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著 者
孫 名 化
1962年2月26日、咸鏡北道(茂山郡)で父親の孙东
植、母親の専修服の2男5女のうち、次女として生
まれた。1982年8月、清津高等経済専門学校を卒
業し、茂山製材工場で仕事をした。父親が韓国軍
捕虜だったため、幼い頃から必ずやりたかった公
演芸術活動ができず難しくしていた人民軍軍官
( 将校 ) との結婚生活も破綻した。2005年10月、
末息子と一緒に脱北した。中国安藤で公安取り締
まりを避けて13日間過ごし、北京-内蒙古-蒙古を
経て12月父親の故郷、大韓民国に入国した。2012
年から4年間国防部に登録された社団法人<6·25国
軍捕虜遺族会>事務局長職務を引き受け、2018年1
月から会長職務を歴任している。
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本を出版しながら
北朝鮮共産集団の残忍な武力侵攻で始まった1950
年6月25日の朝国戦争はまだその傷が消えていない
同族相残の悲劇でした。数百万人の死傷者が発生
し、日本植民地支配からの解放から5年間、新たに
建設された工場と農村は灰になりました。国民の
投票で立てた自由大韓民国の運命が風前灯火の危
機に瀕している時一つだけの命を捧げることにし
て憤然と国軍に入隊し、20機の銃を持って敵の捕
虜がなった若い青春たちがいます。彼らはまさに
北朝鮮にある国軍捕虜です。不幸にも敵軍の捕虜
となった彼らだったが、厳然と愛する大韓民国の
息子たちです。誇らしいその英雄たちは戦争が終
わったにもかかわらず親兄弟がいる故郷に帰還で
きず、自分の意思とは関係のない強要された奴隷
生活をしなければなりませんでした。人がどんな
社会で生きていようが、人間が生きていくのに必
要な最小限の基本的な条件を保障してくれるのが

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国です。北朝鮮でまるで獣のような生活を送って
きた国軍捕虜に与えられたものは、厳しい労働と
監視、そして死だけでした生活総和(思想検証会
議)、思想闘争(公開批判会議)など、ともすれ
ば拷問であり、そのような天台と蔑視の中でも懐
かしい故郷に帰還の夢を捨てなかった彼らです。
生きて行けなかったら死んでも祖国大韓民国領土
に葬られることを切に願いました。国軍捕虜の子
供たちの暮らしも同じです。ただ国軍捕虜の身分
の子供という理由で大学進学、人軍入隊、職場配
置(就職)など一般的な生活は夢にも思わなかったし
、父親たちと同じように鉱山や炭鉱で死ぬほど大
変な労しかしていませんでした。このように天人
共怒る悪魔集団での生存とはそれ自体が地獄にな
らざるを得ない凄惨な日々でした。話しても気を
つけなければならず、行動一つをしても他人の顔
色を伺わなければならない、それこそ息詰まる監
視の中で死ぬことができない。住んでいた人たち
です。このような状況でも、どうせ死んだ命だと
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言って死地を脱出した元韓国軍捕虜80人が帰国す
ることができ、一生奴隷として生きて亡くなった
その子供たち100世代が自由大韓の胸に来てもまだ
消えない痛恨の涙を流しています。国軍捕虜の子
供たちは、同病相憐の情を分かち合い、互いに意
志がなるため、2005年に2月19日、ソウルで<6·2
5国軍捕虜遺族会>の会を結成し、今も
北朝鮮集団の鎖につながれて帰れなかった国軍捕
虜の帰還のために努力しています。これを受け、
国防部は 2008 年 8 月 25 日、ついに「6·25 国軍
捕虜遺族会」を師団法人での設立を許可するに至
りました。国軍捕虜の子供たちは大韓民国国民で
あることを誇りに思い、安保守護の先頭に立って
渾身を捧げることを誓います。民族の胸に深い傷
を残した同族悲劇の傷残、韓国戦争の恥辱、いま
だに南侵夜欲を持って狂憤する北朝鮮の 金正恩
共産集団に対する断固たる対処などの問題をどの
ように解決していくかは、私たち全員の課題に違
いありません。政府は国軍捕虜に対する6·25戦争
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の叙勲解消など国家的責任を肝に銘じなければな
りません。帰ってこられなかった国軍捕虜の名誉
回復、戦死日の訂正、国家有功者の認定、国軍捕
虜の遺骨送還などについて努力してくれることを
政府に切に求めます。

社団法人<6·25国軍捕虜遺族会>
会長 孫名化

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発刊社

脱北国軍捕虜の家族を見ると目頭が熱くなります
。そして怒りの拳を握ります。一般住民にとって
生活ぶりは、多くの脱北者の証言によって、よく
知っていたが、韓国戦争の時、残忍非道な北朝鮮
人民軍に連行された韓国の将兵とその家族の実状
を肉筆で向かい合うと、その凄惨状に言葉が詰ま
ります。この本は住民に加えられる北朝鮮政権の
野蛮な形から見て、北朝鮮はもはや人が住めない
幽霊の土地であり呪いの空間であることを証明し
ます。韓国の半分の土地でありながら独裁社会で
ある北朝鮮で人権伸張、幸福追求など人が享受す
べき価値は失踪して久しいし、飢餓、殺傷、死が
横行する地獄そのものの現場を加減なく記録して
います。実に胸が痛むことです。今、金日成
3代世襲体制の北朝鮮共産集団は、内部では人民弾
圧の靴紐を引き締め、外では核兵器を振りながら
世界を脅かしています。
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このような断末魔的な発悪は国際社会の孤立無援
を招いており、金正恩集団の火遊びの危機感を増
幅させているのが今日の現実です。こうした状況
を幸いにも国軍捕虜の家族は声を一つにして言い
ます。 韓国社会の混乱を指摘し、政治権力の
政争を心配して鈍くなる安保意識を叱咤します。
また、このような混乱は必然的に北朝鮮当局の餌
食になることを警告したりもします。しかし、人
間の生き地獄の現場を劇的に飛び出した国軍捕虜
の子供たちは、大韓民国の暖かい胸に抱かれても
心が安らかではないと言います。政治的·経済的弾
圧の的となり、あらゆる苦難を経験している北朝
鮮の生存国軍捕虜と子供たち、そんなにも大韓民
国の故郷の地に葬られたいと言っていた父親たち
の遺骨送還問題などのためです。しかし、この問
題が国軍捕虜の子供たちだけの痛みでしょうか。
彼らを一日も早く救出して遺骨を送還することは
今日を生き、ある私たち全員の責務であることは
明らかです。自由大韓を守ろうと献身された国軍
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捕虜を忘れてはいけません。最後に、この本を通
じて大韓民国の青少年が北朝鮮の実体を新たに認
識し、国民の安保意識を強固にするのに、大きな
助けになることを願っています。併せて国軍捕虜
の子供たちの健康と大韓民国で幸せな日々になる
ことを祈ります。

2021年4月5日
<戦没軍警遺族会>
会長チェ·ヘグン

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推薦の辞
脱北国軍捕虜家族の手記「沈黙の 43 号」に向き合
うと、自ずと頭が下がります。先日、朝鮮日報の
キム·ユンドク次長が「ある国軍捕虜 2 世の涙」
というタイトルの書き込みを紙面に掲載し、脱北
者の書き込みを「血の涙に骨で書いた私の書き込
み」。と紹介しました。小説の中の北朝鮮を現実
世界に引っ張ってきたという修飾語も付きました
。祖国を守ろうとして北朝鮮に連行され、人間以
下の待遇を受けながら苦難を経験した国軍捕虜と
その家族の実状を、どうして何文字の中に収める
ことができますか。一日も早く、一人でも先に連
れてこられない大韓民国の政治現実を嘆くだけで
す。幸いなことに、まだ帰ってこない国軍捕虜た
ちとその家族の受難死が北朝鮮の圧制と監視にも
埋まらず一部分でも世に出られたということです
。前例のない 3 代世襲を敢行した北朝鮮の金正恩
政権は、表向きだけ安定的に権力継承を成し遂げ
たように見えます。しかし、大飢饉で 300 万人近
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くの北朝鮮住民が餓死して以来、北韓の社会主義
を支えてきた食糧配給は途絶えて久しいし、住民
自らがチャンマダン(市場)に出て商売を通じて生計
を立てているということです。民衆の暮らしがこ
うであるにもかかわらず、金正恩政権勢力は地位
を問わずあらゆる不正腐敗を日常的に行い、賄賂
で自分たちのお腹を満たしている実情です。窮地
に追い込まれたネズミがもっと発悪するものです
。金正恩政権が核兵器で威嚇し、絶えずあらゆる
挑発を強行するのは戦争危機感を生み出し、体制
の不安を希釈しようとするからです。国際社会は
これに対して少しも屈せず、むしろ 2500 万人の人
民独裁者、金正恩を国際司法裁判所(ICC)に付託
しようとするほど、北朝鮮政権を圧迫しています
。大韓民国もまた、国際社会のこのような圧力に
当然参加しなければなりません。まだ北の地で毎
日苦痛の時間を過ごしている国軍捕虜たちとその
子供たちのためにも政界が今からでも積極的に乗
り出さなければならないでしょう。なにより一層
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、北朝鮮の変化を引き出すための北朝鮮人権法制
定に与党をはじめとする政治権や市民団体、政府
など、大韓民国のすべての国民が積極的に参加し
なければなりません。この本 1 冊に粒が溶け込ん
でいるので、この本を読むのは歴史の遭難者を忘
れて暮らす韓国国民の皆さんの義務だと思います
。北朝鮮の改革開放と民主化は、国軍捕虜と子供
だけのためのものではなく、2500 万人の人々のた
めのものだ。北韓住民を解放することであり、7 千
万民族が一つになるためには必ず貫徹させなけれ
ばならない宿願です。私はこの本が単純に脱北国
軍捕虜とその家族が受けた不当な歴史の手記を越
えて貴重な文献になることを願います。また国軍
捕虜問題解決の指針書になることを願い、統一大
当たりの土台になることをもう一度切に祈ります

2021 年 4 月 5 日
国会議員ハン·ギホ
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沈黙の 43 号
次例
◆ 本を出版しながら
◆ 発刊社
◆ 推薦の辞
◆ 頭の馬
1.「私の成長期」
- 幼年期 22
- 青少年期 46
2.国軍捕虜の父親に対する恨み
- 革命家の妻になった誇り 75
- 除隊軍人家族の不幸 79
- 生きられない運命の道 85
- あてもない旅に出ることに 109
- 命がけで国境を越えて 116
3.誇らしい国軍捕虜の父親
- 夢にも懐かしい大韓民国 129
- 環境を変えて定着へ 135
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- また別の危機を迎えながら 138
- 父の名誉を探そうと 154
- お父さん!会いたいし、ごめんなさい。165
- 法治国家の悟り 184
- 彼らはなぜ「43号」と呼ばれたのか。 201
-「43号」は沈黙のまま生きなければ
ならなかった 204
- 政府に望む点 208
4.生命のように貴重な国家の安保
- 今日の大韓民国 212
- 私の人生の終着駅 215
- 尹錫悦 政府に大きな期待を 232

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頭の馬
1950 年の夏、恥辱の韓 国戦争勃発 70 周年を
超えました。10 年なら川山が変わっても 70 回が
変わったが、いまだに国軍捕虜とその子供たちは
北朝鮮で「傀儡軍」子供で「43 号」の重いかさぶ
たをして連座制(犯罪者と特定の関係にある人に連
帯責任を負わせて処罰する制度)で苦痛の沈黙で
生きています。国軍捕虜の家族は青地炭鉱、
剣徳鉱山などの険しい地でひとかけむりのない獣
(動物物体などが実際に存在しない比類法である)
の同じ奴隷生活をしなければなりませんでした。
幸せ、希望、愛は夢も見ることができない地獄の
死地から命を変える運命の道を脱出して大韓民国
に来るようになりでした。父親たちは国軍捕虜の
身分を子供たちにだまして暮らさなければならな
かったし、その子供たちは彼らが国軍捕虜連座制
で生きている姿を見ると、父の胸は破れたはずで
す。子供に何もしてあげられない現実で、また自

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殺の試みは何回したのだろうか。国軍捕虜 43 号と
いう身分で父親たちの奴隷的苦痛は一人で満足し
なければならない代わりに、代々その子供たちに
そのままやられるべき国がまさに北韓です。
2 千万人民は独裁者の首領のために存在するだけで
、それ以上、以下でもありません。北韓は 1950 年
の戦後、20 代の青年を戦争復旧に人力としてこき
使っており、その多くの人力をどこから連れてく
ることはできない現実でした。北韓当局は人道主
義的立場から国軍捕虜の送還を求める韓国の要求
について、「共和国には国軍捕虜が一人もいない
」としました。したがって、韓国は北朝鮮に国軍
捕虜がいないことを受け入れたが、その後 1994 年
10 月 3 日、趙昌浩(チョ·チャンホ)少尉が北朝鮮を
脱出して韓国入国後、部隊復帰届を出し、生きて
いる国軍捕虜 80 人が帰還しました。筆者の父はチ
ョ·チャンホ少尉より 10 年前、59 歳で茂山鉱山で
肺がんになり、9 年間電気火もない山奥でまるでア
フリカ奴隷のような人生を終えました。
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目を閉じた時になってようやく故郷の親兄弟の名
前と軍番などを教えてくれて「死んでも故郷の地
、大韓民国に葬られたい」という最後の遺言を残
してくださいました。愛する父があれほど来たか
った大韓民国に来ましたが、まだ北朝鮮に残って
いる数多くの国軍捕虜魂を思うと胸が痛みます。
1976 年、板門店 の斧 蛮行事 件直前に 健 装した
国軍捕虜を政治犯収容所に収容して銃殺した北韓
政権です。彼らとその子供たちのことを考えると
、とても夜眠れません。国軍捕虜たちは皆同じよ
うに北韓で悔しそうに目を閉じて、祖国大韓民国
の懐を懐かしんだのでしょう。しみじみと懐かし
い故郷とそこの両親兄弟にただ一度だけでも会っ
て死ぬという遺言を残したはずです。人は誰も自
分の故郷、親兄弟を忘れられません。愛する人た
ちを会ってみたくても言えないし、ひたすら胸に
埋めて生きようとすると、どれほど大変だったで
しょうか。これが国軍捕虜とその子供たちだけの
不幸だと言えるでしょうか。この本は国軍捕虜と
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その子供たちが「傀儡軍 43 号」で経験した獣の
ような奴隷生活を尻尾のない獣と表現し、読者に
知らせるために書きました。また忘れかけている
韓国戦争、国軍捕虜の存在とその子供たちの実状
を知らせ、私たちが成し遂げなければならない国
軍捕虜の名誉回復と彼らが無念に対する自責を贖
罪する気持ちで書きました。最後にこの 10 年間、
国軍捕虜の名誉回復のために 8 ヵ月間、1 人デモ
をする時、そばで黙々と支持して応援してくださ
ったすべての方々と国軍捕虜問題に対して多大な
関心と激励を送ってくださった多くの方々に感謝
の挨拶を申し上げます。 特に国軍捕虜問題は、
一人の個人の問題ではなく、国家の責務を忘却し
、誰も関心を向けなかったが、ただ一人の大韓民
国の国軍の本分を守ってくださった、(韓基鎬)
ハン·ギホ国会議員に心から感謝の言葉を申し上げ
ます。私の年が 60 歳を過ぎたこの母の健康を心配
してくれて、 いつも経済的支えとしてしっかり
守ってくれる世界の最高の宝物である二人の息子
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にも感謝の言葉を言います。人間の生き地獄、北
朝鮮の地の冷たいところで、他人の知らない山の
谷間に横たわり、魂でも南の空を描きながらしさ
を表すこともできずに死亡した国軍捕虜たち!政
治犯収容所に捕まって死んだり、銃殺された国軍
捕虜たちは死んでも一握りの遺骸もなく路上に撒
かれました。寂しく捨てられた国軍捕虜たちの冥
福を祈りながら、 彼らの魂にこの本を差し上げ
ます。

2021 年 4 月 5 日
社団法人<6·25 国軍捕虜遺族会>
会長 孫名化

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1.「私の成長期」
-幼年期
◎ 祖先の疑い
私の本籍は咸鏡北道茂山郡茂山邑115組だ。
私がこの世に生まれて父方の祖父、父方の祖母、
母方の祖父、母方の祖母はいなかった。その理由
も全く知らなかったし、おじいさん、おばあさん
を呼ぶこともできなかったので、同じ年頃の他の
子供たちがとても羨ましがった。お父さんとお母
さんにはいつも「うちのおじいさん、おばあさん
はなぜいないの?」と駄々をこねた。おじいちゃん
、おばあちゃんがなぜいないのかについて悩みと
疑いをたくさんしたし、格別におじいさん、祖母
の存在に好奇心をたくさん持つようになった。
母は母方の祖父と曾祖父のことだけを話した。
曽祖父の故郷は江原道旌善郡旌善邑(カンウォン
ド·チョンソングン·チョンソンウプ)だと言い、曽
祖父は国を探すために家の財産をすべて売った金
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と息子 3 人を連れて中国に行ったという。私は母
が「母方の祖父の故郷は江原道旌善郡」と言った
ので北朝鮮の江原道だと思っていた。後で分かっ
たら、北朝鮮の江原道ではなく韓国の江原道だっ
た。中国に行った曾祖父は、東北地方の延辺地域
に位置し、独立運動の道に進み、母方の祖父は中
国で結婚し、結局 2 男 3 女を産んだ。母が長女と
して生まれた。父親と祖父の独立運動を秘密連絡
の手紙におにぎりの中に入れて頼んだ時、年齢は 7
~8 歳だったという。母親は曾祖父(チョン·イン
ハ)の名前と祖父(チョン·ソンリョン)は次男だ
と教えてくれた。曾祖父は漢方医の医術が高くて
名声が高かった。死にかけている人も針で生き返
らせる曾祖父。医術を長男の母方の祖父(チョン·ジ
ャンリョン)が学び、韓医院を抗日闘争の秘密の場
所として活動するようになったという。母方の祖
父は背も長身で体格が大きくて何事も滞りなく、
高慢な気性を見せてくれた。曾祖父は日常でどん
な仕事をさせても母方の祖父にお使いをよく任せ
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たと言った。母が 9 歳になった年に、中国吉林省
華龍県、肋幕谷にある祖父の秘密連絡場所が日本
軍に発覚した。その結果、祖父と祖母を肋幕谷の
入口にある黄鉄の木に縛っておいて銃創で刺して
殺したと言った。は弟たちを食べさせるためにい
ろいろ苦労したし、8 歳の時、金日成夫人の金正淑
に会った」と話した。その時、金正淑と一緒に祖
国光復革命運動をするという戦友たちにも数え切
れないほど会ったという。おじいさんのお使いも
どこかに行って、どんな服を着ている韓方医院や
喫茶店に行って連絡の手紙を渡した。母親が弟た
ちを他人に預けておけば、彼らはばらばらに別れ
てご飯を食べに出かけた。母は逆に弟たちを失っ
て探しに行ったと言った。ある日、末弟の 5 歳の
時に失った 10 歳の弟(呉服)、8 歳の弟(徳寿)
を探し回ったが、両親のいない子供たちだと日本
の巡査の家に売られ、作男として暮らしたという
。母は 9 歳の時、父と母を日本の奴らに虐殺され
たが、再び弟たちを日本の奴らに作男として売っ
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た人のところに行って大騒ぎをした。母はそこで
ひどい目に遭って弟たちを連れてこられなくなっ
た。母親は「私が死んだら死んで、弟たちを絶対
そこで仕事をさせることができない!」として幼い
12 才で殴られながら数日間その家の大門で耐えて
いるので弟たちを売ったその人も仕方なく弟たち
を連れて行ってくれたと話した。以後母は弟 3 人
を守ろうともがいて住んでいた所でもっとこれ以
上生きることができず、弟のチョン·オボク(10 歳
)、チョン·ドクス(8 歳)、チョン·イボク(5 歳
)を率いてご飯を食べさせるために他人の家の賃
仕事をしながら持ちこたえ、北間島に渡った
ところが咸鏡北道茂山郡(北朝鮮)だ。数奇な運
命の母親は弟 3 人を連れてあまりにも苦労して暮
らした。ただ恨みの多い世の中のせいにして、ど
うしようもない人生を送ったから、こんなに数奇
な母に結婚する人がいなくて結局国軍捕虜の私の
父に会ったのだ。北朝鮮では 1990 年代初めから
金日成回顧録がシリーズで出ることになった。
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その回顧録の一部に、金日成が普天堡戦闘をはじ
め、中国吉林、満州、国境地域の活動をする時、
中国延辺で活動した全盛鎬(全盛龍)医師の独立運動
家の幇助をたくさんもらったという記録がある。
私は全盛鎬(全盛龍)医師がまさに私の母方の
祖父「全盛龍医師(1896 年 9 月 10 日~1950 年 9
月 15 日)」だったのだ。金日成回顧録に全盛鎬(全
盛龍)医師が記録がなっていて、結局、母親は咸鏡
北道茂山郡では 65 号を対象に特別待遇を受けるこ
とになった.毎年、金日成の誕生日(4 月 15 日)、
金正日の誕生日(2 月 16 日)になると、中央党か
ら贈答品を受け取ることになった。その後、母は
茂山郡城川麺屋でシェフ兼料理人として働き、家
の中に何か問題が提起されれば、茂山郡堂に行っ
て解決を見た。父は国軍捕虜だが、母親の影響で
他の国軍捕虜より良好に管理された。

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◎ 私の出生
私は父のソン·ドンシク、母のチョン·スボクの 2 男
5 女の中で次女だった。でも上にお姉さんが生まれ
て 2 歳の時に病んで死んで結局は上にお兄さん
二人で私が長女になった。女が生まれると痛くて
死ぬ直前まで大切にしていたという。私も生まれ
てから胃けいれんで風を起こして 3 回も死の瀬戸
際を越した.4~5 歳の時は痙攣で道を歩いていてて
んかん病のように倒れた。上のお兄さん(ソン·チ
ュングォン)は私が倒れたらお母さんに「ミョン
ジャが浮気した」と言って周りの人に人々に笑い
を誘った。父は私に対する愛が格別に多かった。
父は歌がとても上手で、ハーモニカもすごく上手
に歌ったね。鉱山宣伝隊の独唱歌手もしながら坑
道の仕事をされた。会館や他地域に公演を行くた
びに必ず私を連れて行った。私は父が歌うのをと
ても羨ましく見た。心の中で私も必ず歌手になる
と誓ったし、6 歳から 10 歳まで幼稚園と人民学校
音楽部の独唱歌手をした。その時は 70 日戦闘、10
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0 日戦闘をせよという唐の指示が出された。私が 6
~10 歳の時に独唱で歌った歌は北韓映画
「血の海」主題歌「コノハズク(鳥の名前)」という
歌だった。私の年が 60 歳なのに、10 代の時に習
ったその歌の歌詞は今も忘れずにいるのでもう一
度振り返ってみる。

「コノハズク(鳥の名前)」
1.コノハズクヤ、コノハズクヤ、
悲しく泣くコノハズクヤ
君が泣くその気持ちを私も知っているよ
泣くなコノハズクヤ、 君が泣いては
お父さんのこと思い出して私も泣きたいよ。
2.父の話をすると母が泣くんだよ
お母さんが泣いたら私も泣いちゃうの
亡き父に代わって
君と僕とお母さんを助けなければ
ならないんだよ。

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この歌を幼い頃に色とりどりのチョゴリを着て再
聴(アンコール)を受けながら 4 年間呼んだ。私が
生まれた当時、社会では子供たちの名前をつける
時、女性である場合、「子」の字回しをよく使っ
た。それで私の本来の名前は「孫名字」だった。
私が 10 歳の時には労働党で「字」の字回しは日帝
時期の文化残存だとし「字」の字を別の字に直す
ようにと指示した。それも二文字でもなく、必ず
一文字。「さあ」だけを直せということだった。
北朝鮮では、労働党の指示は法と同じだ。それで
私の名前が「孫名化」となった。弟は「ソンスン
ジャ」だったんですが「ソン·スンヒ」と改めた。
私が生まれた時は 12 坪の長い列の家でなんと 8 人
家族が集まって仲良く暮らした.母の兄弟である母
方の叔父(チョン·ドクス)、叔母(チョン·オボク
、チョン·イボク)、お兄さん二人、私、お父さん
、お母さんみんなで 8 人住んでたんだけどその後
、弟たちが生まれた。幼い年に我が家で母方のお
じさんが結婚して叔母さんたちも結婚して弟たち
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が生まれたからうちの家族は 8 人以下に減ら
なかった。我が家は父が鉱山で食料配給に乗って
きた。母方のおじさんも仕事をしたし、おばさん
たちも一生懸命仕事をしたので食べていくのは
何の問題もないほど豊かに暮らした.当時の配給で
は小麦粉をたくさんあげた。私は女性が貴重な家
庭で長女として生まれ、家族の関心を一身に受け
た。おばさんたちと上の二人の兄と母方の叔父の
愛をたくさん受けて暮らした。父親は無口で、幼
い時には父親の身分が国軍捕虜だということを知
らずに育った。ただ、父の故郷「南朝鮮」という
こと以外は何も知らずに助かった。私は 6 歳で幼
稚園に通いながらも父をついて回りながら歌を習
って幼稚園でも歌が上手だった」と話した。
すべての部分でいつも 1 位を誰にも譲らないほど
よくやったので、先生たちから惜しみない愛を
受けた。父はいつも私を膝の上に座らせてくれた
ので兄と弟たちの愛を独り占めしながら育った。

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◎ 人民学校時代

私は 8 歳で人民学校に入学して勉強もよくやった
し歌が上手で家族からもっと愛された。人民学校
に通ってた時は健康が良くなくて病院で歳月を送
った。人民学校の担任の先生は年 が 35 歳のソク·
ジョンジャ先生だった。人民学校で先生たちの中
で年齢が一番多かったが音 楽に熱情的で舞踊も
教えた。同級生 45 人に歌、舞踊、アコーディオン
も万能で消化させて、先生は私が勉強して痛かっ
たら背負って茂山郡病院に連れて行った。母は茂
山(星川そば)屋の食堂でシェフ兼料理人として働い
た。当時、茂山郡にある麺屋はたった一つだけだ
った。メニューはジャージャー麺、冷麺、温麺な
ど 3 つだった。先生にジャージャー麺をまず供給
したし、名節や登山に行く時、先生の食事は別に
用意した。父は私の保護者会の担当で、弟たちの
保護者会議には行かなかった。鉱山の仕事で忙し
くてもただ私の保護者 会議は欠かさず通った。
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配給では米、小 麦粉をもらった。 鉱山労働者は
1 人 1 日 900g、扶養家族は 300g、学生は 400g、
一般労働者は 700g、を配給された。町には小麦粉
の冷や汁素麺をお金をもらって押してくれる家々
と豆腐と酒を個人が家で作って売った。我が家は
母が戦死者家族に登 録されていて優遇された。
また母が料理が上手だったのでたまに外国人食堂
でも招待されて仕事をした。無酸素鉱山で国際出
張に来る外国人に料理を作ってくれた茂山郡には
鉄山外国人食堂がある。唯一の外国人宿泊施設で
ある。母は星川そば屋コック長兼倉庫長に昇進し
た。その後、郡党委員会の信任により鉄山外国人
食堂も母親が実際に引き受けて仕事をしてくれる
ようになった。国際出張のために茂山鉱山に来る
外国人たちが一定期間鉄山外国人ホテルに泊まる
と母はしばらくホテルに行って外国人の食事をし
てくれた。それで母は茂山郡で名前さえ言えば料
理が上手な人として有名になり、郡党委員会では
母親の存在をよく知っているほどだった。私は母
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の力を信じて幼い頃から夢に対する欲望が人より
優れていた。でも私は幼児の頃から人民学校に通
っている間は健康が良くなくて治療を受けるため
に病院にたくさん通ったし、有名な韓方医のおか
げで 3 度の死の峠を越した。以後幸い健康を取り
戻して高等中学校に上がるようにできた。

◎ 高等中学校時代
当時、北朝鮮には中学校が特になく、高等中学校
(韓国の中学校と高等学校を合わせたもの)が
あった。幼稚園 2 年制、人民学校(韓国の小学校)
4 年制、高等中学校 5 年制で、いずれも 11 年制の
義務教育だった。私の中学校の担任はカン·ヨンウ
クの娘先生だった。中学校に通っていた時からは
父と母の夫婦喧嘩が多かった。その度に母が大声
を出してしまうと父は一言も言えなかった。私は
父の肩を持ちながら母に 父をいじめるなと叱る。
母は「なぜ?南朝鮮で生まれてそれも傀儡軍にま
でなって私をだまして会って子供たちをたくさん
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産ませたのか」 と大声を上げたのだ。しかし、
父は一言も言えず、鉱山に働きに行けば、何日も
家に帰ってこなかった。 幼い私はお父さん、
お母さんがどうして喧嘩するのか分からなくて午
前中学校に行って午後 3 時に勉強が終わったら 4
時からは音楽室の 3 階に上がって普通夜 10 時には
家に帰ってきた。やっとやっと夕飯を食べるよう
になったのだ。 学校で午後の時間にはあまりにも
お腹がすいた。子供たちはランドセルにトウモロ
コシの乾いた麺を家で母親たちに内緒で盗んで登
校したりもした。遅い時間まで器楽重奏、女性重
唱、独唱など様々な種目を練習した。中学校 2 年生
の時は重唱物語が中央芸術祝典予選で 当選し、
光栄にも平壌青少年祝典公演に参加するために首
都平壌に行くことになった。その時、公演のため
にステージメイクをしたんだけど化粧品がないん
だ。カーペット紙に塗る塗料を粉にして膏薬で作
って顔に塗った記憶が生々しい。私は中学校 3 年生
までは歌を歌ったが、その後からは奚琴(ヘグム)を
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習い始めた。私は情熱が大きすぎて、何だか学べ
ば最後までやるのが好きだった。中学校 3 年生
ではネクタイを脱いで斯盧庁(朝鮮社会主義労働青
年同盟)に加入した。その時も模範生徒として学級
でまず斯盧庁に加入した。勉強が上手で音楽部の
責任者もしたが、子供たちが私を見て「お前はい
くら上手でもどこにも行けないのになぜそんなに
熱心にするのか?」ということだった。私の父が「
南朝鮮」「傀儡軍」というもので、子供たちは私
を駆り立ててくれた。私はとてもショックを受け
、中学校の人民学校からのクラス。熱心分子幹部
をして音楽も熱心にした。また、字筆体をよく書
いたので、学校の斯盧庁委員会の文書は私が整理
してくれる仕事が盛んだった。クラスで勉強、音
楽、筆体、裁縫(ミシン)などすべての多方面で「万
能博士」と褒められながらも、一方ではいじめら
れて生きなければならなかった。そのままやられ
ることはなかった。ついに「南朝鮮傀儡軍の子」
という強い心を持つようになり、子供たちがから
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かうと頭を引っ張って椅子に押して 殴ったりも
した。それで私は「いじめ」で「大将」の役割を
することになり、私にやられる者はいなかった。
しかし私はまた違う試練を迎えることになった。
学校の裏には茂山郡会館が位置していましたが、
午後 3 時に会館で裁判をするということだった。
私は気になって 会館に入ったんだけど、一瞬。
心臓が止まるほどびっくりした。 まさに私の母
(チョン·スボク)を裁判することだった。舞台の
上には黒色のテレビ、ミシンが並べられ、およそ 1
0 分後、母が舞台に出た。判事がお母さんにソンチ
ョンそば屋で麺を盗賊して TV、ミシンを買った」
と問い詰めるのだった。母は断固として否定した
が、裁判官は罪を認めるように大 声で叫んだ。
叫び、結局、母親に場所、時間など具体的な証拠
を要求した。母親は刑期を受けずにテレビ、
裁縫機を強制的に回収するという決定を受けた。
裁判が終わった後、とても悔しい母親は郡党、
道堂、中央堂に伸訴手紙で不当さの文を書こうと
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したが、母親と父親は学ぶことができずハングル
を知らなかったため、結局は幼い私が伸訴手紙を
書くことになった。 40 日が過ぎ、中央党の伸訴
処理課でお二人が訪れ、来て、母の無念を晴らし
た。後で分かったら町で我が家は国軍捕虜家族な
のに母がそば屋に通ってたので比較的よく食べて
元気に暮らしているので裏の家に住んでいる「チ
ャン·チャンギュ」という人が判事と組んで裁判ま
でして大騒ぎになったのだ。結局、裁判官はその
職務から解任され、チャン·チャンギュは私の家を
仇として過ごし、町でもこれ以上住めなくなると
どこかへ引っ越しを行ってしまった。私は中学校
時代の下着、胸帯(ブラザ)を売っているところ
もなくて子供たちが布団の中の白い布で自分たち
の胸囲を測って私に作ってくれと私の家に訪ねて
きた。たいてい日曜日にそれで私は子供たちと
面白い話をしながら彼らの頼みを聞き入れてあげ
たりした。それで子供たちは私のことが大好きで
従った。私はミシンもすごく上手で、子供たちに
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やってほしいと言われたら仲がいい子たちは優先
してくれて仲の悪い子たちは私に万年筆あるいは
学習ノートを持ってきてこそ作ってくれ 保護者
会議をすると、ほとんどのお母さんたちがしかし
私の保護者会議は父が一生通った。父は教室に入
ったら前の席に一人で座って席を立つまで名化が
上手だという褒め言葉にいつも 満足していた。
父は同じ学校に通っている弟たちが保護者会議に
は絶対に行かず、無条件に私の保護者会議は何の
口実もなくきちんと通った。そんなある日、突然
父は茂山鉱山で仕事をしていて血を吐くことにな
って郡病院に行ったが肺がんの診断を受けること
になった。当時、父親の年齢は 51 歳。 父は体が
悪くて出勤できないようにされ、数日間休むこと
になり、社会保障(疾病判定で労働力喪失水準で
国が認めるもの)手続きをしようとしたが、職場
ではできないと言って、体が悪ければ病院の診断
書を捧げろということだった。以後 3 ヶ月間診断
書を取り出して職場に捧げたが、ある日、急に職
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場長が家に訪ねてきて「ソン·ドンシク同志は『ム
サン郡ユク·ドンゴル』に入ってきて空気も良く水
も良いので病気の治療も兼ねて鉱山で使う銅鉢を
生産せよ」ということだった。それで父は市内か
ら 70 里ほど離れてある「六洞谷」の谷間に
入って家族と離れて暮らすようになった。私は
週末になると必ず約束でもしたように父が住んで
いる六洞谷の中にきちんと訪ねて行った 。父は
そこから泥へ丸太の耳枠を建てておいて、また別
の国軍捕虜おじさんと一緒に別々に一人暮らしを
した。父のところに行くときは、灯台用の石油油
を 1 本持って、行かなければならなかった。深山
の谷なので電気の火がなくて必ず油を点けなけれ
ばならなかったし、父と一晩寝ると鼻の穴が油火
の煙に真っ黒になった。父は山の谷間から流れて
くる澄んだ水に薬草を煎じ、ビニール(プラスチ
ック)の桶に入れて水に浸したが、雨がたくさん
降ったら流れないように紐で石にぶら下げておい
て、キムチ容器もそんな風に水にぷかぷか浮いて
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生活した。私は分別のない時「父はなぜ山で生き
るべきか?お父さんは、「他の人たちは体が痛い
と職場で社会保障対象申請をするというのに父は
なぜ社会保障申請もダメかな?」と聞かれたら笑
いながら「父が肺がんで健康ではないので、空気
の良いここで治療を受けさせるよう党から送って
もらった」と話した。夏に父が山から丸太を引き
ずって降りてくる姿はまるでテレビでアフリカ奴
隷たちを見る姿と同じだった。肩の皮がむけて血
が流れ、ため息をつきながら座り込む父親の姿を
たくさん見た。お酒が好きで、お酒を一本持って
くると、酔って横になって涙をこぼしながら何も
言わずに泣くから父の酒癖が泣くこと。とわかっ
た。私は分別のない時だから父は笑いもなかった
し、感情もない木石かと思った。しかも、おじい
さん、おばあさんについて一言も話さなかったし
おじいさん、おばあさん、伯父さん、叔父さんの
名前を聞いたことさえない。お父さんのところに
行って山奥の静かな山小屋でお酒を飲むと、たま
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に気分がいい時におじいさん、おばあさん、お父
さんなど家族と家庭の事情を少しずつ話した。故
郷を尋ねると南朝鮮で、故郷は釜山市大新洞だと
言った。父は弟のソン·ドンジンと一緒に日本に金
儲けに行った兄のところに行こうと釜山で船に乗
ろうとしたが、6·25 戦争が勃発して国軍に入隊し
た。当時は若い男は皆銃を握って軍隊に入隊させ
たという。洛東江(ナクトンガン)戦闘で父親は
弟と別れたが、その後消息が全く分からないと言
い、弟の行方を 3 年戦争の間、必死に探したとい
う。おじいさんは夜長屋をしたが、お父さんはお
じいさんと一緒に仕事をしながら夜長屋を仕事を
学んだ。父の故郷は柿が有名な地元で、米一粒が
粟粒ほど大きく、きれいにスプーンですくうこと
ができなかったという。父は両親に親孝行の役割
を果たし、妹一人はとてもきれいだと言った。そ
の他に他の話を聞いたことがなかった。

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◎ 学生時代の夢
私は茂山聖川女子高等中学校を卒業して社会に進
出すれば芸術家になって世界舞台を眺める大きな
夢を持っていた。1978 年 2 月初めには金正日(キ
ム·ジョンイル)総書記の誕生日(2 月 16 日)を迎
え、各クラスで模範生徒 5 人ずつ選び、光復の千
里の道を踏査する行軍を離れた。わたしは光栄に
も 5 人に選ばれ、「革命の首都」平壌の万景台へ
出かけることになる。光復の千里の道は、金日成
が 12 歳で普天堡(アプロクカン)から万景台(マ
ンギョンデ)まで千里の道を 13 日間歩いたという
歴史の精神を教えてくれる。北朝鮮は人民に金氏
一家の革命活動だけを教え、朝鮮歴史の根はあま
り教えてくれないので知らずに暮らした。民族の
英雄である李舜臣将軍や偉大なハングルを作った
世宗大王などについても全く教えてくれなかった
。そして韓国戦争も南朝鮮の李承晩傀儡徒党がア
メリカ帝国主義者たちと共に 1950 年 6 月 25 日午
前 5 時、共和国北半分への侵攻から始まったとい
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う。鋼鉄の霊長である金日成将軍が英雄的人民軍
将兵に攻撃命令を下し、峻厳な戦争が 3 年間続き
、ついに 1953 年 7 月 27 日に敵が降伏したという
。このように北朝鮮では、米帝と南朝鮮傀儡が挑
発した韓国戦争を英雄である「祖国解放戦争」と
教える。その残酷な戦争は「鋼の霊場、金日成将
軍」。があったからこそ堂々と勝利できた」と人
民に教えている。高校を卒業するまで、私は首都
平壌に 2 度も行く模範学生だった。実は北朝鮮で
生まれても平壌に行けずに死ぬ人も多い。幼い時
に平壌を 2 度行ってきたのは家門の栄光だと思っ
た。光復の千里の道踏査行軍は 13 日間、千里の道
を歩き、7 日間は平壌市を見物し、記念品も買って
、そのように全部で 20 日間を決めて行ってくるこ
とになった。1978 年金日成誕生日(4 月 15 日)記
念公演をすることになりムサン郡では 4 月 10 日ま
で各学校音楽部の試演会を経て当選した種目だけ
が公演番組に入った。卒業を前にした私はとても
忙しかった。踏査行軍に行ってきて 4 月 15 日公演
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の準備をしなければならなかったし 5 月 10 日、全
国卒業生音楽コンテストに参加する準備をしなが
ら、学校の音楽室で午前 2 時まで歌、雄弁、ヘグ
ム演奏の練習をした。4 月 15 日の公演が終わった
後、5 月 10 日、卒業生音楽コンテストでヘグム独
奏キキョウを演奏して 3 位の栄光を受け、多くの
プレゼントと賞状も受けた。卒業式の個人音楽コ
ンテストで 3 位になっだから卒業希望を書けと言
って、私は芸術専門学校を 1 志望、2 志望も同じ
ように書いた。いよいよ大学志望者たちは 6 月か
らは大学入学試験を受けに行くことになり、私も
芸術専門学校に入学試験を受けに行くことになっ
た。全国音楽部卒業生音楽コンテストで 3 位にな
ったので、芸術専門学校は当然合格だと思ったが
、不合格通知書が 7 月 15 日に書留郵便で受け取っ
た。私は音楽を諦めることができず、他のところ
に行くところを調べてみた。結局、どこにも行け
ず、父が通っている茂山鉱山に派遣状を受け取る
ことになった。お兄さん二人も義務的に軍隊に行
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かなければならないのに行けなかった。一番上の
兄は咸鏡北道羅南(ハムギョンプクト·ラナム)建
設隊に行き、次男は平壌(ピョンヤン)速度戦突
撃隊に行った。私はやっと父の出身成分「傀儡軍
」であることを実感した。でも、高等中学校の期
間中芸術に対する抱負と夢をあきらめることは難
しかった。私は学校の斯盧庁の指導員に会って校
長先生を訪ねて問い詰めたら、私の父の出身成分
が「傀儡軍」という理由だった。私は他の人より
優れた才能があり、情熱も多かった。しかし、社
会に出てできることが一つもなかった。ショック
を受けたら死のうと決心して倉庫に綱を結び自殺
未遂までして大騒ぎになったのだろうか。このよ
うに私は父が国軍捕虜すなわち「傀儡軍 43 号」と
いう特殊な出身成分で高等中学校卒業を控えて絶
望と挫折感で苦悩に陥った。社会に出ても果たし
て私にできることは何もないという事実を現実に
受け止めなければならない大きな痛みを抱えて卒
業した。
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- 青少年期

◎道芸術団入り
私は茂山鉱山派遣状を受け取りましたが、そこで
父が苦労して働いている姿を幼い時にたくさん見
たので行かないと決心した。そうして母親の従弟
と道安全局に通う叔父(チョン·チャンフン)を訪
ねた。おじさんの家に行ってやりたい音楽を続け
ると駄々をこね、おじさんは道芸術団でオーディ
ションを受けさせた。1978 年 8 月末頃についに芸
術団オーディションを受けて感激的にも 2 週間後
に合格通知書をもらうことになった。私は父、母
にも言わずに 18 歳で私が自ら叔父を訪ね、道芸術
団のオーディションも受けた。10 月 1 日からは道
芸術団に出勤して芸術家の夢を広げようと服屋を
持ってきた。ところが、母が芸術団で私を迎えに
来た。お母さんは「やれやれ。分別のない奴!お
前がいくら芸術をすると言っても絶対に駄目だ」
とし、家に帰ろうということだった。その時、母
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から叱られた。母は私をつかまえて「登れない木
にはなぜ登るの?」とわがままを言う私をたくさ
ん殴るのだった。母の鷹に勝てなくて家に帰って
きたが、父は私の手をぎゅっと握って「芸術家は
世界の舞台に進出するためには海外に出るが、
父は故郷が南朝鮮で君たちが言う'傀儡軍'という
身分で行きたくても行けない」とおっしゃってい
た。 結局私は夢の会社員芸術団に行く問題を
せっかく諦めてしまった。私はそれ以来、どこに
行っても死ななくても私を探すなと家出をした。
1978 年はこのように私の夢、幸せを叶えることが
できず傷だけを残して年を過ごした。翌年の 1 月
に母は私を見て「芸術はできなくても勉強でもす
るか」と尋ねた。私はそうすると言った。結局は
お母さんはチョンジン経済専門大学の校長に緑馬
粉(ジャガイモでんぷん)30kg、酒 10 リットルを背
負い投げで持って行って賄賂を渡しながら私を勉
強させてでも定着させようと多くの努力をされた
。それで私は清津市仁谷洞に位置した「清津高等
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経済専門学校」(3 年制)計画統計科を 3 年勉強する
ことになり卒業することになった。1981 年 8 月 3
0 日、清津高等経済専門学校を卒業して茂山に入り
、茂山軍制裁工場アルコール職場倉庫長として配
置を受けた。

◎ 製材工場就職

制裁工場は茂山郡で 2 級企業所だった。私はおが
くずのエチルアルコール職場の倉庫長の仕事をす
ることになり、アルコール職場の従業員は 15 人で
、工場内に幹部の子供たちで構成された。製材工
場には文化会館があり、宣伝隊もあった。工場斯
盧庁委員として名節には職場斯盧庁初級単位で「
忠誠の歌の集い」を行い、新年の辞通達競演も頻
繁に行った。「忠誠の歌の集い」競演で私が出演
するすべての種目は順位内にあり、製材工場でも
名前を知らせ始めた。筆跡が良すぎて工場、党委
員会、職盟委員会、斯盧庁委員会のすべての文書
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は私が作成することになった。その時から私は製
材工場斯盧庁初級委員、アルコール職場斯盧庁初
級団体委員長、郡斯盧庁委員、道斯盧庁候補委員
まで務めた。みんな羨ましがるアルコール倉庫を
握っていると道党、郡党の党幹部たちが訪ねてき
てアルコールをくれと言い、新年の辞通達競演は
郡競演で 1~3 位まで順位に入れば道競演まで上が
ったりもした。新年の辞通達競演は、道の競演で 1
、2、3 位は毎年私が占めた。当時、軍事労庁委員
長は「崔甲洙」。そして制裁工場斯盧庁委員長は
「金永春」だった。チェ·ガプスとキム·ヨンチュン
は普段何かあれば職場の電話でアルコールを隠密
にと要求した。アルコール職場長は「イホンデ」
だったが、リムサン農業大学校(4 年制)を卒業して
製材工場に来ており、研究能力が非常に高かった
。製材工場は茂山郡の国境地域の豆満江(トゥマ
ンガン)付近に位置していた。豆満江で林山から
木のいかだを引き上げて制裁を施し、臨時製品を
作った。そのようなものを販売課を経て販売し、
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工場内に軍需動員職場、消防隊の職場もあり、
主に平壌で暮らして追放されてきた人々で、
構成されていた。 私は製材工場でも多くの人に
愛された。製材工場の宣伝隊でヘグムを演奏し、
「忠誠の歌の集い」の時は雄弁と司会は私が担当
した。すべての党委員会、職盟委員会、斯盧庁委
員会など様々な部署でする各種文書作成もしたの
で私の名前を言えば知らない人はいない程度だっ
た。幼い頃から才能が多く、人々から賞賛を惜し
まず、受け取った。筆跡がとても良くて毎年 9·9
日節(朝鮮民主主義人民共和国創建記念日:1948 年
9 月 9 日)を迎え、金日成と金正日に茂山郡人民が
一貫した心を込めた手紙リレーで茂山郡行事に捧
げる手紙も私が担当した。筆跡が良いと噂される
と、軍党、軍安全部住民登録課、軍事動員ブース
などで行政文書の文を書いてほしいと電話で呼び
、忙しく暮らした。茂山郡では日本で 60~70 年初
めに帰国船が清津でよく通いながら日本の中古服
とマフラーなどは裕福な家の子供たちだけを着て
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通った。私はアルコール倉庫を握っているので日
本製の服を着て通ったし、コートも青い日本製を
着てニラを履いていた。すると人々は私を見て「
かっこいい犬」とからかわれたりした。それでも
乙女時代に精一杯自慢したいのは仕方なかった。
製材工場で才能があることで有名になり、私は再
び新しい欲を出すようになった。1982 年には「沙
路庁」(朝鮮社会主義露洞青年同盟)を青年同盟(キ
ム·イルソン司会者の青年同盟)に変え、青年農村支
援隊を組織した。3 年間農村に進出して農民の文化
水準を高めるのに寄与すれば労働党に入党させる
ということだった。私の家は父さんが国軍捕虜で
あるため、私たち兄弟は労働党に入党できなかっ
た。党員だからといって何かを特別に供給される
わけではない。それでも男女たち。この婚期に満
ちて結婚対象者を見る時、「党員か?」というこ
とを真っ先に聞いてみる。党員は北朝鮮社会で模
範的に生きていく上で保証小切手や他ならない。
作業班長や何の責任を持ってやろうとしても党員
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にならなければならない。北韓の映画や住民が受
ける学習や講演などでは、「労働党は、過ちを犯
した人々の過去を見ずに現在の党に忠誠を尽くす
人であれば誰もが党員として受け入れる」という
。しかし、それはあくまで宣伝のこと。だけだ。
私の家で兄たちは党員になれなかった。人よりも
っと熱心に働いて生活も模範だったが無駄だった
。私は才能が多くて大衆の愛をたくさん受けるの
で、どうにか党員になるという夢を抱いて農村支
援隊に志願して出た.

◎ 農村支援隊生活

郡斯盧庁で青年農村支援隊の責任者として私を選
出してくれて茂山郡五峰里(ムサングン·オボンリ)
アミノ酸 9 号作業班に配置した。私が志願して進
出した茂山郡五峰里には 4 つの作業班があり、各
作業班には私のように志願進出した男それぞれ 1
人ずつ配置された。女性である私がその 4 人の男
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性を代表することになった。青年志願者の責任者
なのだ。アミノ酸 9 号の意味は、金日成、金正日
一家が食べるジャガイモ農業をしていて、平壌に
送る場所という意味だ。ジャガイモの種子は「旧
式犬」というジャガイモの種子だけを植えた。職
員たちがジャガイモの種子を他のところに植え付
けると鉄職になる。9 号製品を選別する時は衛生服
を着て手袋とマスクをしてジャガイモ一粒一粒白
い紙に包んで箱詰めをする。1 年間ジャガイモ農業
を始め、10 月にジャガイモを採って 11 月から選
別作業を行い、9 号製品の検査を受けた後、平壌に
送った。私は農村支援隊を出た後、無条件入党す
るという夢を捨てることができなかった。朝 5 時
から起きて一人で背負子を背負って堆肥を運んだ
。まるで何かに狂った人のように、夢中で仕事ば
かり死ぬように言った。その理由はただ一つ労働
党に入党する栄誉を抱いたためだった。母は私を
助けようと 9 号作業班脱穀場と選別場にコンクリ
ート床をと言いながらセメント 10 トンとキムジャ
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ン甕 20 個を支援物資として積んで私を訪ねてきて
鼓舞(慰めて)してくれた。母も内心期待していたよ
うだ。我が家で初党員が出ることをね。合宿生活
をしながら食べたいものもあったが不便で難しい
すべてのものを甘受して耐えなければならなかっ
た。私は 3 年間厳しく働いたが、再び労働党入党
の失敗という挫折感を感じた。農村支援隊の責任
者の職分として当然入党するという信念一つで、
堅く持ちこたえていた私にはとてもつらかった。
3 年間、父が奴隷として山の谷間から丸太を切り落
とし、一日課題の仕事をしていたその姿のように
女の体で背負い堆肥生産でつるはし作業、山で薪
を生産する斧使いなど男性ができることは引き受
けてした.3 年間、労働党入党を目標に設定し、一
生懸命働いたが、結局、父親が国軍捕虜という理
由で再び絶望の道に置かれることになった。私は
あまりにも腹が立って、党秘書と小組の責任者に
入党要求をしたらごめんなさいって言いながら私
にプレゼントナイロン毛布と農村で男たちにあげ
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る空色のテトロンスーツを一着あげながらお嫁に
行く時持って行けと慰めた。そう言いながら、「
かわいそうで、お前のお父さんのせいでお前がい
くら努力して賢くてもできる部分ではない」と話
した。私はその言葉を聞いてあまりにも衝撃を受
けて銃火行事に参加せずに家に向かった。心の中
では泣き出し、また虚しい思いもした。

◎ 父の運命

私は青年農村支援隊の痛みを乗り越えようと努力
したが、その衝撃で父の運命を迎えることになっ
た。私が住んでいる五峰里は茂山郡から 100 里余
り離れており、交通がとても不便で通うことも大
変だった。それによって一度ずつ家に帰ることも
大変だった。たまに一度家に帰ると普通 3 日ほど
時間を費やした。そんなある日、私も家に帰って
きたが、これまで「ユクドンゴル」でアフリカ奴
隷のような生活をしていた父親がこれ以上仕事が
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できないとし、牛車に布団、服など山で使ってい
た生活の器を積んで息切れして言葉もできないと
言って家に来られた。1984 年 1 月 10 日だ。つま
らない荷物を牛車にぐるぐる巻いて一緒に働く国
軍捕虜(イ·ミョングク)が歩けない父を乗せて山
を午前 9 時に出発したが、午後 5 時に日が暮れて
やっと家に着いたのだ。私はお父さんが仕事しか
知らないし、とても痛かったら家にいらっしゃっ
たのだろうかと思った。翌日、父を連れて病院に
行ったが、医者は父の病気は「もう最後の時間を
争う」と言った。何も言わずに家に帰った。父は
まるで運命の日を知っているかのようだった。私
をどこにも行かないでと言って、自分と数日だけ
一緒にいてほしいと言うのだ。私は父の切実な頼
みを拒否できなかった。予感がよくなかった。五
峰里管理委員会に電話をかけ、緊急事態を知らせ
た。次の日、父は私を呼んで祖父(ソン·マンジョ
ン)、祖母(イ·スンイ)、祖父(ソン·マンジョン
)、おばあさん(イ·スニ)、伯父さん(ソン·ドンァン
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)、次男の伯父さん(ソン·ドンファン)、叔父さん
(ソン·ドンチャン)、叔母さん(ソン·ボクドン)
の名前を教えてくれた。故郷は"慶尚南道金海市大
成洞"とおっしゃいながら軍番は「K」と言った。
運命の時間を 争って私に祖父の存在と家庭史を
教えてくれたが、このすべてをメモすることが
できず、ひたすら頭に暗記をしろと言った。そし
て、弟たちと兄たちには絶対に知らせてはならな
いということだった。兄や弟たちが知ったら父親
を恨むだろうし、衝撃を受けて挫折するとし、父
親との約束を守ってほしいと言った。私は兄弟の
中で父と一番コミュニケーションをとり、それだ
け父は私を一番信頼していたのだ。父は「ユクド
ンゴル」で油火を 9 年間ご覧になって、いつも朝
寝ると鼻の穴が真っ黒になって大変だったが、電
気の火を見ると生きられそうだと言った。しかし
、「生きそうだ」と言っていた電気火は、結局 10
日間の父親の最後の電気火だった。暗黒の世で殺
ではなく死んだ私の父だ。1984 年 1 月 19 日、午
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前 9 時、父は母と私の手をぎゅっと握って「故郷
の両親兄弟を一度だけでも見て死んだら、恨みは
ない。私が死んだ後、統一されれば私の墓を掘っ
てでも私の故郷の南側の土地に埋めてほしい」と
話した。我が子たちは必ず父の故郷に行けと言い
ながら住みやすいところで柿が多くて米一粒が麦
米粒ほど大きいと切実に涙を流した。2 日が過ぎた
1984 年 1 月 21 日、午前 8 時 30 分からは父親が
苦しい息を吹き込めない苦痛を受け、ついに運命
を迎えることになった。私は農村支援隊からプレ
ゼントでもらったスーツを息の切れた父に着せて
あげた。生前に父の願いが死んだ後も君がくれた
スーツを着せてほしいと頼んだのだ。父は国軍捕
虜になって一生奴隷として暮らし、また母と弟 3
人を養い、我が子 6 人のために腰を伸ばして横に
なっても見たことがない。母親と結婚する時も職
場会館で水を一杯すくって暮らそうと約束した。
母と暮らしていて、スーツ一着着たことがない。
私が労働党に入党すると水火を問わず働いた結果
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、贈り物として受け取ったそのスーツさえも着る
ことができず、亡くなる時に着なければならなか
った。町内の高齢者たちが地神館でテトロン服は
腐らないので着せて送ってはならないと言ったが
、母と私は父の願いが死んだらそのスーツを着せ
てほしいということで拒否できなかったので、
そのスーツを着せて送った。不幸にも戦場から北
朝鮮に捕虜になって獣のような人生を送った父親
だ。どれほど貧しい生活を送っていたのか、スー
ツ一着も着ることができず、アフリカ奴隷のよう
にぼろだけを羽織って暮らしていた私の父だった
。1 月 21 日は大韓の寒さだが、寒くなく雪が降っ
たが、土地を掘ることができず、自動車タイヤに
火をつけて地面を溶かし、墓場を掘った。父の出
棺を終えて山から降りると、風が吹いて厳しい寒
さが襲ってきた。私は生前、父が故郷の両親兄弟
にどれだけ会いたければお酒を飲んで涙だけ流し
たので、空もその本音を知って寒くないように
いて運命の最後の道は吹雪を吹き飛ばしていたの
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だろうと思った。悔しい国軍捕虜奴隷生活を送っ
て亡くなった父がかわいそうだと母は「傀儡軍と
して南朝鮮から来て私に会って子供を産んだが、
出身成分で子供たちの幸せ、夢を見ることができ
ないほど作ったことがとても残念だ」ということ
だった。父親が亡くなった後、母親は父親を苦し
めたこと、寂しく一人で北朝鮮に来て心を打ち明
ける人が一人もおらず、母親、兄弟、弟 3 人と子
供 6 人を育てるために下着一着もまともに着るこ
とができず、苦労して暮らしたという。どの子も
父親に服を一着もしてくれなかったので、長女で
ある私が農村支援隊から持ってきたそのスーツを
彼のように大切に思った。その服を生きて着てみ
ることができず、死んで着て行った父親をかわい
そうに思ったのだ。人は一緒にいる時は感謝して
るしありがたさをよく知らないけど死んだ後は皆
後悔することだと母からよく言われた。1984 年か
らは中央で中国と開放(貿易取引を活性化するこ
と)を行い、中国の親戚は北朝鮮に出て商売をす
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るようになった。したがって国境地域市場には「
中国市場」ができ、中国人が生活用品を持ち出し
て売った。その時になってようやく中国が北朝鮮
より豊かな国のようだと考えるようになった。
北朝鮮は、外国がどのように暮らしているのかと
いうことは教えてくれない。教える外国は米国と
南朝鮮、日本などだが、いずれも腐ってしまった
資本主義社会で、黄金万能主義の殺人、強姦、強
盗、麻薬などが横行する社会だという。そして、
「社会主義朝鮮は世界で最も住みやすい人民の国
だと宣伝する。中国人は国境地域の北朝鮮の地に
来て水産物と骨董品など金になるものを買って行
った。主に農地の産物が多かったようだ。母親は 1
984 年 8 月頃、以前中国で暮らしていた時、両親
を日本の奴らに殺害され、3 人の弟を連れて北朝鮮
に渡った歳月を振り返った。中国にいる従兄、弟
、従姉たちに会いたいけど、9 歳で別れてどこに住
んでいるのか分からないって。私は中国延辺放送
局宛に人を探すという広告国際郵便登記を送った
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■ 中国延辺放送局広告新聞

ついに 1984 年 10 月、9 歳で別れた従兄たちと姉


たちが「チョン·スボク」が訪れるという新聞、放
送、テレビ広告を見てパスポート手続きをして北
朝鮮から出ることになり、延辺放送局では母親を
招待して行事を行った。その時、母親は招待行事
で、9 歳の時に父親、母親を日本人に奪われ、2 歳
の弟を背負って 5 歳の弟と 7 歳の弟を手をつないで
歩き、父親の秘密連絡メモをおにぎりの中に入れ
ていた事実を話した。それと共に母方の祖父、曾
祖父が独立運動をした遺跡地の場所を紹介してく
れた。母は中国に送る親戚を探す手紙も私が書い
てくれて、このように兄弟たちと会うことができ
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たことに対して私に対する賛辞を惜しまなかった
。私は韓国に来て曽祖父の故郷江原道旌善郡に行
った。そこに行けば、旌善チョン氏の村があると
言った母親の言葉を認めることになった。韓国か
ら曾祖父から母方の祖父の独立運動公的調査申請
をしたが、現在独立運動公的審査を待っていると
ころだ。

◎ 斯盧庁勤務者推薦
私は父の運命と青年農村支援隊の失敗。をおさめ
て力が抜けたが、再び制裁工場に戻った。ことわ
ざに「幸福と不幸は双方向に来る」というが、私
は現実として受け入れたまま、再び新しい道を歩
むと決心した。工場では私を暖かく迎えてくれた
。私がいない 3 年間、私がすべきことを代わりに
する人がいなかったことが確認できた。私は 3 年
前に仕事を再開し、製材所に戻った。青年同盟組
織部長の職に就き、アルコール青年同盟初級委員
長もやり直すことになった。また、郡青年同盟、
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道青年同盟委員の地位を再び引き受けることにな
って幸いだった。私の年はいつのまにか 24 歳なの
に、彼氏もいないまま仕事にだけ熱心だった。北
朝鮮では、娘が 20 代半ばを過ぎると「老妻」と見
る風習がある。母は私に早く結婚を急がなければ

弟たちも結婚できないと言った。でも私は父が国
軍捕虜なので、私が結婚したら私の子供も国軍捕
虜のレッテルを免れることができないため、結婚
は気にしたくなかった。妹は彼氏がいて結婚しよ
うとしたが姉が結婚をしていないから母は"姉が結
婚をしてこそ妹ができる」と釘を刺すことだった
。当時、青年同盟委員会宛てに党の方針が下され
た。内容は、娘たちが 25 歳で結婚してこそ青年同
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盟移動証を発給してくれるということだった。娘
が結婚を早くすれば扶養(主婦)になるので、そ
れだけ労働力がなくなるので、国は損だ。北朝鮮
では、女性が結婚すれば、家族の扶養を口実に辞
職できる。男性は一度職場に配置されれば、死ぬ
まで転職できずに暮らすところが、まさに北朝鮮
の職場社会だ。それほど自由がないのだ。この問
題(25 歳で結婚すべきだという党の方針)は、青
年同盟的に風が吹き始め、斯盧庁から青年同盟に
移り、一等級の職級が上がり、月に一度不良青年
たちを対象に強い思想闘争会議を招集した。私は
青年同盟会議の招集報告書や会議記録などの文書
を作成しなければならなかった。また、思想闘争
会の司会をしなければならず、終われば会議記録
全般を整理·整頓しなければならなかった。仕事は
仕事通りにして事務は事務通りにしたので本当に
大変だった。昼には青年同盟委員会の事務仕事を
し、午後 4 時に出勤してアルコール職場でアルコ
ール出庫は 5~6 時まで行い、夜にはアルコール蒸
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留作業をした。ある日、朝 4 時にアルコール蒸留
作業をした。突然ボイラー圧力蒸気が 0 度に落ち
たのでボイラー室に急いで走った。その日、ボイ
ラー工は国軍捕虜(李チュンウ)おじさんだった
。夜が明けると、保衛部でイ·チュンウおじさんを
捕まえた。午前中は製材工場でうわさが広まって
いた。国軍捕虜は、実は工場で何の餌(名分)が
なくて捕まえられない存在だ。日常で些細な欠陥
があっても「米国の雇用スパイ」と内通したとい
う口実を取って、何も知らないうちに処罰するの
が北朝鮮保衛部の行動だ。イ·チュンウおじさんの
妻は、2 職場統計院のキム·ボンスクさんだった。
姉はとてもおしゃれで、とても賢くて私も姉のこ
とが大好きだった。夫が一夜にして政治犯になっ
て収容所に捕まると、ボンスク姉は統計院の席か
ら降りて 2 職場の原木を転がす荒労働苦役をする
ことになった。姉は工場の人々の視線が恐ろしく
、強制労働板で働くことがあまりにも悔しかった
し、子供たちを連れて生計の責任を持って生きる
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こともあまりにも大変だった。私はボンスク姉さ
んがかわいそう。夜に私に来いって言われて。ア
ルコールを 1 本ずつあげた。姉はアルコールに水
を入れて酒 1 本に北朝鮮の金で 8 ウォンで売って

生計を立てた.当時、茂山製材工場会館では芸術映
画もよく上映した。映画は幹部と人民が党と首領
にどのように忠誠しなければならない内容でいっ
ぱいだった。また、たまに記録映画もあったが、
金日成、金正日革命活動の収録内容だ。北朝鮮で
はこのように工場で上映する映画を皆が見なけれ
ばならない。党委員会で組織する政治行事なので
、欠席すれば思想的に問題のある人だと思う。銃
火で批判の舞台に立つことができ、ひどい場合は
思想闘争の対象になる。私は無産製材工場で私を
知らない人がいないほど有名になった。私は才能
があり才能もあったので、二重、三重の仕事を引
き受けなければならなかった。弟たちのことを考
えて、私は 25 歳で結婚しようと決心した。しかし
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、成分の良い人を選ぼうと決心した。製材工場の
消防隊に勤める「キム·グァンジン」は私と同い年
で、茂山製材工場でサッカーが上手で名を馳せた
。キム·グァンジンはアルコール会社に出勤するよ
うに通い、私の机の中にラブレターもこっそり入
れていったりした。私は住民登録文(役場)を書
きながら、金光鎮(キム·グァンジン)の住民台帳
を見たが、平壌疎開民(移住民)だった。父の出
身成分が韓国でいう越南人家族になっていた。私
はキム·グァンジンには話ができず、私に男がいる
と断った。ある日、キム·グァンジンは自分を断っ
たとして茂山郡製材工場正門で密かに待っていた
が、私が現れると私の残灯(顔)に頭ほど大きい石こ
ろを投げた。私は正門の前に倒れ、警備員のおじ
さんがどこかに電話をして交換台に入って顔の血
を拭いて腰が痛くて横になって外に出たこともあ
った。私は出身成分が悪かったが、製材工場と茂
山郡のすべての住民と政府機関から愛されるよう
になり、目が高く、誰にでも会おうとしなかった
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。まず、土台(出身成分)の良い人を選ぶことで
、なるという決心がしっかりしていたため、茂山
郡安全部住民登録課の文(洞事務所で勤務)を書
きながら住民登録課指導員(洞長)、「李長哲」
を選択した。 彼は背も高くて素敵な男だった。
李長哲は後に茂山邑分駐所秘書に昇進した。

◎ 結婚の抱負

24 歳になる年、私は安全院のイ·ジャンチョルと恋
愛をすることになり、チャンチョルの友人である
チャンホ、ソンハク、ジンウォンなどを知ること
になった。チャンチョルは、「私がアルコール倉
庫の仕事をしているから、酒はいつでも飲める」
と自慢したのだ。友達に何か口実をつけて私のと
ころにアルコールを取りに来た。その度に私はチ
ャンチョルを捕まえようといつも断らずに要求を
すべて受け入れた。5 ヶ月間恋愛をしたが、今は結
婚までしようとしたが、チャン·チョルは住民登録
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と閲覧室から私の父の住民台帳(書類綴り)を持
って行き、私の前に出して「見ろ!」と言った時
、私は言葉が閉ざされてしまい、その場に座り込
んでしまった。父親の住民台帳の左下に黒で「43
号」という印鑑が押されていた。私も初めて見る
数字なのでとても気になった。私はチャンチョル
に「43 号は何か」と尋ねた。すると彼は「南朝鮮
傀儡軍捕虜を示す数字だ」と話した、と言った。
以後、魚眼がぼうっと泣いてばかりいた。ジョン
チョルはあまりにも呆れて「あはは! 最高だね。
土台が悪い家の子供たちはこうやってみんな賢く
て土台がいい家の子供たちはひたむきな人たちだ
」私を慰めてくれたが、その慰めの言葉は耳に聞
こえなかった。ジョンチョルは私に「君がどんな
に賢くても君と私は一緒に生きることができず、
あなたと結婚するなら、私が服を脱がなければな
らない」と話した。チャンチョルはそうはできな
いということだった。私はその後チャンチョルと
別れて心の中で野心を抱いて暮らした.「お前、覚
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えてろ!」私が君よりもっと素敵な人を選んで生
きる」と考え、父の住民登録履歴書に貼られた「4
3 号」を隠そうと決心した。心が苦しくて憂鬱を抑
えながら 1985 年 4 月 25 日を迎えるようにできた
。当時、制裁工場の隣に軍部隊である 212 軍部隊
が位置していた。212 軍部隊の政治指導員と第 2
小隊長がアルコールを受け取りに私を訪ねてきた.
政治指導員が先に私に恋愛を申し込んだが、父が
女性は入党した女性を選ばなければならないと言
った。私は政治指導員との恋愛も失敗した。私は
心の中で「私があなたの隣に住んであげる」とい
う野心を再び持ちながら、もしかしたら父の子と
して生まれ、このような侮辱を受けると思うと、
生きたいと思わないほど世の中が薄情になった.し
て政治指導員にはなれないとあきらめた。そんな
ある日、意外にも 2 小隊長が自分の副小隊長をさ
せて私に会おうと請願をするのだった。多少慌て
たが私は文句を言わずに会うことに約束をした。
第 2 小隊長がとても素敵で偉そうな男だったのだ。
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私は初めての出会いにいいと答えた。このように
私たちの出会いは始まったが、どうしても父親が
「43 号」という言葉を言えなかった。この軍官を
逃すと、私は結婚できず決心し、結婚式を挙げる
前に妊娠してしまった。北朝鮮では、人民軍隊の
軍官(将校)は結婚式を挙げる前に女性を妊娠さ
せると、服を脱ぐ規定が厳しい。それを知ってい
たから実行したのだ。私は結局第 2 小隊長軍官チ
ェ·ギョンチョルと 1986 年 2 月 25 日、結婚式を
挙げた。母は 1985 年 10 月、パスポートで中国に
行ってきた。母親は長女が結婚すると言って、礼
物をすべて用意して持ってきた。私は結婚しなが
ら布団 4 軒、家具の器とミシン、タンス、式場な
ど、他の人ができない家庭に必要なものをすべて
備えた。周辺の知人たちと友人、町内の人々も「
女をあの家のように結婚させるには家の柱の根が
抜かれるだろう」という言葉が交わされたほどだ
った。結婚式を挙げた翌日、雪がたくさん降って
ドアを開けられなかった。私は結婚をしながらす
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ごく泣いたのだ。父が私をそんなにたくさん愛し
ていたし、私が結婚するのを見て死んでほしいと
いつも私に話をしたのだ。
■1986 年 2 月 25 日の結婚式

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2.国軍捕虜の父親に対する恨み

- 革命家の妻になった誇り

製材工場でも私が 212 軍部隊 2 小隊長と結婚する


といううわさが広まり、多くの人が祝ってくれた
。私は夫に内助をよくしてくれたし、夫は毎晩私
を家まで送ってくれたもので、母は長女を最高の
待遇をしてくれた。私は結婚式の後、部隊がもう
すぐ早動(派遣)されるそうなので、母の家で一
緒に暮らした。6 ヶ月になった 1986 年 8 月 29 日
、長男が生まれた。212 軍部隊 2 小隊長であるチ
ェ·ギョンチョル小隊長は、私ソンミョンファの夫
になり、次いで赤ちゃんの父親になったのだ。夫
の故郷は咸鏡北道明川郡龍岩里(ハムギョンプク
ト·ミョンチョングン·ヨンアムリ)で、4 男 1 女の
末息子だった。夫の両親は障害を持った三男と一
緒に暮らしており、田舎で副業(小土地)農業で
トウモロコシ、ジャガイモなどを植えて粘り強く
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暮らしていた。それに比べると、我が家は咸鏡北
道茂山郡(ハムギョンプクト·ムサングン)で、
中国国境地域なので、生活水準は少し良かった。
母親の故郷は中国吉林省延辺だった。その頃、母
が中国を離れてから 数十年間、中国のいとこ。
お兄さんたちを探そうとたくさん努力したがハン
グルが分からない母は手紙が書けなくなり、結局
私が中国延辺放送局に人を探すという広告手紙を
書くことになった。2 ヶ月になり、中国延辺放送局
から母親を招待するのであった。茂山郡では大き
な慶事が起こり、朝·中親善関係行事を行った。母
は中国を 9 歳で離れて 52 歳になって故郷に帰る
ようになり、中国延辺広告 TV、新聞放送を通じて
母血肉は北朝鮮に往来するようになった。私の家
は中国人が行き来する家としてよく暮らしていた
し、お母さんがすごく活動力があった。私の夫の
家は出身成分がとても良かった。媤―の家族系列は
金日成時代に人民無力性(韓国の国防部)総参謀
長の崔光(チェ·グァン、金日成と抗日運動を共に
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した革命闘士)のルーツだった。チェグァンと媤―
が従兄弟で最強の別荘は咸鏡北道明川(ハムギョ
ンプクト·ミョンチョン)にあったのだ。長兄は元
山松島院休養所副所長を務め、2 番目の処刑は、人
民武力性検閲指導部のテヨル部長をした。北朝鮮
は家族成分が良くてこそ社会的に発展をやっても
できる。逆に成分が悪ければ一生労働者、農民と
して生きなければならない。私は幸運にも家族成
分の良い夫に会って長男を産んだのだ。1986 年 8
月 28 日、午前中に長男を分娩する際に茂山郡は洪
水になり、放送を吹けば(サイレン)で大騒ぎに
なった。聖川江を見下ろすと、家が流され、子豚
などの家庭用品が川の水にふわふわと流されて家
を失った農村住民たちは南山の頂上に避難した。
私の母の家は南山の丘にあるアパートに住んでい
てよかった。赤ちゃん期を生んだが、夫は洪水被
害復旧で家に来ることができず、10 日過ぎて家に
帰った。しかし、家に帰ってきた夫は「部隊移動
で黄海南道で行くことになった」ということだ。
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北朝鮮では、軍官の家族は一生 10 回以上引っ越し
をしている。夫なしで赤ちゃんを産むけど、6 ヶ月
間名前を消せなくて無名の子供として暮らした .
村の人々と家族は名前のない赤ちゃんを見て洪水
の日に産んだと「洪水」、「梅雨」、「乱れ」な
どの名前をつけろって。からかわれた。私は夫に
ついて黄海南道培川郡菖蒲里第 4 軍団第 26 師団に
赤ちゃんを背負って引越し荷物を送ったが、空が
崩れるのと同じくらいがっかりした。部隊移動で
夫は中隊長として第 4 軍団 26 社である黄海南道培
川郡菖蒲里に行って 6 ヶ月ぶりに「丈人が国軍捕
虜」という理由で除隊することになった。私はあ
まりにも呆れて部隊政治部長を訪ねて師団長を訪
ねたが何の役にも立たなかった。夫の除隊理由を
教えてほしいと言ったら、上級の指示に従って除
隊命令を受けただけで、誰もその内幕を知らせな
かった。私は夫を騙して私の幸せのために子供を
産んだ罪、国軍捕虜の父親の子として生まれた罪
を償うと。してもここまでしなければならないの
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かという考えに狂いそうだった。天国に行った私
の父「ソン·ドンシク」を恨んでこの世に生まれた
不幸を後悔しながら涙を流しながら黄海南道培川
郡菖蒲里(ファンヘナムド·ペチョングン·チャンポ
リ)を離れた。

- 除隊軍人家族の不幸

1987 年 5 月 20 日、培川郡から再び汽車に乗って
出発し、8 日が過ぎて昼に到着したが、母と兄が駅
前に出迎えに来た。私も私だが夫が軍官として除
隊され社会生活をどのように始めるのかあまりに
も漠然としていた。まず、母の家で弟 3 人と私の
家族が 3 人、母を連れて 7 人家族で暮らすのは言
えない苦痛だった。家と言っても部屋一間の空間
で多くの人が一緒に暮らすことができず、赤ちゃ
んが泣くと皆が眠れないと大騒ぎした。ある日、
お母さんと相談して除隊軍官たちは国が家を建て
てくれると言うからまず小さな家でもお金を払っ
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て買ってくれと言った。それで母親はアパートの
下に平屋の部屋を一つ買うことにし、私たち家族 3
人は引っ越した。家は買ったが夫の職業が無職で
大変だった。再び母親の力を借りなければならな
かった。お母さんは中国税関案内指導員を推薦し
たが、私が反対をした。結局は茂山郡長工場資材
指導員として就職することになった。茂山郡長工
場では 2 年になって除隊軍官の家を建てて再び茂
山郡邑に引っ越すことになった。チャン工場資材
指導員の仕事は平安北道塩田で塩の受付を 6 ヵ月
間出張に行き、水あめを受け取るために会令で通
わなければならなかった。私は夫の出張中に次男
を産んだ。ところが、また悪いことが起きた。夫
は出張が多かったし、家庭には全く関心がなかっ
た。調べてみると、理由があったのだ。工場で一
緒に働く女性と目が合う。彼女の家に住んでいて
、家によく入ってもいなかった。夫は小隊長から
中隊長に昇進するなど、盛んに成功し、不名誉に
除隊した。理由は職人が国軍捕虜ということだか
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らだ。社会でも「自分の将来をためには私と生き
ることができない」という表現を露骨にさらけ出
した。正直に言うと、私は沸騰した血が逆さまに
噴き出すほど感情がこみ上げていた。本当にすご
かった。あいつの成分が何なのか。男の女がお互
いを愛し、子供を産んで幸せに暮らせばいいので
はないだろうか。仕事を頑張って党に忠誠すれば
いいのに、先祖と両親の過去がなぜ子供たちにと
って重要なのか。北朝鮮のように家族の出身成分
であり、土台であり、人を苦しめる制度は世の中
にもうないだろう。朝鮮時代の封建社会でもそう
ではなかっただろう。金日成一家独裁体制の維持
を危害人を苦しめる家庭環境、土台、出身成分な
どだ。仕方なく私は 3 歳、5 歳の 2 人の息子を母に
任せて商売の道を選んで金を稼ぎ始めた。2 人の息
子を生かすにはその方法しかない。1992 年度から
は茂山郡では住民に食糧配給を与えず、自ら解決
をした。目の不自由な 2 人の息子を養うことに決
心してお金を稼ぎながら人民反女盟生活をするこ
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とが嫌で上下水道事業所の仕事をした。人民反女
盟生活は家庭扶養(主婦)たちの組織団体だが、
ここで行う行事などが本当に多い。いつどこへ努
力動員出てこい、人民軍隊支援物資出せ、問答式
学習競演準備せよなど、一日も静かな日がなかっ
た。毎週土曜日に行われる生活銃火では、女盟生
活に不誠実な人を批判舞台に立たせる。そして大
衆に批判をさせる。大衆はまるで敵を糾弾する気
持ちで当事者を批判する。こまごまと見たもの見
なかったこと(誰が何と言おうと)まですべて批
判内容として出てくる。一言で言えば、大衆の前
に恥をかかせることだ。夫や家長たちはほとんど
職場に出る。職場に仕事がなくても外に出て社会
的労働、組織生活などを強くさせる。相対的に女
たちは家でいるので楽そうだが、結局そうではな
い。 男たち劣らず忙しく過ごす。北朝鮮当局が
このように職場に通うすべての男(家庭の世帯主
は基本であり)たちを含めて家庭にいる女性たち
までもいじられながら組織生活させることは一言
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で言うと人民が気楽にいれば、他の考え(制度反
対、首領批判など)をするのではないかと思うか
らだ。人がいつも何に忙しくても暇なことを考え
ることがある。1992 年 5 月 10 日から 15 日まで
5 日間貨幣交換をすることになって私はムサン君第
3 号貨幣交換所を動員して多くの利益を得た。199
4 年には家にあるお金でガソリン商売をしながら清
津、洪原、鏡浦など海辺を回りながら干したイカ
とナマコ、アワビなどの水産物を中国市場に売る
。お金が多くて欲が出て日本中古車密輸を中国に
するようになり社会安全部鉄道総局がウンゴル所
長を家に入れて合宿をしながら金儲けをした。と
ころが、また別のことが起きた。私がどうにかし
てお金をたくさん稼いで裕福に暮らしているので
、浮気をして出て行った夫は家に入ってこっそり
財産を盗み始めた。隠しておいたお金を盗賊して
行き、私の化粧品、さらには服も自分と住んでい
る女性の家に持ち出したりした。ある日、夫と一
緒に住んでいる女性の母親に会ったが、自分の孫
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娘にアコーディオンを買ってあげろとお金をあげ
たのかと感謝の挨拶をしたのだ。しかし、私は夫
に裏切られた気持ちを感じながら、2 人の息子だけ
を茂山郡で最高の服を着せ、ご飯だけを食べさせ
ようと多くの努力をした。私は中古車を中国に密
輸している途中、夜にお金をもらいながら中国人
から偽ドル札束をもらって人生の絶望でハマった
。そんな中、清津に行って 1 泊 2 日で帰ってきた
が、夫が誰かが夜にガソリンを買うためにガソリ
ン缶を台所の床に置いて火がつき、家が燃えて夫
まで 2 度やけどで病院に入院することになった。
その時長男は窓から金日成肖像画を抱いて弟を引
っ張っていったので、町内の人々で大きな感動を
受けた」と話した。北朝鮮では火災事故が起きれ
ば、金日成肖像画から取り出さなければならない
と幼い頃から教育を行っている。そうすれば英雄
のように支えられ、さもなければ政治犯収容所に
行くこともできるので、人々は本能的に肖像画か
ら取り出す。私は家を焼き払って夫まで入院して
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いたし中古車密輸で、一瞬にして北朝鮮貨幣 32 万
ウォンという息詰まる借金を負うことになった。
本当にその時は 32 万ウォンのお金なら一生死ぬま
で返せない金額だった。テレビ 1 台北朝鮮通貨 5
千ウォン、カラーテレビ 1 台、北朝鮮通貨 1 万 5
千ウォンだった。このような運命の分かれ道で息
ができないほど苦痛の日を迎えることになった。

- 生きられない運命の道

わたしは 32 万ウォンの借金を返すために密輸をす
ることになった。中国の大方(商売をする相手パー
トナー)と隠密にする商売品目は銀、アルミニウム
、薬草、犬、野ウサギ、イノシシ肉、山参、松の
実、海産物、薬草などが属する。金になるものは
手当たり次第に売って借金を返しながら暮らすよ
うになった。そんな中、借金君たちは一夜にして
家に帰ってカラ ーテレビ、冷 蔵庫、ソファ ー、
三面鏡台、さらには私が着る衣類と靴まで全て持
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っていった。私は冬なのに氷点下まで下がったけ
ど綿入れと綿靴もなかったので、母親を家に帰ら
せ、母親の綿入れを借りて密輸することにした。
生まれて初めて国境を越えるのは政治的な覚悟は
もちろん、鳥肌が立つ恐ろしさと恐ろしさから始
めなければならないのだ。お金のためには怖さと
ためらいを後にしなければならなかった。国境警
備隊 4 中隊 2 小隊をはさんだが、第 2 小隊は中隊
本部だった。国境警備隊副小隊長(金ジョンス)
は私の実弟のように親しい間柄だった。結局は警
備隊の軍人たちの德澤(バック)で 5 年間密輸をする
ことになった。第 4 中隊病室と中隊庁舎を新たに
建設する鉄筋およびセメント 30 トンを支援する条
件で、第 4 中隊が私の密輸を助け運搬するのも
軍人たちが自らやってくれた。私は銀 300 キロ運
搬を元山製錬所から清津まで手荷物(列車配送)
で来れば、清津で軍安全部政治部長の官用車に乗
って品物を受け取った。夜 8 時以降、国境地域は
統制できないが、安全部政治部長の自動車は例外
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で、どこでも無事通過だ。私は中国に密輸をしな
がら中国辺境隊に 2 度も捕まったが、その度に裏
金を突きつけて簡単に釈放された。そのようにお
金さえ与えれば、どこでも簡単に解放されること
ができ、またお金をそのように使っても押すこと
は厳密に残る商売だ。中国に来てテレビを見れば
、韓国が豊かに暮らし、父親の故郷に行きたかっ
たが、2 人の息子と夫のことを考えた。もし私がい
なくなれば、その借金は夫と息子にそのまま渡さ
れ、大騒ぎになりそうで、気軽に決心できなかっ
た。夫の出身成分がとても良かったし、私のせい
でまた別の危機で子供たちの将来にも何らかの制
裁が迫ってきそうな気がした。私一人楽に生きよ
うと他の人たちをどん底に追い込んでまで暮らせ
ば、どれほど豊かに暮らせるだろうか。それは本
当に正気の人なら到底成し遂げられない現実と同
じだ。 私は厳冬雪寒の真冬にも豆満江を越えた。
豆満江(トゥマンガン)の両側は凍りつき、真ん
中は凍りつかなかった。川を渡る時は手袋を握っ
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て氷の上の滑りで水に入らなければならない。水
の上に氷の上に上がれないときは、手に持った手
袋を水に濡らして氷の上にぶつけ、引っ張りなが
ら川を渡った.ついに借金を全部返す頃の 1998 年
だ。ますます試練に満ちた日々が迫ってきた。全
国的に苦難の行軍で 300 万人が餓死し、それに対
して党では何の対策もなかった。ただ党組織、勤
労団体別の指示で人民に食糧を自体で解決するこ
とを要求した。本当に荒唐無稽さそのものだった
。食糧を自ら解決しろと言えば、商売でも思う存
分できるように供給してもいいが、「商売」は「
資本主義要素」と言って、ひたすら統制する当局
だ。おそらく人民が商売に深くはまると組織生活
、社会生活を怠り、またそうすると党の指示もう
まく通用しないようだから、商売を統制するのだ
。人々はため息をつくだけで、誰も党に文句を言
うことができなかった。それだけ党が怖いという
ことを意味する。国軍捕虜の身分で不法密輸、密
売をしながら面倒を見てくれる人がいなければ
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監獄に行かなければならず銃殺されることになる
。 私は軍安全部政治部長の妻と義兄弟を結んで
姉·弟の間に親しく過ごしながらたくさんの助けを
受けることができた。私には思わず人の廊下があ
るようだった。姉の推薦で私は保衛司令部 5·18 道
財政指導員として働くことになった。全国的に保
衛司令部は人民武力部直属機関で、5·18 は 2 つの
所になっている。咸興 5·18 小、清津 5·18 小に分
かれ、各少将は現役軍人となっており、少将が職
員を採用して 5~6 人で構成されている。私は清津
5·18 小財政指導員として仕事をすることになり、
職員たちの信任も大きく受けた。所長はイ·グムチ
ョル、指導員ユン·ジュンソム、イ·ヨンチョル、
キム·グァンソクとなっていた。4 年間、アヘン(
ケシ)を各農場に栽培させて回収した。個人は生
計が苦しく、ケシを盗み、後ろ向きに座って売っ
たお金で食料を買って食べていかなければならな
かった。4 年間、私は多くの人が大変だと言ってい
たその困難な行軍もよく知らなかった。国軍捕虜
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の子供は、頭脳が賢いと銃弾受けとして使うとい
う事実を痛恨に感じた。そのような言葉は党委員
会、安全部、斯盧庁機関などの文章を書きながら
、人々が密かに私に静かにしてくれた言葉だから
、骨身にしみるほど染み込んだ。2002 年 5 月 26
日、夜 11 時頃。 家の外では犬がうるさく吠えて
怖さと恐怖が全身を丸めた。予期せぬ予感で不安
と恐怖が抱かれてきた。窓から外を見た瞬間、呼
び鈴の音が怖く聞こえてきたし門を蹴りながら「
ドアを開けろ!」という声が聞こえた。門を開け
た瞬間、ある人が「国家保衛部」という身分証を
取り出し、服を着ろと声をかけて叫ぶのだった。
服を着ていきなり行こうということで、外に出て
みたら高級乗用車 1 台が待機し、3 人の人が腰に
拳銃をつけているのが目についた。その夜、乗用
車はどこかへ走り続けているのに朝 7 時半頃、吉
州地域を過ぎて摩天嶺峠を越えるという護送員た
ちの話を聞いた。5 月 27 日、夕方 8 時になってよ
うやく平壌に到着したが、「国家保衛部」という
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ところで、私がなぜ捕まってきたのか全く分から
なかった。拘置所に入る前に看守が服を脱ぐよう
に言い、ヘアピン、安全ピンを全部外して再び服
を着て入るようにということだった。監房に入る
と暗い床は板になっていて、板の間に冷たい風が
上がってきた。5 月末なのに日が入らずに電気の火
も時計もないので恐怖を抱かざるを得ない文字通
り糞肝(便所)という言葉をそれに例えたようだ
った。その中でご飯というのは潰れたアルミボウ
ルにトウモロコシ 40~50 粒程度で塩水、白菜の小
葉干し菜っ葉スープを与え、その塩水は干し菜っ
葉が染み込んだ真っ黒な水であり、干し菜っ葉を
すくい取ろうとすると石が噛まれて食べられなか
った。5 月 28 日、30 代半ばの担当調査官は、5·1
8 所でケシを中国に誰がどのように売ったのか、中
国の大方は誰かを出せと言った。また、中国にケ
シ(白桔梗)とピラミドンを各農場でどのように植え
、採取·回収をどのような方法で行うという秘密が
漏れたのだから具体的に率直に書けば党では許し
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てくれるとボロボロだった。しかし、私は中国と
の作業には参加せず、他の品目で密輸をしたと話
した。 翌日からは率直に言わない」と殴打した。
電気拷問、水拷問、飛行機拷問、金剛山見物拷問
、椅子に縛って殴り、角材で杯などを叩くことだ
った。初めて鷹はあまりにも勝てず、ズボンにお
しっこをしたが、着替えがなくて虫「イ」ができ
てかゆくてたまらなかった。独房に座っていても
顔には虫「イ」が這い回り、真っ暗な夜には虫「
イ」を捕まえて殺すことができず、指でこすって
捨てたりした。いろいろな鷹は今日は午前、明日
は午後、このようなやり方で 3 ヶ月耐えたが、初
めて殴られる鷹はどれほど痛かったのか、言葉も
出ないほどだったが、罵倒され続けるので当然打
たなければならないと思うと、後には鷹の痛みも
忘れるようになった。いよいよ 9 月 6 日、拘置所
から解放を迎える日だった。拘置所に捕まってき
たときは、所に勤めていた人 5 人とも捕まってき
たと思っていましたが、出てみたら出身成分が良
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いユン·ジュンソン、李ヨンチョル、金グァンソク
は見えなかった。ユン·ジュンソンの父親は図案全
国 2 部部長ユン·ジュンソンが楊貴妃を中国に密売
し、基本的な張本人だが、釈放され、その「罪」
は私に覆い隠してしまったのだ。やむを得ない運
命を受け入れるしかない。その日、教官たちが出
てきて私を見て「あの 43 号は 22 号に送れ!」と
いうことだった。私は両手に手錠をかけたまま電
車に乗り込んだ。電気事情で行き止まりを繰り返
しながら数日走って到着したのは咸興駅だった。
そこから自動車に乗って霊光郡に到着した。22 号
管理所は当時商号が変わり「東海地区労働団連隊 5
5 号管理所」とした。その中には農産班と南鳥班(
野菜班)の 2 つがあった。各クラスに 40 人ずつ女
性だけがいて、全国で社会的な職級がある党員は
党、職盟、斯盧庁の生活を全うできる所だった。
人と交わって話せることだけでも息ができそうだ
。到着した日の夕方には全粒粉ご飯に塩蔵干し菜
っ葉スープを与えた。早く家に連絡をして着替え
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を持って来いという知らせを出さなければならな
いのに、ある人をどう信じてお願いをすべきか方
法が思いつかなかった。まず着替える服が問題で
したが、毎日一食ずつ飢えながら着替える服をご
飯に変えながら着替えるように 2 ヶ月間仕事を頑
張って担当からトウモロコシ畑の警備班長に昇進
することになった.幸いなことにトウモロコシ畑で
はトウモロコシを勝手に茹でて食べられるように
なり、面会はなくても食べることで。服の問題を
解決することになった。トウモロコシ畑の警備員
は夜も畑で寝なければならず、2 時間に 1 度パト
ロールをしてトウモロコシ畑に泥棒が入らないよ
うにしなければならなかった。警備幕には 2 人ず
つ計 6 つの幕があり、互いに監視をして担当に
報告をしなければならず、総班長は警備勤務報告
をすることになった。ある日は麺がすごく食べた
くて、トウモロコシを取って腰に隠して麺の引き
金として行くところを担当に見つかった。鋭い目
つきをした担当は、この夜どこに行くのかと尋ね
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ると、大根畑から大根を盗みに行ってきたところ
だと言った。彼は悪魔のような表情で私の裾を開
け,体からトウモロコシの穂が落ちた.その夜、山
頂で警備幕が崩れるまで、すごくムチを殴られて
追放命令を受けて警備班長から追い出され、鍛錬
隊の中に入ってくることになった。ここで終わり
ではない。その日の夕方、40 人の前で思想闘争会
議をすることになったが、その前でもトウモロコ
シを大根で耐えてしまった。私は昨夜からトウモ
ロコシを大根と言い張ったが、思想闘争会議の前
でも大根と答えた。係りが頭にくると全体 40 人の
前で足で蹴ったんですがコンクリートの床に後ろ
に。転んで気を失って倒れ、目が覚めた時間が午
前 4 時頃だった。安全ピンで鼻の下を刺し、爪で
押しておいたので口が腫れて頭が痛くなることが
できなかった。しかし鍛錬隊の中でも規定を破れ
ば処罰として糞便(溜め桶)外にある便所の後ろでガ
ソリン 200 リットルのドラム缶を中間に切をしな
ければならなかった。れるように鉄の輪を作った
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筒に糞を入れて肥やしの山に糞を流し長靴を履い
て踏み込む仕事をするようになった。二日間殴ら
れてご飯を食べられずにうんちをして草の山に行
くには丸太橋を渡ろうとしたが足を踏みはずした.
高さ 2m から下に狭い川にうんちをかぶって落ち
て全身にうんちをかぶってしまった。うんちのに
おいは服を脱いで洗濯をして日に止めてもいなく
ならず、宿舎では私のそばには誰も横にならずい
じめられてしまった。そんな生活でいつのまにか 1
1 月がなった。人々の中では近いうちに社会安全部
検閲が来るという声も聞こえた。あわせてトウモ
ロコシの価格が 28 ウォン、米価格は 46 ウォンと
いう話もあった。担当者はトウモロコシと米の価
格が上がると、脱穀チャンギョン(担当者)を選ぶの
に私を最初に選んでくれた。私が観察力もあり、
人統率力もあるように見たのだ。担当はお互いに
夜は脱穀場でトウモロコシを盗賊して自分の家の
前に麻袋で持ってきてほしいということだった。
そんなある日、作業が終わって掃除をしようとし
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たが、なぜか毛布の塊を 2 人が持ってきて脱穀場
の下の箱の中に置いて行ってしまうのだった。私
はそれが何なのか気になって静かに行って毛布を
開けてみた。一瞬気絶しそうになった。ある女の
死体だった。 翌日経理課長が私を呼んで急いで
脱穀場に出たところ、スコップ 3 個とつるはしを
男性 3 人に渡せということだった。作業道具を渡
して、その男たちが行動を見守るようになりまし
たが、死んだ女性の死体をかますに巻いて、かま
すの中を丸太で担ぐことができるように刺して、
二人の男が担いで一人の男はスコップと鍬を持っ
て山へ行くのを見た。はがした毛布はとんとんは
たいて病室に持って来いということだった。3 日が
過ぎて経理課長と私は堆肥、肥料の確認で畑を回
ることになったが、畑の先には黒いネズミの群れ
が群れで何かを掘って食べるのが怪しく感じられ
た。怪しむ私に経理課長はまるで自分だけが知っ
ている知識を自慢するかのように「あの水たまり
が人が死んだら埋めてしまう所であり、土を深く
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覆ってくれると日光を浴びず早く腐らないので、
土を少なく覆ってカラスが人死体をかじって食べ
る」と言った。 それと共に死体の上にまた死体を
置いてしまうと、下によく腐った死体が土と腐る
。腐りにくい骨は焦げて人糞と混ぜて肥料で畑に
撒く。すると畑で大根、白菜がよく育つようにす
ごく大きい」ということだった。その言葉を聞い
て私は鳥肌が立って 3 ヶ月間大根を食べず、どん
なことがあっても生きていかなければならないと
いう考えで歯を食いしばって暮らした。2003 年 2
月末頃、末弟の夫が面会に来た。5 ヵ月前の 2002
年 10 月 30 日、夫が死亡したが、私に知らないの
かと尋ねるのだ。荒唐無稽な私は夫の死亡ニュー
スを知らなかったし、長男が高校を卒業したが、
保護者がいなくて軍隊にも行けないという知らせ
も聞いた。夫の死亡ニュースに接した衝撃的な面
会をした後、私は絶望に陥って熱病で横になって
起き上がれなくなり、病院に護送された。伝染病
にかかると、再び鍛錬台に行くことができず、死
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の入り口に着くと、2003 年 3 月 10 日、人々の煽
りで担架に立ち寄り、平壌(ピョンヤン)-
武山(ムサン)郷の汽車に乗った。列車乗務の検
事たちは私を調べてベッドに移してくれて、ご飯
を持ってきて食べろと言うが、まったく食べ物を
渡すことができなかった。10 ヶ月間拷問、強度の
高い鍛えられ生活であまりにも衝撃的で精神的な
打撃で目の視力を失い、その時から目の視力が見
えなくなり眼鏡をかけるようになった。家に入っ
た瞬間、また別の衝撃を受けた。実家の母は片目
を失って見ることができず、夫の葬儀を行い、2 人
の息子の面倒を見ていた。私は病気で健康を回復
できず、家に帰ってきたが、着替えが一つもなく
、テレビや冷蔵庫などの生活道具は一つもなかっ
た。私はじっとしていられなかったし、また立ち
上がった。何とか起きて生きなければならない」
と誓った。軍安全部政治部長の家に帰ってお金を
手伝ってほしいと言って、市場で米商売をする友
達のイ·オクシルに北朝鮮のお金 7,000 ウォンを借
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りた。全部で 12,000 ウォンを持ってテホンダンに
行った。キャベツを 10 トン買って清津に行って
10kg 用の秤を 3 日間秤にかけたが腕が抜けるよう
に痛かったがじっと我慢して商売をそれで 23,000
ウォンを稼いで持ってきた。7,000 ウォンを友達
に返し、残ったお金で政治部長の妻と無酸素鉱山
の採鉱の上に登りディーゼル油を持って無酸素化
した食料品店の裏買取所(倉庫)の中のドラム缶
に入れた。茂山鉱山の採鉱で持ってきたディーゼ
ル油を集めて茂山郡安全部貨物車に戦略資材送り
状を持ってゴム山警戒所を通過、清津イカ漁船に
売って大きな利潤を残した。夫を亡くして長男を 2
0 日ぶりに軍隊に行かせる私の心は裂けるようだっ
た。子供を持つ親の心は自分が経験しなくてはみ
んな知らないだろう。このような生活をしていた
時、中国の延辺で私が来たという知らせを聞いて
、私と縁を持っていた中国の大方が私を助けてく
れると言って、中国の渡江証(川を渡るのに必要な
証明書)を出し、湯菓類を大型バス 4 台に積んで売
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って元手だけを持って行き、利潤はすべて与えて
行くのだった。中国人たちは交代で行き来しなが
ら、我が家の生活はまた変わった。 何でも豊かで
豊かな生活を送るようになろう保衛部、安全部、
軍堂、役場の人々がお互いに助けてほしいと私の
家を訪ねてくるのだった。しかしその生活も幕を
閉じた。2004 年 12 月 20 日からは中央党検閲グ
ルパ(非社会主義取り締まり員)200 人が国境地
域に教坊検閲が入った。中国との商売、密輸、渡
江、密売、密売などの検閲条項で作られ、職場の
無職、組織生活不参加など検閲規定によって呼び
寄せることだった。軍隊に行った子供たちが文化
機材指導員と出張を家に来ることになった。息子
が来たが検閲グルパから来いということだった。
2005 年 1 月 11 日,グルパ(非社会主義取り締まり
員)から私を見つけた。内心は明らかだ。賄賂を受
け取るという黒心もある彼らだ。何とか生きてみ
ようともがいた。大金と猫のタバコを 1 箱賄賂と
して渡した。しかし、国軍捕虜の子として生まれ
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、どこへ行っても言えない条件を知っているため
、処罰として軍から 100 里。離れた山奥の茂山郡
五峰里の五峰山に追放されるようになった。追放
を送る前日に私を茂山郡邑分駐所に監禁させ、
追放車に乗せて家に帰ってきて引越し荷物を積ま
せることだった。追放に行く日、早朝に政治部長
の家に電話をした。「ジニョクのお母さん!どう
すればいいの?」と聞いたら、まず、鉄の窯と布
団棚を 2 つだけ積んで行き、残りは他のところに
置いて行けということだった。しぶしぶ行く途中
で機会を見て、また戻ってくればいいということ
だ。そして「東風号」の貨物車を拾うので、まず
清津で抜け出してそこで隠れて暮らせと言った。
それで私は清津に逃げるようにあたふたと荷物を
積んで帰るよなった。しかし弟が二人の息子、11
歳の一男、9 歳の一国を捨てて中国に逃げてしまっ
たが私は姉として 2 人の甥を連れて行かなければ
ならなかった。 夜になると、2 人の甥はお腹が
空いたからといってご飯をくれと家の庭に来て泣
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いたりした。やむを得ずコッチェビ宿泊所に訪ね
て行った。9 歳の甥を連れて行ったら栄養失調で歩
けなくておんぶして来る途中、市場に立ち寄って
服を一着買って着せておんぶしてきたが、11 歳の
イルナムは宿泊所から逃げて市場の中でコッチェ
ビをするということだった。気が狂いそうだった
。弟が薄情だった。しかし、すでに 2 人の息子を
捨てて中国に逃げた弟を責めるには虚しい時間だ
った。これ以上会えなくて市場で甥の一男を探し
て家に連れてくることになり、結局 2 人と一緒に
暮らしたのだ。私は長男を軍隊に行かせ、次いで
次男も軍隊に行かせた。北朝鮮では、男性は軍隊
に行ってきてこそ役割を果たすという。2 人の甥は
4 年間育ててくれたが、実家の母も姉と合わないと
言って私の家で一緒に暮らした。再び不幸は徐々
に訪れた。2005 年 5 月、長男が軍隊で栄養失調に
かかったという既別通知を受けて胸が張り裂けた
。部隊が駐屯している黄海北道(ファンヘプクト
)の土山(トサン)を訪ねたが、息子は警報部隊
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だったので移動訓練に出て会うこともできず、泣
きながら帰ってきた。結局息子からお母さんが来
たと聞いて連絡が来てまた息子に会いに行った。
ところで、これはどういうことか。息子に会いに
行ったが、栄養失調でむくんでおり、オーム(皮膚
病)で傷だらけになった。 胸が裂けて涙が出た.
私は息子を他の部隊に移そうとカラーテレビ 1 台
、録画機 1 台、湯菓類 5 箱、金 2 万ウォン、タバ
コ 10 袋を担当者に渡した。その結果、第 2 軍団第
8 師団の文化機材に移された。北朝鮮の軍隊は金と
賄賂なら何でも通じる。また禍根が来た。息子を
服務しやすい部隊に移しておいて家に帰ると、母
親が一人しかいない目が見えないと言った。2004
年度に公民証交付があったが、母は片目がないか
らと公民証の交付をしなかった。お母さんに 70 歳
のお祝いを準備しようと思ったんですが、本人が
断った。家でお姉さんと合わないのに目を見れな
ければ、もっと蔑視される」と言って断った。私
は母に古希のお祝いのテーブルを用意できず、最
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高の平壌赤十字眼科に連れて行こうと、乾イカ 10
kg、500 ドル札を持って母を私の証明書のブイに
つけて赤十字の眼科平壌に行き、20 日間平壌に滞
在することになった。しかし平壌は賄賂に仕える
のがいたずらに違った。私は地方で干したイカ 10
kg と 500 ドルを賄賂として渡せば良いと思ったが
、とても足りなくて結局平壌で市民証を借りて沙
里院にバスに乗って下りて 500 ドルを借りてきて
、高麗人参 5 キロと桃 1 馬台を積んで平壌に戻っ
てきた。結局平壌でお母さんは最高の待遇を受け
ながら治療を受けて平壌見物をするようになった
。母は私に娘をよく置いて死ぬ前に平壌見物をし
て赤十字病院に来ることになったと言って死んで
も円がなさそうだ」と話した。私は母と一緒に電
車で清津に戻った。弟の夫が茂山鉱山で機械事故
で死亡したという知らせを聞いて、清津で乗用車
を購入し、運行費用を支払いながら茂山にいる弟
の家に入った。でも弟はあまりにも家事が大変な
ので葬式を米 1 キロもなく、地団駄々を踏んでい
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た。私が入ると立って泣いてばかりいた。お姉さ
んとしてまた仕方なく市場に行ってお米も買って
きて、結局葬儀を支払うことになった。
■ 平壌で母と一緒に撮った写真

私は長女として生まれたことで肩が重かった。
家の中の大小事はほとんど私が引き受ける解決師
の役割を果たした。上にお兄さんが二人いても、
彼らは自分の妻にぎゅっと捕まって夫としてでき
ることは一つもなかった。咸鏡道(ハムギョンド
)地方の女性たちは生活力が強い方だ。ちなみに
北韓の他の地域の人たちは「咸鏡道の女性はドサ
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ル(意地)が強い」と言ったりもする。私は清津に
6 ヶ月間住んでいる間、再び危機に直面した。茂山
では「孫明和が追放されたのではなく、清津で逃
げてアパートを買って豊かに暮らす」という噂が
出回り、上にお兄さんが二人いても彼らは自分の
妻にぎゅっと捕まって夫としてできることは一つ
もなかった。咸鏡道(ハムギョンド)地方の女性
たちは生活力が強い方だ。ちなみに北韓の他の地
域の人たちは「咸鏡道の女性はドサル(意地)が強い
」と言ったりもする。私は清津に 6 ヶ月間住んで
いる間、再び危機に直面した。茂山では「孫明和
が追放されたのではなく、清津で逃げてアパート
を買ってよく暮らす」という噂が出回り、図案全
国捜査課から出頭するよう通知を受けた。私はこ
こで捕まったら二度と戻れないだろうと判断した
。ちょうど次男が軍隊で新兵教育を終えて物資購
入目的で家に帰っていた。 私はすべてのことは
息子に任せて他の所に行って 隠れて暮らした。
あまりにも虚しい思いをした。私が党と国家に反
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対したわけでもなく、ただ生きるためだけにもが
いただけだ。ただ国軍捕虜の子供という身分のた
め、幼い時の才能はもちろん成人になってもあれ
これもつれる運命の人生を生きなければならない
からだ。人の一生に一度だけの結婚もあいつの出
身成分なのか何かのために破局に至ったのと同じ
なので、北朝鮮という社会が恨めしかった。人が
我慢するのも何回だろう果たしていつまでずっと
こうやって安全部や保衛部を避けて暮らすことは
できなかった。私は一日も早くすべてを整理して
霧散で入って中国に行って韓国行を決心すること
になった。ところが聴診集を整理しようと言った
ら入社証がなくて売ることができるなかった。私
は茂山郡安全部政治部長の家に電話をして図案全
国国土課長に会えと言われてその人に会え「入社
証」を発給してもらい、猫タバコ 2 袋を渡したの
だ。生活に対する恐怖感で人生の全てが崩れ落ち
た。私は最後のチュソクを過ごして帰ろうと思っ
てチョンジンチプをして茂山に来て弟の家に来た
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。2 日前、秋夕の準備をしようと茂山市場に甥を
連れて行ったところ、保衛部の総合指導員に会っ
た。彼は私に秋夕には私が夫の酸素、親の酸素を
見に茂山に現れると思って私を捕まえようとして
いるということだった。それを聞いて私はチャン
マダンから帰る途中に橋がぶるぶる震えた。すべ
ての仕上げを弟と次男に預けて鍛錬隊長イ·ヨンテ
クの家に隠れていて、昼間は外に出られず、夜は
頭にマフラー(頭巾)をかぶっていた。会う人は
会って整理することを整理した後に中国の大方と
ある日、何時に行く約束をした。2005 年 10 月 30
日、豆満江(トゥマンガン)を越えることを決心
した。

-あてもない旅に出ることに

私は 3 日前に次男でも連れて行かなければならな
いという思いで息子に"お母さんと一緒に旅立とう"
と提案をした。息子は「でも一人だけの兄さんを
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残しておいて、どうやって行きます。お母さん、
3 日間考える時間をください」ということだった。
私は次男に頼んで弟の家に 清津から持ってきた
家電製品と衣類を預けた。長男が後で除隊する前
に休暇に来たら誰が手伝ってくれる人がいないか
ら家電製品と衣類を売って使うように整理してお
いた。3 日目の日、次男は「お母さんと一緒に行く
」という決心をした。私は安全部政治部長の官用
車を 10 月 30 日、夜 10 時に出発することを約束
し、中国国境地域の茂山郡南村里を渡って中国華
龍市ログァ村四宗谷に住んでいる「ペク·スンヘ」
おじさんに電話をして豆満江に迎えに来てほしい
」と頼んだ。ついに 30 日、最後にお母さんに会お
うと一番上のお兄さん。家に行ってお母さんを外
に呼び出して話をした。お兄さんの家の裏に鉄道
が置かれていて夜 9 時 15 分、茂山駅から週明けま
で行く通勤列車の通過時間になりましたが、母は
線路にがぶがぶ寝になって起きなかった。私はそ
んな母に「これ以上生きていけなくて足の付け所
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がないのであてもない道を旅立つが行く道に成功
すれば母を迎えに来る」と約束した。もしそうで
なくてもお金でも送ってあげるという鉄石のよう
な約束をした。母は泣きながら「私が死ぬのを見
て去れ。 私が生きている限り君を行かせない。
お前が何の過ちがあるんだよ。隠れなければなら
ず、国に捧げたお金を積んでおけば布団棚くらい
になるのに、どうしてあなたを行かせるの?」と
号泣し、泣いた。それを見て長兄もついてきて私
を抱きしめて泣いたし、私は約束の時間になって
母をやっとなだめる。兄に任せてあてもない旅に
出た.乗用車は肌寒い風を切りながら国境警備隊の
警戒所を無事に通過し、目的地のナムチョン(南村)
からトゥマンガン(豆満江)の近くで降りて私と息子
は降りた。続いて待機中の国境警備隊キム·ヨンス
の見送りで結局豆満江を無事に越えることになっ
た。10 月なので豆満江の水の下に水垢がついて石
ころが滑り、靴を履いて服を着たまま豆満江を渡
らなければならなかった。息の音さえ殺したまま
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血の涙を流しながら越えてきたし、中国人の「ペ
クスンヘ」おじさんが迎えに来て待っていてあっ
た。私は次男に連れられてペク·スンヘの家に入っ
た。心はぶるぶる震えた。一晩寝て起きたんだけ
ど電話のベルが鳴り響いた。ペク·スンヘおじさん
が電話に出たが、私に代わってほしいということ
だった。北朝鮮から弟のミョンオクの電話なのだ
。昨夜、安全部が兄弟の家に宿泊検閲を行い、私
を捕まえに行ったと言いながら早く国境地域を離
れて遠くへ入ってほしい」という内容だ。思いも
よらない弟の電話を受けて心が不安になり、一日
を焦って過ごした。その日の夕方、ペク·スンヘお
じさんは「ここを離れると目的地に向かって旅立
つ道も順調ではない」とし、ビールで別れの最後
の食事を私たちにもてなした。そして息子に「あ
なたのお母さんは私の家を 7 年間相変わらず通っ
ていて、厳冬の雪寒さにもかかわらず豆 満江を
越えながらそのお金のためにあまりにも険しい世
の中を生きてきたが、これからもっと良い世の中
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に行けばお母さんをよく迎えなさい」と頼んだ。
いよいよ国境地域を抜け出そうとバスを利用しな
ければならなかった。息子と離れて座らなければ
ならず、ペク·スンヘおじさんが花龍市を経て、沿
道までブローカーに渡そうと同行した。ログアか
ら朝 7 時 30 分、花龍市を出発する始発バスに息子
とペク·スンヘおじさんと一緒に別々に座った。華
龍市を通過する途中、辺境部隊の検問所 2 ヵ所を
通過。しなければならなかった。私は息子と出発
する時に約束をした。検問所を通過する時、中国
語が分からないから口をぎゅっと閉じてもし取り
締まりにかかったら一人で捕まっても後ろを振り
返るよしないことを約束した。胸を締めながら無
事検問所を通過することだけを心の中で祈って祈
った。私のその切実な願いをどうやって天も分か
ってくれたのか、朝始発バスを止めずにそのまま
通過することになって安堵の息を吐いたのだ。バ
スは華龍市に無事到着した。ところがかわいそう
な我々の労政はここで終わりではない。再び花龍
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市から沿道に行くところに位置した 1 つの検問所
を通過すれば良かった。花龍市バス停の中で沿道
行きの切符を買ってバスに座ったが、心は焦った
。検問所の無事通過を望み、窓の外を眺めながら
とめどなく涙を流した。僕が過去に何の罪を犯し
てもがきながら鉄道に横になった母と子供を残し
て故郷を離れて行き止まりのない道を行く気持ち
はどこにも言えなかった。ついに延吉市に入って
からは検問所も無事通過し、沿道で昼ごはんを食
べるようになった。まだ気を引き締めて進むべき
道は数千里になるだろうし、息子とある難 関で
別れて死ぬかも知れないという覚悟をするように
なった。ブローカーと午後 3 時に延吉駅前で会う
ことで、約束された。不安な気持ちを抱いて待っ
ていたけどブローカーは約束時間の 40 分後に到着
した。ペクスンヘおじさんは沿道で私たちを渡し
て振り向いて私たちは乗用車に乗り込んだ。車は
白いほこりを立てながら 8 時間走り、到着したの
はアン·ドヒョンだ。私たちは門がかんぬきにかか
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っている主人もいない空き家にいなければならな
かった.その次の日にまた別の男性を連れてきたん
ですが 32 歳で「バンチョルギュ」ということで、
故郷はフェリョン市と言って中国で 7 年間暮らし
たという。私と息子は中国語が分からなくて外に
出られなくてバン·チョルギュは中国語をある程度
話すことができ、恐怖は少し解消された。昼間は
近所の人たちの疑いの目を避けて家の中だけしっ
かり隠れていた。夜はそれでも外に出ることがで
きた。夕方になると人々の目を避けてパン·チョル
ギュと息子は外に出て見物をした。息子は中国の
土地が初めてなので、すべてが不思議で外に出て
くると、また出たがっていた。ちなみに北朝鮮で
は当局が人民に外国の世の中について全く教えて
くれない。だから中国に来てたくさん驚く脱北者
たちだ。こうして僕たちは安藤県で 13 日間主人の
いない家で寝食をしながら待った。そんなある日
、いよいよ韓国行き。で出発するという電話を受
けた。また始まった。もしかしたらこれから本当
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の命と変える危険な道を去ることになった。

- 命がけで国境を越えて

2005 年 11 月 15 日、新しい日が明けた。天気は
初冬だが肌寒い気は私たちの表情までも 凍らせた
冷たい風が吹いてくるがただ心はドキドキして心
配だけを前に無事国境を越えなければならないと
いう考えで寒いのは忘れた。途中で捕まったら自
殺をしなければならないできるという決心で、ネ
ズミの薬 2 袋を手に入れ、カバンには水筒を用意
した。いよいよ午前 8 時頃、乗用車がやってきた
。運転手さんと引率ブローカーがいた。パン·チョ
ルギュ、息子、私の 3 人が乗って出発した。私は
出発する時に息子と約束をした。もしも行く途中
でもし間違えたら、お母さんはその場で薬を飲ん
で水を飲んだら死ぬかもしれないけど、お前は生
きてお兄さんに会わないとお母さんを覚えてどう
なったという事実を知らせれば、すると約束した
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。一日中走った乗用車は日が暮れて真っ暗になり
、王城県に到着した。そこからバスに乗ってまた
徹夜しながら走った。2005 年 12 月 16 日、朝 7
時に北京に到着した。ブローカーは私たちにター
ミナルを無事に抜け出して、ある 30 階建てのマン
ションの 18 階に上がって待機するようにというこ
とだった。一日を待って休んでるんですが 2005 年
11 月 18 日、午後 4 時に再び出発するという。
再び旅立つ準備をしてアパートの下に降りてきて
乗用車に乗ってバスに乗るということだった。寝
台バスに乗って行くのに何も言わずに途中休憩所
3 つを過ぎて共同トイレに行き、ブローカー周辺に
集まってほしいという注意事項を聞いて、再び車
に乗った。長い夜を徹してバスが走っている途中
休憩所にちょっと立ち寄った。バスを降りて私た
ちと一緒に行く一行は全部で 9 人であることが分
かった。ところが驚くべきことにその人たちムサ
ンの故郷である高校同期の「ソン·インナム」があ
ったのだ。2005 年 11 月 19 日、午前 4 時頃。内
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モンゴル駅ターミナルに到着し、内モンゴルの軍
隊車 2 台と軍人 2 人が私たちを譲り受けることだ
った。真っ暗な早朝車 2 台に 9 人が分けて乗った
が息が詰まり席が不便でなかなか耐えられなかっ
た。しかし、生きるためには仕方なく我慢しなけ
ればならなかった。午前 4 時に走っていた車は、
午後 3 時に国境地域に到着した。真昼に越えられ
なくて泥で家を建てて捨てたところに隠れて暗く
なるのを待った。外で砂漠を越えないといけない
し、どうなるか分からないって。ご飯をしっかり
食べろと言い、モンゴルの軍人たちがリンゴ、コ
チュジャンなど韓国人が食べるものを準備してく
れた。ご飯もたくさん持ってきたし冬にビニール
の防幕を用意してくれた。いよいよ夕方 6 時にな
って薄暗くなって車に乗って 3 時間ほど走った後
、2 メートルの鉄条網の前で止まった。ブローカー
は、「この鉄条網を越えるように」と羅針盤を見
る方法を教えてくれた。モンゴル守備隊は 5 時間
おきに国境地域を馬に乗ってパトロールするのに
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モンゴルの守備隊に捕まるべきだ保護を受けると
知らせてくれた。2m の鉄条網を越える瞬間でした
が、それぞれ 9 人が死を変える瞬間だ。自分たち
だけが生きると越えていて男たちは女たちに助け
も与えずに尻を引く姿から、命がこのように大切
さを改めて考えるようになった。私は息子のこと
を心配したし、息子は 18 歳だから母を心配した。
だが、誰かは自分だけ生きると言って逃げるのだ
った。私たち一行 9 人は内モンゴル守備隊がくれ
たリンゴ、コチュジャンを捨てて 2 メートルの鉄
条網を越えるのだった。私は北朝鮮から直行で来
たので、食べ物は格別だ。もう少しよく分かった
。してりんご、コチュジャンを捨てられない用意
した。すべて貴重な食べ物だ。また私たちの行く
先にどんな試練があるか全く分からない状態で念
のために準備した気持ちからだった。私は最後に
鉄条網を越えたが、息子だけが母を心配してくれ
た。9 人の中で私とソン·インナムが一番年上だっ
た。私はソン·インナムに「男というのがそんなに
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つまらない私だけ生きるためにどうして尻を引く
ことができるのか」と悪口を言った。そんなに苦
労して国境を越えて 10m 行ったのに倒れている
鉄条網がまた出てきた。それがモンゴル国境だと
いうことだった。麟蹄はモンゴル国境を越えたの
で守備隊のパトロールに早く捕まってこそ保護を
受け、安全であることができると考えた。私たち
は明かりが環の見えるところまで行き止まりに歩
いているしかし、明かりは見え、何の建物も現れ
なかった。こんなに寒い天気の中で私たちは疲れ
て休もうと思ってビニール防膜袋の中に入って息
をしようとした瞬間守備隊パトロール隊の馬蹄の
音が聞こえた。その瞬間、万歳の歓声が静かに出
たけど心の中で怖くて飽きた 4 人の軍人からなる
モンゴル守備隊パトロール隊が銃を振りながら僕
たちを見て 手を上げてその場に立つんだって。
包囲することだった。一列に並んでって言葉も通
じないのに。自分たちと私たちの言葉を伝える方
法がなかった。それで私たちは捕虜になって守備
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隊病室に捕まった。その瞬間、私は「韓国戦争の
時、大韓民国国軍である私のお父さんもこんなに
人民軍に捕虜になったんだろう!」という心感を
少しでも感じるようになった。病室に入った私た
ちは一人ずつ検査を受けなければならなかったし
、 服を脱いで荷物を一つ一つかき分けて見せた.
言葉が通じるしかし、私たちの中で中国に住んで
いた人は 6 人だった。中国語は全部話せるし、守
備隊もある程度は知っていた。彼らは私たちにい
くら差があるかを問い詰めながら中国人民元を発
見すれば没収して自分たちが持つものだった。
私は中国に住んでなかったし、中国語も分からな
いし、慰めもなく、北朝鮮から着てきた服そのま
まだった。12 月だからどんなに寒いのか私はとて
も寒い。膀胱炎で。痛がっていたが、治療と薬は
なかった。して水筒にお湯を満たしてお腹の上に
置いて負けるように耐えた。辺境は水が貴重な所
だ。羊肉の水にそうめんを入れて煮て食べたが、
羊肉の匂いと油が体に合わず、お腹を壊してトイ
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レに頻繁に出入りした。トイレは病室の外にある
。板の間で消した共同便所で、一度ずつ外の便所
に行く時は 2 人以上の目隠しをしてくれた。モン
ゴル国境守備隊が便所の前まで同行し、便所を出
ると病室まで連れて来いと言った。顔を洗うと、
羊肉のバケツに油などが浮くその水も本人が飲ん
だボウルで他の人が水を一杯。注ぎながら猫の顔
を洗った。靴下も洗えず、足も洗えず、本当に地
獄のような捕虜収容者の運命を経験した。ついに 2
2 日間辺境にいたがモンゴルの首都ウランバートル
へ出発することになった。辺境で 3 日間モンゴル
軍の車で移動するのに天気が寒すぎてトイレが見
えなかった。走る自動車を叩いて止めておいて野
原で体を隠すことができず、自動車の下に入って
トイレを見るようになった。このような寒さと過
酷な捕虜収容の生活を終えながら、ウランバート
ルから韓国に来る飛行機に乗ってソウルへ来るよ
うになった。ついに彼のように来たくて雪も閉じ
なかった父の故郷を思うと涙はとめどなく流れた
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。2005 年 12 月のある日、午後 3 時頃。そのよう
に来たかった大韓民国に到着した。仁川空港に降
りた当時の気持ちと感情を何と言えばいいのか分
からないほどだ。何よりもそのとてつもない空港
を生まれて初めて見たし、光が多すぎて明るくな
って戸惑った。その瞬間の音出して泣きたかった
。このように懐かしい故郷、親兄弟をたった一度
だけでも見て死んだら目を閉じると言っていた
父の面影が浮かんだ私は鬱憤がこみ上げて地面に
座り,天井を見上げながら叫びたい衝動を抑える
ことができなかった。私の口の中で「こんな大韓
民国が私の父を捨てたんだ!」とため息ばかりつ
いていると、国情院の先生 2 人がワゴン車に私た
ち一行を乗せて空港を抜け、車は 2 時間走って安
宅施設に到着した。荷物を解いて部屋を割り当て
られ夕食をとりながら大韓民国の最初の一日が始
まった。国家情報院で身体検査からすべての調査
過程を経なければならなかったが、他の人々は 3~
4 日に調査を受け、いるが、私は 14 日間独房で調
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査が行われた。私が調査が長引く間、息子も一緒
に送ることになった。調査官との面談の過程で大
声を出しながら駄々をこねていた事を振り返って
みると実に情けないと思う。調査官の音声が少し
高かったので、私は「なぜ、人が苦手なのか」
信じるのか?そんなに信じられないなら、私を北
朝鮮に送り返してほしい」と話した。父の故郷で
ある大韓民国に来たら「地獄で英雄の娘が来た」
と暖かく抱きしめて親戚たちと抱き合って泣くだ
ろうと勘違いした。調査官にも「あなたはこの国
のために何をしたの?私の父は大韓民国のために 2
0 代の青春の血を捧げて韓国戦争に参加し、国家の
呼びかけを受けて銃を持ち、国を守ろうと戦争に
出て捕虜になった」と。大声を上げた。調査官は
その音に何も言えずにただ私を慰めてくれたもの
だった。仕方なかった。私は北朝鮮から国軍捕虜
の娘に生まれたことを非常に呪い、父親の故郷、
大韓民国に対する不満が心の中に常に満ちていた

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ためだった。■ 四十歳の時の父の写真

北朝鮮で国軍捕虜の娘として生まれ、幼い頃大き
な夢を育てていこうと思いましたが、高校卒業後
、社会で幸せな人生を想像もできなかった。ただ
父に見違えた悲惨な運命だけを生きていたことが
私に心の傷だけ残った。国情院の 3 ヵ月間の調査
過程を終え、ハナ院の 3 ヵ月間の教育を修了する
ため、京畿道安城に移動し、定着関連教育を受け
ることになった。2006 年 4 月 17 日、ついにハナ
院を退所することになった。私は韓国についてよ
く知らなかったけど、1 年先に韓国に来た弟と通話
をした。その結果、父故郷に家を受け取ることに
し、釜山市多大浦を受けた。KTX に乗って次男と
釜山駅に到着したが弟と 義弟が出迎えに 来た。
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その瞬間、喜びより中国の地にいる時ブローカー
費用で恐喝をした弟と義弟を見たら印象が固まっ
て何も言わずにしばらくぼうっと立っていた。弟
は 1 年先に来たが父の存在を知らなかった。弟は
父の故郷が釜山市大新洞に知り、父親一家を見つ
けることができなかった」と話した。しかし、私
は父の故郷が金海市大成洞であることを話をでき
なかった。国情院から確実な確認が来るまでは待
ってみるだろうと思っていた。生前、父は私に「
父の一家と国軍」だったと言って、死ぬ日まで秘
密にしようという約束だったので、私はその約束
を守ってあげた。弟たちと兄たちには話さないよ
うにとやむを得ない頼みをし、父と私は目をつぶ
るとその約束を守っていくことで心の中で尋ねて
暮らした。私は脱北民定着教育機関である「ハナ
院」を卒業し、父一家を探そうと政府機関の担当
刑事たちに頼み、国情院に問い合わせをした。幼
くして父が教えてくれた韓国国軍で、軍番が K だ
ということを思い出した。私は国情院に電話をし
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て父が「大韓民国国軍と知らせてくれて休戦 2 ヶ
月前に捕虜になって一生口にできない「みっとも
ない」生活を送ったという。どこかに行って私の
この悔しい気持ちを言うところが全くなかった。
しかし国情院は、韓国の脱北者を真っ先に迎え、
人間的な待遇をするところだ。北朝鮮では、住民
が政治的な発言を少しでも下手にすれば、当事者
は何も知らないうちにどこかに引きずられ、その
家族や知人たちも影響を受ける。私は生前、父が
茂山で彼のように堂々と生きていくこともできず
、口の中で恋しくて悲しい故郷、両親、兄弟たち
に会いたかったらお酒だけ飲んだら涙を飲み込ん
だのだろうかという気持ちをいつも禁じえなかっ
た。大韓民国に来る過程で国軍捕虜連座制人生を
生きながら涙をどれだけ流したのか、私の人生を
振り返らざるを得なくなった。死んでも来たかっ
た大韓民国に来て初めて私の父は 20 代に国家の呼
びかけを受けて国を守って銃を持って戦場に出て
戦い捕虜になって一生沈黙だけで生きてきたこと
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に対して英雄の 称号を与えても惜しくなさそう
だった。

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3.誇らしい国軍捕虜の父親
- 夢にも懐かしい大韓民国

私は地獄の地、北朝鮮で生まれて 45 年間生きてい
て国軍捕虜出身の父親から韓国の消息を多少聞い
た。無念にも韓国戦争の場で捕虜になり、北朝鮮
に残った父親だ。愛する人たちを胸に埋めて生き
なければならなかったしいつかは必ず懐かしい故
郷に帰って親兄弟たちを会ってみたかったその切
実さが忘れられなかった。父がそのように懐かし
がっていた故郷、大韓民国へ娘の私が父より先に
故郷の土を踏んだので微妙な感情と申し 訳ない
気持ちに全く耐えられなかった。同族悲劇の傷残
、韓国戦争を乗り越えて世界 10 大経済大国を成し
遂げた賢明で誇らしい大韓民国を見ながらたくさ
んのことを考えた。生前にお父さんと一緒に来た
らどれだけ良かっただろうかという残念な気持ち
が一番たくさん聞いた。そんなある日、国情院か
ら一通の電話がかかってきた。父親日家族の消息
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を知り、父は国軍捕虜であるということだった。
私は叔父の家の電話番号をもらって電話をかけた
。 叔父は亡くなり、叔母が電話に出るのだった。
お父さんが教えてくれた通り「おじいさんソン·マ
ンジュン、おばあさんイ·スンヒ、伯父さんソン·ド
ンジン、伯母さんソン·ボクドンなのか?」と詳しく
聞いてみた。数日後、私は弟に電話をして叔父の
家族に会おうと金海に出発した。わくわくする気
持ちで釜山に到着して 弟を連れて金海に行った.
あ!彼のように父に会いたくて懐かしがっていた
故郷の兄弟に会う時間だ。父が叶えられなかった
その夢を私が成し遂げたことをとても誇りに思い
、もう一方では心が痛んだ。運命の悲喜が交錯す
る瞬間だった。心の中で父に対する懐かしさが切
実で声を出しながら思う存分泣いた。もしかした
ら、血肉というものが何だからこうやって感情が
通じてよそよそしい会話をしても生まれて初めて
見ることができなかったし、生まれて初めて会っ
た人たちなのに、「血肉」という感動を受けた。
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いとこのお姉さん、妹たちの姿は見れなかったの
に、どうやって同じように見えるし、声もどうし
て同じなのだろうか。これが果たして血肉であり
、一筋縄であることを新たに感じた。一日二日彼
らと一緒に寝ながら父の話とおじいさん、おばあ
さん、おじさんたちの話も聞いたし私の父は家庭
でも親孝行だった。おじさんと一緒に日本に一番
上のお兄さんを探して家を出て戦争で国軍に入隊
し、洛東江の戦いで二人の兄弟は別れることにな
ったという。韓国戦争が終わり、叔父は家に帰っ
てきたが、私の父は帰って来られなかったので、
祖母と叔母は死んだと思って、今まで祭祀を行っ
たということだ。私は父の心で大韓民国津々浦々
通ってしたい欲望で釜山(プサン)、ソウル、大
田(テジョン)、大邱(テグ)、仁川(インチョ
ン)など大都市を車で回った。道路、鉄道電気、
通信網を見ながら目覚ましい発展ぶりに感動を受
けた。北韓では茂山から平壌までの距離がおよそ
500Km。だが、この区間を汽車で行くには普通 10
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~15 日間かかる。ところが韓国では 2 時間 40 分
で高速列車(KTX)が行くのだ。また高速道路にぎ
っしり詰まった国産車乗用車を見ながら韓国が北
朝鮮より 100 年は経済的に進んだ国に違いないと
確信した。このような大韓民国の姿を眺める時、
私の父は祖国の呼びかけを受けて国を守ろうと 20
代で銃を持って韓国戦争に参加した。中国共産軍
によって捕虜になり、北朝鮮では一生話せない口
で暮らし、言いたいことも言えないし、心に埋め
なければならなかった。一言間違えば政治犯収容
所に連れて行かれるので、いつも気を引き締めて
生きてきた。子供たちの将来を台無しにしたと償
う気持ちで、家族の前には堂々としていない父親
として、妻として、顔色まで伺いながら元気を出
せずに生きてきた可哀想な私の父だ。私が父の代
わりに彼のように来たくて死にながらも目も閉じ
ずに子供の天台と蔑視を受けた父親の悲惨な人生
を見ながら、本当に私の父親は大韓民国の英雄だ
と声高に自慢したかった。このように素敵な自由
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民主主義国家を守ろうと 20 代の青春を国のために
捧げた父親の労苦を絶対忘れないという誓いを立
てた。私は経済的に発展した大韓民国の姿を見な
がら深い考えが多かった。何とかお金を早く、そ
してたくさん稼いで北朝鮮から父親(遺骨)と母
親、兄、弟たちを韓国に連れてこなければならな
いという気がした。北朝鮮に残された家族に父親
の故郷、南朝鮮が本当に世の中で素敵な国である
ことを知らせたかった。その間労働党で宣伝する
「腐って病んだ資本主義社会の南朝鮮」「乞食た
ちがうじゃうじゃするソウル」という声が真っ赤
な嘘であることを知らせあげたかった。今は焦る
ようになった。初めて家に入居して米もなかった
し、通帳に 400 万ウォンをハナウォンからもらっ
て弟の義弟が通帳をくれと言って渡したところ、
ブローカー費用 300 万ウォンを引き抜き、残り
100 万ウォンで生活を始めようとすると漠然とし
ていた。布団、クローゼット、TV、冷蔵庫など基
本的な生活用品と食材などは必須である。そして
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塾に通う息子の交通費などお金が問題だった。
私は早くお金を稼いで自分が決心して実現するこ
とを約束して 食堂の仕事を始めることにした。
食堂の仕事を 2 ヶ月間、一つ一つ学びながらやっ
ていたところ、弟と義父が結婚式を挙げるという
知らせが来た。私は弟にいやらしい気持ちがあっ
たけど、お姉さんとしてはしょうがない。食堂。
社長の許可を得て結婚式場に息子と一緒に行った
。でも弟は近所のおばさんのように接してくれて
、自分の周りに知人たちと写真を撮ってお姉さん
とは写真撮ろうという言葉もない。遠くに立って
いた。それで写真撮ろうと思って撮ってその道を
向く足取りは千金を甘いように重く 感じられた。
北朝鮮に住んでいた時は弟がこんなに住んでいな
かったのに資本主義社会が人をお金で見るように
するんだなという考えでは弟だが他人として
過ごした.
■ 脱北直前の母親の写真

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- 環境を変えて定着へ
私はすべてが新しく感じられた。通帳に残ったお
金を銀行に行って探しに行っても入出金機を使う
ことができない。お客さんがいなければ機械を押
してみてお客さんが多ければ銀行の業務をしに来
たかのように椅子に座っていたこともあった。
食堂の仕事を始めたが、北朝鮮語と韓国語が違う
ところが多くて苦労したりもした。例えるとざる(
大きい器)、まな板など意味の解釈があまりにも違
ってしばらく顔色を伺いながら仕事をしていた。
一ヶ月働いてついに給料をもらうことになった。
当時 130 万ウォンをもらったが、早く集めて母親
を連れてくるという心で一生懸命働いた。7 ヶ月働
いて貯めたお金で北朝鮮に母と弟たちが飢えてい
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るようで、金と食糧を北朝鮮に送ることにした。
食堂の仕事を学んで仕事をしながら次第に自信が
ついた。それで 7 ヶ月になって私が直接食堂を運
営した。朝、昼には麦飯を炊き、厨房のおばさん
、ホールのおばさんを採用し、夜 10 時後に職員た
ちが退勤すると一人でドンドンジュとチヂミを作
って売った。私はどうすればお金をもっと稼げる
か考えた末にソウルに行ってバイオリンを買って
持ってきて夕方にはドンドン酒を売ってバイオリ
ンを弾いてチップをもらったのだ。このように 2
年 7 ヶ月間、1 億 1600 万ウォンを集めることにな
った。私はまた別の目標を設定して挑戦をした。
運転免許を取得し、昼と夜を問わず、ひたすら目
標を決めておいて食堂の仕事をした。その結果、
身を分けることができないほど大変で結局は病院
に入院することになった。私はやっと気づいた。
韓国で女性たちの食堂の仕事は建設現場で苦労し
て働く「路加田」も変わらないということを言葉
だ。私は 1 億 1600 万ウォンを持って大田果樹園
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洞に所在する円仏教財団が運営する老人センター
を賃貸して管理することを目標に選定した。しか
し、2009 年からは大韓民国も高齢化時代に早く
入り、療養施設が増え、政府が許可をしてくれて
、支援してくれた。私もそこに接近して老人福祉
を選択し、脱北者老人ホームをすることを決心し
た.しかし、脱北老人 13 人をお供えして老人ホー
ムを始め、政府の許可と後援を受けて運営しよう
としたが、10 ヶ月間許可を得ずに結局、保証金·家
賃を全て失って不渡りになった。私はやむを得ず
老人たちの住居をすべて解決した。2011 年 10 月
、チョンジュにまた来ましたが、家がなくて友達
のホ·ミオクの家で息子と 6 ヶ月暮らすことになっ
た。妹たちは私と縁を切って暮らしながら姉を道
で見ても見ぬふりをした私はそんな弟たちに対す
る恨みを抱いてまた新たな挑戦をしながら 2012 年
3 月には財布に 8 万ウォンを入れてソウルに向か
って出発した。

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- また別の危機を迎えながら

私はお金も家もないからどこで何をしながらどう
過ごして生きるべきか何も考えたくない。でも勇
気を出してハナウォン騎手のお姉さん(チョンヨ
ンヒ)に電話をして「助けてくれ!」と事情を求
めた。それで私はお姉さんの家に服の荷物を抱え
て訪ねるよなった。家を探す間一緒に暮らして行
くことになったが、 息子の寝床が問題だった。
私は息子に「外国に行って英語の勉強を少しもっ
とやるんじゃないか」と尋ねた。息子は私が家と
お金がなくて自分を外国に送るとは知らずに立っ
たように「行くぞ!」と答えるのだった。こうな
って私は息子をカナダに語学研修を送ると約束し
て友達から飛行機代で 300 万ウォンを借りた。
息子をカナダに送った後、新たな挑戦を決心した
。昼間は社団法人 6·25 国軍捕虜家族会事務局長の
仕事をした。夜には飲食店の刺身屋でホールの仕
事を朝 2 時までして週末には九老デジタル大学の
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勉強をしたのだ。そんなある日、6·25 国軍捕虜代
表(チェ·スギョン)告発を受け、検察に出頭する
よう通報された。ところが、驚くべきことを発見
した。告訴状は国防部事務官パク·ヒョスクが書き
ながらチェ·スギョンに私を告発させた。私はとて
も腹が立って国防部担当事務官に電話をそれで国
防部近くの三角地域のカルグクス屋で昼食を食べ
ながら会って話をした。私は事務官が誰かに指図
された感じがした。私はいきなり「あなたは事務
官が公務員としてどうやって告訴状を書いてくれ
るのか」と問い詰めた。事務官は屈せず、結局告
訴することになり、国軍捕虜家族会は紛争でめち
ゃくちゃになってしまった。私はイ·ヨンスンの家
で 5 日間一緒に寝ながら少しずつ解いていくこと
を約束した。 国軍捕虜家族会は粉々になった。
すべての活動が一瞬にして中断された。(社団法
人)韓国戦争拉致被害者家族協議会のイ·ミイル理
事長がこれまで事務室の地下階を家賃も払わずに
使わせてくださったんですがイ·ヨンスンが告訴さ
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れると、直ちに事務室を離れろと言った。オフィ
スを離れることを余儀なくされると,非売品を移す
ことを余儀なくされる場所がなかった。多くの会
員がソウル蘆原区孔陵福祉館に気の毒な事情の話
をした。結局事務室の非売品は恭陵福祉館に移さ
れた。団体の活動が中断されたので、すべての会
員が騒々しくパク·ミオクはチェ·スギョンを訪ねて
告訴を取り下げてほしいと言ったが、チェ·スギョ
ンは頑強に断った。そんなある日、生還国軍捕虜
(ノ·チャンウォン)夫人二分線(中国朝鮮族)お
年寄りから電話がかかってきた。国防部担当の朴
孝淑(パク·ヒョスク)氏に対する資料と不満を
吐露した。私はいち早くイ·ヨンスンと一緒に二分
線のお年寄りに会うことに約束をした。この方善
老人は数年前にあった事実を話しながら国防部担
当事務官(朴ヒョスク)が「国軍捕虜は死んでも
いい」と書いた紙を私に見せてくれた。ノ·チャン
ウォン国軍捕虜は自分の命と 変えた補償金額を
詐欺にあった。奥さん(李ブンソン)は夫の手を
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握って江原道春川からソウル龍山にある国防部の
民願室を訪れ、国軍捕虜担当事務官に電話をしな
がら住居問題を解放してほしい」と要求した。し
かし、事務官のパク·ヒョスクは昼休みが過ぎても
会ってくれる。なく、二人のお年寄りは昼食も食
べず、夕方 5 時まで待ったが、出なくてまた電話
をした。「情が出なければ私たちは民願室で動脈
を切って死んでしまう」という電話をすると事務
官パク·ヒョスクは電話で「そこで死ね」などの言
葉を言ったと話した。この方線のお年寄りはパク·
ヒョスクが国防部。民願室に現れると彼に「少し
前に電話で『国軍捕虜は死んでも良い』と言った
言葉を文で、本人の名前と電話番号まで書いてく
れ!」と叱った。結局、パク·ヒョスクは国防部の民
願室用地に 「国軍捕虜は死んでもいい。 000-
0000-0000、担当パクヒョスク" と書いたのだ。
私はこの紙を見てもう我慢できない。会員に公開
し、生還国軍捕虜を連れて江原道春川老昌院の
高齢者が入院している療養所に行った。そこに行
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くとお年寄りは話もできないし軟弱で人もまとも
に見られなかった。同行した国軍捕虜の高齢者は
、病院費用を支援するために 10 万、20 万ウォン
ずつ支援した。私は 2012 年 1 月 4 日から 7 日ま
での 3 日間国軍捕虜高齢者 10 人を連れて国防部の
民願室で集会を行い、国防部長官との面談要請も
した。冬の天気でとても寒いのにお年寄りを連れ
て行くというそれも負担を感じたが、国軍捕虜名
誉回復問題だと考えると恐ろしいことはなかった
。国防部の担当部署は忙しく動いた。5 人が民願室
に出て国軍捕虜の高齢者の前に膝をひざまずいて
「すみません」「すみません」と祈り、また祈っ
た。私は、国軍捕虜の高齢者と国防長官との面談
をするとしたら、国防部前のピケットデモを今日
で終わらせることができるが、実現しなければ止
まらない」と話した。その結果、国防部担当部署
と交渉を引き出し、面談の日程を決めた。しかし
国防長官との面談はできず、代わりに申元植(シ
ン·ウォンシク)局長との面談で行うという通報を
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受けた。いよいよ 2012 年 2 月 16 日、国防部面談
には国防部関係者 10 人、国軍捕虜 5 人、国軍捕虜
5 人で提案され、進行することになった。国軍捕虜
カン·ヒヨル老人は局長シン·ウォンシクに「おい!
お前軍番は何番?」と叫んだ。シン·ウォンシク局
長は「大先輩申し訳ありません」とひざまずいた
。私たちはその時こそ心の中でも多少慰めになる
感じた。このようになって国軍捕虜家族会との面
談は、国防部事務官パク·ヒョスクの妄言を許す条
件で国軍捕虜家族会事務室を提供を受けることで
合意を引き出した。2012 年 5 月、国防部担当部署
は三角地域付近に国軍捕虜家族会の事務所を契約
した。私は蘆原区孔陵福祉館でまた非売品を積ん
できて三角地駅近くの新しいオフィスを飾って活
動を始めようとした。しかし、国軍捕虜家族会議
の内部は荒らしとして整理され、なかった。互い
に各自の考えが正しいと主張しながら内部紛争は
順調に収まらなかった。あまりにも悔しくてどう
やって家族会を整理していくのか悩んだ末に北朝
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鮮から父の遺骸を連れてきたら私にもいいことが
あると思った。私は熟慮して思いのまま 2013 年 9
月 6 日、末弟のヨングムと通話しながら父の遺骸
を韓国に送ってほしいと約束した。しかし、末弟
の頑固さは防げなかった。ヨングムに直接お父さ
んを抱いて豆満江を越えろって。しかし、弟は友
達に送ると言った。弟の意地をまったく挫けず、
結局弟の言う通りに進んだ。父親の遺体を 2013 年
9 月 9 日、明け方 2~4 時の間に豆満江に引き渡す
ことを約束した。その時の沿道公安局の乗用車を
豆満江付近に待機させた。私は父の遺骸を中国に
安全に譲り受け、国防部に電話をした。しかし、
とんでもない話を聞くようになった。国軍捕虜の
遺骸は「本人(2 世)たちが自ら望んで持ってきた
んだ、政府から。持って来いと言ったのか」とむ
しろ大声で答えた。私はあまりにも弱りすぎて大
声を出してしまった。大統領は「国軍捕虜送還は
国家的責務」と言うが、国防部の担当者はどこで
こんな暴言を吐くのか。私は毎日国防総省に駄々
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をこねた。アフリカで銃撃で死亡した人も飛行機
で連れてくるが,国のために 20 代に青春を丸ごと
捧げて戦う捕虜になった父親だ。一生北朝鮮で奴
隷として生きた国軍捕虜の遺骸をこのように対韓
国防部関係者に対する不信で 26 日童顔大騒ぎをし
た.その過程で国防部軍備統制次長のムン·サンギュ
ン(現国防部報道官)の面談をなんと 3 回もしました
が、解決策は全然見えなかった。私は脱北者が中
国から送還される問題について来て国軍捕虜送還
に関心が高い社団法人「忘れな草」朴ソンヨン理
事長に助けを求める電話をした。ワスレナグサの
パク·ソンヨン理事長は「ソン·ミョンファさんが直
接中国に行って父の遺骸を連れてきた後、政府と
の戦いをしてほしい」と中国に行く費用 800 万ウ
ォンを後援してくれた。私は中国語が分からなく
て心配したが、私が運営する民間団体(脱北者総
合福祉院)総務のイ·ホンスクと新郎のチェ·ヒョン
と同行することにした。いよいよ 2013 年 10 月 2
日、チェヒョンは飛行機で沿道で父の遺骸を譲り
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受けて 26 日間保管費用 200 万ウォンを支払って
大連に来ることになり、イ·ホンスクと私は大連で
2013 年 10 月 4 日、朝 9 時に会うことを約束した
。すべてのことは約束通りに進み、父の遺骸を受
け取り、抱いて再び船に乗って中国税関検問通過
のために干し明太の中に父の遺骨一つ一つをモジ
で包んでスーツケースに乗せて私を含めて 3 人で
分けて荷物をまとめた。私は父の遺骸をもらった
が、果たして私の父なのかという疑問が生じまし
たが、弟のヨングムの筆跡が書かれている右手の
指、左手の指、左足の指が白い布で小さなポケッ
トに使われ、父親の入れ歯が見えた。父は普段入
れ歯が合わなくて、やすりを持って変えた跡がそ
のままあった。やっと私はホンスクと新郎のチェ
ヒョンに「私の父の遺骨が正しい」と言った。私
は父の遺骸を抱いてついに涙を流してしまった。
しかし、同行した一行は死者の遺骸を見て恐ろし
さに恐怖感さえ感じた。これからは遺体を検問所
を通過しなければならない瞬間が来た。一番最初
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にチェヒョンのキャリアが通過し、次はイホンス
クの キャリアが通過した。 私は父の頭を祀った
キャリアが発覚したら、そこで自爆宣言を決心し
たが、私も無事に通過した。胸は豆粒ほどになり
、手に汗を握ってとても緊張した。服は汗びっし
ょりで、お腹に上がると思わず歓声が上がった。
私は検問所が無事通過したというニュースをパク·
ソンヨン理事長にカカオトークで送った。台湾か
ら韓国へ 2013 年 10 月 4 日、午後 5 時、船が出発
した。やがて、同時に客室の天井に貼られたスピ
ーカーから「顧客皆さんの中で「ソン·ミョンファ
」お客様はロビーの案内デスクにお越しください
」という放送が流れた。船が出発するのに遺体を
運ぶのは間違っているのではないかと思い、心臓
がドキドキし次第ロビーに向かった。ある関係者
が「父の国軍捕虜の遺骨を連れてきましたか。こ
の船は大韓民国の船です。特等室にご案内いたし
ます」と、食券も無料で提供してくれた。そうや
って船での夜は更けて次の日が明けた。2013 年
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10 月 5 日午前 9 時、船は仁川沿岸埠頭に錨を下ろ
した。ところが船から降りた瞬間、私は私の雪を
疑うほどびっくりした。税関内の廊下に記者 50 人
ほど待機しており、国防部、国情院、警察関係者
などが出てきて出迎え、税関通過は最優先に保障
しながら優待をしてくれた。その瞬間、私は彼ら
を見ながら感謝しているという気持ちもあったが
、一方では「あなたたちは本当に卑劣な人間たち
だ。そうなんだ!」とも思った。そのように父親
の遺骨を中国から韓国に連れて行ってほしいと哀
願したが、政府は断った。だって、難しければそ
こにかかる費用でも支援してほしいと切実に要求
したが、それさえも全て断った政府だった。これ
もあれもダメで、いざ僕が自費をかけて中国に行
って大韓民国国軍捕虜である父の遺骸をお連れす
ることになると、まるで自分たちが努力でなされ
たかのように派手に行事をしてくれるのがとても
可笑しく見えた。その日、父の遺骸を遺骸発掘団
に祀る行事を行い、夕方遅く家に帰った。でもお
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父さんの遺骸の中に写真と個人情報が書かれたメ
モがあった。写真は父親と同じ境遇の人なので、
必ず探してほしいという兄の筆跡の手紙があった
。私はこの手紙の内容と写真と人的事項を調べた
末に調べたところ、私の父と同じ境遇の国軍捕虜
「イ·ドンジン」という人だった。この人は妻と一
緒に脱北していた途中、中国公安に取り締まり、
北朝鮮に送還され、夫婦、息子、孫たちの計 5 人
が政治犯収容所に連行されたという。とても可哀
想でしたが、何より私の父の遺骸問題を終えた後
、李東鎮(イ·ドンジン)国軍捕虜の問題を解決し
なければならない。やることに延ばした。これか
らは父、私、叔父、息子の 3 人の DNA 検査が出る
まで待たなければならなかった。 私は父の遺骸を
連れてくる費用 3300 万ウォンを知人に借り、北朝
鮮から兄と弟が父親の墓を掘って送ったが、保衛
部に捕まった。1300 万ウォンのお金を北朝鮮に送
ったが、結局救われる。できなかった。長男は軍
隊生活 9 年 6 ヶ月満期直前に脱走して韓国に来た
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。私は父の遺骸を鴨緑江(アプロクカン)の渡江
費用 1,000 万ウォンを送りながら、結局、遺骸と
兄弟 2 人、甥 1 人を変えることになり、5,600 万
ウォンの借金を負うことになった。お金を貸した
知人たちは父親の遺骨が来れば大金をくれると思
っていたようだ。お金を貸して遺骸を連れてきま
したが、お金をくれないからといって家に帰って
きて暴れ回ってしかも 2 ヶ月間、お母さんとお子
さんを連れて家で耐えた人もいた。約 12 坪の狭い
家に借金をした家族 4 人と私の家族 2 人と 6 人で
暮らすのは地獄のような生活だった。こんなに長
く待って 45 日が過ぎた。2013 年 11 月 19 日、国
防部軍備統制課のイ·ジェジン主務官から電話があ
った。DNA 検査が一致します。99,99%で父親が
正しいということだった。私は主務官に DNA 検査
通知書を求めたが,彼は個人情報なので通知書を渡
すことはできないと答えた私は「私の父、私、い
とこなのにどうして個人情報なの?」と尋ねた。
そして通知書を受け取る前には父を絶 対に鞍を
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つけない」と脅しをかけた。私は引き下がること
ができず、強く要求した。仕方ないと思った国防
部の李ジェジン主務官は、 クイックサ ービスで
DNA 通知書を自宅に送った。私は「個人情報」と
いう国防部関係者の声を聞きながら「知ってる?
」私が北朝鮮から来たからといって無視するのは
「違うかな?」という疑問を払拭することはでき
なかった。父親が国軍捕虜であることを子供が両
足で走り回って立証しなければならないというあ
きれた現実で、ただでさえ苛立たしい時だった。
多少無視された感じを受けた。私の父が生前彼の
ように来たがっていた故郷、大韓民国に一握りの
遺骨として連れてくるまでは血が燃える努力の代
価があった。いよいよ懐かしい両親のいる故郷で
路祭を行うことを決心することになった。私は国
防部に電話をして父が死んで祖国に来たのだから
故郷で労済をするという提案をした。国防部は受
け入れ、バスを貸し出すことにした。2013 年 11
月 24 日、遺体発掘団奉安の車に父親の遺体を連れ
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て警護員 3 人、バス 1 台に国軍捕虜の高齢者と
子供たち、遺族などが同行することにした。しか
し、労済賞はどこでもしてくれなかった。金海地
方区の国会議員事務室に電話をしても返事を与え
るとは何の知らせもなかった。国防部では、バス
は出すことができるが祭祀の膳はしてあげられな
いという返事が来た。それで私は昌原報勲支庁に
電話したが、自分たちの担当ではなく国防部に押
し付けた。迷った末、戦没軍警遺族会に助けを求
めた。戦没軍経遺族会慶南支部が担当することに
なり、ソウルで出発して金海到着後、バスに降り
た瞬間、金海女子高校前に祭祀膳がよく準備され
ていた。■ 金海女子高校の老司祭の写真。

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私は大韓民国のために戦って北朝鮮に捕虜になっ
て人間以下の蔑視を受けた父のことを思うと、気
が引かなかった。北朝鮮で一生話せない口をつぐ
んだ私の父に対する韓国政府に反抗することを決
心した。 路祭が終わった瞬間、私は父の遺骸を
強制的に奪った。僕が僕の父を連れてきて、子供
がお迎えするというのに、これ以上の理由がある
だろうか。私は今度こそ言葉で父の名誉を見つけ
出して子供になった道理を してあげたかった。
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それで金海女子高校の路祭式場で私は父遺体を抱
えてバスに乗り込んだ。そして父の遺骸。引継確
認書に署名をした。遺体護送車は空車で、バスは
夕方 8 時金海を出発して夜 12 時 30 分、銅雀顕忠
院の庭に到着した。ソウルに入ると、空から激し
く降り注ぐ雨が前を向いて一寸先も見えないほど
だった。私は雨に濡れて父の遺骸を抱いて蘆原の
家に向かった。家に着いたら夜中の 2 時頃になり
ましたが、とても悔しくて眠れなかった。父の遺
骸家大韓民国に来て路祭をするんですが弟のスン
ヒはオ·ジド なく、ミョンオクの弟だけが来た。

- 父の名誉を求めようと

2013 年 11 月 26 日、私は父の遺骸を私の車に連
れて青瓦台噴水台の前に行った。その瞬間、青瓦
台警護 6 人がどこからともなく現れ、「ここは 1
人デモをする場所が違う」と私を取調室に連れて
行った。私は遺体を前に担いだが、けがをしない
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ように大声で叫んだら、警護員たちは本当の遺骨
なのか疑問に思い、緊急に動いた。私は身動きが
取れず、ボディーガードに捕まって要求に従うし
かなかった。調査を終えた私は警護員たちに大統
領府噴水台から遠く離れている鍾路区青雲洞(チ
ョンログ·チョンウンドン)事務所の前で 1 人デモ
をすることにした。毎朝 8 時に父の遺骸を車に乗
せて青瓦台近く(青雲洞事務所)に行って午前 10
時 30 分までいてその後、国防部西門前で午後 2 時
まで 1 人デモを行った。このように毎日するとい
う の が 普 通 の こ と で は な か っ た 。
■ 大統領府前の 1 人デモ

通りすがりの人たちは「どうすれば父の遺骸を背
負って寒い日にあんなに立っていられるのか」と
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温かい言葉一言言ってくださる方もいたし、お昼
ごはんを食べろって。1 万ウォンを父親の遺体の上
に渡していく人もいた。このようにありがたい人
もいるのに、国と政府を代弁する公務員たちは挨
拶さえしなかったのだから、あきれたことではな
く、何だろうか。人脈なしにマスコミに乗れない
条件で毎日こうすることも約束のないことだった

■ 国防部前の 1 人デモ

そんなある日、北朝鮮から電話がかかってきた。
私が父の遺骸を連れて行事をするのが TV で出る
ようになって父の遺骸を掘って送った二番目の兄

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と末弟が保衛部に逮捕されたという青青の霹靂の
ような音だ。瞬間この世に生きる勇気と意欲がな
くなった。私は父の遺骸をまたスーツケースに連
れて中国に行って 北朝鮮に渡ることを決心した。
私は大連行きの船便を切って船に乗った。船が出
発直前、案内放送で「ソン·ミョンファ」を探す音
が聞こえた。僕が動かないと機務司令部、警察た
ちが近づいてきて父の遺骸と私を引きずり出して
大騒ぎした。このように私はその日マスコミに乗
って夕方のニュースに出るようになった。その後
、国防部は私を法務部長官名義で出国禁止にした
。 ■ 出 国 禁 止 通 知 書 ( 1 部 )

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私は光化門広場にも出て、国会前に 1 人デモをし
た。■ 国会前の 1 人デモ

■ 光化門(クァンファムン)1 人デモ

デモをしながら請願を作成した。そしてそれをそ
れぞれ政府機関、国会、大統領府、警察庁、統一
部などに 68 通もの書類を作って送った。8 か月間
の 1 人デモで健康は台無しになった。昼は泣いて
騒いで、午後に家に帰ると思います。ご飯を炊く
力もなく、食事も食べずに寝るためには眠れない
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し苦しみにさいなまれるようになった。それによ
ってうつ病、不眠症で病院に入院し、退院してか
らは再び 1 人デモをした。そんなある日、徹夜で
国防総省の国軍捕虜。担当部署の課長、金東柱(
キム·ドンジュ)にカカオトークのメールを送った
。■ キム·ドンジュのカカオトークメッセージ

金東柱の「1 人デモをする孫明和(ソン·ミョンフ
ァ)氏の姿は、国民がよく見ることもなく、戦争
を起こした金日成政権に行って、解決すべき問題
であり、北朝鮮から来た一人の女性を哀れみ、助
けようとするだけ」という荒唐無稽なメールを見
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た瞬間、心臓が止まるようだった。私はこの事実
を YTN 放送局に知らせることを決心して訪ねて行
った。社長に会いに来たと言ったが、受け入れて
くれる。退勤時間まで待って床に横たわってしま
った。ロビーで上に電話をしながら少し騒がせた
ら報道局長が上がってこいと言った。私は報道局
長に「自由を求めて脱北し、父がそのように来た
くて目も閉じられずに故郷に埋めてほしいという
遺言を守ったことが罪ですか。言論も自由ではな
いですか」と話した。彼は「その通りです」と受
け入れると言った。僕はカカオトークのメッセー
ジを見せながらマスコミに公開してほしいって。
お願いしたところ、2014 年 6 月 11 日、ついに Y
TN で 1 日 13 回ニュースで流した。
■ YTN ニュース

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私は 2014 年 6 月 14 日、車にガソリンを入れるお
金もない。父の遺骸を持って地下鉄に乗った。本
当に「オーマイガー」「こんなことが」というテ
レビ番組に出てきそうなことだ。地下鉄に遺骸を
抱いて乗ると、すべての人が席を空にして怖がっ
て遠ざけた。ある日、地下鉄で向かい合ったお嬢
さんが「お母さん関連。ニュースに 1 時間 1 回ず
つ出ます」ということだ。私は携帯電話を開けて
みたら本当にそうだった。その後、国防部は「国
軍捕虜待遇に関する法律」を一部改正する」と述
べた。私はその時、政府機関よりマスコミの力が
もっと強いということを少し分かった。カカオト
ークの返信文を書いた国軍捕虜担当課長は、役職
を退き、別の場所に異動になった。このようにピ
タは 8 ヵ月間、1 人デモは幕を閉じることになり
ましたが、今は父の埋葬の仕事をしなければなら
なかった。私の人生で 8 ヶ月間 1 人デモは消せな
い日々だった。しかし血を分けた弟二人は姉が一
人デモをしている間、コップ一杯の水を持って現
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場に来ることもなかった。私は弟たちが果たして
父と娘たちなのか。という疑問まで聞いた。後に
父の国軍捕虜補償金を受けるとどんなことが起こ
るか、人間に対する恐怖が果たしてどこまでかと
いう恐怖も聞いた。弟二人は私が父の遺骸を連れ
てきたので、北朝鮮に残った兄弟を政治犯収容所
に送ったという姉に対する不満と憎悪の発言を吐
き出した。私は精神的にも心的にも大変だったが
弟たちの目つきにもっと大変だ。ある日、地下鉄
に乗ろうと駅で迷った。駅員室に行って「私が生
計を立てて 1 人デモを 8 ヶ月してみたら稼げず交
通費がありません。父の遺骸を抱いて家に帰らな
ければならないのにお金がなくて地下鉄を乗って
いません」と事情を語った。その案内職員は私に
交通カードのチャージをしてくれた。本当にあり
がたい方だ。その方以外にもあちこちで私を応援
してくれて励ましてくれてくれた人が多い。後日
、私は父を埋葬する直前に彼らを訪ね、これまで
助けてくださって本当に感謝の挨拶をした。皆さ
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んの暖かいその真心と応援があったから私が勇気
を出して 1 人デモができ、ついに父を国立顕忠院
に埋葬することになった」と述べた。しかし私は
どうせこうなったことを振り返らずに最後まで
行くうちにいつかは分かってくれるんじゃないか
という希望を持ってみた。このように私は国防部
と 7 回の交渉をしながら父を故郷にお連れしまし
たが、これまで苦労させていただいたことがとて
も申し訳ない気持ちで合同案を飾るのは望まなか
った。私は自分の父だけは別の国の中の装飾をし
てくれるなら鞍をする」と提起した。そんなある
日、社団法人「戦後拉致被害家族連合会」崔成龍
(チェ·ソンリョン)理事長から電話がかかってき
た。「ミョンファ!今はやめてお父さんを埋葬す
るのに私が乗り出して国防部と連携して中飾りを
してあげる」ということだった。私はありがたい
けど、正直チェ·ソンリョン理事長が私を利用して
自分の分け前を取ろうとする試みと感じられた。
私は「理事長!ありがたいですが、自分でやりま
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す」という返事をくれた。私の提案を国防部は受
け入れることに合意した。2015 年 7 月 4 日、国立
大田顕忠院で誇らしい私の父、国軍捕虜ソン·ドン
シクの遺骸を国防相に内装飾を盛大に執り行うこ
と に な っ た 。 ■ 大 田 顕 忠 院 の 中 装 飾

21 ヶ月間父を家に仕えていて名誉を探してあげよ
うとたくさん苦労させた申し訳ない気持ちで、今
は安らかに眠ることを切に願っていた。私はすべ
ての装飾で遺族が追悼の辞を述べる事例は、なか
ったけど私は意地を張って父に申し訳ない気持ち
の 追悼の辞を述べた.

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- お父さん!会いたいしまたすみません。
国が危険にさらされているとき、20 代の若さで
ひたすら愛国の念で命を捧げて戦う結局捕虜とな
り一生を世襲独裁政権の奴隷として死んだ可哀想
な私の父。行きたくても行けない故郷、懐かしい
親兄弟たちをただ一度でも会って死んだら目をつ
ぶると、やきもきしながら亡くなった私の父。
あれほど来たがっていた祖国大韓民国からこんな
にでも父を送る 親不孝の子を許してください。
その間、この親不孝の子も本当に苦痛の中で生き
てきました。父を胸に抱いて大韓民国の街をさま
よい通わなければならなかったその胸の痛む日々
。 父の 遺骸をもって金儲けをするのかと皮肉る
目つき。お父さん!なんでこんな大韓民国にそん
なに 来たがりましたか。 こんな国になぜこの
親不孝の子を必ず行けとおっしゃいましたか。
こんな国を故郷だとなぜ埋めてほしいと遺言を
残されましたか。

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祖国大韓民国が必ず迎えに来ると止めどなく南の
空だけ眺めていてそんなにあっけなく亡くなられ
たんですか。お父さん!命と変えた奴隷の人生を
生きたから。この娘はお父さんの故郷に帰ったら
最低限申し訳ない気持ち、感謝の気持ちで僕たち
を嬉しく迎えてくれると思うので思いました。し
かしむしろ来なければよかったです。父の子だか
ら明らかにしなかったでしょう。父の故郷に来た
ことを後悔も恨みもしてみました。父親の醜いこ
の娘は、無念に亡くなった父親の大切な名誉だけ
でも回復しようともがいている打ったんですが、
今とても疲れてます。父の遺言を守ってあげよう
とするその約束のために大切に愛していた兄と末
弟を政治犯収容所という死の谷に追いやられてし
まいました。これから私に何ができるでしょうか
。お父さん!

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お父さんがあれほど来たがっていた祖国、大韓民
国は廃墟の上で世界史に類を見ない模範的な国家
として発展を重ねています。父をはじめ、すべて
の住民を飢え死にさせ、殴り殺して閉じ込める北
朝鮮世襲独裁政権とは、比較すらできない素敵な
国に躍り出ました。しかし、望まない奴隷の人生
を生きてこられた父のような国軍捕虜とその遺族
に対する処遇は、恥ずかしい限りです。会いたい
お父さん!親不孝この娘は死ぬ日まででも父の名
誉回復と政治犯収容所で死んでいった私の家族の
恨みを晴らすために残った私のすべてを捧げます
。どうか親不孝の子この娘を許して天国でまた会
う時までこの世でのすべての後悔、恨みをすべて
下げて安らかに眠ってください。

2015 年 7 月 4 日
国立大田顕忠院で
愛する父の娘、ソン·ミョンファより

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その後、第 9 師団で父親の国防部内装飾行事の映
像をもらったんですが、追悼の言葉でこんな国に
そのように来てしたがっていたのか」という内容
は削除した。私は顕忠院の内装を執り行い、帰り
にいろいろ考えた。「生きてきた国軍捕虜 80 人、
遺体を連れてきた国軍捕虜 7 体のうち、私の父だ
けは国家の装飾を行ったんだ。しかし、内装飾一
つで私は父奴隷として死んだその人生をどうやっ
て返すことができるだろうか」と思ったが、北朝
鮮に置いてきた母親にとても申し 訳なかった。
人が生きて別れであって、死んで別れたのが罪人
だから思うとあまりにも心が痛かった。父親の遺
骨で北朝鮮に残りの兄弟と甥たちをその恐ろしい
政治犯収容所に送ったので、あまりにも大きな罪
を犯したのだ。父親の遺体の内装には 2 人の弟が
やってきた。北朝鮮で私が 4 年間育ててくれた甥
たちも来ましたが、短い挨拶を交わしながら昼食
後、妹たちは私に「お姉さん!これまで苦労した
」という一言もなく消えた。私は弟たちに対する
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怒り、恨みを心の奥底に込めて内装の仕上げを終
えてソウルに向かう際、また別の計画を立てた。
父の名誉のために最善を尽くすという火のような
誓いを誓ったのだ。私は国軍捕虜の生活をどう広
報し、どうやってもっとたくさんマスコミに知ら
せ、国民の共感を形成するかについて 悩んだ。
知人たちは私に「父の骨で金儲けをする」と言っ
てくれた。「お前は本当に丈夫だ」「これまでた
くさんのお金をもうけたんだ!」など、あらゆる
厳しい言葉を吐き出した。私はそうすればするほ
ど人と向き合うのも嫌になった。そんなある日、
国軍捕虜の娘、イ·スングムさんの電話をもらった
。北朝鮮における国軍捕虜の数奇な暮らしはすべ
て異なり、その子供たちの生活もまた違った。
誰が、どこでどのように暮らしていたのかなどに
ついてはある程度知っていますが、果たして彼ら
がどんな人生を送ったかについてはよく知らなか
った。私はイ·スングムさんを私の家に招待した。
イ·スングムさんは僕を友達になろうと自分が生ま
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れてから生きてきた話のことだった。「友達?お
前はあごが…」落ちてみた?」というイ·スングムの
質問に私は「あごは落ちる理由がないのになぜ落
ちるの?」と反問した。私はイ·スングムの父イ·ジ
ェアム国軍捕虜の銃殺された実話を聞き始めた。
イ·スングムは弟も銃殺されて 17 歳の私は息子は
刑務所で釘を食らって自殺したという。スングム
さんの故郷は咸鏡北道慶興郡(ハムギョンプクト·
キョンフングン)。労働者区)であり、1 男 4 女
の次女として生まれた。韓国でも脱北者が証言し
すぎて「アオジ」と言えば、多くの国民が知って
いるほどだ。青二炭鉱村は捕虜収容所として使用
した昔の建物を家庭で、12 坪の家で一列に 10 世
帯となっている。スングムさんが 8 歳の時、母親
が胃がんで亡くなり、父親と姉、弟たちとして暮
らした。お姉さんはお母さんに代わって学校に行
くこともできず、弟たちの面倒を見なければなら
ず、配給に乗れば、いつもお腹いっぱいにご飯を
食べたことがなかった。弟はいつもお姉さんに「
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お姉さん!お粥を作っても干し菜っ葉をたくさん
入れて煮込んで、干し菜っ葉でもたくさんちょう
だい!」と話した。弟は高校を卒業して父につい
て青二炭鉱に配置されて石炭を掘らなければなら
なかった。弟はとてもお腹がすいて石炭を掘って
背負い投げで担いで運ぶのもとても大変で、北朝
鮮体制に対する反抗心を表現した。弟が何日間家
に帰ってこなくて町。 弟の友達に聞いてみた。
でも弟は飲み会で「うちの父の故郷、南朝鮮に行
けば米飯もお腹が張り裂けるように」食べられる
」と言ったと保衛部に 逮捕されたということだ。
半月が過ぎて保衛部で夜明けの 4 時頃に父を捕ま
えて行った。純金の家族は不安に震えていたし、
町の人々の厳しい視線を受けるようになった。こ
のように 3 ヶ月になって妹は青二炭鉱で働くガス
汚染で結核と診断され結核病院に入院するように
なった。結核病院は青二市内でも 40 里余り離れて
ある山の谷間にあった。妹が入院した結核病院に
は面会も行けなかった。食べ物がないから何も持
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って行けない状態だった。6 ヶ月が経ってある日、
青二安全部で純金を捕まえに来て車に乗れと言わ
れて乗ったら分駐所拘置所に 入ることになった。
2 日が過ぎてまた車に乗るように言われて乗ったが
、到着したところは青二橋を通って公設運動場に
到着することになった。そこで群衆大会をするよ
うな状況だったんですが多くの人々の話を聞くと
、誰かを銃殺するということだった。銃殺する群
衆の一番前にスングムを座らせておくことだった
。安全員が群衆に静かにするように言った。やが
て"今から"民族反逆者であり、南朝鮮の手先である
イ·ジェアムとその息子イ·グァンチョルを共和国刑
法 O 条により死刑に処する!」という音が拡声器
から出た。貨物トラックから杭 2 本と父、弟を引
き下ろす光景が見えた。父親は目も開けられず、
杭に首、腰、足を縛って、他の杭には弟のクァン
チョルを父親と同じように縛った。弟は口にくつ
わを入れて話せないように黒い布で口を縛ってし
まったが、純金氏と目を合わせて涙を流し、杭に
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立ったのだ。スングム氏の父親と弟に「民族反逆
者であり、南朝鮮の手先としてスパイ活動をした
イ·ジェアムとイ·グァンチョルに向かって射撃!~」
という号令が下された。銃殺する安全員 3 名がそ
れぞれ 3 発ずつ計 9 発を撃つ過程で「あっ!」と叫
んだが、あごが落ちた。一生記憶を失って非人間
として生き、姉は父と弟が銃殺されると、正気を
失って精神病を患いながら外に出ては通り過ぎる
人を捕まえて「父親と弟たちを殺した奴らを殺さ
なければならない」と話すようになった。スング
ムさんは父親の故郷である南朝鮮に行くという話
をすると姉は純金さんも保衛部で捕まえて殺すこ
と。同じで、中国に送ることになった。それによ
ってお姉さんは結局刑務所に連れて行かれ、死を
迎えることになった。意識不明で中国に来た純金
さんは 3 歳、2 歳の娘、10 ヶ月になる息子を産ん
だが、新郎は義父が国軍捕虜になり、弟も銃殺さ
れると、純金氏に暴行を加え始めた。それにして
結局、純金氏はこれ以上持ちこたえることができ
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なかった。スングムさんは中国に来たが、大腸が
ん、胃がんと診断されるようになった。彼と中国
で一緒に暮らしていた夫は、父の故郷に帰るよう
純金さんを韓国に送ってくれた。スングムさんは
韓国に来て癌手術 3 回、抗癌治療 3 回をもらった
。奇跡のような運命のストーリーを聞いて私は 3
日間眠れない苦痛に悩まされた。私は TV 朝鮮脱
北者芸能番組のモランボンクラブの作家さんたち
。に電話をした。国軍捕虜第 2 世代国軍捕虜連座
制の悔しい人生として、イ·スングム氏を出演させ
てほしい」と話した。僕はイ·スングムさんを連れ
て TV 朝鮮放送局に行って、2018 年 6 月にモラン
ボンクラブで国軍捕虜たちとその子供たちが経験
した現実を話した。 収録現場は涙の海になって
視聴率もすごく上がったし再放送で多くの人が見
たという。私は国軍捕虜家族会事務局長として働
きながら、会員たちがどの炭鉱、どこでどんな生
活を送ったのかについて疑問が多かった。同じ人
生を送ってはいないが、会員一人、一人が涙を流
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しながら話すことにとても胸が痛かった。
■ 牡丹峰クラブ出演

それで私は資金がないが私たちの生きてきた人生
のストーリーをまとめて本を印刷し、悔しさを訴
える武器として使いたかった。結局、私は韓国戦
争戦没軍警会を訪れた。会長と事務局に私たちの
悔しさを本で知らせてほしいと提案し、事務局か
らの連絡を待った。ある日、戦没軍警会遺族会の
ソク·ジェホン部長から電話がかかってきた。彼は
「個人が北朝鮮で経験した国軍捕虜とその子とし
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て生まれ、ある人生を送った。という内容が聞い
た文を手書きで書いて持って来なさい」と言った
。私は会員たちにお知らせで知らせた。まず私か
ら書きながら会員たちに書いてくれと言わなけれ
ばならなかった。会員イ·スングム、チュ·ラクチョ
ル、カン·チョルホ、チェ·スギョン、チェ·ソンヒ
、キム·ホンイク、ファン·ソンオク、ソン·インナ
ムなど計 9 人の手記を書いた。みんな生計で忙し
い中で協力してくれた。私をはじめとする会員た
ちが、北朝鮮から出身成分が「傀儡軍の子」「国
軍捕虜 43 号」として学ぶこともできず、多少理解
できないほどの文を書いた。そのすべてを整理し
て手記本<私は地獄の奴隷だった>というタイトル
の本が出ましたが、全部で 86 ページの薄っぺらな
本になってしまった。戦没軍警遺族会で資金を提
供 3 万 6,000 部を印刷し、出版記念会を報勲会館
で進行した。私は出版記念会で祝辞を述べること
になり、再び周辺を涙の海にした。チュ·ラクチョ
ルは青二で生まれた。アオジの「竹吉里」には国
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軍捕虜を坑道に閉じ込めておいて、爆破して死ん
だ死体をむやみに引っ張り出し、共同墓地のよう
に一ヵ所に埋められてしまった 53 体の墓がある。
しかし、国軍捕虜の墓主も管理者もおらず、その
周辺を通り過ぎる度に心が痛かった」と吐いた。
チュ·ラクチョルは国軍捕虜の子供として生まれ、
とても悔しくて 2014 年 9 月から国防部の前で父
の名誉を回復してほしいと。デモを 3 ヵ月間行っ
たが、国防部は何の反応も示さなかったため、チ
ュラクチョルは 1 人デモを 2 ヶ月間青瓦台、国防
部前でやった。寒い冬に一人デモをしながら事務
室で寝て寒いところで震えてとても悔しくてお酒
で時間を過ごした末、周楽シーズンは天国に行っ
た。当時、私は疲れ果てて二度とデモをするとい
うことに考えたくなかった。チュ·ラクチョルが死
んだという電話をハン·ヨンボクから受け取って葬
儀場に駆けつけた。そこにはハン·ヨンボクとキム·
ギョンスクがいた。ハン·ヨンボクはチュ·ラクチョ
ルの遺体を背負って国防部前で 1 人デモをすると
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言った。キム·ギョンスクはチュ·ラクチョルが生前
に「自分が死んだら犬が食べても牛が食べても自
分の死体を国防部の前に捨てろ!」と言ったとい
う。ハン·ヨンボクはチュ·ラクチョルの言葉を遺言
状として私に書いてくれと言った。私は父の名誉
のためだと思って書いてほしいと。したので書い
てくれた。でも葬式が終わって、その遺言状がチ
ュラクチョルが書いたのではないという情報を受
け、警察の取り調べを受けるようになったが、ハ
ン·ヨンボク、キム·ギョンスク、チェ·スギョンの 3
人が組んで、私にかぶせてしまった。キム·ギョン
スクは警察の調査官の前で対面していたが、「ソ
ン·ミョンファは頭が良くてソン·ミョンファが考え
て書いた」と話した。私はあまりにも億丈が崩れ
たが、3 対 1 対 1 の対質で反論することができず
、結局遺言状偽造作成で罰金 200 万ウォンをもら
うことになった。国軍捕虜家族会の会員たちを顧
みたくなかったし、胸が張り裂けるだろう。同じ
で、火病で病院に入院して治療を受けることにな
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った。どうすれば父の無念を晴らそうと会員たち
の痛い傷を傾聴することでまた始めようと心を食
べた。会員のカン·チョルホに会って彼の話を心か
ら聞き入れて一緒に泣いてあげる仕事を始めた。
カン·チョルホの父親、国軍捕虜だ。ただそんな理
由一つで彼は 17 歳で高校を卒業して父の代を継い
で温城郡と言えば炭鉱で仕事をしたという。カン
チョルホの父は故郷が恋しくて南朝鮮の言葉をす
ると言って気が狂ったと言って政治犯収容所に送
らずに技術のある奴は役に立つといって精神病院
である咸鏡北道鍾城郡(ハムギョンプクト·チョン
ソングン)の精神病院 49 号に送られたという。炭
鉱で誰も直せない機械の故障が生じた場合、炭鉱
車で精神病院に行って父を乗せて機械修理をと再
び精神病院に監禁した。母方の実家で父親の国軍
捕虜の事実を知ると、母親を母方の叔父たちが連
れて行って離婚させ、幼い頃に母親なしで空腹に
苦しみながら生きてきた」と話した。鋼鉄湖は幼
い頃に炭鉱のトンネルが崩れ、山積みになってい
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る。下敷きになって腰を痛め、炭鉱車に足を挟み
、九死に一生をかけて生き残った。弟は劣悪な環
境と栄養失調で肺結核(珪肺症)で薬を一服も使うこ
とができずこの世を去ったとし今も弟を恋しがっ
て泣いている。父親が精神病院で死亡した悲劇を
経験したカン·チョルホは、弟まで帰ってこれ以上
北朝鮮で暮らすことに対して悩んだのだ。そうす
るうちに父が彼のように懐かしがっていた故郷に
行こうと決心して豆満江を越えることになった。
カン·チョルホは 2 人の息子を連れて豆満江を越え
たが、中国公安に逮捕され、北朝鮮に送還され、
保衛部で人生が吊り下げられた。殴られたし、労
働鍛錬隊に入って強制労働をして退所後、再び 2
人の息子を連れて豆満江を越えた。二度の失敗を
経験して公安に逮捕された瞬間逃亡を打ったが、
幼い 2 人の息子は捕まって北朝鮮に送還され、結
局、カン·チョルホだけが生きて韓国に来た。後に
聞いた声によれば 2 人の息子は政治犯収容所に行
ったという知らせを受け、今でも 2 人の息子の消
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息はどこでも聞くことのできない悪夢と苦痛の中
で生きている.会員のチェ·ソンヒ氏の痛い傷も 1 ペ
ージ残す。チェ·ソンヒは父の愛をたくさん受けて
育ち、父の遺言は「私が死んでも父の故郷に必ず
行ってみろ」というのだ。北朝鮮で国軍捕虜とな
り、一緒に暮らしていた「チェ·インドク」を訪ね
ると、父の故郷、父がある人だということを知ら
せてくれる」と話した。父親が国軍捕虜だという
理由でチェ·ソンヒさんも温城炭鉱できつい仕事を
した。苦労して結婚しましたが国軍捕虜という面
子で夫と離婚することになった。食べ物がなくて
ホームレスの人生を生きながらあまりにも空腹に
苦しめられた。結局、中国に逃げたが、公安の密
告によって 4 回の北送を受け、2 回の拷問で爪が
抜け、歩くこともできなかった。牛糞のとうもろ
こしの卵を洗って食べながら父の故郷に来るため
にチェインドクを訪ねたが、チェ·インドクはすで
にこの世を去ったという話を聞いて絶望で生きて
いる。結局、4 回の脱北失敗で結局大韓民国に来た
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が、父が国軍捕虜であることを知った時はあまり
にも億丈が崩れたのだ。父が国軍捕虜であること
を隠してお父さんの故郷に行ってみろという言葉
と「チェ·インドク」を訪ねて行けという遺言を残
したのだ。国軍捕虜の子供、ファン·ソンオクさん
の話も書く。ファン·ソンオクは幼い時に母と父が
よく戦う姿を見た。そこに母方の叔父が家に訪ね
てきて母方の叔父の婿が軍官なんですが叔父が国
軍捕虜であるため影響を受けるとし、母親の髪の
毛を引っ張っていたその姿が思い浮かんだ。炭鉱
で事故が起きれば国軍捕虜はまず捕まえておいて
父は 2 日になると家に帰ってきて、母は子供たち
のために気を引き締めて暮らした。父親は、「早
く認知症になって外に出れば、家に帰らずに故郷
に帰らなければならない」とリュックサックを持
って歩き、周辺の人々は精神病にかかったと話し
た。父の認知症がもっと悪くなって歩いて外に出
ることができる。いなくなると父は隣家と家の間
に穴を開けて「お母さんが私を探す!」、「お母
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さんが私を呼ぶ!」、「私の母、あの穴に見える!
」、「母が私に来いと言う!」など、一日中母だけ
を探して呼び、壁にうんちを塗って大声を上げた
。あまりにも騒ぎ立てる父の姿を見ることができ
ず、母は父が着るタオルで塞いだりしたものだ。
どれだけ故郷が懐かしくて、どれだけお母さんに
会いたかったか。認知症になっても探すのはただ
一人の母親だったのだろうか。私は国軍捕虜の子
供たちの涙が出る話を聞くとあまりにも心がしび
れて号泣しながら泣きたいほどだ。国軍捕虜の子
供たちは心の傷のない人がいないこと。同じで、
もっと心が痛い。私は自分が病気になったことが
あるし、自分がやられたから心の傷をもっと理解
できたし、もっと優しくしてあげなければならな
いという心構えを静かにそして丁寧に持ってみる
。私は国軍捕虜の子供として生まれ、連座制、離
散家族二重の連座制で生きる人だと思うととても
悲しくて荒唐無稽に見える世の中だ。悲運の主人
公がひたすら韓国軍捕虜の子供たちだけだと思う
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ので、もっと痛い胸を掃き下ろしながらどうしよ
うか、私たちの代の父たちの名誉回復を見出さな
ければならないという決心をしたのだ。

- 法治国家の悟り

私は民主主義の法治国家について勘違いし、子供
のように駄々をこねてむやみに堪えて大声を出し
てしまえば全て解決すると思った。僕がこれまで 1
人デモを 8 ヵ月間やりながら悟りを得たことがと
ても大切だった。私は一瞬無知だと勇敢になると
いうその言葉の意味を知り、私が一つ一つ落ち着
いてやっていくことに考えを変えることに決めた
。その時、私はウォングァンデジタル大学の勉強
を大変な思いで粘り強くしていた。1 人デモをしな
がらあきらめなかったことを幸いに思い、もっと
熱心に積極的にやっていく途中、行政法を複数専
攻科目でもっと勉 強しなければならないという
欲が出た。私は行政法を学びながら家族法の教材
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を読みながら立ち止まって考え直した。「あ!こ
れか!」という歓声が私も知らないうちに出た。
父と子との間で認知訴訟、実生者訴訟などを読ん
でみると、家族法 2577 号最高裁判所規則が 2015
年 1 月 1 日施行令であることを発見することにな
っ た 。 ■ 2 0 1 5 年 大 学 卒 業 写 真

いよいよ来るべき時が来たと思った。「人がいく
らもがいてもいけないことが、これだったんだ!
」と思った。私はすぐに父との認知訴訟に行くこ
とにした。弁護士を選任しなければならないが、
金が問題だった。父の遺骸を連れてくるのにかか
った費用 3300 万ウォンの借金を返さなければなら
なかったし、兄と弟を政治犯収容所から連れ出そ
うと思って。1300 万ウォンを送って借金をするこ
とになった。また、長男を連れてくるブローカー
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費用 1,000 万ウォンまで合わせると、計 5,600 万
ウォンの借金を抱えている状態で弁護士費用が問
題だった。私は裁判官を泣かせるような文章を書
くことにした。決心して書き落とし、何度も繰り
返しながら書き下ろした。数日を使って消して繰
り返し、ついに 2015 年 2 月 25 日、ソウル家庭裁
判所の民願室に直接認知訴状を受け付けた。いつ
裁判所から便りが来るかを待っているのに 6 月 7
日、法廷に出席せよ」という通知書を受け取った
。私はドキドキしながら国軍捕虜家族会員ヒョン·
ボクグム氏を連れて一緒に行った。裁判場に座っ
たところ、チェ·スジョン判事は私に「学校をどこ
まで出たのか?」と質問した。私は「北朝鮮で国軍
捕虜の子供として生まれ、学びたくても学ぶこと
ができませんでした」と答えたところ、裁判官は
「国防部は悪い奴ら」とし、今日のソン·ミョンフ
ァ裁判は認知訴訟を受け入れることで決着をつけ
るということだった。客席に座っていたヒョン·ボ
クグムの泣き声が沸き起こった。これが本当に私
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がやり遂げたと思うと天下を持ったひたすら嬉し
い気持ちを隠すことができなかった。2 週間後、私
は判決文を受け取った。しかし判決文には父と私
が父、子の関係で確認はできたが、ない死亡確認
を別途しなければならなかった。私は再び判決の
訂正を受けた。3 ヵ月ぶりに判決更正を受け入れる
という判決文を受け取った。これからは父の戸籍
を訂正するためには登録簿許可判決を受けなけれ
ばならなかった。私は登録簿許可判決訴状をイン
ターネットで関連資料を検索しながら小腸を書い
て父を見たことがある昌原家庭裁判所に受け付け
ることにした。認知判決文、判決更正確定願など
の関連書類を受け付けることになった。ついに 20
15 年 12 月 27 日、昌原家庭裁判所で登録簿許可判
決を受け入れるとの判決を終了することとなった
。こうなって私は 2015 年 2 月 25 日からその年の
12 月 27 日までに 3 件の裁判をすべて勝訴するこ
とになった。昌原地方裁判所で登録簿許可判決裁
判が勝訴し、ドアを出た時間が午後 4 時 40 分頃に
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なって外に出るぼたん雪が静かに降った。私はバ
スターミナルまで歩きながら涙を流した。釜山に
出て KTX に乗ってソウルに来る汽車中でもどんな
に泣いたのか誰にも分からない。一方では、政府
に対する裏切りも感じた。お父さんと僕が DNA 検
査をして 99,99%だったなら父親の子供と認めて父
親の行政書類を訂正するのが正しいと思うが、必
ずしもここまでしなければならないのか。それに
対する不満でさらに泣いたのだ。2013 年から 201
5 年まで経験した苦労は誰が知るのか、今後またど
のようにいつまでもっとしなければならないのか
、果たして政府が受け入れられるかという複雑な
思いで頭が痛かった。2015 年の仕上げは「僕が一
人の力でやり遂げたという誇りを抱かせてくれた
意味深い一年だったんだな」と思った。国軍捕虜
待遇法の一部改正案に遺骸を連れてくれば、実費
で 1500 万ウォンを支給するという法案が国会を通
過した。それによって該当する人々は 1,500 万ウ
ォンを支給され、2002 年に遺体を 5 体連れてきた
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人たちも一緒に支給された。遺骸を祀ってきたホ·
グムヒ、イ·ヨンスン、パク·ヒャンスクは私によっ
て「考えてもいなかったのに、10 年ぶりに実費を
受け取った」と。ありがたいと言いながら私に 15
0~200 万ずつくれた。しかしペク·ヨンスク、清州
にいるイ·オクブン 5 兄弟は電話も切ってたった 1
万ウォンも与えなかった。私はその時、人々が日
常で言う言葉の中で「トイレ」入る時と出る時の
音が違う」という意味が少し分かった。自分が急
いでいる時は、味付けもしてあげるように。小便
をしていざ反対の状況が生じれば私を知らんぷり
するのが人だ。そうやって前後、表と裏が違って
、どれだけ豊かに暮らすと言っているのか分から
ない。人は義理を除けば動物と同じではないだろ
うか。平和な日に口に甘いことを言う人より、難
しい日に真心の声と姿を見せる人が本当の同志で
あり友人だ。人は変心を知らずに生きてこそ大衆
に認められる。もらえる。とにかく僕が団体を率
いてお金を払ってもできない貴重な「人生授業」
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も行った。私は国軍捕虜待遇に関する一部改正案
をやり遂げながら、多くの涙を流したし、大声を
上げた。とうていその方法以外にはなかったから
ね。国会国防委員会で国軍捕虜待遇に関する有害
法の一部改正案の審査を行う際には、国軍捕虜担
当主務省庁次長ムン·サンギュンは国軍捕虜待遇に
関する法律で、国軍捕虜送還は国家的責務だが除
外すべきだという意見を出した。国軍捕虜の送還
は中国と国の運命がかかったが、「孫明和(ソン·
ミョンファ)のように父親の遺骨を持ってきて北
朝鮮に戻るというので問題になる」と述べ、私の
名前を取り上げ、国軍捕虜問題は国家的責務から
除外しようということだ。出席した韓基鎬(ハン·
ギホ)国会議員が「証人は 国防部のどの部署の
所属で職務は何か」と厳しく質問した。一瞬戸惑
ったムン·サンギュン次長は「国防部軍備統制課次
長です」と答えると、韓基鎬(ハン·ギホ)議員が
かっと怒りながら、「お前らが国防部に次長とし
て働いているので、国防部の格好がこうなる」と
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大声を上げた。私はその時「あ!こんな国会議員
もいるんだ!」という考えが聞いたし、その時か
らハン·ギホ議員を尊敬して仰ぐようになった。私
は一年を苦労した甲斐で暮れていく 2015 年を
送ったようだった。2016 年の新年を迎え、私はま
た別の挑戦を準備することを決心した。国軍捕虜
待遇に関する法律は曖昧なものが多かった。例え
ば、登録捕虜も生還軍捕虜として法となり、遺体
であれ死んで帰ってこられなかった国軍捕虜であ
れ登録捕虜でないため、この法には相応しくない
ことが分かった。私は 2016 年を迎えて認知、更正
、戸籍登録許可訴訟を勝訴したが、弁護士選任を
せずに一人でここまで来たし、これ以上進捗でき
る部分で悩んだ末に龍山警察署の刑事である義兄
弟の弟のキム·ギスンに問い合わせた。弟は平安法
務法人安大輝(アン·デフィ)最高裁判事を紹介し
てくれたので、事務室に行って相談を受けました
が、弁護士たちは国軍捕虜についてよく知らない
のだった。それで私はまた別の法人を訪ねて行く
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ことに決心した。世宗法務法人を訪ねたが、4 人の
弁護士が私が来るのを待ってインターネットで国
軍捕虜資料を選び終わったし、どうするかを相談
しながら、私がこれまで苦労した事実を泣きなが
ら話せば、一緒に泣いてくれるのだった。私は「
あ!私が一緒にする弁護士たちなんだ!」という
ことを 気づき、7 ヶ月間文書を作って送る作業を
することになったのだ。これまで 7 ヶ月間、文書
作業に気を使い、コンピューター作業、国会図書
館を訪れ、国内国軍捕虜資料を選んだ。そして国
防部、報勲処、陸軍本部などに答弁要請をして
答弁を受けて書類を作って送る作業をした。それ
によって私は目の疲れを得て角膜炎で結局目の手
術まですることになった。誰が知っていようが知
らなくても、私がすることだった。このような苦
労の末に 弁護士たちも書類を完璧に作り、結局は
2016 年 7 月 28 日、憲法訴願を出したのだ。2016
年 8 月 19 日、審判回付決定を受けることになった
。しかし、憲法訴願の決定を待っていますが、大
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韓民国に歴史的な事件が起こった。朴槿恵大統領
弾劾審判で満 1 年 6 ヵ月間、憲法裁は何もできな
くなった。私は私を後ろで応援してくれて支持し
てくれた朴槿恵大統領従兄の朴ジュンホン総裁と
義姉の金ジョンピル総裁を尊敬していたため、朴
槿恵大統領弾劾を受けて 3 ヵ月間、1 日も欠かさ
ず集会に参加し、寒い日にはコーヒー奉仕もした
。しかし、朴槿恵大統領はついに弾劾を受けて収
監され、金鍾泌(キム·ジョンピル)総裁は死亡し
、葬儀場で訪問して帰る道もあまりにも虚しかっ
た。しかし、私は国軍捕虜になった父たちの人生
の悔しさを晴らすことに最善を尽くすと心を持っ
た。名分もなく、ただ国軍捕虜「ソン·ドンシク」
の娘「ソン·ミョンファ」だけで戦うことも別に意
味がないようだった。国軍捕虜家族会登記簿の満
了日を 20 日ほど残した 2016 年 11 月 4 日となる
期間に代表であるハン·ヨンボクは、麻薬の件で平
沢刑務所に行った。その隙を狙ってチェ·スギョン
はハン·ヨンボク処を訪ねて登記簿満了を訂正でき
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なければ罰金が出ると印鑑を持ってハン·マングァ
ン司法書士を訪ね、総懐録を偽造して本人が代表
がなって国軍捕虜家族会は再び試練を迎えること
になった。会員たちが大騒ぎになり、国防部に陳
情書を出した。2017 年 6 月 10 日、私は会員にお
知らせし、非常対策委を構成して家族会を正そう
と考えた。7 月中旬にキム·ギョンスク、チェ·スギ
ョン、パク·ミオク、私の 4 人がソウル駅で会い内
部問題を解決していくことを要求したが、チェ·ス
ギョンは拒絶をし、結局は法廷争いにつながった
。私は南大門警察署に私文書偽造と偽造私文書行
使の件でチェ·スギョンを告訴したが、チェ·スギョ
ンは刑事の件で罰金 100 万ウォンを処理を受けた
。チェ·スギョンは再び正式裁判請求をしながら検
事を相手に控訴をしたが、検事の控訴を棄却する
という判決を受け、チョ·ヨンヒはその判決文が
勝ったとバンドに載せた。パク·ミオクが名前でチ
ェ·スギョンを代表取締の役職務停止仮処分訴訟を
起こした。1 審で 500 万ウォンの保証条件でパク·
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ミオクが勝訴し、チェ·スギョンは弁護士を選任し
て異議申請をした。仕方なく私も世宗弁護士を選
任した。2 審でもパク·ミオクが勝訴したが、チェ·
スギョンは抗告し 最高裁判所に 3 審を提起した。
私は弁護士費用 550 万ウォンを支払ったのか、送
達料まで 800 万ウォンというお金を国軍捕虜家族
会の整理に使った。家族会をちゃんと正直に名分
を見つけてあげたかったしその名分で父親たちが
名分を確実に見つけたいのが私の心だった。しか
し、私は国軍捕虜家族会で多くの怪我をして振り
返ったくなかったが、父親たちの名分のためにき
れいに整理してあげたかった。二度と家族会が崩
れてはならないという気持ちを立てたのだ。正直
に言うと、私がこの間国軍捕虜家族会のためにと
てもたくさん苦労したし、やっておいた業績を一
夜にして崩れるのを見ることができなかった。私
は真実はあくまでも時間の問題であり、真実と嘘
は 必ず明らかになるという真理を信じている。
そのため、いつかは会員たちが私に「申し訳ない
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」「よくできなかった」と訪ねてくる日が必ずあ
るという確信だけを信じたかった。平成 29 年国軍
捕虜家族会整理裁判は、令和元年まで 1 年 8 ヶ月
間行われてきた。その過程を経て、私は国軍捕虜
家族会のために誰が何と言おうと足を踏み入れた
。売りながら誠実にそして熱心に仕事をしてきた
。私は 2018 年 5 月をなかなか忘れられない。裁
判をなんと 5 回も進めたので、どんなにうんざり
だったのか···。でも今日が過ぎたら明日が来て、
一つ一つ落ち着いて整理していたがチェ·スギョン
は会員たちの中で偽りのうわさを何度も広めて信
頼が落ち、誰もその人の言葉を信じなかった。201
8 年 5 月 30 日は憲法裁判所憲法訴願事件(憲馬 26
2)が 最終決定を言い渡す日だ。私は緊張するけど
「私がこの日まで真実に生きてきたのに、空が福
を…」くれるという確信を持ちたい」という気持
ちを引き締めた。待ちに待った返事が来た。憲法
裁判所は私の請願申請で憲法違憲を引用すること
にしたという決定を下げたということだ。私は地
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下鉄に乗りながら一人で音を出すことができず、
流れる涙を拭いた。6 月 1 日にはテレビニュース
に字幕で出るものだった。私は憲法訴願で決定文
を受け取ったが、これから始めなければならない
が、多くの悩みで眠れなかった。国軍捕虜家族会
をどのように導いていくべきか、法について誰も
知らない会員たちをどう理解をさせるべきかどう
かなど様々な問題で悩みが先に眠れずストレスを
受けるようになり帯状疱疹を患うようになった。
私は自分自身を慰めなければならなかった。「こ
れが私の運命」そして国軍捕虜の父親たちの出身
成分として学べなかった彼らの痛い傷を私が背負
って行かなければならないこと」と考えた。私は
これを満足だと考えずに弁護士たちと今後取り組
むべき問題を討議することにし、弁護士たちとの
会議を招集した。私は会議の案件どおり憲法裁判
所に推薦を先に申請することになった。まず国防
部に登録する前に死亡した帰還捕虜に対する報酬
等支給申請の苦情を送ったが、回答要請は帰還す
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る前に死亡した国軍捕虜に該当し、法律により生
還捕虜と同等の報酬など支給が不可能であること
を知らせるという返事をもらった。私はこの返事
を弁護士事務所に送ってあげたが、これからどう
したらいいか悩んで眠れなかった。弁護士たちは
国防省の答弁書を持って行政裁判所に「故·孫東植
(ソン·ドンシク)保守など。取消処分」裁判の申
立てをした。2019 年 2 月 24 日、国軍捕虜家族会
は満 6 年ぶりに初めての総会を開くことになり、
正式会員の賛否投票で定款により会長選挙を進め
、会員が意見を尊重することになり、結局私が代
表に選出された。しかし 8 年間一人で法と戦いを
するようになって疲れたが会員たちの信頼を抱い
てまた走ってみることを約束するようになった。
私は 2019 年 1 月 9 日、米国務省の招請でワシン
トンを訪問した。軍捕虜として人権問題で特別講
義をすることになった。肌の色が扱い、言葉が通
じないアメリカ人も私の講義を聞いて一緒に泣い
てくれて勇気を与えてくれて感動した。帰国する
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時には国軍捕虜人権賞を与え、その人権賞を受賞
し、より多くのことをするようにという証印とし
て受け入れることを約束した。こうして僕は 2019
年国軍捕虜問題開始の決意を固める年の扉を開く
ことになった。私は母方の祖父の独立有功者の孫
娘の存在を認められ、という時にテレビで"独立有
功者の子孫を探します"という広告を見た。母が 19
84 年に中国延辺放送局の招待を受けて中国に行っ
て祖父の業績を広報した話を国家報勲処に独立有
功者公的調査申請書を送るために中国延辺放送局
に 1984 年 10 月に北朝鮮で「人を探します」と新
聞広告を要求したが、意外にもその時にお便り新
聞を送ってくれたのだ。私は中国に直接行って延
辺にいらっしゃる 60~80 歳。高齢者に花龍市老人
公園で延辺前に医師の独立運動をした事実につい
て話し、60 人から同意書をもらってきた。しかし
、独立有功者の公的審査は資料が不備だという
回答を受けた。2019 年 6 月、報勲の月には報勲処
に電話、公文書を送って国軍捕虜家族会も国家行
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事に参加させてほしいと提案し、6 月には 9 回も
行事を行った。私は 2019 年 6 月 22 日、国会小会
議室で韓国戦争 69 周年招請懇談会をすることにし
、行事準備で忙しく 通わなければならなかった。
国防部主務官の指定米は、「食事代だけもらえる
のに、カードで決済してくれる」ということだっ
た。しかし、私はイベントを 3 日残して 19 日、家
で倒れて起きられなくなると、結局 119 の要請で
病院に運ばれ、病院の診断は脳腫瘍癌の診断を受
けることになった。あまりにも大きな衝撃だった
が、行事のために病院で外出許可を得てすべての
行事を円満に進行した。以後、病院は 6 ヶ月進行
結果を見た後、手術決定をしようとしたが、6 ヶ月
後の検査では癌腫瘍進行になる。なので、もう 1
年進行結果を見守るということだった。私は 2019
年 10 月に再び行政訴訟を続けてきた。しかし、令
和 2 年 1 月 7 日に死亡前に国軍捕虜に報酬、退職
金支給不可という裁判を棄却させた。私は力なく
手脈がほぐれてどうすればいいのか考えているが
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、会員パク·ミオクはチョ·ミョンムンをさせて裁判
が棄却されたということをバンドに上げろと会員
たちに自分が法を知っているかのようにひたすら
言葉を移したのだった。そのままにしておけば、
また何かが起こるようだった。私は緊急理事会を
開き、これから団体が進む方向と当面の課題等を
逐 一 説 明 し た 。 ■ 脳 腫 瘍 診 断 書

- 彼らはなぜ「43 号」と呼ばれたのか。

1953 年 7 月 27 日、休戦協定により双方の捕虜交
換はなんと 3 ヶ月間引きずってきたが、100%交換

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は過ぎず、8,300 人の捕虜交換だけが行われた。
これも実は国際社会の世論もあるので、ただやむ
を得ず形式に過ぎないのだ。 国軍捕虜は北朝鮮で
労働力で役に立たない人になってしまった。国軍
捕虜たちは収容所生活を終えて故郷に送ってくれ
るなんて、汽車に豆もやしを植えるように燃やさ
れた。当然、韓国に行くと思って乗った列車は、
とめどなく北朝鮮に走ったという。汽車が到着し
たところは咸鏡北道温城駅、会寧駅、茂山駅など
北側地域だ。夜明けの夜明け頃だったと いう。
国軍捕虜たちは故郷に帰るということを聞いたこ
ともない不慣れな北側地域に来ると反抗を起こし
たという。温城駅に到着した国軍捕虜たちは呆然
としていた。引率人民軍軍官(将校)は「皆さん
の中で故郷の南朝鮮に行きたい人は左側に立って
、北朝鮮に残りたい人は右側に立ってください!
」と命令した。国軍捕虜の年齢は 10 代後半から 2
0 代前半だった。懐かしい親兄弟たちが待っている
故郷に行くという人々が大多数だった。そのため
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、左側のグループでは人員が多かった。瞬間、機
関銃の音が鳴り、左グループの人たちが倒れてい
った。その姿を見た瞬間「死んだらダメで生きな
いといけない」そういう考えで左のグループの人
たちが右に群れをなして移った.国軍捕虜たちは再
び軍隊式に収容生活を始めた。安全性建設隊が統
制する戦争復旧建設場で、投入され、3 年間奴隷と
して働いた。1956 年 5 月 11 日、金日成は戦後復
興建設現場として現地指導を行い、国軍捕虜を激
励した。それによって「政務院決定 43 号」が下さ
れた。国軍捕虜を正式な「朝鮮民主主義人民共和
国」公民として受け入れるという内容だ。それで
国軍捕虜は別名「43 号」という数字で呼ばれるよ
うになった。43 号の監視、統制は死ぬまで建てる
ことができず、43 号は連座制につながったのだ。

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-「43 号」は沈黙のまま生きなければ
ならなかった

国軍捕虜は北朝鮮でも部類、すなわち等級に分離
された。韓国に来た脱北者たちも国情院で初調査
を通じて本人の住民登録ができるように、当時の
国軍捕虜も本人の陳述に基づいて本人が住民台帳
を作ることになり、北朝鮮公民として認められる
ようになった。私は幼い時に父の存在について知
っている。できなかったけど高校を卒業しながら
社会に出てできることが誰もなく、安全部住民登
録課の文章を書きながら、父の存在をよりよく知
るようになった。父は傀儡軍捕虜「1 部類」だ。
1 部類ならもっと良好な人だと思ったが、1 部類は
6·25 戦争に参加期間が長い人だと言い、人民軍を
一番多く殺した人だ。私は父に「なぜ 1 部類にな
ったのか」と聞いたことがいた。父は私に韓国戦
争の時、281 高地は熾烈でしたが、その戦いでも
生きて洛東江の戦いでも生き延び、1950 年に戦争
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に出た。1953 年 5 月 26 日,足にけがをして死んだ
のかと思った分かったが、目を覚ますと人民軍病
院だった」と話した。父親は江東捕虜収容所に捕
虜 29 人組に属する最後の捕虜となり、結局は 1 部
類に分離された。一生死ぬ日までいつも笑顔を見
せずにいつも顔には陰がついていた。黙って話せ
ても話せなかったし、母親にいじめられ、尻尾の
ない獣のように仕事ばかりしていたのだ。1970 年
代には党の唯一の指導体制として金正日が登場し
、保衛部、党の役割をさらに強化していった。197
6 年 8 月 8 日、斧蛮行事件は計画的な事件だ。8 月
3 ヶ月前には、健康な国軍捕虜を唐、細胞から酒の
席を設け、国軍捕虜に酒を飲ませ、韓国故郷の言
葉を先に言わせて酒に酔って故郷が懐かしくて行
きたいと言ったと言って、政治犯収容所に捕まえ
ておいた。2 万人を超える国軍捕虜の収容空間が不
足すると、咸鏡北道鍾城郡(ハムギョンプクト·チ
ョンソングン)の捕虜 収容所にある 国軍捕虜を
真夜中に雪を包んで手をつないで引っ張って行っ
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て 縦城郡にある沼に連れて行って死刑をする
ひどいこともあった。北朝鮮で国軍捕虜は韓国戦
争前後の復旧建設に人力でこき使って国内外の情
勢を作り殺してしまい、獣に劣る労役を強いられ
た.咸鏡北道鍾城郡には 4·25 タバコ農場がある。
ちなみに 4·25 は、金日成が抗日遊撃隊を創建した
1932 年 4 月 25 日を意味する。北韓には 4·25 体
育団、4·25 映画撮影所など 4·25 の数字が合格し
た機関が多いですが、すべて軍隊傘下機関だと。
見ればいい。鐘城郡 4·25 タバコ農場周辺の「骸骨
沼」の正体を隠そうと除隊軍人たちと高等中学校
卒業生たちを集団で送りタバコ農場としての面貌
を生かしている。私の父は国軍捕虜 1 部類という
レッテルで 51 歳で茂山鉱山で肺がんと診断され、
茂山邑から 70 里離れてあるユクドンゴルの中に入
って、生きた幽霊のような人生を送った。父の姿
を見ると尻尾のない牛に違いないなかった。彼の
ように両親と兄弟に会いたがっていた。目を閉じ
る直前の 10 日前に生きた幽霊生活を終えるように
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なったので、その素晴らしい話を世の中にどうや
って全部話せばいいのか。するか。9 年間電気の火
も見ずに運命を締め切った可哀想な私の父だった
。このような人生を生きてきた父親の連座制で、
私たちの子供たちは一生重いレッテルを羽織って
、尻尾のない牛のように生きてきた父親を恨みな
がら生きてきた。代を継いで再び我が子たちの代
でそのように生きることは話にならず、あまりに
も悔しかった。北朝鮮に住んでいた時は人間扱い
もされずに暮らしていたが、大韓民国に来ては人
間扱いを受けるという希望を抱いてきた。ただ、
北朝鮮で生まれたという理由だけで一般脱北者扱
いで人扱いされず、死角地帯に追い込まれて暮ら
している。国防部での父親の行政記録を剥がして
みると、でたらめな書類と国軍捕虜家族証を与え
たが何の役にも立たない白紙の紙や同じだ。私た
ちは大韓民国に来ても無視され人権の差別を受け
ているのに対してどこに行って訴える所さえない
現実だ。国家人権委、国家権益委、青瓦台秘書室
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など政府機関に苦情と陳情書を送れば、その回答
として国防部軍備統制課国軍捕虜担当主務官に送
って彼から返事を受けさせる。私たちは悔しいと
言っても受け取る所がなく行政書類訂正を求めて
も全く聞き取れないようにすることが該当政府省
庁の観点であり、態度である。時間が経って少し
良くなるという希望はしてみるが国家が関心がな
いのに政府自治体が関心を持ってくれるというこ
とは話にならない。今からでも私たちにすまない
気持ちを持ったらまた私たちの悔しい思いを 10%
でも痛めたら大韓民国政府は反省しなければ
ならない。

- 政府に望む点

父親の国防行政を訂正しなければならない。兵籍
証明書全域 1951 年 5 月 18 日戦死を北朝鮮に抑留
期間を満 33 歳戦死に訂正し、DNA 局と 1322 号
遺伝子と鑑定書に記載されたとおり、親子、99,99
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%と認定された保氏推定子女ではなく子女確定確認
で 訂 正 し な け れ ば な ら な い 。
■ 父病的証明書(1 部)DNA 検査結果紙(1 部)
国家有功者中書(1 部)死亡確認書 1 部

帰国できなかった国軍捕虜たちに集団退役式を行
わなければならない。帰国できなかった国軍捕虜
は、「政治犯収容所」「銃殺」など、部類として
今後有害も見つけられない条件を考慮しなければ
ならない。国軍捕虜は大韓民国国軍だ。軍人とし
て軍人事法第 4 条に基づき勤続年限措置第 1 項第

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2 条の規定により勤続定年は満 33 年になると国家
有功者及び報国勲章、花郎武功勲章を適用しなけ
ればならない。国軍捕虜の子供登録後の就職支援
に関する大統領施行令に基づき、2 歳の年齢は 50
~60 歳で就職できない条件を考慮して 3 世代に改
正しなければならない。国軍捕虜の遺児たちに北
朝鮮でも国軍捕虜連座制で幸せ、夢も見られない
人扱いもされずに生きてきたし韓国に来ても死角
地帯に追い込まれた脱北者の無視を受けることな
く堂々とした大韓民国の国民で、父の血が流れた
遺族として、大韓民国国民として礼遇を受け
られるようにしてほしい。

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4.生命のように貴重な国家安保
- 今日の大韓民国

2019 年は南北首脳会談、米朝首脳会談を行い、心
を膨らませ、平和統一を口にし、直ちに統一され
るかのように人々は興奮した。文在寅大統領は南
北首脳会談で国軍捕虜の生死確認も取り上げず北
朝鮮の顔色ばかりうかがっていた。私は 2018 年の
南北首脳会談を控えて国軍捕虜生死確認の議題を
大統領府に丁重に送ったが、「今は国軍捕虜の生
死確認より非核化問題が優先」という返事をもら
ってとてもがっかりした。「人が先だ!」「国ら
しい国」と言う大統領が人が優先でなければ国軍
捕虜は大韓民国の国民でもなく、人でもないとい
う感情で不満を表出するようになった。私は国家
報勲処と通話を望んでおり、 公文も数通送った。
国軍捕虜家族会の会員たちも国家が主管するすべ
ての行事に参加させ、国家有功者遺族として認め
てほしいという公文書でも通話をした。私は通話
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中にとてもショックを受けた。「国軍捕虜の貢献
と威訓を認めない」の通話を受けて国軍捕虜は北
朝鮮でも「傀儡軍 43 号」に言葉では言い表せない
で一生監視の中で生きていかなければならなかっ
た彼らは人間以下の扱いもしない国のために私た
ちの父たちは 20 代のこの国のために銃を撃った。
と虚脱感を持った。北朝鮮でも鉄格子のない刑務
所暮らしから抜け出せず、生きてきたのに、どう
してこの国も国軍捕虜に背を向け、国軍捕虜を自
分の国民と思わない国だと思うとあまりにも悲し
くなる。こんな国だとは知らずに私たちの父親の
国軍捕虜たちは、死ぬ瞬間までも必ず一度でも故
郷、大韓民国にそのように来たがっていたのか。
このような祖国であることも知らず、国のために
血を流して戦って捕虜になっていつ迎えに来るの
か。このような祖国だから、20 代の青春を捧げて
戦ったのか。祖国が統一をそのように望んでいた
し、死んだ瞬間にも子供でも故郷に帰れと目もま
ともに閉じることができず遺骨を掘ってでも故郷
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に埋めてほしいという遺言を残したということで
すか。大韓民国は国軍捕虜の存在の価値も知らず
、いまだに国軍捕虜が北朝鮮に何人いるのか、何
人の生きているのかすら知らない現実があまりに
も残念だ。国軍捕虜問題でマスコミに乗ろうとし
ても、政府が敏感に反応を見せている。して育つ
世代に国軍捕虜は、「何か」という質問を投げか
ける。慰安婦は一人が帰ってもニュースに出るん
ですが、国軍捕虜が亡くなるとニュースも出ない
。韓国軍捕虜たちはなぜ人権の差別を受けて生き
ているのか。その子として生まれた私たちにも国
軍捕虜連座制、国軍捕虜離散家族、国軍捕虜人権
差別を継承に受け入れるべきかどうかだ。私は大
韓民国に来たら「英雄の娘が来た」と歓迎して抱
きしめてくれるという一筋の希望を抱いて父の遺
言を守りたくて韓国に来た。私は 8 年間、誰が認
めてくれようがなかろうが、国軍捕虜の父親たち
の名誉を見つけたくて生計も立てずに仕事をして
きた。しかし、ますます遠ざかっていく韓国戦争
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の傷は果たして解決できるのか。国軍捕虜たちの
名誉を見つけることができれば、私のすべてを
全部捧げたい。しかし、一人で努力しながらやっ
ていくのもあまりにも無理のようだ。時には挫折
感も感じる。しかし冷めていく韓国戦争の痛み、
遠ざかっていく韓国軍捕虜たちの痛い傷を癒すな
ら、また力になりたい。6·25 国軍捕虜問題は国家
の責務であり、政府が加減するように解決しなけ
ればならない宿題だが、政治家と記者たちは耳を
閉じて目をつぶっている現実だ。しかし、粘り強
くやっていけば、いつかは政府も私たちの痛い傷
に少しでも関心を向けないかという 希望の紐を
放さない。

- 私の人生の終着駅

私は国軍捕虜の名誉とその子供たちの補償を見つ
けたら国軍捕虜問題でこれ以上気にせずゆっくり
休みたい。しかし、国際社会や国連では未だに国
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軍捕虜の存在を知らないのが残念だ。私はいつも
心の中で「43 号」のドキュメンタリー映画と本を
作って世の中に出し、国立顕忠院に国軍捕虜追悼
碑を建てることを夢見てきた。でもいつかはその
夢が現実になるだろうという考えを心の中に抱い
てただ一つの道だけを走って行くつもりだ。私は 2
020 年、韓国戦争 70 周年に「43 号」ドキュメン
タリー映画「捨てられた英雄たち 43 号」の本と共
に国立顕忠院に国軍捕虜追慕碑を(社)6·25 国軍捕
虜として家族会議の名前でしようとしたが資金な
しで始める気にならなかった.そんなある日夢が現
実になっていよいよドキュメンタリー映画を撮る
ことにした。 しかし著作権登録をしようとすると
「43 号」はチャン·デソンの名前ですでに書かれて
いた。私は仕方なく"捨てられた英雄 43 号"を著作
権登録することにした。いよいよ 5 ヶ月間ドキュ
メンタリー映画を撮るよ。なった。映画を撮って
いる間あまりにも泣いたので全身がぶくぶくむく
んできた。私はドキュメンタリー映画「捨てられ
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た英雄たち 43 号」。を撮りながら 2004 年度国軍
捕虜イ·ギュマン遺骨が中国に来ると、娘のイ·ヨン
スンは父親の遺骸をお迎えに中国へ行ったが、中
国から遺骨を安置してきた人々は公安に捕まるこ
とになった。公安看守が外に出た隙を狙ってイ·ヨ
ンスンは父親遺骸の一部の足骨と尻骨を体内に隠
すようになり、イ·ヨンスンは大韓民国のパスポー
トを持っていて、北朝鮮で李奎萬遺骸を祀った彼
らは北朝鮮人だという理由で結局、イ·ギュマンの
遺体(上半身)は北朝鮮に送還され、(下半身)
はイ·ヨンスンの体内に隠して大韓民国に来た。
イ·ギュマンの遺体の下半身だけが大田顕忠院に祀
られたという場面を映画に入れたかった。映画が
完成すると、私は取締役会を開いた。取締役たち
に映画を見せてあげたかった。映画を見ている途
中、2000 年に金大中大統領が平壌を訪問。場面が
出る。理事のペ·スンヒは号泣しながら泣くのだっ
た。私は「なんで泣くの?」と聞いたら、素晴ら
しい話を。ということだった。金大中大統領の平
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壌訪問の際、ペ·スンヒの父親はそのように故郷に
帰るという紐を放さずに暮らしていたが、金大中
大統領が国軍捕虜の話は口にしていなかったが、
韓国に帰る時、豊山犬 2 匹を持って行き、数日
過ぎて北韓の路東新聞に豊山犬の名前をつけまし
たが、「ウリ」「ドゥリ」という記事が出た。当
時の国軍捕虜たちは、気が狂って自殺した国軍捕
虜のうち一人がペ·スンヒの父親だったのだ。1993
年 10 月、趙昌浩少尉は北朝鮮から脱北し、除隊式
を終えて 50 年になってようやく除隊した。当時、
チョ·チャンホは国防部担当官に除隊報告しようと
国防部に入ったが、50 年間北朝鮮に抑留され奴隷
として生きてきた補償金を 300 万ウォンを封筒に
入れてあげた。趙昌浩少尉は担当官に「50 年間、
私の身代金はこれしかないのか?」と札束を担当
官の顔にまいてしまったのだ。その後、国軍捕虜
チョ·チャンホ少尉のマスコミを通じて軍事専門家
と政府が乗り出して国軍捕虜待遇に関する法律を
国会で審議して法律が作られた。これまで生きて
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きた国軍捕虜 80 人が来られており、遺体は 7 区来
た。清州に住む李オクブンさんは娘だけで 5 人兄
弟だった。イ·オクブンも父の遺骸を連れてきまし
たが、父の遺骸を赤ちゃんの体の中に隠して飛行
機に乗ったら、赤ちゃんは音を泣きすぎて無事通
過してしまった。国軍捕虜 80 人も自費で命を変え
る厳しい死闘で大韓民国に来なければならなかっ
た。遺体も困難な経路を通じてのみ来なければな
らなかった。国軍捕虜を捨てた大韓民国の未来は
ない。20 代の青春を祖国のために捧げたが、彼ら
がいたからこそ今日の大韓民国があるのではない
か。国軍捕虜たちは死ぬ瞬間までご飯一杯を腹い
っぱいに食べることもできず、いつか祖国が自分
たちを迎えに来るのかという希望を抱いて一生奴
隷として生きてきた。息もまともにすることもで
きず、ある日突然つかまえて行くのか、胸を締め
たくても言えなかったし、声を出して泣いてみた
くても泣けなかったし、ただ胸で沈黙だけを守っ
てこそ生きることができた彼らだった。この地球
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上に国軍捕虜連座制、国軍捕虜離散家族連座制が
どこにあるのか。 本当に切に願うが国軍捕虜映画
「捨てられた英雄 43 号」と国軍捕虜のやられた人
権問題は、国際的に扱われるべきだと思う。ドキ
ュメンタリー「捨てられた英雄 43 号」と国軍捕虜
の子供に生まれた罪の痛い事情を記録したこの本
は本当に大切な価値を持った。北朝鮮で一生奴隷
や獣のように暮らしていたが、そのように来たく
て亡くなる時は雪もまともに閉じられず運命の
国軍捕虜の霊前に捧げる。映画を全部撮影して膨
らんだ気持ちで 3 月 27~30 日までイギリスで上映
して 31 日にアメリカに行って 16 州に通いながら
映画を上映しようと計画を立てていた。あいにく
1 月末からコロナ 19 で国全体が非常防疫体制とな
った。3 月 20 日イギリスに行こうとしたのに結局
止まってしまってしまった。だからといって私の
熱情も止まったわけではない。仕方なく韓国戦争
70 周年のためにマスコミの関心で国軍捕虜の存在
を知らせるためにワーキンググループのシン·ウォ
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ンシク博士。と多くの対話の末、国軍捕虜の人権
問題で国連に最初の陳情書を 出すことにした。
韓国戦争 70 周年で 2 度の国連陳情書を出しマスコ
ミの関心を集め、6、7、8 月まで無礼 21 件の記事
を出すことになった。事務室に記者たちがどっと
押し寄せてきて、お互いに待機しながらインタビ
ューをする珍しい風景まで披露した。
■ 2020 年 6 月から 8 月にかけて
メディアで紹介された記事

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韓国戦争 70 年分断から 100 年を眺める時、国軍
捕虜 2 世代がいなければこの世に国軍捕虜という
名前は消えるのがあまりにも悲しくなる。私は父
の名誉のために生計を立てて 10 年の歳月を走って
きた。泣いて大声を出しても見て、1 人デモ、法廷
争いなどやるべきことは全部やってみた。生きて
帰還した国軍捕虜は 1993 年から 80 人だ。しかし
、90 歳の高齢で 2020 年だけで 4 人が亡くなって
生存したのは 19 人に過ぎない。2020 年のように
一年に 4~5 人が亡くなるなら、5 年で国軍捕虜の
証言者の存在もなくなる。国のために犠牲になっ
た国軍捕虜の存在は商店街。犬より劣る人生を振
り返れば故国に来たが力も権力もない私たちの人
生もあまりにも哀れだ。マスコミが目と耳を閉じ
ており、政治家は自分たちの口の中で政治をする
から、果たして私たちの痛みを分かってくれる人
はいるのか、考える時にたった一人がいる。国会
議員の韓基鎬(ハン·ギホ)議員室を訪れれば、一
緒に泣いて耳を傾ける。聞いてくれる一人。私を
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弟のように思うんだって「私が国会議員をしてい
る間、国軍捕虜問題は解決してあげる」というそ
の一言にまた勇気を出すようになった。
■ 国会議員ハン·ギホ議員室

いよいよ国軍捕虜待遇に関する法律の一部改正を
するというニュースを受け、大変嬉しい。こうし
て 2020 年はコロナで体調を崩して病んでいるとき
に国軍捕虜待遇に関する法律の一部改正案が出る
というのは奇跡だと思う。2021 年は再び新しい課
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題を抱えて走ることにする。2021 年には国軍捕虜
問題を世の中に知らせ、一日も早く父親たち名誉
が 回 復 す る こ と を 期 待 し た 。 文 在 寅
大統領は民主党代表として大統領になる前に
私に会いながらその問題は傾聴して解決しなけれ
ばならない課題だとしかし、大統領に就任後、国
軍捕虜問題は北朝鮮の顔色をうかがわせた。見な
がら話したこともなく、現法訴願申請で違憲判決
を受け、閣議を直接扱いながら「(当事者がただ
やれば憲法訴願をするまで政府が乗り出してしな
ければならない)」と強調したが、その問題には
いつそうだったのか。という疑問でさらに怒りを
もたらした。私は国軍捕虜問題をどうすれば国際
社会が知り参加してくれるという考えでアメリカ
行きを選択することになった。アメリカに行って
から誰に会ってどのように解決すべきかを悩んだ
末、アメリカのワシントンにいる北朝鮮人権委員
会のグレギー事務総長を接触するようになって結
局アメリカビザを発給してアメリカに出発するよ
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うにできた。私は 2021 年 5 月 24 日仁川空港に行
ったけどコロナ英文検査紙の発行ができず、飛行
できず、急な気持ちでバスに乗ろうとする
途中足首を怪我して歩くことができず、足を地面
に踏むことができず、結局 119 番に乗せられて病
院に行ったが救急策だけ立てて嫁に車を呼び、ソ
ウルに帰って病院、韓方医院に行って鍼と副皇で
足を踏み入れることができたが、キープスした状
態で 26 日仁川空港に行って車椅子を申請し、結局
車椅子に座ってアメリカに発ち、アメリカから車
椅子で空港の外まで助けを借りてワシントンに到
着した。■ 米 6 月 4 日小会議

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米ワシントンで 6 月 4 日、米国防総省のお二人と
米国務省のお二人との懇談会式の小会議が開かれ
ることになりましたが、行事が開かれる前までホ
テルに泊まれば 1 日 130 ドル、食事代まで 1 日 1
70 ドル韓国ウォンでは 20 万ウォン程度の資金が
投入された。私は韓国から離れる時に夫、息子た
ちがくれるお金ではだめだと思ってアメリカにい
るマ·ヨンエに助けを要請し、二人の夫婦はニュー
ヨークで 6 時間運転で私に会いに来たし、僕のイ
ベントに一緒にいてくださって本当にありがたい
方々。マ·ヨンエは韓国国会ローカルパワーニュー
スの米国特派記者として活動し、国際人権活動家
としてスンデ事業で成功した人だ。しかし、チョ·
ジネは国軍捕虜の送還問題と朝鮮族の脱北偽装を
隠そうと最大の発悪をしている。脱北者のバン·ヨ
ンチョル(ニックネーム:キム·ギルドン)を前に
立たせ、あらゆる虚偽事実流布でフェイスブック
と SNS 殺人鬼のような行動をしている。私はアメ
リカで生活資金が足りなくてマヨンエの家で生活
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するようになり、韓国南北統一党代表のチェ·ジョ
ンフンほか 1 人、キム·ナンヒャンさん。合わせて
4 人のお客さんと一緒に生活することになった。
6 月 30 日に韓国に出国しようとしたが、ワシント
ンの北朝鮮人権委で連絡が来た。国際会議を招集
したが、30 日出国すれば準備することがあるので
忙しいとし、7 月 13 日にした方がよさそうだと話
した。私はアメリカで国際会議をすることにどれ
ほど心がふくらんでいるかそのように国際社会を
知らせる問題の始まりに嬉しかったが、期日が長
くなるにつれ警備問題で悩んだ。私はマ·ヨンエ代
表スンデを売っているところについて回りながら
スンデを売り渡しで経費の支援を受けた。私はマ·
ヨンエの助けでアメリカ救国同志会、国防将軍元
老会将軍と食事をすると、食事代はマ·ヨンエが払
うのがとても申し訳なかった。いよいよ 7 月 13 日
、国際会議はオンライン(zoom)で行うことにな
ったが、前日ワシントンに発つことになった。国
際会議が開かれるというお知らせが出ると、パン·
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ヨンチョル(ニックネーム)キム·ギルドンは攻撃す
ることになり、私はその時になって芸能人が悪質
コメントに(自殺)する人たちの気持ちが分かる気が
した。恐怖と恐怖を感じてニューヨーク領事館に
身柄保護を要請した.領事館では電話をするという
返事で受け入れてくれなかった。国際会議は盛大
に開かれた。私は初の国際会議演説者として心の
痛みに耐えられない。最初から涙を流して
しまった 。 ■ 国際会議

私は国軍捕虜たちも脱北して中国に来たら大使館
に電話をすれば大使館で(知らないふりをして)
接するが、私のような存在は国軍捕虜問題で国際
社会に知らせる活動でどれほど憎いだろうか。
という思いでまたコロナ自己隔離免除申請をした
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が、断られることになった。私はその後死んだら
死ぬし、生きれば生きるという覚悟で領事館に電
話をしながら担当者の名前を聞いて領事館の前で
記者会見し、1 人デモを続けると脅すと、担当者は
急を要するとメールをくれと言って 10 分で解決し
たのだった。私は 7 月 16 日に韓国仁川空港に到着
したが、イ·ジュウンとイ·スングムはお互いに交代
で電話がかかってきて理事会をすると言っていた
のに教会に来いと言ったが、コロナ検査で 24 時間
経理され、結局 18 日午前 11 時、陰性確認を受け
、午後 1 時に事務室に向かった。その日教会に到
着しましたが、アメリカに行く時、イ·ジュウンを
事務局長に委任するとイ·ジュウンが私に現金 200
万ウォンをくれたことに私は恥ずかしいと思った
のでイ·ジュウンカバン、引越しの T シャツ男性は
洋酒など 200 万ウォンの金額でプレゼントを買っ
てきて、配る気にもならなかった。教会の小さな
部屋にはチェ·アイン、チョン·ナムスン、ホ·ソジ
ン、理事ではなく会員たちを待機させておいて理
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事会の最初の案件にアメリカに行って国軍捕虜の
名誉を毀損した代表の孫明和(ソン·ミョンファ)
氏を解任するということだった。私はとてもショ
ックを受けて理事 会の案件を受け入れることが
できないと宣戦布告をして法でするという言葉を
残して事務室にソファーに横になって立つことが
できず、監査人のイ·チュンギョンが入ってきた瞬
間、10 人の会員たちと理事たちがドアを開けろと
叫んだらドアを壊して大騒ぎになり、結局 112 通
報などで一日をやっと持ち堪えた私はアメリカで
のストレスで韓国に来てまでも正気に戻れないほ
ど大変な状況で、その場で起き上がれず、結局正
気を失って 119 に身を乗せて病院に行って 7 時間
経って気がついたのだった。私はこれ以上支えら
れなかったし、メンバーたちがグループチャット
ルームで悪質コメントに恐怖感を持って警察署に
身辺保護申請をしてスマートウォッチを 6 ヶ月
つけて通うことになった。以後、イ·ジュウン、イ·
スングム、チョン·ナムスンウンなど教会で私を慕
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い虚偽事実流布で会員たちから印鑑を剥がして総
会を無礼 3 回行い南大門警察署に米 8000 キロ売
って食べたとして横領、私文書偽造、偽造文書行
使の件で 6 回告訴し、取締役ファン·ソンサムは 20
22 年 1 月 4 日に代表職務停止仮処分をしたが、
棄却した私は代表として 10 年の間、父であり国軍
捕虜たちの悔しさを解決しようと努力しましたが
、苦労して大変なことでは挫折感を感じたし、許
せなかったしまた法廷争いで行ったが、7 回告訴で
100%勝訴した。100%勝訴したが自尊心争いの紛
争は続き、私はこれ以上国軍捕虜問題は止められ
なかったので、ソウル市庁より非営利法人(国軍捕
虜家族会)を設立し、非営利法人国軍捕虜家族会の
活動を続けた。-尹錫悦 政府に大きな期待を

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2022 年はもっといいことで多くの活動をすること
になり、2022 年ソウル市長との面談から始まり、
ソウル市から補助金を申請し、より多くの活動を
するようになった。私は 2022 年 5 月 9 日生還国
軍捕虜イ·ソンウ老人と娘の説話、総務のペク·ジウ
ォンを連れて米国国連行事に出席するために再び
米国行きを出発した。アメリカに連れて行ったイ·
ソンウさん(タンク)は私をあまりにも大変な思
いをさせ、あまりにも苦しさを与えたので、その
お年寄りと縁を切ったのだ 2022 年 7 月 20 日、大
韓民国における米国の北朝鮮人権グレッグ事務総
長,マキシウェル米国防総省大佐,ニューヨーク州下
院議員および補佐官を招待して国際フォーラム行
事も見事に進行した。
⬛ 国際フォーラムのイベント写真

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イベント招待で海外から入ってくる方の飛行機チ
ケットは、まずマ·ヨンエが払って韓国で私が返し
てあげることにしたけどお金は思った通りに解決
できず、夫が 1500 万ウォンを払ってくれてマ·ヨ
ンエに返した。2022 年 10 月 1 日国軍の日行事参
加者申請をしたが、順調に打ってくれて、うちの
団体は 7 人で参加することになり私は代表なので
中央座席に名札をつけておいて会員たちにも名札
が付いていて、初めて国軍の行事に中央座席に座
れる光栄で涙を流してしまった。
⬛ 2022 年国軍の日行事

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2022 年 12 月 23 日、6 年間待っていた憲法審判の
判決が下されたが敗訴した。私は再び方向を定め
、国軍捕虜問題を解決するために立ち止まるかも
しれない。なかったし、2022 年は体も大変で疲れ
ていた時、周りの知人たちである李健熙(イ·ゴン
ヒ)の弟が大きな力になってくれた。2023 年、国
連人権委ソウル事務所長は、直接私たちの事務室
に訪問し、国軍捕虜とその子供たちが経験した国
軍捕虜人権と国軍捕虜の人権蹂躙問題は国際社会
とともにするという 約束をした。
⬛ 国連事務所長と事務所

私は尹錫悦政府に多くの期待をかけてもっと多く
のことをすることを誓いながら、現政権で国軍捕
虜問題を解決できなければ、死んでもできないと
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いう覚悟を新たにすることになった。尹錫悦政府
が初の北朝鮮人権大使を任命し、私は嬉しい気持
ちでイ·シンファ大使との面談を推進することにな
り、結局面談が実現したし、私たちに希望の灯り
も同じで、また元気を出すことができる。あった
し勇気を出そうとした。国軍捕虜問題で苦しんで
いるのを見守ることができず、一緒にソウル市庁
ムン·ソンホ市議会議員は、国軍捕虜支援に関する
条例案を作ることになり、2022 年 12 月 19 日国
軍捕虜支援に関する条例案懇談会を開くことに
なった。⬛ ソウル市条例案懇談会

2023 年、新たな挑戦の年を迎えることになった。
今年はもっと良いことと国軍捕虜問題に大きな変
化をもたらす年がなることを祈りながら、前だけ
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を見ていくという決心を固めてみる。私はついに
米国務次官補との面談を米大使館で行うという
連絡を外交部、統一部に受けた。韓国にいる行方
不明者や拉致被害者団体も 20 年以上北朝鮮に行方
不明、拉致問題のために活動したが、米国務次官
補との会談は初めてということだった。私は最初
の名簿には名前もなかったし、私を後ろで応援し
てくれる弟たちがイ·シンファ大使に電話で国軍捕
虜代表の孫明和(ソン·ミョンファ)氏を出席させ
てほしいと提案し、その場に出席することに
なった. ⬛ 米国大使館との面談

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多くの活動で国軍捕虜人権問題のために仕事をし
ながら私は 多くのことを振り返ることになる。
国軍捕虜の子供ではなく、脱北者の身分で韓国に
来たが(差別)という二つの単語から再び捨てられて
いることを感じた。しかし、韓国の会員たちは脱
北者の差別よりも、まるで国軍捕虜の子供たちの
ラーメンすごいって。考えることが私としては彼
らにどう説明することもできなかったし、国軍捕
虜の子供の地位を認めてくれなかったことにあま
りにも恨めしかった。国軍捕虜問題は時間がない
。時間を短縮して国軍捕虜 2 世代である私たちの
課題だと思う。国軍捕虜の子供たちは会話ができ
ない状況で、後ろを振り返ってみると痛い傷でた
だ北朝鮮で監視を受けながら生きてきたし、私が
生きるなら一人は死ななければならないというそ
の本性は変わらず、相手が傷を受けた関係なくや
たらに浴びせかける現実の前で億丈が崩れ落ちる
ことにもっと心が裂ける。今後、国軍捕虜の名誉
回復は我が大学にできなければ永遠に覆われると
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思ってもいない人たちを見ると、むしろ心の慰め
をしてみる。でも傷だらけで心も疲れて肉体も疲
れた体で国軍捕虜名誉回復のための仕事を手放せ
ない私だけの時代的な課題と見なしたかった。
でも傷だらけで心も疲れて肉体も疲れた体で
国軍捕虜名誉回復のための仕事を手放すことがで
きない私だけの 時代的な課題と見なしたかった。
私はこの本を書きながら流れる涙を浮かべて痛い
過去を背を向けたくなかったが、女性の体で国軍
捕虜の子供に生まれた罪で波乱万丈の人生を振り
返るきっかけになり、この世に生まれ変わったら
私と同じ人生ストーリーを作らない人生を生きて
ほしい。ドキュメンタリー(捨てられた英雄 43 号)
は新型コロナウイルス感染症で上映をできず試写
会もできなかった。そのため、国軍捕虜たちは、
沈黙で生きてこそ生きることができたということ
を知らせるために「(沈黙の 43 号)」という私の
手記の本を書いたのだ。この本で国軍捕虜とその
子供たちが国軍捕虜連座制で生きてきた痛い傷を
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知らせたくてこの本を書く全過程で涙を流しなが
ら漢字、漢字、書き下ろした。果たして土地の塊
が小さい国がこんなにきついから権力者だけが住
む国としか見えない国家観がきちんと立っている
のか。に対する疑問も生じたし、生還国軍捕虜た
ちは北朝鮮で 43 号として生きてきた人生があまり
にも悔しくて北韓の金正恩を相手取って損害賠償
訴訟をして勝訴したが、裁判判決に大きな意味は
ない。南北経済文化協力財団(経文協)は、朝鮮中央
テレビの映像をはじめとする北朝鮮の著作物を使
用するたびに、北朝鮮に著作権料の支払いを代行
する韓国国内の機関である。経文協には北朝鮮の
テレビ放送著作権料が数億ウォンに縛られており
、取り立て命令で国軍捕虜に支払わなければなら
ないが、経文協理事長が文在寅秘書室長のイム·ジ
ョンソクだが、イム·ジョンソクは再び控訴して棄
却されても執行は行われない。裁判所の判決文も
権力の前には身動きが取れないのが 大韓民国だ。
私もやはり同じように家庭裁判所で認知訴訟、判
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決更正、登録簿許可判決で勝訴し、決定文を国防
部に提出し、父の行政書類の訂正を要求したが、
裁判所の勝訴判決は何の効力も見られない.このよ
うな国が法治の国、民主主義の国、人権を尊重す
る国ではなく、北朝鮮の権力者と何が違うという
のか。私は 45 年間北朝鮮で生まれ、大韓民国に 1
6 年間住んでいるが、行政がめちゃくちゃな大韓民
国国民として生きていること自体がすごく嫌にな
る。父たちである国軍捕虜たちに 10 代、20 代に
彼らが手に銃を握らせて国のために戦ってほしい
と命を下し彼らが血を流して戦って守り抜いた祖
国で権力者を豊かに生き、富貴栄華を享受するの
を見ると息が詰まり言葉も出ない。国軍捕虜連座
制、二度の離散家族として生きてきた 国軍捕虜
たちとその子供たちが悔しい人生の補償はどこに
行って補償を受けなければならないのか。私たち 2
世代に限って国軍捕虜の父親たちの名誉を探すこ
とを仕上げなければならないと思いますが、国軍
捕虜問題を 3 世代に譲ることはできないという確
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信を持って躊躇しながらも、また立ち上がって元
気を取り戻す。大韓民国の未来は見えない。軍隊
に出た 20 代、30 代の青年たちの考えを見ると、
国が危険にさらされても関心がないということが
今育つ世代の心だ。国のために犠牲者の待遇、礼
遇ではなく被害者を待遇、礼遇し、セウォル号、
済州島 4、3 暴動の被害者、麗水の被害者。梨泰院
死亡者。など被害者は国が惜しみない礼遇をして
くれる国があるという そのものが恥ずかしい。
地球が一周して国が変わってもただ個人の私欲に
目を見張る国になったのだから、国軍捕虜と国軍
捕虜の子供。どこの国に行って話しても聞くとこ
ろがなくて一緒に泣いてくれる人がいないという
ことがあまりにも哀れだ。私は国軍捕虜の悔しさ
、父の恨みを晴らそうと生計を立てて仕事をして
きたし、お金に対する欲、私欲を持っていたらこ
の仕事ができなかったと思う。私は自分が病気に
なったことがあり、自分が経験したことがあるし
、父が一生奴隷のような人生を生きてきた姿を見
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たし、そのように親、兄弟、故郷が懐かしくて目
もまともに閉じられず亡くなる瞬間までも遺骸で
も掘って故郷に埋めてほしいというその遺言を守
ってあげようと父の遺骸を連れてきたので兄、妹
、甥、3 人を政治犯収容所に行かせてまで、父親の
悔しさ、兄弟たちが 恨みを守ろうと始めたことを
やめることもできないし私の代で解決できず、子
供代にまで譲ることはできないというただその責
任感、使命感でグッドグッドが勝ち進んでいるこ
と。違うかな?国軍捕虜問題は国家の責務だと国
の統治者である大統領になる人たち、皆言います
がそれは口に飴を塗る音に聞こえる。国軍捕虜問
題は政治的な論理に合致した問題であり、国家が
解決しなければならない政治的な問題であるにも
かかわらず、保守、進歩がどこにあり、保守とい
う李明博政府、朴槿 恵政府では国軍捕虜という
単語も口に出さなかった。そうすると、文在寅政
府は平和統一を口にする。すべきではない。平和
がただなのか。平和統一を語る前に韓国戦争の痛
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みの過去を清算することもできないくせに何?
平和、停戦宣言?生ショーをするのか?すべての
現実を見ると大韓民国は国軍捕虜を捨てた。国の
血税で中国軍の遺骨は発掘して中国に送る行事も
国の税金で行う時、私は億丈が崩れた。なぜ?国
軍捕虜は中国共産軍によって捕虜となり、一生奴
隷として生きてきた元帥だからこそ、その元帥た
ちの遺骸を掘り出して中国に送ってくれるという
のが呆れた。大韓民国は北朝鮮で国軍捕虜 1 人も
送還できず、遺骨 1 体も送還できなかった。国が
この世の空の下のどこにもなく、ただ大韓民 国
一つしかない。国軍捕虜たちは自分たちの命を差
し出しながら死に物狂いで故国に脱出し、子供た
ちは遺体を掘ってリュックサックに背負って父親
たちが遺志を奉ろうと命を投げた。国家は何をし
たのか。国軍捕虜を捨てた国に祖国がどこにある
のか。国民は国家に忠誠しなければならず、国家
は国民を保護 しなければならないことが憲法に
なっており、北朝鮮人権は言っても国軍捕虜人権
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、国軍捕虜の人権蹂躙は語らない。国軍捕虜人権
、国軍捕虜人権蹂躙も語らない国では、国軍捕虜
を捨て、国軍捕虜が青春も丸ごと盗んだ国に希望
はないと言いたい。最後に私は大韓民国に怒り、
国軍捕虜を捨てた大韓民国にいつかは南の空だけ
を眺めながら、名前の分からない山の谷間に横た
わっている国軍捕虜の魂たちが無念を大韓民国の
地に浴びせてくれないか。とも考えてみる。大韓
民国の悲しい過去、国軍捕虜問題解決のための私
の終着地は果たしてどこだろうか。終わりの見え
ないその道に神の聖なる恩寵があることを願い、
国軍捕虜連座制で生きてきた国軍捕虜の子供たち
に全国民が関心を持ってくれることを神様と共に
両手を合わせて祈る。

書き手
ソン·ミョンファ
社団法人韓国軍捕虜遺族会

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後援口座、韓国のウリィ銀行 손명화
1002-846-605377

沈黙の 43 号 2023 年 3 月 01 日完成


日本語訳および電子書籍整理後援
放送メディア消費者主権連帯
キム·ヨンソン

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