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2023/02/08

白熊通信87ー3

高天原よりお届けします

Attention: 西村幸祐、河添恵子

From: 白熊

件名1:エルンスト・ヴォルフ著『世界経済フォーラム 背後にゐる世界権力』
の和訳#2

件名2:第2章 クラウス・シュヴァブの背景

***

『世界経済フォーラム 背後にゐる世界権力』

目次

1 ジュネーブ湖のほとりの小さな場所
2 クラウス・シュヴァブの背景
3 大きな結果を招来した三つの決定事項
4 ダヴォス、1971年:最初の会合
5 1972年:二回目の会合ーヨーロッパの旗印の元で
6 1973年:迷はずに前進する
7 初年度の経済的・政治的な背景
8 1974年ー1976年:フォーラム影響と権力を持ち始める
9 1974年ー1980年:突破する
10  背景にあるもの:デジタル化と金融化が走り始める
11 1980年代の前半ー石を一つ一つ積み上げる
12 1985年ー1988年:政治的なオリンポス山を登る
13 1989年ー1990年:東側ついに崩壊する
14 1990年代ーデジタル化と金融化が既定路線を走り始める

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15 1991年ー1992年:WEFが政治と経済の世界の権力エリートたちの教育施
設となる
16  1993年ー1995年:誰にも選ばれたわけでもないのに、かつてないほどに
影響力を有する
17 1996年ー1998年:WEFが次第に地球的な規模での指導力を発揮する
18 1999年ー2000年:反対運動、世紀の変り目、そして結果を出した基礎固め
19 2001年ー2003年:経済繁栄促進のためのテロと戦争
20 2004年­2006年:嵐の前の静けさ
21 2007年ー2008年:世界金融危機が全てを変へる
22 2009年ー2011年:どんな犠牲を払つても厳格に
23 2012年ー2014年:健康、気候、そしてウクライナが焦点になる
24 2015年ー2017年:第四次産業革命と超人間主義(transhumanism・トラ
ンスヒューマニズム)[註1]

25 2018年ー2019年:金融システムが完成した、さて次は?
26 2020年:武漢ウイルス・CORVID-19とグレート・リセット
27 2021年ー2022年:「創造的破壊」、戦争以外の
28 WEFの未来ヴィジョン:独裁政治体制とデジタル中央銀行発行通貨
29 European Management Symposium (EMS)からWEFへ:ロビイスト主義から超人
間主義へ[註1]

[註1]
超人間主義 、トランスヒューマニズム◆科学技術 の力によって人間の精神的 ・肉体的能
力 を増強し、けが、病気、老化などの人間にとって不必要で望ましくない状態を克服し
ようとするもの。
(https://eow.alc.co.jp/search?q=transhumanism)

***

第2章 クラウス・シュヴァブの背景

クラウス・シュヴァブは1938年3月30日にドイツ人オイゲン・ヴィル
ヘルム・シュヴァブと其の二人目の妻でスイスのエップレヒト家の出である
エーリカ・シュヴァブの間に、ラーヴェンスブルクに生まれた。オイゲン・
シュヴァブは、有識者の機械工学の技術者であつた。

エッシャー・ヴィスは、第一次世界大戦のあとに、スイスの産業製品の最大
の輸出業者の一人であつたが、1930年代の経済危機のせいで、経営危機
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に陥り、生き残りのために必死に戦つてゐた。他方、オイゲン・シュヴァブ
によつて経営されてゐたラーヴェンスブルクにある会社は此の戦ひにあつて
成長し、スイスの企業全体を支える柱になつた。但し、胡散臭い兆候のもと
でさうなつたのである。軍需的な業務受託企業として、此の会社はヒトラー
の戦争拡大によつて利益をあげ、ラーヴェンスブルクで最大の雇用主とな
り、NSDAPによつて表彰され[訳者 3]、Nationalsozialistischer
Musterbetrieb、ナツィオナール・ゾツィアリスティシャー・ムスターベトリー
プ、即ち国家社会主義的模範企業の看板を掲げるまでになつた。

 戦時下にあつてエッシャー・ヴィスはドイツの防衛産業を助け、武器と装
備品を製造したが、特にドイツの戦闘機の部品を製造して、此の時同時に戦
争捕虜たちを使役してゐた[ 6]。

[ 6]

www.swissbankclaims.com/Documents/2015/von%20Kaufflugen_DE.pdf を参
照。

[訳者 3]

NSDAPとはいふまでもなく、ヒトラーの率いる政党の略称である。正式な党
名はNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、 ナツィオナール・ゾツィア
リスティッシェ・ドイッチェ・アルバイターパルタイであつて、日本語の正
しい訳語は国民社会主義ドイツ労働党である。ヒトラーも党員もドイツ国民
も此の政党をナチスと呼んだことは一度もない。何故なら、此の名前は当時
の敵方である共産党によつて呼ばれた此の政党に対する 称だからである。
此の意義にては、NASDAPを説いたWikipedia の記述は誤りである(https://
ja.wikipedia.org/wiki/国民社会主義ドイツ労働者党)。真鍋良一訳『我が闘
争』の「訳者序」からその辺りの事情について良い説明があるので引用す
る。

「訳語に関して二、三。

(一)第一にナチス、正しくはナーツィーズ(Nazis)といふ語は本書におい
ては故意に避けた。
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ナチスとはナチ(Nazi)の複数であつて、決してNationalsozialismus(国民社
会主義)を縮めたNati-sのなまりではない。国民社会主義独逸労働党の略称
はNASDAPであり、国民社会主義のそれはNSである。ナチスとは元来共産党
が所謂「ナチス」を軽 して呼んだ言ひ方であつてドイツ語の略称でもなん
でもない。したがつて「あの男はナチだ、ナチスだ」といへば、国民社会主
義を奉ずるものの意味ではなくて、ナチスかぶれだといふ悪い意味になる。
ヒトラーは勿論、一般独逸人も決して此のナチスといふ言葉を用ひない。少
し注意して見れば、独逸で出版された書籍には決してNazisといふ文字が使は
れてゐないことに気がつく筈である。尤(もつと)も敵の言葉を逆用して
「またまた彼等が吾人をナチス呼ばはりするが」といつた調子のときは別で
あるが。序でながら、例の「第五列」*といふ語も独逸では決して使はな
い。使ふときは「いはゆる第五列」といふやうに引用符をつけて、独逸製の
言葉ではないことを示してゐる。独逸人の考へでは、何処にあつても独逸人
は独逸人、祖国を思ひ、祖国の為に尽くす点にはかはりはない。軍人も商人
も外交官もみな同一同種の独逸人であつて、特別に第五列といふものはな
い。これも米英の造語である。

 だから本書に於いてはことさらにナチスといふ言葉を用ひずに、面倒でも
いちいち国民社会主義、国民社会主義独逸労働党といふ訳語を用ひた。日本
ではナチスを決して悪い意味に用ひてゐないし、また私自身もナチスと現に
言つてはゐるが、本書の性質上この語は避けた次第である。」(同書15
ページから16ページ)(傍線は原文は傍点)

*第5列の解説:デジタル大辞泉「第五列」の解説

「だいご-れつ【第五列】敵対勢力の内部に紛れ込んで諜報などの活動を行う
部隊や人。スペイン内戦の際、4個部隊を率いてマドリードを攻めたフラン
コ派のモラ将軍が、市内にも攻囲軍に呼応する5番目の部隊がいると言った
ことによる。第五部隊。」(https://kotobank.jp/word/第五列-91138)

以下本文に戻る。

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ドイツ・スイス両国の出自によつて、シュヴァブ一家はいつでも両方の国の
間を往来する特権を戦時中に享受してゐた。戦争が終はると、オイゲンと
エーリカ・シュヴァブは、クラウスと弟のウルス・ライナーを連れて、再び
スイスに戻つたが、しかし数年後にはラーヴェンスブルクの町に戻った。と
いふのも、此のラーヴァンスブルクの町では、オイゲン・シュヴァブは商工
会議所の会長に任命されたからである。

 1949年からクラウス・シュヴァブはラーヴェンスブルクのシュポーン
高等学校をに通つた。此の高校時代の卒業時にアビトゥーアと呼ばれる大学
入学試験に合格した後、1958年から1962年まで父親の希望でスイス
のスイス連邦工科大学(ETH)で機械工学を学んだ。1962年にシュヴァ
ブは工学士の資格を得て卒業した。続いて、スイスの西部にあるフライブル
ク大学で経営学を学び、傍ら1963年から1966年までドイツのフラン
クフルで機械及び施設建設工学(VDMA)協会のゼネラル・マネージャーを
務めてゐる。1965年には、シュヴァブは上を目指して、チューリッヒの
ETHで博士号をとつてゐる。博士論文の題は「機械工学の企業経営問題とし
ての長期の輸出信用」であり、1967年にはフライブルク大学で博士論文
を「公共投資および経済成長」といふ題で書き博士号を受けてゐる

 1966年と1967年にはシュヴァブはハーヴァード・ビジネス・スクー
ルで学術的な年度過程を卒業してゐるが、ここではMaster of Public
Administration (MPA)・公共管理修士号を得てゐる。シュュヴァブは此処でそ
の後の人生に大きな影響を与へた幾人かの人物の知遇を得た。シュヴァブの
ついた教授にヘンリー・キッシンジャーがゐるが、この人物は1970年代
にアメリカの国家防衛顧問及び外務大臣を務めて、世界政治の を握る人物
であり、シュヴァブ自身の発言によれば、自分の人生行路で自分の思考に最
も深い影響を与へた人間たちの一人である。

 ほとんどキッシンジャーほどに重要な人間が更に二人ハーヴァードの教授
にゐるが、一人はケネス・ガルブレイスであり、此の人は世界的に有名な経
済学者であつて、教科書の著作者であつて且つ幾多のアメリカの大統領の顧
問に就任した人である。もう一人がハーマン・カーンである。此の人はサイ
バネティックスと、未来学及び、核戦略家としては、冷戦時代に開発された
「核恫喝」といふ概念を使つた戦略設計者の一人である。この3人が197
1年にシュヴァブがWEFを設立するに際して決定的な役割を果たしたといは
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れてゐる。1967年にシュヴァブはチューリッヒに戻り、1970年まで
其処でエッシャー・ヴィスの会社の管理本部長代理として働いた。此の会社
は、ヴィスの父親が以前経営してゐたものである。エッシャー・ヴィスは、
以前何年もの間もう一度経営難に陥つてゐて、ブラウン・ボヴェリ及び機械
製造工場エルリコンとの協同経営の効なく、1966年に株式の大多数を
ヴィンタートゥールにあるズルツァー株式会社によつて吸収合併された。

 シュヴァブは、それに続く3年の間、そこで経営幹部の立場にゐて経営を
助けたが、それはヴィスの会社とズルツァーの会社の二つを完全に組織化し
て一つにするためであつた。

 此の時に、シュヴァブの持つ能力の強みの幾つかが明らかになつた。つま
り、技術とマーケティングのトレンドを、世界的に早い時期に認識できてゐ
たといふこと、そしてそれを世界の企業に実践的に販売したといふことであ
る。既に1967年にWEFの長に就任するに当たり、現代機械工学の世界に
コンピュータを導入する意味を予測してゐる。その後に続く3年間に、シュ
ヴァブは此の認識を利用して、ズルツァー株式会社に名義を書き換へられた
機械工学企業が現代技術コンツェルンに事業拡大するやうに配慮したのであ
る。

 1969年にシュヴァブはジュネーヴ大学と提携して、Centre d’Etudes
Industrielles (CEI)、即ち国際経営研究所で非常勤の教授を務めてゐる。

第3章 大きな結果を招来した三つの決定事項

(続く)

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