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第六章『慙愧の空』前編

来た、来た――ついにこの日がやって来た。
あまりに待ち侘びすぎてどれくらい経ったのか不明だけど、時間の長短で価
値が左右されるなんてことはない。

一瞬だろうと一億年だろうと私は待った。重要なのはその事実で、自分が本
気だという一点にある。
よって躊躇も恐怖も心に無かった。疼くような切なさと恥ずかしさなら感じ
るものの、これこそ己の証明だと信じているから足枷になんか成り得ない。

むしろ翼と理解して、期待に胸を高鳴らせながら私は飛ぶ。
どこまでも鋭く、速く――臆病だったかつての自分を空に葬り、本当の自由
を勝ち取るために。

ようやく君に会えるのだ。今度こそ意地を張らず、目を見て堂々と向き合お
う。そして私の気持ちを伝えよう。

ああ、好きだ。大好きだ。生まれる前からずっとずっと、私は君を愛してる

祈りは必ず叶うだろう。私が私になれたのは、そういう仕組みなのだから。
道が困難なのは知っているが、踏破できることも知っているのだ。

私はただドラマチックに、君と最善の天則を体現したい。

「もうすぐ会えるよ、ズルワーン」
呟き、狂おしいほどの甘酸っぱさを噛みしめた。
そうとも、この祈りこそが私のすべて。私が願う奇跡のカタチ――

邪魔をするなら、たとえ神であろうと許すものか。

「貴様、いったい何処から来た?」

あの日、龍骸星でマグサリオンはそう問うた。私たちには意味が分からず、
首を捻るしかなかった言葉。
だけどズルワーンはにやりと笑って、ついにバレたかと観念したのだ。気付
いてくれたのがおまえで嬉しいと、負け惜しみには思えない清々とした声で過
去を明かす。

くうそうけん
「オレが生まれたのは 空葬圏 だ。当時は別の名前だったが、とにかくそれ
が答えだよマグサリオン。マシュヤーナとは縁がある」

ふじょうふどう われわれ
第五位魔王、 不浄不動 マシュヤーナ。 聖王領 にとって不倶戴天の敵で
ある絶対悪の一柱が、自分の妹だと彼は言った。
ならばズルワーンは、出自が星霊ということになる。しかし今の彼は紛れも
なく人間で、そこにどんな理屈が働いたのか分からない。

「一三年前、オレはマシュヤーナに殺された。奴とは双子の星だったんだが、
イロ アヴェスター からだ
善悪 が違ったんで 真我 の命じるままにさ。 星体 ごと喰われちまったし
、後は妹の養分になって消えるだけ――ていうオチだと思った」
「ならばどうして、貴様は聖王領に現れた?」
「分からん。最後の足掻きで瞬間移動を使ったのは覚えてんだが、どうも他の
何かが噛んだ気もする。ただ結果を言えば、以前のオレじゃあなくなってたな
。目が覚めてみりゃあこの通り人間で、おまけに勃ちもしやがらねえ。まあそ
のへんはどうでもいいが、要するに生まれ変わったんだと思ってるよ」

星霊として生まれ、星霊と死に、だけど滅びず、ヒトとして聖王領に転生し
た。
にわ
俄 かには信じがたい告白だったが、ズルワーンが嘘を言っていないのは分
かる。

だって彼は、なぜか嘘を頑なに嫌うのだ。いい加減で軽薄に過ぎる普段の行
状を鑑みれば、奇妙なほど虚偽だけは拒む男だと知っている。
「理屈はともかく、オレはそうしてオレになった。けど縁ってのは、切っても
切れないみたいでな。妹が魔王なんざやってるせいか、無駄に鼻が利くんだよ

ダエーワ ちから
「貴様が 魔将 どもに発揮する勘は、マシュヤーナの影響による 嗅覚 だと?

「たぶんね。一種の鏡みたいなもんなんだろう。きっとあいつは、血眼になっ
ヤザタ はな
て 戦士 に対する 勘 を磨いてやがるんだ。これはその裏返しだよ」

もともと双子であるゆえの連動が、善悪による反転現象を伴い顕れている。
いい迷惑だと愚痴るズルワーンは、そこでふっと自嘲した。

「つまりあっちも、オレが生きてることに気付いてる。生まれ変わったお陰で
匂いを追うのは手間だろうし、簡単には見つけらんねえはずだがな。これがど
うにも兄貴思いな妹でよ、早々忘れちゃくんねえ上に、見逃してくれるほど優
しくもねえんだわ」
「だからいずれ、会いにくるというわけか」

ゆっくりと咀嚼するように、マグサリオンは頷いた。長い付き合いであるズ
ルワーンの述懐になんら労わりの言葉を掛けないまま、殺戮への欲求に武者震
いしながら告げる。

「貴様は餌だ」

まるで都合のいいアイテムを手に入れたとでも言わんばかりに……無慈悲で
傲然とした抑揚だった。

「以降、俺が命じたときは傍にいろズルワーン。断るならここで殺す」
「オーケー、分かったよ大将。オレも正直、そろそろ潮時だとは思ってたんだ
。妹との悪縁切るのに、おまえの手を借りられるんなら有り難い」

これが契約――あのとき、最後まで確認できなかったやり取りの顛末だった

「まあもっとも、奴と会わずに済むならそれに越した話はないがね」

飄々と嘯くズルワーンは、かつて自分を殺した魔王に恐怖しているわけじゃ
ない。
そこにはあるのは、兄としてただ妹を想う悲しみ。
こくびゃく
分かり合えぬまま、 黒白 の関係になってしまった後悔、慙愧。

いつも読みにくい彼の心がこんなに明確な形で伝わってきたのは、きっとそ
ういう意味なのだろう。世の中はごちゃごちゃしているほうがよく、二つに一
つの価値観なんてつまらないと言った彼の、芯の部分を見た気がした。

善悪を超えた思慕の念。世界の理に反した在り方も、この男ならと納得させ
られる。

ズルワーンは、マシュヤーナを愛しているのだ。

◇ ◇ ◇

空に墜ちる。一瞬の意識同調から覚めた私が、最初に知覚した状況はそんな
矛盾したものだった。

「ぼさっとすんなクイン――てめえ、ついてきやがったんなら腹決めろ!」
「――ッ、すみません!」

容赦なく叩き付けられるズルワーンの罵声は、先ほど垣間見た記憶に宿る寂
寥感からほど遠い。
当然だろう。今の我々は、たった三人で魔王の支配域に入っているのだ。

「飛行は最低でも二重に掛けろ。でなきゃ星の裏側までぶっ飛ばされっぞ!」

切迫した彼の叫びが、前後左右の何処から聞こえてきたのかも分からない。
確かなのは、今の自分が嵐に舞う木の葉よりも酷い状況にあることだけだ。
聖王領の天に生じた亀裂へ引きずり込まれた私たちは、もはや別の世界にい
る。狂乱する気圧の津波が踊るこの地こそ、第五位魔王が星霊として君臨する
あやかし
妖異 の魔境に他ならない。

空葬圏ドゥルジ・ナス――。

「……これはッ」

指示に従い、ようやく姿勢を制御した私が見たものは、まさに無辺の絶空だ
った。
開けた視界に映るパノラマは、壮大な雲海模様を描いている。大気の主成分
は水素、メタン、ヘリウム、加えてアンモニアか。真っ当な人類が存在できる
星じゃなかったが、私にとっては問題ないしズルワーンたちも加護の力で自衛
はできよう。

ヤザタ
つまり然程の悪環境ではなく、 戦士 ならこれくらいの状況で立ち回ること
は日常の範疇だ。にも拘わらず私が戦慄を覚えたのは、もっと根源的かつ原始
的な恐怖――いいや、欠落感とでも評すべきもの。

、、、、、、、、
「この星、大 地 が あ り ま せ ん ……!」

ありか
足を着け、立つべき土台の 在処 を感じなかった。あらゆる行動へ踏み出す
ための第一歩、起点を支えてくれる母なる存在が消えている。
空葬圏は一種のガス惑星だと聞いていたが、それでも核に近づけば物質が圧
縮され、気体の形を保てなくなるはずなのに。

ここでは何処までも飛んでいくし落ちていく。根ざすという概念が、徹底的
に駆逐されている世界だった。

すべてが空に葬られる星。

「少し違うな。地面がないんじゃねえ」

不愉快な気分を隠しもせずに、ズルワーンが吐き捨てた。

「地面代わりのもんがヤバすぎて、誰も降りられねえだけのことだよ」

同時に、雲海を突き破って凄まじいものが姿を現す。

『ズルワーン、ズルワーン――よくぞ還ってきた、弟よ』
「うるせえ、オレが兄貴だっつってんだろ!」

聖王領の天を裂き、私たちを引きずり込んだ異形の樹木がそこにあった。
大きさは一見しただけで測れるようなものじゃない。距離感覚が狂うほど常
識はずれな様相は、お父様の出鱈目さを想起させる。
星霊――間違いなく、あれがマシュヤーナの正体だった。ならばなるほど、
先にズルワーンが述べた言葉も納得できる。

この星に根ざせるのはマシュヤーナだけ。核であり、大地であり、ゆえに絶
対の一であるあの巨大樹こそが大母だから、誰も彼女の上に立てないのだ。
カイホスルーの龍骸星とは別の意味で終わっている。悪の星霊が統べる星と
はこれほど壊滅的な惨状なのかと、今さらながら総毛立つ悪寒を禁じ得ない。

そして、脅威はまだ序の口にも至ってなかった。

『どうしておまえは生きているのだ。どうして私がこうなるのだ。どうして、
どうして、腹立たしい……残らず取り込んだはずなのに。おまえの味を、私は
今も覚えているのに』

連続して雲海から生えてくる魔性の樹木に終わりが見えない。今や森とすら
表現できる密度を有し、群生しながら尽きることなく広がり始め、空を覆い隠
していく。
最初に見た一本は小枝の先端部分にすぎなかった。寄り合わさった超巨大樹
は、ざわざわと生い茂って無数の蕾を生んでいき、その一つ一つが開き始める

わずかの内に咲き誇り、満開の偉容を見せたのは薄桃色の花模様。世界樹と
しだれざくら
も表現すべき 枝垂桜 は、まるで神の芸術めいた幽玄の美を湛えていたが、
本能的な直感が私たちに教えている。
これはあらゆる命を喰らう花だ。血を吸うほどに麗しく、妖しくに淫らに映
えていく。

『だがよい、許そう。二度もおまえを抱けるのは、喜ばしき再現なり』

ひとひら
その花弁が散り始めた。こちらに迫るたった 一片 の舞を見て、ついに私は
敵の規模を実感として理解する。
馬鹿な――真にこれだけで、下手な島より巨大だと!?

「ぶち抜けッ――躱そうなんて思うんじゃねえ!」
「おおおォォッ!」

サーム
ズルワーンの怒声に、マグサリオンの咆哮が重なった。同時に私も攻撃強化
を纏い、渾身の力で花弁を殴りつける。

「ぐううッ……!」

三人掛かりで行った全力の迎撃は、はたして成功だったのだろうか。結果だ
けを言うなら我々は生きており、なんとか魔王の初撃を凌いでいる。
しかし打ち破ったわけではない。花弁はすでに下方へ流れていったが、こち
らがやれたことはベクトルをずらしただけ。

弾き返せなかったし貫けなかった。薄い――といっても数十メートルはある
――花弁の厚みさえ、私たちにとっては山のように堅く重い。
今も拳が鈍い痛みに痺れていた。ズルワーンの言う通り、あれほど巨大な物
を躱し続けるのは現実的じゃなく、瞬間移動も使用回数に制限がある。だから
こうするしかないのは確かだったが、それはあまりにも果ての見えぬ作業だろ
う。

視界を埋め尽くして乱舞する花弁は、優に数百億枚を超えているのだ。こん
なものと正面切ってぶつかるなど、無尽の流星群を相手取るに等しい。

「――殺す」

なのにマグサリオンは一歩も退かず、ひたすら突貫を繰り返していた。彼ら
しい向こう見ずな選択で、今までは光明に繋がることも多数あった蛮勇だけど
、ここでの起死回生が私には見えてこない。
ジリ貧とも言えぬ足掻きを一秒でも長く継続するしか、現状何もできなかっ
た。局面を打破するための策を講じる余裕もなく、見る間に全員が削られてい
く。

常に余裕の態度を崩さないズルワーンさえ、焦燥に歯軋りしている有様だっ
た。そんな彼の横顔が目に入るたび、背後から迫る死神の足音を感じてしまう
。何をやっても通じない徒労感が恐怖に変わり、絶望の二文字が襲い掛かって
くるかのようで――

『私がこうなったのはおまえのせいだ。崩れる。落ちる。溶けていく。どれだ
ガヨーマルト
け他で補っても止められない。もはや死にゆく 星体 は、あのときおまえ
が私を拒んだ結果だろう。ズルワーン』

マシュヤーナ
朦朧とする意識の中、見上げる 世界樹 は幻想的な花嵐を纏いながらも、
なぜか対極的な昏さと穢れを放っていた。
空気に強い腐臭が混じる。思えば彼女が出現した瞬間も、私は同様の臭気を
おわい
嗅ぎ取り、感じたのだ。これは手遅れな域の 汚穢 だと。

すなわち不浄。ウォフ・マナフの神眼が、第五位魔王の本質として定めた銘
こそ不浄不動だ。そこにどんな意味があるのだろう。

不動だけならまだ分かる。真の姿が樹木であるマシュヤーナは、なるほど躍
動感から遠くて当然。根を張り、枝葉を伸ばして領土を広げはするものの、本
質的に静を旨とする存在だ。

ならば不浄の意味するところは? 彼女だけを特別に糾弾し、他の魔王より
も冒涜的だと断じた因果は何処にある?

情況を鑑みれば呑気な思索に耽る私は、つまりそれだけ彼岸に近づいていた
のだろう。そして、だからこその結果だったのかもしれない。

『おまえが私の心臓を奪ったのだ』

その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが確かに脈を打った。物理的な鼓動で

はなく、私を通じて遥か遠い彼方の高次へ――そこに坐 します強く暖かい誰か
の腕に抱かれるような。

、、、、、、、、、
ああ、心 臓 の 音 が 聞 こ え る 。

「――――ッ」
同時に轟く大音響と、炸裂する凄まじいまでの破壊力。一気に数千枚もの花
マシュヤーナ
弁を粉砕し、あろうことか 世界樹 の本体さえ陥没せしめた超絶の一撃は、
彼女に縁を持ったズルワーンでも、数々の常識を覆してきたマグサリオンによ
るものでもない。

他ならぬ、私だった。無意識に繰り出した拳の一発で、第五位魔王に痛恨の
ダメージを与えている。

『――貴様!』

予想外の反撃に憤怒を燃やすマシュヤーナの威圧さえ、今の私には届かない
。だって、こちらのほうが何倍も驚いているのだ。

「兄者……」

やはり呆然とした様子のマグサリオンと視線が合い、私は正体不明の感慨に
囚われる。
悼むような、悔恨するような、けれど慈しむような、恐怖するような。

いったい自分に何が起きた? 先ほどまでマシュヤーナはズルワーンしか見
ておらず、私に奮戦を望んでいたわけじゃない。
つまり裏技を使う余地などまったくなかった。そもそもあの機能は敵が求め
る殺し甲斐に応えるもので、ゆえに最大効果を発揮しても互角以下の力しか出
ないはず。

だというのに、先の一発は明らかにマシュヤーナを上回っていた。そこは感
覚として間違いなく、ならば全体、どんな理屈で?

「分かんねえことは考えんな。とにかく行け、クイン!」
「――はい!」

何もかもが不明だったが、ズルワーンの指示で我に返った。彼の言う通り、
今は眼前の危機に対処することだけを考えよう。
謎について思いを巡らすのは、生き残った後でやればいい。

『……不快な奴だ。私たちの情交に分け入るなら、相応の報いを覚悟せよ』

すでに平静を取り戻したマシュヤーナの、深くこちらを吟味する視線と意識
が突き刺さった。フレデリカほど無茶な再生能力は持たないようだが、それで
ダエーワ
も回復速度は並の 魔将 と比較にならない。加え、巨体に相応しいタフさがあ
る。

よって端的に、時間は敵だ。わずかな綻びが生じた今こそ、一気呵成に押し
切るべきだと考える。
再び迫った薄桃色の一片に、私は全力の蹴りを叩き込んだ。隕石群のごとき
花吹雪が、まとめて血飛沫さながらに四散する。

「ひょう! 何か知らねえが、景気良くなってきたじゃねえか」
「ええ、ですがさっきほどじゃありません」

私の力は紛れもなく飛躍的に向上している。しかし最初の一撃に迫るほどの
ものじゃなかった。花弁の雨は吹き飛ばせても、マシュヤーナの本体に届かな
いのがその証。

「構わねえよ、あんまり都合よすぎると後が怖い。必殺技ってのはなクイン、
好き勝手に使えねえからこそ映えるんだよ」

まるでゲーム感覚な台詞には辟易したが、見方を変えればいつものズルワー
ンが戻ってきたと言えるだろう。だいぶ嫌な男だけど、ある一点では信頼して
いるところもある。
理屈を超えて、彼は何かの“答え”に近い。そんなズルワーンが普段通りに振
る舞ってるなら、優勢を約束されたと思っていい。

もう一人――先ほどからずっと沈黙したまま動かないマグサリオンも気にな
るが、ここはズルワーンのノリに従う。

「心得ました。何とか道を作りますので、援護をよろしく」
「おう、とにかく奴の中に入るぞ。話はそっからだ」

あね
腐ってもかつては星霊。双子の 妹 であるマシュヤーナの核と対峙すれば、
何らかの手を打てるのだろう。ならば私の役割は、彼をその場へ導くことだ。
総身に漲る力を四肢へ集め、血路を開かんと咆哮する。

「はあああッ!」

そうして後は怒涛のごとしだ。途切れることなく連続する花弁は脅威を通り
越した代物だったが、今の私なら突破できる。砕き、貫き、蹴り破って、津波
を切り裂くように突き進む。
龍骸星でフレデリカと戦った際、意識を失う寸前に見ていたあの白い景色を
再び感じた。今度は朦朧と煙る風じゃなく、はっきりと意識を持って鮮明に。

輝く温かい光の中で、誰かが私を呼んでた。クイン、クインと、一人、二人
――いいやそんなものじゃない。

一〇人、一〇〇人、もっと、もっとだ。数えきれないほどの“みんな”がそこ
で、微笑みながら私に手を振っている。
レイリがいた。マリカがいた。他にも他にも、これまで関わったすべての人
々。救えた人も救えなかった人も、例外なく光の中で瞬いていたのだ。
さらには初対面の人たちまでいて、なのに私は疑いもなく確信する。
ヤザタ
彼らこそ二〇年前、お父様に滅ぼされた伝説の 戦士 ――ワルフラーン様の
剣となり、善の王道を駆けた英雄たちに違いない。

その縁者たちまで含めれば、もはや無限と言えるほどの数だった。そんな彼
らが、いま想いを一つに私の背中を押している。

進め、倒せ、勝利を手に掴み取れと。
そうとも、私は心臓の音を聞いているのだ。

これこそまさに奇跡の鼓動――!

『なるほど、ナダレに聞いたことがあるぞ』

こちらを見下ろす邪悪で不浄な念が告げる。ぞっとするほど冷ややかな、恐
怖に近い忌避感と共に。

『おまえ、■■か――』
「――――」

呪詛に塗れた真言は、しかし明確な形で聞き取れなかった。戦闘の音に紛れ
たわけでも、私が白い世界に没入していたからでもない。
がいねん 、、、、、、、、、、、、、、、、
単語 を理解できる域にまで、自 分 が 組 み 替 え ら れ て い な い せ い だ 。直感的
に悟った事実は、やはり深い謎に包まれて――

『クワルナフの愚か者めが、おぞましいものを生み出しおって』

マシュヤーナ
世界樹 が蠢きだした。不動の名を空に葬送するかのごとく、本気で殺す
と壮絶な我力を燃え上がらせる。
同時に、乱れ舞う花弁までもが蠢動を開始した。まるでそこから羽化するよ
うに、ぼこぼこと表面が泡立ち始める。

ナス
『下衆には似合いの死をくれてやろう。汚らわしい祈りとやら、残らず不浄 に
貪られて消えるがいい』

そのとき私の鼓膜を叩いたのは、爆音に等しい羽音の烈風。それによって生
まれた衝撃波の炸裂だった。

「……くそが、そうくるかよ」

瞬間的に聴覚の機能を乱された私でも、舌打ちするズルワーンの苛立ちは感
じ取れた。そして無論、眼前に展開する新たな脅威も。
ナス ワウサガ
不浄な羽音を響かせて、空に隊伍を組むのは 蝿 と 蜂 。すべてが牛ほど
ドルグワント
もある大きさで、凶暴な 不義者 の気を発している。
これが先ほど、花弁の中から雪崩を打って湧き出たのだ。私の機能が読み取
った限り、一枚につき数億匹という荒唐無稽な規模と密度で。

ゆえにもはや、見当もつけられない数の軍勢となっている。視界を埋め尽く
ダエーワ
す羽虫どもは例外なく二級相当の 魔将 であり、小回りも利くため一度に倒す
ことができない。
加え、花吹雪が消えたわけでもなかった。この共演を前にして、戦況は振出
し以前へ戻されたと言える。

第五位魔王マシュヤーナ――数も質も操る在り方は、お父様と同じ規格外だ
。やはり並大抵の化け物ではない。

「いけるか、クイン?」
「厳しいです。……が、やるしかないでしょう」

拳を握りしめて構えを取り、冷静になるよう私は努めた。あと一秒後か、二
秒後か、この大軍団が攻撃へと移る前に、勝機を見出す必要がある
今も白い世界は見えているのだ。みんなの声が聞こえているのだ。マシュヤ
ーナに痛打を与えた最初の一撃、あれを再び放てれば……

『終わりだ小娘。まずは貴様を滅相し、後に一三年前の続きといこうか、ズル
ワーン』

奇跡よ起これ。鼓動よ唸れ。私に隠された力があるなら、ここに真実を解き
放てと――
次の刹那に訪れた予想外は、そんな祈りの結果だったのかもしれない。

「ちょおォォっと待ったあああァ―――!」

空の果てから突如降ってきた大声に、私とズルワーンと、そしてマシュヤー
ナまでもが呆気に取られた。闖入を宣言しながら状況を理解しているとは思え
ない晴れやかさで、声は溢れんばかりの期待と喜びに満ちている。

喩えるなら待ち望んだお祭りに参じるような、よく言えば勇ましく、悪く言
えば子供っぽい興奮を隠さずに、私たちの前へ現れたのは何とも表現に困る人
物だった。

「お待たせしたねお嬢さん、僕が来たからにはもう安心だ。さあ、ヒーロータ
イムの始まりだよ!」
「え、っと……」
びしぃ、ポーズを決める彼? あるいは彼女だろうか。どうやら男装の女性
らしき謎の助っ人は、まるでこれから劇を始める舞台俳優みたいな雰囲気だっ
た。
有り体に、すべてが大袈裟かつ派手派手しい。もっと言えば胡散臭さの塊み
ピエロ
たいな風情があり、場違い 感が半端ない。

その万事に芝居がかったキャラクターを前にして、申し訳ないが私は鬱陶し
いとさえ思ってしまった。なぜなら、そこにある種の既視感を覚えたからで
……

『なんだおまえは。失せろ』
「どわあああっ!」

ナス
蝿 の羽風に煽られて、自称ヒーローは悲鳴を上げながら吹っ飛んでいった

弱い。弱すぎる。あまりに不甲斐ない体たらくを見せつけられ、何しに来た
んだと呆れ返ることさえできなかった。

しかしマシュヤーナに問題外の小物と見なされ、殺す価値すら認められずに
弾かれたのは彼女にとって僥倖だろう。こちらも誰かを守りながら戦える状況
じゃなかったし、そのまま離脱してくれると有り難い。
と、私は思っていたのだけど。

「よくもやったなマシュヤーナ。君は今、僕を本気で怒らせたぞっ!」
「ちょっ、いい加減にしてください!」

懲りずに戻ってきた自称ヒーローは、相変わらず珍妙なノリでポーズを決め
つつ気勢をあげた。挙句、私を見てキザなウインクなどをしてくる始末。

「インセストだ。今後はそう呼んでくれたまえ、美しいお嬢さん」
「いや、だから――」

アシャワン
謎の 義者 、インセストはまったく退こうとしてくれない。魔王を相手に
堂々としているのは大したものだが、それは身の程知らずというものだ。実際
、彼女の力はどう甘く見ても一般人並。下手をしたらその中でもかなり弱い部
類に入る。
ナス
何せ使い魔の羽風で吹っ飛ぶレベルなのだ。しかも先ほどの 蝿 は主人の意
を汲み、埃を払う程度の力しか出していない。

殺意が乗った攻撃を受けたら、掠っただけでもインセストは粉微塵になるだ
ろう。頼むから弁えてもらいたく、そもそもこんな茶番をやっている場合じゃ
ないと、いったいどうしたら伝わるのか。
『目障りな塵め。然程に死にたいならよかろう、消えよ』

ある意味虚を衝く展開に停滞していた羽虫と花弁が、ここでついに動き始め
た。私はインセストを守るため、彼女のもとへ飛ぼうとして、同時に驚くべき
ものを見る。

「察しが悪いねマシュヤーナ。まあ、現状では当然の話だけれど」

妙に寂しげな微笑を浮かべ、抜き放った古風な銃をインセストは虚空に擬し
た。その銃口に不可思議な力場が発生し、まさかお父様の作品かと思いかけた
が、しかし違うと即座に気付く。

「教えてあげよう。君は僕に絶対勝てない。なぜならば――」

おかしいのはインセストだ。彼女は紛れもなく脆弱で、今も強壮さは微塵も
感じられない状態なのに……
なぜか分かる。この空葬圏で戦う限り、インセストは正真のヒーローなのだ
と。

「愛なき花は美に非ず。これがその証明さッ!」

聞いている側が恥ずかしくなりそうな台詞と共に、銃口から迸った光弾が花
弁の大半を消し去った。圧やパワーで潰したと言うよりは、何かの化学反応じ
みた呆気なさの、ゆえに絶対的な公式を駆使したとしか思えぬ現象。
もはや相性問題なんて次元じゃなく、因果律の領域としか思えなかった。マ
シュヤーナとインセストの関係は、こうしたものだと決められているかのよう
で、それだけに――

「だから君も、早く自分の不明に気付くがいいよ。そうすれば僕のように……
て、うおお!」
「――危ない!」

インセストの技が通じたのは、あくまで花弁だけだった。主人と別個の存在
である使い魔どもには何の効果も与えておらず、殺到する羽虫の群れに呑み込
まれたかけたところを間一髪で救助する。

「く、くそ、なんと卑怯な! こういうときは部下に下がってろとか言って、
大物ぶった挙句に墓穴を掘るのが悪役のセオリーじゃないのか!?」
「黙ってください、舌を噛みますよ」

喚き散らすインセストを小脇に抱え、群がる虫を蹴散らしながら共に危険域
から逃れ出た。彼女のキャラクターには相変わらず閉口するが、ともあれ光明
が見えてくる。
理屈はまったく不明だけど、インセストはマシュヤーナに対する特効能力を
持っているのだ。ならば今の私と組むことで、かなり有益な戦力と成り得るだ
ろう。
「おいクイン、なんだその馬鹿」
「知りません。あなたの知人じゃないのですか、ズルワーン」

変人同士、昔の仲間かと思ったのだが、彼はにべもなく否定する。
空葬圏が故郷であるズルワーンでも、インセストのことは知らないようだ。
しかし一三年ぶりの帰郷ともなれば、それもまた仕方あるまい。とにかくここ
は、この胡散臭い助っ人を核にして戦術を組み直そう。

「私が前に立って庇いますから、あなたはマシュヤーナに専念してください。
同じ銃使いですし、ズルワーンにも援護を頼んで……」

矢継ぎ早に言いながら、けれどそこで私は異常に気付いた。

「どうしましたインセスト。聞いていますか?」
「え、いや、あの……」

凝然と目を開いて、インセストは固まっていた。まるで悪い夢でも見たかの
ように、青い顔で震えてさえいる。

「しっかりしてください、今はあなたの力が必要なんです」
「分かってるよ。でも、でも……ああああもうっ、なんだこれえぇ!」

いきなり子供みたいな癇癪を爆発させて、インセストはバタバタと暴れ始め
た。意味が分からず、私は彼女から手を放してしまう。

「なんでだよ、こんなのってないだろ! ぼく……私が、いったいどれだけこ
の日を待ったと思ってるんだ!」
「おいてめえ、ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえぞ。ぶん殴られてえのか
!」
「やめてくださいズルワーン、落ち着いて――」
「ひいいィィ!」

業を煮やしたズルワーンが詰め寄ると、インセストは悲鳴をあげて私の背中
に隠れてしまった。そしてわずかに顔を覗かせ、ぼそぼそと探るように呟く。

「……ズルワーン、ズルワーンなの? 本当に?」
「なんなんだよこいつ……オレのことを知ってんのか? こっちは全然覚えが
ねえぞ」
「…………」
「こら、なんか言えよ」
「彼はあなたを知らないと言っていますが」
「うぅ……」

まるで通訳をしている気分だった。怯え切った顔のインセストはズルワーン
と目を合わせず、私の呼び掛けにのみ反応する。
「えっと、君、一つお願いがあるんだけども」
「クインです。なんでしょう?」
「うん、その……ここは一時撤退ということでどうかな?」
「はあっ?」

さすがに私も腹が立ち、思わず声に険がこもった。この人はさっきから、い
ったい何がしたいのだろう。
逃げるって、そもそも助っ人を名乗りながら現れたのはそっちのくせに!

「ほ、ほら、何事も急ぎすぎるのは駄目っていうか、私たちはまだ知り合った
ばかりだし、いきなりボス戦っていうのも風情がないだろ。まずはお互いのこ
とを分かり合って、愛と勇気と絆を育んだ後にしても充分間に合うと思うんだ
。というか、それこそ王道だと思うんだっ!」
「インセスト……ふざけるのもいい加減にしてください。そもそも、逃げられ
るならとっくに私たちだって逃げてます!」
「大丈夫だよ、マシュヤーナは御覧の有様だ!」

涙目になって叫ぶインセストが、びしっと第五位魔王を指さした。そこには
彼女の言う通り、沈黙したまま一切の反応を示さない不浄不動の威容がある。
使い魔の羽虫どもは別だったが、マシュヤーナは本当に止まっていた。先の
インセストによる攻撃が効いたのか……だったらなおさら、この機を逃すわけ
にはいかないだろう。

紛れもなく、これは千載一遇のチャンスなのに――

「だから帰ろ? 今すぐ逃げよ? 僕のおうちに招待するから、ざっと三日く


らい色々話して、準備万端整ったあとにリターンマッチをやろうじゃないか!

「~~――ッ」

オーダー
インセストの 願い は異常なほど強かった。どう見てもこちらを馬鹿にして
いるとしか思えない発言なのに、私は反論ができなくなる。
奇跡を集めろ、悪を倒すために死力を尽くせ――内から訴えかけてくるお父
様とスィリオス様の狂気にさえ匹敵するほど、戯言じみたインセストの祈りが
重い。

背反する指向性に自分が引き裂かれるような心地だった。これほどの葛藤を
味わわされたことは過去になく、気付けば頼みにしていた白い世界の景色も薄
れていき……

「うわあ、ちょっ――何やってんの彼ェ!?」

再び頓狂な声をあげたインセストに釣られて目を向けると、私の視界に更な
る混乱の種が飛び込んできた。
昏く、どこまでも不吉な、“歪み”とでも表現すべき黒い渦……その発生源は
言うまでもない。

「マグサリオン――」

私が謎の力に目覚めて以降、沈黙し続けていた彼が動き始めた。いや、正確
にはずっとアレを試していたのだろう。

「なんだありゃ……」

マグサリオンが纏う正体不明の現象に、さすがのズルワーンも眉をひそめた
。無論、私も戦慄している。
、、、、、、、、、、、
あ ん な も の は 初 め て 見 た 。けれど本能的に察する危険性だけは嫌になるほど
鮮明で、あれが底抜けに忌まわしいものだということだけは理解できる。

ぜん あく
義者 も不義者 も関係なく、誰もが魂を抉られる禍々しさ。まるで宇宙の法則
を覆す、言わば第三の価値観を見せられているかのようで……

私の白い世界が薄れたのは、彼の歪みに当てられたせいかもしれない。

「やばいよ、マジやばいって! なんなの彼、マシュヤグが反応してる!」

止めてくれと、これまでに倍する切実さでインセストは叫んだが、もう遅か
った。

「兄者……俺が間違っていたよ。どうすればまた、あんたに会える」

うわごと
譫言 めいたマグサリオンの独白と共に、爆発した歪みが奔流となって私た
ちを呑み込んだのだ。
黒く、黒く、底なしに深く……不変たれと誓う祈りに視界のすべてが埋め尽
くされる。

その中で、私は一人の少年を見た気がした。
子供には大きすぎる剣を一心不乱に振り続ける後姿は、陽炎じみた憤怒の炎
を燃やしていたけど。

血と汗に染まった小さな背中が、私には泣いているように思えたのだ。
◇ ◇ ◇

「…………」

ガヨーマルト
事の一部始終を見届けたマシュヤーナは、 世界樹 の最深部で無為に酒杯
を傾けていた。
さなか
彼女が戦闘の 最中 で沈黙したのは、インセストに予想外な反撃をされたか
らではない。もちろん相応の痛手だったが、それで真に追い込まれるほど第五
位魔王は甘くなかった。打ち破られたのはしょせん花弁にすぎず、総体と比す
れば損害など微々たるものだ。

何せマシュヤーナは、まだ枝の一振りすら動かしていない。クインもインセ
ストも確かに小賢しくはあったものの、多少腰を入れて攻めれば苦も無く潰せ
る自信があったし、実際にそうなっただろう。

ではいったい、どうしてマシュヤーナは最適な行動をせず、あろうことか敵
を見逃したのか。答えはまったく別のところで、有り得ないものを見たせいだ
った。

「何者だ、あの男……」

怨じるように呟いて、ひたすら酒を呷っていく。典雅で妖艶な唇に張りつい
ていた桜の花弁が、瞬時に腐食し塵となった。
つまりマシュヤーナが警戒したのはマグサリオン。正しくは、解せぬと思っ
けん
たから攻めを中断し、 見 の姿勢に入ったのだ。

なるほど、件の黒騎士は不可思議な力を発現させた。危機を覚えたと言って
よいほど、あれは異質な歪みだったと認めよう。
だが、そんな程度で躊躇する臆病者は魔王になれない。たとえ窮地に追い込
まれても、だからどうしたと我力で吹き飛ばすのが本来のマシュヤーナである

しかしあのときは、攻めるに攻められぬ理由があったのだ。長い睫毛をそっ
と伏せ、不浄不動は自らの手を見下ろした。天工細工を思わせる白く細い薬指
リング
に、捻じれた金属の 輪 が嵌められている。

マシュヤグ
「奴と私の 原初環 が共鳴した。それはいい。が、どうして結果がああなるの
だ?」
マシュヤーナにとって、無視できぬ唯一と言っていい不条理が起きていた。
この謎を解明せずに進んだら、想像を絶する陥穽に嵌り込みそうな予感がある

「おのれ……」

言い知れぬ苛立ちに駆られたマシュヤーナは、再び杯を呷ろうとして、揺れ
みなも
る酒の 水面 に映った自分の顔を見てしまった。
怜悧で美しい、だが死人の仮面めいた顔。今もはらはらと舞い落ちる桜吹雪
は、命の終わりを告げるかのようで……

“愛なき花は美に非ず”――そう嘯いたのは誰だったか。

「………ッ」

思わず杯を放り捨て、マシュヤーナは顔を背けた。傲慢、冷酷、邪悪な不動
いたいけ
と恐れられる女はこのとき、まるで 幼気 な童女さながらに震えていた。

「おまえが悪いのだズルワーン……何もかもが、おまえのせいだ」

ああ、時間がない。薄桃色の吹雪を纏って呟くマシュヤーナは、凄艶ながら
も酷く儚いものに見えた。

流れる意識は誰のもので、どういう意味を持つのか分からない。けれど不鮮
明なその記憶に、私はとても惹きつけられた。これはちゃんと理解して、蒐集
せねばならぬ祈りだと感じている。

「私が欲しいとあなたは言う。しかしそれは本当にあなたの心か? 他者が望
むあなたらしさを、あなたは強いられているだけではないのか?」

声は淡々と抑揚もなく、ただ思ったことを飾らずに伝えている。一見すると
冷徹で、機械的とさえ言える味気なさだが、私はそこに深い倦怠感を嗅ぎ取っ
ていた。
まるで幾星霜も歩き続け、かといって何も成せず、そのくだらなさに飽きを
覚えているかのような“彼女”の声。

「そう驚くな勇者よ。私は自分がおかしなことを言っている自覚があるし、あ
なたの在り方を否定したいわけでもない。ただ、些か疲れたのだ。私はもう、
壊れ始めているのかもしれぬ」

呟く彼女は、私の印象通りに自らの疲弊を認めた。詳しいところは不明だが
、この人物は世界に対して重い役目を担っているにも拘わらず、自分の存在理
由を見失い始めているのだ。
つまり由々しき問題なのだろう。そこはもちろん無視できない点だったが、
私の意識は別のことに釘づけとなっていた。

勇者……彼女は今そう言ったから。その単語が意味する事実は明白すぎる。
この女性が話しかけている相手は誰あろう、ワルフラーン様に違いなかった
。なのに勇者の姿は見えず、彼の声も聞き取れない。

「ゆえにどうかな、それでも奇跡が欲しいとあなたは言うか? 正直なところ
、私はこのまま眠りたいと思っている。あなたに不満があるわけではなく、あ
あなた
なたがあまりにも 勇者 だから断りたいのだ。また徒労に終わるのが見えてい
て……」

きぼう
覆したい。すべてが違う未来を見たい。彼女の心は、そんな 絶望 に囚われ
ていた。
ある種の自壊衝動にも似た、破滅的だけど強く切実な祈りのカタチ……

「なあ、勇者殿よ。乗り気じゃない女を引っ張り出すなら、相応の代価を払っ
てほしい。私が自滅へ向かっていると言うのなら、あなたも滅びの因子を抱え
るべきだよ。らしからぬ行いに手を染めてくれ」

共に地獄へと言わんばかりの圧を込めて、楽園を夢見ながら彼女は謳う。そ
の提案の内実と、ワルフラーン様が何を思い、なんと答えたのかは読み取れな
い。
いま
だが勇者の結末は周知の通りで、現在 に続く事象のすべては、このときに決
定したのだと理解できた。

「それをもって契約としよう。ああ、なんとまあ私たちの恥知らずなこと」

無慙無愧の炎に焼かれ、彼女の意識は消えていく。続いて私も、謎の夢から
覚め始めているのを自覚した。
◇ ◇ ◇

そして私は目を開いた。同時に夢の記憶は朧となり霞んでいくが、強く残っ
ているものもある。
件の女性が救いを求めていたということ。彼女は壊れていたのかもしれない
が、間違いなくある種の勝利を確信していた。結果的にワルフラーン様の悲劇
が生まれたのだとしても、一概に過ちだったと断ずるのは違うように思える。

なぜなら、あの出来事に続く未来として今の我々があるのだから。曰く滅び
の因子とやら字義通りに認めてしまえば、私たちすべてが罪深い存在になって
しまう。
正誤はどうあれあの女性は本気だったし、ゆえにワルフラーン様も応じたの
ではないか。ならばその選択に、今さら異を唱えるのは無粋だろう。

過去の人物に文句をつけて嘆くのは、何もかも取り返しがつかないと諦めた
に等しい。そんな真似は怠慢であり、転嫁だと思うので、私は彼女が示した気
持ちを可能な限り純粋な形に落とし込んで継ごうと思う。

すなわち現状打破への祈り。徒労感と無力感に苛まれていたからこそ、違う
ことをしてみたいという考え自体は共感できる。危うい諸刃の剣ではあるもの
の、扱い方を誤らねば今後の役に立ち得る視点だ。

よってそろそろ、私も自分の現状に向き合うとしよう。

「やあお目覚めかな。気分はどうだい?」
「インセスト……ここは何処ですか?」

目覚めた私は民家と思しき部屋でベッドに横たわっており、傍らにはインセ
ストが立っていた。つまり今の現実とはこれなわけで、どうにも状況が繋がっ
てこない。
我々はマグサリオンの不可思議な技に包まれ、意識を失ったはずなのに……

「うん、当然の疑問だろうね。もちろん答えてあげるけど、その前に一つ約束
をしてほしい。とても重要なことだから、これを抜きにして話は進められない
んだよ」

いいかい、と問う彼女に、私は無言で頷いた。インセストはありがとうと微
笑み続ける。

「僕は正義の味方をやってるんだ。まあ、君らの基準に照らせば不認可の紛い
物だが、自分なりのプライドを持ってるし嘘はつかないと決めてもいる。でも
ヒーローってのは、いつの世も秘密が多いもんだろう?」
「要するに、あなたの事情を詮索するな。という意味ですか?」
「ご名答。いま僕の気持ちを先回りして読んだみたいだけど、その手の真似も
やめてくれ。誓って嘘は禁じるから、深いところを突っ込まないでもらいたい
のさ」

などとおちゃらけて彼女は言うが、伝わってくる念は異常なほど強い。あの
とき感じた通り、インセストが私に向ける祈りの重さはお父様にも匹敵する。
なので深く探ろうにも、実際無理な話だった。先の戦いで彼女が見せた不思
議な力や、決定機に妙な駄々をこねた点など、聞きたいことはいくらでもある
のだが、こちらはただ従うしかなくなる。

「了解しました。以降、あなたの意思に反する形で心に踏み込まないと誓いま
す。で、最初の質問になりますが」
「ここが何処かって? アーちゃんの背中さ」
「アーちゃん?」

訝りながら身体を起こして問うと、インセストは得意げに鼻を鳴らした。

「アショーズシュタ。長いし言いにくいし可愛くもないから、親しみを込めて
アーちゃんと呼んでる。とっても大きい鳥さんだよ」
「鳥っ? ここはその、背中の上だというのですか?」

驚いた私は、改めて周囲をつぶさに見回してみた。構造も、家具や調度品も
、ごく普通なものとしか思えなかったが、なるほど常人には感じ取れない域で
微妙に揺れ続けているような気がする。
アショーズシュタ、アーちゃん……巨大な鳥といえばウォフ・マナフを真っ
先に連想するが、マシュヤーナの勢力圏で存在し続けている以上、かなり強力
な霊鳥なのは確かだろう。そして私やインセストを匿ってくれる点からも、“彼
アシャワン
”が 義者 なのは間違いない。

「合点がいきました。あなたが飛行の加護を使えたのは、アーちゃんのお陰な
のですね」
ソラ
「この 星 限定だけど、瞬間移動も使えるよ。それで君らをこっちに運んでき
たんだし、僕とアーちゃんに感謝したまえ」

そり返って偉そうに言うインセストは、相変わらず万事に芝居がかった物腰
でキザな伊達男を気取っている。そんな彼女に私は再び既視感を覚え、ようや
く一つの理解に至った。

インセストはズルワーンと似ているのだ。服装、態度、言葉遣い、加えて嘘
を嫌うところなど……すべてが微妙にずれてはいるが、全体として見た雰囲気
がどことなく重なっている。
言うなれば、あまり出来のよろしくないコスプレだ。技術的にはお察しでも
、対象への愛に満ちているから通じる者には通じるという類。

奇妙な男装姿も、ヒーローを自称しているのも、ズルワーンに対する彼女な
りのリスペクトなのだろう。思い返してみれば、彼に向けるインセストの態度
は熱狂的なファンの反応と言えなくもなかったし、そういう憧れが同化や変身
願望に至るのは決して珍しい話じゃない。
相手があのズルワーンである点だけは、理解に苦しむ趣味と言えるが……

「どうしたんだいクイン、僕の顔をじろじろ見ちゃって。……ははあ、さては
惚れたな。まったく我ながら、罪深いカッコよさだよ」
「いえ、その心配はありませんから。安心してください」

彼女の中でズルワーンがどういう風に見ているかは知らないが、この絶妙に
ムカつく感じは本当によく似ている。苦労が倍加したようで偏頭痛に襲われる
私を無視して、さらにインセストはぺらぺらと話し始めた。

「知ってると思うが、星っていうのはみんな生きてる。でも自我を持った星霊
になれる者はほんのわずかだし、それも長い時間を掛けた進化の結果だ。こつ
こつと下積みから這い上がるのが普通で、他の奴に座を奪われるケースもある
んだけど、要は意外に可愛げのある生き物なんだよ。すごい力を持ってるから
って、神様みたいに完璧なわけじゃない」
「インセスト」

私は片手を前に突き出し、彼女の長広舌を遮った。心を読まなくても論点は
想像できるので、なるべく無駄な時間を省きたい。

「つまりあなたの目的はこうでしょう? マシュヤーナを倒し、アーちゃんを
新たな星霊に据える」
「む、いや確かに、そうなんだが……君ってせっかちとか言われない?」
「生憎と。ただ、この星が激戦区だったことは知ってますから、その手の説明
は不要です。マシュヤーナの政権が、意外に不安定だというのも分かりました

「昔から強い奴が多かったみたいだしね。マシュヤーナが自我を持ったのは三
〇年前くらいの話で、以降しばらく揉めてたのが直近の修羅場になるんだけど
、それより何百年か前にもかなりやばい時期があったらしいよ。アーちゃん曰
く、イカレてるのが二人いて、そいつらは今も余所で大暴れしてるとか」
「飛蝗ですね。聖王領では有名な存在です」

ダエーワ
準魔王、特級 魔将 に指定されている者は四名いる。流血庭園のムンサラー
ト、カイホスルーの龍玉姫、そして暴窮飛蝗と呼ばれるザリチェード、タルヴ
ィード。
後者の二名は出自を空葬圏に持ち、当時のこの星を蹂躙した結果、わずかに
残った者らが総力をあげて追放したらしい。おそらくは、アーちゃんもそのと
き奮戦したのだろう。
嫌われ者の飛蝗たちは、生まれ故郷に見切りをつけたまま外地で暴虐を繰り
返し、第三位魔王と遭遇した結果、今に至る。
聖王領の記録とインセストの話が示す通り、空葬圏が強者を輩出しやすい環
境として、代々荒れていたのは事実だ。

何せズルワーンの故郷だし、今もインセストのような正体不明の力を持つ者
がいるのだから。一応ここまで、彼女が語ることに不自然な点はない。

「まあ、とにかくそんなわけで、僕はマシュヤーナを退陣させたいと思ってる
のさ。彼女には向いてないし、いっそ楽にしてやったほうがいいんだよ」

ただ、どうにも違和感があった。上手く言えないが、インセストはマシュヤ
ーナに対する敵意が薄い。
なるほど、確かに第五位魔王は空葬圏の大母だろう。自我を獲得したのが三
ここ
〇年ほど前とはいえ、その遥か昔から 星 は彼女の肉体だったのだ。アーちゃ
んや飛蝗の二人でさえ、本を正せばマシュヤーナの子供と言える。

いろ
ゆえに一定の愛着を持って然るべきかもしれないが、それはあくまで善悪 が
同じだった場合の話だ。母親と胎児さえ殺し合うこの宇宙において、インセス
トの態度はやはりおかしい。

アシャワン
なぜ彼女は、 義者 でありながらマシュヤーナを憐れんでいるのだろう。
魔王を倒すと言いつつも、その運命を悼むような雰囲気があるのはどうして?
もしやそこも、ズルワーンの影響を受けているのか? しかしあの破天荒な
男ならともかく、ただの真似でやれる所業とは思えない。

まるで小骨が喉に引っ掛かったような気分だが、先だって追及を禁じられた
から質せもせず……

「……分かりました。あなたが我々の味方であり、当座の目的も一致している
なら後は構いません」
「そう言ってくれると助かるよ。大丈夫、僕と一緒なら必ず勝てるさっ」

ヒーローだからね、と白い歯を輝かせる様にはもやもやするが、私は一度深
呼吸すると胸の疑問を引っ込めた。いざとなればアーちゃんに聞けばいいし、
確認事項としては他にも大事なことがある。

「私の仲間はどうしました。全員無事なんでしょう?」
「あぁっと、それはだね……」

問うと、インセストは困ったように言葉を濁した。そんな彼女の様子を見て
、私は急に不安を覚える。
これまでの態度や口ぶりから察するに、深刻な事態は避けられたはずと思っ
ていたが、違うのか?

「ズルワーンは大丈夫だよ。久しぶりの帰郷だし、たぶんその辺をふらついて
るだけ。でも後の一人は……」

彼女自身、どう受け止めていいか判じかねるといった表情で、部屋の窓に顎
をしゃくった。私は胸騒ぎを覚えながらも、インセストに促されるまま外を見
てみる。
ここは巨大な霊鳥の背だというが、こうして見る限りごく平凡な村の日常風
景だった。一種のバリア的なものが働いているのか、大気を調整された世界の
中では、農作業に勤しむ人々や遊んでいる子供たちの姿があって……

「……?」

ただ一人だけ、そこに奇妙な子が存在した。年の頃は六つか七つ、だけど他
の少年少女たちの輪には入らず、じっと立ち尽くしたまま動かない。
いいや、むしろすべてを睨みつけているかのようで……私の背筋に、そのと
き形容しがたい悪寒が走った。

“彼は何もしないんだよ。本当に頑として動かなかった”

いつかアルマに聞いたエピソードが脳裏を過る。それは何があっても他者と
交わろうとしなかった少年の話。
、、、、、、、、、、、、、、、、、
だいたい、な ぜ あ の 子 は 顔 を 隠 し て い る の だ ろ う 。頭からすっぽりと、布袋
を被っているのはなんのためだ?

“そういえば、彼が素顔を隠し始めたのはあれからだな”
“考えてみりゃ、オレはおまえの素顔だって知らねえぞ”

嘘だ。馬鹿な――こんなことがあるはずはない。しかし私の勘は冷静に今を
直視し、これが間違いない現実であると告げている。

「気付いたかい、あれが彼だよ」

インセストの声が遠くに聞こえた。理屈も因果も不明だが、すでに私はこの
怪奇を認めている自分に気付く。

聖王領の凶剣。私の心を騒がしてやまない、危険で怖くて謎な男は……
無慙無愧な惨劇を繰り返しておきながら、何かを後悔し続けていると思しき
彼は……

「マグサリオン……」

なぜか今、子供になっているのだった。

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