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Project Bergson in Japan 2022 ワークショップ「精神物理学の起源と展望~フェヒナー、ベルクソン、そし

て…」(2023 年 01 月 07 日(土)@福岡大学 A 棟 A701 教室+ZOOM)

測りえぬものを測る

ベルクソンの質的微積分とフェヒナーの精神物理学

藤田尚志(九州産業大学)

形而上学の目的の一つは質的な微積分を行なうこと(opérer des différenciations


et des intégrations qualitatives)である。(ベルクソン)

1.Friend or Foe ? 科学(とりわけ心理学)と哲学の関係


(1)ベルクソンから見たフランス哲学の「二つの重要な特徴」EP477
①「フランス哲学は常に実証科学に密接に結びつけられてきた」
(デカルト、パスカル、コ
ント…)EP 475/「フランス哲学概観」
(1915 年)白水社版『全集』第 9 巻 81 頁。
②「心理学志向」
(「ルソーやメーヌ・ド・ビランのように心理学的分析への新しい道を開い
た人々」
)EP476/83 頁。

《内的観察という慣例的方法に対して、19 世紀は別の二つの方法を付け加えた。
》(EP467
/74 頁)①「実験室で用いるような測定による方法の総合」(初め特にドイツ)、②「臨床
的と呼びうる方法」(病気の観察の蒐集)
:「もともとフランスに起こり、現在もフランスの
優れた学問として残っているもの」
(EP467/75 頁)

《17 世紀と 18 世紀を通じてフランスの思想は、内的生命に携わりながら、やがて 19 世紀


の産物となるべき純粋に科学的な心理学を準備したのである。なかでもモロー・ド・トゥー
ル、シャルコー、リボーのような人たち以上に、この科学的心理学の創設に尽力した者はい
なかった。ここでわれわれはこれら心理学者たちの方法——結局それが、心理学によりいっ
そう重要な諸発見をもたらしたのであるが——が、内的観察のそれを拡大したものに他な
らないことに注意したいと思う。》
(EP476/83 頁)

(2)ベルクソンの論文「形而上学入門」
(1903 年発表、1934 年『思考と動き』収録)
科学的認識=物質の研究:
「認識が計量を目的として対象を扱う場合」
形而上学(哲学)的認識=精神の研究:
「実在と共感するために関係や比較という底意か
ら自由になる場合」

1
《といってもこれら二つの対象[物質と精神]が相互に侵入し合い、したがって両方法[科
学と哲学]が互いに助け合わなければならないことを私は示した。》
(PM177/308 頁注1)

..........................
《哲学するとは、思考の習慣的な方向を逆転することである。(…)人間の思想の歴史を深
く掘り下げてみるならば、
(…)これまで科学においてなされた最も偉大な数々の成果もそ
うした逆転によってなされたことがわかる。人間の精神が手にした最も強力な探究方法で
ある微積分法は、まさにそうした逆転から生まれたものである。まさしく近代数学は、出来
上がったものに出来つつあるものを置き換え、さまざまな量の発生をたどり、運動を外から、
つまり展開されたその結果から捉えるのではなく、内から、つまり変化しつつあるその傾き
において捉えようとする努力であり、事物の輪郭(デッサン)の動的な連続性を自分のもの
にしようとする努力である。》
(PM214/294 頁)

《私は、偉大な科学者の精神に宿り、彼らの科学に内在し、しばしばその目に見えない着想
のもとになっている「科学の哲学」または「科学の形而上学」を「形而上学」の領分に入れ
ようと思っている。しかし、この論文において私がそれをまだ科学の領分に入れているのは、
実際それが「形而上学者」と呼ばれるよりも一般に「科学者」と呼ばれる研究者の手で行わ
れているからである。
》(PM177/309 頁注1)

(3)サトウタツヤ『方法としての心理学史——心理学を語り直す』第4章「近代心理学の
成立と方法論確立の関係」
《心理学を学び始める者の多くが、ある種の息苦しさを感じる。それは一般的な心理学のイ
メージと学問としての心理学のイメージが異なるからである。》
(57 頁)
一般的な心理学のイメージ:カウンセリング、自分探しなど ⇔ 学問としての心理
学:歴史が古くかつ現在でも中心の一つである分野は感覚・知覚の実験的研究

「感覚・知覚を実験的方法によって扱うのが学問としての心理学の中心であり基礎」である
ことの理由=「18 世紀から 19 世紀頃の哲学の中心問題の一つが、感覚・知覚の考究であ
り、この問題に対して当時勃興しつつあった自然科学的方法を用いてアプローチすること
が大きな関心事項となっていた」から。こうした問題や関心への回答として近代心理学成立。

《19 世紀までの心理学が細々とではあったが抱えていた問題関心の火を、19 世紀半ば以降


に、実験という方法が燃料となって大きな炎を燃えさからせることになったというのが心
理学のあり方だったのだろう。方法は飛躍のきっかけであって、連綿とした問題意識があっ
てこそ、方法が生きるのである。方法が学問そのものを作り上げたのではない。》
(91 頁)

2
《エビングハウスは「心理学の過去は長いが、歴史は短い」と言った。この長さを私たちは
どのように考えたらよいだろうか。単にアリストテレスに遡るというような意味で「古さ」
を自慢するのではなく、長さの質を実感することが重要であろう。あるいは、ベルグソンの
言うような持続(durée)を実感することが重要であろう。》
(91 頁)

《心理学は方法によって確立したのではない。それまでの問題意識を扱い解を得ることが
できる方法が真摯に開発され(あるいは他からアブダクション(転想)もしくは転用して)

そうすることでさらに新しい問いを見つけていくことができたからこそ、学問分野として
成立したのである。(…)方法が切り開いたのは問題意識なのであって、方法が方法を切り
開いたのではない。》
(サトウタツヤ 2011:91)

哲学は、心理学がその歴史の長さの「質」を実感し、科学が問題意識を切り開く際の産婆
役として寄与しうるのではないか。

※「この問いには、なぜ「感覚・知覚」を研究するのかということが書かれていないこ
とに留意すべきである。」
(92 頁・注1)
「さらに言えば、実験が心理学においてどのよ
うに相対的地位の低下を招いたのかという問いも立てうる。
」(92 頁・注4)

①西周:
「現在の psychology は質が変わってしまった」
(119 頁)
②福来友吉:欧米同様、「催眠から精神療法という道があったはずである」(163 頁)

2.三人のカント
(1)「科学としての心理学」に不可能宣言を下したカント
サトウ第4章《これまでの日本の心理学史研究の中では研究としてほとんど扱われてこな
かった、心理学成立以前の「心理学の科学化」を準備し推進した動向について検討》
(59 頁)
「心理学において実験という手法に収束していった様をドイツの哲学・思想状況という
一つの視点から描写する」
「カントの不可能宣言とその背景、フェヒナーの精神物理学的手
法に至る経路と、それに直結したヴントによる心理学の統合」(90 頁)

《多くの場合、このことは心理学の哲学からの独立という形で語られる。ただし、リードの
『魂から心へ』
(1997)によれば、逆の見方もできるという。つまり、いわゆる哲学が今日
のような形となったのは、感覚・知覚の科学的研究に対抗するためであるという仮説を立て
ているのである。ヤスパース、フッサールなど多くの哲学者が 20 世紀初頭前後に心理学を
批判的に取り扱った論考を発表しているのは、科学的態度の膨張を批判しなければならな
かった事情を裏書きしているということになる。》
(92 頁・注2)

3
《カントは心理学に少なからぬ興味を持っていたが、フェヒナーは心理学に関心が無かっ
たという皮肉な状況があった。ただしフェヒナーによる方法論を受け入れなければいけな
い文脈を構成したのはカントの不可能宣言だった。
》(90 頁)

カントの不可能説(impossibility claim)
「心理学は数学化できないので、科学と呼ぶにはふ
さわしくない」とする見解はカントによって唱えられたとする説。「心の定量化は 18 世紀
には達成されなかった」とか、
「カントのいわゆる「不可能性の主張」は 19 世紀の発展によ
って反証された」といった説が心理学史のスタンダードな記述。

「自然科学の形而上学的原理」(1786 年)《経験的心理論は、化学と比べても、本来的に自
然科学と呼ばれるべきものの域からは常に程遠い状態に留まらざるをえない。それは第一
に、内官の現象やその法則には数学が適用されえないからである。なるほどその場合でも、
、、、、、、
内官の内的変化の流れにおける恒常性の法則だけを考慮するというのであれば、話は別で
ある。このような法則もたしかに認識の拡張と言えるであろう。だが、かかる認識の拡張を、
数学が物体論にもたらす認識の拡張と比較するならば、その違いはおおよそ、直線の性質に
ついての学説と全幾何学との違いに匹敵するであろう。
(…)経験的心理論の場合、内的に
観察される多様なものは、単に思考上の分析によって相互に分離されるのみで、それを分離
したまま保持しておいたり任意にふたたび結合したりすることはできない。ましてや他の
思惟主体は、意のままにわれわれの実験に従うというわけにはゆかず、また、観察という行
為自体が観察対象の状態を変え歪めてしまうからである。それゆえ、経験的心理論は決して
内官の記述的自然論以上のものとはなりえず、また記述的な科学としても、せいぜい体系的
な自然論、すなわち自然記述となりうるだけであって、心の科学とはなりえない。それどこ
ろか、とうてい心理学的実験論にすらなりえない》
[AK4, 471]

『純粋理性批判』のカント:
「合理的心理学」は、形而上学の全体系をなす四つの主要部門
の一つ。対して「経験的心理学」には、形而上学という国の永住権は認められていない。

《すると経験的心理学は、形而上学の領域からまったく追放されねばならなくなる。また実
際にも形而上学の理念によって、すでにこの学から完全に締め出されているのである。
(…)
しかしまた、この学を形而上学から追い出してしまって、形而上学よりももっと縁のない学
へ付属させるには、なんといっても重要すぎる。つまりこの学は、永いあいだ客として遇さ
れてきた異邦人(ein so lange aufgenommener Fremdling)なのである。そして彼が自分の
住居を、周到に仕立てられた人間学(経験的自然学を補完するもの)のうちに自分自身の住
まいを得て移りうるまで、なおしばらくは彼に逗留を許さねばならない。
》(A849/B877)
ベルクソン哲学にとって、
「経験的心理学」は完全に異質な「よそ者」ではないし、まし
て「周到に仕立てられた人間学」はまったくの異邦ではない。(藤田 2017)

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(2)形而上学の墓堀人としてのカント
カミーユ・リキエ「問題となるスピリチュアリスム:ベルクソン」
(2016 年)
《運命の皮肉は、形而上学の墓堀人(fossoyeur)であったカント哲学を、一九世紀後半の
スピリチュアリストたちの貴重な最後の砦としたのである。》(Riquier 2016 : 41-42)

接近可能な現象としての物質を扱う科学研究が隆盛の一途を辿るのはごく当然。認識不
可能なものの領域へと追いやられた精神を扱う形而上学が衰退するのもまた当然。19 世紀
の形而上学がフランスにおいて「スピリチュアリスム」と呼ばれたのは、まさに〈精神〉の
探究がかつてないほど困難になったから。
このような状況の決定打となったのが批判哲学。現象と物自体の分断=超越論的分析論
で科学を解放、超越論的演繹論で形而上学を糾弾=カントは科学と哲学との離婚証書に公
式に署名。カントによる革命は、少なくともフランスではそのように受け止められた。
「精神は存在しないのではない、ただ接近できないだけなのだ」と厳粛に宣言し続ける身
振り=哲学に認められたおこぼれ。カント主義者(ルヌーヴィエやラシュリエ)も、離婚に
異議を唱える反カント主義者(ベルクソン)も、どちらもそのような状況下で登場。

ベルクソン:カントの遺産を継承しつつ、ふたたび両者を結び合わせようとしている。超
越論的分析論によって基礎づけられた物質科学とは要するに metaphysica generalis である
が、超越論的演繹論によって無効とされた metaphysica specialis こそがカントに抗して再興
されねばならない、〈絶対〉に触れる残り半分としての〈精神〉の領域。あらゆるもののう
ちに「精神性(spiritualité)への参与」(PM 29)を捉え、魂・世界・神を持続の相の下に
(sub specie durationis)再訪する、これがベルクソンのスピリチュアリスム。

《ドゥルーズはベルクソンの著作から存在論を引き出そうとしているが、ベルクソンは
逆に一般形而上学は科学に譲渡していたように思われる。彼が明らかに再興しようとして
いたのは、まさに特殊形而上学なのであり、超越論的弁証論の広大な領野をふたたび活性化
させ、高次の経験論の名の下に、実証的形而上学へと転じさせることだったのである。》
[Riquier 2016 : 42-43]

一九世紀と二〇世紀にまさに股をかけたベルクソンは、同時代の諸科学と大胆に渡り合
うことで、カントに抗して metaphysica specialis の再興を企てた。私たちもまた、個別科学
とのベルクソンの対決にできるかぎり密着しつつ、持続・記憶・生の弾み・呼びかけといっ
たメジャーな諸概念の奥に潜むマイナーな論理を取り出そうと試みねばならない。

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(3)科学と形而上学の“再婚”を画策するカント
トーマス・シュトゥルム:カントの「不可能性説」を脱神話化する
《カントのいわゆる「不可能性の主張」は、彼を悲観主義者の側に置くように見えるが、こ
れは正しい理解の仕方ではない。彼は、精神状態が特定の大きさ(determinate magnitudes)
を持つことを否定しているわけではないし、その大きさを決定すること(to determine these
magnitudes)が全くできないと主張しているわけでもない。むしろ、そのような研究のため
の一定の要件を示唆しているのである。彼の「不可能性の主張」は、やはり内観主義的な心
理学の諸概念に特に向けられたものである。というのも、内観主義的な心理学の考え方は、
心を測定するための必要条件と矛盾するからである。》
(Sturm 2006 : 39)

大橋容一郎:カントの科学方法論の二つの特徴
恣意的で憶測的な形而上学への批判:経験による実証性とその幾何学的(数学的)処理の重
視。②メタ理論的志向:前提となる理論との整合性+数学的処理の万能性への疑念(実験で
きて処理できれば何でもよいということではない)

カントの科学観:特定の学問分野の概念は、当初は不明確である可能性。継続的な研究がそ
れを洗練させるのに役立つし、そうすべきと認めている(A834/B862)。科学の地位につい
て固定的な基準を想定するのではなく、またそのような基準は存在しないとするのでもな
く、科学の向上のために段階的な手順の必要性を説き、またそれを実践しているだけ。

カント自身も同時代の諸科学を吸収することで、自らの哲学体系を少しずつ修正している。
崇高論における構想力の位置づけ修正もその一例(藤田 2022:§54)。

カトリーヌ・マラブー《事実、第一批判から最後の批判にかけて、超越論的なものと生の関
係の構造は進化し、複雑化し、変転を遂げている。
[…]
『判断力批判』において、カントが
徐々に捉えるようになったのは、経験にはないもの、その他諸々の経験の対象としては与え
られないもの、全体をなす対象としては与えられないものとしての現象である。それはすな
わち、美、そしてまさしく本書でわれわれの興味を惹く、生である。二十一世紀の読者より
もはるか以前に、カントは超越論的なものを生の事実性にさらしていたことになる。事実性
との接触から、一連のカテゴリーの変化――第一批判がその可能性を除外したように見え
る後成的な変化――が生じる。
》[Malabou 2014 : 277/二〇一八:二九七]

「〈超越論的なもの〉は、発生・発展し、変化し、進化する」
「超越論的なものは、新たな生
を開始する」
[XI/九]というマラブーのこの主張も、ベルクソンのカント理解の新たなバ
ージョン。現代の哲学とも現代科学とも同時に折衝を続けつつ、反時代的な佇まいのうちに、
スピリチュアリスムもまた新たな生を開始するのではないか?

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3.フェヒナーとベルクソン
(1)書誌的整理
1887-1888 クレルモンフェラン大学での講義「精神物理学の批判的研究」
(1 講)
(M 343)
1889 『意識に直接与えられたものについての試論』第一章:フェヒナー批判
1902 論文「知的努力」
:『精神物理学の要点の改訂』(1882, p. 269)に注で言及。
(M 545)
1906-1907 コレージュ・ド・フランス講義「意志の諸理論」
:注意を感覚や運動に還元して
説明する感覚運動論者の一人として(ランゲやリボーと共に)言及。
(M 697)
1908 年 5 月8日 ジェイムズの書簡:ベルクソンとフェヒナーに関する講義の報告
1908 年 7 月 28 日 ジェイムズの書簡:
《ぜひ『ツェント‐アヴェスタ』も読んでみてくだ
さい。(…)この人は預言者のうちでも本物だと思いますし、彼の本を読んだら、必ずや
(特にあなたは!)実に濃密で刺激的な本だと思われるはずです。私の思い違いでなけれ
ば、彼が評価されるのはまだ先の話ですが(Mais son jour est encore à venir.)。
》(M 778)
1909 年1月 21 日 ジェイムズ宛書簡:大地の魂(earth-soul)仮説「事実に即す」
。「やが
てフェヒナー自身を読んだ時、何か欺かれた気になるのではないかと今から心配」。M
785-786(白水社版『全集』第 8 巻 349 頁に翻訳あり)
1909 年 4 月 30 日 ジェイムズ宛書簡(M 791)
1911 論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて 真理と実在」
ジェイムズ:
『心理学原理』(1890 年)でフェヒナーを批判⇒『多元的宇宙』
(1909 年)
でその独特の汎神論(諸感覚が自我に統合されるように、諸意識は統合されて人類の意識と
なり、さらにそれが動植物の諸意識と統合されて地球の神的な魂になる)を称賛。
ベルクソン同じ展開:
『試論』
(1889 年)で批判⇒1911 年のジェイムズ論で(間接的)称
賛。単に違う側面を見たというだけ?通底するものがある?

(2)ベルクソンはフェヒナーの何を(間接的にであれ)称賛していたのか?
《大多数の哲学は、経験の領域を思考のほうに無際限に延長するとともに、感情と意志のほ
うでは縮小している。ジェイムズが要求するのは、仮説的な見地から経験に余分なものを付
け加えないことである(…)。私たちの感情は知覚と同じ資格で、つまり「事物」と同じ資
格で経験を構成している。ジェイムズにとっては人間まるごとが重要なのである。
ジェイムズがその著作の一つにおいて、地球を神的な魂を備えた独立の存在であるとす
るフェヒナーの奇妙な理論を重視していることに、人々は大いに驚いたものである。しかし
それは彼がフェヒナーの理論の中に、自分自身の考えを象徴してくれる便利な表現を見た
からである。
(…)私たちとは、私たちが意識するすべてのものであり、感じるすべてのも
のである。ある特別な瞬間に魂を揺さぶる強烈な感情は、物理学者が取り扱うさまざまな力
と同様に、実在的な力(forces réelles)である。人間が熱や光を作り出すことがないように、
それらの感情は人間によって作り出されたものではない。ジェイムズによれば、私たち人間
は、大いなる精神の流れが横切る気圏の中に湯浴みしている。》
(PM242-243/334‐335 頁)

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「感情」は熱や光と同じような実在的な「力」
。ならば測定可能なのではないか。

Cf. 檜垣立哉「ジェイムズ哲学の可能性——フェヒナーを通じて」
:「純粋経験というモ
ザイクの持つ、平板に無限に拡がりゆく思考」がジェイムズの議論の特徴をなすならば、
「フェヒナー=ベルクソンの述べる微分的統合」
(階層化する世界を一元論的かつ多元
論的に捉える神秘主義的な部分の重視)に賛同し、
「彼らの思考が具えてしまうある種
の繊細さを多元論に認めつつも、同時に議論を強く平板である経験論のほうに引きつ
け直した点に、その意義を見て取るべきではないか」(檜垣 2022:209-210)

(3)ベルクソンはフェヒナーの何を批判(≠否定)しているのか?
質と量の混同《量と質、感覚と刺激とのこうした混同に馴染んでしまえば、科学が、後者〔刺
激〕を計測するのと同様に前者〔感覚〕を計測しようと試みる時が訪れるのは、避けられな
い宿命だったのだ。そして、これこそが精神物理学の目的であった。
》(DI 53/81 頁)

質と量は接点なし《要するに、どんな精神物理学も、その起源そのものからして悪循環の中
で堂々巡りをするように運命づけられているのだ。というのも、精神物理学が依拠している
理論的公準は、精神物理学に実験的検証を強いるが、精神物理学が実験的に検証されうるの
は、まず初めに当の公準が承認される場合だけだからである。なぜそうなるかというと、非
延長的なものと延長的なもの、質と量のあいだに接点がないからである。
》(DI 52/80 頁)

感覚は純粋な質?《一方では大小しか伴わない強度量、他方では計測に委ねられる外延量と
いう二種類の量を区別したとしても、それではほとんどフェヒナーや精神物理学者たちの
正しさを認めることになってしまう。(…)この種の計測は直接的には不可能であるかに見
えるが、だからといって、何らかの間接的な手立て——例えばフェヒナーの提唱する無限小
の諸要素の積分——によっても、科学はこれに成功できないとの結論は出てこない。したが
って感覚は純粋な質であるか、それとも大きさであるかのどちらかであり、後者の場合には
その計測を試みなければならない。
》(DI 53-54/82 頁)

4.ベルクソンの質的微積分から構想される来たるべき心理学の可能性
量と質の連結符としての強度批判《この著作の残りの部分〔
『試論』第二章・第三章〕が扱
っている量の観念と質の観念をつなぐ連結符を構成し、私の観点をはるかにはっきりと理
解可能なものとしてくれるのは、強度の観念に関する研究〔第一章〕であろうと私には思わ
れた。》
(DI 281:シャルル・デュ・ボス『日記』に見られるベルクソンの証言)

8
量の呈する質《振り子の規則的な揺れがわれわれを眠りに誘うとき、
(…)諸々の音は互い
に合成され、量である限りでのそれらの量によってではなく、それらの量が呈する質によっ
て、すなわちそれら総体のリズミカルな有機組織化によって作用する、ということを認めな
ければならない。
》(DI 79/121 頁)Cf. [藤田 2022 :§28-29]
[檜垣他 2022:59-61]

純粋な量を発生する質《例えば三番目の単位は、残りの二つの単位に付加される際に、その
総体が有する本性や様相や、そのリズムのごときものを変容する。こうした相互浸透といわ
ば質的(en quelque sorte qualitatif)な進展を欠いては、いかなる加算も可能ではないであ
ろう。——したがって、われわれが質なき量(quantité sans qualité)という観念を形成する
のも、量の有する質(qualité de la quantité)のおかげなのである。》
(DI 92/139 頁)

質の極限としての量《数学が量に関する科学であり、数学的な手法が量にしか関わらないに
しても、量が常に発生状態の質であることを忘れてはならない。量は質の極限のケースであ
ると言ってもいい。したがって、形而上学が数学を生み出した観念を取り上げて、これをす
べての質へ、つまり実在一般へ広げるのは自然である。
》(PM 215/295 頁)

知覚と物質《知覚と物質という二つの項は、行為ゆえの先入見とでもいったものからわれわ
れが解き放たれていくのにつれて、次第に歩み寄っていく。感覚は拡がりを取り戻し、具体
的延長もその本来の連続性と不可分性を回復するのである。
》(MM 247/317-318 頁)

拡がり(extension)と緊張(tension)《われわれの表象において考察された感覚的性質と、
計算可能な変化として扱われたその同じ性質とのあいだにあるのは、持続のリズムの差異、
内的緊張の差異だけなのだ。かくして、われわれは拡がり(extension)という観念によって
非延長と延長の対立を取り除こうとしたのと同様に、緊張(tension)という観念によって
質と量の対立を取り除こうとしたわけである。拡がりも緊張も、さまざまな、しかし常にあ
る特定の度合いを容れる。それなのに、この拡がりと緊張という二つの類から両者の空虚な
枠組み、すなわち等質的空間と純粋量だけを引き剝がしてくるのが悟性というものの機能
であり、かくしてさまざまな度合いを含むしなやかな実在は…》
(MM 278/354 頁)

質と量の二分法でなく、拡がりと緊張に基づき、「拡がりを取り戻した感覚」と「本来の
連続性と不可分性を回復した延長」が歩み寄った中で感覚と刺激の関係を考える、来たるべ
き心理学を構想することは可能か?それこそがベルクソンの質的微積分がフェヒナーの精
神物理学と邂逅する約束の地ではないか?

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参考文献
大橋容一郎(2003)
「見なしと仮説――学の方法論とカント」
、『日本カント研究』第4号「カ
ント哲学と科学」
、25-51 頁。
カント、イマヌエル『カント全集』第 12 巻『自然の形而上学』
(犬竹正幸訳)、岩波書店、
2002 年。
(AK4)
カント、イマヌエル『純粋理性批判』(熊野純彦訳)、作品社、2012 年。(KRV)
サトウタツヤ『方法としての心理学史——心理学を語り直す』、新曜社、2011 年。
檜垣立哉『バロックの哲学——反‐理性の星座たち』、岩波書店、2022 年。
檜垣立哉・平井靖史・平賀裕貴・藤田尚志・米田翼『ベルクソン思想の現在』、書肆侃侃房、
2022 年。
藤田尚志『ベルクソン 反時代的哲学』
、勁草書房、2022 年。
———「永いあいだ客として遇されてきた異邦人――リキエによるベルクソン的カント主
義解釈をめぐって」、平井靖史・藤田尚志・安孫子信編『ベルクソン『物質と記憶』を診
断する』
、書肆心水、2017 年、59-82 頁。
ベルクソン、アンリ『意識に直接与えられたものについての試論』
(合田正人・平井靖史訳)

ちくま学芸文庫、2002 年。
(DI)
———『物質と記憶』
(杉山直樹訳)、講談社学術文庫、2019 年。
(MM)
———『思考と動き』
(原章二訳)
、平凡社ライブラリー、2013 年。(PM)
マラブー、カトリーヌ『明日の前に――後成説と合理性』、人文書院、2018 年。
Nayak, Abhaya C. & Sotnak, Eric (1995), “Kant on the Impossibility of the “Soft Sciences”,”
Philosophy and Phenomenological Research Vol. 55, No. 1, p. 133-151.
Riquier, Camille, « Le spiritualisme en question : Bergson », in J.-L. Vieillard-Baron (dir.), Le
supplément d’âme ou le renouveau du spiritualisme, Hermann Éditeurs, 2016, pp. 37-53.
Sturm, Thomas (2006), “Is There a Problem with Mathematical Psychology in the Eighteenth
Century? A Fresh Look at Kant’s Old Argument,” Journal of the History of the Behavioral
Sciences Vol. 42, No. 4, p. 353-377. ※Academia の pre-print version から引用。

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