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にほんぶんがくほんやく

日本文学翻訳コンテスト
かだいぶん
課題文
ちゅういじこう
注意事項

(1) 文字の上の小さいひらがなは、ルビ (漢字の読み方.フリガナ) です。

စာလံုံးအပ ေါ်တွငပ
် ရုံးထာုံးပသာ ဟီရာဂနစာလံုံးအပသုံးသည် ခန်ုံးဂ ုံးီ စာလံုံးအသံထွက်အမှန်
あした
ဖြစ် ါသည်။ (ဥ မာ) ။ 明日

(2) 翻訳の原稿を送る際、PDF ファイルとしてお送りください。ファイル名は「(Roll

No. Pdf 」にしてください。

စာမူဖ န်လည်ပ ုံး ရ


ို့ ာတွင် PDF ြင်ဖြင်သာ ပ ုံး ရ
ို့ ါမည်။ File Name သည် Roll No. Pdf
ထာုံးရမည်။
げんさく だんらくごと
(3) 原作の通り、段落毎に翻訳を書いてください。

ပမုံးခွနုံး် လာတွင် ါပသာ စာ ဒ်အတင်ုံး ဘာသာဖ န်ကကရန် ဖြစ် ါသည်။ ( မူရင်ုံးစာမူတွင် ါပသာ
စာ ဒ် အတင်ုံးခ၍
ွွဲ ဘာသာဖ န်ပရုံးပ ုံး ါရန်။)

(4) 本翻訳コンテストでは、翻訳の正確さだけでなく、原作の味わいを正確に伝えてい

たいしょう
るかなども審査 対 象 となります。

ဘာသာဖ န်ပ ြိုင် ွွဲသည် မှန်ကန်ရံသက်သက် ဖ န်ဆရန်မဟတ်ဘွဲ မူရင်ုံးစာမူရသက ပ ေါ်လွငပ


် အာင်
ဖ န်ဆမှုက ါ အကွဲဖြတ်အမှတ်ပ ုံးမည်ဖြစ်ပကကာင်ုံး သတဖ ြိုကကရ ါမည်။

(5) 最後まで訳していない場合は、審査の対象にはなりませんのでご注意ください。

အစအဆံုံး မဖ န်ဆနင်လျှင် အကွဲဖြတ်အမှတပ


် ုံးမည် မဟတ်ပကကာင်ုံး သတဖ ြိုကကရ ါမည်။

*** 翻訳の原稿を 2024 年 2 月 21 日(水曜日)午後 4 時までに下記のメールへお送りく


ださい。

***စာမူက ၂၀၂၄ ခနှစ၊် ပြပြာ်ဝါရီလ ၂၁ ရက်ပနို့ (ဗဒဓဟူုံးပနို့)၊ ညပန ၄ နာရီ ပနာက်ဆုံးံ ထာုံး၍
ပြာ်ဖ ါ event.maja.ygn@gmail.com email သို့ ပ ုံး ို့ ါရန်။**
鼓くらべ

山本周五郎

こ は る び あふ まがき
庭さきに暖い小春日の光が 溢 れていた。おおかたは枯れた 籬 1の菊のなか

にもう小さくしか咲けなくなった花が一輪だけ、茶色に縮れた枝葉のあいだか

のぞ
ら、あざやかに白い花びらをつつましく 覗 かせていた。

る い こつづみ
お留伊は 小 鼓 を打っていた。

どんや
町いちばんの絹問屋の娘で、年は十五になる。眼鼻だちはすぐれて美しい

とお つぼ おご
が、その美しさは澄み透ったギヤマンの壺のように冷たく、勝気な、 驕 った心
おもや ななけん
をそのまま描いたように見える。……ここは母屋と七間2の廊下でつながってい

る離れ屋で、広い庭のはずれに当り、うしろを松林に囲まれていた。打ってい

じょ
る曲は「 序 の舞」であった。

つや ひとみ
白い 艶 やかな頬から、眉のあたりまでぽっと上気しているが、両方の 瞳 は

さ はげ あか
常よりも冴えて烈しい光をおび、しめった朱い唇をひき結んで懸命に打ってい

すさ
る姿は、美しいというよりは 凄 まじいものを感じさせるし、なにか眼に見えぬ

ひきず
力で引摺られているようにも思えた。

1
家や庭の区画を限るための囲いや仕切り
2
古くから日本で使われてきた長さの単位。1 間は 1.82m。
とうとう みじん
鼓の音は滔々3と松林に反響した。微塵のゆるみもなく張り切った音色であ
こつずい てっ ひび
る。それは人の耳へ伝わるものでなくて、じかに骨髄へ徹する響きを持ってい

た。

ゆいち じがしら
曲は三段の結地(Yuichi)4から地頭(Jigashira)5となり、美しい八拍子をもっ
まがき
て終った。……お留伊は肩から小鼓を下すと、静かに 籬 の方を見やって、

「そこにいるのは誰です」

まがき
と呼びかけた。……一輪だけ咲き残った菊の 籬 の陰で誰か動く気配がし

た。そして間もなく、一人の老人がおずおずと重そうに身を起こした。ひどく

や こと まえかが
痩せた体つきで、髪も眉毛も灰色をしている。身なりも貧しいし、殊に前屈み
ぶしょう で かっこう
になって、不精らしく左手だけをふところ手6にした恰好が、お留伊には忘れる

いや
ことの出来ないほど卑しいものに感じられた。

ど こ
「おまえ何処の者なの、二三日まえにもそこへ来たようだね、なにをしに来る

の」

「申しわけのないことでございます」

しゃが
老人は 嗄 れた低い声で言った。「……お鼓の音があまりにおみごとなの

で、ついお庭先まで誘われてまいりました。お邪魔になろうとは少しも知らな

かったのでございます」

「鼓の音に誘われて、……おまえが」

ひび
3
鼓や太鼓の鳴り響くさま。
4
鼓の用語。打音や拍子の種類の1つ。
5
同上
6
和服を着たとき、手を袖から出さずに懐に入れていること。
お留伊の眼は老人の顔を見た。

か が の くに のうがく さか うたい
加賀国7は能楽が盛んで、どんな地方へ行っても 謡 の声や笛、鼓の音を聞く

ことが出来る。あえて裕福な人々ばかりでなく、その日ぐらしの貧しい階級で

たしな
も、多少の 嗜 みを持たぬ者はないというくらいである。だからいま、そのみ

すぼらしい老人が鼓の音に誘われて来たと言っても、それほど驚くべきことで

はなかったし、お留伊が老人の顔を疑わしげに見つめたのも、まるで別の意味

からであった。

しばら
お留伊は 暫 くして冷やかに言った。

つばた つばた の と や
「おまえ津幡の者ではないの、そうでしょう。津幡の能登屋から、なにか頼ま

れて来たのでしょう」

「わたくしは旅の者でございます」

だ め だま
「隠しても駄目、あたしは 騙 されやしないから」

「わたくしは旅の者でございます」


老人は病気でもあるとみえて、苦しそうに咳きこみながら言った。「……生
ふくい ごじょうか
まれは福井の御城下でございますが、ながいこと他国を流れ歩いておりまし

た。けれども、もう余命のない体でございますから、せめて先祖の地で死にた

いと思って、帰る途中でございます」

ふくい もりもと
「ではどうして福井へ行かないの、どうしてこの森本でぐずぐずしているの」

しゅく やど
「持病の具合が思わしくないので、 宿 はずれの 宿 にもう半月ほども泊ってお
しんるいえんじゃ
ります……一日も早く帰りたいとは存じますが、帰っても親類縁者の頼るとこ

7
現在の石川県南部
ろはなし。いや!」

老人は急に灰色の頭を左右に振った。

きょう きょう
「こんな話はなんの 興 もございません。本当になんの 興 もございません

……。それよりもお嬢さま、今まで通りこの老人に、お庭の隅からお手並を聴

かせてやって頂きとう存じます」

「いつ頃からここへ来はじめたのだえ」

こわね
お留伊は疑いの解けた声音で言った。

「はい、ちょうど五日まえでございましょうか、ふとお庭外を通りかかって

おとこまい
『 男 舞 』をうかがいましたが、それ以来ずっとお邪魔をしていたのでござい

ます」

「あたし二三日まえから気付いていました。でもまるで違うことを考えていた

のよ」

つばた の と や おっしゃ
「津幡の能登屋がどうとか 仰 っておいででしたが」

「もうそのことはいいの、それから庭の外なら構わないから、いつでも聴きに

おいで」

ていちょう
老人は 丁 重 に礼を述べ、やはり左手をふところ手にしたまま静かに立去っ

た。


明くる日も老人は来た。

それからその翌日も……お留伊は次第にその老人に親しさを感じはじめた。
そして色々と話しあうようになった。老人は口数の少ない、どちらかというと

話し下手であったが、それでも少しずつは身の上が分った。

わず
老人は名もない絵師だと言った、そして僅かな絵の具と筆を持って、旅から

旅を渡り歩く困難な生活を過して来たという。苦しかったこと、悲しく辛かっ

ためいき
たこと、お留伊には縁の遠い世間の、涙と 溜 息 とに満ちた数々の話をしなが
こわね おんが あふ
ら、けれど老人の声音にはいつも温雅な感じが溢れていた。……そしていつで

も話の結びにはこう言った。

「そうです、わたくしはずいぶん世間を見て来ました。なかには万人に一人も

経験することのないような、恐しいことも味わいました。そして世の中に起る

ねた
多くの苦しみや悲しみは、人と人とが憎みあったり、 嫉 みあったり、自分の欲

に負かされたりするところから来るのだということを知りました。……わたく

しにはいま、色々なことがはっきりと分ります。命はそう長いものではござい

またた
ません、すべてが 瞬 くうちに過ぎ去ってしまいます、人はもっともっと譲り
じ ひ
合わなくてはいけません、もっともっと慈悲を持ち合わなくてはいけないので

す」

ひび
老人の言葉は静かで、少しも押しつけがましい響きを持っていなかった。そ

れでこういう風な話を聞いたあとでは、ふしぎにお留伊は心が温かく和やかに

なるのを感じた。

の と や
「いつか能登屋がどうしたとか仰っていましたが」

き つばた の と や
ある日老人が訊いた。「……津幡の能登屋といえば名高い海産物問屋だと存

じますが、こちらさまとなにか訳があるのでございますか」
かなざわ
「別にむずかしい訳ではないのだけれど、お正月に金沢のお城で鼓くらべがあ

の と や う た
るの、それでこの近郊からは能登屋のお宇多という人とあたしと、二人がお城

へ上ることになったんです」

かれい かなざわ じょうちゅう かんのう


新年の嘉例8として、領主在国のときには金沢の 城 中 で観能がある。そのあ

ごぜん
とで民間から鼓の上手を集め、御前9でくらべ打ちを催して、ぬきんでた者には

賞が与えられる、……今年もまたそれが間近に迫っているので、賞を得ようと

する人々は懸命に技を磨いていた。

ししょう
お留伊は幼い頃からすぐれた腕を持っていたので、教えに通って来る師匠の

かんぜにえもん
観世仁右衛門は、これまでに幾度もお城へ上ることを勧めていた。けれど勝気

なお留伊は、御前へ出て失敗したときのことを考え、もう少しもう少しと延ば

の と や う た
して来たのである。……能登屋のお宇多という娘は十六歳で、もう二度もお城

へ上っているが、まだ賞を与えられたことはいちどもなかった。そのうえこん

よ こ
どはいよいよお留伊が上るというので、それとなく人を寄越してはこちらの様

子を探るのであった。

「そうでございますか」

の と や
老人は納得がいったようにうなずいた。「……それでわたくしを、能登屋か

ら探りに来た者とお考えになったのでございますな」

「でも同じようなことが何度もあったのだもの」

「わたくしはすっかり忘れておりました」老人は遠くを見るようにして言っ

8
めでたい先例。吉例。
9
貴人、または、貴人の座前、面前。
た。

とりや
「……鼓くらべはもうお取止めになったかと思っていたのです」

「どうしてそう思ったの」

老人は答えなかった。……そして、どこか遠くを見るような眼つきをしなが

ら、ふところ手をしている左の肩を、そっと揺りあげた。

かなざわ ししょう
それから二日ほどすると、急にお留伊は金沢へ行くことになった。師匠の勧

か ん ぜ け けいこ
めで、城下の観世家から手直しをして貰うためである。その稽古は二十日ほど

か ん ぜ け おおししょう
かかった。観世家でもお留伊の腕は抜群だと云われ、大師匠が自分で熱心に

けいこ
稽古をつけてくれた。……もう鼓くらべで一番の賞を得ることは確実だった。

おおししょう
大師匠もそうほのめかせていたし、それ以上にお留伊は強い自信を持ってい

た。

もりもと
森本へ帰ったのは十二月の押迫った頃であった。――あの老絵師はどうして

いるだろう。家へ帰って、なによりも先に考えたのはそのことだった。……ま

ふくい
だこの町にいるだろうか、それとも故郷の福井へもう立って行ったか。もしま

だいるとすれば、自分の鼓を聴きに来るに違いない。お留伊はそう思いなが

わず けいこ
ら、残っている僅かの日を、一日も怠らず離れ屋で鼓の稽古に暮していた。

けれど老人の姿は見えなかった。

すでに雪の季節に入っていた。重たく空にひろがった雲は今やまったく動か

なくなり、毎日こまかい雪がちらちらと絶えず降ったりやんだりした。……は


じめのうちはたまたま射しかける陽のぬくみにも溶けた雪が、家の陰に残り、
かき ね い
垣の根に残りして次第にその翼をひろげ、やがてかたく凍てて今年の根雪とな

った。

おおみそかの明日に迫った日である。お留伊が鼓を打っていると、庭の

こしばがき ゆきみの
小柴垣10のところへ、 雪 蓑 11に笠をつけた人影が近寄って来た。

――まあ、やっぱりまだいたのね。

えんさき
お留伊はあの老人だと思って、鼓をやめて縁先まで立って行った。……けれ

どそれはあの老人ではなく、まだ十二三の見慣れぬ少女であった。

「あの? お願いがあってまいりました」

こごし かが
少女はお留伊を見ると、笠をとりながら小腰を屈めた。

「おまえ誰なの」

しゅく ま つ ば や
「わたくし 宿 はずれの松葉屋と申す宿屋の娘でございますが、うちに泊って

おいでの老人のお客さまから、お嬢さまに来て頂けますようにって、頼まれて

まいりました」

「あたしに来てくれって」

「はい、病気がたいへんお悪いのです。それでもういちど、お嬢さまのお鼓を

聴かせて頂いてから死にたいと、そう申しているのです」

あの老絵師だということはすぐに分った。

普通の場合なら、いくら相手があの老人であっても、そんなところへ出掛け

10
細い柴(しば)で作った垣。
11
雪の日に着るわらなどで作った蓑。雪合羽。
て行くお留伊ではなかった。けれど……老人はいま重い病床にあるという、そ

して死ぬまえにいちど自分の鼓を聴きたいという、その二つのことがお留伊の

心を動かした。

「いいわ、行ってあげましょう」

彼女は冷やかに言った。「……おまえあたしの鼓を持っておいで、それから

家の者に知れてはいけないから静かにしておくれ」

てばや み じ た く ま つ ば や
手早く身支度をしたお留伊は、その娘に鼓を持たせて家を出た。松葉屋とい

しゅく きちんやど
うのは 宿 はずれにある汚い木賃宿12であった。老人はひと間だけ離れている裏

すす
の、狭い 煤 けた部屋に寝ていた。

「よう13おいで下さいました」

老人は衰えた瞳に感動の色をあらわしながら、じっとお留伊の眼を見つめ

ごじょうか
た。「……御城下へおいでになったとうかがいましたので、もう二度とお嬢さ

あきら
まのお鼓は聴けないものと 諦 めておりました。……有難うございます。よう

おいで下さいました」

お留伊はただ微笑で答えた。……自分の打つ鼓に、この老人がそんなにも大

かなざわ おおししょう ほ
きなよろこびを感じている、そう思うとふしぎに、金沢で大師匠に褒められた


よりも強い自信と、誇らしい気持が湧きあがって来た。

「いやお待ち下さいまし」

お留伊が鼓を取出そうとすると、老人は静かにそれを制しながら言った。

12
粗末な安宿。
13
よく
「……いま思いだしたことがございますから、それを先にお話し申し上げると

しましょう」

「あたし家へ断りなしで来たのだから……」

「短いお話でございます、すぐに済みます」

老人はそう言って、苦しそうにちょっと息を入れながら続けた。「……お嬢

さまは正月の鼓くらべに、お城へお上りなさるのでございましょう」

「上ります」

かか
「わたくしのお話も、その鼓くらべに 関 わりがございます。お嬢さまは御存じ

かんぜ はやしかた いちのじょう


ないかも知れませんが、昔……もうずいぶんまえに、観世の囃 子 方 で 市 之 亟
ろ く ろ べ え ごぜん
という者と六郎兵衛という者が御前で鼓くらべをしたことがございました」

ともわ
「知っています、友割り鼓のことでしょう」

「御存じでございますか」

か ん ぜい ちの じょ う ろ く ろ べ え はやしかた
十余年まえに、観世市之亟と六郎兵衛という二人の囃子方があって、小鼓を

りゅうこ はげ
打たせては竜虎14と呼ばれていたが、二人とも負け嫌いな烈しい性質で、常づ

しの まえだ
ね互いに相手を 凌 ごうとせり合っていた。……それがある年の正月、領主前田
こう ごぜん
侯の御前で鼓くらべをした。どちらにとっても一代の名を争う勝負だったが、

こと いちのじょう せいこん
殊に市之亟の意気は凄じく、曲なかばに到るや、精根を尽くして打込む気合

ろ く ろ べ え
で、遂に相手の六郎兵衛の鼓を割らせてしまった。

打込む気合だけで、相手の打っている鼓の皮を割ったのである。一座はその

しんぎ きょうたん ともわ


神技に 驚 嘆 して、「友割りの鼓」といまに語り伝えている。

14
互いに優劣のない二人の強者
ふくい
「わたくしは福井の者ですが」

いちのじょう
と老人は話を続けた。「……あのときの騒ぎはよく知っております、市之亟

めんぼく
の評判はたいそうなものでございました。……けれど、それほどの面目をほど

いちのじょう ど こ ゆくえ
こした市之亟が、それから間もなく何処かへ去って、行方知れずになったとい

うことを御存じでございますか」

ぎ しん かみかく
「それも知っています。あまり技が神に入ってしまったので、神隠しにあった

のだと聞いています」

「そうかもしれません、本当にそうかもしれません」

いちのじょう
老人は息を休めてから言った。「……市之亟はある夜自分で、鼓を持つ方の

ど こ
腕を折り、生きている限り鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去ったと申しま

す。……わたくしはその話を聞いたときにこう思いました。すべて芸術は人の

心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのために誰かを

負かそうとしたり、人を押退けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべ

しょうじょう
きではない。鼓を打つにも、絵を描くにも、 清 浄 な温かい心がない限りな

んの値打もない。……お嬢さま、あなたはすぐれた鼓の打ち手だと存じます、

お城の鼓くらべなどにお上りなさらずとも、そのお手並は立派なものでござい

ます。おやめなさいまし、人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし、音楽

はもっと美しいものでございます、人の世で最も美しいものでございます」

とき
お留伊を迎えに来た少女が、薬湯を飲む 刻 だと言って入って来た。……老人

すす しばら
は苦しげに身を起して薬湯を 啜 ると、話し疲れたものか 暫 くじっと眼をつむ

っていた。
「では、聴かせて頂きましょうか」

老人はながい沈黙のあとで言った。「……もうこれが聴き納めになるかも知

ごめん こうむ
れません、失礼ですが寝たままで御免を 被 ります」

かなざわじょう くるわ まえだこう


金 沢 城 二の曲輪15に設けられた新しい楽殿16では、城主前田侯をはじめ
じゅうしん かれい
重 臣 たち臨席のもとに、嘉例の演能を終って、すでに、鼓くらべが数番も進

み す
んでいた。これには色々な身分の者が加わるので、城主の席には御簾が下され
み す
ている。お留伊は控えの座から、その御簾の奥をすかし見しながら、幾度も

そうみ きおく
総身17の震えるような感動を覚えた。……しかしそれは気臆れがしたのではな

おそ
い。楽殿の舞台でつぎつぎに披露される鼓くらべは、まだどの一つも彼女を 惧
み す
れさせるほどのものがなかった。彼女の勝は確実である。そしてあの御簾の前

たいしゅ
に進んで賞を受けるのだ。遠くから姿を拝んだこともない大守18の手で、一番

の賞を受けるときの自分を考えると、その誇らしさと名誉の輝かしさに身が震

えるのであった。

やがて、ずいぶん長いときが経ってから、遂にお留伊の番がやって来た。

「落着いてやるのですよ」

ししょう に え も ん み す
師匠の仁右衛門は自分の方でおろおろしながら繰返して言った。「……御簾

けいこ
の方を見ないで、いつも稽古するときと同じ気持でおやりなさい、大丈夫、大

15
城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称
16
音楽や舞踊を上演する建物。
17
からだ全体。全身。
18
領主、城主(=前田侯)のこと
丈夫きっと勝ちますから」

お留伊は静かに微笑しながらうなずいた。

の と や う た しん じょ かんぜこうだゆう
相手はやはり能登屋のお宇多であった。曲は「真の序」で、笛は観世幸太夫

う た
が勤めた。……拝礼を済ませてお留伊は左に、お宇多は右に、互いの座を占め


て鼓を執った。

そして曲がはじまった。お留伊は自信を持って打った、鼓はその自信によく

ひび
応えてくれた。使い慣れた道具ではあったが、かつてそのときほど快く鳴り響

さん の じ
いたことはなかった。……三ノ地(Sannoji)19へかかったとき、早くも充分の余

裕をもったお留伊は、ちらと相手の顔を見やった。

う た あおざ ゆが
お宇多の顔は蒼白め、その唇はひきつるように片方へ 歪 んでいた。それは、
はげ
どうかして勝とうとする心をそのまま絵にしたような、烈しい執念の相であっ

た。

のうり こと
その時である、お留伊の脳裡にあの旅絵師の姿がうかびあがって来た、殊

に、いつもふところから出したことのない左の腕が! ――あの人は

か ん ぜい ちの じょ う
観世市之亟さまだった。

がくぜん さ
お留伊は愕然として、夢から醒めたように思った。
いちのじょう
老人は、市之亟が鼓くらべに勝ったあとで自分の腕を折り、それも鼓を持つ

方の腕を、自ら折って行方をくらましたと言ったではないか。……いつもふと

いちのじょう
ころへ隠している腕が、それだ。――市之亟さまだ、それに違いない。

そう思うあとから、眼のまえに老人の顔があざやかな幻となって描きだされ

19
鼓の用語。打音や拍子の種類の1つ。
おんが ささや
た。それからあの温雅な声が、耳許ではっきりこう 囁 くのを聞いた。……音

楽はもっと美しいものでございます。お留伊は振返った。そしてそこに、お

う た ひとみ
宇多の懸命な顔をみつけた。 瞳 のうわずった、すでに血の気を失った唇を片

ゆが
方へひき歪めている顔を。

――音楽はもっと美しいものでございます、またと優劣を争うことなどおや

めなさいまし、音楽は人の世で最も美しいものでございます。老人の声が再び

耳によみがえって来た。……お留伊の右手がはたと止まった。

う た
お宇多の鼓だけが鳴り続けた。お留伊はその音色と、意外な出来事に驚いて

いる客たちの動揺を聴きながら、鼓をおろしてじっと眼をつむった。老人の顔

が笑いかけてくれるように思え、今まで感じたことのない、新しいよろこびが

あふ
胸へ溢れて来た。そして自分の体が眼に見えぬいましめを解かれて、柔らかい

いきいき
青草の茂っている広い広い野原へでも解放されたような、軽い活々とした気持

でいっぱいになった。

――早く帰って、あの方に鼓を打ってあげよう、この気持ちを話したら、き

っとあの方はよろこんで下さるに違いないわ。お留伊はそのことだけしか考え

なかった。

「どうしたのです」

ししょう なじ
舞台から下りて控えの座へ戻ると、師匠はすっかり取り乱した様子で 詰 っ

うま
た。「……あんなに 旨 く行ったのに、なぜやめたのです」

「打ち違えたのです」

「そんな馬鹿なことはない、いやそんな馬鹿なことは断じてありません、あな
たはかつてないほどお上手に打った。わたくしは知っています、あなたは打ち

違えたりはしなかった」

「わたくし打ち違えましたの」

お留伊は微笑しながら言った。「……ですからやめましたの、済みませんで

した」

「あなたは打ち違えはしなかった、あなたは」

に え も ん やっき
仁右衛門は躍気となって同じことを何十回となく繰返した。

「……あなたは打ち違えなかった、そんな馬鹿なことはない」と。

父や母や、集っていた親族や知人たちにも、お留伊はただ自分が失敗したと

告げるだけであった。誰が賞を貰ったかということも、もう興味がなかった。

もりもと く
ただ、少しも早く帰って老人に会いたかった。森本へ帰ったのは正月七日の暮

れがたであった。疲れてもいたし、粉雪がちらちらと降っていたが、お留伊は

誰にも知れぬように裏口から家を出て行った。

「まあお嬢さま!」

ま つ ば や ふ い み は
松葉屋の少女は、不意に訪ねて来たお留伊を見て驚きの眼を見張った。……


そしてすぐ、訊かれることは分っているという風に、

「あのお客さまは亡くなりました」

とあたりまえ過ぎる口調で言った。「……あれから段々と病気が悪くなるば

かりで、とうとうゆうべお亡くなりになりました。今日は日が悪いので、お
とむら
葬 いは明日だそうでございます」

お留伊は裏の部屋へ通された。

きたまくら まくらびょうぶ しきみ つぼ


20
老人は 北 枕 に寝かされ、逆さにした 枕 屏 風 と、貧しい 樒 の壺と、細

い線香の煙にまもられていた。……お留伊は顔の布をとってみた。衰えきった

な しんさん しわ
顔であった、つぶさに嘗めて来た世の 辛 酸 が、刻まれている 皺 の一つ一つに

浸みこんでいるのであろう。けれどいますべては終った、もうどんな苦しみも

ない。困難な長い旅が終って、老人はいまやすらかな、眼覚めることのない

ねむり とこ つ
眠 の床に就いているのだ。

――ようなさいました。

お留伊には老人の死顔が、そう言って微笑するように思えた。

――さあ、わたくしにあなたのお手並を聴かせて下さいまし。

「わたくしお教えで眼が明きましたの」

ささや
お留伊は 囁 くように言った。「……それで色々なことが分りましたわ、今

たしなみ
日まで自分がどんなに醜い心を持っていたか、どんなに思いあがった、 嗜

のない娘であったか、ようやくそれが分りましたわ、それで急いで帰って来ま


したの、おめにかかって褒めて頂きたかったものですから」

したた たもと
お留伊の頬にはじめて温かいものが 滴 った。それから長いあいだ、 袂 で顔

おお
を覆いながら声を忍ばせて泣いた。……長いあいだ泣いた。

「今日こそ本当に聴いて頂きます」

ふくさ
やがて涙を押し拭って、お留伊は袱紗を解きながら囁いた。「……今までの

20
葬儀や法要などの仏事で使用される植物。
ようにではなく、生まれ変った気持ちで打ちます、どうぞお聴き下さいまし、

ししょう
お師匠さま」

か ん ぜい ちの じょ う
今はもう、老人が観世市之亟であるかどうか確めるすべはない、けれどお留

伊はかたくそう信じているし、またよしそうでないにしても、その老人こそ彼

ししょう
女にとっては本当の師匠であった。

部屋はもう暗かった。……取寄せた火で鼓の皮を温めたお留伊は、老人の

まくらべ たんざ しばら すす


枕辺に端坐して、心をしずめるように 暫 く眼を閉じていた。……南側の煤け

ほの たそがれ
た障子に 仄 かな黄昏の光が残っていて、それが彼女の美しい横顔の線を、暗い
ごと
部屋のなかに幻の如く描きだした。

「いイやあ――」

こうとして21、鼓は、よく澄んだ、荘厳でさえある音色を部屋いっぱいに反

おとこまい
響させた。……お留伊は「 男 舞 」の曲を打ちはじめた。

21
うっとりして

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