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流動性の罠

名目でみた経済規模が不変な定常的世界はいかにして生じるのか。量的な商品需要がある中で経済の
規模が拡大しないことは、現実の経済を考えたときには不思議な印象を受ける。しかし、ここまでみて
きたモデルで考えたときには、必ずしも違和感を残すものではない。量的な商品需要がある中でも、ゼ
ロ・サム的な経済活動と物価の下落によって定常的世界は出現する。労働生産性が上昇しても、人間の
もつ流動性への選好によって、実質所得に生じる余裕の一部は貨幣のまま生活者によって蓄積される。
貨幣の蓄積は、その分だけ、名目でみた経済規模を収縮させることになる。
このモデル経済では、定常的世界が生じることに何の不思議もない。生活者が貨幣の蓄積を望むのは
自然である。名目でみた経済規模がつねに拡大を続けるような現実の世界を考えるには、このモデル経
済に新たなアクターを導入する必要がある。それが、生産規模を拡大しようとする企業と、生活者が蓄
積した貨幣(貯蓄)を企業に仲介する銀行である。企業は、生産規模を拡大するために投資(生産設備
等の資本の増強)を行う。投資の出現によって、三面等価の原則はつぎのような関係式となる。

物価(P)×
物価 ×[実質消費(C)+投資
実質消費 +投資(I)]=名目所得
+投資 ]=名目所得(E)
]=名目所得

生産規模を拡大するための投資に要する費用(物価×投資)は、必ずしも企業の利潤の範囲だけでま
かなわれるものではなく、外部資金が導入される。ここに、生活者が保有する貯蓄を企業の投資へと仲
介する銀行が出現する。投資のない世界では、貯蓄とは、貨幣が退蔵されることに過ぎないが、投資の
出現によって、貯蓄は再び経済活動の中で循環するものとなる。こうして生活者は、銀行を仲介者とし
て企業の債権者となり、生産活動で得た価値の配分(利子)を得る。
人間の手仕事だけの経済では、労働生産性が上昇する余地は小さく、人口が大きく増加するようなこ
とがない限り経済は定常的な姿をとる。しかし大規模な生産設備が投資によって形成されるような経済
では、労働生産性の上昇余地は非常に大きなものとなり、貯蓄は経済活動に不可欠な存在となる。経済
規模を収縮させる要因であった貯蓄が投資に回ることで、経済はバランスをとり戻す。
しかし、投資に対し貯蓄が過剰な経済では、経済全体のバランスをとることができていない。この経
済をバランスさせるには、金利の低下によって、企業の資金借り入れ需要が高まる必要がある。この金
利調整は、通常、金融市場のメカニズムによって機能する。貯蓄は「基本的な心理法則」
(ケインズ)に
したがい、所得と消費の水準に応じて定まるが、それに応じた企業の資金借り入れ需要は、通常の場合
には、金融市場の金利調整メカニズムが働くことによって生み出されるのである。

金利が低下すれば、企業を投資へと向かわせる誘因が高まる。29中央銀行が実施する金融政策は、国
債を買い入れそれに見合う貨幣を発行することを基本とする。これは先に述べたように、貨幣のストッ
クを増やすことで経済主体が予測する翌期の物価を高める効果をもつが、それと同時に、国債価格の上
昇(国債利回りの低下)を通じ銀行の資産構成に影響を与え、企業が資金を借り入れる際の利子率を含
めた全体的な金利低下を促すことになる。実際、現代の金融政策は、政策金利(日本は無担保コールレ

29
企業が資金を借り入れる際の利子率は、国債の利回りに応じたリスクフリー・レートに企業ごとのリ
スク・プレミアムを上乗せしたものとなる。

-21-
ート・オーバーナイト物、米国はフェデラル・ファンドレート)を目標に、中央銀行が公開市場操作に
よる銀行との国債の取引を行うことで実施されている。
日本銀行は、1999 年2月に政策金利の誘導目標をゼロとするいわゆる「ゼロ金利政策」を導入し、2000
年8月にゼロ金利政策を一度は解除したものの、2001 年3月には金融市場調節の主たる操作目標を無担
保コールレート・オーバーナイト物から日銀当座預金残高に変更し、保有を義務づけられた準備預金額
を超える日銀当座預金への需要を喚起するいわゆる「量的緩和政策」を導入した。
にもかかわらず、企業の資金借り入
(Fig.5)企業の資金調達の推移
14,000 れ需要は増加しなかった。企業が投資
のために調達する資金には、
内部留保、
10,000
減価償却費等の内部調達によるものと、
6,000 増資、社債、借入金等の外部調達によ
(百億円)

るものがある。
これらの推移をみると、
2,000
外部調達は、1999 年以降 2008 年に 10
-2,000 年ぶりにプラスに転じるまでマイナス
が継続している(Fig.5)。
-6,000
1980 1985 1990 1995 2000 2005 一方、資金調達の総額は、2003 年以
(年度)
外部資金 内部資金 資金調達 降 2005 年まで増加している。この間、
(資料) 財務省「法人企業統計」
完全失業率が改善するなど、実物的な
側面からみれば景気は回復し経済は好調さを取り戻しつつあった。だがこの実物的な経済規模の拡大は
企業の資金需要をともなうものではなく、商品の量的な需要がある中でも、名目でみた経済の規模を拡
大させることにはならなかった。
金融市場の金利調整メカニズムによっ
(Fig.6) 貯蓄および投資(対名目GDP比)の推移 て貯蓄と投資を一致させることは難しく、
45
投資の不足が恒常的に生じることもある。
40 日本の貯蓄と投資の推移をみると、1980
貯蓄 年代以降はつねに貯蓄が過剰となる
35
(%)

(Fig.6)。
この差額
(貯蓄・投資バランス)
30
は、三面等価の原則から、純輸出の額に
25 投資 一致する。1980 年代の懸案だった日米貿
易摩擦の背景には、この貯蓄・投資バラ
20
1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000 2005 ンスにおける過剰な貯蓄が関係していた
(資料) 内閣府「国民経済計算」 のである。
さらに物価が下落しているときには、
企業にとって、投資によって翌期の商品生産が増加しても、その商品を利益の出る価格水準で売ること
ができるかが不透明となる。すなわち、物価が下落しているときには、資金の借り入れに要する費用は
名目の金利水準だけで測ることはできない。企業の投資を刺激するため中央銀行が政策金利を低下させ
ても、物価の下落が予測される中では、実質金利は高止まる。30こうして、企業は投資に慎重な態度を

30
企業が投資の水準を決定するにあたって参照するのは、名目金利ではなく実質金利である。実質金利
は、名目金利から予想インフレ率を引いたもの(フィッシャー方程式)である。

-22-
とるようになる。

これは、貯蓄と投資の不一致という国内経済の不均衡が長期に継続し得る可能性を意味するものであ
るが、貯蓄と投資が一致している経路においても、政策金利を目標とする伝統的な金融政策だけでは完
全雇用均衡を達成することができないことがあるという不完全雇用均衡の問題がケインズによって指摘
されており、このことは、マクロ経済学における汎用的なツールである IS-LM 分析を用いて、つぎのよ
うに説明できる。31
まず、一般的な IS-LM モデルを簡単に説明する。IS-LM 分析では、縦軸を名目金利、横軸を所得とす
る2次元の位相図を考え、その上に商品市場の需給均衡を表す経路であるIS曲線と、金融市場の需給
均衡を表す経路であるLM曲線をおく。

(Fig.7) IS-LM分析
IS曲線は、商品市場の需給均衡のもとで、所得が消
費と貯蓄の和として表されるときの名目金利と所得の経
名目金利 IS
路である。商品市場の総需要と総供給が均衡するとき、
LM 貯蓄は投資に一致する。ここで「基本的な心理法則」に
より、所得が増えれば消費は増加するが、所得の増加ほ
どには消費は増えない、つまり所得の増加分に対する消
費の増加分の比である限界消費性向は1以下となる。I
S曲線では、名目金利が低下すれば投資は増加し、増加
Y 所得
した投資に一致するように貯蓄がきまるので、それに応
じて所得と消費は増加することになり、右下がりの曲線となる。
一方LM曲線は、貨幣供給(マネーストック)と貨幣需要(取引的需要と投機的需要の和)が一致す
るように表されるときの名目金利と所得の経路である。名目金利が上昇すれば債券価格は下落し、貨幣
の投機的需要は減少する。貨幣供給が一定のもとで金融市場の均衡を達成するには、貨幣の取引的需要
の増加、すなわち所得の増加が必要となるため、LM曲線は右上がりの曲線となる。
IS-LM 分析では、これらの曲線が重なり合う点の名目金利と所得において、商品市場における商品の
需給と金融市場における貨幣の需給は同時に均衡する。もしこの点が完全雇用32を満たしていなければ、
貨幣供給量の増加(LM曲線の右シフト)
、投資の増加(IS曲線の右シフト)によって、名目金利を低
下させ、完全雇用均衡を実現する水準まで所得を増加させることができる。しかしケインズは、それ以
上金利が低下しても投資はほとんど大きくならず、経済主体が債券の保有を望まなくなるような金利の
下限が存在し、この金利の下限の付近では、経済主体が保有しようとする貨幣量は金利に対して非常に
感応的になることを指摘している。このとき、政策金利を目標とするような金融政策は効かなくなり、
上述のような均衡に向かう自律的なメカニズムが働く可能性は否定される。このようなケースでは、名
目金利に対してIS曲線は非弾力的(垂直)
、LM曲線は弾力的(水平)となる(下図[Ⅰ]
)。ケインズ
の想定した極端なケースでなくとも、金利がマイナスにならない限り完全雇用均衡を実現する所得の水
準が達成できないような場合には、名目金利の非負制約によって、完全雇用均衡が実現できない状況と
なる(下図[Ⅱ]
)。

31
Milton Friedman “John Maynard Keynes” (The Richmond Fed.: Economic Quarterly Spr.1997)
32
企業が求める人材と求職者の保有する技能が異なること等によって生じる構造的失業者、および求職
活動の期間中に通常生じる摩擦的失業者を除き、働く意志と能力をもつ労働者がそのときの賃金水準で
すべて雇用されている状態。

-23-
流動性の罠[Ⅰ] 流動性の罠[Ⅱ]
これは、
「流動
性の罠」とよば
名目金利 IS 名目金利
IS れる状況である。
LM
流動性の罠はい
かにして生じる
LM のか。ポール・
クルーグマンは、
Y
Y Y* 所得 所得
当期の実質消費
(出典) Milton Friedman “John Maynard Keynes”
Y* (ここで使用さ
れているモデル
では、消費は経済全体の支出に相当)だけでなく翌期以降の実質消費にも依存する効用関数にもとづい
て行動する生活者を前提とする現代的な経済モデルによって、流動性の罠が生じる必然性を説明してい
る。33このモデルでは、生活者が効用を最大化するよう実質消費の異時点間選択を行い、翌期以降の実
質消費は一定となる(つまり翌期以降は定常的経済となる)ことを仮定している。名目所得は中央銀行
の貨幣の発行によってあらかじめ与えられる。
またこのモデルでは、
債券市場の存在を前提としており、
名目金利がプラスである限り、生活者は当期の消費に必要な貨幣の量(物価×実質消費)を超える貨幣
を保有しようとはしない。このとき、名目金利は効用関数が前提とする割引率に一致する。34
貨幣の発行を増やすことはそのまま生活者の名目所得を増やすことになるので、
(右下がりのIS曲線
のもとで)実質消費は増加する。しかし、名目金利がゼロに達すると、それ以上貨幣を発行しても生活
者の家計の中で金利ゼロの債券と(想像的に)おきかえられ、貨幣は意味をなさなくなる。名目の消費
(物価×実質消費)には、これ以後何の変化も生じないことになり、供給された貨幣はすべて退蔵され
る。ただし市場の価格調整メカニズムがスムーズに働けば、完全雇用に応じた実質消費を達成すること

33
Paul Krugman “It’s Baaack! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap” および岡田靖
『デフレ不況と旧世代マクロ計量モデルの限界 経済動学の新しいアプローチとデフレ不況の経験』 (日
本経済モデル研究分科会 講演論文)を参照した。これらの論文では、 〈貨幣愛によって流動性選好が強
まる〉という貨幣的な要因を効用関数に明示的に取り入れることなく、実物的な要因だけで流動性の罠
が発生し得ることを証明している。なおこれらの論文のモデルでは、投資が明示的に取り入れられては
いないため、実質支出(実質消費+投資)はすべて実質消費となる。
34
効用関数は、

1 1 

U=  C
1−ρ 1+d


と表される。ただし、U は生活者の効用、d は割引率、Ct は t 期における実質消費、ρはリスク回避度を


表す定数である。ここで、効用最大化の1階条件、
∂U 1 + i ∙ P ∂U
= ∙
∂C P
∂C

より、
C  1+i P
 = ∙
C
1 + d P

という消費のオイラー方程式が導出される。ただし、Pt は t 期の物価である。t+1 期以降の実質消費は


一定となるため、所与の所得のもとで物価は一定となり、上式より名目金利 i は割引率 d に一致する。

-24-
は理論的には可能である。
さらに、ここで物価はスムーズには動かない(物価は粘着的である)ものとし、潜在的な供給力に達
するほどの需要を創出するにはマイナスの金利を必要とする状況を考える(上図[Ⅱ]
)。すると、貨幣
の発行を増やすことで潜在的な供給力を達成することはできなくなり、加えて市場の価格調整メカニズ
ムが働かないため実質消費も増えず、非自発的な失業者が発生する。
よって、当期の実質消費が潜在的な供給力(完全雇用を達成する生産の水準)と比較してあまりに小
さいか、翌期の物価が当期の物価と比較してあまりに低くなる(つまり予想インフレ率があまりに低く
なる)ようなケースでは、経済は流動性の罠に陥り、名目金利の非負制約によって翌期の消費は潜在的
な供給力の水準に達することができなくなる。実質消費は一定の限度を超えて増えることはなく、潜在
的な供給力とのギャップ(GDPギャップ)は長く続くこととなる。

経済が流動性の罠に陥るとき、政策金利を目標とする伝統的な金融政策では需要の喚起をはかること
が不可能となる。35流動性の罠において経済が不完全雇用のまま均衡すると、所得と物価には下落圧力
が生じる。この不完全雇用均衡の存在によって、ケインズは、古典派経済学を特殊な限られた均衡状態
にのみ適用可能な特殊理論であるとした。
しかしミルトン・フリードマンは、このケインズ的な不完全雇用均衡を、価格の粘着性が経済の自律
的調整を妨げることで生じる通常の不況であるとみる。価格の低下が商品を単位としてみた貨幣価値を
増大させそれが消費を促進することは、「ピグー効果」あるいは「実質残高効果」とよばれる。フリードマ
ンが流動性の罠を不完全雇用均衡であるとすることを否定する理由としてあげるのが、このピグー効果
の存在である。
不完全雇用均衡は、賃金と物価に対する引き下げ圧力となる。賃金の引き下げは、労働市場の需給調
整を通じ雇用に影響を与えることになるが、ケインズは、賃金と物価は「足並みを揃える」ため、賃金
を引き下げても実質賃金(賃金÷物価)は変わらないとみる。36ケインズにとって消費とは「基本的な
心理法則」にしたがい名目所得に応じて定まるものである。名目所得の減少によって消費は抑制され、
物価は下落することになる。労働市場における実質賃金の低下が雇用を増加させるという議論の代わり
に、ケインズは賃金と物価の水準の変化、具体的には、①物価の下落によって貨幣価値が高まり、名目
金利が低下することで、LM曲線を右側にシフトさせる効果、②名目金利の低下が資本(企業の生産設
備等)の収益性を高め、生活者の富を増進し、それが貯蓄によって富を増やす誘因を低下させ、所得に
対する消費の割合が高まる効果(ケインズ効果)
、という二つの効果について議論している。しかしケイ
ンズは、物価の下落が貨幣価値を高め、それが貯蓄誘因を弱めることで消費が増大し、IS曲線が際限
なく右側にシフトするというピグー効果については明示的に取り扱わなかった。ピグー効果の存在によ

35
一方、財政政策によって政府が直接支出することは、経済が流動性の罠の状況にあったとしても、I
S曲線を直接右にシフトさせるよう働くので、完全雇用均衡を一時的に達成させることができる。さら
に、流動性の罠の状況では、公的需要の増加が名目金利の上昇をまねくことで民間需要を抑制するクラ
ウディング・アウトも生じない。ただし財政政策は、その需要が民間部門に波及する効果(乗数効果)
が小さい場合、短期間でその効果は縮小する。このため、前述のように、国債を中央銀行が直接引き受
けること(マネタイズ)などによって経済主体が翌期(以降)の物価の上昇を認識するようになる(つ
まり予想インフレ率の上昇によって実質的なマイナス金利を達成する)ことが、流動性の罠を脱却する
上での重要な鍵となる。
36
コブ・ダグラス型生産関数を前提にすると、実質賃金は労働生産性と労働分配率の積となるため、労
働生産性と労働分配率の増減率に変化がなければ、物価の増減率は(名目の)賃金の増減率に一致する。

-25-
って、不完全雇用均衡は、理論的には、完全雇用へ向かう効果的な力を持たない永久均衡というわけで
はないことになる。

しかし実際には、フリードマン自身も認めているように、ピグー効果は大きなものではない。経済主
体は名目所得を基準として考える傾向があるため、貨幣の相対的な価値が高まったとしても、それをも
って所得が増加したとはみなしにくい。人は、名目所得が増えれば、物価の上昇によって実質的な所得
は減っても所得が増えたような錯覚に陥る。反対に、物価の下落によって貨幣の実質価値が増えたとし
ても、名目所得が減少すれば、消費を増やす誘因は大きなものとはならない。37
日本における 1990 年代以降の長期不況が変えたものには、経済の実物的な動きに加えて、所得は今後
も継続して増加していくはずだという人間の意識面での将来への期待も含まれる。むしろ、このような
意識の変化が経済の実物的な停滞を先導するものであったのではないだろうか。人口が減少し、将来の
不確実性が高まる中では、ピグー効果は十分には働かず、それよりも将来の所得が安定しかつそれが増
加するであろうという期待の方が消費を喚起する。一方、価格の低下は、名目所得の減少に結びつき、
消費を喚起する効果は乏しいものとなる。
むしろ物価の下落は、負債を保有する企業にとっては実質負債残高が高まることを意味する。現在の
投資は将来の生産につながるが、価格の低下が当初の予想以上に大きい場合、生産された商品を利益の
出る価格で売ることは難しくなる。仮に金利がゼロであっても、持続的な物価の下落が予測される中で
は、実質的には金利はプラスとなる。よって、当初の予想を超える価格の持続的な低下は、企業の投資
意欲の低下を招くことになる。これは、アーヴィング・フィッシャーによって提起されたもので、
「負債
デフレ理論」38とよばれている。
このように生活者が名目所得を基準に消費を行い、企業は現在有する情報を最大限活用し投資計画を
策定するとするならば、物価の下落はさらなる物価の下落をまねき、所得を持続的に減少させることに
なる。

なお、2002 年以降の日本経済がゆるやかな景気の回復を経験し名目所得がまがりなりにも維持された
のは、国内需要の不足を外需(純輸出)が補填したためである。むろんその背景には、米国経済の過剰
な需要と、それを演出することになる住宅価格の高騰および金融取引の発達があった。しかし、
「巨大な
貿易の崩壊」
(The great trade collapse)が生じたいま、名目所得は再び減少する動きをみせつつある。
日本の高度経済成長期において経済政策のブレインであった下村治は、日本の純輸出が急増した 1980
年代半ばに米国が日本の市場開放要求を強めたことに対し、原因は米国の過剰消費にあり「自国の経済
は自国で責任を持って治す」べきであると主張した。39一方で下村は、経済の国際均衡と国内均衡を同
時に達成すべきであるとしている。一般に、貿易がアンバランスとなり、例えば日本の貿易サービス収
支の黒字が大きくなり過ぎれば、為替レートはそれを修正するよう円高に調整される(Fig.8)

こうして、一国の輸出と輸入はバランスをとりつつ、自由貿易の進展に応じて国内経済に占めるそれ

37
ここにもまた、人間の「現状維持バイアス」がはたらいている。
38
これは負債デフレに関する古典的な解釈であり、現代では、借手企業の担保価値の変化が実体経済の
悪化に影響を与えるとするフィナンシャル・アクセラレーター理論がある。これは、貸手の銀行と借手
企業との間に情報の非対称性があると仮定し、借手企業の負債比率が高まると、借手企業が資金調達す
る際のリスク・プレミアムが高まり、結果的に投資の制約となることを重視する。
39
下村治『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』。

-26-
ぞれの構成を高めていく。米国の
(Fig.8)貿易サービス収支及び実効為替レートの推移
200 140 需要が収縮したいま、国内経済の
(貿易サービス収支 2005年平均=100)

バランスをとるために海外に過剰

(実効為替レート 1973年3月=100)
150 120
な需要を求めることは難しく、国
100 100
際的な摩擦を引き起こす可能性も
50 80
ある。
0 60 海外に過剰な需要が存在しなけ
貿易サービス収支
-50 40 れば、過剰な貯蓄は国内経済にそ
名目実効為替レート
-100 20 のリバランスを強要することにな
1996 2001 2006 る。必要となるのは貨幣価値の低
(資料) 財務省 「国際収支状況」、日本銀行
下か、もしくは持続的な物価の下
落と所得の停滞そしてそれにともなう労働の価値の低下である。後者は、失業者の増加と経済的格差の
拡大という痛みをもともなうものとなる。

ここまで議論を進めれば、いわゆる「デフレ」とは何を意味するのかをはっきりさせることができる。
つまりそれは持続的な
持続的な物価
持続的な物価の下落
物価の下落と所得の
の下落と所得の停滞
と所得の停滞である。実質消費だけではなく、名目所得にも着目しな
停滞
ければ、デフレの根本的な問題点に到達に到達することはできない。名目所得を増加させることが価値
の創造につながり、生活者の満足を確実に高めることになる。

mailto: kuma_asset@livedoor.com

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