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平面構成の移り変わり 台子をどのように飾ったかは定かではありませんが、
ぎょく かん
玉 澗の八景図の八幅対が掛けられた、と伝えていま
やぶの うち ちく しん じょう ち しゅ こう ゆい ま こ
  藪 内げ家 五代竹心 紹 智(一六七八〜一七四五)の茶道指 す。そして「珠光は始め六畳を好み、その後、維摩居
んりゅうちゃ わ じ ほうじょう のっと す き や じょうおう
南書『源 流 茶話』には、茶室の平面構成の簡単な変遷 士の方 丈 に 則 って四畳半を数寄屋と定めた。 紹 鷗頃
が記されています。 までは四畳半に限って造作されたが、利休時代になっ
 「いにしへ、義政公ハ八畳敷に台子をかさられ、玉
て三畳台目・二畳台目・一畳台目とわびた小座敷を好
なか ばしら
澗の八景八幅対を掛させられ候、珠光始メハ六畳、又、 み、 茶 室 に 中 柱 を 立 て た。 し か し こ れ ら の 空 間 は 珠
維摩居士之方丈に則り、四畳半を数奇屋と御定候、紹 光の本意を失うことなく、方丈の考え方を守りながら
鷗迄も四畳半に限候得とも、利休にいたり、三畳大目・ 設われている。口伝である」と記されています。
やまのうえそう じ
二畳大目・一畳大目迄の小座敷を作意し、中柱を立ら
  山 上宗二は「珠光ハ四畳半、引拙ハ六畳敷也」
(『山上
れ候、しかれども、珠光の本意をうしなハす、方丈之 と い っ て い ま す が、 珠 光 が 真 の 座 敷 を 四 畳 半
宗二記』)
とう しゅう
内を出すしてしつらハれ候也、口伝」。 と 定 め、 の ち の 紹 鷗・ 利 休 へ と 四 畳 半 が踏 襲 さ れ た
あしかがよしまさ し つ とこ
 ま足利ち義

政の頃には、座敷に畳が敷き詰められ、床の
だな つけしょいん
ことがわかります。
間・違い棚・付書院など座敷飾りの場が生まれるとい  利休はさらに空間をそぎ落として深化させて、三畳
どうぼうしゅう
う「書院造」が確立します。この頃の茶の湯は同朋 衆 台目から二畳台目、一畳台目と空間を極めました。利
かいしょ
による会所の茶が主流です。 休は、しばしば、四畳半と二畳の空間を併用して茶の
じ しょう じ
湯を行っています。これは珠光の本意を利休が体得し
 義政は東山山荘を造 営します。その遺構が慈 照 寺
とう ぐ どう どう じん さい
に 現 存 す る 東 求 堂 同 仁 斎[ 2 6 8 頁 茶 室 一 覧 参
(銀閣寺) 実践していたように考えられ、方丈(四畳半)の中の方
です。この同仁斎が日本で最も古い四畳半とされ、
照] 丈(二畳)という茶室の極小空間にその玄中の心を反映
しつら
違い棚に茶道具が設えられました。義政時代、八畳に させていたものとも考えられます。
炉の切り方
・茶室の炉
・八通りの切り方
・入炉
・出炉
50

炉の切り方 【※1】面取り…角 断 面 の
ある建築部材の出隅を削
り取り面を付けること。
茶室の炉
面取り

ろ だん ぶち
  茶 室 の 炉 は、 炉 壇 と 炉 縁 か ら 構 成 さ れ て い ま す。 炉 縁 の 大 き さ は 一 尺 四 寸
四方、高さ二寸二分(6・7㎝)
(42・4㎝) 、天端の広さ一寸二分(3・6㎝)
、面取
さ まわ
り【※1】
幅三分(0・9㎝)で差し回し(炉の四畳半の畳の敷き方[ 頁参照]のように組
42

じゅらくつち
にします。炉壇は聚楽土と黄土で仕上げられたものが「本炉壇」で、
み込むこと)
あずき
ほかに銅板や小豆石【※2】
を用いたもの、また陶板の炉壇などもあります。
 炉の寸法は、一尺四寸四方、本炉壇の内側の深さは一尺一寸(33・3㎝)ほど
で、炉中は下広がりになっており、火の起こりを良くしています。
本炉壇の外枠全体は、一尺六寸四分(49・7㎝)四方、高さ一尺三寸(39・4
 
となっています。茶室の床下には、このような炉壇の収まる空間が必要とな
㎝) 【※2】小豆石…日 光 の 大 谷 川
流域などで産出される赤褐色
ります。しかし近年、建築環境が変化し、ビルの中の茶室が増えており、天井 系の石。この小豆石を使った
ゆか
高と床高の関係から浅い炉壇も普及しています。炉壇を収める時には、畳の厚 石炉では、数寄者・高橋箒庵
( 一 八 六 一 〜 一 九 三 七 )旧 蔵
さも大変重要となります。畳の厚さが一寸八分(5・5㎝)か二寸(6・1㎝)かで、 のものが知られる。
それに見あった高さの炉壇を収めることに
【※3】
炉壇と炉縁の収まり
なります【※3】
。これは、畳と炉縁の高さを
一尺六寸四分
そろ
揃えるためのことで、適切な炉壇の選択が


一寸二分
二寸一分
必要となります。 二寸二分
一尺一寸

一尺四寸
八通りの切り方

炉縁

炉縁
一尺三寸

一寸二分
 茶室の炉の切り方は、諸説ありますが基
はち ろ
本的には八通りあります(八炉とも) 。


よ じょうはんぎり ひろ ま だい め 上から見た炉 横から見た炉
 四 畳 半切(広間切[ 頁【※7】参照])
・台目
54

むこう すみ すみ
切・ 向 切・隅炉(隅切)の四通りにそれぞれ
ほんがっ て ぎゃく
本勝手(亭主の右側に客)
、逆 勝手(亭主の左側に客)があり、八通りの炉の切り方と
いり
なります【次頁※4】
。また本勝手、逆勝手の炉は、炉の切られた位置により入炉

二通り(向切と隅炉)と、出炉二通り(四畳半切と台目切)に分けられます。
入炉
炉の切り方

むこう
 入炉は点前畳の内で、点前座の向う側に炉が切ってあり、「 向 炉」とも呼ば
れています。本勝手の入炉は、炉が亭主から見て客側にあたる右側に切ってあ

51
52

▼ ▼
点前畳 点前畳 ▼ ▼

︵道具畳︶

︵道具畳︶ 点前畳 点前畳


小板


︵道具畳︶ ︵道具畳︶


小板




¼畳
半畳
【※4】八通りの炉の切り方(太い線が勝手側)

逆勝手

床の間

床の間

向切・逆勝手〈入炉〉 隅炉
(隅切)
・逆勝手〈入炉〉
出炉→四畳半切と台目切
入炉→向切と隅炉

四畳半切・逆勝手〈出炉〉 台目切・逆勝手〈出炉〉
四畳半切・本勝手〈出炉〉 台目切・本勝手〈出炉〉
向切・本勝手〈入炉〉 隅炉
(隅切)
・本勝手〈入炉〉
床の間
床の間
本勝手

¼畳
半畳

点前畳 点前畳
小板


︵道具畳︶ ︵道具畳︶


点前畳 点前畳
小板


︵道具畳︶

︵道具畳︶ ▼ ▼
▼ ▼
れば「向切」、勝手側の左側に切っ
【※5】畳寄せ…畳 と 壁 の
て あ れ ば「 隅 炉( 隅 切 )
」と な り ま 下部の接合面にできる隙
小板

間 を 収 め る 細 い 横 木 で、
【※6】小板の収まり

す。 柱が敷居などから出る部
分を逃げ、床仕上げ、壁
 また、逆勝手の入炉は、亭主か 仕上げの定規の役割を果
ら見て客側にあたる左側に炉が たすことが多い。なお建
具があれば敷居となる。
切ってあれば「向切」、勝手側の右
側 に 切 っ て あ れ ば「 隅 炉 」と な り
ます。
たたみ よ
 「向切」
「隅炉」は本来壁付の炉なので、 畳 寄せ【※5】
の下に炉壇が収まりま
こ いた
す。上に引き出しやすくするために小板【※6】を炉の向う側に入れて、小板をは
ずせば取り出しが簡単にできるようにします。小板の寸法は、長さが炉と同じ
一尺四寸で奥行き二寸と一寸八分(向板[ 頁参照]がある場合)のものがあり、材

畳寄せ
36
質は松か杉(向板がある場合)を用います。
出炉
炉の切り方

 出炉は点前畳の外側で、本勝手の場合は点前畳の右側、逆勝手の場合は左側
に炉が切ってあるものをいいます。これは炉の先が半畳の四畳半切(広間切)と、

53
54

炉の先が四分の一畳の台目切とがあります。この時、四畳半切は、
ふみこみ
踏込畳半畳分の先に点前座がある場合をいい、広間切は、踏込畳一
畳以上の先に点前座がある場合をいいます【※7】

上げ台目切
(左)八畳間の例

まる
 出炉の四畳半切(広間切)の点前畳は丸畳のみとなります。また入
炉である向切や隅炉では踏込んだ畳が点前畳となり、この時、点前

点前畳
畳には丸畳と台目畳[ 頁参照]が考えられます。しかし、これらは畳 踏込畳
35

︵道具畳︶ ▶
と広間切

の大きさが変わるだけで炉の切られる位置は大きく変わりません。 ▼
一方で台目切の場合、踏込畳が点前畳で、点前畳に丸畳と台目畳が
(右)

0 0 0 0 0 0 0 0
あるのは向切や隅炉と同様ですが、しかし、台目畳の台目切と、丸
四畳半切

0 0 0 0 0
畳の台目切では炉の切られる位置が変わってきますので注意が必要
0 0 0 0 0 0 0
【※7】

となります。一般的に台目切といえば台目畳の台目切を指します。
 丸畳の台目切とは、四畳半切の炉の位置から畳縁を越して、炉一

きゅう じ ぐち
つ分上げた位置に切られたもので、台目畳の台目切の時に 給 仕口 点前畳
踏込畳

さ どう

が付けられず、茶道口しかない場合にとても有効な炉
[105頁参照] ︵道具畳︶ ▶
はかま

の切り方となります。これは茶道口から 袴 などを着けた亭主が、狭
い炉の脇を通って給仕をする際に使い勝手が悪いので、炉の位置を
一つ分上げて通いやすくするためで、台目畳

【※8】
上げ台目切の一例
を丸畳にすることとなります。これを「上げ

台目切」
「上げ切」などと呼んでいます【※8】

床の間

台目畳の台目切
台目畳の台目切、丸畳の台目切のどちらも、
炉の先が四分の一畳であることは変わりあり

¼畳


ません。 台目畳
︵点前畳︶


大炉
 
この他に裏千家独特の炉として大炉があり
だい ろ

ます。大炉は逆勝手に炉を切ることになって

床の間
げんげんさいせいちゅう
います。裏千家十一代の玄々斎精 中【※9】

丸畳の台目切
この とつとつさい
好みとして、咄々斎の次の間(大炉の間[257
【※9】玄々斎精中…一 八 一 〇


¼畳
頁 茶室一覧参照]
)に切られています。極寒の二


〜七七。三河奥殿藩主松平縫
丸畳 殿 頭 乗 友( 一 七 六 〇 〜 一 八 二
月頃に暖をとる目的もあり使用されます。
︵点前畳︶ 四 )の 子 と し て 生 ま れ た。 十


 大炉の大きさは一尺八寸(54・5㎝)四方で
代 認 得 斎 柏 叟( 一 七 七 〇 〜 一
炉の切り方

八 二 六 )の 婿 養 子 と し て 裏 千
一般の炉に比べて四寸(12・1㎝)も大きくな 家に入る。幕末・明治維新期
ゆき わ がわら
ります。大炉には専用の雪輪 瓦 が立てられます。また炉壇の土は灰色で鼠土 の混乱から茶の湯を守りつ
つ、立礼式など新時代に即応
という土で仕上げられます。
(聚楽土に墨を混ぜて下塗り、上塗りをしたもの) した形を創造した。

55
56

二畳向炉、これ草庵第一 の 炉、 京 畳 に は 一 尺 四 寸 の 炉 を 用 い、 も ち ろ ん 台
㎝)
目切も二畳敷以後の造作だ、と伝えています。
なん ぽう ろく
 『 南 方 録 』に は「 草 菴 ノ 炉 ハ、 初 ハ 炉 ノ 寸 法 定 ラ ズ、  このように、かつて炉の寸法は釜の大小によって切
紹鷗・利休クレ〴〵相談ノ上、大台子ノ法ヲ以テ万事 られており大きさはまちまちで定まっていなかったこ
ヲ ヤ ツ シ 用 テ、 向 炉 一 尺 四 寸 ニ 定 ラ ル ヽ 也 」と あ り、 とがわかります。
たけ の じょう おう
草庵の炉は初め寸法が定まっておらず、武野 紹 鷗と  茶会記を見ますと天正時代には小イロリや大イロ
利休が念入りに相談して台子の法によってすべてをや リ、
一尺四寸、
一尺五寸(45・5㎝)
、一尺七寸(51・5㎝)

むこう ろ
つし、 向 炉を一尺四寸(42・4㎝)の大きさに定めた、 一 尺 七 寸 五 分(53㎝)
、 一 尺 八 寸(54・5㎝)な ど 様 々
と書き留められています。 な炉の大きさが、二畳、二畳台目、三畳、三畳台目、
 その詳細は「紹鷗四畳半ニ炉アリトイヘドモ、イマ
四畳半の茶室に用いられていましたが、一尺四寸のイ
ダ炉ノ広狭定ラズ、釜ノ大小ニ随テ切シ也、休公ト相 ロリが一番多く用いられていたようです。
談アリテ二畳敷出来、向炉隅切ニ台子ノカネヲ取テ、  しかし、イナカ間畳は一尺三寸で、京間畳は一尺四
一尺四寸ノ炉ヲ始ラレ、其後四畳半ニモ、イナカ間四 寸という伝えに関しての詳細は充分な史料がなくてわ
畳半ニハ一尺三寸、京畳ノニハ一尺四寸ナリ、勿論台 かりませんが、畳の寸法がイナカ間畳は京間畳と比べ
目切モ二畳シキ已後ノ作ナリ」とあり、紹鷗の四畳半 てひと回り小さいので、炉の寸法もひと回り小さくし
に炉があるけれども、この頃はまだ炉の寸法が定まっ ていたと考えられます。
ておらず、釜の大小にしたがって炉が切られていた。
 いずれにしても二畳敷の向炉隅切に、台子の寸法を
利休と相談して二畳敷ができ、向炉の隅切に台子のカ 基準として一尺四寸の炉を定めて始められ、その後四
ネワリを用いて一尺四寸の炉を始め、その後四畳半に 畳半などに用いることになった、と述べており、「二
も採用された。イナカ間の四畳半は一尺三寸(39・4 畳向炉、コレ草菴第一」とも記しています。
茶室の形 深三畳と平三畳
・深三畳と平三畳
・長四畳
・﹃南方録﹄から見る深三畳古様と長四畳古様
162

いり ろ で ろ
中柱と台子 点前畳(道具畳)の中から取り出して、入炉を出炉に直
したというもので、さらに「六尺三寸ノ畳ノ内、台子
ちゃ ふ
 『茶
譜』の中に「利休流ニ、一畳半ノ火炉裏脇ニ立ル ノハヾ一尺四寸ト、屏風ノアツミ一寸ト、カキテノケ、
そうたん なかばしら
柱ヲ中柱ト云」とあり、続いて宗旦が、中 柱 というせっ 則其一尺四寸ノハヾ、元来一尺四寸四方ノ風炉ノ座ヲ、
ゆがみ ばしら
かくよい名称があるのに、当代では 曲 柱 という大工 右ノ畳ニ出シテ炉ヲ切タリ」とあります。これは台子
の使い始めた賤しい言葉が使われている、中柱が曲柱 の幅の一尺四寸(42・4㎝)と風炉先屏風の厚みの一寸
ではなく直柱を使った際には何と呼ぶつもりでしょう の分の畳を切り退け、中柱の右に風炉の座を移
(3㎝)
か、と述べたことが記されています。 動させて炉として切った、ということで、だから「一
そで かべ
 中柱の袖壁の壁止については「此横竹、利休流竹ニ 枚タヽミノ内、台子ノ置目分切ノケタルユヘ、台目切
スルコト本意也、此竹ニ節ヲ四ツコメテ打コト習也、 ノ畳、台目カキノ畳ト云也」とも記されています。
若木ニ仕テモ之ヲ横竹ト云ナリ」とあり、利休流は壁  また台目構えでの中柱の有無については「柱ナシノ
よこたけ ひき
止めに横竹(引竹)を使うことが本来あるべき姿で、こ 台目切自由ナレトモ、本式ハ台子ノ柱一寸ツヽヲ合テ
の横竹には節が四つのものを採用して、もし横木を入 二寸四方ニツモリテ立タル柱ナレハ、柱アルヲ本トス」
だい め
れても横竹と呼ぶ、と伝えられます。利休流の台目構 とあり、中柱の存在は自由であるけれども、中柱は台
まと
えの壁止は、木でなく竹を使うことにこだわりをもっ 子の柱が一寸ずつ纏まって二寸の太さの中柱として立
ていたことが窺えます。 てられており、中柱があるものが本式である、と伝え
なんぽうろく
 『南方録』では台目切について「中柱ノ右ニ炉ヲナヲ ています。
シタルヲ台目切ト云」とあります。これは炉の位置を
茶室の仕切り壁
・道安囲
・宗貞囲
・中柱の袖壁
・仕切り板壁︵板壁︶
164

茶室の仕切り壁
 茶室はその用途や目的などから、出入口・床の間周辺・天井などを思いきっ
なか ばしら
たデザインにしているものがあります。点前座周辺の構成においても、中 柱
し き かべ
と仕切り壁を用いて点前座と客座を分けて構成したり、点前座の
[154頁参照]
先に板壁を用いて空間を仕切ることで、内部意匠に変化を持たせた空間構成を
したりすることがあります。
 茶室は利休の時代から、使い勝手とデザイン性を兼ね合わせた空間を造り出
こころ
すために、様々な工夫が繰り返し 試 みられてきました。特に点前座周辺は、客
ちゃ たて どころ
座に対して茶点 所 であるという意識から、
「お茶を点てさせていただきます」
という亭主の謙虚な姿勢が、その意匠として表わされてきたものと考えられて
います。
おち
 その亭主の謙虚な姿勢を表わす意匠が、天井を低くする「落天井」 [141 頁参
どうあんがこい そうていがこい
であり、仕切り壁を用いた「道安 囲 」や「宗貞 囲 」、また「中柱の袖壁が下ま
照]
で塗り詰められている」という意匠、さらに「仕切り板壁(板壁)
」を備えた意匠
などといえるでしょう。
躙口
道 安 囲【※1】

床の間

床の間
仕切り壁

仕切り壁
火燈口

火燈口
 道安囲の茶室は、点前座と客座の
境に簡単な仕切り壁が設けられてお



風炉先窓

り、上部は吹き抜けとなっているの


中柱
で ▶ 中柱
が大きな特徴です。炉の切り方は出





炉 の 四 畳 半 切 や 上 げ 台 目 切[ 頁 参 洞庫
53

げ ざ かど
で、炉の下座角に中柱を立て、中
照]
きわ か とう ぐち たい こ ぶすま
柱の際に火燈口を配して太鼓 襖
を備えています。中柱
[106頁参照]

右は上下ともに道安囲の平面略図
より上座には仕切り壁がなく、客座

(下)イラストは四畳半切の一例
はんげん
から点前座に運ばれた道具が半間ほ

(道安数寄屋)
ど見えるという空間構成となってい

上げ台目切の一例
茶室の仕切り壁

四畳半切の一例
ます。
 お茶を点てる時は火燈口の襖を閉

【※1】道安囲
めておき、道具を運び付けてから点

(上)
(下)
前座に座り、襖が開けられて主客が

165
166

相対することになります。 【※2】道安…一 五 四 六 〜 一 六
どうあん 〇七。利休の先妻の子。豊臣
 利休の子息道安【※2】
は足が不自由であったため、道具の運び出しの姿が客に 秀吉の茶堂となった。利休賜
見えないようにと、このような仕切り壁を用いて道安囲を考え出したという説 死に際しては京都を離れ、飛
騨、または阿波などに身を寄
が伝えられてきました。しかし道安の足が不自由であったという事実は見当た せたともいわれる。
らず、事実と異なった逸話が伝えられてきたと現在では考えられています。 【※3】江戸千家…川 上 不 白 を
てんせつどう れん げ あん
開祖とする茶道の流派。表千
 表千家点雪堂(炉は四畳半切) や江戸千家【※3】
[2 6 0 頁 茶 室 一 覧 参 照 ] 蓮華庵(炉
家七代如心斎の許しを得て江
[259頁 茶室一覧参照]
は上げ台目切) などがこの形態をとっており、道安囲の茶室 戸 駿 河 台 に 居 住 し た 不 白 が、
のちに上野池之端に庵を移し
として一般に知られています。
て表千家の茶道発展に努め
た。
宗 貞 囲【次頁※4】
もう
 宗貞囲の茶室は、道安囲と同様に点前座と客座の境に簡易な仕切り壁を設け、
いり ろ むこうぎり
やはり上部が吹き抜けとなっています。炉は入炉の 向 切[ 頁参照]となってい
51

かど ぎわ
ますが、炉の下座角に中柱を立て、中柱際に火燈口を配して太鼓襖を備えてい
るのは、道安囲と同様です。
かみ ざ
 宗貞囲でも中柱より上座には仕切り壁がなく、客座から点前座に運ばれた道
こ ま なか
具が見えるのですが、道安囲とは異なり、わずか小間中(半間の半分)ほどしか見
えない空間構成となっています。そのため襖が閉められている時は、道安囲よ
りもさらに仕切られた構成に
なっています。
床の間
仕切り壁
火燈口
火燈口

 お茶を点てる時は道安囲と同
中柱

じ く 火 燈 口 の 襖 を 閉 め て お き、

道具を運び付けてから点前座に
風炉先窓


座り、襖が開けられて主客が相

対することになります。宗貞囲
右は宗貞囲の平面略図
宗貞囲の一例

よどみのせき
の茶室は澱看席[265頁 茶室一
などが知られています。
覧参照]
【※4】

 火燈口を備えて仕切り壁を設
けているという意味から、道安
囲と宗貞囲を同一視する考え方
もあります。
茶室の仕切り壁

中柱の袖壁
 古式の台目構えの袖壁は、「む
かしハ横竹の下かべなり 後に

167
168

こうしん げ がき まつ や かい き
下あき申候」
(『江岑夏書』【※5】
)、「下マテヌリツメ」
(『松屋会記』【※6】
)と記されて 【※5】江岑夏書…表 千 家 四 代
の 江 岑 宗 左( 一 六 一 三 〜 七
いるように、初め吹き抜けがなく上から下まで壁が塗り詰めてあったと伝えら 二 )が、 父 宗 旦 の 利 休 の 茶 の
ふか
れています。そのために利休大坂屋敷の深三畳台目の茶室では、点前座が別室 湯に関する談話をまとめ、五
代随流斎に与えた書。
の次の間のように見えたとも伝えられています。
【※6】松屋会記…奈 良 の 漆 屋
 先にも触れましたが、点前座が別室のように見える袖壁のある台目構えは、 松 屋 家 の 久 政( 一 五 二 一 〜 九
ちゃたてどころ
茶点 所 としての亭主の謙虚さを意匠化したもので、下まで塗り詰められた袖壁 八)・久好( 〜一六三三) ・久
?

重( 一 五 六 六 〜 一 六 五 二 )の
がその意識の表われと考えられています。 三代にわたる他会記集成。
 現在では台目構えの袖壁の多くは、下が吹き抜けとなっています。袖壁が下
まで塗り詰められている現存の好例としては、裏千家今日庵[257頁 茶室一覧
があげられます。
参照]
仕 切 り 板 壁( 板 壁 )
【次頁※7】
 仕切り板壁は仕切り壁の一種として、茶室内部に設けて空間構成をする有効
じょあん
な方法です。如庵[256頁 茶室一覧参照]に好例が見られます。
 如庵の内部は二畳半台目で台目畳に炉を向切[ 頁参照]に切っています。向切
51

の炉の上座角にまっすぐな中柱を建てて、風炉先側に板をはめ込んで仕切り板
壁としています。
 また仕切り板壁の中柱際
く ぬ
(鱗板)

を火燈形に刳り貫いてお
床の間
火燈口

り、 襖 は 備 え て い ま せ ん。
中柱
筋違板

点前座先に仕切り板壁を設

けているため、道安囲や宗


仕切り板壁 貞囲と比べて明るく開放的

な構えとなっています。
如庵の仕切り板壁
右下は如庵の平面略図

 しかし、仕切り板壁の存
在から、点前座が茶点所と
いう亭主の謙虚な姿勢を意
【※7】

識した内部構成になってい
る点では、道安囲や宗貞囲
などと共通した考え方が窺
茶室の仕切り壁

えます。

169
170

宗貞囲と道安囲 好んでいたことが知られています。
 また『草人木』には「医師道三、利休を頼、談合して
そうじんぼく ま な せ どう さん
 『草
人木』 には「和泉の堺に空願といふ
(一六二六年刊) 造られし座敷也」とあり、曲直瀬道三(一五〇七〜九四)
むろどこ
塗師あり、利休一段入魂にて侍る者也、其座敷のさし が利休に頼んで造作したという平三畳下座床(室床)の
こん しん くう がん
図也」と、利休と懇親であった堺の空願が好んだとい 図が記されます。この茶室は仕切り壁、中柱際から火
う平三畳下座床の茶室の図が示されています。 燈口を備えるほか、仕付棚や風炉先窓、茶道口の位置
し き なか ばしら か とう
  こ の 茶 室 は 仕 切 り 壁 や 中 柱 が あ り、 中 柱 際 に 火 燈
な ど 前 述 の 空 願 の 茶 室 と の 共 通 点 が 多 く 見 ら れ ま す。
ぐち いり ろ むこうぎり で ろ
口を備え、入炉の 向 切に炉が切られており「座敷ハひ しかし炉は出炉の上げ台目切に切られ、点前は「三畳
ら三畳敷を持侍るか、通ひ口を利休仕はしめられしよ 大目也」と特記されており、前記「宗貞囲」と異なるこ
り、うら山しく思ひ侍て、通口を利休のことくにせん とが指摘できます。この座敷も「信長相国の御連枝た
とすれ共」とあります。また、このように仕切り壁に ち、京にても大坂にても、皆此座敷造を用給ふ也」と
おもしろ
火燈口を設けた茶室をことのほか面白い座敷だとして して当時大変流布した様子が窺えます。
「 京 の 外 迄 あ ま ね く 此 座 敷 に な り ぬ 」と 記 し て い ま す  なおこの茶室は、『数寄屋工法集』では「道安数寄屋
し、点前は一畳台目と同様である、とも伝えています。 平三畳」として掲出され、「道安囲」として一般に知ら
す き や こう ぼう しゅう
 『数寄屋工法 集 』 には、上記とまった
(一六八六年刊) れています。
く同じ茶室の図と、点前についても一畳台目と同様で  このような茶室の構成は、利休の存在と懇親な交友
ふる た おり べ
あるという記載があります。古田織部に茶を学んだと 関係があったからこそ考え出されたものと推測されま
ひら の そうてい
される平野宗貞(平野屋宗貞。生没年不詳)にちなみ「宗貞 す。
囲」の名称で掲出されており、宗旦もこの「宗貞囲」を
﹁水屋﹂
の用語とその歴史
・﹁水遣﹂
・﹁水屋﹂と﹁水谷﹂
268

当麻寺 中之坊茶室 東求堂 同仁斎


︵たいまでら なかのぼうのちゃしつ︶ ︵とうぐどう どうじんさい︶
奈良県葛城市 京都市左京区
かたぎりせき あしかがよしまさ
当麻寺の中之坊にあるこの茶室は、庭園とともに片桐石 国宝。足利義政の造営した東山山荘の持仏堂で、京都市
しゅう ご さい ぎょうこう
州 の好みと伝えられている。後西天皇の 行 幸を迎えた の 慈 照 寺( 銀 閣 寺 )に 現 存 す る 東 求 堂 内 の 東 北 に あ る 書
とされる江戸時代初期の書院に接続した四畳半の茶室 院。 東求堂 は 文明十 八 年(一四八六)に 完成 し、二 間四方
で、北西の隅に三角形の出床を設け、その出床に続く壁 の仏間と、長四畳、四畳半、六畳の四室からなっている。
面に径が約五尺二寸にも及ぶ大円窓を設けている。この この四畳半の書院が同仁斎にあたり、炉が切られていた
らんしょう
円窓の向う側は従者の控室であったともいわれる。 ことも「墨書」から確認され、四畳半茶室の濫 觴 ともい
わ れ て き た が、
大円窓

茶室説と書斎説
長四畳
付書院

同仁斎

と が 存 在 す る。
給仕口

床 の 間 が な く、
違棚

付書院、違い棚
が配される。
仏間

六畳
茶道口

躙口
西本願寺 澆花亭 仁和寺 遼廓亭
︵にしほんがんじ ぎょうかてい︶ ︵にんなじ りょうかくてい︶
京都市下京区 京都市右京区
てき か じ
明和五年(一七六八)に行われた、西本願寺境内の庭園「滴 重要文化財。仁和寺門前竪町の何似宅から江戸末期に仁
すい えん かや ぶき いり も や こけら ぶき
翠園」の修理整備に際して建てられた茶室。茅葺入母屋 和寺に移された、 杮 葺で二畳半台目の茶室と四畳半の
づくり ちくいん
造 で五畳半に枡床が付される。藪内家六代の竹陰(一七 小書院、水屋の間から成る。この四畳半と水屋の間の四
の好みとも伝えられる。点前座には竹の
二七~一八〇〇) 畳半の間には、敷居や鴨居を省き、二室をずらすことで
がま お がたけんざん
中柱を立てて、三重の釣棚を設ける。点前座上のみ蒲の 空間の広がりを演出している。何似はもと尾形乾山の住
こうりん
落天井で、他は白竹の竿縁で網代天井となる。 居であり、遼廓亭は乾山の兄、光琳が造ったとも伝えら
じょ あん
れ て い る。 如 庵[ 2 5 6 頁 参 照 ]の 写 し と も い わ れ る よ う
うろこ いた
に、 床 脇 に 鱗 板 が 入 れ ら
う らくまど
躙口
れるが、有楽窓は普通の連
子窓に造作されている。

床の間
鱗板
茶室一覧

茶道口
床の間

茶道口
三重棚
洞庫

269
270

伏見稲荷大社 御茶屋 水無瀬神宮 燈心亭


︵ふしみいなりたいしゃ おちゃや︶ ︵みなせじんぐう とうしんてい︶
京都市伏見区 大阪府島本町
ご みずの お せん とう ご みずの お
重要文化財。荷田延次が後 水 尾上皇の仙洞御所にあっ 水無瀬神宮に建つ茶室。重要文化財。後 水 尾上皇(一五
た御茶屋を拝領し、延次に仕えた羽倉家に伝えられてい の好みと伝わり、もと水無瀬家の庭中に
九六~一六八〇)
ね ぎ かやぶきよせむねづくり
たとされる。明治二十九年(一八九六)稲荷社の禰宜が譲 あった茶屋。屋根は茅葺寄棟 造 。三畳台目茶室と勝手、
ひ わだ ぶき いり も や づくり
り受け、現在の地に建てられた。檜皮葺入母屋 造 で一 水屋からなり、床は奥行きの浅い蹴込床の形式となって
の間、二の間に入側が付く。床を出床にし、床脇に一畳 いる。簀子の間に関しては、178頁を参照。茶道口と
を配した構成に 給 仕 口 に は 松・
火燈窓 特徴がある。床 竹・梅の材が巧
入側

付書院 に向かい右壁の みに取り込まれ


書院には火燈窓 ている。
席名は、
床の間

が 開 け ら れ る。 天 井 に 葭・ 萩・
床の間

床 の 間 や 欄 干、 木賊などの灯芯
入側

違棚

釘隠しなどから となる材が使用

給仕口
桃山時代の建造 されていること
茶道口
違い棚

と考えられてい に由来する。

水屋

る。 仮置棚
勝手
妙喜庵 待庵 武者小路千家 官休庵
︵みょうきあん たいあん︶ ︵むしゃこうじせんけ かんきゅうあん︶
京都府大山崎町 京都市上京区
禅刹妙喜庵内にある利休作と伝えられる茶室。国宝。天 武者小路千家を代表し、武者小路千家の代名詞ともなっ
そうたん
正十年(一五八二)に山崎に構えていた利休の屋敷、もし ている茶室。寛文七年(一六六七)
、千家三代宗旦の次男・
とよとみひでよし いちおうそうしゅ
くは豊臣秀吉の命によって利休が山崎城内に建てた茶室 一翁宗守が仕官を辞したおりに造立したと伝えられる茶
を、後に移築したものと推測されている。室町時代の書 室。 現 在 の 建 築 は 大 正 十 五 年( 一 九 二 六 )に 再 建 さ れ た。
こけらぶききりづまづくり
院・明月堂に接続して建ち、屋根は 杮 葺切妻 造 で全面 一畳台目半板入りの向切下座床で、半板は幅五寸ほど。
には深い土間庇が付く。二畳隅炉の茶室に次の間と勝手 水屋洞庫を備え、点前座の後方には踏込みの板間が付さ
一畳が続き、床は室床の形式をとるが、床は天井がきわ れる。
めて低く、框には節が三カ所もある丸太が使用されてい
る。また躙口は通例よ
りもやや大きく造作さ 躙口

躙口
(室床)
床の間

れる。江戸時代を通じ

床の間
て「 妙 喜 庵 の 囲 」な ど

半板
と呼ばれていた。

茶室一覧


勝手


次の間
水屋洞庫 茶道口

271

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