You are on page 1of 46

ポルノグラフィの 象


何がわるいのか


Porn
ポルノグラフィのどこが
分析フェミニズム、分析美学、言語哲
どうしてわるいのか? 学の議論から、性的な表象=ポルノグ
ラフィをただしくわるいと言うための
マップを作りだす、表現と自由をめぐ

(著)難波優輝 1 る議論のための概念工学の試み。
2

ポルノグラフィの 象


何がわるいのか


Porn
(著)難波優輝 3
4
はじめに
ポルノグラフィの何がわるいのか? ポルノグラフィのどこがどうしてわるいのか? ポルノグ
ラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか?
ポルノグラフィに関する倫理的問題の研究は多く行われてきたが、現時点では既存の研究を
分類し関係づけ、研究課題を提示する理論的枠組みが欠けている。ポルノグラフィの倫理的問
題を包括的に扱うためには、こうした枠組みの構築が明らかに必要だ。これにより、それぞれ
の議論が問題のどの側面を議論しているのかが整理され、ポルノグラフィ研究者のあいだで研
究の全体像が共有されうるから。研究者のあいだでの有益な議論を生み出せるし、また、他の
関連分野とのコミュニケーションも容易になる。
ポルノグラフィをめぐっては、ひとつきりではない様々な倫理的な問題が議論となっている
ことははっきりしている。様々なレベルで倫理的問題を引き起こしうるために、ポルノグラ
フィに対する何らかの規制を行うべきだという立場がある一方、他方で、ポルノグラフィは、
たしかに特定の人々に不快感をもたらしうるために倫理的に問題がないわけではないとして
も、規制に値するような深刻な倫理的問題を直接的にせよ間接的にせよもたらすわけではない
といった応答がある。批判と応答の応酬のなかで、人々は互いを敵対視し、宥和の難しい集団
として一般化し、いっそうの人々の分断の深刻化が導かれがちである。哲学のできることは、
この応酬のどちらかの陣営に与するのではなく、いったい何が争われているのかを整理する仕
事だ。紛争の調停をする仕事。それが今からここでわたしの目指す哲学者の重要な仕事にな
る。
本稿は、ポルノグラフィの問題に関係する分析美学、分析フェミニズム、言語哲学の議論を
通して、ポルノグラフィの倫理的問題に関する議論の見取り図を与える上述のような理論的枠
組みの構築を目指す。そしてポルノグラフィをめぐる討議をよりよきものにしたい。
第一章では本稿の基礎となる「ポルノグラフィのわるさフロー」を構築する。それを受け、
第二章と第三章ではポルノグラフィのわるさの側面のうちの二つ––––行為と影響––––に関する
問題を論じる。ポルノグラフィの哲学を始めよう。

本稿は筆者の提出した修士論文の配布版であり、本稿にさらにいくつかのトピックを加えた
うえで、ポルノグラフィ、虚構的なキャラクタ表現の倫理を議論する単著を計画している。と
はいえまだ青写真の段階なのでご関心のある編集者の方のご連絡をお待ちしている。

難波優輝
Twitter: @deinotaton
Researchmap: https://researchmap.jp/deinotaton/

5
目次

はじめに

第一章
ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか

第二章
キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか

第三章
ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか

おわりに

6
第一章

ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明
らかにすべきか

本章は、ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきかを明らかに
することを目指す。本章は、ポルノグラフィの問題に関係する分析美学、言語行為論、そして
社会存在論の計三つのアプローチの検討を介して、ポルノグラフィの倫理的問題に関する議論
の見取り図を与える理論的枠組み「わるさフロー」の構築を目指し、本稿の出発地点を作る。

1 イントロダクション
1ー1 概観と目的
ポルノグラフィが何らかの意味で、女性に対する倫理的にネガティブな帰結や影響をもたら
しうる、という主張は、これまで主にフェミニストたちによって述べられてきた。
運動家、法学者キャサリン・マッキノンは、1980年代、ポルノグラフィの制作及び頒布の法
的問題を提示し、フェミニストの著述家、活動家であるアンドレア・ドウォーキンとともに、
アメリカはインディアナポリス州議会にポルノグラフィによる被害の訴え、そして、被害者への
補償を可能にする条例を通過させた(MacKinnon & Dworkin 1988; cf. Eaton 2007, 691)。その
後も、マッキノンは、ポルノグラフィは女性のあり方を倫理的に問題のある仕方でつくりあげ
ることに寄与するのみならず、女性のジェンダー不平等な地位の構成の行為あるとして批判を
続けた(MacKinnon 1996)。

ポルノグラフィは、この世界をポルノグラフィ的な場所へとつくりあげる。その制作と
使用によって。女性は何のために存在しているとされるか、どのようなものとしてみな
されるのか、どのようなものとして扱われるのかを確立することによって。彼女に対し
て何ができるのかという観点から、女性が何であるか、何でありうるかを、そして、男
性が女性に対して何をするかの観点から社会的現実を構成することで。(MacKinnon
1996, 25)

マッキノンによるポルノグラフィ批判は今なおフェミニズム研究のうちで影響力を持ってい
る。しかし、他方で、この批判がどのような意味を持つのかについて改めて問い直しが進んで
いる。特定の画像、映像でしかないポルノグラフィはほんとうに「この世界をポルノグラフィ
的な場所へと」変える能力を持つのだろうか。ポルノグラフィはどのようなメカニズムによっ
て倫理的に問題のある帰結をもたらしうるのか––––。
こうした問いに関わるかたちでこれまで行われてきたポルノグラフィや表象の倫理的側面に
ついての哲学的研究は、本稿が扱う限りで、おおきく次の三つのアプローチに分類できる。第
一に、表象一般に関して、特定の芸術作品の倫理的問題を分析美学の観点から考察するアプ
ローチ(Gaut 2007)、第二に、言語行為論からポルノグラフィを分析し、ポルノグラフィそれ

7
自体の倫理的問題を分析する言語行為論アプローチ(Langton 1993)、そして、第三に、ポルノ
グラフィによる女性の社会的構成を分析する社会存在論アプローチ(Jenkins 2017)がある1。
以上のようにポルノグラフィに関する倫理的問題の研究はこれまで行われてきたが、ポルノグ
ラフィ研究には、個別の研究を総括し、研究同士の関係を整理、分類できる理論的枠組みを欠
いている2。だが、ポルノグラフィの倫理的問題を総体として扱おうとするなら、個別の議論の
みならず、それぞれの研究がどのような側面を研究しているのか、それらはどのような関係に
あるのかを整理する理論的枠組みなしでは十分な議論を構築できない。
これまで何が議論されてきたのか、何がまだ十分に議論されていないのかを確認するために
は、議論を一望し、現在地点を確認できる地図としての理論的枠組みが必要となる。そこで本
章は、ポルノグラフィ分析に関係する分析美学、言語行為論、そして社会存在論の計三つのア
プローチの検討を介して、ポルノグラフィの倫理的側面に関する議論を鳥瞰しうる理論的枠組
みの構築を目指す。
第一節では議論の前提を確認し、第二節から第四節にかけては、分析美学、言語行為論、そ
して、社会存在論の各アプローチを検討する。第五節では、ポルノグラフィには四つの異なる
わるさの側面、そして、複数のわるさの理由とそれらの関係があることを明示化、整理する「わ
るさフロー」を提示し、この枠組みの利点を議論するとともにいくつかの批判に応答する。最
後に、第六節では、ポルノグラフィの倫理的問題を分析するための研究の展望を素描する。

1ー2 前提
いくつかの前提を共有しておく。まず、本稿で扱うポルノグラフィは、フィクショナルキャラ
クタを描写する虚構的ポルノグラフィを含む。「何らかの意味で性的とみなされる表現」を内
容とするポルノグラフィを議論する。その意味でポルノグラフィはそれ自体で倫理的に問題かあ
るかどうかは非決定である。
本稿で「ポルノグラフィ」は、典型的にはポルノグラフィの動画投稿サイト(いわゆる「アダ
ルト動画サイト」)に投稿されているような映像作品(「アダルトビデオ」と呼ばれるも
の)、成年向けマンガ(いわゆる「エロ漫画」)、成年向けビデオゲーム(いわゆる「エロ
ゲ」)などを指す。さらに、ツイッターなどで投稿されるような性的とみなされるような画像
群もポルノグラフィと呼ぶ。ポルノグラフィを機能などではなく、単に性的な表象くらいのか
なり広義の意味で用いている。ポルノグラフィは、男性向け/女性向けも含みつつ、それらに
限定されない3。
本章が対象とするポルノグラフィで「わるい」と言われがちな典型例は、次のような特徴を
持つものとして特徴づけられる。すなわち、女性が人間性を奪われたかたちで、性的な対象と
して提示されていたり、女性が、女性自身が望まないにもかかわらず、人間的というより、モ
ノに近いような扱いを受けることで快楽を得ている対象として提示されていたり、あるいは、
女性自身が望まないにもかかわらず、強姦、近親姦その他の性的な暴行において性的快楽を経
験する対象として提示されているようなポルノグラフィ作品である(cf. MacKinnon & Dworkin

1これらの整理は、ポルノグラフィ論のすべてのトピックを尽くすものでも、歴史的発展を整理したものでもない。包
括的な整理は、江口(2007, 24-25)を参照せよ。

2 例外として、Eaton(2007)がある。これについては第五節で議論する。

3 ポルノグラフィ全般のサーベイについては、Watson(2010)を、定義論については、Mikkola(2017)を参照のこと。

8
1988, 36)4。これらはポルノグラフィの必要条件ではない。上記の性質では指摘されていない
がポルノグラフィとして扱うべきポルノがありうる。そして、厳密な意味での十分条件ではな
い。上記の性質を持ちつつポルノグラフィと言えないようなもの、例えば犯罪記録などがあり
得る。こうした「わるい」と言われがちなポルノグラフィは「不平等ポルノグラフィ」として本
稿が扱う広い意味でのポルノグラフィと区別しておこう。
本章では、以下、上記の性質を含み持ち、犯罪記録などを含まないものをポルノグラフィと
呼ぶ。あいまいさを残すが、本章で扱う対象の特徴づけとしては十分だろう。

また、ある作品や表現の倫理的問題は、内容のみならず、その製作過程における危害、流通
における問題など様々な側面と関係しているが、これらは独立した問題として、本章では扱わ
ない。例えば、実際の児童を撮影した児童ポルノに関しては、明らかにその制作において特定
の児童に危害が加えられている。だが、本稿では一貫して、こうした制作のわるさをいったん
置いて、なおもポルノグラフィにどのようなわるさがありうるのかを議論する。
最後に、本稿ポルノグラフィがもたらしうる女性に対する危害に焦点を当てる。そのため、
男性に対する危害や他のジェンダーに関する危害についてはふれることはできないが第三章で
部分的に論じられる。

2 内容のわるさ
2ー1 表現としてのポルノグラフィ
分析美学において、ある作品の倫理的問題は、主に、表現の内容に関して問われてきた。こ
こでは代表的な立場として、分析美学者、哲学者のベリズ・ゴートの議論を取り上げる。ゴー
トは、ある作品が倫理的に問題のある作品となるのは、それが、特定の倫理的に問題のある態
度を提示していたり、そうした態度を是認するように鑑賞者にはたらきかけるためだと指摘し
た(Gaut, 2007, 68)。この点について分析美学者の森功次は次のように整理している。

倫理的に悪い行為を描写する作品が、即、倫理的に悪い作品となるわけではない……殺
人者の 藤を描くことで観賞者に倫理的反省を求める作品は、むしろ倫理的に善い作品
とみなされるべきである。ゴートは倫理性を査定する基準として、作品が芸術的手法
(artistic means)を通じて示す倫理的態度が作品の倫理性を決定する、という考え方を
提出している。これに従えば、たんに盗み・殺人の場面を描くだけでは、作品は非倫理
的な作品にはならない。また、募金する人間が登場するだけで、倫理的に善い作品がで
きあがるわけでもない。重要なのは作品の再現内容ではなく、作品が芸術的手法を通じ
て示す倫理的態度––––例えば、〈金 けのための農薬大量使用を許すべきではない〉と
いう価値観を是認(endorse)したり、その価値観の是認を観賞者に要求したりといった
態度––––である。(森 2011, 96)5

ゴートらの議論において主に取り上げられるのは、一般的な文学作品、絵画や映画といった
芸術作品であるが、必ずしも芸術作品ではないポルノグラフィに関しても議論の骨子を適用で

4 訳は、江口(2006, 136)を参照した。

5 原文の引用表記を一部省略。

9
きる。ポルノグラフィは、その表現に関して、第一には、内容に関する倫理的問題が問われる
場合もあるが、第二に、それがその描写や構成などといった広い意味での芸術的手法、あるい
は表現手法を通じてどのような倫理的態度を示しているのかどうかによって倫理的な問題を問
いうる。例えば、ポルノグラフィがその表現として、女性のジェンダー不平等な扱いを魅力ある
ものとして描いているなら、その描いている態度に関して倫理的な問題を指摘しうる。
もちろん、再現内容そのものが倫理的に公共の場や人々に提示することがふさわしくないと
言われる場合もありうる。例えば、列車事故の事故現場写真は、それ自体では倫理的に中立的
ではあるが、それを一般に提示することは心的外傷を与えうるために問題があるだろう。しか
し、これらは、特定の事故をよいものとして提示するという態度とは独立している。事故現場
の写真は再現内容としてはショックなものであるが、倫理的態度としては中立的であるだろ
う。ひるがえって、例えば、ある犯罪の現場を美しく撮影した写真は、そうした犯罪を美化し
ているという意味で、倫理的に問題のある態度を是認する表現として倫理的に批判されうる。
これらの再現内容と倫理的態度の区別が重要になる6。

2ー1 内容のわるさ
以上から、ポルノグラフィ作品の表現に関して倫理的問題が問われうる。すなわち、

内容のわるさ:ポルノグラフィの描写内容や物語的内容に代表される内容、あるいは、
ポルノグラフィが提示する特定の倫理的態度といった、表現に関して問題となるわる
さ。

ポルノグラフィの内容のわるさに関して重要なのは、再現内容のわるさと倫理的態度のわる
さの区別である。
一方で、ポルノグラフィであり、過激で攻撃的な再現内容、例えば、描写内容や物語的内容
を有していても、それらの再現内容がよい倫理的態度の提示のために用いられているケースを
考えることもできる。過酷な暴力を描いた戦争映画がたんに暴力や戦争を是認するのではな
く、それらを批判するために暴力的な内容を用いている場合のように、ポルノグラフィもま
た、描写内容や物語的内容としては女性への手酷い扱いを描いていても、それらの再現内容を
用いて、表現されている事態そのものを批判するような倫理的に優れた態度の提示を行なって
いる場合もありうる。
他方で、その再現内容が過激かどうかではなく、その倫理的態度が問題とされるようなポル
ノグラフィもありうる。再現内容に関しては一般的で過激ではないものの、是認する特定の倫
理的態度が倫理的に問題のある場合、例えば、女性を女性自身が望まないにも関わらず性的な
対象として扱うことが何らかの意味でよい、とするような倫理的態度を是認するような作品で
ある場合、そのポルノグラフィは倫理的に問題があると指摘されうる。
以上で指摘するように、あるポルノグラフィがその表現に関して倫理的にわるいと言われる
とき、それが描写内容や物語的内容としてわるいのか、あるいは、その特定の態度の是認とし
てわるいのかが区別されなければならない。だが、倫理的態度の是認とは何なのか、これだけ
では明らかではない。この不明点に注目しつつ、次節では、ポルノグラフィがもちうる倫理的
態度の問題をよりひろい視点から考える。

6このような倫理的態度が最終的に何によって決定されるべきかについては別の問いであるが、本章では扱わない(cf.
森 2011, 96-97)。

10
3 行為のわるさ
3ー1 言語行為としてのポルノグラフィ
フェミニズム哲学研究者レイ・ラングトンは、J・L・オースティンの言語行為論を援用する
ことで、ポルノグラフィは、特定のメッセージを伝達するのみならず、それ自体が女性を従属
さ せる 「 発 語 内 行 為 」 で あ る と して、 ポ ルノグ ラ フィ そ れ 自 体 の わ る さ の 分 析 を 行 っ た
(Langton 1993, 307-308)。
オースティンの言語行為論の核となるイメージは、発語は、それ自体で何かを変化させうる
行為である、というものだ。船主が「この船をクイーン・メリーと名づける!」と言って祝い
の酒を叩き割るとき、それは名前の記述ではなく––––それ以前にその船には名前がない––––
「名づけ」という行為そのものである。この発語によって遂行されうる行為があり、達成され
うる事態がある。
オ ース ティ ン に よ れ ば 、 言 語 行 為 は 三 つ の 性 質 を 備 え う る 。 第 一 に 、 「 発 語 行 為
(locutionary act)」、第二に、「発語内行為(illocutionary act)」、そして第三に、「発語媒介
行為(perlocutionary act)」である(Austin 1962, ch. 6, 7)。発語行為とは、その発語という行
為そのものである(「シオ、ソコニアル?」という音声を発声すること)。次に、発語内行為
とは、発語によって成立する特定の行為(「依頼」)である。最後に、発語媒介行為とは、そ
の発語によって引き起こされた行為(「塩を取ってもらう」)である。
ラングトンは、ポルノグラフィを、女性を従属させる発語内行為だとする。ラングトンは、
実際に当該のポルノグラフィによって女性が下位に置かれるかどうか、という引き起こされた
行為としての発語媒介行為の成否にかかわらず、実際に行われている限りで女性の不平等な地
位を構成しうる発語内行為であり、それ自体で問題があると主張した(Langton, 1993)。
ここで、「従属(subordination)」とは、「ある集団が劣っているものとしてランクづける、
かつまたは、差別的で不利な立場の正当な帰属先としてしるしづける」ことである(Jenkins
2017, 93)。例えば、ある集団を、「われわれの能力に比して劣っている」「われわれが属する
集団に従うようにできている」などとして、劣ったものとして「ランクづけ(rank)」、かつ
または、「雇用において優先される必要はない」「その身体や相貌の美的魅力がすべてだ」と
いう集団として「しるしづける(mark)」行為が「従属させる」行為である。そして、そうし
た社会的地位に置かれることが従属的であること、あるいは従属の次元に身を置かせることを
意味する。
ラングトンは、ポルノグラフィはその画像、映像によって「女性は下位のものとして扱う」
といった発語内行為を行なっており、それは、ある点で、「黒人に参政権を与えない」といっ
た法的な宣言のように機能すると主張する(Langton, 1993, 304-310)。
ラングトンの主張に基づけば、オースティンが分類した、発語内行為の種類における、
(1)「判定型(verdictive)」、(2)「行使型(exercitives)」、(3)「拘束型
(commisives)」、(4)「態度型(behabitives)」、(5)「説明型(expositives)」の計五
つのうち(Austin, 1962, 150)、特定の「慣習(convention)」のうちで特定の「権威
(authority)」を伴ってなされる必要のある、「審判などによる評決/判定の付与を典型とす
る」ような「判定型」あるいは「力、権利、影響力を行使する」ような「行使型」発語内行為
として、ポルノグラフィは従属という発語内行為を果たしていると理解できる(ibid.)。ラング

11
トンのこの主張に対しては、そもそもポルノグラフィは発語行為なのかどうか、といった問い
を含め、いくつかの批判がなされている(Antony 2011, 391-392; 江口 2007, 30-31)。わたしは
これらの批判のいくつかは的を得たものであると考えるが、その大部分の成否には立ち入らな
い。
加えて、ラングトンは、ポルノグラフィが特定の状況での女性の「拒否」という発語内行為
の効力を奪うことを可能にするような環境を形成しうるとして、ポルノグラフィの発語内行為
が女性の発語内行為の効力を奪う「消音(silencing)」をも行なっているとしている(Langton
1993, §2)。本章ではラングトンの議論の核となる部分を概観することを目指しているため、こ
の点については議論しない。

3ー2 行為のわるさ
ポルノグラフィが発語内行為であり、実際の何らかの危害をもたらすという発語媒介行為を
引き起こすことに成功するなら、倫理的にネガティブな価値を帰属させうることははっきりし
ている。それに加えて、ラングトンが指摘しているのは、あるポルノグラフィが発語内行為を
成立させ、特定の権威を持ちうる慣習のうちにあり、ある権威を持つ場合、実際の何らかの危
害といった発語媒介行為に成功していないとしても、「それ自体」としての倫理的問題があり
うるということだ。
言語行為論アプローチが切り開いたのは、ポルノグラフィを行為から分析する可能性だ。と
はいえ、現在手元にある行為のわるさを問うためのアプローチとしてのラングトンの議論は、
激しい、そして正当な批判にさらされており、そのままでは用いづらい。本章では、ラングト
ンの方向とは道を変えることで、行為からポルノグラフィを分析する魅力を救い出す7。
哲学者ジェニファー・ソールが指摘するように、発語内行為は、それが言語的なものであれ、
非言語的なものであれ、つねにその都度行われる行為である(Saul 2006, 236)。
例えば、ここに「I do」と書かれたカードがあるとする。このカードは、それ自体では発語
内行為を行えない。ただの物言わぬカードだ。だが、特定の文脈において、例えば、取り調べ
室での自白の際にあるひとがこれを提示したなら、それは「確認」といった発語内行為である
し、また、結婚式で神父の結婚の誓約を尋ねられたときに用いれば、「宣誓」という発語内行
為となりうる、さらには、子どもを誘拐した犯人が被害者の親にこのカードを送りつけたな
ら、「脅迫」という発語内行為を行いうる(cf. Saul 2006, 235)。
それでは、これが文字が書かれたカードではなく、特定の画像のみであればどうだろうか。
少なくともオースティンの理解においては、非言語的発語内行為がありうる。
オースティンが『言語と行為』において主題的に取り扱ったのは、発された言葉であった
(Austin 1962)。だが、彼は、発されない言葉もまた、発話の例として取りあげている(
60)。
非言語的発語内行為においてもそれらが特定の文脈において行われる点では同様である。乾
いた米を相手にぶつける、という行為は、多くの場合「侮辱」という発語内行為を成立させう
る。だが、同じ行為が結婚式で適切に行われたなら、「祝福」という発語内行為を成立させう
る。言語的にせよ、非言語的にせよ、発語内行為は、つねにその都度、特定の文脈のうちで遂
行されうる。

7 以下は、Dixon(2019)の議論に多くを負っている。

12
例えば、差別的な表現の画像は、それがある状況において提示されることで特定の行為とな
る。差別を意図する者が、その画像を、その画像が差別する集団に見せつけるという行為を行
う際には、その画像があからさまに差別を描写的内容や態度としていることが被差別者に理解
されるとき、「侮辱」「脅迫」といった行為を遂行しうる。だが、その画像そのものは、提示
されなければいかなる行為も遂行しえない。逆に、「I do」のカードの例のように、画像の表
現はそれが用いられる際の特定の行為と関係している。
この観点を手がかりに、しかし、必ずしも言語行為論に限定されないかたちで、行為の側面
からポルノグラフィを再考しよう。ポルノグラフィは作品はそれ自体として行為ではない。本章
で扱う画像や映像としてのポルノグラフィが特定の行為となるのは、特定の再生や提示におい
てである。ポルノグラフィ作品は、それが再生、提示されたときにはじめて、発語内行為とし
て理解するかはともかく、特定の行為として成立しうる。
ここから、ポルノグラフィ作品と、それが特定の文脈で再生されたものとを区別する必要が
明らかになる。本章では、いわゆるポルノグラフィの作品のレベルを第一節で区別したポルノ
グラフィの「表現」、そして、ポルノグラフィ作品を特定の文脈で発表、再生、提示する行為
を「行為」と呼び区別する。表現は、特定の表象の内容(ジェンダー不平等な内容)や作品が
持つ特定の態度であり、行為とは、ポルノグラフィを特定の場面で特定のひとが配信する行
為、個人で再生する行為、それを他人に提示する行為である。例えば、ある制作者は特定の意
図を持ってポルノグラフィを配信することで、悪意を伝達することができるだろうし、あるい
はポルノグラフィをいやがる他人に見せつけることで嫌がらせを行うことができる。これらの
個別の表現行為において、ちょうど言語行為論における発語内行為と同様、様々な行為、「侮
辱」「脅迫」「賞賛」などを遂行しうる。
これより、言語行為論アプローチによって指摘されるようなポルノグラフィの倫理的問題を
一般化して、「行為のわるさ」として扱う。

行為のわるさ:ポルノグラフィを用いた行為がなされる際、発語内行為によって指摘さ
れるような、行為に関して問題となるわるさ。

4 影響のわるさ
4ー1 社会存在論的アプローチ
ジェンダーアイデンティティ概念の分析と改訂などを中心に、分析フェミニズム研究を行う
キャサリン・ジェンキンスは、ジョン・サールの「社会存在論(social ontology)」の議論をも
とに、いかにしてポルノグラフィが女性を特定の存在者として構成/従属させるのかについての
分析を試みた(Jenkins 2017)。
サールの議論の焦点は、「制度的事実(institutional fact)」の概念である。サールは、一方
で、社会的相互作用とは無関係に存在する「生の事実(brute fact)」があり、他方で、それを
土台として、特定の諸々の「制度的事実」が「構成(construct)」されており、それらから、制
度的現実の総体がつくりあげられていると主張する。一般的に、制度的事実は、「集合的志向
性(collective intentionality)」によって支持される。これは、「地位機能」に関する特定の集ま
りの人々による、積極的になされるものではないにせよ、ある種の承認や受容を指す。「地位
機能(status function)」とは、ある具体的なもの、あるいは、特定のひとが、社会的な制度な
しで持つ物理的な性質によるだけでは遂行できない機能であり、その機能の遂行には、当のも

13
のやひとが、人々によって集合的に承認された特定の地位を有している必要があるとされる機
能である。例えば、ドライバーであること、政治家、一万円紙幣、大学名誉教授などである。
これらは、集合的に承認された一定の地位機能を持つ。その地位機能は、集合的志向性によっ
て承認されていなければ不可能な機能を遂行しうる(Searle 2010)。
サールの理論に基づいたジェンキンスによるポルノグラフィによる女性の構築、そして従属
といった不平等な社会的地位の帰属のプロセスの理論的枠組みは次のようになる。

(1)制度的存在者は地位機能についての集合的志向性の承認を介して構成される。
(2)ジェンダー化された個人(例えば、女性と男性)は、制度的存在者である。
(3)ミソジニスティックなポルノグラフィにおける女性の表象は、実質的に、女性を
次のような制度的存在者である、すなわち、〈ここにおいて「女性」は男性の行為のた
めの半端モノとして扱う〉と定義する地位機能についての集合的志向性承認に寄与す
る。
(4)(1-3より)ミソジニスティックなポルノグラフィは、他のミソジニスティック
な表象とともに、女性を男性の行為のための半端モノとして構成する。
(5)他人の行為のための半端モノとして構成されるとき、かれらは従属されている。
(6)(4と5より)ミソジニスティックなポルノグラフィは、他のミソジニスティッ
クな表象とともに、女性を従属させる。(Jenkins 2017, 104-105)

ここで「制度的存在者(institutional entities)」とは、うえの制度的事実と同義である。加え
て、「半端モノ(subperson)」として構成されるとは、ある対象を必ずしも完全にモノに還元
することなしに、完全なひとよりも倫理的な地位において劣っているように扱われることを意
味する(103)。また、「ミソジニスティックなポルノグラフィ」は、ポルノグラフィの中で特
に「不平等ポルノグラフィ」に対応する(93)、「ミソジニスティックな表象」とは、同様の
内容や性質を持つ表象(広告、作品)のことである。
ポルノグラフィによって、(3)より、人々の集合的志向性承認は変化を被る。そして、前提
(1)制度的存在者は地位機能についての集合的志向性の承認を介して構成されること(2)
ジェンダー化された個人は、制度的存在者であることを受け入れるならば、(1)から(3)
より、制度的存在者であるジェンダー化された個人は、集合的志向性承認に寄与することで、
(4)ポルノグラフィは女性を半端モノとして構成する。そして、(5)半端モノとして構成さ
れるとき、人々は従属されている。(4)と(5)から、(6)ポルノグラフィは、人々の集
合的志向性承認に影響し、女性を従属させる。

4ー2 影響のわるさ
ジェンキンスのアプローチの特徴は、ポルノグラフィが特定の集合的志向性を構成するわる
さに注目したものとして整理できる。これを一般化して、集合的志向性の構成を代表例としつ
つも、特定の「社会的状況」(差別的な社会的な構造や、特定の集団への振る舞いや理解など
の総体)の「形成」(ある社会的状況を創出、維持、助長すること)に関するポルノグラフィ
の倫理的問題を「事態のわるさ」と呼ぼう。すなわち、

影響のわるさ:集合的志向性への影響に代表される、ある社会的影響に関係する倫理的
問題。

14
次節で、これまで議論してきたポルノグラフィのわるさについて再考することで、それぞれの
わるさの関係を分析する。

5 ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか
5ー1 ポルノグラフィのわるさフロー

以上の「内容のわるさ」「行為のわるさ」、そして、「事態のわるさ」に加えて、さらに、
「出来事のわるさ」を区別できる。これは、行為がそれ自体で、あるいは、状況がそれ自体で
倫理的に問題がある、といった議論よりもより受け入れやすいものだろう。ポルノグラフィが
実際に、特定の状況で、脅迫に用いられたり、あるいは、不快さを掻き立てることを目的に提
示されたりする場合に、ポルノグラフィに関して特定の実際的な出来事のわるさを帰属させう
る。そして、その出来事のわるさは、一般的な社会においてはそれ自体で倫理的に問題がある
と言われうる。
これらの議論から、あるポルノグラフィに関する倫理的問題は、以下の四つのわるさの側面
から問うことができる。すなわち、

(1)内容のわるさ:あるポルノグラフィ作品の内容のわるさ。
(2)行為のわるさ:あるポルノグラフィ作品の行為のわるさ。
(3)影響のわるさ:あるポルノグラフィ作品の行為によってもたらされる社会的影響
のわるさ。
(4)事態のわるさ:あるポルノグラフィ作品の行為や、行為によってもたらされる社
会的状況によってもたらされる出来事のわるさ。

そして、それぞれのわるさの側面の何がわるいのか、という理由を区別できる。

(1)内容のわるさの理由
第一に、描写的内容や物語的内容、あるいは倫理的態度がそれ自体として倫理的に問題
があるために、第二に、倫理的に問題のある行為となりうるために倫理的に問題があ
る。

(2)行為のわるさの理由
第一に、倫理的に問題のある出来事をもたらすために、第二に、特定の倫理的に問題の
ある社会的状況を形成するために、第三に、それ自体で倫理的に問題があるために、倫
理的に問題のあるものとなりうる。

(3)影響のわるさの理由
あるポルノグラフィ作品の行為によってもたらされる社会的状況は、一方でそれ自体が
倫理的に問題のある出来事をもたらすために、他方で、それ自体として倫理的に問題の
ある社会的状況であるために倫理的に問題がありうる。

(4)事態のわるさの理由

15
あるポルノグラフィ作品の上映によって、あるいは、行為によってもたらされる社会的
状況によってもたらされる出来事は、それ自体で倫理的に問題があるために、倫理的に
問題がある。

以上をまとめた図式を、「ポルノグラフィのわるさフロー」と呼ぼう(図1)。

図1 ポルノグラフィのわるさフロー

5ー2 二つの利点
このフローには二つの利点がある。わるさの側面とわるさの理由をそれぞれ整理し、それら
の関係を明確化する。第一に、このフローは、ポルノグラフィがわるい、という言葉の意味を
精緻化し、より問いやすいかたちに問いを整形しうる。このフローは、あるポルノグラフィを
ただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか、という問いに答える。すなわち、
ポルノグラフィ作品をただしくわるいと言うためには、

その表現が(a)表現それ自体として倫理的に問題があるか、(b)倫理的に問題のあ
る行為となりうるために倫理的に問題があるかを明らかにすべきである。

(b)の場合、あるいは、表現に関するわるさとは独立に、

その行為が(c)直接的に特定の倫理的に問題のある出来事をもたらすか、(d)何ら
かの社会的状況を形成するか、(e)直接的な危害を加えているか、社会的状況を形成
しているかとは独立に、それ自体で倫理的に問題があるかを明らかにすべきである。

さらに、(d)の場合、

16
もし、行為の倫理的問題が、何らかの社会的状況の形成に関連しているならば、その行
為によって形成された(f)社会的状況が、何らかの具体的な倫理的に問題のある危害
を引き起こすような出来事をもたらすか、(g)具体的な危害を引き起こすこととは独
立にそれ自体で倫理的に問題のあるかのいずれかかを明らかにすべきである。

この枠組みは、ポルノグラフィの内容のわるさを問いうることに加え、そのうちの特定のわ
るさ、例えば、そのポルノグラフィが特定の倫理的態度を是認するような場合に、それを行為
のわるさとしてその倫理的問題を問いうる。さらに、行為がそれ自体でわるいと言える場合の
ほかに出来事や事態のわるさに受け渡し––––という形で、ポルノグラフィ作品のわるさを様々
なレベルで区別し、受け渡しつつ問う可能性を開く概念的枠組みである。
第二に、このフローは、様々なアプローチを包括し整理できるある程度中立的な枠組みであ
る。まず、行為が特定の直接的な危害をもたらす場合とそれが状況を形成する場合は、発語行
為/発語内行為の枠組みとは別の仕方でその倫理的問題を問いうる。また、事態のわるさに関
しても、必ずしも社会存在論アプローチを採用する必要はない。ポルノグラフィの行為が人々
の態度に影響を与えるがゆえにわるい、というしばしば心理学で用いられているようなアプ
ローチも可能だろう。わるさフローは、何を明らかにすべきなのかを明らかにする。だが、ど
のように明らかにすべきなのかについてはある程度開かれている。上のフローは必ずしも以下
のわたしのアプローチによってのみ分析されうるとは限らない。

5ー3 批判と応答
わるさフローに関して想定される三つの批判に応答する。第一に、わるさフローに類似の理
論的枠組みは既に存在する。そのため、本章での議論は不必要なものだ––––。
ポルノグラフィの倫理的問題を扱うための理論的枠組み構築の試みの代表例として、A・W・
イートンの「賢明な反ポルノモデル」が挙げられる(Eaton, 2007)。これは、本章におけるわ
るさフローの行為のわるさにおける何らかの社会的状況を形成する場合のわるさ、そして、関
連して、社会的状況が、何らかの具体的な倫理的に問題のある危害を引き起こすような出来事
をもたらすかを扱う理論的枠組みである。
このモデルは、本章のフローと競合しない。むしろ、わるさフローをより細分化し、特定の
メカニズムに焦点をあてた枠組みとしてこのわるさフローを補う。というのも、イートンの試
みはポルノグラフィの疫学的な研究のための理論的枠組みの構築であり、本章におけるポルノ
グラフィの倫理的問題に関する包括的な枠組みを目指したものではない。イートンのモデルは
ポルノグラフィの表現や行為、そして、状況のレベルに関するわるさを分析するものではな
い。わるさフローはイートンのモデルよりもより広い倫理的側面を整理するための枠組みと
なっているため、本章の議論は不必要なものでも車輪の再発明でもない。
第二に、わるさフローは、新たな理論的枠組みだとしても、ポルノグラフィの倫理的問題に
関してすでに先の問いに進んでいる研究の膨大な蓄積があるなかで、 屋上屋を架す土台提供に
思える––––。
これまでの研究蓄積のなかで多くの結果が提示されてきたことは確認できる。だが、他方
で、それらの研究がそれぞれポルノグラフィの倫理的問題のどの側面を扱っているのか、ある
いは、扱っている倫理的問題の側面は他の側面とどう関係するかを整理、鳥瞰できる理論的枠
組みを欠いていた。そのため、わるさフローは、不必要な土台ではなく、これまで見晴らせな

17
かったそれぞれの研究の位置と位置関係とを明らかにしうるために、必要な理論的枠組みであ
る。
第三に、わるさフローは、ポルノグラフィのみならず、より一般的な表象に関しても適用可能
である。そのため、ポルノグラフィをただしくわるいと言うために何を明らかにすべきかに関
する枠組みとしては、不十分ではないか––––。
わるさフローは、ポルノグラフィ以外の一般的な表象の倫理的問題の整理にあたって適用で
きる。例えば、特定の物語的フィクションに関して、その表現、それを用いた行為、行為がも
たらす状況、そして、出来事について、その倫理的問題を問いうる。だが、この一般性はわる
さフローがポルノグラフィの倫理的問題をただしく扱えないことを帰結しない。

おわりに
本章では、分析美学、言語行為論、社会存在論からのアプローチの検討を介して、ポルノグ
ラフィに帰属されうるわるさを取り出し、わるさフローを提示し、それらの各レベルでのわる
さの理由を問う可能性を議論することで、ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何
を明らかにすべきかを明らかにした。加えて、わるさフローに基づいて、これからの研究の展
望の素描を提示した。本章で提示したわるさフローを手がかりに、ポルノグラフィの倫理的側
面に関する個別的な研究を進める必要がある。これらの個別的な研究はこれから継続してゆか
ねばならない。では、次章以降で続けて個別的な研究を進めよう。

18
第二章

キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか

本章は、前章の議論を受け、より個別的に、ポルノグラフィの「行為のわるさ」に焦点を合
わせ、広告ポスターをはじめとする、虚構的キャラクタの画像の使用の倫理的問題の議論がな
ぜ難しいのかを明らかにすることを目指す。そのために、虚構的キャラクタの画像を使った何
かしらの実践の倫理的問題が議論されているとき、人々が考慮しているいくつかの要素を整理
する。それによって、適切な議論を行おうとするとき、わたしたちがぶつかるだろう困難を共
有したい。
十分に整理されていないことがある。それは、虚構的キャラクタの画像をめぐる倫理的問題
一般が議論されるとき、それぞれの論者において倫理的問題のどの側面が議論されているの
か、議論を根拠づけるどんな手がかりが使われているのか、その手がかりが適切なのかといっ
た事柄だ。だが、特定のキャラクタの画像に関する何らかの側面を倫理的に批判するにせよ擁
護するにせよ、より望ましい議論のためには論点・根拠づけ・正当化に関する整理が不可欠で
ある。そこで、本章では、キャラクタの画像をめぐる倫理的問題のうち、とくに、人々がキャ
ラクタの画像の使用の何を、どのような手がかりを用いて解釈しているのかを取り上げる。そ
して、そうした議論の際に人々が何についてどのように議論しているのかを整理できる枠組み
をつくり、虚構的キャラクタの画像の使用の倫理的問題を適切に議論する難しさを共有する。

1 イントロダクション
1ー1 意義と目的
キャラクタの画像8の倫理的問題をめぐる議論は熾烈を極めがちである。最近では、献血ポス
ターに胸部を強調したとみなされる女性キャラクタを描いた画像が用いられ、その倫理的問題
をめぐり様々な立場の人々が応酬を繰り広げている9。これまでも広告表現における女性の虚構
的な表象は議論の的となってきた。とくに日本において、キャラクタの画像をもちいた広告表
現について、フェミニズム研究者、倫理学者、社会学者が議論を行なっている。彼らの価値あ
る議論が提示される一方で、さまざまな問題は完全に整理されたわけでも答えが与えられたわ
けでもない。議論の決着の付かなさは、それぞれの議論の終着点が共有されていないことから
も生じている。キャラクタの画像の倫理的問題のそもそも何が問題となっているのか、そし
て、それぞれの倫理的問題の指摘においてもち出される論者たちの解釈を根拠づける要素は適
切に提示されているのかが論者のあいだで共有されていないのだ。
本章は、広告ポスターなどをはじめとする、虚構的キャラクタの画像の使用の倫理的問題の
議論はなぜ難しいのかを明らかにすることを目指す。扱う倫理的問題は、典型的にはキャラク

8 以下「キャラクタの画像」は虚構的キャラクタの画像を指す。キャラクタの画像の事例として次のようなものが挙げ
られる:マンガやアニメーションにおけるキャラクタの画像、さまざまな印刷物やポスターにおける画像、SNSにお
いて投稿され共有される画像。

9 こうした議論については、江口(2019)、小宮(2019)、牟田(2019)などを参照のこと。

19
タの画像が掲載されたポスターを特定の場所で掲示したり、キャラクタの画像を広告に用いて
街頭やインターネットでアクセス可能にすることに関するものである。
本章の目的を果たすために、画像提示行為の倫理的問題を議論しているとき考慮されている
諸要素を整理する作業を通じて、いかなる議論が適切なのかを考えようとするとき、わたした
ちがぶつかるだろういくつかの困難を共有する。
難しさを共有する意義は、わたしたちが議論を通じて協同的にキャラクタの画像の特定の倫
理的問題に向き合うための手がかりを提示することにある。特定の倫理的問題の議論にまつわ
る特定の立場を擁護する作業も重要だが、哲学に望まれる課題はそれぞれの立場がなぜ食い違
うのか、適切な議論とは何でありうるかを描く作業でもあるとわたしは言いたい。本章では、
こうした議論についての整理と分析を行い、有用だろう概念的枠組みの制作を通して議論の難
しさを共有することで、わたしたちの議論の実践をよりよいものにする手がかりの制作を目指
す。

1ー2 扱うもの
以下、対象と倫理的問題について本章で扱うものと扱わないものを明示化する。
まず、対象について、第一に、実在の人物の写真的画像/映像ではなく、あからさまに虚構
的なキャラクタを描写していると一般にみなされるキャラクタの画像(以下「キャラクタの画
像」とよぶ)を扱う。第二に、とくに(準)公的機関や公共の利益を目指した活動を行なって
いるとみなされる団体によるキャラクタの画像使用で、公衆の目に触れやすいもの/問題に
なったものを扱う。個人的な使用(例えば、SNSでじぶんの描いたキャラクタの画像を提示
すること)は主題的には扱わない10。
次に、倫理的問題について、本章では、キャラクタの画像を提示する「使用」あるいは「行
為」に関わるものを扱う11。倫理的問題は典型的には行為に関しても問われる。次の例をみて
みよう。

地下鉄、アラブ系の女性に白人男性が近づき「テロリストは失せろ」と叫ぶ。(cf.
Maitra 2012, 100-101)。

このとき、白人男性が発話した文章の内容が単独で倫理的に非難されているというわけでは
ない。例えば、いままさに、わたしは「テロリストは失せろ」とこの文章において記述してい
るが、わたしの行っていることは彼と同一の倫理的非難の対象には、ひとまずのところ、なら
ない。なぜなら、彼が行っているのは脅迫や侮辱、差別といった倫理的非難の対象になりうる
行為であり、わたしは、ひとまずのところ、それらの行為を行っているわけではないからだ。
何らかの意味や内容をもつ表現に関わる倫理的非難の対象は、その意味や内容そのものだとみ
なされがちだが、よく考えると、わたしたちの非難の対象は、典型的には、特定の意味や内容
を伴った行為であることがわかる。

10 これら個人的な発表におけるキャラクタの画像の倫理的問題についても本章の以下の議論が適用できないわけではな
いが、本章では細かな議論を行わないため議論の主題的な対象から除いておく。

11 以下、倫理的問題の区分は難波(2019)も参照のこと。

20
同様に、ある画像が倫理的に問題とされるとき、その「意味」が単独で問題とされるという
より、その「意味」を使って誰かがしていること、すなわち「画像を用いた行為」が典型的に
は問題の対象となっている。
本章で中心的に扱う漫画家、丈による『宇崎ちゃんは遊びたい!』(2017年∼、
KADOKAWA)というマンガ作品に登場するキャラクタ「宇崎ちゃん」の画像を用いたポス
ターを献血の呼びかけに使用した日本赤十字社の事例において倫理的問題になっているのは
「キャラクタの身体的特徴やポーズの意味」そのものというよりも「その内容を使って公益団
体が献血を呼びかけたり、この内容をある程度誰でもがアクセスできる公共の場で提示するこ
とで行なっている何かしらの行為」である。
本章では、あるキャラクタの画像をめぐる倫理的問題について、その「意味」単独ではなく、
その内容を使って誰かがしていること、すなわち「行為」が倫理的問題の対象となっている点
に焦点を当てる。

2 枠組みをつくる
本章の目的は、キャラクタの画像提示行為の倫理的問題の議論はなぜ難しいのかを明らかに
することだった。本章では、キャラクタの画像提示行為の倫理的問題の議論がなぜ共通の結論
に至らないことが多いのかを、解釈の共有の難しさ、という側面から明らかにすることで、こ
の課題をこなす。そのために、本章ではふたつの作業を行う。第一に、キャラクタの画像の解
釈の対象がどのようなものかを分析するために、ふたつの意味と構成される行為という概念を
導入する。第二に、どういう手がかりが、キャラクタの画像の倫理的問題をめぐる議論におい
て、ふたつの意味と構成される行為の解釈の手がかりとなるのかを整理する。

2ー1 ふたつの意味と行為
本章では画像の行為の側面に焦点を当てる。とはいえ、画像の行為とは何かはまだ明らかで
はない。本章で扱う画像の行為とは、特定の文脈で画像を提示する行為である。本章ではこの
行為を「画像提示行為(picture-presentation-act)」と呼ぶ。例えば、あるひとや団体が公共の
場をはじめとするさまざまな場所でポスターを掲示する行為、SNSで画像を投稿する行為、
画像を配布する行為などが画像提示行為にあたる12。
画像提示行為を適切に議論するためには、画像の複数の意味を区分けしておく必要がある。
まず、画像にはおおきくふたつの意味がある。それは「画像の意味(meaning in picture)」と
「使用の意味(meaning in use)」である13。前者の画像の意味とは「画像の典型的な意味、異
なる文脈においても共通して理解されるような画像の意味」を指す。後者の使用の意味とは
「各々の画像の使用における特定の文脈で提示されることで「その使用において」理解される

12 画像提示行為と関係する行為には画像を描くことそのものがあるが、これは画像提示行為ではない。画像を描きなが
らひとに見せるライブパフォーマンス行為は画像提示行為の一種である。じぶんじしんに画像を見せることはおそらく
画像提示行為である。ポスターを貼って人々に見せる行為は典型的な画像提示行為である。

13 前者は描写の哲学における「描写内容(depicted content)」と同義である。描写内容の理解は、松永(2017)のまと
めを参照した。なお、本章は、松永(2017)が示唆し、銭との議論の中で共有された語用論的アプローチの導入による
描写の哲学の拡大のプロジェクトに共感して書かれてもいる。そのプロジェクトをわたしはこれから「語用論的画像哲
学(pragmatic picture philosphy)」という奇妙な名前で呼ぶことを考えている。

21
ような画像に関する意味」である。いきなり画像の話をする前に、よく似た構造をした言語使
用の具体的な例をあげよう。

互いを意識している高校生のアキとハルがチョコミントのアイスが好きかどうかを休み
時間に議論しかけたが、チャイムが鳴って途中で終わった。放課後一緒に歩いていた帰
り道、改札前で別れるとき、アキは急にその話を思い出して遠ざかるハルの背中に叫ん
だ。
「そうそう、言い忘れてたけど、大好き!」
ハルは一瞬どきりとする。とはいえすぐ〈チョコミントのことか〉と気づき、振り返っ
て笑った。
「言ってなかったっけ? わたしも!」

この例において「大好き」ということばのもともとの意味はさまざまなものに対する好意を
意味する。そしてこの文脈において、他人に対して「大好き」と叫ぶことは「あなたが好き」
という使用の意味をもちがちである。だが、ハルはそれをそれ以前の会話の内容の文脈から、
「チョコミントが好き」という意味に理解した。ひとつのことばの意味は、文脈を通して概ね
共通しているものの、同時に、様々な文脈において揺れ動く異なる意味をもそのことばを用い
るものによってもたらされうるものであることが確認される。さまざまな文脈において一定程
度共通する「画像の意味」をもつひとつの種類のことばが文脈によって異なる「使用の意味」
をもたらされうる。
ついで、画像の場合を架空のLINEスタンプの使用を例に考えてみよう。ある笑っているキャ
ラクタのLINEスタンプを考えてみて欲しい。第一に、このスタンプには、「笑っている」といっ
た程度の画像の意味がある。それに加え、このスタンプにはさまざまな用い方がある。一方
で、会話相手に気遣いをされたときに用いれば、ある笑っているキャラクタのLINEスタンプは
その気遣いに対する「ありがとう!」とことばで述べることと類似した画像の使用の意味をも
ちうる。他方で、冗談まじりに られたときに同じLINEスタンプを用いれば、それは「もう
いっぺん言ってみろ?」とことばで述べることと類似した使用の意味をもちうる。アキとハル
のLINEでの会話を例に挙げてみよう。

アキ:今日学校休んでたけど、ハル大丈夫?
ハル:[笑っているキャラクタのLINEスタンプ]
ハル:ちょっと熱出てたけど、もう治った
アキ:ほんとびっくりした。バカは風邪ひかないって嘘だったんだ
ハル:[笑っているキャラクタのLINEスタンプ]
ハル:明日楽しみにしてて
アキ:わお

さまざまな文脈において一定程度共通する「画像の意味」をもつひとつの種類の画像が、文
脈によって異なる「使用の意味」をもたらしうる。
以上、画像の異なるふたつの意味のレベルがあることが確認された。だが、画像提示行為の
議論において必要な概念はこれで十分ではない。というのも、画像の倫理的問題を議論するた

22
めには、画像の意味の話のみならず、画像提示行為が関わる行為の話を扱う必要があるから
だ。
画像を提示する行為に加えて、その行為が構成する行為がある。これが、画像提示行為に
よって「構成される行為(constituted act)」である14。さきほどの言語とLINEスタンプの例で
言えば「大好き!」と述べることは何かを発話するという行為、すなわち、発語行為であり、
加えて、その発話によって「告白」「評価」あるいは「主張」といった発話する行為だけでは
ない別の行為が構成されうる。また、笑顔のキャラクタの画像を一連のコミュニケーションの
うちで用いることで「ありがとう!」「もういっぺん言ってみろ?」という使用の意味が伝達
されるのみならず、「感謝」あるいは「挑発」という画像提示行為とは別の行為が構成されう
る。これらの概念から言語とLINEスタンプの事例を整理すれば次の表になる(表1)。

表現 画像の意味 使用の意味 構成される行為

「(チョコミントが)大好
「大好き!」 何かに好感を抱いている 評価
き」

「大好き!」 何かに好感を抱いている 「(きみが)大好き」 告白

[笑っているラインスタン
笑っている 「ありがとう!」 感謝
プ]

[笑っているラインスタン 「もういっぺん言ってみ
笑っている 挑発
プ] ろ?」

表1 言語とLINEスタンプの事例

まとめれば、ある画像があり、その画像の複数の文脈である程度一定の解釈がなされうるよう
な画像の意味があり、ついで、その画像が特定の文脈で使用されることで解釈されうる使用の
意味があり、さらに、その特定の文脈での画像提示行為によって構成される行為がある。これ
を一般化すれば次のような画像の意味と構成される行為の要素を整理できる(図2)。

14 構成される行為の概念については、Austin(1962)そして、Langton(1993)をはじめとする言語行為論をおおきな参
照元としている。画像提示行為によって構成される行為を「画像提示内行為(in-picture-presentation-act)」と呼ぶこと
で言語行為論との関係をはっきりさせておく用語法もありえる。本章では一貫して画像提示行為によって構成される行
為を「構成される行為」と呼ぶが、画像提示内行為と入れ替え可能である。なお、画像をもちいた行為を言語行為論か
ら議論している論考について代表的なものに、Novitz(1977)がある。

23
図2 画像のふたつの意味と構成される行為

一般に、画像の解釈は、画像の意味に限定されがちである。だが、解釈のレベルは、画像の意
味のみならず、使用の意味、そして、構成される行為のそれぞれにある。ある画像がいいとか
わるいとかを話しているわたしたちの実践においては、わたしたちは、ある画像提示行為に
よって構成される行為の倫理的価値を一側面では議論している。
キャラクタの画像の倫理的問題の行為の側面を問うためには、ふたつの意味と構成される行
為の解釈が関わってくる。画像の倫理的価値の判断は、画像のふたつの意味と画像提示行為が
構成する行為の解釈に依存するからだ。あるキャラクタの画像の画像提示行為において、その
キャラクタの画像がどんな画像の意味をもち、その文脈でどんな使用の意味をもたらし、そし
て、どんな構成される行為があるのかが判断された上で、構成される行為にどんな倫理的問題
があるのかが暗黙にせよ判断されている15。本章のふたつの意味と構成される行為の概念を導
入することで、キャラクタの画像の倫理的問題をめぐる議論をうまく扱えるようになる。

2ー2 解釈の手がかり

では、意味と行為はどんな手がかりによって解釈されるのか。以下では、代表的な解釈の手
がかりを四つ提示する。これらはふたつの意味と構成される行為の解釈を支える要素のすべて
ではないだろう。だが、言語哲学と描写の哲学においてしばしば議論の的になる要素を挙げた
ものであり、暫定的にせよ重要な役割をもつ要素のはずである。
その四つの要素とは、(a)提示者、(b)意図、(c)文脈、そして、(d)ジャンルで
ある。これらについて本項ではそれぞれを紹介する。

(a)提示者
まず、制作者と提示者の区別を導入することが有用となる。すなわち、

制作者(creator):画像の生産に責任のある者を指す。個人/集団のどちらもありう
る。

提示者(presenter):画像の提示者を指す。制作者と同一の対象である場合もあれば、
異なる場合もある。ある画像の制作者の意図とは独立に、特定の文脈で、特定の意図を
伴い、画像提示行為と構成される行為を遂行しうる。

制作者と提示者は、個人的な発表の場合にはしばしば一致する。ある作家が、じぶんの描いた
イラストを発表するとき、そのイラストの制作者と提示者とは一致する。広告ポスターの提示
は、多くの場合、制作者と提示者が一致しない。例えば、献血ポスターにおいて、その制作者
である原作者と、そのポスターを提示する赤十字社とは一致しない。

15 画像提示行為によって構成される行為の候補はいろいろある。例えば、代表的なものでは、画像に描かれた対象に関
する「性的モノ化(sexual objectification) 」や「劣位化(subordination)」、関連してとく女性の発語内行為の「消音
(silencing)」にが議論される。この点については、Langton(1993)、Eaton(2012)、Cappelen & Dever(2019,
ch.10)、Maitra(2017)らを参照のこと。本章では詳しい議論を扱わない。

24
次に、とくに提示者に関して、その立場や社会的な地位が重要となる。この点について「立
場」の議論を指摘しておきたい。

提示者の立場:あるキャラクタの画像を用いた画像提示の提示者がどのような社会的な
「立場(position)」を分配されているのか。例えば、男性が女性の画像を用いているの
か(cf. Barnes 2016)。

献血ポスターや自衛官募集といった公共機関の提示者について、公的、公共的、学術的機関
の名においてキャラクタの画像を用いた画像提示、そして、構成される行為が行われるとき、
特定の権限を帯びたものとして判断されうる。ゆえに、ある提示者がどのような社会的な立場
にあるのかを分析するにあたっては、制作者のみならず、あるキャラクタの画像を提示する提
示者の分析が必要となる。

(b)意図
加えて「意図(intention)」を人々はふたつの意味と構成される行為の解釈の手がかりとして
いる。例えば、あるキャラクタの画像提示行為が構成する行為が倫理的に問題があるとされる
場合、そして、そうではない場合、人々は倫理的問題の指摘にあたって、提示者の意図や制作
者の意図に言及する16。
とはいえ、意図をもち出すときには、それがいかなる意味での意図なのか、どの程度解釈の
適切さを支えているのかをはっきりさせる必要がある。例えば、キャラクタの画像の画像提示
とそれが構成される行為に関して、提示者の意図は受け手にすぐさまアクセス可能ではないの
がふつうである。典型的な発話は発話者と聞き手が同時刻・同じ空間にいるものの、ポスター
などのキャラクタの画像提示は提示者が目の前にいるわけではなく、どんな意図で提示したか
はあいまいである。では、ある画像提示行為が構成する行為の解釈にどの程度意図は使用で
き、その意図理解の適切さはいかに担保されるのか、それは後ほど議論される。
また、あるキャラクタの画像提示の倫理的問題の指摘にあたって、制作者や提示者の意図次
第でその倫理的問題が免責されたり、あるいは、意図に関係なく倫理的に問題があるのかに
よって、意図と倫理的問題との関係も異なる。ゆえに、さまざまな論者がどのような意図の概
念を手がかりにあるキャラクタの画像を倫理的に批判しているのかを整理することが必要とな
る。

(c)文脈
次に、文脈について、おおきくふたつの文脈を区別できる。ひとつめは「マクロな文脈」と呼
べるものである:

マクロな文脈:ある画像の内容と使用の意味、あるいは構成される行為が特定の倫理的
に問題のあるふるまいや主張などと歴史・文化的に結びついている文脈。

例えば、黒人差別にブラックフェイスが用いられてきたマクロな文脈において、留保なしに
「黒塗り」のキャラクタ画像の画像提示行為によって構成される行為は差別行為として適切に

16 以下、意図の概念について、 Irwin(2006)、松永(2013)を参照している。

25
解釈されうる。次に、あるキャラクタの画像が提示されるマクロな文脈についての議論があ
る。ついで「ミクロな文脈」と呼べるものがある。

ミクロな文脈と画像提示:ミクロな文脈‒‒‒‒特定の時間、空間、環境‒‒‒は、ある画像
の内容と使用の意味、あるいは構成される行為の解釈に影響する。

あるキャラクタの画像を用いた画像提示行為が、政府行政の啓発ポスター、自衛隊の隊員募集
ポスター、電車バスなどの公共機関のポスター、学術機関の学会誌の表紙などとして用いられ
るミクロな文脈において、それらは、さきほどの提示者の社会的立場と関わりつつ、それぞれ
の画像の画像の意味、使用の意味、そして構成される行為の解釈に重大な影響を与えうる。

(d)ジャンル
最後に「ジャンル」がキャラクタの画像のコミュニケーションにおいて重要な役割を果たす。

ジャンル:キャラクタの画像の意味と構成される行為を解釈する仕方の一定の規範を指
す17。

例えば冷酷なユーモアをもって管理社会を描いた、テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラ
ジル』(一九八五年)がある。この作品は、多分に含まれたアイロニーによって、そうした社
会の不条理さや滑稽さをあらわにするような仕方で鑑賞されることが規範として共有されてい
るだろう。対して、この映画を、主人公である語り手の信頼できなさや物語の偶然の展開か
ら、シリアスさに欠けているために管理社会の真に迫っていないだとかといった理由から批判
するひとは、この作品を適切なジャンルで鑑賞しているとは言えない。同様に、あるキャラク
タの画像に関しても、それが広告に用いられるのであれ、もともとどのようなジャンルにおい
て鑑賞されていたのかが、適切な画像のふたつの意味と構成される行為の解釈にあたって重要
になる18。ある作品がアイロニカルに鑑賞されるようなジャンルのもとにあるのか、それと
も、そうしたアイロニーなしで鑑賞されることを前提としているのかによって、その作品を用
いた広告の意味と提示行為が構成する行為のそれぞれの解釈に、どの程度かはさておき規範的
な指示を与える。ゆえに、キャラクタの画像が鑑賞されるジャンルもまたその画像の意味と構
成される行為の解釈と密接に関係する。
画像提示行為によって構成される行為の倫理的問題を議論するとき、各論者の構成される行
為の解釈は、構成される行為のみならず、画像の画像の意味と使用の意味の解釈にも依存す
る。そして、それらのふたつの意味と構成される行為の解釈にあたっては、少なくとも四つの
要素、すなわち、提示者、意図、マクロとミクロな文脈、そしてジャンルが重要な役割を果た
すことが整理された。

3 キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか

17 ジャンルの概念については、Walton(1970/2007)の「芸術のカテゴリ」の議論と深く関わる。

18 例えば、ポルノグラフィについても、その作品の解釈にあたっては、現実についてのジャンルかそうではないジャン
ルかが重要な役割を果たす。この点については、Liao & Protasi(2013)を参照のこと。

26
前章では、キャラクタの画像提示行為の倫理的問題の議論はなぜ難しいのかの明示化という
本章の目的を達成するために、キャラクタの画像提示行為の倫理的問題の議論がなぜ共通の結
論に至らないことが多いのかを、解釈の共有の難しさ、という側面から明らかにすることで、
この課題を遂行することを共有し、ふたつの作業を行った。第一に、キャラクタの画像の解釈
の対象がどのようなものかを分析するために、ふたつの意味と構成される行為という概念を導
入し、第二に、どういう手がかりが、キャラクタの画像の倫理的問題をめぐる議論において、
ふたつの意味と構成される行為の解釈の手がかりとなるのかを整理した。それ踏まえ、本章で
は、それぞれの解釈がなぜ容易には共通の見解に至らないのかをふたつの難しさ、すなわち、
個別の解釈の未確定さ、解釈の手がかりの重みづけと網羅性の問題から明示化する。

3ー1 個別の未確定さ
第一に、解釈の共有の難しさは、個別の解釈が確定的でないことからもたらされる。前章で
挙げた提示者、意図、文脈、ジャンルの観点から『宇崎ちゃんは遊びたい!』というマンガ原
作に登場するキャラクタ「宇崎ちゃん」の画像を用いた、日本赤十字社が行った献血ポスター
の掲示に関する議論を取り上げ、実際の難しさを考察する。
まず、提示者について、江口聡の指摘を取り上げる。江口は『宇崎ちゃんは遊びたい!』献
血ポスターについて次のような分析を行う。

〔……〕女性的な身体の部分を強調したイラストは、女性を単なるモノとして見る性差
別的な見方を反映しているから、そうしたポスターが公共性の高い団体の広報に使われ
るのは不適切だ、という意見はありえる。この場合はむしろ、ポスターにあらわれるよ
うな発想(アイディア)や女性に対する観点が、公共性の高い団体のポスターにおいて
表現されることで、女性一般をモノ化する発想を維持・拡大することに通じる可能性が
ある、ということが問題にされているのだろう。(江口 2019)

ここでは「女性的な身体の部分を強調したイラストは、女性を単なるモノとして見る性差別的
な見方を反映しているから、そうしたポスターが公共性の高い団体の広報に使われるのは不適
切だ」という主張の可能性が検討されている。こうした主張は、当該のポスターが「女性を単
なるモノとして見る性差別的な見方を反映している」という倫理的問題を指摘することにとど
まらず、そうしたポスターが「公共性の高い団体の広報に使われる」ことで「女性一般をモノ
化する発想を維持・拡大することに通じる可能性がある」点が議論になりうるもののひとつと
して検討されている。
これらは、提示者の画像提示行為の際の社会的な役割や地位に関しての議論として解釈でき
る。例えば、同じ当該の画像が、人目のふれることのないあるひとの部屋に貼られ楽しまれて
いるばあい、それは画像提示行為ではあるものの、そのひと以外に提示する行為ではないため
に、江口がありうる議論として提示するようなかたちでの倫理的問題を引き起こすかどうかは
さらに検討を必要とする。
ここではあるポスターのとくに構成される行為について、その提示者のあり方を分析するこ
とで、倫理的な問題を引き起こしうる可能性が議論される。つまり、提示者に関しては、提示
者にはどのような権限があるとみなされるのか、という点をめぐって議論が交わされうる。一
方で、当該の宇崎ちゃんのケースでは、日本赤十字社は公共性の高い団体であるために女性一
般をモノ化するという「劣位化」といった構成される行為を遂行しうるためにポスターを批判

27
する立場もあれば、他方で、日本赤十字社は公共性の高い団体であるとしても、女性一般に関
する特定の構成される行為を遂行する権限をもつわけではない、と考える立場がありうる。後
者は、女性の劣位化やモノ化といった構成される行為を遂行するための条件を必ずしも日本赤
十字社が満たしていないことを主張するかもしれない19。このように、提示者に関しては、提
示者の権限をめぐって議論がなされうる。
次に、社会学者である牟田和恵による次の分析は、キャラクタの画像の使用の意味について
の、あるいは部分的に構成する行為と関係する制作者と提示者の意図を分析しているものと解
釈できる。

その典型〔適切でない反論を行なっている例〕が、女性用下着を身につけた広告ポス
ターを件のポスター〔『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター〕と並べ、「どこが違
うんだ」と怒っているものだ。〔……〕女性が自らの身体を愛し、可愛かったりかっこ
よかったりする下着を凛とした表情で身につけて堂々としているポスターはまさに女性
の性の主体性の回復だ。これがくだんの献血ポスターと同じに見えるとは、そんな区別
もつかないのかと呆れたくなるが、「女性身体=性的」、「性にかかわる批判=保守反
動」という思い込みが今も日本の社会には少なからずあるようだ。(牟田 2019)

ここで牟田は、当該の献血ポスターと女性用下着を女性が身につけている広告ポスターの事例
とを比較できるとしている。後者については「女性が自らの身体を愛し、可愛かったりかっこ
よかったりする下着を凛とした表情で身につけて堂々としているポスター」としてその画像の
意味と使用の意味においての解釈が可能であり、その事例のポスターの何らかの提示行為は女
性に対する抑圧や何らかの倫理的に問題のある行為を構成するのではなく、むしろ「まさに女
性の性の主体性の回復だ」とされるような何らかのポジティブな行為が構成されているものと
解釈されるとするものと整理できる。
ここで、キャラクタの画像の倫理的問題を問うにあたって意図がどのような役割を担うのか
について整理を行える。

(1)意図の帰属先:あるキャラクタの画像提示行為に関して、倫理的に問題となる構成
される行為をある個人や団体が行なっていると判断される際の意図は、現実の制作者や
提示者の意図なのか、それとも仮説された制作者や提示者の意図なのか。
(2)意図の範囲:倫理的に問題となる行為現実のあるいは仮説された制作者や提示者
の意図とは何か。それは暗黙のバイアスなども含めるのか。

第一に、意図の帰属先には複数の候補がある。キャラクタの画像提示行為によって構成され
る行為に関して、それを行った提示者がどのような実際の意図から構成される行為を行ったの
かから、その構成される行為とそれに関するふたつの意味を解釈するのか、それとも、具体的
で現実的な意図というよりも、鑑賞者や批判者によって推測され、仮設される意図を議論のな
かでキャラクタの画像の意味と行為の解釈の手がかりとするのか、これらの異なる場合があ
る。

19 さらに、特定野権限なしでも特定の倫理的に問題のある行為は遂行されうるとする立場もあるだろう。関連する議論
については、Maitra(2017)を参照のこと。

28
第二に、制作者にせよ提示者にせよ、現実のあるいは仮説されたものにせよ、意図にはいか
なる要素が含まれるのかが議論の的になる。意図とは、あるキャラクタの画像提示行為が構成
する特定の構成される行為についての意図もあれば、提示者によるキャラクタの画像の画像提
示行為における使用の意味についての意図、キャラクタの画像の制作者による内容の意図な
ど、さまざまな意図がある。これらのうち、あるキャラクタの画像提示行為によって構成され
る行為の意図が、主に、ひとまずは、構成される行為の解釈にあたって重要になる。
対して、提示者が倫理的に問題のあるような構成される行為を意図していないが、意図せず
その構成される行為がなされてしまっている場合なら、提示者の意図はキャラクタの画像提示
行為が構成する行為の解釈にあたって役割を果たさないのだろうか。それとも、その過失も含
めて、意図と関わらせつつ、責任が問われうるのだろうか。本章ではこの議論に決着をつける
ことはできない20。重要なのは、意図をもち出すにせよ用いないにせよ、それぞれの場合にい
かなる意味で意図を解釈の手がかりとするのか、しないのかは各論者が説明すべきことがらで
ありうる21。意図に関しては、意図の適切な理解はもちろん、意図の帰属先と範囲をめぐる議
論は開かれたままにある。
加えて、文脈について、まず、マクロな文脈として、小宮(2019)は、キャサリン・マッキ
ノン(およびレイ・ラングトン)による性的モノ化の議論とそれを画像、とくに西洋の女性の
ヌード画に適用したA・W・イートンの議論を援用しつつ、あるキャラクタの画像の解釈にあ
たって、五つの手法を整理し提示している。例えば、小宮が挙げるものに次のふたつがある。

・性的部位への焦点化:「性的部位(胸や尻など)を強調し、そこに目が行くように女
性を表象する手法」。
・利用可能性/受動性の表現:前者は、ポーズや表情に関係し「表象される女性がそれ
を見る者にとってあたかも性的に利用可能である(自分を受け入れてくれる関係にあ
る)かのような印象を与える描き方」/後者は、「性的に見られることに関して女性の
ほうが能動的、積極的ではない(かといって明確に拒絶しているわけでもない)印象を
与えるような描き方」を指すとされる。(小宮 2019)

小宮の整理は、あるキャラクタの画像の内容、使用の意味について、加えて、構成される行為
について、これらの解釈を支える社会にある程度広く共有されているとみなしうる解釈の規範
についての分析を行ったものだ。これらの社会的な何らかの解釈の規範をマクロな文脈のひと
つとして位置づけられる。こうした、マクロな文脈に関する議論は、そのマクロな文脈がほん
とうにわたしたちの社会実践のなかで通用しているのかが議論されうる。とくに、小宮の議論
に関していうならば、議論の難しさは、こうしたマクロな文脈を否認する立場の人々に対して
いかに説得的に示すかにある。
また、ふたたび江口は次のように指摘している。

日本赤十字社はかなり以前から多種多様な人気アニメ・マンガとの「コラボ」によって、
若者に対するキャンペーンをおこなっている。『宇崎ちゃん』はその一連の企画のひと

20 関連してポルノグラフィの言語行為論的分析における意図の問題については、Bianchi(2008; 2014)、Mikkola(2008;
2019b)、Saul(2006)らを参照のこと。

21 ポルノグラフィの倫理的問題について、その制作者の立場については、難波(2020b)で部分的に議論している。

29
つであり、またポスターが掲示されたのは献血ルームなどに限られていたことを考慮す
ると、すでに人気のあった『宇崎ちゃん』とのコラボを選択することに特に問題がある
ようには思えない。主人公のルックスと性格を表した単行本表紙の絵柄を選択すること
にも、さほど問題があるわけではないだろう。(江口 2019)

この指摘は、具体的なミクロな文脈を分析する必要を示しているものと理解できる。あるポス
ターが誰によって提示されるのか、という提示者のちがいとも関わりつつ、そのポスターがど
のような場所にどのようなタイミングで置かれるかによって、しぜん、ふたつの画像の意味
と、構成される行為の解釈は変化する。ミクロな文脈においては、マクロな文脈と比べれば、
事実問題として議論が行われやすいだろう。とはいえ、ここでも、それが理論的なものではな
く、実際に特定の提示場所に赴いたり、経緯を調査しなければならない点で、そうした事実の
どこまでを信頼し、解釈の手がかりとするかによって、解釈はつねに不確定であり続けるだろ
う。
最後に、江口の次の議論は、ジャンルに基づいたキャラクタの画像の解釈の適切さをめぐっ
て行われていると解釈できる。

主人公の一人の桜井先輩は、高身長のイケメンだが奥手で堅物の男子大学生である。も
う一人の主人公宇崎ちゃんは、女性的で豊満な身体つきだが、実は非常に活発で食い意
地がはった「ウザくてカワイイ」女子大学生である。この作品は、二人がおりなす「くっ
つきそうでくっつかない」ほのぼのとした日常生活を描いたラブコメであり、部分的に
エロチックな要素も含んではいるものの、一部の人々がポスターから連想したような
「お色気」や「エロ」中心の物語ではない。(江口 2019)

マンガ作品としての『宇崎ちゃんは遊びたい』を読む限り、この作品が女性を性的にモ
ノ化しているという批判はあてはまらないように思われる。それどころか、宇崎ちゃん
が他の登場人物のセクハラ的発言に対して強く対決しているシーンもあり、宇崎ちゃん
は自覚的・自立的・能動的で魅力的な女性として描かれている。(ibid.)

一般的に鑑賞されるジャンルによってあるキャラクタの画像の意味と構成される行為の解釈が
変化しうることははっきりしている。もし『宇崎ちゃんは遊びたい!』がその作品において、
明確に女性 視的であるような仕方で宇崎ちゃんをはじめとする女性キャラクタを鑑賞するこ
とを規範とするようなジャンルであったとすれば、キャラクタの画像が提示されるとき、その
画像の意味、使用の意味、そして構成される行為の解釈には、色濃くそのジャンルにおける鑑
賞の仕方の規範が影響しうる。対して、もし、江口が述べるような作品として『宇崎ちゃんは
遊びたい!』が鑑賞されているなら、以上のような女性 視的な場合のジャンルにおいて鑑賞
されているときのキャラクタの画像の提示とは異なるふたつの意味と構成される行為の解釈が
より適切なものとされうる。ジャンルについては、ほんとうに鑑賞者は特定の論者が指摘する
ような仕方でジャンルを鑑賞しているのかどうかが議論の的になる。一方では、制作者が主張
したり、特定の鑑賞者が(この場合であれば江口が)主張するようなジャンル理解が存在する
が、他方で、他の鑑賞者は別の鑑賞者とはかなり異なる仕方で鑑賞を行なっており、それが実
際のところ当該の作品の適切なジャンル理解となっている可能性もある。ある作品が鑑賞され

30
るジャンルのあり方それ自体についての適切な主張を行うための手がかりのリストは明白なか
たちでは存在しない。ゆえに、ジャンルに関してもまた、議論の不確定さは避けがたい。
これらから個別の解釈の不確定さの理由をある程度示すことができた。すなわち、提示者に
関して、どのような権限があるのか、どのような影響力をもちうるのかについて、意図に関し
て、その帰属先と範囲はいかなるものなのか、文脈に関して、どのようなマクロな文脈が実際
に存在し、ミクロな文脈は事実どのようなものだったのか、最後に、作品のジャンルについ
て、人々がどのような鑑賞実践を行なっているのか、これらの問いは、論者が前もって決定で
きるものではなく、必ず、実際のところをつねに検証しなければならない。そして、これらは
経験的な証拠と関係するために、不確定さがつねにつきまとう。

3ー2 重みづけと網羅性
以上の個別の解釈の不確定さに加えて、ふたつめに、それぞれの解釈の手がかりの全体の関
係性にまつわる次のふたつの問題がある。

(1)重みづけの問題:諸要素のいずれかが相反するように働くとき、それぞれのどの要
素が解釈の手がかりとして優先されるのか。
(2)網羅性の問題:適切な倫理的批判のために、これらの要素のうちどれだけを議論に
おいて扱うべきなのか。

第一に、それぞれの解釈の手がかりとしての重みは平等なのか、それとも差異があるのかが
問われうる。第二に、あるキャラクタの画像の倫理的批判において、これらの諸要素のいずれ
を取り上げるべきなのかは明らかではない。例えば、わたしがあるキャラクタの画像の倫理的
問題について検討するとしよう。まず、わたしは、提示者、意図、マクロな文脈とミクロな文
脈、そしてジャンルについての総合的な分析を行う必要があるだろう。そのためには、実際に
どのような提示者が、どのようなマクロな、そしてミクロな文脈において画像提示を行なって
いるのかについての情報を必要とする。これに加えそのキャラクタの画像と関連する作品がど
のようなジャンルに属するのかについて、その作品を鑑賞しつつ、批評家や鑑賞者の語りを参
照するとともに、倫理的批判のさいに手がかりとされる意図について、どのような帰属先なの
か、その意図には明確な意図を含めるのか、それとも暗黙のバイアスなども含めるのかを判断
する。これら個別の要素の判断のみならず、諸要素のそれぞれをどのような優先順位において
解釈の手がかりとするのか、そして、これらのうちのいずれを取り上げ、他を取り上げないの
かについての判断を行う必要がある。そして、これらの判断のみならず、判断の根拠につい
て、ある程度応答できることが望ましいだろう。
それでは、わたしは、どの要素のどれだけを、そして、どの要素を解釈の手がかりとして優
先してもちいるべきなのか。この点に関して本章では答えを提示できていないし、また、現在
のところ、答えの方向性もよくわかっていない。
これらの解釈の手がかりは互いに対立する主張の根拠となりうる。一方で、ジャンルにおい
てはある論者の指摘がただしく、他方で、意図については別の解釈ができるとすれば、どのよ
うに調停されるのかについてははっきりしない。

おわりに

31
本章は、広告ポスターをはじめとする、虚構的キャラクタの画像提示行為の倫理的問題の議論
がなぜ難しいのかを明らかにすることを目指し、そのために、画像提示行為の倫理的問題を議
論しているとき考慮されている諸要素を整理する作業を通じて、いかなる議論が適切なのかを
考えようとするとき、わたしたちがぶつかるだろういくつかの困難を共有した。
個々の論者は、特定の解釈の手がかりを重視するのか、その重みづけの理由を説明する必要
があるかもしれない。規範的な主張や学術的主張をしたいのであれば、議論者にその主張の重
みに応じた説明責任は課されるだろう。
あるキャラクタの画像提示行為の倫理的問題を指摘するためには、一見思われている以上に
複雑で多種多様な要素についての解釈と議論が必要になることが明らかになってきた。現実に
おいて、わたしたちが行なっている画像解釈と議論は、本章で扱ったそれ以上の複雑さのうち
で行われている。その複雑さの一端であっても明示化し、枠組みとして図示することで、どの
ような議論を行っているのか、そして、望ましい議論とは何かについての手がかりを提示する
という目的を果たすことはできた。
それぞれの議論において、解釈を支えるような手がかりの重みづけはおのずと異なりうる。
ある行為の倫理的問題を問うことが、直接的にその表現を規制することを目指す場合もあれ
ば、規制に貢献しうるものの、それが主たる目的としては設定されておらず、その批判を介し
てどのようなジェンダー観をわたしたちがもっているかを再考するための議論もありうる。議
論は常に多元的な目的が選ばれており、それらをあらかじめ決定できず、議論の目的を共有す
ることから議論がはじまる場合もまたあるだろう。本章の議論は、これらの目的のためにもち
出される解釈がどのように根拠づけられうるかを整理する枠組みをつくることで、直接目的の
整理を行ったわけではない。解釈の重みづけ、網羅性の問題は、人々が議論によって何を達成
しようとしているのか、そして、そのためにはどのような議論の手続きや解釈の証拠が提示さ
れることが望ましいのかをめぐる議論の規範的議論へと接続されていくだろう。
本章はそれぞれにおいては蓄積があるものの、統一的な地図や関係性が明らかでなかったさ
まざまな要素を一望できるダイヤグラムを作成することで、これからのキャラクタの画像の倫
理的問題の議論の難しさを共有し、議論さらに発展させるための手がかりを提示できただろ
う。本章が虚構的なキャラクタの画像の倫理的問題に関する画像提示の側面の問題の難しさの
理解に役立ち、これからの議論のための足がかりとなることを期待する。

32
第三章

ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか

1 イントロダクション
本章では、前章の行為の分析に引き続いて、ポルノグラフィの影響に関する倫理的問題を扱
う。もしポルノグラフィが特定の意味でその鑑賞者22に影響を与えるとして、それが倫理的問
題になるとすれば、その問題に対して誰に何ができるか、そのありうる対処の仕方の候補を提
示する。
本章はポルノグラフィの様々な倫理的問題のなかでポルノグラフィが鑑賞者に特定の仕方で
与えるとされる「影響」に関する問題を扱う。本章では、ポルノグラフィが特定の意味でその
鑑賞者に影響することを前提とし、わたしたちがポルノグラフィの影響に関する倫理的問題
に、どのように対処しうるかを考察する。
本章の構成は以下の通り。まず、本節で前提を整理する。次節では、制作者と鑑賞者がどの
ような意味で倫理的問題の引き受け先となるのかについての議論を整理する。最後の第三節で
は、以上の議論を踏まえて、ポルノグラフィが鑑賞者に倫理的に問題のある仕方で影響すると
いう前提を受け入れたとき、わたしたちがどのような選択を行いうるのか、その候補を提示
し、倫理的問題と法的あるいは他の理由からの規制をめぐる問題を考察する。

1ー1 ポルノグラフィの影響仮説
本章で扱うポルノグラフィの影響とは「信念23への影響」である24。本章では、ポルノグラ
フィの信念への影響のレベルの倫理的問題を次のように明示化する。

信念 影響 倫理的問題:あるポルノグラフィが、ある鑑賞者がもつ、現
実の事柄に関する特定の信念に及ぼす影響についての倫理的問題25。

こうした倫理的問題を問うために、本章の全体において次の仮説を前提とする。

22 本章でポルノグラフィの鑑賞者は、例えばヘテロセクシャルな男性に限定されない、様々なセクシャリティ(性的指
向、性自認、性に関するふるまいや関心などの総体)をもつ人々を含む。

23 本章では、信念を、あるひとによって信じられている「XはPである」といった命題のかたちをした何か、くらいの
意味で用いる。あるひとがもつ信念は、例えば、「チョコレートはおいしい」「あるひとはかくかくしかじかのふるま
いをする」といったものだ。

24 本章では、ポルノグラフィの影響のレベルの倫理的問題について、信念に関する議論に限定し、例えば他の欲求への
影響については扱わない。欲求に関しては、A・W・イートンは、ポルノグラフィがその鑑賞者の「趣味(taste)」に
影響することで、女性の不平等な扱いを魅力に感じるような傾向性を鑑賞者が獲得する可能性を議論するなかで扱って
いる(Eaton 2017)。

25 信念への影響に関する倫理的問題について、例えば、キャサリン・ジェンキンスは、ジョン・サールの社会存在論を
参照しつつ、ポルノグラフィは、鑑賞者に女性という社会的制度のひとつに対する集合的承認のあり方を変化させると
している(Jenkins 2017)。関連して、難波(2019b)では、信念への影響の問題を言語哲学と社会存在論からスケッチ
している。

33
影響仮説:あるポルノグラフィは現実の事柄に関するある鑑賞者の特
定の信念に影響しうる。すなわち、(i)ポルノグラフィが現実の事柄に関するある鑑賞
者の特定の信念形成に先行して鑑賞され、かつ、(ii)現実の事柄に関するある鑑賞者の
特定の信念形成の確率が、ある鑑賞者がポルノグラフィを鑑賞したときに、ポルノグラ
フィ鑑賞しなかった場合の現実の事柄に関する鑑賞者の特定の信念形成の確率よりも大
きいことがありうる26。

例えば、ある暴力的なポルノグラフィがある鑑賞者にネガティブな影響を与えるとは、その
ポルノグラフィを鑑賞した者が、以前にはなかったり以前より強力な女性に対する差別的な信
念を形成するに先立ってそのポルノグラフィ鑑賞が行われ、かつ、そうした信念形成の確率
が、その鑑賞者がそのポルノグラフィを鑑賞しなかった場合の確率よりも大きいことを意味す
る。
本論に入る前に四つの注記を行う。まず、本章では、倫理的にネガティブなものにせよ、ポ
ジティブなものにせよ、ポルノグラフィが上記の意味で鑑賞者の信念に影響を与えうることを
前提とするが、こうした影響をすべてのポルノグラフィがすべての鑑賞者に必然的に与えるこ
とは前提としない。あるポルノグラフィがある鑑賞者の現実の事柄に関する信念に影響を与え
うるが、同じポルノグラフィがべつの鑑賞者には同じ仕方では影響しないことはありうる。影
響仮説を採用するためには‒‒‒‒とくに様々な規制論の際には‒‒‒‒その主張のつよさに応じただ
けの共有可能な経験的研究のサポートを必要とする27。
次に、本章では、ポルノグ 影響 倫理的問題 現実 事柄 関 信念 変
化 前提 。 前提 影響 倫理的問題 考 際
重要 。 鑑賞 者 「虚構 」 対 何 信
念 変化 被 、 倫理的問題 (例 、特定 性格
容姿 信念 形成 )。本章 焦点 当 問題 、虚構
対 信念 変化 独立 、現実 事柄 関 信念 変化‒‒‒‒例 、特定 性格 容
姿 関連 、現実 社会集団 属 人々
信念 形成 場合 ‒‒‒‒ 関 。
加 、 特定 行為 高 確率 引 起 信念 形成
、 多 人々 実行 移 信念 形成 立 入
。 程度深刻 倫理的問題 扱 。
最後 、影響仮説 前提 規制 推進 立場 採用
帰結 。 鑑賞者 信念 影響 、考察
、鑑賞者 信念 形成 、 望
、 最善 方法 規制 現時点 決 。以下本章
、規制 仕方 信念 影響 関 倫理的問題 向
合 選択肢 考察 。

26 定式化にあたって、Eaton(2007, 696)の「原因(cause)」概念を参照している。

27 ポルノグラフィの影響をめぐるまとまった議論としては、Eaton(2007)および、Mikkola(2019, ch.2)が、また、ポ
ルノグラフィの影響をめぐる研究の方法論的問題を議論しているものとしては、Kohut et al.(2019)がある。

34
2 誰が倫理的問題を引き受けるのか
信念への影響のレベルでの倫理的問題は、誰が引き受ける倫理的問題なのだろうか。もし、
ある事態の倫理的問題を問いたいのなら、その倫理的問題の引き受け先の特定は重要な課題と
なるだろう。ある事態が倫理的に問題があるとされるとき、その倫理的問題の引き受け先は、
一般に、その事態を引き起こした行為者であり、わたしたちは倫理的問題を議論する際には、
おおむね、その倫理的問題の因果となっているような人物や集団を特定し、倫理的非難を行
なっている。
本節では、ポルノグラフィの影響に関する倫理的問題の責任の引き受け先が誰なのかについ
て考察する。それにより、ポルノグラフィの制作者、その鑑賞者、そして、両者が互いに関係
しながら倫理的問題の引き受け先となっていることを明らかにする。

2ー1 制作者
ポルノグラフィの制作者に対して倫理的問題が帰属される、という主張は、ポルノグラフィ
の影響仮説を受け入れるならば想定される主張のひとつである。例えば、ある脱法ドラッグが
ひそかに流通しているとき、その使用者も現実においては咎められるものだろうが、その制作
者も倫理的問題を引き受けることになるだろう。まったく同じではないが、ポルノグラフィの
制作者も、もしそのポルノグラフィ作品がその鑑賞者の信念に(ポジティブなあるいはネガ
ティブな)影響を与えるなら、そして、そうした影響を与えることを意図しているなら、制作
者はある程度その影響の(ポジティブなあるいはネガティブな)倫理的問題の引き受け先とな
る(とはいえ、ポルノグラフィの場合は、どこまで明白な意図が制作者にあるのかを含め、議
論の余地は多くある)28。

2ー2 鑑賞者
先ほどの脱法ドラッグの例にあるように、危険な薬物の製造と使用はどちらも倫理的に問題
とされうるだろうが、しかし、同じ薬物の使用の問題でも扱いが難しいケースもある。この
ケースを考えることで、ポルノグラフィの影響のレベルの倫理的問題の引き受け先の議論の難
しさを考えたい。
例えば、ある風邪薬を適正量を超えて大量に服用することで安価に酩酊感を得ることが若者
の間で流行しているとしよう。そして、これらの若者が、自己自身を傷つけたり他者へと危害
を及ぼしうるような倫理的に問題のあるような心身の状態にいたるとしよう。この風邪薬の効
果は人々の心的状態に倫理的に問題のある仕方で影響すると言える。では、この風邪薬の制作
者すなわち製薬会社は倫理的問題の引き受け先となるのだろうか。もちろん、こうした状況を
そのまま放置し、適切な規制や対策なしに販売を続けていればそれとして製薬会社は倫理的問
題を引き受けることとなるだろう。しかし、少なくとも若者たちが風邪薬を使用していること
は、使用する人々の選択であり、倫理的問題は第一には、そのような危険な使用のために風邪
薬を販売しているわけではない製薬会社ではなく、若者たちが引き受けることになるだろう。
ポルノグラフィの場合を考えてみたい。あるポルノグラフィ作品の制作者が、女性に対する
不平等な扱いではなく、性交渉の参加者の対等なあり方を描きそれを魅力的なものとして提示

28 例えば、レイ・ラングトンはポルノグラフィの制作者が女性を不平等な地位にランクづけるような表現を提示してい
るとして倫理的問題を指摘している(Langton 1993)。

35
する作品をつくったとしよう。その作品は適切に鑑賞する人々には、そのような意図と内容を
もつものとして鑑賞されうる。ゆえに、この作品は、意図に沿った鑑賞を行う鑑賞者の信念に
少なくともポジティブな影響を与えうるためにポジティブな倫理的価値をもち、そして、制作
者はポジティブな倫理的価値を引き受けることとなるとしよう。
だが、ある人々がこの作品の特定のシーンだけに注目したり、その人々が好む仕方で鑑賞す
ることで、女性の不平等な扱いを描いたものとしてみた際に影響を受けるような仕方で作品を
鑑賞したとしよう。このとき、倫理的に問題とされるのは、そうした特有な鑑賞を行う鑑賞者
だろう。ポルノグラフィの鑑賞者にもある種の鑑賞態度の選択の可能性があり、ポルノグラ
フィを用いて倫理的に問題のある信念を形成することはその鑑賞者が引き受ける倫理的問題と
なりうる29。

2ー3 制作者と鑑賞者の関わり
ポルノグラフィの影響仮説に基づいた制作者と鑑賞者がどのように倫理問題を引き受けうる
のかについては諸説ある。そもそもひとつのポルノグラフィ作品は多種多様な状況で多様な
人々によって鑑賞されるのであり、一方でポルノグラフィからつよい影響を受ける̶̶例えば
̶̶若年者が鑑賞した際にそのポルノグラフィ作品と制作者に帰属させられうる倫理的問題
と、他方で、適切なセクシャリティに関する信念を伴い「フィクションとして」‒‒‒‒現実の事
柄に関する信念に(ネガティブな)影響を与えられることなく‒‒‒‒ポルノグラフィを鑑賞でき
る者がその作品を鑑賞した際にそのポルノグラフィ作品と制作者に帰属させられうる倫理的問
題とは異なる程度と種類の倫理的問題として扱うべきなのか、どのようにして個別の鑑賞の多
様性と特定の制作者への倫理的問題の割り当てを整理できるのか。
鑑賞者は、一方で先ほど議論した風邪薬の乱用のケースのように、制作者の意図とは異なる
仕方でポルノグラフィを鑑賞し、それによって倫理的に問題のあるような信念を形成しうる。
他方で、ポルノグラフィの制作者の意図に沿って適切に鑑賞することで、まさにその鑑賞にお
いて、倫理的に問題のある信念への影響を引き起こすこともありうる。後者の、意図に沿った
鑑賞が倫理的に問題のあるような場合は鑑賞者に加え、制作者もまた倫理的な問題の引き受け
先の候補となる。
ポルノグラフィの制作者は、ポルノグラフィの制作にあたっては、そもそも鑑賞者のセク
シャリティに関する理解を共有している必要があり、また、鑑賞者も、ポルノグラフィの適切
な鑑賞にあたっては、ポルノグラフィ制作者の意図を手がかりとする。ポルノグラフィの鑑賞
者の信念の形成の倫理的問題の引き受け先は、たんに制作者だけでもなく、鑑賞者だけでもな
く、両者の互いの理解の実践を前提としてポルノグラフィが制作され鑑賞されていることに注
意を払う必要がある30。
これらの制作者と鑑賞者に対する倫理的問題の引き受け先の整理は何に役立ちうるのだろう
か。それは冒頭で指摘したように、これからポルノグラフィの制作と鑑賞をめぐって、もしポ

29 こうした鑑賞者の倫理的問題について、哲学者のバーテルとクレメルディは、ポルノグラフィにおける虚構的想像の
倫理性を分析するなかで、その行為が不道徳性な行為となる条件を、それが不道徳な欲望の助長に用いられる点にある
と指摘した(Bartel & Cremaldi 2017)。虚構的想像は、それじたいではたしかに明白な危害の対象をもたない。しか
し、そうした想像を繰り返すことによって不道徳な欲望を強化し助長することは、その行為者が、倫理的に回避すべき
行為を行う可能性を高めうるために、倫理的に非難されうる。ゆえに、虚構的想像はときに、不道徳な行為として非難
の対象になりうる、と彼らは指摘した(ibid., 42)

30 ポルノグラフィの制作における意図の重要性については、Mikkola(2017)の議論を参照している。

36
ルノグラフィの鑑賞が鑑賞者の信念を倫理的に問題のある仕方でも形成しうるなら、どのよう
な選択をとるべきかについての議論に役立ちうる。この点について次節で議論する。

3 誰に何ができるのか
3ー1 制作の可能性
ポルノグラフィの制作者が鑑賞者に共有されている既存のジェンダー理解を手がかりとして
ポルノグラフィを制作するとすれば、わたしたちは制作者と協働して、どのような仕方であれ
ば、倫理的に問題のある仕方での鑑賞者の信念の形成を避けることができるのかを議論できる
かもしれない。
ポルノグラフィがもし鑑賞者の信念に影響できるのならば、ポルノグラフィの制作者にとっ
て、信念へのネガティブな影響を避けるような作品制作を行うことが倫理的には望ましいと言
えるだろう。そのために、哲学者・美学者・表象文化論研究者・認知科学者・社会心理学者は、
どのようなポルノグラフィがいかなる信念を形成しがちなのかについての研究を行うことで、
より「適切な」31信念を形成しうるようなポルノグラフィ制作についての手がかりをもたらし
うるかもしれない。
もう一歩進んで、倫理的問題を避けるのみならず、ポルノグラフィを介して、新たなより適
切な信念の形成に影響することも不可能だと決まってはいない。フェミニストポルノグラフィ
をはじめとして既存のポルノグラフィとは異なるスタイルのポルノグラフィの制作者、そして
哲学者のなかには、一般的な性愛規範とは異なるあり方を提示するポルノグラフィ̶̶様々な
セクシャリティの人々、ディスアビリティをもった人々、様々な人種やエスニシティに属する
人々が出演するポルノグラフィ̶̶の制作について、ポルノグラフィを介して、パフォーマー
と鑑賞者が性に関する抑圧的な規範から解放されうる積極的意義を見出している者もいる(cf.
Eaton 2017)。
ポルノグラフィの信念への影響のレベルの倫理的問題に対して、人々はすでにポルノグラ
フィを介した対処の試みを行なっており、これらの活動を分析し、その意義を理解すること
は、美学者、芸術学研究者、表象文化論研究者にとっても重要だろう。もちろん、こうしたポ
ルノグラフィが様々なセクシャリティの人々、特定の人種やエスニシティに属する人々、ディ
スアビリティをもった人々への差別やバイアスの再生産となりうる危険も指摘されており、異
なる仕方でのポルノグラフィの可能性もまた、その都度分析が必要となることははっきりして
いる(cf. Mikkola 2019, ch.7)。

3ー2 知識と作品
ポルノグラフィが鑑賞者の信念を形成しうるひとつのプロセスは、その作品の鑑賞によって
「現実の」事柄に関する信念を形成、維持、変化する場合である。対して、倫理的に問題のあ
るような仕方で特定のジェンダーをはじめとする社会的カテゴリに属する人々のあり方を描く
ポルノグラフィ作品であっても、それを鑑賞者が現実の事柄に関する信念の源泉として用いな

31 ここで「適切な」信念は、ジェンダー不平等でなかったり性交渉のパートナーに対して同意なしに心身に危害を加え
ることのないような信念、といったものを想定している。どのような信念が「適切」なのかは、どのような信念がジェ
ンダー不平等でなかったり同意なしに心身に危害を加えることのないような信念であるかにより、議論の的にならない
わけではないが、本章では詳述はしない。

37
いケースが可能性の上ではありうる(もちろんこうした鑑賞のありかたは倫理的に問題のある
ポルノグラフィの制作者の倫理的問題を消去するわけではない)。
そこで、鑑賞者の側でできるポルノグラフィの信念への影響のレベルの倫理的問題への対処
のふたつの候補を提示できる。
第一に、鑑賞者の側においてできる重要な行動のひとつは、いささか陳腐に聞こえようと
も、セクシャリティについての適切な‒‒‒‒議論の的となるが‒‒‒‒信念をもつことでポルノグラ
フィの影響のレベルでの倫理的問題を回避することである。
ポルノグラフィに限定せずとも、わたしたちはフィクションを、しばしば現実の世界に関す
る適切な信念の源泉としてみなしがちであることは直観的にも理解されるだろう。例えば、わ
たしたちは専門に勉強したのでなければ弁護士や検事のしごとも、法務医や消防士のしごとも
十分には知らない。にもかかわらずこれらのしごとの内容やその業界の実態について、関係す
るTVドラマを鑑賞した経験をひとつの手がかりとして、何らかの信念をすでにもっているよ
うにみえる。
同様に、歴史を描いたドラマ作品の多くについて、わたしたちは事前に詳しく歴史的事実を
知らなければ、どこまでが史実に沿った描写なのか、そして、どこからが脚色なのかを判断す
ることは難しい。そして、鑑賞者は、もし他に歴史に関する知識の源泉にアクセスしないまま
でいるとすれば、たまたま鑑賞した歴史ドラマ作品に描かれた内容を多かれ少なかれ現実の事
柄に関する信念の源泉とするだろう。おそらくは、以上に挙げたようなわたしたちが日常的に
ふれる様々なTVドラマ作品は、わたしたちの現実の世界に関する信念の無視できない源泉と
なっているだろう32。
確認すれば、ポルノグラフィの信念への影響のレベルでの倫理的問題は、ポルノグラフィを
鑑賞することで、特定の倫理的に問題のある現実の事柄に関する信念を鑑賞者が形成しうる点
にある33。ここから、現実の事柄に関する適切な信念をあらかじめもち合わせておけば、ポル
ノグラフィを「フィクション」として‒‒‒‒現実の事柄に関する信念に(ネガティブな)影響を
与えることなく‒‒‒‒鑑賞し、それを現実の事柄に関する信念の源泉とすることを避けることが
できるかもしれない。ポルノグラフィの信念への影響のレベルの倫理的問題に対処する有益な
方法として、鑑賞者があらかじめセクシャリティに関する適切な理解を共有しておくことは可
能なアプローチだろう34。
第二に、対処法のもうひとつの候補は、ポルノグラフィ制作についての適切な知識をもつこ
とである。ポルノグラフィがどのように制作されているのか、そのパフォーマンスはいかなる

32 実験において、物語的フィクション作品から得た情報を人々は現実世界についての信念として扱うケースがありうる
ことが報告されている(Green & Brock 2000)。

33 例えば、15歳から25歳のスウェーデンの若者に対する調査では、人々がセクシャリティに関する知識の源泉としてポ
ルノグラフィを扱っているという事例が報告されている(Wallmyr & Welin 2006)。

34 実際にどのようにしてセクシャリティに関する適切な信念を共有するのかについては、性教育研究などの教育分野と
協働して考察する必要がある。興味深い提言については、松浦(2018)を参照のこと。

38
ものか、どのように演出されているのかといった具体的な制作の知識は、ポルノグラフィと現
実の信念との適切な距離を保つための手がかりとなるだろう35。
例えば、先に挙げた様々な職業の人々を描くような、あるいは歴史をテーマとしたTVドラ
マがどのように制作されているのか(適切な考証を踏まえているのか、演技は現実の/当時の
人々のふるまいに沿っているのか、セットや舞台は現実の環境をよく参照しているのか)の情
報は、その作品からどの程度現実についての適切な信念を引き出すべきか、引き出すべきでな
いのかを判断するための手がかりとなるだろう。
そして、あるひとがポルノグラフィの制作の知識を得ることで、ポルノグラフィを現実の事
柄に関する信念の源泉として扱う態度をとる理由は弱くなるように直観的に思える。そこで、
ポルノグラフィの制作のあり方を知ることで、どの程度現実についての信念を引き出すべきな
のかを再考できるようになるかもしれない。この点については経験的な調査と協働しながら、
美学的なアプローチから、作品の制作実態の理解の程度と、その作品を現実の事柄に関する信
念の適切な源泉として扱うかどうかについての何らかの関係が議論できるかもしれない。

おわりに

制作と鑑賞の倫理学の試論として、本章では、まず議論の前提と、制作者と鑑賞者がどのよ
うな意味で倫理的問題の引き受け先となるのかについてを整理し、次にポルノグラフィが鑑賞
者に倫理的に問題のある仕方でも影響しうるという前提を受け入れたとき、わたしたちがどの
ような選択を行いうるのか、最後に規制をめぐるどのような問題がありうるのかを考察した。
ポルノグラフィを規制する選択肢とはべつに、ポルノグラフィの適切な制作のあり方につい
て制作者と協働して議論する選択肢と、わたしたちの社会のメンバーが適切な他者の理解とセ
クシャリティに関する判断を行いうる可能性を問い続ける選択肢を本章では紹介した。これら
はポルノグラフィの影響に関する倫理的問題を取り上げることで倫理的な問題として解決した
いと人々が考えている社会の不平等の是正に対して、手がかりとなる選択肢の候補でありう
る。制作と鑑賞をめぐる倫理的研究を様々な研究分野と接続しつつ行なっていくことが、ポル
ノグラフィの影響のレベルの倫理的問題に取り組む際には重要となるだろう。研究は途上であ
り、問うべき問いは多い。

35 先行研究でも「アダルトビデオにメイキング映像をつけることを義務づけ、出演者に対する契約違反がないかどうか
を示すといった方法」が提案されている(守 2010, 213)。守は(1)出演者の労働環境を整えるため、(2)ポルノ制
作過程で暴力が生じていないことを示すことで視聴者を安心させ、それによって視聴者が性的快楽を感じることをサ
ポートするため、のふたつを理由として挙げている(ibid., 210-211)。本章での指摘はここに新たな論点を加えるもの
になると言える。この点について指摘していただいた松浦優に感謝する。

39
おわりに
本稿では、ポルノグラフィの倫理的問題そのものの個別的な正否というより、なぜあるポル
ノグラフィが倫理的問題となるかを論じた。
本稿には次の限界がある。(1)ポルノグラフィのわるさのうち「行為」と「影響」について
の議論を行うが、本稿で整理される「内容」と「事態」については研究プロジェクトの時間的
限界から扱えなかった。内容については美的価値と倫理の関係から、事態については不快さの
重大さをめぐり重要である。(2)本稿が提示するポルノグラフィのわるさを分類する枠組みは
実装されることで検証され、実際的な有用性を持つ。第二章では具体的な分析がなされる。し
かしいかなる実装が可能かについては暗示にとどまる。これらについて引き続き研究が必要
だ。
ポルノグラフィについて論じることは、わたしたちの倫理と表現をめぐる経験の絡まり合い
を分析することである。このトピックをさらに発展させることはわたしの興味を惹くものであ
り、社会の興味を惹くことでもある。わたしたちは説得と対立を繰り返しながら、正義と自由
の微妙なバランスを求めて討議を続けなければならない。本稿がその討議の一つのパフォーマ
ンスとなっているとわたしは思っているし、あなたが思ってくれればうれしい。
本稿の執筆にあたり数多くの人々の力を借りた。直接お会いしたり、インターネット上でコ
メントを頂いたり。その一部を記す。相澤伸依、青田麻未、稲岡大志、岩切啓人、江口聡、長
田怜、柏田純、西條玲奈、シノハラユウキ、須方駿介、銭清弘、高田敦史、筒井春香、長門祐
介、服部恵典、松浦優、松永伸司、村山正碩、森功次、渡辺一暁(五十音順・所属・敬称略)、
哲学とポピュラーカルチャー研究会のみなさん、神戸大学芸術学研究室のみなさん、2019年7
月13-14日国立オリンピック記念青少年総合センターにて開催された2019年度哲学若手研究者
フォーラムにおいてコメントをいただいたオーディエンスのみなさん、2019年12月8日、神戸大
学にて開催された第十四回神戸大学芸術学研究会「フィクションパワー」登壇者とオーディエ
ンスのみなさん、2020年1月25日、大妻女子大学にて開催された「描写の哲学研究会」におい
てコメントをいただいた発表者とオーディエンスのみなさん、2020年6月13日に開催された
ART RESEARCH ONLINEのオーディエンスのみなさん、指導教員の大橋完太郎先生、中真生
先生、長坂一郎先生、前川修先生。
最後に、わたしを惹きつけ引き離し、幻滅と魅惑を繰り返すポルノグラフィたちに本稿を捧
げる。

40
参考文献
Antony, L. 2011. “Against Langton's Illoctionary Treatment of Pornography.” Jurisprudence, 2,
387-401.
Austin, J. L. 1962. How to Do Things with Words. Oxford University Press.(飯野勝己訳『言
語と行為––––いかにして言葉でものごとを行なうか』講談社、2019年).
Barnes, Michael, R. 2016. “Speaking with (subordinating) authority,” Social Theory and
Practice, 240-257.
Bartel, C., & Cremaldi, A. 2017. “‘It’s Just a Story’: Pornography, Desire, and the Ethics of
Fictive Imagining.” The British Journal of Aesthetics, 58 (1), 37-50.
Bianchi, C. 2008. “Indexicals, speech acts and pornography.” Analysis, 68 (4), 310-316.
––––. 2014. “How to do things with (recorded) words.” Philosophical Studies, 167 (2),
485-495.
Cappelen, H., & Dever, J. 2019. Bad Language: Contemporary Introductions to Philosophy of
Language. Oxford University Press.
Dixon, D. 2019. Alterpieces: Artworks as Shifting Speech Acts. Doctoral dissertation, University
of Cambridge.
Eaton, Anne. W. 2007. “A sensible antiporn feminism.” Ethics, 117 (4), 674-715.
––––. 2017. “Feminist pornography.” In Beyond speech: Pornography and analytic feminist
philosophy, ed. M. Mikkola, 243-258. Oxford University Press.
Gaut, B. 2007. Art, emotion and ethics. Oxford University Press.
Giovannelli, A. 2007. “The ethical criticism of art: A new mapping of the territory.”
Philosophia, 35 (2), 117-127.
Green, M.C. & Brock, T. C. 2000. “The Role of Transportation in the Persuasiveness of
Public Narratives.” Journal of Personality and Social Psychology 79 (5), 701-721.
Irvin, S. 2006. “Authors, Intentions, and Literary Meaning.” Philosophy Compass 1 (2),
114-128.
Jenkins, K. 2017. “What women are for: Pornography and social ontology.” In Beyond speech:
Pornography and analytic feminist philosophy, ed. M. Mikkola, 91-112. Oxford University
Press.
Kohut, T., Balzarini, R. N., Fisher, W. A., Grubbs, J. B., Campbell, L., & Prause, N. 2019.
“Surveying pornography use: a shaky science resting on poor measurement foundations.” The
Journal of Sex Research, 1-21.
Langton, R. 1993. “Speech acts and unspeakable acts.” Philosophy & Public Affairs, 22,
293-330.
Liao, Shen-yi, & Protasi, S. 2013. “The fictional character of pornography.” In Pornographic
Art and the Aesthetics of Pornography. 100-118. Palgrave Macmillan.
Maitra, I. 2012. “Subordinating speech,” In Speech and harm: Controversies over free speech.
eds. I. Maitra and M. K. McGowan, 94-120. Oxford University Press.
––––. 2017. “Speech and Silencing,” In The Routledge Companion to Feminist Philosophy. eds.
A. Garry, S. J. Khader, A. Stone, 279-291. Routledge.
Mikkola, M. 2008. “Contexts and pornography.” Analysis, 68 (4), 316-320.
––––. 2017. “Pornographic Artifacts: Maker’s Intentions Model.” In Beyond speech:
Pornography and analytic feminist philosophy, ed. M. Mikkola, 114-134. Oxford University
Press.
––––. 2019a. Pornography: A Philosophical Introduction. Oxford University Press.
––––. 2019b. “Fixing pornography’s illocutionary force: Which context matters?”
Philosophical Studies, 1-20. doi:10.1007/s11098-019-01357-2
Novitz, D. 1977. Pictures and their use in communication: a philosophical essay. Brill.
Saul, J. 2006. “Pornography, speech acts and context.” Proceedings of the Aristotelian Society,
106 (1), 229-248.

41
MacKinnon, C. 1996. Only Words. Harvard University Press.(柿木和代訳『ポルノグラフィ
——「平等権」と「表現の自由」の間で』明石書店、1995年).
MacKinnon, C. & Dworkin, A. 1988. Pornography and Civil Rights: A New Day for Women’s
Equality. Minneapolis. (中里見博・森田成也訳、『ポルノグラフィと性差別』青木書
店、2002年).
Saul, J. 2006. “pornography, speech acts and context.” Proceedings of the Aristotelian Society,
106 (1), 229-248.
Saul, J. and Esa, D. L. 2018. “Feminist Philosophy of Language.” The Stanford Encyclopedia of
Philosophy (Fall 2018 Edition), ed. Edward N. Zalta, URL = <https://plato.stanford.edu/
archives/fall2018/entries/feminism-language/>.
Searle, J. 2010. Making the social world: The structure of human civilization. Oxford University
Press.(三谷武司訳『社会的世界の制作––––人間文明の構造』勁草書房、2018年).
Wallmyr, G., & Welin, C. 2006. “Young people, pornography, and sexuality: sources and
attitudes.” The Journal of School Nursing, 22 (5), 290-295.
Watson, L. 2010. “Pornography.” Philosophy Compass, 5 (7), 535-550.
West, C. 2018. “Pornography and Censorship.” The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall
2018 Edition), ed. Edward N. Zalta, URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2018/
entries/pornography-censorship/>.

江口聡. 2006. 「性的モノ化と性の倫理学」『現代社会研究』9、135-150.


––––. 2007. 「ポルノグラフィに対する言語行為論アプローチ」『現代社会研究科論集』(1)、23-
37.
––––. 2019.「『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか?––––「性的対象物」と
いう問いを考える」『現代ビジネス』、<https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733>.
和泉悠・朱喜哲・仲宗根勝仁. 2018. 「ヘイト・スピーチ––––信頼の壊仕方」、小山虎編著、
『信頼を考える: リヴァイアサンから人工知能まで』所収、勁草書房.
小宮友根、2019.「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか:フェ
ミニズムから学べること」『現代ビジネス』、< https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864 >.
難波優輝. 2019a. 「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」
2019年度哲学若手研究者フォーラム, <https://researchmajp/multidatabases/multidatabase_contents/
detail/293105/ec83452b99a0bd2d1c797d40d5240ae4?frame_id=603867>.
––––. 2019b. 「制作するフィクション」第十四回神戸大学芸術学研究会, 神戸大学. <https://
researchmajp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/293105/
be3aa71d5384bcbf1e0158f7b07b2189?frame_id=603867>.
––––. 2020a. 「これは人間ではない––––キャラクタの画像の何がわるいのか」描写の哲学研究
会, 大妻女子大学, <http://lichtung.hatenablog.com/entry/character.picture.ethics>.
––––、2020b.「ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか––––制作と鑑賞の倫理学
の試論」『美学芸術学論集』第十五号、神戸大学芸術学研究室、<h t t p :/ / w w w .l i b .k o b e -
u .a c .j p / h a n d l e _ k e r n e l / 8 1 0 1 2 1 0 0>.
松浦優. 2018a. 「【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編」『境界線
の虹 』<http://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2018/06/08/200324>.
松浦優. 2018b. 「エロサイトにできる社会貢献を考えてみた」『境界線の虹 』<http://
mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2018/12/14/203332#f-9d6be5cd>

42
松永伸司. 2013.「作者の意図と作品の解釈」9bit. Game Studies & Aesthetics, <http://9bit.99ing.net/
Entry/34/>.
––––. 2017.「絵の真偽––––画像の使用と画像の内容」現代美学研究会, 1-22. <https://
www.academia.edu/42056949/>.
牟田和恵. 2019.「「宇崎ちゃん」献血ポスターはなぜ問題か…「女性差別」から考える」『現
代ビジネス』, <https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185>
森功次. 2011. 「作品の倫理性が芸術的価値にもたらす影響:不完全な倫理主義を目指して」
『批評理論と社会理論〈1〉』叢書アレテイア13号、93-122.
守如子. 2010.『女はポルノを読む——女性の性欲とフェミニズム』青弓社.

本論文の訳は原則として筆者による。邦訳の書誌情報を併記したものは適宜それらを参照して
いる。ウェブサイトは2021年1月20日最終アクセス。

43

‒‒‒‒表象 倫理

‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒
2021年 1月20日 第1版発行

著者難波優輝
発行者 難波優輝
‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒
発行所 難波優輝

‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒‒
©NAMBA Yuuki 2021

44
45
ポルノグラフィについて論じることは、わたしたちの倫理と表現をめぐる経験
の絡まり合いを分析することである。わたしたちは説得と対立を繰り返しな
がら、正義と自由の微妙なバランスを求めて討議を続けなければならない。
本稿がその討議の一つのパフォーマンスとなっているとわたしは思っている
し、あなたが思ってくれればうれしい。(おわりに)
46

You might also like