂げるという內容である。 中略 悲劇的
結末で終わるのは相思蛇說話の原形であろうと考えられる。

相思蛇說話では、蛇になるのは女だけではない。男も蛇と化すのだが、こ
の場合、戀した女にとりつき兩者共に死ぬという悲劇的結末を遂げると言
う。一方、女の蛇と化した場合、人物說話と結合し、男の成功を助ける見返
りとして女は想いを遂げるという結末を描く。よって悲劇的結末というの
が、相思蛇說話の原形であるとしている。ところでその考察は、あくまで相

漢陽語文 第 輯 漢陽語文學會
古典文學硏究 第 輯 韓國古典文學會 題目の日本語譯は論者。
注 に同じ。 論者譯。
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

思蛇說話の一類型である淸平寺緣起說話を論じるにとどまっている。
姜秦玉は、蛇となる主体の性別に注目し、 男性型 女性型 に二分、
更に男性型は 相思解き型 と 相思蛇退治型 、女性型は 未婚型 と
旣婚型 にそれぞれ二分する。しかし、これは口演者の性別により說話の
內容が規定されることを論じようとする目的からの分類であり、例えば男性
型・相思解き型とする 編を見ても、相思解きが失敗する 編と成功する
編をひとまとめにしている。本稿では、モチーフによる分類を次の表のよう
に試みた。

基本型 5-1-160, 6-11-622, 8-9-714, 8-14-97, 8-14-297, 8-9-1061


相思岩型 7-8-772, 7-13-266, 8-3-351, 8-4-640, 8-5-165
岩由來型 8-1-225, 8-2-140, 8-11-470,
8-14-367
夫渡日型 7-6-205, 7-13-262, 8-9-200
6-2-764, 6-3-445, 7-1-414, 7-15-364,
受容型
8-5-316, 8-5-681
追放型 7-6-656, 7-13-72
英雄型
変形女受容型 7-1-417

祟 り型 7-11-740, 7-15-368, 8-3-684, 8-4-242, 8-10-351,


8-10-357
退治型 淸平寺型 2-2-387, 2-2-709
供養型 7-8-373
お 祓い型 7-14-242
粥振る舞 い型 7-13-264
トビ型 8-14-799
回避型 8-5-719, 8-9-347, 8-9-715, 8-9-1167, 8-14-800

數字は 韓國口碑文學大系 卷數 頁數。太字に点線は女が蛇になる話。

基本形は、最も簡潔なもので、戀煩いの末、死んで蛇となり相手の体にと
りつき殺してしまうというものである。この下位に 相思岩型 がある。
相思岩型 は、基本型の結末が、巫女による相思解き 實らなかった戀の
恨みを解くためのお祓い が行われるが失敗し、蛇と共にその者を岩から下
の川や沼に突き落してしまうという結末となる話である 。これには特定の場
所を語り 、そこにある岩を相思岩とするという伝說ともなっており、いずれ
も戀し戀された兩者共に死ぬという悲劇的結末となっている。悲劇的結末と
いう点では 夫渡日型 も基本型に同じであるが、登場人物が夫婦であるこ
とが異なる。これは、妻が日本に渡って行った夫戀しさに死んで蛇となり、
舅姑の手で日本の夫の元に送られ、夫の体にとりつき二人とも死んでしまう
という話である。
英雄型は、相思蛇說話が人物說話と結合したもので、主人公が蛇となった
女の戀心を受け入れる 受容型 と、女の化した蛇を追い出してしまう 追
放型 とがある。主人公は、無名の者 や人物の特定がされてない
もの のほか、姜邯贊 、李舜臣
、趙德麟 、趙穆・李滉 といった歷史に
名聲を殘した人物たちである。 変形女受容型 は、英雄型の変形したもの
で、夫の友人の男に戀された旣婚女性が夫の勸めでその男の化した蛇のいる
部屋に裸で入るが、何事もなく一夜をすごしたという話である。祟り型は、
英雄型の受容型に、蛇を殺した者がその祟りにあうという話を加えたもので
ある。戀煩いの末、蛇になった女に慕われるのは李滉と同年代を生きた性理
學のもう一人の大家曺植。曺植は、自分を慕った女の化した蛇を大切に育て
いたが、弟子の鄭仁弘がその蛇を殺してしまう。鄭仁弘は後の仁祖反正で逆
賊とされ殺されるが、これは殺した蛇の祟りによると伝える話である。
退治型は、体にとりついた蛇を何らかの形で退治する話で、退治する経緯
により、 淸平寺型 供養型 お祓い型 粥振る舞い型 、そして

例 、娘が靑年に戀し死んで蛇となり、靑年の体にとりつく。靑年は岩か
ら落ちて死んだ。それで相思岩という。
例 、官吏の娘に貧しい靑年が戀し死んで蛇となり娘の体にとりつく。相
思岩で巫堂にお祓いをさせるが効驗がないので、娘を岩から落として殺した。
巨濟島の長承浦 、慶尙南道咸安郡の合江亭 、慶尙南
道泗川市の理明山 。
例 、趙穆が退溪のもとで學んでいた頃、通う途中に住む卑しい身分の娘
が趙穆に惚れた。娘が一度家に來てくれと哀願するので行くと、手に手ぬぐいを卷
いてさわってやった。娘はその後も趙穆のことを想いつつ死んでしまった。趙穆が
退溪のところに向かう途中、死んだ娘が相思蛇となってついてきた。それを見拔い
た退溪がにらみつけて蛇を退散させ、やがて蛇は死んだ。趙穆が長生きできなかっ
たのは、このためだ。
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

トビ型 に分類できる。 淸平寺型 は、唐の平陽公主に戀した金剛山の


僧 であったり、王宮修理を任された大工の頭 が、死後蛇
となり 公主 の 体 にとりつくのだが 、 それを 淸平寺 にて 落雷 を 受 け 死 ぬ
なり、淸平寺の瀧で沐浴をして 体から離すことに成功
し、そのことから唐の皇帝が淸平寺を建立したという話である。 供養型
とは、一夜の契りを交した女が、相手の男を慕い死後蛇となるが、男が女を
手厚く弔い寺を建て鐘を奉納すると、男の体についていた蛇が姿を消すとい
うもの。 お祓い型 は、八人の巫堂たちのお祓いにより、蛇の恨みを鎭め
たという話。 粥振る舞い型 は、從姉の体をみた男が死に鼻から出てきた
蛇を從姉が火で燒き、その火で炊いた小豆の粥を下人たちに振る舞ったとい
うもの。そして トビ型 は、女の体にとりついた蛇が、女の睡眠中に女の
体から離れているところをトビに喰われたというものである。
最後に 回避型 は、他とは多少趣きを異にしている。托鉢の僧の鼻の穴
から蛇が出てきて美しい娘を探しに來るのだが、それを見た人物が先回りし
て娘にメンスで汚れた下着を頭から被らせ便所に隱れさせて難を逃れるとい
う話である。
表の數字表記は 韓國口碑文學大系 の卷と頁數を表したものであるが、
その部分を点線の下線に太字で表記したものは、道成寺說話と同じく女の蛇
と化すものである。基本型と相思岩型に、女の蛇と化す話が一例づつ混入し
ているが、その他の型は、蛇と化すのは性別によりほぼ區分されていること
が分かる。蛇に化すのが男である型は、基本型・相思岩型・粥振る舞い型・
トビ型、それに回避型である。基本型は相思蛇說話の基本となる形であり、
相思岩型・粥振る舞い型・トビ型・回避型のいずれも基本型と同じく簡潔か
つ 素朴 な 內容 の 話 である 。 基本型 に 混入 している 女 の 蛇 と 化 す 一例
は、同じ基本型に比べ、 倍ほど話が長く複雜になっていて、基
本型の中でも新たな話の添加が行われたものであると言えよう 。これ以外の

韓國口碑文學大系 卷 一人娘が短命だというので、山奧の岩
の下に、僧と共にすまわせた。そこに雨の中、一人の士がやって來て雨乞いをし
た。そのとき、僧は村に下りていていなかった。二日、三日と雨が續き、男が歸ろ
うとすると、女はまたいつくるのかと問う。女は一年に一度、三年に一度來るよう
に言う。ところが男が家に歸ると、父親から嫁をとるように言われ、女を想う氣持
はあったが、言われる通り結婚し、科擧にも合格した。そうして數十年が過ぎたあ
ものは、相思岩型に混入した女の蛇と化す一例 を例外として、男の
蛇と化す話は、他の相思蛇說話と比べ、簡潔で素朴な內容からして、より古
い形であるものと言えよう。
すると逆に、女の蛇と化す相思蛇說話は、これに何らかの創作なり変形な
りが加わった比較的新しいものであるということになる。女の蛇と化すもの
は、英雄型・祟り型、そしてお祓い型であるが、これらはいずれも相思蛇說
話の比較的古い形の上に人物伝說が結合した話である。このように、戀の恨
みをもって死んだ者が蛇となるというモチーフを核に、いくつかの要素が加
えられ、語られてきたのが相思蛇說話であることがわかる。
ここまで相思蛇說話の全体像を大まかに把握した上で、次に、本稿で問題
とする女の蛇となるに至る経緯を中心に、道成寺說話の方から考察を進めた
い。

道成寺說話にて女が蛇になる時

まずは古い文獻資料の一つ 今昔物語集 卷十四 紀伊國道成寺僧寫法花


救蛇語第三 によって、女の蛇となるに至る経緯を見ていくこととする。

今昔、熊野ニ參ル二人ノ僧有ケリ。一人ハ年老タリ。一人ハ年若クシテ形皃美麗
也。牟婁ノ郡ニ至テ、人ノ屋ヲ借テ、二人共ニ宿ヌ。其ノ家ノ主、寡ニシテ若キ女
也。女從者二三許有リ。
此ノ家主ノ女、宿タル若キ僧ノ美麗ナルヲ見テ、深ク愛欲ノ心ヲ發シテ、懃ニ勞
リ養フ。而ルニ、夜ニ入テ僧共旣ニ寢ヌル時ニ、夜半許ニ家主ノ女、窃ニ此ノ若キ
僧ノ寢タル所ニ這ヒ至テ、衣ヲ打覆テ並ビ寢テ、僧ヲ驚カス。僧驚キ覺テ、恐レ迷
フ。女ノ云ハク、 我ガ家ニハ更ニ人ヲ不宿ズ。而ルニ、今夜君ヲ宿ス事ハ、晝君
ヲ見始ツル時ヨリ、夫ニセムト思フ心深シ。然レバ、 君ヲ宿シテ本意ヲ遂ム ト
思フニ依テ、近キ來ル也。我レ夫無クシテ寡也。君哀ト可思キ也 ト。僧此レヲ聞
テ、大キニ驚キ恐レテ、起居テ女ニ答テ云ク、 我レ宿願有ルニ依テ、日來身心精

る日、男は女を再び訪ねてみた。すると岩の下は荒れ地になっていた。女は一年目
の十月十一日、三年目の十月十一日、そうして十年後の十月十一日に男を待ちなが
ら、ついに死んでしまっていたのだ。男が乘ってきた馬にまたがり歸ろうとする
と、大きな蛇が出てきて、男はそれに卷き付かれて死んでしまった。
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

進ニシテ、遙ノ道ヲ出立テ權現ノ宝前ニ參ルニ、忽ニ此ニシテ願ヲ破ラム、互ニ恐
レ可有シ。然レバ、速ニ君此ノ心ヲ可止シ ト云テ、强ニ辭ブ。女大キニ恨、終夜
僧ヲ抱テ擾亂シ戱ルト云ヘドモ、僧樣々ノ言ヲ以テ女ヲ誘ヘテ云ク、 我、君ノ宣
フ事辭ブルニハ非ズ。然レバ、熊野ニ參テ、兩三日ニ御明・御幣ヲ奉テ、還向ノ次
ニ君ノ宣ハム事ニ隨ハム ト約束ヲ成シツ。女約束ヲ憑テ本ノ所ニ返ヌ。夜 ヌレ
バ、僧其ノ家ヲ立テ熊野ニ參ヌ。
其ノ後、女ハ約束ノ日ヲ計ヘテ、更ニ他ノ心無クシテ僧ヲ戀テ、諸ノ備ヘヲ儲テ
待ツニ、僧還向ノ次ニ、彼ノ女ヲ恐レテ、不寄シテ、思他ノ道ヨリ逃テ過ヌ。女僧
ノ遲ク來ヲ待チ煩ヒテ、道ノ辺ニ出デヽ往還ノ人ニ尋ネ問フニ、熊野ヨリ出ヅル僧
有リ。女其ノ僧ニ問テ云ク、 其ノ色ノ衣着タル、若ク老タル二人ノ僧ト還向シツ
ル ト。僧ノ云ク、 其ノ二人ノ僧ハ早ク還向シテ兩三日ニ成ヌ ト。女此ノ事ヲ
聞テ、手ヲ打チ、 旣ニ他ノ道ヨリ逃テ過ニケリ ト思フニ、大ニ嗔テ、家ニ返テ
寢屋ニ籠居ヌ。音セズシテ暫ク有テ、卽チ死ヌ。家ノ從女等此レヲ見テ泣キ悲ム程
ニ、五尋許ノ毒蛇、忽ニ寢屋ヨリ出ヌ。家ヲ出デヽ道ニ趣ク。熊野ヨリ還向ノ道ノ
如ク走リ行ク。

以上は寡婦が蛇となるまでの描寫である。寡婦は求道中の若い僧に 愛欲
ノ心 を抱き、その寢床に忍び入り、夫となるように迫る。驚いた僧は修行
の身であることを理由に寡婦の誘いを斷る。しかし寡婦の想いは强かった。
自分を受け入れようとしない僧を恨み、夜通し僧に身を摺り寄せて誘惑す
る。僧は、たまらず熊野詣での歸りに寡婦を受け入れることを約束してしま
う。朝となり僧は熊野へと向かう。寡婦は、僧の歸りを指折り數えて待つ。
ところが約束の日になっても僧はやって來ない。僧が自分をだまして一足先
に歸路についたことを知った寡婦は、 大ニ嗔テ 寢屋に引き籠もり死に蛇
と化す。嗔、すなわち瞋恚とは、仏敎で說く三惡および十惡の一つであり、
自分の心に逆らうものへの怒りと恨みを意味する。寡婦は强い愛欲にから
れ、その想いを受け入れられないばかりか、裏切られたと感じることによ
り、激しい怒りと恨みの化身となり、大きな毒蛇と化すのである。

新日本古典文學大系 今昔物語集三 岩波書店


以下、 今昔物語集 の引用はこれによる。
女が蛇と化するについて、文明載 今昔物語集
日本硏究 第 號 韓國外國語大學校外國學綜合硏究 日本硏究所 は
過分なる愛への執念が背景となった男への怨念が原因と論ずる。
次に、初めて安珍と淸姬の名が揃って登場する淨瑠璃 道成寺現在蛇鱗
から、淸姬が蛇へと姿を変える樣子を見ることとする。淸姬が自分を捨てて
逃げ出した安珍の後を追い、家を出て行く姿を描く部分である。

行空の道もあやなき戀路の闇、安珍立退給ふと聞き、はつと驚く淸姬が、胸も張
裂く瞋恚の炎、焦れ焦るる我思ひ、心强くも僞りて、捨行く夫の面憎や、何處迄も
おつかけて、恨を言はで置うかと、寢所を忍び立出づる。

安珍の逃走を伝え聞いた淸姬は、 瞋恚の炎 に焦れ、自分を捨てた安珍


に恨み言を言うために出て行ったとある。安珍はこの時、すでに道成寺に逃
げ込んでおり、後を追う淸姬の前には日高川が行く手を遮っていた。日高川
を渡るには渡し舟に乘らなければならなかったが、安珍は渡し舟の船頭に、
自分の後を追って道成寺を目指す女をけして渡さないよう言い聞かせてい
た。その船頭に淸姬の言うには、

思ふ男を人に寢取られ、私は行ねば焦れ死、捨る命は惜まねども、たつた一言
恨がいひたい。

安珍戀しさの一念にかられ、一言恨みを言いたいという思いはますます强く
なっている。そして、船頭から舟を渡すことを斷られると、淸姬は川に身を
投げ、ついに蛇となるのである。

川へざぶんと飛込んで、逆卷く浪をかき分けかき分け、左手に沈み右手に浮き、
拔手を切つてさつさつさ、さつと飛びちる水煙、雲をさそへる蛟龍の、巨海を渡る
ごとくにて、跳ね立て、蹴立てて泳しが、瞋恚の猛火五體を焦し、口より吐く息
炎々たる、灸を吹きかけ目を瞋らし、髮逆に振亂し、一念凝つたる勢に、舟長恟り
わななき聲、 ヤレ恐しや冷じや、鬼に成つた蛇に成つた。そりやもう來るはヤレ
上るは、喰殺されては成るまい と、舟を乘捨て驅上り、堤の原を橫切に、命から
がら逃げて行く。淸姬は一筋の、瞋恚强勢弛まず去らず、難なく岸根に泳ぎ付

有朋堂文庫 淨瑠璃名作集中 有朋堂書店


前揭の書。
前揭の書。
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

淸姬が日高川に飛び込み蛇体となったのも、やはり男の裏切りに對する瞋
恚の思いからであった。その変わりゆく姿を目の当たりにした船頭は、 鬼
になった、蛇になった と仰天し叫びながら、命からがら逃げ出している。
淸姬は変わり果てた自身の姿に、安珍と一緖になる望みを捨て、安珍を取り
殺すことを決意する。
道成寺說話にて女が蛇になる時、それは愛欲にかられた上に、男に裏切ら
れたことへの瞋恚 怒りと恨み が、命への執着を越えるほど激しく燃え上
がった時であった。

相思蛇說話の場合

それでは、相思蛇說話は、人の蛇と化す時をどのように語っているのであ
ろうか。基本型より一つの話を紹介しよう。卷 相思蛇 であ
る。

昔は、若い男女がお互いの姿を見ることも難しかった。相思相愛の男女がいた
が、會うこともままならず、そのうち男が死に、相思蛇となった。女も病になり、
お祓いというお祓いをしても治らない。するとある時、蛇が女の体に絡み付き、頭
を女の顎の下につけ、女の淚を受けて飮んでいた。それで相思解きをすることとな
り、巫堂が相思解きを始めた。やがて蛇は地に落ち、娘も死んでしまった。

靑年と娘は相思相愛であり、封建的な社會の風習が二人の戀をこの世にお
いて實らないものとしていた。裏切りと瞋恚といった感情というより、純愛
や無念という情感を与える話となっている。
もう一つ、基本型の話を見ることとする。やはり卷 より 相思蛇
である。

全羅道の鷄龍に住む下男が、その家の娘に橫戀慕した。娘が拒むと男は心を痛め
死に、數ヵ月後、大きな蛇になって娘の部屋に入り、服の下から体に卷き付いた。
娘が便所に行くときや、外に出るときは離れ、部屋の中に居座った。娘も瘦せ衰え
死んでしまい、男の墓の橫に埋めた。

韓國口碑文學大系 卷
下男が主人の娘に戀するという、身分差による失戀という、社會問題を內
包しているが、裏切りに對する怒りといった感情は讀み取れない。身分をわ
きまえない無謀な戀に落ちた下男の愚かさが、聞く者の同情を少なからず誘
う程度の話である。
基本型は蛇に化すのは男であり、女の蛇と化す道成寺說話とは根本的な相
違があっても当然かも知れない。そこで次に、女の蛇と化す相思蛇說話であ
り英雄型の受容型に分類される卷 戀煩いで死んだ娘
を見てみよう。

娘が書堂に通う靑年に戀し、病の床に伏した。娘の老母が靑年のところを訪ね、
家に呼んで來る。靑年が訪ねて行くと、娘は蛇になっていた。靑年が着ていた衣服
を脫ぎ 恨みを解くがよい と言うと、蛇は靑年の体に卷き付き死ぬ。靑年は蛇を
山に埋めてやり、後に政丞となって裕福に暮した。

これは未婚の男女の話である。娘は靑年への想いを伝えることができず戀
煩いにかかる。やはりここでも、靑年への怒りや恨みは讀み取れない。女が
蛇になることよりも、蛇になった女の想いを体を張って受け止めることによ
り靑年が出世したという出世譚の方に話の中心がある。怒りや恨みとは無緣
の、娘の純愛と靑年の物怖じしない包容力を美化した話である。愛欲や瞋恚
を語らないのが相思蛇說話の本來の姿であろうと思われる。かと言って、純
愛だけを語るのが相思蛇說話ではない。いかにそれが純愛であろうと、愛し
愛されたい想いが叶えられず死を遂げた者は恨みをもつとされる。この話で
も、靑年が衣服を脫いで 恨みを解くがよい と、自らの体を蛇にあずけて
いる。死んで蛇となり相手の体に取りつき、相手を死に至らせるのであるか
ら、その無念さや恨みといった感情は相当なものであったと考えるべきであ
ろう。
祟り 型に 分類される 趙穆の 話 趙月川 と相思蛇
では、趙穆 月川は趙穆の号 が自分に戀した娘の戀文を一讀もせず
捨てる。それを見た娘は趙穆を恨むようになる。そうして娘の戀煩いは深く
なり、床に伏すようになる。師の勸めで娘に會った趙穆は、右手に手ぬぐい

前揚に同じ。
韓國口碑文學大系 卷
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

を卷き、娘の顔をなでた。娘は、自分が身分の低い女だから、趙穆が直接肌
が触れないようにしたのだと思い、死んで蛇となる。ここでは、娘が男の冷
たい行爲に恨みをもったと讀み取られる。趙穆は、學問に邁進すべき立場に
あり、どこの誰ともわからない女の戀文に關心のかけらも示さないという態
度、そして師の勸めに從順であること、異性との接触において極めて規範的
である行爲をとっていること、このような趙穆の行動は、当時の封建社會に
おいては、兩班が平民に對して当然とるべき行動であり、その至極模範的な
行動は称贊されるに値するものであり、一点の非の打ち所もないものであ
る。ゆえに女の恨みは一方的なものであり、だからこそ蛇になるのも当然だ
と人々は考えるのであろう。
もう一つ、英雄型の受容型に分類される、李舜臣說話と結合し伝說化した
一話 李舜臣將軍と相思蛇 を見てみよ
う。

李舜臣將軍が出獄し、母親の住む牙山に向かった、ちょうどその時、母親が死ん
だ。その後、將軍は全羅道で倭軍と戰い、統營までやって來た。倭軍を蹴散らした
暑い夏、將軍は水浴びをよくした。その姿を、近くに住む裕福な學者の家の娘が目
にし、戀煩いした。戀煩いに効く藥はなく、みるみる瘦せ衰えた。心配した親が娘
から事情を聞き、死ぬ覺悟で將軍に助けを求めた。將軍は、女がこのまま死んでは
怨鬼となり、國のために戰う行く手に支障があってはならないと、娘に會うことを
約束する。雨中、娘を訪ねた將軍が、娘を哀れみ胸をさわってやったところ、たち
まち娘は蛇になり將軍に卷き付いた。將軍は、想いを晴らすがよいと蛇に体を任せ
た。やがて想いを遂げた蛇は、將軍にその亡骸を將軍の水浴びした場所に沈めて欲
しいと言い殘し息を引き取った。將軍がその通りにすると、蛇は息を吹き返し龍と
なり、その後の將軍の活躍を助けたという。

この話は、文錄慶長の役の際、日本軍との海戰で見せた李舜臣の超人的活
躍の背後に龍の助けがあったと言い、李舜臣が龍の助けを得るに至った経緯
を伝えている。李舜臣の水浴びする姿を見た娘が戀煩いにかかり床に伏し
た。そのことを娘の父親から聞いた李舜臣は、わざわざ雨中、娘を訪ねて行
く。李舜臣が娘を哀れみ胸をさわると、娘は蛇となる。もちろん李舜臣は、

韓國口碑文學大系 卷
娘に恨まれるようなことなど何一つしてない。それでも娘は蛇となった。そ
こで李舜臣は、蛇に自分の体をあずける。想いを遂げた蛇は死に、李舜臣の
手で葬られると、龍となって李舜臣を助けたというのである。この話の中
で、李舜臣は、娘が怨鬼となり國のために戰う自分の前に障害となってはい
けないと言っている。戀煩いをして死んだ女が怨鬼となり祟るとの認識が
あったことがわかる。この怨鬼こそ、相思蛇なのである。
それでは、娘の怨鬼となったのは、なぜであろうか。何を恨み娘は怨鬼と
なったのであろうか。道成寺說話においては、男の裏切りに對し激しく怒っ
た樣子が描かれている。しかしここには、李舜臣が娘の恨みをかうほどの行
爲をしたとは語られない。よって李舜臣の具体的なある言動が娘に恨みを抱
かせたとは思えない。しかし、それでも娘が怨鬼である相思蛇となったの
は、實らない戀をした自分自身に對してであり、そして故意でないにしろ水
浴びする姿を見せ自分に戀心を抱かせた李舜臣に對して怒りと恨みを强く
もってしまったためであろう。
祟り型に分類される 曹植先生と相思靑大將
には、 生前、愛する者と結ばれなかった恨みをもって死ぬと蛇
になる と言われていたことが語られている。戀煩いの末、死に至った者
の蛇と化すにおいて、相手の男の具体的な行爲などは關係ないのである。男
の言動がどうであろうと、戀が實らず死後蛇と化すのは、逆に言うと、戀し
た男を想う女の一途さ、眞劍さが、その身を蛇と化すほど强く激しいもので
あったと考えるべきである。ゆえに、愛欲と瞋恚の念で蛇となる道成寺伝說
に對し、女の一途さがその身を蛇とすることを描く相思蛇說話は、純愛や戀
の果敢なさを語る話となっているのである。それだからと言って、戀の美し
さを描くものではない。戀はその一途さゆえに、實らなかった時にはその身
を蛇にしてしまうほど、强く激しい恨みとなることを語るものなのである。

戀の恨みをかった男たち

ただでさえ、戀は實らなかった時には激しい恨みとなるものであるが、戀
された男の言動一つにより、戀した女を瞋恚の化身としての蛇にさせるの

韓國口碑文學大系 卷
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

か、それとも純愛の果敢なさから蛇とさせるのか、大きく分かれる。愛欲と
瞋恚の道成寺說話に對し、戀の一途さを語る相思蛇說話。この二つの話の語
る男たちの言動に目を向けてみよう。
まずは道成寺說話である。 今昔物語集 によると僧は、夜中自分の布団
の中に入ってくる女の誘惑を、求道の身であるゆえにと 强ニ辭ブ 。女は
大キニ恨、終夜僧ヲ抱テ擾亂 する。そして僧は 樣々ノ言ヲ以テ 女を
なだめるが、その結果、熊野からの 還向ノ次ニ君ノ宣ハム事ニ隨ハム と
女の願いに從うことを約束してしまう。そうしてこのことが後の逃竄譚を生
み、女に激しい瞋恚を起こさせ蛇と化すに至らせてしまう。
寡婦が夜中、布団の中に入ってきた時の若い僧の驚きようは想像にやす
い。しかし体を張っての女の誘惑をどこまで强く辭んだのであろう。僧が抵
抗すれば抵抗するほどなりふり構わず想いを遂げようとする女に對し、言葉
でもってなだめようとする僧の態度は實に甘いものと言わざるを得ず、その
態度から推し量るに、僧は初心と言えば初心であり、女の戀する心の激し
さ、强さ、恐ろしさというものに全く無知であったのかも知れない。僧が若
いことからして、このような経驗が度々あったとは思えないからである。僧
の最大の過ちを指摘するならば、それは女を言葉でなだめようとしたところ
にあるのではないだろうか。女と言葉を交すうちに、最初は 强ニ辭 んで
いた僧は、それが方便であろうとも、最後に女と共に暮すことを約束してい
る。一旦は女の想いをとどめるのに成功しているが、これが結局、女の激し
い瞋恚を誘發し、女をして蛇へと身を変えるに至らしめるのである。眞劍な
女の氣持に對して、僧の態度はいい加減なものであった。 今昔物語集 が
仏敎說話集として、 此ニ依テ、女ニ近付ク事ヲ仏强ニ誡メ給フ と、求道
者は女に近づいてはならないと仏が强く戒めているとの敎訓を明示している
のは、この若い僧の曖昧な態度を他山の石とすることを說いているのであ
る。
これに對して、相思蛇說話はどうであろう。
先に見たように、相思蛇說話の最も簡潔な形は、戀の恨みを殘して死んだ
者は蛇となるものであるということを普遍的眞理のごとく考える認識の上に
成り立っており、蛇となる過程を描寫する何らの言葉も必要としない。とこ
ろが人物說話と結合した場合、蛇となる過程をいろいろに表現し始めるので
ある。昔話が伝說となる時、聞き手に話の眞實性を說くため、人が蛇となる
という尋常ではない現象に關する描寫が必要となると共に、主人公となる人
物との關係から一人の女が蛇と化するわけであるから、その経緯の描寫が主
人公の人物形成に重要になってくるからである。
人物說話と結合した相思蛇說話は、前表のおける英雄型の受容型と追放
型、それに祟り型に分類される の話である。これら 話を主人公の女に對
する態度に注目して考察してみよう。まずは 姜邯贊と相思蛇
である。

姜邯贊が若かったころ、酒屋の若い女が姜邯贊に戀した。女は想いを口にするこ
とができず病氣になって死んだ。死んだ女は大きな靑大將になった。女の父親が姜
邯贊に、このことを話すと、姜邯贊は女の部屋に入り、靑大將を抱きしめた。する
と靑大將の姿は消え、女の遺体だけが殘った。そうして女の弔いをした。姜邯贊が
一度抱きしめたことで、女の怨鬼を解いたのである。

高麗時代の名將である姜邯贊の若かったころの話である。この話には女の
蛇となるに關する描寫はない。女が姜邯贊に戀し、死んで蛇となるまでに姜
邯贊との接触が全くないためである。そして女の化した蛇に對して姜邯贊
は、逃げたり隱れたりするのではなく、女の部屋を訪ねて行き、蛇を抱きし
めることが描かれる。そしてその行爲が、女の恨みを解いており、姜邯贊の
勇敢さを引き立てるのである。
このように、相思蛇說話では、女が蛇と化する場面のみならず、蛇となっ
た女にどう對するのか、二つの場面での男の言動が描かれる。
姜邯贊の話と對照的なのが、次の 玉川先生と相思蛇
である。

科擧受驗の後、歸鄕の途上、泊まった宿である娘が玉川先生に一目惚れし、枕を
共にしようとする。玉川先生が追い拂い歸宅の道を急いでいると、娘は死んで相思
蛇になり、先生の背中について家までやって來た。先生が家の前で蛇に向かい、若
い娘がどうして他人の家に入ろうとするのかと怒鳴ると、蛇は淚を流し、先生の背
中から離れた。先生が死ぬときに、身につけていたお守りを蛇が持っていき、それ
に卷き付いて死んでしまった。

韓國口碑文學大系 卷
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

玉川先生とは、朝鮮後期の文臣である趙德鄰のことで、少論派に屬し正三
品位の官職、同副承旨にまでなった人物である。趙德鄰は、自分に一目惚れ
した女の誘惑を拒絶している。蛇となった女が自分の家にまでやって來たこ
とを知ると、更に蛇に向かって怒鳴り、蛇を追い拂っている。最後は、淚を
流して去っていった蛇が趙德鄰の死後、その形見に卷き付いて死ぬという切
ない戀の物語となっていて、他の相思蛇說話とは趣きを異にしている。趙德
鄰の女に對する冷たいまでもの態度は、儒者としての当時の文臣の鏡ともい
うべき言動である。
これら二つの話からわかるように、相思蛇說話で男の言動を問題とする場
合、受容と拒絶という二つの態度が、女の蛇と化する場面と、女の化した蛇
に對する場面との二つの場面でどのように語られるかが問題となる。女の化
した蛇を拒絶する話は つ あり、この場合、女の蛇と化する場面で女の想
いを受容するものはない。また、女の化した蛇を受容する話は 話 あり、
と の 話だけが女の蛇と化する場面で女の想いを拒絶して
いるが、他の全ては女の想いを拒絶することはない。つまり拒絶か受容かと
いう、男の態度がほぼ確定して語られることがわかる。そして、拒絶するの
は文臣であり、受容するのは武臣なのである。
つまり、文臣は妻以外の女との關係において潔白であることを語ることに
よりその名聲は高まり、武臣の場合は、女の想いを受け入れる懷の深さ、誰
もが恐怖心を抱く蛇を恐れることなく胸に抱き入れる勇敢さがその武勇を語
るにプラスとなってくるのである。
このようにして、相思蛇說話は人物說話と結合し、その語る目的に応じ自
由自在に姿を変えている。しかしその語るところは、拒絶か受容かという單
純な線引きにより類型化されるにとどまっており、これはわかりやすさを目
指す口承說話という性格上、表現と描寫の簡潔さとして当然のことであろ
う。

韓國口碑文學大系 卷
趙德鄰 趙穆 趙穆 李滉 波平尹氏
姜邯贊 李舜臣 曹植
曹植 曹植 李舜臣 曹植
おわりに

愛欲にかられた寡婦であれ、安珍の戱言を眞に受け止め信じきるほど初心
な淸姬であれ、信じた男に裏切られた女の瞋恚は激しく燃え上がり、その身
を蛇と化し愛した男を燒き殺す。女の瞋恚を激しくさせたのは、戀に對する
男のいい加減さと甘さであった。戀する女の心が如何に眞劍で深刻であるか
を知らず、その場の刹那的な感情で對する男への敎訓譚としての 今昔物語
集 收錄道成寺說話という一面を再考してみた。
相思蛇說話においても、その蛇とは戀煩いの末に死んで怨鬼である。しか
し、その恨みは、道成寺說話の男の裏切りによる瞋恚ではなく、實らなかっ
た戀そのものに對する恨み・無念さ・悲しさであった。愛欲や瞋恚といった
複雜な情念を語る道成寺說話とは異なり、實らない戀煩いの結果、人は蛇と
なるということを素朴に語るのである。
從って、道成寺說話の蛇は、激しい瞋恚と愛欲の象徵であるのに對し、相
思蛇說話の蛇は、そうした激しく深い情念の影は薄れ、一途な戀心の裏返し
として實らなかった戀への恨み・無念さの象徵であると言えよう。

參考文獻

金德容 淸平寺緣起說話考 漢陽語文 第 輯


姜秦玉 古典
文學硏究 第 輯
文明載 今昔物語集 日本硏究 第 號 韓
國外國語大學校外國學綜合硏究 日本硏究所
韓國口碑文學大系 韓國精神文化硏究院
有朋堂文庫 淨瑠璃名作集中 有朋堂書店
新日本古典文學大系 今昔物語集三 岩波書店
道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較 田阪正則

저자명 : 다사카 마사노리(Tasaka


Masanori)
E-mail : tasaka@khu.ac.kr

접 수 일 : 2005. 18. 10
심사개시 : 2005. 19. 15
심사완료 : 2005. 10. 30

要旨

道成寺說話と韓國口承說話 相思蛇 との比較

日本と韓國の女が蛇になるというモチーフを核にもつ、道成寺說話と相思蛇說話
との比較硏究を、女の蛇になる場面と、男の女への言動という二つの点に焦点を当
てて試みた。文獻說話と口承說話との比較ということもあり、二說話間の影響關係
ではなく、それぞれの說話から讀み取れる意識の相違を探った。
道成寺說話は主に 今昔物語集 をテキストとし、相思蛇說話は 韓國口碑文學
大系 收錄の 話を考察の對象とした。
道成寺說話は、愛欲を背景とした瞋恚の化身としての蛇に女の化するを描き、そ
の瞋恚は男の曖昧な態度が原因となっての裏切りから起きており、その激しさは自
らの命をもかえりみないものであった。それに對し、相思蛇說話は、戀する氣持ち
を打ち明けられないまま死んで蛇となる話を基本型とし、實らない戀の恨みをもっ
て死んだ者は蛇となるということを普遍的眞理のごとく語る。戀の恨みとは、相手
の言動に對する恨みというよりも、實らない戀そのものへの無念さ悲しさを言う。
それゆえ、相思蛇說話に語られる男たちの態度は、文臣においては女を徹底的に
拒絶することによって、文臣としての正当性を强調するように語られ、武臣につい
ては女の氣持ちを受け止め、蛇となってもなお包容するという勇ましさが語れるだ
けで、その男の言動によって女の恨みが激化したり和らいだりするようには語られ
ない。
二つの說話に語られる蛇は、道成寺說話においては愛欲と瞋恚の象徵として、相
思蛇說話のおいては一途な戀の裏返しとして實らなかった戀への恨み・無念さの象
徵であると言える。

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