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現代文  評論
齋 藤  祐

真の自立とは 〈全三回〉
講師

 
鷲田清一
■学習のねらい■
評論を読んで、筆者のものの見方や考え方を読み取ろう。
「自立」に対する自分の考えを持ち、視野を広げよう。
学習のポイント
①「できる、できないということが極めて一元的に語られ」るとは、どのよ
 うなことを言っているのか
〈1〉

②「条件付きでしか人の存在を肯定できなくなっている」とあるが、ここか
 ら筆者のどのような考え方が読み取れるか
①筆者は「自立」についてどのように考えているのか
〈2〉

②「これは極めて自立的です。」とあるが、なぜそう言えるのか
①「現代の老いの姿」や「二十年近く延々と『成人儀礼』が続く」現代の状
〈3〉

 況について、筆者の言う「自立」という観点から考える
②自分にとって真の自立とは何か
理解を深めるために
 真の自 立 と は 〈1〉
筆者の鷲田清一さんは哲学者・評論家です。これまで、ファッションや身体な
どに関する考察を通して現代社会の問題を取り上げた評論をたくさん書かれてい
ます。この文章は二〇一三年に発表されたものです。
さて、評論文はちょっと苦手だな、と感じている高校生は、多いのではないで
しょうか。確かに評論文は、高校生が普段使っているものとは抽象度の異なった
言葉で展開されていきますから、とっつきにくい文章であることは否定できませ
ん。
しかし評論文とは、ひとりの筆者がひとつのメッセージを形にしたものです。
ラジオ学習メモ

つまり、
評論文には必ず、
筆者の言いたいこと=メッセージが込められています。
書き手である筆者は、それをどのように展開すれば説得力を持たせられるのかを
常に念頭に置いて書いていますから、読む側もそれを意識して構成を把握し、筆

国語総合
者がいったい何が言いたいのか、その論旨を考えながら読み進めていくことが求

第 81 〜 83 回
められます。

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「できる、できないということが
 極めて一元的に語られ」るとは、
  どのようなことを言っているのか
この文章はこんな出だしで書かれています。
私たちの社会では、できる、できないということが極めて一元的に語
られ、何かが「できる」のはプラスで、「できない」のはマイナスもし
くは欠落であると単純に捉えられてしまいます。
「できること」は「プラス」
、「できないこと」はマイナス ── 。ここだけを読
むと、
「何を当たり前なことを!」と思われるかもしれませんが、読者たる私た
ちが読むべきは、筆者がこの前提を疑っているという点にあります。「一元的」
という表現にも注意が必要です。
物事を一つの原理で説明しようとすることを「一
元的」といい、ここでは批判的に使われています。
筆者は、
できることをプラス、
できないことをマイナスと捉える実例として「履
歴書」を挙げています。
「履歴書」とはすなわち「自分ができることやそれまで
にしてきたことの一覧表」ですから、
そこには私の「できること」を網羅すべく、
学歴・職歴・賞罰・資格などが列挙されています。
ここに筆者の問題提起があります。履歴書に書かれることは、確かにその人の
「できること」の一覧ではある。しかし、その際に用いられる「できること」の
物差しが、実は一面的(一元的)に過ぎるのではないか、と。
つまり、
「できる」か「できない」か、という質問に対して「はい/いいえ」
で答えられるものを基準にするならば、人間が年老いていくことはそのまま「で
きること」が少なくなっていく過程にほかなりません。それゆえ「老い」はとこ
とんネガティブなものとして人々に捉えられ、当然、何とかして「老い」に抵抗
しようとする心的傾向があらわれます。
ところが、かつては「長老」や「大老」と呼ばれる人たちがいたように、年老
い、できることが減っていく一方で、このような人たちに対する尊敬の度合いは
むしろ高くなっていく側面もあったのです。年齢を重ねていればいるほど、その
人たちは経験によって困難にぶつかった事例を多く知っていて、かつ、問題を解
決するために知恵を備えている人なのだという認識が共有されていたのです。
それだけではありません。十代の若者にとっても事態は変わらないのだと言い
ラジオ学習メモ

ます。今の子どもたちは、三歳か四歳以降、大学を卒業するまでの二十年近くの
時間を、「できる」
を基準にした教育課程の中で過ごします。いつまでたっても「大
人」扱いしてもらえないまま、自分の「できる」ことを問われ続けるのです。

国語総合
このように筆者は、その人の「できる」ことだけを取り上げて賞賛しようとす

第 81 〜 83 回
る社会のあり方自体に疑問を投げかけています。筆者に言わせれば、本当に「老
い」と「衰え」はイコールの関係にあるのだろうか、人々は「できない」ことが
増えるたびに何らかの「負い目」を感じざるを得ないのだろうか、若者は何かが

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「できる」
存在であらねばならないのだろうか、そこに必然性はあるのだろうか、

ということになります。まずはこの筆者の問題意識をきちんと読み取っておきま
しょう。
評論文を読み解くうえでは、あなたが普段何気なく抱いている素朴な問題意識
はいったん棚に上げて、この筆者はいったいどのような疑問を社会に対して持っ
ているのか、という目で読んでいく必要があります。
「条件付きでしか
 人の存在を肯定できなくなっている」とあるが、
  ここから筆者のどのような考え方が読み取れるか
筆 者 は 今 の 社 会 に お い て は、 〇 〇 が で き る か ら そ の 人 の 存 在 が 認 め ら れ て い
る、できることが存在理由になってしまっていると指摘しています。その例とし
ていくつかの実例を挙げています。
象徴的なのは「親たち」の例です。
どうやら私たちの社会は、
「もしこれができたら」という条件付きで
しか人の存在を肯定できなくなっているようです。親たちですら「合格
したら〇〇を買ってあげる。
」「夏休みの宿題ができたら〇〇に連れてい
ってあげる。
」と、平気で条件付き承認をしているのです。
ここで出てくる「条件付き承認」というのが、この文章のキーワードです。「無
条件承認」と違って「条件付き承認」においては、何かができないとそこにいる
こと自体が許されません。〇〇が「できない」ということがそのまま、存在の承
認の可否に結びついてしまうのです。
「条件付き承認」とは、
裏を返せば「合格しなければ〇〇は買ってもらえない」、
あるいは「夏休みの宿題ができなければ〇〇には連れていってもらえない」こと
を意味しています。
その結果、
子どもたちに抱え込まれるのはとめどない「不安」です。なぜなら、
〇〇ができない限り、自分自身が得られるものは何もなく、そればかりか、自分
がそこにいることの承認すら得られなくなってしまうのですから。このような状
況において子どもたちが不安を抱くのは当然のことだと言えるでしょう。
つまり、
「 で き る 」 こ と を ひ た す ら 要 求 さ れ る 社 会 に お い て 子 ど も た ち は、 大
人が言うところの「できる」とされていることが「できない」となった場合、そ
ラジオ学習メモ

れが
「できない」
自分は
「不要」
なのだという自意識を育てていくことになります。
このように、大人たちによって何気なく発せられるところの、「〇〇ができた
ら□□してあげる」という言い回しに潜む危うさに対して、筆者は警鐘を鳴らし

国語総合
ているのです。これが、
「老い」に対する後ろめたさと同じコインの裏表である

第 81 〜 83 回
ことを押さえておきましょう。

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 真の自 立 と は 〈2〉
現代社会が持つ危うさが浮き彫りになったところで、それでは筆者自身の見解
を整理していきましょう。
筆者は「自立」についてどのように考えているのか
 筆者は次のように言います。
ある時期から「自立」という言葉が急に広まりましたが、私たちの社
会では、その意味が誤解されていないでしょうか。
「自立」とは読んで字のごとく、他の助けや支配されることなしに自分ひとり
だけで物事を行うことの意で、辞書にもそのように書いてあります。この意味に
おいて「自立」は「独立 」と同じ意味だと言えます。しかし筆者は、
  independence
ここから英単語を分解しつつ、疑問をぶつけていきます。
独 立 と は、 「 dependence
( 依 存 )」 に 否 定 の「 」 in を 付 加 し た 語
で、 直 訳 す れ ば「 非 依 存 」 と な り ま す。 し か し、 本 当 に「 独 立 = 非 依
存 」 な 人 な ど あ り え な い。
( 中 略 ) 私 た ち の 生 活 は、 無 限 の 相 互 依 存
)で成り立っています。
( interdependence
「独立」とは、何にも依存せずに自身で決断を下し、その結果を享受すること
ができることを指します。例えば一七七六年に現在のアメリカ合衆国がイギリス
からの独立を果たした際、法律や行政にかかわることを自分たち自身で制定し、
実行することができるようになりました。自分のことは自分で決めることを「自
己決定」と言いますが、アメリカ合衆国は約二五〇年前にこの権利を手に入れた
のです。
しかし筆者は、国家の独立とは違って、社会の中における個人の独立というの
は成り立つだろうか、本当に自分だけで何にも依存していない人などいるだろう
か、と疑念を呈します。
ラジオ学習メモ

私が今仕事をできるのは、食べ物を生産する人やそれを運ぶ人、洋服
を作る人がいるからです。食べ物を作れるのは、畑に水路を通す技術者
やトラクターを開発する人が存在するからです。また、頑張って働いて

国語総合
いけるのは、自分を頼ってくれる人がいるためでもあります。

第 81 〜 83 回

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 本文からは離れますが、同様のことを、かの夏目漱石も指摘しています。
まと
人のお世話にはまったくならず、自分で身に纏うものを捜し出し、自
分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、
不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をし
ていれば、それこそ万事人に待つ所なき点において、また生活上の知識
を一切自分に備えたる点において完全な人間といわなければなりますま
い。ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らして
いるものはどこをどう尋ねたって一人もいない。この意味からして皆不
完全なものばかりである。
(夏目漱石「道楽と職業」)
いかがでしょう。筆者が「独立」と言っていることは夏目漱石が言うところの
「完全な人間」に符合しています。もちろん「独立」という概念自体が間違って
いるというわけではありません。そうではなく、社会においては、何ものとも関
係しないで、
独立独歩、
己の力だけで日々を過ごすことなどできないのだから、「皆
不完全」であることが社会の前提ではないか、ということです。
そこで筆者はあるべき「自立」を次のように定義しています。
では、「自立している」とは、
どのようなことを言うのでしょうか。(中
略)いざという時に助け合う相互依存のネットワークをいつでも起動で
きること。その準備が日頃からできている状態が自立なのです。
)」で成り立っている人間の社会においては、
「無限の相互依存( interdependence
自分がどのようなネットワーク=コミュニティに属しているかが問われます。
人間は、自身の生きる意味を追い求めざるを得ない存在です。たとえ衣食が足
りても、人間として他者に認めてもらえないならば、それは生存そのものが脅か
されるほどの苦痛となります。そうならないための「自立」の在り方を筆者は提
案しているのです。
「これは極めて自立的です。
」とあるが、なぜそう言えるのか
この後に筆者は「リーダーシップ」について論じています。いま書店に行けば、
ラジオ学習メモ

リーダーシップに関する本が山のように積まれています。それはそのまま、世間
の人々にとってリーダーシップのあり方が重大な関心事であるということにほか
なりません。しかし筆者はこの状況を逆手にとって「誰もがリーダーになりたが

国語総合
る社会ほどもろい社会はない」と言い切ります。これも、先ほどまでの「自立」

第 81 〜 83 回
の話とつなげて考えてみると、筆者の問題意識のありようを理解することができ
ます。

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集団にはリーダーが存在するものですが、脇役も黒子も縁の下の力持
ちもいる。いざという時に強いしっかりした社会とは、リーダーを含む
さまざまな役割を交代で務められる社会です。そこでは誰もが、主にも
従にもなっていきます。
筆者は、相互依存的なネットワークの中に身を置いて、いつでもそれを起動で
きる状態にしておくことこそが「自立」なのだと述べていました。「リーダーシ
ップ」においても、周囲の人々(フォロワー)に依存しない、独立したカリスマ
のようなリーダーではなく、常に周囲の人と共にあり、その人たちとの関係を役
割として維持することが重要であると述べています。
肝心なのは、リーダーではなくフォロワーたちであり、リーダーシッ
プではなくフォロワーシップなのです。賢いフォロワーが常にリーダー
を 見 て お り、
「 今 ち ょ っ と む き に な り す ぎ じ ゃ な い か?」「 こ こ を 見 落
としているか、見えていないのではないか?」「疲れているのではない
か?」と思いやっている。
この状況を指して筆者は「極めて自立的」だと言っているのです。つまり、リ
ーダーとフォロワーが相互依存的な役割を担い、誰かが切り離されることなく常
に全体を思いやることができれば、地域社会のみならず、職場や政治的判断にお
いてもよりよいものを作っていけるのではないか、というのです。
このような「自立」のあり方を筆者は「生きることの作法」という言葉でまと
めています。
 真の自 立 と は 〈3〉
 筆者は本文の中で、大人になるための「成人儀礼」が長い間続く状況について
警鐘を鳴らしていました。今回はそれを踏まえて、どのような社会を目指してい
くべきなのかを考えてみましょう。
ラジオ学習メモ

「現代の老いの姿」や
「二十年近く延々と『成人儀礼』が続く」現代の状況について、
 
  筆者の言う「自立」という観点から考える

国語総合
第 81 〜 83 回
本文中のキーワードは「条件付き承認」「独立自立」「相互依存のネットワー
ク」などでした。これらのキーワードをきっかけに、もっと大きな社会について
考えることができます。

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例えば「条件付き承認」というのは、子どもや老人だけではなく、障害を持っ

た方や乳幼児まで含んで考えると、見え方が広がります。「〇〇ができなければ
ここにいてはいけない」という暗黙の強制力が、社会の至る所に押し寄せてはい
ないでしょうか。社会的に弱い立場にいる人に対して、〇〇ができるようになる
ことを迫っている場面がないでしょうか。
筆者が指摘するように「自立」が「独立」と同じではなく、あくまでも「相互
依存のネットワーク」を前提としたものであるならば、人々がもっと生きやすい
世の中の仕組みをつくることもできるはずです。
自分にとって真の自立とは何か
最後に、読者である皆さんにとって「真の自立」とはどのようなものかを考え
てみてください。
筆者が述べているように、何でもひとりでできることが「自立」することでは
ありません。誰かに迷惑をかけてはいけないのではないか。私なんて消えてしま
ったほうがいいのではないかと、心配する必要はありません。筆者に言わせれば、
私たちは誰かに寄りかかり、迷惑をかけなければ生きてゆけないのです。その代
わり、自分が誰かを助けられるときには自分の手を差し伸べればいい。他人に依
存しない生き方よりも、お互いに依存し合っている状態の方がずっと「自立」し
ているのだというのが筆者の見解でした。
もちろん、この文章で提起されたことがたった一つの正解ではありません。自
立やリーダーシップのあり方についても、筆者と違う意見があると思います。そ
れでいいのです。筆者によって展開された思考が、皆さんにとって「真の自立」
について考えるきっかけとなれば、この文章が書かれたことの意義にも気がつけ
るでしょう。
■あらためて、評論文の読み方
繰り返しになりますが、評論文には必ず筆者が言いたいことがあります。それ
をつかまえたうえで文章を読み直せば、一つ一つの表現や流れの意味を把握でき
ます。筆者の問題意識を読み取り、それがどのように主張としてまとめられてい
くのかを読むたびに整理してみましょう。
「真の自立とは」という文章は、自分自身のあり方、生きることの意味を問い
かけています。これから先、どんなにインターネットが発達しても、どんなにA
Iが身のまわりにあふれるようになったとしても、私たちには、自分自身の生き
ラジオ学習メモ

る意味が必要です。その答えは、誰かと切り離されたどこかにあるのではなく、
誰かとのかかわり合いの中にこそあるのです。あなたにとっての「自立」の意味
を、ぜひ考えてみてください。

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第 81 〜 83 回

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真の自立とは
齋藤 祐
講師

わし だ きよかず
鷲田清一 
私たちの社会では、できる、できないということが極めて一元的に語られ、何
かが「できる」のはプラスで、
「できない」のはマイナスもしくは欠落であると
単純に捉えられてしまいます。最も象徴的なのは履歴書です。あれは、生年月日
などを除けば、自分ができることやそれまでにしてきたことの一覧表のようなも
のです。成績や成果、資格や免許、学歴や職歴、素質や能力で人を計る社会では、
こういう書類がさまざまな場面で仲立ちとなっています。
「できる」
「できない」による序列は、就学や就職だけでなく、人生全体に影響
を及ぼしています。例えば、
「老い」に対するネガティブな評価とも関係がある
のです。
昔は「長老」や「大老」という人々がいたように、老いとはもともとは経験豊
富な年長で知恵の備わった人を意味しました。尊敬の念がこもる言葉だったので
す。それが今では、自分一人ではできないことが増えていく「衰え」のプロセス
と捉えられています。
つえ
年を取れば誰でも、老眼鏡や補聴器、杖が必要となり、次第に他人の手助けも
欠かせなくなっていくものです。しかし、老いていくことを衰えや欠落のプロセ
スとして捉える風潮があるせいで、現代の高齢者は、「世話になるばかりで、自
分は人に何もしてあげられない。
」という負いめをため込んでいかざるをえなく
なっていると思うのです。すると、周囲がどれほどいい人間であっても、「私は
ここにいていいのだろうか?」と悩み、
「みんなが私をだいじにしてくれるけれ
ども、今ここでろうそくの火が消えるようにふっと去れば、彼らが楽になるので
はないか。
」とさえ思ってしまう。これが、現代の老いの姿ではないでしょうか。
この「私はまだここにいていいの?」という問いを、今は、十代の人たちが、
社会に出ていく前の段階でもう既に抱えています。理由は明白で、近代以前に比
べて社会のシステムが複雑になったからにほかなりません。
かつて「大人」になることは、とてもシンプルでした。男子なら元服の儀式、
ラジオ学習メモ

あるいは、あえて怖い目や痛い目に遭わせ、それに耐えたら大人になれるという
短期間の試練を終えれば、周囲は一瞬にして大人扱いをしてくれたのです。しか
し、これだけ複雑な社会になってくると、社会の成員として迎えられるには相当

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の知識や技術が求められます。今の子どもたちは、三歳か四歳以降、大学卒業ま

第 81 〜 83 回
でとしても二十年近く延々と「成人儀礼」が続くのです。考えてみれば奇妙なこ
とです。
どうやら私たちの社会は、
「もしこれができたら」という条件付きでしか人の

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存在を肯定できなくなっているようです。親たちですら「合格したら○○を買っ

てあげる。
」「夏休みの宿題ができたら○○に連れていってあげる。」と、平気で
条件付き承認をしているのです。
「できる」「できない」という基準によって自分
らくいん
がいつ「不要」の烙印を押されるかと、
子どもたちは不安を抱えるようになります。
人間は、自分が生きていく意味にこだわらずにいられない存在です。飼い犬を
見て「犬はいいなあ。
」と思うことがあるかもしれない。毎日餌をもらい、寝た
い時に寝て、
生きているだけでいいなんて羨ましいと。しかし、人間にとっては「た
だ生きている」ことこそが、最も耐えがたくつらいのです。人間は、自分がそこ
にいることに対してなんらかの意味を見いだせなければ頑張れない。職場のこと
で言えば、
「自分がいなければこの仕事が回らない。」という感覚があればこそ頑
張れる。生きていくことの意味を見いだせなければ苦しくなってしまうのです。
ですから、先ほどの「私はここにいていいのだろうか?」という問いは、人間
にとって極めて切実なものです。
一九八〇年代以降に流行した「自分探し」は、ほかの人にはない素質や才能な
どを探して、それを自分の生存する根拠にしようというものでした。これは無理
な話です。ある素質や才能が自分にしかないなどありえないことなのですから。
しかも、
「できる」
「できない」で自分の価値を探そうとしているのであり、「自
分にしかないもの」や「自分にしかできないこと」を求め続けたところで、上に
は上がいるものなのです。つまり、学校でいちばん走るのが速くても、県大会で
は予選で負けるかもしれない。最後まで自分は走るのが速いと思えるのは、世界
に一人だけです。
「自分しか」や「できる」「できない」ことから生きる意味を見
いだそうとすること自体から変えていくべきなのです。
それでは、生きていく意味とは、どのようにして得られ、それをどうやって支
えていけるのでしょうか。
ある時期から「自立」という言葉が急に広まりましたが、私たちの社会では、
その意味が誤解されていないでしょうか。自立という言葉には、自己決定ができ、
自分がしたことには責任(自己責任)が取れる主体になるということが託されて
います。これを私たちは、
「独立( )」と混同していると思うのです。
independence
(依存)
独立とは、「 dependence 」に否定の「 」
inを付加した語で、直訳すれば「非
依存」となります。しかし、本当に「独立=非依存」な人などありえない。私が
今仕事をできるのは、食べ物を生産する人やそれを運ぶ人、洋服を作る人がいる
からです。食べ物を作れるのは、畑に水路を通す技術者やトラクターを開発する
人が存在するからです。また、頑張って働いていけるのは、自分を頼ってくれる
ラジオ学習メモ

人がいるためでもあります。やけっぱちで帰宅しても、赤ん坊の寝顔を見て「ま
た頑張ろう。
」という気持ちをもらうことがあるでしょう。そうしたことも一切
含めて、
私たちの生活は、 )で成り立っています。
無限の相互依存( interdependence

国語総合
では、
「自立している」とは、どのようなことを言うのでしょうか。私が思うに、

第 81 〜 83 回
自立とは、自分のことはできる限り自分でするが、助けが必要になった時に電話
をかける相手がいるということです。つまり、いざという時に助け合う相互依存
のネットワークをいつでも起動できること。その準備が日頃からできている状態

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が自立なのです。私は、このような自立こそが、政治や地域社会の運営にとって

本来重要であり、また、各人の生きていく意味を支えていくことができると思っ
ています。
書店に行けば、
「 リ ー ダ ー シ ッ プ 」 を テ ー マ に し た 本 が た く さ ん 出 て い ま す。
リーダー論がこれほど読まれるということは、多くの人がリーダーになりたいの
か、あるいはリーダーにならなければいけないと思っているのか。いずれにせよ
私は、リーダー論など無意味だと思ってきました。
それは、誰もがリーダーになりたがる社会ほどもろい社会はないからです。集
くろ こ
団にはリーダーが存在するものですが、脇役も黒子も縁の下の力持ちもいる。い
ざという時に強いしっかりした社会とは、リーダーを含むさまざまな役割を交代
で務められる社会です。そこでは誰もが、主にも従にもなっていきます。
肝心なのは、リーダーではなくフォロワーたちであり、リーダーシップではな
くフォロワーシップなのです。賢いフォロワーが常にリーダーを見ており、「今
ちょっとむきになりすぎじゃないか?」
「ここを見落としているか、見えていな
いのではないか?」
「疲れているのではないか?」と思いやっている。これは極
めて自立的です。一般的には、リーダーが全体を見て、フォロワーは上司の言う
ことに従うものと考えられがちですが、それではいけない。当然、フォロワーは
何も考えなくてよいという考えも間違いです。自立したフォロワーがしなやかに
いつも全体を見ていること、すなわち「賢いフォロワーシップ」が実は重要なの
です。
社会を変えていくのも守っていくのも、助け合って生きていくのにも、フォロ
ワーの賢さと行動が鍵となるでしょう。リーダーシップよりも賢いフォロワーシ
ップがはるかに重要です。そのことを念頭に私たちが今取り組むべきことは、生
きることの作法として真の自立を身につけていくことではないでしょうか。
ラジオ学習メモ

国語総合
第 81 〜 83 回
鷲田清一(わしだ・きよかず)1949年(昭和 )京都府生まれ。哲学者、

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評論家。主な著作に、『モードの迷宮』『
「聴く」ことの力』『
「ぐずぐず」の理由』『大
事なものは見えにくい』など。
「真の目立とは」は、雑誌『 TASC MONTHLY

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(2012年 月)に発表。本文は『現代社会再考』
(2013年刊)より。

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