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言語教育の中の異文化間コミュニケーション : 日

米の自己表現、もうひとつの誤解

著者 佐々木 行雄
引用 英米言語文化研究. 1996, 44, p.111-129
URL http://doi.org/10.24729/00009952
言語教育の中の異文化間コミュニケーション
一日米の自己表現、もうひとつの誤解一

佐々木 行 雄

牛 論

言語教育(特に、英語教育)の中で、最近最も注目を集めたのは指導要領
の改定であった。重要な点は2つある。1っは「外国語で積極的にコミュニ
ケーションを図ろうとする態度を育てること」と、他の1っは「言語や文化
に対する関心を深め、国際理解の基礎を培う」ことである。キーワードは
「コミュニケーション」と「国際理解」である。高等学校学習指導要領の解
説書には、「コミュニケーション能力はこれを行おうとする積極的な意志や
態度によって向上する」(p.84)とし、生徒のコミュニケーション能力を育
成するために、個人別、小集団別の指導、視聴覚教材などの活用、更に、ネ
イティブ・スピーカーの協力を得るなどして、生徒のコミュニケーション能
力を育成し、特に聞くこと及び話すことのコミュニケーション能力を育成す
るためには、聞くこと、話すことの言語活動を充実させる必要がある旨、書
かれている。(cfp.77&117)しかし、新学習指導要領や解説書に述べられ
ていることは、目標言語の文法構造や技能をどのよ,うに習得させるかという
教育技術の問題に重点がおかれていて、J. V.ネウストプニー(1982)のいう
「文法外コミュニケーション行動」(cfH・二)に対しての配慮が欠けている
気がする。即ち、「積極的にコミュニケーションを図る」といっても、、ただ
話し手が互いに自分の考えを相手に伝えればよい、というものではない。話
題の種類、相手、時、所などに係わるコミュニケーションのルールにそった
ものでなければならない。何を、どこで、何時、どのようにしてコミ.ユニケー
ションを図るのか、さらに、相手をoffendしないで自分の意図を理解して
もらうにはどのようにすればよいか、相手をどのように褒めたらよいのか、

111
112 佐々木 行 雄

相手から褒められたらどのように受けとめたらいいのか、謝罪(ことわり)
をすべきかどうか、どのように謝罪する(ことわる)のがよいか、あいつち
はどのように打つべきか、等の社会言語学的側面、特に異文化間コミュニケー
ションにおける対人関係に係わるルールが言語教育の中にもっと取り入れら
れるべきだ。

「国際理解」についていえば、中学校指導書には「外国のことだけを受け
身的に理解することだけではなく、日本の文化や日本人の考えなどを海外に
知らせるという積極的な面もあることを忘れてはならない」(cfp。7)とあ
るが、全くその通りである。しかし、ここで注意すべきことがある。それは、
自国の文化や考え方を知るのは容易なことではない、ということである。外
国人に自国のことを聞かれて返答に困るのはよく経験することであるが、こ
のようなとき、われわれは自分をいかに知らないか思い知らされるのである。
大人や教師でさえもそうなのだから、学生や生徒はなおさらである。従って、
重要なことは、人は自国の文化や考え方に対して、無意識に漠然と、しかも
不完全な概念を抱いているのであるから、それを意識的に、明確に、完全な
ものへと近づけなければならない、ということである。それにはまず、文化
的自己認識から始める必要がある。Samovarθ’αZ.(1983)は文化的自己認
識の重要性について論じているが、それによると、特定の文化(ビジネスマ
ンの出張先など)についての訓練よりも、文化的自己認識の概念について訓
練を受ける場合のような一般的な文化についての訓練の方がより必要である、
と異文化訓練プログラムの担当者は考えているという。その理由は出張の間
際まで訪問先が知らされなかったり、さまざまな国を訪問する人があるから
である。また同書は、文化的自己認識により、異文化について無知であるこ
とに気づくと共に、異文化について学ぶ意欲が起こり、自他の文化間の類似
点、相違点を見いだし、比較対照し、更に異文面当コミュニケーションの問
題点をも診断できるようになる、という。(cfH・3)
Samovarθ’α♂.(1983)はコミュニケーションを成功させるための文化的
側面には次の3っのタイプがあるとする。(p.81)
言語教育の異文化間コミュニケーション 113

1)我々自身の物の見方、考え方、理解の仕方、そしてコミュニケーショ
ン行為に影響を及ぼす我々の文化のパターンを知るということである。
これは、文化的自己を認識するということである。
2)他の文化に育った人々のコミュニケーション行為に影響を及ぼす文
化のパターンを知ることである。
3)文化の違いを明確にし、その違いがどのようにコミュニケーション
に影響するかを知ることである。

本稿は言語(特に外国語としての英語)教育の理論と実践に係わる研究分
野の一環として、上述の1)、2)を現時点の目標に据え、日米の対人関係に
おける自己表現行動について調査・研究を行ったバーンランド(1979)が抱
える4つの問題点を取り上げた。特に問題点(4)では、日本人の「虚偽の自
己表現」について考察してみたい。日本人の対人関係における自己表現は、
遠慮、曖昧、沈黙、微笑などによる抑制された非言語的行動様式を特徴とし、
しばしば異文化間での誤解の原因となる。しかし、言語行為が明瞭であって
も衝突・誤解を生じることがある。ここでは、大学生を被験者としたアンケー
ト調査をふまえ、そのような誤解の様相と原因をつきとめようとした。

1.日米表現構造の比較調査、バーンランド(1979)の問題点(1)

日米それぞれの自己表現の特徴的相違、及びそこから来る両者の誤解につ
いて最も重要なカギとヒントを提供してくれる研究書の一つは、D. C.バー
ンランド著『日本人の表現構造』(1979)であろう。1彼は日本人とアメリ
カ人の公的自己(public self)と私的自己(private self)の領域を想定し、

口本人の私的自己の領域の方が公的自己に比してより大きな部分を占めると
いう仮説をたてた。更に、彼はこの仮説に基づき、両者の意志疎通の行為に

1 これは、D, Barnlund(1975)丁目P配δ‘fcαη4例bα彪S2ゲ勿ノ¢ραπαηd仇θ
ひη惚dS観θ&の日本語版である。
114 佐々木 行 雄

ついて大学生を被験者とした調査を行い、日本人のプロフィール、アメリカ
人のプロフィール、そして日米の合成プロフィールを作成した。それによる
と、34項目の「意志疎通の特徴」のうち、日本人の対人関係の特徴として
被験者の「選択回数」が最も多かったのは、「遠慮する」(reserved)であ
り、それに対するアメリカ人の対人関係の特徴は「自己主張する」(self as−
sertive)であった。ついで日本人の場合は、「改まっている」(forma1)、
「用心深い」(cautious)、「つかみどころがない」(evasive)、「黙りがち」
(silent)、「自主性がない」(dependent)と続き、アメリカの場合は、「率
直な」(frank)、「くだけた」(spontaneous)、「形式ぶらない」(informa1)、

「おしゃべり」(talkative)、「おどけた」(humorous)と続く。

バーンランド(1979)は、上述の調査結果のプロフィールと他の専門家達
が異なる前提に基づいて行った研究とが多くの側面で一致しているとして、
調査の妥当性を主張すると同時に、日米の表現形式の特徴を次のように述べ
ている。

日本人は交際上傷つきやすく、はるかに遠慮深い。自己を表現する際、は
るかに改まっており、用心深く、あまり開放的かつ自由闊達には話さないよ
うである。それと対照的にアメリカ人は自己主張が強烈で、社会生活上の状
況にはさほど敏感ではなく、自己を表現するのにはるかに形式ぶらず、くだ
けており、自分の内面的経験について、比較的多くのことを表わすようであ
る。(P,79)

これを2っのキーワードで表せば、日本人の表現形式は「遠慮する」であ
り、アメリカ人のそれは「自己主張する」である。言い換えれば、一方の社
会は「抑制された自己」を好み、他方は「抑制されない自己」を好むという
ことができ、日米は2っの相対立する表現形式を有する文化であるというバー
ンランドの主張は、確かに他の専門家達の研究と一致する点が多い。例えば、
Gudykunst(ed.〉(1993)はDale(1986)に基づいて、日欧の社会とコミュ
ニケーションの相違を次のように要約している。
言語教育の異文化間コミュニケーション 115

To summarize, Table 2.1(adapted from Dale,1986)contains


the major contrasts that writers in theη魏。頭η猶。ηtradition tend

to draw between Japan and‘‘the West.”ハ励02η’勿π)ηwriters, for

example, see Japan as a homogeneous, vertical society based on


hierarchy, shame, duties, harmony, and dependence. The West,量n

contrast, is viewed as a heterogeneous, horizontal society that is

based on egalitarianism, guilt, rights, rupture, and三ndependence.

Communication in Japan is viewed as being based on a language


that prizes reticence, sentiment, silence, ambivalence, emotions,

subjectivity, situationa1,10gic, and particularity. Communication


in the West, on the other hand, is viewed as being based on lan−

guages that value rhetoric,10gic, talkativeness, rationality, objec−

tivity, rigid principles, and universality.(p.27)

このように日米の表現形式は欧米起源の二分法タイプの概念分割に基づく
場合が多い。日本人の表現構造の特徴である「依存」、 「調和」、 「沈黙」、
「寡黙」、更には「微笑」までも、「遠慮」あるいは「自己抑制」という枠で
カバーすることが可能である。これは言語的(verbal)コミュニケーション
と非言語的(non−verba1)コミュニケーションの両面にわたっているが、「沈
黙」や「微笑」、そして「以心伝心」、 「察し」、「腹芸」などに代表される
ように、欧米と比較すれば非言語的コミュニケーションによる自己表現に、.
より依存していると言えよう。これは欧米人が「言語化」による自己主張を
特徴とするのと対照的である。欧米人にとって、「言語というものは、自我
の構築にとって不可欠の素材」であり、「言語化できないことは自我の統制
内に属さないことである。」(河合隼雄、「梅原猛編著(1990)」p.176)新
渡部稲造(1991)は、言葉や感情の抑制・克己こそ.一千年の進化をへて成
長した武士道の.真髄であるとし、「人の深奥の思想および感情一特にその宗
教的なるものを多弁を費して発表するは、我が国民の間にありては、それは
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深遠でもなく誠実でもなきことの間違いなき徴であるとなされる」、我が国
では言語はしばしば「思想を隠す技術」である、と言っている。(p,93)
以上のことは、要するに、日本人の対人関係における自己表現の特徴は、
「自己抑制」的であるということである。しかし、日本人の日常における言
語行為を注意深く観察すると、日本人が必ずしも何時も「自己抑制」的で、
寡黙であるとは限らないことがわかる。例えば、ごく親しい仲間同士では、
女性のみでなく男性間においても、率直な自己主張や相互作用(interac・
tion)が観察される。 Gudykunst and Kim(1984)は、 Barnlund(1975)
の“lnterpersonal distance, as estimate4 by self・disclosure, was sub・

stantially greater among Japanese than Americans”(p.79)という結


論は、最近のGudykunst and Nishida(1983)の調査と矛盾するとして、
次のように述べている。

These researchers find that when self・disclosure in close rela−

tionships is examined, there are more similarities than differ一

ences between college students from Japan and from the United
States in the frequency of self−disclosure across nine topic areas.

Specifically, they find similarities in terms of the following di−

mensions:relationships with others, parental family, physical con−

dition, schoo1/work, money/property, interest/hobbies and


att三tudes/values. On the other hand, Gudykunst and Nishida’s

research reveals differences between the two groups of students on

three dimensions:10ve/dating/sex, own marriage, and emotions


/feelings. These results suggest that the frequency of self一

disclosure in close relationships may be somewhat similar in Ja一

pan and the United States. (p.182.下線は筆者)


言語教育の異文化間コミュニケーション 117

筆者の指導の下で卒業論文を書いた樗木さんは、バーンランド(1979)
を参考にして、6種の相手と7つの話題について日米の若者を対象とした自
己開示(self−disclosure)の調査を行った。その結果、日米の総平均点は5
点満点で、それぞれ2.84と3.05であって、バーンランド(1979)のし88と
2.80の場合ほど大きな差は認められなかった。また、ある話題については
日米の逆転現象も見られた。2
以上のことから、日本人が控えめな表現を好み、あらゆる話題・相手にわ
たって言語による自己表現が乏しいというバーンランド(1979)の仮説と結
論は、そのまま現代の若者にも適応できるかどうか疑問である。

2.日米表現構造の比較調査、バーンランド(1979)の問題点(2)

バーンランド(1979)の仮説と研究調査は、日米の自己表現に関する極め
て興味ある問題を提起している。しかし、異文化間コミュニケーションにお
ける対人関係という観点から見ると、研究調査の方法と結論の導き方に問題
がある。この調査は「役割表現のチェック・リスト」を用いている。リスト
には30の形容詞(例えば、改まっている、遠慮をする、自己主張する、な
ど)が並んでおり、各人が相手(例えば、母親、同性の友人、目上など)に
対してどのように接するかを調べるため、「アメリカ人同士が話し合ってい
るとき、その話し方を最もよく表している5つのことば」と、「日本人同士
が話し合っているとき、その話し方を最もよく表している5っのことば」を
このリストから選ぶようになっている。これが122人の日本人学生と、日
本に留学している42人の留学生を対象に行われた。この調査をふまえ、バー

2 樗木理香(1996),pp.3・5.論文のデータと彼女のコメントによれば、 TVや服
装などの好み、将来の目標など、自分の意見を主観的に述べることが出来る話題に関
しては、日米間での相手によるスコアの差は見られない。しかし、反対意見、レスト
ランでの好みなど、相手の意向をうかがう話題については、友人と家族の間で日米間
にかなりの違いが見られる。このことは、「ソト」には遠慮し、「ウチ」は甘えると
いう日本人の特徴をよく表している。
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ンランド(1979)は日米二文化の合成プロフィールを、「「改まっている」と
「形式ぶらない」、「黙りがち」と「おしゃべり」、「遠慮をする」と「くだけ
る」、「つかみ所がない」と「率直な」は、はっきりと文化の特徴を表してい
るだけでなく、同じ属性の両極端の構成要素である」(p.68)と結論づけた
のである。問題はここからである。彼は、この2つの文化の構成員が対面す
るとき、コミュニケーションにまつわる次のような問題点が生ずるという。

...残るところなく発表し、あけすけに話し、活発な議論を主張すると、
日本人にはそれがプライバシーの侵害と受けとられ、継続的な対人関係を
脅かすものと考えられるかもしれない。一方、形式ばったやり方や人をそ
らさないことば、議論の回避などを強いると、アメリカ人はそれを総生産
的なやり方でぐ関係を継続させにくくする脅威ととるかもしれない。
各々の行動は、少なくとも部分的には、互いにまったく理解しがたいも
のである。このようなまったく理解できないことに直面すると、それぞれ
が相手のことを自分で納得するのに、自分の文化の様式と、その文化によっ
て定あられた前提に頼る他はない。すると日本人は、「人を欺き」「遠回し
にものを言い」「得体が知れない」ものになるらしい。一方アメリカ人の
方は、「横柄で」「傲慢で」「けんか早く」なるらしい。かような見方が続
く限り、相違点は誤解や、さらに不信によってすら、複雑になってしまう
のである。(p.203)

日米という2っの文化圏の人々が交わるとき、このような衝突が果して生
じるだろうか。その可能性は極めて少ないであろう。その理由は、ある2っ
の文化圏を比較し、類似点や相違点を明らかにした上で、類似点には問題は
ないが相違点は誤解や衝突を引き起こすであろうと予測しても、それが必ず
しもその通りになるとは限らないからである。この現象、は、1960年代に盛
んに行われた構造言語学に基づく対照分析(Contrastive Analysis)が2
言語間の困難点を十分予測できなかったことと類似している。この予測困難
言語教育の異文化間コミュニケーション 119

な現象を指摘したのは実際の場面で生じた言語現象をエラーの立場から捉え
たエラー分析(Error Analysis)であった。異文化間コミュニケーション
における誤解や衝突をつきとめようとするときも同じことが言えると思う。
対象とする2っの文化圏の特徴を比較調査・分析し、その結果のみに基づい
て問題点を予測することは必ずしも賢明なやり方とは言えない。その結果を
実際の場面や状況の中で検証しなければ正しい答えは得られないからである。
Condon(1979)は異なる文化背景をもつ人々が必ずしも深刻な問題に遭遇し
ない理由として、‘When we are most aware of differences and most
expecting possible misunderstandings we are more careful about how
we act and how we judge another.’と述べ、これは‘simply a matter
of caution’(p.20)のたあであると言っているが、われわれは異文化の人々
・と接する場合、相手や自分の行動に対して用心をすると同時に、すべての見
慣れない事柄について寛容になるのである。また、西田(1989)は、日米
の行動様式の違いに焦点を当てた書物や雑誌を読んだ多くの人々が、誤った
ステレオタイプに基づいてアメリカ人の行動を捉えているが、お互いに相手
が外国人の場合は、自国のコミュニケーション・ルールは通じないと考える
場面もあるζとを指摘している。(p.198)

3. 「自己開示スケール」と接触の深度、
バーンランド(1979)の問題点(3)

バーンランド(1979)の第3の問題点は、「自己開示スケール」(Self Dis−
closure Scale)に係わる問題である。これは3っの変数一対話の相手、話
題、および自己を表す深度一から成り立っている。このスケールに用いる調
査票には、さまざまな話題(趣味、仕事、金銭問題など)についてコミュニ
ケーションを行う6種の相手(例えば、母親、同性の友人、未知の人など)
一人ひとりに対して、コミュニケーションの深度を次のような記号と意味を
用いて記入させている。(p.89)
120
佐々木行雄

0=自分のこの点については相手に何も話していない。
1=この点については一般的な表現で話した。
2=この点については詳しく全面的に話した。
×=この相手には、自分についてうそをついたり、ごまかしを
いっている。

自己開示スケールの結果は分かりやすくするため、もとのスコアを100
倍して整数に直してある。したがって、0から100の間のスコアは、自己開
示が少なく、100から200時間は自己開示が多いことになる。その結果、
日本人の場合は、全話題と全話し相手の総平均は75であり、アメリカ人の
場合は112であった。しかし、「未知の人」と「信用できない人」を除外
すると、それぞれ100と144まで上昇する。そこでバーンランド(1979)
は、「公的自己」と「私的自己」の境界線を次のように推定する。

...典型的な日本人の場合は「私的自己」の領域が「無意識」(U)から、
内面的経験を「一般的な表現」で話す程度(100)までにまたがっている。
一方、典型的なアメリカ人の場合の「私的自己」は「無意識」の領域から、
内面的経験を「全面的」ないし「一般的表現」で表す深度(144)にまた
がっている。したがって、コミュニケーションによって自己を相手に表わ
す範囲が、日本ではアメリカに比してかなり小さいのである。(中略)ギ
ランによれば、日本人は社交的な接触を楽しむが、深みのある接触という
よりは、楽しさの接触に止まる場合が多い。「礼儀にかなうことばより多
くはあまり話さず、とくに自分については話さない」といっている。
(pp.98−99.下線は筆者)

以上がバーンランド(1979)の「自己開示スケール」についての要約と
その結論の…部である。ここで問題なのは、下線部の結論である。この結論
言語教育の異文化間コミュニケーション 121

は、日本人の自己表現の度合いがアメリカ人のそれに比較して低い、という
調査のデータから出されたものである。同じ趣旨の議論が方々に見受けられ
る。例えば「アメリカ人は両親と友人に対して、より深い関係を持っている
...」(p.190)、「日本人は、極めて限られた友人や親戚との親しい関係を好

み、....だが、この人たちの結びつきも、しばしば長期にわたって継続
するのだが、あまり深いものではないらしい」(p.190)、「日本では人々は
食べ物、テレビ番組、映画、音楽、読書などの嗜好以外の話題については、
表面的な表現以上に話し合うことはめつたになさそうである。この程度のも
のが最も近い相手とでも、生涯における最も深いコミュニケーションである
らしい」(p.191)などである。

たとえ「自己開示スケール」のデータが妥当なものだとしても(すでに上
述した問題はあるが)、自己表現の度合いの高さをコミュニケーションにお
ける接触の深度と直結することには問題があるように思う。言い換えれば、
自己の表出度が高いからといって必ずしも親密な関係になれるわけでもなけ
れば、逆に、言葉によるコミュニケーションが少ないからといって疎遠であ
るわけでもない。このことは日米双方についτいえると思う。統計的証拠が
あるわけではないが、アメリカ人の間でよく見受けられる自己主張・自己弁
護による衝突は、互いの理解や和解どころか、しばしば訴訟へと繋がるので
ある。この社会現象を嘆く人は今や数知れない。アメリカが「訴訟王国」、
「離婚王国」となったのは、そして日本がその後を追っているのは、過度の
自己主張や自己弁護によるところがないとはいえない。

4. 「虚偽の自己表現」、バーンランド(1979)の問題点(4)

バーンランド(1979)の第4の問題点は、第3の問題点で論じた「自己開
示スケール」に関連する。その中で、「×=この相手には、自分についてう
そをついたり、ごまかしをいっている」というスコアがあった。(p。10)し
かし、この項目は統計にカウントされておらず、「コミュニケーションの意
122 佐々木 行 雄

義」の中で10数行の言及があるだけである。(pp.192・193)しかしながら、
日本人の自己表現行動の特徴を問題にするとき、避けて通れない重要な要素
が「虚偽の自己表現」である。自分を偽って表現することはどの文化圏にお
いてもよく行われることであって、別に珍しいことではない。けれども、何
らかの理由で虚偽の自己表現をしても、それがわれわれ日本人の間ではよく
ある事として容認あるいは了解されているが、外国人にとっては理解しがた
い場合がある(この場合、「この相手には」ではなくて、「この点については」
とすべきである)。「虚偽の自己表現」(と欧米人には思われる表現)は言語
的(verbal)なものと、非言語的(non−verbal)なものに分けることがで
きる。後者の典型的な例が広く知られているラフカディオ・ハーンの「日本
人の微笑」3であり、芥川龍之介の「手巾」4であろう。いずれも不幸な出来
事を「微笑」でもって平然と語るという欧米人には全く不可解なシーンを描
写したものである。この場合、語り手は語る内容について嘘を言っているわ
けではない。事実を語っているのだが、感情を抑制して、しかも微笑をたた
えながら語るものだから、欧米人には不可解に写るだけのことである。
ところで、われわれがこれから考察しようとするものは、上述のような非
言語的なものではなく、言語的自己表現に関するものである。人は何らかの
理由で、微笑などの非言語的行動によるのではなくて、言葉によってお互い
に自分の真の姿を知らせようとしない場合がある。互いに感情を隠し、表面
をとりつくろって、自分を偽って相手に伝えるのである。この場合は、微笑
や沈黙などの非言語的行為とは異なり、偽りを見抜くことがしばしば困難な
だけに、お互いの意志の疎通は一層困難なものになる。同じ文化圏内に起こ
る場合であってもそうであるのに、これが異文樹間に生じるときはどのよう
になるのだろうか。バーンランド(1979)が日米の表現構造を論じるとき、
この領域に言及はしたものの、5深くメスを入れなかったことには問題があ

3 平井呈一(訳)(1964)、第62章。
4 芥川龍之介(1959)、pp.41・49.
言語教育の異文化間コミュニケーション 123

るように思われる。なぜなら、この領域の究明こそ日本人の自己表現を解く
最も重要な鍵だと考えられるからである。

5. 「虚偽の自己表現」について

われわれ日本人は何らかの理由で、言葉によるごまかしや偽りによって、
いわゆる「私的自己」(private self)を少なくとも部分的に包み隠し、「公
的自己」(public self)によってコミュニケーションを行っていることがあ
る。しかし、この言語行動は人間である限り大なり小なり誰でも行っている
ことであり、普遍的なものである。問題は各文化によってその程度や領域が
異なる場合があるということだ。増原良彦(1979)は「嘘つきの論理」を
展開し、「人間は本質的に嘘をつく動物なのである」(p.204)として、なぜ
人間は嘘をつくか、嘘にはどのような種類があり、それがわれわれのコミュ
ニケーションにどのように係わっているのかなど、興味ある分析をしている。
また、増原良彦(1984)は「タテマエとホンネ」について論じ、「これこそ、
わたしは、日本人論のキイ・ワードだと信じている」(p.19)と述べて、欧
米と対照させながら、日本人独特の思考原理などを、理想と現実の落差、縁
関係と契約の差異などの視点から分析している。これらの書物は非常に興味
深いものがあるが、「虚偽の自己表現」と関連する日本人論、日・欧米の比
較論であって、これから取り上げようとするような異文化間コミュニケーショ
ンの中で、現実に起こるような衝突や誤解の解明には直接的には役立たない。
また、衝突や誤解の生じる領域や理由も異なる。
さて、本稿が副題で「日米の自己表現、もうひとつの誤解」として掲げた
テーマについて考えるための手掛かりとして、ある外国人女性(ドイツ生ま
れ)による次の記事についてアンケートを試みた。被験者は大学生165名
である。

Japanese husbands often neither know nor care about the work
5 バーンランド(1979)、pp.192−193.
124 佐々木 行 雄

and interests of their wives. Nor do Japanese wives kn6w much


about or care what their husbands do. Thus they live, it seems to

me, strangely separate lives. No wonder, then, that many couples

in Japan apparently don’t mind living apart. My neighborhood


near Tsukuba University has many husbands living alone. When
they were transferred, their wives simply refused to go with them.

And no one complains.


When I chat with Japanese wives and learn that their husbands
are away on long business trips abroad, I still sometimes exdaim:

“You must be very lonely!”But they smile at me in surprise−


and merrily reply:“Lonesome?Me?No, not at a11. Quite to the
contrary−it’s so relaxing!Don’t you know yet, dear? Ideally
ahusband is healthy, wealthy, and away!”
The Western notion of a couple remains deeply embedded in my
mind. I must confess l find the Japanese equivalent−could it be

called wisdom?一hard to comprehend.6

この英文の内容は被験者に対して日本語で説明をし、10項目にわたる質
問をした。そのうち、7問については特に字数を制限しないで自由に書かせ
た。残り3問は第2パラグラフについての質問で、4つの選択肢を与え、自
分の考えがもっとも近いものを一つ選ばせた。ここでは、第2パラグラフに
関する残り3問についての質問と結果を取り上げてみよう。

質問1.日本人の奥さんの答えは本音だと思いますか。
A.全くその通り。 8%
B.たぶん本音だろう。 24%
C.本音と嘘が五分五分。 48%
6P. McLean(1985), p.6.
言語教育の異文化間コミュニケーション 125

D.たぶん本音ではなかろう。 17%
無回答 3%

質問2.本音でなければなぜこんなふうに言ったと思いますか。
A.本音を言うのは恥ずかしいから。30%
B.恰好をつけたいから。 28%
C.そう思う部分もあるから。 25%
D.その他。 3%
無回答 14%

質問3.外国人の女性は、日本人の奥さんの言葉をなぜ真に受けたのだ
と思いますか。
A.裏読みをする習慣がないから相手の
言葉をそのまま受け取った。 57%
B.相手の奥さんを信用しているから
嘘をつくとは思わなかった。 4%
C.日本人は一般的にそうだと聞いて
いるから。 27%
D.その他。 8%
無回答 4%

上のアンケートの結果について考えてみよう。質問はいずれも英文の第3
パラグラフについてのもので、著者である外国人女性(以下Aさんとする)
と、夫が単身赴任している近所の日本人の奥さん(以下Bさんとする)との
会話の内容について感想を求めている。質問1は、Aさんが「お寂しいでしょ
うね」と言ったのに対するBさんの反応についてのものである。一番高い回
答率を示したのは、C(本音と嘘が五分五分)で48%、ついでB(たぶん本
音だろう)が24%、D(たぶん本音ではなかろう)が17%と続く。このこ
126 佐々木 行 雄

とから被験者である大学生の約半数は、Bさんの返事の半分は虚偽の発’言で
あり、およそ6人に1人は「たぶん本音ではなろう」と考えていることがわ
かる。質問2は、Bさんの発言がもし本音でないとしたら、なぜそのような
発言をしたのであろうか、と聞いたものである。その結果、最も高い項目が
A(本音を言うのは恥ずかしいから)の30%、ついでB(恰好をつけたいか
ら)が28%、C(そう思う部分もあるから)25%となっている。つまり、原
因は「恥ずかしさ」、「恰好よさ」によるところが大きい。質問3は、Aさ
んは、Bさんの言葉をなぜ真に受けたのか、というものであるが、 A(裏読
みをする習慣がないから、相手の言葉をそのまま受け取った)が58%で、飛
び抜けて高く、次に、C(日本人は一般的にそうだと聞いているから)の2
8%となっている。このことから、大学生の被験者のうち6割近くが、この
ような場合、裏読みをする習慣があることを承知していることになる。
このアンケートは小規模なもので、しかも大学生という独身者で、単身赴
任を直接体験していない被験者を対象にした調査ではあるが、少なくとも将
来を担う現代日本人の若者たちが「虚偽の自己表現」についてどのように考
えているかを知る手掛かりになると思う。更に、この調査結果はかなりの程
度まで普遍的な部分があると思われるので、日本人の「自己文化の認識」に
ついて知る資料を提供してくれるものと考えられる。以下、この調査結果か
ら明らかにされた点をまとめてみよう。

1.この記事の筆者であるAさんと隣人のBさんとの間には明らかにコミュ
ニケーション上の衝突・誤解がある。
2.その原因は、一方のAさんの言葉に対し相手のBさんが少なくとも半
分以上は「虚偽の自己表現」をしているにもかかわらず、相手のAさん
はそのことに気づかず、真に受け取らたことにある。
3.この衝突・誤解は、バーンランド(1979)の言葉を借りると、「公的
自己」、「私的自己」(いわゆる「タテマエ」と「ホンネ」)、及び文化的
自己認識の違いに帰するものと言えるだろう。
言語教育の異文化間コミュニケーション 127

4.なぜ「虚偽の自己表現」をしたのだろうか。Bさんの文化圏には「恥
ずかしさ(いわゆる「テレ」)」や「恰好よさ」から、「虚偽の自己表現」
をする習わしがあるからである。
5.「恥ずかしさ」や「恰好よさ」による「虚偽の自己表現」には、意図
的な悪意は含まれず、その文化圏では暗黙の了解がなされている。しか
し、異文野間においては必ずしもそうではない。
6.AさんはBさんの言葉をなぜ真に受け取ったのか。
a)Bさんの文化圏には、少なくともこのような場合、「恥ずかしさ」
(いわゆる「テレ」)から「虚偽の自己表現」をすることはない。
b)Bさんの文化圏には、少なくともこのような場合、裏読みをして相
手の虚偽に気づき、それを理解する習わしはない。

「虚偽の自己表現」が「微笑」などによる自己表現と共通する点は、双方
とも「私的自己」を表さないという点で「抑制的」であること、発言に意図
的な悪意が含まれていないこと、同じ文化圏内では暗黙の了解がなされてい
ることである。一方、相違点は、前者が言語的表現行動であるのに対して、
後者は非言語的行動であり、従って、前者の方がコミュニケーションをより
複雑なものにするということである。
以上のような「虚偽の自己表現」による異文化間の衝突・誤解に関する調
査・研究は、バーンランド(1979)においてもそうであったが、まだあま
り進んでいないのではないかと思われる。虚偽の非言語的表現としての「日
本人の笑い・微笑」についての文献は多い。しかし、それらはあくまで日本
人論の中で論じられているものであり、異文野間での状況におけるものは
anecdota1なものでしかなく、あくまで言葉によらない非言語的行動であっ
て、虚偽の言語的自己表現に関する本格的な研究はまだなされていないよう
である。この領域が、先にふれたように、日本人と他国の人々との文化的衝
突や誤解の原因を突きとめるカギになると思われるだけに、本稿の試みが
anecdota1か日impressionisticなレベルを越えて、より一般的な価値を持
128 佐々木 行 雄

つためには、更に調査対象を外国人にも拡大し、日本人の様々な層・領域に
も拡大された今後の進展が望まれる。

結 語

本稿は、言語(特に外国語としての英語)教育の理論と実践に係わる研究
分野の一環として試みたものであるが、日米の対人関係における自己表現に
ついて調査・研究を行ったバーンランド(1979)が抱える4つの問題点を
指摘しながら論を進めた。特に問題点(4)では、これまであまり研究の進ん
でいない日本人の「虚偽の自己表現」を取り上げ、大学生を被験者としたア
ンケート調査をふまえて、そこから生じる衝突・誤解の様相とその原因につ
いて考察した。これらの衝突・誤解を、遠慮・曖昧、沈黙・微笑などから生
じる場合と比較すると、そこにはいくっかの共通点が存在していることと同
時に相違点も明らかになってきた。
本稿は「自己文化の認識」に焦点を当てたが、上述したよううに、この試
みが、より一般的な価値を持つためには、調査対象を外国人にも拡大し、日
本人についても多様な層・領域に拡大されることと同時に、このような異文
化間コミュニケーションに係わる「文法外コミュニケーション行動」のルー
ルや知見が、これからの言語教育の中に組み込まれていくことが必須である
ことを痛感した。

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言語教育の異文化間コミュニケーション 129

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