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学習メモ

第一章
  新しい始まり
ラジオ

「木の自由」を考えながら (全二回)
第一回
  ①具体的な学習の進め方
学習のポイント

  ②木が自由に長生きするための条件とは
  ③「他者の自由があってこそ」という考え
第二回
  ①自由の意味と自己矛盾
  ~新しい自由を求めて~
  ②理解を深めるまとめと発展
  ③新聞にみる関連情報紹介

−−
理解を深めるために 準とすると、人間は自分が経験してきた以外の自由についてな
ど、全く新しい発想をたやすくはもてないでしょう。だから作
  木村澄子
講師  
者は極端なことをわざと提示するわけなのです。
 
「木の自由」とはなんでしょうか。そもそも自由とは? 直 接 体 験 は 非 常 に 重 要 で 重 い も の で す が、 こ の 複 雑 な 世 の
新しい始まり

本文を良く読むことから始めましょう。音読と本文に印を付 中・ 日 々 め ま ぐ る し く 変 化 し て ゆ く 社 会 を 生 き て ゆ く た め に
第一章

けることを、おすすめします。 は、これまでにはなかった・気づかなかったものに目を向け、
「人間よりずっと長い生命を保ちながらその場を動かずに生 その意味を考えてゆく・他者に学ぶことに重みがあるのだ、と

高校講座・学習メモ
きてきた木を見て、じっとしていては生きられない自分と比較 思います。
現代文
しながら、人とは全く異なる自由の存在をそこに見出す」とい 作者は、ヒトの異文化でなく、全く異なる生き方の「木」を
第 3 回〜第 4 回
うのが、前半の内容です。後半はどうでしょうか。第一回を聞 出して、その自由を考える事から新しい自由を求めようとして
いたあと、ご自分でまとめてみてください。 います。身近なところから考えるヒントを受け取る柔軟な姿勢
自分の経験を一般的なもの、つまり自由なら自由をはかる基 も、学んでください。
学習メモ

「木の自由」を考えながら
ラジオ

うち やま たかし

  山 
  節
  大きく育った大木を見ていると、私は動くことのできない生き物の生き方とは
何だろうかと、考えることがある。私たちは、自分自身が移動できることを前提
にして自由を考えている。ところが木は、種がそこで芽を出してしまえば、生涯
そこから移動することはできない。それを不自由だといってしまったら、木の「人
生」は成り立たないのである。
  ところが木は、動けないからこそ、一つの能力を身につけたような気がする。
それは自分が必要としているものを呼び寄せるという能力である。

−−
  秋に落とす大量の落ち葉は、微生物や小動物を呼び寄せ、そのことによって彼
らに肥料を作ってもらっている。木が持つ保水能力も何かを呼び寄せるためのも
のかもしれない。時にたくさんの花を付けて虫たちを呼び寄せ、たわわに実を実
らせて、鳥や山の動物たちを呼び寄せる。そうやって他者の力を借りながら、木
は生きているように感じるのである。
新しい始まり

  そうでなければ、そのほとんどが何百年も、あるいは千年以上も生き続ける木
第一章

が、毎年あれほど多くの実をつける必要性は理解できない。もしも子孫を残すた
めだけだったら、毎年一粒の実をつけ、その一パーセントが芽を伸ばすことがで
講師:木 村 澄 子  

高校講座・学習メモ
きるだけでも、たいていの木は数本の子孫を残すことが可能なはずなのだから。
現代文
第 3 回〜第 4 回

  ところが木々は、毎年山のような花をつけ、山のような実を落とす。なぜなの
だろうか。もしもそれが他者を呼び寄せるためのものだとすれば、私も何となく
納得ができるのである。
  そして、もしそうであるとするなら、木が自由に生きるためには、他の自然の
生き物たちも自由に生きていられる環境が必要である、ということになるだろう。
学習メモ
ラジオ

木は自分の自由のために、他者の自由を必要とするのである。
  それはすばらしいことである。人間は時に自己の自由を手にするために、他者
の自由を犠牲にさえするのに、木は他者の自由があってこそ自分自身も自由でい
られるのである。
  自由を、日本の昔からの言葉の使い方に従って、自在であることと言い直せば、
木が自在な一生を生きるためには、自在に他者を呼び寄せ、自在に他者とともに
生きていく世界が必要なはずである。
  こんなふうに考えていくと、自由はさまざまである。移動できないものの自由
も、ここにはある。
  かつての日本語では、自由は、勝手気まま、自在であることという意味で用い
られていた。それが外来語の自由が入ってきてからは、責任のある行動をしよう
とするときの障害を除去すること、という意味に変わった。こうして人間社会の

−−
制度的束縛を取り払うことが、自由の中心的課題になった。
  ところが自由には、次のような自己矛盾が生じている。それは、何が自由で、
何が不自由なのかを見定めるためには、それをつかみとるための自由な精神がな
ければならず、その自由な精神を持つためには、自由な社会がなければならない
ということである。つまり自由な精神がなければ自由は確立できず、自由が確立
新しい始まり

されていなければ自由な精神は得られない。
第一章

  これではAのためにはBが必要であり、BのためにはAが必要であるという、
完全な循環論法になってしまう。同じところをグルグル回ってしまうのである。

高校講座・学習メモ
  この自己矛盾から抜け出すためには、私には他者の自由、これまで気づかなかっ
現代文
第 3 回〜第 4 回

た自由に接する必要性があるような気がする。
  マックス・ウェーバーは『古代ユダヤ教』の中で、一つの文明だけに慣れ親し
んでいる人からは、新しい文化は生まれなかったと書いている。他者の文化と接
触する機会を持った、つまり異文化との接点で生きた人間たちの中から、新しい
文化は生まれてきたのだと。
学習メモ
ラジオ

  それは自由についても言える。これまで気づかなかった自由があることを見つ
けるとき、そこから自由に対する思考は始まる。
  一本の大木を見上げると、何百年もの間そこを動くことなく生き続けた偉大さ
を、
私たちは感じることがある。そして彼らにとっての自由と共存し得る自由を、
見つけ出したいとも思う。

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第一章

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現代文
第 3 回〜第 4 回

内山
  節(うちやま・たかし)1950 年〜。東京生まれ。哲学者。

作者紹介
主な著書・『存在からの哲学』
『戦後思想の旅から』『里の在所」など。
本文は「自由論」より。

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