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2023/02/25

白熊通信87ー15

高天原よりお届けします

Attention: 西村幸祐、河添恵子

From: 白熊

件名1:エルンスト・ヴォルフ著『世界経済フォーラム 背後にゐる世界権
力』の和訳

件名2:第12章 1985年ー1988年:政治的なオリンポス山を登る

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『世界経済フォーラム 背後にゐる世界権力』

目次

1 ジュネーブ湖のほとりの小さな場所
2 クラウス・シュヴァブの背景
3 大きな結果をもたらした三つの決定事項
4 ダヴォス、1971年:最初の会議
5 1972年:二回目の会議ーヨーロッパの旗印の元で
6 1973年:迷はずに前進する
7 初期年度の経済的・政治的な背景
8 1974年ー1976年:フォーラム影響力と権力を持ち始める
9 1974年ー1980年:突破する又はブレイクスルー
10  背景にあるもの:デジタル化と金融化が走り始める
11 1980年代の前半ーレンガを一つ一つ積み上げる

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12 1985年ー1988年:政治的なオリンポス山を登る
13 1989年ー1990年:東側ブロックついに崩壊する
14 1990年代ーデジタル化と金融化が既定路線を走り始める
15 1991年ー1992年:WEFが政治と経済の世界の権力エリートたちの教育施
設となる
16  1993年ー1995年:誰にも選ばれたわけでもないのに、かつてないほどに
影響力を有する
17 1996年ー1998年:WEFが次第に地球的な規模での指導力を発揮する
18 1999年ー2000年:反対運動、世紀の変り目、そして結果を出した基礎固め
19 2001年ー2003年:経済繁栄促進のためのテロと戦争
20 2004年­2006年:嵐の前の静けさ
21 2007年ー2008年:世界金融危機が全てを変へる
22 2009年ー2011年:どんな犠牲を払つても厳格に
23 2012年ー2014年:健康、気候、そしてウクライナが焦点になる
24 2015年ー2017年:第四次産業革命と超人間主義(transhumanism・トラ
ンスヒューマニズム)[註1]
25 2018年ー2019年:金融システムが完成した、さて次は?
26 2020年:武漢ウイルス・CORVID-19とグレート・リセット
27 2021年ー2022年:「創造的破壊」、戦争以外の
28 WEFの未来ヴィジョン:独裁政治体制とデジタル中央銀行発行通貨
29 European Management Symposium (EMS)からWEFへ:ロビイスト主義から超人
間主義へ[註1]

[註1]
超人間主義 、トランスヒューマニズム◆科学技術 の力によって人間の精神的 ・肉体的能
力 を増強し、けが、病気、老化などの人間にとって不必要で望ましくない状態を克服し
ようとするもの。
(https://eow.alc.co.jp/search?q=transhumanism)

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第12章 1985年ー1988年:政治的なオリンポス山を登る

1986年にソヴィエト連邦は、前年度に権力の座についたミヒャエル・ゴ
ルバチョフの名前のもとに初めてダヴォスの或る会議に参加した。ゴルバ
チョフは、ソ連の古い指導部が増大する経済的諸問題のために圧力に屈した
といふ何よりも事実のお蔭で自分が出世したことに謝意を表明した。引き金
になつたのは、まづ第一に、石油価格の下落であつた。といふのも、ソヴィ
エト連邦は財務的に、とにかく石油の輸出に依存してゐたからである。ソ連
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の立場が益々困難なものになつて行くので、クレムリンは外国の投資家を探
すことが必要であつた。国際輿論にとつて、「グラスノスチとペレストロイ
カ」、ドイツ語に訳せば「情報公開および仕組の組替」といふ標語が、美し
く着飾つて、ソ連の新しい売りになつた。
 同じ年に、シュヴァブは、ギリシャとトルコの政府の長をダヴォスに呼ん
で同じテーブルにつかせることによつて、国際輿論の目にも明らかな一種の
クーデターに成功した。双方の国の最初の高官の会合は、1974年のキプ
ロス島をトルコが侵略した後に開催されたが、これはメディアによつて大き
な成功を収めたといはれ、また「ダヴォスの精神」の証明だといつて祝福さ
れたのであつたが、しかし、此の後に双方の国の間の紛争は公けの戦争にな
るギリギリの瀬戸際までエスカレートしたことを妨げたわけではない。
 プレストン・マーティンはアメリカ連銀の委員長代理であるが、この男が
登壇して、EMFでの議論と実際の金融世界にある厳しい現実の間には如何に
深い溝があるかといふことの証明をして見せた。1986年1月にはプレス
トンは全ての国々に対して、「市場をコントロールして規制下に置くために
相応しい政策を実施すること」[註24]を要求した。

[註24]

 丁度10ヶ月後にはマーガレット・サッチャーの元で、「金融サーヴィス
法」が可決され、これによつてイギリスの金融史に於いて規制緩和の方向へ
と最大の一歩が踏み出されたのである。其の前には既に為替のコントロール
と資本の移動を国家が監視することが放棄されて、1930年代には銀行の
顧客保護のために導入された銀行分離システム(即ち、銀行を二つに分けて
投資銀行は顧客の金を投機的に扱へるのに対して、商業銀行はこれが禁じら
れてゐるといふシステム)が、終はりを告げたのである。
 更に付け加へると、伝統的な建設社会銀行[ととりあへず訳してをく。英
語への直訳はBuilding Society Bank]は其の特別な地位を失ひ大手銀行に飲
み込まれてしまつた。数々の外国銀行が(其の中にはドイツ銀行も入つてゐ
る)、ロンドン・シティの規制緩和によつて其処に子会社を設立し始めた。
取引は益々危険なリスクの多いものになつて行き、利益は益々高額になつて
行き、銀行経営者のボーナスは、イギリスの首都にあつて果てしなく新記録
を更新し続けて社会を道連れにして其の勾配を登り続けたのである。

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 EMFはなるほど此の急な勾配を嘆いて見せる登壇者も招待したが、しか
し、その原因が規制緩和による金融部門の爆発の深刻な結果であつて、此の
爆発が問題の核心だと明言した者は誰もゐなかつたのである。
 1987年にダヴォス会議の名前が「World Economic Forum」(WEF)
に変更になり、会議の標語は「Committed to improving the state of the
world 」(世界の状態を改善することに義務がある)になつて、これが会議
の公式のモットーになつた。此の年の1月に、ソヴィエト連邦の最初の公式
の派遣団がダヴォスに現れた。ドイツの副首相であり且つ外務大臣であるゲ
ンシャーが登壇して、そこでゴルバチョフとゴルバチョフのペレストロイカ
政治を最高の調子で褒め称へた。その賛辞の背後では、ソヴィエト連邦の崩
壊が緒について、それによつて巨大な市場が西側の資本に開かれ、全く新し
い機会が東側に扉を開いたのである。
 世界経済指導者たちの非公式の会合IGWELは、1987年には、50以上
の政府の長、大臣、そしてCEOが参加するやうになつてゐた。更に、WEFは
食料品、自動車、エネルギー、機械製造および建築・工事、健康および情報
技術の領域にまで頂上会議を広げて開催したのであるが、これには都度の領
域部門の最高の代表者たちと其の領域に権限を有する政治家たち(例:エネ
ルギー大臣)が参加した。重要な新機軸は、グローバル・エリートたちの需
要に応じて此のエリートたちのための政策を刻んだものとして発行された雑
誌、Wolrd Linkであつた。内容も広範囲に及ぶ様々な調査を通じてフォーラ
ムは、世界の33,333の「最も重要な決定因子」を調査したのであるが、
此の雑誌は当初は月刊で、のちには隔月で発行された。
 1987年と1988年には、シュヴァブがどれだけ技術的革新に価値を
置いてゐるかが一切ならず明らかになつた。参加者の相互通信の可能性を改
善するために、フォーラムは、最初からTV中継を投入したのである。198
7年には、中央会議場にはvideo電話が使はれたので、参加者はお互ひに話
ができたのみならず、同時にお互ひの姿を目にすることができた。
 更に、クラウス・シュヴァブは既に当時ネットワーク化した「デジタル共
同体」をつくつてゐるところであつた。アメリカの企業であるDigital
Equipment Corporation Internationalのヨーロッパ子会社と協働で、これ
を試みる最初の人間として、「グローバルな共同体」を高度な水準で創造し
ようといふ試みを事業化してゐたのだ。此のプロジェクトは、企業化が難し
い事態になつたので一度は失敗したが(しかしのちにはコンパックが引き受
けたのであるが)、しかし、これは、シュヴァブが技術の実現可能性を問
ひ、いつも時代の脈に触つてゐたことを明らかに示してゐる。
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 1988年の頂点は、此の会議に参加した62か国の政府の長、大臣と
CEOであつたが、此の場所に、ギリシャとトルコの政府の長もまた新ためて
集まつたことである。2年間の緊張増加一途の後で、シュヴァブは二国の取
引相手を新たに再び今度はメディアに目立つやうなやり方で連れて来て、両
者を現場で引き合はせて、継続的な平和的関係の維持を義務付けた「ダヴォ
ス宣言」に署名させることに成功した。
 しかし、成果は長くは続かなかつた。といふのは、2年後には紛争が再燃
して、キプロスがギリシャの支持でEUに参加申請をし、返す刀でトルコに鋭
利な切つ先鋭い反抗をしたからである。
 [政治と経済とは別な]社会的な感触としては、1988年にカール・サ
ガンといふ有名なアメリカの、天文学と宇宙科学の教授が其の役を務めた。
此の教授は環境のリスクと生態系のリスクを指し示して、此のリスクは時代
の技術的な発展によるものであると述べて、賛同を得た。が、しかし、何も
会議としての成果はなかつた。これに対して、スキャンダルとなつたのは、
アメリカ系スイス人の金融業者であるアッシャー・エーデルマンであつて、
集まったビジネス・エリートたちの特に感性の側の弱点を明らかに打つたの
であるが、[ビジネス・エリートたちは]「非倫理的であるのみならず、不
道徳でもあるのだ」[註25]といつて彼らを非難したために、其の壇上の
演出に対して激しくブーイングが起きたのである。
 エーデルマンによる告発が空気から[根も葉もないところから]無理矢理
掴み出されたものではないといふことが翌年には明らかになつた。6月4日
の北京の天安門広場での学生たちの流血の弾圧にも拘らず、秋に計画されて
ゐた「ビジネス・リーダー・シンポジウム」の年次会合は否定されることも
なく、他の国に移すこともなく、中国について「開かれた議論」をするため
には結局フォーラムの開催が必要だといふ口実のもとに開催されたのであ
る。

第13章  1989年ー1990年:東側ブロックついに崩壊する

(つづく)

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